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【21】
2012年  1月  9日〜 2月 29日

(120109)(22)最前線の子育て論byはやし浩司

***********2012年01月09日より*************

【日本の英語教育】byはやし浩司

●奥浜名湖・国民宿舎に一泊(はやし浩司 2012−01−09)

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今日は、浜名湖・国民宿舎に1泊。
清潔さで選ぶなら、イチオシ。

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●「眼鏡市場」(店名)

 ちょうど今、夕日が、電柱に隠れ、長い影を落としている。
その影に顔を隠しながら、私はワイフが車に戻ってくるのを待っている。
ここは、眼鏡市場(店名)の駐車場。

 最初、ワイフは眼科医院で、メガネの処方箋を書いてもらった。
それをこの店で見せ、メガネを作ってもらった。
しかしワイフの目に合わなかった。
そこで再度、眼科医院で視力測定をし、処方箋を書いてもらった。
処方箋には、誤りはなかった。
店のほうで、何かのミスをしたらしい。
それを説明すると、店は、「すぐ作り直します」と。

 こういう素直さが、うれしい。
またそれがあるから、関係がつづく。
眼鏡市場は、「サービス」がよい。
安心してメガネを買うことができる。

そのメガネが、今日、できてきた。
家を出るとき、そういう連絡が、電話であった。
それで立ち寄った。

で、今、ワイフは、店の中で、最後の調整をしているはず。
私は、こうしてワイフを待っている。
時は、2012年01月09日、16時03分。
ふと、犬のハナのことを思った。

●ハナ

 ハナが、今日、玄関の階段を登るとき、足を踏み外し、よろけた。
うしろ足が、体についてこないといったふうだった。

 もう、目は、ほとんど見えない。
今朝も牛乳を温め、そばに置いてやった。
が、それも飲まなかった。

 昼になって、牛肉を炒め、その上にバターをかけてやった。
いつもなら匂いだけで、小屋から飛び出てきた。
が、今日は体を丸めたままだった。

 ワイフに「毛布はないか?」と言うと、ワイフが、毛布をもってきてくれた。
その毛布と、ハナのタオルケットを二枚重ね、ハナの体にかぶせた。
しっぽが、小屋の壁を叩く音がした。
そのとき、ジンと目頭が熱くなり、涙が数滴こぼれた。

 「ハナ、暖かくなったら、また海へ行こうな」と。

 若いころ、ハナは、中田島の砂丘へ連れていくと、数秒も間をおかず、走り回っていた。
カラスを追いかけた。
そんな思い出が、つぎつぎと浮かんでは消えた。

私「最期が近いみたい……」
ワ「……」と。

 夕日を見ていたら、また涙が数滴、私の頬を流れた。

●国民宿舎

 これから近くの国民宿舎に向かう。
先ほど問い合わせたら、部屋が空いているとのこと。
「奥浜名湖・国民宿舎」。
1泊9000円(1名)弱で、泊まれる。
 
 湯質は、一応、「温泉」。
薬剤を混ぜ、下呂温泉のそれと同じにしてあるとのこと(宿の案内)。

 また名前は「国民宿舎」だが、現在は浜松市に移管され、民間のY社が管理、運営していると
いう。
仲居さんが、そう話してくれた。

●教材作り

 こうして書いていると、一日中、私は遊んでいるように見えるかもしれない。
が、事実は、逆。
私は一日中、働いている。
家を出るまで、今週からの教材作りをしていた。
それに2時間ほど、かかった。

 よく誤解されるが、プリント学習ほど、楽なものはない。
プリントをコピーし、それを生徒にさせる。
あとは、丸をつけるだけ。
コピーのもととなる教材は、近くの書店で買ってくればよい。
自前で、……大手のチェーン塾は別として、自前で教材を作っている塾は、ほとんどない。

 一方、私のやり方は、形としての証拠が残らない。
私は無数の市販教材を手がけてきたが、教室で使う教材は、すべて手作り。
親や子どもたちに、自分の作った市販教材を買わせたことは、一度もない。
教室で、子どもたちとワイワイ言いあいながら、レッスンを進める。

が、プリント学習のほうが、親たちには受けがよい。
証拠が残る。
一方、私のやり方は、親たちには受けがよくない。
証拠が残らない。

(多くの親たちは、プリント学習のような学習を、「勉強」と思い込んでいる。
悪しき受験教育の弊害である。)

よく「何をしていますか」と聞かれる。
そこで私は、公開教室という形で、YOUTUBE上で、教室のレッスン風景を公開している。
百聞は一見に如(し)かず。
親たちに、直接見てもらうのが、いちばんよい。
が、これが思わぬ反響を呼び始めている。

●3500本!

 最初は、台湾から。
つづいて中国から。
そのあとは、アメリカ、フランス、カナダ、それにオーストラリア……。
今では全世界から。
世界中の人たちから、令状が届くようになった。
「日本語の勉強にいい」と、日本語を勉強している学生からのコメントも、よく届く。
現在では、国内でのアクセス数と、海外からのアクセス数が、ほぼ同じ。
1日のアクセス数も、1000件前後で推移している。

 もちろん子どもたちの学習教材として利用している親も、多い。
UPした動画は、3500本を超えた。
たいへんな数である。
「そのうちギネスブックに……」とワイフは言う。
が、私にはそういう野心はない。
またほかの動画とちがい、ことBW公開教室に関しては、否定的なコメントは、まったく、ない。

 ただ残念なのは、YOUTUBEでは、教室の雰囲気が伝わらないこと。
私の教室の親たちも、そう言っている。
実際に見る、私の教室は、子どもたちの熱気でムンムンとしている。
迫力が、ちがう。
その雰囲気が、動画では、伝わらない。
YOUTUBEで見る私の教室は、おとなしく、やさしい。

●NxK

 幼児がもつ潜在的な能力には、ものすごいものがある。
私は40年以上、幼児に接している。
その結論が、これ。
「ものすごいものがある」。

 NxKの幼児向け番組を見ていると、よく指導員が幼児の前で踊ったりしている。
「ハ〜イ、お手々を、ブ〜ラ、ブラ」と。

私はいまだに、あんな番組が、あること自体、信じられない。
何の役に立つのかさえ、よくわからない。
運動にはなるのだろうが、幼児の生の表情が伝わってこない。
ときどき、こう思う。
「あんな家畜にもしないような訓練を、よくやっているな」と。

 この日本では、ああいうのが、幼児教育ということになっている。
また幼児を指導するというのは、そういうものと思い込んでいる。
が、誤解。
誤解というより、これは偏見。
やるなら、どこかの老人ホームでやればよい。
そのほうが、よほど役に立つ。
喜ばれる。

●BW公開教室

 今週は、通常のレッスンとは別に、幼児(年長児)に、「平均」を教えてみる。
「そんなこと、教えられるか?」と疑問をもつ人は、一度、YOUTUBEを見てほしい。
私はもっと、すごいことをしている!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
から「BW公開教室」へ。

 が、率直に言おう。
私はもう、この日本など、相手にしていない。
相手にしていないというか、期待していない。
どうでもよい。
この日本には、私のような教育を認める、土壌そのものがない。
その前に、私のような人間を認める、包容力そのものがない。

保守的で固定的。
権威主義的で排他的。

10年どころか、100年一律の教育をし、それが教育と思い込んでいる。
創意も工夫もない。
おもしろくない。
つまらない。
が、私から見ると、バカみたい。
そんなバカみたいな教育を、いまだにつづけている。

 だから日本など、だれにも相手にされない。
日本の教育など、だれにも相手にされない。

(そう言えば、先日、アメリカのある小学校の校長も、そう言っていたぞ。
「日本の教育を視察してきたが、学ぶべきものは、何もなかった」と。
「みやげにもらった、こいのぼりだけが、役にたった」と。)

 だから最近は、こう思う。
韓国、中国、東南アジアの人たちが、私の教育法をまねてくれればよい、と。
実際、韓国からのアクセス数が、ダントツに多い。
そのうち韓国から、私の教育法が、逆輸入される。
私は今、それを楽しみにしている。

●パソコン

 ……というか、以前にも、同じような思いをしたことがある。
パソコンが世に出始めたころのこと。
小中学校でも、パソコン教育をと、みなが言い出した。
それに応じて、時の通産省も動き出した。
が、それに待ったをかけたのが、ほかならぬ時の文部省だった。
「教員免許をもたない者を、教壇に立たせるわけにはいかない」と。
さらにこうも言い出した。

 「コンピューター科を、教育学部で作るのに、20年かかる」と。
つまり教授を育てるまでに、20年は、かかる、と。

20年!

 教員がいなかったら、工学部から学生を連れてくればよい。
どうしてそういうことが、この日本ではできないのか。

 その結果、日本の電子産業がどうなったかは、みなさんご存知のとおり。
失われた10年が、20年になった。
教育の世界でも、20年、失われた。

 そういう歴史を私は目の当たりに見てきたから、こう言う。
「日本なんか、アテにしていない」と。

●英語教育

 小学校での英語教育については、私は先駆的な仕事をさせてもらった。
私がイチから企画した、小学生向きの英語教育教材があった。
『ハロー・ワールド』(G社)という名前の雑誌だった。

 それがいか先駆的であったかは、当時、毎月27〜8万部も売れたことが証明している。
(毎月、27〜8万部だぞ!)
そのあとを追いかけるように、小学校の英語教育がつづいた。
「そんなバカな」と思うのは、ちょっと待ってほしい。

 その雑誌に、そのとき名前を連ねた学者たち(=どこかの大学の教授たち)が、そのあと、英
語教育の中心的研究者として、活躍した。
大きな役割を果たした※。
形の上では、そうした学者が、先駆的にその雑誌を発行したことになっている。
が、それはウソ。
ウソということは、私や当時の雑誌の編集者たちが、いちばんよく知っている。
ついでに、その雑誌がどういう経緯を経て発刊されたか、そのプロセスを書いておく。
今の時代を生きる証言者として、後世に、記録を残しておく。

(注※…理科系の世界では、論文数と引用数によって、その学者の評価が決まる。
文科系の世界では、書籍の出版点数や、雑誌への寄稿数で、その学者の評価が決まる。)

●『ハロー・ワールド』(G社)

 最初に企画の話をしてきたのは、学習編集部に籍を置いていた、O氏だった。
ハンサムで都会的な人だった。
私と同じ年齢ということもあり、呼吸も合った。
それまでにもいくつかの企画を手伝わせてもらった。
世界初のバーコードブック、『TOM』もそのひとつ。

で、伊豆の伊東に、米若荘※という旅館があった。
「米若」だったかもしれない。
JR伊東駅から、歩いて5〜10分ほどの距離だった。
その旅館の温泉につかっているとき、O氏がこう切り出した。
「今度ね、英語の雑誌を作ろうと思っているのですが、協力してもらえますか」と。

 最初に話を持ち出したのは、O氏である。
「じゃあ、企画を立ててみます」と。

 ……ということで、私は1〜2か月の間、その企画に没頭した。
企画と試作テープを制作した。
テープは、カラオケセットを利用した。
が、その企画が、思わぬハプニングで、「社長会」を通ってしまった。
社長の前で披露する企画会議を、G社内部では、「社長会」とか、「社長会義」と呼んでいた。
内部では「御前会議」と呼んでいた。
正確な名称は、忘れた。

 その企画会で、O氏と、その上司であるS氏が、別の企画の説明をしていた。
それに対して、社長が、「もっとおもしろい企画はないかね?」と。
そこでO氏が、慌てて出したのが、私の企画と試作中の録音テープだった。

 この話はG社にとっても、またO氏、その上司であるS氏にとっても、彼らの名誉がからむ。
だから聞いたまま、また記憶を正確にたどりながら、ここに書く。

 が、その企画を見て、社長がこう叫んだという。
「それで行こう」と。

 こうして『ハロー・ワールド』という雑誌が生まれた。

(注※…現在、この旅館はなく、その跡地にはスーパーが建っているとのこと。
先日、伊東市で講演させてもらったとき、案内役の先生が、そう話してくれた。)

●商標登録

 が、当初は、『ピーカーブー』という名前で、私は企画していた。
「もういいかい?」「もういいよ」という、かくれんぼの合言葉である。
英語のかわいい歌もあった。
私はそれを雑誌のテーマ・ソングに考えていた。

 が、O氏がある日、興奮して、こんな電話をかけてきた。
「林さん、『ハロー・ワールド』という名前が使えますよ」と。
話を聞くと、こう教えてくれた。

 当時、NHKに『ハロー・ワールド』という人気番組があった。
その名前が、商標登録をしていなかった。
それで「その名前を、そのまま使えます」と。

 G社は、NHKの人気番組の名前を、ちゃっかりと横取りした。
(この世界ではよくあることで、これは悪いことでも何でもない。
しっかりと商標登録をしていなかった、NHK側のミスということになる。)

●見本号

 こうして見本、第1号が生まれた。

 タレントとして、当時まったく無名だった、西田ひかるさんを起用した。
「起用した」というより、当初、K舞さんというタレントに頼むつもりだった。
しかし予算がなかった。
プロダクション側は、月20万円のギャラを要求してきた。
そこでO氏が、同じ横浜市内にあるアメリカン・ハイスクールを訪問し、西田ひかるさんを見つ
けてきた。
当時、高校1年生。
ちょうど2年生になるときのことだった。
1号に載っている西田ひかるさんが、おかっぱ頭なのは、そんな理由による。
(O氏が見つけてきた。
「歌が歌えますか?」と聞くと、西田ひかるさんは、YMCAを歌ってくれたという。)

 ともかくも、こうして見本第1号が生まれた。

●失望

 が、第1号から、私は大きく失望した。
O氏がどういうルートで、どのようにして連れてきたかは知らない。
しかし第1号のトップを飾ったのは、私の知らない2人の人物であった。
うち1人が、後に小学校での英語教育の立役者になる。

 O氏の実力については、私はよく知っている。
学習編集部というG社の看板編集部(当時)の中でも、ひときわ輝いていた。
トップクラスの編集者であった。
事実、あの雑記帳のような企画書が、とびぬけて斬新な雑誌になったのは、O氏の力によるも
のである。
センスそのものが、ちがった。
あるとき、「この人は魔法使いのようだ」と思ったことがある。

また私の名前が当初からはずされたのも、O氏としても、やむをえなかったのかもしれない。
それがG社の体質だった。

 たとえば私は実用図書部という編集部で、「東洋医学基礎編」「東洋医学経穴編」という書籍
を出してもらったことがある。
そのときも、100%、私の執筆によるものであるにもかかわらず、どこかの偉い先生が、著者
として本を飾った。
「君の名前では、本は売れないから」が、その理由だった。
私は「企画・構成、はやし浩司」。
私はそんな肩書があることさえも知らなかった。

 が、やる気を失ったのは事実。
6号(=半年)を過ぎるころから、私は『ハロー・ワールド』から、手を引き始めた。

●編集方針

 編集方針がちがったということもある。
号を重ねるごとに、どこかの偉い教授たちが、その雑誌に群がってきた。
そして「シャワー方式」(=わかってもわからなくても、英語を頭からお湯をかぶせるように聞か
せる)とか、「スパイラル方式」とか、そんな方式が採用された。
「スパイラル方式」というのについては、いまだにそれがどんなものであったか、私はよくわから
ない。
たぶん編集部の方で、勝手に考えた方式ではなかったか(?)。

 で、6〜7号ごろになったとき、はじめてO氏に、私は異議を唱えた。

 「外国映画でも、字幕もなく、ただその言葉を聞かされたら、イライラしますよ」と。
シャワー方式を批判した。
O氏は、あれこれ説明してくれたが、つぎの私の一言が、O氏を怒らせた。
「実際、教えたことがない人が英語雑誌を作るなんて、無茶だ」と。

 私がその前に、1年かかっても、A〜Zの文字が書けない6年生は、いくらでもいますと言っ
た。
それに対して、O氏が、「そんなバカな」というような顔をしてみせた。
「無茶だ」と言ったのは、そのあとのことだった。
O氏は、くるりと背を向けると、こう言った。
「林さん、それを言っちゃ、おしまいだよ」と。

 それで私と『ハロー・ワールド』との縁は切れた。

 そうそうこんな会話をしたこともある。
私「1号の雑誌の中だけで、中1の教科書に出てくるほどの単語が出てきます」
O「では、林さんは、どんな雑誌がいいと思いますか」
私「1冊で、YES、NOだけを教える。それでじゅうぶんです」と。

 が、O氏は、こう言った。
「それでは、お金を取れません」と。

●英語教育

 現在、小学校における映画教育が、デッドロックに乗り上げている。
外人の講師が来て、それらしいことを教える。
が、それだけ。
よく言えば、ゲーム会。
悪く言えば、雑談会。
まったく軌道に乗らない。
外人講師も集まらない。

 が、そうした経験を、すでに私は、42年前にしている。
この浜松市で、幼児や小学生を相手に英語教室を開いたのは、事実、私が最初である。
大人向けの英語教室は、1軒だけあった。
紺屋町の五社神社を降りた坂の、その途中にあった。
1971年の終わりごろのことである。

 つまり『ハロー・ワールド』が生まれる前、すでに20年近いキャリアがあった。
その私が、あえて再び言う。

「小学6年生でも、A〜Zのアルファベットを書けない子どもはいくらでもいる。
1年間教えても、書けない子どもは、書けない」と。

 この日本では、実際に子どもに英語を教えたことがない人が、指導者として上にたつ。
……立った。
だからおもしろくない。
役に立たない。
子どもたちの心をとらえることはできない。

 そんな教育を押しつけられた現場の先生たちこそ、えらい迷惑。
英語だけではない。
数学、国語、社会、理科にしても、そうだ。
総合的な学習にしても、そうだ。
どれも後に学者になる子どもには、すぐれた体系をもっている。
しかしいったい、何%の子どもが、その学者になるというのか。

 とくに英語は、暗記にはじまって、暗記に終わる。
文法を教える方法もあるが、それについてはまた別の機会に書く。
ともかくも1年も教えると、子どもの進歩が、一度停滞する。
それからは(覚える量)と(忘れる量)が均衡する。
進歩が見られなくなる。

●デッド・ロック

が、それが「デッドロック」ではない。
教育としての「道筋」が見えてこない。
それが「デッドロック」。

 なお私はその『ハロー・ワールド』を最後に、教材作りの世界から、足を洗った。

 ……といっても、O氏との関係が切れたわけではない。
そのあとも、会うたびに、こんな会話をした。

「あの夜、英語雑誌の話をしなかったら、西田ひかるという女優は、この日本にはいなかったで
すね」と。

 そのころ、西田ひかるさんは、押しも押されもせぬ日本を代表する女優に成長していた。

 なおその『ハロー・ワールド』は、5、6年を経て、廃刊になった。
そのころ私とO氏の関係も、プツリと切れた。

●奥浜名湖・国民宿舎

 奥浜名湖・国民宿舎は、清潔度(清潔感)では、この浜松でも星5つに評価してよい。
設備も真新しい。
ただ国民宿舎ということで、料金は安いが、サービス用品は最小限のものしかない。
大浴場にもあるのは、カミソリの自動販売機だけ。
料理は、それなりのもの。
同じ程度の料金で泊まれる「浜名湖かんざんじ荘」の料理とは、比較にならないほど、さみし
い。
量も少ない。

 清潔感で選ぶなら、ここ「奥浜名湖・国民宿舎」。
眺望と料理で選ぶなら、「浜名湖かんざんじ荘」ということになる。

 あとは料金しだい。

●夕食

 客は私たちを含め、10人前後しかいなかった。
静かな夕食だった。

●DVD『サイレント・ワールド・2012』

 ワイフは今、DVD『サイレント・ワールド・2012』を見ている。
私も見ている。
が、これがどうしようもないほどの駄作。
「新作」ということで借りてきたが、駄作は駄作。
演技も、ヘタクソ。
緊張感を、もてあそんでいるだけ。
主役の男は、科学者というより、どこか間の抜けたコメディアン風。
そういう男が、超一級の気象学者を演ずるから、話がおかしくなる。
妻の女性は、どう見ても、娼婦?
清潔感がまったくない。
「日本の映画でも、ここまで無理な役付けはしないのに」と、私は思った。

 ……日本の映画なら、こんなことを書いたら、即、抗議が飛んでくる。
しかしこれはアメリカ映画。
ボロクソに叩いても、だれも文句を言ってこない。

 まだがまんできるが、私のがまんも、あと10分はつづかないはず。
ころあいを見て、もう一度、温泉に入ってくる。
そのあとすぐ眠るつもり。
今日は、昼寝をしていない。
目が、しょぼしょぼする。

 ワイフがこう言った。
「よくまあこんな駄作を、あの店(DVDショップ)は、新作として人に貸すわね」と。
ワイフも、怒りだした。

●日本映画

 日本映画の悪いところ。
演技が演技、演技しすぎ。
「これが演技です」というような演技をする。
不自然。
そのため感情移入する前に、観客のほうがスクリーンから、はじき飛ばされてしまう。

 少し前、『山本五十六』を見た。
そのときも、そうだった。
善人は、さも善人です……というような演技をする。
悪人は、さも悪人です……というような演技をする。
山本五十六を演じた役所Kはともかくも、脇役を演じた新聞記者がへたくそだった。
感情丸出し。
丸出しというより、ムキ出し。
つまり力(りき)み過ぎ。

その(丸出し)の部分が、へたくそだった。

 演技は、自然に!
 
●オーストラリアの物価

 たった今、オーストラリアの友人からメールが届いた。
1つは、K君(メルボルン在住)からのもの。
「娘の結婚式に、来てくれるか」と。

もう1つは、B君(南オーストラリア州)からのもの。
オーストラリア経済の現状を、簡単に説明してくれた。
自動販売機で、ペットボトル1本が、3ドル50セントもしたことに、私は驚いた。
それについて書いた。
その返事。

「……Hi Hiroshi,
やあ、ヒロシ。
Exchange rates are bouncing around a bit and the $A seems to be especially vulnerable to 
market sentiment.
為替相場がかなり高騰している。
オーストラリアドルは、市場の感情で傷つきやすくなっている。

Recently the $A has been greater than US$1.00 because we export lots of high priced 
minerals.
最近はオーストラリアドルのほうが、USドルより高くなっているが、これは高価格な鉱物のせい
である。

This is great for us Aussies travelling overseas or importing stuff from overseas but not for 
our tourism industry or exporters of things other than minerals.
これは外国を旅行するオーストラリア人や、輸入業者にとっては、とてもよいことだが、国内の
旅行会社や、鉱物以外の輸出業者にとっては、よくないことだ。

So to tourists from overseas Australia is expensive. 
外国からの観光客にとっては、オーストラリアの物価は高い。

Also to Australians who don't get their income from mineral exports Australia is becoming 
expensive.
鉱物の輸出から収入を得ていないオーストラリア人にとっては、オーストラリアの物価は高くな
りつつある。

This is the so-called "two speed economy".
これはいわゆる「2スピード経済」というものだ。

The States which export the most minerals, West Australia & Queensland are doing the best 
economically.
西オーストラリア州やクィーンズランド州のような、鉱物のほとんど輸出する州は、経済的に、
今、最高に潤っている。

Things like soft drink vary greatly in price depending how you buy them.
ソフトドリンクのようなものは、どのように買うかで、値段がちがう。

A 300ml can of coke can be 70 cents if you buy it in the supermarket on special in a pack 
of 20 at room temperature.
300ミリリットル入りのコーラは、冷やしてないものであれば、スーパーマーケットでは、20本
売りで、1本、70セントで買える。

A cold can of coke from a vending machine could be $2.50 or $3.
自動販売機で買えば、2ドル50セントから3ドルだ。

It is a funny world.
おかしな世界だね。
Cheers,
元気で。
B』

●結婚式

 さっそく旅行会社を調べる。
パッケージ旅行なら、1人、15万円前後で往復できる。
5日間のホテル代、込み。
それを別の友人に知らせたら、オーストラリア旅行を計画してくれた。

Possible Itinerary(可能な計画)
All travel by vline(ビクトリア線での旅行)
melb-echuca 1/04 train 09:35-12:57 3p+ $68.70(メルボルン→エチューカ)
echuca-swanhill 3/04 bus 07:35-10:12 3p= $45.90(エチューカ→スォンヒル)
swanhill-bendigo 4/04 train 07:11-09:21 3p= $59.10(スォンヒル→ベンディゴ)
bendigo-castlemaine 8/04 train 09:26-09:50 3p= $11.70(ベンディゴ→キャッスルメイン)
Castlemaine-maldon-castlemaine 8/04 Steamtrain 11:45-12:30 14:30-15:15 3p= $135(蒸気
列車の旅)
Castlemain-melbourne 8/04 train 17:00-18:31 3p= $38.70(キャッスルメイン→メルボルン)
total fares = $359.10 for 3 people(3人分で、列車料金、359ドル=約2万4000円)

 ビクトリア州の西部を、ぐるりと回るコース。
スォンヒルもベンディゴも、学生時代に行ったことがある。
何の変哲もない田舎町だが、ところどころに、開拓時代の古い街並みが残っている。
西部劇映画に出てくるような、街並みを想像すればよい。
基本的には、当時のオーストラリアは、当時のアメリカと同じ。
ただ家畜だけは、ちがった。
アメリカは「牛」。
オーストラリアは「羊」。

 友人の娘の結婚式に出た後、ビクトリア州をぐるりと一周するのも、悪くない。
ワイフはすでに、その気でいる。

●就寝

 時刻は今、午後9時52分。
もうすぐ10時。
疲れた。

 温泉の中では、だれもいなかったので、ひとり、歌を歌っていた。
気分は、最高。
では、おやすみ!

●インバーター・エアコン?

 朝、4時に目が覚めた。
寒かった。
エアコンをいじってみたが、温風が出ない。
???

 朝食のときフロントにいた男性にそれを告げると、こう言った。
「いきなり温度をあげると、インバーター・エアコンだから、停止してしまいます」と。

 インバーター・エアコン?
知らなかった……。

 この世の中、(当然のことだが……)、私の知らないことが多すぎる!

●追記

 私自身が、ジジ臭くなったのか?
オーストラリアの旅行計画を見ながら、「体力的に無理だろうな」と。

 日本人とオーストラリア人とでは、距離に対する感覚が、まったくちがう。
彼らは300〜400キロの距離なら、ドライブ範囲。
が、日本で400キロというと、浜松市から福島市までの距離をいう。

 オーストラリア大陸は、日本の約20倍。
友人の旅行計画によれば、日本列島を、北海道から九州まで、ぐるりと1周するほど、ある。
そうでなくても、オーストラリアは遠い。
昨年も、ワイフはオーストラリアへ着くやいなや、友人の家のベッドの上で寝てしまった。

 最近の私たちは、観光地には、ほとんど興味がない。
(このあたりが、ジジ臭い。)
とぼとぼと、その旅館の周辺を歩く。
旅館に閉じこもったままということのほうが、多い。

 もしメルボルンに5日間滞在するとしたら、私はジーロンの町へ行きたい。
そこからバスに乗って、ローンまで。
ローンのホテル(バー)で、2泊。
何もしないで、そのあたりを散歩して過ごす。
(このあたりが、ジジ臭い。)

●ハナ(2)

 家に帰ると、ハナは、玄関のところで、日向(ひなた)ぼっこをしていた。
そばに寄っても、そのままだった。
「だいじょうぶか?」と声をかけても、そのままだった。

 しばらく私はハナの背を、さすってやった。
すっかり白くなった目が、さらに奥へ落ち込んだように見えた。
その目が、さみしそうに、私を見あげた。

 私は台所で、ハナの好物を、料理した。
牛肉をバターで炒め、それに少しだけミルクをかけた。
それをハナの頭の前に置いた。

 ……どれくらい時間がたっただろうか。
私はハナが、その料理を食べ出すまで、いっしょにそばにいた。
風はなかった。
静かだった。
それを見て、また私は同じことを言った。

「今度、また海へ行こうな」と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 奥浜名湖国民宿舎 ハローワールド ハロー・ワールド G社 はやし浩司 
Hello World 英語雑誌)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【山荘より、自宅まで歩く?】(はやし浩司 2012−01−11朝記)

+++++++++++++++++++

一度はしてみたい。
いつもそう思っていた。
2年ほど前、夏の暑い夜だった。
そのときも、そうした。
が、あと4〜5キロというところで、足がつった。
歩けなくなった。
あえなくギブアップ。
たまたま近くにあった交番で、電話を借りた。
ワイフに迎えに来てもらった。

で、今朝、再び、それを実行することにした。
2012年。
1月。
午前2時20分。
64歳。
初老男の、大チャレンジ。

山荘から、自宅まで、歩く。
距離は30キロ。

++++++++++++++++++++

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677209945/

●午前2時

 今朝は、午前2時に目が覚めた。
悪夢で、目が覚めた。
内容はよく覚えていない。
ハラハラ、ドキドキの悪夢。
いつもパターンは、決まっている。

 どこかの山道を歩いている。
目的とする町へ向かっている。
が、どこかで道をまちがえたらしい。
海の見える道を歩いている。
海の中には、魚が泳いでいる。
それを見ながら、「この道ではない」と自分に言って聞かせる。

 どうしてそんな夢で、目が覚めるか……?
今も、そう思う。
思うが、ハラハラ、ドキドキ。
「バスが出る時刻だ」と。
私はその町からバスに乗って、家に帰る。
その時刻が、どんどんと近づいてくる。
が、私は海の魚をぼんやりとながめている。

 ハラハラ、ドキドキ……。

●歩いてみよう

 寝返りをうつと、ワイフも目を覚ました。
「眠れないの?」と。

私「うん、なあ、ぼくね、今朝、家まで歩いてみようと思う」
ワ「今朝……?」
私「一度は、してみたいと前から思っていた」
ワ「……」
私「今から出かければ、6時半には家に戻れるはず」と。

 布団の中でそんな会話をしたあと、飛び起きた。

●出発

 正月太りで、タプタプした腹を、ジーパンで押さえる。
さらにそれを、上から分厚い皮ジャンで、押さえる。

 ワイフが4000円、渡してくれた。
「歩けなくなったら、コンビニでタクシーに乗ってね」と。

 私はお茶を2杯、ぐいと飲み干した。
ペットボトルのお茶を、ポケットにねじこんだ。
時計を見ると、午前2時20分。
いざ、出発!

●下り坂

 幸い、満月だった。
それに冬場は、毒蛇もいない。
家を出た瞬間、山の冷気が皮ジャンの下から、スーッと入り込んできた。
が、それもすぐ消えた。

 最初の3キロは下り坂。
私は杖をつきながら、ゆっくりと歩いた。
下り坂で、急ぐと、膝(ひざ)の関節を痛める。
……というか、すでに左足の膝の下が、軽く痛んでいた。

●満月

 こういうとき満月は、ありがたい。
といっても、月は薄い雲に覆われていた。
ぼんやりとした月だった。
しかしそんな月でも、ありがたい。
月の光がなかったら、山道など、とても歩けない。
夏場は、とくに危険。
毒蛇が道路で、とぐろを巻いて休んでいる。

 毒蛇だけではない。
このあたりには、イノシシやサルも出没する。

 言い忘れたが山荘を出るとき、いつも使っている懐中電灯の電池が切れていた。
それで今朝は、懐中電灯なし。

●写真

 私は歩きながら、ときどき写真を撮った。
最初は、フラッシューを使った。
しかしうまく撮れない。
そこでフラッシュをOFFにし、高感度で撮った。
が、そうすると、そのつど立ち止まり、カメラを固定しなければならない。
それに時間がかかった。

 電車にたとえるなら、各駅停車。
写真を撮りながら、「これでは6時半は無理だな」と。

●昔の人

 昔の人……たとえば江戸時代の人は、どこかへ行くときは、朝、出発したにちがいない。
朝といっても、午前3時とか、4時。
深夜に近い、早朝。
冬場は、午後6時には、真っ暗になる。
今のように電気のない時代だから、床に就くのも早かったはず。
午後7時ごろに寝れば、午前2時には、7時間、眠ったことになる。
7時間眠れば、じゅうぶん。
それから支度を整え、出発は、今ごろ。
午前3時。

 夏だったら、それくらいの時刻だったかもしれない。
が、そのときも、明かり。
明かりが問題。
ワイフは、いつか、「昔の人は、行燈(あんどん)をもって歩いたのかしら」と言った。
「そんなもの、もっていたら、歩けないよ」と、私は答えた。

 杖は、必需品。
足場が悪いときは、杖で、ころぶのを避けることができる。
毒蛇を、叩いて殺すこともできる。
イノシシやサルも、それで追い払うこともできる。

私は歩きながら、こう考えた。
「そのときも、月が重要な役割をはたしていたはず」と。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677213865/

●月明かり

 私は昔、徳川家康が武田信玄に追われ、この道を歩いたという。
その道を、逆コースで、街に向かって歩いた。
逃げる徳川家康。
それを追う武田信玄。
徳川家康は、この奥にある「万光寺」という寺で、一夜を過ごしたという。
ともに月明かりを助けに、そうした。

 そういうことが、夜中に、こうした道を歩いてみるとよくわかる。
もっとも今は、8トン車でも走れるほど、道は整備されている。
その昔は、獣道(けものみち)だったにちがいない。

●30分

 ウォーキングマシンでも、30分も運動をすると、全身に汗が流れる。
山の道でも、30分も歩くと、体中が熱くなってくる。
汗こそ出ないが、小便が近くなる。
「脂肪が尿になったのかな……」と、最初の野外放尿。

●せせらぎの音

 川沿いの道を歩いているとき、その下のせせらぎが聞こえてきた。
「?」と思ったが、せせらぎだった。
あたりが静かだと、せせらぎが聞こえる……。
今まで車で、何百回となく往復した道だが、せせらぎを聞いたのは、はじめて。
それにこうした夜道では、1〜2キロ先の、車の走る音が聞こえる。

 江戸時代には桜島(鹿児島県)の爆発音が、江戸(東京)でも聞こえたという。
何かの本で、そんなことを読んだことがある。
昔の人たちは、今より、ぐんと静かな世界で住んでいた。

●撮影

 首にカメラの紐(ひも)をかけた。
そのカメラが、歩くたびに揺れる。
揺れて、首をうしろから絞める。
が、しばらく歩いていると、それを重く感ずるようになった。
たかがカメラ……。
500グラムもないはず。

 そう思いながら、カメラをポケットにしまう。
30分を過ぎるころから、写真を撮る回数が、ぐんと減った。
疲れたというより、その余裕がなくなった。
歩くだけで、精一杯。

 山の下からからは平地になるが、その平地も、結構、山坂になっている。
何度も「足はだいじょうぶかな?」と、自分に問いかける。

●講演の練習

 最初、歩きながら、小さな声を出し、明後日の講演の練習をした。
明後日は、2か所で講演をすることになっている。
帰りに、沼津のH会館で一泊。

 が、その元気も、30分で途切れた。
時計を見ながら、家に着く時刻を、何度も計算しなおす。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677214273/

●30キロ

 高校生のとき、年に1度、30キロを歩いた。
「強歩」と呼んでいた。

 そのときの自分を思い出す。
……と言っても、汗を流しながら歩いたというわけでない。
散歩感覚。
みなと、遊びながら歩いた。
記録をねらっている学生は別として、大半の私たちは、そうだった。
が、それでもそのあと、(たいていは翌日だったが)、足が痛くなって歩けなかったのを覚えてい
る。

●金指の町

 午前3時に、金指の町あたりまで来た。
その午前3時に、町のチャイムが鳴った。
ビッグベンの鐘の音。
かなり大きな音だった。
「午前3時にチャイム?」と。

 市内でこんなチャイムを流したら、それこそ猛攻撃を受けるはず。
「うるさい!」と。
時計と見比べながら、そう思った。

(金指の人たちは、それをうるさいと思わないのだろうか?
午前3時のチャイム、だぞ!)

●信号

 信号を何か所か通り過ぎた。
が、信号を守る車は、あまりなかった。
たいてい80キロ近いスピードで、信号を通り抜けていった。
最初の2、3つ目くらいまでは、私も、信号を守った。
が、そのうち、それを繰りかえす自分が、バカに見えてきた。

 前にも、うしろにも、人影はない。
走る車もない。
そんなところで、信号待ち?

●T山

 途中、1回だけ、山荘のあるT山を振り返った。
月明かり……というか、雲全体が、光っていた。
その雲を背景に、ぼんやりと山が見えた。
山がいつもより遠くに見えた。
「もう、こんなに遠くまで来たのか」と。

●老後への抵抗

 なぜ歩くか?

 そんなことも考えた。
というのも、こうした行動には、内側からの大きな動機が働いているはず。
無意識の世界からの動機。
その動機は何か?

 ……ひとつには、老いゆく自分への抵抗。
これは私だけではない。
今まで、多くの先輩たちがそうしてきた。
身近にも、そういう人たちがいた。

 だいたい60〜65歳前後になると、みな、判を押したように、何かの運動を始める。
「健康維持のため」とは言うが、もうひとつその奥には、別の意識がある。
それがここに書いた、「老いゆく自分への抵抗」。
「このまま老いてたまるか!」と。
そんな思いが、原動力となり、自分を動かす。

 が、それも長つづきしない。
病気をしたり、けがをする。
それがきっかけとなり、運動から遠ざかる。
とたん、5年単位で、あとは老後へとまっしぐら。

 今、私は、そのはかない抵抗を試みている(?)。
そんな思いが、繰り返し、脳の中をかけめぐる。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677214569/

●痴漢

 ゆるい坂を上るところに、看板があった。
「痴漢、注意!」と。

 ふと「痴漢にまちがえられないだろうか」と思った。
が、すぐ、こう思った。
「こんな真夜中に、夜道を歩く女性もいないはず」と。

 ときどき、車が通り過ぎていった。
運転手の顔をみると、運転手が、みな、私のほうを見ているのがわかった。
「老人の徘徊とまちがえられているのかな?」と、私。

●徘徊

 私は徘徊する老人の心理が、よく理解できる。
夜中の散歩にしても、(散歩というより、強歩だが)、足の方が勝手にどんどんと動いていく。
自分の意思というより、足のほうが、勝手に動いていく。

 そういうときというのは、何も考えない。
同時に、悲しみも、さみしさも、消える。

あの坂本九が歌った歌に、『上を向いて歩こう』が、ある。
なぜ、あの歌が、ああまでヒットしたか。
その理由のひとつ……歩くことによって、多くの人たちが、救われているから。
私はそう理解している。

●サイトカイン

 ただ同じ歩くといっても、心の中は、からっぽにしたほうがよい。
恨みや怒り……ある程度のものは、歩くことで解消される。
が、その限度を超えた恨みや怒りとなると、そうはいかない。
歩けば歩くほど、心が苦しくなる。
というか、歩けなくなる。

 脳内にサイトカイン(ストレス性の悪玉脳内ホルモン)が充満する。
それが歩くことによって、増量される。

 ……実際にはどういうメカニズムが働くのか、私にはわからない。
しかし現象的には、正しい。
いやなことを考えながら運動をしていると、かえって不愉快になる。

私は努めて、何も考えないようにし始めた。

●「いつ死んでもいいや」

 おかしな心理状態に襲われたのは、1時間ほどたったときのこと。
「生きたい」という思いがあって、私は強歩に出たはず。
その私が別の心で、「いつ死んでもいいや」と思い始めた。

 夜の街道を町に向かって歩く。
それはまさしく私の人生を象徴している。
このまま歩けば、どこかで限界に来るはず。
すでにそのとき、家まで歩く自信はなかった。
時速5キロとしても、30キロを歩くには、6時間かかる。
時速6キロとしても、5時間。
私は最初、速足で歩くことを考えていた。
しかし、速足は、とても無理。

 「どうしようか?」という迷いが、何度も心の底からわいてきた。
そのとき、そう思った。
「いつ死んでもいいや」と。

 何度か、道路に倒れている自分を想像した。

●二度目の放尿

 ちょうど1時間ほど歩いたところで、二度目の野外放尿。
気持ちよかった。
同時に、ペットボトルのお茶を、半分、飲んだ。
冷たいお茶が、のどを下へ落ちていくのが、よくわかった。
気温は、4〜5度のはず。

 このところ浜松地方を寒波が襲っている。
数日前には、0度近くにまで、下がった。

 ……出る前に、トイレで1度しているから、1時間のうちに3度、放尿したことになる。
これは運動している人なら、みな知っている。
運動すると、体の新陳代謝が活発になり、尿の量がふえる。

●膝の痛み
 
 三方原(このあたりの人は、「みかたばら」と呼んでいる)の坂に、かかった。
その坂を上りきったところから、平坦な大地になる。
「台地」と書くのが正しいのか。
歩くのは楽。

 しかし左足が痛み出した。
膝関節の下が、歩くたびに、ヒヤッ、ヒャッと痛む。
「まずいな」と、何度も思った。

 ……というか、もう、頭の中はからっぽ。
思考力どころか、考えようとする気力そのものが、消えうせた。
……「マラソン選手もそうかなあ」と。

 一度マラソン選手も、携帯の録音機が何かをもち、走ってみるとよい。
どんなことを考えながら、走っているか……。
それを知りたい。
またそんな実況中継もあっても、よいのでは……。
もっとも考えながら走っていたのでは、あれだけの長距離は走れない。
まさに放心状態(?)。
そういう状態でないと、走れない。

 私もやや放心状態になり始めていた。
時計を見ると、午前4時を回っていた。
すでに2時間近くが過ぎていた。

●自動販売機

 途中、いつもミカンを買う、無人売り場を通り過ぎた。
お金を入れる箱は、そのままそこにあった。
(もちろん夜間は空箱になっているだろうが……。)
また場違いなところに、自動販売機があったのには、驚いた。

昼間は気がつかなかったが、夜は、よくわかる。
こうこうと明るい電気をともしている。
それが人通りのまったくない、藪(やぶ)の中にある。
それを見ながら、「日本は、いい国だなあ」と。

 外国だったら、すぐ襲撃されるだろう。
現金があれば、あっという間に、もっていかれる。

●ワイフ

 ペタペタと道路を歩く音。
杖でトントンと地面を叩く音。
同時に、歩くたびに、左足が痛む。

歩く速度が落ちてきた。
左足をかばい始めた。
歩き始めて、2時間半。
計算上では、山荘から10〜12キロの距離ということになる。

 と、そのとき、1台の白い車が、スーッと横に止まった。
見ると、ワイフだった。

ワ「心配だったから、来た」
私「ああ……」と。

 私は迷わず、車に乗り込んだ。

ワ「だいじょうぶ?」
私「それがね、あまりだいじょうぶではないんだよ」
ワ「どうしたの?」
私「足が痛み出してね……」と。

 こうして私の2度目のチャレンジも、失敗。
何とも言えない挫折感を覚えながら、シートの中に深く身を沈めた。

 車の中の表示では、「外気6度」となっていた。
それでも私は、暑く感ずるほどだった。

私「帰ったら、また寝よう」
ワ「そうね」と。

 家には、午前5時半ごろ、着いた。

 ワイフは、着くとすぐ、布団乾燥機のスイッチを入れた。
布団を暖めるには、布団乾燥機がいちばん、よい。
床に入ったとき、温泉につかったような気分になれる。
まだの人は、一度、試してみるとよい。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677213603/

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 山荘から自宅まで歩く 山荘から自宅まで 強歩 はやし浩司 強歩)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●教育と政治(Political Apathy itself is to be ashamed.)

++++++++++++++

教育と政治は分離する。
当然のことである。
私も、子どもたち(生徒たち)と
接するときは、政治の話は、
いっさい、しない。
してはならない。

しかし教師であるなら、当然、
政治に関心をもつべきである。
それが教育の場でないなら、
政治の話をして、当然。
意見を述べて、当然。

子どもの未来を考えていくと、
その向こうに(政治)がある。
政治抜きに、子どもの未来を
語ることはできない。

が、この日本には、おかしな
偏見が蔓延している。
高校生あたりに「6か国協議を
どう思う?」と問いかけても、
即座に、「ダサイ!」とはねのけられて
しまう。

あるいは政治的に無関心である
ことが、(常識的な人間の条件?)と
思われている。

しかしこんなバカげた民主主義国家
が、どこにある?
税金の使われ方すら知らない国民が、
どこにいる?

私が12年前に書いた原稿を、
もう一度読んでみてほしい。

++++++++++++++

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Political Apathy)」というのは、それだけで軽蔑の対象になる。
非難されることも多い。
だから「あなたは無関心な人だ」と言われ
たりすると、その人はそれをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、それに猛烈
に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)ということ
になっている。
だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さない。
関心もない。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。
ほとんどの子どもは、「セ
イジ……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。
(実際、どの部分がど
のようにダサイのか、私にはよく理解できないが……。
ダサイ」という意味すら、よく理
解できない。)

● 政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
● 社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
● あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。
今のこの日本が、
その結果であるといってもよい。
これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。

● 文部省からの三通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、三通の文部省通達である(たった三通!)。
文部省が19
60年に出した「文部次官通達」(六月二一日)、「高校指導要領改定」(一〇月一五日)、それ
に「初等中等局長通達」(一二月二四日)。

 この三通の通達で、中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、生徒会活動
から、政治色は一掃された。
さらに生徒会どうしの交流も、官製の交流会をのぞいて、
禁止された。
当時は、安保闘争の真っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなり
の理由があったが、それから40年。
日本の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」
に改造された。その結果が、「ダサイ?」ということになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。
どんな生活であるにせよ、一度その生活に
入ると、どんな人でも保守層に回る。
そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、そ
れである。構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう10年以上になるが、結局は、ほとん
ど何も改革されていない。
このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きく
なる。
いや、すでに、日本は、現在、にっちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。
あとはいつ爆発し、崩壊するかという状態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった三通の、次官、局長クラスの通達で、日本の
教育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。
そしてその恐ろしさを、どうか理解してほしい。日本の教育は、(日本人の心も)、こういう形で、
中央官僚の思うが
ままにあやつられている。

+++++++++++++

もちろん、極右であることも、極左であることも、
望ましいことではない。(否定はしないが……。)

ものごとは、常識を基点にして考える。
あるいは常識の上に常識を重ねながら、考える。
私たちが何よりも警戒しなければならないのは、
「極端化」である。
「先鋭化」ともいう。
とくに政治の世界では、警戒した方がよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教育の結果

 つまり私たち日本人が、こうまでおとなしくなってしまったのは、「教育」が原因ということ。
ここに「教育」のもつ、「力」というか、「恐ろしさ」がある。
今のあなた自身を振り返ってみればよい。
あなたはなぜに、そうまで従順なのか。
従順であるのが悪いというのではない。
しかし「牙(きば)」を抜かれてしまった。
あなた自身がつまり、「教育」の結果ということ。

 もっとも今は、デモをして声を張り上げるような時代ではない。
(ときとばあいによっては、大切だが……。)
今は、こうしてネットを通して、意見を発表する。
世論を動かしていく。
ツイッター(Twitter)で、国が動く時代である。

『時事用語』(成美堂)の第1ページを読んで、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 文部省通達 たった3通の通達 牙を抜かれた日本人 デモ禁止 教
育と政治)
2012/01/12改


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●気負いは、ほどほどに(はやし浩司 2012−01−13)

●5時起き

 今朝は、5時起き。
それまで1時間ほど、布団の中でもぞもぞしていた。
が、こういうときは、思い切って起きた方がよい。
時間を無駄にしてはいけない。

●日常

 詳しく書いても、意味はない。
それは、どうでもよい。
実は、私は先日、あやうく死にかけた。
九死に一生……というより、それより危なかった。

 が、それはそれ。
そのあとのこと。
日常が、いつもと変わらぬ日常であることに驚いた。
と、同時に知った。
「私が死んでも、何も変わらず、世界は動きつづける」と。

●ワイフ

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「私も、父が死んだとき、そう思った」と。

 ワイフは、自分の父親が死ぬとは思っていなかったという。
が、その父親が他界した。
そのときのこと。
「父が死んでも、何も変わらなかった。
そのことが、不思議でならなかった」と。

●もうけもの

 私が死んでも、またあなたが死んでも、この世界は、何も変わらない。
晴れた日であっても、雨の日であっても、そのまま。
人の流れも、車の流れも、そのまま。
「今」は、いつまでも永遠につづく。

 が、ひとつだけ、心境に変化が生じた。
その事件のあと、こんなふうに思うようになった。
そのつど、「もうけもの」と。
それがアワのように、心の中で浮かんでは、はじける。
つまりその日以来、こうして生きていること自体が、「もうけもの」と。

●人生、50年

 そう言えば、学生時代のS君も、そう言っていた。
胃ガンで生死の境をさまよい、そのあと、無事生還。
5年たった今も、元気で生きている。

「なあ、林、昔は『人生、50年』と言ったろ。
50歳を過ぎたら、人生は、もうけものなんだよ」と。

 もうけもの……つまり、おまけ。
余録。
そう思って生きれば、心に余裕ができる。
損得を乗り越えて、生きることができる。

●64歳

 ……ということでなくても、最近、よく、こう思う。
私も64歳になった。
江戸時代なら、もうとっくの昔に死んでいてもおかしくない年齢※。
その私が、まだこうして生きている。
しかも生涯、病院のベッドの上で寝たことがない。
入院すら、したことがない。
本当に、ありがたいこと、と。

 そう思うと、身近のささいな問題が、どうでもよくなってしまう。

(注※……江戸時代の平均寿命は45歳前後だったと言われている。
ただし当時は、6歳前後までに、約30%の子どもが亡くなったという。
数字は記憶によるものなので、不正確。)

●希望

 要するに生きる原点を、どこに置くかということ。
ないものをねだり、持てる人をねたんでも、しかたない。
できなかったことを悔やみ、人生の短いことをはかなんでも、これまたしかたない。
今、ここにいる。
生きている。
青い空が見える。
音が聞こえる。
それを楽しみ、それを喜ぶ。

 そこに原点を置けば、生きていること自体が希望。
それに気づく。
言い換えると、生きているかぎり、人にはみな、希望がある。

●おはようございます

 さて、こうして、その「もうけものの1日」が、今日も始まった。
何ができるか、何があるか、それはわからない。
ともかくも、今日1日、懸命に生きる。 

 期待のしすぎは禁物。
気負いも、そこそこに。
ヌカ喜びも、取り越し苦労もしない。
だからといって、時間を無駄にしてはいけない。
そのあとのことは、そのあとのこと。
結果は、かならず、ついてくる!

 2012年01月13日(金曜日)、午前6時

 みなさん、おはようございます。

(補記)「生きる哲学」

●一貫性

 最近、強く感ずるのが、このこと。
つまり「哲学のない人とつきあうのは、むずかしい」。

 哲学をもっている人には、それなりの一貫性がある。
が、それがない人には、その一貫性がない。
欲望に溺れるまま、そのつど変化する。
表面(おもてづら)に、騙(だま)されてはいけない。
処世術というか、そういう人にかぎって、身を飾るのがうまい。
言葉や表情、行動で身を飾る。
男だったら、地位や肩書きで、飾る。
が、よくよく観察してみると、一貫性がない。

●ある男

 わかりやすく言えば、(つかみどころ)。
たとえば身近に、平気で女性を騙して遊んでいる男がいる。
年齢は30歳くらいか。
下は中学生から、上は、40代のおばちゃんまで。
結婚はしていないが、街で見かけるたびに、ちがった女性と歩いている。

 そういう男だが、仕事だけは、ちゃんとこなしている。
それなりの大企業に勤め、それなりの仕事をしている。
実にまじめそうな顔をしている。

「女」のためだったら、正月でも、その家にあがりこんで、掃除の手伝いをしたりしている。
が、どうも一貫性がない。
知人に話を聞くと、給料のほか、生活費の大半を、実家の親に出してもらっているという。
つまりそのお金で、遊びまくっている。

 そういう話を聞いているから、どうも信用できない。
……というか、ウソばかり並べる。
口がうまい。

●哲学

 そんな男のことを、論じても、意味がない。
愚劣な男は、どこまでも愚劣。
いくら立派な学歴と肩書きをもっていても、愚劣は愚劣。
問題は、なぜ、そういう男が生まれるかといういこと。

 その男の親は、会うたびに、「いい大学を出ました」「いいところに就職できました」と喜んでい
る。
今は、「いい嫁が早く見つかればいい」と。

 端的に言えば、その男には、一本のスジの通った哲学がない。
「私はこうなんだ」という、スジがない。
というか、それ以前の問題として、それを考えない。
水面に浮かぶ浮き草のように、我が身を流れに任せているだけ。
考えてみれば、これも悪しき受験競争に弊害ということになる。

 受験勉強が悪いというのではない。
それだけでは、片手落ち。
半人前。
さらに悪いことに、現代の若い人たちは、先人からものを学ぶということをしない。
「老人の言うことには、価値がない」と。
が、これでは浮き草になって、当然。
いつまでたっても、浮き草止まり。

●宗教

 私自身はそういう経験を、直接したことがない。
ないが、昔からこう言う。
「欧米では、宗教をもっていない人は、信用されない」と。

 たしかにそれはそうで、宗教をもっている人には、それなりの一貫性がある。
その一貫性が、相手、つまり私たちに、ある種の安心感をもたらす。
「この人は、ウソをつかない」と思うだけでも、安心して話を聞くことができる。

が、この私には宗教がない。
いろいろ探してみたが、どれも私には合わない。
仏教もキリスト教も、どうも肌になじまない。
宗教団体となると、さらにそうで、接しただけで、拒絶反応すら覚えてしまう。
だから「哲学」ということになる。

●私のワイフ

 その点、私のワイフの生き方は、参考になる。
ガチガチの石頭で、がんこ。
融通はきかないし、冗談もめったに言わない。
クソまじめすぎるほど、クソまじめ。
ときどきワイフのことを、「石部金子」(石部金吉をもじる)と呼んでいる。
まったく面白(おもしろ)みのない女性だが、いつも安心してつきあうことができる。

 つまりそれがワイフの、「スジ」ということになる。
その「スジ」に、私は身を寄せることができる。
たがいの信頼関係も、そこから生まれる。

 で、今日のテーマ。
「哲学」。
「生きる哲学」。
それを考えながら、今日1日を過ごしてみたい。
2012/01/13記

(補記の補記)

●小沢一郎

 本物の詐欺師は、自分で相手を騙しているという意識がないそうだ。
だから平気で、人を騙すことができる。

小沢一郎という人が、どういう人なのか、本当のところは、私も知らない。
しかしあの人は、ものすごい人と思う。
この場に及んでも、まだこう言っている。

「私は天下国家のことしか、考えていない。(金の流れなど、感知しない)」と。
もし本当にそうなら、彼こそ、本物の詐欺師。
天下の詐欺師。
まさに土建政治家。

 今朝の新聞(中日新聞)によれば、4億円という大金を金庫から出し、紙で包んだのは、小沢
一郎自身だったという。
重さ、40キロ。
にもかかわらず、「(金の流れなど、感知しない)」と。

見苦しいというか、ああいう政治家しか生まれない、日本のこの土壌を情けなく思う。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【平均値の学習】(小学1年生&小学2年生)

小学1&2年生に、平均値についての学習を進めてみました。
結果は、ご覧の通りです。
最初に、5分程度遊んであげると、そのあとの学習効率がぐんと高くなります。
子どもたちの脳が、全開状態になるためと、現象的に、私はそう理解しています。
Happy & Active Children learn Best.(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ)
ですね!

●小学1年生

(1)
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(2)
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(3)
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(4)
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小学2年生

(1)
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(2)
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(3)
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(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/9XxULZBxw5g" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 平均値の学習 平均の勉強 小
学1年生 平均を教える はやし浩司 平均の概念を教える)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【職業意識】(はやし浩司 2012−01−11)

+++++++++++++はやし浩司

『職業は人を作る』と言う。
それはその通りで、ひとつの職業を長くつづけていると、
その職業がもつ、独特の雰囲気を身つけるようになる。
それだけではない。
独特のものの考え方、生き様まで、身につけるようになる。

私がそれをはじめて知ったのは、ある幼稚園でバスの運転手と
話していたときのことだった。
その運転手は、こう言った。

「わしら、毎日、〜〜をしろと、きちんと言ってもらわないと、仕事ができない。
あんたは、よくやるねエ」と。

私が、時間に決められた仕事をしていると話をしたときのことだった。

で、ちょうど同じころ。
今度は、ガソリンスタンドを経営している友人が、こう言った。
「林さんは、〜〜時から〜〜時までというような仕事をしているが、ぼくには、
とてもまねできないよ」と。

印象的に残ったのは、つぎのように言ったこと。
「もし時間で仕事を区切られたら、ぼくなら、気が狂ってしまうよ」と。
「気が狂ってしまうよ」という言い方が、強く印象に残った。

バスの運転手は、だれかにきちんと指示してもらわないと仕事はできないと言う。
ガソリンスタンドを経営している友人は、時間で決められた仕事はできないという。

この問題だけは、「私は私」「人それぞれ」というだけでは、簡単には片づけられない。
その人の個性というよりは、仕事によって、その人は、(作られていく)。
職業というものは、そういうもの。
またそういう視点で見ないと、その人を理解することができない。

+++++++++++++はやし浩司

●読者からのメール

 Y市に住む読者から、こんなメールが届いた。

『……私の高校はK県では、一番の進学校で170名ぐらいの同期の4分の1は東大へ進学し
ます。
理系文系半々です。

東大法学部に行った仲間の何人かは、国家公務員になりました。

私の高校はミッション系で、(私は信者になりませんでしたが)、神を中心とした教育をされてい
ましたので、社会にでても周りの環境にあまり影響を受けませんでした。

しかし官僚になった仲間だけは別です。
同期会でXX局長になったり、高級官僚になったりした仲間がいます。
そういう連中とはすぐ喧嘩になります。

大企業の社長になった仲間や裁判官や弁護士になった仲間もいますが、同期会では昔のまま
の感じで話をします。
が、官僚になった仲間だけはちがいます。
上から目線で話をするのです。

それを指摘して喧嘩になるのです。
本人は自分が偉そうに話していることに気が付いていません。

明治以来の官僚を作るための帝国大学、入省してからの環境が自分を見失わせるようです。
本当に勘違いも甚だしい優越感をもった人たちです』と。

●優越感

 メールには、『明治以来の官僚を作るための帝国大学、入省してからの環境が自分を見失
わせるようです』とある。

 こうした優越感は、私も、そのつど、強く感ずる。
みながみな、そうではない。
が、そういう(感じの人)が、多いのも事実。
侍意識というか、「日本を指導しているのは、オレたち」という意識である。
称して『オレたち意識』。
昔、アメリカのニューズウィーク誌は、『オレオレ意識』と表現した。

H市のある役人(部長職、当時)は、こう言った。
私が、「どうしてH市は、XXパークとか、YYパークとか、そんなものばかりを作っているのです
か」と聞いたときのこと。

「いいですか、林さん、H市は工員の町ですよ。
工員には金をもたせてはいかんのですよ。
働かなくなりますからね。
だから金(マネー)を使うようにしむける。
そのための施設ですよ」と。

 こういうことを平気で、堂々と口にするところが、恐ろしい。

●職業意識

 それぞれの人が、それぞれの職場で、どのような職業意識をもとうが、それはそれぞれの人
の勝手。
私にもあるし、あなたにもある。
どれが正しくて、どれがまちがっているか、そんなことを論じても、意味はない。
ただこういうことは言える。

 私たちが常識としてもっている職業意識ほど、アテにならないものはないということ。
私がそうだからといって、相手もそうだと思ってはいけない。

 ……と書いたが、この問題は、すでにいつか論じたような気がする。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「スケジュール」について。
書いた日付はわからないが、1999年ごろと思われる。
一部、内容がダブル点については、許していただきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●スケジュール

 自分が時間でしばられるのは、いやなくせに、その一方で、そのスケジュールをたてないと、
行動できない。いったい、この矛盾を、どう考えたらよいのか。

 「今日は、11時に風呂に入って、12時ごろ、銀行に行くから」と、今朝も、起きて、ワイフに、
そう言った。

 つまりそういうふうに、自分の行動に区切りを入れないと、ダラダラと時間だけが流れてしま
う。
緊張感も生まれない。

 人間というのはおかしなもので、「さあ、時間はたっぷりあるぞ。何か原稿を書け」と言われる
と、とたん、ものが書けなくなってしまう。
しかし、「あと2時間しかないぞ。さあ、どうする」と言われると、とたんに、文章がスラスラと頭の
中から出てくる。

 しかしこれは、私だけの現象か?

 昔、幼稚園バスの運転手がこう言った。
「私らは、きちんとスケジュールを決めてもらわないと、仕事ができない」と。
同じころ、ガソリンスタンドを経営している男は、こう言った。
「時間単位のスケジュールを決められたら、息苦しくて、気が狂ってしまう」と。

 人は、人それぞれで、生活の中で、その人につくられていく。

 私も、そうで、今の私も、結局は、自分の仕事の中で、つくられた「私」にすぎない。

 そしてこのこと、つまりこうした私がかかえる矛盾は、人生という、大きな流れの中にも、あ
る。

 人生の中では、「時間」が、「年齢」になる。

 「〜〜歳までには、こうしよう」「〜〜歳になったら、こうしよう」と考える。
本当のそうするかどうかは別にして、たとえば「65歳になったら、老人ホームへ入ろう」とか、
「70歳になったら、世界を一周しよう」とか、そういうふうに、考える。

 もっとも、それは、順調にいったらの話で、その前に、いろいろあるかもしれない。
交通事故、重い病気などなど。
もともと自由というのは、そういうふうにして自分の体をしばっている、ヒモやクサリを解き放つ
ことをいう。
が、しかしそういうヒモやクサリが、向こうから、勝手にからんでくることがある。

 そういうふうに考えていくと、本当のところ、人生のスケジュールを決めるのは、「年齢」ではな
い、「健康」だ。
「頭の能力」だ。……ということがわかってくる。

 私の身のまわりにも、頭がボケてしまって、使いものにならなくなってしまった人が、たくさん
いる。
それなりに、平和に暮らしてはいるが、私からみれば、死んだも同然。
人間は、考えるから、人間。

 私も、もうすぐその(死んだも同然)の人間になるかもしれない。
それまでの勝負。
私は、どこまで生きられるか。
どこまで深く、生きられるか。
この緊張感があるから、今日も、こうして原稿を書く。……書ける。

 それにしても、最近私が書く原稿は、どれも駄作ばかり。
鋭さが、どんどんと消えていくのが気になる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●本題

 12年ぶりに、同じような原稿を書いているのを知る。
むしろ12年前の私の方が、鋭い(?)。
生き様を、人生論という、長いスパンで考えている。
言い換えると、ではこの12年間、私は何をしていたのかということになる。
進歩、ゼロ!

 それはともかくも、さて、本題。

●「私」とは?

 こうして考えてみると、「私」と言われる部分についても、そのほとんどが、環境の中で作られ
ていくものということが、よくわかる。
私は私のように作られてきた。
あなたはあなたのように作られてきた。

 が、大切なことは、それぞれがそれぞれを認めあうこと。
……と書きたいが、官僚がもっている、あの独特の優越感だけは、認めがたい。
どうしてああまで威張れるのかと思えるほど、威張っている。

 と書くと、話がバラバラになってしまう。
生き様論を書けばよいのか。
役人論を書けばよいのか。

最初は、役人論を書くつもりだった。
しかし今は、人生論を書きたい。
あるいはその共通性は、何なのか。

●裸で生きる

 要するに、人間は裸で生きる。
あるがままで生きる。
それが基本。
その基本を忘れるから、職業によって、その人が作られてしまう。

 もちろん役人がみな、役人風を吹かすわけではない。
私の友人の中にも、その役人(官僚)になったのが、何人かいる。
が、どの男も、会って話すと、庶民的で、威張ったところはない。
独特の言い方はするが・・・。
もっともこれについては、役人のもつ2面性の問題が絡んでいる。

●侍の世界

 学校の教師もそうだが、内部では、結構、仲が悪い。
たがいに、いがみあっている。
足の引っ張りあい、いじめは、日常茶飯事。
が、こと外部に対しては、団結する。
総じてみれば、役人の世界も、同じ。

 つまり外から見て「威張っている」からといって、内部でもそうだと考えてはいけない。
ある友人は、こう言った。
「役所というところは、おもしろい世界でね。
組織と人事だけで成り立っている世界だよ」(K県・県庁勤務)と。

 外から見ると、情報だけで成り立っている世界に見える。
どうであれ、組織、つまり上下関係だけで成り立っている。
彼がいう「人事」とは、「身分」をいう。
そこはまさに、「侍の世界」。

●上下意識

 が、このことは、私たち自身にも言えること。
男たちだけの話ではない。

 浜松には、都市銀行の家族寮がいくつかある。
その家族寮。
夫の役所に応じて、妻たちの上下関係も決まるのだそうだ。
会合があっても、夫の地位の順に、妻たちが並ぶ。
通路を歩いているときも、夫の地位の低い方の妻が、道を空ける、など。
妻の年齢とか、キャリアは問題外。
(ただしこの話を聞いたのは、2000年ごろ。
それから12年。
今は、変わったかもしれない。)

「組織」というのは、そういうもの。

●生き様の中で

 生き様の中ではどうか。

 私自身は、時間に決められた生活をしながら、人生においては、それに抵抗している。
あるいは日常的な生活感覚で、人生をながめる。
少し前までは、こう考えていた。

「60歳になったら、〜〜しよう」
「65歳になったら、〜〜しよう」と。

 この考え方は、「10時になったら、〜〜しよう」
「2時になったら、〜〜しよう」という生活感覚と、どこもちがわない。

 が、実際、この年齢になると、こんなことに気がつく。
「年齢というのは、ただの数字」と。
時計で示される時刻とは、まったく異質のものである。
もっとはっきり言えば、年齢など、無視すればよい。

 仕事ができる間は、仕事をする。
仕事がある間は、仕事をする。

●相手にされない

 こうして考えていくと、結論は、こうなる。
「威張りたい奴には、威張らせておけばいい」と。
そういう人たちにかぎって、やがてその落差に苦しむときがやってくる。
というのも、地位や役職にしがみついて生きてきた人ほど、それを手放すことができない。
退職してからも、それを引きずる。

 私の知人の中には、そういう人が多い。
70歳になっても、75歳になっても、現役時代の肩書を引きずっている。
中には、半世紀も前の学歴を引きずっている人もいる。

 が、そういう人ほど、世間に相手にされない。
嫌われる。

●色眼鏡(いろメガネ)

 言い換えると、現役であるにせよ、退職後であるにせよ、裸で生きる。
その基本だけは、忘れてはいけない。
つねに自分のありのままの姿を見据える。
それが基本。

 もっとも私たち団塊の世代は、地位や肩書にあこがれた。
『末は博士か大臣か』と。
当時は、今よりずっと、江戸時代の身分制度が色濃く残っていた。
結果として、企業戦士になり、一社懸命でがんばった。
戦時中の愛国心が、戦後は愛社心に姿を変えた。
それが今に見る、日本の繁栄の基礎を作った。
が、それはそれ。

 私たちは同時に、そういう色眼鏡をはずさねばならない。
つまり私たちは相手を見るとき、無意識のうちにも、相手を地位や肩書で判断する。
そういう色眼鏡をはずさねばならない。

●1匹のネズミ

 私はあるとき、「ぼくだけは、たった1人で生きてみよう」と思った。
そのきっかけを作ったのは、ネズミだった。
その話は、『世にも不思議な物語』の中で書いた。

それをそのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●たった一匹のネズミを求めて【26】

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレ−ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも
一、二週間を過ごした。
「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場だけでも浜松市の市街
地より広い。
その牧場でのこと。

 ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波を打つように、波うっていた! 
見ると、おびただしい数のネズミ、またネズミ。
……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかという程度。

 しかも、それぞれのネズミに個性があった。
農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。
あのパイドパイパ−の物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いているが、そ
ういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。
私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなことをすれば、自然のライフサイクルをこわす
ことになるから……」と。

 農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。
こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。
そこで私たちはネズミ退治をすることにした。
方法は、こうだ。

 まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。
次に中央に腐ったチーズを置いておく。
こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の
中に落ちたる。
が、何と言っても数が多い。
私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかっ
た。

 が、三日目の朝。
起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。
友人に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向か
ったかのどちらかだ」と。
伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかっ
た。
移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。

 ネズミには、どれも個性があった。
そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。
が、ネズミはおろか、その死骸もなかった。
一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。
ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テ−マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。
なぜに日本人は一億一丸となって、戦争に向かったか。
また向かってしまったのかというテ−マだった。

 が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。
あの全体主義は、心理学や社会学では説明できなかった。
そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。
そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようにな
った。

 わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。
最近でもクロ−ン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動
をすることが知られている。
そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。
……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。
それは私自身のことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。
「一匹ぐらい、まったくちがった生き方をする人間がいてもよいではないか。
皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。
私は、あえて、それになってやろう」と。
日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

(注:もっと読んでくださる方は……http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●生き様

 私は「たった一匹のネズミ」になった。
が、これはけっして負け惜しみではない。
この40年間においても、「教授職」をオッファーされたことは、2度ある。
幼稚園の園長職については、そのつど何度か、ある。
しかし私は、あえて背を向けた。

 そういうネズミの立場で一言。

 この日本は、江戸時代をそのまま背負った、まさに後進国。
文化的後進国。
悲しいかな、日本自身が、その後進性そのものに気づいていない。
すでに42年前には、オーストラリアの大学では、教授も学生も、ファーストネームで呼びあって
いた。
会社にしても、一歩、会社の外に出れば、そこは友人同士の世界。
今でこそ、世界中どこへ行っても見られるようになったが、オーストラリアには名刺をもっている
人はいなかった。
職業意識そのものが、ちがった。

●社会のしくみ

 日本では、「何をしていますか?」と聞かれると、「S自動車に勤めています」などと答える。
ほとんどが、会社名を口にする。
オーストラリアでは、「何をしていますか?」と聞かれると、「機械設計士をしています」などと答
える。
自分のプロフェッショナル(専門職)を口にする。

 社会のしくみそのものが、ちがう。
欧米では、ユニオンといって、同業種の職業の人たちが集まって、組合をつくる。
日本では……、今さらここに書くまでもない。

●肩書や地位

 ともあれ、退職後の友人たちを比較してみると、(どちらが正しいとか、正しくないとか、そうい
うことではなく)、日本人とオーストラリア人は、まったくちがう。
日本人は日本人だが、オーストラリア人は、その点、さっぱりしている。
過去の肩書や地位で、自分を飾っている友人は、ゼロ。
まったくいない。

 どんな立派な肩書をもっていた男にしても、ヨレヨレのジーパンで、日本へやってきたりする。
……というか、現役時代も、地位や肩書の話など、まったくしなかった。
私も聞いたことがないし、彼らもまた話さなかった。

●自己否定

 こうしたちがいを、いくら日本の友人たちに説明しても、理解すらできない。
……理解しようともしない。
思考回路がちがうというよりは、もしその(ちがい)を認めると、自己否定の世界に陥ってしま
う。
それを恐れる(?)。
「ぼくはいったい、何をしてきたのだ」と。

 が、今、日本は急速に変わりつつある。
また変えなければならない。
一匹のネズミの目で見ると、強く、そう思う。

●結論として……

 職業意識をもつのは仕方のないこと。
しかしそこに封建意識を混在させてはいけない。
あくまでも裸で生きる。
わかりやすく言えば、人間が生の人間を見て、その人間を判断する。
またそういうのを、「自由」という。
でないと、今に見るような、不公平ばかりが、先に立つようになる。

 ……役人の話と、生き様の話。
途中で話がバラバラになりそうだったが、これでひとつにまとまった。
ホ〜〜〜ッ!

 ……ということで、役人と生き様について、考えてみた。

(補記)

 どんな職業にあっても、気高く、誇り高く生きる。
……といっても、この日本では、そんなに簡単なことではない。
そのことは、私が、いちばんよく知っている。
この日本には、「まともな仕事論」というのがある。
(まともな仕事?)と(まともでない仕事?)がある。
60代、70代以上の人たちが、よく使う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「はやし浩司 まともな仕事」で検索をかけてみたら、
5310件もヒットした(ヤフー検索)。
2つほど、原稿を選んでみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己否定

仕事がなくなるという恐怖は、相当なもの。
とくに、「男は仕事だけしていれば、一人前」とか、「オレは家族を食わせてやっている」と、日ご
ろ言っている男性にとっては、そうである。
 
「仕事」が、その人のステータスになっている。
だからその仕事を失うということは、その人の価値が否定されることに等しい。

 が、こういう時代である。
私のような中高年への、世間の風当たりは、きびしい。数年前だが、大学の同窓会に出てみ
た。
が、公務員や自営業をのぞいて、民間企業に就職した仲間たちは、ほぼ全員が、リストラさ
れ、別の会社に就職していた。

 そういう時代である。

 もちろん公務員や自営業とて、例外ではない。
定年退職や、それに病気がある。事故もある。
そういうとき、同じように、「自己否定」という恐怖を味わう。

 それはすさまじいほどの衝撃である。
若いときなら、やりなおしがきく。
しかし50歳もすぎると、そうはいかない。
やりなおすという発想そのものが、消える。
が、それだけではない。
プラス、生活の不安が、どっと襲ってくる。
とくに自営業のばあいは、失業イコール、無収入となる。

 だから……。
 仕事は、大切なものだが、同時に、その仕事がなくなったときの自分を考えておくことも、重
要なことである。
別の仕事を用意するということではない。
仕事がなくなったときの心構えというか、そういうものを、考えておく。
あるいは、老後の生きがいというものを、積極的に用意しておく。

 それは、老後の貯金のようなものかもしれない。

 ……と書くのは、実は、自分のため。
自分に言って聞かせるため。
と、同時に、実は、私は過去において、何度も、その自己否定の恐怖を味わっている。
毎日が、その連続といってもよい。
私がしているような仕事のばあいは、一度に、その恐怖がやってくるということはない。
そのかわり、その恐怖が、分散してやってくる。
が、だからといって、恐怖感が小さいということはない。
ときには、その分散した恐怖が、波のように集まって、襲ってくることもある。

 いつということは、書けないが、毎日、床の上で、天井を見あげながら、どうしようかと、思案
に暮れたこともある。
息子の寝顔を横で見ながら、涙をこぼしたこともある。

 しかし今、私には、かろうじてだが、仕事がある。
毎朝、起きると、やることが決まっている。
生きがいも、ある。
健康も、まあまあ。
で、ふと、こう思う。

 「できるだけ、こういう状態を、大切に、長くつづけよう」と。
それは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。
決して、おおげさな言い方ではない。
そうした実感は、年々、強くなっている。

 で、今は、もう、大きな目標は、ない。
目的も、ない。現状維持ができれば、御(おん)の字。
健康でいられるだけでも、感謝しなければならない。
そういう立場である。

 その私のこと。
もしいつか、自己否定するようなことがあれば、私はもう生きていないだろうと思う。
自己否定イコール、死と考えている。
多分というより、まちがいなく、私は自己否定の恐怖感には、耐えられないだろうと思う。

【補記】

 こうした困苦は、だれにでも起こりうるものだが、だれかがそうなったら、静かな、そ
して暖かい無視が、一番、よい。

 いらぬお節介は、タブー。
いわんや興味本位、個人的な好奇心で、その人の不幸を、のぞいてはいけない。

 が、世の中には、無神経な人が多いのも、事実。
ある日、いきなり電話がかかってきて、「林君、今のような仕事は、やめて、もう少し、まともな
仕事をしてはどうかね? 
今の仕事じゃあ、老後が心配だろう」などと言ってくる。
(この話はホントだ!)

 もちろんその人から、相談があれば、別。
そのときは、親身になって、相談にのってあげる。

 が、おかしなもので、自分が苦労しているときほど、その人の真価がわかる。
私も何度か、そういう波を越えて、(つきあう人)と、(つきあってもムダな人)を、よりわけてき
た。
言うまでもなく、ムダな人と、ムダなつきあいをするのは、それ自体が、時間のムダ
である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不幸をのぞく人

 先の原稿の中で、2人の人について、書いた。
「他人の不幸をのぞいてくる人」と、「まともな仕事をしたらどうかね言っていた人」。
実はこの2人は、同一人物である。
若いころから年長風を吹かし、あれこれと言ってくる。
用もないのに、電話をかけてきて、私の家の事情を聞きだそうとする。
あるときは、こう言った。

「浩司君、今朝、君の夢を見たから……」と。
 
 聞きだす方は興味本位かもしれない。
が、聞かれる方は、つらい。
そのつらさは、経験のある人でないと理解できないだろう。
ともかくも、つらい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、「まともな仕事」について
書いた原稿を載せる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●男は仕事、女は家庭?(Men work outside and Women work inside?)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++はやし浩司

こうした変化は、私も、ここ10年ほどの間、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++はやし浩司

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                       ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに対
して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。

「結婚した方がよい」は、5年前の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える
人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

 これらの数字をまとめると、こうなる。

「結婚したほうがよい」と考える人がふえる一方で、旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結
婚観をもっている人は、約3割にすぎないということ。

3割だぞ!

 問題はこうした変化もさることながら、こうした変化についていけない人も、多いということ。
あるいはこうした意識変化が起きつつあることにすら、気がついていない。
とくに世代間の(ちがい)が、大きい。

「男は仕事、女は家庭」と、旧来型の固定観念にしばられる旧世代。
「今どき、そんなバカなことを言っていると相手にされない」と反発する新世代。

 先日も兄の葬儀でのこと。
裏方で、お茶や食事の用意をしていたのは、すべて女性。
広間で、でんと座って、それを待っていたのは、すべて男性(プラス、一部の女性)。
私が裏方で、味噌汁を作っていたら、逆に、私のほうが追い出されてしまった!

こういうバカげた段村社会が残っている国は、そうはない。
またそういう男女観をもっている人ほど、今回の読売新聞社の公表した意識調査結果を、
一度、真剣に読んでみる必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 男は仕事 女は家庭 男女観 
結婚観 サイレント革命 はやし浩司 男尊女卑)

+++++++++++++

さらに7年前に書いた原稿が
つぎのもの。

+++++++++++++はやし浩司

●親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 
 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。
しかしアメリカでは、「部屋から出るな」と言う。
もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家から出て行く。
「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。
私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。
日本からの移民は、仲間どうしが集まり、集団で行動する。
その傾向がたいへん強い。
リトル東京(日本人街)が、そのよい例だ。
この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。
人里離れたへき地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。
日本人は、集団からはずれることを嫌う。
だから「出て行け」は、バツとなる。
一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。
自由を奪われることが、彼らにしてみればバツなのだ。
集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。

『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。

つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。
『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。
集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。
この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。
日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。
農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。
それだけではない。
日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。
戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。

 要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。
しかし今、それが大きく変わろうとしている。
若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってきている。
イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。
「ローマへ来る日本人は、今、二つに分けることができる。
一つは、旗を立てて集団で来る日本人。
年配者が多い。
もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。

日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、1
2%もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。
職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。
30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。
これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。
フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしてい
る。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。
それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。
ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※ ……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、

 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。
約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。
その理由としては、

 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型 
            ……15%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。
「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すらいる。
しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではない。
実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。
いつまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist フリーター撲滅論 まともな仕事
論)

 先にあげた男の基準からすれば、たとえば銀行のような企業に勤めることは、「まとも」という
ことになる。

私がしているような仕事は、「まともでない」ということになる。
が、これこそまさに、江戸時代の身分制度の亡霊。
その亡霊が、いまだにこの日本で、のさばっている!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●まとめ

 以上、「職業と意識」について考えてみた。
役人論は、その一部ということになる。

 どうであれ、つぎの瞬間には、私も人生を終える。
10年後?
20年後?

 それが何年であれ、瞬時。
つぎの瞬間には、私はこの宇宙もろとも、消えてなくなる。
ただ、つぎの世代には、よりよい時代を残したい。
そのためにも、変えるべきものは変えていきたい。
その方向性は示しておきたい。

 こと職業に関していえば、そこには(意識)の問題が絡む。
変えるといっても、それこそ10年、20年単位の時間が必要。
あせってもいけないし、さりとて放置しておいてもいけない。

 私は一匹のネズミとして生きたが、昔からこう言う。
『一寸の虫にも、五分の魂』と。
その「魂」の部分を、つぎの世代に残していきたい。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【視覚とは何か】(はやし浩司、1999年ごろ記)改

++++++++++++++++++++++++

「視覚とは何か」。
この原稿が気になるのは、私たちが生きている世界が、
その視覚でできあがっているということ。
そこにあるモノが見えるということから始まり、
宇宙の果てが見えるというところまで進む。

「あの世論」にしても、そうだ。
モノが見えるが、基本になっている。
天国にしても、地獄にしても、モノが見えなければ、
そこは漆黒さえない、虚の世界。

では、モノが見えるということは、どういうことなのか。
そこから今朝は考えてみたい。

はやし浩司++++++++++++++++はやし浩司

●ぼんやりと見る

 ぼんやりとまわりの様子を見る。

 そのとき、無数のものが、ばくぜんと、目の中に飛びこんでくる。

 目の網膜でとらえられた映像は、一度視床下部(ししょうかぶ)を経由して、脳のうしろにあ
る、大脳の後頭葉(こうとうよう)の視覚野(しかくや)に送られる。

 (網膜)→(視床下部、外側膝状体)→(大脳後頭葉、視覚野)

 しかしこの段階では、すべての情報がばくぜんと、脳の中のモニターに映されることになる。
カーテンも、机も、カメラも、印刷用紙も……。

 そこで私は、その映像の中から、必要な情報だけを選びださなければならない。

 たとえば私は、ここで、パソコンのモニターだけを見たいとする。しかもその中でも、文字だけ
を見たいとする。

 そこで視覚野に映った映像は、いろいろに加工される。これを大脳生理学の分野では、二次
加工、三次加工と呼ぶ。

 (視覚野の映像)→(二次加工)→(三次加工)

 そのあと、こうして加工された映像は、主に二つのルートを通って、大脳の各部に送られる。

 (加工された映像)→頭頂葉連合野(1)
          →側頭連合野(2)

(1)の頭頂葉連合野へ送られた映像は、空間的な処理がなされるという。
たとえば脳の中でも、この部分にダメージを受けると、自分の位置関係がわからなくなるとい
う。

(2)の側頭連合野に送られた映像は、ものを認知するための処理がなされるという。
この部分が、ダメージを受けると、形がわからなくなるという。
人の顔も区別できなくなることもあるという。

こうして目から入った情報は、瞬時のうちに脳の中をかけめぐり、処理され、判断される。

 私はこうしてぼんやりと、カーテンごしに、外を見ている。何でもない行為だが、その裏で、無
数の情報処理がなされていることになる。

 こうした処理を直接頭の中で見ることはできないが、しかし想像することはできる。

 「あっ、今、後頭部に信号が送られたぞ」「二次加工されているぞ」「側頭連合野で判断されて
いるぞ」と。

 もちろんこれは私の勝手な想像によるものだが、それが結構、楽しい。

【追記】

 私たちが「そこ」に見ているものは、実際に、そこにあるものを見ているのではない。
たとえて言うなら、大脳後頭葉の視覚野というのは、モニター画面のようなもの。
つまり私たちは脳の中に映し出された、総天然色(?)の映像を見ているだけということ。

 もっとわかりやすく言えば、テレビを見ているようなもの。
まさに光と影がおりなす、幻想の世界を見ているにすぎないということになる。

 そう考えていくと、少し、不思議な気分になる。

  
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●究極の食事法 (ジョーク)

 オーストラリアの友人が、新しいジョークを作り、それを送ってくれた。

...for those of you who watch what you eat, here's the final word on 
nutrition and health. It's a relief to know the truth after all those
 conflicting medical studies:
(食事に注意を払っている人に、究極の食事法が、ある。医学的問題に
かかわっている人には、この事実を知ることは、とてもよいことだ。)


1. The Japanese eat very little fat and suffer fewer heart attacks
than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(日本人は、脂肪をほとんどとらないし、そしてアメリカ人、オース
トラリア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が少ない。)


2. The Mexicans eat a lot of fat and also suffer fewer heart attacks 
than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(メキシコ人は、たくさんの脂肪をとるが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


3. The Japanese drink very little red wine and suffer fewer heart
attacks than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(日本人は、ほとんどワインを飲まないが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


4. The Italians drink large amounts of red wine and also suffer fewer 
heart attacks than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(イタリア人は、大量の赤ワインを飲むが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


5. The Germans drink a lot of beer and eat lots of sausages and fats 
and suffer fewer heart attacks than the Americans, Australians, 
British, or Canadians.
(ドイツ人は、たくさんのビールを飲み、たくさんのソーセージと脂肪を
とるが、アメリカ人、オーストラリア人、イギリス人、カナダ人より、
心筋梗塞になる人が、少ない。)


6. Ukrainians drink a lot of vodka, eat a lot of perogies, cabbage 
rolls and suffer fewer heart attacks than the Americans, Australians, 
British, or Canadians.
(ウクライナ人は、たくさんのウォッカと、たくさんのペロシチ巻きを
たくさん食べるが、アメリカ人、オーストラリア人、イギリス人、カナ
ダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


CONCLUSION: Eat and drink what you like. Speaking English is 
apparently what kills you.
(結論:好きなだけ、飲んで食べろ。英語を話すことが、心筋梗塞の原因
ということが、これで証明された。)

+++++++++++++++++++

お返しに、私も、ジョークを考えた。
こういうケースでは、つまり友人が
何かジョークを言ったら、それに答
えて、何か有益な知識を、返すのが
この世界の礼儀になっている。

+++++++++++++++++++

日本では、鼻先から、唇までの長さが、ペニスの長さということに
なっている。古くは、中国の医学書にも、そう書いてある。
(The length between the bottom of the nose and the edge of the upper
lip shows the length of dick, as has been written in Chinese Medical
book.)

つまりこの部分が、長い人は、ペニスも長いということになる。
このことから転じて、スケベな心境になることを、この日本では、
『鼻の下を長くする』という。
(This means those who has longer length between them has a longer
dick. And we say, therefore, in Japan, "he has a longer length under the
nose", which means that he is horny.)

しかし英語では、ペニスを「角(つの)」にたとえる。
スケベを意味する、「H(エッチ)」は、「ホーニィ」、つまり「角
のようになった(ペニス)」という意味から、きている。
(In English, however, the dick is often imitated as a horn and therefore
English people would often say, "he is horny", or he is sexually excited.)

いろいろな説があるが、これは、「H(エッチ)」という言葉が
日本でも使われ出したころ、私が、アメリカ人の男性に直接聞いて
確かめたことである。
(And then we say, "he or she is H, which means he or she is a sex maniac.")

で、どちらが科学的かというと、やはりアジア人のほうに、軍配
があがる。
(But which is more scientifically logical? Or Chinese medical is much
more logical.)

人間には、九つの穴(女性は、十)がある
(We have 9 holes in our body. Ladies have 10. Count them when you feel free.)

これらの穴の大きさは、比例しているという。
つまり女性器の性能(まさに「性」能)は、その穴の大きさで決まる。
もちろん小さければ、小さいほど、よい。
先ほど、不慮の交通事故でなくなった、ダイアナ王妃のようでは困る。
(日本語で、「ダイアナ」は、「大きな穴」を意味する。念のため。)
(Those who have bigger holes have bigger holes and small holes, small
holes. Those who have big nose-holes have bigger 10 holes.
For example the ex-Princess of England, Ms. Dyana had bigger nose-holes.
This means she had big holes. As a matter of fact "Dyana means
in Japanese, Dai=big ana=holes.

そこで元来、鼻先から、唇までの長さが短い白人の男性と、元来、鼻の穴の大きな白人の女
性が、結婚したらどうなるか。
(Then what happens in case when the white man who has a shorter
length between the nose and lip marry to a woman who has big nose-holes?)

【結論】つまり、それが白人社会では、離婚率が高いという理由である。
Conclusion…(This is the reason why more couples get divorced in western world.)

