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【21】
2012年  2月  29日〜 4月  06日

最前線の子育て論byはやし浩司(23)

***********2012年03月01日より*************

【弱体化する日本人の精神構造】

●夢

 映画の見すぎかもしれない。
週に1度は見ている。
そのせいか、このところ私が見る夢は、かなりアクション映画ぽい。
今朝は、こんな夢を見た。

 どこかの道を、4輪サンドバギーを、体で押しながら歩いていた。
昔の東海道。
美しい川沿いをしばらく歩いたあと、山道にさしかかった。
その向こうに、なだらかだが、一直線につづいた道が見えた。
長い道で、500メートルはあった。

 が、ふとうしろを振り返ると、1組の親子連れが歩いていた。
1人は母親。
もう1人は、その娘らしかった。
2人とも、着物を着ていた。
私はサンドバギーにエンジンをかけながら、こう思った。
乗せていってあげよう、と。
が、バックミラーを見ると、2人の姿が消えていた。

 追いはぎか何かに、誘拐されたらしい。
私はサンドバギーにまたがり、道を戻った。
案の定、そこで脇道にそれる細道が見つかった。
私はサンドバギーで、その細道を突き抜けた。

 ……しばらく行くと、空き地が見つかった。
古いお堂があった。
先ほど見た2人は、近くの大木に、縄で縛られていた。
私は懐から、ピストルを取り出した。
構えた。
バリバリと連射できる、最新型のピストルである。

 が、そこで見た男たちは、みなやさしそうな顔つきをしていた。
悪党には見えなかった。
穏やかそうな雰囲気で、石の上に座り、みなで何やら話しこんでいた。

「???」と思ったところで、目が覚めた。

●分析

 サンドバギーには乗ったことがない。
ピストルは、オーストラリアにいたころ、何度か使ったことがある。
友人が、射撃の名手で、撃ち方をときどき教えてもらった。
私は夢の中で、タイムスリップしていた。
時は、江戸時代。
あの親子は、江戸時代の人たちということになる。
その親子が誘拐された?

 ……つまりこのあたりに、私の心の問題が隠されている。
ものごとを危機的な状況の中で考えやすい。
こういう感覚を、心理学の世界では、強迫観念という。
それに持病の(?)、不安神経症がからむ。
私がいう「悪夢」というのは、それをいう。

私はほとんど毎日のように、その悪夢で目が覚める。

●週刊現代vs週刊ポスト

 週刊現代(週刊誌)と、週刊ポスト(週刊誌)の、静かな戦争がつづいている。
週刊現代は、ものごとを大げさに書く。
(私は大げさとは思っていないが……。)
3・11震災、それにつづく原発事故。
さらには、都心で予想される直下型地震、さらには経済危機、などなど。
それについて、週刊ポストは、「煽(あお)り雑誌」といって、非難している。
(週刊ポストが、週刊現代を名指しして、そう書いているわけではない。
誤解のないように!)

 煽りか、煽りでないか。
それは「現状」を見ればわかる。
だれも煽られていない。
何も煽られていない。

 むしろこの静けさのほうこそ、不気味。
そこにある危機を、見ようともしない。
あえて目を伏せる。

そういうのを知ると、私はむしろ、もっと煽ってもよいのではと考えている。
日本人はキバを抜かれてしまった。
抜かれた上、その戦い方まで忘れてしまった。
昔は「平和ボケ」と言った。
今は、「NO(脳)みそ化」(はやし浩司)という。
思考力を失ったから、NO(脳)みそ。
自分で考えない。

●菅直人前首相

 あの3・11大震災のあとのこと。
菅直人前首相は、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという。
それが今、問題になっている(?)。
「首相として、ふさわしからぬ行動だった」と。

 が、本当にそうか。
直後、福島第一原発事故が起きた。
それについて、当時官邸では、3000万人の避難計画も考えられていたという。
 
 そんな最中、冷静でいられる人などいるだろうか。
首相という責任ある立場の人物なら、なおさら。
怒鳴り散らしたといっても、自分のために怒鳴り散らしたのではない。
日本という国が、消えてしまうかもしれない。
そういう危機感があったからこそ、怒鳴り散らした。
菅直人前首相を擁護すれば、そういうことになる。

 ものごとは常に最悪のばあいを考えて、行動する。
あとは消去法的に、段階を追い、レベルをさげていく。
医師の診断法に似ている。

 もしあなたが血を吐いたとする。
そのときも、最悪の病気をまず疑う。
がんなら、がんでもよい。
が、それでないとわかれば、つぎの病気を疑う。
それを週刊ポストは、「煽り」というらしい。

●マグニチュード7?

 たとえば東京都心では、マグニチュード7の地震が心配されているという(「週刊現代」)。
だれも「マグニチュード7」という言葉を使っていない。
気象庁ですら、「そんなことは言っていない」という。
「マグニチュード6以上〜」ということで、「マグニチュード7」という言葉が生まれた。
「マグニチュード7」という地震は、最悪の地震である。

 それがもし東京都内で起きれば、東京都は壊滅的な被害を受ける。
「週刊現代」の今週号は、それを特集している。
これも「煽り」ということになる。
が、私はそうは思わない。
『備えあれば、憂いなし』。
ものごとは常に最悪のばあいを考えて、準備する。
アハハと笑っているほうが、おかしい。

●気迫

 話は少し脱線する。

 今日、日本でゆいいつ最後まで残った、半導体メーカーが倒産した。
「とうとう」と書くべきか、「ついに」と書くべきか。
が、私は驚くというより、ある種の無力感を覚えた。
30年以上パソコンとつきあってきただけに、残念でならない。
理由の第一は、韓国のメーカーとの戦いに敗れたこと。

が、こんなことは、10年前、20年前に、わかっていたこと。
迫力そのものが、ちがう。
言うなれば、日本のそれは、殿様商法。
韓国のそれは、無法地帯をいく、荒くれ商法。
もとから気迫がちがう。

●浜松

 私が浜松に移り住んだときのこと。
私はこの浜松では、値段を「値切らない」ことを知って、驚いた。
ものの売買は、定価通り。
売る方も、買う方も、定価通り。
(岐阜のほうでは、「正札(しょうふだ)」という言葉を使う。)
郷里の岐阜県では当たり前の、「駆け引き」すらしない。

 たとえば岐阜県では、こういうものの買い方をする。

私「いくら?」
店「1本、500円」
私「じゃあ、2本で、800円にしてよ」
店「それはきびしい。無理だなア〜」
私「わかった。3本まとめて買うから、1000円にしてよ」
店「……ウ〜ン、まあ、いいでしょう」と。

 最終的には、1本、333円で買い、私のほうの勝ちということになる。

 浜松の人は知らないかもしれないが、これを駆け引きという。

 そういう浜松の人は、ほかの地方から来た人から見ると、おとなしく見える。
みな、そう言う。
つまりこの日本の国内だけでも、これだけ「性質」がちがう。
中国人や韓国人から見れば、日本人は、飼いならされた羊のように見えるかもしれない。

●危機感

 いつも強迫観念をもっている私を基準にするのも、どうかと思う。
が、現在の日本人に欠けるのは、この危機感。
日本全体が、ぬるま湯につかったような状態になっている。
お人好し。
競争すら、しない。

 たとえば夜のテレビチャンネルを、あちこち押してみればよい。
たいていいつもどこかで、韓流ドラマを放映している。
半面、韓国では、日本映画にすら、いまだに規制されている。
先日もどこかのニュースサイトには、こうあった。

「日本人は、韓流スターに、莫大なギャラを払い、竹島占領の手助けをしている」と。

 飛躍した意見のようにも聞こえるが、私にはそういう日本人が、バカに見える。
ホント!

●男児の女児化

 子どもの世界でも、似たような現象が見られる。
以前、こんな子ども(小4男児)がいた。
A君としておく。

 そのA君、見るからに穏やか。
やさしい。
体格はふつう以上だが、歩き方も、どこかナヨナヨしている。
男女の逆転現象が起きるようになって、20年以上になる。
いじめられて泣くのは男児、いじめて泣かせるのは女児。
小学校の低学年児について言えば、今では常識。
そんな中にあっても、A君はさらに、「やさしかった」。

 原因は母親にあった。
過保護と溺愛、それに過干渉が、慢性化していた。
「乱暴な遊びはさせません」
「ゲーム機はもたせません」
「戦いごっこは、禁止です」と。

 一度、おもちゃの刀(プラスチック製)を見せたときのこと。
私が何かを話しかける前に、横にいた母親が、それを先に取りあげてしまった。

 が、そういう母親にかぎって、そのつど、私にこう聞いてくる。
「うちの子、どうでしょうか?」と。
たいていの親は、顔を合わせると、そう聞く。

が、これほど答えにくい質問はない。
私は「何も問題はありませんよ」と、そのつど、答えるしかなかった。
程度の差こそあれ、今、このタイプの子どもが、主流になってきている。

●タイ

 日本人の精神構造が弱体化していると感じたのは、もう20年前も前のこと。
息子と2人で、タイへ行った。
そのとき、それを感じた。

 ここには書かなかったが、その国のもつ緊張感を知りたかったら、兵士を見ればよい。
タイで見た兵士は、みな引き締まった体で、鋭い目つきしていた。
私は帰国直後、浜松の航空ショーを見に行ったのを覚えている。
そこで見た自衛官は、どの人も、ごくふつうのサラリーマンに見えた。
そのときこう思った。
「これではとても、戦争にならない」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
この(以下の)原稿をBLOGに
載せたのは、2010年となっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人の危機意識(日本人の繁栄ボケ)

++++++++++++++++

日本は中国に抜かれて、世界第三位の
経済国になった(GDP)。
しかし国民1人当たりの所得では、
すでにシンガポールに抜かれている。
2020年ごろには、韓国にも抜かれる
だろうと言われている。

恐ろしいのは、その予想時期が、徐々に
早まっていること。
日本が中国に抜かれるのは、2015年
ごろと言われていた。
ほんの1、2年前のことである。
それが今年、つまり2010年に抜かれた。

のんきなエッセイストたちは、「生活の
中身が大切」などと言っている。
中国に抜かれても、韓国に抜かれても、
「大切なのは、生活の質」と。

こういうことばかり言っているから、日本は
どんどんと抜かれていく。
抜かれていくだけではない。
やがて食料の輸入もままならなくなるだろう。

20〜30年ほど前には、「平和ボケ」という言葉を
よく耳にした。
が、今は、「繁栄ボケ」。
「経済ボケ」でもよい。

日本の学校では、いったい、何を教えているのか?
社会科の授業で、何を教えているのか?
日本人がこの「現代」という世界で生き抜くための、
その知識と経験を教えるのが社会科の授業ではないのか。
どうすればこの先、日本が生き延びていくことができるか、
それを教えるのが社会科の授業ではないのか。

つまり日本の教育では、この部分だけが、スッポリと
抜け落ちてしまっている。
つまり危機意識が、まったくない。
愚にもつかないような「知識」だけを、一生懸命、
子どもの頭の中に、詰め込んでいる!

その結果が、今。
今年は去年以上に、就職難という。
学生たちが就職先を求めて、右往左往している。
が、考えてみれば、こんなバカげた世界は、日本を
おいて、ほかにない。

就職先がなかったら、自分で仕事を作ればよい。
それこそリヤカーでも引いて、自分で稼げばよい。
私は、そうしたぞ!
リヤカーを引いて、ある画家の絵を売り歩いたぞ!
つまりそういうたくましさが、ない。
仕事はもらうものと思っている。
与えられるものと思っている。

加えて、「外国へ行きたくない」という若者が多いのには、
驚いた。
日本人全体が、ものの考え方が内向きになってしまった。
こういうときだからこそ、仕事を求めて、ブラジルや
インド、シンガポールへ飛び出して行けばよい。
中国でも韓国でもよい。

飽食とぜいたく。
それに少子化。
日本の若者たちが、キバを抜かれてしまった。
今では天下国家を論ずる若者は、ほとんどいない。
大学生でもいない。

その理由はといえば、すべて教育にある。
以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

+++++++++++++++++

今からちょうど10年前、2000年ごろに書いた原稿です。

この中で、1人の女子学生が、つぎのように述べていることに注目してほしい。
人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。
私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」(中日新聞投稿欄)と。

+++++++++++++++++

●日本の将来を教育に見るとき 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強
で苦労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさが
すヒマもない。
(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。
また別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。
私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。
人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことが
ある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。
それはちょうど四〇年前の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。
あの国では誰もがギラギラとした脂汗を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。
若者とて例外ではない。
タクシーの運転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。
そしてそれで白タク営業をする。料金はその場で客と交渉して決める。
そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、それでお金をためる。
さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼ぐ。
最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれ
ていた。
子どもたちとて例外ではない。
私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行った。
そこでその磁石で金属片を集める。
そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。
それが結構、小づかい稼ぎになった。
父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。
が、今の日本にはそれはない。
「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私のところへやってきて、私とこん
な会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、
私「君は何ができる?」、
学「翻訳ぐらいなら、何とか」、
私「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか
書いてくれば、仕事が回ってくるかもしれない」、
学「カッコ悪いからいやだ」、
私「なぜカッコ悪い?」、
学「恥ずかしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。
「恥ずかしい」と言う。
結局その学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることにな
った。
もちろんその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。
言いかえると、今の日本の若たちを見れば、日本の未来がわかる。
で、その未来。
最近の経済指標を見るまでもない。
結論から先に言えば、お先まっ暗。
このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国になってしまう。
いや、おおかたの経済学者は、二〇一五年前後には、日本は中国の経済圏にのみ込まれて
しまうだろうと予想している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。
たとえばアメリカでは、今では日本の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NB
C)。
どこの大学でも日本語を学ぶ学生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハー
バード大学)。
私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。
そのツケを払うのは、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことなの
か。
私たちが子どものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとして
いる。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「二一世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。

日韓米仏四カ国の中高生を対象にした調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をし
ていることが明らかになった。
現在の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで
生きること」。
学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で
最低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが二〇〇〇年七月、東京、ソウル、ニュー
ヨーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。

「二一世紀は希望に満ちた社会になる」と答えたのは、米国で八五・七%、韓仏でも六割以上
に達したが、日本は三三・八%と際立って低かった。
自分への満足度では、米国では九割近くが「満足」と答えたが、日本は二三・一%。
学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。
米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。
人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名
誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が二〇・二%だ
ったのに対し、米国は七八・八%。
「国のために貢献したい」でも、肯定は日本四〇・一%、米国七六・四%と米国の方が高かっ
た。
ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利益よりわが国の利益がもっと重要
だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なことも浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。
将来の夢や希望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。
一九八〇年代からの傾向で、豊かになったことに伴ったのだろう」と分析している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●10年前

 10年前(2000年ごろ)に私が書いた原稿を、どうか読み直してみてほしい。
そしてそれから10年。
何が変わったか?
日本が、その結果、どうなったか?
そういう視点で、もう一度、読み直してみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本人の危機意識 社会の責任 繁栄ボケ 経済ボケ 危機感 はやし浩
司 タイ ギラギラ 日本人の弱体化)
2010年9月13日記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●希望する職種

 先に日本青少年研究所の調査結果をあげた。
その中にこうある。

「 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。
米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。
人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名
誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)だった」と。

 この結果を、もう少しわかりやすくしてみる。

【希望する職業】

日本……公務員や看護士
アメリカ……医師や政治家
フランス……弁護士
韓国……医師や先端技術者

【人生の目標】

日本……人生を楽しむ(61・5%)
アメリカ……地位と名誉(40・6%)
フランス……円満な家庭(32・4%)

 これだけ見ても、これからの日本がどうなるか、おおかたの予想がつく。

●今日から3月1日

 さて今日から3月1日。

 今週のレッスンでは、小学1年生と2年生に、「確率」を教えてみる。
教材も用意した。
私の教室(浜松BW教室)でも、確率を教えるのは、はじめての試みである。
子どもたちが、どう反応するか、楽しみ。

 私が知るかぎり、小学1年生と2年生に、確率を教えるのは、私がはじめて。
うまくいけば、明日の年長児(幼稚園児)のクラスでも、試してみたい。

 「幼児に確率?」と疑問に思う人は、ぜひ、「BW公開教室」を見てほしい。
それを見てもらえば、そのレッスンが、どういうものであるか、またどういう意味をもつか、理解
してもらえるはず。
この時期の、こうした教育こそ、重要。
計算練習ばかりしているから、算数はつまらない。
教える方もつまらないが、子どもたちにしても、同じ。
つまらない。

 どうしてこんな「つまらない教育」を、100年1律のごとく、日本は繰り返しているのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の算数教育 はやし浩司 
確率 小学生に確率を教える 弱体化する日本人 はやし浩司 弱体化する日本人の精神構
造 はやし浩司 BW教室 新しい算数教育)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司 

【小学1年生に、確率を教える】(Probability Lesson for 1st Graders)
(浜松BW実験教室byはやし浩司)


●今日(はやし浩司 2012−03−01)、
小学1年生に、「確率」を教えてみた。
けっして先取り教育ではない。
基礎の概念から、教えてみた。
(かけ算の九九を暗記させるような教育ではない。念のため!)


結果は、大成功……というより、子どもたちは
簡単にそれを理解した。
教えた私のほうが、驚いた。


そういう子どもの能力を知ると、「算数とは何か?」。
「数学とは何か?」。
そこまで考えてしまう。
あるいは「学校のカリキュラムとは何か?」。
そこまで考えてしまう。


「小学1年生に確率?」と、疑問に思う人は、
ぜひ、このYOUTUBEを観てほしい。
あなたの教育観、子ども観は、確実に変わるはず。
またこの時期、何をどう教えたらよいか、
それがわかるはず。


【小学1年生クラス】(Age 6&7)


<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/zlF9n5DPGVU?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【小学2年生クラス】(age 7&8)


<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/OudjrHOZysM?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 小学生に確率を教える 確率論
 確率の概念 はやし浩司 数学 確率 小学1年生と確率)
http://www.youtube.com/watch?v=zlF9n5DPGVU


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【少子化の中で、スポイルされる子どもたち】

【ドラ息子、ドラ娘論byはやし浩司】

●甘やかしと、きびしさ

+++++++++++++

極端な甘やかしと、極端なきびしさ。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもを
ドラ息子、ドラ娘にする。
甘やかしにより、規範そのものが崩れる。
一方、アンバランスなきびしさが、子どもを反抗的にする。

わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、
キレる……。

+++++++++++++

 一方で甘やかす。
子どもに気を使う。
過干渉というよりは、子どもの機嫌を取る。
『子どもをだめにするためには、子どものほしがるものを何でも与えよ』という。
しかしこのタイプの親は、『子どもがほしがる前に、何でも与えてしまう』。

しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。
はじめは、小さなすき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。
(甘やかす)→(ますますきびしく接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくな
る。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。
 
 このタイプの親には、共通点がある。

(1) 溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)

(2) 育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)

(3) 飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)

(4) 視野が狭い(目先のことしか、考えていない)

(5) 見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)

(6) 代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたい)

(7) 親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)

 これらの特徴と併せて、

(8)一貫性がない。

そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびしく接したりする。

A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。

 A君の父親は、もの静かな人だった。
一方、母親は派手好き。
裕福な家庭で、生まれ育った。
ほしいものは、何でも買い与えられた。

 A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。
近くに祖父母もいて、A君の世話をした。
A君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。

 母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えてい
た。
A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。
いや、するにはしたが、とても手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげ
さに喜んでみせたり、ほめたりした。
「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。

 が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。
あと片づけをしない、ほしいものが手に入らないと、怒りを露骨に表現するなど。
母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。
A君は、それに泣いて抗議した。

 A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。
夫の収入だけでは足りなかった。
A君の母親は、実家の両親から、毎月、5〜8万円程度の援助を受けていた。
夫には内緒、ということだった。

 A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。
そのためA君の母親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。
そのころすでにA君は、オーバーヒート気味だったが、母親は、それに気づかなかった。
「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさせた。

 A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。
好き嫌いがはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。
簡単なゲームをさせても、ルールを守らなかった。
そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえしたりした。

 人格の完成度が遅れた。
他人の心が理解できない。
自己中心的。
ほかの子どもたちとの協調性に欠けた。
幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをしたが、そうでないと
きは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。

 小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。
そのころになると、母親にも乱暴を繰りかえすようになった。
母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。
ものを投げつけることも重なった。
が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。
学校の宿題をするだけで、精一杯。その宿題すら、母親に、手伝ってしてもらっていた。

 ……という例は、多い。
今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないと
いうこと。

『溺愛は、親を盲目にする』。
A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。

 こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処で
きる。
アドバイスもできる。
しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんには、問題があります」とは、
現実には、言えない。
言ったところで、そのリズム、つまり子育てのリズムを変えることは、不可能。
親にとっても、容易なことではない。
そのリズムは、子どもを妊娠したときから、はじまっている。
そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。

 が、やがて行き着くところまで、行き着く。
親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなくなる。
が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。
「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、親は親で、がんばる。

 A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。
小学5、6年になるころには、まさに王様。
食事も、ソファに寝そべって食べるようになった。
母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届けた。
母親は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与えてい
た。
「機嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。

 本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。
が、A君の父親は、静かで、やさしい人だった。
家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。
仕事から帰ってくると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
 
 ……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに
気づくか、それが大切。
早ければ早いほど、よい。
できれば3、4歳ごろには、気づく。
(それでも遅いかもしれない。)

 というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。
そのリズムを変えるのは、容易なことではない。
1年や2年はかかる。
あるいは、もっと、かかる。
さらに親自身がもつ、子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。
それこそ行き着くところまで行き、絶望のどん底にたたき落とされないかぎり、親も、それに気
づかない。

 ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのも
のを、もみ消してしまった。
あちこちを回り、お金で解決してしまった。
また別の子ども(高1男子)は、無免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。
そのときも、母親が、一晩で、事件そのものをもみ消してしまった。

こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。
で、やっとそのころになると、自分の(まちがい)に気づく。
それまでは、気づかない。
ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その1人かもしれない。
が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には関係ない」と、無視する。
これは子育てがもつ、宿命のようなもの。

 そこで教訓。

 あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。
責めるべきは、あなた自身。
反省すべきは、家庭環境そのもの。
あなたの育児姿勢。
家庭のリズム。
あなたの人生観、それに子育て観。
 子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。
なおるはずもない。
この問題は、そういう問題である。

+++++++++++++++

ドラ息子、ドラ娘について書いた
原稿を、いくつか添付します。
一部ダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++

●子どもをよい子にしたいとき
 
●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。
それを一口で言ってくれ。
私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。
「あんたの本を、何冊も読む時間など、ない」と。
私はしばらく間をおいて、こう言った。
「使うことです。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。
子どもは使えば使うほど、よくなる。
使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。
それだけではない。
忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。
「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」と。
わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。
そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教
えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、料理の手伝いはしない、食事のあと、食器を洗わ
ない。
片づけない。
シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。
朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。
つまり、「日本の子どもは何もしない」と。

反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。
「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝
っている」と。
ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。

自分のことはするが他人のことはしない。
他人は自分を喜ばせるためにいると考える。
ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。
自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。
あるいは自分より先に行くものを許さない。
いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。

目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。
あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。
生活習慣そのものがだらしなくなる。
その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。

他人に対して無礼、無作法になる。
依存心が強い割には、自分勝手。
わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。

ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。
本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。
生活への耐性そのものがなくなることもある。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。
子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。
寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。
風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。
そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。
そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。
その子どものお母さんは、こう話してくれた。
「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。
こういう子どもは、学習面でも伸びる。
なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っている
こと自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子ども
は伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。
「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。
買物といっても、食材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。
洗濯も今では全自動。
料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされると、かえってじゃま。
テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。
子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをす
ることをいう。
たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。
そしてそれをあなたの子どもが見つけたとする。
そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。
しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省
したほうがよい。
やらせることがないのではない。
その気になればいくらでもある。
食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。
そこで洗わせる。
フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出
る。
庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。
そういう雰囲気で包むことをいう。
何をどれだけさせればよいという問題ではない。
要はそういう子どもにすること。
それが、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。
子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。

(1)生活感のある生活に心がける。

ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせる。
あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意識を
もたせる。

(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。

(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。

(4)生活のルールを守らせる。

(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、

(6)バランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。

あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグにな
っている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。
チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。
ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。

●子どもの金銭感覚

 年長(6歳)から小学2年(8歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。
その金銭感覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。
が、それだけではない。
子どもはこの時期を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。
そしてそれがそれから先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、100倍して考えるとよい。
たとえば子どもの100円は、おとなの1万円に相当する。
1000円は、10万円に相当する。
親は安易に子どもにものを買い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってか
らの、1万円、10万円に相当する。
「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、
将来どうなるか。もう、言べくもない。

さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくなったが、それでも「高価なものを買って
あげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。
あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。
が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。
ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。
ある子ども(小2男児)は、こう言った。
「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行ってもらう」と。
そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてしまう」と。
その子どもは、「おくれる」と言うのだ。

最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによって、自分
のステイタス(地位)を守ろうとする。
物欲の内容そのものが、昔とは違う。
変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーンが出てき
た。

援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。
「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。
しかも金銭感覚そのものが、マヒしている。
もっているものが、10万円、20万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。
あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。
1000円のものだろうか。
それとも1万円のものだろうか。
お年玉には、いくら与えるだろうか。
与えるとしても、それでほしいものを買わせるだろうか。
それとも、貯金をさせるだろうか。
いや、その前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。

どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。
5、6歳の子どもに、1万、2万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校生
や大学生になったとき、あなたは100万円、200万円のものを買い与えなくてはならなくなる。
つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。
あなたにそれだけの財力と度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめ
たほうがよい。
やがてあなたの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。
そうなればなったで、苦労するのはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。

●ドラ息子症候群

 英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。
こういう例は、教育の世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしな
いのでしょうか」は、ない。
もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小3)は、そんなタイプの子ども
だった。

 口グセはいつも同じ。
「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。
何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。
しかもそれがうるさいほど、続く。
そして自分の意にかなわないと、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。
約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってないようなもの。
他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。
「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。
バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。

こうも言った。
「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。
M君の家は昔からの地主で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。
教えることそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっ
とほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。
そうそうこんなこともあった。

受験を控えた中3のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまっ
た。
悪質な万引きだった。
それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その
夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。
そして彼が高校二2生になったある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼ん
でいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。
折ったら、ヒロシはどうする?」と。

そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその
万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
 とたん私は彼に飛びかかっていった。
結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を狂ったように責めた。
(私も全身に打撲を負った。念のため。)

「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。
が、M君の父親が、私を救ってくれた。
うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。

「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがとう」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ドラ息子

 ドラ息子かどうかは、早い子どもで、年中児の中ごろ(4歳半)前後でわかるようになる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。

また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。
友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳の
ときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

 で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂
場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。
その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、
その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが
口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、
学習面でも伸びる。なぜか。

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っている
こと自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子ども
は伸び悩む。

●補記(2012−03−02)

 ドラ息子、ドラ娘と評してよい子どもは、少なくない。
もちろん程度の差もある。
が、症状がひどくなると、少しでも自分の意に反したような状況、状態になると、はげしい(かん
しゃく発作)を引き起こす。

 かんしゃく発作そのものは、「家庭教育の失敗」(育児辞典)と、位置づけられている。
私が「失敗」と言っているのではない。
心理学や育児の辞典に、そう書いてある。
(以前、「失敗」と書いたことに対し、「他人の子育てについて、失敗とは何ごとか」と抗議してき
た人がいた。
それであえて、ここでこのように書いておく。)

 突発的に狂乱状態になり、暴れたり、暴言を吐いたりする。
親や先生に向かって暴言を吐いたり、ときには、そのまま家(教室)を出ていってしまったりす
る。

 が、そのとき2つの問題点があげられる。

(1)子ども側の問題

 親が自分の子どもをドラ息子、ドラ娘にするについて、それなりの(原因)があることが多い。
たとえばLD児であったり、自閉症であったりなど。
親がそうした子どもの問題に神経質になるのはしかたないとしても、それがときとして過剰にな
りやすい。
まさに「腫れ物に触れるような育児」を繰り返す。
気をつかい、つねに機嫌を取る。
ほんの少しでも子どもが機嫌をそこねたりすると、「ごめんね」を繰り返す。
(親が、子どもに、だぞ!)
これがもとからあった障害を、複雑化する。

(2)親側の問題

 ドラ息子、ドラ娘は、親の育児姿勢が原因である。
が、その親自身にも問題があることが多い。
情緒的な欠陥、精神的な未熟性が原因となり、過保護、過関心、溺愛へと走る。
子どもに対し、育児姿勢が極端化する。
つまりベタベタの子育てを繰り返す。
これが子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。

 で、私の経験から、こんなことが言える。

 先にも書いたように、ドラ息子、ドラ娘の問題は、子どもの問題ではない。
家庭環境の問題である。
親自身に問題があることもある。
それだけに、「子どもを直す」ということは、容易なことではない。
……というより、不可能。
家庭のリズムそのものを、変えなければならない。

 大切なことは、その前の段階で、それに気づき、子どもをドラ息子、ドラ娘にしないこと。
またそのためには、風通しのよい育児環境をもつこと。
他人の家庭をのぞき、他人の子育てを知る。
意見を聞き、参考にする。
「私の子育てがいちばん正しい」とか、「私の子どものことは、私がいちばんよく知っている」と、
豪語する親ほど、「失敗」しやすい。

 ドラ息子であるか、ドラ娘であるかは、何度も書くが、満4・5歳前後には、はっきりする。
エリクソンが説くところの、幼児期前期(自律期)までの育児環境が、決定的な影響を与える。

 なお指導の場では、ドラ息子、ドラ娘に対しては、「無視する」という方法で、対処する。
相手が幼児や小学生では、叱っても意味はない。
自分を客観的に評価する力そのものが、ない。
そのため本人自身が、それを自覚するということはない。

要するに、「わがままを言っても、無駄」という雰囲気を、少しずつ作りあげていく。
その時期は早ければ早いほどよい。
小学生になってからだと、それがその子どもの性格として定着してしまう。
さらに高学年になると、暴力を伴うようになる。

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【煩悩(欲望)論と統合性の確立 by はやし浩司】

●暖かな3月(はやし浩司 2012−03−03)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

やっと暖かくなった。
冬の冷気を感じない。
「春だなア〜」と。

ところで昨夜、ワイフと生徒たちを連れて、映画を見に行ってきた。
『戦火の馬(War Horse)』。
一頭の、賢い馬の話。

先月死んだ、犬のハナが画面にダブり、ポロポロ泣いた。
ポインター種の犬は、馬そっくり。
走り方も、馬そっくり。
目の動かし方まで、馬そっくり。
そんなわけで、星は4つの★★★★。

よかった!
ただタイトルの『戦火の馬』は、おおげさ。
『マイ・ホース(My Horse)』でもよかったのでは?

今週は、もう1本、『ヒューゴの不思議な発明』がある。
すでに公開されているが、こちらのほうは、あわてて見ない。
前評判がすばらしいだけに、ゆっくりと時間をかけ、楽しみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●3月3日

 このところ、午前9時起きがつづいている。
何かにつけ、夜更かしをする。
昨夜も床に就いたのが、午前1時。
我ら不良老人には、時刻はない。
眠くなったら、寝る。
起きたくなったら、起きる。

 が、理由がないわけではない。
目下、ダイエット中。
現在67キロの、4キロ、オーバー。
食事の量を半分に減らし、運動量を倍にした。
そのため慢性的なガス欠状態。
何をしても、力が入らない。
とくに床から起きあがるのが、つらい。
それで午前9時起き。

 が、熟睡感は、あまりない。

●アクセント

 今日の予定は、とくになし。
先ほど、軽い朝食。
「何かしたいか?」とワイフに聞くと、「まだね……」と。
こういうときは、来週の教材作りをするのがよい。
(いつもなら、そうしている。)
が、今日は、こうしてパソコンの前に、ずっと座っていたい。

 指の動きも軽やか。
頭もスッキリ。
昨日まで、どこか風邪ぽっかったが、その症状も消えた。
(「風邪っぽい」というから、「風邪っぽかった」と書いた。
この日本語は正しいのか?)

 ところで昨日、幼児教室で、「くじ」の話をした。
確率を教えるため。
で、そのときのこと。
子どもたちが、「くじ」と、「く」のところにアクセントをつけて言うのを知った。
私は、ずっと、「くじ」と、「じ」のところにアクセントつけて言っていた。

この浜松では、多くの言葉で、アクセントの位置がちがう。
たとえば「橋」「箸」「端」など。
どちらが正しいというわけではないが、ときどき戸惑うことがある。

もちろんワイフは、「あなたのアクセントは、おかしい」と言う。
私は、「浜松のアクセントは、めちゃめちゃ」と言う。
ワイフは、浜松生まれの、浜松育ち。
私は岐阜県の美濃市生まれ。

 興味のある人は、浜松へ来てみればよい。
「橋」「箸」「端」を、浜松の人たちがどう発音するか、聞いてみればよい。
みな、首をかしげるはず。

●また映画

 たった今、ワイフがお茶を届けてくれた。
こう言った。
「午後から、映画を見に行こう」と。

 「またア〜?」と言うと、「そう!」と。

 「浜北のほうでもいい……」と。

 浜北(浜松の北)にも、東宝映画劇場がある。
そこへドライブがてらに行こう、と。

 若いときからワイフの行動力には、頭がさがる。
アドレナリンの分泌が、私より盛ん。
体温も、私より高い。
同じものを食べても、ワイフは、太らない。
私は太る。
つまりその分だけ、行動派。

●プレーボーイ

 さて、本題。

 「プレーボーイ」と呼ばれる、男たちがいる。
(反対に「プレーガール」と呼ばれる、女たちもいる。)

 このプレーボーイ、目的とする「女」が現れると、特異な行動を始める。
献身的。
とにかく献身的。
一方的に相手に仕える。
ときに女の部屋にあがりこんで、掃除までしてやる。
料理までしてやる。
相手の「体」をものにするまで、何でもする。

 が、一度モノにすると、相手から急速に興味を失う。
その行動パターンは、「買い物依存症」のそれと、どこか似ている。
「相手の女性の肉体が欲しいから、欲しい」。
それだけの理由。

 要するに、自分の欲望を満足させる。
それが目標。

 一方、女性にも、「プレーガール」がいる。
昔は「八方美人」と呼んだ。
どちらにせよ、最近の傾向としては、老いも若きも、欲望にブレーキをかけない。
恋愛至上主義もそのひとつ。
恋愛したとたん、それがすべて。
自分の心にブレーキをかけない。
そのまま最後まで、突っ走ってしまう。

 もっとも今の若い人たちに、それを説いても意味はない。
また私たちの時代の話をしても、理解できない。

 私も学生時代、何人かの女性と恋愛をした。
しかし「収入がない」「生活費が用意できない」「親の了解がない」などの理由で別れた。
「しっかりと自活できてから」というのが、結婚の大前提になっていた。

 が、今はちがう。
そのまま突っ走ってしまう。
悪しきアメリカ文化の影響である。
それがわからなければ、映画『タイタニック』を見ればよい。
若い人たちは、ああいうのを見て、「愛」と錯覚している。
それがあるべき人間の姿と思い込んでいる。
人間がもっとも大切にすべきものと、誤解している。

 中身といえば、子孫保存本能。
が、そんなことは、そこらのイヌやネコでもしている。
子孫保存のための本能(種族保存本能とは区別する※後述)に、振り回されているだけ。

 結果、離婚率も、目下上昇中。
婚姻届数を3とすると、離婚届数は1(全国、役所の届け数平均※)。

(注※)
『……参考値として、「離婚件数を結婚件数で割った値」をグラフ化する。
これは「結婚件数に対し離婚件数がどれだけ多いか」を意味し、この値が仮に1を超えれば、
その年の結婚件数より離婚件数が多かったことを意味する。

 ちなみに、2001〜2007年は、おおむね0・35前後となっている』(Garbagenews.com)。
(詳しくは、http://www.garbagenews.net/archives/1219043.html)

 ただし生涯離婚率は、現在、0・2%前後。
現在、1000組の夫婦がいるとすると、その年に離婚するのは、2組ということになる。

●種族保存本能と子孫保存本能

 種族保存本能と子孫保存本能は、区別して考える。
いろいろな説があるが、私は、そう解釈している。

 種族保存本能というのは、その種族の中でも、最高品種のものを残そうという本能。
たとえば動物の世界では、もっとも力のあるオスが、多くのメスを従える。
そのために、力のあるオスどうしが、ボスの座を獲得するため、死闘を繰り返す。
そういう動物は多い。
ボスになれば、多くのメスを自分のモノにすることができる。

 子孫保存本能というのは、要するに生殖本能のこと。
人間は一夫一妻制をとることにより、種族保存本能は、「個」からは切り離す。
切り離さないと、「個」である自分は、結婚できないということになる。
「私は劣等な人間です。子どもを作らないほうが、種の保存のためには、ふさわしい」と。
……とまあ、そんなふうに考える人はいない。
またそんなふうに考えたら、私など、イのいちばんに、だれとも結婚できなかっただろう。

顔はブサイク。
足も短い。
精神的にもガタガタ。
頭も悪い。

が、どうにかこうにか、結婚だけはできた。

●欲望

 わかりやすく言えば、欲望に歯止めをかけることができなくなった。
それが現代人の特質ということになる。

 硬い話になるが、仏教では、その欲望を強く戒めている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「煩悩(ぼんのう」については、
たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、2003年3月の日付に
なっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●涅槃(ねはん)(2003年3月記)

 仏教には、「涅槃(ねはん)」という言葉がある。

「煩悩(ぼんのう)を滅して、苦がなくなった究極の悟りの境地」(日本語大辞典)という意味。 

 煩悩というのは、「衆生(しゅじょう)の心身を悩ませ、悟りの妨げとなる心の働き」(同)をい
う。
わかりやすく言えば、人間の欲望のこと。
仏教では、「貪(どん)、瞋(しん)、痴(ち)」の三つの弊害(これを三毒)をいう。

 で、この煩悩を頭から、悪と決めてはいけない。
たとえば性欲にしても、それがあるから種族の保存ができる。なかったら、人類は、とっくの昔
に滅んでいたことになる。
そこで仏教では、「煩悩は燃やしつくせ」と教える。
つまり燃やして燃やして、燃やしつくし、その結果として、「涅槃の境地」に達せよ、と。

 こういうむずかしい漢字が並ぶと、読むだけでもたいへんだが、要するに、若いときは、した
いことを、思う存分しろということ。
Sックスにしても、恋人や夫婦の間で、やってやってやりまくる。
そしてその結果として、そのつまらなさを、悟ることができる。
そのつまらなさから、脱却することができる。

 そう言えば、子どもの世界でも、子どものころ、非行などのサブカルチャ(下位文化)を経験し
た子どもほど、おとなになってから常識豊かな子どもになることが知られている。
つまりワルで育った子どもほど、あとあと、すばらしい人間になるということ。

 反対に、優等生で育った子どもほど、あとあと何かにつけて、問題を引き起こす。
かえって常識ハズレになり、社会的な不適応を起こすこともある。
精神的な未熟性や、不全性が、その子ども(人)の心をゆがめることもある。

 だからといって、子どもの非行を奨励するわけではない。
が、こうした一歩、退いた視点が、子どもを、心豊かな人間に育てる。
「勉強」も大切だが、勉強そのものは、子どもを伸ばさない。
子どもを伸ばすのは、「学ぶ心」、そして「ものごとに挑戦していく前向きな姿勢」である。
勉強ができる、できないは、あくまでも、その結果でしかない。

 さて、話をもどす。煩悩だからといって、頭から否定してはいけない。
煩悩だろうが、なんだろうが、思う存分、したいことをすればよい。
して、して、しまくる。
そうすれば、やがてその空しさがわかる。
わかれば、その煩悩と決別することができる。
仏教でいう「涅槃の境地」は無理だとしても、ほぼそれに近い精神状態になるかもしれない。

 話は、ぐんと現実的になるが、よく子どもたちが、私にこう聞く。
「先生も、エロビデオを見るのか?」と。
そういうとき私は、こう答えるようにしている。
「君たちのお父さんと同じだよ。だからそういうことは、君たちのお父さんに聞きな」と。
そしてしばらくしたあと、こうつけ加える。
「もう、見飽きたけどね……」と。
これも、いわば、涅槃の境地の一つということになるのかもしれない。
(030404)

【追記】

 煩悩を燃やしつくすといっても、燃えつき症候群は好ましくない。
……ですね。
そうそう、それにしても、Sケベ・サイトの多いこと、多いこと!
 そういうところが発行するスケベ・マガジンなどは、どれも発行部数が、数万部もあるというか
ら、驚きます。
私のマガジンは、やっと合計で、八三〇部程度。
何ともなさけない感じがしないでもありません。

 しかしやがてこれも一巡すれば、私の発行するようなマガジンの読者も、少しはふえるかもし
れません。
どうせああいうのは、「無」のマガジン。
読者も、それでは満足しなくなるはず。
必ず「心」を求めるようになるはず。
そういうときがくるのを信じて、がんばるしかない。……ですね。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先の原稿を書いてから、もう9年になる。
最近、書いた原稿と比較してみる。
つぎの原稿の日付は、2007年7月に
なっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●煩悩(ぼんのう)

+++++++++++++++

仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。

+++++++++++++++

 仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。

 ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。
しかし無知といっても、「知識のなさ」を言うのではない。
「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。

 この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨んだり、ね
たんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどったり、ふまじめになっ
たりする」(「仏教聖典」)という。
つまり、自分を見失ってしまう。

 この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世の3つの火」と
位置づける。
これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。
そういう例は、多い。

 「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」という意味
のことか。
わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。
貪欲な人は、たしかに見苦しい。

 ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。
義父を思いやる、やさしい心からそうしているのではない。
その財産が目的である。
義母がいるが、体も弱く、このところ思考力もかなり低下してきた。

 そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。
その女性が義父を見舞うたびに、義父は興奮状態になってしまう。
そのあと様子がおかしくなるという。
しかしその女性は、見舞いをやめる気配はない。

 これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。
その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。

 つぎに怒り。
仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。
私は勝手に「怒り」としたが、研究者がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。
仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情のおもむくまま、腹を立てたり、どなったり、
暴れたりすることをいう。

 ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。
たとえば今、私は、社会保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。
K国の金xxにも、怒りを感じている。
元公安調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。
さらには、防衛大臣の失言にも、怒りを感じている。

 その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。
つまり(怒り)が正義と結びついていれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうでない。

 3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。
しかし先にも書いたように、「知識がないこと」を、愚かというのではない。
ものの道理をわきまえないことを、(愚か)という。
 
 では(道理)とは何か。
現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。
人格の完成度の高い人を、「道理をわきまえている人」という。
他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利他的な人を、人格の完成度の高い人と
いう。

 その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。
考えて、考えて、考えぬく。
パスカルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。
中に、「私はものごとを深く考えない」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語(?)す
る人がいる。
しかしそういう人は、自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。

 恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。

 で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるという。
「おのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の3つの悪い行為
に導くことになる」(「仏教聖典」)と。
つまりその人だけの問題では、すまないということ。
 
 が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。

 悪いことをしないから、善人というわけではない。
よいことをするから、善人というわけでもない。
私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。
悪と積極的に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。
またそういう人を、善人という。

 話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。
この瞬間においてすら、その煩悩が、体中で、渦を巻いている。
「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話は、おしまい。

私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。
(2007年7月記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 煩悩
論 パーリ 仏教聖典 はやし浩司 煩悩 煩悩論 欲望論)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●進歩?

 これら2つの原稿を読み比べてみる。
変化を知る。
ともの「私」だが、中身が微妙に異なる。
同時に、こうも考える。
「私は進歩したか?」と。

 答は、残念ながら「NO!」。
むしろ退化した。

このところあまり勉強しなくなった。
本(仏教典)も、読まなくなった。
たとえばどこかのホテルに泊まる。
大きなホテルだと、たいていどこにも、聖書や仏教典が置いてある。
若いころは、それを読んだ。
感動した。

 が、今は、目も通さない。
もちろん読んでも、感動しない。
理由の第一は、欲望の火が弱くなったこと。
「〜〜したい」とか、「〜〜がほしい」と思うことが少なくなった。
生命力が弱くなった?
生活力が弱くなった?
もっとわかりやすく言えば、巷(ちまた)の雑事など、どうでもよくなってしまった。
とくに悟りの境地に、(そんなものは、あるはずもないが)、近づいたというわけではない。
「めんどう」という言葉のほうが、正確かもしれない。

 「どうぞ、ご勝手に!」とか、そういうふうに思うことも多い。
とくに醜い権力闘争を見聞きしたりすると、そう思う。
が、これではいけない。
「これではいけない」とは、ワイフの言葉だが、これではいけない。
「あなたが書くのをやめたら、だれが書くのよ!」と。

 都会に住む(もの書き)たちは、それぞれに複雑にからみあっている。
この世界には、「ブラックリスト」なるものがある。
たとえば「週刊X誌」。
一度、悪口を書いたら、仕事は回ってこない。
「S雑誌社」にしても、そうだ。
その子会社、あるいは関連会社からも、仕事は回ってこない。
テレビ局をはじめとする、マスコミの世界は、そうしたシンジゲートで成り立っている。

 さらに巧妙なのが、宗教団体。
利権団体。
批判本を出版したりすると、出版社自体を、抱き込んでしまう。

 まず「はやし浩司」で検索する。
そこにズラリと、「要注意人物」「警戒人物」という文字が並ぶ。
その時点で、仕事はストップ。
こうして都会という中央集権社会は、YES・MANだけの世界になる。

 だからワイフは、こう言う。
「あなたが書くのをやめたら、だれが書くのよ!」と。

 話が脱線したが、私は自由。
だれにも相手にされないが、こうして自由にものを書くことができる。
だれにも遠慮しない。
だれにも媚(こび)を売らない。

●無の概念

 話を戻す。

 あのサルトルは、最後に「無の概念」を説いた。
それによって、サルトルは、死の恐怖から、自分を解放した。
つまり自己の限界である「死」を、乗り越えた。

 その第一の条件が、欲望からの解放ということになる。
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」とつづくかぎり、人は迷う。
苦しむ。
「死」を乗り越えることはできない。

 では、どうすればよいのか。

 そのヒントが、『統合性の確立』ということになる。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)をする。
ただし条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が混入したとたん、統合性の確立は霧散する。
煩悩論の最後に、『統合性の確立』について書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『統合性の確立』については、たびたび
書いてきた。
「はやし浩司 統合性の確立」で検索
してみたら、4000件もヒットした。

2009年2月に書いた原稿が
わかりやすいので、それを紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●統合性の確立

++++++++++++++++++++++++

今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。

それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。

そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。

++++++++++++++++++++++++++++

●帰りのバスの中で

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。

 いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。

 が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。

 私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。

 いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。

●60歳の統合性

 (やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。

 エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の基礎を作れという
ようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を植える」というわけに
はいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。

 (やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。

●統合性の失敗

 私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に失敗している人は、多
い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。

明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。

 家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。

 しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。

 そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。

●今、40歳前後の方へ、

 エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。

 もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことはない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。

 いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。

●無私無欲

 (やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされたとしても、それはあく
までも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。

 仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。

 それがここでいう統合性につながる。

●燃える

 一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。

 先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。

 「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。

 そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたりしている。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、それを修理して走らせたりして
いる。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。

 そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。

●あなたの未来

 あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。

 子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と思っているかもし
れない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代単位で起こることで
あって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずもない。

 40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。

 こんな例がある。

●反面教師は、未来のあなた

 ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が母親そっくりの人間になってい
た。
こういう例は、いくらでもある。

 こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。

 たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。

 あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。

 反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、結局は、今度はあ
なたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。

●私のほうが、マシ?

 しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、実は価値があるのだ、と。

 統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、悶々とした日々を
送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。

 私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。

のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?

 しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。

 そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「マンションの守衛をしている」と。
マンションの守衛が悪いというのではない。
で、「休みには何をしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。

「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。

 本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。

 統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。

●やってくる老後

 老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。

 60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。

 現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。

 まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。

●私の経験

 これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、うれしい。
40代〜55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。

 もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな統合性は、その時点で霧
散していただろう。

 もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」というようなこと
は、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。

●最後に……

 むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、うれしい。
感謝しなければならない。

 その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。

 ……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
老後の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老
後の生き甲斐)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●映画『ヒューゴの不思議な発明』

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

夕方になって、ワイフが、こう言った。
「『ヒューゴの不思議な発明』を見に行かない?」と。
昨夜、『戦火の馬』を見たばかり。
「2晩つづけてかア?」と私が聞くと、「浜北へ行けばいい」と。

浜北(浜松市の北区)には、もうひとつ、別の東宝映画劇場がある。
「劇場の問題ではないのだがなア……」と思いながらも、それに従う。
ネットで調べると、午後6時5分、開演とある。
45分しかない……ということで、あわてて車に飛び乗る。

「どうしてわざわざ遠方の劇場へ行くのか?」と、
そんなことを考えながら、車を走らせる。
浜松市内にも、劇場がある。
市内だったら、20分もかからない。

で、劇場へ着いたのが、6時10分。
チケットを買っていると、カウンターの女性が、こう言った。
「今は、予告編です」と。

最近、予告編の時間が長い。
……長くなった。
1回に、5〜6作は、見せる。
時間を計ってみたことがあるが、15〜20分。
つまり6時5分といっても、実際、映画が始まるのは、6時25分ごろ。
あわてる必要はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『ヒューゴの不思議な発明』

 言葉の問題。

「ヒューゴの不思議な発明」というタイトルを見たら、あなたは何を、どう連想するだろうか?
たぶん、こう考えるにちがいない。
「ヒューゴという少年が作った、何か不思議な発明」と。
私も、実は、そう思っていた。

 が、ヒューゴは、実際には何も発明していない。
古い機械人形をフィックスした(=直した)だけ。
つまりタイトルがおかしい。

 そこで原作を調べてみると、「Hugo(ヒューゴ)」となっていた。
ただの「Hugo」だけ。
「ヒューゴの不思議な発明」というのは、「ヒューゴのもっていた」という意味。
つまり所有格。

 主役というより、「柱」は、ベン・キングズレーが演ずるジョルジュ・メリエス。
映画の途中から、私は、同年齢ということもあって、ジョルジュ・メリエスのほうに強くひかれた。
ヒューゴというより、メリエスのほうが主役。
過去の成功や栄華を懸命に忘れようとしている、メリエス。
その部分に強く共感した。

 子ども向けの子ども用映画ということであれば、ヒューゴということになる。
ヒューゴが主役。
そういう意味では、子ども向けのファンタジー映画ということになる。
星は文句なしの、5つ星。★★★★★。
『ネバー・エンディング・ストーリー』と並ぶ、名作と考えてよい。

 また、ジョルジュ・メリエスについては、ほぼ実話ではないかと思われる。
ファンタジー映画の、まさに先駆者。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『ジョルジュ・メリエス

 マリー=ジョルジュ=ジャン・メリエス(Marie Georges Jean M?li?s、1861年11月8日1938年1
月21日)は、フランスの映画製作者で、映画の創生期において様々な技術を開発した人物で
ある。
パリ出身。
「世界初の職業映画監督」と言われている。
SFXの創始者で、多重露光やディゾルブ、ストップモーションの原始的なものも開発した。
もともとはマジシャンで劇場経営者であったが、1895年、同じくフランスのリュミエール兄弟によ
る映画の公開を見て、映画製作に乗り出した。
彼の最も有名な作品は1902年の映画『月世界旅行』である。
題名の通り月へ探検に行く物語だが、1本の映画の中で複数のシーンがあり、物語が存在す
るという、当時としては画期的なものであった』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

●1861−1938

 ジョルジュ・メリエスは、77歳で没していることになる。
本当にパリ鋭気構内で、おもちゃ屋を営業していたかどうかは、知らない。
映画の中では、そのころヒューゴと知りあったことになる。
が、やはり気になるのは、「過去の成功や栄華を懸命に忘れようとしている、メリエス」という部
分。

 彼が手がけていたファンタジー映画は、第一次世界大戦とともに、闇に葬られる。
フィルム(=セルロイド)のほとんどは、再利用され、女性の靴のかかとになったという(映画)。
メリエス自身も、「映画の流行は一過性のもの」と思っていたらしい(映画)。
が、私は、その映画を見ながら、高校時代の恩師、平井孝一先生を思い出していた。
話がぐんと脱線するが、許してほしい。

●平井孝一先生

 私が知りあったとき、平井孝一先生は、70歳を過ぎていた。
75歳前後ではなかったかと記憶している。
美濃市の南、山沿いにあった小さな集合住宅に住んでいた。
本当に小さな集合住宅で、2間ほどしかなかったと思う。
国語の元先生だった。

 私は高校1年から2年まで、その先生から古文を学んだ。
週に1度、先生の家に行き、個人レッスンを受けた。
おかげでというか、当時は全国規模の古文だけの試験があり、私は全国で8位の成績を収め
ることができた。
(受験者数は、全国で30万人前後だったと記憶している。)

 平井孝一先生は、もともと郷里の美濃市出身だった。
実家から150メートルもない、造り酒屋の身内の1人と聞いていた。
その平井先生と縁をつないでくれたのは、母だった。
母が、平井孝一先生に、家庭教師を頼んでくれた。

 それはともかくも、ある日平井孝一先生は、1冊の本を私にくれた。
古語辞典だった。
それには、「平井孝一編」とあった。
私は驚いた。
今とちがい、当時は、「本」というだけで、たいへんな価値があった。
戦時中に印刷されたもので、見るからに疲れた感じの本だった。
が、本は本。
ズジリと重かった。
その平井孝一先生が、ある日、こう言った。

「私はね、岩国高校で、校長をしていたんですよ※」と。

 岩国高校というのは、広島県岩国市にある高校である。
「ほら、錦帯橋(きんたいばし)という橋があるでしょ。学校は、あの橋のそばにありましたよ」
と。

 そのときはじめて、私は、平井孝一先生が、たいへんな人物であったことを知った。
小さな集合住宅に住んでいたから、それまではその程度の人としか思っていなかった。

が、先生は私に古文を教えながら、一言も、それ以外、自慢たらしいことは言わなかった。
自分の過去についても、私に話してくれたのは、2年間で、それだけ。
理由はわからない。
ともかくも、平井孝一先生という人は、そういう先生だった。

(注※……平井孝一先生の略歴・岩国高校ホームページ)
http://www.iwakuni-h.ysn21.jp/soumu/principal/principal.html
岩国高校のホームページによれば、平井孝一先生は、昭和18年4月から、昭和21年3月ま
で、岩国高校で校長をしていたことがわかる。
(昭和24年に、岩国中学から学制改革により、岩国高校となる。)

 映画を見終ってから、家に着くまで、私は平井孝一先生のことを考えていた。
私が大学生のとき、平井孝一先生は亡くなった。
が、私は葬式にも行かなかった。
そういう負い目を感じていたので、私は、ワイフには、平井孝一先生の話はいっさい、しなかっ
た。

●過去

 メリエスにかぎらず、人には、それぞれ重い過去がある。
が、そうした過去が、正当に評価されるということは、まず、ない。
本当に、一部の、しかも本当に運がよかった人だけが、晩年になって、注目を集める。
再評価される。

 平井孝一先生にしても、そうだ。
岩国高校は、江戸時代の(養老館)藩学校から始まる。
岩国高校のホームページによれば、明治13年創立とある。
たいへんな伝統校と考えてよい。
そんな高校の、元校長だった。

 が、郷里の美濃市で、平井孝一先生を知っている人は、ほとんどいなかった。
元高校の教師だったということを知っている人もいなかっただろう。
私の記憶にまちがいがなければ、そのとき平井孝一先生には、子どもはいなかった。
先に書いた集合住宅にも、妻と2人だけで、静かに……というより、ひっそりと暮らしていた。

 ……どうしてだろう?
平井孝一先生には、子どもはいなかったのだろうか。
ふと今、大きな疑念が私の心の中で、渦を巻き始めた。
どうしてだろう?

●平井孝一先生

 郷里の知人に電話をする。
その結果、平井孝一先生は、美濃市内の今廣酒造店の親類の人とわかった。
電話をすると、電話口の女性は、こう言った。
「平井孝一は、うちの親戚の者です」と。

私「昔、お世話になった、林という者です。平井先生の消息を聞きたくて電話しました」
女「はあ、ずいぶん前に亡くなりましたよ」
私「岩国高校で、校長をなさっておられた平井孝一先生です」
女「そうです。まちがいありません」
私「で、先生のことを調べ、原稿にしているのですが、……先生にはご家族の方がいらっしゃっ
たのでしょうか」
女「いますよ。娘さんですが、今年、88歳になられますよ」と。

 平井孝一先生には、娘さんがいた。
私が知りあったころには、すでに39歳だったとうことになる。
現在は、隣町の関市に、住んでいるという。
よかった!

 娘さんが近くにいたということを聞いただけで、ポーッと心が暖かくなった。
ささやかだが、こうして今、平井孝一先生のことを、記録に残すことができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 平井孝一 岩国高校 平井孝一
 美濃市 今廣酒造 今廣酒店 広島県 岩国 岩国中学 はやし浩司 岩国高校 平井孝
一)

●ジョルジュ・メリエス

 もし『ヒューゴの不思議な発明』という映画を見なかったら……。
私はここでジョルジュ・メリエスという人を、もう死ぬまで知ることはなかっただろう。
ただ部分的には、記憶に残っていないわけではない。
あのガラス張りのスタジオにしてもそうだ。
何かの記録映画で、それを見たことがある。
あの『月世界旅行』にしても、何度か見たことがある。

 ただ今回、『ヒューゴの不思議な発明』を見て、見方が180度、変わった。

 若いころ、その映画を見たときには、何というチャチな映画だろうと思った。
そう思った記憶が、映画の内容より、しっかりと残っている。
が、今は、ちがう。
当時の人たちは、100%、あの映画を見て、肝を抜かれたにちがいない。
驚き、笑ったにちがいない。
この私だって、小学3年生のころ、テレビなるものを見て、仰天した記憶がある。
テレビにはカーテンがつけられ、みな、正座してそれを見た。
祖父はこう言った。

「浩司、こちらから向こうが見えるということは、向こうからもこちらが見えるということだ」と。

 祖父は本気でそう信じていた。
だからカーテンをつけた。
正座した。
ついでに言えば、テレビの司会者などに向かって、本気であいさつをしていた。

いわんや、第一次大戦前のフランス。
当時の人の気持ちがよくわかる。
わかるだけに、「チャチ」という言葉は、吹き飛んでしまった。
『ヒューゴの不思議な発明』は、そういう点でも、すばらしい映画だった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ヒューゴの不思議な発明)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【ダイエット一考】(満腹中枢vs摂食中枢byはやし浩司)

●食欲vs性欲

 ダイエット、4日目。
かなり苦しい。
少し前、夕食を終えた。
が、量は、いつもの4分の1。
あとは、自宅でとれたハッサクで、腹をごまかす。

 食欲と性欲は、よく似ている。
見た目には大きく違うが、脳の中のメカニズムは同じ。
中枢部分は、ともに視床下部にある。
「同居」していると書いて怒る脳科学者はいない。
それくらい近い。
近いだけではない。
たがいに影響しあっている。

(たとえば女性のばあい、食欲を満たすと、性欲がわいてくるそうだ。
反対に男性のばあい、空腹感を覚えると、性欲がわいてくるそうだ。
男の性欲中枢は、摂食中枢の近くにあるという。
反対に女の性欲中枢は、満腹中枢の近くにあるという。※)

●空腹感

 その食欲。
昨夜もそうだった。
腹8分というが、腹4分で、止めた。
止めた直後は、苦しい。
「もっと食べたい」という欲望が、ググーッとわいてくる。
が、お茶を飲んでごまかす。
雑談を繰り返し、気持ちをそらす。

 やがて血中の血糖値が上昇する。
空腹感が和らぐ。

 まさに理性と欲望の死闘。
勝つか、敗れるか。
それでダイエットの成否は決まる。

●満腹感vs空腹感の消失

 今回も、おもしろいことに気がついた。

 2年ほど前のこと。
バスの中で、はげしい尿意を催した。
あるところから、あるところへ行く途中である。

 ふつうなら途中下車をして……ということになるが、バスの便数そのものが少ない。
1日、数本しかなかった。
そこで私は、客がほとんどいなかったこともあり、バスの中ですることにした。
(この話は以前にも書いたが……。)

 もっていたペットボトルのお茶を飲み干すと、それをもって、最後部の座席に移った。
私は最初、こう思った。
「こんな小さなペットボトルで、だいじょうぶかな?」と。

そのときのこと。
尿意を減らすだけなら、全量、放出する必要はない。
ほんの少しでよい。
膀胱に、仮に70〜80%の尿が残っていたとしても、尿意はそれで消える。

 目的を達すると、前部の席に戻った。
ワイフが心配そうに、「どうだった?」と聞いた。
「うまくいった」と、私は答えた。

 今回、ダイエットしながら、そのときのことを思い出した。
「全量、食べる必要はない。半分程度食べておけば、やがて空腹感は消える」と。

 要するに、満腹感を覚える必要はない。
空腹感を消せばよい。
そのためには、全量を食べる必要はない。

●権力欲

 わからないのが、権力欲。
どうして時の権力者たちは、ああまで権力に執着するのか。
理由がないわけではない。
ふつう権力者の世界は、常に、ALL or Nothing。
「すべてを手に入れるか、すべてを失うか」である。
そういう世界である。

 が、独裁者の世界は、やや異なる。
All or Die。
「すべてを手に入れるか、死」である。
独裁者は、独裁者になる過程で、多くの反対者をパージ(粛清)している。
それが明るみになれば、反対に「処刑」ということにもなりかねない。
またそういうケースは多い。

 では、民主主義国家の権力者たちは、どうなのか。
程度の差こそあれ、敗れたからといって、自分の地位や立場を明け渡す人は、少ない。
いろいろ立場をこじつけては、その地位を守ろうとする。
ダイエットにたとえるなら、満腹感というのは、ないらしい。
言い換えると、権力欲というのは、際限がないという点で、食欲とはちがう。

●理性

 そこで考える。
「権力欲には、理性の力は働くか」と。
答は、「NO!」。
皮肉なことに、権力の座を求めるような生命力の強い人ほど、一方で、貪欲。
強欲。
お金(マネー)と同じで、あればあるほど、さらにそれを求める。
言い換えると、こういうことになる。

 権力者と呼ばれる人には、「理性はない」。
逆説的な言い方をすれば、理性による歯止めがきかないからこそ、権力者になれる。
理性による歯止めがきくようなら、もとから権力者など、めざさない。

 話はぐんと現実的になるが、アメリカには、こんな常識があるそうだ。
何かの本で読んだことがある。

(1)肥満者は意思の弱い人と判断される。
(2)喫煙者は意思の弱い人と判断される、と。

 太っている人や、喫煙者の方は不愉快に思うかもしれない。
が、そういう面もないわけではない。
欲望に溺れるということは、理性によるコントロールが弱いということになる。
今の私が、そうだ。

●メタ認知能力

 そこでメタ認知能力の発動。
自分の脳の中で働く、空腹感のメカニズムを、自分で知る。

 (血糖値の低下)→(視床下部が認知)→……、と。

 わかりやすいのが性欲。
もっとも60歳を過ぎると、ガクンと性欲が減退する。
「沈没(チン没)」という言葉を使う人もいる。

(そう言えば、最近、タレントの加藤何某氏(69歳)が、女性と結婚したという。
女性は、20数歳だという。
その話を聞いて、まず心配したのが、「だいじょうぶだろうか」ということ。
そんな若い女性を、どうやって満足させるのだろう、と。
が、これはいらぬ心配。
それともひがみ?)

 性欲などは、一度満足させれば、ばあいによっては、数週間、遠ざかることができる。
が、食欲は、そうはいかない。
車のガソリンと同じ。
十分な量が供給されなければ、ガス欠状態になる。
今の私が、そう。
寒さが、何よりも、こたえる。

 ……こうして空腹感の中身を、自分を離れたところから分析する。
それがメタ認知能力。

●政治家

 食欲や性欲は、わかりやすい(?)。
コントロールできなければ、肥満体になる。
コントロールできなければ、家庭を崩壊する。
それこそまさに、「自業自得」。

 しかし権力欲は、そうでない。
1人の強欲者がいると、その何十倍、何百倍もの善良な人たちが犠牲になる。
政治の動きをながめていると、それがよくわかる。
反対にこう思うことも多い。

「あの政治家さえいなければ、もっと政治はよくなるのに」と。

 が、そういう政治家ほど、がんばる。
がんばって、めちゃめちゃなことを言ったり、したりする。

●泥沼の世界

 では、どうするか。

 私は学生時代、多くの政治家と接することができた。
日本から政治家がやってくると、まず領事から電話が入る。
「案内してやってくれませんか」と。

 よいアルバイトになった。
日本人の留学生は、あのメルボルン市(人口300万人、当時)でも、私1人だけだった。
中には、よど号ハイジャック事件で北朝鮮に渡った、YM運輸政務次官もいた。
そういったコネを使えば、私は、そのまま政治家の道に入ることもできた。
が、その入り口で、足を止めてしまった。

 際限のない世界。
わかりやすく言えば、泥沼。
金と権力、それにどす黒い欲望が渦巻く世界。
それが政治家の世界だった。
20歳そこそこの私にも、それがよくわかった。

 結論から先に言えば、権力欲には、ブレーキは働かない。
最後の最後まで、突っ走ってしまう。
そして結果的に、みな、NOTHINGの状態になって終わる。
たとえて言うなら、食べ過ぎて、最後は、体がパンクする。
そうなる。

●ダイエット

 夕食から1時間ほどが過ぎた。
先にも書いたように、いつもの4分の1程度。
空腹感さえ消えれば、それでよい。
あとは、それを繰り返す。

 で、そのダイエット。
1週間前後もつづけていると、胃袋そのものが、小さくなる。
ほんの少量で、そこそこの満腹感を得られるようになる。
そのあたりが、峠。
体重が減り始めるのも、そのころ。
それまでは、なかなか減らない。
が、減り始めると、1週間に1キロ前後ずつ減っていく。

 あとは適正体重。
その適正体重になると、身も、ついでに心も軽くなる。
頭もすっきりとしてくる。
その快感は、ダイエットに成功したものだけが知っている。
いわば(ごほうび)。
それを知っているから、ここはがんばるしかない。

 ……それにしても、どうして私は定期的にダイエットを繰り返すのか。
年中行事にもなっている。
その分だけ、意思が弱いということになるのか。
が、あえて弁解するなら、こういうこと。

 旅行とダイエットは、切っても切れない縁でつながっている。
旅行をすれば、旅館やホテルに泊まる。
そのつど、どうしても食べ過ぎてしまう。
太る。

ア〜ア。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……食欲と性欲)

食欲中枢と性欲中枢について書いた原稿が、
つぎのもの。
日付は、2009年7月27日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●満腹中枢と摂食中枢(男と女)(Man and Woman)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

脳幹に視床下部と呼ばれる部位がある。
その中に、「食欲中枢」と呼ばれる部分がある。
その食欲中枢は、満腹中枢と摂食中枢に分かれる。
満腹中枢というのは、「お腹(なか)がふくれた」という
ことを感じ取る部分。
摂食中枢というのは、「お腹がすいた」ということを
感じ取る部分。

ここまでは私も知っていたが、最近、こんなことを
知った。

女性の性欲本能、つまりSックス中枢は、このうちの
満腹中枢に隣接しているという。
一方、男性の性欲本能、つまりSックス中枢は、
摂食中枢に隣接しているという(「人体の不思議」日本文芸社)。

新しい考え方、ゲット!

(ネット禁止用語に抵触するため、「交尾行為」を、「Sックス」など
というように、表記します。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●男性と女性のちがい

 「人体の不思議」(上述)は、こう書いている。

『……一般に、女性は恋愛をすると食欲を感じなくなることがあるといわれますが、それは、こ
のSックス中枢が活発に働くため、満腹中枢までもが満たされているからとも考えられます。
 
 男性のSックス中枢は、女性とは異なり、空腹を感ずる摂食中枢に隣接しています。
生命の危険を感ずると、男はB起してしまうといわれることもありますが、これもSックス中枢の
位置に関係していそうです。

 つまり飢餓で死に直面すると、なんとしてでも種族を保存しなくては、という感情が起こるよう
に脳がつくられているのです』と。

 しかも、だ。
第一性欲中枢(異性を求める性欲中枢)について言えば、男性のそれは、女性のそれの約2
倍もの大きさがあるという。
つまりその分だけ、男性のほうが、Sックスに関して、女性より攻撃的ということになる。

 なるほど!

 で、これで今まで私が感じていた謎のいくつかが、解けた。
男性と女性の、(性)がもつ、基本的な(ちがい)といってもよい。
その理由が、わかった。

●男と女

 所詮、人間も動物。
同じというか、どこもちがわない。
動物時代からの本能(脳幹)を、しっかりと保持している。
が、こうした本能、つまり脳自体が構造的にもつ能力のままに行動したら、「人体の不思議」の
中にもあるように、人間社会は、メチャメチャになってしまう。

 そこでこうした本能をコントロールするのが、大脳連合野ということになる。
(私はこの仮説を、すでに10年以上も前から、考えていたぞ!)
人間のばあい、大脳連合野の発達がとくに進んでいる。
その大脳連合野が、中心部からわき起きてくる(性欲)を、コントロールする。
それが「知性」ということになる。

 それにもし男性のみならず、女性までもが、性欲について攻撃的になったら、それこそたい
へんなこと(?)になってしまう。
人間もいたるところで、交尾を始めるようになるかもしれない。
(反対に女性のように、男性までもが、受動的になってしまっても、困るが……。)
要するに、長い間の進化の過程を経て、人間も、「実にうまく」できているということになる。

●満腹中枢vs摂食中枢

 満腹感を感ずる満腹中枢。
空腹感を感ずる摂食中枢。
何かのタンクの警報機にたとえるなら、満タン警報機と、カラ警報機ということになる。
それを脳の中心部にある視床下部という部位が、担当している。
私自身も、実は、こうした機能について、「本で読んで知った」というだけの立場でしかない。
が、それにしてもおもしろい。

 が、疑問がないわけではない。

 女性のSックス中枢は、満腹中枢の隣にある。
男性のSックス中枢は、摂食中枢の隣にある。
それはわかるが、これらの両社はそれぞれ、どのように関連しあっているのか?
単純に考えれば、女性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に満腹中枢も刺激さ
れ、満腹感が生まれるということになる。

 他方、男性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に摂食中枢も刺激され、空腹感
が生まれるということになる。

 ……あるいは、その反対なのか?

 そこで自分自身のことを振り返ってみる。
(私も「男」だぞ!)

 腹が減ったときと、満腹のときと、どちらのときのほうが、性欲をより強く感ずるか?
……というより、経験的に、Sックスしたあとなど、よく空腹感を覚えることがある。
(あるいまはげしい睡魔に襲われることも多い。)
「終わったから、食事に行こうか」というような会話を、ワイフとした記憶がある。
……あるいは、その逆かもしれない。

 ともかくもどのように影響しあっているのか、それがよくわからない。
あるいは、影響しあうといっても、そのレベルの話ではないのかもしれない。
たとえばここでいう「空腹感」というのは、「危機状態」をさすのかもしれない。
それも極限的な危機状態。
その本にも書いてあったが、生命の危機を覚えたりすると、B起することもあるそうだ。
「最後に種族を残そう」という本能が働くためらしい。

 どうであるにせよ、たいへん興味深い。
「私は私」と思って、みな、考え、行動している。
が、実際のところ、脳に操られているだけ。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 満腹中枢 摂食中枢 視床下部 はやし浩司 食欲中枢 食欲と
性欲 視床下部 脳下垂体 空腹のメカニズム はやし浩司 空腹 食欲中枢と性欲 満腹中
枢と性欲 男と女のちがい)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
【幼稚園・年中児に、確率と分数を教えてみる】(浜松BW幼児実験教室)

●小学1年、2年生に使った教材を、今日は、年中児を対象に、使ってみた。
先週、年長児で、うまく指導できたので、自信はあった。

が、教えてみてびっくり。
予想していたより、はるかに楽に、子どもたちは理解してくれた。
「幼児に分数?」「幼児に確率?」と、疑問に思う人もいるかもしれない。
そういう疑問をもつ人ほど、ぜひ、見てほしい。

 幼児でも、じゅうぶん、その概念を理解することができる。
改めて幼児のもつ能力の底深さに、驚く。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/iFJSn24Xops" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 年中児 確率 分数 幼児教室)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【スーパータスカー(Super Tasker)】(マルチタスク人間)

●同時に複数の仕事を、問題なくこなせる人間

●スーパーマルチ人間

 一見まともだが、よくよく考えてみると、おかしい。
どう考えても、おかしい。
そんなニュースが、今日(2012年3月初旬)、あちこちのニュースサイトに載った。
称して「スーパータスカー(Super Tasker)」。
つまり複数の仕事を同時にこなせる、「スーパーマルチ人間」。
しかも「人間の40人に1人が、スーパーマルチ人間」とか?

●映画の世界

 映画の世界でも、超能力(スーパーパワー)がブームになっている。
スーパーマンからはじまり、スパイダーマン、スターウォーズなどなど。
ハリーポッターやドラキュラ、バンパイアも、その仲間に入る。
神や悪魔をテーマにしたものも、多い。
超能力者そのものを扱った映画も、多い。
が、それはあくまでも映画の世界の話。
現実には、ありえない。

 ありえないが、このところその境目、つまり現実と空想の境目が、ぼんやりしてきた。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが、現れた。
何かしら、ふつうの人間とはちがう、特殊能力をもった人間ということらしい。
おおかたの人は、その記事を読んで、そう思った。
私も、そう思った。

●遺伝子?

 30年も前なら、「バカな」と言って吐き捨てたかもしれない。
が、最近は、そうでない。
「ひょっとしたら、ありえるかもしれない」と。
そういうふうに考える人が多くなった。
超能力を売り物にした、カルト教団となると、今では無数にある。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが現れた。

 遺伝子がちがうのか?
そう考えた人もいるかもしれない。
が、そう考えるのは、待った!

●論理の穴

 結論を先に言えば、論理の欠落。
この論文には、論理の欠落、つまり「穴」がある。
それについては、これからゆっくりと書くことにする。
私はこの種の論文を読むたびに、アメリカ人の脳みそを疑う。
ユタ大学に籍を置く研究者の論文ということだから、一応の敬意を払う。
慎重に読む。

しかしどう考えても、おかしいものは、おかしい。
……ということで、この原稿を書き始めた。
まず、その原本を紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ITPROサイトより

 ITPROサイト(アメリカIBM)に、こんな興味深い記事が載っていた。

++++++++++++以下、ITPRO サイトより++++++++++++++

'Supertaskers' can safely use mobiles while driving 
「スーパータスク人間」と呼ばれる人は、運転中でも、携帯電話を使うことができる。

A small minority of individuals show no loss of reaction time or mental skills when combining 
mobile phone use and motorway driving.
小数の人は、道路を運転中でも、携帯電話を、反応時間や精神的なスキルの損失なしで使う
ことがわかった。

By Martin James, 30 Mar 2010 at 12:01(2010年3月20日付け)

A University of Utah study into the effects of mobile phone use on people's driving skills has 
come to the expected conclusion that using a phone while driving can be highly dangerous.
ユタ大学の研究によれば、運転中に携帯電話を使用することは、きわめて危険であるという結
論になった。

Or at least that's the case for most of us. The study also made the entirely unexpected 
discovery that for one in 40 of us, there were no signs of impairment whatsoever.
ほとんどの人にとってはそうかもしれないが、その一方で、40人に1人は、そういう影響を受け
ない人がいることがわかった。
これは予期しない結果でもあった。

University psychologists Jason Watson and David Strayer tested 200 subjects in two 
motorway driving simulation tests, one of which also involved having a hands-free mobile 
phone conversation that required them to memorise words and solve maths equations.
大学の心理学者ジェイソン?ワトソンとデビッド?ストレイヤーは、200人について、道路での運
転シミュレーションテストを行った。
一方で、ハンズフリーの携帯電話で話してもらい、同時に、単語を覚えさせたり、数学の方程
式を解かせたりした。

For the vast majority of the test subjects, the researchers recorded an average 20 per 
cent increase in braking response time, a 30 per cent increase in following distance, an 11 
per cent drop in memory performance and a three per cent drop in the ability to do maths 
problems.
ほとんどの人のばあい、ブレーキ反応は、20%遅くなり、つぎの(加速反応も)30%遅くなっ
た。
また記憶力は11%、数学の問題を解く力は、3%落ちた。

However, the five 'supertaskers' not only showed no appreciable difference in following 
distance, braking time and maths ability, but remarkably they actually displayed a three per 
cent improvement to memory performance. 
しかし「スーパータスカー」と呼ばれる人たちは、ブレーキ時も加速時においても、これといった
違いを見せなかった。
数学の力も落ちなかった。
そればかりか、記憶力においては、3%の向上が見られた。

"According to cognitive theory, these individuals ought not to exist," Watson says in a 
statement. "Yet, clearly they do, so we use the 'supertasker' term as a convenient way to 
describe their exceptional multitasking ability."
「認知理論」によれば、こうしたスーパータスカーと呼ばれる人は存在しないことになっている。
それについてワトソン氏は、「が、彼らはできる。こうしたマルチタスク能力をもっている人を、ス
ーパータスカーと呼ぶことができる」と。

However, with the study likely to be taken as justification for self-proclaimed 'supertaskers' 
to continue to take risks by using their mobiles while driving, Watson had a word of caution. 
が、こうなると自称「スーパータスカー」という人を、正当化することになるかもしれない。
つまり運転中に、携帯電話を使っても、危険はない、と。
ワトソン氏は、それについては、つぎのように、警告している。

"Given the number of individuals who routinely talk on the phone while driving, one would 
have hoped that there would be a greater percentage of supertaskers," he commented.
その数字を明らかにすると、より多くのスーパータスカーが生まれることになると、彼はコメント
している。

The findings will be published later this year in the Psychonomic Bulletin and Review.
調査結果は、レビューで今年後半に公開されることになっている。

(以上、マーティン?ジェームズ、12:01 2010年3月30日記)

++++++++++++以上、ITPRO サイトより++++++++++++++

●スーパータスカー(マルチタスク人間)

 要約すれば、約40人に1人は、たとえば車の運転中でも、問題なく、同時に複数の仕事がで
きるということらしい。
(だからといって、そういう人間を認めることはできない。
運転中に携帯電話をかける行為を、正当化する根拠になってしまう、と。)

●マルチタスクvsシングルタスク

 今まで、私は「マルチ人間」というときは、複数の才能を同時にもっている人のことをいうと理
解していた。
レオナルド・ダ・ビンチを例にあげるまでもない。
たとえば、画家でありながら、同時に音楽家であるとか、そういう人間をいう。

 その一方で、ひとつの分野にしか、才能を示さない人がいる。
(ふつうは、みな、そうだが……。)
そういう人を「シングルタスク人間」と呼んでよいかどうかということについては、わからない。

 どんな人も、加齢ともに、思考回路を完成し、脳の働きを自動化していく。
画家は画家として、その道を完成させようとする。
音楽家は音楽家として、その道を完成させようとする。
完成度が高まれば高まるほど、『二兎を追う者は……』となる。
……というか、時間の限界を感ずるようになる。

 残された時間をどう使うか……ということを考えていくと、どうしても的(まと)を、ひとつにしぼ
らざるを得なくなる。
「あれも、これも……」というわけにはいかない。

 シングルタスク、イコール、「悪い」ということでもない。
が、ここでいう、「スーパータスク人間(スーパータスカー)」と呼ばれる人は、私が考えていた
「マルチタスク人間」とは、別の人であるようだ。
複数の分野ですぐれた才能を示す人ということではない。
つまり脳みその中で、複数の仕事をこなせる人という意味らしい。

●コンピューター

 コンピューターの世界では、マルチタスクは、今や常識。
ワープロを操作しながら、同時に、動画を動画サイトへUPすることができる。
あるいはファイルのコピーをすることもできる。

 初期(1980年代)のころのパソコンには、それができなかった。
ひとつの作業が終わってから、(つまりそれが終わるまで待ってから)、つぎの作業に移行し
た。

 ここでいう「スーパータスク人間」という考え方は、たぶんにコンピューターの概念に影響され
たものと思われる。
コンピューターは複数の作業を同時にこなすことができる……だから人間にも、そういう人がい
るのではないか、と。

 で、この実験が始まった……らしい。
が、この実験には、素人の私が考えても、おかしな点(=疑問点)はいくつかある。

●熟練者vs初心者

 たとえば「運転」といっても、熟練者と初心者がいる。
熟練者は、ほとんど何も考えず、運転できるだろう。
手や足が、状況に応じて、勝手に動く。

 が、初心者にとっては、そうではない。
状況に応じて、そのつど考えなければならない。
そうしたちがい、つまり熟練者と初心者を一緒くたにし、統計として調査結果を出したことに、そ
もそもの大きなミスがある。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

●慣れ

 たとえば私は今、こうしてものを考えながら、キーボードを叩いている。
慣れた人には、何でもない行為である。
考えたことが、そのまま文字となり、モニター上にそれが現れる。
さらに言えば、私などは、キーボード操作に、かなり慣れているから、こうしてキーボードをたた
きながらも、午後からの仕事に段取りを、同時に考えることができる。

 が、初心者にとっては、そうではない。
どこにどのキーがあるか、それをさがすだけでも、たいへん。
考えるヒマがないというよりは、考えそのものをまとめることができない。」

 さらに言えば、同じ運動でも、道路を歩くのと、ルームウォーカーの上を歩くのとではちがう。
道路を歩くときは、あちこちに注意を払わなければならない。
一方、ルームウォーカーの上を歩くときは、ほとんど何も考えない、イコール、数学の問題を解
きながらでも歩くことができる。
 
 自動車の運転も、それと同じに考えてもよい。
つまり「慣れ」。
心理学の世界では、「思考回路ができることによる自動化」という。

ほとんど何も考えないで運転できる人なら、運転をしながら、数学の問題を解くことができるは
ず。
反対に、そうでない人は、そうでない。
そうした「慣れ」も計算に入れ、スーパータスク人間かどうかを判断しなければならない。
少なくとも、自動車の運転というかぎられた範囲だけで、その人がスーパータスク人間かどうか
を、判断していけない。

 では、どんなとき、スーパータスク型人間と判断してよいか。

●スーパータスク型人間

 話は少し脱線するが、私が「スーパータスク」なるものを自覚するのは、通訳のときである。
日本語と英語を同時に考える。
しかしこれはけっして、楽な作業ではない。
脳の中でも、日本語を司る分野と、英語を司る分野はちがう。
日本語は、左脳、英語は右脳と言われている。
つまり通訳のときは、その両方を、同時に働かさねばならない。

そこで英語を話しているとき、いきなり日本語を聞いたり、あるいはその逆のことがあると、脳
がそのあと、ふつうでない疲労感を覚えることがある。
最近では、英文を日本語に翻訳していると、若いときには感じなかった疲労感を覚える。
だから洋画でも、字幕を見て楽しむときは、字幕だけを見て楽しむ。
英語を聞いて楽しむときは、逆に、字幕を見ないで、楽しむ。
それをしないと、ここにも書いたように、そのあと、ガクンと疲れる。

 で、右脳と左脳は、太い電線のようなものでつながっている。
「脳梁」と呼ばれる部分である。
この脳梁を通し、右脳と左脳は、たがいに情報を交換することができる。
が、加齢とともに、この脳梁の働きが悪く(?)なる。
さらにたいへんなのが、同時通訳。
訳文を考えていたのでは、同時通訳などできない。
ほぼ無我の状態で、勘で通訳する。

 このばあい、その脳梁の働きのよい人を、「スーパータスク人間」という(?)。
少なくとも、日本語と英語を同時に処理できる。
あるいは左脳が司る論理や分析をしながら、右脳が司る抽象的概念や図形を同時に処理で
きる。

運動分野にしても、そうだ。
自動車の運転という運動をしながら、別の脳を独立させることができる。
論文の内容は、どうやらそういうことらしい。

●Cマーク

 少し頭が混乱してきた。
この原稿を読んでいるみなさんも、そうだろう。

 で、結論。

 天下のユタ大学の研究者の研究にケチをつけて悪いが、私なら、この論文に、「C」マークを
つける。
200人の人について調べたということだが、この実験だけでは、必要十分条件の「十分」の部
分を満たしていない。

 この実験結果が正しいということを証明するためには、つぎの2つのことを証明しなければな
らない。

(1)この実験で、スーパータスク人間と証明された人は、ほかのさまざまな分野でも、それがで
きることを証明しなければならない。
たとえば読書をしながら、電話で客との応対ができる。
料理をしながら、数学の問題が解ける、とかなど。

(2)被験者200人の選び方にも問題がある。
どういう基準で選んだのか。

 先にも書いたように、熟練者と初心者の区別、(こうした研究調査では、きわめて基礎的な部
分だが……)、その区別をしていない。
また分野を、「運転」にかぎっているのも、問題である。

 近くのラーメン屋の親父さんは、客と雑談を交わしながらでも、うまいラーメンと作ることがで
きる。
考えようによっては、ラーメン屋の親父は、「スーパータスク人間」ということになる。
が、それも「慣れ」、つまり心理学でいうところの「自動化」と考えれば、何でもない。
あるひとつの行動の自動化ができれば、その行動は、それほど意識しなくても、できるようにな
る。
 
 そこで2番目に、この実験で、「スーパータスク人間ではない」と判断された、残り160人につ
いて、ほかの分野でも、シングルタスク人間である(イコール、スーパータスク人間ではない)と
いう証明をしなければならない。

 以上、2つの条件を満たして、はじめて、必要十分条件ということになる。
たまたま運転中の作業だけを調べ、マルチタスク人間がいると結論づけるのは、きわめて非
論理。
非論理というより、危険。
こんなインチキな論文が、世界中のネットに流れること自体、バカげている。

●プリウス事件

 ……ということで、どう考えても、この論文は、おかしい。

 私は、TOYOTAのプリウス事件(急加速問題)以来、私はアメリカ人の研究者の脳みそを疑
ってみるようになった。
そこらの高校生でもしないような、ミスを、平気でする。
インチキまではしないが、(見落とし)が多い。

 運転中に、単語を暗記できたり、数学の問題ができるからといって、「スーパータスク人間」と
いうのは、論理的に無理(アナ)がある。

●認知理論

 ここで「認知理論」という言葉が出てきた。
心理学では、よく使われる言葉である。
それについては、たくさんの原稿を書いてきた。
しかし「認知理論によれば……」(論文)というところが、よく理解できない。
「そんな理論、あったかなア〜?」と。

私が書いた原稿を探してみる。
あくまでも参考に……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結婚はしてみたけれど……(認知的不協和)

++++++++++++++++

結婚はしてみたけれど、こんなハズではなかった……という
夫婦は多い。
心理学でいえば、「認知的不協和」ということになる。

++++++++++++++++

●認知的不協和

 「個人のもつ認知に矛盾やアンバランスが生じたことを、
アメリカの心理学者のフェスティンガーは、認知的不協和と
名づけた」(大村政男著「心理学」ナツメ社、P172)とある。

日常的によく経験する。

 先日もあるところへ旅行した。
その旅行先で、昼食にとある食堂へ入った。
しかし立派だったのは、店構えだけ。
値段ばかり高く、まずかった。

 で、その食堂を出て、しばらく歩くと、そこに
行列のできた食堂が何軒かあった。
レジの前には、順番待ちの客が、ズラリと並んでいた。
それを見て、「こういうところで食べればよかった」と、
少なからず、後悔した。
言うなれば、これも認知的不協和?

