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【21】
2012年  4月6日〜 5月16日

最前線の子育て論byはやし浩司(24)
************2102年04月06日**************

【2歳児の不登園について】

【三重県のDさん(母親)からの相談】

(Dさんより、はやし浩司へ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【 いただいた相談内容について……これは後日のトラブルを避けるためです。どうか、ご協力
ください。 】:
内容を(私)とわからないように改変したのちなら、転載、引用を、自由にしてよい。

【 お子さんの年齢(現在の満年齢) 】:2歳
【 お子さんの性別(男・女) 】:男
【 家族構成・具体的に…… 】:
父(36歳)母(34歳)息子(2歳)

【 お問い合せ内容(2500字以内で……)それ以上のときは、掲示板(相談コーナー)へお書きく
ださい。 】:

はじめてメール致します。
2歳の息子の母です。
息子の登園拒否に悩んでいます。

息子は去年から保育園に通い始め、今年から2年目になります。
この4月から新しいクラスになったのですが、3月の終わりごろ(クラスが変わる前)から登園拒
否を起こすようになりました。

原因として思い当たる事は、

(1)3月の終わりごろ体調を崩しお休みが続き、休み明けに登園すると、保育園が新年度の
準備の為に先生の入れ替わりを行っていた(クラスの雰囲気が変わっていた)

(2)夫婦間でトラブルがあり、子供が安心して過ごしていた祖父母(私の実家です)の家もゴタ
ゴタに巻き込まれていた(どこにいても落ち着かなかった、もしくは自分に構ってくれなかった)

(3)新しいクラスにまだ馴染めない

以上、いくつかありますが、どれも原因になっている気がします。

夜は夜泣きが酷いというほどではなく(時々クスンクスン言います)朝まで起きる事はありませ
ん。
食欲もそれなりにあり、特に夜はしっかり食べています。
ただ、保育園も教室に入る前までは行けるのですが、クラスに一歩入る事が出来ず、教室の
前で泣きます。
泣き方は日に日に酷くなっており、床に突っ伏して私の足に絡みついて泣く事もあれば、クラス
の先生が抱っこするのを振り払うように暴れて泣く事もあります。
そして急にタオル類を手放さなくなりました。
大きめのタオルやブランケットがあると安心するのか、寝る時も抱きしめて寝ます。
保育園へ行く時も持って行くと言って離しません。
家庭での過ごし方は、以前と大きく違う事はありませんが、今までママがいなくても祖父母と遊
べたのに、ここ数日はママがいないと嫌だと言います。
保育園から帰ると一人で遊べますが、朝はママにくっついていないと食事も摂りません。
またとっくに卒乳を済ませていましたが、最近おっぱいを求めるようにもなりました。

HPで先生のご意見を拝見致しました。
息子の場合も、母子分離不安に該当するのではないでしょうか。
毎朝「今日も保育園頑張ろうね」「帰ったら公園行こうね」などと励ましていますが、結局教室の
前で大泣きです。
園の先生には「泣いているのは朝だけで、あとは機嫌よく過ごしていますよ」と言われています
が、我慢しているだけで心は折れたままなのではないかと心配です。
今、精一杯の愛情を示そうと、出来るだけ抱っこするなどスキンシップを行っています。
症状が出てからまだ2週間程度なので、まだまだ時間が掛かるのだろうとは思っていますが、
今私に出来る事があれば、アドバイス頂けると光栄です。

よろしくお願い致します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司より、Dさんへ)

 「2歳」という年齢に、驚きました。
しかも「今年で通園、2年目」ということですから、1歳前後から、通園していることになります。

 その2歳の子どもが、体を張って、登園を拒否している……!
それを何とかして、保育園へ通わせようとしている……!
大前提として、家庭に、その必要性、(たとえば共働きしなければならないとかいう事情がない
ならば)、子どもは、家庭で、育てなさい。

 集団教育を経験させるとしても、満4歳前後からでじゅうぶんです。
アメリカの小学校の多くは、満4歳から、6年間の教育を実施しています。
それ以前は、ナーサリーの分野ということになります。
カナダでは、自由に、親と子ども(1〜4歳)が、保育園へ行きます。
登園時刻も、帰宅時刻も、自由です。
何をするかも自由です。
週に何回、行くかも自由です。
(プラス、無料です。)
つまり日本の現状は、世界的に見ると、あまりにも非常識です。

 保育園だの、幼稚園だの、幼保一元化だの、基本的な部分で、完全に狂っています。
つまり「園」の経営方針第一主義!
もっとわかりやすく言えば、「金儲け」。
子どもの心(心理)など、どこにもない!
2歳の子どもが、園へ行くのをいやがっている。
当然でしょ。
いちばん家族の愛、母親の愛を求めている乳児(幼児)が、不登園!!!

 Dさんが、バカげているというのではありません。
制度と、それを支える国や親たちの意識が、バカげている。
結論から先に言えば、さっさと園をやめ、子どもの心を守りなさい。

このままでは、基本的信頼関係の構築にすら、失敗してしまうでしょう。
子どもの年齢からして、心に大きな傷(トラウマ)を残すことも考えられます。
症状は、文面から見る範囲では、完全に、「学校恐怖症(ジョンソン)」です。
また午前中に重く、午後に軽快するというのも、典型的な日内変動です。
これを「虐待」と言わずして、何と言いますか。

(「はやし浩司 学校恐怖症」で検索をかけてみてください。)

 間接的な、つまり親にその意識がない、虐待です。
2歳ですよ!
WHOですら、「2歳までは親が育てろ」と勧告しています。
「できれば……」ということでしょうが、この時期までに子どもの心ができます。
(反対に、2歳前後までに、その構築に失敗すると、子どもは生涯にわたって、人間らしい心を
取り戻すことはないとも言われています。
野生児の例をあげるまでもありません。)

 甘えさせてあげなさい。
添い寝をさせてあげなさい。
乳房を口に含ませてあげなさい。

 すでに神経症的な症状も現れています。
(タオルを手放さないなど。)
放置すれば、この程度ではすまなくなりますよ。
身体的症状から、精神的症状へと進んでいきます。
ここはたいへん慎重に、子どもの心を見るべき時期です。

(「はやし浩司 神経症」で検索をかけてみてください。)

 なお母子分離不安ではないかということですが、Dさんのお子さんのばあいは、あくまでも随
伴症状です。
つまりそんな表面的な症状が、問題ではないということです。
お子さんの心の中では、心配と不安が渦を巻いています。
安心して、心を休めることができない。
心理学でいう、「基底不安」です。
そのひとつとして、母子分離不安症状が出ているだけです。

 本当の問題は、「(2)夫婦間でトラブルがあり、子供が安心して過ごしていた祖父母(私の実
家です)の家もゴタゴタに巻き込まれていた(どこにいても落ち着かなかった、もしくは自分に構
ってくれなかった)」というところです。

 こういう問題では、つまり子どもに何か症状が現れると、親は、子どもを何とかしようと考えま
す。
しかしそれこそ親の身勝手。
まずそのゴタゴタとやらを、子どもの世界から切り離しなさい。
つまり子どもの問題ではなく、あなた自身の問題です。

 一方で、親が火事を起こしておきながら、ワーワーと逃げ回る子どもに向かって、「静かにし
なさい」と叱っているようなものです。
たいへんきびしい意見を書いていることは、承知しています。
Dさんにとっても、つらい回答かと思います。
しかしね、私には、子どもが懸命に発しているSOSのほうが、心配でならないのです。
命がけで発している。

 私も子どものころ(3〜6歳)、父が酒乱で、たいへんつらい思いをしました。
その結果、今でも、心の傷と闘っています。
そういう自分を知っているからなおさら、Dさんのお子さんが心配でならないのです。
では、どうするか。

(1)保育園は、必要なければ、やめなさい。
あなたに時間があれば、2人で楽しいときを過ごしなさい。
子育ては義務ではなく、権利です。
その権利を放棄しないでください。
親子が、いっしょに楽しい思い出をつくる。
それは権利です。
あちこちへ出かけ、いっしょに過ごしなさい。
保育園などに押し込め、その権利をどうして自ら放棄するのですか?
(もちろん本人が楽しんで通うばあいは、別ですが……。)

(2)家庭のゴタゴタは、子どもから切り離しなさい。
ゴタゴタを、子どもの目からはずし、見せてはなりません。
巻き込んではいけません。
これは親の義務です。
家庭のゴタゴタに子どもを巻き込むこと自体、「虐待」ですよ!
虐待!
私は「間接虐待」と呼んでいます。
子どもの心に傷をつけるという点では、通常の(?)の虐待と、どこもちがいません。
つまりね、これはあなた自身の問題ということ。

(3)その結果として現れている、神経症的症状、不登園は、あくまでも「結果」。
対症療法だけしても、意味はありません。
まずあなたがもっている、学歴信仰的な亡霊から決別すること。
アメリカでは、学校へ通わないで、自宅で学習している子どもが、推定で200万人もいます。
あなた自身を苦しめている、学歴信仰という呪縛から、あなた自身を解き放つこと。
「保育園なんてね、行きたくなければ行かなくてもいいのよ。その分、ママと遊びましょうね」と。

 まず肩の荷をおろす。
「自由」の意味を知る。
私なら、今という貴重な時期は、できるだけ子どもといっしょにいる時間をふやします。
こういう楽しいときは、あっという間に、終わってしまいますよ。

 なおスキンシップは、「もとめてきたら、すかさず応ずる」が原則です。
1秒も、間をおいてはいけません。
「すかさず」です。
ぐいと抱いてあげるだけも、効果的です。
「あとでね」「今、忙しい」は、禁句です。
子どもは、その瞬間に、親の心を見抜きます。

Dさんは「できるだけ……」と書いていますが、「できるだけ……」では、足りないということです。
今、一度、全幅の愛情表現(愛着)を、子どもに示してあげなさい。
多少の後遺症(甘えん坊になるとか、依存性がつくとかなど)はありますが、それはマイナーな
問題です。
心の傷(トラウマ)とは、比較にならないほど、小さな問題です。

 以上ですが、あとは、私のHPの記事を参考にしてください。

「はやし浩司 基本的信頼関係」などが、役に立つと思います。

(終わりに)

 とはいえ、Dさんが、かかえているような問題は、程度の差こそありますが、みなが共通して
かかえている問題です。
外から見ると、どの家も、うまくいっているように見えますが、本当は、中身はガタガタ。
つまり(ありふれた問題)ということ。
だからどうか自分を責めないでください。

 こうしてDさんも、ただの母親から、賢い母親へと成長していきます。
その苦しみの第一歩です。
いつか、その苦労が、あなたの人生を輝かせます。
あとは恐れず、前に向かって進めばよいのです。

 よく安易に、「私は子どもを愛しています」などと得意げに言う親もいます。
しかしそういう親ほど、「愛」の意味が、まるでわかっていない。
愛というのは、苦しくも、つらいものです。
そして静かです。
そこに愛があることにさえ、気がつかない人も多いのです。

 さあ、あなたも今、その愛が試されつつあります。
方法は簡単。

『許して、忘れる』ですよ。

 「はやし浩司 許して忘れる」も、一度、検索してみてください。
きっとあなたに勇気を与えることができると思います。

 では、今日はこれで……。

はやし浩司
2012/04/06

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 はやし浩司 不登園)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3日目の朝に】(短編小説byはやし浩司)(はやし浩司 2012−04−07)

(第1日目の朝)

●俵 周人

 俵 周人(たわら・しゅうと)、83歳。
男性。
元司法書士。
「元」をつけるのは、現在は、引退中。
というより、事務所を閉鎖して、すでに10年近くになる。
2人の息子がいたが、それぞれは独立し、現在は、東京とアメリカに住んでいる。
共に音信が途絶えて、25年。

 事務所を手伝っていた妻、由紀子は、事務所を閉鎖する、その少し前に他界。
享年、65歳だった。

 その周人が、その朝、こんな夢を見た。

●公民館

周人は、どこかの公民館らしき部屋の中にいた。
木造の、古さを感じさせる建物だった。
歩くと、あちこちで、床が、ギシギシときしんだ。
柱に塗ったペンキも、ところどころはげ落ちていた。

 周人は、その部屋の前のほうに立っていた。
村の人たちが、何かの会合を開いていた。
その周人に向かって、10数人の、男や女たちが座っていた。
周人は、男や女たちに向かって、こう言った。

 「私は神様のような者です」と。

 とたん部屋の中は、笑い声で埋まった。
中にはあからさまに、侮蔑の念を表情に浮かべる男もいた。
が、周人はつづけた。

「ここにいる皆さんは、私が勝手に、頭の中で想像した人たちです」と。
さらに笑い声は、大きくなった。
「先生は、おもしろい人だ」と。
そんな声も聞かれた。
が、周人はひるまなかった。

 「私は今、夢を見ています。みなさんは、その夢の中の人たちです。だからみなさんは、私が
勝手に、つまり頭の中で想像した人たちです」と。

●夢

 周人は、それが夢であることを知っていた。
若いころから、ときどき、そういうことがあった。
夢を見ながら、別の意識が、「これは夢である」と、周人に教えた。
周人はそれを知り、「ああ、これは夢だ」と、自分に言って聞かせた。
そのときも、そうだった。
「ああ、これは夢だ」と。

 だから周人は、男や女たちに向かって、こう言った。

 「みなさんは、実は、存在しないのです」と。

 周人は、そう言いながら、ふと前に見た夢のことを思い出した。
よくそうして、この公民館らしき部屋の中で、話したことがある。
いつだったかは思い出せない。
が、はじめてではない。
村で、何かの問題が起きるたびに、周人は、よく意見を求められた。
村で、ただ1人の、法律の専門家だった。
そのためその村では、「先生」と呼ばれていた。

 そう、そのつど、こうしてみなの前で立って話をした。

●反論

 すると左の隅にいた若い男が、こう聞いた。
若いといっても、50歳を過ぎていただろうか。
笑い声を含んだ、言い方だった。

 「……つまり、私は、あなたの想像上の人間ということですか」と。

 周人は、その質問にも、きっぱりとこう答えた。
「そうです!」と。
とたん、さらに大きな笑い声が、部屋中に響いた。

男「しかし、……私はね、今日、一日中、農協の手伝いをし、車を運転していましたよ」
周「それも、私がそのように想像したからです」
男「想像? そんなはずはありません。ほら、手だって、ちゃんと汚れている」
周「それも私がそのように想像したからです。私が想像したとおりに、あなたは話しているだけ
です」
男「じゃあ、そのあと私はどこへ行ったか、先生は、ご存知ですか」

私「知っていますよ。……そう、あなたは、水車小屋へ行き、そこで水の流れを調べましたね」
男「ハハハ、そうですが、先生は、私をどこかで見ていたのでしょう」
私「見ていたのかもしれません。映画の中のように、あなたの姿がはっきりと思い出せます」
男「……話にならない!」
周「私は、今、夢を見ているのです。みなさんは、私の夢の中の人たちなのです」と。

 するとだれかが、こう言った。
その声に同調し、さらに何人かの男や女たちが、こう言った。
「だったら、証拠を見せてくださいよ」と。

●意識

 周人は、かなりムキになっていた。
軽い興奮状態になった。
心臓の鼓動が大きくなるのが、自分でもよくわかった。
が、夢の中でそうなるのは、たいへんまずい。
「このままでは、目が覚めてしまう……」と。
周人は、自分の夢にしがみついた。

 「証拠……? たとえばみなさんの怪我や病気だって、治せます。どんなことだって、できま
す」と。

 気がつくと、1人の男が、周人の前に立っていた。
その2日前、草払い機で土手の草を刈っているとき、土手から落ちた。
そのとき、腕の骨を折った。
周人には、その事故のときの様子が、やはり映画でも見たかのように、よくわかっていた。

 「どうしてだろう?」と、周人は思った。
意識がかすかに揺れた。
周人は、自分が夢を見ていることを、忘れ始めていた。

●義理の妹

 周人は男の腕に、自分の手を置いた。
置きながら、「痛いですか」と聞いた。
固いギブスが、ひんやりと冷たかった。

 その様子を見て、男は、こう言った。
「やはり、治せないじゃないか」と。
周人は、1歩、足をうしろへ引いた。
軽い敗北感を覚えた。

 周人は、最前列に座っている女に話しかけた。
年齢は、やはり50歳くらいだった。
見覚えのない顔の女性だった。

周「あなたは、だれですか?」
女「あら、いやだ。先生ったら、私を忘れている。私はあなたの妹です。義理の……」
周「義理の妹?」
女「そうですよ。先月、父の法事で会ったばかりでしょ」
周「会った?」
女「……先生、だいじょうぶですか」
周「……ハア……?」と。

 周人は、その法事のことは知らなかった。
その女性に会ったこともなかった。
義理の妹?
「義理の妹って……?」と思ったが、それは口にしなかった。
周人は、その場を、ごまかした。

「ハハハ、そうでしたね。ごめんなさい」と。

 そこにいた男や女たちは、また笑った。
周人が、何かを口にするたびに、よく笑った。

●あの世

 会場は、どこか薄暗かった。
そのあたりだけが、1、2個の裸電球で、白く照らし出されていた。
だれかが言った。

 「先生の話は、おもしろいですね。もし私たちが先生の夢の中の人間であるとするなら、先生
の住んでいるもとの世界は、どんな世界ですか」と。

 周人はそのとき、懸命に、もとの世界を思い出そうとしていた。
「私は、俵 周人だ。名前はわかる。しかし……ここはどこなのか」と。
が、周人は、こうつなげた。
「……ええと、ここがここだとするなら、私のいたもとの世界は、あの世……ということになりま
すね」と。
懸命の反論だった。
再び、そこが夢の世界であることが、周人には、はっきりとわかった。

男「あの世? ならば先生、あの世は、どんな世界ですか」
周「……ここと、まったく同じです」
男「まったく同じ? 同じということは、どういうことですか」
周「今のみなさんと同じような人たちがいて、同じような生活をしています」と。

 事実、その通りだった。
そこにいる男や女たちにしても、またその部屋にしても、周人の記憶のどこかにあった人や部
屋にちがいない。
深い無意識の世界に潜んでいた記憶が、意識の世界に、浮かびあがってきた。
それが夢となった。

男「仮にですよ、仮にです。もしあなたがあの世で目を覚ましたら、私たちはどうなるのですか」
周「……目を覚ましたら、ですか? ……そうですね、あなたたちは、そのまま消えます」
男「先生の話は、おもしろい。私たちが消えるだなんて……。私たちは消えませんよ」と。

 笑い声は、さらに大きくなった。
「そうですね」と思った瞬間、周人も、みなといっしょに笑い出した。
とたん、周人の意識は薄らいだ。
公民館らしき部屋が、暗闇の向こうに遠ざかった。

 周人は、目を覚ました。
こう思った。
「やはり夢だった」と。

●夢日記

 有料の老人ホームだった。
周人は、その一室で横たわっていた。
1畳分ほどの畳(たたみ)を、やや長くしたベッドの上に寝ていた。
白いシーツが、足にからみ、その上から、乾いた風がやさしく吹きつけていた。
温風機が、その上の壁にあった。

 周人は、夢の中のできごとを思い出そうとしていた。
が、夢というのは、時間がたつと忘れてしまう。
ばあいによっては、1〜2分で、忘れてしまう。
意識といっても、表層の意識。
脳の表面をかすめ、そのままどこかへと去っていく。

 そこで周人は、若いときには、夢日記をつけていたこともある。
周人には、それが楽しかった。
妻の由紀子が生きているときには、その日記を、あとで読んで聞かせてやったりもした。
それを聞いて、由紀子はいつもこう言った。
「あなたの夢は、いつも映画みたい」と。

 が、夢は夢。
夢日記につづられた話は、奇想天外というよりは、連続性のないものばかりだった。
背景も、そこに出てくる人たちも、また状況も、ちがっていた。
楽しく笑うような夢もあれば、反対に、何かに追い立てられ、苦しむ夢もあった。

 が、夢日記を長くつづけていると、夢にも一貫性があることがわかるようになる。
周人は、いつだったか、それに気づいた。
自分の夢日記を読んでいたときのことである。

そのころの周人は、たとえば周人は、電車やバスに乗り遅れそうになる夢を、よく見た。
飛行機に乗り遅れそうになる夢を見たこともある。
そのことから、周人は、そういった夢を見る理由として、周人自身がもつ強迫観念によるものと
知った。

 しかし連続性はない。
今朝見た夢のつづきを、明日の朝、もう一度見るということはない。
周人は、夢がもつ、多様性……つまり脳の広さには、いつも驚いた。

●車椅子

 周人は、枕元のベルを押した。
車椅子に移動するには、介護が必要だった。
右足の関節を痛めて、10年以上になるだろうか。
そのころから歩くと激痛が走るようになり、その数年後、人工関節の埋め込み手術を受けた。
さらにその数年後、周人は、現在の、この有料老人ホームに入居した。
それまで住んでいた家と土地を売り払い、それを預託金とした。
ほかに1200坪の農地があるが、それは死んだ父名義のままになっていた。

 介護度は2。
実際には3かも?
一度、車椅子に座ったら、一日中、そのままということも珍しくなかった。
数日前には、ケアマネの男から、「特養(特別養護老人ホーム)の申し込みをしておきました」と
言われた。

 周人は、2度目のベルを押した。
夕食以後は、水分をとらないようにしている。
しかし尿意だけは、何ともしがたい。
し尿ビンをベッドの下から引き出そうとしたそのとき、介護の若い男が入ってきた。

 愛想はよいが、形だけ。
口はうまいが、心がこもっていなかった。
手際よく周人の世話をしたあと、その若い男は、そのまま部屋を出て行った。
周人は、そのままひとりで、そこに残された。

●日記

 あとは食事の時間を待つだけ。
介護士が決まった時刻になると、食事を運んできてくれる。
食堂もないわけでない。
その時刻の前に、食堂へ行けば、食堂で食事をとることもできる。
しかし周人のように、頭のしっかりした老人は、少ない。
ホームの約半数の人は、認知症か何かにかかっている。
話しかけても、反応がない。
一日中、何も話さないで、ボーッとしている人も多い。

 周人はそういった老人と、いっしょに食事をするのがいやだった。
それで特別なはからいということで、たいはんの食事は、自分の部屋ですましていた。

 周人にしても、ホームの人以外の人と話す機会は、ほとんど、ない。
話すといっても、内容は、いつもテーマ。
同じ話。
あとは、古いワープロを使い、その日の日記を書く。
それが周人のゆいいつの、日課になっていた。

●熟睡剤

 「どうすれば、夢のつづきを見ることができるだろうか」

 周人は、その日は、それだけを考えていた。
頭の中で、夢の中で会った男や女の顔を思い出していた。
「また会えるだろうか」とも。

 が、今までの経験では、それはなかった。
つまりできなかった。
夢日記をつけていたとき、それを知った。
とくに現実と夢の世界が混濁するというのは、精神状態が、かなり危険な状態であることを示
す。
精神病質の心配がある。
何かの本に、そう書いてあった。

 では、連続性のある夢はどうか。
連続映画のように、その翌日、そのつづきを、見るとか。
そんな夢でも、精神状態が、かなり危険な状態になっていることを示すのか。

 が、周人は、もう一度、今朝の夢に戻りたかった。
あの男と、もう一度、議論してみたかった。
「君は、ぼくの想像力が作った、架空の人間だ」と。
それをはっきり、それを言ってやりたかった。

 そのための方法がないわけではない。
熟睡剤を多めにのめば、朝方、軽い幻覚症状が起きる。
それを利用し、夢を見る時間を長くすることはできる。
今の周人にとって、それ以外の楽しみは、ほとんどない。

 その日も、何の変哲もなく過ぎた。
その夜もせかされるようにして、ベッドに入った。
介護士は、枕元の電気を消し、そのままつぎの部屋に向かった。
周人は、何も言わなかった。
あいさつをしなかった。

(2日目の朝)

 周人は、なだらかな丘のつづく小道を歩いていた。
細い道だったが、舗装されたように美しい道だった。
しばらく行くと、木を組んだフェンスがあり、その向こうに何人かの男たちが座っていた。
仕事の前の段取りを、あれこれと話しあっているようだった。
あるいはすでに仕事を終え、その合間に、休息をとっているのかもしれない。
周人を見つけると、その中の1人が、声をかけてきた。

 「やあ、先生、昨日の話は、おもしろかったですな」と。

 男は、山の中腹に畑をもっていた。
かぼちゃや、山芋を育てていた。
が、それがイノシシに荒らされるようになった。
周人にはそれがよくわかっていた。

周「イノシシは、出ませんか」
男「ハハハ、ヤツの餌を作っているようなものですよ」
周「それはたいへんですね」
男「いいんですよ。どうせ、私たちは食べないから」と。

 そのとき周人は、それが夢であることに気づいた。
「これは夢だ」と。
その気になれば、状況を変えることもできる。
空を飛ぶこともできる。
が、そういう思いをさえぎるかのように、別の男が話しかけてきた。

男「先生の……、昨夜話してくれた、あの話は、おもしろかったですよ」
周「……そうですか」
男「あの世というのは、私はないと思っていました」
周「いや、それがあるんです。ちゃんとあるんです」
男「先生は、あの世から来たと言いますが……ね?」
周「話すほども、価値のない世界ですから……。でね、昨日、私が消えたあとのことですが…
…」
男「消えた? 先生、冗談言わないでくださいよ」と。

 男たちはそれぞれが勝手に話し始めた。
それによれば周人は、そのあと、村の班長の家に寄り道をしたという。
秋の収穫祭の祭が近いということもあり、その話しあいをしたという。
が、周人には、その記憶がなかった。
男たちの話すがまま、それに口を合わせるしかなかった。

 「そうでしたね。そうでした。ハハハ」と。

●相談

 夢の中の周人は、村の人たちと変わらないほど元気に、歩いていた。
山の土手も、すいすいと上った。
力仕事も、軽々とできた。
が、何よりもうれしかったのは、男たちの言葉に温もりがあったこと。
ぶっきらぼうな言い方だったが、一言、一言が、周人の心に響いた。
男たちは、作物の話をした。
「キーウィは、儲かる」「いや、花木のほうが、儲かる」と。

男「あの喜一さんの土地ねえ、先生。あれ、どうなるんですか」
周「ああ、あの土地ね。あそこまで複雑になると、手のほどこしようがないね」と。

 周人は、喜一の土地の話は前から聞いていた。
代々、移転登記をしないまま、その喜一が、数年前、亡くなってしまった。
相続人はあちこちに散らばっている。
それが孫の代にまで、広がっている。
その孫も今では、生きているかどうかさえ、わからないという。
相続放棄の印鑑を集めるといっても、たいへんな作業になる。

 周人は、そんな話を、した。
男たちは、「やはり、そうか」というような顔をした。
が、つぎの一言に、周人は、電撃に打たれたようなショックを受けた。
とたん胸の鼓動が激しくなり、周人の意識がかすんだ。
周人は懸命にそれを抑えた。
目を覚ましたら、そのままに自分が消えてしまう。
が、意識だけが勝手に、遠ざかっていった。

 1人の男が、こう言った。
「奥さんがね……ほら、先生の奥さんですよ。今夜は、早く帰ってきてほしいとこぼしていました
よ。若い奥さんを、ひとりにしておいては、いけないよ」と。

●敗北感

 周人は何度も目を閉じなおした。
夢の中に戻ろうとした。
が、そのつど、さらに強い意識が、周人を引き戻した。
激しい鼓動が、頭のうしろから、周人を叩いた。
周人は、はげしく小刻みな呼吸を繰り返した。

 目を開けると、カーテンの隅から、白い朝の光が漏れていた。
周人は、強い後悔の念を覚えた。
「由紀子がいる? あの村に、由紀子が住んでいる?」
目を覚ました自分を、周人は、何度も、なじった。

 ベルを押したのは、それから半時間もしてからのことだった。

●姉の息子

 その日の午後は、遠くから客が来ることになっていた。
周人が住んでいるID地区は、観光地にもなっている。
温泉旅館も、いくつか並んでいる。

 が、周人は、その客が嫌いだった。
つまりは、様子見。
見舞いではない。
見物。
それが周人には、よくわかっていた。
が、断ることができない。
それ以上に、逃げる場所もない。
「忙しいから会えない」という口実など、どこを探してもない。

 客……20歳も若い、姉の息子だった。
つまり甥。
姉はすでに他界していたが、父が残した1200坪の農地については、相続権をもつ1人になっ
ていた。
宅地に転用すれば、かなりの財産になる。
その息子、つまり周人の甥が、その相続権を主張し始めた。
周人が死ねば、その息子と、周人の息子たちが、相続権を主張し、土地を分配することにな
る。

 周人は、その甥が嫌いだった。
定職にもつかず、女癖も悪かった。
かと言って、周人の息子たちとも疎遠になってしまった。
自分の息子だったが、遺産を分け与えようなどという気持ちは、とうの昔に消えた。

姉の息子は、遺産の協議分割書に、印を押させようとしていた。
周人はのらりくらりと、それをかわした。
そんな甥でも、印鑑を押したら、二度と来なくなる。
それが周人にはよくわかっていた。

 が、周人は、前回、その息子に会ったあと、自分の取り分については、町に寄付すると心に
決めた。
温泉街の人たちは、駐車場としてその土地を使っていた。
町に寄付すれば、ちょっとした公園にもなる。
町の人たちは、それを喜ぶだろう。
周人は、自分の意思を、遺言として書きとめ、公正証書として登記した。

●遺産

 甥は慇懃無礼な男だった。
態度も大きかった。
介護士が部屋に入ってくると、ことさら大声で、昔話をした。
「この伯父には世話になりました。よく魚釣りに、連れて行ってもらいました」と。
わざとらしい言い方だった。

 で、一連の世間話が終わると、甥は、こう訴えた。
「おじさんも、今のうちに土地を売り、もっといい施設に移ったほうがいい」と。
「母が残した家も古くなったので、早く立て直したい」とも。
が、周人はいつもの言葉を繰り返した。

 「まあ、何とかしなければなりませんね。私もそう思っていますが……」と。

 甥の立場になれば、ほかにも方法はある。
民事調停が、いちばん、手っ取り早い。
半ば強制的に、遺産の分割を請求することもできる。
しかし周人は、その方法については教えなかった。

 が、今では、客と言っても、そんな客ばかり。
棚の郵便袋には、不動産屋の名刺だけでも、10枚近くが入っている。
その郵便袋に、周人は、ちらりと目をくれた。

●写真

 その日も、体調がよくないことを理由に、甥には早めに帰ってもらった。
甥は、「今度来るときには、印鑑証明書と戸籍抄本を用意しておいてほしい」と、何度も念を押
した。
周人は、うわの空で、軽い返事を繰り返した。

 夕食は、自分の部屋でとった。
10分ほど、女性のヘルパーが、あれこれ世話をしてくれた。
が、周人のほうから、それ以上の世話を断った。
周人は、その日も、一日中、その朝見た夢のことを考えていた。
……というか、頭から離れなかった。

 棚には、妻、由紀子の写真だけが、飾ってある。
周人は、それを何度もながめた。
そしてその夜も、熟睡剤を、いつもの2倍ほど、口の中に入れた。

(3日目の朝)

●自分の家

 周人は、自分の家をさがした。
が、どれも近くまでは行くが、その先へは進めない。
またやっと見つけた家にしても、そこには別の人が住んでいた。

 山の中腹にある家。
川沿いのビルの中の一室。
いちばん自分の家らしき家は、新興住宅地の中にあった。
が、どれも似たような家で、区別ができなかった。

 周人は、はやる気持ちを抑えながら、あの男たちを探した。
「あの男たちなら、知っているはず」と。
が、その男たちも、いなかった。

●商店街の子ども

 周人はそのとき見知らぬ商店街の前を歩いていた。
すると、1人の子どもが話しかけてきた。
10歳くらいだろうか。
それとも幼児だっただろうか。
よくわからなかった。
が、こう言った。

子「おじさん、あの世から来たの?」
周「……」
子「あの世って、本当にあるの?」
周「そうだな、あるかもね」と。

 とたん、周人は、自分が夢の中にいるのがわかった。
「これは夢」と、はっきりわかった。

子「あの世って、どんなところ?」
周「こことは、どこも違わないよ。同じだよ」と。

 その瞬間、周人は、公民館らしき部屋の中に立っていた。
また別の男が、こう聞いた。

男「同じということは、どういうことですか」
周「今のみなさんと同じような人たちがいて、同じような生活をしています」と。

 周人は、うれしさが腹の底からこみあげてくるのを覚えた。
そしてそれが頭の高さまでくると、熱い涙に変わった。
周人は、あの公民館らしき部屋に戻ってた。

男「あの世が、ここと同じ?」
周「そうなんです。ここと同じです」
男「先生も、おかしなことを言う人だ。住職だって、そんなこと言わないよ」と。

 周人は、ゆっくりとそのあと、こう聞いた。

 「家に帰りたいです。由紀子が待っています。どなたか、いっしょに行ってくれる人はいません
か?」と。

 それに応じて、何人かの男や女たちが、手をあげた。
その中には、あの義理の妹がいた。
「お忙しいところ、すみません」と。
周人はていねいに、頭をさげた。
義理の妹という、その女は、にこやかに笑いながら、周人を、外に誘った。

●自宅

 その女性は、小柄な人だった。
年齢はわからないが、40歳くらいだろうか。
それとも30歳?
楽しそうだった。
歩くというよりは、空を舞うように、先を走った。
周人は、懸命にその後を追いかけた。

 鼓動はますます激しくなった。
熱い涙は、ますます大粒になり、頬を伝って落ちた。
何かを話しかけようとしたが、声にはならなかった。

 が、その女性は、周人のことなど忘れてしまっているかのようだった。
ゆるやかに曲がった道。
木々に覆われた土手。
小さな木の橋の下には、小川が流れていた。
澄んだ水で、何匹かの魚を、かいま見ることができた。

 今度は周人が聞いた。
言葉にはならなかったが、女性には通じた。

 「ここはあの世ですか」と。

 が、女性はこう言った。
「先生は、あの世から来たのでしょ。おかしなこと、言わないでくださいよ」と。

●由紀子

 家は、こんもりと盛り上がった土地の上にあった。
白い壁の家だった。
窓枠は木でできていた。

 案内してくれた女は、そこにはいなかった。
消えていた。
が、周人には、それが自分の家とわかった。
子どものころ住んだことのある、あの木枠の家。
三角屋根の玄関。
その上を覆う、スレート瓦。
のぞき窓にもなっている、ステンドドグラスの小窓。

周人は、ドアのノッブに手をかけた。
と、そのとき、家の横から、声が聞こえた。
由紀子の声だった。

 「お帰りなさい!」と。

 そっけない声だった。
洗濯ものをかかえ、由紀子がそこに立っていた。
「あなた、悪いけど、まだ洗濯物が残っているから、集めてきて」と。

 周人はそれには従わず、そのまま由紀子を抱きしめた。
そのとき周人は、はじめて自分の腕を見た。
しわのない、若々しい腕だった。
その手で、周人は、さらに力をこめ、由紀子を抱いた。
由紀子は、けげんそうな表情を残したまま、周人の腕の中で力を抜いた。

 「あなた、いったい、どうしたのよ。いつものあなたじゃ、ないみたい。おかしいわ」と。
が、周人は、そのまま由紀子を抱きつづけた。
頬には大粒の涙が、流れつづけた。
周人は構わず、由紀子を抱きつづけた。

●周人の最期

 俵 周人は、その朝早く、だれにも看取られず、息を引き取った。
医師の話では、午前5時ごろ、亡くなったのではないかということだった。
検視には、ホームの主任と、介護士が立ち会った。
医師が「老衰による自然死」とカルテに書き込むのを見届けると、介護士は手慣れた様子で、
ベッドを整え、周人の乱れたパジャマを直した。

 穏やかな表情だった。
安らかな表情だった。
今にも、笑い出しそうな顔だった。
俵 周人はこうして、この世を去った。
享年83歳。

 介護士の男は、最後にそれを見届けると、部屋を出る前に、周人の顔に、白い布をかけた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 短編小説 俵周人 3日目の朝 
はやし浩司 小説 俵 周人 はやし浩司 周人 小説 処女作)2012/04/07記


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●4月8日(日曜日)(はやし浩司 2012ー04−08)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

近く、高校の同窓会がある。
それを兼ね、郡上八幡まで足を延ばし、市内の旅館に泊まることにした。
Yという旅館。
以前より、一度は泊まってみたいと思っていた。
宿の案内によれば、1日、6組しか、宿泊客を受け入れないとのこと。
が、けっして小さな旅館ではない。
割烹旅館。
その帰りに、同窓会に出る。

その郡上八幡。
小さな町だが、観光ズレしていないところが、すばらしい。
前回行ったときには、人力車に、ワイフと2人で乗った。
プラス、あの町には、子どものころからの楽しい思い出が、ぎっしりと詰まっている。

今度行ったら、8月の盆踊りの日に泊まれるかどうか、聞いてみる。
今から予約すれば、たぶん、だいじょうぶだろう。
もしダメなら、もうひとつその山奥にある、白鳥で、盆踊りを楽しむという方法もある。
駅前のAという旅館が、イチ押し。

月日がたつのも速い。
月日が来るのも速い。
私たちはその狭間(はざま)で、過去を見たり、未来を見たりしながら生きている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●乗馬マシン

 買ったのは、数年前。
ときどき乗って、遊んでいる。
乗馬マシン。
ちょうど馬に乗っているかのように、前後左右に、パカパカ動く。
それが結構、楽しい。
本当に馬にまたがっているかのような気分になる。

 で、昨日のこと。
それに乗りながら、「女座り」というのを試してみた。
西部劇映画などで、そういうシーンがときどき出てくる。
またがって乗るのではなく、横向きに座る。
女性が、そういう乗り方をする。
単純な好奇心からだった。
が、これがまずかった。
 
 10分ほど乗っただけなのだが、そのあと気分が悪くなってしまった。
原因はわからない。
肝臓か胆のうに負担がかかったのかもしれない。
ひどくはないが、軽い吐き気を覚えた。
船酔いにも似ているが、それとも、感じがややちがう。

 で、結論。
慣れないことは、してはいけない。
するとしても、いきなり、「高速」ではまずい。
(そのとき、「高速」設定で、してしまった!)
はじめは少しずつ、ゆっくりと始めるのがよい。

 そういえば、こんな大失敗をした知人がいる。
何かにつけ、私と発想が似ている。
考え方も似ている。
行動派。
が、やっては、失敗する。
その男性は、こんなことをした。

●曲がった腰

 その男性は、自分の腰が、やや前に曲がり始めたのに気がついた。
年齢は、73歳。
若いころ、重い荷物をもつ仕事をしていた。
椎間板が損傷したらしい。

 「さあ、たいへん!」ということで、その男性は、自分で腰にあてる器具を作った。
木製で、それを背中に当てて寝る。
それを当てると、背骨がちょうどブリッジのようになる。
言うなれば矯正器具。
その男性は、それで曲がり始めた腰が、元に戻ると考えた。
それを一晩、自分の腰にくくりつけ、その姿勢で寝た。

 が、結果は大失敗。
翌朝早く、救急車で病院へ運ばれるところとなった。
腰がまったく曲がらなくなってしまった。

以後、1週間ほど、入院した。
つまり素人療法は、何かにつけて、危険。
今回の私の乗馬にしても、そうだ。
いつものようにまたがって乗っていればよいものを、あえて「女座り」をしてみた。
無理に腰を、左右に激しく振ることになった。
それがよくなかった。

 ……ということで、今朝は、朝食は抜き。
バナナ半分と、お湯だけ。
それにしても、バカなことをしたものだ
いまだに気分が悪い。
後悔!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マガジン4月16日号

 今朝は、とくに書きたいテーマは、なし。
平穏、無事。
午後は、ワイフと愛知県境までドライブに行くつもり。
途中に友人の別荘がある。
もしそこに友人がいれば、少し遊ばせてもらう。
今日は日曜日だから、たぶん、いるはず。
今が、ベストシーズン。

 で、とりあえず(?)、電子マガジンの4月16日号の発行予約を入れることにした。
テーマは、「プリウス問題」。
少し古いテーマだが、あの話は、現在、ナーナーで終わってしまっている。
もとはと言えば、アメリカ人の先走った誤解。
ありもしない急加速問題をでっちあげ、それでもって、日本車を攻撃した。

 で、私なりに調べてみたが、調べれば調べるほど、へん。
デタラメ。
その前の2月13日号で、「アメリカ人の脳みそ」について書いたので、4月16日号は、その続
編ということになる。

 プリウス問題は何だったのか。
それをもう一度、みなさんに訴えてみたい。

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     4月 16日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●楽しい子どもたち

 今週は、『確率・分数』をテーマに、レッスンを進めている。
くじ引きを利用し、それを教えている。
昨日は、小学1年生に、それを教えてみた。
子どもたちは、難なく(?)、それを理解してくれた。

 YOUTUBEの動画を、そのままここに紹介する。
「小学1年生に、確率?」と、疑問に思う人は、ぜひ、見てほしい。
同時に、現在、学校でなされているカリキュラムなるものが、いかにチンプなものであるかを、
わかってほしい。

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【アメリカ人の脳みそ】(TOYOTAのプリウス急加速問題)

アメリカ人の脳みそを疑うようになったのは、
(それ以前からも、疑っていたが……)、
あのプリウスの急発進問題が起きてから。
大学とは名ばかり。
もちろん優秀な教授や学生が集まる大学も多いが、
そうでない大学も、少なくない。

南イリノイ大学もそのひとつ。
その大学に、デービッド・ギルバート教授という教授がいる。
彼は、プリウスの急加速を、実験で証明できたと主張した。
が、その方法が、稚拙。
幼稚。
バカげている。

 『ギルバート教授は、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に、5ボルトを加えてショートさせた状
態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することなく、急加速現
象がみられた』とした。
それに対して、トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤ
ーの絶縁状態を破壊する必要があった、としている。

 つまりギルバート教授は、わざと電線をショートさせ、急加速現象を起こしてみせた。
そしてそれでもって、「トヨタのプリウスは、欠陥車」と結論づけた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以下、当時、私がBLOGに書いた原稿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アメリカ人の論理力(TOYOTAのプリウス問題)

●アメリカ人の友人たちへ(To my friends in USA as to TOYOTA recall problem)
You have almost lost the last friend in Asia!

++++++++++++++++++++++

今度のTOYOTA問題を通して、君たちは、
アジアにおける最後の友人を失いつつある。
それを私たちは、とても残念なことに思う。

You have almost lost the last friend that had remained to be so in Asia through the 
TOYOTA problems, about which we feel very sorry.

より多くの日本人が、反米的になりつつある。
新米的であった私でさえ、アメリカに、大きく失望した。
そして今では、こう言うようになってしまった。
「アメリカなど、クソ食らえ!」と。

More and more Japanese are becoming anti-American and even I, whom I supposed myself 
to be a pro-American, do not hesitate to say, "Down with USA".

再現性のない、インチキ実験?
報道映像の捏造?
さらには保険金目当ての、にせ事故?、などなど。
日本では、急加速は、一例も報告されていない。
それもそのはず。
この日本で、両足を、ブレーキとアクセルの両方にのせて運転する人はいない。
「事故の95%は、運転手によるもの。
車によるものは2%にすぎない」(アメリカ国家ハイウェイ安全局(NHTSA)会長)。

リコール後も、600万台のプリウスについて、60件の苦情があったとか。
(600万台につき、60件だぞ!
0・001%!
GM車やフォード車については、どうなのか?)

それについて、「NHTSAは、さらなる改善策をTOYOTAに命じた」とか。
アメリカよ、少しは、冷静になれ。
これを「日本叩き」と言わずして、何という?

A very doubtful experiment, which was proved to be a fake,
A fabricated report on TV,
False accidents reported in the Congress...,
and more over it is strange that none of these sorts of accidents are reported in Japan.
No stupid men put both feet on each a brake pedal and accelerator pedal at the same time 
in Japan.
Be calm!
NHTSA has ordered Toyota to provide a different solution, since 60 complains are reported 
among 6 million TOYOTA cars. 
Isn't this "Japan Bashing"?

+++++++++++++++++++++

●TOYOTA問題

 今回の一連のTOYOTA騒ぎは、何のか。
よくわからないが、ことの発端は、1教授のインチキ実験。
南イリノイ大学の、ギルバート教授。
彼はコードの絶縁体を意図的にはがし、それでもって、急加速を再現してみせた。

「(絶縁体がはがれるなどいうことは)、通常の状態では起こらない」というのが、一般的な常
識。
そこで今度は、同教授は、5ボルトの電圧をかけ、「同じようなことが起こる」と実験してみせ
た。

 しかし急加速問題は、何もTOYOTAで始まったわけではない。
同じような実験をすれば、ほかのメーカーの車でも、同じような反応を起こすことがわかった。
また似たような急加速は、TOYOTA車以外でも、アメリカでは、繰り返し、起きているという。
つまりこれは、TOYOTA車の問題というよりは、アメリカ人の車の乗り方に問題があると考え
たほうが、正しい。

 当初、「アクセルとブレーキを同時に踏むと……」という報道が流れたとき、私には、その意
味がよくわからなかった。
「アクセルとブレーキを同時に踏むとは、どういうことなのか」と。
そのまま解釈すれば、アメリカ人というのは、両足を、アクセルとブレーキの両方に、足を載せ
て運転しているということになる。
しかし日本人は、そういう乗り方をしない。
そのためにアクセルもブレーキも右側(アメリカでは左側)に、寄せて並べてある。
 
●疑問

 つぎつぎと新事実が、明るみになってきている。
が、今は私もまだよくわからないでいる。
報道された記事だけを集めておく。
後日、もう少し事実が明らかになった段階で、このつづきを書いてみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)疑問だらけのデービッド・ギルバート教授の実験

トヨタ自動車は1日付の米議会あて書簡で、南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授が先
週の公聴会で示した見解に反論した。

同教授は、2月23日の下院エネルギー・商業委員会の公聴会で、自ら行った実験でトヨタ車に
発生したとされる急加速の状況を再現できたと証言、トヨタの電子系統に問題があるとの見解
を示していた。 

ASSOCIATED PRESS 

 南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授(2月23日の公聴会で) は、プリウスの急加速
を、実験で証明できたと主張した。

 この証言に対し、トヨタは書簡で、独自の調査と同社が調査を委託した技術コンサルティング
会社エクスポネント(米カリフォルニア州)の調査結果に基づいて反論を展開した。
トヨタはトヨタ側の実験でもギルバート教授と同じ結果が得られたが、他のメーカーの車でも同
じ状況が生じたと主張し、同教授の証言は誤解を招くと批判した。 

 エクスポネントは43ページに及ぶ報告書で、ギルバート教授の実験を他のメーカーの5車種
で行ったところ、すべて同じ状況が発生したことを明らかにし、実験のような状況は「きわめて
可能性の低い欠陥が重なった場合にしか生じない」と結論づけた。 

 ギルバート教授は23日の証言で、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に5ボルトを加えてショ
ートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することな
く、急加速現象がみられた、とした。
トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤーの絶縁状態
を破壊する必要があった、としている。 

 ギルバート教授から、トヨタとエクスポネントの実験結果に対するコメントは得られなかった。 

 トヨタの広報担当マイク・マイケルズ氏は、ギルバード教授の調査を「誤解を招く不適切なも
の」とし、「システムをいじりまわしている」と批判した(以上「ウォール・ストリート・ジャーナル日
本語版より)。 

★以上の原文

Toyota Motor Corp. rebutted the findings of a study presented at a congressional hearing 
last week that claimed to replicate undetected sudden acceleration in its vehicles and called 
into question the company's electronics. 

TOYOTAは、反証をあげた。

Based on its own study and one undertaken by the Menlo Park, Calif., engineering research 
firm Exponent, which has been hired by Toyota, the car maker said it was able to duplicate 
the result in Toyota vehicles found by David W. Gilbert, a professor at Southern Illinois 
University-Carbondale who testified at a House hearing. But Toyota said it also created the 
same response in vehicles made by competitors, which it said rendered Mr. Gilbert's findings 
misleading. 

ギルバート教授がしたようなことをすれば、ほかのメーカーの車でも、同じようなことが起きるこ
とがわかった。

"We have reproduced the engine revving and engine speed increase in Toyota's vehicles," 
Toyota said in a statement dated March 1 and sent to congressional committees. "At the 
same time, we have also confirmed that a substantially similar kind of engine speed increase 
phenomenon occurs with the other manufacturers' vehicles." 
Toyota said the tests Mr. Gilbert performed would not happen "in the actual market." To 
achieve Mr. Gilbert's results, Toyota said it had to cut and breach the insulation on two 
wires. 

TOYOTAは、このような急加速は、TOYOTA車だけにかぎったことではなく、ギルバートの行
ったようなテスト(=2本の線の絶縁体をはがし、接触させるようなこと)は、通常の状態では起
きないと言った。

Mr. Gilbert said he will provide an official response but declined to comment on the findings 
by Exponent and Toyota. He said he may travel to California to meet with the research 
concern. 

In the last week, Toyota has endured three bruising congressional hearings questioning its 
belated response to reports of sudden acceleration in its vehicles. While Toyota executives 
acknowledged the company failed to quickly respond to safety issues in the past, the 
company has maintained that faults in its electronics are not behind incidents of unwanted 
acceleration. 

TOYOTAは、安全問題に迅速に答えなかったことは認めるものの、電子部品には欠陥はない
と主張した。

Consumer safety advocates continue to challenge Toyota on that point, charging that the 
rise in acceleration reports-which have been linked to 52 deaths-is correlated to the 
installation of an electronic throttle control system in Toyota and Lexus models beginning in 
2002. 

消費者安全協会は、52人の死亡について、TOYOTA車との関連を追究する。

Mr. Gilbert, who testified before the House Commerce and Energy Committee Feb. 23, said 
he was able to replicate sudden acceleration without creating an error code in the vehicle's 
onboard computer by introducing five volts into the gas-pedal circuitry of a Toyota Avalon. 
In his report, Mr. Gilbert said his findings "question the integrity and consistency" of Toyota'
s computers to detect malfunctions.

5ボルトの電圧をかけたら、急加速現象が起きた。

In a 43-page report, Exponent, the research firm hired by Toyota to investigate its vehicles 
electronics, applied Mr. Gilbert's test to five models including a Honda Accord and a BMW 
325i and found all five reacted similarly. Toyota added that it tested three competitor 
vehicles and found they experienced the same engine revving and speed increase when 
their electronics were similarly altered. 

同じような急加速現象は、ほかのメーカーの車でも報告されている。

"For such an event to happen in the real world requires a sequence of faults that is 
extraordinarily unlikely," Exponent said in its report. 

Toyota spokesman Mike Michels described Mr. Gilbert's research as "misleading and 
irrelevant." Mr. Gilbert was "gaming the system," Mr. Michels said. 

ギルバートの報告は、誤解を招くもの。
また車をもてあそんでいるだけ。

Separately, the National Highway Traffic Safety Administration said Thursday it has 
received more than 60 complaints from Toyota owners who report they are still 
experiencing sudden unintended acceleration despite having their vehicle repaired by a 
Toyota dealer under the car maker's recalls. 

TOYOTA のリコール後も、60件の苦情が、国家ハイウェイ安全局(NHTSA)に届いてい
る。

"Officials are contacting each and every consumer to learn more about what they say is 
happening," the agency said. 

現在、調査中。

If it appears that the remedy provided by Toyota isn't addressing the problem, NHTSA said 
it has the authority to order Toyota to provide a different solution. 
"We are determined to get to the bottom of this," said David Strickland, administrator of 
the auto-safety agency. 

国家ハイウェイ安全局(NHTSA)は、TOYOTAに、ほかの解決策を用意するよう、命じている
(以上、ウォールス・トリート・ジャーナルより)。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ニューヨーク時事・3月16日】

トヨタ自動車は15日、米カリフォルニア州サンディエゴ近郊の高速道路で急加速を引き起こし
たとされるハイブリッド車「プリウス」について、技術者らが関連部品の徹底的な検査のほか、
走行テストなど多岐にわたる検証を行ったものの、車両に急加速を引き起こすような異常は見
られなかったとの暫定調査報告をまとめた。

 調査は米道路交通安全局(NHTSA)関係者と米議員らの立ち会いの下、10、11の両日実施
された。
トヨタは暫定報告で、

(1)アクセルペダルは正常に機能した。
(2)前輪ブレーキは著しく摩耗していたが、後輪ブレーキとハンドブレーキは良好な状態だっ
た。
(3)正規品のフロアマットは留め金には固定されていなかったが、アクセルペダルを妨害もしく
は接触するような状態は確認されなかった。
(4)エンジン点火装置は正常だった。
(5)変速レバーも正常だった。
(6)アクセルペダルとブレーキペダルを同時に踏んだ場合、エンジン出力が減退する機能も正
常に作動した−などと説明した(以上、時事通信より)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ワシントン】米下院エネルギー・商業委員会が23日開いたトヨタ自動車の大量リコール(回収・
無償修理)問題をめぐる公聴会で、急加速を経験したとして証言したロンダ・スミスさんのトヨタ
の「レクサスES350セダン」が、現在も使用されており、何のトラブルも起こしていないことが分
かった。
米高速道路交通安全局(NHTSA)の広報担当者が24日明らかにした。 

●公聴会で証言したロンダ・スミスさん
 
同スポークスマンによれば、NHTSAが先週、同車の新しいオーナーに聞いたところ、「走行距
離3000マイル弱のところで購入し、何のトラブルも経験せずに走行距離は2万7000マイルにな
った」と答えたという。
スミスさんは証言で、2006年にテネシー州のハイウェーで制御不能の急加速に見舞われ、時
速100マイル(約160キロ)になった恐怖の経験を涙ながらに語った。
その後、スミスさん夫妻は同車を売却した。 

 報告を受けたNHTSAの検査官は、フロアーマットがアクセルペダルに引っかかったことが原
因と判断した。
しかしスミスさん夫妻は、フロアーマットのせいではないと主張。スミス夫人は、車が速度を上
げる前にクルーズ・コントロール・ライトが点滅したことから、電子制御系の問題と考えている
(以上、ウォール・ストリート・ジャーナル)。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 ただ、2005年のNHTSA調査によると、自動車事故の約95%は運転者のミスによるもの
で、自動車の問題で起こるのは約2%にすぎない。
米自動車工業会のマッカーディ会長は同公聴会で、この報告を引用する予定だ。
同会長はまた、車の衝突データを集めるのにNHTSAがもっと多くの資金を必要としていること
を訴える方針だ(以上、ウォールストリート・ジャーナル)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 先週、米カリフォルニア州のハイウェイで起きたトヨタのハイブリッド車プリウスの急加速事件
で、連邦当局の調査によってブレーキに特殊な損耗パターンが見つかり、運転者の説明に疑
問が浮かび上がっている。
関係している3人が語った。

 先週8日、サンディエゴ近くのインターステート8号線で青の2008年型プリウスを運転していた
ジェームズ・サイクス氏(61)は緊急電話をかけて、何もしないのにスピードが時速90マイル
(144キロメートル)まで上がったとオペレーターに伝えた。
最終的にはカリフォルニア・ハイウェー・パトロールのパトカーが同車に横付けし、止めることが
できた。 

 サイクス氏は走行中およびその後に、高速走行中に力いっぱいブレーキを踏み込んだと話し
た。

 しかし、関係者によれば、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)とトヨタの専門家が共同でこ
の車を調査したが、高速走行中に一定時間力いっぱいブレーキが踏み込まれた痕跡は見つ
からなかった。

 ブレーキは変色し、損耗が見られたが、その摩擦パターンは運転者が断続的に普通程度の
力でブレーキを踏んだことを示唆しており、サイクスさんが言うような踏み込みはうかがえなか
ったという。

 これ以上の詳細は明らかではない。NHTSA当局者は12日、調査に関するコメントを拒否し
た(以上、ウォール・ストリート・ジャーナルより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 TOYOTA問題 急加速問題 トヨタのリコール リコール問題 南イリノイ大学 
デービッド・ギルバート教授 はやし浩司 アクセルとブレーキ トヨタ プリウス 急発進 急加
速)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●アホの上塗り(How are you ashamed of yourselves, Mr. NHTST, USA?)

To: NHTSA, USA

What has been the "TOYOTA" problem?
Please re-read my article which I wrote in 2010.
In that article, I wrote, "Be ashamed NHTSA!"
I also agein write here, "Be ashamed, NHTSA!"

+++++++++++++++++++++++++

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

++++++++++++++++++++

このたび、TOYOTAの「シロ」が、確定した。

まず、YOMIURIの記事から。

+++++++++++++以下、YOMIURI+++++++++++++++

 ラフード米運輸長官は8日の記者会見で、末娘からの問いあわせに"お墨付き"を与えたこと
を明らかにした。
末娘は、昨年、トヨタ自動車の2011年型ミニバン「シエナ」を購入したという。

 長官は、「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべ
きだ』と答えた」と語った。
「我々が、トヨタ車が安全と感じているという例だ」とも述べた。
長官は昨年2月、議会で「トヨタ車の運転をやめるように」と発言していた。

+++++++++++++以上、YOMIURI+++++++++++++++

●ラフード米運輸長官

 こんな記者会見程度で、TOYOTAが被った損害が、解消できるのか?
それで責任を果たしたことになるのか。
このラフード米運輸長官は、アホ中のアホ。
TOYOTA車に、宇宙線をあててまで、欠陥を探し出そうとした、その張本人である。
「車に、宇宙線」だぞ。
それもNASAと協力して?!

 ラフード米運輸長官は、「論理学」の「ロ」の字も知らない、アホ。
アホ長官。

●2010年に書いた原稿より

 昨年(2010)に、私が書いた原稿を、もう一度、よく読んでみてほしい。
ここに書いた「アホ」の意味が、よくわかってもらえるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10−04−01)

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の私の原稿が、あちこちの
サイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスによるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの不適切な操作によるもの。
ところで、こんな仰天ニュースが、読売新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)と全米科
学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受けて事故原因の調査
に乗り出すことが30日、明らかになった。

 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月かけて
行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影響を与
えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立てあげたいら
しい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼したという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア〜〜〜?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、その放射
線とやらは、どこから発せられたのか。

そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるはず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授のそれと、
どこもちがわない。

「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したとか?

TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与える
かもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほうがよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠とはならな
い。

もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こぞって、
放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●論理学(必要・十分条件)

 もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、どれをめくってみ
るか。

1枚目……(△)
2枚目……(□)
3枚目……赤の(●)
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明されたわけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)であったとしても)、この命
題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがっていることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●必要・十分

 話を戻す。

 「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、TOYOT
Aの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。

(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)
さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA車に、ま
んべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」も証明しな
ければならない。

まだある。

「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、証明しなけれ
ばならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。

 また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。

 「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせなくなってし
まった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、アクセル
とブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数でも
よい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●統計的調査(補足)

 ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリ
カには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。

 たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。

 そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。

(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。

 たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。
これが基礎データ。

 つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数値に近けれ
ば、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因があるということになる。

 同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)と、ほかの
メーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。

●車の欠陥

 交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通安全局
(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。

 そこで改めて数字を拾ってみる。
 現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交通安
全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。

 もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題にする前に、
車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。

 さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしている。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必要があ
るのでは?

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題は起きて
いないという。

(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでいる。)

つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証明しな
ければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータでもあれ
ば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響を
与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめて十分
となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が与え
る影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!

 ……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明でき
た」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。

言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。

(はやし浩司 ラフード米運輸長官 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTS
A) NASA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYO
TA ハイブリッド車)

●終わりに

 ラフード米運輸長官は、こう言ったという。
「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべきだ』と答
えた」と。

 それに応じて、日本の経団連は、「安全性のお墨付きをもらった」とはしゃいでいる。
が、これもおかしい。
日本の車、社会、経済に与えた影響は、計り知れない。
それをさておき、「お墨付き」とは?
どうして日本は、ここまで隷属するのか。
シッポを振るのか。
本来なら、「コノヤロー!」と激怒し、損害賠償を請求してよい事案である。
どうしてそれをしないのか?

 つまりラフード米運輸長官のこの程度のリップサービスで、日本人のあのときの(怒り)をご破
算にしてすませてはいけない。
またそれですむような話ではない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【結論】

 「スーパー・マルチタースク人間」かどうかは、運転中だけのテストではわからない。
スーパー・マルチ・タースク人間と言えるためには、ほかの分野でのテストでも、それが証明さ
れなければ、ならない。

 自動車の運転のような、慣れによって自動化できる技術を尺度にし、それ以外の作業ができ
るからといって、マルチ人間ということにはならない。

 従って、ユタ大学が行った、この実験とその結果は、「C」マーク。
「アメリカの大学」「教授」「大学がした実験」という言葉に、幻想をもってはいけない。
またそういう権威付けにだまされてはいけない。

(はやし浩司 David Gilbert South Illinois Fake はやし浩司 Jason Watson David Strayer 
家庭教育 ニセ科学 エセ論文 偽論文 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパー
マルチ人間 スーパータスカー はやし浩司 マルチ型人間 シングルマルチ TOYOTA プリ
ウス 論理の穴 論理の矛盾 論理学 はやし浩司 必要十分条件 はやし浩司 Super 
Tasker スーパータスク人間 スーパータスク型人間 はやし浩司 マルチ人間)2012/03/06ま
とめ


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●朝・雑感あれこれ(はやし浩司 2012−03ー07)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国際経済

 ネコの目どころか、オセロ(ゲーム)のように、日々に白黒が逆転する。
それにあわせて、世界の株価が、乱高下。
バカげているというか、狂っている。

 今朝のBloombergは、ギリシアの金融危機をトップに載せている。

『ギリシャは十分な同意が得られれば、
ギリシャ法に基づく国債の保有者を対象に、
集団行動条項(CAC)を発動して債務交換への参加を義務付ける』と。

 わかりやすく言えば、「借金の棒引きを、一方的に義務づけるぞ」と。
つまりギリシアはすでに、国家破綻(デフォルト)している。
それをああでもない、こうでもないと、あがく。
世界を脅す。
『無秩序に国家破綻をすれば、1兆ユーロの被害が出る』と。

1兆ユーロ……、100兆円!

 国家破綻にも、「秩序型」と「無秩序型」があるらしい。
知らなかった!

 それを先読みし、今日のニューヨーク市場は、203ドルもさげた。
日本も現在、下降中(午前9:20現在)。

ほかにも気になるニュースがある。

●ニョンビョン(寧辺)の軽水炉

 たとえば現在、北朝鮮は、軽水炉を建設しているという。
工事現場の写真も紹介されていた。
が、それを見て、???。

大型クレーンが一基だけ。
あとはトラックが、数台。
周囲の円形だけは、「円」だったが、それ以外は、まさに露天掘り。
「こんな工事で、だいじょうぶか?」と。

日本の原子炉のような精緻さが、どこにもない。
排水施設も、写真で見るかぎり、なさそう。
詳しくはわからないが、お粗末。
驚くほど、お粗末。

そんな原子炉が事故でも起こしたら、どうなるのか。
首都ピョンヤンどころか、韓国のソウルだって、あぶない。
ニョンビョンの核施設から首都ピョンヤンまでは、直線距離にして約90キロ(グーグルアース
上)。
たったの90キロ!

 が、今の日本は、(=私たちは)、他国の原子炉のことまで心配する余裕はない。
偉そうなことも言えない。
しかしそれにしても、お粗末。

●不気味な地震活動

 MSN・ニュースは、つぎのように報道している。

『東日本大震災の影響でフィリピン海プレート(岩板)の沈み込みが加速し、関東地方を乗せた
北米プレートとの境界部にひずみが蓄積しやすくなっていることが防災科学技術研究所の観
測で6日、分かった。

(中略)

 首都圏では複数のプレート境界型地震が想定されている。関東大震災を起こしたマグニチュ
ード(M)8級の関東地震は、次の発生が約100年後とされるが、首都直下地震のひとつであ
る東京湾北部地震(M7・3)は切迫しており、発生が懸念されている』と。

 関東地震はともかくも、首都直下型地震が、かなり切迫しているということらしい。

 もちろん首都だけではない。
この遠州浜周辺もあぶない。
そこで昨夜も寝床で、ワイフとこんなことを話しあった。

「息子の家のほうに、移ろう」と。

●我が家

 我が家は、築46年になる古屋と、築10年の息子の家の2棟に分かれている。
古屋は、耐震構造にはなっていない。
昔のままの家。
一方、息子の家は、徹底した耐震構造になっている。
1階の1部屋が空いている。
私はそこへ移ろう、と。

 が、ワイフは、昔からのんき。
信じられないほど、のんき。
で、それを相談したら、「この家がつぶれるのオ?」と。

 しかたないので、私は、座卓を枕元に置いた。
万が一天井が落ちてきても、座卓が私たちを守ってくれるはず。
が、ワイフは、天井をながめながら、こう言った。

「あんな天井が落ちてきたくらいでは、死なないわよ」と。

私「あのなあ、天井が落ちてくるんじゃないよ。大屋根が落ちてくるんだよ」
ワ「落ちてこないわよ」
私「あのなあ、1分以上も、人が立っていられないほど、揺れるんだよ」
ワ「……」
私「こんなボロ家、無事のはずがないだろ……」と。

 ということで、今日は、朝食のあと、寝室の引っ越し。
ワイフが反対しても、そうする。


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【シャッター通り】

●ひさしぶりに民宿に一泊 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

明日は、講演。 
それを理由に、今夜は、隣町のA町に一泊。  
浜松市の自宅から、東名高速道路を経由して、2時間30分。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●TAMIYAの「戦艦大和」 

 ところで今日、TAMIYAの戦艦大和が届いた。 
定価は2万4000円前後だが、AMAZONで買ったら、1万6000円前後だった。 
知る人ぞ知る、プラモデルの最高傑作。 
超大型モデル。 
縮尺は、350分の1。 

 学生時代から、「一度は……」と思っていた。 
「一度は作ってみたい」と。 
とうとうその夢が、実現した。 
息子に手伝ってもらえば、できるはず。 

●宿にて 

 エアコンを最高の31度に設定した。 
それから半時間。 
やっと部屋の中が暖かくなってきた。 
どこか風邪ぽい? 
おかしな寒気を感ずる。 
部屋に入ったときから、水鼻が出るようになった。 

 で、目下、インフルエンザが、大流行中。 
警戒するに越したことはない。 
今年、私は予防接種をしていない。 
ワイフや息子はしたが、私はできなかった。 
いつもの医院へ行ったら、「もう在庫がありません」と。 

 気をつけよう。 

●旧市街 

 通りは、「X町通り」となっている。 
部屋は2階。 
通りから、ひっきりなしに街の騒音が聞こえてくる。 
削岩機がコンクリートを削る音。 
そんな音も、時折、遠くから聞こえてくる。 

 どの店も元気がない。 
店というより、通りに元気がない。
そんな通りを、車がザザーッ、ザザーッと行ったり来たりしている。 
その音が、嵐の日の、窓ガラスを叩きつける雨の音のよう。 

 その商店街通り。 
家と家の隙間がない。 
この街並みは、故郷の美濃町と同じ。 
道に面した窓からだけ、外の明かりが入ってくる。 
私は高校を卒業するまで、こういう街中に住んでいた。 
懐かしさがこみあげてきた。

 ……そんなことを思い出していた。 
眠くなる目を、懸命にこらえながら……。 

●「信ずる」 

 子どもを信ずるということは、どういうことなのだろう。 
たとえば夫婦や恋人どうしなら、「疑わない」ということ。 
が、相手が子どものばあいは、ニュアンスがややちがう。 

 あえて定義するなら、「能力を認める」ということ。 
というのも、「愛する」とか、「信ずる」とかいうが、中身が、きわめてあいまい。 
抽象的。 
「子どもを信じなさい」と言われた親だって、困る。 
「どうすればいいの?」と。 

 そこで私は、こう考えた。 
「信ずることは、子どもの能力を認めること」と。 

●「能力を認める」 

 この私も、母に、泣かれたことがある。 
私が「幼稚園の先生になる」と言ったときのことだった。 
が、あのとき母だけでも、私を信じてくれていたら、そののちの私の人生は、大きく変わってい
ただろう。 
母を責めているのではない。 
母は母で、当時の常識として、そう言った。 

 その「信ずる」。 
私の能力、つまり、能力がもつ方向性、それを認めてほしかった。 
それでここに書いたように、「信ずること」イコール、「能力を認めること」と考えるようになっ
た。 

●公務員の給料、8%削減? 

 Yahooニュースは、つぎのように伝える。 

『……国家公務員の給与を引き下げる臨時特例法案をめぐり、民主、自民、公明3党は25日
午前、国会内で実務者協議を開いた。 
民主党は今年3月から平均0.23%引き下げる人事院勧告(人勧)を実施したうえで、同4月
からさらに平均7.8%を上乗せし、計平均8.03%減額する修正案を提示』(ヤフーNEWS)
と。 

 しかし問題は、給料ではなく、「手当」。 
1人ひとりの公務員に責任があるわけではないが、「手当」にメスを入れないかぎり、ただのザ
ル法案。 
職種によっては、20〜30種類もの手当はつくのがある。 
その手当の額が大きい。 

役人のことだから、あの手この手で、法案を骨抜きにしてしまうはず。 
今までも、ずっとそうだった。 
「減額された分は、手当で補てんします」と。 

 それに今ごろ、8%! 

 私の親しい友人(H市市役所勤務)は、すでに15年以上も前に、こう言っていた。 
「私ら、本当に、公務員になっていてよかったです」と。 
物価はさがる。 
給料はさがらない。 
職を失う心配は、ゼロ。 
退職金も年金も、満額! 

 今では同じ職種でも、公務員と民間とでは、2倍近い開きがある(「週刊文春」)。 
さらにこんな謀略も……。 

●年収500万円 

 今度から、年収が500万円以上あるときは、年金が減額されることになったという。 
まだ法案が通過したとは聞いていないが、たぶん、そうなるだろう。 

 しかし年金といっても、どの年金をいうのか。 
もしそれが基礎年金(国民年金)のことをいうなら、これほどまでにずるい謀略はない。 
こういうこと。 

 この先、日本経済は左前になる。 
よくなるなどということは、考えられない。 
そのときこの日本を、猛烈なインフレが襲う。 
(=円の価値がさがる。) 
現在、500円のラーメンが、1000円とか、2000円とかになる。 
ハイパーインフレが日本を襲えば、タクシーの初乗り代が、1万円になることも考えられる(経
済雑誌ほか)。 
当然、その分だけ、名目上の給料はあがる。 

 大卒の初任給が、年収にして500万円とか、そうなる。 
もしそうなったら、年金は、どうなるか。 
先の法案が通れば、年金が自動的に減らされることになる。 

 現在の今は、「500万円もあれば、減額されても、しかたない」ということになる。 
が、2年後、あるいは3年後には、そんなことは言っておれないだろう。 

 「だから今のうちに、法案を通しておけ」と。 
つまり先手を打った(?)。 
それにしても、官僚の考えることは、ずるい。 

●眠い 

 午後から眠かったが、夕食後、眠気がぐんとました。 
「横になろうか……」、 
「もう少し起きていようか……」、 
……目下、思案中。 

●下宿 

 「金沢の下宿がこうだった」と私。 
間取りは、8畳間。 
下宿では、その8畳間をベニア板で2つに仕切り、2部屋としていた。 
今の若い人たちにすれば、想像もつかないだろう。 
質素な部屋だった。 
電気も、天井に1灯、蛍光灯があるだけ。 
冷房も暖房もなし。 
小さなコタツだけ。 

 そんな下宿に、2年間いた。 
3年生になるとき、別の下宿に移ったが、それまでの下宿より、さらに劣悪だった。 
が、下宿代が下宿代だったから、文句は言わなかった。 
2食付で、9000円(1年入学時)〜1万6000円(4年卒業時)。 
そのように記憶している。 

●R町 

 夕食後、扁桃腺が痛くなった。 
いつもならアスコルビン酸の原末をもって歩く。 
が、今日は、忘れた。 

 郊外のドラグストアまで車で行く。 
そこでアスコルビン酸と葛根湯のドリンク剤を買う。 
私のばあい、アスコルビン酸でうがいをすると、痛みは消える。 
うがいするとき、しみるような痛みを感ずるときもある。 
が、そのあと、スーッと痛みが消える。 
(あくまでも私のばあいの治療法。 
ぜったいにマネをしないように!) 


●不景気 

 先日も、浜松市内で弁当店を経営している、F氏がこう言った。 
「不景気ですね」と。 
会うたびに、そう言う。 

 こういう小さな町に来てみると、それが痛いほど、よくわかる、 
不景気なら不景気でよい。 
が、日本は、20年前を境に、それ以前の日本へと後退している。 
このままでは、戦後直後の日本に逆戻りしてしまう。 

 この宿にしても、40年前の下宿屋にそっくり。 
私は毎日、毎晩、ただひたすら勉強したのは、勉強が好きだったからではない。 
勉強以外にすることがなかった。 
遊ぶ、お金もなかった。 

●「団塊の世代は敵」 

 若い人たちから見れば、日本の繁栄を食いつぶしたのは、私たち団塊の世代ということにな
る。 
2チャンネルの投稿を読んでいると、それがよくわかる。 
一方、団塊の世代は、(私を含めての話だが)、そうは思っていない。 
「この日本を支えてきたのは、私たち」という自負心が強い。 
ただひたすら、企業戦士となり、一社懸命でがんばってきた。 
家庭を犠牲にした人も多い。 

 この意識のズレを理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要があ
る。 

●飽食と贅沢(ぜいたく) 
  
現在の20代、30代の人たちが生まれたころは、日本経済はまさにバブル経済の真っ最中。 
子どもが生まれると、祖父母までやってきて、蝶よ、花よともてはやした。 
まさに飽食と贅沢。 
それが当たり前の世界だった。 
七五三の祝いに、ホテルや料亭を借り切って祝う家も、少なくなかった。 

 が、こうした育児観を批判する人もいるには、いた。 
私もその1人だった。 
当時、書いた原稿がどこかにあるはず。 
探してみる。 

2作、つづけて紹介する。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●「費用もかえって、安いのじゃないかしら?」 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

七五三の祝いを式場で? 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●費用は一人二万円 

 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。 
何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。 
見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女の子(6歳ぐらい)が、中央にすわり、
これまた結婚式場のように、列席者がその前に並んでいた。 

費用は一人二万円くらいだそうだ。 
レポーターが、やや皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その
母親はこう言った。 
「家でするより楽で、費用もかえって、安いのじゃないかしら」と。 

●ため息をついた私と女房 

 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。 
私たちは、結婚式すらしてない。 
と言うより、できなかった。 
貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだったが)、私が今の
女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、「香港へ行きた
い」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでおしまい。 

実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。 
反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。 

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけ
でも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも
流れてしまった。 
さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。 

●「何か、おかしいわ」 

 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。 
「何か、おかしいわ」と。 
つづけて私も言った。 
「おかしい」と。 
すると女房がまたこう言った。 
「私なら、あんな祝い、招待されても行かないわ」と。 
私もそれにうなずいた。 

いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなものだったかもしれない。 
しかしおかしいものは、おかしい。 

 子どもを愛するということ。 
子どもを大切の思うということ。 
そのことと、こうした祝いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからと
いって、子どもを愛したことにも、大切にしたことにはならない。 
しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。 

むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。 
「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢
心である。 
その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。 
こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。 

 さらに……。 
子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでなければ、結局は
その子ども自身が、……?  
この先は、私の伯母のことを書く。 

●中途半端な人生 

 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。 
自転車屋の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。 
店の窓ガラスさえ拭いたことがないという。 
そういう女性がどうこうというのではない。 
その人はその人だ。 
が、問題はなぜその女性がそうであったかということ。 
その理由の一つが、その女性が育った家庭環境ではないか。 

その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。 
農家の出身だが、子どものころ畑仕事はまったくしなかったという。 
そういう流れの中で、その女性はそういう女性になった。 

●虚栄の世界で 

 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。 
娘と息子がいたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊
を習わせた。 
金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。 
あとは一事が万事。 

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。 
たしかにその女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったの
かどうかということになると、それは疑わしい。 
結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、さりとて上流階級の奥様にもなれ
ず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。 

●子どもはスポイルされるだけ? 

 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。 
ダメになる。 
それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期待するほうが
おかしい。 
友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。 

 で、その女性にはつづきがある。 
その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。 
五月の節句になると、軒下に花飾りをつけた。 
そして近所に、甘酒を配ったりした。 
家計は火の車だったが、それでもそういうしきたりはやめなかった。 
友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」という苦情が届いたこともある。 

●子どもというのは皮肉なもの 

 子どもというのは不思議なものだ。 
お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。 
ドラ息子化する。 
親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。 

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。 
苦労がわかる子どもになるから、やさしくもなる。 
学習面でも伸びる。 
もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。 
その苦痛を乗りこえる忍耐力も、そこから生まれる。 
「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいことは言うまでもない。 


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi 

●ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん? 

子どもに与えるお金は、100倍せよ 

●年長から小学2、3年にできる金銭感覚 

 子どもの金銭感覚は、年長から小学2、3年にかけて完成する。 
この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。 
が、それだけではない。 
子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。 
これがこわい。 

●100倍論 

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、100倍にして考えるとよい。 
100円のものなら、100倍して、1万円。 
1000円のものなら、100倍して、10万円と。 
つまりこの時期、100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものを買ったときの満足
感と同じということ。 
そういう満足感になれた子どもは、やがて100円や1000円のものでは満足しなくなる。 
中学生になれば、1万円、10万円。さらに高校生や大学生になれば、10万円、100万円とな
る。 
あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与
えることは、やめたほうがよい。 

●やがてあなたの手に負えなくなる 

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。 
あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。 
しかしこれはまったくの誤解。 
あるいは実際には、逆効果。 

一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。 
子どもはさらに高価なものを求めるようになる。 
そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。 

 先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。 
何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、60歳前後の女性がゲームソフト
屋の前に並んでいるというのだ。 
しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。 
「かわいい孫のためです」と。 

その番組の中では、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子
ども(孫)は、こう言っていた。 

「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。 

●この話はどこかおかしい 

一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。 
つまり1人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲ
ーム屋の前に並んでいるというのだ。 
その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろう
が、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。 
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。 

苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。 
その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのでは
ないのか。 

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け 

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。 
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。 
少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思
い出」。 
この思い出が親子のきずなを太くする。 

●モノに固執する国民性 

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。 
アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素 
である。 
少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだっ
た。 
それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。 

日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそ
れが親子関係にそのまま反映される。 

 さてクリスマス。 
さて誕生日。 
あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだ
ろうか。 
ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。 

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 七五三 祝い ホテル 結婚式 子どもの金銭感覚 金銭教育 はやし浩司
 七五三の祝い 飽食と贅沢 自分を見失う子ども 子供 はやし浩司 釣り竿を買ってやるよ
り 寒空に並ぶ祖母) 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●神国日本 

 20代、30代の人たちの目から見れば、こうなる。 
「日本の繁栄を食いつぶしたのは、団塊の世代」と。 
少なくとも、私たち団塊の世代に感謝している若い人は、いない。 
それはちょうど、私たち団塊の世代が、戦時中、戦争に行った人に感謝していないのとよく似
ている。 
むしろ逆で、「どうしてあんなバカな戦争をしたのだ」と、非難する。 

 当時の人たちは、国策として洗脳※されていたとはいえ、「神国日本」のために、命をかけ
た。 
戦った。 

(注※……私たちは常に国家によって、洗脳されている。 
私にもこんな経験がある。 

 オーストラリアへ留学生として渡ったときのこと。 
オーストラリア人の学生がこう聞いた。 
「日本ではなぜ、軍事教育をしているのか?」と。 
そこで私が「していない!」と断言すると、こう言った。 

「日本の男子学生は、みな、陸軍服(学生服)を着ている。 
女子学生は、水兵服(セーラー服)を着ている。 
それに軍隊ももっているではないか」と。 

 そこで私が、「あれは軍隊ではない。セルフ・デフェンス・アーミィ(自己防衛隊)だ」と言うと、
みなが、ドッと笑った。 
「どこの国の軍隊が、自国を守らないということがあるか」と。 

 私は「自衛隊は軍隊ではない」と教えられていた。 
つまりそのように洗脳されていた。) 

●感謝 

 だから……というわけでもないが、現在の高校生や大学生は、親に感謝などしない。 
高校生で、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、ほぼゼロ。 
大学生でも、少ない。 
それもそのはず。 

 子どもたちは幼いころから、「勉強しろ」「勉強しろ」と尻を叩かれている。 
だからこう言う。 
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と。 

 私の3人の息子たちにしてもそうだ。 
ごく平均的な高校であり、大学生だったと思う。 
思うが、このかた、ただの一度も、私に感謝の念を伝えたことがない。 
親の私は、老後の貯蓄を切り崩して、学費を工面した。 
が、そんな親の気持ちや苦労など、どこ吹く風。 
私が新しいパソコンを買ったときも、息子の1人は、私にこう言った。 

「無駄づかい、するな!」と。 

 私が自分で働いて、自分で買ったパソコンである。 
それについても、そう言う。 

●意識 

 結局は意識の問題ということになる。 
その意識が、180度、ズレている。 

 が、私たちは私たちの意識を基盤にして、ものを考える。 
「私たちがこうだから……」と。 
つまり「子どもたちには、これだけのことをしてやったのだから、内心では感謝しているはず」
と。 
私のワイフも、ときどき、そう言う。 
が、残念ながら、私の息子というより、現在の若い世代の人たちには、そういう意識は、まった
くない。 

 意識というのは、そういうもの。 
シロか、クロか。 
それしかない。 
むしろ逆恨みされる。 
「この日本をダメにしたのは、パパたち、団塊の世代」と。 

それともあなたは、戦時中、戦争に行き、日本のために戦争をしたあの世代に、感謝している
とでも言うのだろうか。 

●グチ 

 悲観的なことを書いた。 
が、こうした町に泊まってみると、それがよくわかる。 
本来なら、今、マレーシアやインドネシアに立っている高層ビルが、この町にあってもおかしくな
い。 
が、それがない。 
どこにも、ない。 

 立派な建物といえば、どこかのゼネコンが請け負った公共施設だけ。 
本来なら……と書きたいが、この先は、グチになるだけ。 
書いても意味がない。 

 ただこういうことは言える。 

 一見、華々しく見える日本経済だが、現状を知りたかったら、こうした町の、こうした民宿に泊
まってみることだ。 
ここに今、日本の現状がある。 

●講演 

 鼻水は少し出るが、風邪の症状は収まったようだ。 
よかった! 
明日は、講演。 
が、私は妥協しない。 

 どんな小さな町の講演であっても、手を抜かない。 
真剣勝負。 
そう言えば、先ほど、携帯電話に、電話がかかってきた。 
N市の教育委員会の人からのものだった。 
来月、そこで講演をすることになっている。 

それについて、要するに、「ふつうの講演をしてほしい」ということらしい。 
先週、私は、こんな演題をつけた。 
「六諏輪廻の……闇路に迷う愚痴親父」と。 
それがまずかった? 

 「改めて、書き直します」と返事を書いた。 

●就寝 

 そろそろ眠くなってきた。 
ワイフは、すでに寝支度を整えている。 
私も、先ほど、歯を磨いた。 

 ……長く通った歯科医院が、閉鎖され、すでに1年以上になる。 
今度から、K歯科医院に通うつもりでいる。 
私の教え子が、その医院で、歯科医師をしている。 
楽しみなような、恐いような。 
「あのときの恨み、今、はらす……」と、グサリとやられるかもしれない。 

 ……学生時代を久々に思い出した。 
あのころもこうして徹夜でパソコンを叩いていた……というのは、ウソ。 
当時はまだ、パソコンはなかった。 
工学部に、電子計算機というのは、あった。 
教室1部屋を占めるほど大型のもので、窓の外からのぞくと、紙テープがバラバラと音をたて
て飛び出していた。 
それを見て、私は、こう思った。 
「なんだ、こんなものか!」と。 

 それから40年。 
今、ここでこうして使っているパソコンのほうが、当時の電子計算機より、性能は、はるかによ
い。 
それを考えると、不思議な感覚に襲われる。 

(おやすみなさい。はやし浩司 2012−01−25) 

●1月26日(木曜日) 

 朝は、5時に目を覚ました。 
エアコンの、乾燥した風を感じ、目が覚めた。 
のどがカラカラだった。 

 ……ニュースサイトをのぞくと、長野市で、積雪151センチとあった。 
151センチ! 
その量に驚く。 
道理で、昨夜は、寒かった。 

●円高vs貿易赤字 

 もうひとつのニュースは、日本の貿易収支が、昨年(2011年)赤字になったこと。 
「円高不況」とは言われるが、もし今「円安」だったら、貿易赤字は、さらに膨らんでいたはず。 

どうであるにせよ、2012年の日本は、たいへん暗い。 
今は、EUの金融危機問題で関心が、EUに移っている。 
が、皮肉なことにEU問題が片づけば、つぎは日本? 
あるいは中国? 
あるいはアメリカ? 

 このところ韓国のウォンが急上昇している。 
(今日現在、1ドル=112円台。先月は、117〜116円前後。) 
韓国がターゲットにされている可能性も、きわめて高い。 

●教育 

 教育というのは、今、組み立てても、その成果が表れるのは、20〜30年後。 
言い換えると、教育は、常に20〜30年後を見据えてする。 
そのよい例が、シンガポール。 
シンガポールは、「Look East(日本を見習え)」と、20〜30年前に、その準備をした。 
こんな例がある。 

 私がいたオーストラリアのIHカレッジ(メルボルン大学)には、世界中から留学生が集まって
いた。 
が、それぞれの国の留学生は、それぞれの国の国情をそのまま反映していた。 
独裁国家からの留学生は、王子や皇太子など。 
フィリッピンなどの軍事国家の留学生は、軍人。 
そしてシンガポールからも留学生が来ていたが、彼は「教師」だった。 
名前を、チュー・チー・サンと言った。 

 日本から行った私は、三井物産という会社の内定を延期してもらい、オーストラリアに渡っ
た。 
日本は当時、経済立国をめざしていた。 
当時の私は、「なぜ、教師が?」と思ったが、今にしてみると、シンガポールは、教育に全精力
を注いでいた。 

 これからの日本を支えるには、「教育」しかない。 
が、その教育は、……? 
少なくとも今、日本がしている程度の教育なら、世界中、どこでもしている。 
英語の国際検定試験では、ビリから数えたほうが早いほど。 
こんな状態で、日本は2050年を乗り切ることができるだろうか。 

 つまり今の日本に必要なのは、教育の大改革。 
自由化。 
基本的な主要科目は、学校で教える。 
それ以外は民間に委託し、自由競争に任せる。 
たとえば英語教育などといった科目は、民間に任す。 
月謝は、バウチャー券方式で補助すればよい。 

 高校、大学の単位の共通化は、常識。 
フリースクールも、これまた、常識。 
今のように、学校以外に道はなく、学校を離れて道はない。 
そんな制度のほうが、遅れている。 
おかしい。 
その(おかしさ)に、みなが気づく。 

 が、同時に、職業格差、給与格差、官民格差を是正する。 
これが残るかぎり、受験競争はなくならない。 
学外教育といえば、受験教育。 
そうなってしまう。 

 要するに、子どもたちのもつ多様性に合わせて、無数のコースを用意する。 
その選択は、子ども自身に任す。 
なぜ今、この日本で、「武士道」なのか? 
「論語教育」なのか? 
方向性がまちがっているというより、バカげている。 

●豆腐系人間 

 とは書きつつも、このところ私も自信を失いつつある。 
子どもたちの世界でも、たくましい子どもほど、嫌われている。 
自己主張のはげしい子どもほど、嫌われている。 
「できの悪い子」と。 

 そのかわり生まれてきたのが、草食系ならぬ、豆腐系人間。 
おとなしく、ハキがなく、ナヨナヨしている。 
男子なのに、ピンクの花柄パンツをはき、耳や鼻には、金物をぶらさげている(高校生)。 
「日本は……?」と問いかけただけで、「ダサイ!」と言って、はねのけてしまう。 
(そういう若者にしたのは、時の文部省だぞ!) 
こんな日本に、未来はあるのか? 

 では、どうするか? 

 たくましい子どもを育てるためには、たくましい教師がいなければならない。 
たくましい教師を育てなければならない。 
が、現状は、……? 
「年功序列」という言葉がある。 
学校教育は、完ぺきに近いほど、その年功序列型社会。 
その年功序列型社会をまず崩す。 
30代、40代の校長が出現する。 
20代でもよい。 
そうなったとき、日本の教育は変わる。 
また変えなければならない。 

●私たちの責任 

 かなり頭が熱くなってきた。 
こういう話になると、どうしても頭が熱くなってしまう。 
が、これだけは言える。 

 それぞれの人は、それぞれの立場で、がんばっている。 
それは認める。 
が、同時に、天下国家を論じてこそ、その先に日本の未来が見えてくる。 
2050年には、少子化がさらに進み、高齢者がさらにふえる。 
(65歳までのおとな):(65歳以上の高齢者)の比率が、1・2:1になる。 

 腰の曲がったような高齢者が、100万円(3か月ごと)の札束を手づかみにして郵便局を出
る。 
その一方で、子どもをもつ親には、数万円(月額)の補助もない。 
学費にしても、基本的には、全額、親の負担。 
企業によっては、私製の奨学金制度を始めたところもある(スズキ自動車ほか)。 
しかし欧米と比べたら、超貧弱。 

 私も今、20代なら、子どもは作らない。 
生まれてくる子どもが、かわいそう! 
若い人たちにしても、そうだ。 
明けても暮れても、やっていることと言えば、恋愛ごっこ。 

 つまりこういう国にしてしまったのも、私たちの責任。 
天下国家を論じなくなった、私たちの責任。 
が、その私たちに向かって、若い人たちは、こう言う。 
「ゴミ」と。 

●亡国の兆候 

 しかし……。 
「ゴミだ」「ゴミだ」と言われると、ふとこう思う。 
「どうでもなれ!」と。 
「そんな偉そうなことを言うなら、自分で国を作ってみろ」と。 

言い換えると、この日本も、落ちるところまで落ちるしかない。 
一度、食うに困るところまで、落ちるしかない。 
またそこまで落ちないと、自分で気がつかない。 

 ……こういうのをニヒリズムという。 
そのニヒリズムが、私の心の中にも、芽生え始めている。 
まさに亡国の兆候。 
が、これではいけない! 
「どうでもなれ」と手を引いてしまったら、今までの努力は、いったい何だったのかということにな
ってしまう。 
が、それこそ、まさに敗北。 

……ということで、今日も、講演で、がんばる。 
自分の思いを、今の若い親たちに伝える。 
はかない抵抗かもしれないが、やるしかない。 

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 亡国の兆候) 


**********1月28日************  ※

 


HSaturday, January 28, 2012
*Why is "Sea of Japan" "East Sea (Tonghae)"? 
To the people of USA:(アメリカの人たちへ)

*Exaggerated nationalism of South Koreans(韓国人の過激な民族主義)
Why is Sea of Japan (Japan Sea) "East Sea? (どうして日本海が、「東海」なのか?)


●韓国の人たちよ、どうして「日本海」では、いけないのか?

 私の意見に賛成の人は、下記(A)〜(B)までを、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほし
い。
訳文は、この原稿の終わりにつけておく。

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) "East Sea"?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike "Japan" and now they have been 
trying to alter the name of "Sea of Japan (Japan Sea)" into "Tonghae" or "East Sea".
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason 
why they insist so.


But if so, there would be hundreds of "East Sea" in the world, since each country has "East
".
In Japan we have a well-known proverb, saying, "If you dislike a priest, you hate his robe too
".


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: "The exaggerated nationalism 
is very dangerous".
Sea of Japan (Japan Sea) has been "Sea of Japan (Japan Sea)" for more than 120 years 
and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to 
Japan in 1853, Sea of Japan is "Japan Sea".

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) "Gulf of Mexico"?
Why doesn't USA try to alter the name into "South Gulf"?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don't have to listen to South Korea's meaningless opinion.


In the website of "Sea of Japan, No East sea" someone writes as follows:


"Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got 
brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese 
character and documents. 
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having 
hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism."


I agree to this opinion.

Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan 


(B)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ】

●私たちも声をあげよう!


韓国の東亜日報は、つぎのような記事をかかげている。
「『東海・日本海』併記について、バージニア州上院は、1票差で否決した※」(2012年01月2
8日)と。
つまり「いろいろ働きかけてはみたが、教科書に、『東海・日本海』と併記させることについて、
バージニア州では、失敗した」と。

韓国はノ大統領の時代から、世界各国に専門の特使まで派遣し、「日本海」を「東海(トンヘ)」
に改名する運動を重ねている。
「日本海」という呼称が、どうにもこうにも気に入らないらしい。
その気持ちはよくわかる。
が、どうして日本海が「東海」なのか?
 
韓国から見れば、確かに「東の海」。
が、日本から見れば、「北西の海」。
ロシアから見れば、「東南の海」。
これほどまでに自己中心性丸出しの呼び方は、そうはない。
もし世界中の国々が、自分の国を中心に、東西南北の海の名前を決めたら、それこそ「東海」
という名前は、国の数だけ生まれることになる。

そこで韓国はバランスをとるため、黄海を、独自に、「西海」と呼んでいる。
が、こちらのほうは、目立った運動は、まったくしていない。
つまり「おまけ」。
韓国は、要するに、「日本」という文字がよほど気に入らないらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「日本海」問題

 日本海の呼称問題については、たびたび書いてきた。
ここでは、もう一歩、さらに話の内容を進めてみたい。
その第一。

 日本人は、あまりにも、おとなし過ぎる!

 どうして日本はもっと積極的に発言し、行動しないのか。
韓国が特使を派遣したら、日本も派遣すればよい。
韓国が騒いだら、日本も同じだけ、騒げばよい。

 昨年(2011年5月)書いた原稿を、もう一度掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「東海(トンヘ)」問題 (?? vs. ???)

 『坊主憎ければ……』とかいうが、韓国は、「日本海」という名称が、よほど、気に入ら
ないらしい。

 で、韓国政府は、全世界の各国に「特使」まで送って、「日本海」を「東海」へ変更しよ
うと努力している。
(「特使」だぞ! わかるか!)

が、どうして「東海」なのか。
これほどまでに自己中心的な発想はない。
もしロシアが、「太平洋を『東方洋』にせよ」と主張したら、世界はロシアをどう思うだろ
うか。

 ついでに韓国は、黄海を、「西海」にしようとしている。
そうでも言わないと、バランス(=整合性)が取れないからだ。
が、無理は無理。
韓国政府も、やっとそれに気づき始めた。

 中央日報(韓国)は、つぎのように伝える。

『韓国政府は国際社会の東海(トンヘ、日本名・日本海)表記と関連し、「東海」と「日
本海」を併記すべきだという意見を国際水路機関(IHO)に提出したと、政府当局者が
1日明らかにした。 

当局者は「IHO側が2日までに東海表記に関する公式意見を伝えてほしいと要求してき
た」とし、「東海単独表記主張は成功する可能性がないと判断した」と説明した』(5月4
日)と。

 繰り返すが、どこの国に対して、「東」なのか?
日本にとっては、日本海は、「北海」。
あるいは、「北西海」。
もしこんなメチャメチャな改名が許されるとしたら、それこそ世界は、大混乱。
「東海」だけでも、世界中に、何千も生まれる。

 ついでに……

対馬海峡→(韓国の)南海
東シナ海→(台湾の)北海
台湾海峡→中国海峡
南シナ海→北フィリッピン海
フィリッピン海→グアム海、などなどとしたら、どうか?

そのうちベンガル湾も、インドの東にあるということで、「東海」になるかもしれない。
アラビア海は、パキスタンの南にあるから、「南海」になるかもしれない。

 特使まで送って改名させようとしているところが、すごい。
……というか、バカげている。

 原稿をさがしてみたら、2007年の5月に、同じ原稿を書いているのがわかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●またまた「東海(トンヘ)」?(2007年5月記)

Why should the Japan Sea (Sea of Japan) be the Eastern Sea?
The Japan Sea (Sea of Japan) is situated to the east of Korea, 
but is situated to the north to Japan.

++++++++++++++++++

韓国にとっては、東海(トンヘ)かも
しれないが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。

どうして韓国は、こうまで「東海」に
こだわるのか?

++++++++++++++++++

 『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺(ことわざ)を、地で行くような事例が、これ。
今も、つづいている。
韓国は、数年前から世界各国に特使まで送り、「日本海」を、「東海(トンヘ)」に改称しようと運
動を重ねている。

 韓国にとっては、たしかに「東海」だが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。
韓国は、よほど、「日本」という名前が嫌いらしい。
「日本海」ではなく、「日本」という名称が嫌いらしい。

 しかし日本の周辺を見ただけでも、その地域や固有の名前がついた海というのは、いくらで
もある。

 北から、東シベリア海、ベーリング海、オホーツク海、東シナ海、台湾海峡、フィリッピン海、
南シナ海などなど。

 しかし「東海」などという、自己中心性丸出しの名前は、どこにもない。
英語で言えば、「the Eastern Sea(東海)」。
「トンヘの意味は?」と聞かれたら、韓国の人たちは、何と答えるのか。

 こんな改名がまかり通るなら、まず日本とフィリッピンの間にある「フィリッピン海」を、「南海」
としたらどうか。
が、韓国にとっては、それはおもしろくないらしい。
こんな記事が、今朝の朝鮮N報に載っていた。

 『5月7日からモナコで開かれる、国際水路機構(IHO)総会に参加する、加盟国78カ国のう
ち、大多数が「日本海」の単独表記を支持していることが判明し、韓国政府に緊張が走ってい
る。

 韓国政府当局者は30日、IHO総会に関するブリーフィングを開き、「現在の状況では大多数
のIHO加盟国が日本海単独表記を支持しているが、どのような状況であれ、日本海が単独表
記されることを絶対に容認することはできないというの、われわれの基本的な立場」と述べた』
(07年5月1日)と。

 どうして容認することができないのか? 
韓国側は、その理由も述べたらよい。と、同時に、どうして日本海ではいけないのか。
その理由も述べたらよい。
さらに、どうして「東海」なのか、その理由も述べたらよい。

 仮に「東海」ということになれば、今度は、日本が猛反対するだろう。
「どうして東海なのか」と。

 さすがの韓国政府も、自分たちの愚かさに気づいたのだろう。
今度は、「平和の海」という代案を出してきた。
「平和」という名前は、K国が好んで使う名称でもある。今の今も、あの38度線をはさんで、韓
国側にある村を、「自由の村」と呼び、K国側にある村を、「平和の村」と呼んでいる。

 が、その「平和の海」論も、どこかへ消えた。
そこで再び、「東海」。
「併記問題」。
今度は、「日本海と東海を併記せよ」と。

 こうした韓国側の動きを見ていると、反日運動の原点を見ているようで、興味深い。
つまり韓国にとってみれば、日本の存在そのものが、おもしろくないのだ。
理由など、ない。
まさに感情論。
彼らが主張するところの歴史認識問題にしても、そのうちの何割か以上は、その感情論と考え
てよい。

 しかし一言。
韓国政府も、いちいちそんな(名称)の問題にこだわらないで、もっと大きな問題に取り組んで
みたらどうか? 
たとえば国連への分担金を一人前にふやすとか、そういうことを考えてみたらどうか? あるい
は政府開発援助金を、人口比に応じて、せめて日本の3分の1くらいにまで、ふやすとか…
…。

 そういうことはまったくせず、主張することだけは、一人前。
あるいはそれ以上!

 どちらにせよ、「東海」などという呼称そのものが、私たち日本人にとっては、言語道断。
どうして日本の北にある日本海が、東海なのか。
日本としては、絶対に容認できない呼称である。

ちなみに国際水路機構(IHO)総会では、大多数が、「日本海」の単独表記を支持しているとい
う。
当然のことである。

(付記)今まで、直接的な批判を避け、あえて東海を「西海」などとまぶして、批判記事を書いて
きましたが、今日から、正面から、「東海」とすることにしました。

(以上、2007年5月に書いた原稿より)

●グーグル翻訳でも……

 グーグル翻訳サービスを使って、「日本海」を韓国語に翻訳すると、韓国語で「東海」と翻訳さ
れる。
韓国政府は、すでにグーグルにまで、こうした手を伸ばしている。
日本よ、油断するな!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 韓国 東海(トンヘ) 日本海名称問題 日本海と東海 韓国の反日感
情 反日運動 はやし浩司 日本海 東海呼称問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人よ、もっと声をあげよう!

 日本人よ、もっと声をあげよう。
方法は、簡単。
もしみなさんがBLOG(Twitter)を書いているなら、以下の文面をコピーし、あなたのBLOGに
貼りつけてほしい。

 ネットの世界では、同じ意見でも、数が多ければ多いほど、検索時に上位に表示される。
アメリカをはじめ、世界の人たちの目に留まる。
それが重要。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A~Bまでの訳文)

●どうして日本海が、「東海」なのか?

 私たち日本人は、韓国人(朝鮮人)が、日本を嫌っていることを知っている。
そして今、日本海という名前を、「トンヘ」つまり、「東海」と改名しようとしていることを知ってい
る。
日本海は、朝鮮半島の東側に位置する。
それが彼らの主張の根拠になっている。

が、もしそうなら、世界中に、何百という「東海」が生まれるだろう。
というのも、それぞれの国に、「東」があるからである。

日本には、『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺がある。
あのA・アインシュタインは、田丸謙二先生への手紙の中で、こう書いている。
「過激な民族主義は危険である」と。

「日本海」という名前は、100年以上も、世界の常識として使われている。
1853年に日本に来航した、マシュー・ペリー提督が使った地図でも、日本海は「日本海」にな
っている。
でないというのなら、どうしてメキシコ湾が「メキシコ湾」なのか。
アメリカは、どうしてメキシコ湾を、「南湾」と改名しようとしないのか。
なぜなら、この種のナショナリズムが、馬鹿げていることを知っているからである。

どうか韓国の、馬鹿げた意見に耳を貸さないでほしい。

『日本海であって、東海ではない』(Sea of Japan, No East Sea)サイトの中には、次のような意
見が載っている。

『……アメリカ人は韓国政府および韓国の国粋主義者たちは、漢字や漢字で書かれた書類を
読めない子どもやマスメディアの世界において、洗脳プロパガンダ(=政治的情宣活動)を繰り
広げている。

これらの攻撃的なプロパガンダは、無邪気な子どもたちをたきつけ、日本や日本人に対する
敵意を煽(あお)り立てている。
私はこれらの愚かな、構造的暴力、さらには拡張主義、つまり新しいタイプのファシズムに、抗
議する』(以上、同サイトより)と。

私は、この意見に同意する。

浜松市 はやし浩司


++++++++以下、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) "East Sea"?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike "Japan" and now they have been 
trying to alter the name of "Sea of Japan (Japan Sea)" into "Tonghae" or "East Sea".
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason 
why they insist so.


But if so, there would be hundreds of "East Sea" in the world, since each country has "East
".
In Japan we have a well-known proverb, saying, "If you dislike a priest, you hate his robe too
".


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: "The exaggerated nationalism 
is very dangerous".
Sea of Japan (Japan Sea) has been "Sea of Japan (Japan Sea)" for more than 120 years 
and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to 
Japan in 1853, Sea of Japan is "Japan Sea".

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) "Gulf of Mexico"?
Why doesn't USA try to alter the name into "South Gulf"?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don't have to listen to South Korea's meaningless opinion.


In the website of "Sea of Japan, No East sea", someone writes as follows:


"Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got 
brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese 
character and documents. 
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having 
hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism."
I agree to this opinion.


Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan 


(B)

++++以上 (A)~(B)をコピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

●「教科書」

 ついでに一言。

 東亜日報紙は、この記事※の中で、「教科書」という言葉に、こだわっているのがわかる。
が、アメリカの学校には、「教科書」と呼ばれる教科書は、ない。
「テキスト」はある。
が、教科書はない。
民間の出版社が発刊する、テキストである。
それぞれの学校が、自由に、それぞれのテキストを使っている。

そもそも、日本のような検定制度そのものが、アメリカには、ない。
だから、州議会に働きかけても、意味がない。
州議会で仮に併記を議決したとしても、法的拘束力はない。
それを知ってか知らずか、「教科書」という言葉を使っているところが、恐ろしい。

日本政府は、教科書について、検定済み教科書であって、国定教科書ではないと主張してい
る。
が、これはウソ。
「検定」も「国定」も、英語に翻訳すれば、同じ。

なおついでながら、オーストラリアにも検定制度はある。
民間団体が、自主的にそれを行っている。
行っているが、検定するのは、暴力と性描写のみ。
むしろ逆で、州政府は、「政治的な表現については、検定してはならない」と、釘をさしている
(南オーストラリア州)。
小学低学年時には、テキストすら使っていないところもある。

 繰り返す。
アメリカには検定制度そのものがない。
ないから、「教科書」という言い方そのものが、適切ではない。
「テキスト」は「テキスト」。
どうか誤解のないように!

