最前線の子育て論byはやし浩司(21)2011−11−26〜
【映画・新少林寺を観る】2011/11/26
++++++++++++++++++はやし浩司
昼寝をしたあと、ワイフと映画『新少林寺』を観てきた。
星は5つの、★★★★★。
文句なしの5つ星。
過去、いろいろな映画を観てきた。
が、最後の『The End』の文字まで観たのは、
この数年で、この映画が、はじめて。
熱い涙が止まらなかった。
同時に、こう思い知らされた。
「私は仏教徒だったんだなあ」と。
私の体の中には、仏教が染みこんでいた。
子どものころからの思い出が、つぎつぎと
現れては消えた。
歓びや悲しみ、楽しかった思い出や、つらかった思い出……。
それが内なる世界から、熱い涙を押し出した。
映画『新少林寺』は、最後の10分間で、
これから私が生きる道に、大きな示唆を与えてくれた。
すばらしい映画だった。
もし『新少林寺』を観る機会があったら、
最後の最後まで観てほしい。
「The End」の文字が、しっかりと止まるまで……。
++++++++++++++++++はやし浩司
【欲望論】(本能とは)
●白い太もも(大腿部)
家を出たとき、若い男と女が道路を歩いていた。
どこか物欲しそうに、しかし怪しげな歩き方だった。
が、何よりも目についたのは、女の白い太もも。
大腿部。
短いパンツに、ロング・ブーツをはいていた。
太ももは、99%、露出していた。
99%。
最後の1%で、左右のパンツがつながっていた。
●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)
2000年に入ってから、ミューチュアル・アッタチメント(相互愛着)という言葉が使われるよう
になった。
母親(父親)と乳幼児の関係についていったもの。
つまりそれまでは、母親と乳幼児の関係は、一方的なものと考えられていた。
母親側から乳幼児へ。
しかしそうではないことがわかってきた。
つまり乳幼児のほうからも、母親側に働きかけがあることがわかってきた。
あの乳幼児が、母親に、である。
わかりやすく言えば、乳幼児は、自ら、自分の(かわいさ)を演出することによって、親の愛情を
自分側にひきつけようとする。
エンゼル・スマイルもそのひとつと言われている。
このことは逆に考えてみれば、よくわかる。
もし生まれたての赤ん坊が、母親に向かって、こう言ったとする。
「おい、ババア、乳よこせ!」と。
とたん母親は乳をくれるのをやめてしまうだろう。
つまりその時点で、人類は絶滅の危機に立たされる。
●赤ちゃん返り
幼児期によく知られた、愛情飢餓による現象に、「赤ちゃん返り」というのがある。
ほとんどは「下の子」が生まれたことにより、「上の子」が、赤ちゃんぽくなる現象をいう。
あの赤ちゃん返りは、本能的な部分に根ざしているため、叱ったり、説教しても意味はない。
そういうことをすれば、症状は、ますますひどくなる。
ばあいによっては、慢性的な発熱など、身体的症状などを伴うこともある。
つまり乳幼児でも幼児でも、無意識のうちに、求める相手を自分に引きつけようとする。
ここにも書いたように、本能に近い部分から命令が発せられるため、本人がそれを意識するこ
とはない。
●本題
さて本題。
太もも(大腿部)を99%見せて歩く、若い女。
明らかに男のS欲(禁止用語)を、刺激している。
しかしもちろん、本人には、その意識はない(……だろう)。
「どうしてそんな服装をしているの?」と聞けば、こう答えるにちがいない。
「ファッションよ」と。
つまり、オシャレ、と。
しかし私はそうは考えない。
その理由のひとつが、ミューチュアル・アタッチメント。
乳幼児でも、その程度の本能がある。
いわんや思春期の娘、をや。
●無意識下の行動
私の行動には、無意識に支配されるものが多い。
その例として赤ちゃん返りをあげた。
今までに何百という例を見てきた。
その子どもは、外から見たところ、本人の意思で行動しているように見える。
その延長線上に、あの「太もも」がある。
そう考えたところで、論理的に無理はない。
つまり女性は無意識のうちにも、男性を誘惑するように行動する。
言い換えると、男性のほうが女性のそういった服装を見て、興奮するのではない。
女性のほうが、男性をして、そう思わせるように仕向ける。
先にも書いたように、本能に根ざしているだけに、本人がそれを意識することはない。
無意識のまま、そうする。
●「形あるものは、すべて無」(「新少林寺」)
映画『新少林寺』で受けた感動が、まだ残っている。
その余韻もあって、過去に書いた原稿をいくつか探してみる。
++++++++++++++++++はやし浩司
●希望と期待
希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束した希
望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。
しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。
たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。
こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。
●老後の希望
若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)
が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life after
you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable age.)
+++++++++++++++++
乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。
人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。
出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。
こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。
+++++++++++++++++
我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。
その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。
その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、
道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。
それが世代性ということになる。
その条件として、私は、つぎの5つを考える。
(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)
この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリクソン
は、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。
何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。
つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。
大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。
が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。
「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわけには
いかない。
またそうした行動には、意味はない。
さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎり、統
合性の確立は不可能と言ってよい。
我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統合性 の確立 無私 無我)
(追記)
(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後であ
る。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。
その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。
この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボランティア
活動をしたところで、意味はない。
身につかない。
……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではな
い。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。
孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。
しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。
もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめることがあ
る。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。
(付記)
統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問して
みるという方法がある。
「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。
ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ず
るときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。
それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。
なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。
大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。
60歳をすぎれば、さらにそうである。
我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「無」
統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。
で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」が、一
致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。
一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。
(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)
釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)
一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。
サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【自由であること】2009年記
+++++++++++++++++
自由であることは、よいことばかりで
はない。
自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。
その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。
それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。
+++++++++++++++++
私は私らしく生きる。……結構。
あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。
しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに
由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるとい う意味。
毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。
話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れて
も、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらい だろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人 も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)
そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。
そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間
は、その「苦しみ」を背負ったことになる。
そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら
自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカル ト教団に身を寄せることがある。
ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようにな る。
傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結 構楽しそうである。
が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつ
きつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。
つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところ
で、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を 宣告され、死刑を執行される。
そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなも の。
こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思 える。
決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいう なら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。
そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動の ために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。
が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をも
って、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代 から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックにな っていた。
が、あるとき、そのヒントを手に入れた。
それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●真の自由を子どもに教えられるとき
私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。
「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可 能なのか……? その方法はあるのか……?
一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。
●無条件の愛
息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。
息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。
その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声 が震えた。
息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。
英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその
愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。
●息子に教えられたこと
「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け 入れるということ。
「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。
死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。
その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここで いう「自由」ではない。
自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ るがままに生きる』ことをいう。
だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。
しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●釈迦の説く「無」
では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記
●生・老・病・死
+++++++++++++++++
生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。
四苦八苦の「四苦」である。
では、あとの4つは、何か?
+++++++++++++++++
生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。
(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。
(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみ
をいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。
簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、
行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。
こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの 原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。
(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。
(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかとい
えば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、 その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ね
はん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。
原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。
+++++++++++++++
●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」
大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな い、と。
この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。
たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの 光の信号が集合されているだけ。
私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。
しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。
こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。
釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成され
たと言われている。
釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。
ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経 典も、できあがっている。
しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何 もないのではないか、と。
たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。
同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではな いか。
こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。
さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大 地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。
そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。
私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。
●自分をみがく
そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、 正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。
が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。
八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。
しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな いか。
で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必 要かもしれない。しかし、私は、ごめん。
大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると か、そういうことはありえない。
その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲 気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。
だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる 必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。
私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす るかもしれない。
しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる 意味がある。
今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)
+++++++++++++++++++
もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。
+++++++++++++++++++
●正精進
釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。
が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。
怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。
で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努 力、思念、瞑想」とある。
このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感 がともなう。その緊迫感を大切にする。
ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい る。
方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分 の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。
しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える という行為を避けようとする。
このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの 子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。
子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。
考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20 年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。
ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな い。
日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。
つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。
さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶 対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て る。
こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)
【補足】
子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。
++++++++++++++++++
話をもとにもどす。
あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であ
ることの限界、つまり死の克服を考えた。
この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここ
に、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●欲望の克服
私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。
ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹になってい
る、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。)
人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともない。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。
自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだろう。
「もちろん、そうです」と。
が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。
●では、どうするか
ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。
ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨みや
ねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。
が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。
……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。
結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。
ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)
(補記)2010年7月記
●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)
+++++++++++++++++++++
人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。
+++++++++++++++++++++++++
●ある女性(67歳)
ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真
論編)。
『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み
怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇 高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも 悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。
恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。
ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。
まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。
●復讐
恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)
「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。
子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。
●詐欺
自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。
しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。
こんな人がいた。
当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。
ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。
で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。
●心的エネルギー
(恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。
私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8〜10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)
が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。
●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』
私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。
実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。
しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。
最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。
●Henry Fosdick
英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。
The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)
●結論
いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。
そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけていく
かということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。
釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。
●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 新少林寺 空 無の概念 正見、 正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 四苦八苦 仏教 は やし浩司 怒り 恨み)
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●11月27日(朝記)「己との闘い」
++++++++++++++++++++
寒さが少し緩んだ。
起きるとすぐ、そのままウォーキングマシンの上に。
30分、歩く。
時速6キロ。
結構な速さである。
ときどき足がもつれる。
書斎に入ったのが、午前6時5分前。
あたりはまだ真っ暗。
メールを読み、ニュースに目を通す。
日曜日の朝ということもあり、とくに目新しい記事はなし。
ただアフリカのジンバブエで、象が200頭死んだという記事が気になった。
猛暑と渇水が原因という(新華社)。
「毎週100頭の割合で死んでいる」とも。
その象の数。
毎年、減少している。
ウィキペディア百科事典によれば、
1970年代……2,700,000頭、
1980年 ……1,000,000頭、
1988年 …… 620,000頭と推定されている。
1995年 ……約280,000頭が確認され、580,000頭と推定されている、とある。
この数字が正しいとするなら、この1970年から1995年までの間に、
270万頭から、58万頭に減ったことになる。
約4〜5分の1。
2000年に入ってからはどうなのだろう。
+++++++++++++++++++
●夢
今朝も、起きがけに何かの夢を見ていた。
見ていたが、思い出せない。
時間がたつと、乾いた砂が風に舞うように、記憶が消えていく。
何の夢だったのだろう。
どうしても思い出せない。
ただここで言えることは、同じような夢は、めったに見ないということ。
毎朝、違う。
今朝見た夢も、また別の夢だった。
脳がもつ奥深さに、改めて驚く。
●兄
数年前、兄が他界した。
子どものころから、体が弱かった。
それもあり、9歳年上の兄だったが、兄弟関係がいつの間にか逆転した。
私が兄、兄が弟。
そういう関係になった。
晩年の兄は、うつ病になっていたと思う。
人は認知症になったと言ったが、頭はしっかりとしていた。
老人のうつ病と認知症は、専門医でも区別がむずかしいという。
それはさておき、その兄からは電話がよくかかってきた。
いつもこう言った。
「お客さんが、ござらん(=来ない)」と。
兄は兄なりに、不安だったのだろう。
さびれいく町に、さびれゆく商店街。
そういう中にあって、兄は当時、65歳を過ぎていた。
その兄が、昨日、夢の中に出てきた。
その夢のことは、よく覚えている。
……あの町の通りを2人で歩いていた。
私が兄の腕を片側から支えていた。
その兄がこう言った。
「お客さんが、ござらん」と。
いつもの口癖である。
私はそれを聞き、精一杯気丈夫なふりをしながら、こう言った。
「心配せんでもいい。何とかしてやるから」と。
●貧乏
貧乏が、こわいというのではない。
貧乏に至る負け戦が、こわい。
とくに商店街では、貧乏は長い時間をかけ、ゆっくりとやってくる。
ジワジワ、ジワジワ……と。
5年とか、10年とか、それくらい長い月日をかけて、やってくる。
それがこわい。
人はこう言う。
「先を読め」「先手を打て」「頭を切り換えろ」と。
あるいはさらに無責任な人になると、こう言う。
「それも時代の流れ」と。
しかしそれは言葉。
実際には、「明日は何とかなるだろう」という甘い期待を抱きつつ、毎晩床に入る。
が、その明日も、昨日と同じ。
これを繰り返しているうちに、5年とか10年とかが過ぎてしまう。
●シャッター街
私の実家には、シャッターこそなかった。
ガラス戸と薄いカーテンだけ。
しかしいつの間にか、ガラス戸は閉まり、カーテンも閉ざされるようになった。
だからというわけでもないが、私は「シャッター街」という言葉を耳にするたびに、その言葉がド
シリと胸に響く。
響くというより、胸をつぶす。
外から見ればただのシャッター街だが、その向こうに商店主だった人たちの重苦しい思いを
感じてしまう。
負け戦はつらい。
本当につらい。
真綿で首を絞めるような閉塞感。
いくら虚勢を張り、明るく振る舞っても、その笑い声は地には着かない。
先の見えない不安感。
孤独感。
「私は何をしてきたのだろう」という自己否定。
来る日も来る日も、それと闘う。
●強迫観念
私は社会に出てから、懸命に働いた。
仕事をしたくて、働いたわけではない。
貧乏がこわかった。
貧乏になるのが、こわかった。
だからといって、金持ちになったわけではない。
振り返っても、私が受け取った(他人のお金)は、ほとんどない。
子どもたちの出産時に手にした、それぞれ10万円前後の祝い金。
それに義父が亡くなったとき受け取った、10万円。
それだけ。
だからいつも孤立無援。
失敗が許されないという孤立感。
ただひたすら、がむしゃらに働いた。
それが今でも、私が見る夢の原点になっている。
そう、悪夢といえば、電車やバスに乗り遅れる夢。
ホテルで寝過ごして、飛行機に乗り遅れる夢。
そんな夢ばかり。
心理学的では、強迫観念という言葉を使う。
医学的には、不安神経症という言葉を使う。
どちらでもよい。
私は子どものころから、そういう不安感から抜け出すことができないでいる。
きっと兄もそうだったのだろう。
「お客さんが、ござらん」と。
●戦争
が、だれの責任でもない。
父や母にしても、あの時代を懸命に生きてきた。
もし悪いとすれば、あの戦争。
あの戦争が悪い。
戦後生まれの私だが、みな、あの戦争の後遺症を傷深く背負っていた。
それが姿、形を変え、私の「心」となっていった。
だから今でも、こう思う。
イラクにせよ、アフガニスタンにせよ、仮に戦争が終わっても、その後遺症は、何世代にも渡
ってつづいていくのだろうな、と。
罪もない、子どもたちが、将来に渡って苦しむだろうな、と。
兄が子どものころから体が弱かったのも、元はと言えば、栄養失調。
兄が育った時代の日本には、満足な食糧すらなかった。
●「やっと死ねる」
64歳になった。
その今でも、こう思う。
「いつになったら、平安が訪れるのだろう」と。
……というか、もうとっくの昔にあきらめた。
だから今は、こう言う。
「死ぬまでつづくだろうな」と。
だから去年の正月に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねる」と。
死にまつわるはずの恐怖感は、まったく感じなかった。
「やっと死ねる」という感じに近かった。
ただ不要な心配をかけたくないので、その理由について書いておく。
そのとき、何か大病があって、倒れたというわけではない。
私はときどき、不用意に首をひねったようなとき、後頭部にはげしい神経痛を覚えることがあ
る。
(重篤な病気の前兆ということも考えられるが……。)
そのときはそれが、いつもになくひどかった。
それが原因で、廊下に倒れた。
●平安
仏教で言えば「執着(しゅうじゃく)」。
心理学で言えば「固着」。
俗な言葉を借りれば、「こだわり」。
これを取り除かないかぎり、私の心に、平安は訪れない。
それはよくわかっている。
「心の傷」というのは、そういうもの。
ただ誤解してはいけないことがある。
心の傷などというものは、だれにでもある。
ない人はいない。
みな、ある。
それに気づいている人もいるが、気づいていない人もいる。
気づかないまま、いつもそれに振り回される。
同じ失敗を、繰り返す。
だから今は、そういう相談があるたびに、こう言う。
「心の傷なんてものは、死ぬまで消えませんよ。
仲よくつきあっていくしかないですよ」と。
●精進
今朝の夢も、悪夢に近かった。
よく覚えていないが、いやな夢だった。
断片的に覚えているのは、どこかの部屋にいたこと。
ガラス窓が見えた。
……あとは、覚えていない。
そう、その悪夢にしても、私はこの先、死ぬまで仲よくつきあっていくしかない。
脳というのは、そういもの。
いくら楽しい思い出で上書きしても、その上書きを突き破って、古い思い出が顔を出す。
しかも皮肉なことに、加齢とともに、上書きされた部分が、どんどんと崩落していく。
いやな自分に逆戻りしていく。
だから……と書くと、安っぽい映画の主題のように思う人もいるかもしれない。
しかし結論は、ひとつ。
だから、日々に精進あるのみ。
日々に鍛錬し、前向きに生きていく。
己(自分)に負けたとき、負け戦は、本当に負け戦になってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。
……ということで、今朝も始まった。
先ほど(7時過ぎ)、ワイフが茶を届けてくれた。
それをゆっくりと飲みなおす。
時刻は午前7時半。
もう1時間も、過ぎた。
みなさん、おはようございます。2011/11/27朝記
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●11月27日・日曜日・(恩師の1周忌)『六趣輪廻の因縁』
+++++++++++++++++++++++
起きたときは、それほど寒くは感じなかった。
が、朝ごはんを食べるころ、急に寒さを感じた。
これはどういう現象によるものなのか。
その間、書斎の机に、2時間ほど向かって座っていた。
途中、ワイフがやってきて、茶を出してくれた。
が、私は書斎では、暖房器具を使わない。
ストーブも使わない。
脳みそには、暖気は強敵。
足を暖めただけで、眠くなってしまう。
が、台所では、ストーブがついていた。
気温も22度もあった。
が、それを寒く感じた。
脳みそはともかくも、肉体は、怠けるとすぐ新陳代謝を止めてしまう。
あるいは頭が熱くなると、体は冷えるのか。
どうであるにせよ、寒い!