●結婚相手

 しかしこれが結婚相手となると、ことは深刻。
子どもができれば、なおさらである。
そういうとき、人間は、認知的不協和から
「脱出」するため、4つのパターンから、
その一つを選ぶ(参考:同書)。

(1)この人しか私にはいないと、自分を納得させ、ほかの人と比較しない。
(2)離婚はしたくないので、がまんする。
(3)相手を育てるのは私と考え、ともに前向きに努力する。
(4)相手のよいところをさがし、それだけを評価するようにする。

 この4つのパターンは、「心理学」を参考に、私が適当に考えたものである。
が、結婚生活というのは、実際には、もう少し複雑。
そのつど、この4つのパターンが、交互に、あるいは同時に、夫婦を襲う。
ときに自分を納得させ、ときにがまんし、また別のときには、あきらめる……。
この連続。

 が、まずいのは、何と言ってもストレス。
認知的不協和も、ある一定の限度内なら、生活のスパイスとなる。
が、その限度を超えると、とたんにストレスとなって、その人を襲う。
おおまかにいえば、つぎのサイクルを踏む。

(平穏期)→(緊張期)→(爆発)→(沈静期)→(平穏期)……と。

 しかしこれもどちらかというと、仲がよい夫婦のばあい。
ずっと(平穏期)のままという夫婦も、(緊張期)のままという夫婦もいるにはいるが、
そういう夫婦のほうが、あ・ぶ・な・い。
ただ周期の長さには、個人差がある。
2〜3か月ごとに(爆発)を迎え、大喧嘩する夫婦もいる。
1〜2年ごとに(爆発)を迎えるという夫婦もいる。
あるいは小刻みなサイクルを繰り返しながら、大きなサイクルを繰り返すという
夫婦もいる。
若い夫婦ほど、サイクルが短いということになるが、それにも個人差がある。

●夫婦喧嘩

 要するに夫婦喧嘩(=爆発)も、しかたの問題ということ。
だから昔から、こう言う。
『夫婦喧嘩は、犬も食わぬ』と。
つまり何でも食べる犬でも、夫婦喧嘩は食べない、と。
「仲のよい夫婦ほど夫婦喧嘩をし、一時的ですぐ和合するから、仲裁に入るのは
愚かである」(広辞苑)という意味。

 大切なことは、こう考えること。
どんな夫婦にも、認知的不協和はつきもの。
あとは、どううまくつきあっていくかということ。
それが夫婦ということになる。

(付記)

 最近、気がついたが、結果として離婚していく夫婦には、ある共通のパターンがある。
同時にそれぞれが、離婚に向かうというケースは、少ない。
そのとき、先に離婚を覚悟するほうを、離婚側とする。
どちらかというと不本意ながら、離婚をさせられるほうを、被離婚側とする。

 ふつうは被離婚側が気がつかないうちに、離婚側が、離婚を覚悟を決めてしまう。
そしてある程度……というか、その覚悟がしっかりできた段階で、離婚側が、
被離婚側に、離婚話を持ち出す。
「離婚する」「離婚させてください」と。

 定年離婚と呼ばれる離婚には、こうしたケースが多い。

で、そのときのこと。
離婚側のほうには、微妙な変化が現れる。
相手が夫であれ、妻であれ、(妻であることのほうが多いが……)、

(1)電話などでの応対が、ぞんざいになる。
(2)きめのこまかい交際をしなくなる。(何かものを送っても、礼のあいさつがない。)
(3)小さな悪口を、それとなく会話にまぜる。
(4)軽蔑したような表現が多くなる。
(5)会話の内容が事務的になり、しっくりとかみ合わなくなる。

 で、しばらくそういう状態がつづき、部外者が「?」と思っていると、そのまま
離婚……ということになる。
たとえば数年前、私はある知人に電話をした。
その知人は、その町の中心部で事務所を開いたのだが、それがすぐ行き詰ってしまった。
そのことを知っていたので、その知人の妻に電話をしたとき、「ご主人も、たいへんですね」
と私は言った。
それに対して知人の妻は、「……あの人は、何をしても、ドジばっかり……」と。
小さい声だったが、どこか吐き捨てるような言い方だった。

で、あとで知ったのだが、そのすぐあと、知人夫婦は離婚していた。

●結婚論

 一般論からいうと、(あるいは私の経験論ということになるが)、年齢が若いときに、
ラブラブの状態で結婚した人ほど、皮肉なことに、認知的不協和は起こりにくい。
一方、晩婚型で、計算高く結婚した人ほど、認知的不協和は起こりやすい。
年齢が高い分だけ、それだけ相手をよく見ているかというと、そうでもない。
あるいは、いくら知ったつもりでいても、人間を知りつくすのは、それほどまでに
むずかしいということ。

このことは、結婚歴40年近い、私にとっても、そうである。
いまだにワイフについて、わからないところがある。
(ワイフにしても、そうだろう。)

 だからやはり結婚というのは、電撃に打たれるような衝撃を感じて、何も考えず、
ラブラブのまま、結婚するのがよいということになる。
盲目的な結婚が悪いというのではない。
どうせ、みな、盲目なのだから……。

♪Wise men say, only fools rash in. But I can't help falling love with you…

(愚かモノだけが、結婚に突進すると賢者は言う。しかし私はあなたに恋をするのを
止めることができない……。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパータスク型人間 認知理
論 認知的不協和)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考までに、2002年に書いた原稿より)

●右脳教育

++++++++++++++++++++++

右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

++++++++++++++++++++++++

 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。

++++++++++++++++++++++++++

●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考
えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++++++

【親が右脳教育を信奉するとき】

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像
化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現
場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小
節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ
ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右
脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる
研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで
目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの
非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列
車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種
からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけ
で、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世
界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。
たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは
一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみ
る。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳
君殺害事件」を起こした少年である。
彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されている。
直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしまうこと
ができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、
この子を生んで」文藝春秋)。
そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になったとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技
術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの
は、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。
まさにそれだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感
性、理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそ
うした背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではな
い。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい
る。
印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当て
た子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。
ある程度の計算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理
解できなかった。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。
1000円程度のものを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなか
った。
母親は、S君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばった
が、しかしそれはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。
「教育することによって、伸ばすことができること」を、才能という。
が、それだけでは足りない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければなら
ない。
またそれができるから、教育という。
つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。
多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわることで、さらに自分の才能を伸ばすことができ
る。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわ
り」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたな
い「こだわり」ということになる。
が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能となって、世界的に評価されるよ
うになった人もいる。
あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そうい
う「こだわり」をもった子どもだったかもしれない。
そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11−27)※

(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 
子供 才能とこだわり 思考のバランス)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【アメリカ人の脳みそ】(TOYOTAのプリウス急加速問題)

アメリカ人の脳みそを疑うようになったのは、
(それ以前からも、疑っていたが……)、
あのプリウスの急発進問題が起きてから。
大学とは名ばかり。
もちろん優秀な教授や学生が集まる大学も多いが、
そうでない大学も、少なくない。

南イリノイ大学もそのひとつ。
その大学に、デービッド・ギルバート教授という教授がいる。
彼は、プリウスの急加速を、実験で証明できたと主張した。
が、その方法が、稚拙。
幼稚。
バカげている。

 『ギルバート教授は、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に、5ボルトを加えてショートさせた状
態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することなく、急加速現
象がみられた』とした。
それに対して、トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤ
ーの絶縁状態を破壊する必要があった、としている。

 つまりギルバート教授は、わざと電線をショートさせ、急加速現象を起こしてみせた。
そしてそれでもって、「トヨタのプリウスは、欠陥車」と結論づけた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以下、当時、私がBLOGに書いた原稿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アメリカ人の論理力(TOYOTAのプリウス問題)

●アメリカ人の友人たちへ(To my friends in USA as to TOYOTA recall problem)
You have almost lost the last friend in Asia!

++++++++++++++++++++++

今度のTOYOTA問題を通して、君たちは、
アジアにおける最後の友人を失いつつある。
それを私たちは、とても残念なことに思う。

You have almost lost the last friend that had remained to be so in Asia through the 
TOYOTA problems, about which we feel very sorry.

より多くの日本人が、反米的になりつつある。
新米的であった私でさえ、アメリカに、大きく失望した。
そして今では、こう言うようになってしまった。
「アメリカなど、クソ食らえ!」と。

More and more Japanese are becoming anti-American and even I, whom I supposed myself 
to be a pro-American, do not hesitate to say, "Down with USA".

再現性のない、インチキ実験?
報道映像の捏造?
さらには保険金目当ての、にせ事故?、などなど。
日本では、急加速は、一例も報告されていない。
それもそのはず。
この日本で、両足を、ブレーキとアクセルの両方にのせて運転する人はいない。
「事故の95%は、運転手によるもの。
車によるものは2%にすぎない」(アメリカ国家ハイウェイ安全局(NHTSA)会長)。

リコール後も、600万台のプリウスについて、60件の苦情があったとか。
(600万台につき、60件だぞ!
0・001%!
GM車やフォード車については、どうなのか?)

それについて、「NHTSAは、さらなる改善策をTOYOTAに命じた」とか。
アメリカよ、少しは、冷静になれ。
これを「日本叩き」と言わずして、何という?

A very doubtful experiment, which was proved to be a fake,
A fabricated report on TV,
False accidents reported in the Congress...,
and more over it is strange that none of these sorts of accidents are reported in Japan.
No stupid men put both feet on each a brake pedal and accelerator pedal at the same time 
in Japan.
Be calm!
NHTSA has ordered Toyota to provide a different solution, since 60 complains are reported 
among 6 million TOYOTA cars. 
Isn't this "Japan Bashing"?

+++++++++++++++++++++

●TOYOTA問題

 今回の一連のTOYOTA騒ぎは、何のか。
よくわからないが、ことの発端は、1教授のインチキ実験。
南イリノイ大学の、ギルバート教授。
彼はコードの絶縁体を意図的にはがし、それでもって、急加速を再現してみせた。

「(絶縁体がはがれるなどいうことは)、通常の状態では起こらない」というのが、一般的な常
識。
そこで今度は、同教授は、5ボルトの電圧をかけ、「同じようなことが起こる」と実験してみせ
た。

 しかし急加速問題は、何もTOYOTAで始まったわけではない。
同じような実験をすれば、ほかのメーカーの車でも、同じような反応を起こすことがわかった。
また似たような急加速は、TOYOTA車以外でも、アメリカでは、繰り返し、起きているという。
つまりこれは、TOYOTA車の問題というよりは、アメリカ人の車の乗り方に問題があると考え
たほうが、正しい。

 当初、「アクセルとブレーキを同時に踏むと……」という報道が流れたとき、私には、その意
味がよくわからなかった。
「アクセルとブレーキを同時に踏むとは、どういうことなのか」と。
そのまま解釈すれば、アメリカ人というのは、両足を、アクセルとブレーキの両方に、足を載せ
て運転しているということになる。
しかし日本人は、そういう乗り方をしない。
そのためにアクセルもブレーキも右側(アメリカでは左側)に、寄せて並べてある。
 
●疑問

 つぎつぎと新事実が、明るみになってきている。
が、今は私もまだよくわからないでいる。
報道された記事だけを集めておく。
後日、もう少し事実が明らかになった段階で、このつづきを書いてみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)疑問だらけのデービッド・ギルバート教授の実験

トヨタ自動車は1日付の米議会あて書簡で、南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授が先
週の公聴会で示した見解に反論した。

同教授は、2月23日の下院エネルギー・商業委員会の公聴会で、自ら行った実験でトヨタ車に
発生したとされる急加速の状況を再現できたと証言、トヨタの電子系統に問題があるとの見解
を示していた。 

ASSOCIATED PRESS 

 南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授(2月23日の公聴会で) は、プリウスの急加速
を、実験で証明できたと主張した。

 この証言に対し、トヨタは書簡で、独自の調査と同社が調査を委託した技術コンサルティング
会社エクスポネント(米カリフォルニア州)の調査結果に基づいて反論を展開した。
トヨタはトヨタ側の実験でもギルバート教授と同じ結果が得られたが、他のメーカーの車でも同
じ状況が生じたと主張し、同教授の証言は誤解を招くと批判した。 

 エクスポネントは43ページに及ぶ報告書で、ギルバート教授の実験を他のメーカーの5車種
で行ったところ、すべて同じ状況が発生したことを明らかにし、実験のような状況は「きわめて
可能性の低い欠陥が重なった場合にしか生じない」と結論づけた。 

 ギルバート教授は23日の証言で、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に5ボルトを加えてショ
ートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することな
く、急加速現象がみられた、とした。
トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤーの絶縁状態
を破壊する必要があった、としている。 

 ギルバート教授から、トヨタとエクスポネントの実験結果に対するコメントは得られなかった。 

 トヨタの広報担当マイク・マイケルズ氏は、ギルバード教授の調査を「誤解を招く不適切なも
の」とし、「システムをいじりまわしている」と批判した(以上「ウォール・ストリート・ジャーナル日
本語版より)。 

★以上の原文

Toyota Motor Corp. rebutted the findings of a study presented at a congressional hearing 
last week that claimed to replicate undetected sudden acceleration in its vehicles and called 
into question the company's electronics. 

TOYOTAは、反証をあげた。

Based on its own study and one undertaken by the Menlo Park, Calif., engineering research 
firm Exponent, which has been hired by Toyota, the car maker said it was able to duplicate 
the result in Toyota vehicles found by David W. Gilbert, a professor at Southern Illinois 
University-Carbondale who testified at a House hearing. But Toyota said it also created the 
same response in vehicles made by competitors, which it said rendered Mr. Gilbert's findings 
misleading. 

ギルバート教授がしたようなことをすれば、ほかのメーカーの車でも、同じようなことが起きるこ
とがわかった。

"We have reproduced the engine revving and engine speed increase in Toyota's vehicles," 
Toyota said in a statement dated March 1 and sent to congressional committees. "At the 
same time, we have also confirmed that a substantially similar kind of engine speed increase 
phenomenon occurs with the other manufacturers' vehicles." 
Toyota said the tests Mr. Gilbert performed would not happen "in the actual market." To 
achieve Mr. Gilbert's results, Toyota said it had to cut and breach the insulation on two 
wires. 

TOYOTAは、このような急加速は、TOYOTA車だけにかぎったことではなく、ギルバートの行
ったようなテスト(=2本の線の絶縁体をはがし、接触させるようなこと)は、通常の状態では起
きないと言った。

Mr. Gilbert said he will provide an official response but declined to comment on the findings 
by Exponent and Toyota. He said he may travel to California to meet with the research 
concern. 

In the last week, Toyota has endured three bruising congressional hearings questioning its 
belated response to reports of sudden acceleration in its vehicles. While Toyota executives 
acknowledged the company failed to quickly respond to safety issues in the past, the 
company has maintained that faults in its electronics are not behind incidents of unwanted 
acceleration. 

TOYOTAは、安全問題に迅速に答えなかったことは認めるものの、電子部品には欠陥はない
と主張した。

Consumer safety advocates continue to challenge Toyota on that point, charging that the 
rise in acceleration reports-which have been linked to 52 deaths-is correlated to the 
installation of an electronic throttle control system in Toyota and Lexus models beginning in 
2002. 

消費者安全協会は、52人の死亡について、TOYOTA車との関連を追究する。

Mr. Gilbert, who testified before the House Commerce and Energy Committee Feb. 23, said 
he was able to replicate sudden acceleration without creating an error code in the vehicle's 
onboard computer by introducing five volts into the gas-pedal circuitry of a Toyota Avalon. 
In his report, Mr. Gilbert said his findings "question the integrity and consistency" of Toyota'
s computers to detect malfunctions.

5ボルトの電圧をかけたら、急加速現象が起きた。

In a 43-page report, Exponent, the research firm hired by Toyota to investigate its vehicles 
electronics, applied Mr. Gilbert's test to five models including a Honda Accord and a BMW 
325i and found all five reacted similarly. Toyota added that it tested three competitor 
vehicles and found they experienced the same engine revving and speed increase when 
their electronics were similarly altered. 

同じような急加速現象は、ほかのメーカーの車でも報告されている。

"For such an event to happen in the real world requires a sequence of faults that is 
extraordinarily unlikely," Exponent said in its report. 

Toyota spokesman Mike Michels described Mr. Gilbert's research as "misleading and 
irrelevant." Mr. Gilbert was "gaming the system," Mr. Michels said. 

ギルバートの報告は、誤解を招くもの。
また車をもてあそんでいるだけ。

Separately, the National Highway Traffic Safety Administration said Thursday it has 
received more than 60 complaints from Toyota owners who report they are still 
experiencing sudden unintended acceleration despite having their vehicle repaired by a 
Toyota dealer under the car maker's recalls. 

TOYOTA のリコール後も、60件の苦情が、国家ハイウェイ安全局(NHTSA)に届いてい
る。

"Officials are contacting each and every consumer to learn more about what they say is 
happening," the agency said. 

現在、調査中。

If it appears that the remedy provided by Toyota isn't addressing the problem, NHTSA said 
it has the authority to order Toyota to provide a different solution. 
"We are determined to get to the bottom of this," said David Strickland, administrator of 
the auto-safety agency. 

国家ハイウェイ安全局(NHTSA)は、TOYOTAに、ほかの解決策を用意するよう、命じている
(以上、ウォールス・トリート・ジャーナルより)。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ニューヨーク時事・3月16日】

トヨタ自動車は15日、米カリフォルニア州サンディエゴ近郊の高速道路で急加速を引き起こし
たとされるハイブリッド車「プリウス」について、技術者らが関連部品の徹底的な検査のほか、
走行テストなど多岐にわたる検証を行ったものの、車両に急加速を引き起こすような異常は見
られなかったとの暫定調査報告をまとめた。

 調査は米道路交通安全局(NHTSA)関係者と米議員らの立ち会いの下、10、11の両日実施
された。
トヨタは暫定報告で、

(1)アクセルペダルは正常に機能した。
(2)前輪ブレーキは著しく摩耗していたが、後輪ブレーキとハンドブレーキは良好な状態だっ
た。
(3)正規品のフロアマットは留め金には固定されていなかったが、アクセルペダルを妨害もしく
は接触するような状態は確認されなかった。
(4)エンジン点火装置は正常だった。
(5)変速レバーも正常だった。
(6)アクセルペダルとブレーキペダルを同時に踏んだ場合、エンジン出力が減退する機能も正
常に作動した−などと説明した(以上、時事通信より)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ワシントン】米下院エネルギー・商業委員会が23日開いたトヨタ自動車の大量リコール(回収・
無償修理)問題をめぐる公聴会で、急加速を経験したとして証言したロンダ・スミスさんのトヨタ
の「レクサスES350セダン」が、現在も使用されており、何のトラブルも起こしていないことが分
かった。
米高速道路交通安全局(NHTSA)の広報担当者が24日明らかにした。 

●公聴会で証言したロンダ・スミスさん
 
同スポークスマンによれば、NHTSAが先週、同車の新しいオーナーに聞いたところ、「走行距
離3000マイル弱のところで購入し、何のトラブルも経験せずに走行距離は2万7000マイルにな
った」と答えたという。
スミスさんは証言で、2006年にテネシー州のハイウェーで制御不能の急加速に見舞われ、時
速100マイル(約160キロ)になった恐怖の経験を涙ながらに語った。
その後、スミスさん夫妻は同車を売却した。 

 報告を受けたNHTSAの検査官は、フロアーマットがアクセルペダルに引っかかったことが原
因と判断した。
しかしスミスさん夫妻は、フロアーマットのせいではないと主張。スミス夫人は、車が速度を上
げる前にクルーズ・コントロール・ライトが点滅したことから、電子制御系の問題と考えている
(以上、ウォール・ストリート・ジャーナル)。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 ただ、2005年のNHTSA調査によると、自動車事故の約95%は運転者のミスによるもの
で、自動車の問題で起こるのは約2%にすぎない。
米自動車工業会のマッカーディ会長は同公聴会で、この報告を引用する予定だ。
同会長はまた、車の衝突データを集めるのにNHTSAがもっと多くの資金を必要としていること
を訴える方針だ(以上、ウォールストリート・ジャーナル)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 先週、米カリフォルニア州のハイウェイで起きたトヨタのハイブリッド車プリウスの急加速事件
で、連邦当局の調査によってブレーキに特殊な損耗パターンが見つかり、運転者の説明に疑
問が浮かび上がっている。
関係している3人が語った。

 先週8日、サンディエゴ近くのインターステート8号線で青の2008年型プリウスを運転していた
ジェームズ・サイクス氏(61)は緊急電話をかけて、何もしないのにスピードが時速90マイル
(144キロメートル)まで上がったとオペレーターに伝えた。
最終的にはカリフォルニア・ハイウェー・パトロールのパトカーが同車に横付けし、止めることが
できた。 

 サイクス氏は走行中およびその後に、高速走行中に力いっぱいブレーキを踏み込んだと話し
た。

 しかし、関係者によれば、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)とトヨタの専門家が共同でこ
の車を調査したが、高速走行中に一定時間力いっぱいブレーキが踏み込まれた痕跡は見つ
からなかった。

 ブレーキは変色し、損耗が見られたが、その摩擦パターンは運転者が断続的に普通程度の
力でブレーキを踏んだことを示唆しており、サイクスさんが言うような踏み込みはうかがえなか
ったという。

 これ以上の詳細は明らかではない。NHTSA当局者は12日、調査に関するコメントを拒否し
た(以上、ウォール・ストリート・ジャーナルより)。

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はやし浩司 TOYOTA問題 急加速問題 トヨタのリコール リコール問題 南イリノイ大学 
デービッド・ギルバート教授 はやし浩司 アクセルとブレーキ トヨタ プリウス 急発進 急加
速)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●アホの上塗り(How are you ashamed of yourselves, Mr. NHTST, USA?)

To: NHTSA, USA

What has been the "TOYOTA" problem?
Please re-read my article which I wrote in 2010.
In that article, I wrote, "Be ashamed NHTSA!"
I also agein write here, "Be ashamed, NHTSA!"

+++++++++++++++++++++++++

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

++++++++++++++++++++

このたび、TOYOTAの「シロ」が、確定した。

まず、YOMIURIの記事から。

+++++++++++++以下、YOMIURI+++++++++++++++

 ラフード米運輸長官は8日の記者会見で、末娘からの問いあわせに"お墨付き"を与えたこと
を明らかにした。
末娘は、昨年、トヨタ自動車の2011年型ミニバン「シエナ」を購入したという。

 長官は、「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべ
きだ』と答えた」と語った。
「我々が、トヨタ車が安全と感じているという例だ」とも述べた。
長官は昨年2月、議会で「トヨタ車の運転をやめるように」と発言していた。

+++++++++++++以上、YOMIURI+++++++++++++++

●ラフード米運輸長官

 こんな記者会見程度で、TOYOTAが被った損害が、解消できるのか?
それで責任を果たしたことになるのか。
このラフード米運輸長官は、アホ中のアホ。
TOYOTA車に、宇宙線をあててまで、欠陥を探し出そうとした、その張本人である。
「車に、宇宙線」だぞ。
それもNASAと協力して?!

 ラフード米運輸長官は、「論理学」の「ロ」の字も知らない、アホ。
アホ長官。

●2010年に書いた原稿より

 昨年(2010)に、私が書いた原稿を、もう一度、よく読んでみてほしい。
ここに書いた「アホ」の意味が、よくわかってもらえるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10−04−01)

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の私の原稿が、あちこちの
サイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスによるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの不適切な操作によるもの。
ところで、こんな仰天ニュースが、読売新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)と全米科
学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受けて事故原因の調査
に乗り出すことが30日、明らかになった。

 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月かけて
行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影響を与
えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立てあげたいら
しい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼したという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア〜〜〜?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、その放射
線とやらは、どこから発せられたのか。

そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるはず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授のそれと、
どこもちがわない。

「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したとか?

TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与える
かもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほうがよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠とはならな
い。

もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こぞって、
放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●論理学(必要・十分条件)

 もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、どれをめくってみ
るか。

1枚目……(△)
2枚目……(□)
3枚目……赤の(●)
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明されたわけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)であったとしても)、この命
題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがっていることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●必要・十分

 話を戻す。

 「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、TOYOT
Aの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。

(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)
さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA車に、ま
んべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」も証明しな
ければならない。

まだある。

「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、証明しなけれ
ばならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。

 また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。

 「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせなくなってし
まった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、アクセル
とブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数でも
よい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●統計的調査(補足)

 ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリ
カには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。

 たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。

 そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。

(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。

 たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。
これが基礎データ。

 つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数値に近けれ
ば、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因があるということになる。

 同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)と、ほかの
メーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。

●車の欠陥

 交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通安全局
(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。

 そこで改めて数字を拾ってみる。
 現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交通安
全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。

 もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題にする前に、
車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。

 さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしている。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必要があ
るのでは?

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題は起きて
いないという。

(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでいる。)

つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証明しな
ければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータでもあれ
ば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響を
与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめて十分
となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が与え
る影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!

 ……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明でき
た」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。

言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。

(はやし浩司 ラフード米運輸長官 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTS
A) NASA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYO
TA ハイブリッド車)

●終わりに

 ラフード米運輸長官は、こう言ったという。
「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべきだ』と答
えた」と。

 それに応じて、日本の経団連は、「安全性のお墨付きをもらった」とはしゃいでいる。
が、これもおかしい。
日本の車、社会、経済に与えた影響は、計り知れない。
それをさておき、「お墨付き」とは?
どうして日本は、ここまで隷属するのか。
シッポを振るのか。
本来なら、「コノヤロー!」と激怒し、損害賠償を請求してよい事案である。
どうしてそれをしないのか?

 つまりラフード米運輸長官のこの程度のリップサービスで、日本人のあのときの(怒り)をご破
算にしてすませてはいけない。
またそれですむような話ではない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【結論】

 「スーパー・マルチタースク人間」かどうかは、運転中だけのテストではわからない。
スーパー・マルチ・タースク人間と言えるためには、ほかの分野でのテストでも、それが証明さ
れなければ、ならない。

 自動車の運転のような、慣れによって自動化できる技術を尺度にし、それ以外の作業ができ
るからといって、マルチ人間ということにはならない。

 従って、ユタ大学が行った、この実験とその結果は、「C」マーク。
「アメリカの大学」「教授」「大学がした実験」という言葉に、幻想をもってはいけない。
またそういう権威付けにだまされてはいけない。

(はやし浩司 David Gilbert South Illinois Fake はやし浩司 Jason Watson David Strayer 
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Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパー
マルチ人間 スーパータスカー はやし浩司 マルチ型人間 シングルマルチ TOYOTA プリ
ウス 論理の穴 論理の矛盾 論理学 はやし浩司 必要十分条件 はやし浩司 Super 
Tasker スーパータスク人間 スーパータスク型人間 はやし浩司 マルチ人間)2012/03/06ま
とめ


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●朝・雑感あれこれ(はやし浩司 2012−03ー07)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国際経済

 ネコの目どころか、オセロ(ゲーム)のように、日々に白黒が逆転する。
それにあわせて、世界の株価が、乱高下。
バカげているというか、狂っている。

 今朝のBloombergは、ギリシアの金融危機をトップに載せている。

『ギリシャは十分な同意が得られれば、
ギリシャ法に基づく国債の保有者を対象に、
集団行動条項(CAC)を発動して債務交換への参加を義務付ける』と。

 わかりやすく言えば、「借金の棒引きを、一方的に義務づけるぞ」と。
つまりギリシアはすでに、国家破綻(デフォルト)している。
それをああでもない、こうでもないと、あがく。
世界を脅す。
『無秩序に国家破綻をすれば、1兆ユーロの被害が出る』と。

1兆ユーロ……、100兆円!

 国家破綻にも、「秩序型」と「無秩序型」があるらしい。
知らなかった!

 それを先読みし、今日のニューヨーク市場は、203ドルもさげた。
日本も現在、下降中(午前9:20現在)。

ほかにも気になるニュースがある。

●ニョンビョン(寧辺)の軽水炉

 たとえば現在、北朝鮮は、軽水炉を建設しているという。
工事現場の写真も紹介されていた。
が、それを見て、???。

大型クレーンが一基だけ。
あとはトラックが、数台。
周囲の円形だけは、「円」だったが、それ以外は、まさに露天掘り。
「こんな工事で、だいじょうぶか?」と。

日本の原子炉のような精緻さが、どこにもない。
排水施設も、写真で見るかぎり、なさそう。
詳しくはわからないが、お粗末。
驚くほど、お粗末。

そんな原子炉が事故でも起こしたら、どうなるのか。
首都ピョンヤンどころか、韓国のソウルだって、あぶない。
ニョンビョンの核施設から首都ピョンヤンまでは、直線距離にして約90キロ(グーグルアース
上)。
たったの90キロ!

 が、今の日本は、(=私たちは)、他国の原子炉のことまで心配する余裕はない。
偉そうなことも言えない。
しかしそれにしても、お粗末。

●不気味な地震活動

 MSN・ニュースは、つぎのように報道している。

『東日本大震災の影響でフィリピン海プレート(岩板)の沈み込みが加速し、関東地方を乗せた
北米プレートとの境界部にひずみが蓄積しやすくなっていることが防災科学技術研究所の観
測で6日、分かった。

(中略)

 首都圏では複数のプレート境界型地震が想定されている。関東大震災を起こしたマグニチュ
ード(M)8級の関東地震は、次の発生が約100年後とされるが、首都直下地震のひとつであ
る東京湾北部地震(M7・3)は切迫しており、発生が懸念されている』と。

 関東地震はともかくも、首都直下型地震が、かなり切迫しているということらしい。

 もちろん首都だけではない。
この遠州浜周辺もあぶない。
そこで昨夜も寝床で、ワイフとこんなことを話しあった。

「息子の家のほうに、移ろう」と。

●我が家

 我が家は、築46年になる古屋と、築10年の息子の家の2棟に分かれている。
古屋は、耐震構造にはなっていない。
昔のままの家。
一方、息子の家は、徹底した耐震構造になっている。
1階の1部屋が空いている。
私はそこへ移ろう、と。

 が、ワイフは、昔からのんき。
信じられないほど、のんき。
で、それを相談したら、「この家がつぶれるのオ?」と。

 しかたないので、私は、座卓を枕元に置いた。
万が一天井が落ちてきても、座卓が私たちを守ってくれるはず。
が、ワイフは、天井をながめながら、こう言った。

「あんな天井が落ちてきたくらいでは、死なないわよ」と。

私「あのなあ、天井が落ちてくるんじゃないよ。大屋根が落ちてくるんだよ」
ワ「落ちてこないわよ」
私「あのなあ、1分以上も、人が立っていられないほど、揺れるんだよ」
ワ「……」
私「こんなボロ家、無事のはずがないだろ……」と。

 ということで、今日は、朝食のあと、寝室の引っ越し。
ワイフが反対しても、そうする。

●楽しい子どもたち

 今週は、『確率・分数』をテーマに、レッスンを進めている。
くじ引きを利用し、それを教えている。
昨日は、小学1年生に、それを教えてみた。
子どもたちは、難なく(?)、それを理解してくれた。

 YOUTUBEの動画を、そのままここに紹介する。
「小学1年生に、確率?」と、疑問に思う人は、ぜひ、見てほしい。
同時に、現在、学校でなされているカリキュラムなるものが、いかにチンプなものであるかを、
わかってほしい。

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【浜名湖かんざんじ荘にて】(はやし浩司 2012−03−07)

 今日は、舘山寺温泉にある、浜名湖かんざんじ荘へやって来た。
毎月のように世話になっている。
職員の人たちとも、すっかり顔なじみ。
それだけに居心地がよい。
気楽。

 何度も書くが、浜名湖周辺で一泊……ということを考える人がいたら、この「浜名湖かんざん
じ荘」がよい。
窓からの景色(眺望)は、浜松イチ。
料理も最高。
浴場からの景色も、これまた最高。
あとは料金と相談。
この上と言えば、ホテル・ウェルシーズンがある。
さらにその上には、九重(ここえ)もある。

 私はいつも「じゃらん」を利用している。
料金も格安。
本気度も、120%。
満足度も、120%。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●認知理論(Cognitive Theory)

「認知療法」とか、「認知的不協和理論」というのは、わかりやすい。
「認知行動理論」とか、「認知行動療法」というのもある。
それらのベースになっているのが、「認知理論」ということになる。

 わかりやすく言えば、「行動理論」に対して、「認知理論」がある。
人間と言うのは、(ほかの動物もみなそうだが)、ある一定の状況下で、同じ条件が加わると、
共通した行動をする。
こうした行動反応を、体系化、理論化したものが、「行動理論」ということになる。

 それに対して、「心(精神)」も、ある一定の状況下で、同じ条件が加わると、共通した心理反
応を示す。
こうした心理反応を、体系化、理論化したものが、「認知理論」ということになる。
というか、「心」の問題を、知的に分析、体系化したものと考えたほうがわかりやすい。

 「心」というと、どうしても、「感情的」「情緒的」に考えやすい。
が、これでは科学としては、体系化できない。
そこで心の働きを、脳のメカニズムとして理解しようとして生まれたのが、認知理論ということに
なる。
近年のコンピューターの発達が大きく影響していることは言うまでもない。
脳も情報処理機関のひとつにすぎないというわけである。

『……人間の行動原理を解明する『行動理論』に対して、人間の認知的プロセスやその原理を
解明しようとする『認知理論』があり、認知行動療法のベースには、外的刺激や客観的状況の
意味をどのように解釈して受け容れるかという、『認知理論』が関係している。

認知理論は認知科学(認知心理学)の分野に包摂される仮説理論であり、脳内の情報処理プ
ロセスや知識の獲得・変容に対して強い関心・研究意欲が注がれるようになっている。

だが、心理臨床としての認知行動療法が最終的に目指すのは、『認知傾向の改善(考え方の
変容)』だけではなく『不適応行動の改善(適応行動の獲得)』であることも忘れてはならないだ
ろう』(心理学用語辞典BLOG)と。

●心

 もちろん「脳」と「コンピューター」は、ちがう。
たとえば感情。
私たち人間には、喜怒哀楽の「情」がある。
その情が総合されて、私たちの「心」を作る。
そういったものすべてを、コンピューター的に理解することはできない。
が、それも、「今はまだできない」というのが正しい。
さらに脳科学が進めば、「心」もまた、知的領域、つまり認知理論の中で説明できるようになる
かもしれない。

 事実、今では、「感情ホルモン説」が、常識化している。
「喜怒哀楽の情も、脳内ホルモンによって作られる」と。
「恋のホルモン」と呼ばれる、フェニルエチルアミンを例にあげるまでもない。

 ともかくも、「認知」の英語は、「cognitive」。
ラテン語の「I know」、つまり「私は知っている」に由来する。
だったら、「己を知る方法(セオリー)」でも、よいのではないか。

が、その点、日本語というのは、生まれながらの心理学。
日常会話の中に、そうした用語が織り込まれている。

(わだかまり)(こだわり)(ひがみ)(いやみ)(しがらみ)(いじけ)(つらみ)(取り越し苦労)(ぬか
喜び)(ねたみ)(みじめ)(ひもじい)……など。
泣き方ひとつ取り上げても、(さめざめ)(しくしく)(おいおい)(はらはら)(ほろほろ)(めそめそ)
などがある。

ほかにも心の変化、状態を表す言葉は、ズラリとある。
英語に訳したら、そのまま心理学用語になる。
たとえば「固着」という心理学用語がある。
うつ病の診断基準のひとつになっている。
それなどは、「こだわり」と考えれば、わかりやすい。

さらに日本へ伝来した仏教にしても、「宗教」というよりは、「心理学」。
人の心を体系化したもの、それが仏教。
私はそう解釈している。

 で、これらを知的に理論化したものが、「認知理論」ということになる。
わかりやすく言えば、「心の反応理論」? 

 ただし運動や行動とちがい、「心」には、実体がない。
直接、その動きを証明することができない。
だから「仮説理論」(前述)ということになる。

……というのが今までの常識。
が、最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
たまたま今朝も原稿を整理していたら、こんな論文が出てきた。

いわく『赤ちゃんの泣き声を聞くと、母親の脳内では、麻薬を得たときと同じような反応が脳の
ある領域で起きる※』と。

 「母性愛」というのは、仮説にすぎない。
が、その母性愛にすら、科学のメスが入るようになった。

(注※……母親の反応)
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。
母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理
の解明に役立つと期待される』(時事通信、2008年7月13日)と。

 認知心理学は、今、ここまで進んでいる。
先の「固着(こだわり)」にしても、今では脳内の活動の様子を、リアルタイムで観察することが
できる。
それによれば、脳の一部が、過剰に興奮状態になっているのがわかるという。
それが「固着」と。

すごい!

●己を知る

 といっても、現実の世界で、「己を知る」のは、簡単なことではない。
話は、ぐんと現実的になるが、許してほしい。
こんな事件が、20年ほど前にあった。

 ある家の妻(そのとき結婚10年目ほど)が、突然、隣の家の温水器を、スコップで叩いて壊し
てしまった。
隣の家の温水器は、灯油、つまりボイラーで湯をわかすしくみになっていた。
それが時折、着火するときボワーッ音を出し、湯をわかす。
その嫁は、それが「うるさい!」と。

 その少し前から、その家の夫が、妻をたしなめてはいたが、妻は、「ときどきではない。一晩
中だ」と言って、騒いでいた。

もっとも、この程度のトラブルなら、どこにでもある話。
その妻は、小学生の娘(当時小2)に、こう言いつけた。
「ボイラーが鳴る時刻と、時間を調べろ」と。
娘は几帳面にも、何時間にもわたって、それを調べ、記録した。
妻が、ボイラーをスコップで叩いて壊したのは、その直後のことだった。

 で、この事件は、当然のことながら、隣人との弁償問題に発展した。
夫の実家の両親も、かけつけた。
いろいろ関係があり、私もその場に呼ばれた。
で、その妻は、どこかおかしいということになった。

 が、それからがたいへんだった。
病院の精神科へ行く、行かないで、今度は、夫との大騒動に発展してしまった。
ふつうの騒動ではない。
近所中に聞こえるほどの大声で、怒鳴りあった。
が、妻は、夫や夫の両親が、車に乗せようとしても、それをがんとして拒否した。
「私は、どこもおかしくない!」と。

 そのとき私は、それを知った。
その女性(妻)は、私自身の姿でもあった。
脳のCPU(中央演算装置)がズレるため、自分で自分の姿を客観的に知るということは、むず
かしい。
むずかしいというより、不可能。
「私は正常」と思いつつ、そうでない行動に走ってしまう。
つまり「己を知ることは、それくらいむずかしいこと」と。

●ダイエット

 では、どうすれば、己を知ることができるか。
ひとつのヒントとして、最近、私はこんなことに興味をもっている。

 たまたま現在、ダイエット中(減食+運動中)。
先週、体重計に乗ったら、68キロ弱。
ギョッとし、直後から、ダイエットを始めた。
食事の量を減らし、運動の量をふやした。

 おかげで(?)、現在は、66キロ台。
もっとも1〜2キロ程度なら、すぐ減る。
目標は64キロ。
苦しいのは、これから。

 で、そのダイエット。
言うまでもなく空腹感との闘い。
が、そのメカニズムがおもしろい。
認知理論を応用し、それについて少し考えてみたい。

●満腹中枢と摂食中枢

 脳の脳下垂体に、満腹中枢と摂食中枢がある。
血中の血糖値を監視する。
満腹中枢は、言うまでもなく、満腹感を感知する。
摂食中枢は、空腹感を感知する。

 この両中枢で興味深いのは、その2つがあるということ。
2つしかないということ。
中間がない。
たとえば車のガソリンメーターは、アナログでも、またデジタルでも、その中間値を示す。
私の車(プリウス)は、10段階のバーで表示する。

 が、脳のばあいは、満腹か、空腹か、だけ。
ガソリンタンクにたとえるなら、満タンになったときと、空になったときだけ、それを感知する。
では、中間のときは、どうなのか。

 原理的には、脳はそれについては感知しないということになる。
中間のときは、満腹感もなければ、空腹感もない。
食欲のことは忘れ、そのときの作業に集中できる。

 そこで私はこう考えた。
「食事といっても、空腹感を消す程度に食事をとればいい」と。

 満腹感を覚えるほど、食事を食べる必要はない。
空腹感、つまり視床下部にある摂食中枢を刺激しない程度のところまで食べればよい。
理屈で考えれば、そうなる。

 その一例として、先日、バスの中で小便をした話を書いた。
文にするようなエピソードではないが、あえて紹介する。

「……2年ほど前のこと。
バスの中で、はげしい尿意を催した。
あるところから、あるところへ行く途中である。

 ふつうなら途中下車をして……ということになるが、バスの便数そのものが少ない。
1日、数本しかなかった。
そこで私は、客がほとんどいなかったこともあり、バスの中ですることにした。
(この話は以前にも書いたが……。)

 もっていたペットボトルのお茶を飲み干すと、それをもって、最後部の座席に移った。
私は最初、こう思った。
「こんな小さなペットボトルで、だいじょうぶかな?」と。
ペットボトルは、せいぜい300mL程度の大きさ。

そのときのこと。
尿意を減らすだけなら、全量、放出する必要はない。
ほんの少しでよい。
膀胱に、仮に70〜80%の尿が残っていたとしても、尿意はそれで消える。
実際、少し出したところで、尿意は消えた。

 目的を達すると、前部の席に戻った。
ワイフが心配そうに、「どうだった?」と聞いた。
「うまくいった」と、私は答えた。

 今回、ダイエットしながら、そのときのことを思い出した。
「全量、食べる必要はない。半分程度食べておけばよい。やがて空腹感は消える」と。

 恐らく膀胱の感知能力も、視床下部のそれと同じではないか。
満タンか、どうか。
それだけを感知する。
仮に満タン状態を、(100)とすると、(80)とか(70)のときは、それを忘れていることができ
る。
が、満タン状態になったときだけ、尿意を覚える。

●私のダイエット法

そこで私のダイエット法。
要するに、満腹感を覚える必要はない。
空腹感だけを消せばよい。
そのためには、全量を食べる必要はない。
「腹8分」というが、「腹3分」とか「腹4分」にする。
そこでとどめる。
そのあたりで、空腹感は消えるはず。

 ……あまりよいたとえではないかもしれない。
「認知理論」というよりは、体のメカニズム。
が、心の動きも、こうして客観的に理解できる。
どう自分を知り、どうコントロールしたらよいか、それがわかる。

●私のこと

 では、「心」のばあいは、どうか。
たとえば「不安」を例にあげてみる。

 私のばあい、明らかに不安神経症。
強迫観念も強い。
いつも何かに追い立てられている。
ピーターパンに出てくる、フック船長に似ている。
時計を飲み込んだワニに、いつも追いかけられている。
カチコチ、カチコチ……、と。

 その原因といえば、乳幼児期の基本的信頼関係の構築の失敗。
家庭というより、戦後のあのドサクサ期。
家庭教育の「カ」の字もないような時代に、私は生まれ育った。
父や母にしても、食べていくだけで精一杯。
親子で豊かな愛情を、はぐくむなどというようなことは、ありえなかった。

 私はいまだに、その亡霊と闘っている。
不安神経症であるにせよ、強迫観念症であるにせよ、(実際のところ病名など、どうでもよいこ
とだが)、そのあたりに原因がある。
が、そういった「己」を知ることにより、症状を、自分でコントロールすることができるようになっ
た。
それが「認知」、つまり「I know」の意味ということになる。

●アスペルガー児

 認知理論そのものは、要するに心理学全体を構成する「背骨」のようなもの。
大切なのは、それをどう理解し、臨床の場で、心の問題で悩んだり、苦しんでいる人を、どう助
けていくかということ。
「認知療法」というのも、ある。
……というか、そのための「認知理論」ということになる。

 が、教育の場では、少しちがった考え方をする。

 たとえばアスペルガー児と呼ばれる子どもがいたとする。
高次自閉症と位置づけられている。
「高次」というのは、知的な意味では、問題がないということをいう。
むしろ鋭い感性や、特殊な分野に並はずれた才能を示すことが多い。

 そのアスペルガー児。
少し経験のある教師なら、瞬間見ただけで、そうであるとわかる。
が、わかっても、わからぬフリをする。
診断名など、口が裂けても言わない。
言ってはならない。

教師には、診断権はない。
医師にしか、ない。
(だからといって、医師の診断能力が完全かというと、それはない。
症例にしても、現場の教師のほうが、はるかに数多く、また長時間、経験している。)

 そこで教師のばあいは、(今、そこにいる子ども)を前提に、教育を始める。
診断名など、どうでもよい。
忘れる。
原因となると、さらにどうでもよい。

重要なことは、親から、不安を取り除いてやること。
そのためには、バカなフリをする。
親から見て、「この先生は、何も知らない」と思わせる。
またそう思わせておけばよい。
その上で、親には、こう告げる。

「何も心配ありませんよ。家では〜〜してあげてくださいね」と。

 あとは、自分のなすべきことに全力を尽くす。

 ……こういう書き方は、たいへんデリケートな問題を含む。
が、事実だから、書く。

が、私のばあい、軽い情緒障害であれば、親がまだ気がついていない段階で、それを「なお
す」ことができる。
たとえば場面かん黙児など。
現在も、幼稚園などでは、まったくしゃべらなかった子どもだったが、私の指導でしゃべるように
なった子どもが、2人いる。
方法は簡単。
ゲラゲラ笑わせながら、その笑いの渦の中に、その子どもを巻き込んでいく※。

●注※……笑いの科学)
 
 ついでに……。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ
かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なお
す」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしま
う。

●性(さが)

 「認知療法」ということになれば、それはその子どもがおとなになるのを、待つしかない。
自分で、自分の問題点を知る。
「どうして、私はこうまでがんこなのか」
「どうして、私は他人の言葉で、こうまで傷つきやすいのか」
「どうして、私は冗談を理解できないのか」
「どうして、私は言葉どおりに、ものを考えるか」と。

 その上で、自分の過去を知り、ついで、「アスペルガー」という言葉を知る。
「ああ、私は、子どものころ、アスペルガー児だったのだ」と。

 が、実際には、ほとんどの人は、仮にそういった問題(障害)をかかえていたとしても、それに
気がつくことはない。
気がつかないまま、一生を終える。

先に書いた、私の不安神経症にしても、強迫観念症にしても、さらに原因はといえば、母自身
の過去と結びついている。
私自身の心にしても、「母親譲り」ということになる。
母にしても、不安神経症だった。
強迫観念症だった。

 が、その母が、自分でそれに気づいていたかどうかということになると、「?」。
私の印象では、それはなかったと思う。
母は母で、死ぬまで自分のそういった「性(さが)」と闘っていたように思う。
それを指して、母は、よく「業(ごう)」という言葉を使った。
が、それでもそれに気づいていたとは、思っていない。

 母は母で、13人の兄弟がいた。
その中で、下から4、5番目。
豊かな親子関係など、結びようもなかった。
大正生まれとはいえ、私以上に、基本的信頼関係の構築とは、無縁の世界に住んでいた。

 そこで認知療法ということになるが、私たちはそうした情報を、自分で手に入れるしかない。
それを手がかりに、自分で自分を判断する。
自分自身の治療につなげる。

●ボイラーを叩いて壊した妻

 で、ボイラーを叩いて壊した妻の話。

 その妻のばあい、どうすれば「治るか」ということは、重要ではない。
どうすれば己に気がつくか。
それが先。
その妻のように、通常の常識ある社会生活がむずかしくなったようなばあいに、「障害」という
名前がつく。
妄想性が強い人だったので、病院にかかれば、「妄想性人格障害」という診断名がついたかも
しれない。
何かのことに一度こだわると、その瞬間から、妄想がかぎりなくふくらんでしまう。

「わざと音を大きくしている」
「わざと自分の睡眠を妨げている」
「私はこのまま不眠症になってしまう」と。

 ふつうなら、(「ふつう」という言葉は、慎重に使わねばならないが)、たとえそうであっても、つ
ぎの「行動」には移らない。
「思い」と「行動」の間に、距離感のある人を、人格の完成度の高い人という。
そうでない人を、人格の完成度の低い人という。
それをコントロールするのが、「理性の力」。
大脳の前頭連合野が支配する領域である。

 が、妄想が限度を超える。
それが突発的な錯乱状態を呼び起こす。
行動に走る。
私が見たときには、夫がもっていたバットで、それを壊した。

 で、そういうときというのは、先にも書いたように、脳のCPUそのものが、ズレている。
そのため、「私が正しい」と言い張る。
実際、「私は正しいことをしている」と思い込んでいる。

(反対に冷静になると、そのときの自分を「正しい」と思うよう。
多重人格性をもった人と大きくちがうのは、その両者を、自分としっかりと認識しているというこ
と。
叩いて壊したという、記憶もしっかりとある。)

 そこでその妻には、そういった行動が、心の病気によるものであることを、わからせる必要が
ある。
それが「認知療法」ということになる。
つまり妄想がふくらみ、コントロールができなくなったとき、本人自身が、こう思えばよい。
「ああ、これは病気だ」
「これは本当の私ではない」
「こういうときは、行動してはいけない」と。

 それができるようになれば、あとは時間が解決してくれる。
やがて自分で自分をコントロールできるようになる。

(追記:先の事件からすでに、20年近くになる。
現在その妻は、50歳前後になるはず。
以後、遠ざかっているので、どうなったかは、わからない。)

●DVD『アナザー・プラネット(Another Planet)』

 むずかしい話がつづいたので、話題を変える。

 先ほど、DVD『アナザー・プラネット』を見た。
SF映画だが、先日見た『メランコリア』と、どこかよく似た映画だった。
が、この『アナザー・プラネット』は、ハッピーエンドで終わる。
どうハッピーエンドで終わるかは、DVDを見ないとわからない。
かなりの論理力が必要。

 ……最後のシーンで、主人公の女性、ローダは、自分の分身に出会う。
ふと振り返ると、そこにもう1人の自分が立っている……。

……ということは、つまり自分の分身に出会うということは、『アナザー・プラネット』のほうでは、
男性は、死んだはずの妻や子どもと出会っているということになる。
だからハッピーエンド。
が、ヒントは、ここまで。
あとはDVDを見ての、お楽しみ!

 ……『惑星ソラリス』(旧作)も、おもしろかった。
1970年代後半の映画だったが、実際に見たのは、1990年ごろ。
あのとき受けた強烈な印象は、今でも忘れない。
『アナザー・プラネット』は、その後続版(?)、SF映画と位置づけてよいのでは?

●認知理論

 話を戻す。

 脳の働きを、コンピューター的に解釈することは、たしかにおもしろい。
たとえば私は、脳には、コンピューターのCPUがもっているような、クロック数のようなものがあ
るのではないかと思っている。
子どもを観察していると、それがよくわかる。
子どもたちのそれは、おとなのそれよりも、何倍も速い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年の10月に、私はこんな原稿を
書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2008年10月21日

+++++++++++++++++++++++

4、5年前に、『マズローの欲望段階論』について
書いた。
その原稿を読みなおしながら、今日、自分で「なるほど」と
思った。
しかし自分で書いた原稿を読みなおして、「なるほど」は、ない。
つまりそれだけ記憶力が弱くなったということか。

+++++++++++++++++++++++

●「愚か」になる人たち

 同年代以上の人たちを見ていて、ときどき、こう感ずることがある。
「この人たちは、日々に愚かになっているのに、それに気づいているのだろうか」と。

「愚かになる」というのは、知的能力の総合的な低下を、いう。
知識や経験のみならず、知恵や思考力そのものを失うことをいう。

 しかしこれは脳のCPU(中央演算装置)の問題。
脳みそ全体の機能が衰えてくれば、知的能力の低下そのものも、わからなくなる。
自分が愚かになりつつあることすら、わからなくなる。
わからないならまだしも、知的能力が低下していても、「自分は、まとも」と誤解する人もいる。

 私の知人に、今年、85歳になる男性がいる。
軽い脳梗塞を繰り返していることもあり、話し方そのものが、かなり、おかしい。
ろれつが回らない。
そんな男性でも、あちこちに電話をかけて、説教がましいことを言う。
私のところにも、かかってきた。
「親のめんどうは、最後まで、しっかり見ろよな」とか、何とか。

 一応言っていることは(まとも)だから、それなりの会話はできるが、繊細な話しあいは、でき
ない。
深い話もできない。
そのため私のほうは、適当に話を聞いて、適当に合わせるということになる。

 が、これはそのまま、私自身の問題ということになる。
遠い未来の話ではない。
5年とか、10年とか、それくらい程度の、先の話ということになる。

●愚かさの確認

 どうすれば、自分の(愚かさ)を、自分で知ることができるか。
あるいはどうすれば、(愚かになっていく程度)を、自分で知ることができるか。

 肉体的な衰えは、たとえば体力テストなどで、かなり正確に知ることができる。
同じように、知的能力の衰えも、たとえば知能テストなどで、かなり正確に知ることができる。

 しかしそれを知ったところで、自分では、けっして、そうは思わないだろう。 
たとえば昨夜も、こんなことがあった。

 たまたま帰省している息子がパソコンをいじっていた。
音楽を、二男のインターネット・ストーレッジ(倉庫)から、ダウンロードしていた。
私もキー操作に関しては、かなり速いほうだ。
そう思っていたが、息子は、それこそ目にも止まらぬ速さで、キー操作をしていた。

 私が、パチパチ……なら、息子は、その間に、パパパ……と、キーをたたく。
「この画面は何だ?」と質問している間に、すでに数枚先の画面を表示してしまう。

 脳みそのクロック数そのものが、ちがう。
私のは、たとえて言うなら、1・0GH(ギガヘルツ)。
息子のは、たとえて言うなら、3・1GH(ギガヘルツ)。

 クロック数そのものがちがうから、自分で自分の(愚かさ)を知ることはない。
しかし息子には、それがわかる。
もたもたしている私の指先を見つめながら、「イーxxx」と。
使っているソフトが、「イーxxx」という意味らしい。

 では、自分の脳みそのクロック数を知るためには、どうしたらよいのか。

●子どもとの競争

 ひとつの方法としては、知能テストもある。
しかしこの方法では、思考力のある・なしはわかるが、クロック数まではわからない。
そこでもうひとつの方法として、子どもと競争するという方法がある。

実のところ、私はいつも、この方法で自分のクロック数を確かめさせてもらっている。

 レベル的には、中学生〜高校受験用の問題がよい。
そういった問題で、子どもと競争する。

 ただし私のように、仕事上、毎回訓練しているほうが、有利。
問題を見ただけで、解答の道筋が見えてしまう。
(子どものほうは、最初、手さぐり状態になる。)

……ウ〜〜ン……

 何かよい方法はないものか。

 たとえば脳みその中を走る電気信号を、計数的にとらえることはできないものか?
たとえば右脳のA点から出た信号が、左脳のB点に達するまでの時間を計測する、とか。
「あなたは、0・03秒かかりました」「あなたは、0・13秒かかりました」とか、など。
そこであなたの脳みそのクロック数は、「0・02GH」「0・003GH」と。

家庭でできる方法としては、(1)速算、(2)早読みなどでもわかるかもしれない。
(これも訓練で、速くなるだろうが……。早読みにしても、声の大きさによっても、変化するにち
がいない。)

 脳みそのクロック数が落ちてくると、「アウ〜〜」「エ〜〜ト」という言葉が多くなり、話し方も、
かったるくなる。
昔、大平総理大臣という人がいたが、ああなる。

 が、結論から先に言えば、脳みそも、肉体の健康と同じ。
鍛練してこそ、能力を維持できる。
……ということで、今日は、これから仕事に行く。
もちろん自転車で。

夜は、ワイフとデート。
楽しみ。 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 脳のクロック数)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●脳の操作

 私はすでに4年も前に、「クロック数」を考えていた。
さらにそれにつづいて、これはあくまでも今の段階では仮説だが、そうした信号は、視床下部
あたりから発せられているのではないかという原稿も書いた。

 自分の脳みそをコンピューターにたとえ、分析していくことは、たしかにおもしろい。
指先でコンピューターを操作するように、自分の脳を、自分の意思で操作する。
これからは、そういう研究がさらに進むはず。
それが「認知理論」、あるいは「認知心理学」ということになる。

●就寝

 そろそろ就寝タイム。

 先ほど、ワイフと私はこんな会話をした。
「ぼくたちは、広い宇宙を、2人で最後の航海をしているみたいだね」と。

 残り少ない人生。
いろいろあった。
ありすぎて書ききれない。
若いときは、喧嘩ばかりしていた。
仕事ばかりしていた。
孤立無援というか、3人の子育ても、すべて私たちだけでした。
毎日、追い詰められてばかりいた。

 が、今、私たちはそういった重圧感から解放された。
私の実家の問題も、数年前に、片づいた。
息子たちも、片づいた。
私たちが望んでいた形のようにはいかなかったが、ともかくも片づいた。

 今は、そんなわけで、自由。
人生も晩年になって、はじめて自由。
「若いときは、デートをしたくても、できなかった」とワイフ。
「だから、今、しよう」と私。

 地球という宇宙船は巨大だが、漆黒の宇宙を航行する宇宙船であることにはちがいない。
その宇宙船に乗り、最後の航海をつづけている。
行き先は……私にもわからない。
どこにいるかも、わからない。
航行しているというよりは、漂流している?
ともかくも、私たちはその宇宙船の上で、最後の航海をしている。

 ……この航海が、どこでどう終わるかは、まだわからない。
わからないが、とにかくその日まで、生きていく。
生きていくしかない。

「その日が来たら、いっしょに死のう」と私。
「そうね」とワイフ。

 ……湿っぽい話になってしまったが、私たちには、その湿っぽさはまったくない。
ワイフは、いつもこう言う。
「私たちは、すべきことは、ちゃんとしたのよ」と。

 親たちのめんどうも、みた。
息子たちのめんどうも、みた。
やるべきことは、きちんとした。
だまされたことは、何度かある。
しかし、人をだましたことはない。
私の人生に、後腐れはない。

 では、おやすみ!

はやし浩司 2012−03−08
浜名湖かんざんじ荘にて

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 認知心理学 はやし浩司 認知
理論 認知理論とコンピューター はやし浩司 脳のクロック数 視床下部 脳の回転 はやし
浩司 浜名湖かんざんじ荘にて はやし浩司 笑いの科学 笑いの効用 はやし浩司 免疫力
の増加 2012−03−07)


Hiroshi Hayashi+++++++March 2012++++++はやし浩司・林浩司

【乳幼児期の記憶はどこにあるのか?】(子どもの能力を引き出すために)

●乳幼児期の記憶

 乳幼児期の記憶は、私が学生のころは、「ない」とされていた。
が、それがとんでもないまちがいであったことを証明したのが、ワシントン大学のメルツオフ※
である。

しかもその記憶は、おとなの私たちとは比較にならないほど、まさに怒涛のように脳の中に記
憶される。
まわりの空気、匂い、音、母親の肌のぬくもり、息づかいなどなど。
そしてそれがやがてその子供の心の基礎となる。
目を閉じてやすらかに眠る乳児。
けっして、軽く考えてはいけない。

(注※……乳幼児の記憶)

「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。
現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えら
れると考えられている(新井康允氏ほか)。
しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだ
けということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。
たとえば幼児期に親に連れられて行った場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような
景色だ」と思うようなことはよくある。
これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考
えるとわかりやすい。

●相互作用

 では、その一方で、あの乳幼児(新生児を含む)も、周囲のおとなたちに対し、いろいろな働
きかけをしていることも、最近、わかってきた。
わかりやすく言えば、あの赤ちゃんが、(あかちゃんがだぞ!)、おとな(とくに親)を、操ってい
る!

 つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識してい
るわけではない。
無意識のうちに、そうする。

 さらに親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
それについても、脳内で麻薬を与えたときと同じような領域で反応が起き、脳内が高揚した状
態になるためと説明されている※。

「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。

(注※……母親の陶酔感)

 時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。
母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理
の解明に役立つと期待される』と。

●おっぱい

 ここではさらに話を一歩、進める。
どうすれば、乳幼児期の記憶をさぐることができるか。
またどうそれを教育の場で、応用することができるか。
最近、私は、こんな発見をした。

 4、5歳児の幼児でも、女性の乳房(おっぱい)に対して、強く反応する子どもと、そうでない子
どもがいることがわかった。
最初は子ども(生徒)たちをからかうつもりで、おしゃぶりを私の机の上に置いてみた。
そのおしゃぶりに対する反応が、子どもによって、微妙にちがう。
まったく関心を示さない子どももいれば、トローッと甘い顔つきになる子どももいる。
条件反射的に、口をもぐもぐさせる子どももいる。

 そこで私は、「こういうのを使ったことがある人?」と聞く。
が、ほとんどの子どもは、「使ったことはない!」と答える。
弟や妹が使っていると答える子どもは、いる。
しかし自分は、使ったことはない、と。

 さらに「お母さんのおっぱいを飲んだことがある人?」と聞く。
が、このばあいも、ほとんどのこどもは、「ない」と答える。
そんなはずはないと思い、何度も念を押し、聞く。
が、それでも「ない」と答える。

(ただし中には、5、6歳になるまで、母親のおっぱいをのんだり、吸ったりしている子どももい
る。)

 で、私自身の記憶をさぐってみる。
「私は、どうなのか?」と。
あるいはあなた自身は、どうか。

 私のばあいも、母親のおっぱいを吸った記憶は、ない。
ぼんやりと何かしら記憶しているようには感ずるが、直接的にはない。
が、ここにあげた子どもは、まだ4、5歳。
そんな子どもでも、「ない!」と。
が、さらに不思議なことがある。

●口唇期

 ときどき何かのことでふざけているようなとき、私は子どもたちにこう聞く。
「おっぱい、好きな人?」と。
 
 すると、ほとんどの子ども(5、6歳の年長児)は、吐き捨てるようにこう答える。
「嫌い!」と。
4、5歳の年中児でも、そう答える。
そこで私は強い口調で、こう言う。

「ウソを言うな。好きだったら、好きと言え」と。
すると何人かは、恥ずかしそうにこう言う。
「……好きだよ……」と。
が、おおっぴらに、「好き!」と答える子どもは、いない。

 もっともフロイト流に考えれば、「おっぱいが好き」(=おっぱいに特別の関心をもつ)という子
どもは、口唇期に何かの(こだわり)をもっていることが多いという。
依存性が強く、ストレスに弱いとされる(渋谷昌三「心理学」)。

●心理テスト
 
 渋谷昌三氏は、「心理学」(西東社)の中で、こんな興味深いテストを紹介している。
そのまま紹介させてもらう。

++++++++++++++++++++++++

Q:つぎの5つは、赤ちゃんの身の回りにあるものです。
それぞれを頭の中で、思い浮かべてみてください。
もっとも印象深いのは、それですか?

(1)ほ乳瓶、(2)おしゃぶり、(3)おまる、(4)おむつ、(5)ガラガラ

++++++++++++++++++++++++

 このテストによって、心の別室(はやし浩司)に抑圧された「隠蔽(いんぺい)記憶」をさぐるこ
とができるという。
乳幼児でも、おとなでも、自分にとって不快な記憶は、心に別室をつくり、それを押し込めてし
まう。
それを心理学の世界では、「抑圧」という。
そこでその中身が何であるかを知る。
このテストも、そのひとつというわけである。
どれにいちばん関心があるかを知り、その隠蔽記憶をさぐる。

 で、渋谷昌三氏は、つぎのように、診断している(同書)。

(1)ほ乳瓶やおしゃぶりを選んだ人……依存心が強く、ストレスに弱い正確です。
(2)おまるやおむつを選んだ人……まじめで几帳面で、強情なところもあり、倹約家の面もあ
ります。
(3)ガラガラを選んだ人……虚栄心が強く、めだちたがり屋。

 渋谷昌三氏は、つぎのように説明している。

『それぞれのものは、口唇愛期(誕生、1歳未満)、肛門愛期(1歳〜3歳)、エディプス期(3〜
6歳)※に対応したものです。
どの時期に(こだわり)をもっているかで、ちがう性格が形成されるといわれています」(以上、
同書)と。

 つまり、記憶というのは、視覚的なものとはかぎらないということ。
いわばガスのようになって、脳の中に残る。
そのガスが、さまざまな形で、その人の性格を作る基盤になっていく。
「形」としての記憶がないからといって、「記憶がない」と考えるのは、正しくない。

(注※……エディプス、エディプスコンプレックス)

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。
ギリシャ神話である。物語の内容は、つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。
しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王子として育てられる。
それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。
つまりエディプスは、実父を殺し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。
エディプス自身も、自分で自分の目をつぶし、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。

 つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。
わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライバルとして父親を憎む
ようになるという。
(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するということも、これに含まれる。)

 この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのことに
疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。
母親からの異常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてなく
なることが多い。

●ガスを知る

 「ガスを知る」という経験は、日常生活の中でもよくする。
たとえば街角で、どこかで見たことのある人に会ったとする。
そのときのこと。
どこで会ったかも覚えていない。
名前も覚えていない。
どういう関係だったかも覚えていない。
が、その瞬間、つまり会った瞬間、不快な思いに満たされることもあれば、反対に、懐かしさが
こみあげてくることもある。

 これは知覚できる意識が反応する前に、脳の奥深いところにガスのようにたまっている記憶
が先に反応するためと考えてよい。
『坊主、憎ければ、袈裟まで憎い』というのも、そのひとつ。
ときとして、そのガスが、印象を決めてしまう。

 乳幼児期の記憶は、言うなれば、脳の中でガス状になってたまる。
もちろん論理や分析、あるいは言葉や映像を伴った記憶ではない。
ぼんやりとしている……という意味で、「ガス」という言葉を使った。
そういう記憶である。

 言い換えると、乳幼児と接するときは、ガスがどのように記憶されているか、それに注意を払
えということになる。
モノを買い与えるとか、どこかへ連れていくとか、そういうことではない。
(おとなには、そういう記憶ほど、強く印象に残るかもしれないが……。
またそういうのをもって、「記憶」と考えやすいが……。)
ガスである。
その場の雰囲気、温もり、環境、安心感や不安感などなど。
ぼんやりとしていて、実体がない。

 が、こうしたことを理解することにより、即、それを教育の世界でも役立てることができる。
たとえば何かを教えるときも、教える内容や、できる・できたではなく、雰囲気。
「楽しかった」という思いだけを大切に、つくっていく。
それがやがて、子どもを伸ばす原動力になっていく。

 以前に書いた原稿をいくつか、参考までに、ここに載せておく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 隠蔽記憶 抑圧 エディプス は
やし浩司 ディプスコンプレックス はやし浩司 ワシントン大学 メルツオフ メルツォフ ベイ
ラー はやし浩司 母親の脳内反応 麻薬 陶酔感 はやし浩司 ベイラー医科大学 乳幼児
の記憶)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子どものやる気論(参考原稿、2010年10月記より)

【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



++++++++++++++++



子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



++++++++++++++++



●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を
意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」と
いう単語に由来する。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よく
みられる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返
報性」という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こ
んなことがあった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K
君は、少し恥ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)
+++++++++++++++++++++
もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。
+++++++++++++++++++++
【子どもの中の子ども】

++++++++++++++++++++

子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

++++++++++++++++++++

●乳幼児の記憶

+++++++++++++

子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

+++++++++++++

「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。

++++++++++++++++

わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。

++++++++++++++++++++

では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

++++++++++++++++++++

● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

++++++++++++++++

では、いよいよ核心?

「私」とは何か。
また教育の世界では、「私」をどう考えたら
よいのか。

私は、ひとつの仮説を考えた。

++++++++++++++++

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. 
Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal 
part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)

++++++++++++++++

教育の世界では、表面的な子どもだけを
見て、教育してはいけない。

教師のひとつひとつの行動、言動が、
どのように子どもの中に形成されていくか。
それを観察しながら、教育する。

あるいは反対に、その子どもが、その
子ども自身の中の、どのような「私」に
コントロールされているか、それを
的確に判断しながら、教育する。

それが教育の原点ということになる。

++++++++++++++++

【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have 
found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 
慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 教育の原点)


Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司

●言語能力

 ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ
ることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる
と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適
切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで
きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ
ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの
ではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。

(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評
論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer 
Japanese essayist メルツオフ メルツォフ 乳幼児の記憶 視床下部 辺縁系 扁桃核 扁桃
体 カテコールアミン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

【参考原稿】

【新生児の謎】

●人間の脳の大きさは、母体の産道(骨盤)の大きさに比例する

+++++++++++++++++

進化の過程で、人間の脳は、より
大きくなってきた。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクゥス) ……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容量……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

+++++++++++++++++

胎児は母体の産道(骨盤の間)をくぐり抜けて、生まれる。
そのときもし胎児の頭の大きさが、産道よりも大きければ、胎児は、母胎の産道をくぐり抜ける
ことができない。

だから『人間の脳の大きさは、母体の産道の大きさに比例する』。

胎児の頭が大きくなればなるほど、母体の産道の直径は大きくなければならない。
もし胎児が産道をくぐり抜けることができなければ、胎児が死ぬか、反対に母親が死ぬかのど
ちらかになる。
が、反対に、母体の産道が大きくなればなるほど、胎児の頭も大きくなるかといえば、それは
言えない。

たとえば人間以外のほかの動物のばあい、頭よりも体のほうが大きい。
またその多くは、2体以上の子どもを出産する。
頭の大きさが問題になることは、ない。
つまりほかの動物のばあい、母体の産道の大きさは、頭というより、体の大きさによって決ま
る。(その反対でもよいが……)。

が、人間だけは、いびつなまでに、頭だけが大きい。
なぜか?

●頭を大きくするために

人間の脳を、今以上に大きくするためには、母体の産道を大きくするか、胎児そのものを、人
工胎盤で育てるしかない。
よくSF映画の中にも、そういうシーンが出てくる。
大きな水槽の中で、胎児が人工飼育(?)されているシーンである。

水槽の中に胎児が浮かび、へその緒は、水槽外の栄養補給装置とつながっている。

この方法であれば、胎児は何の制約も受けず、自分の頭、つまり脳を大きくすることができる。
いくら大きくなっても、出産時の問題は起きない。

「あれはSF映画の中の話」と思う人もいるかもしれないが、現在の科学技術だけをもってして
も、けっして、不可能ではない。
現在でも、一度体外に取り出した女性の卵子に、人工授精させ、再び母体に戻すという方法
は、ごくふつうのこととしてなされている。
あと50〜100年もすれば、こうした方法、つまり人工胎盤を用いた育児法が、ごくふつうのこ
ととしてなされるようになるかもしれない。

●2つの問題

が、ここで2つの問題が起きる。
厳密には、3つの問題ということになるが、3つ目は、このつぎに書く。

ひとつは、こうして生まれた子どもは、頭が大きくなった分だけ、つぎの代からは、自然分娩に
よる出産がむずかしくなるだろうということ。
代を重ねれば重ねるほど、むずかしくなるかもしれない。

「ぼくは人工胎盤で生まれたから、ぼくの子どもも、人工胎盤で育てる」と。
そう主張する子どもがふえることも考えられる。

もうひとつの問題は、『頭が大きくなればなるほど、脳の活動は鈍くなる』ということ。

脳というのは、コンピュータの構造に似ている。
とはいうものの、シナプス間の信号伝達は、電気的信号ではなく、化学反応によってなされる。
この(化学反応)という部分で、脳は大きくなればなるほど、信号伝達の速度が遅くなる。
言いかえると、脳は小さければ小さいほど、信号伝達の速度が速い。
このことは昆虫などの小動物を見ればわかる。
こうした小動物は、知的活動は別として、人間には考えられないような速い動きをしてみせる。

つまり頭を大きくすることによって、より高度な知的活動ができるようになる反面、たとえば運
動能力をともなう作業的な活動になると、かえって遅くなってしまう可能性がある。
歩くときも、ノソノソとした動きになるかしれない。
ひょっとしたら、頭の反応も鈍くなるかもしれない。

これら2つの問題は、克服できない問題ではない。
が、もうひとつ、深刻な問題がある。

●豊かな感情は人間の財産

人工胎盤で育てられた子どもは、はたして人間的な感情をもつだろうか?

豊かな感情は、安定した母子関係の中ではぐくまれる……というのが、現在の常識である。
とくに生後直後から、満2歳前後までに、その子どもの感情、つまり情緒的発達は完成される。

しかし胎児のばあいは、どうだろうか。
胎児は母親の母体内にいる間、母親の愛情を感ずることはないのだろうか。

が、これについては、「感じている」と考えるのが、自然である。
最近の研究によれば、誕生直後の新生児ですら、実は母親に向かって(働きかけ)を行ってい
ることがわかってきた。
たとえば新生児は新生児で、本能的な部分で、自らの(かわいさ)を演出することによって、親
の愛情を自分に引きつけようとする。
つまり新生児の側からも、働きかけがあるということになる。
それまでは、たとえば愛情表現にしても、母親から新生児への一方的なものと考えられてき
た。
「母親から新生児への働きかけはあっても、新生児からの働きかけはない」と。

母親から新生児へ、新生児から母親へ。
こうした相互の(働きかけ)を、「ミューチュアル・アタッチメント(Mutual Attachment)」という。

が、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、誕生直後から始まると考えるのには、無理があ
る。
あらゆる生物は、もちろん人間もだが、その成長過程において、連続性を維持しながら成長す
る。
誕生と同時に、突然、「ミューチュアル・アタッチメント」が始まるというわけではない。
胎児は胎児であるときから、「ミューチュアル・アタッチメント」は始めていると考えるのが、自然
である。

となると、人工胎盤のばあい、胎児は、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、できないという
ことになる。
人工胎盤の中の胎児は、暗くて冷たい、孤独な世界でもがき、苦しむということになる。
いくら働きかけをしても、それに応えてくれる母親は、そこにいない!

仮に100歩譲って、何とか情緒面の問題を克服して誕生したとしても、今度は、そういう子ども
に対して、卵子の提供者でしかない母親が、母親としてのじゅうぶんな愛情を感ずることができ
るかどうかという問題もある。

母親は10か月という長い期間、自分の胎内で子どもを育てるうちに、母親としての愛情を自覚
する。
あるいは出産の苦しみをとおして、その愛情を倍加させる。
もちろん夫の役割も無視できない。
妻の出産を喜ぶ夫。
そういう姿を見て、母親である妻は、さらに子どもへの愛情を倍加させる。

こうしたプロセスを省略した子どもが、はたして、感情豊かな子どもに成長するかどうかというこ
とになると、あ・や・し・い。

●人間の脳

ところで進化の過程で、人間の脳は、より大きくなってきたと言われている。

ちなみに、猿人、原人、旧人、新人、現代人の脳容積はつぎのようになっている。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクトゥス)……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容積……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

ここで私は、「進化」という言葉を使ったが、実のところ現代人の祖先というのは、定かではな
い。
ただ言えることは、人間(ヒト)は、猿(サル)から進化したのではないということ。
反対に、たとえばチンパンジーにしても、やがて人間のように進化するということは、ありえな
い。
人間は、人間。
猿は、猿。
それぞれが、完成された個体である。

もちろん人間がここまで進化する過程の中では、猿人→原人→旧人→新人のそれぞれの段
階で、無数の新種が生まれ、そして絶滅していった。
たとえばよく知られた例として、ネアンデルタール人がいる。
ネアンデルタール人は、人間の祖先であるホモサピエンスとそれほど能力的には差がなかっ
たものの、今から1万数千年前に、絶滅している。

●未熟化する新生児

仮に産道の大きさはそのままで、胎児の頭だけが大きくなったら、どうなるか。
先にも書いたように、胎児は、母親の産道をくぐり抜けることができなくなる。
そうなれば母体である母親が死ぬか、胎児が死ぬかの、どちらかしかない。

が、ほかに方法がないわけではない。

胎児の頭がまだ、産道をくぐり抜けることができる大きさの段階で、出産するという方法であ
る。
つまり新生児としては未熟だが、その段階で母体から離され、そのあと、母体の外で育てる。
現に新生児の体重は、3200グラム弱(平均)とされているが、(平均体重は、この10年、
年々減少傾向にあるが……)、その1か月後には、体重は、約1・5倍に増加する。
2か月で2倍になる新生児も少なくない。

つまり人間の子どもの出産は、きわめて微妙な時期を選んでなされることが、これでわかる。
もし出産時が、1か月早ければ、新生児は、特別な介護なくしては生きていくことすらむずかし
い。
一方、もし1か月遅ければ、体重が増加し、ついで頭も大きくなり、出産そのものがむずかしく
なる。

ちょうどよいころに、ちょうどよい、……というギリギリのところで母親は子どもを出産する。子ど
もは、うまく産道をくぐり抜ける。

が、疑問は、残る。

なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか、という疑問である。
新生児のばあい、少なくとも生後6か月まで、保護者による手厚い保護がないかぎり、自分で
生きていくことはおろか、動き回ることすら、できない。

●進化論への疑問

ここにも書いたように、人間は人間として、今に見る人間に進化した。
「今の今も進化しつづけている」と説く人もいるが、反対に、「同時に退化しつづけている」と説く
人もいる。

突然変異というのは、まさに両刃の剣。
突然変異によって進化することもあるが、それまでの重要な遺伝子を喪失することもある。
つまり進化と退化は、相互に関連し合いながら、同時進行的に進むと考えてよい。

が、それはさておき、人間が今に見る人間になるについて、「ダーウィン的な進化論では説明
できない進化」と説く学者も少なくない。

進化論の世界では、「10万年に1回の、ささいな変化」でも、「突然変異」とみるのだそうだ。
が、こと人間に関していえば、ほぼ20万年単位で「大・突然変異」を繰りかえし、今に見る人間
になった。

たとえば「人類の祖先は、420万年前からずっと二足歩行していたにもかかわらず、350万年
前の猿人の脳容量は、ほとんどチンパンジーと変わっていない」(「るい・NETWORK・生物
史」)そうだ。

「二足歩行するようになったから、脳容積が大きくなった」という従来の常識にも、よくよく考えて
みればおかしいということになる。

そこで現われたのが、「作為説」。
「つまり人間は、その進化の過程で、何ものかによって、作為的に改良された」という説であ
る。

この説を説く学者も少なくない。

『……スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラーク氏は、進化論についてこう述
べています。

「人間が下等な生命形態から、段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形において
も人間をサルに関連づけるものは何もない。人間は突然に、今日と同じ形で出現した」』(指
摘:「宇宙GOGO」HPより)と。

「なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか」という疑問についても、未
熟なまま生まれるというように、だれかによって操作されたとも、考えられなくはない。

そのだれかとは、だれか?

このあたりから、話が、SF的になる。
あるいはどこか宗教的になる。
実際、こうした説に基づいて活動しているカルト教団もある。
だから私の話は、ここまで。

この先のことは、皆さんの判断に任せるが、UFOが存在し、当然、宇宙人が存在するというこ
になれば、私たち人間が、その宇宙人によって何らかの(作為的な改良)を受けたことがある
のではないかと考えても、おかしくない。

とくに(脳)については、そうである。
なぜ私たちの脳は、こうまで飛躍的に進化してしまったのか?
わずか5500年以前には、私たちは火の使い方すら知らない新石器人間であったことを考え
るなら、この疑いは大きくなることはあっても、小さくなることはない。

(注)自分で読み返しても、稚拙な内容の文章だと思う。
文章もへたくそだし、つっこみも甘い。
が、私はここを出発点として、さらにこの問題について、考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 産道 胎児の大きさ 胎児の頭
 人間の脳 はやし浩司 人間の脳の大きさと産道の大きさ はやし浩司 脳の進化 はやし
浩司 子どものやる気 やる気論 オペラント)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ロイター(2012年3月9日)「日本国債・暴落ストーリー」を精読する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「ギリシャのつぎは、日本!」……か?
ロイターは、「日本国債・暴落ストーリー」と題し、長文の論説をかかげている。

巷(ちまた)の倒産劇と同じ。
国が破産するときは、一気。
一気に破産する。
それまで耐えていた屋台骨が、ある日突然、ボキッと折れる。
そんな感じで、破産する。

うわさがうわさを呼び始めたら、最後。
日本は、そのまま一気に、奈落の底に。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ふえつづける国の借金

 国の借金が、1000兆円と聞いても、ピンとこない。
日本の人口を、1億人(生産者人口)とすると、1人あたり、1000万円。
夫婦2人で、2000万円。

 債権者(=国債の保有者)の90%が、日本人自身とか(ロイター)。
90%と喜んでいてはいけない。
2000年ごろには、95%という数字を聞いていたので、5%も減ったことになる。
わかりやすく言えば、こういうこと。

 日ノ本家なら、日ノ本家としておこう。 
その日ノ本家の親父が、家族4人で、4000万円もの借金をかかえた。
うち3600万円は、息子や娘たちから借りたもの。
残り400万円は、サラ金から借りたもの。

 それだけの借金があっても、親父はのんきなもの。
「わしは、できのいい息子や娘をもって、幸せだ」と。

が、このところ、少しずつだが、様子が変わってきた。
息子や娘たちの収入が減ってきた。
今までは何とか黒字になり、少しだが、親父に小遣いを渡していた。
が、それができなくなった。
その分だけ、親父に、こう言い出した。
「もう、これ以上、お金を貸すことができない」
「サラ金への利息までは、払えない」と。

 親父は、サラ金への利息の半分まで、息子や娘たちに負担させていた。

 ロイターは、そのことを、こう伝えている。

『……2011年の貿易収支が31年ぶりの赤字に転落、安定感があった国債市場に動揺が走
った。
輸出の停滞に加えて、原発稼働率の大幅な低下による代替エネルギー燃料の輸入拡大が主
な要因だが、貿易赤字が膨らみ続け、経常赤字が恒常化すれば、貯蓄率が低下し、国内勢主
体の国債消化構造が揺らぐとの懸念がくすぶる。
8日に発表された1月単月ベースの経常収支は4373億円の赤字と、2009年1月を上回る
過去最大の赤字を記録した。
SMBC日興証券・チーフストラテジストの末澤豪憲氏は、季節的な要因や中国春節などの特
殊要因が重なったためで2月以降は黒字に戻ると予想するが、「原発再稼働に高いハードル
があり、黒字額は低水準にとどまる」との見方を示す』と。

●地震

 息子と娘の話を書いた。
その息子や娘も、50代。
孫たちも、大学へ通い始めた。
学費がズシンと、重くのしかかる。

 そんな折も折、地震がその地方を襲った。
母屋の一角が崩れた。
本来なら家の建て替えをしたほうがよい。
が、そのお金がない。
親父は、家の修理をすることにした。
その費用が、150万円(15兆円)。
もちろん、借金。

 ふつうなら、親父は支出を削らねばならない。
しかし道楽で始めた庭いじり。
今は庭石を取り寄せ、それで池のまわりを飾っている。

 ロイターはつぎのように書いている。

『来年度予算案には整備新幹線の未着工3区間の建設費用も盛り込まれたが、「なぜ今、国
費で旧来型の新幹線を着工しなければならないのか」といった疑問を抱く関係者も少なくない。
今回の整備新幹線着工に経済合理性が議論された形跡は見られず「旧態依然とした公共投
資で建設セクターに税金を流し込まないと景気が浮揚しない構図」(外資系証券)に、市場では
構造改革に逆行した政策との批判もある』(ロイター)と。

●世間の風当たり

 こういう日ノ本家に対する、世間の風当たりは、きびしい。
「どうも、あの家は、おかしいのではないか」という、うわさが出始めた。
が、親父はどこ吹く風。
相も変わらず、ぜいたくざんまい。
やりたい放題。
息子や娘は、それを正すのだが、肝心の親父は、聞く耳さえもたない。
月に一度は、海外旅行。
そのたびに、「マイルがたまった」と、喜んでいる。
が、事故も多い。

 先月は、マカオへ行ってきたが、そこで、200万円(AIJ)ほど、バクチですってしまった。
が、親父は、それについても、知らぬ顔。
「あいつら詐欺師だ。オレが悪いのではない」と。

 ロイターは、つぎのように伝える。

『巨額な政府債務による財政の硬直性、ねじれ国会による政治の停滞に、震災による政治・経
済面での環境変化が加わり、日本国債の信用力への評価がさらに厳しくなっている』と。

『財政の弾力性が低下している要因には、政権基盤の脆弱さがもたらす政策遂行能力の欠如
もある。
いわゆる衆参ねじれの構造の弊害だ。
ねじれ構造下では、財政再建の両輪とされる歳出削減と歳入確保について、国民に強い負担
を強いるような難しい政策を打ち出すことは困難』と。

●ハゲタカ

 そういう日ノ本家を、虎視眈々(こしたんたん)と狙っている連中がいる。
2つのグループに分けられる。

 ひとつは、日ノ本家の知的財産を奪ってやろうと考えている連中。
日ノ本家には、昔から伝わる技術がある。
その技術を盗もうとしている。
ときどき日ノ本家へやってきては、様子をうかがっている。

もうひとつは、破産に追い込み、財産を安く買いたたいてやろうと考えている連中。
その連中たちが、力を合わせ、日ノ本家に近づいてきた。

 「金を貸してあげようか」と。
やさしい顔をして、やってきた。
が、親父はお人好しのボンボン。

 ロイターはこう伝える。

『ヘッジファンドが日本国債暴落ストーリーを描き始めた……メリルリンチ日本証券・チーフ債
券ストラテジストの藤田昇悟氏は語る。
暴落ストーリーを口にするタカ派なファンド勢はごく少数だが、日本の早期経常赤字化や巨大
な財政赤字を手掛かりに、「日本のギリシャ化」を想定し、日本国債売りと円売りのポジション
を構築しているという』と。

●では、どうするか?

 名誉やプライドをかなぐり捨てる。
もう一度、原点に立ち戻り、そこからはいあがる。
アジアの最貧国なら、最貧国でもよい。

 日ノ本家にたとえるなら、家屋敷を売り、一家全員が、狭いアパートに移る。
親父も、妻も、息子も、娘も、日雇い労働者となって働く。
つまりそれくらいの覚悟を、もつ。
もったら、そのときからどうすればよいかを、今から計画する。
その一例として、ロイターは、同じ町内に住む、ネシア家をあげる。

『世界でも有数の地震多発地帯であるインドネシアのスマトラ島。
2004年にマグニチュード(M)9を超える大地震と巨大津波で多くの死傷者を出した。
その後もM7〜9規模の地震が頻発、今年1月にはM7.3の地震が発生したが、ムーディー
ズはその1週間後にインドネシアの信用格付けを「Ba1」から投資適格等級の「Baa3」に引き
上げた。

インドネシアの投資適格等級への格付け復帰は1997年12月以来約15年ぶり。
好調な個人消費と輸出に支えられ、年5%後半から6%台の安定した経済成長が持続。
格付けが投資適格水準に引き上げられたことで、先進国中心に海外からの資金流入が加速
している。

政治的な安定性も増しており「経済規模が大きいBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)諸国
に引けを取らない成長期待が財政の弾力性を確保する大きな要因」(国内金融機関)となって
いる』と。

●風前の灯火の教育

 日本の国家破綻はありえない話ではない。
旧ソ連の例をあげるまでもない。
で、その日本をゆいいつ支えてきたのが、人材、つまり教育だった。
しかし今や、その教育も、風前の灯。
この半世紀で、日本人の「質」そのものが変わってしまった。
本来なら、日本の教育は先手、先手で、他国をリードしなければならなかった。
が、その努力さえ、怠ってしまった。

 旧態依然の、あたりさわりのない教育をつづけているだけ。
ダイナミズムが消えて、もう30年になる。
目標が消えたのも、そのころ。
教師自身が、どういう子どもを育てたらよいのか、その「像」すら、描ききれていない。
簡単に言えば、「上」から言われたことを、そのとおり実行しているだけ。
「やるべきことはしまう」「しかしそれ以上のことはしません」と。

 これでは最初から、勝負にならない。
近隣の国々と同じことをしていて、あるいはそれにも及ばないことをしていて、どうして近隣の
国の人たちと渡りあっていくのか。
ひとつのヒントとして、私は「競争のシステムの導入」と「教育の自由化」をあげる。

●競争システムの導入

 日本もアメリカのように、「学年制」を廃止する。
(「学歴制度」はもちろんだが、「学年制」。誤解のないように!)
クラスの前には、その教師の名前だけを表示すればよい。
何かの植物の名前でもよい。
勉強ができる子ども(gifted child)は、たとえば「来週から、ダリア組へ行きなさい」と。
あるいは、その反対でもよい。
「まだこのアカシア組の授業の内容を、よく理解できていませんから、来年、もう1年、このアカ
シア組で勉強しなさい」と。

 競争を「悪」と決めつけるのは、簡単。
しかし日本を一歩、外に出れば、そこは競争原理の世界。
野獣と猛獣がうごめく、海千山千の世界。
それが「現実」。
その現実を無視して、日本の未来は、ない。

●自由化

 たとえば、どうしてこの日本が、電子教科書を採用しないのか。
それとも、それを採用することで、何か、まずいことでもあるというのか。
たとえば教科書会社との利権を失うとか?

 ……とまあ、いろいろ書きたいことはある。
あるが、昨日(2012年03月09日)、韓国の朝鮮N報は、こんな興味深いコラムを掲載してい
る。
題は、『無責任政治に失望、無党派層が68%に』。

日本の現状を、鋭く指摘している。

++++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++++

●東日本巨大地震:無責任政治に失望、無党派層が68%に
 極度の政治不信広がる

 「戦後最悪の危機だというのに、政治家は政争ばかり繰り返している」(35歳、会社員)
 「自民党が嫌いで民主党に投票したが、かなり失望した。
既成政党に期待することはない」(40歳、主婦)

 東日本巨大地震と福島第一原子力発電所事故の収拾が遅々として進まない中、日本では
政治全体が極度の不信を招いている。
朝日新聞が最近実施した世論調査で、民主党の支持率は17%まで低下し、自民党は12%まで
落ち込んだ。
日本国民は、民主党の災害対応能力に失望している上、何かにつけて政府の足を引っ張る自
民党に対しても、絶望同然の感情を抱いている。
時事通信による最近の世論調査では、「支持政党なし」という無党派層の比率が68.2%まで上
昇した。
1960年に世論調査が始まって以来、過去最高の数字だ。

■無責任の政治システムがむき出しに

 東京大学の木宮正史教授は、「日本政治の特徴である"無責任のシステム"が、原発事故の
収拾過程でむき出しになった」と語った。
「無責任のシステム」とは、依然として太平洋戦争を起こした人物や責任を取るべき人物につ
いて究明しようとしないなど、責任と権限が不透明な日本政治の特徴を指す。
日本の国家システムは、頻繁に変わる首相が「国の顔」の役割を果たすだけで、実際には官
僚が国家を動かすというものだった。
日本の高度成長を主導した官僚システムは、一時は世界最高水準という賛辞を受けた。
しかし、バブル崩壊後に動作不良に陥った官僚システムは、東日本大震災でそのもろさがは
っきりと浮き彫りになった。
世宗研究所の陳昌洙(チン・チャンス)博士は「官僚のマニュアルに基づいて維持されてきた日
本の政治システムは、リーダーの決断力を要する危機の状況では全く機能しないことが証明さ
れた」と語った。

■論文「日本の自殺」が再び流行

 1975年に発表された「日本の自殺」という論文が、最近『文藝春秋』などに再び掲載されるな
ど、関心を集めている。
「日本の自殺」は、リーダーシップの危機などにより、日本が内部から崩壊すると主張する論文
で、日本の現状を最も的確に予測しているとの評価を受けている。

++++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++++

●浮動票の王様

 私は自称、「浮動票の王様」。
私が動くところ、浮動票層もついて動く。
その浮動票の王様……というより、本当はその一員として、一言。

 「私たちは、たしかに絶望している」

 民主党も民主党なら、自民党も自民党。
木宮正史教授が述べていることを、箇条書きにしてみる。

(1)日本政治の特徴である"無責任のシステム"が、原発事故の収拾過程でむき出しになっ
た」と語った。

(2)「無責任のシステム」とは、依然として太平洋戦争を起こした人物や責任を取るべき人物
について究明しようとしないなど、責任と権限が不透明な日本政治の特徴を指す。

(3)日本の国家システムは、頻繁に変わる首相が「国の顔」の役割を果たすだけで、実際には
官僚が国家を動かすというものだった。

(4)日本の高度成長を主導した官僚システムは、一時は世界最高水準という賛辞を受けた。
しかし、バブル崩壊後に動作不良に陥った官僚システムは、東日本大震災でそのもろさがは
っきりと浮き彫りになった。

 その結果、

(5)世宗研究所の陳昌洙(チン・チャンス)博士は「官僚のマニュアルに基づいて維持されてき
た日本の政治システムは、リーダーの決断力を要する危機の状況では全く機能しないことが
証明された」と語った。

●私見

 順に考えてみよう。

(1)無責任システム……まったく、同感。
役人根性の第一は、余計なことはしない、管轄は守る、常に責任逃れの道を用意する。
その役人根性が、一般企業、さらには一般国民の間にまで浸透している。

(2)戦争責任……戦争責任もそうだが、江戸時代の封建時代の精算すらしていない。
いまだにあの暗黒かつ恐怖政治の時代を、美化している人が多いのには、驚かされる。

(3)官僚政治……日本が民主主義国家と思っているのは、日本人だけ。
地方の議会ですら、質問書も、答弁書も、みな、役人が書いている。
作文力のある政治家は、ほとんどいない。

(4)政治の硬直化……3月6日の各新聞は、あの厚生年金基金に、旧社保庁、および現日本
年金機構から、646人も天下りをしていたと報じている。
一事が万事。
こうした団体が、日本の社会を硬直化させている。

(5)リーダーの喪失……日本人が、総一億、「もの言わぬ従順な民」に作りあげられてしまっ
た。
その結果が、今。
だれも責任を取らない……ではなく、その前に、だれも責任を追及しない。

子どもたちの世界でも、みな、キバを抜かれたような子どもたちばかりになってしまった。
またそういう子どもほど、「できのいい子」と評価されている。
今では、ガキ大将はもちろん、腕白少年すら、いない。

●日本国債の暴落

 数日前、日銀のそれなりの地位にある人物が、こう発言した。
「2、3年後には、日本国債の暴落はあるかもしれない」と。

 が、この言葉の裏には、2つの意味がある。

 まともに取れば、「2、3年後までには、日本国債は暴落する」と解釈できる。
そうでなければ、わざわざこんな発言などしない。

 もうひとつの解釈は、こうだ。
こちらのほうが、ずっと現実味がある。
つまり「今すぐではない」と。
「今すぐではないから、あわてるな」と。
言い換えると、国債の暴落は、それほどまでにひっ迫している。
その火消しのために、そう発言した。

 もし経常収支が赤字になったら……。
もし高齢者たちが、国債を現金化し始めたら……。
もし国債の引き受け手が、国債の引き受けをしぶり始めたら……。
たとえ10%でも、外国人が国債を売り始めたら……。

 その結果として、国債の金利が、1%を超え、2%になったら……。
(現在、5年モノで、0・299%、10年モノで、0・983%。)
そのとたん、日本の国家財政は破綻する。

 とても2、3年も、もたない。
冒頭で書いたように、そのときは、一気にやってくる。
その警戒心だけは、ゆるめてはならない。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
【年長児に、かけ算の基礎と、平行について教えてみる】

「楽しく学ぶ子はよく学ぶ」(イギリスの教育格言)。
……ということで、今日は、年長児(5、6歳児)に、かけ算の基礎と、平行について、指導して
みました。
子どもたちとの会話をお楽しみください。

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【橋下大阪市長の船中8策について、考える】はやし浩司 2012−03−10

(1)天皇元首制
(2)道州制
(3)明治維新の位置づけ

●つぎは、YOUTUBE1万本!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

YOUTUBEへの動画アップ数が、3500本を超えた。
3500本!
どういうしくみになっているかは、わからない。
しかしそれだけの動画を、YOUTUBEは、無料で、保存、配信してくれる。
YOUTUBEという会社には、どんなコンピューターが置いてあるのか。
1本を、1GBとしても、1GBx3500=3500GB=3・5テラバイト!
私の分だけで、3・5テラバイト!
すごいことだと思う。

……というか、どういうしくみになっているのか。
どういうしくみで、動画を保存しているのか。
YOUTUBEという会社は、本当に不思議な会社だと思う。

おかげで……というか、今では全世界から、アクセスがある。
YOUTUBEでは、過去30日分のアクセス数が、国別で示される。
それによれば日本が一番多いが、ついでアメリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジル、フラン
ス、台湾……とつづく。
国内、半分、外国、半分……といったところ。

で、外国の人たちは、主に、私の動画を、日本語の勉強に使っているよう。
フランスで教師をしている人からは、「方法をまねさせてもらっている」というメールが、届いた。
また中国の人からは、「息子の家庭学習に利用させてもらっている」というメールが、届いた。
そういったメールや動画は、そのつど「BW公開教室」のほうで、紹介させてもらっている。
興味のある人は、そちらのほうを見てほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『シャーロック・ホムズ』

 夕方、時間が空いた。
それを計算しながら、ワイフがこう言った。
「映画、見に行かない?」と。

 即座にOK!
このところワイフは、帳簿の整理で忙しい。
昨夜も、徹夜だった。
その気分転換。

 で、今日から公開された、『シャーロック・ホームズ』を見てきた。
このシリーズは、すべて見ている。
取って付けたような謎解き映画だが、それが結構、おもしろい。
星はすこしきびしく、3つの、★★★。

●3500本!