 日本も、教科書制度を廃止したらよい。
戦時中の日本ならいざ知らず、2012年の今、国定教科書とは!
今どき「教科書」を使い、国民の思想統一しているのは、そこらの独裁国家くらいなもの。
日本よ、日本人よ、いいかげんに、目を覚ませ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……東亜日報紙の記事・全文)

『米教科書の「東海・日本海」併記、バージニア州上院1票差で否決
米バージニア州議会で推進された「東海(トンヘ)と日本海の教科書併記法案(SB200)」(東
海併記法案)が否決された。 
15人で構成された州議会上院の教育保健委員会は26日、全体会議を開き、東海併記法案
に対する採決を実施し、賛成7票、反対8票で否決した。
同日の採決では、賛成7票と反対7票で拮抗したが、キャスティングボートを握るスティーブン・
マーティン委員長(共和)が反対票を投じ、否決された。 

デヴィッド・マースデン議員(民主)が11日に提出した同法案は、バージニア州内の公立学校
で使用される1年生から12年生用の教科書に東海と日本海を併記することを義務づける内容
を含んでおり、16日に教育委小委員会を通過した。 

小委員会を通過した時は、全体会議の通過が有力視されたが、共和党議員を中心に親日ム
ードが生まれ、否決されたという』(以上「東亜日報」より)と。

なお日本のMSN・産経ニュースは、つぎのように伝えている。

『……米ワシントン近郊のバージニア州議会で、州内の公立学校の教科書に日本海を「東海」
と併記することを求める州法案の採決が行われ、1票差で否決されたことが分かった。

歴史的事実を知らない地方議員が韓国系団体のロビー活動を受けて法案を提出していた。

米国では最近、韓国系米国人らが日本の教科書の使用中止を求める動きもあり、日本政府
は官民を挙げた対策が求められている』(MSNニュース・2012年1月29日)と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 東海 日本海 呼称問題 行き過ぎたナショナリズム 過激な民族主義 韓
国のはやし浩司 東海呼称問題 Tong Hae Tonghae 東海 はやし浩司 Eggerrated 
Nationalism of South Korea 韓国のファシズム はやし浩司 民族主義 はやし浩司 メキシコ
湾を南海に ペリー提督の地図)
はやし浩司 2012−01−29朝記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司



(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 シャッター通り 思考回路 はや
し浩司 長浜 硬直した思考回路 はやし浩司 シャッター街)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●意識のズレ 

●3月19日、山荘に一泊

 昨夜遅く、山荘にやってきた。
途中、コンビニで、いくつかのものを買った。
せんべい、チューハイ、それにチョコレート。

 山荘に着くと、すでに春の匂い。
たとえ雑草でも、若葉には、若葉の匂いがある。
そう言えば、10日ほど前、ウグイスの初鳴きを聞いた。
が、今朝は、それがない。
どうしたのだろう? ……と思いながら、この文章を書いている。

 時は、2012年3月19日、月曜日。

 今週は、大きな目標(?)がある。
小学1〜2年生たちに、「速度と時速」を教えてみる。
私にとっても、はじめての試み。
そのための教材を午前中に、用意する。
(実際、その教材を使うのは、今週の木曜日からだが……。)

 先週、小学6年生の子どもが、速度の計算で悩んでいた。
いろいろ説明してみたが、最後まで納得できなかったよう。
それで今週は、「速度と時速」を教えてみたくなった。

 こんな問題だった。

【問】
 山に登りました。
頂上までの距離は、12キロ。
行きは、時速4キロ、帰りは、時速6キロで歩きました。
平均時速を求めなさい。

 その子どもは、「(平均時速は)5キロ」と答えた。
何度説明しても、「5キロ」と。
そう言い張った。
で、紙に山の絵を描き、「あのね、まずね、往復の時間を求めてからね……」と。
が、それでも納得できなかったよう。

 そこで今週は、「速度と時速」。
小学1〜2年生のころ、その「種」をまいておく。
その種は、やがて子どもの脳の中で、芽を出し、成長する。
学校で、速度や時速について学ぶころには、大きく成長しているはず。
これを称して、「種まき教育」(はやし浩司)という。

 大切なことは、子どもを楽しませること。
この先、いろいろな場面で、「速度」とか「時速」とかいう言葉を耳にする。
そのとき子どもがそういった言葉に、前向きに反応するようにすること。
そのために「楽しい」という印象づくりを大切にする。
それが大切。

 なお誤解があるといけないので、一言。

 私のところでは、算数だけを教えているわけではない。
小学2〜3年生になると、国語も教える。
レッスンの前の、10〜15分程度を、その時間にあてている。
……といっても、国語については、筆写と作文。
この2つ。

 筆写させる文章は、古文から現代文まで。
明治以後の文豪の書いた文章が多い。
が、そういった指導は、YOUTUBEで紹介しても、あまり意味はない。
どうか、誤解のないように。

【答え】

 先の平均時速の問題について、正解は、4・8キロ。
往復5時間(行きは3時間、帰りは2時間)で、24キロを歩いたことになる。
だから24÷5=4・8(キロ)。

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【意識のズレ】(意識の錯視)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

錯視という言葉がある。
昔は「目の錯覚」と呼んだ。
同じ図形でも、見方によって、魔女にも見えたり、少女に見えたりする。
あるいは中央に、花瓶がある。
が、見方を変えると、両側に女性の顔が現れる。
こういうのを錯視と呼ぶが、「色」についてのも、よく知られている。
同じ色でも、周囲を明るい色に取り囲まれると、暗く見える。
周囲を暗い色に取り囲まれると、明るく見える。
人間のもつ「意識」についても、この錯視がよく起こる。
見方によって、180度、違う。
あるいは同じ意識でも、社会的環境の中で、まったく違った「色」に見える。
そういうことは、よくある。
意識に基準もなければ、標準もない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●KS君

 私が「意識ズレ」を実感したのは、そのときだった。
中学2年生になったKS君という男子がいた。
市内のS小学校に通っていた。
小中一貫校として知られ、進学校としても有名だった。
が、うち3分の2の生徒は、小学校からのもちあがりの生徒だった。
残りの3分の1は、中学進学時に、各小学校から入学してきた、選り抜きの生徒だった。

 KS君は、今でいうLD児だった。
文章の読解力が、極端に劣っていた。
実際には、長文の文章を読むことができなかった。
そのため、国語はもちろん、社会、理科も、苦手だった。
……という回りくどい言い方はやめよう。
学校でも評判の、できの悪い生徒だった。
S小学校という学校だったからこそ、余計に目立った。
1、2年、学年が上の児童も、下の児童も、「KS君」という名前を出しただけで、笑った。

●「後悔していないか?」

 ふつう学力が極端に劣っている生徒のばあい、中学進学時に、ほかの普通校に転校してい
く。
が、強制力はない。
KS君は、そのままS中学校に残った。

 ただ数学だけは、得意だった。
それがKS君の取り柄になっていた。
が、ある日、私はKS君にこう聞いた。
仲間にも、何かにつけ、バカにされていた。
「なあ、KS君、君はS小学校に入学したことを後悔していないか?」と。

 私はKS君が、そういう進学校で、最下位の成績ということを心配し、そう言った。
が、KS君の答は、意外なものだった。
K「ううん、後悔してないよ」
私「じゃあ、学校は楽しいか?」
K「楽しいよ」
私「だって、勉強が苦手だろ?」
K「勉強は苦手だけど、放課後は楽しいよ」と。

 「後悔しているだろう」と思い、心配していた私。
が、KS君は、「楽しい」と。
みなにバカにされながらも、KS君は、自分の世界をちゃんと守っていた。
クラスでも人気者だった。

●親子の意識

 こうした意識のズレは、そのつど経験する。
こんなこともあった。

 高校3年生になったA君が、こう言った。
「親父のヤツ、地元の大学へ入れと言ってうるさい。チクショー!」と。
その言葉に、はげしい憎悪の念を感じた。
理由を聞くと、「親父は、自分の老後のめんどうを、オレにみさせようとしている」と。

 で、しばらくして、私はA君の父親と話す機会があった。
私は大学進学の話をした。
父親はこう言った。
「うちは、経済的に余裕がないから、息子には、できれば家から大学へ通ってほしいのです」
と。

 で、再びA君との会話。
私「お父さんも、今、たいへんなんだから、自宅から通える大学にしたら?」
A「うそだよ。親は子どもの将来のためなら、借金でも何でもして、子どもを大学へ送るべきだ
よ」
私「若い人はそう考えるけどね」
A「子どもは親より、幸福になる権利がある。ぼくが親になったら、そうする」
私「自分で子育てをしてみると、思い通りにはいかないものだよ」
A「親父はね、自分の老後を心配しているんだよ。ぼくを利用しようとしているんだよ」と。

 親子の間でも、意識が大きくズレることがある。
そのズレは、時代や世代にまたがることもある。

●嫌われる団塊の世代

 最近、こんな意識のズレを経験した。
2チャンネルを読んでいたときのこと。
若い人たちが、団塊の世代を、「敵」と呼んでいるのを知った。
(「敵」と書いて、「カタキ」と読むらしい。)

 これには驚いた。
そこでその前後の記事に、目を通した。
で、わかったことは、「日本の繁栄をつぶしたのは、団塊の世代」と。
さらに「これからの高齢者世代は、ゴミ」とも。
みなが、そう考えているのがわかった。

 とくに強く意識しているわけではないが、私たち団塊の世代には、団塊の世代なりの、自負心
がある。
「日本をここまで繁栄させたのは、私たち」と。
が、20代、30代の若い人たちは、私たちの世代に対し、正反対の意識をもっている。

●戦中派vs戦後派

 もっとも世代にまたがる意識のズレは、いつの時代にもある。
たとえば戦中派と戦後派。

 戦中派の人たちは、「日本を命がけで守ったのはオレたち」という意識が強い。
一方、戦後派は、「日本を焼け野原にしたのは、戦中派」という意識が強い。
「おかしな戦争をするから、日本はいまだに苦労しているのだ」と。

 そう、いまだにこの日本は、中国や韓国など、近隣諸国から、ああでもない、こうでもないと文
句ばかり言われている。
そのたびに、私たち団塊の世代の多くは、「あの戦争はまちがっていた」と言う。
「日本が焼け野原になったのは、戦中派の人間のせい」と。

 しかしそう思う私たちと、私たち団塊の世代を「敵」と思う若い人たち。
どこがどうちがうというのか。
 
●親のめんどう

 が、意識のズレをもっとも強く感ずるのは、「親のめんどう」の話になったときのこと。
私たちの世代は、親のめんどうをみるのは、子どもの役目と考える。
「家族」というときは、そこにはかならず、祖父母がいた。
「当然」というより、そんなことは、常識。
疑うこともなかった。

 が、今は、ちがう。
悪しき欧米文化の影響というか、「家族」から祖父母が除外されてしまった。
若い人たちが「家族」というときは、自分と配偶者、それに自分の子どもたちだけの世界をい
う。
もとから「親(祖父母)のめんどうをみる」という意識、そのものがない。
ないことは、先日紹介した、千葉市に住む、EH氏からのメールでも、わかる。
EH氏はこう書いている。

 「(自分の)めんどうをみてほしかったら、息子(娘)に、頼めばよい」と。
さらにこうもあった。
「親のめんどうで、息子や娘をしばるのは、それこそ家族崩壊」と。

 意識も、ここまでズレてくると、私はもう何も言うことはない。
まだ子育てが始まったばかりで、しかも親の介護もしたことがない若い父親が、ここまで言う。
私は「異常」と思うが、それが最近の若い世代の常識ということになる。

●意識論

 意識というのは、そういうもの。
それぞれが、それぞれの意識をもっている。
「常識」と置き換えてもよい。
で、それぞれの人が、それぞれの常識をもって、自分の意見を組み立てる。

 同じ形なのだが、見る人の視点によって、180度ちがう。
意識そのものが、だまされることもある。
まわりの色によって、濃淡が変わる。
「貧困」がよい例である。

 現代の人たちは、自動車を自由に乗り回している。
半世紀前には、車をもつこと自体、夢だった。
それでも「貧しい」と言う。
進学にしても、そうだ。
私の時代でも、半数が「就職組」。
高校へ進学できる中学生は、半数に過ぎなかった。
大学はもちろん、高校にしても、「行かせてくれ」と、親に頼んだ。
が、今、親に頼んで、高校や大学へ行かせてもらう中学生や高校生はいない。
もちろん感謝の「カ」の字もない。
親子の意識のズレとなると、もっと大きい。

 たとえば親が息子にこう言ったとする。
「(仕事がなくなったら)、地元へ帰って来い」と。

 親は、「何かにつけ、都会生活は、殺伐としていて、たいへんだろう」という思いをこめてそう
言う。
仕事がなくなれば、なおさら。

 が、息子氏のほうは、そうは思わない。
「老後のめんどうをみさせるために、オレを地元に戻そうとしている」と。
親のやさしさが、かえって子どもの反発を買うこともある。

●ついでに……

 ついでに、ことこの私について。
「息子たちに老後のめんどうをかけたくない」という思いは、人一倍、強い。
自分で、実兄や実母の介護で苦労した。
社会へ入ると同時に、以後、45歳まで、収入の半分は、実家へ送った。
金銭的負担感というよりは、社会的負担感に苦しんだ。
その苦労を知っている人ほど、「息子や娘たちには、同じ苦労を経験させたくない」と思う。

 が、今、息子たちにその話をすると、こう言い返される。
「パパは、ぼくたちにも同じことをしろと言っているのか。
ぼくは、自分の息子や娘に、そんなことはさせない!」と。

 親の世話も、介護もしたことがない、(させるつもりもないが)、息子たちがそう言う。

●意識

 意識というのは、10年単位で変わっていく。

 戦後派の人たちにとっては、「金権」が、最大のテーマだった。
「出世」という言葉も、もてはやされた。
「国のため」が、「会社のため」となり、企業戦士が生まれた。
「一社懸命」という言葉も生まれた。
ひもじさの戦いが、いつしか、金権教と結びついていった。
「金(マネー)こそ、すべて!」と。
が、私たちの世代にとっては、「反権力」が大きなテーマになっていた。
60年代安保闘争。
70年代安保闘争。

 しかしつづくつぎの世代には、それが「反世代」へと変化した。
尾崎豊が歌った、『♪卒業』などに、その例をみる。

 が、さらに最近は、恋愛至上主義。
欲望第一主義と置き換えてもよい。
欲望の追求こそが、善であり、目的である、と。
映画『タイタニック』のジャックとローズに、若い人たちは、「人間の理想」を見た。
悪しき欧米文化の影響である。

 その結果が今。
世代ごとに、意識が大きく変化した。
が、その意識も、よくよく観察すると、見方がちがうだけ。
そういうふうに感ずることも多い。

 原点に同じ(欲望)がある。
その(欲望)が、見方によって、ちがって見える。
あるいは周囲の環境によって、ちがって見える。
が、中身は同じ。
親を思う心。
子を思う心。
みな同じ。
しかし見方がちがう。
周囲の環境がちがう。
だからまったく、ちがって見える。
言い換えると、(欲望)にメスを入れないかぎり、(意識)の本質を知ることはない。

 ……とまあ、話が入り組んできたので、この話は、ここまで。
こういう理屈ぽい話は、みなに嫌われる。
別の機会に、もう少しかみくだいて書いてみたい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 意識 錯視 はやし浩司 意識のズレ)

Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【サンヒルズ三河湾にて1泊(2月1日)】

●2月1日(2012年)、愛知県三谷町のサンヒルズ三河湾に一泊しました。
 最高のホテルでした。
 招待してくださった、KUさん、ほかのみなさん、ありがとうございました。
 生涯で、最高のホテルでした。
http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 サンヒルズ三河湾 ホテル 蒲郡
 三谷町 サンヒルズ はやし浩司 2012−02−01)
iroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【サンヒルズ三河湾に一泊】(はやし浩司 2012−02−01)

http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

+++++++++++++++++++++++++

今日は、サンヒルズ三河湾に一泊。
今まで、数々の旅館やホテルに泊まってきた。
どこかに講演に招かれるたびに、その土地の旅館やホテルに泊まってきた。
私たちの趣味にもなっている。
が、その中でも、最高。
最高級ホテル(旅館)。
特別室。
202号室。
室内に露天風呂があり、三河湾を眼下に、右手には三谷町が一望できる。
沖縄では、ロワジールホテルに泊まった。
そのホテルが、今までに泊まった中では、最高と思っていた。
が、そのホテルを超えた。

(ロワジールホテルは、超近代的なホテル。
ここ、サンヒルズ三河湾は、設備などは、ロワジールホテルよりは、やや古いという感じ。)

ワイフは、何度も、「すごいわね」と、ため息を漏らした。
本当にすごい。
ロビーにしても、全面、大理石で、ピカピカに磨かれていた。
私の言葉を疑う人は、一度、宿泊してみたらよい。
場所は、三谷温泉・サンヒルズ三河湾。
とにかく、本気度、120%。
「ここまでやるか!」と思わせるようなホテル。
トイレのトイレットペーパーを覆う金属板まで、ピカピカに磨かれていた。
今度、オーストラリアの友人の娘さんが、結婚する。
ハネムーンに、日本へ来るという。
宿泊先として、私は、このホテルを推薦する。
とにかく、すばらしい!
お世辞抜きに、すばらしい!

+++++++++++++++++++++++

●本気度

 部屋は入る前から、暖房されていた。
風呂(露天風呂)も、適温に調整されていた。
一事が万事。

 先ほど、地下一階の大浴場をのぞいてみた。
場違いなほど、大きく、すばらしかった。
満足を通り越して、大感激。
こうした接客業は、本気度で決まる。
その本気度を肌で感じたとき、客は満足する。

●雪景色

 先ほどからワイフが、窓ガラスの前に立ち、眼下の三河湾を見下ろしている。
外はすっかり冬景色。
近くの大木が、風で大きく揺れている。
それを見ながら、「あら、雪が降ってきたわ」と。

 声につられ、私も、外を見た。
細かい雪が、風にのって、フワフワと横に流れていた。

●三谷町

 三谷町に入る手前で、ワイフとこんな会話をした。
「いろいろあったね」と、私。
「そうね」と、ワイフ。
私「ぼくはね、とにかくピンコロで逝(い)きたい」
ワ「私も、病気になってから、長生きしたくないわ」
私「そうだな。ぼくは限界の、そのまた限界まで働き、その翌朝、コロリと死にたい。仕事中でも
いい」
ワ「私も、そうだわ」と。

 そんな会話をしていると、ふと、目頭が熱くなった。

●模擬死体験

 「臨死体験」という言葉がある。
その臨死体験とは、ちがう。
「死」そのものを、模擬的に体験する。
「ああ、このまま死ぬのか」と。

 私もここ数年で、2回、それを経験した。
そのときのこと。
どのばあいも、私は、いつも穏やかで、安らいだ気分になった。
あれほど死を恐れていたはずなのに、その場になると、そうでない。
恐怖心はまったく、ない。
静かだった。
本当に静かだった。
一度は、こう思った。
「やっと死ねる」と。

 だから今はもう、死ぬことは怖くない。
今すぐ……とは考えていないが、そのときになったら、素直にそれを受け入れる。
その自信は、できた。
私は、ラッキーだった。
この年齢になるまで、無事、仕事ができた。
大きな病気も経験しなかった。
病院のベッドで寝たことは、一度もない。
お金に困ったこともない。
それだけでも、感謝。
感謝、感謝、感謝。

 たいしたことはできなかったが、今は、毎日が楽しい。
朝起きたときから、やりたいことが、どっと襲ってくる。
それができる。
思う存分、できる。
それを「幸福」と言わず、何と言う。
これ以上のぜいたくが、あるだろうか。

●バカ話

 こういうことを書いていると、誤解する人もいるかもしれない。

 基本的には、ワイフは、人前では別人のように静か。
しかし私とは、その別人とは別人のように、よくしゃべる。
うるさいほど、よくしゃべる。
内容は、いつも、バカ話。
いつも深刻な話をしているわけではない。
卑猥(ひわい)な話も多い。
話は前後するが、車の中で、こんな会話もした。

ワ「男は、『沈没』※というでしょ。じゃあ、女性は、何と言えばいいの?」
私「『閉幕』というのは、どうか?」
ワ「そんなもの、とっくの昔にないわよ」
私「……そうだなあ……。『落盤』というのは、どうかな? 
トンネルが、落石か何かで、詰まったとか……」
ワ「詰まることはないわよ」
私「そうだなあ……。じゃあ、やっぱり枯れススキ。枯れススキがいい」
ワ「……枯れススキ……ねえ……」と。

 ワイフの会話の特徴は、突然、いつも横ヤリが入ること。
真剣に(?)その話をしていると、突然、話題を変える。
「あら、あんなところに、ポリタンクがある!」と。

 昔、2人で、山荘を造成しているとき、そのポリタンクを探した。
が、探しているときというのは、どこにあるかわからない。
手に入れるのに、苦労した。
あちこちを探しまくった。
ワイフはそれを思い出したらしい。
私「探しているときは、なかなか見つからないのにね」
ワ「あんなところで売っているなんて……」と。

 豊橋へ入る国道1号線沿いの店で、そのポリタンクが、山のようにして売られていた。

(注※……男として、役に立たなくなることを、「チン没」という。

●三河湾

 鉛色の三河湾。
両側から半島が、左寄りに突き出ている。
薄い紺色。
それが幾重にも重なり、無数の横筋を作っている。
美しい。
気が遠くなるほど、美しい。
詩人なら、もう少しまともな表現ができるだろう。
が、私はただ一言。
 美しい!

●眼下の建物

 ワイフが眼下の建物を見ながら、こう言った。
「魚市場かなア?」と。
私は、ボートレース場ではないかと思っている。
駐車場のような幅の広い建物が見える。
その向こうは、観客席のようにも見える。
この蒲郡(がまごおり)市には、ボートレース場がある※。

 何だろう?
その右手には、先にも書いた三谷町の街並みが見える。
ひとつ、ひとつ、またひとつ。
小さな明かりが灯り始めた。

 ホテルの案内には、こうあった。
「露天風呂からは、三谷町の夜景が一望できます」(記憶)と。
夜を待たなくても、その夜景が目に浮かぶ。

(注※……眼下の明かりは、スーパーとパチンコ店、その向こうは、漁港だそうだ。
フロントの女性が、そう教えてくれた。)

●支えあう

 人はそれぞれ、たがいに支えあって生きている。
それを強く感じたのは、中日ショッパーという、宣伝紙で、だった。
今から、5、6年前のこと。
一度、広告を出したのがきっかけだった。
以後、ときどき無料で、私の教室を紹介してくれるようになった。

 お金の計算にはうるさい私だが、こと原稿に関しては、無私無欲。
損得を考えず、自分の原稿をすべて無料で、公開している。
それを編集部のT氏が応援してくれた。
うれしかった。

 個人の幼児教室は、すべて姿を消した。
(もう1か所、北部のK区にあると、聞いている。
個性的なよい教育をしているという評判を聞いたことがある。
先生も、やる気度120%とか。)

25年前には、10教室程度あった学習塾も、すべて閉鎖に追い込まれた。
そんな中で、おかげで……というか、中で、私の教室だけが、今も生き残っている。
ワイフは、「ふんばったおかげよ」と言うが、それだけにきびしい仕事だった。
中に、無神経な人がいて、こう言う。
「はやしさん(=私)は、自由でいいですね」と。

 そういうとき、私はいつもフンと鼻で笑って、こう思う。
「そう思うなら、自分でやってみれば」と。

 が、この4月からのことはわからない。
わからないが、少しずつ、動き出した。
基本的には、口コミ。
OBや現役の親たちが、案内書を配ってくれる。
生徒を呼んできてくれる。

 事実、今、来ている生徒の、6〜7割が、OBの子どもたち。
9割以上の生徒は、口コミで入ってくる。

●2度目の入浴

 たった今、2度目の入浴をすまし、部屋に戻った。

大浴場。
そこも貸し切り状態だった。
入ったとき、男性が1人いたが、すぐ出て行った。

 部屋に戻ると、そこはすっかり夜景色。
無数のライトが、キラキラと宝石のように輝いていた。

●不吉な想像

 このところ悪い癖ができてしまった。
こうした海岸沿いの町を見るたびに、こう思う。
「だいじょうぶだろうか?」と。

 3・11大震災のときは、沿岸の町々が、大きな被害を受けた。
が、今度は、東南海大地震が予想される。
3・11大震災並みの津波が、襲ってくる可能性もあるという。
もしそうなら、この三谷町の町も、ひとたまりもないはず。
と、同時に、こうも考える。

 こんな町々が、東北地方にもあったのだなあ、と。
そういう町々が、津波に飲み込まれ、あとかたもなく、消えてしまった。
この非現実感。
どう心の中で、処理したらよいのか。

●自転車屋

 どこの町も、市内の商店街は、商売不振に苦しんでいる。
郊外に大型店ができた。
客を奪われた。

 そのため古い町ほど、多くの商店街が、店を閉めてしまった。
地域によっては、「シャッター街」と呼ばれている。
実は、私の実家もそうだった。

小さな自転車屋だったから、ひとたまりも、なかった。
が、その苦しみや悲しみは、そういった商店街に住んだことのある者でないと、わからない。
10年単位、20年単位で、それがつづく。

 そこにあるのは、淡い期待だけ。
「明日は、今日よりよくなるだろう」
「来年は、今年よりよくなるだろう」と。

 その期待に希望をつないで、その日を何とか生きていく。

 家計など、あってないようなもの。
が、客には、背一杯、明るい笑顔をしてみせる。

で、近所の商店は、つぎつぎと店をたたんだ。
私の実家にしても、1日に、1〜2人、客があるかないかという状態になった。

 晩年の実兄は、それを不安に思ったらしい。
数日ごとに電話をかけてきて、こう言った。
「お客さんが、ござらん(来ない)……」と。

 その言い方、声が、今でも、私の耳に焼きついている。
だから……。
つまりその民宿に泊まったとき、私はそのままそこに実兄と母を思い浮かべた。
実兄も、母も、同じような状況で、もがいた。

●実兄

 実兄は、私より9歳、年上だった。
が、私が30歳のころには、上下が逆転していた。
実兄が、私の弟のような存在になった。

 一方、実兄は、何かにつけ、私に甘えてきた。
「冷蔵庫が、故障して困っている(だから、新しいのを買ってほしい)」
「ステレオが壊れた(だから、新しいのを買ってほしい)」と。
私は、そのつど、実兄に、いろいろなものを買い与えた。

 実兄は、子どものころから、体が弱かった。
ちょうど戦時中に生まれた。
そのころの人は、みな、栄養失調だったという。
実兄も、その1人だった。

●口癖

 今日、食事のとき、ワイフとその話になった。
「もっとJちゃん(兄)に、いろいろしてやればよかった」と。

 兄が入院したときは、私は100万円を、届けた。
すべて1000円札にして、届けた。
「お金を見れば、元気になるだろう」と。

 ほかにも、いろいろある。
しかし私は、そうしたくて、したわけではない。
いつも追い込まれて、そうした。
それが私には、苦痛だった。
が、兄は兄。
いつも母は、口癖のように、私にこう言った。
「お前が大学へ行けたのは、Jちゃんのおかげだ」と。

 私はその言葉が、嫌いだった。
恩着せがましかった。
その言い方が、嫌いだった。
そのたびに、母と大喧嘩になったのを、覚えている。

●「何とかしてほしい」

 が、今、……つまり実兄が他界して4年になるが、その実兄が懐かしくてならない。
会いたい。
会って、思いっきり、抱きしめてやりたい。
手元にある小遣いを、すべて渡してやりたい。

 実兄は、死ぬ1、2年前まで、私に会うと、顔を見ただけで涙をポロポロとこぼした。
つらそうな涙だった。
「何とか、してほしい」と。

●兄のちょっかい

 歯がゆかった。
が、私は、卑怯にも、実兄から逃げた。
理由がなかったわけではない。
実兄は、私のワイフに、何かとちょっかいを出してきた。
私の目を盗んで、ワイフに抱きついたこともある。

 私は実兄を強く叱った。
が、晩年の実兄は、そういう道理すら理解できるような状態ではなかった。
私はともかくも、ワイフのことを考えると、いっしょに住むわけにはいかなかった。

 が、方法がなかったわけではない。
別棟の家は、すでに当時、あった。
そこへ住まわせることも、不可能ではなかった。
が、私はワイフへのちょっかいを、誇大に問題にし、それから逃げた。
今、それが私の心を重く、塞ぐ。

●慰め

 ワイフは、こう言って、私を慰めてくれた。
「あなたはじゅうぶん、したわよ」と。

 じゅうぶん?

 私にはその実感は、ない。
結婚前から、収入の半分は、実家へ送った。
が、送ったのは、お金だけ。
心は、送らなかった。
「お金さえ送っておけば、実兄や母や、それで喜ぶはず」と。
こんなたとえは、よくないかもしれない。
しかしこんなたとえのほうが、当時の私の気持ちを正確に表している。
当時の私は、冷酷な飼い主のようなもの。
餌だけを与え、それで満足していた。
まるで、厄介な犬や猫に、餌を与えるように……。

●実家を売る

 母のちょうど一周忌に、実家を売った。
捨て値のような値段で、売った。
私は、早く、実家から解放されたかった。
それでそうした。

 が、その当日の夜だったか、翌日の朝だったか?
私は実兄の夢を見た。
 
 私と実兄は、実家の前の坂を、下からあがってくるところだった。
実兄は、私の腕に手を回していた。
そして実家の前まで来た。
そのときのこと。
私が「やっとこの家から解放されたね※」と言うと、実兄は子どものように顔をすくめた。
すくめて笑った。
(注※……この部分は、言葉ではなかったように記憶している。
私がそう思っただけかもしれない。
なお母は最期の2年間を私の家で過ごした。
実兄は、3か月いたあと、郷里のグループホームに1年近く入居し、そのあと数か月後に、T市
の病院で息を引き取った。
「恵まれなかった兄」ということで、葬儀だけは、人一倍、派手な葬儀をした。)
 
●午後10時30分

 一度、ベッドに入ったが、寝損ねてしまった。
エアコンの風が、気になった。
で、起きた。
時刻は、午後10時33分。

 少し前まで、今日書いた原稿を読みなおしていた。
読みなおしながら、「ここまで書いていいのかなあ」と思った。
私小説もよいところ。
が、同時に、こうも思う。
「はやし浩司」、ここにあり、と。

 やがて私も、灰となり、宙に舞う。
そのとき残るのは、こうして書いている文章だけ。
読者を意識することは、もうない。
ワイフですら、このところ、私の原稿を読まなくなった。
「飽きたのか?」と聞くと、「いつもまとめて読んでいるから」と。
ネットの世界は、そういう点では、不思議な世界だ。
相手の顔が、まったく見えない。
こうして書いていても、あたかも無の世界に向かって書いているような錯覚にとらわれる。
「書いている」というよりは、「叫んでいる」。
が、その声は、そのままどこかへ消えてしまう。

 だから、こうした文章を読み、こう思う人もいるかもしれない。
「はやし(=私)って、バカだなあ」、
「ここまで私生活を暴露することはないのに」と。
が、そう思いたければ思えばよい。
私自身も、すでに「私」を超えている。
1人の人間として、書いている。
「これも1人の人間」と。

●同窓会

 今夜は、名古屋で同窓会があった。
が、ドタキャンさせてもらった。
そしてこのホテルへ、やってきた。
講演会で知りあった、KUさんが、招待状をくれた。
「いつでもいいですから、使ってください」と。
で、急きょ、それを使わせてもらうことにした。
幸い、すぐ部屋が取れた。

 私はもともと、混雑したところが苦手。
回避性障害?
対人恐怖症?
……というより、私は若いころから、集団行動よりは、単独行動を好んだ。
人に、あれこれ指図されるのが、嫌いだった。

 が、それ以上に、今、名古屋は、インフルエンザの猛威にさらされている。
今週から、重要な講演がつづく。
健康には注意しなければならない。

●ワイフ

 静かな夜だ。
ワイフは、先ほどすでに寝息をたてていた。
すっかりバーさん顔になった。
そういう顔を見ると、申し訳なく思う。
私がワイフを、バーさんにしてしまった。
罪の意識を覚えることもある。

 がんこ。
超がんこ。
一度、自分の意見を述べたら、とことんそれにしがみつく。
若いときから、そうだった。
あだ名は、「石部金子」。
石部金吉をもじった。
私が、名づけた。
まじめ。
クソまじめ。
融通がきかない。
冗談が通じない。
だからよく喧嘩した。
衝突した。
が、今は、そんなワイフも、いとおしい。

●惜しい

 明日は午後イチバンから仕事。
「早く寝なければ……」と思う。
同時に、今の、この時間が、惜しい。
いつまでも、こうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。
今夜あたり、何か新しいことを発見できるかもしれない。
宝探しのような感じ。
「徳川の埋蔵金探し」?
そこに何かあるかもしれないという期待感が、私をぐんぐんと引っ張っていく。
だから、自分にこう言って聞かせる。
「人間、1日や2日、寝なくても、どうということはないのです」と。

 ホテルのフロントの横で買った、せんべいをパクパクと食べる。
このあたりは、せんべいの産地。
「産地」というのもおかしいが、名物になっている。
ここへ来るとき、パーキングエリアで、休息した。
このあたりでは、どのパーキングエリアでも、そのせんべいを売っている。

 ああ、この満足感。
充実感。
これがあるから、書くのをやめられない。

●死骸

 今、海老せんべいを食べたところ。
ひからびた海老が、化石のように張りついていた。
人間も、残酷な生き物。
生き物の死骸を、平気で食べている。
骨と皮だけになった死骸を、平気で食べている。

●就寝

 あくびが連続して、出てきた。
就寝タイム。
……しかしどうして私は、こうまで貧乏性なのか。
精神医学的には、強迫観念症という(?)。
いつも何かに追い立てられている。
何かをしていないと、気がすまない。

 が、それが苦痛というのではない。
むしろ何もしないでいると、頭の中が爆発しそうになる。
だから吐き出す。
パソコンに向かって、文章を叩きだす。
今も、そうだ。
頭の中がモヤモヤしている。

●宇宙船

 やはり眠ることにする。
で、私の就眠儀式。
床に入ると、いつも巨大な宇宙船を、想像する。
直径が20〜30キロは、ある。
円形の宇宙船。
毎晩、少しずつ、その宇宙船の各部を設計する。
それを考えていると、いつの間にか眠ってしまう。
今夜は、研究室を設計してみよう。
世界からやってきた科学者たちが、さまざまな研究をする。
そんな研究室。
つまり頭の中で、眠る前に、場所を決め、それを設計する。
それが私の就眠儀式。

 この1〜2年、眠るときは、いつもそうしている。
「羊が1匹、羊が2匹……」と数える人もいるそうだ。
が、私には効果がない。
かえって頭が冴(さ)えてしまう。

 では、おやすみなさい。
はやし浩司 2012−02−01夜記

 ほんとうにここは、すばらしいホテルです。
招待してくれた、KUさん、ありがとうございます。
●2月2日(はやし浩司 2012−02−02)

 朝、起きる。
外を見ると、一面、うっすらと雪景色。
三谷町の家々の屋根が、白いペンキを塗ったようになっている。
すぐ下の森も、ところどころ白髪のように白くなっている。
昨夜、テレビのニュースでは、大雪の報道を繰り返していた。
多いところでは、5メートルを超える積雪になったとか。
橋が落ちたところもあるという。

 今度の大雪は、ふつうではない。

 が、その一方で、アメリカでは、暖冬とか。
アメリカに住む息子が、こう書いてきた。
「こちらは、4月上旬の気候です」と。
 窓を少し開け、外の様子をビデオに収める。

●帰り支度

 これから帰り支度。
では、今回の旅日記は、ここまで。
サンヒルズ三河湾、本当にすばらしいホテルでした。

 三河湾国定公園内
三谷町温泉
サンヒルズ三河湾
Sunhills Mikawawan
http://www.sunhills-m.com
Tel: 0533-68-4696
E-mail: miya@sunhills-m.com


(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 サンヒルズ三河湾 はやし浩司 シャッター街 シャッター通り 実兄 はやし
浩司 シャッター通りの悲しみ サンヒルズにて はやし浩司 2012−02−01)

Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

映画『ドラゴン・タツーの女』(はやし浩司 2012−02−11)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は、怠惰な1日だった。
起きたのが、午前9時。
そのあとすぐ30分の運動。
あとはルーティーン(日課)。
一息ついたのが、午後1時ごろ。
そのあと居間で居眠り。
3時ごろになって、ワイフが映画に行こうと誘った。
昨日公開された、『ドラゴン・タツーの女』。
それを聞いて、「『チンチン・タツーの男』のほうがいい」と、私。
……ということで、映画館へ。
今、時刻は午後11時10分。
山荘へやってきた。
途中、幸楽苑で、ラーメンを食べた。
いつも1人前を、2人で分けて食べている。
それでも量は多いほど。
満腹感で、腹の中が今も、ゴボゴボしている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浪曲

 今、私は浪曲の練習をしている。
子どものころは、毎日のように聞いていた。
祖父が、好きだった。
祖父は、自分では歌わなかったが、町に歌手がやってくると、かならず聞きに行った。
私もついていった。
それが今でも、耳に残っている。
「♪旅ゆけば、駿河の道に、茶の香り」と。

 「♪駿河の国に」と歌う人も多いが、初代広沢虎造も、二代目虎造も、「♪駿河の道に」と歌っ
ている。
そのほかの歌詞は、そのときどきの録音によって、微妙に異なっている。
理由はいろいろ考えられる。
たとえばもともと決まった歌詞などなかった。
そのときの気分で、歌詞を変えた。
当時は、そういう時代だった、など。

 今では、YOUTUBEで、広沢虎造の浪曲を、自由に聞くことができる。
初代虎造のは少ないが、二代目虎造の録音になると、いろいろな時代の歌い方を楽しむこと
ができる。
それを聞いていると、心はそのまま子ども時代に、タイムスリップする。
祖父が、そこに立っているような気分になる。

●韓国語

 ところでその浪曲を練習しながら、こんなことに気づいた。
最初の部分で、こう歌うところがある。
「♪海道いちの親分は〜エ」と。
最後の部分に「エ(e)」という発音が入る。
なぜだろう。
民謡の中にも、ときどき似たような「エ」が入ることがある。
ご存知の方も多いと思うが、「エ」は、韓国語の「は」に相当する。
「私は、浩司です」の「は(wa)」である。

 日本語と韓国語は、兄弟言語。
こういうとことに「エ」が入っても、おかしくはない。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりほんの100年ほど前までは、日本語の中に、韓国語がまざっていた、と。

 こういった話は言語学者の分野。
私にはここまでしかわからない。
気にはなったので、ついでにここに書きとめておくことにする。

●テンポ

 浪曲の歌い方は、現代の私たちから見ると、かったるい。
テンポが遅いというより、のろい。
が、当時はそのようには、思わなかった。
浪曲がのろいとは、思わなかった。
生活のすべてが、浪曲のテンポで動いていた。
違和感は、まったくなかった。
時間にも余裕があった。

 居間にいると、息子がやってきたので、少し歌ってみせた。
あきれたような顔をして、私の顔をながめた。
で、私はこう言った。

 「昔はね、自転車屋でもね、客がいても、親父なんか将棋を指していたよ」、
「ときには客も、その将棋に加わることがあったよ」と。

 当時は、今より、はるかにゆっくりと時間が流れていた。
テレビで見る歌舞伎も、相撲も、落語も、みな、そうだった。
浪曲はそういう時代の歌だった。
当時の私は、ふつう以上に活発な子どもだったが、それでも、それを「のろい」と思ったことは
ない。

●密度

 こう考えてみると、時間とは何か。
改めて考える。

 今までの私の理論によれば、密度を2倍にすれば、時間も2倍になる。
反対に、密度が2倍薄くなれば、時間も2分の1になる。
そういうふうになる。
が、もしそうなら、昔の人たちは、同じ50年でも、現代の私たちより短い50年を生きていたこ
とになる。
情報量にしても、比較にならない。
「多い」というより、今、私たちは情報の洪水の中で生きている。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりその分だけ、反対に、私たちは昔の人たちより、長く生きていると考えてよいのか。

 そこで問題は、「密度の内容」ということになる。
「情報の質」も、無視できない。

 いくら密度が2倍といっても、つまらないことで濃くしても、意味はない。
くだらない情報に振り回されても、意味はない。

●感動

 「情報」については、わかりやすい。
良質な情報と、粗悪な情報がある。
その区別なら、そこらの高校生でもできる。
問題は「密度」。

 10時間を、20時間にして生きたからといって、「密度が濃い」ということにはならない。
寝食も惜しんで、パチンコをする、とか。
となると、何が密度を決めるのか。
密度は何によって、決まるのか。
私は、そのひとつが、「感動」と考える。
感動の質と量が、密度を決める、と。
 私も自分の人生の中で、1日を1年のように長く感じたことがある。
オーストラリアの大学に留学していたときのこと。
けっして大げさな言い方をしているのではない。
本当に、そう感じた。

 毎日が驚きと感動の連続。
だからある夜、こう思った。
ちょうど3か月目の、ある夜のことだった。
ヘトヘトになった体をベッドに横たえた。
その瞬間、「まだこんな毎日が、9か月もつづくのか!」と。
私はそれを思ったとき、心底、自分が誇らしかった。
うれしさが、ドッと腹の底からわいてきた。

●人生を長く生きる

 言い換えると、人生を長く生きるためには、2つのことに気をつける。

(1) 情報の選択
(2) 感動の創造

 情報の選択を誤ると、時間を、無駄にする。
くだらない情報に引き回されるだけ。
また感動のない生活は、生活そのものをマンネリ化する。
それこそ10年を1年のようにして生きるようになる。
 あとは、そのときどきの各論ということになる。
つまり生き方の問題。
……とは書きつつ、このところ感動が少なくなってきた。
自分でも、それがよくわかる。
そこで「創造」。
自ら創りだす。

●悠々自適?

 その感動は、つねに緊張感を伴う。
緊張感の中から、感動が生まれる。
言い換えると、いかにして生活の中に緊張感を創るかということ。
その緊張感がないと、人生は、そのままだらしなくなる。
反対の視点に自分を置いてみると、それがよくわかる。

 老後は孫の世話と庭いじり。
悠々自適の年金生活。
が、そんな生活からは、感動は生まれない。
10年を1年どころか、1日にして生きるだけ。

●緊張感

 となると感動は、日々の緊張感の中から生まれる。
前向きに生きていくという緊張感の中から、生まれる。
新しいことに興味をもち、新しいことに挑戦していく。
新しい人々との出会いをいとわず、その人たちのために生きていく。

 が、このときひとつの大きな条件が生まれる。
「無私無欲」という条件である。
功利、打算が混入したとたん、感動は霧散する。
もちろん生きていくためには、収入が必要。
仮に収入のためではあっても、収入を、極力意識しない。
脇へ追いやる。
その努力は怠らない。

 もしそれができれば、ゆるやかな時間であっても、密度の濃い人生ということになる。
そうでなければ、そうでない。
わかりやすく言えば、東海道を歩いていっても、それで時間を無駄にしたことにはならない。
新幹線で行っても、それで時間を有効に使ったことにはならない。

●夢

 話題を変える。

 今朝、ハナ(犬)の夢を見た。
先月、他界した。
どこかの家で、大きな鳥かごを見ていたときのこと。
足元に、ハナがやってきた。
まだ中型くらいの大きさだった。
いつものように頭をさげ、私の体に、自分の体をこすりつけてきた。
が、見ると、横に、白と黒のブチの犬がいた。
丸々とした雑種の犬で、私が「ボーイフレンドか?」と声をかけると、うれしそうに尻尾を振っ
た。
私は両方のハナとその犬と、交互にさすってやった。

 涙があふれた。
そこで目が覚めた。

●ハナ

 ハナのボーイフレンドを考えなかったわけではない。
ときどきワイフと、「どうしようか」と話し合った。
しかしいつも私たちの年齢を考えた。
犬といっても、20年は生きる。
そのつど、自分の年齢に20歳を加え、こう思った。
「20年後に、めんどうをみられるだろうか」と。

 だからハナは、ずっとひとりぼっちだった。
それが、今になって、私を責める。
自分たちのつごうで、ハナにつらい思いをさせてしまった。

●マムシ

 もっとも晩年のハナは、息子といつもいっしょだった。
息子が庭へ出ると、かたときも、息子のそばを離れなかった。
ハナも、さみしかったのかもしれない。
今にして思うと、ハナの気持ちがよくわかる。

 ハナは、庭先の、ヤマモモの木の下に埋葬した。
墓も立てた。
その墓に息子とワイフは、毎日、線香をたて、供養している。
私も祈っている。

 ……いつだったか、私が庭の畑で作業をしているときのこと。
ハナがけたたましく吠えた。
見ると足元にあった枯草の下で、マムシがとぐろを巻いていた。
もしあのときハナが吠えてくれていなかったら、私はマムシにかまれていた。
「命の恩人」と思うようになったのは、そのときからだった。

 そのハナは、もういない。
が、ハナの墓に参るたびに、こう祈る。
「もうすぐ、ぼくも、そちらへ行くからな」と。

 西洋では、飼っていた犬が、天国で私やあなたを案内してくれるという。
ほかの犬のことは知らない。
しかしハナなら待っていてくれるはず。
仕事に出かけるときは、どこかいいかげんだった。
しかし仕事から帰ってくると、一日も欠かさず、私を裏口で迎えてくれた。

 律儀な、どこまでも律儀な犬だった。

 おかしなものだ。
死んだ父や母より、遠くに住む息子たちより、ハナのほうが恋しい。
ハナに会いたい。
私には、かぎりなく、よき友だった。

●映画『ドラゴン・タツーの女』

 「ドラゴン・タツー」というのは、少し大げさ。
タツー(刺青)が、とくに意味をもつわけではない。
それに謎解きといっても、それほど奥があるわけではない。
言うなれば、「つじつま合わせ」。

 それにその「女」にしても、まさにスーパーレディ。
ハイテク機器を自由に使いこなす。
その女は、意味ありげな雰囲気で登場し、最後は、ふつうの女で終わる。
星は、3つの★★★。
少し甘いかな?
ダニエル・クレイグ主演ということで、かなり期待して行った。
期待が大きかった分だけ、がっかり。

 先にも書いたように、「意味ありげ」で始まり、「ふつうの映画」で終わった。
が、あまり「意味のない」映画。
やはり「チンチン・タツーの男」のほうが、よかった。

●2月12日(日曜日)(2012)

 日は替わって、12日。
昔はこんなことはしなかった。
が、今は、(2012)と年号を書き入れる。
でないと、あとで、いつの原稿だったか、それが、わからなくなる。
このところ、そういうことが多い。
たとえば古い原稿を探したようなとき、日付はわかっても、何年に書いた原稿かがわからな
い。
その前後をスクロールしながら、書いた年数を知る。
その手間に、けっこう時間がかかる。

 これもネット時代の特徴のひとつかもしれない。

ネットで検索すると、1年単位、10年単位の原稿が、どっと見つかる。
原稿が、大きな塊(かたまり)となって、画面に現れる。
「時間」の概念が、ネット上では、かなりちがう。
この世界では、「1年前」「10年前」という数字は、あまり意味をもたない。
逆に考えれば、こんなことも言える。

 ……たとえば、そんな人がいるかどうかは、わからない。
が、10年後、あるいは20年後、「はやし浩司」で検索し、私の書いた原稿を読む人がいたとす
る。
そのとき、その人は、時空を超え、パソコンのモニターをはさんで、私と対峙する。
そこには、時間はない。
距離もない。
「私」と、直に対峙する。

 ……ボロボロになった本を、遠くから買い寄せて読む。
時間をかけて読む。
が、それは昔の話。
その反対が、ネットの世界ということになる。
だから、最近は、年数を、できるだけこまめに、書き込むようにしている。
その数字だけが、過去になった「今日」を示す。

●W・ヒューストンの死

 たった今、ネットに、こんなニュースが流れた。
W・ヒューストンが亡くなった、と。
48歳だったという。
48歳!

 若すぎる。
死因その他は、「不明」とのこと。
芸能界は、しばらくW・ヒューストン一色になるだろう。
それにしても、なぜ?
グラミー賞受賞式の前日だったという。
賞と何か、関係があるのだろうか?

●貧乏の怖さ

 私の息子たちも含めての話。
最近の若い人たちは、貧乏の怖さを知らない。
知らないから、家族第一主義に、安易に走りやすい。
「仕事より、家族が大切」と。

 それはそれで結構なことだが、「仕事あっての家族」。
たしかにお金(マネー)では、幸福は買えない。
しかしお金(マネー)がなければ、不幸になる。

 とは言っても、一時的な貧乏なら、まだ何とかなる。
気力や体力で、乗り越えることができる。
怖いのは、ジワジワと、長い年月を経てつづく貧乏。
精神はもちろん、肉体をもむしばむ。
それが怖い。
私は経験している。

家中が、暗く、よどんだ空気に満たされる。
「明日は今日より、よくなる……」と。
そんな淡い期待も、その翌日には、こなごなに破壊される。
それが来る日も来る日も、繰り返される。

 当然、ものの考え方も、影響を受ける。
卑屈になる。
ゆがむ。
いじける。

 ……この不況下。
どこへ行っても、暗い話ばかり。
そういう話を聞くたびに、私は自分の少年時代を思い出す。
いやな時代だった。
本当にいやな時代だった。

●ボットン便所

 だから私はがんばった……と書けば、意図は見え見え。
しかし総じて言えば、団塊の世代は、それゆえに、がんばった。
が、その結果が今。

 若い人たちは、飽食とぜいたくの世界で、自分を見失ってしまった。
今のこの日本の繁栄にしても、いつまでもつづくものと思っている。
が、私たちはそうでない。
現在の日本経済は、薄氷の上を、恐る恐る歩いているようなもの。
その下には、あのボットン便所が待っている。
そうなったとき、つまり日本経済が崩壊したとき、今の若い人たちは、それに耐える力はあるだ
ろうか。
そのときになっても、「仕事より家族が大切」と言っていられるだろうか。

●帰り支度

 ワイフが帰り支度を始めた。
窓の外には、紺色の青い空が広がっている。
気温は、3度前後。

 朝風呂に入った。
ほどよい気(け)だるさが、心地よい。
このままコタツの中で眠りたい。

 ……そう帰りには、久しぶりに、パソコンショップへ寄ってみよう。
もう何か月も行っていない。
東名高速道路のインター近くにある、「N」というパソコンショップ。
パソコン関連グッズのほとんどは、私は、その店で買っている。

(補記)

●プリンターのインク

 ところで今度、別の会社から、プリンターのインクが販売されることになった。
プリンターといえば、エプソン、キャノン、ブラザーの各社が製品として出している。
が、インクが高価。
エプソンのインクでも、6色セットで、5000〜6000円もする。
それを、1セットあたり、たったの1600円前後。

 販売しているのは、福岡市に本社をおく、「ジーストリーム」。
電話:092−402−7360
さっそく「楽天ホビナビ」を通し、2セット買ってみた。
価格は3333円プラス代引き手数料。
1セットで、3333円かと思ったら、2セットでこの価格。
この価格なら、この先、インク代は心配せず、プリンターを使うことができる。
問い合わせ先は、「インクナビ」本店へ。
http://www.inknavi.com/

(注意)エプソン用のインクはそのまま使えるが、キャノン用のインクは、ICチップを張り替えな
ければならない。
また相性については、Yellowだけ使ってみたが、まったく問題なくセットできた(エプソンEP90
2A)。
「どうしてインクは、こんなに高いのか!」と、日ごろ不満に思っている人は、一度、使ってみた
らよい。

(はやし浩司 2012−02−12 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 
幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 貧乏の恐怖 貧乏の恐ろしさ はやし浩司
 貧乏の怖ろしさ 映画「ドラゴンタツーの女」 はやし浩司 プリンターのインク インクナビ 
はやし浩司 浪曲 旅行けば 駿河の道に茶の香り)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【日本は……!】

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●湯谷温泉・泉山閣にて(はやし浩司 2012−04−08)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

春休み最後の1日は、湯谷温泉、泉山閣で過ごすことにした。
浜松市内から、車で、1時間ほど。
静岡県と愛知県との県境。
ひなびた山あいにある温泉郷。
昔からある由緒ある温泉郷。

この泉山閣には、こんな思い出がある。
「思い出」というよりは、私はこの温泉で、はじめて温泉のよさを知った。
以来、病みつきになってしまった。
つまり温泉巡りが好きになった。
それまでの私は、「温泉というのは、ジジババ様の行くところ」と考えていた。
が、気がついてみたら、私がそのジジ様になっていた。
その洗礼を受けたのが、この泉山閣。
私にとっては、大切な旅館である。

何もかもどこか古くて元気はないが、仲居さんたちのやる気度は満々。
テカテカの大理石も悪くはない。
しかし田舎らしい(失礼)、素朴なサービスを楽しむことができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●山育ち

 私はもともと山育ち。
そのせいか、海も好きだが、落ち着くといえば、こうした山あいにある温泉。
木々の香りをかぎ、川のせせらぎを聞いただけで、そのまま心が溶けてしまう。
……脳みそが思考を停止し、眠くなってしまう。

が、同時に、こうしていつまでもパソコンのキーボードを叩いていたい。
ほかにしたいことはない。
することもない。
できることもない。

 今の私は、こうして思いつくまま、キーボードを叩いているのが、何よりも楽しい。

●バブル世代

 とは言え、最近、世相を考えるたびに、さみしくなる。
おかしなニヒリズムが、時折、私を襲う。
「どうでもなれ」とか、「どうにもならない」とか。

 つい先日には、BLOGにこんなコメントがついた。
「貴殿のような老人がいる自体が、老害なんだ」と。
もちろん相手は、若い人である。
「あんたがた、バブル世代が、日本の繁栄を食いつぶした。それを率直に認めろ」とも。

 が、私たちの意識は180度、逆を向いている。
私たちバブル世代(=団塊の世代)こそが、現在の日本の繁栄を築きあげた。
そういうつもりでがんばってきたわけではないが、結果として、この日本は、そうなった。
そういう自負心は、どこかにある。
その私たちの世代をさして、「バブル世代」という。
この悲しさ。
この無念さ。
プラス、さみしさ。

 この先、老人虐待は、ますますふえるだろう。
「老人難民」という言葉も、生まれつつある。
孤独死、無縁死、そのあとの無縁仏は、常識化する。

 それをワイフに告げると、ワイフはこう言った。

 「そうでないことを、あなたはもっと若い人たちに伝える必要があるわ」と。
ワイフは、「今の若い人たちは、私たちの世代を誤解しているのよ」と。

●誤解

 誤解といっても、これは意識の問題。
私1人くらいが説明したところで、どうにもならない。
たとえて言うなら、意識というのは、日本という川を流れる大河。
その大河に、竹竿の1本や2本をさして、どうなる?
私の息子たちでさえ、私がもっている意識とは、180度、ちがう。
いつもこう言っている。

 「パパは、仕事ばかりしていて、家庭を顧みなかった」と。

 たしかにそうだった。
その通りだった。
それは認める。
仕事第一人間だった。
しかしそれしか、私には(=私たち団塊の世代には)、やりようがなかった。
あのどん底から、這いあがるには、それしかなかった。

息子たちにだけは、ひもじい思いや、貧困の悲しみを、味あわせたくない。
大学だけは出してやらねば、と。
そんな負担感は、いつもあった。
加えて、私には、実家のめんどうをみるという、重い荷物を背負っていた。
結婚前から、収入の約半分を、実家へ送っていた。

 病気になることもできない。
仕事を休むこともできない。
1か月に、休みが1日しかないという日々が、何年もつづいた。
そういう苦労を、息子たちは、別の目でとらえていた。

(だからといって、息子たちを批判しているのではない。
それが現代の、おおかたの若い人たちの標準的な考え方ということになる。
もちろんそうでない若い人たちも多いが……。)

●温泉

 先ほど、露天風呂に入ってきた。
つづいてたった今、大浴場から戻ってきた。
泉山閣には、失礼かと思ったが、このところどこへ泊まっても、ガンマ線を測定している。
温泉によっては、放射線量の高さを売り物にしているところもある。
それに対して、WHOは、日本政府に対して、「危険」という警告を何度もしている。
アメリカなどでは、放射線の高い地域では、建築許可がおりないという。
が、この日本では、野放し(?)。

 で、いつも放射線測定器をもって、私はあちこちを旅行している。
で、先ほど、大浴場で測定してみた。
湯面から、20センチほどの高さに置いて、測定してみた。
結果は、0・06〜0・07μシーベルト。
通常、1メートルの高さで測定する(注意書き)。
それによれば、0・05〜0・06μシーベルト。
浜松市内でも、0・05〜0・06μシーベルトだから、まったく問題なし。
地下1000メートルからの源泉というから、この程度の値は、当然といえば当然。
誤差の範囲。
(測定器は、エステー株式会社の、Air Counter−S。
主にガンマ線を測定する。)

 それを知り、2回目の入浴のときは、のんびりと、ゆっくりと湯につかった。

●温泉客

 大浴場で、3人の男たちと知り合いになった。
愛知県の西尾市から来ているということだった。
年齢が、67歳、73歳、もう1人は不明……。

 話題はもっぱら体重について。
みな、70キロ前後もあるという。
私もその程度の体重だから、偉そうなことは言えない。
しかし私のばあい、運動をしているせいか、ブヨブヨ感はない。
割と引き締まっている。
(自分で、そう思っているだけだが……。)
が、大切なのは、大腿筋(太もも)。

 大腿筋(太もも)が、鳥のガラのようになったら、よくない。(……そうだ。)
骨と皮だけ。
3人の中の1人がそうだった。
歩くのも、難儀そうだった。
あとはこの悪循環の中で、ますます足腰が弱くなっていく。
が、それだけではない。

 大きな筋肉は、(その第一が、脚の大腿筋ということになるが)、それ自体がホルモンを分泌
するという。
とくに大腿筋(太もも)は、若返りのホルモンを分泌するという。
少し前、何かの本で、そう読んだことがある。
つまり足腰を鍛えると、若返るということ。

 もう一度、その真偽のほどを確かめてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

検索してみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マイオカイン

 あちこちのサイトを読んでみる。
その結果、大きく2つの説があることがわかった。

(1)運動が刺激となり、脳内の成長ホルモンの分泌を促す。
(2)新しい筋肉ができると、若返りのホルモンが分泌される。

某整体道場のサイトには、こうあった。

『……下半身の筋肉を鍛えて、新しい筋肉ができると「マイオカイン」といって若返りのホルモン
が分泌されます。
マイオカインは、脂肪の分解、糖代謝の改善、動脈硬化の予防、また認知症の予防などに効
果的に働くと云われています』(某整体道場HP)と。

 そこでさらに「マイオカイン」について調べる。
「マイオカイン」で検索をかけたら、すぐ見つかった。

 「おもいっきりTV」というテレビ番組がある。
そのサイトに、こんな記述が見つかった。

『筋肉から健康によい新物質が分泌されることがわかった。
 その名は「マイオカイン」。

★筋肉から出る新物質マイオカインの健康効果としては、つぎのものがある。

★脂肪組織に働いて脂肪分解
★肝臓に働いて糖代謝改善
★血管壁に働いて動脈硬化予防
★脳に働いて認知症予防

★筋肉の種類とマイオカイン

 白筋・・・激しい運動で出る
 赤筋・・・日常動作で出る

つまり赤筋を増やすことで特別な運動なしで常に健康物質マイオカインを出すことが可能であ
る』(「おもいっきりTV」)と。

 筋肉がホルモンを分泌しているなどということは、20年、30年前には、考えられなかった。
さらに最近では、こんなこともわかった。
何と胃壁からも、ある種のホルモンが分泌されているという。
ある研究者が、あるホルモンを調べていた。
が、脳のどこをさがしても、その分泌先がわからなかった。
で、枠を広げ、体中を調べてみたら、何と胃壁から分泌されていることがわかった、と。
そんな話も、何かの本で読んだことがある。

 これについても、一度、自分で調べてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

胃壁からホルモン。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ガストリン

 Meddic Jpサイトには、つぎのようにある。

『……ガストリン(gastrin)は、主に胃の幽門前庭部に存在するG細胞から分泌されるホルモン。
胃主細胞からのペプシノゲン分泌促進作用、胃壁細胞からの胃酸分泌促進作用、胃壁細胞
増殖作用、インスリン分泌促進作用などが認められている。ガストリン分泌は……』と。

 今度は、「ガストリン」?

 要するに、体中が、ホルモンの分泌器官であるということ。
が、それ以上に驚くことが、こうした山あいの旅館にいて、直接調べられるということ。
15年前なら、一日中、図書館にこもり調べてもわからなかった。
そんなことが、瞬時に、わかる。
(驚き!)

 このあたりで追跡調査はやめにしておく。
キリがない。

●要するに……

 「マイオカイン」にしても「ガストリン」にしても、名前だけ。
実物を見ても、ただの何かの水溶液にしか見えないはず。
便宜上、学者たちが、そういう名前をつけ、区別しているだけ。
だから名前を覚えても、意味はない。

 要するに、大切なことは、運動をつづけること。
その運動が、肉体の健康を保つと同時に、心身を若返らせるということ。
素人の私たちは、その程度のことを知っていれば、じゅうぶん。

●夕食

 夕食は、部屋食。
ここ泉山閣の料理には、定評がある。
風呂で会った人たちも、みな、こう言った。
「ここの料理は、いいね」と。

 この言葉に、異論はない。

●仰げば尊し

 『♪仰げば尊し』という歌がある。
今でも、私はその歌を聴いたり、歌ったりすると、涙が流れる。
(ただしワイフは、平気。)
今日、ここへ来る途中、その歌を聴きながらやってきた。
たまたまネットでその歌を、拾った。

 その『♪仰げば尊し』が、台湾では、今でも歌い継がれているという。
「和(倭)性のものは、袈裟まで憎し」という韓国、北朝鮮とは大違い。
が、それだけではない。
その台湾で歌われている、『仰げば尊し』の歌詞がすばらしい。

 YOUTUBEの中で歌われている、『♪仰げば尊し』を、紹介する。

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

『♪校庭の草木が青々と生い茂る。
 恵みの雨のごとく喜ばしい。
 筆とすずりのように、親しく朝晩笑っていた。
 なぜ今日が別れの朝なのか。
 人生の道は多く、人の道は遥かに広い。
 帆を上げて夜明けを待つ。
 真心で教えてくださった、進路は心に抱いています。
 先生の高い志を尊敬します』(歌詞は、YOUTUBE上の翻訳による)と。

 台湾のみなさん、ありがとう。
あなたがたは、日本の第一の友人であり、仲間です。

 なお原曲の作詞者も作曲者も、アメリカ人だそうだ。
最近の研究で、それがわかった(2011年)。
また台湾で、戦後もこの歌が歌い継がれていることについて、ウィキペディア百科事典は、つぎ
のように説明している。

『……この曲は台湾では現在も卒業式での「定番」として広く使用されており、映画「冬冬の夏
休み」では、冒頭からこの曲が流れ、社会での定着度を示している。

台湾へは日本による植民地統治時代に使用されていたものが、1945年以降も引き続き中国
語の歌詞によって使用されているものだが、歌詞は「中華文化高揚」というような民族的、政治
的な色彩を加えているものの、日本語の歌詞の影響下で作られたものであり、その関連性が
認められる』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 たしかに2番は、政治的な色彩の濃い歌詞になっている。
それは別として、この歌が、アメリカ人による作詞、作曲であることがわかったのは、ごく最近
のこと。
が、台湾の人たちは、戦後、そのまま歌いつづけていてくれた。
わかるか?
日本人よ、わかるか?
日本よ、日本人よ、台湾を大切にしよう。
日本にとっては、この極東アジアでは、ただ1人の友人だぞ!

●ニヒリズム

 ともあれ、今夜のテーマは、ニヒリズム。
虚無主義。
というのも、このところ、「どうでもなれ」とか、「どうにもならない」とか、そんなふうに思うことが
多くなった。
「日本が……」と考えること自体、馬鹿らしく思うことが多くなった。
それをワイフに話すと、ワイフは、あっさりと、こう認めた。

 「あなただけよ、そんなこと言っているのは! ほかのだれも、そんなことを言っていないわ
よ」と。
つまり今では、「天下国家を論じている人はいない」と。
「とくに定年退職者たちは、そのまま黙ってしまう」とも。

 が、どっこい!
1人いる。
90歳近くになっても、まだがんばっている人がいる。
田丸謙二先生である。
先週、鎌倉で会ったときも、その話ばかりになった。
本来なら、現役から退き、自分のことだけを考えればよい。
が、そんな立場の先生でありながら、口にするのは、「日本は……」。

 そういう意味では、先生は、いつも、この私に生きる勇気と希望を与えてくれる。
ワイフが言うように、もしこの私さえも、「日本は……」と言わなくなってしまったら、だれが私の
代わりをするのか。

 金を稼ぎながら、評論している人は別である。
名声を求めながら、評論している人は別である。
政府やどこかの団体の御用学者は、別である。
そういう人たちが、「日本は……」と論ずるのは、当然のこと。

 大切なのは、私たち1人ひとりが、庶民の立場で、「日本は……」を論ずること。
それを忘れたら、この日本に、明日はない。
今、私がこうして書いている文章にしても、そのまま「絶滅」する。
そうでなくても、もし日本語そのものが、マイナーな言語になってしまったら……?
それを考えると、さみしい。
しかしそれこそ、私たち日本人の魂の死を意味する。
何としても、それだけは、阻止しなければならない。
100年後、200年後の日本。
私たちが目指すのは、そういう日本!

 田丸謙二先生は、いつも私を励まし、支えてくれた。
今も、励まし、支えてくれる。
田丸謙二先生、ありがとう!

●2度目の入浴

 これから3度目の入浴に行ってくる。
ここの温泉は、すばらしい。
本当に、すばらしい。

 たぶん、そのあとは、バタン……と眠ってしまうだろう。
だからここで、今日の日記はおしまい。

 明日からいよいよ仕事。
充実した春休みだった。
やりたいことは、すべて、した。
義兄も、こう言っている。

「来年のことは、わからないよ。年齢というのは、そういうものだよ」と。

私にも、それがよくわかっている。
わかっているから、今、がんばるしかない。

がんばろう。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 泉山閣 湯谷温泉 大腿筋のホルモン はやし浩司 太もものホルモン 胃
壁 ホルモン ニヒリズム)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●菅直人前首相の英断(菅直人前首相、あなたは日本を救った大恩人だ!)

●2011年5月6日

今朝(2012年4月11日)の中日新聞は、
1面トップで、菅直人前首相の英断を報道している。
要約してみる。

 時は2011年の5月6日。
時の経産省は、「浜岡原発を停止する見返りとし、他の原発の再稼働を画策していた」(大見
出し)。

 その趣旨に沿い、経産省は、

(1)午後4時から「大臣会見」を行う。
(2)経産省側の意見に沿い、「浜岡を止め、他の原発を立ち上げるシナリオ」を発表する。
(3)「法律で何とかならないか」と迫る経産省側。
(4)それに難色を示した菅直人前首相。
(5)その結果、午後4時の「大臣会見」は見送られた。
(6)その後、総理執務室で、経産省の幹部と、官邸の主要メンバーが集まり、再び会議が開
かれた。

 ここからが重要だから、とくに注意してほしい。
そのとき菅直人前首相は、(7)「経産省の発表では、他の原発を再稼働するのを容認しかね
ないと警戒」(同記事)。
(8)菅直人前首相は、午後7時10分に、「おれが会見する」と発言し、「主導権を握った」(同
記事)と。

●日本を救った英雄

 さらに要点だけを簡単に言えば、こうだ。

 原発の再稼働を画策する、経産省(官僚側)。
それに危機感を抱いた菅直人前首相は、経産省主導の大臣会見を拒否。
自ら会見を買って出た。
そういうことになる。

 常識で考えても、あの時点で、(原発事故から2か月もたっていない時点で)、原発の再稼働
を画策するほうが、おかしい。
爆発事故もつづき、被害の全容すら、よくわからなかった。
一方、経産省と電力会社は、一心同体。
経産省は電力会社の代弁者としての立場にあった。
もしそうでないというのなら、なぜ経産省という、ただの役人集団が、原発の再稼働を画策して
いたのか。

 だいたいこの図式がおかしい。

 オーストラリアでも、アメリカでも、役人が政治家にたてついたら、その場でクビ。
実際には、政治家、とくに内閣行政府にたてつく役人は、いない。
そんなことが野放しになっている国は、この日本だけ。
日本が「官僚主義国家」と言われている所以(ゆえん)は、こんなところにもある。

 それはさておき、このあと、猛烈な菅直人叩きと、菅直人降ろしが始まる。
結果は、みなさん、ご存知の通り。

 「原発事故当日に、原発を視察した」とか、「取り乱して叫んだ」とか、理由にもならない理由
をこじつけた。
そして「海水注入」については、あたかも菅直人前首相が反対したかのような報道がつづい
た。
(実際には、そういった事実はまったくなく、海水注入はそのままつづけられていた。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

去る2012年1月3日に書いた原稿を、再掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【菅直人前首相、吉田昌郎所長、ありがとう!】

●励まし

 昨日(01月01日)、何通かのメールが届いた。
うち1通を、ここで、そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【KO氏より、はやし浩司へ】

貴兄のブログで菅前首相、吉田前工場長を絶賛されているので驚き、嬉しく思いました。
特に菅前首相は史上最悪の首相と様々な分野で評価されていますので。

私は東工大機械工学卒で菅さんの後輩、吉田さんの先輩に当たります。
菅さんも自分の行為は歴史が評価するというようなことを言っていますが、まさにそういうことに
なるのだと思います。
私は早期退職、セミリタイア状況で、技術アドバイザーとして週に2日程度活動しております。
また高校OB会の地元の会長をやって(やらされて)おります。
原発関係ではあの清水前社長や天野IAEA事務局長が、高校先輩になります。

宇宙飛行士の古川さんは後輩ですが、彼のことだけは嬉しいことでした。
環境・エネルギー関係そしてハワイについてのブログをUPしていますので、お時間のある時に
見ていただけたら幸甚です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●励まし

 私は毎日、こういう読者の方たちに支えられている。
またそれがあるからこそ、こうしてものを書くことができる。

KOさん、ありがとうございました!
今年も、がんばります。
よろしくお願いします。

●菅直人前首相

 たいへん恥ずべきことだが、私は「菅直人前首相」を、「管直人前首相」を書いていた。
正しくは、「管」ではなく、「菅」。
KO氏は、以下の私の書いた原稿に、先に転載したコメントを寄せてくれた。
もう一度、そのとき私が書いた原稿を、掲載する。
日付は、2011年09月12日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本を救った、菅直人前首相と吉田昌郎所長

+++++++++++++++++

あの日、あのとき、菅直人前首相は、
日本を救った。
それはまぎれもない事実である。

読売新聞は、以下のように内幕を伝える。

+++++++++++以下、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

 枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所
事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発か
ら全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

 東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済
産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題
に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そ
ういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話した
という。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関
に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見
方を示した。

 菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った。

 枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人
が首相で良かった」と評価した。

+++++++++++以上、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

●菅直人前首相の大英断

 東京工業大学出身の菅直人前首相であったからこそできた、大英断である。
もしあのとき東京電力が、福島第一原発を放棄していたら、菅直人前首相が言うように、「東
京ですら、人っ子1人、いない状態になっていた」。

 もう一度、読売新聞の記事を整理してみる。

(1)東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、
との意向を伝えられたと語った。

(2)が、東電側は、これまで全面撤退の申し出を否定している。

(3)しかし政府側は、東電側が全面撤退を申し出てきたと、全員が認識した。
いわく、『枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有して
いる。そういう言い方だった」と指摘した』と。

 つまり東電側は、そういう言い方をしてきた。
その後の東電側の動きを重ね合わせてみると、東電側は、事故直後早々と、「全面撤退」を考
えていたことがわかる。
「政府側の安全基準を満たしていたから、(私たちには責任はない)」(報道)などという発言も
そのひとつ。

(4)原発の直接責任者である吉田氏は、「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要
との見方を示した。

 これはあとになってわかることだが、吉田氏は、東電側のあいまいな指示を無視、海水を注
入しつづけ、原子炉の爆発を防いだ。
もしあの段階で、吉田氏の英断がなければ、福島第一原発は大惨事を招いていたはず。

(5)ここからがとくに重要。
読売新聞は、つぎのように伝えている。

『菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った』と。

●福島第一原発・吉田昌郎所長

 「The Wall Street Journal」(2011年5月27日)、日本語版は、以下のように伝える。

++++++++++++以下、The Wall Street Journal++++++++++++

本社の停止命令に背いて注水を続けていた福島第1原発の吉田昌郎所長、彼の判断をどう評
価すべきか、社会人としていろいろ考えた人が多かったのではないだろうか。
同所長は、会社の命に背いて注水を続けたことに加え、その報告を怠って政府や国会を混乱
させたことの責任を問われ処分されるという話だ。
昨日、テレビに大写しになった吉田所長は、うつろな顔をしていた。
会社の判断を無視したのは確かだ。
しかし、会社の注水停止判断は、技術者なら誰でも認めるような明らかな間違いだったのだ。
確かに、もう少し早く報告できただろうという気はする。

++++++++++++以上、The Wall Street Journal++++++++++++

 この吉田氏の行為に対して、菅直人前首相は、『視察後、首相が名指しで謝意を表明したの
は東京から同行した武藤栄副社長ではなく、吉田所長だったそうだ』(日本経済新聞・4月8
日)とある。

 なお東京電力側が海水の注入をためらったのは、一度「海水」を注入すると、原子炉そのも
のが使い物にならなくなるからである。
東京電力側は、あの場に及んでも、そんなことを心配していた(?)。

●もしあのとき……

 もしあのとき菅直人前首相ならびに、吉田昌郎所長の英断がなければ、日本は完全に沈没
していた。

 事実を、よく見てほしい。

 100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を
起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。

 電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質
が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(瀬尾試算「原発事故」宝島社)。

 数千発分だぞ!

ちなみに、チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射性物質が放出されたという(京大グル
ープ調査。)

 が、もしあのとき福島第一原発が放棄されていたら、原子炉の爆発は避けられなかった。
それが4機+2機。
つぎつぎと爆発。

 それで計算すると、11万京ベクレルx4=44万京ベクレル※(以上、瀬尾試算、「原発事故」
宝島社)
チェルノブイリの比ではない。
東京都も含めて、東北地方には、人はだれも住めなくなっていた!

 その深刻さを鑑みるにつけ、菅直人前首相、吉田昌郎所長を、日本を救った大英雄と言わ
ずして何という。
ともに東京工業大学出身であったからこそ、こうした判断ができた。
だから、枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間は
あの人が首相で良かった」と評価した。

●後書き

 やがてあの事故が、詳細に検証される日がやってくるだろう。
そしてそれがわかったとき、みな、こう言うにちがいない。

 「菅直人さん、ありがとう! 吉田昌郎さん、ありがとう!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の英雄 日本を救った2人
の英断 瀬尾試算)

以上、2011年09月12日の原稿より

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なぜ、菅直人前首相ではだめだったのか?

 菅直人前総理大臣が、首相の座を降り、ちょうど4か月になる。
(菅直人氏は、2011年09月02日に、内閣総理大臣を辞職。)
が、この4か月、日本は、よくなったのか。
何か、変わったのか。

 現在は、野田佳彦首相が、総理大臣職を引き継いでいる。
が、私はいまだに野田佳彦首相が、どんな人物なのか、よくわからない。
顔が見えてこない。
見えてこないから、批評のしようがない。

ただここで言えることは、野田佳彦首相が、菅直人氏をやめさせてまで、首相になる価値のあ
る人物だったかどうかというになると、私はそうは思わない。

談合政治?
八方美人?
無色透明で、言葉はうまいが、中身がない?
当たり障りのない、無難政治家?
長期政権をねらっている?
こうした(?)マークを、野田佳彦首相には、10個ほど並べたい。

 これはあくまでも仮定の話だが、あの3・11震災時に、もし野田首相が事故を取り仕切って
いたとしたら、この日本はどうなっていたか。
それを想像するだけでも、ぞっとする。
東京電力と保安院の言い分に押され、福島第一原発は、放棄。
そのあと発電所はつぎつぎと爆発、メルトダウン。

 最近になって、事故直後、菅直人前首相が、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという報道
が伝わっている。
「感情をむき出しにするような人物は、首相として失格」と。

 バカヤロー!

 あの時点において、感情をむき出しにしない首相はいない。
むき出しになってくれたからこそ、東京電力側は、菅直人前首相の言うことを聞いた。
菅直人前首相の命令に従った。

 こう書くと、福島県の人たちには申し訳ない。
が、今、福島県以外の人たちが、(私たち静岡県人も含めてだが)、事故以前とほとんど変わ
りない生活ができているのは、菅直人前首相、ならびに吉田昌郎所長のおかげである。
そのことを思えば、ささいなミスや失敗など、腸から出るガスのようなもの。

 菅直人前首相は、「いつか、私の正しさは歴史が証明してくれる」というようなことを言ってい
る。
それはその通りで、その歴史は、すでに今、始まりつつある。
読売新聞(11−09−12)の記事は、それを証明する、貴重な証拠のひとつということになる。
私たちはこの事実を、後世の人たちに伝えていかねばならない。

 菅直人前首相、吉田昌郎所長、あなたがたは日本を救った、大英雄である。
大恩人である。
ありがとう!

(付記)
こんなことは、この場では、どうでもよい話かもしれない。
しかし一言。

 ここに出てくる「東工大」、つまり東京工業大学を設立したのは、恩師の田丸謙二先生の父
親の、田丸節郎である。
田丸節郎は、ベルリン大学に対して、ベルリン工科大学があるのを学び、東京大学に対して、
東京工業大学の設立をもくろんだ。
それに対して、当時の政府は、「東京大学にも、工学部があるだろ」と反対。
しかしその反対を押し切り、田丸節郎は、東工大の設立にこぎつけた。

 もしあのとき、東京工業大学の設立がなかったら……。
というより、田丸節郎のそうした先見の明があったからこそ、現在の日本がある。
先日(2012年4月はじめ)、田丸謙二先生(東大元副学長)が、直接、私にそう話してくれた。
詳しくは、
http://ktamaru.ninja-web.net/
をご覧になっていただきたい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 菅直人首相 英雄 大英断 吉田昌郎 英雄 日本を救った恩人 福島第一原
発事故 はやし浩司 英雄 菅直人 はやし浩司 東京工業大学 東工大 田丸節郎 田丸謙
二先生 瀬尾試算 原発事故 宝島)

(注※瀬尾試算)
「電気出力100万キロワットの原発を数年運転すると、瀬尾試算では、1万3600京ベクレ
ル。
その放射能の量は、俗に広島原発数千発分に相当すると言われている」(「原発事故」宝島
社、P44)と。

なお福島第一原発のばあい、原子炉1機ぶんだけで、100万キロワット。
それが4機だから、この試算の4倍もの、放射能の量があることになる。
その恐ろしさは、簡単な掛け算をしてみれば、わかるはず。
そんな原子炉が、40年近くも稼働していた!
それが爆発した!

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【意識論byはやし浩司】2012年4月11日(水曜日)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『知らぬが仏』という諺がある。
まさに、それ。
たまたま昨年の夏、書斎(2階部にある)の天井裏をのぞいた。
そのときのこと。
巨大なハチの巣があるのがわかった。
縦1・5メートル、横50センチほど。
屋根裏から壁に沿って、大きなつららのようにぶらさがっていた。

通常見かけるスズメバチの巣とは違い、外側の殻はなかった。
内部がそのままむき出しになっていた。
が、幸い、もぬけの殻。
ハチはいなかった。

「?」と思いながら、理由を考えた。
で、ひとつ思い当たるのは、数年前のこと。
家の内外で、ゴキブリがたくさん出没するようになった。
そこで発煙式のゴキブリ退治薬を家中でたいた。
全部で、7〜8個は使っただろうか。
一度に、一斉にしなければ意味がないだろうということで、天井から床下まで、一気にした。
もちろんこの書斎の上の天井でも、たいた。
たぶんそのとき、巣の中のハチは全滅したのだろう。
それにしても、あぶなかった。
知らないでいたら、ハチの大群の襲われていたかもしれない。
今にして思うと、そういうことになる。

で、今朝、その巣をワイフに見せてやった。
が、またまた不思議なことが起きていた。
昨年の夏に見たときには、巨大な巣だったはず。
それが、8割ほど、消えていた。
屋根裏に少し張りついて、その残がいが残っているだけ。
下へ落下した形跡もない。
「?」と思ったが、理由がわからない。

「ハチというのは、巣をリサイクルするのよ」とワイフ。
そうかもしれない。
もしそうなら、ハチはその巣をどこかへ移したのかもしれない。
それにしても、『知らぬが仏』。
私たちの生活は、いつも、そうした危険にさらされている。
改めて、それを確認した。

今朝は、常識→意識→哲学について考えてみた。

***************************

以下、思いついたまま書いたので、内容がバラバラです。
つまり支離滅裂。
その点をどうかご留意の上、お読み下さい。

***************************

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【常識→意識→哲学】

●国によってちがう意識

 その人がもっている意識ほど、アテにならないものはない。
人だけではない。
国がもっている意識にしても、そうだ。
言い換えると、私の意識ですらも、アテにならない。
この日本がもっている意識にしても、そうだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●とっかかり

 ニュースは、北朝鮮のミサイル発射実験一色。
ロイター伝によれば、「11日中(今日)に発射準備は完了する」という。
詳細はよくわからないが、燃料注入が今日中にすむということか。
もしそうなら、ミサイルの発射は、明日もしくは、この数日中ということになる。
(日本のマスコミは、12日説、ロシアのマスコミは、14日説を唱えている。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●管制室

 昨日の中日新聞は、ミサイルの発射を管制する管制室の写真を掲載していた。
中央の通路をはさんで、左右に2列、前後に2列。
計4個の机。
その上に3台ずつのモニターとキーボード。
計12台。
(台湾のACER製のモニターということが、わかっている。)

まことにもって、「?」な写真で、あえて分析するまでもない。
全面の壁には、5つのモニターが映し出されていたが、よく見ると、その映像も、プロジャクター
によるもの(?)。
プロジェクターらしきものは、天井に2台、机の前列に2台、それに部屋の中央後方部に1台、
設置してある。

 奇妙なのは、パソコン。
机の上には、12台のモニターとキーボードがあるのみ。
パソコン本体は、どこにも見当たらない。
しかもコードというコード類が、どこにもない?
あるとすれば、モニターとキーボードをつなぐコードと、先に書いた、中央広報部にあるプロジェ
クターのコードのみ。
そのコードも、コンセントが見えるほど、お粗末なもの。

 コンピューター本体は、どこにあるのだろう?
机は木製ということだから、机の中にあることになるのか。
もしそうなら、コンピューターにとって、これほどまでに劣悪な環境はない。
コンピューターを木箱で包むなどというのは、常識で考えてもありえない。

 ……という分析は、しても意味がない。
写真で紹介された管制室は、ニセモノ。

●狂う

 一事が万事。
思考回路というのは一度狂うと、あらゆる場面で、狂う。
北朝鮮のやることは、何から何まで、おかしい。
へん。
人工衛星なるものにしてもそうだ。
「宇宙から、音楽くらいは流せるだろう」(某専門家談)という程度。
カメラは小型。
ブースターだけが、異常に大きい。
そんな程度のもので、「人工衛星」という。
しかしそれがニセモノであることは、私のような素人でもわかる。

こうして考えてみると、「国」という巨大な組織体も、狂うときには狂う。
……ということがわかる。
北朝鮮を通して、私たちは今、それをまさに実体験として、経験している。
が、ここで注意しなければならない。
では、この日本という国が、「狂っていないか」というと、それはどうか?
私自身は、「狂っていない」と断言する勇気はない。

●茶髪の日本人

 つまり意識というのは、そういうもの。
北朝鮮から見れば、私たち日本のほうが、狂っているということになる。
どこがどう……という話になったら、話が大きく広がってしまう。
ここには書ききれない。
たとえば少し前だが、ある北朝鮮の女子学生は、こう言った。
茶髪姿の日本人の写真を見せたときのこと。
「どうして黒い髪の毛を、わざわざ茶髪にするのか?」(テレビ報道番組)と。

 彼らにしてみれば、日本人の生活の、ありとあらゆる部分が狂って見えるにちがいない。
もちろん日本人の中にも、頭のおかしい人は、いくらでもいる。
北朝鮮の祭典に招待され、北京の空港で、こう答えた女性がいる。

 「あの国の人たちは、一生懸命がんばっています」「あれは人工衛星ですよ。日本人は大騒
ぎしすぎですわ」(報道番組の記憶)と。

 こういう女性には、日本が今、どういう危機的状況の上に立たされているか。
それがまったく理解できないらしい。
あるいは北朝鮮の一般の庶民が今、飢餓の中でどれほど苦しんでいるか。
それがまったく理解できないらしい。
さらに言えば、国際連合という機関は何のためにあるのか。
それがまったく理解できないらしい。

 要するに、ノーブレイン(=脳みそがない)!
が、それも彼女がもつ意識。
そういうふうに理解すれば、彼女の言動にも、一理ある。……ということになる。

●自分の常識を疑う

 意識というのは、その個人がもつ常識を基盤とする。
その意識を理論化もしくは、体系化したのが、哲学ということになる。
(哲学にまで完成させる人は、少ないが……。)

わかりやすく言えば、その人がもつ意識というのは、その人がもつ常識から生まれる。
北朝鮮の人たちがもつ常識は、北朝鮮の人たちがもつ常識。
私たち日本人がもつ常識は、私たち日本人がもつ常識。
「私は正しい」「あなたはまちがっている」と議論しても、意味はない。
議論をいくら重ねても、平行線になるだけ。

 では、方法はないのか?

 大切なことは、相手がもつ常識を否定したり、変えてやろうなどとは、思わないこと。
大切なことは、自分がもつ常識を疑うこと。
相手の目を通して、自分の常識を見つめなおしてみること。

 「私たちの常識は、本当に正しいのか?」と。
こちらが疑えば、相手も、疑う。
それが会話の突破口になる。

●常識

 実のところ、冒頭に書いたように、私たちが常識と思っている常識ほど、あてにならないもの
はない。

 たまたまMSNニュースに、こんな記事が載っていた。

『2012年4月9日、日本の華字紙『中文導報』は、財団法人日本青少年研究所が日米中韓の高
校生を対象に行った生活と留学への意識調査を報じた。
海外留学を希望する比率が中国では6割に達しているのに対し、日本では4割にとどまった。 
日本の高校生の留学目的は「語学の習得」が最多で、「学位取得」「専門技術・資格取得」を希
望する比率が低く、短期間指向で、「よりよい教育環境を求めたい」も4カ国中最低だった。
米中韓では「学位取得」が最多で、「2年以上」を希望する比率が高かった。 
日本の高校生が留学をしたくない理由は「自分の国が暮らしやすい」「言葉の壁」「自信がな
い」という回答が多く、「面倒だから」が4カ国中最多で、米中韓の高校生に比べて内向き志向
が強い。 
希望の留学先は日中韓ともアメリカがダントツの1位で、2位はイギリス、米中韓の高校生はい
ずれも留学希望先として日本を6位に挙げた。 
また、「大事にしていること」については、中国の高校生が「親に自分をわかってもらう」「先生
に理解される」ことを大切にし、「希望の大学に入学」も韓国に並ぶ高率だった。
米国の高校生は「友人関係」「異性関係」「競技で活躍する」が際だって高い。
日本の高校生は全項目で比率が低く、「家族が仲良くする」「先生に理解される」「親に自分を
わかってもらう」の比率は米中韓に比して著しく低い。 
日本青少年研究所は今回の調査について、日本の高校生は学習の成績と自分の将来の関
係性が低いと考えているため、「大衆文化」「クラブ活動」「流行」への関心が高いのではないか
と分析している。
授業以外に勉強をしない割合も34.3%と4カ国中最も高く、日本の高校生の学習に対する消
極性が反映されたものとなった』(以上、MSNニュース、2012年4月10日)と。

 資料として、数字を整理してみる。

●整理

海外留学を希望する比率が中国……6割
日本……4割

日本の高校生が留学をしたくない理由は、
「自分の国が暮らしやすい」
「言葉の壁」
「自信がない」「面倒だから」
が4カ国中最多で、米中韓の高校生に比べて内向き志向が強い。 

希望の留学先は日中韓ともアメリカがダントツの1位。
2位はイギリス、
米中韓の高校生はいずれも留学希望先として日本を6位に挙げた。 

日本青少年研究所は今回の調査について、日本の高校生は学習の成績と自分の将来の関
係性が低いと考えているため、「大衆文化」「クラブ活動」「流行」への関心が高いのではないか
と分析している。

日本……授業以外に勉強をしない割合も34.3%と4カ国中最も高い。

●消極性

 この記事の中で、個人的には、つぎの部分が、気になった。

『日本の高校生が留学をしたくない理由は「自分の国が暮らしやすい」「言葉の壁」「自信がな
い」という回答が多く、「面倒だから」が4カ国中最多で、米中韓の高校生に比べて内向き志向
が強い』という部分。

 驚くと同時に、「時代も変わった」と、実感した。

●17万5000円

 私が学生時代もっていた意識とは、180度ちがう。
私たちは、まだ見ぬ外国に、強いあこがれをもった。
夢も抱いた。
(そう思っていたのは、私だけだったかもしれないが……。)

 当時の料金をよく覚えている。

 ニューヨーク→羽田の、航空運賃が、片道、17万5000円。
アメリカ人の大卒の初任給が、ほぼ同額。
それを知ったとき、私はこう思った。

「アメリカ人というのは、初任給だけで、日本へ来られるのか!」と。
アメリカの豊かさに、まずもって、驚いた。
なお当時の大卒の初任給は、4〜5万円。
5万円というところは、外資系か化粧品メーカーくらいなものだった。

 もちろん手取り額は、それからさらに5000〜8000円、引かれる。
だから日本人がニューヨークへ行こうとすれば、約5か月間、飲まず食わずで、働かねばなら
ない。

 ……私は、いつも、そんな計算ばかりしていた。
が、今はちがう。
高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。

 つまり時代によっても、意識は変化する。

●バランス感覚

 もう少しわかりやすく言えば、「常識とは、バランス感覚」と言い換えてもよい。
私の意識、他人の意識。
その間にあって、うまく、バランスを保つ。
その感覚が、常識ということになる。

 たとえば最近、たいへん気になった事件にこんなのがある。

 ある男性(77歳)が、信号を無視して横断歩道を渡ってきた、40代の男性を注意した。
それに対して、40代の男性が、逆ギレ。
注意した男性(77歳)を殴り倒した。
結果的に、その男性(77歳)は、死んでしまった。

 が、これに対して、2チャンネルへの書き込みには、目を覆うものがあった。
6〜7割の若い人たちは、「注意した男性(77歳)のほうが悪い」という意見を書いていた。
「みなの前で恥をかかせたのだから、悪い」とか、「俺だって、殴り倒してやるだろう」とか、な
ど。

 が、(注意する)という行為と、(殴り倒す)という行為の間には、大きな差がある。
もし逆ギレした男性に、バランス感覚があれば、殴るという行為に走る前に、逆に、言葉で言い
返すという方法もあったはず。
つまりそれがここでいう「バランス感覚」。

 また2チャンネルに意見を寄せた若い人たちにしてもそうだ。
たとえば「みなの前で恥をかかせた男性(77歳)が悪い」という意見にしても、ものの考え方
が、極端化している。
つまりバランス感覚が欠落している。

 私には私の意識がある。
人には人の意識がある。
その中で、じょうずにバランスをとりながら、ものを考え、行動する。
それができる人のことを、「常識のある人」という。
そうでない人は、そうでない。

●組織

 話を戻す。

 意識を変えるためには、常識を疑う。
が、その一方で、こういうこともある。

 たとえば同窓会。
ときどき会っている同窓生は別として、そうでない同窓生のばあい、会って話しても、たがいの
間に、大きな壁を感ずることが多い。
もっとも私の方が異端児だから、私のほうが、奇異な目で見られる。
それを逆に、私自身が感ずることがある。
中には、露骨に、「お前は、変わっているなあ」という仲間もいる。

 そういうとき、居心地は、あまりよくない。
つまりこの日本では、どこかの組織に属していないと、相手にされない。
またその組織における肩書や地位で、相手を判断する。

友「お前は何をしている」
私「うん、いろいろな仕事をしている」
友「いろいろって……?」
私「ものを書いたり、教えたり……」
友「だから、どんな仕事だ?」
私「だから、……一口では言えないよ」と。

 友は友で、最終的には、私が所属している会社名や組織名を聞きたがる。
またそれを話さないと、相手は安心しない。 

 が、欧米では、そういうことはない。
たとえば「どんな仕事をしていますか」などと聞くと、「印刷工」などと答えたりする。
日本のように、「毎日新聞社です」とか、そういうふうには、答えない。
会社名を口にすることは、めったにない。

 今でこそ欧米心もまねをするようになったが、1970年当時は、そうではなかった。
オーストラリア人にしても、日本人がもっている名刺を、理解できなかった。
日本人は、会社名と肩書を並べ、その横に、自分の名前を書いていた。

 私はそのころから、日本の常識とは別の世界に住んでいた。

●身分制度(上下意識)

 北朝鮮の人には、北朝鮮の人なりの常識がある。
伝え聞くところによると、身分(成分)制度(=上下意識)が、きわめて厳格という。
その様子は、今回のミサイル発射実験の様子を見ていても、よくわかる。

 担当者の、あの尊大ぶった様子と態度。
ズル賢そうな目つきと、ものの言い方。
謙虚さというか、人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにも感じられない。
ああいう担当者にかぎって、目上の人には、異常なまでにペコペコする。

 階級社会に長く住んでいると、人間は、みな、そうなるらしい。
そこはまさに動物の世界。
徹底した上下意識だけが、その社会を支配する。
私も、この日本で、それを経験している。
以前、こんな原稿を書いたことがあった。

 日付は明白ではないが、2001年ごろに書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人間は裸で生きる

(自分の人生を生きるための大鉄則)

 S氏は、死ぬまで肩書きをぶらさげて歩いているような人だった。
退職するときには、県の機関の「長」をしていたが、退職後はもっぱら庭いじりと旅行が趣味。

葬式から帰ってきた母は、一言、「あんなさみしい葬式はなかった」ともらした。

 日本で「偉い人」というときは、地位や肩書きのある人をいう。
地位や肩書きのない人は、あまり偉い人とは言わない。
一方、英語国では、「偉い人」と言うようなときには、「尊敬される人」と言う。
地位や肩書きは、ほとんど関係ない。
よく似た言葉だが、偉い人と尊敬される人の間には、越えがたいほど、大きな谷がある。

 S氏は、人と会うと、必ずこう言った。
「君は何をしているかね」と。
退職した人に向かっては、「何をしていたかね」と。
そして自分より地位が高い人には、必要以上にペコペコし、そうでない人には、いばってみせ
た。

私にもこう言ったことがある。「君はどうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなか
ったんだろ」と。
私が「幼稚園で働いています」と言ったときのことである。

 「出世主義が、日本をここまで発展させた」と言う人がいる。
それなりの地位についた人が、好んで使う言葉だ。
しかし本音は、そういう言い方でもしないと、自分を正当化できないからだ。
出世主義を否定するということは、そのまま自分を否定することになる。
しかし悲劇は、さらに続く。

 一度その地位や肩書きを手に入れた人は、その地位や肩書きにしがみつく。
そしてそれを失うことを、何よりも恐れる。
それはもう、あわれとしか言いようがない。

私と議論したことのある評論家は、メールでこう言ってきた。
「君は偉そうなことを言うが、文部科学省あたりから地位が回ってくれば、シッポを振るタイプで
はないのかね」と。
こういう言い方をすること自体、自分の生きザマを否定しているようなものだ。

 人間は裸で生まれる。
が、裸では生きられない。
それはわかるが、しかしいくら服を着ても、それは服。
決して自分自身ではない。
こんなわかりきったことが、長い間服を着ているとわからなくなる。
服の姿が自分の本当の姿だと思い込むようになる。
そして結局は自分の本当の姿を見失ってしまう。
人生をムダにする。 

 人間は裸で生きる。いくら服を着ても、裸で生きる。
これは自分の人生を生きるための、大原則ではないのか。S氏の話を母から聞きながら、私
はそう思った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 話が広がってしまったが、意識というのは、そういうもの。
それぞれがそれぞれの意識をもっている。
その意識の上で、ものを考え、意見を述べる。

 そこでまず、自分の常識を疑う。
けっして自分の常識を、相手に押しつけてはいけない。
そういう謙虚さが、繰り返しになるが、たがいの心に風穴をあける。

●それにしても……?

 が、それにしてもわからないのが、北朝鮮?
北朝鮮のそれは、どうにもこうにも、私には理解できない。
できるだけ私の常識を疑い、謙虚な気持ちで考えてみるのだが、それでも私には理解できな
い。

国民は飢え、日々の食物にさえ困っている。

 そんなときに、一部の独裁者が、自らの保身のために、ミサイルの発射実験をする。
核実験をする。
それでもって、「我が国はすばらしい国」と国民に向かって、宣伝する。
外国に向かっては、脅し、それでもって、援助を得ようとする。
「ほかにやるべきことがあるだろう」と言っても、それを聞く耳さえない。

 また彼らが称する人工衛星しても、世界レベルからしても、半世紀は遅れている。
そんなヒマがあったら、ブラウン管方式のテレビ受像機でも作ればよい。
まず、そこからスタートすればよい。
……と私は考えるが、そういう(常識)は、通じない。

 その常識が、あまりにも、私たちのそれとかけ離れている。
理解の範囲を超えている。
だから私たちは、みな、こう言う。
「狂っている」と。

●実験

 ともあれ、ミサイル発射実験は、失敗する。
少なくとも、人工衛星発射実験は失敗する。
もともと人工衛星なるものは、積んでいない(?)。
(どの程度を成功といい、どの程度を失敗というかについては、判断が分かれるところだが…
…。)

 今回、アメリカがその方法を使うとは思われないが、アメリカは、衛星からレザー攻撃を加え
たり、ロケットの制御装置をかく乱する技術を、すでにもっている。
「あえて使うほどもない」と考えていれば、曲がりなりにも、ミサイルは飛ぶ。
が、飛んでおしまい。

 まさに一事が万事。
が、最後に一言。

 北朝鮮の人たちよ、一度、世界へ出て、世界が今、どうなっているか、見物でもしてきたらよ
い。
たとえば今日(4月11日)、アメリカの軍港から、超高性能のレーダーを積んだ船が出港したと
いう。
記事によれば、4000キロ離れたところにある、野球のボールさえ、見分けることができるとい
う。
直球かカーブかさえ、見分けることができるという。
世界の技術は、そこまで進んでいる。
そんなとき、ミサイル1発打ち上げたくらいで、「大成果」とはしゃいでいるほうが、おかしい。
明らかに、北朝鮮の為政者たちのもっている常識は狂っている。

 ……以上、どこかバラバラなエッセーになってしまった。
北朝鮮のミサイル発射実験をテーマに、常識、それから生まれる意識について、考えてみた。

 私たちがもっている常識は、果たして正常なのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 バランス感覚 常識 意識 哲
学)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【極東情勢・論理的分析】(この原稿は、2012年4月12日の夜に書いたものです。)

●発射延期?

 12日(2012年4月12日、本日)と思われていた、北朝鮮のミサイル発射実験が、どうやら1
4日になりそうな気配になってきた。
表向きの理由は、『点火用燃料(始動燃料)の注入が、まだすんでいない』※(中央日報紙)と
のこと。

(注※)『この消息筋は、ミサイル推進体への燃料注入は11日に終わったが、点火用燃料(始
動燃料)の注入が済んでいないとした上で、「始動燃料は発射の1日前に注入される」と述べ
た。
13日に点火用燃料を注入し、14日に打ち上げられると予想した』(韓国・中央日報)と。

●論理

 現在の北朝鮮を取り巻く、極東アジア情勢を、論理的に分析してみよう。

(1)北朝鮮は、今回のミサイル発射実験は、ミサイルではなく、人工衛星を打ち上げるための
ものだと、かねてから強く主張している。

(2)その人工衛星について、各国の専門家は、人工衛星ではないのではないかと疑問を抱い
ている。

とくに韓国は、「おもちゃ」と断言している。

(3)アメリカと韓国は、ミサイル本体はもちろん、人工衛星の打ち上げに失敗したばあいには、
人工衛星そのものを回収すると、明言している。

(4)これに対して、北朝鮮側は、ミサイル本体はもちろん、人工衛星の回収作業を始めたら、
即、(軍事的)報復を加えると述べている(朝鮮中央放送)。

●まずい!

 ミサイル発射実験の失敗はもちろん、それ以上に、人工衛星本体が、それによってアメリカ
側の手に渡ったとしたら……?
北朝鮮にとって、これはほど、(まずいこと)はない。
赤恥をかくだけでは、すまない。
「人工衛星説」が総崩れになるだけでは、すまない。
国連安保理による北朝鮮への制裁決議を、まともに受けることになる。

 そこで北朝鮮は、「(軍事的)報復」という言葉を使っている。
が、ここで論理の第1歩が、入り口のところで矛盾する。

 どうして回収作業に対して、(軍事的)報復なのか?
ふつうなら、こう言う。
「回収したら、それは我が国の所有物だから、すみやかに返還を求める」と。

なぜ北朝鮮が、かくも強硬な言葉を使い、回収作業を警戒するのか。
理由は言うまでもなく、積んであるのが、ただの「おもちゃ」(韓国政府)であることを、北朝鮮自
身がよく知っているからにほかならない。

●ヒドラジン

 なぜ、12日の予定が、14日(?)に、延期されたか。
その前に、「ヒドラジン」なるミサイル用燃料について、調べておきたい。
日本のH2Aロケットなどは、液体水素を燃料に使っている。
が、液体水素は、製造するのに手間もかかるし、扱い方も難しい。
そこで、「ヒドラジン」。

 ヒドラジンについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『アンモニアに似た刺激臭を持つ無色の液体で、空気に触れると白煙を生じる。
水に易溶。強い還元性を持ち、分解しやすい。
引火性があり、ロケットや航空機の燃料として用いられる。
常温での保存が可能であるため、ロシアなどのミサイルの燃料としても広く用いられており、ま
た人工衛星や宇宙探査機の姿勢制御用の燃料としても使われている』(以上、ウィキペディア
百科事典)と。

 「常温での保存が可能である」という点が、とくに重要である。
液体水素は、『水素原子や水素分子はあまりにも小さいため、金属容器に詰めてもその金属
内部に浸透してゆき金属を劣化させる水素脆化を引き起こすので現状では長期保管が困難
である』(ウィキペディア百科事典)という点で、長期保管には向かない。

 ミサイルなどのような緊急性を必要とするようなロケットには、液体水素は向かない。
さらに北朝鮮のような周囲科学、周囲技術が、恐ろしく貧弱な国にあっては、液体水素そのも
のが、製造できない。
加えて現在の製造方法では、アルミニウムの精錬と同じ程度の、多量の電力を必要とする。
北朝鮮では、その電力そのものが、不足している。

●2つの可能性

 なぜ、12日が、14日になったか?

 それについては、冒頭で、2つの可能性を書いた。
が、実は、もうひとつの可能性がある。
それを暗示するのが、つぎの記事である。

『【ソウル聯合ニュース】韓国政府は12日、北朝鮮の「衛星」打ち上げと主張する長距離弾道ミ
サイル発射に備え、国民の安全と有事の際の迅速な対応に向け「全行政機関に公務員の勤
務紀綱確立のための指針を通告した」と明らかにした。

 指針では全行政機関が当直勤務を徹底し、非常連絡体制を維持するよう求めた。
また、有事に備え危機管理状況室の運営を準備するほか、関係機関の協力、重要施設の警
戒・警備の強化を促した』(韓国・中央日報・4月12日)と。

 つまり韓国政府は、「非常連絡体制」を、全行政機関に敷いた、と。

 いったい、これは何を意味するのか。
たかがミサイル一発程度のことで、しかも、北朝鮮側の主張によれば、たかが人工衛星一個
の打ち上げ程度のことで、「非常連絡体制」とは?

●非常連絡体制

 この「非常連絡体制」を裏側から読むと、こうなる。
つまり韓国政府側は、北朝鮮側の異常な動きを、すでに察知している、と。
その異常な動きに対して、韓国政府側は、「非常連絡体制」を敷いた。

 この時点では、まだ「戦時体制」とか、「戒厳令」とかいう言葉は使えない。
(本当は、そういう言葉を使いたいのだろうが……。)
そういう言葉を使えば、かえって北朝鮮を刺激してしまうことになりかねない。

 原則論を先に言えば、韓国にしても、北朝鮮との戦争は、避けたい。

●シナリオ

 最悪のシナリオはこうだ。

(1)ミサイルの発射実験が、失敗する。
(2)アメリカと韓国は、弾頭部の回収作業を開始する。
(3)北朝鮮側は、それを阻止しよと、軍事的妨害工作を加える。
(4)アメリカと韓国は、それに対して、報復攻撃を加える。
(5)一気に、戦局が拡大する。

 そこで北朝鮮としては、今回のミサイル発射実験を、100%、成功させなければならない。
おもちゃでも何でもよいから、宇宙に、飛翔体を打ち上げなければならない。
しかし「100%」というのは、難しい。
何かの報道によれば、「成功率は95%」という数字も出ている。
根拠はわからないが、北朝鮮にすれば、残りの「5%」でも、恐ろしい。

言い換えると、その「5%」が解消されないかぎり、北朝鮮は、最後の発射ボタンを押すことが
できない。
さらに言い換えると、その「5%」がある以上、北朝鮮は、同時に報復攻撃の準備を始めなけ
ればならない。

 その動きを、韓国側が、察知した。
先に書いた、「非常連絡体制」というのは、それをいう。

●人民日報

 ついでに北朝鮮内部から、今回のミサイル発射実験をながめてみよう。
北朝鮮にとって、今回のミサイル発射実験は、どういう意味があるのか。

 
中国・人民日報は、つぎのように報道している。

『……2012年4月11日、数日内にも発射すると考えられている北朝鮮の弾道ミサイルについ
て、北朝鮮はこの日、海外メディアの記者ら100人以上を招いて管制センターの様子を公開し
た。

 アメリカAP通信、仏AFP通信、英ロイター通信、そして共同通信など各国の記者100人超が
集められ、4台のバスに分乗して、平壌の北西20kmにある「平壌衛星管制総合指揮所」を視
察した。同指揮所の白正浩(Paek Chung Ho)所長によると、今回のメディア公開は「北朝鮮最
高指導者・金正恩氏の特別な指示によるもの」であり、公正で客観的な報道を求めた。

 白所長は今回の"衛星"打ち上げに際して非常に感激し、また緊張を感じているが、「衛星発
射は必ず成功する、なぜならば金正恩氏がすべてのプロセスにおいて自ら指揮を執られてい
るからだ」と自信を交えて語ったという』と。

●官僚主義

 この日本では、役人と呼ばれる人たちが、自らの失政に対して、責任を取った例はない。
(もちろん刑事犯、ハレンチ罪は別である。)
それが官僚主義と呼ばれる所以(ゆえん)の一つでもある。

 そこで役人たちは、何をするにも、他方で、万が一のために、責任逃れの方便を用意する。
そのひとつ……というか、その典型的な例が、先の、平壌衛星管制総合指揮所の同指揮所の
白正浩(Paek Chung Ho)所長の言葉。
注意深く読んでみてほしい、
こうある。

「衛星発射は必ず成功する、なぜならば金正恩氏がすべてのプロセスにおいて自ら指揮を執
られているからだ」と。

 実に巧みな言葉である。
一見、金正恩を称賛しながら、万が一にも失敗しても、それは私の責任ではない。
金正恩の責任である、と。
 もちろんミサイルの発射実験が成功すれば、白正浩は、大英雄として称えられるであろう。
が、もし失敗すれば……。
はたしてそうはうまくいくか?
つまり白正浩の思惑通りにいくか?