+++++++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【年長児・5〜6歳児に「平均」「平均の概念」を教えてみました】
(実験教室byはやし浩司)

●小2用の教材を使い、幼稚園児に「平均」を教えてみました。
「できるかな?」という心配はありましたが、結果は、ご覧の通りです。

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/XKDpGtBvS5k" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/j23on-gKylw" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/U80Nz4O1h7k" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



Hiroshi Hayashi+++++++++++Jan. 2012+++++++++++++++はやし浩司※

【金谷から韮山へ、講演旅行】 はやし浩司 2012−01−14

●金谷へ

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/35/imgdb322e2dzik1zj.
jpeg" width="640" height="480" alt="DSC00050.JPG">

 7時26分発の、興津行きに乗る。
気温は3〜4度。
寒い。

 午前中は、金谷(かなや)で講演。
教職員組合榛原支部。
それが終わったら、午後は、韮山(にらやま)へ。
同じく教職員組合田方支部。
そこで講演。
そのあと沼津の宿で一泊。
「はまゆう会館」。

●歯車

 日本人から(たくましさ)が消えて、久しい。
一億、総草食系。
豆腐系。
みな、それぞれが機械の歯車のようになり、ゆっくり、ゆっくり、回っている。

 はみ出たことができない。
はみ出ることもない。
はみ出た人を、異端視する。
叩く。
ただひたすら、ゆっくり、ゆっくり、回っている。
電車の中を見渡したとき、ふと、そう思った。

●電車の中

 淡い橙色の朝日が、斜め左前から窓を通して、顔に当たる。
当たるたびに、窓ガラス全体が白くなり、外の景色がさえぎられる。

 左の少し離れたところに、中学生らしい一群が、陣取っている。
どこかへ対抗試合に行くところらしい。
みな、白いスポーツ・バッグをもっている。
「NIKE」と書いてある。
華やいだ笑い声が、うらやましい。

 目の前の座席には、4人の男たちが座っている。
うち3人は目を閉じ、下を向いている。
1人は、大きないびきをかいて、眠っている。
30歳くらいの男は、携帯電話に読みふけっている。
どこでも見られる、早朝の出勤風景。

●眠い

 昨夜、床に入る前に、睡眠導入剤をのんだ。
朝までぐっすりと眠ったはず。
が、眠ったときほど、眠気があとに尾を引く。
今が、そのとき。
軽い眠気が、脳内に充満する。

 「こんな頭で、講演ができるだろうか……?」と。
少し心配になってきた。
いや、その心配もあったから、起きるとすぐ、10分間。
出かける前に、10分間、計20分間、ウォーキングマシンの上で、軽い汗をかいた。

●電車の中
 
 今、客の数を数えてみた。
全員で、30人。
うち学生らしき人たちは、11人。
新聞を読んでいる人は、隣のワイフと、もう1人、最後尾に座っている男性1人。
2人だけ。
携帯電話(端末)を手にしている人は、6人。
 
 ……電車は、たった今、掛川駅に着いた。
ゾロゾロと客が降りた。
つづいてほぼ同じ数の客が、乗り込んできた。
目の前に座った男は、スキー靴を履いている。
歩くたびに、床をガツン、ガツンと叩くような音がする。
太った、大柄な男。
35歳くらい。
態度も大きい。
片足を通路のほうへ、大きく投げ出して座った。

 ああ、眠い……。

 金谷まで、あと10分?
しばらく休憩。

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/37/img53fd06adzik3zj.
jpeg" width="640" height="480" alt="DSC00151.JPG">

●Oさん

 金谷での講演で、県の教育委員会のOさんに会った。
Oさんは、あいさつだけで、金谷の会場を去った。

そのOさんと、再び静岡駅で出会った。
私たちはそのまま、いっしょに、韮山へ向かった。

●講演

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/38/img2cd2ea99zik3zj.
jpeg" width="640" height="480" alt="DSC00175.JPG">

 韮山での講演は、無事、終わった。
韮山から、長岡に一度出て、そこからバスで、宿泊先の「はまゆう会館」に向かう予定だった。

 が、主催者の方が、「送ります」と。
私たち夫婦は、その言葉に甘えることにした。

●KKR沼津、はまゆう

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/39/imgdae199f3zik4zj.
jpeg" width="640" height="480" alt="DSC00243.JPG">

 5時ごろ、「はまゆう」に着いた。
正式の名前は、「KKR沼津、はまゆう」という。
知っている人は、知っているのだろう。
しかし「KKR」というのは、何?※。

ホテルのネーミングとしては、まことにまずい。
こういう意味のわからない略字を見ると、ふつうの人なら、それだけで拒絶反応を起こす。
「コレハ(=K)、コレハ(=K)、良(=R)」の意味か。
どこかの「組合会館」とは聞いていた。

 が、来てみてびっくり。
造りも立派な、一流ホテル。
豪華。
私は名前から、小さな民宿風の旅館を想像していた。

(注※……KKRというのは、国家公務員(=K)、共済(=K)、連合会(=R)の意味だそうだ。
道理で、超豪華!
当初は国家公務員の保養施設として建設されたが、客が少ないので、一般客にも開放されて
いるとのこと。)

●午後11時

 で、今、時刻は11時!

 いつも暇さえあれば、何かを書いている私だが、今日は、何も書けなかった。

 先にも書いたが、韮山で講演をしたあと、車で送られて、ここ沼津まで。
が、ここで私の元気が底をついた。
温泉から出たあと、30分ほど仮眠。
そのあと食事。
再び、仮眠。

 先ほど起きて、午後11時。

さすが1日、2回の公演は、疲れる。
時間にすれば、計4時間近く立ったまま話したことになる。
若いころは、平気だったが……。

●潮騒

 窓の外からは、潮騒の音が、直接聞こえてくる。
「直接」というのは、「間近に」という意味。
眼下に細い道があり、その向こうは、海岸。

 その音を聞いていたとき、あのビーチハウスを思い出した。
オーストラリアの友人のビーチハウスである。
私はそのビーチハウスに、若いころ、3か月間、世話になった。
毎朝、その潮騒を聞きながら、過ごした。

 古き、よき時代。
私は、そのころ、もっとも幸福だった。
1日を1年のように、長く感じた。

●「福島産の米」

 「はまゆう」のフロントに、張り紙がしてあった。
こう書いてあった。
「このホテルでは、福島産の米を使用しています」と。

 福島産の米?

 温泉で知りあった男性と、それが話題になった。
その男性は、川崎(神奈川県)から来ていた。
「私はいいですが、子どもには食べさせられません」と。

 あとで食堂で見ると、その男性は妻と子ども(10歳くらい)を連れてきていた。

 が、どうしてそんな張り紙をしているのだろう。
ふつうなら、そんな張り紙をしない。
それともホテル側の、精一杯の誠意なのだろうか。
だからフロントで、私はこう聞いた。

「魚類はどうですか?」と。
するとフロントの男性は、こう言った。
「ほかのものは、このあたり(=沼津)のものです」と。

●三島ざくら(三島・兎月園)

 韮山での講演のみやげに、「三島ざくら」と「パイ」をもらった。
製造元は、「三島・兎月園(とげつえん)」とある。
さすが……というか、地元の人は、味をよく知っている。
先ほど、箱をあけ、それぞれ何個かずつ、食べてみた。

 おいしい!

 と、同時に、先日ある中国展の会場で買った、北京のみやげを思い出した。
クルミを飴でくるんだ菓子だった。
が、断言する。
あれば「クルミ」ではない。
ただの「落花生」。

 それに飴が粗悪品。
食べると、しつこく、歯にそれがくっついた。
直後、歯をみがいたが、それでも取れなかった。
しかも、だ。
ここからだ実に中国らしい。
上げ底もよいところ。

●上げ底

1・5センチ四方の菓子が、10個ずつ、まず化粧箱に入っていた。
その箱を、3箱、大きな化粧箱に入れてあった。
上げ底は当然としても、周辺を内へ大きく折り曲げた化粧箱。
実際の菓子の6〜8倍に、(あるいは10倍以上に)、中身を大きく見せていた。

 が、箱だけは、立派。
赤地に金文字。
金文字は、浮き出ている。
菓子箱の底にも、金紙が張ってあった。

 それを思い出しながら、私はワイフにこう言った。
「中国も、こういう菓子(=兎月園の菓子)を見習うべき」と。

 10年前と比べると、それでもよくなった(?)。
そうそう書き忘れたが、中国のその菓子は、どこか油臭かった。
歯で割ると、プンと油の臭いがした。

 そのあとその菓子をどうしたか?
みなさんの想像に任せる。
 
●沼津の御用邸

 このホテルの近くに、御用邸があるという。
歩いて15分ほどの郷里という。
観光施設として、見学+観光できるという。
案内書を読みながら、ワイフがそう言った。

 沼津行の送迎バスは、10時に出るという。
御用邸は午前9時、会館。
「行ってみるか?」と声をかけると、ワイフが「うん」と。

 どんなところか。
御用邸だぞ!
楽しみ。

●沼津魚市場食堂

 ホテルの案内書に、沼津魚市場食堂が紹介されていた。
その中に、先日行った、「丸天」が載っていた。

 私とワイフは、そこでびっくりするほど量が多く、おいしい魚料理を食べた。
「どれ……?」と言って、その案内書を見た。
その瞬間、あのときの料理が、脳の中にはっきりとした映像となって現れた。

丸天の魚料理は、今まで食べた魚料理の中でも、最高!
「また行こうね」「うん、また行こう」と。
 
 沼津と言えば、魚。
魚料理。
魚料理といえば、丸天。

●「はまゆう」

 部屋は畳で、10畳。
内風呂も大きく、清潔。
国家公務員専用の宿泊施設ということだが、私たちのような一般客も泊まることができる。

 部屋、料理ともに、ほぼ満足。
今日は土曜日ということで、もう少し混雑しているかなと思ったが、客は全部で、20人ほど。
「(3・11大震災以来)、海のそばの旅館やホテルは、敬遠されている」とのこと。
先月、沼津へ来たとき、タクシーの運転手が、そう言っていた。

 が、このホテルは、立派。
部屋数は少ないが、部屋も広い。
見るからに、それがよくわかる。
また現在、私たちが泊まっている部屋は、3階。
先ほどもワイフがこう言った。
「ここまでは、津波は来ないわ」と。

 3・11大震災以来、どこへ行っても、すぐそういう話になる。
大きなトラウマができてしまった。

●睡眠時間

 しかしさすがに、今日は疲れた。
起きたのが午前4時。
一仕事終え、家を出たのが、6時45分。
電車に乗ったのが、午前7時29分。
以後、2つの講演をこなした。

 朝食は、フルーツを少し。
昼食は抜いた。

 今月は、あと2つ講演がある。
で、来月、2月。

 東京で講演をしたあと、翌日、金沢での同期会がある。
その前日は、東京での講演。
いろいろ考えてみたが、体力的に無理。
今、そういう結論になりつつある。

 問題は距離ではなく、睡眠。
どう睡眠時間を、うまく調整するか。
ホテルや旅館では、どうもうまく眠れない。
友人は、「羽田から小松まで飛行機で来ればいい」と言う。
しかし私は大の飛行機嫌い。

 「同期会は、やっぱり断るよ」と私。
「そのほうがいいわね」とワイフ。

 無理ができない体になってしまった。

 それにしても、疲れた。
こうしてパソコンを叩いていても、時折、意識がかすんでいく。

●雑談

 ワイフとの雑談がつづく。
ワイフは部屋にあった木製のパズルで遊びながら、ペチャペチャ……と。

 ワイフは、人前では静かな女性。
見た目にも、そうだ。
しかし私と2人だけになると、よくしゃべる。
ときには、床に入ってからも、1時間ほど、しゃべりつづけることがある。
そんなことから、結婚して40年になるが、いまだによくわからない。

 私のワイフは、おしゃべりなのか、そうでないのか、と。

 ……たった今、木製パズルで、目的とする形ができたらしい。
「できた! Tの字!」と。

●スポーツカー

 こんなことがあった。

 1年ほど前、ある知人宅に、新年のあいさつに向かった。
そのとき庭先を見ると、中古だったが、M社のスポーツカーが置いてあった。
私のような門外漢でも、それがどういうスポーツカーであるか、すぐわかった。
「すごい車ですね」と声をかけると、その知人は、その車について、あれこれと説明してくれた。
得意げだった。

 で、それから1年。
つい先日のこと。
別の知人を訪ねると、同じようなスポーツカーが、駐車場に並べてあるのを知った。
その知人は、市内で中古車販売をしている。

 「どこかで見たような車だな……」と思いつつ、「この車と同じのを、見たことがあります」と言う
と、その知人は、こう言った。
「この車は、今、浜松には、2台しかないよ。1台は、甥っ子にくれてやったけどね」と。

 そのときはじめて、先の知人と、その知人が、親戚関係にあることを知った。
しかし先の知人(甥っ子)は、そんなことは一言も言わなかった。
「叔父にもらった」とは、一言も言わなかった。

●葬儀

 こういう例は、多い。
たとえば友人だったA氏は、長年にわたり、義弟の生活費を負担してきた。
義弟の息子や娘たちの学費まで、負担してきた。
で、そのA氏が、数年前、他界した。
そのときのこと。
私はそういう話をA氏から聞いていたので、葬儀には、当然、そういう人たちが参列しているも
のとばかり思っていた。

 義弟とその息子や娘たち。

 が、だれも来ていなかった。
それを知り、ワイフは、こう言った。
「Aさんの世話になったのだから、葬儀には来るべき」と。

●ODA(政府開発援助)

 ODAというのが、ある。
政府開発援助。
ODAのオフィシャル・サイトには、つぎのようにある。
『Official Development Assistance(政府開発援助)の頭文字を取ったものです。
政府または政府の実施機関によって開発途上国または国際機関に供与されるもので、開発
途上国の経済・社会の発展や福祉の向上に役立つために行う資金・技術提供による協力のこ
とです』とある。

 協力先は、150か国以上に及ぶという。
日本は、ここ10年、毎年、10000x100万ドル=100億ドル=約8000億円の援助を繰り返
している(同、サイト)。
実際には、これはODAを通してのみの額。
ほかにもそれぞれの機関が、有償、無償の援助を繰り返している。
前回、野田首相は東南アジアの何かの会議に出たとき、そのときだけで、2兆円の資金をばら
まいてきている(2011年11月)。

 が、当の援助された国々は、それだけ日本に感謝しているかと言えば、それはない。
それもそのはず。
それぞれの国の為政者たちは、そうした援助は、「自分の手柄」として、そこで口を閉じてしま
う。
ダムや道路、港を建設したとしても、「これは日本の援助によるものです」とは、絶対に言わな
い。

●現金の力の限界

 つまりここに、現金(マネー)のもつ力の限界がある。

 中古であるものの、スポーツカーをもらいながら、「もらった」とは言わない知人。
子どもの学資を出してもらいながら、「出してもらった」とは言わない友人の義弟。
そして日本の援助を受けながら、「日本のおかげ」とは、言わない、その国の為政者たち。
みな、自分のところで、恩の流れを止め、自分の手柄としてしまう。

 ウソではないが、あえて言うなら、「不作為によるウソ」。
ウソつきがつくウソと、どこもちがわない。

●思考力

 ……ということで、今は、思考力ゼロ。
読んで、ご覧のとおり。
意味のない文章がつづく。
「思考力ゼロのときは、こういう文章」という、つまりはその見本のような文章。
頭の中に飛来する情報を、そのまま文章にしているだけ。

 ところで先ほどまで、左上半身が、こわばっていた。
肩こりのような痛みを感じていた。
「狭心症?」と思ったが、原因は、マイクだった。
あのマイクを、肌にこすりつけたまま、計4時間もかかえていた。
それでそうなった。

 そう言えば、おとといの夜、こんなことがあった。

●狭心痛

 2年前の正月に、はげしい胸の痛みを覚えて、一時、呼吸ができなくなったことがある。
「狭心痛か」と、そのときは、そう思った。
医院へ行っても、「そのときでないと、狭心痛かどうか、わかりません」と。
つまり痛みがあるとき、医院へ来い、と。
が、痛みはそのときだけで、以来、この2年間、同じような痛みを感ずることはなかった。

 で、おとといの夜のこと。
夜、9時半ごろ仕事を終え、いつものように自転車にまたがった。
気温は、0度近くまでさがっていたと思う。
風は、肌が切れそうなほど、冷たかった。
そのとき、私はこう思った。

「今夜、確かめてみよう」と。

 つまり全速力で走ってみて、自分の心臓を確かめてみよう、と。

 で、いつもより足に力を入れ、まず鴨江町(地名)のなだら坂を上った。
全速力。
で、そこからは今度は、なだらかな下り坂。
ふだんなら、そのままノンブレーキで、一気に坂下まで下るが、昨夜はその下り坂でも、力を入
れて、自転車をこいだ。

 あとは、いつもの道。
そこでも全速力。
容赦しなかった。
で、そのときこう思った。

「心筋梗塞が起こるかもしれない。起こるなら、起これ!」と。

 で、いつもなら40分ほどかかる距離だったが、25分ほどで家に着いた。
とたん、全身から汗が噴き出た。
と、同時に自分の脈をとった。
不整脈があれば、それでわかるはず。

 が、脈は正常だった。
速いが、正常だった。
はげしい運動をしたあと、よく、ドクドクと、瞬間的な不整脈を経験することがある。
が、それもなかった。

 居間でお茶を飲んでいるとき、ワイフにこう言った。
「心臓のほう、だいじょうぶみたい。今夜、それを自分で確かめてみた」と。

 死にたくはないが、最近は、よくこう思う。
「それが寿命なら、いつ死んでも構わない」と。

 自転車通勤にしても、そうだ。
自転車通勤をするようになって、もう40年になる。
それなりに自分の体を鍛えてきた。
それでも、心筋梗塞を起こすようなら、こんな体に、未練はない。
「とっとと、死ねばいい」と。

●視覚

 昨日、つぎのような原稿をBLOGに載せた。

まず、それを読んでみてほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【視覚とは何か】(はやし浩司、1999年ごろ記)改

●ぼんやりと見る

 ぼんやりとまわりの様子を見る。

 そのとき、無数のものが、ばくぜんと、目の中に飛びこんでくる。
 目の網膜でとらえられた映像は、一度視床下部(ししょうかぶ)を経由して、脳のうしろにあ
る、大脳の後頭葉(こうとうよう)の視覚野(しかくや)に送られる。

 (網膜)→(視床下部、外側膝状体)→(大脳後頭葉、視覚野)

 しかしこの段階では、すべての情報がばくぜんと、脳の中のモニターに映されることになる。
カーテンも、机も、カメラも、印刷用紙も……。

 そこで私は、その映像の中から、必要な情報だけを選びださなければならない。

 たとえば私は、ここで、パソコンのモニターだけを見たいとする。しかもその中でも、文字だけ
を見たいとする。

 そこで視覚野に映った映像は、いろいろに加工される。これを脳科学の世界では、二次加
工、三次加工と呼ぶらしい。

 (視覚野の映像)→(二次加工)→(三次加工)。

 そのあと、こうして加工された映像は、主に二つのルートを通って、大脳の各部に送られる。

 (加工された映像)→頭頂葉連合野(1)
          →側頭連合野(2)

(1)の頭頂葉連合野へ送られた映像は、空間的な処理がなされるという。
たとえば脳の中でも、この部分にダメージを受けると、自分の位置関係がわからなくなるとい
う。

(2)の側頭連合野に送られた映像は、ものを認知するための処理がなされるという。
この部分が、ダメージを受けると、形がわからなくなるという。人の顔も区別できなくなることも
あるという。

こうして目から入った情報は、瞬時のうちに脳の中をかけめぐり、処理され、判断される。

 私はこうしてぼんやりと、カーテンごしに、外を見ている。何でもない行為だが、その裏で、無
数の情報処理がなされていることになる。

 こうした処理を直接頭の中で見ることはできないが、しかし想像することはできる。

 「あっ、今、後頭部に信号が送られたぞ」「二次加工されているぞ」「側頭連合野で判断されて
いるぞ」と。

 もちろんこれは私の勝手な想像によるものだが、それが結構、楽しい。

【追記】

 私たちが「そこ」に見ているものは、実際に、そこにあるものを見ているのではない。
たとえて言うなら、大脳後頭葉の視覚野というのは、モニター画面のようなもの。
つまり私たちは脳の中に映し出された、総天然色(?)の映像を見ているだけということ。

 もっとわかりやすく言えば、テレビを見ているようなもの。
まさに光と影がおりなす、幻想の世界を見ているにすぎないということになる。

 そう考えていくと、少し、不思議な気分になる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この原稿について、K県に住む、KD氏という方より、こんなメールが届いた。
たいへん興味深い事実が書かれているので、そのまま紹介する。
この中で、「3歳以降に手術によって視力を得ても、お母さんの表情も理解することが
できないということもショックでした」という部分に注目してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【KDさんより、はやし浩司へ】

A硝子で液晶表示装置の視認性の研究開発をしたことがあります。
視覚に関する技術書を読んだり、医者と話したりして視覚の不思議さと
凄さに圧倒されました。
3歳以降に手術によって視力を得ても、お母さんの表情も理解することが
できないということもショックでした。

聴覚についても研究・開発をしました。
生まれたときから目の不自由な方は室内に入った時にその音響特性
から部屋の大きさ、天井の高さも分かるのです。

T伸行さんのお父さんは産婦人科で高校後輩にあたります。
伸行さんは生まれながら目が不自由でしたので、聴覚で外界の状況を
判断・理解することになりました。
母親いつ子さんの献身的な支援により健常者は聞き逃している音までピアノで表現できるとい
う、まさに天才としての能力を育まれました。

ついにはクライバーンのコンテストで優勝するまでに才能を開花させたのです。
私はAVルームの開発の際、リビング空間の広さでホールのような音響を得る研究をしたこと
があります。
イギリスのスタジオで使われている適度な吸音性と拡散反射性をもつパネルを装置した部屋
に目の不自由な人に来てもらうと、凄く不安になるのだそうです。
部屋の大きさ、形状が分からないのでとても不安になるようなのです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●母親の顔

『3歳以降に手術によって視力を得ても、お母さんの表情も理解することが
できないということもショックでした』(KD氏)と。

 この話は、野性児のそれと共通している。

 0〜2歳前後の間、人間の手を離れ育てられると、以後、人間らしい感情や心を取り戻すこと
は、もうないという。
同じように、「3歳以後、手術によって視力を回復しても、母親の表情を理解することができな
い」と。

 ズシンと胸に響く事実である。
まさに『子育ては、本能ではなく、学習である』を、証明するような事実と言ってよい。

●就寝

 ワイフが寝支度を始めた。
そろそろ就寝タイプ。
エアコンがききすぎて、部屋の中は暑いほど。
「弱」にしてあるが、それでも暑い。

 先ほど窓を少し開けた。
……つまりこの温度調整が、むずかしい。

 では、今日の日記は、ここまで。
時刻は、午前1時。

●はやし浩司 2012−01−15

 ぐっすり眠り、午前6時半。
つづいて朝の入浴。
朝食。

 ところで私はこの1年、こうした日記を書くとき、「はやし浩司 2012−01−15」と書くように
している。
あとで、自分の書いた文章を、日付で検索しやすくするためである。
こうすれば、「はやし浩司 201x−xx−xx」で検索すれば、その日に書いた自分の文章を探し
出すことができる。

 ひとつのアイディアである。

●逆ギレ

 今朝のニュースで、一番驚いたのが、これ。

 赤信号を無視して歩いている男性を、別の男性が注意した。
それに注意された男性が、逆ギレ。
注意した男性を殴り、殺してしまったという事件。

 この種の事件は、ときどきあるが、今回の事件は、つぎの1点で特異性がある。
殴った男性は、そのとき自分の「10代の息子」(報道)と、いっしょだったこと。
MSN・Newsの見出しは、つぎのようになっている。

『赤信号注意され逆上…男性殴り死なせた男の「理不尽」 交錯する怒りと悲しみ』(MSN・NE
WS)と。

 以下、MSN・Newsより

+++++++++++++以下、MSN・NEWS+++++++++++++++

東京都品川区の路上で昨年11月、赤信号で横断したことを注意された男が逆上し、注意した
男性を殴って死亡させる事件があった。
傷害致死容疑で逮捕、起訴された男は警視庁の調べに「腹がたってやった」と供述。
その理不尽な行動に、関係者の間で怒りと悲しみが交錯している。(大島悠亮)

息子の前で逆上し…

 昨年11月12日午後7時35分ごろ、大手百貨店や飲食店などが立ち並ぶ東京都品川区の
JR大井町駅中央口側の横断歩道。
区内に住む無職、小牧信一さん=当時(77)=は、対面から信号無視をして渡ってきた2人組
の男らを見かけた。

 「赤信号ですよ」

 小牧さんがこう注意すると、男の1人が「うるせえんだよ」と逆上。
顔を殴られた小牧さんは路上に転倒して頭を強く打ち、意識不明の重体となった。
小牧さんはすぐに病院に搬送されたが、1カ月以上たった12月20日、帰らぬ人となった。

 捜査関係者によると、小牧さんを殴ったのは傷害致死容疑で逮捕され、今月13日に起訴さ
れた品川区東大井の会社役員、山根基久夫被告(48)。

そして、傍らにいたのは山根被告の10代の息子だった。
2人は事件後、駅構内を抜け、自宅のある東口方面から逃走。
山根被告は事件がニュースなどで報道されているのを見て、小牧さんが死亡したことも把握し
ていたという。

 当初、捜査は難航したが捜査員の執念が実を結ぶ。
事件から数週間がたち、再度、現場周辺の防犯カメラを細かく解析したところ、事件当時、現
場で目撃された男と似た人物を確認。山根被告が浮上した。

+++++++++++++以上、MSN・NEWS+++++++++++++++

●若い人たちの反応

 事件の異常性もさることながら、若い人たちの、この事件に対する反応に、私は驚いた。
2チャンネルをのぞいてみると、つぎのような意見が、ズラリと並んでいた。

全体の2分の1から、3分の1以上が、殴られて殺された小牧伸一さんを非難したり、反対に、
殴った山根被告を擁護するもの。
(殴った男性を非難しているのではなく、殴られた男性を非難している!)

●2チャンネルより

 2チャンネルへの書き込みを、そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?


★勇ましいなおい


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか


★メリークリスマス 
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな 
正論だから腹が立ちともいうよな 
忘れられないクリスマスだな 
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして 
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。


★赤信号を守るのは正しいことだが 
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。 
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない 
この爺はよく今まで生きてたわ


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ


★んなわけねえよ。 
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。 
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら 
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた 
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…


★団塊ってかバブル世代だったな 
まあどっちにしても敵だけど


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw 
卑屈すぎるわ


★子供連れてるのに人に注意されるようなことをした父親の自業自得だろ 
子供の前で尊厳大事にしたかったら人に注意されるような行動をしなければいい


★いちいち注意した老害もゴミ 
殴り殺したDQNパパもゴミ 
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。 
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ


★ジジイも信号無視したことあんだろ? 
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号
待ちをするのは愚鈍。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に 
歩道を漕いでたら片足引きずってるジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになっ
たな 
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに 
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて 
ただのあほ、そんだけのことだろ 
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし 
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず 
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。 
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。


★爺も自業自得だよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね 
本人は分かっててあえてやってるんですから 
バカと言われたと同じです 
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ


(以下、延々と、つづく……)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●意識

 最近の若い人たちの意識が、私たちの意識とズレていることは、私自身も強く感じていた。
が、ここまでズレているとは、思ってもいなかった。

 若い人たちは、「77歳」という数字だけを見て、「ジジイ」と位置づけている。
その上で、事件の内容を吟味することなく、短絡的に、老人批判を展開している。
「2チャンネル」という、無責任な掲示板での意見だから、本気にとらえる必要はないのかもし
れない。
が、それ故に、かえって、現代の若い人たちの「本音」が、そこにあるとみてよい。

(もし注意したのが、30代、40代の男性だったら、どうだったのか?)

●段階の世代は「敵」

 この書き込みの中で、つぎの2つが、気になった。
「団塊」という言葉が、強く私の関心をひいた。

『団塊ってかバブル世代だったな。まあどっちにしても敵だけど』
『団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ』と。

 「v速」とは、何か。
それはさておき、ここで見られる若い人たちの意識は、180度、私たち団塊の世代のもってい
る意識とちがう。

 私たち団塊の世代には、それを意識しながら生きてきたわけではないが、「この日本の繁栄
を築きあげたのは私たち」という自負心がある。
同時に、ぜいたく三昧に明け暮れる若い人たちを見かけると、ときどき、「だれのおかげで、そ
んなぜいたくができるのか、わかっているのか?」と言いたくなるときがある。

 が、若い人たちの意識は、私たちの意識とは、ちがう。
私たち団塊の世代をさして、「敵」と。
こうした意識をもっているのは、若い人たちの中でも一部と、私は信じたいが、どうやら一部で
はなさそうだ。
すでにこうした傾向、つまり「世代間闘争」は、あの尾崎豊が、『♪卒業』を歌ったときから、始
まっていた。

●親バカからジジバカへ

 総じてみると、団塊の世代には、親バカが多い。
「子どものため……」と、自分の人生を犠牲にした人は多い。

「子どもだけには、腹一杯、メシを食べさせてやりたい」
「ひもじい思いだけは、させたくない」
「学歴だけは、しっかりと身につけさせてやりたい」と。

 が、そんな思いや苦労など、今の若い人たちにしてみれば、どこ吹く風。
気がついてみたら、老後の資金を使い果たしていた……。
それが団塊の世代。

 が、親バカなら、まだ救われる。
が、それが日本全体に及んだとき、今度は、ジジバカとなる。
私たちは「つぎの世代」を考えながら、この日本はどうあるべきかを、思い悩む。
考える。
が、肝心のつぎの世代にしてみれば、ただの(ありがた迷惑)。

 が、私たちの世代には、それがわからない。
「そうではない」という幻想にしがみつきながら、生きている。
が、幻想は、幻想。
それがわからないから、ジジバカ。
私たち団塊の世代は、今、とんでもないジジバカを繰り返している(?)。

 それを如実に表現しているのが、つぎの言葉。
少なくとも私がもっている「常識」とは、180度、ちがう。
180度、ひっくり返っている。

『……ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な
気分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ』と。

 その若者は、こう言っている。

 「カチンと来るような注意のされかたをしたら、イヤミや余計な一言を返し、相手も不愉快な気
分にさせるのは、当然。
それが常識のある、社会人としての行動」と。

●ゴミ

 60代、70代の人たちよ、覚悟しようではないか。
現在の若い人たちには、私たち老人に対する畏敬の念など、微塵(みじん)もない。
そういう若い人たちに、私たちの未来を託しても、意味がない。
期待しても、意味がない。

 ……というのは書き過ぎ。
またそうであってはいけない。
それはよくわかっているが、それが私たちの未来を包む現実。
この先、この傾向は、ますます強くなる。
こんな記述も見られる。

『ゴミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw』と。

 現に今、あくまでも風聞でしかないが、医療機関でも、「75歳以上は手術はしない」という考
え方が定着しているという。
現実にそんな規定があるわけではない。
その年齢以上になると、「年齢(とし)ですから……」と、治療を拒否されるケースも多い。
事実、私の兄は、担当のドクターに、こう言われた。
「私は治る見込みのある患者は、治療しますが……」と。

 つまり治る見込みのない患者(=兄)は、治療しない、と。

●同情

 ただ若い人たちが、忘れていることが、ひとつ、ある。

 現在、「若い人たち」と呼ばれている人にしても、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
自分たちだけは、ジジ・ババにならないと信じているかもしれない。
が、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
そしてそのとき、そのジジ・ババを取り巻く環境は、今よりも過酷なものとなる。
2050年……つまり38年後には、約3人に1人が、そのジジ・ババになる。
(=1・2人の実労働者が、1人の老人を支える時代になる。)

 現在25歳であれば、25+38=63歳!
若い人たちよ、それがあなたの未来だぞ!

 そのとき、今、天に向かって吐いた唾(つば)が、自分の顔に落ちてくる。
が、私はけっして、現在の若い人たちのように、「ザマーミロ!」とは言わない。
「かわいそうに」と同情する。

●小牧伸一さん

 小牧伸一さん、あなたの死は、けっして無駄にしない。
こういう事例では、注意するほうも、不愉快。
できれば、事なかれ主義でもって、無視したい。
しかしそれがあまりにも目に余った。

「信号を守れ」というのは、相手のことを思って発した言葉。
自分のためではない。
信号を無視すれば、その相手が事故に遭う。
小牧伸一さんは、それを心配した。
だから相手を注意した。

 が、心配してもらったほうは、逆ギレ。
あなたを逆に殴った。
こんなバカなことが「常識」というのなら、そちらの常識のほうが狂っている。

 殴った男は、本物のバカ。
どうしようもない、つまり救いようがない、バカ。
徹底して法の裁きを受ければよい。

 が、残念ながら、今、こういうバカが、ふえている。
言うなれば、これはまさに、善と悪の闘い。
善が勝つか、悪が勝つか……。

●もうすぐ浜松

 先ほどJR掛川駅を出た。
あと10分足らずで、浜松に着く。

 ……今回の講演旅行は、これでおしまい。
来週は、M町での講演会がある。

 なお今回は、沼津のご用邸を見学することはできなかった。
来月、沼津で講演する機会があるので、またそのとき見学してみたい。

 では、また。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 金谷 韮山 はやし浩司の講演
会 講演旅行 はまゆう会館 沼津ご用邸)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【ジジ・ババ・ゴミ論】

+++++++++++++++++++++

昨日、こんな原稿を書いた。
その前に、こんな事件があった。

『……赤信号を無視して歩いている男性を、別の男性が注意した。
それに注意された男性が、逆ギレ。
注意した男性を殴り、殺してしまった』(2011年12月)。

注意した男性が「77歳」だったことが、大きな波紋をもたらした。
若い人たちが投稿を寄せる「2チャンネル」には、無数の意見が寄せられた。
驚いたことは、(殴った男性)を非難する意見ではなく、むしろ(注意した男性)を非難する意見
が、ほぼ半数を占めていたこと。

もう一度、2チャンネルに載っている意見を、ここに掲載する。
「匿名の意見だから、重要視する必要はない」と考えるかもしれないが、それ故に、ここに述べ
られている意見は、現在の若い人たちの「本音」と考えてよい。

+++++++++++++++++++++

●若い人たちの本音(「2チャンネル」より転載)

★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?


★勇ましいなおい


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか


★メリークリスマス 
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな 
正論だから腹が立ちともいうよな 
忘れられないクリスマスだな 
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして 
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。


★赤信号を守るのは正しいことだが 
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。 
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない 
この爺はよく今まで生きてたわ


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ


★んなわけねえよ。 
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。 
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら 
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた 
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…


★団塊ってかバブル世代だったな 
まあどっちにしても敵だけど


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw 
卑屈すぎるわ


★いちいち注意した老害もゴミ 
殴り殺したDQNパパもゴミ 
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。 
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ


★ジジイも信号無視したことあんだろ? 
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号
待ちをするのは愚鈍。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に 
歩道を漕いでたら片足引きずってるジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになっ
たな 
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに 
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて 
ただのあほ、そんだけのことだろ 
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし 
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず 
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。 
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。


★爺も自業自得だよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね 
本人は分かっててあえてやってるんですから 
バカと言われたと同じです 
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ


(以下、延々と、つづく……)

●信頼関係の欠落

 なぜ、こうまで老人たちが嫌われ始めているか。

 一言で結論を言えば、「信頼関係の欠落」。
若い世代と、古い世代の間には、大きな溝(みぞ)がある。
そしてその2つの世代が、対立関係にあり、それをつなぐ信頼関係がない。
この信頼関係の欠落が、若い世代の憎悪感を、増幅させている。
「ジジ・ババ・ゴミ論」も、そういうところから生まれている。

●若者の視点

 私は職業上、いつも若い人たちの世界で仕事をしている。
下は幼稚園の年中児から、上は高校3年生まで。
1日のサイクルの中で、幅広い子どもたちと接している。

 それもあって、温泉の鏡を見て、自分が老人であることを知ることはあるが、それ以外の場
所で、自分が老人であると思うことは、めったにない。
家庭でも、鏡を見ることはめったにない。

 「若い人間」とまでは思わないが、そんなわけで、自分を老人と思ったことは、まだ、ない。
「そろそろ老人の仲間」という意味で、「老人組」という言葉を使うことはある。

●100万円

 そんな私だから、若い人たちの気持ちも、わからないわけではない。
たとえば月末に郵便局へ行く。
そこで見る光景は、まさに異様な光景。

 足腰の曲がったようなような老人たちが、100万円近い札束を、わしづかみにして帰ってい
く。
私が住むこのあたりは、旧国鉄村と呼ばれるほど、旧国鉄のOBたちが、たくさん住んでいる。
もちろんそのほかの公務員たちも多い。
そういう人たちが、3か月ごとに年金を手にする。
そあいうのを見ていると、この私ですら、「これでいいのか?」と疑問に思ってしまう。
それには理由がある。

●悠々自適の年金生活

 旧国鉄の人たちや公務員が、現役時代、どんな仕事をしていたか……?
それについては、すでに何度も書いてきた。
が、問題は、退職後。

 たとえば私の近所には、多くの空地があった。
(最近は少なくなってきたが……。)
その空地。
ゴミ拾いなどの清掃をするのは、この私しかいなかった。
その私が、ここで、こう、はっきりと断言できる。
ここに住むようになって、35年になるが、いまだかってそういうOBたちが、ゴミ拾いも含め、近
所のために奉仕活動をしているのを、一度も、見たことがない。
「一度も」だ。

 みな、まさに悠々自適の年金生活。
趣味三昧。
そういう人たちの口癖は、いつも同じ。

「私ら、国に収めてきたお金を、返してもらっているだけです」。

●人間選別機関

 その一方で、若い人たちを包む社会は、ますます息苦しくなってきている。
何をするにも、資格、認可、許可、免許、登録。
この私自身が、そう感じているのだから、どうしようもない。

 しかも給料は少なく、仕事は不安定。
そういう若い人たちから見ると、「老人たちだけが、いい生活をしている」となる。
もちろん教育とて、無罪ではない。
現在の若い人たちが、学生のころはといえば、学校はまさに「人間選別機関」。
今の今も、そうだ。

 選別され、上級コースへ入った人は、それでよい。
たとえば医学部を出ると、平均して4〜5年で、年収は2000万円を超える。
が、選別され、下級コースへ入った人は、……もう、ここに改めて書くまでもない。
また全体としてみると、そういう人たちのほうが、多数。

●不公平社会

 2チャンネルに載った意見を読み、驚いた人も多いかと思う。
私も驚いた。
が、1日たった今日、再度読みなおしてみると、「なるほど」と思わない部分もないわけではな
い。
ズレているのは、ズレている。
しかし何故に、私たち老人組が嫌われているかと言えば、そこには、若い人たちなりの理由が
ある。

 今、まさに、若い人たちは、「不公平社会」という社会のひずみの中で、窒息しそうになってい
る。
その閉塞感には、ものすごいものがある。
それに対する、不平や不満、それに怒りが、私たち老人に向けられている。

●還元する老人

 その一方で、自分の命を、つぎの世代に還元しようとしている老人も、少なくない。
「還元」という言葉は、鵠沼市(神奈川県)に住む恩師が、教えてくれた。
池田英雄先生である。

 池田英雄先生は、いつもこう言っている。
「ある年齢を過ぎたら、自分の命を、若い人たちに返していくのです」と。

 そのために、さまざまなボランティア活動がある。
たとえば私のワイフが通っているテニスクラブのコーチは、旧国鉄の職員である。
いつも無償で、コーチをしている。
そういう老人もいるにはいる。

●意識

 信頼関係があれば、若い人たちも素直な気持ちで、老人の注意を聞くだろう。
「赤信号だよ」「ああ、そうですね」と。

 が、それがないから、その時点で、はげしく反発する。
「うるせえんだよ」(報道)と。

 では、どうするか。
若い人たちに向かって、「あなたがたは、おかしい」と言っても、意味はない。
こうした意識というのは、相対的なもの。
若い人たちは若い人たちで、私たちのことを、おかしいと思っている。
そこで大切なのは、信頼関係の構築……ということになる。

●命の還元

 老人たちよ、街に出て、自分たちの命を還元しよう。
人生の先輩として、見せるべき見本を示してやろう。
存在感を、もっとアピールしよう。

 身近なところでは、ゴミ拾いでもよい。
無私、無欲。
私たち老人組だって、役に立つこともある。
そういうことをもっと積極的に、若い人たちに示していこう。
信頼関係は、そういうところから生まれる。

 ともあれ、この問題は、きわめて深刻な問題と考えてよい。
で、もし、今、あなたが、「私だけよければ、それでいい」と考えているなら、それこそまさに自滅
行為。
自殺行為ではない。
自滅行為。

 あなたを待っている死後は、まさに自己否定の世界。
あなたが生きてきたという事実すらも抹消される、自己否定の世界。

 さりとて、若い人たちの言いなりになるのも、どうか。
順に反論してみたい。

●老人組の反論

★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?

……ルールを破り、注意された。
当然のことではないのかな。
むかつく前に、自分を恥じたらどうかな。
私は、赤だと、車が来なくても、待つよ。
それほどまで急がねばならなようなことは、めったにないし……。


★勇ましいなおい

……私もよく注意するが、注意する方も、それなりの覚悟と勇気が必要だよ。
できれば事なかれで、すましたい。
が、それでも目に余るものがあった。
それで注意した。
「勇ましい」のではないよ。
見るに見かねて、注意した。
注意したくて、注意したのではないと思うよ。


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw

……まじめに生きることがバカなのかな?
だったら、どういう生き方がバカでないのかな?
きちんとした形もないまま、相手をバカと言って切り捨てる。
こういうのを無秩序主義者(アナーキー)というだよ。
どこかの島にでも行って、つまりルールのない世界へ行って、原始生活でもしたらどうかな。


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり

……「77歳」だったから、問題なのかな?
でもね、年齢は関係ないはず。
老人に、問題をなすりつけないでほしい。


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか

……君たちは、まだ「1人」かもしれないが、やがて君たちも「1匹」になる。
虫けらになる。
その覚悟は、できているのかな?


★メリークリスマス 
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな 
正論だから腹が立ちともいうよな 
忘れられないクリスマスだな 
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして 
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし

……それとこれは、問題は別。
正義の人が殴られ、殺された。
どうしてそれが「メリークリスマス」なのかな?
天の神様も、悲しむと思うよ。


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。

……これを書いた君自身が、前頭連合野の発達障害者ではないのかな?


★赤信号を守るのは正しいことだが 
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた

……信号を無視し、交通事故が起きたとする。
それはリスクではないのかな?
この浜松市も、長い間、交通事故ワーストワンだった。
しかし街角に警察官が立つようになって、事故数は、ぐんと減った。
みなが、信号を守るようになったからね。
信号を守るということは、君自身の命を守るということにもなるのだよ。


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。 
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。

……その老人に感謝したらよいと思うよ。
今、君が交通刑務所に入っていないのは、そういう老人がいたおかげだよ。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない 
この爺はよく今まで生きてたわ

……君たちは、すでに死んでいるよ。
心がね。
その老人は、まだ死んでいないよ。
肉体の生死だけで、(あるいは肉体の老若だけで)、人の死を論じてはいけないよ。
私たちが、こうして、今、その老人の死を無駄にしないように、がんばっている。
肉体の死イコール、魂の死ではないよ。


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ

……今までの日本は、私たち団塊の世代が作ってきた。
君たちには、それがわからないかもしれない。
が、これからの日本は、君たち若い人たちが作っていく。
どうか、今より、すばらしい日本を築いてほしい。
楽しみにしているよ。


★んなわけねえよ。 
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。 
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。

……だからこそ、その老人は勇気を奮い立たせ、注意したのではないのかな?


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら 
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた 
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…

……その逆の例をあげたら、山のようにある。
君も一度、勇気を出して、暴走族を注意してみたらどうだろうかな。
暴走族の中には、77歳の老人はいないはず。


★団塊ってかバブル世代だったな 
まあどっちにしても敵だけど

……どうして団塊の世代が、敵なのかな?
この言葉には、少なからず、私はショックを受けたよ。
私は、その団塊の世代、第1号、昭和22年(1947年)生まれだよ。


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw

……どちらが、ゴミなのかな?
つまり私たちと、君たちと、どちらがゴミなのかな?


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw 
卑屈すぎるわ

……そんなことないよ。
君たちの未来を憂い、私のように、がんばっている老人組も、結構、多いよ。
私も、巨悪に向かって、毎日のように、吠えつづけているよ。


★いちいち注意した老害もゴミ 
殴り殺したDQNパパもゴミ 
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ

……「DNQ」の意味がわからない。
だったら、君自身は、そのゴミにならないよう、努力してほしい。


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視

……ジジイとか、ジジイでないとか、そういう尺度で、ものを論じないようにしてほしい。
同じ人間だろ。
同じ日本人だろ。
みんなで、この日本をよくしていこうよ。


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。 
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ

……恥をかかせられたら、何をしてもいいのかな?
恥の大切さを説く、「藤原H氏」(国家のH格・著者)が聞いたら、涙を流して喜ぶと思うよ。


★ジジイも信号無視したことあんだろ? 
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな

……自分にきびしいから、注意したんだよ。
私はそう解釈しているよ。
損得を考えたら、黙っているよ。


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。
車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号待ちをするのは愚鈍。

……「世の中を少しでもよくしたい」と、私はしつこく生きているよ。
これからもしつこく、生きていくよ。
77歳までは無理かもしれないけれど、70歳くらいまでなら、がんばれると思う。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に歩道を漕いでたら片足引きずって
るジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになったな 
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた

……ジジイがおかしいのではないよ。
その警官が、おかしいのだよ。
攻撃する矛先が、ちがうよ。


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな

……「自業自得」?
「業」の意味を、もう一度、近くのジジイに聞いてみたらどうかな?
その意味は、君たちが想像するよりも、はるかに深いと思うよ。
私も55歳をすぎて、はじめて、その意味がおぼろげながらに、わかるようになったよ。


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに 
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて 
ただのあほ、そんだけのことだろ 
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし 
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ

……君のように賢い人間ばかりになったら、この世界は、本当に住みやすくなるよね。
君は、すばらしい人生を送っているにちがいない。
私もいつか、ものすごく賢い人間になって、世の中の人たちをみな、「アホ」と呼んでみたい。


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず 
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。 
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。

……フランス人の先生?
そういう先生が教壇に立っていると思うだけで、ぞっとする。
あのね、フランスではね、図書館でも、たった5〜10分、パソコンを置き忘れただけで、だれか
に持っていかれるそうだよ。
君の論理に従えば、置き忘れた人のほうがバカで、盗んでいった人のほうが利口ということに
なるのかな?

★爺も自業自得だよ。

……その「爺」は、まだ死んでないよ。
君たちのほうが、死んでいるよ。
その「爺」は、「魂」を残したよ。
だから死んでいないよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね 
本人は分かっててあえてやってるんですから 
バカと言われたと同じです 
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね

……「信号を無視する人を注意した」。
それがどうして、バカなのかな。
「殺してくれ」と、どうして同じなのかな。


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ

……どうしてそういう常識が、常識になるのかな。
アインシュタインは、こう言っているよ。
『常識などというのは、その人が18歳にまでもった、偏見のかたまりである』と。
そういう常識しかもてなかった、君に同情するよ。
でもね、大切なことは、自分の常識を常に疑い、同時に、自分の常識を常に磨くこと。
死ぬまで、それがつづくよ。
釈迦は、それを『精進』という言葉を使って説明したよ。
究極の健康法というのがないのと同じように、究極の精神鍛錬法というのはない。
毎日、精進。
精進、あるのみ。
1日でもさぼったら、そのときから下り坂。
肉体の健康と同じだよ。
1日でもさぼったら、そのときから下り坂。
ちがうかな?


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●教育の緊迫感(はやし浩司 2012−01−17)

++++++++++++++++++++++++++++++

あのね、空の飛び方は、崖から突き落とされてから覚えるもの。
その緊迫感が、人を伸ばす。
教育の世界も、またしかり。
この緊迫感がないかぎり、日本の教育は、よくならない!

++++++++++++++++++++++++++++++

●今日も、はじまった

 世の中、暗い話ばかり。
いかん!
明るい話が、ほとんどない。
いかん!
これではいかん!

がんばろう。
がんばるしかない。

 が、カラ元気も、ここまで。
どうしても暗くなってしまう。
元気が、しぼんでしまう。

 今朝のニュースに目を通す。
まず国際経済。
ギリシア問題。
民間債権者(銀行)に、75%の債務削減を迫る政府。
75%!
「借金を、75%、棒引きにしてくれ」と。

民間債権者が、そんな削減案に応ずるはずがない。
ギリシア国内の銀行はともかくも、フランス、さらには日本やアメリカの銀行が応ずるはずがな
い。

だからロイターは、「ギリシアのデフォルトは、不可避」と。
今日、そんな見出しをかかげた。

 ……つまり、こうしてヨーロッパの国々は、ふつうの国々になっていく。
夢のように美しい国々だが、それはそれ。
しかし、あなたはヨーロッパの人たちが、汗水流し、働いている姿を見たことがあるか。
美しい事務所や、街中の商店街ではなく、油がこぼれ散る工場で、だ。
残念ながら、私は、ない。
ないから、こうなる。

 現在、富の再分配が、世界規模で起こりつつある。
産業革命以前の状態に戻りつつあると説く学者もいる。
それまでは、中国とインドが世界の覇者だった。
その時代に戻る、と。

 ただし資源のある国は、別。
鉱物資源。
原油。
それに人的資源。

 日本が生き残るとしたら、「人的資源」しかない。
つまり「教育」。
が、教育は、その成果が出るのは、20年後。
30年後。

 が、現在、世界中が、日本の教育以上のことをしている。
こんな状況で、この先、この日本は、どうやってこの国際社会を生き抜いていくというのか。
考えれば考えるほど、気が重くなる。

 ……私はあの、「ゆとり学習」や「総合的な学習」で、教育に自由な気風が生まれると信じて
いた。
が、結果は、みなさんご存知のとおり。
その逆。
多くの教師は、「何をしていいかわからない」と、しりごみしてしまった。
引っ込んでしまった。
その結果、教育の内容が、かえって沈滞し、後退してしまった。

 そこでたとえば近くのK市では、小学校の教員を幼稚園で、研修させた。
いろいろな試みは、なされた。
が、どれだけ効果があったのか。
私は知らない。

 日本よ、日本人よ、もっと新しいことをしよう。
新しいことにチャレンジ、していこう。
そういうバイタリティが、子どもを動かす。
子どもの世界に、活力を与える。

 その一例として、どうか、私の「公開教室」を見てほしい。
子どもたちがもつ、本来のエネルギー、つまり爆発するようなエネルギーを感じてほしい。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
から「BW公開教室」→「2012年」へ。

世界の人がまねできないような教育をする。
日本が生き残るには、それしかない。

 キバを抜かれた「豆腐型人間」ばかり育てて、どうする?
どうなる?

 なお、ギリシアのつぎは、この日本だぞ!
わかっているか!

●意識を失う

 「九死に一生」という。
まさに、それを経験した。

 数日前、夜中にトイレに起きた。
そのときのこと。
用をすまし、つづくガラス戸をしめたとたん、おかしな気分に襲われた。
生まれてはじめて覚えた、気分だった。

 軽い不快感。
瞬間「こんな不快感を覚えるくらいなら、死んだほうがいい」と。
脳の中に、乾いた砂がザラザラと落ちてくるような不快感だった。

 が、そのあとのことは覚えていない。
まったく覚えていない。

 気がついたときには、ガラス戸を背中に、(……というか枕のようにして)、横たわっていた。
つぎの瞬間、ポタポタと血が落ちてくるのが、自分でもわかった。
手を伸ばすと、そこに冷たいガラスの破片があることがわかった。

 私は1枚ずつ、割れたガラスを顔のまわりからはずした。
どれも長さが30〜50センチもあった。
痛みはまったく感じなかった。
血だけが、ポタポタと落ちていた。

●「気を失ったみたい……」

 「どうしてこんなところで寝ているのだろう」と、思った。
思ったが、ともかくも、私は廊下で寝ていた。
が、気を取り直すと、ワイフを呼んだ。
「A子、A子……」と。

 ワイフがやってきて、電気をつけた。

ワ「どうしたの……?」
私「気を失ったみたい……」と。

 ワイフは残ったガラスを、枠(わく)からはずした。
それを見届け、私はゆっくりと頭を離した。
私はその場で倒れ、ガラス戸に頭を叩きつけたらしい。

 幸い切ったのは、両耳だけ。
あとはガラスの破片をはずすとき、両手を少し切った。
それだけ。
こういう事故で死ぬ人は多いという。

●血圧

 床に横になると、すぐ血圧を計った。
上が128、下が76だった。
私の平常値は、上が110、下が70前後。
そのときですら、私には異常値だった。
つまり倒れたときは、もっと高かったはず。

 暖かい布団から出て、冷え切ったトイレに行ったのがまずかった。
しかしそんなことで失神したのは、生まれてはじめて。
話には聞いていた。
が、生まれてはじめて。
知人などは、今年にはいってからだけでも、数回、同じような経験をしているという。

●死の模擬体験

 臨死体験ではない。
模擬体験。
その模擬体験をした。

 その結果、私はつぎのことを知った。

(1)死ぬ瞬間は、何もこわくないということ。
(2)意識がなくなったあとは、何も覚えていないということ。
(3)意識を失う前と、回復したあとは、連続的につながっているということ。
途中だけが、ビデオをカットしたように、抜け落ちる。
(4)あの世らしきものは、まったく見えなかったということ。

 どうであれ、60歳を過ぎると、とたんにこういう経験が、多くなる。
それまで経験したことのないような「経験」を経験する。
失神もそのひとつ。

 ふだんは血圧の低い私でも、その範囲で高血圧状態になる。
その瞬間には、血圧が140〜50近くにまで、はねあがっていたのかもしれない。
低血圧症でも、時と場合によっては、高血圧症の人と同じような病気になることもあるらしい。
……ということ。
油断は禁物。
それがそのとき、よくわかった。

(補記)

 映画などでは、よく失神シーンが出てくる。
だれかに殴られ、そのまま失神してしまう、とか。
あれと同じに考えてよいのかどうかは、知らない。
印象としては、似たようなものではないかと思う。

 ただここで言えることは、こういうこと。
私たちは死ぬことを、健康な間は、恐れる。
しかし死ぬ瞬間というのは、恐ろしく穏やかであるということ。
脳の構造そのものが、そうなっているからではないか。
つまり脳が、恐怖心を自ら遮断してくれる。
長い進化の過程で、そういうメカニズムができたらしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 脳のメカニズム 失神
体験 死の模擬体験 はやし浩司 臨死体験)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【年中児に「位置」を教えてみました】(一部、実験的に「平均の概念」を教えてみました)

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/0-KuMPytdeo" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/0YZfINAXGg0" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/PfZ6lHS9yhw" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/JY6Q-ViqExo" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【がんこな子ども(人)】

●融通の利かない子ども

 もう30年も前になる。
ある女児(年長児)と、こんな会話をしたことがある。

私「今日は、いい天気だね」
女「今日は、いい天気じゃ、ない」
私「でも、気持ちいいよ」
女「あそこに雲があるから、いい天気じゃ、ない」
私「雲があっても、いい天気だよ」
女「雲があるから、いい天気じゃ、ない」
私「あのね、少しくらい雲があっても、いい天気だよ」
女「いい天気じゃ、ない!」

私「ぼくは、いい天気だと思う。青い空も見えるし、気持ちいい……」
女「私は本当のことを言っているだけ」
私「そういうのは、本当のこととは言わないよ」
女「雲があるから、雲があると言っているだけでしょ」
私「それはわかるけど、先生が、いい天気だねと言ったら、どうして君は、『そうだね』と言ってく
れないのかな」
女「だって、あそこに雲があるでしょ!」と。

 こういう会話がつづくと、率直に言って、イライラしてくる。
脳にある種の障害をもった子どもの、独特の言い回しである。
心に余裕がなく、融通が利かない。
たとえば母親が、携帯電話で、子ども(小3女児)にこう言ったとする。

●ずぶ濡れになっていた子ども

 「今日、迎えに行くのが少し遅くなるから、校門の前で待っていてね」と。

 で、母親が子どもを迎えに行くと、子どもは校門の前で立っていた。
その間に小雨だが、雨が降り始めた。
子どもは雨で、ずぶ濡れになっていた。

母「どうして、中で待っていなかったの?」
子「だって、お母さん、校門のところで待っていてって言ったじゃない」
母「そうかもしれないけど、雨が降ってきたのよ」
子「お母さんが、校門のところで待っていてって言ったのよ」
母「でもね、雨が降ってきたのだから、中で待っていないと、風邪だってひくかもしれないのよ」
子「だったら、携帯で、そう言ってくれればいい」と。

●説得は無駄

 このタイプの子どもに、説得をしたり、説教しても、無駄。
かえって反発する。
「私は正しい」と。
さらに強く、殻(から)の中に、閉じこもってしまう。

 先の会話でも、私が「いい天気だね」と言ったら、「そうね」と言えば、それで終わる。
あとの会話でも、母親が、「どうして?」と聞いた段階で、「そうだったわ」と言えば、それで終わ
る。
が、このタイプの子どもは、それで終わらない。
反発したことをとがめると、とたんに周囲を厚い殻(から)で覆ってしまう。
批判されたとたん、その批判に反発する。

 こんな例もある。
実際にあったわけではないが、ひとつの典型的な例として、あげる。

●お茶をこぼす

 ある女の子(小6)が、不注意で、先生(女性)の机の上にあった茶碗を落とした。
そのとき先生が、「あっ!」と声をあげた。
すかさず、その女の子は、先生に向かって、こう言い返した。

「先生が、こんなところにお茶を置いておくから悪いのよ!」と。

先「でもね、お茶をこぼしたのは、あなたのだから、ごめんと言えば、それですむじゃない」
女「私、わざとやったんじゃ、ない」
先「それはわかっているけど、不注意だったのよ」
女「でも、こんなところにお茶を置いておいた、先生が悪い」
先「でも、こぼしたのは、あなたよ」
女「私は、悪くない。悪くないのに、どうして謝らなければならないの」
先「悪くなくても、あなたの行為で、お茶がこぼれたでしょ」
女「悪くないのに、謝れという先生のほうが、まちがっている!」と。

 こういう子どもに接すると、会話がとげとげしくなる。
ふつうの子どもなら、「ごめん」「これからは気をつけようね」で終わる会話。
それができない。

●血圧計
 
 ……というような話を、先日、ある懇談会の場で話した。
それもあって、ここでは診断名を書くことができない。
が、そのとき、1人の父親が、こう言った。
「私の家内が、そうなんです」と。

 話を聞くと、こう教えてくれた。

 ある朝、その男性が、朝のウォーキングから帰ってきたあと、妻にこう言った。
「引き出しにある、血圧計を出してくれ」と。
するとすかさず妻が、「今、計っても無駄よ」と。

男「血圧を計りたいから、血圧計を出しておいてよ」
妻「血圧を計るのは、起きたとき、すぐよ」
男「いいから、出しておいてよ」
妻「運動をしてから計っても、意味がないのよ」
男「簡単に計ってみるだけだから……」
妻「だから、朝、起きたとき計らなければ、意味がないの。(病院の)先生も、そう言っていた
わ」
男「いいから、出せ!」
女「どうして、そんなことで怒るのよ」
男「引き出しから、出してくれと言っているだけだろ」
女「(病院の)先生に、聞いてきたら!」と。

 このばあいも、妻が、「出しておくわ」ですむ話。
が、このタイプの人(子ども)には、それができない。
あるいは血圧計を出したあと、病院の先生の話をすればよい。

 その男性はこう言った。
「うちの家内も、がんこで困っています」と。

●他者との良好な人間関係

 何かの理由があり、その理由に基づいてがんばるのは、これはよい。
が、理由もなく、また理由が乏しいまま、自分の殻(から)にこもるのは、子どもに限らず、好ま
しいことではない。
それだけ、脳の働きが硬直化していることを示す。
他者との良好な人間関係が結べなくなったとき、「〜〜障害」という診断名がくだされる。

 が、問題は、子どもでもおとなでも、その自覚がないこと。
先にも書いたように、「私は正しい」という前提でものを考え、その枠(わく)から一歩も外に出ら
れない。
が、日常生活において、さまざまな問題行動を起こす。

(1)良好な人間関係が結べない……限られた人とは、それなりにうまく交際できる。しかしその
範囲を越えると、表面的なつきあいしかできない。
(2)他者に対する許容範囲が、極端に狭くなる。ばあいによっては、小さな世界に引きこもって
しまう。
(3)注意されたり、批判されたりすると、パニック状態になる。あるいは反対に、殻(から)にこ
もってしまう。
(4)説得や説教が、通じない。説得したり説教したりすると、同じくパニック状態になる。

 たとえばこのタイプの子どもは、私が答案用紙に「X」をつけただけで、パニック状態になる。
混乱し、激怒する。
中には、そのまま答案用紙を破ってしまう子どももいる。

●では、どうするか?

 私の知っている例では、50歳を過ぎても、「同じ」というのがある。
「治す」とか「直る」ということは、ほとんどない。
本人が自覚していても、反応のほうが、先に出てくる。
脳の奥深い部分にそれがあるため、本人も、それをコントロールすることができない。
何かあると、条件反射的に、すかさず、反応する。

「こんなところにお茶を置いておくから、(あなたが)悪いのよ!」と。
だからある男性(夫)は、こう言った。

「うちの家内と接していると、こわくて毎日、ハラハラしています」と。

 つまりその男性は、そういう状況になると、自分のほうが先に怒りで爆発してしまうという。
それが「こわい」と。

 で、私がその男性に、「奥さんは、自分の障害に気づいていないのですか」と聞くと、こう言っ
た。
「まったく、気づいていませんね。自分は正常と言い張ります」。
「反対に、『すぐ、怒り出す、あなたのほうがおかしい』と言い返されます」と。

 結論を先に言えば、「受け入れ、あきらめるしかない」ということになる。
子どものばあいも、配偶者のばあいも。

こと「〜〜障害」ということになれば、多かれ少なかれ、みな何らかの障害をかかえている。
障害をかかえていない人は、いない。
最近の精神医学は、「正常」の定義すら、しなくなった。
言い換えると、この世の中には、正常な人というのは、いない。

 もちろん程度の差はある。
ここにあげた「がんこな子ども(人)」にしても、そうだ。
程度の差はあるが、みな、何らかの障害をかかえている。
そういう前提で、こうした問題は考えるしかない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 障害 自閉傾向 自閉症 アスペ
ルガー がんこな子ども がんこな子供 頑固な子供 はやし浩司 殻 閉じこもる)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【愉快な子どもたち】(小学1年生)Happy and Active Children (Age 6&7)

●テーマ(平均値)

(1)
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(2)
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(3)
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Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【ものを書くということは、どういうことか】(実験・原稿)

+++++++++++++++++++++

ものを書くということは、どういうことか。
それを実験的に、説明してみたい。

たとえば、こうしてパソコンに向かう。
そのとき、あらかじめ書きたいと思うテーマがあることもあれば、
そうでないときもある。
たいていは、何か書きたいことがあって、書き始める。
が、そうでないときもある。

が、書き始めると、白紙だった頭に、いろいろなことが思い浮かんでくる。
書きながら、思い出す。
思い出しながら、考える。

たとえば私は、あなたにこう問いかけたとする。
「あのことを思い出してください」と。

するとあなたはこう言い返すだろう。
「あのことって、何?」と。

そこで私は、ハバ(幅)をせばめる。
「ほら、学生時代のあのことですよ」と。
が、それでもあなたは、わからない。
「何のこと?」と。

さらに私は、「修学旅行のことですよ」、
「泊まった旅館のことですよ」、
「そこで食べた料理のことですよ」と。

ここまでくると、あなたは、(あのこと)を思い出すかもしれない。
頭の中に、いろいろと浮かんでくる。
つまりものを書くということは、自ら、そのハバをせばめていく。
同時に、いろいろな思いを引き出す。
ものを書くということには、第一に、そういう意味がある。

そこで実験をしてみよう。
私はこれから、私自身の子ども時代について書いてみる。
「書いてみる」というだけで、実は、今はまだ、頭の中は空っぽ。
白紙状態。
そこで自分で、そのハバをせばめてみる。
「楽しかったことを書こう」と。

+++++++++++++++++++++++

●午後1時05分

 たった今、時刻は、午後1時05分。
時刻を書くのには、別の理由がある。
こうして原稿を書き始めて、ちょうど5分。
3時には、街まで行かねばならない。
つまり2時間。
その2時間で、どこまで書けるか。
同時に、それを試してみたい。

●記憶

 「楽しかったこと」と聞かれても、どれという思う出が浮かんでこない。
すぐには、思い浮かんでこない。
そこで脳の中を、あちこち探してみる。
ちょうど薄いカーテンを両側に広げるようにして、探してみる。
ぼんやりとしている。

が、やがて、第一に浮かぶのは、放課後。
帰宅の様子。

 ……私には学校から自宅に、まっすぐ帰ったという記憶がない。
当時の子どもたちはみな、そうであった。
「道草」「寄り道」ということになるが、学校の先生も、うるさく言わなかった。
「まっすぐ帰るように」というような指導はあったと思う。
が、それを守る子どもはいなかった。

●美濃市

 私は岐阜県の美濃市という、小さな田舎町に生まれ育った。
「町」という名前はついていたが、人口は2万8000人ほどだったと記憶している。
「市」に昇格するには、3万人の人口が必要だった。
その3万人になる少し前、「やがて3万人になるだろう」という見込みだけで、「市」になってしま
った。……と聞いていた。
が、人口の増加は、そこでストップ。
子どものころも、また高校生になったころも、人口は2万8000人だった。

 町の中心部の北側に、「小倉山(おぐらやま)」と呼ばれる、山があった。
それほど高くはないが、町全体を見下ろすには、じゅうぶんなほど、高かった。
その小倉山の頂上に展望台ができたのは、私が小学3〜4年生のころのことではなかった
か。
鉄骨むき出しの展望台で、中にらせん階段があった。

●小倉山

 その展望台に行くルートは、2つあった。
ひとつは、南側の散歩道から登っていくルート。
もうひとつは、中腹から裏山に回り、そこから裏道を登っていくルート。
どちらであるにせよ、私たちには、格好の遊び場だった。

 書き忘れたが、私たちが通っていた小学校は、その小倉山の東隣にあった。
といっても、あの町では、東西南北の位置関係は、正確ではない。
四方を山に囲まれていた。

日の出も、また夕日も、それが見える前に、朝になり、また夜になった。
だから今、こうして「北」とか「東」とか書いても、あまり意味がない。
私は子どものころ、どちらが北で、どちらが南なのかさえ、よく知らなかった。
実家は、古い家々に囲まれた、商店街の一角にあった。

●さまざまな光景

 こうして書きながら、私は、当時の私を思い出す。
書き始めたときには、白紙だった頭の中に、さまざまな光景が思い浮かんでくる。
同時に、そのころ、私がどう考え、どう思ったかを思い出す。
それを文章にする。
これが「書く」ということである。

 ……ということで、話を先に進める。

●(遊び)

 その小倉山には、「アベック」が、よく登ってきた。
アベックというのは、あやしげな雰囲気を漂わせた男女をいう。
子どもながらに、アベックが山の中で、何をするか、よくわかっていた。

 が、アベックは、たいてい南側からの散歩道を使い、展望台へやってくる。
私たちはそれを見つけると、下のほうから追いかけ、裏道を通り、先回りをする。
アベックがやってくるのを待つ。
つまりそれが私たちの(遊び)だった。

 アベックは、決まって石の上に並んで座ったりした。
抱き合い、顔を重ね、男の方は、せわしく手を動かしたりした。
女のほうは胸をはだかれ、体をのけぞらせたりした。
が、それからが私たちの出番。

「ホ〜オ〜、ホ〜オ〜」と、独特の節回しで、いっせいに、それを冷やかす。
「ホ〜オ〜、ホ〜オ〜」と。

 アベックは、たいていはそのままその場を立ち去ったが、中には石を投げてくるアベックもい
た。
が、私たちは巧みに石をかわし、アベックを追いかけた。
アベックが、山を下りるまで、追いかけた。

●小倉公園

 小倉公園には、昔、城があったという。
下から登っていくと、大きく2段に分かれている。
下の段は、菓子屋と、それにつづく動物園になっていた。
遊具もいくつか並べてあった。

 その上にもう1段、広場があった。
私が高校生くらいのとき、そこに野外ステージが造られた。
記憶は正確ではない。

 で、最近は整備され、公的な公園らしくなった。
が、私たちが子どものころは、下の段の広場にも、上の段の広場にも、雑草が生い茂ってい
た。
そう言えば、上の段の広場の端にも、動物園があったように記憶している。
鳥獣園もあった。

●アベック

 で、私たちは先回りをし、山を下りる。
そこでアベックが下りてくる。
私たちがアベックの顔を確かめるのは、そのとき。
何食わぬ顔をし、すれ違いざま、顔を確かめる。
「お前たちの秘密を知っているぞ!」と。

●「ホ〜オ〜、ホ〜オ〜」

 が、ことは因果なもの。
私が大学生だったときのこと。
知りあった女性(女の子)と、その小倉山に登ったことがある。
目的は、……ここに書くまでもない。

 が、石の上にハンカチを置き、さあ、これから……というとき、子どもたちの声が聞こえてき
た。

「ホ〜オ〜、ホ〜オ〜」と。

 私はそのとき、怒るよりも先に、笑ってしまった。

●女たらし

 話を、戻す。

私が子どものころは、異性と遊ぶことは「悪」と考えられていた。……考えていた。
女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」とバカにされた。
「女たらし」という言葉には、特別の意味がこめられていた。
一度「女たらし」のレッテルを張られると、そのまま仲間はずれにされた。

 だから私の思い出のどこを探しても、私には女の子と遊んだという記憶がない。
年上の「お姉さん」とは、よく遊んだが、年上の女性は、「女」ではなかった。

 だから今でも、「女性」が苦手。
女性については、今でも、宇宙人のように感ずることがある。
当時は、男と女が、今よりもはるかに色濃く、区別されていた。
「女は相手にしない」
「女は人間にあらず」と。

●封建時代

 こういうのを男尊女卑思想と言う。
その男尊女卑思想が、当時の私たちにさえ、骨のズイまで浸み込んでいた。
だから今でも、たとえばNHKの大河ドラマを見たりすると、「?」と思うことが多い。
若い妻が、殿に向かって、声を張り上げ、自分の意見を言ったりする。
が、当時の常識からしても、それはありえなかった。
つまり私たちの子ども時代からの常識からしても、ありえなかった。
いわんや、江戸時代という、封建時代において、をや。

 だから当然のことながら、男の遊びと女の遊びというのも、あった。
男の色、女の色というのも、あった。
男が赤い色の持ち物をもっていただけで、やはり「女たらし」と呼ばれた。

●団塊の世代

 今、時刻は、午後1時40分。
先ほどから35分が経過したことになる。
話をつづける。

 年代的には、1950年代ということになる。
私は1947年(昭和22年生まれ)。
小学3年生のときは、1955年前後ということになる。

 が、年齢というのは不思議なもので、年を取れば取るほど、江戸時代のほうが、私に近づい
てくる。

 簡単な計算をしてみる。

 大政奉還により、徳川慶喜は明治天皇に執権を返上する。
江戸幕府は、こうして終焉する。
で、この年が、1867年。
で、現在が、2012年。
引き算をすると、2012−1867=145が、つまり145年。

 20歳の若い人には、145年というと、自分の年齢の7倍も遠い昔のできごとということにな
る。
が、70歳の老人には、145年といっても、自分の年齢のたった2倍。
2倍程度!

 つまり自分の年齢の2倍昔には、江戸時代があった。
7倍から2倍へ。
どんどんと近づいてくる。

 いわんや、私の父母や祖父母の時代には、江戸時代といっても、隣りあわせ。
昔や過去のことではない。
そこに江戸時代という封建時代が、そのまま生きていた。

●子ども

 で、この145年の間に、日本は、あの時代を清算したことがあるかと言えば、それはない。
いまだにあの時代を、そのまま引きずっている。
ここにあげた男尊女卑思想もその一つだが、もうひとつ忘れてならないのは、「子ども」。

 私たちが子どものころには、「女・子ども」と言って、女性と子どもは、「人」のワクの外に置か
れていた。
戦後、女性は、女性の地位を確立したが、子どもは、そのまま。
今でも、その残像は、あちこちに残っている。
そのひとつが、「モノ思想」。

「子どもはモノ」と。

● 子どもはモノ

 「子どもはモノ」と書くと、反発する人は多いかと思う。
しかし人間というよりは、モノ。
そういう視点で子どもを考える人は、少なくない。
先日も、ある投書を読んでいたら、こう書いてあった。

 「我が家にも、やっと跡取りができました」と。

 家や家意識があり、そこに子どもが生まれる。
それを「跡取り」という。
が、これは立派な、モノ意識である。

 さらに言えば、それは今の今でも、親の子育て観の中に生きている。
たとえば自分の子どもを育てるとき、「日本のため」とか、「人類のため」と思い、子育てをして
いる人は、いない。
「私の子ども」というように、そこには、いつも「私の」という所有格がつく。

 だから子どもの受験競争に巻き込まれながら、喜んだり、泣いたりする。
子どもの将来に、個人的な損得論を、結びつけてしまう。
これも立派な、モノ意識である。

●「神から授かった子」

 では、欧米ではどうか?

 その点、アメリカ人は、日本人とはややちがったものの考え方をする。
たとえば子どもにしても、「神から授かった子」という意識が強い。
だから子どもが何かの障害をもって生まれたとしても、日本人ほど、深刻に考えない。
「どんな子どもであれ、神の子」という見方で、子どもを受け入れてしまう。

 が、この日本では、そうはいかない。
今でこそ少なくなったが、……親の意識がこの10年、急激に変化してきた。
が、障害をもった子どもが生まれたりすると、親は、それを隠した。
「恥」ととらえる親も多かった。

 つまりこうした「モノ意識」は、日本の中だけで見ていると、わからない。
外国から見てみると、よくわかる。

●広げる

 ……こうして私はものを書くことによって、自分の世界を、どんどんと広げていく。
これが「ものを書く」意味である。

 が、ものを書かなかったら、どうか。
私はこの原稿の冒頭に書いた状態のまま、何も考えなかったにちがいない。
時刻は、午後2時05分。
ちょうど1時間。
その1時間を、ぼんやりと過ごしていたにちがいない。
が、まだ55分、ある。

●親の一存

 モノ意識について、もう少し書いてみる。

 よくこんな母親がいる。

 たとえばどこかのおけいこ塾へ、子どもが通っていたとする。
そのとき親の一存だけで、塾へ入れたり、塾を退会させる親がいる。
子どもの気持ちや希望、意向は無視。
すべて親の一存だけで、決めてしまう。

 が、これとて立派なモノ意識。
「うちの子のことは、私がいちばんよく知っています」という親ほど、モノ意識が強い。
過信と幻想だけで、すべてを決めてしまう。

 が、子どもが受験期にさしかかると、さらにそれに拍車がかかる。
自分の果たせなかった夢や希望を子どもに託す。
それ自体は悪いことではない。
が、そのとき、自分の心配や不安を埋める道具として、子どもを利用する。
これも、立派なモノ意識。

●脱線

 話が脱線したが、ものを書いていると、こういうことは、よくある。
が、そのとき、脱線を修復するには、2つの方法がある。

ひとつは、話を少しずつ、元の軌道に戻していく。
もうひとつは、あとで編集するとき、原稿を分割し、別々の話として独立される。

 ここでは、元の軌道に戻すことにする。
「2時間で、どこまで原稿が書けるか」という、テーマもある。

●子ども時代

 こうして私の子ども時代は、変化とスリルに富んだものであった。
現在の子どもたちには想像もつかないだろうと書いても、過言ではない。

 小倉山にしても、隅から隅まで、よく知っていた。
またその小倉山を下りてからも、同じ道を通って帰るということは、まずなかった。
道がないときは、どこかの家の石垣を這って、家に帰った。
ときには、どこかの家の中を通り抜けて、家に帰った。

 美濃市という町は、その昔は和紙の集散地として栄えた町。
それぞれの家々が、うなぎの寝床のように、細長かった。
表の玄関から入ると、裏の出口は、別の横丁につながっていた。
江戸時代の昔は、家の間口の広さで、税金が決まっていたという。
だから商人たちは、間口を狭くし、奥へ奥へと家を長くした。

 ……というようなことまで、思い出してくる。

 が、そこは子ども。
そういった家を通り抜けていっても、だれも咎(とが)めなかった。
その家の住人にしても、自分の家の子どもの友だちか何かに思ったのかもしれない。
ともかくも、叱られたという思い出そのものがない。

 寛大だったのか。
それとも、やはり「子ども」は、「数」に入っていなかったのか。

●遊びの連続

 ここで書きとめておかねばならないことがある。
当時は、どこへ行っても、子どもの姿があった。
私たちの世代を称して、「団塊の世代」という。
年齢別の人口比でみても、ぼっこりとその前後の人たちより、多い。

 夏の夕方にもなると、道路のあちこちで、子どもの遊ぶ声が聞こえた。
それこそ町内の班ごとに、グループができ、みながそれぞれに遊んだ。

 まだ当時は、道路は、子どもの遊び場でもあった。
自動車そのものが少なかったし、その自動車にしても、どこか遠慮がちに道路を走っていた。
「楽しかった」という意識は、あまりない。
しかし毎日が、遊びの連続の中にあった。
遊んで遊んで、遊びまくった。
遊びが途切れるということがなかった。
それが私の子ども時代ということになる。

●遊び

 だから今の子どもは……と書くと、こうした原稿を書く意図が見え見えになってしまう。
若い人にしても、そういう原稿を読むのは、不愉快だろう。
私にしても、そういう原稿は、書きたくない。

 今の時代をすべて否定するのも、どうかと思うし、では私たちの時代がよかったかというと、
そうとも言えない。
ただ言えることは、今よりも、ずっと時計の進む速度が遅かったということ。
たとえば夏の暑い日に、アイスクリームを買いに行く。
商店街の中には、そのアイスクリームを売る店があった。

 が、すぐには売ってくれない。
しばらく時間がかかる。
私たちは体を冷蔵庫にこすりつけ、アイスクリームができあがるのを待った。

 遊びにも、こと欠かなかった。

 木製の潜水艦を作るのも流行(はや)った。
その季節になると、みな、凧揚げをした。
模型飛行機も流行った。
忍者ごっこや、パチンコ、パンコ(メンコ)も流行った。
カッチン玉という、ビー玉遊びも流行った。
コマ回しも流行った。
月々に、生活や遊びが、大きく移り変わっていった。

 映画もただで見られた。
方法は簡単。
映画館には、あちこちに小さな隙間があった。
そこから直接のぞいて見たこともあるが、たいていは小さな穴に向けて白い紙を立てると、ちょ
うどピンホール写真のように、映画の映像が、そこに映った。
音声は、もちろん筒抜け。

 おとなの映画は、そういう方法で見た。

●時刻は午後2時40分

 現在時刻は、午後2時40分。
この原稿を書き始めて、1時間40分。
40字x36行で、12枚。
「こんなものかな」と思う。

 単行本のばあい、120〜150枚で1冊の本になる。
2時間足らずで、その10分の1を書いたことになる。
今の私なら、その気にさえなれば、2日で、1冊の本を書くことができる。
が、もちろん、こんなくだらない文章では、本にはならない。
本にしても、「本を書いた」という実感が残らない。

 ただこの原稿を通して、「ものを書く」ということが、どういうことか、わかってもらえたと思う。
私たちはものを考えるから、人間である。
が、考えようとして、考えられるものではない。
多くは、堂々巡りするだけ。
そこで「ものを書く」。
書くことによって、考えを広げ、深めることができる。

 今回は、そういう発見はなかったが、時として新しい発見をすることがある。
荒野の片隅で光る、宝石のようなもの。
その宝石に出会うことがある。
それが楽しいし、またそれがあるから、ものを書くのがやめられない。

●とにかく書く

 だからものを書くときは、こんなことに心がけてみる。
「何を書こう」と思うのではなく、とにかく書く。
書き始めてみる。
もちろん何か、それについて書いてみたいというテーマがあれば、それについて書く。
あとは、脳の命ずるまま、自分の思いを叩きつけていく。

 その実験のひとつとして、こんな原稿を書いてみた。

 ワイフが仕事の支度を始めた。
時刻は午後2時50分。
私の原稿もここまで。

 あとは簡単に読みなおし、推敲する。
BLOGにアップするのは、そのあと。

では、みなさん、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

はやし浩司 2012−01−19

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 美濃市 美濃町 子ども時代 は
やし浩司 子供時代 子供のころ)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【小学1年生に、面積を教えてみる】(BW実験教室byはやし浩司)

●BW教室のみなさんへ

家庭での復習用ビデオとして、ご利用ください。
わからないところがあったら、動画を停止し、何かの紙に描いて、面積を求めてみてください。
よい勉強になると思います。
(実際、そういうふうに利用している人が、ふえています。)

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/2PFVh-pxunI" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/TogBNOhT0do" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/u4gvre4AknQ" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/hAvuxaVmWxI" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司 
 
【ジジ・ババ・ゴミ論】はやし浩司 2012−01−20
(六趣輪廻の因縁で、闇路に迷う愚痴人間)(N市教育委員会・子育て講座用原稿)

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ゴミ?

 少し前、「ジジ・ババ・ゴミ論」について書いた。
私が「ゴミ」という言葉を使っているのではない。
若い人たちの書くBLOGに、そう書いてある。
最近の若い人たちの老人論には、辛らつなものが多い。
「老害論」から「ゴミ論」へ。
まさかと思う人がいたら、一度、若い人たちのBLOGに目を通してみるとよい。

 それについては、もう何度か書いてきた。
ここでは「なぜ?」について、書いてみたい。
なぜ、私たちはゴミなのか?

●「将来、親のめんどうをみる」

 「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と答える、日本の若い人たちは、世界で
も最下位。
総理府、それにつづく内閣府が、数年おきに、同じ調査をしている。
「青少年の意識調査」というのが、それである。
それによれば、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●年老いた親を養うことについてどう思うか

「どんなことをしてでも親を養う」

   イギリス66.0%、
   アメリカ63.5%、
   フランス50.8%、
   韓国35.2%、
   日本28.3%
(平成9年、総理府の同調査では、19%。)

 日本の若い人たちの意識は、28・3%!
アメリカ人の約半分。

 「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。
しかし現実は、かなりきびしい。
今どき、「親孝行」という言葉を使う、若い人は、いない!

●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか

『そう思う』:

   イギリス70.1%、
   アメリカ67.5%、
   フランス62.3%、
   日本47.2%、
   韓国41.2%

+++++++++++++++++++++++++++++++++

 平たく言えば、現代の若い人たちは、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と考え
ている。
しかし「経済的に余裕のある若い人」は、ほとんど、いない。
どの人も、目一杯の生活をしている。
結婚当初から、車や家具一式は、当たり前。
中には、(実際、そういう夫婦は多いが)、結婚してからも親からの援助を受けている夫婦もい
る。

金融広報中央委員会の調査によれば、現在、貯蓄ゼロ世帯は、23%。

全国約4000万世帯の、23%。
4世帯につき、約1世帯。

さらに生活保護を受ける世帯が、2011年度、最高を記録した。
その数、150万世帯。

++++++++++++++++++++++++++++++

金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査(2006年)」によれば、
つぎのようになっている。

   20代は171万円、
   30代は455万円、
   40代は812万円、
   50代は1154万円、
   60代が1601万円、
   70歳以上が1432万円。  

この調査は「20歳-79歳代の男女10,080人」を対象に調べたもので、
このうち貯蓄を持っているのは全体の、77・1%。
残りの22.9%は貯蓄ゼロ。 

貯蓄ゼロの家庭は、年収が300〜500万円未満でも21.1%。
500〜750万円未満の家庭でも16.2%。

+++++++++++++++++++++++++++++

 なお、団塊の世代についてみると、8・1%の世帯が、貯蓄ゼロとなっている(「格差脱出研究
所」調べ)。
ただしここに載っている数字にしても、あくまでも、「平均」。
70歳以上だけをみても、中に数億円以上もの金融資産を保有している人たちがいる。
大多数の人は、400〜500万円程度と言われている(某経済誌)。

 「親のめんどうをみる」と答える、若い人たちの減少。
それと反比例する形で、「ジジ・ババ・ゴミ論」がある。
両者を関連付けるのは、危険なことかもしれない。
しかし無関係とは、これまた言えない。

●祖父母と同居

 私自身は、3世代同居家族の中で、生まれ育った。
生まれたときから、祖父母と同居していた。
と言っても、当時は、それがごく平均的な家族であった。
「核家族」という言葉が生まれ、それが主流になってきたのは、1970年以後のこと。
夫婦と、その子どもだけの、「小さな家族」を「核家族」と言った。

 当時はそれが珍しかったが、今では、それが主流。
若い人たちが「家族」というときには、そこには、祖父母の姿はない。

 現在、祖父母と同居している家族の割合は、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

●「祖父または祖母と同居している」

   日本(20.6%)、
   韓国(5.8%)、
   アメリカ(3.1%)、
   フランス(1.5%)、
   イギリス(1.1%)
 
 これらの数字を並べて解釈すると、こうなる。

(1)日本人は、親と同居している家族が、比較的多い(20・6%)。
子どもが生まれれば、3世代同居家族となる。
ただしこれには地域差が大きい。
地方の農村部では、多く、都市部では、少ない。

(2)老親は、子どもに老後のめんどうをみてもらいたいと考えている(47・2%)。
が、若い人たちには、その意識は薄い。
世界でも、最低レベルとなっている(28・3%)。

(3)「核家族」という家族形態は、欧米化の1態ということが、この数字を見てもわかる。
   つまり、家族の欧米化が、現在、急速に進んでいる。
   ただし欧米では、各地に「老人村」があるなど、老人対策が充実している。
   一方、この日本では、老人対策がなおざりにされたまま、欧米化が進んでしまった。
   その結果が、独居老人、さらには孤独死、無縁死の問題ということになる。

●「団塊の世代は敵」?

 先日紹介したBLOGの中に、「団塊の世代は敵」と書いてあるのが、あった。
これには驚いた。
私たち団塊の世代は、感謝されこそすれ、「敵」と思われるようなことは、何もしていない。
そのつもりでがんばったわけではないが、現在の日本の繁栄の基礎を作ったのは、私たち。
そういう自負心も、どこかにある。
その私たち団塊の世代が、敵?

 こうした感覚を理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要がある。
なぜか?

 その理由の第一が、現在の若い人たちは、「貧しさ」を知らない。
生まれたときから、「豊かな生活」がそこにあるのが当たり前……という前提で、育っている。
それは私たちの視点を、逆に、80代、90代の人たちの中に置いてみるとよくわかる。

●「敵」

 戦争を体験した人たちは、みな、こう言う。
「日本を守ったのは、俺たち」と。
結果的に日本は敗北し、(守った)という意識は、粉々に破壊された。
しかし「命をかけて」という部分までは、破壊されていない。

 が、結果がどうであれ、戦争を体験した人たちが、「命がけで戦った」のは、事実。
で、そういう人たちに、私たち戦後の世代が感謝しているかといえば、それはない。
中には、「自業自得」と、辛らつな言葉を、浴びせかける人もいる。
「勝手に戦争を起こし、ひどいめにあった」と。
もう少し具体的には、こんな事実もある。

 私の二男が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
私はこう思った。
「親父(おやじ=私の実父)が、生きていなくてよかった」と。

 もし父が生きていたら、その結婚には、猛烈に反対しただろう。
私の父は、そういう人だった。
まじめで、がんこで、純粋だった。
本気で天皇を崇拝し、神国日本を信じていた。
ある日のこと、こんなことがあった。
私が小学3年生のときのことである。

 私が「天皇」と呼び捨てにすると、一度も私に対して怒ったことがない父が、私を殴った。
「陛下と言え!」と。

 父はその足で小学校へ怒鳴り込んでいった。
「貴様ら、息子に何を教えているかア」と。

 そのときの担任が、N先生。
だから小学3年生のときのことだったということを、よく覚えている。

 が、そんな父をだれが批判できるだろうか。
現に今、私たち団塊の世代を評して、「敵」という。
同じように、そういう若い人たちを、私たちはどうして批判できるだろうか。

 私たちはいつも、過去を踏み台にして、現在を生きている。
その現在に視点を置き、「自己中心的な、現在中心論」で、ものを考える。
そういう視点で見ると、私たち団塊の世代は、この日本の繁栄を、ぶち壊してしまった。
少なくとも、若い人たちは、そういう目で、私たち、団塊の世代をながめている。

●ゴミ

 私たちは、否応なしに、ゴミになりつつある。
またそういうふうに扱われても、抵抗できない。
体力も気力も、とぼしくなってきた。
若い人たちから見ると、私たちの世代は、毎日、遊んでばかりいるように見える。
昔、……といっても、もう30年以上も前のことだが、こう言った高校生がいた。

「老人は、役立たず」と。

 当時の私は、この言葉に猛烈に反発した。
……そう言えば、それについて書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。

 日付は2010年2月になっている。
当時、私はひとつの理由として、「受験競争」をあげた。
受験競争を経験した子どもは、総じて、心が冷たくなる。
私はそれを実感として、現場で、今も強く感じている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ・ゴミ 総理府 内閣府
 青年に意識調査 親の面倒 親のめんどう 老後の介護 はやし浩司 団塊の世代 受験と
虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


特集【介護と子どもの意識】(2010年2月の原稿より)

●介護と子どもの意識

+++++++++++++++++

介護問題に隠れて、表に出てこないが、
その裏には、子どもたちの意識の変化
がある。
現在、ほとんどの子どもたちは、「経済的に
余裕があれば、親のめんどうをみる」と
考えている(日本)。
しかし経済的に余裕のある人は、いない。
みな、それぞれが精いっぱいの生活を
している。

つまりこの調査結果を裏から読むと、
「めんどうはみない」となる。
が、ことはさらに深刻である。

(めんどう)どころか、(老人への虐待)が、
深刻化している。

10年ほど前に書いた原稿をさがしてみる。
(10年前ですら、そうだったということを
わかってほしい。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ジジ・ババ受難の時代

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。

これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババ
への風当たりが強くなってきている。

 若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののし
る表現が、最近、目につくようになってきた。
ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOGには、こんな書きこみすらあった。

 「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。
おかげで、こちらは2週間も入院。そのジジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。
あんなジジイに、何度も見舞いに来られて、うるさくてしかたねえ。
こっちは、迷惑している」と。

 その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。

 つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。
そんな感じがする。
老人医療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。
加えて、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。
若者たちは、程度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。

 これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。
「現在の日本の繁栄を築きあげたのは、私たちの世代だ」と。

 しかしこれは、ウソ。
団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。

 たしかに結果的には、そうなった。
つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝手な論理にすぎない。
私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきただろうか。
私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。
結果として日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。

 そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。

 しかしこれは深刻な問題でもある。

 これから先、高齢者はもっとふえる。
やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上になるとも言われている。
そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろうか。
そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。

 ジジ・ババは、ゴミ。
 ジジ・ババは、臭い。
 ジジ・ババは、ムダな人間、と。

 そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、
たいへん住みにくい国ということになる。
そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるようになるかもしれない。

 では、どうすればよいのか。

 ……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということ
になる。
が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。
親たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言ってい
るうちに、そうなる。

 中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。
反対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いにな
る。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみ
ればよい。

 「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。
「親の恩も遺産次第」と考えている若者は、もっと多い。
たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答えている。
つまり「余裕がなければ、みない」※と。
数年置きに、総理府(内閣府)が調査しているので、そのうち、これについての全国的な調査
結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。

 私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。
そこでは、30〜40人の老人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をし
ている。
見た目には、のどかで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからな
い。

 すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。
補助金を削減し始めている。
10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。
単純に計算しても、今は30〜40人だが、それが90〜120人になる。

 そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。
またどのように考えるだろうか。

 老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。
ケア・センターでは、老
人たちが、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。
ああいうのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。

 高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。
そういう人たちが、手をたたいて、カラオケで童謡を歌っている!
 つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。
また、そうであっては、いけない。

 わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。
社会とかかわりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。
そういうかかわりあいというか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それ
なりにの(人間)として認められるようになる。

 「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄
できたか、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていは
いけない。

 私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に!
姿勢を低くして、若者や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。
その努力を今から、怠ってはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

古い原稿を再掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。
そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。
それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。
「それだけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。
親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。
「親の老後のめんどうを、あなたはみるか」と。

 それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%!