 で、再び、YOUTUBEの話。

 動機や理由はともかくも、3500本という数字には、まちがいはない。
いつの間にか、その数になった。
が、この先も、どんどんとふえていく。(……UPしていく。)
今の仕事をつづけているかぎり、ふえていく。(……UPしていく。)

 授業参観に来られない親たちのために、そうしている。
「宣伝」という意識は、もうない。
考えるとしたら、自分の死後。
「死んでも残るだろうか?」と。

 しかしこういうことは言える。
日本人よ、もっと目を日本の外に向けよう。

●NHK

 NHKの音楽番組に、たとえば「♪みんなの歌」や「♪名曲アルバム」がある。
ときどきそういう番組の一部が、YOUTUBEにUPされる。
が、ことNHKに関していうなら、即、削除される。……されてしまう。
実際には、NHKがYOUTUBEに抗議し、YOUTUBEのほうからユーザーに削除させているよ
う。
たいてい1か月もたたないうちに、「NHKからの申し立てにより……削除されました」という表示
が出る。

 著作権法というものがあるかぎり、これはやむを得ない措置かもしれない。
しかし、私にはどうしても納得できない。

 それがわからなければ、世界地図を見てほしい。
そこにある日本は、小さい。
本当に小さい。
島国。
私がはじめてオーストラリアへ行ったときのこと。
こんなことがあった。

 オーストラリアの学生たちが、私にこう聞いた。
「君は、どの島から来たのか?」と。

 そこで私はムッとして、こう答えた。
「島ではない。本州(メイン・コンチネント)だ」と。
そしたらまわりにいた学生たちが、ドッと笑った。
私が冗談か何かを言ったと思ったらしい。
(私は本気だったが……。)

 が、やはり日本は島国だった。
小さな島国だった。
その島国の放送局。
その放送局が著作権をもつ音楽。
そんなものを、いちいち著作権がどうのこうのといって、削除しているほうが、おかしい。
むしろ逆で、多少の著作権侵害程度のことには目を閉じ、日本の音楽を、世界に紹介したほう
が得。
日本という国を、世界に知らしめる。
その方が、得。

世界の人口は、日本の60倍!
60倍だぞ!
日本の国内で、クギ(頭)の叩きあいをして、どうする。
どうなる。

 逆に、この日本国内には、世界中の音楽が、怒涛のごとく流れ込んできている。
このままだと日本の文化は、どんどんと隅に追いやられるだけ。

●ケツの穴

 半々とはいえ、私の動画は、外国の人たちが見ている。
YOUTUBEは、つねに世界が相手。
きれいごとを言っていたのでは、世界に勝てない。
日本ではまだ少ないかもしれないが、すでに学校単位で、1000本以上もの動画をUPしてとこ
ろは、いくらでもある。
大学によっては、すべての講義を録画、UPしているところもある。

 結論から先に言えば、どうして日本人は、こうまで出るクギ(頭)を叩きたがるのか?
日本のような小さな国の中で、足の引っ張りあいをしている。
私はそういう人を、子どものころ、こう言った。
「ケツの穴が、小さい」(失礼!)と。

 さらに言えば、学校にしても、塾にしても、私のように、ビデオで授業を録画し、それをYOUT
UBEにUPしたらよい。
みなが、無料で、それぞれの授業を家庭で受けることができるようになる。
まさにインターネット・スクール!
授業料をとり、教室の中だけで授業をするという時代は、そろそろ終わりにきている。

●島国根性

 つまりこの問題は、日本人が民族的にもつ「島国根性」と密接にからんでいる。
「おらが島国の、お山の大将」。
こんなきれいごとばかり言っているから、日本はどんどんと遅れていく。
日本から技術が流出していく。
人材も去っていく。

 私も三井物産、元社員。
日本の外では、食うか食われるか。
血みどろの戦いが、繰り広げられている。
それが世界。

 一方、私は30年以上も前から、教育改革を訴えてきた。
たとえば当時ですらも、小学校入学直後には、ほとんどの子どもたちは、「算数、好き」と言っ
ていた。
が、1年もたたないうちに、ほとんどの子どもたちは、「算数、嫌い」と言い出す。
中学で学ぶ、英語にしても、そうだった。
が、この現実は、今も、同じ。
何も変わっていない。

 何かが、おかしい。
何かが、まちがっている。
が、それを具体的に訴える場所がなかった。
市販の教材を制作するという方法もあったが、それにも限界があった。
(無数の市販教材を世に出してはきたが……。)
で、今は、YOUTUBEということになった。
YOUTUBEを使えば、東京という関所を通らなくても、直、世界に、自分のしていることを伝え
られる。

 現在、私がYOUTUBEで紹介している「公開教室」は、教材からして100%、私のオリジナ
ルである。
学校の授業を、先取りしているものは、ほとんどない。
まねをしているものも、ほとんどない。
逆に、学校の方が、まねをしている。
そういう例は、多い。

 とにかく、1万本が目標!
やるしかない!

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【維新の会について、考える】

●「維新」という言葉にだまされてはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 「維新」というと、何やら「革命的なもの」を連想する。
が、「維新」は革命でもなんでもない。
その言葉に酔ってはいけない。
だまされてはいけない。

 英語では「明治維新」は、「Meiji Restoration」と訳されている。
ルイ18世の王政復古と同列に考えられている。
つまり「明治・王政復古」。
「王政(天皇制)への復古」を、「維新」という。

 橋下大阪市長は、はたしてジャンヌダルクの再来なのか。
それともヒットラーの再来なのか。

私たちはここで今一度、冷静にならなければならない。
盲目的な追従こそ、危険。
時期が時期だけに、危険。
橋下大阪市長は、いったいどういう人物なのか?

 それを判断する前に、もう一度、自分の頭の中を整理してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●天皇元首制

 橋下大阪市長は、「天皇を元首に」と考えているらしい。
元首?

●天皇制について

 少し前(2011年の末)、こんな原稿を書いた。
それをそのまま紹介する。
当時は、「女性天皇」が、話題になっていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●女性天皇

 週刊誌(新聞広告)は、相変わらず女性天皇の問題について論じている。
すでに国民の70%以上(各種世論調査)が、女性天皇を支持している。
が、ここで重要なのは、天皇自身の意思。
天皇自身はどのように考え、願っているのか。
私たちはもう少し天皇の気持ちを、大切にすべきではないのか。

 即位に際しても、そうだ。
日本国の象徴であるということは、想像を絶する重責である。
そんな重責を、天皇自身の意思を無視したまま、一方的に押しつけるのも、どうか。
あるいは一度でも、「重責を担(にな)っていただけますか」と、天皇に聞いたことがあるのだろ
うか。
それもしないで、外野席だけが、ワイワイと勝手に騒ぐ。
ワイワイと騒いで、「これが結論です」と、一方的に天皇家の人たちに、押しつける。
天皇にしても、天皇である前に、1人の人間としての「人権」がある。
その人権を踏みにじりながら、後継問題を論じて、どうする?
どうなる?

 さらに一歩踏み込めば、こうも言える。
「どうして日本人は、こうまで『格式』にこだわるのか」と。
今は、もう、そんな時代ではない。
もっと皆が、(もちろん天皇家の人たちも含めて)、自由に自分の意見を言い、したいようにす
る。
その結果としてなら、女性天皇が誕生しても、何もおかしくない。
国民も、(もちろん私も)、喜んでそれを支持する。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 沼津 第三十八番地 丸天 はやし浩司 三島 ドーミンイン・ホテル は
やし浩司 リビドー 性的エネルギー 心的エネルギー 天皇の人権 皇室問題 はやし浩司 
天皇 天皇の意思 女性天皇 皇位継承問題)2011/12/08記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

似たような内容だが、2010年にも
こんな原稿を書いていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●北朝鮮

 北朝鮮では、どうやら三代目独裁者が決まりつつある。
それについて、韓国や中国につづいて、アメリカまでもが、「おかしい」と
言い出している。

「世襲で指導者を決めるのは、おかしい」と。
(中国は「認める」というような発言を繰り返しているが・・・。)

 が、この日本は、ただひたすら沈黙。
何しろこの日本には、天皇制という制度がある。
へたに「おかしい」と言おうものなら、世界中から、「じゃあ、お前のところは何だ!」とやり返さ
れてしまう。
だから沈黙。
沈黙あるのみ。

 ただこういうことを書いても、この日本では公開処刑になることはない。
一応の言論の自由は、保障されている。
が、北朝鮮でこんなことを書けば、即、公開処刑。

しかしたった65年前には、そうでなかった。
天皇制を批判しただけで、即、投獄。
獄死する人も、少なくなかった。
ひょっとしたら、つぎの65年後には、またそうなるかもしれない。
それを忘れてはいけない。

●天皇制について

 もう少し、自分のことを書く。

 田舎の小さな自転車屋だったが、3代つづいた「本家」。
そのせいもあって、昔から、私の家は、「林家」と、「家(け)」がつけられていた。
大正時代の昔のことは知らない。
しかし私が中学生のころには、斜陽の一途。
家計はあってないようなもの。

 最近になって私の実家が、伝統的建造物に指定されたとか。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物として残したわけではない。
改築したくても、その資金がなかった。

 が、その社会的負担感には、相当なものがある。
「お前は、林家の跡取りだから、しっかりと責任を果たせ」と。
だから結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り続けてきた。
当時はまだ、そういう時代だった。

 で、この話と天皇制とどう関係があるか?

 つまり天皇もたいへんだろうな、ということ。
まわりの人たちは、「天皇だから幸福なはず」という『ハズ論』だけで片づけてしまう。
しかし当の天皇自身はどうなのか。
皇族の人たちは、どうなのか。
その社会的負担感には、相当なものがあるはず。
街の中を、ひとりで自由に歩くこともできない。

 「生まれながらにして天皇」というのは、かわいそうというより、酷。
自分の人生を自分の意思で生きることができない。
つまり私が書きたいのは、こういうこと。

一度は、天皇や皇族の人たちにこう問うてみる。
「たいへんな重責とは思いますが、引き受けていただけますか?」と。
そのとき天皇が、「いいですよ」と言えば、それでよし。
しかしそうでなければ、別の生き方をみなで、用意する。
私は何も、天皇制に反対しているわけではない。
天皇個人の人格と人権に、もっと配慮してもよいのではと考えている。
(以上、2010年10月27日記)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●世界の皇族たち

 学生時代、私は、世界の皇太子や王子と同じカレッジで過ごしたという経験がある。
1庶民としては、稀有な経験をさせてもらった。
そういう経験を、「世にも不思議な留学記」として、発表した(中日新聞)。
そのときの原稿を、そのままここに載せる。

皇族(王族)と呼ばれる人たちの気持ちを理解する、その手掛かりにはなるのではないか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

隣人は西ジャワの王子だった【1】

●世話人は正田英三郎氏だった

 私は幸運にも、オ−ストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究生
活を送ることができた。

 世話人になってくださったのが正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。

 おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。私の寝泊りした、インター
ナショナル・ハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。
西ジャワの王子やモ−リシャスの皇太子。
ナイジェリアの王族の息子に、マレ−シアの大蔵大臣の息子など。
ベネズエラの石油王の息子もいた。

 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。
「インドネシア語か、それとも家族の文字か」と。

 「家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあった。
また「マレ−シアのお札には、ぜんぶうちのおやじのサインがある」と聞かされたときにも、驚い
た。
一人名前は出せないが、香港マフィアの親分の息子もいた。
「ピンキーとキラーズ」(当時の人気歌手)が香港で公演したときの写真を見せ、「横に立ってい
るのが兄だ」と笑った。

 今度は私の番。
「おまえのおやじは、何をしているか」と聞かれた。
そこで「自転車屋だ」というと、「日本で一番大きい自転車屋か」と。
私が「いや、田舎の自転車屋だ」というと、「ビルは何階建てか」「車は、何台もっているか」「従
業員の数は何人か」と。

●マダム・ガンジーもやってきた

 そんなわけで世界各国から要人が来ると、必ず私たちのハウスへやってきては、夕食を共に
し、スピ−チをして帰った。
よど号ハイジャック事件で、北朝鮮に渡った山村政務次官が、井口領事に連れられてやってき
たこともある。

 山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンに来ていた。
その前年にはマダム・ガンジ−も来たし、『サ−』の称号をもつ人物も、毎週のようにやってき
た。
インドネシアの海軍が来たときには、上級将校たちがバスを連ねて、西ジャワの王子のところ
へ、あいさつに来た。
そのとき私は彼と並んで、最敬礼する兵隊の前を歩かされた。

 また韓国の金外務大臣が来たときには、「大臣が不愉快に思うといけないから」という理由
で、私は席をはずすように言われた。
当時は、まだそういう時代だった。
変わった人物では、トロイ・ドナヒュ−という映画スタ−も来て、一週間ほど寝食をともにしてい
ったこともある。
『ル−ト66』という映画に出ていたが、今では知っている人も少ない。

 そうそう、こんなこともあった。たまたまミス・ユニバースの一行が、開催国のアルゼンチンか
らの帰り道、私たちのハウスへやってきた。
そしてダンスパ−ティをしたのだが、ある国の王子が日本代表の、ジュンコという女性に、一目
惚れしてしまった。
で、彼のためにラブレタ−を書いてやったのだが、そのお礼にと、彼が彼の国のミス代表を、
私にくれた。

 「くれた」という言い方もへんだが、そういうような、やり方だった。
その国では、彼にさからう人間など、誰もいない。
さからえない。
おかげで私は、オ−ストラリアへ着いてからすぐに、すばらしい女性とデートすることができた。
そんなことはどうでもよいが、そのときのジュンコという女性は、後に大橋巨泉というタレントと
結婚したと聞いている。

 ……こんな話を今、しても、誰も「ホラ」だと思うらしい。
私もそう思われるのがいやで、めったにこの話はしない。
が、私の世にも不思議な留学時代は、こうして始まった。一九七〇年の春。
そのころ日本の大阪では、万博が始まろうとしていた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

アン王女がやってくる!【6】

●セントヒルダでのダンスパーティ
 
 暑さがやわらいだある日。ビッグニュースが、ハウスを襲った。

 エリザベス女王が、アン王女を連れて、メルボルンへやってくるというのだ。
しかもアン王女が、セントヒルダ(女子)カレッジで、ダンスパーティをするという。

 オーストラリアの学生たちは、「ぼくが、アンをものする」と、それぞれが勝手なことを言い始
めた。
アン王女はそのときハイティーン。
美しさの絶頂期にあった。

 しかし、そのうち、セントヒルダへ行けるのは、限られた人数であることがわかってきた。
今度は、誰が行けるか、その話題でもちきりになった。
が、結局は、行けるのは、王族や皇族関係者ということになってきた。

 私にも寮長のディミック氏から打診があったが、断るしかなかった。
だいたいにおいて、ダンスなど知らない。
一度、サウンド・オブ・ミュージックという映画の中で、その種のダンスを見たことがあるだけ
だ。
それに衣装がなかった。

 それまでもたびたびハウスの中で、夜会(ディナーパーティ)はあったが、私は、いつも日本の
学生服を着て出席していた。
日本を離れるとき、母が郷里の仕立て屋でスーツを作ってくれたが、オーストラリアでは、着ら
れなかった。
日本のスーツは、何と表現したらよいのか、あれはスーツではない。
毛布でつくったズタ袋のような感じがした。

 その日の午後。選ばれた学生は、うきうきしていた。
タキシードに蝶ネクタイ、向こうではボウタイと呼んでいたが、それをしめたりはずしたりして、
はしゃいでいた。
五、六人の留学生に、同じ数のオーストラリア人の学生。

 留学生はともかくも、オーストラリア人の学生は、皆、背が高くハンサムだった。
体をクルクルと丸めてあいさつをする、あの独特のあいさつのし方を、コモンルームで何度も
練習していた。
「王女妃殿下様、お会いできて、光栄に存じます」とか。
人選からはずされた連中は連中で、「種馬どもめ」と、わざと新聞で顔を隠して、それを無視し
ていた。

 そのとき仲のよかったボブが、横から声をかけてくれた。

「ヒロシ、お前は行くべきだ。イギリスなど、日本の経済協力がなければ、明日にでも破産する」
「ああ、しかしぼくには、あんな服がない……」
「服? ああ、あれね。あれは全部、貸衣装だ。知らなかったのか。コリンズ通りへ行けば、いく
らでも借りられる」
「貸衣装?」
「そうだ。今度、案内するよ」
「ああ、君の親切に感謝する」と。

●そしてエリザベス女王は帰った……

 夜になって、ローヤルパレードの通りを歩いてみた。いつものように静かだった。
特に変わったことはなかった。
行きつけのノートン酒場も、ふだんのままだった。
いつもの仲間が、いつものようにビールを飲んでいた。

 途中、セントヒルダカレッジのほうを見ると、カレッジ全体に、無数のライトがついていた。
それがちょうどクリスマスツリーのように輝いていた。
私はそれを見ると、何か悪いことをしたかのように感じて、その場をそそくさと離れた。

 その翌日の夕方。
エリザベス女王とアン王女は、メルボルンを離れた。カレッジから少し離れたミルクバーのある
通りが、その帰り道になっていた。
私たちはその時刻に、女王が通り過ぎるのを待った。

 夕暮れがあたりを包んでいた。
暗くはないが、顔がはっきり見える時刻でもなかった。
女王は大きなオープンカーに乗って、あっという間に、通り過ぎていった。
本当に瞬間だった。
と、同時に、女王の話も、アン王女の話も、ハウスから消えた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

王子の悩み【11】

●王子や皇太子は皆、偽名!

 ハウスの留学生は、各国の皇太子や王子、あるいは、皇室や王家の子息ばかりだった。
ほかの連中は、その国のケタはずれの金持ちばかり。
このことは前にも書いた。

 しかし日本へ帰国したあと、その国から来た人に、そういう男を知っているかと聞いても、皆、
「知らない」「そんな男はいない」と言う。
そんなはずはない。
そこである日、それも五年ほどもたってからのことだが、同じハウスにいたオーストラリアの友
人にそのことを聞くと、こう教えてくれた。

 「ヒロシ、君は知らなかったのか。彼らは皆、偽名を使っていた」と。
つまり警護上の理由で、ハウスでは、偽名を使っていたというのだ。
しかも私が彼らの仲のよい友人だと思っていた男たちは、友人ではなく、それぞれの国の大使
館から派遣された、護衛官であったという。

 もちろん私は本名で通した。
護衛官など、私にはつくはずもない。
が、こんなことがあった。

 ハウスでは、毎晩二人一組で電話交換をすることになっていた。
外からかかってきた電話を、それぞれの部屋につなぐ係だ。
その夜は、私とM国の王子が当番になっていた。
しかし彼は約束の時間になっても来なかった。

 そこで私は彼の部屋に電話をつなぎ、「早く来い」と命令をした。
しかしやってきたのは、彼の友人(あとで護衛官とわかった男)だった。
私は怒った。
怒ってまた電話をつなぎ、「君が来るべきだ。
代理をよこすとは、一体、どういうことだ」と叱った。

 やがて「ごめん、ごめん」と言ってその王子はやってきたが、それから数日後のこと。
その友人が私の部屋にやってきて、こう言った。
「君は、わが国の王子に何をしているのか、それがわかっているのか。
モスリム(イスラム教)には、地下組織がある。
この町にもある。
じゅうぶん気をつけろ」と。
その地下組織では、秘密の裁判はもちろんのこと、そこで有罪と決まると、誘拐、処刑まです
るということだった。

 その王子。
どういうわけだか、私には気を許した。
許して、いろいろなことを話してくれた。彼の国では、日本の女性とつきあうことが、ステータス
になっているとか、など。
夜遊びをしたこともある。
モグリの酒場に忍び込んで、禁制の酒を一緒に飲んだこともある。

 が、一見、華々しく見える世界だが、彼は、王子であるがゆえに、そこから生ずる重圧感にも
苦しんでいた。
ほんの一時期だけだったが、自分の部屋に引きこもってしまい、誰にも会おうとしなくなってし
まったこともある。
詳しくは書けないが、たびたび奇行を繰り返し、ハウスの中で話題になったこともある。

●「あなたはホテルへ帰る」

 そうそう私が三〇歳になる少し前のこと。
私は彼の国を旅行することになった。
旅行と言っても、ほんの一両日、立ち寄っただけだが、彼が王族の一員として、立派に活躍し
ているのを知った。
街角のところどころに、王様と並んで、彼の肖像画がかかげられていた。

 それを見ながら、私がふと、タクシーの運転手に、「彼はぼくの友だちだ」と言うと、運転手は
こう言った。
「王子は、私の友だち。あなたの友だち。みんなの友だち」と。
そこで私が「彼と一緒に勉強したことがある」と言うと、「王子は、私とも勉強した。あなたとも勉
強した。みんなと勉強した」と。

 そこでさらに私が、「彼の家へ連れていってほしい。彼をびっくりさせてやる」と言うと、「あなた
はホテルへ帰る。私は会えない。あなたも会えない。誰も会えない」と。
まったく会話がかみ合わなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ルイス・アレキサンドリア【17】

●ハウスでのパーティ

 話が前後するが、私がハウスへ入ったちょうど、その夜のこと。
ハウスでダンスパーティがあった。
私にすれば、右も左もわからないというような状態だった。

 私はミスインターナショナルの一行だと聞いていたが、ミスユニバースだったかもしれない。
一九七〇年のはじめ、アルゼンチンのブエノスアイレスであったコンテストだ。

 その一行が、ハウスへやってきて、ダンスパーティを開いた。
その中に「ジュンコ」という日本の女性もいた。その女性はその後、大橋巨泉というテレビタレ
ントと結婚したと聞いているが、それはともかくも、その夜にルイスに会ったわけではない。
その翌日の夕方、インドネシアの西ジャワの王子が、ルイスを私に紹介してくれた。

 私はもともと、もてるタイプの男ではない。
どこから見ても、おもしろくない顔をしている。
背も低い。
メガネもかけている。
その上、まだ言葉もじゅうぶん、話せなかった。

 その私がルイスと、それから一週間の間、毎日、デートを繰り返した。
今から思うと不思議な気がする。
現実にあったことというよりは、夢の中のできごとという感じがする。
いつも誰かが車で私たちをあちこちへ案内してくれていた。
だれの車だったか、どうしても思い出せない。

 王子の車だったかもしれない。
運転してくれていたのは、多分、インドネシアの大使館の館員だったと思う。
私たちはその車で、インドネシアレストランへ行ったり、美術館を回ったり、スライドパーティに
行ったりした。
スライドパーティというのは、誰かが外国を旅行した際に撮ってきたスライドを、見せてくれると
いうパーティだった。

●ルイス・アレキサンドリア

 ルイスは背が高く、美しい人だった。
ただ当時の私は、そういう女性の美しさを理解するだけの「力」がまだなかった。

 金沢の下宿を飛び出して、まだ一週間もたっていなかった。
写真ですら、そういう女性を見たことがない。
だから私はルイスに圧倒されるまま、つまり何がなんだかわからないまま、デートを重ねた。
私にしてみれば、観光気分だった。

 しかもルイスが私に親切だったのは、それは彼女のボランティア精神によるものだと思ってい
た。
が、一週間たち別れるとき、ルイスは、私の目の前でスーッと涙をこぼした。
そしてそのとき、ルイスは、私に一本の金色のかんざしをくれた。
コンテストでもらった賞品だと、ルイスは言った。
私はそれに戸惑ったが、それほど深く考えなかった。少なくとも私は笑って、ルイスと別れた。

 ルイスはインドネシアへ帰ってから、数回手紙をくれたが、私は返事を書かなかった。
毎日が嵐のように過ぎていく中で、やがて私はルイスのことを忘れた。
が、ある日。
半年ぐいらいたってからのことだが、自分の部屋で何もすることもなくぼんやりしていると、引き
出しの中に、そのかんざしがあるのがわかった。

 私はそのかんざしを手にとると、どういうわけだか、そのかんざしをナイフで削りはじめた。
キラキラと金色に輝くかんざしだった。
私はメッキだとばかり思っていた。
が、いくら削っても、その金色の輝きは消えなかった。

 私はそれを知ったとき、何とも申し訳ない気持ちに襲われた。
私はルイスの心を、もてあそんだのかもしれない。
当時の私は自分の心がどこにあるかさえわからないような状態だった。
静かに女性の心を思いやるような余裕は、どこにもなかった。
そんな思いが、心をふさいだ。

 ルイス・アレキサンドリア。
これは彼女の実名だ。

 彼女は当時、ジャカルタの旅行代理店に勤めていた。
もしルイスの消息を知っている人がいたら、教えてほしい。
あるいはもしルイスを知っている人がいたら、「あのときのヒロシは、今、浜松に住んでいる」と
伝えてほしい。
今度は、私が、日本料理をごちそうする番だ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

非日常的な日常【19】
 
●ケタ違いの金持ちたち

 王族や皇族の子弟はもちろんのこと、公費留学生は別として、私費で留学してきたような連
中は、その国でもケタ違いの金持ちばかりだった。

 アルジェリアのレミ(実名)、ベネズエラのリカルド(実名)などは、ともにその国の石油王の息
子だった。
フィージーから来ていたペイテル(実名)もそうだった。
しかしその中でも異色中の異色は、香港から来ていたC君という学生だった。
実名は書けない。
書けないが、わかりやすく言えば、香港マフィアの大親分の息子ということだった。

 彼の兄ですら、香港の芸能界はもちろんのこと、映画、演劇などの興行を一人で牛耳ってい
た。
ある日C君の部屋に行くと、彼の兄が「ピンキーとキラーズ」(当時の日本を代表するポップシン
ガー)や布施明と、仲よく並んで立っている写真があった。
彼らが、香港で公演したときとった写真ということだった。

 いつかC君が、「シドニーにも、おやじの地下組織がある。何かあったら、ぼくに連絡してくれ」
と話してくれたのを覚えている。

●インドネシア海軍の前で閲兵

 こういう世界だから、日常の会話も、きわめて非日常的だった。
夏休みに日本でスキーをしてきたという学生がいた。
話を聞くと、こう言った。

 「ヒロシ、ユーイチローを知っているか」と。
私が「ユー……」と口ごもっていると、「ユーイチロー・ミウラ(三浦雄一郎、当時の日本を代表
するスキー選手)だ。ぼくはユーイチローにコーチをしてもらった。君はユーイチローを知ってい
るか?」と。
しかも「日本の大使館で大使をしている叔父と、一緒に行ってきた」などと言う。

 そういう世界には、そういう世界の人どうしのつながりがある。
そしてそういうつながりが、無数にからんで、独特の特権階級をつくる。
それは狂おしいほどに甘美な世界だ。

 一度、ある国の女王が、ハウスへやってきたことがある。
息子の部屋へ、お忍びで、である。
しかしその美しさは、私の度肝を抜くものだった。
私は紹介されたものの、言葉を失ってしまった。
「これが同じ人間か……」と。

 あるいはインドネシア海軍がメルボルン港へやってきたときのこと。
将校以下、数一〇名が、わざわざバスに乗って、西ジャワの王子のところへ挨拶にやってき
た。
たまたま休暇中で、ハウスにはほとんど学生がいなかったこともある。
私はその王子と並んで、最敬礼をする将校の前を並んで歩かされた、などなど。

●やがて離反

 が、私の心はやがて別の方へ向き始めた。
もう少しわかりやすく言えば、そういう世界を知れば知るほど、それに違和感を覚えるようにな
った。
私はどこまでいっても、ただの学生、あるいはそれ以下の自転車屋の息子だった。

 一方、彼らはいつもスリーピースのスーツで身を包み、そのうちのまた何人かは運転手つき
の車をもっていた。
そういう連中と張りあっても、勝ち目はない。
仮に私が生涯懸命に働いても、彼らの一日分の生活費も稼げないだろう。

 そう感じたとき、それは「矛盾」となって私の心をふさいだ。
最近になって、無頓着な人は、「そういう王子や皇太子と、もっと親しくなっておけばよかったで
すね」などと言う。
「旅行したら、王宮に泊めてもらいなさい」と言う人もいる。
今でも手紙を書けば、返事ぐらいは来るかもしれない。

しかし私はいやだ。
そういうことをしてペコペコすること自体、私にとっては敗北を認めるようなもの。

 やがて私は彼らとは一線を引くようになった。彼らもまた、私がただの商人の息子とわかる
と、一線を引くようになった。
同じ留学生でありながら、彼らは彼らにふさわしい連中と、そして私は私にふさわしい連中と、
それぞれグループを作るようになった。
そしてそれぞれのグループは、どこか互いに遠慮がちになり、やがて疎遠になっていった。

(以上、「世にも不思議な留学記」より。
さらに読んでくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html )

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●正田英三郎氏との思い出

 東京へ行くたびに、そして正田英三郎氏に会うたびに、正田氏は、東京商工会議所の近くの
ソバ屋へ連れていってくれた。
ときどき坂本二郎氏(坂本竜馬の直系のひ孫氏)も、いっしょだった。
そのときいろいろな話を聞いた。
が、その内容については、ここには書けない。

 ただ今にして思うと、なぜ、正田氏が、商工会議所の中に自分の部屋をもっていたかが、理
解できる。
大通りをはさんで、目の前は、皇居。
美智子妃殿下にとっても、たいへんつらい日々がつづいていた。
ただいつもこう思っていた。

 「いつか、それなりの人間になったら、正田氏を浜松へ招待しよう」と。
が、その日は最後まで、来ることはなかった。
私は正田氏の訃報を、この浜松で、聞いた。
それで終わった。

 だからこそ、余計にこう思う。
私たち日本人は、もう少し謙虚になってもよいのではないか、と。
「一度は、天皇家の人たちに、重責を担っていただけますかと聞くのは大切」と書いたのは、そ
ういう理由による。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

明治維新は、本当に、バラ色の「維新」だったのか。
それについて考えてみたい。
これを読んでもらえば、「維新」という言葉がもつ幻想を、
少しは訂正してもらえるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【明治維新後の日本の教育】

●学校に通う意味・青年の意識調査より

●内閣府(2009年)の調査結果より

なぜ、あなたは学校に通うか?
その答がつぎ。

++++++++++++++++++

●日本は「友達との友情をはぐくむ」、韓国は「学歴や資格を得る」、アメリカ、イギリス、フラン
スは「一般的・基礎的知識を身に付ける」がもっとも高い。

●「友達との友情をはぐくむ」:

日本(65.7%)、
韓国(41.2%)、
イギリス(40.2%)、
アメリカ(39.2%)、
フランス(16.3%)

●「自由な時間を楽しむ」:
日本(32.5%)、
アメリカ(26.8%)、
イギリス(22.7%)、
韓国(14.7%)、
フランス(11.2%)

●「職業的技能を身に付ける」:
イギリス(44.6%)、
フランス(43.5%)、
アメリカ(42.8%)、
韓国(37.0%)、
日本(30.6%)

●「一般的・基礎的知識を身に付ける」:

アメリカ(79.1%)、
フランス(66.9%)、
イギリス(63.0%)、
日本(55.9%)、
韓国(44.9%)

詳しくは……
http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/worldyouth8/pdf/gaiyou.pdf

++++++++++++++++++

●意識のちがい

 高等教育に対する意識のちがい。
それが内閣府の調査結果によく表われている。
平たく言えば、日本の青年は、「遊ぶため」。
欧米の青年は、「社会へ出てから、生きていかれる人間になるため」。
「職業的技能を身につけるため」という意識が強い。

 役にたつかたたないかということになれば、日本の教育は役にたたない。
かなり改善されたとはいえ、英語教育がそうだった。(……今も、そうだ。)
つまり日本の教育は、英語にかぎらず、社会にしても、国語にしても、数学にしても、理科にし
ても、将来、その道の学者になるためには、たいへん機能的にできている。
が、将来、学者になる子どもは、いったい、何%いるのか?
「基礎学力」という名前に隠れて、その一方で、「教育とは役にたつものではない」という、非実
用主義が常識化している。

●役にたつ教育へ

 アメリカの中学では、たとえば数学にしても、「中古車の買い方」というテーマで学習に入る。
その過程で、小数計算の仕方や、金利の損得の判断などを順に教えていく。
が、この日本では、一次方程式だの、一次関数だの、はたまた合同だの相似だの……。
私など高校を出てから、方程式なるものを、日常生活の場で使ったことなど、ただの一度もな
い。
サインやコサイン(私たちの時代には、中学2年で、サイン、コサインを勉強した)にしても、さら
に、ない。

 が、これは教育の問題ではない。
それを学ぶ子どもたちの意識の問題ということになる。
子どもたちを育てる親の意識の問題ということになる。
「なぜ、子どもを大学へやるか?」と聞かれたら、親は何と答えるだろうか?
今でも、大半の親は、こう答えるにちがいない。

「学歴を身につけるため」と。

●身分制度の名残(なごり)

 江戸時代から明治時代へ。
今は、坂本龍馬に踊らされているから、わからないかもしれない。
なにやら坂本龍馬が、革命の旗手であったかのようにとらえられている。
しかし明治維新は、「革命」でも何でもない。
英語では、「Restoration」と訳されている。
つまり「王政復古」。
坂本龍馬は、民衆のために戦った人ではない。
民主主義を求めて戦った人でもない。
「王政復古」、つまり「天皇の復権」のために戦った人に過ぎない。

 そういう歴史的背景も学ばず、「龍馬ブーム」!
もし徳川時代がまちがっているというのなら、一度、封建時代を精算したらよい。
が、それもしない。

 わかりやすく言えば、明治維新は、徳川家から天皇家への、首のすえかえに過ぎなかった。
その一例が、現在の学歴制度に残っている。
つまり身分制度。
当時の為政者たちがもっとも腐心したのは、江戸時代の身分制度をいかにして、明治政府に
バトンタッチするか、であった。
が、方法がなかったわけではない。

 明治時代が11年も過ぎたころでさえ、東京大学の学生の75%以上が、華族、氏族の師弟
で固められた。
たいはんの庶民は、尋常小学校どまり。
それ以上となると、父親の1か月の給料をもってしても、教科書すら買うことができなかった。

 また県知事(県令)は、当時の自治省から派遣されるしくみになっていた。
選挙など、形だけ。
(現在でも、大きくみれば、その流れの中にある。)

++++++++++++++++++

以前、書いた話と同じになりますので、
以前書いた原稿を、転載します。
一部重複しますが、許してください。

++++++++++++++++++

【学歴制度】

● 5か条の御誓文

+++++++++++++++++++

1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、 政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、 みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、 みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、 これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、 新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

+++++++++++++++++++++

●平等

 明治維新の中でもっとも注目すべきは、『四民平等』。
が、あの時代。
「平等」などということは、もとからありえなかった。

 天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。

それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもの希望

 話は少し脱線する。
まず、傍証。
傍証の補強。

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。
韓国は特技系の仕事に関心がある。
米国では特技や専門技術系の職業に人気があり、普通のサラリーマンになる願望が最も弱
い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。
しかも今、どんな公務員試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。
さらに公務員試験を受けるための予備校まである。
そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。
もちろん退職金も、年金も、満額支給される。
さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。
そこに5年間勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。
ごくふつうの自衛官ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。
(だからといって、その人個人を責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。
H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。
「市役所の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。
「お前も、公務員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。
しかしこの日本では、今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。
数がふえるだけならまだしも、公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員
たちによって管理されることを意味する。
自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。
ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。
しかし本当に、そうか。
あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。

(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】

 ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ど
もが、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。
日本と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。
しかし日本や韓国の子どもには、それがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。
いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけても、子どもたちは、こう言う。
「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。
幸福になるにも、無数の道がある。
子どもの世界も、同じ。
そういう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。
しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。
現状にそぐわなくなってきている。
明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。
仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強するという
ことも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。
こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥である。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。
「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」という目
的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。
「私は、もう終わりましたから」と。
私が、「お母さん、あなたたちも勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。
新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。
なのに、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。
そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使った。
「革命」という意味をこめたが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。
ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったにちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。
しかし一般庶民にとっては、教科書や本すら、満足に購入することができなかった。
だから結局、大学まで出られるのは、士族や華族、一部の豪族にかぎられた。
明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約75〜80%が、士族、華族の師弟
であったという記録が残っている。
(たった6・4%の士族、華族が、約75〜80%を占めていたのだぞ!)

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の県令(知事)となって、派
遣されていった。
選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。
変っていないことは、実は、あなた自身が、一番、よく知っている。
たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そして国会議員の大半も、み
な、元中央官僚である。
(だから、それがまちがっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。
あるいは大半の日本人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らない
のではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 
私もこの国に住んで、56年になるが、つくづくと、そう思う。

++++++++++++++++++++++

つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
今まで書いてきたことの、ベースとなった原稿です。

++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

 インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。
どこかの国のカルト信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。
その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。
そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。
学校出の教師の給料が、15〜30円、県令(現在の県知事)の給料が、250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。
そして今に見る、学歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚
政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。
各県にある教育委員会が、支部本山。
そして学校が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。
教育はだれの目にも必要だったし、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。
どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎ
ている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。
そうでない人は、何かにつけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。
多すぎる。
親たちは日常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。
だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。
それだけ公教育の荒廃が進んでいるということになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。
今の、この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子ど
もたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。
そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。
それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。
ウソだと思うなら、あなたの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。

(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省 はやし浩司 県令 士族 華族)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。
(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。
年長児の大半も、自分の鼻先をさす。
しかし年中児になると、それが乱れる。
つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられな
くても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。
よく誤解されるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はる
かに多い。
どれくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多い
かしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。
あるいは子どもというのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。
しかしむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。
だれが育てるというのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、
必要以上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはってい
く。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。
全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。
「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。
あるいは何を教えていないだろうか。
そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。
それを少しだけここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 
幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会 はやし浩司 県令 自治省 坂本龍
馬)

●最後に……

 日本の教育は、基本的な部分で、おかしい。
その(おかしさ)は、ここに書いたとおりである。
だから青年たちは、「遊ぶ」。
もとから学ぶという意識もないまま、遊ぶ。
その結果が、内閣府の調査結果ということになる。

 もう一度、冒頭の数字を、じっくりとながめてみてほしい。
あなたにも、そのおかしさが、わかるはず。
2010/07/19記


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【橋下大阪市長の暴走】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

長い前置きになった。
さて、本題。
私は、「維新」という名前に違和感を覚えながらも、橋下大阪市長の言動に注目してきた。

が、このところ、どうも様子がおかしい。
「維新の会」といい、自らを平成の坂本竜馬と位置づける(?)。
先にも書いたが、「維新」イコール、「革命」ではない。
そんなことを念頭に置きながら、橋下大阪市長の言動を分析してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

が、その前にもう一作。
道州制についても、自分の考えを再確認してみたい。
日付は、2006年5月になっている。
内容が一部、先に書いた原稿とダブるが、
許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●最近の話題から

++++++++++++++++

憲法改正、それに道州制の導入など。

このところ、世間の動きが、
急にあわただしくなってきた。

++++++++++++++++

 憲法改正の焦点は、何といっても天皇制。
現在の「象徴天皇」から、「国家元首」としての位置づけを、明確にしようというもの。

 しかしこれには、私は、明確に、反対しておきたい。
そもそも、どうして現行の「象徴天皇」ではいけないのか? 
日本が、本当に民主主義を、標榜(ひょうぼう)するなら、「天皇元首制度」は、まさに、その民
主主義の理念を根底から、否定するものと考えてよい。

 つぎに道州制の導入だが、当然のことながら、各道、各州には、「長」が選ばれることにな
る。
この世界では、「首長(くびちょう)」という。
これについて、「道州に、国の権限を大幅に移譲し……」とあるが、それを額面どおりに読んで
はいけない。

 現在の今ですら、全国の都道府県知事の大半が、元中央官僚。
副知事の大半も、国会議員の大半も、また大都市の市長の大半も、元中央官僚。

 明治時代には、士族、華族、とくに元大名の師弟は、こぞって東大から自治省をめざした。
そしてその自治省から、全国へ県令(現在の県知事)となって散っていった。

 それから100年。この図式は、今も、何も変わっていない。

 仮にもしここで道州制になったら、道、州の「長」は、さらに元官僚たちによって、独占される
ことになる。
わかりやすく言えば、「国の権限を大幅に移譲し……」というのは、選挙で選ばれた政治家た
ちの影響力を弱め、官僚たちによる国の支配を、さらに強固にしようというものである。

 その頂点に、元首としての天皇を置く。

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。
私が学んだ、オーストラリアの大学でのテキストでは、「日本は、官僚主義国家」となっていた。
「君主(ロイヤル)官僚主義国家」となっていたのもあった。

 当時の私は、それに猛反発したが、今は、ちがう。
「なるほど、そうだったのか」と思うようになった。
同じ「民主主義」という言葉を使うが、オーストラリアでいう民主主義と、日本でいう民主主義と
は、まるでちがう。
どうちがうかということについて書き出したら、キリがないが、ともかくも、ちがう。

 今、ここで天皇を元首にした道州制を導入したら、それこそ、まさに「王政復古」。
1660年にチャールズ2世が、なしとげたあの王政復古そのものということになる。

 英語では、その「王政復古」を、「the Restoration」という。
同じく、明治維新も、外国の文献では、「the Meiji Resoration」と翻訳されている。
日本では、「維新」というが、それはいわば、言葉の煙幕のようなもの。
時の政府は、その煙幕を張って、国民をだました。

 そこで、もしここで、天皇が元首になり、今の状態のままで、道州制が導入されたら、外国で
は、「the Heisei Resoration(平成王政復古)」と呼ばれるようになるだろう。
またまた明治王政復古に、逆戻り!

 戦後、日本は、当初は押つけられたものであったかもしれないが、アメリカ型西欧文明を、受
け入れた。日本国憲法も、その過程で生まれた。

 しかしここにきて、急速に、復古主義が、台頭してきた。
その種の本も、よく売れている。
(その本の売れ方も、どこか不自然だが……。)
「武士道こそ、日本が誇るべき精神の根幹」と説く人も多い。
憲法改正も、道州制の導入も、その流れの中にある。

 行政改革、つまり官僚制度の是正は、ことごとく暗礁に乗りあげてしまっている。
なぜそうなったのかということについては、今さら、改めて書くまでもない。

 もちろん私も、みながそれでよいと言うのなら、それで構わない。
が、それには前提がある。
「それでよい」と言う前に、みなが、もっと考えなければならない。
考えた末に、「よい」というのなら、私も従う。

 しかし、みなは、考えているのか? 
本当に考えているのか? 
大半の人たちは、政治の話を口にしただけで、顔をそむけてしまう。
そういう状態の中で、「まあ、いいだろう」というように、安易な結論を出すことは、日本の将来
にとって、たいへん危険なことである。

 そのツケを払うのは、結局は、つぎの世代の人たちということになる。
今、官僚となり、わが世の春を謳歌している人たちも、「つぎの世代」、つまりあなたの子ども、
あるいは孫の立場になって考えてみてほしい。

 本当に、それでよいのか、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 憲法
改正 天皇元首制 道州制の導入 日本の民主主義 民主主義)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2007年12月の原稿を、もう1作。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●何か、おかしいぞ、教育再生会議!
(The regenerated consultative conference of the 
education)

*The Liberalization of the Education

The Japanese government has been trying to control our minds all the time since the end 
of the WW2. There they have two main consultative organs, conducted by the government. 
How can they choose the members of the organs under what kind of standard they choose 
with? The Japanese government is heading toward conservatism or the way to the right-
wing like way of thinking. We need more freedom! Or do they want the Restoration of the 
Imperial Rules?

+++++++++++++++++

「空理空論」という言葉がある。
「まず、国家統制ありき」という姿勢もある。

この両者がからんで、「教育再生会議」となった。

世界の流れは、「教育の自由化」。

それに向かって、まっしぐらに進んでいる。

なにゆえに、日本の政府は、そして文科省は、こうまで教育の自由化を恐れるのか?

国民を、どう統制しようとしているのか?

とくに気になるのが、道徳教育(?)。

「道徳を(徳育)として教科化する」という。

これに対して、日本教育再生機構のY理事長は、「実現すれば道徳の時間に、おかしな平和や
人権などを教えることができなくなる」と、さっそく歓迎の意思表示。

「教科書がないから道徳は形骸(けいがい)化している。
教科書があれば何を教えるのかのコンセンサスが得られ、教育内容の水準が確保できる」と
コメントを寄せている。

しかし政府は、いったい、どういう基準で、諮問機関のメンバーを選んでいるのか?

自分たちにとって都合のよい、YESマンばかり集めて、あらかじめ用意したお膳立てに従っ
て、結論を出す。

あとはそれをもとに、「控えおろう!」と。

日本というより、日本政府は、またまた右寄りの路線に向かって、舵を切ろうとしている。

いいのか、日本! このままで!

++++++++++++++++

 「自由化」イコール、「バラバラ」という意味ではない。
またそうであってはいけない。
しかしそんなことは、常識。
明治の昔なら、いざ知らず、国民は、そんなバカではない。
アホではない。

 教科書の国定(検定も同じ)にしても、それをしているのは、先進国の中では、この日本だ
け。

 「まず、国家統制ありき」……それがこうした諮問機関の大前提。
そのおかしさに、私たち日本人が、まずそれに気づくべきではないのか。

 無数の試行錯誤の中で、失敗もあるだろう。
挫折、頓挫もあるだろう。
ときには、はげしい衝突もあるだろう。
しかしそういう山坂を越えて、日本人も、「自由」の意味を知る。
「自由」を手に入れることができる。

 いくら政府や文科省が、日本人を統制しようとしても、日本人の心は、もう別の方向を求め
て、歩き出している。
それがわからなければ、尾崎豊の「卒業」を、一度でもよいから、聴いてみることだ。

 何が、徳育教育だ! 

教科書ができれば、「実現すれば道徳の時間に、おかしな平和や人権などを教えることができ
なくなる」(?)。

 「おかしな平和や人権」とは何か? 
それを「おかしい」と言うほうが、おかしい。
「平和」や「人権」は、守って守って、守り抜いてこそ、平和であり、人権なのである。
戦時中は、「平和」とか、「人権」という言葉を口にしただけで、「非国民」と呼ばれ、問答無用
に、逮捕、投獄された。
多くの人は、拷問まで受けた。

 そういう歴史を、日本よ、日本人よ、忘れたか! 
またそういう反省もなく、「おかしい」とは、何ごとか! 
恥を知れ!

 「道徳」についても、世界の心理学者たちは、もっと科学的な視点から、考え始めている。
マズローの「道徳論」に、一度は目を通してみればよい。
しかし「孔子」だの、「論語」という言葉が出てくるところが、恐ろしい。
さらに「武士道こそが、日本が世界に誇るべき、精神的バックボーン(背骨)」と説く人までい
る。
またそうした本が、売れに売れまくっている。

 さらにさらに、天皇を「象徴」から、「元首」にという動きもある。
憲法改正は、おおむね、その方向に向かって進みつつある。
どうして21世紀の現在、「王政復古」なのか? 
しかもこの日本で!

 だいたい「再生」とは何か? 
何からの「再生」なのか? 
まさか戦前の状態にもどることを言っているのではないだろう。
このところ、私は、この言葉に、不気味さを覚えるようになっている。

【参考:以下、ヤフー・ニュース・07年12月26日版より】

 政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は25日、首相官邸で開いた総
会で第3次報告を正式に決定し、福田康夫首相に提出した。
社会人教員の増員や校長の権限強化、現在の学制「6・3・3・4制」の弾力化などの項目の実
現を掲げ、6月の2次報告でも提言した徳育の教科化を再び盛り込んだ。

 安倍前内閣時代の昨年10月に発足した再生会議は一通りの検討作業を終え、来年1月に
も総括的な最終報告をとりまとめる。

 首相は総会後、記者団に対し、「よくまとめてくださった。
3次報告でまとまった基本的な考え方を、中央教育審議会(中教審)で具体化することになる」
と述べた。

 「社会総がかりで教育再生を」をテーマにした3次報告には、「学力の向上に徹底的に取り組
む」などの7つの柱が掲げられた。

 小中一貫校の制度化検討や小学校からの英語教育実施なども提言されたが、当初目玉と
なっていた、児童・生徒が自由に学校を選択し、その数に応じて学校に予算配分する「教育バ
ウチャー(利用券)制」は、モデル事業としての実施を検討することにとどまった。

 第3次報告は、採用者の2割以上を教員免許を持たない社会人とする▽徳育の教科化▽大
学の授業の3割以上を英語で行う−などを求めているが、専門家からは賛否の声が上がっ
た。

 教員免許を持たない社会人を教員に採用することについて、日本教育大学院大学の河上亮
一教授は、「実現すれば教育現場の意識改革になるのではないか」とみている。
教育学部を卒業した教員が多い現状よりも多様な人材が教壇に立つ方が活性化するとの考
えからだ。

 文部科学省によると、全国の小中学校の教職員は70万人おり、再生会議の報告通りにす
るなら総数で14万人の社会人を迎え入れなければならないが、河上氏とは対照的にある県
の教育委員会幹部は「民間は善、公務員は悪という発想による提言だ。
待遇面で教員は決して恵まれていない。
優秀な人材が多数集まるとは思えない」と批判する。

 道徳を「徳育」として教科化することについて、日本教育再生機構の八木秀次理事長は「実
現すれば道徳の時間におかしな平和や人権などを教えることができなくなる」と歓迎。
「教科書がないから道徳は形骸(けいがい)化している。
教科書があれば何を教えるのかのコンセンサスが得られ、教育内容の水準が確保できる」と
している。

 一方で河上氏は「徳育を教科にするのなら、自分のためだけでなく、人のために尽くすことは
大切だということを社会の共通認識にする努力が必要だが、現実的には難しい」と教科化には
懐疑的だ。

 大学の授業の3割を英語で行うことは可能か。

 福島県立会津大学はコンピュータ理工学部の単科大学で、教員の4割が外国人。
授業の多くは英語で行われ、卒業論文も英文だ。
第2外国語をなくし、英語の時間を増やしている。
同大は「コンピューターは米国で発展したもの。
プログラムを理解するために英語に習熟することは不可欠な対応」と英語での授業の必要性
を説く。

 一方で、横浜国立大学の鈴木邦雄副学長は、「3割の授業を行うのは大学院なら可能だろう
が、学部で行うのは難しいのではないか。
英語の授業を用意しても、学生が履修しなかったら意味がない」と話している。

 再生会議の委員の一人、中嶋嶺雄氏が学長を務める国際教養大学(秋田県)は、すべて英
語で行う。
しかし、英語に関心の高い学生が多く入学する一方で、授業についていけない学生もいるとい
う。(櫛田寿宏)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育再生会議 第3次報告)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●さて、本論

 2012年2月に入り、新聞各紙は、橋下大阪市長の言動を、いっせいに報道し始めた。
そのまま紹介する。

『維新の会、遺産全額徴収も検討 「国家元首は天皇」明記

 橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会が事実上の次期衆院選公約「維新八策」で掲げる相
続税強化策に関し、不動産を含む遺産の全額徴収を検討していることが9日分かった。
資産を残さない「一生涯使い切り型人生モデル」を提唱、消費を促す税制に転換し、経済活性
化を図る狙い。
ただ内部に異論もあり、協議を継続する考えだ。

 国家元首は天皇と明示することも判明。
同会は10日、大阪市で開く全体会議で協議した上で、八策の概要を公表する方針だ。
現段階で数値目標はほとんど打ち出していないほか、実現可能性が疑われる項目もあり、24
日開講の政治塾でも精査を続ける』と。

●船中八策?

 さらに産経新聞は、つぎのように伝える。

『橋下氏「元首は天皇陛下」 参院議員に「船中八策」説明

 地域政党「大阪維新の会」を率いる橋下徹大阪市長は17日、参院予算委員会のメンバーと
会談。
橋下氏は、維新が次期衆院選公約として策定中の「維新版・船中八策」(維新八策)に盛り込
んだ首相公選制について、実現後も「あくまで国家元首は天皇陛下だ」との考えを示した。

 維新八策の骨子公表後、橋下氏が国会議員と議論したのは初めて。
日本では憲法上、国家元首の規定はないが、内閣法制局の見解で天皇陛下とされており、大
統領制と同じ国民の直接投票となる首相公選制導入後の元首の規定について、疑問の声が
上がっていた。

 会談では、外山斎委員(民主)が首相公選制について「大統領制とほとんど変わらない。
国家元首は首相になるのか」と質問。
橋下氏は「国民が直接選ぶことと(選ばれた首相が)国家元首であるということに論理的な必
然性はない。
天皇制のもとにおいて、国家元首は天皇陛下だ」と明言した。

 一方、維新八策で示された参院廃止についても質問が集中した。
片山虎之助委員(たちあがれ日本)は「廃止するなら衆議院がいい」と冗談を飛ばし、「改憲が
必要で簡単にはいかない」と牽制(けんせい)。
山本一太理事(自民)は「衆院も参院も廃止して一院制にすると言ってほしい」と要望した。

 橋下氏は「大阪府庁と大阪市役所が100年戦争をやってきたのと同じ状況が、衆院と参院
でもあると感じた」と皮肉り、「衆参という形は国民が望んでいない」と持論を述べた。
(産経新聞 2月18日(土)7時55分配信)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 橋下大阪市長については、もう少し言動を注意深く追いかけてみたい。
冒頭に書いたように、橋下大阪市長は、ひょっとしたら、ジャンヌダルクの再来かもしれない。
そうであれば、こんなうれしいことはない。
が、同時に、ひょっとしたら、ヒットラーの再来かもしれない。
そういう心配も、ないわけではない。

 けっして油断してはいけない。
ゲーテやシラーを生んだドイツで、その後、ヒットラーが誕生している。
第一次大戦後のドイツをうまく誘導し、ヒットラーはヒットラーになった。
今の日本の現状とよく似ている。

 失われた10年が25年になった。
社会は疲弊し、工業も先細り。
おまけに3・11大震災。
1000兆円を超える、国の借金。
あのギリシャの、100倍!

 貿易も赤字。
笛吹けど踊らずの日本経済。
どこもかしこも、不景気。
さらに少子高齢化。
『♪右を見ても、左を見ても、真っ暗闇じゃ、ござんせんか』と。

 こういうときほど、人々の心のスキをついて、超過激な政治集団が勢力を伸ばす。
英語には『悪魔は善人の顔をしてやってくる』という諺がある。

 もちろん橋下大阪市長については、わからない。
わからないが、慎重であるに越したことはない。
浮かれてブームに乗れば、やけどをするかもしれない。
ただのやけどではない。
大やけど。

 そういう警告の念をこめ、このエッセーを書いた。

 たとえば天皇の元首制と、官僚制度の是正は、基本的な部分で矛盾している。
奈良時代の昔から、官僚たちは、「天皇」という絶対的な権威者を頂点に置き、日本の政治を
牛耳ってきた。

 一方で天皇の元首制を唱え、他方で官僚政治の是正(=民主主義の完成)を説くのは、論理
的に矛盾している。
橋下大阪市長は、それに気づいているのだろうか?


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【菅直人前首相、ありがとう! あなたこそ、日本の英雄だ!】

●3−11(3・11大震災から1年)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ときどき、……というか、折につけ、よくこう思う。
「あの日さえ、なければ……」と。
あの日を境に、日本は大きく変わってしまった。
日本という「国」よりも、日本人という「人」が変わってしまった。
「人」が集合され、日本という国が変わってしまった。

いまだに晴れやらぬ、悶々とした閉塞感。
やりようのない、怒りと空しさ。
心の奥は、どんよりと曇ったまま。

本当に、あの日さえなければ……。
その思いは、だれしも、同じだろう。
ワイフも、いつもそう言っている。

が、この日本が、かくも小さな国であったとは!
この日本が、かくもぜい弱な国であったとは!

何をしても、すぐ壁に突き当たってしまう。
自信喪失?
ときに絶望感?
先の見えない不安感?
そのつど、「日本はこのまま、だめになってしまうのか」と。
そんなことまで考えてしまう。

そう、「がんばれ、日本!」とは、言う。
しかし何を、どうがんばればよいのか。
がんばるといっても、目標が見えてこない。

このところ毎晩のように、3・11大震災の報道ばかり。
それを見るたびに、気が重くなる。
あの日の悪夢が、よみがえってくる。

……私はあのあと、一日中、テレビをつけっぱなしにしていた。
それが7日ほどつづいた。
そのときのこと。
気力を支えるだけで、精一杯。
気が変になりそうだった。

今、そのときの気持ちが、そのままよみがえってくる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●3・11大震災

 そのとき私とワイフは、教室にいた。
ゆっくりとした揺れを感じた。
「地震!」と声をあげると、ワイフは、笑いながら、「あなたが揺らしているんでしょう」と。
ワイフは、揺れを感じなかった。
私は椅子に座っていた。
ワイフは立って、レッスンの準備をしていた。

私は壁を指さした。
壁にかかった絵が、ゆっくりと、本当にゆっくりと揺れていた。

 そのとき年中児だったY君が教室へ入ってきた。
いつもどおりのY君だった。
私は椅子を蹴って立ち、玄関口まで走った。
Y君を抱いた。
そのまま3階から1階へ。
「靴がない!」と、Y君は何度も叫んだ。
体をばたつかせた。
私は構わず、1階まで走り下りた。

 1階には、Y君の親がまだいた。
ほかの親たちも、そこまで来ていた。
「地震ですね」
「地震ですね」と。

 長い揺れで、30〜40秒はつづいた。
横揺れだった。
そのことから、私は遠くで大地震が起きたと察知した。
関東大震災の話を、父や母から聞いていたこともある。
そのときも、岐阜県でも、長い横揺れがつづいたという。
私は1階までおりたとき、関東地方での大地震を想像した。

●津波

 3時から、通常のレッスンを始めた。
が、異変が起きたのは、そのあとからだった。
4時15分から、つぎのレッスンがあった。
が、つぎつぎと欠席の連絡が入った。
が、私はこう思った。
「たいした地震でもないのに……」と。
そのときはまだ、津波の被害のことは知らなかった。

津波の被害を知ったのは、夕方、家に帰ってから。
テレビでそれを見た。
体がガクガクと震えた。
それはまさに、私の想像を絶する光景だった。

 その夜は朝まで、一睡もせず、テレビの画面を見つづけた。

●カリアック浜名湖(ホテル)

 暗い話は、やめよう。

 カリアック浜名湖……恐らく浜松に住んでいる人でも、このホテルのことは知らないだろう。
私も、ごく最近まで知らなかった。
ネットであちこちを検索していて、はじめて知った。

 場所は、浜名湖ガーデンパークのすぐ北側。
ガーデンパークからは、車で2〜3分。
住所は、村櫛町4597。
電話は、053−484−4155。

日本商工会議所関連の施設らしいが、どういう関係なのかはわからない。
見た感じ、バブル時代に官費で建築された(?)、旧豪華ホテル。
内風呂も職人による、タイル張り。
「旧」というのは、豪華だが、それなりに疲れた部分もあるという意味。
が、料金に照らしあわせるなら、文句なしの星4つの、★★★★。
 
 浜名湖をはさんで反対側に、ローヤルホテルもある。
そちらもよいが、静かに、のんびり……という方には、このホテルを勧める。
私たちは、いつもつぎのようにして、利用している。

 夕食は、同じ村櫛町にある、大村屋でとる。
このあたりでも、本気度120%の、和食料理店。
ときどきこの店に行くようになって、もう30年。
沼津にある魚市場の魚料理店に、ひけをとらない。
豪華で、安い。
もちろん、おいしい!

で、その足で、このカリアックへ。
大村屋からカリアックまでは、車で、5〜7分程度。
朝食のみのコースを頼めば、1人1泊、8000円程度。
大村屋での夕食代を含めて、9200〜300円程度。
(大村屋の定食がお勧め。量も多い。)
 
 なお村櫛町の北が、舘山寺。
舘山寺温泉のある舘山寺。
パルパルという遊園地もある。
子どもと来れば、1日中、楽しめる。

 今夜は、そのカリアックで1泊する。
パソコン三昧、読書三昧。
私にとっては、至極の時。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 カリアック 村櫛 ホテル)

●「まるわかり・時事用語」(新星出版社)

 ここへ来る途中、書店で本を買った。
「まるわかり・時事用語」(新星出版社刊)。
パラパラと適当に読んでいるだけで、楽しい。
たった今、「38:ゼロ金利政策」(P78)というページを読んだ。

 経済の世界は、知らないことだらけ。
それだけにおもしろい。
興味深い。

 考えてみれば、最近は、買う本といえば、この種の本ばかり。
実用的でもあり、実用的でもない。
事実のみを並べた本。
辞典のようでもあるが、辞典でもない。
「読んで、判断するのは、あなたですよ」という本。
そういう本が楽しい。

 その「ゼロ金利政策」。
今は、そのゼロ金利政策も効果がないほど、日本の経済は沈んでいる。
そこで日銀は、「量的緩和」を始めた。
平たく言えば、「現金のばらまき」。
が、いくらばらまいても、これまた効果がない。
現金を手にした人は、そのままタンス預金。
市中へ、お金が回っていかない。

 そういう状態は、血液にたとえるなら、「ドロドロ血」と同じと、書いてあった。
この本のどこかに、そう書いてあった。
血液の流れがよどみ、腐った状態をいう。
あとはこの悪循環の中で、さらにデフレは進行する。

●「41:小沢一郎元民主党代表の強制起訴」

 つぎに読んだのが、「41:小沢一郎元民主党代表の強制起訴」(P82)。
小沢一郎と陸山会(資金管理団体)とのお金のやり取りが、図解してあった。
その本の中には、こうある。

「小沢氏が不正を働いたという証拠は、何も見つからなかった」と。

 確かにそうだろう。
原資となった4億円の現金(小沢氏から陸山会へ、2004年10月)にしても、だからといってそ
こに違法性があるかといえば、どこにもない。
ただ小沢氏は、その金の出所については、「献金」→「銀行融資」→「自分がもっていた現金」
と、そのつど言葉を変えている。

 私たちが「?」と思う部分は、ここにある。
どうして金の出所を、2度も、言い直したのか。
また、本当にその現金は、「自分がもっていた現金なのか」。

 そのあと小沢一郎は、あたかも金の出所を隠ぺいするかのように、定期預金4億円を担保
に、銀行から4億円を借りている。
借りたあと、その4億円を今度は逆に、陸山会に貸し付けている。
そして最終的には、2007年に、陸山会は、小沢一郎に4億円を返済している。

 最初は「献金」と言った。
が、4億円もの献金はなかった。
それで今度は、「銀行融資」と言い換えた。
その後に、たしかに銀行から4億円の融資を受けている。
が、これでは現金の流れが逆。
そこで最後は、「自分がもっていた現金」と。

 現金(マネー)の流れを、常識的に読めば、そうなる。

 つまりこの一連の現金の流れが、おかしい。
どこにも違法性はないが、おかしい。
まともなお金なら、(つまり、ふつうの取り引きなら)、つぎのようにしたはず。

(1)まず小沢一郎が4億円を、陸山会に貸す。
(2)陸山会は、そのお金で土地を買う。
(3)そのあと陸山会は、小沢一郎に4億円を返す。

 それですむ話。
しかもおかしなことに、土地代金については、04年の支出なのに、05年の支出となっている。
わかりやすく言えば、土地代金を04年に払い、名義移転は、05年にしたことになる。
違法性はないが、ふつう、こういう土地の買い方はしない。
私なら、(あなたもそうだろうが)、土地代金を支払ったら、即日、名義変更の手続きを開始す
る。
放っておいたら、二重転売されるかもしれない。

 どうして小沢一郎はこういう複雑な手法を用いたのだろう……、というように考えていくと、限
りなく灰色ゾーンに、入り込んでいく。

 今回、市民団体が検察審査会に告発をした。
2011年1月に、小沢一郎は、強制起訴された。
小沢一郎は、「起訴そのものが無効」と訴えている。
が、本当に、そうか?

 ただ残念なことに、今回の強制起訴によっても、小沢一郎は、無罪になるだろう。
問われるとしても、軽微な、手続き違反だけ。
が、私たちが本当に知りたいのは、4億円という金の出所。
わいろを渡したという土建業者がいる。
公判でそう証言している。
(もちろん小沢一郎とその秘書たちは、それを否定。)
4億円が動いたのは、その直後。

 心証では、グレイというより、黒に近いグレイ。
が、それでも小沢一郎は、証拠不十分で、無罪になるだろう。

 この無力感。
いや、この無力感こそ、深刻。
一般国民の政治への不信感は、ますます増大する。
その責任は、どうなるのか。
政治家として、小沢一郎は、その責任を感じないのか。
小沢一郎は、それをどう考えているのか。

 「まるわかり・時事用語」を読みながら、そんなことを考えた。

●産経新聞の「菅直人叩き」

 産経新聞(3・11)、菅直人前首相を、猛烈に批判している。
長い記事だが、要点は、つぎの3つ。

(1)「報告書によると、菅氏は周囲の反対を押し切り、震災発生翌日の早朝、東京電力福島
第1原発を視察した。
結局、現場の混乱を増幅しただけに終わった。
……これはかえって現場を混乱させただけ」。

(2)「さらに、第1原発に代替バッテリーが必要になった際、菅氏は自らの携帯電話で担当者
に「大きさは?」「縦横何メートル?」「重さは?」と質問した。
同席者からは「首相がそんな細かいことまで聞くなんて国としてどうなのか、ぞっとした」という
証言もある」。

(3)「震災以来、会議を重ねてきた政府の「原子力災害対策本部」などの議事録が未作成の
まま放置されていたことも、今年1月になって判明した」。

(4)そして最後は、こう結んでいる。

「民主党政権が誕生して首相は3人も代ったものの、民主党政権の「無責任」「稚拙さ」「言葉
の軽さ」は変わらない。
そもそも「今の政治は目的とプロセスをはき違えている」(自民党派閥領袖)との指摘通り、まさ
に民主党は「政権交代」が目的だったのだろう」と。

(以上、「」内、原文のまま。)

 が、どう読んでも、産経新聞のこの酷評は、的をはずれている。

(1)どうして首相(東京工大出身)が、事故を起こした発電所を視察してはいけないのか。
もし反対に、それをしなかったら、逆に「しなかった!」と批判されていただろう。
またそれによって「現場が混乱した」とあるが、当時の原発の雰囲気は、「撤退」だったという。
もしあのとき東京電力が、事故を放置したまま撤退していたら、今ごろこの日本は、どうなって
いたか。
むしろそちらのほうこそ、考えると、ぞっとする。

(2)「菅氏は自らの携帯電話で担当者に「大きさは?」「縦横何メートル?」「重さは?」と質問し
た」とある。
菅直人前総理大臣なら、当然のこと。
それとも、ただ「がんばってください」だけで、よかったのか。
それを聞いて、「同席者は、ぞっとした」とある。
が、ぞっとするほうが、おかしい。
国の浮沈にかかわる、重大事故である。
日本に原爆が、数千個も落とされたような緊急事態である。
むしろぞっとすべきは、そちらのほう。
菅直人前首相の言動に、どうしてぞっとしたのか?

(2)議事録?
そんなもの、どうでもよいではないか。
空襲で爆弾が投下されたようなとき、のんきに議事録をとっているほうが、おかしい。
ものごとは常識で考えたらよい。

 いろいろな意見があることは知っている。

 なお民間の独立検証委員会は、2月、菅政権の官邸中枢の初動対応を「稚拙で泥縄的」と
批判した。
それに対して、野田首相は記者会見で過度の現場介入を認めつつも、東電の撤退を防いだと
して「一定の効果があった」と逆に評価した。
当然のことである。

もしあのときもし菅直人氏が総理大臣でなかったら、今ごろ、西は静岡県、北は東北地方の端
まで、無人地帯になっていたはず。
が、産経新聞は、連日菅直人前首相を叩いている。
しかしどうしてそこまで執拗に、叩くのか。

 以前、書いた原稿を、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本を救った、菅直人前首相と吉田昌郎所長

+++++++++++++++++

あの日、あのとき、菅直人前首相は、
日本を救った。
それはまぎれもない事実である。

読売新聞は、以下のように内幕を伝える。

+++++++++++以下、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

 枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所
事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発か
ら全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

 東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済
産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題
に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そ
ういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話した
という。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関
に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見
方を示した。

 菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った。

 枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人
が首相で良かった」と評価した。

+++++++++++以上、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

●菅直人前首相の大英断

 東京工業大学出身の菅直人前首相であったからこそできた、大英断である。
もしあのとき東京電力が、福島第一原発を放棄していたら、菅直人前首相が言うように、「東
京ですら、人っ子1人、いない状態になっていた」。

 もう一度、読売新聞の記事を整理してみる。

(1)東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、
との意向を伝えられたと語った。

(2)が、東電側は、これまで全面撤退の申し出を否定している。

(3)しかし政府側は、東電側が全面撤退を申し出てきたと、全員が認識した。
いわく、『枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有して
いる。そういう言い方だった」と指摘した』と。

 つまり東電側は、そういう言い方をしてきた。
その後の東電側の動きを重ね合わせてみると、東電側は、事故直後早々と、「全面撤退」を考
えていたことがわかる。
「政府側の安全基準を満たしていたから、(私たちには責任はない)」(報道)などという発言も
そのひとつ。

(4)原発の直接責任者である吉田氏は、「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要
との見方を示した。

 これはあとになってわかることだが、吉田氏は、東電側のあいまいな指示を無視、海水を注
入しつづけ、原子炉の爆発を防いだ。
もしあの段階で、吉田氏の英断がなければ、福島第一原発は大惨事を招いていたはず。

(5)ここからがとくに重要。
読売新聞は、つぎのように伝えている。

『菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った』と。

●福島第一原発・吉田昌郎所長

 「The Wall Street Journal」(2011年5月27日)、日本語版は、以下のように伝える。

++++++++++++以下、The Wall Street Journal++++++++++++

本社の停止命令に背いて注水を続けていた福島第1原発の吉田昌郎所長、彼の判断をどう評
価すべきか、社会人としていろいろ考えた人が多かったのではないだろうか。
同所長は、会社の命に背いて注水を続けたことに加え、その報告を怠って政府や国会を混乱
させたことの責任を問われ処分されるという話だ。
昨日、テレビに大写しになった吉田所長は、うつろな顔をしていた。
会社の判断を無視したのは確かだ。
しかし、会社の注水停止判断は、技術者なら誰でも認めるような明らかな間違いだったのだ。
確かに、もう少し早く報告できただろうという気はする。

++++++++++++以上、The Wall Street Journal++++++++++++

 この吉田氏の行為に対して、菅直人前首相は、『視察後、首相が名指しで謝意を表明したの
は東京から同行した武藤栄副社長ではなく、吉田所長だったそうだ』(日本経済新聞・4月8
日)とある。

 なお東京電力側が海水の注入をためらったのは、一度「海水」を注入すると、原子炉そのも
のが使い物にならなくなるからである。
東京電力側は、あの場に及んでも、そんなことを心配していた(?)。

●もしあのとき……

 もしあのとき菅直人前首相ならびに、吉田昌郎所長の英断がなければ、日本は完全に沈没
していた。

 事実を、よく見てほしい。

 100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を
起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。

 電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質
が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(横尾試算「原発事故」宝島社)。

 数千発分だぞ!

ちなみに、チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射性物質が放出されたという(京大グル
ープ調査。)

 が、もしあのとき福島第一原発が放棄されていたら、原子炉の爆発は避けられなかった。
それが4機+2機。
つぎつぎと爆発。

 それで計算すると、11万京ベクレルx4=44万京ベクレル(以上、横尾試算、「原発事故」宝
島社)
チェルノブイリの比ではない。
東京都も含めて、東北地方には、人はだれも住めなくなっていた!

 その深刻さを鑑みるにつけ、菅直人前首相、吉田昌郎所長を、日本を救った大英雄と言わ
ずして何という。
ともに東京工業大学出身であったからこそ、こうした判断ができた。
だから、枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間は
あの人が首相で良かった」と評価した。

●後書き

 やがてあの事故が、詳細に検証される日がやってくるだろう。
そしてそれがわかったとき、みな、こう言うにちがいない。

 「菅直人さん、ありがとう! 吉田昌郎さん、ありがとう!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の英雄 日本を救った2人
の英断。)

以上、2011年09月12日の原稿より

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なぜ、菅直人前首相ではだめだったのか?

 菅直人前総理大臣が、首相の座を降り、ちょうど4か月になる。
(菅直人氏は、2011年09月02日に、内閣総理大臣を辞職。)
が、この4か月、日本は、よくなったのか。
何か、変わったのか。

 現在は、野田佳彦首相が、総理大臣職を引き継いでいる。
が、私はいまだに野田佳彦首相が、どんな人物なのか、よくわからない。
顔が見えてこない。
見えてこないから、批評のしようがない。

ただここで言えることは、野田佳彦首相が、菅直人氏をやめさせてまで、首相になる価値のあ
る人物だったかどうかというになると、私はそうは思わない。

談合政治?
八方美人?
無色透明で、言葉はうまいが、中身がない?
当たり障りのない、無難政治家?
長期政権をねらっている?
こうした(?)マークを、野田佳彦首相には、10個ほど並べたい。

 これはあくまでも仮定の話だが、あの3・11震災時に、もし野田首相が事故を取り仕切って
いたとしたら、この日本はどうなっていたか。
それを想像するだけでも、ぞっとする。
東京電力と保安院の言い分に押され、福島第一原発は、放棄。
そのあと発電所はつぎつぎと爆発、メルトダウン。

 最近になって、事故直後、菅直人前首相が、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという報道
が伝わっている。
「感情をむき出しにするような人物は、首相として失格」と。

 バカヤロー!

 あの時点において、感情をむき出しにしない首相はいない。
むき出しになってくれたからこそ、東京電力側は、菅直人前首相の言うことを聞いた。
菅直人前首相の命令に従った。

 こう書くと、福島県の人たちには申し訳ない。
が、今、福島県以外の人たちが、(私たち静岡県人も含めてだが)、事故以前とほとんど変わ
りない生活ができているのは、菅直人前首相、ならびに吉田昌郎所長のおかげである。
そのことを思えば、ささいなミスや失敗など、腸から出るガスのようなもの。

 菅直人前首相は、「いつか、私の正しさは歴史が証明してくれる」というようなことを言ってい
る。
それはその通りで、その歴史は、すでに今、始まりつつある。
読売新聞(11−09−12)の記事は、それを証明する、貴重な証拠のひとつということになる。
私たちはこの事実を、後世の人たちに伝えていかねばならない。

 菅直人前首相、吉田昌郎所長、あなたがたは日本を救った、大英雄である。
大恩人である。
ありがとう!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 菅直人首相 英雄 大英断 吉田昌郎 英雄 日本を救った恩人 福島第一原
発事故 はやし浩司 英雄 菅直人)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小沢一郎元代表vs菅直人前首相

 私は善人ではない。
善人ではないが、まじめに生きてきた。
ただひたすら、まじめに生きてきた。

 そういう者には、そういう者にしかわからない「共鳴性」というものがある。
私と同じように生きてきた人には、そうでない人とはちがう、強い共鳴性を覚える。
菅直人前首相とは、そういう共鳴性を強く感ずる。
表情、言葉、態度、姿勢など。

が、残念ながら、小沢一郎元代表には、そういう共鳴性が感じられない。
自分がはじき飛ばされてしまうかのような、違和感というか、不快感すら覚えてしまう。
若い人たちには、それはわからないかもしれない。
しかし60歳を過ぎると、それがよくわかる。
会った瞬間に、それがよくわかる。
同年代だからこそ、それが余計に、よくわかる。

 だからといって、菅直人前首相が善人で、小沢一郎元代表がそうでないと言っているのでは
ない。
感じ方は、人それぞれ。
人によっては、たとえば小沢一郎元代表の秘書たちは、小沢一郎元代表を、すばらしい人格
者と信じているかもしれない。
が、それはそれ。
ただ、私は私の共鳴性を信ずる。

 最後に一言。
産経新聞よ、菅直人前首相を叩いて、それでどうなる?
理由といっても、ここに書いたような理由にもならない(こじつけ)ばかり。
「怒鳴っただの」「視察をしただの」「議事録をとらなかっただの」と。
「イラ菅」であって、どうして悪いのか。
それこそまさに言論ファッショ。

 忘れてほしくないことが、ある。
菅直人前首相の時代になって、原子力発電所が建設されたのではないということ。
建設してきたのは、歴代の自民党政府と官僚、それにゼネコン。
それを側面から支えてきた、自民党寄りのマスコミ、とくにどこかの新聞社。

たまたま菅直人前首相のとき、あの忌まわしい3・11大震災が、日本を襲った。
ならば、どうして、過去の原子力行政の在り方を、記事として追及しないのか。
むしろそちらの責任こそ、重大ではないのか。

 福島第一原発事故を知り、怒鳴り続けた菅直人前首相。
そのおかげで、今の、この日本がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 管直人前首相 ありがとう 命の
恩人 日本を救った人 はやし浩司 原発 放射性物質)

●吐き出し

 頭の中がモヤモヤしてくる。
それがやがて、爆発しそうなほどまでに、充満してくる。
文章が片っ端から現れ、消え、また現れ、消える。
断片的な文章であることが多い。
しかし時には、講演か何かをしているかのように、ザラザラと流れてくることもある。
それがしばらく、つづく。

 そこでパソコンの前に座る。
まず切り口となる、軽い文章を叩く。
「書く」にではない。
「叩く」。

 脳みその調子のよいときは、指先が軽快に動く。
タイプミスもほとんど、ない。
そうでないときは、そうでない。
運動をしないで、タイプを叩くと、自分でもそれがよくわかるほど、指先がモタモタする。
だから運動は欠かせない。
今朝も書斎に入る前、30分、ランニングマシンの上で、歩いた。
走った。
ほどよい汗が出た。

 たいていは、日付から叩き始める。
「今日は……」という出だしで始める。
とたん、文章が、頭の中からどっと出てくる。
あとは一気に、それを吐き出す。

「書く」のではない。
「吐き出す」。

 その快感がたまらない。
1週間分、あるいは10日分の便が、一気に出たような感じ。
(汚いたとえで、ごめん!)
しかしそれに似ている。
フロイト流に解釈するなら、肛門期の排便。
それに似ている。
(フロイトがいう肛門期というのは、心的なものをいう。誤解のないように。)

 ……おとといと、昨日、私は2日連続で、頭の中のモヤモヤを吐き出した。
気持ちよかった。
楽しかった。
同時に、疲れた。

 今朝は、その反動か。
まったりとした満足感に包まれ、頭の中はからっぽ。
遅い朝食を終え、野鳥のために、餌をまき、そのあと乗馬マシンで、腰の運動。
ゆっくりと書斎に。
時計を見たら、10時を過ぎていた。

 今日は、あの3月11日。
「もう1年!」と思うと同時に、日本人の私たちにとっては、長い1年だった。
あの日を境に、日本人は、質的に変化してしまった。

●自己客観評価力

 話題を変えよう。

 「空気を読む」という言葉がある。
感覚というより、感情の触覚を四方八方に伸ばし、その場の雰囲気を的確に判断することをい
う。
わかりやすい例でいえば、何かの会合に出たようなばあい。
そのとき、お呼びか、お呼びでないかどうか、それを判断するのも、そのひとつ。
お呼びでないところへ顔を出したりすると、場違いというか、息苦しくなる。
居場所すら、ない。
で、結局、その場からそそくさと、逃げ帰ったりする。

 何度か、経験がある。

 ただ私のばあい、「空気は読める」。
が、「空気を読みまちがえる」。
(どちらも似たようなものだが……。)

 だから最近は、何かの会に誘われても、前もって慎重に判断する。
空気を読みまちがえると、イヤミの集中砲火を浴びる。
楽しいはずの会が、かえって不愉快な会になってしまう。
が、この問題は、子どもの問題と直結している。

●AD・HD児

 集中力が欠如している子どもというのは、たしかに、いる。
AD・HD児もそうだが、その一歩手前というか、それを薄めた子どもとなると、その倍はいる。
(ADHDの発現率は、5%。)

 さらに「空気が読めない子ども」となると、年齢にもよるが、30〜40%はいる。
自己評価力の問題ということになる。
(ふつう「自己評価力」というときは、自分の能力の評価力のことをいうが……。)
あるいは現実検証能力でもよい。
周りの現実を、的確に検証できない。
あるいは現実と自分が、遊離する。
そういった力が、欠落する。
つまり自分の立場を、客観的に評価できなくなる。
(そういう意味では、「自己客観評価力」(はやし浩司)という言葉がふさわしい。)
ともかくも、みなに嫌われていても、嫌われているということ自体、わからない。

 そういう子どもは、どうすればよいか。

 ひとつの方法としては、ビデオカメラで子どもたちの様子を撮り、それをあとで子どもたちに見
せるという方法がある。
この方法は、自分で自分のビデオを撮るようになってから、知った。
現在、YOUTUBEを使い、私の教室を公開している。
その動画を、今度は自分で見る。
そのとき、そこに写っている私が、ときに私の別人格に見えるときがある。
つまり自分を、自分から離れた他人のようにして見る。
そのときふと、子どもたちが日ごろ、私をどのように見ているか、それがわかるときがある。

 たとえば私はよく、「じじい!」と呼ばれる。
が、私は自分では、じじいとは思っていない。
思っていないが、自分の動画を見ると、「なるほど」と思うときがある。
「私はじじいなんだ」と。

●母親

 が、それでも難しいのが、「母親たちの空気」。
私はいまだに、母親たちの空気が読めない。
まったくといってよいほど、読めない。
とくに幼児教室の場では、そうである。
味方なのか、反感をもっている人なのか、それすらわからないときがある。

 女性というのは、本当にむずかしい。
いまだに私にとっては、謎である。
あのホーキング博士も、最近、そう述べている。

 では、今日は、ここまで。
2012/03/12UP

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【日本の教育レベル&オーストラリアの教育レベル】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●オーストラリアの教育レベル

 オーストラリアの教育レベルについて、最新の情報が届いた。

The average 15-year-old maths student in Australia is now performing at least two years 
behind their counterpart in Asia's leading countries; in reading and writing they are at least 
one year behind, according to your new report for the Gratten Institute. Is this gap widening?

平均的なオーストラリアの学生のばあい、他のアジアの先進国と比べたばあい、数学におい
て、少なくとも2年は遅れている。
読み書きにおいては、少なくとも、1年は遅れている。
(オーストラリア・Gratten研究所)

このギャップは、広がりつつあるのか?

Yes, it is. Australia was one of only four countries in the OECD's group of 34 members 
countries in the OECD) between 2000 and 2009 to see a fall in maths, reading and writing 
results. Whereas Australian students fell by 15 percentage points, the top students in 
countries like South Korea jumpted 15 points. 

はい、その通り。
オーストラリアは34か国からなるOECDの中において、2000年から2009年に間で、数学、
読み書きの調査結果で、学力の低下をみた、4か国の中の1か国である。
オーストラリアの学生は、韓国が15ポイントも上昇したのに対して、15ポイントも低くなった。

(以下省略)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●オーストラリアのレベル

 1970年のこと。
私がオーストラリアの大学で、こんな経験をした。

 理学部(Science)の学生と親しくなった。
で、部屋へ遊びに行くと、三角関数の微分の問題を解いていた。
かなり苦労をしていた。
それでそれを私が解いてみせた。
それを見て、その学生はたいへん驚いた。
「君は、法学生(law student)だろ。どうしてその君が、この問題を解けるのか?」と。

 私はこう言った。
「日本では、それを高校3年のときに、習う」と。

 が、それだけではない。
友人の家に遊びに行ったときも、そうだった。
中学1年生になった友人の妹は、2けた掛ける、2桁の掛け算を勉強していた。
日本では、当時は、小学3年生レベルで、それを学習していた。
私は、オーストラリアの教育レベルの低さ(?)に驚いた。

●誤解

 が、私が受けた印象は、まちがっていた。
こと数学(算数)に関しては、そうかもしれない。
しかし数学だけが、教科ではない。
以前、メルボルン市内のグラマースクール(全寮制の中高一貫校)について、電話で調べたこ
とがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●オーストラリアの現状

……が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。
南オーストラリア州にしても、すでに10年以上も前から、(実際には20年以上も前から、201
2年記)、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイ
ツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピ
ュータの科目もある。
芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。

 もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一
つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日本の常識は、世界の常識ではない。
……ということを、書いたのが、つぎの記事。
中日新聞で、発表済み。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の常識vs世界の常識

『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。
見慣れたシーンだが、欧米ではああいうことは、ありえない。
たいてい妻を同伴する。
向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。
そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。
ボスが罪を犯して、死刑になった。
そこまでは彼らにも理解できる。
しかし問題はそのあとだ。
彼らはこう質問する。
「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。
欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。
しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけで
はないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。
あのNHKの大河ドラマだ。
日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あたかも英雄のように扱われている。
すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の庶民たちは、極貧の生活を強いら
れた。
もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それ
だけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。
教育についてみても、日本では、伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになって
いる。
欧米では、実用的なことを教えるのが、教育ということになっている。
しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。
欧米では、その道のプロになるため。
日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。

 日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ
(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。
日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。
日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの
語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。
私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人
のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。
そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。
チャールズ皇太子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせ
て、カリキュラムを学校が組んでくれる。
たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。
そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。
教育とて例外ではない。
それを知ってもらいたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●掛け算の九九

 オーストラリアは、本当に「ラッキーな国」だ。
資源が豊富。
お金がなくなったら、砂漠に穴を掘ればよい。

 が、日本は、そういうわけにはいかない。
資源といえば、「人的資源」だけ。
それだけ。
つまり「教育」しかない。
オーストラリアのように、「2年は、遅れている」「1年は、遅れている」と、言っているわけにはい
かない。
もしこの日本が、アジアの国々と同じレベルの教育をしていたとしたら、この日本に未来は、な
い。

 が、今では、分数の計算ができない大学生など、珍しくも何ともない。
さらに最近の調査によれば、平均値の出し方のわからない大学生もいるとか。
中学生も、掛け算の九九のわからない学生がいる。
25年ほど前のことだが、中学1年生で、九九ができない学生が、20%近くもいたという。
塾連の人たちが、それを調べた。
(九九は暗記していても、5・7(ゴシチ)と聞かれて、瞬時に答えられない学生をいう。)
今は、もっと多いはず。

 世の親たちは、そして教師たちは、「一度、教えたから覚えているはず」「一度学んだから、覚
えているはず」と考えやすい。
しかしどんな学習内容でも、しばらく使っていなければ、忘れる。
忘れるものは、忘れる。

●凋落(ちょうらく)する日本

 冒頭のレポートは、韓国を取りあげている。
「韓国は、15%、伸びた(jumped 15 points)」と。
日本ではない。
韓国である。
 
 またこのレポートでは、日本のことはわからない。
そこで私なりに調べてみた。

 OECDによる学力調査による、つぎのようになっている(2006年)。

(1)数学的リテラシー
台湾→フィンランド→香港→韓国→オランダ→スイス→カナダ→マカオ→リヒテンシュタイン→
日本(10位)→、だそうだ。

 ちなみにオーストラリアは、13位。

 が、気になるのは、日本の凋落ぶり。
「科学リテラシー」についての調査だが、つぎのように順位を落としている。

2000年、韓国に次いで、2位。
2003年、フィンランドに次いで、2位。
2006年、6位。

 読解力は、8位から15位、
日本にとってよい数字は、ほとんど出てこない。

●オーストラリアの友人へ

 資料を送ってくれた友人は、Gratten研究所と連絡を取るように勧めてくれた。
私は友人には、こう書いた。

「……学力といっても、授業時間数に大きく影響を受ける。
日本では、相対的に、数学にあてる時間が多い。
オーストラリアでは、科目数そのものが多い。
その分だけ、数学を学ぶ時間が少なくなる。
だからオーストラリアの子どもたちの、数学の能力が、他の国々より低いと聞いても驚かない。
問題は、日本である。
メジャー・コンパルサリー・サブジェクト(主要教科)であるにもかかわらず、学力が低下してい
る。
日本人の子どもたちの学力低下は、かなり深刻なレベルにある」と。

 が、Gratten研究所とは、連絡を取らなかった。
率直に言えば、もうどうでもよくなってしまった。
疲れた。
……というふうに書いてはいけない。
私が書かなければ、だれが書く?
……ということで、気力をふりしぼる。

 が、こうなることは、すでに10年以上も前から、わかっていた。
わかっていたが、日本の教育は、何も動かない。
変わらない。
100年一律の教育を繰り返している。
またそれでよしと、その上で、あぐらをかいてしまっている。

 唯一の希望(?)は、私がYOUTUBEにUPしている動画が、世界中のポータルサイトが、コ
ーナーを作って紹介していてくれること。
ウソだと思うなら、「はやし浩司」で検索。
1〜10ページ近くまでを、順に見てほしい。
10ページだけでも、世界の6近いポータルサイトが、私のYOUTUBEを紹介している。
そのうち私の指導法が、ロシアや中国から、日本へ逆輸入されるかもしれない。

http://www.veengle.com/s/%E5%B9%BC%E5%85%90%E3%81%AE%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%
8C%87%E5%B0%8Eby%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%97%E6%B5%A9%E5%8F%B8.html

http://videos.drole.ch/%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%97%E6%B5%A9%E5%8F%B8/

http://pktube.onepakistan.com/%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%97%E6%B5%A9%E5%8F%B8/

http://sellhome.konyubyubwebdesign.com/%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%97%E6%B5%A9%E5%
8F%B8.html

http://www.remusicas.org/videos/-;PDlnxgONCRg.html

http://www.oguiadacidade.com.br/guiavideo/%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%97%E6%B5%A9%
E5%8F%B8/
(以上、ヤフー検索、10Pまで)

●終わりに……

 オーストラリアの友人が送ってくれた資料について、今朝は考えてみた。
たいへん悲観的なエッセーになってしまったが、次回は、何とか明るいテーマについて考えて
みたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 学力 国際学力比較 リテラシー
 はやし浩司 オーストラリアの学力 Gratten Institute of Education Australia)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●3月13日

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

このところ毎晩、寝る前に、「マヤの〜〜」とかいう本を読んでいる。
結構、それが楽しい。
若いころ、シュメール人に興味をもったこともある。
東洋医学の勉強をしていて、興味をもった。

が、もうひとつ忘れてはならない民族がいる。
仰韶(ヤンシャオ)人である。
この民族も、シュメール人やマヤ人と同じくらい、大きな謎に包まれている。
黄河流域で生活していた。
調べれば調べるほど、不思議な民族。
その仰韶(ヤンシャオ)へ、一度は行ってみたい。
西安の近くである。
私たちが現在「漢方」と呼んでいる東洋医学の原点は、仰韶(ヤンシャオ)人にある。
……と私は判断している。

現存する「黄帝内経」は、後の学者たちに、ズタズタに改変され、医学書(?)になってしまっ
た。
が、元はといえば、天文学に関する本。
『五運行大論篇』を例にあげるまでもない。
しかも皮肉なことに、世界太古の『黄帝内経』は、中国にではなく、この日本に残っている。
京都の仁和寺(にんなじ)に、である。

東洋医学に関する本は、3冊、書いた。
うち1冊は、現在でも、全国の医学部や鍼灸学校で、教科書として使ってもらっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●年中児+3歳児に、かけ算と平行を教える

 昨日(3月12日)は、年中児(ほとんどが5歳児)と、3歳児(見学の女児)に、かけ算と平行を
教えた。
うまく指導できた。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/B7uP4piaqYE" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

 その様子は、ここに紹介する。
こうした教育を否定する人も多い。
しかしそういう人にこそ、この動画を見てほしい。
幼児のもつ可能性に気づいてほしい。
同時に、現在の幼児教育なるものが、いかに幼児の「人権」を無視したものであるか、それに
気づいてほしい。

 特別養護老人ホームで指導者がしているような指導でもって、それが幼児教育と思い込んで
いる。
最悪なのが、NHKの幼児向け番組。
「♪お手々を、ブーラブ−ラ……」と。
ああいうのを見ていると、この私まで、恥ずかしくなる
私がもっている「幼児観」とは、まったく異質のもの。
幼児というのは、未熟で未完成という先入観でもって番組を作ると、ああいう番組になる。

 で、ときどき私は幼児たちにこう聞く。

「君たちさあ、ああいうのを見て、自分がバカにされていると思わないか?」と。

 すると、みな、こう答える。
「そうだ、そうだ」と。
年中児(4&5歳)の子どもたちだって、そう言う。
それくらいの意識はもっている!