++++++++++++++++++++++
●老眼用(装着)メガネ
今、恩師の一周忌に向かう車の中にいる。
自宅から車で、1時間。
昨日買った、老眼用のメガネが役に立っている。
老眼用のメガネというのは、ふつうのメガネの上にさらに装着して使うメガネのこと。
「1・5度」という度数が書いてあるが、どういう意味なのか、よくわからない。
それをつけると、車の中でもパソコンの文字が、楽に読める。
●1周忌
昨年の葬儀のときも、寒かった。
今日も、寒い。
が、あれからもう1年。
早いというより、恩師の死が、遠い昔のできごとのように思われる。
いろいろあった。
3・11大震災。
原発事故。
タイの大洪水。
EUの金融危機などなど。
この1年で、日本を取り巻く環境は、一変した。
その恩師。
いつも私の原稿を、私のワイフよりもていねいに読んでくれた。
心の奥底をいかに包み隠して書いても、恩師だけはそれを読み取ってくれた。
●1号線
国道1号線は、この20年あまり、ほとんど変わっていない。
側に並ぶ店も、店の名前も、20年前のまま。
「なあ、一周忌のあと、どうする?」と私。
「うん、帰るよ」とワイフ。
たった今、3、4台の大型バイクが、目前を左から右へ、大きくカーブして横切っていった。
「寒くないのだろうか?」と、それを見やりながらそんなことを考えた。
空は灰色。
雲の境目が見えない。
一面、ボヤーッとしている。
私は冬の寒さも、冬景色も、嫌い。
気分まで、重くなる。
●「歩こう会」
気賀の駅を通り過ぎたところで、「歩こう会」※の人たちを追い抜いた。
かなりの人数である。
そういう人たちが、駅から、気賀の関所を通り抜け、突き当りの本陣宿のあたりまで、ずっと並
んで歩いていた。
全部で、4、500人はいただろうか。
まばらだが列は、数キロ先までつづいていた。
私たちもよく「歩こう会」に出るが、これほどまでの人数は見たことがない。
JRかどこか、大きな団体が企画した「歩こう会」なのだろう。
それにしても、すごい。
まるで祭りの日の人出のよう。
(注※:あとで参加者の1人に聞くと、JR主催の「さわやかウォーキング」の会の人たちというこ
とがわかった。)
●船酔い
メガネのせいか?
少し船酔いに似ためまいを感じた。
……ここでいったん、パソコンを閉じる。
それにしても、TOSHIBAのR631は、よいパソコンだ。
開いているだけで、指先がもぞもぞしてくる。
ただ残念なのは、私はこのパソコンを発売日の11月11日に買った。
が、それから2週間もたっていないのに、価格が3万円近くも下落した。
ワイフは「少し待っていれば、安く買えたのに……」と言った。
……そういうものでもないのだが……。
パソコンの価格は、それをどう使うかで決まる。
いくら安くても、使わないものは、使わない。
たとえばこの5月に、DOCOMOで携帯端末を買ったとき、ミニパソコンをおまけにくれた。
が、そのパソコンは、ほとんど使っていない。
机の上のゴミになっている。
これについてもワイフは、こう言う。
「だれかにあげたら……?」と。
しかしパソコンというのは、人にあげるものではない。
リカバリーすれば安心だが、そうでなければ、人にあげるものではない。
どこからどのような情報が他人に漏れるか、わかったものではない。
それがこわい。
●法要
1周忌には、家族全員と親類。
それに恩師の仲間たち、30〜40人が集まっていた。
ワイフと控室で待っていると、横に私と同年齢らしき男性が座った。
その男性が、この1年のことをあれこれ話した。
そして「今は、どこも不景気です」と顔をしかめた。
S社(自動車会社)のエンジン部品を製造しているという。
日本でしか作れない部品だから……と安心していたが、3・11大震災、タイの大洪水のあと、
S社は、同じ部品をアメリカの工場に発注してしまったという。
「1年前に戻りたいですよ」と、2、3度、同じことを言った。
どこもかしこも、不景気。
そんな話ばかり。
●臨済宗
1周忌は、臨済宗で執り行われた。
いつものチン・ポン・ジャランはなかった。
その代わり、木魚(もくぎょ)が叩かれた。
ポクポクポク……。
その響きが心地よかった。
久しく正座などしたことがなかったのに、どういうわけか、足が痛くならなかった。
どうしてだろう?
ときどきワイフが心配して、私の足の心配をした。
●法事
1周忌の法事は、1時間足らずですんだ。
私とワイフは、喪主である恩師の奥さんに別れを告げ、寺を出た。
水色の空に、飛行機雲が何本か走っていた。
ワ「どこかへ寄っていかない?」
私「いいよ」
ワ「コンビニはどう?」
私「ミニストップなら、中で食事もできる」と。
結局、私たちは「ガスト」という店に寄った。
日曜日ということもあり、店中は、子ども連れの夫婦で混雑していた。
にぎやかというより、幼稚園の参観日のような雰囲気だった。
私たちは10分ほど、玄関先の長椅子で待ったあと、席に着いた。
で、こんなことがあった。
ガストに入る前、「歩こう会」の夫婦とすれちがった。
そのとき私はこう聞いた。
「どこの会ですか?」と。
妻のほうが、こう答えた。
「さわやかウォーキングです」と。
で、私は「JRの……?」と聞き返したら、数歩先を歩いている夫のほうが、妻を叱った。
「おい、いいから、行くぞ! 放っておけ!」と。
妻はそそくさとその場を離れながら、「JRです」と。
困ったような笑顔が印象的だった。
どこの世界にも、このタイプの夫はいる。
60代、70代の夫婦となると、ほとんどがそうであると言ってよい。
が、どうしてそんなに威張れるのだろう?
威圧的。
昔の武士がどんなだったかは知らない。
しかし武士そのもの。
●ガスト
飲食店は、どこも大不況という。
しかしガストの混み具合を見ていると、「?」と思ってしまう。
なぜこうした店は流行(はや)るのか?
それは私自身の心の中をのぞいてみるとわかる。
(1)安い。
(2)早い。
(3)安心。
(4)おいしい。
(5)清潔。
(6)サービスよし。
「安心」というのは、ガストなら、どこへ行っても同じ味を楽しむことができる。
料金も同じ。
個人経営の店は、(今ではほとんど残っていないが)、その「安心」がない。
実はおけいこ塾も同じ。
学習塾でもよい。
どこかクセのある塾よりは、大手塾のほうが「安心」。
そのため今では、中小塾は、どこも経営がきびしい。
というより、ほとんどが今、開店休業状態。
で、親たちは、チラシを見て、塾を選ぶ。
1色刷のチラシでは、生徒は集まらない。
3色刷のチラシでも、むずかしい。
「4色刷でないと、集まらない」という。
が、個人の塾では、4色刷のチラシを作るのは、経済的にも不可能。
勝敗は、そのとき決まる。
……ガストのメニューは、ほとんどが4色刷。
カラフルであか抜けている。
それをワイフに話しながら、「これは3色刷……。これが4色刷……」と教えてやった。
ワイフはそれを見比べながら、「3色刷になると、ちゃっちぽくなるわね」と言った。
●帰り道
ガストを出たのが、12時45分ごろ。
今は帰りの車の中にいる。
「どこか、温泉でも行きたいね」と私。
「そうね」とワイフ。
……帰り道、床屋へ寄っていく。
髪の毛がかなり伸びた。
「あの店?」とワイフ。
「うん」と私。
私のようなシルバーは、1400円で調髪してもらえる。
そういう店が、私の家の近くにある。
●意識
今朝、夢について書いた。
意識の奥深くから沸き起こってくる夢。
その深遠さについて書いた。
たとえて言うなら、意識というのは、卵でいうなら殻のようなもの。
脳の大部分は、無意識の世界にある。
それについてワイフの話すと、こう聞いた。
「意識って、そんなに薄っぺらいの?」と。
で、私は、こんな例を話した。
たとえば私は、過去、何千人もの子どもたちを教えてきた。
同時に、同じ数だけの親たちに会ってきた。
それもあり、街中を、30分も歩くと、かならずといってよいほど、1人や2人、顔見知りの人に
出会う。
その瞬間のこと。
名前も、いつどこで出会ったかも思い出せない。
しかし顔を見た瞬間、ふと懐かしさがこみあげてくる人もいれば、反対に不快な思いが心をふ
さぐこともある。
心のほうが、先に反応してしまう。
よい思い出のある親や子どもに会うと、懐かしさがこみあげてくる。
悪い思い出のある親や子どもに出会うと、不快な思いがこみあげてくる。
名前や、いつどこで出会ったかを思い出すのは、そのあと。
あいさつをしたり、知らぬ顔をして通り過ぎたりしたあと、「あのときの……」となる。
つまり意識としては覚えていなくても、その何十万倍(あるいは何百万倍かもしれない)、
別の心が先に反応してしまう。
私であって、私でない別の心が、先に反応してしまう。
心(=脳)というのは、そういうもの。
夢というのは、その何十万倍(あるいは何百万倍)もの世界から、湧き起きてくる。
もし意識で夢をコントロールできたり、その前日あったできごとのつづきのような夢を見たら、
(たまにそういうこともあるが)、精神状態がふつうでないことを疑ってみたほうがよい。
●床屋
私はいつも1000円床屋へ行く。
安いからではない。
近くにあるし、それに早い。
長くて15分程度ですんでしまう。
(洗髪を頼まなければ、10分程度。)
それに無駄な会話がないのも、よい。
こちらも話しかけないし、向こうも話しかけてこない。
洗髪を入れたりすると、1400円になる。
それでも安い。
ふつうの床屋と比べると、半分以下。
床屋にとっても、そのほうがよいのでは?
1回、4200円というと、高い。
1400円というと、安い。
だから料金を気にすることなく、頻繁に行く。
ふつうの床屋へ1回行く分で、3回、行ける。
買い物の帰りに、「ちょっと……」となる。
つまり40分近くかけ、4200円の料金を取るか。
10分ですませ、1400円にし、3回来てもらうか。
●映画『新少林寺』
家に帰ると、ワイフは洗濯物を竿にかけるところだった。
私は服を替えると、そのまま書斎へ。
が、とたんに眠気。
少し油断すると、すぐウトウト状態になってしまう。
今朝も5時半起きだった。
そのまま30分、ウォーキングマシンの上で歩いた。
ふだんなら今ごろは、昼寝タイム。
昨夜見た映画『新少林寺』と、法事で見た僧侶が頭の中でダブる。
ぼんやりしていると、どちらがどちらなのか、わからなくなる。
1時間ほどがんばってみたが、そこでギブアップ。
居間へおりていき、そのままコタツの中に。
●執着
執着を取り除くことは、重要なこと。
今日、法事で僧侶が読んだ一節に、こんなのがあった。
『六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は、己が愚痴の闇路なり』と。
「六趣因縁」というのは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に「趣く」六つの道(地獄・餓
鬼・畜生・修羅・人間・天上)をいう。
「因」はある一つの現象を起こす直接的な原因、「縁」とは間接的な原因をいう。
つまり人間は、六趣の世界を、ぐるぐる回っているだけで、そこから抜け出だすことができな
い。
その原因はと言えば、自分の愚痴によるもの、と。
が、「愚痴」といっても、私たちが日常的に使う「グチ」とは、意味がちがう。
「……仏教でいう『愚痴』は、愚癡とも表記し、仏の智恵に暗いこと、衆生の根本的無知をさす」
(大谷大学HPより)のこと。
ともあれ仏の知恵に暗い人ほど、グチを言いやすい。
愚痴は、グチでもよい。
グチを言う人は、闇路に迷っているようなもの。
その闇路から抜け出るためには、執着を捨てること。
煩悩の虜(とりこ)になっていては、いつまでたっても、闇路から抜け出ることはできない。
グチをこぼしたら、自分がバカになっていると思えばよい。
●DVD
夕食後、『タービュランス』というDVDを観ることになっている。
ワイフが数日前に、借りてきた。
「お前はDVDを観ろ。ぼくは、白隠禅師の座禅和讃をもう一度勉強する」と。
それを言うと、「あなたはDVDを観ないの?」とワイフ。
「あのなア、ぼくは天上界に入る人間だよ。お前のように、六趣輪廻の世界をさまよう餓鬼
(がき)とは、中身がちがうの!」
「ハア〜。ごちそう様」と。
で、結局私も、DVDを観ることに。
「タービュランスというのは、乱気流のことだよ」と教えてやった。
……ということで、今日の日記はここまで。
明日もがんばります。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 六趣輪廻 因縁 愚痴 闇路 白隠 禅師 座禅和讃 はやし浩司 恩師の 一周忌)
Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●11月28日(月曜日)・アメリカのEU支配戦略
++++++++++++++++++++
今朝(11月28日)のニュースを読んで驚いた。
IMFが、イタリアの金融危機を救済するため、
6000億ユーロ、つまり約62兆円の支援を
準備しているという。
62兆円!
ブルームバーグは、つぎのように伝えている。
『国際通貨基金(IMF)はイタリアの債務危機が悪化した場合に備えて、6000億ユーロ(約62
兆円)の支援を準備している、と同国紙スタンパが伝えた。情報源には言及していない。
(中略)
同紙によると、金利は4−5%で、融資額は4000億〜6000億ユーロとなる公算がある』
と。
もしこれが事実とするなら、Good Newsとまでは言わないが、世界の金融恐慌も、これで
一息つくはず。
……しかし、IMFに、そんなお金があるのか?
そのお金は、だれのものなのか?