 この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。
さらに東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。
このことからもわかるように、若者たちの「絆の希薄化」は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。
今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均27万円。
この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。
それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。
が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。
大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている!

 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。
春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。
毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。
「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。
何をいまさら」ということになる。
「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。
今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。

大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。
あるいは
ブランドだけで、大学を選ぶ。
だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新聞の投
書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。
「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。
どうしたらよいでしょうか」と。

私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。
私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。
「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけで
も、月に4万円もかかります」と。
しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。

(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。
月平均になおすと、約26・6万円。
毎月の仕送り額が、平均約12万円。
そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均年収は1005万円。
自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万円。
99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 親の支出額 学費)

+++++++++++++++

つづいて03年(7年前)に書いた
原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高齢者への虐待

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

やはり高齢者への虐待が
ふえているという。

これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。

+++++++++++++

 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護
サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11
月〜04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があっ
たということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。

 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。
夫が虐待するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということ
になる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

(1)殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2)ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3)食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4)財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。
こうし
た虐待は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。
最近の若者のうち、「将来親のめんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理
府、内閣府の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。
今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っている世代はいない。
飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。
本来なら、親に感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。
狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こ
んなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。
言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言う
のだが……。)
子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。
しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場ではない。
心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。
これはもう、立派な虐待以外のなにものでもない。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだい
ている。
それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。
子どもの心は、その受験期をさかいに、急速に親から離れていく。
しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。
あなたの周辺には、心の暖かい人もいれば、そうでない人もいる。
概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、今、心の暖かい人であることを、
あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、
連続して教えたことがある。
そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期にまたがって、大きく変化する
のを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライ
で、合理的になる。
はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え方を、平気でするよ
うになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えな
い。
つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろう
か。……言うことができるだろうか。
あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目で、あなたの子育てをみてみてほし
い。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子
どもの心にあてはまる諺はない。
きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、
まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。
人の目をたいへん気にする子どもで、いつも他人の顔色をうかがっているようなところは、ある
にはあった。
しかしそれを除けば、ごくふつうの子どもだった。
が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた!
「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。
しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。
ほかに首のない死体や爆弾など。
原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。
そしてその日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの
中から引きずり出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような
残虐事件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。
一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったと
いうのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。
ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。
ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。
ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火を
つけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。
異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。
しかし過負担や過干渉が原因でないとは、もっと言えない。
子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。
いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。
あなたの周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。
しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいということを、あなたは知ってい
る。
子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方
で、子どもの心をゆがめる。
それを忘れてはならない。

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。
それは事実だが、破壊された子ども、あるいはそのままおとなになった(おとな)が、それに気
づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。
本当の問題は、「では、なぜ、親たちは、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。
学歴のある人は、とことん得をし、そうでない人は、とことん損をした。
こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通して、いやというほど、思い知らされて
いる。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。
意識を変え、制度を変え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいことは、「おかしい」と言う。
そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。
しかしこれだけは言える。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、
遅いということ。
そのとき、気づいたのでは、遅いということ。
今ここで、心豊かな親子関係とは、どんな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよ
う。


Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司※

●受験競争の弊害

++++++++++++++++

受験競争の弊害をあげたら、キリがない。

問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。

そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。

+++++++++++++++++

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、
他人の心情でものを考えられるかということ。
つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それ
だけ精神の完成度が、低いということになる。
さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることにより、その人の精神の完成度を知ることが
できる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。
しかしこれは遺伝子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。
が、ここでいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでし
まう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の
自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。
この受験競争は、どこまでも個人的なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。
子どもにかぎらず、利己的であればあるほど、当然、「利他」から離れる。
そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。
ばあいによっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そうい
う側面がある。
ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をする子ども
もいるのはいる。
しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化している
だけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高
邁な人たちかというと、それは疑わしい。
疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。
親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこま
れている。
それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができない。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的、迎合
的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。
いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。
今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか
心が冷たい。
いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会では、生きてい
かれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。
しかしこうした印象をもつのは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。
避けてはとおれないこと。
それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな
違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほ
しい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある母親からの相談(2010年1月7日)

 たまたま今朝、こんな相談が届いていた。
埼玉県K市に住んでいる、MSさんという方からの
相談である。
一部を変えて、そのまま紹介させてもらう。

【MSさんからはやし浩司へ】

はじめまして。
毎日先生のブログを読んでいる者です。
私の子供はもう19才と17才になり、子育てという年齢ではなくなっていますが、それでも、何
かと心に思うことがあり、子育てのブログを読ませていただいております。

今回、長女の成人式の問題と次女の大学受験のことで、私の気持ちがいっぱいになってし
まい、自分を見失ってしまいそうなので、ご相談しました。

先ず、長女の成人式ですが、着物は娘の好みに合わせレンタルしました。
今時のレンタルは早めの申し込みで、記念写真の撮影は昨年3月に済ませており、夫と私の
親にはすでにアルバムを渡しております。
この写真撮影の時、着物を着て帰りましたので、双方の祖父母宅に寄り、振袖姿を披露しまし
た。

ですが、もうすぐ成人式というのに、長女は成人式には出ないと言い出しました。
その時の私のショックは言葉に出来ません。
長女は大学2年で、学費で精一杯の家計ですが、せっかくの成人式なので好きな着物を選ば
せ、トータル20万円もしました。
今、思い起こせば、着物を選ぶ時も、写真撮影の時も、娘はずっと不機嫌でした。
私は娘の様子を見ているだけで吐き気がするほど、気分が悪くなってしまいました。

これも、私がそう育ててしまったのだから・・・
 しっかりものの長女のこと、何か出席したくないよっぽどの理由があるはず、もうすでに振袖
姿は見たし、祖父母にも披露し、アルバムも撮影済み。
何が問題なのか? 長女の成人式だもの、本人の好きにすればいい・・・ と自分に言い聞か
せる毎日ですが、なかなか私の気持ちに折り合いが付きません。
これも、許して忘れる・・・でいいのでしょうか?

加えて、次女の大学受験で彼女のストレスが私に向けられ、毎日眼が回りそうです。
不安で不安で仕方ないようです。
私が高卒で、ずっと学歴にコンプレックスを持ち、子供には大学に行ってもらいたいと、小さい
頃から学歴が大事と間違って育ててしまったのがいけないのでしょうね。
夫はいうと、我関せずとばかりに、遠巻きにしております。

こんなことで・・・と笑われてしまいそうですが、中学生の時に、長女、次女とも本当に大変な時
期があり、頭の固い私が変わらざるを得ない事態となりました。
それから、子育てに自身がなくなり、これは共依存なのか?、と思うようになりました。
何かにつけ、私のしていることに自信がないのです。 

何か良いアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。

【はやし浩司よりMSさんへ】

 まず先の「介護と子どもの意識」を読んでみてください。
今のあなたの考え方も、少しは変ると思います。

 簡単に言えば、親の私たちは、子どもに対して(幻想)をもちやすいということ。
その幻想を信じ、その幻想にしがみつく。
「私たち親子だけは、だいじょうぶ」と。

 しかし実際には、子どもたちの心は、親の私たちから、とっくの昔に離れてしまっているので
すね。
親は子どもの将来を心配し、「何とか学歴だけは・・・」と思うかもしれない。
しかし当の本人たちにとっては、それが(ありがた迷惑)というわけです。
いまどき、親に感謝しながら大学へ通っている子どもなど、まずいないと考えてよいでしょう。
それよりも今、大切なのは、自分たちの老後の資金を切り崩さないこと。
あなたにかなりの余裕があれば、話は別ですが・・・。

 お嬢さんたちもその年齢ですから、今度は、あなた自身の年齢を振り返ってみてください。
そこにあるのは、(老後)ですよ。
今は、まだ(下)ばかり見ているから、まだ気がついていないかもしれませんが、あと5〜10年
もすると、あなたも老人の仲間入りです。

 では、どうするか。
つい先日、オーストラリアの友人が、メールでこう書いてきました。
「子どもたちには、やりすぎてはいけない。社会人になったら、お(現金)をぜったいに渡しては
いけない」と。

 同感です。
私もずいぶんとバカなことをしましたが、それで私の子どもたちが、私に感謝しているかという
と、まったくそういう(念)はないです。
息子たちを責めているのではありません。
現在、ほとんどの青年、若者たちは、同じような意識をもっています。

 だから私の結論は、こうです。

「よしなさい!」です。

 娘の晴れ着など、娘が着たくないと言ったら、「あら、そう」ですまし、そんなバカげた儀式の
ために20万円も浪費しないこと。
親の見栄、メンツのために、20万円も浪費しないこと。
それよりもそのお金は、自分の老後のためにとっておきなさい。

 子どもというのはおかしな存在で、そうしてめんどう(?)をみればみるほど、子どもの心は離
れていきます。
それを当然と考えます。

 20年ほど前になるでしょうか。
ある父親が事業に失敗し、高校3年生の娘に、「大学への進学をあきらめてくれ」と頼んだとき
のこと。
その娘は、父親にこう言ったそうです。

 「借金でも何でもよいからして、責任を取れ!」と。

 そこで私がその娘さんに直接話したところ、娘さんはこう言いました。
「今まで、さんざん勉強しろ、勉強しろと言っておきながら、今度は、あきらめろ、と。
私の親は、勝手すぎる」と。

 率直に言えば、これは「共依存」の問題ではありません。
あなたはまだ「子離れ」できていない。
つまりは精神的に未熟。
それが問題です。

 あなたは子離れし、自分は自分で、好きなことをしなさい。
自分で自分で、自分の人生を見つけるのです。
つまりあなたはあなたで前向きに生きていく・・・。

 その点、あなたを(遠巻きにして)見ている、あなたの夫のほうが、正解かもしれません。

 ずいぶんときびしいことを書きましたが、そのためにも、前段で書いた部分を、どうか読んで
みてください。
私たち自身の老後をどうするか?
お金の使い方も、そこから考えます。

 二女の方の学費にしても、子どものほうから頭をさげて頼みに来るまで、待ったらよいでしょ
う・・・といっても、今さら、手遅れかもしれませんが。
本人に勉強する気がないなら、放っておきなさい。
今のあなたには、それこそ重大な決意を要することかもしれませんが、そこまで割り切らない
と、あなた自身が苦しむだけです。
どうせ大学へ入っても、勉強など、しませんよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●介護問題と子どもの意識

 介護保険は、すでにパンク状態。
政府は税金をあげることだけを考えている。
しかしそれよりも重要なのは、子どもの・・・というよりは、日本人の意識を変えていくこと。
今のままでは、日本の介護制度は、その根底部分から崩れる。
「心」がない。
心がない介護制度など、またそれによってできる施設など、刑務所のようなもの。
「死の待合室」と表現した人もいる。
そんな施設に入れられて、だれがそれを「快適」と思うだろうか。

 どうして日本人の心は、こうまで冷たくなってしまったのか?
脳のCPUの問題だから、冷たくなったことにすら、気づいていない。
みな、自分は、(ふつう)と思い込んでいる。
またそれが(あるべき本来の姿)と思い込んでいる。

 このおかしさ。
この悲しさ。

 ここに転載させてもらった、MSさんのケースは、けっして他人ごとではない。
私たち自身、あなた自身の問題と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最後にもう一作。
ある母親の嘆きを、掲載します。
10年ほど前、中日新聞に掲載してもらった
原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌(Mom)に、こんな投書が載っていた。

『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切
にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。

旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの?

 私はどうしたらいいの?
 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・五〇歳の女性)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 私の子育ては何だったの 私の
子育てはなんだったの 親子の断絶 はやし浩司 親子の絆が切れるとき)

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。
ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。

これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だ
け授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どう
したらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やら
せたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」
と。要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの
意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。

「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、
(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視
点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。
この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。
結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だ
ったの?」という言葉が、それを表している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 介護問題 子どもの意識 子離れ 子離れできな
い親 私の子育ては何だったの 私の人生は何だったの 私の子育ては、何だったの 親
の悔悟 介護問題 はやし浩司 親のめんどう 親の介護 親の介護問題 内閣府調査 は
やし浩司 受験という虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに(2012年1月20日記)

 ジジ・ババ・ゴミ論と、家族意識の変化。
さらには子どもを取り巻く環境と、家族意識の変化。
こうした問題が混然一体となり、この先、ジジ・ババを取り巻く環境は、さらに過酷なものとな
る。
それには例外はない。
「社会の大勢」というのは、そういうもの。
いかにあなたが部分的に努力したとしても、子どもたちはやがてその「大勢」に呑み込まれて
いく。

むしろ、「うちはだいじょうぶ」「うちの子にかぎって」と、高をくくっている親、家族ほど、あぶな
い。
そういう親ほど、子どもの心の変化に気づいていない。

●では、どうするか

 最近の私の結論。
「そういう時流と思い、あきらめ、納得し、受け入れる」。

 独居老人、しかたない。
孤独死、無縁死、これまたしかたない。
それ以上に、息子や娘たちには、期待しない。
期待しなければ、失望もない。

 だったら、「限度をわきまえる」※。

 繰り返しになるが、子どもたちに向かって、「勉強しなさい」と言ってはいけない。
言えば言うほど、責任を取らされる。
その言葉自体が、虐待でもある。

 今、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、いない。
ゼロ!
大学生でも、いない。
社会人になってからも、親に車を買わせている子ども(若夫婦)となると、いくらでもいる。
さらには結婚式の費用から、子ども(孫)のおけいこ代まで払わせている子ども(若夫婦)まで
いる。

 が、当の子ども(夫婦)は、感謝などしていない。
「生活が苦しい」と言うことはあっても、感謝などしていない。

 だから限度をわきまえる。
(してやること)と(してはいけないこと)の間に、明確な一線を引く。
その一線を引くことに失敗すると、親子関係はバラバラになる。
それが全体として大勢を作り、ここに書いた「ジジ・ババ・ゴミ論」が生まれる。

 そう、私たちは、ゴミ。
今は、そういう前提で、自分たちの(現在)、そして(未来)を考えたらよい。
その上で、私たちはどうあるべきか。
若い世代とどうつきあっていくか。
それを考える。

(注※)限度論……バートランド・ラッセル(イギリスのノーベル文学賞受賞者)。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれど
も、けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ受難時代 ゴミ論 は
やし浩司 孤独死 独居老人 無縁老人 日本の子育て 育児論 はやし浩司 子育て限度
論)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

(補足)

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。
『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感すること
が、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。
ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。
『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。
つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。

親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。
申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。
 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。
 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。
(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬し
ていない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という
質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。
『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。

中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 
はやし浩司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる はやし浩司 MOM 親
の嘆き 私の子育て 何だったのか はやし浩司 私の子育ては何だったのか)

(注)六趣輪廻…… 「六趣輪廻」とは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に"趣く"六つの
道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【ハナの死】 はやし浩司 2012ー01−21 午後11時40分

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http://youtu.be/t3j9uWTfbms

●ハナの最期

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/16/img51e8d0f8zikczj.
jpeg" width="640" height="480" alt="ハナ、さようなら!.jpg">

 名前は、「ハナ」。
本当は、「シルビア」とか、「グレイシア」とか、そんなような名前にしたかった。
が、息子が、「花子」にした。
つぎに「華(はな)子」にした。
しかしその直後に、友人に娘が生まれ、名前を「華子」とした。
「まずい」と思い、それで、「ハナ」にした。

そのハナ。
メスの犬だが、どう見ても、男。
ポンター種は、どれもいかめしい顔つきをしている。

 みなは、「怖そうな顔」という。
しかし私は一度も、そう思ったことはない。
我が家の家族になってから、このかた、一度も、そう思ったことはない。
……というか、私にはかわいい。
かわいいというより、美人。

 我が家へ来てから1週間、毎晩、私はハナを懐に抱いて寝た。

●晩年

 そのハナが歩くとき、よろけるようになった。
その前に、食事が細くなった。
やがて好物にも、口をつけなくなった。
同時に、やせ始めた。

●末期

 ハナが、夜中に、ときどき、甘えるように泣くようになった。
痛いのか……?
寒いのか……?

 ハナは、庭で放し飼いにしている。
犬小屋は、母屋の隅にある。
鳴くようになってから、その犬小屋を、別の隅に移した。
私たちの寝室の真横になる。
そこなら電気が引ける。
様子がよくわかる。

私は、そこに電気ストーブを置いた。
温風機も置いた。

●「ぼくの友」

 ワイフに叱られることを覚悟で、私の使っていた布団を一枚、その上に敷いた。
まわりを座布団で囲んだ。
ハナはしばらく、布団を足でこすっていた。
どこかが痛いのか……?

 好物だった、菓子やソーセージを口までもっていった。
ハナは食べなかった。
チーズも食べなかった。
しばらく頭をさすってやった。
「お前は、ぼくの友だちだよ」と。

 とたん大粒の涙が、頬を流れた。

●思い出

 ハナとの思い出は、山のようにある。
ひょっとしたら、息子たちのそれより、濃厚かもしれない。
ハナは、私を一度も裏切らなかった。
一度も、不平や不満を言わなかった。
この19年間、家に帰ると、一度も欠かさず、私を迎えてくれた。
尻尾を振り、飛びついてきてくれた。

 そのしぐさに、どれほど癒されたことか。

 天気のよい日は、いつも近くの海まで散歩した。
自転車で、10分ほどの距離。
中田島砂丘という、砂丘がある。
そこまで行き、首輪をはずしてやった。

ハナは、いつまでも、いつまでも走りつづけた。
小さな点になり、見えなくなるまで、走りつづけた。

●「海!」

 夕方には、ほとんど動かなくなった。
ワイフと息子が、そばにいた。
もう一度、チーズを一切れ、口に入れてみた。
食べなかった。

 ワイフが、水を湿らせたコットンをもってきた。
それは、飲んだ。
そのつど、大きな声で、「ハナ!」と呼ぶと、ひとみを大きく動かした。
「海!」「海!」と叫ぶと、息が荒くなった。

 元気なころは、「海!」の一声で、ハナは、興奮状態になった。

●老齢

 そんなハナだったが、そのうち体力も落ちてきた。
歩いて5分ほどのところに、佐鳴湖という湖がある。
1周すると、6〜7キロになるだろうか。

 若いころは、私がこぐ自転車より速く走った。
が、数年前から、途中で、走れなくなってしまった。
そんなハナを、私はカゴに乗せ、家まで戻った。

●涙

 ハナの頭をさすってやった。
「痛いのか……?」と。

 ハナは何も言わなかった。
穏やかな表情で、私を見上げた。
時間が流れた。
10分……、20分……。

 「お前はぼくの友だちだよ」と。
とたん、また大粒の涙がこぼれ落ちた。
そのときのこと。
ハナが私の顔をのぞきこむようにして、見た。
ふだんは、恥ずかしがり屋で、めったに視線を合わせようとしない。
そんなハナが私の顔をみつめた。

 それを見て、また大粒の涙がこぼれた。

 ……居間に戻ると、ワイフがそこにいた。
私は黙ったまま、お茶を飲んだ。
飲みながら、こう言った。

「あんな……犬でもねえ……」と。

それだけ口にするのが、精一杯だった。
「あんな犬でもねえ、……感情が……あるんだよ……」と。

またまた大粒の涙が、頬を伝った。

「あの……ハナがねえ……、ハナがねえ……、ぼくの顔を見てねえ……、涙を流したんだよ…
…」と。

 あとは言葉にならなかった。

●最期

 夜、6時ごろ。
あたりは真っ暗になった。
電気ストーブの横に、枕元ランプを置いた。
電気アンカも、その下に置いた。

 息子が、ずっと頭をさすっていた。
何も言わず、頭をさすっていた。

 はげしかった息づかいも、静かになった。
ハナは、眠ったように静かになった。
目は閉じたままだった。

 息子は、いつまでもそこにいた。
「風邪をひくから、中に入れ」と言っても、そこにいた。
いつまでも、いつまでもそこにいた。

●死去

 ハナは、午後11時40分ごろ、息を止めた。
最期に大きく首をもたげ、その首を下へ落とすと同時に、呼吸が止まった。
胸に手を当てると、心臓が小刻みにブルブルと震えているのがわかった。
が、やがてその振動も止まった。
私は窓を叩き、ワイフを呼んだ。
息子を呼んだ。

静かな夜だった。
私が泣き、息子も泣いた。
ワイフも窓の向こうで、顔を押さえた。

冷たい小雨の降る夜、ハナは、この世を去っていった。

2012年01月21日午後11時40分。

 さようなら、ハナ!
今まで、ぼくを守ってくれて、ありがとう!
本当にありがとう!
お前は、ぼくの命の恩人だよ!
あのときお前が吠えてくれなかったら、畑の中に隠れていたマムシにぼくは噛まれていた。
ありがとう!

【補記】以下、2012年01月09日の日記より

●ハナ

 ハナが、今日、玄関の階段を登るとき、足を踏み外し、よろけた。
うしろ足が、体についてこないといったふうだった。

 もう、目は、ほとんど見えない。
今朝も牛乳を温め、そばに置いてやった。
が、それも飲まなかった。

 昼になって、牛肉を炒め、その上にバターをかけてやった。
いつもなら匂いだけで、小屋から飛び出てきた。
が、今日は体を丸めたままだった。

 ワイフに「毛布はないか?」と言うと、ワイフが、毛布をもってきてくれた。
その毛布と、ハナのタオルケットを二枚重ね、ハナの体にかぶせた。
しっぽが、小屋の壁を叩く音がした。
そのとき、ジンと目頭が熱くなり、涙が数滴こぼれた。

 「ハナ、暖かくなったら、また海へ行こうな」と。

 若いころ、ハナは、中田島の砂丘へ連れていくと、数秒も間をおかず、走り回っていた。
カラスを追いかけた。
そんな思い出が、つぎつぎと浮かんでは消えた。

私「最期が近いみたい……」
ワ「……」と。

 夕日を見ていたら、また涙が数滴、私の頬を流れた。

(ハナは、この13日後の、今夜、1月22日、他界しました。
1993年1月1日生まれ。
我が家へ来たのは、1993年3月末、享年 19歳)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ハナ ハナの死 はやし浩司 花
子 華子 はなの死 はやし浩司 ハナの最期)

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(補記)

 庭を見ると、いつもハナはそこにいた。
そのハナは、もういない。
「3人だけになってしまったね……」とワイフ。
「そうだね」と私。

 ハナ、またあの世で会おうね。
待っていてよ!


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●葬儀観

++++++++++++++++++

ハナの葬儀をした。
犬が死んで、こんなに悲しいものとは、知らなかった。
思い出すたびに、涙がこぼれる。
何をしていても、涙がこぼれる。

そんな中、いろいろ考えた。
ワイフといろいろ話しあった。

その第一。

私には、葬儀は必要ない。
孤独死、無縁死、何でも構わない。
死去先から火葬場へ。
直葬。
灰にしてもらったあと、近くにいる家族だけで密葬。
簡単な別れ会。
いなければ、いないで結構。
密葬も省略。
別れ会も省略。

そのあと灰は、家族の意思に任せる。

遠くに住む肉親、親類などにも、一切連絡しない。
どこまでも静かに、無言のまま、この世を去る。
私はひとりで生まれ、ひとりで育ち、ひとりで死んでいく。
ワイフと息子に、強く、それを言い伝えた。

ついでにワイフも、そう言っている。
これははやし浩司、晃子の、遺言。
確たる、遺言。

どうせゴミのような人間だから、ゴミはゴミらしく、灰となって、空に舞う。

私とハナ。
どこがどうちがうというのか。
人間と犬。
どこがどうちがうというのか。
どこもちがわない。
同じ。

ハナの葬儀をしながら、それを強く感じた。

++++++++++++++++++

●葬儀

 この先、葬儀など、望むほうが無理。
2050年には、1・2人の日本人が、高齢者1人を支えるようになる。

(疑問……ここでいう「1・2人」というのは、どういう意味か。
「1・2世帯」のことか。
「実労働者が、1・2人」のことか。
早速、調べてみる。)

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/55/img622f1c4czik9zj.
jpeg" width="659" height="731" alt="img239.jpg">
(表は、「2050年問題・サイト」より、コピー・転載)

 この表を見てもわかるように、2050年には、人口は9000万人に減る。
その一方で、65歳以上の高齢者がふえ、全体の38・9%を占めるようになる。
15〜65歳までが、52・3%。
(「15歳」というのは、中学を卒業する年齢である。)

 52・3を、38・9で割ってみると、1・34という数字が出てくる。
全員が中学を卒業すると同時に働き始めたとしても、1・34人(男女含む)が、1人の高齢者
(65歳以上)を支えることになる。
この表から推計すると、「18歳以上の人が1・2人に対し、高齢者が1人」ということになる。

 と考えると、「1・2人」というのは、単純な割合比であることがわかる。
つまり、男女も含め、すべての人が働いたとしても、1・2人の人が、1人の高齢者を支えるとい
うことになる。

 しかしこんなことは不可能!
つまり1・2人の人が、1人の高齢者を支えるなどということは、不可能。

●2050年

 2050年というと、38年後。
逆算すると、65−38=27歳。
現在(2012年)、27歳の人たちが65歳になったときに迎える、これはまさに近未来の日本の
姿ということになる。
50歳とか60歳の人の話ではない。
現在、30歳前後の人たちの話である。

 現在、30歳前後の人たちが、65歳になるころには、この日本は、超の上にもうひとつ「超」
がつく、超・超高齢者社会になる。
が、このグラフを見てもわかるように、2050年に人口の減少が止まるわけではない。
さらに日本の人口は減りつづける。
高齢者の割合は、さらに高くなる。

 2080年には、2050年までの30年間の変化のままであるとすると、つぎのようになる。

 人口は、さらに3200万人、減る。
高齢者の割合は、さらに10・1%、ふえる。
その結果、日本の人口は、7000万人。
高齢者の割合は、49・0%!

 こんな近未来を前に、葬儀だ何だの言っているほうが、バカげている。
葬儀をする人そのものが、いあんくなる。
 
●無縁仏の増加

 無縁仏が増加しているという。

「無縁仏(むえんぼとけ)とは、供養する親族や縁者のいなくなった死者またはその霊魂、また
はそれらを祭った仏像や石仏などを意味する」(ウィキペディア百科事典)とある。

 で、どれくらい増加しているのか。
あちこちのサイトを調べてみた。
が、どうもはっきりしない。

「都市部で10%」と書いているサイトもあった。
「名古屋市で急増加中」と書いているサイトもあった。
が、都市部よりも、実は、農村部のほうが多いという説もある。

 長野県の北部(北信)の寺ではどこでも、無縁仏だけを集める、慰霊碑の建立が当たり前に
なっているという(友人談)。
若い人たちが都会に出る。
そのまま帰ってこない。
無縁仏がふえる。
そういう流れになっているらしい。

 無縁仏の定義も定かではなく、また納骨が、ごく日常的になされているということもある。
実数の把握がむずかしいようだ。

●居直る

 だったら、居直るしかない。
「どうしよう?」と悩んでいても、道は見えてこない。
先にあげた表を見てもわかるように、これはもう動かしがたい「事実」である。

 「この先、60%の人が、孤独死もしくは無縁死を迎え、発見までの平均日数は、死後6日」と
いう数字まで、出ている(雑誌など)。

 「この先」とは、いつのことを言うのか?
そういう問題もあるが、「60%」でも、まだよいほうかもしれない。
そのうち70%になるかもしれない。
どうであれ、この文章を読んでいるあなたが、その60%に含まれる可能性は、きわめて高い。

 「私には息子がいる」「娘がいる」と、高をくくっている人ほど、あぶない。
息子や娘が、親のめんどうをみる時代は、すでに終わった。
反対に、あなたという親が、いつまでも息子や娘のめんどうをみる時代に入っている。
ウソだと思うなら、あなたの周辺を冷静に観察してみればよい。
年老いた両親が、若い夫婦のめんどうをみているという話はよく聞く。
が、その反対は、ほとんどない。

さらに「親孝行も遺産次第」と考えている若い人たちが、増加している。
「それなりの遺産があれば、めんどうをみる。そうでなければそうでない」と。
(この話とて、すでに20年前の話だぞ。)
私が、ほんの数か月前に聞いた話には、こんなのがある。

 嫁が夫の実家へやってきて、こう言った。
「100万円、よこせ」と。
そこで80歳を過ぎた母親が、「5万円くらいなら……」と言って、5万円を渡すと、その嫁は、そ
の5万円を廊下に叩きつけて帰っていった。
(実の娘ではなく、嫁がだぞ!)

 もっともこんな話は、例外。

●親にめんどうをみてもらう若夫婦

(例1)

 毎週、土日に実家へ帰る若夫婦がいる。
年齢はともに35歳くらい。
子どもは2人(小学生と幼児)。

 若夫婦のほうの生活が苦しい(?)とかで、土日は実家で過ごす。
食費や生活費を、それで浮かす。

(例2)

 韓国へ転勤していった若夫婦がいる。
子どもは2人いる。
が、うち1人(小6女子)が、この冬、受験のため帰国。
母親(=子どもの実母)も、いっしょに帰国。
その代わりにということで、父親の母親(=祖母、85歳)が、韓国へ。
現在、その母親(=祖母)が、韓国で、父親ともう1人の子どものめんどうをみている。

(例3)

 数年前、1人の孫(女子)が、東京の私立大学へ入学。
その女性(父親の実母=祖母)が、学費を負担。
つづいて今度、もう1人の孫(女子)が、同じく東京の私立大学を受験。
息子(=その女性の実子)が、「学費を出してほしい」と。

 下の子ども(=妹)は、こう言っているという。
「お姉ちゃんが出してもらったのだから、私にも出してほしい」と。

 ……今、こういうケースがふえている。
子どもが親のめんどうをみるのではない。
親が、子どものめんどうをみる。
しかもここにあげた親(祖父母)は、みな、80歳を超えている。
話の内容は少し変えてあるが、内容的には、ほぼ実話である。

 だったら、居直る。
居直るしかない。
「孤独死、無縁死、おおいに結構」と。

●代替哲学

 が、死生観というのは、その人自身の哲学になっている。
「はい、わかりました」と言って、簡単に変えられるものではない。
「墓は不要」と口では言いながらも、自分の死後に不安を抱いている人は、多い。

 そこで戒名にしても、七七回忌にしても、自分なりの結論を出しておく必要がある。
それについては、私はたびたびBLOGの中で、書いてきた。

 原稿を探してみる。
みなさんもここに書いたことを参考に、自分で調べてみるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「堂々たる迷信」と題して、こんな原稿を
書いたことがある。

 私たちが当たり前のように考えている、
あの七七回忌にしても、調べれば調べるほど、
あやしげなもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生
浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。

また道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消
愆滅罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府
大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であった
としても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢
訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。
この点が、「十王経」類の特徴である。
と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻首にも、同様の記述が
ある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯がある。

ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達の『預修
十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。

また、訳経の体裁を借りなかった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、
はじめ、礼讃文や儀軌の類として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

 要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経と
いうこと。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。

たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」
が原点(=もと)になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。
没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王
(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ
審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生してい
く事になるため、七回すべてやるわけではない。
一般には、五七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。
これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都
市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。
ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質
救済処置である。

もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居た
ならば徳が積まれる仕組みとなっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすため
の受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化し
ている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

 つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。
死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

 ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、抜けて
転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。
これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィ
キペディア百科事典より)。

 わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄
へ送るかを決めるという。

 私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。
しかしこんなのは、まさに迷信。
迷信以上の迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。
極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらあ
る。

 法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀と
いうその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

 「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ち
る」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

 「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっていると
したら、これは問題である。
このおかしさ。
そして悲しさ。

 仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではない
だろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 
初七日 四十九日 法要 偽経 第3の選択 第三の選択 地球温暖化 地球火星化)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「地蔵十王経」

 繰り返す。

 地蔵十王経は、まっかなニセ経典である。
そのことは、だれしも知るところ。
この説を疑う人は、一度、経典を見てみたらよい。
どこからどう読んで、和製経典。

 こんな経典を根拠に、死生観を押しつけられたら、たまらない。
そこで私のばあい、法句経まで遡(さかのぼ)ることを考えた。
仏教徒を名乗るなら、当然のことではないか。
が、日本では、法句経を、どこか侮蔑の念をこめ、「原始経典」と呼ぶ。
「原始だから、未完成」と。
しかしその「原始」にこそ、釈迦仏教の神髄が凝縮されている。

 で、その法句経をどこをどう読んでも、「あの世」の話など、どこにも出てこない。
釈迦自身が、「あると思えばある。ないと思えばない」などと述べている。
「霊魂」に対する考え方そのものが、基本的な部分で、ちがう。

 その原稿を探してみる。
もう少し詳しく書いた原稿があるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世論(2002年7月記)

 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典のひと
つ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。
わかりやく言えば、「ない」と。
「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるかもしれないが、そうした常識
は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てからつくられた常識と考えてよ
い。
もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまった。
そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護摩(ご
ま)をたいているのを見たことがあると思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、それ以外の何ものでもない。
むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」と教えている。

『バラモンよ、木片をたいて、清浄になれると思ってはならない。なぜならこれは外面的なことで
あるから』と。
(パーリ原典教会本「サニュッタ・ニカーヤ」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

さらに「輪廻」。
和式仏教の根幹にもなっている。
2007年の9月には、
つぎのような原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●輪廻(りんね)

++++++++++++++

生まれ変わることができるというのは、
たしかに希望である。

生まれ変われないにしても、30歳とか、
40歳、突然、若くなれるとしたら……。

が、ここで私は、ふと、思いとどまる。

生まれ変わるとしても、条件がある。
今の生活環境以上に、よい生活環境
に生まれ変わるとしたら、それはそれで
よい。

しかしそうでなければ、どうするか?
たとえば現在のK国のような国で
生まれ変わるとしたら、私はごめん。

戦前の日本のような国も、いや。

さらに、だれかが、こう言ったとしたら、
私は、たぶん、それを断るだろう。

「林、もう一度、20歳に戻してやる。
同じ人生を歩んでみろ」と。

人生は一度でたくさん。私はそこまで
は思わないが、中には、こりごり
という人だっているかもしれない。

そんなふうに考えていくと、こうした生まれ
変わり、つまり輪廻(りんね)思想の生まれた
インドでは、輪廻そのものを、大衆は
支持していなかったのではないか?、という
疑問がわいてくる。

カースト制度というきびしい身分制度。その
身分制度の中で、奴隷(シュードラ)は
生まれながらにして奴隷であり、一生、
死ぬまで、奴隷であった。

そんな奴隷の1人に、輪廻思想を説いても、
はたしてその奴隷は、その思想を受け入れる
だろうか。
たぶんその奴隷は、こう言うだろう。

「人生なんて、一度で、こりごり」と。

そこでウパニシャッド哲学(インド哲学)では、
輪廻転生から離脱し、宇宙(神)と一体化する
ことを、「解脱(げだつ)」と呼んだ。

(ちゃんと逃げ道が用意してあるところが、
すごい!)

私たちの魂は、生きたり死んだりを繰り返す。
その魂を、瞑想、つまりヨーガによって、宇宙の
神と一体化させる。

そうすればだれでも、解脱の境地に達する
ことができる。つまり、輪廻転生の輪から、
自分を解放させることができる。

+++++++++++++++

●輪廻思想

 インド哲学を理解するときは、一度、私たちを文明の世界から切り離さなければならない。
私たちが現在もっている常識で、インド哲学を理解しようとしても、理解できない。
そういう部分は、多い。

 これはあくまでも私の推察だが、当時のインドでは、時間についての観念そのものが今とは
ちがっていたのではないか。
たとえば30年、一昔というが、当時のインドでは、100年単位、200年単位で、時代が動いて
いた。

 あるときあなたはひとつの村を訪ねる。
そこで何人かの村人に会う。が、それから30年後。
再び、あなたはその村を訪ねる。
あなたはそこにいる人たちを見て、驚く。
生活もしきたりも、30年前とまったく同じ。

 生活やしきたりばかりではない。そこに住んでいる人たちも、30年前とまったく同じ。
30年前に会った人たちが、そっくりそのまま新しい人たちと置き換わっている。

 私は輪廻思想が生まれた背景には、そういった時代的背景があったと思う。
つまりあなたから見れば、時間の流れというのが、くるくると回っているかのように見える。
そのくるくると回っているという部分から、「輪廻」という言葉が生まれた。

 それについて以前、書いた原稿が、つぎのものである。
一部、重複するが許してほしい。

+++++++++++++++++

【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

+++++++++++++++++++++

過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

+++++++++++++++++++++

●時の流れ

 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。
学校の社会科の勉強で使ったような歴史年表のようなものでもよい。
過去から、現在、そして未来へと、ちょうど、蒔絵のように、それがつながっている。
それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像する人も
いるかもしれない。
過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。あるいは上書きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。
瞬間の、そのまた瞬間に、未来はそのまま過去となっていく。
そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業を、何千回も繰りかえす。
が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となっていく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出された映
像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思うだけの
話。
本当は、どこにもない。
つまり私にとって、時の流れというのは、どこまでいっても、研(と)ぎすまされた、(現実)でしか
ない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インドでは、そ
れがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。
つまり未来は、やがて過去とつながり、その過去は、また未来へとつながっていく、と。
ちょうど、車輪の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。現代
に視点をおくと、理解できない。
たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)というものが、ほとんどなかった。
「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、100年一律のごとく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人と同じ
ような生活を始める。
同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。
人の動きもない。
話す言葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかもグルグ
ルと回転しているかのように見えるはず。
死んだ人がいたとしても、しばらくしてその家に行ってみると、死んだ人が、そのまま若返った
ような状態で、つまりその子孫たちが、以前と同じような生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、みなが、
生活している。
それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリはいる。
しかしそのアリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえしている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という概念が生
まれた。
輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。
それが輪廻思想へと、発展した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。
現代社会では、古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。
10年一律どころか、数年単位で、すべてが変わっていく。
数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。
している仕事もちがう。
こうした社会では、時の流れが、グルグルと回っていると感ずることはない。
ものごとは、すべて、そのつど変化していく。流れていく。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。
もっとわかりやすく言えば、冒頭に書いたように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長
い帯のようになった年表である。
しかしここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在をとらえ、そして未
来を考えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないということ。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私たちは、過去、現在、未来のとらえかたを、見
誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。
それが発展して、前世思想、来世思想となった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。
しかし釈迦自身は、一言も、そんなことは言っていない。
ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』(釈迦生誕地の残る原始仏教典)を読んでみ
ることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自身は、そ
れについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年を経てか
ら、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称「仏」(仏の生まれ変わりたち)によって、書か
れた経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知れぬ
謎が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見することが
できるかもしれない。

 そこでその第一歩。
あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えているか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。

+++++++++++++++++

●再び輪廻について

 たとえば輪廻というほどではないにしても、毎日が毎日の繰り返し……という人生に、どれほ
どの意味があるというのか。
そのことは、老人介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
(だからといって、そこに住む老人たちの人生に意味はないと言っているのではない。誤解の
ないように!)

 毎日、毎日、同じことを繰り返しているだけ。
同じ時刻に起きて、同じ時刻に食事をして、あとは一日中、テレビの前に座っているだけ。

 これは老人介護センターの中の老人たちの話だが、私たちの生活にしても、似たようなも
の。
今日は、昨日と同じ。
今年は、去年と同じ、と。

 これもひとつの輪廻とすると、私たちがつぎに考えなければならないことは、どうすれば、この
輪廻を断ち切ることができるかということ。

 まさか瞑想(ヨーガ)をすればよいと説く人はいないと思う。
(ヨーガというと、あのO真理教を連想し、どうもイメージがよくない。)
しかしだれも、このままでよいとは思っていない。

 そこでひとつのヒントとして、サルトルは、こう説いた。「自由なる意思で、自由を求め、思考
し、自ら意思を決定していくことこそ重要」と。
つまりこの輪廻を断ち切るためには、「私は私」と、その「輪」の中から飛び出すことではない
か。

……と書いたところで、「ウ〜ン」とうなって、筆が止まってしまった。そのことをワイフに話すと、
ワイフも、そう言った。

私「思いきって、オーストラリアへ移住しようか?」
ワ「移住でなくても、2〜3年なら、いいわ」
私「このままだと、ぼくたちの人生も、このまま終わってしまう」
ワ「そうね。自分たちがどうあるべきか、まず、それを考えなくては……」と。


+++++++++++++++++

【未来と過去】

++++++++++++++

前向きに生きるということは、
未来に展望性をもって生きること。

今すべきことは、今する。自分から
取り組んでいく。

生き方が後ろ向きになったとたん、
その人の人生は、萎縮し始める。

++++++++++++++

●回顧と展望

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後
は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。
今度は、私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは
「それまで生きているかなあ」という程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・
キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後四、500年を経て、しかもヒンズー教やチベ
ット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしても
できない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。
小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまい
ということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるも
のはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。
未来でもない。「今」を、だ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世

 7、8年も前のこと。
日本を代表する(?)、仏教哲学者と言われる人が、釈迦の生誕地を訪れた。
仏門に入ったという、あの女性宗教家である。
その女性宗教家が、釈迦の生誕地へ行き、こう述べた(NHKテレビ番組)。

 「こういうところに立ってみますと、釈迦の説いたあの世というものが、どういうものか、よくわ
かりますね」(記憶)と。

 こうしたウソを堂々と言うところが恐ろしい。
釈迦の生誕地で、釈迦の教えをそのものを、平気でねじ曲げている。
何度も書くが、釈迦はそんなことは、一言も言っていない!

 それはさておき、あの世はあるのか、ないのか。
私にもわからない。
が、私は「ない」という前提で、生きている。
宝くじと同じ。
当たることをアテにし、高額のローンを組むバカはいない。
同じように、あるかないか、それすらもわからない(あの世)をアテにし、今を生きるバカは、い
ない。
 
 あの世があるか、ないか。
それは死んでからのお楽しみ。
あれば、もうけもの。

●葬儀観

 大切なことは、自分で考え、自分なりの葬儀観をもつこと。
ただここで誤解してはいけないことがある。

 ただし、葬儀観には、二面性がある。
(送る人=遺族)でみる葬儀観と、(送られる人=死者)でみる葬儀観である。
送る人(遺族)は、遺族の側で、死生観を確立する。
送られる人(死者)は、死者の側で、死生観を確立する。

 冒頭で、「私は直送でよい」と書いたのは、送られる人(死者)の立場のもの。
だからといって、送る人に、それをぶつけてはいけない。
送る人には、送る人側の死生観がある。

中には、丁重な葬儀を行いながら、他方で、「私は直送で」と考えている人がいるかもしれな
い。
反対に、人の葬儀にはほとんど関心がなく、「私の葬儀だけはていねいにしてほしい」と考えて
いる人がいるかもしれない。

 どうであれ、大切なことは、それぞれがそれぞれを認めあうこと。
自分とはちがうという理由だけで、相手を排斥してはいけない。
死生観というのは、そういうもの。

 その死生観が、そのまま葬儀観になる。

●2050年にはどうなるか

 ところで欧米には、『パラダイス』と呼ばれる薬がある。
安楽死用の薬である。
それがやがてこの日本でも、使われるようになるだろう。
すでに独居老人用の、「遺産管理人」という職業も生まれた。
つまりこの先、高齢者は、みなに迷惑をかけたくないという意思で、自ら死を選ぶようになる。
実は、この私も、そう考え始めている。

 ある年齢になり、はげしい苦痛を伴うような大病になったとする。
そうなったら、私は、安楽死を望む。
すでにそういう話を、オーストラリアの友人にしている。
頼んでいる。
彼は、オーストラリアで医師をしている。

 遺産は、遺産管理人に任し、自らの命を絶つ。
そのあとは、直葬。
密葬。
さらにつけ足せば、散骨。
生前、思い出の深い土地に、遺灰をまいてもらう。

 この先、そういう選択する人たちが、否応なしに、ふえてくる。
これはけっして、憶測でも何でもない。
統計で示された「事実」である。

●骨の破壊と再生

 が、それを不幸なことと思う必要はない。
私たちはその分だけ、「今」を懸命に生きればよい。
「今」の中に、極楽を見、天国を見る。
そういう生き方に切り替えればよい。

 それができれれば、「死」を私たちは克服することができる。
死の恐怖から、解放される。
(あのサルトルも、「死の概念」という言葉を使い、死を克服したぞ!)

 遺骨にしてもそうだ。
人間の遺骨にしても、日々に古い骨は廃棄され、新しい骨が再生されている。
今の今も、そうだ。
何も死んだときの「骨」だけが、遺骨ではない。
またそう考えてはいけない。

骨の寿命、つまり破壊と再生の期間は、2年半程度と言われている。
だからその骨が、どうなろうと、それほど心配することはない。
……というのは、書き過ぎかもしれない。
しかし合理的に考えれば、そうなる。

 繰り返しになるが、重要なことは、「今」をいかに有意義に、楽しく、朗らかに生きるか、であ
る。
そのための哲学、人生観、死生観、そして葬儀観を、確立する。
時間は、あまりない。
というのも、こうした哲学を確立し、自己改革していくためには、10年単単位の時間が必要で
ある。
熟成期間と言ってもよい。
その時間がかかる。

 仮に30歳の人が、その自己改革をめざしたとしても、哲学を確立するためには、10年、20
年とかかるかもしれない。
しかし65歳までには、確立する必要がある。

●ジジババ・ゴミ論

 「ジジババ・ゴミ論」を知り、私は少なからずショックを受けた。
しかし今は、ちがう。
先にも書いたように、ゴミならゴミで構わない。
むしろゴミと居直って生きたほうが、気が楽。
へたにがんばるから、疲れる。
不安になる。
怒りも、そこから生まれる。

 さあ、あなたもゴミであることを、受け入れよう。
(だからといって、他人をゴミと思ってはいけない。誤解のないように!)
ゴミならゴミらしく、ゴミのように生きよう。
それこそ、まさに「無の概念」。

 人を恨まず、憎まず、ねたまず、うらやましがらず……。
ゴミならゴミらしく生きる。
無縁仏であろうが、なかろうが、そんなことは、関係ない。
またそんなことで、あの世で差別されるなら、そのときは真っ先に抗議すればよい。
墓があり、供養されるから、成仏できる。
墓がなく、供養されないから、成仏できない。
そんなバカげた(あの世)が、あるわけがない。
(もし、あるとしたらの話だが……。)
だいたい、「成仏」とは何か。
あえて言えば、幻想に包まれた、単なる思い込み。

 これが私の考えた、「ジジババ・ゴミ論」の結論ということになる。
このつづきは、少し間をおいて、また考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ ババ ゴミ論 ゴミでおおい
に結構 成仏論 はやし浩司 輪廻論 来世論 2050年問題)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【受験競争は、子どもをつぶす&心をつぶす】

●受験競争の弊害について

++++++++++++++++++++++++

 受験戦争の害悪は、3つある。

1.心の破壊
2.学習の功利性
3.虐待性

 そのほかにも、
4.人間の優劣意識の増長
5.挫折によるトラウマ化
6.学習の受動化
7.知識の偏在化、などがある。

++++++++++++++++++++++++

●受験競争の弊害

 ここでは受験戦争の害悪について考えてみたい。

1.心の破壊

 受験競争を経験すると、子どもの心から温もりが消える。
高校生よりも中学生、中学生よりも小学生のほうが、影響を受けやすい。
受験塾の「夏の特訓教室」に参加しただけで、ガラリと人柄が変化することも珍しくない。
親は「やっと心構えができました」などと言って喜んでいるが、それ以上に大切なものを破壊さ
れていることに気づいていない。

 子どもにとっても、不幸なことである。
ある中学2年生(男子)は、夏の間、東京にある母親の実家から、有名進学塾に通った。
(「有名」という言い方は、本当に不愉快だが……。)
で、1か月後に帰ってきたが、たしかに別人になっていた。
気取り始めたというか、仲間の中でも、「ぼくは別格」という意識を強く表に出すようになった。

 が、誤解がないように言っておく。
1か月程度、どこかの進学塾に通った程度で、学力があがるなどということは、ありえない。
絶対に、ありえない。
催眠術にでもかかったような状態にはなることはあるが、その程度。
よくカルト教団に入信した信者が、独特の優越感をもつことがある。
それに似ている。
他人の思想を注入してもらっただけで、自分が優秀になったと思い込んでしまう。
返す刀で、他人を下に見る。
そういうことはある。

2.学習の功利性

 「功利性」というのは、極端なばあい、「親のために勉強してやる」という意識をもつことをい
う。
中には、「親がうるさいから、どこかの大学に入ってやる」と言い出す子どももいる。
さらに親が「勉強しろ」と言えば言うほど、親は、その責任を取らされる。
「100点、取ったから〜〜を買ってよこせ」と。
実際、親に向かって、こう言った子ども(高校1年男子)がいた。
「(学費の安い)公立高校へ入ってやったから、バイクを買ってよこせ」と。

 さらには、親が事業に行き詰まり、倒産したときのこと。
親が娘を呼んでこう言った。
「お金がないから、大学進学をあきらめてくれ」と。
その娘は、この言葉に、猛反発。
「親らしく責任を取れ」「借金でも何でもして、私を大学へ出すのは、親の義務!」と。

 勉強イコール、自分の利益と結びつける。
これを「功利性」という。

3.虐待性

 親は子どものためと思い、子どもに向かって、「勉強しろ」と言う。
その言葉自体は、日常会話的なもの。
が、同時に、無意識のうちにも、子どもを脅すことがある。
「こんな成績では、〜〜中学へは入れないわよ」
「あなたはダメになってしまうのよ」と。

 これはある塾教師が教えてくれた話である。
こう言った。
「ある母親は、子どもに近くの公園に住むホームレスの人たちを見せ、こう言ったという。
『あなたも勉強しなければ、ああなるのよ』と」と。
とんでもない母親ということになるが、子どもの受験競争には、そんな魔力もある。
人間としての常識を狂わす。

 恐怖と不安で、子どもを追いつめる。
その上で、「勉強しろ」と言えば、これはもう立派な、虐待である。

3.人間の優劣意識の増長

 勉強ができる子どもは、おかしなエリート意識をもつ。
明治以来の学歴主義という、亡霊が、いまだにのさばっている。
そのエリート意識が、子どもの心をゆがめる。
私の知人の中には、会社を退職し、70歳を過ぎても学歴を振りかざし、威張っている男がい
る。
私に向かって、こう言った。

 「ぼくは、努力によって、ここまでの人間になりました」と。

 私たちの世界では、こういう人間を、「バカ」と呼ぶ。

3.挫折によるトラウマ化

 受験競争の恐ろしいところは、失敗したときにわかる。
(不合格イコール、「失敗」ということではないのだが……。)
それがトラウマになり、弱化の原理として働くようになることがある。
何をしても、ここ一番というときに、しりごみをしてしまう。

 だから私はいつもこう言う。
「子どもの受験勉強は、不合格になったときを考え、準備しなさい」と。
とくに小学受験や中学受験では、注意する。
この年齢の子どもには、その「失敗」を自己処理する能力は、まだない。
劣等感(コンプレックス)の種としてしまうことが多い。

 が、仮に不合格になったとしても、親がそれを笑ってすませば、子どもはそれをトラウマ化す
ることはない。
子どもは親の様子を見て、「失敗した」ことを知る。
自信を失う。
それが弱化の原理として、子どもをうしろ向きに引っ張ってしまう。

3.学習の受動化

 ある東大生が、こう言ったという。
「答のない問題を、させないでほしい」と。
これは恩師の田丸謙二先生から、聞いた話である。

 あるとき田丸謙二先生が、1人の学生に何かの研究テーマ(問題)を与えた。
で、それについてその学生がこう聞いた。
「この問題には、答があるのですか」と。
それに答えて、田丸謙二先生が、「ありません」と言うと、先の言葉が返ってきたという。

 答のない問題しか、解かない。
だれかが用意した道しか、進まない。
学習の仕方が受動的になると、そうなってしまう。
子どもの受験勉強でも、だれかに指導してもらわないと勉強できなくなってしまう。
参考書を読み、それを頭の中に叩き込むことはうまくても、自分で道を切り開くことができなくな
ってしまう。
だからこう言う。

 「答のない問題を、させないでほしい」と。

3.知識の偏在化

 受験勉強で学ぶ範囲というのは、きわめて限られた範囲の「知識」でしかない。
ないことは、毎年大手の出版社から発刊される、「辞典」を見ればわかる。
私も数年前、それを調べてみた。
「イミダス」という辞典である。

 で、中学校や高校で学ぶ科目は、ドの程度のものか、その割合を調べてみた。
「イミダス」は、社会一般で使われている、広い「知識」を網羅している。
が、驚いたことに、理科、社会にしても、その数10分の1にもならなかった。

 が、受験生たちには、それがわからない。
受験教育で与えられる「知識」が、すべてと思い込んでしまう。
つまり極端化された一部の知識をもって、それが人間が生きていくために必要な、「全」知識と
思い込んでしまう。
これはたいへん不幸なことでもある。

 反対にこういうこともある。

 私など文科系の大学を出たこともあるが、大学を卒業してからこのかた、実生活の中で、二
次方程式はおろか、一次方程式すら、使ったことがない。
歴史の年号など、すべて忘れた。
国語にしても、この30年以上、直木賞受賞作品も、芥川賞受賞作品も、読んだことがない。

 が、この日本には、おかしな偏見が蔓延している。
学問のアカデミック性は、大切なことである。
それはよくわかるが、その一方で、「実用的なことを教えるのは、教育ではない」と。
アメリカでは、中学校の数学は、中古車の買い方から教える(プレンティス版「代数」)。
その中で、小切手の書き方も教える。
日本の教育と、指導の目的、内容そのものがちがう。

 が、受験生にはそれがわからない。
「合格するため」に、「学ぶ」。
「学ぶ」の語源は、「まねる」だそうだ。
そういう教育をもって、「教育」と思い込んでしまう。

 ついでに言えば、あの直木賞にせよ、芥川賞にせよ、そういった賞を取る作家というのは、
「文章のために文章を書く作家」という印象を強くもっている。
先日も芥川賞の受賞作家がテレビで紹介された。
が、見るからに「?」。
まともでない。
私はその男を見たとき、「こんな男の書く文章など、読みたくもない」と思ってしまった。

●AO入試

 こうした受験競争の弊害をなくそうと、さまざまな努力がなされている。
AO入試と呼ばれる入試方法もそのひとつ。
が、『敵も然る者……』、その春には、予備校ではその対策講座が開かれる。
つまりイタチごっこ。

(AO入試については、何度も書いてきたので、今回は省略する。)


●終わりに

 受験競争は避けては通れない道かもしれない。
しかしここに書いてあることを知っているか、知っていないかだけでも、子どもの世界を見る目
は変わるはず。

 何も考えず、一方的に子どもに受験競争を強いるような「愚」だけは、避けたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 受験競争 受験勉強の弊害 問
題点 受験は子どもの心をつぶす はやし浩司 子どもの受験対策)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【ある母親からの相談】(YOUTUBE)

●やる気をなくした子どもを、どうすればよいか

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Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【年中児に、長さを教える】


(1)
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(2)
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(3)
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Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【頭の中の、脳電流】(人間の欲望と醜さ)

●冷たい風

 冷たい風。
道路へ出たとたん、その風が肌を切る。
思わず、ワイフに手を回す。
ワイフの背中に隠れる。

 毎週、この曜日のこの時刻には、サイゼリアへ。
サイゼリアで空き時間を過ごす。

 急ぎ足。
首をすくめ、黙ったまま、歩く。
ワイフがいろいろ話しかけてくる。
答えるのも、つらい。
ただひたすら黙って、歩く。

 昨夜は全国的に、大雪だったとか。
猛烈な寒気団が、今、日本列島を覆っている。

●サイゼリア(レストラン)にて

 サイゼリア。
ドリンク・バーがある。
最初に注文すると、飲み物類は、飲み放題。
紅茶にジュース。
コーヒーにウーロン茶。

 そのドリンク・バーに並んでいたら、前に立っていた女性が、手づかみでミルクカップをもって
いった。
2〜3ccほど、ミルクの入った、ミニカップである。
数は、10〜15個?

 ふつう、紅茶1杯に1個を入れる。
それを10〜15個?

 私の気配を感じていたはず。
私はそれをうしろから見ていた。
が、おくびれる様子もなく、手づかみで……。
ごっそり!

 驚く間もなく、そのままハイヒールのかかとを、カンカンと床に叩きつけながら、自分の席へ。
茶髪の、OL風の女性だった。
見た目には、美しい女性だった。
女性週刊誌から飛び出たようなファッションで、身を包んでいた。

●都会ズレ
 
 「都会ズレ」という言葉がある。
謙虚さが消え、図々しくなる。
欲望の趣(おもむ)くまま、行動が大胆。
YES/NO、ON/OFFが、はっきりしている。

 そのくせ外見だけは、すばらしい(?)。
一説によると、このタイプの女性は、毎日、2時間前後、化粧に時間をかけているという。
ワイフがそう言った。

 ……そう言えば、テレビS局のディレクター氏も、そう言っていた。
「あのAさんね、控室でいつも、2時間以上も化粧していますよ」と。
その女性は、一方で、アフリカの難民救済運動も手がけていた。
私はそういう話を聞くと、頭の中で、脳電流がショートする。
バチバチ……。

 理由は書けない。
が、間接的にこう書けば、理解してもらえると思う。

●盗み

 ずいぶんと昔の話だが、こんな女性(当時、70歳くらい)がいた。
近所を回りながら、気に入った花や植木鉢があると、家にもっていく。
石垣に咲いた花などは、根さら、ごっそりともっていく。
「盗み」というほど、大げさなものではない。
本人にも、罪悪感はなかったのかもしれない。

 それもあって、多くは、堂々と、自分の家の前に飾っていた。
で、盗まれた側の人がそれを見つけ、「私のものだ」と言っても、最後の最後までとぼけてみせ
た。

 が、私はこの話を聞いて、同じように頭の中で脳電流がバチバチとショートするのを感じた。

「美しい花をめでる」という気持ちと、「盗む」という醜い行為が、どうしても一致しない。
私なら……という言い方は、できるだけ避けたい。
避けたいが、私なら盗んできた花で、自分の心を癒すことはできない。
かえって不愉快になる。

●悪臭プンプン

 万事が一事。

 さて冒頭の女性の話に戻る。
ときどき、私はその女性のテーブルの前を通り、ドリンク・バーへ。
が、10〜15個(あるいはそれ以上かも?)あった、ミルクカップは、テーブルの上にはなかっ
た。
おそらくバッグか何かの中に、しまったのだろう。
私はそのときも、頭の中で、脳電流がショートするのを感じた。

 見た目には、美しい女性である。
都会的なセンスで、身のこなしも、優雅?
しかし中身は、薄汚い。
悪臭プンプン。

●両親からの紙を握りつぶす

 さらにこんな女性(=嫁)も。

 現在、その夫婦は東京都に住んでいるという。
夫の実家は、この浜松。
で、実家の両親が手紙やメールを出すのだが、妻(嫁)のほうが、その手紙やメールをすべ
て、握りつぶしてしまうという。
実家の両親と夫とが、直接連絡を取り合うのを、妨げている。

 理由はわからない。
その話をしてくれた友人は、「私にも理由がわからない※」と。
で、その友人が、ある日、直接出かけていって、夫(=自分の息子)にそれを正すと、息子氏は
こう言ったという。

「K子(=嫁)の悪口を言うのは、たとえ親でも許さない」と。

 それでその友人と息子の関係は、切れた。
私は、そのときも、頭の中で、脳電流がショートするのを感じた。
バチバチ、と。

(注※……あとになって友人がこう説明した。
一度、結婚前に、その女性が浜松へ来たとき、友人の妻(=母親)が、その女性のひざのうし
ろに、妊娠線を見てしまった。
妊娠経験のある女性にできる、白い線である。
で、そのことを、それとなく息子氏に話した。
「どうも、それが原因で、嫁は私たちを避けるようになったのでは」と。)
 
●心の不一致

 心の不一致。

 美しく身を飾りながら、心の中は、薄汚い。
あのAというタレントにしても、そうだ。
何も本番の前に、2時間、化粧するのが悪いと言っているのではない。
ただ「難民救済運動」をするという崇高な精神の持ち主が、2時間もかけて化粧する?
それは私の常識ではない。

 さらに美しい花を愛(め)でるという行為と、盗み。
美しい衣服と、ミニカップをごっそりと持ち帰る。
夫婦が、たがいに偽りあう。

 どれも、心の中が、バラバラ。
連続性がない。
一貫性もない。
心理学の世界では、「きわめて道徳心に欠ける人」ということになる。
マズローの『道徳完成論』をあげるまでもない。
さらに言えば、マズローの『欲求段階論』がある。
自分の欲求がどのレベルにあるかで、自分の道徳の完成度を知ることができる。

●欲求段階論

 マズローは、人間の欲求を、つぎの5つの段階に分けた。

(1)第1段階……生理的欲求(「生きていたい」と思うこと。)
(2)第2段階……安全に対する欲求(身の安全を確保すること。)
(3)第3段階……所属と愛情の欲求(安心してよりかかえるところを求める。)
(4)第4段階……承認と自尊の欲求(より人間らしく生きたいという欲求。)
(5)第5段階……自己実現の欲求(自分をより完成させたいという欲求。)

 マズローは、個人の発達段階として、この段階説を唱えた。
しかし人間の歴史という長いスパンでみると、そのまま人間の歴史にも、この段階説を、当て
はめることができる。

 最終的には、「自己実現」の欲求ということになる。
が、その段階まで到達できる人は、少ない。
たいはんの人は、ファッションで心を隠し、化粧で、自分をごまかす。
「美」の追求といっても、うわべだけ。
あとは欲望の趣くまま。
夫婦の誠実さなど、腸から出るガス程度の意味しかない。

●サイゼリア

 私たちは時計をにらみながら、サイゼリアを出た。
あたりは真っ暗になっていた。
それだけに、冬の寒さが、よけいに身にしみた。

 はやし浩司 2012−01−24夜記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 マズロー 欲求段階説 欲望段
階説 脳の中の火花 ショート はやし浩司 頭の中の脳電流 言動不一致)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●今週のBW教室より

(1)4歳児の自己主張

 4歳児でも、ここまで自己主張します。
ご覧ください。

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(2)笑って伸ばす、子どもの心

 2011年、私は2人の子どもについて、こんな経験をした。
1人は、それまで2年間、幼稚園で「まったくしゃべらなかった子ども」。
もう1人は、「小学校へ入学するまで、まったくしゃべらなかった子ども」。
が、その2人の子どもは、私の教室へ入るとまもなく、しゃべり始めた。
方法は簡単。
みなで、ゲラゲラと笑いながら、その笑いの渦の中に巻き込んでいく。
見た目には、ふざけたレッスンになるが、そういう私の隠された意図を、この動画の中に見出
してくれれば、うれしい。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/NioXTG7DtFo" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

【もっと見てくださる方は……】

http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html

(↑)「はやし浩司のBW公開教室」へ。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●愛知県A市、民宿「H」に一泊)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

明日は、A市の教育会館で、講演。
それを理由に、今夜は、隣町のN町に一泊。
浜松市の自宅から、東名高速道路を経由して、1時間30分。

民宿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●民宿

 で、民宿と呼ばれる宿に泊まるのは、10年ぶり?
ペンションには、1度泊まったことがある。
が、民宿は、10年ぶり?
覚えていないが、それくらいにはなる。

 言い換えると、私たちの生活は、それだけぜいたくになった。
ぜいたくが当たり前の生活になった。
今では、学生でも、一流ホテルに泊まる。
民宿に泊まるのは……?
ひょっとしたら、10年ではなく、20年ぶり?
この民宿「H」にしても、「予約があるときだけ、やっています」と。

●TAMIYAの「戦艦大和」

 ところで今日、TAMIYAの戦艦大和が届いた。
定価は2万4000円前後だが、AMAZONで買ったら、1万6000円前後だった。
知る人ぞ知る、プラモデルの最高傑作。
超大型モデル。
縮尺は、350分の1。

 学生時代から、「一度は……」と思っていた。
「一度は作ってみたい」と。
とうとうその夢が、実現した。
息子に手伝ってもらえば、できるはず。

●宿にて

 エアコンを最高の31度に設定した。
それから半時間。
やっと部屋の中が暖かくなってきた。
どこか風邪ぽい?
おかしな寒気を感ずる。
部屋に入ったときから、水鼻が出るようになった。

 で、目下、インフルエンザが、大流行中。
警戒するに越したことはない。
今年、私は予防接種をしていない。
ワイフや息子はしたが、私はできなかった。
いつもの医院へ行ったら、「もう在庫がありません」と。

 気をつけよう。

●旧市街

 通りは、「X町通り」となっている。
部屋は2階。
通りから、ひっきりなしに街の騒音が聞こえてくる。
削岩機がコンクリートを削る音。
そんな音も、時折、遠くから聞こえてくる。

 どの店も元気がない。
そんな通りを、車がザザーッ、ザザーッと行ったり来たりしている。
その音が、嵐の日の、窓ガラスを叩きつける雨の音のよう。

その商店街通り。
家と家の隙間がない。
この街並みは、故郷の美濃町と同じ。
道に面した窓からだけ、外の明かりが入ってくる。
私は高校を卒業するまで、こういう街中に住んでいた。
どこか懐かしかった。

 ……そんなことを思い出していた。
眠くなる目を、懸命にこらえながら……。

●「信ずる」

 子どもを信ずるということは、どういうことなのだろう。
たとえば夫婦や恋人どうしなら、「疑わない」ということ。
が、相手が子どものばあいは、ニュアンスがややちがう。

 あえて定義するなら、「能力を認める」ということ。
というのも、「愛する」とか、「信ずる」とかいうが、中身が、きわめてあいまい。
抽象的。
「子どもを信じなさい」と言われた親だって、困る。
「どうすればいいの?」と。

 そこで私は、こう考えた。
「信ずることは、子どもの能力を認めること」と。

●「能力を認める」

 この私も、母に、泣かれたことがある。
私が「幼稚園の先生になる」と言ったときのことだった。
が、あのとき母だけでも、私を信じてくれていたら、そののちの私の人生は、大きく変わってい
ただろう。
母を責めているのではない。
母は母で、当時の常識として、そう言った。

 その「信ずる」。
私の能力、つまり、能力がもつ方向性、それを認めてほしかった。
それでここに書いたように、「信ずること」イコール、「能力を認めること」と考えるようになった。

●公務員の給料、8%削減?

 Yahooニュースは、つぎのように伝える。

『……国家公務員の給与を引き下げる臨時特例法案をめぐり、民主、自民、公明3党は25日
午前、国会内で実務者協議を開いた。
民主党は今年3月から平均0.23%引き下げる人事院勧告(人勧)を実施したうえで、同4月
からさらに平均7.8%を上乗せし、計平均8.03%減額する修正案を提示』(ヤフーNEWS)
と。

 しかし問題は、給料ではなく、「手当」。
1人ひとりの公務員に責任があるわけではないが、「手当」にメスを入れないかぎり、ただのザ
ル法案。
職種によっては、20〜30種類もの手当はつくのがある。
その手当の額が大きい。

役人のことだから、あの手この手で、法案を骨抜きにしてしまうはず。
今までも、ずっとそうだった。
「減額された分は、手当で補てんします」と。

 それに今ごろ、8%!

 私の親しい友人(H市市役所勤務)は、すでに15年以上も前に、こう言っていた。
「私ら、本当に、公務員になっていてよかったです」と。
物価はさがる。
給料はさがらない。
職を失う心配は、ゼロ。
退職金も年金も、満額!

 今では同じ職種でも、公務員と民間とでは、2倍近い開きがある(「週刊文春」)。
さらにこんな謀略も……。

●年収500万円

 今度から、年収が500万円以上あるときは、年金が減額されることになったという。
まだ法案が通過したとは聞いていないが、たぶん、そうなるだろう。

 しかし年金といっても、どの年金をいうのか。
もしそれが基礎年金(国民年金)のことをいうなら、これほどまでにずるい謀略はない。
こういうこと。

 この先、日本経済は左前になる。
よくなるなどということは、考えられない。
そのときこの日本を、猛烈なインフレが襲う。
(=円の価値がさがる。)
現在、500円のラーメンが、1000円とか、2000円とかになる。
ハイパーインフレが日本を襲えば、タクシーの初乗り代が、1万円になることも考えられる(経
済雑誌ほか)。
当然、その分だけ、名目上の給料はあがる。

 大卒の初任給が、年収にして500万円とか、そうなる。
もしそうなったら、年金は、どうなるか。
先の法案が通れば、年金が自動的に減らされることになる。

 現在の今は、「500万円もあれば、減額されても、しかたない」ということになる。
が、2年後、あるいは3年後には、そんなことは言っておれないだろう。

 「だから今のうちに、法案を通しておけ」と。
つまり先手を打った(?)。
それにしても、官僚の考えることは、ずるい。

●風呂

 風呂は、家族風呂。
2人槽?
温泉に入った気分にはなれなかったが、ゆっくりと体を休めることができた。
気持ちよかった。
「宿」というよりは、どこかの知人宅か親戚に泊まったような気分。

 途中からワイフが入ってきた。
話題はもっぱら、「終の棲家(ついのすみか)」。

 寝室と風呂、トイレは隣りあわせにする。
段差はゼロ。
ドアの開口部は広くする。
ドアより引き戸がよい。
手すりを張り巡らせる。
畳はやめて、板間にする、などなど。

ほかに、ベッドは電動式のもの。
風呂は車椅子でも入れるようにする、などなど。
資金は、敷地を半分売れば、何とかなる。

……家の間取り図は、頭の中にできているのだが……。

●眠い

 午後から眠かったが、夕食後、眠気がぐんとました。
「横になろうか……」、
「もう少し起きていようか……」、
……目下、思案中。


●シャッター街
 
 そのとき気がついた。
駅前は、シャッター街になっていた。
商店街が並んでいたが、どこも看板の文字さえ読めないほど、色あせていた。
それぞれの家には、それぞれの、つらい思い出があるにちがいない。
ふつうの(つらさ)ではない。

 わずかな希望に、明日を託して生きる。
が、明日になってみると、さらにその希望が小さくなる。
毎日がこの繰り返し。
それが5年、10年とつづき、やがてシャッターをおろす……。

●不景気

 先日も、浜松市内で弁当店を経営している、F氏がこう言った。
「不景気ですね」と。
会うたびに、そう言う。

 こういう小さな町に来てみると、それが痛いほど、よくわかる、
不景気なら不景気でよい。
が、日本は、20年前を境に、それ以前の日本へと後退している。
このままでは、戦後直後の日本に逆戻りしてしまう。

 この宿にしても、40年前の下宿屋にそっくり。
私は毎日、毎晩、ただひたすら勉強したのは、勉強が好きだったからではない。
勉強以外にすることがなかった。
遊ぶ、お金もなかった。

●「団塊の世代は敵」

 若い人たちから見れば、日本の繁栄を食いつぶしたのは、私たち団塊の世代ということにな
る。
2チャンネルの投稿を読んでいると、それがよくわかる。
一方、団塊の世代は、(私を含めての話だが)、そうは思っていない。
「この日本を支えてきたのは、私たち」という自負心が強い。
ただひたすら、企業戦士となり、一社懸命でがんばってきた。
家庭を犠牲にした人も多い。

 この意識のズレを理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要があ
る。

●飽食と贅沢(ぜいたく)
 
現在の20代、30代の人たちが生まれたころは、日本経済はまさにバブル経済の真っ最中。
子どもが生まれると、祖父母までやってきて、蝶よ、花よともてはやした。
まさに飽食と贅沢。
それが当たり前の世界だった。
七五三の祝いに、ホテルや料亭を借り切って祝う家も、少なくなかった。

 が、こうした育児観を批判する人もいるには、いた。
私もその1人だった。
当時、書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。

2作、つづけて紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「費用もかえって、安いのじゃないかしら?」

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

七五三の祝いを式場で?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●費用は一人二万円

 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。
何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。
見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女の子(6歳ぐらい)が、中央にすわり、
これまた結婚式場のように、列席者がその前に並んでいた。

費用は一人二万円くらいだそうだ。
レポーターが、やや皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その
母親はこう言った。
「家でするより楽で、費用もかえって、安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房

 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。
私たちは、結婚式すらしてない。
と言うより、できなかった。
貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだったが)、私が今の
女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、「香港へ行きた
い」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでおしまい。

実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。
反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけ
でも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも
流れてしまった。
さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」

 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。
「何か、おかしいわ」と。
つづけて私も言った。
「おかしい」と。
すると女房がまたこう言った。
「私なら、あんな祝い、招待されても行かないわ」と。
私もそれにうなずいた。

いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなものだったかもしれない。
しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。
子どもを大切の思うということ。
そのことと、こうした祝いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからと
いって、子どもを愛したことにも、大切にしたことにはならない。
しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。

むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。
「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢
心である。
その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。
こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

 さらに……。
子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでなければ、結局は
その子ども自身が、……? 
この先は、私の伯母のことを書く。

●中途半端な人生

 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。
自転車屋の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。
店の窓ガラスさえ拭いたことがないという。
そういう女性がどうこうというのではない。
その人はその人だ。
が、問題はなぜその女性がそうであったかということ。
その理由の一つが、その女性が育った家庭環境ではないか。

その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。
農家の出身だが、子どものころ畑仕事はまったくしなかったという。
そういう流れの中で、その女性はそういう女性になった。

●虚栄の世界で

 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。
娘と息子がいたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊
を習わせた。
金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。
あとは一事が万事。

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。
たしかにその女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったの
かどうかということになると、それは疑わしい。
結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、さりとて上流階級の奥様にもなれ
ず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。

●子どもはスポイルされるだけ?

 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。
ダメになる。
それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期待するほうが
おかしい。
友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。

 で、その女性にはつづきがある。
その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。
五月の節句になると、軒下に花飾りをつけた。
そして近所に、甘酒を配ったりした。
家計は火の車だったが、それでもそういうしきたりはやめなかった。
友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」という苦情が届いたこともある。

●子どもというのは皮肉なもの

 子どもというのは不思議なものだ。
お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。
ドラ息子化する。
親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。
苦労がわかる子どもになるから、やさしくもなる。
学習面でも伸びる。
もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗りこえる忍耐力も、そこから生まれる。
「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいことは言うまでもない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?

子どもに与えるお金は、100倍せよ

●年長から小学2、3年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学2、3年にかけて完成する。
この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。
が、それだけではない。
子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。
これがこわい。

●100倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、100倍にして考えるとよい。
100円のものなら、100倍して、1万円。
1000円のものなら、100倍して、10万円と。
つまりこの時期、100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものを買ったときの満足
感と同じということ。
そういう満足感になれた子どもは、やがて100円や1000円のものでは満足しなくなる。
中学生になれば、1万円、10万円。さらに高校生や大学生になれば、10万円、100万円とな
る。
あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与
えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。
あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。
しかしこれはまったくの誤解。
あるいは実際には、逆効果。

一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。
子どもはさらに高価なものを求めるようになる。
そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

 先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。
何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、60歳前後の女性がゲームソフト
屋の前に並んでいるというのだ。
しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。

その番組の中では、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子
ども(孫)は、こう言っていた。

「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。
つまり1人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲ
ーム屋の前に並んでいるというのだ。
その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろう
が、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。

苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。
その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのでは
ないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。
少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思
い出」。
この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。
アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素
である。
少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだっ
た。
それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。

日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそ
れが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。
さて誕生日。
あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだ
ろうか。
ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 七五三 祝い ホテル 結婚式 子どもの金銭感覚 金銭教育 はやし浩司
 七五三の祝い 飽食と贅沢 自分を見失う子ども 子供 はやし浩司 釣り竿を買ってやるよ
り 寒空に並ぶ祖母)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●神国日本

 20代、30代の人たちの目から見れば、こうなる。
「日本の繁栄を食いつぶしたのは、団塊の世代」と。
少なくとも、私たち団塊の世代に感謝している若い人は、いない。
それはちょうど、私たち団塊の世代が、戦時中、戦争に行った人に感謝していないのとよく似
ている。
むしろ逆で、「どうしてあんなバカな戦争をしたのだ」と、非難する。

 当時の人たちは、国策として洗脳※されていたとはいえ、「神国日本」のために、命をかけ
た。
戦った。

(注※……私たちは常に国家によって、洗脳されている。
私にもこんな経験がある。

 オーストラリアへ留学生として渡ったときのこと。
オーストラリア人の学生がこう聞いた。
「日本ではなぜ、軍事教育をしているのか?」と。
そこで私が「していない!」と断言すると、こう言った。

「日本の男子学生は、みな、陸軍服(学生服)を着ている。
女子学生は、水兵服(セーラー服)を着ている。
それに軍隊ももっているではないか」と。

 そこで私が、「あれは軍隊ではない。セルフ・デフェンス・アーミィ(自己防衛隊)だ」と言うと、
みなが、ドッと笑った。
「どこの国の軍隊が、自国を守らないということがあるか」と。

 私は「自衛隊は軍隊ではない」と教えられていた。
つまりそのように洗脳されていた。)

●感謝

 だから……というわけでもないが、現在の高校生や大学生は、親に感謝などしない。
高校生で、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、ほぼゼロ。
大学生でも、少ない。
それもそのはず。

 子どもたちは幼いころから、「勉強しろ」「勉強しろ」と尻を叩かれている。
だからこう言う。
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と。

 私の3人の息子たちにしてもそうだ。
ごく平均的な高校であり、大学生だったと思う。
思うが、このかた、ただの一度も、私に感謝の念を伝えたことがない。
親の私は、老後の貯蓄を切り崩して、学費を工面した。
が、そんな親の気持ちや苦労など、どこ吹く風。
私が新しいパソコンを買ったときも、息子の1人は、私にこう言った。

「無駄づかい、するな!」と。

 私が自分で働いて、自分で買ったパソコンである。
それについても、そう言う。

●意識

 結局は意識の問題ということになる。
その意識が、180度、ズレている。

 が、私たちは私たちの意識を基盤にして、ものを考える。
「私たちがこうだから……」と。
つまり「子どもたちには、これだけのことをしてやったのだから、内心では感謝しているはず」
と。
私のワイフも、ときどき、そう言う。
が、残念ながら、私の息子というより、現在の若い世代の人たちには、そういう意識は、まった
くない。

 意識というのは、そういうもの。
シロか、クロか。
それしかない。
むしろ逆恨みされる。
「この日本をダメにしたのは、パパたち、団塊の世代」と。

それともあなたは、戦時中、戦争に行き、日本のために戦争をしたあの世代に、感謝している
とでも言うのだろうか。

●グチ

 悲観的なことを書いた。
が、こうした町に泊まってみると、それがよくわかる。
本来なら、今、マレーシアやインドネシアに立っている高層ビルが、この町にあってもおかしくな
い。
が、それがない。
どこにも、ない。

 立派な建物といえば、どこかのゼネコンが請け負った公共施設だけ。
本来なら……と書きたいが、この先は、グチになるだけ。
書いても意味がない。

 ただこういうことは言える。

 一見、華々しく見える日本経済だが、現状を知りたかったら、こうした町の、こうした民宿に泊
まってみることだ。
ここに今、日本の原点がある。

●講演

 鼻水は少し出るが、風邪の症状は収まったようだ。
よかった!
明日は、講演。
が、私は妥協しない。

 どんな小さな町の講演であっても、手を抜かない。
真剣勝負。
そう言えば、先ほど、携帯電話に、電話がかかってきた。
N市の教育委員会の人からのものだった。
来月、そこで講演をすることになっている。

それについて、要するに、「ふつうの講演をしてほしい」ということらしい。
先週、私は、こんな演題をつけた。
「六諏輪廻の……闇路に迷う愚痴親父」と。
それがまずかった?

 「改めて、書き直します」と返事を書いた。

●就寝

 そろそろ眠くなってきた。
ワイフは、すでに寝支度を整えている。
私も、先ほど、歯を磨いた。

 ……長く通った歯科医院が、閉鎖され、すでに1年以上になる。
今度から、K歯科医院に通うつもりでいる。
私の教え子が、その医院で、歯科医師をしている。
楽しみなような、恐いような。
「あのときの恨み、今、はらす……」と、グサリとやられるかもしれない。

 ……学生時代を久々に思い出した。
あのころもこうして徹夜でパソコンを叩いていた……というのは、ウソ。
当時はまだ、パソコンはなかった。
工学部に、電子計算機というのは、あった。
教室1部屋を占めるほど大型のもので、窓の外からのぞくと、紙テープがバラバラと音をたて
て飛び出していた。
それを見て、私は、こう思った。
「なんだ、こんなものか!」と。

 それから40年。
今、ここでこうして使っているパソコンのほうが、当時の電子計算機より、性能は、はるかによ
い。
それを考えると、不思議な感覚に襲われる。

(おやすみなさい。はやし浩司 2012−01−25)

●1月26日(木曜日)

 朝は、5時に目を覚ました。
エアコンの、乾燥した風を感じ、目が覚めた。
のどがカラカラだった。

 ……ニュースサイトをのぞくと、長野市で、積雪151センチとあった。
151センチ!
その量に驚く。
道理で、昨夜は、寒かった。

 しばらくしてワイフが目を覚ました。
夜中に右手を、ダニに刺されたという。
見ると、手首からひじにかけ、点々と赤く腫れていた。

 「朝食は遠慮しよう」と私。
「近くのコンビニで何かを買って食べるわ」とワイフ。

●円高vs貿易赤字

 もうひとつのニュースは、日本の貿易収支が、昨年(2011年)赤字になったこと。
「円高不況」とは言われるが、もし今「円安」だったら、貿易赤字は、さらに膨らんでいたはず。

どうであるにせよ、2012年の日本は、たいへん暗い。
今は、EUの金融危機問題で関心が、EUに移っている。
が、皮肉なことにEU問題が片づけば、つぎは日本?
あるいは中国?
あるいはアメリカ?

 このところ韓国のウォンが急上昇している。
(今日現在、1ドル=112円台。先月は、117〜116円前後。)
韓国がターゲットにされている可能性も、きわめて高い。

●教育

 教育というのは、今、組み立てても、その成果が表れるのは、20〜30年後。
言い換えると、教育は、常に20〜30年後を見据えてする。
そのよい例が、シンガポール。
シンガポールは、「Look East(日本を見習え)」と、20〜30年前に、その準備をした。
こんな例がある。

 私がいたオーストラリアのIHカレッジ(メルボルン大学)には、世界中から留学生が集まって
いた。
が、それぞれの国の留学生は、それぞれの国の国情をそのまま反映していた。
独裁国家からの留学生は、王子や皇太子など。
フィリッピンなどの軍事国家の留学生は、軍人。
そしてシンガポールからも留学生が来ていたが、彼は「教師」だった。
名前を、チュー・チー・サンと言った。

 日本から行った私は、三井物産という会社の内定を延期してもらい、オーストラリアに渡っ
た。
日本は当時、経済立国をめざしていた。
当時の私は、「なぜ、教師が?」と思ったが、今にしてみると、シンガポールは、教育に全精力
を注いでいた。

 これからの日本を支えるには、「教育」しかない。
が、その教育は、……?
少なくとも今、日本がしている程度の教育なら、世界中、どこでもしている。
英語の国際検定試験では、ビリから数えたほうが早いほど。
こんな状態で、日本は2050年を乗り切ることができるだろうか。

 つまり今の日本に必要なのは、教育の大改革。
自由化。
基本的な主要科目は、学校で教える。
それ以外は民間に委託し、自由競争に任せる。
たとえば英語教育などといった科目は、民間に任す。
月謝は、バウチャー券方式で補助すればよい。

 高校、大学の単位の共通化は、常識。
フリースクールも、これまた、常識。
今のように、学校以外に道はなく、学校を離れて道はない。
そんな制度のほうが、遅れている。
おかしい。
その(おかしさ)に、みなが気づく。

 が、同時に、職業格差、給与格差、官民格差を是正する。
これが残るかぎり、受験競争はなくならない。
学外教育といえば、受験教育。
そうなってしまう。

 要するに、子どもたちのもつ多様性に合わせて、無数のコースを用意する。
その選択は、子ども自身に任す。
なぜ今、この日本で、「武士道」なのか?
「論語教育」なのか?
方向性がまちがっているというより、バカげている。

●豆腐系人間

 とは書きつつも、このところ私も自信を失いつつある。
子どもたちの世界でも、たくましい子どもほど、嫌われている。
自己主張のはげしい子どもほど、嫌われている。
「できの悪い子」と。

 そのかわり生まれてきたのが、草食系ならぬ、豆腐系人間。
おとなしく、ハキがなく、ナヨナヨしている。
男子なのに、ピンクの花柄パンツをはき、耳や鼻には、金物をぶらさげている(高校生)。
「日本は……?」と問いかけただけで、「ダサイ!」と言って、はねのけてしまう。
(そういう若者にしたのは、時の文部省だぞ!)
こんな日本に、未来はあるのか?

 では、どうするか?

 たくましい子どもを育てるためには、たくましい教師がいなければならない。
たくましい教師を育てなければならない。
が、現状は、……?
「年功序列」という言葉がある。
学校教育は、完ぺきに近いほど、その年功序列型社会。
その年功序列型社会をまず崩す。
30代、40代の校長が出現する。
20代でもよい。
そうなったとき、日本の教育は変わる。
また変えなければならない。

●私たちの責任

 かなり頭が熱くなってきた。
こういう話になると、どうしても頭が熱くなってしまう。
が、これだけは言える。

 それぞれの人は、それぞれの立場で、がんばっている。
それは認める。
が、同時に、天下国家を論じてこそ、その先に日本の未来が見えてくる。
2050年には、少子化がさらに進み、高齢者がさらにふえる。
(65歳までのおとな):(65歳以上の高齢者)の比率が、1・2:1になる。

 腰の曲がったような高齢者が、100万円(3か月ごと)の札束を手づかみにして郵便局を出
る。
その一方で、子どもをもつ親には、数万円(月額)の補助もない。
学費にしても、基本的には、全額、親の負担。
企業によっては、私製の奨学金制度を始めたところもある(スズキ自動車ほか)。
しかし欧米と比べたら、超貧弱。

 私も今、20代なら、子どもは作らない。
生まれてくる子どもが、かわいそう!
若い人たちにしても、そうだ。
明けても暮れても、やっていることと言えば、恋愛ごっこ。

 つまりこういう国にしてしまったのも、私たちの責任。
天下国家を論じなくなった、私たちの責任。
が、その私たちに向かって、若い人たちは、こう言う。
「ゴミ」と。

●亡国の兆候

 しかし……。
「ゴミだ」「ゴミだ」と言われると、ふとこう思う。
「どうでもなれ!」と。
「そんな偉そうなことを言うなら、自分で国を作ってみろ」と。

言い換えると、この日本も、落ちるところまで落ちるしかない。
一度、食うに困るところまで、落ちるしかない。
またそこまで落ちないと、自分で気がつかない。

 ……こういうのをニヒリズムという。
そのニヒリズムが、私の心の中にも、芽生え始めている。
まさに亡国の兆候。
が、これではいけない!
「どうでもなれ」と手を引いてしまったら、今までの努力は、いったい何だったのかということにな
ってしまう。
が、それこそ、まさに敗北。

……ということで、今日も、講演で、がんばる。
自分の思いを、今の若い親たちに伝える。
はかない抵抗かもしれないが、やるしかない。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 亡国の兆候)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司※
 
【子どもと遊びについて】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「子どもの遊び」については、いろいろな原稿を書いてきた。
過去に書いた原稿を、集めてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「遊びが子どもの仕事」(中日新聞発表済み) 

「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずと
も、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。
オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。
日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室
の外で身につける。
実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。
今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。
それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。
けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。
性教育もそこで学んだ。

 ……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。
自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。
いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。
しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。
縄張りもあったし、いがみあいもあった。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社
会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。
石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。
相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。
あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。
目と目であいさつぐらいはした。
つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技
場の外で争っても意味がない。
つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。
子どもどうしの上下関係があった。
けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。
そして私たちはそれに従った。
親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を
出さなかった。

仲間意識もあった。
仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。
しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。
だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代と
それを結びつけて、簡単に理解することができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。
「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どものいたずら

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。
パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。
時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。

母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をして
いるのだ」と。

ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。
絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。
善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。
アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。
で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかま
せた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。
で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。
この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。
……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。
作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。
で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、そ
れをテープに録音して、聴かせていました」と。
母親の趣味は、ドライブ。
外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。
子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。
その敏しょう性。

一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。
その子どもは、とにかくすばしっこかった。
で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。
雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。
子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●笑い(笑いの科学と効能)

 ついでに、「笑い」について。
何度も書いてきたので、ネットでさがし、その一部を紹介する。
 私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。
ときには、50分のレッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ
かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なお
す」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしま
う。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもと遊び やる気論 カテコ
ールアミン ほめることの重要性 子どもはほめて伸ばす 子どもは笑わせて伸ばす やる気
と遊び 遊びで生まれるやる気 社会性 はやし浩司 子どものやる気)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ほめることの重要性byはやし浩司

+++++++++++++++++

ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。
このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。
その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。

+++++++++++++++++

++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

 親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会
適応力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。父親
の育児参加も同様の効果があった。「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初とい
う。東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。

 調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半に
なる09年まで追跡。親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調
べた。子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」な
ど5分野30項目で評価した。

 その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼
児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。また、
ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽
たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける−−などが社会適応力を高
める傾向があった。

 一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2
歳半の時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。母親の育児負担感が低かったり、
育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。

 調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知
られていたことを、科学的に明らかにできた。成果を親と子双方の支援に生かしたい」と
話す。【須田桃子】

++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司 
子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)

++++++++++++++++++++

●2007年4月の原稿より

【子どもを伸ばす】

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜ
っぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、
重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激
するか、だ。そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネス
をとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学
者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価という
ことになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言え
ば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状
回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。こ
れを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、
人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も
変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわ
からない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はが
んばる。が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ
私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、
利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自
我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの
外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れ
れば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限
の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そうい
う危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだ
ろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その
我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考え
てみよう。

(自我の追求)

 教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけ
がうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種
をまいて、引き出す』の要領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほどいい
子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせ
ること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。し
かしこれは誤解。まったくの誤解。

 3つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱってい
く原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)

 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感をもた
せすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかし
い。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はた
から見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食
もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだっ
たらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)
や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなって
いった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に
立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかというこ
と。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きがいを決めるのは、帯状回?

 脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。脳のこの部分は、人間が原始動物であった
ときからあるものらしい。イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。

その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。最近の研究によれば、
どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかって
きた(伊藤正男氏)。

 たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。反対にみなの前でけなされた
りすると、不快感を覚える。その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感
や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。

一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、
何をするのも苦痛になる。

 これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。たとえば他人
にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。しかし反対に、他人をい
じめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。この感覚は、きわめて原始的なもので、つ
まりは理屈では説明できないような感覚である。しかしそういう感覚を、人間がまだ原始
動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。もし人間が、もと
もと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚を
もっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。

 こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。新皮質
部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。たとえば正直に生きたとする。す
ると、そのあとすがすがしい気分になる。このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだ
が、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられるか」と
か考える。そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。

 そしていよいよ帯状回の出番である。帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の
判断を受けて、やる気を引き起こす。「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そういう前向き
な姿勢を生み出す。そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、
思考や行動を活発にしたりする。

●私のばあい

 さて私のこと。こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるというこ
とは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。(中には、「コノヤロー」と怒っ
ている人もいるかもしれないが……。)

さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活
発化する。そしてそれが私のやる気を引き起こす。そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。が、読者が減ったり、ふえな
かったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれ
が帯状回の機能を低下させる。

 何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子ど
ものやる気を考えることができる。よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほめて伸
ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機能そのもの
が、そうなっているからである。

 さてさて私のマガジンのこと。私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらなければな
らない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。どこか絶壁に立たされたかのような緊張
感がある。では、その緊張感はどこから生まれるのか。

●ほどよいストレスが、その人を伸ばす

 ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。そして脳や筋肉により多くの酸素
を送りこみ、危急の行動を可能にする。こうしたストレス反応が過剰になることは、決し
て好ましいことではない。そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低
下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。しかし一方で、ほどよいストレスが、
全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。

 たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万
円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで
違う。子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、
いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子ど
ものよって、感じ方はまったく違う。

私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れる
ことができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることがで
きない。100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。しかし445人
に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。

●子どものやる気

 子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程
度の緊張感を与える。しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるよう
な緊張感でなければならない。私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきているよう
に感ずる。ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。あるいは交通事故にあ
うかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思う。

 人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、
前に進むものか。そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。ただ
パンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。今、こうして自
分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないか
と。よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。
手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるは
ずもない。

ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の顔」
と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわか
らない。多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それ
はサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いている
と思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、
動かされているだけ? 

同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされて
いるだけかもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャック
とローズを思い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心
をとらえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に
翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意
思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。

いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、
もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。このことは、子
どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期
は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、
子どもは急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこう
いう子だ」という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残るようになる。
(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは脳の中の、辺縁系に
ある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆ
るふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さ
や闘争心も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。

子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し
高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動い
ている。もちろん方向性が違うということはある。ある子どもは、作文で、あるいは別
の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。反
対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子ども
もいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎ
ない。

 となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局
はそのハバの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、
本当に私は私なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私
ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、
もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつか
ってしまったようだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。こ
れから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カ
ップヌードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じら
れて、そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出し
て、近くのコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」
ではない。だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をす
る。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入
れる。となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないという
ことになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そ
のことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連
絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそうい
う意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」
というのか、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には
楽器をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若
さで華やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を
使って、コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴
きあうのと、それほど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、
「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その
裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現したらいい
のかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その裏から基本的
に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言葉をつくらないとい
けないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分が
ある。「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。いわばコンピ
ュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラムと考えるとわ
かりやすい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。そのスイッチを
機能的に動かすのが、OSということになる。人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナ
プスも、このスイッチにたいへんよく似ている。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と
表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その
範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、そ
れは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったよ
うな感じだ。とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷や
してから考える。
(02−10−27)※

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人
の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的と
いうわけだ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜62)も、『パ
ンセ』の中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」
ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、釈迦
が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行すること。ひた
すら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死ぬまで精進しろ。そ
れが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」とい
うことになる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あな
たの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をは
かってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたとい
う政治家が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出な
くてはいけない。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」
と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こ
る。そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことにな
る。しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」
があることになる。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然
(ばくぜん)としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、
ループ状態に入ってしまう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じこ
とを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒントとなった
のが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』である。彼は、こう書いてい
る。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたこと
がない」と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」
ということか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もちろんこれは
私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。しかしあ
えて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。書くこと
イコール、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今の
ところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。書いた
のは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。

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〜02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。

それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。

最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

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 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に
生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というの
である。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『いじ
めは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)



Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子どものやる気論
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



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子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



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●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみら
れる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」
という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことが
あった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)

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もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。

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【子どもの中の子ども】

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子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

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●乳幼児の記憶

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子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

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「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。

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わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

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●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。

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では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

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● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)




Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

●興味ある事実

++++++++++++++

脳の中で、麻薬反応!
はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、
自分の子どもの笑顔を見たとき、
麻薬を服用したときと似たような
反応が起きるという。

++++++++++++++

時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。

『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。母親の子
への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理の解明に
役立つと期待される』と。

これに関して、以前、こんな原稿を書いたのを思い出した。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものオナニー(自慰)

 受験をひかえた受験生が、毎晩(毎日)、オナニーにふけることは、珍しくない。

 財団法人、「日本性教育協会」の調査(1999年)によれば、

 マスターベーションの経験者  中学生……41・6%
                高校生……86・1%
                大学生……94・2%(以上、男子)

                中学生…… 7・7%
                高校生……19・5%
                大学生……40・1%(以上、女子)

 ということだそうだ。この割合は、近年増加傾向にあるが、とくに若年化が進んでいることが
知られている。

 たとえば男子中学生のばあい、マスターベーション経験者は、87年には、30・3%だったの
が、99年には、41・6%に増加している。性交経験者も、男子高校生だけをみても、11・5%
(87年)から、26・5%(99年)へと、増加している。

 そのオナニー(自慰、マスターベーション、手淫などとも呼ばれている)について、ある母親か
ら、相談があった。「中学3年生になる息子が、受験をひかえ、オナニーばかりしているようだ
が……」と。

 オナニーをすると、脳内で、麻薬様物質が放出されることがわかっている。現在、数10種類
ほど、発見されているが、大きく分けて、エンドロフィン系と、エンケファリン系に大別される。

 わかりやすく言えば、性的刺激を加えると、脳内で、勝手にモルヒネ様の物質がつくられ、そ
れが陶酔感を引き起こすということ。この陶酔感が、ときには、痛みをやわらげたり、精神の緊
張感をほぐしたりする。

 問題は、それが麻薬様の物質であること。習慣性があるか、ないかということになる。

 モルヒネには、習慣性があることが知られている。しかしエンドロフィンにしても、エンケファリ
ンにしても、それらは体内でつくられる物質である。そのため習慣性はないと考えられていた。
が、動物実験などでは、その習慣性が認められている。つまり、オナニーも繰りかえすと、「中
毒」になることもあるということ。

 その相談のあった中学生も、受験というプレッシャーから、緊張感を解放するため、オナニー
にふけっているものと思われる。そして相談のメールによれば、中毒化(?)しているということ
になる。

 オナニーの害については、「ない」というのが、一般的な意見だが、過度にそれにふけること
により、ここでいう中毒性が生まれることは、当然、考えられる。

 男子のばあいは、手淫(しゅいん)ということからもわかるように、好みの女性の裸体を思い
浮かべたり、写真やビデオをみながら、手でペニスを刺激して、快感を覚える。

 女子のばあいは、好みの男性に抱きつかれる様子を想像しながら、乳首や、クリトリス、膣を
刺激しながら、快感を覚える。

 男子のばあい、中に、肛門のほうから前立腺を刺激して、快感を得る子どももいる。

 さらに病的になると、依存症に似た症状を示すこともある。中学生や、高校生については、知
らないが、セックス依存症のおとな(とくに女性に多い)は、珍しくない。「セックスしているときだ
け、自分でいられる」と言った女性がいた。

 しかしこうした、エンドロフィンにしても、エンケファリンにしても、オナニーだけによってつくら
れるものではない。

 スポーツをしたり、音楽を聞いたりすることでも、脳内でつくられることが知られている。善行
を行うと、脳の辺縁系にある扁桃体でも、つくられるこも知られている。スポーツをした人や、ボ
ランティア活動をした人が、そのあと、よく「ああ、気持ちよかった」と言うのは、そのためであ
る。つまり、同じ快感を得る方法は、ほかにもあるということ。

 私のばあいも、夜中に、自転車で、30分〜1時間走ってきたあとなど、心地よい汗とともに、
気分がそう快になる。さらに翌朝、目をさましてみると、体中のこまかい細胞が、それぞれザワ
ザワと、活動しているのを感ずることもある。

 こうした方向に、子どもを指導しながら誘導するという方法もないわけではない。しかし中学
生ともなると、親の指導にも、限界がある。私の意見としては、子どもに任すしかないのではな
いかということ。

 こと、「性」にまつわる問題だけは、この時期になると、もう、どうしようもない。子ども自身がも
つ自己管理能力を信ずるしかない。現在の私やあなたがそうであるように、子どももまた、この
問題だけは、だれかに干渉されることを好まないだろう。
(はやし浩司 マスターベーション 自慰 オナニー 子どもの自慰 子供の自慰)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

もう一作、添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●やる気

+++++++++++++++++++

このところ、忙しい。
そのせいか、疲労気味。
こうしてパソコの前に座っても、
ものを書く気があまり起きない。

気力の減退。
それについて、記録する。

+++++++++++++++++++

 東洋医学(漢方)では、体力と気力は、同一源のものとして考える。天の気(呼吸)と、地の気
(飲食物)が、合体して、人精となる。

 この人精(じんせい)が、エネルギーの根源というわけである。「精」は、「精力の精」「精神の
精」と考えると、わかりやすい。少し前まで、何かのことでがんばっている人を見かけると、「精
が出ますねえ」と、声をかけたりした。(最近は、この言い方を、あまり耳にしないが……。)

 だから体力や気力が落ちてきたときは、第一義的には、おいしいものを食べて、適度な運動
を繰りかえすのがよいということになる。

 が、やる気は、それだけで起きてくるというものではない。伊藤氏の「思考システム」によれ
ば、思考は大脳新皮質部の「新・新皮質」というところでなされるが、それには、帯状回(動機
づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという(伊藤正男)。

 さらに最近の研究によれば、脳内のカテコールアミンと呼ばれるホルモンが、やる気に大きく
関係していることもわかった(澤口俊之「したたかな脳」)。その中のノルアドレナリンは、集中
力、ドーパミンは、思考力に関係しているという(同書)。

 つまりこうした作用が総合的に機能して、やる気が決まるということらしい。

 で、私の今の状態は、どうか?

 何を考えても、「どうでもいいや」という思いが、先に立ってしまう。めんどうというより、むなし
さが先に立ってしまう。ラマンチャの男(ドンキホーテ)が、風車を相手に、ひとりで戦っているよ
うなもの。所詮(しょせん)、相手は、風車!

 実際、「あなたの書いていることは、学問的には一片の価値もない」と言ってきた、大学の教
授がいた。(この話は、本当だぞ!)。「田舎のおばちゃんたちを相手に、講演をして、どういう
意味があるのか」とも。(この話も、本当だぞ!)

 そのときは、怒り、心頭に達したが、今になって思うと、「そのとおりだな」と納得する。私のし
ていることは、どうせ、その程度。

 そういう思いが、私から、どんどんとやる気を奪っていく。

 だから、やる気がないのではなく、書く気がわいてこないということになる。そのほかの面で
は、やる気はある。気力はある。

 今朝も、犬のハナの体を、シャップーで洗ってやった。午後に客人がくるので、居間の掃除も
した。腕につけるブレスレットの修理をした。言うなれば、書くのを、後まわしにしただけ。しかし
こうしてパソコンに向かって座っていると、「ああ、これが私の時間だ」という思いは、強くもつ。
それにおかしなことだが、こうしてサクサクと動くパソコンを相手にしていると、気持ちよい。

 ……ということで、昼まで、まだ3時間弱もある。今日から、マガジンの6月号の原稿を書くこ
とにした。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気 気力 帯状回 カテコールアミン 動機づけ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最近の大脳生理学の進歩には、めざましいものがある。
ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)とか、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう、
脳の活性度を映像化する装置を使うと、脳の働きが、リアルタイムで観察できるという。

今回の、アメリカ・ベイラー医科大の研究チームによる発見も、そうした機器を用いてわかった
ものだろう。

それにしても、すごいことがわかるようになってきたものだ。
わかりやすく言えば、「心」の状態が、科学的かつ計数的に把握できるようになった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 赤ちゃんの笑顔 母親の反応 
脳科学)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【笑って伸ばす、子どもの心】

●笑うことには不思議な力があります……というようなことは、40年前には謎でした。
が、今では、脳科学の世界で、その有効性が認められ、常識となっています。
私は40年前から、その不思議な力に気づいていました。
簡単な「障害」であれば、笑うことによって、なおってしまいます。
年少から年中期が、とくに有効です。
が、もちろんそれだけではありません。
笑うことによって、子どもの中に前向きな学習姿勢が生まれ、脳の活動を活発化させます。学
習効果もその分だけ、高まります。
『笑えば伸びる』……40年前に、幼稚園で配付したパンフに、私はそう書きました。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●今回は、『体積』を教えました。
 小学1年生(一部、幼稚園児)と、小学2年生(一部、1年生)のクラスを紹介します。

(小学1年生)
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(小学2年生)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/cYjrf6O-QL4" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【ALWAYS、3丁目の夕日 '64】

++++++++++++++++++++

私たちの世代には、冒頭からググーッとくる映画だった。
だから私たちの世代は、ググーッと楽しめばよい。
何も考えず、ググーッと楽しめばよい。

「ALWAYS 3丁目の夕日 '64」は、そういう映画。
私が17歳(高校2年生)のときの映画ということになる。

(もともとそういう意図でもって作られた映画。
素直にその意図に乗って、楽しめばよい。)

星は、4つの★★★★。
身を切るような深夜の冷気を、ものともせず、市内の劇場まで足を運んだ。
笑った、泣いた……。
よかった。

が、ほめてばかりいてはいけない。
気になった点は、いくつかある。

その第一。
完ぺきに近いほど、「マザコン映画」。
登場する男性は、みな、3枚目。
バカ丸出し。
その一方で、女性は、みな、マドンナ(聖母)。
人格の完成度が、きわめて高い。
それが不自然すぎるほど、極端。

プラス、権威主義。
合計で3人の医師が登場するが、3人とも神がかったほど、崇高な精神の持ち主ばかり。
人道主義者(ヒューマニスト)。
それが監督(作者)がもっている「医師観」なのだろうが、本当にそうかな?
そう考えてよいのかな?
これも極端すぎる。

さらに言えば、茶川竜之介の父親が登場するが、「こんな父親はいるのかなあ?」と。
森進一が歌う『♪おふくろさん』そのままのような、父親。
息子をあえて崖っぷちに立たせるため、演技で(?)、息子を勘当(=絶縁)したという。
勘当しながら、息子の活躍を、陰で喜んでいたという。
つまりお涙頂戴映画。

『送り人』もそうだったが、このところ、この種のお涙頂戴映画が、日本映画の流行にもなって
いる。

++++++++++++++++++++++++

●マドンナ(聖母)

 この映画の監督(作者)がそうというのではない。
(私自身は、コミック版の原作を、ほとんど読んでいない。)
一般論として、マザコン男性ほど、マドンナを求め、女性の間を渡り歩く。
が、マドンナと言えるような女性は、今どき、存在しない。
(存在するわけがない!)
だから、これも一般論だが、マザコン男性ほど、浮気しやすく、離婚しやすいと言われている。

 マドンナ……どんなわがままを言ったりしたりしても、いつも自分を暖かく包んでくれる、聖母
のような女性をいう。
慈愛に満ちた母親のように、自分を理解し、深く愛してくれる、聖母のような女性をいう。

 それについては、いくつかの原稿を書いたことがある。
あとで紹介することにして、もう一点。

●恋愛至上主義vs恩義

 映画の中で、自動車工場に勤める若い女性が、医師に求婚される。
そのとき、若い女性(堀北真希演ずる六子)が、結婚すべきかどうかで悩み、迷う。
世話になった店の主人や妻への「恩義」のはざ間で、悩み、迷う。

 ……というか、私が若いころは、みな、そうだった。
私人も、学生時代、恋愛を経験した。
しかし収入がないこと、親や家の問題、未来が不確定であったこと、相手の女性の家の格式な
どなどを考え、別れた。
もちろん親への恩義も、無視することができなかった。
そういうことを考え、結婚には至らなかった。

 が、現在はちがう。
恋愛したとたん、ノーベル賞か何かでも取ったかのように、それを第一に考え、そのまま結婚
へ、突っ走ってしまう。
またそうであることを、「理想」であるかのように錯覚している。
映画『タイタニック』のジャックとローズを思い浮かべればよい。
これを称して「恋愛至上主義」(はやし浩司)という。

 映画を観ながら、「今の若い人に、そういう心理は理解できないだろうな」と、そんなことを考
えた。

「そういう心理」というのは、「恩義という心理」である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今までに書いた原稿をいくつか紹介します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●理想の女性

 「Y」という、雑誌を購入。
私たちの年代層をねらった雑誌。
それを読みながら、ワイフが、こう言った。

 「男って、死ぬまで、理想の女性を追い求めるって、ホント?」と。

 雑誌を横取りしてみると、それには、こうあった。
ある舞台監督と女優との対談だった。
K(監督)「男っていうのはね、死ぬまで、理想のマドンナ(聖母)を、追い求めるものなんですよ
ね。
女性には、それがありませんか?」
S(女優)「女性には、ないと思います」と。

 私は、それを読んで、すかさずワイフにこう言った。
「理想の女性を追い求めるという姿勢は、マザコンの特徴の一つだよ」と。

 つまりマザコン性の強い男性ほど、頭の中で、理想の女性を夢想する。
つまり究極まで自分を愛してくれる女性を、だ。
わかりやすく言えば、自分の母親の代用してくれる女性を追い求める。

 言うまでもなく、このタイプの男性は、無意識のうちにも、「母親」から、自分を切り離すことが
できない。

 だから一般論として、つまり心理学の常識として、マザコン性の強い男性ほど、現実の女性
を愛することができない。
そのため、浮気率が高くなる。
女性から女性へと、渡り歩く傾向が強くなる。
当然のことながら、離婚率も高くなる。
 実際、このタイプの男性と、結婚生活をつづける妻は、たいへん! ……と思う。
このことは、反対の立場で考えてみると、わかる。

 もしあなたの妻が、何かにつけて、あなたに、理想の「男」を、求めたとしたら、あなたはどう
するだろうか。
たくましくて、包容力があって、生活力もある。
おまけにハンサムで、かっこいい。
どんなことをしても、許してくれる。さいごのさいごまで、あなたのめんどうをみてくれる……と。

 多分、あなたは、こう言うだろう。
「やめてくれ! オレは、ふつうの人間だ!」と。

 対談した女優が、「女性には、ないと思います」と答えたのは、しごく当然のことである。

私「この監督は、自分が、マザコンであることに気づいていないね」
ワイフ「でも、何かと、話題作を発表しているわよ」
私「だから、こういう雑誌で、対談しているんだろ」
ワ「そうね」と

 理想の女性などというのは、いない。
いるはずもない。だから追い求めるだけ、ムダ。
追い求められる女性のほうだって、疲れる。
その監督は、若くして、母親をなくしている。
だからよけいに、母親の代用をしてくれる女性を、心の中で追い求めているのかもしれない。

私「ある男性はね、会社で昇進したりするとね、奥さんに電話をする前に、実家の母親に電話
をしていたそうだよ」
ワイフ「マザコンね」
私「そうだよ。しかしね、本人は、そうは思っていない。自分は、親思いの、孝行息子と思いこん
でいた」
ワ「奥さんも、たいへんね」
私「そこでこのタイプの男ほど、自分の母親を美化する。『ぼくの母は、ぼくが、そうするにふさ
わしい人だ』とね」

ワ「自分の母親が、理想の女性というわけね」
私「そう。究極の愛で自分を包んでくれる、理想の女性というわけだよ」
ワ「でも、そうして、男は、マザコンになるの?」
私「女性にも、マザコン性の強い人はいるよ。でも、やはり男性に多い。理由は、結論を先に言
えば、父親不在だからだよ」
ワ「父親の存在感がないということ?」

私「そう。子どもは、だれしも、母親との絶対的な関係の中で、生まれ育つ。それが悪いという
のではない。それは人間の成長には、必要不可欠なものだ」
ワ「が、そのままになってしまったというわけ」
私「そうなんだよ。そこで、その絶対的な関係を、是正するのが、父親の役目ということになる。
が、その父親の存在感がない。だから、濃密な母子関係のまま、おとなになってしまう」

ワ「でもね、もし、その父親が、マザコンだったら、どうするの」
私「ハハハ、それは問題だア。どうするんだろ。困った問題だね」と。
 しかし、こうまで堂々と、自分のマザコン性を主張する人がいるとは! もちろん本人は、そ
れに気づいていない。対談の内容は、要するに、その監督は、舞台芸術をとおして、理想の女
性を追い求めているということだそうだが……。
 しかし……?

 (マザーコンプレックス)いわゆるマザコン。
成人した男性が、母親との間に、依存関係を保ち続け、そのことに疑問や葛藤を感じていない
状態。
このような男性は、「母親からの過剰な愛情によって、青年期に達成されるべき、同年代の異
性との交友関係をもつために必要な人格の確立ができなかったと考えられる」(深堀元文「心
理学のすべて」)と。

(教訓)

 母親は、子育てをする。
それは当然だが、子どもがある年齢に達したら、子どものほうが、親離れするように、仕向け
なければならない。
あるいは父親が、母子関係に割って入り、その関係を是正しなければならない。
「ある年齢」というのは、多少個人差はあるが、年齢的には、満8歳前後をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 マザコンの心理 マザコン心理学
 なぜ男はマザコンになるか はやし浩司 マザーコンプレックス 永遠のマドンナ はやし浩
司 マドンナ像 永遠のマドンナ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【女性のマザーコンプレックス】

+++++++++++++++++++++

マザコンというと、男性だけの問題と
考えている人は多い。
しかし女性のマザコンも、それと
同じくらい、多い。

+++++++++++++++++++++

●依存と愛情(Mother Complex)

+++++++++++++++++

「マザコン」というと、男性だけにある
特異な現象と思っている人は多い。

しかし女性にも、マザコンの人は
いくらでもいる。
同性というだけで、目立たない。

これについては、何度も書いてきた。
ここでは、さらにもう一歩、話を進めて
みたい。

これには男性も女性も関係ないが、
母親にベタベタと甘えているからといって、
それだけ、母親への愛情が深いかという
と、そういうことはない。

マザコン性というのは、母親への依存性を
いう。
依存性イコール、愛情の深さではない。

よくあるケースは、それまではマザコンで
あった女性が、母親が認知症になったとたん、
母親への虐待し始めるというもの。

依存できなくなったときが、縁の切れ目(?)
ということか。

もちろん、中には、そのままの状態で、見た目には
良好な(?)人間関係をつづける親子もいる。
しかしそういうケースは、少ない。

つまりマザコンタイプの人は、常に「理想の
女性像(マドンナ)」を、母親に求める。
母親は、常に、その理想の女性でなければ
ならない。

が、母親がその期待(?)に応えられなく
なったとき、マザコンタイプの人は、それを
すなおに受け入れることができない。
あるいはそれを許すことができない。

たいてい、その段階で、はげしく葛藤する。

ある女性(60歳くらい)は、自分の母親が
認知症になりつつある段階で、そのつど、
パニック状態になってしまった。

母親が、就寝中に尿を漏らしただけで、親戚中に
電話をかけたりした。

「お母さんが、オシッコを漏らしたア〜!」と。

が、先にも書いたように、依存性イコール、愛情の
深さではない。

たとえば夫婦についても、そうで、配偶者に
強い依存性があるからといって、つまり見た目には
ベタベタに仲のよい夫婦に見えたとしても、
たがいに深い愛情があるとはかぎらない。

言うまでもなく、「愛」というのは、どこまで
相手を「許して忘れるか」、その度量の深さで決まる。
つまりその分だけ、愛には、常に孤独と苦しみが
ともなう。

さらに言えば、愛には熟成期間が必要。
たがいに困苦を乗り越え、その結果として、
人は「愛」を自覚することができるようになる。

一方、依存性は、その人自身の情緒的欠陥、精神的
未熟性に起因する。
情緒的欠陥、精神的未熟性をカバーするために、
相手、つまり母親(父親、配偶者)に依存する。

「母親に依存する」ということと、「母親を愛する」
ということは、まったく異質なものである。

このことは子どもの世界を見れば、よくわかる。

親に依存している子どもは多いが、親を愛している
子どもというのは、皆無とみてよい。
あっても、「思いやり」程度。
たとえば病気になった親を、看病するとか、など。
年少の子どもであれば、なおさらである。

子どもが「愛」を自覚するのは、思春期前夜から
思春期にかけてである。

また話は少しそれるが、よく「マザコン男性ほど、
離婚率が高い」と、言われる。
それもそのはずで、つまりその分だけ、マザコン男性は、
配偶者に、理想の女性(マドンナ)像を求めすぎる。
あるいは押しつけすぎる。
それが夫婦の間に、キレツを入れる。

さらにマザコンタイプの人ほど、自分がマザコン的で
あることを正当化したり、ごまかすため、
母親を、ことさら美化する傾向が強い。

(ファザコンも同じように考えてよい。)

「私の親を批判したり、悪口言ったりするヤツは、
たとえ女房、子どもでも許せない」と息巻くのは、
たいていこのタイプの男性と考えてよい。
(男性にかぎらない。女性でもよい。)

話をもどす。

人間関係、とくに親子関係、夫婦関係を見るときは、
この(依存)と(愛情)に焦点をあてて考えて
みるとよい。

また別の人間関係が見えてくるはず。

+++++++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++

●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

++++++++++++++++

 子どもをでき愛する親は、少なくない。
しかしでき愛は、(愛)ではない。
自分の心のすき間を埋めるために、親は、子どもをでき愛する。
自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うために、子どもを利用する。
つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。
代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。
つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。
このタイプの親は、自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子
と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。
無意識のまま、そうする。こうしてたがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。
いくつかの特徴がある。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
でき愛ぶりを、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。
ベタベタというか、ドロドロしている。
自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。
ある母親は、私にこう言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。
その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。
しかし概して言えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。
父親がいるかいないかわからないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。
むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになるよりも、さらに深刻なマザコ
ンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。
が、それが40歳の娘であったりすると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤
解と偏見が、娘のマザコン性を見逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。
したがって、それから生まれるマザコン性もまた、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。
いつも、心のどこかで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。
そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。
マザコンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというの
は、心の奥の内側の問題である。
外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。
……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘したりすると、こう答えたり
する。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。
美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、正当化する
ために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。
また親は親で、子どもが中学生くらいになったら、子離れをする。
こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。
そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。
宗教にたとえるなら、本尊のようなもの。
その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定することに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。
マザコンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。
親は、悪人であってはならないのである。
また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すことができな
い。

 そして母親が死んだとする。
依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこそ、毎晩、空をみあげながら、
「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。
そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。
ある男性(映画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。
(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。
子どもをマザコンにして、よいことは、何もない。

(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化 はや
し浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 マドンナ 映画監督 マザコン マザコン
映画)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。

(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘 はやし
浩司 マザーコンプレックス マドンナ 女性のマドンナ化 偶像化 理想の女性形)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

To the people of USA:(アメリカの人たちへ)v.2

*Exaggerated nationalism of South Koreans(韓国人の過激な民族主義)
Why is Sea of Japan (Japan Sea) "East Sea? (どうして日本海が、「東海」なのか?)


●韓国の人たちよ、どうして「日本海」では、いけないのか?

 私の意見に賛成の人は、下記(A)〜(B)までを、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほし
い。
訳文は、この原稿の終わりにつけておく。

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) "East Sea"?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike "Japan" and now they have been 
trying to alter the name of "Sea of Japan (Japan Sea)" into "Tonghae" or "East Sea".
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason 
why they insist so.


But if so, there would be hundreds of "East Sea" in the world, since each country has "East
".
In Japan we have a well-known proverb, saying, "If you dislike a priest, you hate his robe too
".


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: "The exaggerated nationalism 
is very dangerous".
Sea of Japan (Japan Sea) has been "Sea of Japan (Japan Sea)" for more than 120 years 
and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to 
Japan in 1853, Sea of Japan is "Japan Sea".

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) "Gulf of Mexico"?
Why doesn't USA try to alter the name into "South Gulf"?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don't have to listen to South Korea's meaningless opinion.


In the website of "Sea of Japan, No East sea" someone writes as follows:


"Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got 
brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese 
character and documents. 
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having 
hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism."


I agree to this opinion.

Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan 


(B)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ】

●私たちも声をあげよう!


韓国の東亜日報は、つぎのような記事をかかげている。
「『東海・日本海』併記について、バージニア州上院は、1票差で否決した※」(2012年01月2
8日)と。
つまり「いろいろ働きかけてはみたが、教科書に、『東海・日本海』と併記させることについて、
バージニア州では、失敗した」と。

韓国はノ大統領の時代から、世界各国に専門の特使まで派遣し、「日本海」を「東海(トンヘ)」
に改名する運動を重ねている。
「日本海」という呼称が、どうにもこうにも気に入らないらしい。
その気持ちはよくわかる。
が、どうして日本海が「東海」なのか?
 
韓国から見れば、確かに「東の海」。
が、日本から見れば、「北西の海」。
ロシアから見れば、「東南の海」。
これほどまでに自己中心性丸出しの呼び方は、そうはない。
もし世界中の国々が、自分の国を中心に、東西南北の海の名前を決めたら、それこそ「東海」
という名前は、国の数だけ生まれることになる。

そこで韓国はバランスをとるため、黄海を、独自に、「西海」と呼んでいる。
が、こちらのほうは、目立った運動は、まったくしていない。
つまり「おまけ」。
韓国は、要するに、「日本」という文字がよほど気に入らないらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「日本海」問題

 日本海の呼称問題については、たびたび書いてきた。
ここでは、もう一歩、さらに話の内容を進めてみたい。
その第一。

 日本人は、あまりにも、おとなし過ぎる!

 どうして日本はもっと積極的に発言し、行動しないのか。
韓国が特使を派遣したら、日本も派遣すればよい。
韓国が騒いだら、日本も同じだけ、騒げばよい。

 昨年(2011年5月)書いた原稿を、もう一度掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「東海(トンヘ)」問題 (?? vs. ???)

 『坊主憎ければ……』とかいうが、韓国は、「日本海」という名称が、よほど、気に入らないらし
い。

 で、韓国政府は、全世界の各国に「特使」まで送って、「日本海」を「東海」へ変更しようと努力
している。
(「特使」だぞ! わかるか!)

が、どうして「東海」なのか。
これほどまでに自己中心的な発想はない。
もしロシアが、「太平洋を『東方洋』にせよ」と主張したら、世界はロシアをどう思うだろうか。

 ついでに韓国は、黄海を、「西海」にしようとしている。
そうでも言わないと、バランス(=整合性)が取れないからだ。
が、無理は無理。
韓国政府も、やっとそれに気づき始めた。

 中央日報(韓国)は、つぎのように伝える。

『韓国政府は国際社会の東海(トンヘ、日本名・日本海)表記と関連し、「東海」と「日本海」を併
記すべきだという意見を国際水路機関(IHO)に提出したと、政府当局者が1日明らかにした。 

当局者は「IHO側が2日までに東海表記に関する公式意見を伝えてほしいと要求してきた」と
し、「東海単独表記主張は成功する可能性がないと判断した」と説明した』(5月4日)と。

 繰り返すが、どこの国に対して、「東」なのか?
日本にとっては、日本海は、「北海」。
あるいは、「北西海」。
もしこんなメチャメチャな改名が許されるとしたら、それこそ世界は、大混乱。
「東海」だけでも、世界中に、何千も生まれる。

 ついでに……

対馬海峡→(韓国の)南海
東シナ海→(台湾の)北海
台湾海峡→中国海峡
南シナ海→北フィリッピン海
フィリッピン海→グアム海、などなどとしたら、どうか?

そのうちベンガル湾も、インドの東にあるということで、「東海」になるかもしれない。
アラビア海は、パキスタンの南にあるから、「南海」になるかもしれない。

 特使まで送って改名させようとしているところが、すごい。
……というか、バカげている。

 原稿をさがしてみたら、2007年の5月に、同じ原稿を書いているのがわかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●またまた「東海(トンヘ)」?(2007年5月記)

Why should the Japan Sea (Sea of Japan) be the Eastern Sea?
The Japan Sea (Sea of Japan) is situated to the east of Korea, 
but is situated to the north to Japan.

++++++++++++++++++

韓国にとっては、東海(トンヘ)かも
しれないが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。

どうして韓国は、こうまで「東海」に
こだわるのか?

++++++++++++++++++

 『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺(ことわざ)を、地で行くような事例が、これ。
今も、つづいている。
韓国は、数年前から世界各国に特使まで送り、「日本海」を、「東海(トンヘ)」に改称しようと運
動を重ねている。

 韓国にとっては、たしかに「東海」だが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。
韓国は、よほど、「日本」という名前が嫌いらしい。
「日本海」ではなく、「日本」という名称が嫌いらしい。

 しかし日本の周辺を見ただけでも、その地域や固有の名前がついた海というのは、いくらで
もある。

 北から、東シベリア海、ベーリング海、オホーツク海、東シナ海、台湾海峡、フィリッピン海、
南シナ海などなど。

 しかし「東海」などという、自己中心性丸出しの名前は、どこにもない。
英語で言えば、「the Eastern Sea(東海)」。
「トンヘの意味は?」と聞かれたら、韓国の人たちは、何と答えるのか。

 こんな改名がまかり通るなら、まず日本とフィリッピンの間にある「フィリッピン海」を、「南海」
としたらどうか。
が、韓国にとっては、それはおもしろくないらしい。
こんな記事が、今朝の朝鮮N報に載っていた。

 『5月7日からモナコで開かれる、国際水路機構(IHO)総会に参加する、加盟国78カ国のう
ち、大多数が「日本海」の単独表記を支持していることが判明し、韓国政府に緊張が走ってい
る。

 韓国政府当局者は30日、IHO総会に関するブリーフィングを開き、「現在の状況では大多数
のIHO加盟国が日本海単独表記を支持しているが、どのような状況であれ、日本海が単独表
記されることを絶対に容認することはできないというの、われわれの基本的な立場」と述べた』
(07年5月1日)と。

 どうして容認することができないのか? 
韓国側は、その理由も述べたらよい。と、同時に、どうして日本海ではいけないのか。
その理由も述べたらよい。
さらに、どうして「東海」なのか、その理由も述べたらよい。

 仮に「東海」ということになれば、今度は、日本が猛反対するだろう。
「どうして東海なのか」と。

 さすがの韓国政府も、自分たちの愚かさに気づいたのだろう。
今度は、「平和の海」という代案を出してきた。
「平和」という名前は、K国が好んで使う名称でもある。今の今も、あの38度線をはさんで、韓
国側にある村を、「自由の村」と呼び、K国側にある村を、「平和の村」と呼んでいる。

 が、その「平和の海」論も、どこかへ消えた。
そこで再び、「東海」。
「併記問題」。
今度は、「日本海と東海を併記せよ」と。

 こうした韓国側の動きを見ていると、反日運動の原点を見ているようで、興味深い。
つまり韓国にとってみれば、日本の存在そのものが、おもしろくないのだ。
理由など、ない。
まさに感情論。
彼らが主張するところの歴史認識問題にしても、そのうちの何割か以上は、その感情論と考え
てよい。

 しかし一言。
韓国政府も、いちいちそんな(名称)の問題にこだわらないで、もっと大きな問題に取り組んで
みたらどうか? 
たとえば国連への分担金を一人前にふやすとか、そういうことを考えてみたらどうか? あるい
は政府開発援助金を、人口比に応じて、せめて日本の3分の1くらいにまで、ふやすとか…
…。

 そういうことはまったくせず、主張することだけは、一人前。
あるいはそれ以上!

 どちらにせよ、「東海」などという呼称そのものが、私たち日本人にとっては、言語道断。
どうして日本の北にある日本海が、東海なのか。
日本としては、絶対に容認できない呼称である。

ちなみに国際水路機構(IHO)総会では、大多数が、「日本海」の単独表記を支持しているとい
う。
当然のことである。

(付記)今まで、直接的な批判を避け、あえて東海を「西海」などとまぶして、批判記事を書いて
きましたが、今日から、正面から、「東海」とすることにしました。

(以上、2007年5月に書いた原稿より)

●グーグル翻訳でも……

 グーグル翻訳サービスを使って、「日本海」を韓国語に翻訳すると、韓国語で「東海」と翻訳さ
れる。
韓国政府は、すでにグーグルにまで、こうした手を伸ばしている。
日本よ、油断するな!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 韓国 東海(トンヘ) 日本海名称問題 日本海と東海 韓国の反日感情 反日
運動 はやし浩司 日本海 東海呼称問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人よ、もっと声をあげよう!

 日本人よ、もっと声をあげよう。
方法は、簡単。
もしみなさんがBLOG(Twitter)を書いているなら、以下の文面をコピーし、あなたのBLOGに
貼りつけてほしい。

 ネットの世界では、同じ意見でも、数が多ければ多いほど、検索時に上位に表示される。
アメリカをはじめ、世界の人たちの目に留まる。
それが重要。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A~Bまでの訳文)

●どうして日本海が、「東海」なのか?

 私たち日本人は、韓国人(朝鮮人)が、日本を嫌っていることを知っている。
そして今、日本海という名前を、「トンヘ」つまり、「東海」と改名しようとしていることを知ってい
る。
日本海は、朝鮮半島の東側に位置する。
それが彼らの主張の根拠になっている。

が、もしそうなら、世界中に、何百という「東海」が生まれるだろう。
というのも、それぞれの国に、「東」があるからである。

日本には、『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺がある。
あのA・アインシュタインは、田丸謙二先生への手紙の中で、こう書いている。
「過激な民族主義は危険である」と。

「日本海」という名前は、100年以上も、世界の常識として使われている。
1853年に日本に来航した、マシュー・ペリー提督が使った地図でも、日本海は「日本海」にな
っている。
でないというのなら、どうしてメキシコ湾が「メキシコ湾」なのか。
アメリカは、どうしてメキシコ湾を、「南湾」と改名しようとしないのか。
なぜなら、この種のナショナリズムが、馬鹿げていることをアメリカ人は、知っているからであ
る。

どうか韓国の、馬鹿げた意見に耳を貸さないでほしい。

『日本海であって、東海ではない』(Sea of Japan, No East Sea)サイトの中には、次のような意
見が載っている。

『……韓国政府および韓国の国粋主義者たちは、漢字や漢字で書かれた書類を読めない子
どもやマスメディアの世界において、洗脳プロパガンダ(=政治的情宣活動)を繰り広げてい
る。

これらの攻撃的なプロパガンダは、無邪気な子どもたちをたきつけ、日本や日本人に対する
敵意を煽(あお)り立てている。
私はこれらの愚かな、構造的暴力、さらには拡張主義、つまり新しいタイプのファシズムに、抗
議する』(以上、同サイトより)と。

私は、この意見に同意する。

浜松市 はやし浩司


++++++++以下、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) "East Sea"?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike "Japan" and now they have been 
trying to alter the name of "Sea of Japan (Japan Sea)" into "Tonghae" or "East Sea".
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason 
why they insist so.


But if so, there would be hundreds of "East Sea" in the world, since each country has "East
".
In Japan we have a well-known proverb, saying, "If you dislike a priest, you hate his robe too
".


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: "The exaggerated nationalism 
is very dangerous".
Sea of Japan (Japan Sea) has been "Sea of Japan (Japan Sea)" for more than 120 years 
and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to 
Japan in 1853, Sea of Japan is "Japan Sea".

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) "Gulf of Mexico"?
Why doesn't USA try to alter the name into "South Gulf"?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don't have to listen to South Korea's meaningless opinion.


In the website of "Sea of Japan, No East sea", someone writes as follows:


"Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got 
brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese 
character and documents. 
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having 
hostility toward Japan and Japanese.
 I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism."
I agree to this opinion.


Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan 


(B)

++++以上 (A)~(B)をコピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

●「教科書」

 ついでに一言。

 東亜日報紙は、この記事※の中で、「教科書」という言葉に、こだわっているのがわかる。
が、アメリカの学校には、「教科書」と呼ばれる教科書は、ない。
「テキスト」はある。
が、教科書はない。
民間の出版社が発刊する、テキストである。
それぞれの学校が、自由に、それぞれのテキストを使っている。

そもそも、日本のような検定制度そのものが、アメリカには、ない。
だから、州議会に働きかけても、意味がない。
州議会で仮に併記を議決したとしても、法的拘束力はない。
それを知ってか知らずか、「教科書」という言葉を使っているところが、恐ろしい。

日本政府は、教科書について、検定済み教科書であって、国定教科書ではないと主張してい
る。
が、これはウソ。
「検定(authorized)」も「国定(authorised)」も、英語に翻訳すれば、同じ。

なおついでながら、オーストラリアにも検定制度はある。
民間団体が、自主的にそれを行っている。
行っているが、検定するのは、暴力と性描写のみ。
むしろ逆で、州政府は、「政治的な表現については、検定してはならない」と、釘をさしている
(南オーストラリア州)。
小学低学年時には、テキストすら使っていないところもある。

 繰り返す。
アメリカには検定制度そのものがない。
ないから、「教科書」という言い方そのものが、適切ではない。
「テキスト」は「テキスト」。
どうか誤解のないように!

 日本も、教科書検定制度なるものを廃止したらよい。
戦時中の日本ならいざ知らず、2012年の今、国定教科書とは!
今どき「教科書」を使い、国民の思想統一しているのは、そこらの独裁国家くらいなもの。
日本よ、日本人よ、いいかげんに、目を覚ませ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……東亜日報紙の記事・全文)

『米教科書の「東海・日本海」併記、バージニア州上院1票差で否決
米バージニア州議会で推進された「東海(トンヘ)と日本海の教科書併記法案(SB200)」(東
海併記法案)が否決された。 
15人で構成された州議会上院の教育保健委員会は26日、全体会議を開き、東海併記法案
に対する採決を実施し、賛成7票、反対8票で否決した。
同日の採決では、賛成7票と反対7票で拮抗したが、キャスティングボートを握るスティーブン・
マーティン委員長(共和)が反対票を投じ、否決された。 

デヴィッド・マースデン議員(民主)が11日に提出した同法案は、バージニア州内の公立学校
で使用される1年生から12年生用の教科書に東海と日本海を併記することを義務づける内容
を含んでおり、16日に教育委小委員会を通過した。 

小委員会を通過した時は、全体会議の通過が有力視されたが、共和党議員を中心に親日ム
ードが生まれ、否決されたという』(以上「東亜日報」より)と。

なお日本のMSN・産経ニュースは、つぎのように伝えている。

『……米ワシントン近郊のバージニア州議会で、州内の公立学校の教科書に日本海を「東海」
と併記することを求める州法案の採決が行われ、1票差で否決されたことが分かった。

歴史的事実を知らない地方議員が韓国系団体のロビー活動を受けて法案を提出していた。

米国では最近、韓国系米国人らが日本の教科書の使用中止を求める動きもあり、日本政府
は官民を挙げた対策が求められている』(MSNニュース・2012年1月29日)と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 東海 日本海 呼称問題 行き過ぎたナショナリズム 過激な民族主義 韓
国のはやし浩司 東海呼称問題 Tong Hae Tonghae 東海 はやし浩司 Eggerrated 
Nationalism of South Korea 韓国のファシズム はやし浩司 民族主義 はやし浩司 メキシコ
湾を南海に ペリー提督の地図)
はやし浩司 2012−01−29朝記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

【硬直する思考回路】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●やる気度

 旅館にかぎらず、商店というのは左前になると、そのまま本気度が消える。
サービスが低下する。
その一方で、たまに来る客から、目一杯、儲けようとする。
そのため客が逃げる。
あとはこの悪循環の中で、商売は、ますます左前になる。
商店主は、さらにやる気をなくす。

 服装もだらしなくなる。
言葉遣いもだらしなくなる。

 今まで、私はそうしたシャッター通りの商店を擁護する原稿を書いてきた。
しかし、そうなるには、そうなるだけの理由がある。
その一例が、私の自転車店ということになる。

●思考回路

 どんな商売でもそうだが、日々に努力あるのみ。
その努力を怠ったとたん、店はほこりをかぶるようになる。
では、どうするか。

 そのためには、まず、自分のもつ思考回路に気づく。
その前に、思考回路というのが、どういうものであるかを知る。

人間の脳みそは、基本的には怠けもの。
そのつどできるだけ楽な道を選ぼうとする。
その楽な道に沿って、思考回路を作る。
が、この思考回路。
一度、それができると、変更するのは容易なことではない。
年を取ればなおさらで、思考回路そのものが、硬直化する。

●脳の別室

 そこで「学習」ということになる。
が、思考回路が硬直化していると、学習しても、ほとんど意味がない。
たとえば先に書いた旅館の男を、都会のビジネスホテルに連れて行ったとする。
「サービスというのは、こういうもの」と見せたとする。
が、効果は、ほとんどない。……はず。

 脳みそは、自分のつごうのよい情報と、自分につごうの悪い情報を、より分けてしまう。
そして自分に都合の悪い情報は、脳の別室に閉じこめてしまう。
実際、自分につごうの悪い情報を見聞きするのは、不愉快。
避けたい。
「医者嫌い」が、その一例である。

 が、それでも自分につごうの悪い情報に、耳を傾ける。
それがその人に、別の道を示す。
たとえばこんなことがある。

●辛らつなコメント

 私はこうして毎日、いろいろな文章を書いている。
それについて、毎日のように、いろいろなコメントが届く。
たいはんは好意的なものだが、中には、辛らつなものもある。

 当初は、そういう辛らつなコメントが届くたびに、かなりのショックを受けた。
そのあと、怒りと悔しさで、体が燃えるように熱くなったこともある。
恐らくみなさんの中にも、同じような体験をした人は多いと思う。
ネットの世界では、匿名で、相手を非難したり、中傷したりすることができる。

 で、そのときのこと。
実は、そういう辛らつなコメントほど、大切ということに、やがて気づいた。
が、それを読み返すのは、苦痛以外の何ものでもない。
ばあいによっては、そのページを開くだけで、ぞっとする。
が、それでも読み返す。
するとその先に、別の道が見えてくる。

 ……私はそのうち、こんな技術を身につけた。
慇懃無礼な、礼状を書くという技術である。
「あなた様のきびしいご意見は、たいへん参考になりました。これからの執筆活動に、じゅうぶ
ん役立たせていただきます。ありがとうございました」と。

 以来、ネットの世界では、10年が過ぎた。
今ではそうした辛らつなコメントなど、何とも思わない。
またこちらから喧嘩しなければならないような相手でもない。
どうせ相手は、匿名。
犬の遠吠え。

 話が脱線したが、(つごうの悪い情報)に、あえて、身を染める。
それが「学習」ということになる。
けっして、脳の別室に、それを閉じこめてはいけない。

●「あなた殺されるわよ」

 で、もしこの文章を、シャッター街の人が読んだら、どう反応するだろうか。
私の印象では、激怒するにちがいない。
ワイフは、こう言った。
「あなた、殺されるわよ」と。

 が、しかし、私を殺すのは待ってほしい。
もしその男が、この先も商売をつづけようと願うなら、私がここに書いたことについて謙虚に反
省したらよい。
自分を見つめなおしたらよい。

その男にとって、何よりも重要なことは、その男自身がもつ思考回路を変えること。
組みなおすこと。
一度できあがった思考回路を変えるということは、それくらい、大変なこと。
ばあいによっては、苦しい。
つらい。
しかしその苦しさやつらさを乗り越えることなしに、その男に明日はない。

●ジー様先生

 ……と書いても、これは私自身の問題でもある。
私の現在の主なる収入源は、「幼児教室」である。
「BW幼児教室」という名前をつけている。

 この不況下、(不況だけが理由ではないのだが)、ご多分に漏れず、左前。
毎年3月になると、それだけで憂うつになる。
「4月から、やっていけるだろうか?」と。

 これには、私の年齢の問題もからんでいる。
私も64歳。
親といっても、若い母親たちばかり。
私のようなジー様先生など、お呼びではない。
それが若い母たちと接していても、よくわかる。
いくらがんばっても、若い先生には、かなわない。
生徒自身が、それを口にすることがある。
「あんた、ジジ臭い!」と。
言うなれば、私自身が、シャッター通りの店主になっている。

●BW幼児教室

 そこで私の思考回路をどう変えていくか。

 ひとつには、常に新しい教育にチャレンジしていくこと。
「今度は、これを教えてみよう」「あれを教えてみよう」と。

 そのことは、私の「BW公開教室」を見てもらえば、わかる。
http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html
この1年間だけでも、いろいろな分野に挑戦してみた。
たとえば幼稚園児に、方程式の解き方まで、教えてみた。
おもしろかった。
楽しかった。
この4月からは、さらに新しい分野に挑戦してみたい。

 「学校で使う教科書に沿って……」などというチンケな教育だけは、したくない。
それも必要だが、(というのも、スポンサーである親たちは、それを求めているから)、それだけ
には終わりたくない。

 まずいのは、「年齢だから……」というおかしな理由にこだわり、思考回路を硬直させること。
こうしてものを書くことについても、そうだ。
いつも新しい分野に向かって、道を開いていく。
それが私の仕事を、「シャッター通り」にしない、ゆいいつの方法ということになる。

●シャッター通りのみなさんへ

 私は今まで、シャッター通りについて書くたびに、その外側から、行政の不備を攻撃してき
た。
私の実家も、そのシャッター通りにあった。
が、実は、どうもそれだけではないようだ。

……ということで、シャッター通りの内側からの意見を書いてみた。
私たちたちは、私たち自身で努力する。
その成功例も、ないわけではない。

 たとえば滋賀県の長浜。
長浜の町。
小さな田舎町だが、都会の〜〜通りほどの観光客であふれている。
若い店員たちが、思いっきり元気を発散している。
なぜそうなのか。
またそうであるためには、どうしたらよいのか。
もしあなたに学習能力が残っているなら、一度、長浜の町をのぞいてみたらよい。
たった40年前には、さびれにさびれ、「♪イノシシが、逆さまにぶらさっがっている」というような
町だった。

 それが今は、あの「長浜の町」になった。

 がんばろう、シャッター通りのみなさん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 シャッター通り 思考回路 はや
し浩司 長浜 硬直した思考回路)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●私の生存哲学byはやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、2つの同窓会をキャンセルした。
ホテルも予約していたが、同じくキャンセルした。
理由はそれぞれあるが、このところ何かと無理ができない。
自分の体力の限界を感ずるようになった。
そのときはよくても、疲れが、あとになってドッと出る。
それに今年は、インフルエンザの予防接種をするのを忘れた。
本当は忘れたわけではなく、医院へ行くのが遅すぎた。
「在庫はもうありません」と。
それを知りワイフは、こう言った。
「だから、早く行きなさいと、あれだけ言ったのに……」と。

 重要な講演がつづく。
「風邪をひきました」という言い訳は、この世界では通用しない。
講演のキャンセルは、ぜったいに許されない。
コロリと死ねば、それなりの言い訳が立つが、そうでないかぎり無理。
……ということで、季節がら、大事を取ることにした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「日本海」の呼称問題

 今朝は、日本海の呼称問題で、頭が熱くなった。
一気に原稿をまとめた。
英文でも書いた。
一部は、オーストラリアの友人に校閲してもらった。

 総じてみれば、日本人は、おとなしすぎる。
プラス、お人好しすぎる。
豆腐型人間ばかり(失礼!)。
一億、自信喪失状態。
が、それとこれは、話は別。
言うべきことは言おうではないか。
やるべきことは、やろうではないか。

●ギリシア問題

 ギリシアの金融危機問題は、2転3転、……さらに4転、5転。
「来週中(1月30日〜2月3日)には、解決する」(Bloomberg)と、ベニゼロス財務省(ギリシア)
は言っている。
が、どうかな?

 ギリシアの金融危機は、第二次支援策に向け、この2、3か月で、さらに100億ユーロ近くも
悪化している。

 そこでドイツは、ギリシアの財政政策に対し、露骨な介入策を提示している。
わかりやすく言えば、「ドイツの言うことを聞かなければ、これ以上、金は貸さない」と。

ブルームバーグは、つぎのように報道している。

『……ユーロ圏の当局者2人が明らかにしたところによると、ギリシャへの第2次支援策の条件
として、欧州当局者はギリシャの予算決定に直接介入する計画について議論している。 

  ギリシャ当局者は28日、同国政府が国家主権に反するとして、計画を拒否したと語った』
と。

 ドイツ(欧州当局者)の言い分も当然だが、ギリシアの言い分も、これまた当然。
両者が、真正面から対立している。
たとえ両者が合意に達したとしても、すでにギリシアはデフォルト(債務超過)している。
「借金の棒引き」という事実そのものが、デフォルト。
が、本当の問題は、そのつぎ。
「ネクスト」。
つぎは、この日本!

●日本の金融危機

 今や、「円資産」は、風前の灯火。
これもわかりやすく言えば、円という札束が、紙くずになる。
もうメチャメチャ。
社会保障費にしても、消費税の利率アップを前提に、予算が組まれている。
(まだ利率アップは、決まったわけではない!)

 本来なら、つまり現金がないなら、人件費をカットし、支出を減らす。
が、そういうこと(=行政改革)には、いっさい手をつけず、増税だけでこの危機を乗り切ろうと
している。
その額、1000兆円。

 貿易収支は赤字。
工場はどこも青息吐息。
労働者は減少。
景気はどん底。
手取り給料の減少。
土地価格も、現在、下落中。

 今までの予測では、円は一時的に急速に円高に向かったあと、今度はドスンと円安に向かう
と考えられていた。
が、最近の予測では、その中間部分が省略され、ドスンと円安に向かうかもしれないという。
つまり今が、円高の頂点。

 常識で考えても、1000兆円などという借金、返せるわけがない。
国民(1億人として)、1人あたり、1000万円!
4人家族で、4000万円!
みなが「円はあぶない」と思ったその瞬間、日本の経済は、破綻する。

●「みんなで渡れば、恐くない」

 が、日本人というのは、たいへん興味深い。
「何とかなる」「私だけではない」という論理だけで、動こうともしない。
「みんなで渡れば、恐くない」と。
集団帰属性が、きわめて強い。
言い換えると、個人プレーが苦手。

 今の今でさえ、「国が何とかしてくれる」とか、「国がつぶれるはずがない」とか、これまたのん
きの、のん平。
仕事にしても、どこかにぶらさがることばかり、考えている。
社会のシステムそのものが、そうなっている。
この日本ほど、個人が生きにくい国は、そうはない。
個人で生きることすら、許さない。
たとえば税の使われ方ひとつ取りあげても、それがわかる。

 自治体は、組織を援助する。
たとえば幼稚園や保育園という組織。
園児1人あたりいくら……というようにして、組織(幼稚園や保育園)を援助する。

 一方、欧米では、子ども1人あたりいくら……というようにして、子どもをもつ親を援助する。
親に直接、現金を渡す。
親は、そのお金を手にして、幼稚園を選ぶ。
学校を選ぶ。
だから教える側のきびしさそのものが、ちがう。
へたな教え方をしていたら、そのままつぶれてしまう。

 大学生にしても、そうだ。
大学生は、1単位いくら……というように、自分でお金を出して、講座を買う。
だから欧米の大学では、スクラップ&ビルド(学部、学科の新生、廃止)は、日常茶飯事。
学ぶ側も真剣なら、教える側も真剣。
「個人」として生きる、生き様が確立している。
社会のシステムも、その「個人」を基本としている。

 田丸謙二先生(東大元副総長)が、こう話してくれた。

「向こう(アメリカ)の教授などは、2、3度、リハーサルしてから講義に臨んでいる。
休み時間になると、教授室の前には、ズラリと学生が並ぶ。
日本では、ぜったいに見られない光景だよ」と。

 これでわかったかな?
日本がもつ異常性。

●では、どうするか?

 「個人の資産は、(あればの話だが……)、自分で考え、自分で守れ」(カイル・バス氏・日経
新聞)と。
「みなのあとをついていくのは、危険」とも。
さらに「政府の言うことを信ずるな」とも述べている。

 すでに世界中のヘッジ・ファンドは、日本の金利上昇、円安を見越した動きに出ているとい
う。
「可能性の問題ではなく、時間の問題」(経済各誌)だ、そうだ。
しかも恐ろしいことに、先に延びれば延びるほど、被害が大きくなるということらしい。

 ……つい先日、アメリカ政府は、現在の超低金利政策を最低でも2年延長すると発表した。
そのためドル安、金(ゴールド)高、それに円高がつづいている。
わかりやすく言えば、アメリカはなりふり構わず、自国防衛に打って出た。
その結果、世界は、どうなるか。

アメリカも深い傷を負うが、そのためユーロが崩壊すれば、再びドルが、世界の基軸通貨とし
て、躍り出ることができる。
日本の産業を吸収することもできる。
そのうち日本を走るTOYOTA車は、みな、アメリカ製になる。
アメリカは10年後のアメリカをすでに計画している。

 私たちはそういう世界の流れを読みながら、ささやかな資産を、自分で守るしかない。
まさに個人としての思考力が試されるときがやってきた。

●山荘にて

 昨夜(1/28)、山荘に一泊した。
朝になり、ハッサクの収穫をした。
ダンボール箱に3箱収穫したところで、終了。
つぎは、また来週。

 で、その帰り道。
近くの有料老人ホームをたずねてみた。
月額1人、18万円前後で入居できるという。
夫婦2人で、36万円。
年額にして、430万円。
いろいろ説明を聞いていると、女性が、こう言った。
「で、どなたが希望なさいますか?」と。
すかさず、「私ですよ」と答えたら、こう言った。

「冗談、言わないでください。あなたはまだ、入れません」と。

 私はどこへ行っても、若く見られる。
50代半ば?
本当は64歳。
あと5〜6年で、入居しなければならなくなるかもしれない。
が、そのとき、今の料金で入居できるかどうかは、わからない。
……というより、不可能。

 老人はますますふえる。
もうすぐこの日本を、ハイパーインフレが襲う。
先ごろ「年収500万円以上になると、年金が減額される」という法案が、国会を通過した。
500万円?
ハイパーインフレが日本を襲うと、「タクシーの初乗りが、1万円になる」(経済各誌)と言われて
いる。
大卒の初任給が、800万円?
もちろん大根1本が、2万円!
そんな時代に、500万円を基準にしたら、年金は、みなゼロ?

 言い換えると、年金など、もうアテにできない。
官僚の考えることには、かならず裏がある。
だからカイル・バス氏はこう言った。
「政府の言うことは、信用するな」と。

 こうなったら、先手、先手で、行動するしかない。
少なくとも、私は、そうしてきた。
この先も、気力がつづくかぎり、そうする。
これは一匹狼で生きてきた、私の生存哲学でもある。
みなさんの参考になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 生存哲学 一匹オオカミ 一匹狼
 はやし浩司 カイル・バス)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●2012−01−29夜記

夕食後、ノートパソコンの修理をした。
TOSHIBAのダイナブックUXとMX。
2台。

長い間、使っていなかった。
TOSHIBAのウルトラブック(R631)を使うようになって、これらのパソコンを使わなくなってし
まった。
それで修理。
修理といっても、ウィルス対策ソフトやWINDOWのUPDATE。
ほかに、もろもろ。

もう1台、TXがあるが、これはもっぱらDVDの観賞用。
合わせて4台。
4台も!、と思う人もいるかもしれない。
私自身も、そう思っている。
が、どれも一度は、心底惚れて買ったもの。
簡単には手放せない。
あちこちをいじりながら、その感触を楽しんだ。

 で、今、久しぶりに、UXを使い、この文章を叩いている。

●DVD『バビロンの陽光』

 先ほどまで、居間でDVDを観た。
イラク映画の『バビロンの陽光』。
こういう映画には、星はつけられない。
星をつけるような失礼なことは、したくない。
できない。

 最初から最後まで、切なかった。
ワイフはその映画を観ながら、「これが現代とは思えない」と、数度、言葉を漏らした。

●雑誌

 ワイフは雑誌を読んでいる。
そのつど話しかけてくる。
だれだれが、どうした、こうした……という話。

 私はそういう話を聞いても、右耳から左耳へ、情報がスーッと流れていく。
が、ワイフはそうでない。
そのつど名前をしっかりと記憶に刻む。
芸能人やタレントなど、有名人のことなら、何でもよく知っている。
雑誌の読み方そのものが、ちがう。

●私の読書

 では、私はどうなのか?
私の読み方を分析してみる。

 その第一。
有用な情報しか、脳にとどめない。
たとえて言うなら、家庭菜園で野菜を育てるようなもの。
いつも実利を求める。
実利を伴わない雑誌は、読まない。

 その第二。
情報の種類は問わないが、論理性のあるものを好む。
小説類は、ほとんど読まない。
雑誌の中の小説はとくにそうで、ほとんど読まない。
「これは実話」というものなら、ときどき、読む。

 その第三。
自分の仕事に関係する情報は、研究論文やニュース以外、ほとんど読まない。
他人の書いた育児書類は、あえて避けている。
これは私自身の育児論を守るため。
他人の育児論に影響されるのが、いや。

たとえて言うなら、荒野を歩くにしても、ひとりのほうがよい。
ガイドは不要。
その分だけ回り道をすることも多い。
が、それが楽しい。
それにこの年齢になって、ガイドというのも、どうか?
たぶん、私をガイドできる人間は、もうこの世にはいない。

 ワイフとちがい、「名前」には、まったくと言ってよいほど、関心がない。

●TOSHIBAのUX

 UXはよいパソコンだ。
ウルトラブックより画面は小さく、それに重い。
が、キーボードのタッチ感がよい。
「こんなパソコンをもって、旅行に行きたい。
電車の中で思う存分、旅日記でも書いていたい」と。
今、そう思った。

 ただ、バッテリーのもちが、あまりよくない。
かなり劣化している。
フル充電、ノーマル使用で、3〜4時間が限度ではないか。

●化粧
 
 あくびが、何度か、たてつづけに出た。
かなり眠い。
私は居間のこたつに、半分寝たような状態で、この文章を叩いている。
いつもなら、このあたりで書きたいことがモヤモヤしてくるはずだが、今夜はそれもない。
時刻は、午後10時35分。
ワイフはいつもの就眠儀式を始めた。
顔を洗い、化粧を落とす。

 ……が、どうして毎晩、そんなことをするのだろう。
私は化粧などしたことがないし、もちろん化粧を落としたこともない。
いつもスッピンの素顔。
でかけるときも、5分もあれば、身支度を整えてしまう。
(だから女性に、若いころからもてない。)

●就寝

 「11時に寝よう」と、たった今、ワイフが言った。
「うん」と私。
結婚以来、私たちは、ずっといっしょに寝ている。
寒い冬は、さらにそうで、たがいに暖めあいながら寝ている。
そういう寝方は、欧米ではふつうだが、この日本では珍しいそうだ。
中には、別々の部屋で寝ている夫婦も多いとか。

 どれくらいの割りあいなのだろう?
ちょっと調べてみたくなった。

あるベッド会社の調査によれば、つぎのようになっている。

夫婦でいっしょのベッド……40・9%
同じ部屋だが、別々のベッド……39・3%
別々の部屋……19・7%
(以上、パラマウントベッド・調査)

 ただし年齢があがると、別々に離れるケースが多くなるとか。
「50代を過ぎると、同じ寝室の割合は、70%を切る」そうだ。

 「フ〜〜ン」と言っただけで、おしまい。
人は人。
夫婦でいっしょに寝るのは、貧者の暖房法。

 では、今夜はここまで。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【健康的優越感について】「明日は我が身」の健康論

●貧者の暖房法

 朝、起きる。
すぐウォーキングマシンに乗る。
30分、歩く。
時速は6キロ。
20分を過ぎたところで、汗が流れ始める。
ときどき、駆け足を混ぜる。
呼吸が激しくなる。
あと5分……
あと2分……
あと1分……
ピーと合図音が鳴って、マシンは停止。
タオルで顔をぬぐう。
体を乾かす。
服を着る。
ワイフが用意してくれた緑茶をググーッと飲む。

 気温は5度。
しかし暑い!

 これ称して、「貧者の暖房法」。

●ある老人

 昨日、ある老人ホームで、1人の老人と話をした。
付属のレストランで、横に並んだ。
年齢は75歳と言ったが、「???」。
何を言っているか、さっぱり理解できなかった。

「ここに住んで、何年になりますか」と私。

「……オラ、エエと、……モゾモゾ……ブツブツ……」と。

 脳梗塞か何かで、脳にダメージを受けているらしい。
見た感じでは若く、肌もツヤツヤとしていた。
質問をすれば何かを答えてはくれるが、意味がわからない。

 75歳といえば、11年後。
が、本当に75歳だったかどうかは、疑わしい。
ワイフは、「70歳くらいじゃない?」と言った。
私には、私と同年齢の、64歳に見えた。

●健康優越感

 そのときふと、私の心の中を、不愉快な感覚が横切るのを感じた。
優越感である。
「私は健康である」という優越感。
低劣な自己満足。
それが心の中を横切るのを感じた。

 といっても、それがわかるようになったのは、ごく最近のこと。
私の知人の中には、自分が健康であることを、ことさら自慢する人がいる。
健康であることに感謝するのはよい。
が、その返す刀で、相手に向かって、あれこれと説教を始める。
そのとき、先に書いた「不愉快な感覚」に襲われる。

私「最近、どうも体の調子が悪くてね」
男「ぼくは、平気だよ。毎朝、近くの湖を一周しているよ」
私「睡眠調整に、苦労することもある」
男「快眠、快便……これがぼくの健康法でね。今のところ、快眠、快便だよ、ぼくは……」
私「無理ができない体になった」
男「林君も、毎朝、ジョギングをしたらどうかね」と。

●明日の私の姿

 相手は、そう言いながら、自分が健康であることを自慢する。
同時に、私に対して、優越感を覚える。
そのときの雰囲気から、それがよくわかる。
相手はそれでよいとしても、言われた私のほうは、イヤ〜ナ気分になる。
そのイヤ〜ナ気分が、裏返しとなって、私の心の中を、横切る。
先に書いた「不愉快な感覚が横切るのを感じた」というのは、それをいう。

 だから……。
こと健康に関しては、優越感など、もたないほうがよい。
もてばもつほど、逆の立場に立たされたとき、その何倍も、苦しむ。
そうでなくても、私たちの健康は、加齢とともに、不可逆的に後退する。
老人ホームで会った男性にしても、それはまさに、「明日は我が身」。

●腹筋運動

 そのことを今朝、朝食のときにワイフに話すと、ワイフがこう言った。
「そう言えば、あのXXさん、あの人も、そうね」と。

 XXさん……私とほぼ同年齢。
知りあって、もう30年になる。
が、若いときから、自分の健康を自慢している。
あるときは、私に腹筋運動をさせた。
まっすぐ上を向いた状態で寝て、上半身を上に起こすという運動である。
「やってみなさい」と言うから、やってみせた。

 そのときXXさんは、私がそれをできないと思ったらしい。
が、私は軽々と、それをやってみせた。
10回、20回……。
腹筋は、自転車で鍛えてある。

 XXさんは、「ありえない」という顔をして、驚いていた。
「すごいですね」と、何度も言った。

で、つぎに今度は、自分でそれをしてみせた。
毎日鍛えているらしく、私より軽々と、それをしてみせた。
つまりXXさんは、それを自慢したくて、先に、私に腹筋運動をさせた(?)。
イヤ〜ナ性格。
しばらくして、それがわかった。

私「そうなんだよな、あの人。会うたびに健康の話をする」
ワ「毎朝、3〜4キロは、走っているそうよ」
私「それはその人の勝手だけど、だからといって、そうでない人を下に見てはいけないよ」
ワ「そうね」と。

 私の年齢になると、そういうイヤ〜ナ人が、ふえてくる。
それとなく自分の健康を、自慢する。
そういうとき私はすかさず、こう思う。
「だから、それがどうしたの?」と。

 それは金持ちが、金をもっていることを自慢するのに、似ている。
あるいはもしあなたの隣人が、あなたにこう言ったとしたら、あなたはどう感ずるだろうか。

「私ね、宝くじで1億円を当てましたよ。それにねFX取り引きで、1億円。この年末だけで、2億
円儲けましたよ」と。

 あなたはイヤ〜ナ気分に襲われるはず。
明日の生活費に困っているなら、なおさら。
少しでも分けてもらえるなら、話は別。
しかしそうでないなら、あなたはこう思うだろう。
「だから、それがどうしたの?」と。

●不愉快な感覚

 健康であっても、また健康でなくても、それは個人の話。
中には、会うたびに自分の病気の話をする人もいる。
相手の同情を買うために、である。

 これもまた不愉快。
そのつど、別の同情のし方を考えなければならない。
が、それでもわからなければ、こんな会話を想像してみればよい。
あなたが、がんか梗塞か、何かの大病になったとする。
そのとき……。

私「私ね、先月、心筋梗塞で入院しました。近くバイパス手術を受けます」
相「私は健康です。昨日もプールで、2000メートル泳いできました」と。

 あなたは自分の病気のことを話したのを、後悔するはず。

 つまりこれが冒頭に書いた、「不愉快な感覚」ということになる。
言い換えると、健康的優越感など、そこらの成り金男が感ずる優越感と同じ。

人間に優劣はない。
命にも優劣はない。
健康にも優劣はない。
が、ふと油断すると、その優越感を覚えてしまう。
それがイヤ〜ナ気分を引き起こす。

 ……ということで、あなたの周囲にも、1人や2人、このタイプの人がいるはず。
健康であることを、それとなく自慢する人。
長寿であることを、それとなく自慢する人。
中には、婿や嫁、さらには孫に囲まれ幸福そうな写真を送ってくる人もいる。
(そう言えば、今年の年賀状の中には、そういう年賀状があったぞ!)

気持ちはわかるが、世の中には、そうでない人も、多い。
そうでない人にとっては、そういう自慢たらしい行為は、ただの当てこすりでしかない。
そういう当てこすりが平気でできる人というのは、そのレベルの人。
成り金が、札束の上に座った自分の写真を見せびらかすのと、どこもちがわない。
あるいはどこがどうちがうというのか。

 ……というのは、私のひがみかもしれない。
しかし、健康的優越感などというものは、早晩、かならず崩壊する。
今は健康でも、いつまでもそれがつづくとは、かぎらない。

●有料老人ホーム

 有料老人ホームを出たあと、私とワイフはそのあたりを歩いてみた。
まだのどかな田園風景が、あちこちに残っていた。

私「そのうち、いっしょに、ここに入ろうか」
ワ「ここなら、私もいいわ」と。

 ただし……有料といっても、要支援度、もしくは介護度がつかないと入居できない。

私「あえて介護度をつけてもらうのもどうかと思うし……」
ワ「できるだけ、あとにしたいわね」と。

 みなさんも、そういった老人を見かけたら、こう思ったらよい。
「明日は、我が身」と。
とたん、おかしな健康的優越感は、吹き飛んでしまうはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 健康論 健康的優越感 低劣な
優越感 はやし浩司 優越感 低劣性)2012/01/30記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
【はやし浩司 2012−01−31】雑感・あれこれ(改)

●BLOG(千葉県のEH氏より)

 BLOGへのアクセス数が、ふえている。
コメントもふえている。
もちろん辛らつなものも、ある。

 千葉県に住む、EH氏(たぶん、若い父親)からは、「呆」(「阿呆の呆」)と題して、つぎのよう
なものが届いている。

が、「アホウ」とは?

 題名で、「アホウ」と書きながら、内容は実に慇懃(いんぎん)無礼。
ただし私のことを「はやし先生」と書く人はいても、「林先生」と書く人はいない。
外部の人では、はじめてではないか?


『呆、

老後の自分の面倒を見てもらう為に、愛情もない相手と結婚して、子供を作り、育てるって事で
すかね。そんな世界で生きていて、なんの価値があるのでしょう。
世の中は地球規模で変化をし進化をしているのです。
夫婦、家族、恋愛... 全ての形が多様化しているのです。新旧色々あって良いじゃないですか。

結局、林先生は御自分の意見が正しいと思い切り主張していて、読んでいてがっかりです。
ちなみに私は、子供がどこでどんな生き方をしても良いと言える親をずっと目指します。
子供には子供の人生があるのですから。
それを家族崩壊とは思いません。

むしろ、親の面倒で子供を縛りつけている方が家族崩壊じゃないのですか?
親の近くにいようが遠くにいようが子供が良い人間で幸せなら、親としても幸せなはず。
林先生は子離れ出来ていないのですね。
そんなに親の面倒を子供が見るのが当たり前だと思うのなら、御自分のお子さんに『私の面倒
をみろ』と、言ったら良いのに!

 千葉 EHより』と。

 ……ほかにも同氏より、5〜6通、同じような内容のものが届いている。
「阿呆」という題名もすごいが、「愛情もない相手と結婚して……」と、我が家をのぞき知ってい
るような内容が、恐ろしい。(ハハハ)
事実、その通りだから、反論のしようもないが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●養命酒(YOMEISHU)

 去年、オーストラリアへ行った。
そのとき、みやげに養命酒をもっていった。
が、これが大好評。
ワインには、ことさらうるさい南オーストラリア州の友人まで、「おいしい」と言った。

 ……ということで、数日前、私たちも養命酒を飲むことにした。
(本当は、衝動買い。)
が、私は、基本的には、酒は飲めない。
そういう体質だが、たしかに飲みやすい。
甘くて、おいしい。
そこで昨夜、それをグラスに一杯ほど、飲んだ。
……飲んでしまった。

 おかげで今朝は、軽い頭痛。
明らかに二日酔い。
起きるとすぐ、お湯をがぶ飲み。
今も、お茶をたてつづけに飲んでいる。


●友人のお嬢さんの結婚式

 今度、友人のお嬢さんが結婚することになった。
招待状が届いた。
2年前には、姉。
すばらしい結婚式だった。

そして今度は、妹さん。
赤ちゃんのときから、よく知っている。
2年前、友人と2人で、我が家へ来てくれた。

今のところ出席するつもりでいる。
しかし……、オーストラリアは遠い。
今回は、どうしようか?
日程の調整がむずかしい。
迷っている。
この1週間のうちに、結論を出さなければならない。


●今日で、1月も終わり

 今日は31日。
「もう31日か……」と思ったところで、思考停止。
ぼんやりと、外の明かりをながめる。
カーテン越しに、橙色の朝日が、部屋の中に注ぎ込んできた。

 今日も寒い1日に、なりそう。
……そんなことを考えていたら、庭でカラスが鳴いた。
スズメの餌をまいているが、最近は、カラスまでやってくるようになった。

 そう言えば、そろそろ畑づくりを始めなければならない。
春は近い。


●YOUTUBE

 先ほど、ビデオを4本、YOUTUBEにUPした。
が、これに30分ほど、時間がかかる。
(時間帯にもよるが……。)
しばし待つ……。

 チャンネル登録者が、30日ごとに集計される。
それを見ると、毎月、5〜10人ずつ、ふえている。
現在、400人前後。
今朝も、アメリカの人が、チャンネル登録をしてくれた。
そのつど、メールでYOUTUBEから、連絡が入る。
プロフィールを見ると、22歳の女性。

 「この人も、日本語の勉強をしているのかな?」と、そんなことを考えた。


●有料老人ホーム

 このところ各所の有料老人ホームから、案内書がよく届く。
昨日も届いていた。
どこかで私の住所と名前が、売買されているらしい。
が、選ぶ側としては、慎重にならざるをえない。
そこが「終の棲家(ついのすみか)」になる。

 有料老人ホームといっても、いろいろある。

 健常者が入居できるホームもあれば、要支援度、介護度がついた老人のみというホームも
ある。
さらに医療施設や、特養、さらにはレストランと連携しているホームもある。
当然、後者ほど、月額の費用も高額となる。
ワイフは、「家と土地を売れば、何とかなる」と言っている。
どこまでも楽天的。
私は私で、ピンコロを目標にしている。
どこまでも、悲観的。

 ……で、こうしてたまったパンフレットが、もう20通近くになる。
ワイフはそれをながめながら、どこか楽しそう。
私はそれをながめながら、頭の中で料金の計算ばかり。
この世の中、生きるのもたいへん。
死ぬのもたいへん。

 ……たった今、YOUTUBEへのUPが終了した。
もろもろの雑務をこなし、これから居間で運動。
一汗かいてくる。

 では、みなさん、おはようございます。
浜松の「アホウ」より。


【サンヒルズ三河湾にて1泊(2月1日)】

●2月1日(2012年)、愛知県三谷町のサンヒルズ三河湾に一泊しました。
 最高のホテルでした。
 招待してくださった、KUさん、ほかのみなさん、ありがとうございました。
 生涯で、最高のホテルでした。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/ogBqrcLcVt8" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 サンヒルズ三河湾 ホテル 蒲郡
 三谷町 サンヒルズ はやし浩司 2012−02−01)
iroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【サンヒルズ三河湾に一泊】(はやし浩司 2012−02−01)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/ogBqrcLcVt8" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

+++++++++++++++++++++++++

今日は、サンヒルズ三河湾に一泊。
今まで、数々の旅館やホテルに泊まってきた。
どこかに講演に招かれるたびに、その土地の旅館やホテルに泊まってきた。
私たちの趣味にもなっている。

が、その中でも、最高。
最高級ホテル(旅館)。
特別室。
202号室。
室内に露天風呂があり、三河湾を眼下に、右手には三谷町が一望できる。

沖縄では、ロワジールホテルに泊まった。
そのホテルが、今までに泊まった中では、最高と思っていた。
が、そのホテルを超えた。
(ロワジールホテルは、超近代的なホテル。
ここ、サンヒルズ三河湾は、設備などは、ロワジールホテルよりは、やや古いという感じ。)

ワイフは、何度も、「すごいわね」と、ため息を漏らした。
本当にすごい。
ロビーにしても、全面、大理石で、ピカピカに磨かれていた。
私の言葉を疑う人は、一度、宿泊してみたらよい。

場所は、三谷温泉・サンヒルズ三河湾。
とにかく、本気度、120%。
「ここまでやるか!」と思わせるようなホテル。
トイレのトイレットペーパーを覆う金属板まで、ピカピカに磨かれていた。

今度、オーストラリアの友人の娘さんが、結婚する。
ハネムーンに、日本へ来るという。
宿泊先として、私は、このホテルを推薦する。
とにかく、すばらしい!
お世辞抜きに、すばらしい!

+++++++++++++++++++++++

●本気度

 部屋は入る前から、暖房されていた。
風呂(露天風呂)も、適温に調整されていた。
一事が万事。

 先ほど、地下一階の大浴場をのぞいてみた。
場違いなほど、大きく、すばらしかった。
満足を通り越して、大感激。
こうした接客業は、本気度で決まる。
その本気度を肌で感じたとき、客は満足する。

●雪景色

 先ほどからワイフが、窓ガラスの前に立ち、眼下の三河湾を見下ろしている。
外はすっかり冬景色。
近くの大木が、風で大きく揺れている。
それを見ながら、「あら、雪が降ってきたわ」と。

 声につられ、私も、外を見た。
細かい雪が、風にのって、フワフワと横に流れていた。

●三谷町

 三谷町に入る手前で、ワイフとこんな会話をした。
「いろいろあったね」と、私。
「そうね」と、ワイフ。

私「ぼくはね、とにかくピンコロで逝(い)きたい」
ワ「私も、病気になってから、長生きしたくないわ」
私「そうだな。ぼくは限界の、そのまた限界まで働き、その翌朝、コロリと死にたい。仕事中でも
いい」
ワ「私も、そうだわ」と。

 そんな会話をしていると、ふと、目頭が熱くなった。

●模擬死体験

 「臨死体験」という言葉がある。
その臨死体験とは、ちがう。
「死」そのものを、模擬的に体験する。
「ああ、このまま死ぬのか」と。

 私もここ数年で、2回、それを経験した。
そのときのこと。
どのばあいも、私は、いつも穏やかで、安らいだ気分になった。
あれほど死を恐れていたはずなのに、その場になると、そうでない。
恐怖心はまったく、ない。
静かだった。
本当に静かだった。
一度は、こう思った。
「やっと死ねる」と。

 だから今はもう、死ぬことは怖くない。
今すぐ……とは考えていないが、そのときになったら、素直にそれを受け入れる。
その自信は、できた。

私は、ラッキーだった。
この年齢になるまで、無事、仕事ができた。
大きな病気も経験しなかった。
病院のベッドで寝たことは、一度もない。
お金に困ったこともない。
それだけでも、感謝。
感謝、感謝、感謝。

 たいしたことはできなかったが、今は、毎日が楽しい。
朝起きたときから、やりたいことが、どっと襲ってくる。
それができる。
思う存分、できる。
それを「幸福」と言わず、何と言う。
これ以上のぜいたくが、あるだろうか。

●バカ話

 こういうことを書いていると、誤解する人もいるかもしれない。

 基本的には、ワイフは、人前では別人のように静か。
しかし私とは、その別人とは別人のように、よくしゃべる。
うるさいほど、よくしゃべる。
内容は、いつも、バカ話。
いつも深刻な話をしているわけではない。
卑猥(ひわい)な話も多い。

話は前後するが、車の中で、こんな会話もした。

ワ「男は、『沈没』※というでしょ。じゃあ、女性は、何と言えばいいの?」
私「『閉幕』というのは、どうか?」
ワ「そんなもの、とっくの昔にないわよ」
私「……そうだなあ……。『落盤』というのは、どうかな? 
トンネルが、落石か何かで、詰まったとか……」
ワ「詰まることはないわよ」
私「そうだなあ……。じゃあ、やっぱり枯れススキ。枯れススキがいい」
ワ「……枯れススキ……ねえ……」と。

 ワイフの会話の特徴は、突然、いつも横ヤリが入ること。
真剣に(?)その話をしていると、突然、話題を変える。
「あら、あんなところに、ポリタンクがある!」と。

 昔、2人で、山荘を造成しているとき、そのポリタンクを探した。
が、探しているときというのは、どこにあるかわからない。
手に入れるのに、苦労した。
あちこちを探しまくった。
ワイフはそれを思い出したらしい。

私「探しているときは、なかなか見つからないのにね」
ワ「あんなところで売っているなんて……」と。

 豊橋へ入る国道1号線沿いの店で、そのポリタンクが、山のようにして売られていた。

(注※……男として、役に立たなくなることを、「チン没」という。

●三河湾

 鉛色の三河湾。
両側から半島が、左寄りに突き出ている。
薄い紺色。
それが幾重にも重なり、無数の横筋を作っている。
美しい。
気が遠くなるほど、美しい。
詩人なら、もう少しまともな表現ができるだろう。
が、私はただ一言。

 美しい!

●眼下の建物

 ワイフが眼下の建物を見ながら、こう言った。
「魚市場かなア?」と。
私は、ボートレース場ではないかと思っている。
駐車場のような幅の広い建物が見える。
その向こうは、観客席のようにも見える。
この蒲郡(がまごおり)市には、ボートレース場がある※。

 何だろう?
その右手には、先にも書いた三谷町の街並みが見える。
ひとつ、ひとつ、またひとつ。
小さな明かりが灯り始めた。

 ホテルの案内には、こうあった。
「露天風呂からは、三谷町の夜景が一望できます」(記憶)と。
夜を待たなくても、その夜景が目に浮かぶ。

(注※……眼下の明かりは、スーパーとパチンコ店、その向こうは、漁港だそうだ。
フロントの女性が、そう教えてくれた。)

●支えあう

 人はそれぞれ、たがいに支えあって生きている。
それを強く感じたのは、中日ショッパーという、宣伝紙で、だった。
今から、5、6年前のこと。
一度、広告を出したのがきっかけだった。
以後、ときどき無料で、私の教室を紹介してくれるようになった。

 お金の計算にはうるさい私だが、こと原稿に関しては、無私無欲。
損得を考えず、自分の原稿をすべて無料で、公開している。
それを編集部のT氏が応援してくれた。
うれしかった。

 個人の幼児教室は、すべて姿を消した。
(もう1か所、北部のK区にあると、聞いている。)
25年前には、10教室程度あった学習塾も、すべて閉鎖に追い込まれた。
そんな中で、おかげで……というか、中で、私の教室だけが、今も生き残っている。
ワイフは、「ふんばったおかげよ」と言うが、それだけにきびしい仕事だった。
中に、無神経な人がいて、こう言う。
「はやしさん(=私)は、自由でいいですね」と。

 そういうとき、私はいつもフンと鼻で笑って、こう思う。
「そう思うなら、自分でやってみれば」と。

 が、この4月からのことはわからない。
わからないが、少しずつ、動き出した。
基本的には、口コミ。
OBや現役の親たちが、案内書を配ってくれる。
生徒を呼んできてくれる。

 事実、今、来ている生徒の、6〜7割が、OBの子どもたち。
9割以上の生徒は、口コミで入ってくる。

●2度目の入浴

 たった今、2度目の入浴をすまし、部屋に戻った。
大浴場。
そこも貸し切り状態だった。
入ったとき、男性が1人いたが、すぐ出て行った。

 部屋に戻ると、そこはすっかり夜景色。
無数のライトが、キラキラと宝石のように輝いていた。

●不吉な想像

 このところ悪い癖ができてしまった。
こうした海岸沿いの町を見るたびに、こう思う。
「だいじょうぶだろうか?」と。

 3・11大震災のときは、沿岸の町々が、大きな被害を受けた。
が、今度は、東南海大地震が予想される。
3・11大震災並みの津波が、襲ってくる可能性もあるという。
もしそうなら、この三谷町の町も、ひとたまりもないはず。
と、同時に、こうも考える。

 こんな町々が、東北地方にもあったのだなあ、と。
そういう町々が、津波に飲み込まれ、あとかたもなく、消えてしまった。
この非現実感。
どう心の中で、処理したらよいのか。

●シャッター通り

 私の実家は、シャッター通りにあった。
近所の商店は、つぎつぎと店をたたんだ。
私の実家にしても、1日に、1〜2人、客があるかないかという状態になった。
そういう状態が、10年とか、20年もつづいた。

 晩年の実兄は、それを不安に思ったらしい。
数日ごとに電話をかけてきて、こう言った。

「お客さんが、ござらん(来ない)……」と。

 その言い方、声が、今でも、私の耳に焼きついている。
だから……。
つまりその民宿に泊まったとき、私はそのままそこに実兄と母を思い浮かべた。
実兄も、母も、同じような状況で、もがいた。

●実兄

 実兄は、私より9歳、年上だった。
が、私が30歳のころには、上下が逆転していた。
実兄が、私の弟のような存在になった。

 一方、実兄は、何かにつけ、私に甘えてきた。
「冷蔵庫が、故障して困っている(だから、新しいのを買ってほしい)」
「ステレオが壊れた(だから、新しいのを買ってほしい)」と。
私は、そのつど、実兄に、いろいろなものを買い与えた。

 実兄は、子どものころから、体が弱かった。
ちょうど戦時中に生まれた。
そのころの人は、みな、栄養失調だったという。
実兄も、その1人だった。

●口癖

 今日、食事のとき、ワイフとその話になった。
「もっとJちゃん(兄)に、いろいろしてやればよかった」と。

 兄が入院したときは、私は100万円を、届けた。
すべて1000円札にして、届けた。
「お金を見れば、元気になるだろう」と。

 ほかにも、いろいろある。
しかし私は、そうしたくて、したわけではない。
いつも追い込まれて、そうした。
それが私には、苦痛だった。
が、兄は兄。
いつも母は、口癖のように、私にこう言った。

「お前が大学へ行けたのは、Jちゃんのおかげだ」と。

 私はその言葉が、嫌いだった。
恩着せがましかった。
その言い方が、嫌いだった。
そのたびに、母と大喧嘩になったのを、覚えている。

●「何とかしてほしい」

 が、今、……つまり実兄が他界して4年になるが、その実兄が懐かしくてならない。
会いたい。
会って、思いっきり、抱きしめてやりたい。
手元にある小遣いを、すべて渡してやりたい。

 実兄は、死ぬ1、2年前まで、私に会うと、顔を見ただけで涙をポロポロとこぼした。
つらそうな涙だった。
「何とか、してほしい」と。

●兄のちょっかい

 歯がゆかった。
が、私は、卑怯にも、実兄から逃げた。
理由がなかったわけではない。
実兄は、私のワイフに、何かとちょっかいを出してきた。
私の目を盗んで、ワイフに抱きついたこともある。

 私は実兄を強く叱った。
が、晩年の実兄は、そういう道理すら理解できるような状態ではなかった。
私はともかくも、ワイフのことを考えると、いっしょに住むわけにはいかなかった。

 が、方法がなかったわけではない。
別棟の家は、すでに当時、あった。
そこへ住まわせることも、不可能ではなかった。
が、私はワイフへのちょっかいを、誇大に問題にし、それから逃げた。
今、それが私の心を重く、塞ぐ。

●慰め

 ワイフは、こう言って、私を慰めてくれた。
「あなたはじゅうぶん、したわよ」と。

 じゅうぶん?