●サナトス

 再び、マヤ。
何でもそうした本によれば、5月の金環食が、「終わりの始まり」だそうだ。
つまりその日から、世界中で異変が始まり、12月22日に、世界は終末を迎える(?)。
ウソか本当か……といえば、ウソに決まっている。
が、それがおもしろい。

 フロイトが言っているように、人間には、破滅願望というものがあるそうだ。
その原動力になっているのが、「サナトス」。
つまりフロイトは、どんな精神活動にも、表裏の二面性があると説く。
「生きたいという創造的な欲望」(リビドー)があれば、同時に「死にたいという破滅的な欲望」
(サナトス)もある、と。

 おおざっぱに言えば、そういうこと。

 で、「マヤの〜〜」を読んでいると、心の内部に潜む「サナトス」を感ずる。
もちろん、それを望んでいるわけではない。
が、あえて言うなら、戦争映画か、破壊映画を見るような楽しさ。
たとえば近く、『バトルシップ(Battleship)』という映画が、公開される。
海の中から、動物の風体をした巨大なUFOが現れる。
地球のあらゆるものを破壊する。
ああいう映画は、ストレス解消には、たいへんよい。
私はそういう映画が好き。
いつもハハハと笑いながら、映画館から出てくる。

 「マヤの〜〜」とかも、ハハハと笑って終わるはず。
12月22日(日本時間では、12月23日)が、楽しみ。
大声で、ハハハと笑ってやる。

●不気味な話

 一方、こんな話もある。

 昨日、週刊朝日を買ってきた。
今週号である。
その中に、こんな記事があった(P21、「福島第一原発事故は収束していない」)。
こちらは、ハハハと笑ってすませない話。

「……(アーニー・ガンダーセンの)著書では、「4号機のプールで火災が起きたら、日本を脱出
せよ」と警告していますね。

(ガンダーセン、アメリカ原子力技術者)「4号機の核燃料プールは、今も日本列島を物理的に
分断するほどの力をもっています。
震災時、このプールには炉心数個分もの使用済み核燃料が入っていたのです。
大気圏内で行われた過去の核実験で放出された総量に匹敵するほどの、放射性セシウムが
眠っています」と。

 4号機には、毒性がきわめて強い、プルトニウムが使われていた。
(ウラニウムは灯油、プルトニウムはガソリンに、よくたとえられる。)
そのプールには、そのほか、使用済み核燃料が入っていた。
そこまでは私も知っていた。

 が、その危険性までは、知らなかった。
「プールに収まっているから、だいじょうぶ」と聞かされていた。
が、これがとんでもない、まちがい。

 ガンダーセンによると、プールにヒビでも入って、水が抜けたら、日本は万事休すということら
しい。
北は北海道から、南は静岡県、あるいは日本列島全体が、放射性物質でおおわれる。
週刊朝日には、「過去の核実験で放出された総量に匹敵するほどの」とある。

 さらに恐ろしいのは、仮にそういう状態になったら、近辺の原子力発電所も、制御不能になる
という。
管理する人がいない。
つぎつぎと放棄され、爆発を繰り返す。

 そうならないことを願うばかりだが、この先、30〜40年も、ハラハラ、ヒヤヒヤしながら暮ら
すのもどうかと思う。
(もっともそれまで、私は生きてはいないが……。)

 さらに恐ろしいのは、「被害」が現れるのは、これから。
がんによる死亡者が、100万人単位でふえるという!

 昨日の新聞によれば、千葉県からですら、人口の流出がつづいているという。
一方、この静岡県の人ですら、千葉県には行きたがらない。
実家が千葉県にあるMさん(生徒の親)も、こう言っていた。
「実家へはひとりで帰ります。子どもは連れて行きません」と。

 福島原発事故は、何も収束していない。
安全宣言など、もってのほか。
こうした事故は、緊張感のゆるんだときが、恐ろしい。
そのとき第二、第三の事故が重なる。

 ……とまあ、またまた暗い話で、ごめん。

 ともかくも、今日も始まった。
寒い朝だ。
がんばろう。
がんばるしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●3月13日を終えて……

●インターバル撮影

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今したいこと。
……イコール、ほしいもの。

カメラによっては、インターバル撮影なるものができるとか。
間隔を置いて撮影することを、インターバル撮影という。
たとえば5秒ごとに、シャッターを切る、など。
あとでその動画を再生すれば、たとえば1日の雲の動きを、10分程度で見られたりする。
道路の人の動きを、同じように、10分程度で見られたりする。
(おもしろそう!)

計算してみる。

1秒間に、30コマとする。
5秒ごとに撮影すれば、(30x5=)150秒を、1秒に短縮できることになる。
つまり、150分の1。
だから24時間x60÷150=9・6分!
1日の動きを、たったの9・6分で見ることができる。
(フ〜〜ン!)
それを知り、それができるカメラがほしくなった。

……ということで、今夜、仕事の帰りに、近くの電気ショップに寄ってみた。
カタログを集めた。
ネットで調べたところ、リコー社製のカメラに、その機能がついているという。

庭の様子を撮影すれば、どんな鳥が、どの程度私の庭に来ているかが、わかる。
空の星の動きを撮影してみるのも、おもしろそう。
さらに畑の野菜の生育状態も、(もしそのカメラが手に入れば)、撮影してみたい。

しかし問題がひとつ。
リコー社製のカメラは、プロ用のものが多い。
値段が高い。

そこでさらに調べてみると、インターバル撮影用の専門のカメラがあることがわかった。
値段も7000円前後。
これなら小遣いの範囲で、買える。

今夜一晩考えてみる。
明日もまだこの気持ちが揺らいでいないなら、1台、買うつもり。

(「揺らいでいない」が正しいのか。
「揺らいでない」が正しいのか。
日本語は、むずかしい。
「揺らいでいる」と言うから、語法上では、「揺らいでいないなら」が正しい。
が、ふつうの会話では、「揺らいでない」と言う。
「ラ抜き言葉」というのはある。
となると、これは「イ抜き言葉」ということになる(?)。
余計なことだが……。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●穏やかな1日

 今日は全体に、穏やかな1日だった。
「穏やか」というのは、「心が穏やか」という意味。
淡々と過ごした。
淡々と仕事をした。
迷いも怒りもなく、平和な1日だった。

 夕方、空き時間を利用して、ワイフとレストランで食事をした。
いつものレストラン。
いつもの料理。

 そのせいか、今も穏やか。
眠くはないが、横になれば、すぐ眠ってしまいそう。
明日も、そうであればよい。

●春休みの計画

 ワイフと春休みの計画を立てている。
どこへ行こうか?、と。

 去年の夏、福井市から大野市へ、そこから山越えをし、岐阜県の白鳥市へ抜けた。
ひとりで旅をした。
その話を、ワイフに何度もした。
それを聞き、ワイフは大野市へ行きたいと言っている。
私は高山にある、どこかの温泉へ行きたいと言っている。

 ほかに、鳥取へ行き、カニを食べるとか、紀伊半島を回ってみるとか、など。
「めんどうだから、全部しよう」と私。
「いいの?」とワイフ。

私「ぼくたち、若いとき、仕事ばかりしていて、デートできなかった」
ワ「子育てに追われたわ」
私「そうだな。遊んでいる暇がなかった」
ワ「やっと、その時間ができたわ」と。

 ホント!

 夫婦が夫婦として本当に楽しくなるのは、60歳を過ぎてから。
いつだったか、伯母がそう言っていた。
その意味が、今、やっとわかるようになった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「平行」小学1年生

 今日は、1年生に「平行」を教えてみた。
楽しかった。
後半部で、子どもたちの学習風景を収録した。
どうぞ、お楽しみに!

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


 が、計画を立てるのは、あまり好きではない。
それに縛られる。
ブラッとでかけ、行き先で旅館を決める。
それが私流。
いつもそうしている。
春休みが、楽しみ。

●ダイエット

 今のところ、ダイエットは順調。
68キロ弱あったが、昨夜、近くのホテルで計ったら、66キロ台。
今までの経験によれば、ピークは過ぎた。
「ピーク」というのは、つまり病気にたとえるなら、「山を越えた」という意味。

 この10日間、苦しかった。
空腹感との闘い。
が、これからは、楽。
胃袋そのものが小さくなった感じ。
自然と減量できる……はず。

 昨日も、あるホテルで朝食を食べた。
バイキング方式だった。
が、私は、ほんの少量。
「食べなければ損なのか? 食べたら損(そこ)ねるのか?」と、そんなことを自問しながら食べ
た。
結果、ほんの少量ですますことができた。

 そう言えば今日、昼寝をしているとき、ワイフが横でこう言った。
「あなた、頬に線ができたわよ」と。
頬がこけたという意味で、そう言った。
「ジジイになっただろ?」と言うと、「うん」と。

 目標は、64〜65キロ。
できれば63キロ。
がんばろう!


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●講演の帰りに、翠紅苑に一泊(村松秀太郎画伯に会う)
  はやし浩司 2012−03−14 寸又峡温泉にて

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は、寸又峡(すまたきょう)温泉に一泊。
S町での講演を午前中に終えたあと、そのあと少し遠回りをすることにした。

今、その電車の中。
金谷(かなや)で下車。
金谷から。大井川鉄道に乗り換え、千頭(せんず)まで。
そこからバスで、寸又峡まで。
宿は、翠紅苑(すいこうえん)。
寸又峡温泉の中では、ダントツ、イチ押しの旅館。
寸又峡温泉では、いつもこの宿と、決めている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●金谷から、新金谷へ

 金谷から千頭行に乗ろうとしたが、先の電車がちょうど出た後。
1時間後という。
1時間!
「それじゃあ、歩こう」ということで、JR金谷駅から、新金谷駅まで歩いた。
距離にして、2キロ弱。
空は快晴。
心地よい春の風。
絶好の散歩日和(びより)。

 途中のショピングセンターで、飲み物を買う。

●新金谷駅

 「新」という名前はついているが、20年前と同じ。
3人の息子たちを連れて、ここでSLに乗った。
30年前と同じ。
そのころ、このあたりの時計は止まった。
昔のまま。

驚いたのは、新金谷駅から千頭まで、料金が1720円(1名分、片道)だったこと。
1時間ちょっとの距離で、この料金。

 日本の鉄道料金は、高い!
「往復で?」と聞いたら、ワイフがチケットを見ながら、「片道よ」と。
「フ〜〜ン」と言っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。

 ……がらんとした駅構内。
少し離れたところで女子高校生が2人、大声で話している。
その声が、ストレートに、ガラス窓を通して聞こえてくる。
あとは、何かのモーターの音……。
ブ〜〜ン……。

 のんびりとした昼下がり。
白い陽光が、まぶしく光る。

……ワイフは先ほどから、バッグの中をゴソゴソと整理している。

●二次利用

 パソコン、デジタルカメラなど。
やがて買い換えていくと、古い機種がそのまま残る。
そういうのを見ながら、どうして私たちは二次使用を考えないのか、と。
いつも、そんなことを考える。

「二次使用」というのは、もしこういった製品に、二次使用機能があれば、再び実用品として、
生き返らせることができる。
たとえばデジタルカメラ。

 デジタルカメラに、インターバル撮影機能、動体検知機能、アラーム機能などがあれば、カメ
ラとして使用しなくなったあとも、防犯装置として利用できる。
目覚まし時計でも、よい。
ほかのカメラへの映像転送機能があれば、監視カメラとしても利用できる。
パソコンにしても、そうだ。
同じような機能があれば、古くなり、使わなくなったあとでも、何かの仕事をさせることができ
る。

 このことは、たとえば空き缶やビンについても、言える。
たとえばコップ型にすれば、飲んだあと、コップとして、使用できる。
筆立てや、もの入れなどに利用するという方法もある。
(考え方が、少しセコイかな?)

 ともあれ私の家にさえ、デジタルカメラが、ゴロゴロしている。
ノートパソコンも、同じ数ほど、ゴロゴロしている。

 新金谷の駅の構内で、ジュースを飲んだ。
その空き瓶をどうしようかと迷っていたとき、ふと、そんなことを考えた。

●寸又峡温泉

 寸又峡温泉へは、何度か来た。
が、温泉に泊まるようになったのは、50歳を過ぎてから。
それまでは日帰り。

 ……たった今、新金谷駅で、電車に乗った。
塗装は、はげ、表面はボコボコ。
かなりレトロ電車。

窓ガラスが、どれも薄茶色に汚れている。
そのまま外の景色が、セピアカラーに。
左右に揺れるたびに、ギシギシ、キュッキュツと。

 金谷の駅で買った雑誌を開く。
「週刊アスキー」誌。

●WINDOW8

 近くWINDOW8が発売になる。
今、そのプロトタイプが、無料で試用できる。
その記事が、「週刊アスキー」に載っていた。

 ……この世界だけは、どんどんと変わっていく。
で、今度は、WINDOW8。
私は新しいOSが発売になるたびに、パソコンを買い替えてきた。
が、すぐ買い替えるわけではない。
発売後、数か月は、様子を見る。
評判を聞いてから、買い替える。

●撮影

 電車が動き出してからまもなく、窓の外の景色をビデオカメラに収め始めた。
広い川は、言わずと知れた、大井川。
「♪越すに越されぬ大井川」と歌われた、大井川。

 しばしその美しさに、目を奪われる。

●眠い……

 講演のあとは、いつもそうだが、食欲ゼロ。
どっと睡魔が襲ってくる。
今が、そう。
写真だけ撮ることにし、パソコンを一度、閉じることにする。

……眠い……。

……「着きましたよ」と声をかけられ、目を覚ます。
列車は、千頭駅に着いていた。
列車の中で居眠りし、起こされたのは、この2〜30年で、はじめてのこと。
あわてて荷物をつかみ、列車をおりる。

●翠紅苑

 この旅館は、いつも私たちを裏切らない。
シーズンオフということで、客はまばらだった。
旅館には悪いが、私たちには、ありがたい。

 部屋へ入ると、すぐ浴衣に着替えた。
ワイフが用意してくれた、茶を飲んだ。

 窓の外は、見慣れた山間(やまあい)の景色。
午後4時というのに、すっかり夕暮れ。
全体に薄青ぽく見えるのは、標高が高いせいか。
少し離れたところに小型のトラックが止まり、作業服を着た男たちが何人か、仕事をしていた。
風もない。

 ……ふと、3日前に植えた野菜の苗のことが気になった。
ここ数日、浜松地方は強い風に見舞われた。
今朝見たら、苗の何割かが、土をかぶり、横に倒れていた。

●ないものねだり

ワイフとこんな話をした。
「ないものをねだっても、しかたないね」と。

そこにあるものに、自分の価値を見出す。
幸福というのは、そういうもの。

 健康、生き甲斐、仕事、能力、キャリア、過去、安定感、名誉、地位、安心感、住環境、友
人、家族、経済的豊かさ、など。
満点の人はいない。
どれかがあって、どれかが欠ける。
大切なことは、自分を他人と比較しないこと。
「私は私」と。
「人は人」と。
つまり、その割り切りの中に、幸福が潜んでいる。

●老人組

 老人組に入って、いろいろなことがわかった。
(「老人」の入り口に立っている、私のような人間を、「老人組」という。) 

先のない閉塞感の中で、生きることのすばらしさと、空しさ。
その2つが、同時に2色の煙のようになって、心をふさぐ。

 ものが見える。
音が聞こえる。
ときどきそれが不思議でならない。

 その一方で、「今までの人生は何だったのか」と。
たびたび立ち止まっては、ほこりのようにたまった過去を振り払う。

 不安と心配。
小さな希望に自分を託し、明日にじぶんをつなげる。
あとは精一杯、虚勢を張り、自分をごまかす。
楽しいふりをする。
毎日が、その繰り返し。

 それをワイフを話したら、先の(ないものねだり)の話になった。
ワイフがその言葉を使った。
「ないものを、ねだっても、しかたないのよ」と。

 人をうらやむ(=envy)というのは、それ自体が、私たちを不幸にする。

●世界一周

 このところワイフとこんな相談を、よく交わす。
「仕事をどうしようか?」と。

 私は、死ぬまで子どもたち(生徒の幼児たち)との接点を保ちたい。
またそれがないと、「私」の土台が崩れる。
ものが書けなくなる。

 が、ワイフは、こう言う。
「外国を回りたい」と。
客船で、世界を一周する旅もあるそうだ。
あるいは、世界のあちこちを、3か月単位で移動するという方法もある。
花火大会にたとえるなら、最後に打ち上げられるスターマインのようなもの。
ドドド、バババ……と咲いて、そのまま散る。

 私の心は、揺れ動く。

●風呂

 ワイフが入浴支度を始めた。
「温泉に入ってこようか?」と。

 先ほどバスの中で、運転手が、こう言った。
「このあたりは、天然の硫黄泉です」と。
肌がスベスベになって、よいそうだ。

 話はぐんと恐ろしくなるが、あのラジウム温泉というのは、本当に安全なのか。
WHOは、「危険だからやめろ」という勧告を、出している。
またアメリカでは、ラジウムが検出される地域では、住宅の建設許可はおりないそうだ。
はっきりと確かめてはいないが、どこかの記事にそう書いてあった。

 一度、しっかりと確かめてみる。
今日は、どちらであるにせよ、つまり危険であるかないかということは忘れ、のんびりと湯につ
かりたい。

●ミステイク

 今日は、2つのミステイクをした。
ひとつは、パソコンのコードを忘れたこと。
もうひとつは、老眼鏡を忘れたこと。
朝、あわてて出かけたので、それで忘れた。

 いくらTOSHIBAのR631でも、一晩はもたない。
現在、バッテーリーの残は、46%(3時間45分)と表示された。

 これから3時間、間断なくパソコンを叩いてやる。

●うらやむ(=envy)

 (ねたむ)(うらやむ)というのは、聖書でも、きびしく戒めている。
常識。
先にあげた幸福の中で、何が大切かといって、「健康」ほど、大切なものはない。
体のどこかがおかしくなると、とたんに健康な人が、ねたましくなる。
うらやましく思うこともある。
が、そのときは、そのとき。
釈迦もこう言っている(法句経)。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 私たちは日々に作り上げ、日々に失っていく。
重要なことは、失うものを嘆かない。
そこにあるものの中から、幸福を見出していく。

 では、(若さ)については、どうか。

●若い女性

 数日前、テレビを見ていたら、こんな女性がいた。
すでに2度ほど、離婚しているという。
その女性がこう言った。

「私、身長が168センチもあるでしょ。だから結婚相手の第一条件は、いっしょに歩いていて、
かっこうのいい男です」と。

 その女性は、何とかというハーフの男性と結婚し、世間を騒がせた。
が、離婚。
もう一度結婚したが、子どもが1人でき、そのあとまた離婚。

 その女性を見ながら、「ぼくなら失格だな」と思った。
身長が足りない!
と、同時に、「そういう女性も多いのかなあ」と。

 が、いくら神様が私を、青年時代に戻してくれると言っても、そういう女性と結婚するような男
性だけにはなりたくない。

若い人たちから見れば、私たち老人組は、みな馬鹿に見えるかもしれない。
しかし私たち老人組から見れば、そういう若い人たちが、みな馬鹿に見える(失礼!)。
あのバーナードショーがそう書き残している。

 (若さ)が、馬鹿の代名詞であってはいけない。
そういう(若さ)だったら、私は、ねたましいとも、うらやましいとも思わない。

●美しい人

 今朝早く、浜松の駅前で、美しい女性を見た。
「どこの国の人かしら?」とワイフ。
振り返って見ると、そこで目が合ってしまった。
とっさに、こう言った。

「My wife says, you are a beauty!」(ワイフが、あなたのことを美しい人だと言っているよ)と。
すかさずその女性は、「Thank you」と答えた。
一瞬のできごとだったが、目がすてきだった。

 国を聞くと、「I'm from Canada(カナダ)」と答えた。

 見た目の美しさでは、日本人は、欧米人にかなわない。
そんな余韻もまだ残っているとき、電車の中で、前の席に若い女性が座った。
日本人の女性だった。
が、どこもかしこも、不自然。
プチ整形というよりは、顔全体を作り直してしまったかのような女性だった。
整形が悪いというのではない。
整形が必要な人も多い。
しかしいくらがんばっても、私たちの顔を、欧米人のような顔にすることはできない。

 どうして日本人は、欧米人の顔に近づけたがるのだろうか。
欧米人が、日本人のような顔に整形したという話は、聞いたことがない。
つまり整形そのものが、日本人であることの敗北を認めるようなもの。

 若い女性よ、中身を磨け!
知性を磨け!
理性を磨け!

 私とワイフは、その女性をまじまじと見てしまった。
見とれて、そうしたのではない。
どことどこを、どう整形したか、それを知りたくて、まじまじと見てしまった。
私たちの視線を感じたのか、その女性自身は、ツンとすましていた。
どこか得意げな雰囲気だった。

●外見

 外見を飾ることの虚しさは、50歳を過ぎないとわからないのでは?
が、この意見に対して、ワイフは、こう言った。
「若い人でも、わかる人は、わかるわよ。反対に、年をとっても、わからない人は、わからない
わよ」と。

 見栄、メンツ、世間体……。
そればかり気にしている人は、多い。
「だから、それがどうしたの?」という部分がないまま、生きている。

 が、私はそういう意味で、そう言ったのではない。
見栄、メンツ、世間体ばかり気にしている人がいる。
そういう人に、その虚しさを教えてもわからない。
が、50歳を過ぎたら、教えたら、わかるようになる、と。

 先の電車の中で見た女性にしても、そうだ。
その女性は、まさに命がけで、美しくなりたいと思っている。
その気持ちは、よくわかる。
が、今、その女性に、そうすることの虚しさを話しても、理解できないだろう。
ひょっとしたら、今の人生をバラ色に感じているかもしれない。

●見栄

 が、こんな女性もいる。
80歳を過ぎても、見栄、メンツ、世間体を気にしている女性だ。
60歳近い娘と同居している。
その女性の老齢年金と、娘の年金だけで、生活している。
家計など、あってないようなもの。
しかしそんな女性でも、美容院では、1万円のチップを渡しているという。

 さらにスーパーなどで、ものを買うときも、わざわざ分厚いサイフを見せびらかしているとい
う。
両端だけを1万円札にし、間に1000円札をはさんでいる。

 見栄、メンツ、世間体を気にする人は、そこまで気をつかう。
そういう女性と、先に書いた電車の中で見た女性は、どこもちがわない。
少なくとも、私には、同じに見える。

●翠紅苑(すいこうえん)

 時刻は、午後5時48分。
日が長くなった。
山間の景色は、ここへ来たときのまま。
こういうところでは、夕方が長い。

 食事は6時でも、6時半でもよいとのこと。
温泉へは、一晩中、入れるという。
ただひとつ残念なのは、温泉までの距離が長いということ。
一度、長い通路を歩くのだが、途中、外気にさらされる。
真冬は、つらい。

●村松秀太郎画伯(むらまつ・ひでたろう・がはく)

 夕食のとき、村松秀太郎画伯と知りあった。
話しかけたら、日本画の大家、村松秀太郎画伯とわかった。
しばらく話したあと、私はこう聞いた。

「失礼ですが、あなたはたいへんな方とお見受けいたしますが、あなたはいったい、どういう方
ですか」と。

村松秀太郎画伯は、笑いながら、こう言った。
「日本画を描いている、村松です」と。
それでその人物が、村松秀太郎画伯とわかった。

 その後、席を画伯の横に移し、いっしょに食事をさせてもらった。
ふつうなら、近くにも寄れない画伯である。

 その村松秀太郎画伯、翠紅苑に連泊し、近くの山の中で絵を描いているということだった。
その翠紅苑のロビーにも、村松秀太郎画伯の日本画が飾ってある。
龍の絵である。

 その前に、温泉でもいっしょだった。
その瞬間、「この人は、ただ者ではない」と直感した。
その直感は、ズバリ、的中した。

 村松秀太郎画伯が話している様子は、動画に収めさせてもらった。
YOUTUBEにUPしておく。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 村松秀太郎 画伯 はやし浩司 翠紅苑 寸又峡温泉)

●ただ者ではない

 ここで私は、こう書いた。
「ただ者ではない」と。
雰囲気そのものが、ちがう。
一見、穏やかそうな人だが、その奥にある重みまでは、隠せない。

最初は、千葉県の話から始まった。
そのあと静岡県の話になった。
村松秀太郎画伯は、静岡県の清水市生まれ、現在は、千葉県の市川市に住んでいるという。
放射能汚染から避難し、静岡県にやってきているということだった。

その千葉県は、今、たいへんな状況という。
若い母親など、みな、ノイローゼになってしまっている、とも。

 ただ者ではない人には、重厚な気配を感ずる。
これも年の功か。
反対に、いくら身を飾っても、ただ者はただ者。
それもよくわかるようになった。

●頭痛

 部屋に戻ったら、午後8時を過ぎていた。
軽い頭痛は、列車の中で、起こされてから、ずっとつづいている。
温泉に入って、少しひどくなった。
睡眠不足と疲れ。

 こういうときは水分を多量に補給するのがよい。
食事中も、水をたくさん飲んだ。
今も立てつづけに飲んでいる。
私流の、治療法。
一時的に頭痛はひどくなるが、そのあと、まさに(水が引くように)頭痛が消える。
(頭痛といっても、いろいろな種類のものがあるが……。
詳しくは、はやし浩司著「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)をどうぞ!)

●サッカー

 ワイフがサッカーの試合を見たいと言った。
日本対バーレーン。
日本が引き分けか、勝てば、のロンドン五輪、出場権を手にいれる。
大事な試合。

 テレビにスイッチを入れる。
前半38分。
0−0。

 「ぼくの命は、あと2時間しかない」と私。
パソコンのバッテリーは、あと2時間分程度しかない。
いや、今調べたら、1時間15分。
こうなったら、時間との勝負。
1時間で、どこまで書けるか。

●「私」論

 書き忘れたが、翠紅苑の料理は、いつ来ても、すばらしい。
満足度、120点。
が、今夜は、ほどほどのところで箸を置いた。
先ほど脱衣所で体重を測ったら、65キロだった。
できれば、この状態を保ちたい。

 要するに、ダイエットというのは、脳の奥深くに潜む本能との闘い。
食欲本能という本能との闘い。
私であって、私でない「私」との闘い。
ほとんどの人は、(私もそうだが)、その本能に振り回されてしまう。
自分を見失ってしまう。

 逆に言うと、本当の私を取り戻すためには、一度私を、その「私」から切り離す必要がある。
食事をしながらも、自分にこう問いかける。
「食べなければ損(そん)なのか。それとも食べれば損(そこ)ねるのか」と。
その問いかけを繰り返す。
その先に、本当の私がある。

 ダイエットを、ただのダイエットと考えてはいけない。

●3月15日

 昨夜は、そのまま就寝。
2回目の温泉に入り、そこでダウン。

(この間、約9時間。)

 今、千頭の駅の構内で、列車を待っている。
9時26分発の、各駅停車。
今、時刻は、9時57分。
それまでパソコンのバッテリーがもつかどうか?

 何度も、警告表示が現れる。

 やや冷えた空気が、椅子の下から体に伝わる。
しかし寒いというほどではない。
もう春は、そこまで来ている。

 私たち夫婦だけの構内。
電車に乗るのも、2人だけ?

 ……ということで、今回の寸又峡温泉の旅は、おしまい。
あとは、バッテリーが消えるまで、こうして文を打ちつづける。

 ……ワイフが、今、暖かい紅茶を横に置いてくれた。
3月15日、木曜日。
昼までに帰り、あれこれ仕事の用意をしたあと、街へ出る。
そう言えば、近く『スターウォーズ』が、公開される。
楽しみ。
今度の『スターウォーズ』は、題1作の、リメイク版。
3D。

 それから今週は……。
こういうBLOGでは、予定は書かないほうがよいそうだ。

 そう言えば、昨夜、関東地方で地震があったとか。
気がつかなかった。
またロンドン五輪のサッカー予選では、日本が2−0で、バーレーンを下している。

 ……翠紅苑では、村松秀太郎画伯に直接会うことができた。
人格者だった。
印象に強く残った。
これから画伯の日本画を見るたびに、昨夜のことを思い出すだろう。
すばらしい思い出になった。
横山大観……、平山画伯……、それにつづく、現代日本画の巨匠。

 本物の人は、どこかちがう。
雰囲気がちがう。
会った瞬間に、それがわかる。
そういう自分が、つまり多少なりとも、人を見る目ができた自分が、少しだけだが、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 翠紅苑 寸又峡温泉 村松秀太
郎画伯 講演の帰りに はやし浩司 すいこうえん 翆紅苑 翆紅園)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【本物の人vsニセモノの人】byはやし浩司 2012−03−16

●本物の人

 一言、二言、言葉を交わしただけで、それがわかる。
本物の人というのは、そういう人。
知性や理性が、バチバチと光る。
先日会った、村松秀太郎画伯も、そうだった。
思わず私は、こう聞いてしまった。
「あなたは、いったい、何者ですか」と。

 ずいぶんと乱暴な聞き方をしてしまった。
が、村松秀太郎画伯は、やさしそうに笑いながら、こう言った。
「日本画を書いていますよ」と。

●本物と偽物

 一方、ニセモノの人は、ニセモノと、これまたよくわかる(失礼!)。
同じく、その温泉で、別の男性に出会った。
名古屋市から来ているという人だった。
が、その男性のばあい、同じく一言、二言、言葉を交わしただけで、その男性の「底」が見えて
しまった。

 こうした(ちがい)は、どうして生まれるのか。
見た目には同じでも、中身がちがう。
その(中身)が、そのまま外に出てくる。
 
 が、誤解してはいけない。
中身のある人ほど、一見、ヘラヘラとした印象を受ける。
けっして、いかめしい顔つきをしているのではない。
やさしそうな、それこそ、どこにでもいるような人に見える。
が、一言、二言、言葉を交わしただけで、火花を飛び散る。
バチバチというか、ビリビリというか……。

 村松秀太郎画伯にしても、最初から、そういう人と知っていたわけではない。
が、言葉を交わした瞬間、「この人は、ただ者ではない」とわかった。

●精神の完成度

 絶え間ない心の鍛錬こそが、その人を光らせる。
あのパスカルも、そう書き残している。
釈迦も、「精進」という言葉を使った。
私は今まで、こう書いてきた。

 「精神の鍛錬法は、肉体の鍛錬法と似ている。
究極の鍛錬法というのはない。
1日でもサボったら、その日から健康は下り坂に向かう。
同じように精神も、1日でもサボったら、その日から精神は下り坂に向かう」と。

 が、肉体の鍛錬については、外から見ても、わかりやすい。
それなりに健康的で、たくましい体つきをしている。
が、精神の鍛錬については、外から見ただけでは、わからない。
ワイフは、「オーラ」という言葉を使う。
「それなりの人には、オーラが出ている」と。
しかし私は、オーラなるものを、信じない。

(1973、4年ごろ、ロシアのある科学者が、京都大学へやってきた。
そこでオーラの実験をしてみせた。
薄暗い部屋で、10人ほどの研究者が集まっていた。
当時は、「キルリアン」と呼んでいた。
オーラとキルリアンとは、同じものなのか。
あとで詳しく調べてみるが、かなりインチキ臭いものだった。
以来、私は、オーラなるものを信じない。
またそんなものがあるはずもない。)

 やはり、言葉である。
言葉のやり取りを通して、その人の精神の完成度を知ることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

真・善・美の追求。
学者は真を追求する。
宗教家は善を追求する。
芸術家は美を追求する。

私はものを書くことによって、何を追求しているのか。
ただの道楽なのか。
私はものを書きながら、いつも「私」を追求する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。
スパルタの七賢人の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。
自分を知ることが、哲学の究極の目的というわけだ。
ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜62)も、『パンセ』の中
で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。
別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。
この言葉は、釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。
精進というのは、「一心に仏道に修行すること。
ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。
釈迦は「死ぬまで精進しろ。それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残してい
る。

となると、答は出たようなものか。
つまり「私」というのは、その「考える部分」といことになる。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。
そんなある日、一人の事業家がやってきて、あなたの目の前に大金を積んで、こう言ったとす
る。
「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。
「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。
そこであなたという政治家が、人間であるためには、考えなければならない。
考えて、脳のOSの外に出なくてはいけない。
そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」と言って、そのお金をつ
き返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こる。
そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。
しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」があることにな
る。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。
考えるといっても、あまりにも漠然(ばくぜん)としている。
つかみどころがない。
考えというのは、方法をまちがえると、ループ状態に入ってしまう。
同じことを繰り返し考えたりする。
いくら考えても、同じことを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じ
である。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。
そのヒントとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』である。
彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたことがない」
と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。
そのために「書く」ということか。
私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。
もちろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかし
くない。
しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができ
る。
書くことイコール、考えることと言ってもよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに、「キルリアン」について書いた原稿をさがしてみる。
なおキルリアンについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『キルリアン写真(キルリアンしゃしん、Kirlian photography)とは、対象物に高周波・高電圧を
掛けて発生させたコロナ放電による発光現象を撮影した写真のこと。 
撮影時には、周波数 3 kHz 前後・電圧 30 kV 以上が用いられる。 
対象物から発散する水蒸気の電離・発光現象を撮影するため、撮影対象物は水分を帯びた
物体であれば生体・非生体を問わない(握り締めることにより、僅かな汗を帯びたコインでも像
を得られる)。 
また、真空中では水蒸気が速やかに拡散するため、像を得ることが出来ない』と。

 私が何人かの科学者たちと、京都大学で見た実験は、ここに書いたようなものだった。
半信半疑で、「ヘエ〜〜?」というような雰囲気で見ていたので、記憶の内容は、きわめてあい
まいである。
現在「オーラの写真」として公表されているものは、この「キルリアン現象」によるものと考えて
よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「スピリチュアル」というインチキ(Spiritual Boom in Japan)

More and more people believe in Spirits, a kind of uncertain superstition in Japan. They 
believe the former existence or life after death. But where are they? Does it really exist? 
Books written by E-bara, a founder of this spiritual boom in Japan has succeeded in having 
sold more than 7 million copies of his books. I would rather say here that it is very 
dangerous to believe in such and such the existence of Spirits, since it is closely connected 
with Cult or Sect, a very radical religions. We have to be more careful about them.

かつての「霊」ブームが、「スピリチュアル」ブームに変わった。
インチキもインチキ、どうしてそういったインチキが、こうまで堂々と、この世の中で、大手を振
って歩くのか。歩くことができるのか。

「前世」だの、「オーラ」※だの、はては、「守護霊」だのと、科学性はゼロ。
ただの迷信。「守護霊」という言葉にしても、ほんの30〜40年前に、この日本に現れた。
何かのオカルト・ブームがきっかけだった。

雑誌などを読むと、「スピリチュアルと、宗教とは、ちがう」と説く人は多い。
「スピリチュアルは、宗教ではない」「だから危険性はない」と。

当然ではないか。

宗教には、まだ哲学がある。スピリチュアルには、それがない。
ないから、迷信。ただ、それだけに、ヘタなカルトより、タチが悪い。

思考性を他人に預けてしまうことの恐ろしさを、なたは、知っているか?
他人ならまだしも、わけのわからないものに預けてしまう恐ろしさを、あなたは、知っている
か?

「あなたはキツネの生まれ変わり」だの、「ヘビの生まれ変わり」だの、はては、「あなたの先祖
は、人を殺している。そのタタリ」だのと、とんでもないことを言われ、それを真に受けてしまう。

そのおかしさ、バカらしさ、まず、それに私たちは、気づくべきではないか。

……と書いても、私がひとりで叫んでも、意味はない。大河の中にクイを一本打つ程度の効果
しかない。

スピリチュアル・ブームの火付け役となった、E原氏の本は、総発行部数で、700万部を超え
ているという(「日本の論点」2008)。
Aテレビ系列の彼の番組では、毎回、2けた台の視聴率を稼いでいるという。

700万部だぞ! 私のBLOGやHPへのアクセス件数は、累計で、先月、月間ベースで、やっ
と10万件を超えた。
が、それでも、70分の1! テレビの視聴率と比べたら、かないっこない。

単純に計算しても、10%の視聴率としても、それだけで、1200万人。
そういう人たちが、インチキをインチキとも気がつかず、テレビという巨大マスメディアに、言い
ように操られている。
いったい、日本の良識は、どこへ消えた!

だから私は、あえて叫んでやる! 

こんなインチキを野放しにしておいたら、やがて日本は再び、たいへんなことになるぞ!

スピリチュアル・ブームくらいなら、まだよい。
思考力を失った人間がどうなるか? 
あのO真理教によるサリン事件を思い出してみればよい。
あるいは、現在のK国でもよい。さらには戦前の日本でもよい。

共通してそこにいるのは、思考力を失った人間たちだ。
さらに言えば、思考力を失った、若者たちだ。子どもたちだ。

……実は、今、私も、こうした迷信との戦いに直面している。

実家の仏壇を、私の家に移そうと考えているのだが、それについて、親類縁者の人たちから、
「ショウ抜きをしなさい」「ショウ入れをしなさい」と言われている。

「ショウ」って、何? どんな漢字をあてるの?

つまり仏壇といっても、ただの箱。
そこで所属宗派の僧侶に来てもらい、「魂」を抜いたり、入れたりしてもらえということらしい。

バカげた迷信だが、それを口にしている人たちは、本気らしい。
「ショウを抜かないで仏壇を移動すると、バチが当たる」とか、「ショウ入れをしないと、位牌をま
つっても意味がない」とか、さらには「故人が成仏できない」とか言う。

結構なご意見だが、そういう人たちは、一度、YOU TUBEで、世界の音楽なり、民族舞踊なり
を見てみたらよい。
つまり一度、世界から日本を見てみることだ。そして日本人のほかに、どこのバカがそんなこと
を口にしているか、一度、調べてみたらよい。

釈迦だって、そんなことは、一度も言っていないぞ! 
バカヤロー!

さらにあえて言うなら、日本の仏教も、そんなことばかりしているから、若い人たちに、ソッポを
向かれる。
「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される理由も、そこにある。
結局は、スピリチュアルと中身は、同じ。

話をもどす。

「考えること」には、ある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。

そのとき横にいた人が、そっと、解答の出ている用紙を見せてくれたら、あなたはどう感ずるだ
ろうか。あなたは、ある種の陶酔感すら覚えるかもしれない。

だからほとんどの人は、できるだけ考えることから、遠ざかろうとする。
避けようとする。考えたところで、答が出てこないかもしれないという不安があるなら、なおさら
だ。

スピリチュアル・ブームは、そういう人たちの上に乗っている。
だから私は、「危険である」という。

前世も来世もない。この100年は、何とかもちこたえるとしても、200年、300年後には、人類
はもちろん、あらゆる生物が、この地球上から消える。
このままでは、そうなる。

そういう(現実)を前にして、「前世」だの、「来世」だのと、それを口にする、おかしさ。
そのおかしさに、まず気づいたらよい。

大切なことは、自分の脳みそで考えて、自分で行動することだ。
不完全で未熟かもしれないが、そこに人間が生きる意味そのものが、隠されている。

だから1人でも多くの人が、私と声を合わせて、こう言ってほしい。
「あんなのは、インチキだよ」と。その一声が、私たちの良識となって若者たちや、子どもたちの
未来を明るくする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist スピリチュアル スピリチュアル・
ブーム 精霊 聖霊 霊 カルト 迷信 オーラ論 オーラ)

(注※)
私が「オーラ」(?)なるものに出会ったのは、1970年のはじめごろのことだった。

(今、計算してみたら、1974、5年ごろのことだった。その記録は京都大学理学部のほうに
は、残っているはず。)

京都大学に、ソ連のある科学者(?)がやってきて、それを実演してみせてくれた。
その科学者は、科学的にオーラを光の映像にすることに成功したということだった。
私は、何人かの医師と連れだって、それを見るために、わざわざ京都大学まで出かけていっ
た。

(たしか当時、鍼灸の世界ではよく知られていた、良導絡研究所の研究所の人が、声をかけて
くれたように記憶している。
経絡とは何か。
その研究の過程で、だれかに呼ばれて、そこへ行った。)

そのときの実験は、こういうものだった。

(細部は記憶によるものなので、正確ではない。)

たとえば内臓のどこかに病変があると、その人が発するオーラの色が変わるというものだっ
た。
たとえば健康な人のオーラは、美しいxx色をしている。
しかし肝臓が悪くなったりすると、その色がxx色に変化する、と。

(色が変化するだけではなく、オーラの形や現れ方まで変化するという。)

体のあちこちに電極をつけていた。今から思うと、静電界か、電磁場を人工的につくり、それを
暗室で、発光させることによって、オーラ(?)を観察するというものではなかったか。

もちろん、そのあと、それは手品に近い、インチキと証明された。
人間にオーラなど、ない。
あっても、見ることも感ずることもできないはず。
ものごとは、常識で考えたらよい。

(注:ここで、キルリアンとオーラを同一視しているが、ひょっとしたら別物かもしれない。念のた
め。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 キルリアン オーラ 京都大学で
の実験 パスカル 思考 はやし浩司 パスカル)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言葉

 話を戻す。

 私はやはり「言葉」と思う。
あるいは、研究者であれば、論文、芸術家であれば、作品、さらに宗教家であれば、「言葉」と
いうことになる。
生き様でもよい。
とにかく、「見た目」では、わからない。
(わかることもあるが……。)

 私は、その人を判断するときは、その人の書いた文章を読む。
また文章を読まないと、落ち着かない。
たとえば簡単な例では、講演の依頼がある。

そういった依頼を電話で受け取っても、不安でならない。
日時、場所、など。
私自身の脳みその老化の問題もある。
電話で日時、場所を聞いても、すぐ忘れてしまう。
メモも、そのため、アテにならない。
が、こういう仕事のばあい、記憶違いは、許されない。
そこであえて先方には、こうお願いする。

「一度、FAXででもいいですから、依頼書を書いていただけると、ありがたいのですが」と。

 が、やはり直接的には、「言葉」ということになる。
言葉が、その人の内面世界を、直接表わす。
「先に書いた、一言、二言……」というのは、そういう意味である。

しかし私はそれでよいとしても、言葉には、2極性がある。
私が相手を判断するということは、相手もまた、私を判断していることになる。
私のほうは、相手を、「ただ者ではない」と判断する。
しかし相手は、どうなのか。
そういう私の「底」を見てしまうのか。
言い換えると、私は、そういった人たちには、どういう人物に映るのか。
残念ながら、私自身は、私をそういう「眼」で見たことがないので、わからない。

 さらに言えば、本物であっても、またそうでなくても、それはその人、個人の問題。
つまり「結果」。
ただこういうことは、言える。

 本物の人に出会うというのは、本当に楽しい。
同時に、うれしい。
自分がそうであるというわけではないが、仲間に出会ったような喜びさえ覚える。
まじめに、ただまじめに、ひたすら懸命に何かを追い求めてきた。
そういう人には、そういう人独特の(はね返ってくる言葉)がある。
雰囲気がある。
それを知るのは、本当に楽しい。
孤独感そのものが、癒される。

 ……ということで、今朝は、ここまで。

 先ほど、ある雑誌社から、原稿依頼をもらった。
その見本原稿を書いた。
おまけとして、それをここに添付する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【愛と甘やかし】


●「許して忘れる」


 (愛)ほど、ばく然とした概念はないですね。が、尺度がないわけではないわけではありませ
ん。
「許して、忘れる」。英語では、「For/give & For/get」といいます。
この英文を注意深く読むと、「子どもに愛を与えるために許し、子どもに愛を与えるために忘れ
る」とも読めますね。
その度量の深さで、親の愛は決まる……と考えてください。


が、「許して忘れる」と言っても、もちろん子どもに、好き勝手なことをさせろという意味ではあり
ません。
親は子どものできの悪さを見せつけられるたびに、悩み、苦しみ、ときには、袋小路へと叩き
落とされます。
子どもにかぎらず、人を愛するということは、それほどまでに、つらいこと。
ときに身を引き裂かれるような思いをすることもあります。
ホレホレと子どもを抱いたり、頬ずりするのは、愛でも何でもありません。
そんなことなら、そこらのイヌやネコでもしていますよ。


●誤解


 が、この日本には、大きな誤解があります。
子どもに楽しい思いをさせること、楽をさせること、それが「親の愛」と。
また「それによって、親子の絆は太くなる」と。
が、実際には、逆効果。
一度、保護、依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではありません。
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生がいました。
結婚式の費用について、親が、「半分くらいなら……」と言ったら、それに対して激怒。
「親なら、親らしく責任を取れ。結婚式の費用ぐらい出せ」と迫った、息子もいました。

規範のない、盲目的なでき愛を、(愛)と誤解している人は多いですね。
俗にいう、子どもを甘やかしながら、甘やかしていること自体に気がついていない。
結果、子どもは、ドラ息子、ドラ娘になります。
今や1億、総ドラ息子、ドラ娘と言ってよいほど、このタイプの子どもは多いですよ。

 自分勝手で、わがまま。
自己中心的で、利己的。
生活への耐性も失われます。
ある女の子(小4)は、突然、タクシーで家まで帰ってきました。
「どうして?」と話しを聞くと、こう答えたそうです。
「おばちゃんの家のトイレは汚れていて、気持ち悪かったから」と。
ドラ息子、ドラ娘になればなったで、苦労するのは、結局は子ども自身ということになります。


●筋(すじ)


 それがどういうものであれ、子育てには、一本の(筋)が必要。
わかりやすく言えば、(一貫性)。
具体的には、YES/NOをはっきり伝え、筋を通す。その筋がなくなったとき、親の心にスキが生
まれ、子どもはそのスキをついて、ドラ息子、ドラ娘になります。
その筋のないことを、「甘やかし」といいます。
親の愛とは、基本的には、まったく異質のものと考えてください。


 あのバートランド・ラッセル※は、こう書き残しています。


『親として、必要なことはする。しかし決してその限度を超えてはいけません。そんな親のみが、
真の家族の喜びを与えられます』と。


 (限度)をわきまえている親を、賢い親といいます。
親になるのは、簡単なこと。
しかし賢い親になるのは、本当にむずかしい。
一生のテーマと考えてよいほど、むずかしい。
安易に、節度のない愛に溺れてはいけません。

※…イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)

では、今日も、がんばります。
2012/03/16


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【北朝鮮のミサイル発射実験】

●北朝鮮の裏切り

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もともとアメリカの単独行動。
日本を無視しての、単独行動。
だいたい10年近くも、もめにもめた米朝会談が、
たった1回だけの会談で、「合意」に達するほうが、おかしい。

アメリカ側の代表は、「うまくいった」と喜んで帰ったが、そうは問屋がおろさない。
北朝鮮側は、たった17日目にして、合意時効を、反故(ほご)にした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●合意事項

先の米朝会談で、北朝鮮側は、つぎの3つを約束したとされる(2012年2月)。

(1)寧辺(ニョンビョン)のウラン濃縮活動や核実験、
(2)長距離弾道ミサイル発射実験を一時停止し、
(3)国際原子力機関(IAEA)の監視要員の復帰にも応じる、と。

 が、その舌の根も乾かない今日、北朝鮮は、突然、ミサイル実験をすると、発表した(3月16
日)。
まだ1か月もたっていない!
たったの17日目。

西日本新聞は、つぎのように伝える。

『北朝鮮は、来月の故キム・イルソン主席の誕生100年に合わせ、「衛星」を打ち上げると発
表しました。

 これは「朝鮮宇宙空間技術委員会」のスポークスマンの発表として北朝鮮のメディアが報じた
ものです。
故キム・イルソン主席の誕生100年を迎える来月12日から16日の間に地球観測衛星を打ち
上げるとしています』(以上、TBS-i・ニュース)。

『2月下旬に行われた米国と北朝鮮の高官協議の合意内容が公表された。

 北朝鮮は寧辺(ニョンビョン)のウラン濃縮活動や核実験、長距離弾道ミサイル発射実験を
一時停止し、国際原子力機関(IAEA)の監視要員の復帰にも応じる▽見返りに、米国は北朝
鮮に食糧支援として24万トンの栄養補助食品を提供、追加支援についても協議する−という
のが主な内容だ。

……(中略)……

 新指導部が一時的とはいえウラン濃縮や核実験・ミサイル実験の停止を受け入れたことは、
朝鮮半島の緊張を緩和する動きとして、一定の評価ができる。
2008年12月以来、中断している6カ国協議の再開につながる可能性もある』(以上、西日本
新聞:2012年3月2日)。

●アメリカ側の勇み足

「長距離弾道ミサイル発射実験、一時停止」を、本当に、北朝鮮側は、約束したのだろうか。
それについては、Yahoo Newsは、つぎのように報道している。
(ただしこれはアメリカ側の発表。)

『……アメリカ国務省のヌーランド報道官は3月16日、北朝鮮のミサイル発射予告について
「非常に挑発的だ」と述べた。
 また、ミサイル発射予告は米朝合意に「反する」と指摘し、国際的な義務の順守を要求した』
と。

 が、2012年3月に入ってからの、記事をあちこち読み返してみるが、「ミサイル」の文字は、
どこにも見えない。
聯合ニュースの一部を紹介する。

『……ウラン濃縮活動の中断に関しては、国際原子力機関(IAEA)と北朝鮮が間もなく協議に
入るとされる。
その場合、ウラン濃縮活動中断を前後して訪朝するIAEA査察官の規模や装備搬入、査察官
の立ち入り範囲、訪朝時期などが懸案になりそうだ。

 米朝は、文化・教育・スポーツ分野の人的交流拡大に関する合意についても、近く取り組み
を始める見通しだ。
米州に居住する朝鮮半島出身の離散家族の再会や、多様な文化交流が実現する可能性が
高まった』(以上、聯合ニュース、3月2日)。

 これらの記事を並べて読んでいたとき、私は、あのクリストファー・ヒルを思い出した。
あの男も、打ちあげたのは、花火ばかり。
中身が何も伴わなかった。
で、この記事をよく読めばわかるが、北朝鮮にしてみれば、「ミサイルの話は、何もしなかった」
ということになる。
つまりアメリカ側の、勇み足?

●相互連絡事務所?

 こうした一連の米朝会談の中にあって、気になるのが、「米朝相互連絡事務所」の設置。
先の会談直後から、北朝鮮側は、さかんに、その設置を求めている※。
が、この米朝相互連絡事務所は、アメリカにとっても、またこの日本にとっても、死活的な問題
を含む。

 アメリカ側にとっては、まさにその事務所が、いったん事あれば、「人質事務所」になる。
北朝鮮に住むアメリカ人は、そのまま「人質」に。

 また日本としては、警戒すべきは、「米朝友好条約」。
仮に「米朝友好条約」が締結されるようなことになれば、その時点から、日米安保条約は死文
化する。
アメリカ本土が攻撃されないかぎり、アメリカは北朝鮮を攻撃できなくなる。
つまり、北朝鮮は、日本に対して、やりたい放題のことができるようになる。

(注※)『北朝鮮の核問題を巡る6か国協議の北朝鮮首席代表を務めるリヨンホ外務次官が1
0日、ニューヨークで開かれた非公開セミナーで、最高指導者のキムジョンの意思として、米国
と北朝鮮の連絡事務所をそれぞれの首都に年内に開設することを米側に求めたことがわかっ
た。

 核問題を巡る米朝合意を契機にした、北朝鮮の外交攻勢の一環といえる。

 関係筋によると、李次官は同セミナーで米側出席者の元米外交官や専門家らに対し、米国
は北朝鮮への敵視政策を転換すべきだと要求したうえで、「今年中に双方の首都に連絡事務
所を開設したい。これはトップの意思だ」と述べた』(YOMIURI ONLINE 3月12日)。

●なし崩し

 一方的にワーワーと騒ぎ、ものごとをなし崩し的に既成事実化する。
こうした思考回路は、朝鮮民族独特のもので、それには北朝鮮も韓国もない。
竹島問題しかり、日本海の呼称問題しかり……。
……ということは、2つのことが考えられる。

(1)「ミサイル発射実験の凍結」は、アメリカ側の思い込み。
一方的にそういう話を、しただけ。

(2)米朝相互連絡事務所設置については、北朝鮮側の思い込み。
一方的にそういう話を、しただけ。

 少なくともたがいに、「そうですね」「それも考えましょう」程度のことは言ったかもしれない。
しかし文書化はしなかった(?)。

 相手がふつうの、(まともな)国なら、あいまいな合意事項でも、良識に従い、前向きに育てて
いく。
雑談ではあっても、相手の意をくみ、たがいによいように実現させていく。

 が、相手は北朝鮮。
あの北朝鮮。
まともな論理の通ずる相手ではない。
ないことは、あのクリストファー・ヒルの一連の米朝交渉を見ればわかるはず。
またしても、アメリカは、北朝鮮の手玉に取られた。

●ミサイル発射実験

 北朝鮮側はしかし、「ミサイル」とは言っていない。
「観測衛星」(報道)と主張している。
が、それを信ずる国は、どこにもない。
午後になって、つぎのような記事が配信された。

『……玄葉光一郎外相は、ただちに報収集を行うとともに、米韓をはじめとする関係国と連携
して対応するよう(事務方に)指示した』
『さらに、人工衛星の打ち上げが行われた場合、対北朝鮮制裁を定めた国連安全保障理事会
の決議に違反する可能性があるとの見方を示した』(以上、Yahoo/News)。

●すべては振り出しに

 結局すべては、振り出しにもどった。
1997年の、あの当時に戻った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「97年の愚」と題したエッセーを、書いたことがある。
それをそのままここに紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●97年の愚

 「97年の愚」というのは、1997年、韓国がデフォルト(=債務不履行=国家破綻)に陥った
とき、日本政府が、韓国政府から頼まれもしないうちから、IMF、世界銀行、アジア開発銀行な
どを総動員して、総額で500〜600億ドルかき集めて、韓国を救済したことをいう※。
しかもアメリカの反対を押し切ってまで! 

その少しあと、日本政府は、120万トン※という穀物援助(主に米)を、北朝鮮に対してしてい
る。
時のK外務大臣は、「これで(朝鮮半島が)動かなければ、責任と取る」と明言したが、結局、
何も動かなかった。
動かなかったばかりか、かえって反日運動が激化した。
竹島問題を例にあげるまでもない。
もちろんそのあと、K外務大臣が責任を取ったという話もない。
さらに最近に至っては、「借金は返しから、問題はない」(=日本に頭をさげる必要はない)と、
韓国政府は居直っている。

注※……ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。
その年も終わろうとしていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ドルを援助
した。
そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。
総計で、550億ドル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。
翌年には、失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。
今の日本円になおせば、わずか5〜6兆円。
それで、救済できたこと。

(日本のばあい、あのN銀行救済のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。
C総連系列のC銀には、1兆円!)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●河野洋平元外務大臣

 お人好し、日本!
おバカ、日本!
この「97年の愚」を読んだだけでも、それがわかるはず。
ここに書いた「K外務大臣」というのは、「河野洋平外務大臣」のこと。
なおウィキペディア百科事典には、「2000年(平成12年)、外務大臣として北朝鮮への50万ト
ンのコメ支援を決定した」とある。

 私の当時の記憶によれば、「120万トン」。
どちらが正しいのか?
(売国奴サイト)によれば、つぎのようにある。
(本当に、そういうサイトがある。
事実だけを転載させてもらう。)

『2000年、外務大臣として北朝鮮への50万トンのコメ支援を決定した。
「自分が全責任を取る」と見得を切ったが、この支援量は国連の世界食糧計画が要請した19
万5000トンの要請を遙かに上回る援助であり(金額にして1200億円)、およそ戦略性のな
いものとして「なんのためにしたのかわからないコメ支援」(田中明彦)などと批判された。
また、供与したコメの一部が軍の備蓄に回されたことへの批判も強い』(同、サイト)と。

 まさに「売国奴的行為」と呼ばれてもしかたのないような援助である。

 ……遠い昔、私が代筆した本に、河野洋平氏は推薦文を寄せてくれた。
その恩義があるから、今まで、「K外務大臣」と伏字にしてきた。
しかし今回から、「河野洋平氏」、実名表示にする。

(注※……120万トンについて。
私は当時、この数字を、確信をもって、記憶した。
50万トンというのは、米だけの数字ではないのか。
米以外の穀物を含めると、120万トン?
あるいは数年をかけ、120万トンの援助をしたのかもしれない。
当時の記録をさがしてみたが、それが見つからない。
どうであるにせよ、「50万トン」という量だけでも、たいへんな量である。)

●国益第一

 日本はもっと、国益第一に、クールな外交を展開すべき。
こんなことは、世界の常識。
北朝鮮については、韓国や中国が、いかにいやがっても、自然崩壊にもっていくべきであっ
た。
その方法としては、人権問題一本に絞り、北朝鮮を締めあげる。
徹底してそれを繰り返すべきであった。

 が、今やその人権問題にしても、なし崩し的に、どこかへかすんでしまった。
自然崩壊といっても、いまさら、どうにもならない。
中国が強力な後ろ盾となり、北朝鮮を守っている。
韓国も、そういった日本の意図を、すでに深読みしている。
「日本を結果的に利するようなことは、しない」と。
韓国は、北朝鮮が自然崩壊し、そのまま中国に組み込まれることを、何よりも心配している。
つまり手遅れ。

 では、どうするか?

●崩壊寸前?

 北朝鮮を、徹底的に無視する。
国際法違反と人権問題だけを中心に据え、それだけを世界に向け、訴えていく。
あんな国を、まともに相手にしてはいけない。
相手にする価値もない。
日本は、それに徹する。

 が、見方を変えると、こうも言える。
北朝鮮の豹変ぶりというか、平気で約束を破る姿勢には、ただただ驚くばかり。
が、つまりそれだけ内部的に、北朝鮮は、今、追いつめられている。
崩壊寸前。
「アメリカとの約束どころではない……」と。

 実際、そうなのかもしれない。
漏れ伝わってきているネット情報によれば、民衆の離反が始まっているという。
今回(2月)の米朝会談にしても、私は、「なぜ、今?」と。
「なぜ、今、食料援助をするのか?」と。
そんなふうに考えていた。
が、崩壊寸前ということであれば、納得できる。
北朝鮮も、今、死にもの狂い。

 なお、別の情報によれば、中国は北朝鮮に、米、穀物など、20万トンの援助を申し出ている
という(3月16日)。
もしそうなら、北朝鮮にしてみれば、「アメリカなど、もう用はない」ということか。

 ……とまあ、いろいろな憶測が飛んでいるが、わかりやすく言えば、この繰り返し。
北朝鮮は、周りの国々を脅迫する。
それに応じて、それぞれの国は、適当な援助を差し出す。
そのつど北朝鮮は、(振り子外交)を繰り返す。
中国→アメリカ→ロシア→韓国……、と。

 北朝鮮という独裁国家にとって、核兵器というのは、いわば(本尊)。
1回や2回程度の会談で、その本尊を手放すわけがない。
ワシントンに住んでいるアメリカ人には、それが理解できないかもしれないが……。

(願わくは、北朝鮮のミサイル発射実験が、失敗すること。
北朝鮮という独裁国家が、国際社会を前に、赤恥をかくこと。)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【注視! 日本国債の動きが、おかしいぞ!】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

とうとう国債が、下落し始めたぞ!
わかっているのか。
その深刻さが、わかっているのか。

消費税法案で、モタモタしているばあいではない。
足の引っ張りあいをしているばあいではない。
ここで何か起これば、日本は万事休す。

とうとう始まった、国債の下落。
Bloombergも、ロイターも、一斉にそれをトップ記事で、報道している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国債の続落

『債券は大幅続落 

 債券相場は大幅続落。米国景気の回復期待から前日の米債相場が大幅下落した流れを引
き継いで売りが先行。
 午後発表の20年債入札結果を受けていったんは戻したものの、中期ゾーンの現物債売りな
どをきっかけに相場は下げ幅を拡大した。 
 東京先物市場で、中心限月6月物は前日比62銭安の141円31銭で開始し、直後に141円29
銭まで下げた。
 午後の20年入札結果発表後には141円59銭までやや戻したものの、再び売りが優勢になる
と水準を切り下げ、結局は85銭安い141円08銭と、中心限月で昨年7月11日以来の安値で引
けた』(以上、Bloomberg)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 つづいて、こんな記事もある。

『海外ファンド主導で国債相場が急落、一時停止措置寸前に

 『日本国債の先物相場が急落した背景にあるのは海外ファンド勢の動きだ。
米金利急騰で商品投資顧問業者(CTA)が買い持ちを解消したほか、マクロ系と呼ばれる海
外ファンドは新たに売り持ちを構築し始めたという』(以上、ロイター)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●一刻の猶予もない

 今、日本の経済は、崖っぷちに立たされている。
ここで国債が、そのまま暴落したら、この日本はどうなる?
国家破綻だぞ!
が、それとて楽観論。
もしここで、何かのイベントリスクが発生すれば、どうなる?
地震、それとも原発事故……。
何かが引き金になり、そのまま日本は奈落の底に。

そんなことは、素人の私にもわかる。
が、国会は、何をやっている?
ゴタゴタつづき。
こういったことは、先手、先手で勝負。
後手、後手どころか、その後手も定まらない。

 今や、一刻の猶予もない。

●国債
 
 幸いなことに(?)、国債をもっているのは、金融機関と、それにジーちゃん、バーちゃんた
ち。
金融機関は、日銀の統制下にある。
あまりある現金で、国債を買いつづけている。
またジーちゃん、バーちゃんたちは、インターネットをしていない。
情報の外で生きている。
が、老人たちだって、そうはバカではない。
「どこか、おかしいぞ」と感じたときが、最後。
国債は、売りに出され、同時に暴落する。

 書き忘れたが、「国債」というのは、「国の借金」。
つまり借用証書。

●中学生の数学

 こんな数学の問題を考えてみた。

+++++++++++++++

Q:ある国が、額面100万円の国債を、利息2%をつけて、売り出した。
が、その国の経済が不安定になり、額面が割れ、80万円に下落した。
実質金利は、何%、上昇することになるか。

+++++++++++++++

 相場がさがれば、金利は自動的に上昇する。
なぜか。
この数学の問題が、それである。

 つまり仮に相場が、100万円から80万円にさがっても、その国は、100万円に対して、2%
の金利、つまり「2万円」を支払わねばならない。

 が、その国債は、実際には、80万円で売買される。
額面の100万円では売買されない。
つまり2万円という金利は、80万円に対しての金利ということになる。
これで計算すると、
2÷80=2・5%となる。

 つまり金利は、2%から2・5%に上昇したことになる。
さらに相場が、50万円にさがったら、どうなるか。
「日本の国債は、額面の半分の価値しかない」と、みなが判断したらどうなるか。

 そのときは、2÷50=4%となる。
仮にそうなったとすると、つぎに新規に国債を発行するときには、4%の利息を保証しなけれ
ば、その国債は、だれも買わなくなる。

 そこで額面100万円の国債を、4%の利息をつけて売りに出す。
で、当初は、そこそこに売れる。
が、再び、経済不安。

 その国債も、額面を割り、相場で80万円にまでさがった。
こうなると再び、先の計算。

4÷80=5%となる。

 金利は5%に上昇することになる。

 ……これを繰り返すうちに、その国は、やがて破綻する。

●楽観論

 が、おかしな楽観論が、市場を支配している。

その1。
日本よりあぶない国がいくつかあるから、まずそちらが破綻するはず。
日本は、そのあと。
だから日本は、だいじょうぶ。

その2。
日本は、大きすぎる。
日本が破綻したら、世界中がパニックになる。
だから日本が破綻する前に、世界が何とかしてくれる。

 その1については、ありえない話ではない。
というのも、日本の金融機関が大きな損失をこうむれば、金融機関は、外国から資金を引き上
げる。
そのとき真っ先の困るのが、それぞれの国。
そういった国のほうが、先に破綻する。

 その2にしても、大きいだけに、その分だけ、日本は奈落の底の、そのまた下にある地獄の
底に叩き落とされる。
結果、日本という「国」が消えてしまうかもしれない。

 だから……。

●引き延ばし

 今、世界は日本の政治を注視している。
「日本よ、ことの深刻さがわかっているのか?」と。

 残念ながら、世界の人の目に映る日本は、まことにもって、情けない。
あきれている人も、多いのではないか。
公務員数の20〜30%カットは、当たり前。
給料の、20〜30%カットは、これまた当たり前。
無駄な新幹線の建設や、道路建設は停止。
その上で、消費税率のUP。

 「そんなことをすれば、日本経済は成長性を失う」と説く人もいる。
しかし日本経済は、とっくの昔に破滅している。
それを無理に引き延ばせば延ばすほど、被害は大きくなる。

 ……というのは、乱暴な意見だが、しかし不気味は不気味。
それが冒頭にあげた、各記事。
国債の値動きが、このところ急にガタガタし始めた。
「注視!」。

 国債や現金を、タンスの中にしまっている人は、国債の動きにじゅうぶん注意したらよい。
いらぬ節介かもしれないが……。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【日誌・はやし浩司 2012−03−17】

●『マーガレット・サッチャー、鉄の女の涙』(以下、『マーガレット・サッチャー』)

 夜、8時過ぎ、月末の事務処理が終わった。
5月からの講演用のレジュメも完成させた。
そのとき、たまたま書斎にワイフが、お茶を届けてくれた。
「映画にでも行こうか?」と声をかけた。
ネットで調べると、9:30PMから、『マーガレット・サッチャー』が見られるのがわかった。
「いいわ」と、ワイフ。
それを確認したあと、すぐネットで、ビジネスホテルを予約する。
市内田町にある、クレタケ・イン・セントラル浜松。
「キャンセルがありましたから」と、すぐ部屋を用意してくれた。

 9時10分前に、家を出る。
今夜も深夜劇場。
我ら不良老人に、時刻はない。
「これからイギリスへ飛ぶぞ」と言うと、ワイフは笑った。
「映画を利用して、世界旅行!」と。

……。

 少し前、劇場から戻ったところ。
今、時刻は、12:12AM!
ワイフは、風呂に入っている。
私は、こうして今日の日記(?)を書いている。

 で、『マーガレット・サッチャー』。
評判通りの、すごい映画だった。
映画というより、メリル・ストリープの演技が、すごかった。
星は、もちろん5つ星の、★★★★★。
映画を見ながら、いろいろ考えた。
あの時代の、あのころを思い出した。
そのたびに、ズシリズシリと、重いものが胸に響いた。

 ……『マーガレット・サッチャー』の中で語られる英語は、もちろんクイーンズ英語。
一言、一言が格調高く、気品があった。
ウィット(機知)にも富んでいた。
ああいう言い回しが、日常的にできる英語が、うらやましい。
(もちろん下品な英語もあるが……。)

 つぎは、『スターウォーズ』、『長靴を履いた猫』……とつづく。
『Battleship』も楽しみ。


●友人

 話は前後する。
 
今日の昼、2週間ぶりに、友人に電話を入れた。
先月、呉(広島県)にある大和ミュージアムに行ったときのみやげを届けたのが、最後。
「どう?」と電話を入れると、意外な返事。

「女房は、胆のう摘出手術を受けてね。ぼくもヘルニアで動けなくなってしまった」と。
で、「林君、悪いが、昼飯を買ってきてくれんかなア」と。
元気のない声だった。

 異変を察知し、そのままワイフと車に飛び乗った。
途中のショッピングセンターで、3箱分の食料と飲料水を買う。
そのまま友人宅へ。
そこで2時間ほどを過ごした。
友人と奥さんは、それぞれ自分の病状を、詳しく説明してくれた。

 が、そういう話を聞くと、私は、すぐ「明日は我が身」と考えてしまう。
楽しいというよりは、(いつもは楽しいが)、しんみりとしてしまう。
私の年齢になると、いつ、何が起こるかわからない。
とんでもない伏兵が現れ、うしろから、ズバッとヤリで刺してくる。
油断できない。

 友人にしても、私よりはるかに健康に気をつかっている。
奥さんにしても、この4か月で、4キロやせたと自慢していた。
その矢先。
そんな友人夫婦にも、突然、病気が襲う。

 これから2、3日おきに、何かの食事を届けることにしよう。

●クレタケ・インにて

 ワイフは、今、チューハイを飲んでいる。
私は茶をわかし、それを飲んでいる。
日中は、あれほど眠かったのに、夜になると元気が出てくる。
そう、私は「夜男」。
血圧が低いこともあって、朝が苦手。

 こういう夜は、いつまでもこうして起きていたい。
いつまでも、文を叩いていたい。

●心配事

 今度、金環食が見られるという。
この5月21日(月曜日)に、地球と月と太陽が、一直線に並ぶ。

 その金環食が、この遠州地方でも見られるという※。
浜松市から静岡市にかけての一帯を、このあたりでは、「遠州地方」と呼ぶ。
が、金環食が見られる観測地点を知って、驚いた。
近く、東南海地震※が予想されている。
その場所と、ぴったりと一致する。

 月と太陽の引力。
その2つが重なって、この遠州地方を縦断することになる。
つまりそのとき、地球が受ける引力で、地震を引き起こす心配は、ないのか?
東南海地震は、目下、たいへん微妙な段階に入っている。
ほんの一押しで、大地震につながる。
そんなとき、地球と月と太陽が一直線に並んだら、どうなるのか。
そういう例は、今までにも、なかったわけではない。

 惑星や彗星が大接近するたびに、(もちろん偶然ということもあるが)、世界各地で、大地震
が起きている。
もしそうだとするなら、その日、この遠州地方を大地震が襲うかもしれない。
その確率は、ゼロとは言えない。

 とりあえず私とワイフは、その日に備えて、準備をすることにした。
「食料を買いだめし、山地へ避難しよう」と。
「金環食だ!」「きれい!」と浮かれている最中に、大地震が起きるかもしれない。

(注※……金環食)
『……いよいよ今年。2012年5月21日の朝。
九州・トカラ列島から福島県南東部にかけた日本の太平洋側の広い地域で、太陽がリング状
に欠けて見える珍しい天文現象 金環食(金環日食)が観測できます。
……(中略)……
今回の日食では東京・大阪・名古屋の三大都市圏が金環食帯に入っている上、中心食線(日
食帯の中心線)が南関東・静岡・紀伊半島南部などの多数の都市・観光地を通ります。
図鑑で見るような真円のリングが国内で観測できる、またとないチャンス!』(金環食ホームペ
ージ)と。

 この浜松市と静岡市、それに東京都を結ぶ線上を、金環食の中心食線が通るという!
なお、静岡市では、午前7時32分13秒に通過とか。
太陽や月の引力の力を、けっして過小評価してはいけない。

(注※……東南海地震)
『紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海 トラフの東側)で周期的に発生する海溝型地
震。規模は毎回 M8・0 前後に達する巨大 地震で、約100年から150年周期で発生してい
る』
『政府の地震調査研究推進本部の予測によると、2010年1月1日からの発生確率は30年以
内で 60〜70 % 、50年以内で 90 % 程度以上とされている』(ウィキペディア百科事典)と。

 東南海地震は、約100年から150年周期で起きているという。
前回は、1944年12月7日。

●夜中に目が覚める

 夜中に、息苦しくなった。
目が覚めた。
一応、ダブルベッドルームということにはなっているが、狭い!
縦と横の幅は、1・5間(約2メートル半)程度しかない。
ほぼ正方形の部屋+通路が、半畳程度。
換気扇はついているはず。
暖房も22度と、低め。
それでも夜中に胸苦しくなり、目が覚めた。
軽い頭痛もあった。
時刻は、午前4時半。

 窓を開ける。
新鮮な空気を、取り込む。
一息つく。

 「まさか……?」とは思いたいが、こんな狭い部屋で、2人の宿泊は無理。
こんな部屋に2人で泊まったら、酸素欠乏で、朝までに死んでしまう。
クレタケ・インには、そのつどしばしば泊まらせてもらっているが、こんなことははじめて。
次回は、慎重に部屋を選んでもらおう。

(注)
 チェックアウトのとき、それをフロントの男性に告げると、こう説明してくれた。
そのまま書く。

(1)部屋には、換気扇はない。
(2)洗面所(+風呂、トイレ)には、換気扇がついている。
(3)だから洗面所のドアを半開きにし、電気をつければ、換気ができる、と。

 しかし洗面所のスイッチは、1つ。
電気(天井灯)と換気扇のスイッチは別々になっていない。
つまりこの方法だと、電気をつけたまま、眠らなければならない。
が、私たち夫婦のように、真っ暗にしないと眠られない人も多いはず。
そういう人は、どうすればよいのか。

 説明を聞き、「不便だなあ」と一言。

●鏡

 テーブルの前に、50センチ四方大の鏡がある。
私の顔がまともに映っている。
その顔を、しばし、ながめる。
……というのも、私はめったに鏡を見ない。
見るとしても、1日の生活の中でも、数秒程度。

 その顔を見ながら、こう思う。
「ジジイだなあ」と。

 白髪がふえた。
今では、60%前後が、白髪。
顔のシワは少ない方だが、それは顔が、少しむくんでいるせいではないか。
どうしてだろう?
「今日、床屋へ行ってこよう」と、今、そう思った。
髪の毛はボサボサ。
口髭も、てんでばらばらな方向を向いている。
そう思ったところで、鏡から目をそらした。

●ネット中毒

 私もその仲間かもしれない。
が、隣りの韓国では、ネット中毒者が社会問題になっている。
正確には、「ネット」ではなく、ネット・ゲームと書くべきか。
一晩中、パソコン相手にゲームをする、など。
が、この日本では、話題にもならない。

 どうしてだろう?

 韓国では、一定の基準を定め、それ以上だと、ネット・ゲーム中毒と断定している。
が、この日本には、その基準すら、ない。
どうしてだろう?

 が、数値的な基準、たとえば1日、何時間以上、ゲームに没頭しているからどうのこうのとい
う尺度は、あまり意味がないのでは?
問題は、中身。
ゲームに没頭するあまり、自らを社会から遮断してしまう。
あるいはそのつど、ゲームの中の世界と、自分を1対1の関係に置いてしまう。
つまり自分とゲームの間に、距離を置かない。
バーチャルな世界に、ハマり、そこを現実社会と混同してしまう。

(「1対1」というのは、自分とネットの世界を、1対1と思い込んでしまうことをいう。
本当は、自分対、無数の相手なのだが、ゲームにハマると、それがわからなくなる。)

 で、子育ての世界には、「カプセル家族」という言葉がある。
自分たち家族を、風通しの悪いカプセルの中に、置いてしまう。
他人の意見を聞かなくなる。
自分たちだけが、ぜったい正しいと思い込んでしまう。
そのため同じ過保護でも、極端化しやすい。
過干渉や過関心にしても、極端化しやすい。
もちろんその先には、虐待もある。

 同じように、ネットを相手に、自らを社会から遮断してしまうと、ものの考え方が極端化しやす
い。
心に何かの病気をもっている人なら、なおさら。
まさにそこは仮想現実の世界。
その仮想現実の世界に、ハマってしまう。

 そのため、もしあなたがネット中毒者(?)なら、またその疑いがあるなら、努めて現実世界と
の接点をもったほうがよい。
外出するとか、人に会うとか、など。
運動をするのもよし、映画を見るのもよし。

●私

 私はいつもパソコンと、こうして向かい合っているが、ネットをする時間は、かぎられている。
パソコンと向かい合っている時間の99%は、こうして文章を叩いている。
つまりパソコンを、ワープロとして利用している。
残り1%で、Eメールを読んだり、あちこちを検索したりしている。
ゲームといっても、将棋と囲碁だけ。
ほかのゲームは、しない。

が、だからといって、安全というわけではない。
ときにささいなことが気になり、それが妄想につながるときがある。
そういうときは、精神がイラついてくる。
それで、それとわかる。
「あぶないぞ!」と。
ときどき「NO・パソコン・デー」をもうけているのは、そのため。
毎週水曜日前後を、その日と決めている。

 たとえば……ときどき「2チャンネル」をのぞくことがある。
若い人たちの意見が、そこには赤裸々な形で表現されている。
が、明らかに論理的に、「?」と思われるものも、少なくない。

「ジジイは、社会のゴミ。1匹くらい死んでも、害はない」とか、など。

どうしてそういうものの考え方をするのかということを、論じても、意味はない。
先に書いた「極端化」という現象と考えると、理解しやすい。

 ネット中毒かどうかは、何かのメンタル・テストをしてみてはじめてわかること。
たとえば子どものばあい、ゲームにハマっている子どもは、顔つきや表情、それに様子まで、
おかしくなる。
突発的に興奮状態になったり、キレやすくなったりする。
ゲームをしていないときは、(あるいはゲーム機が近くにないときもそうだが)、明らかにイライ
ラした様子を見せたりする。
(反対に、正気が失せたかのように、ヌボーッとする子どももいる。)

 何時間以上しているから、「中毒」とか、それ以下だから、「中毒ではない」とかいう判断は、し
ても、あまり意味はない。
診断のひとつの基準にはなるだろうが……。

●眠気

 再び、睡魔が襲ってきた。
眠くなってきた。
外では、カラスが鳴き始めた。
朝が近いよう。

 再び、自分の顔を見る。
小さな目だが、その目が、さらに小さく見える。
ショボショボしている。

 朝になったら、早くここを出る。
自宅で、もう一度、眠りなおす。

今日は、日曜日。
畑作を予定している。
10坪足らずの畑だが、ほぼ半分は、ほかの野菜で埋まった。
あとは、ナス、トマト、キュウリなどの定番野菜。
それを今日中に、すませたい。

……エ〜ト、ほかに、山荘へ行き、M氏に会わなければならない。
ときどき山荘周辺の草を刈ってもらっている。
その礼のあいさつをしなければならない。

 あとは薬局へ行き、目薬を買う。
いつも書斎に、3本ほど置いてあったのだが、今はゼロ。
このところ目の疲れを、よく感ずる。
気をつけよう。

 では、今朝のエッセーは、ここまで。
みなさん、おはようございます。
雨もあがり、生暖かい、春の陽気。
バンザ〜イ!

2012年3月18日


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【山岳民族】(日本人は、もともと山岳民族だった?)

●浜松から、寸又峡(すまたきょう)温泉まで

 先日、寸又峡温泉へ行ってきた。
浜松からだと、一度、JRの東海道線に乗り、金谷(かなや)まで行く。
そこから大井川鉄道に乗り、千頭(せんず)まで。
さらにバスに乗り、寸又峡温泉まで。

 しかしもうひとつ、寸又峡温泉へ行くルートがある。
浜松から山間部を抜け、直接、寸又峡温泉に行くルートである。
その(浜松)(金谷)(寸又峡温泉)を線で結んでみると、ほぼ正三角形になるのがわかる。
距離的には、浜松から山間部を抜け、寸又峡温泉に行ったほうが、近いということになる。
が、山間部は、(昔は)、道路事情も悪く、その分だけ、時間もかかった。
が、今は、道路も整備された。
浜松の人でも、寸又峡温泉へ行くとき、その山間部を通り抜けていく人がいる。
先日も、近くの山の中の道を、寸又峡温泉から迎えに来たバスが走っているのを見た。
そのバスは、寸又峡温泉から、浜松まで、山間部の道路を通ってやってきた。

 道理で……というか、あの武田勝頼が、愛知県の長篠(ながしの)までやってきた理由が、そ
れでわかった。

はじめて長篠の合戦場跡を訪れたとき、私はこう思った。
「どうしてこんな山奥へ、武田勝頼は来たのか」と。
武田勝頼は、そこで織田信長の鉄砲部隊と出会い、敗れる。

(注※……長篠の戦いについて。
『長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(ユリウ
ス暦1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康
連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い』(ウィキペディア百科事典)。

●美濃地方と飛騨地方

 同じようなことだが、岐阜県にも、それがある。
たとえば、岐阜県の美濃地方の山奥(板取村、郡上村)から、飛騨地方(高山、下呂方面)へ
行くときは、一度、岐阜市まで出なければならない。
私が子どものころは、そうだった。

 が、不思議なことに、美濃地方の山奥と、飛騨地方とは、文化的に類似性が多い。
さらにその先は、富山市へとつながっている。
また反対に、美濃地方の山奥は、福井県の大野市ともつながっている。
今とちがい、昔の人は、歩いて、山越えをした。
またそのほうが、ずっと近かった。

 川沿いに道が発達し、さらに海沿いに交通網が整備されたのは、鉄道や自動車が発達して
からのこと。
私が驚いたのは、こんなこと。

 たとえば岐阜県美濃市の実家から、北陸の福井市や金沢市へ行くときのこと。
私が学生のころの話である。
そのときは、一度、岐阜市まで出る。
そこからJR東海道線に乗り、米原まで行く。
米原からは、北陸本線に乗り換え、福井市や金沢市へ向かう。

 が、こんなことをしなくても、昔の人なら、美濃市からさらに山奥へ入り、峠を越えて、福井市
へ向かった。
距離的には、ずっと近い。
(ただしこの道は、現在は獣(けもの)道になっていて、猟師でないと越えられないとのこと。)
私は、それを知って、驚いた。
つまり(道のり)でいう距離と、(直線距離)でいう距離。
その両者の実感が、あまりにも、かけ離れていた。

●原発事故

 さらにこんなことも。
あの福島第一原発の事故のあと、近くの浜岡原発、さらには、福井県にある、敦賀(つるが)原
発のことが、気になった。
もし事故でも起きたら……、と。

 そこで距離を測ってみた。
あくまでも地図上での直線距離だが、現在の敦賀市から岐阜市まで、直線距離で、65〜70
キロしかない(350万分の1の地図上で、1・9センチ)。
名古屋市まで、91キロしかない(同じく、2・6センチ)。
もし敦賀原発が事故を起こしたら、岐阜市はもちろん名古屋市も、避難対象地域になる。
(福島第一原発の事故のときは、西風が幸いした。
が、敦賀原発のときは、西風は命取りになる。)

 一方、浜岡原発(御前崎)から浜松までは、たったの35〜40キロ(約1センチ)!
風向きにもよるが、東風でも吹いたら、一巻の終わり。

 日本地図を、こういう視点でながめるようになったのは、やはりあの福島第一原発の事故が
理由だと思う。
それまでは、そういう見方は、あまりしなかった。
実感距離というか、「車で〜〜時間」「電車で〜〜時間」と。
それでもって、「近い」「遠い」を判断していた。

 で、冒頭の話に戻る。

●山岳民族

 日本列島が、オーストラリア大陸のように平地だったら、私たちがもっている距離感覚は、大
きくちがっていただろう。
そこに山があるため、その山によって、距離感が狂ってしまった。
……というか、正確な距離感をもてない。
「遠い」と思っていたところが、意外と近かったり、反対に、地図上で「近い」と思っていたところ
が、意外と遠かったりする。

 さて昔の武将たちは、近道、つまり山越えをしながら、合戦を繰り広げていた。
結局、私の言いたいことは、この1点につきる。
またそういう視点がないと、戦国時代のあの時代の人々の動きを、理解することができない。

 繰り返しになるが、現在のように、川沿いに一度海に出て、そこから海沿いに移動するという
方法は、列車や自動車が発達してからのこと。
それまでの日本人は、山から山へ、歩きながら移動していた。
またそれぞれの地方の文化も、そのルートで、つながっていた。

 日本人は、もともとは、山岳民族であった……ということになる。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 文化の伝承 山間の道 はやし浩司 山岳民族)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【書くことのすすめ】

●衰退する文章表現力

 それがよいことなのか、悪いことなのかというと、悪いことに決まっている。
この日本では、本(文章)を読む人が、どんどんと減っている。
その一方で、コミック(漫画)を読む人は、どんどんと増えている。
今に始まった現象ではない。
原稿を探してみるが、私はすでにそれについて、20年以上前に書いたことがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

原稿番号を調べたら、(#406)になっていた。
1999年ごろに書いた原稿ということになる。
それ以前のは、見つからなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(406)

●Nさんの相談より(2)

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。
祖母がいた。
「ハネやハライが、メチャメチャだ。ちゃんと見てほしい」と。
私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したときのことである。
あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。
そういうときも私は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。
が、それにも抗議。「答がちがっているのに、どうして丸をつけるのか!」と。

(私は子どもの努力に対して、丸をつける。
答の正誤など、どうでもよい。
あるいは子どもを励ますために、丸をつける。)

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。
よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。
最近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。
「右利きはいいが、左利きはダメ」と。
私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意され
た。
書道の先生ということもあった。
そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願すると、その先生はこう言った。
「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほうがよい」と。
そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。
書き順どころではない。
文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなくなってしまった。

 近く小学校でも、英語教育が始まる。
その会議が10年ほど前、この浜松市であった。
その会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。
つまり二画と決まりました。
同じようにMとWは四画と決まりました」と。
私はその話を聞いて、驚いた。
英語国にもないような書き順が、この日本にあるとは!

 そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、25度傾けて書けと教えられたことがある。
今から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろ
くない。
つまらない。
たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌いになっ
てしまう。

日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、子どもたちの文字嫌い
があるとしたら、喜んでばかりはおられない。

だいたいこのコンピュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくな
に守らねばならない理由が、一体どこにあるのか。
「型」と「個性」は、正反対の位置にある。
子どもを型に押し込めようとすればするほど、子どもの個性はつぶれる。
子どもはやる気をなくす。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 型枠教育 教育の型 はやし浩司 喜んでばかりはおられない はやし浩司
 コミック アニメ 漫画 はやし浩司 山岳民族)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●文章表現力

 一方で、最近の若い人たちの書く文章には、独特のものがある。
(けっして、ほめているわけではない。)
主語や述部を省略する。
感情をそのままぶつける。
何に対してそう思うのか、その説明もない。
思考がバラバラに飛び散ってしまい、自分の考えを、文章としてまとめることができない。
つまり「意味不明」。

 で、その背景にあるのが、思想のコミック化。
アニメ化でもよい。
たとえば爆弾が破裂する図を描き、それでもって「怒っている」ことを表わす。
そういう表現の仕方は、うまい。
が、言葉として、怒りの様子を表現することができない。
たとえば子どもたちの世界。
二極化が進んでいる。

●文章vsコミック

 早い子どもで、すでに小学校へ入学するころには、二極化が始まる。
「本が好きな子ども」「本が嫌いな子ども」と。
それが小学高学年(5、6年生)になると、より、はっきりとしてくる。
「本が好きな子ども」「コミックが好きな子ども」と。
その割合は、1:9くらいではないか。
コミックのほうが好き(=文章になった本は、ほとんど読まない)という子どものほうが、圧倒的
に多い。

 それが悪いというのではない。
が、そのため、文章表現力が、極端に落ちる。
先に書いたような「意味不明」の文章が、多くなる。
たとえば昨日も街中を歩いていたら、歩道で色紙を売っている人を見かけた。
その1枚に、こんな文章が書いてあった。

『夫婦は、意見のぶつけ愛』と。

 一瞬、「うまいこと書くなあ」と思ったが、そこで思考停止。
「どういう意味なのか?」と考えたが、そこまで。
言わんとしていることは、何となくわかる。
「夫婦というのは、たがいに言いたいことを言う。
それを許しあうのが、愛」と。

 が、問題は、それにとどまらない。

●書くことの重要性

 映画『マーガレット・サッチャー・鉄の女の涙』に中に、こんなセリフが出てくる。
記憶によるものなので、不正確だが、こういうセリフ。

「考えたことを書く。
書いたことは、行動になる。
行動は、習慣になる。
習慣がその人の人格を作る」(記憶)と。

 考えるから、人間は人間である(パスカル)。
が、考えるだけでは足りない。
それを書いて文章にする。
書くことによって、論理力を養う。
知性や理性も、それによって磨かれる。
行動の基盤になる。
で、それが習慣となり、長い時間をかけ、その人の人格を作る。

 書くことには、そういう意味が含まれる。
が、書かなかったら、思考は堂々巡りする。
それこそ60代になっても、70代になっても、こう言う。
「お前は、男だろが。男らしくしろ!」と。

 20代のころ、あるいは10代のころ身につけた常識(?)のまま、そこで進歩が停止する。
事実、このタイプの人は、多い。
特徴をあげてみる。

(1)考え方が、世俗的(=俗っぽい)
(2)意見といっても、だれかの受け売り(=どこかで聞いたような話)
(3)ものの考え方が、直感的で、感情的(=論理性がない)
(4)内容が平べったく、深みがない(=繰り返しが多い)
(5)言葉の使い方が、不正確(=「男的にはねえ……」と言ったりする)
(6)「ダカラ論」が多い(=「男だから……」「日本人だから……」と)
(7)視野が狭い(=視野が狭く、関心のあることしか、話さない)
(8)言葉がつながらない(=「ア〜〜」「ウ〜〜」が多い)

 が、何よりも大きな特徴は、(9)繊細な会話ができない、など。
料理にたとえるなら、海賊焼きのようなものはできるが、日本料理のようなものは、できない。
(あまりよいたとえではないが……。)

●ものを書こう

 ものを書くということは、考えること。
考えなければ、ものを書くことはできない。
言葉は、論理。
その言葉が集まって、文章になる。
その文章をまとめるとき、また考える。
この繰り返しが、その人の論理力を深める。

 もうひとつ、ついでに言えば、こういうこと。

 ものを書いていると、ときどき、(稀に)、キラリと光るものを見つけるときがある。
それまで知らなかったこと、気がつかなかったこと、など。
荒野の中で、宝石を見つけるようなもの。
私のばあい、それがあるから、文を書くのがやめられない。
……というのは、あくまでも私の個人的な話。
みながみな、そうというわけではないかもしれない。

 ともかくも、ものを書こう。
書いて、自分の(考え)を、形にしよう。
パスカル(フランスの哲学者、1623〜62)は、『パンセ』の中で、こう書いた。

 『人間は不断に学ぶ、唯一の存在である』と。
別のところでは、『思考が人間の偉大さをなす』とも。

 この言葉をもじると、こうなる。

「人間は不断に学び、書く、唯一の存在である」と。
さらに言えば、「書くことが、人間の偉大さをなす」とも、

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 言葉 書くことの重要性 はやし
浩司 パスカル 思考が人間の偉大さ パンセ はやし浩司 不断に学ぶ)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
●3月19日、山荘に一泊

 昨夜遅く、山荘にやってきた。
途中、コンビニで、いくつかのものを買った。
せんべい、チューハイ、それにチョコレート。

 山荘に着くと、すでに春の匂い。
たとえ雑草でも、若葉には、若葉の匂いがある。
そう言えば、10日ほど前、ウグイスの初鳴きを聞いた。
が、今朝は、それがない。
どうしたのだろう? ……と思いながら、この文章を書いている。

 時は、2012年3月19日、月曜日。

 今週は、大きな目標(?)がある。
小学1〜2年生たちに、「速度と時速」を教えてみる。
私にとっても、はじめての試み。
そのための教材を午前中に、用意する。
(実際、その教材を使うのは、今週の木曜日からだが……。)

 先週、小学6年生の子どもが、速度の計算で悩んでいた。
いろいろ説明してみたが、最後まで納得できなかったよう。
それで今週は、「速度と時速」を教えてみたくなった。
 
 こんな問題だった。

【問】
 山に登りました。
頂上までの距離は、12キロ。
行きは、時速4キロ、帰りは、時速6キロで歩きました。
平均時速を求めなさい。

 その子どもは、「(平均時速は)5キロ」と答えた。
何度説明しても、「5キロ」と。
そう言い張った。
で、紙に山の絵を描き、「あのね、まずね往復の時間を求めてからね……」と。
が、それでも納得できなかったよう。

 そこで今週は、「速度と時速」。
小学1〜2年生のころ、その「種」をまいておく。
その種は、やがて子どもの脳の中で、芽を出し、成長する。
学校で、速度や時速について学ぶころには、大きく成長しているはず。
これを称して、「種まき教育」(はやし浩司)という。

 大切なことは、子どもを楽しませること。
この先、いろいろな場面で、「速度」とか「時速」とかいう言葉を耳にする。
そのとき子どもがそういった言葉に、前向きに反応するようにすること。
そのために「楽しい」という印象づくりを大切にする。
それが大切。

 なお誤解があるといけないので、一言。

 私のところでは、算数だけを教えているわけではない。
小学2〜3年生になると、国語も教える。
レッスンの前の、10〜15分程度を、その時間にあてている。
……といっても、国語については、筆写と作文。
この2つ。

 筆写させる文章は、古文から現代文まで。
明治以後の文豪の書いた文章が多い。
が、そういった指導は、YOUTUBEで紹介しても、あまり意味はない。
どうか、誤解のないように。

【答え】

 先の平均時速の問題について、正解は、4・8キロ。
往復5時間(行きは3時間、帰りは2時間)で、24キロを歩いたことになる。
だから24÷5=4・8(キロ)。

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
【2つの危機】(はやし浩司 2012ー03−20)
(1)日本人のモラル、(2)東南海地震

【福島原発事故】(日本人のモラル)

●大江健三郎氏の「40年」

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

大江健三郎氏は、こう述べた(フランス、「サロン・ド・リーブル」での講演)。

『……私は原爆は、すでに終わった歴史だと思っていたが、被爆の問題は終わっていなかっ
た。今、福島で起こっていることは、40年後に顕在化する』(中日新聞・2012年3月19日)
と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●チェルノブイリと福島

 「40年」という数字はともかくも、私も、大江健三郎氏の意見に、まったく同感。
そのことは、チェルノブイリの現状を見れば、わかる。
放射性物質にさらされることにより、急性症状が発症する。
が、それよりも恐ろしいのは、「長い潜伏期間中にじわじわと体がむしばまれる、晩発性影響で
ある」(「原発事故」宝島社)。

 その症状は、「被爆後数か月か、数年後か、あるいは数十年後かに障害が出る」(同書)と。
遺伝的影響も無視できない。
遺伝的影響は、(1)遺伝子突然変異と、(2)染色体突然変位に、分類される。
 

 そのチェルノブイリで、症状が顕在化し始めたのは、2年後から5年後。
10年後にピークを迎えたという(同書)。
30年近くたった今も、その被害は進行中。
そのとき子どもだった人たちが影響を受け、その被害が、そのまた子どもたちに現れている。

2012年3月20日現在、あの3・11大震災、それにつづく原発事故から、まだ1年しかたって
いない。
にもかかわらず、原発事故汚染地帯では、あちこちで早々と安全宣言がなされ、観光客の誘
致運動も始まっている。
ノー天気というか、バカげている!

 たとえば、南相馬市。

「……南相馬市は、原発から20キロ圏内の(警戒区域)と被爆放射線量が年間20ミリシーベ
ルトに達する恐れのある(計画的避難区域)の、計1万3200人が、強制的に避難させられ
た。

 中心部の20〜30キロ圏内は、年間3ミリシーベルトと低く、住んでも問題ないとされ、いずれ
の区域にも指定されていない。
それでも市の中心部の住民1万3000人あまりは、市外で自主避難をつづけている。
市の人口は、福島事故前の7万1000人から、4万3000人と、3万人近く減った」(中日新
聞、3月20日)と。

 同日の中日新聞は、市内に店を構える、ある玩具商を紹介している。
その玩具商は、こうこぼしたという。
「商売になんねえ」と。

 「子どもたちがいないから、玩具を買ってくれる子どももいない」と。

 あのチェルノブイリでは、「本州の(日本の)6割分が汚染された」(同書、P54)という。
半径にして、600キロ。
(福島第一原発から、東京までが約200キロ、浜松市までが420キロ。)
南相馬市では、20〜30キロが、基準になっている(?)。
たったの20〜30キロ!

●「ウッソー」

 先日も、ある中学生がこう言った。
「福島第一原発事故は、まだ何も片づいていないよ」と、私が言うと、「ウッソー(浜松市の方
言)」と。
その中学生は、福島第一原発事故は、すでに片づいたものと思い込んでいた。

私「被害が出てくるのは、これからだよ」
中「被害者は、だれもいないわよ」
私「あのね、100万キロワットの原発1機で、年間、広島型原発の約2800発分もの放射性物
質を作りだすというよ(瀬尾試算)」
中「……」
私「それが4機……とくに警戒しなければならないのが、4号機。4号機は、プルトニウムを使っ
ていた。それに4号機のプールの中には、4機分全部を集めた分に匹敵する、燃料棒が貯蔵
されている。もし4号機のプールが破損したり、倒壊するようなことにでもなれば、この浜松市
あたりまで、人は住めなくなるんだよ」と。

 この先、何が起こるかわからない。
あれほどの津波は、しばらくはないとしても、福島第一原発の地下には、活断層が何本も走っ
ている。
それが地震を引き起こせば、さらに被害が拡大する。
4号機のプールが破損し、水が抜けただけでも、大惨事を招く。

 人が近づくことすら、できなくなる。
半径、100キロとか200キロにも、人が近づけなくなる。
そうなったとき、近くにある福島第二原発や、女川原発、さらには、東海村にある原子炉はどう
なるのか。
想像するだけでも、背筋が凍る。

●『今、福島で起こっていることは、40年後に顕在化する』

 大江健三郎氏は、こう言っている。
『今、福島で起こっていることは、40年後に顕在化する』と。
つまり被爆被害は、40年後に顕在化する、と。

 だったら、少なくとも、ここ10年は、様子を見るべきではないのか。
10年後に、被爆による影響がないとわかった段階で、各地にある原子炉の再開を始めれば
よい。
が、まだその最中の、これから先、どうなるかわからないような状況の中で、各地の原子炉を
再開するなどということは、どう考えても常識をはずれている。

 なお、大江健三郎氏は、こうも述べている。

『日本人は、危機を認め、根本的なモラルを持たなければならない』(中日新聞)と。

(1)危機を認める
(2)根本的なモラルを持つ、と。

●危機とモラル

 ある友人は、こう言った。
浜松市内で、外科医をしている。
私の教え子でもある。
いわく、「私はね、(福島原発の)あの爆発を見たとき、ああ、これで日本は終わったと思いまし
たよ」と。

 大江健三郎氏がいう、「危機を認める」というのは、それを言う。
が、今のようなモラルでは、その危機を乗り越えることはできない。
ただ、あがくだけ。
もがくだけ。

政府はウソにウソを塗り重ね、一方、国民は、耳障りのよい意見だけを鵜呑みにする。
その相互姿勢は、現在の北朝鮮と、どこもちがわない。
だから大江健三郎氏は、「根本的なモラルをもて」と。

 が、新聞では、これ以上の報道はしていない。
これ以上のことは、わからない。
大江健三郎氏が言う、「根本的なモラル」とは、何か。

私流に解釈すれば、資本主義的な物欲文明から決別し、別の価値観を見出すということにな
る。
大きなテーマだけを与えられたようで、では、どうすればよいのか、今の私にはわからない。
近く大江健三郎氏の意見が、雑誌などに載るだろうから、それを読んだあと、また私なりに考
えてみたい。

 なおここに書いた友人の外科医は、現在、浜松市と沖縄の間を、頻繁に行き来している。
「沖縄には仕事がある」と言っている。
この春休みも、沖縄で過ごしている。
家族ともども、近く、移住を考えているようだ。

 なお、最後に一言。
数日前、こんな記事が報道された。

「福島産の米は、老人ホームなどで、使ってもらう」と。

 若い人たちにすれば、老人ホームにいる老人は、そういう人たちに見えるかもしれない。
しかしその老人に近い、私は、この記事を読んで、ゾッとした。
なぜゾッとしたかについては、あえて説明しない。

 私は、こういうことを平気で言う日本人、あるいは日本という国に、心底、失望した。
大江健三郎氏が言うところの、根本的なモラルそのものが、狂っている。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【東南海地震】

3月17日に、東南海地震について書いた。
その中で、つぎのようなことを書いた。

『……5月21日(月曜日)に、名古屋から東京にかけ、金環食を見ることができるという。
金環食によって、太陽、月、地球が一直線に並ぶ。
そのとき、太陽と月の引力が、地球の地殻に影響を与えることはじゅうぶん、考えられる』と。

ちょうど金環食が観測されるあたりは、東南海地震が予報されている地域と重なる。
(東海地震と南海地震を合わせ、東南海地震という。)
先の、3・11大震災(2011)以来、このあたりの近くも、かなり不安定になってきているのでは
ないか。
事実、その大震災のあと、各地で、その大震災で誘発されと思われる地震が、頻発して起きて
いる。

●心配

 ここに書いたことが、まったくのデタラメかというと、どうも、そうでもないようだ。
それを裏付けるような記事が、今日(3月19日)、配信された。

(注※……金環食)
『……いよいよ今年。2012年5月21日の朝。
九州・トカラ列島から福島県南東部にかけた日本の太平洋側の広い地域で、太陽がリング状
に欠けて見える珍しい天文現象 金環食(金環日食)が観測できます。
……(中略)……
今回の日食では東京・大阪・名古屋の三大都市圏が金環食帯に入っている上、中心食線(日
食帯の中心線)が南関東・静岡・紀伊半島南部などの多数の都市・観光地を通ります。
図鑑で見るような真円のリングが国内で観測できる、またとないチャンス!』(金環食ホームペ
ージ)と。

 この浜松市と静岡市、それに東京都を結ぶ線上を、金環食の中心食線が通るという!
なお、静岡市では、午前7時32分13秒に通過とか。
太陽や月の引力の力を、けっして過小評価してはいけない。

(注※……東南海地震)
『紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海 トラフの東側)で周期的に発生する海溝型地
震。規模は毎回 M8・0 前後に達する巨大 地震で、約100年から150年周期で発生してい
る』
『政府の地震調査研究推進本部の予測によると、2010年1月1日からの発生確率は30年以
内で 60〜70 % 、50年以内で 90 % 程度以上とされている』(ウィキペディア百科事典)と。

 東南海地震は、約100年から150年周期で起きているという。
前回は、1944年12月7日。

●TBS−iNEWSより

 こんな記事である。

 『……長野県栄村の周辺で東日本大震災後に多発した地震は、月の引力などの影響で潮が
満ち引きする潮汐(ちょうせき)が引き金で起きたとみられることが、産業技術総合研究所の分
析で18日、わかった』(TBS-I News News 3月19日)というのだ。

TBS-I Newsは、こう続ける。

『……長野県栄村で地震で多発、「潮汐」引き金 地殻変動と発生時刻と潮汐のリズムに極め
て高い相関があり、大震災による地殻変動と潮汐力が重なって誘発されたとみられる。

 産総研の雷興林(らいきょうりん)主任研究員は、大震災以降の約2カ月間に長野県北部で
起きたマグニチュード(M)3以上の142回の地震を分析。
栄村で震度6強を観測した大震災翌日の地震(M6・7)を含む全体の約50%が、潮汐と関係
していたことを突き止めた。

 潮汐は月の引力などによって海面が周期的に上下変動する現象で、地球内部の岩盤も同じ
影響で上下に伸縮している。
雷主任研究員によると、潮汐と関係がある地震は世界の約5%で、今回はこの10倍に相当す
る前例のない高さという。

 一連の地震は地盤が下がる干潮や、下がる速度が最大のときに集中して発生。
長野県北部には、マグマから出たガスや液体が岩盤の隙間に高圧でたまっている「流体だま
り」が多数あるとみられ、この場所が潮汐力で押されて周囲の岩を破壊、断層を刺激して地震
が起きたと推定している』(以上、TBS-I News News 3月19日)と。

●5月21日

 5月21日は、はたしてだいじょうぶなのか?

 もし東南海地域が、地殻的に不安定であれば、そのあたりで地震が起きても、おかしくない。
(反対に、何も起こらなければ、地殻は安定しているということになる。つまり、今、しばらくは地
震は起きないと考えてよい。)

 ともあれ、「金環食」と浮かれていると、とんでもないことになる。
私の杞憂で終わればよいが、しかしそういったことも起こりうるという前提で、準備するのは、
それほどまちがっていない。
言うまでもなく、東海地震と南海地震が同時に起こるようなことになれば、その規模は、あの3・
11大震災の規模に匹敵する。
被害も、相当なものになるはず。

 その可能性が、たとえ何万分の1でもあるなら、警戒するに越したことはない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 東南海地震 金環食と東南海地
震 東海地震 南海地震)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●年中児に、お金の数え方、6+4=10、直角について教えてみました。

 3月も末。
いくつかたまった教材があったので、今回は、3つのテーマを大急ぎで教えてみました。
あくまでも、「種まき」のつもりです。

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●映画『スターウォーズ』(3D)を見る
(60歳以上は、見るのを避けたほうがよい!)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

1978年に、第1作が公開されてから、34年。
昨夜遅く(8:30〜11:00PM)、新作『スターウォーズ』(3D版)を見てきた。
見る前から、疲れていたこともある。
が、さすがに、疲れた!
2時間30分の長編。
これでもか、これでもか……と、動きの速いシーンがつづく。
もちろん3D。
意味のない、戦い。
わけのわからない、ゴタク。
理由付け。

王妃とか、ジェダイとか、……まあ、率直に、こんなくだらない映画とは、知らなかった。
途中で、目が痛くなった。
劇場を出ようかと思った。
少なくとも、老人向けの映画ではない。
2時間半の3D映画は、きつい!

この34年間で、映画の世界は大きく変わった。
同時に、それを楽しむ観客の意識も、大きく変わった。
(私の年齢も、プラス34歳になったこともあるが……。)
1978年当時受けた、あの感動は、もうなかった。

年若い……私の年齢から見ると、まるで子どものような少女が王妃(?)。
その王妃が、一国というか、一惑星の命運を握っている(?)。
一方、レザー光線すらもよけてしまう、ジェダイ(?)。
中世のナイト(騎士)をもじったのだろうが、見ているうちに、バカ臭さを覚えてしまった。
ついでに、スカイウォーカー。

年齢的には、7〜8歳前後か?
そんな子どもが、「選ばれし子ども」とか?
戦闘機に乗って、活躍する。

そう言えば、そんなような映画が、以前にもあったぞ。
生まれながらにして、仏陀の生まれ変わりとか、何とか。

水戸黄門の三つ葉葵の紋章よろしく、「王妃」と名乗っただけで、みなが頭をさげる。
まさに権威主義。
アメリカ人にも、そういう志向性があったとは、知らなかった。
(あるいは、もともと東洋向け映画?)

ともかくも、いくらボケ防止のためとはいえ、60歳以上の人は、見に行かないほうがよい。
自分でも眼圧があがるのが、よくわかった。
とにかく動きが速すぎる。
目の毒!
(子どもの目にも、よくないのでは……?)

次回は『Battleship』(3D)と考えていたが、そんなわけで、見るのをとりやめた。
今度また似たような映画を見たら、私は失明するかもしれない。
とくに3D映画は、よくない……というより、危険。
安全性が確認されたわけではないという点で、危険。

で、今朝は午前9時に起きた。
が、起きるとすぐ、目薬をたてつづけに、数回、さした。
気のせいか、乱視がひどくなったよう?
そんなわけで、評価、なし。
評価のくだしようが、ない。
期待していただけに、ガッカリ度も大きかった。

(警告)一度、この種の映画が、目に、どのような影響が与えるのか、調べてみる必要がある
のではないか。
もし影響があるとするなら、あらかじめ警告文を表示すべきではないのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小1児に、「直角」と「垂直」を教えてみました。

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●暴力映画

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

つぎの原稿は、『バトルロワイヤル』という映画が
話題になったとき書いたもの。
この映画が公開されたのは、2000年だったから、
そのころ書いたものということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●暴力映画を考えるとき 
 
●まき散らされたゴミ

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり一面にゴ
ミをまき散らした……。

 『Bトル・Rワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。
どこかの島で、生徒どうしが殺しあうという映画である。
これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、一五歳未満の子どもの入場を規制した。

が、主演のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。
監督のF氏も、「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。
しかし本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間団
体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】13歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   17歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】17歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が1968年から始まっている。
が、この日本では野放し。
先日もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。

子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」
母「お母さんは見ないからね」
子「ううん、ぼく一人でみるから……」
母「……」と。
見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。
「アメリカで発売禁止のソフトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。
銃器を使って、逃げまどう住人を、見境なく撃ち殺すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。
民間団体がしなければならない。
が、そのため強制力はない。
つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人の理性と良識ということになる。
が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空
洞化している。

言いかえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。
先のB氏のような人が、外国政府やT都から、日本やT都を代表する「文化人」として、表彰さ
れている!

 海辺に散乱するゴミ。
しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。
そういうものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。
しかし……、果たして……?

(参考)

●テレビづけの子どもたち

雑誌、「ファミリス」の調査によれば、小学3、4年生で45・7%の子どもが、また小学5、6年生
で59・3%の子どもが、それぞれ毎日2時間以上もテレビをみているという。

さらに小学3、4年生で71%の子どもが、また小学5、6年生で83・3%の子どもが、それぞれ
毎日1時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内100名の児童について調査・02
年)。

また2時間以上テレビゲームをしている子どもも、3、4年生で19・3%、5、6年生で41・
7%!

 これらのデータから、約6〜7割前後の子どもが、毎日3時間程度、テレビを見たり、テレビゲ
ームをしていることがわかる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●こんな事実もある

『2004年6月1日、この映画(R15+)のDVDを借りていた小学6年生の少女が小学校内で同級生
を殺すという佐世保小6女児同級生殺害事件があった。
が、この児童は小学3年生からこの小説のファンであり、事件の前にはこの作品の同人小説
の創作に夢中であった。
この事件のために、再編集版『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌 REVENGE』の発売が延期となった
という』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 ここに書かれた事実は、重い!

●東京の文化人?

 B・たけし氏がどうというのではない。
彼は、タレント兼、俳優の1人に過ぎない。
しかしつぎの話は事実。

 たまたま先週、勉強の合間に、B・たけし氏の話になった。
きっかけは忘れた。
で、私はこう聞いた。
「B・たけしのこと、どう思う?」と。

 するとそれぞれが、こう答えた。
「気味が悪い人」
「何を言っているか、さっぱり理解できない」と。

 好意的に評価している中学生は、ひとりもいなかった。
私はそれを聞き、ほっとした。

が、こうした見方は、けっして中学生だけのものではない。
私とB・たけし氏は、たまたま同年齢。
似たような環境で生まれ育っている。
だが、私もあの人物が、どういう思想の持ち主なのか、さっぱり理解できない。
私とは次元のちがった、つまり崇高な(?)次元でものを考えているのかもしれない。
ともかくも、理解できない。

 B・たけし氏の特異なキャラクターは、それ自体は魅力的と思う。
しかしこの日本では、テレビへの露出度だけで、その人の評価は決まってしまう。
B・たけし氏は、その露出度では、ナンバーワン。
が、誤解してはいけない。

「Well-known(よく知られた)人物」と、 「Famous(有名)な人物」とは、区別する。
「Famous」は、「Fame(名声)」の形容詞形。
よく知られているから、それだけの人物と考えるのは、まちがい。
B・たけし氏は、よく知られた人物かもしれないが、「フェイマスな人」ではない。
少なくとも私は評価しない。
(相手も、私など、ゴミ程度にしか考えていないだろうが……。)

 が、B・たけし氏は、東京都を代表する文化人であり、フランス政府からは、日本を代表する
文化人になっている。
が、そういう話を聞くと、「では、文化とは何か?」と。
そこまで考えてしまう
 
 みなさん、文化って、何ですか?
文化人というのは、どういう人を言うのですか?
東京都のみなさん、教えてください!

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3月21日、終わって】

●養命酒

 寝る前に、養命酒をお湯に溶かして飲む。
それがこのところ、私の日課になっている。
で、今が、そのとき。

 ペットボトルに、下から数センチ程度、養命酒を入れる。
その上から、ペットボトルの半分程度まで、お湯を足す。
かなり薄くなっているはずだが、味としては、ちょうどよい。
アルコール度数が14%としても、4%前後にまで下がっているはず。
(養命酒のアルコール度数は、日本酒の16%と、それほど、ちがわないそうだ。)

 チビリ、チビリと飲んでいると、そのうち顔が上気してくる。
心臓の鼓動が速くなってくる。
ほどよく酔ったところで、寝床に入れば、そのまま安眠。

●3月21日

 今日、21日は、さえない日だった。
とくに収穫なし。
何をやっても、空回り。
時刻的には、もう床に入るころだが、そこで最後の(あがき)。
「このまま寝てなるものか!」と。

 で、あちこちのニュースサイトに目を通す。
が、その前に、あくびが出てしまう。
集中力は、ほぼカラッポ。
「カラッポ」というのも、おかしな言い方だが、(エネルギー=ガソリン)にたとえると、そうなる。
ガス欠状態。
カラッポ。

 そう言えば、昨日、書店で、2冊、単行本を買った。
ともに北朝鮮関係の本。
1冊は、「金正日と金正恩の正体」(文春新書)。
もう1冊は、居間に置いてある。

 その金正恩に権力世襲されたあとも、粛清がつづいているという。
「粛清」というのは、もともとは、「排除」という意味だが、あの北朝鮮では、「殺害」もしくは、「収
容所送り」を意味するらしい。

 一度、収容所へ送られたら、ほぼ、生きては帰ってこれない。
そのしくみは、江戸時代の日本のそれと同じ。

●拷問

 江戸時代には、裁判では、自白が、何よりも重要視された。
そのため江戸時代の拷問には、すさまじいものがあった。
一度、自白のための拷問が始まると、本人が自白するか、あるいは死ぬまで拷問がつづく。
自白か、さもなくば、死か、と。
途中でやめるわけには、いかない。
途中でやめると、幕府の沽券(こけん)に傷がつく。
「拷問してみましたが、自白しませんでした」では、すまない。

 同じく北朝鮮の粛清も、これまたすごい。
一度反逆者のレッテルを張られると、裸にされ、冷凍車に吊されて運ばれるという。
P195には、こうある。

「反逆者は、食肉用冷凍車に吊して移送」(同書)と。

 いわく「捕まえられた将校、高級軍人らは、衣服をぜんぶはがされ、手と足をしばられ、冷凍
車に食用豚肉のように吊されたまま、移送された」(「朝鮮日報」2009年2月29日)と。

 当人たちだけではない。
家族、ばあいによっては、一族もろとも。
その数は、金正日の時代だけでも、20万人以上。
金正恩の時代になってからも、かなりの数の人たちが粛清されているという。

 あの国は、何かにつけメチャメチャだが、そのメチャメチャにも、メチャメチャという一本の筋
(すじ)が通っている。
そのメチャメチャは、今もつづいている。

 朝鮮日報によれば、「粛清は、大砲を使ってなされる」※とか。
つまり大砲の砲弾で、髪の毛すら残さないように、殺される、と。

(注※……「朝鮮日報」より)
『北朝鮮の事情に詳しい消息筋が21日語ったところによると、昨年末に金正日(キム・ジョンイ
ル)総書記が急死した後、金正恩(キム・ジョンウン)氏が権力を掌握する中、北朝鮮軍部で前
代未聞の「粛清旋風」が巻き起こっており、処刑も大砲を使用するなど残忍なものになっている
という』(以上、朝鮮日報)と。

●「ダイアモンド」「銀行・証券、終わらざる危機」(3月17日)

 机の横には、週刊「ダイアモンド」誌がある。
まだほとんど読んでいない。
今日の午後になって、「抜けられない国債アリ地獄」(P36)を少し読んだ。

 平たく言えば、「裸の王様と化した日本国債」「暴落すれば銀行業界も、一蓮托生」というこ
と。
サブタイトルの通り。

 が、ここまでわかっていても、日本政府は動こうともしない。
いまだにゴタゴタつづき。
政権内部でさえ、足の引っ張りあい。

 このつづきは、明日、もう一度よく読みなおしてから、書いてみたい。

●「タイタニック」3D版

 近く、映画「タイタニック」3D版が公開されるという。
が、私は見ない。
昨夜、「スターウォーズ」を見て、懲(こ)りた。
目が痛くなった。
老体に、2時間半の3D映画は、きつい。
へたをすれば、失明。
危機感を覚えた。

 乱視がひどくなったようで、老眼鏡をかけても、どうも焦点が合わない。
その心配のある人は、見ないほうが、よい。

 で、あの「タイタニック」。
若い人たちは、あの映画の中のジャックとローズに、生き様の理想型を見たらしい。
称して「恋愛至上主義」。
タイタニック・シンドロームと、名づけてもよい。

 恋愛こそ、すべて。
たった1晩か2晩、ベッドの上で裸でからみあっただけで、それを(生涯の愛)と錯覚する。
またそうした愛にこそ、人生すべての価値が凝縮されていると錯覚する。
が、そんなものは、愛でも何でもない。
脳内ホルモンのなせるワザ。
そんなことなら、そこらのイヌやネコでも、している。

 「恋愛」といっても、要するに、「肉欲の追求」。
同じ「愛」という言葉を使うが、仏教で言う「慈悲」、論語で説く「仁」とは、まったく異質のもの。
キリストが説いた「愛」とも異なる。

 日本人よ、あんな映画を見て、それを人生の理想型と考えるな!
ハリウッド流のフリーセックス論に、騙されるな!

●おやすみ!

 3月21日。
やっと寝る前になって、(らしいこと)が書けた。
ほどよく酔いが回ってきた。

では、おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


●小1,2年生に、「時速」と「距離」を教えてみる。

少し意気込んで・・・小学1年生と2年生に、「時速」と「距離」を教えてみました。
結果は、「まだ理解できないな」という印象をもちました。
こうしたレッスンは、教える側の私が、かなり意気込まなければ、失敗します。
が、その私は、この日花粉症がひどくで、たいへん調子が悪かったです。
それに薬のせいか、眠くてたまりませでした。
4月にもう一度、教えてみます。

I teach here in the video, Km.p.h. to children of Age 6,7,&8. Hiroshi Hayashi Hamamatsu 
Japan 2012

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【仮面をかぶる、親と子】

●仮面親子

「仮面夫婦」という言葉がある。
表面(おもてづら)だけは、何とか、取り繕っている。
見た目には、仲のよい夫婦。
しかし互いの心は、バラバラ。
いちばんの特徴は、互いの悲しみや苦しみを、共有できないということ。
いざというときに、顔をそむけてしまう。

 夫が息子たちと言い争いになった。
一方的に、息子が夫に向かい、はげしい暴言を吐いた。
そのときのこと。
何かの拍子に、息子が、夫(息子の父親)の胸ぐらをつかんだ。
つかんで、片方の手で、夫を殴ろうとした。

が、その妻(息子の母親)は、それを止めようとしなかったばかりか、立ったまま、それを上か
ら見ていた。
顔には、意味のわからない笑みまで浮かべていた。

 あとで夫がそのことで、妻に問いただすと、妻は、平然とこう答えたという。
「本当に殴るとは思っていなかったから……」と。

 さらにこんなことも。

 ある日、何気なく、夫が妻にこう聞いたという。
「お前は、ぼくのことを愛してないだろ」と言うかわりに、「ぼくは、お前のことを愛していると思う
か」と。
そう聞いた。
すかさず、妻は、こう答えたという。
「あなたは、私を愛していないわ」と。

 こういうのを心理学では、「投影」という言葉を使って説明する。
つまり自分の心を相手に、そのまま投影※させる。
「私があなたを嫌っているのは、あなたが私を嫌っているから」と。

 自分の中の好ましくない評価を、それを相手のせいにして、自分を正当化する。
その妻は、子どものころから、心を開けない女性だったよう。
それもあって、夫にすら、心を開くことはなかった。
が、自分がそうであるのは、「夫が悪いから」と。

 つまり妻は、「自分が夫を愛していない」とは言えなかった。
それで「あなたは私を愛していない」という言い方で、自分の心を表現した。

(注※……投影)
 『自分のもっている不都合な欲求や、好ましくない事象を、他人に転嫁すること。被害者意識
の強い人は、投影をよく使います』(心理学用語・渋谷昌三)と。

 同じように、「仮面親子」というのがいる。
「仮面夫婦」というのは、よく論じられる。
しかし「仮面親子」というのは、あまり話題にならない。
「仮面親子」という言葉そのものは、あちこちで使われている。
が、アカデミックな意味では、あまり話題にならない。
数は、かなり多いと思われるのだが……。

●仮面親子

 見るからに母親は、子ども思いのよい人に見える。
子どもの世話も、よくしている。
やさしそうで、穏やか。
教養もあり、話し方も知的。

 が、子どもの評価は、まったく、違う。
母親のことを、「鬼ババ」と言う。

 最初、H子さん(小4)が、そう言ったとき、私は、冗談かと思った。
それでフフフと笑い、相手にしなかった。
とたん、H子さんが、キレた。
プリントに書き始めていた答を、鉛筆で、ゴシゴシと塗りつぶし、そのまま紙に穴をあけてしまっ
た。

 しばらくしてから、こう聞いた。

私「おうちで、いちばん、こわいのはだれかな?」
H「お母さん……」
私「どうして?」
H「勉強しないと、私を叩く……」
私「叩くの?」
H「テストで悪い点を取ってくると、私を叩く……」と。

 母親の気持ちはともかくも、H子さんの心は、完全に母親から離れていた。
が、母親自身は、それに気づいていない。
こういうケースは、多い。
称して、「仮面親子」。

 その「仮面親子」と言えば、最初に思いつくのが、イプセンの『人形の家』。
主人公のノーラは、いい子ぶることで、少女時代を過ごす。
つまり仮面をかぶったまま、少女時代を過ごす。
「私は人形子でした」と。

 そしてその状態は、結婚してからも、つづく。
今度は、夫の前で、いい妻を演ずる。
が、やがてそれも限界にくる。

 ある日、ノーラは、夫のもとを去る。
そのときはじめてノーラは、仮面を脱ぎ去ることができた(?)……というところで、物語は、終
わる。

●故郷

 仮面をかぶったまま、「いい子」を演ずる。
が、親には、それがわからない。
わからないから、「うちの子はいい子」と思い込む。
思い込んだまま、子どもの心を見失う。
子どもの心が、まったく別の方向を向いているのに、気づかない。

 私にも、こんな経験がある。

 ……私は中学校へ入るころから、あの郷里の美濃の町が嫌いだった。
息苦しく、自分の居場所すらなかった。
だからいつも、こう考えていた。
「おとなになったら、この家を出よう」と。

 しかしある日、それは私が高校生くらいになってからのことではなかったかと思うが、母が、こ
う言った。
「ここは、お前の故郷(ふるさと)だからな」と。
私はその言葉に、心底、ぞっとした。
美濃の町を、「故郷」という思いで、ながめたことは、それまでにも、一度もなかった。
それで、ぞっとした。

 母は母だったが、私の心の奥底を、まったく理解していなかった。
(今から思うと、それもしかたのないことだったかもしれないが……。)

 もし今、あなたがこう思っているとしたら、それはどうかな?

「私は子どもを愛している。
人一倍、愛している。
私と子どもの絆は、太い。
子どももまた、私の愛を理解してくれている。
私たちは、すばらしい親子だ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●離れる子どもの心

●心の別室論(Another Room in the Mind)

人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、そこへ押し込めてしま
うという習性がある。

心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつと考えられて
いる。

その防衛機制は、つぎの7つに大別される。

(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)

 この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを無意識の中に
閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」という。

つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことをいつまでも覚えている」
と言われる。

(そう言っているのは、私だが……。)

この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは忘れやすい
という心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。

が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。

 たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、心配」「従
順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。

 これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ従順だったことが
わかる。

世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、仮面をかぶっ
ているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。

このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。

よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、20年前、30年前の話
を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。

 心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、それは
仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。

私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。

そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、わからなくなると
きがある。

 ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、重篤なケースもあ
る。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。

 ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、カギをかけてしまっている
(?)。

 しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)

++++++++++++++++++++

●シャドウ論

そこで「シャドウ論」。

以下の原稿も、2009年ごろ書いた原稿である。
この中では、北朝鮮と韓国を例にあげ、「シャドウ論」を
展開してみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なし崩し的既成事実化

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。
答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。

K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。
が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、既成事実化
しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。

……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。
今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。
 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの問題
を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。
すでに韓国の国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要が
ある』と強調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。

しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。

そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近くにいる人
に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。
で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、人と会うのをあまり好
まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。
といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、「人間的にすばらしい
人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、お調べいたします」など
と答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。
私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。

ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、読者の心を誘導す
る。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。
たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、(現実)とは、しっかりと
切り離すこと。
たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、「チャールトン・ヘストン」であり、「チ
ャールトン・ヘストン」イコール、「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたりする。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、自分のこ
とを(神)と思いこんでしまう。
が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を繰り返して
いたという例は、欧米では、たいへん多い。
が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付しておく。
こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と言っていた。

が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に閉じことに
よって、善人を演じていただけである。
そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。
では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、泥靴なんかで、こ
の店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。
この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。
その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。
自分で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。
さも私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。
全体に演技ぽい。ウソっぽい。
大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、
それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。
嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望が、いつもウズを巻いていた。
そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。
その女性は、自分の醜い部分を、そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前
では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。
その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。
一度その娘にねたまれると、とことん、意地悪をされるという。
人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。
 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。
家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をののしっ
ていたのを、よく見かけました。
ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。
母には、そういう2面性がありました。
私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。
その前に、仮面をかぶらないこと。
といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。
教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。
 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。
家に帰って家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。
はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。
が、それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつ
がれてしまう。

(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育
 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ シャドウ論 は
やし浩司 仮面親子 はやし浩司 仮面夫婦 仮面 ペルソナ)

++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。
親としての仮面、隣人としての仮面、夫としての仮面など。
もちろん、商売には、仮面はつきもの。
商売では、いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。
本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。
ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻
く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。
陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べて
みると、それほど、劣悪な環境ではないことがわかる。
むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。
都会の立派なマンションに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。
知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。
いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そう言うなら、まだ話がわかる。
しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。
日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断している人ほど、そうだ。
このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。
「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。
身分制度が、そのまま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。
街道筋の宿場町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。
その人を判断する基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。
実は、これがこわい。
「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」と。
そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。
名優、緒方拳が、みごとな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。
が、その榎津厳もさることながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。
それが三國連太郎が演ずる、父親、とるけん」と言う。
そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。
映画を見た人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強
烈な印象を与える。
嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。
それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関係になる部分が、シャドウということになる。
主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりそのまま引き継いでしまった。
そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。
 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。
見抜くだけならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。
ついでにシャドウもつくらない。
いつもありのままの自分を見せる。
シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。
もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、
好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。

一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをして
いる。

韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。

竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。

どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。
そんな車を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、何で
も奪っていった。
その結果が今である。

ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20〜40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。
 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、言いたい
放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の発言に、
そのつどビクつく。
大騒ぎする。

それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて闘おうで
はないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2つに、頭の
中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 
実効的支配 なし崩し的支配 はやし浩司 シャドウ論 シャドウ)(以上、2009年3月記)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●2011年11月25日

 先のシャドウ論を書いた日付は、2009年3月になっている。
それから2年。
今は、2011年11月25日。

 で、改めて自分の書いた原稿を読みなおす。
いろいろ考える。
「これはシャドウ論というよりは、サイコパス(性格障害)の問題ではないか」とか、「妄
想とどう区別するのか」とか。

●日韓問題

 日韓問題にしても、すべてをシャドウ論で説明できるわけではない。
が、シャドウ論をあてはめてみると、韓国人のもつ精神的に二重構造性が、よく理解でき
る。

 (1)「日本ごときに植民地にされた」という屈辱感。
 (2)「自分たちの力で独立できなかった」という不完全燃焼感。
 (3)さらに「南北に分断されたのも、もとはと言えば、日本の責任」という日本責任論。

 これら3者が混然一体となり、韓国人の心の別室の中に、押し込まれている。
それが時と場合に、表に出てくる。
よく「韓国人は政治と経済を、使い分けている」という。
政治で反日、経済では親日、と。
しかし使い分けているのではない。

 民族意識はどこの民族にもある。
それが誇張されたのが、民族主義。
「我ら民族がもっともすぐれている」と。
韓国人のばあい、「日本ごときに、蹂躙(じゅうりん)された」という思いが、心の別室の原点に
ある。
言い換えると、そう思いながら、実は日本人を徹底的に差別している。
(「差別」というよりは、「軽蔑」に近いが……。)
私はこれを「逆差別」と呼んでいる。

●二重構造性

 それはともかくも、ユングのシャドウ論で考えると、韓国人がもつ精神の二重構造性がよく理
解できる。
と、同時に、私たちが個人がもつ二重構造性も、よく理解できる。
 私たちは円滑な人間関係を保つために、常に、この二重構造的精神状態の中で生きてい
る。
冒頭にも書いたように、それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、またそれができるからこそ、私たちは、この複雑な社会で生きることがで
きる。

 が、問題は、親子関係である。
ほとんどのばあい、子どものほうが、心の別室を作り、そこへ不平や不満をためこむ。
そしてそれが、時と場合に応じて、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だア!」と。

 そういう言葉が、10年たっても、20年たっても、口から出てくる。
もちろん子ども自身にはそれがわかっていない。
「抑圧」「心の別室」という言葉すら知らない。
加えて先にも書いたように、「心の別室」には、時効が働かない。
20年前、40年前の記憶がそのまま、生々しく残る。
また上書きされることもない。
楽しい思い出は、心の別室には入らない。

●よい子論

 終わりに「よい子論」についても書いておきたい。
 今、日本の子ども観、子育て観は、世界の標準から、かなりかけ離れつつある。
結論から先に言えば、たくましさがない。
またそうであることを、ほとんどの親たちは、「できのいい子」と誤解している。
たとえば従順で柔和で、やさしく、キバを抜かれてしまったような子どもほど、「よい子」と位置づ
ける。
またそういう子どもにしようと、あくせくしている。
 昔風の、腕白で、自己主張が強く、たくましい子どもを、「できの悪い子」として、むしろ遠ざけ
たり、白い目で見たりする。
私の教室でも、そうである。

ときどき「うちの子には、この教室は合いません」と言って去っていく親がいる。
が、そういう親でも自分の子どもが、親の過干渉や過関心で萎縮していることに気づいていな
い。

親自身のものの考え方が権威主義的で、威圧的であることに気づいていない。
その結果として、むしろそういう子どもほど、心をゆがめやすい。
ゆがめやすいことは、ここに書いた「シャドウ論」を読んでもらえばわかるはず。
あるいはイプセンの『人形の家』を読んでみたらよい。
自らを「人形子」と呼んだ主人公が、精神の二重構造の中で、いかに苦しみもがいたか。
それがよくわかるはず。
 本来、子どもは、そうであってはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

しめくくりに、イプセンの『人形の家』。
ウィキペディア百科事典に書かれている(あらすじ)を、
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●イプセン、「人形の家」(ウィキペディア百科事典より)

『弁護士ヘルメルの妻ノラは、無邪気にヘルメルを含めて人間を信じ、貧しいものに分け与え
る心の余裕を持ち合わせた女性であった。
彼女はヘルメルに「大切に」されていた。
猫かわいがりするヘルメルの愛の性質に、気づいていながらも日々を過ごしていたノラにある
日、事件が訪れる。

ヘルメルの部下クロクスタが、ヘルメルの留守を狙ってノラのもとに嘆願にやって来たのだ。
彼は馴れ馴れしい態度を取ったためヘルメルに疎まれ、じきに解雇される予定であった。
ノラは断ろうとするが、クロクスタは彼女の弱みを握っていた。
それはヘルメルが重病に陥り金銭が不足したとき、彼女はクロクスタから借金をし、その際、
借用証の父のサインを捏造していたということだった。
当時、彼女の父は重病であったため、これは苦肉の策であった。
もし解雇されるなら、この事実をヘルメルに暴露すると、クロクスタに宣言されたノラは悩む。
自分を支配しているヘルメルがこのことを知れば、すべての生活は破滅することは目に見えて
いるからだ。

やがて、ノラはヘルメルにクロクスタの解雇を取り消すよう頼むが、事情を知らないヘルメルは
取り合わず、クロクスタは解雇される。
宣言どおりクロクスタは暴露する手紙をヘルメルに送った。
事実を知ったヘルメルは激怒し、ノラをさんざんに罵倒する。
すべての終わりがやってきたと思ったさなか、改心したクロクスタから捏造の証拠である借用
証書が送られてくる。
これでヘルメルの危機は過ぎ去った。
先ほどまでの態度を豹変し、再び微笑んで甘いことを言い放つようになるヘルメル。
ヘルメルが対等な人間として、絶望や悩みを共有し、喜びを分かち合える存在、「1人の人間」
として自分を見ていないことにノラは絶望し、ヘルメルの制止を振り切り、ノラは家を出る』(以
上、ウィキペディア百科事典より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、どうするか?

【子どもの見方・考え方】8月6日(2010)

●子どもの見方

 子どもを見るとき、『いい子ほど、心配』と覚えておくとよい。
もっとはっきり言えば、子どもに(いい子)は、いない。
「いい子」と感じたら、それは仮面と考えてよい。

 子どもは、子どもらしいこと。
すべてはそこに始まり、そこで終わる。
その年齢ごとに、発達段階に応じた変化を、子どもは見せる。
何に対しても否定的になったり(幼児期前期)、あるいはあるいは生意気になったりする(幼児
期後期)。
こうした変化を一足飛びに、飛び越えて、いきなりものわかりの
よい子どもになる・・・ということは、ありえない。
もしそうなら、先に書いた、仮面を疑う。

●不自然

 仮面をかぶっている子ども(人)は、どこか不自然。
バカ丁寧であったり、バカ親切であったりする。
「バカ」がつく。
 先日もある旅行社の女性と話をしていたとき、それを感じた。
営業用の仮面と言えば、そういうことになる。
バカの上に、バカがつくほど、丁寧だった。
が、そういう表面的な様子だけをみて、その女性はすばらしい人と思ってはいけない。
人格的に完成された人と思ってはいけない。
心理学の世界にも、「原我」という言葉がある。
「本来の我」という意味である。
その女性は、「本来の我」を、営業用の顔、つまり
自我」で覆い隠している。

●原我

 人はなぜ仮面をかぶるか。
それにはさまざまな理由と事情が、からんでいる。
前提として、原我が、その人にとって好ましいものでないと、その人自身が判断していることが
ある。
つまり(好ましくない我)を隠すために、仮面をかぶる。
私は原我を、つぎの4つに分類している。

(1) 邪悪な原我
(2) 陰湿な原我
(3) 攻撃的な原我
(4) 劣等的な原我

 こうした原我を隠すために、仮面をかぶる。
たいていは本来の我とは、正反対の我を演ずる。
ケチな人が、妙に寛大ぶってみせたり、攻撃的な人が、不自然なほどやさしくしてみせたりする
など。
が、それが仮面と本人が気づいている間は、まだよい。
仮面というのは、長くかぶっていると、仮面をかぶっていること
すら忘れてしまう。
反対に仮面をかぶった自分を、「本当の我」と思ってしまう。
これがこわい!
牧師や教師、医師など、聖職者と呼ばれる人に、このタイプの
人が多い。

●反動形成

 こうした一連の心理的操作を、「反動形成」と呼ぶ。
よくある例は、長男(長女)が、下の子ども(弟や妹)に見せる反動形成。
本当は下の子どもが憎くてしかたないのだが、それを表に出したら、自分の立場がなくなってし
まう。
そこで下の子に対して、妙にやさしく振舞ったり、親切にしたりする。
一見するとよい兄(姉)に見える。
が、原我は、そうでない。
下の子(弟、妹)が憎くてしかたない。
つまり本当の自分を押し殺して、別の自分を演ずる。
が、そのままではすまない。
それがときとばあいに応じて、爆発する。

●原我の爆発

 原我はときとして、爆発する。
こうした爆発を理解するためには、「抑圧」という言葉を知らなければならない。
私は「心の中の別室」と呼んでいる。
 人間は、(ひょっとしたらあらゆる高等生物は)、何かのことで心が抑圧されると、心の中に別
室を作り、そこに別の自分を押し込めようとする。
たいていは不平や不満など。
つまり心の別室を作り、そこに不平や不満を押し込むことによって、本来の自分を守ろうとす
る。
心理学の世界でも、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
防衛機制のひとつに考えられている。

●抑圧された「我」

 が、抑圧された「我」は、ときとして爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」と。
「私の人生を返してヨ!」と。
 60歳、70歳になった老夫婦が、結婚当初のことをもちだして、夫婦喧嘩をするという例は、
少なくない。
それこそ40年前、50年前の話を持ち出して、喧嘩する。
 この「心の別室」には、(1)上書きが働かない。
(2)時効がない。

●記憶の上書き

 何かいやなことがあっても、そのあと楽しい思い出があれば、その前にあったいやなことは消
える。
これを「記憶の上書き」という。
 が、心の別室に入った記憶は、ほかの心とは隔離されたままになる。
そのため上書きされるということがない。
そのあといくら楽しい思い出がつづいたとしても、そのままの状態で、心の別室に残る。

●時効

 また心の別室に入った記憶には、時効が働かない。
時間の経緯とともに、記憶が薄れたり、あるいは消えたりするということがない。
30年、40年・・・という長い年月を経ても、そのままそこに残る。
だから「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」、「私の人生を返してヨ!」となる。

●人形の家

 一見、いい子は、こうした心の別室を作りやすい。
抑圧された自分を、その中に閉じ込め、外の世界ではいい子ぶる。
それが日常化するため、まわりの人たちはもちろん、本人自身も、それが本当の自分と思い
込んでしまう。
が、それがその本人にとって不幸なものであるか。
それはイプセンの『人形の家』を読めば、わかる。
 だからここが重要だが、子どもは、まず発散させる。
ありのままを発散させる。
言いたいことを、大声で言わせる。
つまりこれが幼児教育の第一歩ということになる。

●すなおな子ども 

 よく誤解されるが、従順で、何でもおとなの指示に従う子どもを、「すなおな子ども」というので
はない。
心の状態(情意)と顔の表情が一致している子どもを、「すなおな子ども」という。

 このタイプの子どもは、教えていても、教えやすい。
何をどう考えているか、外からわかりやすい。
が、そうでない子どももいる。

 一般に、「情緒障害児」と呼ばれている子どもは、外から見たとき、何を考えているか、つか
みにくい。
情意と表情が遊離している。
かん黙児、自閉症児など。
近年よく話題になる、アスペルガー児も、それに含まれる。

●態度

 心理学でいうところの「態度」というのは、その人の外に現れた人生観などの、表象された
「我」をいう。
が、一般的な意味では、その人の「様子」をいう。
どちらであるにせよ、子どものすなお度は、その態度を見て判断する。

 すなおな子どもは、態度もでかい。
家の中でも、やりたいようにやっている。
言いたいことをいい、行動も表情も自然。
で、あなたの子どもがそうであれば、それでよし。
そうでなければ、家庭環境そのものを、一度、猛省してみる。
 とくに児童期に入ったら、「家庭は心を休める場所」と心得る。
どうして周囲に気をつかっていて、心を休めることができるだろうか。

●仮面夫婦

 ついでながら「抑圧」の恐ろしいのは、それだけではない。
たとえば「仮面夫婦」と呼ばれる夫婦がいる。
一見、仲がよい。
しかしその実、いつもたがいにいがみ合っている。
 こうした夫婦のばあい、それぞれが心の別室を作り、その中に自分を押し込める。
本当は憎しみ合っているのに、表面的には、よい夫婦を演ずる。
 こういうケースのばあい、邪悪な「我」が、シャドウ(ユング)となって、子どもに伝播しやすい。
つまり子どもは親の心を裏から読み、それをそっくりそのまま、
自分の心としてしまう。

 よくあるケースは、子どもたちがみな、母親のシャドウを受け継ぎ、
父親を軽蔑したり、忌み嫌ったりするなど。

●いい子ほど心配

 これで『いい子ほど心配』の意味がわかってもらえたことと思う。
そこにいい子がいたら、まず疑ってかかる。
というのも、その人の人格というものは、幾多の山や谷を越えて、完成されるもの。

 そこらの子ども(失礼!)が、5歳や6歳、8歳や9歳で、人格的に高邁(こうまい)になることな
ど、ありえない。
もしそう見えたら、繰り返すが、仮面を疑ってみる。
またどうして仮面をかぶっているか、その背景を疑ってみる。
 たいていは親の過干渉、過関心、あるいは親の情緒的不安定、精神的未熟が原因となって
いる。
子どもの側からみて、抑圧された家庭環境がそこにある。

 子どもの見方のひとつとして、心のどこかにおいておくとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 原我 自我 いい子ほど心配 心の別室 抑圧 抑圧された心 よい子論 子ど
もの見方 考え方)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【生きる意味・高校生との会話】(はやし浩司 2012−03−23)

●今日は雨

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 朝起きると、野鳥たちが、私を待っていた。
庭を取り囲んでいた。
近くの木々や、隣の屋根の上にいた。
スズメ、ヒョドリ、ムクドリ……。
最近は、カラスまで来るようになった。
ついでに、どこかの飼い猫とリスまで来るようになった。

 「まだ6時ごろかな……」と思って起きたら、8時半!
外は雨だった。
重い雲が低く垂れ、春雨というよりは、梅雨時のような雨。
かなりはげしい雨だった。

腹をすかせているのだろう。
野鳥たちは、私を見ても、逃げようともしなかった。
そのあたりを飛び回っていた。
それを知り、私は、小走りに、あちこちに餌をまいた。

居間に戻ると、ランニング・マシンを庭に向けた。
野鳥たちが餌を食べるのを見ながら、まず30分。
ほどよい汗をかく。

今日も、こうして始まった!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原稿

 書斎に入ると、すぐ原稿のチェック。
F雑誌社からのものと、J工業会(機関誌)からのもの。
J工業会からのものは、44行分、削除してくれというものだった。
が、こういう作業が、いちばん、つらい。

「ふやせ」というのは、楽。
「減らせ」というのは、つらい。
原稿全体がもっている、バランスを崩してしまう。
原稿というのは、そういうもの。

 あとは昨日撮った、教室の動画を1本、YOUTUBEにUPする。
が、それだけで午前中の大半が、終わってしまった。

●ドーパミン

 ドーパミン(脳内ホルモン)が、かなり低下しているらしい。
もろもろの欲望が、わいてこない。
というか、気力がわいてこない。
……しぼんでしまっている。

こういうときは、何らかの方法で、(欲望)を刺激するのがよい。
もっとも簡単な方法は、物欲。
物欲を刺激する。

私のばあい、複雑な電子製品が効果的。
分厚い取り扱い説明書を見ただけで、ゾクゾクする。
これは、私の病気のようなもの。

 買い物依存症の人の、それと同じ。
そういう受容体が、線条体にできてしまっている。
わかりやすく言えば、ニコチン中毒や、アルコール中毒の人と同じ。
脳の中で、条件反射が起きる。
メカニズム的には、同じ。

●刺激

 が、今は、欲しいもの自体が、思い浮かばない。
これといって、欲しいものがない。
が、あえて言えば、パソコンということになる。
超・高性能のパソコン。
が、もうすぐWINDOW8マシンが売り出される。
それまで、がまん。

 ほかに……私は持ち物には、ほとんど興味がない。
車にも、ない。
あるとすれば、カメラか時計ということになる。
が、どれも家の中にゴロゴロしている。

 ワイフは、「旅行がいい」と、さかんに言う。
しかしそれも、少し疲れた。
旅先での睡眠調整に苦労する。
よいホテルや旅館になると、湿度も調整できるようになっている。
枕もいろいろなタイプのものが用意してある。
そうでないと、そうでない。
エアコンだけだと、空気がカラカラになる。
枕がちがうと、安眠できない。
それでいつも、夜中に目が覚める。

 で、来週は、講演を兼ね、伊勢志摩に行くことになっている。
そのあと、今度は方向を北に向け、飛騨の高山に行くことになっている。

 旅行に出かける前は、いつもこう思う。
「旅行をやめて、家でのんびりしていたい」と。

 しかし出かけてみると、「来てよかった」と。
意識が180度、ひっくり返る。
だから旅行に、行く。
それが脳の刺激になる。
そう、我ら老人組は、常に自らを刺激する。
刺激しながら、ボケを防止する。

●教室で

 教室へ入ると、ワイフが、缶ジュースを2本、買ってきた。
が、そのうち1本が、ゼリー・ジュース。
「よく振ってから、お飲みください」という注意書きがあった。
このタイプのジュースは、最初によく振り、中のゼリーを粉々にしてから飲む。
ワイフは、それを読まなかった。

だからプルタブを抜いてからが、一苦労。
箸でつつきながら、チビチビと飲み始めた。

 そういうワイフを見ながら、私はこう話してやった。

「B起したPニスを、昔、ブルブルと振った男がいてね。それで中の海綿体がバラバラになって
しまったそうだ。そのあとその男のPニスは、使い物にならなくなってしまっというよ」と。

(B=勃、P=ペ。Blogには使用禁止用語というのがある。)

 ワイフは、一度は「ウソッ!」と言ったが、どこか本気にしたような雰囲気。
そのまま何やら深刻な顔つきになってしまった。

「60歳を過ぎたバーさんが、そんなことも知らなのか」と思ったが、それは言わなかった。 

●夢と失望

 昨夜、高校生たちと、こんな議論をした。
東大の入試問題(英文)を訳させていたときのこと。
こんな英文があった。

『……夢も失望も、幻想。年を取ると、それがよくわかる。夢にうつつを抜かすこともなくなる
が、一方で、失望したからといって、それで傷つくこともない……』と。

 すかさずNさんが、こう言った。
「夢をもつことは、幻想ということ?」と。
私も、すかさず、こう答えてやった。
「いいや、夢をもつことは重要。夢がその人を動かす原動力となる。が、人は、その夢と失望を
何度も繰り返したあと、こう気がつく。それが幻想であった、とね。が、それは、それ。だから今
は、迷わず、あなたはあなたの夢を追求したらいい。」と。

 まず、何ごともやってみる。
懸命にやってみる。
失敗を恐れてはいけない。
バカだ、アホだと言われても、まず、やってみる。
たとえそれが無駄とわかっても、失敗ということにはならない。
大切なのは、そのプロセス。
ドラマ。
そのドラマに、価値がある。
生きる価値がある。
あのトルストイも、そう言っている※。

 で、その結果として、夢や失望が、幻想であったことを知る。
が、誤解してはいけない。
だからといって、その人の人生が無駄だったということにはならない。
幻想とわかったとき、人は、はじめて、なぜ今、ここに生きているか、その意味を知る。

 最初から、何もしない人には、それがわからない。
懸命に生きたことがない人には、それがわからない。
わからないまま、ただの凡人として、この世から去っていく。

 その問題は、そのあたりまで読み込まないと、設問には答えられない。
「さすが、東大の入試問題」と、私は感心した。

(注※)(中日新聞に発表した原稿より)

『……生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸
福になるピエール。
そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこ
と。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●高校の同窓会

 高校の同窓会の案内が届いた。
それはそれとして、こんなことを考えた。
「もし、あの美濃町に居を構えるとしたら、どこがいいか?」と。

 その前に、美濃町について。
(正式には、「美濃市」だが、私は「美濃町」と呼ぶほうが、好き。
牧歌的な温もりを覚える。)

 美濃町は、昔から美濃和紙の集散地として知られている。
ミニチュア京都と呼ばれるほど、古い町。
北側に、長良川が流れ、三方を山に囲まれている。
私の実家は、その美濃町の旧市街、その西のはずれにあった。

 で、私が好きなのは、南の山のふもと。
松森山という小さな山がある。
その手前。
現在の美濃第一中学校のあるあたり。
なだらかな丘陵地帯になっていて、そこからは美濃町の町が、一望できる。

 今度、同窓会に出たら、帰りにでも、あのあたりで、土地をさがしてみる。
終(つい)の棲家(すみか)というほど、大げさなものではない。
が、晩年のうち、何年かでも、そこに住めたら、うれしい。
今、ふと、そんなことを考えた。

 ……いつもは、美濃町へ行くたびに、長良川沿いにある、緑風荘という旅館に泊まる。
昔は高級旅館だった。
その面影は、今でもしっかりと残している。
が、今は、1泊、1万円前後で泊まれる。
その気軽さが、うれしい。

 ……と書くと、同窓会に出席、ということになるが、今のところ未定。
4月に入ると、毎年、講演の依頼が、入る。
その成り行きをみてから、決める。

そんなわけで、ハガキには、一応、(出席)に丸をつけたが、まだ投函していない。

●満光寺

 たった今、こんなメールが、入った。

山荘の近くに、満光寺(まんこうじ)という寺がある。
徳川家康の命を救ったこともあるという、由緒ある寺である。
その寺で撮った写真について、愛知県観光協会発行の「旬感観光あいち」編集部より、写真転
載の申し込みがあった。
「5月号の表紙に使わせてもらえないか」と。
私のHPに載せている写真である。
「その写真を、使っていいか」と。
こんな依頼は、はじめての経験。

すかさず、「はやし浩司のクレジットを、どこかに入れてくれるならOK」という条件で、許可し
た。
私にとっても、たいへん光栄なことである。

……と同時に、その写真に見入る。
ワイフと2人で、その寺へ行ったとき、撮った写真である。
観光スポットとしては、ほとんど知られていない寺である。
もう何回か行ったことがあるが、いつもガランとしている。

庭園のすばらしさは、この写真の通り。
右横に座っているのは、私のワイフ。
その近くにある龍潭寺に勝るとも劣らない、庭園を、無料で、楽しむことができる。
 
<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6861865608/" title="img392 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7062/6861865608_
7dbedf965e.jpg" width="500" height="375" alt="img392"></a> 

●さて、仕事

 午後は、パン2切れに、ジャムをつけて食べた。
それだけ。
2週間で、やっと2キロの減量。
……と油断していたら、また1キロ、太っていた。

 たいしたものは食べていない。
しかし太る。
食べたら、食べた分だけ、太る。
それが私の体質。

プラス、このところ運動をサボっている。
1日、30分のウォーキングだけ。

 寒い日は、何をやるにも、おっくうになる。
それがいけない。

 では、今日も1日、がんばる。
春休みも近い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【付記】(中日新聞の記事より)

【高校野球】(トルストイの言葉)

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。
輝く。
その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。
生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。
たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。
たかがボールのゲームと笑ってはいけない。
私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。
「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一
体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。
幻想的なミュージカルだった。
あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。
「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。
私もこの問題について、ずっと考えてきた。
そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒント
を見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸
福になるピエール。
そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこ
と。生きること。
愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。
一球一球に全神経を集中させる。
投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。
応援団は狂ったように、声援を繰り返す。
みんな必死だ。
命がけだ。
ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。
一瞬時間が止まる。
が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。
そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。
つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。
生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。
夢も希望もない。
情熱も闘志もない。
毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわから
ない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私
たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。
あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。
感動もない。見るほうも、つまらない。
そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。
人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。
高校野球は、それを私たちに教えてくれる。
(中日新聞・発表済み)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【愛とは何か? もう一度、原点に立ち返って考えてみる】 by はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先日、ある女性の読者(?)の方から、こんなメールをもらった。
「あなたは毎日、いろいろな原稿を書いているが、だれも読んでいない。
無駄なことはやめなさい」と。

が、その女性の読者の方には、たぶん、たいへん残念なことかもしれないが、現在、多くの方
に、原稿を読んでもらっている。
アクセス数と読者数は、この世界では分けて考えるが、(というのも、アクセス数イコール、読者
数ではないので)、アクセス数だけをあげるなら、毎月50万件を軽く超えている。
カウントに入れていないアクセスを入れると、(というのも、すべてのホームページに、カウンタ
ーを置いているわけではないので)、もっと多いかもしれない。

インターネットの世界は不可思議な世界で、そこに読者の方がいるはずなのに、その実感が、
まったくない。
ゆいいつの手掛かりは、アクセス数という、無機質な数字のみ。
で、私はその「数字」に励まされながら、(実のところ、自分で自分を励ましながら)、今朝もこう
してエッセーを書き始めた。

もちろんみながみな、私に好意的というわけではない。
冒頭にあげた読者のように、私にかなりの反感を覚えている読者も多いはず。
が、それはそれ。
たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう人たちの反感をいちいち気にしていた
ら、こうしてエッセーなど書けないし、公開もできない。
私は、私の道を行く。
書きたいことを書く。

……頭がボケ、使い物にならなくなるのも、それほど遠い未来ではないと思う。
事実、東大の薬学部長をしていたM先生(現在、鎌倉市在住)は、すでに家族の顔もわからな
いほどまでに、ボケてしまった。
あれほどまでに頭脳明晰であった教授でも、そうなる。

明日は我が身。
けっして他人事ではない。
だからこそ、書けるうちに書く。

「はやし浩司はバカ」と思う人も多いかもしれない。

(事実、バカだから、反論のしようがないが……。
あるいはこうして今、書いていることが、いつか、ボケていく人間の見本になるかもしれない。

いつだったか、絵画の世界で、そういう画家が紹介されていたのを、何かの本で読んだことが
ある。
その画家は、毎年、自画像を描いていた。
が、そのうちアルツハイマー病を発症。
彼の描く絵画は、年々、異様なものになっていった。

文章の世界で、それを私が証明することになるかもしれない。
が、それとて、ひょっとしたら、後世の人の役にたつかもしれない。
「はやし浩司の文章は、〜〜病とともに、かくのごとく変化していった」とか、など。)

ともあれ今朝は、「愛の原点」について、「憎」とからませ、考えてみる。
たまたま昨夜、床に入ってから、ワイフとそんな話をした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●二律背反(アンビバレンス)

 愛と憎。
愛が深ければ深いほど、それが転じて、一度、憎になると、その憎も深い。
昔から「愛と憎は紙一重」という。
(正確には、「愛憎は、紙一重」という。)
「可愛さ余って憎さ百倍(かわいさあまってにくさ ひゃくばい)」ともいう。
こうした二律背反の心理は、すでに幼児期に形成される。
その一例が、子どもの側から見た、母子分離不安。

 母親の姿が見えるところ、あるいは母親の存在を近くに感じているときは、穏やかな表情を
し、見知らぬ場所でも、探索行動を繰り返すことができる。
が、ひとたび母親がその場からいなくなると、極度の不安状態に置かれ、パニック症状を示
す。
たいていは、ギャーッとヒステリックに泣き叫び、母親のあとを追いかけたりする。
反対に、オドオドし、混乱状態になる子どももいる。
前者をプラス型とするなら、後者は、マイナス型ということになる。
数の上では、前者のほうが、圧倒的に多い。

 こうした一連の錯乱的な混乱症状を、母子分離不安という。

●母子分離不安

 母子分離不安は、子どもの側の限度を超えた不安が原因として、起こる。
が、中には、まったくそういった症状を示さない子どももいれば、反対に、母親に対して、暴力
的行動を繰り返す子どももいる。

 母児分離不安そのものは、よく見られる症状であり、それが一定の範囲内のものであれば、
むしろ好ましい症状と考える。
母子との間に、健常な基本的信頼関係が築かれていれば、どんな子どもでも、一度は経験す
る症状である。

●3様態

 そこで一般的には、母子分離不安を、つぎの3つに分けて考える。

(1)母親に対して、まったく情愛行動を示さない子ども。
母親がいても、いなくても、まったく平然とした様子で、見知らぬ場所でも、自分勝手な行動や
探索を繰り返す。

(2)母親の姿が見えなくなったりすると、不安状態になり、母親の後を追いかけたり、ときには
混乱状態にはなるものの、再び母親の姿を見たり、近くにいるのを感じたりすると、そのまま静
かに落ち着く。

(3)(2)と同じような状況になったとき、極度の不安状態に襲われ、激しく泣いたり、暴れたり
する。
   再び母親の姿を見たり、近くにいるのを感じたりしても、興奮状態がそのままつづき、母
親に対して、殴る、蹴るなどの暴力的行為を繰り返す。
(以上、参考「心理学用語」(渋谷昌三))。

●ホスピタリズム(施設児)

こうした3つのタイプは、母子間の情愛の深さによって、決まる。
情愛の深さを(1)(2)(3)の3つのタイプにあてはめて考えると、(1)は、情愛そのものが育
(はぐく)まれていない。
(2)は、情愛と信頼関係が、健常的に育っている。
(3)は、情愛は健常的に育っているが、基本的信頼関係は、育っていないというように考えら
れる。

従って(1)のようであることが、かならずしも、よいというわけではない。
親側の育児拒否、冷淡、無視などが日常化すると、母子の間に、十分な情愛が育まれず、
(1)のような症状を示すことが多い。
たとえば生後間もなくから、母親の手を離れ、育てられた子どもが、似たような症状を示すこと
はよく知られている。
ホスピタリズム(施設児)と呼ばれるのもそのひとつだが、さらに近年、「マターナル・デブリべー
ション(母性的情愛感の欠落)」という言葉も生まれ、問題になっている。

●包丁を投げつける

 ここでは(3)の症状について、考えてみる。
というのも、母子分離不安にかぎらず、子どもの世界では、まさに「愛と憎は紙一重」という現
象がよく観察されるからである。
一例として、かんしゃく発作がある。
私の印象に強く残っている事件に、こんなのがある。

 ある日、母親が、真っ青な顔をして、私の教室に飛び込んできた。
そしてこう言った。
「うちの子が、包丁を投げつけます」と。
年長(6歳)の女児だった。

話を聞くと、「ピアノのレッスン」という言葉が、キーワードになっていることがわかった。
母親がその子どもに対し、「ピアノのレッスンをしましょうね」と声をかけた瞬間、子どもは、突
発的に錯乱状態になる。

内圧された不安感が、その一言で、一気に爆発すると考えるとわかりやすい。
そのときも母親は、子どもに包丁を投げつけられた。
その様子が、尋常ではなかったため、あわてて母親は私のところへ飛んできた。

似たような現象としては、こんなのもある。

 たとえば、外の世界(幼稚園やおけいこ塾など)では、おとなしく、従順な子どもが、家へ帰る
と、まったく別人のように暴れたりする、など。
このばあいも、内面世界に抑圧された不満や不平が、家庭という、弛緩された場所で、爆発す
ると考えるとわかりやすい。
このタイプの子どもは、外の世界では、「いい子」と評されることが多く、そのつど、それを聞い
た母親は、戸惑ったりすることが多い。

これらの症状で共通するのは、母子関係はむしろ良好で、ふつう。
もしくはふつう以上に、心豊かな家庭環境であることが多い。
(かんしゃく発作そのものは、家庭教育の失敗が原因とみる。)
母親がとくに冷淡とか、子どもへの愛情が欠損しているというふうでもない。

●激変する子ども

 が、今度は子どもの側に視点を置いてみると、見方が一変する。
気分が落ち着き、穏やかなときは、ふつうの子ども以上の、やさしい情愛行動を母親に示す。
柔和な笑みと、満足そうな表情。
母親に対する気配りも、忘れない。
私が「一緒に家に帰るときは、お母さんの手をしっかりもってあげてね」などと言うと、素直にそ
れに従ったりする。

が、そんな子どもが、ときとして突発的に錯乱状態になる。
とたん、その子どもの表情、行動が、激変する。
それこそ、「母親に向かって、包丁を投げつける」ようなことを、平気でする。
が、こうした一連の子どもの心理を分析すると、そこに「愛」と「憎」が、同居しているのがわか
る。

●異質の愛

 話は少し脱線する。

 ここで私は「愛」という言葉を使ったが、この言葉を使うときは、慎重でありたい。
というのも、愛といっても、若い人たちがよく使う、「肉欲的な愛」も愛であり、老親の世話をする
ような、「献身的な愛」も愛。
同じ「愛」という言葉を使う。
が、中身は、まったく異なる。

また最近の脳科学によれば、母親が自分の子どもに対して感ずる「愛」について、それが人格
的な裏付けのある愛というよりは、本能的な愛であることがわかってきた。
つまりそこらのイヌやネコでも、その程度の「愛」はある……という範囲での「愛」であるというこ
とがわかってきた(失礼!)。

 もう少しわかりやすく説明すると、こうなる。

たとえば赤ん坊の泣き声を聞くと、母親は、(もちろん父親の多くも)、いたたまれないような高
揚した気分を味わう。
このとき脳内では、麻薬を得たときに反応する部分が、同じように反応していることがわかった
(ベイラー医科大学の研究チーム)※。

(注※……母親の反応)
時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した』(以上、時
事通信)と。
 
つまりこうした本能的な反応まで、「愛」に含めてよいかどうかということについて、私は、疑問
に思う。
あるいは、さらに言えば、キリスト教で説く「愛」、仏教で説く「慈悲」とは、区別して考える。

●破滅的な攻撃

 話を戻す。

 子どもはかぎりなく深い愛を、親に求める。
が、その一方で、それが満たされないと、一転、破滅的な方法を用いて、母親を攻撃する。
ふつうの攻撃の仕方でないことは、先にも書いた。
まさに相手を、「殺す」、もしくは、「相手が死んでも構わない」というような様子で、相手を攻撃
する。
その様子が、あまりにもふつうでなかったため、母親はあわてて、私のところへ飛んできた。

●アンビバレンス(二律背反)

 が、こうした不可解な子どもの行動も、こう考えると、理解できるようになる。

 つまり本能的な「愛」というのは、それ自体が、「憎」を含むものであるということ。
フロイト流に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)と、サナトス(破滅エネルギー)ということに
なる。
ひとつの心理状態があるとするなら、それと対立的に、相反した心理状態があるという考え方
である。
フロイトは、こうした二律背反した人間の心理を、「アンビバレンス(二律背反)」と名づけた。
これもわかりやすく説明すれば、(相手を自分に同化させたい)という欲求そのものが、(という
のも、それはもともと不可能なことであるため)、その子どもの内部で、はげしく葛藤すると考え
ると、わかりやすい。

 もちろん、こうした現象は、子どもだけのものではない。
おとな、とくに精神的に未熟なおとなの世界でも、よく観察される。
わかりやすい例として、ストーカー行為を繰り返す、ストーカーがいる。
自分勝手な思い込みだけで、相手を、無理やり、自分の心と同化させようとする。

結論的に言い換えると、そもそも「憎」をともなう「愛」などというものは、キリスト教で説く「愛」、
あるいは仏教で説く「慈悲」とは、まったく異質のものであるということ。

さらに言えば、発達心理学の世界でも、「愛着行為」というように、「愛」という言葉を使うが、そ
れは愛でも何でもないということ。

(ただし英語では、「愛着行為」を、「Attachment」と言い、「愛」という言葉を使っていない。)

●親友夫婦

 とはいえ、「愛」は、常に「憎」を伴う。
男女の間であれば、年齢には、関係ない。
というのも、もともと男女の間では、肉欲的な愛が基本になり、その関係が始まる。
夫婦でも、「友だち夫婦」もしくは「親友夫婦」と言えるほどまで、その関係を昇華するのは、並
大抵の苦労では、できない。
というか、幾多の苦楽を共にしたあと、やがてそういう境地に達することができる。
そうでなければ、そうでない。
つまり共にできなければ、その段階で、関係は、終焉する。

●憎

 そこで私は自分の心の内部を見つめなおしてみる。
現在、時刻は午前6:42。
ワイフは、まだ床の中で眠っている。
すっかりバーさん顔になってしまった。
そういうワイフに対して感じている「愛」は、本物か、と。

 答は、残念ながら、「NO」ということになる。
たとえば何かのことで、言い争いになったりすると、私はワイフに対して、明らかに憎しみを覚
える。
一方、ワイフは、ワイフで、私に憎しみを覚えるという。
このことは、昨夜、眠る前に、ワイフにそう確かめたから、知っている。

「お前は、ぼくと喧嘩すると、極端に冷たくなるが、ぼくを憎んでいるからか」と聞くと、ワイフは、
それをあっさりと認めた。
「そうね、そういうとき、あなたも私も、別人になったように感ずる」と。

つまり「憎」を覚えるようであれば、仮に何十年、いっしょに生活をしてきたとしても、たがいの
間には「愛」はないということになる。
あるいは、それは「不完全な愛」と考えてよい。

●愛と憎は紙一重

 こうして今朝、私は、「愛」と「憎」について、ひとつの結論を出すことができる。
昔から、『愛と憎は、紙一重』という。
しかしこの諺の中で説く「愛」は、愛ではない。
それがたとえ子どもに向けられたものであっても、愛ではない。
本能的な、つまりは肉欲的な愛に過ぎない。

 同時にもちろん、母親に向けられたものであっても、それは愛ではない。
そもそもの誤解のもとは、同じ「愛」という言葉を使うところにある。
それが混乱を招く。
だからたとえば、『愛と憎は、紙一重』にしても、本来なら、『肉欲と憎は、紙一重』と言うべき。
子どもの「愛着行為」にしても、「欲着行為」と言い換えたらよい。
母子の間で見せる、あの情愛行動にしても、「情欲行動」と言い換えたらよい。

 それが今朝の、このエッセーの結論ということになる。

●付記
 
 愛というのは、それ自体が深遠なもの。
静かで、音もなく、その人を包む。
同時に、人を愛するというのは、苦しい。
苦しさを伴わない愛など、存在しない。

 よく若い男女が、「愛している」「愛されている」などという言葉を使う。
しかしそんなものは、愛でも何でもない。
ただの「情欲」。
情欲であることは、テレビのバラエティ番組に出てくる男女を見ていれば、わかる。
見るからに軽薄そうな男女でも、平気で、「愛」という言葉を使う。

 同時に、若い母親や父親が、自分の子どもに対して、「愛している」と言うときも、まずそれを
疑ってみたほうがよい。
発達心理学の世界には、「代償的過保護」という言葉もある。

 過保護もどきの過保護と考えればよい。

 ふつう「過保護」というときは、その底流に、親の深い、子どもへの(慈しみ)がある。
(思いやりの心)と言い換えてもよい。
が、代償的過保護というときには、それがない。
自分の子どもを自分の支配下に置き、自分の思い通りに子どもを動かそうとする。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもを利用して、実現させようとする。
(だからといって、子育てに夢や希望をもつことは悪いことではない。誤解のないように!)

よい例が、子どもの受験競争に狂奔する父親や母親。
「子どものため」と思ってそうするが、何も子どものためになっていない。
自分の身勝手な価値観を、子どもに押しつけているだけ。

 それを代償的過保護という。

 さらに私は、最近、「タイタニック・シンドローム(症候群)」という言葉を考えた。

●タイタニック・シンドローム

 あの『タイタニック』という映画が、今度は3D版になって、復活するという。
近く劇場で、公開される。

 が、私はしばらくは、3D映画は見ない。
とくにタイタニックのような長時間の大作は、目によくない。
そのことを、数日前、『スターウォーズ』を見て、知った。
途中で目が痛くなるほど、目が疲れた。
ああした動きの速い3D映画を、長時間見るのは、たいへん危険なことでもある。

 それはさておき、あの映画『タイタニック』を見て、それが人として、あるべき原点と錯覚した
人は、多いと思う。
あるいはそこに(人生の理想形)があると錯覚した人は、多いと思う。
だからというわけでもないが、最近の若い人たちの傾向として、ひとつ、気になることがある。

 「恋愛こそ、すべて」という価値観である。
(だからといって、恋愛を否定しているのではない。誤解のないように!)

 恋愛イコール、結婚……と突っ走ってしまう人は多い。
しかしたいていの恋愛は、熱病のようなもの。
うたかたの夢。
さらに言えば、脳内ホルモン(フェニルエチルアミン)のなせる業(わざ)。
そこらのイヌやネコでもしているようなことをしながら、それがすべての価値にまさる「愛」と思い
込んでしまう。
平たく言えば、裸でベッドの上で、転げまわっているだけ。
それを称して「愛」と。

 こうした一連の、錯覚現象を、私は「タイタニック・シンドローム」と呼んでいる。

●退いた視点

 さて、子育て。
「私は子どもを愛している」と思うのは、その人の勝手。
(私はそれを否定しているのでは、ない。誤解のないように!)
若いときの、体が燃えつくすような情熱とSxx。
それが「愛」と思うのは、その人の勝手。
(私はそれを否定しているにでは、ない。誤解のないように!)

 が、何ごとにも、節度と限度というものがある。
その節度と限度を超えたとき、溺愛になる。
過干渉も過保護も、さらには過関心も、それに含まれる。

 では、どうするか?

子育ては、いつも一歩退いた視点で、する。
見つめる。
ちょうど自分を、自分とは離れた視点で客観的にながめるように、子育てもまた客観的になが
める。
その作法を誤ると、結局は、子どもの心のみならず、自分の心さえも見失ってしまう。
そのひとつの例として、今朝は、「母子分離不安」をテーマにして、考えてみた。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 母子分離不安 アンビバレンス アンビバレント症候群 二律背反 はやし
浩司 愛と憎 愛憎 本能的な愛 愛着行動 アッタチメント はやし浩司 attachment ボウル
ビィ 子どもの情愛 はやし浩司 情愛行動)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

マターナル・デブリベーションとホスピタリズム
について、以前書いた原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マターナル・デブリベーション(母子関係不全症候群)

+++++++++++++++++++

 乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係にあるべき情愛の欠如を、「マターナル・デブリベーション」という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。

また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、8〜10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

 その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるにつれて、自分より弱い者をいじめたり、自分より弱い立場にある動物
を、虐待したりするようになる。

 さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

 もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デブリエイションが原因というわけではな
い。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。 
漠然と怖い。 
超泣く。
所構わず突発的に。 
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 。
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 。

【その他質問、追加事項】 

抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。 
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続け
た。 

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。 
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われた。
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようにな
り 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言
葉)自分の存在が0になったと思い、全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感
じます。電話に出たり、ひとりで外出できません。 

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち
直れません。フラッシュバックがよく起きます。 

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り
続ける妙な癖のようなものがある。 

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放される
と信じていたりして、自分でもマズイと思ってます。 

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。 
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽ
い奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、
心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、アマラ、カマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこ
む習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特
の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」※という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってき
た。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになってい
る。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の
発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。

ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、そ
れを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐
待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってき
た。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされた
が、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという。
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

(注※……ホスピタリズム)

「心理学用語」(渋谷昌三)P192によれば、ホスピタリズムについて、つぎの1項目の症状をあ
げる。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発達の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、夜泣き、かんしゃくなど)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向
(以上、「心理学」より)。

●いじめの問題

 このマターナル・デブリエイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少
し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐
待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児〜年長児(4〜6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとし
た表情を示す。
全体の7〜8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももい
る。

(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)

しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持すること
ができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要
がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子ども
がいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満
足げでおっとりした様子を示す。

人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえ
ば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デブリベーションという問題があるのは、わかった。
では、私はどうなのか?」と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難し
い。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
が、自分ではそれをふつうと思い込む。
私はやさしいとか、冷たいとか、客観的に判断できる人は、ふつうの世界では、いない。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれな
い。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、
そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この
「マターナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、それと
も「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高
い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なこ
とではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということ
もある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もり
に関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エ
ンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたとする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デブリエイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】(N小学校、分科会、レジュメ)

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはい
けない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが…
…。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性
が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分
に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物な
ど、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」
という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親
自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文
化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないよう
だ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひ
とつにもなっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セ
ルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切な
バロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかって
きた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなる
と言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。
それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。
たとえば、私の家には二匹の犬がいる。
一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。
これをA犬とする。
もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。
生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。
いつも人の顔色ばかりうかがっている。
私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べ
ない。
愛想はいいが、決して心を許さない。
その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。
そして腹が減るまで、戻ってこない。
もちろん番犬にはならない。
見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。
寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。
庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。
小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。
しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。
見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。
いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、
それ以後、なかなか変わらないということ。
A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。
心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。
一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。
だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。
つまり人間を信頼している。
幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。
人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。
このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。
感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのク
セがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。
相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。
一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。
許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため
精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。
「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。
相手の心に取り入るのがうまい。
相手が喜ぶように、自分をごまかす。
茶化す。
そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。
当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。
親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。
……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。
「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。
私が私であって、私でない部分だ。
私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。
家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。
しかしそれが問題ではない。
問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。
そして同じ失敗を繰り返す。
それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。
心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。
私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロー
ルすることができるようになった。
「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」
「もっと相手に心を許そう」と。
そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。
そこに教育の本当のおもしろさがある。
あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02−11−7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。
何かがあるはずである。
問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それ
に引き回されることである。
またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということに
なる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 マターナルデブリエイション マターナル・デブリエイション 母子関
係 母性愛の欠落 ホスピタリズム はやし浩司 ホスピタリズム 症状 長畑 施設病 人間
性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 
幼児期後期 自立期)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●複合症状

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夜、寝る前に、濃いお茶を飲んだ。
それがよくなかった。
床に入ってから、……それまではかなり眠かったのだが、頭が冴えてしまった。
で、1〜2時間、がんばったが、ギブアップ。
そのまま起きて、書斎へ。
時計を見たら、午前1時半だった。

やることもないので、雑誌(「週刊・ダイアモンド)に目を通す。
眠られぬ夜は、経済誌がいちばんよい。
10人の識者がいれば、10色の意見が出てくる。
それがおもしろい。

で、目を通しながら、パソコンを立ちあげ、Bloombergを開く。
開いたとたん、思わず、お茶をプーッと吹きだしてしまった。

「ギリシャの新国債の金利、20%を超える!」と。

少し前、80%近い、借金の棒引きをしたばかり。
「これでギリシャ問題は、何とかなった」と喜んでいた矢先の、20%!
(金利が、20%だぞ! そんな借金、返せるわけがない!)

わかりやすく言えば、元の木阿弥。
ギリシャの金融危機問題は、何も解決していない。
が、そこへもってきて、今度は、ポルトガルがおかしくなり始めた。

だれかが得をすれば、だれかが、損をする。
経済の世界は、そういうもの。
が、おかしなことに、損をした人が意外と少ない?
それもそのはず、世界の国々は、目下、札の印刷競争をしている。
札をばらまいている。
EUも、アメリカも、そしてアジア各国も。

足下の日本も、例外ではない。
現在、日本の株価は、バブル状態。
1万円の大台を越えたと、はしゃいでいるが、中身はガタガタ。
不気味なのは、海外の投資家が、日本の国債を買い始めていること。
そういった連中は、いったんことあれば、平気で今度は売り手に回る。
そのときが、こわい。

結局、再び床に入ったのが、午前4時ごろ。
起きたのが、8時半ごろ。
先ほどまでランニングマシーンの上で、一汗かいた。
そのあと軽い朝食をとり、そのまま書斎へ。
今日の予定は、とくになし。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高校の同窓会

今度、高校の同窓会がある。
前回、出席させてもらってから、もう15年近くになる。
15年!
年数を計算し、改めて、驚く。

 現在、年賀状を交換しているのは、同窓生の中でも、宮崎K君と森H君だけ。
その森君が、岐阜県でももっとも権威ある賞の、その大賞を受賞したとか。
宮崎君から、その祝賀会をかね、同窓会を開こうという連絡が入った。
私にとっては、何としても出席しなければならない同窓会である。

 ……森君といえば、まっさきに思い浮かぶのが、プラモデル。
小学生のころのことだと思う。
彼の2階の、道路に面した部屋で、大きなプラモデルを見せてくれた。
それが私には、たいへんうらやましかった。
どうしてだろう?
どうしてそんなことを真っ先に思い出すのだろう。

 宮崎君というと、柔道を思い出す。
宮崎君の叔父にあたる人だったと思う。
中学生のとき、3年間、その男性に、柔道を習った。
ただ宮崎君本人は、道場には来ていなかったと思う。

 みんな元気なのだろうか?
この浜松に住んでいると、情報は、まったくといってよいほど、入ってこない。
1人、こまめに連絡してくれた友人がいたが、彼はこの10年間、病院に入ったままという。
家族、つまり彼の母親とは、ときどき電話で話す。
それ以前は、奥さんと話していたが、現在は、その電話番号は使われていない。
数年前、中学の同窓会があった。
そこでそれとなく聞いた話では、離婚しているらしいとのこと。

 興味があるのは、女性軍(失礼!)。
私たちのクラスには、美しい人がそろっていた。
もっともそれに気づいたのは、高校を卒業してから。
それまでは気がつかなかった。
そういう人たちは、どうなったのだろう。
今でも、みんな昔のままなのだろうか。
不謹慎な意味で、(本当に不謹慎だが……)、たいへん興味がある。

●夫婦同伴

 日本では、パーティというと、(同窓会も含めてだが)、単独出席が当たり前。
一方、欧米では、夫婦同伴が、当たり前。
欧米のほうがよいというわけではない。
しかし夫婦同伴というパーティがあっても、よいのではないか。
あるいは、みなで簡単な旅行をする、とか。
バスを借り切って、どこかへ行く……。
いいね!

 飲んで、食べて、カラオケを歌って……。
あとはワイワイと騒ぐ。
同窓会というと、そんなイメージというか、「型」が決まっている。
親戚が集まる、親類会、いとこ会、OB会……。
みな、そうだ。

●人間関係

 同窓会のよい点といえば、上下関係がないこと。

ふつう人間関係は、(1)対立関係(けんか状態)、(2)調和関係(仲良し関係)、(3)専制関係
(上下関係)、(4)分離関係(心の通わないバラバラ関係)に分類される。

 もちろん高校生だった当時には、こうした関係が、色濃くあった。
が、それから40数年。
今さら、「関係」もあったものではない。
そこに「死」がまっている。
それに、私も含め、みな、おおかたの人生を終えている。
今、こうして生きているだけでも、御の字。
上下関係がどうのこうのと言っている方が、おかしい。
みな、平等。
その平等感がよい。

 ……帰りには、岐阜市の旅館に一泊するつもり。
長良川沿いには、よい旅館やホテルが並んでいる。

●女性

 そう言えば、女性というのは、30歳くらいを境に、顔が変わってしまう。
35歳を過ぎると、20歳前後の面影が、完全にと言ってよいほど、消えてしまう。
本来なら、こういうことはありえないはず。
遺伝子はそのまま。
どうしてだろう?

 一方、男性というのは、あまり変わらない。
街で会っても、その人と、すぐわかる。
20歳前後の面影を、しっかりと残している。
どうしてだろう?