 白正浩のこの言葉は、まさに両刃の剣。
もし失敗すれば、「すべての責任を、金正恩になすりつける用意をしていた」という罪で、ひょっ
としたら銃殺刑に処せられるかもしれない。

 話はそれたが、官僚主義がどういうものかわかってほしかったから、白正浩の言葉を例にあ
げてみた。
なおほかの報道では、白正浩は、「100%」という言葉を使っている。
「100%、成功する」と。

●さて、どうなるか?

 さて、明日は、どうなるか?
今夜も、私はワイフと、賭けをした。
「お前は、失敗するほうに賭けるか、それとも成功するほうに賭けるか」と。

 ワイフはあっさりと、「失敗するに決まっているわ」と。

私「失敗といってもだよ、レベルがあるよ」
ワ「そうね……」
私「飛ぶには飛んだが、人工衛星なるものが、宇宙にあがらなかったとしたら、失敗だよ」ワ
「北朝鮮は、それでも成功と発表するでしょうね」と。

 私は、失敗するとみている。
そう思う根拠は、あのロケット。
報道された映像を見ると、ロケットの表面が、どこかボコボコ。
白く色は塗ってあるが、塗りむらさえ、わかる。
超精密機械であるはずのロケットが、ボコボコ?
色むら?
いくら使い捨てのミサイルでも、あまりにもお粗末。
内部構造も、その程度と考えてよい。

 ともあれ、私は失敗を望む。
北朝鮮が、赤恥をかくことを望む。
14日は、ただひたすら注視あるのみ。
もし失敗したら、ワイフと2人で、養命酒で乾杯!

【4月13日、追記】2012年4月13日記

 北朝鮮のミサイル発射実験は、みごとに、失敗した。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【BW教室byはやし浩司・始動!】

 まだ本調子ではない。
しかし何とか、今年度も活動開始!

(新年中児クラス)
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(新小2児+1児クラス)
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(新小2児+3児クラス)
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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●どうして焼津市で???????

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先週、私とワイフは、焼津市へ行ってきた。
その焼津市にある、焼津さなかセンターで、海鮮どんぶりを食べてきた。
それもあって、つぎのニュースを読み、ギョッとした。

何でも『(焼津市で)昨年8月にかつお節を作る際に燃やした薪の灰から、焼却灰の暫定規制
値(1キログラムあたり8000ベクレル)を超える、最大1万3300ベクレルの放射性セシウム
が検出されていたと発表した』※(中日新聞・2012年4月13日)というのだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●福島県産の薪(まき)

 中日新聞は、こう報道している。

『福島県会津若松産や北関東産の材木などが混在した状態で使用』と。

 少し前、横浜市で販売されていたシイタケから、高濃度の放射性物質が検出された。
加工業者(袋詰め業者)は、藤枝市のX食品会社。
シイタケそのものは、岩手県産であったという。
それを横浜市内のスーパーで販売していた。

 が、こういうニュースを聞くたびに、こう思う。
どうしてこの静岡県で、福島県産の薪を使ったり、岩手県産のシイタケを、袋詰めにしたりする
のだろうか、と。
いろいろと事情はあるのだろう。
それはわかる。
それに何も、福島県産のものが、みながみな、放射能汚染されているというわけではない。
それはわかる。
しかしこういう形で、福島第一原発を発生源とする放射性物質が、全国に拡散されていく。
どんどんと広がっていく。
それに私は、恐怖すら覚える。
こんなことを繰り返していたら、放射性物質が全国に拡散されていくのみならず、福島県および
東北各県の生産物は、ことごとく信用を失う。

 検査といっても、たまたま検査にひかかったという話にすぎない。
国がどの分野について、どの程度、検査をしているのかは知らない。
しかしそうした検査から、漏れ出た生産物も多いはず。
薪もそのひとつ。
私も、「まさか!」と思った。
まさか、薪まで汚染されていたとは!

●たまたま……

 ほとんどの人は、心を痛めている。
ほとんどの人は、善良な人たちである。
善良な生産業者の人たちに、流通業者の人たち。

が、中には、そうでない人たちもいる。
放射能汚染地域の生産物を安く買いたたき、遠く離れた地域で、こっそりと販売している。
が、ショッピングセンターのような店では売れない。
産地を表示しなければならない。
そこでそうした業者は、産地表示の義務のない、旅館やホテル、食品加工業社に販売してい
る。

 たとえばつい先日(4月はじめ)は、何と愛知県の岡崎市で、高濃度に汚染されたシイタケが
見つかっている。
しかも幼稚園の給食に出されていたという。

 たまたまその幼稚園に子どもを通わせる父母が、自分で調べてみたら、発見されたという。
(「たまたま」だぞ!)
どうして東北地方で生産されたシイタケが、愛知県の岡崎市にまで来ているのか?
ほかに産地偽装の問題も、すでに発覚している(2011年)。

 それぞれの生産者の人たちに責任があるわけではない。
また責任を追及しているわけでもない。
こういう報道がなされるたびに、いちばんやりきれない思いにさせられるのは、善良な生産業
者の人たちだろう。
それはわかる。

 しかし今、この日本を放射能汚染から守るのは、そうした生産業者の良心でしかない。
流通業者の良心でしかない。
また私たちは、それを信ずるしかない。
が、その信頼感があやしくなったとしたら、私たちは何をどう信ずればよいのか。

 方法としては、つまりそういう形で、ジワジワと汚染が進むようであれば、「できるだけ、あやし
い食品は口にしない」ということになる。
被害が及ぶとしても、最小限に抑えたい。
言い換えると、東北産の生産物を食べたり使用したりするのは、できるだけ、避けたい。
そうなってしまう。
が、そうなれなったで、結局は、困るのは、東北地方の人たちということになる。
善良な生産業者の人たちということになる。

●終わりに

 この先も、こうした事例は、頻発するにちがいない。
おもいがけない生産物から、「たまたま」発見される。
そういう事例がふえるにちがいない。

 となると、いったい、私たち日本人は、どうやって、自分の健康と命を守ったらよいのか。
ただただ何ともやりきれない無力感だけが、残る。

(注※)(中日新聞の記事より)
『……焼津市でかつお節を製造する焼津鰹節組合水産加工業協同組合と協同組合焼津水産
加工センターは12日、昨年8月にかつお節を作る際に燃やした薪の灰から、焼却灰の暫定規
制値(1キログラムあたり8000ベクレル)を超える最大1万3300ベクレルの放射性セシウム
が検出されていたと発表した。
 1万3300ベクレルの灰を埋め立て処分する作業を1年間した場合、従業員の被ばく量は年
間約1・3ミリシーベルトとなり、一般の許容限度とされる1ミリシーベルトを超える。
 ただ組合とセンターが同時期に製造したかつお節の検査で放射性セシウムは検出されず、
全国に流通している』(以上、中日新聞の記事より)と。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【疑わしきは罰する】(はやし浩司 2012ー04−14)

●映画『バトルシップ』を見て、ダイワロイネットホテルに1泊

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

数日前、映画『スーパーチューズディ』を見てきた。
大統領選挙を裏側から描いた映画。
が、だれがどう見ても、あの映画は、クリントン元大統領がモデル?
あるいはクリントン元大統領のスキャンダルから、発想を得た映画?
映画を見ながら、そんなことを考えた。

主役の大統領候補は、アーカンソー州の州知事。
クリントン元大統領も、アーカンソー州の、元知事。
年齢設定も、ほぼ同じ。
「大統領といっても、あんなものだろうな」と思いながら、映画を見た。

で、今夜は、仕事が終わってから、『バトルシップ』を見てくる。
午後9時20分始まりの、深夜劇場。
帰りが遅くなるので、市内のビジネスホテルに一泊する。
帰りは、明日の朝。
楽しみ。

書き忘れたが、『スーパーチューズディ』は、星2つの★★。
ボケ予防には、よい映画。
が、あえて劇場まで足を運んでまで見るような映画ではない。
娯楽映画というよりは、将棋かチェスの名局をのぞくような映画。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●弱み

 『スーパーチューズディ』は、大統領候補と、若い選挙参謀との間に繰り広げられる、確執と
陰謀の映画。
最後は、若い選挙参謀が、大統領候補のスキャンダルを利用し、逆に大統領候補を操るよう
になる。
一見、ありえない映画に見えるが、現実には、ありえる。
ふつうの常識では考えられない世界だが、ありえる。
私の知人にこんな人がいた。
これから私がここに書くことは、内容的には、事実である。

●X氏

 X氏。
職業は不詳としておく。
ただし当時、1日、100万円前後の現金収入のある、実業家だった。
名声もあった。
昼のワイドショーにも、よく顔を出していた。
年齢は、45歳前後(当時)。

 住所は、某県の某市としておく。
現在、その遺族も、1人、その某市に住んでいる。

 私は当時(1970年代の中ごろ)、そのX氏のゴーストライターをしていた。
ゴーストライターという職業(?)の中身については、もう少しあとに書くことにする。
それはともかくも、そのX氏が、ある夜、無免許で車を運転し、当時50歳くらいの女性を、横断
歩道ではねてしまった。

 そこでX氏は、そのままその女性を、知り合いの病院へ運んだ。
幸い、けがはたいしたことはなかった。
X氏は、示談で話をつけようとした。
私の記憶によれば、被害者の女性に、500万円という金額を提示したと思う。
(1970年代の中ごろには、500万円もあれば、家が1軒、買えた。
この金額については、事実。)

 で、そのときX氏は、同時に、秘書をしていたY氏を病院へ呼びつけ、Y氏に身代りになるよう
に頼んだ。
Y氏は、それに応じた。
そのあたりのいきさつには、いろいろあった。
話せば長くなる。
が、ともかくも、そういうことになった。

 つまりこうしてX氏は、その女性には500万円を渡し、他方、Y氏に身代りになってもらうこと
で、自分が起こした交通事故を、闇に葬った。

●前科

 それから30年あまり、たってからのこと。
ちょうど今から1年前。
X氏には、もう1人、運転手として使っていた秘書がいた。
この人物を、Z氏としておく。
私より、3〜4歳、年上である。
そのZ氏と、偶然、本当に偶然、浜松駅で出会った。
「おや」「まあ」と。
そのあと、話がはずんだのは、言うまでもない。
私たちは、そのまま駅前のホテルのロビーに向かった。

 で、そこで聞いた話は、こうだった。

 Y氏は、X氏の身代りになり、そのあと、某市にある交通刑務所に入所した。
ちょうど1年間、いたそうだ。
どうして1年間になったかは知らないが、Y氏には前科があった。
それが刑を予想外に重くしてしまったらしい。
Y氏も、1年もいるつもりはなかった。
罰金刑程度ですむと思っていたらしい。

 で、それについて、Z氏はこう話してくれた。
「そこでX氏はね、1年間服役してくれたら、土地付きの家を買い与えると約束したんだよ」と。
事実、その直後、X氏は、Z氏の妻に、土地付きの家を買い与えている。
私も一度だけだが、その家を訪ねたことがある。

 映画『スーパーチューズディ』と比べると、何ともお粗末、かつチャチな話。
スケールも小さい。
が、現実には、そんな話もある。

(なお、念のために申し添えるなら、X氏は、私が30歳前後のとき、火災事故で死している。
また身代りで交通刑務所へ入ったY氏は、その後、詐欺商法に手を染め、数年間服役したあ
と、2000年ごろ、死去している。)

 だから映画『スーパーチューズディ』を見て、「あんなことはありえない」と思う人も多いかと思
う。
大統領候補ともあろう人物が、自分の弱みを握っている部下と、いっしょに仕事ができるだろう
か、と。
あるいはその(弱み)にいつも、ビクビクしながら、仕事ができるだろうか、と、
が、現実には、できる。
その1例として、X氏の話をここに書いた。

●ゴーストライター

 ゴーストライターというのは、その人物の幽霊(ゴースト)になり、原稿を書く。
自分の魂を削って、それをお金に換える。
が、そのとき、徹底した不文律がある。
ゴーストライターは、けっして、またどんなことがあっても、名乗り出てはいけない。
「魂を売る」ということは、そういうことをいう。

 原稿を書く方法は、いろいろある。

インタビュー形式で話を聞きながら、本にまとめる。
いろいろな資料をまとめて、本にまとめる。
テープレコーダーに吹き込んだ声を、原稿に起こす。
あるいは他人の古い本を種本にし、別の新しい本を書く。

 X氏は、生前、30冊近い本を書いた。
が、そのうち自分で書いた本は、ほんの数冊。
あとは、私のようなゴーストライターが書いた。
ゴーストライターは、私のほかにも、2人、いた。

 映画『スーパーチューズディ』の中にも、大統領候補の原稿を書く男が登場する。
彼もゴーストライターということになる。
が、このゴーストライターという仕事は、直接、その人物の胸中に潜り込むことになる。
必然的にそうなる。
そのため、その人物の私生活そのものに、どっぷりとつかってしまうことも、少なくない。
その人物の、他人に知られたくない話まで、知ることもある。
……というより、またそこまで踏み込まないと、よい本は書けない。

 私が、Y氏が、X氏の身代りになったという話は、そういう仕事をしている過程で知った。

(突如として、有名人なる人物(?)が、本を書いてマスコミの話題になることがある。
そうして出てきた本は、たいていは、ゴーストライターによって書かれたものと思ってよい。
あるいはまったく畑ちがいの人が、本を書くときもある。
それもそうだ。

 なお現在は知らないが、当時は、ゴーストライターは、本1冊につきいくら……というようなお
金のもらい方をした。
ときどき共著という形で、印税を折半することもあった。
あるいは「取材」という形で、2〜3週間、海外へ旅行させてもらうこともあった。)

●映画『バトルシップ』

 少し前、劇場から帰ってきた。
今、その近くにある、ダイワロイネットホテルの11階の1室にいる。
『バトルシップ』。
日米合作映画というよりは、くすぐったいほど、日本人向けの映画。
1人の日本人自衛官が、活躍する映画。
おもしろかった。
が、あの類の映画は、見飽きた。

 宇宙人がある日、地球へやってくる。
それを地球人(人間)が、迎え撃つ。
大筋で言えば、そういう映画。
星は2つの、★★。
巨費を投じて制作した映画……ということだが、私にはよくわからない。
すごい映画とは思うが、「すごい」だけで終わってしまった。
理由がある。

 もし本当に宇宙人がいるなら、あんな方法で、地球人を攻撃することはない。
攻撃するにしても、もっと別の方法を使うはず。
……そんなことをいろいろ考えながら見ていたら、興が冷めてしまった。
だから星は、2つ。

 ……ということで、今夜はここまで。
疲れた。
眠い。

(これは映画を見る人のための前知識。
念のため。
あの映画に出てくる宇宙人は、悪人ではない。
人間がしたのと同じ程度のことを、逆にしているだけ。
いきなり地球へやってきて、地球攻撃を始めるわけではない。

 ある日突然、自分たちの住む惑星が、地球からの強力な電波で、破壊される。
物語は、そこから始まる。)

●4月14日

 14日は、午前5時に目が覚めてしまった。
クーラーの風が、気になってしかたなかった。
それで目が覚めてしまった。

 しばらくがんばってみたが、ギブアップ。
起きあがって、窓に向いた椅子に座った。
白湯を飲んだ。

 カーテンを50センチほど開くと、白々とした朝の景色が飛び込んできた。
霧のような細かい雨が降っていた。
境目のない低い雨雲が、すぐ上まで迫り、地平線も、白くかすんでいた。
JR浜松駅は、すぐ目の前だが、この時間だと、動く電車もない。
静かな、それでいて殺風景な景色。

 そんな風景をぼんやりとながめていると、ワイフも起きてきた。
同じ方向を見ながら、こう言った。
「あら、あんなところに赤い花が咲いている」と。

 身を起こしてみると、中央分離帯のところどころに、赤い花が咲いていた。
「ツツジかな?」と、私は思った。

●都会生活

 都会生活……一言で表現すれば、「隙間がない」。
ビルとビルの間は、1センチ単位で、仕切られている。
区切られている。
その分だけ、「遊び」がない。
ちょっと座って、寝転んで……ということができない。
人工的に植林された樹木も、ところどころに見える。
が、あくまでも人工的。
いかにも人工的。
何かの動物がいる気配は、もちろん、ない。
その余裕のなさが、息苦しくする。

 都会に住んでいる人には、それがわからないかもしれない。
しかしこういうところに長く住んでいたら、人間性も、大きく影響を受けるにちがいない。
たとえばこのホテルの一室。
ガラス窓の外へ、一歩、足を踏み出すこともできない。
つまり他者との融合性がない。
言い換えると、人と人とのつきあいの中で生まれる、文化が育たない。
土着的な文化が育たない。

 たとえばこの街中の中心部では、土日になると毎週のように、音楽会が開かれたり、物産店
が並ぶ。
しかしいくらそれを繰り返しても、大地になじまない。
大地そのものが、ない。
今朝の雨のように、地面にしみこんでいかない。

 それだけではない。

 教育の世界には、「カプセル家族」という言葉がある。
小さなカプセルのような閉ざされた家庭環境で、子どもを育てると、育て方そのものが極端化
する。
同じ過保護でも、行きすぎた過保護になるなど。
 
 こうしたホテルに住むのもそうだ。
(ホテルに住む人はいないが……。)
ものの考え方が、極端化する。
その心配は、じゅうぶん、ある。

 ……やはり、私は田舎人間。
「住め」と言われても、とてもこんなところには、住めない。
こういうところに来てみると、それがよくわかる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以前、中日新聞につぎのような記事を書いた。
「流産率が、39%」という原稿が、それである。
たいへんな反響を呼んだ記事である。
それが予想できたから、私は研究者本人から、
わざわざ研究論文を取り寄せ、この原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●流産率が、39%

 よく高層住宅の子どもに与える心理について、話題になる。
その影響はあるのか。ないのか。
それについては、こんなショッキングな調査結果がある。

妊婦の流産率について調べたものだが、10階以上の高層住宅に住む妊婦の流産率が、何
と、39%もあるというのだ(東海大学医学部・逢坂氏、「保健の科学」第36巻1994別冊)。

6階以上では、24%、1〜5階は5〜7%。10階以上では、39%。
流・死産率でも6階以上では、21%(一戸建ても含めて、全体では8%)、と。

マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての
居住者の4倍(国立精神神経センター・北村氏)という調査結果もある。母親ですら、これだけ
の影響を受ける。いわんや子どもをや、と考えるのが妥当ではないのか。

●多い神経症的傾向

 逢坂氏は、「(高層階に住む妊婦ほど)、妊婦の運動不足に伴い、出生体重値の増加がみら
れ、その結果が異常分娩に関与するものと推察される」と述べている(同論文)。
つまりこの問題は、妊婦の運動不足と関係があるというわけである。

 が、問題はつづく。高層住宅の高層部に住む母親ほど、神経症的傾向を示す割合が、多い
という。

 集合住宅の1〜2階で、10・2%であるのに対して、6階以上になると、13・2%にふえる。
(一戸建てで、5・3%。)

 さらに逢坂氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。
たとえば集合住宅の1〜2階で、11・4%。3〜5階で、10・9%、6階以上になると、17・6%。
(一戸建てで、9・0%。)

●運動と心のケア

 高層住宅というのは、高層になればなるほど、視野が広がり、開放感があると考えられがち
である。
しかし実際には、ガラス1枚をへだてて、その向こうは、大絶壁。
そのため長く住んでいると、閉塞感が蓄積するのではないかと考えられる。

 そこで高層階に住む人ほど、外出の機会をふやし、のぼりおりの回数をふやすなどの運動
が必要ということになる。
子どもについて言えば、戸外活動を、より頻繁に行うということも大切かもしれない。

 で、これは私のあくまでも個人的な実感だが、高層住宅だからといって、子どもに心の問題
が起きるわけではない。しかしひとたび何か問題が起きると、高層住宅に住む子どもほど、症
状は急速に悪化し、また立ちなおるのに、より時間がかかるように思う。
母親も、子どもも、決して、部屋の中に、とじこもってしまってはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この「流産率が、39%」を書くきかっけとなったのが、つぎの原稿である。
改めて、子どもの世界を別の角度から、考えなおしてみたい。
2000年ごろ書いた原稿なので、現状にややそぐわない部分もあるかもしれない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●『疑わしきは罰する』(中日新聞発表済み)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。
四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツを
あててあげると、排尿、排便ができる。

六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。
あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしまう。
反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。
原因は、紙オムツ。
最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。
子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌88年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。
根拠があるもないもない。
こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。
紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。
疑わしいが、はっきりとは言えないというようなことである。その一つが住環境。
高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい…?

 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

たとえば妊婦の流産率は、6階以上では24%、10階以上では39%(1〜5階は5〜7%)。
流・死産率でも6階以上では21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂氏)。
マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建て
の居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。

母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。
さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。
私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、1校もない。
無頓(とん)着といえば無頓着。無頓着過ぎる。
オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率は4〜
6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。
実際、オーストラリアでは,1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、
毎年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用
の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。
オーストラリアの友人は、こう言った。
「何も対策をとっていない? 信じられない」と。
ちなみにこの北半球でも、オゾン層は、すでに10〜40%(日本上空で10%)も減少している
(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。
しかし教育の世界では「疑わしきは罰する」。
子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。
害が具体的に出るようになってからでは、手遅れ。
たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子を着用させ
る、など。あなたが親としてすべきことは多い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに『疑はしきは罰する』について
書いた原稿を、3作、載せる。
静岡県教育委員会発行の『ファミリス』という雑誌に、載せてもらった原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【1】

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。
疑わしいものは、まず遠ざける。子どもに渡すものは、しっかりと安全が確認されてからでよ
い。そういう姿勢が、子どもの世界を守る。

●ゲーム脳

 このところ、「ゲーム脳」という言葉が、よく話題になる。
ゲームづけになった脳ミソを「ゲーム脳」という。
このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。
しかし、「ゲーム脳」とは、何か。

『脳の中に、前頭前野という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。
記憶、感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制を
も司る部分である。
この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になる』(日大大学院・森教授)と。

 つまりゲームばかりしていると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、賛否両論があり、「ゲームをやっても脳が壊れてしまうことはない」と
主張する学者(東北大学・川島教授)もいる。
 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

●なぜ、抗議の嵐が?

 この日本では、ゲームを批判したり、批評したりすると、ものすごい抗議が殺到する。
実は、私自身も経験している。
6年前に、『ポケモンカルト』という本を出版したときである。
上記の森教授らのもとにも、「多くのいやがらせが、殺到している」(報道)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。
ゲームにもいろいろあるが、どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐
が、わき起こるのか? 

 森教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与える危険性がありますよ」と、むし
ろ親切心から、そう警告している。それに対して、いやがらせとは!

●動き出した文科省

そこで文部科学省は、ゲームやテレビなどを含む生活環境要因が子どもの脳にどう影響を与
えるかを研究するために、2005年度から1万人の乳幼児について、10年間長期追跡調査す
ることを決めた。

この中で、ゲームの影響も調べられるという(「脳科学と教育」研究に関する検討会の答申)。
 近く中間報告が、公表されるだろう。
が、しかしここで誤解してはいけないのは、「ゲームは危険でないから、子どもにやらせろ」とい
うことではない。
「ゲームは、危険かもしれないから、やらせないほうがよい」と、考えるのが正しい。
とくに動きのはげしい、反射運動型のゲームは、避けたほうがよい。


【2】

●右脳教育ブームの中で

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(スペリー)。
その右脳をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田氏)。
ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像化)、
見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。

 しかしこういう説に対して、疑問を投げかける学者も少なくない。目白大学の渋谷氏もその1
人で、著書「心理学」の中で、こう書いている。

 『なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。
一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。
これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません』と。

●だから、どうなの?

 ときどき、右脳教育の成果(?)として、神業的な能力を示す子どもが紹介される。
まさに神業。しかし「だからどうなの?」という部分がないまま、子どもにそういう訓練をほどこし
てよいものか。
はたしてそれが能力と言えるのか?

 昔、「一晩で百人一首を覚えたら、5000円あげる」と母親に言われ、本当に、一晩で暗記し
てしまった子どもがいた。
その子どもというのは、あの忌まわしい殺人事件を起こした、「少年A」である。
彼は専門家の鑑定により、「直観像素質者」という診断名がくだされた。

 イメージの世界ばかりが、極端にふくらんでしまい、空想と現実の世界の区別がつかなくなっ
てしまった子どもと考えるとわかりやすい。

●大切なのは、静かに考える子ども

右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像
ということにはならない。
むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(=論理)、他人の心を静かに思いやること(=分析)が
できる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

 で、今、その静かに考えることができる子どもが、むしろ減っているのではないか。
私は、個人的には、これだけ映像文化が発達しているのだから、あえて右脳を刺激しなくても、
よいのではと考えている。

 要はバランスの問題。右脳教育にせよ、左脳教育にせよ、いつもバランスを考えながらす
る。


【3】

●セロトニン悪玉説

「キレる子ども」については、諸説が飛び交っている。環境ホルモン説(シシリ−宣言、95年)
に始まって、最近では、脳の微細障害説(上智大・福島教授)まである。

そのキレる子どもについて、昔から一因として指摘されているのが、「セロトニン悪玉説」であ
る。
つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令
を狂わすという(アメリカ生化学者・ミラー博士ほか)。

アメリカでは、「過剰行動児」として、もう25年以上も前から指摘されていることだが、もう少し
具体的に言うとこうだ。

たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に分泌
され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。
そしてそれがキレる原因となるという(岩手大学・大沢名誉教授、大分大学・飯野教授ほか)。

「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安になり、ホルモン機能にも影
響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」(アメリカ小児栄養学・ヒュー・
パワーズ博士)。

 特徴としては、脳の抑制命令が変調するため、行動がカミソリでものを切るように、スパスパ
と鋭くなる。
小学生でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。
興奮したとき、体を小刻みに震わせることもある。
言動が、過剰になりやすいことから、「過剰行動児」(アメリカ)という。

●食生活の改善

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。
甘い食品を控え、カルシウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。
リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよくしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われてい
る。
リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムを、リン酸カルシウムとして、体外へ排出してしま
う。

 一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。
日本でも戦前までは、カルシウムは精神安定剤として使われていた。
それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみ
る。
ふつう子どものばあい、カルシウムが不足してくると、集中力がなくなり、筋肉の緊張感が持続
できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたりする。

 効果がなくても、ダメもと。「うちの子は、どうもキレやすい」と感じたら、海産物を中心とした献
立に切りかえてみる。
その海産物(魚介類、海草類など)には、カルシウム、マグネシウム、カリウムなどの94種類も
の天然のミネラルが豊富に含まれている。
「肉よりは魚、チーズよりはワカメの入った味噌汁、菓子よりは干した小魚やコンブ」(マザーリ
ング)を食べさせるとよい。
子どもによっては、たった1週間で、劇的に変化することもある。


【4】

●流産率が39%

 よく高層住宅の子どもに与える心理について、話題になる。その影響はあるのか。
ないのか。
それについては、こんなショッキングな調査結果がある
。妊婦の流産率について調べたものだが、10階以上の高層住宅に住む妊婦の流産率が、何
と、39%もあるというのだ(東海大学医学部・逢坂氏、「保健の科学」第36巻1994別冊)。

 6階以上では、24%、1〜5階は5〜7%。10階以上では、39%。流・死産率でも6階以上
では、21%(一戸建ても含めて、全体では8%)、と。
マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての
居住者の4倍(国立精神神経センター・北村氏)という調査結果もある。
母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや、と考えるのが妥当ではないの
か。

●多い神経症的傾向

 逢坂氏は、「(高層階に住む妊婦ほど)、妊婦の運動不足に伴い、出生体重値の増加がみら
れ、その結果が異常分娩に関与するものと推察される」と述べている(同論文)。
つまりこの問題は、妊婦の運動不足と関係があるというわけである。

 が、問題はつづく。高層住宅の高層部に住む母親ほど、神経症的傾向を示す割合が、多い
という。

 集合住宅の1〜2階で、10・2%であるのに対して、6階以上になると、13・2%にふえる。
(一戸建てで、5・3%。)

 さらに逢坂氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。
たとえば集合住宅の1〜2階で、11・4%。3〜5階で、10・9%、6階以上になると、17・6%。
(一戸建てで、9・0%。)

●運動と心のケア

 高層住宅というのは、高層になればなるほど、視野が広がり、開放感があると考えられがち
である。
しかし実際には、ガラス1枚をへだてて、その向こうは、大絶壁。そのため長く住んでいると、閉
塞感が蓄積するのではないかと考えられる。

 そこで高層階に住む人ほど、外出の機会をふやし、のぼりおりの回数をふやすなどの運動
が必要ということになる。
子どもについて言えば、戸外活動を、より頻繁に行うということも大切かもしれない。

 で、これは私のあくまでも個人的な実感だが、高層住宅だからといって、子どもに心の問題
が起きるわけではない。
しかしひとたび何か問題が起きると、高層住宅に住む子どもほど、症状は急速に悪化し、また
立ちなおるのに、より時間がかかるように思う。

母親も、子どもも、決して、部屋の中に、とじこもってしまってはいけない。


【5】

●紫外線対策を早急に

 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。
中には、皮膚が赤むけになるほど、日焼けする子どももいる。
無頓着といえば、無頓着。
無頓着すぎる。

国立がんセンターの山本医師も、『海外旅行に行って、肌を焼いているのは、日本人の若者ぐ
らいです。
海外の皮膚がん研究者からは、「いったい日本は、どうなっているのだ?」と質問されることさ
えあります。

専門家にしてみれば、日本の若者がこぞって肌を焼く行為は、自ら命を縮めているに等しい行
為なのです』(日経BP)と述べている。

紫外線で皮膚が傷つくわけだが、オゾンが10%の割合で減りつづけると、皮膚がんは、26%
ふえ、紫外線が2%ふえると、皮膚がんは、3%ふえるとういう(UNEP99年)。

 実際、オーストラリアでは、1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数
が、毎年10%ずつふえている。
日光性角皮症や白内障も急増している。しかも深刻なことに、20代、30代の若者たちの皮膚
がんが、急増しているということ。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用
の帽子とサングラスの着用を義務づけている。
が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。
「何も対策を講じていない? 信じられない」と。
ちなみに北極についても、1997年には、すでに30%も減少している。

●破壊される環境

 日本の気象庁の調査によると、南極大陸のオゾンホールは、1980年には、面積がほとんど
0だったものが、1985年から90年にかけて南極大陸とほぼ同じ大きさになり、2000年に
は、それが南極大陸の面積のほぼ2倍にまで拡大しているという。

北極についても、1997年には、すでに30%も減少している。

 さらに2000年に入ってからは、地球温暖化の影響で、成層圏の水分や温度が変化。
極地方には、不気味なピンク色の雲が出現し、02年には、オゾンホールは、とうとうオーストラ
リアのタスマニアまで拡大。「上空オゾン層はさらに破壊、急拡大している」(NASA)という。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。
子どもの世界は、先手、先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。
害が具体的に出るようになってからでは、遅い。
たとえばここに書いた紫外線の問題にしても、警報が出たら、外出をひかえる。
過度な日焼けはさせない。
紫外線防止用の帽子、サングラス、長そでのシャツ、長ズボン着用させる。
サンスクリーンクリームを皮膚に塗るなど、あなたが親としてすべきことは多い。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●帰宅

 そろそろ帰宅。
ワイフが帰り支度を始めた。
が、私は何も手伝わず、こうしてのんびりと原稿を書いている。
そういう身分に感謝しながら、今朝のエッセーは、ここまで。

では、みなさん、おはようございます。
2012/04/14朝記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 疑わしきは罰する 高層住宅 紫
外線 オゾン層 はやし浩司 おむつ はやし浩司 セロトニン 悪玉説 はやし浩司 キレる
子ども)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●4月16日(日曜日)(はやし浩司 2012−04−15)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

とかく、この世は生きにくい。
出る杭(くい)は、すぐ叩かれる。
そのため静かに難なく生きるのがよい。
しかしそれでは、「生きた」ことにはならない。
ただ「息(いき)ている」だけ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●誤解

 ときとして人は、バカげた事件に出会う。
本当にバカげている。
いろいろなことがあった。

(1)私の近所には、空き地がまだ少し残っている。
以前は、もっと広く残っていた。
が、そこはかっこうのゴミ捨て場。
ふつうのゴミではない。
粗大ゴミ。
家具や自転車など。
あるときは車やベッドがそのまま捨ててあった。

 小さなゴミは、そのつど、私が拾っている。
袋と蟹バサミをもち、それを拾う。
ところがある日、ゴミを拾っていると、1台の車が横に停まった。
何かなと思い、ふと振り返ると、車の中から1人男が、顔を出し、私にこう言った。
「ちゃんと、草(雑草)くらい、刈っておけ!」と。

 私が「ハア〜?」と言いかけたら、すでにその車は、立ち去ったあとだった。

(2)私の家の横は、竹やぶになっている。
毎年、その時期になると、タケノコが出てくる。
が、そのうち、根が伸びて、私の敷地のほうまで、タケノコが生えてくるようになった。
そのタケノコを、スコップで掘り返していると、突然、竹やぶの中から男が躍り出てきた。
そしてこう叫んだ。
「このドロボー!」と。

 これには驚くと同時に、怒れた。
「ドロボーとは何だ!」と。
自分の土地で、タケノコ掘っていたら、「ドロボー」と。

 法律的には、こういうばあい、生えてきたタケノコは、私の所有物になる。
(ただし垣根の上を越えて出てきた枝の実や花は、隣人のものである。)
相手の男は、その竹やぶの管理を任されている人の、その友人だった。

 私が「ここは私の土地だ」と言い返すと、その男も、さらに言い返してきた。
「こっちの竹やぶから伸びたから、オレたちのものだ」と。

男といっても、70歳を過ぎていた(当時)。
法律論を言いあっても、しかたない。
が、こういうときは、声の大きい方が、勝ち。
私はさらに大きな声で、こう言った。
「だったら、これからは、お前が、このあたりの竹やぶを、みんな刈れ!」と。
私の剣幕に驚いて、その男は、再び竹やぶの中に消えて行った。

(3)さきに書いた(1)の話には、つづきがある。
で、しかたないので、捨ててあったベッドを、ワイフと2人で、解体し始めた。
といっても、これがたいへん。
直系が3ミリ前後もあるような太いスプリングが、縦横、200〜300個もついていた。
ハガネである。
それを一本一本、ハサミで切り離さなければならない。
電気工事屋の人が使うような、大きなハサミを使った。

 ときどき時間をみつけ、それでも毎日、1〜2時間かけて、切り離していった。

 ……ところが、である。
ある朝、起きてみると、私の家の駐車場に、そのバラバラになったベッドが、投げ捨ててあるで
はないか!
たぶん、近所のだれかが、それが私たちの家から出たベッドと思ったらしい。
それを放置したのは、私たちと、勘違いしたらしい。
それでそうした。
つまり私の家の駐車場に、投げ込んだ。

(4)隣の空き地の話は、尽きない。
こんなこともあった。

 あるときから奇妙なできごとが、つづいた。
何かにつけ、市役所の人が私の家に、謝罪に来るようになった。
「すみません」「すみません」と。
で、理由を聞くと、「木の枝が、道路を覆っています」「道の角の土砂くずれました」とか、など。

 市役所の人も、ていねいだなと感心していた。
が、別のある日には、近所の地主まで謝罪に来るようになった。
「雑草が道路まで伸びてすみません」と。

 で、理由を聞くと、「だって、林さん(=私)から手紙が来ましたから」と。

???

 私はそういった手紙を出した覚えは、まったくない。
それにそういった(自然のなせる業)は、気にならない。
落ち葉をゴミと考えたことは、一度もない。
つまり近所のだれかが、そのつど、それぞれのところへ苦情の手紙を出していた。
匿名だったか、あるいは私の名前を語ったかは、知らない。
ともかくも、市役所の人たちも、また地主も、手紙を出したのは、この私と思ったらしい。

(5)こうした話は、いくらでもある。
こんなこともあった。

 私はある時期、40代になったころから50代のはじめまで、無料で、子育て相談を受けてい
た。
電話相談である。

 これがあちこちに広がり、ほとんど毎日、電話がかかってくるようになった。
以前にも書いたが、この種の相談には、「時間」「時刻」がない。
いくら私が「午前中だけ」とお願いしても、中には、真夜中に電話をかけてくる人もいた。
しかも相談といっても、平均して1時間。
中には2時間〜というのもあった。
40分以下ということはなかった。

 で、そんなある日、いくつか事件が重なった。

 そのひとつ。
ほとんど毎日、電話をかけてくる人がいた。
それが2〜3週間も、つづいた。
そこで私が、ある日、それを断った。
「忙しいから、ときどきにしてもらえませんか?」と。
が、この言葉が、相手を激怒させた。

 「子育て相談を受けるなら、ちゃんと受けてほしい」と。

 あるいは似たような事例だが、そのとき忙しかったので、私はこう言った。
「こちらのほうから電話をしますから、しばらく待っていただけますか」と。

 それが金曜日の夜だったということを、私はよく覚えている。
が、相手の男から、その3日後の月曜日の朝、電話がかかってきた。
これもまた、ものすごい剣幕である。
電話口の向こうで、こう叫んだ。

「俺はお前からの電話を、3日も待った。どうして電話をくれないのか!」と。
そしてこうも言った。
「子育て相談の看板を、即刻、下ろせ」と。

 ……私は一度だって、子育て相談の看板を上げた覚えはないのだが……。

(6)こうした話は、誤解に基づく。
誤解が誤解を生み、こうした話につながっていく。
では、どうするか。

 私のばあい、こうした誤解は、そのまま無視する。
相手にしない。
反論しない。
たとえばインターネットで、こうして情報を公開していると、いろいろな人が、書き込みや、コメン
ト、意見を書いてくる。
中には、辛らつなものも多い。
先日は、「お前のような老害は、死ねっ!」というものあった。
その前には、「お前は、精神異常者だ」というのもあった。

 こういうケースのばあい、けっして、その人を相手にしてはいけない。
本気になって、反論してもいけない。
ただひたすら無視するのがよい。
理由がある。

 こうしたことを書いてくる人というのは、それほど、深く考えて書いてくるのではない。
独り言に近い、苦言。
書いたすぐから、書いた本人自身が、それを忘れる。

 が、こちらが何かの反論をしたとたん、相手の心に火がつく。
火がついたとたん、収拾がつかなくなる。
ばあいによっては、そのまま炎上する。
だからひたすら、無視するのが、よい。

 たとえば(1)〜(5)の中で書いた話にしても、そうだ。
本来なら、私が謝罪しなければ理由など、どこにもない。
本来なら、私の方が怒って当たり前。
しかし無視。
無視して、あとは忘れる。

 つまりこういうケースで、私が相手を探したり、その相手に向かって何かを言えば、その瞬間
から、関係が変わる。
「無」の関係から、「有」の関係になる。
平たく言えば、喧嘩になる。
わずらわしくなる。
ばあいによっては、逆ギレされる。
逆恨みされる。
手に負えなくなる。
そうなる。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【本の世界vsインターネットの世界】

●本とは何かvsインターネットとは何か

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は、田丸謙二先生からもらった宿題に
ついて考えてみる。
田丸謙二先生は、「本を書きなさい」と、
何度もアドバイスしてくれた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アクセス数

ここ1、2日、奇妙なことが起きている。
最初に気がついたのは、YOUTUBEの登録者が、突然、急増したこと。
「登録者」というのは、私がUPした動画を、すべて見てくれる人、ということになる。
マガジンにたとえるなら、定期購読者。

 たいていは、1〜2週間で、2、3人程度。
それが毎日、2、3人以上の人が登録してくれるようになった。
「?」と思いながら、「アナリティクス」(アクセス分析)を見ると、毎日のアクセス数が、その前後
から、3倍以上にもなっているのがわかった。

(平均して、それまで1日、600〜650件だったのが、一気に、3000件前後になった!)

 さらにBLOGについても、Goo−Blogだけでも、2誌合計で、1日、5000件を超えていた!
(Goo−Blogは、日本語版と英語版の2誌を発行している。)
私の知らないところで、何かが起きている。

 が、いちばん考えられることは、どこかのビッグ・サイトで紹介されたこと。
どこでどのように紹介されたのかまでは、わからない。
ともかくも、今現在、そうなっている。

が、インターネットの世界というのは、不思議な世界。
数字だけがひとり歩きする。
実感が、ない。
たとえば現在、HPへのアクセス数も含めると、月間、50万件は軽く超えている。
本にたとえるなら、超ベストセラー。
「50万件か」と思ってみたり、「50万件ね」と思ってみたりする。
恐らく、それがつぎに「100万件」になってもそうだろう。
その実感は、生まれない。

が、本とちがうのは、それが毎月、コンスタントにつづくということ。
アクセス数が減るということは、今のところ、まず、ない。
何しろ、世界が相手。
マーケットが広い。
読者は、世界中に広がりつつある。

 YOUTUBEの「ユーザー層」を見ると、日本につづき、アメリカ、ブラジル、台湾、オーストラリ
ア……となっている。

●田丸謙二先生からのアドバイス

 先日、田丸謙二先生に会ったら、「本を書きなさい」と何度も言われた。
浜松へ帰ってきてからも、そういう内容のメールが、2通、届いた。

 で、そのアドバイスを真剣に考えた。
「やはり、本かなあ……?」と。

 しかしその一方で、少なくとも、私にとっては、本の時代は終わったような気がする。
「私にとっては」というのは、「いままでさんざん、この世界で苦労したから」という意味。
こんなたとえはどうかと思うが、こういうこと。

 たとえばどこかの会社の社長が、私にこう言ったとする。
「うちに再就職してください。がんばって仕事をしてくれれば、課長にしてあげます」と。
たぶん……というより、まちがいなく、私はこう答えるにちがいない。
「もう、こりごりです」と。

 私の今の心境は、それに近い。
いろいろな本を書いてきたが、どれも売れなかった。
この日本では、マスコミへの露出度、あるいは地位や肩書、名声で、本の売れ行きは決まる。
もうひとつは、「時代性」と「話題性」。
俗に言えば、「流行性」。
が、この浜松に住んでいたのでは、人脈をつなげることさえ、むずかしい。
情報も乏しい。

 そういった壁が、目の前に立ちふさがる。
それを乗り越えなければ、本は売れない。
が、インターネットが、そういった今までの常識を、根底からひっくり返してくれた。
今、私がこうしてここに書いている文章にしても、明日の朝までには、数万の人の目に届く。
(みながみな、好意的に読んでくれるというわけではないが……。)

 それに今の私には、とにかく「時間が足りない」。
この先のことはわからないが、今は、このまま前に向かって、突き進んでいくしかない。
結果はどうであれ、残された時間は、あまりにも短い。

●自殺

 で、もう一言、田丸謙二先生は、こんなことを話してくれた。
「作家というのは、書くことがなくなったら、自殺するものでしょうか」と。

 これについても、よく考えてみた。
が、作家と、もの書きは、基本的な部分で、ちがう。

 作家というのは、文章を書き、それを本という形で売る。
つまりその間に、出版社が介在する。
出版社といっても、いうなれば、営利会社。
目的は金儲け。

 だからその作家の本が売れないとわかったら、出版社は、本など、出さない。
つまりその時点で、その作家は、仕事を失う。
会社の社員にたとえるなら、リストラ(首切り)と同じ。

が、一度、こうなると、その作家のところへは、まず仕事が回ってこない。
この世界では、発行部数、販売部数という、「視聴率」がある。
それがどの出版社でも、即座にわかるしくみができている。

 「あの作家の本は、このところ、よくて5000部止まり」と。

 一度、そういう烙印が押されると、その作家は、「干される」。
が、作家の命は、ものを書くこと。
言うなれば、書くことそのものを、断たれる。
書いても書いても、読んでくれる人がいない……。
そんな状態が、慢性的につづく。
当然、収入は、ゼロ。
それが「自殺」に結びついたとしても、私は驚かない。

 が、それもインターネットの世界では、一変する。
仮に最初は、10人でも、あるいは100人でも、「数」として、読んでくれる人がつく。
それが励みになり、さらに書く。
こうして読んでくれる人が、ふえていく。

 もちろん収入には、結びつかない。
しかし生きがいにはなる。
つまりここが、作家ともの書きのちがい。
もの書きは、最初から、無私無欲。
またそうであるから、おもしろい。
書きたいことを、書ける。
だれにも遠慮しない。
媚も売らない。
そこにあるのは、ありのままの「私」。

 また私の文章を読んでくれる人は、原点の私から読んでくれる。
飾りなしの、原点の私。

●「残る」

 「本の時代が終わった」とは、私はまだ思っていない。
しかし将来にわたって、残るか残らないかということになれば、本の時代は終わった。

 たとえば今、私は、10年前に書いた原稿を、即座に探し出すことができる。
ネットで、検索をかければ、それですむ。
が、本というのは、その場かぎり。
仮に1年間で、1万部、売ったとする。
が、そこでおしまい。

 ネットの世界では、反対に、1年間に1000人の人が読んでくれたとすると、10年で、それが
1万人になる。
20年で、2万人になる。
先に「残る」と書いたのは、そういう意味。

●流行性

 が、まだある。

 具体的に書こう。

 本というのは、先にも書いたように、「流行性」で決まる。
が、そういう本というのは、命が短い。

 たまたま田丸謙二先生の親しい知人に、F氏という人物がいる。
そのF氏は、4〜5年ほど前に、「K」という本を書いた。
たいへんなベストセラーになった。
田丸謙二先生は、それについて、「バカ売れしています」と、メールで何度も書いてきた。
私も喜んだ。
うれしかった。

 が、それからほぼ4〜5年。
その中古本は、現在、1円(送料が250円)で、取り引きされている。
(あれほど話題になった本だったのだが、たったの1円!)

 一方、私が書いた、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)は、今でも、6000〜7000円前後で、
取り引きされている。

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6931918016/" title="目で見る漢方
診断中古本 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7132/
6931918016_3353f61666_b.jpg" width="633" height="716" alt="目で見る漢方診断中古本"><
/a>

 F氏のような大人物と張りあうつもりは、毛頭ない。
しかしひょっとしたら、100年後、200年後ということになれば、私の本のほうが、生き残って
いるかもしれない。

 つまり本を評価する尺度※というのは、もっと別のところにある。
が、残念ながら、この日本では、まだその尺度そのものが育っていない。
またそういう尺度で、本を判断する人が少ない。
その土壌さえない。
言い換えると、本の世界には、私はもう未練はない。

なお自分でこう書くのも、どこか気が引けるが、『目で見る漢方診断』は、その世界では、三大
名著のひとつになっている。
また30歳のころ書いた、「東洋医学基礎編」は、現在の今でも、医学部や鍼灸学校で、教科
書として採用されている。

●可能性

 で、今は、YOUTUBEがおもしろい。
私の教えている内容や、子どもたちの反応を、そのまま公開している。
当初は、ごくふつうであった子どもでも、1〜2年後には、見違えるほど、すばらしい子どもに成
長していく。
その成長の過程まで、生の動画として、それを読者のみなさんに伝えることができる。

 もちろん、こんなことは、本では、ぜったいにまねできない。
またYOUTUBEに保存しておけば、永遠とまではいかないにしても、それに近い形で、残る。
現在は幼児である子どもたち(=生徒たち)でも、いつか、私の今の年齢になったとき、改めて
それを見なおすかもしれない。
「思い出」というよりは、「世界でもだれもしていなかったような教育を受けた」という意味で、見
なおすかもしれない。
現に今、教え子で、ハーバード大学の医学部で、医局をもっている人がいる。
2つの博士号を取得している。
そういう人たちが将来つづき、今の私のしていることを見なおしてくれるかもしれない。

 私はそれを信じているし、インターネットは、そういう可能性を秘めている。
本の時代が終わったとは思わない。
しかし今、その本にかわる、あるいはそれ以上の世界が、広がりつつある。

(公開教室は……)
http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html


●最後に……

 「生き残る」という言葉には、2つの意味がある。

 戦争映画に出てくるように、雨あられのように降り注ぐ砲弾をかいくぐって、生き残るのも、
「生き残る」。

 もうひとつは、自分の死後も生き残る。
それも「生き残る」。

 私は生涯、地位や肩書には、あえて背を向けて生きてきた。
けっしてチャンスがなかったわけではない。
大学の教授や講師のポストを提示されたこともある。
幼稚園の園長については、何度か、ある。

 しかしそのつど、私はこう思った。
もし、ここで妥協したら、今までの私の生き方を否定することになる、と。
皮肉なことに、本当に、皮肉なことに、私は田丸謙二先生に会ったときから、私1人くらい、生
涯、裸で生きる人間がいてもよいのではないか、と。
そう、心に誓った。
田丸謙二先生と張りあっても、無駄。
絶対に勝ち目はないと知ったとき、そう心に誓った。

 で、私は私の人生を、64年間、生きてきた。
何とか、生き残ってきた。
で、今、考えることは、死んだあとの「生き残り」。
それに自分の命を懸けている。

 結果については、私は知る立場にはない。
あえて願うなら、私の死後、10年くらいは、生き残りたい。
できれば、20年。
100年後に、私の書いた文章の、1行でも残っていれば、御の字。
それが「はやし浩司」ということになる。

(はやし浩司 本とは何か インターネットとは何か 死後も生き残る 生き残り はやし浩司 
インターネットの可能性 本論 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児
教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司)

(追記)なお「目で見る漢方診断」は、私のHPのほうから、全文、無料で読んでいただけます。
興味のある方は、どうぞ!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
http://bwtachiyomi.ninja-web.net/page051.html

【追記】注※

●尺度論

 たまたま今朝(4−15)、どこかのニュースサイトに、こんな記事が載っていた。
あの赤川次郎が、こう言ったという。
大阪市の橋下市長を批評して、「モーツアルトの観客数と、AKB48の観客数が同じといって
も、(モーツアルトとAKB48を)同列に考えることはできない」(記憶)と。

 さすが赤川次郎。
ずばり、うまいことを言う。
モーツアルトとAKB48とを、同じ尺度で測ってはいけない。

 それにもうひとつ。

 以前、「ハリーポッター」の日本語版が、週刊誌などで、問題になったことがある。
「誤訳だらけ……」と。
(たしかに誤訳だらけだが……。)

 が、その議論を横で見ながら、私は、こう思った。

「もともとデタラメな本ではないか。
そんな本の誤訳がどうのこうのと、問題にするほうがおかしい。
もし誤訳が問題なら、映画はどうなのか」と。

映画は、本をもとにして、制作される。
誤訳どころではない。
デタラメの上に、デタラメを重ねる。
どうして映画のほうは、「誤訳」が問題にならないのか、と。

 AKB48の歌う歌を聴き、すばらしいと思う人もいるかもしれない。
ハリーポッターを読んで、すばらしい本と思う人もいるかもしれない。
ものの価値を判断する尺度そのものがちがうと、そういう現象が起きる。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【親子で笑おう+楽しもう、BW幼児教室byはやし浩司】
(はやし浩司 2012−04−16)


●今日は初日・第1回目(年長児Aクラス)


 今日が4月第1週目のレッスン。
新しい生徒さんたちを迎え、やや緊張しましたが、うまく指導できました。
「勉強は楽しい」という印象作りを大切にしました。
どうか、お子さんと一緒にご覧ください。
みんなで楽しく、勉強しましよう!


「笑えば、伸びる!」、それが私の教育モットーです。
「教えてやろう」という気負いは最小限に。
子どもを楽しませてあげます。
そこから前向きな姿勢が生まれてきます。


【新年長児(5歳児)クラス】


<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/eMVonD4zj3o" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 年長児 5歳児の学習 勉強は
楽しい BW知能教室 子どもの知能教室)2012/04/16



Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【いいのか日本! このままで!】

●流出する、日本の頭脳

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先日、田丸謙二先生に会ったとき、先生が
こう話してくれた。

東大でも、退職した教授の多くが、シンガポールへ
招かれ、第二の人生を送っている、と。
「頭脳流出」の問題は、深刻な問題と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ロイターが海外で伝える、日本の現状

 たまたま今朝(2012/04/17)、オーストラリアの友人(モナーシュ大学)が、ロイターの記事を
送ってくれた。
「ここに書かれていることは、事実か?」と。
ロイターは、アイダ・マサユキ氏などを紹介しながら、日本の「頭脳流出」の問題を取りあげて
いる。

 まずその一部を紹介する。

++++++++++++++以下、ロイターより++++++++++

(Reuters) - Their technical skills helped Japan's corporate giants sweep all before them in 
the 1980s, and now thousands of aging Japanese engineers are finding a new lease on life in 
booming China.
"My profession is going out of business in Japan," said 59-year-old Masayuki Aida, who 
made molds for a Tokyo-based firm for 30 years but has spent most of his 50s in Dongguan, 
a gritty manufacturing hub in southern China's Pearl River Delta.
With the incessant noise of car horns and a pervasive smell of chemicals, the dusty streets 
of industrial Dongguan are a far cry from Tokyo or Osaka. Construction sites dot the city 
while beggars clutching tin cans approach cars at every intersection.
For Aida and many like him nearing the national retirement age of 60 the choice was simple 
- face a few years without an income as Japan raises the age at which employees get their 
pension or work for mainland Chinese and Hong Kong companies.
60歳過ぎから、年金なしの年齢になる。
"People aren't making products in Japan anymore," said Aida, who makes molds for goods 
ranging from toys and earphones to coffee machines. "I wanted to pass on to younger 
generations all the knowledge and technology about molds I had obtained."
「日本では、もうモノを作っていない。
私は自分の得た知識と技術を、つぎの若い世代に伝えたい」(アイダ氏)。
For Japan, marred by two decades of economic stagnation, the little reported exodus of 
engineers means rival Chinese firms are getting an injection of the technology and skills 
behind "Made in Japan" products.
Japanese government data shows 2,800 Japanese expats living in Dongguan alone, a city of 
more than 8 million people.
"From Japan's perspective, emerging countries are getting a free ride of the benefits we 
nurtured. So yes, it is a problem," said Yasushi Ishizuka, director of the intellectual property 
policy office at the Ministry of Economy, Trade and Industry.
Japan suffered its first tech brain drain about 20 years ago when South Korean firms such 
as Samsung Electronics and LG Electronics Inc poached scores of front-line semiconductor 
and white goods engineers from big Japanese electronics firms.
日本は、約20年前、すでに頭脳流出を経験している。
多くの技術者が、韓国のサムスン、LGなどに流出した。
Since then South Korean electronics manufacturers have bounded into the global top ranks, 
helped along by this human technology transfer.
Japan's tech giants, meanwhile, have floundered. Sony Corp, Panasonic Corp and Sharp 
Corp, Japan's three main TV makers, are expected to have lost $21 billion between them in 
the fiscal year that ended March 31, partly because of Korean competition.
GO WEST, OLD MAN
その結果、ソニー、パナソニック、シャープは、21x10億ドルの損出になりそうである(2012
年3月末)。
Many of the Japanese engineers finding a second life in China do not have the cutting-edge 
technology that would deal another crushing blow to Japan Inc yet, analysts say, but the 
long-term impact could be severe because they will give Chinese manufacturers the skills to 
make high-quality goods efficiently.
この先、長期的に、日本の中国は脅威となろう。
China has pushed its own companies to innovate, but many experts cite an educational 
system that prizes rote learning as an obstacle. For many firms, buying talent is the 
quickest fix.
"Skills related to production, like making moulds, are something that companies obtained 
after years of trial and error," said Morinosuke Kawaguchi, associate director at 
management consultancy Arthur D Little in Tokyo.
For example, the slightest tweak to a mould could lead to mass production of faulty items, 
said Kawaguchi, himself a former Hitachi Ltd engineer who used to make household 
appliances.
"This exodus of Japanese engineers will raise the quality of products made by Chinese 
companies and allow them to produce efficiently," he added.
「日本の技術者の流出は、中国の製品の品質を高め、より効率的な生産を可能にするだろう」
(カワグチ氏、元日立社員)。
Aida said the skills of Chinese engineers have improved over the past 10 years.
"When I first came to China, a product was considered good as long as it didn't fall apart," 
said Aida, one of seven Japanese engineers in Dongguan interviewed by Reuters. "They've 
caught up rapidly since then."
中国は、急速に追いついてきている。
That shows in recent trade numbers. China's exports of higher valued machinery and 
electronic products rose 9.1 percent in the first quarter from a year ago, when they gained 
7.6 percent, to $253 billion, according to trade data.
Stemming the outflow of engineers to Chinese manufacturers appears to be impossible.
Sany Heavy Co Ltd, Geely Automobile Holdings Ltd and BYD Co Ltd all told Reuters they 
had employed Japanese engineers to boost their technological know-how. They declined to 
comment further.
頭脳流出を食い止めるのは、不可能であろう。
In addition to the large companies, there are thousands of smaller manufacturers across 
China. While not all have the deep pockets to hire expat engineers, some might find the cost 
of importing technology may not be as high as it used to be.
For one, there is no shortage of supply. Millions of Japan's "baby boom" generation which 
makes up nearly a 10th of the country's population are starting to retire, with many 
engineers among them.
It is not just financial considerations, but a desire to keep working beyond the rigid 
retirement age in Japan that prompts many to take up the offer of a move to China.
"I'm working longer hours but actually making less now than I was making back in Japan," 
said Aida, puffing on a cigarette in a simple conference room at his Chinese company's 
office.
Tomio Oka, an engineer who specializes in making molds for components used on items such 
as mobile phones that require precision to one one-thousandth of a millimeter, quit his job 
at a unit of what is now Panasonic Corp in 1998, to work for a Taiwanese company in 
Dongguan.
"Everyone in my family opposed this. I was working at a reputable company, making a stable 
income. My wife even threatened to divorce me at one stage," Oka said, grimacing as he 
recalled what happened.
"But I wanted to open the doors to my future myself. I didn't want to lead a life on some 
rail track set by others."
「離婚の危機もあったが、私はだれかが敷いたレールの上を歩きたくない」(オカ氏)。

GOLF, BEER, HOSTESSES
Taking up a second career in Guangdong province, China's export hub, is not without its 
challenges.
The comforts and convenience found in most Japanese cities are hard to come by in the 
industrial district on the outskirts of Dongguan where Oka and Aida live, 100 km (60 miles) 
north of Hong Kong.
Buses are the only public transport. Most taxis operate without licenses, making foreigners 
easy prey for overcharging. Pick-pocketing and burglary are common.
"I grew up in post-war Japan when things were just as chaotic. So the surrounding 
environment was never an issue for me," Aida said.
「中国では、タクシーのインチキ料金、スリ、泥棒なども多いが、私は戦後のあの時代を生き抜
いてきたから何でもない」(アイダ氏)。
Many Japanese expats in Dongguan have left their families back home. They live in what 
would be seen in Japan as rundown apartments and spend their spare time playing golf or 
drinking with fellow countrymen in the few Japanese restaurants located around the city.
多くは、家族を日本に残したまま、中国に来ている。
Some have hired waitresses from these eateries to work part-time as domestic helpers or 
maids.
家政婦を雇っている人もいる。
There are also dozens of so-called KTV lounges, or karaoke night clubs with young 
hostesses, that cater especially to Japanese men.
"What else is there to do here after 7 p.m. besides drinking with friends or going to karaoke?
" said one expat, sipping a popular Japanese alcohol sochu in a dimly-lit KTV lounge, fitted 
with sofas, karaoke machines and a billiard table.
"It can get really lonely watching DVDs all alone in my apartment," he said, as a fellow 
engineer, his arm around a young hostess in a tight skirt, sang a popular Japanese tune.
「生活は、友と過ごすので、さみしくない」
Critics called the wave of Japanese engineers who went to South Korea as "traitors" for 
passing on technology to rivals. While the China-bound engineers have not been so vilified, 
some on the blogosphere question their motives.
Oka says most just want to support their families.
"We face retirement at 60 but what are we supposed to do until 63 or 65 when we can 
start receiving our pension?" he said.
Japan is burdened with debt of $10 trillion, or twice the size of the economy. That has 
forced the government to gradually raise the age people can get their pension from 60 
years of age, leaving many salarymen temporarily income-less after retirement.
日本政府は、1000兆円もの借金をかかえている。
年金支給年齢も、どんどんと引き上げられるだろう。
"There isn't so much a feeling of guilt on our part. What's wrong with working for someone 
who's offered you a job?" Oka said.
(外国であれ)、生きていくために、外国へ出ることに罪の意識はない。
Japanese employers, like the government, say there is little they can do to stem the 
outflow of skills and technology.
"Technology gets passed down," said Satoshi Tsuzukibashi, director of the industrial 
technology bureau at Keidanren, Japan's biggest business lobby. "One can argue that's how 
Japan obtained its technology from the United States."
「技術の流出は、やむを得ない。
日本も、アメリカから技術をもってきた」
Aida says the Japanese culture of wanting perfection from its products has left many 
engineers exhausted.
"Japanese demand for quality is excessive," he said. "It makes one not want to work there."
「日本は高品質を求めすぎた。
それが日本では、もう働きたくないという理由になっている」

++++++++++以上、ロイターより++++++++++++++

●消えた工場

 36〜7年前。
私がこのI町(浜松市の西にあるI町)に住み始めたころには、このあたりにはモノを作る工場
が、あちこちに立ち並んでいた。
古い街道沿いの町だったが、それなりに活気があった。

 が、今は、そのほとんどが、消えた。
消えて、ビデオショップになったり、本屋になったりした。
巨大なショッピングセンターはできたが、そのため街道沿いの古い商店街は、シャッター街に
なった。
同時に何百年もつづいた、日本文化は、灯を消した。

 が、それでもがんばった。
2000年前後には、このあたりにも、多くの外国人労働者が住むようになった。
県営のアパートが、1棟丸ごと、外国人労働者に乗っ取られてしまった時代もある。
通りへ出れば、どこからも、ポルトガル語やスペイン語が耳に入ってきた。

 が、それも今は、消えた。
工場そのものが、消えた。
ここに書いた県営アパートにしても、現在は、外国人労働者は、数えるほどしかいない。
日本の産業構造は、基本的な部分で、変わってしまった。

●日本は、サラ金国家

 が、日本はかろうじて生き残っている。
理由の第一は、「資本収支」。
貿易(モノ)収支は赤字でも、資本(マネー)収支が黒字。
つまり日本は外国に貸したお金で、生活している。
平たく言えば、日本はサラ金国家。

 「ならば利息だけで、遊んで暮らせばいい」と考える人もいるかもしれない。
しかし、それはどうか?

 たとえば猛烈な勢いで、日本の円が流出した時代があった。
日本の金利が安いことをよいことに、外国の投資家たちは日本でお金を借り、それを世界中で
投資した。
仮に1億ドル借りても、利息は微々たるもの。
そのお金を、外国で、外国の銀行へ預けただけでも、たとえば年10%前後の利息がつく。
差額は、丸まるの、儲け。

 これを「円キャリー・トレード※」という。

 が、この円キャリー・トレードは、同時に「爆弾」でもある。
猛烈な勢いで流出した日本の円が、逆流し始めたら、この日本はどうなるか?
メチャメチャどころでは、すまない。
……というような経済危機が、今、そこまで迫りつつある。

●日本経済の終焉

 2050年を待たずして、日本は再び後進国に……。
というような記事が、数日前、どこかの経済サイトに載っていた。
原因は、経済の停滞と、少子化。
このままだと、人口も1億2000万人から、8000万人程度にまで減るという。

 たいへん残念だが、その程度ですめば、まだよいほう。
日本の国家破綻は、先延ばしにすればするほど、より深刻なものになる。

 たとえば私は、数日前、新東名高速道路の一部を、車で走ってみた。
目の玉が飛び出るほど、超豪華な道路。
「渋滞解消になる」と、マスコミはさかんに、はしゃいでいる。
バカめ!
ぜいたくも、よいところ。
25年前ですら、40兆円を超える建設費が見込まれていた。
実際には、もっと多いはず。

 この先の維持費を考えたら、交通渋滞どころでは、なくなるはず。
経済渋滞が起きる。
ああいうのを見て、「日本も発展している」などと思ったら、おおまちがい。
それがわからなければ、あなたの財産から、4000万円を引いてみればよい。
(4人家族のばあい。)
それが現実の、あなたの「生活」ということになる。

 ……北朝鮮がミサイルを打ち上げたことについて、「お金の無駄遣い」と、日本のマスコミは
騒いでいる。
「あの実験だけで、一年分のトウモロコシが買える」と。
が、それと同じことを、この日本もしている。
まさにお金の無駄遣い。
どうしてこの日本が、北朝鮮を笑うことができるのか。

 ……という暗い話はここまで。
友人からのレポートを考えているうちに、こういう話になってしまった。

 「政治が悪い」と言うのは、簡単なこと。
しかし本当に悪いのは、「ものを考えない私たち」ということになる。
その結果が、「今」ということになる。
2012/04/17

(注※)「円キャリー・トレード」(ウィキペディア百科事典より)
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
最後の1行だけでも、読んでゾッとする。

『円キャリー取引(円キャリートレード)は、円資金を借入れて様々な取引を行うことを指す。
国際的にみて円が低金利の際に借入れて、円を売ってより高い利回りとなる外国の通貨、あ
るいは外国の通貨建ての株式、債券などで運用して「利ざや」を稼ぐ行為は、円キャリー取引
と呼ばれている。

2000年代に活発だった円キャリー取引では、内外の機関投資家のほか、多くの個人投資家も
参加した。
個人がこの取引に入る形として注目されているものに外国為替証拠金取引(FX)がある。
証拠金取引では、証拠金に比べて大きな取引をすることが可能だが、それは資金を借入れて
いるのと同じ状態である。
このような円キャリー取引の拡大もあって、本来は経常収支の黒字によって円高が進行する
はずの日本で、円売りが多いために逆に円安が進行した。
背景には日本の金利が2006年7月の日本銀行によるゼロ金利政策の解除以降も、なお絶対
的にも国際的にも相当に低い水準にあったことがある。
しかし、日本の金利が上昇したり円高が進行したりすると、円キャリー取引を継続することで為
替差損が拡大するリスクが高まり、取引を解消(手仕舞い)しようと早めに円を買い戻す動き(巻
き戻し)が出て円高が加速され急激な円高となることが懸念された。
そのため、円キャリー取引は日本銀行の金融政策の新たな制約要因となっていた。
実際には、2007年のサブプライムローン問題をきっかけとした世界同時不況により円キャリー
取引の解消が始まり、円は買い戻しによって他の通貨に比べて急速に高くなった。
また、2008年のリーマン・ショックによって顕在化した世界的金融危機で金利差が縮小、円高
に拍車をかけた。
対ドルについては、2007年に1ドル110円台後半から120円台前半だったものが、2009年11月
には一時84円台まで上昇した。
円キャリー取引の資金の多くは日本の金融機関が用立てしている。
そのためアメリカの株価が急落すれば、日本の金融機関は円キャリー取引の清算に失敗した
海外の投資家達の不良債権を一気に抱えることになり、最終的なババを引かされる可能性が
あるため、円キャリー取引の行方は日本経済にとっても重要な問題である』(以上、ウィキペデ
ィア百科事典より)。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【霊魂(スピリット)の否定】

●精神2元論

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

脳科学の進歩には、すさまじいものがある。
今では、リアルタイムに、脳の中の働きや機能を、映像として、映し出すことができる。
ファンクショナル・CTI(fCTI)を例にあげるまでもない。

そういう「事実」を見せつけられると、では「精神とは何か」と。
そこまで考えてしまう。
が、おおまかに言えば、それについては、古来より、脳の活動と、魂(=霊魂)は別であるとい
う考え方が、支配的であった。
これを「精神2元論」という。

が、現在では、少なくとも脳科学の世界では、この2元論を信ずる学者はいない。
脳の働きには未知の部分も多い。
が、「未知」というだけであって、それが即、魂(=霊魂)と結びつくわけではない。

さらに脳科学が進めば、未知の世界はさらに解明される。
やがて私たちが今、魂(霊魂)と呼んでいる部分まで、科学によって解明される。
そういう時代は、すぐそこまで来ている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●東洋医学

 東洋医学(漢方)の世界では、人間の精神活動(魂魄)も、肉体活動の一部であると教える。
東洋医学のバイブルと称される、「黄帝内経」にも、しっかりとそう書いてある(霊枢・本神篇)。

魂……精神活動の源、
魄……肉体活動の源を、それぞれいう(霊枢・本神篇)。
魂魄と精神が一体となり、そこから(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)が生まれる。

 つまり精神活動も、肉体活動の一部と考える。
もしくは区別しない。

 黄帝内経という書物の先見性に、ただ驚くばかりである。

 が、それはそれとして、同時に、21世紀も10数年を過ぎた今、いまだに「スピリチュアル」な
る言葉が、大手を振って歩いているのには、驚かされる。
人間が原罪的にもつ、弱さ、もろさ、不完全さ、未熟さを、そのまま象徴している。
無知、不明、愚鈍は、「罪」である。
そういう意味で、私は「原罪」という言葉を使う。

●感情

 脳科学の進歩とともに、今では、感情についても、「ホルモン説」が、常識。
たとえば何かよいことをすると、その信号は、辺縁系の中にある扁桃体に伝えられる。
(「よいこと」という判断は、大脳の皮質部が判断する。
たとえば、人助けなど。)
その扁桃体は、その刺激を受け、エンケファリン、エンドロフィン系のホルモンを分泌する。
モルヒネ系のホルモンと考えると、わかりやすい。
これが脳内を、甘い陶酔感で満たす。
つまりその人を、「いい気持ち」にさせる。

 これはほんの一例だが、もろもろの感情は、こうして生まれる。

●意識

 意識については、未解明な部分が多い。
私たちが「私の意識」と思っている部分についても、その大半は、さらに奥底にある無意識の
世界からの命令によるものである……ということらしい。
言うなれば、私たちは常に無意識の世界からの命令を、そのまま受け止め、それを「私の意
思」と思い込んでいるだけ。

 その奥は、実に深い。

 たとえば若い男女の「愛」にしても、もとはと言えば、生殖本能に根ざしている。
さらに最近の脳科学によれば、あの赤ん坊(生まれたばかりの新生児)ですら、自らの(かわい
さ)を演出していることがわかってきた※。
(赤ん坊が、だぞ!)

 もちろん意識をもってそうしているわけではない。
無意識のまま、そうしている。
一方、親は親で、そうした赤ん坊を見ながら、赤ん坊に操れるまま、……同時に、母性本能、
父性本能に相乗的に操られるまま、自分の赤ん坊を見ながら、「かわいい」と思う。

(だからといって、それがおかしいとか、まちがっているとか、書いているのではない。)
それがあるからこそ、親は、赤ん坊を育てる。
そうでなければ、そうでない。
その時点で、親は、子育てを放棄する。
イコール、種族は、絶える。)

●霊魂(スピリット)

 話がそれたが、私が書きたいことは、つぎのこと。
いわゆる霊魂(スピリット)の存在を前提にして考える、精神2元論は、すでに存在意義を失っ
ているということ。
さらにそれに基づく、占い、まじないの類は、インチキ。
カルト性のある多くの宗教も、それに含まれる。
そう断言してもよい。

「信じたい」という気持ちも理解できなくはないが、それは先にも書いたように、人間が原罪的
にもつ(弱さ)によるものと考えてよい。
たとえて言うなら、空を走る稲妻を見て、「かみなり様がいる」と思うのと、どこもちがわない。

●意識vs意思

 が、誤解しないでほしい。
つまりだからといって、もろもろの人間の意思、意識を、無意味と書いているのではない。
恋愛にしても、そうだ。
欲望にしても、そうだ。
そういったものが、人間を裏から動かす原動力になっている。

 それが原動力となって、もろもろのドラマを生み出す。
そのドラマに価値がある。
人間が生きる価値がある。
あの映画『タイタニック』にしても、もしあの映画の中に、ジャックとローズが登場しなかったら、
あの映画は、ただの船の沈没映画。
無味乾燥な記録映画。

 つまり結論的に言うと、「意識」と「意思」は、別。
二元論的な意識は否定しても、私たちがもつ意思は、意思として、尊重されるべき。
その「意思」が、私たちそのものと考えてよい。

 私たちはそのつど、悩み、苦しみ、喜び、笑い、悲しむ……。
ときに自分を取り巻く運命と闘いながら、ふんばる。
がんばる、努力する。
そのドラマの中に、「私」が今、ここに存在する意味がある。
その意思まで、否定してはいけない。

●終わりに……

 霊魂(スピリット)の否定は、即、「独りで生きる」ことを意味する。
頼れるのは、自分の意思だけ。
そういう世界に投げ込まれる。
それは恐ろしいほどの絶壁感といってもよい。
「絶壁の淵に立たされたような、孤独感」をさして、「絶壁感」という。

 それに耐えられるか、どうか?
「自由」とは、最終的には、神や仏からの解放を意味する。
その境地に達した人を、「真の自由人」という。
が、その道は、長く険しい。
おおかたの人は、その途中であきらめ、「ただの人(das Mann)」になっていく。

(注※)
『【乳幼児期の記憶はどこにあるのか?】(子どもの能力を引き出すために)

●乳幼児期の記憶

 乳幼児期の記憶は、私が学生のころは、「ない」とされていた。
が、それがとんでもないまちがいであったことを証明したのが、ワシントン大学のメルツオフ※
である。

しかもその記憶は、おとなの私たちとは比較にならないほど、まさに怒涛のように脳の中に蓄
積される。
まわりの空気、匂い、音、母親の肌のぬくもり、息づかいなどなど。
そしてそれがやがてその子供の心の基礎となる。
目を閉じてやすらかに眠る乳児。
けっして、軽く考えてはいけない。

(注※……乳幼児の記憶)

「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 『以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。
だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている』(ワシントン大
学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。
現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えら
れると考えられている(新井康允氏ほか)。
しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだ
けということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。
たとえば幼児期に親に連れられて行った場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような
景色だ」と思うようなことはよくある。
これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考
えるとわかりやすい。

●相互作用

 では、その一方で、あの乳幼児(新生児を含む)も、周囲のおとなたちに対し、いろいろな働
きかけをしていることも、最近、わかってきた。
わかりやすく言えば、あの赤ちゃんが、(あかちゃんがだぞ!)、おとな(とくに親)を、操ってい
る!

 つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識してい
るわけではない。
無意識のうちに、そうする。

 さらに親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
それについても、脳内で麻薬を与えたときと同じような領域で反応が起き、脳内が高揚した状
態になるためと説明されている※。

「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。

(注※……かわいさの演出)

 時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。

『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。
母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理
の解明に役立つと期待される』と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 宗教とカルト 意識と意思 はやし浩司 精神2元論 霊魂論 はやし浩司 メ
ルツォフ はやし浩司 ベイラー 母親の高揚気分 操られる親たち はやし浩司 赤ん坊に操
られる親たち)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【4月17日2012年のレッスンより】

(1)新年長児に、「あいうおえ」をテーマに、声を出させるレッスンをしました。

新年長児、2回目のレッスンです。テーマは、前回についで、「声を出す」。「声を出す」?と、疑
問に思う人も多いかと思いますが、この時期、声を出すというのは、学習の基本です。(声を出
せない子どもも多い。)またこの日本では、学習というと、ペーパーワークが中心。またペーパ
ーテストでよい成績を取った子どもが頭がよいということになっていますが、これぞまさしく世界
の非常識! 教師と生徒が、ワイワイと言い合いながら、学習を進める。それが教育の基本で
す。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/KmxsBleI9TA" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)新小2児に「対角線」の概念を教えてみました。

小学2年生に「対角線」を教えてみました。もう少し時間があれば、ていねいな指導ができたと
思いますが、時間がなく、次回に回しました。かなり荒っぽいレッスンで、ごめんなさい。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/ojbcUIYyGKs" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【2002年に書いた古い原稿より】

+++++++++++++++++++++++

古い原稿ですが、同じく古いHPの中に
埋もれていましたので、拾い上げ、再発表します。

+++++++++++++++++++++++

●悲しき人間の心

 母親に虐待されている子どもがいる。
で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護する。
しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのところ
に戻りたい」と言う。
それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。
私たちおとなだって、いつもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。
そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌
っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。
「もう、生きているのをやめなさい。
無理することはないよ。
死んで早く、私の施設に来なさい」と。
しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったに
ちがいない。
「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。
それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。
あなたも懸命に生きている。
が、みながみな、満ち足りた生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。
中には、生きるのが精一杯という人もいる。
あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。
まさに人間社会というワクの中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。
が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NWという友人がいた。
一〇年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円空(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究
では、第一人者だった。
その彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬん
だね」と言うと、彼はこう言った。
「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望
だよ」と。

 それから35年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。
しかし今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。
今はもうこの世にいないNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。
何がどうあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きて
みる。
そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。
だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

 ……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけ
かもしれない……。
ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこのところ、多くなった。
今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。

「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。
(02−11−20)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てのリズムとパターン

 子育てには、一定のリズムがある。
このリズムは、たいてい母親が子どもを妊娠したときから始まる。
そしてそのリズムは、子育てが終わるまで、あるいは終わってからも、そのままつづく。

 たとえばこんな母親がいた。胎教とか何とか言って、妊娠中は、おなかにカセットレコーダー
を置き、胎児に英会話やクラシック音楽のCDを聞かせた。
生まれてからは、子どもが泣き出す前に、つまりほしがる前に、いつも時間をはかってミルクを
与えてた。
子どもがヨチヨチ歩くようになると、スイミング教室へ入れたり、音感教室に入れたりした。
さらに子どもが大きくなると、算数教室へ入れたり、英会話教室に入れたりした。

 この母親のばあい、何かにつけて、子どものテンポより、一テンポ早い。
これ
がこの母親のリズムということになる。
そしてこのリズムが、全体として、大きなうねりとなる。
それがここでいうパターンということになる。このパターンは、母親によって違う。
いろいろなケースがある。

 ある母親は、子どもによい思いをさせるのが、よい親のあるべき姿と信じてい
た。だから毎日の食事の献立も、休日の過ごし方も、すべて子ども中心に考え
た。家を新築したが、一番日当たりのよい部屋は、子ども部屋にした。それぞ
れの部分は、リズムで決まるが、全体としてそれがその母親のパターンになっ
ているのがわかる。この母親は、子どものためと思いながら、結局は子どもを甘
やかしている。そしてこのパターンは、一度、できると、あとは大きなうねりとな
って、繰り返し、繰り返し現れては消える。
 
 その子どもが中学生になったときのこと。
その子どもが大型量販店で万引きをして、補導されてしまった。
その夜のこと。
その母親は、まず私の家に飛び込んできた。
そしてこう泣き叫んだ。
「今、内申書に悪く書かれると、あの子は高校へ進学できなくなります。
何とかしてほしい」と。
しかし私には助ける術(すべ)がない。
断ると、その母親はその夜のうちに、あちこちを駆け回り、事件そのものを、もみ消してしまっ
た。多分、お金で解決したのだろうと思う。

 この母親のばあい、「子どもを甘やかす」というパターンがあるのがわかる。
そしてそのパターンに気づかないまま、その母親はそのパターンに振り回されているのがわか
る。
もしそれがよいパターンならよいが、悪いパターンなら、できるだけ早くそれに気づき、そのパ
ターンを修正するのがよい。
まずいのは、そのパターンに気づかないまま、それに振り回されること。
子どもはそのパターンの中で、底なしの泥沼に落ち込んでいく。
それを防ぐ第一歩として、あなたの子育てが、どのようなリズムをもっているかを知る。

 一見人間の行動は複雑に見えるが、その実、一定のリズムとパターンで動いている。
もちろん子育てに限らない。
生活のあらゆる部分に、そのリズムとパターンがある。
ここにも書いたように、それがよいリズムとパターンなら、問題はない。
しかし悪いリズムとパターンなら、長い時間をかけて、あなたの生活全体は、悪いほうに向か
う。
そのためにも、今、あなたの生活が、どんなリズムで、どんなパターンの中で動いているかを知
る。

 ついでに一言。こと子どもについて言うなら、このリズムとパターンを知ると、その子どもが今
後、どのようになって、どのような問題を引き起こすようになるかまで、わかるようになる。
少なくとも、私にはわかる。
よく「林は、超能力者みたいだ」と言う人がいるが、タネを明かせば何でもない。
子どもというのは、どんな人間になるかは、無数の方程式の組み合わせで決まる。
その方程式を解くカギが、その親のリズムとパターンということになる。

 そのリズムとパターンがわかれば、子どもの将来を予測することぐらい、何で
もない。ただ立場上、わかっていても、それをはっきり言わないだけ。万が一ま
ちがっていたらという思いもあるが、子育てにははっきりわからなくてもよいこと
は山のようにある。わからないまま手さぐりで進むのも、子育てのまた、おもしろ
いところではないのか。
(02−8−18)※

問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。
学校の先生や、みなに、迷惑をかけているのではという思いが、自分を小さくする。
よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そう
いう親ほど、出てこない」という意見を聞く。
教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。
恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。
それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。

 たしかに自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。
そんなわけで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人
の子育てをとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。
目が上ばかり向いている。
たとえばマスコミの世界。
私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。
あのK社の社員は、地位や肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、
ゴミのようにあつかった。
電話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。
おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、
「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。
それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。
その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。
私の立場でいうなら、『教育論は、教育で失敗した人に聞け』ということになる。
実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。
スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、ほとんど役にたたない。
が、一般世間の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育て
を組みたてる。

 たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。
すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということは考
えない。
この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。
ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、もっと簡単なこと。
しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。
あるいは自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。
聖書にもこんな言葉がある。
「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。
この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」というこ
とになる。
そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。
そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「す
なおな子ども」とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味があ
る。一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれし
そうな顔をする。いやなときはいやな顔をする。たとえば先生が、プリントを一枚
渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子どもがいる。一見
教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」が
なく、実際には教えやすい。いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、
その分、どこかで心をゆがめやすく、またその分、心がつかみにくい。つまり教
えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれ
る、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。ゆがみという
のは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の
子どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が
見えなくなったとたん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけ
たりする。その追いかけている様子を観察すると、その子どもは子ども自身の
意思というよりは、もっと別の作用によって動かされているのがわかる。それが
ここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」ということになる。

 すなおな子どもに育てるには、心(こころ)豊かで、心穏やかで、かつ心静かな
環境で育てることだが、それ以上に大切なことは、子ども自身の心を大切にす
ること。過干渉、過関心、威圧、暴力や暴言が日常化すると、子どもの心は、抑
圧された分だけゆがむ。そしてここが重要だが、幼児期に一度心ゆがむと、そ
の心はまずなおらない。唯一なおす方法があるとするなら、子ども自身がいつ
かそれに気づいて、子ども自身が努力するしかない。

 もっとも考えてみれば、ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そのゆがみをもっ
ている。言いかえると、ほとんどの人が毎日、そのゆがみと戦いながら生きてい
る。ただ言えることは、ゆがみがあることが悪いのではなく、そのゆがみに気づ
かないまま、そのゆがみに振り回されることだ。そしていつも同じようなパターン
で、同じような失敗を繰り返す……。もしそうならあなたも一度、あなた自身のゆ
がみを、じっくりと観察してみるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。
幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カ
メ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。
毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。
旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 
最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?」
(内容を改変・K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。
「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。
何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」
と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やら
せたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。

こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」
と。
要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

 投書に話をもどす。

 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。
その中でも最大のパターンは、

@「子どもの心に耳を傾けない」。
「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決
めてしまう。
そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。
「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。
そのつど子どもの心を確かめるということをしない。
ときどき子どもの側から、サインを出しても、そのサインを無視する。
あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

 このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けな
いから、それがわかる。
私「明日の休みはどう過ごしますか?」、
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」、
私「緑花木センター……ですか?」、
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」
と。

あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。
息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。
@よきガイドとしての親、
Aよき保護者としての親、
そしてBよき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、Bの「よき友」としての視点
がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題の
すべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アルツハイマーの初期症状

 アルツハイマー病の初期症状は、異常な「物忘れ」。
しかしその初期症状のさらに初期症状というのがあるそうだ。
@がんこになる、
A自己中心的になる、
B繊細な感覚がなくなるなど。こうした症状は、早い人で四〇歳くらいから現れ、しかも全体の
五%くらいの人にその傾向がみられるという(※)。

五%といえば、二〇人に一人。学校でいうなら、中学生をもつ親で、一クラスにつき、三人はそ
の傾向のある親がいるということになる(生徒数三〇人、父母の数六〇人として計算)。

 問題はこういう親にからまれると、かなり経験のある教師でも、かなりダメージを受けるという
こと。
精神そのものが侵される教師もいる。
このタイプの親は、ささいなことを一方的に問題にして、とことん教師を追及してくる。
私にもこんな経験がある。ある日一人の母親から電話がかかってきた。
そしていきなり、「日本の朝鮮併合をどう思うか」と質問してきた。
私は学生時代韓国にユネスコの交換学生として派遣されたことがある。
そういう経験もふまえて、「あれはまちがっていた」と言うと、「あんたはそれでも日本人か」と。
「韓国は日本が鉄道や道路を作ってあげたおかげで、発展したのではないか。
あんたはあちこちで講演をしているということだが、教育者としてふさわしくない」と。
繊細な感覚がなくなると、人はそういうことをズケズケと言うようになる。

 もっとも三〇年も親たちを相手にしていると、本能的にこうした親をかぎ分けることができる。
「さわらぬ神にたたりなし」というわけではないが、このタイプの親は相手にしないほうがよい。
私のばあい、適当にあしらうようにしているが、そうした態度がますます相手を怒らせる。
それはわかるが、へたをすると、ドロドロの泥沼に引きずり込まれてしまう。
先の母親のケースでも、それから一年近く、ああでもないこうでもないという議論が続いた。

 アルツハイマー病の患者をかかえる家族は、それだけもたいへんだ。
(本人は、結構ハッピーなのかもしれないが……。)
しかしもっと深刻な問題は、まわりの人が、その患者の不用意な言葉でとことんキズつくという
こと。
相手がアルツハイマー病とわかっていれば、それなりに対処もできるが、初期症状のそのまた
初期症状では、それもわからない。
私の知人は、会社の社長に、立ち話で、リストラされたという。
「君、来月から、もう、この会社に来なくていい」と。
その知人は私に会うまで、毎晩一睡もできないほどくやしがっていたが、私が「その社長はア
ルツハイマーかもしれないな」と話すと、「そういえば……」と自分で納得した。
知人にはほかにも、いろいろ思い当たる症状があったらしい。

 さてもちろんこれだけではないが、今、精神を病む教師は少なくない。
東京都教育委員会の調べによると、教職員の全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によ
るものとし、九七年度には一六一九人がそのため休職している。
もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍。
さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。
まさに現在は、教師受難の時代とも言える。
ああ、先生もたいへんだ! 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 
 
 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。
仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなか
った。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。
ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で「サダコ(禎子)」(『原爆の子の像』のモデルとなった少女)という本を、読んで訳
していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むこともできなかった。
そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまっ
た。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そのように祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがな
い。
いたとしたらインチキだ。
一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行してる。携帯電話の運勢占いのコーナ
ーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。

 どうせインチキな人が、でまかせで作っているコーナーなのだろう。
が、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、どこでも電話というのが
登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だってもっている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。
その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 
人間の知性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をして
いるのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 難解な仏教論も、教育にあてはめて考えると、突然わかりやすくなることがある。
たとえば親鸞の『回向(えこう)論』。「(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや」という、あの
有名な言葉である。
これを仏教的に解釈すれば、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令
によってしているに過ぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与え
られているから、浄土へ行ける…………」(石田瑞麿氏)と続く。

 こうした解釈を読んでいると、何が何だかさっぱりわからなくなる。
言葉の煙に包まれたかのような気分にすらなる。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前ではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。
そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもがいい有名大学へ入るのは当たり前のこと
だ。
頭のよくない子どもが、有名大学へ入るところに意味がある。
またそこに人間が人間として生きるドラマ(価値)がある」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。
そういうのは教育とは言わない。
しかし問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」
と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔だが、私はある宗教団体を批判する原稿を、ある雑誌に書いた。
その教団の機関誌に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいは   その団体には、身体に障害がある人がいないとでもいうのだろうか。

 が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口をいいふらし始めた。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方(?)は、明らかにまちがっている。
他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやるのが、愛ではない
のか。
慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて、教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は、「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは思う。いわんや神や仏をや。

 批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようななら、それはもう神や仏
ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 悪いことをして、失敗し、問題のある
子どもをもつことが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見る
と、そんなこともわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 私はときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。
さらに自分が神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。
しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「○○大学へ入学させてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまうだけ。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。
人間全体についても同じ。
スーパーパワーで、病気を治したり、国を治めたら、人間は自ら努力することを、やめてしま
う。医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、私は今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

かわいた冬の風

●心を破壊する受験勉強●温もりの消えた日本

 昔、バリバリの猛烈社員がいた。ある企画会社の男だったが、彼は次々とヒ
ット作を世に送り出していた。その彼と半年あまり一緒に仕事をしたが、おかし
なことに気づいた。彼の頭の中にあるのは、営業成績だけ。数字だけ。友人の
姿はおろか、家族の姿すらなかった。「仕事が生きがい」と言えば、聞こえはよ
いが、その実、仕事の奴隷。私はその男を見ながら、どうしてこういう人間が生
まれるのか、それに興味をもった。しかしその原因はすぐわかった。

 受験期を迎えると、子どもの心は大きく変化する。選別されるという恐怖と将
来への不安の中で、子どもの心は大きく動揺する。本来なら家庭がそういう心を
いやす場所でなければならないが、その家庭でも、親は「勉強しろ」と、子どもを
追いたてる。行き場をなくした子どもはやがて、人とのつながりを自ら切る。切り
ながら、独特の価値観を身につける。

 話はそれるが、こんな役人がいた。H市役所でもトップクラスの役人だった。あ
る日、私にこう言った。「林君、H市は工員の町なんだよ。その工員に金をもた
せると、働かなくなるんだよ。だから遊ぶ施設をたくさん作って、その金を吐き出
させなければならないんだよ」と。この話で思い出したが、こんなことを言った通
産省の役人もいた。「高齢者のもつ貯金を、財政再建に利用できないものか」
(テレビ)と。

 受験勉強の弊害を説く人はほとんどいない。戦後、教師も親も、そして子ども
たちも、それが「善」であると信じて、受験勉強をとらえてきた。しかしそれによっ
て犠牲になったものも多い。その一つが、「心」ということになる。もちろん「勉
強」が悪いのではない。受験にまつわる「競争」が悪い。青春期の一番大切な
時期に、この競争で子どもを追いまくると、子どもから温かい人間的な心が消え
る。「他人を蹴落としてでも…」という人生観が支配的になり、ものの考え方が、
ドライになる。冷たくなる。親子という人間関係すらも、数字でみるようになる。
今、日本の若者のほとんど(六六%)は、「生活力に応じて、(老後の)親のめん
どうをみる」(総理府調査)と答えている。

 子どもが有名大学へ入ったりすると、親は、「おかげさまで」と喜んでみせる。
しかしその背後で吹きすさぶのは、かわいた冬の風。その風が、今、日本中を
おおっている。そのかわいた風を、ひょっとしたら、あなたもどこかで感じている
はずだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人のエゴイズム

 駅の片隅で、数人の高校生たちが隠そうとするふうでもなく、タバコを吸ってい
る。そういう光景を見ても、多くの日本人は見て見ぬフリ。進んで高校生を注意
する人はいない。が、それこそまさに日本の文化。日本の文化そのものであ
る。

 日本人は庭をつくるとき、まずその周囲を塀で囲む。囲んで、その中に庭をつ
くる。家の中に「美」を引き込むためである。一方、欧米人は、塀そのものをつく
らない。そして庭をつくるとしても、通りから見た「美」を追求する。何でもないよ
うな違いだが、この違いは大きい。そのため日本人は、塀の外の世界にはほと
んど関心を払わない。「自分のまわりさえよければ」というエゴイズムが何かに
つけ優先する。一方、欧米では、自分の庭であっても、芝生の草を伸び放題に
しておいたりすると、近所から苦情が出る。アメリカでもオーストラリアでも、罰
金を課すところさえある。わかりやすく言えば、全体の「美」を大切にする。子ど
もについても同じで、日本に住んでいるガーナ人の男性は次のように書いてい
る。

 「駅などの公共の目が光っているところで、中高校生が喫煙しているのを見か
けますが、(日本では)だれも注意しません。ガーナではこのようなとき、だれも
強く叱りますが、日本ではそういうことはありませんので、すべての責任は親が
負わされます」(「ファミリス・〇一年九月号」と。

 話は大きくそれるが、千葉県に成田空港という、これまたヘンピな、しかも不
便なところに空港がある。国際空港をもう一度、羽田空港に戻そうという動きも
あるそうだが、千葉県は、それに猛烈に反発している。いわく「今まで土地買収
など、苦労してきた我々の努力はどうなるのか」(千葉県県職員幹部)と。しかし
この論法はおかしい。

 だいたいにおいて、あんなところに空港を建設したこと自体、おかしい。また
国際空港などというものは、国家的利益の観点から考えるべきはないのか。二
〇年前のように日本に国力があり、その国力でアジア経済の総帥(そうすい)
の立場にあったときならまだしも、その経済に陰りが見えてきた今は、そんなこ
とを言っている場合ではない。あの不便さが、日本の経済にボデーブローのよう
にききはじめている。日本のスキをねらって、シンガポールや韓国は、巨大な空
港を建設した。「成田空港ではハブ(移動の拠点)空港にはなりえない」という弱
点を、彼らは見透かしている。つまり千葉県が地域エゴをむきだしにすればする
ほど、日本全体の地盤が沈下する。

 話をもとにもどす。庭の話と、空港の話は、どこかでつながっている。そしてそ
の延長線上に、冒頭の話がある。よく「他人の子どもでも、悪いことをしていたら
注意すべきだ」と言う人がいる。しかしことはそう簡単ではない。他人の子どもを
注意するには、自分自身の中にある、「日本の文化」というカベを乗り越えなけ
ればならない。封建時代の昔から、えんえんと作りあげたカベだ。大半の人は、
ひょっとしたら、本音を言えば、「他人の子どもなど、どうでもいい。うちの子さえ
よければ」と考えている。それはちょうど、塀をつくってその中に庭をつくる発想
と似ている。同じと言ってもよい。「おらが県さえよければ、それでいい」という発
想そのもの。

 しかしそう考えること自体、きわめてそれは島国的。日本的である。そうでな
いというなら、あなたは駅の片隅でタバコを吸っている高校生を、注意すること
ができるだろうか。いや、できないならできないでよい。しかしそのときでも、「ど
うしてできないか」を、ほんの少しだけ自問してみてほしい。

 何でもない光景だが、駅の中でタバコを吸っている高校生を見かけたとき、私
はそう考えた。(2001・10・22記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●運命と生きる希望

●希望をなくしたら死ぬ?●平凡は美徳だが…

 不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦
ない。まるで運命がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)
がそうだ。会社をリストラされ、そのわすかの資金で開いた事業も、数か月で失
敗。半年間ほど自分の持ち家でがんばったが、やがて裁判所から差し押さえ。
そうこうしていたら、今度は妻が重い病気に。検査に行ったら、即入院を命じら
れた。家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校を卒業
すると同時に、暴走族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無
心する…。

 二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、
その予備軍の一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自
殺する人の気持ちが、痛いほどよくわかる。昔、学生時代、友人とこんな会話を
したことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に歩いていたときのこと。私
がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語りかけた。するとそ
の友人はこう言った。「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思
うことは、立派な希望だよ」と。

 Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は
何もまちがっていない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というの
は、社会という大きな歯車の中で動く。その歯車が狂うことだってある。そして
そのしわ寄せが、Y氏のような人に集中することもある。運命というものがある
のかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後のところでふんばる
かどうかということは、その人の意思による。決して運命ではない。

 私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてき
た。が、今言えることは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事
実そのものが、希望なのだ。私のことだが、不運が重なるたびに、その先に新
しい人生があることを知る。平凡は美徳であり、何ごともなく過ぎていくのは、そ
れなりにすばらしいことだ。しかしそういう人生から学ぶものは、何もない。
私はどうにもならない問題をかかえるたびに、こう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たけ
れば来い。お前なんかにつぶされてたまるか!」と。生きている以上、カラ元気
でも何でも、前に進むしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家族主義と幸福論

●幸福の原点は家庭にある●オズの魔法使い

ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロ
シーという女の子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するとい
う物語である。こんなことがあった。

 オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシ
ア軍に襲われたらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」
と。「おやじの故郷のスコットランドへ帰る」と言ったのもいた。何という愛国心!

 私があきれていると、一人の学生がこう言った。「ヒロシ、オーストラリア人が
手をつないで一列に並んでもすきまができるんだよ。どうしてこの国を守れる
か」と。

 英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで
質問を変えて、「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」
と聞くと、皆血相を変えてこう言った。「そのときは、命がけで戦う」と。これだけ
ではないが、私はいつしか欧米人の考え方の基本に、「家族」があることを知っ
た。愛国心もそこから生まれる。

 たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日本語に訳
する「愛国者」ということになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパ
トリス、つまり「父なる大地」という語に由来する。つまり欧米で、「ペイトリアチズ
ム(愛国心)」というときは、「父なる土地を愛する」あるいは、「同胞を愛する」を
意味する。その映画の中でも、国というよりは家族のために戦う一人の父親
が、テーマになっていた。
 
 家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは
誤解。冒頭にあげたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そ
んな遠くにあるのではない。あなたのすぐそばで、あなたに見つけてもらうの
を、息を潜めて待っている…。ドロシーは長い冒険の末、それを教えられる。
 明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事
第一主義が生まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。
発展途上の国としてやむをえなかったのかもしれないが、しかし今、多くの人が
そうした生き方に疑問をもち始めている。九九年の終わりに中日新聞社がした
調査でも、四五%の日本人が「もっとも大切にすべきもの」として「家族」をあげ
た。日本人は今、確実に変わりつつある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●三男からのハガキ

●一四年ぶりの屈辱●後悔は心のトゲ

 富士山頂からハガキが届いた。見ると三男からのものだった。登頂した日付
と時刻に続いて、こう書いてあった。「一四年ぶりに屈辱を晴らしました。今、ど
うしてあのとき泣き続けたか、その理由がわかりました」と。
 
一四年前、私たち家族は富士登山を試みた。私たち夫婦と、一二歳の長男、九
歳の二男、それに六歳の三男だった。が、八合目まで来て、そこから見あげる
と、山頂が絶壁の向こうに見えた。私は多分そのとき三男にこう言ったと思う。
「お前には無理だから、ここに残っていなさい」と。女房も同じ意見だった。で、
私は女房と三男を山小屋に残して、頂上をめざした。つまりその間中、三男は
山小屋で泣き続けていたという。

 三男はそのあと、高校時代には山岳部に入り、部長を務め、全国大会にまで
出場している。今の彼にしてみれば富士山など、そこらの山を登るくらい簡単な
ことだろう。その日も、大学の教授たちとグループを作って登山しているというこ
とだった。女房が朝、新聞を見ながら、「きっとE君はご来光をおがめたわ」と喜
んでいた。が、私はその三男のハガキを見て、胸がしめつけられた。

 あのとき私は、三男の気持ちを確かめなかったのかもしれない。私たちが登
山していく姿を見ながら、それが悔しかったのだろう。そう、振り返ったとき、三
男が女房のズボンに顔をうずめて泣いていたのは思えている。しかしそのまま
泣き続けていたとは!