 私にはその実感は、ない。
結婚前から、収入の半分は、実家へ送った。
が、送ったのは、お金だけ。
心は、送らなかった。
「お金さえ送っておけば、実兄や母や、それで喜ぶはず」と。

こんなたとえは、よくないかもしれない。
しかしこんなたとえのほうが、当時の私の気持ちを正確に表している。

当時の私は、冷酷な飼い主のようなもの。
餌だけを与え、それで満足していた。
まるで、厄介な犬や猫に、餌を与えるように……。

●実家を売る

 母のちょうど一周忌に、実家を売った。
捨て値のような値段で、売った。
私は、早く、実家から解放されたかった。
それでそうした。

 が、その当日の夜だったか、翌日の朝だったか?
私は実兄の夢を見た。
 
 私と実兄は、実家の前の坂を、下からあがってくるところだった。
実兄は、私の腕に手を回していた。
そして実家の前まで来た。
そのときのこと。
私が「やっとこの家から解放されたね※」と言うと、実兄は子どものように顔をすくめた。
すくめて笑った。

(注※……この部分は、言葉ではなかったように記憶している。
私がそう思っただけかもしれない。)
 
●午後10時30分

 一度、ベッドに入ったが、寝損ねてしまった。
エアコンの風が、気になった。
で、起きた。
時刻は、午後10時33分。

 少し前まで、今日書いた原稿を読みなおしていた。
読みなおしながら、「ここまで書いていいのかなあ」と思った。
私小説もよいところ。
が、同時に、こうも思う。
「はやし浩司」、ここにあり、と。

 やがて私も、灰となり、宙に舞う。
そのとき残るのは、こうして書いている文章だけ。
読者を意識することは、もうない。
ワイフですら、このところ、私の原稿を読まなくなった。
「飽きたのか?」と聞くと、「いつもまとめて読んでいるから」と。

ネットの世界は、そういう点では、不思議な世界だ。
相手の顔が、まったく見えない。
こうして書いていても、あたかも無の世界に向かって書いているような錯覚にとらわれる。
「書いている」というよりは、「叫んでいる」。
が、その声は、そのままどこかへ消えてしまう。

 だから、こうした文章を読み、こう思う人もいるかもしれない。
「はやし(=私)って、バカだなあ」、
「ここまで私生活を暴露することはないのに」と。

が、そう思いたければ思えばよい。
私自身も、すでに「私」を超えている。
1人の人間として、書いている。
「これも1人の人間」と。

●同窓会

 今夜は、名古屋で同窓会があった。
が、ドタキャンさせてもらった。
そしてこのホテルへ、やってきた。
講演会で知りあった、KUさんが、招待状をくれた。
「いつでもいいですから、使ってください」と。
で、急きょ、それを使わせてもらうことにした。
幸い、すぐ部屋が取れた。

 私はもともと、混雑したところが苦手。
回避性障害?
対人恐怖症?
……というより、私は若いころから、集団行動よりは、単独行動を好んだ。
人に、あれこれ指図されるのが、嫌いだった。

 が、それ以上に、今、名古屋は、インフルエンザの猛威にさらされている。
今週から、重要な講演がつづく。
健康には注意しなければならない。

●ワイフ

 静かな夜だ。
ワイフは、先ほどすでに寝息をたてていた。
すっかりバーさん顔になった。
そういう顔を見ると、申し訳なく思う。
私がワイフを、バーさんにしてしまった。
罪の意識を覚えることもある。

 がんこ。
超がんこ。
一度、自分の意見を述べたら、とことんそれにしがみつく。
若いときから、そうだった。
あだ名は、「石部金子」。
石部金吉をもじった。
私が、名づけた。
まじめ。
クソまじめ。
融通がきかない。
冗談が通じない。

だからよく喧嘩した。
衝突した。
が、今は、そんなワイフも、いとおしい。

●惜しい

 明日は午後イチバンから仕事。
「早く寝なければ……」と思う。
同時に、今の、この時間が、惜しい。
いつまでも、こうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。

今夜あたり、何か新しいことを発見できるかもしれない。
宝探しのような感じ。
「徳川の埋蔵金探し」?
そこに何かあるかもしれないという期待感が、私をぐんぐんと引っ張っていく。

だから、自分にこう言って聞かせる。
「人間、1日や2日、寝なくても、どうということはないのです」と。

 ホテルのフロントの横で買った、せんべいをパクパクと食べる。
このあたりは、せんべいの産地。
「産地」というのもおかしいが、名物になっている。
ここへ来るとき、パーキングエリアで、休息した。
このあたりでは、どのパーキングエリアでも、そのせんべいを売っている。

 ああ、この満足感。
充実感。
これがあるから、書くのをやめられない。

●死骸

 今、海老せんべいを食べたところ。
ひからびた海老が、化石のように張りついていた。
人間も、残酷な生き物。
生き物の死骸を、平気で食べている。
骨と皮だけになった死骸を、平気で食べている。

●就寝

 あくびが連続して、出てきた。
就寝タイム。
……しかしどうして私は、こうまで貧乏性なのか。
精神医学的には、強迫観念症という(?)。
いつも何かに追い立てられている。
何かをしていないと、気がすまない。

 が、それが苦痛というのではない。
むしろ何もしないでいると、頭の中が爆発しそうになる。
だから吐き出す。
パソコンに向かって、文章を叩きだす。
今も、そうだ。
頭の中がモヤモヤしている。

●宇宙船

 やはり眠ることにする。
で、私の就眠儀式。
床に入ると、いつも巨大な宇宙船を、想像する。
直径が20〜30キロは、ある。
円形の宇宙船。
毎晩、少しずつ、その宇宙船の各部を設計する。
それを考えていると、いつの間にか眠ってしまう。

今夜は、研究室を設計してみよう。
世界からやってきた科学者たちが、さまざまな研究をする。
そんな研究室。
つまり頭の中で、眠る前に、場所を決め、それを設計する。
それが私の就眠儀式。

 この1〜2年、眠るときは、いつもそうしている。
「羊が1匹、羊が2匹……」と数える人もいるそうだ。
が、私には効果がない。
かえって頭が冴(さ)えてしまう。

 では、おやすみなさい。
はやし浩司 2012−02−01夜記

 ほんとうにここは、すばらしいホテルです。
招待してくれた、KUさん、ありがとうございます。

●2月2日(はやし浩司 2012−02−02)

 朝、起きる。
外を見ると、一面、うっすらと雪景色。
三谷町の家々の屋根が、白いペンキを塗ったようになっている。
すぐ下の森も、ところどころ白髪のように白くなっている。
昨夜、テレビのニュースでは、大雪の報道を繰り返していた。
多いところでは、5メートルを超える積雪になったとか。
橋が落ちたところもあるという。

 今度の大雪は、ふつうではない。

 が、その一方で、アメリカでは、暖冬とか。
アメリカに住む息子が、こう書いてきた。
「こちらは、4月上旬の気候です」と。

 窓を少し開け、外の様子をビデオに収める。

●帰り支度

 これから帰り支度。
では、今回の旅日記は、ここまで。
サンヒルズ三河湾、本当にすばらしいホテルでした。

 三河湾国定公園内
三谷町温泉
サンヒルズ三河湾

Sunhills Mikawawan
http://www.sunhills-m.com
Tel: 0533-68-4696
E-mail: miya@sunhills-m.com

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 サンヒルズ三河湾 サンヒルズにて はやし浩司 2012−02−01)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【ストレスと免疫機能低下】

●新陳代謝(サイトカインと冷え)

++++++++++++++++

ストレスがたまると、新陳代謝機能が低下する。
よく知られた常識である。
昨日(午後)の私が、そうだった。
身をもって、体験した。

まず(肩こり)。
左肩(後背部)の一部が、局所的に痛くなった。
左手をもちあげるのも苦痛……という状態だった。
つづいて胸の右上部に、軽い痛みを覚えた。

狭心痛?
それとも心筋梗塞の前兆?
……いろいろ考えたが、本当のところ、狭心痛がどういうものか、私は知らない。

で、そのあとのこと。
「寒い」というのではない。
たしかに昨日は、寒かったが……。
芯から、体が冷え始めた。
体の中心部に「氷」が入っている。
そんな感じだった。

アシスタントとして、いっしょに働いているワイフが、あれこれ気を使ってくれた。
が、手足が、氷のように冷たい。
ストーブの前に立っても、冷たい。
ガタガタ……。
ブルブル……。
荒い呼吸を繰り返すが、体は一向に温まらない。

「燃料不足かな?」とも思った。
このところ、ダイエットのため、食事の量をぐんと減らしている。
が、家に帰るとき、車のヒーターをつけても、寒かった。
ワイフに、「お前は寒くないか?」と聞くと、「そんなに……寒くない」と。

「???」

家に帰り、すぐランニングマシンに乗る。
30分間、運動をする。
ふだんなら、20分前後で汗が出始める。
が、汗は出なかった。
そのかわり、体の芯にたまった(冷え)が、消えていくのが、自分でもよくわかった。
30分後。
全快?

「どう?」とワイフが言った。
「暑いくらいだ」と私。

部屋の中は、ストーブの熱気で、暑いほどだった。
はじめてその(暑さ)が、わかった。
で、結論。

ストレスは、よくない。
新陳代謝を抑制する。
それを自分の体を通して、経験した。

要するに、朗らかに生きる。
楽しく生きる。
ストレスが増加すると、サイトカインという悪玉脳内ホルモンが分泌される。
それが脳内の免疫機能を低下させる。
最悪のばあいは、がん細胞をそのまま増殖させてしまうという。
(がん細胞は日々に生まれ、日々に破壊されている。)

なお最近の研究によれば、こういうこと。

その免疫機能を司る中枢部は、視床下部の上部あたりにあるという。
その部分を何らかの薬剤で刺激すれば、免疫機能はフル活動になるという。
(詳しくは、別の原稿で書いた。これは記憶による。)

あとでサイトカインについて、もう一度、詳しく調べてみる。
サイトカインは、どのような作用を人体にもたらすのか。

+++++++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

サイトカインについて書いた、私の原稿を
探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●S君の生き方(Immunocyte & Cytokine)
A cytokine brings the effect that multiple functions, that is, a single cytokine varies in the 
condition of the target cell.
(2008年6月発表の原稿より)

+++++++++++++++

昨夜、T県T市に住んでいる、S君と
電話で、1時間ほど、話す。

大学の同窓生である。

彼も、4、5年前、内臓にガンを患い、
現在も、「闘病生活をしている」(同君)
とのこと。

「毎月、いろいろな検査を受けている」
「毎週、リハビリに通っている」
「毎日、いろいろな薬をのんでいる」と。

しかし生き方が、すばらしい。
何ごとにつけ、前向き。

「ぼくはクラシック音楽が好きだから、
チケットはいつも、何枚ももっている」と。

心配して電話をかけたつもりだったが、
かえって私の方が、教えられた。

「なあ、林君、ガンなんて、治せば
いいんだよ。すぐ死ぬというわけでも
ないからね。ていねいに検査を受けていれば、
転移も、それでわかる。わかったとき、対処
すれば、まにあうよ。これで最初のガンから
5年になるから、あと10年は生きられるよ。
これからの10年は、(もうけもの)と
思って生きるよ」と。

「悪いのは、ストレスだよ。ストレスが、
ガンを引き起こすと考えていいよ。
ぼくの周囲でガンになった人を見てもね、
何らかのストレスが引き金になったと
思われるのが、多い。ストレスが免疫細胞の
力を弱めてしまうんだよ。ガン細胞なんて
ものはね、みな、もっているんだよ」とも。

次回の同窓会には出ることを約束して、
電話を切る」

++++++++++++++++

●ストレス

++++++++++++++++

以前、ストレスについて書いた原稿を
さがしてみた。

++++++++++++++++

●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。
もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、どんなにこの世は、住みやすいことか。
いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶものは、その(わずらわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。
これは恐らく、人間が、原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。
ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何かで、つついてみるとよい。
ミミズは、頭をひっこめる。
(実際に、私はこのことをミミズをつついてみて知った。)

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。
俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。
その反応は「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

そこで人間は、自分の心を調整するため、(1)攻撃、(2)防衛のほか、つぎの3つの心理的反
応を示す。
(3)同情(弱々しい自分をことさら強調して、同情を求めようとする)、
(4)依存(ベタベタと甘えたり、幼児ぽくして、相手の関心をひく)、
(5)服従(集団の長などに、徹底的に服従することで、居心地のよい世界をつくる)、ほか。。

(1)攻撃というのは、自分の周囲に攻撃的に接することにより、居心地のよい世界をつくろうと
するもの。
具体的には、つっぱる子どもが、それに当たる。
「ウッセー、テメエ、この野郎!」と、相手に恐怖心をもたせたりする。
(自虐的に、自分を攻撃するタイプもある。
たとえば運動を猛練習したり、ガリ勉になったりする。)

(2)防衛というのは、自分の周囲にカラをつくり、その中に閉じこもることをいう。
がんこになったり、さらには、行動が自閉的になったりする。
症状がひどくなると、他人との接触を避けるようになったり、引きこもったり(回避性障害)、家
庭内暴力に発展することもある。

大切なことは、こうした心の変化を、できるだけその前兆段階でとらえ、適切に対処するという
こと。
無理をすれば、「まだ、前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、症状は、一気に悪化
する。
症状としては、心身症※がある。

こうした心身症による症状がみられたら、家庭は、心をいやす場所と考えて、(1)暖かい無視
と、
(2)「求めてきたときが与え時」と考えて対処する。
「暖かい無視」という言葉は、自然動物愛護団体の人が使っている言葉だが、子どもの側から
見て、「監視されていない」という状態をいう。
また「求めてきたときが与え時」というのは、子どもが自分の心をいやすために、何か親に向か
って求めてきたら、それにはていねいに答えてあげることをいう。

++++++++++++++++++++

●心身症診断シート

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、心身症という。
脳の機能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。
ふつう子どもの心身症は、(1)精神面、(2)身体面、(3)行動面の三つの分野に分けて考え
る。

 精神面の心身症……精神面で起こる心身症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。
混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプ
に分けて考える。
ほかに感情面での心身症として、赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんし
ゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の心身症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。
一般的には精神面での心身症に先だって、身体面での心身症が現われることが多い。

 行動面の心身症……心身症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。
忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするなど。
ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行動
(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじめ
など。

こうして書き出したら、キリがない。
要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この心身症を疑ってみる。

ただし一言。こうした症状が現われたときには、子どもの立場で考える。
子どもを叱ってはいけない。
叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。
心身症は、ますますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

+++++++++++++++++++++

●母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    

 それはささいな事故で始まった。
まず、バスを乗り過ごしてしまった。
保育園へ上の子ども(四歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。
次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。
しかも熱湯。すんでのところで、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。
次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。
何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。
あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。
もし病院で診察を受けたら、うつ病と診断されたかもしれない。
しかしAさんは病院へは行かなかった。
子どもを保育園へ預けたあと、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるよう
になった。
食事の用意は何とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。
そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。
昔からの米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしてい
た。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。
「先生、先日は通りで会ったのに、あいさつもしなくてごめんなさい」と。
私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別に気にしませんでした」と言ったが、今
度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。
そしてこう言った。
「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。
どうしたらいいでしょうか」と。
冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1) 生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2) 思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)
(3) 精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)
(4) 睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(5) ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(6) ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(7) 同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(8) 他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(9) 過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(10)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

 こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。
あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまったり、
さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。
Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。
Aさんも、子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心で
あった。
それではいけない。
子育ては重労働だ。
私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。
この原稿は、そのときの手紙をまとめたものである。

++++++++++++++++++

 この原稿の中で、とくに私が強調したかった、重要な部分は、つぎ。

「……しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、その人の処理能力を超えたようなときは、
免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こ
すとされる」と。

そこでもう一度、免疫細胞とサイトカインについて、調べてみる。

●免疫細胞

+++++++++++++以下、「免疫プラザ」HPより+++++++++++

免疫細胞の戦いの流れ
免疫細胞には役割分担があり、互いに連絡を取り合ってチームプレーで戦っています。
侵略者の敵を見つける者、敵襲来の情報を伝達する者、攻撃開始を命令する者、武器を作る
者、攻撃する者、攻撃の始まりや終わりを告げる者、それらの者を元気づける者など、それぞ
れが独自の役割を持って、実に多彩な連携のもと敵をやっつけます。

+++++++++++++以上、「免疫プラザ」HPより+++++++++++
+++++++++++++以下、「瀬田クリニック」HPより+++++++++

●Tリンパ球

  がん細胞を直接、攻撃、排除する免疫反応の中心となる細胞はTリンパ球です。
血液中の主にTリンパ球を体外で培養しながら活性化し、数も大幅に増やし、その上で元の患
者さんの体内に戻すと いうことを主眼とした治療法を活性化自己リンパ球療法といいます。

  試験管内ではTリンパ球を極めて強く活性化することが出来、かつ活性化に使用する薬剤
の副作用を蒙ることなく治療を行うことが出来ます。
活性化や刺激の方法についてもいろいろな変法が考案され、実施されています。 

●樹状細胞

  樹状細胞とはがん細胞の目印である抗原をリンパ球に伝えて、攻撃を司令する細胞です。
Tリンパ球が敵と戦う兵隊とすると、樹状細胞は司令官のような役目を担っています。

血液中の単球を体外で処理して、樹状細胞に分化させることが可能で、さらに、抗原としてが
ん細胞から抽出した蛋白質や合成したペプチド(小さい蛋白)を貪食させ、細胞表面に提示さ
せます。
このようにして抗原を提示した樹状細胞を、体に注射することで、生体内にがん細胞を攻撃す
る細胞傷害性Tリンパ球(CTL)を誘導することができ、樹状細胞療法といいます。

++++++++++++++以上、「瀬田クリニック」HPより+++++++++++

●サイトカイン

++++++++++++++以下、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

サイトカインは細胞表面の膜上にある受容体(それ自体がチロシンキナーゼまたはチロシンキ
ナーゼと共役するものが多い)に結合して働き、それぞれに特有の細胞内シグナル伝達経路
の引き金を引き、結果的には細胞に生化学的あるいは形態的な変化をもたらす。

サイトカインは多機能的、つまり単一のサイトカインが標的細胞の状態によって異なる効果を
もたらす。
例えば免疫応答に対して促進と抑制の両作用をもつサイトカインがいくつか知られている。

またサイトカインは他のサイトカインの発現を調節する働きをもち、連鎖的反応(サイトカインカ
スケード)を起こすことが多い。
このカスケードに含まれるサイトカインとそれを産生する細胞は相互作用して複雑なサイトカイ
ンネットワークを作る。

たとえば炎症応答では白血球がサイトカインを放出しそれがリンパ球を誘引して血管壁を透過
させ炎症部位に誘導する。
またサイトカインの遊離により、創傷治癒カスケードの引き金が引かれる。

サイトカインはまた脳卒中における血液の再還流による組織へのダメージにも関与する。
さらに臨床的にはサイトカインの精神症状への影響(抑鬱)も指摘されている。

サイトカインの過剰産生(サイトカイン・ストームと呼ばれる)は致死的であり、スペイン風邪やト
リインフルエンザによる死亡原因と考えられている。
この場合サイトカインは免疫系による感染症への防御反応として産生されるのだが、それが過
剰なレベルになると気道閉塞や多臓器不全を引き起こす(アレルギー反応と似ている)。

これらの疾患では免疫系の活発な反応がサイトカインの過剰産生につながるため、若くて健康
な人がかえって罹患しやすいと考えられる。

++++++++++++++以上、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

 サイトカインといっても、いろいろあるようだ。
大切なことは、前向きに、生き生きと生きることによって、
免疫細胞を活性化させるということ。

悪玉ストレスは、極力、避けるということ。

S君はこうも言っていた。

「運命は、受け入れるしかない。
運命をのろってもしかたない。
どうにもならない。受け入れて前向きに生きれば、自然と免疫細胞も活性化されて、ガンも治
るよ」と。

たいへんすばらしい教訓を受けた。
電話を切ったあと、そう感じた。

S君、ありがとう!
(以上、2008年6月記……もう4年も過ぎた! ←これは余談。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 免疫細胞 サイトカイン はやし
浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 免疫細胞 サイトカイン はやし浩司 
家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 
ストレス 免疫 免疫機能の低下 免疫機構 サイトカイン 孤独 強力なストレス はやし浩司
 絶望 孤独 心のがん細胞 ガン細胞)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう一作。
視床下部について。
2008年6月記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【生の源泉】

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not 
all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに、視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲をコントロール
していることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、太った
り、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、コントロール
していることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、脳の各部に発しているのではない
かと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、「生的エネルギ
ー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、確認されてい
る。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている組織であ
る。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

 しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、それだけ性欲も強
いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、その一例かもし
れない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、悪の道に
走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に置いたが…
…。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究でがんばるのも、そのバリエー
ションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、そのバリ
エーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、なまめかしい女性の
形をした瓶に、形を変えただけで、現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られ
ている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、それらが急速に普及し
た背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、それもよく
わかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、まるでちが
う。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモンなどが、
食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

 そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

 しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。
それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」、
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、「今、前頭前
野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、適確により分けること
ができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを設置してみたりす
る。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかもしれないが、実
際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

【補記】

●丸山ワクチンと脳下垂体※

●丸山ワクチン

 「丸山ワクチン」というワクチンがある。
当初、あのワクチンは、「ただの水」と酷評された。
「だからいくら注射しても、がんには効かない」と。
多くの科学者や医師が、その使用に反対した。

 が、そのあとも丸山ワクチンでがんが治ったという人が続出した。
脳腫瘍が消えてしまった人もいる。

そこでいろいろ調べてみると、丸山ワクチンが、人間が本来的にもつ
免疫機構を刺激することがわかってきた。
そのスイッチとなる部分は、脳下垂体にあるという(伝聞)。
その結果、免疫機構が働き出す(伝聞)。
わかりやすく言えば、丸山ワクチンが免疫機構を目覚めさせるということになる。
だから、ほんの少量でよいということらしい(伝聞)。

一説によれば、数千万分の1ミリグラムとか、あるいはもう1桁多い、一億分の
1ミリグラムでもよいとか(伝聞)。
(このあたりの話は、あくまでも参考として読んでほしい。)

(注※……脳下垂体について
視床下部は、その下部に大豆大の脳下垂体を持っている。
ヒトの場合、脳下垂体は、前葉、後葉に分かれている。
脳下垂体の後葉は、上部にある視床下部の一部が延びたもので、進化の過程で、水中から
陸上に進出し、体内の水分調節を必要とするために発達した脳の一部であるという(以上、維
持評論家、菊池一久氏のHPより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 脳下垂体 丸山ワクチン 免疫
機構 免疫機能)

Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)

In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. 
Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal 
part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、強力なシグナルが発せられ
ている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、そのシグナル
に含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)のエネルギー」と呼んでい
る。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターにかけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、辺縁系を構成す
る。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性をもったエネルギ
ーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きなものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかにあるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲についても、同じよ
うに考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、「私であって私でない部分」を、分
けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の前とあととでは、異性観
が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって私でない」部分かということに
なる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を分けることによって、つ
ぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に合ったも
のを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、その女性をウラから操って
いるために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧をするのは、私の意思によ
るもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、きわめて少ないということがわか
ってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、それとも若々し
い赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることになる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、少しさみしい気が
する。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして懸命にものを考え、文章を
書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

【私とは?】(What is "Me"?)

At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have 
found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

 ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

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Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 
慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評
論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 
Japan はやし浩司 視床下部 免疫機構)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●ストレス→神経症→「私」論

 あちこちから自分の原稿を集めているうちに、話が、(あちこち)に飛んでしまった。
最終的には、何と「私論」まで、飛躍してしまった。

 要するに、ストレスはよくない。
東洋医学でも、『病は気から』という。
「気持ち」のもちようが、その人の健康に重大な影響をもたらす。

 ここ数日、たしかに私の精神状態はよくなかった。
それが低体温症……つまり芯から体が冷えるという症状をもたらした。
肩こりも、そのせいらしい。
……ということで、今日(2012年2月4日土曜日)は、午前10時起き。
寒気も取れ、肩こりも取れた。
よかった。

 みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子どもとゲーム(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a report, 
regarding TV games and its possible dangerousness to children.)

+++++++++++++++++

「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!

イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++

【ロンドン27日・時事通信】

イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼす影響に
関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにした。

ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される可能
性もありそうだ。

報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。
ゲームによって子供は暴力に対して鈍感になるなどと結論づけた。
また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについてのみ、年齢制限が設けられている
が、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)

+++++++++++++++++

この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、その危険性を説いた教授がいた。

が、その直後から、その教授のところには、抗議の嵐!

どうして? 

一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様のような存在になっている。

どうして?

危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)

明らかに、どこかヘン。
おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。

あるいはあなた自身が、あのテレビゲームをしてみればよい。

数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。

「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。

隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、カウンセラーまで配置される状況になっ
ている。
(知っているか?)

が、この日本では、野放し! まったくの野放し!

私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、書いてから9年にもなるのに、いまだに、
抗議の書き込みがあとを絶たない。

どうして?

いったい、この日本は、どうなっているのだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム 子
供とゲーム ゲームの問題性 テレビゲーム はやし浩司 ゲームの危険性 子どもの脳 ポ
ケモンカルト はやし浩司 ポケモン・カルト)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ダイワロイネットホテル(浜松)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今夜は、ダイワロイネットホテルに一泊。
浜松市内の駅前。
東宝シネマ劇場からも、歩いて1分。
「寒空を歩いて帰るのも……」ということで、
ダイワロイネットホテル(浜松)に1泊。
1泊1名、3700円前後。

先月、三島市のドーミーインホテルに一泊した。
そのときもハイテク機能に驚いた。
が、ここダイワロイネットホテルも、それに負けずハイテク。
エレベーターも、カードがないと、作動しない。

で、さっそく、会員に……。
その場でのこと。
住所、名前、生年月日、電話番号など、詳しく聞かれた。
で、私が、「こんなホテルから何か連絡が届くと、離婚されてしまうよ」と一言。
それを言うと、フロントの女性が笑ってこう答えた。
「いえ、何も送りませんから、ご安心ください」と。

それを聞いて、横に立っていたワイフが笑った。
フロントに立っていた、ほかの2人の従業員も、声を殺して、笑った。
私も笑った。

それにしても、ホテルも日進月歩。
驚いた。

これから近くのレストランで夕食。
そのあと映画を見る。
タイトルは、『ペントハウス』。

……窓の外には、アクトタワーが見える。
それを見てワイフがこう言った。
「いつか、あそこに泊まりたいわ」と。

若いころは、デートはしたくても、できなかった。
お金がなかった。
暇がなかった。
やっと今、それができる。

ワーイ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●戦艦大和(TAMIYA 350分の1)

 息子が、TAMIYAの「戦艦大和」を作っている。
プラモデル。
350分の1。
巨大!

 その模型を見ながら、毎晩のように会話がはずむ。
戦艦大和については、私も詳しい。
息子も詳しい。
……ということで、近く、広島県呉市にある、「大和ミュージアム」※に行くことにした。
新幹線で行けば、3時間半。

(注※……呉市宝町5−20、呉市海事歴史科学館)

●美し過ぎる

 戦艦大和は沖縄への特攻作戦のため、出動した。
その途中で、アメリカ軍の猛攻撃を受け、沈没した。
息子が今作っている戦艦大和は、その「特攻仕様」。
それを見ながら、こう思った。

「美し過ぎる」と。

●土嚢(どのう)

 こんな評論を書いた人間はいない。
日本でも、私が、最初と思う。
つまり戦艦大和は、美し過ぎる。
こういうこと。

 戦艦大和は、「特攻」を目的として出撃した。
当然、アメリカ軍の攻撃を予想していた。
だったら、どうしてもっと泥臭い仕様にしなかったのか?

 私なら、甲板に、土嚢を山のように積み上げる。
塹壕のように、それを並べる。
その間に、所狭しと、機銃を並べる。
土嚢を積めば、(あくまでも結果論だが)、直撃弾を避けることもできたはず。
戦艦大和は、その直撃弾が、爆弾倉庫に落ち、爆発、沈没した。

 が、戦艦大和は、美し過ぎるほど、美しい。
並べられた機銃も、規格通りのものばかり。

●官僚主義

 こういうのを官僚主義という。
たとえば学校の校舎にしても、美し過ぎる。
整然と並んだ校舎。
規格通りの校舎。
きれいに舗装された通路。
運動場、などなど。

 昔、私が知っていたような泥臭さが、どこにもない。
「人間臭さ」と書き換えてもよい。
つまり(でき過ぎ)。

 こんな話がある。

 英語教育の講師としてやってきた、オーストラリア人が、こう話してくれた。

ある日、子どもたちを連れて、近くの公園へ行こうとした。
オーストラリアの学校なら、みな、そうしている。
が、それを止めたのが、その学校の校長。
校長がやってきて、それは、だめ、と。
理由を聞いても、だめと言うだけで、何も話してくれなかった、と。

 そこで私に、「どうして?」と。
みなさんなら、この答はわかるはず。

●特攻作戦

 いいか、特攻作戦だぞ。
殺し合いだぞ。
そんな修羅場に、化粧してでかける戦艦があるか!
私ならなりふり構わず、戦闘態勢で出かける。
それが先に書いた、「土嚢」である。

●豆腐型人間

 総じて言えば、今、この日本から、その泥臭さが消えてしまった。
みながみな、美し過ぎる。
管理、管理、また管理。
何をするにも、管理、管理、また管理。

 その結果、日本人全体が、キバを抜かれた子犬のようになってしまった。
私は「豆腐型人間」と呼んでいる。
野生臭さがなく、おとなしい。
もちろん子どもの世界とて、例外ではない。
昔風の(わんぱく少年)が消えて、もう30年になる。
(ガキ大将)が消えて、もう40年になる。

 だいたい学校の先生ですら、みな、おとなしすぎる。(失礼!)。

●日韓経済戦争

 野生臭の復活。
それがこの日本を再生させるゆいいつの方法。
たとえば……。

 今朝の報道によれば、あのパナソニックですら、7000億円の赤字という。
他の電気メーカーも、似たような状況。
テレビ事業からの撤退が、大きく響いた。

 敵は言わずと知れた、「韓国」。
だったら、日本は、なぜ戦争をしないのか?
経済戦争という戦争である。

 いい子ぶって、何もしない。
お人好しを繰り返しているだけで、何もしない。

その韓国は、東京で日本円を借り、それを資金に、事業をどんどんと拡大している。
私が日本の総理大臣なら、ウォン高に誘導し、資金の貸し出しを規制する。
表だって、それができないなら、裏で、すればよい。
陰謀と策略で、それをすればよい。
それが「泥臭さ」。
国際政治。

 それともこの日本は、韓国の、するがままに任せ、それでよいのか。
指をくわえて、それを見ているだけでよいのか。

が、本当の勝者は、アメリカ。
韓国の銀行は、そのほとんどがアメリカの資本下にある※。
つまりアメリカは韓国を操り人形にし、この日本から利益を吸い上げている。

 ……というようなことは、12年も前から書いてきた。
うそだと思うなら、「はやし浩司 日韓経済戦争」で検索をかけてみればよい。

【注※……韓国の銀行の外資比率

大手7行の株主保有構造(外資比率:1997年末→2005年末,主要株主)

・国民銀行★
外資比率:41.2%→85.68% 主要株主:Bank of New York(15.21%)

・ウリィ銀行
外資比率: 8.6%→11.10% 主要株主:ウリィフィナンシャルグループ(韓国預金保険公社)(77.
97%)

・ハナ銀行★
外資比率:21.3%→72.27% 主要株主:ゴールドマンサックス(9.34%)

・新韓銀行
 外資比率:23.4%→57.05% 主要株主:新韓フィナンシャルグループ(100%)

・韓国外韓銀行★
 外資比率: 2.7%→74.16% 主要株主:ローンスター(50.53%)

・韓美銀行★
 外資比率:29.4%→99.90% 主要株主:シティグループ(99.91%)

・第一銀行★
 外資比率: 0.1%→100.0% 主要株主:スタンダード・チャータード(100%)
(ソース:信金中金月報 2006年10月第12号)

 以上、この中で、韓国の銀行のほとんどが、アメリカの資本下にあることに注目。
表中(★)でそれを示しておいた。
つまりヒュンダイ(自動車)にしても、サムスン物産にしても、アメリカの会社。
そう思っても、まちがいない。】

●殺し合い

 再び、戦艦大和。
沖縄特攻作戦。
が、中身は、殺し合い。
だったら、どんな卑怯な手を使ってもよかったはず。

(1)長いひもをつけた気球を無数に、あげる……上空からの飛行機による攻撃を避ける。
(2)周囲の駆逐艦に、煙幕をもうもうとあげさせる……敵の飛行機の視界をさえぎる。
(3)ダミーの木造戦艦を並べる……敵の攻撃を分散させる。

 ほかにもいろいろあるだろう。
どこかマンガぽい発想だが、知れば知るほど、あの特攻作戦は、美し過ぎる。
まさかとは思いたいが、これも「武士の美学」なのか?
そう言えば、先日見た映画、『山本五十六』の中にも、こんなセリフがあった。
山本五十六が、こう言う。

「たとえ寝込みを襲うにしても、武士たるもの、枕を蹴り、相手を起こしてから切る」と。
(記憶によるものなので、不正確。)

 そのときは、なかなかかっこいいことを言うと感心した。
しかしそれはどうか。
はじめから戦争するつもりなら、こんなきれいごとは、通用しない。

 真珠湾攻撃にしても、そうだ。
奇襲作戦で、襲う。
飛行機の日の丸は、すべて消す。
あとになってそれが問題になったら、日本は、「知らぬ、存ぜぬ」で通せばよい。
つまり本気で戦争をしかける。

●甘え

 何かにつけ、日本人は、甘い。
「これだけのことをしてやったのだから、相手も……」と、甘える。
心のどこかで甘える。
反対のことも、言える。
「そこまではしなかったから、相手も手加減をしてくれるだろう」と、甘える。
心のどこかで甘える。
が、こんな甘えは、日本を一歩出れば、通用しない。

 やるなら、やる。
徹底してやる。
やらないなら、やらない。
徹底して、やらない。

 息子の戦艦大和の模型を見ながら、そんなことを考えた。

●南北戦争

 ところでここにきて、韓国と北朝鮮の関係が、にわかにキナ臭くなってきた。
ずっとニュースを追いかけているが、今回は、どうもおかしい。
雰囲気がおかしい。

 2月16日は、故金正日の誕生日。
が、北朝鮮のカレンダーには、2月9日と2月23日にも、赤い印がついているという※。
あの国の情宣活動はふつうではないが、それがこのところさらに過激になってきている。
常識で考えれば、この2月9日から23日の間に、何かある。
最悪のケースを予想するなら、2月9日は、開戦日。
2月23日は、戦争勝利宣言日ということになる。

 北朝鮮は、かねてから2週間で朝鮮半島を征服すると宣言している。
また現在の陸軍の力をもってすれば、それも不可能ではない。
一度、北朝鮮の兵隊が韓国になだれ込めば、あとは内戦状態になる。
アメリカ軍でも、手が出せなくなる。

 最初の1週間が勝負。
1週間を過ぎると、韓国とアメリカ軍が、態勢を整え、反撃に出る。
……とまあ、私ごときが「?」と思うくらいだから、みなも同じ。
韓国もアメリカ軍も、当然その上で、今ごろ臨戦態勢を敷いているはず。

(注※……この赤印は、2月5日になって、消されているのがわかったという。)

●映画『ペントハウス』

 たった今、劇場から戻ってきた。
ワイフは、風呂を浴びている。
私は備えつけのデスクで、お湯を飲んでいる。

 映画『ペントハウス』は、予想通り、星は2つ程度の★★。
そこそこの映画。
まあまあの映画。

●野生臭の復活

 書き忘れたが、野生臭を復活させるためには、こうする。
資格、認可、許可、届け出、登録など、規制を弱める。
規制緩和。
規制緩和あるのみ。
日本人を「自己責任」の世界に置きなおす。

 たとえば小学校の国語教育。
毛筆など、だれも使わない。
どこにもない。
ないにもかかわらず、トメ、ハネ、ハライ?
その上、書き順まである。
驚いたことに、鉛筆の持ち方まで、うるさく言っている学校がある。
矯正器具まで子どもに渡し、「ちゃんと正しく鉛筆を持てるようになりなさい」と。

 左利きについては、少しおおらかになってきた。
……と思っていた、その矢先の話。
鉛筆の持ち方まで、統一する?

 どうして日本という国は、国民をこうまで「型」に押しこめたがるのだろうか。
下は小学生から、上は大学生まで。
が、これでは子どもたちがもつ本来の野生臭まで、つぶしてしまう。

●自己責任

 「自己責任」という言葉を使った。
もし子どもたちに教えるべきことがあるとするなら、「自己責任」。
たとえばオーストラリアの学校には、「camping(野営活動)」という科目がある。
ある学校(メルボルン市内のグラマー・スクール)に電話をかけて確かめてみた。
「必須科目(コンパルサリー)ですか?」と。
答は、「YES」だった。

 「ひとりでも、アウトバック(野生地)でも生きていかれるように」と。
しかしそれは同時に、オーストラリア人の生き様にもなっている。

 繰り返す。
日本国内では、それでよいとしても、日本の外では通用しない。
ルールなど、ない。
反則が当たり前。
そんな世界で、ルールや規則を説いても、意味はない。
かえって「バカ」と思われるだけ。

●ひとりで生きる

 私も、ひとりで生きてみた。
あえてひとりで生きてみた。
肩書や地位とは、無縁の世界で生きてみた。
その結果として、一言。

この日本では、ひとりで生きていくのは、たいへんむずかしい。
ほぼ不可能とさえ断言してもよい。
この日本で生きていくためには、どこかの組織に入る。
どこかの「公的機関」や、「団体」にぶらさがる。
仲間で会社を作る。
資格や許認可に守られて仕事をする。
それもだめなら、安い給料で、貧乏のドン底を、はうようにして、生きていく。

 それ以外に、この日本では、生きていくのは、ここにも書いたように、ほぼ不可能。
事実、1970代、私と同じような立場で仕事を始めた仲間が10人、いた。
が、それから10年を待たずして、生き残ったのは、私1人だけだった。

●自由

 一方、オーストラリアでは、事情は逆。
高校を卒業すると、若者たちは、車1台と、電話1本で仕事を始める。
車に派手な宣伝文句を書き並べ、市内を走り回る。
業種はさまざま。

 「詰まった配管修理」「太陽熱発電専門」「電気修理」「話し相手業」などなど。
友人のK君にしても、そうだ。
喫茶店経営→宝石商→自動車販売→レーサー→……と、さまざまな仕事を渡り歩いた。

 そういう自由が、オーストラリア人の生き様の原点になっている。

●未来像

 残念ながら、この先、日本は、たいへん困難な時代を迎える。
迎えるだけならまだしも、生活全体が下り坂になる。
私たちの時代は、ボットン便所から始まった。
しかしこれからの人は、そういう時代に耐えられるだろうか。

 叩かれるまま。
殴られるまま。
それをやり返すこともできない。
ジクジクと、内へひっこむだけ。
私には、そんな未来像しか、見えてこない。

 ……悲観論ばかりで申し訳ない。
何かパワーのある原稿を書きたい。
しかし考えれば考えるほど、日本の未来は、暗い。

●愛

 話題を変えよう。

 今、横のテレビで、若い人たちが討論をしている。
テーマは、恋愛。
若い男女は、どうすれば、恋愛できるか、と。

 が、内容は、???。
同じ「愛」という文字を使うが、若い人たちが使う「愛」は、「愛」ではない。
「好いた、惚れた」というだけ。
もっとわかりやすく言えば、「肉体を求めている」だけ。
そのための儀式が、恋愛。
もっとわかりやすく言えば、欲望の満たしあい。
それが恋愛。

 だから私は、こう思う。

 若い人たちの使う「恋愛」と、仏教でいう「慈悲」、論語でいう「仁」は、異質なもの。
区別する。
が、アメリカ(欧米)では、同じ「LOVE」という言葉を、使う。
若い人たちがする恋愛も「愛」なら、神が示す愛も、「愛」。
それがまちがいの元。

だから日本の若い人たちは、恋愛をしながら、こう錯覚する。
「すばらしいことをしている」と。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、「すばらしいことをしている」と。

 こういう感覚を、私は「恋愛第一主義」と呼んでいる。
苦労を知らないだけに、やっかい。
好いた、惚れたが、欲望のおもむくまま、そのまま結婚へと突っ走ってしまう。
だから離婚率も、うなぎのぼり。

 離婚届数を婚姻届数で、単純に割ってみると、30%前後になる。
(だから離婚率が、30%前後というわけではないが……。)

 いくたの苦労を乗り越え、その結果として、「愛」が生まれる。
そこらの若い人たちに、愛がどういうものか、わかるはずもない。
わかるはずもないのに、「愛」を口にする。

 ……たった今、若い男性がこう言った。
「彼女がね、私を愛しているなら、毎晩、500字のラブレターを書いてってね。
そんなこと言うんです。
毎日、500字ですよ!
たいへんです」(記憶・テレビ番組)と。

繰り返す。
あの映画『タイタニック』の中で、ジャックとローズがしてみせたのは、愛ではない。
あの映画は、「好いた、惚れた」という、欲望劇。
ただの動物的な欲望劇。
「欲望」イコール、「愛」ではない。
……というのは、書き過ぎだが、しかし今、そんなこともわからなくなってきている。

 愛というのは、古い寺の縁側を流れる風のように、静かなもの。
味もそっけもない。
色も香りもない。
ワイフと、そのあとこんな話をした。

●母の介護

私「ぼくね、お前が寝たきりになったら、便の始末をしてあげるよ」
ワ「そうね。あなたがあそこまでするとは、思っていなかった」と。

 他界する前の2年間、母は私の家で過ごした。
最初の1年間は、私が自宅で世話をした。
が、便の始末だけは、1、2度をのぞいて、すべて私がした。
おむつの取り換えはもちろん、大便や小便の始末など。
一度も、だれかに不平や不満を漏らしたことはない。
それをワイフは言った。

私「1年間、訓練したからね。お前の便など、何でもない」
ワ「ふつう、そういう世話は、女性がするものよ」
私「最初から、お前にはさせないと心に決めていた」
ワ「……よくやったわね……」と。

 いつだったか、母もそう言った。
「お前(=私)に、こんなことをしてもらうようになるとは、思ってもみなかった」と。

 今にして思うと、それが「愛」だった。
だからこう言う。
「そこらの若い人たちに、愛が何であるか、わかってたまるか!」と。

●就寝

 窓の外には、アクトタワーがちょうど全景、すっぽりと見える。
エレベーターが、上ったり下りたりしているのが、よくわかる。
時刻は11時を回っている。

 最後にそれを見届け、パソコンの電源を落とすことにした。

 はやし浩司 2012−02−04夜記
浜松市内 ダイワロイネットホテルにて。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 ダイワロイネットホテル 愛について 戦艦大和 TAMIYA 戦艦大和 プラモ
デル はやし浩司 映画 ペントハウス はやし浩司 韓国銀行 外資比率)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●怒り(はやし浩司 2012−02−06)

+++++++++++++++++++++

このところ寒い日がつづく。
が、今朝は雨。
どこか生暖かい。
「これで寒さも和らぐか……」と。

が、今朝の新聞を見て、久々に怒り心頭!
まだ本紙は読んでないが、『週刊ポスト』誌の
広告には、つぎのようにある。
そのまま紹介させてもらう。

『一般人は800万円、公務員は2660万円』と。

大見出しには「大震災弔慰金、命の値段」とある。
いわく「人を助けようとして殉職した警察官、
消防署員、教員その他の方々の弔慰金は当然である。
だが、同じように近隣住民や社員の避難を見届けて
死んだ民間人に対しては、災害弔慰金が500万円、
遺族特別支給金が300万円。
これでいいのか!」と。

これでいいわけがない。
もちろんそれぞれの公務員の方に、責任があるわけではない。
また責任を追及しているわけでもない。

ただ、天下国家を論ずるときは、子どもの代、孫の代まで考える。
あなたはそれでよいとしても、そのツケは、結局はあなたの子ども、
さらには孫が支払うことになる。
が、それだけではない。
こんなことをしていたら、本当にこの日本は破産してしまう。
この(事実)の向こうには、もうひとつ、深刻な問題が隠されている。
破産どころか、消滅してしまう。
それについては、このあと、つづけて書いてみたい。

さらにもうひとつ。

「(国会議員の)年収は、上場企業の社長級。
文書、通信、交通、滞在費、1200万円は非課税。
JRも飛行機も、ただ乗り。
都内高級マンションで、家賃9万円、管理費はなし。
引退しても、民間よりはるかにオイシイ議員年金。
与党も野党も、減らす気なし」(「週刊ポスト」)と。

末尾の「与党も野党も、減らす気なし」という部分。
その部分にカチンときた。

似たような話は、この浜松市でも聞いている。
が、どういうわけか、まったく問題にならない。
それを伝える情報機関すらない。
地方新聞にしても、口をつぐんだまま。
地方議員にしても、選挙の前には、それを問題にする。
が、当選したら最後、それでおしまい。
そのあとはただひたすら、ダンマリ。
(一部の議員は、HPなどで、問題にしているが……。)

抗議をしたくても、それもできない。
異議を唱えたくても、それもできない。
どんな小さなデモでも、今では、事前届け出制。
それぞれが勝手に、「おかしい」と言うだけ。
横とのつながりがないから、大きな力にもならない。
みながみな、ザワザワと不平や不満を、小言で言いあうだけ。

そこで私たちがせいぜいできることと言えば、こうした週刊誌を買い、
支持を間接的に伝えること。
発売部数が増えれば、週刊ポスト誌も、さらにがんばるだろう。

ところでがっかりしたのが、『週刊A誌』(1・10日号)。
何と5ページもさいて、「アフリカの難民救済運動」を展開していた。
どこかの団体のPR広告なのか?
それとも週刊A誌による、独自取材なのか?
5ページといえば、大特集のはず。
が、それほどの重大性は感じられなかった。
タレントのA・チャンの、自慢話ばかり。
A・チャンを、「香港のジョン・バエズ」と位置づけているのには、驚いた。
(そんな話、はじめて聞いたぞ!)

私も高校生のときから、ジョン・バエズの大ファンだった。
彼女のもつ哲学に共鳴した。
ジョン・バエズはその哲学を、自ら作詞、作曲した。
そのジョン・バエズ?

私たち庶民は、たしかに操られている。
日々に洗脳されている。
週刊A誌のその記事を読んで、私はそう感じた。

++++++++++++++++++++++

●資格

 今から40年前の話。
メルボルン大学のIHカレッジには、世界中から留学生が集まっていた。
そんな学生たちの間で、ある日、こんなことが話題になった。
「どの国へ留学するのが、いちばん得(=利益がある)か」と。

 で、結論は、結局は、欧米諸国ということになった。
この日本は、番外だった。
理由を聞くと、こう話してくれた。

「日本で資格を取っても、世界では(=自分の国では)通用しない」、
「だから日本で勉強しても、無駄」と。

 当時、数の上でも、日本へ留学してくる学生の数は、圧倒的に少なかった。

●資格

 たとえば日本で医師資格を取っても、他の国々では通用しない。
建築士の資格にしても、さらには看護士の資格にしてもそうだ。
ゆいいつの例外は、自動車の運転免許だった。
が、それとて相互主義。
アジアの中にも、日本の運転免許を認めない国は、いくらでもあった。

 で、私はオーストラリア大使館に電話を入れ、こんなことを確かめた。
「アメリカで建築士の資格を取ったら、オーストラリアでも、そのまま通用するか」と。
(ただし確かめたのは2000年ごろ。)
オーストラリアの大使館員は、こう教えてくれた。

「そのままでは使えない。
オーストラリアではオーストラリアの資格試験を受けてもらう」と。
が、その距離は、ずっと短い。
「そのままでは使えないが、ほぼ自由に使える」と。

●風前の灯火

 日本が世界のリーダーとして、他の国々の上に君臨しているなら、まだよい。
しかし今や、日本の国際的地位は、風前の灯火。
この先、日本が生き延びていくためには、2つの方法しかない。

(1)日本の若者たちが外国へ出稼ぎに行く。
(2)外国からの移民を、大幅に受け入れる。

 順に考えてみる。

●出稼ぎ

 日本の若者たちが外国へ出稼ぎに行く。
……という話は、すでに現実の話になりつつある。
日本の国家経済は、すでに破綻状態。
それが現実のものとなれば、日本の「円」は紙くずと化す。

わかりやすく言えば、たとえば今までの日本とブラジルの関係が、逆転する。
今度は、日本人が家族を連れて、ブラジルへ出稼ぎに行くようになる。
「まさか……」と思っている人は、認識が甘い。
日本は現在、1000兆円という借金を抱えている。
1000兆円だぞ!
あのギリシアは、たった35兆円※という借金で、地獄の底で、もがいている。

 そうなったとき、日本人はどうするのか。
相手の国が、「あなたのもっている資格は、この国では通用しない」と。
そう言ったら、あなたは、どうするのか。

(注※……ギリシア政府の借金額は、3300億ユーロ(約35兆円)。
2011年10月現在。)

●日本のおごり

 今までは、高いハードルを設けても、よかった。
何といっても、日本は、世界の先進国。
世界の人たちが日本を求めてやってきた。
が、その立場は、現在、逆転しつつある。

 たとえば看護士の資格にしても、日本は高いハードルを設けている。
フィリッピンやその他の国々からやってくる看護士にしても、そうだ。
が、ことフィリッピンに関して言えば、レベルは高い。
日本より高い。
看護士の質そのものが、ちがう。
40年前においてですら、そうだった。

 男性は軍人、女性は看護士。
それが当時のフィリッピンにおける、出世コースだった。
そのフィリッピンからの看護士を、日本が再教育する?
資格試験を、この日本で受けさせる?

 ……これはとんでもない誤解。
誤解というより、日本の(おごり)。

●言葉の問題

 日本政府は、ことあるごとに「言葉の問題」を口にする。
「日本語を話さない人は、ごめん」と。
が、そんなことばかり言っているから、日本はかえってソッポを向かれる。
その一例が、東京証券取引所。
今や東証に上場している外資系企業は、とうとう一桁台になってしまった。
理由は言わずと知れた、翻訳料。

 日本政府は、すべての書類を日本語に翻訳するよう義務づけた。
日本投資家の保護(?)が目的だ、そうだ。
その結果、どうなったか。
ほとんどの外資系企業は、シンガポールに逃げた。

●外国人労働者

 言葉の問題は、その向こうに国際性(グローバル化)の問題も含む。
たとえばオーストラリアでは、その季節になると、外国人労働者がどっとやってくる。
その労働者が各地を回りながら、仕事をする。
たとえばリンゴの収穫、イチゴの収穫、ブドウの収穫など。

 が、この日本では、それができない。
できないから、この浜松市周辺からも、ミカン畑がどんどんと姿を消している。
理由は、言わずと知れた、農業経営者の高齢化。

 そこで外国人労働者を受け入れ、そうした人たちにミカンの収穫を、と考えた。
が、これにも高いハードルがある。
現実には、不可能。
また仮に外国人労働者がやってきても、悲しいかなこの日本には、その国際性がない。
言葉だけの問題ではない。
わかりやすく言えば、外国人労働者とうまくやっていく、土壌そのものがない。

●資格

 この先、日本と外国の立場は逆転する。
経済的地位のみならず、国際的地位も逆転する。
が、れはどういう状況なのか。
日本人が出稼ぎに行くような状況を、ほんの少しだけ頭の中で想像してみればよい。
そうなったとき、はたして今のような(おごり)を貫くことができるだろうか。

 たとえば今のあなたがどんな仕事をしているにしても、だ。
相手の国に、「あなたの資格は、この国では通用しません」と言われる。
そう言われて、ことごとく拒否されたら、あなたはその国へ、行く気がするだろうか。

が、それでもあなたは、仕事探しをする。
何か、ないか、と。
で、やっと見つかった。
あなたがする仕事は、その国の人たちですらしない、そういった類のものでしかない。
たとえば……。

 オーストラリアでは、牛肉の解体などは、外国からの労働者たちがしている。
肉牛を殺し、牛肉に解体する。
できる仕事といえば、そういう仕事。
いつか日本の若者たちが出稼ぎに行くようになったとき、そうなる。
日本の置かれた立場は、そうなる。

●移民国家

 暗い話ばかりした。
が、この場に及んでも、「規制」また「規制」。
私はそれがおかしいと書いている。
役人は何かにつけ、規制をかける。
そのつど、持ち場をふやす。
人員をふやす。
権限を強化、拡大する。
が、こんなことをしていたら、この日本は、自分で自分のクビを絞めることになる。
そこで、冒頭に書いた、2番目の方法。

 外国からの移民を、大幅に受け入れる。

 人口が減るなら、労働者としての外国人を、大幅に受け入れる。
これは日本人のためでもある。

 2050年ごろには、(高齢者):(勤労者世代)の割合が、1.2〜1.3になる。
わかりやすく言えば、(老人):(青年〜壮年)の割合が、1:1になる。
そうなったとき、だれが老人(=あなた)のめんどうをみるのか。
つまり、私たちはここでつぎの2つのうちから、1つを選ぶ。
そういう選択に迫られる。

(1)一定年齢以上の老人は、そのまま死んでもらう。
(2)移民国家を是認し、外国からの移民によって、高齢者社会を支えてもらう。

 あなたなら、どちらを選ぶだろうか。

●時、すでに遅し

 日本は、あえて移民国家になる。
そう宣言する。
「人口の減少分だけ、移民を認めます」と。
またそれしか、日本という国ではなく、(あなた)自身が生き延びる方法はない。
わかるかな?

 自滅か、さもなくば、移民国家か。
当然、移民国家ということになる。
が、現実は、さらにきびしい。

 時、すでに遅し。
「移民よおいで」と言っても、相手も「人」。
この日本に来たがる、奇特な外国人は、もういない。
「何を今さら……」となっている。
言い換えると、こんなことは、20年前、30年前に、準備しておくべきだった。
その結果が今。

●浜松のブラジル人

 10年前には、このあたりにも、ブラジル人の労働者があふれた。
(一時は、3万人もいたぞ!)
が、今は、さがさなければ見つからないほど、少なくなった。
日本人の私たちにも責任がある。
私たちも、彼らと融和しなかった。
融和するだけの、国際性がなかった。

 一方、ブラジル人労働者にしても、日本は住みにくい国だったと思う。
あるブラジル人は、こう言った。
待ちで知りあったブラジル人を、食事に誘ったときのこと。
「日本へ来て2年になりますが、話しかけてくれた日本人は、あなたが最初です」と。

 そのブラジル人は、4年生の大学を卒業していたが、日本では工員だった。

●深刻な問題

 さて冒頭の話に戻る。

 どうして『一般人は800万円、公務員は2660万円』なのか。
つまりもろもろの(住みにくさ)の原点は、ここにある。
行きすぎた「規制」が、こうした不公平社会の基盤になっている。
公務員の方はそれでよいかもしれない。
しかしこうした事実から生まれる不公平感を、どう心の中で処理したらよいのか。
税金を払うこと自体に、バカ臭さを覚えてしまう。
さらに言えば、この私ですら、「こんな日本に住みたくない」と思い始めている。
いわんや、外国人をや!

 繰り返すが、もちろんそれぞれの公務員の方に、責任があるわけではない。
また責任を追及しているわけでもない。
しかしこう考えてみてほしい。
あなたの子どもや孫も、あなたと同じ公務員になれればよし。
が、そうでなければ、結局は、そのツケはあなたの子どもや孫が払うことになる。

 ここでいう深刻な問題というのには、そういった問題も含まれる。
つまりそのとき、みなが、「日本は特権階級しか住めない国」と判断したらどうなるか。
そのとき「日本」という国は、内部から崩壊する。
ここでいう深刻な問題というのは、それをいう。

 最後に繰り返す。
『一般人は800万円、公務員は2660万円』というのは、その象徴でしかない。
つまり日本という国が内部崩壊する、その前兆と考えてよい。
この数字を見て、単なる「不公平」というだけ考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 不公平社会 日本崩壊 序曲 
前兆 はやし浩司 日本の内部崩壊)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以下、以前書いた原稿で、
関連したものを、載せておきます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

● 山荘で(2004年11月記)

●農業経営のグローバル化

 山荘の周辺は、少し前までは、豊かなミカン畑に包まれていた。
しかしここ5〜10年のあいだ、減反につづく減反で、そのミカン畑が、どんどんと姿を消した。

 理由は、この静岡県のばあい、(1)産地競争に負けた、(2)ミカンの消費量が減少した、
(3)農業従業者が高齢化した、それに(4)外国からの輸入ミカンとの価格競争に負けた。
加えて、この静岡県の人たちには、「どうしても農業をしなければならない」という切実感がな
い。

とくにこの浜松市は、農業都市というよりは、工業都市。
それなりに栄えている。
「農業がだめなら、工場で働けばいい」という考え方をする。

 産地競争というのは、この静岡県は、愛媛県、熊本県との競争のことをいう。
ミカンは暖かい地方から先に、出荷される。
静岡県のミカンは、季節がら、どうしても出荷が遅れる。
遅れた分だけ、価格がさがる。だからどうしても価格競争に負ける。

 ミカンの消費量が減ったのは、それだけミカンを食べなくなったということ。
「皮をむくのがめんどう」と言う人さえいる。
皮をむくことで、「手が汚れる(?)からいやだ」という人さえいる。

 農業従事者の高齢化の問題もある。ミカン栽培は、基本的には、重労働。
ほとんどのミカン畑は中間山地にある。
斜面の登りおりが、高齢化した農業従事者には、きつい。

 最後に、このところ、外国からの輸入が急増している。
あのオーストラリアからでさえ、温州(うんしゅう)ミカンを輸入しているという。

 そこで、静岡県のミカン産業は、どうしたらよいのかということになる。

● 外国との競争

 オーストラリアでのミカン栽培は、そもそも規模がちがう。
大農園で、大規模に栽培する。
しかも労働者は、中国人やベトナム人を使っている。
もともと日本にミカンに勝ち目はない。

 本来なら日本も、その時期には、外国人労働者を入れて、生産費用を安くすべきだった。
しかし日本の農業、なかんずく農林省のグローバル化が遅れた。
遅れたばかりか、むしろ、逆にグローバル化に背を向けた。
が、それだけではない。

 現在の農業は、まさに補助金づけ。それはそれで必要な制度だったかもしれないが、この半
世紀で、日本の農家は、自立するきびしさを、忘れてしまった。

このあたりの農家の人たちでさえ、顔をあわせると、どうすれば補助金を手に入れることがで
きるか、そればかりを話しあっている。

 ここでは省略するが、農家の補助金づけには、目にあまるものがある。
農協(JA)という機関が、その補助金の、たれ流し機関になっていると言っても、過言ではな
い。
が、それ以上に、もう一つ、深刻な問題がある。

 実は農業に従事する人たちの、レベルの問題がある。
M氏は、「おおっぴらには言えないが、しかしレベルが低すぎる」(失礼!)と。
それを話す前に、こんなことがあった。

● レベルのちがい?

 私が学生で、オーストラリアにいたころ、私は、休暇になると、友人の牧場に招待された。
そこでのこと。
友人の父親は、夕食後、私たちに、チェロを演奏して聞かせてくれた。
彼の妻、つまり友人の母親は、アデレード大学の学士号を取得していた。

 私は、「農業をする人は、そのレベルの人だ」という、偏見と誤解をもっていた。
だから、この友人の両親の「質」の高さには驚いた。
接客マナーは、日本の領事館の外交官より、なめらかで、優雅だった!

 これには、本当に、驚いた!

 つまりこうした学識の高さというのが、オーストラリアの農業を支えている。
が、とても残念なことだが、日本には、それがない。
(最近、若い農業経営者の中には、質の高い人がふえてきているが……。)

 一方、この日本では、M氏の話によれば、戦前には、大学の農学部門にも、きわめてすぐれ
た研究者がいたという。
しかし戦後、経済優先の社会風潮の中で、農学部門には目もくれず、優秀な人材ほど、ほか
の部門に流れてしまった。

 このことは、大卒の就職先についても、言える。

 私が学生のころでさえ、地方に残った若者たちは、負け組と考えられていた。
その中でも、農業を継いだ若者たちは、さらに負け組と考えられていた。
たいへん失礼な言い方だとは思うが、事実は事実。当時は、だれもが、そう考えていた。
M氏は、さらにつづけてこう言った。

 「農繁期には、中国や東南アジアから、季節労働者を呼び、仕事を手伝ってもらえばよい。
農業を大規模化するため、産業化、工業化すればよい。

しかしそういうグローバルなものの見方や、経営的な考え方をすることができる人が、この世界
には、いない。
それがこの日本の農業の、最大の問題だ」と。

● おかしな身分制度

 ところで江戸時代には、士農工商という身分制度があった。
江戸時代の昔には、農業従事者は、武士についで2番目の地位にあったという。
それがどういうものであったかは、ただ頭の中で想像するだけしかない。
しかしまったく想像できないかといえば、そうでもない。

 私が、子どものころでさえ、「?」と思ったことがある。

私の実家は、自転車屋。士農工商の中でも、一番、下ということになる。
それについて私は、子どもながら、「どうして商人が、農家の人より下」と思ったのを覚えてい
る。

 もちろん仕事に上下はない。
あるはずもない。
ないのだが、しかし私が子どものころには、はっきりとした意識として、それがあった。
「農業をする人は、商業をする人よりも、下」と。

 こうした社会的な偏見というか、意識の中で、日本の農業は、国際化の波に乗り遅れてしま
った。
今の日本の農業は、国からそのつどカンフル注射を受けながら、かろうじて生きながらえてい
るといった感じになってしまった。それが実情である。

●職業観の是正 

 もう一つ、話が脱線するが、今でも、おかしな職業観をもっている人は、少なくない。
私も、そうした職業観に、いやというほど、苦しめられた。

 私が「幼稚園で働いている」と話したとき、高校時代の担任のT氏は、こう言った。
「林、お前だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。

 近所のS氏も、酒の勢いを借りて、私にこう言ったことがある。
「君は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。

 私の母でさえ、「幼稚園の先生になる」と話したとき、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア」と、
電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。

 そういう時代だったし、今でも、そうした亡霊は、この日本にはびこっている。
いないとは言わせない。
つまりそういう亡霊が、私が子どものころには、もっと強くはびこっていた。
農業従事者を「下」に見たのは、そういう亡霊のなせるわざだった。

 が、もう、そういう時代ではない。
またそういう時代であってはいけない。大卒のバリバリの学士が、ミカン畑を経営しても、何も
おかしくない。
仕事で山から帰ってきたあと、ワイングラスを片手に、モーツアルトの曲を聞いても、何もおか
しくない。

●結論

 私は、M氏の話に耳を傾けながら、これは農業だけの問題ではない。
静岡県だけの問題でもない。
日本人が、広くかかえる問題であると知った。もちろん教育の問題とも、関連している。
さらにその先では、日本独特の学歴社会とも結びついている。

 が、今、日本は、大きな歴史的転機(ターニング・ポイント)を迎えつつある。それはまさに「革
命」と言ってよいほどの、転機である。

 出世主義の崩壊。
権威の崩壊。
それにかわって、実力主義の台頭。

 そこであなた自身は、どうか、一度、あなた自身の心に、こう問いかけてみてほしい。

 「おかしな職業による上下意識をもっていないか」と。

 もしそうなら、さらに自分自身にこう問いかけてみてほしい。

 「本当に、その意識は正しいものであり、絶対的なものか」と。
その問いかけが、日本中に広がったとき、日本は、確実に変る。
(040509)

【追記】

 その人がもつ職業観というのは、恐らく思春期までにつくられるのではないか。
職業観というよりは、職業の上下観である。

 この日本には、(上の仕事)と、(下の仕事)がある。
どの仕事が(上)で、どの仕事が(下)とは書けないが、日本人のあなたなら、それをよく知って
いるはず。

 こうした職業の上下観は、一度、その人の中でつくられると、それを変えるのは、容易なこと
ではない。
心境の大きな変化がないかぎり、そのまま一生の間、つづく。

 もっともこの問題は、あくまでも個人的なものだから、その人がそれでよいと言うのなら、それ
までのこと。
しかしだからといって、その価値観を、つぎの世代に押しつけてはいけない。

 さてここでクエスチョン。

 もしあなたの子どもが、あなたが(下)と思っている仕事をしたいと言い出したら、そのとき、あ
なたは何と言うだろうか。
そのことを、少しだけ、あなたの頭の中で、想像してみてほしい。

(以上、2004年11月記)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【年中児、4&5歳児に、足し算・引き算を教える】

●今回は、オーソドックスな方法で、年中児に、足し算と引き算を教えてみました。
また今回は、3歳のOさんが見学に入りましたので、全体にテンポを遅くしました。
途中、ぐずりの泣き声は、Oさんの妹さんたち(2歳児)です。

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/AP5pzyhsq7Y" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/Gcgz-EWbDTc" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/f68ox677Tdw" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/lQGesiM9TJA" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【メタ認知能力】byはやし浩司 2012−02−07日編

●私を知るために

+++++++++++++++++++++

 今朝は、午前4時に目が覚めた。
しばらくそのまま目を閉じていた。
が、そのうち、GIVE UP!

起きるとすぐランニングマシンに。
30分の運動。
ほどよい汗が、全身を濡らした。
で、そのまま書斎に。

肌で感ずる生暖かい風。
時おり屋根を打つ、はげしい雨。
今日も始まった。

2月07日。
午前5時。

++++++++++++++++++++

●活動開始

 昨日、大きな講演会の申し込みが、ひとつあった。
8月x日。
8月!

 こういう寒い日々がつづくと、8月の、あの暑さが恋しい。
本当に、今年も夏が来るのだろうか。
そんな思いが、ふと、心の中を横切る。
……というか、それまで無事、生きているだろうか。
そんな心配も、同時に心の中を横切る。

 が、今、こう決めた。
「どんなことがあっても、8月まで、生きていよう」と。
(少し悲観的すぎるかな?)
その日に合わせ、体力と気力を整える。
毎日の運動と精進(=もの書き)を怠らない。
その講演を目標とし、前に向かって進む。

●恋愛

 先日、恋愛について、エッセーを書いた。
その中で、こう書いた。

同じ「愛」という言葉を使うが、若い人がする恋愛は、「愛」ではない。
愛と思い込んでいるだけ。
辛らつな言い方をすれば、「ベッドの上で、裸になってからみあう」、
それを若い人たちは、「愛」と錯覚している、と。

が、そんなことなら、そこらのイヌやネコでも、している。
そこらのイヌやネコでもしていることをしながら、「愛」と。
バカバカしい……。
(だからといって、恋愛を否定しているわけではない。誤解のないように!)

●子育て

 子育てについても、同じ。
若い父親や母親は、それが一大事とばかり、子育てをしている。
(一大事には、ちがいないが……。)
しかしその中身と言えば、本能に操られているだけ。
(だからといって、子育てを否定しているわけではない。誤解のないように!)

 最近の脳科学によれば、こういうこと。
あの赤ん坊ですら、無意識のうちに、親ごころを誘導しているということがわかってきた。
あの赤ん坊が、だぞ!
(もちろん無意識だろうが……。)
自分をかわいく見せ、親ごころを自分にひきつける。
乳児が見せる「エンゼルスマイル」もそのひとつと言われている。

 言い換えると、親はその赤ん坊に操られる。
操られるまま、「かわいい」と思う。
頬ずりする。
同時に自分の中に潜む、本能に操られる。
操られるまま、「かわいい」と言っては、子どもを抱く。

 さらに……。
このとき母親の脳内では、何かの麻薬を服用したときのような反応が起きるという。
つまり甘い陶酔感に襲われる。

そういう相互作用があり、親は子育てをする。
子どもは、親に育てられる。
子孫が後世に残される。

●メタ認知能力

 が、本能は本能。

だからといって、ブレーキをかける必要はない。
赤ん坊をかわいいと思いたければ、思えばよい。
子育てをすればよい。
(それがまちがっているというのではない。誤解のないように。)

 ただ人間というのは、そのつど、本能に操られて生きている。
無意識の世界からの命令だけに、本人がそれに気づくということは、まずない。
ないが、それに気づくかどうかによって、「私」の見方が大きく変わってくる。

つまりこういう自分を超えた視点に自分を置き、自分をより高次な立場で見る。
これを「メタ認知」というが、この地球上では、人間だけがそれをできる。
その能力を、「メタ認知能力」という。

 「メタ」というのは、「高次な」という意味※。
「メタ認知」は、英語では、「Metacognitive」という。

ウィキペディア百科事典には、こうある。

『メタ認知(メタにんち)とは認知を認知すること。
人間が自分自身を認識する場合において、
自分の思考や行動そのものを対象として、
客観的に把握し認識すること。
それをおこなう能力をメタ認知能力という』と。

ウィキペディア百科事典にケチをつけるのも気が引ける。
が、少し意味がちがうのではないか。
「メタ認知」というのは、「無意識下における自分の思考や行動を、客観的に知ること」。
私はそういうふうに、解釈している。
またそういうふうに解釈すると、意味がよくわかる。

(注※……「meta…英語の meta- は、後から(after)、超えて(beyond)、共に(with)、変化
(change)などのニュアンスを持つ接頭語です。
「それまでの機能に加えて、後から機能を追加するためのもの」といった意味でしょうか」
(Yahoo辞書))より。

●知的能力

 メタ認知能力は、学習と訓練によって養われる。
もちろんそれを身につけるためには、それなりの知識と、知的能力が必要である。
理性や知性が、大きく影響する。
言い換えると、本能に溺れるまま行動している人には、自分の姿が見えない。
私は私と思いながら、私でない部分に振り回される。

 先に書いた、若い人たちの恋愛にしても、そうだ。
若い父親や母親の子育てにしても、そうだ。
(だからといって、それがまちがっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 が、自分の中に潜む本能を客観的に知るだけでも、「私」に対する見方が大きく変わる。
同時に「私」が何であるかが、よくわかるようになる。

●妄想性人格障害者(パラノイア)

 たとえば私には、妄想性人格障害的な傾向がある。
「パラノイア」ともいう。
ものの考え方が、どこか独裁者的?
あくまでも自己診断だが、私は、そう判断している。

(この自己診断が正しいかどうかということは、問題ではない。
「そういう傾向がある」というだけ。
またそのようにして、あれこれと自分を疑ってみることは悪いことではない。
そのつど、私は私をよりよく知ることができる。)

たとえば、私はひとつのことにこだわり始めると、脳内が一気に、不安定になる。
妄想が充満する。
不安や心配が、どっと大きくふくらみ、自分でも収拾がつかなくなる。
他人を信用しない。
疑り深くなる。
「パニック障害」とちがうのは、身体的症状を伴わないこと。
精神状態だけが、きわめて不安定になる。

 もちろん症状にも軽重がある。
まただれにも、そういった症状はある。
だからといって、「おかしい」とか、「欠陥人間」と決めつけてはいけない。
(私も、私のことを、そのように思っていない。誤解のないように。)

 が、それが私の弱点でもあり、欠点でもある。
パニック状態になると、大声で叫んだり、わめいたりする。
が、そんなときでもメタ認知能力があれば、自分を客観的に判断することができる。
「ああ、今の私はおかしい」と。

 そういう点では、メタ認知能力は、役にたつ。
自分をそのつど客観的に見ることができる。
それによって、自分をコントロールすることができる。
まずいのは、そういう「私」に気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
そこでこんなことを診断してみるとよい。

(1)いつも同じ失敗(トラブル)を繰り返す。
(2)そのつど、「二度としない」と心に誓う。
(3)が、時間がたつと、また同じ失敗(トラブル)を繰り返す。
 
 相手が配偶者であろうが、友人であろうが、知人であろうが、それは問題ではない。
ほとんどの人は、私であって私でない部分に、大きく操られている。
その原因がわかるだけでも、こうした失敗(トラブル)を未然に防ぐことができる。
「すぐに……」というわけにはいかない。
しかし時間が解決してくれる。

そのためにも、つまり「私」を知るためにも、心理学は、たいへん役に立つ。

(注※……『妄想性人格障害』について、ウィキペディア百科事典には、以下のようにある。

「この症状は、拒絶・憤慨・不信に対して過剰な感受性を示すとともに、経験した物事を歪曲し
て受け止める傾向に特徴がある。
普通で友好的な他人の行動であっても、しばしば敵対的や軽蔑的なものと誤って解釈されてし
まう。
本人の権利が理解されていないという信念に加えて、パートナーの貞操や貞節に関する根拠
の無い疑いであっても、頑固に理屈っぽく執着する。
そのような人物は、過剰な自信や自己指示を誇大にする傾向がある。
なお、この文脈で『偏執病』(パラノイア)という用語が意味するのは、単なる妄想や精神病の存
在ではなく、人々に対する猜疑心や不信が理由もなく進行中であることを意味している」(以
上、ウィキペディア百科事典より)。

●性Yからの解放

 もう何度も同じことを書いて、申し訳ない。
また同じことを書く。

……私は55歳前後に、「男の更年期」なるものを、経験した。
男性にも更年期があるかどうかという議論もある。
そうした議論は別として、そのころ私は、性YOKUから解放された。
(BLOGによっては、「禁止用語」というのがある。
ここでは「性YOKU」と書く。
「YOKU」というのは、「欲」のこと。
以下「性Y」と表記する。)

 最初にそれに気がついたのは、どこかのレストランで、雑誌を読んでいたときのこと。
巻末に、女性の裸の写真が載っていた。
かなりきわどい写真だった。
そのときのこと。
いつもなら、じっと見入るはずの私だったが、そのときは、ちがった。
その女性が、脂肪の塊(かたまり)のように見えた。
言葉はきついが、「ラード(脂身)」の塊ように感じた。
同時に、こうも思った。
「どうして今まで、こんな写真を見たがっていたのだろう」と。

 性Yからの解放というのは、それをいう。
とたん、脳の中を実にさわやかな風が流れるのを覚えた。

●性的エネルギー
 
 あのフロイトは、たいへんおもしろいことを言っている。
「人間を原点で動かしているのは、性的エネルギーである」と。

 この言葉は、若いころから知っていた。
が、それを実感したのは、そのときだった。
恐らくフロイトも、ある年齢で、私と同じ経験をしたにちがいない。
伝説によれば、フロイトはかなりの好色漢だったという。
それだけに、よけいに大きな落差を感じたにちがいない。
そして気がついた。

 「今まで私を動かしていたのは、性的エネルギーである」と。

 これは私の勝手な解釈によるものだが、それがそのとき、よくわかった。
はっきりとした輪郭(りんかく)をともなって、よくわかった。

●講演の感想

 話題を変える。

 こんなメールが届いていた。
それを紹介するのは、どこか自慢たらしい。
よくわかっている。
が、うれしかったので、原文のまま、紹介する。

『本日の教育講演会、ありがとうございました。
本校の教頭が、授業で講演会に出られなかった先生方に
自慢のように先生の話をしていました。
担任はなかなか時間がとれないのでつらいところでありますが、
大目的である保護者の方には充分に時間を取ることができました。

あんなに保護者の方々が大きな声で笑ったり、うなずいたり、
自分を振り返ったりする姿は初めて見ました。

楽しい時間、すばらしい時間ほどあっという間に過ぎてしまいます。
私も本日お聞きしたことを、今とこれからの子どもたちにぶつけて
いきたいと思います。

今後とも、よろしくお願いします。
本日は本当にありがとうございました』(K市O小学校、主幹S先生より)と。

●ハゲタカ!

 もうひとつ、話題を変える。

 「ヘッジファンド」と呼ばれる、訳の分からない組織がある。
平たく言えば、マネー(現金)そのものを売買する組織。
モノ(商品)を売買するように、彼らはマネーを売買する。
おかしな組織だが、その組織が、世界の表舞台を今、堂々と渡り歩いている。

 今度のギリシャの金融危機に際しても、大量のギリシャ国債を買い入れている。
ならば、ギリシャがデフォルト(債務超過=国家破綻)すれば、損をするはず。
……と、だれしも考える。

 が、ヘッジファンドは、損をしない。
デフォルトも予想しながら、ちゃんと保険をかけている。
「クレジット・デフォルト・スワップ」(CDS)というのが、それ。
万が一、ギリシャがデフォルトしても、元本は保証される。
金融派生商品のひとつ。

 わかりやすく言えば、ギリシャ国債を購入するに際し、購入先の銀行から同時に、CDSを購
入する。
だから今度のギリシャの金融危機でも、ヘッジファンドだけは、涼しい顔をしている。
前例がないわけではない。
10年ほど前、アルゼンチンがデファルトしたとき、ヘッジファンドだけは、大儲けした。

 つまりハゲタカ!

 が、その分だけ、CDSを販売した銀行団が、大損を被(こうむ)ることになる。
大損を被った分だけ、ヘッジファンドは儲ける。
が、問題は、それだけではない。
各国がいくら会議を重ねても、ヘッジファンドだけは、それを拒否している。

EU「ギリシャの借金を、7割棒引きにしてやってくださいよ」
ヘッジ「いやだね」
EU「そんなこと言えば、ギリシャが破綻してしまいます」
ヘッジ「ハハハ、私は構いませんよ」と。

 ここでへたに救済策に加担すれば、それこそ利益が吹き飛んでしまう。
ヘッジファンドにしてみれば、ギリシャをデフォルトさせ、その分、銀行団から、保証金を得たほ
うが得。
だから、ハゲタカ!

 が、これは日本の近未来像でもある。
すでに世界のヘッジファンドは、この日本を標的にし、動き出している。
「つぎは日本!」と。
が、こんな連中が、堂々と渡り歩いているところが、へん。
異常。
資本主義体制の矛盾が、ここに集約されている。

 コツコツとまじめに働いている人たちがいる。
わずかな給料で、何とか生き延びている人たちがいる。
が、その一方で、パソコンの画面をながめながら、一国の破綻を、今か、今かと楽しみにして
いる連中がいる。
扱う金額も、ハンパではない。
今や、1兆円単位!

 こんなことが許されてよいのか?
……ということで、話を戻す。

●依存性による魔力

 最近、こんなことをよく考える。
題して、「依存性による魔力」。

 もう少しよいネーミングがつけられないものかと思うが、私は苦手。
たとえば横文字で、「サイコパシー」という言葉がある。

(簡単に言えば、親切な人に出会ったりすると、その人を金儲けのカモととらえる。
心のゆがんだ人のことを、「サイコパシー」という※。)

そういうようなネーミングができたらよい。
そのサイコパシーと、ここでいう「依存性による悪魔」は、どこか共通している。
こういう例で、説明してみよう。

(注※……精神病質のひとつ。反社会性をもつことで、よく知られている。)

●線条体

 その前に、欲望論について。
「欲望」は、線条体に受容体と作りやすい。
その受容体ができると、条件反射的に、欲望を満たしたくなる。
よく知られた例に、アルコール中毒やニコチン中毒がある。

 これらの人たちは、ビールのコマーシャルを見ただけで、ぐいとビールが飲みたくなる。
どこかでタバコのにおいを嗅いだだけで、タバコを吸いたくなる。

 受容体は、子どもほど、できやすい。
たとえば、買い物依存症。

このタイプの人(子ども)は、それが必要だから、それを買うのではない。
「買いたい」という衝動が先に起き、そのものを買う。
ゲーム中毒の子どもが、新しいゲーム機やソフトを、狂ったようにほしがることがある。
それが、その1例ということになる。 

 ……だから、子どもには、安易にものを買い与えないほうがよい。
買い与えることで、子どもの中に中毒性が生まれる。
……という話は、この世界では、常識。
ここではもう一歩、この話を先に進めてみる。

●お人好しの祖母

 一度、この受容体ができると、常識的な感覚が通用しなくなる。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

 どこかにお人好しの祖母がいたとする。
(祖父母というのは、たいていお人好しだが……。)
その祖母が、孫の子どもに、数万円もするゲーム機器を買い与えたとする。
(よくあることだが……。)

 こういうとき、買ってやった祖母は、こう思う。
高価なものを買ってやったのだから、孫は感謝しているはず、と。
またそれによって、たがいの絆(きずな)も太くなったはず、と。

 ふつうの常識で考えれば、その祖母の思いは正しい。
しかしそのとき、孫である子どもに、受容体ができていると、そうはいかない。
高価なゲーム機器を買ってもらった子ども(孫)は、こう思う。

「しめしめ、うまくいった。
このバーちゃん、甘いぜ。
うまくだませば、もっと高価なものを買ってもらえる」と。

 依存性がベース(基本)になっているから、「買ってもらって当然」と考える。
もちろん感謝などしない。
それで絆が太くなるということもない。

 これが、私がいう、「依存性による魔力」である。

●ドラ息子

 依存性というのは、そういうもの。
一度、保護、依存の関係ができると、それを断ち切るのは、容易なことではない。
それがその人の常識になる。

 先日も、私が書いたBLOGにこんなコメントが付いた。

「……親が、息子(娘)に老後のめんどうをみてもらいたかったら、息子(娘)に、そう頼めばい
い」
「私は自分の子どもは、親のめんどうのことで、束縛したくない」(千葉県、E.H.氏より)と。

 若い父親らしいが、少なくとも私のもっている常識とは、180度ちがう。
それに驚いた。

その第一。
「親が、息子(娘)に頼め」という部分。
ドラ息子、この一言に、極まれり。

 その第二。
子どもが親のめんどうをみることを、この父親は、『束縛』ととらえている。
親は子どものめんどうをみる。
しかし子どもに、親のめんどうをみさせることは、束縛、と。
もう一度、繰り返す。
ドラ息子、この一言に、極まれり。

 こんな息子(娘)に、自分の老後のめんどうをみてもらいたい思う親は、い・な・い。

 そう言えば、昔、こんな高校生がいた。
「老人のような役立たずは、早く死ねばいい」と。
そこで私が、「君だって、いつかは、その老人になるんだよ」と話すと、その高校生はこう言っ
た。

「ぼくは、それまでにうんとお金を稼いでおくからいい。
みんなに、迷惑をかけないからいい」と。

●「結婚式をやってやる」

 問題は、そういう子どもがいるということではない。
どうしてそういう子どもになるか、だ。
その理由の第一が、先に書いた、「依存性による魔力」である。

 保護、依存の関係が常態化すると、常識が狂う。
保護してもらうのが当たり前、依存するのが当たり前という、ものの考え方をする。
ある息子氏は、親にこう言った。

「地元で結婚式をやってやるから、結婚費用を出せ」と。
「地元で結婚式をやってやるから、感謝せよ」と。
(息子が親に、感謝せよと言ったんだぞ!)

 また20年ほど前のこと。
こう言った高校生がいた。
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と。

 私はその言葉に驚いた。
驚いて、当時書いた本の中で、それについて書いた。
が、当時は、このタイプの子どもは、まだ少数派だった。
が、今は、逆転した。
むしろここに書いたような若い人たちのほうが、多い。

●修復は不可能

 が、問題は、さらにつづく。

 一度、こうした親子関係(人間関係)になると、それを修復するのは、ほぼ不可能。
親の方は、「肉親だから……」という幻想をもちやすい。
「そうは言っても、親子だから……」と。

 が、息子(娘)のほうは、そうでない。
むしろ、逆。
親が死んでからも、してもらわなかったことを、恨む。
こう言った女性(当時、40歳くらい)がいた。

 「私は結婚するとき、親から1円も出してもらえなかった。
どうしてそんな親の墓参りをしなければならないのか」と。

●殺伐とした人間関係

 殺伐とした人間関係。
現在の親子関係を、一言で表現すればそうなる。
子どもたち自身が、ドラ息子、ドラ娘になりながら、それに気づいていない。
ちょうどバブル経済が、華(はな)やかりしころ。
その時代に、今の若い人たちは生まれた。

 生まれると同時に、「蝶よ、花よ」ともてはやされた。
飽食とぜいたくの中で、幼児期から少年少女期を過ごした。
苦労を知らない。
「ひもじい」という言葉の意味すら、知らない。
食べ物にしても、それがあるという前提で、生きている。

●団塊の世代 

 さらにショッキングな事実がつづく。

 私は、昭和22年生まれの団塊の世代。
強く意識したわけではないが、(……というもの、あくまでも結果論にすぎないので)、私たちの
世代は、みなこう思っている。
「日本の繁栄を築いたのは、私たちの世代」と。

 しかし現実は、ちがう。
現在の若い人たちは、そうは思っていない。
むしろ、逆。
「日本の繁栄を破壊したのは、団塊の世代」と。

 こうした意識も、私たちの意識とは、180度、ちがう。
現在の若い人たちは、(繁栄)を前提として、生まれ、育った。
つまりこの日本は、奈良時代の昔から、(江戸時代でもよいが)、リッチだった。
それをつぶしたのが、団塊の世代、と。

●意識調査

 こうした事実を、如実に表しているのが、内閣府(総理府)による、意識調査である。
何度も取りあげているが、もう一度、ここに掲載する。
(2012年1月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ゴミ?

 少し前、「ジジ・ババ・ゴミ論」について書いた。
私が「ゴミ」という言葉を使っているのではない。
若い人たちの書くBLOGに、そう書いてある。
最近の若い人たちの老人論には、辛らつなものが多い。
「老害論」から「ゴミ論」へ。
まさかと思う人がいたら、一度、若い人たちのBLOGに目を通してみるとよい。

 それについては、もう何度か書いてきた。
ここでは「なぜ?」について、書いてみたい。
なぜ、私たちはゴミなのか?

●「将来、親のめんどうをみる」

 「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と答える、日本の若い人たちは、世界で
も最下位。
総理府、それにつづく内閣府が、数年おきに、同じ調査をしている。
「青少年の意識調査」というのが、それである。
それによれば、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●年老いた親を養うことについてどう思うか

「どんなことをしてでも親を養う」

   イギリス66.0%、
   アメリカ63.5%、
   フランス50.8%、
   韓国35.2%、
   日本28.3%
(平成9年、総理府の同調査では、19%。)

 日本の若い人たちの意識は、28・3%!
アメリカ人の約半分。

 「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。
しかし現実は、かなりちがうようだ。
今どき、「親孝行」という言葉を使う、若い人は、いない!

●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか

『そう思う』:

   イギリス70.1%、
   アメリカ67.5%、
   フランス62.3%、
   日本47.2%、
   韓国41.2%

+++++++++++++++++++++++++++++++++

 平たく言えば、現代の若い人たちは、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と考え
ている。
しかし「経済的に余裕のある若い人」は、ほとんど、いない。
どの人も、目一杯の生活をしている。
結婚当初から、車や家具一式は、当たり前。
中には、(実際、そういう夫婦は多いが)、結婚してからも親からの援助を受けている夫婦もい
る。

金融広報中央委員会の調査によれば、現在、貯蓄ゼロ世帯は、23%。

全国約4000万世帯の、23%。
4世帯につき、約1世帯。

さらに生活保護を受ける世帯が、2011年度、最高数を記録した。
その数、150万世帯!

++++++++++++++++++++++++++++++

金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査(2006年)」によれば、
つぎのようになっている。

   20代は171万円、
   30代は455万円、
   40代は812万円、
   50代は1154万円、
   60代が1601万円、
   70歳以上が1432万円。 

この調査は「20歳-79歳代の男女10,080人」を対象に調べたもので、
このうち貯蓄を持っているのは全体の、77・1%。
残りの22.9%は貯蓄ゼロ。 

貯蓄ゼロの家庭は、年収が300〜500万円未満でも21.1%。
500〜750万円未満の家庭でも16.2%。

+++++++++++++++++++++++++++++

 なお、団塊の世代についてみると、8・1%の世帯が、貯蓄ゼロとなっている(「格差脱出研究
所」調べ)。
ただしここに載っている数字にしても、あくまでも、「平均」。
70歳以上だけをみても、中に数億円以上もの金融資産を保有している人たちがいる。
大多数の人は、400〜500万円程度と言われている(某経済誌)。

 「親のめんどうをみる」と答える、若い人たちの減少。
それと反比例する形での、「ジジ・ババ・ゴミ論」。
両者を関連付けるのは、危険なことかもしれない。
しかし無関係とは、これまた言えない。

●それまでにあの世行き

 今さら、社会改革などというのは、不可能。
若い人たちの意識を変えていくというのも、不可能。
意識というのは、そういうもの。
10年単位、20年単位の年月がかかる。
それまで待っていたら、間に合わない。
(つまりそれまでに、私たちは、あの世行き!)