+++++++++++++++++++++
●IMF
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある(抜粋)。
今朝は、IMFの勉強から始める。
+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++++
●IMF
英語: International Monetary Fund、IMF)は、通貨と為替相場の安定化を目的とした国際連
合の専門機関。
本部はアメリカ合衆国のワシントンD.C.。
2007年1月現在の加盟国は185ヶ国。
●managing director
「managing director(一般に専務理事と訳される)」は、理事会の議長と国際通貨基金の代表
を務める。
国際通貨基金の専務理事には欧州出身者、世界銀行の総裁には米国出身者が選出される
のが暗黙の了解になっている。
●問題点
日本の場合、大口出資国で有る等の立場から財務官僚が多く出向しており、融資が行われ
ていないにもかかわらず、「消費税を上げるべきだ」等のIMFの討議内容の報道がなされる。
これは、IMFの正式発表ではなく、財務官僚が出向者を使い、さも、まるで、IMFが全体がそ
の様に述べているかのように見せ、自分たちの都合の良いようにマスコミを通じ国内世論を操 作する道具にしている。
+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++++
●貸し倒れ?
わかりやすく言えば、IMFは、Bank of Banks(銀行の中の銀行)ということになる。
『各国の中央銀行の取りまとめ役のような役割を負う』(ウィキペディア百科事典)とある。
が、気になるのは、「総裁には米国出身者が選出」という部分と、「日本が大口出資者であ
る」という点。
つまりIMFがイタリアを救済するということは、アメリカと日本が救済するというに等しい。
その額、62兆円!
果たして貸し倒れはないのか?
ウィキペディア百科事典によれば、「かつては……成果があがらない国も多く、踏み倒しも横行
した」とある。
そこであれこれ対策は練られてはいるのだろうが、それにしても額がちがう。
本当に貸し倒れの心配は、ないのだろうか。
その前に、今の日本に、そんな余裕はあるのだろうか。
『財務官僚が出向者を使い、さも、まるで、IMFが全体がその様に述べているかのように見せ、
自分たちの都合の良いようにマスコミを通じ国内世論を操作する道具にしている』(同)という 部分も気になる。
●ネガティブ思考
ものごとはポジティブに考えたい。
今回のIMFの動きを、Good Newsと考えたい。
これでイタリアが立ちなおれば、EUの金融危機も、ひとまず遠ざかる。
またそうであってほしい。
が、私はどうしてもネガティブにものを考えてしまう。
その第一。
そんなことをすれば、ドイツのメルケル首相が心配しているように、モラル・ハザードを起こして
しまう。
怠惰な国が、ますます怠惰になってしまう。
それだけではない。
一度、保護=依存の関係ができると、それを断ち切ることは、容易なことではない。
もしイタリアが、「またつぎもIMFが助けてくれるさ」と考えるようになったら、さらに事態は悪化
する。
さらに言えば、救済の仕方をまちがえると、かえって逆恨みされる。
韓国の例をあげるまでもない。
●韓国の例
……ここで「韓国」と書いて、しかし、ピンと来た。
現在、韓国は、経済的にはアメリカの属国と化している。
銀行のほとんどは、アメリカの資本下にある。
サムスンにしても、ヒュンダイにしても、アメリカの会社と考えたほうが、わかりやすい。
が、肝心の韓国の国民は、それに気づいていない。
「働けど、働けど、我が身楽にならず」という、つまりは国民全体が、ワーキングプアの状態に
ある。
つまり韓国が現在の韓国になったのは、1997年の、あの金融危機に起因している。
……つまり、アメリカはジャパン・マネーを利用し、今度はEU支配をもくろんでいる!
●日本は……
しかしEUの金融危機は、何としても収めねばならない。
火事は火事でも、大きすぎる。
このままでは、火の粉が飛んでくるどころか、日本も延焼してしまう。
アメリカにしてもそうだろう。
が、その前に重要なことは、ドイツ自身の自腹を切らせることではないのか。
IMFのメンバーを見ると、さらにその感が強くなる。
メンバーの出身国は、つぎのようになっている。
ベルギー 1名
スウェーデン2名
フランス 5名
オランダ 1名
ドイツ 1名
アメリカ 2名(総裁を除く)
スペイン 1名
大口出資者である日本は、Managing Directorには、入っていない?
ウィキペディア百科事典によれば、そうなっている。
つまりIMFは、EUの準付属機関と考えてよい。
どうしてそんな機関で、日本が大口出資者なのか?
たいへんネガティブな見方をすれば、こうだ。
EUとアメリカは、日本のマネー(Japan Money)を使って、EUを救済しようとしている。
が、かたやその日本はといえば、お人好しのボンボン。
欧米に相手にしてもらえただけで、大喜び。
日本の官僚たちにしても、まさに特権階級。
日本が破産しても、食いはぐれることはない。
(戦後直後にしても、またあの3・11大震災直後にしても、官僚+役人たちだけは、満額の給
料が支給されていた。
文部省(終戦直後当時)の役人にしても、クビになった役人は、1人もいない。)
●大国意識は捨てよう
果たしてGood News なのか?
それともBad Newsなのか?
私には、わからない。
もともと狂った世界の話だから、このままさらに狂っても、私は驚かない。
しかし今回も、最後のババを引くのは、この日本。
IMFへの出資金にしても、もとはといえば、日本が戦後、懸命に働いてためたお金。
EU(=IMF)にしても、仮に貸し倒れになっても、(そうなる可能性はきわめて高いが)、痛くも
かゆくもない。
日本よ、日本人よ、こんなお人好しは、もうやめよう。
大国意識を捨て、もう一度、原点に立ち戻り、そこからはい上がろう。
このままでは、EUよりも先に、日本が沈没してしまう。
……今朝の私のものの考え方は、やはりネガティブか?
ただの杞憂か?
今日の日本の株価は、IMFの発表を受け、急上昇に転ずるはず。
ノー天気な日本、ここに極まれり。
みなさん、おはようございます!
2011/11/28朝記。
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●闇路に迷う愚痴人間(はやし浩司 2011−11−29朝記)
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「闇路に迷う愚痴人間」。
まさにその通り。
「愚痴」というのは、「法を知らない愚かな」という意味。
「法」とは、すなわち、「仏法」をいう。
つまり私のこと。
+++++++++++++++++
●週刊現代を読む
昨日、夕食のあと、空き時間があった。
『週刊現代』(2011・12・10)を読む。
改めて、60歳以上の人たちが置かれた立場のきびしさを実感する。
うすうすわかってはいたが、具体的な数字で示されると、衝撃も大きい。
働くといっても、60歳以上の人には、満足な仕事すらない。
ほんの少し前には、少子化による労働力不足が叫ばれた。
が、今は、仕事そのものがない。
働きたくても、また働かなければならなくても、仕事そのものがない。
●ターニング・ポイント
円高から、円安へ。
そのあとこの日本は、一気にハイパーインフレの時代へと突入する。
そのターニング・ポイントはいつか。
その目安となるのが、日本国債の応札倍率と利回り。
国債の利回りが、急激に上昇し始めたとき、あるいは上昇したときが、あぶない。
先日のドイツのように応札倍率が、1倍に満たないとき、つまり「札割れ」したときも、あぶな
い。
そのとたん……というより、その瞬間から、日本は一気に円安に向かう。
●札が紙くずに
日本の国家債務が、1000兆円。
地方債務を含めれば、その額は、もっとふくらむ。
国家税収(=収入)が40兆円余りだから、その25倍ということになる。
たとえて言うなら、年収が400万円の人が、1億円の借金を抱えているに等しい。
見た目には豊かでも、中身はガタガタ。
が、私はこの数字を逆に読む。
「日本は、実際には、25年前に逆戻りしてもおかしくない」と。
つまり2011−25=1986年。
1986年だぞ!
それ以後の日本は、まさに砂上の上に築いた楼閣のようなもの。
わかりやすく言えば、1986年以後築いた財産などは、すべて失っても文句は言えない。
●1986年(昭和61年)
1986年という年は、どんな年だったのか。
講談社の「20世紀全記録」によれば、つぎのようにある。
1月……「チャレンジャー」爆発……砕かれた宇宙開発の夢、7人、全員死ぬ
2月……「ピープルズパワー」……マルコス追放
3月……(とくに目立ったニュースなし。)
4月……ハレー彗星接近、そしてあの「チェルノブイリ原子力発電所・爆発!」
5月……チャールズ英皇太子、ダイアナ妃と来日
6月……(とくに目立ったニュースなし。)
7月……ワールドカップ・アルゼンチン優勝……マラドーナの5人抜き
8月……タイタニック号を撮影、円高1ドルが152円に
9月……(とくに目立ったニュースなし。)
10月……第10回、アジア大会、ソウルで開催
11月……レーガン・ゴルバチョフのレイキャビク会談失敗、三原山209年ぶり噴火
12月……数十年ぶり、ヨーロッパ全土に大寒波襲来
「チェルノブイリ原子力発電所・爆発」と書いたとき、心底、ドキッとした。
それから25年。
この日本でも、同じことが起きた!
●精神
しかし60歳以上の人には、さらにきびしい現実が待ち構えている。
仕事だけが問題ではない。
どう精神的に自分を支えていくか……。
実は、こちらの問題のほうが、大きく、かつ深刻。
たとえて言うなら、目的地のわからない暗い夜道を歩くようなもの。
その先に待っているのは、断崖絶壁。
それでも死ぬこともできず、ただひたすら歩きつづける。
そういう中で、自分をどう精神的に支えていくか。
●IMFへの出資比率
昨日、IMFについて書いた。
「日本は大口出資者なのに、ディレクター(理事)のメンバーに加えられていないのはおかしい」
と。
そこで調べてみた。
「大口」(ウィキペディア百科事典)とは、何か。
「間違いだらけの金融知識」サイトにそれが、あった。
……2010年11月5日の理事会で、IMFは新しい出資比率の改定を承認した。
この承認案は2012年の発効を目指しており、また、出資金総額も7557億ドル(約61兆円)
にほぼ倍増される予定。
背景には、ギリシャやウクライナなどへの金融支援によって、資金基盤の増強が急務であるこ
とがあげられている。(以上「間違いだらけの金融知識」より)
(以下、出資比率、単位は(%))
1位 米国 17.407
2位 日本 6.464
3位 中国 6.394
4位 ドイツ 5.586
5位 フランス 4.227
6位 英国 4.227
7位 イタリア 3.161
(以下、つづく)
日本の出資率は、6・464%。
出資金は、61兆円x0・06464=3・94兆円となる。
「今回の増資による出資金は約2兆円」(同サイト)とある。
その後、それだけの出資金を支払ったかどうかは知らない。
(たぶん、日本のことだから、支払ったにちがいないが……。)
「お金がない」と言いながら、どうして日本は外国では、こんなに気前がいいのだろう。
数週間前には、野田首相は、東南アジアで2兆円もばらまいてきた。
●お金
お金で人を助けてはいけない。
助けた方は、「相手は感謝しているはず」と考えがち。
しかしその相手は、その場だけ。
ばあいによっては、逆恨みされる。
「返せ」と言えば、そのとき人間関係は終わる。
が、それだけではない。
一度、保護・依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
助けてもらうほうは、いつまでも、それを当然ととらえる。
国際関係を見ていると、それがよくわかる。
あの3・11大震災のときも、民間の義援金の話は耳にした。
とくに台湾からの義援金は、突出していた。
しかしどこかの国が、国として復興費用を支援してくれたという話は聞いていない。
日本は、今まで何をしてきたのか。
そのつどそれぞれの国で、1兆円単位のお金をばらまいてきた。
受け取る方は「Thank You」と言うかもしれない。
しかしいつもそのままで終わってしまう。
●親子でも
親子でも、お金の貸し借りはしてはいけない。
息子や娘のほうは、必要になるたびに、こう言う。
「就職したら返すから」「給料があがったら返すから」と。
が、いまだかって、そういう息子や娘が、親にお金を返したという話も聞いたことがない。
で、親がいよいよ生活に困るようになって、息子や娘にこう言う。
「そろそろ少し返してくれないか?」と。
とたん息子や娘の態度が豹変する。
「家でも土地でも、売ればいい」と。
「お父さんには年金があるだろ」と、息子に直接言われた知人もいる。
さらに「お前は見返りを求めて、オレたちを育ててきたのか」と、息子に怒鳴られた知人もい
る。
今、親子の関係も、ここまで希薄になっている。
●どうでもなれ!
現世に執着するかぎり、私たちはこの闇路から抜け出ることはできない。
抜け出るためには、執着、あるいは執着心を捨てなければならない。
執着があるから、迷い、悩み、苦しむ。
が、ひとたび執着を捨ててしまえば、前の道が、パッと明るくなる。
わかりやすく言えば、「どうでもなれ!」と宣言すればよい。
自分の命すらも、この宇宙という大自然界に託す。
……とまあ、口で言うのは簡単なこと。
しかし実際、そこまで割り切らないと、この複雑怪奇な世界では、楽しく生きていくことはできな
い。
「どうでもなれ!」と。
●闇路に迷う愚痴人間
今日も闇路に迷う。
明日も闇路に迷う。
今までも闇路に迷ってばかり。
いつになったら、執着から解放され、安穏の世界に入ることができるのだろう。
そこにある「現実」を前にすると、かけ声ばかりで、前に進まない。
「とりあえずすべきことは……」と考えたとき、思いつくのは「生活」のことばかり。
「この原稿を書くのが終わったら、30分、運動をしよう」
「今日は胃の調子がよくないから、節食しよう」
「明後日からの教材の準備を始めよう」
「為替の様子を見て、現金を現物資産に交換してこよう」
「AさんとBさんに、暮れの付け届けを送ろう」
「年賀状のデザインを考えよう」などなど。
『六趣輪廻(りんね)』に振り回されながら、それに抵抗する術(すべ)もない。
こんな私には安穏の世界など、夢のまた夢。
ドロドロした現実の中で、今日もこうして生きていく。
ア〜ア!
では、みなさん、おはようございます。
こうして私は、すでに1時間も、命を無駄にしてしまった。
もう一度、ア〜ア!
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●11月30日朝記
++++++++++++++++++
今朝は、8時半起き。
昨夜は久しぶりに、睡眠導入剤というのをのんだ。
1錠ものむと、頭がおかしくなるので、いつも4分の1とか、
8分の1とかにして、のんでいる。
それでも朝まで、ぐっすりと眠れる。
「頭がおかしくなる」というのは、起きがけに、夢とも現実とも
区別のつかない夢を見ることをいう。
今日の講演は、午後7時から。
それで睡眠導入剤をのんだ。
++++++++++++++++++
●講演レジュメ(概要)
おととい、今夜の講演のレジュメ(概要)ができた。
「やっと……」という感じ。
……といっても、講演の「柱」のみ。
あとは、その場の雰囲気で決める。
私にとって講演というのは、そういうもの。
中にしっかりとした原稿を用意する人もいる。
私も何度か、それを試したことがある。
しかしそれでは聴衆の心をつかむことができない。
ザワついてきたなと感じたら、さっと話題を切りかえる。
そんな芸当も、講演では必要になる。
それに今日は、夜の講演ということで、父親も多いはず。
そういうときは、父親用の話も用意する。
年配の人が多いときは、年配の方用の話も用意する。
それぞれの分量は、そのとき決める。
が、この浜松市では、今年最後の講演会。
力んではいけない。
気合いを入れすぎてもいけない。
普段着で普段話をするつもりで、講演をする。
それが肝心だが、このサワサワとした緊張感は、どうしたものか。
「最後の講演会」という部分で、かなり緊張しているよう。
自分でもそれがよくわかる。
午後からは、運動を2単位こなし、夜に備える。
●酷評
YOUTUBEのほうに、ときどき、辛らつな酷評が書き込まれる。
昨日も、同じ女性から、3通も書き込まれた。
pxxxx04という女性からのものだった。
匿名だから、何とでも書ける。
が、待ったア!