 「後悔」という言葉がある。それは心に刺さったトゲのようなものだ。しかしそ
のトゲにも、刺さっていることに気づかないままのトゲもある。私は三男がこの
一四年間、そんな気持ちでいたことを知る由もなかった。何という不覚! 私は
どうして三男に心にもっと耳を傾けてやらなかったのか。何でもないようなトゲだ
が、子育ても終わってみると、そんなトゲに心が痛む。私はやはりあのとき、時
間はかかっても、そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべきだった。重っ苦
しい気持ちで女房にそれを伝えると、女房はこう言って笑った。

 「だって、あれは、E君が足が痛いと泣いたからでしょ」と。「Eが、痛いと言っ
たのか?」「そう、E君が痛いから歩けないと言ったのよ。それで私も残ったの
よ」と。とたん、心の中をスーッと風が通り抜けるのを感じた。軽い風だった。さ
っそくそのあと三男にメールを出した。「登頂、おめでとう」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●学校恐怖症の子ども

●前兆期を見逃すな●無理をしないのが鉄則

 同じ不登校といっても、症状や様子はさまざま。私の息子はひどい花粉症で、
睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖
症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」(AMジョンソン)、行為障害に近い
不登校を「怠学」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、
次の三つの段階に分けて考えられている(長崎大・中根允文)。心気的時期、
登校時パニック時期、自閉的時期。それをもう少しわかりやすくしたのが、次で
ある。

@前兆期…登校時刻の前になると、腹痛、頭痛、脚痛、倦怠感、吐き気、気分
の悪さを訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学
校へ行く」などと、明るい声で答えたりする(症状の日内変動)。理由を聞くと、
「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君が
いじめる」と言い出したりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動す
るのが特徴。

Aパニック期…攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりす
ると、狂人のようになって暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日
は休みなさい」などと言ったりすると、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう
言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。

B自閉期…自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりするが、心の中はい
つも緊張状態にあり、ささいなことで激怒したり、暴れたりする(感情障害)。こ
の段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感を
もつ)の症状を示すこともある。こうした状態が、数ヶ月から数年続く。

C回復期…断続的に外の世界と接触をもつようになり、登校できるようになる。
週一回が二回、あるいは月に一週が二週となり、序々に登校期間が長くなる。

 要はいかに@の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。
たいていの親は一通り病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をす
る。この無理が症状を悪化させ、Aのパニック期を招く。この段階でも、もし親が
無理をせず、「そうね、だれだって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言え
ば、その後の症状は軽くすむ。一般に子どもの心の問題は、今の状態をより悪
くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、逆効果となる。  
(詳しくは、「子どもの指導法」→「子育て論文」で。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の文化、恥の文化

●世間体を気にする人●私は私という人生観

 夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(五七歳)を
病院から連れ出してしまった妻(五一歳)がいた。あるいは死ぬまで、「店をた
たむのは恥ずかしい」と言って、小さな雑貨店に居座り続けた女性(八五歳)も
いた。人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動をする。S氏(八一歳)もそう
だ。隣の家に「助けてくれ」と電話をかけてきた。そこで隣人が行ってみると、S
氏は受話器をもったまま倒れていた。隣人が「救急車を呼びましょうか」と声を
かけると、S氏はこう言ったという。「近所に恥ずかしいから、救急車を呼ばない
でくれ」と。

 恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。日
本人は、世間体を気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして、そ
の世間体を気にする人には、独特の価値観がある。相対的価値観というべきも
ので、自分の幸不幸を、他人との比較の中で判断する。他人より幸福であれ
ば、幸福(?)、他人より不幸であれば、不幸(?)と。それだけではない。こうい
う尺度をもつ人は、自分より幸福な人をねたみ、自分より不幸な人をさげすむ。
が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめる。先の雑貨点を
営んでいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪く言ってき
た。「バチがあたったからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS
氏も、自分より先に死んでいった人たちを、「人間は死んだらおしまいよ」と笑っ
ていた。

 こうした価値観は、そのまま子育てに反映される。世の中には親をだます子ど
もがいるが、子どもをだます親もいる。Yさん(七五歳女性)は、言葉巧みに息子
(四五歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま転売してしまった。
が、Yさんには罪の意識はない。息子がそれを責めると、「先祖のために息子
がお金を出すのは当然」とそれをはねのけた。もちろんそれで親子の縁は切れ
た。息子はこう言う。「母にとっては、私よりも、家のメンツのほうが大切なので
す」と。ふつうに考えれば、Yさんのした行動は、おかしい。おかしいが、恥を重
んずる人には、それがわからない。が、これだけは言える。恥だの世間体だの
言っている人は、他人の目の中で自分の人生を生きるようなもの。せっかくの人
生をムダにする。が、それほど見苦しい人生もない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親子の断絶診断テスト@

●最初は小さな亀裂●一〇点以上なら要注意

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる…。今、親を尊敬できないという
中高校生は、五〇%もいる。親のようになりたくないという中高校生は八〇%弱
もいる。そこであなたの子育てを診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状
態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの心の中を知るのが、このテス
ト。

@あなたは子どものことについて…。
★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。
★一、二人くらいなら何となく知っている(2点)。
★ほとんど知らない(3点)。

A学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。
★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休める(0)。
★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。
★親のいるところをいやがるようだ(2)。
★親のいないところを求める。親の姿が見えると、その場を逃げる(3)。

B「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなた
の子どもは……。
★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどうくさそうな表情をしたり、うるさがる(1)。
★いやがらないが、ほとんど話してくれない(2)。
★即座に、回答を拒否し、無視したり、「うるさい!」と怒る(3)。

C何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあな
たの心は…。
★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。
★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
★親のほうが遠慮し、恐る恐る…といった感じになる(2)。
★拒否されるのがわかっているから、とても言えない(3)。

D休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話で
よい。そのときあなたの子どもは…。
★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。
★「行きたくない」と、たいてい拒否される(2)。
★家族旅行など、問題外といった雰囲気だ(3)。
(結果)点数が15〜12点…目下、断絶状態。
11〜9点…危険な状態。
8〜6点…平均的。なお平均点はX点(ZZ中学)。
5〜0点…良好な関係。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

親子の断絶診断テストA 
  
●自立と断絶は別●子どものうしろを歩く

★ある程度の「断絶」は、この時期、問題はない。子どもは小学三〜四年生を
境として、少しずつ親離れを始める。そして「親から独立したい」という意欲は、
思春期にピークに達する。

★断絶が断絶になるのは、@互いの意思の疎通がなくなること。A互いの会話
が消える。そのためB家族が家族としての機能を果たさなくなるときをいう。ここ
でいう「機能」というのは、「家族は守りあい、助けあい、理解しあい、教えあう」
という機能のことをいう。

★原因は、@親側の権威主義的な子育て観。「私は親だ」「子どもは親に従う
べきだ」という親意識が強い人ほど要注意。子どもは親の前では仮面をかぶ
る。仮面をかぶった分だけ、子どもの心は親から離れる。

A相互不信。「うちの子はすばらしい」という思いが、子どもを伸ばす。親子の心
は、鏡のようなもの。親が「うちの子はダメな子」と思っていると、長い時間をか
けて、子どもの心は親から離れる。

そしてB子育てのリズムの乱れ。子育てのリズムは、子どもが乳幼児のときか
ら始まる。あなたが子どもと歩いていたときのことを思い出してみてほしい。そ
のときあなたは子どもの横かうしろを歩いていただろうか。もしそうならなら、そ
れでよし。しかしあなたが子どもの手をぐいぐいと引きながら、前を歩いていたと
したら、そのときから、親子のリズムは狂っていたことになる。「子どものことは
私が一番よく知っている」という過信があぶない。このタイプの親はおけいこ塾
でも何でも、親が一方的に決める。やめるときもそうだ。

★親子の断絶が始まったら、@修復しようとは考えないこと。今の現状をそれ
以上悪くしないことだけを考えて、一年単位で様子をみる。親があせって何かを
すればするほど、逆効果で、子どもの心はあなたから離れる。Aあなたが権威
主義的であるなら、そういうまちがった子育て観は捨てる。人間に上下はない。
親子の間にもない。アメリカでは、親子でも「お前は、パパに何をしてほしい?」
「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。こういう謙虚さが、子ども
の心に穴をあける。そして子どもに向かっては「あなたはいい子」を口グセにす
る。最初はウソでも構わない。そういう口グセが、子どもの心を開く。そして最後
に、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。子ど
ものリズムにあわせる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親のうしろ姿2001-7-11

 生活のために親が苦労している姿。子どもを育てるために親が苦労している
という姿。これを日本では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を子ども
に見せることを美徳のように考えている人がいる。あるいは「子どもは親のうし
ろ姿を見て育つ」などと言う人もいる。しかし親のうしろ姿などというものは、子ど
もに見せるものではない。見せるつもりはなくても、子どもは見てしまうかもしれ
ないが、それでも見せるものではない。親は親で、子どもの前では、どこまでも
自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。そういう姿が、子どもに
生きる活力を与え、子どもを伸ばす。

 昔『一杯のかけそば』という話があった。貧しい親子が、一杯のかけそばを分
けあって食べるという、あの話である。あの話に日本中が泣いたが、あの話は
基本的な部分でおかしい。私がその場にいた親なら、多分子どもにはこう言う
だろう。「パパは、おなかがすいていない。お前たちだけで食べなさい」と。が、
あの話の中では、親も分けあって食べている。こういのを、親の恩の押し売りと
いう。このタイプの親に限って、「生んでやった」だの「育ててやった」だのと言い
出す。子どもは子どもで、「生んでもらった」だの「育ててもらった」だのと言い出
す。こうして親は子どもに甘え、子どもは親に甘える。そこにいるのは、綿々と
子離れできない親、親離れできない子どもということになる。
 
親は確かに子どもを生むが、しかし子どもに頼まれたから生むのではない。そ
んなことはありえない。つまり親は自分の勝手で子どもを生む。そして生んだ以
上は、育てるのは親の義務ではないか。責任ではないか。

 子どもは親から生まれるが、決して親の「モノ」ではない。一人の独立した人
間だ。親は子どもに向かって、「あなたの人生はあなたのもの。たった一度しか
ない人生だから、思う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行? …そんなこと
考えなくてもいい。家の心配? …そんなこと考えなくてもいい」と、一度は肩を
たたいてあげる。それでこそ親は自分の義務を果したことになる。もちろんその
あと子どもが自分で考えて、親のめんどうをみるとか、家のめんどうをみるという
のであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。子どもに親孝行を期待した
り、要求するのは、親のすべきことではない。要するに親のうしろ姿は見せない
ことだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●このところ心配なこと

●日々の積み重ねが人格に●ボロを出すのが怖い

 子育てが終わると、どっとやってくるのが、老後。女房はこのところ、あちこち
のホームの案内書を取り寄せては、「この土地と家を売れば何とかなるわ」と、
そんなことばかり言っている。が、私が心配しているのは、そのことではない。

 五〇歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病が、表に出てくる。同時に気
力も弱くなり、自分をごまかすことができなくなる。実際、六〇歳を過ぎて、急に
ボロを出すようになった人はいくらでもいる。私の伯母もそうだ。世間では「仏
様」と呼ばれているが、このところそれを疑うような事件を、ひんぱんに起こして
いる。近所から植木バチを盗んできたり、無断駐車の車に、ドロ水をかけたりし
ている。いや、私は子どものころから伯母を知っているが、もともと伯母はそうい
う人だった。ただ年齢とともに、自分をごまかすことができなくなった。自分の
「地」を、そのままさらけ出している。

 日々の積み重ねが、月となり、その月が積み重なって、歳となり、そしてやが
てその人の人格を形成する。言いかえると、日々のささいな行為が、その人の
人格を作る。ウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、そういうことだ。人が見
ているとか、見ていないとかいうことは関係、ない。よく誤解されるが、人の言う
ことをきちんとやりこなす人のことを、まじめな人というのではない。まじめな人
というのは、自分の心の中で決めたことを、誠実に守ることができる人のことを
いう。そのまじめさが、結局は、その人の人格となる。

 さて私のこと。私は生まれが生まれだから、結構小ズルイ人間だった。戦後
の混乱期ということもあった。その場で適当に自分をごまかし、相手を動かすと
いうことを、割と日常的にしていた。ダマすというほど大げさなものではないが、
ウソも平気でついていた。友を裏切ったことも、何度かある。そういう自分を私
は知っているから、そういう自分が外へ出てきたらどうしようかと、そんなことを
よく考える。今はまだ気力もあって、そういう自分を内の世界に閉じ込めておくこ
とができる。が、これからはそうではない。あの伯母のように、ボロを出すように
なる。シッポを出すようになる。私はそういう「恐ろしさ」に気づくことが遅すぎた。
もっと若いころに、それに気づくべきだった。そんな思いが、このところ日増しに
強くなっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家族は自然体で…

●家庭はいこいの場●信頼することが大切

 家族は、気楽に行こうよ。鼻クソをほじりたかったら、ほじればいい。おならを
したかったら、すればいい。あいさつにしても、したければすればいい。したくな
かったら、しなくてもいい。家族はいこいの場。みんなが信頼しあい、守りあい、
助けあえば、それでいい。気をつかわないから、家族って、言うんだよね。

 そりゃあ、食事だって、みんなが一緒にできれば、それにこしたことはない。し
かしね、みんな生活時間が違うだろ。公務員の人はともかくも、民間で働いてい
る人は、みんな働く時間帯が違うよ。ぼくなんか、毎晩午前二時、三時まで仕事
しているよ。だから朝ご飯だって、一緒に食べたことがない。女房は女房で、毎
晩のようにいろんな会合があるし…。無理なんだよ。一緒に食事をするというこ
とが…。

 要するに家族は「形」ではない。「中身」なんだ。そして大切なことは、それぞ
れが相手の生活を認め、それを理解し、受け入れることなんだ。ただね、子ども
が幼いうちは、できるだけ家族はみんな、行動をともにしたほうがいいよ。子ど
もはそういう行動を通して、「家族」というものを学ぶからね。それにね、子どもと
いうのはね、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむよ。「絶対的」というの
は、疑いをいだかないという意味さ。たとえば夫婦げんかにしても、それがある
一定のワクの中でなされているなら、問題はないよ。しかしね、いくらうわべをと
りつくろっていても、夫婦の間が冷えきっていたりすると、その影響は子どもに
出てくるよ。よく「離婚は子どもに影響を与えますか?」と聞く人がいるけど、離
婚そのものよりも、その離婚に至る騒動が、子どもの心に深刻な影響を与える
よ。だから離婚するにしても、騒動は最小限に、ね。

 そうそうあと片づけにしてもね、もううるさく言わないこと。ただね、あと片づけ
とあと始末は違うからね。あと始末はきちんと子どもにさせようね。たとえば食
後、食器は、シンクへ集めるとか。冷蔵庫から出したものは、元に戻させるとか
…。日本人はこのあと始末が、苦手な国民だよ。子どものときから、そういうこと
は教えられていないからね。

 子どもはね、親が必死になって家族を守ろうとしている姿を見ながら、家族の
大切さを理解するよ。そういう姿は見せておこうね。…で、あなたも今日からこう
言ってみてはどうかな。「家族を大切にしようね」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育ての「カラ」を破る

●子どもの中に、その子ども(孫)を見る

 子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるのが子育て。それは
前にも書いたが、これにはもう一つの意味が含まれる。あなたは子どもの中に
孫、さらにその孫の中にそのまた孫を見ることによって、あなたを包む、「カラ」
を破ることができる。こういうことだ。

 今あなたは子育てをしながら、ひょっとしたら、「うちの子さえよければ」と考え
ているかもしれない。「世間はともかくも、とりあえずうちの子のことだけでも、う
まくいけばそれでいい」と。しかしもしあなたが子どもの中に孫、さらにその孫の
中にそのまた孫を見ることができるようになると、この考えはまちがっていること
を思い知らされる。単純な計算でも、夫婦(二人)が、それぞれ二人ずつの子ど
もを産んだとすると、二七代目には、その数は一億三〇〇〇万人を超える。ほ
ぼ今の日本の人口と同じになる。一世代を三〇年とすると、二七掛ける三〇
で、八一〇年。つまり八一〇年後には、日本人のすべてがあなたの子孫という
ことになる。

 あなたは今、自分の子どものことを心配する。しかし孫が生まれれば、あなた
はその孫のことを心配するだろう。もしあなたに永遠の命があるなら、あなたは
そのまた孫のことを心配するだろう。…そういうふうに考え始めると、今、あなた
が「自分の子さえよければ」という考えなど、どこかへ吹っ飛んでしまうはずだ。
そしてその時点で、あなたは、自分の子どものことは当然としても、同時にこの
社会全体、日本全体、世界全体の問題を考えることも重要だと気づく。つまりそ
れがここで言う「カラ」を破るということになる。
 
実のところ、私もこの問題では悩んできた。教育論を論じながら、いつも心のど
こかで(自分の子ども)と、(他人の子ども)を区別していた。自分の子どもに言う
言葉と、他人の子どもに言う言葉が、違っていた。それは実に心苦しいジレンマ
だった。人間、表ズラと内ズラを使い分けて生きるのは、たいへんなことだ。だ
からある日から、それをやめた。やめて、自分の子どもにも、他人の子どもにも
本音を語るようにした。しかしそれが本当にできるようになったのは、自分の子
どもの中に孫、さらにはそのまた孫を見ることができるようになったときである。
子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるということには、そうい
う意味も含まれる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●価値観の崩壊

●原因は、子どもの受験戦争?

 こんな調査結果がある。日本青少年研究所が、九七年に調査した結果だが、
それによれば、日本の高校生の八五%が、「親に反抗するのは、本人の自由
でよい」と考えているという。(これに対して、アメリカ…一六%。中国…一
五%)。また日本の高校生の一五%のみが、「親に反抗してはならない」と答え
ているという。(アメリカ…八二%。中国八四%)。わかりやすく言うと、「親に反
抗してよい」と考えている高校生が日本ではダントツに多く、一方、「反抗しては
ならない」と考えている高校生が、これまた日本ではダントツに少ないということ
になる。

 こういう調査結果をふまえて、「日本人の個人主義化、価値観の相対化(が進
んでいるとみることができる」(金沢学生新聞社説)と解説する人がいる。おお
かたの評論家たちも、ほぼ同じような線で、この調査結果をながめている。しか
しこの視点だと、「なぜ日本の高校生だけがそうなのか」という説明がつかない
ばかりか、合理主義が発達していると思われるアメリカで、「なぜ逆の結果が出
るのか」ということについても、説明がつかなくなってしまう。つまりこの視点は
正しくない。

 私はある時期、幼稚園の年中児から高校三年生までを、たった一日で教えて
いたことがある。幼稚園で手にする給料だけでは生活ができなかったので、午
後は自由にしてもらい、学習塾や進学塾でルバイトをした。自宅で家庭教師もし
た。そういう経験から、子どもたちが受験期を迎えるころになると、質的に急速
に変化するのを知っている。それまでは良好な人間関係を続けていても、試験
だ、平均点だ、進学だとやりだすと、とたんに私と生徒の関係が破壊されるの
である。

 言い換えると、結果として日本の高校生たちが、「個人主義化し、価値観の相
対化が進む」としても、それは「進んだ」結果にそうなったのではなく、「家族の
きずな」が破壊された結果としてそうなったと見るべきではないのか。それぞれ
の家庭を見ても、子どもが小学生くらいの間には、どの家庭も、実になごやかな
家庭を築いている。が、子どもが受験期を迎えるようになると、とたんにある種
の緊張感が家庭を襲い、その緊張感が、家族そのものを破壊する。わかりやす
く言えば、「勉強しろ!」と怒鳴る、その声が子どもの心を粉々に破壊していく。
その結果が、冒頭にあげた、「八五%」であり、「一五%」ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

私の人生、そして老後

●あるべき私の老後●前向きに生きる人生

 新しい人に出会うのは、この歳になっても、楽しいものだ。それはそれだが、
ただ、若いときと違って、この歳になると、「これから」という部分がない。「これ
から友情を育てよう」とか、「これから一緒に何かをしよう」という気持ちは弱い。
そのかわり、「この人は何をしてきた人?」という視点で、その人を見る。

 昨年一年間だけでも、すばらしい人と、何人か出会った。八〇歳にもなろうと
いうのに、乳幼児の医療費問題に取り組んでいる人、教育評論に取り組んでい
る人、さらには私立小学校を建てようと、あちこちを飛び回っている人など。どの
人も、年齢に関係なく、目が輝いていた。その中の一人に、恐る恐る私はこう聞
いた。「あなたをそこまでかきたてているエネルギーは何ですか?」と。私など、
実にずるい人間だ。こういうふうに原稿を書かせてもらいながら、「どうしてこの
私が日本の教育の心配をしなければならないのか」というジレンマといつも、戦
っている。退職金も年金もない。天下り先もない。社会の恩恵などとは、まったく
無縁の世界に住んでいる。が、こうした人たちは、自分の人生を前向きに生き
ている。その人はこう答えてくれた。「やめる理由など、ないからです」と。

 実際、そういう人に出会うと、「ご苦労様です」と言いたくなる。もちろん畏敬
(いけい)の念をこめて、である。そして我が身を振り返りながら、自分のつまら
なさに驚く。何かをしてきたようで、結局は私は何もできなかった。心のどこか
で、いつも「お金さえ手に入れば、明日にでも引退できるのに」と、そんなことば
かり考えてきた。土日も、好きな山遊びをするだけ。ヒマなときは、ビデオを見た
り音楽を聞いたりするだけ。つまらない人間になって、当然だ。

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは老人たちのかっこうのたまり
場になっている。天気のよい日は、毎日七〜八人の老人たちが、何かをするで
もなし、しないでもなし、夕方暗くなるまで、イスに座って話し込んでいる。その
季節になると、横の竹やぶの竹の子を、一日中監視している。一見、のどかな
風景だが、本当にそれは、あるべき老後の姿なのか。そうであってよいのか。
やがて私も彼らの仲間に入るのだろうが、いつか誰かが、私を「何をしてきた
人?」という目で見たとき、私はそれに耐えられるだろうか。それを思うと、いて
もたっても、おられなくなる。


   


子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。そういうリズムが、子どもの自立心を養う。子どもの
「やる気」「た
くましさ」を引き出すコツは、子どものリズムで親が生活するということ。無理にぐいぐいと引っ
張れば引っ張
るほど、子どもには依存心が生まれ、それが他方で、子どものやる気をうばい、ひ弱な子ども
にする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てリズム論

●子どもの心を大切に●子どものうしろを歩こう

 子育てはリズム。親子のリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍
子で、子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同
時に演奏すれば、それはもう、騒音でしかない。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い出してみてほしい。そのとき@
あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、それでよし。
しかしA子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているよ
うであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…というこ
とにもなりかねない。このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものこと
は、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようもの
なら、「親に向かって、何だその態度は!」と、それを叱る。そしておけいこ塾で
も何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子ど
もで、親の前ではいい子ぶる。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できの
よい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに
何をしてほしいのか」とか、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」とか。この
段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのよ
うに聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし
日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。

 リズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときから、そして子どもがおとなに
なるまで続くということ。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性
(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家へ帰るのが苦痛でなりません」と。別の
男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこ
かでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の生い立ちや人
生観と深くからんでいるため、変えるのも容易ではない。しかし、変えるなら、早
いほうがよい。早ければ早いほど、よい。もしあなたが子どもの手を引きなが
ら、子どもの前を歩いているようなら、今日から、子どものうしろを歩いてみると
よい。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えることができ
る。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の自由論

●自由はそれ自体、たいへんなこと

 アメリカの田舎町でタクシーに乗る。見るとふつうの乗用車。メーターはついて
いない。話を聞くと、運転手はこう言った。「(タクシー会社を経営している)女房
が、ほかのところへ行っているから、私が代理で来た」と。で、料金は、話し合っ
てその場で決めた。「一人で一〇ドル。二人で二〇ドル」と。…これが自由。
 
週日は市内に住み、週末は近くの山の中で暮らすという生活が、今年で七年目
になった。その山での生活、不便であることが当たり前。水道とて、山からの涌
き水をパイプで引いている。そのため、大雨が降れば、すぐパイプがつまる。そ
のたびに雨ガッパを着て、清掃にでかける。電気とて安心してはおられない。雷
が落ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中に、アリが巣を作り、それで停
電した。…これが自由。

 私の友人の弟は、四二歳のとき、それまでの会社勤めをやめ、単身マレーシ
アへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買い、私がその話を聞いたときは、クア
ラルンプールで知り合ったフランス人女性と、インド洋を航海しているということ
だった。…これが自由。

 自由とは「自らに由る」こと。しかしこの日本。その自由がますます小さく、貧
弱になっている。社会は息苦しいほどまでに管理され、どんな小さな仕事をする
にも、許可だの認可だの、それに資格がいる。が、人は管理されればされるほ
ど、民衆は生きる力をなくす。たくましさをなくす。少し前だが、九州の北部で断
水騒ぎがあったときのこと。その年は、例年になく雨が少なかった。一人の住民
が、テレビに向かってこう叫んだ。「断水したのは、行政の怠慢が原因だ」と。別
に行政の肩をもつわけではないが、断水したのは行政の責任ではない。ちょう
どそのころ私は、自分の山荘に水を引くため、炎天下、数百メートルのパイプを
地下に埋める工事を、一人でしていた。私は思わず、「甘ったれるな!」と叫ん
でしまった。

 自由に生きることは、それ自体、たいへんなことだ。友人の弟にしても、想像
するようなロマチックな航海ではないことは、私にもわかる。いや、「私は自由
だ」と思っているあなたでも、本当は自由でないかもしれない。

 たいていの人は自由というのは、簡単に、しかもタダで手に入るものだと思っ
ている。しかしこれはとんでもない誤解。自由であることは、それ自体が、命が
けの戦いなのだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●よい先生・悪い先生

●子どもたちが無意識のうちに判断している

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるの
は、「教える」という立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、
その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っ
ているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事
のストレス」を問題にする人がいる。しかし私の場合、仕事そのものが、ストレス
解消の場となっている。

 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。
しかし誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。
子どもは確かに知識は乏しく未経験だが、決して、幼稚ではない。むしろ人間
は、おとなになるにつれて、知識や経験という雑音の中で、自分を見失ってい
く。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、すばらしいことなの
だ。私の場合、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や
出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の輸
出入を手伝ったり、医療の世界もかいま見た。しかしこれだけは言える。園や
学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほか
の世界よりは、はるかに少ない。

 そこで「よい先生・悪い先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、視点
が子どもと同じ位置にいる先生もいる。が、中には高い位置から子どもを見おろ
している先生もいる。妙に権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そう
いう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界
を、ムダにしている。このタイプの先生は、美しい花を見て、それを美しいと感動
する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあ
るごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子はダメな子」とこぼす先生であ
る。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明る
さが消える。

 そこでよい先生かどうかを見分ける簡単な方法。休み時間などの様子を、そっ
と観察してみればよい。そのとき、子どもたちが先生の体にまとわりついて、楽
しそうにはしゃいでいれば、よい先生。そうでなければ、そうでない先生。よい先
生かどうかは、実は子どもたち自身が、無意識のうちに判断しているのである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●封建制度の清算を

 「うちのダンナなんかサア、冷蔵庫から牛乳出しても、その牛乳を冷蔵庫に戻
すことしないんだからサア。だからあっという間に牛乳も腐ってしまう」と。ある
日女房の友人が、我が家へやってきて、そう言った。何でもそのダンナ様は、
結婚してからこのかた、もう三〇年近くになるが、トイレ掃除はおろか、トイレット
ペーパーの差し替えすらしたことがないという。そこで私が「ペーパーがないと
きはどうするのですか?」と聞くと、「何でも、『オーイ』で、すんでしまうわサア」
と。

 日本女性会議の調査によると、部屋の掃除をまったくしない夫(五六%)、洗
濯をまったくしない夫(六一%)、炊事をまったくしない夫(五四%)ということだ
そうだ。育児をまったくしない夫も、三〇〜四〇%もいる(二〇〇〇年)。この日
本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもについて言うな
ら、「勉強している」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。しかしこれは
世界の常識ではない。

 ニュージランドの留学生たちがこう教えてくれた(一九九九年)。ニュージーラン
ドでは、午後三時に小学校は終る。そのあと子どもたちはすぐ家へ帰り、夕食
がすむまで、家事を手伝う。それが習慣になっている、と。料理、炊事だけでは
ない。掃除から始まって、家の修理までする。そこで私が(聞くのもヤボだと感じ
たので……)恐る恐る、「学校の宿題があるときはどうするのか」と聞くと、皆、こ
う言った。「食事がすんでからだ」と。

 こうした日本人の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」という、日本独特
の男尊女卑社会。「内助の功」という言葉すら残っている。内助の功というの
は、「夫が仕事以外のことを気にかけたりすることなく、存分の働けるよう、しっ
かりと家を守り、夫を陰で、また積極的に助ける妻の働き」(日本語大辞典)とい
うことだそうだ。そしてそのさらに背景にあるのが、これまた日本独特の出世主
義。封建時代には、いかにして武士社会の階段をのぼるかが、何にもまして優
先された。家制度や家督制度、さらには長子相続制度も、封建制度を背景にし
て生まれた。

 話がそれたが、こういう風潮の中で、「男が家事などするものではない」とい
う、ゆがんだ男性観が生まれた。私も子どものころ、台所へ入ると母によく叱ら
れた。「男がこういうところへ来るもんじゃない」と。が、この風潮は、今、急速に
崩壊しつつある。私が一九九八年に浜松市内で調査したところ、二〇〜三〇代
の若い夫婦の場合、三五%の夫が日常的に家事を手伝っているのがわかっ
た。まったく手伝っていない夫も、同じく三五%。残りの三〇%は、ときどき手伝
うということだった。先の日本女性会議の数字(これは全体)と比べてみても、
若い夫婦が変化しているのがわかる。

 さて子どもたち。子どもには家事を手伝わせる。男も女もない。あるはずもな
い。しかも本来、家事は、勉強や仕事より大切なものだ。家事をするということ
は、自立をするということ。人間は過去何一〇万年もの間、そうしてきた。ここ五
〇〇年や一〇〇〇年くらいの制度で変わるはずもない。むしろ日本の制度は、
長い封建制度の時代を経て、ゆがんでいる。それを清算するのも、これからの
大きな仕事ではないのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教と教育

 難解な仏教論も、教育にあてはめて考えると、突然わかりやすくなる。たとえ
ば親鸞の「回向(えこう)論」。「(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや」※
という、あの有名な言葉である。これを仏教的に解釈すれば、「念仏を唱えるに
しても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているに過ぎない。だ
から信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から
真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(石田瑞麿氏)と続く。

 こうした解釈を繰り返していると、何が何だかさっぱりわからなくなる。要する
に親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前ではな
いか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほ
ど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。そこでこう考えたらど
うだろうか。「頭のよい子どもが東大へ入るのは当たり前のことだ。頭のよくない
子どもが、東大へ入るところに意味がある。またそこに人間が人間として生きる
ドラマ(価値)がある」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子
どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。しかし問
題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育と
いう」と。私にはこんな経験がある。

 ずいぶんと昔だが、私はある宗教団体を批判する原稿を、ある雑誌に書い
た。が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口をいい
ふらし始めた。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方
(?)は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやるのが、愛ではないのか。慈悲ではないのか。
私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には
「バカヤロー」と悪態をついて、教室を出ていく子どももいる。

 しかしそういうときでも、私は、「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦
労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは思
う。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄
へ落とすようななら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、
地獄とは何か? 悪いことをして、失敗し、問題のある子どもをもつことか。もし
そうなら、それは地獄ではない。

 私はときどき、こう思う。釈迦にせよ、キリストにせよ、彼らはもともと教育者で
はなかったか、と。そういう視点で考えると、それまでわからなかったことが、突
然、スーッとわかることがある。そしてそういう視点で見ると、おかしな宗教とそ
うでない宗教を区別することができる。たとえば日本でも一〇本の指に入るよう
な大きな宗教団体が使っているテキストには、こんな記述がある。

 「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、
身体障害者が多いのは、そのためだ」と。この一文だけをとっても、この宗教は
まちがっていると断言してもよい。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだ
ら、どう思うだろうか。あるいはその団体には、身体に障害がある人がいないと
でもいうのだろうか。宗教も教育も、常識で成りたっている。その常識をはずれ
たら、宗教は宗教ではなしい、教育は教育でなくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の主義、あなたの主義

 私は生涯において、ただの一度も、借金をしたことがない。「生涯」というのも
おおげさだが、そういうふうに意識したのは、学生時代だ。お金がなくなると、私
は下宿の朝夕の食事だけで生き延びた。いや、一度だけ、一〇円玉を借りたこ
とがある。幼稚園で親に緊急の電話をしなければならなくなったときのこと。同
僚の先生にそれを借りた。翌日、菓子箱をもって返しにいくと、その先生は目を
白黒させて驚いた。同じように支払いについても、必ず即日、もしくは遅くとも一
週間以内に支払うようにしている。私にとって、借金というのは、そういうもの
だ。
 
私には私の主義がある。「主義」というと、一見、完成された人格のように思う
人がいるかもしれない。が、実は、自分の弱さをごまかすための道具に過ぎな
い。私について言うなら、私という人間は、もともと小ずるい人間で、小心者。そ
んな私が借金に慣れたら、それこそズルズルと深みにはまってしまうに違いな
い。それを私は心のどこかで知っている。だから借金はしない。いや、借金をす
る重圧感に耐えられないのかもしれない。私はそういう重荷を背負うのがいや
だ。明日、借金を返さねばならないと負担に思うくらいなら、今日、腹をすかして
いたほうがよい。

 が、その主義をもつことは、よいことだ。「人にものを借りない」「拾ったものに
は、手をつけない」「ウソをつかない」など。こうした主義をいくつかもち、そのと
きどきの行動規範にする。仏教にも八正道(はっしょうどう)という言葉がある。
正見(しょうけん)、正思惟、正語、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精
進、正念、正定(しょうじょう)の八つをいう。悟りにいたるための、基本的な実践
徳目と考えるとわかりやすい。要するに人間は迷う。そのつど迷う。しかしそう
いうとき、「主義」として、自分の行動規範を決めておくと、その迷いを少なくする
ことができる。仏教で言えば、悟りへの近道ということになる。そういうことは生
活の場で、よく経験する。こんなことがあった。

 一本一〇〇円のペンを、七本買った。七本買って、一〇〇〇円札を出した。
店員がレジを叩いているとき、私はどこかぼんやりとしていた。が、受け取った
おつりを見ると、三百数十円……。「おっ」と思って、一、二歩、歩いた。「おつり
が多い」と、心のどこかで感じた。と、同時に私の中に組み込まれたプログラム
が作動した。あとは自動的に振り向き、レジに戻ってこう言った。「おつりが多い
ですよ」と。気がつくとそこに店長も立っていて、その店長がこう言った。「今、一
割引です。最初に言っておけばよかったですね」と。とたん、私の顔がなごん
だ。店員の顔もなごんだ。そして皆が微笑んだ。
 
そこで私は考える。もしあのとき、あのまま私が店を出たら、私は「得をした」と
思ったかもしれない。しかしたった一〇〇円で、私は心を売ったことになる。一
方、正直に言ったときのそう快感は、とても一〇〇円で買えるものではない。ど
ちらが得か……? 日々の生活が月となり、それがやがて年となり、その「人」
をつくる。その道しるべとなるのが、主義だ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識は偏見のかたまり

●ふえるホームスクール●おけいこ塾は悪?

 アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八
歳のときにもった偏見のかたまりである」と。

●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度
がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという
制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不
登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけで
も九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一
五%前後の割合でふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われてい
る。それを指導しているのが、「LIF」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教
育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合
同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がり
をみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している。

●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わる
と、クラブへ通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学
校を出る。ドイツでは、週単位で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども
自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算
数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無
料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こうした親の負担を軽減するために、ド
イツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子
どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二
七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分
の趣向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなど
があるが、学外教育に対する世間の評価は低い。ついでにカナダでは、「教師
は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という
制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っている
ことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あのとき母だけでも…

●問題の根源は深い●封建時代の亡霊と戦う

 あのとき、もし、母だけでも私を支えていてくれてていたら…。が、母は「浩ちゃ
ん、あんたは道を誤ったア」と言って、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。私
が「幼稚園で働いている」と言ったときのことだ。

 日本人はまだあの封建時代を清算しいていない。その一つが、職業による差
別意識。この日本には、よい仕事(?)と悪い仕事(?)がある。どんな仕事がそ
うで、どんな仕事がそうでないかはここに書くことはできない。が、日本人なら
皆、そういう意識をもっている。先日も大手の食品会社に勤める友人が、こんな
ことを言った。何でもスーパーでの売り子を募集するのだが、若い女性で応募し
てくる人がいなくて、困っている、と。彼は「嘆かわしいことだ」と言ったので、私
は彼にこう言った。「それならあなたのお嬢さんをそういうところで働かせること
ができるか」と。いや、友人を責めているのではない。こうした身勝手な考え方
すら、封建時代の亡霊といってもよい。目が上ばかり向いていて、下を見ない。
「自尊心」と言えば聞こえはいいが、その中身は、「自分や、自分の子どもだけ
は違う」という差別意識でしかない。が、それだけではすまない。

 こうした差別意識が、回りまわって子どもの教育にも暗い影を落としている。こ
の日本にはよい学校とそうでない学校がある。よい学校というのは、つまりは進
学率の高い学校をいい、進学率が高い学校というのは、それだけ「上の世界」
に直結している学校をいう。

 「すばらしい仕事」と、一度は思って飛び込んだ幼児教育の世界だったが、入
ってみると、事情は違っていた。その底流では、親たちのドロドロとした欲望が
渦巻いていた。それに職場はまさに「女」の世界。しっと縄張り。ねたみといじ
めが、これまた渦巻いていた。私とて何度、年配の教師にひっぱたかれたこと
か!
 
 母に電話をしたのは、そんなときだった。私は母だけは私を支えてくれるもの
とばかり思っていた。が、母は、「あんたは道を誤ったア」と。その一言で私は、
どん底に叩き落とされてしまった。それからというもの、私は毎日、「死んではだ
めだ」と、自分に言って聞かせねばならなかった。いや、これとて母を責めてい
るのではない。母は母として、当時の常識の中でそう言っただけだ。

 子どもの世界の問題は、決して子どもの世界だけの問題ではない。問題の根
源は、もっと深く、そして別のところにある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●学校神話という亡霊の陰で

(先生は忙しすぎる)(教師は教育の場で勝負して、教師)

 「携帯電話のおかげで夜中でも、メールが入るようになった」と、ある小学校の
教師がこぼした。「少し前までは電話だったが、電話のほうは断ることができる
ようになったが……」とも。それもたいした内容ではない。「娘がセーターを学校
に忘れた」とか、「息子が学校の帰りに、寄り道をした」とか、など。「メールには
まとめて返事を出すことにしていますが、それでも毎晩一時間ほど、そのため
に時間をとられます」と。

 少し前、ある総合病院の外科部長の息子(高一)と、こんな話をしたことがあ
る。「君のお父さんは、患者さんの生死を毎日のようにみている。担当の患者さ
んが急変したら、夜中でも病院へかけつけるのだろうね」と私。するとその息子
氏はこう言った。「行かないよ。居留守を使ったり、学会に行っているとウソを言
うよ」と。私が驚いていると、さらにこう言った。「そんなことをすれば、翌日の手
術にさしさわりが出るから」と。

 私はこの話を聞いたとき、あの美空ひばりの話を思い出した。ひばりが皆と一
緒に、カラオケバーにでかけたときのこと。まわりにいた人たちが「一曲歌ってく
ださい」とせがんだ。が、そのときひばりはこう言ったという。「私はお金をもらっ
て歌うプロです。ここでタダで歌ったら、お金を出して私の歌を聞きにきてくれる
お客さんに、申し訳ありません」と。

また二〇〇〇年の終わり、カナダのバンクーバーから来た小学校の校長が、こ
んな話をしてくれた。「カナダでは、教師は授業には責任をもつが、授業を離れ
たら、父母や子どもとのかかわりを一切もたない。父母には自宅の住所も、電
話番号も教えない。親がその教師と連絡をとりたいときは、学校へ連絡してもら
う。そのあと教師のほうからその親に電話をするようにしている」と。

 いくつか回り道をしたが、さて冒頭の話。今、学校の先生たちは、本当に忙し
い。忙しすぎる。活発ざかりの子どもを相手に、一時間本気で授業すれば、若
い先生でもかなり疲れる。二時間続けたら、それこそヘトヘト。つまりそれだけ
体力と気力を使う。教育というのは、そういうものだ。それをまず世間が知るべ
きだ。そして教師が教師であるのは、「教育の場」で教えるから教師なのだ。そ
れを雑用また雑用、進学指導に家庭教育相談、さらには、しつけに心理相談ま
で押しつけて、何が教育だ! 体がもつはずがない。つまり忙しくなればなるほ
ど、教師は肝心の教育の場で手を抜くしかない。

 現に今、中学校の教師の大半は、教科書とチョークだけで授業に臨んでい
る。臨まざるをえない。ある教師はこう言った。「教材研究? そんな時間がどこ
にありますか? 先日も私の学校でスプレーによる落書き事件がありました。そ
の処理に、丸三日がつぶれました」と。

 教師は教育のプロである。あの外科部長のように、まず教育に責任をもつ。ま
たもてるような環境を用意してあげなければならない。現にカナダではそうして
いる。いや、学校で何か事件があるたびに、憔悴しきった校長が涙まじりに頭を
さげる。マスコミや世間は鬼の首でも取ったかのように学校を責めるが、しかし
学校側にそこまでさせて、よいものか。そのおかしさがわからないほど、日本に
は学校万能主義、学校神話がはびこっている。その亡霊に苦しんでいるのは、
結局は最前線に立たされる、現場の教師たちなのだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●性教育の原点

(男も胎内では女だった)(偏見や誤解、差別からの解放)

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でも特に印象に
残っているのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協
会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスと
は、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏見
や誤解、差別から、男女を解放することだ」「特に女性であるからという理由だ
けで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッ
テルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「う
ちのダンナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫
にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうわサ」と。
話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレット
ペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「紙がないときはどうするので
すか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 日本女性会議の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ六〇%
前後いるという(二〇〇〇年)。年代別の調査ではないのでわからないが、五
〇歳以上の男性について言うなら、ほとんどの男性が家事をしていないのでは
……? この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強
くもっている。男ばかりの責任ではない。私も子どものころ台所に立っただけ
で、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱られた。女性自ら
が、こうした偏見に手を貸していた。が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ
始めている。私が九九年に浜松市内でした調査では、二〇代、三〇代の若い
夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%
にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

 実は私は、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は
……、女は……」というものの考え方を日常的にしていた。洗濯や料理など、し
たことがない。たとえば私が小学生のころには、男が女と一緒に遊ぶことすら
考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか
私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったく、ない。

 が、その後、いろいろな経験で、私がまちがっていたことを思い知らされた。
が、決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。つまり人間は、
男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だという事実だ。つまりある時期までは
人間は皆、女で、発育の過程でその女から分離する形で、男は男になってい
く、と。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかっ
たのですか?」と笑った。正確には、「妊娠3か月までは男女の区別はなく、そ
れ以後、胎児は男女にそれぞれ分化する」ということらしい。女房は「あなたは
単純ね」と笑うが、そうかもしれない。以後、女性を見る目が、一八〇度変わっ
た。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」とい
う考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まち
がっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教育の自由化は世界の流れ

(日本の教育は遅れている!)(自由から生まれる活力)

 以前このコラムで、「日本の教育制度は三〇年は遅れた。意識は五〇年は遅
れた」と書いた。それについて「憶測でものを書いてもらっては、困る。根拠を示
してほしい」と言ってきた人がいた。それについて……。 

 ドイツでは、小中学校は午前中で終る。午後一時には、子どもたちは学校から
解放されて、それぞれのクラブに通う。スポーツクラブ、音楽クラブ、芸術クラ
ブ、語学クラブなど。カナダでは、午後三時半まで子どもたちは学校に拘束され
るが、それ以後は、やはり子どもたちはクラブに通う(バンクーバー)。オーストラ
リアやニュージーランドも、そうだ。さらにアメリカでは、ホームスクール、チャー
タースクール、さらにはバウチャ(学校券)スクールなど、学校の設立そのもの
が自由化されている。日本で誰かが塾を開くのと同じくらい気軽に、その意思
のある人が学校を設立している。つまり教育の自由化は世界の流れであり、そ
の「自由さ」が、教育をダイナミックなものにしている。

 が、この程度で驚いてはいけない。アメリカでは大学の場合、入学後の学部
変更は自由。自由というより、日本でいう学部の概念そのものがない。目的と
する学位(これをメジャーという)に応じて、必要な講座を一講座ずつ「買う」。こ
うして二年間で、四回メジャーを変えた学生がいる。四年間で六回メジャーを変
えた学生がいる。教える教官も必死なら、学ぶ学生も必死だ。さらにアメリカで
は、大学の転籍すら自由。公立、私立の区別はない。日本で言えば、早稲田大
学で二年間過ごした学生が、三年目から静岡大学で学ぶようなことができる。
しかも入学金だの何だの、そういうめんどうな手続きなしに、即日に転籍でき
る。まだある。こうした単位の交換が、国際間でもなされている。外国の大学へ
留学した場合、そこで得た単位も有効に認められる。日本でも少しずつだが、
実験的にこうした制度を取り入れる大学がふえてきた。が、あくまでも「実験
的」。
 
……というようなことは、文部科学省の技官あたりもみんな知っている。しかし
教育を自由化するということは、即、自分たちの立場をあやうくすることになる。
権限を弱め、管轄を縮小することは、そのまま自分たちの不利益につながる。
旧文部省だけでも、いわゆる天下り先として機能する外郭団体が、一八〇〇団
体もある。その数は全省庁の中でもダントツに多い。こうした団体が日本の教
育をがんじがらめにしている。一方、日本人は日本人で、国への依存心がきわ
めて強い。子どもに何か問題があると、何でもかんでも、「学校で……」と考え
る。さらに隷属意識もある。いまだかって、親のほうから学校に向かって、たと
えば、「うちの学校では中国語を教えてみてほしい」というような要望を出した話
など、聞いたことがない。

 上から言われるまま、何の疑問もなく受け入れてしまっている。そしてそういう
のが教育だと、思い込んでいる。思い込まされている。

 ここに書いたアメリカの大学制度は、すでに三〇年前から常識だった。さらに
日本人の教育意識となると、戦前のままと言ってもよい。五〇年前に私がもっ
ていた「学校観」と、今の若い親たちがもっている「学校観」は、それほど違わな
い。「五〇年」という数字はそこから書いた。これで納得してもらえただろうか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●善なる心、悪なる心

●ここちよさが、正直のあかし

 市内のY文具店で、一本一〇〇円のペンを七本、買った。買って、一〇〇〇
円札を出した。どこかぼんやりしていた。言われるまま、ペンとおつりを受け取
り、ふと見ると、おつりが、三百数十円! そのときだ。私は「おっ」と思い、一、
二歩歩いた。歩いてしまった。この迷いこそが、私の限界でもある。
 
 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年となる。そしてその年が重
なって、その人の人格となる。五〇歳も過ぎると、それまでごまかしてきた持病
が、どっと前に出てくる。同じように六〇歳も過ぎると、それまでごまかしてきた
人格が、どっと前に出てくる。むずかしいことではない。健康にせよ、人格にせ
よ、日々のささいな心構えで決まる。

 手に握ったおつりを見ながら、「あのう……」と言いかけると、そこに店長が立
っていた。そして私の気持ちを察知して、笑いながらこう言った。「今、一割引き
なんです。はじめに言っておかなくて悪かったね」と。とたん、女子店員の顔が
なごんだ。私の顔もなごんだ。

 子どものころの私は、ずいぶんといいかげんな男だった。ジュースを飲んだと
きでも、その空きビンを、どこかの塀の上に置いていた。ガムをかんでも、その
カスを道路へ捨てていた。ツバやタンを道路へ吐き捨てるのも平気だった。どこ
かの店で、店員がおつりをまちがえたときも、少なければ文句を言ったが、多け
れば、黙っていた。戦後の混乱期というのは、そういう時代で、きれいごとを並
べていたら、生きていくことそのものが難しかった。が、ある日を境にして、私は
それをやめた。

 一九六七年のことだった。私はユネスコの交換学生として韓国に渡った。ま
だ日韓の間に国交のない時代で、プサン港へ着いたときには、ブラスバンドに
迎えられた。が、歓迎されたのは、その日一日だけ。あとはどこへ行っても日本
攻撃の矢面に立たされた。そんなある日。どこかの工場団地に案内され、経営
者たちと懇談することになった。時間より早く部屋に入った私は、ひとり窓の外
を見ていた。そしてそのときだ。私はいつものようにツバをペッと外へ吐いた。
が、そのツバが風に飛び、開いた窓ガラスにぺタリとくっついてしまった。あわ
てたが、遅かった。そのときドヤドヤと人が入ってきた。私は会議の間中、生き
た心地がしなかった。以来、ツバを吐くのはやめた。ゴミを捨てるのもやめた。
……やめたというより、できなくなった。

 もしあのY文房具店で、そのままおつりを握って外へ出たとしたら、私はどうな
っていたか。わずかばかりのつり銭で、得をした気分になっていたかもしれな
い。しかしそれは同時に、たった一〇〇円のことで私の善なる心をつぶしたこと
になる。が、私は振り向いた。たったそれだけの行為だが、皆の心がそこでな
ごんだ。その「なごみ」は、とても一〇〇円では買えないものだった。こういうケ
ースでは、損か得かという判断をくだすこと自体、バカげている。あやうく私は一
〇〇円のことで、自分の人格をつぶすところだった。

 さて私はもう七年足らずで、六〇歳になる。正直言って、どんな人格が出てく
るか、心配でならない。ボロが出るというか、多分、見苦しい老人になるだろう。
私の場合、気がつくのが遅すぎた。もう少し早く気がついていればと、悔やまれ
てならない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ゲームづけの子どもたち

●子どもをダシに金儲け●操られる子どもたち

 小学校の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジギャザ(マジッ
ク・ザ・ギャザリング)」。遊戯王について言えば、小学三年生で、約二五%、中
学一年生で、男子の約半数が、ハマっている。

 ある日一人の男の子(小三)がこう言った。「ブルーアイズを三枚集めて、融合
カードで融合させる。そうすればアルティミットドラゴンをフィールドに出せる。そ
れに巨大化をつけると、攻撃力が九千になる」と。子どもの言ったことをそのま
ま書いたが、意味がよくわからない。基本的にはカードどうしを戦わせるゲーム
と思えばよい。カードの取り合いをする「かけ勝負」と、遊ぶだけの「かけなし勝
負」がある。カードは一パック五枚入りで、百五十円から三百三十円程度。アル
ティミッド入りのパックは、値段が高い。マジギャザは、十五枚で五百円。中学
生で、ふつう千枚近いカードをもっている。中には一万枚以上もっている子ども
もいる。マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのため、アメリカ
バージョン、フランスバージョン、さらに中国バージョンなどがある。

 カード数が多いのはそのためだ。またフランスバージョンは質がよく、プレミア
のついたカードや、印刷ミスのあるカードは、四万円で売買されている。さらにこ
れらのカードを使って、カケをしたり、大会に出て賞品を集めたりする。「優勝す
るのは二十歳以上のおとなばかり」(小五男児)だそうだ。
子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも大盛況。あのポケモン時代に
は、カードだけで年間百億から二百億円の売り上げがあった。大手の出版社の
G社の年間売り上げを超える。莫大な金額である。いや、子どもたちは自分の
意思とは別の力によって、カード遊びに夢中になっている。

 たとえば今、融合カードは、発売中止になっている。そのカードを手に入れる
ためには、子どもは、交換するか、友だちから買うしかない。稀少価値がある分
だけ、値段も高い。たかがカード遊びと笑ってはいけない。公園のすみで一万
円とか二万円でカードを売買している、あなたの子どもの姿を想像してみてほし
い。中にはゲームにハマってしまい、現実と空想の区別がつかなくなってしまっ
た子どもすらいる。それはそれとして、しかしこんなことが許されてよいものか。
今日もあなたの子どもは、醜いおとなたちの商魂に操られるまま、その餌食(え
じき)になっている!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不思議な糸巻き

●ドラマにこそ意味がある●ヨーロッパの民話

 ヨハンは仕事をするのがいやで、森へ逃げてきた。うしろのほうから父親が、
「ヨハン、まき割りの仕事を手伝ってくれ」と叫んでいるのが聞こえた。ヨハンが
木の陰に隠れていると、魔女が現れてこう言った。「あなたに不思議な糸巻きを
あげよう。いやなことがあったら、この糸巻きの糸を引くといい。引いた分だけ、
時間がすぎる」と。

 それからというもの、ヨハンはいやなことがあるたびに、糸を引いた。父親から
仕事を言いつけられたとき。学校でいやなことがあったとき。が、ある日ヨハン
はこう思った。「早くおとなになって、ハンナと結婚したい」と。そこでヨハンは、
糸をどんどんと引いた。…気がつくと、ヨハンはおとなになり、ハンナと結婚して
いた。しばらくは平穏な生活が続いたが、やがて二人の間に息子が生まれた。
が、ヨハンは子育てが苦手だった。そこでヨハンは、「息子を早くおとなにして、
自分の仕事を手伝わせよう」と考えた。ヨハンはまた糸をどんどんと引いた。

 …再び気がつくと、息子は立派なおとなになっていた。しかしヨハン自身も、
老人になってしまっていた。が、思い出が何もない。ヨハンは自分を振り返って
みたが、そこに何もないことを知った。そこでヨハンは、再びあの森にもどった。
するとそこにあの魔女がいた。ヨハンは魔女にこう言った。「私の人生はあっと
いう間に終ってしまった。私の人生は何だったのか」と。すると魔女は笑ってこう
言った。「では、もう一度だけ、あなたを子ども時代にもどしてあげよう」と。…ふ
と見ると、ヨハンは子どもにもどっていた。と、そのとき、うしろの方から父親が、
「ヨハン、まき割りの仕事を手伝ってくれ」と叫んでいるのが聞こえた。ヨハンは
明るい声でこう答えた。「お父さん、今行くからね」と。

 この物語は外国へ行ったとき、飛行機の中の雑誌で読んだものだ。ヨーロッ
パの民話だと思うが確かではない。が、それはそれとして、この物語には、妙
に考えさせられる。民話とはいえ、人生に対する考え方が織り込まれている。た
とえば…。

 日々が何ごともなく平穏にすぎていくことは、それ自体はすばらしいことだ。
が、すごし方をまちがえると、人生そのものを無駄にしてしまう。子育てもまた同
じ。子育ては苦労の連続。苦労のない子育てはない。しかしその苦労があるか
らこそ、そこからドラマが生まれる。生きる意味もそこから生まれる、と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●形式主義からの脱却

●「型」を重んずる日本の教育●子どもの左利き

 五、六年前、この浜松市で児童英語の研究会があり、その席でこんなことが
決まった。「U」は、左半分を先に書き、続いて右半分を書く。つまり二画、と。同
じように「M」「W」は四画、と。

 人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どち
らか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝とい
う遺伝説。生活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。一般的には
乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決まる。また女子のほうが左利きが
少ないのは、男子のそれはよいが、女子のそれはよくないという偏見による。

 小学生でも作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子
どもは、五人のうち三人はいる。多くの子どもは、作文の楽しさを覚える前に、
その文字で苦しめられる。このワープロの時代に、なぜ書き順があり、画数が
あるのか。さらになぜトメ、ハネ、ハライがあるのか。ある教師はこう言った。「低
学年でしっかりと書き順を教えておかないと、なおすのがたいへん」と。
以上の三つの話は、底流でつながっている。つまり「日本人ほど型にはまった
教育が好きな民族はいない」ということ。茶道や華道、相撲に見られるように、
それはもう日本人の性癖のようなものだ。少し前オーストラリアの小学校を訪れ
たときのこと。私は壁に張られた子どもたちの作文を見て、びっくりした。スペル
がめちゃめちゃ。文法すらおかしい。そこで私が「なおさないのですか」と聞く
と、その先生(小三担当)は、こう話してくれた。「言葉はルール(文法)ではな
く、中味です。それにシェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはな
いのです」と。

 英語国にもない画数や書き順を決めるところが、実に日本人らしい。左利きに
しても、結局はどうでもよい部類の問題。ある教師は「冷蔵庫でもドアでも、右利
き用にできているから、なおしたほうがよい」と言った。しかしそんなことは、慣
れ。慣れれば何でもない。無理に右づかいを強要すれば、子どもがかえって混
乱するだけ。少なくとも四、五歳をすぎたら、子どもに任す。

 作文についても、日本のアニメは世界一と言われている。が、その背景に日
本人の文字離れがあるとしたら、喜んでばかりはおれない。言い換えると「形
式」からの脱却、それが日本の教育の大きなテーマの一つと言える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の自転車通勤

●「下」の立場の教育論●傲慢になったら… 

 自転車通勤をして、もう二十五年になる。が、私が通うY街道。歩道と言えるよ
うなものはない。道路に描かれた白線の外、つまり側溝のフタの上が歩道
(?)。それも電柱や標識など、いたるところで、寸断されている。あぶないなん
てものではない。まさに命がけ。年に一、二度は、そのために死にかけている。

 一方、ときどきだが、各地へ講演で招かれることが多くなった。県外の場合
は、たいていグリーン車を用意してくれる。駅へ着けば、車が待っていてくれる。
そういうとき何だか自分が、別人になったような気分になる。私が私でなくなって
しまう。で、その自転車通勤。最初は健康のために始めたが、このところ別の
意味を感ずるようになった。こうした講演のあった翌日、また自転車に乗ったり
すると、ハッと我に返る。「ああ、これが私の本当の姿なのだ」と。

 ものを書く人間で一番こわいのは、ごう慢になることだ。どうしても思想が、行
動より先行してしまう。わかりやすく言えば、「頭でっかちの人間」になりやす
い。そういう人間が世間でちやほやされると、自分が偉い人間にでもなったか
のように錯覚する。自分を見失う。実際、そういう人は多い。ある作家は、「上京
するたびにホテルに泊まるが、そのホテル代だけで家が建つ」と豪語してい
た。ふつうの作家ではない。仏門に入って頭を丸めた作家である。が、自転車
通勤はそれをいましめてくれる。いや、何もグリーン車が上で、自転車通勤が下
と言っているのではない。しかし自転車通勤をしていると、その「下」がよく見え
る。

 先日もコンビニの前の駐車場を横切ろうとしたら、一台の乗用車が目の前で
急停止した。私はあやうくはね飛ばされるところだった。見ると若い男女だっ
た。声は聞こえなかったが、口の動きから「バ〜カ」と言っているのがわかった。
女はニヤニヤ笑いながら、私から視線をはずした。かわいそうな若者たちだ。私
がなぜ、今こうして教育論を書いているかといえば、それは彼らのような人たち
がいるからではないのか。彼らのもっとも味方であるはずの私を、バカにして喜
んでいる!

 問題のない子どもや親に、教育論は必要ない。そういう子どもは受験参考書
でも読んでいればよい。私が私であるのは、「下」の世界に住んでいるからだ。
もし私が「上」の世界に住んでいたら、水面の下は絶対に見えない。自転車通
勤は、それを私に教えてくれる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●息子が恋をするとき

●人がもっとも人間らしくなるとき●私の失恋

 栗の木が黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「人生
の中で一番楽しい」と書いてきた。それを見せると女房が、「へえ、あの子がね
え」と笑った。私も笑った。

 私も同じころ恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相
手の女性の母親から、私の母に電話があった。「うちの娘はお宅のような家の
息子とつきあうような娘ではない。交際をやめさせてほしい」と。女性の家は、
製紙工場を経営していた。一方私の家は自転車屋。私はその電話を気にしな
かったが、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとし
たつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女って何? 氷と欲望がその上でゆり動く
…」と。オリビア・ハッセーが演ずる『ロメオとジュリエット』の中で、若い男がそう
歌う。たわいもない恋の物語といえばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの
心をとらえるかといえば、そこに「純粋さ」を感ずるからではないのか。私たちの
世界には、あまりにも偽善が多すぎる。何が本物で、何がウソなのか、それす
らわからない。

 が、もし人がもっとも人間らしくなれるときがあるとするなら、それは電撃に打
たれるような衝撃を受け、身も心も焼きつくすような恋をするときだ。それは人が
唯一、つかむことができる「真実」と言ってもよい。ロメオとジュリエットを見る人
は、その真実に打ちのめされる。そして涙をこぼす。しかしその涙は、決して若
者の悲恋をいとおしむ涙ではない。すぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。無
限に見えたあの青春時代も、終ってみるとうたかたの瞬間。歌はこう続く。「♪
バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女もまた同じ…」と。
 
 相手の女性が結婚する日、私は一日中、自分の部屋で天井を見あげて寝て
いた。ほんの少しでも動こうものなら、そのまま体が爆発してしまいそうだった。
ジリジリと時間がすぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、私は何度も歯
を食いしばった。しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で美しかったこ
とはない。それが今、たまらなくなつかしい。

 私は女房にこう言った。「相手の女性がどんな子でも、温かく迎えてあげよう」
と。それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私もまた、
笑った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪に対する抵抗力をつける

 非行は東洋医学的な発想で……

 知人の紹介もあって、家の中に入れた。が、あやしげな男だった。最初は印
鑑を売りたいと言っていたが、そのうちおかしなことを言い出した。「林さんは、
疲れませんか? いい薬がありますよ」と。私はピンときた。きたから、そのまま
その男には帰ってもらった。

 西洋医学では、「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻
撃する」という治療原則をうちたてる。これに対して東洋医学では、「結核になっ
たのは、体が結核菌に敗れたからだ」と考える。だから「体質を強化する」という
治療原則をうちたてる。人体に足りないものを補いながら、抵抗力をつけたり、
体質改善を試みたりする。これは東洋医学の話だが、「悪」についても、同じよ
うに考えることができる。悪そのものと戦うというのも一つの方法だが、悪に対
する抵抗力を養う。そういう方法もある。私がたまたまその男の話に乗らならな
かったのは、その抵抗力があったからにほかならない。
 
子どもの非行についても、同じように考えることができる。私たちは子どもの非
行を考えるとき、ともすれば非行そのものを攻撃しようとする。たとえばナイフに
よる傷害事件が起きたとする。そのとき持ち物検査をするとか、ナイフを取りあ
げるというのが、それ。暴走族による集団非行について、暴走行為そのものを
取り締まるとか、検挙するとかいうのも、それだ。

 しかし子ども自身の抵抗力については、ほとんど考えない。たとえば子どもの
喫煙について。その年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚えて
くる。最初はささいな好奇心で始まるが、問題はこのあとだ。誘惑に負けてその
まま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をはねのける子どももいる。東洋医
学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないかは、抵抗力の問
題」ということになる。そういう意味では、予防的ということになるが、実は東洋
医学の本質はここにある。東洋医学はもともとは、「病気になってから頼る医
学」というより、「病気になる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「病気を
より悪くしない医学」と考えてもよい。では、どうするか。

 何度もこのコラムにも書いたように、子育ての基本は、「自由」。自由とは、も
ともと「自らに由(よ)る」という意味である。つまり子どもには、自分で考えさせ
る。自分で結論を出させる。自分で行動をとらせる。自分で責任をとらせる。こう
した日常的な習慣が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力のある子ども
にする。しかもその時期は、早ければ早いほどよい。乳幼児の段階から……と
言っても、よい。特に、静かに考える時間を大切にする。

@頭からガミガミと押しつける過干渉、
A子どもの側からみて、いつも親の視線を感ずるような過関心、
B「私は親だから」「あなたは私の子だから」式の権威主義は避ける。威圧や暴
力がよくないことは、言うまでもない。

 強く叱れば叱るほど、子どもは自分で考えることができなくなる。あとはドロ沼
の悪循環。(叱る)→(ますます非常識なことをする)→(叱る)……と。その結
果、子どもはますます抵抗力の弱い子どもになる。相手が幼児のときは、特に
そうだ。「あなたはどう思う?」「どうしたらいいの?」「何をしたいの?」と問いか
けながら、要は子どものリズムにあわせて、「待つ」。こういう姿勢が、子どもの
常識力を育てる。「悪」に対する、子どもの抵抗力を強くする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「子どもの世界」100回目

 土曜日は朝、四時ごろ目がさめる
(中日新聞のコラムが、2001年6月に、100回目を迎えます。「混迷の時代の子育て論」から
通算すると、125回目になります。)

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうして、つまり暗い天井を見あげな
がら、新聞が届くのを待つ。「今日は載っているだろうか……」と、そんなことを
何度も考える。そう、私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならな
いとわからない。大きな事件やニュースがあると、私のコラムははずされる。そ
れにこう書いても信じてもらえないかもしれないが、最初の六回分を除いて、私
は一度だって執筆依頼をもらったわけではない。新聞というのは、そういうもの
らしい。あくまでも読者次第。そんなわけでいつも私が勝手に原稿を書き、それ
を新聞社に届けている。「よかったら載せてください」と。
 

私にとってものを書くというのは、墓石を刻むようなもの。息子たちにもときどき
こう言っている。「墓はいらない。ぼくが死んで、いつかぼくを思い出すようなこと
があれば、そのときはぼくの本を読んでほしい」と。若いころには、野心もあっ
た。この世界、本を売るためには、ある程度知名度がなければならない。が、書
いても書いても、私の本は売れなかった。「今度こそ」「今度こそ」と思ったが、
それでもだめだった。

 そんな中、新聞社から原稿依頼があった。が、飛びあがって喜んだというわけ
でもない。すでにそのころ私は、かなり自信をなくし始めていた。折りからの不
況もあった。もう書くのをやめようかとさえ考えていた。で、話を聞くと、「何でもよ
い」ということだった。そこで私は「世にも不思議な留学記」を書いた。しかしこ
れはすぐにボツになった。理由はわからなかったが、「あまりにも突飛もない話」
ということだったらしい。そこで私は「混迷の時代の子育て論」を書いた。これが
好評(?)で、一九九七年の七月から、計一七回も続いた。が、新聞にものを書
くというのは、丘の上から天に向かって、ものをしゃべるようなもの。読者の顔が
見えない。反応もない。本の場合は、売れた部数イコール、好意的に読んでく
れた人の数ということになる。が、新聞にはそれもない。ないばかりか、中に
は、「こんなこと書いて!」と怒っている人だっているに違いない。

 私は私だ。女房はよく、「どこかの懸賞募集に原稿を出してみたら」と言う。し
かしどこの誰が、私の生き様を判断できるというのか。私以外に、私を判断でき
る人間など、どこにいるというのか。私にとってはものを書くというのは、私の生
き様を残すことをいう。文がうまいとかヘタとか、そういうことはどうでもよい。私
がこうして文を書いて読者に訴えたいのは、文ではなく私自身なのだ。そういう
「私」を、誰が評価できるというのか。

 ……しばらく待っていると、新聞配達の人が新聞を届けてくれる。聞きなれた
バイクの音。そして足音。が、すぐには取りにいかない。いやときどき配達の人
がポストに新聞を入れたとたん、それを中から引っぱったらどうなるかと考える。
きっと配達の人は驚くに違いない。私はバイクの音が遠ざかったのを確かめて
から、おもむろに新聞を取りにいく。そして最初に県内版を開く。たいていそのと
きになると、横に寝ている女房も目をさまし、「載っている?」と聞く。コラムが載
っている朝は、そのまま起きて新聞を読む。載っていない朝は、そのまままた、
ふとんにもぐりこむ。こうして二年半が過ぎ、「子どもの世界」が、今日でちょうど
一〇〇回目を迎えた。読者のみなさん、ありがとうございました。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●美しいあなたへ、to a beautiful lady

●だれがあなたを責めることができますか

 あなは声を震わせて泣いた。それを見て私は、口をかたく結んだ。私にはあな
たの苦しみを、どうすることもできない。悲しみを、やわらげることもできない。

 あなたは最初、「息子を愛せない」と言っていて、私のところに相談にきた。そ
ばにいく人かの人がいた。皆も、そして私も、そういうあなたを責めた。「気軽に
考えたら」「無理をしてはいけない」と。しかしその言葉は、あなたを苦しめた。

 あなたは心のやさしい人だ。若いときから一人の男のストーカー行為に悩ん
でいた。が、あなたは「私だけががまんすれば…」と、その男に妥協した。そし
て結婚した。そして今の子どもが生まれた。そうしてできた子どもを愛せないか
らといって、だれがあなたを責めることができるだろうか。あなたはこう言った。
「結婚を断れば、事件になったかもしれない。夫が恐ろしかった」と。

 あなたは美しい人だ。相談を受けながら、「あなたはこんなところにいる人で
はない」と、私は何度も心の中でつぶやいた。さんさんと降りそそぐ明るい陽光
を浴びて、あなたは金色に輝くべき人だ。あなたが笑ったら、どんなにすてきな
ことか。

 「あなたにも夢があるでしょ?」と聞くと、あなたは、小さな声で、「看護婦さん
になりたい…」と。私はそのときふと、自分が病院で死ぬときは、あなたのよう
な看護婦さんにみてもらいたいと思った。が、私は精一杯、自分の顔をとりつく
ろって、こう言った。「子育ても一段落するときがきますよ。そのときがチャンスで
すよ」と。

 私は冷酷な人間だ。そういうあなたに向かって、「まとわりつく子どもをいやが
るのは、ストーカーだった夫を、あなたの子どもの中に見るからだ」と言ってしま
った。何という冷酷な言葉! あなたは自分の心の中をのぞいてしまった。あな
たがそれに気づいたとき、あなたは子どもだけではなく、あなたの夫も愛せなく
なってしまった!

 最後の日。涙で赤くなったあなたの目を見ながら、私はこう思った。「勇気を出
して、心を解き放ちなさい。体はあとからついてくる」と。「今のままでは、あなた
も、夫も、そして子どもも不幸になる」と。が、私には何も言えなかった。何という
無力感。何というはがゆさ。振り返ると、もうあなたはそこにいなかった。

 さようなら、Yさん。お元気で。いつか看護婦さんになったら、連絡してください
ね。夢を捨ててはだめですよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の教科書検定

●まっちがってはいない。しかしすべてでもない。

 オーストラリアにも、教科書の検定らしきものはある。しかしそれは民間団体
によるもので、強制力はない。しかもその範囲は、暴力描写と性描写の二つの
方面だけ。特に「歴史的事実」については、検定してはならないことになってい
る(南豪州)。

 私は一九六七年、ユネスコの交換学生として、韓国に渡った。プサン港へ着
いたときには、ブラスバンドで迎えられたが、歓迎されたのは、その日一日だ
け。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。私たちを直接指導し
てくれたのが、金素雲氏であったこともある。韓国を代表する歴史学者である。
私はやがて、「日本の教科書はまちがってはいない。しかしすべてを教えていな
い」と実感した。たとえば金氏は、こんなことを話してくれた。「奈良は、韓国か
ら見て、奈落の果てにある都市という意味で、奈良となった。昔は奈落と書い
て、『ナラ』と発音した」と。今でも韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。も
し氏の言うことが正しいとするなら、日本の古都は、韓国人によって創建された
都市ということになる。

 もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし一
歩、日本を出ると、この種の話はゴロゴロしている。事実、欧米では、「東洋学」
と言えば、中国を意味し、その一部に韓国学があり、そのまた一部に日本学が
ある。そして全体として、東洋史として教えられている。

 話は変わるが、小学生たちにこんな調査をしてみた。「日本人は、アジア人
か、それとも欧米人か」と聞いたときのこと。大半の子どもが、「中間」「アジア
人に近い、欧米人」と答えた。中には「欧米人」と答えたのもいた。しかし「アジ
ア人」と答えた子どもは一人もいなかった(約五〇名について調査)。先日もテ
レビの討論番組を見ていたら、こんなシーンがあった。アフリカの留学生が、「君
たちはアジア人だ」と言ったときのこと。一人の小学生が、「ぼくたちはアジア人
ではない。日本人だ!」と。そこでそのアフリカ人が、「君たちの肌は黄色では
ないか」とたたきかけると、その小学生はこう言った。「ぼくの肌は黄色ではな
い。肌色だ!」と。

 二〇〇一年の春も、日本の教科書について、アジア各国から非難の声があ
がった。韓国からは特使まで来た。いろいろいきさつはあるが、日本が日本史
にこだわっている限り、日本が島国意識から抜け出ることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人間は考えるアシである

●知識と思考は別●思考するから人間

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをな
す」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出す
というのは、別のことである。たとえばこんな会話。
A「昼に何を食べる?」B「スパゲティはどう?」A「いいね。どこの店にする?」B
「今度できた、角の店はどう?」A「いいね」と

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、
この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わ
せて取り出しているに過ぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たと
えば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからとい
って、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにも
ならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、
無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそう
とする。中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属
する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少し
は疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生
は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正し
いとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。
こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っ
ていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。
その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れ
ば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ
うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を
身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」
と。それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切
なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。
私はそれを心配する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●まき散らされたゴミ

●野放しになる暴力映画●周囲文化の充実を

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、
あたり一面にゴミをまき散らした…。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。
どこかの島で、生徒どうしが殺しあうという映画である。これに対して映倫は、
「R15指定」、つまり、十五歳未満の子どもの入場を規制した。が、主演のB氏
は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ)とかみついた。監督のF氏も、
「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本
当にそうか?
 
アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組につい
ては、民間団体による自主規制を行っている。

【G】一般映画
【PG】両親の指導で見る映画
【PG13】十三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】十七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】十七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が一九六八年から始まっている。が、この日本では
野放し。先日もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。
子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」母「お母さんは見ないか
らね」子「ううん、ぼく一人でみるからいい…」母「…」と。

 見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで
発売禁止のソフトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げま
どう住人を、見境なく撃ち殺すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければ
ならない。が、そのため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた
先にある、一般の人の理性と良識ということになる。が、この日本では、これが
どうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空洞化している。言いかえると、日
本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない…。先のB氏のよう
な人が、日本や東京都を代表する文化人として、表彰されている。

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように
見える。そういうものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし…果た
して…?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

人生の秋、そして老後

●この世界、経験はもう必要ない●私の夢

 今日もまた、一人の生徒がやめた。帰るときになって、私にメモを渡した。見
ると、「今度、進学塾に入ることになったから…」とあった。「元気でね」とは言っ
てみたものの、さみしかった。夜、ぼんやりとお茶を飲んでいると、女房がこう言
った。「がんばれるだけがんばって、それでだめなら、もうこの仕事はやめよう」
と。

 子育てが終わるとどっとやってくるのが、老後。貯金の大半は息子たちの学
費で使い果たしてしまった。「またがんばるぞ」と思ったとたん、老後がやってく
る。持病はないが、このところ聴力がまた落ちた。自分に「がんばれ」とハッパを
かけるが、もうがんばる余地など、ほとんどない。昔、だれかがこう言った。「人
生には春もあれば、夏もあり、秋もある」と。そのときは、「そんなものあるか」と
思った。が、こうなってみると、人生の秋をしみじみと感ずる。冬はもうすぐだ。
冬じたくをしなければならない。女房はこのところ、あちこちから老人ホームの
案内書を取り寄せている。「この家と土地を売れば、何とかなるわ」と。

 教育の世界には、もう経験も技量も必要、ない。それは料理のようなもの。手
のかかった料理よりも、ファーストフードの料理のほうが、おいしいと人は言う。
コストも安い。親は親で、「余計なことは教えてくれるな」と言う。私は無数の市
販教材を手がけてきたが、そういうものを生徒に売りつけたことは、一度もな
い。看板もチラシも出したことはない。教材はすべて手作り。が、そういう誠意な
ど、この世界では、どれほどの意味があるというのか。

 人は私を見ると、「活躍していますね」と言う。こうしてコラムを書いたり、本を
出したりしていることをいうらしい。しかし私にはその実感はない。原稿を書くと
いっても、こうして一人でパソコンに向かっているだけ。スポーツ選手のように、
観客の声援を肌で感ずるということはない。この不況下、出版界は、空前の
(?)大不況。あわせてインターネット時代。「本が売れる」という時代は、もう終
わった。いや、貧乏がこわいのではない。こわいのはそういう貧乏と戦う気力が
なくなることだ。頭が鈍って、ものが考えられなくなることだ。
 「いつかオーストラリアで、幼稚園の先生をしたい」と私。「南オーストラリアの
田舎の幼稚園がいい。お前も一緒に行くか?」と声をかけると、女房はうれしそ
うに笑った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無条件の愛unconditional love

●「私」をなくせば、死もこわくない…?

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもな
い。「私は自由だ」といくら叫んだところで、そこには限界がある。死は、私から
あらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自
由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか…? その方法はあるのか
…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら、死の恐
怖から、私は自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、
私はこんな経験をした。

 息子が、アメリカ人の女性と結婚することになった。そのときのこと。息子とこ
んな会話をした。
息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習
わしなっている。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、
グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の
会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメリカ国籍を取る」私「日本人
でなくなる、ということか…」息子「そう」「…いいだろ」と。私は息子に妥協した
のではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人
の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉があ
る。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時
に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめる
ことでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる
ものを、愛し、許し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、
「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人が、どろぼうを恐れ
ないのと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では
一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服
したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することがで
きるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標
にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。


(以上2002年に書いた原稿)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【浜名湖かんざんじ荘にて】(はやし浩司 2012−04−18)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ときどき来たくなる。
無性に来たくなる。
ここへ来て、温泉につかりたくなる。

……ということで、今日もやってきた。
おなじみ、浜名湖かんざんじ荘。
(正式には、「湖上百景、浜名湖かんざんじ荘」という。)
職員の人たちとも、すっかり顔なじみになった。
その居心地のよさが、心をなごませる。

浜松市で、気軽に泊まるなら、一押しのホテル。
料金は良心的。
料理もおいしい。
環境、眺望を評価に入れるなら、これほどのホテルは、ほかにない。
やる気度、本気度、120%。

……それを望んでいるわけではないが、来るたびに、
コック長がわざわざ出てきて、あいさつをしてくれる。
その心遣いが、うれしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画監督

 先ほどホテルの周辺を散歩をしながら、ワイフにこんなことを話した。
「死ぬまでに、一度でいいから、映画を作ってみたい」と。
SF映画。
が、人生の重みを感ずるような映画。

 映画は好きだが、もちろん、自分で制作したことはない。

(映画はモノではないから、「制作」と書くのが正しい。
しかし最近、あちこちで、「製作」と書いてあるのを見かける。
どちらが正しいのだろう?
あとで調べてみる。)

 それに答えて、ワイフがこう言った。
「俳優は、だれにするの?」と。

 まだそこまでは考えていなかった。
ストーリーは、よく考えるが、俳優までは考えていなかった。

私「お前が主役じゃあ、だれも見に来ないし……」
ワ「じゃあ、あなたが主役になれば……」
私「ハハハ、もっと、だれも見に来ない……」と。

●制作と製作

 あちこちのサイトをのぞいてみた。
その結果、制作ち製作のちがいが、わかった。

芸術作品のような作品を作るのは、「制作」。
モノを作るのは、「製作」だ、そうだ。

しかし「芸術作品は、制作だが、娯楽作品は、製作」と説明しているサイトもあった。

 が、さらに詳しく調べていくと、どうもこういうことらしい。

 組織として、映画全体を、作っていくのは、「製作」。
たとえば予算を獲得し、映画化をめざすのは、「製作」。
が、その中にあって、映画そのものを撮影したり、編集したりするのは、「制作」、と。

 まず製作者がいる。
製作会社でもよい。
その製作会社の指示を受け、現場で映画を撮影したりするのが、制作会社、もしくは制作者。
そういうふうに覚えておくとよい。

 本当に、日本語は難しい。
いまだに迷う。

●偏頭痛

 昨夜、夜中に、久しぶりに偏頭痛が起きた。
かなりはげしい偏頭痛だった。
原因は、睡眠不足。
ここ数日、夜遊びを繰り返した。
加えて仕事で、あれこれ神経を使った。
それが悪かった。

 で、ワイフがあれこれ看病してくれたが、偏頭痛と見極めるまでに、時間がかかった。
風邪かもしれない。
二日酔いかもしれない。
あるいはくも膜下出血?
が、やがて、偏頭痛と判断し、「Z」という薬を半分に割ってのんだ。
(私のばあい、半錠で、効く。)

 20〜30分も静かにしていたら、潮が引くように、スーッと痛みが消えた。
それはそれでありがたいが、「Z」は、血管収縮剤というから、あまりやたらとのんではいけな
い。
偏頭痛であることを確認してから、のむ。
のみ方をまちがえると、脳こうそくを引き起こすかも?
ただし「脳梗塞を起こすかも」というのは、私の素人判断。

医師からも、週に2度くらいまでならよいが、それ以上はやめろと指示されている。
よく効く薬だから、それだけに他方で、副作用も強い。
そんなわけで、私は2週に1度……と決めている。
しかも半錠だけ。

 その偏頭痛。
偏頭痛の痛さは、それを経験した人でないとわからない。
私のばあい、あまりの痛さに、「首を切ってくれ!」と叫んだこともある。
一度は、脳腫瘍と誤診され、開頭手術寸前までいったことがある。

が、ここ20年くらいは、よい薬ができた。
「Z」も、そのひとつ。
さきにも書いたように、半錠のんだだけで、スーッと痛みが引いていく。
小さな薬である。
直系が、5ミリ前後しかない。
そんな薬でも、それだけ効く。
ただし値段が高い。
医院で処方してもらっても、1錠、500円。

 ……ということで、今日は、病みあがり。
無理をしない。
様子をみる。

 で、ちょうど家を出る前、ニュースサイトをのぞいたら、こんな記事が載っていた。
何でも韓国が、アメリカで、「日本海と東海に変えよう」と、猛烈な運動を展開しているというの
だ。
運動といっても、100%、官製運動と考えてよい。
改めて、この1月に書いた原稿を、ここに再掲載する。
(私のBLOGには、すでに掲載ずみ。
重複する人は、どうか、この部分を、飛ばして読んでください。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 ●「東海」だって? 「日本海」の呼称問題について

(A)

To Mr. President of the United States of America

★Exaggerated Nationalism of South Korea

★We, the Japanese, know that South Korean people dislike "Japan" and now they have 
been trying to alter the name of "Sea of Japan (Japan Sea)" into "Tonghae" or "East Sea
".
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason 
why they insist so.

But if so, there would be hundreds of "East Sea" in the world, since each country has "East
".
In Japan we have a well-known proverb, saying, "If you dislike a priest, you hate his robe too
".

Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: "The exaggerated nationalism 
is very dangerous".
Sea of Japan (Japan Sea) has been "Sea of Japan (Japan Sea)" for more than 120 years 
and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to 
Japan in 1853, Sea of Japan is "Japan Sea".
http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/
Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) "Gulf of Mexico"?
Why doesn't USA try to alter the name into "South Gulf"?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don't have to listen to South Korea's meaningless opinion.

In the website of "Sea of Japan, No East sea" someone writes as follows:

"Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got 
brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese 
character and documents. 
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having 
hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism."

I agree to this opinion.
Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan 

(B)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【読者のみなさんへ】(上、(A)から(B)までをコピーし、ホワイトハウスへ、抗議のメールを出そ
う!

【抗議のメールの宛先】

(1)まず「http://www.whitehouse.gov/contact」のホワイト・ハウスのHPを開く。
(2)つぎにそのHPの下の方に出ている、contact(The Administration各部署)、
http://www.whitehouse.gov/contact/submit-questions-and-comments/old2
に、上記(A)から(B)までをコピーして貼り付ける。
(必要事項を書き込んでください。名前、アドレスなど。)
(3)あとは、「Submit(送信)」で、OK。

 さあ、あなたも日本人なら、立ち上がろう!
アメリカに向かって、声をあげよう!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A~Bまでの訳文)

●どうして日本海が、「東海」なのか?

 私たち日本人は、韓国人(朝鮮人)が、日本を嫌っていることを知っている。
そして今、日本海という名前を、「トンヘ」つまり、「東海」と改名しようとしていることを知ってい
る。
日本海は、朝鮮半島の東側に位置する。
それが彼らの主張の根拠になっている。
が、もしそうなら、世界中に、何百という「東海」が生まれるだろう。
というのも、それぞれの国に、「東」があるからである。
日本には、『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺がある。
あのA・アインシュタインは、田丸謙二先生への手紙の中で、こう書いている。
「過激な民族主義は危険である」と。

「日本海」という名前は、100年以上も、世界の常識として使われている。
1853年に日本に来航した、マシュー・ペリー提督が使った地図でも、日本海は「日本海」にな
っている。

でないというのなら、どうしてメキシコ湾が「メキシコ湾」なのか。
アメリカは、どうしてメキシコ湾を、「南湾」と改名しようとしないのか。
なぜなら、この種のナショナリズムが、馬鹿げていることをアメリカ人は、知っているからであ
る。

どうか韓国の、馬鹿げた意見に耳を貸さないでほしい。

『日本海であって、東海ではない』(Sea of Japan, No East Sea)サイトの中には、次のような意
見が載っている。

『……韓国政府および韓国の国粋主義者たちは、漢字や漢字で書かれた書類を読めない子
どもやマスメディアの世界において、洗脳プロパガンダ(=政治的情宣活動)を繰り広げてい
る。

これらの攻撃的なプロパガンダは、無邪気な子どもたちをたきつけ、日本や日本人に対する
敵意を煽(あお)り立てている。
私はこれらの愚かな、構造的暴力、さらには拡張主義、つまり新しいタイプのファシズムに、抗
議する』(以上、同サイトより)と。
私は、この意見に同意する。

浜松市 はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Yahoo ニュースは、つぎのように伝えている。

『 韓国が日本海を「東海」と呼称するよう国際社会に訴えている問題で、複数の韓国メディア
は18日、日本と韓国のインターネットユーザーが同問題をめぐりホワイトハウスのホームペー
ジ上でサイバー戦争を繰り広げていると報じた。

 ホワイトハウスのホームページには3月下旬、バージニア州の韓人会が中心となり、東海表
記を求めるオンライン請願書「米国教科書の東海表記訂正」を提出した。
4月17日までに2万7700人あまりの署名が集まり、ホワイトハウスは近々、内容を検討し請願者
に回答するとみられる。

 報道によると、在米韓国人らによる東海表記を求める動きに対し、13日、日本人とみられる
人物がホワイトハウスのホームページに対抗する請願書を提出。
「ナリヒラ」と称する人物が提出した請願書は、「日本海―私たちは子どもたちに性格な歴史を
教えているのに、なぜ変えようとするのか」というタイトルで、「日本海は歴史的にみてずっと日
本海だった」、「韓国は北朝鮮により強い共産主義の影響を受けており、歴史を自分たちの主
張に合うように書き換えている」などと主張しているという。

 韓国メディアは、「幸いにも日本人が提出した請願書には1736人分の署名しか集まっていな
いが、韓人社会は署名期限の21日まで日本人の対決姿勢に緊張を緩めず、最大限の署名を
集める方針だ」とし、現在も続くオンライン署名の参加を促した』(以上、Yahoo ニュース・201
2年4月18日)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●いいのか、日本!

 韓国側は、2万5000人以上の署名。
かたや日本は、たったの1736人!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私たちも声をあげよう!

韓国の東亜日報は、つぎのような記事をかかげている。
「『東海・日本海』併記について、バージニア州上院は、1票差で否決した※」(2012年01月2
8日)と。
つまり「いろいろ働きかけてはみたが、教科書に、『東海・日本海』と併記させることについて、
バージニア州では、失敗した」と。
韓国はノ大統領の時代から、世界各国に専門の特使まで派遣し、「日本海」を「東海(トンヘ)」
に改名する運動を重ねている。
「日本海」という呼称が、どうにもこうにも気に入らないらしい。
その気持ちはよくわかる。
が、どうして日本海が「東海」なのか?
 
韓国から見れば、確かに「東の海」。
が、日本から見れば、「北西の海」。
ロシアから見れば、「東南の海」。
これほどまでに自己中心性丸出しの呼び方は、そうはない。
もし世界中の国々が、自分の国を中心に、東西南北の海の名前を決めたら、それこそ「東海」
という名前は、国の数だけ生まれることになる。
そこで韓国はバランスをとるため、黄海を、独自に、「西海」と呼んでいる。
が、こちらのほうは、目立った運動は、まったくしていない。
つまり「おまけ」。
韓国は、要するに、「日本」という文字がよほど気に入らないらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「日本海」問題

 日本海の呼称問題については、たびたび書いてきた。
ここでは、もう一歩、さらに話の内容を進めてみたい。
その第一。

 日本人は、あまりにも、おとなし過ぎる!

 どうして日本はもっと積極的に発言し、行動しないのか。
韓国が特使を派遣したら、日本も派遣すればよい。
韓国が騒いだら、日本も同じだけ、騒げばよい。
 昨年(2011年5月)書いた原稿を、もう一度掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「東海(トンヘ)」問題 (?? vs. ???)

 『坊主憎ければ……』とかいうが、韓国は、「日本海」という名称が、よほど、気に入らないらし
い。

 で、韓国政府は、全世界の各国に「特使」まで送って、「日本海」を「東海」へ変更しようと努力
している。
(「特使」だぞ! わかるか!)
が、どうして「東海」なのか。
これほどまでに自己中心的な発想はない。
もしロシアが、「太平洋を『東方洋』にせよ」と主張したら、世界はロシアをどう思うだろうか。

 ついでに韓国は、黄海を、「西海」にしようとしている。
そうでも言わないと、バランス(=整合性)が取れないからだ。
が、無理は無理。
韓国政府も、やっとそれに気づき始めた。

 中央日報(韓国)は、つぎのように伝える。

『韓国政府は国際社会の東海(トンヘ、日本名・日本海)表記と関連し、「東海」と「日本海」を併
記すべきだという意見を国際水路機関(IHO)に提出したと、政府当局者が1日明らかにした。 
当局者は「IHO側が2日までに東海表記に関する公式意見を伝えてほしいと要求してきた」と
し、「東海単独表記主張は成功する可能性がないと判断した」と説明した』(5月4日)と。

 繰り返すが、どこの国に対して、「東」なのか?
日本にとっては、日本海は、「北海」。
あるいは、「北西海」。
もしこんなメチャメチャな改名が許されるとしたら、それこそ世界は、大混乱。
「東海」だけでも、世界中に、何千も生まれる。

 ついでに……
対馬海峡→(韓国の)南海
東シナ海→(台湾の)北海
台湾海峡→中国海峡
南シナ海→北フィリッピン海
フィリッピン海→グアム海、などなどとしたら、どうか?
そのうちベンガル湾も、インドの東にあるということで、「東海」になるかもしれない。
アラビア海は、パキスタンの南にあるから、「南海」になるかもしれない。

 特使まで送って改名させようとしているところが、すごい。
……というか、バカげている。

 原稿をさがしてみたら、2007年の5月に、同じ原稿を書いているのがわかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●またまた「東海(トンヘ)」?(2007年5月記)

Why should the Japan Sea (Sea of Japan) be the Eastern Sea?
The Japan Sea (Sea of Japan) is situated to the east of Korea, 
but is situated to the north to Japan.

++++++++++++++++++

韓国にとっては、東海(トンヘ)かも
しれないが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。
どうして韓国は、こうまで「東海」に
こだわるのか?

++++++++++++++++++

 『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺(ことわざ)を、地で行くような事例が、これ。
今も、つづいている。
韓国は、数年前から世界各国に特使まで送り、「日本海」を、「東海(トンヘ)」に改称しようと運
動を重ねている。

 韓国にとっては、たしかに「東海」だが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。
韓国は、よほど、「日本」という名前が嫌いらしい。
「日本海」ではなく、「日本」という名称が嫌いらしい。

 しかし日本の周辺を見ただけでも、その地域や固有の名前がついた海というのは、いくらで
もある。

 北から、東シベリア海、ベーリング海、オホーツク海、東シナ海、台湾海峡、フィリッピン海、
南シナ海などなど。

 しかし「東海」などという、自己中心性丸出しの名前は、どこにもない。
英語で言えば、「the Eastern Sea(東海)」。
「トンヘの意味は?」と聞かれたら、韓国の人たちは、何と答えるのか。

 こんな改名がまかり通るなら、まず日本とフィリッピンの間にある「フィリッピン海」を、「南海」
としたらどうか。
が、韓国にとっては、それはおもしろくないらしい。
こんな記事が、今朝の朝鮮N報に載っていた。

 『5月7日からモナコで開かれる、国際水路機構(IHO)総会に参加する、加盟国78カ国のう
ち、大多数が「日本海」の単独表記を支持していることが判明し、韓国政府に緊張が走ってい
る。

 韓国政府当局者は30日、IHO総会に関するブリーフィングを開き、「現在の状況では大多数
のIHO加盟国が日本海単独表記を支持しているが、どのような状況であれ、日本海が単独表
記されることを絶対に容認することはできないというの、われわれの基本的な立場」と述べた』
(07年5月1日)と。

 どうして容認することができないのか? 
韓国側は、その理由も述べたらよい。と、同時に、どうして日本海ではいけないのか。
その理由も述べたらよい。
さらに、どうして「東海」なのか、その理由も述べたらよい。

 仮に「東海」ということになれば、今度は、日本が猛反対するだろう。
「どうして東海なのか」と。

 さすがの韓国政府も、自分たちの愚かさに気づいたのだろう。
今度は、「平和の海」という代案を出してきた。
「平和」という名前は、K国が好んで使う名称でもある。今の今も、あの38度線をはさんで、韓
国側にある村を、「自由の村」と呼び、K国側にある村を、「平和の村」と呼んでいる。

 が、その「平和の海」論も、どこかへ消えた。
そこで再び、「東海」。
「併記問題」。
今度は、「日本海と東海を併記せよ」と。

 こうした韓国側の動きを見ていると、反日運動の原点を見ているようで、興味深い。
つまり韓国にとってみれば、日本の存在そのものが、おもしろくないのだ。
理由など、ない。
まさに感情論。
彼らが主張するところの歴史認識問題にしても、そのうちの何割か以上は、その感情論と考え
てよい。

 しかし一言。
韓国政府も、いちいちそんな(名称)の問題にこだわらないで、もっと大きな問題に取り組んで
みたらどうか? 
たとえば国連への分担金を一人前にふやすとか、そういうことを考えてみたらどうか? あるい
は政府開発援助金を、人口比に応じて、せめて日本の3分の1くらいにまで、ふやすとか…
…。

 そういうことはまったくせず、主張することだけは、一人前。
あるいはそれ以上!

 どちらにせよ、「東海」などという呼称そのものが、私たち日本人にとっては、言語道断。
どうして日本の北にある日本海が、東海なのか。
日本としては、絶対に容認できない呼称である。
ちなみに国際水路機構(IHO)総会では、大多数が、「日本海」の単独表記を支持しているとい
う。
当然のことである。

(付記)今まで、直接的な批判を避け、あえて東海を「西海」などとまぶして、批判記事を書いて
きましたが、今日から、正面から、「東海」とすることにしました。

(以上、2007年5月に書いた原稿より)

●グーグル翻訳でも……

 グーグル翻訳サービスを使って、「日本海」を韓国語に翻訳すると、韓国語で「東海」と翻訳さ
れる。
韓国政府は、すでにグーグルにまで、こうした手を伸ばしている。
日本よ、油断するな!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
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運動 はやし浩司 日本海 東海呼称問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人よ、もっと声をあげよう!

 日本人よ、もっと声をあげよう。
方法は、簡単。
もしみなさんがBLOG(Twitter)を書いているなら、以下の文面をコピーし、あなたのBLOGに
貼りつけてほしい。

 ネットの世界では、同じ意見でも、数が多ければ多いほど、検索時に上位に表示される。
アメリカをはじめ、世界の人たちの目に留まる。
それが重要。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A~Bまでの訳文)
●どうして日本海が、「東海」なのか?

 私たち日本人は、韓国人(朝鮮人)が、日本を嫌っていることを知っている。
そして今、日本海という名前を、「トンヘ」つまり、「東海」と改名しようとしていることを知ってい
る。
日本海は、朝鮮半島の東側に位置する。
それが彼らの主張の根拠になっている。
が、もしそうなら、世界中に、何百という「東海」が生まれるだろう。
というのも、それぞれの国に、「東」があるからである。
日本には、『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺がある。
あのA・アインシュタインは、田丸謙二先生への手紙の中で、こう書いている。
「過激な民族主義は危険である」と。

「日本海」という名前は、100年以上も、世界の常識として使われている。
1853年に日本に来航した、マシュー・ペリー提督が使った地図でも、日本海は「日本海」にな
っている。
でないというのなら、どうしてメキシコ湾が「メキシコ湾」なのか。
アメリカは、どうしてメキシコ湾を、「南湾」と改名しようとしないのか。
なぜなら、この種のナショナリズムが、馬鹿げていることをアメリカ人は、知っているからであ
る。
どうか韓国の、馬鹿げた意見に耳を貸さないでほしい。

『日本海であって、東海ではない』(Sea of Japan, No East Sea)サイトの中には、次のような意
見が載っている。

『……韓国政府および韓国の国粋主義者たちは、漢字や漢字で書かれた書類を読めない子
どもやマスメディアの世界において、洗脳プロパガンダ(=政治的情宣活動)を繰り広げてい
る。
これらの攻撃的なプロパガンダは、無邪気な子どもたちをたきつけ、日本や日本人に対する
敵意を煽(あお)り立てている。
私はこれらの愚かな、構造的暴力、さらには拡張主義、つまり新しいタイプのファシズムに、抗
議する』(以上、同サイトより)と。

私は、この意見に同意する。

浜松市 はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●再び、浜名湖かんざんじ荘

 どうして韓国は、ああまで「東海」にこだわるのか。
そのこだわり方が、ふつうではない。
偏執的でさえ、ある。

 ともかくも、この話は、ここまで。
私がここに書いたことに賛成の人は、先の(A)〜(B)の部分を、ホワイトハウスまで送ってほし
い。
もう一度、そのアドレスを、ここに書いておく。

http://www.whitehouse.gov/contact/submit-questions-and-comments/old2

●借金

 国の借金が、1000兆円を超えた。
実際には、もっと多いかも?
で、その借金だが、返済する方法は、2つある。

(1)増税
(2)インフレ税

 「インフレ税」という言葉は、今日、はじめて知った。
ロイターは、つぎのように伝える。

『日本の財政問題を解決するには、もはや「インフレ税」という大増税しかないとフジマキ・ジャ
パン代表取締役の藤巻健史氏(元モルガン銀行東京支店長)は語る』と。

 1000兆円を超えると、歳出カット(公務員の削減や、給料の減額)程度では、もう焼け石に
水。
消費税を30〜40%にしても、むずかしい。

 そこでもう一つの方法。
「インフレ税」。
つまり恣意(しい)的にインフレを起こし、借金を減額する。
たとえば物価が2倍になれば、借金は、実質的に2分の1になる。
4倍になれば、4分の1になる。
さらに物価が10倍になれば、10分の1になる。
これを経済学の世界では、「インフレ税」と呼ぶ。
つまりインフレを起こし、国民から税を取る。
だから「インフレ税」。

●経済破綻

 日本が経済破綻するのは、時間の問題。
可能性の問題ではない。
時間の問題。
今は平穏に見えるが、先に延ばせば延ばすほど、被害は大きくなる。
(すでに、もうどうしようもないところにきているが……。)
 
 では、どんなときがあぶないか?

(1)アメリカの株価が下落したとき(ロイター)。
(2)日本円が、急激に円安に向かい始めたとき。
(3)国民が銀行(郵便局)から現金を引き出し始めたとき。

 可能性としては、(3)にもっとも警戒したらよい。
銀行(郵便局)は、私たちの預金を使って、国債を買っている(=国の借金を引き受けてい
る)。
私たちが銀行(郵便局)から現金を引き出せば、銀行は国債の購入を引き受けることができな
くなる。
イコール、そのとき、日本という国は、破綻する。

 (かっこ)付きで、(郵便局)と書いたが、日本最大の銀行は、郵便局。
その郵便局は、これまた日本で最大の、国債の引き受け手でもある。
隣のジーチャン、バーチャンたちが、郵便局から現金を引き出したり、国債を現金化し始めた
ら、要警戒。
そのあとすぐ、取り付け騒ぎが起こる。

 ……とまあ、まるで他人ごとのように書いている自分が、恐ろしい。
が、こんなことを、私は数年前から、繰り返し書いてきた。
これに対して、「結局は、何も起こらなかったではないか」と思う人もいるかもしれない。
しかしそれは、ちがう。

 20年前だったら、行政改革(公務員の削減や公務員の給料の減額)で、まだ何とかなった。
14〜5年前だったら、消費税の税率アップで、まだ何とかなった(ロイター)。
が、今は、もう手遅れ。
考えるとしたら、破綻後の日本。
どうすれば、この日本は、再生できるか。
経済学者の視点は、すでにそこへ行っている。

 常識で考えれば、わかるはず。
1000兆円などという借金を、返せるはずがない。
国家税収(40兆円)の、25年分。
あなたの給料にたとえるなら、……給料の半分を借金の返済に回しても、50年かかるというこ
とになる。

 この先、日本が今以上に発展すればよい。
しかし「右を見ても、左を見ても、真っ暗闇ではござんせんか」。

●教育

 そこで教育、ということになる。
が、この教育は、20年後、30年後を見据えて、組み立てなければならない。
子どもが成長し、実労働者になるには、20〜30年、かかる。
が、日本の教育は、お粗末そのもの。
10年一律どころか、100年一律の教育を繰り返している。
韓国にせよ、台湾にせよ、シンガポールにせよ、とっくの昔に、日本を追い越している。

 本来なら教師の自由裁量の幅を広くし、やる気のある教師が、120%のやる気度を出せる
ようにする。
……ということで、あに「ゆとりの時間」が生まれた。
が、結果は、惨憺(さんたん)たるもの。
「何をしていいかわからない」という教師が続出した。
近くのK市では、そのため小学校の教師を、幼稚園へ研修に出したりした。

 「創意工夫」とは言うが、人間というのは、崖っぷちに立たされないと、その創意工夫は、生ま
れない。
今の教育に欠けるのは、その「崖っぷち」。
緊張感。
緊迫感。
忙しいのはわかるが、その忙しさにかまけて、創意工夫する努力を怠ってしまった。

●入浴と食事

 ホテルへ着くと、すぐ入浴。
そのあと食事。
大浴場からは、浜名湖が一望できる。
すばらしい。

が、食事は、いつもスタンダードコース。
特別料金で、いろいろな料理を追加できる。
しかし、私たちには、それは必要ない。
スタンダードコースでも、量が多すぎる。

 で、その大浴場。
私も含めての話だが、ブヨブヨに太った人が、たいへん多い。
10人ほどの入浴客がいたが、みな、一様に、ブヨブヨに太っていた。
80歳前後の人の中には、反対にガリガリにやせている人もいたが、そういう人は、歩くのも難
儀といったふう。

 明らかに飽食と運動不足。
そういう人たちをながめながら、心に誓う。
「明日から、また自転車通勤を始めよう」と。

 ……老齢期というのは、そういう時期。
自分に負けたとたん、あとは死の待合室へ、まっしぐら。
運動にしても、1週間もサボったら、歩くことさえままならなくなる。
だからあえて、自分の体にムチを打つ。
が、そのムチにしても、若いときなら、軽くポンと叩く程度でよい。
しかし老齢期に入ったら、バシッと叩かねばならない。

 年々、それがますますきびしくなっていく。
言い換えると、老齢期というのは、気力との闘いということになる。
さらに言うと、その気力をどう維持するか。
それが老齢期の最大のテーマと考えてよい。

●気分転換

 ワイフが図書室へ行くと言い出した。
温泉の横に、図書室がある。
(温泉といっても、本物の温泉ではない。
下呂温泉と成分を同じにしてある温泉、という意味。
念のため。)

 私もついていくことにした。
つまり気分転換。

●午前4時

 目を覚ましたのが、午前4時。
今日は、4月19日、木曜日。

 昨夜は、図書室から帰ってくると、そのままベッドの中に入った。
時刻は9時ごろだったと思う。

●対話型教育vsペーパーワーク型教育

 この日本には、おかしな教育観が蔓延している。
勉強イコール、ワークブック。
ペーパー上で、何かの作業をさせるのが、「教育」と錯覚している。

よい例が、K式教室。
ペーパーワークだけを売り物にしている。
全国でチェーン店化している。
「教師の指導があるから、そうでない」と反論する教師もいる。
が、基本的には、ペーパーワーク。 

(ペーパーワークがすべて悪というわけではない。
ときには、ペーパーワークも必要。
しかし日本の教育は、ペーパーワークに偏(かたよ)りすぎている。
ペーパーテストの点をよくするのが、教育ということになっている。)

一方、欧米では、対話型教育が常識。
教師と生徒が、ワイワイとしゃべったり、話しあいながら、教育を進めていく。
が、この方式は、こと「塾」では、親たちにあまり受けがよくない。
「勉強した」という証拠が残らない。
学校のテストで、いい点数が取れない、など。

 逆に、プリントを多くさせたりすると、親たちは喜ぶ。
子どもをほめる。
つまり親たち自身が、子どものころ、ペーパー漬けの教育に、飼いならされてきた。
が、この傾向は、幼稚園や保育園でも、見られる。
ワークブックをさせることが教育と思い込んでいる教育者は、多い。

 では、どんな授業を、対話型授業というか。
それには、私の教室を見てもらえばわかる。
いくつかの例を、ここにあげておく。
さらに興味のある人は、「BW公開教室」を見てほしい。

http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html

 なお、なぜ、ここ数年、私の教室を、こうした形で公開するようになったか?
理由は、いたってシンプル。
私が培ってきた教育法は、私一代で終わる。
消える。
ご多分に漏れず、この世界も、目下、大不況。
私の教室も、風前の灯。
が、今は、何とか、持ちこたえている。
それをつぎの世代に、残したい。
もちろん、私独自の、つまりオリジナルの教育法である。
他人のマネをしたものは、ひとつもない。
それを何らかの方法で、残したい。

 つぎの動画は、小学1年生(クラスA)に、「確率と分数」を教えたときのもの。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/8AhHNER4608" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

同じく小学1年生(クラスB)に、「時速と距離」を教えたのが、つぎの動画。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/02iqYhZj45Y" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

 ついでに一言。
繰り返しになるが、一言。

 ペーパーワーク型教育ほど、楽な教育はない。
ペーパーワークをさせ、それに○×をつけて、子どもに返す。
「勉強した」という証拠は残るから、(また親たちも、そういうのが教育と思い込んでいるから)、
親たちには受けがよい。
しかしそんなのは、教育でも何でもない。
ただの「作業」。
どうかみなさんも、その事実に、気づいてほしい。

 ついでに一言。
幼児〜小学低学年の子どもには、その年齢の子どものクロック数というのがある。
つまりおとなの数倍は、速い。
そのリズムをうまくつかまないと、子どもの指導は、できない。
おとなのリズムで、ダラダラ、タラタラと指導していたのでは、すぐ飽きてしまう。
よく「幼児の学習指導は30分が限界」という言葉を耳にする。
しかし「限界」など、ない。
教え方が下手なだけ。

 その一例として、先週の新年長児のレッスンを、そのまま紹介する。
今年度、第1回目のレッスンである。

【幼児のリズムとテンポ】

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/eMVonD4zj3o" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 対話型教育 ペーパーワーク型教育 老齢期 気力 はやし浩司 生徒と
の対話重視 ペーパーテスト重視)

●本の価値

 先日、田丸謙二先生に会ったとき、先生は、しきりと「本を書きなさい」と勧めてくれた。
しかし私とて、本を書かなかったわけではない。
やるべきことは、やった。
が、売れなかった。
それでいつしか、本の世界から遠ざかった。

 が、こんな計算をすることができる。

 田丸謙二先生の知人で、100万部の本を売った人がいる。
4、5年ほど、前のことである。
現在、その本は、AMAZONで、「1円」で売買されている。
送料が250円だから、251円ということになる。

 つまり「1円」の価値しかない。
そこで単純に、1円x100万部で計算してみると、100万円の価値しかない、ということになる。

 一方、私は、もう30年ほど前に、「目で見る漢方診断」という本を書いた。
初版、5000部で、絶版。
定価は2300円だった。
が、現在、その本は、同じくAMAZONで、7000円弱で取り引されている。
どれもボロボロの中古本である。
(実際には、7000円でも、すぐ売れてしまうため、売り物はほとんど、ない。)

 で、7000円x5000部で計算してみると、3500万円という数字が出てくる。
私がいう「本の価値」というのは、それをいう。
だから売れなかったからといって、「負け」ということではない。
(……自慢たらしい話で、ごめん。
それとも負け惜しみ?)
重要なのは、その本が、20年後、30年後に、どのような評価を受けるかということ。

 同じく、私が今、こうして書いている文章にしてもそうだ。
20年後に消えてしまうかもしれない。
が、ひょっとしたら、20年後にも生き残っているかもしれない。
未来のことはわからないが、その希望があるから、私はこうして文章を書く。
あとの判断は、未来の人たちに任す。

●朝風呂

 朝風呂は、午前5:30〜から。
「一番乗り」と思って入ったが、すでに1人、男性が入っていた。
見るからに認知症とわかる男性。
その男性が、湯船の中で、体を洗っていた。
おかげで湯の中は、泡だらけ!

 私はその男性を見て、4、5年前に亡くなった実兄を思い浮かべた。
実兄も、同じようなことを繰り返していた。

「あのね、ええと、あのね、風呂の中では、タオルを使ってはいけないんだよ」と。
 
 こういうときは、最初に笑顔をしっかりと見せ、相手に警戒感を与えてはいけない。
するとその男性は、宙を見つめたような目つきで私を一べつしたあと、「ああ、そうですかア…
…?」と言って、タオルを外に出した。

 明日は我が身。
この先、どの温泉へ行っても、こうしたトラブルが起きる。
私が子どものころは、銭湯で、クソをしていた老人もいたぞ!

 で、そのあとは、いつもの入浴。
この浜名湖かんざんじ荘の大浴場は、一見ならぬ、一浴の価値、あり。
早朝の景色は、また格別。
早春の若葉も、美しい。
眼下に、浜名湖が、朝の陽光を受け、美しく輝いていた。

 では、今日の日誌はここまで。
おやほうございます。
2012/04/19

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 対話型教育)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●高校の同窓会

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

近く、高校の同窓会がある。
「高校」といっても、遠い昔。
私にもそんな時代があったはず。
が、おかしなことに、今の私と、連続性がない。
その途中で、一度、(あるいは数度)、プツリと切れている。
あの時代を思い出すと、そんな感じがする。
なぜだろう?