 だったら、私たちは私たちで、(つまり老人組は老人組で)、それを前提として生きる。
老後の生活を組み立てる。
その上で、よき息子、よき娘、よき孫に恵まれれば、もうけもの。
そう考えればよい。
期待が大きければ大きいほど、落胆する度合いも大きい。
だから期待しない。

●38年後

 悲観的な意見ばかり書いてきた。
これを読んでいる人たちも、暗い気分になったはず。
が、これは何も、私たちだけの近未来像ではない。
2050年には、この状況は、さらに悪化する。
今から、38年後。

 つまりあなたの年齢に、38歳を足してみればよい。
そうすればあなた自身も、それがあなたの近未来像ということがわかるはず。
そのころこの日本がどうなっているか。
経済誌を少しでも読んだことがある人なら、それがわかるはず。
が、経済はそうなってもしかたないが、もうこれ以上、心まで破壊してはいけない。
ただ私は、こんな時代はいつまでもつづかないと思う。
つまり繰り返す。

 悪い時代も繰り返すが、一方、よい時代も繰り返す。
それを望むわけではないが、日本もやがてドン底に叩き落とされる。
トイレもボットン便所になるかもしれない。
そこにたまった便で、野菜を育てるようになるかもしれない。
が、そのとき、再び、日本は再生の道を歩き始める。

 ドラ息子、ドラ娘……結局は苦労するのは、彼ら自身ということになる。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 親の面倒 親のめんどう 総理府 内閣府 青年の意識調査 サイコパシー
 サイコパス 依存性という悪魔 ドラ息子 ドラ娘 はやし浩司 千葉県 E.H.EH 団塊の
世代)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

●認知症(アルツハイマー病)とその周辺の人々(改)(事例、追加)

+++++++++++++++++++

ハラハラしながらの10年間だった。
それほど強く意識したわけではない。
しかしいつも心の壁に、ぺったりと張りついていた。
「私はだいじょうぶか?」と。

とうとう私の知人のHさん(70歳・女性)が、
アルツハイマー病と診断された。
私も「おかしい?」とは感じていた。
が、現実に身近にいる人がそう診断されると、
ズシンと心に重く響く。
「明日は我が身」と。

+++++++++++++++++++

●初期症状

 初期症状について、専門サイトは、つぎのように書いている。

★「健康インフォネット・HP」より

(1)自己中心的で頑固になった。
(2)理由の無い不安感にかられる。
(3)抑うつ状態になる。
(4)睡眠障害になる。
(5)幻視や妄想が重なる。
(6)人や物の名前がすぐに出てこない。
(7)新しい覚えることができない。
(8)物の置き場所をすぐに忘れる。
(9)いつもしているはずのことがスムーズにできなくなる。

ほかに、(行き慣れた道で迷う、調理手順を間違えたり忘れたりする、駅で行き先への切符が
買うことができない、何度も同じことを尋ねてしまう)」と。
以上、「健康インフォネット・HP」より
http://www.kenkouinfo.net/arutuhaima-shoki/

★「健康生活・HP」より

(1)人や物の名前を忘れる等の記憶障害。
(2)日付が分からなくなる、お金の管理が出来ない、薬の管理が出来ない等日常の生活に支
障が出てくる。
(3)自分がいる場所が分からなくなる、徘徊を始める、介護が必要になる。
(4)自分の妻や子供など人物が分からなくなる。
(5)寝たきりになる、施設介護が必要になる」と数年〜十数年かけて進行するのが特徴。
(6)人の名前や物の名前が出てこない等年齢の割に物忘れが目立つものの、料理が作れ
る、身だしなみを整える等認知機能に障害が無く、生活に支障がない場合は「軽度認知障害」
と言い、「認知症」とは診断されない。
(7)しかし、放っておくと1年に10%が認知症に移行すると言われていますので、運動や食事を
工夫して認知症への移行を遅らせることが大切。

 さらに……

(1)最も初期の症状は学習能力が落ちて新しい事を覚えていられないこと。論理的な思考力
がなくなると言われる。
最近のことをすっかり忘れて全く思い出せないのは、海馬が壊れて記憶が定着しないもので要
注意。 
(2)物の名前や人の名前が出なくなる。
ただ、すっと出てこないだけで、ヒントを与えると思い出したりする場合は記憶機能は壊れてい
ない証拠でこれは良性の物忘れのことが多い。 
(3)目標に対してプランを立てたり、スケジュールを立てたりすることが出来なくなる。 
(4)家事や仕事の段取りが上手く出来なくなるのが最初の徴候。
例えば、お皿をうまく片づけられない。
調理の手順を間違える。
冷蔵庫の管理が出来なくなる、(空っぽになったり、逆に、同じ物を重複して買ってきたり)、着
物をうまくたためない。
字が下手になる。捜し物が多くなる。
ガス栓などの閉め忘れをする。
飲み薬の管理ができない。
身だしなみがだらしなくなり、おしゃれをしなくなった。
風呂に入らなくても平気。
駅で切符が買えない、いつもの道を間違える。
同じことを何度も言ったり聞いたりする。
置き忘れやしまい忘れが目立つ等々が初期に出る。 
(5)短気になる。
些細なことでもすぐに怒るようになる。 
(6)物をどこに置いたか忘れることが多くなった 
(7)相手の話を聞いている時に、同時に自分が言うことを考えることが出来なくなる。
(8) 他人との会話が上手く行かない。 
(9)好きな事でも関心がなくなる、日課をしなくなる。
(10) 元気が無く憂鬱な感じになる。
あちこち身体の不調を訴える。
料理を作るのが面倒になったり、品数が減る。 
(11)お金や物品を盗まれたと言うようになる。
以上、「健康生活・サイト」より。
http://www.ne.jp/asahi/web/oki/health/arutu.html

 こうして各サイトの初期症状を読んでいると、この病気の概要が、おぼろげながら浮かんでく
る。

●Hさんとの電話

 Hさん(前述)について言うなら、これらすべてが当てはまるから、恐ろしい。
が、それだけではない。

たとえば電話にしても、(1)話している途中で、話題がポンと飛ぶ。
(2)同じことを、繰り返し言う。
(3)心に余裕がない話し方をする。(いつもピリピリしている。)
(4)一方的にしゃべるばかりで、こちらの言うことを聞かない。
(5)ネチネチと、いつまでもグチを言う。
(6)途中で電話を切ろうとすると、突然、怒りだしたりする。
(7)解決策を示してやると、即座にそれを否定する。
(8)つぎに電話をすると、前回話した内容を、すっかり忘れている。
(9)批判は、タブー。批判したとたん、混乱状態になる。

●私の立場

 アルツハイマー病については、いろいろなサイトが取り上げている。
が、その周辺で苦しんだり、キズついたりする人については、ほとんど取り上げられていない。
もちろんその人がその病気とわかっていればよい。
が、ふつうはわからない。
「?」と思うことはあっても、わからないまま、その人に引き回されてしまう。
私のワイフもこんな経験をしている。
この話は、4、5年前のBLOGに書いたことがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ワイフの友人

その女性は、65歳くらいから、おかしな言動を繰り返すようになった。
突発的に興奮状態になることもあった。
70歳をすぎてから、音信が途絶えたので、様子はわからない。
しかし何かの脳の病気になり始めていたことは、じゅうぶん疑われる。

●こだわり

 その女性は、ことあるごとに、弟氏の悪口を並べた。
「法事に来たが、タクシーに乗ってきた」
「夫が話しかけたが、形だけの返事しかしなかった」
「法事というのに、柄物の靴下をはいてきた」
「供養の袋だけで、供物を何ももってこなかった」などなど。

 まるでその場をビデオカメラか何かに収めたかのように、ことこまかく悪口を並べた。
が、そうした(こだわり)のほうこそ、大きな問題だった。
その女性は、それに気づいていなかった。

●3つの教訓

 最近では、脳の活動の様子を、リアルタイムでそのまま知ることができる。
それによっても、こだわりの強い人というのは、脳のその部分は活動しても、ほかの部分が休
眠状態になることがわかっている。
このことは、私たちに3つの教訓を与えてくれる。

 ひとつは、(こだわり)はもたないほうが、よいということ。
脳はいつも、平均的かつ全体的に、活動していたほうがよい。

もうひとつは、(こだわり)を少なくするため、いつも新しいことに興味をもったほうがよいという
こと。
平凡は美徳だが、老後の平凡は、美徳でも何でもない。
警戒すべきは、単調な生活。
変化に乏しい生活。
へたをすれば、そのまま死の待合室に直行……ということにもなりかねない。

 そして3つ目は、こだわりが強くなったら、脳の変調を疑うということ。
老人性のうつ病の主症状は、(老人にかぎらないが)、こだわりと考えてよい。
うつイコール、こだわり。
こだわりイコール、うつ。

●脳の老化

 そうでなくても、脳の老化は、日常的に経験する。
記憶力の低下、集中力、気力の低下など。
好奇心の低下は、そのまま自分の住む世界を、小さくする。
来る日も来る日も、同じことを考え、同じことをするようになったら、脳の老化はすでに危機的
な段階に入っていると考えてよい。

 それに(こだわり)が加われば、そのこだわっている部分はともかくも、ほかの部分が一気に
老化する。
その女性については、こんなことがあった。

●ボケ症状

 ワイフのクラブの会費を、その女性がなくしてしまった。
その数日前まで、こう言っていた。
「会費は青い封筒に入れ、バッグの中にあります」と。
が、ワイフがその数日後に電話すると、こう言った。

「私、そんなお金、知りません」
「青い封筒など、知りません。そんな話をした覚えは、ありません」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●青い封筒

 この青い封筒の話は、私もよく知っている。
その電話のとき私は、ワイフの横にいた。
こうして文章にして書くと、そのときの緊張感がうまく伝わらないかもしれない。
ワイフは、相手のこの言葉に、かなりキズついた。
怒るというよりも、ショック状態になってしまった。

 その話を思い出しながら、Hさん(前述)について、ワイフはこう言った。

「その人や、家族の人たちもたいへんだということは、よくわかるわ。
しかしそうであるなら、周囲の人たちにも、それを知らせるべきよ」と。

 が、実際には、家族は、それを隠そうとする。
あるいは家族(配偶者や息子や娘たち)が、それ以上に無知であることが多い。
ある別の知人は、私にこう言って、怒鳴った。
「家内は、こだわりは強いが、頭はいい!」と。
私が「奥さん、だいじょうぶですか?」と言ったときのことだった。

●Hさんとの思い出

 昨日、ワイフとHさんの話になった。
いろいろ思い出してもらった。

(事例1)行き先をまちがえたHさん

 ある日の午後、ワイフのところに電話がかかってきた。
仲がよかったAさんが、突然、入院したという。
Hさんは、こう言った。
「湖西市のX病院に、入院しました。奥さんにお伝えください」と。

 そこで私は近くにあったメモ用紙に、その旨、書きとめた。
書きとめたあと、Aさんの病状についても、聞いた。
で、電話を切るとき、念のためにと思い、メモを復唱した。

私「湖西市のX病院ですね?」
H「……私、湖西市なんて言っていません。鷲津(わしづ)です」
私「エッ、先ほど、湖西市とおっしゃいましたよ」
H「おとといも病院へ行ってきましたから、まちがえるはずはありません」
私「でも、確かに……。メモも取りましたから……」
H「どうしてそういうウソをつくのですかア!」と。

 そのままHさんは、激怒、電話は、大混乱になってしまった。

(事例2)なくなった老眼鏡

 クラブでのこと。
帰るとき机の横に置いておいたはずの、ワイフの老眼鏡が消えていた。
みなで探してもらったが、見つからなかった。

 で、先に帰った人のだれかが、老眼鏡をまちがえて持ち帰ったのではないかということになっ
た。
Hさんもその中にいた。
が、老眼鏡は必需品。
そこでワイフは家に帰ると、先に帰った人たちみなに、電話で問い合わせた。
みな「知りません」と答えた。

 で、その翌週のこと。
再びワイフが老眼鏡を話題にした。
が、みな、「知りません」と。
が、見るとHさんだけが、近くのゴミ箱の中を探していた。
ワイフは、そのとき、「そんなところにあるわけがない……」と思ったという。

 で、いつものように例会が始まった。
が、そのとき、外から声がした。
「ありましたよ!」と。

 見るとHさんが、会館の横にある生ごみ専用のごみ箱を、ひっくり返しているところだった。

H「ほら、こんなところに!」と。

 見ると老眼鏡は鼻の部分で2つに折れ、ティシュペーパーに包まれていた。
ワイフはHさんに感謝したが、そのあと、Hさんへの疑念がどんどんとふくらんでいった。

(事例3)ガスコンロ

 Hさんの家には、1人の老人が同居していた。
Hさんの実母である。
その実母(当時、85歳前後)が、ときどきガスコンロの火を消し忘れるという。
Hさんは、たびたびワイフのところに電話をかけてきて、それをこぼした。
「あぶなくて、外出もできません」と。

 そこで、つまりその話を聞いたので、私は、ネットで検索をかけてみた。
「消し忘れ防止付きのガスコンロ」というのが、市販されていることがわかった。
そこでそれをプリントアウトし、ワイフにもたせた。

 が、そこで奇妙なことが起きた。
ワイフがHさんにその書類を渡すと、Hさんは、こう言ったという。

「どうしてこんなもの、私にくれるんですか。あなたに頼んだ覚えはありません」と。
そこでワイフが、「だって、あなたお母さんの消し忘れに困っているとおっしゃったでしょ」と。
が、これに対しても、「私は、そんなことをあなたに話した覚えはありません」と。
ワイフはその書類をそのまま、私のところにもって帰ってきた。

(事例4)繰り返される内容

 Hさんは、もう1人、Hさんの実兄のめんどうをみていた。
Hさんの実兄は、郊外にあるグループホームに入居していた。
「週に1度の面会」が、義務付けられていた。
それでHさんは、毎週、週末に、そのグループホームへ足を運んでいた。
それについて、ある日、Hさんから電話がかかってきた。

「私、死にそうになりました。
車を運転していて、突然、気がスーッと抜け、道路脇の電柱にぶつかりそうになりました」と。

 Hさんは、自分の苦労をことさら大げさに訴えた。
ワイフはHさんの聞き役に徹した。
途中で電話を切ると、Hさんは、混乱状態になる。
当時、すでにワイフは、そのことをよく知っていた。
「そうですか、たいへんですね」「ごくろうさまですね」と。
それだけを繰り返した。

 が、Hさんは、しばらくすると、また同じ内容の話をする。
しかもことこまかく、ていねいに……。
「私、死にそうになりました」と。
こうして電話が延々と、1時間以上。
ばあいによっては、2時間近くもつづいた。

(事例5)

 しばらくすると、ワイフは、Hさんから距離を置くようになった。
電話がかかってきても、居留守を使うことが多くなった。
そんな矢先、例の「青い封筒事件」が起きた。
預かっておいたクラブの会費を、Hさんが、紛失してしまった。

 Hさんは、「青い封筒に入れてしまってあります」と言った。
しかしその翌週、「そんなお金のことは知りません」「青い封筒の話など、知りません」と。

 結局その会費は、全額、ワイフが立て替えることになってしまった。
が、その前に……ということで、夜遅く、Hさんの家に電話を入れた。
Hさんの主人が、電話口に出た。
そこでワイフが、クラブの会費のことを伝えた。
が、Hさんの主人は、ワイフの電話に逆ギレ。
「うちの家内は、こだわりは強いが、頭は利口だ。そういう言いがかりをつけるのは許さない」
と。

(事例6)

 クラブの仲間の1人が、何かのことで、入院した。
それをHさんに伝えると、「私も見舞いに行く」と。
そこでワイフが、病室の番号を伝えようとした。
そのときのこと。

 病室の番号は、7階の28号室だった。
ワイフが、「728号室ですよ」と言うと、Hさんは、バッグから手帳を取り出した。
取り出しながら、「7……?」と。
そこでワイフが、「728です」と言うと、「782ですね」と。

ワ「ちがいますよ。782ではなく、728です」
H「ハア、728ですね……」と。

 心配になりワイフが手帳をのぞくと、そこには、「778」と書いてあった。

ワ「あのう、778ではなく、……728です」と。

 このときもHさんは、突然、怒り出し、「わかっています!」と言ったという。

(事例7)

 話は前後するが、ワイフは、こんなことにも気づいたという。
一度、何かのことで、Hさんの手帳を見ることがあったという。
それには、その日のスケジュールが、ぎっしりと書き込まれてあったという。

 Hさんは、その手帳を見ながら、それがすむと、ひとつずつ、それを線で消していたという。
ワイフはあとで、私にこう言った。

「スケジュールといっても、たいしたことじゃないのよ。
墓参りにもっていく花を買うとか、夕方、息子の家に電話するとか、どうでもいいことばかりだっ
たわ」と。

(事例8)

 クラブの指導員的立場だった、K先生が亡くなったときのこと。
クラブの人たち、ほぼ全員が、K先生の葬儀に参列した。
そのときのこと。
それまではどちらかというと、Hさんは、明るくはしゃいでいた。
が、出棺というときになり、K先生の家族が棺桶をもちあげたとたん、Hさんは狂乱状態になっ
てしまった。

 大声で、ギャーギャーと泣き始めたという。
その声があまりにも大きく、長くつづいたため、みながびっくりした。
で、すぐそばにいたワイフが、背中をさすりながら、それを制した。
が、棺桶が霊柩車に乗るまで、Hさんは、そのまま大声で泣きつづけたという。

「家族の人たちだって、みな、しんみりとしていたのに……」と。

が、異変はそれだけではなかった。
霊柩車が葬儀場を出たとたん、再び、ケロッとし、またみなと明るく話し始めたという。

(事例9)

 半年ごとに、会館の使用許可申込書を、提出しなければならない。
そのときHさんが、その係になっていた。
で、別のクラブ員が、会館から受け取ってきた書類をHさんに渡した。
が、Hさんは、その書類を見るやいなや、「私はこんなもの、見てもわかりません!」と言い、書
類をテーブルの上から、叩き落としてしまったという。

 ワイフもその様子を見ていた。
こう言った。
「何も、叩き落とさなくてもいいのに……」と。

(事例10)

 ある日Hさんが、ものすごい剣幕で、クラブへ乗り込んできたという。
話を聞くと、「弟にだまされた!」と。

 こういうことらしい。

 その1年ほど前、Hさんの実父が他界した。
小さいが、家と土地が、遺産として残された。
その家と土地を、Hさんの弟氏が、勝手に売却してしまったという。
それをHさんは、怒っていた。
「弟は、書類と印鑑を偽造した」と。

 が、法務局へ届ける書類についていえば、それはありえない。
印鑑は、印鑑証明書付の、実印でなければならない。
また相続人が複数あるときは、Hさん自身の遺産相続放棄書、もしくは協議分割書が必要。
さらにHさんの戸籍謄本(抄本)も必要。
どれもHさんの承諾もしくは、Hさん自身の協力がなければ、手に入れることはできないものば
かり。
「偽造」ということになれば、即、私文書偽造事犯ということになる。

 簡単に、偽造できるような話ではない。
が、Hさんは、「弟が偽造した」と。

 私はその話をワイフから聞いたとき、「いつもの話」と思った。

(事例11)

 このこととHさんの病気が関係あるかどうかは、わからない。
しかしHさんの2人の息子は、現在、離婚している。
一時は、7〜8人の孫を自慢していたHさんだが、今は娘の孫、1人だけ。

 そのつどHさんは、相手(息子たちの嫁)に電話を入れ、はげしい言葉で、相手の親たちをの
のしったという。
そういう電話を繰り返したらしい。
しかもいつもの長電話(?)。
私の想像では、同じ話を何度も、グチグチと言ったのではないかと思う。
Hさんが、おかしくなり始めた時期と、一致する。

(事例12)

 こまかく書き出したらキリがない。
ないが、Hさんの話は、どれもウソ。

 たとえばボランティアで、独居老人のめんどうをみているという話。
Hさんの実家は、その町でも有名な資産家であるという話。
退職した夫は、Cガス会社の調査局の局長であるという話、などなど。

 自分を飾るウソが、あまりにも多い。
独居老人のめんどうをみているという話は別として、資産家であるという話はウソ。
それは先にも書いた。
また夫は、退職後、サラ金の取り立て屋をしていた。

 まことしやかにシャーシャーとウソをつく。
ウソをつきながら、そのウソを忘れる。
忘れるから、また別のウソをつく。
こお繰り返し。

 一事が万事。
万事が一事。
 こうしてワイフとHさんとの関係は、5年もつづいた。
その間に、ワイフの心が大きくキズつくことも、何度かあった。

●ピック病※

 似たような病気に、ピック病というのもある。
こちらも、アルツハイマー病のような前兆症状を伴う。
わけのわからないことを言う……というよりも、わけのわからないことをし始める。
家人がそれを知っているばあいは、まだよい。
ふつうは、家人もそれに気づかない。
気づかないまま、周囲の人たちが先に、トラブルに巻き込まれる。

 ……実は、私の近所にも、それらしき老人がいる。
見た目には、「まとも」だが、行動がおかしい。
私もワイフも、トラブルに巻き込まれるのがいやだから、いつも遠巻きにしてその人を見てい
る。
が、その人のほうから、からんでくる。

 年齢は、現在、75歳前後。
男性である。
一応、他人とは、ふつうの受け応えができる。
ガスや電気の検針員さんたちとは、ふつうの(?)会話をしているよう。
が、突然、何をどう勘違いしたのかわからないが、私の家に怒鳴り込んできたりする。
「報復」と称して、窓ガラスを割られたこともある。
(そばに、「報復」と書いた紙が、張ってあった。)

 が、そういう人にかぎって、(先に書いたHさんも、そうだが)、病院へは行かない。
Hさんのばあいは、夫のほうがそれを拒否した。
近所の男性のばあいは、奥さんのほうが、認知症気味。

 ……というような例は多い。
この先、さらに多くなる。
老人の数に比例して、多くなる。

加害者になるのも、被害者になるのも、「明日は、我が身」。
私自身がそのアルツハイマー病になるかもしれない。
あるいはすでにピック病になっているかもしれない。
みなに迷惑をかけるようになるかもしれない。
けっして、他人ごとではない。

 要は、いかに自分自身を正常(?)に保つかということ。
そのためには、何をすればよいかということ。
方法がないわけではない。
その第一。
「社会との関わりを失わない」、である。
私が観察した範囲では、社会との関わりを失ったとたん、(あるいはその逆もあるが)、一般的
なボケは、一気に進む。
あとはその悪循環の中で、ますます社会との関わりを失い、ボケ症状は進む。
アルツハイマー病やピック病は、「病気」。
早期発見、早期処置が重要と言われている。
社会との関わりがないと、それもできなくなる。
変化をとらえることが、できなくなる。

 ……ということで、今朝は「アルツハイマー病」について考えてみた。

(注※……ピック病)

日本大百科全書(小学館)には、つぎのようにある(YAHOO百科事典より転載)

「ピック病(ぴっくびょう)
Pick's disease
限局性大脳萎縮疾患。精神医学者アーノルド・ピックArnold Pick(1851―1924)によって1892
年に報告された。
ピック病は大脳の萎縮性疾患だが、大脳の前頭葉や側頭葉が侵される「前頭・側頭型認知症
(FTD:frontotemporal―dementia)」である。
アルツハイマー病が頭の後方から委縮が始まるため、後方型認知症とよばれるのに対して、
ピック病は前方型認知症とよばれることもある」(以上「日本大百科全書」より)と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 はやし浩司 アルツハイマー病 ピック病 Hさんのケース)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●自己否定(リビドーとサナトス)

+++++++++++++++++++++

どうしてああまでがんばるのか?
いや、私やあなたのことではない。
あの独裁者たちのことである。

少し前は、リビアのカダフィー。
今は、シリアのアサド。

言い換えると、「自己否定」というのは、それほどまでに恐ろしいものであるということ。
自己否定に追い込まれるなら、「この宇宙もろとも」という考え方になる。
……らしい。
だから抵抗する。
最後の最後まで、抵抗する。
国民全員が死んでも、構わない。
つまりがんばる。

日本の政治家の中にも、このタイプの人間がいる。
小沢一郎氏や鈴木宗男氏を見ていると、そう感ずるときがある。
「どうしてああまでがんばるのか?」と。

彼らは決まって、「日本のため」という言葉を口にする。
が、本当に日本のことを考えるなら、さっさと身を引いたほうがよい。
そのほうが、日本のためになる。
が、それはできない。
それをすれば、「では、今までの私の人生は何だったのか」となる。
……なってしまう。
つまり、自己否定。
生きていて、……そして長い人生を生きてきて、自己否定ほど恐ろしいものはない。
そのことは、定年退職者たちを見ればよくわかる。

定年退職したあとも、もといた会社にしがみつく。
肩書きや地位に、固執する。
そういう人たちは多い。
それもそのはず。
それを否定されたら、自分がなくなってしまう。
だからしがみつく。

と、同時に、私のように自由に生きてきた人間を許さない。
ある女性記者は、私にこう言った。
大手の新聞社で、記者をしていた。

「はやしさん(=私)、あなたのような人が成功すると、私たちは困るのです。
自己否定の世界に陥ってしまいますからね」と。

つまり彼らは彼らなりに、私のような人間の失敗を楽しみにしている(?)。
「成功者」でなくても、この世界で生きていること自体を、許さない。
だから私のような人間が失敗するたびに、こう思う。
こう思って、自分を慰める。
「ほらみろ、やっぱり人は独りでは生きていかれない。
私の選んだ人生のほうが正しかった」と。

フロイト流に考えるなら、人はつねに、リビドーとサナトスの間で葛藤する。
リビドーは、創造するエネルギー。
サナトスは、破壊するエネルギー。

皮肉なことに、生きる力の強い人ほど、破壊力もすさまじい。
このことも、世界の独裁者たちを見れば、よくわかる。
適当なところで、ほどほどにしてすますということができない。
最後の最後まで、がんばってしまう。
ときにそのエネルギーが、この世界を破滅に導いてしまうこともある。
ドイツのヒットラーを例にあげるまでもない。

+++++++++++++++++++++++

●今週は、子どもたち(小1児、小2児)に「座標」を教えてみた。
「位置の概念」を明確にするという点では、たいへん意味がある。
もう少し指導を重ねれば、「関数&グラフ」まで教えられる。
今回「座標」を教えてみて、そんな感触をもった。
4月からの実験教室では、その関数をテーマにしてみたい。

小学1年生だから、足し算と引き算……という考え方は、完全に「遅れている」。
そんなカリキュラムにしがみついているから、日本の教育はおもしろくない。
子どもたちを引きつけることができない。
1年もたたないうちに、「算数、大嫌い」という子どもが続出するのは、そのため。

「どうしてそんなことがわからないのか!」と叫んだところで、この話はおしまい。
まさに犬の遠吠え。
自分でもそれがよくわかっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「座標」

(小1児クラスより、一部)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/WAzlzE38UVw" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(小2児クラスより、一部)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/5vR5KF7ihp4" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 座標 BW教室 BW子どもクラ
ブ 座標 浜松 はやし浩司 フロイト リビドー サナトス はやし浩司 創造と破壊)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【シイタケ事件】 

●日本人とは何か?

●甘えの構造

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 土居健郎が『甘えの構造』(1771)を著してから、40年。
日本人は、この40年間、何も変わっていない。
甘い。
一言で表現すれば、そうなる。
「みんなで渡れば恐くない」と。
あるいは、「だれかが何とかしてくれるだろう。
何とかなるだろう、と。

 あるいは、「これだけのことをしてあげたから、相手は感謝しているはず」、
「そこまではしなかったから、相手も、ほどほどのところで止めてくれるだろう」でもよい。

ともかくも、甘い。

その甘さが、今や、命取りになりつつある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原発事故

 3・11大震災。
それにつづく福島第一原発の事故。
それ以来、おおかたの人は、食べ物に気をつけている。
どう気をつけているかということは、ここには書けない。
が、気をつけている。

 そんな中、こんな言葉もよく目につくようになった。
「地産地消」。
つまり「地元でとれた食材を、地元で消費する」と。
あちこちのレストランなどに、この言葉がかかげてある。
遠回しな言い方だが、なぜそんな言い方をするのか。
それについても、ここには書けない。

 さらに回転寿司屋などでは、それぞれの魚の産地を表示するようになった。
「四国○○港産」「福井県○○港産」と。
なぜ、わざわざそんなことを表示するのか。
それについても、ここには書けない。

 が、こんな記事が、MSNニュースに載っていた。
まずその記事を紹介する。
あなたはこの記事を読んで、どう思うだろうか。
私はこの記事を読んで、「やはり……」と思った。

++++++++++++++以下、MSNニュースより++++++++++++++

MSN・NEWS(2012−02−10)

横浜市は9日、港北区内のスーパーで販売されていた袋入り乾燥シイタケから、食品衛生法
の定める暫定基準値1キロ当たり500ベクレルの4倍を超える同2077ベクレルの放射性セ
シウムを検出したと発表した。
すでに7袋が販売されており、市は出荷した加工業者のある静岡県に通報、販売したスーパー
に回収を指示した。

 独自に調査した市民からの通報を受け市が9日に検査した。
高濃度のセシウムが検出されたのはスーパーチェーン「ビッグヨーサン」の綱島樽町店が販売
していた、賞味期限が来年1月10日の乾燥シイタケの袋詰め「小粒どんこ」。
静岡県藤枝市の「大塚フード」が80グラムずつ袋詰めして出荷した同スーパーの専売品。
加工業者によると、乾燥シイタケの産地は主に岩手県という。

 スーパーによると、綱島樽町店では20袋を入荷し、うち7袋を販売。
ほか2店でも店頭に並んだが、購入者はいないという。

市によると、この乾燥シイタケをそのまま80グラム食べた場合の人体への被曝(ひばく)線量
は、最も大きい0歳で0・003833ミリシーベルト。
13歳以上では0・0025724ミリシーベルトと推計され、水で戻した場合の放射性セシウム濃
度は、おおむね10分の1になるとみられる。

 厚生労働省が来年度の施行に向けてまとめた食品中の放射性物質に関する新たな基準値
案では、食品による内部被曝線量の限度を年間1ミリシーベルト以下としている。

++++++++++++++以上、MSNニュースより++++++++++++++

●産地偽装

 「産地偽装」という言葉がある。
ここに書いてある記事の内容も、それに近い。
もう一度、注深く、読んでみてほしい。
こうある。

(1)横浜で、2000ベクレルの放射線量を超えるシイタケが売られていた。
(2)シイタケは、静岡県藤枝市の「Oフード」が80グラムずつ袋詰めして出荷した、同スーパー
の専売品。
(3)シイタケの原産地は、「主に岩手県」。

 これら3つの事実を並べてみると、つぎのような事実が浮かんでくる。

(1)岩手県産のシイタケを、(2)静岡県の藤枝市で商品化し、(3)神奈川県の横浜市内のス
ーパーで販売していた。

 あなたはこの(流れ)を知って、何か、ウサン臭いものを感じないだろうか。
横浜に住む消費者の立場に立って、シイタケを買う自分自身を想像してみると、それがよくわ
かる。

 あなたは、たいていの人たちが、今、そうしているように、食べ物に気をつけている。
どう気をつけているか。
なぜ気をつけているか。
それについては、ここには書けない。

 しかし書こう元が「(静岡県)藤枝市」と書いてあれば、あなたは安心して、それを買うはず。
まさか、シイタケなる食材が、そんなにも遠く、全国を駆け回っているとは、だれも思わない。
もちろんあなたは思わない。
私も思わない。

 たとえばこの浜松市周辺でも、シイタケ栽培をしている農家は多い。
わざわざ岩手県から仕入れなくても、いくらでも手に入る。
藤枝市にしてもそうだろう。
横浜市にしてもそうだろう。

が、なぜか、そのシイタケは、岩手県→静岡県→神奈川県へと、移動している。
距離にすれば、岩手県から静岡県まで、約600キロ、静岡県から横浜までは、200キロ(地図
上の直線距離)。

 なぜそんな複雑なルートを経て、シイタケが、横浜まで来たか。
たかがシイタケ。
それが、距離にして、計800キロ!
なぜか?
理由は、ここには書けない。
その(書けない部分)に、私はウサン臭さを感じてしまう。

●水で薄める?

 さらに……。
またまた出てきた珍説。
記事には、こうある。

『水で戻した場合の放射性セシウム濃度は、おおむね10分の1になるとみられる』と。

 水で戻せば、10分の1になる?
笑うというより、あきれる。
もしこんな論理がまかり通るなら、福島第一原発の放射性物質は、すべて海へ流せばよい。
海の水で薄めれば、何万分の1になる。
何億分の1になる。
何兆分の1になる。

 米にしてもそうだ。
茶葉にしてもそうだ。
水で薄めれば、濃度がさがる。……ということになる。

 シイタケというのは、水分を含んだ分だけ、おおきく膨(ふく)らむ。
それはその通り。
グラム当たりの放射線量は、たしかにさがる。
10倍に膨らめば、濃度は、10分の1になる。
しかしそれをそのまま食べれば、(量は10倍になる!)、体内に取り込まれる放射性物質の量
は同じ。
どうしてこんなバカなことを言うのだろう。
エセ科学ならぬ、エセ数学。

●汚染

 かくして放射性物質を含んだ食物は、空気のようにジワジワと全国に広がっていく。
風に乗り、海流に乗り、そして人に乗って、全国に広がっていく。
防ぎようがない。
先日もこんなことを言う人がいた。
女性だった。

 「千葉に実家がありますが、子どもは連れていきません。
外出しても、家に帰ったら、毎回、すぐ風呂に入ります」と。

 が、私がこう言うと、その女性はそのまま黙ってしまった。
「だって、水道水が汚染されていたら、どうするのですか?」と。

 たいへん残念なことだが、空気が汚染されているということは、「水」も汚染されている。
100%、汚染されている。
そう考えてよい。

●被害はこれから

 だからといって、不必要に心配してはいけない。
私も、それを望んでいるわけではない。
が、私が判断するかぎり、日本人は、甘すぎる。
その甘すぎる部分で、日本人はさらなる危険を、自ら掘り起こしている。
たとえば原発事故にしても、問題は、何も解決していない。
被害が顕在化するのは、これから。

 原子炉の冷却化にしても、この先、それが20年、30年とつづく。
この先、何が起こるか?
起きるたびに、ひやひやして過ごす。
つい先週も、2号機の冷却水が、70度前後まで上昇したという。
私には、その意味がよくわからない。
わからないが、今の今も、何やらたいへんなことが起きているらしい。
そういう状態が、これからもつづく。

 私たちはそれでよいとしても、子どもたちはそうでない。
チェルノブイリの原発事故では、子どもたちに症状が現れ始めたのは、2年後から5年後。
ピークを迎えたのは、10年後。
日本もそうなる可能性は、きわめて高い。
政府もそれを知っている。
だからこそ、「被ばく研究所」なるものを、福島県内に建設し始めている。

●厳格化あるのみ

 私たち日本人は、そういう日本の近未来を、覚悟すべき。
またそれを前提として、今から行動を起こすべき。

 その第一。
食物の流通に関して、さらに厳格化すべき。
岩手県産のシイタケであれば、「岩手県産」であることを、明確にすべき。
MSNニュースには、当該商品の写真も載っている。
が、少なくとも表側のパッケージには、こうあるのみ。

「職人の技がxxxxx(判読不能)
 椎茸」と。
パッケージの下の方には、赤文字で何か書いてあるが、「岩手県産」という文字ではない。

 それを納得して食べる人は、構わない。
自己責任で食べればよい。
が、そうでない人にまで、半ばだますような方法で、食べ物を売ってはいけない。
そういう意味での、厳格化を、今から始める。

 これは風評被害とか、そういう生やさしいものではない。
5年後、10年後に、被害が顕在化したとき、今という時を悔やまないため。
そのための厳格化を今から、始める。

 逆のことを考えれば、それがわかるはず。
もし10年前に、原子力発電所を、もっと厳格な視点からながめていれば、今回のような事故は
起きなかったはず。
過去を悔やむのは、一度でたくさん。
こりごり……。

 それとも日本人は、同じ失敗を、何度繰り返したら気が済むのか。
その一例が、今回のシイタケ事件ということになる。

 日本人独特の『甘えの構造』、40年たった今も、何も変わっていない。

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本人 はやし浩司 原発事故 産地偽装)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※
 
●2月11日(はやし浩司 2012−02ー11)

●母因性問題児(?)

 母親が参観しているときと、参観していないときと、ガラリと様子が変わる。
そういう子どもは、珍しくない。
昨日指導した、B君(年長児)もその1人。
お母さんは、B君のことが心配でならないらしい。
事実、お母さんが横にいると、B君は何かについけ、すぐ、かんしゃく発作を起こす。
レッスンの途中で、突然、情緒が不安定になったりする。
教材を投げつけ、部屋を出て行ってしまうこともある。
あるいは、自分の思うようにならないと、怒って、その場でお母さんに暴力を振るったりすること
もある。

 が、私はお母さんに原因があると判断した。
……というか、先にも書いたように、こういうケースはたいへん多い。
心配先行型の子育て。
それが常態化すると、子どもは、自立と抑圧のはざまで葛藤する。
もがく。
年長児といえば、幼児期後期(エリクソン)。
少しいびつな形だが、B君はB君なりに、「自立」をしようとしている。
が、それをいつも心配げな姿勢で、お母さんは見ている。

 心理学の世界では、こうした状態を「好意の返報性」という言葉を使って説明する。
「行為の返報性」(はやし浩司)でもよい。
子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようとする。
が、そうでないときは、そうでない。
自分の悪い面ばかりが、先に出てきてしまう。
B君も、その1人。

 そこで私はB君のお母さんに参観を遠慮してもらい、ビデオカメラで、B君の様子を撮影して
みることにした。
あとでその(ちがい)を、お母さんに見てもらうことにした。
カメラは、B君がまったく意識しない位置に置いた。

 結果は、私の予想通りだった。
何かの失敗しても、B君は、まったく「荒れなかった」。
いつもなら、お母さんに泣きついたり、部屋から出ていってしまうB君だが、それはなかった。

 お母さんがいるときは、いつも起きていた、あのかんしゃく発作も、まったくなかった。
が、一度だけ、席を立った。
内心、ドキッとしたが、それは杞憂だった。
B君は、ハナクソをほじったらしく、それをゴミ箱に捨てに行った。
それを見て、私は、笑った。
みなも、笑った。

 ただ、この日のレッスンは、B君というより、R子さんのほうが気になった。
途中で、機嫌を損ねてしまい、勉強しなくなってしまった。
それで何とかR子さんをなだめようとしているうちに、レッスンそのものが、雑談会風になってし
まった。
つまりメチャメチャになってしまった。
(一応、引き算らしきレッスンはしたが……。)

 ……ということで、ビデオで収めた様子は、B君のお母さんに、そのまま送ることにした。
お母さんも、そのビデオを見れば、安心するはず。

B君のおかあさんへ、

 まず心配先行型の育児観を捨てること。
B君を信ずること。
やや荒っぽいところはありますが、小学3年生ころには、収まってきます。
そのころになると、自己管理能力が、急速に発達してくるからです。

 むしろ心配なのは、お姉さんのほうです。
慢性的な愛情飢餓状態で、不平、不満が、心をゆがめ始めています。
どうか、ご注意ください。
50%、50%の愛情ではなく、80%程度、お姉さんのほうに向けてあげてください。
今が大切なときです。

 B君は、もうだいじょうぶですよ!


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

●映画『ドラゴン・タツーの女』(はやし浩司 2012−02−11)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は、怠惰な1日だった。
起きたのが、午前9時。
そのあとすぐ30分の運動。
あとはルーティーン(日課)。
一息ついたのが、午後1時ごろ。

そのあと居間で居眠り。
3時ごろになって、ワイフが映画に行こうと誘った。
昨日公開された、『ドラゴン・タツーの女』。
それを聞いて、「『チンチン・タツーの男』のほうがいい」と、私。

……ということで、映画館へ。

今、時刻は午後11時10分。
山荘へやってきた。
途中、幸楽苑で、ラーメンを食べた。
いつも1人前を、2人で分けて食べている。
それでも量は多いほど。
満腹感で、腹の中が今も、ゴボゴボしている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浪曲

 今、私は浪曲の練習をしている。
子どものころは、毎日のように聞いていた。
祖父が、好きだった。
祖父は、自分では歌わなかったが、町に歌手がやってくると、かならず聞きに行った。
私もついていった。
それが今でも、耳に残っている。

「♪旅ゆけば、駿河の道に、茶の香り」と。

 「♪駿河の国に」と歌う人も多いが、初代広沢虎造も、二代目虎造も、「♪駿河の道に」と歌っ
ている。
そのほかの歌詞は、そのときどきの録音によって、微妙に異なっている。
理由はいろいろ考えられる。
たとえばもともと決まった歌詞などなかった。
そのときの気分で、歌詞を変えた。
当時は、そういう時代だった、など。

 今では、YOUTUBEで、広沢虎造の浪曲を、自由に聞くことができる。
初代虎造のは少ないが、二代目虎造の録音になると、いろいろな時代の歌い方を楽しむこと
ができる。
それを聞いていると、心はそのまま子ども時代に、タイムスリップする。
祖父が、そこに立っているような気分になる。

●韓国語

 ところでその浪曲を練習しながら、こんなことに気づいた。
最初の部分で、こう歌うところがある。

「♪海道いちの親分は〜エ」と。

最後の部分に「エ(e)」という発音が入る。
なぜだろう。
民謡の中にも、ときどき似たような「エ」が入ることがある。
ご存知の方も多いと思うが、「エ」は、韓国語の「は」に相当する。
「私は、浩司です」の「は(wa)」である。

 日本語と韓国語は、兄弟言語。
こういうとことに「エ」が入っても、おかしくはない。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりほんの100年ほど前までは、日本語の中に、韓国語がまざっていた、と。

 こういった話は言語学者の分野。
私にはここまでしかわからない。
気にはなったので、ついでにここに書きとめておくことにする。

●テンポ

 浪曲の歌い方は、現代の私たちから見ると、かったるい。
テンポが遅いというより、のろい。
が、当時はそのようには、思わなかった。
浪曲がのろいとは、思わなかった。
生活のすべてが、浪曲のテンポで動いていた。
違和感は、まったくなかった。
時間にも余裕があった。

 居間にいると、息子がやってきたので、少し歌ってみせた。
あきれたような顔をして、私の顔をながめた。
で、私はこう言った。

 「昔はね、自転車屋でもね、客がいても、親父なんか将棋を指していたよ」、
「ときには客も、その将棋に加わることがあったよ」と。

 当時は、今より、はるかにゆっくりと時間が流れていた。
テレビで見る歌舞伎も、相撲も、落語も、みな、そうだった。
浪曲はそういう時代の歌だった。
当時の私は、ふつう以上に活発な子どもだったが、それでも、それを「のろい」と思ったことは
ない。

●密度

 こう考えてみると、時間とは何か。
改めて考える。

 今までの私の理論によれば、密度を2倍にすれば、時間も2倍になる。
反対に、密度が2倍薄くなれば、時間も2分の1になる。
そういうふうになる。

が、もしそうなら、昔の人たちは、同じ50年でも、現代の私たちより短い50年を生きていたこ
とになる。
情報量にしても、比較にならない。
「多い」というより、今、私たちは情報の洪水の中で生きている。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりその分だけ、反対に、私たちは昔の人たちより、長く生きていると考えてよいのか。

 そこで問題は、「密度の内容」ということになる。
「情報の質」も、無視できない。

 いくら密度が2倍といっても、つまらないことで濃くしても、意味はない。
くだらない情報に振り回されても、意味はない。

●感動

 「情報」については、わかりやすい。
良質な情報と、粗悪な情報がある。
その区別なら、そこらの高校生でもできる。
問題は「密度」。

 10時間を、20時間にして生きたからといって、「密度が濃い」ということにはならない。
寝食も惜しんで、パチンコをする、とか。

となると、何が密度を決めるのか。
密度は何によって、決まるのか。
私は、そのひとつが、「感動」と考える。
感動の質と量が、密度を決める、と。

 私も自分の人生の中で、1日を1年のように長く感じたことがある。
オーストラリアの大学に留学していたときのこと。
けっして大げさな言い方をしているのではない。
本当に、そう感じた。

 毎日が驚きと感動の連続。
だからある夜、こう思った。
ちょうど3か月目の、ある夜のことだった。
ヘトヘトになった体をベッドに横たえた。
その瞬間、「まだこんな毎日が、9か月もつづくのか!」と。
私はそれを思ったとき、心底、自分が誇らしかった。
うれしさが、ドッと腹の底からわいてきた。

●人生を長く生きる

 言い換えると、人生を長く生きるためには、2つのことに気をつける。

(1)情報の選択
(2)感動の創造

 情報の選択を誤ると、時間を、無駄にする。
くだらない情報に引き回されるだけ。
また感動のない生活は、生活そのものをマンネリ化する。
それこそ10年を1年のようにして生きるようになる。

 あとは、そのときどきの各論ということになる。
つまり生き方の問題。

……とは書きつつ、このところ感動が少なくなってきた。
自分でも、それがよくわかる。
そこで「創造」。
自ら創りだす。

●悠々自適?

 その感動は、つねに緊張感を伴う。
緊張感の中から、感動が生まれる。
言い換えると、いかにして生活の中に緊張感を創るかということ。
その緊張感がないと、人生は、そのままだらしなくなる。
反対の視点に自分を置いてみると、それがよくわかる。

 老後は孫の世話と庭いじり。
悠々自適の年金生活。
が、そんな生活からは、感動は生まれない。
10年を1年どころか、1日にして生きるだけ。

●緊張感

 となると感動は、日々の緊張感の中から生まれる。
前向きに生きていくという緊張感の中から、生まれる。
新しいことに興味をもち、新しいことに挑戦していく。
新しい人々との出会いをいとわず、その人たちのために生きていく。

 が、このときひとつの大きな条件が生まれる。
「無私無欲」という条件である。
功利、打算が混入したとたん、感動は霧散する。
もちろん生きていくためには、収入が必要。
仮に収入のためではあっても、収入を、極力意識しない。
脇へ追いやる。
その努力は怠らない。

 もしそれができれば、ゆるやかな時間であっても、密度の濃い人生ということになる。
そうでなければ、そうでない。

わかりやすく言えば、東海道を歩いていっても、それで時間を無駄にしたことにはならない。
新幹線で行っても、それで時間を有効に使ったことにはならない。

●夢

 話題を変える。

 今朝、ハナ(犬)の夢を見た。
先月、他界した。

どこかの家で、大きな鳥かごを見ていたときのこと。
足元に、ハナがやってきた。
まだ中型くらいの大きさだった。
いつものように頭をさげ、私の体に、自分の体をこすりつけてきた。
が、見ると、横に、白と黒のブチの犬がいた。
丸々とした雑種の犬で、私が「ボーイフレンドか?」と声をかけると、うれしそうに尻尾を振っ
た。
私は両方のハナとその犬と、交互にさすってやった。

 涙があふれた。
そこで目が覚めた。

●ハナ

 ハナのボーイフレンドを考えなかったわけではない。
ときどきワイフと、「どうしようか」と話し合った。
しかしいつも私たちの年齢を考えた。
犬といっても、20年は生きる。
そのつど、自分の年齢に20歳を加え、こう思った。
「20年後に、めんどうをみられるだろうか」と。

 だからハナは、ずっとひとりぼっちだった。
それが、今になって、私を責める。
自分たちのつごうで、ハナにつらい思いをさせてしまった。

●マムシ

 もっとも晩年のハナは、息子といつもいっしょだった。
息子が庭へ出ると、かたときも、息子のそばを離れなかった。
ハナも、さみしかったのかもしれない。
今にして思うと、ハナの気持ちがよくわかる。

 ハナは、庭先の、ヤマモモの木の下に埋葬した。
墓も立てた。
その墓に息子とワイフは、毎日、線香をたて、供養している。
私も祈っている。

 ……いつだったか、私が庭の畑で作業をしているときのこと。
ハナがけたたましく吠えた。
見ると足元にあった枯草の下で、マムシがとぐろを巻いていた。
もしあのときハナが吠えてくれていなかったら、私はマムシにかまれていた。
「命の恩人」と思うようになったのは、そのときからだった。

 そのハナは、もういない。
が、ハナの墓に参るたびに、こう祈る。
「もうすぐ、ぼくも、そちらへ行くからな」と。

 西洋では、飼っていた犬が、天国で私やあなたを案内してくれるという。
ほかの犬のことは知らない。
しかしハナなら待っていてくれるはず。
仕事に出かけるときは、どこかいいかげんだった。
しかし仕事から帰ってくると、一日も欠かさず、私を裏口で迎えてくれた。

 律儀な、どこまでも律儀な犬だった。

 おかしなものだ。
死んだ父や母より、遠くに住む息子たちより、ハナのほうが恋しい。
ハナに会いたい。
私には、かぎりなく、よき友だった。

●映画『ドラゴン・タツーの女』

 「ドラゴン・タツー」というのは、少し大げさ。
タツー(刺青)が、とくに意味をもつわけではない。
それに謎解きといっても、それほど奥があるわけではない。
言うなれば、「つじつま合わせ」。

 それにその「女」にしても、まさにスーパーレディ。
ハイテク機器を自由に使いこなす。
その女は、意味ありげな雰囲気で登場し、最後は、ふつうの女で終わる。
星は、3つの★★★。
少し甘いかな?
ダニエル・クレイグ主演ということで、かなり期待して行った。
期待が大きかった分だけ、がっかり。

 先にも書いたように、「意味ありげ」で始まり、「ふつうの映画」で終わった。
が、あまり「意味のない」映画。
やはり「チンチン・タツーの男」のほうが、よかった。

●2月12日(日曜日)(2012)

 日は替わって、12日。
昔はこんなことはしなかった。
が、今は、(2012)と年号を書き入れる。
でないと、あとで、いつの原稿だったか、それが、わからなくなる。
このところ、そういうことが多い。
たとえば古い原稿を探したようなとき、日付はわかっても、何年に書いた原稿かがわからな
い。
その前後をスクロールしながら、書いた年数を知る。
その手間に、けっこう時間がかかる。


 これもネット時代の特徴のひとつかもしれない。
ネットで検索すると、1年単位、10年単位の原稿が、どっと見つかる。
原稿が、大きな塊(かたまり)となって、画面に現れる。
「時間」の概念が、ネット上では、かなりちがう。
この世界では、「1年前」「10年前」という数字は、あまり意味をもたない。
逆に考えれば、こんなことも言える。

 ……たとえば、そんな人がいるかどうかは、わからない。
が、10年後、あるいは20年後、「はやし浩司」で検索し、私の書いた原稿を読む人がいたとす
る。
そのとき、その人は、時空を超え、パソコンのモニターをはさんで、私と対峙する。
そこには、時間はない。
距離もない。
「私」と、直に対峙する。

 ……ボロボロになった本を、遠くから買い寄せて読む。
時間をかけて読む。
が、それは昔の話。
その反対が、ネットの世界ということになる。
だから、最近は、年数を、できるだけこまめに、書き込むようにしている。
その数字だけが、過去になった「今日」を示す。

●W・ヒューストンの死

 たった今、ネットに、こんなニュースが流れた。
W・ヒューストンが亡くなった、と。
48歳だったという。

48歳!

 若すぎる。
死因その他は、「不明」とのこと。
芸能界は、しばらくW・ヒューストン一色になるだろう。
それにしても、なぜ?
グラミー賞受賞式の前日だったという。
賞と何か、関係があるのだろうか?

●貧乏の怖さ

 私の息子たちも含めての話。
最近の若い人たちは、貧乏の怖さを知らない。
知らないから、家族第一主義に、安易に走りやすい。
「仕事より、家族が大切」と。

 それはそれで結構なことだが、「仕事あっての家族」。
たしかにお金(マネー)では、幸福は買えない。
しかしお金(マネー)がなければ、不幸になる。

 とは言っても、一時的な貧乏なら、まだ何とかなる。
気力や体力で、乗り越えることができる。

怖いのは、ジワジワと、長い年月を経てつづく貧乏。
精神はもちろん、肉体をもむしばむ。
それが怖い。

私は経験している。
家中が、暗く、よどんだ空気に満たされる。
「明日は今日より、よくなる……」と。
そんな淡い期待も、その翌日には、こなごなに破壊される。
それが来る日も来る日も、繰り返される。

 当然、ものの考え方も、影響を受ける。
卑屈になる。
ゆがむ。
いじける。

 ……この不況下。
どこへ行っても、暗い話ばかり。
そういう話を聞くたびに、私は自分の少年時代を思い出す。
いやな時代だった。
本当にいやな時代だった。

●ボットン便所

 だから私はがんばった……と書けば、意図は見え見え。
しかし総じて言えば、団塊の世代は、それゆえに、がんばった。
が、その結果が今。

 若い人たちは、飽食とぜいたくの世界で、自分を見失ってしまった。
今のこの日本の繁栄にしても、いつまでもつづくものと思っている。
が、私たちはそうでない。
現在の日本経済は、薄氷の上を、恐る恐る歩いているようなもの。
その下には、あのボットン便所が待っている。
そうなったとき、つまり日本経済が崩壊したとき、今の若い人たちは、それに耐える力はあるだ
ろうか。
そのときになっても、「仕事より家族が大切」と言っていられるだろうか。

●帰り支度

 ワイフが帰り支度を始めた。
窓の外には、紺色の青い空が広がっている。
気温は、3度前後。

 朝風呂に入った。
ほどよい気(け)だるさが、心地よい。
このままコタツの中で眠りたい。

 ……そう帰りには、久しぶりに、パソコンショップへ寄ってみよう。
もう何か月も行っていない。
東名高速道路のインター近くにある、「N」というパソコンショップ。
パソコン関連グッズのほとんどは、私は、その店で買っている。

(補記)

●プリンターのインク

 ところで今度、別の会社から、プリンターのインクが販売されることになった。
プリンターといえば、エプソン、キャノン、ブラザーの各社が製品として出している。
が、インクが高価。
エプソンのインクでも、6色セットで、5000〜6000円もする。
それを、1セットあたり、たったの1600円前後。

 販売しているのは、福岡市に本社をおく、「ジーストリーム」。
電話:092−402−7360
さっそく「楽天ホビナビ」を通し、2セット買ってみた。
価格は3333円プラス代引き手数料。
1セットで、3333円かと思ったら、2セットでこの価格。
この価格なら、この先、インク代は心配せず、プリンターを使うことができる。

問い合わせ先は、「インクナビ」本店へ。

http://www.inknavi.com/

(注意)エプソン用のインクはそのまま使えるが、キャノン用のインクは、ICチップを張り替えな
ければならない。
また相性については、Yellowだけ使ってみたが、まったく問題なくセットできた(エプソンEP90
2A)。
「どうしてインクは、こんなに高いのか!」と、日ごろ不満に思っている人は、一度、使ってみた
らよい。

(はやし浩司 2012−02−12 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 
幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 貧乏の恐怖 貧乏の恐ろしさ はやし浩司
 貧乏の怖ろしさ 映画「ドラゴンタツーの女」 はやし浩司 プリンターのインク インクナビ 
はやし浩司 浪曲 旅行けば 駿河の道に茶の香り)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【意識のズレ】(意識の錯視)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

錯視という言葉がある。
昔は「目の錯覚」と呼んだ。

同じ図形でも、見方によって、魔女にも見えたり、少女に見えたりする。
あるいは中央に、花瓶がある。
が、見方を変えると、両側に女性の顔が現れる。
こういうのを錯視と呼ぶが、「色」についてのも、よく知られている。

同じ色でも、周囲を明るい色に取り囲まれると、暗く見える。
周囲を暗い色に取り囲まれると、明るく見える。

人間のもつ「意識」についても、この錯視がよく起こる。
見方によって、180度、違う。
あるいは同じ意識でも、社会的環境の中で、まったく違った「色」に見える。
そういうことは、よくある。

意識に基準もなければ、標準もない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●KS君

 私が「意識ズレ」を実感したのは、そのときだった。
中学2年生になったKS君という男子がいた。
市内のS小学校に通っていた。
小中一貫校として知られ、進学校としても有名だった。

が、うち3分の2の生徒は、小学校からのもちあがりの生徒だった。
残りの3分の1は、中学進学時に、各小学校から入学してきた、選り抜きの生徒だった。

 KS君は、今でいうLD児だった。
文章の読解力が、極端に劣っていた。
実際には、長文の文章を読むことができなかった。
そのため、国語はもちろん、社会、理科も、苦手だった。
……という回りくどい言い方はやめよう。
学校でも評判の、できの悪い生徒だった。
S小学校という学校だったからこそ、余計に目立った。
1、2年、学年が上の児童も、下の児童も、「KS君」という名前を出しただけで、笑った。

●「後悔していないか?」

 ふつう学力が極端に劣っている生徒のばあい、中学進学時に、ほかの普通校に転校してい
く。
が、強制力はない。
KS君は、そのままS中学校に残った。

 ただ数学だけは、得意だった。
それがKS君の取り柄になっていた。
が、ある日、私はKS君にこう聞いた。
仲間にも、何かにつけ、バカにされていた。

「なあ、KS君、君はS小学校に入学したことを後悔していないか?」と。

 私はKS君が、そういう進学校で、最下位の成績ということを心配し、そう言った。
が、KS君の答は、意外なものだった。

K「ううん、後悔してないよ」
私「じゃあ、学校は楽しいか?」
K「楽しいよ」
私「だって、勉強が苦手だろ?」
K「勉強は苦手だけど、放課後は楽しいよ」と。

 「後悔しているだろう」と思い、心配していた私。
が、KS君は、「楽しい」と。
みなにバカにされながらも、KS君は、自分の世界をちゃんと守っていた。
クラスでも人気者だった。

●親子の意識

 こうした意識のズレは、そのつど経験する。
こんなこともあった。

 高校3年生になったA君が、こう言った。
「親父のヤツ、地元の大学へ入れと言ってうるさい。チクショー!」と。
その言葉に、はげしい憎悪の念を感じた。
理由を聞くと、「親父は、自分の老後のめんどうを、オレにみさせようとしている」と。

 で、しばらくして、私はA君の父親と話す機会があった。
私は大学進学の話をした。
父親はこう言った。

「うちは、経済的に余裕がないから、息子には、できれば家から大学へ通ってほしいのです」
と。

 で、再びA君との会話。

私「お父さんも、今、たいへんなんだから、自宅から通える大学にしたら?」
A「うそだよ。親は子どもの将来のためなら、借金でも何でもして、子どもを大学へ送るべきだ
よ」
私「若い人はそう考えるけどね」
A「子どもは親より、幸福になる権利がある。ぼくが親になったら、そうする」
私「自分で子育てをしてみると、思い通りにはいかないものだよ」
A「親父はね、自分の老後を心配しているんだよ。ぼくを利用しようとしているんだよ」と。

 親子の間でも、意識が大きくズレることがある。
そのズレは、時代や世代にまたがることもある。

●嫌われる団塊の世代

 最近、こんな意識のズレを経験した。
2チャンネルを読んでいたときのこと。
若い人たちが、団塊の世代を、「敵」と呼んでいるのを知った。
(「敵」と書いて、「カタキ」と読むらしい。)

 これには驚いた。
そこでその前後の記事に、目を通した。
で、わかったことは、「日本の繁栄をつぶしたのは、団塊の世代」と。
さらに「これからの高齢者世代は、ゴミ」とも。
みなが、そう考えているのがわかった。

 とくに強く意識しているわけではないが、私たち団塊の世代には、団塊の世代なりの、自負心
がある。
「日本をここまで繁栄させたのは、私たち」と。
が、20代、30代の若い人たちは、私たちの世代に対し、正反対の意識をもっている。

●戦中派vs戦後派

 もっとも世代にまたがる意識のズレは、いつの時代にもある。
たとえば戦中派と戦後派。

 戦中派の人たちは、「日本を命がけで守ったのはオレたち」という意識が強い。
一方、戦後派は、「日本を焼け野原にしたのは、戦中派」という意識が強い。
「おかしな戦争をするから、日本はいまだに苦労しているのだ」と。

 そう、いまだにこの日本は、中国や韓国など、近隣諸国から、ああでもない、こうでもないと文
句ばかり言われている。
そのたびに、私たち団塊の世代の多くは、「あの戦争はまちがっていた」と言う。
「日本が焼け野原になったのは、戦中派の人間のせい」と。

 しかしそう思う私たちと、私たち団塊の世代を「敵」と思う若い人たち。
どこがどうちがうというのか。
 
●親のめんどう

 が、意識のズレをもっとも強く感ずるのは、「親のめんどう」の話になったときのこと。
私たちの世代は、親のめんどうをみるのは、子どもの役目と考える。
「家族」というときは、そこにはかならず、祖父母がいた。
「当然」というより、そんなことは、常識。
疑うこともなかった。

 が、今は、ちがう。
悪しき欧米文化の影響というか、「家族」から祖父母が除外されてしまった。
若い人たちが「家族」というときは、自分と配偶者、それに自分の子どもたちだけの世界をい
う。
もとから「親(祖父母)のめんどうをみる」という意識、そのものがない。
ないことは、先日紹介した、千葉市に住む、EH氏からのメールでも、わかる。
EH氏はこう書いている。

 「(自分の)めんどうをみてほしかったら、息子(娘)に、頼めばよい」と。
さらにこうもあった。
「親のめんどうで、息子や娘をしばるのは、それこそ家族崩壊」と。

 意識も、ここまでズレてくると、私はもう何も言うことはない。
まだ子育てが始まったばかりで、しかも親の介護もしたことがない若い父親が、ここまで言う。
私は「異常」と思うが、それが最近の若い世代の常識ということになる。

●意識論

 意識というのは、そういうもの。
それぞれが、それぞれの意識をもっている。
「常識」と置き換えてもよい。
で、それぞれの人が、それぞれの常識をもって、自分の意見を組み立てる。

 同じ形なのだが、見る人の視点によって、180度ちがう。
意識そのものが、だまされることもある。
まわりの色によって、濃淡が変わる。
「貧困」がよい例である。

 現代の人たちは、自動車を自由に乗り回している。
半世紀前には、車をもつこと自体、夢だった。
それでも「貧しい」と言う。
進学にしても、そうだ。

私の時代でも、半数が「就職組」。
高校へ進学できる中学生は、半数に過ぎなかった。
大学はもちろん、高校にしても、「行かせてくれ」と、親に頼んだ。
が、今、親に頼んで、高校や大学へ行かせてもらう中学生や高校生はいない。
もちろん感謝の「カ」の字もない。

親子の意識のズレとなると、もっと大きい。

 たとえば親が息子にこう言ったとする。
「(仕事がなくなったら)、地元へ帰って来い」と。

 親は、「何かにつけ、都会生活は、殺伐としていて、たいへんだろう」という思いをこめてそう
言う。
仕事がなくなれば、なおさら。

 が、息子氏のほうは、そうは思わない。
「老後のめんどうをみさせるために、オレを地元に戻そうとしている」と。
親のやさしさが、かえって子どもの反発を買うこともある。

●ついでに……

 ついでに、ことこの私について。

「息子たちに老後のめんどうをかけたくない」という思いは、人一倍、強い。
自分で、実兄や実母の介護で苦労した。
社会へ入ると同時に、以後、45歳まで、収入の半分は、実家へ送った。
金銭的負担感というよりは、社会的負担感に苦しんだ。
その苦労を知っている人ほど、「息子や娘たちには、同じ苦労を経験させたくない」と思う。

 が、今、息子たちにその話をすると、こう言い返される。
「パパは、ぼくたちにも同じことをしろと言っているのか。
ぼくは、自分の息子や娘に、そんなことはさせない!」と。

 親の世話も、介護もしたことがない、(させるつもりもないが)、息子たちがそう言う。

●意識

 意識というのは、10年単位で変わっていく。

 戦後派の人たちにとっては、「金権」が、最大のテーマだった。
「出世」という言葉も、もてはやされた。
「国のため」が、「会社のため」となり、企業戦士が生まれた。
「一社懸命」という言葉も生まれた。
ひもじさの戦いが、いつしか、金権教と結びついていった。
「金(マネー)こそ、すべて!」と。

が、私たちの世代にとっては、「反権力」が大きなテーマになっていた。
60年代安保闘争。
70年代安保闘争。

 しかしつづくつぎの世代には、それが「反世代」へと変化した。
尾崎豊が歌った、『♪卒業』などに、その例をみる。

 が、さらに最近は、恋愛至上主義。
欲望第一主義と置き換えてもよい。
欲望の追求こそが、善であり、目的である、と。
映画『タイタニック』のジャックとローズに、若い人たちは、「人間の理想」を見た。
悪しき欧米文化の影響である。

 その結果が今。
世代ごとに、意識が大きく変化した。
が、その意識も、よくよく観察すると、見方がちがうだけ。
そういうふうに感ずることも多い。

 原点に同じ(欲望)がある。
その(欲望)が、見方によって、ちがって見える。
あるいは周囲の環境によって、ちがって見える。
が、中身は同じ。
親を思う心。
子を思う心。
みな同じ。
しかし見方がちがう。
周囲の環境がちがう。
だからまったく、ちがって見える。
言い換えると、(欲望)にメスを入れないかぎり、(意識)の本質を知ることはない。

 ……とまあ、話が入り組んできたので、この話は、ここまで。
こういう理屈ぽい話は、みなに嫌われる。
別の機会に、もう少しかみくだいて書いてみたい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 意識 錯視 はやし浩司 意識のズレ)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

●「♪右を見ても、左を見ても、真っ暗闇でござんせんか」(改)
(注:昨日(2−14)に書いた原稿ですが、誤字脱字が目立ちましたので、
 書き改め、再収録します。はやし浩司)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夜は、鶴田浩二の「♪傷だらけの人生」を練習した。

「古いヤツだとお思いでしょう。
古いヤツほど、新しいものをほしがるものでございます。
が、新しいものなど、どこにございましょう。
生まれた土地も、荒れ放題。
右を見ても、左を見ても、真っ暗闇でござんせんか」(録音版から文章を起こしたため、不正
確)と。

鶴田浩二は、この浜松市出身である。
だから浜松市の、ある一定年齢以上の人は、みな、鶴田浩二をよく知っている。
神様のように、みな、よく知っている。

「練習した」というのは、先のセリフの部分を暗記し、それをまねること。
このところ私の脳みそが、戦中、戦前時代へと戻っていくのが、よくわかる。
数日前は、浪曲を練習していた。
「♪旅行けば、駿河の道に、茶の香り」と。
(「駿河の国」ではなく、「駿河の道」が、正調。念のため。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●真っ暗闇

 「失われた10年」が、「失われた20年」になった。
それが今では、「失われた25年」になった。

 たいていの人は、立派になった公共施設や道路だけを見て、「日本もまだまだ……」と思って
いるかもしれない。
しかしそれらは、ミ〜ンな、借金で建てられたもの。
国家予算にせよ、地方自治体の予算にせよ、土木建設費が、20〜25%という国は、そうはな
い。
メチャメチャ!

 交付金で建ててもらった直後は、地方財政は、それなりに潤う。
が、そのあとドカッとやってくるのが、維持費。
人件費。
ご存知の方も多いと思う。
どこの会館でも、会館の職員は、会館の掃除すら「できない」。
(「やらない」ではない。「できない」。)
掃除をすれば、外郭団体の清掃会社の仕事を奪うことになる。
もちろん清掃会社といっても、役人の天下り先!

 修理、部品の交換、整備、管理……さらには、周辺の草刈りもすべて、外注。

 こんなことを25年もしていれば、その国は、どうなるか?
その結果が、1000兆円という借金。
ギリシャは、30兆円で、今の状態。
日本は、その30倍以上!

 「♪右を見ても、左を見ても、真っ暗闇でござんせんか」。

●移民国家

 つい先週、シンガポール政府は、こう発表した。
「私たちは日本のようにはならない」と。
具体的には、移民をどんどんと受け入れていく、と。

 この日本が生き残るためには、「移民」を受け入れるしかなかった。
が、この日本は、あえてそれに背を向けた。
たった10年前ですら、こんなことを言う人がいた。

「移民を受け入れたら、日本人が職場を失う」
「移民は質が悪いから、治安が悪くなる」
「日本の伝統的文化が、破壊される」と。

 が、2050年には、人口問題で、日本は崩壊する。
何度も書いてきたので、ここでは省略するが、国を守る兵士すらいなくなる。
すでに大企業のほとんどは、最後の生き残りをかけ、生産拠点を海外に移した。

 おかしな鎖国主義で、職場を失ったのは、日本人自身ということになる。
が、それだけではない。
おかしな復古主義。

「英語教育は不必要」
「英語教育の代わりに、論語」
「武士道こそ、日本の精神のバックボーン」と。

 日本へ来る移民の立場で、ものごとを少しは考えろ。
逆の立場で、少しは考えろ。
そんな頭ガリガリの国に、どこのだれが移民で、行きたがる?
現に南米からの労働者たちは、この日本からはじき飛ばされてしまったぞ!

 一方、シンガポールは、すべてを開放した。
シンガポールに住むアメリカ人は、アメリカにいるのとまったく同じ条件で、アメリカ人の医師に
診察してもらえる。
もちろん保険も、そのまま使える。

 こんな狭い、小さな島国で、「日本」「日本」と叫んでいるほうが、おかしい。
日本が2050年以後も生き残るためには、開放しかない。
人口の減少分を、移民で補う。
アメリカやオーストラリア、カナダのように……。
が、今となっては、それもすでに手遅れ。

 移民を受け入れる、職場すら、消えた。
この浜松市にも、一時は3万人を超える南米からの労働者がいた。
が、今では、さがさなければならないほど、少ない。

 「♪右を見ても、左を見ても、真っ暗闇でござんせんか」。

●農業

 3反の畑を借り、農業を始めた人がいる。
家庭菜園のつもりで始めた。
Fさんである。
そのFさんと、昨日も、こんな話をした。

 「補助金を、100万円も、もらいました」と。

 が、農家の人たちが受け取る補助金は、そんなハンパなものではない。
そんなハンパなものではないことは、農家の人たちが、いちばんよく知っている。
まさに補助金漬け。
本来なら農業指導をする農協が、その補助金の指導をしている。
「こういうふうに申請すれば、〜百万、出ますよ」と。

 こんなことばかりしているから、農業は衰退する。
農家の依存心だけを、増長させる。

平たく言えば、駅前のシャッター街に、意味のない補助金を注ぎつづけるようなもの。
時代には、時代の流れというのがある。
現在の農業政策は、その時代の流れに、完全に逆行している。

 農業だけではない。
林業しかり、漁業しかり……。

 本来なら企業の参入を認め、自由化すべき。
戦後の自民党は、票を失うことだけを恐れ、かえって墓穴を掘ってしまった。

 「♪右を見ても、左を見ても、真っ暗闇でござんせんか」。

●教育

 教育といっても、その世界は広い。
たとえば英語教育にしても、デッドロックに乗りあげてしまっている。
「小学校での英語教育、不要論」まで、出てきた。
ならばどうして、ドイツやイタリアのように、自由化しないのか。
こうしたノン・アカデミックな、(実用性の高い)科目は、民間に任せればよい。

 英語を教えたい学校がある。
英語を教えたくない学校もある。

 英語を学ばせたい親がいる。
英語を学ばせたくない親もいる。

 英語を勉強したい子どもがいる。
英語を勉強したくない子どももいる。

 そういう学校や親、子どもをいっしょくたにし、北海道から沖縄まで、画一教育。
もともと、この方式には無理がある。
デッドロックに乗り上げて、当然。

 だったら、自由競争に任せればよい。
民間は、何ごとにつけ必死。
その必死さが、質を高める。

 あとはバウチャー券のような形で、レッスン料を補助すればよい。
が、文科省は、戦後、70年、保守一徹。
韓国では、紙製の教科書を廃止し、電子ブック化を進めている。

あのね、あのオーストラリアでも、すでに30年前から、小学校でコンピューターを教えていた
ぞ。
ちゃんと、私はこの目で見たぞ!

アメリカでは、10年前から、幼稚園でコンピューターを教えていたぞ。
ちゃんと、私はこの目で見たぞ!

 「♪右を見ても、左を見ても、真っ暗闇でござんせんか」。

 ……ということで、今朝のグチは、ここまで。

 ついでに……。

 直近の経済統計によれば、日本の経済成長率は、とうとうマイナスに落ちた。
が、肌で感ずる不況感は、そんなものではない。
どこも青息吐息。
やがてすぐ、日本の国債(借金)は、買い手(貸し手)も見つからないまま、大暴落する。
イコール、日本の「円」は、紙くずと化す。
可能性の問題でない。
時間の問題。

 すでに都市銀行は、その防衛策として、長期国債を短期国債に乗り換え始めている。
日本のデフォルトを予想してでのことである。
日本をターゲットにし、ヘッジファンド(ハゲタカ組織)も動き出した。
「つぎは日本!」と。

 この先、もう日本のことはどうでもよい。
まず私たち自身の財産を守る。
生活を守る。
「みなと渡れば……」などと考えていると、それこそたいへんなことになる。

 ……という話は、おまけ。
今朝は、読者のみんさんを、クラ〜イ気分にして、ごめん。
何といっても、天気が悪い。
空は鉛色。
雨雲。
雨がシトシトと降っている。

 ア〜ア、私は天気男。
そのときの天気に、大きく左右される。

はやし浩司 2012−02−14朝記


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【愉快な小学1年生たち】

●今回は「座標」をテーマに、レッスンを進めてみました。
 暗く沈んでいる人は、どうか、ご覧ください。
 子どもたちのもつパワーと明るさに、圧倒されますよ。

(1)
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(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/CWg--ZF6wJQ" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/4-Sxn2tqyaw" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【映画「メランコリア」】(人体の不思議展)(日本ユニセフ協会への疑問)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教団体にせよ、慈善事業団体にせよ、
人の心を扱う団体は、慎重に行動したらよい。
「真」「善」を売り物にするなら、慎重に行動したらよい。
ひとつまちがえば、詐欺。
詐欺以上の詐欺。
人の心をもてあそぶ詐欺。

困っている人や貧しい人を出汁(だし)に、
自分の利益に結びつける。
自分の名声につなげる。
悪党以上の悪党。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


 今夜、市内の劇場で、映画『メランコリア』を観てきた。
評論は、あとで書くことにして、今、その近くの米久(よねきゅう)ホテルに泊まっている。
ビジネスホテル。
「寒いから、どこかに泊まって行こうか」とワイフに声をかけると、「うん」と。
それでそのままビジネスホテルへ。

 我が家の暖房器具は、貧弱。
「家に帰り、ガタガタ震えるよりは……」ということで、今、米久ホテルに泊まった。

●今日は風邪気味

 話は前後するが、今日は、朝から、風邪気味だった。
インフルエンザ?
……でもなさそう。
体温は、36・5度。
私はもともと低い。
調子のよいときは、36度以下。
低体温症?
私のばあい、36・5度でも、「熱がある」ということになる。

 朝は、9時過ぎに起きた。
午後からも、昼寝。
1時間の昼寝。
頭痛が消えなかったので、「Z(偏頭痛薬)」を半分割って、のむ。
半時間ほどで、頭痛は消えた。
あわせて感冒薬をのんだ。
そのせいか、腰痛も消えた。

 元気になったので、仕事が終わったあと、深夜劇場へ!

●黒いBEN

 ここ数日、黒いBENが出る。
ネットで調べると……、ゾーッ!
深刻な病気らしい?
「すぐ病院で検査を受けたほうがいい」と。
どこのサイトにも、そう書いてあった。

 「年貢の納め時」と、一時は、覚悟した。
が、原因は、すぐわかった。
チョコレートの食べ過ぎ。
この1週間、毎日、チョコレートばかり食べている。
生徒たちが、くれた。
加えて、養命酒の飲み過ぎ。
が、これはワイフの説。
「養命酒を飲むと、BENが、黒くなるわ」と。

 本当かな〜ア?

 バレンタイン・デーも終わり、先ほど、黒いBENは、黄色BENに。
無事、黄色BENに戻った。
よかった!

●問題児

 自分で自分の髪を、手で抜く。
抜いて食べてしまう。

 5歳になるが、おむつがはずせない。
家の中では、あたりかまわず、便をもらす。
声をあげて泣くこともない。
母親の前では、一言も反抗しない。
母親が強く叱ると、かんしゃく発作を起こすことはある。
(母親にかみついたこともあるという。)

 が、もっとも大きな問題は、家の外に出られないこと。
家の外に出そうとすると、「こわい」と言っておびえる。
家の中にこもり、一日中、ソファの上で、横になっている。

●重症

 実は、これは犬の話。
人間の子どもの話ではない。
友人の犬の子どもの話である。
人間の子どもらしく書いたが、犬。
犬の子ども。

 そこで家人が、その犬を動物病院へ連れていくと、ドクターはこう言ったという。
「原因は、ストレスです」と。
 
 私はこの話を、ワイフから聞いた。

私「それは、神経症でも、重症だね」
ワ「そうみたい。一日中、家の中で飼われているから」
私「種類は?」
ワ「マルチーズ……かな? プードルのような犬だったわ」
私「犬でも、そうなるなんて……。知らなかった……」と。

●放し飼い
 
 犬は放し飼い。
しつけは、最小限に。
芸など、させても意味はない。
……というのは、オーストラリアの友人の弁。
家の中で、小さな犬を飼っている。

 ミニチュア・ダックス?
体長は30センチくらい。
足は短い。

 その犬が、私たちに向かって、けたたましく吠えた。
小さな犬だったが、忠誠心は、大型犬並み。
頭もよい。
それが理由で、つまり私たちに向かって吠えたのが理由で、一度、外に追い出された。
以後、私たちに向かっては、吠えなくなった。

 小さな犬だったが、ジャンプ力は抜群。
自分の大きさの3〜4倍もあるような高さのソファでも、ヒョイと登る。
あとはそこで、そのまま。
つぎの指示をじっと待っている。

●放し飼い

 子どもの指導も、これに似ている。
「放し飼い」。
それが原則。
その上で、角を削るようにして、少しずつ、おとなの世界に引き込んでいく。
またそのほうが、子どもは伸びやかな子どもになる。
見知らぬ人を見たら、けたたましく吠える。
そういう子どもになる。

 だれを見ても、尻尾を振る。
愛想よくする。
従順でおとなしく、自己主張の弱い子どもがいる。
しかしそういう子どもを、「できのいい子」とは、言わない。
またそういう子どもほど、ストレスをためる。
心をゆがめる。

●人体標本

 あのね、あのようなグロテスク※な標本など、子どもには見せてはいけない。
「標本」とは、名ばかり。
グロ!

 人間の体をスライスしたような標本。
それを見せ物にし、金儲けにつなげている団体がある。
そうした標本は、研究者や医学者には、それなりの意味をもつかもしれない。
しかし子どもたちには、ちがう。
みながみな、研究者や医学者になるわけではない。
仮にその道を歩みつつあるとしても、見せてはいけない。
心の中に、それを処理する能力ができるまで、見せてはいけない。

 が、年齢的な「適齢期」があるわけではない。
私は64歳だが、私は見たくない。
病院の廊下に血がポタポタ落ちているのを見ただけで、気分が悪くなる。
人体標本のポスターを見ただけで、当時も今も、ゾッとする。
私には、それを処理する能力はない。

20歳以上だから、害はない。
20歳以下だから、害がある……ということには、言えない。

この浜松市でも、公共の科学館などで展示されたと聞く。
監修者に、著名な大学教授が名を連ねていれば、公共の施設としても、開催を拒否することは
できない。

 そのためのお膳立てとして、監修者には、著名人を使う。
日本イチの著名人を使う。
驚いたことに、日本医学会まで、会長名で後援していたという(MSN)。

 このタイプのインチキ団体がよく使う手である。
わかりやすく言えば、権威づけ。
有名人や有名団体の名で、「会」を飾る。
幼稚な手法。
つまり目的は、金儲け。
あんな展示会が、どういう意味をもつのか。
どう、日本人の心を啓蒙するのか、

●MSN・ニュースの記事

昨日(2012−02−17)、こんな記事が、MSNに載った。
記事にはポスターの写真が添えられていた。
それには「人体の不思議展」とあった。
左の縦書きの部分は、判読できなかった。
が、全体に、薄切りにされた人体が、大きくそのまま表示されていた。
それを見ただけで、ふつうの常識のある人なら、ゾッとするはず。
気の弱い人なら、気絶するかもしれない。

『(人体標本の展示に)、反対したが…頼まれたから引き受けた……養老孟司・東大名誉教
授』(MSN)とのこと。

養老孟司氏と言えば、解剖学の権威。
その養老孟司氏が、監修者になっていたとは!
……「人体の不思議展」なるものを見たことがないから、私は知らなかった。
なおその標本は、中国からのもの……つまり中国人のものという(MSN)。

+++++++++++以下、MSN・NEWSより+++++++++++++++

……各地で開かれた「人体の不思議展」について、「日本とは倫理観がまったく異なる中国か
ら標本を借りてくると聞き、自分は反対した」。
監修委員を務めた養老氏は、主催者側への憤りをあらわにした。

 養老氏は平成7年に初めて日本で開催した同展の中心メンバー。
このときは同氏が自費でドイツから標本を輸入したが、このころから、親族の知人で日本アナ
トミー研究所(当時)のスタッフだった男性が間に入るようになったという。

 同氏によれば、男性とドイツ人研究者との間で契約トラブルが起こり、同展はいったん中止
に追い込まれたが、男性はその後中国から標本を輸入、14年以降は同社主催の形で再開し
た。

 養老氏は中国からの輸入標本の展示に強く反対し、運営からも手を引いたが、18年ごろま
で監修委員として名前を連ねている。

 「イベントの会場確保などで助けてもらったことがあり、彼に強く頼まれたから監修委員を引
き受けた。もちろん、金なんかもらっていない」と。

 中国の輸入標本を使ったイベントは当初、日本赤十字社や日本医学会なども後援した。
ところが、高額の入場料や関連グッズの販売など興行的手法に対する主催者側への批判が
大きくなるにつれ、後援を取り下げる団体も相次いだという。

 一連の経緯について、日本医学会会長の高久氏は「同展を後援したことに対する非難の電
話が頻繁にあり、情報収集したところ、標本の多くは中国の受刑者で、国際法に準拠した契約
でないことが分かり、監修者及び後援を取り下げた」と文書で回答した。

+++++++++++以上、MSN・NEWSより+++++++++++++++

●感覚のズレ

 養老孟司氏や、日本医学会会長の高久氏が、どこでどのように動いたかは知らない。
その裏で、どのように現金(マネー)が、動いたかも知らない。

 しかしひとつ重要なことを忘れてはいけない。
つまり彼らの感覚は、一般庶民感覚とは、完全にズレている。
自分たちの職場では、日常的な「標本」かもしれない。
しかし一般社会では、そうではない。
そうでないものを、わざわざ引っ張り出し、それを私たちに見せつける。
見せつけながら、平気な顔をしている。
こういうのを意識のズレという。
ズレたまま、監修者になったり、後援者になったりする。
その感覚が、ズレている。

 繰り返す、あんなグロなものを一般に公開して、何が「不思議展」か?
どういう意味をもつというのか。
それについて書いた原稿が、どこかにあるはず。
探してみる。

(注※……グロテスク、グロについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『グロテスク (grotesque) とは、古代ローマを起源とする異様な人物や動植物等に曲線模様を
あしらった美術様式』と。

 なおウィキペディア百科事典によれば、「気味の悪さを催すもの」を、「グロ」と呼び、「グロテ
スク」とは、区別しているそうだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2011年1月20日のBLOGに
つぎのような原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「人体の不思議展」

 私は、子どものころから、ああいうのが苦手。
道路にころがっている、動物の死骸を見ただけで、吐き気を催す。
少なくとも、あえてお金を出してまで見たい展覧会ではない。
称して「人体の不思議展」。

この浜松市でも10年ほど前から、ときどきその「不思議展」が、催されている。
で、見てきた子どもたちに「どうだった?」と聞くと、みな「おもしろかった」と。

 おもしろかった?

人間(もちろん死体)を、盾に薄く切った現物を、パネルに挟んで展示してある。
それがおもしろかった?

学生時代、医学部へ遊びに行くと、そこにホルマリン漬けの標本が並べられていた。
臭いも不快だったが、それを見るたびに、私はゾッとした。
私は、「おもしろい」と思ったことは、ない。
一度もない。

 それが今では、「展覧会」として、堂々と市中で公開されている。
どんなものかは、直接は見たことがないので、ここではコメントできない。
しかし率直に言えば、ああいうものは、子どもには見せない方がよい。
10人のうち8人までは大丈夫であるとしても、残りの2人の子どもが心配。
大きなショックを受ける。
そのショックが、トラウマ(傷)になることもあれば、ひょっとしたら残忍性の
引き金を引くことにもなりかねない。

 また見せたところで、それがどういう意味があるのか。
どういう教育的効果があるのか。
みながみな、ドクター(医師)になるというわけでもあるまい。
「腹の中には腸がある」と教えて、イラストで見せれば、それですむ。
それを現物まで見せて、「これが腸です」と。

(「人体の不思議展」に、そういうものがあるかどうかは、知らないが……。)

 むしろ映画『ミクロの決死圏』のような提示の仕方のほうが、好ましい。
どこかの大学付属の科学館に、そういうところがあった。

大きな口(これが入り口)を入っていくと、食道や胃を通り、最後は肛門から出てくる。
肛門が出口になっていた。
全体が、大きなお化け屋敷のようになっていた。
そういうものなら、楽しめる。

 「科学展示会」というのは、口実。
実際には、興業屋の金儲け。
私も若いころ、そういう仕事を手伝ったことがあるので、内情をよく知っている。
「人体の不思議展」は、どうか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●補記

 この中で、私はこう書いた。
「そういう仕事を手伝ったことがあるので」と。

 もちろん今回、問題となっているような、「人体の不思議展」のようなものではない。
市内のデパートで催された、フォークコンサートのようなものをいう。
どうか、誤解のないように!

 なおこのBLOGは、日付は2011年になっているが、実際に書いたのは、2000年ごろでは
ないかと思う。
2011年に、古い原稿を探し、それをそのとき、このBLOGに書いた。

●映画『メランコリア』

 さて、本題。
映画、『メランコリア』について。

 当初、同じく昨日、公開された『タイム』と、どちらを観ようか、迷った。
迷った結果、今夜は、『メランコリア』にした。

 内容はともかく、私はあの映画を見ているとき、船酔いに似た気分の悪さを覚えた。
理由は、すぐわかった。

 カメラが、スーッと流れたあと、小刻みにフワフワと揺れる。
画面がフワフワと揺れる。
それが最初の、スティール写真のような部分をのぞき、全体に繰り返される。
これでもか、これでもか……と、繰り返される。
手持ちカメラで撮影したような雰囲気を出したかったのだろう。
観客を不安にさせるため、ある種の催眠効果をねらったのかもしれない。
しかし私には、ダメ。

 後半2分の1以上は、片目を閉じ、一方の目をときどき開いて見た。
……というか、ときどき吐き気すら覚えた。
映画としてはすばらしい映画かもしれない。
が、私のような観客も少なくないはず。
そういう観客への配慮に欠ける。
で、ワイフに聞くと、「私はだいじょうぶ」と。

 日ごろ、車に酔いやすい人は、あの映画は、見ないほうがよい。
とくに劇場では、見ないほうがよい。
気持ちが悪くなる。
そんなわけで、きびしく採点し、星は2つの、★★。
二度と見たくない!

●最期

 映画『メランコリア』とは別に……。

 もし地球が消滅する日がやってきたら……?
今、米久ホテルの一室で、そんなことを考えている。

 最後のシーンで、姉と姉の子、それに主役のジャステイン(キルステン・ダンスト)が、その時
を迎える。
恐怖におののく姉。
眠ったように目を閉じている、姉の子。
そしてどこか投げやり的に穏やかな、ジャスティン。

 「私なら、どうするか?」と。
が、つぎのように考えると、結論が出てくる。

(1)個人の死は、宇宙全体の死でもある。
(2)死の直前は、脳の中の臨終メカニズムが機能し始めるため、穏やかになる。
(3)「死の宣告」は、時間の問題ではない。

 あなたという(個体)が死ねば、あなたは、この宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが生まれる前には、この宇宙は、存在しなかった。
あなたはこの宇宙に生まれ、その結果として、この宇宙の存在を知った。
その(生まれる前の状態)になる。
……というのが、今のところ、私の死生観。
その結論。

 2つ目に、脳は、そのときどきにおいて、別の働きをする。
よく臨死体験をした人が、美しい川や花畑を見るという。
この現象は、東洋人でも、西洋人でも一致している。

一説によると、前頭部と後頭部の境目あたりに、そういう働きをする部分があるらしい。
電気的な刺激を加えると、健康な人でも、ここに書いたような美しい川や花畑を見るそうだ。

 つまり脳は、最期の最期の段階で、人間を死の恐怖から自ら解放してくれる。
そういう機能(メカニズム)をもっているらしい。
……というより、「もっている」。

 私もこの数年、臨死体験ならぬ、模擬死体験をしている。
3度している。
(うち一度は、それほど明確なものではなかった。)
そのつど、私は、私の心が、不思議なくらい穏やかだった。
一度は、「ああ、これでやっと死ねる」と。
そんなふうにさえ思った。
(だからといって、自殺願望があるわけではない。誤解のないように!)

 そういう意味で、私は自分の脳を信じている(?)。
その時になったら、なったとき。
臨死プログラムが働き、人は安らかな気持ちで、最期を迎えることができる。

 だから、今はまだ自信はないが、その時が来たら、主人公のジャスティンのような気分になれ
るのでは(?)。

 さらに3つ目。
「死の宣告」は時間という「数字」の問題ではない。

 「余命はあと1か月」と言われるのも、「あと15年」と言われるのも同じ。
(私は今年、65歳になる。
平均余命で計算すれば、私の人生は、残り15年。)

 同じように、「あと5日」(映画『メランコリア』)と言われるのも、これまた同じ。
死の待合室で、1か月待つのも、15年待つのも、また5日待つのも、同じ。
こういう感覚は、若い人には理解できないものかもしれない。
ほとんどの若い人たちは、死とは無縁の世界で生きている。
自分の老後すら、想像できないだろう。

 が、50歳を過ぎると、とたん、そこに、「死」が見えるようになる。
60歳を過ぎれば、なおさら。
それまで経験したことがないような、体の不調も、頻繁に起こるようになる。
それが年ごとに多くなり、はげしくなる。
「死」というのは、健康であればあるほど、時間をかけてやってくる。
「5日だから短く、15年だから長い」という問題ではない。
そのことは、自分自身の15年という過去を振り返ってみれば、よくわかる。

 あっという間の15年だった。
つまりこの先、15年など、あっという間に過ぎ去っていくだろう。
あたかも5日のように……。

 ということで、ここで、「5日だから短く、15年だから長いということには、ならない」と書いた。
 
●SF評論

 映画の主題は、ここに書いたとおり。
で、ここから先は、SF評論。

 惑星『メランコリア』は、「死のダンス」を繰り返しながら、最終的には地球と衝突する。
メランコリアの大きさは、地球の直径の数倍以上はある。
それが地球を呑み込む形で、地球と衝突する。

 映画で見た感じでは、メランコリアは地球と同じ、地殻固形型の惑星。
大気もあるらしく、青く、白い雲も無数に見える。
となると地球と衝突すれば、メランコリアのほうも、無事ではすまないはず。
粉々に砕け散っても、おかしくない。
そのあたりのSF的な、詰めが甘い。

 それにそれほどまでの惑星と異常接近すれば、地球の重力そのものも、大きく変化を受ける
はず。
衝突する前に、地殻は破れ、内部のマグマが飛び出す。
理論的には、地上のすべてのものが、メランコリアの重力圏に入る。
つまり人間がその最期を、地上で迎えるなどということは、ありえない。
人間は大地ごと宙に吹き飛ばされ、それにつづく段階で粉々になって死ぬ……。

 では、人類に助かる方法はあるのか?