匿名といっても、その気になれば、その女性を特定することは簡単。
まずその「pxxxx04」で検索をかける。
同じハンドルネームをあちこちで使っていることが多い。
検索をかけると、やはり同じハンドルネームで、4〜5本のBLOGを発行しているのがわかっ
た。
そのうちのひとつには、プロフィール欄のところに、「45歳」「女性」とあった。
BLOGのタイトルは、『〜〜ママの〜〜日記』。
いくつか記事を読むと、その中に地名が書いてある。
それでおおよその住所がわかる。
「先日、近くの〜〜庭園へ行ってきました」とか。
さらに記事の内容から、ある特殊な花の栽培に興味をもっているのがわかった。
あとは、その地名と、その花の名前で検索をかければよい。
案の定、その花の専門BLOGに、その女性とのやり取りが書き込まれていた。
こうして私はその女性が、「X県Y町に住んでいる、MR」と、実名(名字)まで知ることができ
た。
時間にすれば、5分もかからなかった。
が、それでも相手がわからないときは、特殊なフリーソフトを使う。
それを使うと、IP番号から、その人の住んでいる住所を、町名程度まで特定できる。
この方法はきわめて簡単で、ドラク→コピー→張りつけ→Enterキーで、すんでしまう。
その方法でも、「X県Y町」という地名が出てきた。
(フリーソフトは雑誌などに紹介されている。)
だから返事には、こう書いた。
「幼児教育歴42年になる者です。
きびしいご意見ありがとうございました。
はやし浩司」と。
「教育歴42年」とわざわざ書いたのは、書き込みに「どこのド・シロートか知らないが、偉そう
なこと、ヌカスナ」とあったから。
……ということで、不愉快な書き込みに悩んでいる人も多いかと思う。
そういうときは、ここに書いたことを参考に、相手を調べてみたらよい。
どこに住んでいる人間かがわかるだけでも、気が楽になる。
(=不気味さが、消える。)
また匿名で書き込みをすれば、正体はバレないはずと考えている人もいるかもしれない。
が、今では、かなりのところまで特定できる。
ものを書くなら堂々と、実名を公表して書いたらよい。
(私は、そうしているぞ!)
●復習
講演の話に戻る。
今夜の講演では、(1)善悪論、(2)共鳴性、それに(3)もうひとつの話をすることになってい
る。
が、(3)の部分で、つぎの2つのうちのどちらにするかで、迷っている。
(1)自我の同一性にするか、(2)心の抵抗力にするか。
どちらも似たような話だが、切り口がまったく逆。
どちらにしようか。
過去に書いた原稿をさがしてみる。
++++++++++++++++++はやし浩司
2007年に書いた原稿が見つかった。
++++++++++++++++++はやし浩司
【子どもを非行から守る法】
●時事・雑感(Yahoo Newsより)
●性描写漫画の規制条例が成立(東京都)(注※1)
石原都知事が言っているように、こんなことは、当たり前。
石原都知事は、こう言った。「当たり前。日本人の良識だ。
子どもにあんなものを見せられるのか」と。
ただし今となっては、焼け石に水。
手遅れ。
子どもたちの世界は、さらにその先に進んでいる。
漫画やアニメではなく、そのものズバリのDVDを見ている。
また近くに高校があるが、日暮れ時になると、目のやり場に困る。
高校生たちが、木陰の隅のあちこちで抱き合っている。
少し前までは、まだ隠れながらしていた。
が、今は、堂々というか、車のライトに照らされても、平気。
で、その話を、ある中学校教師(中高一貫校)に話すと、こう言った。
「ここ数年、さらに低年齢化してますよ」と。
驚いていると、「放課後なんか、使われていない部屋や道具置き場は、ラブホテル
みたいです」とも。
ほとんどの男子高校生は、コンドームを持ち歩いている。
携帯電話と同じ。
必携品。
「何も今さら……」というのが、私の実感。
こうした規制は、20年近く前、「PT」という女子向き雑誌が、
国会で問題になったとき、しておくべきだった。
が、これに対して、いくつかの団体が、猛反発。
「表現の自由、言論の自由の侵害」「捜索活動を萎縮させる」と。
しかしこういうのを、表現の自由とは言わない。
言論の自由を盾に取って守らなければならない、自由でもない。
むしろ逆。
表現の自由とか、言論の自由とか、そういう言葉を使って、自分たちの
醜い商業主義をカモフラージュしているだけ。
日本には、モラル、哲学、宗教がない。
ないから、法律で規制するしかない。
たとえば援助交際にしても、話題にのぼらなくなったのは、それがなくなったからでは
ない。
あまりにも日常的になり過ぎたからにほかならない。
それがわからなければ、その時間帯(夕暮れ時)に、コンビニをのぞいてみること。
コンビニが待ち合わせ場所になっている。
携帯電話を片手に、女子中学生や高校生が、あやしげな車につぎつぎと乗り込んでいく。
世界でも、ここまで退廃した国は、そうはない。
+++++++++++++以下、Yahoo Newsより++++++++++++
(注※1)【性描写漫画の規制条例が成立】=付帯決議で「慎重な運用を」
過激な性描写のある漫画やアニメの販売規制を目的に、東京都が12月議会に提出してい
た青少年健全育成条例改正案が、15日の都議会本会議で民主、自民、公明各党の賛成多数
により可決、成立した。ただ、「創作活動を萎縮させる」との指摘もあるため、条例の慎重
な運用を求める付帯決議も行った。条例は来年7月1日までに施行される。共産党と生活
者ネットワーク・みらいは反対した。
+++++++++++++以上、Yahoo Newsより++++++++++++
●では、どうすれなよいか
こうした風潮を改めるには、つまりあなたの子どもをこうした風潮から守るためには、
方法は、ただひとつ。
子どもに心の抵抗力をつける。
方法は簡単。
子どもに夢と希望をもたせ、その先に目標をもたせる。
わかりやすく言えば、子どもが好きなことをできる環境を用意する。
それについては、何度も書いてきたので、その原稿を、このあとに添付する。
が、残念なことに、現在の教育環境は、子どものもつ多様性に答えるしくみになって
いない。
「学校以外に道はなく、学校を離れて、夢や希望を育てる方法もない」。
どうして欧米がみなしているように、教育を自由化しないのか。
多様な教育方法を認めないのか。
たとえばドイツやフランスでは、子どもたちはみな、クラブに通っている。
いろいろなクラブがある。
英数国社理のような基本科目は、学校で教えればよい。
しかしそれ以外の科目は、民間に任せればよい。
私が言う「自由化」というのは、それをいう。
何も学校を解体せよと言っているのではない。
+++++++++++++++
心の抵抗力について書いた
原稿をさがしてみました。
2006年に、当時の講演用に
書いた原稿です。
+++++++++++++++
【心を支える、3つの物語】
●私が「私」であるためには、3つの柱が必要です。
(1)(したいこと)を、現実に(している)という実感、つまりは自我の同一性
(2)「いつも、私は、私でいられる」という連続性、一貫性
(3)他者との関係で、いつも良好な人間関係をもつことができるという社会性。
+++++++++++++++++++
「したいことをする」という姿勢の中から、夢や希望、それに目標が生まれます。自
分の描いた自己概念と、現実の自分が一致している。それが「私」でいるための第一条件
ですね。
つぎに、どんなばあいも、私は、自分でいられる。動じない。それが「私」というこ
とになります。
また「私」は、いつも、社会というカガミの中で、映し出されます。そもそも社会性
をもたない「私」は、私ではないということです。
今回は、これら3つの柱を中心に、時間が許すかぎり、私の個人的な過去もふまえて、
子どもの心を伸ばす、3つの物語を、みなさんに、お伝えしたいです。どうか、よろしく
お願いします。
+++++++++++++++++
【意外とシンプルな、心をはぐくむメカニズム】
●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、
その先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子
どもは、その抵抗力も強くなります。
***************************
●同一性の危機(1)
万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめ
を、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしている
こと)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子
どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの
自我の同一性は、危機に立たされる。
●夢・希望・目的(2)
夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感がある
とき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。
そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」
とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。
●子どもの忍耐力(3)
同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)
を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。ある
いは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、
忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。
この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。
●同一性の崩壊(4)
同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をし
たいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私
は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それ
は「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべ
きもの。当然、子どもは、目的を見失う。
●顔のない自分(5)
同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大き
く分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻
撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。
ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースで
は、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。
●校内暴力(6)
暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さ
と)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)
をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐
れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子ども
の心理的のメカニズムは、こうして説明される。
●子どもの自殺(7)
おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあ
いは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)
を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットする
ことで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(し
ょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。
●自虐的攻撃性(8)
攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に
向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝
から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでい
るのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかり
やすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。
●自我の同一性(9)
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子
どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分が
していること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が
一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちつい
ていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。
●心の抵抗力(10)
「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子ども
は、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年
から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同
一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘い
があると、スーッとその世界に入ってしまう。
●夢や希望を育てる(11)
たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、
それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみまし
ょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。
が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言
う。「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。
●子どもを伸ばす三種の神器(12)
子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。
●役割混乱(13)
子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時
に、「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間
にか、自分の周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸
ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役
割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。
●思考プロセス(回路)(14)
しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんば
っていた子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。
しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロ
セスは、そのまま残る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入
る。中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんば
り始める。
●進学校と受験勉強(15)
たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的
になりえたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのも
のが崩壊してしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考え
やすいが、子どもにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好
きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢
をつぶす。「つぶしている」という意識すらないまま……。
●これからはプロの時代(16)
これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでた
プロのほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君
は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生
きと、自分の人生を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだ
けは、だれにも負けない」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸
ばす。
●大学生の問題(17)
現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んで
いる。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力
になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、
荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、
誘惑にも弱くなる。
●自我の同一性と役割形成(18)
子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在しているこ
と)に一致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまら
ない仕事」「そんなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子ども
が、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。
こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司●
同一性の危機●夢・希望・目的●子どもの忍耐力●同一性の崩壊●顔のない自分●校内暴
力●子
どもの自殺●自虐的攻撃性●自我の同一性●心の抵抗力●夢や希望を育てる●子どもを伸
ばす
三種の神器●役割混乱●思考プロセス(回路)●進学校と受験勉強●これからはプロの時代
●
大学生の問題●自我の同一性と役割形成 心の抵抗力 自我の同一性)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 心の抵抗力 子どもを非行から守る法 子どもの心を守る。)
++++++++++++++++++はやし浩司
●心の抵抗力
心にも抵抗力がある。
その抵抗力が弱くなると、子どものばあい、一義的には、非行に走りやすくなる。
言い換えると、非行から子どもを守るためには、心の抵抗力を強くすればよい。
つまり講演の切り口を、(1)「子どもを伸ばすこんな方法」にするか、(2)「子どもを非行から
守る、こんな方法」にするか。
3番目の話が、どうしても決まらない。
どちらにしようか……?
それは講演会場の雰囲気で決めるしかない。
これから運動を2単位(40分x2)、こなしてくる。
2011/11/30記
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●11月30日(水曜日)
風もない。
のどかな小春日和(びより)。
一匹の蛾が、半分枯れた畑の周りを飛んでいる。
左から右へと。
パラパラ、パラパラ……。
せわしない飛び方だ。
が、それを除けば、動くものはない。
葉先を照らす白い光も、今は動きを止めている。
●般若(ハンニャー)
よく耳にしているものの、意味がよくわからないまま使っている言葉というのは、多い。
「般若(ハンニャー)」も、そのひとつ。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
「般若(はんにゃ)、サンスクリット語:praj?? プラジュニャー、パーリ語:パンニャー、音写:斑
若、鉢若、般羅若、鉢羅枳嬢など)は、一般には智慧といい、仏教におけるいろいろの修行の 結果として得られた「さとり」の智慧をいう」と。
私は子どものころ、「はんにゃ」と聞いたとき、即、能面のひとつの、あの恐ろしい顔を連想し
た。
「どうしてそんな恐ろしい話が、お経にあるのか」と。
「般若」が「智慧」を意味することを知ったのは、ずっとあとのことだった。
「いろいろの修行の結果として得られた悟りの智慧」を「ハンニャー」というらしい。
が、ここまで詳しくは知らなかった。
ウィキペディア百科事典によれば、「はんにゃ」は、パーリ語の「パンニャー」に由来するという。
「般若」は、中国語(漢語)の当て字。
だから「般」とは何かとか、「若」とは何かとか、漢字からその意味をさぐっても、文字通り、意味
はない。
同じように、よく話題になるが、「南無」もそうだ。
「南無」も、サンスクリット語の「ナム」の当て字。
インド大使館の中の領事部に電話で意味を確かめたことがある。
学術部というところがある。
意味は、「Hello(こんにちは)」に相当する言葉だそうだ。
もともとは「帰依します」という言葉だったとか。
が、今は、そんなむずかしい意味で使っている人はいない。
インドでは、「ナマ(=ナム)・ステ(あなたに帰依します)」というように言い、あいさつ言葉として
使っている。
で、その「般若」。
『般若心経(ハンニャーシンギョウ)』は、あまりにも有名である。
正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』というのだそうだ。
ここでいう「心」は、「心臓」。
これは当て字ではなく、漢語の「心」を置いた。
「心臓のように重要な」という意味でそうしたらしい。
「経」はもちろん、あとで中国人が勝手につけ足した。
●中国語
多くの経典は、「仏説……」で始まる。
「仏が以下のように、……と言った」という意味である。
が、それにつづく経文は、ほとんどが当て字。
今ではYOUTUBEを使って、チベット僧たちの読経を直接聞くこともできる。
発音が、日本で聞く経典と、たいへんよく似ているのがわかる。
つまり中国人たちは、経典を、日本でいうなら英語をカタカナで書くように、自分たちの漢字を
使って、「音」を表した。
だから今、中国人に、仏教の経典を見せ、意味をたずねても、わかるはずもない。
私も若いころ、何度かそういうことをした経験がある。
つまり経典の意味をたずねたことがある。
が、みなこう言った。
「まったく、プーミンバイ(わからない)」と。
●般若心経
どうしてここで「般若」を取り上げたか?