本来なら、記憶をたどっていくと、そこの高校時代があるはず。
現在の私と、高校時代の私が、一本の糸でつながっているはず。
が、その高校時代だけが、記憶の流れから、はずれている。
たとえて言うなら、人生の途中で、別の映画を見ていたような感じ。
長いようで、短かった。
短いようで、長かった。

ただイメージは、あまりよくない。
暗い木造の校舎だけが、強く印象に残っている。
今でも、ときどき夢に出てくるが、どれも暗い。
3年生のときに、近代的な校舎に移った。
が、その校舎は、夢の中には、ほとんど出てこない。
高校というと、あの校舎。
木々の緑に包まれた、黒っぽい、木造のあの校舎。

が、おかしなことに、本当におかしなことに、高校というと、舟木一夫の「♪高校3年生」が、真
っ先に思い浮かんでくる。
私が高校2年生のときに、大ヒットした歌謡曲である。
私はそれを、たいへん残念に思った。
「あと1年、早く生まれていればよかった!」と。
つまりそれくらい、「♪高校3年生」は、私たちの心に深くしみ込んだ。

YOUTUBEで、さがしてみる。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/4QHyDvnkUyc" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ついでに、「♪君たちがいて、僕がいた」

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/l1fRxmQTm6Y" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

それから「♪高原のお嬢さん」。
今でもこの歌を歌うと、涙がこぼれてくる。

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/aM5Y2vz8kug" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

「♪高校3年生」と並んで、忘れてならないのは、「♪学園広場」&「♪修学旅行」。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/8ir4QnttT0Y" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/a--Fip2NoeI" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

もう、何も語る必要はない。
舟木一夫が、私の心のすべてを歌ってくれている。
つまり私の高校時代イコール、舟木一夫の「♪高校3年生」であり、「♪学園広場」ということに
なる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●進路

 何も楽しみのない高校生活だった。
「監獄」とまではいかないが、それに近かった。
ゆいいつの楽しみは、女友だちとの浮いた話。
高校1年から2年までは、Aさんが好きだった。
デートも何度か、した。
が、高校3年のときに、別れた。
担任に見つかり、大目玉。
(当時は、デートは禁止されていた!)
そのあと大学生になってからも、数度会ったが、それっきり。

 ほかに覚えていることと言えば……。
3年生になるとき、無理矢理進路を変更されたこと。
私はそれまでは、理系の工学部へ進むつもりだった。
子どものころは、大工になりたかった。
それで「建築科へ」と思っていた。
が、担任兼進学指導の教師が、勝手に文化系に変えてしまった。
「君の成績では、京都大学の工学部は無理だが、文学部へなら入れる」と。

 それ以後、私の人生は、めちゃめちゃに狂ってしまった。
ア〜ア!

●うつ状態

 ……いろいろ思い出はあるが、どれもセピアカラー。
N君と夜中に、高校へ忍び込み、プールで泳いだこともある。
毛布を持ち込み、運動場で、一夜を明かしたこともある。
尾崎豊のように、窓ガラスを割るようなことまではしなかった。
が、その一歩手前程度のことは、いろいろ、した。
何度か、した。

 ただあの時代の私は、私であって、私ではなかった。
私はそれまでの中学生のときまでは、ひょうきんで笑わせ上手だった。
大学生になったあとも、ひょうきんで笑わせ上手だった。
が、あの時代だけは、暗く、沈んでいる。
今にして思うと、うつ状態だったかもしれない。
突発的にキレて、よく仲間と喧嘩した。

 学校が悪かったわけではない。
担任の教師が悪かったわけではない。
仲間が悪かったわけではない。
ミーンナ、私が悪かった。

●嫌われ者

 が、どういうわけだか、同窓会がそれほど、楽しみではない。
言うなれば、私だけが、異端児。
変わり者。
のけ者。
変人。

 そういうふうに見られていることが、自分でもよくわかる。
もっとも、その通りの人間だから、反論しようにも、しようがない。
それもあって、高校のばあい、同窓会に出るたびに、隅で小さくなっている。
中にはイヤミを言う仲間もいる。
「お前だけは、訳の分からない人間だな」とか、など。
そう言えば、私にこう言った仲間もいた。

「林(=私)、お前だけは、同窓会に肩で風を切ってやってくると思っていたがな。(たいしたこと
なかったな)」と。

 そう言われるたびに、私はヘラヘラと笑い返すだけ。
私はどこから見ても、負け犬。
ルーザー。
敗残者。

 今では、毎年、年賀状を交換しているのは、MZ君と、MR君だけ。
今度の同窓会は、そのMR君の大賞受賞を祝う会。
MZ君からの誘いとあれば、断れない。
……ということで、出席。
MZ君とMR君へのあいさつがすんだら、そそくさと退席する。
嫌われ者は、早く姿を消したほうがよい。

ミーンナ、私が悪かった。

●人生の結果報告会

 ……しかし……。
今度の同窓会で、もうつぎはないかもしれない。
15年ぶりの同窓会?
今の年齢に、15年を加えると、私も80歳。
それまでは生きていないだろう。
計算上は、約半数が、あの世行き。
それまで健康でいられる人となると、もっと少ない。

 同窓会というより、「人生の結果報告会」。
いや、報告はしたくない。
聞きたくもない。
私は私。
人は人。
しかし聞かれるだろうな……。
「林、お前は何をした?」と。

 が、私のばあい、そう聞かれても、答えられることが何もない。
あえて言うなら、「生涯、無頼(ぶらい)で過ごしました」と。
風来坊。
フー天。
無宿。
あえてかっこいい言葉をさがすなら、「自由人」。
そう、自由だけは、大切にしてきた。

 ……たぶん、私のような生き方は、みなには、理解されないだろう。

●同窓生
 
 ワイフは、聞く。
「会いたい人はいないの?」と。

 いるにはいるが、先に書いたAさんは、ほかのクラス。
私が1組で、Aさんは3組だった。
もう1人、Nさんという女性に会いたいが、Nさんは、同窓会には来ない。
「そういう会には出てはいけない」と教える、どこかの宗教団体に属している。

 10年ほど前まで、浜松までよく遊びに来たY君は、現在、病院に入っている。
少し前Y君の母親と電話で話したが、様態は、変わらないという。

 やはりMZ君とMR君ということになる。
幼稚園時代からの遊び友だちである。

●郡上八幡(ぐじょう・はちまん)

 前日は郡上八幡の市内で、1泊することにしている。
そちらをメインコースにし、同窓会は、デザート。
けっして軽んじているわけではない。
料理というのは、デザートを口にして、はじめて締めくくることができる。

 その締めくくり。
人生の締めくくり。
ありのままの姿で行き、ありのままの姿で、出席したい。
今さらかっこうつけてもしかたない。

 ミーンナ、私が悪いのです。

 さあ、みんな大声で歌おう!
舟木一夫の「♪高校3年生」!

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/4QHyDvnkUyc" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 高校 同窓会 高校同窓会)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【おまけ】

●高校3年生のころ

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私は昭和22年、生まれ。
1947年、生まれ。
ということは、1954年に小学1年生、
1960年に中学1年生、
1963年に高校1年生に、それぞれなったことになる。

フ〜〜〜ン。

1963年……高校1年生、
1964年……高校2年生
1965年……高校3年生。
この年に、満18歳になり、高校を18歳で卒業。

具体的には、1964年10月に、新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された。
私が高校2年生のときということになる。

●映像

 YOUTUBEで、当時の映像を拾ってみる。

★東京オリンピック

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/iL2Yymyb-yk" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

★1964年のころ

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/jHPG1fGcsyg" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

★新幹線・開通

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/AsT6ugvVZWc" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

★1965年(風景+加山雄三ヒット曲、ほか)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/MxFulggCkd8" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●「がんばろう、日本!」(Hold out, Japan!)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

あの3・11大震災のあと。
しばらくしてから、「がんんばろう、日本!」という言葉が生まれた。
だれが言い出したかしらないが、またたく間に、それが私たちの合い言葉になった。
しかし……。

「がんばろう、日本!」は、どこか、暗い。
うしろ向き。
「ふんばろう、日本!」にも、聞こえる。
あるいは、ある程度先が見えてきて、あと一息というときに、「がんばろう!」と言うのなら、まだ
わかる。
徹底的に叩きのめされたあとに、「がんばろう!」は、おかしい。
何をどうがんばれば、よいのか。

私はあのとき、ジョン・バエズ風に、「We shall overcome!」、あるいは、ランボー風に、
「Keep moving forward!」という言葉を思いついた。

「私たちは負けない(We shall overcome)」、「前に向かって進もう(Keep moving forward)」と。
世界の人に向かっても、またそのほうが、わかりやすい。

ジョン・バエズと、ランボーを、YOUTUBEから、拾ってみる。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/RkNsEH1GD7Q" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/zI1ikYdiueA" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

が、「がんばろう、日本!」が、まちがっているというのではない。
日本はがんばらなくてはいけない。
がんばるしかない。
ただその言葉を聞くと、勇気がわいてくる前に、泣けてくる。
どういうわけか、泣けてくる。

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●「アンビシャス、Japan」

 あのクラーク博士は、札幌農学校を去るとき、「少年よ、大志を抱け」と言ったとか。
が、原語は、「Boys, be ambitious!」だった。
となると、「少年よ、大志を抱け」は、誤訳。
「ambitious」は、「ちまちま生きないで、野心的に生きろ」という意味である。
それについては、もう10年ほど前に、一度、書いたことがある。

原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「たちあがれ、日本」に書いた原稿の中に、
それがあった(2010年)。

「たちあがれ、日本」という言葉が生まれたのは、
3・11大震災のちょうど半年ほど前のこと(2010年)。
3・11大震災は、2011年の3月11日に起きている。
そのとき、つぎの原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●『たちあがれ日本』

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


自民党に離党届を提出した与謝野馨元財務相や無所属の平沼赳夫元経済産業相らが10日
に結成する新党の党名は「たちあがれ日本」となる事が7日、決まった。
与謝野氏らは5日から党名や基本政策の協議を進めてきた。
新党関係者は「党名はほぼ合意が出来た」と語った。(読売新聞・4月7日・2010)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●Ambitious Japan(立て、日本!)

 『たちあがれ日本』という言葉を聞いて、10年ほど前に書いた原稿を、思い出した。
「Ambitious Japan」という言葉について書いた原稿である。
それをそのままここに紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 今、東海道新幹線(JR)の車両の横に、「Ambitious Japan」と書いてある。

 「Ambitious」と言えば、W・クラーク博士。明治10年、札幌農学校(現在の北海道大学)を
退任するときに、クラーク博士は、「Boys, be ambitious!」と言ったという。

 日本では、「少年よ、大志を抱け」と翻訳されている。

 その後、この翻訳は、正しくないという議論が、あちこちから起きた。
実は、私も、そう思う。
つまり、正しくない。
「ambitious」というと、「野心的な」という意味。
反対に、小さな世界で、こじんまりと生きている人のことを、「ambitious」とは、言わない。

 そういう意味での、「ambitious」である。
「大志」というと、どこか出世主義のにおいが、プンプンとする。
明治という時代は、そういう時代だったかもしれないが、しかしアメリカ人のクラーク博士に、そ
ういう意識があったかどうかは、疑問である。

 あえて訳すなら、「生徒たちよ、こじんまり生きないで、もっと元気を出せ」という意味ではなか
ったのか。
英語で、「ambitious」というと、どこか「他人を蹴落としてでも、前に進め」というニュアンスを感
ずる。
どこか荒々しく、乱暴。

 たとえば会話でも、「He is an ambitious man.」と言ったときは、その彼をほめるとい
うよりは、「彼はやり手」という意味で使う。

 私のpoorな英語力で、こういう解釈を加えるのは、危険なことかもしれないが、少なくとも、
「大志を抱け」という意味ではない。

 で、その新幹線。
私は、「Ambitious Japan」という言葉が好きである。
この不況下。
みんな、どこか元気をなくしている。
自信をなくしている。

 しかしあの新幹線が、轟音とともに走りすぎるのを見るたびに、「日本も、まだまだがんばって
いるな」と思う。
「捨てたものではないな」と思う。

先日も、オーストラリアの友人が、日本へ来て、新幹線が走っていることよりも、すでにその新
幹線が、35年以上も前から走っていることに、驚いていた。

 韓国の新幹線は、やっと今年になってから走った。
中国は、これからである。
が、日本では、35年以上!

 「さあ、日本よ、元気だそう。まだ俺たちには、パワーがある」という意味での、「Ambitious 
Japan」である。

 多分、JRのことだから、その道の英語の達人を、アドバイザーにしながら、この言葉
を考えたのだろう。
けだし、正解である!

 で、一つだけ心配するのは、あの「Ambitious Japan」という英語を見て、中には、「日本
よ、大志を抱け」と翻訳する人も、いるのではないかということ。
それについては、ここで、「その訳は、まちがっている」ということを、改めて、確認しておきた
い。

 さあ、みんな、元気を出して、前に進もう! Let's be ambitious!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ひらがな?

 この原稿を書くとき、本当に「たちあがれ日本」でよいのか、不安に思った。
「立ち上がれ」あるいは、「立ちあがれ」ではないのか、と。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「2010年4月7日に新党の名称を「たちあがれ日本」にすることが固まった。
命名したのは新党を後押しする石原慎太郎東京都知事。
「すすめ日本」「がんばろう日本」「まもれ日本」「新党ちから」「よあけ」「れいめい」または「れい
めいの会」なども候補にあがったが、平沼は「今の時代に合っているのは、ひらがながいいん
じゃないか」と述べている。
翌8日には平沼が「代表」、与謝野が「共同代表」に就任することが合意された」(ウィキペディア
百科事典より)と。

 やはり「たちあがれ日本」が正しいということになる。
しかし私なら、「立て日本」とする。
そのほうが短くて、わかりやすい。
「たちあがれ日本」とすると、党名を覚えるとき、まちがえやすい。
私もすぐには、思い出せなかった。
「たちあがろう日本」?
「たとう日本」?
いろいろ迷った。

●虚しさ

 が、「たちあがれ日本」という新党が生まれたとき、私はそこにある種の虚しさを覚えた。
「またか?」という思い。
それには2つの意味がある。

ひとつは、そのつどこうした調子のよい言葉(失礼!)が生まれる。
しかしいつも空振り。
先に載せた「Ambitious Japan」にしても、そうだ。
もう10年近くも前に書いた原稿である。

 もうひとつは、民主党。
民主党が私たち(浮動票層)に与えた失望感には、相当なものがある。
国民の80%以上が、「やめろ・コール」を出しているのに、小沢幹事長は、いまだにその立場
にしがみついている。
その見苦しさ。
その醜悪さ。
浮動票層は、民主党や小沢幹事長を選んだのではない。
反麻生勢力が、たまたま民主党に向かっただけ。

 たしかに浮動票層は、今、行き場をなくし、右往左往している。
が、小沢幹事長はそれをそれ見越してか、「民主党しかない」と、勝手なことを言っている。
まるで国民の気持ちがわかっていない。
またそういう人物が、国政の頂点にいることを、とても残念に思う。

●立て、日本!

 党名はともかくも、今の日本には、この言葉しかない。
ただし私なら、先にも書いたように、こう言う。
「立て、日本!」。
「たちあがろう日本」では、どこか弱々しい。
「Let's be ambitous」よりは、「Be ambitious」のほうが、よい。
だから、「立て、日本!」。
英語に訳すなら、「Ambitious Japan」となる。

 自民党もだめ。
民主党もだめ。
だったら、私たち浮動票層はどこへ向かえばよいのか……という意味で、「たちあがろう日本」
に、おおいに期待したい。
期待したいが、どうも道筋がはっきりと見えてこない。
悪く見れば、自民党残党の「生き残り政党」ということになる。
となると、おいそれと支持できない。
民主党に一度、裏切られているから、そこはどうしても慎重になってしまう。
「はい、では、たちあがろう日本にします」というわけいには、いかない。

 もう少し様子をみよう。

 ただすでに結果が出始めている。
各地でなされる首長選挙では、民主党の連敗がつづいている。
当然のことである。
(以上、2010年記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Hold out.

 すでにあのとき、「Ambitious Japan」という言葉があった。
2011年の3・11大震災のときのことである。
が、その言葉は、3・11大震災とともに、消えた。
かわりに出てきたのが、「がんばろう、日本」。

 何も外国を意識する必要はないが、しかし外国向けには、「Ambitious Japan」のほうが、
よかった。
ニュアンスが、前向き。

だいたい「がんばろう、日本!」は、英語では、どう翻訳すればよいのか。
手元にある電子辞書(プログレッシブ和英辞典)によれば、「がんばろう」は、「Hold out」「Ha
ng on」になっている。
「前向きに進む」という意味ではない。
やはり「ふんばる」に近い。
つまり「がんばろう、日本!」というと、日本の外では、「ふんばろう、日本!」となる。
つまり、どこか、暗い。

 ……今にして思うと、そういう印象をもつ。
2012/04/21

(はやし浩司 がんばろう、日本 Boys be ambitious Ambitious Japan 札幌農学校 クラーク
博士 はやし浩司 少年よ 大志を抱け はやし浩司 たちあがれ日本 家庭教育 育児 教
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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●映画『ジョン・カーター』

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、ワイフと映画『ジョン・カーター』を見てきた。
3D版。
少し前、3D版の『スター・ウォーズ』を見ていたときのこと。
途中で目が痛くなった。
そのとき3D版の映画は、もう見ないと心に誓った。
が、時間的によいのがなくて、結局は、3D版。
3D版の『ジョン・カーター』。
目薬持参の映画鑑賞。

(老人組は、3D版映画は、避けたほうがよい。)

映画そのものは、『スター・ウォーズ』をしのぐ、超大作。
コロシウムの格闘シーンだけでも、『BEN・HUR』並の迫力があった。
が、内容が陳腐(ちんぷ)。
「あの手の映画は、見飽きた」……と書きたいが、どっこい!
私には、ちがった。

原作は、エドガー・バローズの『火星のプリンセス』(1917)。
SF冒険小説。 
私は学生時代、SF小説を読みあさった。
当時は「火星モノ」が主流で、そのひとつが、「火星のプリンセス」。
今で言う『ハリー・ポッター』のようなものだった。
その『火星のプリンス』を映画化したのが、今回の『ジョン・カーター』。

が、当時の、つまり私が小説を読んでいた当時の印象とは、かなりちがった。
原作の『火星のプリセンス』に出てきたプリンセス(王女)は、もっと女性的?
ナィーブで、可憐なプリンセスだった。
一方、映画『ジョン・カーター』の中に出てくるプリンセスは、どこかアマゾネス風?
そういった違和感は、随所で覚えた。

ただ、小説の挿絵を彷彿(ほうふつ)させるシーンも、そのまま出てきた。
板のような岩盤に立つジョン・カーター、岩でできた尖塔など。

(先ほど、書庫を探してみた。
ひょっとしたら……と思いながら、さがしてみた。)
が、あの当時に読んだ『火星のプリンセス』は、もうなかった。)

興味深かったのは、あのバイクのような乗り物。
あれなどは、パレンケの石棺に描いてある宇宙船、そっくり。
それを見て、私は思わず、自分の膝(ひざ)を叩いてしまった。

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7100561041/" title="palenque_
yoko1 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7134/7100561041
_244b916782.jpg" width="300" height="210" alt="palenque_yoko1"></a>

ほかにも火星で発見されている、オーパーツなど。
あちこちにそれを思い起こさせるような建造物が出てきた。
また飛行機にしても、どこかスカイ・フィッシュ風。
私のようなSFファンには、まさに必見の映画。

……ということで、映画としては、星2つの★★。
私のような古典的SFファンには、星4つの★★★★。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●4月22日(2012)日曜日

 今朝は小雨。
予定は、夕方まで、なし。
(7時から、高校生を教える。)
朝食前、ウォーキングマシンの上で、運動。
30分、した。
ほどよい汗をかいたところで、朝食。
パンとスープ、それにサラダだけ。

 それを食べながら、北朝鮮についての、昨日のニュースを思い出す。
何でも北朝鮮では、現在、餓死者が続出しているという。
(餓死者だぞ!)
黄海南道だけでも、約2万人(中日新聞・2012年4月21日)という※。
3・11大震災の死者、行方不明者に匹敵する人数である。

 が、当の独裁者は、ミサイルを打ち上げたり、核実験の準備をしたりしている。
ここまで来ると、「あきれる」を通り越し、「哀れさ」さえ覚えてしまう。
北朝鮮は今まさに、内部から崩壊し始めている。

 ……2万人の餓死者ということは、その10倍の人たちが、現在、生死の境をさまよっている
と考えてよい。
さらにその100倍の人たちが、飢えで苦しんでいるとみてよい。

 さらに言えば、こうした飢餓は、つぎの世代にまで深刻な影響を与える。
人心の荒廃ともなれば、さらに深刻。
法と秩序は崩壊し、モラルも崩壊する。
表には出てこないが、その陰では、暴行、略奪、さらには殺人も頻発しているにちがいない。
北朝鮮では、人肉売買も日常化しているという(脱北者談)。
そこは、まさに地獄。
この世の地獄。
「2万人」という数字は、それを意味する。

 北朝鮮の独裁者たちよ、少しは自分に恥じろ!

 「パンとスープとサラダだけ」とは言うが、こうして朝食を無事食べられることに感謝する。

 Good Morning!

(注※……中日新聞の記事より)

『北朝鮮南西部・黄海南道(ファンヘナムド)で、金正日(キムジョンイル)総書記が死去した昨
年12月から4月まで、大勢の餓死者が出ていたことが分かった。
総書記死去にともなう100日間の哀悼期間中、経済活動が中断したことなどが大きな原因と
される。
死者数は2万人に上るとの情報があり、新指導者の金正恩(キムジョンウン)第1書記は報告
を受け、軍用備蓄米の配布を指示したという。
北朝鮮関係者が明らかにした』(以上、中日新聞)と。

●日本よ、ワナにはまるな!

 今の北朝鮮は、たいへん危険。
殺気立っている。
何かささいなきっかけでもあれば、それを口実に、外に向かって戦争をしかけてくる。
とくにこの日本があぶない。

 日本、および日本政府は、箝口令(かんこうれい)を敷いてでもよいから、言動に注意したら
よい。
「北朝鮮」という名前を出すことすら、禁止。
ここはただひたすら、音無(おとな)しの構え。
穴にこもり、静かア〜にしている。

 相手は、まともな国ではない。
まともな論理の通ずる国ではない。
加えて、今は、時期が悪い。
弱り目にたたり目。
ほんの小さな一刺しが、爆発につながる。

 今、ここで動けば、それこそ北朝鮮の思うつぼ。
そのままワナにはまってしまう。

●人心の荒廃

 人心の荒廃……ときどきテレビに、脱北者という人たちが紹介される。
脱北し、現在は、韓国や日本に住んでいる人たちをいう。
そういう人たちが、北朝鮮の現状について語る。
昨日も、どこかの報道番組の中で、そういう人が出てきた。

 が、私はその内容よりも、そうした人たちがもつ、(雰囲気)に興味が引かれる。
というのも、どの人たちも、独特の雰囲気をもっている。
ほかの国の人たちにはない、独特の雰囲気をもっている。

どこがどうということは、ここには書けない。
書けないが、優雅さとは、正反対の雰囲気。
知性的、理性的とは、とても言えない。
文化的とは、さらに言えない。
人間と言うよりは、悪い意味で、人間離れしている。

 まさに地獄を経験した人たち。
が、そうした雰囲気は、何も脱北者の人たちだけのものではない。
「高官」と呼ばれる人たちにしても、明らかに、私たち日本人がもっている雰囲気とはちがう。
威張っているというよりは、太々しい。
不遜(ふそん)。
謙虚さや、やさしさ、それに穏やかさが、どこにも感じられない。
顔の皮が二重、三重にもなっていて、心と表情が完全に遊離している。

 北朝鮮がどうであれ、日本人の私たちは、この先、そういう人たちともつきあっていかねばな
らない。
が、仮に戦争ともなれば、……?
それを思うと、気が重くなる。

 だからここはひたすら、音無しの構え。
日本よ、日本政府よ、ぜったいに相手にしてはいけない。

●謀略

 心配なのは、アメリカ。
「核実験の兆候が見られたら、局地攻撃も辞さない」という意見も出てきた。

 しかしそれこそ、北朝鮮の思うつぼ。
それを口実に、つまりその報復攻撃として、北朝鮮は、ソウルの地下に隠しもっている核爆弾
を爆発させるはず。

 世間では、あの地下道は、韓国側に工作兵を送り込むためのものと説明している。
そういう目的でも使うだろうが、実際には、核兵器の輸送道路。
それはすでに完成している。

 地下道の使い道は、ひとつだけではない。
また謀略というのは、そういうもの。
相手に見抜かれていたら、謀略にならない。
謀略国家は、さらにその先の謀略を練る。
つまり私が北朝鮮の軍部なら、そうする。

 何も、ミサイルだけが、核兵器の運搬手段ではない。
空がだめなら、地下がある。

 この日本に対しても、そうだ。
空がだめなら、海がある。
漁船に積んできて、東京湾で爆発させれば、よい。

 言い換えるとそのあたりまで警戒して、はじめて警戒。

 今、ここでアメリカが局地攻撃をしかければ、その戦禍は、確実にこの日本にも及ぶ。
それをきっかけに、第二次朝鮮動乱が始まる。
戦争そのものは、短期間で終わるだろう。
が、日本経済はそのとき、息の根を断たれる。

●IMF(国際通貨基金)への拠出金

 日本政府は、IMFに、600億ドルの拠出金を決めた。
報道によれば、(1)円高対策になる、(2)将来の保険金的色彩が濃いなどとある。
しかしそれにしても、600億ドルとは!

 ちなみに、アメリカはゼロ。
国別に今回の拠出国を並べてみる。

日本……600億ドル
イギリス……150億ドル
韓国……150億ドル
オーストラリア……70億ドル
シンガポール……40億ドル

 アメリカは財政難を理由に、ゼロ。
ブラジルは、「自国の地位向上が見られない」という理由で、ゼロ。

 あのね、IMFというのは、もともとは、ヨーロッパの、ヨーロッパのための機関。
そのことはIMFの理事国メンバーを見ればわかるはず。
日本は、「自国の地位向上」をめざし、600億ドルを拠出した?
が、今の日本に、そんな余裕、どこにある?

600億ドルということは、約5兆円。
日本人1人当たり、5万円(成人人口約1億人として計算)。

 もしあなたの家に、町内会の班長が回ってきて、こう言ったとする。
「今度、EUを救済することになりました。
ついては、あなたの家は3人家族ですから、15万円出してください」と。

 あなたは何も言わず、「はい」と言って、15万円、差し出すだろうか。
それとも、しぶるだろうか。
が、私なら、はっきりと断る。

 ちなみに、IMFの歴代(専務)理事(=理事長、理事国)は、つぎのようになっている。

べルギー(1946)
スウェーデン(1951)
スウェーデン(1956)
フランス(1963)
オランダ(1973)
フランス(1978)
フランス(1987)
ドイツ(2000)
アメリカ(2011)(2か月で退官)
フランス(2011)

 これを見てもわかるように、IMFは、国際機関とは、とても言い難い。
さらにウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
日本人としては、たいへん気になる。

『……日本の場合、大口出資国である等の立場から財務官僚が多く出向しており、融資が行
われていないにもかかわらず「消費税を上げるべきだ」等のIMFの討議内容の報道がなされ
る。
 これは、IMFの正式発表ではなく、財務官僚が出向者を使いさも、まるで、IMFが全体がそ
の様に述べているかのように見せ、自分たちの都合の良いようにマスコミを通じ国内世論を操
作する道具にしている』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

 そういうIMFに、600億ドル!
財務官僚のメンツを立てるために、600億ドル!

 アメリカはもっと、クールだぞ。
ユーロが崩壊すれば、アメリカ・ドルの独壇場。
ユーロは、もとは言えば、アメリカのドルに対抗して生まれたもの。
ユーロの台頭とともに、アメリカのドルは弱体化した。
ついでに日本の円も、脇に追いやられた。

 どうして今、そのユーロを助けなければならないのか。
アメリカ人なら、みな、そう考える。

 今の日本人に欠けるのは、大局に立った戦略的視野。
それに野生臭。
ドロ臭さ。
結局は、最後にババを引くのは、この日本。
日本人の私たち。

●X社の課長

 数日前、X社に席を置く課長氏と話をした。
X社といえば、日本を代表する楽器メーカーである。
その課長氏を、M氏としておく。

 そのM氏が、こんな話をしてくれた。

 近く、国際的な音楽会を、この浜松市で開くことになったという。
その準備に明け暮れているというが、そのマニュアル作りが、「たいへん!」と。

 「今の若い社員はね、行動すべてにマニュアルを作ってやらないと動かないのです」と。

 たとえば賓客が浜松駅に着いたとする。
そのときどこでどう迎えるか。
どのようにあいさつをするか。
何人で迎えるか。
どのように自己紹介するか。
どのように車まで案内するか。
車には、どのように乗るか。
どんな話をするか。
どこでどう車からおろすか。
別の班が、どこでどのように迎えるか、などなど。

 実は、同じような現象が、中学校でも起きている。
このあたりの中学生の多くは、今、こう考えている。
「進学校へ行くと、勉強で苦労させられるから、行きたくない」と。
ある中学校の校長は、こう話してくれた。
「約60%の子どもは、そうでしょうね」と。

 つまり余計なことはしたくない、と。
こういった根性を、私たちは「役人根性」と呼んでいる。
余計なことはしない。
言われたことだけをする。
それが何と、X社という民間会社にも、及んでいるというのだ。

 「しかしね、林さん(=私)、会社が悪いというのではないですよ。
出る杭(くい)は叩かれるというでしょ。
へたにがんばるとね、すぐ横ヤリが入るのです。
君だけ、がんばると、ぼくらの立場がなくなる、とね。
だからマニュアルも、そこまでしっかりと作る必要があるのです」と。

 似たような話だが、教育の世界にも、万延している。
以前書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●横並び教育


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教育力

 子どもの学力が低下したというよりは、学校のもつ教育力が低下した。
そう考える方が、正しい。 

「やるべきことはやります。しかしそれ以上のことはやりません」と。

 が、教師を責めてはいけない。
教師自身が、規則、制約で、体中が、がんじがらめに縛られている。
身動きが取れない。

 もう40年前の話。
こんなことがあった。

 ある小学校(東京都)で、OHP(大型の投影機械)教育を始めた教師がいた。
私の友人の弟氏だった。
小学4年生の教室で、それを使った。
地図を何枚か重ねていくというものだった。
最初は道→川や橋→家→……、と。
当時としては、画期的な教育法だった。
弟氏は、本まで書いた。

 が、それに「待った」をかけたのが、ほかならぬその学校の校長だった。
いわく「ひとつのクラスだけが、飛びぬけた教育をするのは、不公平になる」と。

 ほかの教室の親たちが騒いだこともある。
「どうしてうちの子どもの教室では、してもらえないのか!」と。

 以後、その弟氏は、OHPを使った指導をあきらめてしまった。
ここに書いた友人というのは、当時、主婦と生活社で編集長をしていた、井上清氏である。
この話が事実であることを保証するため、あえて井上清氏の名前をあげさせてもらった。

 ……今、学校教育に求められているのは、「自由」と「責任」。
この2つが両立しないかぎり、これからも子どもの学力低下は、つづく。

●今日も始まった!

 ともあれ、今日も始まった。
すでに時刻は午前11時。

 私1人くらいが騒いでも、この世の中、どうにもならない。
またそんな野望(?)など、もうどこにもない。
どうせ負け犬の遠吠え。
自分でも、それがよくわかっている。
が、「吠える業」というのも、あってもよいのではないか。
……とまあ、自分をなぐさめつつ、活動、開始!

 がんばろう!
がんばります!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 IMF はやし浩司 OHP はやし
浩司 火星のプリンセス)2012/04/22


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【国家破綻】ロイター・NEWSを精読する

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日も終わった。
たった今、お茶を口にし、ほっと一息ついた。
時刻は、午後9時40分。

で、今夜、高校生たちと、こんな会話をした。
私がふと、こう言ったときのこと。
「今、多くの大学では、高校で使う教科書より簡単な教科書を使って授業をしている」と。
するとすかさず、Rさん(女子)がこう言った。

「だったら、大学へ行っても無駄じゃん」と。

……そうかもしれない。
合理的に考えれば、そうかもしれない。
しかしこのRさんの論理は、基本的な部分でまちがっている。

「でもね、みんな幸福になりたいと願っているよ。
簡単な英語でも、メールくらいは自分で書きたいと思っている人もいるよ。
英語が苦手な人でも、苦手なりに、がんばる。
そういう人の願いまで、『無駄』と、だれが言えるだろうか。

これは極端な話だけど、君もいつかは老人になる。
寝たきりになるかもしれない。
もしそんなとき、だれかが、『生きていても無駄じゃん』と言ったら、どうする?
君は、それに納得するだろうか」と。

 頭のよい子どもである。
すぐ私の言わんとしていることを、理解した。
 
 このつづきは、もう少しあとに書いてみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ロイター伝を、精読する

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ロイター(2012−04−22)は、つぎのように伝える。

日銀の白川総裁が、こう言ったという。
とくに最後の1行が重要。

『ソブリン危機は、前触れなしに顕在化する可能性がある』と。

日銀総裁という人物が、日本を離れ、胸の内を明かしたという点で、このニュースのもつ意味
は重い。
ふつう重要人物というのは、国内ではめったに胸の内を明かさない。
「外国」という場で、明かす。

それはともかくも、このニュースを精読するだけで、日本が今、置かれた現状を正確に知ること
ができる。

精読してみよう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●【際限ない国債買い入れ、制御不能なインフレ招く=日銀総裁】
ワシントン/東京 21日 ロイター

【注……以下、『かっこ』部は、ロイターの記事。つづく★印は、はやし浩司の感想】

『日銀の白川方明総裁は21日、訪問中のワシントンでフランス銀行主催のパネルディスカッシ
ョンの参加し、国債への信認が低下することによる金融システム不安を抑えるため中央銀行
が際限のない国債買い入れなどを行えば「制御不能なインフレを招く」と警告。
中銀の流動性供給で時間を買える間に財政改革を進める重要性を強調した』(以上ロイター)
と。

★白川総裁は、経済学の基礎を述べている。
つまり「中央銀行が、際限のない国債を買い入れれば、インフレを招く」と。

 これは当然のこと。
「国債を買う」ということは、その分だけ、札の印刷機を回すことを意味する。
たとえば政府が、1兆円の債務の返済に迫られたとする。
が、手元に現金がない。
そういうとき政府は、中央銀行(日本のばあい、日銀)へ行き、こう頼む。
「1兆円、用立ててくれ」と。

 政府からの申し出とあれば、断ることができない。
そこで中央銀行は、1兆円の札を渡す。
渡すと言っても、札束が用意してあるわけではない。
あるのは印刷機。
その印刷機を使って、紙幣を印刷する。
「印刷機を回す」というのは、そういう意味。
で、そのとき政府が発行する借用証書が、「国債」ということになる。

 が、札が市中に出回れば出回るほど、札の価値はさがる。
絵画(リトグラフ)を例に考えればよい。
石版刷りの枚数が多ければ多いほど、価値はさがる。
ラーメンにしても、そうだ。
たとえばそれまで500円だったラーメンが、700円になる。
それがインフレ。

 日銀総裁が言ったというと、何やらたいへんなことを言ったように思う人もいるかもしれない。
しかしこれは、経済のイロハ。
(そう言えば、最近、市内でラーメンを食べると、1食800〜900円だぞ!)


『白川総裁は、欧州金融市場に小康状態をもたらした欧州中央銀行による長期資金供給オペ
(LTRO)は、「あくまで『時間を買う』政策に過ぎない」と指摘』(以上ロイター)と。

★EUの金融危機は、基本的には、何も問題は解決していない。
白川日銀総裁は、それを述べた。
「小康状態」というのは、それをいう。

事実、欧州中央銀行は、ギリシャの金融危機問題についても、借金の付け替えをしただけ。
あるいは借金返済の期限を、引き延ばしただけ。
欧州中央銀行が、ギリシャに現金を貸し付け、その現金で、ギリシャは、各国の金融機関に現
金を返した。
「長期資金供給オペ」というのは、それをいう。

 もちろんその間に、ギリシャ経済が上向けばよい。
が、そうでなければ、そうでない。
欧州中央銀行は、ギリシャに、「時間的余裕を与えたから、その間に立ちなおりなさい」と言っ
た。
それが『時間を買う』の意味。
 

『市場が落ち着き、かえって財政への危機意識が薄れ、財政赤字拡大から金融システム不安
が再燃すれば、「中央銀行が国債担保の流動性供給、あるいは国債買い入れを通じて、最終
的に際限のない流動性供給に追い込まれる可能性がある」と警告』(以上ロイター)と。

★が、人間の心というのは、いいかげんなもの。
気が緩んだとたん、再び、怠けてしまう。
ギリシャにしても、そうだ。
「いざとなったら、中央銀行が助けてくれる」と。
こうしてギリシャは、依存心をもってしまう。
が、この依存心が恐い。

 保護、依存の関係というのは、一度できると、常に一方的なものになりやすい。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
親子関係にしても、親戚、友人関係にしても、同じ。

 さらにそれが慢性化すると、立場が逆転する。
依存する側が、保護する側に、それを要求するようになる。
「ちゃんと、めんどうをみてくれ!」と。

 こうして経済の世界でも、『際限のない流動性供給』が生まれる。
つまり資金の垂れ流しが始まる。


『「膨大な通貨供給の帰結は、歴史の教えにしたがえば制御不能なインフレ」と言い切った』
(以上ロイター)と。

★で、その結末は悲惨。
古今東西、最終的には、制御不能なインフレを引き起こす。
が、ただのインフレではない。
猛烈なハイパーインフレ。

 そのうちこの日本でも、タクシーの初乗りが、1万円になる。
そうなる。


『日本については、「人々が将来の財政状況への不安から支出を抑制し、そのことが低成長と
緩やかなデフレの一因になっていると考えられる」と指摘した』(以上ロイター)と。

★その通り。
白川日銀総裁はどうか知らないが、一般庶民は、生活防衛をしなければならない。
が、本来、お金というのは、使ってはじめて意味をもつ。

 たとえばあなたが100万円の機械を買ったとする。
その100万円は、(販売会社)→(製造業者)→(部品製造会社)→……と回っていく。
その間にあって、それぞれの会社の社員の給料となって、回っていく。
それが経済を活性化させる。

が、もしその100万円を、あなたがタンス預金にしてしまったとしたら、そうか。
そのお金は、その時点で、まさに(死に金)。

 その(死に金)がふえればふえるほど、経済は停滞し、物価がさがる。
それがデフレ。


『総裁はフランス銀行の「フィナンシャル・スタビリティ・レビュー4月号」にも寄稿し、日本で低金
利が続いている背景として、「国債利回りが低位安定的に推移すると、その事実自体が国債
の安全性評価をさらに高めてその保有動機を強めるように作用する」ためと説明』(以上ロイタ
ー)と。

★現在、国債の利回りは、1年モノで、0・11%前後。
5年モノで、0・28%(4月22日現在)。

 国債の利率は低ければ低いほど、……というか、逆にその国が安定すればするほど、利率
は低くなる。
が、日本のばあいは、どうか。
本当は、中身は、ガタガタ。

 ……しかし、この日本は、何とかもちこたえている。
なぜか?

 言うまでもなく、90%以上、引き受け手は、日本人自身。
言うなれば身内の借金。
親が自分の息子や娘に借金をしている。
そう考えればわかりやすい。

 ともかくも、「見かけ上、日本の国債は、安定している」。
それを白川日銀総裁は、こう言った。
『その事実自体が国債の安全性評価をさらに高める』と。

 日本国債が、そのために買われやすくなっている、と。

 しかしどうして経済界の人たちは、こういう回りくどい、難解な言葉を使うのか。
『保有動機を強めるように作用する』と。
簡単に「みんながほしがるようになる」と言えばよい。
そのほうが、ずっとわかりやすい。

(こういうとき、通訳の人は苦労するだろうな。
私も経験がある。)


『しかし、政府が「自らの支払い能力を超えて借金を重ねることはできない以上、投資家が信
用リスクを意識し始める臨界点がどこかに存在する」と警告。

★が、いつまでも、こんな綱渡りがつづくはずがない。
いつか破綻する。
その破綻する限界点を、「臨界点」という。

 が、ここで忘れてならないことは、先延ばしにすればするほど、被害も大きくなるということ。
一般家庭の借金を例にあげるまでもない。
しかも臨界点に近づけば近づくほど、累乗的に、借金は、膨(ふく)らむ。

私の友人などは、最初はたった700万円の借金でつまずいた。
それが何と、1年半後には、1億5000万円になっていた。
どうしてそうなったか……というよりも、経済の世界というのは、そういうもの。

『投資家が他の投資家が国債を売却すると予想することが利回りを押し上げる「自己実現的な
プロセスがひとたび作動すると、『市場取り付け』に至ってしまう可能性がある」と述べ、そのよ
うな「ソブリン危機は、前触れなしに顕在化する可能性がある」と指摘した。

★実にわかりにくい。
要するに白川日銀総裁は、こう言っている。

 どこかで火がつくと、それが理由で、国債の利率は上昇する。
だれかが「あぶない」と言い出すと、みなが銀行に押しかける。
が、国債(証券)では、スーパーでものを買うことができない。
当然、現金化しようとする。
それが『取り付け騒ぎ』になる。

 国家の危機的状態を、「ソブリン危機」という。
白川日銀総裁は、そうした危機は、何の前触れもなく、突然やってくると述べている。

これも、巷(ちまた)の倒産劇を見ればわかる。
企業というのは、その前日まで、何食わぬ顔をして、営業をつづける。
が、その翌日、いきなり、倒産!、と。
そうなる。
国も、また同じ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●金庫の中は空っぽ

 日本最大の銀行は、郵便局。
日本最大の国債の引き受けても、これまた郵便局。
その郵便局には、現金は、もうない。
自転車操業どころか、幼児の三輪車にもならない。
三輪車操業。

 現金で預けた人にしても、また国債購入という形で預けた人にしても、それだけのお金が郵
便局にあると思ったら、おおまちがい。
そういうお金は、「財投」という形で、道路建設や会館の建設などなどに、使われている。
が、どこも赤字、赤字の大合唱。

 わかりやすく言えば、あなたが銀行(郵便局)へ貸した現金は、すでにその大半が消えてい
る。
どこにもない。

だからもしここで、1人、2人が、10人、20人となり、さらに100人、200人となり、そういう人
たちが「金返せ!」と叫んだとたん、日本という国は、破綻する。

 まさに今がそのとき。
しかもそのときは、「ある日突然、やってくる」(白川日銀総裁)と。

 だから今、私がここで、「自己防衛を始めよう」と叫べば、国家破綻に火をつけることになって
しまう。
そんなことはしたくないが、むしろ私には、この「平静さ」こそが、不気味でならない。
「どうしてみな、こうまで平静でいられるのだろう」と。

 そんな疑問の念だけを書くにとどめ、この話はここまで。
しかし一言。
預金、国債を現金化し、別の現物資産に交換するなら、今しかない。
余計なお節介かもしれないが……。(はやし浩司 2012−04−22)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●結果主義

 『終わりよければ、すべてよし』という格言がある。
しかし、本当にそうか。
そう考えてよいか。

 冒頭に書いた話に戻る。
Rさん(高校女子)は、こう言った。
「大学へ入って、高校で使う教科書より簡単な教科書で勉強するのは、無駄」と。
一見、合理的な意見に見える。
しかしその実、その裏に見え隠れするのは、結果主義。

●無駄

 以前、こんなことを言う母親がいた。
自分の息子が高校受験に失敗したときのこと。
「今までの苦労が、すべて無駄になりました」と。

 が、本当にそうか。
そう考えてよいのか。

 その高校に入ることは、たしかにできなかった。
しかしそれまでに学んだことが、消えたわけではない。
それにその失敗を乗り越え、つぎの成功に結びつけるということはできる。
人生に終わりはない。
始まりもない。
絶えずその瞬間に終わり、また始まる。

●重要なのはプロセス

 結果主義のこわいところは、ここにある。
『終わりよければ、すべてよし』というのは、結果主義。
しかしそれを裏から読むと、『終わり悪ければ、すべて悪し』となる。

 どこかの仏教系教団の信者が、そう言っていた。
「林さん(=私)、あのキリストは、最期は磔(はりつけ)で死んだのですよ。
キリスト教がまちがっているという、最大の証拠です」と。

 が、この意見に納得する人は、少ない。
何も結果だけが、人生ではない。
重要なのは、プロセス。
過程。

 最後にどうなったかではなく、それまでどう生きたかということ。
もしそんなことを肯定したら、あなた自身が、自分の人生を否定しなければならなくなる。
私もそうだが、たいしたこともできず、そこそこの人生で終わるはず。
が、それでもまだよいほう。
多くは、挫折と失望を繰り返し、名もなく、財産もなく、この先、孤独死、無縁死を迎える。
推計によると、2050年ごろには、約60%の人がそうなるという。
つまり60%の人が、無縁死、孤独死を迎えるという。

 それを「失敗」と呼んでよいのか。
同時に、「私の人生は無駄だった」と結論づけてよいのか。
結果主義者たちは、「無駄」と結論づけるだろう。
が、これは正しくない。

●孤独死、結構

 私たちは今、懸命に生きている。
自分と闘っている。
生きる意味や価値は、そこにある。
それ以外には、ない。

 あえて言えば、結果など、気にするほうが、おかしい。
はっきり言えば、どうでもよい。

 私自身も、孤独死、無縁死を迎えるだろう。
少し前までは、そうであってはいけないと思っていた。
が、今は、その希望(?)も消えた。
反対に、「それもいいではないか」と考えるようになった。
どうせ人は、独りで生まれ、独りで死ぬ。
どうせ人は、裸で生まれ、裸で死ぬ。
「無」から生まれ、「無」に帰る。
(「帰る」ではなく、「還る」でもよい。)

 そのかわり、今というときを、燃焼させる。
燃焼させて生きる。
大切なのは、「死」というそのときがどんなものであれ、そのときまでに、自分を完全に燃焼させ
ること。
その充実感さえあれば、たとえ砂漠でのたれ死んでも、「無駄だった」ということにはならない。

 さあ、名もなく、名誉もなく、地位もなく、財産もなく、それでいて懸命に生きてきた仲間たち
よ、勇気を出して、前に向かって生きて行こう。
世間の馬鹿どもに、「無駄だった」と批評されても、気にすることはない。
私たちは、私たち。

 繰り返す。
人生には、終わりもなければ、始まりもない。
大学生になってから、中学の教科書を使って勉強しても、遅すぎるということはない。
老人組になってから、中学の教科書を使って勉強しても、遅すぎるということはない。

 ……ということで、ここで明確に結論をくだしておく。

 結果主義は、まちがっている!

●今日も終わった

 ……そう言えば、数日前、車を運転しているとき、ワイフがこう言った。
「アッ、ツバメ!」と。
が、私は見なかった。

 今朝、そのツバメが我が家の庭先にもやってきた。
小雨降る中、360度の急回転をしながら、小さな虫を追いかけていた。
「まだ寒いのに……」と、私は思った。

 私は鳥が大好き。
30歳くらいまで、それもあって、鶏肉(とりにく)が食べることができなかった。
が、今では、庭全体が、野鳥公園のようになっている。
1日中、いろいろな鳥が庭へやってきて、あちこちで遊び回っている。
私には、それが楽しい。

 では、おやすみなさい!
2012/04/22

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 結果主義 プロセス 過程論 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司 


【韓国・ソウルがぶない?】(改)2012/04/23夜9:00記


北朝鮮政府は、4月23日(本日)の午後だけでも、すでに7回の声明を発表している。
(現在、午後9:00)。
使う言葉も、きわめて過激。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


北朝鮮の動きが、おかしい。
異常。
殺気立っている。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


2012年4月23日、午後に入ってからだけでも、北朝鮮は韓国に対して、7回も、宣戦布告を
繰り返している。
いつもと様子がちがう。
おかしい。
それらを並べてみる。


(1)午後1時24分……李明博政権に「聖戦」通告=「特別行動で焦土化」―北朝鮮軍(時事
通信)


(2)午後2時2分……北朝鮮 韓国に武力行使を予告=短時間で焦土化(聯合ニュース)


(3)午後3時17分……北朝鮮「韓半島に有事が起きれば李大統領の責任」(中央日報日本
語版)


(4)午後5時13分……北朝鮮「対南特別行動を開始する…3、4分で焦土化」(中央日報日本
語版)


(5)午後6時8分……韓国への「聖戦」「報復」強調=「全てを吹き飛ばす」―北朝鮮(時事通
信)


(6)午後6時43分……北朝鮮軍、韓国・李明博政権に「革命武力の特別行動開始」を通告
(フジテレビ系(FNN))


(7)午後7時34分……ネズミ野郎とその根源を焦土化…北が韓国を威嚇(MSN)


 現在、手元の時計は、午後8時57分。


 これらの記事をつづけて読んで、あなたはどう思うか。
ふつうの常識ある人なら、つぎのように思うはず。


北朝鮮は、韓国(ソウル)を攻撃する。
試用する武器は、核兵器。
今、ソウルは緊急事態、と。


午後2時2分の声明では、こう述べている。


『我が革命武力の特別行動はひとたび開始されれば3、4分、いや、それよりも短い瞬間に、こ
れまであったことのない特異な手段を我々式の方法で、全てのネズミ野郎集団と挑発の根源
をせん光のごとく焦土化してしまうことになるであろう』(朝鮮中央テレビ)と。


 今朝も書いたが、北朝鮮は、地下トンネルをすでに完成させているとみてよい。
核兵器の運搬手段は、ミサイル(空)だけではない。
空がなければ、地下がある。
北朝鮮の立場で考えれば、当然の帰結ということになる。


 今、韓国のソウルがあぶない。
それがわからなければ、もう一度、北朝鮮政府の発表した声明を並べて読んでみたらよい。


【日本政府へ】


 北朝鮮は、崩壊の瀬戸際で、最期の悪あがきを始めた。
殺気立っている。
こういうときというのは、針の一刺しで、北朝鮮は爆発する。
ここは音無しの構え。
それこそ、肝要。
何も言うな。
何もするな。


 日本の国益第一に考え、お人好し、節介、介入は禁物。
大国意識を捨てる。
慎重に。
ただひたすら慎重に。
日本の国益だけを考え、静かに見守る。


 なぜ北朝鮮は、ここまで韓国を威嚇するか。
その理由がわかったら、ただひたすら音無しの構え。
それこそ、肝要。


 自衛隊は、すでに警戒態勢に入っていることと思う。
日本海を守るべし。
難民流出に備えるべし。
ノドンに備えるべし。


 早ければ、今夜〜明日の早朝が、ヤマ。
それ以後だと、北朝鮮の反韓ムードが白けてしまう。
だから今夜が、ヤマ。


 日本よ、警戒すべし。
仮に無駄であっても、警戒すべし。

 私が書いていることがおかしいと思う人は、つぎのサイトを自分で読み、自分で確かめてみた
らよい。


http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/north_korea/


【追記】


 今日までの北朝鮮の動きを、振り返ってみる。


4月20日……北朝鮮が韓国の射撃訓練に警告「直ちに無慈悲な対応打撃を開始する」(MS
N)


4月21日……挑発なら韓国占領と警告 ミサイル映像公開で北朝鮮(MSN)

 それにつづくのが、今日(23日)午後の一連の声明ということになる。


 今、韓国のソウルがあぶない!
2012/04/23夜9:00記


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【読者の方より、相談】(掲示板より)

●子どもの排便障害

 先生、初めまして。
ネットでHPを拝見し、ぜひ聞いていただきたくメールいたしました。
5歳(年長)の息子は1歳6ヶ月頃便秘になり、浣腸をして以来、便が出にくくなりました。
それ以来、誰も本気で話を聞いてくれず、なんとか緩下剤を飲んで一週間に1、2回無理やり
出す、という感じです。

しかし、便意があると我慢し、もらしてしまうのです。
ひどい時は一日4枚も汚し、それが3日ぐらい続きます。
幼稚園も忙しく、1歳の娘もおり洗濯の手間や余裕がないのです。
一体、いつまでこんなことが続くかと思うと、我慢しても感情的になってしないます。

息子はオムツがはずれるのが遅く、(娘を妊娠中に悪阻で辛くてトイレットトレーニングがうまく
いかなかったのです)、幼稚園年中でやっとおむらしが減っていった感じです。
実は、排便障害の他に年中まで本当に辛い日々でした。

言葉が遅いこともあるのでしょうが、とにかく幼稚園で乱暴で、たたく・かみつく・大声を出す、直
りませんでした。
そのことを被害のあったお子さんに謝る私の態度も悪かったらしく、私自身もママたちから嫌
われてしまい今でも2、3人の方から無視されています。

友人もおらず、夫にも受け止めてもらえず、時々うつ状態になりながら過ごしてきました。
それでも去年は、区の子ども相談でよく話を聞いてもらえたのですが、今年から担当が代わっ
てしまい突き放された感じです。
私のこの不安定さも悪いとは思いながら、どうすることもできずにおります。
息子の乱暴さは、年長になって驚くほど無くなってきました。
あとは便がちゃんとできれば小学校もそれほど心配ではないのですが。。。

メールでは十分に経過や状況をお伝えできていないとは思いますが、先生の豊富なご経験か
ら是非アドバイスをお願いいたします。よろしくお願い致します。

●はやし浩司より、UNKNOWN様へ

 内容からすると、下の子(妹)が生まれてから、便秘以外の、もろもろの症状(幼稚園でのトラ
ブル)が出てきたということになります。
(便秘と、幼稚園でのトラブルは、愛情飢餓という点で原因は同じですが、分けて考えてくださ
い。)

 で、1歳半とえば、ちょうど年齢的に、フロイトが説く「肛門期」(2〜4歳)前後ということになり
ます。
愛情飢餓、不安、不満により、「排泄すること」に、恐怖心をもつようになったということでしょう
か。

 肛門期に、愛情飢餓問題が重なると、排泄することに恐怖心を抱いたり、喪失感をもつよう
になります。
だからがまんする。
もう少し突っ込んだ言い方をすると、こうです。

 子どもは言いたいこともできない(=心の排泄ができない)、したいこともできない(=行動の
排泄ができない)という状態だったということ。
わかりやすく言えば、子どもらしく親に甘えることができなかった(=心を開くことができなかっ
た)ということです。

 子どもが便秘症になったのではなく、便秘になるような家庭環境にあったということです。
(過去のことをとやかく言っても、どうしようもありませんが……。)

 で、便秘についてですが、便秘も、夜尿症などと同じ、「神経症的な症状」と考え、対処しま
す。
(ただし最近のおむつは、性能がよすぎて、排便のしつけに失敗する親も多いです。
小便をがまんしてしまう子どもは、いくらでもいます。)

 基本的には、お子さんは、母親の愛情に飢え、母親との間で、全幅的な信頼関係を築くこと
もできず、かなり情緒が不安定になっていると考えてください。
(親は平等にかわいがっているつもりかもしれませんが……。)
たとえば「あなたはお兄ちゃんでしょ」式の突き放しをしていませんか。
もろもろの症状は、それが原因と考えてください。

 今からでも遅くありませんから、もう一度、100%の愛情を注いでみてください。
100%です。
(妹さんには、かわいそうですが、妹さんは、それで納得するはずです。)
添い寝、手つなぎ、抱っこなどなど。
いとわず、すかさず、濃密にするのが、コツです。
大切なのは、全幅的な安心感を与えることです。
その安心感が、子どもの心を溶かします。
(ただし時間がかかります。
すでに5歳ということですから、半年単位の根気が必要です。)

 とは言え、文面からして、すでにヤマを越えているように思います。
今までたいへんで、つらかったことと思いますが、あと一息です。
(将来的には、ケチで、ためこみ屋になるかもしれませんが……。※)

 便秘そのものは、小児科のドクターに相談し、それで問題がなければ……つまり、週に2、3
度という子どもも、少なくありませんので、おおげさに考えないこと。
(私が現在教えている女子中学生は、週に1度だそうです。)

浣腸はその場の効果はありますが、かえって便秘をひどくしてしまいます。
直腸の感覚を麻痺させてしまいますので……。
それで緩下剤(便秘薬)ということになったのでしょうか。

 「1日、4枚も汚す」というのは、緩下剤の量が多すぎる(?)と思います。
子どもに緩下剤を与えるときは、ドクターの指示した量の4分の1前後から始め、様子をみな
がら量を増減するのが、コツです。

(微妙な調整が必要です。
私のばあい、実母の介護のとき、それを学びました。
実母も、緩下剤をのんでいましたが、調整がたいへんむずかしかったです。)

おとなのばあいは、腹の具合をみながら、自分で調整したり、残った便も、力を入れて無理に
でも排便したりしますが、幼児には、まだそれができません。

 どうしても、腸の中に、便が残ってしまいます。
それが「4枚」ということになります。

それよりも、すでになさっていると思いますが、野菜中心の献立にし、食生活の方から攻めら
れるのが正攻法ということになります。

 私の息子の1人も、幼児期〜少年期、ひどい便秘症でした。
高校生になってからも、浣腸は常備薬でしたが、シャワートイレにしてからは、すっかり治ってし
まいました。

 詳しくは「はやし浩司 神経症」で一度、検索をかけてみてくださるとよいかと思います。
基本的には、(母子間の愛情)の問題ということです。
便秘になったのも、1歳半ごろ、子どもの側からみて、何か大きな愛情の変化が原因ではなか
ったかと推察しています。
もっとも濃密な、母子間の愛情を必要とする時期が、0〜2歳までの、そのころです。
(この時期に、子どもは母子の間で、基本的信頼関係を構築します。
「はやし浩司 基本的信頼関係」で一度、検索をかけてみてください。)

 ともかく、ほとんどの人は、似たような問題をかかえ、苦労しています。
外から見ると、何も問題がないように思えますが……。

(大便という点で、やっかいに感ずるかもしれませんが……。
また大便であるがゆえに、叱る→恐怖心をもつの悪循環で、ますます重症化しやすいです。)

 夜尿症のばあいも、そうですが、受け入れてしまえば、何でもありません。
「したいように、しなさい」と、です。
またそうなったとき、不思議なことに、自然と排便障害も消えます。

 アドバイスできることは、

(1)愛情飢餓状態の解消
(2)緩下剤の微妙な調整、です。

 ともかくも、あと一息です。
よくがんばったと思います。
が、あと一息。
やがてすぐ笑い話になります。
それを信じて、前向きに!

(注※……肛門期の固着について)

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……トイレットトレーニングの過剰と失敗は子供のパーソナリティに様々な影響を与える。
例えば、トイレに無理矢理行かせたり、過度にタイミングや清潔さに厳しすぎると、ものを捨て
るのを嫌がるようになったりする。
ためこみ屋でけちな性格になることがある。
これは過度なトイレットトレーニングが子供に自分のうんちを溜め込みすぎるのを良しとするた
めである。
フロイトによると几帳面で節約家で強情になりやすいと言う。

それに肛門期固着は小児性愛の源泉となる事もある。
フロイトは論文で、子供はうんちを幼児やお金に象徴交換して、それを代わりに手に入れたり
溜め込んだりするような傾向があると指摘している)。

逆にしつけを疎かにすると、子供はいつでも排便する事が良い事だと思い、お金を湯水のごと
く使ったり、不潔のままになったりと、整理する事を学ばなくなってしまう。
これは自分の欲動をトイレットトレーニングを通してコントロールすることを学ばなかったからで
ある。
このような子供は我慢することを知らず、自分の好き勝手に何でもやりたい放題になるとも言
われる。

芸術との関連も指摘されている。
肛門期は自分の体内の一部であるうんちを作って対外に排出するという活動を象徴していると
言われ、それは創造的活動などと比較される。
また汚いものを排出することとの関連で妄想症が考えられたりもしている』(以上、ウィキペディ
ア百科事典より)と。


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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●審判&運命(はやし浩司 2012ー04−24)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

キリスト教の世界には、「審判」という言葉がある。
「最後の審判」とか、言う。
こうした死生観というのは、それ自体が矛盾だらけ。
結果主義というか、総合性がない。
その人の、どの部分を取り、だれがどのように審判するのか。
「終わりの部分」だけを見て、審判というのは、おかしい。
どう考えても、おかしい。
重要なのは、プロセス。
今まで生きてきたという、その過程。

表面的な名誉や地位ではない。
肩書きではない。
飾りではない。
その人がどう生きてきたかという、ドラマ。
中身。
生き様。
それが重要。

中には狂ったように、飾りを求める人がいる。
人生の場を、出世のための競争の場にしている。
その見苦しさ。
おかしさ。

私たちは日々に、そのつど審判を受けている。
その瞬間、瞬間に、すべてが終わり、同時にすべてが始まる。
「最後」といっても、どの時点をもって、「最後」というのか。
だいたい「審判を受ける」という言い方がおかしい。
受ける?
そんなもの受けなくても、自分で判断すればよい。

審判するのも、審判されるのも、「私」。
他人(神でもよいが)に有罪と判断されたから、有罪?
他人(神でもよいが)に無罪と判断されたから、無罪?

もしあの世とやらがあり、そこで神が私を審判することになったら、私はこう言う。
「私は、懸命に生きてきました」と。
「自分の運命と闘いながら、懸命に生きてきました」と。

それをまちがっているというのなら、すべての動物は、地獄行き。
またそれがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
みな、それぞれの運命を背負いながら、懸命に生きている。

数日前も、どこかの宗教団体の人たちがやってきて、ワイフにこう言った。
「最後の審判の日が近づいています」と。

まあ、そのときは、そのとき。
そのときになったら、それを受け入れればよい。
少なくとも、祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
で、彼らはこう言ったという。

「信じた者だけが、救われます」と。
ヘ〜〜〜エ!
だったら、あの3・11大震災は、どうなのか。
信じていた人もいただろう。
信じていなかった人もいただろう。
老人や赤ん坊もいた。

そういう人たちに向かって、「審判」という言葉を使うのは、あまりにもむごい。
どこかの宗教団体の人たちには、その(むごさ)が、理解できないらしい。
自分勝手で、閉鎖的。
自己中心的で、近視眼的。

心の扉を開いて、自分の足で、外に出ろ。
ひとりで歩いてみろ。
外は、広いぞ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●運命論

 運命論については、たびたび書いてきた。
……いつも考えている。

 私たちには無数の「糸」がからんでいる。
社会の糸、環境の糸、性格や性質の糸、家族の糸、生い立ちの糸などなど。
最近では、自然の糸というのもある。
そういう「糸」が無数にからんでいる。
そういう糸が、ときとして、自分の進むべき方向を決めてしまう。
いくら「私はあっちへ行きたい」と思っていても、気がついてみると、反対の方向に進んでいる。
それを私は「運命」という。

 が、運命に身を任せてはいけない。
どんな糸であるにせよ、私たちはそれと闘う。
ふんばる。
そこから無数のドラマが生まれ、生きる意味もそこから生まれる。
世界の賢人たちの言葉を、拾ってみる。

Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts.……A・アイン
シュタイン

(ほとんどの人は、自分の目で見ることができない。自分の心で聞くことができない。)

For example, justice is considered to mean equality, It does mean equality but equality for 
those who are equal, and not for all. ……アリストテレス

(たとえば、正義は平等のことだと考えられている。たしかに平等のことだが、その平等という
のは、平等である人のためのものであって、みなのものではない。)

Happiness is something final and complete in itself, as being the aim and end of all practical 
activities whatever .... Happiness then we define as the active exercise of the mind in 
conformity with perfect goodness or virtue.……アリストテレス

(幸福というのは、それが何であれ、すべての実生活の目的であり、結末であるように、それ自
体、最終的なものであり、完全なものである。
それ故に、私たちは幸福を、完ぺきな善と美徳に調和した、心の鍛錬と定義する。)

It is not the brains that matter most, but that which guides them---the character, the 
heart, generous qualities, progressive ideas.……ドストエフスキィ

(問題は脳みそではない。問題は脳みそが導くところの、性格、心、寛容な性質、前向きな思
想である。)


I don't suffer from insanity but enjoy every minute of it.……エドガー・アラン・ポー

(私は狂気で苦しまない。それをそのときどきに、私は楽しむ。)

Live simply that other may simply live.……ガンジー

(ほかの人たちが生きるように、単純に生きろ。)

Twenty years from now you will be more disappointed by the things that you didn't do than 
by the ones you did do. So throw off the bowlines. Sail away from the safe harbor. Catch 
the trade winds in your sails. Explore. Dream. Discover.……マーク・トゥェイン

(20年後、君は、それまでそうでなかったものや人に、より失望するであろう。
だから網を捨て、安全な港から航海に出ろ。帆で風を受け止め、探検し、夢をもち、発見せ
よ。)

We must all learn to live together as brothers, or we are all going to perish together as fools.
……マーティン・ルーサー・キング

(私たちはみな、兄弟としてともに生きることを学ぶか、愚か者のように、いっしょに滅ぶかのど
ちらかだ。)

●注入された思想

 それにしても失敬な人たちではないか。
自分たちのしていることは、スパムメールと同じ。
頼みもしないのに、勝手にやってきて、「あなたはまちがっている」と。

 どうしてそんな厚かましいことが、平気でできるのか。
それがわからなければ、自分のこことして考えてみればよい。

 もしあなたが何かの真理(?)を発見したとする。
それはそれで結構なことだが、それでもってどこかの家の門を叩き、こう言う。
「近く、最後の審判が下されます」「信じた者だけが、救われます」と。

 「私たちは正しい」と思うのは、その人の勝手。
が、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と。
その図々しさに、まずもって自ら気づいたらよい。
同時に、それがその人自身の思想であるならまだしも、どうせ他人に注入された思想。
言うなれば、ロボット。
ロボットになりながら、ロボットになっているという意識さえない。

 が、それこそ、「私」の放棄。
その愚かさ。
そのおかしさ。

 出世競争に明け暮れ、気がついてみたら、人生も終わっていた。
そういう人たちと、どこがどうちがうというのか。

 不完全でもよい。
未熟でもよい。
自分で立ちあがるところに、繰り返すが、生きる意味がある。
ついでに言えば、こういうこと。

 それがたとえ他人に理解されなくても、それはそれ。
みな、それぞれの運命と闘いながら懸命に生きている。
そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてやることこそ、大切。
それが(やさしさ)ではないのか。
人間が本来的にもつ、(やさしさ)ではないのか。

 ……と居直りながら、今日も始まった。
どこまでがんばれるかわからないが、がんばるしかない。
ふんばるしかない。

 みなさん、おはようございます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 運命論 審判論)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

TK先生へ

こんばんは。
逆流性胃炎、たいへんですね。
ぼくも一時期なりました。
昨年の初めだったと思います。
そのときドクターは、「老人の仲間入りですね」と言いました。
で、先生の話を聞いていましたので、「これはまずい」と。
かなり注意し、養生しました。
慢性化させると、「まずい」と思ったからです。

今夜は、楽しい話をしましょう。
あの1970年の話です。
あのころの先生は、自信満々で、輝いていた。
「ノーベル賞は?」と聞くと、「いつでも」という感じでした。
「アデレード大学だけでも、3〜4人の受賞者がいる」と、先生は驚いていました。
が、同時に、「あんな田舎の大学でも取れるんだから」と。

「論文の引用数など、私の3分の1もないような研究者が、ノーベル賞を取っている」とも。

ぼくも同じように生意気盛りでした。
モヤに包まれた先の見えない未来(W・シェークスピア)でしたが、楽しかった。
1日、1日を、1年のように感じて、生きていました。
そんなとき突然、先生がカレッジへやってきました。
それまでにも東大の教授たち(刑法学の松尾教授ほか)が、ときどきやってきましたが、どうも
馬が合わないというか……。
ぼくは、もともとは、理科系の人間でしたから……。

2人で、北大の杉野目先生に手紙を書いたこともありますね。
返事が来なかったので心配していましたが、あとで知ったところによると、杉野目先生は当時、
すでに体調を崩しておられたとか。
杉野目先生とは、韓国をいっしょに旅しました。
あの板門店も、です。

毎日、毎晩、先生と議論したのが、遠い昔のようでもあり、夢の中のできごとのようでもありま
す。
当時の先生は、かなり保守的でした。
「日本はいい国ではありませんか」が、口癖でしたね。
ぼくたちの世代は、70年安保の最中に、学生時代を過ごしましたから、かなり違和感を覚えま
した。

で、ぼくは何とか先生を説き伏せてやろうと思っていました。
が、今から思うと、とんでもないほど、無謀なことだったと思います。
巨艦に小舟で戦いをいどむようなものでした。
もっともそれを知ったのは、そのあと何十年もしてからですが……。

ひとつ気になっているのは、先生はあのころ、8ミリカメラで写真を撮っておられました。
1コマずつ、です。
「フィルム1本で、何千枚も写真を撮れる」と、自慢しておられたのを覚えています。
で、そのカメラを借り、先生の歩いている姿などを撮った記憶がどこかにあります。
あのころのフィルムは残っていますか。
前々回、鎌倉のご自宅におうかがいしたとき、その話をしようと思っていました。
が、すっかり忘れてしまいました。
で、先日も、鎌倉へおうかがいしたとき、その話をしようと思っていました。
が、そのときもすっかり忘れてしまいました。
というのも、当時のぼくは、写真には興味がありませんでした。
カメラはもっていましたが、めったに使いませんでした。
当時のぼくには、「未来」しかありませんでしたから……。

が、今、ぼくは、過去をこうして懐古しています。
「老人の回顧性」と言います。
回顧性が強くなると、いよいよ老人の仲間入りだそうですね。
ですから努めて懐古しないように心がけています。
「過去を懐古するようになったら、おしまい」と、です。

しかし今夜は、あのころが懐かしくてしかたありません。
時刻は、午前1時を回ったところです。
先生からのメールを読んだ後、眠れなくなってしまいました。
ただ一言、気持ちをお伝えしたくて、このメールを書いています。
「先生は、ひとりぼっちではない」とです。
無数のお弟子さんと、すばらしいお嬢さん家族に恵まれ、みなが力を合わせ、先生を支えてい
ます。
「うらやましい」などという言葉は、ぼくはめったに使ったことがありません。
敗北用語だからです。
でも先生に対しては、平気で使うことができます。
ぼくは、先生がうらやましいです。

そうそう昨年(2011)、あのメルボルンへ行ってきました。
パークビルの通りは、昔のままでしたが、大学そのものが印象では2倍ほど大きくなっていたよ
うに思います。
前もって友人が手配してくれたこともあり、ぼくとワイフは、ハイテーブルで、食事をすることが
できました。
ハウスのゲストルームに泊まることができました。

室内も昔のままでした。
ただ学生が200人から300人程度になり、棟(ウイング)がふえていました。
それにぼくたちのころには、男子寮だったのですが、今は女子学生が半分います。
たまたまメルボルン大学の女子ホッケーチームが、優勝したとかで、その女子学生たちといっ
しょに夕食を食べたりしました。

そのときへんなことを思いましたね。
「この女子学生たちから見たら、ぼくはどうしようもないジー様に見えるだろうな」とです。
1970年当時のぼくは、50歳というと、ありえない未来のように思っていました。
そのぼくも、10月で、65歳になります。
(今はかろうじて64歳ですが……。)
何とか「今」というときを、止めたいと、こうして文を書いています。
が、書いても書いても、「時」は容赦なく、過ぎ去っていきます。
手で空気をつかむようなものです。
その実感すら、ない。

ずっと先生を追いかけてきましたが、この先も追いかけていくでしょう。
たぶん、先生のほうが先にあの世へ行くと思いますが、どうかぼくのことも忘れないでください。
ぼくもつぎの瞬間には、先生のあとを追いかけ、あの世へ行きます。
正直なところ、ぼくは、この世には、あまり未練はありません。

満足感はありません。
あるのは不完全燃焼感だけです。
しかしやるべきことは、やった。
そういう思いは強くあります。
だからよく「いつ死んでもいいや」と思います。
そのときが来たら、いさぎよく、です。

先生が副学長になったときのこと。
先生の研究室へ行くと、先生はこう言いました。
「これから、いい思いをさせてあげるから、少し待っていなさい」と。
「何だろう?」と思って待っていると、理学部の正門に、黒塗りの乗用車がやってきました。
先生は、ぼくを、あの東大の専用車に乗せてくれました。
生涯で、いちばん誇らしく思ったのは、あのときです。
ありがとうございました。

そのあと東京駅で、食事をいっしょにしました。
アボガドなる果物を食べたのは、あのときが初めてです。
今でも、アボガドを食べるたびに、あの夜のことを思い出します。

ともかくも、ぼくは先生のおかげで、こうして道を踏み外すこともなく、無事、自分の人生を歩む
ことができました。
もし先生という灯台がなかったら、ぼくは今ごろ、商社マンになって死んでいるか、政治家にな
って投獄されているかのどちらかです。
が、こうして今日も、平穏、無事に、過ごすことができました。
自分の時間を大切に、自分の命を大切に、したいことをしながら生活することができます。
本当にありがたいことだと思います。

感謝しながら、これで眠ります。
布団の中でメールを書きましたので、誤字、脱字が多いかと思います。
お許し下さい。

では、おやすみなさい。


はやし浩司2012/04/25

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに昨年(2011)、オーストラリアへ行く前に書いた原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【心は、オーストラリアに】

●青春時代

 青春時代が、人生の入り口?
青春時代が、人生のスターティング・ポイントと、だれが言ったか。
とんでもない!
これはウソ。
青春時代は、人生のスターティング・ポイントなどではない。
人生のゴールそのもの。

 人は青春時代という門をくぐって、おとなの世界に飛び込む。
それはその通りだが、青春時代は、いつも私たちの行く道を照らす。
丘の上に立つ灯台のようなもの。
私たちはその灯台の照らす道に沿って、前に進むだけ。
行けども行けども、その先にあるのは、あの青春時代。

●戦後のあのドサクサ

 とくに私は、戦後のあのドサクサの時代に、生まれ育った。
教育の「キ」のない時代だった。
親たちも食べていくだけで精一杯。
貧しいには貧しかった。

少し前のベトナム。
現在のアフガニスタン。
あるいはベトナムやタイでもよい。

そういう国々を見れば、それがわかる。
そういう国々を見ると、私は子どものころの日本を思い出す。
当時の日本と、それほどちがわない。
が、それほどちがわないことは、今になってわかること。
そのときはわからなかった。
貧しいのが当時は、当たり前。
私だけではない。
みな、そうだった。

● 拾ったお金

すべてをあの時代の責任にすることはできない。
しかし私たちは、よい意味で、たくましく、悪い意味で、小ずるかった。
またそうでないと生きていかれなかった。
たとえば道路にお金が落ちていたとする。
そういうお金は、先に見つけた者のもの。
あるいは走って駆け寄り、先に手にした者のもの。
だれが交番などに、届けただろうか。

 だから今でも、私は子どもたちにこう教えながら、心のどこかで違和感を覚える。
「拾ったお金は、交番に届けよう」と。

 そういう私が、自分の人生の中で、かろうじて、ほんとうにかろうじて、
道を踏み外さなかったのは、あの灯台があったから。
青春時代という、あの灯台があったから。
「私は最高の教育を受けた」という、その誇り。
それが私の道を照らしてくれた。

●1日が1年

 ほとんどの宗教は、「聖地」というのをもっている。
心のより所。
冒(おか)してはいけない、神聖な場所。
もし私にも聖地というものがある。
それがまぎれもなく、あのカレッジ。
「241 ローヤル・パレード インターナショナル・ハウス」。
私はそこで、毎日、1日を1年のように長く感じながら生きた。

 ある夜のこと。
一日が終わり、ベッドに身を横たえたとき、こう思った。
「まだ、たった3か月しかたっていないのか!」と。
私には、それまでの3か月が、何十年も長く感じた。
けっして、誇張しているのではない。
大げさに書いているのでもない。
本当に、そう感じた。

 私は石川県の金沢市にある金沢大学を出た。
そこで私は4年間を過ごした。
が、たった数日で、私は4年分の思い出を作った。
本当にそう感じた。

 そしてベッドから天井を見上げ、こう思った。
「まだこんな生活が、9か月も続くのか!」と。

 そんな自分が、うれしくてたまらなかった。

●自由

 すべてが珍しかった。
まだ日本には、綿棒もバンドエイドもなかった。
買い物にしても、そうだ。
オーストラリア人は、オレンジを袋単位で買っていた。
今では、日本のどこでも見られる光景だが、日本人の私には信じられなかった。
私たちの時代には、一個買いが常識だった。
私たちは、ミカンにせよ、リンゴにせよ、一個、いくらで買っていた。

 が、何よりも驚いたのは、男女の関係だった。
大学の構内でも、男女が手をつないで歩き、ときどき抱き合って、接吻をしていた。
金沢大学では、見たこともない光景だった。

 すべてが珍しく、すべてが驚きだった。
そのひとつひとつが、私の脳に、強烈な印象を残した。

 私はオーストラリアで、生まれてはじめて「自由」というものを知った。
見せかけの自由ではない。
作られた自由でもない。
本物の自由である。
オーストラリアには、それがあった。
同時に、日本には、それがなかった。
その落差には、ものすごいものがあった。

●豊かな生活

 オーストラリアは豊かな国だった。
1970年代は、そうだった。
世界でも1、2位を争っていた。
そういうオーストラリアを、オーストラリア人自ら、「ラッキーカントリー」と
呼んでいた。
「それほど働かなくても、豊かな生活ができる」と。

 今でこそ、どこの家にもDVDの再生装置があり、大画面で映画を観ることができる。
が、私が友人の家で、映画『アラビアのロレンス』を観たときには、仰天した。
「自宅で、映画を観ている!」と。
当時の日本人には、想像もつかない生活だった。

●ガーデン・シティ

 が、それだけではない。
私がいた当時のメルボルン市は、世界でももっとも温暖で、住みやすい都市として
知られていた。
常に偏東風が吹き、夏と冬の気温差も、日本よりはるかに小さかった。
町の3分の1が、公園とも言われていた。
が、3分の1というと、町の中に公園があるというよりは、公園の中に町がある。
そういった感じになる。
だから今でも、メルボルン市のことを、「ガーデン・シティ」という。
車のナンバープレートにも、そう書いてある。

●トロイ・ドナフュー

 今回、オーストラリアへ行くのは、そのあと、はじめてではない。
そのあと、何回か行っている。
が、今回はちがう。
意味がちがう。
私は、ワイフを連れていく。
「何だ、そんなことか!」と思う人もいるかもしれない。
しかし私にとっては、聖地。
心の聖地。

 友人の取り計らいで、今回は、そのインターナショナル・ハウスに泊まる。
当時は、(現在もそうだろうが)、世界各国からノーベル賞級の学者たちが来ると、
決まってその中にある、ゲストハウスに泊まった。
珍しい人物では、トロイ・ドナフューという映画俳優もいた。
背が高いというより、恐ろしく足の長い男だった。
『ルート66』というテレビ番組に出ていた。

 ランチを食べているとき、みながトロイ・ドナフューを見て、こう言った。
「あいつ、トロイ・ドナフューではないか?」と。
そこで仲間の1人が声をかけてみると、「Yes!」と。
彼はあっさりと、それを認めた。

 今度は、私がそのゲストハウスに泊まる。
ちょうど42年という歳月を経て、今度は、私がそのゲストハウスに泊まる。

●王子や皇太子

 インターナショナル・ハウスは、不思議なカレッジだった。
どのフロアにも、世界中から集まった王子や皇太子たちがいた。
が、慣れというのは、恐ろしい。
私はそこに住んだときから、一度も、彼らの立場を意識したことはない。
相手も、ごくふつうの学生として、私たちと過ごした。

 ただ「金持ちだな」と感じたことは、よくある。
中には、いつもパリッとしたスーツを着ていた男もいた。
あるいはいつも、数人の「友」に囲まれていた男もいた。
私はその男の「友」と思っていたが、あとになって、その国の大使館から
派遣された護衛官と知った。

 そのことは、別の『世にも不思議な留学記』に書いた。

●私1人、だけ

 一方、オーストラリア人たちは、ごくふつうの学生ばかりだった。
それなりに頭のよい学生たちだったが、卒業後の進路は、当時の日本人とは、
それほど違わなかった。
ただ当時から、(今でもそうだが)、日本人がもっているような「大企業意識」
というのは、なかった。
オーストラリアでは、個人プレーが基本。
子どものときから、「独立心」を徹底的に叩き込まれている。

 言い忘れたが、カレッジには、200人の学生がいた。
内、100人が、各国からの留学生。
内、100人が、オーストラリア人だった。
日本人の留学生は、私1人だけ。
300万人とも言われたメルボルン市全体でも、私1人だけ。
そういう時代だった。

 当時の為替レートは、1ドルが400円。
大卒の初任給がやっと、5万円という時代である。
そのレートで計算してみると、農家の年間収入は、1200万円から1500万円にも
なった。
月額にすると、100〜150万円!
日本人の私には、信じられない金額だった。

●北朝鮮

 ……この話が理解できない人は、こんな計算をしてみればよい。
あの北朝鮮では、労働者の平均給与は、4000〜5000ウォンだそうだ。
現在、じゃがいも10キロが、1000〜2000ウォン(2011年2月)。
じゃがいもを、20キロ買っただけで、給料が消えてしまう。
その4000ウォンを、アメリカドルに換算すると、実勢レートで、2〜3ドルにも
ならない。
日本円で、200〜300円。
(月給が、だぞ!)

 日本とオーストラリア。
現在の北朝鮮ほどではないが、しかしその間には、はっきりとした「差」があった。
カレッジの一室に、乾燥装置(ビルの1階から最上階まで、いつも温風が、
吹き上がっている)なるものもあった。
それを見たとき、その「差」を強く感じた。
生活の質そのものが、日本人のそれとは、まったく違っていた。

●便器のフタの上で、便!

 その一方で、こんな話もある。
コロンボ計画というのが、あった。
アフリカの貧しい国々の学生を、先進国で学ばせるという計画だった。
そのコロンボ計画でハウスに来ていた留学生も、何人かいた。
しかしこの学生が、しばしばトラブルを引き起こした。

 たとえば便器のフタの上で大便をする。
大便のあと、便を流さないで、出てくる。
だからトイレには、いつもこう書いてあった。

「Flash after each use(使ったあとは、洗え)!」と。

 中には、オーストラリアの生活になじめず、部屋に引きこもってしまうのもいた。
日本も貧しかったが、アフリカの国々は、さらに貧しかった。

●遠くて遠い国

 が、そんな私でも、日本がここまで豊かになるとは、夢にも思っていなかった。
当時書いた日記には、こうあった。

「50年たっても、日本はオーストラリアに追いつけないだろう」と。

しかしその日本は、その後20年を待たずして、オーストラリアを追い抜いた。
今度は、その日本を、シンガポールが追い抜いた。……これは余談。
相対的に、オーストラリアの地位はさがった。

 今では、オーストラリアへ行っても、私が感じたような「差」を見る人はいない。
日本がオーストラリアぽくなったというよりは、オーストラリアのほうが、
日本ぽくなった。
そんな場面にも、よく出会う。

●修学旅行にオーストラリア

 日本人の高校生が、修学旅行で、オーストラリアへ行く。
何百人単位という大人数で行く。
信じられないというより、そういう話を聞くたびに、「本当に、あの国へ?」と
思ってしまう。

 私には遠くて、遠い国だった。
今でも、その感覚は残っている。
そう、あのオーストラリアを去るとき、私はこう思った。
「二度と、オーストラリアへ来ることはないだろうな」と。

●グーグル・アース

 話はぐんと21世紀の現在に飛ぶ。
最近では、グーグル・アースというサービスを使うと、一瞬にして、世界中、
どこへでも「行く」ことができる。
住所を打ち込めばよい。
するとその地域の家々が、まるで数十メートルの高さから見るように見える。

 私はそれを使い始めたとき、一番先に、インターナショナル・ハウスをさがした。
もう4、5年前のことだろうか。
そのときは解像度もそれほどよくなかった。
ぼんやりとした建物でしかなかった。
それでもそれを見たとき、目頭が熱くなり、ついで涙がこぼれた。

 で、さらに解像度があがった。
さらに鮮明な画像で、ハウスを見ることができる。
夢の中でしか見ることがなかった、ハウス。
それが今では、居ながらにして、パソコンの世界で見ることができる。
それがよいことなのか、どうかは私にはわからない。

●聖地

 こんな簡単に、過去を見ることができるようになると、ありがたみが消えてしまう。
言うなれば、聖地の奥の奥まで、見えてしまう。
だからときどき、こう思う。
「こんなサービスなど、ないほうがいい」と。
夢の中で、探し回るほうが、聖地らしい。
実際、私は若いころ、そういう夢をよく見た。

 そこにハウスがあるはずなのだが、なかなかたどりつけない。
やっとたどりついたと思ったら、また別の場所。
そんな夢だった。

 ……そんなとき、私はいつも夢の中で、涙をこぼしていた。

●決定

 私は30歳になる少し前、飛行機事故を経験している。
あのままあの飛行機が、あと100〜200メートル先に進んでいたら、
私は死んでいただろう。
そういう事故だった。

 以来、飛行機恐怖症になってしまった。
飛行機に乗ることはできるが、旅先で、不眠症になってしまう。
その不眠症に苦しむ。
それもあって、飛行機に乗るのは、特別のばあいだけ。
が、今回はちがう。
その前に、胃ガン検診を受けた。
2センチ大の腫瘍が見つかった。
ドクターは、1〜2センチと言った。

 で、生体検査。
結果がわかるまで、1週間かかると、ドクターは言った。
その1週間。
いろいろ考えた。
死を身近に感じた。
結果は、シロ。
Group1。
その結果が出たとき、決めた。
ワイフをオーストラリアへ連れていってやろう、と。

●結婚

 こんな話もある。
オーストラリアの友人が、こんな内容のメールをくれた。
娘の1人が、結婚することを決意したという。
そのきっかけが、今回の、ニュージーランド地震。
多くの日本人も犠牲になった。

 そのとき友人の娘のボーイフレンドも、たまたま仕事で、クライスト・チャーチ
にいた。
かなりあぶなかったらしい。
で、「2人は、結婚することにした」と。

 私もそのボーイフレンドに会ったことがある。
それから3年。
別れたり、くっついたり。
それを繰り返していた。
が、その地震で、友人の娘は、本気でそのボーイフレンドを心配したらしい。
俗な言い方をすれば、それで自分の愛を確認したらしい(?)。
友人のメールでは、そこまでは書いてなかった。
しかし私はそう解釈した。

 だから返事には、こう書いた。
「ぼくも同じ。ぼくには、2人の気持ちが、よく理解できる」と。

●緊張

 しかしやはり緊張してしまう。
どういうわけか、緊張してしまう。
大きな会場で、講演をする前の気分に似ている。
「あれもしなければならない」「これもしなければならない」と。
そんなことばかりを考える。

 「飛行機はタクシーより安全」と、人は言う。
しかし私にとって飛行機とは、棺桶のようなもの。
閉ざされた、狭い空間。
金属のかたまり。
それが弾丸にように空を飛ぶ。

 今までもそうだった。
が、今回は、ワイフも行く。
だから余計にしっかりと書く。
私は飛行機に乗る前には、かならず、遺書を書く。
遺書を、しっかりと書く。
ひとつだけちがうことがあるとすれば、遺書の相手。
「今度は死ぬときは、いっしょだからね」とワイフに言う。
ワイフはそれを聞いて笑う。

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【人間性vs哲学】

●悪徳ヘルパー

 訪問介護は、本当に安全か?
だいじょうぶか?
そう問われたら、大半の人は、「Yes」と答えるだろう。
たしかにそうかもしれない。
今、巷(ちまた)で問題になっている、悪徳ヘルパーは、ほんの一部。
それはわかる。
つまり「一部」ということは「一部」。
が、ゼロではない。
私の知りあいにも、そういう例がある。
この先、日本は高齢者社会になる。
それと並行して、こうした悪徳ヘルパーの問題は、深刻化するはず。
早急に手を打つ必要がある。
とりもなおさず、私たち自身の老後を守るために!

●身内

 もっとも悪徳ヘルパーといっても、基本的には、他人。
他人だから、「悪徳」になっても、まだ話はわかる。

しかし身内となると、内情は複雑。
疑う人もいないから、それが発覚することは、まずない。
こんな例が、ある。

 ……去年、Yさん(女性、享年86歳)が、他界した。
かなりの財産家だった。
それまでは独り住まいで、ときどき近くにいる娘が、様子をみにきていた。
が、いよいよ生活ができなくなったということで、数か月間、その娘の家に身を寄せた後、同じ
市内にある特養に入居した。

 Yさんは、特養に入居して、ちょうど1年後に、他界した。

 で、その間にも娘は、Yさんの家(娘の実家)に自由に出入りしていた。
「掃除」とか「家に風を通す」とか、言っていた。
が、Yさんが他界。
弟氏以下、親戚の人たちが、その家に集まったときには、家の中は、まさにモヌケのカラ。
めぼしいものは、タオル1枚、なくなっていたという。

 弟氏は、こう言った。
「母は若いころから、タンス預金派でした。
そうした現金も、1円単位で消えていました」と。
 
●哲学の問題

 ホームヘルパーが安全かどうかと問われたら、あなたはどう答えるだろうか。
あなた自身の問題として、考えてほしい。
言い換えると、今のこの日本で、純粋な人を求めるのは、不可能と考えてよい。

 ……たとえば、そこに100万円の札束がある。
持っていこうとすれば、自由に持っていくことができる。
だれも見ていない。
持っていっても、だれにもわからない。
そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。

 100万円という札束でなくても、身の回りの金目のものなら何でもよい。
そういうとき自分の心にブレーキをかけられる人は、どれくらいいるだろうか。

 これは人間性の問題ではない。
「人間性」を言うなら、「もっていかない人は、いない」。
だからこれはその人の哲学の問題ということになる。
が、そこまで自分の哲学を完成させるのは、たいへんなこと。

●制度改革

 では、どうするか。
方法は、簡単。
「制度」を整備する。

(1)ホームヘルパー制度を、2人制にする。
(人員が足りなければ、監督者を置き、その下で、ホームヘルパーが活動するようにする。)

(2)月単位での交代制にする。
1人のヘルパーが、長期間、同一老人の世話をするという制度を改める。

 が、ご存知の方も多いと思うが、今の制度は、穴(アナ)だらけ。
上記(1)(2)について、明確な規則、規制すらない。
それこそ悪徳ヘルパーにかかったら、いとも簡単に、老人たちはそのまま被害者になってしま
う。

 ちなみに、私の教室で、6人の中学生(注1生)に聞いてみた(2012年4月24日)。
「だれもいない夜道で、サイフを拾った。
中をみると、10万円入っていた。
そういうとき、あなたはどうするか」と。

 「正直に答えろ」と念を押して聞くと、6人とも、こう答えた。
「もらう」「ネコババする」「自分のものにする」と。

 これがここで私が言う、「人間性」ということになる。
その人間性は、老いも若きも、男も女も、共通している。
(だからといって、私は性悪説を支持しているわけではない。誤解のないように!)

●哲学

 そこで登場するのが、哲学ということになる。
「理性」の登場ということになる。
わかりやすく言えば、思考力。

 それがあるかないかで、その人の哲学が決まる。
その哲学を、どう完成させていくかということ。
簡単に言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取らせる。
それが日々に昇華し、やがてその人の哲学になる。

 では、私のばあいは、どうか。

 もともと私は邪悪な人間。
自分でもそれがよくわかっている。
だからこうして毎日、精進している。

 が、もしそこにある100万円や金品に手をつけたら、それまでの苦労がアワとなって消える。
時間を無駄にする。
それが怖いから、そういったものには、手をつけない。

 そうでなくても人生は短い。
回り道をしている暇はない。
わずかなお金やモノで、回り道はしたくない。
仮にここで100万円に手をつければ、それで汚れた心は、どうやって元に戻せばよいのか。
100万円という金品で得た満足感は、同時に、私という人間性に穴を開けてしまう。
その穴を再び埋めるのは、容易なことではない。

 が、迷わないわけではない。
迷う。
道路でサイフを拾ったりするたびに、迷う。
それについては、たびたび書いてきた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以前、こんな原稿を書いた。
2004年ごろ、書いた原稿ではないかと思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●善人ぶる

 私はいつから、こうまで善人ぶるようになったのか。
とくにそれを強く感ずるのは、講演に招かれたときだ。
講師として、演壇の横にすわり、紹介されるのを待つ。
主催者のあいさつのあと、講師紹介が始まり、そしてそれが終わると、演壇に登る。
そのとき、私は、ふと、「どうして私がここにいるのか」と思う。

 善人ぶることなら、だれにだってできる。簡単なことだ。それほど大きな努力はいらない。
さも知っているという顔をして、柔和な笑みを浮かべ、静かにしていればよい。
何かを聞かれても、きれいごとだけを並べていればよい。

しかし本当にむずかしいのは、自分の中の悪と戦うことだ。堕落(だらく)から、身を守ること
だ。
あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう書いている。「
善をなすには、努力が必要。
しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」と。

前にも書いたが、よいことをするから、善人というわけではない。
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
人は、悪と戦って、はじめて善人になる。

 たとえば道路に、大金の入っているサイフが落ちていたとする。
一〇〇万円とか二〇〇万円でよい。
まわりにはだれもいない。
あなたがそれをもって帰っても、見つかることは、まず、ない。
しかもあなたは今、お金に窮している。
その日に食べる食事代もない。そういうとき、あなた自分の中の邪悪さと戦うことができるか。
それが、ここでいう「悪と戦う」ということである。

 こうした悪と戦う場面は、実は、日常生活の中では、頻繁(ひんぱん)に起こる。そういう意味
では、人間はまさに社会的な動物である。
人と会っただけで、いつもそういう立場に立たされる。

そこで大切なことは、まずささいな悪と戦ってみる。
ウソをつかない。ゴミを捨てない。
ルールを守る。
インチキをしない。
そういうささいな戦いを通して、戦い方を身につける。
自分を鍛える。
私のばあい、いちいち考えて行動するのがめんどうだから、自分で教条的に、それを決めて従
うようにしている。

たとえばウソにしても、一度ウソをつくと、あとがたいへん。
つじつまを合わせるために、つぎつぎとウソをつかねばならない。
気をめぐらさなければならない。
考える力があったら、もっとほかのことに使いたいという思いもある。
だからウソはつかない。が、それでももし、大金の入ったサイフが落ちていたら……。

 そんな「私」を知るひとつの手がかりとして、こんな事件があった。

 私が大学三年生のときのこと。
夜、バス停でバスを待っていると、足もとに1000円札が落ちているのに気がついた。
私はとっさに、なぜそうしたかはわからないが、それを足で踏みつけて隠した。

うしろはたまたま交番だった。
私はそのままの姿勢で、じっと立った。
今でもそのときの気持ちをよく覚えているが、私はそれを、何かのワナではないかと思った。
手でつかんだとたん、うしろから警官がやってきて、「逮捕する」とか何とか。
私はつぎつぎとやってくるバスを見送りながら、時間にして、30〜40分はそのまま立ってい
た。

 1000円といっても、今でいう、5000円ほどの価値がある。
その上、当時の私は貧乏学生。一度でよいから、あのトンチャン(焼肉)を、腹いっぱい食べて
みたいと思っていた。

が、どうしても手をのばしてそれを拾うことができなかった。
私は法科の学生だった。そういう自負心もあった。
だからそのまま立っていた。が、多分、不自然な位置だったと思う。
あとから並んだ人が、けげんそうな顔つきで私をながめながら、横を通り過ぎ、バスに乗り込ん
でいったのを覚えている。

 私は善人か。それとも善人ではないか。そこでこういう話を、中学生にぶつけてみた。
「君たち、交番の前で、5000円を拾ったら、どうする?」と。
6人の中学生がいた。
すると、全員が、「交番に届ける!」と。
そこですかさず、「君たちは、本気か? 
きれいごとを言っているだけではないのか?」と聞くと、また「交番へ届ける!」と。
ひとり、「どうせそういうお金は、自分のものになるよ」と。

 そこでまた私は考えてしまった。中学生でもわかる論理が、当時の私にはわからなかったの
か、と。
いや、頭の中でシミュレーションするのと、実際、そういう立場に立たされるのとでは、受けとめ
方はまるでちがう。中学生の言葉をそのまま信ずることもできない。

そこで話を変えて、「1000円だったら、どうする?」「500円だったら、どうする?」と聞いてみ
た。
すると、「1000円なら、もらってしまうかな」「100円だったら、ぼくのものする」と。どうや
ら、こうした善悪は、金額によって決まるようだ。
……ということは、彼らがもっている論理は、倫理ではない。

 それが倫理であるかどうかは、つまりその人の行動規範であるかどうかは、人が見ていると
か、見ていないとかいうこととは関係ない。
このケースで言えば、金額の大小ではない。
あくまでも自分の問題なのだ。

たとえばゴミにしても、「大きなゴミは、道路に捨てないが、小さなゴミなら捨てる」というのは、
倫理ではない。
たとえガムの食べかすでも、道路へ捨てない。そういうふうに、自分を律する力が、倫理なの
だ。

 私はしかし、中学生たちが、「1000円なら、拾ってもらってしまうかな」と言ったとき、正直言
って、ほっとした。理由は簡単だ。

 私はそのあと、うしろの交番に目をやりながら、その1000円札を拾って、すかさず自分のポ
ケットにつっこんだ。
そしてあとは一目散に、その場を走って逃げた。うれしかった。本当にうれしかった。
そして私は今でも、はっきりと思えているが、その1000円で、喫茶店でお茶を飲んだあと、あ
のトンチャン屋へ足を運んだ。
ライスが100円。
トンチャンが一皿、150円。
それを腹いっぱい食べた。

 そんな私が、今、善人ぶって、みなの前に立つ……? 
いつか私を講演会で見る人がいたら、ぜひ、このエッセーを思い出してみてほしい。
そしてこう思ってほしい。
「あの、林め、偉そうな顔して、善人ぶっているが、どうしてあんな男が、ここにいるのか?」と。

そう思ってもらったほうが、私にとっては、ずっと気が楽になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 石川門 交番 バス停)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【今朝の発見】(はやし浩司 2012−04−26)

●目つき

 先日、電車に乗ったときのこと。
前の席に座った女性が、少し変わった動き方をしていた。
年齢は60歳くらいだっただろうか。
落ち着かない動き方だった。
動作が小刻みに動き、そのつど顔がキョロキョロと動いた。
それがちょうど、動物園で見る猿の様子に、そっくりだった。

 その瞬間、欧米人の言葉が、思い浮かんだ。
欧米人は日本人をさして、よくこう言う。
「ジャパニーズ・モンキー(Japanese Monkey)」と。
失礼な言い方だが、その理由がわかった。

 そこで、私はその女性の動きを観察した。
「どこが、どうちがうのだろう?」と。

 結果、つぎのことがわかった。

(1)たとえば左右・上下を見るとき、眼球を動かさない。
(2)眼球を動かさないで、顔(頭蓋骨)を動かす。
(3)そのため、顔の動きが、キョロキョロしたものになる、と。

 一方、欧米人は、顔(頭蓋骨)を、比較的、動かさない。
目が大きいこともある(?)。
それとも遊牧民族の特徴(?)。
左右を見るときも、先に眼球を動かす。
顔(頭蓋骨)を、あまり動かさない。
そのつど動作(顔)を、ピタッ、ピタッと止める。
わずかなちがいなのだろうが、それが連続的につづく。
それが日本人と欧米人のちがいとなって現れる。

 ……と、ここまでは、以前にも書いた。
そこでここではもう一歩、話を進める。

●中国人のばあい

 中国とか朝鮮の人の特徴として、目つきが鋭いということがある。
キロッ、キロッと、目が動く。
「ギロッ」に近い。
形のことを書いているのではない。
動きが鋭い。

 そこで数日前のこと。
駅前にある中華料理店へ入ったとき、私たち日本人とどこがどうちがうかを観察してみた。
その店では、4〜6人の中国人たちが働いている。
全員、北京周辺から来た人たちという。

 結果、つぎのことがわかった。

(1)たとえば右の方を見るとき、まず眼球を固定したまま、顔(頭蓋骨)を鋭く右に向ける。
(2)見たい方向の半分くらいまで動かす。
(たとえば60度、右の方を見たいときは、30度分ほどは、顔(頭蓋骨)を動かす。)
(3)その状態で、つまり顔(頭蓋骨)を固定し、今度は眼球だけを、さらに右へ動かす。
(つまり残り30度分ほどは、今度は眼球だけを動かす。)
(4)そのとき眼球を目尻いっぱいまで、やや上方に向かって動かす。

 つまり2段構えの動かし方をする。
半分を顔(頭蓋骨)で動かし、つづいて眼球だけをさらに動かし、左右・上下を見る。
そのとき眼球をやや上方へ動かす。
そのため日本人の私たちには、目つきが鋭く見える。

 「どうしてあんな器用な動かし方ができるのだろう?」と思った。
ためしに私もあとでまねてみたが、これが結構、むずかしい。
(あなたもここに書いたことを参考に、一度、まねてみるとよい。)
が、彼らにしてみれば、何でもない。
生まれたときから、祖父母→両親から、それを見習っている。

 ……民族によって、動作、表情は微妙にちがう。
日本人がよいとか、欧米人がよいとか、中国人や韓国人がよいとか、(あるいはその反対に、
おかしいとか書いているのではない。誤解のないように!)、そういうことではない。
たとえばここに書いたように、目つきも、民族によってちがうということ。
私が知るかぎり、こんなことを調べたのは、私が最初かと思う。
(気づいたのも、私が最初かと思う。)

 この世界には、まだまだ未知なことも多い……ということで、「目つき」について書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 目つき 視線 動作 仕草 しぐ
さ はやし浩司 眼球の動かし方 民族性)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●進歩と借金

 朝食のとき、私はそれまでパソコン雑誌に目を通していた。
この世界は、まさに日進月歩。
今度は、WINDOW8!
目まぐるしく変わっていく。

 で、その雑誌を見ながら、こう思った。
「どうしてコンピューターと無縁の人も多いのだろう?」と。
今ではコンピューターは、万人の必需品。
少なくとも、コンピューターの世界で生きている人は、そう思っている。

 が、その一方で、私の知人の中には、コンピューターはいっさい、使わないという人がいる。
触ろうとすらしない。
年齢的には、60〜65歳以上ということになる。

不動産会社を経営している友人などは、資料などは、すべて一度、プリントアウトさせ、それを
読んでいる。
理由を聞くと、「あんなのは、(女性)事務員の仕事だよ」と。

 さらに恐ろしい人になると、コンピューターそのものを魔物扱いしている。
コンピューターを扱っている人を、変人扱いしている。

 が、問題は、どうしてこういう(ちがい)が生まれるかということ。

●『借金vsコンピューター論』

 そのことが朝食のとき、ワイフと話題になった。
「どうしてだろうね?」と。

 するとワイフが端的に、こう説明した。
「進歩が速すぎて、ついていけないのよ」と。

 ナルホド!

私「そう言われてみれば、そうだね」
ワ「それにね、50歳も過ぎるとね、覚えるよりも先に、忘れることのほうが多いから」
私「それもそうだね」
ワ「アタフタしているうちに、遠ざかってしまうのよ」と。

 ワイフだってそうだ。
パソコンが不調になっても、自分では直せない。
してもメールのやり取りと、決まったHPの閲覧だけ。
あとのことは、ナ〜ニモ知らなくても、困ることはない。

 つまりこうして二極化が進む。

 どんどんと進歩を追いかける人と、どんどんとパソコンから遠ざかっていく人。
進歩を追いかけるためには、月2〜3冊の雑誌は読まねばならない。
「進歩」イコール、「学習」と考えてよい。
しかもその学習には、苦痛が伴ってはいけない。
楽しむ。
楽しんで、進歩を追いかける。

私「借金と同じだね」
ワ「どういうこと?」
私「金儲けも、攻めのときは、楽しんでそれができる。でもね、一度守勢に守ると、金儲けも、と
たんに苦しくなる」
ワ「借金取りに追いかけられたら、仕事も手につかなくなるわね」
私「そう、それと同じ」と

 称して『借金vsコンピューター論』ということになる。
つまり、前向きにコンピューターの世界をのみ込んでそれを使えば、よし。
そうでなければ、そうでない。
一度「遅れた」と感じたとたん、後方にはじき飛ばされてしまう。

 で、そういう人ほど、自分の心を合理化するため、「魔物」とか「変人」とかいう言葉を使う。
2012/04/26


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●4月26日(はやし浩司 2012−04−26)

【ケシの花を育てる教育と、ケシの花】

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●新年中児(4歳児)のみなさんと、新小3児のみなさんを紹介します。

【新年中児(4歳児)】

今回も「声を出す」をテーマにしました。
数と文字を交互に教えました。

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【新小3児+2児】

組み合わせと場合の数について教えました。
楽に理解してくれました。
こうして指導をしてみると、(子どもたちの求める教育)と、(国が「教育」として与える教育)の間
には、大きなギャップがあるのがわかります。
いくら口で説明してもわかってもらえませんので、こうして自分で実践し、YOUTUBEにUPして
います。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/AUinShWIDh8" 
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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●小沢さんの無罪判決

 無罪判決?
予想どおりの判決。
有罪でも、記述違反程度の微罪。
私はそうみていた。

 が、肝心の4億円の出所は、最後までわからずじまい。
闇の奥に葬られたまま。
こんな裁判で、こんな判決が出たところで、国民は納得しない。
言うまでもなく、小沢さんは4億円の出所について、2度、説明を変えている。

最初は、銀行融資。
それがウソとバレると、今度は政治献金。
が、それもマズイとわかると、最後は、タンス預金。
贈収賄事件から、記述違反事件。
いつの間にか、記述違反事件?
当の本人は、「私は秘書たちにすべてを任せていたから、何も知らない」と。

 今回争点となったのは、(1)2004年10月に、陸山会から、不動産会社に支払われた代金
(3・5億円)の記載。
それが報告書では、2005年になっていた。
もうひとつは(2)2007年に陸山会から小沢さんに変換された4億円。
こちらのほうは、記載漏れ?