 ……先ほども、近所の家の中へ、1人の女性が入っていった。
ワイフに、「あの人は、だれ?」と聞くと、「娘さんよ」と。
「わからなかったよ」と言うと、「あの娘さんも、年を取ったからね」と。

 若いころの娘さんの印象は、残っている。
ほっそりとした、かわいい女性だった。
その女性も、今では、まったくのオバサン姿。
ズングリとした体型。
ポッテリとした顔。
目の周りだけが、昔の面影を残していた。

 もし別の場所で会ったら、その人と、私にはぜったいわからないだろう。

私「女性は、どうしてああまで変わるのかな?」
ワ「そんなことないわよ。男性だって変わるわよ」
私「そうかなあ……。いくら年をとっても、ぼくには、わかるよ」
ワ「それまでの生活によるんじゃ、ないの?」と。

●脳

 その点、脳細胞は、再生しない。
死滅する。
その一方。
だから、脳細胞は、昔のままを保つことができる。
性格も性質も、昔のまま。

 もし脳細胞が、再生するようなことがあれば、性格や性質が変わってしまうかもしれない。
情報の伝達が、そこまで正確になされるとはかぎらない。
言い換えると、だからこそ、10年たっても、20年たっても、私たちは昔のままで、たがいに会う
ことができる。

 ただし、死滅する分だけ、バカになる。
「バカ」という言葉に語弊があるなら、ボケる。
そのボケるのが、心配。

 大学の同窓会でも、まず最初の会話がこれ。
「あいつ、だいじょうぶか?」と。

 「だいじょうぶ?」というのは、脳のほうのことをいう。
少し様子がおかしいと、まず、それを聞く。
こういうことを調べるのは、不謹慎きわまりない。
しかし興味があるので、調べてみる。
年齢別、ボケ老人の割合。

●年齢別、ボケ老人の割合

 平成4年の老計第29号によれば、つぎのようになっている。

(認知症患者の出現割合)

65〜69歳……1・5%
70〜74歳……3・4%
75〜79歳……7・1%
80〜84歳……14・6%
85歳以上 ……27・3%

 なおここでいう認知症患者というのは、介護が必要な患者をいう。
つまりかなり重症ということ。
私や私のワイフ程度のボケ老人まで含めたら、その数は、10倍以上になるのでは?

 恐ろしいことに、この10年間だけでも、ボケ老人の割合は、減るどころか増えているという。
別のサイトには、そうあった。

●自覚

 認知症の怖ろしいところは、それを的確に自覚できないこと。
エーザイ(製薬)HPには、つぎのようなチェックテスト項目が並んでいる。

●同じことを何度も言ったり、聞いたりする 
●慣れているところで、道に迷った 
●財布を盗まれたと言ってさわぐ 
●以前よりだらしなくなった 
●夜中に起き出して騒いだ 
●置き忘れや、しまい忘れが目立った 
●計算の間違いが多くなった 
●ものの名前が出てこなくなった 
●水道の蛇口やガス栓の締め忘れが目立つ 
●ささいなことで怒りっぽくなった 
●時間や日付が不確かになった 
●日課をしなくなった 
●以前はあった関心や興味が失われた 
●以前よりもひどく疑い深くなった 
●薬の管理ができなくなった 
●テレビドラマの内容が理解できない

 しかしこんなテストをしても、意味がない。
仮にこのテストで「あやしい?」と思っても、それは「自覚」とはちがう。
(もちろん自分以外の人のことを、診断するのには、役に立つ。
「うちのバーチャン、最近おかしいわね」と。)

 どうすれば、自分のボケ度を自覚できるか。

●ボケの自覚

 私のばあい、つぎのようにして、自覚するときがある。

 たとえばこうして毎日、原稿を書いていると、ときどき以前、書いたのと同じテーマで、書くとき
がある。
そこでネットで検索をかけてみる。
(検索しやすいように、私のばあい、原稿の末尾に、検索キーワードを並べることにしている。)

 すると、10年前に書いた原稿が出てきたりする。
タイトルも同じ……ということは、よくある。

 そこでその原稿を開き、現在書いている原稿と、読み比べてみる。
それでボケの進行度を、自分で知ることができる。

 あるいは、そのつど新語に出会う。
英語の単語でもよい。
そういった新語や単語については、その場で脳の中に叩き込む。
これを「記銘」という。

 が、50歳を過ぎてから覚えた言葉や単語というのは、あっという間に忘れてしまう。
その期間とか、割合で、自分のボケ度を自覚することができる。

 それによれば、私の脳みそも、かなりあぶない。
65歳を過ぎると、1・5%程度の人が、介護が必要なほどまでにボケる。
そこで予防ということになる。

●運動と予防

 が、最近、本当に最近、私はこんなことに気がついた。

 私は暇があれば、テレビのニュースを見ながらでも、ウォーキングマシンの上で歩いている。
そんなときのこと。

運動をし、一汗かいてから、キーボードを叩くのと、運動をしないまま、キーボードを叩くので
は、調子がまるでちがう。
運動をしたあとだと、パラパラとキーボードを叩くことができる。
運動をしていないと、モタモタ……という感じになる。
打ちミスもおおくなる。
微妙なちがいなのだろうが、その(ちがい)が、よくわかるようになった。

 ボケ防止のためには、脳みその運動のみならず、肉体の運動も重要である。

●脳梗塞

 が、認知症もさることながら、直近では、血栓性脳梗塞、あるいは微細脳梗塞も心配である。
総じてみれば、大酒飲みやヘビースモーカーの人には、頭の活動が鈍い人が多い。
50歳を過ぎるころから、「?」と思うようになり、60歳を過ぎるころから、それがはっきりとしてく
る。
だれにでもそれとわかるようになる。
たとえば……。

●反応が鈍くなる
●話し方がかったるくなる
●繊細な会話ができなくなる
●内容が通俗的になってくる
●「ア〜」「ウ〜」という間投詞(擬声語)が多くなる
●ささいなジョークに、ことさら大げさに反応する、など。
(以上、はやし浩司)

 最近の研究によっても、飲酒が脳そのものを委縮させる、またスモーキングは、感情の抑揚
を平坦化させるということがわかっている。
脳みその健康を保つのも、楽ではない。……ということらしい。

●回顧主義(懐古主義)

 できれば、こう願う。
 
 同窓会といっても、回顧主義的なものであってほしくない。
会って話をしたい人がいるとすれば、現役でまだがんばっている人。
そういう人たちと、情報を交換したい。
健康法なり、日常の過ごし方、など。

 「あのときは、こうだった」式の話には、興味はないし、そんなことならいくら話しあっても、意
味はない。
まだ、この先人生は、長〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い。
どうせ生きるなら、前向きに、生きた〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い。

 ということで、同窓会の話は、ここまで!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 同窓会 武義校同窓会 武義高校同窓会 はやし浩司 同窓会論 高校
の同窓会 同窓生 はやし浩司 2012ー03−25)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●複合症状

 子どもを見るときむずかしいのは、症状が複合しているばあい。
あるいはひとつの症状であっても、その症状が、こじれているばあいもある。
たとえばAD・HD児。

 親が早い段階でそれに気づき、適切に対応していればよい。
が、実際には、無理に無理を重ね、症状を悪化させてしまうケースが少なくない。
中には、はげしい暴力、威圧、虐待を加える親もいる。
そうなると、同じAD・HD児でも、ちょうど複雑骨折のように、骨がどこでどう折れているかさえ、
わからなくなる。

 さらにAD・HD児に、別の問題、たとえば、かんしゃく発作、さらには、てんかん症が加わるこ
ともある。
こうして子どもの見せる症状は、ますます複雑になる。
症状が複合化するので、「複合症状」(はやし浩司)という。

●いろいろな例

 ほかにもいろいろある。

 たとえば同じかん黙児でも、それに親の情緒不安や精神不安が加わることもある。
親が、それを気にしすぎるあまり、子どもに手をかけ過ぎてしまう。
たいていはベタベタに溺愛する。

 このタイプの子どもは、たいてい、手がつけられないほどの、ドラ息子、ドラ娘になる。
外の世界で、自分を発散できない分だけ、内の世界(=家庭)で、粗放化する。
何か気にくわないことがあると、そのつど母親に包丁(包丁だぞ!)を、投げつけていた女児
(年長児)もいた。

 あるいはLD児。
タイプはいろいろある。
文字を読むことはできても、意味を把握することができない子ども。
漢字を覚えたり、単語を暗記するのが、極端に苦手な子ども。
脳の機能障害説が常識になっているが、それだけに無理をしても、意味がない。
が、親には、それがわからない。
わからないから、子どもを叱る。
「どうして、あなたはこんなことができないの!」と。

 そうでなくても、勉強は苦手。
その上、勉強に、恐怖心まで、もってしまう。
小学校の入学までに、一度、そういった症状を見せるようになると、以後、勉強が好きになると
いうことは、まず、ない。
(できない)→(逃げる)の悪循環の中で、ますます勉強から遠ざかっていく。

●知らぬフリ

 複合症状を見分けるのは、それほど、むずかしいことではない。
たとえばアスペルガー児が、本来のアスペルガー児特有の症状以外の症状を、併せもつこと
がある。
そういうときは、アスペルガー児特有の症状を、その子どもから削ってみればよい。
残ったのが、複合された部分の症状ということになる。

 が、問題は、どうすれば、それを親に、わからせることができるかということ。
私の立場では、症状名やその内容まで、話すのは、タブー。
あくまでも知らぬフリをして、指導に当たる。
たとえば親の強圧的、かつ威圧的な育児姿勢が、子どもの心をゆがめることがある。
アスペルガー児は、そういう点では、たいへん傷つきやすい。
殻に閉じこもり、がんこになる。
それを親が、はげしく叱る。
だからそれとなく、私は、こう言う。

「もう少し、お子さんを信じ、お子さんの立場で、ものを考えたらいいですよ」と。

 が、母親にはそれがわからない。
「うちの子ががんこなのは、根性が曲がっているから」と。
こうして症状は、ますます複合化する。
つまり複雑になる。

●10%のニヒリズム

 本来、子どものそばにいて、子どもを伸ばす立場の親が、子どもの伸びる芽を、かえってつ
ぶしてしまう。
こういうケースは、多い。
「私は学校の先生より、子どものことはよく知っている」「私のしていることが、いちばん正しい」
と豪語する親ほど、あぶない。
風通しが悪い分だけ、他人の話に耳を傾けない。
独断と独善の世界で、自己流の子育てを繰り返してしまう。

 が、私には、それがよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
それだけではない。
その子どもの未来まで、ざっとわかる。
会った瞬間に、それがわかる。

若い親たちから見れば、私はバカに見えるかもしれない。
そういう目で私を見ていることさえ、私には、よくわかる。
「この親は、私をただの教師と思っている」と。
わかるが、私は、さらにバカなフリをする。 

 というのも、この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。
親の方が、具体的に問題を提起し、それについて意見を求めてきたときだけ、それに答える。
この世界では、不用意に言った、ささいな言葉が、大問題になるということは、よくある。
だからこそ、わかっていても、何も言わない。
これを「10%のニヒリズム」という。
(「10%」でなくても、「20%」でもよいが……。)

 つまり切るべきところは切り、あとは親に任す。
もともと「親」というのは、そういうもの。
自分で失敗してみて、はじめて気がつく。
それまでは、聞く耳すら、ない。

●「私は無知」

 では、どうするか。
 
 これについては、何度も書いてきた。
要するに、自分たちを取り巻く「殻」を取り除き、風通しのよい家庭環境を作る。
さらに言えば、「私は無知」を前提に、謙虚になる。

 指導する側でいちばん困るのが、子どものことで何かを告げようとしたとき、すぐ反発してくる
親。

私「最近、元気がありませんが……」
親「家では、ふつうです」
私「愛情不足ということはありませんか」
親「いえ、子どもたちは、みな、平等にかわいがっています」
私「学習面で、無理をしているようなことはありませんか」
親「ありません」と。

 とくに学校の先生には、謙虚になったほうがよい。
教育のプロということはもちろん、先生は、いつも多人数の子どもたちの間で、比較しながら、
あなたの子どもを見ている。
その(比較)が、大切。
つまり客観的に、その子どもを見ることができる。
が、親には、その比較ができない。

 そのためには、聞き上手になること。
もう一歩、話を進めれば、自分の子どもでも、他人と思うこと。
距離を置けば、自分の子どもでも、客観的に見ることができるようになる。

 そんなわけで、「私は無知」を恥じてはいけない。
親は、みな、無知。
無知であるのが、当たり前。
学校でも、育児について学ぶ時間というのは、ほとんどない。
(最近は、それを教えるようになったが……。)
が、そんな程度で、育児がかかえるさまざまな問題に対処できるようになるということは、ありえ
ない。

 だから結論は、どうしても、こうなる。
「謙虚になりなさい!」と。

●対処法

 「複合症状」という言葉は、私が考えた。
が、その「複合」といっても、2つとか、3つ程度の複合は、当たり前。
中には、さらに4つとか、5つも複合することがある。

 組み合わせ論的に考えるなら、それこそ、子どもが見せる症状は、千差万別ということにな
る。
が、ていねいに分析していけば、やがて混乱したコードをほぐすように、やがて症状を分離し、
類型化することができる。
と、同時に、千差万別に見える子どもも、単純な組み合わせでそうなっていることがわかる。

 そこで私がすることは、類型化した「型」に優劣をつけ、また直しやすい部分から、直してい
く。
一方、簡単には直らない部分もある。
脳の機能や器質にかかわるような問題は、簡単にはなおらない。
ゆいいつできることがあるとすれば、「それ以上、症状を悪化させない」ということ。
消極的な対処法だが、あとは「時」を待つ。
どんな子どもにも、成長とともに、自分を正していくという能力が備わっている。
それを信じ、それを引き出す。
冒頭にあげたAD・HD児にしても、症状さえこじらさなければ、成長とともに、やがて落ち着い
てくる。
見た目の騒々しさなどは残ることはあるが、それとてその子どものコントロール下に置かれる
ようになる。
つまり自分で自分をコントロールすることができるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 複合症状 複雑化する子どもの
症状)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【田丸謙二先生について】(日本のマスコミの大矛盾)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7016149635/" title="img093 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm7.staticflickr.com/6096/7016149635_
b0ae564fdb.jpg" width="395" height="499" alt="img093"></a>

http://ktamaru.ninja-web.net/

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●触媒工学

 触媒工学の分野では、日本は最先端を独走している。
「触媒」と聞いて、「?」と思う人も多いかと思う。
その理由は、もう少しあとに書くとして、今では触媒なしに、この社会は成り立たない。
電子工学、遺伝子工学、それにつづくのが、触媒工学である。

(1980年ごろ、東大の研究室で会うと、田丸謙二先生は、こう話してくれた。
「電子工学(コンピューター)については、基礎研究はすでに終わりました。
しかし遺伝子工学がこうまで進歩するとは、思ってもいませんでした」と。
まだ触媒工学なるものは、日本では、ほとんど知られていなかった時代である。)

 その触媒工学の分野で、これまた最先端のトップランナーが、田丸謙二先生である。
1970年当時、田丸謙二先生は、こんな話をしてくれた。

「水を、触媒で、酸素と水素に分解できれば、エネルギーの問題は、すべて解決します」と。

触媒工学というのは、それをいう。

 1年ほど前会ったとき、田丸謙二先生に、「いつ成果が出ますか?」と聞いたときのこと。
先生は、笑いながらこう話してくれた。

 「現在、理研(理化学研究所)で、チームを作り、懸命に研究していますから、近くその成果が
出ますよ」と。
現在、東大だけでも、田丸謙二先生の弟子が、10人前後、教授をしている。
書き忘れたが、東大でも、当時、田丸謙二先生は、最年少で教授職に就いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田丸謙二先生

 その田丸謙二先生のホームページを読んでいたら、先生に、たまらなく会いたくなった。
で、昨夜(3月25日)遅く、メールを出すと、すぐ返事が来た。

『林様:メール有難うございました。ただ今私は「我が家」をレフォームしておりますので、その
間、臨時の所(シニア・ホーム)に滞在しています。4月一杯多分滞在します。
今日は日本化学会の年会が日吉の慶応キャンパスであり、私が講演して来ました。自分なが
らうまく行ってよい評判でした。くれぐれもお元気で。御急ぎの御用がありましたらどこかでお会
いしましょうか。田丸謙二』と。

 折り返しメールを交換し、このx日に、鎌倉で会うことにした。
今日も、慶応キャンパスで、講演をしてきたとか。
1923年生まれということだから、今年、89歳になる。
若いときから、田丸謙二先生という先生は、そういう人である。
50歳を過ぎ、中国語を独学で学び、中国化学会の総会で、基調講演までこなしている(198
2)。
しかも、中国語で!

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6870040352/" title="img155 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm7.staticflickr.com/6116/6870040352_
1d2f545b10.jpg" width="500" height="419" alt="img155"></a>

●ファーバー研究所創立100年祭(Fritz Haber Institut の創立百年祭)

 で、今朝、書きたいことは、このことではない。
田丸謙二先生は、先にも書いたように、世界の触媒工学の先鞭をつけた研究者である。
事実、ごく最近まで、日本は、この分野の研究では、世界の最先端を走っていた。

 その功績もあり、田丸謙二先生は、1984年(7月)〜1988年(7月)まで、国際触媒学会の
会長を務めている。
が、そのことを一般の人で、知っている人は、ほとんどいない。

 さらに5、6年ほど前、国際触媒学会の大会が、フランスのパリで催された。
世界中から、2000人近い学者が集まった。
(2000人だぞ!)
田丸謙二先生は、その学会でも、基調講演をしている。
が、そのことを知っている人も、ほとんどいない。
当時、田丸謙二先生は、こう話してくれた。

「中国人の学者がふえたのには、驚きました」と。

 ほかにも、いろいろある。
ごく最近では、昨年(2011)、ドイツで、ファーバー研究所創立100年祭があった。
私たちが今、ここでこうして生きているのは、ファーバー博士のおかげと言っても過言ではな
い。
ファーバーは、空気中の窒素固定を成し遂げた。
それにより、人類は、まさに「空気からパンを作る」ことができるようになった。

 そのファーバー研究所創立100年祭に、田丸謙二先生は、講師として呼ばれ、講演をしてい
る(注※)。
田丸謙二先生の父親の田丸節郎は、ファーバーの第一弟子でもあった。
また現在の東工大、理研の産みの親でもある。
が、こういったことを、知っている人は、ほとんどいない。

 私は、それが、おかしい!、と言っている。

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7016149955/" title="img187 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm7.staticflickr.com/6053/7016149955_
4748967f66.jpg" width="457" height="500" alt="img187"></a>
(中央左が、田丸節郎、その右が、ファーバー博士)

●日本のマスコミの大矛盾

 なぜ、日本のマスコミは、こうした重大な事実を、日本で報道しないのか。
どこかつかみどころのないタレントが、どこか理解しがたい映画を製作し、何とかという賞を取
ると、それこそ狂ったように大騒ぎする。
日本の一大事のように、大騒ぎする。

 が、日本人の科学者が、フランスのパリの国際学会で、基調講演をしても、一行(一秒)も報
道しない。
その情報収集能力もなければ、価値を判断する能力すら、ない。
反対に、国内では、その人物を、肩書きや地位だけで判断する。
テレビへの露出度だけで判断する。

 一方、現地のフランス国営放送は、田丸謙二先生に、スタジオでさらに再講演してもらい、そ
れを番組として、放送している。

 日本のマスコミの姿勢のおかしさ、矛盾は、すべてこの1点に凝縮される。
その結果というか、日本の文化レベルは、落ちるところまで、落ちた。
まるで日本総ギャグ化。
お笑いタレントが、どこかの県知事になっても、だれも疑問に思わない。
日本人は、「アカデミック」という言葉のもつ意味すら、知らないのでは?

 もっと言えば、この日本では、「文化人」なるものは、テレビへの露出度で決まる。
そうでなければそうでない。

 これを「大矛盾」と呼ばずして、何と言う?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……以下、田丸謙二先生のHP(日記)より)

『●Fritz Haber Institut の創立百年祭に招待されて

   1911年にKaiser Wilhelm Institut として Berlinに創立された研究所が途中で Fritz Haber 
Institut (FHI) と名前を変えて、10月26日〜28日の三日間に創立百年のお祝いをした。

   4年前にノーベル化学賞をとった前所長の Ertl 教授の75 歳の誕生日のお祝いも兼ね
て、世界中から一流の学者を招いての盛大な講演会でもあった。
参加した人たちは物理、化学は言うまでもなく化学史の専門家まで含み、千人ほどの集まりで
あった。
私は百年の歴史の中での「Haber と日本」と題して、原稿も見ずに、この百年の間での田丸家
と Fritz Haber Institut との関連について講演をした。

  内容的には亡父が1908年2月に Karlsruhe の Haber 研究室に留学し、「死ぬほど働いて」
アンモニア合成の成功に関与し、1911年Haber が新設されたBerlin の Kaiser Wilhelm 
Institut の所長になった折に直ちに亡父を所員に招き、第一次世界大戦が始まって日独が敵
対関係になるまで合計6年間 Haber と共に研究をして来た。

今回においてその当時亡父が撮った百年前の写真を何枚も出して見せたのは現在見せられ
た聴衆にとっては大変に印象的であったようであったし、FHI としても非常に貴重なものであっ
た。

   その後1918年に Haber は「空気からパンを作った」ということでノーベル化学賞を受け、
1924年に星一さんの招待に応じて夫妻で来日をした。
在日中は各地で講演をし「国を発展させるには科学の振興が必要である]という、彼がドイツで
英仏をしのいで国を振興させた実績に基づいた講演をし、亡父がそれを翻訳し、自分なりの科
学振興の必要性も加えて、一冊の本として岩波から出版したのである。
(事実その頃の我が国から欧州への自然科学の留学の75%はドイツに行ったものである。)

   その影響もあってわが国では昭和一桁の非常な経済不況の中にありながら、Kaiser 
Wilhelm 協会をモデルにして日本学術振興会を作り、大学や研究所に研究費を増額分配し、
学術論文数もほどなく倍増し、人材が育ち、アジアでも最も近代化した国になった。

ベルリン工科大学をモデル化して東京工大を新設もした。
(この両方の学術振興の実積は亡父の大変な尽力なしでは実現しなかったものである。)

   Haber がドイツの学術振興だけでなく結果的にはわが国でも科学振興の実績を積んだこ
とは、科学を重視するドイツ人たちにとっても初耳であったし,大変に印象的でもあったらしい。
(わが国でもほとんど知られていない。)

   次世代として私が、世界で初めて触媒反応中に固体触媒表面の挙動を直接観察して、そ
れまで反応機構は推論に基づいていただけだったのを飛躍的に発展させて、in situ 
characterization を開発し触媒科学が科学として生まれたことに触れてそれをErtl がそれを発
展して例えば Photoemission electron microscope を用いて見事な発展をもたらしてノーベル
賞に至ったことに触れ、さらに婿の大山茂生(現東京大学教授)がフンボルト賞を三年前にう
けて Hajo Freund と共に、半年間FHI に滞在したことを告げて、結局田丸家は過去百年の間
三代にわたり FHIと深い関係を持って来たことを紹介し、これまで一世紀の間世界をリードして
来たFHI が更なる新しい世紀も世界をリードすることを願う、と言って話を閉じた。 

  話の途中に亡父が残した百年前の写真の中にある亡父が着ていたモーニングがベルリン
製であり、百年の間無事に保たれ、興味あることに私の娘の大山秀子にピッタリのサイズであ
ることを言って、秀子がその服を着て現れた時は皆で拍手大喝采であったし、ハ―バー夫妻
が鎌倉の我が家を訪問した折の写真の中に、私が母の腕の中にいた赤ん坊であって、ハー
バーと直接会っている証拠でもあると言った時も拍手が湧いた。

  話が終わってからの皆の態度はそれまでとはガラリと変わり、何十人もの人が入れ替わり
に、素晴らしい話だった、wonderful だけでも、十何人か、, beautiful, elegant, moving (感動
的), gem (宝石)(招待に与った Friedrich さんの表現)、highlight (今回のCentenary の議長を
務めた FTI のdirector のGerard Meijer 教授も使った表現), excellent (Ertl さんの表現)と各
人なりの言葉を使って私に対してベタ褒めであった。

英語も解りやすく、素晴らしかったし、とにかく88歳の人があんな立派な presentation をするな
んて考えられない、という大変な評判であった。

そうしてあの話はとても内容が素晴らしくて、話を聞いておくだけではもったいないし、是非その
資料をドイツ化学会やFHIに永久に保存すべき話であるから、面倒でももう一度同じ話をして貰
いたいということになり、今度は聴衆は十何人の幹部の前でもう一度 presentation をさせられ
た。

ビデオにまとまったら送ってくれるという。
とにかくこの上ない大変な好評であった。
ビジネスクラスの旅費まで出してくれてのご招待であったので、それに充分以上に報いること
が出来て本当によかったと思った。
中には鎌倉まで人を派遣して FHIの古い資料を見せてくれないか、とまで言われた。
FHI の図書室に「田丸古文書」の枠を作ることも議論されているとのことであった。

  昔は従来英語で苦労をすることが全くなかったが、今回は耳が遠くなり、英語が聞き難く、
秀子が大分助けてくれた。
老化現象も耳の遠くなる不便さはどうにかしなければ、もっと優れた補聴器にするか、というの
が正直の感じであった。
幸い招待を受けた婿が全てを手配してくれたし済ますことが出来た。
ベルリンでは日本に比べて非常な寒さであって、往復途中もよく眠れず、時差もあって肉体的
に大変な苦労であったし、風邪をこじらせながらようやく無事に帰国できた。(会議が終わって
から秀子たちと Romance Road を回って来た)

  秀子が科学史の専門家に我が家には亡父が百年前に購入した Lavoisier ヤ Liebig などの
手書きの手紙があると伝えたら大変に興味を示していたという。
亡父が購入したままに置いてあっただけに、多分世界で唯一の本物の手書きの手紙だけに、
科学史の資料としても大変に貴重なものであるからである。

  世界の人口は前世紀中に4倍になった。遠からず世界の人口は二百億になるという。ハー
バーのお蔭で1913年に窒素肥料のアンモニアが工業的に生産され始め、何十億もの人が飢
餓から救われたのでる。

2011年12月28日』
(以上、「田丸謙二先生のHPより」)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7016149817/" title="img176 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7104/7016149817_
386134bb37_b.jpg" width="560" height="771" alt="img176"></a>
(アインシュタイン博士より、田丸謙二先生へ)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 田丸謙二 田丸謙二先生 田丸
節郎 ファーバー はやし浩司 触媒工学)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●3月27日

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

朝早く、田丸謙二先生から、講演用
資料などが、送られてきた。

数日前、日吉の慶応キャンパスで行われた、
日本化学会の年総会の席で、田丸謙二先生は
基調講演を行った。
そのときの資料である。

この世界に住んでいる人も、また住んでいない人も、
超一級の講演がどういうものか、またそのレジュメが
どういうものか、これを見ればわかる。

今朝は、そのため、朝の運動は抜き。
起きるとすぐそのまま、書斎へ。
田丸謙二先生の資料を、ホームページに
UPLOADした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6873384550/" title="img306 by 
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++++++++++++++++

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7019491461/" title="img309 by 
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bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7207/7019493417_
58eaa3ee18_b.jpg" width="720" height="1024" alt="img313"></a>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 田丸謙二 田丸謙二先生 講演
 日本化学会 2012年 年会 講演)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●北朝鮮のミサイル問題

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 近く日本の野田首相は、北朝鮮のミサイルの迎撃、撃墜を命令するという(3月27日)。
が、私は、それに明確に反対する。
理由は、以下に述べる。

つまり今、ここで日本が、北朝鮮に対して攻撃的姿勢に出れば、即、北朝鮮に、日本攻撃の口
実を、将来にわたって、提供することになる。

 次回から日本が衛星ロケットを打ち上げるたびに、日本は厳戒態勢をとらねばならなくなる。
日本の発射基地そのものが、攻撃対象になるかもしれない。

相手は、常識的な道理の通ずる国ではない。
通ずる国でないことは、今までの経緯を見ればわかるはず。
が、それだけではない。

 やがてこの先、南北朝鮮は、何らかの形で統一される。
オバマ大統領も、先の核サミット(ソウル)で、それを明言した。

が、それは同時に、日本のすぐそばに、巨大な反日国家が誕生することを意味する。
人口は、計6000〜7000万人。
2050年には、日本の人口と拮抗(きっこう)する。
(日本の人口は、8000万人近くにまで減少すると言われている。)
そうなったとき、この日本は、その朝鮮と、どう対峙していくつもりなのか。

 今回のミサイル問題は、あくまでも、朝鮮半島の内部問題。
ミサイル自体は、アメリカと北朝鮮の2か国間問題。
つまりどこかで、この問題は、日本と切り離して考える必要がある。
深入りは、日本にとっては、たいへん危険。
今、日本は、南北朝鮮の統一後、もしくは30年後を見据えて行動する。

 仮に南北朝鮮が、平和的に統一されたとしても、(むしろそのほうが日本にとっては脅威なの
だが)、つぎに彼らが「敵」とするのは、この日本である。
中には、表面的な友好関係だけを見て、「そんなことはない」と、思っている人もいるかもしれな
い。
しかし、それはどうか?

 たとえば今朝(3/27)の朝鮮日報は、こんな記事をトップに載せている。

『トヨタ、エアバッグで現代自を挑発』と。

 記事は、こうなっている。

『……新型カムリで失地回復を目指すトヨタ自動車が、韓国自動車最大手の現代自動車のエ
アバッグを「問題視」している。
最近韓国の新聞に掲載された新型カムリの広告は、「安価な第2世代のディパワード・エアバッ
グを採用することもできた。
大半の車はそうだから。
エアバッグは目に見えないものだから」とのフレーズとともに「カムリは同クラス最高の第4世代
アドバンスト10エアバッグを搭載」とうたっている』と。

 トヨタは、何も現代自動車を挑発したわけではない。
「カムリは同クラス最高の第4世代アドバンスト10エアバッグを搭載」とうたっているだけなので
ある。
が、それが朝鮮日報では、「挑発」となる。
反日感情は、それほどまでに、根が深い。

 彼らのその思考回路を買えることは、容易なことではない。
というより、この40年間、何も変わっていない。
この先、40年についても、そうだろう。
だからこそ、日本は、(お人好し的外交政策)にブレーキをかけなければならない。

 いいか、迎撃ミサイル1発、1兆円だぞ!
政府は、ミサイル本体だけの価格を公示している。
が、機関銃に例えるなら、ミサイルというのは、「銃弾」。
銃弾だけの価格。
機関銃という銃、その他もろもろの装備の価格は、含まれていない。

 日本は、いったい、だれのために、北朝鮮のミサイルを、迎撃、撃墜しようとしているのか。
仮に日本のためであるとしても、あんな国、まともに相手にしてはいけない。
その価値もない。

 私だって子どものころ、よく戦争ごっこをした。
喧嘩もした。
しかしいつも、相手を選んで、それをした。
自分より幼い子どもや、女の子には、手を出さなかった。
もとから相手にしなかった。

 迎撃態勢を組み、相手を威嚇するのはよいとしても、構えだけ。
迎撃ミサイルを発射するのは、危険というより、無謀。
野田首相は、今回の核サミット(ソウル)では、「つまはじき」だったとか。
『民主党政権の外交無策により、日本は国際社会から「つまはじき」』(MSN)と。

 だったら、つまはじきでよい。
つまはじきのまま、あとは静観すればよい。
(あるいは「傍観」?)

 恐らくあの野田首相のことだから、日本の存在感をアピールしようと、過激な手段を選ぶかも
しれない。
「撃墜命令」も、そのひとつ。
が、ここは冷静に。
何も日本が、火中の栗を、あえて拾うことはない。
アメリカや韓国に任せればよい。

 それがわからなければ、もう一度、頭の中で、こう考えてみたらよい。
「もし、南北朝鮮が統一したら、この日本はどうなるか?」と。
日本の横に、核兵器に加え、150万に兵力をもった、巨大軍事国家が誕生する。

 そういう未来を見据えながら、では、今、この日本はどうあるべきか、それを考えたらよい。
その結論が、冒頭に書いたこと。
「私は、ミサイル撃墜に、明確に反対する」である。

 勇ましい好戦論に、踊らされてはいけない。

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3月末・年中児・最後のレッスン】

●テーマは、漢字

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●児童期から思春期へ、自我の同一性について

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子どもは人の父(完成原稿)
(日本自動車工業会・会報誌・特集(巻頭言)より)2012−3月

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもは人の父 子供は人の父
 原始反応 児童期 思春期 はやし浩司 幼児期前期 幼児期後期)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●小1児に、距離、時速、時間を教える。

小学1年生に、距離、時速、時間について教えました。別のもうひとつの1年生クラスでは、うま
く教えられませんでしたので、このクラスでは、気合いを入れて教えてみました。(うち1人は、
幼稚園を卒園したばかりの、Yさんです)。

が、今回は、うまく教えられました。Yさんが、最後の問題を解いたとき、「ヤッター!」という気
分になりました。うれしかったです。2012年3月27日。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/v_RNFD7ljMA" 
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 BW幼児教室 BW子供クラブ 
BW子供クラブbyはやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【伊勢志摩・合歓の郷へ】(はやし浩司 2012−03−28)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

伊勢志摩へ向かう。
明日、私塾会名古屋支部の会合がある。
伊勢志摩へ一泊したあと、帰りに、会合に出る。
たいへんな寄り道だが、その寄り道が楽しい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/hIi7EwsUx48" 
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●浜松から名古屋へ

 JR浜松駅の近くで、1人の高校生が声をかけてくれた。
K君だった。
幼稚園のときから、小6まで、私の教室に通ってくれた。
この4月から、高校2年生になる。
うれしかった。

が、こういうときというのは、会話がつづかない。
突然でもあり、何をどう話したらよいのか、わからない。
「お母さんは、お元気ですか」「すっかり高校生らしくなったね」とか。
最後に「声をかけてくれて、ありがとう」とだけ言い、別れた。

 ほんのりと心が温まった。

●9時48分

 JR浜松駅発、9時48分の大垣行の快速に乗る。
浜松から名古屋まで直行する列車は、ほとんど、ない。
豊橋で乗り換える。
この快速は、そのまま名古屋まで行く。

 いつもは豊橋から、名鉄電車に乗る。
座席もよく、乗り心地がよい。
急ぎの用でなければ、新幹線にはめったに乗らない。
名古屋というのは、そういう距離。
近くもないが、遠くもない。

●ウォークマン

 久しぶりにウォークマン(SONY)をもってきた。
音楽を聴いている。
グレゴリアンの曲が、ほとんど収録してある。
あとは定番の映画音楽とか、モーツアルトなど。
少し前まで、そのモーツアルトを聴いていた。

●合歓の郷(ねむのさと)

 今日の予定は、この列車で、名古屋まで。
名古屋で近鉄に乗り換える。
それに乗って、伊勢志摩まで。

合歓の郷に一泊。
「合歓の郷」という名前の旅館。
温泉がすてきらしい。
楽しみ。

 夕食は、伊勢海老づくしとか。
伊勢志摩といえば、伊勢海老。
楽しみ。

●咳をする女性

 通路をはさんだ隣の女性が、はげしい咳を繰り返している。
一応、マスクはしているが……。

 私もワイフに促され、マスクを着けた。
それにしてもはげしい咳。
私たちはよいとしても、会い向かいあった人たちが、かわいそう。
1人の女性はマスクをしているが、もう1人はしていない。
軽く口を押え、窓のほうに顔をそむけている。

 ときどきその女性の横顔を見る。
が、それを気にするふうでもなく、咳を繰り返している。
少し前から、化粧を始めた。
マスクをはずした。
年齢は、35歳前後?
マスクをはずしても、当たりかまわず、咳をしている。

●豊橋へ

 白くかすんだ田園地帯がつづく。
木々は枯れ、薄黄土色。
それをやさしい朝の陽ざしが、ぼんやりと照らしている。

 何やら車内アナウンスがあったが、よく聞き取れなかった。
私はグレゴリアンの歌を聴いている。
ワイフもグレゴリアンの歌を聴いている。
左右のイヤホンを、2人で分けあって、聴いている。

 ……これも、旅。
旅のしかた。

●声がかれる

 このところ声が、かれる。
少し前、浪曲の練習をした。
私はそれが原因かと思っていた。
が、浪曲ではなかった。

 花粉の季節になり、毎朝、決まってはげしいクシャミが出る。
そのとき、のどを痛めるらしい。
今朝、それがわかった。
はげしいクシャミをしたあと、のどが痛くなった。

 で、そのあと合唱団員のときよくしていた発声練習をしてみた。
高音部になると、自分でもそれがよくわかるほど、キンキン声になる。
ふだんは、そういうことはないのだが……。

●『♪Who wants to live forever?』

 『♪だれが、永遠に生きたいだろうか?』

 グレゴリアンは、こう歌う。
『♪Who wants to live forever?』と。

 よい曲だ。
ある映画の主題曲になっていた。
が、肝心の映画のほうは、駄作。
世代を超え、たがいに戦いあうという、内容の薄いものだった。
が、曲だけが、多くの歌手に歌い継がれている。

 そう、私も永遠に生きたいとは思わない。
「……だから、それがどうしたの?」と聞かれたとき、その答がつづかない。

 が、かといって、早く死にたいというのではない。
できるだけ長生きをしたい。
が、条件がある。
健康。
健康であること。
この歌をもじると、こうなる。

『♪だれが寝たきりで、長生きしたいだろうか』と。

●横尾試算

 昨日のニュースで気になったのが、これ。
あの福島第一原発2号機で、70数シーベルトの放射線が計測されたという。
7〜10シーベルトで、人間は即死すると言われている。
しかも恐ろしいことに、毎日10トン近い水を注入しているというのだが、原子炉内の水の深さ
は、60センチしかないという。
ほとんどの水は、高濃度に汚染されたまま、地下や海へと流れ出ているらしい。

 想像するだけでも、気が遠くなる……というより、絶望感に襲われる。
この先、こんなことが、何十年もつづく。
忘れてならないのは、2号機(出力100万W)だけでも、広島原発の数万発分の放射性物質
が格納されているということ。
(100万Wの原子炉を1年間稼働させると、広島原発の2700〜800発分の放射性物質が生
成されるという。横尾試算※)

 先日、大江健三郎氏は、パリで、こう言った。
「40年後に(被害は)顕在化する」と。

(注※)「電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射
性物質が生まれる。
その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」と。
この世界では「京(けい)」という単位が使われる。
10の16乗をいう」(以上、横尾試算「原発事故」宝島社)と。

●自己中心性
 
 こういう話をすると、つまり「40年後」というと、こんなことを言う人がいる。

「どうせ、私はそれまで生きていませんから」と。
あるいは、老人組の人は、こう言う
「どうせ、私たちはまもなく死にますから」と。

 が、これほど冷酷かつ残酷な言葉はない。

 ……40年後でも、今日のように、青空はある。
その下では、人々が住み、生活をしている。
人間の住む世界に、「時間」も「空間」もない。
「40年後は関係ない」と言う人は、「アフリカは遠いから、いくら人が餓死しても構わない」と言う
のと同じ。
つまり自分勝手。

「今さえよければ、それでいい」と言うのは、「自分だけよければ、それでいい」と言うのと同じ。
自己中心性の現れそのもの。
一見、道理をふまえているように見えるが、そんなのは、道理でも何でもない。
人格の完成度、ゼロ。
少しは自分に恥じたらよい。
あるいはその恥じる力もないほど、人間性を失っているのか?

●近鉄・名古屋駅

 近鉄・名古屋駅で、少し待ち時間がある。
12時10分発の特急「賢島」行き。
「賢島」は、「かしこじま」と読む。
旅館に電話すると、14時45分に迎えに来てくれるという。
ありがたい!

 構内で弁当とお茶を買う。
ワイフは、プラス、ビールを買う。
ワイフの家系は、酒豪が多い。
ワイフもその1人。
が、飲むのはこうして旅行のときか、寝る前だけ。

 ところで私たちはここしばらく、寝る前に養命酒をお湯に溶かして飲んでいる。
が、これが歯にはあまりよくない。
朝まで、ときに、甘い味が残る。
「このままでは、そのうち歯がボロボロになるかも?」ということで、ここ数日は、やめている。

 ……私は酒を飲めない。
そういう体質。
が、ときどき油断する。
数日前も、ワイフにつられて、チューハイ(アルコール度4%)を、コップ、半分も飲んでしまっ
た。
おかげで、その翌日、二日酔い。
夕方まで、頭痛が消えなかった。

●近鉄電車

 「近鉄電車に乗るのは、はじめて」とワイフが、言った。
「フ〜〜ン」と私。
10年ほど前までは、よく講演で、近鉄電車に乗った。
あのころは、私はいつも単独行動だった。
「悪いことをしたな」と思ったが、それはワイフには、言わなかった。

 黄土色に青い帯。
近鉄電車カラー。
何か意味があるのだろう。

 そう言えば、前回、近鉄電車に乗ったときに書いたエッセーがあるはず。
あとで探してみる。

 今、構内アナウンスで、「まもなく……」と。
時計を見ると、11時57分。
そのすぐあと、電車が構内へ入ってきた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

原稿は、すぐ見つかった。
2003年に、紀伊長島まで来ている。
駅の近くの体育館で、講演をした。

以下は、そのときの原稿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●三重県紀伊長島町で……(2003年記)

 今日(一八日)は、紀伊長島町の教育委員会に招かれて、ここへやってきた。

 名古屋から、南紀線に乗る。
午後一時すぎの、特急。
その特急で、ちょうど二時間。
四日市、津、松阪……。
その間特急は、ずっと山間の谷を抜けるが、最初に「海が見えた!」と叫ぶところが、その紀
伊長島町である。

 私は、その特急の窓から、近くの山々をながめながら、三男のことを考えていた。
いつか、三男と二人で、この紀伊半島を旅したことがある。
そのときも、「冒険旅行」だった。
私たちは、よくその冒険旅行をした。

 冒険旅行というのは、行き先を決めず、その場、その場で、行き先や、泊まるところ決める旅
行のし方をいう。
お金だけを握って、旅に出る。
その旅行でのこと。

 松阪(まつさか)へ着いたときには、真夜中だった。
泊まる旅館やホテルが見つけられず、一時間近くも、あちこちをさまよい歩いた。
そんな思い出が、つぎつぎと、脳裏に浮かんでくる。

 小学四年生の三男は、心細そうに、何度も「だいじょうぶ?」と聞いた。
そのたびに私は、「いざとなったら、駅の前で寝ればいいから」と答えた。

 その三男が、今、自分の進路を大きく変えようとしている。

 三男は、地元のK高校を卒業したあと、横浜にある、横浜K大の工学部に入学した。
センター試験では、工学部2位の成績だった。

 いつか宇宙船の設計をすると意気込んで入学したものの、そのうち、自分に合わないと言い
出した。
そして今度は、パイロットになると言い出した。
私は、「金メダルを捨てて、銅メダルをもらうようなものだ」と、批判した。

 しかし私も、昔、M物産という商社をやめ、幼稚園の講師になった経緯がある。
そんな親だから、三男を責めるわけにはいかない。
何かと言いたいことはあったが、しかし三男は、こう言った。

 「パパ、ぼくの夢は、パパに、本物の操縦桿を握らせてやることだよ」と。

 私は子どものころ、空にあこがれた。
パイロットになりたかった。
今でも、パソコンの画面の上で、空を飛ぶのが、私の趣味の一つになっている。
三男は、そういう私をどこかで見ていた。
私は、この言葉に、殺された。

 その言葉を聞いて、私はもう、反対することはできなかった。
いや、多少の迷いはあったが、三男は、その試験に向けて、体を鍛えた。
毎日、自転車で横浜から、羽田へ行き、羽田空港を一周したという。
春ごろには、どこかブヨブヨだった三男だが、試験が近づくころには、すっかり身がひきしまっ
ていた。
それを知ったとき、私の迷いは、完全に消えた。

 「どうせ受けるなら、合格しろよ」と私。
 「だいじょうぶ」と三男。

 一次試験には、八〇〇人近い応募があったという。
テレビのトレンディドラマの影響が大きかったという。
三男は、二次試験にも合格した。
「定員、七〇人だけど、残ったのは、ぼくを入れて、六九人だけだった」と言った。
残りの三次試験は、面接。場所は、宮崎県。本人は、「一〇中、八、九、だいじょうぶだ」と、の
んきなことを言っている。

 特急の窓から、空を見る。
白い雲が、薄水色の空をのぞかせながら、幾重にも重なっている。
あのときは、初夏のころだったが、今は、秋だ。

 私たちは松阪市を出ると、今度は、新宮(しんぐう)をめざした。
そのときのこと。
南紀線は、海沿いを走るものとばかり思っていた。
しかし窓の景色は、山また山。
内心では「どうなっているのだろう?」と思っていた。
が、突然、目の前に、パッと海が広がった。

 エメラルド色の海だった。
それに絵に描いたような海岸線が見えた。
夢の中で見るような景色だった。
私は心底、「美しい」と思った。
実は、その町が、紀伊長島町だった。
偶然か。

 で、そのあと、この紀伊長島町へ来たくて、JR名古屋の駅へ問い合わせたが、どの人も、ト
ンチンカンなことばかり、言っていた。

私「ほら、南紀線に乗っていて、最初に海が見える町です」
J「どこでしょうね。あのあたりは、ずっと、海ですから」
私「山を抜けて、最初に、海が見える町です」
J「○○海岸でしょうかねえ。それとも、○○岬でしょうかねえ」と。

 しかしこの話は、教育委員会の担当者の方には、言わなかった。
あまりにも、できすぎた話である。
もしこの話をすれば、「林は、口のうまい男だ」と思われるかもしれない。
しかし事実は、事実。

 委員会のほうで、私のために民宿を用意してくれた。
「はま風」(長島町古里)という民宿だった。
海岸まで歩いて、数分のところ。
その民宿の中でも、一番、奥の梅乃間に通された。

 講演は七時からだった。

 私は散歩から部屋にもどって、この原稿を書き始めた。
もうすぐ、迎えの車がくる。
時刻は、六時一五分。
このつづきは、またあとで書こう。
写真もたくさんとったから、今度のマガジンは、「紀伊長島町特集」となるかもしれない。

++++++++++++++++++

【つづき……】

 たった今、遅い夕食を食べてきた。
時刻は、午後一〇時。
東長島公民館ホールでの講演は、(多分)、無事、終わった。
800人ほど、集まってくれた。

風呂に入るべきか、どうか迷っている。
このまま寝ようか……。

 近くに、古里温泉(町営)がある。
歩いて五分くらいのところ。
講演へ行く前に、散歩しながら見てきたが、朝は、午前一〇時からだという。
明日(一九日)は、七時半の特急で帰るつもりなので、その温泉には入ることはできない。

 そうそう夕食だが、おいしかった。
仲居の女の人(本当は女将さん)が、みな、親切だった。食べ終わってから、「それ、マンボウ
の軟骨だったのですよ」と。
私はタコの刺身かと思って、パクパクと食べてしまった。
「しまった」と思ったときには、胃の中で、松阪牛のシャブシャブと混ざってしまっていた。

 三男の話にもどるが、三男は、私がパイロットになるのを反対していると思っているらしい。
それは、そのとおり。
これから飛行機事故のニュースを聞くたびに、私は、ハラハラしなければならない。
「どうぞ、どうぞ」と、賛成するような仕事ではない。

 しかし私は、親として、友として、三男を応援するしかない。
支えるしかない。
私が幼稚園の講師になったと母に話したとき、母は、泣き崩れてしまった。
私は母だけは、私を支えてくれると思っていた。

 私には、そういう悲しい思い出がある。
だから、私の息子たちにだけは、そういう思いをさせたくない。
どんなことがあっても、私は、最後の最後まで、息子たちを支える。
ただただ、ひたすら、息子たちを信じ、支える。

 今、ふと、眠気が襲ってきた。
もう今夜は、寝たほうがよさそうだ。
ワイフに電話すると、K市K小学校のN先生から、講演の依頼が入ったとのこと。
ほかの先生からの依頼とは違う。
どんなことをしてでも、受けなければならない。
N先生は、私の恩人だ。
明日、浜松へ帰ってから、時間を調整しよう。

 静かな町だ。
静かな民宿だ。
一応、目ざまし時計はつけたが、明日は、その時刻に起きられるだろうか。
少し、心配になってきた。

 では、みなさん、おやすみなさい。

 三重県紀伊長島町、民宿「はま風」より。

 こういう季節も、すばらしいが、夏場は、近くの砂浜で泳ぐこともできる。
もう少し若ければ、「来年の夏に……」と考えるが、もうその元気はない。
こういう静かな季節のほうが、私には、合っているかも。

 教育委員会のOさん、車で送迎してくれた、Tさん、ありがとうございました。
(031118)

【補記】

 くだらないことだが、私のパソコン(NECのLaVie)は、三〇分ほどで、バッテリーがあがって
しまう。
しかし、今日、名古屋からいっしょに乗った男性のパソコンは、ほぼ二時間、ずっと稼動してい
た。

見ると、シャープの「MURAMASA」だった。
「さすが!」と、少し、驚いた。
ねたましく思った。

 外国の電車などは、車内にコンセントがついている。
駅にも、空港のロビーにも。
日本も、そうすべきではないか。
こういう時代なのだから……。
ついでにインターネットも使えるようにしてほしい。
こういう時代なのだから……。
(一部の駅には、無線LANの設備がついたという。)

(写真を見てくださる方は、HTML版マガジンのほうを、ご覧ください。
紀伊長島町の風景の写真を載せておきました。
すばらしいところですよ。)

 もうひとつくだらないこと。

 朝起きて、身じたくを整えていると、靴下が見つからない。
そこで部屋中をさがした。
が、それでも、見つからない。
昨夜は、講演から帰ってきたあと、食事をして、そのままこの部屋で、浴衣(ゆかた)にかえた。
そのときまで、靴下は、はいていたはず。

 それにしても気味の悪い話だ。
ここは幽霊民宿?

 さらにさがした。
しかし見つからない。

 ただひとつ、心当たりがあるのは、風呂だ。
私は今朝、起きるとすぐ、風呂(温泉)に入った。
そこで、「まさか……」と思いつつ、浴室へ行ってみると……。

 「あったア!」

 しかし、どうして? 
どうして私の靴下が、脱衣場に落ちていたのか。
私は昨夜、靴下をはいたまま寝たのか? 
しかしそんなはずはない。
私は寝るときは、必ず、靴下を脱ぐ。
ただひとつの可能性は、浴衣のどこかに脱いだ靴下が、入りこんでいたこと。
だから浴衣を脱いだとき、靴下が、脱衣場に、落ちた? 
しかし、そんなことがありえるのだろうか?

 ?????と、「?」を五個並べて、この話は、おしまい。

(以上、2003年11月、紀伊長島にて)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●紀伊半島

 紀伊長島へ来たとき、委員会の先生が、こんな話をしてくれた。

「このあたりでは、山側の人間と、海側の人間は、はっきりと分かれているのですよ」と。

 生活習慣のみならず、男女の(差)も、分かれている、と。

 山側の世界(=農業)では、女性の地位が低く、海側の世界(=漁業)では、女性の地位が
高い。
(漁師という職業は、いつなんどき死ぬかわからない。だから女性の地位が高くなったとか。)
また、山側の人たちは、朝飯をしっかりと食べ、昼飯は簡単にすます。
これに対して、一方、海側の人たちは、昼飯をしっかりと食べる、とか。
これは漁師は、朝早く海に出て、昼前に海から帰ってくるためだ、そうだ。

 以上、記憶によるものなので、内容は不正確。

 で、そのとき私がこう言ったのを覚えている。

「もし、海側で育った女性が、山側で育った男性と結婚したら、たいへんなことになりますね」
と。
私は冗談で言ったつもりだったが、その先生は、あっさり、「その通りです」と言って笑った。
(反対なら、うまくいくかも?)
2003年というから、もう10年近くも前の話である。
今は、事情も、大きく変わったかもしれない。

 電車は今、桑名を出たところ。
海が見え始めるのは、もっと先。
ワイフは、「まだ……?」と、言っている。

●ダイナブックR631

 前回は、シャープ製のパソコンだった。
メビウスだった。
が、今回は、TOSHIBAのダイナブック。
バッテリー切れの心配は、ない。
今も、こうして安心して、キーボードを叩いている。

 ところで今度、シャープが、台湾の会社の傘下に入ることになった。
経営不振がささやかれていたので、「とうとう……」という感じ。
こうしてまた、日本の一流メーカーが、外国へと売られていく。

(注※……MSNニュースより)
『シャープは、液晶の主力生産拠点である堺工場を守るため、外資を筆頭株主とするかつてな
い決断を下した。
世界的な価格下落や歴史的な円高水準、テレビ市場の先行き不透明など好材料が少ない
中、"液晶のシャープ"の行方が注目される』(以上、MSN)と。

 ついでながら、こんなニュースでも、韓国では、反日感情をあおりたてるために、利用されて
いる。
が、どうして反日?
つぎの朝鮮日報の記事を読めば、それがわかる。

『シャープ、「サムスン打倒」の鴻海と資本提携!

サムスン電子など韓国企業に押され、創業以来最悪の赤字を出していたシャープは27日、
「サムスン打倒」と公言する台湾の電子機器受託製造サービス(EMS)大手、鴻海精密工業と
資本提携すると発表した』(朝鮮日報)と。

 あたかもシャープが、「サムスン打倒!」のために、台湾の企業と資本提携したかのように書
いてある。
韓国では、マスコミが先頭に立ち、反日感情をあおいりたてている。
こんな記事を読めば、だれだって、「日本めッ!」となる。 

●車窓の外

 車窓の外につづく、街並み。
街並みというより、都会。
「こんなところにも、多くの人が住んでいる……」と。

 ……たった今、窓の下に広い駐車場が見えた。
たくさんの車が並んでいた。
もちろんそれぞれの車には、所有者がいる。
1台1台に……。

 家にしてもそうだ。
それぞれの家に、それぞれのドラマがある。

 最近、旅行に出るたびに、そんなことをよく考える。
同時に、不思議な気持ちに襲われる。
みんな、懸命に生きている。
それが私を不思議な気持ちにさせる。

●珍説・日本人論

 窓ガラスに反射して、前の席に座っている女性の顔がよく見える。
電車が日陰に入ると、窓ガラスが鏡のようになる。
年齢は、40歳前後か。

 その女性の動きが、気になる。
相対して座っている仲間と、何やら話している。
その様子が、どこか「?」。
どこだろう?

 しばらく観察する。
が、やがてこんなことに気がついた。

 その女性は、左右、上下を見るとき、かならず顔を動かす。
眼球は、ほとんど動かさない?
顔を動かすと同時に、上半身も動かす。
それを小刻みに繰り返すから、キョロキョロというよりは、セカセカといった感じになる。
ガラス窓越しに見ているのだが、せわしなく顔や体を動かす。
落ちつかない。
が、AD・HD児の動きとも、ちがう。
どうしてだろう……?
どこがちがうのだろう……?

 が、やがてわかった。

 その女性の目は、ふつうの人以上に、細い。
一本の糸のよう。
おまけに太り気味で、下まぶたが、目を下から、押し上げている。
つまりその女性は、眼球を動かして、左右、上下を見ることができない。
(眼球の動きは、よくわからないが……。)
だから左右、上下を見るときは、その方向に向け、顔全体を動かさなければならない。
顔全体を動かすから、上半身も、それにつれて、動く。

 ナルホド!

 昔、オーストラリアの友人が、こう言った。
「日本人は、猿みたいだ」と。
欧米では、日本人は、よく猿にたとえられる。
映画『猿の惑星』も、もともとは、日本人がモデルだったそうだ。
あまりうれしくない話だが、その理由のひとつが、これ。
つまり顔全体、体全体をセカセカと動かし、あちこちを見る。
(私もそうだが……。)

 では、欧米人は、どうなのか?
それも欧米人のものの見方を思い浮かべてみると、すぐわかる。
彼らは、左右、上下を見るとき、眼球だけを動かす。
もともと目が大きいから、それができる。
だから顔全体を動かさなくてもよい。
そのため日本人のような、セカセカ感がない。

 つまり日本人が猿のようにセカセカして見えるのは、民族性というより、目の大きさが原因だ
った。
目が細く小さいから、ものを見るとき、顔全体を動かす。
立っているときは、体全体を動かす。
だから、セカセカして見える。
中に目が大きい人もいる。
そういう人でも、周囲の日本人の影響を受け、セカセカ動くようになる。

 これは、はやし浩司の珍説、日本人論ということになる。
しかしこんなことを調べた学者はいない(はず)。
珍説というよりは、「新説」か。

●TK先生より
 
 たった今、TK先生から、メールが届いた。
今朝送った原稿についての、批評である。

『林様: 最近書かれた原稿を拝読しました。
これはどんな人を対象にしているのかな、と思いながら読みました。
一言で言えば「おれは学があるんだよ」、「いろいろの 偉い人の意見も皆読んで知っている
よ」、という感じでした。
広い知識を持っている、偉い人の書く文章です。
偉くはないけれど、もっと「我が意」を伝える「感激的な原稿」が欲しいです。
「一笑い」するなり、「涙ぐむ」なり。
いけませんか。御元気で。
TK』

 TK先生の口の悪さは、学会でも定評。
TK先生が座長になると、たいていの学者は、ビビって何も話せなくなるという。

またある時期は、日本の理科予算を決定、配分する立場にいた。
併せて論文審査もしていた。

たとえば野辺山に巨大な電波望遠鏡がある。
それが完成したとき、その祝賀会で、TK先生は、最前列に座っていた。
そのとき先生は、こう言っていた。

「いやな仕事ですよ。
研究費を削ったりすると、憎まれます。
江戸の仇(かたき)を、長崎でとられるというようなことも、よくありますから」と。

 というか、先生の肩書はともかくも、つぎの一言のほうが、TK先生の偉大さを、よく説明して
いる。

 天皇陛下のテニス友だち。

 よく陛下は、鎌倉の先生のクラブへテニスをしに来ていた。
どこかの境内の横にある、2面しかないクラブである。
「椅子といっても、ブロックに板を渡しただけのものです」と。

 で、TK先生は、こう言った。
「陛下がクラブへ来ているときは、ヘリコプターが上空をくるくる回っていますから、すぐわかり
ますよ」と。

ともかくも、先生の毒舌には慣れた。
(そう言えば、私をほめてくれたことがない!)
だからこそ、私には、ありがたい。

 すかさず、私は、こんな返事を書いた。

『TK先生へ

こんにちは!

いえね、あの雑誌は、今回は、『子育て』が特集なのだそうです。
で、その巻頭で、子どもの発達について、その総論を書いてくれということで、ああいう原稿に
なりました。
けっして偉ぶっているわけではありません。
どうか、誤解のないように!

そのあと各論を書く学者は、東大の先生こそいませんが、みな、そういう人たちです。
その巻頭言用原稿です。

それに私は、「偉い人」ですから……。
ハハハ。

(本当は、みすぼらしい、敗者です。
負け犬です。
自分でもそれがよくわかっています。)

先生だけです。
そういうふうに、率直に言ってくれるのは……。
ぜんぜん、イヤミもないし……。
なお、あの雑誌は、全文、英訳され、世界中の販売会社に配布されるそうです。
(日本の自動車が販売されている国、すべてで、です。)

なおワイフは、こう言っています。
「文章は、あなたのほうがうまいから、先生は、ひがんでいるのよ」と、です。
ぼくもそう思います。

 また伊勢志摩に着いたら、メールを書きます』と。

●宇治山田

 電車は、今、宇治山田に着いた。
この先から、向かって左側に、海が見えるようになる。
先ほどまで、ワイフは、ウトウトと横で眠っていた。
何度か、ウ〜ムという声を出したあと、車掌のアナウンスで目を覚ました。

 「これからきれいな海が見えるよ」と私。

 紀伊半島と言えば、何といっても、海。
美しい海。
ここを通るたびに、私は、こう思う。
「ここは天国」と。
心底、そう思う。

 駅の向こう、つまり海側に、小高い山が連なっているのがわかる。
あの山を越えれば、海。
海が見え始めたら、ビデオカメラの出番!

●旅

 昨日、市内の書店を訪れたら、こんなタイトルの本があった。
「ぼくが旅に出る、そのわけ」(記憶)と。

 私よりずっと若いライターの書いた本だった。
写真が、表紙を飾っていた。

 その本を見たとき、「ぼくなら……」と思った。
「ぼくなら、どんなことを書くだろうか?」と。

 表紙を見ただけで、本は開かなかった。
平積みになっていたから、よく知られた人の本なのだろう。
それにタイトルからして、旅が好きな人にちがいない。

 私も旅は、嫌いではない。
が、いつもワイフに連れられて、旅に出る。
私自身は、家で本でも読んでいた方が、楽しい。
が、それでも、同じタイトルの本を書けと言われたら、どんな本を書くだろうか?

 ……旅先で感動した話を、全体の7〜8割、書く。
押しつけがましい意見ではなく、読んだ人が、「私も旅をしたい」と思うような内容にする。
残りの2〜3割で、旅に人生論を結びつける。

 そう、旅のおもしろさは、名所旧跡にあるのではない。
道端の、何気なく立っている地蔵や、川面(かわも)に遊ぶ野鳥の群れの中にある。
倒れかかり、道をふさいでいる竹やぶでもよい。
曲がりくねった農家の道を、ヨタヨタと歩く老人。
そういう老人と、世間話をする。
そういうのがおもしろい。

 で、人生のおもしろさも、またしかり……と。
この話は、ちょっとできすぎかな?

●合歓の郷(ねむのさと)

 合歓の郷には、午後3時少し過ぎに着いた。
途中、雨が降った。
通り雨で、ホテル(今まで旅館と書いてきたが、ここは立派なホテル)に着くころ、ちょうどやん
だ。
(和室で予約したので、私は、旅館風のホテルを想像していた。)

 部屋は、2間つづきの、豪華な間取り。
419号室。
部屋も、前もって、暖めてあった。
備品も完ぺき。
やる気度、100%。
カーテンを開けると、伊勢志摩半島が、一望できた。

これから温泉につかり、そのあとサンセット・クルージングなるものに、乗る。
夕刻を、海の上で、過ごす。

(地震が来なければいいが……。
私は心配性。)

●サンセット・クルージング

 風呂から出た。
5時10分に、迎えのバスが来るという。
それを待っている。

 幸い、青い空が見えてきた。
サンセット・クルージング。
「今日は、波が少し荒いようです」と、フロントの女性は、そう言っていた。
ワイフは、先ほどから、それを心配している。

「いいか、そういうときは、遠くの水平線を見ていればいい」と私。

 時刻は、ちょうど、5時。
「そろそろ行こうか……」ということで、このつづきは、またあとで。

●貸し切り

 33人乗りの大型クルーザーに、客は、私たち2人だけ。
つまり貸し切り!
その大型クルーザーで、英虞湾(あごわん)内を、40〜50分かけて、周遊。
まるで夢の中のようだった。
つまり夢の中で、船に乗っているような気分だった。

 時は、その名のとおり、夕暮れ時(サンセット)。
ワイフも私も、言葉を失った。
ただひたすら、ぼんやりと、島々をながめた。

 その様子は、ビデオカメラに収めた。
明日、家に帰ったら、まっさきに編集し、YOUTUBEにUPする。
読者のみなさんにも、楽しんでもらおう。

●YAMAHAのつま恋

 施設全体は、掛川市にある、「つま恋」(YAMAHAリゾート・センター)に似ている。
各種のスポーツ施設や、宿泊施設が並んでいる。
作り方も、よく似ている。

 が、つま恋のほうは、東海道の要所にある。
そのため、いつ行っても、かなり混雑している。
が、ここ合歓の郷は、伊勢志摩という、本線から離れた位置にある。
が、施設そのものは、つま恋に勝るとも、劣らない。
プラス、海遊びもできる。

 さらに比較すれば、温泉は、合歓の郷のほうが、はるかによい。
つま恋は、小さくて、狭い。
加えて地元の人たちも利用しているため、私たちが行ったときには、浜松駅の構内のように混
雑していた。
あとは料理だが、つま恋のバイキング料理は、地元でもイチバンと評価が高い。
さて、この合歓の郷は、どうか?

 夕食は、7時40分〜から。
まだ少し時間がある。
それまで、こうして今日の日記を書く。

●ロメオ&ジュリエット

 たった今、立ったついでに、♪ロメオとジュリエットを独唱してみた。
本気で歌ってみた。
その少し前から、そのメロディーを、鼻歌で歌っていた。

 声は張りを失い、高い音は出なくなった。
が、これでも、元合唱団員。
その気になれば、まだ歌える?

 が、この歌を歌うと、どうしてこうまで切なくなるのか。
幸福と切なさは、同時にやってくる。
幸福であることが、切ない。
どうしてだろう。

 原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マダム・バタフライ

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。
ジャコモ・プッチーニのオペラである。
私はあの曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。
遠い昔、長崎からきた女性に恋をしたことがあるからか。
色の白い、美しい人だった。
本当に美しい人だった。
その人が笑うと、一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。
その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆいばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけ
ての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。
そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結婚。
そして男児を出産。
が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。
先の歌は、そのピンカートンを待つマダム・バタフライが歌うもの。
今さら説明など必要ないかもしれない。

 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もすばらしい。
少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。
ロメオとジュリエットがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言
う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。
「喜びの日が、モヤのかかった山の頂上で、つま先で立っている」と。

本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。
モヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、たま
らないほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」はすばらし
い。
私はあの映画を何度も見た。
ビデオももっている。
サウンドトラック版のCDももっている。
その映画の中で、若い男が、こう歌う。
ロメオとジュリエットがはじめて顔をあわせたパーティで歌われる歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前、「息子が恋をするとき」というエッセーを書いた
ので、このあとに添付しておく。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。
短い曲だが、映画の最後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。
いつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。
かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。
いつか……。
(02−10−5)※

*Romeo and Juliet

++++++++++++++++++

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/jFK1XA20WJs" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(Love Theme from Romeo and Juliet)

What is a youth?  Impetuous fire.  若さって、何? 燃えさかる炎。
What is a maid?  Ice and desire.  乙女って、何? 氷と欲望。
The world wags on,  世界は、その上で踊る。
A rose will bloom.... ばらは咲き、 
It then will fade:  そして色あせる。
So does a youth,  若さも、また同じ。
So does the fairest maid. もっとも美しい乙女も、また同じ。
Comes a time when one sweet smile その人の甘い微笑みが
has a season for a while....  しばしの間、その季節を迎えるときがやってきた。
Then love's in love with me.  そして私と恋を恋するときがやってきた。
Some they think only to marry,  結婚だけを考える人もいる。
Others will tease and tarry.  からかうだけの人や、じらすだけの人もいる。
Mine is the very best parry.  でも私のは、あるがまま。
Cupid he rules us all.  キューピッドだけが、私たちを支配する。
Caper the cape, but sing me the song,  ケープをひらめかせ、私に歌を歌え。
Death will come soon to hush us along. やがて死が訪れ、私たちを痛めつける。
Sweeter than honey... and bitter as gall,  蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦く、
Love is a task and it never will pall.  愛は、すべきこと、隠すことはできない。
Sweeter than honey and bitter as gall. 蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦い。
Cupid he rules us all." キューピッドが私たちを支配する。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


【息子が恋をするとき】

●息子が恋をするとき(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。
メールで、「今までの人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。
それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と笑った。
その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。
しかし長くは続かなかった。
しばらく交際していると、相手の女性の母親から私の母に電話があった。
そしてこう言った。
「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。
娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。
一方私の家は、自転車屋。
「格が違う」というのだ。
この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。
が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。
ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。
たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つかと言え
ば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。
年俸が1億円も2億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔を
しかめてみせる。
一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙ながら
に訴える。
暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府から、日本を代表す
る文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。
それは人が人生の中で唯一つかむことができる、「真実」なのかもしれない。
そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。
もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。
しかしそんなことはありえない。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。
そしてそれを見る観客は、その二人に心を合わせ、身を焦がす。
涙をこぼす。
しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。
過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。
あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。
歌はこう続く。

「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。
私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝ていた。
6月のむし暑い日だった。
ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなになってしまいそうだった。
ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしば
った。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。
そしてそれが今、たまらなくなつかしい。
私は女房にこう言った。
「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。
それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。
私も、また笑った。
 
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●切なさ

 生きていること自体、切ない。
つかみどころがあるようで、ない。
「時よ止まれ」と叫んでも、時は容赦なく、去って行く。
手でつかんでも、指の間から漏れていく。
その歯がゆさ。
そのもどかしさ。
それが切なさとなって、胸をしめつける。

 失った時を嘆くのではない。
去った人を嘆くのではない。
消えて久しい、純粋さを嘆く。
情熱を嘆く。
夢や希望を嘆く。

●センチ

 話題を変える。
幸福感を味わったあとというのは、どうも心がセンチになる。
これも年の功。
幸福というのは、(幸福感でもよいが)、薄いガラス箱のように壊れやすい。
それを知っているから、切なくなる?

ところで、今の若い人たちは、「センチ」などという言葉を使うだろうか?
センチというのは、センチメンタルという意味。
英語では「sentimental」。
日本語では、「感傷的」と訳す。
「感じやすく、涙もろいさま」(Yahoo辞書)とある。

 今が、そのとき?
「話題を変える」と宣言してみたが、話が、またもとに戻ってしまった。

 ……とにかく、もうすぐ夕食。
夕食のあとは、もっと楽しい話を書いてみたい。

●TK先生からの返信

 夕食後、パソコンを立ち上げると、TK先生から、メールが届いていた。
うれしかった。
TK先生という先生は、そういう先生。
そばに感じるだけで、心が安らぐ。
あるいは先生は、相手を、先生自身がもつおおらかさで、包んでしまう。
講演にしても、そうだ。
相手が1000人でも、9000人でも、そのまま包んでしまう。
その偉大さというか、パワーは、言葉では、表現できない。

 私的なメールだから、そのまま紹介してよいものかどうか迷った。
(許可を求めたら、断られるに決まっている!)
が、若いころからTK先生は、何かよいことや、うれしいことがあると、真っ先に私に知らせてく
れた。
私は私で、それを聞くのが、何よりも楽しみだった。
この42年間、ずっと、そうだった。
それがいまでも、つづいている。

……というか、田丸謙二先生が、日本という国のためになした偉業の数々。
それを知る人は少ない。

たとえばあるプロジェクトで、日本政府は、アメリカの言いなりになって、2000億円という研究
費を、無駄にしそうになったことがある。
田丸謙二先生は、自費で世界各国を飛び回り、その計画を日本政府に断念させたこともあ
る。
もちろんその逆のこともある。

TK先生の偉大さを、みなさんもぜひ知ってほしい。

『林様:
今度の日本化学会の春の年会は九千人近くの参加者があり、慶応の日吉キャンパスで行わ
れました。
その後懇親会で乾杯の音頭を取らせられましたが、懇親会も四百人以上の盛会でした。
今度の年会の中で公開講演会があり、幾人もの講演者に混じって私も講演をさせられました
が、その公開講演会の責任者から下記のようなお褒めの言葉が来ました。

「群を抜いていい講演」、「聴き応えのある講演」、「何人もの方から非常に良かった」とか「皆さ
ん大変に感激した」とか、私の所にも沢山のお褒めのメールや電話が来ましたが、個人的なの
は「お世辞」もあると思いますが、上記のような公開講演会の責任者からのは、大体本当の言
葉だと思いますので、お知らせします。

余計なことをお書きして恐縮ですが、取り敢えずご連絡致します。
くれぐれもお元気で。
TK』

●夕食

 夕食は、伊勢海老を使った、海老づくしだった。
すべてが、伊勢海老料理。
レストランの入り口には、生けすがつくってあり、20〜30匹の伊勢海老が飼ってあった。
レストランを出るとき、「ああ、今夜は、これを食べたんだ」と。

●就眠

 ワイフは、もう床の中に入り、寝息をたてている。
時刻は、午後10時19分。
夕食の料理は、すばらしかった。
一級の料理と評しても、よい。
おいしかった。
とくに伊勢海老の鉄板焼きは、おいしかった。
伊勢海老というのは、もともと味が淡白で、料理の仕方をまちがえると、何を食べているのか
わからなくなる。
海老のおいしさを引き出しながら、味にアクセントをつける。
並みの料理人では、まねのできない芸当である。

 さて、明日は忙しい。
一度、名古屋まで出たあと、会合に出席。
そのあと浜松に、帰る。

 では、みなさん、Have a good night!

●3月29日

 朝は、午前4時半に目が覚めた。
こうしたホテルでは、いつも、そうだ。

 で、メガネを探したが、どこにもない。
「?」と思いながら、また探した。

 が、メガネは、かけたままだった。
その少し前、トイレに起きたとき、メガネをかけたらしい。
またそのまま眠ってしまったらしい。

私も、かなりボケてきた。
こんなアホな経験は、生まれてはじめて。
メガネをかけたまま、メガネを探した。
それにしても、ドジな話!

●合歓の郷

 合歓の郷は、広大な敷地の中にある。
その一角だけで、ふつうのホテルなら、何10棟も建ってしまうだろう。
中に、貸別荘というのも、ある。
サンセット・クルージングに向こう途中、バスの運転手が、案内してくれた。
(バスの中にも、客は、私たち2人だけだった!)

そこには10〜20棟、並んで建っていた。
そのあたりは、ゆるやかな丘陵になっていた。
芝生でおおわれていた。
道路も、カーブを描いていた。
それを見て、ワイフが、「オーストラリアの家みたい」と言った。

 オーストラリアでは、どこでも見られる風景である。
が、この日本では、珍しい。
平坦地を、碁盤の目のように仕切る。
家は、それぞれ、バラバラ。
洋風もあれば、和風もある。

 つまり欧米人は、全体のバランスを考え、自分の家を建てる。
日本人には、もとから、そういう発想そのものが、ない。
ある学者は、「押す文化、引く文化」という言葉を使い、日本人の特性を説明した。
あとで、その原稿を探してみる。

 ともかくも、合歓の郷は広い。
その広さを感じただけで、ほっとした安堵感を覚える。

 そうそうワイフはこうも言った。
「日本にも、こういういいところがあるのね」と。

 ここ数年、ワイフは、ことあるごとに、こう言っている。
「オーストラリアへ移住しよう」と。
そのつど、私はこう言って、ワイフをなだめる。
「もう少し日本でがんばるから、待ってよ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【押す文化vs引く文化】(2000年ごろ書いた原稿より)

●引く文化・押す文化

 日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。
欧米の子どもは、向こう側に払って、机の上に残す。

考えてみれば、不思議なことだ。
教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうするようになる。
考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。
欧米の刀は、相手のほうに突き刺しながら切る。
ノコギリも、包丁もそうだ。
日本では引きながら切る。
欧米では押しながら切る。

 これを称して、日本の文化は「引く文化」、欧米の文化は「押す文化」と言った学者がいた。
そんな話を、ある友人から聞いたことがある。

たとえば「庭」。
日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。
つまり家の中に美しさを、引きこむようにして庭をつくる。
欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。

 わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。
何でもないようなことだが、こうした文化は、教育にも大きな影響を与えている。

 日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。
内面世界の充実を大切にする。
一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。

 日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたな
い。
いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。
自己主張をして波風を立てるよりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は
考える。

 つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。
特に教育の世界がそうだ。
徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。
文部省が「体験学習だ」と言えば、体験学習。
「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。
いつもすべてが全国一律に動く。
親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。

 そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。
体質も、それから生まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。
言いかえると、日本の封建時代が残したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。

 ……と悩んでもしかたない。
問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させるか、だ。
一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明治、大正、
昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。
歴史は歴史だからそれなりに正当に評価しなければならない。
しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。

 たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、徳川
博』なるものが催された。
たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形で、あの封建時代を美化するの
はたいへん危険なことでもある。

 あの類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、苦しん
だか、それを忘れてはならない。
一方、徳川家康についても、その後、300年という年月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返
し抹消された。

私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうした
ことを繰り返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●旅

 旅といっても、ボケ防止のための旅というのも、ある。
旅に出るだけで、四方八方から、いろいろな刺激を受ける。
その刺激が、脳みそを、「引っかき回す」。
つまりそれまで眠っていたような部分まで、刺激する。

 脳の神経細胞の数は同じでも、使っていなかった部分を使うようになれば、その分だけ、神
経細胞はふえたことになる。
広い屋敷にある古い倉庫を、居間に改造するようなもの。
たとえとしては、あまりよくないかもしれない。
しかし私には、そんな感じがする。

●英虞湾

 英虞湾は、地形が複雑。
その間に、大小、形、さまざまの島が64もあるという。
島だけではない。
無数の山々が、高くはないが、ホテルを取り囲んでいる。

 で、たった今、窓のほうを見ると、カーテンの下が白く輝いているのがわかった。
見ると、ちょうど太陽が地平線から昇るところだった。
私はバッグからカメラを取り出すと、その写真を撮った。
「ああ、あちらが東なんだ」と、そのときはじめてわかった。

 この窓から見ているかぎりでは、自分がどの位置にいるのか、わからない。
というか、私の方向感は、人並み以上にすぐれている。
見知らぬ街でも、迷子になることはめったにない。
しかしこの伊勢志摩は、ちがった。
このホテルにしても、どのあたりにあるのか、それさえわからなかった。
とくに昨日は、一度、小雨が降るほど、空が曇っていた。
方向感は狂ったままだった。

 ……これから風呂に入る。

 そうそう、このホテルの難点は、温泉までの距離が遠いということ。
一度、ホテルの外に出て、300〜400メートルほど、歩かねばならない。
冬場は、つらい?
だから部屋の中にある、風呂へ。

●TK先生より

たった今、TK先生から、メールが入った

『林様:

今度こちらにお出で下さる際のことを考えたのですが、現在一時的にお世話になっている「シ
ニア・ホーム・T」は滞在者拾四、五人の小さいところですが、私の数年後のあり方を現実的に
suggest してくれています。

半分以上が車椅子です。
「認知症」などボケている人もいます。
助けて貰わないと食事が出来ない人もいます。
歳をとることは誰でも避けられない運命ですが、どうでしょう、こちらで皆の様子を見ながらこち
らで皆と一緒に私の来客として夕食を取るのは。
軽い夕食ですが、老人用の食事で、魚もよく出ますが骨は全然ない形です。
野菜も柔らかく調理されています。

貴君にはまだ二、三十年先のことでしょうが、避けられない「歳をとる」ことの参考にもなりま
す。
夕食に行く前に、私の部屋でビールとおつまみもの位を食べてから行けば、少しは形がとれま
す。
街で混んでいる中で食べるより良い勉強になります。
如何でしょうか。

ついでにこちらに来る方法ですが、浜松から小田原まで新幹線で来て、小田原から東海道線
で藤沢に来て進行方向左側に、「江ノ電」(江ノ島電鉄)がありますか、それに乗って20分近
く、「XX」駅から三つ目に「YY」駅があり、その次が「ZZ」の駅で駅のホームの北側に駅に接す
るように煉瓦作りの「シニア・ホーム・T」という駅からx分のところです。

楽しみにお待ちしています。

御元気で。
TK』

●はやし浩司より、TK先生へ

TK先生へ

こんにちは!

 先生のお気遣い、ありがとうございます。
先生のご指導の通りにいたします。
ありがたいことです。
よい勉強になると思います。

 実のところ、自分の老後をよく考えます。
ホームへの入居も、現実問題になってきています。

 で、私も、数年前まで、実母と実兄の介護をしていました。
実母は、2年間、私の家にいました。
(便などの世話は、すべて私がしました。)
実兄は、3か月、私の家にいて、そのあと地元のグループホームに入りました。
実母は、そのあとは、他界するまで、ここ浜松の特養に入りました。
何かとたいへんでした。

 で、あいついで、3年前に他界。
実母、実兄が他界したとき、正直言って、ほっとしました。
(最近になって、さみしく思うことがありますが……。)

 このあたりでは、親の介護を2年すると、兄弟姉妹はバラバラになるといいます。
遺産問題も絡んできます。
わずか数百万円の遺産のことで、言い争っている兄弟姉妹は、ゴマンといます。

それでそうなります。
介護、遺産問題は、本人もたいへんですが、そのまわりの家族にとっても、深刻な問題です
ね。

 で、私も、実母、実兄の介護を経験し、かなり人生観、イコール、教育観が変わりました。
それまでは、子どもは子どもで自分の人生を歩めばよいと考えていました。
が、これからはそんなわけにはいかない。
それで人生観、イコール、教育観が変わりました。

 今では、私たち老人組は、老害、さらには「ゴミ」と呼ばれています。
ネットの世界を見ると、それがよくわかります。
たとえば団塊の世代(=私たちの世代)は、若い人たちの間では、「バブル世代」と呼ばれてい
ます。
日本の経済を破壊した、「悪玉」のような存在に考えられています。
(一方、私たちは、「日本の繁栄を築いたのは、私たち」という意識が強いのですが……。) 

 意識というのはそういうものかもしれません。
錯視画のようなものです。
同じ「絵」でも、見る人によって、まったく別の絵に見える。

 私が後期高齢者になるころには、孤独死、無縁死が当たり前になります。
すでに少し田舎のほうへ行くと、無住の寺がふえ、また住職がいても、慰霊碑なるものがふえ
ています。
無縁仏を、まとめて供養するためのものです。

 で、x日は、予定どおり、3時ごろおうかがいすればよろしいでしょうか。
それとも、もっと遅い方がよろしいでしょうか。
時刻を、先生のご都合に合わせて、ご指定くだされば、そのようにいたします。

どうか、お知らせください。
ご返事、ありがとうございました。

はやし浩司

●終わりに……

 ……で、こうして自分の原稿を読み返してみる。
結構、「旅行記」、もしくは、「私にとっては、旅とは何か」になっているから、興味深い。
そのときどきに考えたことを、書きつづる。
こんな旅行記もあっても、よいのでは……。

……ということで、今回の、伊勢志摩旅行記(?)は、これでおしまい。

 今日もがんばろう!

(はやし浩司 2012−03−28 はやし浩司 英虞湾 伊勢志摩 はやし浩司 合歓の郷 
ねむのさと はやし浩司 サンセット・クルージング 伊勢海老 教育 林 浩司 林浩司 
Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 浜松 幼児教室 はやし
浩司 ロメオ ジュリエット 息子が恋をするとき はやし浩司 珍説 日本人論 日本人は、な
ぜセカセカして見えるか はやし浩司 TK先生 あご湾 あごわん)
はやし浩司 2012−03−29記


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【美容整形という、背徳】(はやし浩司 2012−03−29夜記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

伊勢志摩→名古屋から帰ったのが、夕刻。
しばらくしてから夕食。
そのままコタツの中で、居眠り。
居眠りといっても、3時間。
寝過ぎた。

先ほどワイフは、先に床に入った。
現在時刻は午後11時。
「ぼくは、あとから寝るから……」と言い、そのまま書斎へ。
5月の講演のレジュメを、主催者の方から書き直すように言われている。
ついでに、中日ショッパー用の原稿も。
「専門的すぎてわかりにくい」とのこと。

書き直すのは、めんどうではない。
その気になれば、10分程度ですむ。
(ショッパーの記事の方は、全面的に書き改める。)
が、私のばあい、(その気)になるまでが、たいへん。
どうしても、後回しになってしまう。
若いころからの、私の悪いクセ。

「原稿は、いつも1回勝負!」と。
いつもそう決めている。
2回目を書くエネルギーがあったら、別のことを書きたい。
不完全でもよいではないか。
それがそのときの「私」なら、それも「私」。
私は「私」のままを書く。

消しゴムで消して直すなどという人生観は、私には、もとからない。
だから子どもたち(=生徒たち)にも、よくこう言う。
「まちがえたら、そのままにしておきなさい。
一本、線を引けばいい。
新しい答は、その下に書けばいい」と。

が、たまに、それまで書いた原稿を、何かの手違いで削除してしまうことがある。
コンピューターというのは、それがこわい。
一度、削除すると、跡形もなく、「虚」になってしまう。

そういうときは、つぎの2つの中から、1つを選ぶ。

(1)さらによい原稿を書く。
(2)あきらめて、別のことを書く。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●整形手術

 今日、こんなことがあった。
名古屋から、豊橋までは、名鉄。
豊橋から浜松までは、JRの在来線。
座席は通勤列車用に、両側、一列に並んでいる。
その電車の中でのこと。

 隣に、見た感じ、新婚旅行帰りの若い男女が座った。
おそろいの大きなバッグが、通路側に並べてあった。

 しばらくすると、私の左横にいた女性が、居眠りを始めた。
その向こうの男性は、そのときには、すでに熟睡モード。
左側の女性は、顔を男性のほうに傾けるようにして、眠り始めた。
私の位置からは、女性の顔を下から見あげたような状態になる。
が、その顔を見て、ドキッとした。

 ほんの3〜4ミリだが、その女性は、目を開けたまま眠っていた。
そんなことができるのかと思い、数度、私は見直した。
最後は、まじまじと見た。

 見ると二重まぶたの溝が、先の方で一度途切れている。
かすかだが、端のところに手術痕も残っている。
その目の中で、眼球が、ゆっくりと左右に揺れていた。
私は、それを見て、ドキッとした。

 二重まぶたの手術で、目を大きくした。
それはわかる。
が、そのため眠ったとき、目が閉じなくなってしまった?
もしこんな状態が長くつづけば、角膜が乾燥し、角膜が傷つく。
そんなことは、素人の私でも、よくわかる。
だからふつう目は、常に涙を出し、角膜を潤す。
目がまばたくのも、そのため。
が、その目が、たとえ3〜4ミリとはいえ、開いたまま……。
だいじょうぶなのだろうか。
私は右隣に座っているワイフに小声で、こう言った。

私「ぼくのねえ……隣の女性ね、目を開けたまま眠っているよ」
ワ「……みたいね……整形手術で、上まぶたを引き上げたせいじゃないかしら」
私「目にはよくないよ……」
ワ「でも今じゃ、みんなしてるわよ」と。

●二重まぶた

 ネットで、二重まぶた手術の後遺症について、調べてみた。

Seesaaの「広告BLOG」には、つぎのような後遺症が列挙してあった。

『(1) 術後のハレがひどかった。 
 
(2) 目がチクチクして、違和感がする。 
 
(3) すぐに二重が取れてしまった。 
 
(4) 点止めなので、二重のラインの仕上がりが、カーテンのようにハシのほうが下がってしま
った。 

(5) 普段は気にならないが、まぶたをおさえると目がゴロゴる。 

(6) 術後、目が少し引きつったままになってしまった。 

(7) 二重のラインが不自然で、あまりきれいではない。 

(8) 再手術をしても、またすぐに二重が取れてしまった。 

(9) 目を閉じると、点状のくぼみが残っているので、手術を受けたのが他人にすぐわかる。 

(10) 二重のラインが途中でとぎれている。 

(11) 術後は、しばらくコンタクトレンズがはめられなかった。 

(12) 術後、まぶたにシコリができてしまった。 

(13) 手術後、気がかわってもとにもどそうとしたが、糸をそのままぬくことができず、もとにも
どせなかった。 

(14) 手術をする際、まぶたをひっくり返して麻酔の注射をされるので、とても痛く怖かった。 

(15) 眼科で診察をうけると、まぶたの裏側に糸が見えているので、眼科の先生に二重まぶた
の手術を受けたのが、バレてしまった』(以上、Seesaa Blogより)と。

 が、この中には、「目が閉じなくなってしまった」というのはない。

 そこでさらに検索を繰り返してみると、それはあった。

●目が閉じられない

 ある女性が、ある眼科医の相談コーナーのページに、それについて相談している。
それに対し、N医師(HPの管理者)は、つぎのように答えている。

『多分脂肪も取っているでしょうし、皮膚も余裕が無いということですと、修正は難しいでしょう
し、元の一重に戻す事はさらに無理だと思います。 
目を閉じれない位ですし、どうしてもということであれば植皮をして、皮膚を植え二重を狭くして
いくしか方法は無いでしょう』と。

 失敗と断言してよいかどうかは、わからない。
しかし二重まぶたの手術をして、目が閉じられなくなってしまった女性(男性も?)、結構、多い
ようだ。

 が、私が書きたいのは、このことではない。

●内面世界の積み重ね

 ありのままをさらけ出して生きるのは、むずかしい。
ありのままをさらけ出して生きるためには、その前に「私」がなければならない。
「私」がないまま、さらけ出したら、それは裸で街を歩くようなもの。
「衣服で飾れ」ということではない。
ここでいう「私」というのは、内面世界の積み重ねをいう。
その積み重ねが、心の衣服となり、その人を美しくする。
その積み重ねが、むずかしい。

 たとえば女性の美しさ。

 以前、アメリカのある空港で、1人の若い女性を見かけた。
白人だった。
年齢は25歳前後だったと思う。
その女性は、大きなノートパソコンに向かい、一心不乱にキーボードを叩いていた。
直接顔を見たわけではない。
が、体全体が、知的な緊張感に包まれていた。
それがその女性を、美しく輝かせていた。

 が、この日本では、「女性の美」が、ますます軽薄になっていくように感ずる。
最近では、つけまつげが流行している(?)。
中には1センチほどもある、長いつけまつげをしている女性もいる。
私には、それが、お化けというより、タヌキのようにしか見えない。
いや、タヌキだって、あんなアホなことはしない。

 が、女性がそうした化粧をするのは、それを「かわいい」と思う男性がいるから。
つまりそういう女性が多いということは、男性もまた、それにふさわしい男性になりつつあること
を示す。

 美容整形であろうが、プチ整形であろうが、それをするのは本人の自由。
(以下、「整形」とする。)
しかしその一方で、内面世界の積み重ねを忘れたら、それこそ顔は、絵を描くための、ただの
キャンバスになってしまう。
が、私は、もう一歩踏み込んで、こんなことを考える。

 もしあなたの恋人なり、妻が、整形を繰り返していたとしたら……。
あなたは、それに耐えられるだろうか?
それでもあなたは、そういう相手を、自分の友人、もしくは妻として迎え入れることができるだろ
うか?