理由がある。
先日、恩師の1周忌に行ってきた。
その席で、みなが般若心経を僧侶の声に合わせて、読経していた。
が、私はひとり、静かに座っていた。
読経できなかったのは、私だけだった。
軽い屈辱感を覚えた。
以来、……まだ数日だが、ずっと般若心経について考えている。
何度か訳本のようなものは、読んだことがある。
しかしいつも、そのあたりで、思考が停止してしまう。
これにも理由がある。
というのも、般若心経の教えは、一言で表せば、生き様が後ろ向きで、暗い。
何もかも、空しい。
何をしても、空しい。
形あるものは、すべて無、と。
が、60歳を過ぎた今は、考え方がかなり変わってきた。
「空」の意味も、「無」の意味も、おぼろげながら、わかるようになってきた。
●モノ論
たとえばモノ。
このところモノに対する執着心が、どんどんと消えていくのを感ずる。
というか、ほとんど興味がない。
衣服にしても、家具にしても、どうでもよくなってしまった。
置き物や装飾品にしては、さらにそうで、今では世話になった人に、どんどんと分け与えてい
る。
例外と言えば、パソコン関連。
パソコンも、モノはモノだが、少し感覚がちがう。
ひとつには、パソコンはモノだが、パソコンというのは、言うなれば別の宇宙への「窓
(WINDOW)」。
それにいくら高価なパソコンであっても、5年もすればただの箱。
今では2〜3年ごとに、どんどんと変化していく。
骨董品のように、あとで価値が出てくるということはない。
簡単に言えば、ただの消耗品。
●「家」意識
が、昔の人は、「家」を意識した。
だから財産としてのモノに、大きく執着した。
先祖から自分、自分から子孫へ、と。
私の母がそうだった。
(父はその反面、モノには、まったくといいほど、関心がなかった。)
そういう価値観をもっている人にしてみれば、私のような生き様は理解できないだろう。
モノが、その家の価値を、裏付ける。
「家」意識の残る昔は、そうだった。
が、私も、今から思うと、母の影響を強く受けていた。
だから若いころは、よく骨董品屋を回った。
絵画も買い集めた。
価値のあるモノは、財産だった。
しかし今は、変わった。
●時代の変化
たとえば切手にしても、古銭にしても、今では、ほとんど価値を失った。
切手などは、額面料金でしか、買ってもらえない。
江戸時代の古銭にしても、一枚いくらではなく、目方でいくらというような売買の仕方をする。
骨董品にいたっては、売ることすらむずかしい。
実際には、買ってもらえない。
実際、モノというのは、そういうものかもしれない。
私たちが「価値あるもの」と信じているものは、幻想のようなもの。
このことを即、『般若心経』に結びつけて考えることはできない。
しかしおぼろげながら、あくまでもおぼろげながら、「無」の意味がわかるようになった。
●人間電子レンジ
話題を変えよう。
数日前、あるところのある通りを歩いた。
一角がビルになっていて、その一室に、老人たち、20〜25人が椅子に並んでいるのが見え
た。
何かの健康器具の販売会のようだった。
1人の女性(45歳くらい)が、ツボマッサージ器のような器具をもち、順に何かを説明していた。
……というような回りくどい言い方はやめよう。
例の「人間電子レンジ」である。
(私は原理的な構造からみて、そう呼んでいる。)
椅子型の人間電子レンジ。
原理的には、電子レンジと同じ。
それに座っていると、体中が、ポカポカと温かくなってくる。
そうした効果が、もろもろの病気に効く……というわけである。
窓ガラスには、「慢性的な頭痛で苦しんでいませんか」「慢性的な腰痛で苦しんでいませんか」
というような張り紙が、ぎっしりとしてあった。
「治る」という言葉は、薬事法に抵触するため、使えない。
だからそういう表現にしたのだろう。
もちろん人間電子レンジといっても、家庭で使うような強力な電子レンジではない。
20〜30分もすると、何となく温まってきたかな……という程度のもの。
たとえて言うなら、温泉にでもつかったような暖かさを感ずる。
しかも人体の外部からではなく、内部から、その暖かさを感ずる。
●電磁波
が、問題は、それが発する電磁波。
ここに書いた健康器具がそうというわけではない。(誤解のないように!)
たとえば欧米では、電磁波に発ガン性があるということで、高圧線の近くは、学校の建設すら
規制されている(アメリカなど)。
一方、この日本では、電磁波を規制する法律すらない。
健康への影響についても、ほとんど問題になっていない。
もしそれが大きな問題になると、電力会社にとっては、まことにもって都合が悪い。
この日本では、電線がそれこそまさに野放しになっている。
日本の空という空を、それこそ蜘蛛の巣のように張りめぐされている。
家屋から数メートルしか離れていないところに、巨大なトランス(変圧器)が設置されているとこ
ろもある。
電磁波は、基本的には、危険なものである。
DNAレベルにまで、影響を与えると言われている。
脳腫瘍や小児白血病の原因になると言われている。
が、どの程度危険か……ということになると、それがはっきりしていない。
(参考:くわしくは、ウィキペディア百科事典
……http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E7%A3%81%E6%B3%A2)
仮にその住宅に住む人がガンになったとしても、高圧線との因果関係を特定することは、たい
へんむずかしい。
……ということで、野放し。
(この話は、日本の原子力発電所の話とどこか似ている?
電力会社のやることは、どうも信用できない。)
これ以上のことは、私にもわからない。
が、これだけは言える。
人間電子レンジは、健康によいというよりも、(その根拠もないが)、長く使用すれば、それなり
の弊害が現れるのではないのか。
その心配はないのか?
ウィキペディア百科事典によれば、いろいろな学者が、安全性や危険性についての論文を書
いている。
鍼灸院や接骨院では、常設しているところもあるという。
ここではあくまでも、「?」としておく。
●浜北区での講演会
夜、浜北区での講演会で講師を務めた。
できは、最悪!
「3つのキーワード」というテーマで話すつもりだったが、当初の予定より、時間が20分、短縮さ
れた。
それもあって、急きょ、3つのテーマを2つにしぼる。
順番を入れ替える。
段階を追いながら……という当初の予定が、崩れる。
演壇にあがるまで、頭の中が混乱する。
……ということで、出だしから、話の内容がめちゃめちゃ。
で、なんとか、2つの話をし終えたところで時計を見ると、残り10分!
10分しかない!
(10分もある!)
さあ、どうしようかと頭の中、さらに混乱する。
10分で、3つ目のテーマについて話すのは無理。
しかし早く終わるわけにはいかない。
……ということで、3つ目のテーマを話し始める。
早口になる。
ハラハラ、ドキドキ……。
が、やはり途中で、時間切れ!
最後は、「3つ目の話は忘れてください」と。
今までに、そんなドジな言い方で、講演を締めくくったことはない。
最後のあいさつがすんだとたん、居場所がなくなってしまった。
落ち着かなかった。
そのまま演壇から消えたかった。
……早く消えたかった。
●帰宅
控え室に入ると、ワイフがつづいて入ってきた。
いつもなら、「どうだった?」と聞くが、その勇気もなかった。
出されたお茶を飲んで、そのまま外へ。
気分が重かった。
ワ「暖かいわね……」
私「……」
ワ「いつもなら、もっと寒いのに……」
私「……」と。
家に戻る途中、レストランで、遅い夕食を食べた。
ときどきワイフが慰めてくれた。
が、家に帰ると、生徒の母親からメールが届いていた。
恐る恐る開くと、こうあった。
「……お世話になります、SGです。
講演会は少し遠かったので迷いましたが、久々に先生のお話が聞けて思い切って行って本当
によかったです。
すばらしいお話をありがとうございました。
また機会がありましたら是非お願い致します。
父の実家が浜北文化センターのすぐそばで、私も3歳までその大家族で育ち、文化センターが
建った昔神社の敷地だった所は、遊び場でした。懐かしい場所です。
先生には長男のTRが小学校1年生の時からですから、もう10年以上もお世話になっておりま
す。
先生のような方が浜松にいらして、息子達が教えていただけたことは本当に奇跡のような有り
難い事だと思い感謝しております」と。
「……そんなはずはない……」と思いながら、何度も読み返す。
胸が熱くなる。
「1人でもそういう人がいてくれただけでも、うれしい」と、自分に言って聞かす。
で、それを読んだあと、今回、講演会の主宰してくれた、担当のIK先生にメールを書く。
詫びのメールである。
「できは最悪で、申し訳ありませんでした」と。
●潮時
10年ほど前だったら、浜北区(旧浜北市)で講演すれば、いつも会場は、120%の入りだっ
た。
が、今回は、ガラガラ。
自分の力なさ……というか、限界を感じた。
「そろそろぼくも、潮時だね」と、寝る前にワイフにこぼす。
50代のころのような元気は、もうない。
早口になったとき、言葉がもつれることがある。
気力も弱くなった。
私「50代のころだったら、10分も早く終わるなどというドジなことはしなかった……」
ワ「そんなことないわよ」と。
そのつどワイフは何度も、「そんなことないわよ」と慰めてくれた。
●礼のメール
翌日、IK先生からメールが届いた。
それには、こうあった。
『はやし先生
昨日は、素晴らしいご講演をいただき、本当にありがとうございました。
事務局が不慣れなため、失礼な面が多々あったと思いますが、さわやかに接していただき、あ
りがとうございます。
昨日いただいた本は、職員みんなで読ませていただきます。
アンケート結果は、9割の方が「とてもよかった」1割の方が「よかった」と回答していました。「子
育てを見直す機会となった」「早速実践していきたい」「分かりやすかった」などの意見とともに、 「3つめのキーワードのお話についても、もっと聞きたかった」という意見もかなりありました。
今朝の職員室でも、「昨日の講演、よかったね」の声が多数聞かれました。
はやし先生にお願いして、本当によかったと思います。
先生のお話は、もっと多くの方に聞いていただきたいので、機会がありましたら、またお願いし
たいと思います。
昨日は、本当にありがとうございました。
メールにて失礼かとも思いましたが、取り急ぎお礼をさせていただきました』と。
???????????????
コピーしてそれをワイフに渡す。
それを読んでワイフがこう言った。
「ほらね、何もあなたは失敗なんかしてないのよ」と。
私は、ただ、「本当かなあ?」を繰り返すのみ。
ふつうなら喜んでよいはずのメールである。
が、今回は、どうしてもそんな気分になれない。
●失敗感
おかしなもので、年を重ねるごとに、講演するのが恐くなってきた。
若いころは、無鉄砲というか、恐いもの知らずというか、平気だった。
が、60歳を過ぎるころから、恐くなってきた。
今は、もっと恐い。
ひとつには、「失敗感」が強くなったことがある。
講演を終えるたびに、ガクリとくる。
「今日も失敗だった」と。
落ち込みがはげしくなった。
とくにこの数年、自分で納得できる講演をしたことがない。
どれもボロボロ。
一応筋書きを書くのだが、その筋書き通りに話したことは、一度もない。
話の途中で、めちゃめちゃになってしまう。
だからいつもこう思う。
「今度こそ……!」と。
しかしそのつど、また失敗する。
その繰り返し。
来週は、三島市での講演がある。
だから今、こう誓う。
「今度こそ、失敗しないぞ!」と。
Hiroshi Hayashi++++++Dec. 2011++++++はやし浩司・林浩司※
【小学1年生と2年生に、四捨五入(およその数)を教える】
●小学1年生と2年生に、四捨五入(およその数)を教えてみました。
もちろん「四捨五入」という言葉そのものは、使いませんでした。
あくまでも「およその数(Rounding Off)」の概念についての指導です。
いつか子どもたちが四捨五入を学校で学ぶようになったとき、サッと理解できるようにする。
それが今回のレッスンの目的です。
結果は、1年生には、やや無理かな……という印象をもちました。
2年生は、ほぼねらい通り、理解してくれました。
大切なのは、こうして新しいことを教えたとき、子どもたちが前向きに食いついてくることです
ね。
私はそういう子どもたちの姿勢を大切にしています。
わかりやすく言えば、子どもたちを算数好きにする。
子どもたちのもつ、そういった迫力を、このビデオの中から感じ取ってくだされば、うれしいで
す。
【小学1年生クラス】
(1)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/fEsCZ1_Eves"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(2)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/codQuTc8dx0"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(3)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/zPzl2Af113E"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
【小学2年生クラス】(同じ教材を使いました)
(1)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/kyy_L4aPVSc"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(2)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/Cmj649hoZLY"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(3)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/sXmPsWsuCKs"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 四捨五入 およその数 実験教 室 BW子どもクラブ)
Hiroshi Hayashi++++++Dec. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●12月03日(土曜日)『幼児の自己主張』
++++++++++++++++++++
今朝は、6時に起きた。
左足の小指の爪の端が割れ、それが一晩中、痛かった。
ときどき足をふとんの外に出す。
が、そうすれば、今度は足が冷えてしまう。
つまり一晩中、それを繰り返した。
で、6時に起きた。
爪切りで、割れた爪を切った。
++++++++++++++++++++
【幼児期後期の子どもたち】(自立期の子どもたち)
●自立期(伸びやかな子どもたち)(Active Children, Age 5&6)
自立期の幼児(=幼児期後期)がどういうものかは、つぎの動画を見てもらえばわかる。
この時期、幼児は、つぎの児童期をめざし、はげしくも自己主張を繰り返す。
世の中には、おとなしく、従順で、シャイな子どもほど、「できのいい子」と考える親も多い。
またそういう子どもにするため、子どもを頭から抑えつける親もいる。
しかしこれはとんでもない誤解。
偏見。
誤解や偏見であることは、この動画を見てもらえばわかるはず。
子どもというのは、抑えつけるのは簡単。
伸ばすのはむずかしい。
なお2〜3月期(小学校の入学前)になったら、少しずつ、抑えにかかる。
この動画を通して、子どもを伸ばすということがどういうことか、それがわかってもらえばうれし
い。
テーマは、少し早いが、「1年のまとめ」。
(1)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/FW-cpQoOJOw"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(2)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/yWlLGkyVwkQ"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(3)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/qWTQJm5nAaQ"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(4)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/VJKkRRGMZ3M"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●EUの金融危機
実に奇妙で、不可解なことが起きている。
金(マネー)を借りたほうは、どこかのんびりムード。
金(マネー)を貸したほうが、あわてまくっている。
わかりやすく説明しよう。
あなたの町内に、深刻な借金をかかえている家族が、3軒ある。
ギリ氏、イタ氏、スペ氏。
が、この3氏、いたってのんき。
いつもどおり、ワインを飲み、夕暮れ時になれば、裏通りでバックギャモンを並べて遊んでい
る。
「借金はどうするのオ?」と聞くと、3氏とも、平気な顔をして、こう言った。
「返せなくなったら、自己破産するよオ」と。
そこで「自己破産したあとは、どうするのオ?」と聞くと、さらにこう言った。
「食い物には困らないし、あとは生活保護でも受けるわさア」と。
困ったのは、ドイ氏とフラ氏。
街の高利貸し。
自己破産されたら、たまらない。
元も子もなくなってしまう。
そこでドイ氏とフラ氏が話し合った。
「どうしよう」「どうしましょう」と。
フラ氏は、「とりあえず銀行から金を借りてきて、あいつらを助けるしかない」と主張。
ドイ氏は、「そんなことをすれば、ますますあいつら、図に乗るだけ。ためにならない」と反対。
が、このままでは、ドイ氏もフラ氏も、共倒れ。
●本当に困っているのは、だれ?
が、ドイ氏もフラ氏も、互いに疑心暗鬼になっている。
本来なら金(マネー)を融通しあい、協力しあわなければならない。
が、手の内を見せない。
いくら貸しつけ、いくら金(マネー)をもっているか、それも明かさない。
つまり資金の流れが止まってしまった。
「さあ、どうするか?」ということで、その上の銀行に泣きついた。
が、銀行とて、困った。
ギリ氏、イタ氏、スペ氏が自己破産するのはかまわない。
が、ドイ氏とフラ氏は、お得意様。
ドイ氏とフラ氏が倒れたら、銀行の屋台骨すら折れかねない。
そこで銀行は、ドイ氏、フラ氏にこう約束した。
「いざとなったら、金(マネー)、いくらでも貸すよ」(IMF)と。
これにドイ氏とフラ氏が喜んだ。
「ワーイ、これでひと安心!」と。
●金融危機
つまり困っているのは、高利貸しのほう。
「金融危機」といっても、ギリシャやイタリア、それにスペインではない。
ドイツやフランスの銀行が、困っている。
……困り切っている。
この視点を踏み外すと、今回の一連の金融危機がどういうものか、わけがわからなくなってし
まう。
本来なら、助けるべきは、ギリシャやイタリア、それにスペインということになる。
が、先にも書いたように、これらの国は、何も困っていない。
ユーロ圏に入ったことで、かえって豊かな生活ができるようになった。
受けた恩恵は大きい。
冒頭で私が、「実に奇妙で、不可解なことが起きている」と書いたのは、そういう意味。
●資本主義
「銀行だって、企業なのだから、つぶれることもあるし、つぶれても仕方ない」と。
ふつうの人なら、そう考える。
が、そうはいかないところに、特別の事情がある。
「資本主義」という事情である。
平たく言えば、金(マネー)の力。
たとえばアメリカ・ドルなら、世界中で通用する。
世界のどこへもっていっても、そのまま使える。
だからアメリカ政府は、いくらでもドルを印刷することができる。
いくら貿易赤字がつづいても、構わない。
北朝鮮ですら、闇市では、ドルを使っている。
つまり金(マネー)も、需要と供給のバランスの上に成り立っている。
が、たとえば韓国ウォンは、そうではない。
使うにしても、一度アメリカ・ドルに交換してもらわねばならない。
へたに増刷すれば、国内でインフレを引き起こす。
日本の円にしても、そうだ。
今でこそ、国際通貨として通用する。
が、昔は、そうではなかった。
学生時代、オーストラリア国内で日本円を使おうとしたことがある。
1970年当時のことだったが、日本の1万円を銀行で両替しようとしたら、チェック(検査)する
だけで、10分以上も待たされた。
もっと時間がかかったかもしれない。
よく覚えていない。
当時の日本の円は、そんなものだった。
資本主義の世界には、強い通貨と弱い通貨がある。
当然、自国の通貨は、強ければ強いほど、よい。
得!