 これらの一連の現金の流れは、結局は、小沢さんから、陸山会への現金の流れ(2004年)
を隠ぺいするものではなかったのか。
さらに言えば、建設会社からのワイロを、隠ぺいするものではなかったのか※(1)。
だれしもそう疑う。
それが裁判になった。

 それが2011年9月の判決。
当時の裁判官は、石川議員ら、元秘書に対して有罪判決をくだしている。
いわく「建設会社からもらった裏金を隠すためだった」(裁判記録)と。
3人は無罪を主張し、即日控訴している。

 もしそうなら、真っ先に秘書たちのクビを切ればよい。
切っただけではすまない。
これほどまでの疑獄事件として、世間を騒がせた責任は、すべてその秘書たちにある。
あるいは相手の建設会社を訴えればよい。
たいへんな、えん罪事件である。
少なくとも、私なら、そうする。
が、それはしない。
なぜか?
どうして?
無罪は無罪でも、何からなにまで、疑惑だらけの判決。

 これに対して、小沢さんは、判決に対して涙まで流し、それを喜んだという。

 ……この結果は、つぎの総選挙で出る。
その前に民主党の支持率は、さらにさがる。
我ら浮動票層は、黙っていない。

(以上、参考文献……「時事用語」(新星出版社))

注※(1)(以下、2011年10月に書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小沢一郎氏vs司法

 小沢一郎氏が今回の裁判についての結果を、批判している。
自分の3人の部下が、有罪になった。
罪状は、「資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反」。
それについて「民主主義の世界では、考えられないこと」※(2)と。

 3人の部下が有罪になったことで、小沢一郎氏は、かなり不利な立場に立たされる。
それはわかるが、行政府を構成する実質的な支配者である小沢一郎氏が、個人的立場であ
るにせよ、司法を批判するのは、許されない。
三権分立の精神に、まっこうから違背する。

 で、今回、「金(マネー)の出口」が、裁判所で争われた。
が、本当の問題は、「金(マネー)の入り口」。
4億円という現金である。
それがどういう経路を経て、小沢一郎氏の懐(ふところ)に入ったか。

(うち1億円については、贈賄側の土建業者が、それを認めている※(3)。
一方、小沢一郎氏は、「タンス預金をしていた、そのお金」と弁明している。)

私たちは、それを問題にしているし、それを知りたい。
つまり金(マネー)の出所。

 さらに言えば、「本当に4億円だけだったのか」という疑問も残る。
一連の流れからすると、「4億円どころではなかった」と、私は推測する※(4)。
が、もしそうなら、それこそ「民主主義の世界では、考えられないこと」ということになる。
今回の判決について、裁判官は、つぎのように断じている。

「……小沢事務所は談合を前提とする公共工事の本命業者の選定に強い影響力があり、影
響力を背景に公共工事の受注を希望する企業に多額の献金を行わせていた。
規正法の規制の下で、引き続き企業からの多額の献金を得るため、他人名義の寄付を受け、
報告書上、明らかにならないよう虚偽記入した」(判決要旨より)と。

注※(2)「大変びっくりした。何の証拠もないのに推測に基づいて決めてしまうのは民主主義
国家では考えられない」と批判した」(Yahoo News)と。

注※(3)当時の水谷建設社長は胆沢ダム建設工事の受注に絡み、大久保被告の要求に応じ
て、04年10月に5千万円を石川被告に、05年4月に同額を大久保被告に手渡したと証言して
いる。

なお政治評論家の屋山太郎氏は、MSN・NEWSの中で、つぎのように書いている。

注※(4)『…… 誰もが不審に思う一つが、土地の「確認書」問題である。2007年2月、小沢
氏は、自分が所有する13の土地、建物について釈明の記者会見を行った。
中に、今回の裁判で争点となった世田谷の4億円の土地が入っている。

 小沢氏は「土地の名義は小沢一郎になっているが、実際は政治団体、陸山会の所有物であ
る」と釈明し、政治団体で登記できないから小沢名義にした証しとして、「確認書」を示した。
であれば、登記した日に確認書を作成すべきなのに、6件の確認書は後で同じ日に書かれた
と判明する。

 それが、今回の裁判でいつの間にか、4億円の土地は自己資金で買ったから問題ないという
話にすり替わっている。

自己資金なら、なぜ確認書の公表という大芝居を打つ必要があったのか。
あれから5年たつが、小沢氏はこの点に関し一度も説明していない』(MSN・2012年4月26
日)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言論の自由

 日本に言論の自由があるというのは、ウソ。
……というか、一応は、保証されている。
が、それ以上に、金と権力によって、マイナーな意見を圧殺してしまう。
方法は簡単。
その反対意見を大きくする。
自分たちの主張を大きくする。
結果として、マイナーな意見を圧殺する。

 よい例が、一連の原子力行政。
中にはその危険性を見抜き、反対した人もいるかもしれない。
が、そういう人の意見は、巨大なブルドーザーを前にした、小枝のようなもの。
もとから勝ち目はない。
声をあげても、身を寄せあう人さえ見つからない。

 だから黙る。
黙って、あきらめる。
金と権力のない者は、この日本では、ただひたすら静かにしているよりほかに、生きる道はな
い。


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●教育で作られる心(ケシの花)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ヤフーNEWSに、こんな興味深い記事が載っていた。
ここに書いてあることは、30年前、40年前の日本。
そして現在の今の今も、それはつづいている。
あるいは「今」が、その結果と、読めなくもない。

反省の意味もこめ、熟読したい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

++++++++++++++以下、YAHOO NEWSより++++++++++++++

今の中国は汚職に溢れ、たたけばたたくほど埃(ほこり)が出てくる。
将来の夢を「官僚になって汚職する」と答える小学生がいるほど、中国では汚職がまん延し、
社会への影響が大きいといえる。

この現状に対し、銭教授は「北京大学を含む中国の大学は今、利己主義者を生み出す元凶と
なっている。
彼らは知性が高く、世俗的で、世渡りがうまい。
このような人間が権力を持ってしまうと、とてつもない汚職が行われる。
われわれの教育体制は今このような有毒なケシの花を育てているのだ」と、鋭く指摘した。
2012/04/25ヤフーNEWS

++++++++++++++以上、YAHOO NEWSより++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 汚職 教育 はやし浩司 ケシの
花)2012/04/27記


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●4月28日(土曜日)朝記(2012)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私が住んでいるこのあたりでは、大型店の建設がつづいている。
大都市で見る、たいていの大型店は、ほぼ出そろった。
そんな中、こんな喜劇も……。

そこにはもとから、洋品店があった。
結構、はやっていた。
ところがその右隣に、ユニクロができた。
とたん、その洋品店からは客が消えた。
さらに不幸がつづいた。
今度はその左隣に、コックスができた。
さらに客が消えた。

右にユニクロ、左にコックス……。
その間に、その洋品店。

そこでその洋品店の主人は考えた。
店の名前を変えることにした。
考えて名前を、「入り口」とした。
店の上に、「入り口」という看板をかかげた。
とたん、その店は、大盛況。
押すな押すなの客が、その洋品店に入ってきたという。

……というこの話は、何かのジョーク集に書いてあった。
それを思いだし、少し内容を変えて書いてみた。
(私が作ったオリジナルのジョークではない。念のため。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「おぶつだんや」

 が、これは私の大発見。
昨日、ワイフと仕事に向かう途中、こんなことを知った。

 ちょうど町に入る境あたりに、A坂というなだらかな坂がある。
その左側に、仏壇屋がある。
その仏壇屋に、新しい看板が立った。
平仮名で、「おぶつだんや」と書いてあった。
それを読んで、ピンときた。

「お・ぶ・つ・だ・ん」の文字を並び替えると、「お・だ・ぶ・つ」になる。
つまり「お陀仏(おだぶつ)」になるから、「お仏壇屋」と。

●高校生

 そんな話を高校生のクラスで話したら、みな、笑いが止まらなくなってしまった。
この年齢の子どもたちは、一度笑い始めると、ゲラゲラと笑い始める。
それこそ、鉛筆をポロリと落としただけでも、笑う。

 そんな中、Bさんが、ふとこう言った。
「うちのお父さんね、ドイツ語がわかるのよ」と。

 そこですかさず、私がベートーベンの第九の歌詞を口にしてみてやった。
あの「♪ダイネ・ツアウベル・ビン・デン・ビーデル……」というのである。
それを聞いてBさんが、目を白黒させた。
「先生って、ドイツ語も話せるの?」と。

私「そうだよ。たとえば、ドイツ語で『おまんじゅう』は、『オスト・アン・デール(押すと餡(あん)出
る』という」
B「フ〜〜ン」
私「それに、こんなドイツ語もある。『イヒ・フンバルテート・デル・ウンチ(私・ふんばると・出る・
ウンチ』」と。

 かなりドイツ語らしく言った。
ほかの高校生たちは、みな、腹をかかえて笑った。
が、Bさんだけ、それを本気にしてしまった。
それを見て、ほかの高校生たちが、さらに大声で笑い始めた。

 どれも私が学生時代に知った、古いジョークである。
内心では、「こんなジョークも知らないのか」と思ったが、それは言わなかった。
さらに、定番ジョーク。

「あのね、この英語を訳してごらん……」と。

「To be to be ten made to be.」

 みんな英語には自信のある子どもたちである。
それぞれが懸命に訳し始めた。
中には、もっともらしい訳をつける子どももいた。
が、やがてギブアップ。

「あのね、これは英語ではないの。ローマ字で、『飛べ・飛べ・天まで飛べ』と書いてあるだけな
の」と。

 結局、皆で、30分以上、笑いつづけた。
涙まで流して、笑いつづけた。
腹の皮がよじれるほど、笑いつづけた。
ゲラゲラ、ワッハハハ……と。

 ……ということで、今朝は気分爽快。
頭もすっきり。
目を覚ますとき、全身の細胞が、プチプチとはじけているのを感じた。
『笑いは健康のもと』と。
それを改めて強く実感した。
(2012/04/28朝記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(補記)(以前書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●笑いの効能

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ
かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なお
す」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしま
う。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 笑いの効能 笑う 笑えば子ども
は伸びる)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【今朝のニュースより】(はやし浩司 2012−04−28)

●失業率が24%!

 ロイターは、こう伝える。
『失業率は2011年の21.6%から、2012年は24.3%に悪化。
その後は2013年に24.2%、2014年に23.4%、2015年に22.3%と、徐々に改善する
との見通し』(ロイター)と。

 「24%」という数字は、とんでもない数字と考えてよい。
どこの国でもそうだが、失業率が20%を超えると、とたんに街角に失業者があふれるようにな
る。
つまり4人に1人が、失業者。
1〜2年の間なら、まだ何とかなる。
しかしそれが4〜5年もつづいたら、勤労意欲そのものが、消え失せる。
社会不安は増大し、社会秩序そのものも崩壊する。
スペインは、今、その危機的状況の中にある。

 スペインがそこまで病んでいるとは、知らなかった!

●内ゲバ

 MSN・ニュースは、こう伝える。
小沢一郎さんが、無罪になったことについて、

『民主党の小沢一郎元代表に無罪判決が下されたことを受け、政府・民主党内では27日、親
小沢派と反小沢派のさや当てが激化し「内ゲバ」の様相を呈してきた。
野田佳彦首相が「命を懸ける」と言い切る消費税増税関連法案の審議入りを目前に控え、政
権は瓦(が)解(かい)の一途をたどる』(以上、MSN)と。

 (注:「小沢さん」と「さん付け」で呼ぶのは、けっして尊敬しているからではない。
実は、その反対。)

 もとはと言えば、一連の裁判劇は、「西松事件」から始まっている。
MSN・ニュースから、一文を拾ってみる。
こうある。

『……特捜部は21年夏、中堅ゼネコン「水谷建設」元社長から、胆沢(いさわ)ダム受注をめぐ
り「元秘書らに1億円を渡した」との供述を獲得。
土地購入の原資4億円に、ゼネコンマネーが含まれていると見立て、小沢元代表本人の立件
を視野にした捜査が本格化した』(以上、MSN)と。

 今回の裁判で、無罪になったからといって、「シロ」というわけではない。
いくら小沢一郎さんや、そのチルドランの女性軍たちが涙を流し、それを喜んだとしても、疑惑
が消えたわけではない。
むしろ疑惑は、増大した。

 私たちは、その手法に、大きな反感を覚える。
つまり田中角栄のときもそうだったが、小沢一郎さんも、裁判が始まると、勢力の拡大をねらっ
た。
取り巻きが多くなればなるほど、それがそのまま無言の圧力団体となる。
使い古された手法だが、この日本では、効果がある。
小沢一郎さんがそうであったかどうかは別とし、だれしも、その胡散(うさん)臭さは感じていた
はず。
顔は心の鏡というが、あの顔を見て、小沢一郎さんを、誠実な人と思う人はいない。
今年のはじめ、日本へやってきた、オーストラリアの友人も、そう言っていた。

 で、その結果、民主党内は大混乱。
それが冒頭のMSN・ニュース。
内ゲバが始まりそう、と。

 ……私はこのニュースを読んだとき、日本も北朝鮮も同じと、感じた。
まさに平成の忠臣蔵。
小沢グループは、忠僕心だけで、政治を動かしている。
小沢チルドレンの国会議員たちは、「正義が通った」とはしゃいでいるが、その非現実感。
私たちの庶民感覚とは、完全に遊離している。
ズレている。

 民主党が政権をとると、ゾロゾロと国会議員を引き連れ、中国詣でをした小沢一郎さん。
小沢一郎さんも、小沢一郎さんだが、ついて行く国会議員も国会議員。
それに恥じることもなく、小沢派の国会議員たちは、また同じことを繰り返そうとしている。

 とくに野田首相を支持するわけではないが、今、日本の国家経済は崖っぷちに立たされてい
る。
そんな中、いまだに旧態依然の国盗り物語(=NHKの大河ドラマ)を、国会という場で繰り返し
ている。
その愚かさ。
その浅はかさ。

 ミーンナ、あのNHKの大河ドラマが悪い。
いまだに「織田信長こそが、理想の政治家」と豪語する政治家がいるのには、本当に驚かされ
る。

●くじら牧場?

 こんなニュースも載っていた。

『イルカの追い込み漁で知られるW県T町で、一部の湾を「くじら牧場」にする構想が持ち上が
っている。
湾の入り口を網で仕切り、イルカや小型くじらを「放牧」。
一緒に泳いだり、カヤックで回遊したりしながら、クジラたちと触れ合える海のサファリパークに
したいという。
同町は今後、沿岸管理者の県や湾内の真珠養殖業者らと交渉を進め、5年後をめどに事業化
を目指す方針。
水産庁は「こうした試みは他では聞いたことがない」としている』(以上、Yahoo・ニュース)と。

 「くじらは魚」とみるか、「くじらは知的動物」とみるかで、このニュースのとらえ方は大きく変わ
る。
つまり意識を支える、認識の問題。
恐らく太地町の人たちは、「くじらは魚」とみているのだろう。
だから「くじら牧場」?

 このニュースを読んだとき、即、私は映画『ウィリー(原題:Free Willy)』を思い浮かべた。
ウィリーは、シャチだが、感動的な映画だった。
最後にウィリーは、防波堤を越える大ジャンプをし、海へと逃げていく……。

 映画の話は別として、しかし「くじら牧場」には、どうしても違和感を覚えてしまう。
その必要性があって、そういう牧場を作るのなら、まだ理解できる。
たとえばくじらやイルカの数をふやすために、そうする、とかなど。
が、一方でくじらを殺しながら、他方で、くじらを飼い、それを観光収入につなげる?
そこには人間が原罪的にもつ身勝手さが、見え隠れする(?)。

 そうでなくても、そういう牧場を作れば、反捕鯨国の人たちの神経を逆なですることになる。
なぜ反捕鯨なのか。
捕鯨に反対する国や人たちの意見を、もう少し理解する必要があるのではないか。
でないと、日本は、ますます大きな反感を買うことになる。

 むずかしい話はやめよう。

 くじらを殺してはいけない。
イルカを殺してはいけない。
……とまあ、そういうふうに考える人たちが、「くじら牧場」を作るのなら、まだ理解できる。

くじらやイルカには、未知の部分が多い。
……その研究のためとか、そういうことなら、まだ理解できる。

さらに、くじらやイルカは、知的動物である。
……そういう意識をもっている人たちが、「くじら牧場」を作るのなら、まだ理解できる。

 が、そうでないから、そうでない。
私には理解できない。
言い換えると、今までいろいろな意見を聞いてきた。
たとえば「捕鯨は日本の伝統的文化である」とか、など。
しかし「くじら牧場」ということになると、「ナーンダ、結局は金儲けのためだったのか」ということ
になってしまう。

 この先、この「構想」がどうなるか、静かに見守りたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 くじら牧場 クジラ牧場 捕鯨 反
捕鯨)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【岐阜県・郡上八幡町へ】(はやし浩司 2012−04−28〜29)

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今、電車の中で、一息ついた。
コーラを口にした。
真っ白な日差し。
まぶしい……、というよりパソコンの画面が光る。
ブラインドを、下までさげる。

これから岐阜県は、郡上八幡町へ。
八幡城下町プラザ横、吉田屋旅館に一泊。
以前から、一度は泊まってみたいと思っていた。
その旅館に一泊。

ワイフは、チューハイを飲んでいる。
「キッチンドリンカーになるなよ」と声をかける。
「休みのときだけよ」とワイフ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読売新聞

 昨夕、読売新聞社(東京)から電話があった。
電話取材。
何でも東京都で、41歳の母親が、2歳の幼児を殺してしまったという。
それについてのコメント。

 つい先ほど、記事の確認の電話があった。
あわてて通路まで走ったが、そこで切れる。
待つことしばし。
2度目の電話。
「記事は、メールで送りました」と。

 記事は今日(4月28日)の夕刊(全国版)に載るとか。
が、肝心の私は、岐阜県の山の中。
夕刊を見ることはないだろう。

(記者の人が、記事をあとで送ってくれると言った。)

●母親心理

 2歳児前後の母親の心理。
(1)一体性と、(2)完ぺき性。

 一体性というのは、母子間の間に、「壁」がないことをいう。
この時期の母親は、自分イコール、子ども、子どもイコールという考え方をする。
本能に根ざしているだけに、それを母親に気づかせることは、ほぼ不可能。
本能に操られながらも、それを「私」と思い込んでいる。
私の意思でそうしている、と。
またそれが親の深い愛情の証(あかし)、と。
(それがまちがっていると書いているのではない。誤解のないように!)

 つぎに完ぺき性。
完ぺき性というのは、この時期の母親は、子どもに完ぺきさを求めやすいということ。
弱点、欠点があってはいけない。
遅れも許さない。
「標準」「平均」という言葉に、鋭く反応する。
たとえば言葉の発達が少し遅れた程度のことでも、大騒ぎする。
絶望感をもつ母親さえいる。
それぞれの子どもには、それぞれの子ども特有の発達特性というものがある。
それが理解できない。

 運動面がすぐれていても、言葉の面で遅れるということは、珍しくない。
もう少し大きくなれば、音感面ですぐれていても、数値能力面で遅れるということも、珍しくな
い。
が、もちろんその反対のこともある。

 たとえば自閉症児(「自閉症スペクトラム」)の中には、特異な才能を示す子どもがいる。
超難解な計算を、瞬時にしてしまう、など。
100桁の数を、瞬時に暗記してしまうのも、それ。
車のほんの一部を見ただけで、メーカーから車種まで当ててしまう子ども(4歳児)もいた。

 親はそういった天才児と思い込む。
それはそれ。
しかしこうした(こだわり)は、「能力」ではない。
能力とは区別して考える。
つまり教育の世界では、能力と認めない。
「能力」と認めるためには、教育的な普遍性がなければならない。
教育的効果によって、どんな子どもでも、そういう能力が引き出せる。
その方法があるか、ないか。
つまり、その方法論を実践するのが、「教育」ということになる。
実践できなければ、「教育」の範囲には、入らない。

 それはともかくも、母親は、常に「万能」を求める。
それが子育てをギクシャクしたものにしやすい。

 子どもを伸ばすコツ。
『得意分野を、伸ばす。不得意分野は、目を閉じる』、である。

 ついでながら、欧米では、「子どもは神から授かった子」という考え方をする。
だからたとえ子どもに何らかの障害があっても、日本人とはちがった考え方をする。
一方、日本人は、「子どもを自分の所有物」と考える傾向が強い。
だから子どもに何らかの障害があったりすると、「自分の責任」と思い悩。
その傾向が、より強い。

●蒲郡(がまごおり)

 たった今、JR蒲郡を出たところ。
このあたりには、いくつかの温泉地がある。
この10年間で、ほとんどのホテルや旅館に泊まった。

 ワイフが「あそこが、〜〜ね」と、さかんに話しかけてくる。
うるさい!

 ……今日は土曜日ということもあり、電車の中では、子どもの声も聞こえる。
大型連休の初日。
天気はまさに行楽日和(びより)。
今日の朝刊によれば、あちこちの高速道路で渋滞が始まっている、とか。

●録音機

 郡上八幡町の思い出は多い。
子どものころから学生時代まで。
よく行った。
町内の旅行会といえば、そちらの方面が多かった。
その郡上八幡町と言えば、盆踊り。
「♪かわさき」。
「♪郡上のなア〜、八幡〜ン、出ていくときはワ〜」という、あの歌。

 今回は、デジタルの録音機を用意した。
博覧館(祭り会館)というのがあって、そこでは常時、「♪かわさき(郡上踊り)」などの民謡を聞
くことができる。
それを録音する。
郡上の町をデジタルカメラに撮り、その上に、民謡を重ねる。
よいビデオができそう。
楽しみ。

●「日本海」の呼称問題

 韓国人は、どうしてああまで「日本海」の呼称問題にこだわるのか。
慰安婦問題にしても、そうだ。
ふつうではない。
病的ですら、ある。
もともと「東海」であったものを、日本人が勝手に「日本海」にしたのなら、まだ話もわかる。
しかし「日本海」という名前は、国際的に自然発生したもの。
それを今になって、「東海が正しい」とは?

 自己中心性もここまでくると、理解できない。
もしこんな論法がまかり通るなら、「メキシコ湾」を、「フロリダ湾」にすればよい。
アメリカの南にあるから、「南湾」でもよい。

 韓国の人たちが日本海を、「東海」と呼んでいたのは、至極、自然なこと。
日本海は朝鮮半島の東にある。
「東海」というのは、方向を示す言葉。
固有名詞ではない。
どうしてその「日本海」を、あえて「東海」にしなければならないのか。

 ……現在、韓国は、日本海と東海の併記を主張している。
が、そのうち、今度は、なし崩し的に、東海と日本海の併記にしたあと、日本海を消すつもりで
いる。
どうして自然の成り行きに任せないのか。

 わかりやすく言えば、『坊主憎ければ……』というのが、本音。
一言、付け加えると、あの福沢諭吉は、こう書き残している。
当時の韓国を訪問したあと、「あの国とは謝絶する」※と。
そのころを基準にして、日本海は日本海になった。
そのことは、以前、どこかに書いた。

 これに対して、韓国は、日本が提案した、「日本海の単独表記は否決された」(4月26日、IH
O(国際水路機関))と喜んでいる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

注※(2007年11月の原稿より)

かつて福沢諭吉は、こう言った。

「我は心に於て、亜細亜東方の悪友と謝絶するものなり」(脱亜論)と。
亜細亜(アジア)東方の国というのは、現在の韓国と北朝鮮のことをさす。

福沢諭吉のようなリベラリストですら、そう結論づけている。
なぜか? 
当時の朝鮮半島は、国としての「体」をなしていなかった。
では、現在の韓国(&北朝鮮)の反日感情の底流にあるのは何か。
答は明白。
韓国人にしてみれば、日本ごときが、アジアでナンバー・ワンであることが、気に入らないの
だ。

わかりやすく言えば、逆差別意識。
過激な民族主義(国粋主義)から生まれる、逆差別意識。
つまりそれがあるかぎり、日韓関係は、好転しない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●男の顔は履歴書

『男の顔は履歴書と言ったのは大宅壮一さんだが、(それを受けて吉行淳之介さんが「女の顔
は請求書」と)、人間の顔くらいおもしろいものはない』と言ったとか。
MSNニュースの「小沢一郎の隠し子スクープ」という記事の中に、そんな一節があった。

 男の顔は履歴書というのは、わかる。
しかしどうして女の顔は請求書なのか?
ただつぎのようなことは、よく思う。

 「女性(妻)には、苦労させてはいけない」と。
とくに金銭的な苦労。
生活態度がガツガツし始めると、とたんに、生活臭が顔に出てくる。
それが10年、20年とつづくと、生活臭が、醜悪さに変わる。
見苦しくなる。
男の顔は、たしかに履歴書だが、女の顔は、生活を映すカガミ。

 ……と書くと、「じゃあ、はやし(=私)、お前はどうなんだ!」と言われそう。
が、その前に、大宅壮一はどうなんだ、ということになる。
大宅壮一は、実に大宅壮一らしい。
そういう人が、「男の顔は履歴書」というのは、わかる。
が、私では役者不足。
いかにも、貧相。
底の浅さが、そのまま顔に出ている。
何とか、深み、重みをつけたいと思っているが、それができない。 

 だからこの話は、ここまで。

●「ツボ」という村

 岐阜からは、郡上八幡行、高速バスに乗る。
高速道路を走るから、高速バス。
そのバスが、故郷の美濃市を通り過ぎた。
その直後、眼下に、どこか見慣れた景色が飛び込んできた。
私の祖父の生まれ故郷である。

 「ツボ」という名前の村だった。
祖父は、8歳のとき、美濃町(美濃市)にある加治屋へ、丁稚奉公(でっちぼうこう)に出され
た。

 何人かいる兄弟のうちの、末っ子だったと聞いている。
名前を「銀吾」と言った。

 祖父はその鍛冶屋で、16歳まで働き、つぎの2年間、「礼奉公」というのをしたあと、18歳
で、独り立ちした。
当時は、そういう時代だった。
言うなれば、祖父は、実家から捨てられたようなもの。
が、それ以上に、実家は貧しかった。
やむをえなかった。

●祖父の実家

 その祖父の実家へ、私は小学6年か、中学1年のとき、自転車で行った。
祖父が連れていってくれた。
道端の、道路から少し入ったところにあった。
幅が、2間程度。
長さが、4間程度ではなかったか。
壁といっても、土壁を塗りたくっただけの、粗末な家だった。
だれも住んでいなかった。
荒れたままだった。
裏側から見た様子しか記憶に残っていないが、窓といっても、木枠などはなかった。

 そのあとしばらくして、今度は、独りで見に行った。
そのとき私は、中学生だった。
その家を見たとき、なぜ、祖父が8歳で丁稚奉公に出されたか。
その理由が、よくわかった。

●王子様、王女様

 が、祖父は、一度とて、自分の父親や母親を悪く言ったことはなかった。
聞いたこともなかった。
当時はそういう時代だったし、それがふつうの「親子関係」だった。
今のように、子どもが王子様、王女様になったのは、ここ30〜40年のこと。
今では、親は腫れ物にでも触れるかのように、子どもを育てる。
またそれが常識になっている。
が、私の時代を振り返っただけでも、私は今の時代のほうが、おかしい。

 どうして子どもが、王子様なのか。
王女様なのか。
先日亡くなった、K氏(享年82歳・浜松市引佐町)は、いつもこう言っていた。

「山から薪(たきぎ)を拾ってくるのは、子どもの仕事だったよ。
学校から帰ってくると、みな、暗くなるまで、薪拾いをしたものだよ」と。

 私の時代でも、私自身、家族旅行など、小学6年生までに1度しかしていない。
あとは町内で行く、町内旅行だけ。
それがふつうだったし、だれも不平、不満を言わなかった。
が、今は、ちがう。
どうちがうかは、ここに書いたことと比較してみればわかる。

 が、昔がよいとか、悪いとか、そんなことを書いているのではない。
子どもへのサービスは、時代とともに、変わる。
基準そのものが変わる。
今の基準が、けっして、標準的なものではない。
今、子どもに薪拾いをさせたら、「虐待」と言われるかもしれない。

ただ私の印象としては、現在は、サービス過剰。
手のかけ過ぎ。
時間のかけ過ぎ。
お金のかけ過ぎ。

やらなくてもよいことまでやり、かえって子どもに嫌われる。
子どもをだめにする。
昔でいう「ドラ息子・ドラ娘」は、当たり前。
今では、そうでない子どもを探す方が、むずかしい。

●新緑

 バスの中で、私はワイフとそんな話をした。
「要するに子どもの機嫌を取り過ぎなんだよ」と私。
「そうね」とワイフ。
機嫌を取るから、依存性がついてしまう。
「子どもは、してもらうのが当たり前」と考える。

……バスは、やがてすぐ郡上八幡町に入った。
若いころは、眼下の旧道を走った。
そのこともあって、郷里の美濃市から遠い町のように感じた。
が、今は、30分もあれば、着いてしまう。

 新緑が美しかった。
深い山々を背景に、薄黄緑色の木々が、青い空の下で、美しく輝いていた。
ワイフは、ときどき、こうつぶやいた。
「今が、いちばんいい季節ね」と。

 そう、今がすばらしい。
いちばん、すばらしい。
新緑の季節。

●郡上八幡町

 着くとすぐ、カメラを首にかけ、市内を歩いた。
日差しが強かった。
ワイフは一度、吉田屋に戻った。
日傘を取ってきた。
私も一度、戻った。
カメラの三脚を取ってきた。

 私には、ひとつの目的があった。
吉田屋から歩いて数分のところにある、博覧館(祭り会館)へ行くこと。
そこで郡上踊りの民謡を、録音すること。
デジタル録音機も、持参した。

 ちょうど3時からの説明が始まるときだった。
ビデオを回してよいかと聞くと、1人の女性が、指で、OKサインを返してくれた。
私は郡上踊りの説明を受けた。
踊り方も習った。

 ……といっても、踊り方は、知っている。
体にしみついている。
子どものころから高校生になるまで、夏になると、毎晩、踊った。
その私が踊り方の説明を受ける。
おかしな気分だった。
自分であって、自分でないような……。
地元の人間であるはずなのに、身分はよそ者。
踊り方を知らないフリをしながら、指示に従って手を動かす。
みなといっしょに笑う。

 そのあとワイフと町中をぐるりと一周した。
途中「美濃」という喫茶店に入った。
私はメロン・ソーダ。
ワイフはアイスクリームを注文した。

●吉田屋旅館

 吉田屋旅館は、町の中心部にある。
ときどき何かのことで郡上八幡へ来るたびに、「一度は泊まってみたい」と思っていた。
その願いが、今日、かなった。

 もちろん星は、文句なしの5つ星。

(ただし部屋にトイレ、風呂はない。
新館のほうには、ユニットバスだが、風呂とトイレがついている。
旧館のほうは、……つまり今回私たちが泊まったほうは、昔の料亭風。
どちらにするかは、宿泊を申し込むとき、よく相談してみたらよい。)

昔風の、つまり大正時代風の、格式ある旅館。
電話番号も、0001になっていることからも、それがよくわかる。
部屋に入ると、あの独特の匂い。
湿った木々の、古い屋敷の匂い。
私の実家の匂い。
母の実家の匂い。

中庭には、小さいが、よく手入れされた植えこみがあった。
あちこちに大きな石が、配してあった。

お茶を飲んだとたん、自分の体がスーッと部屋の中に溶け込んでいくのがわかった。

●同窓会

 明日は、美濃市で、高校の同窓会がある。
こちらを11時少し前のバスに乗れば、ちょうど12時ごろ、美濃市に着くことができる。
私はそれに出席する。
ワイフは、その間、美濃市の観光をする。
小倉公園で、味噌田楽(でんがく)を食べたらどうかと、提案した。

 「終わるのは3時ごろと思う」と私。
「そうね、それくらいね」とワイフ。

 今回は、MR君の大賞祝いを兼ねた同窓会。
MY君から、そのような連絡が入った。
今では、毎年年賀状を交換しているのは、その2人だけ。
高校時代といっても、それくらい遠い昔。
本当にそんな時代が、私にもあったのかと思えるほど、遠い昔。
その分だけ、みなと疎遠になってしまった。

 ともあれ、こうして無事、出席できることを喜ぶ。
中には、すでに他界した人もいる。
病気と闘っている人もいるだろう。
出席できるだけでも、御の字。
田丸謙二先生は、いつもメールでこう書いてくる。

「感謝、感謝、感謝です」と。
私も、それをまねる。
感謝、感謝、感謝、と。

●食事

 食事は、大満足。
量はどうしても多くなってしまうが、それぞれに趣向をこらしてあった。
ひとつひとつ、ワイフとああでもない、こうでもないと言いあって食べた。
懐石料理は、それが楽しい。

 鰻の蒲焼も出た。
それだけでも一食分。
このあたりでは、取った鰻をそのまま焼く。
浜松市のほうでは、一度蒸したあと、そのあと焼く。
だからこちらの蒲焼は、食感としては、かたい。
が、その分だけ、肉がしまっていて、おいしい。

(おわび:ここで「懐石」と書きましたが、「懐石」ではなく、「会席」でした。)

●ビデオ撮影

 こうした旅行に来ると、私はいつも食事中の様子をビデオカメラに収める。
不思議に思う人もいるかもしれない。
しかしそれには理由がある。

 ……私は子どものころ、いつもおなかをすかしていた。
そんな中、ときどき祖父に連れられ、時代劇を見に行った。
その時代劇。
当時はかならずといってよいほど、侍たちが宴会をするシーンがあった。
私はそれを見て、「ぼくも俳優になりたい」と思った。
本気で思った。
「俳優になれば、いつも、ごちそうを食べられる」と。

 そういう思いが、今でも、心のどこかに残っている。
それがこういう所で、顔を出す。
旅行先で何かのごちそうを食べるたびに、こう思う。
「これが、ごちそう」と。
だからビデオカメラに収める。

 最初は軽い気持ちからだったが、今は、ほとんど毎回収めるようになった。
それがそのまま、ビデオを撮るときの、習慣になってしまった。

 ……それに旅行先で、食事タイムほど、楽しいものはない。
だからビデオカメラに収める。
あとで再生したとき、その楽しさがよみがえってくる。

●午後9時半

 先ほど2度目の入浴をすました。
どうやら旧館のほうの泊り客は、私たち夫婦だけ。
昼中は、多くの観光客でにぎわっていた通りだったが、日没とともに、人影が消えた。
みな、車でやってきて、車で帰っていく。
日帰り客。

 この傾向は、どこの観光地も、同じ。
高速道路ができたおかげで、泊り客は、ぐんと減った。
温泉地でも、今では日帰り客のほうが多いと聞く。
たいていは昼食をはさみ、温泉につかって帰る。

 ワイフはすでに寝息をたてて熟睡状態。
私も眠いはず。
今日は昼寝をしなかった。
が、頭の中のモヤモヤは、まだ残っている。
書きたいことがそこにあるはずなのに、それが吐き出せない。
このもどかしさ。

 ……やはり、今夜は、このまま眠る。
明日の朝、このつづきを書く。

●午前4時

 午前4時に目が覚めた。
枕元の明かりをつけて寝たのが悪かった。
「もう朝か?」と思いながら、目を覚ましてしまった。
それに、のどがカラカラだった。

 しばらくそのままにしていたが、頭が冴えてしまった。
で、起床。
こういうとき手元にパソコンがあるのは、ありがたい。
退屈しない。

●部屋の様子

 こうした旅館では、間取りが迷路のように入り組んでいる。
それがまた楽しいわけだが、この部屋にしてもそうだ。
廊下をくねくねと曲がって、やっとたどり着く。

 部屋は、10畳プラス縁側付き。
正方形。
床の間に、ユリが5〜6本、それにスズランが生(い)けてあった。
まさか……と思いながら指で触ってみると、本物だった。
そう言えば、着いたとき廊下で、お茶の葉の香りがした。
泊り客にしてみれば、こうした本気度がうれしい。

 料金は、1人1泊、16000円弱。
これに飛騨牛の焼き物がつくと、19000円弱。

●味噌

 ……かといって、今は、とくに書きたいことはない。
あえて言えば、味噌の話。

 今日、通りを歩いていて、味噌屋に入った。
いろいろな味噌が並べてあった。
「郡上味噌」というのもあった。
少し試食してみたが、舌が驚くほど、塩からかった。
このあたりでは、昔から塩が貴重品。
料理の味付けも、その分だけ、全体に塩からい。

 で、私たちは、岡崎で生まれたという、「八丁味噌」を、2パック買った。
濃い、丸味のある味噌で、具に何を入れてもおいしい。
簡単な食事のばあい、白いご飯とみそ汁だけという家庭も、少なくない。
そういうときは、味噌汁の中に入れる具を、多くする。

 郡上まで来て、岡崎の味噌を買う。
ハハハと笑いながら、岡崎の味噌を買う。

 ……やはり、もう一度、布団の中にもぐることにする。
今日は、同窓会もあり、途中で昼寝をする時間がない。

●チェックアウト

 今、部屋で最後のお茶を飲んでいる。
時刻は、9時を少し回ったところ。
バスは、11時27分に出発する。
それまで1時間ほど、時間がある。

 隣の城下町プラザでは、日曜日(今日)の朝は、朝市を開いているという。
ここを出たら、行ってみる。
また盆踊りの季節に、もう一度、来てみたい。
先ほど、女将に相談したら、旧館なら、まだ空いている、とのこと。

 「どうしようか?」と聞くと、「そうね……」と。

 が、8月には、大きな講演会が1本、入っている。
その日にちが、ここでは不明。
一度家に帰り、スケジュールを調整してみる。

 「これも冥土のみやげ」と私。
「そんな言い方はよくない」とワイフ。

●そうもん橋(惣門橋)

 町から岐阜バス営業所まで、歩いた。
30分ほど、歩いた。
一度、北へ歩き、トンネルをくぐり、その先へ。

 途中、脇道へそれたところで、「そうもん橋」を見つけた。
「♪かわさき」に出てくる、「そうもん橋」である。

 『♪心中なア〜、したげなア〜、そうもん橋でエ〜』(歌詞)と。

 小さな橋だった。
幅は、車1台分。
長さは、5〜6メートル。
こういう発見があるから、旅は楽しい。

 ワイフをその横に立たせ、記念撮影。

●岐阜バス営業所

 岐阜バス営業所へは、発車時刻より、1時間ほど前に着いた。
待合室に入り、飲料水を買った。

「なあ、同窓会、ドタキャンし、白鳥(しらとり)から大野(福井県)まで行かないか?」
「同窓会は?」
「ウ〜ン、そうだな……」と。

 絶好の行楽日和。
ほどよく暑く、歩けばひんやりとした森の冷気。
先ほどから、ワイフは、つぎの旅行先を探している。

「日本平(だいら)へ行きたいわ」
「しかしね、車でないと、無理だよ」
「新東名を使えば、すぐよ」と。

 日本平には、昔、日本平ホテルというのがあった。
今でもあるらしい。
通訳をしていたころ、外国から賓客が来ると、いつもそこへ案内した。
その中の1人が、スウェーデンから来た、エリザベス・ベッテルグレン女史。
スウェーデン性教育協会の会長をしていた。
たしか娘を1人、連れてきた。
とくに印象に残ったのには、理由がある。
女史が、「Free Sex」を説いて回ったため。

 誤解がないように書いておくが、女史が説いたのは、行為としてのSexではなく、性差別から
の解放。
「男だから……」「女だから……」という差別。
その性差別からの男女を解放という意味で、ベッテルグレン女史は、「Free Sex」という言葉
を使った。
(現在は、「ジェンダー」という言葉を使う。)

 ……しかしFree Sexというよりは、性の荒廃がここまで進むと、行為としての実技指導も、
そのうち必要になるかもしれない。
浜松市内でも、今では女子中学生の中絶手術など、珍しく何ともない。

 その日本平ホテルに泊まった夜のこと。
地元のテレビ局が、取材に来たのを覚えている。
ベッテルグレン女史、つまりエリザベス・ベッテルグレン女史というのは、そういう人だった。

●名鉄電車

 同窓会も無事終わった(?)。
予想以上に楽しい会だった。
今は、その帰りの電車の中。
みな、再来年の再開を約束し、別れた。
次回は、高山市にて。
T君が、その町で内科医をしている。
楽しみ!

 ……名鉄電車は、もうすぐ知立(ちりゅう)。
猛烈な睡魔が襲ってきた。
眠い。
つらい。

●恋話

 ……同窓会では、どうしても恋話に花が咲く。
そこらの中学生や高校生たちと同じ話。
「あのとき〜〜だった」、「このときは〜〜だった」と。
その結果、いくつかの新事実。

 こちらが思っていたほど、相手の女性は何とも思っていなかった。
反対に、そのときは軽く受け止めたが、相手の女性は、それを真剣に悩んでいた、など。
心というのはそういうもの。
かみあうことは、めったにない。
たがいに「ナーンダ、そうだったの!」と。

 誤解といえば、誤解だが、その誤解が楽しい。
話に花が咲く。
何人かが、「時効」という言葉を使った。
が、「時効」というより、「今さら」というところ。
今さら誤解も何も、あったものではない。
こんなショッキングな話も。

 私が交際していた女性が、私のほかにも別の男とも交際していたのが、わかった。
「エッ、本当?」と。
驚くこと、しばし!

私「ぼくは、知らなかった……」
女「ちがうわよ。あの人ね、林君じゃあなくて、G君が好きだったのよ」
私「でも、ぼくともつきあっていましたよ」
女「そんなはずは、ないわよ」
私「……?」と。

 それを横で聞いていたX君まで、こう言い出した。
「実は、ぼくも、つきあっていた……」と。

私「ちょっと待ってよ。ぼくは、純愛だと信じていた……」
X「林君(=私)ともつきあっていると、本人は言っていたけどね……」と。

 ……あとは、笑い話。
ゲラゲラ、ハハハと笑って、おしまい。

 それにしても、女性って、すごいね……ということで、郡上八幡町への旅行記は、これでおし
まい。

 「楽しかったね」「楽しかったわ」と。
ホント!
楽しかった。

 ……つぎは、日本平!
日本平ホテル!

(先ほどネットで調べたら、日本平ホテルは、目下再建設中とか。
2012年の秋、新装、オープンすると、あった。)

(はやし浩司 2012−04−29)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 郡上八幡 吉田屋 吉田屋旅館 はやし浩司 同窓会)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●『自動車技術 2012年05月号』

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夕、郡上八幡+同窓会から帰ってきたら、
『自動車技術』(自動車技術界発行・定価2500円)
が届いていた。

全世界配布版である。

で、問題は、これをどうBLOGにUPLOADするかということ。
方法としては、(1)1度、スキャナーでパソコン本体に取り込み、
(2)たとえばFrickr」のようなストーレッジ・サービスに、
保存する。
(3)そこから埋め込みコードを引き出し、それをBLOGに貼り付ける。

従来はそういう方法を繰り返してきた。
が、今回の『自動車技術』誌は、A4サイズの大型雑誌。

スキャナー時の解像度を落とすと、文字が読めなくなる。
かといて、300dpiで収録すると、画像が大きくなり過ぎ、
通常のノートパソコン(12〜13インチ)では、画面からはみ出してしまう。

・・・ということで、いろいろなサイズをここに収録してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6980283232/" title="img333 by 
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++++++++++++++++以上、300dpi版++++++++++++++++
+++++++


一度BLOGに実験的に、UPLOADしてみたが、ほぼだいじょうぶかな(?)というところ。

みなさん、おはようございます。

はやし浩司 2012−04−30


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●5月xx日(不潔な日本の温泉?)

★年長5歳児(指導1か月目)

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★小4(組み合わせと場合の数)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/0NLbSLUukQ8" 
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 5月xx日に、オーストラリアの友人が来る。
その連絡が、今朝(5月1日)、届いた。
楽しみ。
北海道へ行ったついでに、浜松へ寄ってくれる、と。
詳しい日程は、まだわからない。

 ところで、こんな深刻な話。

 少し前、別の友人夫婦が、オーストラリアから来た。
日本の旅館へ連れていった。
やや古い、どこかかび臭い温泉だった。
(どこも温泉というのは、かび臭いものだが……。)

 そこでのこと。
オーストラリアの友人夫妻は、それが原因で、奥さんのほうは尿道炎になってしまった。
ダンナ(友人)のほうは、夜中にダニに刺されてしまった。
大きく、真っ赤に腫れた。

 私のワイフも、少し前、古い温泉に入り、水虫をもらってしまったことがある。
いろいろ思い起こしてみるが、風呂場の周囲の石が原因ではなかったかと思う。
軽石のようにざらざらしていた。
ワイフが言うには、ワイフは、その石の上で、足をこすってしまったという。

 オーストラリアの友人夫妻にしても、また私たち夫婦にしても、抵抗力が弱い。
温泉にしても、掛け流しを歌っているからといって、安心できない。
浴場を洗ったり、消毒をしているというところは、めったにない。
つまり雑菌だらけ。
しかも温泉ほど、あぶない!

 そのあとまたその夫婦は、日本へやってきた。
が、こう言った。

「温泉へは、二度と行きたくない(Never again)」と。
で、理由を聞いたら、先に書いたように教えてくれた。

 で、実は今度来るオーストラリアの友人も、同じようなことを言っている。
「日本の温泉は、不潔だから、入りたくない」と。
こうも言った。
「日本では、お尻を洗った湯で、顔を洗っている」と。
日本の温泉に入って、何かあったらしい。
今度会ったら、それを聞いてみる。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【日本の温泉業界のみなさんへ】

 「日本の温泉は不潔」という、風評(?)が、世界的にかなり広がっている。
実際、不潔。
日本人の私でさえ、そう思っている。
だから温泉では、湯につかるだけ。
けっしてその周辺では、体を洗わない。
洗っても、かならずシャワーで体を流してから出る。

 見た目には美しい。
(また美しく、清潔そうな写真を並べているが……。)
が、昔とちがい、今は、日本全体が清潔になった。
つまりその分だけ、日本人の抵抗力が落ちた。
だから不潔な温泉に入ると、いろいろな細菌性の病気をもらってしまう。

 かなり大規模な温泉になると、毎日1度は、清掃しているよう。
が、そうでないところは、そうでない。
不潔というか、不潔極まりない。
……ということを、みなが、薄々、気がつき始めている。

 厚労省の検査が入る前に、温泉業界は自主的に「清潔検査」なるものをしたらよい。
殺菌処理も必要。
外人観光客を呼び込むのは、そのあと。
あるいは日本の外で、どのような風評が広がっているか、一度、自分たちで調べてみたらよ
い。
それを知ったら、温泉業界の人たちも、かなりがっかりするはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の温泉 病原菌がいっぱい
 不潔)


●郡上八幡町vs美濃市

 昨日、郡上八幡町に一泊し、浜松へ帰ってきた。
私は同窓会に出た。
その間、ワイフは美濃町(美濃市)の町中を散策した。
ともに、古い街並みを売り物にし、観光事業に力を入れている。

 以下、ワイフの評論。

(1)郡上八幡町には、活気があったが、美濃町にはなかった。
(2)郡上八幡町では、町の人たちが道路へ出て、仕事をしていた。
   美濃町では、みな、家の中に引っ込んでいた。
(3)郡上八幡町では、みな、やる気を出していた。
   美濃町では、店の中も、がらんとしていた。(売り子の姿さえ、見えなかった。)
(4)郡上八幡町では、若い人たちが楽しめるグッズを、あちこちで売っていた。
   美濃町では、客が入っているのは、うどん屋とか、食べ物屋だけだった。
(5)郡上八幡町では、古い家並みはほとんどそのまま。
   美濃町では、通りは、見た目にはきれいで、さっぱりしているが、どの店もドアが閉まって
いて、入りにくかった。
(6)郡上八幡町には、博覧館のような展示館があったが、美濃町にはなかった。
(7)郡上八幡では目立たなかったが、美濃町ではシャッターをおろしている店が目立った。

 つまり郡上八幡町では、観光客がお金を落とす。
しかし美濃町では、落としにくい、と。
このちがいが、5年、10年と積み重なり、現在の「差」となった?
観光客が来ても、そのまま素通りしてしまう。

私「美濃町の人は、昔からプライドが高いからね。世間体ばかり、気にしている」
ワ「そんなところがあるわね」
私「通りに出て、観光客を呼び込むということができない」
ワ「客が入るのを待っているというわけ」
私「まあ、そんなところだね。が、それでは勝負にならない」と。

 町興(おこ)しで成功しているのは、滋賀県の長浜市。
美濃町の人たちも、一度は、長浜の町をのぞいてみたらよい。

【提案】

(1)もっと泥臭くなる。お金がほしかったら、「欲しい」と言って、表に出る。
(2)町中の人たちが、大正時代の服装をするのも一案。
(3)家だけではなく、籠(かご)や大八車を置いたりし、町全体を博物館化する。
つまり観光客を、もっと楽しませる。
そういう工夫が必要。
「どうだ、これが明治、大正の町だ」と威張っていてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 美濃町論 美濃市論 美濃市は
どうあるべきか 美濃町の観光 美濃市の観光)2012/05/01


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【日本政府の放射線対策・論理の穴】

●乗馬

 朝起きると30分のウォーキングとランニング。
それがすんだら乗馬マシンで、運動。
その乗馬マシンに乗っていたら、ワイフが起きてきた。

私「ぼくは、今、馬に乗って牧場を見回っている」
ワ「あら、どこの牧場?」
私「ワイオミングの牧場……。広いんだよ。何百エイカーもある」
ワ「何を見回っているの?」
私「野菜と……境界……。あの山の向こうにはインディアンが住んでいる」
ワ「インディアン?」
私「そう、ときどきぼくの牧場を荒らすからね」

ワ「野菜って……ネギとレタス?」
私「そうだよ。それにトマトとキュウリ……」
ワ「本物の馬でなくて、残念ね」
私「ううん、本物だよ。こうして乗っていると、本物だよ」
ワ「楽しいわね」
私「そう、とっても楽しい」と。

 乗馬マシンは、庭のほうに向けてある。
ときどき「ハイヨー」と声をかける。
馬の名前は、「ハンナ」。
先日死んだ、犬のハナの名前をつけた。

 少し前まで、ウィンチェスターの銃をもっていた。
もちろんおもちゃだが、それをもって乗馬マシンに乗ると、さらに楽しい。

私「あのね、広い牧場も、ぼくの家の庭も、同じだよ。ともに光が織りなす無の世界」
ワ「……?」
私「広いと思えば、広い。空間というのは、そういうもの」
ワ「……?」
私「あのね、空間の広さはね、見えるものを基準にして考えてはだめということ」と。

 自分でも、何を言っているかわからなくなったので、この話はここまで。
大切なことは、運動をすること。
つづけること。
が、ただ運動しているだけでは、おもしろくない。
だから、何かの空想をする。
その空想が、単調な運動を楽しくする。

 さあ、今日も始まった。
がんばろう。

午後から、ワイフとドライブ。
今日は、隣町の豊橋まで行き、八丁味噌を使った、鍋料理を食べてくるつもり。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●論理の帰結

●毒だんご

 ここに10個のだんごがある。
うち、1個には、毒が入っている。
そういうとき、あなたは、そのだんごを食べるだろうか。
あるいは、子どもに、それを食べさせるだろうか。
答は「NO!」。
これは論理の問題ではない。
常識。

 では、どうするか。

 まず一時的であるにせよ、だんごを食べるのを禁止する。
その上で、だんごを1個ずつ、調べる。
安全とわかったものだけを、食べる。
子どもに食べさせる。

これが論理(ロジック)である。
が、今、この日本では、その逆のことが起きている。

(1)部分的な検査(=サンプル検査)だけをする。
(2)放射性物質の値が基準値以下であれば、安全と宣言する。
(3)全国に出荷する。

 が、すべての食品を検査するわけではない。
あくまでも「サンプル」。
が、それだけではない。
中には、こうした検査を通さないで、出荷する人もいる。
こうして多くの、汚染された食品が、全国に出回る。

 「たまたま検査してみたら、放射性物質が見つかりました」と。

 この「たまたま」という部分が、恐ろしい。
先月は、愛知県の岡崎市でも、汚染されたシイタケが、見つかった。
幼稚園の給食に出されていたという※。
ある親が、たまたま検査してみたら、見つかったという。
そのシイタケは、東北のある県で栽培されたものだった。

●出荷停止

 論理的に考えてみよう。
まず毒が入っただんごがあったとする。
放射性物質に汚染された食品でもよい。
そういうときは、全量すべて、一時的であるにせよ、出荷停止にする。
そのうち、検査により安全と確認されたものだけを、出荷する。
これが論理(ロジック)である。

 が、これに対して、「検査が間に合わない」と主張する人がいる。
だったら、検査態勢を徹底すればよい。
間に合わないから、サンプル検査ですます……というのは、あまりにも危険。
危険というより、非ロジカル。

 またそれによって被害を被(こうむ)る人がいるなら、それは国が補償する。
つまり出荷停止により、産品を出荷できなくなった人に対しては、国が補償する。
それには、ちゃんとした理由がある。

(1)放射能被害には、「しきい値」なるものは存在しない。
(2)潜伏期間は、2〜5年。放射線による被害が顕在化するのは、10〜40年後。

●しきい値

 私も3・11大震災後、はじめてこの言葉を知った。
「しきい値」。
「閾値」と書く。

 たとえば毒物でも、薄めれば薬にもなるという。
若いころ、ブラジルの毒蛇研究所というところへ行ったとき、それを知った。
毒物は、ある一定以上の濃度になると、毒物になる。
それ以下では、害はない。
害がないどころか、薬にもなるという。

 その境目の値を、「しきい値」という。

 が、放射性物質には、それはない。
たとえば「500ベクレル以上は危険」とか、「500ベクレル以下だから、問題はない」とか、言
う。
しかしこういう定め方そのものが、ナンセンス。
10ベクレルでも、1ベクレルでも危険。
たとえば放射性プルトニウウムのばあい、たった1粒(何十分の1ミリ)でも体内へ入れば、確
実にがんを引き起こす。
遺伝子や染色体に影響を与えるから、たとえその人は無事だったとしても、子どもの代、孫の
代に、症状が出ることもある。
「水で薄めれば安全」というような問題ではない。

●たまたま……

 こうして放射性物質は、ありとあらゆるものにしみ込み、全国に拡散する。
食品だけではない。
建設資材、木材、砂利などなど。
そのつど、みな、「たまたま……」という言葉を使う。
「たまたま見つかった」と。

 が、問題は、その(たまたま)以外のもの。
それがこの先、5年とか、10年をかけ、全国に拡散し、それぞれの場所で、人体に蓄積する。
一説によると、この先、100万人単位でがん患者が激増するだろうと言われている。
が、そうなったとき、過去を悔やんでも、始まらない。
「どうして、出荷を停止しなかったのか」と。

●論理の欠落

 東北の人たちですら、現地の農産物を食べていないという。
少し離れた千葉県の人たちですら、食べていないという。
どの家にも、ペットボトルの水が、山のように積んであるという。

 一方、東北地方で作られた産品は、全国に広がっている。
たとえば今年に入ってから、横浜市で、汚染シイタケが見つかった。
これも「たまたま」見つかった※。

 販売業者は、静岡県の藤沢市にある会社だった。
その会社は、東北のある県からシイタケを買い、袋詰めにし、横浜で売っていた。
グーグルアースで私が測定してみたら、なんと直線距離にして、800キロも移動していたことに
なる。
岡崎市で「たまたま」見つかったシイタケは、もっと長い距離を移動していた。
たかがシイタケが、800キロ!

 私はこの「800キロ」という距離の中に、作為的な悪意を覚えてしまう。
それともそれ以前から、シイタケというのは、そういう食品だったのか?

●危険な4号機

 前にも書いたが、危険なのは、4号機。
もし4号機に何らかの事故が起きれば、その被害は今まで程度ではすまない。
東京はもちろん、この浜松市あたりまで、人は住めなくなる。
4号機にだけでも、今までの核実験すべてで排出された放射性物質以上の、放射性物質が詰
め込まれているという。
それがわかっただけでも、「安全宣言」など、とんでもないこと。

注※
『愛知県豊橋市保健所は5日(2012年4月5日)、改定前の国の暫定規制値(1キログラム当
たり500ベクレル)の2・8倍に当たる1400ベクレルの放射性セシウムを検出した茨城県産
干しシイタケが、愛知県岡崎市内の幼稚園の給食に使われたほか、豊橋市の店頭で販売され
たと発表した』

注※(産経MSNニュースより)
『横浜市は9日(2012年2月9日)、港北区内のスーパーで販売されていた袋入り乾燥シイタ
ケから、食品衛生法の定める暫定基準値1キロ当たり500ベクレルの4倍を超える同2077
ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。
すでに7袋が販売されており、市は出荷した加工業者のある静岡県に通報、販売したスーパー
に回収を指示した。

 独自に調査した市民からの通報を受け市が9日に検査した。
高濃度のセシウムが検出されたのはスーパーチェーン「BY」の綱島樽町店が販売していた賞
味期限が来年1月10日の乾燥シイタケの袋詰め「小粒どんこ」。
静岡県藤枝市の「Oフード」が80グラムずつ袋詰めして出荷した同スーパーの専売品。
加工業者によると、乾燥シイタケの産地は主にI県という。
 スーパーによると、綱島樽町店では20袋を入荷し、うち7袋を販売。
ほか2店でも店頭に並んだが、購入者はいないという』(以上MSNニュースより)と。

【付記】

●アーニー・ガンダーセン

 アーニー・ガンダーセンは、週刊朝日誌へのインタビューで、こう述べている。

『……(アーニー・ガンダーセンの)著書では、「4号機のプールで火災が起きたら、日本を脱出
せよ」と警告していますね。
(ガンダーセン、アメリカ原子力技術者)「4号機の核燃料プールは、今も日本列島を物理的に
分断するほどの力をもっています。
震災時、このプールには炉心数個分もの使用済み核燃料が入っていたのです。
大気圏内で行われた過去の核実験で放出された総量に匹敵するほどの、放射性セシウムが
眠っています』(以上、週刊朝日誌より)と。

 4号機の事故は、日本だけの問題ではない。
また日本だけの問題ではすまない。
だから今、世界中の科学者たちが、4号機を問題にしている。

●終わりに

 今の段階で、原発賛成とか、反対とか、そういう段階の議論をしても、意味がない。
まず5年、待つべき!
10年でもよい。
その結果を見て、賛成、反対を論ずればよい。
何ごともなければ、それでよし。
私もそう願うが、もしそうでなければ、そうでない。

 あのチェルノブイリでは、半径600キロあたりで境界線が引かれている。
(ちなみに、福島第一原発から、この浜松市まで、直線距離にして、420キロ!)
そして今の今も、(25年もたった今の今も)、被害者たちは、その後遺症で苦しんでいる。
もし今、そのチェルノブイリ周辺で、原発賛成か反対かを聞けば、恐らく、「お前、アホか」と笑
われるだろう。
が、それはそのまま、この日本の近未来図と考えてよい。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩

読売新聞(2012−04−28)全国版
●2歳児を殺害した、母親について

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6991613224/" title="img336 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm9.staticflickr.com/8163/6991613224_
a2f5c85b1d_b.jpg" width="743" height="1024" alt="img336"></a>


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●モーフィング

 今朝自分の顔をモーフィングしてみた。
うまくBLOGに載せられるかどうか、実験してみる。

(1)HTML版で保存したため、ワードには張りつけられなかった、

(2)見てくださるかたは、以下のアドレスをクリックしてみてほしい。

http://saizensen101114.ninja-web.net/

左上画面で、14歳から64歳までの変化を見ていただける。

人間の顔の変化を改めて、知る。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 モーフィング はやし浩司 読売
新聞)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【人間不信論】(マドンナ論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前、高校の同窓会に出た。
楽しかった。
その席でのこと
昔の恋話(こいばなし……若い人たちは、「恋バナ」という)に花が咲いた。
こうした恋話に花を咲かせたのは、15年ぶり、それとも20年ぶり?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

●デフォルメ

 絵画、彫刻の世界には、デフォルメという言葉がある。
写実主義に対して、「デフォルメ」という。
同じように、もの書きの世界でも、ときどき「デフォルメ」という言葉を使う。
当の本人とわからないように、「形」を変える。
「内容」を変える。
「ストーリー」を変える。

 そうでもしなければ、当の本人の名誉に傷がつく。
高校の同窓生ともなれば、なおさら。
が、いくらデフォルメしても、その向こうにある事実は、ひとつ。
まずその事実。

●A子さん(女性)

 私はある時期、高校の同級生の女の子とつきあっていた。
名前を「A子さん」としておく。
「つきあう」というのは、「つきあう」という意味。
プラトニックな関係から、濃密な肉体関係まで、いろいろある。
幅が広い。
年齢(学年)があがれば、当然、後者の関係に近づく。

 そのA子さんの話を、だれかがしていた。
名前が聞こえたので、その輪に、私も加わった。
「あの人、どうしている?」「わからないわ」と。

 で、私は、こう言った。
「ぼくね、A子さんと、〜〜時代、つきあっていましたよ」と。
今さら隠すような話でもない。
すると、すかさず、A子さんをよく知るという、つまりA子さんの実家の近くに住んでいるB子さん
が、こう言った。

「あらっ、そんなはずないわよ。A子さんが好きだったのは、X男君よ。林君(=私)じゃあ、ない
わよ」と。

 実は、X君の名前は、記憶のどこかで聞いた覚えがある。
が、その当時、Aさんにとっては、すでに過去の人と思っていた。

私「なんだ、好きな人がいたのか」
友「そうよ。ずっと好きだったみたいよ」
私「ぼくは、純愛かと思っていた」
友「そんなわけないでしょう」と。

 X君はスポーツマンで、背が高い。
私は背が低い。
見てくれも、悪い。
どう考えても、勝ち目はない。

●純愛?

 が、話はそこで終わらなかった。
そばにいた、Y男君まで、こう言い出した。

「実はね、ぼくね、大学1〜2年のころ、A子さんとつきあっていた」と。

私「お前もか?」
Y「そうだよ。いいとろこまでいったよ。A子さんの家の2階でね……」と。
私「ぼくがつきあっていたころと、重なるよ」
Y「そう。林君の名前は、聞いていた。『林君ともつきあっている』とね」と。

 知らなかったのは、私だけ。
ああ、神様、仏様、……私だけ。
「ぼくはね、純愛かと思っていた」と。

Y「林君は、純情だなあ」
私「そうだなあ。ぼくは、A子さんと別れてから、A子さんを忘れるのに苦労したよ」
Y「そうだったのか。そうならそうと言ってくれれば、いろいろ話してやったのに」
私「当時は、言えなかったよ」
Y「つまりね、遊び。A子さんにしてみれば、林君は、ただの遊び友だち」
私「遊び友だちね? ぼくは結構、真剣だったよ」
Y「そんなわけないだろ。A子さんは、大学生のときも、X男と交際していたぞ。よく2人でドライブ
していたぞ」と。

 あとは、お決まりの笑い声。
ハハハ、アハハハ……、と。

●人間不信

 A子さんは、高校時代から大学時代まで、私を含めて、4人の男性とつきあっていたことにな
る。
わかっているだけで、4人!
同級生だけで、4人!
私はただのワン・オブ・ゼム。
もちろんそのほかにも、いただろう。
が、私が知るところではない。

 何人かと顔を見合わせ、「女性って、すごいね」「ホント!」と。
そのときはそれで終わった。
が、私に与えたショックは、大きかった。
浜松に帰ってから、ボディブローのように、じんわりと痛みが大きくなってきた。
「人間不信」。
その不信感に襲われた。

●C子さん

 まず、ワイフに聞いてみた。

私「なあ、お前、結婚前のお前の話はたくさん聞いた。でも、それはみんな、本当のことか?」
ワ「何よ、今さら」
私「だってさ、あのA子さんね、ぼく以外にも3人の男と同時に交際していたよ」
ワ「あら、すごいわね。田舎の人って、そんなにすごいの?」
私「都会も田舎もないよ。お前は、どうなんだ?」
ワ「私は、ウソはつかないわよ」
私「いえね、ぼくはね、それが信じられなくなった」と。

 同窓会で聞いた話ではないが、別の機会に、こんな話も聞いたことがある。
同じクラスに、C子さんという、見るからに静かで、純情そうな女の子がいた。
ほのかな恋心を抱いたこともある。
そのC子さんも、これまた、メチャメチャ。

 同級生の何人かと、肉体的な関係をもっていた!
しかも高校時代に!
一度は、高校の近くの林の中で、それをしているところを、みなに見つかっている。

 当初、私はその話が信じられなかった。
何度も、否定した。
「あのC子さんが、そんなことをするわけがない!」と。
しかしそれは事実だった。
残念ながら、事実だった。
その様子を直接目撃した友人がいて、それを詳しく話してくれた。

●マドンナ論

 要するに、聖母はいない。……ということ。
一般論からすると、マザコンタイプの男性ほど、マドンナ(聖母)を求めやすい。
女性の理想型を、相手の女性に求めやすい。
私は、そのマザコンだった。
いつも女性に、聖母的な潔癖さと、包容力を求めていた。

 だからいつも、その女性の言葉を、そのまま信じていた。
「疑う」ということすら、しなかった。
私自身も、生涯、そのときどきにつきあうのは、1人だけ。
真剣。
遊びで、女性と交際したことはない。
また交際した以上、いつもその責任を取ってきた。
今のワイフとも、そういういきさつの中で、結婚した。

 この性分は、私の実父譲りと思う。
私の父は、大のかたぶつ。
くそまじめで、融通がきかなかった。
浮いた話とは、まるで無縁の世界に住んでいた。

 が、私のような人間は、少数派。
50年前の高校時代においてですらも、少数派?

●被害者

 ここに書いたことは、かなりデフォルメしてある。
しかしウソでないという点で、A子さんやC子さんが、これを読めば自分とわかるはず。
それを心配して、ワイフがこう言った。

「あなた、A子さん、怒るわよ」と。

私「だって、ぼくはだまされた被害者だよ。もてあそばれただけだよ」
ワ「いくらそうでも、本人が読んだら、怒るわよ」
私「そうかなあ。ぼくは真剣に結婚まで考えた……」
ワ「だから、あなたはおめでたいのよ。相手の女性は、そういうあなたを、うるさく感じて、去って
いったのよ」と。

 うるさい?

 そうかもしれない。
相手の立場で考えれば、それがよくわかる。
相手は、私をただの遊び相手と考えていた。
そんな相手が真剣になったら、たしかに、「うるさい」。

 しかし私は、A子さんとの思い出を、死ぬまで大切にしたいと思っていた。
それが今回の同窓会で、ものの見事に、破壊されてしまった。
フーッと、家の中にたまったほこりのように、散ってしまった。
何という虚脱感。
バカ臭さ。
「今度会ったら、あいつの顔をぶん殴ってやる」と。

ワ「私がA子さんだったら、とても同窓会には出られないわ」
私「そうだなあ……。ふつう同窓生というのは、大切にする。汚れた思い出を作らない」
ワ「親類みたいなものだからね」
私「そうなんだよ。そう言えば、それ以後、一度も同窓会に出てこない……」と。

●性欲の奴隷

 さらに一歩踏み込めば、こういうこと。
別に難しい話ではない。
最近の若い人たちを見れば、それがよくわかる。
つまりその年齢の男女は、性欲の奴隷。
性欲の奴隷となって、無数のドラマをつくる。
その一語につきる。(2012/05/03)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

マドンナ論について書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●聖母か娼婦か?

 女性は、元来、聖母か娼婦か。どちらか。
ただし、聖母のように見えても、決して、聖母とは思ってはいけない。
一人の女性が、相手に応じて、聖母になったり、娼婦になったりする。

 だから見た目には、つまり男によっては、その女性は、聖母にも見えることがあるし、娼婦に
見えることもある。
わかりやすく言えば、男しだいということ。

 若いころ、こんな経験をした。高校を卒業してから、まもなくのことだった。

 私には、その女性(C子さんとしておく)は、聖母に見えた。
高校時代、隣のクラスの女の子だった。
おしとやかで、恥ずかしがり屋だった。
その上、理知的で、分別もある人に見えた。
が、その女性が、別の世界では、まったくの別人? 
男を、まさにとっかえひっかえ、遊んでいた!

 ある友人が、こう言った。「あのな、林、あのC子さんな、高校生のとき、草むらで、男とSクス
をしていたぞ。
自転車で家へ帰るとき、オレ、見てしまったぞ」と。

 私が驚いて、「そんなことあるかア!」と言うと、その友人は、「ウソじゃない。オレは、ちゃんと
見た」と。

 それでも私は、信じなかった。
「きっと見まちがえたのだろう」とか、「何か、ほかのことをしていたのだろう」とか。
「C子さんではなかったのかもしれない」とも。

 しかしそれから20年くらいたってからのこと。
別の友人が、こう言った。
「ぼくは、あのC子さんと、高校3年生のとき、つきあっていた。そのとき、C子さんは、すでにバ
ージンではなかった」と。

 私は「ヘエ〜」としか、言いようがなかった。
私がC子さんにもっていたイメージとは、あまりにも、かけ離れていたからだ。

私「女って、わからないものだあ」
友「お前は、C子さんをどう思っていたんだ?」
私「とにかく、信じられない。ぼくにとってC子さんというのは、マドンナだった」
友「あのC子さんが、マドンナだったってエ? お前は、いったい、C子さんの、どこを見ていた
んだい?」
私「そう、ぼくには、マザコン的なところがあるからな」と。

 一般論として、マザコンタイプの男は、女性に、理想像を求める。
そして好意を寄せる女性を、マドンナ化する。
日本語で言えば、聖母化する。(マドンナのことを、聖母という。
少しニュアンスがちがうような気もするが……。)

 聖母化するのは、その人の勝手だが、聖母化された女性のほうは、たまらない。
とくに夫に聖母化されると、妻は、困る。
これもまた一般論だが、マザコンタイプの男性は、離婚率が高いという。
浮気率も高いという。

 1990年に発表されたキンゼイ報告によれば、アメリカ人のうち、37%の夫が、少なくとも、
1回以上の浮気をしているという。
この数字を多いとみるとか、少ないとみるか。
日本には、宗教的制約がないから、日本人の夫の浮気は、もう少し、多いのではないか。

 それはともかくも、マザコンタイプの男性は、理想の(?)女性を求めて、つぎからつぎへと、
女性を渡りあるく傾向が強い。
新しい女性とつきあっては、「こんなはずではなかった」「この女性は、ぼくの理想の女性ではな
い」と。
だから離婚しやすい。
浮気しやすい。(多分?)

 要するに、女性を聖母化するというのは、それ自体が、マザコン性のあらわれとみてよい。
このタイプの男性は、肉欲的な荒々しい性的関係を結ぶことができない。
女性を聖母化する分だけ、成熟したおとなの関係を結ぶことができない。

 で、問題は、まだつづく。

 さらに一般論として、女性は、自分がどう見られているかを敏感に察知し、その見られている
自分を、男の前で演ずることがある。

 「聖母に見られている」と感じたとたん、その人の前では、聖母のように振る舞うなど。
つまりC子さんは、私の前では、聖母を演じていただけ? 
しかしそう考えると、すべて、つじつまが合う。

 が、これは私自身の問題でもある。

 私は、ここにも書いたように、かなりマザコンタイプの人間だった。
母親を絶対化する分だけ、若いとき、私とつきあう女性にも、それを求めた。
私と結婚したワイフでさえ、あるとき、私にこう言った。

 「私は、あんたの母親じゃないのよ!」「あんたの母親のかわりは、できないのよ!」と。

 そのときはなぜワイフがそう言ったのか、その意味がわからなかった。
しかし当時の私は、ワイフに、いつも、女性としての完ぺきさを求めていたように思う。

 そこであなたの(あなたの夫の)マザコン度チェック!


(  )あなたは妻に、いつも完ぺきな女性であることを求める。(あなたの夫は、あなたに完ぺ
きな妻であることを求める。)
(  )あなたはいつも、女性に、母親的な女性像を求める。(あなたの夫は、あなたに母親的な
女性像を求める。)
(  )あなたは妻に、動物的な妻であることを許さない。(あなたの夫は、あなたに動物的な妻
であることを許さない。)
(  )あなたは、いつも妻に、完全に受けいれられていないと気がすまない。(あなたの夫は、
あなたに完全に受け入れられている状態を求める。)
(  )あなたは妻に、かつてあなたの母親がしてくれたことと同じことを、求めることが多い。
(あなたの夫は、夫の母親が夫にしたことと同じことを求めることが多い。)


 要するに、妻を聖母化するということは、その夫自身が、マザコンであるという証拠。(……
と、言い切るのは危険なことだが、それほど、まちがってはいない。)

ワイフ「本人自身は、それに気づいているのかしら?」
私「さあね。たぶん、気がついていないだろうね。マザコンタイプの人は、そうであること自体、
自分のことを、親思いのいい息子と考えているから」
ワイフ「でも、そんな夫をもったら、奥さんも、たいへんね」
私「お前も、苦労したな」
ワイフ「ホント!」(ハハハハ)と。

 人生も半世紀以上生きてみると、いろいろなことがわかるようになる。
男も女も、ちがわないというのも、その一つ。
どこもちがわない。この世の中には、聖母も娼婦もいない。
みんな、そのフリをしているだけ。
そうでないフリをしているだけ。

 だからこの議論そのものが、意味がない。
男性に、聖人も、男娼もいないように、女性にも、聖母も娼婦もいない。……ということで、この
話は、おしまい。

●女性とおとなのセックスができない男性

 概して言えば、日本の男性は、総じて、マザコン的? 
母系社会というより、母子関係の是正をしないまま、子どもは、おとなになる。
つまり父性社会の欠落?

 よい例が、ストリップ劇場。
私も若いころは、ときどき(ときどきだぞ!)、見にいったことがある。

 日本のストリップ劇場では、中央の舞台で、裸の女性が、服を一枚ずつ脱ぎながら、なまめ
かしく踊る。
観客の男たちは、それを見ながら、薄暗い客席で、シコシコとペニスをマッサージする。

 この関係が、実にマザコン的? 女がほしかったら、「ほしい」と言って、飛びついていけばよ
い。
セックスをしたかったら、「したい」と言って、飛びついていけばよい。

 が、舞台の女性に、「あんた、ここへあがってきなさいよ。抜いてあげるからさア」と声をかけ
られても、その場で、照れて見せるだけ。
どうも、はっきりしない。そのはっきりしないところが、マザコン的?

 マザコンの特徴は、女性を美化し、絶対化するところにある。
あるいは母親としての理想像を、相手の女性や妻に求める。
そのため女性の肉体は、おそれおおい存在となる?

 ……という心理は、私にはよく理解できないが、多分、そうではないか。
このことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。

 数は少なくなったが、今でも、雄々しい男の子というのは、いるにはいる。
(反対に、ナヨナヨした男の子は、多いというより、ほとんどが、そう。)
そういう男の子は、女の子に対して、ストレート。
こんなことがあった。

 私が、何かのきっかけで、「騒いでいるヤツは、ハサミでチンチンを切るぞ」と言ったときのこ
と。
一人の女の子(小5)が、すかさずこう言った。
「私には、チンチンなんて、ないもんね」と。

 それを聞いた別の男の子(小5)が、「何、言ってるんだ。お前らには、クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 私はこのやりあいには、驚いた。
「今どきの子どもは……!」と。

 しかし思い出してみると、私たちが子どものころには、そういう言葉こそ知らなかったが、相手
に対して、今の子どもよりは、ものごとをストレートに表現していたと思う。
「おい、セックスをさせろ」というなことまでは言わなかったが、それに近い言葉を言っていたよ
うに思う。

 だから同じ男として、「お前らには、クリトリスがあるだろ!」と言いかえす男の子のほうが、好
きと言えば、好き。
一応、たしなめるが、それは立場上、そうしているだけ。

 そういえば、マザコン的といえば、マザコン的? 
かなり昔、こんなことを言う男子高校生がい
た。その高校生は、ま顔で、私にこう言った。

 「先生、ぼくの彼女ね、本当にウンチをするのかねエ?」と。

 その高校生に言わせれば、「彼女は、ウンチをしない」とのこと。
そこで私が「じゃあ、彼女は、何を食べているの?」と聞くと、「ごはんだけど、彼女は、ウンチを
しないと思う」と。

 また反対に、こんなことを言う男子高校生もいた。

 「先生、ぼく、ブルック・シールズ(当時のアメリカの女優)のウンチなら、みんなの前で食べて
みせることができる」と。

 彼は、そのブルック・シールズの熱狂的なファンだった。

 こうして考えてみると、初恋時には、男はみな、多かれ少なかれ、マザコン的になるのか? 
あるいはプラトニック・ラブを、そのままマザコンと結びつけて考えることのほうが、そもそも、お
かしいのか?

 ただ、こういうことは言える。

 マザコンタイプの男性ほど、その女性のすべてを受け入れる前に、自分をすべて受け入れて
くれる女性を求める。
そしてその女性に、母親的な完ぺき性を求めて、その女性を追いつめやすい、と。

 恋人関係ならまだしも、結婚生活となると、ことは深刻。
いろいろ問題が起きてくる。離婚率や浮気率が高いという説があるのも、その一つ。

 それについてワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「夫がマザコン的だと、奥さんも、疲れるわよ。
夫が望むような妻にならなければならないから」と。

私「夫がマザコンだと、離婚率が高いという説があるよ」
ワイフ「当然でしょうね。そんな男と、生活するのは、たいへんよ」
私「妻より、母親のほうが大切と考えている男性も、多いよ」
ワイフ「だったら、母親と結婚すればいいのよ」
私「ワア、それこそ、マザコンだあ」と。

 そういう意味でも、母親は、ある時期がきたら、子どもを、自分から切り離していかねばなら
ない。
いつまでも、濃密な母子関係に溺れていると、子ども自身が、自立できなくなってしまう。

 本来なら、父親が、母子関係に割ってはいり、その母子関係を調整しなければならない。が、
今、その父親不在の家庭が多い。
あるいは、父親自身が、マザコン的であるというケースも、少なくない。

 最後に、タイトルに、「女性とおとなのセックスができない男性」と書いたので、一言。

 もう10年近くも前になるだろうか。中学3年生になったばかりの女の子が、私に、こう言っ
た。

 「先生、あんな男とは、もう別れた」と。
その中学生には、ボーイフレンドがいた。そこで私が理由を聞くと、こう言った。

 「だって、先生、3回もデートしたけど、何もしてくれないのよ」と。

私「何もしてくれないって?」
中学生「手も、握ってくれないのよ」
私「で、君は、どんなことをしてほしいと思っていたの?」
中学生「ふふふ。わかっているくせに……」と。

 性的な男女交際を奨励するわけではないが、私はその話を聞きながら、そのとき内心では、
「だらしない男もいるもんだ」と思った。

(はやし浩司 マザコン マザーコンプレックス マドンナ論 聖母 聖母意識 でき愛ママ 溺
愛 溺愛ママ はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司)
 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 冒頭にあげた、『故郷の空』の原曲は、『Comin' thro' the rye』。
つまり曲の歌詞が結論。

Gin a body meet a body
だれかが麦畑を分けてやってきた。

Comin' thro' the rye

Gin a body kiss a body
だれかがだれかに、キスをした。

Need a body cry?
それを嘆く必要はあるのか?

Ilka lassie has her laddie
どの女の子も、男の子をもっている。

Nane, they say, hae I
みんな私にはボーイフレンドはいないと言う。

Yet a' the lads they smile at me
が、男たちは、みな、私に笑いかけてくる。

When comin' thro' the rye.
麦畑をかき分けてやっってくるときに……。
(訳:はやし浩司)

 つまり、「いいじゃないの。(=どうでもいいじゃないの。)
みんな若いときは、がんばってやってください。
それが青春だから……」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●同窓会ショック・5月04日、朝3:49 (2012年)

●映画

 このところ、よい映画がない。
『Black & White』とか、『タイタンの逆襲』とか。
そういった映画は見た。

(ついでに『バトルシップ』、『ジョン・カーター』もみた。
これらについては、Blogの中で、すでに取りあげた。)

が、どれもパッとしない。
評価外というか、あえて評価するような映画ではない。
意味のないドタバタ映画。
戦争映画。

ボケ防止にはなる。
週に1度は、見るようにしている。
その程度。

 が、あえて言えば、『タイタンの逆襲』。
権威主義のかたまりのような映画。
ゼウスだのポセイドンだの、日本でいう水戸黄門が、何人もつづけて出てくる。
そういった神々が、地獄から解放された悪魔と闘う。
権威のない国、アメリカだからこそ、権威にあこがれるのか。
それとも、アメリカに住む、ラテン系の人たちのための映画?
どうであるにせよ、あの種の映画は、もう見飽きた。
つまらない。
 
 つぎは……。
そう言えば、またまたバンパイアものがやって来る。
『ダーク・シャドウ』
今度は、ジョニー・デップが主役とか。
どこか喜劇ぽい。
どうしてアメリカ人は、ああまでバンパイアが好きなのか。

●5月3日、4日、5日

 5月3日、4日、5日は、浜松祭りの日。
例年だと、遠くからだれかがやってきて、我が家に泊まったりする。
浜松祭りを見に行く。
が、今年は、遠慮させてもらった。

「今年は家で、静かにしていよう」と。
……ということで、昨日、夕方になって、この山荘にやってきた。
浜松から、車で、35〜40分。

 が、ワイフはじっとしていない。
おとといの夜は、『タイタンの逆襲』を見たあと、駅前にあるダイワロイネットホテルに一泊した。
昨夜も床に入ると、「明日は、どこへ行く?」と。
「お前は、本当に不良老人だな」と言うと、あっさりと、「そうよ」と。
「遊べるうちに、遊んでおかなくちゃあ」とも。

 そのワイフは、今、隣りの部屋で寝ている。
のんきな性格というか、ワイフは、うつ病とは無縁の世界に住んでいる。
偏頭痛にさえ、なったことがない。
睡眠薬の世話にも、なったことがない。
毎日、朝までぐっすりと眠る。
単細胞型人間。
こまかいことを、まったくと言ってよいほど、気にしない。
万事、おおらか。

 ボケもあるのかな?、と疑うことはある。
が、今のところ、心配なさそうだ。
記憶も確か。
……というか、このところ、私のほうが、あぶない?
こまかいミスが多くなった。……ように、思う。

●テーマ

 前にも書いたが、ものを書くには、(怒り)が必要。
(怒り)を覚えないと、書けない。
日々に平穏、無事、平凡……というのでは、ものは書けない。
が、このところ、その(怒り)そのものを感じない。
つまり書きたいテーマそのものが、浮かんでこない。

 昨夕も、この山荘に来る途中、コンビニへ寄った。
何冊か本を買った。
ついでに週刊誌を立ち読みした。
が、どれも、頭の中を素通りするだけ。

 無関心?
それとも、ニヒリズム?
ふだんなら、どんな記事を読んでも、頭の中で火花がバチバチと飛び散る。
が、それがない?
万事、どうでもよくなくなってしまった。
原因をさぐってみるが、どうもそれがよくわからない。

●第二の失恋

 あえて言えば、先日、同窓会で聞いた話が、ショックだった。
私がつきあっていた女性が、実は、2股、3股もかけていた。
それがわかった。

 が、私はそれなりに真剣だった。
相手も、それなりに真剣だと、信じていた。
が、私はただのワン・オブ・ゼムに過ぎなかった。
それがわかった。

 言うなれば、恋愛詐欺にあったようなもの。
その証拠に……というか、同窓会の前に何度か聴いた、舟木一夫の『♪君たちがいて僕がい
た』が、急に色あせてしまった。
『♪清らかな青春 爽やかな青春、大きな夢があり、かぎりないよろこびがあった……』で、始
まる、あの歌である。

 今、聴くと、ただのマザコン・ソングにしか、聴こえない。
『♪母にも似た 優しい 目差しの君たちがいて そして 僕がいた』とつづく。

 で、ワイフに聞いてみた。
「お前さあ、学生時代、あの歌を聴いて感動しなかったか?」と。
ワイフはこう言った。
「私は、ああいう歌は嫌いだったから」と。

 やはり私はマザコンだった。
『♪母にも似た』という部分が、かなりマザコン的。
女性を、マドンナ(聖母)風に、祭りあげてしまっている。
が、そんな女性、どこにいる?

 その私がいかにマザコンであったかは、つぎのエッセーを読んでもらえれば、わかる。
その女性が、結婚するときの様子を書いたもの。
読んで、どうか、笑ってほしい。
なおその女性は、遊びに遊びまくったあと(?)、5〜6歳前後年上の女性と結婚している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

男と言うのは……というふうに決めつけてはいけないが、
自分の恋愛を、無意味に美化したがるもの。
そういう視点で、読みなおしてみる。
書いたのは2000年ごろ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【息子が恋をするとき】

●マダム・バタフライ

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。
ジャコモ・プッチーニのオペラである。
私はあの曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」(訳:はやし浩司)

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。
遠い昔、長崎からきた女性に恋をしたことがあるからか。
色の白い、美しい人だった。
本当に美しい人だった。
その人が笑うと、一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。
その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆいばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけ
ての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。
そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結婚。
男児を出産。
が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。
先の歌は、そのピンカートンを待つマダム・バタフライが歌うもの。
今さら私の説明など必要ないかもしれない。


 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの『ロメオとジュリエット』もすばらしい。
少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。
ロメオとジュリエットがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言
う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。
「喜びの日が、モヤのかかった山の頂上で、つま先で立っている」と。

本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。
モヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、たま
らないほどの切なさを覚える。

 そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる『ロメオとジュリエット』はすばらし
い。
私はあの映画を何度も見た。
何度も涙を流した。
ビデオももっている。
サウンドトラック版のCDももっている。
その映画の中で、若い男が、こう歌う。
ロメオとジュリエットがはじめて顔をあわせたパーティで歌われる歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
   乙女とは何? 
   氷と欲望。
   世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前、「息子が恋をするとき」というエッセーを書いた
ので、このあとに添付しておく。
このエッセーは、中日新聞紙上で、発表させてもらった。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。
短い曲だが、映画の最後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。
いつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。
かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。
いつか……。
(02−10−5)※

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●つづくエッセーは、その『ロメオとジュリエット』について、書いたもの。

*Romeo and Juliet

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(Love Theme from Romeo and Juliet)

What is a youth?  Impetuous fire.  若さって、何? 燃えさかる炎。
What is a maid?  Ice and desire.  乙女って、何? 氷と欲望。
The world wags on,  世界は、その上で踊る。
a rose will bloom.... ばらは咲き、 
It then will fade:  そして色あせる。
so does a youth,  若さも、また同じ。
so does the fairest maid. もっとも美しい乙女も、また同じ。
Comes a time when one sweet smile その人の甘い微笑みが
has a season for a while....  しばしの間、その季節を迎えるときがやってきた。
Then love's in love with me.  そして私と恋を恋するときがやってきた。
Some they think only to marry,  結婚だけを考える人もいる。
others will tease and tarry.  からかうだけの人や、じらすだけの人もいる。
Mine is the very best parry.  でも私のは、あるがまま。
Cupid he rules us all.  キューピッドだけが、私たちを支配する。
Caper the cape, but sing me the song,  ケープをひらめかせ、私に歌を歌え。
Death will come soon to hush us along. やがて死が訪れ、私たちを痛めつける。
Sweeter than honey... and bitter as gall,  蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦く、
Love is a task and it never will pall.  愛は、すべきこと、隠すことはできない。
Sweeter than honey and bitter as gall. 蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦い。
Cupid he rules us all." キューピッドが私たちを支配する。(訳、はやし浩司)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●息子が恋をするとき

●息子が恋をするとき(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。
メールで、「今までの人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。
それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と笑った。
その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。
しかし長くは続かなかった。
しばらく交際していると、相手の女性の母親から私の母に電話があった。
そしてこう言った。
「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。
娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

 相手の女性の家は、従業員30名ほどの工場を経営していた。
一方私の家は、自転車屋。「格が違う」という。
この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。
が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。
ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」と。

 オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男
がそう歌う。
たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つかと言え
ば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。
年俸が1億円も2億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔を
しかめてみせる。
一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙ながら
に訴える。
暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府から、日本を代表す
る文化人として表彰される。

 もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も
心も焼き尽くすような恋をするときでしかない。
それは人が人生の中で唯一つかむことができる、「真実」なのかもしれない。
そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。
もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。
しかしそんなことはありえない。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。
そしてそれを見る観客は、その二人に心を合わせ、身を焦がす。
涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。
過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。
あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。
歌はこう続く。

「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。
私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝ていた。
6月のむし暑い日だった。
ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなになってしまいそうだった。
ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしば
った。

 しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。
そしてそれが今、たまらなくなつかしい。
私は女房にこう言った。
「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。
それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。
私も、また笑った。
(以上、中日新聞に、エッセーとして掲載済み。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●再び今朝(はやし浩司 2012−05−04)

●恋愛詐欺

 今朝の私の気分は、こう。
「何が、純愛だ!」と。
マザコンも、よいところ。

 薄汚い男と女の関係を、無意味に近いほど、勝手に美化していただけ。
つまりそう自分で、思い込んでいただけ。
自分を悲劇の主人公にしたて、勝手に騒いでいただけ。
ここに書いた相手の女性は、私のことなど、鼻くそほども考えていなかった。
それが今になってみると、(つまり今朝)、よくわかる。

 あえて書こう。
若い女性に、マドンナなど、期待するほうが、おかしい。
馬鹿げている。
若い男性と同じく、ただの欲望の奴隷たち。
「これは!」とターゲットを決めた男を見つけると、あの手この手を使って、結婚に持ち込む。
親がかりになることも、珍しくない。

 まさに、恋愛詐欺。

 聖母か聖母でないか……。
それは女性にかぎらない。
幾多の山を越え、野を越え、やがて決まること。
そこらの高校生に毛が生えたような若い女性に、聖母を期待するほうが、おかしい。
が、若いときには、それがわからない。
だから『♪母にも似た……』となる。

 苦労の「ク」の字も知らないような、また子どもを育てたこともないような女子高校生に、『♪母
にも似た……』だと?
笑わせるな!

 ……おお、少し(怒り)が戻ってきたぞ。
ハハハ。
こうなると、文章が書ける。

●同窓会ショック

 こういうのを、「同窓会ショック」という。
しかも若いときの同窓会では、それはわからない。
見栄と虚栄の張りあい。
が、60歳もすぎると、その垣根が取れる。
「何を今さら……」という気分になる。
同時に、若いころの自分が、いかに欲望の奴隷であったかが、わかる。

 ただ誤解しないでほしい。
だからといって、その(欲望)を否定しているのではない。
その(欲望)があるから、人生も、また楽しい。
あの映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいたから、ドラマになった。
もしジャックとローズがいなければ、ただの沈没映画。
船の沈没映画。

 が、その私も、54、5歳のころ、その性欲から解放された。
男にも更年期というのが、あるらしい。
そのときのこと。
男と女の区別がつかなくなった。
と、同時に、それまでの自分が、いかに欲望の奴隷であったかを知った。
性欲という欲望である。

 が、これも誤解がないように、書いておく。
それはすがすがしいほどまでに、さっぱりとした世界だった。
心が、(私であって私でない束縛)から、解き放たれたような解放感だった。

●変わる女性vs変わらない女性

 同窓会について、ついでに一言。

 今回、同窓会に出てみて、こんなことにも気がついた。
男性諸君は、ほとんど、そのままだった。
つまり高校時代のままだった。
しかし女性たちは、そうではなかった。

 変わった人、変わらない人、……その2つのグループに分かれた。
変わった人については、高校時代の面影は、ほとんど残っていなかった。
変わらない人については、通りで会っても、すぐ気がつくほど、変わっていなかった。
どうしてだろう?

 細胞レベルの話をするなら、皮膚の細胞は、日々に再生される。
(これに対して、脳細胞は、再生されるということはない。
日々に死滅し、数を減らす。
だからこそ、性格や性質は、半世紀を経ても、変わるということはない。
20年たっても、30年たっても、昔のままで、会うことができる。)

 原因のひとつが、肥満と激やせではないか。
これを繰り返していると、顔の形まで、変わってくる。
……というような話を、昨日ワイフに話すと、ワイフはこう言った。

 『女の顔も履歴書よ』と。
(注:大宅壮一は、『男の顔は履歴書』と言った。)

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
というのも、女性は、高校を卒業したりすると、突然に美しくなる。
(化粧)という仮面をかぶるようになる。
まるで別人になることも、珍しくない。
そういうプロセスを経ているから、私たちは、それを「変わった」と、とらえる。

 もちろん、よくなる人もいる。
上品で、穏やかになる人もいる。
しかし残念ながら、そういう人は、少ない。

 女性のばあい、それまでの苦労が、そのまま顔に蓄積される。
いくら厚化粧をしても、……あるいは厚化粧をするからよけいに、その向こうにある苦労が透
けて見えてしまう。

 大切なことは、知性を磨くこと。
理性を磨くこと。

……しかし、どこかの女性だが、作家からどこかの宗門にくだった人がいる。
マスコミの世界にも、よく顔を出す。
あの女性などは、ふつうでない修行をしているはずだが、年々、顔が醜悪になっていく。
そういう女性もいるから、ここでいう「履歴書」というのは、もっと別のファクターによって決まる
のかもしれない。

 たとえばマザー・テレサなどは、晩年、ますます美しくなっていった。
顔のしわが、問題というわけではない。
内側から光る、品性のようなもの。
そうした(ちがい)は、どこからどのようにして生まれるのか?

●小沢一郎

 昨日のMSNニュースに、こんな一文が載っていた。
先ほど無罪判決を手にした、小沢一郎についてのものだが、こうある。

 『……公判は、結局は「小沢と秘書との関係」が問われた場だった。
法廷で秘書を「家族、子供のような気持ちを持っている連中」と表現した小沢だが、かつての側
近が述懐するのは全く異なる関係だ。

 「田舎に帰ります」

 今から10年ほど前、後に秘書の束ね役となる元公設第1秘書、大久保隆規(50)は泣きな
がらわび状を書いていた。
涙の理由は、小沢の妻の新幹線切符の手配を忘れたというミスだ。
わび状の宛先は小沢事務所の先輩格、高橋嘉信(58)。
大久保はこのとき、秘書を辞める覚悟だったとされる。

 「小沢家の逆鱗(げきりん)に触れ、あまりの怖さに私のせいにした。
秘書にとって、小沢からの指示は絶対なんです」。
高橋は話す』(MSN)と。

 タイトルには、こうある。
『10円でも(小沢一郎から)借りれば、翌日に返す。小沢の絶対的存在』(MSN)と。
妻の新幹線の切符の手配を忘れただけで、わび状?
バカげているというよりは、実に小沢一郎らしい。

 MSNでは、小沢一郎を、「小沢」と呼び捨てにしている。
当然のことである。
無罪は無罪でも、かぎりなくクロに近い。
「証拠不十分」というのは、そういう意味。
MSNは、最後をこう結んでいる。

『……会計業務の「秘書任せ」を強調した小沢だけでなく、元秘書も含めて「誰も本当のことを
話していない」とも感じている』(指定弁護士のO氏談)と。

 そんな小沢一郎が、「4億円の流れについて、秘書を信頼し、秘書に任せていた」とは?
いったい、だれがそんな言葉を信ずるだろうか。
同じくMSNの記事の中で、元秘書のT氏は、つぎのように語っている。

『…「私は通帳はおろか、実印も持たせてもらったことはなかった。
絶えず裏切るんじゃないかと考えて。
(小沢一郎は)猜疑心(さいぎしん)の固まりなんです」。
高橋はそう言った』(MSN)と。

(猜疑心の固まり、だぞ!)

 『男の顔は履歴書』(大宅壮一)という。
MSNが書いていることが、本当か、どうか。
あの小沢一郎の顔と照らし合わせて見れば、それがわかる。

●猜疑心(さいぎしん)

 なおここで、「猜疑心」という言葉が出てきた。
それはその通りで、昔からこう言う。
『泥棒の家ほど、戸締りが厳重』と。

 泥棒というのは、自分で泥棒をしているから、泥棒が気になる。
家の戸締りが、厳重になる。
つまり人間というのは、自分の弱点を裏返した行動を、自らしやすい。
ほかにたとえば、『女遊びばかりしている男ほど、自分の娘に厳(きび)しい』(はやし浩司)とい
うのも、それ。

(そう言えば、こんなことを言った男がいた。
若いときから、浮気のし放題。
その男が、「娘(27歳)の(帰宅)門限だけは、しっかりと守らせている」と。
「27歳にもなった娘に、門限など、あるはずもない」と、そのときはそう思ったが、それは言わ
なかった。)

あるいは『浮気している夫(妻)ほど、妻(夫)の浮気を警戒する』(はやし浩司)でもよい。
さらに『小ずるい男ほど、他人を疑う』(はやし浩司)でもよい。

 「猜疑心」というのは、それをいう。
自分で悪いことばかりしていると、他人も、そうしていると思ってしまう。
それが猜疑心につながる。

 小沢一郎がそうであるというのではない。
しかしMSNの記事の中には、「猜疑心の固まり」とある。
もしそうなら、小沢一郎という人は、あわれな人だ。
金力と権力の亡者(奴隷)になりながら、それにすら気がついていない。

●朝

 話を戻す。

 時刻は、午前6時半。
ワイフは、まだ熟睡中。
ウグイスですら、すでに鳴くのをやめ、休息中?
縁側の向こうでは栗の木の若葉が、色鮮やかに輝いている。
さわさわとした風。
やわらかな葉が、一枚一枚、小刻みに揺れている。

 で、今回は、「同窓会ショック」というテーマで、この原稿を書いてみた。
が、悪いことばかりではない。
それが縁で、旧交を温めるということもできる。
あの高校時代が、それによって戻ってくる。
私にとっては、失われた3年だったが、その3年が戻ってくる。

 さらに言えば、みな、2年後の再開を約束した。
2年後!

 ふと「それまで生きているだろうか」と思う。
しかし同時に、「がんばって、それまで生きていよう」と思う。
つまり目標ができた。

 言うなれば老後生活というのは、目標作り。
無数の「目標」を作り、その目標のひとつひとつに向かって生きていく。
大きな目標というのは、ない。
庭先の栗の木の葉のように、無数の小さな目標。
1枚、1枚が、風に揺れるように、それに向かって生きていく。
2年後の同窓会も、そのひとつ。

 つぎに会うときは、さらにみな、ジジ臭くなり、ババ臭くなる。
が、生きているだけでも、御の字。
次回は高山市で、ということだから、その分だけ、健康でなければならない。
(もっとも今の私にとっては、美濃市も高山市も、同じような距離だが……。)
頭(脳みそ)のほうは、だいじょうぶだろうか。
そんな心配もある。

 あるいは、次回は、どんな同窓会ショックを受けるか。
楽しみというよりは、何となく、こわい。
今回も、すでに足腰の悪い仲間がいると聞いた。
が、そういう人たちはそういう人たちで、車椅子で来ればよい。
それがたがいに平気でできるようになったとき、はじめて、同窓会は同窓会になる。
みながみなで励ましあったとき、同窓会は同窓会になる。
頭がボケていても、よいではないか。
それが自然な形でできるようになったとき、時空を超え、あの高校時代が、光り輝き始める。

 ……ともあれ、ワイフが起きてきたら、M山にあるホテルに予約を入れるつもり。
活動開始。

 とりあえず、今日は、1冊、自分の本を、HPにUPLOADするつもり。
たいへんな作業になりそうだが、がんばってやってみる。

(はやし浩司 猜疑心について 猜疑心 泥棒の家 ロメオ 同窓会ショック はやし浩司 男の
顔は履歴書 大宅壮一 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 
幼児教育評論 はやし浩司) はやし浩司 2012−05−04)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
【ファミリス・5・6月号より】
   2012年05月発刊

●親の愛に必要な、筋(すじ)と限度

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6995344220/" title="img551 by 
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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7141433365/" title="img552 by 
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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子育てに自信がなくなった母親

【SRさんより、はやし浩司へ】

[題名] 自分の育て方に自信がもてなくなりました。
[投稿者]SR

小4男児の母です。
息子が2才の時に離婚しました。
父親はいません。
3年から、スポ少に入りました。
スポ少も初めは頑張って行っていましたが、最近は行きたがらなくなりました。
本人は『身体はやりたいけど、いざ行くときになると脳が行きたくないと言う』などと言っていま
す。

祖父母と一緒に暮らしています。
行かないと、周りの皆に迷惑かかる、と、私や祖父母は言っています。
そのせいかどうかわかりませんが、最近は小遣いが足りないといっては、財布からお金を取っ
たりします。
学校も行きたくないとか、こんな家族要らないから、『死ね!』と言ったりします。
何か、信頼関係が無くなってしまったようにも感じます。
これから先、どう接して行ったらいいか分からなくなってきました。
父親が必要なのでしょうか。
家のみんなは敵、……みたいな感じに思っているのでしょうか。
どうか、アドバイスお願いします。

【はやし浩司より、SRさんへ】

 文面からすると、息子さんは、かなり自分勝手で、わがまま。
いわゆるドラ息子症候群による症状が、いくつか出ています。
しかしこのことと、離婚、もしくは母子家庭と結びつけないほうがよいでしょう。
原因は、甘やかしと、きびしさ。
どこかでアンバランスな生活が日常化しているとみます。
たとえば、子どもの言いなりになる一方で、ときにガミガミと強く叱るなど。

 また子どもは小3〜4前後で、親離れを始めます。
思春期前夜にかかり、情緒も不安定になります。
幼児に戻ったり、おとなぶってみたりを繰り返しながら、徐々に、つぎの思春期を迎えます。
私はこれを「揺り戻し」と呼んでいます。
親としては、どう接したらよいのか、たいへんわかりにくくなる時期です。

 で、今の状況では、(1)信頼関係を取り戻そうなどとは、思わないこと。
(子どもは親の愛情を試すようなことを繰り返すようになります。
いちいちそれに引き回されないこと。
親は親で、つまり堂々としています。
「嫌われても構わない!」という態度を示します。)

(2)あなたはあなたで、やるべきことをし、それですまします。
子どもの機嫌を取らないこと。
淡々と、親としてやるべきことをやる、です。

(3)信頼関係は作るものではなく、日々の生活の結果として、(できる)ものです。
それには10年単位の時間が必要です。

感情的な子育てになっていませんか。
短気な子育てをしていませんか。
もしそうなら、子どもの問題ではなく、あなた自身の問題ということになります。

 コツは、(1)今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、子どもの様子をみます。
半年単位で、少しでもよくなれば、御の字。

(2)こうした子どもの非行(盗みなど)は、「まだ以前のほうがよかった……」ということを繰り返
しながら、2番底、3番底へと落ちていきます。
親があせればあせるほど、そうなります。
だから性急に、「直そう」などとは、思ってはいけません。
親がドタバタすればするほど、子育ては泥沼に入ってしまいます。
盗みについては、お金の管理を徹底するという方法で、対処します。

 たとえばここであせれば、(たとえば子どもの側からみて、愛情に不安感を覚えたりするほど
までに強く叱ったりすると)、夜遊び、外泊、家出……と進んでいく可能性もあるということです。
(それが2番底、3番底という意味です。)
スポーツ少年団については、子どもの判断に任せたらよいでしょう。
ひょっとしたら、やがてスポーツ少年団をやめる程度のことでは、すまなくなります。

 信頼関係がなくなった……ではなく、あなた自身が、子どものことをまったく信じていない。
短い文面だけでは、よくわかりませんが、私には、そんな感じがします。

 以上が、私がここでアドバイスできることです。
情報が不足しているので、何とも言えません。
なお「父親が必要でしょうか」という心配ですが、祖父母が近くにいるということですから、今は、
考えなくてもよいでしょう。
年齢的にも、父親がいればそれで問題が解決するというような問題ではないように、思いま
す。
新しい父親(?)を連れてきても、かえって失敗します。
(私は成功例を知りません。)

あなたはあなたで、(すべきこと)、たとえば仕事でも家事でも、すべきことをします。
仮に20歳くらいまで、子どもの心があなたから離れたとしても、それはそれ。
やがてそれを子どもの側が理解するときがやってきます。
もう少し長い目で、子育てを見つめてみてください。

 最近、「ファミリス」という雑誌に、「筋(すじ)と限度」という原稿を書きました。
参考までに、ここに掲載しておきます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【愛と甘やかし】

●「許して忘れる」

 (愛)ほど、ばく然とした概念はないですね。
が、尺度がないわけではないわけではありません。
「許して、忘れる」。
英語では、「For/give & For/get」といいます。

 この英文を注意深く読むと、「子どもに愛を与えるために許し、子どもに愛を与えるために忘
れる」とも読めますね。
その度量の深さで、親の愛は決まる……と考えてください。

 が、「許して忘れる」と言っても、もちろん子どもに、好き勝手なことをさせろという意味ではあ
りません。
親は子どものできの悪さを見せつけられるたびに、悩み、苦しみ、ときには、袋小路へと叩き
落とされます。

 子どもにかぎらず、人を愛するということは、それほどまでに、つらいこと。
ときに身を引き裂かれるような思いをすることもあります。
ホレホレと子どもを抱いたり、頬ずりするのは、愛でも何でもありません。
そんなことなら、そこらのイヌやネコでもしていますよ。

●誤解

 が、この日本には、大きな誤解があります。
子どもに楽しい思いをさせること、楽をさせること、それが「親の愛」と。
また「それによって、親子の絆は太くなる」と。
が、実際には、逆効果。

 一度、保護、依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではありません。
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生がいました。
結婚式の費用について、親が、「半分くらいなら……」と言ったら、それに対して激怒。
「親なら、親らしく責任を取れ。結婚式の費用ぐらい出せ」と迫った、息子もいました。

 規範のない、盲目的なでき愛を、(愛)と誤解している人は多いですね。
俗にいう、子どもを甘やかしながら、甘やかしていること自体に気がついていない。
結果、子どもは、ドラ息子、ドラ娘になります。
今や1億、総ドラ息子、ドラ娘と言ってよいほど、このタイプの子どもは多いですよ。

 自分勝手で、わがまま。
自己中心的で、利己的。
生活への耐性も失われます。

ある女の子(小4)は、突然、タクシーで家まで帰ってきました。
「どうして?」と話しを聞くと、こう答えたそうです。
「おばちゃんの家のトイレは汚れていて、気持ち悪かったから」と。
ドラ息子、ドラ娘になればなったで、苦労するのは、結局は子ども自身ということになります。

●筋(すじ)

 それがどういうものであれ、子育てには、一本の(筋)が必要。
わかりやすく言えば、(一貫性)。
具体的には、YES/NOをはっきり伝え、筋を通す。その筋がなくなったとき、親の心にスキが生
まれ、子どもはそのスキをついて、ドラ息子、ドラ娘になります。
その筋のないことを、「甘やかし」といいます。
親の愛とは、基本的には、まったく異質のものと考えてください。

 あのバートランド・ラッセル※は、こう書き残しています。

『親として、必要なことはする。しかし決してその限度を超えてはいけません。そんな親のみが、
真の家族の喜びを与えられます』と。

 (限度)をわきまえている親を、賢い親といいます。
親になるのは、簡単なこと。
しかし賢い親になるのは、本当にむずかしい。
一生のテーマと考えてよいほど、むずかしい。
安易に、節度のない愛に溺れてはいけません。
※…イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)
2012/03/16


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【親の愛情と発達障害】(橋下徹大阪市長の「発達障害がい、愛情欠如説」について)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

橋下大阪市長が、とうとうというか、ついに、「発達障害」という言葉を使った。
いわく「発達障がいの主因は親の愛情欠如」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●発達障害

 最近では、公文書などでは、「発達障がい」と、「害」を「がい」と表記するようになった。
が、この方法は、かえって「害」を強調することになるのでは?
「ボケ」を「認知症」と言い換え、さらに最近ではまた「ボケ」と言うようになった。
その反対の例が、「馬鹿」。
「ホース&ディア(馬と鹿)」と言われて怒る、外人はいない。
が、日本では、「馬鹿」と言えば、さげすみ語になっている。

 つまり言葉というのは、漢字の問題ではないということ。
だったら「発達障外」などと表記すればよい。
「発達問題」でもよい。
表記方法はいくらでもある。

●MSN(産経ニュース)より

『……橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」大阪市議団が議会提出する方針の条例案の
発達障害をめぐる規定に当事者らから反発の声があがり、橋下市長が3日から4日にかけ短
文投稿サイト「ツイッター」で「発達障がいの主因を親の愛情欠如と位置付け、愛情さえ注げば
発達障がいを防ぐことができるというのは科学的ではない」などとコメント。
事態の収拾を図ろうとしている』(以上、MSNより)と。

●発達障害・遺伝説

 今では発達障害・遺伝説が常識化している。
「親の育て方にも問題がある」などと書いたりすると、抗議の嵐にさらされる。
BLOGなどへの辛らつな書き込みもふえる。
中には、「死ね!」というのもあった。

 しかし発達障害の「種」は、どんな子どもにもある、と私は見る。
程度の差もあるだろう。

 たとえば、親がはげしく叱ったため、1人2役の独り言を言うようになった女児の例を私は知
っている。
それまでは、ごくふつうの子どもだった。
そのとき、その女児は、2歳だった。
 
 母親はこう言った。
「2役といっても、まったくの別人格。
気味が悪いです」と。

 さらに4歳のとき、風呂の水を出しっぱなしにして遊んでいた男児がいた。
そのため2階から1階まで、水浸し。
(その子どもの家では、風呂は2階にあった。)
それを見た祖父が、尋常でない叱り方をした。
とたん、その子どもは、様子がおかしくなった。
空を見つめ、ブツブツと、訳のわからないことを口にするようになった。
病院へ連れていくと、「自閉症」と診断された。

 その男児も、それまでは、ごくふつうの子どもだった。

 これら2例は、私がまだ30代のはじめ、経験した話である。

 すべてを遺伝で考えることはできない。
仮にそういう遺伝的要素があっても、発達障害児にならないケースもあるのでは?
一方、仮にそれまで遺伝的症状がなくても、ある事件をきっかけに、症状が出るということもあ
る。

 ただし、兄弟姉妹、さらには、親子、親類縁者に、似たような症状を示す人が多いことも、事
実。
そういう点では、私も「遺伝説」を支持する。

●育て方

 が、意伝説を支持するにしても、つぎの2つのことに注意したらよい。

(1)引き金を引かない
(2)症状をこじらせない

 先にも書いたように、生まれながらにして症状を示すケースもないわけではない。
しかし生まれながら(=生後直後)に、それを診断できるケースは、これまた常識で考えても、
ありえない。
(あの新生児を見て、〜〜障害と判断できる専門家はいない。
ただし脳の器質障害については、脳波の測定などにより可能かもしれない。)

 ただ生後まもなくの段階で、親が様子のおかしさに気づき、無理をするケースがある。
たとえば夜泣きがはげしかったりすると、強く叱ったりする、など。
が、強く叱れば叱るほど、子どもの心は(ゆがむ)。
どう(ゆがむ)かは、ケースバイケースだが、ともかくも、その後、何らかの症状となって現れ
る。

 さらによくあるケースは、たとえばかん黙児や、AD・HD児のばあい。
3〜4歳児になると、症状が現れてくる。
が、その段階で、親は、そういった「障害」をもっていることに気づかず、無理に無理を重ねる。
はげしく叱ったり、さらには暴力を加えたりすることもある。
これが症状を複雑化する。
こじらせる。

 放っておいても、小学3〜4年生(10歳前後)で、こうした症状は快方に向かう。
子ども自身がもつ、自己管理能力が発達するためである。
脳には、自らを正常化するという機能が、備わっている。
要するに脳の機能障害というのは、そういうもの。

 それを薬物などで治そうとするから、かえって症状が長引いたり、悪化したりする。
「リタリン」を例にあげるまでもない。

 つまり遺伝説は遺伝説として、後天的に、引き金を引いたり、さらに不適切な指導、対処によ
って、症状を悪化させたり、こじらせるということもあるということ。
すべての症状が遺伝的に、つまり生まれながらにプログラム化されているわけではない。

●愛情欠如?