 ひとつあるとすれば、スペースシャトルのような宇宙船に乗り、メランコリアから遠ざかること。
あれほどまでに巨大な惑星だから、月ですらも、やがて呑み込んでしまうだろう。
となると、かなり遠くまで逃げていく必要がある。

 あるいは思い切って、メランコリアのほうへ、前もって移住するという方法もある。

 が、その方法にしても、はかない抵抗。
1〜2か月は何とか生き延びることはできても、1年は無理。
現在の科学では、生き延びる方法は、ないということになる。

●米久ホテル

 で、この米久ホテル。

 私が42年前に浜松へ来たときには、すでにこのホテルはあった。
よく覚えている。
その古さは、随所に感ずるが、料金も安く、ビジネスホテルとしては悪くない。
シーツも枕カバーも、そのつど洗濯してあるよう。
(確信はもてないが……。)

 朝食付きで、1名、3500円。
じゃらんのクーポンがたまっていたので、今回は、2人で、約6000円。
ビジネスホテルだから、星をつけても意味はない。
ただ比較するなら、一押しがダイワロイネットホテル。
つづいて、→クレタケイン→米久、となる。
ダイワロイネットホテルは、ごく最近オープンしたばかり。
超ハイテクホテル。

 料金が安いところに宿泊して、あれこれ文句を言う方がおかしい。
が、ここの朝食は、いつ食べても、悪くない。
良心的で、おいしい。

●偽善

 先日、日本ユニセフ協会について、批判した。
いくつかコメントが届いた。
どれも、「現在の日本ユニセフ協会はおかしい」というもの。
「ある程度活動が軌道に乗ったら、民間の団体にすべき」という意見もあった。

 その日本ユニセフ協会。
私が最初に疑問をもったのは、ある週刊誌で、何枚かの写真を見たときだった。

当時、K徹子氏というタレントが、その協会の親善大使を務めていた。
そのK徹子氏。
撮影のときだけ、難民の子どもを抱き、撮影が終わると、すかさず、手や体を消毒していたと
いう。
その様子を、別のカメラマンが、カメラに収めた。
それがそのまま週刊誌に載った。

 私たちの世界では、こういうのを「偽善」と呼ぶ。

●日本ユニセフ協会

 このところ毎晩のように、テレビに、「日本ユニセフ協会」のコマーシャルが入る。
例によって、例のごとく、募金集めのコマーシャル。

 テレビだけではない。
週刊誌や雑誌などにも。

(この世界には、記事広告というのもある。
直接的に宣伝するのではなく、間接的に、記者に記事を書かせ、広告する。
それを「記事広告」という。)

疑問の第一。
「国連の一機関が、テレビでコマーシャル?」と。
だれしも、そう思う。
が、これには、ちゃんとウラがある。

 以前書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

すぐ見つかった。
日付は、2010年9月になっている。
それを手直しする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【日本ユニセフvs国連ユニセフ】(2010年9月記)

●日本ユニセフ協会とは何か?

 私は知らなかった。
国連のユニセフ(以下、国連ユニセフ)と日本のユニセフ(正式名:日本ユニセフ協会、以下、
日本ユニセフ)とは、別組織。
しかも日本ユニセフというのは、「財団法人」の名を載せてはいるが、「一般民間団体」?
道理で……というか、あの団体は、そのつど著名人をうまく利用している?
……というか、著名人やタレントばかりを、頭に、ズラリと並べている。
そのウサン臭さは、私も感じていた※。

 だれかの紹介で、私のところにも、ダイレクトメールが届いたことがある。
それをきっかけに何度か寄付金を送った。
が、それ以後、毎年、私の住所、名前をあらかじめ印刷したネームカードとともに、寄付金の募
集用紙が送られてきた。
「熱心な団体だな?」とは思ったが、それには先にも書いたように、ウラがあった。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……(日本ユニセフは)、36の国と地域にある「ユニセフ国内委員会(Committee for 
UNICEF)」のうちの1つであり、国際連合児童基金 (国連ユニセフ) の日本事務所ではない。
(ユニセフ本部(国際連合児童基金)との関係参照)』と。

 さらに明確に、『(日本ユニセフは)、日本における「ユニセフ国内委員会」として、世界におけ
るユニセフの活動を支援するために、日本において寄付募集、広報・啓蒙活動、政策提言協
力を行うことを使命としている。

日本ユニセフ協会と国連ユニセフ(UNICEF)は、基本的に別組織である』(以上、ウィキペディア
百科事典)と。

『「日本ユニセフ」という名称をもつが、国際連合児童基金 (国連ユニセフ)の日本事務所では
ない。

日本ユニセフ協会は、ユニセフ本部と協力協定を結んでいる団体であり、日本において民間
人・民間団体・企業向けにユニセフを代表する唯一の組織である。

日本における民間協力の窓口として運営されている非政府組織であって、国連機関ではな
い。
ユニセフ本部は東京都内に「ユニセフ東京事務所」を設置しているが、この事務所もユニセフ
日本支部ではない』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 だんだんとわかってきたぞ!

「日本ユニセフ」と「国連ユニセフ」。
この両者は、まったくの別組織。

 つまり平たく言えば、「日本ユニセフ」は、国連機関のひとつである「ユニセフ」という名前を巧
みにまぶしながら、日本人から金を集めている(?)。
そういう疑念も浮上してきた。

 『日本における国際連合児童基金(=国連ユニセフ)の出先機関は、東京都渋谷区神宮前
の国連大学ビルの中にある』とある。
「国際連合児童基金東京事務所」(ユニセフ東京事務所)というのが、それ。

 一方、日本ユニセフのHPには、つぎのようにある。

『「財団法人日本ユニセフ協会と密接に協力しながら」各種の交渉などに当たっていることにな
っている。と。

ほぼ同一の意味の記述は、ユニセフ公式サイトにもあり、日本ユニセフ協会は、ユニセフ東京
事務所(=国連ユニセフ)の業務の一部にも関わりを持っている」と説明している』(以上、日本
ユニセフ協会サイトによる)と。

この部分を注意深く読んでほしい。
「業務の一部にも関わりを持っている」(日本ユニセフ)と。
(日本ユニセフ)イコール(国連ユニセフ)ではない。
(国連ユニセフ)イコール、(日本ユニセフ)でもない。
「業務の一部に、関わりをもっている」だけ。
この部分を注意深く読むと、そうなる。

 つまり日本ユニセフ側は、「私たちは(国連)ユニセフとは無関係ではない。
ユニセフと『密接に協力しながら』活動している」と。
そんな煙幕を張っている。
だったらはじめから、無私無欲で、なぜ国連ユニセフ(本部)に協力しないのか。
協力すれば、それですむはず?
 
 どうしてこういう回りくどい言い方をするのだろう。

 私の記憶にまちがいがなければ、こういうこと。

「日本ユニセフ」は、集めた寄付金の75%を、「国連ユニセフ」に納める。
残りの25%(上限)については、「日本ユニセフ」のほうで、自由に使用することができる※。
職員の給料や活動費などに充てることができる。

 が、こんなおいしい話はない。
ふつうの常識のある人なら、そう考える。

たとえばウィキペディア百科事典には、こうある。

『2007年度は、日本ユニセフ協会は176億5671万円を集め、その81%をユニセフ本部に
拠出した』と。

 つまり残りの19%は、日本ユニセフの取り分。
単純に計算すれば、約33億6000万円!
何もしなくても、つまり事務所に座っているだけで、約33億6000万円!
約33億6000万円だぞ!

 記事の内容は、ウィキペディア百科事典に取ってもらうことにする。

 が、なぜ、今、テレビのコマーシャルなのか?

 単純に考えれば、「募金が集まりにくくなった」?
今、日本は、アフリカの難民救運動どころではない。
3・11大震災による震災被害で、たいへん!
それにこんなことも言える。

 人の善意は、テレビのコマーシャルとは、基本的な部分で、なじまない。
選挙が近くなると、どこかの宗教団体は、さかんにテレビのコマーシャルを流し始める。
なぜか?
……理由など、改めてここに書くまでもない。

 が、日本ユニセフのコマーシャルは、そのコマーシャルとどこか似ている。
どこかウサン臭い。
そんなコマーシャル代が払えるなら、その分だけでも、難民救済とかに、回せばよい。
1円でも、多く。
そして「国連ユニセフ」には、こう言えばよい。

「日本も、今、それどころではありません。寄付金が少なくてすみません」と。
募金が減ったからといって、しかたのないこと。
が、テレビコマーシャル?

難民救済という高邁な精神と、テレビなでコマーシャルを流して募金を集めるという通俗的な行
為は、基本的な部分で、矛盾している。
「募金が少なくなっても、それはそれでしかたのないこと」と。
常識のある人は、そう考える。

 あるいは日本ユニセフは、3・11大震災で被災者になった人のために、どうして募金活動を
始めないのか。
大きな被害を受けた、日本の子どもたちだって、いる。
「善意」という心は、どの方向に向かおうとも、「善意」。

 ……ともあれ、どうもよくわからない。
つい先月(1月)は、週刊A誌に、国内委員会大使のA・チャンが特集されていた。
5ページという、大特集である。
「ポロポロと涙をこぼして……難民の子どもたちを……」(記憶)という記事もあった。
が、これもおかしい。
どこか、おかしい。

 もう一度、募金の流れを図示してみる。

(日本人一般)→(日本ユニセフ)→(国連ユニセフの東京事務所)→(国連ユニセフ)。
その募金を使い、(国連ユニセフ)が、難民救済活動を展開している。
(日本ユニセフ)がしているわけではない。

 なお(国連ユニセフの東京事務所)は、小さな事務所と聞く。
が、(日本ユニセフ)のほうは、住所からもわかるように、超立派なビル※。
何か、おかしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……以下、ウィキペディア百科事典より)

●批判

『日本ユニセフ協会が集めた寄付金等の収入は、ユニセフ本部に、その全額が送金されるの
ではない。
募金活動の際にその旨明記されていないことが多い点や、その用途が適切かについて議論
がある』(ウィキペディア百科事典)と。

●日本ユニセフの取り分

『日本ユニセフ協会は国際連合(UN)内の国際連合児童基金(ユニセフ)と協力協定を結び、日
本からの民間拠出金を取りまとめている、あくまで民間協力の団体である。
従って、職員の身分は国際公務員・国家公務員ではなく、団体職員である。

なお、日本ユニセフ協会はユニセフ本部との協定により、専ら協会の活動費として用いられる
会費の他に、寄付金の一部(上限25%)を協会自身の活動資金やユニセフ活動への広報・啓
蒙活動の為に留保しており、留保額を除いた寄付金がユニセフ本部に拠出されている』(ウィ
キペディア百科事典)と。

●協会ビル

『……2001年6月、25億円を使って、都内でも有数の一等地である港区高輪に、協会のビル
「ユニセフハウス」(地下1階、地上5階建、延床面積3702平方メートル)を建設した。
そこで、このようなビルを建てるのが寄付金の具体的使い道の妥当性として問題にされてい
る』(ウィキペディア百科事典)と。

 ほかにも日本ユニセフに対する批判は多い。
詳しくは、ウィキペディア百科事典を参考。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%BB%E3%83%
95%E5%8D%94%E4%BC%9A

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本ユニセフ 国連ユニセフ 東
京事務所)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【権威主義】(日本の肩書き社会)

++++++++++++++++++++++

 日本人は、肩書きを見て、その人を判断する。
古来、江戸時代からつづく、身分制度の名残と考えてよい。
その1例が、「本」。

 ほんの20年前のこと。
小学生が使うようなワークブックにさえ、ズラズラと、大学の教授らの名前と肩書きが並んでい
た。
その1例を紹介する。

なおこの「本」は、私自身が、企画、構成した「本」である。
もちろんこれらの名前と肩書きは、読者をだますための、7つ道具。
読者は、これを見て、「本」を買う。
さらにもちろん、これらの大学の教授らは、そのほとんどが原稿にすら目を通していない。
たいていは、つぎのような電話で、話が決まる。

 出版社「今度、XXという子ども向けの月刊雑誌を出します。監修者に先生のお名前を拝借し
てよろしいでしょうか」
教授たち「はあ、結構ですよ。お任せします」と。

が、出版社のほしいのは、「肩書き」。
「名前」ではない。
教授たちも、それを知っていて、名前を貸す。

以下、「N・子ども月刊雑誌」(X社発刊)の監修者たち。

*********************

AR……東京大学教授
ID……港区S小学校教諭
IZ……F協会研究員
UN……慶應義塾幼稚舎教諭
OH……筑波大学名誉教授
OM……東京都S区O小学校教諭
KM……Gプラネタリウム
KS……東京都X研究員
SH……X動物園
TM……国立科学博物館xx室長
TM……筑波大学教授
NY……商船大学教授
HY……横浜国立大学教授
(以下、10数名が並ぶ)

*********************

 が、さらに出版社が、こうした名前を並べる理由には、もうひとつウラがある。
著作権の問題である。

 たとえば、XX研究所のYY教授の文献から、原稿を加工、転載したとする。
一部転載でもよい。
そのままでは無断転載になる。
そこで「本」になる前に、先に、こうした教授たちを、監修者に仕立てあげる。
「先生のお書きになった、xxという本から、一部、引用させていただけませんか。
つきましては、先生には、監修者になっていただきたいのですが……」と。

こうすれば、あとあと、無断転載(=盗作)が問題になることはない。

 ただしこうした作業は、出版社と相手方との間で交わされる。
かなり上層部の人たちの間で、やり取りされる。
それぞれの編集長は、それぞれの人たちと人脈をもっている。
その人脈を利用する。

 こうした手法は、「悪い」に決まっている。
かぎりなく詐欺に近い。
が、ほんの15〜20年前には、「本」の、こうした出版方法は、当たり前だった。
ウソだと思うなら、近くの図書館で、少し古い、子ども向けの「本」を見てみればよい。
どの本にも、ズラズラと、そういった名前と肩書きが載っている。

 要するに、こうした名前と肩書きは、「本」を売るための「飾り」に過ぎない。
もっとわかりやすく言えば、「権威付け」。
「ハク付」。
言い換えると、権威のない「本」ほど、こうした「飾り」を多くする。
もちろん「マネー」のため。

「はやし浩司の名前では、売れない。だからxx教授の名前で売ろう」と。

 が、今、その権威主義が、ガラガラと音を立てて崩れ始めている。
先にも書いたように、15年前前後を境にし、大手の出版社からは、この種の出版手法が消え
た。

+++++++++++++++++++++++++

●日本ユニセフ協会

 昨日、日本ユニセフ協会についての原稿を書いた。
「テレビコマーシャルまで流し、募金を集めるのはおかしい」と。
「財団法人」にはなっているが、国連のユニセフとは、まったく独立した別組織。
問題の第一は、募金の使われ方。
「上限25%※まで、日本ユニセフ協会のほうで、自由に使うことができる」(ウィキペディア百科
事典)と。

 しかし募金する側は、そんなことは知らない。
知らされていない。
募金する側は、「全額、貧しい人たちのために使われる」と信じている。
信じているからこそ、募金する。
が、実際には、33億6000万円もの大金が、日本ユニセフ協会の懐(ふところ)に入ってい
る。

 ウィキペディア百科事典によれば、『2007年度は、日本ユニセフ協会は176億5671万円
を集め、その81%をユニセフ本部に拠出した』と。

 つまり残りの19%は、日本ユニセフの取り分。
単純に計算すれば、約33億6000万円!
何もしなくても、つまり事務所に座っているだけで、約33億6000万円!
約33億6000万円だぞ!

 私はこの数字を見て、率直に言って、「おかしい」と思う。
おかしいと思うから、昨日、原稿を書いた。
が、さらにおかしいのは、その役員名。

(注※……募金の使われ方について)

『……日本ユニセフ協会はユニセフ本部との協定により、専ら協会の活動費として用いられる
会費の他に、寄付金の一部(上限25%)を協会自身の活動資金やユニセフ活動への広報・啓
蒙活動の為に留保しており、留保額を除いた寄付金がユニセフ本部に拠出されている』(ウィ
キペディア百科事典)と。

●著名人がズラリ

 ウィキペディア百科事典には、日本ユニセフ協会の役員名が載っている。
そこには「社長」「会長」という肩書きが、ズラリと並ぶ。
そのまま紹介させてもらう。

『任期は2008年(平成18年)11月30日から2010年(平成20年)11月29日まで。

"会長 赤松良子(前副会長、会長代行、文京学院大学顧問、元文部大臣、元駐ウルグアイ大
使)
"副会長 東郷良尚 (前専務理事)
"専務理事 早水研
他、常務理事3名、理事9名
評議員は50名。
"日本ユニセフ評議員:朝比奈豊毎日新聞社代表取締役社長

ほか、秋山耿太郎(朝日新聞社社長)等のマスコミ関係者、麻生渡(全国知事会会長)等の政
治家、五十嵐敬一(白洋舎相談役)等の財界人、壷内明(全日本中学校長会会長)等の教育
関係者、小和田優美子(皇太子妃雅子母)等の著名人等から構成されている』(以上、ウィキ
ペディア百科事典)と。

 今どき、こういう肩書きを並べる団体があること自体、私には信じられない。
何もシーシャパード※を支持するわけではないが、シーシェパードの連中が見たら、腹をかか
えて笑うだろう。

 「控えおろう!」と葵の紋章を見せつける、日本ユニセフ協会。
そこはまさに権威主義の世界!
やっていることが、子どもじみている。
幼稚。
「難民救済」を口にするなら、それにふさわしい「土着性」があるはず。
が、その土着性がない。
つまりそうした活動を草の根レベルで展開し、そこからはい上がってきたという土着性。
その土着性がない。
言うなれば、金持ちや成功者の道楽(?)。
そう疑われても、しかたない。
が、それだけではない。
私は、さらにその「道楽」の向こうに、「偽善」を感じてしまう。

(注※……シーシェパード)ウィキペディア百科事典より

『シーシェパード環境保護団体(Sea Shepherd Conservation Society、通称シーシェパードまた
はSS)は、海洋生物保護のために直接行動を戦術として用いる国際非営利組織の海洋環境
保護団体。
本部はアメリカ合衆国ワシントン州フライデーハーバー(Friday Harbor)。
「シーシェパード」は「海の番犬」、「海の保護者」の意』(ウィキペディア百科事典)と。

 なお日本では、シーシェパードを「テロリスト」と位置づけている。

●偽善

 日本ユニセフ協会がそうであるというのではない。
が、その一方で、こんな話もある。

 私がいっしょに食事をしたことのある女性に、TE氏という人物がいた。
右腕を、大きな包帯で巻いていた。
話を聞くと、ベトナムとカンボジアの国境付近で、難民救済のための救護活動をしているとい
う。
腕に大けがをしたので、休暇をもらい、そのとき日本へ帰ってきているという話だった。
そのとき、鎌倉で、TK先生(東大元副総長(特別補佐))といっしょに、食事をした。
話をいろいろ聞いた。

 が、そういう人物ほど、静か。
そういった活動を、人知れず、目立たない世界で、黙々とこなしている。
もちろんマスコミにも、いっさい、取りあげられなかった。
「信念」というのは、そういうもの。
個人の内部に向けた、正義の追求を「信念」という。
看板のように、背中に背負い、人に見せびらかすようなものではない。
いわんや、宣伝?
広告?
テレビコマーシャル?

 で、中には、こう思う人もいるかもしれない。
たとえ75%の金額でも、難民救済に使われれば、それでよいのではないか、と。
「何かをするほうが、何もしないよりはマシ」と。

 が、もしそれが偽善であれば、「何もしないほうがマシ」。
「難民救済」は、口実。
中身は、「金儲け」。
苦しんでいる人を利用しての「金儲け」。
もしそうでないというのなら、募金は、全額、難民救済に回したらよい。
全額だ。
活動・運営費は、「役員名」として名を連ねる人たちに、払ってもらえばよい。
ここに名を連ねている人にとっては、ハシタ金。
どうして、一般庶民からの募金を、25%もピンはねするのか?
あるいは募金に先立って、それを公表すべき。
「25%を、私たちの利益にしています」と。
が、なぜ、それを公表しないのか。
その疑問に答えないかぎり、「偽善」の疑いは、消えない。
 
 繰り返す。

 33億6000万円(2007年)だぞ!
この額を知り、「ああ、それは活動・運営費」と納得する人はいるだろうか?

 ウィキペディア百科事典には、さらにこうある。

『(協会ビル建設に関し)、2001年6月、25億円を使って、都内でも有数の一等地である港区高
輪に、協会のビル「ユニセフハウス」(地下1階、地上5階建、延床面積3,702平方メートル)を建
設した。
そこで、このようなビルを建てるのが寄付金の具体的使い道の妥当性として問題にされてい
る』と。

 まさに同感である。

【日本ユニセフに関する、参考文献】
(日本ユニセフ協会に疑問をもっている人は、一度は目を通してみたほうがよい。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%BB%E3%83%
95%E5%8D%94%E4%BC%9A

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 『映画 メランコリア』 偽善 日本ユニセフ協会 人体の不思議展 解剖 養
老孟武 黒柳徹子 はやし浩司 グロ グロテスク 肩書社会 権威主義)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●偽善

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

偽善については、たびたび書いてきた。
宗教団体にせよ、慈善事業団体にせよ、
人の心を扱う団体は、慎重に行動したらよい。
「真」「善」を売り物にするなら、慎重に行動したらよい。
ひとつまちがえば、詐欺。
詐欺以上の詐欺。
人の心をもてあそぶ詐欺。

困っている人や貧しい人を出汁(だし)に、
自分の利益に結びつける。
自分の名声につなげる。
悪党以上の悪党。

以前、「偽善」について書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2004年06月14日付けの原稿が
見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●偽善(2004年06月14日)

 偽善者は、悪人より、タチが悪い。
イギリスの格言にも、こんなのがある。
『悪魔は、善人の顔をして、あなたのところへやってくる』と。

 『悪魔は、目的のためには、聖書をも引用する』というのもある。
 『ブタを盗んで、骨を施す』というのもある。

 ……と言いながら、この世の中、すべてが偽善。
偽善でないものをさがすほうが、むずかしい。
あなたにしても、身のまわりの、あらゆるものが、どこかで人間の欲望と利益にからんでいる。
そのからんだところで、善は悪に変身する。

 少し前、JTのコマーシャルにこんなのがあった。

 ある男がタバコを吸おうとすると、そこへ小さな少女が通りかかる。
その男は、一瞬手を休め、その少女が通りすぎるまで、タバコを吸うのをやめる。

 あるいは美しい野原で、一人の男がタバコを吸っている。
その男の近くには、灰皿が置いてある。
男は、真っ青な空の白い飛行機雲を見ながら、タバコを吸う。

 一連のJTのコマーシャルが、まさしく偽善の典型とみてよい。
本当に善を訴えるなら、「どうか、タバコを吸わないでください」「私どものタバコを買わないでく
ださい」というような内容のコマーシャルにすればよい。

 JTは、ブタの骨を人に与えながら、ブタを盗んだことを隠している。

 それにしても、この世の中、偽善が多すぎる……と、あなたも、そう思いませんか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作。
日付は、2008年8月23日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●John 8:34(2008年08月23日記)

+++++++++++++++

この世は偽善のかたまり。
以前、アメリカに住む息子が、そう言った。

しかし偽善こそ、人間がもっとも卑しむべき
行為。

日ごろは、美しい着物に身を包み、バラエティ
番組でケラケラと笑っている女性が、別のところで
は、作業服を着て、アフリカの難民運動の
指導者になる。

これを「偽善」と言わずして、何という?

+++++++++++++++

●偽善

聖書(RYRIE版)を、ひもとく。

John(8:34)には、こうある。

Jesus replies:
I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin.
Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever.
So if the Son sets you free, you will be free indeed.

イエスは、こう答えた。 
あなたに真実を話そう。
罪ある人は、罪の奴隷である。
(罪の)奴隷には、家族の中に安住の場所はなく、息子が、永遠にそこにとりつく。
もし、その息子が、あなたを自由にするなら、あなたは本当に、自由になるだろう。

++++++++++++++++

 キリスト教でいう(sin=罪)という言葉には、独特のものがある。
昔、オーストラリアの友人に、一度、その意味を聞いたことがあるが、彼は、こう言った。
「キリスト教徒でないと、理解できないだろうね」と。

 しかしニュアンスとしては、私にも、理解できるような気がする。

 邪悪な思想をもっている人は、いつもその邪悪な思想に振りまわされてしまう。
そして自分が邪悪なことをしていることにすら、気がつかなくなってしまう。
つまり、邪悪な思想の奴隷になる。

 こんな勝手な解釈をすると、息子は怒るかもしれないが、私なりの解釈によれば、そうなる。

 つまり邪悪な思想に一度、とりつかれると、その時点で、自分の人生をムダにすることにな
る。
一時の快楽を得ることはできるかもしれないが、一度キズついた人間性を取りもどすことは、
容易なことではない。

 人生を、(真理への旅)にたとえるなら、その旅で、遠回りすることになる。
あるいは道からはずれてしまう。
だから、永遠に、その(真理)に、たどりつけなくなる。

 息子は、「真理を知れば、罪の奴隷から解放される」と言う。
つまり罪の奴隷から、自らを解放することが、自由である、と。

 しかし私の心の中には、邪悪なゴミがいっぱいある。ゴミだらけ。

 私は、平気で、人をうらむし、ねたむし、バカにするし、嫌うし、さげすむ。
お金もほしいし、若くて美しい女性を見れば、性的魅力を感じてしまう。
まさに私は、(罪の奴隷、a slave of sin)ということになる。

 私は、決して、善人でもないし、聖人でもない。

 だから私のような人間は、その臨終のとき、無間の孤独地獄の中で、もがき、苦しむ。
失意と悔恨。
恐怖と不安。
絶望と苦痛。
そのどん底で、もがき、苦しむ。

 ……それがわかっているから、正直に告白するが、死ぬのが、こわい。
こわくてならない。

 他人から見れば、私は、懸命にがんばっている人間に見えるかもしれない。
一応、まじめだし、社会のルールは守っている。
ウソはつかないし、健康にも注意している。
いつも家族には、誠実に接している。

 しかしそれとて、(自分がよい人間)だから、そうしているのではなく、臨終のときの自分が、こ
わいから、そうしているだけ。
それはたとえて言うなら、借金取りに追いたてられるのがいやだから、仕事をしているようなも
の。

 ほかに、私は、過去40年以上にわたって、人からお金を借りたことがない。
それは私に何かの哲学があって、それで借金をするのがいやだからではなく、頭をさげて、借
りるのがいやだからにほかならない。
根拠となる思想があって、そうしているのではない。

 同じように、本当に、同じように、私がいくら「私は自由だ」と叫んでも、そう叫んでいるだけ
で、本当に自由かどうかということになると、自分でも、まったく自信がない。

 やはり息子が言うように、本当に自由になるためには、自分の中にある、邪悪さから解放さ
れなければならない。
お金がほしいくせいに、さもお金など興味はありませんというような顔をしてみせる。
それでは、真の自由を手にいれることはできない。

 しかしそれこそ、まさに偽善。
その偽善のかたまりでは、真理には、到達できないということ。

 が、残された時間は、あまりにも、短い。
今は、57歳。
そのうち、兄のように頭もボケるだろう。
そうなったら、おしまい。私は、何としても急がなければならない。

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はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 偽善 罪の奴隷)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 
【不安の時代……意味のない雑文】(人類が滅亡する?)

(注意:意味のない雑文(=駄文?)です。
どうかあらかじめ、ご承知置き下さい。)

●地球滅亡?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 今、不気味な情報が行き交っている。
この地球が滅亡する、と。
「2012年に地球が滅亡する」という、マヤの予言説が根拠(?)になっているらしい。

 天変地異説、パンデミック説(世界的大流行)、巨大隕石落下説、惑星衝突説などなど。
もちろん地球温暖化による、欧米地域の氷河説もある。

 「地球温暖化による氷河期説」というのは、大洋の海流の流れが変わり、中緯度帯が急速に
寒冷化するというもの。
さらに恐ろしいものもある。
超新星(ベテルギウス)爆発説、太陽系のフォトンベルト突入説、宇宙人の侵略説。
さらに核戦争説などなど。
ゾーッ!

 では、そのまま人類は、地球もろとも消滅するのかというと、そうでもないらしい。
「アセッション」という言葉も生まれた。
「次元上昇」という意味らしいが、次元上昇することによって、人類は生き残ることができる、
と。

 心配なのは、こうした説をふりかざし、現在、無数の集団や団体が生まれつつあること。
カルト化しているのもある。

つい先日もどこかのインチキ宗教団体が、摘発されている。
何でも女性信者は、みな、ミニスカートの着用が義務づけられていたとか。
そういう信者が教祖の指導に従い、床の上をごろごろと寝転がって回る。
インチキもインチキだが、そういうカルトでも、信者が何百人もいたというから、驚きである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力の欠落

 結論から先に言えば、思考力の欠落。
その一言に尽きる。

たとえば「アセッション」も、そのひとつ。
この人間の世界(次元)を離脱し、つぎのより高度な次元に到達するという。
15年ほど前から流行した、スピリチュアル(=霊)ブームが、それなりに理論化したものと思え
ばよい。
私たちが「そんなバカな」と思っている間に、それを信奉している人たちは、自ら理論武装して
しまった。
それが「アセッション」。

 「肉体としての人類は滅亡するが、次元上昇したスピリット(霊)は、生き残る」と。

 それ以上のことはわからないので、ここでは否定も肯定もできない。
というのも私は、徹底した現実主義者。
若いころは、当時の大学生がみなそうであったように、ラッセルやサルトルに傾注した。
が、現実主義にも限界がある。
たとえば(現実)を中心にものを考えると、どうしても自己中心的になる。
それがときとして、利己主義に走る。

ただこの種のカルトは、人々の不安をエネルギーに、急速に力を拡大する。
人々をまちがった方向に導いてしまう。
今が、そのとき。

 1978年に起きた、人民寺院事件、1997年に起きた、ヘールボップ事件などが、よく知られ
ている※。
これらはともに、集団自殺という悲惨な結果を招いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……人民寺院事件)

2008年2月18日にBLOGに載せた
原稿をそのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●はびこるカルト信仰(Cult)

 ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中心に、3
〜4名の若者があと追い自殺をした。

家族によって闇から闇へと隠された自殺者となると、もっと多いはず。
自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理由があってそうするのだろうから、私のよう
な部外者がとやかく言っても始まらない。
しかしそれがもし、あなたの子どもだとしたら……。

 1997年の3月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件がアメリカ
で起きた。
「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船とラン
デブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。
結果、39人の若者が犠牲になった。

 この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイアナで起きた人民寺院信徒による
集団自殺事件がある。
この事件では、何と914名もの信者が犠牲になっている。
なぜこんな忌まわしい事件が起きたのか。
また起きるのか。
「日本ではこんな事件は起きない」と考えるのは早計である。
子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。
現実と空想の混濁が、それである。

 あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。
あの不可解な生きもの(?)が死んだだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。
そして驚くなかれ、当時は、あのたまごっちを供養するための専門の寺まであった。
ウソや冗談で供養しているのではない。
本気だ。本気で供養していた。
中には手を合わせて、涙を流しているおとなもいた(NHK『電脳の果て』)。

 さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。
今はまだ娯楽の範囲だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもっ
たらどうなるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、二一世紀は暗い。一緒に死のう」と言えば、それに
従ってしまう子どもが続出するかもしれない。
そうなれば、言論の自由だ、表現の自由だなどと、のんきなことを言ってはおれない。
あと追い自殺した若者たちは、その延長線上にいるにすぎない。

 さて世紀末。旧ソ連崩壊のときロシアで。
旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカルト教団が急速に勢力を伸ばした。
社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをなくしたとき、こうしたカルト教団が急速に
勢力を伸ばす。

 終戦直後の日本がそうだったが、最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、
急速に勢力を拡大しているカルト教団がある。
あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。
「金持ちになれる」とか「地球が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もあ
る。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この日本で
はまったくの野放し。
果たしてこのままでよいのか。
子どもたちの未来は、本当に安全なのか。
あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。
あなたの子どもが犠牲者になってからでは遅い。

 このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほしい。
(以上、2008年2月18日)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2012年

 その2012年も、もう2月18日。
マヤの予言によれば、2012年、12月22日に、地球は滅亡するという。
(マヤの暦(こよみ)が、その日に終わっているというだけなのだが……。)
話としてはおもしろいが、バカバカしい。

もしそうなら、我が家の暦によれば、2012年12月31日に、この地球は滅亡することになる。
その日が、暦の最後の日になっている。

 ただまったく心配がないかといえば、そうでもない。
パンデミックをはじめ、いくつかある。
どれも可能性としては、ないわけではない。
枠(わく)を広げ、経済問題となると、さらに心配。
が、それが「2012年」に結びつくかといえば、それはどうか?
いつかは、そういうことがあるかもしれない。
しかし2012年に起こるとはかぎらない。

 ゆいいつ起こりうるのは、日本のデフォルト(国家破綻)。
2012年度中に、日本がデフォルト(国家破綻)する可能性は、きわめて高い。
が、これは、「地球」というより、この「日本」の問題。

●善と悪

 ともあれ、地球温暖化はもう、止めようがないということらしい。
私は「地球火星化」と呼んでいる。
そのほうが、ずっとわかりやすい。

 そこでその地球温暖化。
こうした危機を回避する方法はあるのか。
このまま座して死を待つだけなのか。

あるとすれば、ゆいいつの方法は、精神性の向上でしかない。
思考力の向上と言い換えてもよい。
もしこの世の中に、善と悪があるとするなら、思考力が「善」ということになる。
地球温暖化の元凶を一言で言い表せば、「人間の欲望」ということになる。
その欲望が、あらゆる場面で、地球温暖化を引き起こしている。

 その欲望の追求を、理性の力でいかにコントロールしていくか。
それができれば、人類は、生き残ることができる。
そうでなければ、そうでない。
核戦争を例にあげるまでもなく、人類は、自ら身を滅ぼす。

●シェルター

 ……今夜は深刻な話になってしまった。
昨夜見た映画、『メランコリア』が、悪い。
ああいう映画を見ると、ものの考え方すべてが、悲観的になる。
今の私が、そうだ。
それだけ私に与えた衝撃は大きかった。……ということになる。

 が、人間の心理というのは、おかしなもの。
自分に直接関係ない恐怖であれば、むしろそれを楽しむ傾向がある。
ありえない恐怖であれば、なおさら。
宇宙人による襲来も、そのひとつ。
もし宇宙人が襲来してきたら、私は、この山荘のどこかにシェルターを作り、その中に隠れる。

 で、そのシャルターを、どう作るか。
それを考えるのが、私の趣味にも、なっている。
先日も、Y氏(同年齢)とその話になった。
電話で、1時間も話した。

 ポイントは「水」。
「水さえ確保できれば、何とかなる」と。
そういう結論になった。

幸い、この山荘の水は、500メートル近く離れた山からパイプで引いている。
自然の湧水。
そのパイプを、さらに50メートルほど延長し、その先にシェルターを作る。
先にコンクリートで外枠だけ作り、ユンボで埋めればよい。 

 あとは電源と空気清浄器。
食料は、外に様子をうかがいながら、どこかで調達すればよい。
宇宙人も、まさか、こんな山奥まではやってこないだろう。

 Y氏も、私と同じことを考えていたのには、驚いた。

●願わくは……

 問題は経済危機。
注視すべきは、日本国債の金利。
その金利が上昇に転じたときが、あぶない。
日本国経済は、一気に奈落の底へと叩き落とされる。

 「私には年金があるから……」などと、のんびりと構えている人もいる。
が、それはどうかな?
それにつづくハイパーインフレの中で、年金も紙くずと化す。
さらに深刻な問題は、「失業」。
ギリシャの例を見るまでもなく、この日本でも、1000万人以上の人が職を失うと言われてい
る。
20%の失業率で計算しても、6000万人x0・20=1200万人。

怖ろしい話だが、ことこの私に関して言えば、私は「万年失業者」。
今さら失うものは、何もない。
名誉も地位も肩書も、ない。
街でホームレスの人を見かけると、たまらないほどの共感を覚える。

 むしろ逆。
今まで、こうして無事、生きてこられたことに感謝している。
私が子どものころは、「人生、50年」と言った。
それ以後の人生は、(おまけ)。
釈迦もこう言っている(法句経)。

『明日のないことを嘆くな。今まで生きてきたことを、喜べ、感謝せよ』と。

 あとはその日、その日を懸命に生きていけばよい。
だれの世話にもならないし、なりたくない。
願わくは、ピンコロ。

 ……というふうに、いけばよいのだが……。
この世の中、生きていくのもたいへん。
死ぬのも、これまたたいへん。
簡単には、死ねない。

●ホームレスの人たち

 ところで、そのホームレスの人の話。
それだけの哲学をもった人がいるかどうかということもある。
が、ホームレスの人たちのほうが、一般世間の人たちより、より「真理」に近いところにいるの
ではないか。
最近の私は、ホームレスの人を見るたびに、そう思う。

 彼らはもともと「無」の世界に生きている。
俗世間から離れ、俗欲を断ち切って生きている。
孤独でさみしいだろうとは思うが、その分だけ、「真理」に近い。
むしろ俗世間の中で、四苦八苦している私たちのほうが、自分を見失っている。
それがわからなければ、少し前に亡くなった、どこかの国のあの独裁者を思い浮かべてみれ
ばよい。

 すべてをもつがゆえに、すべてを恐れていた。
結局はすべてを失い、この世を去っていった。
彼が残したものは、何もない。
生きている間も、1日とて、安穏たる日々はなかっただろう。
そうそうその独裁者にしても、夜な夜な、死者の亡霊に苦しんだという。
彼は何10万人という人たちを、粛清の名のもとに殺害している。
元側近の幹部が、そんな話を、言い伝えている。

●地球滅亡

 話を戻す。 

 地球が滅亡する?
ハハハ、日本の滅亡は困るが、地球が滅亡することは、ありえない。
私たち人類にしても、どんなことをしてでも、生き残る。
少人数にはなるかもしれない。
が、その人たちが、やがていつか、地球を再生させる。
それが私やあなたでなくても、嘆くことはない。
私やあなたより、はるかに賢い人たちが、地球を再生する。

 そのために、その基礎を、今、こうして残しておく。
みなが懸命に考え、善なる思考力を養っていく。
人類は今までも、こうして生き残ってきたし、これからも生き残っていく。

●夢

 話題を少し変える。
脱線する。
今朝、こんな夢を見た。

 ……私は教材で使う、ヒモ(紐)を探していた。
で、それを買うため、自転車で、外に出た。
見知らぬ通りだった。
そこを少し行くと、2、3人の人が立っていた。
その人たちに、こう聞いた。
「このあたりで、ヒモを売っている店はありませんか」と。

 すると1人の男性が、その先を指さし、こう言った。
この向こうに、丸七という店がある。
そこでヒモを売っている、と。

 私は言われたまま、その道を進んだ。
角にやってきた。
そこで偶然、昔、教えたことのあるOBと出会った。
そのOBに聞いた。
丸七は、どこにありますか、と。
OBは、笑いながら、「ほらっ」と。

 OBが指を差した方を見ると、目の前が、丸七があった。
が、店先には、大きな魚が並べてあった。
魚屋だった。
私はその店の中に入り、ヒモがありますか、と。
すると店の主人は、奥へと案内してくれた。
見ると、そこには、魚のヒモノ(乾物)が、いっぱい、並んでいた。

 ヒモとヒモノ?

●矛盾

 その夢の話を、隣りで寝ていたワイフにすると、ワイフはハハハと笑った。
ヒモとヒモノの話ということになる。
が、この夢は、矛盾している。
どう考えても、おかしい。

 夢全体は、「私」の世界。
ヒモを探した私も、「私」なら、それをヒモノとまちがえた魚屋も、「私」。
魚屋が別人格なら、魚屋がまちがえたということもある。
しかし魚屋も、「私」。

 わかりやすく言えば、自分で自分をだましたことになる。
あるいは自分が自分にだまされた、でもよい。
しかしそんなことはありえない。
だから矛盾している。
(話としては、おもしろいが……。)

●つづき

 この夢には、つづきがある。

 帰るとき、焼き芋を売っている人が近づいてきた。
私とワイフは、車の中にいた。
見ると巨大な焼き芋だった。

 「いくら?」と声をかけると、「1個、350円だよ」と。
「高いなア……」と思いながら、350円を払った。
が、ここで目が覚めた。

 その瞬間、こう思った。
「350万円、払ってやればよかった」と。

 どうせ夢は夢。
3500万円払ったところで、どうということはない。
が、私は、350円を、高いと思ってしまった。
その「高い」という思いは、どこからどのようにして生まれたのだろうか。
ごく日常的な感覚が、夢の中にまで入り込んできた。

 が、350万円払ってやったら、どうだっただろう。
焼き芋を売っている人は、びっくりして喜んだにちがいない。
焼き芋を買う私も「私」なら、焼き芋を売る男も、「私」ということになる。

で、このばあいも、わかりやすく言えば、自分で自分を喜ばしたことになる。
あるいは自分が自分に喜ばされた、でもよい。
しかしそんなことはありえない。
だから矛盾している。
(話としては、おもしろいが……。)

●別人格

 こうした矛盾をどう考えたら、よいのか。
先の魚屋の男を例にあげて、考えてみる。

 もっともわかりやすい考え方は、脳の中に、「私」ではない、別人格の「私」がいると想定する
こと。
コンピューターにたとえるなら、デュアル・コア。
別の脳みそ。
魚屋の男は、その別人格の「私」だった。
言い換えると、私でない「私」。
それが別に、もう1人、いることになる。

 しかしそんなことは、ありえるのか?
ただ子どもの世界では、ときどき似たような現象を見ることがある。

たとえば1人2役の独り言を言う子どもがいる。
心に強烈なインパクト(衝撃)が加わると、そういう症状を示すようになることがある。
私が相談を受けた中で、最年少の子どもは、2歳になったばかりの女児だった。
母親は、「不気味です」と言っていた。
自閉症スペクトラムのひとつと考えてよい。

 さらにそれが進んだ状態が、多重人格者ということになる。
が、これは私の専門外。

 ということは、私は夢の中で、その多重人格者になっていた可能性がある。
ゾーッ!

●夢のように過ぎていった……

 話を進める。

 生きるということは、ときどき夢の中のできごとのように感ずることがある。
現実に、そこにある世界は別として、過去については、とくにそうだ。
「夢のように過ぎていった」と。

 子ども時代、青年時代、結婚、育児、仕事、旅行……。
すべてが夢のように過ぎていった。
今、ここに見えるものにしても、光が分子に反射した残像を見ているに過ぎない。
緑内障か何かになれば、闇というより、闇そのものすら見えなくなる。
音にしてもそうだ。

 記憶となると、さらにそうだ。
脳の中に残っている信号を、かろうじて読み出せるに過ぎない。
だったら、こうは考えられないだろうか。

 そこにものが見える……のではなく、見えるものそのものが、「私」と。
今、ワイフは、横にいて、本を読んでいる。
そのワイフも、脳の中の別人格の「私」と。
そこに魚屋の男がいても、また焼き芋屋の男がいても、そうだ。
すべて「私」と。

 どうせ現実などというものは、一瞬の、そのまた一瞬。
その瞬間に終わり、すべて、夢の中に追いやられる。
今朝見た夢と、どこもちがわない。
区別するほうが、おかしい。
だったら、この(現実)も、思い切って(夢)の中に含めてしまったら、どうか。
……というのは、行き過ぎ。
それはよくわかっているが、そういう感覚をもつことによって、私たちは、この(次元)から、別の
(次元)へと移行できる(?)。

 ……こういうのを、「アセッション」と言うのか?
もしそうなら、私も立派な、カルト教の信者?

●現実が原点

 もちろん現実を見失ってはいけない。
(現実)は、常に生きる原点。
が、その(現実)には、同時に、いつも限界がある。
冒頭に書いたように、ものの考え方が、どうしても自己中心的になりやすい。
それがときとして、利己主義に走ってしまう。

さらに「私」を中心にものを考えていくと、どうしても利己主義にならざるをえない。
「とにかく私さえよければ、それでいい」と。
この利己主義が、進むべき道を誤らせる。

 そこで精神文化の高揚ということになる。

●本能の奴隷

 ところで最近、私は、よくこんなふうに考える。
「人間は本能の奴隷」と。

 生まれてから、おとなになるまで。
おとなになって、結婚し、子育てする。
もちろん当の本人は、そうは思っていない。
自分の意思でそうしていると信じている。

 たとえば子育て。
親は生まれた乳児を見て、「かわいい」と思う。
それとて本能。
本能がそう思わせる。
若い男性が、女性の肉体を見て興奮するのと、同じメカニズム。
さらに最近の研究によれば、母親は乳児の泣き声を聞くと、脳内で、麻薬を得たときと同じ反
応を示すことがわかってきた。

 一方、乳児にしても、親の「愛?」を得るために、自ら行動することがわかってきた。
これを「かわいさの演出」という。
もちろん乳児自身が意思的にそうしているわけではない。
本能として、脳の中にプログラム化されている。
エンゼルスマイルも、そのひとつと言われている。

 平たく言えば、「私は子どもを愛しています」と言うのは、「私はSxxが大好きです」というのと、
どこもちがわない。
かくして、男も、女も、本能の奴隷となり、恋愛し、結婚し、子育てを始める。

 が、誤解してはいけない。
だからといって、私は、それを無意味と書いているのではない。
それがあるからこそ、人は、子孫を後世に残すことができる。
無数のドラマも、そこから生まれる。

 また無意味かどうかということになれば、この世の中、意味のあるもののほうが、はるかに少
ない。
というより、それを見つけるのは、至難の業(わざ)。
「私は意味のある生き方をしている」と、胸を張り、そう言い切れる人は、いったい、どれほどい
るだろう。

●性的エネルギー

 欲望の奴隷なら、奴隷でよい。
が、そのとき、そうであると自分を知るのと、知らないのとでは、生き様が大きく変わってくる。

 恋愛しかり、Sxxしかり、子育ても、またしかり。
欲望が、生きる原動力になっている。
フロイトがそれを「性的エネルギー」と呼んだ。
ユングは、「生的エネルギー」と呼んだ。

が、それに毒されている間は、「私」が見えない。
心そのものが、厚いベールに包まれたような状態になる。
……ということも、そのベールを取り去ったときはじめてわかること。
そのときは、わからない。
どんなに説明しても、わからない。
それが「私」と思い込んでいる。 
「私」と思い込み、ものを考え、行動する。

 が、それを知る方法が、ないわけではない。

●観察

 私は……というより、それが私の癖になっている。
電車などで、ほかの客と対峙して座ったりすると、すぐ乗客観察を始める。
もう20年以上、それをしている。
「人間観察」と、私は呼んでいる。

年齢?
家族?
生い立ち?
趣味?
志向?
職業?
人生観?
生き様?
 
 そのつどさまざまな角度から、観察する。
ときに相手の脳みその中に自分を置き、そこから反対に自分の姿をながめてみることもある。
この方法が有効とは思わないが、「私」を知るには、たいへん役に立つ。

●電車の女性

 で、ある日のこと。
こんなことを考えた。
ずいぶんと昔のことである。

 電車に乗ったときのこと。
反対側の席に座った女性が、化粧をし始めた。
25、6歳の女性だった。
バッグから道具を取り出し、そのつど鏡をのぞき込んでいた。
私はそれを見て、「この女性は、自分の意思でそうしているのか。それとも、本能に動かされ
て、そうしているのか」と。
「もし私が、その女性に、あなたは自分の意思でそうしているのですか」と聞いたら、どのように
その女性は、答えるだろうか。
その女性が、毛づくろいしている小鳥の姿に見えた。

 もちろんその女性は、こう答えるだろう。
「私の意思で、そうしています」と。

 以来、「私の意思」という言葉を、疑って考えるようになった。
私は常に、「私」と思い込まされながら、さらに大きな力によって、動かされている!

●別の脳

 この確信を決定づけたのが、つぎのような事実。
実は私たちの意思は、それをさかのぼる、10分とか、20分前に、別の脳であらかじめ、作ら
れている、と。
最近の脳科学の進歩には、すばらしいものがある。
脳の働きを、リアルタイムで、見ることができる。

 その1例が、ウソ発見器である。
いくら意識の世界でウソをついても、脳はその奥の別の脳の働きを感知してしまう。
なおここで「10分」とか、「20分」とか書いたが、根拠があるわけではない。
ケースによっては、「30分」かもしれない。
「1か月」かもしれない。

●話がバラバラ

 話がバラバラになってしまった。
地球滅亡論から、カルト、日本のデフォルト、欲望論、育児論、さらには本能論……、と。
今朝見た、夢の話まで書いた。

 自分でも何を書いているか、わからなくなってきた。
要するに私が言いたいのは、欲望をどうコントロールしていくかということ。
それがうまくできれば、人類は滅亡することなく、22世紀を迎えられる。
そうでなければ、そうでない。

 そこで重要なのは、理性の力、つまり思考力ということになる。
今、その理性の力が、地球規模で試されつつある。
……というのが、結論(?)ということになる。
「はやし浩司の考えていることが、まったく理解できない」と思う人も多いことかと思う。
今朝の私は、思考力ゼロ。
ここまで読んでくれた人には、本当に申し訳ない。
ここに書いたことの一部だけでも、みなさんの生活のどこかで役に立てばうれしい。
少し頭を冷やしてから、このエッセー(?)を、書き改めてみたい。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※

●?于南京大屠?(南京虐殺事件について)
 我?正在努力,以反映与?卑。

【はやし浩司 2012−02−21朝記】(南京虐殺事件について)

●新しい話し方?(最近の若い女性の話し方)

●フガフガ・ジャパニーズ

 12年ほど前から(=2000年ごろから)、若い女性の間で、少し変わった話し方をする人が
目立ち始めた。
当初は、東京を中心とする、都会の人たちの話し方と思っていた。
それがこの浜松にも、伝染してきた。

私が最初に気がついたのは、クリスマスのときのことだった。
どこかのコンビニで、何かを買ったときのこと。
その女性は、「メリークリスマス」を、「フンムリー・クルスモ〜ス」と言った。

 子どもの世界には、発語障害という言葉がある。
いろいろな障害に分類されている。
数も多く、そののち自然に治っていくのが、サ行障害児(サカナ→シャカナ)、
治りにくいのが、カ行障害児(カギ→タチ)など。
ほかにダミ声、吃音(きつおん)などもある。

が、この新しい言い方は、それらのどれにも属さない。
鼻から大半の空気が漏れるように、出ていく。
口をほとんど動かさない。
のどの奥の方から、声を出す。
そのためフガフガした言い方になる。
たとえば、

「いらしゃいませ」は、「ヒィラッシャイモ〜セ」となる。
「ありがとうございました」は、「ハリガトウ・グザイモシタ」となる。
特徴は、声が内側にこもる。
「アイウエオ」に応じて、口が正しく(?)動かない。
鼻から息が漏れる。
子音だけの話し方をする。

若い女性に多いことから、後天的に、そういう話し方になると考えられる。
が、驚いたことに、最近では、男性でも、そういう話し方をする人が目立ち始めた。
数日前には、あるコンビニで、40歳代の男性がそういう話し方をしているのを知った。

 私は中学生のときから、10年間ほど、合唱団に属していた。
そういう経験から言うと、こうした発声の仕方では、合唱は無理。
今はどうなっているか知らないが、40年前だったら、そのまま合唱団からつまみ出されてしま
っただろう。
さらに言えば、この発声方法では、英会話は無理。
中国語の発音となると、さらに無理。

 ともあれ、言葉にせよ、発音の仕方にせよ、そのときどきの時代の人たちが決めていく。
「こういう話し方はおかしい」と断言することは、控えたい。
が、あえて言えば、……つまり私の意見としては、お・か・し・い。

 なお発声方法は、習慣によって決まる。
そういう発声をしていると、そういう発声方法になる。
たとえば幼児でも、ふざけてダミ声を出していると、その声がそのままその子どもの、ふつうの
話し方になってしまう。
ダミ声になってしまう。

(そういう意味では、クレヨンしんちゃんの話し方は、子どもにはまねをさせないほうがよい。)

幼児期は、正しい発音で発声させる。
これは幼児教育の基本のひとつ。

●映画『タイム』

 昨夜、映画『タイム』を見てきた。
星は2つの、★★。
あえて劇場まで足を運んで……という映画ではない。
が、発想は面白かった。
25歳を過ぎると、人は、時間を買いながら生きる。
自分のもち時間がなくなると、自動的に体は機能を停止し、その人は死ぬ。

 私はその映画を見ながら、「時間」イコール「クレジットカード」のことかな、と思った。
つまり、「金の切れ目が、縁の切れ目、命の切れ目」と。
現実に、この世界は、そうなっている。
クレジットカード(=全財産)の残高がゼロになれば、生きていくのさえ、むずかしい。
それをわかりやすくしたのが、『タイム』。

 ……その中に、こんな気になるセリフがあった。
「労働者には、1日働いたら、1日分の給料しか与えない」(記憶)と。
つまり労働者は、1日働くと、「24時間」という給料を与えられる。
その給料で、つぎの1日を、生き延びることができる。
言い換えると、労働者は、毎日、働かざるをえない。
社会はそういうしくみになっている。

 が、これとて、現実そのもの。
現代社会そのものが、そうなっている。
お金がなければ、何一つ、行動に移すことができない。
極端な言い方をすれば、人がお金(マネー)を使うのではない。
人が、お金(マネー)に使われている。
平たく言えば、人が、お金の奴隷になっている。

 映画『タイム』は、それをたいへんわかりやすい形で、映画化した。
そういう点では、評価できる。

●家の売却

 オーストラリアの友人が、自宅を売却した。
奥さんは、5、6年前に他界。
2人の娘も、結婚。
今は、大きな家に、ひとりで住んでいる。
それで、その家を売った。

 いろいろ話してくれるが、その売り方が、おもしろい。
日本のそれとは、かなりシステムがちがう。
そのシステムが、おもしろい。

まず「land Valuer(土地価値査定人)」というのがやってきて、土地と家の評価をする。
(税金も、それで決まる。)
その価格で、不動産屋に、期間限定で売りに出す。
それまでに買いたい人は、不動産屋に、オークション形式で希望価格を提示する。
期限がくると、それを開示。
いちばん高い価格を示した人と、売主は、売買の交渉に入る。

「日本のほうがわかりやすいな」と思ってみたり、反対に、「日本もまねをすればいいのに」と思
ったりする。

 この先、オーストラリアで家を買ったり、売ったりすることはないだろう。
だから話としては、興味本位。
「おもしろいな」と思ったところで、思考停止。

●ハナの死

 ハナが死んで、もう1か月になる。
今でも、ときどき庭を見たとき、こう思う。
「どうしてハナはいないのだろう?」と。
が、すぐ我に返り、「ハナは死んだんだ」と、自分に言って聞かせる。

 ハナの餌が、大きな箱いっぱい、まだ残っている。
今は、その餌を、毎日、庭にまいている。
それをヒヨドリや、ムクドリ、さらにカラスまで食べにくる。
スズメも食べる。
それを見て、また涙が、ホロリ。

 毎日、一日も欠かさず、私を迎えてくれた。
最期の最期の日まで、私を迎えてくれた。
ヨタヨタとした足どりで、私を迎えてくれた。
目も、ほとんど見えなかったはず。
それでも迎えてくれた。
そんなハナが、今は、もういない。

 最期は、ふとんの中で息を引き取った。
午後11時40分ごろのことだった。
その少し前のこと。
ハナに、「また元気になったら、海へ行こうな」と声をかけた。
「海」と言っただけで、元気なころは、興奮状態になってしまった。
が、そのときもそうだった。
私が「海」と言ったら、懸命に体を動かそうとした。
顔を動かし、私の方を見つめた。
ひとみが左右に大きく動いたのが、よくわかった。

 ハナのいない庭を、今、ぼんやりとながめている。
畑の上では、スズメたちが、餌を食べている。
ムクドリも来ている。
庭の景色だけは、そのまま。
が、光は消えた。
殺風景な、どうしようもないほど殺風景な景色。
冬の冷たい風が、キンモクセイの木々を、小刻みに揺らしている。

●大和ミュージアム

 息子が、TAMIYAの戦艦大和を完成させた。
350分の1の巨大な模型である。
その祝いをかね、x日、広島県の呉市にある大和ミュージアムに行くことにした。
ホテルの予約も済んだ。
あとは切符だけ。

 3人分で、往復9万円(新幹線)、プラス、ホテル代。

 息子というより、私の方が楽しみにしている。
私が生まれたころには、まだ戦艦大和は、人々の記憶にしっかりと残っていた。
話もよく聞いた。
当時の私は、子どもながらに、こう思った。

「戦艦大和といっしょに死ねるなら、本望」と。

 それくらい戦艦大和には、あこがれた。
その夢が、近く、かなう。

●南京事件

 名古屋市の河村市長が、「南京事件はなかった」と発言したとか。
ときどき、こういうバカなことを発言する首長が現れる。

いわく、『河村たかし名古屋市長は20日、同市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会
の劉志偉常務委員らとの会談で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「通常の戦闘行為は
あったが、南京事件はなかったのではないか」(ロイター伝)と発言した。

 ロイターが伝えているとことろから、すでにこのニュースは、中国本土にも広がっているは
ず。

 が、南京事件、南京虐殺事件はあった。
かりにそれが小さな事件であったとしても、どうしてそのとき、その場に、日本兵がいたのか。
日本人は、そのあたりから、自らを反省しなければならない。
南京虐殺事件はなかったと主張する人たちは、かならず、その数字をあげる。
「30万人というのは、ウソ」と。

 3万人でもよい。
3000人でもよい。
300人でもよい。
300人でも殺したというのが、問題。

 それについては、何度も書いてきた。
原稿をさがしてみる。
日付は、2005年5月11日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●南京虐殺事件

 日華事変の最中、1937年(昭和12年)の12月12〜15日。
当時のK内閣は、南京攻略に対して、三光作戦を発令した。

 三光作戦というのは、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という作戦をいう。

 その結果、日本軍は、中国全土で、強姦、虐殺、略奪をほしいままにした(エドガー・スノー
「アジアの戦争」)。
その「アジアの戦争」によれば、南京だけで、4万2000人以上、また南京への進撃途中で、3
0万人以上が、日本軍に殺されたという。

 うち、そのほとんどが、「無抵抗の婦人、子どもであった」(同書)という。

 どうやら、このあたりが、最大公約数的な事実のようである。

 で、ここで注意しなければならないのは、日本側は「南京では、30万人も殺していない」と主
張しているのに対して、スノーは、「日本軍は南京に向って、南京を攻略する過程で、30万人
殺している」「南京では、4万2000人」と書いている点である。

 ここに時間的錯誤がある。
また、「三光作戦」というのは、現存したし、それに基づいて、日本軍は、中国人(中国軍ではな
く、中国人)を、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくした)というのは、動かしがたい事実である。

 これに対して、こんな記事(04年11月)を書いたことがある。改めて、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

10年ほど前のことだが、こんなことを言ってきた女性(当時、35歳くらい)がいた。

 「先生、どうして中国人は、ああまで日本を悪く言うのですか! 私は許せません。日本軍が
南京で殺したのは、30万人ではありません。せいぜい、3万人です!」と。

 そこで私が、「3万人でも、問題でしょう。3000人でも、300人でも問題でしょう。どうしてそ
のとき、日本軍が中国にいて、三光作戦を展開したのですか」と。

 あれこれ議論をしたあと、最後に、その女性は、こう叫んだ。
「あんたは、それでも、日本人か!」「即刻、教育者をやめろ!」と。

 もちろん南京虐殺事件だけではない。
中国全土はもちろん、東南アジア(マレーシア、シンガポール)でも、日本軍は同じようなことを
している。
しかし日本は、一度だって、アジアの人たちに向って、その戦争責任を認めたことはない。
ナーナーですませてしまった。

 戦争責任ということになれば、その責任は、天皇まで行ってしまう。
天皇を最高権威として、つまり日本国憲法の象徴としていだく日本としては、これは、まことに、
まずい。

 が、しかし、ものごとは、逆の立場で考えてみようではないか。

 あるとき、平和に暮らしていた日本に、となりの軍事大国K国が、侵略してきた。強大な軍事
力をもつ、K国である。

 そしてそのK国が、K国の言葉を強要し、金XX神社参拝を強要し、それに従わない日本人
を、容赦なく処罰した。
三光作戦とやらで、大阪の人たちが、30万人近く、殺された。(3万人でもよい。)そのほとんど
が、婦人や子どもたちである。

 ……という私のような意見を、現在の文部科学省大臣は、「自虐的史観」と言うらしい。
「日本人が、どうして日本を悪く言うのか」と。

 しかしどう冷静に考えても、私はK首相の言っていることのほうが、おかしいと思う。
わかりやすく言えば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなことを繰り
かえしながら、「不戦の誓いを新たにするものだ」とは!

 そんな詭弁(きべん)が、はたして、世界で通るのだろうか。
(少なくとも、韓国、中国の人たちは、そう見ている。)

 だいたいにおいて、私の姉夫婦ですら、父親がY神社に、A級戦犯として、祭られている。
にもかかわらず、一度も、Y神社を参詣していない。
むしろ、無実の罪で、処刑させられたことを、うらんでいる! それを「不戦の誓い」とは…
…!?

 むしろ、K首相の行為は、中国人や韓国人の逆鱗に触れ、戦争の火種にすら、なりかねな
い。

 日本軍による大陸侵略戦争を、肯定する人は、いまだに多い。
「日本が、道路や鉄道を敷いてやった。学校や公共施設を作ってやった」「日本のおかげで、
中国や韓国は発展したではないか」と。

 しかしもし、こんな論理がまかり通るなら、日本よ、日本人よ、逆に、その反対のことをされて
も、文句を言わないことだ。
あの中国にしても、5500年の歴史がある。
韓国にしても、2000年以上の歴史がある。

 私たちが使っている言葉は、韓国を経由して日本へ入ってきた。漢字は、まさに中国語。そ
の漢字から、ひらがなが生まれ、カタカナが生まれた。
文化の優位性ということを言うなら、日本は、中国や韓国に、もとから、かないっこないのであ
る。

 ……私は、今、かなり過激な意見を書いている。
自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。

 もしこれだけの警告にもかかわらず、K首相が、Y神社を参拝するようなことがあれば、日中
関係や日韓関係はおろか、アジアの国々からも、日本は、総スカンを食らうだろうということ。
いや、総スカンどころでは、すまないかもしれない。先にも書いたように、「戦争の火種」にす
ら、なりかねない。
K国に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれない。

韓国のN大統領ですら、公式の場で、K首相のY神社参拝に触れ、「日本人よ、いい気になる
な」(04年春)と、K首相を口汚くののしっている。

つまり、この問題は、それくらいデリケートな問題だ、ということ。

 日本の首相がすることだから、あなたや私も、その責任を負うことになる。
「私には関係ない」ではすまされない。

 最後に一言。
K首相は、「心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ち」と述べている。
だったら、なぜ、「心ならずも日本人に殺された人への慰霊の気持ち」と言わないのか。
たしかに300万人もの日本人が、あの戦争で死んでいる。

 それは事実だが、しかしその日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。
しかも、日本の外で!

 先週も、韓国の新聞は、慰安婦問題についての最高裁判決、日本の文部科学大臣の、「(教
科書から日本批判の記事が減って)、よかった」発言などを、トップで紹介している。
が、日本では、それを知る人すら、少ない。

 それでもK首相が、Y神社参拝をつづけるというのなら、どうぞ、ご勝手に。
私は、もう知らない! 
知ったことではない! 

 ついでに、もう一言。H元首相の1億円政治献金問題がある。日本S医師連盟から、旧H派
への1億円の小切手が渡された。
だれがどう見てもワイロなのだが、H元首相は、「記憶にないが、事実なんだろう」(041130)
と逃げてしまった。

 そういう政治家を見るたびに、私は愛国心とは何だろうと、考えてしまう。
いざ、戦争ともなれば、若者たちを戦場に立たせ、自分たちは、イの一番に、その戦場から逃
げてしまう。
H元首相の、ニンマリと笑った顔を見ていると、そんな感じがする。

そういう政治家の大の仲間が、「正義」だとか、「不戦の誓い」だとか言うから、おかしい。
本当に、おかしい。
(04年12月1日記)

(補記)

 しかし……。この無力感は、いったい、どこから来るのか? 
「もう、考えるのも、いやになった」という思いすら、ある。

 何も「不戦の誓い」くらいなら、Y神社へ行かなくても、できるはず。
だいたいにおいて、「不戦の誓い」とは、何か? 
相手を怒らせ、敵意をかきたてるようなことをしながら、「不戦の誓い」とじゃ? 
私には、K首相が、まったく、理解できない。

(補記)

 日本S医師会(日歯)側から自民党旧H派への1億円ヤミ献金事件で、政治資金規正法違反
(不記載)の罪に問われた同派政治団体「HS研究会」(平成研)の元会計責任者・TT被告(5
5)の判決が12月3日、東京地裁であった(04年)。
OD裁判長は禁固10月、執行猶予4年(求刑・禁固10月)を言い渡した。

++++++++++++++++++++

 話を石原S氏にもどす。

 石原氏は、「なぜ中国の教科書に、文革の記述がないのか」と、中国を批判している。
「(文革で)2000万人の同胞を殺した記述がないのは、おかしい」(97P)と。

 しかしそれこそ、いらぬお節介。
つまり石原氏は、中国だって、国内でひどいことをしているではないか。
だったら、日本軍がしたことなど、問題にするなと言いたいのだろう。
あるいは、日本人が、日本の教科書に何を書こうが、日本人の自由だ、と。

 そして結論的に、「日本には経済力がある。中国など、問題ではない」という趣旨の文章がつ
づく。

 また「尖閣諸島に自衛隊を常駐させろ」と説き、もし中国軍が攻撃してきたら、日米安保条約
が発動されて、アメリカ軍が応戦してくれるなどと、説く。
「尖閣諸島は、日米同盟の試金石になる」とも。

 きわめて自己中心的な国家論である。
平和論である。忘れてならないのは、古今東西、「戦争」というのは、こうした政治家によって始
められているということ。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である。

●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。
「利己」と「利他」を比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた
人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで
決まる。
経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達
成することができる。
もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかにすれば、相手国の平
和を守ることができるか。
それを考えられる子どもにすることが、真の平和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。
反省に始まり、反省に終わる。
とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。
満州の植民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。
それはわかるが、日本人のこの無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。
日露戦争を特集していた。
その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシア艦隊を撃滅したか」
という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話は、いっさい、出てこなか
った。
中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国
は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……」と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司
会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、ど
うなるのか。
日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろうか」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。
意味のない戦争だった。
死んだのは、何十万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。
そういうムダな戦争をしながら、いまだに「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。
この日本人のオメデタサは、いったい、どこからくるのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。
それはそれで幸運なことだったと思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考え
ることができない。
そもそも、そういう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。
中には、「日本の朝鮮併合は正しかった。
日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言
わないことだ。
ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わないことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。
それが私がここでいう、平和教育の原点ということになる。
「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもない。
またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。
そして何をするだろうか。
それをまず反省しなければならない。
そして相手の国の立場で、何をすべきか。
そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。
どういう状態を平和というか、それすら、よくわからない。
が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがっている。
今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。
休息期間でしかない。
私たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、
つぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和
教育である。

++++++++++++++++++

【母親のみなさんへ……】

 勇ましい好戦論にだまされてはいけない。
振り回されてはいけない。
それがわからなければ、あなたの子どもが、戦場に行く姿を想像してみればよい。
あなたは子どもの安否が心配で、夜も眠られなくなるだろう。

 で、石原氏は、「日本の尖閣諸島が中国に攻撃されたら、日米安保条約は発動されるべき。
アメリカは、当然、中国に反撃すべき」という論法で記事を書いたのち、こうつづけている。

 「ニューヨークタイムズの記者が、当時のモンデール駐日米国大使に、『尖閣諸島で、扮装が
さらにエスカレートしたら、日米安保条約は発動するのか』と質問したところ、大使は、言下に、
『NO』と答えた。

 国会議員を辞職したばかりの私は、(この言葉に)、驚きと同時に怒りを感じましたが、なぜ
か日本政府も、国会も、それを問題としなかった」(99P)と。

 ならばあえて言おう。

 私の息子の嫁は、アメリカ人。
孫もアメリカ人。
今度生まれてくる二人目の孫も、アメリカ人。

 その孫たちが、日本の尖閣諸島を守るために、極東のアジアへやってきて、中国軍と一戦を
交えると言ったら、私は、こう言うだろう。

 「来なくていい。来るな。こんなところで、命を落すことはない。ぼくたちで、何とかするから」
と。

 石原氏の論文には、そういう原点的なものの視点が、欠けている。
記事の中には、「お国のために……」という表現すら、ある。私たち1人ひとりの命を、まるで、
モノのように考えている感じすら覚える。

 ……と書いても、私のような意見は、この日本では、少数派。
たいていの人は、石原S氏のような人の意見に耳を傾け、それに同調する。
しかし念のために申し添えるが、私は、だからといって、左翼ではない。
もちろん社会主義者でも、共産主義者でもない。
ただおかしいものは、「おかしい」と言っているにすぎない。

 あとの判断は、読者のみなさんに任せる。
みなが、それでよいというのなら、それでよい。私も、それに従う。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 南京事件 南京虐殺事件 はやし浩司 三光作戦 はやし浩司 平和論 平
和主義 はやし浩司 平和とは はやし浩司 平和について はやし浩司 ネール首相 はや
し浩司 ネール元首相 ●?于南京大屠? 我?正在努力,以反映与?卑。)
2012−02−21日記


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【広島県・呉市まで】(はやし浩司 2012−02−22)

●大和ミュージアムを見学(呉市、大和ミュージアム・旅行記)
   by はやし浩司・晃子・周市

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/kRfFIEcy9wg" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

●サイト

http://youtu.be/kRfFIEcy9w


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

一度は……と思っていた。
大和ミュージアム。
長さ26メートルの戦艦大和の模型が、飾ってあるという。
一度は、見てみたかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●新幹線の中で

 午前7時10分発の、新大阪行きに乗る。
途中、名古屋で乗り換え、広島まで。
目的地は、沖縄……ではなく、広島県、呉市(くれし)。
呉市にある、大和ミュージアム。
「大和」とは、「戦艦大和」のこと。
今日は、そこで10分の1大の、戦艦大和の模型を見る。
全長、26メートル。

 特攻作戦……戦艦大和は、沖縄への特攻作戦の途中で海に沈んだ。
無謀な作戦だった。
が、命令により死んでいった若い人たちに、責任があるわけではない。
当時は、そういう時代だった。
が、その数、3000人あまり(記憶)。
どんな気持ちだったのだろう。
子どものころから、私は、ずっとそんなことを考えていた。

●プラモデル

 動機は2つある。
ひとつは、友人のBT氏が、「一度は行く価値がある」と言ったこと。
「林さん(=私)、一度は、行ってみなさいよ」と。

もうひとつは、息子が、TAMIYAの戦艦大和を完成させたこと。
350分の1サイズ。
巨大なプラモデル。
超精密なプラモデルで、見応(ごた)えがある。
ながめているだけで、ググーッと熱いものがこみあげてくる。

 私は子どものころ、プラモデルをよく作って遊んだ。
飛行機のプラモデルだった。
マルサンという会社から、マッチ箱大のプラモデルが、売りに出されていた。
価格は30円前後だったように記憶している。
今から思うと簡単なものだった。
それを作り、手で持ちながら走り回るのが、たいへん楽しかった。
自分がパイロットになったかのように感じた。

 以来、おとなになるまで、プラモデルとは縁が切れなかった。

●夢

 今朝は、午前6時に起きた。
目覚まし時計が鳴ったとき、私は、ぐっすりと眠っていた。
夢を見ていた。
長い坂があった。
山の頂上から、ふもとまで一直線につづく坂だった。
その坂を、車でおりていく。
そんな夢だった。
ちょうど秋のころで、坂に沿って並んだ街路樹が、美しかった。

 そこで、目覚まし時計が鳴った。
瞬間、「どうして?」と思った。
旅行のことは、忘れていた。

●10分遅れ

 朝、起きるとすぐ、書斎に入った。
昨夜やり残した作業を、簡単にすませた。
が、パソコンが相手だと、簡単な作業でも、いったん始めると20〜30分はかかる。
その20〜30分が過ぎたところで、ワイフが呼びにきた。

 そそくさとパソコンを閉じ、居間に行く。
ワイフと息子がそこに、待っていた。
予定より10分遅れで、家を出た。
6時40分。

 車で大通りに出た。
深いオレンジ色の朝日が、ちぎれた雲の間から顔を出していた。

●ニュース

 ニュースサイトに目を通す。
このところ真っ先に見るのが、ロイター。
つぎにBloomberg。
この2つは、速報性にすぐれている。

 新聞社が提供しているニュースサイトは、どれも不親切。
新聞記事より新しい記事は、めったに載せない。
気持ちはよくわかるが、ときに、それを意地悪に感ずることがある。

ほかにもいろいろなところから、ニュースを配信している。
TBSや、楽天、それにYahooなど。
が、イマイチ、本気度が足りない。
……ということで、今は、ロイター。

 そのロイターは、ギリシャ問題について、懐疑的な記事を書いている。
数日前の記事では、「時間延ばしにすぎない」と。

 そうでなくてもギリシャ経済は、壊滅的状況。
そこへもってきて、緊縮予算を組めば、どうなるか。
私のような素人にも、容易に想像がつく。

 日本の神奈川県、もしくは埼玉県程度の経済規模しかないギリシャ。
そのギリシャの救済だけで、これほどまでの時間がかかる。
仲間同士で救うことができない。

EUは、たしかに弱体化している。
ギリシャが崩壊すれば、ポルトガル→スペイン→イタリアがおかしくなる。
とりあえずギリシャを防波堤にし、何とか時間稼ぎをしている。

●ポルトガル

 そのポルトガル。
こんなことを言い出した。
「うちにも、同じようにしてくれ」と。

 現在ポルトガルの国債(2年もの)利回りは、13・5%に上昇※。
ギリシャの救済策を横目で見ながら、そう言い出した。
それもそのはず。
借金を、75%近くも棒引きにしてもらえるなら、こんなおいしい話はない。

ポル「いいなあ、ギリシャは……。うちも苦しいよ」
EU「お前のところは、自力でがんばれよ」
ポル「そんなこと言わないで、うちも借金を棒引きにしてよ」
EU「あのなア……」と。

 ギリシャ問題は、ギリシャだけで、終わらない。
今度は、ポルトガルに飛び火しそうな雰囲気になってきた。

 ……悲観的な見方で、申し訳ない。

(注※……ポルトガル、ロイター)

『ラボバンクのストラテジストは「ポルトガルでは、欧州連合(EU)の支援パッケージ条件の再交
渉を政府に要請する向きが多い。
これは、ギリシャ債務再編が1度限りのことではないという可能性を示している」と述べた。

 ポルトガルの10年物国債利回りPT10YT=TWEBは18ベーシスポイント(bp)上昇し12.6
6%。
2年債利回りPT2YT=TWEBは24bp上昇し13.47%となっている』(以上、ロイター)と。

●名古屋

 名古屋で、のぞみ号(700系)に乗り換える。
自由席は、3号車まで。
ほぼ満席。

 その中にあって、計8席も、先取りしている女性がいた。
「ここは?」と聞くと、「来ます」と。
「ここは?」「来ます」、
「ここは?」「来ます」と。
そんな会話を、2、3回繰り返した。

 で、最後に、「いったい、何人、来るのですか?」と私が聞くと、一瞬迷った様子。
明らかにその女性は、ウソを言っていた。
案の定、そのあとやってきたのは、4人だけ(うち2人は子ども)。

 「空きましたから座ってください」と。
その女性はそう言った。
どこかバツの悪そうな言い方だった。

●米原

 米原あたりは、一面の雪景色だった。
ワイフにうながされて窓の外を見た。
美しいというより、寒々とした景色だった。

●悪性リンパ腫

 実は、昨日、行きつけの医院へ行ってきた。
運動のたびに、左わき下が痛む。
数年前からときどきそういう痛みはあったが、おとといは、それがひどかった。
ネットで調べると、「悪性リンパ腫」?

 同じがんの中でも、死亡率はきわめて高い。
で、行きつけの医院へ行った。
長いつきあいになる。
もう40年になる。
会うと、TH医師は、私にこう言った。
「お元気ですか?」と。

 「元気なわけがないだろ」と思ったが、それは言わなかった。
症状を告げると、あれこれと触診をしてくれた。
「リンパ腺は何ともないですなあ」と。

 で、悪性リンパ腫の名前を口にすると、こう言った。
「悪性リンパ腫なら、のどに症状が出ます。すぐわかります。それではありません」と。

 結局、薬ももらえず、そのまま帰宅。

軽くマッサージをすると、痛みはそのまま消える。
動脈瘤のようなものか?
それが腫れて、周囲の血管を刺激する。
……というのが、私の素人診断。

 「今日は、全快祝い」と言って、そのままワイフとレストランへ。

●68歳

 今朝も、近所の人の訃報が、回覧されてきた。
ワイフが「68歳の人よ……」と言って、それを私に渡した。
男性。
喪主が妻になっていた。

 「68歳かア……」と。

 それ以上、言葉がつづかなかった。

●旧約聖書の予言

 旧約聖書には、予言めいたことが、あちこちに書いてある。
それが今、その世界では、話題になっている。
アルマゲドンがどうのこうの、降臨がどうのこうの、と。
数日前も、それを読んでいた。

 が、私は、ふとこんなことに気づいた。
「旧約聖書に書いてあるのは、予言書ではなく、歴史書ではないか」と。
それならば、納得がいく。
つまりこういうこと。

 ……遠い昔、どこかの惑星が、滅びた。
火星なら火星でもよい。
温暖化と、それに伴う水や食料の奪いあい。
戦争につづく、戦争。
大気は汚れ、その結果、火星は、現在の火星になった。

その「記録」が、「予言」と名を変え、地球人に伝えられた。
「お前たちも、教えを守らないと、こうなるぞ」と。
そういうことなら、納得がいく。
つまり「予言」ではなく、「警告」。

 そこで問題なのは、降臨があるのは、前か後かということ。
つまりアルマゲドンの、前か後かということ。
神がやってきて、敬虔(けいけん)な信仰者を救うのは、いつか。
聖職者たちは、聖書の一言一句をこまかく分析し、それを論じあっている。

 が、前でも後でも、どちらでもよい。
降臨したときが、降臨したとき。
アルマゲドンによって、どのみち、ほとんどの人は、それで死ぬ。
私も死ぬ。
あなたも死ぬ。

残念ながら、私はキリスト教徒ではない。
ユダヤ教徒でもない。
神がいても、私など、相手にしないだろう。

●アルマゲドン

 アルマゲドン……もっとも可能性が高いのが、隕石の落下。
惑星との衝突も考えられる。
何でも「(そのとき)、天から、炎が雨のように降ってくる」(旧約聖書)そうだ。
となると、やはり隕石?

 直径10キロの隕石でも、人間も含め、地上のほとんどの生き物は死滅するという。
100キロを超えると、地球は、粉々?
地表という地表がめくりあがり、地上は、蒸発した岩石で覆われるという。
「蒸気岩」というらしい。
(あの岩石が、熱で、蒸気化するのだぞ!)

ハルマゲドン……可能性としては、ありえない話ではない。
が、今すぐという話でもなさそう。

●タイム・ジャンプ

 今、時刻は、午後7時14分。
広島で新幹線を降りたのが、午前10時ごろ。
9時間近くも、時間が、ジャンプしたことになる。
そこで今日の記録。

 呉阪急ホテル。
JR呉駅から、歩いて1分……というより、呉駅の真正面。
ホテルに着いたのが、11時半ごろ。
荷物を預けて、そのまま駅裏のレストランへ。

 広島と言えば、広島焼きそば……ということで、昼食は焼きそば。
「さすが本場」と思いながら、食べた。
おいしかった。
で、それが終わると、そのまま「大和ミュージアム」へ。

 本気度120%!
「すごい」の一言。
BT氏の言葉に、偽りはなかった。

●撮影

 デジタルカメラで、写真を撮りまくった。
それには、理由がある。

 こうした写真は、YOUTUBEにそのままUPすることにしている。
簡単なアルバムがそれでできてしまう。
が、今まで、YOUTUBEには、限度があった。
ビデオ撮影のばあい、15分。
静止画をつづけてUPすると、約350枚前後で、15分になる。

 が、今週から、その限度が、なくなった。
理由はわからない。
「15分以上、UPLOADできるようになりました」と。

 そこで試しに、先日、1時間近い動画を、UPしてみた。
無事、できた。
そこで今度は、静止画でそれを試してみたい。
……ということで、静止画を撮った。
撮ったというより、撮りまくった。
その数、520枚!

 それを明日、YOUTUBEにUPしてみたい。
はたして、無事、UPできるかどうか? 
無事UPできれば、そのままこの原稿に貼りつけることができる。

●海上自衛隊「くじら館」

 大和ミュージアムのあと、隣接する「くじら館」に足を運んだ。
「くじら」というのは、潜水艦のこと。
「くじら館」というのは、海上自衛隊の展示館。
浜松市には、航空自衛隊の展示館がある。
その海上自衛隊版が、「くじら館」。

順路に沿って歩いていくと、最後は、その潜水艦の内部へ入ることができる。
現役を退いたとはいえ、本物の潜水艦。
迫力がちがう。

 私はこの年齢になって、はじめて、本物の潜水艦の内部に入った。
私は閉所恐怖症。
兵隊になったとしても、潜水艦だけはごめん。
いつもそう言っている。
そのくせ、潜水艦モノの映画は、大好き。
ひとつとして、欠かしたものはない。
潜水艦に関係した映画は、すべてみてきた。
この矛盾を、どう考えたらよいのか。

 その潜水艦の内部に、今日、入った。
大型の飛行機のようで、息苦しさはまったくなかった。
が、当然のことながら、窓は、まったくなかった。
ドキドキしながら、内部を見て回った。

●4時間

 ホテルへ戻ったのが、午後3時過ぎ。
4時間近く、歩きつづけたことになる。
……ということで、チェックインをすますと、そのままベッドへ。
バタンと倒れ、そのままひと眠り。
目を覚ますと、ワイフも、横で寝ていた。

 そのあと、風呂に入り、夕食。

●夕食

 夕食はバイキング。
1人、2500円。
500円の割引券つき。
1人、2000円。
呉阪急ホテル1階のレストラン。

 ……この呉へ来てみて、気がついた。
「物価が安い!」と。
言い換えると、浜松の物価は、高い!

●くどい

 今、時刻は、午後7時40分。
ワイフはベッドの上で、本を読んでいる。
私は、こうしてパソコンのキーボードを叩いている。

 疲れているせいか、文章がうまく出てこない。
「出てこない」というのは、「適切な言葉が浮かんでこない」という意味。
それに疲れていると、文章が、どうしても回りくどくなる。

 たとえばこう……。

 「呉市も御多分に漏れず、あまり元気がない」と書き始めたとする。
が、そこで文章が途切れてしまう。
調子のよいときだと、なぜそう感じたのか、その理由を並べることができる。
が、今夜は、それができない。
そこで何とか文章をつなげようと、無理をする。
その無理をした分だけ、回りくどくなる。

 私はいつもこんなことに心がけている。
短い文章で、適切な言葉で表現する。
調子が悪いと、それがうまくできない。

 ……ということで、「うまく文章が書けない」と、ここだけでも、4、5回も繰り返した。
「うまく出てこない」「浮かんでこない」「途切れてしまう」「うまくできない」と。

 それを私は「くどい」という。
学生の作文だったら、赤字で、こう書き込むだろう。
「もっと簡潔に、要領よく、文章をまとめること」と。

●文章教室

 文章には、好き嫌いがある。
当然である。
が、誤解してはいけない。
(じょうずな文章)イコール、(好きな文章)ということではない。
いくら(じょうずな文章)でも、嫌いなものは、嫌い。
そこでふと、考える。

 ときどき「文章教室」という看板をかかげている教室を見かける。
「絵画教室」があるから、「文章教室」なるものがあっても、何もおかしくない。
講師の先生は、子どもから大学生や、社会人まで、教えているという。
が、そういう看板を見ると、いつも「?」と感じてしまう。

絵画は、感性の世界。
文章は、論理の世界。
私はその論理性を感じない文章は、好きではない。

……というか、私自身がもつ論理性と、一致しない文章は、好きではない。
たとえば細木何某(なにがし)という女性は、星占いの本を書いている。
江原何某という男性は、スピリチュアル(霊)の本を書いている。
いくら名文でも、私は、そういう人たちの書いた本には、目を通さない。
本を開く前に、拒絶反応を起こしてしまう。

 つまり文章のじょうず・へたは、指導になじまない。
いくらその講師の先生に、天才的な文才があったとしても、だ。
文章のじょうず・へたは、そのワクを超えた、別の世界で決まる。
だからよくこう思う。

「何を、どのように指導しているのだろう?」と。

 さしずめ、私の文章などは、その講師の先生からみたら、超へたくそ。
何度も書きなおしさせられるだろう。

●文章論

 では、文章とは何か?

 私たちは言葉を通して、相手に何かを訴える。
大切なのは、その中身。
真剣度。
その「言葉」が、象形化したものが、「文章」。

 もちろん訴えながら、相手に自分のことをもっと理解してほしいと願う。
正確に理解してほしいと願う。
どうすれば、相手は、自分のことをわかってくれるだろうかと考える。
それを組み立てるのが、論理性ということになる。

わかりやすく言えば、「考える」。
「考えながら、書く」。
それが重要。

●Nさん

 話題を変える。

 広島へは、高校の修学旅行で来た。
岩国なども回った。
当時は、私の記憶にまちがいがなければ、夜行列車で来た。
朝早く、広島の駅に着いたのを、覚えている。
「楽しかった」という思いよりも、「そんなことがあったのかな?」という程度。
記憶そのものが、ぼんやりとしている。
が、懐かしい。

 その懐かしさの中心部にいるのが、Nさん。
畏敬の念をこめ、「女性」と呼ぶ。
私が好意を寄せていた女性である。
その女性が、観光バスの一番奥のほうで、ほかの友だちと、カラカラと笑っていた。
その姿だけが、今でも、脳裏に焼きついている。
 
 すてきな女性だった。
が、心を打ち明けることもなく、そのまま終わってしまった。
どこか切なく、どこかほろ苦い。
プラス、歯がゆい。
それが高校の、あの修学旅行だった。

 私は今、その広島に来ている。
……というか、この広島へは、そのあと数度、来ているはず。
そのつど外人を案内し、ここへ来た。
が、そうした思い出は、ほとんど消えてしまっている。
広島と言えば、やはりNさん。

 ……あのころの私は、自分の心を素直に打ち明けることができなかった。
気が小さく、臆病だった。
(今でも、そうだが……。)
それが今ごろになって、悔やまれる。

 「好きだ。つきあってくれ。いっしょにホテルへ行こう」と。
(当時はまだラブホテルのようなものは、なかったが……。)
どうして言えなかったのだろう?
ア〜ア!

●呉阪急ホテル

 呉阪急ホテルは、「阪急」という名前があることからもわかるように、一流ホテル。
昔の帝国ホテル(東京)を思わせる風格を漂わせている。
設備類はやや古いかな……と思わせるが、調度品にはどれも、重厚感がある。
どっしりとした重みを感ずる。

 温泉こそないが、バスルームも広い。
バスタブも広い。
男性用に整髪料なども、一式そろっている。
ビジネスホテルにありがちな、窮屈さはない。
料金はそれなりに高いが、割安感はある。
サービスもよい。

 が、「二度と来ることはないだろうな」と、思う。
それに今回来てみて、こんなことを考えた。
大和ミュージアムと、くじら館だけなら、浜松からでも日帰りコース。
1泊するなら、呉市内ではなく、近くの離島にある旅館のほうがよいのでは、と。
夏場だったら、船に乗って、あたりを周遊することもできる。

 大和ミュージアムとくじら館だけを見て、こうしたホテルに一泊するのもどうか。
ぜいたくというより、もったいない?
団塊の世代は、すぐそういうものの考え方をする。
旅行を楽しむ前に、その(楽しみ)すらも、金銭的な価値に置き換えてしまう。
あるいは、これは私だけのさみしい根性によるものなのか。

●BLOG

 この原稿は、2月23日のBLOG用。
が、今日は、ほとんど原稿を書くことができなかった。
BLOGには、毎回、10枚の原稿を発表するようにしている。
現在、ここで、13枚。
(1枚)=(40字x36行)。

 これだけの旅行をしたのだから、「戦艦大和論」でも、書いてみたかった。
「広島論」でもよい。
が、今の私は、ほどよい疲れと満腹感で、脳みそは半眠状態。
(それとも、ボケがいよいよ始まったのか?)

 人は、負の一次関数的にボケていく。
脳の神経細胞は、日次的に死滅していく。
脳の神経細胞だけは、再生しない。
だから負の一次関数的。

1日、約10〜20万個の神経細胞が死滅していくと言われている。
10〜20万個だぞ!

が、それほど心配しなくてもよいという説もある。
脳細胞は、全体で、1500億個もあると言われている。
仮に100年生きたとしても、失われるのは、そのうちの2〜4%。

 が、こわいのは、微細脳梗塞や脳卒中など。
気がつかないところで、何百万、何千万単位の神経細胞が死滅している可能性もある。

 どうであれ脳みそは、不可逆的に、小さくなっていく。
今がそのときか?

●脳の神経細胞

 脳の神経細胞は、再生しないと書いた。
死滅したら、死滅したまま。
反対に、再生したら、たいへんなことになる。
ばあいによっては、5〜10年単位で、人格そのものが変わってしまう。

 私たちは10年前の人でも、20年前の人でも、同じようにつきあうことができる。
50年前の人でもよい。
それができるのも、脳の神経細胞がそのまま残っているから。

(人格の維持)か、それとも(脳の神経細胞の再生)か。
どちらかを選べと言われたら、(人格の維持)のほうがよい。
……ということで、長い進化の過程を経て、そうなったらしい?