みなが、ほしがる。
みなが、ためこんでくれる。
だからEUは連合し、共通通貨であるユーロを創設した。
わかりやすく言えば、絵画と同じ。
ピカソの絵は、ちょっとした走り描きでも、何十万円。
ラマ(インド)の絵は、絵描きが1年かかって描いた絵でも、1万円。
●EUの将来
EUは、崩壊しない。
ギリシャにしても、イタリアにしても、スペインにしても、EUにくっついていたほうが、得。
いくら貧乏になっても、ユーロなら世界中で通用する。
自国通貨にしたとたん、紙くずになってしまう。
一方、ドイツやフランスにしても、そうだ。
マルク(ドイツ)やフラン(フランス)だけでは、力不足。
世界の基軸通貨には、ならない。……なりえない。
仲間は多ければ多いほど、よい。
EUが崩壊したら、EU全体で、17〜20%の工業生産力を失うという説もある(Bloomberg)。
となると、ここは一致団結するしかない。
●日本の国益
が、日本の国益を考えるなら、EUは、バラバラになったほうがよい。
EUが弱体化すれば、相対的に、日本の地位は浮上する。
日本の円は、アメリカ・ドル、EUのユーロ、中国の元の圧は力を受け、今や風前の灯(ともし
び)。
ユーロの台頭とともに、ちょうどそれに反比例する形で、日本の円は弱体化した。
だから私がもし日本の宰相なら、表向きはともかくも、裏ではユーロの解体をもくろむ。
……というか、アメリカはそれをねらっている。
ユーロの台頭は、アメリカにとっても、おもしろくない。
ユーロが力をつければつけるほど、相対的にドルの地位は下がる。
ついでに言えば、日本の円も、中国の元の台頭もおもしろくない。
そこでアメリカの逆襲が始まった!
●結局は、アメリカのひとり勝ち
最終的には、結局はアメリカのひとり勝ち。
10年後、20年後のことはわからない。
しかし今回のEUの金融危機の結果は、そうなる。
(これは、はやし浩司の大予言。)
アメリカは、IMFを利用し、EUの大銀行を、つぎつぎと自分の傘下に収める。
ついでにめぼしい企業も、自分の傘下に収める。
「金(マネー)のなる木を、自分の庭に植えかえる」(某経済学者)ことによって、EUを支配す
る。
が、これは即、日本の未来像でもある。
アメリカの戦略は、火を見るより明らか。
EUのつぎは、この日本。
1.急激な円安に誘導する。(=円売りを開始する。)
2.日本国債を暴落させる。
3.日本をIMFの指導下に置く。
4.日本の銀行、企業をつぎつぎと買収する。
実はこの方法の有効性は、1997年の、韓国のあの金融危機で、実証済み。
以後、韓国の名だたる銀行はすべて、アメリカ資本のもとに組み込まれた。
ヒュンダイにせよ、サムスンにせよ、形は韓国の企業だが、中身はアメリカの企業。
このままでは、日本も、やがてそうなる。
(すでにそうなりつつあるが……。)
(これも、はやし浩司の大予言。)
●警戒主義者
私は少し前まで、親米主義者だった。
しかしこのところ、少し風向きが変わってきた。
親米主義者から警戒主義者。
反米主義者まではいかないが、この先、アメリカの動きには、じゅうぶん警戒したらよい。
またすべきかと思う。
現在の野田政権のように、何でもハイハイと言うことを聞いていたら、この日本はたいへんな
ことになる。
そんな危惧感をもっている。
今回のIMFの動きにしてもそうだ。
まずドイツとフランスに自腹を切らせる。
つぎに南欧諸国(ギリシャ、イタリア、スペインほか)に対してはドイツと歩調を合わせ、内政に
干渉していく。
IMFにジャパン・マネーを使わせるのは、そのあと。
お人よしは禁物。
この際、大国意識を捨て、日本もなりふり構わず、自国防衛に専念すべき。
日本という国の国益を第一に考え、行動する。
現に中国は、そうしている。
「自国の外貨をEUの救済のためには使わない」、
「アメリカ国内のインフラに投資する」※(12月2日)と。
「どうして中国人より10倍も所得があるEUを、中国が救済しなければならないのか」とも。
さらに中国がアメリカに投資すると言い出したのは、当然のことながら、アメリカを自分の支配
下に置くためである。
……などなど、と私は考える。
……少し過激な意見で、ごめん!
……それにしても、ドイツのあのメルケル首相という人は、ものすごい女性だね。
日本の野田首相など、メルケル首相とくらべたら、まるでボンボン。
「これだけのことをしてやったから、相手は感謝してくれるはず」という『ハズ論』だけで、国際政
治を考えている。
が、国際社会は、そんなに甘くない。
甘くないことは、先の3・11大震災を見ればわかる。
どこの国が、(民間支援ではなく)、国として日本を支援してくれたか?
みな、日本から一方的に金(マネー)を受け取るだけ。
韓国などは、日韓スワップ協定を結んだことをよいことに、手持ちの外貨で、せっこらせっこ
らと金(ゴールド)を買いつづけている(2011年12月3日現在)。
以上、はやし浩司という、素人の国際経済論。
あまり本気にしなように!
(はやし浩司 2011−12−03朝記)
(注※)
『中国の陳徳銘商務相は2日、中国が外貨準備の一部を米国のインフラ投資に振り向ける可
能性があることを明らかにした。
同商務相は米国のロック駐中国大使、および米財界人との会合で、「中国は米国債を過度に
保有することは望んでいない。その資金を投資に変えることを望んでいる」と述べた。
そのうえで「電力供給網、鉄道、交通網など、米国のインフラには再建が必要な分野もある」と
し「こうした種類の投資は、米国の失業問題解決の一助となる可能性もある」と述べた』(ロイタ ー・2011年12月2日)
『中国の傅瑩外務次官は2日、欧州諸国を「救済」するために中国は3兆2000億ドル(約249兆
円)の外貨準備を使うことはできないと言明した上で、金融危機をめぐる欧州支援で中国は 「自らの役割を果たしてきた」との認識を示した』(Bloomberg・12月2日)と。
(補記)
どうして日本の首相以下、政府は、こうした主張をしないのか?
もっと自分の意見を、堂々と披露すればよい。
よく言えば、「おとなしい」。
悪く言えば、「八方美人」。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●映画『タンタンの冒険』(はやし浩司 2011−12−03夜)
++++++++++++++++++++
今夜、『タンタンの冒険』(日本語吹き替え版)を観てきた。
3D映画。
子ども向け映画。
が、またまた映像技術の進歩に驚く。
『三銃士とダビンチの飛行船』は、すごかった。
今回の『タンタンの冒険』も、これまたすごかった。
いったい、映像技術は、どこまで進むのか。
CG映画だったが、皮膚の質感まで、
リアルすぎるほどリアルに、表現されていた。
(あるいは皮膚、そのもの?)
『スター・ウォーズ』(エピソード・1)が、
近く、封切られる。
あの『スター・ウォーズ』(日本公開・1978年)
のリメイク版らしい。
楽しみ。
プラス、おととい、『第九』演奏会のチケットを申し込んできた。
今年は、S席で聴く。
東京フィル+浜松フロイデ合唱団。
これまた楽しみ。
学生時代は、合唱団員として、毎年歌っていた。
指揮者はいつも、朝比奈隆だった。
言い忘れたが、『タンタンの冒険』は、星4つの★★★★。
『三銃士』を観ていなかったら、星は5つ。
映画館を出たとき、ワイフと「すごい映画だったね」と、
たがいに言いあった。
ボケ防止のためというには、もったいないような映画だった。
なお土曜日の夕方だったが、観客は私たちを含めて、5人だけ。
「営業として成り立つのだろうか」と、心のどこかで、
ふとそんな心配もした。
+++++++++++++++++++++
●宇宙時代
映画『スター・ウォーズ』は、「遠い昔、昔……」という設定になっている。
人間の未来ではなく、過去。
しかし同時に、それは人間の未来でもある。
やがて人間は、この宇宙を自由に行き交うようになる。
それはそれですばらしいこと。
が、利害が対立すれば、当然、紛争も起きるようになる。
戦争も起きるようになる。
科学技術の進歩と、兵器の進歩は、比例する。
多くは、兵器の進歩が科学技術の進歩を先導する。
人間が宇宙を自由に行き交うようになるころには、兵器もより強力になる。
価値観の基準をどこに置くかにもよるが、「未来イコール、善なる世界」ではない。
それを「宇宙時代」と呼ぶなら、宇宙時代はかならずしも、人間にとって好ましい世界とはいえ
ない。
それこそ爆弾一発で、地球が粉々になる。
そういうことも起こりえる。
まさにそこは、スター・ウォーズ(星間戦争)の世界。
●スター・ウォーズ
ところで私は、かつてスター・ウォーズについて書いたことがあるのだろうか。
記憶というのは、実にいいかげんなもの。
書いたことがあるような気もするし、ないような気もする。
「はやし浩司 スター・ウォーズ」で検索をかけてみる。
……原稿はいろいろ出てきたが、映画『スター・ウォーズ』について、直接書いたものは見つ
からなかった。
やはり映画『スター・ウォーズ』については、何も書いていない。
ただよく覚えているのは、当時、つまり1978年ごろは、よく生徒を連れて映画を観に行ったこ
と。
そのひとつに、『スター・ウォーズ』があった。
が、よく覚えているのは、そのことではない。
その生徒の中に、河合さんという女の子がいたこと。
弟も一緒に来ていた。
その2人のことをよく覚えているのには、理由がある。
その直後に、母親が亡くなったからである。
私とワイフは、その母親の葬儀に出た。
それでその2人のことをよく覚えている。
ここで「河合さん」と書いたが、実名である。
「スター・ウォーズ」という名前を耳にするたびに、どういうわけか、その河合さんを思い出す。
あのころ小学4、5年生だったから、今ごろは、45歳前後になっているはず。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●主張訓練法(2011−12−03改)
【BW教室の指導から】(主張訓練法)
●「NO!」が、はっきり言える子ども
少し前、「YES」「NO」がはっきり言える
子どもについて書いた。
その根拠というか、それが見つかったので
報告します。
+++++++++++++++
●行動療法
心理学には、「行動療法」というのがある。
その中のひとつに、「主張訓練法」というのがある。
これは子どもに、(おとなでも構わないが)、「YES」「NO」をはっきり言わせることに
よって、「対人場面における、不安感や緊張感を軽減する方法」(臨床心理学・ナツメ出版)で
ある。
もう一度、そのとき書いた原稿をここに添付しますので、どうか、参考になさってください。
+++++++++++++++
今週は、どのクラスでも、「NO!(いや!)」とはっきり言える子どもの指導をしている。
指導というよりは、訓練。
大きな声で、しっかりと、「いや!」と言わせる。
この簡単な訓練だけで、子どもから優柔不断さが消える。
+++++++++++++++
今週は、幼児クラスを中心に、「いや!」とはっきり言う訓練をしている。方法は、こうだ。
まず、子どもたちがいやがるような、誘いをかけてみる。
私「ゴキブリ・ハンバーグをあげようか」
子「……いらないよう……」
私「だったら、『いや!』とはっきりと言いなさい!」
子「いや……」
私「そんな声じゃ、だめだよ。いやだったら、はっきりと『いや!』と言わなくては……」
子「いや!」と。
つづけて、
私「ねずみのシッポのからあげをあげようか」
子「いや!」
私「シカのウンチのから揚げをあげようか」
子「いや!」
私「ミミズのラーメンはどう?」
子「いや!」と。
こうしたかけあいを、5〜10回繰りかえすと、子どもたちは、大声で、「いや!」と言い出す。
そこでさらに、こう問いかける。
どこかいやらしい中年オジサン風の雰囲気で……。
私「どこかへ連れていってあげようか?」
子「いや!」
私「お菓子を買ってあげようか?」
子「いや!」
私「そんなこと言わないで、車にのってよ」
子「いや!」
私「おもちゃを買ってあげるからさあ」
子「いや!」
私「じゃあ、おじさんのおうちに遊びに来る? お菓子がたくさんあるよ」
子「いや!」と。
こうした方法は、心理学の世界でも、有効性が証明されている。
「YES」「NO」を、はっきりと言わせることによって、自我の確立を、より確かなものにすること
ができる。
が、それだけではない。
昨今、子どもを犯罪に巻きこむ事件が、相ついでいる。
この方法は、そうした事件に対する、予防策にもなる。
もしあなたの子どもに、どこか優柔不断で、グズグズした雰囲気があるなら、一度、この方法
を試してみるとよい。
が、本当は、集団教育の場で、みなが大声を張りあげていうような場面が望ましい。
1人、2人だと、大声を出さない子どもでも、みなが大声を張りあげると、つられて自分も大声を
出すようになる。
どこかの見知らぬおじさんが、「お菓子を買ってあげるから、いっしょに来ないか?」と声をか
けたとき、子どもが、最初に「いや!」とはっきり言う。
犯罪の防止になるだけではなく、今のこうした社会では、とても大切なことだと思う。
【付記】
この指導法を参観していた母親が、そのあと、こう言った。
「私なんか、セールスがきても、はっきりと断れないため、よくトラブルに巻きこまれてしまいま
す」と。
「私ははっきりと、いやと言うのですが、主人が、優柔不断で、困ります」といった母親もいた。
もしそうなら、日ごろから、夫婦の間で、こうした訓練をしておくとよい。
夫「奥さん、おもしろい薬があります」
妻「いりません」
夫「お買い得ですよ」
妻「興味ありません」
夫「奥さん、元気が出ますよ。あのK国製ですから」
妻「いりません。お帰りください」と。
私たち夫婦も、ときどき、この訓練法を自分たちに試している。
私も、若いころは優柔不断なところがあった。
誘われると断りきれず、ついつい……ということがよくあった。
しかし最近は、ない。
この訓練法のおかげである。
なお、教育の場で、この訓練法をしているのは、私が知る限り、私のBW教室だけである。
(ほかの幼児教室は、まねしないように!
……少し心が狭いかな?)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 返答
訓練法 自我 YES NO はっきり言う子供 はっきりとした子供 行動療法 対人訓練法 はやし浩司 主張訓練法 子供の心理 はっきりと拒否する)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●12月4日(山岡家のラーメン)
今朝は7時半、起き。
日曜日。
ウォーキング・マシンの上で一汗かく。
書斎へ入る。
……昨夜、近くの『山岡家』というラーメン屋で、ギョーザを食べた。
ワイフはラーメンを食べた。
味は一級!