 橋下市長は、「愛情欠如」という言葉を使った。
これに対して、当事者らから反発の声があがったという。

 当然である。

 発達障害は、愛情の問題ではない。
愛情がなければ問題だが、愛情があっても、発達障害を示す子どもは、いる。
LD児などは、その一例ということになる。
一方で、愛情がなくても、健常児に育つ子どもも、これまたいくらでもいる。
つまり(愛情)と(発達障害)の間には、因果関係はない。

 が、あるとすれば、先にも書いたように、後天的に(引き金を引いたり)、(無知が原因で、症
状をこじらせる)というケースである。
これは遺伝ではない。
どこかで親の愛情に結びついている。
「親の愛情がもう少し深ければ、こうまで症状はこじれなかっただろうな」というケースは、少なく
ない。

 だから橋下氏の意見には、一理あるということになる。
が、あくまでも「一理」。

●暴走

 橋下氏は、若い。
経験不足。
認識不足。
そういった面は、多々見られる。
それがときとして、暴走する。
今回の「愛情欠如説」も、そのひとつ。

 まあ、率直に言えば、危なっかしいが、それが橋下氏の魅力でもある。
ふつうの人なら、これだけで気が滅入ってしまうだろう。
もの書きなら、ツィッターを閉鎖し、筆を折ってしまうかもしれない。
が、橋下氏は、へこたれない。
その強靱さに、私は別の魅力を感ずる。

 ……というように、橋下氏を擁護し、この話は、ここまで。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 発達障害 発達障がい 愛情欠
如説 愛情欠落説)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【ゲームははたして、安全か?】


●子どもとゲーム

(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a report, 
regarding TV games and its possible dangerousness to children.)

+++++++++++++++++

「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!

イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++

【ロンドン27日・時事通信】

イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼす影響に
関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにした。

ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される可能
性もありそうだ。

報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。
ゲームによって子供は暴力に対して鈍感になるなどと結論づけた。
また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについてのみ、年齢制限が設けられている
が、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)

+++++++++++++++++

この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、その危険性を説いた教授がいた。

が、その直後から、その教授のところには、抗議の嵐!

どうして? 

一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様のような存在になっている。

どうして?

危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)

明らかに、どこかヘン。
おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。

あるいはあなた自身が、あのテレビゲームをしてみればよい。

数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。

「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。

隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、カウンセラーまで配置される状況になっ
ている。
(知っているか?)

が、この日本では、野放し! まったくの野放し!

私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、書いてから9年にもなるのに、いまだに、
抗議の書き込みがあとを絶たない。

どうして?

いったい、この日本は、どうなっているのだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム 子
供とゲーム ゲームの問題性 テレビゲーム はやし浩司 ゲームの危険性 子ども脳 ポケ
モンカルト はやし浩司 ポケモン・カルト)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【ゲーム中毒の子どもたち】

●韓国のネット中毒(ゲーム脳)

+++++++++++++++

相変わらず韓国では、ネット中毒
患者による、悲惨な事件がつづいて
いる。

今朝の時事通信も、こんなニュースを
伝えている。
しかしこういうニュースが話題になるだけ、
韓国社会は健全と考えてよい。
この日本では、ニュースにもならない。
なぜか?

そのヒントは、このニュースの末尾に
ある。
よく目を凝らして読んでみてほしい。

++++++++++++++++

********以下、韓国・より**********

 【ソウル時事】

 韓国南部の釜山で最近、オンラインゲームのやり過ぎをとがめられたことに激高した中学3
年の少年が、母親を絞殺し、自らも命を絶つ事件が起きた。
ネット先進国といわれる韓国では、青少年の「ゲーム中毒」が深刻な社会問題となっており、対
策が求められている。

 韓国メディアによると、少年は幼いころからオンラインゲームにのめり込み、銃や剣を使うゲ
ームを好んでいた。
母親を殺害後、「コンピューターのことでお母さんとけんかをし、興奮してしまった」との遺書を
残し、首をつった。
同国では今年2月にも20代の男性が同様の理由で母親を殺害している。

 行政安全省傘下の情報化振興院によれば、同国青少年(9〜19歳)の12.8%に当たる93万
8000人が「ネット中毒」で、このうちの大部分が「オンラインゲーム中毒」とされる。
ゲームをしないと禁断症状が現れ、日常生活への支障がある状態で、アルコールや幻覚剤の
中毒と症状が近いという。

 学力が低下し、社会に適応できなくなるほか、釜山の事件のように暴力性の高いゲームをや
り過ぎ、実際の暴力に及ぶ例もある。
背景には激烈な受験戦争のストレスもあるといわれる。
同院は、ゲーム中毒のまん延は国家的損失とみなし、小中高校への訪問相談や、ゲーム禁止
のキャンプなどの対策に取り組んでいる。

 午前0〜6時の青少年のオンラインゲームを禁じる法改正案も国会に提出された。
しかし、有力な輸出産業であるゲーム業界の反対もあり、立法化に至っておらず、有効な対策
をなかなか打ち出せていない。 

********以上、韓国・より**********

●禁断症状

 時事通信は、「行政安全省傘下の情報化振興院によれば、同国青少年(9〜19歳)の12.
8%に当たる93万8000人が「ネット中毒」で、このうちの大部分が「オンラインゲーム中毒」とさ
れる」と伝えている。

 が、この日本では、ゲームを批判しただけで、熱心なゲーマーから嵐のような抗議を受ける。
どう受けるかは、「ゲーム脳」という言葉を最初に使った、某教授も告白している。
その一方で、「ゲーム脳などというのはありません」と主張した某教授のところには、仕事が殺
到し、今ではこの世界では、カリスマ的な存在になっている。

 その韓国。
数字が具体的に表示されている。

「……同国青少年(9〜19歳)の12.8%に当たる93万8000人がネット中毒」と。

 どの程度のレベルを「ネット中毒」と診断してよいのか。
その診断基準はあるのか。
そういった問題点もある。
さらに「パソコン中毒」「携帯電話中毒」とどう区別するのか。
そういった問題点もある。

またゲームといっても、内容はざまざま。
将棋のようなゲームもあれば、スピードを競う、ドライブゲームのようなものもある。
問題になっているのは、「少年は幼いころからオンラインゲームにのめり込み、銃や剣を使うゲ
ームを好んでいた」(時事通信)ということらしい。

 が、健全なゲーム(?)だからといって、安心できない。
TBS−iは、こんなニュースも報道している。

**********以下、TBS−iより(2010−11−18)*******

 ……韓国政府によると、韓国国内のネット中毒患者はおよそ190万人。今年3月には夫婦
そろって「育児ゲーム」にのめり込み、生後3か月の娘を餓死させる事件が起きるなど社会問
題化しています。

 さらにネット中毒の低年齢化も進んでいて、来年から予防対象を幼児にまで拡大することが
決まっています。

**********以上、TBS−iより(2010−11−18)*******

 「夫婦そろって、育児ゲームにのめりこみ……」と。
「育児ゲームなら問題ないのでは?」という常識は、この世界では、通用しない。

●禁断症状

 ゲーム漬けの子どもに、特異な症状が現れることは、教育界では常識。
ほかの子どもたちと比較してみると、それがよくわかる。
「どこかおかしい?」「どこかへん?」という症状に併せて、一度ゲームをさせると、今度は一
転、別人のようになってしまう。
その「落差」が、ここでいう「特異な症状」ということになる。

 「どこかおかしい?」というのは、たとえばゲームをしていないときは、
(1)ボーッとした表情で何を考えているかわからない。
(2)突発的に、ふつうでない行動に走る。
(3)ものの考え方が衝動的、ゲーム的になる。が、ひとたびゲームをはじめると、
(4)別人のように無表情になり、能面的になる。
(5)何時間もゲームをつづける、など。
もちろん
(6)他者との良好な人間関係が結べなくなる。

 そうした子どもについては、たびたび書いてきた。
で、禁断症状についてもたびたび書いてきた。
たとえば携帯電話症候群というのもある。
これは子どもにかぎらない。
おとなでも、さらに家庭の主婦でも、携帯電話を片時も離さない人は多い。
『弁当を忘れても、携帯電話は忘れない』と、そういう人は、よくそう言う。
そういう人から携帯電話を奪ったら……。
やはりここでいう禁断症状が現れる。
中には落ち着いて仕事ができなくなる人も多い。

●ゲーム業界

 『……有力な輸出産業であるゲーム業界の反対もあり、立法化に至っておらず、有効な対策
をなかなか打ち出せていない』と。

 少し前、「ゲーマーの世界がカルト化している」と書いたことがある。
こうした記事を書くと、すかさず反応(コメントや書き込み)が入る。

 「このオッサン……頭がおかしいんじゃないの。
ゲームと現実の区別くらい、つくヨ〜〜。
テメエの息子たちは、大丈夫なのかヨ〜〜」と。

 こうした批判は、ネットのあちこちに書き込まれているから、興味のある人は、検索をかけて
みたらよい。
「はやし浩司」で検索してみれば、100〜150番目あたりから、急速にそういった批判が目に
とまるようになる。

 が、問題は、「ゲーム業界」。
韓国でさえ、こうした「ゲーム業界の力」が働いている。
いわんやこの日本をや……と書きたいが、この日本では、不思議なことに、本当に不思議なこ
とに、「ゲーム中毒」すら話題にならない。
現実はむしろ逆で、あのポケモンにしても、ゲーマーの世界では、「子どもの夢」と位置づけら
れている。
言い替えると、それだけゲーム業界の「力」が、韓国とは比較にならないほど強いと考えてよ
い。

日本人の脳みそだけ、ほかのアジア人とはちがうということは、ありえない。

●脳のCPU(中央演算装置)

 話はぐんと脱線するが、私はこんな経験をしている。

 私が子どものころは、まだ馬に引かれた馬車が、通りを歩いていた。
車も走っていたが、どこか遠慮がちだった。
町中で、庭のある家は、ほとんどなかった。
つまり道路が私たちの遊び場であり、おとなにとっては、職場だった。
私の実家は小さな自転車屋だったが、道路があったおかげで、それなりに仕事ができた。
道路に大きく自転車を並べても、文句を言う人はいなかった。

 が、車社会の発展とともに、道路の性格は大きく変わった。
その結果が「現在」ということになる。
とくに歩道のない旧街道のような通りは、悲惨である。
店という店は、総じてシャッターを下ろした。
私の近所にも、「雄踏(ゆうとう)街道」と呼ばれる昔からの街道がある。
が、その街道で今でも商売をつづけている商店は、ほとんどない。

 この問題と脳のCPUとどう関係があるか?

 つまり今の若い人たちに、「道路の性格は変わった」という話をしても、恐らく理解できないだ
ろうということ。
昔から道路というものは、そういうものだったと思っているにちがいない。
またそういう前提で、ものを考える。
だから道路に植木鉢をひとつ置いただけでも、「じゃま」と、それを排除してしまう。

 こうしたズレが積み重なって、「狂い」となる。
あまりよいたとえではないことはわかっている。
たまたまこの原稿を書いているとき、ふと「道路」の話が横切った。
それで書いたが、しかし人は、ある日突然、狂うわけではない。
徐々に少しずつ、時間をかけて狂う。
もちろんたいはんの子どもは、(おとなも)、現実とゲームの世界を区別できる。
が、中には、その区別ができなくなる子どもが、現れる。
それをどう防ぐか。
それが問題と、私は書いている。

++++++++++++++++

古い原稿だが、2003〜5年に
かけて書いた原稿を紹介します。

++++++++++++++++

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++

「ゲーム脳はあるのか、それともないのか?」

これについての記事を、「毎日JP」より、抜粋
してみる。

++++++++++++++++++++

●火付け役は、、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)。
曰く、

 『・・・「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%守れな
い」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。
前頭前野が発達しないとすぐキレる」
 森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中のベ
ータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。
その状態が続くと前頭前野の機能が衰えると警告した。
単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に眉(まゆ)をひそめる教育関
係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された』(毎日JPより)と。

 これに対して、「森教授の意見には、学術的な裏付けがない」と批判する人も多い。

『・・・森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。
本来、仮説は他の科学者が同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料
となる論文はいまだに発表されていない。
 手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立てた
が、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通した見
方だ』(毎日JPより)と。

●利潤追求の世界

 こうした批判を尻目に、ゲーム業界は、大盛況。
その先頭に立たされているのが(?)、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメー
ジング)。
ここで注意しなければならないのは、川島隆太教授自身は、「加齢医学」が専門。
その研究に基づいて、

『・・・認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テストの成
績が上がったと報告。
何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認知機能改善に効果がある」と考察し
た』(2003年)(毎日JPより)と。

 これにゲーム業界が飛びついた(?)。

『・・・こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。06年の流行語
となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニン
グ」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた』(毎日JPより)と。

 こうして今やこの日本は、上も下も、「脳トレ」ブーム。
「1000万本」という数字は、そのほんの一部でしかない。

 もちろん批判もある。

『・・・ ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・理化学
研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは、「川島氏の研究は科学的な手続きを踏
んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要だ。『改
善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にならないと思い
込む人が出てくるかもしれない」と話す』(毎日Jより)と。

●三つ巴の論争

 現在、「ゲーム脳支持派の森教授vsゲーム脳否定派の川島教授」という構図ができあがって
しまっている。
しかし実際には、この両教授が、ゲーム脳を間に、対立しているわけではない。

 森教授は、「ゲームばかりしていると、危ない」という警鐘を鳴らした。
一方川島教授は、ここにも書いたように、「老人の認知機能」が専門。
その立場で、「脳トレは(ボケ防止には)効果がある」と、自説を発表した。

 が、一方、教育の世界には、『疑わしきは罰する』という原則がある。
(私が考えた原則だが・・・。)
完全に安全が確認されるまで、あやしげなものは、子どもの世界からは遠ざけたほうがよい。
事実、私は1日に何時間もゲームばかりしている子どもを、よく知っている。
中には、真夜中に突然起きあがって、ゲームをしている子どももいる。
もともとおかしいから、そうするのか、あるいはゲームばかりしているから、おかしいのか?
それは私にもわからないが、このタイプの子どもは、どこか、おかしい。
そういう印象を与える子どもは、少なくない。

(1)突発的に感情的な行動を繰り返す。
(2)日中、空をぼんやりと見つめるような愚鈍性が現れる、など。

「ゲーム脳」があるかないかという論争はさておき、その(おかしさ)を見たら、だれだって、こう
思うにちがいない。

「ゲームは本当に安全なのか?」と。

 そうでなくても、「殺せ!」「つぶせ!」「やっつけろ!」と、心の中で叫びながらするゲームが、
子どもの心の発育に、よい影響を与えるはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。
(もちろんゲームといっても、内容によるが・・・。)

 仮に百歩譲っても、認知症患者に効果があるからといって、子どもや、若い人たちにも効果
があるとはかぎらない。

●脳トレへの疑問

 私も脳トレなるものを、さまざまな場面で経験している。
それなりに楽しんでいる。
しかし子どもの知能因子という分野で考えるなら、脳トレで扱っている部分は、きわめて狭い世
界での訓練にすぎない。

 たとえば教育の世界でいう「知的教育」というのは、広大な原野。
脳トレというのは、その広大な原野を見ないで、手元の草花の見分け方をしているようなもの。
あまりよいたとえではないかもしれないが、少なくとも、脳トレというのは、「だからそれがどうし
たの?」という部分につながっていかない。

 仮にある種の訓練を受けて、それまで使っていなかった脳が活性化されたとする。
それはそれで結構なことだが、「だからといって、それがどうしたの?」となる。
もう少し具体的に書いてみたい。

 たとえば脳トレで、つぎのような問題が出たとする。

+++++++++++++

【問】□には、ある共通の漢字が入る。それは何か。

 □草、□問

+++++++++++++

 答は※だが、こうした訓練を重ねたからといって、それがどうしたの?、となる。
というのも、私はこうして今、文章を書いているが、こうした訓練は、常に、しかも一文ごとにし
ている。
的確な言葉を使って、わかりやすくものを書く。
的確な言葉をさがすのは、ほんとうに難しい。
さらにそれを文章にし、文章どうしをつなげるのは、ほんとうに難しい。

つまりこうした脳トレを繰り返したところで、(よい文章)が書けるようになるとは、かぎらない。
・・・書けるようになるとも、思わない。

 それ以上に重要なことは、本を読むこと。
文章を自分で書くこと。

 つまり本を読んだり、文章を書くことが、先に書いた「広大な原野」ということになる。
(※の答は、「質」。)

●疑わしきは罰する

 子どもの世界では、疑わしきは罰する。
先手、先手で、そうする。
以前、ゲーム脳について書いた原稿をさがしてみた。
5年前(05年9月)に書いた原稿が見つかった。
それをそのま、手を加えないで、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ゲーム脳】(05年9月の原稿より)

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。
ゲームづけになった脳ミソを「ゲーム脳」いう。
このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。
しかし、「ゲーム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年
8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)
という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。
それを科学的に証明したのが、東北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NE
WS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略す
る。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、もの
すごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到してい
る」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。
どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、
そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本
を書いた。
そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市にあるCラジ
オ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづけたという。
が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。
そうした抗議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性
たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか?
 
出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性
からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。
「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強し
てからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。
100%、誤字、脱字のない本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていた
のだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。
そんな低レベルの抗議である。で、そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」とい
う程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつ
つ、カルト化しているのではないかということ。
ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ
……と、彼らは、とらえるらしい(?)。
おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。
自分たちが属する教団が批判されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのよう
に、それに猛烈に反発したりする。
教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。
私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこ
と。子どもたちは、その一言で、ヒステリー状態になってしまった。
ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間に
は、共通点が多い。
たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。
現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。
たまごっちの中の生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もい
た。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだ
ろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまっ
た若者がいるそうだ。
たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁
気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。
そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはな
く、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリ
スで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に
基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS
 WEB JAPANの記事より)。

(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。
「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。
二段ベッドになっていて、上が、姉。
下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。
そのまま朝まで、していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。
M君は、たくさん集まった親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたとい
う。
「まるで、パーティでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。
その祖父がなくなったのだから、M君は、さみしがっても、よいはず。
しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。
しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けが
をしたというのだ。
その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのですが、M君は、その
柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切
れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取り
あげてしまった。
その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガラス戸にぶつ
け、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。
そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやって
きた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。
そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化し
た。
時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。
イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割
り算)をすませてしまう。
そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。
彼がそのとき夢中になっていたのは、N社のGボーイというゲームである。
そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無表情になる。
ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづける
そうである。
長いときは、5時間とか、6時間もしているという。
(同じころ、12時間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。
それをここに紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化し
ている。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、
ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポン
ポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! 
そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化
する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンにな
る。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあ
ちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友
だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破った
り捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、
キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわ
からなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人
で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、う
つ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関
係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、
新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制に
し、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。
96年に、ドイツのシュルツという医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。
たとえば風呂から出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。
本人も、「風呂から出たら、パジャマに着がえなければならない」と、理解している。
しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられると
いう。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二
つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。
行動命令だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。
抑制命令が強すぎると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。
激怒した状態を思い浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。
激怒するのを、精神の行動命令とするなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令という
ことになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなり
に、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それ
は、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。
が、母親の姿が見えなくなったとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子
を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。
「どうして、食べたの! 食べてはだめと言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。
しかし精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。
だから子どもは、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。
そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理でき
なくなってしまう。
いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケ
ーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。
一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっている
そうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。
その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正
したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力と
いったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。
その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激され
ることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容
易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にと
らえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに
40〜50年前から、指摘されていた。
私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった
子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。
診断基準もなかった。だから、「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼ん
でいた。
「多動児」という言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今
から、約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルM
RI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そ
のものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」という
のは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷
のある子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩司 
家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 ゲーム脳 森教授 川島教授 韓国のゲーム中毒)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

(付記)

●ネット中毒(TBS・News−i)」より

+++++++++++++++++

韓国内のネット中毒患者は、190万人。
悲惨な事件も、毎日のように起きている。
こうしたネット中毒患者のために、救済
施設まである。

かたや、この日本はどうか?
人口比からして、その約3倍の中毒患者
がいてもおかしくない。
約600万人?
そういった隠れ患者は、どこに消えてい
るのか。

まず、TBS−iの報道を紹介する・

+++++++++++++++++

**********以下、TBS−iより(2010−11−18)*******

いわゆる「インターネット中毒」が社会問題化している韓国で、ネットゲームをめぐって14歳の
少年が母親を殺害し、自らも命を絶つ事件が起きました。

 韓国警察によりますと、プサン市内のマンションの一室で16日、この部屋に住む女性(43)
が首を絞められて殺害されているのが見つかりました。

 女性の長男で中学3年生の少年(14)がベランダで首を吊って自殺していて、祖母に宛てた
遺書には「お母さんとケンカをして許されないことをした」などと書かれていました。

 少年は学校を遅刻・欠席しがちなほどネットの戦闘ゲームにのめり込んでいて、事件の前日
にはそのことで母親と口論になっていたということです。

 韓国政府によると、韓国国内のネット中毒患者はおよそ190万人。今年3月には夫婦そろっ
て「育児ゲーム」にのめり込み、生後3か月の娘を餓死させる事件が起きるなど社会問題化し
ています。

 さらにネット中毒の低年齢化も進んでいて、来年から予防対象を幼児にまで拡大することが
決まっています。

**********以上、TBS−iより(2010−11−18)*******

●猛烈な攻撃

 この日本では、テレビ・ゲーム、あるいはネットゲームを批判しただけで、猛烈な抗議の嵐に
さらされる。
ボロクソに叩かれる。

私も11年前に『ポケモン・カルト』という本を書いた。
が、いまだに、それがつづいている。
興味のある人は、ためしに、「はやし浩司 ポケモンカルト」で検索をかけてみるとよい。
いつも「トンデモ本」のトップにあげられている。
はげしい攻撃の文句もさることながら、どういう人たちが、私を攻撃しているか、どうかそれも
知ってほしい。

 が、問題は、このことだけではない。
「190万人」という数字である。
人口比からすれば、この日本では、600万人となる。
(日本の人口は、韓国の約3倍。)
そういう人たちは、今、どこで何をしているのか。
何を考えているのか。

 日本人だけが特別ということもないだろうし、韓国人だけが特別ということもないはず。
あの事件、つまり光性てんかん事件が起きたとき、全国で数百人の子どもたちが倒れた。
テレビアニメの『ポケモン』を見ていた子どもたちである。

 あの事件で不思議なのは、(「謎」と言ってもよいが)、そのあとだれひとり、当該テレビ局に
対して、損害賠償、医療費を公(おおやけ)で請求した人がいなかったこと。
裁判にもならなかった。
倒れた子どもたちは闇から闇へと、葬られた。
ついで、あの事件そのものも、闇から闇へと、葬られた。
いったいあの事件は、だれが、どのような形で幕を引いたのか?

 実は、今の今もそうである。

 数か月前、ある教材社から仕事の依頼があった。
私は引き受けるつもりで、用意していた。
が、そのちょうど1週間後、今度は断ってきた。
いわく「うちもS社(出版社)と取り引きがありまして……」と。
「S社を敵に回したら、仕事もできなくなります」とも。
つまり私が書いた『ポケモン・カルト』が、問題というわけである。

 ポケモンは、現在も全盛期。
それはそれで結構なこと。
それが問題というのではない。
私はこの世界は、何かがおかしいと書いている。
それがわからなければ、もう一度、冒頭のあげた記事を読みなおしてみてほしい。
日本の600万人は、どこに隠れているのか?
何をしているのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ポケモンカルト ポケモン・カルト 三一書房 ゲーム中毒 韓国)

(付記)

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)がからんでいる。
それだけに、やっかい。
やっかいというのは、中毒患者が自ら、それに気づくということは、まずありえない。
「私は正常」と思い込んでいる。
しかし正常ではない。
正常でないことは、彼らが書く(文章)を読んでみればわかる。
支離滅裂というか、感情をそのまま叩きつけている。
文章というよりも、「文」そのものになっていない。

 たとえば……

「お前の子ども……MMMM……ゲームと現実の区別、
ちゃんと、つくのかよ〜〜〜〜」(某サイト)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2010年の4月に書いた原稿を
添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ゲーム脳(ゲーム中毒)

+++++++++++++++++++

この日本では、どうして「ゲーム脳」が
問題にならないのか。
「ゲーム脳」という言葉が悪いなら、
「ゲーム中毒」でもよい。

隣の韓国では、すでに10年以上も前から、
また最近では中国でも、「ゲーム中毒」の
若者たちが、問題になりつつある。
ゲーム中毒の子ども(若者も)を集めた
更正施設や、更正プログラムまで、用意
されている※。

が、この日本では、問題にならない。
「ゲーム脳」という言葉を使って、エッセーを
書いただけで、猛烈な抗議に嵐にさらされる。
ゲームの世界そのものが、カルト化している。
ゲームに日夜夢中になっている子ども(若者)は、
まさにその信者ということになる。

(ためしに、「はやし浩司」で検索してみるとよい。
私を、口汚く中傷しているサイトやBLOGがある。
そのほとんどが、ここでいう「信者」たちである。
私が書いた『ポケモンカルト』(三一書房)などは、
出版してから11年になるが、いまだに叩かれつづ
けている!)

が、日本人だけが特別ということは、ありえない。
日本人の脳みそだけが、韓国人や中国人と、構造が
ちがうということは、ありえない。
今の今も、この日本には、ゲーム中毒の子ども(若者)は、
いる。
日に、何時間も何時間も、ゲームに夢中になっている。
真夜中でも、ゲームに夢中になっている。
が、日本では、そういう子ども(若者)が、どういうわけか、
問題にならない。
考えてみれば、これほどおかしな話はない。

ここでは、別の角度から、「ゲーム脳」について
考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

●まねる(観察学習)

 発達心理学の世界には、「観察学習」という言葉がある。
子どもは、教えられて学ぶことよりも、まわりを観察しながら、自ら学ぶことのほうが多い。
量的に、はるかに多い。
「学習効果」ということを考えるなら、またそのほうがはるかに効果的。

 たとえば以前、何かにつけ、ツッパリ始めた子ども(小5男児)がいた。
言動が粗野になり、独特の目つきで、独特の話し方で話すようになった。
「ウッセー」「コノヤロー」と。
紫の地に、金色の刺繍をほどこしたコートを着てきたこともあった。

 で、その子どもを、高校生の受験クラスに入れてみた。
高校生の間に座らせて、好きな勉強をさせてみた。
最初は、体をかたくしていたが、週を追うごとに、ぐんぐんと変化していった。
あとで聞いたら、高校生の中の1人を、自分の理想像のように思いようになったらしい。
その高校生は、野球部の部員だった。

その子どもは、日曜日など、こっそりとその試合の応援に出かけたりしていた。
家に帰っても、その高校生の話ばかりするようになった。

 これは観察学習というわけではないが、その子どもは、まわりの様子から、多くのものを学ん
だことになる。
それは「学ぶ」という行為というよりは、「まねる」に近い。
その「まねる」という行為を、「モデリング」という。

●自己認識能力

 ものごとは常識で考えよう。
まだ判断力や自己管理能力がじゅうぶん育っていない子どもが、ゲームを相手に、「殺せ!」
「やっつけろ!」と叫んで、心によい影響を与えるはずがない。
こんな実験が知られている。

 ある一定時間、暴力映画を見せた子どもは、その直後、行動が暴力的になるという(バンデ
ュラ、ほか)。
多くの研究者が、同じような実験結果を報告しているので、今さら改めて説明するまでもない。
つまり子どもというのは、そのつど環境の中で、自分を作っていく。
作られていく。
それもそのはず。

 子どもが現実検証能力、つまり自分、あるいは自分と他者との関係、さらには自分の置かれ
た立場を、客観的に判断できるようになるのは、小学3年生(9歳)以上。
それ以前の子どもには、その能力はない。
たとえば病院や図書館で騒いでいる幼児がいる。
そういう幼児に向かって、「静かにしなさい!」と叱っても、意味はない。
「騒いでいる」「迷惑をかけている」という意識そのものがない。
そういう行為がどういうものかさえ、わかっていない。
叱られたあと静かになるのは、こわいからそうしているだけ。

 つまり小学3年生(9歳)以前の子どもに、その判断能力はない。
判断能力がないというよりは、思考力が未熟。
だからこの時期の子どもは、理性や知性を使って「学ぶ」ことよりも、周囲を観察し、それを「ま
ねる」ことによって、自分の思考パターンや行動パターンを
形成していく。
それがモデリングということになる。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、『疑わしきは罰せず』という。
が、教育の世界では、『疑わしきは罰する』という。
なんでもあやしいものは、先手先手で、子どもの世界から遠ざける。
安全性が確認されるまで待っていたら、それこそ手遅れになってしまう。

 ゲームにしても、しかり。
もちろん中には、良質なソフトもある。
そういうものまで、ひとまとめにして、「反対!」と、私は言っているわけではない。
しかし良質なソフトにまぎれて、悪質なソフトがあるのも事実。
そういう悪質なソフトまで野放しにしては、いけない。
有害とは証明できないかもしれない。
しかし少なくとも、安全と証明されたわけでもない。
だったら、遠ざける。
それくらいの配慮というか、子どもの世界に対する思いやりは、あって当然のことではないか。

……と私は書いている。

●付記

 あるBLOGには、こうあった。
「(右脳教育を創始者の)SDも、(ゲームを批判する)はやし浩司も、同じようなもの。
一度、この2人を、バトルさせてみたい」と。

 SD氏(2009年死去)は、ゲームは、右脳の刺激になると説いていた。
そのSD氏と私も、同じ、と。
しかし(右脳教育)と(ゲーム脳)とは、どこでどう結びつくのか。
その右脳教育にしても、安全が確認されたわけではない。
むしろ幼児期においては、左脳教育(論理と分析)こそ、重要。
そうでなくても、映像文化に発達とともに、あえて右脳を刺激しなくても、子どもたちは、じゅうぶ
ん過ぎるほどの刺激を受けている。
反対に、今、静かにものを考える子どもが少なくなった。

頭に飛来した情報を、ペラペラと口にする。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
子どもたちの世界が、バラエティ番組化している。
「これでいいのか!」と叫んだところで、この話はおしまい。

【補記】

 私は、右脳教育には、懐疑的である。
10年以上も前から、そういう趣旨で、原稿を書いてきた。
その気持ちは、いささかもゆらいでいない。
「まちがっている」と言っているのではない。
「あえて必要ない」と言っている。
フォト化とか、直観像とか、いろいろ言われているが、安全が確認されたわけではない。
ある幼児教室の案内書には、こうあった。

「これからは、右脳教育を受けた子どもたちが、ゾロゾロと(東大の)赤門をくぐることになるでし
ょう」と。

それから10年。
そろそろその結果が出ているはず。
もしSD氏とバトルするようなことがあれば、(天国なら天国でもよいが)、まずそのあたりの資
料を出してもらうところから始めたい。

(注※)

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10−02−08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、2400万人の青少
年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。中国青少年インター
ネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6〜29歳の青少年
7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は2007年の9・7%
から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは400万人程度で、4年間
で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒者が多いことも、特徴の
一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしているか?」と
の問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽のダウンロード」の2
3・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基準」を
公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたした状態」と定義
付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他人を殴るのは間違って
いる」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネット
中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といった精神
疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ゲーム脳 中国の現状 ゲーム中毒 ネット中毒者 障害 中国のネット中毒者 
ゲーム 疑わしきは罰する)


Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司

【韓国・朝鮮日報紙の記事より】(はやし浩司 2012−05−05)

●子どもとゲーム脳

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

どういうわけか、この日本では、「子どものゲーム」が、
ほとんど問題にならない。
……というか、話題にもならない。

が、隣の韓国では、ゲーム中毒の子どもが続出し、その
更正施設まである。

日本人と韓国人の脳の構造は、ちがうのか。
が、それはない。
つまり(ちがい)があると考えるほうが、おかしい。

ちがわないとするなら、どうしてこの日本では、「ゲーム」が、
問題にならないのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●朝鮮日報紙

 このほど朝鮮日報紙が、たいへん骨太の記事を掲載した。
読みごたえのある長編の論文である。
ひとつひとつを吟味していたら、何日もかかるかもしれない。
が、どの一部を取りあげても、かなり衝撃的な内容である。
私たち日本人も、この論文のもつ重大性を、しっかりと認識しなければならない。

 じっくりと読んでみたい。

(資料)以下、韓国朝鮮日報紙から転載**********************


【1】


 幼児期のゲーム中毒は、脳の正常な発達を阻害する。嘉泉医科大学のキム・ヨンボ教授は
「人が頻繁に通る道路が先に舗装されるのと同じで、発達が旺盛な幼児の脳も、刺激を多く受
ける部分が特に発達する。幼児期にゲーム中毒に陥ると、脳が視覚的な刺激だけに集中する
ようになり、嗅覚や触覚などほかの感覚処理能力が低下する」と指摘する。

 2010年には米国アイオワ州立大学の研究チームが「1日2時間以上ビデオゲームで遊ぶ子ど
もは、注意欠陥・多動性障害(ADHD)を発症する可能性が2倍高くなる」と発表した。同研究チ
ームは「子どもがゲームに集中するのは、画面が目まぐるしく切り替わるのが原因」と指摘し、
ゲームに熱中する子どもたちは学校の授業をつまらないと感じるようになると説明した。また
「ゲームに集中すると、休みなく押し寄せる刺激に脳が適応するようになる。たばこによって、
がんを発病する危険性が高まるように、ゲームによってADHDを発症する可能性が高まる」とも
説明した。

 さらに問題なのは、ゲーム中毒に陥って脳が損傷すると、中毒になる前の正常な状態に戻る
のが困難という点だ。韓国科学技術研究院(KIST)脳科学研究所のシン・ヒソプ所長は「麻薬
中毒者は治療を受けると、ひとまず正常な行動を取るが、再び麻薬に接すると、一般の人に
比べ麻薬に対する欲求がかなり強くなる。ゲーム中毒もこの症状と同じ」と指摘した。

 国内外でさまざまな議論があるものの、日本の脳神経科学者、森昭雄・日本大学教授は『ゲ
ーム脳の恐怖』という著書で「脳の神経回路は通常、10歳以前に形成されるが、幼児期にビデ
オゲームばかりやっていると、ゲームをやめることができなくなる」という論理を展開した。同教
授は「幼児期に形成された脳の神経回路のせいで、ゲームをやめることができず、ゲーム機を
見ただけで自然に手が動くようになる。ゲームをする年齢は中学生以降、できれば大学生にな
ってからが望ましい」と主張している。


【2】


 午後2時。目を覚ますと窓の外が明るい。すぐにパソコンの前に座る。電源を入れっぱなしの
パソコンのチャットウィンドウに友人たちが残したメッセージを読みながら、ゲームトーク(音声
メッセージをやり取りできるプログラム)を立ち上げ、ヘッドフォンををセットする。長い言葉は
必要なかった。

 「よく寝たか。ゲームを始めよう」

 いつアクセスしても、友人10人ほどがログインしている。私の『スタークラフト』(オンラインゲー
ムの一種)の通算戦績は10万戦7万5000勝。この世界で私を知らない人はいない。かなり実力
のある友人たちと2対2で対戦した。私はいつものごとく「ザーグ」(「プロトス」「テラン」と共にスタ
ークラフトの3種族の一つ)を選択し、仲間はプロトスを選んだ。相手も同じ種族を配置する。私
は兵力を減らしてドローン(ワーカー)を増やす「12ドローン」という戦略を準備し、偵察したとこ
ろ、相手は兵力を強化する「9ドローン」の戦略を使っていることが分かった。

 ヘッドフォンのマイクで仲間に序盤の戦闘を避けるよう伝えると、防御に専念した。12ドローン
戦略は、序盤の防御さえうまく行えば、絶対に9ドローン戦略に勝てる。頭の中には数百、数千
パターンの状況に対応する戦略が思い浮かぶ。思ったより時間がかかったが、9分40秒で無
難に勝利した。

 何時間経過したのか分からない。空腹を感じ、中華料理店にチャジャン麺(ジャージャー麺、
日本のラーメンのように庶民的な食事メニュー)とチャンポン、そして焼き餃子を注文した。い
つの間にか、暴食した後に眠る習慣がついた。きょうも14時間ほどゲームをしたようだ。普段も
このくらいはプレーしている。

 私はこの4年間、親に学費を負担してもらい江原道の大学に籍を置き、小遣いをもらって生
活している。だが、大学に行った日数は1カ月に満たない。4年の間、勉強するために親が借り
てくれた部屋でゲームばかりしていたことを告げたら、親は何と言うだろうか。不安が募り、暴
食しなければ眠れなかった。いつの間にか、70キロ後半だった体重は113キロにまで増えた。

 ゲームの世界では、まさに戦績が序列だ。年齢が上でも、ゲームが下手なら敬意を払うこと
はしない。強い人が指揮を執ってこそ勝てるからだ。ゲーム仲間の中には工場や飲食店で
時々働く人もいるが、皆私と似たような状況だ。


【3】


 科学者たちは最近、ゲーム中毒に陥った子どもたちの脳が麻薬中毒の脳の状態と同じで、
認知能力や感情をコントロールする機能が大幅に低下するという事実を明らかにした。このよ
うな子どもたちはさらに暴力的になり、ひどいケースでは注意欠陥・多動性障害(ADHD)のよう
な精神疾患を発症することもあるという。ゲームが子どもたちの脳を破壊しているというわけ
だ。

 ビデオゲームが子どもたちに有害かどうかという問題は、世界中で絶えず議論されている。
ゲームが子どもたちの創意・工夫能力や運動能力を発達させるという肯定論もあるが、子ども
の脳がゲームによって破壊されるという反対論も根強い。2010年にはこのような議論が米国の
最高裁にまで持ち込まれたが、「児童の脳に長期的に悪影響を及ぼすという科学的な証拠が
ない」との理由でで結論は出なかった。

 だが昨年11月、科学専門誌「ネイチャー」が発行する精神医学専門誌「トランスレーショナル・
サイキアトリー」に、ゲーム中毒に陥った青少年の脳は麻薬中毒の脳の状態に似ているとの研
究結果が掲載され、状況は一変した。ビデオゲームが子どもたちの脳に変化を及ぼすという
事実が、科学的に初めて立証されたのだ。

 ベルギー・ゲント大学のシモン・クーン博士による国際共同研究チームは、ベルギー、英国、
ドイツ、フランス、アイルランドで14歳以下の少年少女154人の脳を撮影し分析を行った。その
結果、ゲームで遊ぶ時間が調査対象の平均値(1週間に9時間)を上回る少年少女の脳は、左
側の線条体が非常に大きくなっていた。この部分は、脳の中でも快楽に関わる部分で、麻薬
中毒に陥ると肥大化することが分かっている。

 先日、中国・上海精神健康センターは、オンライン科学誌「公共科学図書館(PLoS)ワン」
に、ゲームに熱中するインターネット中毒者の脳で、白質の損傷が確認されたと発表した。白
質とは、感情処理や注意・集中、意思決定、認識コントロールなどをつかさどる領域を結ぶ神
経線維で、コカインのような麻薬を常習的に乱用すると、この部分が損傷する。

 韓国でも09年に同様の研究結果が発表された。盆唐ソウル大学付属病院のキム・サンウン
教授(核医学科)は、ゲーム中毒者の脳について、コカイン中毒者と同様の異常が認められる
ことを明らかにした。脳の眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ=前頭葉のうち眼球周辺の一
部分)の機能に異変が生じるという。キム教授は「眼窩前頭皮質は、合理的な意思決定や衝
動性のコントロールと密接に関わっている領域。ゲーム中毒や麻薬中毒に陥った人は、この
部分に異変が生じ、将来のことについて考えることができず目先の利益だけを追求するように
なる」と説明した。

 ゲーム中毒によって脳が変化すると、行動にも変化が現れる。嘉泉医科大学のキム・ヨンボ
教授は「前頭葉は仮想と現実を区別し、刺激を自制する働きを担う。ゲームによる短期的な快
楽・刺激が大幅に増えれば、前頭葉が正常に反応しなくなり、その結果、我慢できず深く物事
を考えずに行動するADHDを発症する恐れがある」と指摘する。昨年12月には、ドイツのボン
大学の研究チームが「生物心理学」誌に掲載した論文で、1週間に平均15時間、1人称シュー
ティングゲーム(ゲームの中の主人公になりきり、的を狙って銃を発射するゲーム)を行った場
合、前頭葉中部の活動がゲームをしない人に比べて弱まることが確認されたと発表した。前頭
葉中部は、恐怖や攻撃性をコントロールする部分だ。ゲームの影響で脳が暴力に対して鈍感
になることが、立証されたわけだ。

 韓国国内の脳科学者たちは「ゲーム中毒は一方的に規制したところで根本的な解決は困難
だ。政府とゲーム業界が一丸となって、暴力的なゲームが子どもたちの脳に与える影響につい
て研究し、解決策を見いださなければならない」と口をそろえた。


【4】


 ソウルに住む主婦イ・ジャヨンさん(35)=仮名=は、タブレット型パソコン「iPad」に夢中の娘
ヘインちゃん(3)に絵本を与えたとき、とても驚いた。ヘインちゃんが絵本を指でタッチし、ドラッ
グするなど、「iPad」を操作するように扱っていたからだ。さらに、「iPad」のように画面が変わる
などの反応がないことに気づくといら立ち、絵本を投げつけて泣き叫んだ。

 イさんが子どもに「iPad」を与えたのは教育的な目的からだった。ハングル教育用アプリケー
ションのクイズゲームなどを利用し、ハングルを楽しく覚えさせようと思ったのだ。ヘインちゃん
は一日に何時間もハングルの勉強に集中し、IT(情報技術)機器を上手に使いこなすなど、最
初は成功したかのように見えた。外出するときも来客時にも、「iPad」で静かに勉強する娘を、
イさんはえらいと感心していた。

 しかし数カ月後、事態の深刻さに気づき始めた。同年代の友人が遊びに来ても、ほかの子ど
もたちが人形やおもちゃのロボットで遊んでいても、ヘインちゃんは「iPad」に夢中だった。初め
は目を輝かせていたハングルの学習も進展がなく、同年代の子どもたちに比べ言語駆使能力
も遅れを取るようになった。最近イさんは、ヘインちゃんから「iPad」を取り上げるために毎日が
「戦争」だ。イさんは「一瞬の間違った考え方が子どもをだめにしてしまったのではないかと思う
と、とてもつらい」と話した。

 スマートフォンやタブレット型パソコン、携帯ゲーム機などが広く一般家庭に普及し、子どもた
ちの周囲にはゲームがあふれている。言葉を学び、同世代の子どもたちとの集団生活を学ば
なければならない幼児が「ゆりかご」からゲーム中毒の危険にさらされている。初めてゲーム機
に触れるときから時間制限などの管理をきちんと行っていればゲーム中毒を防ぐことはできる
が、保護者がゲーム中毒の深刻さを知らずに放置していると、子どもたちは文字を読んだり、
言葉を習うよりも前からゲームの画面が与える面白さに目がくらみ、ゲーム中毒への道を歩み
始める。

 カトリック大学ソウル聖母病院のキム・デジン教授は「ゲームをすると、楽しみや快楽を与え
るホルモン、ドーパミンの量が増加し、脳がこれに作用することで、ゲーム以外の楽しみを感じ
られなくなってしまう。そして、大人になってからも本能であるかのようにゲームを求めてしまう
危険性がある」と話した。専門家たちは、ゲームを始める時期をできるだけ遅らせることが望
ましいと話す。しかし実際に、ゲームに初めて触れる年齢は下がり続けている。

 幼児用ゲームの内容が暴力的だったり、扇情的ではないからといって安心してはいけない。
インターネット夢希望広場のイ・ヒョンチョセンター長は「美しく穏やかそうなゲームが最も危険
だと考えるべきだ。実際に幼いゲーム中毒者の場合は『子ども用』ゲームから始まって、次第
に暴力性や扇情性が強いゲームに移行するケースが多い」と話した。

 あまり認識されていないが、幼児・小児期のゲーム中毒が青少年になってから深刻化するケ
ースも多い。今年中学校2年のチョ君(14)の母親は「10年前に戻ることができれば…」と毎日
後悔している。4歳のときからコンピューターを上手に使いこなしていたチョ君は、共働きの親
が放置している間に、メイプルストーリー、スタークラフトのような、中毒性の強いゲームに没頭
するようになった。そのためチョ君の父親がパソコンに暗証番号を設定し使えないようにする
と、今度はインターネットカフェに出掛けるようになった。チョ君のゲーム中毒で離婚の危機に
まで追い詰められた母親は、勤めていた会社を辞めてチョ君の治療に専念するという。母親は
「一人でゲームをさせるというのは、子どもに刃物を持たせるのと同じくらい危険なことだと今に
なって分かった」と話した。


【5】


 ギョンス(仮名)=ソウル市江西区加陽洞=は今年4歳だが、言葉をうまく話せない。「水」「お
菓子」「ママ」のような短い単語を発するだけで、うまく文章にして話せない。実際、ギョンスの一
日の生活の中では言葉があまり必要ない。同年代の友だちとも遊ばず、家に親戚や客が来て
も見向きもしない。

 ギョンスは1歳を過ぎたばかりのときからゲーム機で遊び始めた。有名なインターネットカフェ
の運営を手掛ける母親は、結婚後に夫と不和になり、パソコンに没頭するようになった。ギョン
スにはゲーム機を与え、一人で遊ばせた。ギョンスは今、オンラインゲームもスマートフォンの
ゲームも自由に操作する。言葉を覚えるよりも、同世代の友人と過ごすよりも、ゲームに没頭
した。母親がゲーム中毒に陥ったギョンスの深刻な症状に気づいたときには、時すでに遅しだ
った。ゲームを取り上げようとすると泣き叫び、母親をたたくなど、ギョンスは乱暴な行動も見
せた。

 一日中ゲームに没頭していたギョンスの脳は、世の中との間に壁を作ってしまった。言葉を
学び、社会性を身に付け、人間らしい性格を育み、素質を啓発すべきギョンスの脳には、ゲー
ム以外の何も入り込むことはできなかった。

 子どもが喜んで遊ぶからと、深く考えずにゲーム機を与える親、IT機器を上手に使いこなす
子どもを「IT神童」と勘違いする親、ゲームでもほかの子に負けてはならないとライバル意識の
強い親たちが「幼児ゲーム中毒」の悪影響に頭を抱えている。パソコン、ゲーム機、スマートフ
ォンが各家庭にあふれている昨今、幼い子どものゲーム中毒をめぐり親子げんかをしたことが
ない家庭はほとんどないだろう。

 特に、ゲームに初めて触れる年齢が年々下がっており、ゲーム中毒が韓国の子どもたちに
及ぼす影響が次第に増大している。また、幼い子どもほどゲームをする時間が長くなっている
のも実情だ。

 昨年ゲーム等級委員会が行った実態調査によると、ゲームに初めて触れた平均年齢は
2009年の5歳から、昨年は4.8歳へと低下し、1週間にゲームを利用する平均回数も、3−7歳の
幼児・児童(3.7回)が、9−18歳の青少年(3回)より多いことが分かった。また、1週間に7回以
上ゲームをする幼児・児童も13.5%と、青少年(11.4%)に比べ多かった。チャンセム精神科相
談センターの関係者は「病院を訪れる幼児のゲーム中毒者が毎年30%程度増加している」と
話した。

 ゲーム中毒は、視力・成長発達障害など身体的問題を引き起こすが、最も恐ろしいのは、幼
児の脳を破壊してしまうという点(こと)だ。

 関東大学明知病院神経精神科のキム・ヒョンス教授は「3−6歳児の脳の発達過程では、脳
梁(左右の大脳半球を接続する部分)が著しく発達し、高次的な判断力、思考力、注意集中力
と関連する前頭葉が急速に成長する時期。幼児期のゲーム中毒は前頭葉の機能に相当な影
響を及ぼし、脳の非正常的発達を招く恐れがある」と警告した。

 さらに中毒性も幼児の方が強いと指摘する。ディディム・クリニック(ソウル市蘆原区)のチェ・
サンチョル院長は「幼児期のゲーム中毒は、成長過程でいつでも再発する可能性があると言
えるほど中毒性が強く、精神健康の問題を引き起こす可能性もある」と警告した。
2012/05/05

**************************以上、韓国朝鮮日報紙から転


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【ブラック・ビジネス】(はやし浩司 2012−05−06)

●宝島社

 昨夜、床に入ってから、1冊の本を読んだ。
宝島社の『ブラックビジネス』。
表紙には、「知らずにハマる、ブラックビジネス」とある。

 宝島社といえば、若いころ、よく足を運んだ。
そのころから、こうした告発本を、多く出版していた。
それもあってか、玄関が、ふつうの出版社とはちがっていた。
どこかの暴力団の襲撃を受けたこともあった。
閉鎖的というか、外部の人が、すぐには中に入れないしくみになっていた。

 が、社員の方は、たいへん親切だった。
私が持ち込んだ企画を見ながら、いろいろアドバイスをしてくれた。
出版先を探し、紹介してくれたこともある。
だから……というわけでもないが、今でも「宝島社」という社名を見ると、すぐ手が伸びる。

 奥付の住所を見ると、「千代田区1番町25」とある。
それを見ながら、「ああ、あそこが千代田区だったのか」と思う。
道路の反対側に、大火災を起こしたホテルが、当時はまだそのまま残っていた。
また帰るときは、いつも、地下鉄は、「四谷」というところで、乗った。

(たった今、グーグル・アースを使い、会社の場所を調べてみた。
が、当時とは、会社の場所がちがうように思う。
会社が大きくなって、現在の位置に移転したのか。

 さらにウィキペディア百科事典を使って調べてみると、1980年代当時は、『赤坂の(株)宝島
社、発行は飯田橋の(株)JICC出版局、と別会社になっていた』とある。

 私が知っているのは、その「赤坂」のほうだった。
(それとも飯田橋のほう?)
また火災事故を起こしたのは、ホテル・ニュー・ジャパン(千代田区永田町)。
1982年に火災とあるから、私が宝島社に通っていたのは、その前後ということになる。)

 話はそれたが、『ブラックビジネス』。
読んで、こう思った。
「よくもまあ、ここまで金に毒された人たちがいるものだ」と。
まさに、あの手この手を使い、人をだます。
しかもこの本のすごいのは、(宝島社という会社はそういう出版社だが)、堂々と実名公を表し
ているところ。
たとえば「高島易断」。
「インチキすぎる荒稼ぎのトリック」(P41)とある。
(いいのかなあ?
こういう形で実名を出して……。)

●ブラックビジネス

 目次を並べてみる。

(1)最新振り込め詐欺事情
(2)悪徳マルチ商法は人生崩壊ゲーム
(3)高齢者をしゃぶりつくす、未公開株詐欺・通貨詐欺・押し売り
(4)"悪徳詐欺師系"占い師が語るスピリチュアル商法の闇
(5)詐欺ビジネスに変化が起きている。

(6)最新の「押し買い」事情
(7)二極化する新興の「闇金融」
(8)危険な罠だらけの競馬情報
(9)「海外投資」欲望のトラップ!
(10)催眠商法の底なし沼
(11)迷惑メール、真の目的とは

(12)被害者増加中! 民間資格商法
(13)問題山積みの開業支援ビジネス
(14)偽造サプリで今のうちに大儲け
(15)でっちあげ募金! 通称「犬詐欺」
(16)要求はどんどん過激に! 「チャイルド・ポルノ」
(17)ママサークルが、怪しい商売の温床に!?
(18)ギャル詐欺、騙されて覚える大人の世界

(19)不動産業界にはびこる、抵抗不能の搾取構造
(20)共犯ヘルパーが増殖中
(21)俺ならこの家狙って、空き巣に入る!
(22)リフォーム業界は"ウソの匠"だらけ

 どれも私たちの生活と直結している。

●リフォーム業界

 読めば読むほど、まさに人間不信になる。
「リフォーム業界」については、「悪徳業者以外を探すのが難しい」(P111)とある。
私も「リフォーム」をと考えていたので、これは参考になった。

 そのリフォーム会社。
リフォーム会社というのは、「建築業」ではないそうだ。
「解体屋」とか「産廃業者」とかが組んで、リフォーム会社を開業しているとか。
正式の図面は引けないから、客にはイラストを示して工事にかかるという。
が、自分では、しない。
工事は、それなりの仕事ができる大工に丸なげ。
たとえば1700万円のリフォームだと、1000万円分くらいが、丸々、会社の取り分。
残りの700万円が、大工に渡される実費。
リフォーム会社にしてみれば、「これほどうまい、儲け話はない」(本書)となる。

●スピチュアル商法

 「ブラックビジネス」は、11Pもさいて、「スピリチュアル商法」を解説している。
「数百円の石ころが、数万円の商品に化けるカラクリ」というのもある。
「ただの石を問屋から買い、パワーストーンとして売る」(P47)と。

 少し前、A・チャンというタレントが使った商法が、これである。
当の本人は、「事務所の人が勝手にして、私は知らなかった」と弁解しているが、それを信ずる
人はいない。
A・チャンは、「A大学」という架空の大学まで設立し、資格商法にまで手を染めている。

 ともあれ、騙す方も騙す方だが、ことこのスピリチュアル商法に関して言えば、騙される方も、
騙される方。
どうしてこういう馬鹿なものを信ずるのかと言いたいが、それぞれの人には、それぞれの事情
というものがある。
本のなかには、占い師に手相をみてもらっている男性の写真も載っていた。
占いといえば、若い女性の趣味のようなものかと思っていたが、どうもそうでもないようだ。
事業に行き詰まった人は、それこそ「藁(わら)にもすがる」。

●若い女性

 こうしたブラックビジネスに共通しているのは、「若い女性」。
若い女性が、まず電話口に出る。
客と応対する。

「日本人は、若い女性は安心と、脳の奥まで、刷り込みがなされている」(本書)と
「若い女性が、人を騙すはずがない」と信じている人も多い。
つまりブラックビジネスを展開する、ブラック企業は、若い女性を巧みに利用する。
客(カモ)を、安心させる。

 無知ということもある。
(実際、無知だが……。)
それゆえに若い女性は、確信犯的に行動する。
「私はちゃんとしたビジネスをしている」と、信じ切っている。
だから客の方は、騙される。
言いかえると、あやしくない会社ほど、あやしいということ。
若い女性が、ソフトな言い方で電話口に出たら、まず疑ってかかる
それくらいの警戒心は必要。

 ……そう言えば、銀行にせよ、証券会社にせよ、ブラック企業に含めてもよいのではないか。
やっていることは、まさにブラックビジネス。
現金(マネー)は、神に近いか、悪魔に近いかと問われれば、悪魔のほうに、はるかに近い。
その悪の権現(ごんげん・化身)が、銀行であり、証券会社ということになる。

●老人組よ、警戒しよう!

 ともあれ、我ら、老人組は、警戒する。
この先、この種のブラックビジネスは、ふえることはあっても、減ることはない。
たとえば闇金融にしても、今では「ソフト闇金融」というのまで横行しているそうだ。
それがどういうものかは、宝島社の「ブラックビジネス」を読んでみたらよい。

 それにしてもまあ、よくもここまで考えるものだと、感心する。
……ということで、今朝は、かなり人間不信に陥っている。
ズルイ人間は、どこまでもズルイ。
だから……。

 どう生きるか。
どう死ぬか。
もうひとつ加えれば、どう自分を守るか。
老後を生きる、これが3本の柱ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ブラックビジネス ブラック企業 老人組みの生き方)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●老後の住居(終の棲家と帰巣本能)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

老後をどこで、どのように過ごすか?
ときどき、そんなことを考える。
もちろん第一の候補地は、この浜松市ということになる。
ちょうど40年+半年、住んだことになる。
しかしここは私の故郷ではない。
知り合いはいるが、知り合いという程度。
どの人も、表面的なつきあいだけ。
花にたとえるなら、私は、水耕栽培で育ったチューリップのようなもの。
「根」そのものが、地面についていない。

で、私としては、老後は、故郷の美濃市、もしくはその周辺に住みたい。
最期は、そのあたりで自分の人生を終えたい。
心のどこかで、いつも、そう考えている。

が、ワイフは、「いや」という。
美濃の町を、よほど嫌っている……らしい。
一方、この浜松は、ワイフの故郷。
7人の兄弟姉妹は、いまだ、健在。
「いや」という理由は、よくわかる。

私「もし、ぼくが美濃に戻ると言ったら、どうする?」
ワ「私は、行かないわ」
私「だったら、離婚ということになるよ」
ワ「そのときはそのとき。また考えましょう」と。

……こんな会話を、すでに何十回も繰り返してきた。
堂々巡りというか、結論は、いつもあいまい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●夫婦

 夫婦といっても、基本的には他人。
溶け合える部分もあるが、そうでない部分も、ある。
その溶け合えない部分をどうするか。

 もちろん内容にもよる。
ワイフは熱い風呂が好き。
私は、ぬるい風呂が好き……というような部分は、どうでもよい。

しかし時として、人生観の根幹にかかわるような問題もある。
人生観、育児観、哲学など。
老後の住、つまり終の棲家(ついのすみか)もそのひとつ。
そういったもので違和感を覚えると、とたんに「他人意識」が強くなる。
「やはり他人だな」と。

●一心同体

 技術的には、同居は可能。
共助共存。
が、そのレベルを超え、一心同体となると、ことは簡単ではない。
それこそ10年、20年単位で、苦楽を共にしなければならない。
が、それには共通の基盤がなければならない。
共通の目標、共通の価値観……。

 「たがいの愛と理解で克服」などという、生やさしいものではない。
寛容と妥協、それを許す度量の広さ。
さらに平たく言えば、「あきらめ」。
結婚生活というのは、まさにその連続。
それなくして、結婚生活というのは、成り立たない。

 が、私のワイフは、「いやよ」と言う。
オーストラリアや東南アジアならよいが、私の故郷の美濃市は、「いやよ」と。
理由はよくわからないが、魚ひとつ取りあげても、口に合わないらしい。

「岐阜の魚は、ヌルヌルして、気持ち悪い」と。

 川魚というのは、そういうものなのだが……。

●夢と現実

 そこで私なりにシミュレーションをしてみる。
「はたして美濃の、あの町に住めるか」と。
つまり(夢)と(現実)の間には、大きな距離がある。
今までにも、そういう経験は、何度かしてきた。
「最期は故郷で……」と思う気持ちはあっても、現実には、それはむずかしい。

 で、先ほど私は、「水耕栽培で育ったチューリップのようなもの」と書いた。
が、故郷の美濃市となると、すでに「根」そのものを切られている。
知人、友人といっても、もちろん昔の知人、友人とは、ちがう。
考え方も、大きくちがう。
気軽にあいさつ程度のことはできるかもしれない。
が、それ以上に、彼らの世界に入り込んでいく自信はない。
ここ浜松で感ずる孤独感以上の孤独感を、覚えるかもしれない。

 だから最期は、この浜松で……となる。

●晩年の母

 ところで私の実母は、最期の2年間を、この浜松市で過ごした。
1年は、私の自宅で。
つぎの1年は、近くの特養で。

 その特養でのこと。
母はしきりに、生まれ故郷のK村に帰りたがった。
何度も私に、せがんだ。
一度、脳梗塞で倒れるまで、それはつづいた。

 そういった症状は、どの老人にも見られるらしい。
ホームのヘルパーの人たちは、こう言った。
「老人は、みな、そうですよ」と。

 ……ということは、私とて例外であるはずがない。
私も、最期に近づけば近づくほど、帰巣(きそう)本能が強くなるかもしれない。
事実、このところ、それをときどき感ずる。
「ここで死ぬのはいやだな」という思いが、そのまま「故郷で死にたい」という思いに変わる。

●老後の問題

 老後には老後の問題が、山のようにある。
これもそのひとつ。
つまりこの先、何かにつけ、じっと耐えて生きていく。
心の壁にペタリと張りついた不完全燃焼感に、じっと耐えて生きていく。
老後の住居問題だけではない。
もろもろの問題が、薄い地層のようになって、心の中に山積する。

 孤独、不安、心配、健康問題などなど。
が、どれも、自分の力では解決できない。
「命」の壁が、大きく立ちはだかる。
つまりどうしようもない。
どうしようもないから、じっと耐える。
耐えて生きるしかない。

●結論

 「老後は故郷で……」というのは、言うなれば、わがまま。
ぜいたく。
それまで、「浜松」という「地」があるだけでも、御の字。
感謝しなければならない。
というのも、そういうわがままや、ぜいたくができる人のほうが、はるかに少ない。

 反対に地元に残った人には、地元に残ったという不完全燃焼感があるかもしれない。
先日、高校の同窓会に出たときも、そう言った男性が、1人いた。
「私は生まれも育ちも、そして今まで、この美濃町を一歩も出たことがありません」と。

 自慢して、そう言ったのではない。
どこかさみしそうな言い方だった。
それを思えば、自由に、空をはばたくことができた私は、幸福だったかもしれない。

 で、その点、私のワイフは、正直な人だ。
そのままストレートに心の内を表現する。
「いやよ」と。

 それはその通りで、もし私が逆の立場だったら、やはり同じように言うだろう。
「いやだ」と。

 で、このエッセーの結論。

 老後というのは、耐えて生きるもの。
それがいやなら、できるだけ自分の心をごまかして生きる。

そういう心の操作が、加齢とともに、ますます必要になってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 終の棲家 最期の住居 老人組
の心理 耐えて生きる はやし浩司 不完全燃焼感)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
●休日パラドックス&二重過程理論(MSNのトッピクスより)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日「休日パラドックス」という言葉を知った。
前から、体験的には知っていたが、それを定義づけた学者がいた。
納得!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●MSNトッピクスより(2012−05ー06)

**********以下、MSNトッピクスより抜粋*********** 

 ……新しい出会いがあったり、初めての場所に出かけた休日は、あっという間に過ぎてしま
う。
でも後から振り返ると、単調な平日と比べて、長い時間だったような気がすることはないだろう
か?

時間が過ぎてゆくその瞬間は速いのに、後から振り返ると長いという、この休日によくある時間
の感覚は「休日パラドックス」と呼ばれる。

こうした現象が起きるのは、時間に対する感覚と記憶できる行動の数が影響しているらしい。
「休日パラドックス」という呼び名を生み出したのは、心理学の講師であるクラウディア・ハモン
ド氏だ。
ハモンド氏は心理学の学会で、このパラドックスの仕組みを次のように説明した。

普段の生活は一般的に、単調でパターン化されているので、二週間でせいぜい6〜9つのこと
しか記憶に残らない。

しかし、充実した休日では一日に6〜9つの記憶に残る経験をする。
そのため、その瞬間はあっという間に過ぎてしまうものの、後から振り返ると記憶に残っている
ことが多いので、長い時間だったように感じるのだという。

**********以上、MSNトッピクスより抜粋***********

 で、調べてみると、英語の原文が見つかった。
それをそのまま紹介する。
(出典:Science & Tech "Mail Online")
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2132993/Why-holidays-fast-memorable.html
#ixzz1suzvPiwK

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

We have all experienced it - a holiday that whizzes by at the time but, in retrospect, seems 
to have gone on forever. Scientists say it is all to do with how our perception of time is 
affected by the number of memories we form.
When we are doing something new, the hours pass quickly. But all the experiences lead to 
lots of memories - and when we look back, there are so many that it feels as if we were 
away for ages.
When we are in our normal routine, fewer memories are laid down. The days seem to drag… 
but fly by in retrospect.
Holidays are so memorable because of our perception of time, scientists say
The phenomenon has been called the holiday paradox by psychology lecturer Claudia 
Hammond. She told the British Psychological Society's conference in London that our lives 
are normally so humdrum that only six to nine experiences a fortnight are worth committing 
to memory.
On holiday, we remember six to nine things from each day.
It is something we have all experienced: a holiday that whizzes by at the time but, in 
retrospect, seems to have gone on forever.
Scientists say it is all to do with our perception of time and how it is affected by the 
number of memories we form. 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●二重過程理論

 なぜ、英文の原文を掲載するか。
それには同じMSNニュースには、つぎのようにあったから。

『……4月18日付けの『Psychological Science』に掲載されている論文には、次のように書かれ
ている。

「直観的に考えると、使う言語にかかわらず同じ判断が行われる、もしくは、外国語で考えたほ
うがより体系的でない判断をしてしまうように思われるが、実際にはその反対が正しい。
つまり、外国語を使うと、意思決定をするときのバイアスが減少するのだ」

 心理学において、人間の判断は、2つの異なる思考法によって導き出されると考えられてい
る。
ひとつは、体系的・分析的で、高度に認知的な思考法。
もうひとつは、手早く無意識的で、感情的な思考法だ。

 二重過程理論と呼ばれ、長期的な利益を勘案することができ主に大脳新皮質に司られてい
る「理性的システム」と、即座に働き短期的な利益(主に生存・繁殖)に関わり主に大脳辺縁系
に司られている「情動システム」の両方が、判断や意思決定に関わっているとされる。

 これに照らし合わせると、母国語でなく、無意識には使いこなせない言語で思考することは、
認知的に負荷のかかる行為であり、脳の処理能力を奪われるため、そのような場合には、手
早く短絡的な思いつきに頼る傾向が強くなるように思われる』(以上MSN)と。

●二重過程理論

 ここで重要なキーワードは、「二重過程理論」。

 人間の判断は、つぎの2つの異なる思考方法によって導き出されるという。

(1)体系的・分析的で、高度に認知的な思考法。(大脳新皮質に司られている。)
(2)手早く無意識的で、感情的な思考法。(主に大脳辺縁系に司られている。)

 何やら難しいことが書いてあるように思う人がいるかもしれない。
しかしこんなことは経験的に、当たり前のこと。

 たとえば何かの記事を読んだとする。
そのとき直感的に、「これはおかしい?」と感ずる。
これが(2)の「手早く無意識的で、感情的な思考法」ということになる。

 つぎにその直感に基づいて、自分の思考を注入し、理論化したり体系化したりする。
それが(1)の「体系的・分析的で、高度に認知的な思考法」ということになる。

 そういう意味では、先の(1)と(2)は、順序が逆のように思う。
それはさておき、(2)から(1)へ結びつけるには、それなりの経験と訓練が必要である。
(2)の能力のある人は、多い。
しかしそれを(1)の段階まで、昇華できる人は、少ない。
いわんやそれを文章にしたり、さらに読んでくれた人を納得させるには、経験と訓練が必要で
ある。

 だれでもできるわけではない。
……という意味で、この2つの記事は、たいへん興味深い。
今まで私たちが、体験として知っていたことを、じゅうぶん、納得させてくれた。

ひとつは、記憶(=時間の長さ)というのは、密度で決まるということ。
もうひとつは、ものごとはまず直感で判断し、それを別の脳で体系化、理論化するということ。

 新しい知識、ゲット!、ということで、この話は、ここでおしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 二重過程理論 記憶 記憶と時
間の長さ はやし浩司 記憶の密度と時間の長さ はやし浩司 直感の体系化 理論化)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【消息・調査】(はやし浩司 2012−05−07)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最近、強く、こう思うときがある。
昔出会った人たちや、私が教えた生徒たちは、今、どうなっているか、と。
それを知りたい、と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●インターネット

 インターネットの進歩には、驚く。
インターネットを使えば、たいていのことは調べられる。
さらにグーグルアースを使えば、その人の住んでいる場所や家の様子まで調べられる。
場所によっては、「ストリート・ビュー」が使える。
周辺の様子を、車の中から見るように、知ることができる。

 たとえば「AAさんのことを知りたい」と思ったとする。
そういうときは、「AA」という名前で、検索をかければよい。
今ではその町内で発行する機関誌まで、ネットで公開されていることが多い。
それを手がかりに、AAさんの住所を絞り込むことができる。
職業もそれでわかることが多い。

 何かの活動を、公にしていれば、さらに詳しく知ることができる。
が、いつもここで、強いブレーキが働く。
「それを知ったところで、どうなのか?」と。
言うなれば、安っぽい、好奇心。
もっと平たく言えば、「のぞき見」。

●興味

 が、それでも知りたい人というには、いる。
学生時代の親友とか、恋人とか……。
が、そこまで。
消息を知ったところで、何かをしようという気はない。
「元気かなあ?」と思う程度。
が、これは好奇心ではない。
興味。
どうしてだろう?
どうして、そういうことを今になって、知りたがるのだろう?

 理由のひとつに、私自身の人生が秒読み段階に入っていることがある。
言うなれば、あと片づけの段階。
整理。
ちょうど古い骨董品を処分するように、過去のひとつずつに決着をつけておきたい。
心に踏ん切りをつけておきたい。
「糞切り」と書いてもよい。
長い「糞」をぶらさげたままでは、死ぬこともできない。

 そう思うようになった理由のひとつに、最近、こんなことがあった。

●独りよがり

 学生時代、1人のガールフレンドがいた。
美しい人だった。
半年ほど、つきあった。

私は真剣だった。
で、そのガールフレンドについて、前回、同窓会に出たとき、いろいろな話を聞いた。
結果、「ナーンダ!」となってしまった。
つまり彼女には、私のほかに何人かのボーイフレンドがいた。
私は、ただのワン・オブ・ゼム(多数の中の1人)にすぎなかった。
しかもそのガールフレンドには、本命のボーイフレンドが、ほかにちゃんといた。

 それを知ったとき、「ナーンダ!」と。

 ……私には子どものころから、そういう面がある。
思い過ごし。
思い込み。
それがはげしい。

 だからそのガールフレンドとの思い出についても、別のとらえ方をしていた。
勝手に美化し、同時に、2人の関係を悲恋化していた。
が、そのガールフレンドと言えば、私のことなど、何とも思っていなかった。
そういう私を、うるさい男と思っていた(?)。
私とは、遊びに過ぎなかった(?)。
が、その私といえば、本気になってしまった。
「さあ、たいへん!」ということで、(たぶん?)、そのガールフレンドは、あれこれ理由を並べ、
私から去っていった。

 当時のいきさつをあれこれ総合すると、どうやら、そういうことになる。
私はあまりにも純朴で、そういった女性の心理を理解できなかった。

 はっきり言えば、悲劇ではなく、喜劇!
みなで、ハハハと笑っておしまい。
みなに、ハハハと笑われておしまい。
同窓会では、そうだった。

●一縷(いちる)の望み

 で、そのときは、それで終わった。
しかし数日もすると、それがジンワリと私の心の中で、大きく膨らみ始めた。
「ならば、今、どうしているか、調べてやろう」と。

 ……というのも、自分の中で、その残り火が今でもチラチラと燃えている。
青春時代の美しい(?)思い出として、ずっと大切にしてきた。
が、今回、それが粉々に破壊されてしまった。
ア〜ア、という感じ。
映画『タイタニック』の中に出てくるジャックとローズの話とは、大違い。
私には、その雰囲気さえない。
それはわかっているが、それでも私は、自分の思い出に、一縷(いちる)の望みをかけていた。

 いつか通りで会ったとき、「あっ、AAさん……」「浩司さん……」とか、など。
そんな会話ができればよいと願っていた。
映画『ドクトル・ジバゴ』の1シーンのように。
(こう見えても、私はロマンチストなのだ!
もっともあの映画の中では、そういう会話もできないまま、ジバゴは心臓発作を起こし、その場
で倒れてしまうが……。)

 が、今は、ちがう。
「会って、ぶん殴ってやりたい」と思っている。
「さんざん、人の心をもてあそびやがって、この野郎!」と。

●恋愛詐欺

 で、おととい、いろいろ調べてみた。
インターネットの助けを借りた。

 住所は、XX県XX町XX番地。
たまたまそのあたりを、グーグルアースのストリートビューで見ることができた。
マウスを動かせば、360度、その周辺を見回すことができる。
近所の商店とか、そういったものまでわかる。

 あとはNTTの104を使い、その商店の電話番号を調べる。
それとなくその商店に電話をかけ、相手の様子を聞く……。
……というような、姑息(こそく)なことはしない。

調べるなら、現地まで行き、堂々と、それをしたい。
ばったり顔を合わせたところで、どうということはない。
無視して、その場をやり過ごせばよい。
言うなれば、私は被害者。
恋愛詐欺の被害者。
相手のAAさんは、いやがるだろうが、それは私の知ったことではない。

 つまり私は私のやり方で、最後の、そのまた最後の残り火を消しておきたい。
残り火を残したままでは、冥土へは行けない。

●STOP

 ほかにも、それぞれの理由があって、調べてみたい人はいる。
が、「みたい」と思うだけで、そこでSTOP。
先にも書いたように、それはただの好奇心。
のぞき。
私の生活にも、思想にも、何ら役に立たない。
意味もない。

 そんな暇があったら、現在、よく知る人の過去を知ったほうがよい。
またそういう人たちを大切にしたほうがよい。
共に、人生は短い。

 ……というか、最近、「私」「他人」という垣根が、少しずつ低くなってきたように感ずる。
私と他人を区別するほうが、おかしい。
共にこの地球で、共に「現在」という時間を共有した。
言うなれば、一心同体。
その人がどんな人生を送ったにしても、その人の人生は、私のもの。
同時に、私の人生は、その人のもの。

 みなが、ひとつの坩堝(るつぼ)の中で、いっしょくたになって生きている。
それが今という時代を作っている。
それがわからなければ、江戸時代なら江戸時代という時代を思い浮かべてみればよい。
あの時代にも無数の人が生きていた。
無数のドラマがあった。
しかしそういった人の間には、垣根はない。
みな、いっしょくたになり、あの時代を作った。
私たちも、やがてすぐ、そうなる。

 ……ということで、今夜はここまで。
近く、AAさんの家の近くまで行き、AAさんの消息をたずねてみたい。
会うことはない。
ただ長くぶらさがった「糞」だけは、そのとき、その場で、しっかりと切っておきたい。
2012/05/07記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【文字は楽しい】(BW教室より)(はやし浩司 2012−05−07)

●文字遊びを展開しました(年長児)。

 「文字は楽しい」という印象作りをしました。
文字そのものを教えるのではなく、「文字は楽しい」という意識作りです。
それをしっかりと作っておけば、子どもは、あとは、自分で伸びてくれます。
どこかで文字を見たとき、「楽しい」と思ってくれれば、しめたもの。
家に帰り、「ママ、ひらがなを教えて!」と言うように、指導してみました。

 幼児教育は、「種まき」です。
何かを教え込んでやろうと考えるのではなく、興味に灯をともし、能力を引き出す。
それが子ども自身を内部から、引っ張ります。
強化の原理とも言います。
子どもたちの楽しそうな学習風景を、お楽しみ下さい。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/EokJ7yEWkp8" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


●小1用、小2用、小3用の教材

 今週は、「大きな数」をテーマに、小学1〜3年生を指導しました。
各学年用の教材を、小4児のみなさんに、してもらいました。
「教材紹介号」です。

 子どもたちが、できる、その限界ギリギリまで教えます。
「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」ですね。2012/05/07
ばあいによっては、小2児でも、小3用の教材を使うこともあります。
あくまでも子ども次第です。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/sYe3tnCeJSo" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【私のメール作法】

●件名

 毎日多くのメールが届く。
そのほとんどが、スパムメール(広告を目的とした、大量配布メール)。
フィルターをかけ、かなりのメールを、「サーバーから削除」している。
が、それでも毎日200〜300通のメールが、すり抜けてくる。

 スケベ・メールも多い。
もちろんウィルス入のメールもある。
2重、3重のガードをかけているが、それでも届く。

 (私のばあい、サーバー側で、有料のウィルスチェックサービスを受けている。
またパソコンごとに、ウィルスソフトをインストールしている。
パソコンは、メール用、ホームページ(ウエブサイト)用と、使い分けている。)

 が、困るのが、件名が「?」のメール。
「先日は、ありがとうございました」とか、「返事が遅れてすみません」とか、など。
そういうメールが届くと、開くべきかどうかで、しばらく考え込んでしまう。
メールアドレスに心当たりがあるからといって、安易に開いてはいけない。
悪質なスパムメールになると、その人のアドレスを勝手に盗んで使う。

 だから……。

(1)メール作法の基本として、件名には、相手方の名前、自分の名前を書くべき。

 封書だって、そうだ。
相手方の住所氏名はもちろん、自分の住所氏名を書く。
それがあるから私たちは、安心して、その封書を開くことができる。
そうでなければ、そうでない。
差し出し人の名前の書いてない封書を受け取ったら、あなたはその封書を開くだろうか。
開くにしても、かなりの勇気(迷い?)が必要。
実際には、そんな封書は、めったに、ない。

(2)できれば、件名だけで、メールの内容がわかるようにする。

 件名というのは、メールの概要と考えたほうがよい。
件名を読んだだけで、大まかな内容がわかるようにする。
そうすれば、メールを開く方も、安心してそのメールを開くことができる。

(3)感情表現を豊かに

 ここがいちばん重要だが、メールというのは、当然、「文章」。
この文章というのは、読む側の心の状態によって、どういうふうにも読める。

 たとえば読む側が、たまたま落ち込んでいるようなとき。
「お前も、馬鹿だ」と書いてあると、その一文だけで、激怒してしまう。
書いた方は、軽い気持ちでそう表現したとしても、それは通じない。
つまりこうして誤解が誤解を生み、たがいの間を決裂させる。
そういう例は、少なくない。

 つまり文章というのは、読む側の心理状態によって、赤くもなれば、青くもなる。
だから相手を批判するようなときには、とくに注意する。
あるいはそういうメールは書かない。
そういうときは、電話を使う。
電話なら、こちらの感情を、うまく伝えることができる。

 実際、私のばあい、何かの仕事の依頼などがあたったようなときは、すかさず電話を入れる
ようにしている。
(メールではなく、声の電話。)
相手が見知らぬ人のばあいは、さらにそうである。
声には心をつなぐ作用があるが、文章にはそれがない。
それに一度、たがいに声を聞けば、そのあとの連絡が、スムーズになる。

 以上が、私の「メール作法」ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【日本の無駄づかい】

●お人好し外交

 先月のこと(2012年4月)、日本政府は、600億ドル(5兆円)もの大金を、IMFに追加出資
した。
頼まれもしないのに、「主導権」を握った(?)。
それまでは「日本はカヤの外」。
それ以後は、チヤホヤ。
あの財務大臣の、子どものような笑顔が、それを象徴している。

 まず、そのときに書いた原稿を読んでほしい。
日付は、2012年4月22日になっている。

++++++++++++以下、4月22日

●IMF(国際通貨基金)への拠出金

 日本政府は、IMFに、600億ドルの拠出金を決めた。
報道によれば、(1)円高対策になる、(2)将来の保険金的色彩が濃いなどとある。
しかしそれにしても、600億ドルとは!

 ちなみに、アメリカはゼロ。
国別に今回の拠出国を並べてみる。

日本……600億ドル
イギリス……150億ドル
韓国……150億ドル
オーストラリア……70億ドル
シンガポール……40億ドル

 アメリカは財政難を理由に、ゼロ。
ブラジルは、「自国の地位向上が見られない」という理由で、ゼロ。

 あのね、IMFというのは、もともとは、ヨーロッパの、ヨーロッパのための機関。
そのことはIMFの理事国メンバーを見ればわかるはず。
日本は、「自国の地位向上」をめざし、600億ドルを拠出した?
が、今の日本に、そんな余裕、どこにある?

600億ドルということは、約5兆円。
日本人1人当たり、5万円(成人人口約1億人として計算)。

 もしあなたの家に、町内会の班長が回ってきて、こう言ったとする。
「今度、EUを救済することになりました。
ついては、あなたの家は3人家族ですから、15万円出してください」と。

 あなたは何も言わず、「はい」と言って、15万円、差し出すだろうか。
それとも、しぶるだろうか。
が、私なら、はっきりと断る。

 ちなみに、IMFの歴代(専務)理事(=理事長、理事国)は、つぎのようになっている。

べルギー(1946)
スウェーデン(1951)
スウェーデン(1956)
フランス(1963)
オランダ(1973)
フランス(1978)
フランス(1987)
ドイツ(2000)
アメリカ(2011)(2か月で退官)
フランス(2011)

 これを見てもわかるように、IMFは、国際機関とは、とても言い難い。
さらにウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
日本人としては、たいへん気になる。

『……日本の場合、大口出資国である等の立場から財務官僚が多く出向しており、融資が行
われていないにもかかわらず「消費税を上げるべきだ」等のIMFの討議内容の報道がなされ
る。
 これは、IMFの正式発表ではなく、財務官僚が出向者を使いさも、まるで、IMFが全体がそ
の様に述べているかのように見せ、自分たちの都合の良いようにマスコミを通じ国内世論を操
作する道具にしている』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

 そういうIMFに、600億ドル!
財務官僚のメンツを立てるために、600億ドル!

 アメリカはもっと、クールだぞ。
ユーロが崩壊すれば、アメリカ・ドルの独壇場。
ユーロは、もとは言えば、アメリカのドルに対抗して生まれたもの。
ユーロの台頭とともに、アメリカのドルは弱体化した。
ついでに日本の円も、脇に追いやられた。

 どうして今、そのユーロを助けなければならないのか。
アメリカ人なら、みな、そう考える。

 今の日本人に欠けるのは、大局に立った戦略的視野。
それに野生臭。
ドロ臭さ。
結局は、最後にババを引くのは、この日本。
日本人の私たち。

++++++++++++以上、4月22日

●閑古鳥が鳴く新東名(第二東名)

 報道によれば、(1)円高対策になる、(2)将来の保険金的色彩が濃いなどとある。
が、円高対策のためということなら、600億というのは、あまりにも弱い。
世界中が、札の印刷合戦をしている。
日本だけが、かたくなに約束を守り、優等生ぶっている。
現在の円高の最大の理由は、ここにある。

 それを「円高対策」と言うのは、あの新東名(第二東名)をさして、「渋滞緩和」と言うのと同じく
らい、バカげている。
開通してから2週間目。
数日前、近くを走ってみたが、車はまばら。
閑古鳥が鳴いていた。

 あれほどまでに豪華な道路は、そうはない。
インフラ整備とはいうが、明らかに過剰。
今朝の日経新聞は、EUの現状について、つぎのように結んでいる(2012/05/07)。
最後の一文をよく読んでほしい。

 『労働市場改革の断行は難しく危険でさえある。
イタリアでは近年、労働市場改革について政府に助言していたエコノミストが2人暗殺された。
だが、そうした改革は長期的には雇用創出を拡大する唯一の道だ。

 対照的に、欧州は支出拡大で債務から抜け出すべきという意見は幻想だ。
もちろん、財政赤字削減のペースには議論の余地がある。
しかし、欧州のように多額の税金を課され、厳しく規制され、多大な債務を背負った大陸では、
国費による公共事業は、どこにも行けない道をつくるだけだ』(以上、日本経済新聞)と。

 これはEUの現状を訴えた意見だが、それはそのままこの日本にも当てはまる。

 つまり「公共事業は、どこにも行けない道をつくるだけ」。

 もしあなたが新東名で浜松周辺を走る機会があったら、眼下に交差する道路を見てほしい。
どの道路も、立派。
豪華。
県道や市道もあるが、林道や農道が、縦横無尽に走っている。
たとえば三ヶ日の国民宿舎から引佐町へ抜ける道(農道)などは、片側1車線だが、そこらの
高速道路より立派。
直線距離にして3キロ程度(グーグルアース上で測定)。
いつ走っても、すれちがう車さえない。
まさに「公共事業は、どこにも行けない道をつくるだけ」。

 こんなアホなことばかりしているから、国の借金はふえつづける一方!
またこんな方法で景気を刺激しようとしても、そこには限界がある。
工事中は、土建業者が潤う。
しかしそのあと、経済は、ドカッと停滞する。
その象徴が、新東名。
この先の維持費(つぎの世代に残すツケ)を考えたら、ゾッとする。

●本論

 さて本論。

 今朝の報道によれば、フランスでは左派政権(大統領)が誕生した。
ギリシャでも、与党は過半数を取れないかもしれないという(2012/05/07)。
それを先読みして、ユーロは、下落。

 何度も書くが、ギリシャを含め、EUの金融危機は、何一つ解決していない。
むしろ悪化の一途をたどっている。
そんな中、日本は、お先走り、頼まれもしないうちから、600億ドルの追加支援。
まさに大国意識。
お人好し。

 世界の経済の中心は、EUから中国、さらにはインド、ブラジル……へと、移動しつつある。
日本からも、東南アジアへと、移動しつつある。
動いてるマネーは、100兆円単位。
そんな中、5兆円程度で、その流れを変えられるはずもない。
が、日本にとっては、大金。
多くの経済学者たちが口をそろえて言っているように、「最後にババを引くのは、この日本」。

 つまり日本は、もう少し野生味を表に出し、国益第一に行動すべき。
最後に、こんなニュースもある(Yahooニュースより)。

『[東京 23日(2012年4月23日)
 ロイター] 韓国サムスングループが日本人技術者の引き抜き攻勢を強めている。
巨額の赤字に苦しむ国内電機各社による事業縮小と人員削減。
開発環境や処遇が悪化すれば優秀な技術者が自ら会社を離れても不思議はない。

(中略)

<年収10倍の提示も>

(中略)

 ある技術者に提示されたサムスンの処遇はこうだ。
役職は取締役。年収は6000万―1億円で、契約期間は3―5年。
年収とは別に、転職に伴う契約金が数千万円支払われる。
専属秘書と運転手付きの車が支給されるほか、30坪超の家具付きマンションが無償貸与さ
れる。
日本への帰省費用、家族の韓国への招待等も会社が実費負担する』(以上、Yahooニュー
ス)と。

 日本の外では、猛烈な風が吹いている。
いいのか、日本!
このままで!

 ちなみに今朝、7日午前の東京株式市場では、日経平均株価が200円超安の9122円で取
引されている。 
2012/05/07


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【はやし浩司 2012−05ー11】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日は、朝4:30まで作業をしていた。
そのころ床に就いたが、朝、9時ごろ、目を覚ましてしまった。
睡眠時間は、たったの4事件前後。
「だいじょうぶだろう?」と思っていたが、夕方から、猛烈な睡魔。
レッスンの途中で、はじめて居眠りをしてしまった。
幸い、ワイフが横にいて補助してくれたからよかった。
でなければ、クビ!
(この40年間で、レッスン中に居眠りしたのは、はじめて!)
この世界も、たいへんきびしい!
居眠りをしたりすると、即、クビ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【動画・BW教室の様子】

●5月10日収録

 BWの子どもたちは、全員、例外なく、元気です。
またそういう元気な子どもになるよう、指導しています。
子どもたちが元気なのは、あくまでも、その結果です。

 今回は、「どう元気か?」という面をよく見てほしいです。
やる気200%、能力全開で、子どもたちは、私に飛びかかってきます。
ものすごい迫力とパワーです。

 さあ、みなさんも、子どもたちから元気をもらいましょう。
なお私は、この日、完全に睡眠不足で、フラフラでした。
私のほうが、圧倒されてしまいました。
どうか、ビデオをみながら、お笑いください。

【年中児クラス(この4月からスタートの教室です)】

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/oxgaUsPHca4" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【小1〜2児のクラスです】

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/3UVoCJCMcxY" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【小2〜3児のクラスです】

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/xNStBx1LSaI" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●無断転載

 私の原稿が、あちこちで無断転載、流用されている。
昨年は、N県の県警本部が発行するホームページで、20枚前後が流用されていた。
私の文章をバラバラに切り離し、それをつなぐという手の込んだものだった。
悪質だった。
(県警本部だって、そういうインチキなことをするぞ!)
で、電話をすると、いきなり、「証拠はあるのか!」と。

 で、電話口で双方の原稿を読み聞かせてやったが、それだけでも、1時間半以上もかかっ
た。
……というようなことは、ときどきある。
が、今回の無断転載は、これまた悪質。
何と、コピー用紙に印刷した状態で、1500枚前後。
(印刷して、1500枚だぞ!)
その印刷と、原稿の照らし合わせのために、昨日は、午前4時半までかかった。
刑事告発するつもりでいた。

 悪質というか、この手の無断転載は、どれも悪質だが、「はやし浩司」の名前は、きれいに消
されてあった。
(こういうことを意図的にするところが、恐ろしい!)
弁護士をしている学友に連絡すると、間に弁護士を置けとのアドバイス。
起きてから、市内の弁護士に連絡を取る。

が、今回も、刑事告発は、やめにした。
電話で相手の意図を問いただすと、こう言った。

「よい内容だったので、つい……」と。
すなおに無断転載を認めた。
ていねいにわびた。

どこかの同業者だった。
だから許した。

 が、さらに悪質なのもある。
間に、コピーラーター(ゴーストライター)が入って、書籍化しているのもある。
この手のライターは、文章そのものを変えると同時に、いろいろな情報を上塗りする。
素人の人が、文章を読み比べただけでは、まず、わからない。
が、その底流を流れる「哲学」は同じ。

 つまり育児論というのは、「哲学」。
その人によって、みな、ちがう。
その哲学が同じということは、ありえない。
が、その本の底流を流れる哲学が同じ?
文を読むと、その哲学が、スーッと自分の頭の中を流れていくのがわかる。
ところどころに、私がよく使う専門用語や、具体例が挿されている。
あるところでは、「宏君の背中がチョークで落書きされた」が「聡君の傘がチョークで落書きされ
た」になっていた。
その本は、100万部以上も売れたという。

 ズルイ学者は、こういうライターを巧みに使い、自分の名誉につなげる。
ライターは、そういう学者に寄生し、魂を売る。
金を儲ける。

●今朝は、12時間

 昨夜は、睡眠導入剤を口にした。
午後9時、就寝。
起きたのが、今朝は、9時。
12時間、眠ったことになる。
(途中、午前6時ごろ、トイレに行くため、目を覚ましたが……。)

 軽い頭痛が残った。
偏頭痛と判断したので、「Z薬」を、半分に割って、のんだ。
20〜30分で、偏頭痛は、消えた。

【UTさんからの相談】

 昨日、こんな相談が届いていた。
3人の子どもをもつ母親からのもの。
中の子どもが、愛情飢餓状態で、親子の関係にキレツが入りつつあるというもの。

【UTさんから、はやし浩司へ】

初めてメールにて相談させていただきます。
以前からよくホームページを読ませていただいて大変参考にさせていただいています。

現在三人の育児をしていますが、真ん中の娘についての相談です。

上の子供が3歳のときに2番目を出産しました。
一人目ときよりじっくり相手をしてあげる余裕がないまま、ミルクもよく飲んでぐっすり寝ている
こでした。
いわゆる手がかからない子でしたので、割と一人で遊んでいました。
表情がとぼしく上の子供より、私も愛情がわきにくく、引っ込み思案な子でした。
私自身、今思えば私の責任が多く、もっとスキンシップをしてあげたらよかったと思っていま
す。
さらにその下に、弟が生まれてからは、はじめての男の子で素直なかわいい子で、私自身もよ
くかわいがっていました。
次女も弟の面倒をよくみているようでした。

上の長女も素直で、すぐママと言って寄って来る感じで、過ごしてきました。
率直に私自身、長女と弟とは気が合うと思っていました。
次女が年中ぐらいからつめをかむくせがありましたが、そんなに気にとめていませんでした。

次女が2年生になって、学校のお友達のふでばこと下敷きを持ってきてしまいました。
すぐに長女が気づいて、お友達に電話をして返しに行きました。
その後いろいろ話しているうちに、次女が大泣きしながら、手紙を書いてくれました。

内容は、「ママは、一番は長女の姉で、2番が弟で、私のことは好きじゃないんでしょ?、とわ
かってるよ。
ずっと前から知ってるもん」と。

そういう内容でした。
姉には怒ってもいつも仲良しだし、弟はいつもかわいがっている。
私のことはご飯と勉強だけ教えてくれたらそれでいいです。
ママのこと大好きだよ。と
先生の言われる親の愛情に疑問を持っているように思いました。

その後、うちにお友達がきたときに、にランドセルを持ってと言って帰ってきていたと、長女から
聞きました。
どうして自分でも持たないとだめでしょ、と言うと泣きながら、姉がお父さんにくつをかってもらっ
ていたことや本を買うときも自分は1冊だったけど、姉は2冊だった、といって泣き崩れました。

母子関係が構築できないまま、それに気がつかないまま、7歳まできてしまったように感じてい
ます。
このことに気づくまでは、習い事も、現在5個していて、(3人とも習いごとがあります)、ついつい
教育熱心に家で、ワークさせたりしています。

私の兄弟が近くにいて、皆、学校の出来がよく、特に、妹とは昔からライバル意識があって、妹
の子供ができがいいので、プレッシャーを感じていたと思います。
すごくしかりながら、あれもしてこれもしてと強制させていました。
このままではいけないような気がしています。
習い事も減らしてその分二人っきりの時間も持てたら方がいいかなと思っていますが、具体的
にどうしたらいいのかわからないでいます。

私と次女との関係はもう最初からやりなおせないのでしょうか?
自分自身も鈍感な親だったと反省しています。
よいアドバイスをいただけたら幸いに思います(佐賀県T町)。

【はやし浩司より、UTさんへ】

 子育てというのは、そういうものです。
親は日々に(やり残し感)を残し、反省する。
しかし翌朝になると、またその忙しさの中で、我を忘れる。
子育てはまさに、戦場!
その繰り返し。

 問題の芽というのは、そのときは、見えない。
「まさか……」「うちの子にかぎって……」と。
前もってわかっていれば、それなりの予防もできますが、何しろどんな問題が起きるかわから
ない。
子どもの問題は、無数にあり、また問題のない子どもはいない。
しかも1つや2つなら、まだよいほう。
川面の浮かぶアワのように、あちらで起き、こちらで起きる。
ときにはブクブク、ブクブクと、同時に起きる。

 子育てというのは、そういうものです。
もちろんその間にあって、子どもの心には、無数の傷がついていきます。
が、親のできることにも限界があります。
親だって、自分の生活を守るのに、精一杯。
追いかけるだけで、必死。
子どもの心を静かに見守る時間さえない。
ましてや3人も子どもがいれば、なおさらです。

 ……ということでは、返事になりませんね。

 この際「修復」ということは、考えないこと。
やがて子どもは、あなたを蹴飛ばすようにして、あなたのもとを去っていくかもしれません。
それはそれでしかたないこと。
すばらしいこと。
あとは子ども自身に任せます。
さみしい思いはしているでしょうが、やがて友を見つけ、恋人をみつけ、自ら「修復」していきま
す。
それを見守るのも、親、親の愛。
愛というのは、それほどまでに、さみしく、つらいものです。
あなたは自分の子どもを見るたびに、つらい思いもし、後悔をするかもしれません。
が、すでにあなたはそれに気づいている。
すばらしい母親と思います。

 ほとんどの母親は、(父親もそうですが)、子どものそうした心の変化にすら気づかないもので
す。
で、問題の件ですが、「泣いた」段階で、すでに問題の90%は解決しています。
いうなれば、グチ。
不平不満。
ぐいと抱き、「そうではない」ということを、語りかけるだけで、子どもは安心します。
つまり「わかっているよ?」と書きながら、母親であるあなたが、それを否定してくれるのを、待
っているのです。

 で、盗みと、愛情飢餓の問題は、分けて考えます。
底流ではつながっている部分もありますが、愛情があっても、盗みをする子どもはいくらでもい
ます。
愛情飢餓があるからといって、盗みをするというわけでもありません。
この時期の子どもは、(盗み、うそ、悪口)を繰り返しながら、おとなに抵抗を始めます。
盗みを許せというのではありません。
ていねいに、やさしく説教しながら、それですまします。
あとは時間が解決してくれます。

(なお友だちの持ちものをもって帰ってくるというようなことは、日常茶飯事です。
それに気づいた姉(長女)のほうが、むしろ要領よく盗みをしているかもしれませんよ。
ふつうは、気がつかないものですから……。
私なら、告げ口をした、姉のほうを強くたしなめます。
「あなたが自分で、妹に注意しなさい、とです。
盗みより、告げ口のほうが、陰湿です。
価値観の相違かもしれませんが……。)

 おけいこ塾の数は、尋常ではありません。
やらせればやらせるほど、「虐待」と考えてください。
私は「間接虐待」と呼んでいます。
親はそれをよかれと思いながらしているかもしれませんが、子どもにとっては、虐待です。
もちろん効果はありません。
子どもの側からの、感謝もありません。
効果や感謝がないばかりか、親子の間に大きなキレツを入れることになります。
子どもの気持ちを、一度、確かめてみてはどうでしょうか。

 ともあれ、よくある問題です。
3人子どもがいると、真ん中の子どもは、愛情飢餓状態になるのは、よくあることです。
が、その分、(それが好ましいということではありませんが)、他人に愛想がよくなったり、だれ
かにベタベタ甘えたりするようになります。
さみしい思いをしていますが、その分だけ、たくましくなります。

 なお、過去を振り返らないこと。
子育ては、常に「今」を前提に、「今」を基盤に組み立てていきます。
7歳(小2?)ということですから、そろそろ親離れの時期にさしかかります。
その(揺り戻し)時期と考えてください。

 この時期の子どもは、赤ちゃんに戻ったり、ときに、妙におとなびた様子を見せたりしながら、
つぎの思春期前夜を迎えます。
これを私は「揺り戻し」(はやし浩司)と呼んでいます。
情緒も不安定になります。

 あまり気になるようなら、いっしょに風呂に入ってあげたり、添い寝をしてあげたり、あなたの
ほうから、ときどきぐいと抱いてあげるだけでも、効果的です。
子どもに安心感を与えるようにするのが、コツです。

 ともあれ、数多くある子どもの問題の中でも、たいした問題ではありませんので(失礼!)、あ
まりおおげさに考えないこと。
子どもは傷まるけになりながら、成長していきます。
それを見守るのも、これまた親の努めです。

 今のうちに、子育てのドラマをおおいに楽しんでください。
こういう時期は、あっという間に終わりますよ!
では、

はやし浩司
2012/05/11

【UTさんからの返信】

はやし先生へ 
 
 先生の丁寧なアドバイスが心にしみ、涙が出ました。
悔やんでもあのころの過ぎた時間を戻すことはできないし、今を基盤にこれから前を向いて進
んで行く勇気をもらいました。

 私だけでなく、みんないろいろな悩みや葛藤を抱えながら育児をしていることもわかりました。
そんなにたいした問題ではないと言ってくださったことも救われる気持ちでいます。
そして今回のことを通して、過去の自分、そしてあたりまえのありがたさに気がつけないほど傲
慢だった自分に気づかせてくれた次女に今は愛おしい気持ちでいっぱいです。

 子供はいつもどんな悪い母親であろうと、お母さんの愛情を自分に注いでくれることを貪欲に
見ているのだなあと感じています。
私もそういえば、子供のころ私のことをもっと見て欲しいと思っていました。
産むのは簡単ですが、本当の母親になるのは大変なんだなあと痛感しています。

これからは、もうすこし習い事を減らして、私自身もゆとりを持って子供たちと過ごしたいと思い
ます。
子供のためだと思って、環境を作るのは親だから、習い事に一生懸命になりすぎて、結局は親
のエゴで子供を振り回すことはもうやめにしたいです。

 これからも先生のホームページを参考にさせていただきます。
先生もどうかお体を大切に無理をせず、これからもお過ごしください。
私の急なメールにもかかわらず、先生の暖かいメールに感謝しています。
本当にありがとうございました


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【山荘にて】(はやし浩司 2012−05−12)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

浜松の凧祭りで、真っ黒に日焼けしてきた中学生がいた。
鼻の先は、かさぶたができたように、皮がめくれていた。
目も、真っ赤だった。

「どうして日焼け止めクリームを使わなかったのか!」と叱ると、「使っていた」と。
日焼け止めクリームを使っても、そこまで日焼けする。
自殺行為そのもの。

以前、中日新聞に発表した原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●紫外線対策を早急に

 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。
中には、皮膚が赤むけになるほど、日焼けする子どももいる。
無頓着といえば、無頓着。無頓着すぎる。
国立がんセンターの山本医師も、『海外旅行に行って、肌を焼いているのは、日本人の若者ぐ
らいです。
海外の皮膚がん研究者からは、「いったい日本は、どうなっているのだ?」と質問されることさ
えあります。
専門家にしてみれば、日本の若者がこぞって肌を焼く行為は、自ら命を縮めているに等しい行
為なのです』(日経BP)と述べている。

 紫外線で皮膚が傷つくわけだが、オゾンが10%の割合で減りつづけると、皮膚がんは、2
6%ふえ、紫外線が2%ふえると、皮膚がんは、3%ふえるとういう(UNEP99年)。
実際、オーストラリアでは、1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、
毎年10%ずつふえている。
日光性角皮症や白内障も急増している。
しかも深刻なことに、20代、30代の若者たちの皮膚がんが、急増しているということ。
そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用
の帽子とサングラスの着用を義務づけている。
が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。
「何も対策を講じていない? 信じられない」と。
ちなみに北極についても、1997年には、すでに30%も減少している。

●破壊される環境

日本の気象庁の調査によると、南極大陸のオゾンホールは、1980年には、面積がほとんど0
だったものが、1985年から90年にかけて南極大陸とほぼ同じ大きさになり、2000年には、
それが南極大陸の面積のほぼ2倍にまで拡大しているという。
北極についても、1997年には、すでに30%も減少している。

 さらに2000年に入ってからは、地球温暖化の影響で、成層圏の水分や温度が変化。
極地方には、不気味なピンク色の雲が出現し、02年には、オゾンホールは、とうとうオーストラ
リアのタスマニアまで拡大。
「上空オゾン層はさらに破壊、急拡大している」(NASA)という。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。
しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰する」。
子どもの世界は、先手、先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。
害が具体的に出るようになってからでは、遅い。
たとえばここに書いた紫外線の問題にしても、警報が出たら、外出をひかえる。
過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子、サングラス、長そでのシャツ、長ズボン着用
させる。
サンスクリーンクリームを皮膚に塗るなど、あなたが親としてすべきことは多い。

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●山荘

 昨夜遅く、山荘へやってきた。
着いたのが、午後11時ごろ。
一息ついたころ、ワイフは、DVDを見始めた。
『幸せの行方』

 が、途中で、ギブアップ。
できすぎというか、テンポがのろかった。
昔の日本映画のよう。

 私はそれよりも、ギリシャの動きのほうが、気になった。
30分ごとに、二転、三転……。
連立政権ができるのか、できないのか……。
そのつどオセロ・ゲームのように、白黒がはげしく反転する。

●ゆるんだゴム

 ギリシャを一言で表現すれば、「ゆるんだゴム」。
ギリシャというより、ギリシャ人。
人心がゆるんでしまった。
漢字では「緩んだ」と書く。

 たいした働きもせず、権利の王国の中で、あぐらをかいてしまった。
が、EU連邦が突きつけた要求は、「財政を切り詰め、もっと働け」。
そうでなくても、景気は最悪。
どん底。
財政を切り詰めるということは、自ら首を絞めるようなもの。

 ……という状態に追い込まれたら、ふつうなら働くしかない。
汗水を流すしかない。
が、そうはいかない。
そうはいかないのが、人心。
平たく言えば、怠(なま)け心。

●退職後

 こうした心は、退職してみると、よくわかる。
(私のばあい、まだ現役で働いているが、それでもよくわかる。)
仕事というのは、一度、離れると、元に戻すのは、たいへん。
むずかしい。
中には、拒絶反応を示す人もいる。
「働くのは、もう、こりごり」と。

 だからこの先、定年退職を迎える人も、こう考えたらよい。
何らかの形で、またどんな形でもよいから、仕事にしがみつく、と。
老後と言っても、平均、20年もある。

「心」だけではない。
「体」もそうなる。
「気力」もそうなる。
「働こう」という気力も、消える。

 で、一度そうなったら、ゴムは、もう元には戻らない。
だからしがみつく。

●つぶし(=転職)

 この日本でも、公務員だった人は、民間企業では、働けない。
……というか、むずかしい。
まれに民間企業で働いている人もいるが、それは例外。
よい例が、教員(学校の先生)。
昔から「教員はつぶし(=転職)がきかない」と言われる。
長い間、公的な機関(=公立学校)で教員をしていると、それ以外の仕事ができなくなる。そう
いう意味で、そう言った。

 「先生だったから……」という理由で、塾の先生くらいはできるだろうと一般の人は考えるかも
しれない。
が、実際には不可能。
私立幼稚園でも、むずかしい。
多くは退職後、園長職で迎えられるが、長続きしない。
このあたり(浜松市)でも、たいてい1〜2年で、再退職していく。

 公務員の天下りがいろいろ問題になっている。
しかし天下り先しか、行くところがないも、これまた事実。

●公務員国家
 
 あまりよいたとえではないかもしれない。
しかし現在のギリシャの状態は、国全体がお役所と考えてよいのでは?
直接には知らないが、あちこちのニュースを総合すると、そんな印象をもつ。
適当に働き、あとは裏通りで、バックギャモンでもしながら遊んで暮らす。
お金は、いくらでも天から降ってくる……。

 ギリシャ人の公務員率は、34%(2008年・ILO)という。
ドイツ、イギリスと、それほどちがわない。
が、なぜ、問題なのかといえば、「高待遇」。
給料が高い。
高い分だけ、負担が大きい。
だから「緊縮せよ」(ドイツ・メルケル首相)と。

 が、そうは簡単にはいかない。
いかないという意味で、日本の例を先に書いてみた。
つまり「ゆるんだゴムは、元には戻らない」。

●ギリシャ危機

 今朝(5月12日)、ギリシャは、さらに混迷の度を増しつつある。
(流れ)からすると、ギリシャは、EUから離脱し、国家破綻するしかない。
いくらカンフル注射を施したとしても、時間の問題。
問題は、そのあと。

 が、ここで大きく意見が、2つに分かれる。

(1)それほど大きな問題にはならず、EUは安定化に向け、収束する。
(2)連鎖反応が起き、ポルトガル、アイルランド、スペイン、イタリアに飛び火する。

 あのリーマンブラザーズのときも、当初、2つの見方があった。
結果的に、連鎖反応が起き、ドミノ倒しのドミノのように、世界が大混乱に陥った。

では、ギリシャはどうか?
EU全体から見れば、経済規模は、2%。
その2%が、世界をどう動かすか。
楽観論、悲観論が、複雑に交錯している。
が、ここでも「ゆるんだゴム」論が登場する。

 ひとりがんばっているのは、ドイツだけ。
あとはみな、ゆるんだゴムのようになっている。
今は何とか、ユーロの威信を前に、世界中から金(マネー)を集め、食いつないでいる。
が、それもいつまでもつか、わからない。
(日本は、おバカだから、一生懸命、貢いでいるが……。)
どこかで小さな力が加われば、ドミノは一気に倒れる。
それがいつ始まっても、おかしくない。

●戦略的国家視点

 日本の「円」のためには、ユーロの暴落は、日本にとっては、好ましい。
中国の「元」の暴落も、好ましい。
相対的に「円」の地位が高くなる。

 札というのは、絵画と同じ。
大量生産できるリトグラフ(石版画)でもよい。
価値が高まれば高まるほど、高く売れる。

 だから日本が、EUとユーロの防衛に手を貸すのは、一時的には日本の利益になるかもしれ
ない。
が、長期的、つまり戦略的に見れば、損。
現に、今、ドル、ユーロ、元、日本……と、日本の円の地位は、さがりつづけている。
またアメリカは、そういった戦略的な視点から、今回もIMFへの出資を見送った。
(日本はおバカだから、600億ドル、つまり5兆円も出資した。2012年4月。)

 その状態で、あとは円を増刷すればよい。
ズルいといえば、ズルい。
しかしそれくらいのことなら、どこの国でもしている。
日本の現状を一言で表現するなら、お人好しのおバカ。
オホホ、オホホ……と、世界の野人たちとつきあっている。

 だから私は、こう言いたい。

「Japan, be ambitious! (日本よ、野性的に生きろ!)」と。

●17・5%?