●刺激

 どこかのニュースサイト※に、こんな記事があった。

 マウスの実験によるものだが、遊具の多い環境で育てると、判断力がますという。
そうでなければ、そうでない。
たとえば遊具の多い環境で育ったマウスは、迷路などでも、よい成績を示すという。

 人間の子どもについても、同じ。
昔から、こう言う。
『転勤族の子どもは、頭がいい』と。

 これは幼児教育の常識。
40年前に、そう言っている先生がいた。
つまり「転勤」という環境の変化が、子どもの脳の発達に、よい刺激を与える。
まずいのは、変化にとぼしい、刺激のない生活。
子どもは、(その世界)でしか、生きられなくなる。

 よくても悪くても、子どもには刺激が重要。
その刺激が、子どもを伸ばす。

(注※……マウスの実験、毎日新聞より転載)

『……チームは、刺激の多い環境の典型とされるはしごなど数種類の道具のある箱に15匹の
マウスを入れて4週間飼育した。
同時に、刺激の乏しい環境として、遊び道具のない箱で3匹のマウスを同期間、飼育した。
その後、学習や記憶力の推移、両機能をつかさどる海馬の神経細胞の状態やたんぱく質の
働きを調べた。

 刺激の多かったマウスは、刺激の乏しいマウスに比べ、迷路でゴールにたどりつくまでの時
間が回を重ねるごとに短縮されることが確認された。
さらにグルタミン酸などの神経伝達物質を運ぶ「KIF1A」、神経細胞の成長を促す「BDNF」の
2種類のたんぱく質の働きがいずれも刺激の乏しいマウスの約1.7倍に活発化していた』(以
上、毎日新聞)と。

●過保護

 このマウスの実験と直接つながるのが、「過保護」。

 過保護児の最大の特徴は、社会性の欠落。
たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない。
「悪」に対する抵抗力にも乏しいから、心はもろく、いじけやすい。
怒りを内へためるから、心もゆがみやすい。

 子どもは傷まるけになりながら、成長し、たくましくなる。
そういう意味で、刺激が重要。

 では、私たち老人組は、どうか?
「今さら……」と思う部分もないわけではないが、刺激はたしかにボケ防止になる。
そのことは、こうしてものを書いていると、よくわかる。
たとえば10日間の休みがあったとする。
とたん、育児論が書けなくなる。

 こと育児論に関していえば、毎日子どもの顔を見ていなければ、書けない。
「刺激」というのは、それをいう。

●積極的不登校児

 最近、ときどき耳にするのが、積極的不登校児。
それなりの理由があるのだろう。
それは別として、親が、積極的に、自分の子どもを不登校児にする。
「学校へは行かせない」と。
 
 多くはいじめが、原因。
が、中には、「いじめられるから」という理由で、前もって不登校児にしてしまう。
親は、子どもを守っているつもりかもしれない。
しかし子どもというのは、先にも書いたように、傷まるけになりながら、成長する。
完璧な環境などといったものは、存在しない。
親がいくらがんばっても、そこには限界がある。

経済的に余裕があれば、「家庭教師をつけて……」ということもできる。
あるいはアメリカのように、ホームスクール制度が整っていればよい。
が、この日本では、そういうわけにはいかない。
親がいくらがんばっても、「学校」に代わることは、むずかしい。
仮に子ども時代はそれでよいとしても、おとなになったらどうする?

つまりそれが、ここでいう「限界」。

 さらに一歩進んで、親、とくに母親側に、心の問題があることもある。
近くの保育園にも、こんな母親がいる。

 毎日、子ども(年長女児)といっしょに、保育園へやってくる。
一日中、見え隠れしながら、塀の外から、子どもの様子をうかがっている。
で、園の先生が、「だいじょうぶですよ」と声をかける。
いったんは、家に帰る様子をしてみせるが、今度は木の陰に隠れて、子どもを見ている。

 園の園長に、「どうしたらいいですか」という相談を受けた。
で、私はこう答えた。
「思い切って、園の補助員をしてもらってはどうですか」と。
が、園長はそれを冗談ととらえた。
ハハハとたがいに笑って、(失礼!)、それですんでしまった。
 
●就寝

 こうして2012年02月22日は、終わりに近づいた。
忙しい1日だった。
プラス、疲れた。

 これはいつも思うこと。
旅先で、見知らぬ人と話すたびに、こう思う。
「こんなところにも、人がいて、みな、懸命に生きている」と。
ときとして、それが不思議でならない。
この呉市でも、そうだった。

発音が、浜松のそれと、かなりちがう。
たとえば、「呉(クレ)」も、ここ呉市では、「ク・レ」と、「レ」にアクセントをつける。
(浜松では、「ク」のほうに、アクセントを置き、「レ」を尻下がりに言う。)

 それぞれの人が、それぞれの生活をもち、それぞれに生きている。
私やあなたのように。
どこもちがわない。

私も彼らと同じと思うと同時に、彼らも、私と同じと思う。
ときとして、それが不思議でならない。

 こうして私は、戦艦大和を見ることができた。
本物ではなかったが、これで子どものころの夢がかなった。
そのつど、私はワイフにこう言う。
「冥土のみやげができた」と。

 たしかに若いころの私は、仕事ばかりしていた。
遊ぶことを知らなかった。
命に限りがあるなどとは、考えたこともなかった。
いつでもその気になれば、遊べると信じていた。

が、今はちがう。
そこに見えるものに、焦点をあて、じっとその奥まで見入る。
脳裏に叩き込む。
「二度と、見ることはないだろうな」と。

どこか暗いが、私自身は、「暗い」などとは思っていない。
若いときには見えなかったものが、今は、しっかりと見ることができる。
家々の窓にしても、それは景色ではない。
その窓の中にある生活まで、見える。……見えてくる。

 ワイフは、すでに就寝モード。
先ほどまで読んでいた本も、閉じられている。
あくびが何度か、つづけて出た。
私も、そろそろ就寝モード。

 では、みなさん、おやすみなさい。

 2012年02月23日、午後10時30分。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 大和ミュージアム 広島県 呉市 くじら館 呉阪急ホテル 戦艦大和 はや
し浩司 大和)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※
 
【読者の方より、相談】

●離婚後の問題

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

N氏(男性)は、現在、1人の女性(以下、Aさん)と同棲している。
その女性(Aさん)は、1年ほど前、別の男性と離婚。
N氏は、その女性(Aさん)との婚姻届は、まだ出していない。
現在、N氏は、その女性(Aさん)と、同棲中。

そのAさんには、元夫の間にできた、1人の子どもがいる。
現在、7歳。
今は、N氏、そのAさん、それに7歳の子どもと、いっしょに暮らしている。

離婚した相手の男性(元夫)は、「2週間に1回1泊2日の面会をさせろ」と言っている。
そのため、Aさんは、元夫にときどき、子どもを会わせている。

が、元夫は、子どもの歓心を買うため、高価なプレゼントを与えたりしている。
歯をみがかせないこともあるという。
N氏としては、こうした関係をできるだけ早く、すっきりしたい、……ということらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●N氏よりの相談(原文のまま)

『子供が6歳の時、両親が離婚。
(4歳の時から両親は一言も話さなくなっていたそうです。)
離婚後すぐ私と彼女は知り合って交際するようになり、離婚後半年で私と、彼女、彼女の子供
と3人で暮らす様になり、1年がたとうとしています

【 お問い合せ内容(2500字以内で……)それ以上のときは、掲示板(相談コーナー)へお書きく
ださい。 】:

いつも子育てにとても参考にさせてもらっています。
上記の様な複雑な状況で3人で生活しています。
同棲して1年で、結婚を考えていますが、以下の様な問題があります。

?結婚の話をすると、夫婦で建てた時の家のローンを、半分払えと言われる可能性が高い為、
様子を見ている。

?離婚した時、元夫から「2週間に1回1泊2日の面会をさせろ」と言われており、今はそれを持
続している。

離婚直後は嫌がっていたが、子供は父親を今はとても慕っており、面会後「寂しい」と泣くことも
時折ある。

父親は面会時はつきっきりで遊んであげていて、とても子供に優しい。
3,4か月に1回はゲームのソフト等、子供が喜ぶ高額なおもちゃを買ってあげている。
離婚前はそこまで遊ぶことも、ゲームを買うこともなかったようです。

?子供は3歳ころまで言葉を話すのが遅く、特殊学校に行っていた。
幼稚園も特殊学級に入れる様言われたが、普通の学校に行った途端、せきを切った様に発
語する様になった。
今まだ目を合わせて話せず、又、新しい環境になじむのがとても苦手。
普通だがかなり怖がりで、自分の慣れたもの以外に慣れるのが苦手な子。

彼女と元夫はかなり仲が悪く、話ができないので手紙でやりとりをしています。
彼女が夫に何か提案をしても罵倒する返事しか返ってこないので話し合いをして子育てを協力
しあう雰囲気はありません。

(例えば面会時にいつも歯磨きをしていなかったので歯磨きをお願いしたら、お前の育て方が
悪いとありました。
元夫は彼女以外の人には人当たりよくしているそうです。)

私は結婚をしたいのですが、例えばバレンタインデーに父親にこったチョコレートをあげようと
する等、違いを見せられると冷静であろうとするのですが辛い時があります。
又、私は私なりの教育を考えて実践しています。

例えば何時間でも家でゲームをして良い決まりだったのを、ゲームの時間を決める、本を読ま
なかった子に、夜寝る前に本を読んで聞かせている等ですが、面会のたびに違う家の、子供
にとっては心地良いルールに戻され返ってきたり、2つの家の価値観が違いすぎて子供が困
惑している時があります。

できれば結婚後は面会頻度を2カ月に1回、泊りは夏休み、冬休みのみにしたいのですが、子
供の心理上はそれがどうなのか、アドバイスを頂ければと想います。
又、父親から遠方になるのに、引っ越ししようかとも考えています。
よろしくお願い致します。
私とその子供との関係は、良い方だと思います。
子供も「今のお父さんと出会えて良かった」と言っている様です。
ただまだ彼に馴染んでもらうには時間がかかると思っていて、待つつもりでいます』(以上、N氏
の相談)。

●未練

 結婚の仕方は、いろいろある。
同じように離婚の仕方も、これまたいろいろある。
みながみな、(さわやかに)というわけにはいかない。
たいていは、(ドロドロ)。
私の知人(58歳)は、離婚調停で、3年も費やした。
財産分離に時間がかかった。

 以前、こう書いたことがある。
「離婚を覚悟するなら、未練を徹底的に消してからにしたらよい」と。
未練が残ると、離婚も、ドロドロしたものになりやすい。

 その未練。
その第一が、子どもがいれば、子どもということになる。
離婚したという「敗北感」「屈辱感」「挫折感」「失敗感」、さらに「世間体」や「見栄、メンツ」など
など。
こうしたものが、複雑にからんでくる。
もちろん相手への思い、不本意な別れなどもある。
「未練」というのは、そういう意味でも、一筋縄ではいかない。

●元夫

 N氏からの相談を読んでいると、元夫の、その「未練」を強く感ずる。
Aさんの心はともかくも、元夫は、その未練の中でもがいている。
子どもへの思いもあるだろうが、むしろ子どもを理由にし、Aさんとの接触を求めている。
独り残された元夫にすれば、「では、私はどうすればいのだ」ということになる。
相談の内容からすると、Aさんのほうが、やや強引な形で、離婚したという印象をもつ。

 そのあたりの心理、つまり元夫の気持ちを理解しないと、今の状態は、しばらくつづく。
が、口で言うほど、これは簡単なことではない。
仏教でも、四苦八苦のひとつに、『怨憎会苦(おんぞうえく)』『愛離別苦(あいりべつく)』をあげ
ている。
人間が人間であるがゆえに、苦しむ(苦)をいう。
まさに身を引き裂くような苦しみをいう。

 怨憎会苦について書いた原稿を探してみる。
怨憎会苦の苦しみを、理解してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●怨憎会苦(2008年8月19日付)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●魔性との闘い(怨憎会苦)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)

 仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。
が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。

 で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。

 そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを
消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。

 A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。

 A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、
「じゅうぶんな介護をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、
言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、
「あの土地は、お前にやる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、
「あの土地は、私のもの」と騒いだ。

 A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。

 「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という
話になってしまいました。で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、
あなたには遺産相続権はありません。つまり部外者ですと説明するのですが、
そういう道理すら、通じませんでした」と。

 娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、
オレもちゃんと横で聞いた。オレが証人だ」と。

 A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。

 A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと
言われたときには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。

 まさに怨憎会苦。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。

 「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように
感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を
貸そうとさえしませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。

 A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、
ゴマンとある。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースと
なると、もっと多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。

 恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、
貨幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと
言われている。

 今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。

では、どうするか?

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。
つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。

 音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。
そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)
(2008年8月19日付)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Aさん(女性)

 Aさんにとっても、つらい毎日にちがいない。
本来なら、家庭裁判所で、家事調停を申し込むのがよい。
手続きは簡単で、家庭裁判所に出向き、調停の申し立てをすればよい。
あとは、その日に双方が会い、調停委員の前で、アドバイスを受けながら、結論を出す。
元夫の、子どもとの面会権も、そのとき決めることもできる。

 Aさんに落ち度がなければ、子どもの養育費、慰謝料なども請求できる(はず。)
養育費の額などは、相手側の収入などにより、調停委員が査定してくれる。
家事調停で裁決されたことは、本裁判の判決と同じ法的効力をもつ。
たとえば養育費が滞ったばあいなどは、即、執行猶予付きの支払い命令書を相手側に、裁判
所名で送付することができる。

 ……というのが法的手続きということになるが、実際には、「家庭裁判所で……」というケース
は、少ない。
離婚というより、離婚に至る経緯の中で、人間関係は、すでにこなごな(=ドロドロ)に破壊され
ている。
たがいに感情的になっているから、冷静な話し合いも、むずかしい。

●N氏

 やはりキーパーソンは、相談者である、N氏自身ということになる。
相手の元夫がそれに応ずるかどうかはわからないが、(私の予想によれば、会うだろうと思う
が)、Nさん自身が、相手の元夫と会ってみるのが、いちばんよい。

 ……というのも、私にも、似たような経験が何度か、あった。
一度は、暴力団がらみの事件に巻き込まれたことがある。
知りあった男性が、「アパートをさがしてほしい」と言った。
そこで知人のアパートを紹介した。
が、その男性が、暴力団の組員だった。
知らなかった。

 で、家賃は払わない、ほかの組員たちも同居するようになった……、ということで、アパートの
所有者、つまり知人が、責任を取ってほしいと泣きついてきた。
そこで私は、直接、その暴力団の事務所に乗り込むことにした。

 あらかじめ電話をかけると、「命が惜しくなかったら、来い」と。

 が、私は、子どものころから気が小さいくせに、そういうときになると、肝っ玉が座ってしまう。
私は、単身、その事務所に乗り込んでいった。

 ……中央にデスクが置いてあり、左右のソファに、それぞれ3〜4人ずつの男が座っていた。
生きた心地はしなかった。
が、私は、こう切り出した。

 「アパート代の未納分を払い、今月中に、アパートを引き払ってほしい。私の言いたいのはそ
れだけだ」と。

 私はそのとき、30歳前だったと思う。
が、組長の言葉は、意外なものだった。
こう言った。

「お前の度胸に負けた。来るとは思っていなかった。お前の言うとおりにする」と。

●元夫の苦しみ

 相手の元夫も、苦しんでいる。
私は、そう感ずる。
相手の元夫も、先に書いた未練の中で、もがいている。
だからNさんが、「会いたい。会って一度、話しあいたい」と言えば、応じてくるはず。

 最高の解決策は、Nさんが、相手の元夫に会うこと。
何も隠さず、正々堂々と、誠心誠意、相手の元夫の立場に立って、会う。
相手の元夫の気持ちを聞くだけでも、相手の元夫の心は、収まるはず。
が、それでも話しあいがつかないようであれば、こう提案すればよい。

「私の力ではどうにもならないから、一度、家事調停をしてみませんか」と。
(家事調停の仕方などは、簡易裁判所の窓口へ行けば、ていねに教えてくれる。)

 Nさんも、不愉快だろう。
相手の元夫も、もやもやしているだろう。
しかしその間にあって、いちばん苦しんでいるのが、Aさんということになる。
この先、Aさんとの結婚を真剣に考えているなら、Nさんが、間に立つのがいちばん、よい。

●子ども(7歳)のこと

 私の印象では、相手の元夫は、子どもには、あまりこだわっていないと思う。
ていねいに話しあえば、相手の元夫も、納得するはず。
つまり相手の元夫が求めているのは、不完全燃焼感というか、敗北感への償い。
「このままでは、あまりにも自分がみじめではないか」と。

 が、NさんやSさんも、同じように苦しんでいることがわかれば、またそうした誠意があること
がわかれば、相手の元夫も納得するはず。

 子どもが、緘黙症を示したのも、離婚劇というより、離婚騒動が原因と考えてよい。
「騒動」が、子どもの心を、つぶした?

 あとは、前向きに生きていく。
少し時間がかかるかもしれないが、時間が解決してくれる。
みな、その程度の(キズ)を背負っている。
キズのない人はいない。

 「これも人生」「あれも人生」と、割り切る。
私たち夫婦も、そうしている。
いろいろあったし、現在進行形で、今もある。
完ぺきな人生は、ない。
みな、ボロボロ。
だったら、ボロボロを前提として、生きる。
まさに『時は心の癒し人』。
私はいつもそう考えている。

 最後に、この正月に書いた、抱負をここに転載する。
その前に……。
勇気を出し、相手の元夫に会ってみること。
それですべてが解決するはず。
相手の元夫の立場で、会う。
「あなたのつらい気持ちもよくわかります」と。
歯磨きくらいのことで、けっして相手の元夫を責めてはいけない。
虫歯になれば、歯科医院へ行けばよい。

高価なプレゼントくらいで、相手を責めてはいけない。
「喜んでいますよ」と。
そう言えばよい。

 Nさん、あとは、あなたの勇気だけ。
運命というのは、そういうもの。
逃げ腰になると、運命は、キバをむいて、あなたに襲いかかってきますよ。

(以上、推敲なしで、このまま返信しますので、誤字脱字は、お許し下さい。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2012年のはじめに

【生きる目的と意味、そしてその生き様】
(はやし浩司 2012ー01−01)


●前向きに生きる

 前向きに生きるということは、簡単に言えば、過去を引きずらないということ。
そのためには、つぎの7つを守る。

(1)失ったものを、嘆かない。
(2)去った人を、追わない。
(3)ないものを、ねだらない。
(4)亡くなった人を、思わない。
(5)過去を、くやまない。
(6)失敗を、気にしない。
(7)自分の不幸を、数えない。

 が、それだけでは足りない。
生き様そのものを変える。
自分に対しては、つぎの3つを守る。

(1)あるがままの自分を認める。
(2)負けを認める。
(3)今を原点として、生きる。

 人間は、希望さえあれば、生きていくことができる。
が、希望は、だれにでもある。

今、ここに生きている、そのこと自体が、希望。
目が見える、音が聞こえる、風を感ずることができる……それが希望。
人と心を通わせることができる、ものを考えることができる……それが希望。

その希望は、自ら創り出すもの。
待っていても、やってこない。
日々の弛(たゆ)まない鍛練こそが、希望を生む。
肉体の健康、しかり。
精神の健康、しかり。

 他人に対しては、つぎの5つを守る。

(1)人を、恨んではいけない。
(2)人を、ねたんではいけない。
(3)人に、ねだったり、甘えてはいけない。
(4)人を、うらやましがってはいけない。
(5)人に、へつらい、自分を裏切ってはいけない。

 さらに老後の、しっかりとした設計図をもつ。
そのためには、つぎの4つを守る。

(1)私は私と割り切り、自分を他人と比較しない。
(2)年齢という数字を、気にしない。
(3)最後の最後まで、居直って生きる。
(4)孤独死、無縁死を、恐れない。

 あとは日々、平穏を旨とし、取り越し苦労にヌカ喜びをしない。
時の流れの中に身を置き、その流れに身を任す。
命は、そのまま天に任す。

 朝、起きたときに、やるべきことがある人は、幸福と思え。
今日1日、今週1週間、今月1か月、今年1年、やるべきことがある人は、幸福と思え。 
それを「真の幸福」という。

 前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
さあ、あなたも勇気を出し、足を一歩、前に踏み出そう。
明るい未来に向かって、まっすぐ歩こう!

 『心を解き放てば、体はあとからついてくる』(アメリカの格言)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●人を恨まない

 H・フォスディック(Henry Fosdick)はこう言った。

 『Hating people is like burning down your house to kill a rat.
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで心が腐る。
だからこう言う。

『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
人を恨めば、人生を棒に振る。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげている。

 が、それでも恨みが消えないときは、どうするか。

●真の自由

 過去を引きずったとたん、人生は監獄になる。
が、だれしも、恨み、つらみはある。
失ったことを嘆き、不運を悔やむ。
が、そういうときは、それから逃げてはいけない。
とことん、恨め。
とことん、憎め。
とことん、過去を悔やめ。
身がボロボロになるまで、恨め、憎め、過去を悔やめ。
恨んで恨んで、憎んで憎んで、悔やみたいだけ悔やめ。
自分を燃やし尽くせ。

 すべてのエネルギーを燃やし尽くしたとき、あなたはその先に、恐ろしく静かな世界を見る。
それはあなたの魂が解放された、無の世界。
そのときあなたは、はじめて、真の自由を知る。

●運命

 今、あなたが苦しんでいるなら、幸いと思え。
あなたが悲しんでいるなら、幸いと思え。
あなたは今、まさに真理のドアを叩いている。
そのドアの向こうでは、真理が、あなたがドアを開いてくれるのを待っている。
息を潜(ひそ)め、静かに待っている。

 大切なことは、苦しみや悲しみから、逃れようとしないこと。
逃れようとしたとたん、運命はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、あなたが苦しみや悲しみに、真正面から立ち向かえば、運命はシッポをまいて、向こうから
退散していく。

 方法は簡単。
あるがままを、そのまま受け入れる。
そこに運命があるなら、その運命をそのまま受け入れる。

 書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という。

 もちろん闘うことができる運命であれば、それと闘う。
「逃げろ」という意味ではない。
闘う。
ふんばる。
そこに人間の生きる価値があり、美しさがある。

 が、どうにもならない運命というものもある。
もしそうであれば、負けを認める。
受け入れる。
とたん、あなたはそこに真理が待っていることを知る。

●2012年01月01日

 さあ、ともあれ、2012年は始まった!

 友よ、仲間よ、力を合わせて、前に向かって歩こう。

 馬鹿は、相手にしない。
愚か者は、相手にしない。
欲望の奴隷となり、道を見失った人間は、相手にしない。
どうせ、その程度の、つまらない人生しか歩めない。
そんな愚劣な人間のために、時間を無駄にしてはいけない。

 私たちはそういう人を、憐れんでやろう!

 人生は山登りに、似ている。
下から見れば、低い山でも、登ってみると、意外と遠くまで見渡せる。
それと同じ。
あなたが勇気を出し、山に登れば、下にいる人間が、さらに小さく見える。

 あなたは前だけを見て、前に向かって進めばよい。
ただひたすら前に向かって、進めばよい。
それですべての問題が、解決する。

(はやし浩司 2012−01−01記)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司 

●2月24日(講演で、東京へ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今、新幹線の中。
東京へ向かう。
虎の門近くにある、海洋船舶ビル。
そこで講演。

ワイフも同行。
「行きたいか?」と声をかけると、「うん」と。
「あんな家で、ひとりでボーッとしているのもつらいだろ?」と言うと、「うん」と。

まさに二人三脚。
2人で1人前。

たった今、講演の資料を読みなおしたところ。
ほっと一息ついたとき、静岡に着いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自転車屋

 数日前、近くのショッピングセンターへ行った。
驚いた。
驚いて、そのまま絶句。

 それまでも、100〜200台前後の自転車を並べていた。
そのコーナーが、2倍近く、広くなった。
数も、300〜400台!

 私の実家も自転車を売っていた。
新車が10〜15台。
中古車が10〜15台。
私が生まれ育った町では、それでもふつうの自転車屋だった。

 が、そのうち40台近い自転車を並べて売る店ができた。
その店が、私には、大きく、立派な店に見えた。
が、それが今では、300〜400台。
関連グッズも、ズラリと並んでいる。

 ……その自転車を見ているうちに、どういうわけか、悲しくなってきた。
すぐにも涙がこぼれそうだった。
だれかに叩きのめされたかのような、無力感。
敗北感。
それがつらかった。

「親父(おやじ)が生きていたら、これを見ただけで、絶望しただろうな」と。

 押し黙ったまま歩いていると、ワイフがこう言った。
「もう、あなたの家は、ないのだから……」と。

 ワイフは、私を慰めたつもりかもしれない。
が、そんな言葉で、慰められるようなものではない。
「自転車」には、私の祖父や父、兄の血が流れている。
今の今も、私の体の中には、その血が流れている。

 ……もし、今、私が自転車屋を経営していたら、かならずカタキを取ってやる。
敵が500台なら、私は1000台、並べてやる。
ショッピングセンターを出るまで、私はそんなことを考えていた。
 
●ザマーミロ、ヘッジファンド!

 ヘッジファンド、ハゲタカ!
数日前も、そう書いた。
そのヘッジファンド。

 ヘッジファンドは、その国の国債を買い入れるときは、ふつう、同時に保険をかける。
CDS※というのがそれ。
万が一、国債が紙くずになったとしても、その保険がかけてあれば、それでカバーできる。
(実際には、もう少し複雑。
が、おおざっぱに言えば、そういうこと。)

 ふつう国が国家破綻(デフォルト)に向かうときは、国債は額面を割る。
額面が、たとえば100万円の国債でも、90万円とかになる。
価格がさがった国債を、保険をかけながら、さらに買いつづける。
破綻が近づけば近づくほど、国債は安くなる。

 こうしてその国が破綻するのを、待つ。
破綻すれば、国債は紙くず。
が、保険がかけてあれば、額面どおり、元金は保証される。
こうしてヘッジファンドは、莫大な利益を得る。
2000年のはじめ、アルゼンチンが破綻したときもそうだった。

(注※……CDS商品について)
『クレジット・デフォルト・スワップ (Credit default swap、CDS) とは、クレジットデリバティブの一
種で、債権自体を移転することなく信用リスクのみを移転する取引である。最も取引が盛んな
クレジットデリバティブのひとつ。銀行の自己資本比率を高める対策の一環としても利用され
る』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

●ギリシャ

 ギリシャは、刻一刻と、金融危機が悪化しつつあった。
国家破綻は、時間の問題だった。
が、こういうときこそ、ヘッジファンドの出番。
破綻を見越して、国債を買いつづける。
各国の金融機関がもっているギリシャ国債を、安く買いたたく。

 で、デフォルト(債務不履行=国家破綻)ともなれば、そのときこそ、ヘッジファンドの出番。
元金は、CDFで保証されている。
額面通りの金額を、それぞれの銀行から受け取ればよい。
……という手はずだった。
が、ここで思わぬ誤算!

●ザマーミロ!

 各国の銀行団、つまり民間債権者たちは、約54%の債務削減に応じてしまった※。
わかりやすく言えば、借金の帳消し。
「うちは1億円の貸金がありますが、半額だけでも返してもらえれば結構です」と。

 銀行としても、ヘッジファンドに満額の保証金を支払うくらいなら、そのほうが安くすむ。
仮に50%分の損をしても、50%分は、返ってくる。
プラス、保証金は支払わなくても、すむ。

 が、ヘッジファンドにとっては、おもしろくない。
日に日に、保証金が積み重なっていく。
が、私は、こう書きたい。

ザマーミロ!、と。

 お金(マネー)というのは、コツコツと汗水流して働いて得るもの。
そのお金(マネー)を商品にし、巨額の利益をあげるヘッジファンド。
狂っている。
いくら資本主義の世界とはいえ、こんなことが許されてよいはずがない。

 今ごろ、ヘッジファンド・ハゲタカ集団は、地団駄(じだんだ)踏んで、悔しがっているにちがい
ない。
54%も貸し金を棒引きにされた上、保証金も手に入らない。
だから、もう一度。
ザマーミロ!

(注※……ヘッジファンド)
Bloombergは、つぎのように伝える。
CDSが発生するかどうか、目下、きわめて微妙な段階ということらしい。

『2月24日(ブルームバーグ):ギリシャ政府が同国債保有者に債務交換を強制する集団行動
条項(CAC)を発動すれば、想定元本32億ドル(約2600億円)相当のギリシャ債を保証するク
レジット・デフォルト・スワップ(CDS)の決済が発生する可能性がある。 

 ギリシャ政府は24日、投資家が保有するギリシャ債の新発債への交換を正式提案した。民
間債権者は額面の53.5%を減免することに合意している。国際スワップデリバティブ協会(ISD
A)の規則によれば、CACが発動されるとCDSの決済が起こる。 

 米証券保管振替機関(DTCC)によると、ギリシャ債を保証するCDSの残高は17日時点で合
計4263枚』(Bloomberg 2−24)と。

●ポルトガル

 もっともギリシャが、これで安泰かというと、それはどうか?
言うなれば、今回の救済策は、延命措置。
ギリシャの金融危機が、これで終わったとは、だれも思っていない。
そればかりか、今度は、ポルトガルもおかしくなり始めた。
一難去って、また一難。
それを繰り返している間に、EUは、奈落の底へと落ちていく。

●東京

 東京での講演(S&G財団)が終わった。
今は、帰りの電車の中。
先ほど、夕食の弁当を食べ終えたところ。

 正直に告白する。
今度ほど、東京を怖く思ったことはない。
今朝も、地震の夢を見た。
3年以内に、70%の確率……そんな予報も出ている。
会場から、新橋駅まで歩いたが、気が気ではなかった。
100メートル歩くごとに、「ここで地震が起きたら……」と、そんなことばかり考えていた。

 私は君子ではないが、『君子、危うきに近寄らず』。
3・11大震災(2011)以来、はじめての東京。
それ以前と何も変わらず、東京は元気だった。

●男性

 今日の講演会は、それぞれの地域で、指導員として活躍している人たちのものだった。
自動販売機のところで知りあった男性は、岩手県から来ていた。
その町の教育委員会の人だった。

 そのこともあって、……つまりほとんどが男性ということもあって、反応は鈍かった。
「笑ってくれるかな?」と思って話しても、ムッツリ、ダンマリ……。
そういう点では、話しにくかった。
が、それにも慣れた。
男性というのは、そういうもの。

●新富士

 新幹線は、たった今、新富士に着いた。
あれほど込んでいた車内も、今はガラガラ。
うしろの席に座った若い男性が、ボソボソと何やら話しあっている。
内容はわからないが、ときどきフフフ……、ハハハ……と笑っている。

 会社の同僚か、何かなのだろう。
勝ち誇ったような、自信たっぷりの声。
「私にも、ああいうときがあったなア」と。

遠い昔……というより、今の「私」とは、切り離された昔のような気がする。
うしろで話している若い男性と、私の間に、連続性がない。
言い換えると、うしろの男性が、別人種の人たちのように思えてくる。
宇宙人でもよい。

●前原誠司vs産経新聞

 前原誠司氏(民主党)と産経新聞が、喧嘩している。
ロイターは、つぎのように伝える。

 『民主党の前原誠司政調会長は23日、産経新聞の報道内容に問題があるとして、産経新
聞記者の記者会見出席を拒否した。
他の報道機関が拒否理由を求めたのに対し、前原氏は「人をおとしめるための悪口、ペンの
暴力の類いが続き受容限度を超えた。
記者に批判する権利はあるが、事実に基づかなければならない」と答えた。
会見場所に産経の記者がいたため、前原氏は隣室に移動して会見』(ロイター)と。

 そうであっても、またそうでなくても、これはまずい!
いくら気に入らなくても、特定の新聞社の記者を締め出すのは、まずい。
私だったら、「サンケイ(K)」というのは、「臭い、汚い、奇怪のことですか?」とやり返してやる。
あるいは、こうでもよい。

 「英語では、ありがとうは、サンキュー。結構ですは、サンケー?、ですね」と。

 私自身は、産経新聞にとくに、反感をもっているわけではない。(誤解のないように!)
が、前原誠司氏の発言は、報道の自由の観点からして、好ましくない。
身の回りにイエス・マンばかり置くようになったら、それは独裁政治の第一歩と考えてよい。

 そう言えば、昔、佐藤栄作元首相が、同じようにして、記者会見をボイコットしたことがあっ
た。
「新聞記者は、みな、出ていけ」と。
まことにもって、見苦しい事件だった。

 で、民主党という党が、どもよくわからない。
民主とは名ばかり。
独裁的で、心が狭い。
産経新聞など相手にせず、もっと大きな敵に向かって、その矛先を向けたらどうか。

●学力

 読売新聞にこんな記事が載っていた。
いつもの記事なので、私は驚かない。
しかし今、日本の子どもの学力は、ここまで低下している。

+++++++++++++以下、読売新聞より++++++++++++++

●「平均」の意味、大学生の24%が理解せず

 大学生の24%が「平均」の意味を正しく理解していないなど、基礎的な数学力、論理力に大
きな課題があることが、日本数学会が実施した初の「大学生数学基本調査」で明らかになっ
た。

 理系学生やセンター入試で数学を受験した大学生も多数含まれており、入試のあり方も問
われそうだ。

 調査は昨年4月から7月にかけ、国公立大から私立大まで48大学で実施。
主に入学直後の学生5934人が協力した。
調査では小中学校で学ぶ内容を中心に、論理的な文章の読解や記述力、基本的な作図力を
問う5問が出題された。

 その結果、全問正答した学生は、わずか1・2%だった。
「偶数と奇数を足すとなぜ奇数になるか」を論理的に説明させる中3レベルの問題の正答率は
19・1%。
小6で学ぶ「平均」についても、求め方は分かるが、「平均より身長が高い生徒と低い生徒は
同じ数いる」などの正誤については誤答が目立ち、中堅私大では半数が誤答だった。

+++++++++++++以上、読売新聞より++++++++++++++  CM

 この記事を読んで、私は、こう思った。
「小学1年生(小学1年生だぞ!)でも、理解できるのに!」と。

 それを疑う人は、つぎのビデオを見てほしい。
実際、私が小学1年生に、平均を教えたときのものである(2012年1月)。

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<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/BwCa9diMcps" 
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<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/kMMPU6dcIK4" 
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<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/Q6oPAspjgoI" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

 子どもの学力が低下したというよりは、学校のもつ教育力が低下した。
そう考える方が、正しい。
「やるべきことはやります。しかしそれ以上のことはやりません」と。
が、教師を責めてはいけない。
教師自身が、規則、制約で、体中が、がんじがらめに縛られている。
身動きが取れない。

 もう40年前の話。
こんなことがあった。

 ある小学校(東京都)で、OHP(大型の投影機械)教育を始めた教師がいた。
私の友人の弟氏だった。
小学4年生の教室で、それを使った。
地図を何枚か重ねていくというものだった。
最初は道→川や橋→家→……、と。

当時としては、画期的な教育法だった。
弟氏は、本まで書いた。
が、それに「待った」をかけたのが、ほかならぬその学校の校長だった。
いわく「ひとつのクラスだけが、飛びぬけた教育をするのは、不公平になる」と。

 ほかの教室の親たちが騒いだこともある。
「どうしてうちの子どもの教室では、してもらえないのか!」と。

 以後、その弟氏は、OHPを使った指導をあきらめてしまった。
ここに書いた友人というのは、当時、主婦と生活社で編集長をしていた、井上清氏である。
この話が事実であることを保証するため、あえて井上清氏の名前をあげさせてもらった。

 ……今、学校教育に求められているのは、「自由」と「責任」。
この2つが両立しないかぎり、これからも子どもの学力低下は、つづく。

●浜松

 新幹線は、まもなく、浜松駅に到着する。
今日のエッセーは、ここまで。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 OHP教育 平均値 学力低下 はやし浩司 OHP 平均値がわからない
大学生 CDS ギリシャ金融危機 はやし浩司 平均 平均値 小学生でもわかる平均値 平
均 はやし浩司 BW教室での実践)

(追記)翌朝(25日)、主催者の方から、メールが届いていた。
今回も、みじめな気持で、会場を去った。
できは、最悪。
早口で、一方的に、まくしたてただけ。
気分はよくなかった。

が、メールを読んで、ほんの少しだけ、気分が安らいだ。

++++++++++++++++++++++++++

はやし様

昨日は大変貴重なご講演をいただき、誠にありがとうございました。

参加者からはとても勉強になった、初めて知る内容が多く新鮮で内容が分かりやすかったとの
声が多かったです。

今後ともお付き合いができればと思っております。

奥様にもお越しいただき、誠にありがとうございました。よろしくお伝え下さい。

この度は大変お忙しいところ、ありがとうございました。

B&G財団 HD

+++++++++++++++++++++++++++
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【悪徳企業・悪徳教材会社】(ブラック企業の話)

●放射線測定器

 今日、放射線測定器を買った。
エステー社製。
日本製。
7700円。
「Air Counter S」(商品名)。
ガンマ線しか測れない。
が、それでじゅうぶん。

 昨日、東京へ行ったとき、不安でならなかった。
だから、今日、あわてて買った。

 それをもって、あちこちを調べた。
道路の上、植え込みの中、ついでに車の中、ほか。
全体に、毎時0・05μシーベルト〜。
場所によっては、0・15μシーベルト〜を示すところもあった。
枯草が堆積したようなところほど、高い数値を示した。
放射性物質も、そういうところで堆積される。
このことは前もって知っていたので、冷静に受け止めることができた。

 いろいろなものの上にも、直接置いて、測定してみた。
ほとんどのものは、0・05〜0・10μシーベルトの範囲だった。
ただひとつ、パック入りのオレンジ・ジュースの上では、0・19μシーベルトの値が出たのに
は、驚いた。
そのオレンジ・ジュースは、そのまま捨てた。

 以後、ずっと、首にかけて、使っている。
そのつど、測定している。

●ブラック企業(「ブラック企業の真実」・彩図社)

 今日、「ブラック企業」という言葉を知った。
薄汚い仕事のことかと思ったが、そうではない。
新入社員の立場で、就職してはいけない職種を、「ブラック企業」というらしい。
入社したら最後、骨のズイまでしゃぶられ、最後には身も心もボロボロにされた上、放り出され
る。
たいていみな、うつ病などの病気になるという。
そういう会社を、ブラック企業という。

 で、そのひとつに、パソコン教室があるという(「ブラック企業の真実」・彩図社)。
生徒の上達度に合わせ、つぎつぎと(より高度なクラス)へ、生徒を移動させていく。
もちろんそのつど、月謝もあがる。
そういう方式で、パソコン教室は、生徒から月謝をむしり取る。
 
 インストラクターには、そのノルマが課せられる。
が、良心の呵責に耐えられないインストラクターもいる。
そういうインストラクターが、上司からひどい仕打ちを受ける。

 もちろんすべてのパソコン教室がそうというわけではない。
しかしパソコン教室にかぎらず、このタイプの教室は、幼児教室にもある。

●ブラック教室

 周1回のレッスンで、生徒を集める。
が、しばらくすると、親にこう言う。
「子どもには適齢期があります。今、音楽教育をしておかないと、手遅れになりますよ」と。
「受験」とか「合格」とかいう言葉を、それにまぶせる。
親は、催眠術か何かに、かかったかのようになる。
教師の言いなりになる。

 こうして、「英語教室……」「体操教室……」「算数教室……」と。
気がついたときには、週に5日、子どもはその教室に通うようになる。

 これをブラック教室と言わずして、何と言う?

●悪徳教材会社

 さらにひどいのが、教材会社。
15年ほど前、S・スタディという教材会社が、市内で事務所を構えた。
大通りに面した、ビルの6階だった。

 ……この話は、当時、原稿として記録した記憶がある。
原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私はその教材会社の説明会に、
ワイフといっしょに出かけた。
つぎの記事が、それである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪徳化する学習産業

++++++++++++++

法外な教材を売りつける教材会社は少なくない。

そういう会社が、あなたの弱みを、虎視眈々とねらっている。

++++++++++++++

 ある教材会社の主催する説明会。
予定では九時三〇分から始まるはずだったが、黒板には、「一〇時から」と書いてある。
しばらく待っていると、席についた母親(?)の間からヒソヒソと会話が聞こえてくる。

「お宅のお子さんは、どこを受験なさいますの」「ご主人の出身大学はどこですか」と。
サクラである。
主催者がもぐりこませたサクラである。こういう女性が、さかんに受験の話を始める。
母親は受験や学歴の話になると、とたんにヒステリックになる。
しかしそれこそが、その教材会社のねらいなのだ。

 また別の進学塾の説明会。
豪華なホテルの集会ルーム。
深々としたジュータン。
漂うコーヒーの香り。
そこでは説明会に先だって、三〇分間以上もビデオを見せる。内容は、(勉強している子ども)
→(受験シーン)→(合否発表の日)→(合格して喜ぶ子どもと、不合格で泣き崩れる母子の
姿)。しかも(不合格で泣き崩れる母子の姿)が、延々と一〇分間近くも続く!

 ビデオを見ている母親の雰囲気が、異様なものになる。しかしそれこそが、その進学塾のね
らいなのだ。

 話は変わるがカルト教団と呼ばれる宗教団体がある。
どこのどの団体だとは書けないが、あやしげな「教え」や「力」を売りものにして、結局は信者か
ら金品を巻きあげる。
このカルト教団が、同じような手法を使う。
まず「地球が滅ぶ」「人類が滅亡する」「悪魔がおりてくる」などと言って信者を不安にする。「あ
なたはやがて大病になる」と脅すこともある。
そしてそのあと、「ここで信仰をすれば救われます」などと教えたりする。
人間は不安になると、正常な判断力をなくす。そしてあとは教団の言いなりになってしまう。

 その教材会社では、中学生で、年間一二〇万円の教材を親に売りつけていたし、その進学
塾では、「入試直前特訓コース」と称して、二〇日間の講習会料として五〇万円をとっていた。
特にこの進学塾には、不愉快な思い出がある。
知人から「教育研修会に来ないか」という誘いを受けたので行ってみたら、研修会ではなく、父
母を対象にした説明会だった。
しかも私たちのために来賓席まで用意してあった。私は会の途中で、「用事があるから」と言っ
て席を立ったが、あのとき感じた胸クソの悪さは、いまだに消えない。

 教育には表の顔と、裏の顔がある。
それはそれとして、裏の顔の元凶は何かと言えば、それは「不安」ではないか。
「子どもの将来が心配だ」「子どもはこの社会でちゃんとやっていけるかしら」「人並みの生活が
できるかしら」「何だかんだといって日本では、人は学歴によって判断される」など。
こうした不安がある以上、裏の顔はハバをきかすし、一方親は、年間一二〇万円の教材費を
払ったり、五〇円の講習料を払ったりする。
しかしこういう親にしても日本の教育そのものがもつ矛盾の、その犠牲者にすぎない。
一体、だれがそういう親を笑うことができるだろうか。

 ただ私がここで言えることは、「皆さん、気をつけてくださいよ」という程度のことでしかない。
こうした教材会社や進学塾は、決して例外ではないし、あなたの周囲にもいくらでもある。それ
だけのことだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

が、この種の悪徳教材会社は、後を絶たない。
摘発されるたびに、会社名を変える。
教材にしても、表紙だけ、張り替える。
数年前も、浜松市内で、ある教材会社が摘発された。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●80万円の教材 

 高額な教材を売りつける教材会社がある。
悪徳商法として、ネットでも叩かれている。
これについて、少し書いておきたい。
方式はこうだ。

 「一式、80万円。中学3年分の教材」。
そんな教材を売りつける。
80万円の中には、テキスト代はもちろんのこと、FAXによる添削、電話相談料が
含まれている。
で、80万円を、3年分の36か月で割ると、月額約2万2000円となる。

ワークブックということなら、自分で書店で選んだ方がよい。
ワークブックには、「相性」というのがある。
その相性が合わないと、高価な教材と共に、「勉強心中」ということにもなりかねない。
「勉強心中」というのは、教材が負担で、方向転換できず、そのまま教材と共に、
勉強ができなくなってしまうことをいう。

 大切なのは、「達成感」。
その達成感が、子どもに自信をつけさせ、子どもを伸ばす原動力となる。

 それはともかく、月に1冊、1000円のワークブックをこなすだけでも、たいへんな
こと。
それを考えただけでも、2万2000円というのは、メチャメチャな額といってよい。
が、買う人は買う。
子どもにやらせる。

●私の経験

 私もある時期、市販の教材づくりに命をかけた。
毎晩、2時、3時まで、ワークブックの原案を考えた。
そんなある日、奇妙な仕事が飛び込んできた。

 大手出版社のX社からのものだった。
「都内の小学校の入試問題集を制作してほしい」という依頼だった。
わたしは即断で、それを承諾した。

 で、しばらくすると、ダンボール箱に入った資料が、ドサッと送られてきた。
過去問題に関する資料である。
全部で、40校あまりあった。
が、傾向はどれも似たようなもの。
たがいに隣の小学校の入試問題を見ながら、自分の学校の入試問題を制作していた。
それが私にも、よくわかった。
つまり私には、楽な仕事だった。

●別会社

 が、「?」と思われるような申し入れが、つづいた。
まずその教材は、「X社」の名前では売らない。
書店にも並ばない。
もちろん「はやし浩司」の名前は入れない、と。
そのかわり、高額な制作料を支払う、と。
私には、どういうことか理解できなかった。
が、やがてわかった。

 X社は、ダミーの子会社(販売会社)を立ち上げた。
その子会社名で、セールスマンを雇った。
そのセールスマンに、訪問販売の形で、教材を売らせた。
あとで聞いたら、40校あまりの問題集を、1セット、200万円で売っていた!
この金額には驚いた。
当時はバブル経済、華やかりしころで、200万円でも、飛ぶように売れた。

 が、この方式、つまり親会社がダミー会社を立ち上げ、自分の名前をけがさないように、悪徳
商法を繰り返すという方式は、けっして珍しいものではなかった。
さらにあくどい販売会社となると、倒産した教材制作会社の教材群をまとめて買い上げ、それ
を再製本し、同じ方式で売っているところもあった。
(今も、それがふつうのやり方になっている。)

 昨年(09年)も、この浜松で、悪徳教材会社が摘発された。
同じような手口で、親をだまし、高額な教材を売りつけていた。
が、刑法上の罪は軽い。
表紙だけを取り替えて、また別の販売会社を立ち上げる。
社長(=責任者)は、そのつど、別の人物にすえ替える。

 いろいろな教材を手がけてきたが、これほどまでに後味の悪い仕事はなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先にあげたS・スタディについて、
直接書いた原稿が見つかった。
そのまま紹介する。
日付は、2006年11月9日になっているが、
この事件そのものは、それよりずっと前のことだったと記憶している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪徳商法

 数日前、関西に住む、ある女性から電話がかかってきた。
3人の子どもをもつ母親だった。いわく、「右脳教育の教材を買ってしまったが、解約したい。ど
うすればいいか」と。

 値段を聞いて、ビックリ! 1セット、50万円だという。

 「幼児のころ、右脳教育をしておかないと、科学者にはなれません」「あなたのお子さんも、辞
書を一冊、丸暗記できるようになります」「あの卓球のIチャンも、利用していました」などなど。
そのセールスマンは、そう言ったという。

 それで50万円の教材を購入することに!

 バカめ! いや、その母親がバカと言っているのではない。
そのセールスマンが、バカ! 右脳教育の「ウ」の字も知らないで、右脳教育の教材を売りさば
いている。

 私の近くにも、「S」という、これまた「?」な教材販売会社がある。
月4回の家庭教師こみで、年間、120〜130万円の費用を取っている。
教材販売会社なのだが、家庭教師をセットにしているところがミソ。

 つまり教材を解約しようとすると、「うちの教材は、あくまでも家庭教師の補助教材です」と言
って逃げる。
家庭教師を解約しようとすると、「家庭教師はサービスとして派遣しています。教材費実費はい
ただきます」と言って逃げる。

 私の生徒の親も、何人か、その被害にあっている。

 どうか、みなさん、お気をつけください!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●補記

 実は、この話には、つづきがある。

 名古屋市に、XXという教材出版会社がある。
表向きは、「教材出版会社」。
一応、表では、まともな看板をかかげている。
教材説明会などに顔を出すと、その会社のコーナーも、ちゃんとある。

 が、その子会社が、ここにあげた「S・スタディ」(当時)。
(名前は摘発されるたびに、変える。)
その手口は、先に書いた。
「教材」と「家庭教師」をセットにして、親に売りつける。

 で、09年にも、浜松市で摘発された。
そのときもこう言っていた(報道、記憶)。

 「うちは家庭教師を年間契約で雇います。途中解約のばあいは、当然、その解約料を負担し
ていただけいます」と。

 報道でそれを知ったときは、こう思った。
「うまいこと、言うなア」と。

 家庭教師といっても、学生アルバイト。
解約など、いつだってできるはず。
それに家庭教師を解約し、解約料がかかったという話は聞いたことがない。
が、私が書きたいのは、このことではない。
こんなことがあった。

●知人の息子

 ある日、遠い親戚にあたるKさん(女性)から、電話がかかってきた。
「浜松へ行くから、ちょっと寄っていいか」と。
私は即座に、それに応じた。

 が、会ってみると、30歳前後の息子氏がそばにいた。
3人で食事をともにしたが、話すことは、教育のことばかり。
「?」と思っていると、やがておもむろに、名刺を差し出した。
その名刺に、先にあげた「XX教材会社」の名前があった。

 私は、とたん身構えた。
息子氏がついてきた理由が、それでわかった。
が、それについては言わなかった。
Kさん自身も、恐らく息子氏の勤める会社の内情を知らなかったのでないか。
ふつうの出版会社と思っていたらしい。

 で、それで別れた。
そのまま縁を切ったつもりだった。
が、それからもたびたび、息子氏のほうから連絡があった。
「会いたい」「また遊びに行っていいか」「浜松へ行く用事ができたから……」と。

 私の住む世界では、そういう人とつきあうのは、たいへんまずい。
知りあうのも、まずい。
どこでどう利用されるか、わかったものではない。
で、そのつど、断るのに苦労した。
まったくの他人ではなかった。
それだけに苦労した。

●悪徳商売

 ブラック企業……。
教育の世界とて、例外ではない。
ということで、このエッセーを書いた。
みなさんの参考になればうれしい。

 そろそろ就寝タイム。
では、おやすみなさい!

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はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ブラック企業 悪徳商法 悪徳教
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社)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司※
 
●オリオン座・ベテルギウス

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

オリオン座にある、ベテルギウスが注目を集めている。
その星が、近く「爆発」するかもしれないという。
(実際には、すでに爆発している?)

星が爆発するのだぞ!

爆発すれば、何と、月ほどの大きさに見られるという。
「壮大な天体ショー」と浮かれている人もいる。
その一方で、その影響で、人類は滅亡すると説く人もいる。
どちらであるにせよ、注目を集めて当然。

そのベテルギウスについて、ウィキペディア百科事典は、つぎのように書いている。

『……2009年時点のベテルギウスは、15年前の測定時と比べると15%も小さくなっており、
しかも加速的に収縮しているらしいことがわかった。
また、2010年1月にはNASAが、ベテルギウスが変型している事を示す観測写真を公開。
ガスが流出し表面温度が不均一になるなど、恒星が不安定な状態にあることが示された。近
年の観測や研究により、その形状は球形ではなく、大きな瘤状のものをもった形状であるとさ
れている』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

何やらベテルギウスでは、とんでもないことが起きているらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ベテルギウス

 距離は、640光年(ウィキペディア百科事典)。
640光年とはいうが、銀河系の中でも、隣人のようなもの。
見かけの大きさは、太陽についで、2番目!
(夜空を見あげ、いちばん大きく、赤く輝いている星が、そのベテルギウス。)

『ベテルギウスは、地球からの見かけの大きさ(視直径)が2番目に大きい恒星である(1位は
太陽)』(ウィキペディア百科事典)と。

 ベテルギウスは、実際、巨大な星らしい。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6784318602/

 

 この写真は、グーグルの「ベテルギウス写真倉庫」に掲載してあったもの。
どこに許可を求めたらよいのかわからなかったので、そのまま使わせてもらった。
詳しくは:http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%99%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%
82%A6%E3%82%B9&hl=ja&rlz=1T4MOCJ_jaJP363JP363&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&
source=univ&sa=X&ei=37pJT4WxN43wmAWlnNCbDg&ved=0CE0QsAQ&biw=1622&bih=949

 太陽の大きさは、左下、豆粒というより、針の先の大きさ。
その太陽と比べると、ベテルギウスは、とてつもなく大きな星であることがわかる。

 この星が、近く(明日〜100万年後)に爆発するらしい。
表面が、でこぼこし、今、加速度的に収縮しているという。
爆発すれば、もちろん太陽や地球にも、大きな影響を及ぼすとも言われている。

MSNニューズはつぎのように書いている。

『……恒星は核融合反応で輝いており、燃料の水素が燃え尽きると一生を終える。
太陽の8倍以上の質量の星は、寿命が近づくと赤色超巨星となり、最期は大爆発を起こして突
然、輝く「超新星」になる』と。

●ガンマ線

 「人類が滅亡する」と説く人たちは、ガンマ線の影響を問題にする。
「強烈なガンマ線で、人類は一瞬のうちに焼き殺される」と。

 この話がデタラメでないことは、NASAが、ベテルギウスの地軸を観測していることでもわか
る。
大爆発を起こしたとき、強力なガンマ線を発生する。
そのガンマ線は、ベテルギウス自体がもつ磁場によって、指向性をもつ。
わかりやすく言えば、ベテルギウスの地軸の傾きを調べれば、どの方向にガンマ線が飛び散
っていくかがわかる。

 で、それによれば、幸いにも、ベテルギウスの地軸は、地球に対して、20度ほど傾いている
という(NASA)。
つまり地球に向かっては、ガンマ線は、飛んでこない。

 が、何といっても、未知の世界。
ガンマ線がまったく飛んでこないとも言えないし、さらに太陽がどのような影響を受けるかとなる
と、まったくの未知数。
すでにその影響を受け、太陽系のほかの惑星の温暖化が進んでいるという説もある。
あるいはすでに太陽が活動期に入っていおり、猛烈な太陽風が地球を襲うという説もある。

 もしそうなったら、人類に逃げる手だてはない。
どこに隠れても、猛烈な放射線で、みな、焼き殺されてしまう……という。

●400キロ先の野球ボール

 では、実際には、どの程度の大きさと考えたらよいのか。
ウィキペディア百科事典には、こうある。

『……ベテルギウスは、400キロメートル離れた所に置いた野球ボールと同程度である』と。

 福島第一原発から東京までが、約200キロメートル。
この浜松市までが、約400キロメートル(以上、直線距離)。

 浜松市から見ると、福島第一原発のところに野球ボールを置いた距離と、大きさということに
なる。
それが、爆発する。

 被害はあるのか?
それともないのか?
たかがボール1個。
……と言いたいが、どうやらそうでもないらしい。

 何でも爆発すれば、月ほどの大きさと明るさになり、しかも昼間でも見えるようになるという。
ふつうの核爆発とは、桁外れに大きな核爆発ということらしい。
となると、「天体ショー」と浮かれているようなばあいでもない。

 かなり深刻!

 ベテルギウス……赤くて不気味な星。
夕方になると、東の空に、ひときわ大きく輝いて見える。
毎晩そこに、そのままあればよし。
爆発すれば、数時間後には巨大な星になるという。
が、そのあと、何が起こるかわからない。

 まことにもって、不気味な星……ということになる。
私もワイフも、夕方になると、いつもそのベテルギウスをまっ先に、見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ベテルギウス 超新星爆発 オリ
オン座)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●浜松・ダイワ・ロイネット・ホテルにて(はやし浩司 2012−02−26夜)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今夜、『アンダーワールド』という映画を観てきた。
その帰りに、駅前のダイワロイネットホテルに泊まった。
超ハイテクホテル。
ときどき泊まらせてもらっている。
気分転換にはよい。
よい刺激になる。

で、映画『アンダーワールド』は、星1つの★。
あの手の映画は、見飽きた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教材作り

 ポッカリと空いた、日曜日の午後。
とくに予定はなし。
あえて言えば、明日からの教材作り。
小1〜2用の教材が、まだ何も用意していない。
が、今年度分は、予定通り、ほぼすべて消化した。
残るは、「確率」「密度」「空間図形」。

 「小学1年生に、確率?」と思う人もいるかもしれない。
が、心配、無用。
「どちらのクジを引いたら、得かな?」「損かな?」と。
そんなレッスンを展開すればよい。
私のばあい、「確率」という言葉も使う。
遠慮する必要はない。

 「密度」にしても、「どちらが、混んでいる?」「すいている?」と。
そういう切り口から、入っていく。
大切なのは、その糸口というか、概念を種まきの種にように、子どもの脳の中に入れておくこ
と。
1年後には、それが、ちゃんと頭の中で、立派な木に育っている。

 たとえば先月、「平均」を教えた。
それについてある母親から、こんなうれしいメールが届いた。
「うちの子ったら、毎日、平均、平均って、そんなことばかりを話題にしています」と。
小学1年生の女児をもつ母親からのものだった。

●東京

数日前、ほぼ1年ぶりに、東京へ行ってきた。
東京駅で新幹線を降り、タクシーで虎の門(霞が関)まで。
そこで講演。
帰りは、虎の門から新橋まで歩いた。
そこから山手線に乗り、東京駅へ。

 その東京。
大都会。
しかしこの10年、ほとんど変わっていない。
この10年間、あるいは15年間、時計は止まったまま。

その東京。
東京に住んでいる人たちには、たいへん失礼な言い方になるかもしれない。
しかしこう思った。
「こんなところに、住まなくて、よかった!」と。

 負け惜しみでも何でもない。
本気で、そう思った。
ビル、ビル、ビル……。
どちらを見ても、ビル、ビル、ビル……。

 そういう通りを歩いていると、奇妙な孤独感に襲われる。
人がいっぱい、いるはずなのに、さみしい。
どうしてだろう?
すべてが直線的。
縦と横の線ばかり。
やわらかな線がどこにもない。

通りを歩く人たちも、みな、無機質で無表情。
飲み食い屋にしても、それが「ある」というだけ。
いくつかの飲食店をのぞいてみたが、食欲そのものが、わいてこなかった。
作られた店、作られた雰囲気、作られた味……。
田舎ぽい店もあるにはあったが、それが女性の化粧のようにも見えた。

 あとはお決まりの、あの都会臭。
排気ガスとゴミの臭い。
ホコリと飲食店の臭い。

 浜松の家に帰ったとき、すでにあたりは真っ暗だったが、草の匂いがした。
若葉の匂い。
そこに甘ったるい春の気配を感じた。
ほっとした。
「ああ、これでいい」と。

●米朝会談

 数日前、米朝会議が終わった。
が、早々と、韓国の中央日報だけは、「双方が合意。協議は成功」と報じた。
それ以外の報道機関は、「たいした進展なし」と。
どちらが正しいのか?
以後、2日間、会談の内容を追いかけているが、どうもはっきりしない。

 アメリカ側の代表は、デービース北朝鮮担当特別代表。
北朝鮮側は、金桂寛(キム・ケグァン)外務次官。

 成果をあせる、デービース(?)。
それを手玉に取る、金。
その様子をテレビで見て、あのクリストファー・ヒルを、そのまま思い出した。

「私が解決してみせます」と、自ら名乗り出た、ヒル。
聞くところによると、クリントン国務長官(当時)に、直接自分を売りこんだという。
結果は、どうだった?
北朝鮮に、よいようにもてあそばれただけ。

ヒルがしたのは、北朝鮮に、現金と原油、食料と音楽(ニューヨークフィルのピョンヤン公演)を
与えただけ。
それに何よりも痛かったのが、「時間」。
その時間を与えてしまった。
その間に、北朝鮮は、核兵器を完成させてしまった。

 が、今回は、やや事情が異なる。
平たく言えば、日本は、まったくのカヤの外。
中国は、さらに北朝鮮寄りになった。
たぶんアメリカは、北朝鮮に、こう言っているにちがいない。

「日本から、たんまり現金を取ってやるから、ここはアメリカの要求に応じなさい」と。

 核開発問題についても、日本や韓国が求めるのは、「完全廃棄」。
かたやアメリカは、「凍結」。
 こういうのを、「頭越し外交」という。
が、アメリカにしても、日本のご機嫌を取る必要は、もうない。
自国の利益、第一。
つまり核兵器さえ拡散しなければ、それでよい。
極東アジアの緊張にしても、緊張が高まれば高まるほど、アメリカには利益がある。
中国にしても、そうだ。
北朝鮮がもつ核兵器など、痛くもかゆくもない。
その気にさえなれば、1日で、北朝鮮を焦土と化すことができる。

 では、日本はどうすべきか?

 日本に発言権が与えられないなら、日本は6か国協議から離脱する。
それくいらいの覚悟をもつ。
北朝鮮は、どんなことがあっても、核兵器は手放さない。
核兵器あっての、金王朝。
言うなれば、独裁政権を守る本尊。

 ……というのは、書き過ぎ。
よくわかっている。

ただ、今のままでは、この閉塞感を打破することはできない。
日本は、逃げ回るだけ。
が、それだけでは、問題は解決しない。
もちろん専守防衛。
しかしやるべきときには、やる。
その覚悟を示す。

 「日本は6か国協議から離脱する。日朝協議は別枠で必要に応じてする」と。

 最後に一言。

いざとなったら、アメリカが日本を助けてくれると思っている人は、多い。
しかしアメリカ人に、そんな気は、最初から微塵(みじん)もない。
ないことは、少しでもアメリカ人とつきあったことがある人なら、わかるはず。
(アメリカ人は、そんなお人好しではないぞ!
「トモダチ作戦」なんかに、惑わされるな!)

が、アメリカ本土が攻撃されれば、話は別。
……と書きたいが、北朝鮮だって馬鹿ではない。
そんなことはしない。
そのための「米朝友好条約」。
「アメリカ本土が攻撃されなければ、アメリカは北朝鮮を攻撃しません」と。
北朝鮮の最終目標は、それ。
つまり米朝友好条約。
が、そんな友好条約が結ばれたら、日米安保条約は、そのまま死文化する。
日本は孤立無援。

 ア〜ア!

●宇宙人

 今日も、ワイフと宇宙人の話になった。
今度、またそういう映画がやってくる。
題名は『バトルシップ(Battleship)』。
楽しみ。
それでまた宇宙人の話になった。

 が、どんな宇宙人であるにせよ、地球へやってくるような宇宙人は、人間など相手にしない。
科学力も、けた外れに違う。
彼らがもつ宇宙船にしても、母船は地球程度の大きさがあると思ったほうがよい。
太陽の中にだって、平気で出入りできる。

 そういう宇宙人にすれば、人間など、取るに足りない「動物」のようにも見えるかもしれない。
よく言っても、猿、悪く言えば、ネズミ。
逆に人間は、彼らそのものが、理解できない。
姿を見ても、その姿さえ理解できないだろう。
あまりにもちがいすぎる。

 言うまでもなく、科学力と武器の破壊力は、比例する。
つまり彼らは、想像を絶するような武器をもっている。
ひとたび使えば、太陽だって破壊できる。
言い換えると、それだけの科学力があるということは、それだけの自己規制力があるというこ
と。
自己規制力がないまま、科学力をもったら、自滅、あるのみ。
今の北朝鮮を見れば、それがわかるはず。

 ……だから、人間と宇宙人が戦争をする?
そんなことは、ふつうの常識で考えても、ありえない。
ありえないが、おもしろい。

次回は、『バトルシップ』。
かならず見る。

●団塊の世代

 団塊の世代の人たちは、まだ気がついていないかもしれない。
このところ団塊の世代に対する、風当たりが強くなってきている。
「ジジババ・ゴミ論」などという、生やさしいものではない。
「団塊の世代・害悪論」まで、飛び出している。
2チャンネルに、こんな書き込みがあった。

 「あいつ(=あるタレント)も、団塊の世代だろ」
 「いちばんいい時代を、ノーノーと生きた連中だ。苦労を知らない」
 「いい気なもんだな。日本をめちゃめちゃにしやがって」と。

 意識というのは、恐ろしい。
ものの見方、考え方が、私たち団塊の世代と、180度ちがう。
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「団塊の世代は、もっと発言すべきよ。若い人たちに、そうでないと、しっかりと言うべきよ」と。

 しかし残念ながら、今の若い人たちには、それを聞く耳すら、ない。
以前、私が自分のBLOGに、こう書いたときのこと。

「ぼくたちの世代は、就職と同時に、みな、給料の半分を実家へ送った」と。
それに対して、千葉県に住む若い父親は、こう書いてきた。

「阿呆(あほう)」という題名だった。
いわく、「そういうことで、息子や娘をしばることこそ、家族崩壊だ。ぼくは自分の息子や娘に
は、そういうことはさせない」(EH氏)と。
 
 誤解がないように、言っておく。

 私自身は、結婚前から、収入の約半分を実家へ送った。
45歳まで、それを欠かさずつづけた。
27歳を過ぎるころから、法事などの諸費用も、すべて負担した。
実家の立て直し費用も、すべて負担した。

 そういう立場で、息子たちには、同じような苦労はさせたくないと思ってきた。
学資にしても、惜しみなく、……言われるまま、全額負担してきた。
その一方で、子どものころ、貧乏の怖ろしさを、いやというほど経験している。
息子たちにはそういう思いをさせたくないと願ってきた。

 が、こうした思いは、戦後生まれの団塊の世代なら、みな、もっている。
程度の差はあるだろうが、みな、もっている。
だからがんばった。
彼らが言うところの「家族」を犠牲にしたかもしれないが、がんばった。
がんばるしかなかった。
が、それに対して、最近の若い人たちは、こう言う。
こう言って、吐き捨てる。
「自業自得」と。

 ……この先、「風当たり」は、ますます強くなる。
弱くなることは、ありえない。
飽食とぜいたくの中で、自分を見失ってしまった。
最初から、すべてがそろっているのが、当たり前。
そこに食べ物やモノがあるのが、当たり前。
その世代の、そういった意識を変えるのは、容易なことではない。 

●私たちの責任

 その一方で、私たちの世代にも、責任がないとは言わない。
私ももうすぐ65歳になる。
が、同年齢の仲間たちをながめても、公務員と一般会社員との間に、こうまで「差」があると
は、思ってもいなかった。

 公務員だった連中は、今でも、準公務員として、天下り先で仕事をつづけている。
(もちろんそれぞれの公務員の人に、責任があるわけではない。
制度がおかしいと私は言っている。)

一般企業に勤めた連中は、50歳を過ぎるころから、つぎつぎとリストラ。
子会社、孫会社へ転職できた連中は、まだよいほう。
たいていはそのあと、職安で職をさがしながら、2〜3年ごとに転職。
その繰り返し。
「60歳、定年制」などというのは、まさに絵に描いた餅。

 退職金にしても、公務員だった連中は、2700〜3000万円(「おいしい公務員」(週刊ダイア
モンド(11−10−15)※。
一般会社員については、おおむね、その半額。……それ以下。
今日、大阪市の橋下市長は、バスの運転手の給料をさげると言い出した。
それをそのままここに転載する。

『……大阪市の橋下徹市長が現業職員の給与を民間並みに引き下げるよう指示したのを受
け、市交通局が、市バス運転手の給与を4割弱カットすることを盛り込んだ職員給与規定の改
定案をまとめたことが26日、明らかになった。
4月からの実施を目指すが、改定には労使間の妥結が不可欠で、難航が予想される。

 交通局によると、市バス運転手の平均年収は、関西の同業5社(544万円)より3・5割高い
739万円。
一方、市バス事業の経常損益は28年連続の赤字で、累積赤字は平成22年度決算で過去最
高の604億円に達している』(MSN・2012・02・26)と。

 この事実の中に、現代社会の矛盾が集約されている。
累積赤字が604億円もありながら、給料だけは、民間より、35%も高額。

 こうした矛盾に対して、私たち団塊の世代は、何をどう行動してきたのか。
「自分さえよければ、それでいい」「今だけ、何とか、うまくすり抜ければそれでいい」と。
そういうずるい生き方を容認してきたのは、ほかならぬ私たち団塊の世代ではないのか。

 ともあれ、悲惨なのは、蓄財に失敗した個人事業主。
退職金ゼロ、年金ゼロ、貯金ゼロ……。
死ぬまで日銭を稼いで、生きていくしかない。

(注※……退職金)
 『例 北海道富良野町……3408万円、埼玉県朝霧市……3046万円、ほか』(週刊ダイア
モンド誌調べ)

●ニヒリズム

 最近、私は、ときどきこう思う。
「まあ、日本も、やがて行き着くところまで行くしかないのでは……」と。
どうしようもないというか、どうにもならない。

 もっとも若い人たちだって、生活は苦しい(?)。
韓国の朝鮮日報に、こんな記事が載っていた(2月26日)。
日本の現状と、たいへんよく似ているので、驚いた。

『……雇用と所得を増やすための韓国政府の積極的対応が求められるが、韓国社会の消費
形態を見直す必要もある。
借金をしてでも他人がしていることをしなければならないというのが、最近の消費形態だ。
結婚、マイホーム、子どもの教育を目的に借金をして、その返済に苦しむ人を指して、「ハネム
ーンプア」「ハウスプア」「エデュ(教育)プア」という新語が相次いで生まれた。
そして、老後の準備ができないまま定年を迎えると、「シルバープア」に転落す』と。

 「シルバープア」?
うまいこと言うね。
ホント!
これからは、この言葉を使わせてもらう。
「シルバープア」。

●シルバープア

 同じ貧乏でも、若いときの衝撃度は、10。
それがシルバーになると、100になる。
(数字で表しても、意味はないが……。)
先がない分だけ、深刻度は大きい。

 が、本当にこわいのは、心がむしばまれること。
心の豊かさや、余裕が消えるだけではすまない。
ものの考えかが、卑屈になる。
いやらしくなる。
ひがみやすく、じけやすくなる。
グチやイヤミが多くなる。
自分では気がつかないまま、そうなる。

 先日、ある知人(女性、55歳くらい)と、たとえばこんな会話をした。

私「……やっと今度、プリウスに乗り換えました」
知「うちなんか、軽よ、軽」
私「何とかがんばって、これからも仕事をつづけます」
知「うちのダンナなんか、倉庫番。万年、倉庫番」
私「楽しみは、温泉へ入ることです」
知「温泉……? もう4年も、旅行してないわ」と。

 自ら、人生の脇道にそれていく。
心の豊かさは、お金(マネー)では買えない。
が、お金(マネー)がない状態で、心の豊かさを維持するのは、簡単なことではない。

●思考回路

 脳みそは、加齢とともに、柔軟性をなくす。
わかりやすく言えば、思考回路が、硬直化する。
早い人で、30代から、そうなる。
40代になると、さらにそれがはっきりしてくる。

 たとえば仕事。
30代を過ぎると、転職がむずかしくなる。
40代になると、さらに転職がむずかしくなる。
たとえばそれまで、バスの運転手をしていたとする。
決めたれた時刻に、決められた路線を走っていたとする。
そんな仕事を10年とか、20年していたとする。

 そういう人が、その仕事をやめ、別の仕事に就くのは、たいへんむずかしい。
「明日から、事務職を……」というわけにはいかない。
それが思考回路。

 人は、ひとつの仕事をしながら、その分野では、専門的になる。
が、同時に、そのほかの部分を切り落としていく。
その「切り落としていく」という部分が、怖い。

そのため、自分の専門分野以外の仕事が、できなくなる。
無理をすればできなくはないが、その分だけ、大きなストレスを覚えるようになる。
実際、50歳を過ぎると、そのため分野の違う世界への転職は、不可能と考えてよい。

 私の知人は、それまで国鉄の工場で働いていた。
で、55歳で定年退職を迎え、その翌月から、市内のY楽器工場で働くことになった。
が、たった1日で、やめてしまった。
「あんなきつい(=きびしい)仕事は、わしにはできん!」と。
現在、85歳だが、以後、1日とて、外で働いた経験はない。

 その思考回路。
私にも、ある。
(もちろんあなたにも、ある。)

 では、どうすれば脳みその柔軟性を保つことができるか。
方法は、「環境適応能力」を、逆に利用する。
つまり自ら、ちがった環境の中に、自分を適応させていく。
わかりやすく言えば、「刺激」。
さらに言えば、「好奇心」と「行動力」。
もっとも効果的なのは、若い人たちと接触すること。
たとえば昨日も、こんなことがあった。

 ある中学生の机を見ると、見慣れない道具があった。
「何、これ?」と聞くと、「テープのりだよ」と。

 テープのり?

 珍しそうにそれを手に取りながめていると、ほかの中学生たちがこう言った。
「みんな知っているよ」「みんなもっているよ」と。

 で、私もひとつ買ってみることにした。
「今度、ぼくも買ってくるよ」というと、1人の中学生が、「いいよ、ぼくのをあげるから」と。
(もちろんその申し出は、断ったが……。)

 こうしてまた私の思考回路が、ひとつ訂正された。
仕事がら、のりを使うことは多い。
テープのりなるものを知らなかったら、20年前、30年前のままの(のり)を使いつづけていた。

 こまかい話を書いたが、こうして自分の脳みそを刺激する。
柔軟にする。
小さな、日々の積み重ねこそ、大切。

 思考回路……それがあるから、ほとんどの仕事は、楽にできる。
が、同時に、その思考回路があるがゆえに、脳みそは硬直化しやすい。
ときには、その思考回路を、自ら破壊してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

思考回路について書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【常識の壁】

●思考のパターン化(思考回路の形成)

+++++++++++++++++++++++

同じことを繰り返す。
繰り返していると、やがて脳みそは、やがてそれを
パターン化する。
パターン化して、そのまま脳の中に叩きこむ。
これを「自動化」という。

たとえばコップを手に取り、お茶を飲む。
そのとき、手でどのようにコップを握るか、
それをいちいち考えてする人はいない。
手は自動的に動き、コップを手にし、それを
口に運ぶ。
これが自動化である。

もう少し複雑な自動化としては、タイピングがある。
パソコンに向かって、キーボードを打つときを、思い浮かべて
みればよい。

私もこうして文字をパソコンに向かって、キーボードを
打つとき、どこにどのキーがあるか、いちいち考えて打たない。
短い言葉なら、指がまとめて動く。

「まとめて」というのは、たとえば「言葉」と打つとき、
何も考えなくても、「KOTOBA」と、一気に指が動く。
「K」「O」「T」……というように、ひとつずつの
キーを意識して打つわけではない。

だからふつう、口で話すよりも速く、文字を打つことができる。
この自動化のおかげで、私は、能率よく、かつ無駄なく、自分の
仕事をこなすことができる。

++++++++++++++++++++

●思考回路

 ある作業を繰り返していると、脳はそのパターンを認識し、それを記憶する。
脳の中に、一定の回路をつくる。 
そうした回路のうち、作業に関する回路は、手続きが記憶されるという意味で、「手続き記憶」
とも呼ばれている。
わかりやすく言えば、頭が覚えるのではなく、体が覚える。
(本当は、頭が覚えるのだが……。)

 たとえばここに書いたタイピングにしても、最初は、一本の指だけでパチン、パチンと
打つ。
が、慣れてくると、カチカチと打てるようになる。
さらに練習を重ねていくと、キーボードを見なくても、文字が打てるようになる。
同じような現象が、「思考」についても、起きる。

 たとえば何かの問題にぶつかったとしよう。
そのとき私たちは自分のもつ思考回路に沿って、ものを考え、問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人は、(暴力)という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。
(多分?)
お金や権力のある人は、お金や権力という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。
(多分?)
私のばあいは、ものを書くのが好きだし、「ペン」の力を信じている。
だからものを書くという手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。

 人それぞれだが、さらに中身をみていくと、興味深い事実に気がつく。

●常識(?)

 それぞれの人には、それぞれの(糸)が無数にからんでいる。
過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸、教育の糸、人間関係という糸、などなど。
そういう無数の糸にからまれながら、その人のものの考え方、つまり常識ができあがって
いく。

 アインシュタインは、「その人の常識は、18歳くらいまでに完成される」というようなことを書き
残している。

「18歳」という年齢にこだわる必要はないが、かなり早い時期に完成されることは事実
である。
そしてその常識は、一度形成されると、よほどのことがないかぎり、生涯に渡ってそのま
ま、その人のものの考え方の基本となる。
 たとえばY氏(67歳)は、ことあるごとに、「お前は、男だろが!」「お前は、長男だろが!」「何
と言っても、親は親だからな!」とか言う。

そういう言葉をよく使う。

何か問題が起こるたびに、そう言う。
それがY氏の常識ということになる。
そうした常識は、ルーツをたどっていくと、かなり若いころまで、さかのぼることができ
る。

Y氏は、若いころ、「親絶対教」として知られる、M倫理団体の青年部員として活躍していた。

●思考回路への挑戦

 私が自分のもつ思考回路を疑い始めたのは、オーストラリアに留学していたときだった。
もちろんそのときは、「思考回路」という言葉すら、知らなかった。
そのことを書いたのが、つぎの記事である(「世にも不思議な留学記」(中日新聞発表済み))。
 この中で、私は、私たちがもっている職業観ですら、環境の中で作られていくものだと
いうことを書きたかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。
許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

そこで私が「おめでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブ
タの仕事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。
彼は「ブタ」という言葉を使った。
あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識
そのものが、日本人のそれとはまったくちがっていた。
同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内で、と考えていたようだ。

また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入
るのか」と。

「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍
隊になぜ入らない」と、やんやの非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。
軍人になることイコール、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区が
あった。
軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運転手つきの車があてがわれた。
またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英
雄だった。
これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になった
という暗い歴史がある。

 そして私の番。
ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。
「ヒロシ、もうそんなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。
私はことあるごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言って
いた。
ほかに自慢するものがなかった。

が、国変われば、当然、価値観もちがう。
私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえ
ば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じてい
た。
しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。
時まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 で、帰国後、私は大阪に本社を置く、M物産(当時は、東京と大阪の2本社制を敷いて
いた)に勤めるようになった。
そこで私は、ある日、こんな実験をした。
今にして思えば、それが、私が意識的にした最初の、思考回路への挑戦だったと思う。
私は自分の思考回路を、変えてみたかった。

 それについて書いた原稿が、つぎのもの。
少し余計なことも書いているが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化
するのを、観察する。
若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだ
った。

たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るな
ど。
あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。
一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。
しかし私の考え方を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。
帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。
そのときのこと。
あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。
その通路を歩いていると、たいていいつも、電車の発車ベルが鳴った。
するとみな、一斉に走り出した。
私も最初のころはみなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。

しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。
寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだれもいなかった。
そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。
それだけではない。
プラットホームについてからも、横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り
過ごしてみた。

それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人
が、どの人もバカ(失礼!)に見えてきた。
当時はまだコンピュータはなかったが、乗車
率が、130〜150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。
そのため急いで飛び乗ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。
「早く楽になろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だ
が、愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。

その電車に飛び乗る人がそうだった。
みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。
が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから35年あまり。
私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度成長期をがむしゃらに生きてき
た。
人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような人生だった。
どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。
しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。
やっとヒマになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になって
いる。

私とて、そういう部分がないわけではない。
こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなことは、しばしばしてきた。
しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔しているかもしれない。

そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をや
めるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。

【補記2】

 やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。
私は何度も、この歌と歌詞に救われました。
小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがとう。

 そうそうそのM石油。
一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。
学生時代の話ですが……。
そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。
ごめん!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 話は前後するが、私はこんな経験もした。

私の思考回路に、強烈な刺激を与えた事件だった。
同じく『世にも不思議な留学記』の中で、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●たった一匹のネズミを求めて(そのネズミになる)

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレード市の近くにある友人の牧場へ行って、そこで
いつも一、二週間を過ごした。
「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場だけでも浜松市の市街
地より広い。
その牧場でのこと。

ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた!
見ると、おびただしい数のネズミ、またネズミ。
……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかという程度。
しかも、それぞれのネズミに個性があった。
農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。

あのパイドパイパーの物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いている
が、そういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなこと
をすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。
農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。
こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。

そこで私たちはネズミ退治をすることにした。
方法は、こうだ。
まずドラム缶の中に水を
入れ、その上に板切れを渡す。
次に中央に腐ったチーズを置いておく。
こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の
中に落ちた。
が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ
絶え間なく、すくい出さねばならなかった。

 が、三日目の朝。
起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。
友人に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向か
ったかのどちらかだ」と。
伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかっ
た。

移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。
ネズミには、どれも個性があった。

そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。
が、ネズミはお
ろか、その死骸もなかった。
一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。
ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テーマの一つは、『戦前の日本人の法意識』。
なぜに日本人は一億一丸となって、戦争に向かったか。
また向かってしまったのかというテーマだった。
が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。
あの全体主義は、心理学や社会学では説明できなかった。

そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。
そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようにな
った。

わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。
最近でもクローン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動
をすることが知られている。
そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。
それは私自身のことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。
「一匹ぐらい、まったくちがった生き方をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をし
ても、私だけ別の方角に歩いてみる。
私は、あえて、それになってやろう」と。

日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考回路 

 何度も書くが、思考回路そのものは、「悪」ではない。
思考回路があるからこそ、私たちは日常の生活の中で、ものごとをスムーズに作業し、ものご
とをスムーズに考えることができる。
手続き記憶を考えてみれば、それがわかる。

 しかしこの思考回路は、ときとして、新しいものの考え方に対して、壁となって立ちはだかるこ
とがある。
新しいものの考え方を取り入れるのを、じゃまする。
それだけではない。

その返す刀で、新しいものの考え方を、「まちがっている」と排斥してしまうことがある。
ときにはそれがその人の全人格的な思考回路になっていることがある。
たとえば「義理・人情」とかいう言葉をよく使う人がいる。
そういう人は、何かにつけて、この言葉に固執する。

 そういう人がそれまでの思考回路を変更するということは、その人自身が自分の過去、つま
りそれまで生きてきた人生そのものを否定することに等しい。
その分だけ、衝撃が大きい。
だからよけいにはげしく、抵抗する。
「オレは、義理・人情に命をかける」と。
 ……というような経験は、日常生活の中でもよくする。
 そこで2つのことを提案したい。

(1)常に新しい思考回路が組み込めるように、心の中に余裕(ROOM)を作っておくこと。
(2)常に新しい思考回路をもった人と接する機会を、大切にすること。

 つまり自分がもつ常識は、絶対的なものでないと、いつもどこかでそれを疑う。
一度思考回路ができてしまうと、『類は友を呼ぶ』のことわざ通り、人は居心地のよい世界を求
めて、集まる傾向がある。

暴力団の人は、暴力団の人どうし。
ドクターの人は、ドクターの人どうし。
さらには老人の人は、老人の人どうし、と。
が、これは思考回路を固定化するという面で、危険なことでもある。

 私は個人的には、子どもと接するのがよいと思うが、みながみな、そういう機会がある
というわけではない。
子どもたちの思考回路は、いわば白紙の状態。
その(白紙)を見ながら、私たちは自分の思考回路に(色)がついていたり、あるいは(汚れて
いることを知ったりする。

 ……ということで、思考回路について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 思考回路 手続き記憶 手続き的知識 常識の破壊 常識への挑戦 はや
し浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 思考回路)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●年中児に教える(記憶→数遊び)

 4〜5歳児を教えてみる。
このビデオを通し、つぎのことがわかってもらえればうれしい。

 この年齢の子どもは、すでに自ら「伸びる力」をもっている。
私が伸ばすのではない。
私が教えるのでもない。
自らもっている。

で、私がすることは、そういう「力」をうまく誘導し、引き出すこと。
英語では『灯をともし、引き出す』という。
教育(Education)の語源にもなっている。

 子どもたちの発する会話の中に、そんな「力」を感じ取ってもらえれば、うれしい。

 なお子どもは、段階ごとに、適齢期というのがある。
その適齢期をのがすと、あとあと数の力を身につけようとしても、いまくいかない。
(たとえば小学校へ入学するころには、明確な「差」となって現れる。)
4〜5歳がいかに重要な時期か、とくに数の力についてはそうである。
それもわかってもらえればうれしい。

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日記 はやし浩司 2012−02−29

●E社の倒産

 数日前、半導体メーカーのE社が倒産した。
(「倒産」という言い方は、正確ではないが……。)
突然の倒産だった。
ある経済サイトは、「いきなり直球を受けたような感じ」と表現していた。
かなりの「突然」だったらしい。

 で、その際、E社の株を、信用買いしていた人が、甚大な損害を被(こうむ)ったという。
そのほとんどが、個人投資家だったという。

E社の株価は、今年に入り、」300〜400円前後を推移していた。
それが200円台にさがった。
そこで個人投資家(経済サイト)たちは、このときとばかり、株を買い始めた。
多くは信用買い。

●信用買い

 信用買いというのは、その金額分の損をするまで、株数をもてるというもの。
平たく言えば、証券会社からお金を借り、それで株を買う。

「株式用語解説サイト」には、つぎのようにある。

『……自分の手持ち資金以上の買い付けができるようになること。
証券会社に委託保証金として預けている現金(株券で代用することも可)を担保にして、株式
の買付代金を融資してもらう。
委託保証金率が30%であれば、手持ち資金の約3倍の金額まで株式が買える。
つまり、30万円の保証金で、100万円までの取引が可能』(同サイト)と。

 たとえば株価1万円の株であれば、100万円では、100株しか買えない。
信用買いをすれば、たとえば300株とかもてる。
株価があがれば、3倍の利益。
反対にさがれば、3倍の損。
損金が100万円を超えるまで、その株をもつことができる。

 が、損金が100万円を超えたらどうなるか?
証券会社はこう言ってくる。
「放棄しますか、追い証(追加証拠金)を入れてくれますか」と。
追い証を入れなければ、100万円はパーとなる。
証券会社は、その時点で、預かっていた株を売りさばく。

 が、その株が、突然、0円になったら!
証券会社が売りさばく間もなく、0円になったら!
一次的には証券会社が、損失を被ることになる。
が、当然、その損失は、株主が負担することになる。
今回のE会社の倒産の裏では、そんなことが起きた。

●被害

 が、いったいいくらの損が出たのか。
どれくらい多くの人が、損を被ったのか。
はっきりとしたデータはまだ出ていないが、Bloombergは、つぎのように伝える。

『……東証データから算出した信用買い方の懐事情を示す評価損益率は、17日時点でマイナ
ス10・29%と、東日本大震災発生直前の昨年3月4日(マイナス7・33%)以来の水準まで回
復していたが、今回のエルピーダ・ショックで回復の流れが水を差される可能性も浮上した』
と。

 「回復の流れが水をさされた可能性もある」と。
つまりそれくらい多くの投資家が、多額の損害を被ったことになる。

 おおざっぱな計算をしてみよう。

 E社は、今年に入って、300〜400前後で株価が推移していた。
それが最近になって、280円前後にさがった。
「E社がつぶれるはずがない」と見込んでいた個人株主たちは、「買い時」と判断した。
「このときぞ」とばかり、ワーッと、E社の株を買い込んだ。

 280円の株を、1万株買えば、280万円。
委託保証金率を30%にすれば、3・3倍の株数を買うことができる。
つまり280万円で、3万株。
10円上がれば、30万円のもうけ。
反対に10円下がれば、30万円の損。
90円下がれば、270万円の損。
(この時点で、証券会社から、ふつうなら「どうしますか」という電話が入る。
あるいは追い証を求められる。)

 が、今回E社のばあい、280円から一気に0円にまで、株価が下がってしまった。
売り逃げる間もなかった。
つまり280円x3万株=840万円の損ということになる。
「損をしても、280万円までと思っていたのが、840万円になってしまった!」と。
……ということで、多くの個人投資家たちが、莫大な借金をかかえることになった。

●バクチ

 これをバクチと言わずして、何と言う。
バクチ以上のバクチ。
私の知っている人の中には、全財産を失ったあと、自己破産した人がいる。
だから私の祖父は、いつもこう言っていた。
「浩司、信用買いだけは、するなよ!」と。

 あるとき祖父は、こう言っていた。
「あいつら(=証券会社の連中)、オレの株を勝手に売りやがった」と。

 つまり祖父も、それなりに苦い経験をしたらしい。
だから私にそう言った。

 それもあって、私は、信用買い(先物取引も含む)なるものをしたことがない。
また昨年(2011)の3・11大震災直前の2月末には、すべての持ち株を売り払った。
当時は、日本国債の危機がさかんに叫ばれていた。
「3月に、日本は国家破綻する」とも言われていた。
それでそうした。
ギリギリのセーフだった。

●金(ゴールド)の大暴騰

 現在、行き場を失った現金(マネー)が、貴金属(金とプラチナ)に向かっている。
もうめちゃめちゃな額と言ってよい。
めちゃめちゃ。
狂っている。

 ともにグラム、5000円弱。

 金塊1キロで、ベンツが買える?
当然、その分だけ、この先、インフレが世界中を襲う。
「タクシーの初乗りが、1万円」。
やがてそうなる。
それがわかっているから、「我も、我も……」と、みなが貴金属を買いつづけている。
その結果が今。

 では、どうするか?

 私の経験では、こういうときは、騒がず、動かず、静かにしていたほうがよい。
へたに慌てると、やけどを負う。
貴金属を買うにしても、この1〜2か月の間に、一度、ドスンとさがるはず。
中国などの中進国が、換金のため、大量に売りに出す。
そのときが買い時。
それまで、じっとがまん。

 株、債権には手を出してはいけない。
このところ銀行からよく電話がかかってくる。
「(休眠)預金をどうしますか」と。
「休眠」という言葉は使わないが、「預金をどうしますか」と。
が、こういうとき、銀行の言いなりになって、外債に手を出してはいけない。
手数料だけで、損をする。
そういうしくみになっている。

 ……とまあ、いっぱしの経済評論家のようなことを書いてしまった。
が、私はあくまでも庶民。
庶民の立場で、自己防衛論を書いてみた。
あまり本気にせず、参考までに。
またそのように、理解してほしい。

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Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

************2012年2月29日*****************





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松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
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