 顔だけではない。
胸も体も……。

 私の価値観を押しつけるつもりはない。
が、私だったら、とても耐えられない。

●ハイデッガー

 女性にかぎらず、その人の本当の美しさは、懸命に生きるその生き様の中から、生まれる。
見てくれの顔や姿ではない。
生き様。

 もっともそれを理解するためには、男性の側にも、それなりの内面世界の積み重ねがなけれ
ばならない。
知性、理性、道徳、哲学……、何でもよい。
そういったものを、一方で、磨いていく。
昔から、こう言う。
そう言っているのはこの私だが、「賢い人からは、愚かな人がよくわかる。が、愚かな人から
は、賢い人がわからない」と。
もう少しはっきり言えばこうだ。
「利口な人からは、バカな人がよくわかる。が、バカな人からは、利口な人がわからない」と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
つまり、整形だらけの女性を美しいと思う男性は、やはりそのレベルの男性ということ。

 さらに短絡的につぎのように言い切るのは、たいへん危険なことかもしれない。
しかしこういうことは言える。

 見てくれの顔や姿ばかりを気にし、内面世界の積み重ねを怠る人は、女性にかぎらず、男性
も、その程度の人間、ということ。
ハイデッカーが説いた『ただの人(Das Mann)』というのは、そういう人間をさす。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 2010年に、『ただの人』について
書いた原稿が見つかった。
話が脱線するが、許してほしい。

 なお、結論的に、冒頭にあげた女性について、こんな事実を付記しておく。

 ……やがて電車は浜松駅についた。
2人の男女は、たがいに起しあいながら、席を立とうとした。
と、そのとき、若い女性のほうの目を見ると、明らかに病的にまで目が充血していた。
とくに目の下あたりが、真っ赤だった。
仮に30分でも、目を開けたままにしていれば、そうなる。
あるいは私が見たときのように、常に眼球を動かしていないと、角膜が傷つく。

 その女性は、目を大きくしたいがため、整形手術を受けた。
しかし整形手術には、それがどんなものであれ、何らかの危険を伴う。
後遺症を伴うこともある。
目を開いたまま眠るというのは、どう考えても、ふつうではない。
5年や10年は、それでよいとしても、20年後、30年後に、何か大きな病気につながるかもし
れない。

 なお私が見た充血と、整形手術との因果関係についてはわからない。
が、もし関係があるとするなら、そういうことを医師はしっかりと説明をしてから、手術を施すべ
きではないのか。

 かなり強い疑問を覚えたので、ここに記録しておく。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●『ただの人』(ハイデッガー(2009年の終わりに書いた原稿)

++++++++++++++++++

つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

++++++++++++++++++++

●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その個人だけの問題ではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
それがおもしろいほど、極端な形で現れる。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中に、ど
れだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。

地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとする。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バカ」と
思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンについているタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きていく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる人生)の
出発点でもある。

生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。

先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」というふうに
考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
お金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

+++++++++++++

「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎの原稿は2008年4月に
書いたもの。

+++++++++++++

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a "man", so-called "das Mann". But 
nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward 
the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

 若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

 20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退
職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

 もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

 さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

 が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

 よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれ
ば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

 その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

 が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

 そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行
く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったこと
すらわからない。

 先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときの
こと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

 このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

 この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

 老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

 この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

 つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

 統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

 程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次
元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

 「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、み
なに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

 こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感
動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

 しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

 さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

 肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどるこ
とになる。

 繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」
と呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ハイデッガー はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性 DAS 
MANN)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●カラス

 話を戻す。

 カラスはカラス。
カラスがいくらクジャクの羽をつけたところで、クジャクにはなれない。
だったら、カラスはカラスとして生きればよい。
カラスのもつ「黒」は、それ自体、美しい。
その美しさを否定し、クジャクの羽をつける。
それは即、自分の哲学の敗北を意味する。

 が、美しくなりたい(?)という若い女性を責めても、意味はない。
かわいそう。
酷!

 大切なことは、我々人生の経験組が、別の美的価値観を示してやること。
それもしないで、一方的に、若い人たちに向かって、「無駄なことをしている」と言ってはいけな
い。
それはたとえて言うなら、二階屋根に登った人から、ハシゴをはずすようなもの。

 が、その力は、あまりにも弱い。
たとえばテレビの影響。
連日連夜、そのタイプの女性や、それを取り巻く男性が、テレビに出てくる。
さらに今では、整形したことを隠すタレントは、まずいない。
堂々と、「こことここを整形しました」などと言ったりする。

 ものを考える力が乏しい、さらに若い人たちは、そういう人たちの影響をモロに受けてしまう。

 もちろん、みながみな、そうというわけではない。
同じ電車の中には、少数派だが、見るからに堅実そうな若い女性も、乗り合わせていた。
そういう女性を守るために、私たち老人組は、その(柱)にならなければならない。
ここに書いた原稿は、そのためのものと考えてほしい。

●終わりに……

 ただ誤解しないでほしい。
私は顔を整形することが、まちがっていると書いているのではない。
(「正しいこと」とは、絶対に思わないが……。)

しかし「整形」という行為の中に、その人の人生観が凝縮されているように思う。
見栄、体裁、メンツ、世間体を気にして生きる、そういう人生観である。
しかしこういう生き様ほど、見苦しいものは、ない。
へたをすれば、人生そのものを棒に振ることにもなりかねない。
その第一歩としての整形であるなら、これほど不幸な第一歩は、ない。

 私たちは、いつも、「私は私」と、生きる。
そういう生き様を貫く。
そこに生きる意味がある。
けっして、他人の目の中で生きてはいけない。

 ……今朝は、かなり過激な意見を書いてしまった。
このエッセーを読んで、不愉快に思う人も多いだろう。
が、それはそれとして、つまり美容整形のことは忘れ、では、人間の美しさとは何か。
この原稿をたたき台にして、それをもう一度、考えなおしてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 美容整形 プチ整形 はやし浩
司 二重まぶた 目の閉じない女性 人間の美しさ ハイデガー ハイデッガー ただの人  
das Mann Das Mann)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【鎌倉へ】(田丸謙二先生に会う)(死刑廃止論・国歌論・愛国心byはやし浩司)

●3月30日(金曜日)自宅にて

(1)
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(2)
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 昼前に、山荘に到着。
その前に、ショッピングセンターに寄り、野菜の苗を仕入れる。
ナス、トマト、それにキュウリ。
それぞれ2苗ずつ。

山荘では、雑草を刈ろうと思ったが、あいにくの強風。
空が白くかすむほど、杉の花粉が舞っていた。

 ワイフは、苦しそうだった。
私も、そのうち鼻と喉が、痛くなりだした。
やることもなく、(何もできなく)、そのまま1〜2時間を、過ごす。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●畑仕事

 自宅に帰り、畑に苗を植える。
1つずつ、ていねいに植える。
まわりを風よけでおおう。
これが結構、重労働。
下半身には自信がある。
しかし上半身は、めったに使わない。
20〜30分も畑を耕していると、全身に汗がにじみ出てきた。

 これで6畝(うね)、作ったことになる。
ネギが、2畝。
レタスが、2畝。
ワケギが、1畝。
それに今回の野菜が、1畝。

 小さな畑だが、これで夏の終わりまで、いろいろな作物を収穫することができる。

●モクレン

 山荘のほうでは、モクレンが満開だった。
桜と花桃の花は、4分咲きといったところ。
4月に入ったら、一斉に咲き出すはず。

 そうそう、今日も、ハッサクの収穫をした。
全部で、50個ほど、収穫した。
これからが山荘の季節。
4月の終わりになると、ホトトギスが鳴きだす。
野生のジャスミンが、山荘のまわりを、甘い香りで包む。
野イチゴも、そのころ収穫できる。

 1週ごとに、山荘の様子は、大きく変わる。
楽しいというより、それがうれしい。

●義兄

 今夜は、義兄の家で、夜を過ごした。
先ほど、自宅に戻った。
時計をみると、午後10時を少し回っていた。

 その義兄が、こんな話をした。
「浜松でも、下町の土地が、売れないそうだ。
反対に、高台の土地に、売り物がないそうだ」と。

 少し説明しよう。

 浜松市という町は、下町と高台に分かれている。
太平洋沿いからつづき、海抜数メートル地帯を、「下町」という。
そこからなだらかな坂になり、北に向かって、山の手へとつづく。
山の手になる地帯を、「高台」という。
その高台は複雑に入り組んでいて、やがて三方原台地へとつづく。

義「6メートル程度の津波が来たら、下町は全滅だよ」
私「新幹線の線路が、防波堤になってくれると言っている人もいます」
義「あんなのは、簡単に乗り越えるよ」と。

 道理で……というか、この1年、不動産屋が、よく我が家へ来る。
DMもよく届く。
「売り土地はありませんか?」と。

私「下町の土地の価格は、さがっているんですか?」
義「そう、同じ面積なら、2分の1程度にまで、なっている」
私「2分の1?」
義「R町の人が土地を売り、浜北区のほうへ引っ越した。売ったお金で、土地を買ったら、土地
の広さが2分の1になったと、こぼしていたよ」
私「じゃあ、高台のほうは、価格があがっているんですか?」
義「それほどあがっていない。が、何しろ、売る人がいない」と。

 3・11大震災の影響は、こんなところにまで及んでいる。

●日は替わって、今日は、3月31日(土曜日)

 今日は、これから鎌倉に向かう。
田丸謙二先生に、会いに行ってくる。
約束の時刻は、3時。

 朝起きると、雨がはげしくガラス窓を叩いていた。
「まずいな……」と思った。
が、予定を変えるわけにはいかない。

 そのあと今夜は、平塚のホテルに一泊(予定)。
鎌倉から、江ノ電沿線上のどこかに……と思っていたが、あいにく、どこも満員。
春休みの土曜日。
今ごろの鎌倉は、足の踏み場もないほど、混雑しているはず。
ということで、平塚になった。

●高台

 私は岐阜県の山の中、育ち。
それもあって(?)、平地にある土地は、どうも落ち着かない。
また道路と同じ高さの家も、落ち着かない。
……ということで、現在住んでいる土地を買い求めた。

 入野町の中でも、西のはずれにある高台。
さらに家を建てるとき、40センチ〜150センチほど、土地を盛りあげた。
盛りあげたのには、理由がある。

 私の実家は、道路と同じ高さの平坦地にあった。
いつ自動車が飛び込んできても、おかしくない。
そんな敷地だった。
それが、私には、こわかった。
角にある一本の柱が折れただけで、私の家は、そのまま崩れてしまう。

 だから私は土地を盛りあげた。
が、ワイフにはそれが理解できなかったよう。
当時、さかんに、私にこう聞いた。
「どうして、盛りあげるの?」と。

 ワイフは、平地にある家に生まれ育った。
つまり感覚というのは、そういうもの。
平地が好きな人もいれば、山の手が好きな人もいる。
人や車の出入りがしやすいから……という理由で、平地が好きな人もいれば、私のように、わ
ざわざ土地を盛りあげる人もいる。

 人は、それぞれの思いをもって、家を建てる。
こういうばあい、「人間だから……」という共通項は、ない。
人、それぞれ。

●スピアマンの2因子説

 そう言えば、知能にも、「2因子説」がある。
「因子」という言葉(概念)を最初に使ったのは、スピアマンという学者だが、こういうこと。

 1つは、生まれながらにもっている(g因子)。
もうひとつは、後天的に身につける(s因子)。
人間(子ども)の知能は、この2つの因子で、構成される、と。

わかりやすく言えば、(g因子)というのは、遺伝的に受け継いだ因子、(s因子)というのは、環
境要因によって決定される因子ということになる。

 が、何もこれは、知能因子だけの話ではない。

 だれしも、「静かで、落ち着いた場所に、家を建てたい」と思っている。
これは、(g意識)ということになる。
が、そのあと、人は、自分の経験に応じて、それぞれが自分の家を思い描く。
これは、(s意識)ということになる。

 マンション風の家がよいと思う人もいれば、一戸建ての家のほうがよいと思う人もいる。
平地にある家のほうがよいと思う人もいれば、高台にある家のほうがよいと思う人もいる。
つまり、人それぞれ。
言い換えると、人間(子ども)の知能も、人、それぞれ。

●新幹線の中で

 新幹線に乗ると、電光ニュースに、こんなニュースが流れてきた。
「死刑存廃について、有識者の会議を……」と。

 死刑制度など、廃止すればよい。
それが文明国の常識。

もともと「刑」には、2つの意味がある。
ひとつは、本人に対する懲罰としての刑。
もうひとつは、世間一般に対する、見せしめとしての刑。
その両面から考えても、死刑には、それを支持するだけの根拠がない。

 で、もうひとつの残された問題。
それが被害者遺族に対する、心のケアと補償の問題。
それは国家的施策として、対処する。

 以前、書いた、私の死刑廃止論をここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
+++++++++++++++++

●死刑廃止論(2007年9月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

死刑制度に、死刑制度としての
意味があるかどうかというと、
それは疑わしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●犯罪性の認識

 たとえば死刑に値するような犯罪を犯している最中に、その犯罪者は、「死刑」という刑罰の
重大性を認識しているかどうかというと、答はNO。
ふつうの状態であれば、「こんなことをすれば死刑になるかもしれない」という思いが、犯罪行
為に走るのを、思いとどまらせる。

 しかしふつうの状態でないから、ふつうでないことをしてしまう。
それが「犯罪」。

言うまでもなく、刑罰には、2面性がある。

ひとつは、本人に対する、罰としての「刑」。Aという悪いことをしたら、A罪。Bという悪いことを
したら、B罪というように、あらかじめ決めておく。
わかりやすく言えば、「これこれ、こういう悪いことをしたら、それなりの責任を取ってもらいます
よ」という意味。

 もうひとつは、世間一般に対する、見せしめとしての「刑」。
これによって、犯罪の発生を予防する。
わかりやすく言えば、世間一般に対して、「これこれ、こういう悪いことをしたら、こうなりますよ
と教える」という意味。

死刑には、見せしめとしての意味はあっても、当の本人(=主体)を抹殺してしまうという点で、
罰とての「刑」の意味はない。
罰を与えたとたん、その犯罪者は、この世から消えていなくなってしまう。

 そこで改めて、この問題の原点について考えてみる。

「公」としての組織体、つまり「国」に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限はあるのか。

わかりやすい例で考えてみよう。

 ひとりの男が、窃盗をしたとする。
その男に対して、「窃盗は悪いことだ」「その窃盗をしたのは、右手」ということで、右手を切断し
たとする。
そうした行為が、果たして刑罰として、許されるものかどうかということ。

このばあいは、(1)罰としての刑と、(2)見せしめとしての刑の、双方がまだ成り立つ。
本人は、右手を切られて、何かと不自由することだろう。
また多くの人は、右手を切り取られた人を見て、「窃盗するということは恐ろしいことだ」と知る。

 しかし死刑のばあいは、脳みそも含めて、体そのものを(切り取る)行為に等しい。
右手を切り取るという行為自体、ほとんどの人は、残酷な行為と考える。「いくらなんでも、それ
はひどい」と。
だったら、肉体全体は、どうなのかということになる。

 そこで最高裁は、ひとつの基準をもうけた。
最高裁が83年に定めた「永山基準」というのが、それ。
それによれば、つぎのようにある。

(1) 犯罪の罪質
(2) 動機
(3) 殺害の手段方法の執拗性、連続性
(4) 結果の重大性、ことに殺害された被害者の数
(5) 遺族の被害感情
(6) 社会的影響
(7) 犯人の年齢
(8) 前科
(9) 犯行後の情状

 これらの「情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大で、罪刑の均衡の見地からも、一
般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められるばあいは、死刑の選択も許される」
(永山基準)と。

 が、最近の傾向としては、この基準が拡大解釈、つまり、基準がゆるやかに適応されるよう
になってきている。
つまり死刑判決が、乱発される傾向にある。
犯罪そのものが凶悪化しているという理由もある。

 しかし繰りかえすが、罰すべき(主体)を残しておいてこそ、刑罰は刑罰としての意味をもつ。
罰すべき(主体)を消してしまったのでは、刑罰は刑罰としての意味を失ってしまう。

 中には、「死という恐怖感を味あわせること自体、社会が与えることができる最大の罰であ
る」と説く人がいる。

 しかしほんとうに、そうか。
反対に、「死ねば、楽になる」と考える人だっているかもしれない。
たとえば今の私にしても、若いころとはずいぶんと、「死」に対する考え方が変わってきた。
「疲れ」を感じたようなとき、「このまま死ねば楽になるのだろうか」と、ふと思うことがある。
ヨボヨボになって、みなに、迷惑をかけるようになったら、それ以上に長生きをしたいとは思わ
ない。

 反対に生きているから、刑が軽いということにもならない。
死刑に値する凶悪犯であるならなおさら、生かしながら、罪の重さで苦しませる。
刑罰としては、そちらのほうがずっと重い。

 さらに中には、短絡的に、「悪いヤツは、生かしておいてもしかたない」と考える人もいるかも
しれない。
しかしそれこそまさに、幼稚的発想。
思考力がまだじゅうぶん発達していない子どもが、ゲームの中で使う言葉である。

 が、もうひとつ、死刑には、重大な問題がある。

 K国のような独裁国家、言いかえると、国民がすべての権限をひとりの独裁者に付託したよう
な国なら、いざ知らず。
日本のような民主主義国家において、「公」としての組織体、つまり「国」に、見せしめとして、1
人の人間を抹殺する権限はあるのかということ。

 独裁国家では、死刑にするのは、独裁者個人である。
しかし民主主義国家では、死刑にするのは、国民1人ひとりである。
つまり私たち自身が、その人を殺すことになる。
私や、あなたが、だ。
もしあなたが「国のやることだから、私には関係ない」と考えているなら、それこそ、民主主義の
放棄ということになる。

 こうして考えていくと、死刑を肯定する理由が、どこからも浮かんでこない。
ゆいいつ残るとすれば、(5)の遺族の被害感情である。

 その犯罪者によって、人生そのものが、大きく狂ってしまうこともある。
愛する人を奪われ、深い悲しみのどん底にたたき落とされる人もいる。
犯罪者を殺したいほど憎く思うこともあるだろう。
あるいは「国が殺してくれなければ、私が殺す」と思う人もいるかもしれない。

 そうした被害者の救済は、どうするかという問題は残る。
が、それこそ国が考えるべき問題ではないだろうか。
金銭的な被害はもちろんのこと、精神的苦痛、悲しみ、怒り、そうした心情を、私たちみなが、
力を合わせて、救済していく。
それとも犯罪者を抹殺したところで、その人は、救済されるとでもいうのだろうか。

 さらに言えば、これは暴論に聞こえるかもしれないが、犯罪者といっても、ふつうの人と、紙
一重のちがいでしかない。
どこかで人生の歯車が狂い、狂ったまま、自分の意思とは無関係に、深みにはまってしまう。
私たちが生きているこの社会では、善と悪の間に、明確な一線を入れることすら、むずかし
い。

 ……長い間、私なりに死刑について考えてきたが、このあたりが、私の結論ということにな
る。

つまり死刑について、これからは、明確にその廃止を訴えていきたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
死刑 死刑廃止 死刑廃止論 はやし浩司 死刑について 死刑論 祖形存廃論 はやし浩司
 死刑廃止論 死刑存廃論 死刑の意味 死刑反対論 はやし浩司 死刑反対)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●同窓会

 高校の同窓会に出させてもらう。
コースは、その前日に、郡上八幡に行く。
市内の吉田屋で一泊。
朝、郡上八幡を出る。
午後の同窓会にださせてもらったあと、岐路につく。

 吉田屋は、一度は泊まってみたいと思っていた旅館。
郡上八幡へ行く機会は、ときどきあった。
そのたびにそう思った。
が、泊まる機会がなかった。

●郡上八幡

 ……ということで、郡上八幡には、思い出が多い。
郷里の美濃市からは、車でも1時間ほど。
今は高速道路ができたから、もっと早く行ける。
その郡上八幡。
郡上八幡といえば、盆踊り。
『♪かわさき(郡上踊り)』は、とくに名を知られている。
『♪郡上のなア〜、八幡〜ン』と歌う、あの歌である。

 今でも、つまり故郷を離れて46年になるが、郡上踊りを聞くたびに、ジンとあのころの自分が
戻ってくる。
飾り気のない素朴な民謡だが、名曲中の名曲。
一応、私も岐阜県人。
人並みには、郡上踊りを歌うことができる。

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

 ……今、高校時代の友人の三輪政則君(実名)を思い出した。
その三輪政則君がはじめて運転免許を手にしたとき、いっしょに郡上八幡までドライブをした。
そのとき彼は、早稲田大学に通っていた。
中学時代は、よきライバルで、2年間、学年の1位、2位を争った。

 ライバルといっても、親友だった。
期末試験などでは、休み時間を利用し、よく解答の交換をした。
(私も結構、ワルだった。)
三輪君が学年1位になると私が喜び、私が学年1位になると、三輪君が喜んだ。
そういう仲だった。

 で、その郡上八幡へ行く途中、私が少し運転した。
暗い夜道だった。
が、しばらく走ると、後ろから、回転ライトをつけた車が近づいてきた。
私はあわてて車を、泥脇に止めた。
パトカーと思った。
が、それは工事用の車だった。

 ほっとしたのも束の間、見ると車は、崖すれすれのところに停車していた。
ガードレールはなかった。
あのまま崖から落ちていれば、今の私は、い・な・い。

 ……それが今でも、大きなトラウマになっている。
悪夢の中にも、よく出てくる。
以来、車の運転ができなくなってしまった。
今でも、運転免許証はもっていない。
そのときが、私にとって、最初で最後の運転だった。

 その三輪政則君、今、この原稿を読んだら、一度、連絡してほしい。
郷里へ帰るたびに、また今でもあちこちをさがしてみるが、見当たらない。
元気か?

●藤沢

 小田原から在来線に乗り換え、藤沢に向かう。
その藤沢には、こんな奇怪な思い出がある。
事実をそのまま話す。

 G社(出版社)に、TZさんという女性の編集者がいた。
その少し前、TZさんは、G社を退職し、そのときは、独立して、出版の手伝いをしていた。
で、何かのことで、私は、そのTZさんに仕事を依頼した。

 そのときのこと。
2、3度、藤沢のマンションで、TZさんに会った。
TZさんは、本の出版について、快く承諾してくれた。
原稿も送った。

 が、そんなある日。
日にちは確かではないが、12月に入って間もないころのことだった。
突然、TZさんから電話があった。
いつもと変わらない、元気な声だった。
こう言った。
「はやしさん、悪いんだけど、仕事を引き受けられなくなったわ。
少し、体を悪くして……」と。

 ていねいな言い方だった。
私は、それに納得し、電話を切った。

 が、それから2、3か月後の、春先のころのこと。
TZさんは、大腸がんで亡くなった。
突然の訃報だった。

 で、その葬儀の席でのこと。
TZさんの無二の同僚だったNN氏に、そのことを話すと、NN氏は、吐き捨てるようにこう言っ
た。
「はやしさん、そんなこと、ありえませんよ」と。

 NN氏は、こう言った。
「そのときすでにNNさんは、昏睡状態で、電話などかけられるような状態ではなかった」と。

 私は驚いた。
NN氏も、驚いた。
しかしたしかに電話はあった。
いつもと変わらない元気な声だった。

 で、私とワイフの結論は、こうだ。

 そういう状態だったが、たまたまそのとき意識を取り戻した。
そのとき、電話をかけてくれたのでは、と。

TZさん……辻村房子さん。(実名、「つじ」は、「土・ハ・土」に、「しんにょう」の「逵」。)
NN氏……中野満月氏。(実名)

●田丸謙二先生

 現在、扇が谷(鎌倉)の家は、改築中。
その間だけということで、田丸謙二先生は、鎌倉市の近くの、(住所は鎌倉市xxx)、Sという有
料老人ホームに身を寄せている。

 午後3時、ちょうどにそこに着いた。

 元気そうだった。
うれしかった。
ビデオカメラを机の上に置いたが、田丸謙二先生は気にすることもなく、あれこれ話してくれ
た。

 そのときの様子は、YOUTUBEにそのままUPしておく。
私は田丸謙二先生の一言半句、聞き漏らすまいと、懸命に耳を傾けた。
田丸謙二先生は、私の人生の先輩であると同時に、恩師でもある。
この42年間、いつも私は、田丸謙二先生のあとを見ながら、ひよこのように、追いかけてき
た。

 その田丸謙二先生が、そこにいた。

 夕食は、老人ホームの食堂で、みなといっしょに食べた。
薄味の卵丼ぶりだった。
おいしかった。

●ホテル・サンライフガーデン(平塚)

 帰りが遅くなりそうだったので、予定通り、平塚のホテルに泊まった。
「ホテル・サンライフガーデン」。
ホテルというよりは、結婚式場。
重厚な感じがしたが、星は、3つの★★★。

 料金が高い。
東京料金。
素泊まりで、1万3000円(2名分)。 
平塚の駅からも遠い。
送迎バスで、20分ほど。

 「土曜日の夜だからしかたない」ということで、泊まった。
が、後悔、80%。
三島まで行き、そこでドーミーインに泊まればよかった。
あそこなら大浴場がある。

 ホテル全体は、コの字型になっていて、窓の外には、その中庭が見える。
南米や南欧へ行くとよく見かける、ホテル様式である。
イギリスのグラマースクールも、似たような建て方をする。
私たちの部屋は、その中庭に面している。

 ここは5回だが、左下の4階では、ちょうど結婚式が終わるところだった。
新郎と新婦が、花束を手に、列席者と別れを告げているところだった。

 また反対側の数階下は、レストランになっているらしい。
何組かの男女が、四角いテーブルを囲んで、食事をしている。
……先ほど、その1組と目が合ったので、手を振ってやった。
が、私を見て笑っているだけで、返答はなかった。

●都会

 藤沢、平塚……。
神奈川県とはいうが、大都会。
東京そのもの。
料金も、東京そのもの。

 サービスといっても、形だけ。
心など、探しても、ない。
このあたりに住んでいる人には、それがわからないかもしれない。
しかし私のような田舎者には、それがよくわかる。
言葉にも、共鳴感というより、共鳴性がない。

 藤沢の駅で電車を待っているとき、私はワイフにこう聞いた。
「こんなところに、住みたいと思うか?」と。
ワイフは、こう言った。
「たまに遊びに来るにはいいけど、住みたくないわ」と。

 あまりにも予想通りの答だった。
だから私は、返事もしなかった。

●田丸謙二先生との話

 そのつど田丸謙二先生は、私に意見を求めた。
が、何よりも、私が言いたかったことは、つぎのこと。

 国際触媒学会のときもそうだったが、今回の化学会に年会のときも、そうだった。
2000人(フランス・パリ)とか、8000〜9000人(東京三田)とかの科学者が集まった。
にもかかわらず、日本のマスコミは、1行も、また1秒も、それについて報じなかった。
田丸謙二先生も、こう言った。

「新聞を読んでも、何もおもしろくありません」と。
「もし福島第一原発事故がなかったら、今ごろはどんな記事が載っているのでしょうね」とも。

 同じように、田丸謙二先生は、こう言った。

 田丸謙二先生の父親の、田丸節郎氏は、まさに日本の科学界の黎明期に活躍した。
今の日本が、その地位を築くことができたのも、田丸節郎氏の力によるところが大きい。
たとえば東京工業大学にしても、田丸節郎氏が設立したと言っても過言ではない。
ベルリン大学に対して、ベルリン工科大学があった。
それをまね、東京大学に対して、東京工業大学を設立した。

が、そうした功績を知っている人は少ない。
功績を知らないだけではない。
そうした先駆者たちに感謝の念をもっている人は、少ない。
みな、そこにそれがあるのが当たり前……といったふう。
「敬老」という言葉そのものが、今、死語化している。
が、これでは、先駆者たちの苦労が、浮かばれない。

 どこかのドラ息子やドラ娘が、親の苦労も知らないで、大学を出たと威張っているようなも
の。
「私は自分で努力して、大学へ入ったのだ」と。

 私は田丸謙二先生の話を聞きながら、そんなことを考えた。

●田丸節郎

 理化学研究所の、主任研究員の名簿がある(1922年)。
そのまま紹介する。

『駒込本所以外の各帝国大学に研究室を置くのも自由とし、理研からの研究費で研究員を採
用し研究を実施した。

長岡半太郎、
池田菊苗、
鈴木梅太郎、
本多光太郎、
真島利行、
和田猪三郎、
片山正夫、
大河内正敏、
田丸節郎、
喜多源逸、
鯨井恒太郎、
高嶺俊夫、
飯盛里安、
西川正治の、14研究室発足』と。

 そうそうたる名前が並んでいる。
言い換えると、当時は、こうした学者を称える社会的風土がまだ、日本にはあった。
現在、こうした人たちの名前を、私が知っていること自体が、その証拠ということになる。
が、今は、どうか?

 先にも書いたように、「1行」も、「1秒」も、報道されない。
サポーターのいない、野原で、サッカーの試合をするのと同じ。
選手たちも、やる気をなくすだろう。
なくして、当然。

 田丸謙二先生は、こんなことも話してくれた。

「現在ね、(東大で教授をしていた)仲間たちがね、みんな、シンガポールへ行っているよ」と。
東大を退官したあと、そういった教授たちの多くが、シンガポールの大学や研究所へ、迎えら
れているという。
私たちは、こうした事実を、どう理解すべきなのか。
あるいはこういう事実を、いったい、どれほど多くの人たちが知っているか。

●田丸謙二先生より

 田丸謙二先生からメールが入った。

『林様:今日は本当に有難うございました。
わざわざ遠くからお二人で来て頂き、大変に楽しく、貴重な話を沢山聞かせて頂き、厚く御礼
申し上げます。
大変によい勉強になりました。

「反世代」の若者たちが、わが国を如何に変えて行くのか切実な問題だと思います。
近頃日本が世界のトップグループから消え去って行く話をよく聞かせられるだけに、深刻な気
が致します。

今お働き盛りの貴君だけに心からご活躍を祈念いたします。
健康には充分に気をつけて大いに頑張って下さい。
期待をしています。
田丸謙二』

 89歳になっても、天下国家を論じ、日本の未来を心配し、案じている。
それが田丸謙二先生。

 田丸謙二先生を前にすると、自分がかぎりなく小さく見えてくる。

●ホテル・サンライフガーデン

……ワイフが、どこか退屈そう。
「何かしたいか?」と聞くと、「おなか、すかない?」と。
「コンビニへでも行ってこようか?」と聞くと、「あなたは?」と。

 ……コンビニへ行ってくることにした。

(休憩)

●就寝

 ワイフはいつものように、コンビニで、チューハイを買った。
あとは酒のつまみを、少し。

 寝る前に、田丸謙二先生から、追伸が届いていた。

『林様:今日のお話について、例えば「日本はこれでいいのか?」位の題で本をお書きになった
ら如何でしょうか。
ベストセラーになります。
頑張って下さい。
田丸謙二』と。

【はやし浩司より、田丸謙二先生へ】

田丸謙二先生へ

こんばんは!

これからは本の時代でもないように感じます。
浜松の田舎から見ていると、いつもそこに「東京」という関所があります。
その関所を通らなければ、世界の人の目に触れることはない。

が、今は、インターネットがその関所を取っ払ってくれました。
いきなり外国へ、直接、原稿を送ることができます。
日本語であっても、すぐそのまま全世界の言葉に翻訳できます。
(英語で出しているBLOGも、ひとつあります。)

もちろん本も大切ですが、(収入という意味では)、私はもうものを書くことで、お金を儲けようと
いう気はありません。
世界中をひっかきまわしてやりたい……それだけです。

事実、こうしてBLOGに原稿を発表していると、どこかのポータルサイト、あるいはニュースサイ
トが、原稿をそのまま取り上げてくれることがあります。
とたん、アクセス数が、1日で、数万件となることもあります。
すごいことだと思います。

まさに第二の産業革命を、私たちは身をもって、体験しているわけです。

で、ひとつだけ、生意気な意見を!
先生の文章を読んでいて、いつも気になるのは、こんなことです。
今では、ネットに文章を書くときは、余白や、空白部を気にしてはいけません。
たとえばこの文章がそうですが、余白がカスカウですね。
それでいいのです。

紙に文字を印刷していた時代には、「紙がもったいない」ということで、ぎっしりと文字を詰めて
書いたものです。
今は、余白がいくらあっても、ただです。
ですから、余白を思いきって、多くする。
改行を多くする。
そのほうが今風になり、文章がずっと読みやすくなります。
たとえば、こんな感じです。

先生の文章を借りて、少し、手直ししてみます。

+++++++++++田丸謙二先生の原稿+++++++++++++++++

(先生のもとの原稿)

私が大学を出たのは終戦の翌年で文字通り「どん底の時代」でした。大学院に進学して研究テ
ーマを頂きに、鮫島実三郎先生のところに伺いましたら、一言「触媒をおやりになったら如何で
しょうか」と言われました。しかし当時鮫島研究室にも化学教室にも触媒の研究をしている人は
誰もいなく、自分一人で考えねばなりません。終戦から余り月日も経っていないので外国の文
献も入って来ず、戦前の古い資料に基づいて研究というものは何をすればいいのか、一人で
苦しみぬいたとても辛い五ヶ月間でした。Pd触媒によるアセチレンの水素添加反応を選びまし
たが、実験をしながら自分は何か間違いをしていないか、もっといい発展がないだろうか、常に
真剣に自問自答した体験は非常に苦しかったのですが大変に貴重な体験で、結果も面白く、
研究の楽しさを学びました。(その数年後に出版され
たEmmettが編集したCatalysisという本に私の結果が3ページにわたり引用された。当時誰も
知らなかった面白いことだったのである。全くの幸運であった。)   


(私が改変した原稿)

 私が大学を出たのは終戦の翌年で文字通り「どん底の時代」でした。
大学院に進学して研究テーマを頂きに、鮫島実三郎先生のところに伺いました。
そうしたら、一言「触媒をおやりになったら如何でしょうか」と言われました。

 しかし当時鮫島研究室にも化学教室にも触媒の研究をしている人は誰もいなく、自分一人で
考えねばなりません。
終戦から余り月日も経っていないので、外国の文献も入って来ず、戦前の古い資料に基づい
て研究というものは何をすればいいのか、一人で苦しみぬきました。
とても辛い五ヶ月間でした。

 Pd触媒によるアセチレンの水素添加反応を選びましたが、実験をしながら自分は何か間違
いをしていないか、もっといい発展がないだろうか、常に真剣に自問自答した体験は、非常に
苦しいものでした。

が、大変に貴重な体験で、結果も面白く、研究の楽しさを学びました。

(その数年後に出版されたEmmettが編集したCatalysisという本に私の結果が3ページにわた
り引用された。
当時誰も知らなかった面白いことだったのである。
全くの幸運であった。)  

++++++++++++++++++++++++

ねっ、読みやすいでしょ!
紙に書くのではありませんから、こんなふうに、余白をぐんと多くして、書けばいいのです。
ご参考までに!!!

はやし浩司

*************************** 

●4月1日

 教師の姿勢が、問題になっている。
国歌斉唱のとき、歌った、歌わないとか。(2012年4月)

『大阪府の松井一郎知事は1日、府立学校の卒業式で国歌斉唱時に起立斉唱しなかった教
職員について、「入学式でも同一人物が同じ行動をとった場合、現場から外すべきだ」との認
識を記者団に示した』(MSN・ニュース)とか。

 2005年に書いた原稿を添付する。
なおこの中で、「愛国心(ペイトリアチズム)」について、これは私個人が、ギリシャ語、さらには
ラテン語と調べて、知ったことである。
そののち、どこかの政治評論家が、断りもなく、この部分を盗用した。
さらにどこかの政党党首も、盗用した。
2005年という、年号が、何よりも、その証拠である。
こういう盗用は、本当に、謹んでほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●若者の意識

 財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)が、高校生の意識調査をした。昨年(04)9月から
12月にかけて、3か国35の高校で行い、3649人が回答した。

★国歌・国旗について

 「自分の国に誇りを持っているか」との設問に、「強く持っている」「やや持っている」と答えた
日本の高校生は、あわせて51%と、米中両国に比べ目立って低かった。

国旗、国歌を「誇らしい」と思う割合も、米中両国の半分以下。
「国歌を歌えるか」との質問には、「歌える」と答えた日本の高校生は、66%にとどまり、三人
に一人は、「少し歌える」「ほとんど歌えない」と答えるなど、国旗国歌に抵抗感を植えつける自
虐的教育(報告書の言葉)の影響を懸念させる結果となった。

 こうした意識は国旗国歌への敬意などに表れ、「学校の式典で国歌吹奏や国旗掲揚されると
き、起立して威儀を正すか」との質問に、「起立して威儀を正す」と答えた日本人高校生は、米
中の半分以下の30%。

38%は「どちらでもよいことで、特別な態度はとらない」と答え、国際的な儀典の場で、日本の
若者の非礼が、批判を受ける下地となっていることをうかがわせた。

★将来、意欲について

 将来への希望を問う設問では、「将来は輝いている」「まあよいほうだが最高ではない」と答え
た割合は中国が80%と最も高く、日本は54%で最も悲観的であることがわかった。

さらに、勉強については「平日、学校以外でほとんど勉強しない」が45%(米15%、中8%)、
「授業中、よく寝たり、ぼうっとしたりする」も73%(米49%、中29%)と、学習意欲も米中に比
べて明らかに低いことが裏づけられた。

 生活面では「若いときはその時を楽しむべきだ」と答えた高校生の割合も、三カ国で最も高
かった。

★恋愛、家族について

 恋愛観では「純粋な恋愛をしたい」と考える割合は、九割と日本が最も高かった。
しかし、結婚後「家族のために犠牲になりたくない」も日本がトップ。
将来「どんなことをしても親の面倒をみたい」は三カ国で最も低く、逆に「経済的な支援をする
が、介護は他人に頼みたい」が18%と、米国9%、中国12%を大きく上回った。

(以上、報告書のまま)

++++++++++++++++++++

 いろいろ反論したいことはあるが、日本の高校生の実像を表していることは、事実。
で、こうした事実を並べて、財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)は、つぎのように結論づ
けている。

 『日本の高校生たちについて、「純愛で結婚したいが、家族の犠牲にはなりたくない。親の面
倒は、金で他人に見てもらいたいという自己中心的な恋愛観・家族観が浮かんでいる」』と。
(はやし浩司 日本 青少年 青少年意識 高校生 意識 意識調査 国旗 国歌 はやし浩
司 若者の意識 自己中心的な恋愛観 恋愛至上主義 はやし浩司 高校生の意識)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国旗、国歌について

 国旗はともかくも、国歌について言えば、それを歌うから愛国心があり、歌わないから愛国心
がないというふうに、決めつけてほしくない。

 私は、(あなたもそうだろうが……)、外国で、日本を思うときは、別の歌を歌う。
「ふるさと」であり、「赤とんぼ」である。

●自虐的教育について

 この日本では、自国の歴史を冷静に反省することを、「自虐的教育」という。
右翼的思想の人が、左翼的傾向のある教育を批判するとき、好んで使う言葉である。

 「どうして?」と思うだけで、あとがつづかない。

●親のめんどう

 それだけ日本人の親子は、関係が、希薄ということ。
親自身が、無意識のうちにも、親子の関係を破壊している。
そういう事実に気づいていない。

 子どもの夢、希望、目的をいっしょに、考え育てるというよりは、「勉強しなさい」「いい高校に
入りなさい」という、短絡的な教育観が、親子の関係を破壊していることに、いまだに、ほとんど
の親は気づいていない。

 「子どもが自己中心的だから」という結論は、どうかと思う。
こういうところで、自己中心的という言葉を、安易に使ってほしくない。
家族の形態そのものも、ここ半世紀で大きく変わった。

ここに表れた「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたいが、18%」という数字は、数年
前の調査結果と、ほとんどちがっていない。

 よりよい親子関係を育てるためには、(ほどよい親)(暖かい無視)に心がける。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(605)

●BRIC's レポート

 最近経済界で話題になっているキーワードに、「BRIC's レポート」というのがある。

 ゴールドマン・サックス証券会社が発表した、経済レポートをいう(03年10月)。

B……Brazil(ブラジル)
R……Russsia(ロシア)
I……India(インド)
C……China(中国)を、まとめて、「BRIC's」という。

 同レポートによれば、2050年ごろには、これらBRIC'sの4か国だけで、現在の日本、アメリ
カ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアの総合計を、経済規模で、上回るようになるという。

 そしてその結果、世界のGDPは、上から順に、

(1) 中国
(2) アメリカ
(3) インド
(4) 日本
(5) ブラジル
(6) ロシアの順になるという。つまり日本は、4位に転落するという。

 こうした国々をながめてみると、これからの日本が相手にすべき国は、どこか、すぐわかるは
ず。

 アメリカ、インド、ブラジルの3か国である。
とくに注目したいのが、インドとブラジルである。
これら2国は、日本との関係も深く、親日的である。
最近ある公的機関を定年退職したが、ニューデリーに住んでいる、友人のマヘシュワリ君は、
大の日本びいき。
メールをくれるたびに、「どうしてインドへ来ないのか?」と聞いてくる。

 日本よ、日本人よ、どうしてもっと、インドやブラジルに目を向けないのか?

 中国や韓国など、もう相手にしてはいけない。
必要なことはするが、限度を、しっかりとわきまえる。
仲よくはするが、反日感情については、無視。
そして余裕があるなら、インドやブラジルに目を向けるべきである。

 そのインドも、昔は借金国。
しかし世界銀行やアジア開発銀行などからの借金の30億ドルを、2002年度までに完済して
いる。
(韓国などは、先のデフォルトのとき、550億ドルも、日本が中心になって援助したが、感謝の
「カ」の字もない! 中国などは、いまだに日本の無償援助をよこせと、がんばっている!)

 私が日本のK首相なら、イの一番に、インド、つづいてブラジルを回る。
もう一か国つけ加えるなら、オーストラリアも回る。
オーストラリア人の親日性は、日本のK首相が、イラク派兵を頼んだときに、証明された。

 オーストラリアは、日本の自衛隊を守るために、オーストラリア兵を、イラクへ派遣してくれた
(05・3月)。
どうして、そういう国を、もっと大切にしないのか!

 あえてけんかをすることはないが、日本を嫌い、日本人を軽蔑している国々と、頭をさげてま
で、仲よくすることはない。
それよりも今、重要なことは、50年先を見越して、日本の立場を、より強固にしていくことであ
る。

 ちなみに、「インドの人口は10億人。
国土は日本の9倍。南アジア最大の軍事大国だが、同時にアジア有数の親日国家でもある。
そのインドが資本市場を急速に自由化させ、中国にかわって、世界の工場となるシナリオが、
日々高まってきた。

インドの昨年第四・四半期(10月ー12月)のGDP成長率は、中国を抜いて、堂々の10・4%
だった」(宮崎正弘レポート)。

 そのインドに、中国が目を向けないはずがない。
少し前まで、仲が悪いと思われていたが、ここ1、2年で、中印貿易高は、日印貿易高を、とうと
う追いこしてしまった。
が、それだけでは、ない。
それを猛烈に追いあげているのが、実は、韓国である。

 この分野でも、日本は、完全に出遅れている。
さらに最近の、中国や韓国の合言葉はただ一つ。「日本を、極東の島国から、太平洋の奈落
の底にたたき落せ」である。
うわべはともかくも、K国が、核ミサイルを、東京にうちこんだとき、それを一番喜ぶのは、中国
であり、韓国なのである。

 現実の国際政治というのは、そういうものだし、現実的でない国際政治というのは、意味をも
たない。

 もちろんそんなことを、K国にさせてはならない。(させてたまるものか!)

 そこで日本としては、6か国協議に見切りをつけて、K国の核問題を、国連安保理に付託す
るしかない。
(中国や韓国は、それを警戒している。
そしてそういう動きを見越して、韓国は、日韓関係の整理をし始めている。)

 話がそれたが、S県の県議会が、「竹島の日」を、こういう微妙なときに定める真意が、私に
は理解できない。
国際性のなさというか、まあ、何というか。
S県の「S」は、「島」という漢字をあてる。
こうした島国根性こそが、日本の将来の足かせになっている。

 2050年という、45年後には、私は、もう生きていない。
しかしそのとき、世界はどうなっているか。
それを示しているのが、ここにあげたBRIC's レポートということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

さらに、以前書いた原稿を2作。
日付は2002年になっているが、実際には、さらにその数年前に書いた原稿と思う。
ここに書いたことは、今の今も、少しもブレていない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「公」について(What is "Public"?)

 以前、教育改革国民会議は、つぎのような報告書を、中央教育審議会に送った。

いわく「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬
(いけい)の念をもち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てると
ともに、社会生活に必要な基本的知識や教養を身につけることを、教育の基礎に位置づける」
と。

 こうした教育改革国民会議の流れに沿って、教育基本法の見なおしに取り組む中央教育審
議会は、〇二年一〇月一七日、中間報告案を公表した。
それによれば、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かんよう)する
ことが大切」とある。

 一読するだけで頭が痛くなるような文章だが、ここに出てくる「涵養(かんよう)」とは何か。
日本語大辞典(講談社)によれば、「知識や見識をゆっくりと身につけること」とある。
が、それにしても、抽象的な文章である。
実は、ここに大きな落とし穴がある。
こうした審議会などで答申される文章は、抽象的であればあるほど、よい文章とされる。
そのほうが、官僚たちにとっては、まことにもって都合がよい。
解釈のし方によっては、どのようにも解釈できるということは、結局は、自分たちの思いどおり
に、答申を料理できる。好き勝手なことができる。

 しかし否定的なことばかりを言っていてはいけないので、もう少し、内容を吟味してみよう。

 だいたいこの日本では、「国を守れ」「国を守れ」と声高に叫ぶ人ほど、国の恩恵を受けてい
る人と考えてよい。
お寺の僧侶が、信徒に向かって、「仏様を供養してください」と言うのに似ている。
具体的には、「金を出せ」と。
しかし仏様がお金を使うわけではない。
実際に使うのは、僧侶。
まさか「自分に金を出せ」とは言えないから、どこか間接的な言い方をする。
要するに「私たちを守れ」と言っている。

 もちろん私は愛国心を否定しているのではない。
しかし愛「国」心と、そこに「国」という文字を入れるから、どうもすなおになれない。
この日本では、国というと、体制を意味する。
戦前の日本や、今の北朝鮮をみれば、その意味がわかるはず。
「民」は、いつも「国」の道具でしかなかった。

 そこで欧米ではどうかというと、たとえば英語では、「patriotism」という。
もともとは、ラテン語の「パトリオータ(父なる大地を愛する人)」という語に由来する。
日本語では、「愛国心」と訳すが、中身はまるで違う。
この単語に、あえて日本語訳をつけるとしたら、「愛郷心」「愛土心」となる。
「愛国心」というと反発する人もいるかもしれないが、「愛郷心」という言葉に反発する人はいな
い。

 そこで気になるのは、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かん
よう)することが大切」と答申した、中教審の中間報告案。

 しかしご存知のように、今、日本人の中で、もっとも公共心のない人たちといえば、皮肉なこと
に、公務員と呼ばれる人たちではないのか。
H市の市役所に三〇年勤めるK市(五四歳)も私にこう言った。
「公僕心? そんなもの、絶対にありませんよ。私が保証しますよ」と。

とくに長年、公務員を経験した人ほどそうで、権限にしがみつく一方、管轄外のことはいっさい
しない。
情報だけをしっかりと握って、それを自分たちの地位を守るために利用している。
そういう姿勢が身につくから、ますます公僕心が薄れる。
恐らく戦争になれば、イの一番に逃げ出すのが、官僚を中心とする公務員ではないのか。
そんなことは、先の戦争で実証ずみ。
ソ連が戦争に参画してきたとき、あの満州から、イの一番に逃げてきたのは、軍属と官僚だっ
た。

 私たちにとって大切なことは、まずこの国や社会が、私たちのものであると実感することであ
る。
もっとわかりやすく言えば、国あっての民ではなく、民あっての国であるという意識をもつことで
ある。
とくに日本は民主主義を標榜(ひょうぼう)するのだから、これは当然のことではないのか。
そういう意識があってはじめて、私たちの中に、愛郷心が生まれる。
「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識」というのは、そこから生まれる。

 これについて、教育刷新委員会(委員長、安倍能成・元文部大臣)では、「本当に公に使える
人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない。
それが今まで、日本に欠けていたのではないか」(哲学者、務台理作氏)という意見が大勢をし
めたという(読売新聞)。
私もそう思う。
まったく同感である。
言いかえると、「個人」が確立しないまま、「公」が先行すると、またあの戦時中に逆もどりしてし
まう。
あるいは日本が、あの北朝鮮のような国にならないともかぎらない。
それだけは何としても、避けなければならない。

 再び台頭する復古主義。
どこか軍国主義の臭いすらする。
教育の世界でも今、極右勢力が、力を伸ばし始めている。
S県では、武士道を教育の柱にしようとする教師集団さえ生まれた。
それを避けるためにも、私たちは早急に、務台氏がいう「個人の確立」を目ざさねばならない。
このマガジンでも、これからも積極的に、この問題については考えていきたい。
(02−11−4)

(読者のみなさんへ)
 みなさんがそれぞれの立場で、民主主義を声を高くして叫べば、この日本は確実によくなりま
す。みんなで、子孫のために、すばらしい国をつくりましょう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 公僕意識 公教育 道徳教育 
パトリオータ はやし浩司 公と民 はやし浩司 愛国心 愛国心とは)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

★国歌……何度も書くが、どうして「国歌」にそれほどまでに、こだわるのか。
こだわらなければならないのか。
私には、その理由が、よくわからない。

 国歌でなくても、長唄でも小唄でも、能の謡(うたい)でもよい。
詩の朗読でもよい。
国歌を歌ったからといって、愛国心があるということにはならない。
国家を歌わないからといって、愛国心がないということにもならない。

 加えて、日本の「君が代」には、問題がある。
ないとは言わせない。どうして主権在民の民主主義国家で、天皇をたたえる歌が、国歌なの
か。
いや、こう書くからといって、何も「君が代」に反対しているわけではない。

 それでもいいという国民が過半数を超えているなら、それはそれでいいと思う。
それも民主主義。
みんなで話しあって決めたことは、みんなで従う。私も従う。

 ただ公教育の先生が、公的な立場で、個人的な実力行使をするのは、許されない。
国歌斉唱に反対するなら、公的な立場を離れ、個人的な意見として発表すべきである。
それはたとえて言うなら、子どもの親が、どんな犯罪者でも、その子どもを差別してはいけない
という論理に通ずる。

 公的な人間は、公的な人間としての立場をわきまえて行動する。
私的な主義主張は、公的な立場を離れてるす。公教育というのは、そういうものである。

 数週間前も、1億円という巨額なワイロを受け取りながら、その責任を部下におしつけて逃げ
てしまった元総理大臣がいた。
「覚えていません」と。

 私はともかくも、一般の人たちや、そして子どもたちは、そういう政治家を見ながら、そういう
政治家たちが言うところの愛国心というものが、どういうものであるかを知る。
愛国心をぶちこわしているかどうかということになれば、そういう政治家のほうが、よほど、ぶち
こわしていることになるのではないのか。

【補記】

 「君が代を歌え」と迫る政府。
それはどこかカルト的? 一方、「君が代は歌わない」とがんばる先生たち。
それもどこかカルト的?

 この話をワイフにしたら、ワイフは、こう言った。
「そういうのを逆カルトというんじゃ、ない?」と。

 おもしろいネーミングである。
カルトに対して、逆カルト。
ナルホド!

 似たような例は、多い。
……というより、私自身も経験している。

 ある時期、私は、カルト教団と呼ばれる宗教団体に、猛烈な反発を感じた。
何冊か、本も書いた。
そのときのこと。
そのカルト教団については、何もかも否定、また否定。
まさに『坊主憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い』の心境になってしまった。

 しかし、カルト教団だから、「悪」と考えてはいけない。
しかしそれに気づくまでに、何年もかかった。
「悪いのは指導者であって、信者ではない」と。
 
 そのときの私の心理が、いわゆる「逆カルト」ということになる。
心の余裕というか、ゆとりをなくす。
車の運転でいえば、「遊び」の部分をなくす。
ものの考え方が、どこかギクシャクしてくる。

 私などは、もともと、どこかいいかげんな人間。
だから、心の中では、「?」と思っていても、そのときになったら、ちゃんと相手に合わせる。
たとえば卒業式や入学式では、みなといっしょに、大声で、国歌を歌う。歌ってすます。
主義主張は、人並み以上にはあると思うが、しかし卒業式や入学式の場で、主義主張にこだ
わる必要はない。
たかが「歌」ではないか。

 いくら酒は飲めないといっても、グラスを勧められたら、一応口だけはつけて、「乾杯!」と言
いかえす。
それがここでいう「遊び」である。「心のゆとり」である。

 ……と書いて、私は九州の隠れキリシタンの話を思い出した。
九州の日出藩(ひじはん)の踏み絵がよく知られている。

 たとえば豊前国小倉藩の家臣、加賀山隼人は、キリシタンであったという理由で、処刑されて
いる。
こんな話が伝わっている(「日本耶蘇教会年報」)。

 加賀山隼人の娘が、父親の隼人に、「父上、何も、裁きを受けず、大罪を犯した訳でもなく、
ただ、キリスタンなるが故の死罪、外で執行されるに及ばず。
我等にとりても、此の家が一番好都合でありませぬか」と。
つまり、「ただキリスト教徒というだけで、処刑なんて、おかしいでしょう。
私たちにとって、この家の幸福が、一番、大切ではないですか」と。

それに答えて、「ならぬ。かの救世主・耶蘇基督(キリスト)は罪なき身を以って、エルサレムの
城門外に二人のあさましき兇徒(きょうと)の間に置かれ、公衆の面前で死なんと欲したではな
いか。
我もまた、公衆の面前で汚辱を受けつつ死を熱望するなり」と。
つまり、「あのイエスも、信仰を守るため、公衆の面前で処刑にあっているではないか。
私も、それを希望する」と。

 この話は、その筋の世界では、「美談」として、もてはやされている。
「命がけの信仰」として、たたえられている。
しかし私は、こういう話に、どうしても、ついていけない。
信仰心と、盲目的な忠誠心を、どこかで混同しているのではないか?

 ……と書くと、猛烈な反発を買いそうだが、いくら信仰をしても、自分を見失ってはいけない。
命までかけて、信仰をしてはいけない。
信仰をしながらも、自分の心にブレーキをかける。
そのブレーキをかける部分が「私」である。

いいか、キリストは、自分の信念で処刑に甘んじた。
信者は、信念といっても、(脳注入された信念)である。
誤解してはいけない。

 キリストの立場で考えてみれば、それがわかる。

 彼自身は、公衆の面前で処刑された。
しかしキリストは、すべての民の原罪を背負って、処刑された。
決して、「自分の信者に、同じことをせよ」と、見本を見せたわけではない。
いつだったか、私は、「キリストも教師ではなかったか?」という文章を書いた。

 それをここに再掲載しておく。

++++++++++++++++++++++++++++

【神や仏も教育者だと思うとき】 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかっ
た。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。
仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなか
った。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。
ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった
少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまっ
た。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずが
ない。
いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。
携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報
道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇
〇万件とは!

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。
その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。
たとえば親鸞の『回向論』。

『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与え
られているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
(実際には、説明している本人にすら、意味がわかっていないのではないか? 失礼!)

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」
と。
しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。
そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障
害者が多いのは、そのためだ」(R宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。
他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが
言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。
悪魔だ。
だいたいにおいて、地獄とは何か? 
子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。
しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。
人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田丸謙二先生より(4月1日2012年)

『林様:メール有難うございました。
とても興味深く拝読しました。
私にとっては新しい情報ですが、貴君の原稿を何十万の人が読むと言いますがそれだけの人
が本当に読んでいる保証があるのでしょうか。
読むことは出来るかもしれませんが、本当に興味を持って読む人が一人もいないということは
あり得ないのでしょうか。
その原稿に対してどんな形でどのくらいの収入があるのでしょうか。
本当に興味を持って読んでいる人は何人いるのでしょうか。
どうしたらそれが解るのでしょうか。
確かに現在は「本の時代ではない」かもしれませんが、それだけに出版社たちは、一人でも多
くの読者があるような、興味があって有意義な本を出す苦労をしているはずです。
貴君の書かれる原稿がその中に入らない理由が何かあるのでしょうか。
「ものを書いてお金を儲けようという気はない」のも結構ですが、皆が読みたがる立派で社会の
ために重要な原稿を書けば、本屋は見逃さずに本にしたがるものではないでしょうか。
何故その部類に貴君の原稿が入らないのでしょうか。
これは「浜松」だとか「東京」とかという問題を越えたことではないでしょうか。
何もよく知らないで申して申し訳ないのですが、ファンの一人として、そういう点についてご説明
していただければ幸いです。
くれぐれもお元気で。
田丸謙二』(2012−04−01)

【はやし浩司より、田丸謙二先生へ】

 先生が言われる通りです。
「アクセス数」というのは、あくまでも「アクセス数」です。
本屋での立ち読みのようなものです。
チラッと見て、ポイ。
それを「アクセス数」と言います。

 ですから、アクセスした人イコール、読者ということではありません。
興味本位、あるいは、中には反感をもちながら、アクセスしてくる人も多いはずです。
ですから、「毎月50万アクセス」と言っても、中身は、薄いです。

 が、その一方で、電子マガジンの読者、BLOGの購読者、さらには定期発行物の登録会員
など、明らかに私の「読者」と考えてよい人も、います。
そういう人は、現在、合計で、2000人前後、います。
私は、そういう読者を、たいへん大切にしています。

 で、その中間の人たちは、どうか?
それについては、私にもわかりません。
好意的に読んでくれる人もいるでしょうし、逆に、反感を覚えながら読んでくれる人もいるでしょ
う。
しかし何よりも大切なことは、(人の目に触れること)です。

 で、本について。

 ご存知のように、私は20代の初めから、「本=書籍」について、いろいろな形で、関わってき
ました。
ゴーストライターもしてきました。
しかし私の世界では、本というのは、「商品」でしかありませんでした。
出版社にしても、まず(売る)ことを考えます。
そうした傾向が強くなったのは、1990年前後からからではないでしょうか。
大手の出版社でも、編集部より、販売部のほうの力が大きくなりました。
編集部がOKを出しても、販売部のほうで、STOPがかかるということは、この世界では、よくあ
ることです。
不況が、それに拍車をかけました。

出版業界全体の市場は、1996年をピークに約25%減少しており、多くの企業が業績悪化に
苦しんでいます(Diamond on Line)。

私も30冊近い本を出してきましたが、1990年ごろから、印税も、売れた本の分だけ。
しかも半年から1年後払いというのが、常識になってきました。
つまり「本は儲からない」。
端的に言えば、時代が、変わったということです。
で、「本」に対する幻想が、このころから崩れ始めました。

また現在、よく売れる本の著者というのは、マスコミ、とくにテレビへの露出度で決まります。
出版社も、そのことをよく知っています。
だから逆に、こう言われます。
「林さんも、東京へ出て、テレビに出てくださいよ」と、です。

 が、それでも私は(売れる本)に心がけてきました。
また私は20代〜30代は、市販の教材作りの仕事をしてきました。
教材ですから、まさに(商品)です。

 で、本に話を戻します。
本でも、テレビでも、編集者、あるいはディレクターの意向が強く働きます。
意向に反したりすると、ボツになるか、2度目がありません。
とくに私のような、地位、肩書のない人間のばあいは、そうです。
「どこの馬の骨?」というところから、企画が始まります。
そういう意味では、私は、ドン底を、這って生きてきました。
(先生とは、立場が、180度違うということを、どうか、ご理解ください。)

 で、そういう自分が、つくづくいやになりました。
あちこちに尻尾を振り、自分の魂を削りながらものを書くという作業が、です。
で、2001年ごろに書いた本を最後に、原稿は、すべてネットで公開することにしたわけです。
無料です。

 ……この「無料」というところに意味があります。
無私無欲、です。
そのかわり、書きたいことを、そのまま、書く。
だれにも媚を売らず、だれにも遠慮せず、です。
私を受け入れてくれる人がいれば、それはそれでよし。
しかしそうでなければ、それもまたよし。

 こんな男性がいます。
もと小学校の教師です。
今年90歳近い男性です。

 毎月、「植物観察会※」なるものをしています。
雨の日もしています。
もちろん無料です。

 で、その男性ですが、雨の日も、待ち合わせ場所で待っています。
が、だれも来ない日もあるそうです。
そういときは、ある程度待ち、そのまま家に帰っていきます。

 無私無欲だからこそ、そういうことができるのですね。
もし、功利、打算が入ったら、そういうことはできません。
つまりね、私はそういった生き方の中に、自分の老後のあり方を見つけたというわけです。

 ……こうして無私無欲で、ものを書く。
実際のところ、アクセス数は、ただの数字に過ぎません。
山の上から、空に向かって叫ぶようなもので、読者の顔はまったく、見えません。
実感など、さらにありません。
インターネットの世界は、そこが不思議な世界です。
パソコンというのは、実体のあるモノですが、その画面の向こうは、まさに仮想現実の世界で
す。

 だからインターネット上で、「読者」を論じても、あまり意味はありません。
ただの情報、です。

 しかし私は、こう考えます。
だからこそ、そこは「私」を超えた、人間の世界、と。

 仮にチラッと見て、ポイであっても、一部は、それを見た人の脳に残る。
それが集合され、やがて人間全体へと伝わっていきます。
「はやし浩司」という個人の名声にこだわれば、「本」が有効です。
また「本」でなければなりません。

 しかしどうせ死ねば、私は、この宇宙もろとも、消えてなくなるわけです。
生まれる前の状態に戻り、億年のその億倍の、「虚」という無の世界に戻るわけです。
だからこそ、私はこう考えます。

 何も本にこだわる必要はないのでは……と。

 ……もうすぐ、浜松に着きます。
(現在、新幹線の中です。
つづきは、またあとで書きます。)

 それにもう一つ。

 私は現在、毎日、50〜100枚の原稿を書いています。
単行本であれば、たいてい120〜140枚で、1冊の本になります。
ですから単行本になおせば、毎月、少なくとも、3〜4冊の本を書いていることになります。

 しかしご存知のように、本というのは、本当に、めんどうです。
出版社とのやりとりだけで、うんざりします。
ていねいな出版社になると、校正だけで、数往復します。
それよりも、私にとって大切なことは、こうしてものを書き、すべてを発表していくことです。
多少荒っぽくても、「生」の自分をさらけ出す。
またそのほうが、「影響力」もあります。
それができるのは、やはりインターネットです。

 まだまだ信頼性もなく、玉石混淆(こんこう)の世界ですが、やがて淘汰され、洗練されていく
ものと思います。
私はそれを信じていますし、もうこの流れを止めることは、だれにもできないと思います。

 で、私の場合ですが、「本」はよく買います。
週に、5〜6冊、雑誌や単行本を買います。
しかしそのほとんどは、「資料」として使える本です。
「著者」という著者が書いた本ではなく、「資料」です。
それをもとに、考えて書くのは、あくまでも私。
その主導権だけは、だれにも渡したくありません。

 では、今、掛川の駅を出ましたので、一度、ここでメールを送っておきます。

はやし浩司

(2012年3月31日、鎌倉にて、田丸謙二先生に会う。)

平塚市・サンライズホテルに一泊する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……2009年6月に書いた原稿より)

●無料の植物観察会

昨日、講演をさせてもらった、S小学校の校長から、こんな話を聞いた。
なんでもその老人は、今年84歳になるという。
元、小学校の教師。
毎月、一回、植物観察会を開いているという。
無料で開いているという。

日時と集合場所が、毎月、決まっている。
が、集まる会員と人数は、そのつどちがうらしい。
雨の日などは、ゼロになることもあるという。
が、その老人は休むということをしない。
雨の中で、会員が来るのをじっと待っているという。
そして時刻になっても、だれも来ないと、それを確かめたあと、その場を離れて、家に帰る、と。
 
その話を聞いて、「すばらしい」と思う前に、私自身の近未来の目標を示してもらったようで、う
れしかった。
「私もそうしたい」と。

●老後の生きがい

 私自身もそうだったが、(老後の生きがい)について、みな、あまりにも安易に考えすぎ
ている。
「安易」というより、「何も考えていない」。

 「老後になったら、休む」とか、「遊ぶ」とか言う人は多い。
しかし「遊べ」と言われても、遊べるものではない。
「休め」と言われても、休めるものではない。
だいたいた、遊んだからといって、それがどうなのか? 
休んだからといって、それがどうなのか? 
私たちが求めているのは、その先。「だからそれがどうしたの?」という部分。
つまり、(生きがい)。

 もしそれがないようだったら、私のように死ぬまで仕事をするということになる。
仕事をつづけることによって、老後になるのを、先送りすることができる。
が、仕事がいやなのではない。
仕事ができるということも、喜びなのだ。
その(喜び)を絶やさないようにする。

 目が見える。音が聞こえる。
ものを考えることができる。
体が動く。
……それらすべてが集合されて、(生きる喜び)につながる。

●自分との戦い

 その老人の気持ちが、痛いほど、私にはよく理解できる。
その老人にしてみれば、それが(生きがい)なのだ。
雨の日に、ひとりで、どこかで待つのはつらいことだろう……と、あなたは思うかもしれない。
「なんら得にもならないようなことをして、何になるだろう」と思う人もいるかもしれない。
しかしその老人は、そういう世俗的な同情など、とっくの昔に超越している。
そこらのインチキ・タレントが、名声を利用して開くチャリィティ・コンサートとは、中身がちがう。
心の入れ方がちがう。
(みなさんも、ああした偽善にだまされてはいけない!)

 その老人にしてみれば、参加者が来ても、また来なくても、かまわない。
たった1人でもよい。
多ければ多いほど、やりがいはあるだろう。
しかし(やりがい)イコール、(生きがい)ということでもない。
つまりそれは他者のためではない。
自分自身のため。
老後の生きがいというのは、つまるところ、(自分自身の生きがい)。
それとの戦いということになる。

●統合性は、無私無欲で……

 まだその芽は、小さいかもしれない。
しかしその心は、私も大切にしたい。

何度も書くが、「老後の統合性」は、無私無欲でなければならない。
そこに欲得がからん
だとたん、統合性は意味を失い、霧散する。
仮にその老人が会費なるものを徴収して、観察会を開いていたとしたら、どうだろうか。
最初のうちは、ボランティア(=無料奉仕)のつもりで始めても、そこに生活がからんできたとた
ん、(つもり)が(つもり)でなくなってしまう。
「今日は1人しか来なかった……」という思いは、そのまま落胆につながる。
「雨の中で待っていたのに、だれも来なかった。
みな、恩知らず」と思うようになったら、おしまい。

 だったら、最初から、無私無欲でなければならない。
またそうでないと、つづかない。
こうした活動は途切れたとたん、そこで終わってしまう。
生きがいも、そこで消えてしまう。
つまりそれがいやだったら、最初から無私無欲でやる。
何も考えず、無私無欲でやる。

 もちろん私にもいくつかの夢がある。
そのひとつは、「子育て相談会」。
今まで積み重ねてきた経験と知恵を、若い親たちに伝えたい。
もちろん無料で。
もちろん損得を考えることなく。
そうした計画は立てている。

 今は、インターネットを利用して、その(まねごと)のようなことをしている。
しかしそれもやがて限界に来るはず。
無私無欲とは言いながら、いつもどこかで、何かの(得)を考えている。
アクセス数がふえれば、うれしい。
ふえなければ、とたんにやる気を失う。
つまりそれだけ私の心が不純であることを示す。

 もっとも仕事ができるといっても、あと8年。
70歳まで。
そのころまでに、私の統合性を確立したい。
少しずつだが、その目標に向かって、進みたい。
そしていつか……。

 どこかの会場で、ひとりでポツンと、来るか来ないかわからない親を待つ。
そして時間が来て、だれも来なくても、そんなことは気にせず、鼻歌でも歌いながら、会場を片
づける。
そんな日が来ればよい。
そんな日が来るのを目標にしたい。

(注)統合性の確立……(やるべきこと)と(現実に自分がしていること)を一致させることをいう
(エリクソン)。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 植物観察会 老後の生きがい 統合性 小田原 サンライズホテルにて)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【北朝鮮問題vs私たち日本人の問題】
●迎撃ミサイル発射、反対!

●人工衛星

 「週刊現代」(今週号)を読んだ。
グラビアの中で、北朝鮮の人工衛星を紹介していた。
前回発射したとき、ミサイルに搭載したものという。

 それを評して、週刊現在誌は、「おもちゃイムニダ」と書いていた。
たしかに、「おもちゃ」。
「おもちゃ」以下の「おもちゃ」。

 サッカーボール、あるいはミラーボールのような球体に、アンテナが4本ついていた。
それだけ。
アンテナといっても、明らかにラジカセのアンテナ様(?)。
よく見ると、そのアンテナも、途中で、伸縮できるようになっている。
いったいだれが、どのようにして伸ばしたり、縮めたりするのか?

本体は球形だが、太陽電池らしいものはない。
電波を地上へ送るにも、かなり強力なバッテリーが必要なはず。
バッテリーは、どうするのか。
さらに制御装置らしきものものない。
素人の私が見ても、チャチ。
チャチすぎて、話にならない。

 その前のページでは、日本の宇宙ステーションの製造現場を紹介していた。
それと比較しても、一目瞭然。
あれは「おもちゃイムニダ」。

 北朝鮮の人たちは、あんなおもちゃを見せつけられ、それが本当に人工衛星と思い込んでい
るのだろうか。

 週刊現代誌を買い、BLOGの中でその写真を紹介しようと思ったが、やめた。
紹介するまでもない。
それほどまでにチャチな人工衛星だった。

●赤恥

 で、私は確信した。
北朝鮮は、ミサイルなど発射しない。
……できない。
その技術もさることながら、仮に発射したとしても、宇宙には届かない。
太平洋上のどこかに墜落する。
が、そこでは、世界中の艦船が、待ち構えている。
うようよと待ち構えている。
そのあたりは、深度40メートル前後という。
当然、人工衛星(?)なるものは、回収される。

 そのとき人工衛星がハリボテであるとわかったとしたら……。
北朝鮮は、赤恥をかく程度ではすまない。
今までのウソが全部、バレてしまう。
(といっても、北朝鮮も、そこまでバカではないだろう。
回収されても困らないように、自爆装置くらいはつけているだろう。
自爆装置といっても、爆薬を詰めておけば、それでよい。)

 さらに一言。

 今回の人工衛星は、気象衛星という。
もしそうなら、飛行制御装置はもちろん、姿勢制御装置は、どうなのか。
地上から、どうやってそれを制御するのか。
宇宙から届く電波を、どうやって受信するのか。
少なくとも地上を撮影するカメラくらいは、ついているだろう※。

 だから私は、北朝鮮にこう忠告する。
「今回のミサイル発射実験は、やめたほうがいい。赤恥をさらすだけ」と。

(注※……韓国の報道)
『韓国政府関係者は「観測衛星は通常、先進国の技術でも1500キロを超え、100キロの大
きさでは『実用』からほど遠い。核弾頭の小型化を見越した『模擬弾』の意味合いが強い」』(M
SNニュース)と。

●アメリカの反応

 それを熟知しているのか、アメリカは北朝鮮の代表に、こんな提案をしている。
「人工衛星なら、中国やロシアに打ち上げてもらってはどうか?」と。

 が、北朝鮮が「YES」と言うわけがない。
それがわかっていながら、アメリカは、そう提案した。

 Yahooニュースは、こう伝えている。

『……北朝鮮外務省・李根米州局長とアメリカ政府の元高官らが先月31日と今月1日、ドイツ
東部で非公式の協議を行った。
しかし、双方の溝は埋まらなかったもよう。

 セミナーを主催した民間団体の関係者によると、アメリカ側は「人工衛星の打ち上げであれ
ば、中国やロシアに依頼すればよい」と提案したが、北朝鮮側はそれを受け入れなかった』(以
上、Yahooニュース)と。

●周囲科学

 ひとつの科学が進歩するためには、それを支える周囲科学が必要である。
同じように、人工衛星を作るには、周囲技術が必要である。
部品1個作るのにも、必要である。
いわんや、人工衛星。

少し前まで、乾電池すら自前で作ることができなかった国である。
(恐らく、今も、できないだろう。)
そんな国が、人工衛星など、作れるわけがない。
いわんや、それを宇宙に飛ばすとは……?

 もしそれができるとすれば、イランから技術とロケット本体を手に入れたと考えるのが妥当。
イランはすでに人工衛星を軌道に乗せることに成功している。
しかし仮にそうであったとしても、今回のミサイル発射実験には、いくつかの無理がある。

 その第一。

発射場への鉄道線路は、つい昨年末(2011)に完成したばかりという(報道)。
一事が万事というか、であるなら、それまでの資材などは、どうやって運んでいたのか。
しかも発射場に立っているクレーンは、ビル建設用のクレーンという。
発射台すら、ない。
知れば知るほど、お粗末。
そんな機材で、本当にロケットなど、打ち上げることができるのだろうか。
報道によれば、発射場にしても、一部、未完成という※。

 ……ということを考えていくと、今回のミサイルの発射実験は、無理。
で、今ごろ、内部では、こんな相談をしているにちがいない。

幹部A「とにかく、ある程度、飛べばいい」
幹部B「衛星が回収されたら、どうしますか」
幹部C「……発射方向を変えることはできないか?」
幹部D「それもひとつの手だな」
幹部E「いいか、ウソがバレたら、俺たちみな、公開処刑だぞ」
幹部F「……そうなったら、ただちに脱北しよう」と。

(注※……中央日報紙より)
『……中央日報は2日、北朝鮮が長距離弾道ミサイル発射実験とみられる「衛星」打ち上げを
予告している平安北道東倉里の発射施設について、一部未完成とみられると報じた。
真偽は不明。施設の衛星写真を見た韓国政府高官の話としている。

 それによると、衛星の運搬ロケット「銀河3号」を発射台に据えるため設置される「発射整備
台」が見当たらず、発射施設にタワークレーンが置かれているという。
高官は、発射整備台の設置工事が遅れ、クレーンで代用するとみられると指摘したという』(共
同)と。

●戯言(たわごと)

 こうしたことを書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「貧しい国が、精一杯、背伸びをし、がんばっている。
そういう国を笑ってはいけない」と。

 しかしそれは北朝鮮の現状を知らない人が口にする、「戯言(たわごと)」。
独裁政権を維持するために、おびただしい数の人たちが、処刑されたり、収容所へ送られたり
している。
現在の今ですら、その数は、20万人とも、それ以上とも言われている。
つい先日は、軍の高官らが、迫撃砲で、処刑されたという。
「髪の毛一本、残すな」という、金正恩の命令によるものだという。

 なお一度収容所へ送られたら最後、生きて帰ってくる人は、ほとんどいないという。

●反面教師

 この先のことはわからない。
ミサイル発射実験につづいて、核実験も用意しているという報道もある※(韓国紙)。
やることなすこと、私たちの常識では理解できない。
狂っている。
が、どうであれ、私たちは今を生きる、生き証人として、北朝鮮の現実を、しっかりと記憶してお
く必要がある。

 歴史は繰り返す。
過去にも同じようなことがあったし、未来にも、同じようなことはある。
そういうときのために、しっかりと記憶しておく。
そして二度と、現在の北朝鮮がしているようなことを、私たちは繰り返してはいけない。
私たちがいつか、同じように狂わないという保証は、どこにもない。

 北朝鮮を非難したり、笑ったりするのは簡単なこと。
しかし私たち日本人だって、ほんの70〜80年前には、同じようなことをしていた。
それを思うなら、もう少し謙虚になってもよいのでは。
時代が変われば、記憶も薄れ、結局はまた、私たちは、同じことを繰り返す。
それを北朝鮮を通し、私たちは学ぶ。
今、学ぶ。
北朝鮮は、まさにその反面教師ということになる。

(注※……TBS)
『韓国の国防省は、北朝鮮がミサイル発射実験とみられる「衛星」を打ち上げた場合、あわせ
て核実験も行う可能性があるとの見方を示しました。
 「北朝鮮がミサイルを発射した後、短期間のうちに核実験を行う素地があり、状況によっては
追加の軍事挑発も憂慮されます」(韓国国防省スポークスマンの会見)』(以上、TBS)と。

●維新の会

 そのひとつというわけでもないが、私個人は、「維新の会」なるものに、あってはならない(危
険なもの)を感ずる。
「大躍進」というのは、結構なことだが、政治の一貫性ということを考えるなら、けっして望ましい
ことではない。

 自民党がだめだったから、民主党が大躍進した。
が、今度は、民主党がだめだから、維新の会?

 維新の会が危険というのではない。
日本人がもつ、短絡性というか、後先を考えない激情性に、危険なものを感ずる。
つまり極端すぎる。
ひとつまちがえば、この日本は、たいへんなことになる。

 「維新の会」については、どういう方向性を持っているか、もう少し冷静に、見てみる必要があ
るのではないだろうか。
支持するのは、それからでも遅くない。
現に今、国歌だの何のと、橋下氏は、かなり右翼的な色彩の濃い発言を繰り返している。
あとになって、私たちは判断を誤りました、ではすまない。

 金正恩も若い。
橋下 徹も若い。
ムードだけに酔いしれていると、それこそ、たいへんなことになる。
 
●TK先生へ

 TK先生から、たった今、メールが届いた。
現在TK先生は、自宅を改築中。
その間だけということで、現在、近くの有料老人ホームに入居している。
その返事。

『TK先生へ

近くにいれば、毎晩でも話に行けるのに残念です。
私は実際には、祖父母の手によって育てられました。
また晩年の母は、2年間、私が世話をしました。
ワイフにはさせませんでした。
老人の世話には、慣れています。
そこらの介護士より、老人の扱い方がうまいのは、そのためです。
まったく気になりません。

実兄も、最後はボケ、いろいろありましたが、弟のように感じました。
だから先生の世話など、何でもありません。
多分先生のことだから、そういうところで、自分の近未来を見、ショックを受けられたのだろうと
思います。
気持ちはよくわかります。
私も、もし自分に経験がなければ、ショックを受けただろうと思います。

しかしね、楽しめばよいのです。
私はいつも特養へ母を見舞いに行くたびに、周囲の老人たちとバカ話ばかりしていました。
が、ワイフはだめです。
老人と同居した経験がありません。
老人の世話をした経験もありません。
母が家にいる間中、「食事はどうの?」「運動はどうの?」と、そんな心配ばかりしていました。

老人には老人の世界がありますから、そっとしたいようにさせておくのがいちばんよいのです。

ただ、事故が3度つづき、それでこわくなって、特養へ入れました。
どれも、あわや……というような事故でした。
(母は昼間は眠り、夜中に動きまわりましたから……。
それにたとえ事故死であっても、不審死ということで、警察が介入してくると言われました。)
で、ケアマネに相談すると、「24時間、ついていてください」「夜は添い寝をしてください」と。
それでGIVE UP!、です。
私はその間、ただの一度も、ほかの息子や娘たちのように、グチを言ったことはありません。
つまりそういうことが、さらっとできるのです。
いつも祖父母のふとんに潜り込んで寝ていましたから……。
寒い夜は……。
中学生くらいになっても、です。

でもね、先生、こんなことを発見しました。
私も、この2年間で、2度、倒れました。
(軽いのを含めると、3度です。)
一度は、気を失い、大きなガラス窓を割ってしまいました。
そのときのことです。
死ぬことは、まったくこわくないということを知りました。
実に、穏やかで、安らいだ世界です。
「ああ、これで死ねる」とさえ、思いました。
でね、私はこう発見したのです。
脳には、そのときのために、すでにそのようなプログラムがすでにインプットされている、とで
す。
前脳と後脳の中間部あたりに、そういう部分があるそうです。

このことは逆に、最近、わかってきたのですが、あの新生児(赤ん坊)にも、そういう脳の機能
があるのだそうです。
あの新生児が、親の愛をひきつけようと、無意識の部分で、行動しているということがわかって
きました。
驚きでしょ!

つまり人間の脳のもつ、多様性というか、生まれてから死ぬまで、それぞれの段階で、プログラ
ムがちゃんとインプットされているというわけです。
だから死ぬのはこわいですが、死の瞬間は、みな、穏やかで、安らいだ気分になる。
それを発見しました。

……やがてすぐ、私も先生のあとを追いかけます。
さみしいというより、楽しみです。
だからいっしょに、残された有意義に過ごしましょう。
先生も、ジジ臭いことを言わないで。

何かとたいへんでしょうが、先生は、けっして独りではないし……。
また何かあれば、連絡してください。
パソコンの分野でしか力になれませんが、よろしく!!!!!

はやし浩司』

●160万人

 話を戻す。

 北朝鮮は、早晩、かならず崩壊する。
が、日本にとっての問題は、それから。
韓国主導になるか、中国主導になるかは別として、日本は改めて戦争責任を問われることに
なる。
すでに北朝鮮は、中国を介し、補償金を打診してきている。
その額、何と100兆円!
もちろんそれで問題が解決するわけではない。
日本のすぐ隣に、巨大な反日国家が誕生することになる。
陸軍だけで、計160万人。
それこそその気にさえなれば、日本は、ほんの数日で、占領されてしまう。
仮に占領されないにしても、それ以後、日本は、今以上にその圧力を感じることになる。
ビクビクしながら、生きることになる。

 日本は、はたして、そのストレスに耐えることができるだろうか。

 が、問題は、さらにつづく。

●日本が蒔いた種

 元はと言えば、日本が蒔いた種。
それゆえに、最近の若い人たちは、こう言っている。
「ジジババの責任」と。
それが反世代闘争(=老人への反感)の原動力となっている。

今ではジジババ・ゴミ論がさらに進み、ジジババ害悪論まで、飛び出している。
つまりこの先、私たちジジババに対する風当たりが強くなることはあっても、和らぐことはない。
団塊の世代以上の人たちにとっては、たいへん住みにくい世界が、そこで待ち構えている。

 ……とまあ、そこまで考える必要はないかもしれない。
しかし北朝鮮の問題は、回り回って、やがてそのあたりまでやってくる。
経済が落ち目になったら、なおさら。
少なくとも、「お爺ちゃん、お婆ちゃん、ありがとうございました」「お爺ちゃん、お婆ちゃん、ゆっ
くりと休んでいてください」という時代には、ならない。
その覚悟だけは、今からしておいたほうがよい。

●迎撃ミサイル発射、反対!

 以上のような理由から、私は迎撃ミサイル発射については、明確に反対する。
北朝鮮のミサイルに当たっても、はずれても、「発射した」という事実は、この先、大きな傷とし
て、残る。
北朝鮮に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれない。
北朝鮮の立場で、それを考えてみると、よくわかる。

 北朝鮮にとって、戦争という突破口をいちばん名分化しやすいのは、この日本である。
アメリカや韓国ではない。
この日本である。

ならば「日本にはアメリカがついている」と考えている人は多い。
しかしそれは日本という国が、民主党政権になったときに、すでに日米安保条約は、形骸化し
た。
欧米では、「反米主義の左翼政権誕生」と、大々的に報じられた。
事実、民主党政権が最初にしたことは、中国詣で。
アメリカ詣でではなく、中国詣で。
あの小沢一郎は、300人近い国会議員や随行者を連れ、イのいちばんに、中国詣でをしてい
る。

 さらに民主党政権は鳩山氏を東南アジアに送り、アメリカ抜きの「東アジア共同体構想」をぶ
ちあげた(2009年9月)※。
欧州連合(EU)をモデルにしたものだが、これがいかにアメリカを怒らせたかは、想像するに
難(かた)くない。
現在、極東アジア情勢は、完全に日本をはずしてことが進んでいる。
米韓主導。
結論から先に言えば、戦後、日本は、今、最大の危機的状況の中に置かれている。

 ……だからここは慎重に!、……ということで、迎撃ミサイルの発射には、慎重の上に慎重
であるべき。
つまり反対!
迎撃の構えは見せても、迎撃してはいけない。
形はミサイルでも、中身はハリボテ。
そんなミサイルを本気で迎撃する必要はない。
その費用、1兆円以上!
が、それだけではない。
へたに迎撃すれば、中国を利するだけ。
中国はそれを見て、日本ならびにアメリカの迎撃システムや能力を知ることになる。

(注※……東アジア共同体構想、Yahooキーワードより)
『東アジア各国が政治、経済、安全保障などで連携し共存と繁栄を目指す構想。
民主党は衆院選マニフェスト(政権公約)でアジア外交強化の取り組みとして明記。
アジア諸国と信頼関係を築き通商や金融、エネルギー、環境、災害救援、感染症対策などの
分野で協力体制を確立するとした。
参加国には、中韓両国や東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国を想定。
米国、インド、オーストラリア、ニュージーランドなどの扱いが焦点となる』(以上、Yahooキーワ
ード)と。

●茶番劇

 最後に一言。

 今回の北朝鮮によるミサイル発射実験も、結局はアメリカvs中国という、2大国家のはざまで
起きる茶番劇に過ぎない。

 アメリカにしてみれば、北朝鮮の核兵器、およびミサイルなど、痛くもかゆくもない。
(テロ集団に拡散することは恐れているが……。)
アメリカにしてみれば、中国こそが、最大の脅威。

 一方、中国にしても、事情は同じ。
北朝鮮の核兵器、およびミサイルなど、痛くもかゆくもない。
中国にしてみれば、アメリカこそが、最大の脅威。
だからその水面下では、たがいに謀略につづく謀略を繰り返しているはず。
おぼっちゃま然としている日本には、それがわからない。
日本が立ち入るスキなど、どこにもない。

 ただ心配なのは、今、日本はその存在感(?)を示そうと、焦っていること。
その(焦り)が、日本を暴走させる。
野田首相は、厳に、慎重であってほしい。

●TK先生より

 メールを開くと、TK先生から、返事が届いていた。

『林様:ご親切なメール有難うございました。
大変に心を打たれるメールでした。
御元気そのもののように見えた貴君が、二度もお倒れになったと聞いて驚きました。
これからはお互い様歳をとる一方です。
くれぐれもご注意して下さい。
大切な人ですから。
私にとってお迎えが来るということは亡くなった「マミ」(=奥様)や、娘が待っていて久しぶりに
会え、一緒になれる期待が感じられます。
なるようにしかならないこれからですが、お互いに頑張りましょう。
くれぐれもお大事に。 
TKより』

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 北朝鮮問題 はやし浩司 2012−04−02)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司 

【焼津・Hotel Ambia 松風閣にて】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

午後になり、少し昼寝。
起きたのが、1時半。
「2時に行こう」と私。

目的地は焼津(やいづ)。
焼津の市内で、夕食。
そのまま近くのホテルで1泊。
Hotel・Ambia・松風閣。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●北朝鮮の人工衛星(光明星1号)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日、北朝鮮の人工衛星について書いた。
アクセス数が多かったこともあるが、
書き足りなかった点もあるので、改めて
書き足してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 ここ数日、週刊現代誌に載っていた、北朝鮮の人工衛星なる模型が気になってしかたない。
現在、ピョンヤンの「電子工業館」に展示してある模型は、前回、北朝鮮が打ち上げた人工衛
星、「光明星1号」の模型という。
模型だから、本物ではない。
しかしまったくの、創造物とは言い難い。
もちろん、おもちゃではない。

 こうした展示館で模型を飾るときは、常識として、できるだけ本物に近いものを並べる。
たいていは、予備に作った本物を並べる。
古今東西、どこの展示館でも、そうしている。

 だから週刊現代誌で紹介されている人工衛星は、かぎりなく本物(?)に近いものと考えてよ
い。
しかし疑問がいくつかある。

●スプートニック1号、2号

 北朝鮮の人工衛星を見て、まず気がつくのは、その形状。
一見して、旧ソ連が打ち上げた、スプートニック1号および2号にそっくり。
球形で、アンテナが斜め後方に4本、伸びている。

スプートニック1号および2号の写真と、北朝鮮の人工衛星の写真を並べて、紹介する。

 なおスプートニック1号、2号というのは、スプートニク計画により、1950年代後半に旧ソ連
によって地球を回る軌道上に打ち上げられた、人類初の無人人工衛星をいう。

(1950年代だぞ!)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7044512175/" title="732psupu-
tonikku by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7193/
7044512175_60a12b8387_b.jpg" width="732" height="600" alt="732psupu-tonikku"></a>
(スプートニック1号)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6898407358/" title="Sputnik2_vsm 
by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7205/6898407358_
8f7910910c.jpg" width="214" height="350" alt="Sputnik2_vsm"></a>
(スプートニック2号)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6898398302/" title="img321 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7191/6898398302_
b98b867419_b.jpg" width="1024" height="1002" alt="img321"></a>
(北朝鮮の人工衛星)

 この3枚の写真を見比べただけでも、北朝鮮の人工衛星がいかに「おもちゃ風」であるかが
わかる。
おもちゃでなければ、サッカーボール。
あるいはクラブやディスコの天井につり下げてある、ミラーボール。
週刊現代誌は、「おもちゃイムニダ」と皮肉っている。

●疑問(1)アンテナ

 アンテナを見たとき、最初にこう思った。
「これはラジカセのアンテナ?」と。

 よく見ると、1本のアンテナが3段に分かれている。
携帯用のアンテナなら、伸縮できるように、3段にしたりする。
しかし人工衛星では、それは必要ではない。
仮に必要であるとしても、いったい、だれがどのようにして伸したり、縮めたりするのか。

 が、さらに詳しく見ると、3段になったアンテナが、その接続部で、溶接らしきものがほどこし
てあるのがわかる。
写真でも見ても、それぞれの部分が、不揃いにふくらんでいる。

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7044495735/" title="img323 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm6.staticflickr.com/5345/7044495735_
a888b58597_b.jpg" width="559" height="1024" alt="img323"></a>
(北朝鮮の人工衛星・3段になったアンテナ)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7044495397/" title="img322 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7092/7044495397_
f12b434a52_b.jpg" width="748" height="827" alt="img322"></a>
(北朝鮮の人工衛星・アンテナ付け根部分)

 仮にこれが人工衛星であるとしても、数百億円もかけて宇宙へ飛ばす価値があるのだろう
か。
反対に、数百億円もかけて飛ばすくらいなら、もう少しその価値のあるものを打ち上げるので
はないだろうか。
この矛盾を、どう考えたらよいのか。

●着色の謎

 謎はまだつづく。

 宇宙では、温度の差が問題となる。
たとえば月面では、昼は+120℃、夜はー150℃になる。
月は自転をしているので、昼の蓄熱と夜の冷却が繰り返され、まだ温度差は小さい。
では、宇宙ではどうか。
回転していなければ、太陽の光の当たる表面は、限界温度、裏はー270℃近くになる。
 
 そのため人工衛星は、温度を平均化するため、回転するようにできている。
とくに人間が居住するような人工衛星は、そうである。

 が、もし機器を積んだだけの人工衛星であれば、「熱」だけを考えればよい。
電子機器は、「冷え」には強いが、「熱」には弱い。
そこで人工衛星は、スプートニック1号、2号のように、熱を反射するため、ピカピカに磨かれ
る。
ところが、である。
北朝鮮の人工衛星は、ピカピカどころか、着色してある。
わざわざ着色した理由は何なのか。
つまりここが不自然。

●本物と模型

 私は子どものころから、プラモデルを作るのが趣味だった。
そのプラモデル。
よくできたプラモデルほど、本物に近い。
たとえば飛行機にしても、それぞれの部品には意味がある。
意味のない部品は、ない。
「こんなところに、こんなものがついている。何だろう……」と考えていくと、かならず、その答が
ある。
とくに戦闘機のばあいは、無駄がない。
もちろん飾りもない。
(塗装は別だが……。)

 一方、たとえばガンダムのようなプラモデルは、言うなれば、「ウソの塊(かたまり)」。
もっともらしい部品は無数についているが、みんなウソ。
そこにある部品の意味を考えても意味は、ない。
すべてが作者の想像力から生まれた、「飾り」である。

 つまり本物をもとにしたプラモデルと創作をもとにしたプラモデルのちがいは、ここにある。

 で、人工衛星のばあいは、どうか。
……とあえて問題を提起するまでもなく、無駄なものは、いっさい、ない。
飾りも、いっさい、ない。
戦闘機のような塗装も、ない。
そんな必要もないし、そんなことをすれば、重くなるだけ。

 その人工衛星に着色がしてある?
タイルごとに、2色が使われている?
しかも人工衛星の本体は、球形ではなく、多面体。
昔見た、ウルトラマンの映画にも、こんな人工衛星は出てこない。

●つづく疑問

 もう一度、スプートニック2号の写真を見てほしい。
スプートニック2号は、ロケット本体に、きちんと格納してある。
つまりこの状態で宇宙へ飛んでいく。
つまり宇宙へ届いたら、カプセルが開き、人工衛星は外へ放たれる。
が、問題は、そのとき。
人工衛星が宇宙へ放たれると同時に、当然、アンテナは、傘を開くように開かれる。

 そこでスプートニック1号の写真をよく見てほしい。
アンテナの付け根部分である。
たぶんバネ式になっていて、アンテナが開く構造になっているのがわかる。
かなり複雑な構造をしている。

 一方北朝鮮の光明星1号は、見るからにラジカセのアンテナ風。
自動的に開くとか、そういった構造になっていないことがわかる。
「どうやって宇宙で開くのだろう」と考えるだけ、ヤボ。
このアンテナでは、宇宙で、開くことはできない。
が、展示してある光明星1号のそれは、ちゃんと開いている。

●結論

 北朝鮮の人工衛星は、どう見ても人工衛星ではない。
アンテナひとつとりあげても……というか、私たちの家にあるラジカセのアンテナと見比べてみ
ればよい。
取りつけ方、形状ともに、そっくり!