 が、ここで問題が終わるわけではない。
「つぎは、日本」と言われている。
日本は最後のババを引かされた上、奈落の底に叩き落とされる。

 日本政府は、日本の公務員数は、17・5%(2008年、ILO)と公表している。
が、こんな数字を信ずる日本人は、いない。
日本には、旧三公社五現業から始まる、準公務員がいる。
天下り先となると、数えるのも不可能なほど、多い。
文科省という1省だけでも、2000団体近くもある。
(2000年ごろ、私が調査したところでは、約1750団体。)
もちろんそうした機関で働くのは、公務員ではない。
一応、民間人?

 先日もJR岐阜駅で、トイレに入った。
清掃している女性がいたので、「あなたは公務員ですか」と聞くと、「そうです」と。
(正確には、「公益財団法人清掃公社職員」という。)
つづいて今度は、名鉄の岐阜駅で清掃している人を見かけたので、同じ質問をぶつけてみた。

 名鉄岐阜駅では、名鉄系列の子会社の職員が、清掃業務を行っているということだった。
で、さらに詳しく聞くと、名鉄岐阜駅と、JR岐阜駅の間にある各施設は、3社が分割して行って
いるという。
(残りの1社については、不明。)
距離にすれば、歩いて5分もない。

名鉄岐阜駅の職員は、最後にこう言った。
「私たちの給料は、ほかのところの半分程度です」と(以上、伝聞なので、内容は不正確)。

 こうした現実をさておいて、「日本の公務員数は少ない」は、ない。

 ……今なら、まだ間に合う?
日本がギリシャ化してからでは、遅い。
私は心底、日本の将来を、心配する。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●世代間意識

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

対世代間意識について、考えてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●団塊の世代

世代によって、他の世代に対する意識は、大きくちがう。
称して「対世代間意識」。
簡単に言えば、「世代間意識」。

 ……といっても、共通の意識として、確立しているわけではない。
あくまでも大ざっぱな意識。
個人差もあるだろう。
強く意識している人もいるだろうし、まったく意識していない人もいるだろう。
それにこうした意識というのは、「相手」と対峙したとき、輪郭(りんかく)を現す。
それまでは、意識として意識されることは、まず、ない。

たとえば私たち団塊の世代は、「日本の経済を発展させたのは私たち」という意識をもってい
る。
意識的にそう思いながら、生きてきたわけではない。
ただがむしゃらに、働いた。
一社懸命。
企業戦士。
その結果として、日本の経済は、一時は、世界第二位と呼ばれるほどまでに、発展した。

 そういう私たちに向かって、誰かが、「老害論」を口にしたとする。
とたん、先に書いた、世代間意識が顔を出す。
「ちょっと、待て!」と。
つまりそういう前提として、ここに書く、私の「世代間意識」を読んでほしい。

 で、こうした意識は、世代によってちがう。
順に考えてみる。

●尾崎豊世代

私たち団塊の世代(昭和22年〜、1947年〜生まれ)と、その子ども、つまり団塊ジュニアの
間の世代を、私は「尾崎豊世代」と呼んでいる。
尾崎豊が、あの「♪卒業」を歌ったとき、私は大きな衝撃を覚えた。

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」と。

1985年1月21日に、CBSソニーから発売になっている。

 私たちの世代は、「70年安保闘争」(1970年の日米安保反対闘争)を経験している。
中身と言えば、「祭り」。
意味がよくわかっていて、闘争に加わったわけではない。
ただ体をがんじがらめに縛りつけているクサリから、自らを解放したかった。
それが安保闘争に、つながった。

しかしそれでも「反権力」が、大義名分になっていた。
が、尾崎豊は、「反世代」を、「♪卒業」の中に織り込んだ。
「反権力」から、「反世代」へ。

 もう一度、「世代」を、ここにまとめてみる。

(1)団塊の世代
(2)尾崎豊世代
(3)団塊ジュニア世代

●飽食とぜいたく

 が、これは私には、理解しがたいことであった。
というのも、尾崎豊世代といえば、日本のみならず、世界でも類見ないほどの、飽食とぜいたく
を経験した世代である。
彼らが生まれ育った環境は、まさにバブル経済の真っ最中。
生まれるとすぐ、祖父母がやってきた。
もちろん父親も、かけつけた。
それこそ、手をかけられ、時間をかけられ、金をかけられて育てられた。
親というより、社会に対して、感謝して当然の世代。
その世代が、上の世代に対して、反旗を翻(ひるがえ)した。

 ……というふうに、しばらく考えていた。
が、そのうち、尾崎豊世代が、まったく別の考え方をしているのがわかった。
むしろ私たち団塊の世代を、「敵」と考えているのがわかった。
「敵」は、「かたき」と読む。
「バブル経済を食いつぶし、日本を崩壊させた世代」と。

 それがわからなければ、ネットであちこちをサーフィンしてみればよい。
尾崎豊世代が、どのような目で、団塊の世代を見ているか、それを知ればよい。
というのも、こうした意識は、調査しようにも、それ自体が、調査になじまない。
年齢層をしぼり、「あなたは団塊の世代をどう思っていますか?」という調査そのものが、でき
ない。
仮にそういう調査をしても、そこから浮かび上がってくる「回答」そのものに、意味がない。

●窓ガラスを壊す

 あのバブル経済をどうとらえるかによって、意識は、大きく変わる。
ここにも書いたように、180度変わることもある。
が、その前に、幼児期、少年少女期に、どのような環境で生まれ育ったかによっても、大きく変
わる。

 私たちの時代は、たとえば、あの戦後の大混乱期から始まっている。
「ひもじい」という言葉が、消えたことがなかった。
毎日、腹をすかせていた。
私はよく「ボットン便所」という言葉を使う。
この言葉ほど、あの時代の、あの生活を象徴する言葉は、ほかにない。

 が、尾崎豊世代は、ちがう。
木造の校舎は姿を消し、今に見る鉄筋の校舎になった。

風が吹くたびに、天井からダニが雨のように降ってくる校舎を知らない。
急いで走れば、廊下がめくれ、木片が足に突き刺さる校舎を知らない。
気温が下がれば、みなで石炭を運び、ストーブを焚くような校舎を知らない。

 だから平気で(?)、「♪窓ガラス、壊して回った」(「卒業」)となる。
が、私たちの時代には、だれかが窓ガラスを割ったりすると、そこには紙が張られた。
もちろん不注意によるものだが……。
夏場はそれでよいとしても、冬場は、たまらない。
体を縮め、ガタガタと震えた。
「窓ガラスを壊す」という発想そのものが、なかった。

●戦中派世代

 そんな話をある男性(80歳)に話すと、こう言った。
が、その返事は、まったく予想外の、内容だった。
驚いた。
その男性は、こう言った。

 「オレたちだって、そう思っているよ」と。
つまり「私たち団塊の世代を、敵(かたき)と思っているよ」と。

 「バブル世代というのはね、オレたちが命がけで敷いたレールの上で、のうのうと生きてきた
連中だろ。
オレたちの苦労を知らない」と。

 それには、もう一つ、理由がある。
なぜ、80歳の男性、つまり戦中派の人たちが、バブル世代を「敵」とみるか、それには、もう一
つ、理由がある。
「反射的敵意」とでも書くべきか。

つまり私たち団塊の世代は、団塊の世代で、ことあるごとに、戦中派世代を批判してきた。
「バカな戦争をしたから、オレたちは、苦労したのだ」と。
「はじめから、勝てるわけがない。
そんな戦争をあの連中は起こし、日本を最後には、焼け野原にした」と。

 結果的に日本は戦争に負けた。
だからこそ、戦中派世代に対する反感は増大した。
と、同時に、戦中派世代は、口をつぐんだ。

私「どうして、ぼくたちが敵なんですか」
男「だって、お前たちは、戦争を知らないだろ」
私「知らない……」
男「命がけで国を守ったという経験もない連中が、偉そうなこと言うなよ」と。

 で、その男性は、最後にこう言った。

「団塊の世代は、生意気だ」と。

もう一度、「世代」を、ここにまとめてみる。

(1)戦中派世代
(2)団塊の世代
(3)尾崎豊世代
(4)団塊ジュニア世代

●団塊ジュニア世代

 では、団塊ジュニアの世代は、どうか。
それにはすでに明確な答が出されつつある。
私たちの世代以上をさして、「老害」と。

少し前は、「粗大ゴミ」とか、「ジジババ有害論」とかいう言葉も、あった。
が、今は、老害。
老害論が、堂々と論じられている。
若者たちのサイトでは、老人は、「1匹、2匹……」と、「匹単位」で呼ばれている。

 それには理由がある。
これは年金族全体を含めてでの話だが、「老人は社会の富を食いつぶしている」と。
で、その一方で、「老後の親のめんどうをみる」と考える若者が、どんどんと減っている。
20%前後(総理府、内閣府)。
世界でも最低水準。

 その理由について、ある男性(元高校教師、長野県在住)は、こう言った。
「年金制度ですよ。年金制度が原因ですよ」と。

私「どうして?」
男「子どもたちの世代からみるとですね、親父(母)には、年金がある。
だから、めんどうをみなくてもいい。
そうなるんですよ」
私「……親のめんどうと、年金がどう結びつくのですか」
男「つまりね、今の若い人たちは、親のめんどうも、金(マネー)という尺度でしかみていないの
ですよ」
私「ひとりで生活できるなら、それでいいだろ……というわけですか」
男「そうだね。そんなわけで、長野(北信)では、若者はどんどんと去っていきます。
一度去ったら、もう戻ってきませんよ。
私も、娘とは、20年以上も会っていません」と。

 年金?
が、その根底にあるのは、金(マネー)。
金権教に毒された、日本の社会。
日本人。
「親の恩も、遺産しだい」。
それが転じて、「年金」と。

 内閣府(総理府)の調査によれば、若者たちはこう答えている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
が、現実に、経済的に余裕のある若者はいない。
みな、目一杯の生活をしている。

●孤独死、無縁死

 孤独死、無縁死のニュースが、ない日はない。
というか、今では、ニュースにもならない。
そのうちすぐ、約60%の人たちが、孤独死、無縁死を迎えるという。

 ここでいう「老害」という言葉の結果として、そうなる。
私がその子どもなら、つまり自分の親が、孤独死をしたり、無縁死をしたりしたら、罪の意識
で、死ぬまで苦しむだろう。
が、団塊ジュニア世代以下には、それもない。
罪の意識すら、覚えない。

 こんな話を聞いた。

 岐阜県の下呂町と言えば、温泉街。
その温泉街で、40年にわたり独り暮らしをしていた男性がいた。
あるホテルで、飯炊きの仕事をしていた。
その男性が、ある朝、ホテルの従業員が訪ねてみると、死んでいた。
孤独死である。

 そこでその隣人があれこれ調べ、やっとのことで、親戚をさがした。
結果、四国に2人の息子が住んでいることがわかった。
で、電話をすると、こう答えたという。
「私たちは父とは縁を切りました」
「もう親子ではありませんから」と。

 親が息子と縁を切ったのではない。
息子の方が、親と縁を切った。
団塊の私たちには、(私には?)、信じられないような話だが、これも現実。

 だから葬儀は、その隣人と、ホテルでいっしょに働いていた人、数人で執り行ったという。
遺骨は、その町のある寺に無縁仏として葬られたという。

●意識

 意識というのは、かくもちがう。
私のもっている意識と、あなたのもっている意識もちがう。
世代がちがえば、なおさら。
国がちがえば、さらに、ちがう。
時代が変われば、さらにさらに、ちがう。

さて、あなたはどんな意識をもっているだろうか。
ここでは、枝葉を切り落とし、幹だけを書いた。
あくまでも「大ざっぱな話」(冒頭)である。

が、そこで重要なことは、それがどんな意識であれ、
(1)まず相手の意識を認めること。
(2)自分の意識を基準に、ものを考えてはいけないということ。
(3)その上で、それぞれの人に合わせて、ものを考え、自分の意見を述べること。

 言い換えると、私たちがもっている意識というのは、人によって、みな、ちがう。
生まれ育った環境、時代、国によっても、ちがう。
そういう前提で、考える。

●見返り

 どうであるにせよ、対世代間意識というのは、常に若い人たちのほうが、有利。
強い。
古今東西、老人組が若者組に勝ったという、そのためしがない。
体力、気力、知力……どれをとっても、勝ち目はない。
老人組は、ただ静かに去るのみ。

 ただ、こうは思う。
私たちが作ろうとした未来は、こんな未来ではなかった、と。
たとえば先に、私は、私たちの世代は、ひもじさとの戦いだったと書いた。
事実、その通りで、私たちは、いつも腹をすかしていた。
だから背も低い。
私のばあい、両ひざに、大きな骨のこぶを作っている。
これは栄養失調が原因である。

 だから子どもたち(息子たち)には、ひもじい思いだけはさせたくなかった。
またその一方で、結婚前から、収入の半分は実家へ送った。
経済的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがあった。
だから子どもたち(息子たち)には、そういう負担感を味あわせたくなかった。

 が、今は、それが180度、逆転した。
へたにそんな話を子どもたち(息子たち)に話そうものなら、逆に攻撃される。
「見返りを求める方が、おかしい」と。

 これも意識のちがいということになる。
そう言われた私たちといえば、ただ黙るしかない。
反論のしようが、ない。

●最後に

 さて、ここでは(4)の団塊ジュニア世代まで書いた。
つづく(5)の世代は、どのような意識をもつのか。
団塊ジュニア世代のもつ意識と、どのようにちがっていくのか。

 ひとつ言えることは、日本の子どもたちから、野生臭が消えたこと。
ナヨナヨしているというか、おとなしい。
言われたことはするが、それ以上はしない。
昔でいう、ガッツ精神が消えた。
リーダーも消えた。
日本の大学生たちが、就職先としてナンバーワンにあげているのが、公務員というのも、たい
へん気になる※。

これからのテーマのひとつとして、静かに観察してみたい。

(注※……2012年4月入社 就職活動学生の意識調査よると、人気就職先、公務員が2年連
続首位。
知名度・充実した福利厚生など安心できる"堅実"なイメージの企業が上位に。Leggenda)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 意識論 意識とは 団塊の世代 戦中派の意識 団塊ジュニアの意識 はやし
浩司 世代間意識闘争 対世代間意識)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7180843906/" title="dousoukai by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7214/7180843906_
14e4dbbd65_b.jpg" width="800" height="600" alt="dousoukai"></a>


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【子どものやる気論】について(2012/05/13改)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今週、N市で、講演をする。
その原稿が、やっとできた。

……といっても、このまま話すのではない。
当日の雰囲気を見て、前後を入れ替えながら話す。
結論についても、同じ。
当時、主催者の方との話しあいの中で、決める。
私にとって、講演というのは、そういうもの。
原稿通りには、話さない。……話せない。

雰囲気を見ながら、笑いを入れたり、エピソードをふやしたりする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「遊びが子どもの仕事」(中日新聞発表済み) 

「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずと
も、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。
オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。
日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室
の外で身につける。
実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。
今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。
それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。
けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。
性教育もそこで学んだ。

 ……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。
自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。
いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。
しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。
縄張りもあったし、いがみあいもあった。
おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離されてい
たということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。
石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。
相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。
あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。
目と目であいさつぐらいはした。
つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技
場の外で争っても意味がない。
つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。
子どもどうしの上下関係があった。
けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。
そして私たちはそれに従った。
親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を
出さなかった。

仲間意識もあった。
仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。
しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。
だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代と
それを結びつけて、簡単に理解することができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。
「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どものいたずら

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。
パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。
時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。

母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をして
いるのだ」と。

ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。
絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。
善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。
アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。
で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかま
せた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。
で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。
この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。
……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。
作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。
で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、そ
れをテープに録音して、聴かせていました」と。
母親の趣味は、ドライブ。
外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。
子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。
その敏しょう性。

一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。
その子どもは、とにかくすばしっこかった。
で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。
雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。
子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●笑い(笑いの科学と効能)

 ついでに、「笑い」について。
何度も書いてきたので、ネットでさがし、その一部を紹介する。
 私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。
ときには、50分のレッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ
かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。
前向きな学習態度も、そこから生まれる。
「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおっ
てしまう。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもと遊び やる気論 カテコ
ールアミン ほめることの重要性 子どもはほめて伸ばす 子どもは笑わせて伸ばす やる気
と遊び 遊びで生まれるやる気 社会性 はやし浩司 子どものやる気)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ほめることの重要性byはやし浩司

+++++++++++++++++

ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。
このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。
その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。

+++++++++++++++++

++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

 親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会適応
力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。
父親の育児参加も同様の効果があった。
「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初という。
東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。

 調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半になる0
9年まで追跡。
親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調べた。
子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」など5分野3
0項目で評価した。

 その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼児に
比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。
また、ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす
▽たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける−−などが社会適応力を
高める傾向があった。

 一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2歳半の
時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。
母親の育児負担感が低かったり、育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなっ
た。

 調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知られて
いたことを、科学的に明らかにできた。
成果を親と子双方の支援に生かしたい」と話す。【須田桃子】

++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司 
子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)

++++++++++++++++++++

●2007年4月の原稿より

【子どもを伸ばす】

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。
一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜっぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、重
要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。
が、問題は、何がその帯状回を刺激するか、だ。
そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。
ビジネスマンがビジネスをとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例というこ
とになる。
科学者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価というこ
とになるのか。
こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言えば、そういうことになる。
こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状回(あくまでも伊藤氏の説に従
えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。
人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。
これを私は「絶壁性」と呼んでいる。
つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、人ははじめてやる気を出す。
たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も変わりなく保障されるというような
状態では、やる気は生まれない。
「明日はどうなるかわからない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあ
るから、人はがんばる。
が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。
「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。
ただ私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。
とくにインターネットに原稿を載せても、利益はほとんど、ない。
ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自我が原動力になっていることは
まちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。
私のように、まったく保障のワクの外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろし
い。
明日、病気か事故で倒れれば、それでおしまい。
そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。

毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。
あるいは必要最低限の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。
そういう生活態度も、そういう危機感の中から生まれた。
もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだろうと思う。

 そこで子どものこと。
子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その我欲の追求性を子どもに自覚
させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。
順に考えてみよう。

(自我の追求)

 教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。
英語国では、「灯をともして、引き出せ」という。
幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。
この動機づけがうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をす
れば、『種をまいて、引き出す』の要領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。
そのためには、『子どもは使えば使うほどいい子』と覚えておくとよい。
多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせること」が、「子どもをか
わいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。
しかしこれは誤解。まったくの誤解。

 3つ目に、達成感。
「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱっていく原動力となる。
もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)

 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。
子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。
(しかし危機感をもた
せすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。
しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかしい。
仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。
子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。
そのときのE君は、はたから見ても、かわいそうなくらい緊張したという。
数日前から不眠症になり、当日は朝食もとらず、会場へでかけていった。
で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだったらしい。
それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)や、生徒会長
(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなっていった。
そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に立たせるという
のは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかということ。
その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きがいを決めるのは、帯状回?

 脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。
脳のこの部分は、人間が原始動物であったときからあるものらしい。
イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。

その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。
最近の研究によれば、どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係している
ことがわかってきた(伊藤正男氏)。

 たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。
反対にみなの前でけなされたりすると、不快感を覚える。
その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感や不快感を受けて、大脳連合野
の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。

一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、何をす
るのも苦痛になる。

 これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。
たとえば他人にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。
しかし反対に、他人をいじめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。
この感覚は、きわめて原始的なもので、つまりは理屈では説明できないような感覚である。
しかしそういう感覚を、人間がまだ原始動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考
えても正しい。
もし人間が、もともと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるよう
な感覚をもっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。

 こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。
新皮質部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。
たとえば正直に生きたとする。
すると、そのあとすがすがしい気分になる。
このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだが、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に
生きよう」「どうすれば正直に生きられるか」とか考える。
そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。

 そしていよいよ帯状回の出番である。
帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の判断を受けて、やる気を引き起こす。
「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そういう前向きな姿勢を生み出す。
そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、思考や行動を活発にしたりする。

●私のばあい

 さて私のこと。
こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるということは、ひょっとしたら、それ
だけ役にたっているということになる。
(中には、「コノヤロー」と怒っている人もいるかもしれないが……。)

さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。
そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活発化する。
そしてそれが私のやる気を引き起こす。
そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。
が、読者が減ったり、ふえなかったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が
低下する。そしてそれが帯状回の機能を低下させる。

 何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子どものやる
気を考えることができる。
よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほめて伸ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」
というが、なぜそうなのかということは、脳の機能そのものが、そうなっているからである。

 さてさて私のマガジンのこと。
私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらなければならない」という気持ちが強い。で
は、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。
どこか絶壁に立たされたかのような緊張感がある。
では、その緊張感はどこから生まれるのか。

●ほどよいストレスが、その人を伸ばす

 ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。
このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。
そして脳や筋肉により多くの酸素を送りこみ、危急の行動を可能にする。
こうしたストレス反応が過剰になることは、決して好ましいことではない。
そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低下や低体温などの、さまざまの
弊害が現れてくる。
しかし一方で、ほどよいストレスが、全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの
内容と量ということになる。

 たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万円を返済
するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで違う。
子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、いつも50点し
か取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子どものよって、感じ方はま
ったく違う。

私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れることができ
ない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることができない。
100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。
しかし445人に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。

●子どものやる気

 子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程度の
緊張感を与える。
しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるような緊張感でなければならな
い。
私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきているように感ずる。
ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。
あるいは交通事故にあうかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないか
と思う。

 人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、前に
進むものか。
そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。
ただパンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。
今、こうして自分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないかと。
よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。
手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるは
ずもない。

ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。
だから、「私の顔」と言えなくもない。
しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。
あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。
しかしなぜ書くかといえば、それがわからない。
多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。
それはサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。
本人は自分の意思で動いていると思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」で
あって「私」でないものに、動かされているだけ? 

同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされているだけ
かもしれない。
となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャックとローズを思
い浮かべてみよう。
彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心をと
らえた。
それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に翻弄(ほんろう)され
ただけかもしれない。
電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意思というよりは、その意思すらも支配する、本能
によって引き起こされたと考えられる。

いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。
つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、もっと別の
力によって、そのように動かされただけということになる。
このことは、子どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。
この時期は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。
この時期をすぎると、子どもは急に生意気になる。
人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこういう子だ」という、とらえどころ
ができてくる。
そのころから自意識による記憶も残るようになる。
(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。
これは脳の中の、辺縁系にある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆるふ
つうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。
ここに書いた、貪欲さや闘争心も、それに含まれる。
嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。

子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し高い視点か
ら見ると、どの子どもも、それほど変わらない。
ある一定のワクの中で動いている。
もちろん方向性が違うということはある。
ある子どもは、作文で、あるいは別の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争
心を、昇華させていく。
反対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子どももいる。
しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎない。

 となると、私は、どうなのか。
私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局はそのハバの中で踊らされているだけな
のか。
もっと言えば、私は私だと思っているが、本当に私は私なのか。
もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。
ムダにした原稿も、もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。
どうやら、私はたいへんな問題にぶつかってしまったようだ。
手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。
これから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 たとえば腹が減る。
すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。
カップヌードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じられて、
そうしているだけ。
つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? 
サイフからいくらかのお金を取り出して、近くのコンビニへ向かう。
そしてそこで何かの食物を買う。
これも、私であって、「私」ではない。
だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をする。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 
私は何かの仕事をして、そのお金を手に入れる。
となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないということになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そ
のことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。
そしてどこでどう連絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。
違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。
スズメにはそういう意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考える
だろう。
「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。
私たちは、何をもって、「私」というのか、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。
たまたま今日は日曜日で、広場には楽器をもった人たちが集まっている。
ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若さで華やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。
しかしそれは言葉という道具を使って、コミュニケーションしているにすぎない。
もっと言えば、スズメがチッチッと鳴きあうのと、それほど、違わない。
本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。
その裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。
「その裏になるものというのを、どう表現したらいいのかね」と。
本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。
私たちを、その裏から基本的に操っているもの。
それは何か。ワイフは、「さあねエ……。
何か、新しい言葉をつくらないといけないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分がある。
「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。
いわばコンピュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラ
ムと考えるとわかりやすい。
コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。
そのスイッチを機能的に動かすのが、OSということになる。
人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナプスも、このスイッチにたいへんよく似てい
る。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と
表現できる。
つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その範囲で行動
している。
つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。
その前に、それは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったような
感じだ。
とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷やしてから考える。
(02−10−27)※

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人の一人
のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的というわ
けだ。
ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜62)も、『パンセ』の中
で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」
ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。
この言葉は、釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。
精進というのは、「一心に仏道に修行すること。
ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。
釈迦は「死ぬまで精進しろ。
それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。
つまり「私」というのは、その「考える部分」ということになる。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。
そんなある日、一人の事業家がやってきて、あなたの目の前に大金を積んで、こう言ったとす
る。
今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こう言うに
ちがいない。
「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。
そこであなたという政治家が、人間であるためには、考えなければならない。
考えて、脳のOSの外に出なくてはいけない。
そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」と言って、そのお金をつ
き返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こる。
そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。
しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」があることにな
る。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。
考えるといっても、あまりにも漠然(ばくぜん)としている。
つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、ループ状態に入ってしまう。
同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じことを繰り返し考えるというのであれば、
それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。
そのヒントとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』である。
彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたことがない」
と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。
そのために「書く」ということか。
私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。
もちろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかし
くない。
しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができ
る。
書くことイコール、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。
そしてその考えるためには、書くこと。
今のところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。
書いたのは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。

++++++++++++++++++++

〜02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。

それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。

最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に
生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というの
である。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、PET(ポジト
ロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)が、こうした機器を使
って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、およそ心
身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。
『いじめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どものやる気論
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる

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子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



++++++++++++++++

●灯をともして引き出す

 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。
参観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。
好きなことをしているときには、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それ
が、ニューロンの活動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「した
たかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。
不得意分野や苦手な分野には、目をつぶる。
たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。
すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸
び始める。
これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象であ
る。
が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。
こんなことがあった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。
腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当たり前。
先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。
夏休みになる少し前のことだった。
私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。
本心だ。
英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思う』というのがある。
あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あなたのこといい人だと
思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを
伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。
私は車の助手席に、K君は、うしろの席にいた。
私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。
おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。
おとなのユーモアもよく理解した。
頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあっ
た。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。
「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)

+++++++++++++++++++++

もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

【子どもの中の子ども】

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子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

++++++++++++++++++++

●乳幼児の記憶

+++++++++++++

子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

+++++++++++++

「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。
だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシントン大
学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。
現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えら
れると考えられている(新井康允氏ほか)。
しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだ
けということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。
これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考
えるとわかりやすい。

++++++++++++++++

わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。
詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活
動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。
すると、その意思決定がされる前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさ
い」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。
さらに「私」とは、何かということになってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。
私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。
そのとき私は、こう思うだろう。
「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。
そこで私は、あえて、その「私」に、さからってみることにする。
私の意思とは、反対の行動をしてみる。
が、その「反対の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。
「自我」には、自我を超えた自我がある。
わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。
すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようになる。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。
その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。
女性だけではない。
男性だって、そうだ。
女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動かす
原動力になることは多い。
もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。
少なくとも、私は、自分の意思で、この原稿を書いていると思っている。
だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだが、参考にしただけ。
大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。
それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。
そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。
それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。
こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。
が、そのサルから扁桃体を切除してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。
これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書
いている。
つまりは、一度、そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。
つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。
そうでなければ、そうでない。
たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。
しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。
よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子どもは、音楽が好きになるかもしれな
い。
反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますますその子どもは、音楽を嫌いになるか
もしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。
反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力
の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。
そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。
ドーパミンにも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。
本人の意思というよりは、その向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうから
である。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。
何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。
楽しませる。
笑わせる。
そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。
その力が芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。
が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。

(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。
が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。
借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。
子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。
しかしこの日本では、そうはいかない。
「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。

(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。
内心では「勉強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。
そのほうが、その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。
あとは少しでも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。
ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。

++++++++++++++++++++

では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

++++++++++++++++++++

● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of 
the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is 
not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲をコントロール
していることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、太った
り、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、コントロール
していることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、脳の各部に発しているのではない
かと、私は考えている。

「生きろ!」「生きろ!」と。

これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、「生的エネルギ
ー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、確認されてい
る。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている組織であ
る。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、それだけ性欲も強
いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、悪の道に
走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に置いたが…
…。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、そのバリ
エーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、なまめかしい女性の
形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、それらが急速に普及し
た背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、それもよく
わかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、まるでちが
う。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモンなどが、
食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。
それに、まずそう?
もう1軒は。
値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、「今、前頭前
野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、適確により分けること
ができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを設置してみたりす
る。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかもしれないが、実
際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 脳科学からみたやる気論 子ど
ものやる気 やる気を引き出す)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司2012/05/13改

●やる気のある子どもにする(子どもの遊びとの脳科学)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今では脳内の活動を、リアルタイムで、
かつ映像化して見ることができることが
できるようになった。
すごいことだと思う。

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●講演骨子

(1)教育学、発達心理学、脳科学の融合

 2000年に入ってから、教育学、発達心理学、脳科学の融合が始まった。
とくに脳科学の進歩には、目を見張るものがある。
それまではこれら3つの分野は、それぞれ独自に体系化されていた。
たとえば「子どものやる気」。

     (1)教育学……好子、嫌子
        (オペラント(自発的行動))
     (2)発達心理学……強化の原理、弱化の原理
        (動機付け、達成感)
     (3)脳科学
        辺縁系(扁桃核、帯状回)

(2)脳科学の分野からの説明

 それまでは、観念的に理解されていた、「情緒」についても、脳科学の世界からメスが入るよ
うになった。
たとえば「感情」についても、今では、「感情ホルモン説」が、常識になっている。

     (1)好き・嫌いについて……扁桃核(サルの実験)
     (2)善悪の感覚について……扁桃核(エンドロフィン、エンケファリン)
     (3)オペラント(自発的行動)……操られる脳
     (4)強化の原理……笑いの科学、ほめる科学
     (5)相乗効果……カテコールアミン

(3)子どもの遊び

 遊びにみる、自我の同一性について。
遊びを通し、子どもは、自我の同一性を確立する。
社会性(社会人としての常識、知識、経験)を学ぶ。

 問題点

     (1)「遊び」の質的変化
     (2)半世紀前の子どもと遊び
     (3)現在の子どもの問題点(野生臭の喪失)

(4)やる気のある子どもにする

 やる気のある子どもにするための留意点。

     (1)自我の同一性の確立(自己概念と現実自己の一致)
     (2)自発的行動(オペラント)の育成
     (3)家庭教育の反省(過干渉、溺愛、過保護、価値観の押しつけ)

 あとは、子どもを信ずる。
信じて、子どもを支える。
これからはプロの時代。
旧態依然の職業観を改める。
2012/05/13


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【鳥】(ぼたんインコの"Pippi"、我が家に来る。2012年5月12日)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

高校1年の、秋の日のこと。
私は母に文鳥を買ってもらった。
岐阜市へ行ったついでに、小鳥屋に寄り、そこで買ってもらった。

すでに成鳥だった。
籠の中で、じっと私を見つめていた。
賢そうな目つきをしていた。
それでその鳥にした。

それまでにも、スズメの子どもなどは飼ったことはある。
ときどき屋根などから、落ちてきた。
が、スズメは、目が見えるようになったあとだと、人には慣れない。
自分で飛べるようになると、そのまま空へ逃げていった。

……以来、2年間、私とその文鳥は、まさに生活を共にした。
名前を「フレンド」と言った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ぼたんインコ

 2日前(5月12日)、和合町(浜松市の北部)へ行ったとき、ペットショップに寄った。
右側半分が、犬や猫、左側半分が、小鳥などの店になっている。
その小鳥の店の前に立ったとたん、猛烈に小鳥が飼いたくなった。

 見ると、文鳥、インコに混ざって、ぼたんインコや、おかめインコなどの雛が、ひとつの籠に入
っていた。
劣悪な環境である。
が、その中でも、1羽、ひときわ、やせ細った雛がいた。
私を見つけると、ピーピーと鳴きながら、羽(両腕)を上に伸し、手前のほうにやってきた。
それがちょうど、人間の子どものように見えた。
小さな小さな人間の子ども。
背丈は7〜8センチほど。
羽(両腕)を広げ、そこに立っていた。

 名前を聞くと、「ぼたんインコ」とわかった。
とっても、ぼたんインコにも、いろいろな種類がある。
私が選んだのは、体全体が黄色で、クチバシの近くが、明るいオレンジ色のインコ。
ワイフに目で合図を送ると、「しかたないわね」という表情をしてみせた。
私は迷わず、それを買った。
餌と栄養補助剤も、あわせて買った。
小さな籠は、おまけで、つけてくれた。
とたん、目の前が、パーッと華やかになった。

●フレンド

 文鳥のフレンドは、やがて私に慣れた。
いつもいっしょだった。
食事をするときも、勉強するときも、そして寝るときも。
私は毎晩、フレンドを手に抱いて寝た。
今でも、その感触が手に残っている。

それもあって、最初の夜は、そのインコを手に抱いて寝た。
ワイフは、つぶしてしまわないかと、何度も心配した。
が、私には、自信があった。

 小鳥というのは、手に抱いているときは、手と一体化する。
小鳥の肌の温もりを直接感ずることができる。
動けば、すぐわかる。
もちろん熟睡はできない。
……というか、朝起きても、熟睡感はない。

●恐竜の子孫

 鳥の魅力は、第一に、恐竜の子孫であること。
歴史がある。
1億5000万年!
そのころ人間の祖先は、ネズミのような小さな生き物だったという。
一方、人間そのものの歴史は、たかだか20万年。
比較にならない。

 ……というような大げさな話は別にして、哺乳動物を別にすれば、鳥は人間にいちばん近
い。
感情も豊か。
喜怒哀楽の情は、すべてもっている。
もちろん嫉妬もする。
忠誠心も強い。
高校時代に飼ったフレンドにしても、私以外の者には、羽はもちろん体すら触らせなかった。

●名前

 で、今は、……すでに今日で3日目になるが、名前で困っている。
ワイフは、「レモン」がいいという。
私は、「ピッピ」がいいという。
息子に聞くと、そのつど何やら、ゴージャスな名前を口にする。
そこで結論。
それぞれがそれぞれの呼び方で、呼べばいい、と。
そのうち、ひとつになる。

●ピッピ

 今、そのピッピは、私の懐(ふところ)の中にいる。
眠っている。
ぶさいくな顔をしているが、横顔が、どこかあのティラノザウルスに似ている。
ときどき夢でも見るのか、小刻みに、チチ、ピョ、ピピピと鳴く。
上からのぞくと、安心しきった様子。
その様子が、そのまま私にとっては、癒しになる。

 ネットで調べると、寿命は3年から10年とある。
この先、長いつきあいになりそう。
小さな体だが、命の大きさに、大小はない。
長短もない。

●余談

 ところで、小鳥の話とは、まったく関係のないこと。
先の「ピッピ」のところまで書いたところで、筆が止まってしまった。
頭の働きが鈍く、思うように文章が出てこない。
おかめインコなどの鳥の名前さえ、出てこない。
そんな症状がつづいた。

 そこで居間へおりていき、30分のウォーキング+ランニングの運動をした。
そのあと、10分間ほど、庭の木を切った。
かなりの汗をかいた。
で、今、書斎にもどってきて、先に書いた原稿のつづきを書いている。
が、運動をする前と、あと(現在)とでは、キーボードを叩く指の動きそのものがちがう。
文章も、スラスラと出てくる。
……というか、書きたいことが、前に前にと出てくる。

 「やはり脳みその健康のためには、運動は欠かせない」と。
世間の常識を改めて、確認する。

●私と鳥

 私はそういうわけで、鳥が大好き。
鳥を見ているだけで、ほっとするような安堵感を覚える。
で、この入野町(自宅の住所)に住むようになってからも、いろいろな鳥を飼った。

 文鳥、ニワトリ、烏骨鶏(うこっけい)、白鳩などなど。
文鳥は、一時は、20〜30羽近くになった。
白鳩も、15羽近くになった。
が、ヘビや猫に襲われ、どれも全滅。

 それからは部屋の中で飼うようになった。
文鳥も飼った。
インコも飼った。

 高校1年生のときから、そんなわけで、私の周囲にはいつも鳥がいた。
鳥がいなかった期間のほうが、はるかに短い。
だからというわけでもないが、(しかし多分にそうだが)、私は鶏肉が食べられない。
最近は、ときどき食べることもあるが、若いころは、いっさい、食べられなかった。
人間が人肉を食べるようなものではなかったか……というのは、少しおおげさ。
しかしかなり強い抵抗感を覚えた。

●5月14日

 というわけで、この2日間は、ピッピのことで忙しかった。
寝床を作ってやった。
電気あんかを入れてやった。
下に毛布を敷き、それにカイロを張りつけてやった。
が、どうも具合がよくない。
熱くなりすぎたり、反対に暖かくならなかったり……。

 箱だけでも、3箱、作りなおした。
で、結局、最初の日は、寒かったこともあり、エアコンを一晩中つけてやった。
その下に寝床を置いた。

が、昨晩は、やや暖かくなった。
寝床の下にカイロを張りつけ、その上にタオルを3〜4枚、重ねて置いた。
これは結構、うまくいった。
寝る前と、目を覚ましてから、手の中で、30分〜1時間ほど、抱いてやった。
この2日間で、かなり元気になった。
いろいろな鳴き声で鳴く。

 ピッピ、チチ、ピーなど。
今朝からはときどき、ゲーと大きな声を出すようになった。
文鳥は、そういうふうには鳴かない。
鳴き方は、いつも同じ。
その点、インコはおもしろい。
まるで言葉を話しているかのよう。
中には、本当に言葉を覚えるのもいるとか。
楽しみ。

 私の家に、久々に、華やかな花が咲いた。
息子も、昨日は、1日中、ピッピを手の中に抱いていた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ぼたんインコ ぼたんいんこ ピ
ッピ はやし浩司 2012−05−12)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●2003〜04年に書いた原稿

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「鳥」について、どんな原稿を書いたか知りたくなった。
そこで「はやし浩司 鳥」で検索をかけてみた。
1作、見つかった。
そのまま再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

.  mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.         ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月X日・マガジン見本
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子どもは、人の父

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

(イギリスの詩人・ワーズワース)

 訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。
原文では、「TheChild is Father of the Man. 」となっている。

この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。

ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。
詩の流れからすると、「その人の人格」ということか。
つまり私は、「その人の人格は、子ども時代に形成される」と解釈したが、これには二つの意味
が含まれる。

一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。
もう一つは、人はいくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。

誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だが、決し
て、幼稚ではない。
子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、純粋で、豊かである。
しかも美しい。

人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。
知識や経験という雑音の中で、俗化し、自分を見失っていく。
私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな事件がある。

 ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。
一人の子ども(年中男児)が、とてもていねいに絵をかいてくれた。
そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ごくろうさん」と書き添えた。

が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。
私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。
そこで「どうして泣くのかな?」と聞きなおすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれ
た。
「ぼく、ごくろうっていう名前じゃ、ない。たくろう、ってんだ」と。

 もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。
もし人が子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。
ワーズワースは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。
そしてその同じ虹を見て、子どものころの感動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。
そこでこう言った。

「子どもは人の父」と。

私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているように思
う。



(1)子育てポイント**************************

●子どもとの笑い

 いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。

☆ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。
そこで私が「先生(私)を好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思った
か、腕組みをして私をにらみつけた。

「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「どうして手をあげないの?」と聞くと、「だ
って、私、先生が好きだもん」と。
マレにですが、私も子どもに好かれることがあるのです。

☆ 私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。
全部で何匹ですか?」と聞くと、皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。
そこで私が電卓を取り出して、「ええと、三足す二で……」と電卓を叩いていたら、一人の子ど
もがこう言った。
「あんた、それでも本当に先生?」と。

☆指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。
そこで私が、「どうせ指をしゃぶるなら、もっとかっこよくしゃぶりなよ。
おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言って、少しばかりキザなしゃぶり方(指を横から、顔
をななめにしてしゃぶる)を教えてやった。
するとその子は、本当にそういうしゃぶり方をするようになった。
私は少しからかってやっただけなのだが……。

☆私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。
あるとき私に「ジジイー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。
「もっと悪い言葉を教えてやろうか。
しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いいな」と。
子どもたちは「使わない、使わない」と約束したので、こう言ってやった。
「ビダンシ」と。
それからというもの、子どもたちは私を見ると、「ビダンシ、ビダンシ」と呼ぶようになった。


☆算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四男児)
が、「三角関係!」と。
ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二人で、女が一人の関係だよ」と。
すると別の子どもが、「違うよオ?、女が二人で、男が一人だよオ?」と。
とたん、教室が収拾がつかなくなってしまった。
私が、「今どきの子どもは、何を考えているんだ!」と叱ると、こんな歌を歌い始めた。
「♪今どき娘は、一日五食、朝昼三時、夕食深夜……」と。
「何だ、その歌は」と聞くと、「先生、こんな歌も知らないのオ?、遅れてるウ?」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。
悲しいときは悲しいと言う、うれしいときはうれしいと言う。
泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。
自分の心をそのままぶつけることができる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。

 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳くらい)がいきなり私にこう聞いた。
「林君、君のワイフは、君の前で『へ(おなら)』を出すかね?」と。
驚いて私が、「うちの女房はそういうことはしないです……」とあわてて答えると、そばにいた人
たちまで一斉に、「そりゃあ、かわいそうだ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。

 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。
子どもが悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使えない
ほどまでに、子どもを追いつめてはいけない。

一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に心を開いているのだ」と、それを許す
余裕が必要である。
子どもの側からみて、「自分はどんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだ」とい
う絶対的な安心感が、子どもの心を豊かにする。
 
そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを
受け止める「開いた心」がないと、かよいあわないということ。
子どもが心を開いたら、同じように親のほうも心を開く。
それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなものだ。
どちらか一方が、心の窓を閉じていたのでは、心を通いあわせることはできない。
R氏(四五歳)はこう言う。

「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言います。
親のメンツにこだわって、あれこれ世間体をとりつくろいます。
私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもその本音が母の心のカベにぶつかって、
そこではね返されてしまいます。
私もさみしいですが、母もかわいそうな人です」と。

 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。
そして同じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めているかとい
うこと。

もしあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソを
ついたり、さらには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた
自身のことを反省する。
相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、相手の心をそのまま受け入れ
なければならない。
またそれでこそ、親子であり、家族ということになる。

 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。
「おまえはあまり
ぼくの前でおならを出さないけど、出していいよ」と。
が、数日後、女房はそれに答えてこう言った。
「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だと思うわ」と。ま
あ、世の中にはいろいろな考え方がある。



(2)今日の特集  **************************

【虐待】

●虐待にもいろいろ

 一般論として、子どもに虐待を繰りかえす親は、自分自身も、虐待を受けた経験があるとい
われている。
約50%が、そうであるといわれている。

 その虐待は、暴力だけにかぎらない。

 大きく、この(1)暴力的虐待のほか、(2)栄養的虐待、(3)性的虐待、(4)感情的虐待に、
分けられる。
暴力的虐待は、肉体的虐待、言葉の虐待、精神的虐待に分けられる。

 順に考えてみよう。

(1)肉体的虐待……私の調査でも、約50%の親が、何らかの形で、子どもに肉体的な暴力を
バツ(体罰)として与えていることがわかっている。
そしてそのうち、70%の親(全体では35%の親)が、虐待に近い暴力を加えているのがわか
っている。

 日本人は、昔から、子どもへの体罰に甘い国民と言われている。

 「日本人の親で、『(子どもへの)体罰は必要である』と答えている親は、70%。
一方アメリカ人の親で、『体罰は必要である』と答えている親は、10%にすぎない」(村山貞夫)
という調査結果もある。

 体罰はしかたないとしても、たとえば『体罰は尻』ときめておくとよい。
いかなるばあいも、頭に対して、体罰を加えてはいけない。
 
(1?2)言葉の虐待……「あなたはダメな子」式の、人格の「核」に触れるような言葉を、日常的
に子どもにあびせかけることをいう。

 「あなたはバカだ」
 「あなたなんか、何をしてもダメだ」
 「あんたなんか、死んでしまえばいい」など。

 子どもの心は、親がつくる。そして子どもは、長い時間をかけて、親の口グセどおりの子ども
になる。親が「うちの子はグズで……」と思っていると、その子どもは、やがてその通りの子ども
になる。

 しかし言葉の暴力がこわいのは、その子どもの人格の中枢部まで破壊すること。
ある男性(60歳)は、いまだに「お母さんが怒るから」「お母さんが怒るから」と、母親の影にお
びえている。そうなる。

(1?3)精神的虐待……異常な恐怖体験、過酷な試練などを、子どもに与えることをいう。

 ふつうは、無意識のうちに、子どもに与えることが多い。
たとえば子どもの前で、はげしい夫婦喧嘩をして見せるなど。

 子どもの側からみて、恐怖感、心配、焦燥感、絶望感を与えるものが、ここでいう精神
的虐待ということになる。

 子どもの心というのは、絶対的安心感があって、その上で、はじめてはぐくまれる。
その基盤そのものが、ゆらぐことをいう。

(2)栄養的虐待……食事を与えないなどの虐待をいう。
私自身、このタイプの虐待児について接した経験がほとんどないので、ここでのコメントは、割
愛する。

(3)性的虐待……今まで、具体的な事例を見聞きしたことがないので、ここでは割愛する。

(4)感情的虐待……親の不安定な情緒が与える影響が、虐待といえるほどまでに、高じた状
態をいう。
かんしゃくに任せて、子どもを怒鳴りつけるなど。

 『親の情緒不安、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。
少し前だが、こんな事例があった。

 その母親は、交通事故をきっかけに、精神状態がきわめて不安定になってしまった。
しかし悪いときには、悪いことが重なる。
その直後に、実父の他界、実兄の経営する会社の倒産と、不幸なできごとが、たてつづけに、
つづいてしまった。

 その母親は、「交通事故の後遺症だ」とは言ったが、ありとあらゆる体の不調を訴えるように
なった。
そしてほとんど毎日のように病院通いをするようになった。

 その母親のばあいは、とくに息子(小2)を虐待したということはなかった。
しかしやがて子どもは、その不安からか、学校でも、オドオドするようになってしまった。
先生にちょっと注意されただけで、腹痛を訴えたり、ときには、みなの見ているところで、バタン
と倒れてみせたりした。

 このように精神に重大な影響を与える行為を、虐待という。
暴力的虐待も、暴力を通して、子どもの精神に重大な影響を与えるから、虐待という。

 この虐待がつづくと、子どもの精神は、発露する場所を失い、内閉したり、ゆがんだりする。
そしてそれが心のキズ(トラウマ)となって、生涯にわたって、その子どもを苦しめることもある。
(040220)

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以前、つぎのような原稿を書きましたので
送ります。(中日新聞投稿済み)

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●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。
富士市で幼稚園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。
泣くでもなし、体をワナワナと震わせていました」と。
虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。
その子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。
 
カナーという学者は、虐待を次のように定義している。

(1)過度の敵意と冷淡、
(2)完ぺき主義、
(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の
支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。

その結果子どもは、
(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、
(2)強迫傾向(いつも何かに強迫されているかのように、おびえる)、
(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状を示し、さまざまな問題行動を
起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。
「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。
もう一人は女の子でした。
母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、

(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。
(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。
(4)親が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあ
げている。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。
I氏のケースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。
わかりやすく言えば、殺す寸前までのことをする。
そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。
学習中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。
夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。
あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻した
りを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。
そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。
いつか私はこのコラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。

子どもが虐待されているのを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。
「警察……」
という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよいでしょう。
そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。

+++++++++++++++++++
【付録】

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有
効回答五〇〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどき
ある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、
「虐待なし」が、六一%であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年ま
での八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七
七二五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。

虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実母が三八二一件で、全体の八二・七%。また
虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三七件。三歳から就学前までが、一八六
七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%となっている。

(3)************************************

Touch your Heart byはやし浩司(1)

●子どもの巣立ち

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男
が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教
えてくれた。

「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないた
め、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。
いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子
たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去
っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたとき
のこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわから
なかった。

が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房
が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とか
けめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があ
ろうとは! 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違う
と、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってく
ださいよ」と声をかけたくなる。

レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの
息子たちも、ああだったなあ」と。問題のない子どもというのは、いない。だから楽な
子育てというのも、ない。

それぞれが皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わっ
てみると、その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子
育てで苦労しているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽く
なるはずだ。 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Touch your Heart byはやし浩司(2)

真の自由を子どもに教えられるとき 

●真の自由を手に入れる方法はあるのか? 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は
自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそ
れは可能なのか……? その方法はあるのか……?

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の
恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな
経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグ
イと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のとき
は、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するが
ゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉
がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私
は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなけれ
ば、死をこわがる理由などない。

一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、
おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれが
できれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地
に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Touch your Heart byはやし浩司(3)

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。

たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもた
ちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私
たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていること
は、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだ
けいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」
と。それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結
果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを
見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。

『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言う
なら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、
子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命
に生きる、その生きざまでしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をし
ていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そう
いうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生
からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Touch your Heart byはやし浩司(4)

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を
教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命
はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命す
ら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。
「自分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、
そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見て
いると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこ
に死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や
感じ方もそうだ。

私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。
しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れ
のようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育て
をしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流
れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもな
い。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死
は不条理なり」とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにい
て、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私に
はそれができない。

しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どもので
きの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛
することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に
施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子ど
もに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、
子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子ど
もを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きる
ことにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。

それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、
自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもというのは、ただの
子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教え
てくれる。

いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。
つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、ま
さに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身
も神や仏からの使者だと知る。

そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしい
ことはない。


(4)今を考える  **************************

●疑問

 都会に住む子どものばあい、その学年になると、三つや四つの受験は、当たり前。高校
生ではない。中学生でもない。小学生である。

 まだ社会のしくみもよくわからない小学生が、三つも四つも、中学入試を経験する。中
には、五つとか六つとか……そういう子どももいる。

 それでどこかの学校に合格できればよいが、できなかったら、どうする? 親はそれで、
「うちの子は、勉強に向いていない」と、あきらめるだろうか。

 しかし実際には、そうして子どもを受験勉強にかりたてた親ほど、あきらめない。「まだ
何とかなる」「つぎがある」、無理に無理を重ねる。

 しかし少しは、子どもの立場で考えてみたらよい。

 その時点で子どもの心は、ボロボロ。そういった状態になりながらも、なおかつ、親か
ら、「勉強をつづけなさい」と、言われたら、いったい、子どもは、どうすればよいのだ。

 身近でも、中学入試に失敗した子どもがいる。二つの入試で失敗したあと、戦意喪失。
やる気をなくしたのは当然だとしても、このところ、心が荒れ始めた。家の中だけならと
もかくも、そうした「荒れ」が、外の世界でも出てくるようになると、心配。子どもの心
は、一挙に荒廃する。非行に走るようになるのは、もう時間の問題。

 子どもを受験させるのは、親の勝手だが、しかし、失敗したあとのことも、少しは考え
てほしい。

 以前、こんな中学生がいた。ここ一番、というときになると、決まって、それを避けて
しまうのである。自信がないというか、逃げ腰というか。

 そこで私がある日、こう聞いた。「どうしてがんばらないのか?」と。するとその女の子
は、こう言った。「どうせ私、S小学校の入試で落ちたもん」と。

 その女の子は、その六、七年前に小学入試で失敗したことを、そのときもまだ、気にし
ていた。そういう後遺症も残る。

 子どもの勉強をみるとき、親は、子どもの成績しかみないが、もっと大切なことは、子
どものもつ限界を知ることである。あなたがごくふつうの人(失礼!)であるように、子
どもも、またごくふつうの子どもである。

 あなたに限界があるように、子どもにも、限界がある。

 ふつうであることが悪いのではない。ふつうであることは、すばらしいことである。そ
ういう視点で、もう一度、あなたの子どもを、ながめてみる。

 ずいぶん前の話だが、こんなこともあった。

 その子どもは、四歳から五歳にかけて、かなり深刻な心の問題をかかえた。で、それが
何とか収まり、幼稚園へもふつうどおりに通うようになった。ふつうなら(……こういう
いい方は適切ではないのかもしれないが……)、小学入試どころではなかったはずだった。

 しかしその子どもが回復したとたん、(本当は完全に回復したのではなかったが……)、
親は今度は、小学入試に狂奔し始めた。私はそのときほど、「親」が、わからなくなったと
きはない。

 「親って、そういうものかなあ」と思ってみたり、「どうしてそういう心理になれるのか
なあ」と思ってみたりした。あるいは、「子どもが病気になったことで、この親は、いった
い、何を学んだのか」と。日本の受験制度は、それ以上に、親の心を狂わせるということ
か。

 もともとその「力」のない子どもに、はじめから不合格がわかっている試験を受けさせ
ることほど、酷なことはない。

 そういう意味でも、子どもの勉強をみるときは、どう伸ばすかということに合わせて、
子どもの限界を知る。あとは、それを受け入れ、謙虚に、それに従う。それは子どもの受
験戦争をみるときの、鉄則でもある。

【付記】

 私は、だからといって、受験勉強を否定しているのではない。大切なことは、子ども自
らが、前向きに勉強するようにもっていくこと。そしてその結果として、子どもが「がん
ばる」と言ったら、それはそれとして、つまり親として、応援する。それは当然のことで
はないか。

 私も、三男が、今のY大学を中退して、M航空大学を受験すると言いだしたとき、こう
言った。「受験するならするで、きちんと予備校へ通え」と。

 三男は、学費も高いこともあって、最初は、それをこばんだ。「自分で勉強するからいい」
と。学費は、半年で、40万円ほどだった。私にも、決して楽な額ではなかった。

 しかし心のどこかで、それは親の義務のように感じた。子どもが前に進むと言ったら、
その前の雑草は、取り除いてやる。しかし子どもが望みもしないのに、雑草を取り除いて
やり、そちらへ進めと、子どもに命令するのは、まちがっている。

 小学受験はもちろんのこと、中学受験くらいのことで、子どもたちがワイワイと話題に
しているのを見たりすると、私は、「これでいいのかなあ?」と思う。まるでゲームの世界
のよう。異常な世界なのだが、その異常さがわからないほど、今の日本の子育ては狂って
いる。

 いつか、その狂いに、日本人が気がつくときが、やってくればよいのだが……。
(040221)

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*※※…※}※**   
                       **++ ※))
                       {※}※※ /
                        ※*… /mQQQm
                      **/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye
                        = | QQ ∩ ∩ QQ
!   m\ ▽ /m
   ?=?
                            ○ ???○
=========================
  どうか、みなさん、お元気で!
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【おまけ】

(注意)万が一、横に広がって読みにくいときは、
一度、ワードなどにコピーしてから、お読みください。
当方の不手際を、お許しください。

+++++++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のよう
にもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうち
に、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外
で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている
人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。
高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方
は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたち
は、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、
そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。
「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今とい
う時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二
つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反
対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれな
い。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。

あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、
どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、
自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもた
ちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時
代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を
生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力
すると言っても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方
が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうで
はないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などとい
ったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、
親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんば
らなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧
米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息
を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。

++++++++++++++++++++

 ある母親は、息子(中三)が高校受験に失敗した日のこと、私にこう言った。

 「先生、すべてがムダでした。あの子を小さいときから、英語教室や、算数教室に
通わせましたが、結局はムダでした……」と。

 結果だけをみて、人生を判断する人は、そういう考え方をする。日本の仏教そのもの
が、結果を重視する。だから、日本人は、多かれ少なかれ、何かにつけて結果をみて、
ものごとを判断する。そういう傾向が強い。

 しかし結果などというものは、放っておいても、あとから必ずついてくる。その結
果がどうであれ、大切なことは、今を懸命に生きること。あとのことは、あとに任せ
ばよい。あのアインスタインも、こう言っている。

「私は未来のことについては、決して何も考えない。未来はやがてきっとやってくるか
ら」(「語録」)と。

旧約聖書の中にも、こうある。『汝、明日のことを語るなかれ。それは一日の生ずる
ところの如何なるを、知らざればなり』(箴言27?1)と。

 最初の話に、もどる。

 私やあなただって、明日、交通事故か何かで、無残な死に方をするかもしれない。
しかしだからといって、今、懸命に生きている私やあなたが、否定されるわけではな
い。

 もっと身近な例では、事業に失敗したとか、あるいは会社をクビになったからとい
って、その人の人生すべてが、否定されるわけではない。その人が、懸命に生きてき
たという事実までは、だれにも消すことはできない。

 大切なのは、「今」なのだ。どこまでいっても、「今」なのだ。繰りかえすが、今、
どう生きているか、なのだ。結果は、放っておいても、必ず、あとからついてくる。
(030131)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

++++++++++++++++++++++

●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 
そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
 
+++++++++++++++++++++++

++++++++++++++++

知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大
さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工し
て、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする
?」、B「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰か
もあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、こ
の二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会
話として外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからとい
って、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはな
らない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意
識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、
こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはど
うですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を
読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、
『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいと
か、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんな
ことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をし
ているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、
石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもし
れないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそ
が、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身に
つけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを
犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言え
ば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。
頭のよい悪いも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は
こう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないの
よ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配
する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰
め込み教育」が基本になっている。

さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日
本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子ど
もをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基
本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わってい
ない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ
世界の非常識。

ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育であ
る。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並び
でない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」
(「コウとうけん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃ
べっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件
に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、
本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が
痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。その
ため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、
考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるとい
うこともある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるように
している。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えない
ようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モン
テーニュ(フランスの哲学者、一五三三?九二)も、「『考える』という言葉を聞く
が、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。
ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++++

 今、人間は、たいへんな危機的な状況にあると考えてよい。まさに地球そのものが、
亡びるかもしれないという状況である。言うなれば、人間の知的能力が、まさにため
されているときということになる。

 そこでどうだろう、こう考えてみたら。

 つまり人間は、知的生物ではないという前提で、人間を自らながめてみる、と。も
っとはっきり言えば、私たち人間は、自分たちを知的生物と思いこんでいるだけ、と。
そういう前提で、もう一度、私たち自身を、見なおしてみる。

 火星はともかくも、この宇宙には、無数の知的生物がいるとされる。この地球上で、
人間だけが決してゆいいつの生物でないのと同じように、宇宙では、この人間だけが
決して、ゆいいつの知的生物ではない。

 しかも人間というのは、ひょっとしたら、宇宙に住む知的生物たちから見たら、き
わめて原始的な生物かもしれない。そういう視点をもって、もう一度、人間自身をみ
てみる。わかりやすく言えば、私たちのもつ知的レベルに対して、謙虚になるというこ
と。すべては、そこから始まる。

 はからずも、私は昨日、市の動物園へ行ってみた。そしていつも、あのサルの集団
を見ると、考えさせられる。実は、昨日も、そうだった。

 あのサルたちは、絶対に、自分たちは、バカだと思っていない。自分がバカだとわ
かるのは、自分自身がそのつど、はるかに高い視点をもったときである。しかしその
高い視点をもつことができないサルには、それがわからない。

 同じように、ほとんどの人間は、自分がバカだとは思っていない。それがわかるだ
けの高い視点すらもっていない。

 では、どうするか? ……結局は、先のエッセーの中に書いたように、「考える」
こと。すべては、ここへ行き着く。考えて、考え抜く。そうすることで、人間は、ほ
んの数センチかもしれない。数ミリかもしれない。しかしそれでも、ほんの少しだけ、
高い視点から自分を見ることができる。それまでの自分が、バカだったと気づくことが
できる。

 何ともこみいったエッセーになってしまったが、要するに、私たち人間は、実に中
途半端な知的生物であるということ。私は、それが言いたかった。
(040201)



【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●自己紹介

【はやし浩司のわけ】

 改めて、自己紹介します。

 本名は、「林 浩司」といいます。「はやし・ヒロシ」と読みます。

 大学時代、みなは、私のことを、「はやし・コージ」と、呼びました。いつの間に
か、そうなりました。しかし正しくは、「はやし・ヒロシ」です。

 で、ペンネームは、「はやし浩司」です。

 「林」を、「はやし」にしたのには、二つの理由があります。

 幼稚園で働いているころ、いつも私は、自分の名前を、「はやし」とひらがなで書
いていました。それで、「林」より、「はやし」のほうに、なじみができてしまった
こと。

 もう一つは、同じ町内に、同姓同名、同じ読み方をする人が、住んでいたこと。こ
の方は一〇年ほど前になくなりましたが、私の名前ほど、ありふれた名前もありません。

 現在でも浜松市内には、電話帳で調べただけでも、「林・ヒロシ」「林・コージ」
という人は、七、八人もいます。約200倍すれば日本の人口になりますから、この
日本には、「林・ヒロシ」「林・コージ」という人は、1500人くらいはいるとい
う計算になります。

 それで「はやし浩司」にしました。

 私は、このペンネームが、とても気にいっています。「林」という文字は、どこか
トゲトゲしいので、あまり好きではありません。

【住んでいるところ】

 住所は、浜松市のI町というところです。(インターネットでは、あまり個人情報
を漏らさないというのが、原則になっていますから、この程度でごめんなさい。私自身
は、住所を明かしても構わないと思っていますが、中には、悪い人もいますので……。)


 I町だけでも、一万世帯近くも住んでします。昔からの、大きな町です。私は、こ
のI町に住んで、今年(04)でちょうど二七年目になります。浜松へ来てからは、
三三年目になります。

 私の家は、浜松市の中心部と、浜名湖のちょうど中間あたりのところにあります。
やや丘の上、新興住宅地の一角です。新幹線で、そのあたりを通ったら、北の方を見
てください。線路からは、二キロくらい離れたところです。

 いつもさんさんと、太陽の陽光がさしているところが私の家……というのは、ウソ
ですが、私の家は、日当たりのよいところにあります。

【私のこと】

 ときどき私は、どんな人間なのだろうと考えます。

 しかし本当のところ、自分のことは、よくわからないでいます。まじめな人間なの
か、そうでないのかさえわかりません。だいたいにおいて、まじめな人間というのは、
どういう人間をいうのか、その基準は何なのか、と。そんなことまで考えていくと、
ますますわからなくなってしまいます。

 まあ、あえていうなら、ふつうの人間ではないのかなと思いますが、「ふつう」と
いう意味も、これまたよくわかりません。

 それにいろいろな面が、あります。混在しているというか、めちゃめちゃ。気が小
さいくせに、意外と、大きなこともしてしまう……。趣味にしても、そのつど、コロ
コロ変る。正義感は結構強いくせに、どこか小ずるいところがある、などなど。

 だから自分のことを、どう書いたらよいのでしょうか。別のところで、自己紹介の
記事を書いておきましたので、興味のある方は、またそちらを読んでください。(私
のHPのトップページから、左上、「思想」)

 外見は、数字で表すことができます。

 身長は166センチ。このところ体を丸めて歩くことが多くなったので、見た目に
は、それよりも低く見えるはずです。

 体重は、今は67キロ(04・2)。顔は、写真のとおりですが、みなは、「年齢
にしては、若く見える」と言ってくれます。

 メガネをかけた、ダサイ感じの男です。自分でも、それがよくわかっています。ラ
ブロマンスなど、私には無縁でした。一、二度、それらしきことは、あったかなあ、
という感じです。三枚目で、ドジ。おっちょこちょい。笑わせ名人で、ひょうきんも
のです。

 今のところこれといった病気もなく、健康です。生涯において、病院のベッドの上
で、寝たことは、一度もありません。

血圧は低く、上が100前後。下が60前後です。脈は遅いです。健康診断では、い
つもひっかかります。

 私の健康法は、ただひたすら毎日、自転車で走ること。あとは食べ物には、何かと
注意しています。

【生活信条】

 「生活信条」と、自分で書いて、ウーンと、今、うなってしまいました。

 「そんなもの、あるのかア?」と思っています。毎日、惰性で生きているだけとい
う感じです。これといった主義や主張も、ほとんど、ありません。精神力はもともと
軟弱だし、情緒も不安定。行動力もこのところ、どんどん鈍ってきています。

 まあ、あえていうなら、今は、もう自分を飾らないで生きていこうと思っているこ
とかな。ありのままの自分を、そのままさらけ出していこうと、です。

 私は、ずっと、自分を偽って生きてきたように思います。「どうすれば優等生に見
られるだろう」「どうすれば、相手にいい人だと思われるだろう」と、そんなことば
かりを考えて、生きてきたように思います。

 だから、そういう自分と、はやく決別したいです。私は私のまま、自分の人生を、
生きたいです。残りの人生も、短くなってきたことだし……。

 愛想よくしたり、相手の機嫌をとったり、へつらったり、そういうことだけは、し
ないようにと、心がけています。

 そんなわけで「信条」と言えるかどうかはわかりませんが、今は、「自分に正直に
生きる」が、ひとつの目標になっています。
(新HP用)
(040201)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●展望性と回顧性(2)

 自分の未来や将来は、どうなのか。どうあるべきなのか。それを頭の中で組み立て
ることを、展望性という。未来や将来に、夢や希望をはせらすことも、それに含まれ
る。

 一方、自分の過去は、どうであったのか。どこにどんな問題があったのかを反省す
ることを、回顧性という。思い出にひたったり、過去をなるかしむのも、それに含ま
れる。

 賢人は、ハバ広い展望性と、回顧性を、いつも同時にもつ。しかし愚人は、そのど
ちらもハバが狭い。その場だけを、享楽的に過ごす。それでよしとする。

 概して言えば、若い人は、よりハバの広い展望性をもち、老人は、よりハバの広い
回顧性をもつと言われている。そこであなた自身の展望性と、回顧性が、どの程度の
ハバをもっているかを知るとよい。それによって、あなたの精神年齢を、推定するこ
とができる。

 もしあなたが今でも、未来に向かって、目標や目的をもち、生き生きとしているな
ら、展望性のハバは広いということになり、あなたは精神的に若いということになる。
しかしいつも過去をなつかしんだり、過去の栄華や、過去の思い出にひたってばかり
いるというのであれば、あなたの精神年齢は、老人のそれということになる。

 その展望性と回顧性は、満60歳前後を境として、入れかわると言われている。つ
まり満60歳を過ぎると、展望性よりも回顧性のほうが、強くなるという(心理学者の
B・ボナーら)。

 実は、私も何かにつけて、このところ回顧性が強くなったように思う。昨夜も、あ
る飲食店で、オーストラリアの旅行案内書を読んでいたときのこと。その一頁に、ジ
ーロン(メルボルンの南にある町)から、ローン(避暑地)を経て、アデレード(南
オーストラリア州の州都)にのびる街道のことが、書いてあった。

 「グレート・オーシャン・ロード」という名前の道路である。第一次大戦の退役軍
人らが建設した道と聞いている。

 その街道の記事が、その本に載っていた。

 その記事を読んでいたときのこと、いつしか私の目は、涙で、うるんできてしまっ
た。私には、思いで深い街道だった。今でも、私の机の上には、その街道の写真が飾
ってある。

 「また行きたいな」という思いと、「もう死ぬまで行けないかもしれない」という
思いが、その記事を読んでいるとき、複雑に交錯した。

 つまりそのとき、自分の心の中で、ここでいう展望性と回顧性が、同時に交錯した
ことになる。もちろん若いときは、そういう感情をもつことは、なかった。「もう死
ぬまで……」などとは、考えもしなかった。未来は、永遠につづくように思っていた。

 だからといって、回顧性をもつことが悪いということではない。若いころの自分を
回顧することで、私の中の心のハバを広くすることができる。ただ、それにひたりす
ぎるのは、よくない。あくまでも、過去は過去。未来を、よりよく生きるために、過去
は、ある。

 あえて言うなら、こうして過去を回顧することによって、生きることにまつわる「い
とおしさ」のようなものを知ることができる。生きることのすばらしさというか、美し
さというか、そういうものである。おかしな感覚だが、懸命に生きてきた、自分が、ど
ういうわけか、かわいい。いとおしい。そして当然のことながら、なつかしい。

 が、そのままここに、立ち止まるわけには、いかない。

 私は、今、こうしてここに生きている。そして、まだまだ生きなければならない。
生きることをあきらめるわけには、いかない。そこで大切なのは、いかにして、展望
性のハバを広くするかということ。

 一〇年後も、二〇年後も、今日と同じように、「今」はある。青い空がそこにあっ
て、冬であれば、冷たい風が吹いている。そのとき、私は、いったいどうなっている
だろうか。今のままなら、多分、一〇年後も、今と同じように元気で、生きていると
思う。しかし二〇年後は、わからない。そのときも、私は今の私のように、まだ心の
荒野の中を、前に向って進んでいるだろうか……。健康や生活は、どうだろうか……。

 展望性と回顧性。この二つには、より心豊かに生きるための、重要なカギが隠され
ているように思う。今は、その程度のことしか、わからないが、この先、機会があれ
ば、またゆっくりと考えてみたい。
(040201)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【焼津・グランドホテル】 はやし浩司 2012−05−15

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は沼津市で講演。
そのあと、帰りの途中で、焼津のグランドホテルに一泊。
今は、その沼津市に向かう途中。
新幹線の中。

午前7時31分発。
三島で乗り換え、沼津へは、午前8時ごろ着く予定。
が、旅行記を書くのは、あと。

今は、講演の原稿に目を通す。

その中のひとつ。

 引きこもりも含めて、うつ病(Melancholia)の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学
者がいる。

たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ど
もは、『母親から保護される価値のない、自信のない自己像』(九州大学・吉田敬子・母子保健
情報54・06年11月)を形成すると説く。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になることもあ
るという。
それが成人してから、うつ病につながっていく、と

 うつ病の原因が、すべて、これで説明できるというわけではない。
そうでない人も多いだろう。
が、それくらい人にとって、乳幼児期というのは重要。
この時期に子どもの心は形成される。

そういう意味では、吉田敬子氏の意見には、納得できる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●午後

 現在、時刻は、午後1時58分。
焼津へ向かう電車の中。
地理的には、つぎのようになっている。

 (浜松)=(焼津)=(静岡)=(沼津)=(三島)

 つまり沼津からの帰り道に、焼津に寄る。
前回、焼津では、焼津アンビア松風閣に泊まった。
星は5つの、★★★★★。
あのホテルで、文句をつける人はいない。

 が、今回は、その隣にある焼津グランドホテル。
そこに一泊。
料金はほとんど同じか、やや割安といった感じ。
さて、どうなることやら。
このところ私たちの目は、旅行評論家程度に、肥えている。

あまりひどいようなら、実名は伏せる。
が、それはあとでの作業。
今は、こうして実名を出しておく。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ボッタクリ・レストラン

 沼津で、昼食をとった。
駅前近くにある、Xというレストラン。
味は、最低。
最悪。
料理という料理ではない。
素人が、見よう見まねで作った我流料理。
食材をそれらしく並べただけの、駄作料理。

が、値段だけは、一人前。
ワイフのが、1300円。
私のが、900円。
ともに材料費は、200円もかかっていないのでは?
家庭で作れば、150円程度。
まさにボッタクリ・レストラン。

●睡魔
 
 電車に乗ってから、睡魔が襲ってきた。
今が、そう。
眠い。

 その目をこすりながら、パソコンのキーボードを叩く。
うっすらと意識が遠ざかる。
ぼんやりと窓の外をながめる。

 小雨。
肌寒い風。
低く、近くの山々を包む、霧。

 車掌が「興津(おきつ)、興津、つぎは興津です」と案内した。
静岡までは10分と少し。
眠るには、時間が足りない。
(ワイフは、眠ったら……と言っているが。)

●電車の中

 目の前の女性が、笑っている。
携帯端末を見ながら、笑っている。
……というか、うれしそう。
純朴そうな女性。
飾り気もなく、都会ズレもしていない。
足で、雨傘をしっかりとはさんでいる。

 ……今日の講演の中で、映画『タイタニック』を酷評してやった。
ハハハ。
若い母親たちが多かったから、そうした。
いわく、「ジャックにしても、ローズにしても、少しは親のことを考えたことがあるのか!」と。

 みなさんは、あのあとの話を知っているか?
タイタニック号が沈没したあとの話。

 そのあとジャックの両親は、ジャックを気が狂ったように探したという。
アイルランド中を探した。
「船でアメリカへ行くかもしれない」とジャックが話していたのを聞いた仲間がいた。
そこでそのあとジャックの両親は、船という船の乗船名簿を、すべて調べたという。
が、どこにも、「ジャック・ドーソン」という名前はなかった。
ジャックの両親は、一時は、どこかの国に拉致されたかもしれないとか、そんなことまで考えた
らしい。

 一方、ローズの母親は、タイタニックが沈没したあと、現場へ数回も足を運んだ。
そのたびに、花を海にたむけ、涙を流したという。

 ……というのは、私の作り話だが、逆に考えてみればよい。
あなたの息子や娘が、あのジャックやローズのような運命を選んだとしたら、あなたはどうする
だろうか。
「ああ、どこかで死んだかもね」と、笑ってすますだろうか。
それとも行方を捜しつづけるだろうか。
つまりあの映画には、親の視点が欠けている。
親の苦しみや悲しみが、抜け落ちている。

 若い人たちは、あの映画の中に、愛の理想形を見るかもしれない。
しかしそんなものは、愛でも、何でもない。
ただの欲望。

 ……というのは、書き過ぎ。
それはよくわかっている。
しかしあの映画を、私のような目で批判する人は少ない。
30代、40代までの人には、すばらしい映画かもしれない。
(たしかにすばらしい映画だが……。)
しかし60代、70代の人には、そうではない。
ただの恋愛至上主義映画。
アメリカ文化に毒された、ただの恋愛至上主義映画。
それをあえてみなさんに、伝えたかった。

●グランドホテル

 グランドホテルには、午後3時ごろ着いた。
部屋は6階のxx号室。
最上階。
仲居さんが、先ほど、こう言った。
「明日の朝は、天気もいいそうです」と。

 天気がよければ、駿河湾をはさんで、手前左側に、富士山が見えるはず。
部屋も広く、18畳。
和風の禁煙室。
先ほどB1の大浴場から戻ったところ。
眠気は取れたが、頭のほうは、ぼんやりしている。
雑誌をパラパラとめくる。

グランドホテル……前回、隣の松風閣に泊まったこともあるので、よけいにそう思うのかもしれ
ないが、玄関は狭い。
全体に古い。
バスタブなどは、ところどころ割れ、補修がしてあった。
が、それをのぞけば、部屋も広く、眺望もよい。

●脳神経の周波数

 以前、こう書いた。
脳の中心部からは、パソコンように、電気信号が発せられているのではないか、と。
それがあらゆる生命の原動力になっている。
で、その電気信号には、周波数がある。
脳の神経細胞は、数Hzから数10Hzほどの電気信号を発しているというから、その程度では
ないか。

もちろんコンピューターのようには、速くない。
最近のコンピューターでは、クロック数が、3・2GHzとか、3・4GHzとかいうのまである。
単純に計算すれば、コンピューターのもつ能力は、人間のそれの、10の9乗、つまり10億倍
ということになる。
人間が1問、計算する間に、10億問、解くことができる。

 が、だからといって、コンピューターのほうがすぐれているとは思わない。
反対に、人間のほうが劣っているとも思わない。
それよりも重要なのは、電気信号の伝達速度。
人間のばあいは、電気信号と化学反応を併用した方法で、信号を伝達している。
が、これには、限界がある。
つまりどうしても遅くなる。

 だから一般論してよく言われるのは、脳が大きくなればなるほど、その分だけ、頭の回転も鈍
くなるということ。
当然、動作も鈍くなる。
人間と象の動きを比べてみれば、わかる。
あるいは、ハエと人間でもよい。

(注※……脳内の電気信号と活動電位(電気パルス))

 脳内の電気信号をミクロな視点で見ると、具体的には一つ一つの細胞による活動電位などと
呼ばれる電気パルスである。
(極小の時間だけ電圧波形が生じるパルス波形の信号。)(以上、ウィキペディア百科事典)

(注※……脳波)
『この一つ一つの細胞の電気パルスを個別にいくら調べても具体的に価値のある情報(音声
情報、視界情報など)が含まれていることはない。
実際に、脳波を測定することにより思考に応じて何かを動かすという装置はあっても細胞の電
気パルス信号を測定することにより、思考に応じて何かをするという装置はない。

 ここで、脳波とは、脳波 = 各種細胞で生じる電気パルス信号の総和で、数Hz〜数十Hz
程度の電気信号をいう。(電気パルスではない)
各細胞で生じた電気パルス信号を足し合わせた総和である脳波が、思考に応じて変化するこ
とがわかっている』(以上:思考盗聴の技術サイト)と。

 しかしつぎのようなことは、すでにわかっている。
たとえば外界の刺激に応じて、脳内の反応部分がちがうということ。
たとえば母親が赤ん坊の泣き声を聞いたりすると、ちょうど麻薬を服用したときと同じ分野が反
応するという。
つまり麻薬を服用したときと同じように、甘い陶酔感に襲われるという。

 同じように、美しい音楽を聞いたり、すばらしい絵画を見たときも、それぞれ、ある特定の分
野が反応するという。

(注※……母親の反応)
2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した』(以上、時
事通信)と。

 だんだん面白くなってきた。
が、こんな話をつづけて書くと、読者の方の負担になる。
少し話題をそらす。

●橋下市長と入れ墨

 橋下市長が、こう宣言した。
入れ墨のある職員に対して、「分限(免職)もあり得る」※と。

 だったら……というわけでもないが、茶髪もだめ、ついでにプチ整形もだめということになるの
か。
拡大解釈をすれば、そうなる。
というか、いくらでも、拡大解釈できる。

 なぜ入れ墨がだめか……ということになれば、イメージが悪い。
この日本では、入れ墨イコール、暴力団関係者というイメージが焼き付いている。
しかし入れ墨のある人イコール、暴力団関係者ということではない。
反対に、暴力団関係者がみな、入れ墨をしているわけでもない。

 たとえば私の知人は、元NTTの職員。
退職後の現在は、高利貸し金融の取り立て業をしている。
人相が悪いのが、幸い(?)した。
「調査に来ました」とか言って、不良債務者を脅している。

 なおこれに対して、橋下市長は、「私を批判したら、100倍にして返してやる」と息巻いている
(報道)。

橋下市長が、少しずつだが、本性を現し始めた。
私は以前、「橋下市長は、ヒットラーか、ジャンヌダルクか」という原稿を書いた。
(私が「ヒットラー」という言葉を最初に使った。
そのあと自民党の幹部が、その言葉を使い始めた。)
で、現在は、さらに警戒心を強くもつようになった。
ものの言い方が、どこか独裁者的?

●合理性

 外国では、入れ墨は、ファッション。
飛行機のパイロットはもちろん、スチュワーデスでもしている。
だからといって、入れ墨を奨励しているわけではない。
が、私には、入れ墨と、プチ整形の境目が、よくわからない。
あるいはどこがどう違うというのか。

 入れ墨は、視覚的に、色として認識できる。
プチ整形は、視覚的に、形として認識できる。
では、アザはどうなのか。
人相の悪い人はどうなのか。
橋下市長の主張には、合理性がない。
ないばかりか、こう思う。

「市長なら、もっとほかに、やるべきことがあるだろう!」と。
入れ墨にしても、入れ墨がどうのこうのというくらいなら、暴力団と、裏でつながっている人を調
べたらどうか。
もっとも、そんなことを調べたら、ほとんどの公共事業はストップしてしまうだろうが……。

 ……私は、それ以上に、橋下市長の政治姿勢を心配する。
ひとつのことにこだわり始めると、とことんこだわる。
そのこだわりかたが、ふつうではない。
どこか偏執的。

それに今回の発言は、入れ墨を象徴とする暴力団の逆鱗に触れるのでは?
入れ墨問題に介入するということは、暴力団を敵に回すことになる。
(けっして、暴力団を擁護しているのではない。誤解のないように!)
暴力を仕事とするから、暴力団という。

 というか、橋下市長は、じゅうぶん、注意したほうがよい。
勇気ある発言というよりは、無鉄砲(?)。
この日本に、言論の自由があるというのは、幻想にすぎない。
どうでもよい、くだらないことについては、書いたり言ったりする自由はある。
が、一線を越えると、とたんに命すらあぶなくなる。

 実は、私にも経験がある。
ある本を書いたとき、私は3人の男たちに、付け回された。
そういう意味でも、橋下市長は、発言に、もう少し慎重になったほうがよい。
(けっして、暴力団を擁護しているのではない。誤解のないように。)
 
(注※……入れ墨)
『大阪市の橋下徹市長(42)が14日、入れ墨をしている市職員に対し、「分限(免職)もあり得
る」と発言したことで、橋下氏と入れ墨職員のバトルはいよいよ"実戦"の段階に入った。
14日に回答期限を迎えた市の全庁調査では、入れ墨をしている職員が次々に見つかってお
り、「入れ墨職員は100人を超すかも」と市幹部は頭を抱えている。
ただ、橋下氏が免職という最終手段を行使できるかどうかについては疑問の声もある』(Yaho
o・News・2012・05・15より)と。

●脳下垂体

 脳下垂体から、パルス信号のようなものが発せられている。
それはすでに脳科学の世界では、証明された事実と考えてよい。
で、そのパルス信号には、強弱もあり、周期性もある。
興味のある人は、以下の記述をゆっくりと読んでみたらよい。
漢字と横文字を見ただけで、拒絶反応を起こす人は、つぎの部分を、とばしたらよい。

(注+参考資料……脳下垂体の働き)
『GnRHの姿は1977年ノーベル賞受賞者のロジェ・ギルマンとアンドリュー・ウィクター・シャリー
により次の様に明らかにされた。

●神経ホルモンとしてのGnRH

GnRHは特定の神経細胞で産生され、その神経末端から放出される神経ホルモンと考えられ
ている。
視床下部のGnRHの産生の主要エリアは視索前野で、そこに殆どのGnRH分泌ニューロンが含
まれている。
GnRHは正中隆起の高さで門脈血流へ分泌され、性腺刺激ホルモン産生細胞の膜上にある受
容体を活性化させる。
GnRHはタンパク質分解によって数分の内に分解される。

●FSHとLHのコントロール

下垂体ではGnRHはFSHとLHの合成と分泌を刺激し、その過程はGnRHパルスの頻度と強さ、
それからアンドロゲンとエストロゲンのフィードバックである。
GnRH分泌には性差が存在し、男性ではGnRHは一定の頻度で分泌されるのに対し、女性では
月経周期によってその頻度が異なり、排卵前にGnRHが急激に高まる。
GnRHの拍動性は全ての脊椎動物において見られ、正しい生殖機能を確実にするのに不可欠
である。
従って雌ではホルモンであるGnRHが単独で卵胞成長、排卵、黄体の保持という複合した過
程、そして雄では精子形成をコントロールする』。
(以上:ウィキペディア百科事典より)と。

●「性的エネルギー」(Ribido)

その点、心理学のほうの説明は、わかりやすい。
以前書いた原稿の一部を、ここに転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
「性的エネルギー」という言葉を考えたフロイトは、すばらしい。
後にフロイトの弟子のユングは、それを「生的エネルギー」という言葉に置き換える。
どちらであるにせよ、それが生きる原点になっている。

 で、最近の脳科学によれば、そうした原点的な信号が、脳下垂体の下部あたりから発せられ
ていることがわかってきた。
コンピューターのパルス信号のようなものではないかと、私は勝手に想像している。
その信号が、たとえばドーパミン(欲望と快楽を司るホルモン)の分泌を促したりする。
それが生きる原動力となって働く。

さらに今では、私たちが「感情」と称しているものにしても、ホルモン説、つまり脳内ホルモンに
よって引き起こされるという説は、常識である。
つまり脳内ホルモンを軽く考えてはいけない。

 この脳内ホルモンこそが、人間を裏から操る。

●「私」

 少し前、小学生が私にこう聞いた。
「先生は、エロ本を見たことがあるか」と。

私は鼻先で、「フン」と笑って、その場を去った。
が、それが青春。
この時期の子どもに、「君は性欲の奴隷になっているよ」と諭しても意味はない。
理解することさえ、不可能。
ぜったいに不可能。
その子どもは子どもなりに、それが「私」と思い込んでいる。
思い込みながら、つぎつぎと行動を発展させていく。

 恋愛もあるだろう。
結婚もあるだろう。
育児もあるだろう。
その過程で名誉を求めたり、肩書きを求めたりする。
欲望には際限がない。
富や権力を求め、それなりに苦労もするだろう。
そして最後に、こう思う。
「どうだい、私はすばらしいだろう!」と。

●メタ認知能力

 だからといって、「性的エネルギー」にせよ、「生的エネルギー」を否定してはいけない。
それがあるからこそ、人生も、これまた楽しい。
男が女を求め、女が男を求める。
そこから無数のドラマが生まれる。
そのドラマが、楽しい。

 あえて言うなら、できればその間に一線を引く。
(タマネギの皮の私)と、(タマネギの芯の私)の間に、一線を引く。
一線を引き、自分を客観的に見る。
これを「メタ認知能力」と言ってよいかどうかは知らない。
しかしこれこそが、まさに「高次(メタ)な認知能力」ということになる。

 大切なことは、性欲の奴隷であるにせよ、その奴隷のまま性欲に溺れてはいけないというこ
と。
常に自分を客観的に、醒(さ)めた目で見る。
そういう自分を見失ってはいけない。

 私は鼻で「フン」と笑ったとき、そう考えた。

●「精神のメルトダウン」

 また少し前、「精神のメルトダウン」という言葉を知った。
外国の社会学者が、何かの評論の中で使っていた。
「日本人は、精神的にもメルトダウンしている」と。

 ナルホド!

 私に欠けるのは、こうした自由な発想。
造語能力。
実にうまい。
的確。
精神的メルトダウン!

 たしかに日本人は、精神的にメルトダウンしてしまっている。
日本語的に表現すれば、「もの言わぬ従順な民」に、なりさがってしまっている。

 自分で考えない。
自分で行動しない。
自分で責任を取らない。

 その前に、そこにある不正、腐敗、矛盾、不公平、不平等に対しても、声をあげようともしな
い。
「だれかが何とかしてくれるだろう」
「何とかなるだろう」と。

 そしてその返す刀で、「自分だけ、そこそこによければ、それでいい」と、そこにある問題から
逃げてしまう。
まさに精神のメルトダウン。
実にうまい表現。
昨日、その言葉に感心した。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●グランドホテルの夕食

 
 話を戻す。

 今夜の料理は、和懐石。
「懐石」というのは、もともとは、「簡素な料理」を意味する。
しかし今では、超豪華。
つぎつぎと料理が並んだ。
おいしかった。
大満足に近い、満足。

 で、結論。
経済的に余裕があるなら、新館のほうで。
(あとで聞いたら、「新館というのは、とくにない」とのこと。
そのつど改装工事はしているとのこと。)

私たちは旧館のほうに、宿泊。
追加料理は、いろいろできる。

●弱音(よわね)

 少し弱音(よわね)を吐く……。

今日も講演をした。
が、終わったとき、ふとこう感じた。
「ぼくの時代も、終わったな」と。
「いろいろやってみたが、ここまで」とも。
このところ(繰り返し感)が強くなった。
自分のしていることが積み重なっていかない。
話を聞きに来てくれた人にしても、数か月もすれば、私のことなど、すっかり忘れるだろう。
名前さえ、記憶に残らない。
そのころ私はまた別のところで話をする。
あとは、その繰り返し。

 が、その私も、もうすぐ65歳。
この年齢まで、無事、こうして生きてこられたことを感謝する。
同時に、「もうそろそろ潮時かな?」とも。

 とは言っても、昨日、高校時代の友人のMY君と、こう約束しあった。
「75歳まで、現役でがんばろう」と。

 その気になれば、不可能ではない。
体力を維持し、気力をみがく。
日々に精進あるのみ。
75歳までがんばれるかどうかは、あくまでもその結果。

 しかしあの田丸謙二先生は、76歳まで、東京理科大学(山口)の理学部長を勤めた。
それを思えば、75歳といっても、けっして不可能な年齢ではない。
私だって、がんばれるはず。

 しかしときどき、自信をなくす。
疲れているせいもある。
こういうときは、気力も、弱くなる。

 もう少ししたら、もう一度、温泉につかってくる。
そのあとは、そのまま就寝。
自分で自分に、「ご苦労さま」。

●5月16日

 まばゆいばかりの朝日。
窓から飛び込んできた、その朝日で、目が覚めた。

 眼下は駿河湾。
左端に崖が見え、その向こうに、富士山が見えた。
日の出直前。
さっそくビデオカメラを回す。

 が、こういうときというのは、ワイフは、無頓着。
朝日を背に、向こう側を向いて眠っている。
私は、こうしてパソコンを立ち上げ、ニュースに目を通す。
真っ先に読んだのが、ギリシャ関連のニュース。

今朝のニュースによれば、ギリシャのEU離脱は、どうやら不可避の状況になってきた。
が、「?」。
明日になると、それがひっくり返る可能性もある。
ちょっとしたきかっけで、黒石が、ゾロゾロと白石に変わる。
まさにオセロゲーム。

 どうであるにせよ、ギリシャの人たちには、きびしい時代が待っている。
EUに残るも地獄。
EUから離脱するのも地獄。

 で、昨日の日本の株価は、73円安の8900円。
EUの株価は、23ユーロ安の、2178ユーロ。
つづくアメリカは、63ドル安の、12632ドル(午前5:51現在)。
経済ニュースのどこかに、「泥沼化」(Bloomberg)という文字が見えた。

●ぼたんインコ

 昨日もそうだった。
今朝もそう。
早く家に帰って、ぼたんインコの、ピッピに会いたい。
今は、息子がめんどうをみてくれているが、息子も忙しい。
おとなしく巣の中で、眠っていてくれればよいのだが……。

 本当に人間によく慣れた鳥で、手の中では、安心しきって眠っている。
ときおり、顔を近づけると、私の顔を、愛くるしそうになめてくれる。
あんな小さな鳥だが、懸命に愛情表現を繰り返す。
そのいじらしさ。
それが、心を癒す。

●証券会社

 世界のことは知らないが、この日本では、証券会社は、ブラック企業に含めてよいのではな
いか(失礼!)。
今回も、株価が暴落する直前は、こう言っていた。
「日本の株価は出遅れ感が強い。夏にかけて1万3000円から1万5000円をねらう展開にな
る」(N証券アナリスト)と。

 が、その直後からの大暴落。
「直後」というのは、その「数日後」という意味。
証券会社の言葉を信じ、大損をした人も多いはず。
最後は一般庶民(素人投資家)にババをつかませ、自分たちは逃げる。
そんな構図が、この日本では、定着してしまった。

 証券会社に責任があるというよりは、制度、さらには意識そのものに原因がある。
アメリカでは、どんな企業でも、投資家の所有物。
投資家の利益を第一に考える。
それを忘れたら、証券会社は、成り立たない。

が、この日本では、企業は銀行の所有物。
「投資家の利益保護」を第一に考えている企業など、どこにもない。
言うなれば、バクチ。
そのバクチの大元締めが、証券会社。

 が、こうした現状は、日本の経済にとっても、たいへん不幸なことである。
こんなことを繰り返していたら、日本人は、ますます証券会社から離れていく。
経済活動は、停滞する。
その結果が今。
いくら日銀が札をばらまいても、最終的にはみな、タンス預金へと化けていく。

 ……たとえばアメリカでは、証券会社が顧客に大きな損失を与えたばあいは、即、捜査の対
象になる。
今朝も、Bloombergは、つぎのように伝える。

『…… 5月15日(ブルームバーグ): 米司法省と米連邦捜査局(FBI)は、JPモルガン・チェー
スで発生した20億ドルのトレーディング損失について刑事捜査に着手した。事情に詳しい関係
者が明らかにした』と。

 が、この日本では、そういう理由で、関係者が投獄されたという話は、聞いたことがない。
あの日債銀事件でも、トップの責任者は、一応逮捕されたが、結局は無罪。
無罪放免。
2兆円という国税をドブに捨てさせながら、無罪放免。
隣の家から、1000円盗んでも、窃盗罪。
4兆円盗んでも、無罪※。
罪名すらつかない。
4兆円という額がどういう額か、ここに数字で書いておく。

 4兆円=4000000000000円。
100万円の札束を1センチの厚さにすると、4兆円は、40キロの高さになる。
(40キロだぞ!)
そんな金を、税金から盗んでも、窃盗罪にもならない。

 私の知人は、その日債銀にいた。
そのあと、子会社のSリースに天下り。
現在の今も、満額の退職金と企業年金を手にし、悠々自適の老後生活を楽しんでいる。

(注※)ウィキペディア百科事典より

『……この売却にあたり、金融再生委員会と預金保険機構は、日本債券信用銀行の債務超過
を穴埋めするため、3兆2,428億円の公的資金投入を行った。
この結果、1998年に投入した600億円を含め、実質的国民負担額は、金融機関の負担する預
金保険料1,714億円を差し引いた3兆1,314億円に上った(公的資金投入額のうち、一時国有化
月時点の不良債権処理費用は3兆1,497億円。
国有化後に発生した損失は931億円とされる)。但し、この数字には瑕疵担保条項によって、
国による不良債権買い上げによって生じる損失は、考慮されていない』

『ちなみに、"日債銀破綻のA級戦犯"と名指しされるも、時効により刑事立件を逃れた頴川史
郎の役員退任時の退職金は約6億円といわれる。
日債銀は損害賠償とは別に、頴川史郎元会長ら旧経営陣16人に対して総額19億円の退職金
の自主的返還も要請した。
全員が返還に合意したものの、これまでの返還額は計約2億5000万円にとどまっている。こう
したなか、2007年3月7日、頴川は死去、享年84』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 アメリカだったら、無期懲役。
都市銀行も含め、日本の金融界はそういう世界と知った上で、つきあえばよい。
あとは、自己責任!

 ……そう言えば、この日本では、「株で損をした」という話を聞いても、だれも同情しない。
「馬鹿だ」と笑われて、おしまい。
だから損をした人は、黙る。
が、証券会社にとっては、これほど都合のよい話はない。
一説によると、(経済誌などによると)、一般投資家(素人)の95%が損をしているという(201
0年現在)。
FX取り引きともなると、今ではロボットが、数百分の1秒単位で取り引きを繰り返している。
(数千分の1秒単位という説もある。)
一般投資家(素人)に勝ち目はない。

●帰宅

さて、今日も始まった。
ワイフも、床から起きてきた。
なお、今週は、オーストラリアの友人がやってくる。
10月には、別の友人がやってくる。

 「7時には帰り支度をしよう」と声をかけると、「うん」と。

 窓からの日差しがますます強くなってきた。
窓は海に向かって、全面に開いている。

 ……たった今、ワイフは、レースのカーテンを閉めながら、こう言った。
「あまり変わらないね」と。
朝日のまぶしさが、あまり変わらないという意味で、そう言った。

●電車の中で

 浜松まで45分。
今回の講演旅行の総括。

 講演のできは、ふつう。
2時間近く、話しつづけた。
みな、最後まで真剣に聞いてくれた。
それを思えば、まずまずといったところか。

 ホテルは、焼津のグランドホテルに泊まった。
料金を勘案するなら、星は4つの★★★★。
団体客が多かったように思う。
火曜日(平日)だったが、かなりの混みよう。
仲居さんたちも、やる気度100%。
キビキビと働いていた。

 朝食はバイキングだったが、ほぼ満足。
メンタイコなど、中級以上の食材が、数多く並んでいた。
意見を求められたので、「満足」に丸をつけておいた。

次回は御殿場。
ホテルは、決めてある。
楽しみ。

 なお反対側の通路に、3人の女性が座っている。
年齢は、40歳前後。
その中の1人が、甲高い声で、しゃべりつづけている。
先ほど軽く注意したが、効果なし。
キャッ、キャッ、ペチャクチャ、ペチャクチャ……。

席はほぼ満席だが、その3人組の声だけが、車内で響き渡っている。
のどかな、それでいて、きわめて日常的な光景。
こうして今日も始まり、やがて終わる。

●心の実験

 心の実験をしてみることにした。
こんな実験。

 先ほど、私はこう思った。
帰りに、ぼたんインコの栄養剤を買って帰ろう、と。
駅から自宅までの間に、一軒、ペットショップがある。
そこで栄養剤を買う。

 が、多分、そのことはやがて忘れてしまうだろう。
意識の奥、つまり無意識の世界にそのまま入ってしまうはず。
雑誌を読んだり、ワイフと話したりしている間に、忘れてしまうはず。
メモ帳か何かにメモでもすれば、覚えているかもしれない。
が、忘れてしまうはず。
またそうでないと、ほかのことが考えられなくなる。

 果たして私は、あのペットショップの近くを通り過ぎるとき、それを思い出すだろうか。
それとも本当に忘れ、そのまま通り過ぎてしまうだろうか。
つまりこれがここでいう「心の実験」である。

●無意識の世界に操られる脳

 人間の心は、常に無意識の世界に操られている。
意識している部分は、脳の中でも、ほんの一部にすぎない。
もし私がペットショップの近くを通り過ぎたとき、栄養剤のことを思い出せば、思い出したという
より、無意識の世界からの命令に従ったということになる。
そうでなければ、そうでない。

 さて、どうなるか?

 ということで……眠い。
少し眠ることにした。

●自宅で……

 電車の中では夢を見た。
バスか何かに乗っていた。
ワイフが、「浜松よ」よ、私を揺り起こした。
私はフラフラと立ち上がった。
電車を出た。
駅を出た。
事務所の前まで歩き、そこで自分の車に乗った。

 で、帰り道、あのペットショップの近くにやってきた。
「ピッピの栄養剤を買って帰るよ」と言うと、ワイフは、車をその店の前に回してくれた。
私は、ショップで、栄養剤を買った……。

 さてそのときのこと。
私は自分の意思で、栄養剤を買ったことになるのか。
それとも無意識の世界からの命令に応じて、買ったことになるのか。

 最近の脳科学では、後者のほうが正しいということになる。
私たちが自分の意思でしていると思っている行動のほとんどは、実はそれ以前に、無意識の
世界で決められている。
私たちはその無意識の世界からあがってくる命令に従い、それを意識としてとらえ、行動する。

 電車を降りたとき、車に乗ったとき、私は、栄養剤のことは、まったく忘れていた。
意識の中に、なかった。
が、ペットショップの近くへやってきたとき、無意識の世界からの命令に従い、「ピッピの栄養剤
を買って帰るよ」と言った。

 ……ということで、実験、終了。
最近の脳科学の進歩は、すごい。
本当に、すごい。
ここまで人間の心がわかるようになった。

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************2012年05月16日まで***************










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松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
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