その山岡家には、テーブルの上に、生ニンニクが用意してある。
土曜日の夜は、それをギョーザやラーメンにたっぷりとかけて、食べる。
が、これがたまらなく、おいしい。
私たちの大好物。
ただし、人に会う前には、それができない。
そこで私たちは、ニンニクをかけて食べるのは、土曜日の夜とか、そういうときに決めている。
そのせいか、体調はすこぶる、よい。
頭の中も、スッキリしている。
ワイフが店を出るとき、こう言った。
「ラーメンにニンニクを入れると、味がさらにおいしくなるわね」と。
……ということで、今日は午後まで、人と会う約束はなし。(……会えない。)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【我ら極東アジア人の、民族的上下意識とそれを支える権威主義】
++++++++++++++++++++
12月04日、ネットであちこちの
ニュース・サイトをのぞく。
北朝鮮の記事が、目にとまる。
++++++++++++++++++++
●虚勢
虚勢にも、2種類ある。
外面(そとづら)と、内面(うちづら)。
もう少し正確には、外面虚栄と内面虚栄。
そのことを、今朝、海外の報道記事を読んでいて知った。
●北朝鮮
あの北朝鮮のP市では、目下、急ピッチで、街作りが進んでいるという。
「食糧も足りないのに……」と私たちは考えるが、あの国の独裁者には、そんな声は届かな
い。
で、その街作りが、ものすごい。
たとえば通りに面した部分だけ、ビルを作りなおすとか、などなど。
10数階もあるようなアパートを建設したが、エレベーターはなし。
報道によれば、建設には、学生が動員されているとか。
そのため事故も多く、すでに200人近くの学生が亡くなっているそうだ。
●内面虚勢
こうした報道記事を読んでいると、ではいったい、何のために?、と、そこまで考えてしまう。
報道記事には、「虚勢」という言葉が並ぶ。
しかし外人観光客など、ほとんどいない。
となると、その虚勢は、だれに向けられたものなのか。
……ということで、「内面虚勢」という言葉を思いついた。
虚勢は虚勢でも、国内向けの虚勢。
だから「内面虚勢」
●自尊心
が、内面虚勢が悪いというのではない。
内面虚勢と自尊心は、よく似ている。
区別できない。
私にしても、自尊心があるからこそ、こうしてかろうじて生きていられる。
「私はすばらしい」と自分に言って聞かせる。
あるいは自分のよい面だけを信じ、それが「私」と、自分に言って聞かせる。
わかりやすく言えば、自分で自分に虚勢を張る。
が、これはあくまでも個人の話。
そういう虚勢を張ったところで、だれにも迷惑をかけない。
他人にはバカに見えるかもしれないが、そうであっても、何も構わない。
私は私。
人は人。
つまりそれが国家レベルにまで、巨大化したのが、北朝鮮ということになる。
●極東アジア人
一方、外面虚勢というのもある。
見栄、体裁、虚栄、世間体……。
極東アジア人というのは、民族的に、外見虚勢を重んずる。
それ自体が、生きる目的にもなっている。
今でこそ色あせてきたが、「出世」という言葉も、まだ死語になったわけではない。
半面、オーストラリア人などは、みな、外面虚勢とは無縁の世界で生きている。
すがすがしいほど、無縁の世界で生きている。
が、これは意識の問題だから、私がここでいくら説明しても、極東アジア人には、理解できない
だろう。
同じように、オーストラリア人に、外面虚勢についていくら説明しても、理解できないだろう。
「どうして、そんなことを気にするのか?」と、逆に質問されてしまう。
●地位や肩書き
ひとつの例をあげる。
日本では、50歳をすぎると、みなリストラされたり、子会社に左遷されたりする。
中にはそれなりの役職に就き、退職後もそれなりの仕事をする人もいる。
いろいろな人がいるが、退職後も、退職前の地位や肩書きを引きずって生きている人は、多
い。
またその亡霊から抜け出せないまま、生きている人は多い。
そのことは、60歳を過ぎると、よくわかる。
名刺をもらったりすると、さらによくわかる。
もっともらしい地位や肩書きを、ズラズラと並べている。
逆に言えば、中身がないから、そうする。
つまり外面虚勢。
●「自分の人生は何だったのか」
なぜ、極東アジア人は、外面虚勢を重んじるのか。
その理由の第一は、自分自身が、相手を、その外面虚勢で判断しているから。
つまり身分による上下意識が、きわめて強い。
さらにそれを支える権威主義。
極東アジア人は、この権威主義に弱い。
さらにもう一言、付け加えれば、今ここで外面虚勢を否定されてしまうと、「ではいったい、自
分の人生は何だったのか」ということになってしまう。
滅私奉公、一社懸命、企業戦士となってがんばってきた人ほど、そうだろう。
だから地位や肩書きにしがみつく。
それこそ退職して、10年とか20年とか過ぎても、しがみつく。
それについては、すでに何度も書いてきた。
いくつか原稿をさがしてみる。
++++++++++++++++++はやし浩司
2006年の12月にBLOGで発表した原稿より。
++++++++++++++++++はやし浩司
●親風、夫風、兄風
+++++++++++++++
私のBW教室では、兄弟(姉妹)が入会して
いるばあいには、できるだけ、同じ
クラスで教えるようにしている。
効果は絶大!
たがいにたがいを刺激しあうだけではなく、
1年単位でみると、たいへん仲がよくなる。
+++++++++++++++
「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と、上下意識を無意識のうちにも感じながら呼びあうより、兄弟、
姉妹は、名前そのもので呼びあうほうがよい。そのほうが、上下意識がなくなり、いわゆる「友」 として、生涯にわたって、仲がよくなる。
たとえば、「お兄ちゃん」ではなく、「シンちゃん」。「お姉ちゃん」ではなく、「ミサちゃん」と呼び
あうなど。
このことについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。
ところで最近気がついたのだが、親意識の強い人は、ついでに夫意識が強く、さらに叔父意
識、叔母意識も強い。さらに、兄意識も強く、従兄弟(いとこ)に対しても、ほんの数才しか年が ちがわないのに、年長意識も強い。
だから親風を吹かす。夫風を吹かす。叔父、叔母風を吹かす。兄風を吹かす。年長風を吹か
す。はたから見れば、(つまりそういう意識のない人から見れば)、バカげているのだが、本人 は、そうでない。(上意識)だけで、いっぱしの人物のつもりでいる。
こういうのを総称して、「権威主義」というが、いまだにその権威主義にこだわっている人は、
少なくない。言うまでもなく、権威主義にこだわればこだわるほど、まわりの人たちの心は離れ る。それに気がつかないのは、本人だけということになる。
だから子どもでも、兄弟、姉妹は、名前、もしくは愛称で呼ばせるようにしたほうがよい。その
ほうが上下意識がなくなり、その分だけ、「友」として、相手を迎え入れるようになる。
が、それだけではない。
親から見れば、兄弟、姉妹は、自分の子どもであり、同じように、兄弟、姉妹も、それなりに
仲がよいはずと考えがちである。しかしこれは誤解。
実際には、兄弟、姉妹でも、他人以上に憎しみあい、疎遠になっているケースは、ゴマンとあ
る。むしろそういうケースのほうが多い。が、それを公(おおやけ)に口に出して言うことができ ない。だから、自分で自分のクビをしめてしまう。「兄だから」「弟だから」と。そういうケースも、 少なくない。
たとえば私の兄についても、そうである。私より9歳も年上ということもある。子どものころ、い
っしょに遊んだという記憶さえない。そういう兄が、数年前、認知症なった。
一応、私は弟だから、兄のめんどうをみなければならない。それはわかる。しかし「兄だか
ら、お前は愛情を感じているはず」と、一方的に押しつけられると、言いようのない反感を覚え る。兄といっても、弟の私から見れば、他人に近い。同年齢の従兄弟たちのほうが、ずっと親 近感がある。
つまりこうした家族のクサリ(=自我群)に苦しんでいる兄弟、姉妹も、多いということ。
では、どうするか。
そのひとつの方法というわけではないが、私の教室(BW)では、ある学年(小学3、4年)にな
ると、兄弟、姉妹は、できるだけ同じクラスで教えるようにしている。その学年になると、それぞ れの子どもの進度にあわせて、個別レッスンをするので、技術的には可能である。
こうすることによって、兄弟、姉妹は、たがいにたがいを刺激しあう。が、それだけではない。
思い出を共有することによって、将来にわたって、仲がよくなる。
が、こういう指導に対して、疑問をもつ父母も少なくない。
「兄(姉)が、劣等感を覚えないか」と。たとえば年が離れていない兄弟のばあい、弟のほうが
兄より、勉強がよくできるというケースもないわけではない。
しかしそれは、指導力でカバーできる問題と考えてよい。さらにその前提として、生まれなが
らにして、上下意識がなければ、気にすることはない。そのためにも、兄弟、姉妹には、上下意 識をもたせないほうがよい。その前に、親自身も、上下意識をもたないほうがよい。
親風、ナンセンス。夫風、ナンセンス。兄風、ナンセンス。
最後に一言。
私たちは自分の子どもを、たとえば、「お兄ちゃん」と呼ぶことによって、無意識のうちにも、
子どもに上下意識を植えつけていることを忘れてはいけない。中には、さらに積極的に、「あな たはお兄ちゃんでしょでしょ!」「お兄ちゃんらしくしなさい!」と、兄意識を強制する親だってい る。
まことにもって愚かな指導法ということになるが、このつづきは、またの機会に!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 兄弟
姉妹 上下意識 権威主義 兄の育て方 姉の育て方)
(付記)
日本人は、もともと家父長意識の強い民族である。またそういう土着的な意識を、文化風習
として背負っている。江戸時代という、とんでもない封建主義時代が、300年以上もつづいたこ ともある。
だからいまだに、この権威主義が、大手を振ってのさばっている。またそれを「国家の品格」
と位置づけている人さえいる。
しかし権威主義が、いかにバカげているかは、ほんの少しでもオーストラリア人でもよいが、
そういう人たちとつきあってみると、わかる。夫婦でも、おもしろいほど、上下意識がない。食後 でも、夫と妻が台所に並んで、洗いものをしている。
もちろん兄弟、姉妹でも、愛称で呼びあっている。仲がよいというよりも、友として、相手を認
めあっている。(だから反対に、友でなければ、兄弟、姉妹でも、他人のように疎遠になるという ケースも、ないわけではない。)
つまり(家族)という概念に、日本人ほど、強くはしばられていない。たがいにサバサバとして
いる。横で観察していると、そんな印象をもつ。
要するに、「兄弟(姉妹)だから仲がよいはず」「たがいに愛情を感じているはず」と、子ども
に、それを押しつけてはいけない。これはこれからの子育ての第1歩ということになる。(以上、 2006年12月記)
++++++++++++++++++はやし浩司
さらに古い原稿だが、日本人の意識の変化を
知るには、よいと思う。
日付は、2001年になっている。
(中日新聞発表済み)
++++++++++++++++++はやし浩司
●上下意識の崩壊
日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。
内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世論調査結果を発表
した(2001年)。
それによると、同制度導入のための法律改正に賛成するという回答は42・1%で、反対した
人(29・9%)を上回った。
前回調査(96年)では反対派が多数だったが、賛成派が逆転。
さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用する法改正について容認する人も含めれ
ば、肯定派は計65・1%(前回55・0%)にあがったというのだ。
調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が68・1%と男性(61・8%)
より多く、世代別では、30代女性の86・6%が最高。別姓問題に直面する可能性が高い20 代、30代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。
「姓が違うと家族の一体感に影響が出るか」の質問では、過半数の52・0%が「影響がない」と
答え、「一体感が弱まる」(41・6%)との差は前回調査より広がった。
ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が66・0%で、
「影響はない」の26・8%を大きく上回った。
調査は2001年5月、全国の20歳以上の5000人を対象に実施され、回収率は69・4%だっ
た。
なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の姓
を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は18・2%にとどまったという。
わかりやすく言えば、若い人ほど夫婦別姓に賛成だということだが、夫婦別姓が問題になる
こと自体、私たちの世代では考えられないことであった。
「結婚した女性は、その家に入るもの」という考え方が、常識でもあった。
言いかえると、今、私たちが経験しつつある変化は、まさに革命的とも言えるものである。それ
こそ100年単位でつづいた日本の常識が、ここでひっくり返ろうとしている。
そうした目で、この問題を考える必要がある。(2001年記、2011年改)
++++++++++++++++++はやし浩司
●水戸黄門
話せば長くなるが、外面虚勢の裏には、長くつづいた封建制度が深く関わっている。
そのひとつが、上下意識ということになる。
最後にあの「水戸黄門」をあげる。
世界的に見ても、あれほどバカげた番組はないと思うが、それが今でも、この日本では人気番
組のひとつになっている。
どうして三つ葉葵の紋章を見ただけで、みなはハハーと頭をさげるのか。
++++++++++++++++++はやし浩司
『水戸黄門論』……中日新聞発表済み。
++++++++++++++++++はやし浩司
●権威主義の象徴・水戸黄門
権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。
日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。
が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人はこう言った。
「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。
フランス革命以来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いを
いう。
この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。
Mさん(男性)の家もそうだ。長男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほ
とんど会話がない。
別居も何度か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。「今の
若い者は、先祖を粗末にする」と。
Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。一方長男は長男で、「おやじといるだけ
で、不安になる」と言う。
一度、私も間に入って二人の仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。
長男のもっているわだかまりは、想像以上のものだった。
問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。
そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。
特に冠婚葬祭については、まったくと言ってよいほど妥協しなかった。
しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもらった。
長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。
そしてことあるごとに、先祖の血筋を自慢した。
Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。
ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。
そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少
しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間にミゾを作った。
もともと権威には根拠がない。
でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明できる人はいるだろうか。
あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。
権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。
もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。
命令と服従、保護と依存の関係と言ってもよい。
そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがない。
権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。
権威、つまり「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへ
と、一方的なものになる。
そのため子どもは心を閉ざす。Mさん親子は、まさにその典型例と言える。
「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさん。
しかしそれをそのまま黙って無視する長男。
こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。
権威主義的であること自体が、その人の生きざまになっている。
それを否定するということは、自分を否定することになる。
が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思
っているなら、権威主義は百害あって一利なし。
『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。(1999年ごろ記)
++++++++++++++++++はやし浩司
上述の原稿を、さらに書き改めのが、つぎの原稿。
++++++++++++++++++はやし浩司
●水戸黄門論
テレビドラマに「水戸黄門」というのがある。葵三つ葉の紋章を見せて、側近のものが、「控
え おろう!」と一喝するシーンは、あまりにも有名である。
今でも、視聴率が20〜25%もあるというから、驚きである。
で、あの水戸黄門というのは、水戸藩二代藩主の徳川光圀(みつくに)と、家来の中山市正と
井上玄洞をモデルとした漫遊記と言われている。
隠居した光圀は、水戸の郊外、西山村に移り住み、百姓光右衛門と名乗り、そのとき、先の二
人を連れて、関東を漫遊したという。
それが芝居、映画、テレビドラマになり、「水戸黄門」が生まれた。(芝居の中では、二人の家
来は、佐々木助三郎(通称「助さん」)と、渥美格之進(通称「格さん」)になっている。)
徳川光圀は実在した人物だが、ただ光圀自身は、関東地域からは一歩も出ていない。
それはさておき、水戸黄門は、全国各地を漫遊しながら、悪代官をこらしめたり、仇討ちの助
けをしたりして、大活躍をする。
日本人にはたいへん痛快な物語だが、ではなぜ「痛快」と思うかというところに、大きな問題が
隠されている。
以前、オーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、日
本人はどうするのか」と。
そこで私が「水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、「それはおかしい」と。
考えてみれば、水戸黄門がたまたま善人だったからよいようなものの、もし悪人だったら、そ
の権威と権力を使って、したい放題のことができる。
だれか文句を言う人がいたら、それこそ「控えおろう!」と一喝すればすんでしまう。
民衆の私たちは、水戸黄門の善行のみをみて、それをたたえるが、権威や権力というのは、
ひとつ使われ方がまちがうと、とんでもないことになる。
だいたいにおいて水戸黄門は封建時代の柱である、身分制度という制度をフルに利用してい
る。
身分制度を巨悪とするなら、代官の悪行など、かわいいものだ。
善行も何も、ない。
「頂点にたつ権力者は悪いことをしない」という錯覚は、恐らく日本人だけがもつ幻想ではない
のか。
長くつづいた封建制度の中で、日本人は骨のズイまで魂を抜かれてしまった。
もっと言えば、あの番組を痛快と思う人は、無意識のうちにも、封建時代を是認し、身分制度
を是認し、さらに権威主義を是認していることになるのでは……?
あるいは権威や権力に、あこがれをいだいている……?