 恐らく今回打ち上げるミサイルにしても、似たようなものが積んであるのだろう。
重さは、100キロという。
北朝鮮は、世界に公開すると言っている。
だったら、その衛星本体を見せればよい。
ちがうかな?

●夢

 北朝鮮の人工衛星の話はひとまず、ここでやめ、つぎの話。

 昼寝をしたとき、こんな夢を見た。
おもしろい夢だったので、ここに記録する。

 ……私は、どこかの山道を歩いていた。
その先には、幾重も、低い山が連なっていた。
私は、どこかの町、……たぶん浜松市をめざして歩いていた。

 が、ふとこんなことを考えた。
こんな山なら、エンジン付きのパラグライダーで飛び越えてやろう、と。

 もちろん私は、パラグライダーなるものには、乗ったことがない。
見たことはある。
山荘の空の上を、よく飛んでいる。
が、いくら飛び立とうとしても、空を、木々の枝が覆っていて、飛び立てない。
木々の枝が、電線のようになり、それをじゃました。

 そこで私はこう考えた。
棒高跳びで使うような棒を用意し、それでひとっ飛びに山を乗り越えてやろう、と。

 幸い棒はすぐ見つかった。
丸くて長い棒だった。
私はその棒をよじ上り始めた。
が、しばらく上っていくと、下から何人かの男たちも、いっしょに上ってくるのがわかった。
1人は、私のすぐ下にいた。

 気にはなったが、私は上を見、そのまま上りつづけた。
あとはそのまま向こう側へ倒れればよい。
それでこの深い山を、抜け出ることができるはず……。
というようなことを、心のどこかで考えていた。

 私は棒を上った。
かなり高いところまで上った。
雲が、はるか下に見えた。
が、やがて棒の先端に。
その先端には、小さな看板が打ちつけられていた。
見ると、それには、「神」と書いてあった。
それを見て、私は、「ああ、ここは天国」と思った。

で、その看板をつかもうとすると、その看板は、スーッと消えた。
手をよけると、その看板が現れた。
で、もう一度、その看板をつかもうとした。
やはり、同じように、その看板は、スーッと消えた。

 ……そこで目が覚めた。

●夢判断

 支離滅裂な夢だった。
が、意味がないわけではない。
自分なりに夢分析をしてみる。

++++++++++++++

山の中にいた……私の閉ざされた世界を、象徴している。閉塞感。
「抜け出たい」という思い……生への葛藤。あるいは束縛からの解放。
空を覆う木々の枝……生きることにまつわる障害の数々。
丸い棒……男の象徴。ジャックと豆の木の話に出てくる、豆の木。
棒を上る……どこか芥川龍之介の『蜘蛛の糸』様。
後からついてくる男……不安の象徴。強迫観念。
「神」と書いた看板……頂点をめざしたいという欲求。願望。
看板が消える……天国に到達できないという限界。それにまつわる、はがゆさ。葛藤。

++++++++++++++

●リビドー

 空を飛ぶという夢は、ときどき見る。
が、思うように飛べないときのほうが、多い。
あるいは飛んでも、うまくコントロールできない。
「夢判断」なるものによれば、いろいろに解釈できる。
が、ジークムント・フロイトなら、こう言うだろう。

「抑圧されたリビドー(性的エネルギー)の解放を求めて葛藤している」と。

 そう、このところ不完全燃焼感が強い。
何をやっても、中途半端。
達成感や満足感がない。
何かをしなければと思うが、その何かが、何であるかさえわからない。
そこにあるはずなのに、手が届かない。

 このはがゆさ。
それが先に書いた夢の中に、凝縮されている。
が、精神科医なら、たぶん、こう判断するだろう。
「この男は、かなり強い強迫感をもっている」と。

●強迫性障害

 ウィキペディア百科事典では、つぎのように定義している。

『強迫症状とは強迫性障害の症状で、強迫観念と強迫行為からなる。
両方が存在しない場合は強迫性障害とは診断されない。
強迫症状はストレスにより悪化する傾向にある。

(1)強迫観念(きょうはくかんねん)とは、本人の意志と無関係に頭に浮かぶ、不快感や不安
感を生じさせる観念を指す。
強迫観念の内容の多くは普通の人にも見られるものだが、普通の人がそれを大して気にせず
にいられるのに対し、強迫性障害の患者の場合は、これが強く感じられたり長く続くために強
い苦痛を感じている。
ただし、単語や数字のようにそれ自体にはあまり意味の無いものが執拗に浮かぶ場合もあ
る。

(2)強迫行為(きょうはくこうい)とは、不快な存在である強迫観念を打ち消したり、振り払うた
めの行為で、強迫観念同様に不合理なものだが、それをやめると不安や不快感が伴うために
なかなか止めることができない。
その行動は患者や場合によって異なるが、いくつかに分類が可能で、周囲から見て全く理解
不能な行動でも、患者自身には何らかの意味付けが生じている場合が多い』(以上、ウィキペ
ディア百科事典より)と。

 強迫性障害(患者数)と診断される日本人は、100万人とされる(ウィキペディア百科事典)。
人口の約2%(世界共通)だそうだ。

 この数を多いとみるとか、少ないとみるか……。
が、内容は、一様ではない。

 ウィキペディア百科事典では、つぎのように分類している。

『(1)不潔強迫……潔癖症とも言われている。手の汚れが気になり、手や体などを何度も洗わ
ないと気がすまない。
体の汚れが気になるためにシャワーや風呂に何度も入る患者によっては電車のつり革を触る
ことが気持ち悪くて手袋をはめて触ったり、お金やカード類も外出して穢れた、汚れたという感
覚を持つため帰宅の度に洗う場合もある。

(ただし、本人にとって不潔とされるものを触ることが強い苦痛となるため、逆に身体や居室に
触れたり清掃することができずに、かえって不衛生な状態に発展する場合もある。手の洗いす
ぎから手湿疹を発症する場合もある)など。

(2)確認行為
確認強迫とも言う。外出や就寝の際に、家の鍵やガスの元栓、窓を閉めたか等が気になり、
何度も戻ってきては執拗に確認する。
電化製品のスイッチを切ったか度を越して気にするなど。

(3)加害恐怖
自分の不注意などによって他人に危害を加える事態を異常に恐れる。
例えば、車の運転をしていて、気が付かないうちに人を轢いてしまったのではないかと不安に
苛まれて確認に戻るなどの行為。
赤ん坊を抱いている女性を見て、突如としてその子供を掴んで投げてしまったり、落としたりす
るのではないかというような、常軌を逸した行為をするのではないかという恐怖も含まれる。

(4)被害恐怖
自分が自分自身に危害を加えること、あるいは自分以外のものによって自分に危害が及ぶこ
とを異常に恐れる。
例えば、自分で自分の目を傷つけてしまうのではないかなどの不安に苛まれ、鋭利なものを異
常に遠ざけるなど。

(5)自殺恐怖
自分が自殺してしまうのではないかと異常に恐れる。

(6)疾病恐怖
または疾病恐怖症など。
自分が重大な病や、いわゆる不治の病などにかかってしまうのではないか、もしくは、かかって
しまったのではないかと恐れるもの。
HIVウイルスへの感染を心配し、血液などを異常に恐れたりするものも含まれる。

(7)縁起恐怖
縁起強迫ともいう。
自分が宗教的、もしくは社会的に不道徳な行いをしてしまうのではないか、もしくは、してしまっ
たのではないかと恐れるもの。
信仰の対象に対して冒涜的な事を考えたり、言ってしまうのではないかと恐れ、恥や罪悪の意
識を持つ。
例えば、神社仏閣や教会において不信心な事を考えてしまうのではないか、聖典などを毀損し
てしまうのではないか、というもの。
ある特定の行為を行わないと病気や不幸などの悪い事柄が起きるという強迫観念に苛まれる
場合もあり、靴を履く時は右足から、などジンクスのような行動が極端になっているものも見ら
れる。

(8)不完全恐怖
不完全強迫ともいう。物を秩序だって順序よく並べたり、対称性を保ったり、本人にとってきち
んとした位置に収めないと気がすまず、うまくいかないと不安を感じるもの。
例えば、家具や机の上にある物が自分の定めた特定の形になっていないと不安になり、これ
を常に確認したり直そうとする等の症状。
物事を進めるにあたって、特定の順序を守らないと不安になり、うまくいかないと最初から何度
もやり直したりするものもある。
郵便物を出す際のあて先や、書類などに誤りがないかと執拗にとらわれる場合もあるため、結
果として確認行為を繰り返す場合もある。

(9)保存強迫
自分が大切な物を誤って捨ててしまうのではないかという恐れから、不要品を家に貯めこんで
しまうもの。
本人は不要なものだとわかっている場合が大半のため、自分の行動の矛盾に思い悩む場合
がある。

(10)数唱強迫
不吉な数やこだわりの数があり、その数を避けたり、その回数をくり返したりしてしまう。
数字の4は「死」を連想するため、日常生活でこの数字に関連する事柄を避ける、などの行
為。

(11)恐怖強迫
ある恐怖あるいはことば、事件のことを口にできない。
そのことを口にすると恐ろしいことが起こると思うため口にできない。
この他、些細であったり、つまらない事柄、気にしても仕方の無い事柄を自他共に認める状態
にあっても、これにとらわれ(強迫観念)、その苦痛を避けるために生活に支障が出るほど過
度に確認や詮索を行う(強迫行為)』(以上、ウィキペディア百科事典より。詳しくは……、http:/
/ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E8%BF%AB%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

●私のばあい

 私のばあい、(1)〜(11)のどれにも当てはまらない。
「そういうことも、たまにはあるな」という程度。
……ということで、ウィキペディア百科事典を読み、少し安心する。
(自分でそう思っているだけかもしれないが……。)
と、同時に、「あの人が、そうだ」「この人も、そうだ」と、いろいろな人が頭の中に思い浮かぶ。

 が、ここで誤解してはいけない。
だれにも、ここに書いたような傾向はある。
ない人はいない。
あとは軽重の問題。
それが重くなり、通常の社会生活がむずかしくなった状態を、「強迫性障害」と呼ぶ。
ここに書いてあることがあてはまるからといって、「障害者」ということにはならない。
(あてはまらないから、強迫性障害でないということにもならないが……。)

●出版の世界

 私はこうしていつもものを書いている。
が、けっして、何かに追い立てられて書いているのではない。
むしろ逆。
それが楽しいから、書いている。

 本を読むのが好きな人がいるように、私は、ものを書くのが好き。
書いているときだけ、私は私でいられる。
反対に書かないでいると、頭の中が、すぐパンクしそうになる。
で、それを書いて、吐き出す。
その爽快感がたまらない。
前にも書いたが、ひどい便秘症の人が、BENを、ドサッと出したときの気分に似ているのでは
……?
だから書く。

 で、たまたま今日も、田丸謙二先生から、メールが届いた。
「だったら、本を書きなさい」と。

 実のところ、もう本には興味はない。
どうでもよい。
それよりも、時間が欲しい。
時間が足りない。
書きたいことがつぎつぎと出てきて、ときに自分でも収拾がつかなくなるときがある。
それに本といっても、私のほんの一部。
一部を切り売りしても、意味はない。
満足感は得られない。

 田丸謙二先生は、知らないが、この10年間だけでも、私は、10万枚(40字x36行)以上の
原稿を、書いている。
平均すれば、1日28枚前後。
これらをすべて本にすれば、130枚前後で1冊の本になるので、770冊(単行本)。
もちろんそのほとんどは、本にする価値もない駄文。
が、どんな駄文でも、それは「私」。
「これは駄文でないから、本にする」「これは駄文だから、本にしない」というのであれば、最初
から本にしてもらわなくても、結構。

……というか、本当は、私は出版社に、相手にされていない。
相手から見れば、私など、どこかのただの(馬の骨)。
出版社を責めているのではない。
私自身も、若いころ、出版社の立場で、本や教材の編集を手伝っていたことがあるから、その
あたりの事情は、よく知っている。
 
 本といっても、商品。
出版社は、まず売れる本かどうかを判断する。
販売部、もしくは営業部が、それを判断する。
編集部が動くのは、そのあと。
逆に編集部が動いたとしても、販売部が「NO」と言えば、その企画は流れる。

もちろん買い取り部数がしっかりと確約されているばあいは別。
たとえば宗教団体の多くは、こうした手法で本を出す。
「○○万部は、うちで買いますから……」と。

ほかに自費出版という方法もある。
が、私には経験がない。
本になるかならないかは、知名度と時代性で決まる。

 もちろん私には、そんな力はない。
知名度、ゼロ。

 ……これ以上書くと、グチになるから、この話はここまで。

●不完全燃焼感

 要するに、先ほど見た夢は、私の不完全燃焼感を、そのまま象徴化している。
「何かをしなければと思うが、その何かが、何であるかさえわからない。
そこにあるはずなのに、手が届かない」と。

 何だろう?
どうすればいいのだろう?

 列車は、先ほど、掛川を通り過ぎた。
書き忘れたが、今、私はこの原稿を、焼津に向かう列車の中で書いている。

●DSM−IV

 再び、強迫性障害について。
DSM−IVの診断基準によれば、(1)強迫観念と、(2)強迫行為の2つがあって、はじめて強
迫性障害と診断されるそうだ。

 で、この中で興味深いのは、(7)の縁起恐怖。
先にも書いたように、「あの人がそうだ」「この人もそうだ」という人が、つぎつぎと浮かんでくる。
「縁起恐怖」というより、「迷信恐怖」。
この迷信という代物は、実にやっかい。
一度取りつかれると、それから逃れるのは、容易なことではない。
前にも書いたが、こんな人がいた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年11月に書いた原稿、ほか1作

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●迷信

 迷信のはじまり……仏壇屋のおやじが、こんなおもしろい話をしてくれた。

 「たとえばね、何かの法事をしなかったとしますね。
そのあと、何かの事故が起きたりすると、『やっぱり、これは先祖様を供養しなかったためだ』
とかなんとか、人は思ったりするものです。

 反対にね、もし法事をしたあと、何かいいことがあったとしますね。
すると『やはり、先祖様を大切にすることはいいことだ』と、人は思ったりするものです。

 つまりね、林さん、こうして迷信というのが生まれてくるんですよ。その人の中に……」と。

 仏壇屋という職業を通して、そのおやじは、人の生死を見つめてきた。
私は仏壇屋のおやじらしからぬ話を聞きながら、そのつど、感心した。
「この人は、ただの人ではないぞ」と。
つまりそのおやじは、人間が根源的にもっている(弱さ)を見抜いている!

 「そんなことを言ったら、仏壇が売れなくなりますよ」と私は言いかけたが、それは言わなかっ
た。

●私の母

 私の母は、若いころから迷信深い人だった。
「迷信のかたまり」とさえ思ったことがある。
一貫性がなく、そのつど、迷信に振り回されていた。

もっとも母はそれでよいとしても、それによって振り回される私たちは、たまったものではない。

 たとえば靴一足を買うにしても、時間が指定された。
「夕方から遅い時間に買ってはだめ」とか、「買うなら、朝にしなさい」とかなど。
ほかに、「表(=玄関)で脱いだ靴は、裏(=勝手場)のほうで、はいてはだめ」というのもあっ
た。

 ときには、靴を買う日まで、指定されたこともある。
「今日は、日が悪いので、買ってはだめ。あさってにしなさい」と。

 一事が万事。
ありとあらゆることに、その迷信が、入り込んでいた。
学校へ行くときも、裏口から出て行こうとすると、そこで呼び止められ、叱られた。
「表(=玄関)から出て行きなさい!」と。

 幼いころの私はそれに従ったが、小学3、4年生にもなるころには、息苦しさを覚えるようにな
った。
私は、そのつど母に反発したが、母は母で、自分の主張を曲げなかった。
そういう話を、寺や神社で聞いてきて、いつも私にこう言った。

「そういうことを言うと、バチが当たる!」と。

●されど迷信

 迷信、ただの迷信、されど迷信。
その迷信と戦うにも、かなりの勇気が必要。
ゆいいつの武器は、知性と理性、それに知識である。
何かのことで「おかしい?」と感じたら、そのことについて、徹底的に自分で調べるのがよい。
けっして不可思議なものに心をゆだね、その虜(とりこ)になってはいけない。

できればはじめから、近づかないこと。

こうした迷信というのは、一度気にすると、心の内側にペタリと張りつく。
取れなくなる。
取れなくなるばかりか、ときに自分が自分でなくなってしまう。

 このことは、子どもの世界を見ているとわかる。
10年ほど前、それについて調べたことがあるが、小学生にしても、大半が、まじないや、占い
を信じている。
「霊」の存在を信じている子どもも、多い。

 大切なことは、自分で考えること。
仮に納得がいかないことがあったとしても、それを不可思議な「力」のせいにしてはいけない。
こんなことがあった。

 ある家庭に、3人の子どもがいた。
上から、長男、長女、それに二女。
長男、長女は、中学時代から札付きの番長に。
高校へは進学しなかった。
二女は、だれの子ともわからない子どもを妊娠、そして出産。
長女が、17歳のときのことだった。

 それについて、迷信深い叔父が近くにいて、「これは何かのたたり」と言って騒いだ。
そこでその両親は近くの神社を訪れ、「お祓(はら)い」なるものをしてもらった。

 が、原因は、母親自身にあった。
親意識が強く、権威主義。
口もうるさかった。
その上わがままで、思いこみもはげしかった。
子どもの心など、最初から、どこにもなかった。

 父親はいたが、週に1、2度赴任先の会社から帰ってくる程度。
母親は自分が感ずるストレスを、そのまま子どもたちにぶつけていた。

 子どもたちにすれば、さぞかし居心地の悪い家庭だっただろうと思う。
その結果は、先に書いたとおりである。

 つまりほんの少しだけでも、その母親に(考える力)があれば、こうした事態は防げたはず。
が、その母親には、その力さえなかった。
もっとも今は、3人ともそれぞれが結婚し、家庭をもち、それなりに幸福に暮しているから、とく
に問題はない。

 またその後のことは聞いていないが、あの母親のことだから、今ごろは、きっとこう言ってい
るにちがいない。

「何かあったら、あのX神社でお祓いをしてもらうといいですよ」と。
(以上、2008年11月記)

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●迷信について(もう1作)

 信仰は、あくまでも教えに従ってするもの。
迷信や狂信、さらには、妄信は、人の心を狂わす。
かえって危険ですら、ある。

 S市に住む、Aさん(女性、妻)から、以前、こんなメールをもらった。「私が、夫の宗教を批判
するたびに、夫は、『お前がそういうことを言うと、ぼくたちは、地獄へ落ちる』と言って、体をガ
クガクと震わせます」と。

 最初、そのメールを読んだとき、「冗談か?」と思った。
その夫というのは、国立大学の工学部を卒業したような、エリート(?)である。
そんな人でも、一つの宗教を妄信すると、そうなる。

 もし、仮に、人間に、そういったバチを与える宗教があるとするなら、それはもう信仰ではな
い。
少なくとも、神や仏の所作(しょさ)ではない。
悪魔の所作である。
だいたいにおいて、神や仏が、いちいち人間のそうした行動に、関与するはずがない。

 たとえば私の家の庭には、無数のアリの巣がある※。アリから見れば、私は、彼らの神か仏
のようなもの。
私はその気にさえなれば、彼らを全滅させることもできる。
だからアリたちも、ひょっとしたら、そう思っているかもしれない。
「あの林は、我々の神様だ」と。

 そのアリの中の一匹が、私(=はやし浩司)の悪口を言ったとしても、私は気にしない。
私を否定しても、私は記にしない。
もともと相手にしていないからだ。いわんや、バチを与えているようなヒマなど、ない。

 人間社会を、はるかに超越しているから、神といい、仏という。
もし神や仏がいるとするなら、宇宙的な視野で、かつそれこそ11次元的な視野で、人間社会
を見つめているにちがいない。

 そういう神や仏が、いちいち人間に、バチなど与えるはずがない。
ものごとは、もっと常識で考えたらよい。

 信仰には、たしかにすばらしい面がある。
しかしそれは、教えによるもの。
あの釈迦も、法句経の中で、『法』という言葉を使って、それを説明している。

※アリの大きさを、〇・五センチ。人間の大きさを、一七〇センチとすると、その面積比は、1:
115600となる。
私の家の庭は、約五〇坪(165平方メートル)だから、この五〇坪の庭は、そこに住むアリにと
っては、人間の住む広さに換算すると、165x115600/1000000=19(平方キロメート
ル)の広さということになる。
人間の社会で、一辺が約四キロメートル四方の社会が、この庭の中で、アリたちによって営ま
れていることになる。
私が住んでいるI町(町内)だけでも、約一万世帯。
約三万人の人が住んでいる。
大きさも、約四キロメートル四方だから、私の庭は、アリにとっては、私が住む町内と、同じ広さ
ということになる。
多分、この庭に住んでいるアリも、約三万匹はいるのでは……? 
初春の陽光をあびて、青い草が、さわさわと風に揺れている。
その庭を見ながら、ふと、今、そんな計算をしてみた。

(しかし、この計算は、どこかおかしい? 人間なら、四キロ歩くのに、約一時間かかる。
しかしアリが、この庭を端から端まで横切るのに、一時間はかからない。
一〇分くらいで行ってしまうのでは? 
あるいは、アリは、歩く速度が、速いのか。
今、ふと、そんな疑問が、心をふさいだ。
ヒマな方は、電卓を片手に、一度、計算しなおしてみてほしい。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●Hotel Ambia 松風閣(焼津)

 「ホテル・アンビア」という。
地元の人は、「松風閣」という。
海岸の絶壁に建つ、絶景第一のホテル。
いろいろなホテルに泊まったが、まさに絶景。
断崖絶壁の上に建つ、絶景のホテル。
部屋へ入ったとき、思わず、ウォーッと声をあげてしまった。

 まるで空中の楼閣のよう。
眼下というより、真下に海岸線が見える。
たまたま今日は、「爆弾低気圧」が発生したとか。
四国のどこかでは、秒速42メートルの突風を記録している。
そのせいか、5〜6メートルもあるような大波が、真下で絶壁に打ち上げ、白いしぶきをあげて
いた。

 ハイクラスの、やる気度120%の、豪華ホテル。
浜松周辺では、このホテルと比較できるホテルといえば、伊良湖岬にある、伊良湖ビューホテ
ル。
しかしこのホテルのほうが、上品。
ビューホテルのほうは、客層があまり、よくない(失礼!)。

 部屋へ入ると、若い女性が、館内の説明をしながら、お茶を立ててくれた。

●夕食

 夕食は、ここへ来る前、焼津さかなセンターで食べた。
さかなセンターの中には、いくつかの食堂がある。
その中の1つで、食べた。
なお焼津さかなセンターで売られている魚介類は、ショッピングセンターのそれと比べて、2〜
3割は安い。
が、食堂の料理は、「安い」という印象は、もたなかった。

 で、夕食は、抜き。
が、その間に入浴すれば、がらがらのはず。
案の定、その時間をねらって大浴場へ行くと、客は私、1人だけ。
ゴーゴーと吹きすさぶ黒い雲を見ながら、露天風呂につかる。
まさに、絶景かな、絶景かな。

 大満足!

 明日は窓から富士山がながめるとか。
天気予報を調べると、「晴れ、ときどき曇り」とか。
ラッキー!

 窓の外を見ながら、ワイフがこう言った。
「いつか、こういうときが懐かしくなるかもね」と。
それに答えて、私はこう言った。
「まだまだ序の口。これから遊んで、遊んで、遊びまくる」と。

●今東光

 昔、今東光という作家がいた。
政治家でもあり、天台宗の大僧正でもあった。
一度、平泉の中尊寺で、法主(ほっす)として、法要をいとなんでいるのを見たことがある。
11PM(日テレ)で企画を書いているとき親しくなり、それが縁で、今東光ががんに侵されたと
き、ときどき見舞いに行った。

 今東光は、2度、東京築地のがんセンターに入院している。
最初の1回目は、まったく元気だった。
医師に止められていたにもかかわらず、私を、センターの前にある焼肉屋で連れて行ってくれ
た。
今東光の病名は、直腸がんだった。
だから私のほうが心配して、「いいんですか?」と聞くと、「いいべえ」と。

 そんなある日。
また別の日に見舞うと、突然、こう言った。
「女を買いに行くべえ」と。

 当時、今東光は、女性のヌード画を描いていた。
体や性格にまったく不釣り合いな、細い線のヌード画だった。
今東光が前もって電話をすると、画廊のほうで、モデルを用意し、待っていてくれた。

 その今東光がこう教えてくれた。
「俺はな、若いころ、修行、修行で、女遊びができなかった。
病気も、もらったがな。
だから今でも、それを思うと、悔しくて、女を買いに行く」と。

 たしかそのとき「19歳から23歳まで、修行した」と言った。
そのとき聞いた年齢は記憶によるものなので、不正確。

 ……今、そのときの今東光の気持ちが、よくわかる。
私も、若いころは、仕事、仕事で、遊ぶことを知らなかった。
暇さえあれば、仕事をしていた。
それが今になってみると、悔しい。
だから、遊ぶ。
今、遊ぶ。

私「あきるほど、遊ぼう」
ワ「そうね」と。

 今では、今東光の名前を知る人も、少ない。
なお2度目に入院したときには、今東光は、ベッドの上で身動きが取れない状態だった。
丸いテント様のおおいに覆われ、顔だけ外に出していた。
それでも今東光は、原稿を書いていた。
いつ、どのようにして書いたかは知らないが、原稿を書いていた。
その原稿が、入り口のデスクの上に、きちんと並んでいた。
それが私に強烈な印象を与えた。

●ロビーにて

 ワイフが売店へ行こうと誘った。
応じた。
今、ワイフは、売店で、何やら買っている。
クラブの仲間へのみやげらしい。
私は、それを背中に、こうしてパソコンのキーボードを叩く。

 ……少し前、エレベーターで、9階から下りてきた。
そのとき焼津の夜景が、宝石のように美しく輝いていた。
嵐は去ったよう。
……だれかがエレベーターの中でこう言った。
「明日の日の出は、5時29分ね」と。

 運がよければ、またそのとき目を覚ましていれば、私も日の出を見ることができるはず。
楽しみ。
富士山を右手に、美しい写真を撮れるはず。

●春休み

 春休みということもあって、どこへ行っても、子どもの声がする。
今も背中側の通路で、子どもたちが騒いでいる。
聞きなれた声だが、うるさいものは、うるさい。
大声で、騒いでいる。
走り回っている。

 ロビーの前は、広い日本庭園になっている。
白い砂利が、ロビーの明かりを受け、白く光っている。
そのガラス窓に、ワイフの姿が映った。
何かを買ったらしい。
それを手にもち、ぶらぶらと歩いている。

●小沢系29人(民主党)辞表

 ワイフが朝日新聞の朝刊をもってきた。
1面の下の方に、「小沢系29人、辞表」とあった。
小沢系といえば、50人近くいたはず。
つまり20人以上が、小沢一郎から離反したことになる。

 「そういうものかなあ」と思ってみたり、「どうしてだろう」と思ってみたりする。
政治の世界は、一寸先が闇。
一枚下も、これまた闇。
そこは権力と欲望が、醜く渦巻く世界。
「いやな世界だろうな」と思ってみたり、「よくやるなあ」と思ってみたりする。
 
 そう言えば、以前、「平成の忠臣蔵」というタイトルで、エッセーを書いたことがある。
野田政権が誕生したとき、小沢派議員の忠僕性を皮肉ったものである。
探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●民主党

 野田首相が生まれた。
その話をしながら、昨夜も参観に来ていた父親と、こんな話をした。
「どうして管さん(=管直人首相)では、だめなんですかねエ?」と。
するとすかさずその父親も、こう言った。
「私も、そう思います」と。

 わかりやすく言えば、みなが寄ってたかって、管直人前首相の足を引っ張った。
官僚、ゼネコン、そして同族の一派。
この日本では、行政改革(=脱官僚政治)を訴えただけで、その政治家は干される。
ゼネコン(=原発建設業者)を叩いただけで、経済界からはじき飛ばされる。
民主党といっても、中身は、派閥政治。
「数」と「金(マネー)」がものをいう、派閥政治。
野党時代は、あれほど自民党の派閥政治を批判していたにもかかわらず、政権与党になっ
たとたん、この体たらく。

 もちろんその原点は、忠臣蔵。
私たちが若いころは、毎年12月になるたびに、忠臣蔵がテレビで放映されていた。
恒例番組にもなっていた。
それがそのまま日本人の精神的バックボーンになっている。
政治の世界でも、そうだ。

 ・・・というのは、考えすぎかもしれない。
しかし今の民主党、とくに小沢一派の議員の動きを見ていると、忠臣蔵そのもの。
称して「平成の忠臣蔵」。
権力を背負っているだけに、暴力団より始末が悪い。
日本人は、あの封建時代の遺物を、いまだに色濃く引きずっている。

●武士道

 ・・・もし江戸時代の武士道なるものが、どういうものかを知りたかったら、現在の「ヤクザ(暴
力団ではない)の世界」を見ればよい。
皮肉なことに、ヤクザの世界は、封建時代における武士の世界そのものといってよい。
忠実に過去を踏襲している。
いまだにその武士道なるものを礼賛する人は多い。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき精神的バックボーン」と説く学者もいる。
しかし封建時代がもつ「負の遺産」に目を当てることもなく、一方的に礼賛するのもどうか?

 5%にも満たない武士が日本の社会を牛耳り、95%の日本人が、その暴政に苦しんだ。
江戸時代という時代にしても、世界に類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代だった。
が、何よりも忘れていけないことは、私たちの先祖は、その95%の農民であったという事実。
(工民、商人は、数がぐんと少なかった。)

 もしあのまま今でも封建時代がつづいていたら、私たちはまちがいなく、農民だった。
その農民が、武士のまねごとを説いて、どうなる?
どうする?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●タクシーの中で

 今では、どこへ行っても、原発事故と、地震や津波の話。
今日も、そうだった。
JR焼津駅からタクシーに乗ると、運転手がこう言った。

 「どちらから?」と。
「浜松から」と答えると、「浜松は、だいじょうぶですか?」と。

 運転手は、こう言った。
「焼津の人たちの中にもね、藤枝の方へ引っ越す人がふえていますよ」と。

 浜松市内でも、遠州浜沿いに住んでいる人たちの引っ越しが始まっている。
少し前までは、新幹線の北側は安心と言っていた。
が、震度7、津波の高さ21メートル。
3つのプレートが同時に動くと、それくらいの地震になるそうだ。

 で、もしそうなら、新幹線の線路でも、防ぎようがない。
地震で地盤の液状化も起こるだろう。
そこへ21メートルの津波!
海抜10メートル前後の下町は、全滅。

 3・11大震災前なら、そんな話はだれも信じなかっただろう。
私も信じなかった。
が、今は、ちがう。
「今すぐ……」というわけではないが、いつかは起こる。
かならず、起こる。
そういう前提で、この先を見る。

 数日前も、義兄がこう言った。
「下町の人たちが、山の手のほうへ、移動しているよ」と。
義兄は、大地主で、自分の土地の管理もかね、不動産屋を営んでいる。

 いやな世の中になったものだ。
今、この瞬間にも、大地震が起こるかもしれない。

●浜岡原子力発電所

 ときどき、ワイフとこんなふうに話しあう。
もし大地震が起きたら、すぐ逃げよう、と。
近くには、浜岡原子力発電所がある。
防災は万全と言っているが、だれも信用していない。
私も、信用していない。

 あの3・11大震災から数か月後のこと。
浜岡原子力発電所でも、配管に穴が開いているのが見つかった。
放射性物質が、海へ垂れ流されているのがわかった。
で、その前後、「大規模な」(報道)、防災訓練がなされた。
が、その防災訓練が、へん!
消防自動車がやってきて、原子炉に水をかけていた。

 原子炉に水だぞ!

 私はそれをテレビのニュースで見て、笑ってしまった。
つまり日本の防災意識も、その程度。
北朝鮮では、がんでも、赤チンをつけて治すそうだ。
何かの本で、そう読んだことがある。
それと同じ。

 ……こういう話は、やめよう。
せっかくの旅行。
考えれば考えるほど、憂うつになる。

●4月4日

 明けて、今日は4月4日。
目覚ましを、午前5時15分にセットしておいた。
目覚ましと同時に、目を覚ますと、窓全面に、青い空がまぶしいほどに光っていた。
同時にワイフも目を覚ました。

 このホテルには、一度、皇族方全員が宿泊している。
言うなれば家族旅行。
そのときはじめて、私は納得した。
「この景色なら、その価値がある」と。

 浜松からは、鈍行列車で来ても、50分。
車で来れば、もっと早い。
愛知県の西浦温泉などよりは、ずっと近い。
こんな近くに、こんなよい温泉旅館があるとは!
星は、文句なしの、5つ星。
すばらしい。

 今、時刻は午前8時07分。
大波が右上から左下に、行く筋もの山を作り、その間で、糸のように細い小波が揺れている。
プラチナ色の海。
それを取り囲むように、淡いコバルト色の海。
たった今、デジタルカメラを構えて何枚か写真を撮った。
まぶしくて、液晶画面が見えなかった。
その方向にカメラを向け、勘で撮った。

 さあ、このまま帰る。
シャトルバスは、8時30分に出る。

はやし浩司 2012−04−04 焼津・ホテルアンビア・松風閣にて

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●春休みも、もうすぐ終わり(はやし浩司 2012−04ー05夜記)

 午後になって、畑の畝を2つ、ふやした。
トウモロコシと、インゲンの種を蒔(ま)いた。
ついでにネギが伸び始めたので、化成肥料を撒(ま)いた。
それが終わり、一息ついたころ、ワイフが、「映画を見たい」と言った。

 インターネットで調べると、『ドライブ』が、ちょうどよい時刻に始まるのがわかった。
話題作ではないが、おもしろそう。
そそくさと用意し、そのまま車に飛び乗る。

 映画館には、10分前に、着いた。
間にあった。
チケットを買い、中に入る。
観客は、15人ほど。
うしろから2列目に座った。
が、これがまずかった。
最後列の男たちは、靴を脱ぎ、足を前の席……つまり私たちの席に足をかけた。
これが、臭いの何のといったら……。

 映画が始まるとすぐ、私たちは2列ほど、前の席に移動。
ほっとした。
ポップコーンをほうばった。

 しかしそれにしても、臭い足だった!
靴を脱いで足を前の席にかけるという行為そのものが、マナー違反。
臭いとあれば、なおさら。

●3D映画

 前回、『スターウォーズ』をみてから、もう10日以上になる。
3D版だった。
途中で目が痛くなった。
はじめての経験だった。
それもあって、以後、映画館へ行くのを控えていた。

 私の年齢以上の人は、ああした動きが速い3D版は、見ないほうがよい。
目に悪い。
……ということで、これからは3D版は見ない。
心に決めた。
2D版を選んで見る
動きの速くない映画を見る。

●映画『ドライブ』

 映画『ドライブ』は、殺伐とした映画だった。
ロバート・デニーロの『タクシー・ドライバー』を彷彿(ほうふつ)させるような映画だった。
意味のない、殺しあいの映画。
ま、あえて言うなら、扁桃核(へんとうかく)に傷ついた人たちの映画。
幼児期から少年期にかけ、扁桃核に傷がつくと、人間的な温かい心を失うという※。
「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に生ずる傷によって起きる」と説く学者もいる。
最近の脳科学は、そんなことまで説明するようになった。

 さらにそれが進むと、いわゆる「サイコパス」※。
「サイコパシー」と言うのが正しい。
日本では、「サイコパス」という。

 もしこの世に地獄があるとするなら、ああした世界を「地獄」というのだろう。
最後に若い男が、1人の女性のために命を落とすことになる。
一応、「愛」がテーマになっている?
が、愛といっても、地獄に咲いた花のようなもの。
どうしてアメリカ人は、ああまで肉欲的な「愛」を美化したがるのだろう。
「恋愛」というときの「愛」と、キリスト教で教える「愛」とは、まったく異質のもの。
同じ「LOVE(愛)」という言葉を使うから、話がおかしくなる。

 映画の評価は、星1つか2つの、★。
たぶん、1〜2週間後には、内容すら忘れてしまうだろう。
印象の薄い映画だった。

(注※……扁桃核、以前書いた原稿より)
『東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に
生ずる傷によって起きる」と結論づけている。
 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というの
である。
 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、PET(ポジト
ロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。
実際、その(傷)が、こうした機器を使って、撮影されている。
 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。
 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。
さらに記憶認識系、意志行動系など、およそ心身のあらゆることに影響を与える。
……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。
『いじめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。
 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている』と。

(注※……サイコパス、以前書いた原稿より)
『「●サイコパス……私たちはどんな悪人も、少しくらいは良心を持っているだろうと信じている
と思います。
しかし、世の中にはそんな考え方が全く通用しない「サイコパス」と呼ばれる人間が存在してい
るのです」(ここまで「サイコパスとは何か」サイトより転載)と。
 この一文が、サイコパスのすべてを語っている。
診断基準として、同サイトは、つぎの7つをあげている。
(1)口達者で、一見、魅力的。
(2)同情を引こうとする。
(3)無責任で問題行動が目立つ。
(4)責められると逆ギレする。
(5)非常によくウソをつく。
(6)感情が浅く、思いやりがない。
(7)衝動的に行動する。
 「ウソがうまく、泣いても空涙」。
「言葉はよく知っていても、心に響かない」などが、大きな特徴としてあげられている(同サイ
ト)。
 詳しくは、http://www.psy-nd.info/で。
 またウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

三省堂の大辞林によると「性格が逸脱し、そのために社会を困らせたり自らが悩むもの。
性格異常」とある。
連続強姦殺人犯、シリアルキラー(連続殺人者)や、重度のストーカー、常習的詐欺師・放火
魔、カルトの指導者の多くがサイコパスに属すると考えられている。
さらに、窃盗/万引き、ドメスティックバイオレンス、幼児虐待、非行少年グループ、資格を剥
奪された弁護士・検察官や医師、テロリスト、組織犯罪の構成員、金のためならなんでもやる
人間、悪徳実業家なども当てはまることがある。
サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け容赦
なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽くした
人を後に残して行く。
 良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯
し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。
その多くは刑務所内にいるが、社会に出ている者もまた多い。
その大部分は殺人を犯すことなく自分たちの業を押しつけてくる。
北米には少なくとも200万人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいると、犯罪心理
学者ロバート・D・ヘア(en:Robert D. Hareは統計的に見積っている。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

 ついでに「はてなキーワード」の説明文も、掲載する。
『精神病質者の意。
現在サイコパスという言葉は無く、反社会性人格障害(APD)と変更されている。
サイコパスの特徴は極端に自己中心的で、慢性的な嘘つきで後悔や罪悪感が無く、冷淡で共
感が無い。
加えて自分の行動に責任が取れない。
多くは脳の前頭葉に問題がある可能性が高く、ホルモン異常と考えられる。
それに加えて幼少時の虐待・生育環境の劣悪が重なり、サイコパスとなる可能性が高い。
8〜9割のサイコパスは言語能力を司る認知機能に障害があり、通常左脳で行われる言語処
理が右脳で行われている。
一般的にサイコパスとサイコは同じ意味で捉えられている』(以上「はてな・キーワード」より)』
と。

●Mr.PC(05月号)

 少し前、「Mr.PC」(パソコン雑誌)5月号を買った。
毎号、付録のソフトが、楽しみ。
で、今回はその中の、3Dロゴに挑戦してみた。
意外と簡単にできた。

 さっそく、2、3個作ってみた。
あとで、あちこちのページを、その3Dロゴで飾ってみたい。

 ……といっても、最近、脳みその働きが鈍くなってきたように感ずる。
ミスも多くなった。
つまりパソコンで何かの作業をしていても、ミスが多くなった。
それに新しいソフトが使いこなせるようになるまでに、時間がかかるようになった。
プラス、やっと使いこなせるようになっても、1、2週間もすると、使い方を忘れてしまう。

 さらに、最近、こんなことを発見した。

 たとえば、30分間、ウォーキングマシンの上で運動をしてからキーボードを叩くのと、何も運
動をしないままキーボードを叩くのとでは、感じがまるでちがう。
運動をしてからだと、指先が軽快に動く。
運動をしてないと、ミスタイピングが多くなる。

 が、それだけではない。
運動をしてからだと、言葉がスラスラと出てくる。
運動をしてないと、「エ〜ト、何だったかな?」というように、迷うことが多い。

 若いころは、こんなことは、気にもしなかった。

 ……だからというわけではないが、今日は、午前中に30分、午後に30分、ウォーキングマシ
ンの上で、汗をかいた。
加えて乗馬マシンの上で15分に運動+畑仕事。

 肉体の健康も大切だが、精神の健康も大切。
さらに脳みその健康も大切。
肉体+精神+脳みその健康。
この3つがそろって初めて、「健康」ということになる。

 そのカギを握るのが、運動ということになる。

●北朝鮮の人工衛星、光明星1号

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/7047711543/" title="3本のアンテ
ナ by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7097/7047711543_
6c76a7c3ae_b.jpg" width="800" height="600" alt="3本のアンテナ"></a>

 まずは、写真を見てほしい。
左から、スプートニック1号(旧ソ連時代のもの)、北朝鮮の光明星1号、それに私のもっている
ラジオのアンテナ。
その取りつけ部を、拡大し、並べてみた。

 で、この写真を見てもわかるように、光明星1号のそれは、衛星のアンテナというよりは、ラジ
カセのアンテナ。
宇宙で開くような構造にはなっていない。
(スプートニック1号のほうは、複雑なバネ仕掛け(?)になっているのがわかる。)

 人工衛星自体もお粗末だが、こういう人工衛星でもって、宇宙開発というところが、おかし
い。
恐らく今回予定されている人工衛星も、似たようなものなのだろう。
「カメラは積んでいるかもしれないが……」(韓国紙)、重量が100キロというのは、常識で考え
てもおかしい。
最低でも、500キロほどの重さが必要という。

 ともあれ、何からなにまで、「?」マークがつくのが、北朝鮮。
が、笑ってはいけない。
あなどってはいけない。
北朝鮮は、すでに5〜6個の核兵器をもっているという。
その気にさえなれば、日本の主要都市を全滅させることもできる。

 で、私が危惧するシナリオ……。
(1)北朝鮮が、ミサイルを発射する。
(2)軌道をはずれ、失敗する。
(3)日本が、迎撃ミサイルを発射する。
(4)それを口実に、北朝鮮が、日本にミサイルを撃ち込む。

 ふつうの常識のある国なら、そんなことはしない。
が、北朝鮮には、そのふつうの常識が通じない。
通じないことは、「光明星1号」の写真を見ても、わかるはず。
こんなおもちゃのような(「週刊現代誌」)人工衛星でもって、「宇宙開発」という。

 なお先ほどの朝鮮N報の記事によれば、北朝鮮の潜水艦が、どうやら何かの作戦行動を始
めたらしい。
ミサイルも警戒しなければならないが、北朝鮮の動きも、全体として注視する必要がある。
もしどこかの原子力発電所に、ミサイルでなくても、迫撃砲が1発撃ち込まれただけでも、今度
こそ日本も、万事休す。
日本は、本当に、終わってしまう。

 原子力発電所周辺の、防衛態勢は、万全なのか?
あとになって、「想定外の攻撃でした」などと、言うな!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 サイコパス 扁桃体 はやし浩司
 扁桃核の傷 精神疾患 扁桃核の傷)2012/04/05夜記


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【団塊の世代(バブル世代)は、若者の敵?】

●ジジババ老害論

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 少し前、こんな記事を書いた。

 「最近、団塊の世代〜に対する、若い人たちからの風当たりが強くなってきているのを感じま
す。
「敵」とか、そんなふうに位置づけられているようです。
(若い人たちは、私たちのことを、「バブル世代」と呼び、経済の繁栄をつぶした世代と考えて
いるようです。)
そんな中、1人の老人(77歳)が、赤信号で横断した男性を注意し、殴り殺されるという事件が
起きました」(以上、はやし浩司)と。

 私は当然、殴り倒した男性のほうが非難されるべきと思っていた。
が、若者たちの意見は、逆。
「注意した方の老人のほうが悪い」と。
これには驚いた。
驚いて、自分の意見を書いた。

 団塊の世代は、若者の敵?。
それについて、多くの人から、(大半が若い人たちからだが)、コメントが届いた。
その中の1つを、そのまま紹介させてもらう。

(ほかにも多くのコメントが届いたが、感情的な意見であったり、あるいは文章として体(てい)
をなしていないので、その中の1つを、そのまま紹介させてもらう。)

+++++++++++++++++

(東京・KS氏より)

団塊世代は、年上という理由のみで、偉そうにしています。
若者を見下している!!
注意することは良いことです。
しかし、注意の仕方が悪いです。
団塊世代は敬語を使えないのかね?
「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」。
当然でしょう。
事実を認めず、それを若者にぶつける貴方みたいな人がいるから、バブル世代、団塊世代は
敵に回されるんです。
勿論全てのバブル、団塊世代の人ではありませんが・・・
また、東京に「大井川」駅は存在しません。
恐らく「大井町」駅の間違いですね。(以上、東京・KS氏より)

++++++++++++++++

●ジジババ老害論

 ここに紹介したKS氏の意見は、けっして一部の若者の意見ではない。
おおかたの若者たちが、そう考えている。
60〜70%の若者たちが、同じように考えていると理解してよい。
称して、「ジジババ老害論」。

 そのときに書いた原稿を、もう一度、再掲載する。
KS氏が言うように、私たち団塊の世代も、反省すべき点があるなら、謙虚に反省する。
私には、そういう視点が欠けているのかもしれない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

つぎの原稿の日付は、2012年1月20日になっている。
今日は、4月06日だから、3か月前の原稿ということになる。
団塊の世代、および老人組と呼ばれる人たちは、一度、私の原稿をじっくりと読んでみてほし
い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(以下、2012年1月20日に書いた原稿より)

【ジジ・ババ・ゴミ論】はやし浩司 2012−01−20
(六趣輪廻の因縁で、闇路に迷う愚痴人間)

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ゴミ?

 少し前、「ジジ・ババ・ゴミ論」について書いた。
私が「ゴミ」という言葉を使っているのではない。
若い人たちの書くBLOGに、そう書いてある。
最近の若い人たちの老人論には、辛らつなものが多い。
「老害論」から「ゴミ論」へ。
まさかと思う人がいたら、一度、若い人たちのBLOGに目を通してみるとよい。

 それについては、もう何度か書いてきた。
ここでは「なぜ?」について、書いてみたい。
なぜ、私たちはゴミなのか?

●「将来、親のめんどうをみる」

 「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と答える、日本の若い人たちは、世界で
も最下位。
総理府、それにつづく内閣府が、数年おきに、同じ調査をしている。
「青少年の意識調査」というのが、それである。
それによれば、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●年老いた親を養うことについてどう思うか

「どんなことをしてでも親を養う」

   イギリス66.0%、
   アメリカ63.5%、
   フランス50.8%、
   韓国35.2%、
   日本28.3%
(平成9年、総理府の同調査では、19%。)

 日本の若い人たちの意識は、28・3%!
アメリカ人の約半分。

 「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。
しかし現実は、かなりきびしい。
今どき、「親孝行」という言葉を使う、若い人は、いない!

●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか

『そう思う』:

   イギリス70.1%、
   アメリカ67.5%、
   フランス62.3%、
   日本47.2%、
   韓国41.2%

+++++++++++++++++++++++++++++++++

 平たく言えば、現代の若い人たちは、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と考え
ている。
しかし「経済的に余裕のある若い人」は、ほとんど、いない。
どの人も、目一杯の生活をしている。
結婚当初から、車や家具一式は、当たり前。
中には、(実際、そういう夫婦は多いが)、結婚してからも親からの援助を受けている夫婦もい
る。

金融広報中央委員会の調査によれば、現在、貯蓄ゼロ世帯は、23%。

全国約4000万世帯の、23%。
4世帯につき、約1世帯。

さらに生活保護を受ける世帯が、2011年度、最高を記録した。
その数、150万世帯。

++++++++++++++++++++++++++++++

金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査(2006年)」によれば、
つぎのようになっている。

   20代は171万円、
   30代は455万円、
   40代は812万円、
   50代は1154万円、
   60代が1601万円、
   70歳以上が1432万円。  

この調査は「20歳-79歳代の男女10,080人」を対象に調べたもので、
このうち貯蓄を持っているのは全体の、77・1%。
残りの22.9%は貯蓄ゼロ。 

貯蓄ゼロの家庭は、年収が300〜500万円未満でも21.1%。
500〜750万円未満の家庭でも16.2%。

+++++++++++++++++++++++++++++

 なお、団塊の世代についてみると、8・1%の世帯が、貯蓄ゼロとなっている(「格差脱出研究
所」調べ)。
ただしここに載っている数字にしても、あくまでも、「平均」。
70歳以上だけをみても、中に数億円以上もの金融資産を保有している人たちがいる。
大多数の人は、400〜500万円程度と言われている(某経済誌)。

 「親のめんどうをみる」と答える、若い人たちの減少。
それと反比例する形で、「ジジ・ババ・ゴミ論」がある。
両者を関連付けるのは、危険なことかもしれない。
しかし無関係とは、これまた言えない。

●祖父母と同居

 私自身は、3世代同居家族の中で、生まれ育った。
生まれたときから、祖父母と同居していた。
と言っても、当時は、それがごく平均的な家族であった。
「核家族」という言葉が生まれ、それが主流になってきたのは、1970年以後のこと。
夫婦と、その子どもだけの、「小さな家族」を「核家族」と言った。

 当時はそれが珍しかったが、今では、それが主流。
若い人たちが「家族」というときには、そこには、祖父母の姿はない。

 現在、祖父母と同居している家族の割合は、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

●「祖父または祖母と同居している」

   日本(20.6%)、
   韓国(5.8%)、
   アメリカ(3.1%)、
   フランス(1.5%)、
   イギリス(1.1%)
 
 これらの数字を並べて解釈すると、こうなる。

(1)日本人は、親と同居している家族が、比較的多い(20・6%)。
子どもが生まれれば、3世代同居家族となる。
ただしこれには地域差が大きい。
地方の農村部では、多く、都市部では、少ない。

(2)老親は、子どもに老後のめんどうをみてもらいたいと考えている(47・2%)。
が、若い人たちには、その意識は薄い。
世界でも、最低レベルとなっている(28・3%)。

(3)「核家族」という家族形態は、欧米化の1態ということが、この数字を見てもわかる。
   つまり、家族の欧米化が、現在、急速に進んでいる。
   ただし欧米では、各地に「老人村」があるなど、老人対策が充実している。
   一方、この日本では、老人対策がなおざりにされたまま、欧米化が進んでしまった。
   その結果が、独居老人、さらには孤独死、無縁死の問題ということになる。

●「団塊の世代は敵」?

 先日紹介したBLOGの中に、「団塊の世代は敵」と書いてあるのが、あった。
これには驚いた。
私たち団塊の世代は、感謝されこそすれ、「敵」と思われるようなことは、何もしていない。
そのつもりでがんばったわけではないが、現在の日本の繁栄の基礎を作ったのは、私たち。
そういう自負心も、どこかにある。
その私たち団塊の世代が、敵?

 こうした感覚を理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要がある。
なぜか?

 その理由の第一が、現在の若い人たちは、「貧しさ」を知らない。
生まれたときから、「豊かな生活」がそこにあるのが当たり前……という前提で、育っている。
それは私たちの視点を、逆に、80代、90代の人たちの中に置いてみるとよくわかる。

●「敵」

 戦争を体験した人たちは、みな、こう言う。
「日本を守ったのは、俺たち」と。
結果的に日本は敗北し、(守った)という意識は、粉々に破壊された。
しかし「命をかけて」という部分までは、破壊されていない。

 が、結果がどうであれ、戦争を体験した人たちが、「命がけで戦った」のは、事実。
で、そういう人たちに、私たち戦後の世代が感謝しているかといえば、それはない。
中には、「自業自得」と、辛らつな言葉を、浴びせかける人もいる。
「勝手に戦争を起こし、ひどいめにあった」と。
もう少し具体的には、こんな事実もある。

 私の二男が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
私はこう思った。
「親父(おやじ=私の実父)が、生きていなくてよかった」と。

 もし父が生きていたら、その結婚には、猛烈に反対しただろう。
私の父は、そういう人だった。
まじめで、がんこで、純粋だった。
本気で天皇を崇拝し、神国日本を信じていた。
ある日のこと、こんなことがあった。
私が小学3年生のときのことである。

 私が「天皇」と呼び捨てにすると、一度も私に対して怒ったことがない父が、私を殴った。
「陛下と言え!」と。

 父はその足で小学校へ怒鳴り込んでいった。
「貴様ら、息子に何を教えているかア」と。

 そのときの担任が、N先生。
だから小学3年生のときのことだったということを、よく覚えている。

 が、そんな父をだれが批判できるだろうか。
現に今、私たち団塊の世代を評して、「敵」という。
同じように、そういう若い人たちを、私たちはどうして批判できるだろうか。

 私たちはいつも、過去を踏み台にして、現在を生きている。
その現在に視点を置き、「自己中心的な、現在中心論」で、ものを考える。
そういう視点で見ると、私たち団塊の世代は、この日本の繁栄を、ぶち壊してしまった。
少なくとも、若い人たちは、そういう目で、私たち、団塊の世代をながめている。

●ゴミ

 私たちは、否応なしに、ゴミになりつつある。
またそういうふうに扱われても、抵抗できない。
体力も気力も、とぼしくなってきた。
若い人たちから見ると、私たちの世代は、毎日、遊んでばかりいるように見える。
昔、……といっても、もう30年以上も前のことだが、こう言った高校生がいた。

「老人は、役立たず」と。

 当時の私は、この言葉に猛烈に反発した。
……そう言えば、それについて書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。

 日付は2010年2月になっている。
当時、私はひとつの理由として、「受験競争」をあげた。
受験競争を経験した子どもは、総じて、心が冷たくなる。
私はそれを実感として、現場で、今も強く感じている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ・ゴミ 総理府 内閣府
 青年に意識調査 親の面倒 親のめんどう 老後の介護 はやし浩司 団塊の世代 受験と
虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


特集【介護と子どもの意識】(2010年2月の原稿より)

●介護と子どもの意識

+++++++++++++++++

介護問題に隠れて、表に出てこないが、
その裏には、子どもたちの意識の変化
がある。
現在、ほとんどの子どもたちは、「経済的に
余裕があれば、親のめんどうをみる」と
考えている(日本)。
しかし経済的に余裕のある人は、いない。
みな、それぞれが精いっぱいの生活を
している。

つまりこの調査結果を裏から読むと、
「めんどうはみない」となる。
が、ことはさらに深刻である。

(めんどう)どころか、(老人への虐待)が、
深刻化している。

10年ほど前に書いた原稿をさがしてみる。
(10年前ですら、そうだったということを
わかってほしい。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ジジ・ババ受難の時代

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。

これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババ
への風当たりが強くなってきている。

 若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののし
る表現が、最近、目につくようになってきた。
ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOGには、こんな書きこみすらあった。

 「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。
おかげで、こちらは2週間も入院。そのジジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。
あんなジジイに、何度も見舞いに来られて、うるさくてしかたねえ。
こっちは、迷惑している」と。

 その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。

 つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。
そんな感じがする。
老人医療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。
加えて、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。
若者たちは、程度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。

 これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。
「現在の日本の繁栄を築きあげたのは、私たちの世代だ」と。

 しかしこれは、ウソ。
団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。

 たしかに結果的には、そうなった。
つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝手な論理にすぎない。
私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきただろうか。
私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。
結果として日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。

 そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。

 しかしこれは深刻な問題でもある。

 これから先、高齢者はもっとふえる。
やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上になるとも言われている。
そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろうか。
そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。

 ジジ・ババは、ゴミ。
 ジジ・ババは、臭い。
 ジジ・ババは、ムダな人間、と。

 そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、
たいへん住みにくい国ということになる。
そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるようになるかもしれない。

 では、どうすればよいのか。

 ……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということ
になる。
が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。
親たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言ってい
るうちに、そうなる。

 中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。
反対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いにな
る。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみ
ればよい。

 「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。
「親の恩も遺産次第」と考えている若者は、もっと多い。
たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答えている。
つまり「余裕がなければ、みない」※と。
数年置きに、総理府(内閣府)が調査しているので、そのうち、これについての全国的な調査
結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。

 私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。
そこでは、30〜40人の老人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をし
ている。
見た目には、のどかで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからな
い。

 すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。
補助金を削減し始めている。
10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。
単純に計算しても、今は30〜40人だが、それが90〜120人になる。

 そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。
またどのように考えるだろうか。

 老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。
ケア・センターでは、老
人たちが、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。
ああいうのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。

 高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。
そういう人たちが、手をたたいて、カラオケで童謡を歌っている!
 つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。
また、そうであっては、いけない。

 わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。
社会とかかわりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。
そういうかかわりあいというか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それ
なりにの(人間)として認められるようになる。

 「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄
できたか、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていは
いけない。

 私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に!
姿勢を低くして、若者や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。
その努力を今から、怠ってはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

古い原稿を再掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。
そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。
それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。
「それだけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。
親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。
「親の老後のめんどうを、あなたはみるか」と。

 それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%!

 この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。
さらに東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。
このことからもわかるように、若者たちの「絆の希薄化」は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。
今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均27万円。
この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。
それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。
が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。
大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている!

 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。
春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。
毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。
「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。
何をいまさら」ということになる。
「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。
今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。

大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。
あるいは
ブランドだけで、大学を選ぶ。
だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新聞の投
書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。
「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。
どうしたらよいでしょうか」と。

私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。
私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。
「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけで
も、月に4万円もかかります」と。
しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。

(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。
月平均になおすと、約26・6万円。
毎月の仕送り額が、平均約12万円。
そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均年収は1005万円。
自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万円。
99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 親の支出額 学費)

+++++++++++++++

つづいて03年(7年前)に書いた
原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高齢者への虐待

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

やはり高齢者への虐待が
ふえているという。

これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。

+++++++++++++

 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護
サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11
月〜04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があっ
たということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。

 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。
夫が虐待するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということ
になる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

(1)殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2)ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3)食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4)財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。
こうし
た虐待は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。
最近の若者のうち、「将来親のめんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理
府、内閣府の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。
今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っている世代はいない。
飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。
本来なら、親に感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。
狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こ
んなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。
言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言う
のだが……。)
子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。
しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場ではない。
心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。
これはもう、立派な虐待以外のなにものでもない。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだい
ている。
それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。
子どもの心は、その受験期をさかいに、急速に親から離れていく。
しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。
あなたの周辺には、心の暖かい人もいれば、そうでない人もいる。
概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、今、心の暖かい人であることを、
あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、
連続して教えたことがある。
そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期にまたがって、大きく変化する
のを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライ
で、合理的になる。
はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え方を、平気でするよ
うになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えな
い。
つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろう
か。……言うことができるだろうか。
あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目で、あなたの子育てをみてみてほし
い。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子
どもの心にあてはまる諺はない。
きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、
まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。
人の目をたいへん気にする子どもで、いつも他人の顔色をうかがっているようなところは、ある
にはあった。
しかしそれを除けば、ごくふつうの子どもだった。
が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた!
「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。
しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。
ほかに首のない死体や爆弾など。
原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。
そしてその日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの
中から引きずり出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような
残虐事件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。
一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったと
いうのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。
ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。
ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。
ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火を
つけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。
異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。
しかし過負担や過干渉が原因でないとは、もっと言えない。
子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。
いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。
あなたの周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。
しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいということを、あなたは知ってい
る。
子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方
で、子どもの心をゆがめる。
それを忘れてはならない。

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。
それは事実だが、破壊された子ども、あるいはそのままおとなになった(おとな)が、それに気
づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。
本当の問題は、「では、なぜ、親たちは、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。
学歴のある人は、とことん得をし、そうでない人は、とことん損をした。
こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通して、いやというほど、思い知らされて
いる。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。
意識を変え、制度を変え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいことは、「おかしい」と言う。
そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。
しかしこれだけは言える。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、
遅いということ。
そのとき、気づいたのでは、遅いということ。
今ここで、心豊かな親子関係とは、どんな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよ
う。


Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司※

●受験競争の弊害

++++++++++++++++

受験競争の弊害をあげたら、キリがない。

問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。

そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。

+++++++++++++++++

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、
他人の心情でものを考えられるかということ。
つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それ
だけ精神の完成度が、低いということになる。
さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることにより、その人の精神の完成度を知ることが
できる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。
しかしこれは遺伝子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。
が、ここでいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでし
まう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の
自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。
この受験競争は、どこまでも個人的なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。
子どもにかぎらず、利己的であればあるほど、当然、「利他」から離れる。
そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。
ばあいによっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そうい
う側面がある。
ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をする子ども
もいるのはいる。
しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化している
だけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高
邁な人たちかというと、それは疑わしい。
疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。
親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこま
れている。
それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができない。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的、迎合
的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。
いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。
今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか
心が冷たい。
いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会では、生きてい
かれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。
しかしこうした印象をもつのは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。
避けてはとおれないこと。
それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな
違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほ
しい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある母親からの相談(2010年1月7日)

 たまたま今朝、こんな相談が届いていた。
埼玉県K市に住んでいる、MSさんという方からの
相談である。
一部を変えて、そのまま紹介させてもらう。

【MSさんからはやし浩司へ】

はじめまして。
毎日先生のブログを読んでいる者です。
私の子供はもう19才と17才になり、子育てという年齢ではなくなっていますが、それでも、何
かと心に思うことがあり、子育てのブログを読ませていただいております。

今回、長女の成人式の問題と次女の大学受験のことで、私の気持ちがいっぱいになってし
まい、自分を見失ってしまいそうなので、ご相談しました。

先ず、長女の成人式ですが、着物は娘の好みに合わせレンタルしました。
今時のレンタルは早めの申し込みで、記念写真の撮影は昨年3月に済ませており、夫と私の
親にはすでにアルバムを渡しております。
この写真撮影の時、着物を着て帰りましたので、双方の祖父母宅に寄り、振袖姿を披露しまし
た。

ですが、もうすぐ成人式というのに、長女は成人式には出ないと言い出しました。
その時の私のショックは言葉に出来ません。
長女は大学2年で、学費で精一杯の家計ですが、せっかくの成人式なので好きな着物を選ば
せ、トータル20万円もしました。
今、思い起こせば、着物を選ぶ時も、写真撮影の時も、娘はずっと不機嫌でした。
私は娘の様子を見ているだけで吐き気がするほど、気分が悪くなってしまいました。

これも、私がそう育ててしまったのだから・・・
 しっかりものの長女のこと、何か出席したくないよっぽどの理由があるはず、もうすでに振袖
姿は見たし、祖父母にも披露し、アルバムも撮影済み。
何が問題なのか? 長女の成人式だもの、本人の好きにすればいい・・・ と自分に言い聞か
せる毎日ですが、なかなか私の気持ちに折り合いが付きません。
これも、許して忘れる・・・でいいのでしょうか?

加えて、次女の大学受験で彼女のストレスが私に向けられ、毎日眼が回りそうです。
不安で不安で仕方ないようです。
私が高卒で、ずっと学歴にコンプレックスを持ち、子供には大学に行ってもらいたいと、小さい
頃から学歴が大事と間違って育ててしまったのがいけないのでしょうね。
夫はいうと、我関せずとばかりに、遠巻きにしております。

こんなことで・・・と笑われてしまいそうですが、中学生の時に、長女、次女とも本当に大変な時
期があり、頭の固い私が変わらざるを得ない事態となりました。
それから、子育てに自身がなくなり、これは共依存なのか?、と思うようになりました。
何かにつけ、私のしていることに自信がないのです。 

何か良いアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。

【はやし浩司よりMSさんへ】

 まず先の「介護と子どもの意識」を読んでみてください。
今のあなたの考え方も、少しは変ると思います。

 簡単に言えば、親の私たちは、子どもに対して(幻想)をもちやすいということ。
その幻想を信じ、その幻想にしがみつく。
「私たち親子だけは、だいじょうぶ」と。

 しかし実際には、子どもたちの心は、親の私たちから、とっくの昔に離れてしまっているので
すね。
親は子どもの将来を心配し、「何とか学歴だけは・・・」と思うかもしれない。
しかし当の本人たちにとっては、それが(ありがた迷惑)というわけです。
いまどき、親に感謝しながら大学へ通っている子どもなど、まずいないと考えてよいでしょう。
それよりも今、大切なのは、自分たちの老後の資金を切り崩さないこと。
あなたにかなりの余裕があれば、話は別ですが・・・。

 お嬢さんたちもその年齢ですから、今度は、あなた自身の年齢を振り返ってみてください。
そこにあるのは、(老後)ですよ。
今は、まだ(下)ばかり見ているから、まだ気がついていないかもしれませんが、あと5〜10年
もすると、あなたも老人の仲間入りです。

 では、どうするか。
つい先日、オーストラリアの友人が、メールでこう書いてきました。
「子どもたちには、やりすぎてはいけない。社会人になったら、お(現金)をぜったいに渡しては
いけない」と。

 同感です。
私もずいぶんとバカなことをしましたが、それで私の子どもたちが、私に感謝しているかという
と、まったくそういう(念)はないです。
息子たちを責めているのではありません。
現在、ほとんどの青年、若者たちは、同じような意識をもっています。

 だから私の結論は、こうです。

「よしなさい!」です。

 娘の晴れ着など、娘が着たくないと言ったら、「あら、そう」ですまし、そんなバカげた儀式の
ために20万円も浪費しないこと。
親の見栄、メンツのために、20万円も浪費しないこと。
それよりもそのお金は、自分の老後のためにとっておきなさい。

 子どもというのはおかしな存在で、そうしてめんどう(?)をみればみるほど、子どもの心は離
れていきます。
それを当然と考えます。

 20年ほど前になるでしょうか。
ある父親が事業に失敗し、高校3年生の娘に、「大学への進学をあきらめてくれ」と頼んだとき
のこと。
その娘は、父親にこう言ったそうです。

 「借金でも何でもよいからして、責任を取れ!」と。

 そこで私がその娘さんに直接話したところ、娘さんはこう言いました。
「今まで、さんざん勉強しろ、勉強しろと言っておきながら、今度は、あきらめろ、と。
私の親は、勝手すぎる」と。

 率直に言えば、これは「共依存」の問題ではありません。
あなたはまだ「子離れ」できていない。
つまりは精神的に未熟。
それが問題です。

 あなたは子離れし、自分は自分で、好きなことをしなさい。
自分で自分で、自分の人生を見つけるのです。
つまりあなたはあなたで前向きに生きていく・・・。

 その点、あなたを(遠巻きにして)見ている、あなたの夫のほうが、正解かもしれません。

 ずいぶんときびしいことを書きましたが、そのためにも、前段で書いた部分を、どうか読んで
みてください。
私たち自身の老後をどうするか?
お金の使い方も、そこから考えます。

 二女の方の学費にしても、子どものほうから頭をさげて頼みに来るまで、待ったらよいでしょ
う・・・といっても、今さら、手遅れかもしれませんが。
本人に勉強する気がないなら、放っておきなさい。
今のあなたには、それこそ重大な決意を要することかもしれませんが、そこまで割り切らない
と、あなた自身が苦しむだけです。
どうせ大学へ入っても、勉強など、しませんよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●介護問題と子どもの意識

 介護保険は、すでにパンク状態。
政府は税金をあげることだけを考えている。
しかしそれよりも重要なのは、子どもの・・・というよりは、日本人の意識を変えていくこと。
今のままでは、日本の介護制度は、その根底部分から崩れる。
「心」がない。
心がない介護制度など、またそれによってできる施設など、刑務所のようなもの。
「死の待合室」と表現した人もいる。
そんな施設に入れられて、だれがそれを「快適」と思うだろうか。

 どうして日本人の心は、こうまで冷たくなってしまったのか?
脳のCPUの問題だから、冷たくなったことにすら、気づいていない。
みな、自分は、(ふつう)と思い込んでいる。
またそれが(あるべき本来の姿)と思い込んでいる。

 このおかしさ。
この悲しさ。

 ここに転載させてもらった、MSさんのケースは、けっして他人ごとではない。
私たち自身、あなた自身の問題と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最後にもう一作。
ある母親の嘆きを、掲載します。
10年ほど前、中日新聞に掲載してもらった
原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌(Mom)に、こんな投書が載っていた。

『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切
にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。

旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの?

 私はどうしたらいいの?
 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・五〇歳の女性)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 私の子育ては何だったの 私の
子育てはなんだったの 親子の断絶 はやし浩司 親子の絆が切れるとき)

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。
ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。

これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だ
け授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どう
したらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やら
せたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」
と。要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの
意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。

「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、
(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視
点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。
この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。
結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だ
ったの?」という言葉が、それを表している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 介護問題 子どもの意識 子離れ 子離れできな
い親 私の子育ては何だったの 私の人生は何だったの 私の子育ては、何だったの 親
の悔悟 介護問題 はやし浩司 親のめんどう 親の介護 親の介護問題 内閣府調査 は
やし浩司 受験という虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに(2012年1月20日記)

 ジジ・ババ・ゴミ論と、家族意識の変化。
さらには子どもを取り巻く環境と、家族意識の変化。
こうした問題が混然一体となり、この先、ジジ・ババを取り巻く環境は、さらに過酷なものとな
る。
それには例外はない。
「社会の大勢」というのは、そういうもの。
いかにあなたが部分的に努力したとしても、子どもたちはやがてその「大勢」に呑み込まれて
いく。

むしろ、「うちはだいじょうぶ」「うちの子にかぎって」と、高をくくっている親、家族ほど、あぶな
い。
そういう親ほど、子どもの心の変化に気づいていない。

●では、どうするか

 最近の私の結論。
「そういう時流と思い、あきらめ、納得し、受け入れる」。

 独居老人、しかたない。
孤独死、無縁死、これまたしかたない。
それ以上に、息子や娘たちには、期待しない。
期待しなければ、失望もない。

 だったら、「限度をわきまえる」※。

 繰り返しになるが、子どもたちに向かって、「勉強しなさい」と言ってはいけない。
言えば言うほど、責任を取らされる。
その言葉自体が、虐待でもある。

 今、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、いない。
ゼロ!
大学生でも、いない。
社会人になってからも、親に車を買わせている子ども(若夫婦)となると、いくらでもいる。
さらには結婚式の費用から、子ども(孫)のおけいこ代まで払わせている子ども(若夫婦)まで
いる。

 が、当の子ども(夫婦)は、感謝などしていない。
「生活が苦しい」と言うことはあっても、感謝などしていない。

 だから限度をわきまえる。
(してやること)と(してはいけないこと)の間に、明確な一線を引く。
その一線を引くことに失敗すると、親子関係はバラバラになる。
それが全体として大勢を作り、ここに書いた「ジジ・ババ・ゴミ論」が生まれる。

 そう、私たちは、ゴミ。
今は、そういう前提で、自分たちの(現在)、そして(未来)を考えたらよい。
その上で、私たちはどうあるべきか。
若い世代とどうつきあっていくか。
それを考える。

(注※)限度論……バートランド・ラッセル(イギリスのノーベル文学賞受賞者)。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれど
も、けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ受難時代 ゴミ論 は
やし浩司 孤独死 独居老人 無縁老人 日本の子育て 育児論 はやし浩司 子育て限度
論)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

(補足)

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

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韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。
『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感すること
が、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。
ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。
『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。
つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。

親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。
申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

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●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。
 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。
 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。
(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬し
ていない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という
質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。
『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。

中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 
はやし浩司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる はやし浩司 MOM 親
の嘆き 私の子育て 何だったのか はやし浩司 私の子育ては何だったのか)

(注)六趣輪廻…… 「六趣輪廻」とは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に"趣く"六つの
道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)(以上、2012年1月20日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●再度、KS氏のコメントより

+++++++++++++++++

(東京・KS氏より)

団塊世代は、年上という理由のみで、偉そうにしています。
若者を見下している!!
注意することは良いことです。
しかし、注意の仕方が悪いです。
団塊世代は敬語を使えないのかね?
「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」。
当然でしょう。
事実を認めず、それを若者にぶつける貴方みたいな人がいるから、バブル世代、団塊世代は
敵に回されるんです。
勿論全てのバブル、団塊世代の人ではありませんが・・・
また、東京に「大井川」駅は存在しません。
恐らく「大井町」駅の間違いですね。(以上、東京・KS氏より)

++++++++++++++++

●「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」

 KS氏も、こう断言している。
「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」と。

 ほかのコメントには、こうあった。
「団塊の世代は、ノーノーと生きてきた」
「借金を(若者に)押しつけ、遊んでいる」
「老人は、1匹、2匹で数えろ」などなど。

 こうしたコメントについては、もう少しあとで紹介することにして、まずKS氏の意見。

(1)団塊世代は、偉そうにしています。
(2)若者を見下している!!
(3)団塊世代は敬語を使えないのかね?
(4)「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」。
(5)事実を認めず、それを若者にぶつける貴方みたいな人がいるから、バブル世代、団塊世
代は敵に回されるんです。

 個人的には、「団塊世代は敬語を使えないのかね?」という部分に、私は反感を覚えた。
KS氏は、こう書いている。

「信号を無視して渡ってきた男性(息子も同伴)に対して、老人といえども、敬語を使って注意し
ろ」と。

 敬語?
どうして敬語なのか。
脳の中で、バチバチと火花が飛ぶ。
反論しようにも、しようがない。

●意識のズレ

 意識のズレというのは、恐ろしい。
私も含めてだが、ほとんどの団塊の世代は、そうは考えていない。
「現在の日本の繁栄を築いたのは、私たち」と。
そう考えている。
 
 が、ただ築いたのではない。
自分を犠牲にし、懸命に貧乏のドン底から、はい上がった。
私にしても、1か月に休みが、1日だけという年が、何年もつづいた。
子どもたち(息子や娘たち)にだけは、ひもじい思いをさせたくないと、そんなことばかり考えて
きた。
学費にしても、そうだ。
老後の資金を取り崩し、子どもたちを大学まで送った。
また親たるもの、そうあるべきと信じて疑わなかった。

 が、千葉県に住む、EH氏は、こう書いてきた。
「阿呆」というタイトルで、つぎのようにあった。

『老後の自分の面倒を見てもらう為に、愛情もない相手と結婚して、子供を作り、育てるって事
ですかね。そんな世界で生きていて、なんの価値があるのでしょう。
世の中は地球規模で変化をし、進化をしているのです。
夫婦、家族、恋愛... 全ての形が多様化しているのです。新旧色々あって良いじゃないですか。
結局、林先生は御自分の意見が正しいと思い切り主張していて、読んでいてがっかりです。
ちなみに私は、子供がどこでどんな生き方をしても良いと言える親をずっと目指します。
子供には子供の人生があるのですから。
それを家族崩壊とは思いません。
むしろ、親の面倒で子供を縛りつけている方が家族崩壊じゃないのですか?
親の近くにいようが遠くにいようが子供が良い人間で幸せなら、親としても幸せなはず。
林先生は子離れ出来ていないのですね。
そんなに親の面倒を子供が見るのが当たり前だと思うのなら、御自分のお子さんに『私の面倒
をみろ』と、言ったら良いのに!
 千葉 E.H.より』と。

 たぶん、まだ老親のめんどうをみたことも、介護もしたこともない若い父親が、こういうことを
平然と言ってのけるから、恐ろしい。
また老親のめんどうをみるつもりもないだろうし、介護もするつもりもないだろう。
私がEH氏の親なら、めんどうをみてもらうのも、介護をしてもらうのも、こちらから願い下げる。
想像するだけで、ぞっとする。
EH氏は、こう書いている。

「自分の老後の面倒をみてほしかったら、息子や娘に頼め」と。
「頼め」というところが、恐ろしい。
それともEH氏は、自分の子ども(息子あるいは娘)に対して、日ごろ、こう言っているのだろう
か。

「自分のめんどうをみてほしかったら、親の私に頼め」と。
またそういう親子関係を、「地球規模の変化であり、進歩である」と。

●事件

 事件は、そんな最中に起きた。
もう一度、そのときの原稿を取りあげてみる。
団塊の世代以上の、老人組のみなさん、じっくりと読んでみてほしい。
私たちの老後が、いかに悲惨なものになるか、これを読めば、少しはわかるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●殴り殺された老人

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●逆ギレ

 今朝のニュースで、一番驚いたのが、これ。

 赤信号を無視して歩いている男性を、別の男性が注意した。
それに注意された男性が、逆ギレ。
注意した男性を殴り、殺してしまったという事件。

 この種の事件は、ときどきあるが、今回の事件は、つぎの1点で特異性がある。
殴った男性は、そのとき自分の「10代の息子」(報道)と、いっしょだったこと。
MSN・Newsの見出しは、つぎのようになっている。

『赤信号注意され逆上…男性殴り死なせた男の「理不尽」 交錯する怒りと悲しみ』(MSN・NE
WS)と。

 以下、MSN・Newsより

+++++++++++++以下、MSN・NEWS+++++++++++++++

東京都品川区の路上で昨年11月、赤信号で横断したことを注意された男が逆上し、注意した
男性を殴って死亡させる事件があった。
傷害致死容疑で逮捕、起訴された男は警視庁の調べに「腹がたってやった」と供述。
その理不尽な行動に、関係者の間で怒りと悲しみが交錯している。(大島悠亮)

息子の前で逆上し…

 昨年11月12日午後7時35分ごろ、大手百貨店や飲食店などが立ち並ぶ東京都品川区の
JR大井町駅中央口側の横断歩道。
区内に住む無職、小牧信一さん=当時(77)=は、対面から信号無視をして渡ってきた2人組
の男らを見かけた。

 「赤信号ですよ」

 小牧さんがこう注意すると、男の1人が「うるせえんだよ」と逆上。
顔を殴られた小牧さんは路上に転倒して頭を強く打ち、意識不明の重体となった。
小牧さんはすぐに病院に搬送されたが、1カ月以上たった12月20日、帰らぬ人となった。

 捜査関係者によると、小牧さんを殴ったのは傷害致死容疑で逮捕され、今月13日に起訴さ
れた品川区東大井の会社役員、山根基久夫被告(48)。

そして、傍らにいたのは山根被告の10代の息子だった。
2人は事件後、駅構内を抜け、自宅のある東口方面から逃走。
山根被告は事件がニュースなどで報道されているのを見て、小牧さんが死亡したことも把握し
ていたという。

 当初、捜査は難航したが捜査員の執念が実を結ぶ。
事件から数週間がたち、再度、現場周辺の防犯カメラを細かく解析したところ、事件当時、現
場で目撃された男と似た人物を確認。山根被告が浮上した。

+++++++++++++以上、MSN・NEWS+++++++++++++++

●若い人たちの反応

 事件の異常性もさることながら、若い人たちの、この事件に対する反応に、私は驚いた。
2チャンネルをのぞいてみると、つぎのような意見が、ズラリと並んでいた。

全体の2分の1から、3分の1以上が、殴られて殺された小牧伸一さんを非難したり、反対に、
殴った山根被告を擁護するもの。
(殴った男性を非難しているのではなく、殴られた男性を非難している!)

●2チャンネルより

 2チャンネルへの書き込みを、そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?


★勇ましいなおい


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか


★メリークリスマス 
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな 
正論だから腹が立ちともいうよな 
忘れられないクリスマスだな 
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして 
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。


★赤信号を守るのは正しいことだが 
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。 
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない 
この爺はよく今まで生きてたわ


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ


★んなわけねえよ。 
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。 
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら 
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた 
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…


★団塊ってかバブル世代だったな 
まあどっちにしても敵だけど


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw 
卑屈すぎるわ


★子供連れてるのに人に注意されるようなことをした父親の自業自得だろ 
子供の前で尊厳大事にしたかったら人に注意されるような行動をしなければいい


★いちいち注意した老害もゴミ 
殴り殺したDQNパパもゴミ 
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。 
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ


★ジジイも信号無視したことあんだろ? 
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号
待ちをするのは愚鈍。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に 
歩道を漕いでたら片足引きずってるジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになっ
たな 
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに 
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて 
ただのあほ、そんだけのことだろ 
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし 
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず 
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。 
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。


★爺も自業自得だよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね 
本人は分かっててあえてやってるんですから 
バカと言われたと同じです 
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ


(以下、延々と、つづく……)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●意識

 最近の若い人たちの意識が、私たちの意識とズレていることは、私自身も強く感じていた。
が、ここまでズレているとは、思ってもいなかった。

 若い人たちは、「77歳」という数字だけを見て、「ジジイ」と位置づけている。
その上で、事件の内容を吟味することなく、短絡的に、老人批判を展開している。
「2チャンネル」という、無責任な掲示板での意見だから、本気にとらえる必要はないのかもし
れない。
が、それ故に、かえって、現代の若い人たちの「本音」が、そこにあるとみてよい。

(もし注意したのが、30代、40代の男性だったら、どうだったのか?)

●段階の世代は「敵」

 この書き込みの中で、つぎの2つが、気になった。
「団塊」という言葉が、強く私の関心をひいた。

『団塊ってかバブル世代だったな。まあどっちにしても敵だけど』
『団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ』と。

 「v速」とは、何か。
それはさておき、ここで見られる若い人たちの意識は、180度、私たち団塊の世代のもってい
る意識とちがう。

 私たち団塊の世代には、それを意識しながら生きてきたわけではないが、「この日本の繁栄
を築きあげたのは私たち」という自負心がある。
同時に、ぜいたく三昧に明け暮れる若い人たちを見かけると、ときどき、「だれのおかげで、そ
んなぜいたくができるのか、わかっているのか?」と言いたくなるときがある。

 が、若い人たちの意識は、私たちの意識とは、ちがう。
私たち団塊の世代をさして、「敵」と。
こうした意識をもっているのは、若い人たちの中でも一部と、私は信じたいが、どうやら一部で
はなさそうだ。
すでにこうした傾向、つまり「世代間闘争」は、あの尾崎豊が、『♪卒業』を歌ったときから、始
まっていた。

●親バカからジジバカへ

 総じてみると、団塊の世代には、親バカが多い。
「子どものため……」と、自分の人生を犠牲にした人は多い。

「子どもだけには、腹一杯、メシを食べさせてやりたい」
「ひもじい思いだけは、させたくない」
「学歴だけは、しっかりと身につけさせてやりたい」と。

 が、そんな思いや苦労など、今の若い人たちにしてみれば、どこ吹く風。
気がついてみたら、老後の資金を使い果たしていた……。
それが団塊の世代。

 が、親バカなら、まだ救われる。
が、それが日本全体に及んだとき、今度は、ジジバカとなる。
私たちは「つぎの世代」を考えながら、この日本はどうあるべきかを、思い悩む。
考える。
が、肝心のつぎの世代にしてみれば、ただの(ありがた迷惑)。

 が、私たちの世代には、それがわからない。
「そうではない」という幻想にしがみつきながら、生きている。
が、幻想は、幻想。
それがわからないから、ジジバカ。
私たち団塊の世代は、今、とんでもないジジバカを繰り返している(?)。

 それを如実に表現しているのが、つぎの言葉。
少なくとも私がもっている「常識」とは、180度、ちがう。
180度、ひっくり返っている。

『……ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な
気分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ』と。

 その若者は、こう言っている。

 「カチンと来るような注意のされかたをしたら、イヤミや余計な一言を返し、相手も不愉快な気
分にさせるのは、当然。
それが常識のある、社会人としての行動」と。

●ゴミ

 60代、70代の人たちよ、覚悟しようではないか。
現在の若い人たちには、私たち老人に対する畏敬の念など、微塵(みじん)もない。
そういう若い人たちに、私たちの未来を託しても、意味がない。
期待しても、意味がない。

 ……というのは書き過ぎ。
またそうであってはいけない。
それはよくわかっているが、それが私たちの未来を包む現実。
この先、この傾向は、ますます強くなる。
こんな記述も見られる。

『ゴミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw』と。

 現に今、あくまでも風聞でしかないが、医療機関でも、「75歳以上は手術はしない」という考
え方が定着しているという。
現実にそんな規定があるわけではない。
その年齢以上になると、「年齢(とし)ですから……」と、治療を拒否されるケースも多い。
事実、私の兄は、担当のドクターに、こう言われた。
「私は治る見込みのある患者は、治療しますが……」と。

 つまり治る見込みのない患者(=兄)は、治療しない、と。

●同情

 ただ若い人たちが、忘れていることが、ひとつ、ある。

 現在、「若い人たち」と呼ばれている人にしても、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
自分たちだけは、ジジ・ババにならないと信じているかもしれない。
が、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
そしてそのとき、そのジジ・ババを取り巻く環境は、今よりも過酷なものとなる。
2050年……つまり38年後には、約3人に1人が、そのジジ・ババになる。
(=1・2人の実労働者が、1人の老人を支える時代になる。)

 現在25歳であれば、25+38=63歳!
若い人たちよ、それがあなたの未来だぞ!

 そのとき、今、天に向かって吐いた唾(つば)が、自分の顔に落ちてくる。
が、私はけっして、現在の若い人たちのように、「ザマーミロ!」とは言わない。
「かわいそうに」と同情する。

●小牧伸一さん

 小牧伸一さん、あなたの死は、けっして無駄にしない。
こういう事例では、注意するほうも、不愉快。
できれば、事なかれ主義でもって、無視したい。
しかしそれがあまりにも目に余った。

「信号を守れ」というのは、相手のことを思って発した言葉。
自分のためではない。
信号を無視すれば、その相手が事故に遭う。
小牧伸一さんは、それを心配した。
だから相手を注意した。

 が、心配してもらったほうは、逆ギレ。
あなたを逆に殴った。
こんなバカなことが「常識」というのなら、そちらの常識のほうが狂っている。

 殴った男は、本物のバカ。
どうしようもない、つまり救いようがない、バカ。
徹底して法の裁きを受ければよい。

 が、残念ながら、今、こういうバカが、ふえている。
言うなれば、これはまさに、善と悪の闘い。
善が勝つか、悪が勝つか……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原因はどこにあるのか?
 
 若者たちの意識は、半世紀前と比べただけでも、完全に逆転している。
が、理由がないわけではない。
私が、35歳ごろに書いた原稿を読んでみてほしい。
この原稿の中に、その原因を知る、ひとつの手がかりがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「団塊の世代は敵」

 若い人たちから見れば、日本の繁栄を食いつぶしたのは、私たち団塊の世代ということにな
る。
2チャンネルの投稿を読んでいると、それがよくわかる。
一方、団塊の世代は、(私を含めての話だが)、そうは思っていない。
「この日本を支えてきたのは、私たち」という自負心が強い。
ただひたすら、企業戦士となり、一社懸命でがんばってきた。
家庭を犠牲にした人も多い。

 この意識のズレを理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要があ
る。

●飽食と贅沢(ぜいたく)
 
現在の30代、40代の人たちが生まれたころは、日本経済はまさにバブル経済の真っ最中。
子どもが生まれると、祖父母までやってきて、蝶よ、花よともてはやした。
まさに飽食と贅沢。
それが当たり前の世界だった。
七五三の祝いに、ホテルや料亭を借り切って祝う家も、少なくなかった。

 が、こうした育児観を批判する人もいるには、いた。
私もその1人だった。
当時、書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「費用もかえって、安いのじゃないかしら?」

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●七五三の祝いを式場で?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●費用は一人二万円

 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。
何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。
見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女の子(6歳ぐらい)が、中央にすわり、
これまた結婚式場のように、列席者がその前に並んでいた。

費用は一人二万円くらいだそうだ。
レポーターが、やや皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その
母親はこう言った。
「家でするより楽で、費用もかえって、安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房

 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。
私たちは、結婚式すらしてない。
と言うより、できなかった。
貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだったが)、私が今の
女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、「香港へ行きた
い」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでおしまい。

実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。
反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけ
でも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも
流れてしまった。
さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」

 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。
「何か、おかしいわ」と。
つづけて私も言った。
「おかしい」と。
すると女房がまたこう言った。
「私なら、あんな祝い、招待されても行かないわ」と。
私もそれにうなずいた。

いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなものだったかもしれない。
しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。
子どもを大切の思うということ。
そのことと、こうした祝いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからと
いって、子どもを愛したことにも、大切にしたことにはならない。
しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。

むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。
「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢
心である。
その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。
こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反省

 ともあれ、こうした世代間闘争というのは、100%、老人組が敗れる。
古今東西、勝ったためしがない。
それもそのはず。
私たち老人組は、生きていくだけで精一杯。
その先にあるのは、「死」。

 そこで『老いては子に従え』という。
つまり負けを認めろ、と。
が、私たちの世代の者にとっては、まさに自己否定。
この原稿を読み、「私たちは何のため、だれのためにがんばってきたのだろう」と思っている人
も多いことかと思う。
そう、私たちは、何のため、だれのためにがんばってきたのか。
あるいは子育てといいながら、壮大な無駄をしただけなのか。

 これ以上は、グチになるのでは、ここでは書きたくない。
ただ私たち老人組も、反省すべき点は、多い。
たとえば私の近所をざっと見回しても、自分勝手な老人は多い。
多すぎる。
まさに自分のことしか、していない。
とくに元公務員、元準公務員(三公社五現業)の人たちが、ひどい。
豊かな年金をよいことに、まさに悠々自適の老後生活。
私もこの地区に住んで、40年以上になる。
しかしそういう人たちが、たとえば近所のゴミ拾いなどをしている姿を見かけたことがない。
一事が万事というか、そういう姿勢では、若い人たちから嫌われて当然。
老害論をぶつけられても、当然。
この私ですら、腹が立つ。

●老後のテーマ

 では、私たち老人組は、どうあるべきか。
結論は、すでに出ている。

 あとは、それに向かって、最後の「命」を燃焼させるだけ。

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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

***********2012年04月06日まで*********** 






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 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
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