教育の世界には、まだ権威や権力がはびこっている。
こうした権威や権力は、その世界に住んでいる人には居心地のよいものらしいが、その外で、
いかに多くの民衆が犠牲になっていることか。
むずかしいことはさておき、あのドラマを見るとき、一度でよいから、水戸黄門の目線ではなく、
その前で頭を地面にこすりつける庶民の目線で、あのドラマを見てほしい。
あなたもあのドラマを見る目が変わるはずである。
++++++++++++++++++はやし浩司
さらにダメ押し。
日本の常識は、けっして世界の常識ではない。
++++++++++++++++++はやし浩司
●日本の常識、世界の非常識
● 「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちが
っているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分
制度という(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、
その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋
章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではない
のか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19
歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そ
う言って居直った)と称して、手玉にして遊ぶこともできる。
● 「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になってい
る。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関
係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事
の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、
夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕
事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。
● 「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と
泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしか
にすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、
こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に
美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向が強い。
●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだ
だよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だ
で。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。
親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに
似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき
載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。
● 「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用い
られた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう
論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いという
こと。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではない
ようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 日本の常識 世界の非常識 はやし浩司 常識論 アインシュタイン
の常識)
++++++++++++++++++はやし浩司
●外面(そとづら)虚勢からの解放
さあ、あなたも勇気を出して、外面虚勢から、自らを解放してみよう。
そこはまさに、すがすがしい世界。
あなたがあなた自身でいられる世界。
今まで外面虚勢(上下意識、権威主義)で生きてきたなら、なおさら。
60歳を過ぎていても、70歳を過ぎていても、遅すぎるということはない。
方法は簡単。
一度、身ぐるみはいで、裸になればよい。
それともあなたは、最後の最後まで、過去の地位や肩書きにしがみついて生きていくというの
か。
……それにしても我ら極東アジア人というのは、おもしろい。
一方で水戸黄門を美化しながら、他方で北朝鮮を非難する。
ともにその底流で流れている意識は、同じ。
極端な権威主義。
もしこんな矛盾した論理がまかり通りなら、逆に考えてみればよい。
「もし水戸黄門がまちがった指示を出したら、この日本はどうなるのか」と。
あるいは「いくら独裁者でも、よいことをすれば、許されるのか」でもよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 外面虚勢 見栄 体裁 世間体 虚栄心)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司※
【子どもは人の父】(朗読版)byはやし浩司
●「子どもは人の父」(ワーズワース)
子どもの心はいかに形成されていくか
"The Child is Father of the Man"
How the minds of children are formed.
(抄訳)
子どもを知ることによって、私たち自身を知ることができる。あのワーズワースは、『子どもは人
の父』といった。私たち自身にも子ども時代があり、その時代に私という人間が作られていっ た。子どもの心の形成過程を、乳幼児期から思春期まで、段階的に追いかけてみた。自分発 見の手がかりになればうれしい。
By knowing children, we can know ourselves better.
William Wordsworth once wrote, "The Child is Father of the Man".
Once we were all children and our minds were formed during this age of childhood.
In this article I have written about the process of how the minds of children are formed in
stages from the age of infancy to adolescence.
I hope this article will be of some help to you in getting to know yourselves better.
(1)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/tBFRUjf_Akw"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(2)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/1e66n9ORud4"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 自立期 自律期 乳幼児の心理 幼児の心理 発達心理学)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【主張訓練法】(年中児・4歳、5歳児)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/ykHBJ91VAys"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
●主張訓練法(2011−12−03改)
【BW教室の指導から】(主張訓練法)
●「NO!」が、はっきり言える子ども
少し前、「YES」「NO」がはっきり言える
子どもについて書いた。
その根拠というか、それが見つかったので
報告します。
+++++++++++++++
●行動療法
心理学には、「行動療法」というのがある。
その中のひとつに、「主張訓練法」というのがある。
これは子どもに、(おとなでも構わないが)、「YES」「NO」をはっきり言わせることに
よって、「対人場面における、不安感や緊張感を軽減する方法」(臨床心理学・ナツメ出版)で
ある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 対人訓練法 主張訓練法 具体 的指導例)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●12月04日【弁天・ジ・オーシャン・ホテルにて】
●東南海大地震
明日起きてもおかしくない。
しかし30年以内に起こる確率は、100%。
それが東南海大地震。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
『……紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海トラフの東側)で周期的に発生する海溝型
地震。規模は毎回 M8・0 前後に達する巨大地震で、約100年から150年周期で発生してい る。東南海大地震(とうなんかいだいじしん)とも呼称される』(ウィキペディア百科事典)と。
弁天にあるジ・オーシャン・ホテルへ着くと、ワイフがそんな話をした。
ちょうど夕日が沈むころだった。
私はベランダに、ビデオカメラを設置した。
とたん、つまりワイフがその話をしたとたん、安らいだ気分が、しぼんでしまった。
●弁天・ジ・オーシャン・ホテル
ジ・オーシャン・ホテル……来るたびに、少しずつサービスが良くなっていく。
本気度は、いつも通り。
が、ほめてばかりいてはいけない。
今回からは、駐車も別途料金になった。
(残念!)
「この11月から、一泊、800円になりました」と。
先月(11月)の20日に泊まったときには、無料だった。
今年の夏前には、カラオケルームも、無料で使わせてくれた。
が、今夜はどうか?
料理の質も、少しずつ良くなっている。
温泉はいつもの温泉。
が、毎回、客がふえ、その分だけ、温泉は混雑してきた。
私たち、客側にしてみれば、すいているほうがよい。
しかしホテル側にしてみれば、混んでいるほうがよい。
言うまでもなく、ホテル業は、(旅館業もそうだが)、地元のリピーターが多いかどうかで、経営
状態が決まる。
地元のリピーターにそっぽを向かれたら、経営は、広告宣伝費ばかりがかさみ、急速に悪化す
る。
●避難
部屋へ入るとすぐ、温泉に向かった。
が、どうも落ち着かない。
「地震が起きたら、どうするか?」と。
(1)今回は、10階のX号室。
耐震性はだいじょうぶか。
このあたりは砂地のはず。
大地震で倒壊する心配もある。
(2)津波はどうか?
このホテルから見える表弁天は、湾になっている。
(注:このあたりの人は、中州を境に、太平洋側を表弁天、北側を裏弁天と呼んでいる。)
その表弁天、周囲は30キロ(目測)ほどあるだろうか。
向こう側は低い砂丘になっている。
しかし大地震の津波なら、難なく乗り越えてくるだろう。
(3)夜中だったどうするか?
地震が夜中に起きたら、どうするか。
電気は切れ、恐らく真っ暗になるはず。
(4)浜岡原発は安全か?
ここから東へ40キロほどのところに、中部電力の浜岡原発がある。
中部電力側は、「安全」と、さかんに主張しているが、さて、どうか?
電力会社が「安全」というときは、「国の基準に合致している」という意味。
「国の基準に合致しているから、万が一のときでも、自分たちには責任はない」という意味で、
「安全」という。
言うなれば役人論法。
国の基準があてにならないことは、フクシマで証明された。
夕食を待つ間、ワイフと地震のときの行動計画を立てる。
(1)地震が収まるまで、部屋の中でじっとしている。(ベッドの間に身を置く。)
(2)揺れが収まったら、とりあえずの荷物をもち、非常口から3〜4階あたりまで下りる。(たま
たまワイフが小さな懐中電灯をもっていた。)
(3)津波の情報を手に入れる。(パソコンを使う。)
(4)津波情報が入ったら、そのまま静かにしている。(車は、あきらめる。)
(5)防寒対策をしっかりとし、そのまま徒歩で自宅まで帰る。(避難するとき、毛布を体に巻
く。)
……そんなことを考えていたら、温泉気分が吹き飛んでしまった。(ホント!)
●家出
話題を変えよう。
昨日、長野市に住む友人と、1時間ほど、電話で話す。
柿を送ってくれた。
その礼の電話が、長くなった。
友人は定年まで、工作機械メーカーに勤務していた。
定年後は、……つまり今は、奥さんが経営している行政書士事務所の手伝いをしている。
その友人が、こんなことを言った。
友「なあ、林君、もし君が家出をしたとするよな。そんなとき、林君を泊めてくれるような友人
は、何人、いる?」
私「……いないなあ……。1人もいないよ」
友「だろ……。ぼくもいないよ……」
私「ぼくなんか、よく家出するけど、いつもホテルや旅館を回っている」
友「親類は、どうだ?」
私「……いないなあ……」
友「じゃあ、さあ、今度家出したら、俺んチへ来いよ」
私「……ウ〜ン、やっぱりできないなあ……。君んとこにも、家族がいるし……」と。
私のばあい、むしろオーストラリアのほうに、そういう友人がいる。
反対に彼らは、2、3か月単位で、我が家に泊まっていく。
しかしオーストラリアまで家出するというわけにはいかない。
●孤独
友人に言わせると、「それが老後の自分だよ」と。
つまりこの先、年を取れば取るほど、そういう友人が少なくなる。
相手の友人が迷惑するというより、その家族が迷惑する。
親戚にしても、そうだ。
仮に配偶者(妻か夫)が亡くなれば、家出と同じ状況になる。
そういったとき、泊めてくれる友人、つまり孤独を慰めてくれる友人は、何人いるだろうか。
友人は、それを言った。
●雑誌『Mr. PC』
ここへ来る途中、書店に寄った。
パソコン雑誌の『Mr. PC』を買った。
ほとんど毎号、買っている。
付録のソフトが楽しい。
今回は、「オリジナル年賀状」というのが、目にとまった。
カードのリンクを相手が開くと、文字がこちらが書いたように動き出すという。
いろいろに応用できそう。
15〜20年前なら、こうしたソフトを、1本、1本、4000〜6000円で購入していた。
それが今では、100本近く収録されていて、650円(『Mr.PC』)!
温泉から戻ると、さっそく、それを試してみる。
……どうかな?
さっそく1枚、作ってみた。(下をクリック!)
http://www.kaki-kaki.com/draw_mail/view.html?61711257100406
●夕食後
夕食後、ワイフはビデオ。
題名は、『白いカラス』。
が、私はパソコン。
パソコンに向かって、文章を書く。
●白い道
このところ毎日、朝起きるとイチバンに、ウォーキング・マシンの上で汗をかく。
そのときのこと。
たいてい目を閉じて歩くのだが、いつも頭の中に同じ光景が思い浮かんでくる。
……一本の白い道。
舗装された白い道で、それがまっすぐその先にある小山につながっている。
私はその小山に向かって、時速6キロで歩く。
結構、速い。
で、10分、20分……と歩いていくと、だんだんと、その小山が近づいてくる。
通り過ぎる車はない。
人影もない。
ただそこにあるのは白い道。
が、いつも小山のふもとまで来ると、そこで時間切れ。
ちょうど30分になる。
で、1週間ほど前、心に決めた。
「今度こそ、小山のふもとまで行ってやろう」と。
で、その朝、それを実行した。
が、私がそこに見たのは、二階建ての灰色の建物だった。
コンクリートの建物。
窓がいくつかあったが、黒いカーテンで中は見えなかった。
ドアも黒く、見ただけで、開かないことがわかった。
以来、毎日、運動をしていると、その建物が見えるようになった。
●夢判断
白い道は、何を表すか。
灰色の建物は、何を表すか。
ウォーキング・マシンの上で運動をしながら見る夢(?)としては、ありふれたもの。
灰色の建物は、運動のゴールを表す。
が、その建物の中には、入れない。
黒いカーテンとドアで、しっかりと閉じられている。
たぶんそれは、私の想像力の欠落によるものだろう。
あるいは私の脳の奥を象徴しているのかもしれない。
夢といっても、眠っているわけではない。
●『白いカラス』
しっかりと観ているわけではない。
しかしなかなかよさそうな映画。
主演は、アンソニー・ホプキンズ。
ニコール・キッドマンも出てくるはずだが、今のところまだ登場していない。
(この間、2時間ほどDVDを観る。)
……星は4つの、★★★★。
ホーソーンの、『スカーレット・レター(緋文字)』を思わせるような、シリアスな映画だった。
●『行動は思考の敵』
DVDの中で、ニコール・キッドマンがこう言った。
車の中で、アンソニー・ホプキンズに、「行動は思考の敵」と。
どういう意味でそう言ったのかはしらないが、そのヒントはいくつかある。
アンソニー・ホプキンズは、こう言う。
「バイアグラの世話にさえならなければ、今ごろは、学生たちの人生の意味を教えている」(記
憶)と。
アンソノー・ホプキンズは、バイアグラをのみながら、34歳のニコール・キッドマンと関係をもち
つづける。
●理性の敵
恋愛ほどすばらしい、人との関わり方はない。
が、同時に恋愛ほど、人間の理性を狂わすものはない。
表に天国、裏に地獄。
恋愛を一言で表現すれば、そういうこと。
で、思考を理性とするなら、恋愛という行動は、即、思考の敵ということになる。
が、私はこう考える。
人生も残り10年になったら、本能から解放されたい、と。
逆の見方をすると、こうだ。
本能の虜(とりこ)になり、10年を無駄にする人は、いくらでもいる。
そういうことは、それができる人に任せておけばいい、と。
どうであれ、私はバイアグラの世話になっていないし、この先も、世話になるつもりもない。
●耳下腺炎
温泉に長くつかっていると、ときどき耳下腺炎になる。
今が、そうだ。
左耳の下あたりが、押さえると、痛む。
こういうときはビタミンC(アスコルビン酸)を飲むとよいが、今は、それがない。
症状がひどくなったら、家に戻ればよい。
ここからなら、家まで、車で20分もかからない。
……かばんの中を探すと、薬箱の中に、バッファリンが見つかった。
菓子パンで胃をごまかしながら、それを1錠のむ。
●翌朝
翌朝は、7時、起き。
朝食は、7時から。
あわてて食堂へ……。
ワイフが部屋を出るとき、こう言った。
「目覚まし時計は、なったの?」と。
こうして今日も、始まった。
みなさん、おはようございます。
(はやし浩司 2011−12−05 浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャンにて)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●12月07日【沼津・港八十三番地で夕食+三島・ドーミーインホテルに一泊】
+++++++++++++++++++
今、沼津に向かう列車の中にいる。
明日の朝、三島市で講演をする。
そのため今夜は、三島市で一泊。
ホテルへ入る前に、今夜は夕食は沼津市でとる。
最近、沼津市に新しい食堂街ができたとか。
海産物をふんだんたべさせてくれる。
楽しみ。
そこへ行く。
+++++++++++++++++++
●長寿と長命
「長寿」と「長命」は、ちがうのだそうだ(「週刊現代」記事)。
長寿というのは、健康な状態で長生きすること。
長命というのは、「ただ長生きすること」だ、そうだ。
たとえば寝たきりの状態の人は、たとえ高齢であっても、「長寿」とは言わない。
「長命」と言う、と。
(以上、参考:「週刊現代」誌)
●長生
長寿と長命。
が、私は、これに「長生」を加える。
ただの「長生き」のことではない。
謡い(うたい)に、『鶴亀』というのがある。
その中に、「♪君の齢(よわい)も、長生殿に〜」という文句が出てくる。
このばあいの「長生殿」は、「老後の理想郷」をいう。
またそうであってこそ、『鶴亀』!
勝手に私はそう解釈している。
つまり健康に生きるだけでは、足りない。
その足りない部分を補うのが、「前向きな生」。
だから「長生」。
これら3つを並べてみる。
長命……ただの長生き
長寿……健康で長生き
長生……生きがいをもち、健康で長生き
●人は死ぬもの
その「週刊現代」(最近号)の中で、あるドクターがこう言っている。
「いろいろながん患者をみてきたが、人は死ぬものです」と。
聞き方をまちがえると、辛辣(しんらつ)な言葉にも聞こえる。
しかし今までに何千人(同)もの死を、直接見つめてきたドクターだからこそ言える言葉である。
つまり、「がんのような大病になったら、すなおに死を受け入れたほうがいい」(同)と。
具体的には、「70歳を過ぎたら、手術はするな」(同)と。
「たとえ手術をしても、そのあと寝たきりになったら、意味はない」(同)とも。
(以上、手元に「週刊現代」誌がないので、記憶による。)
●生きがい
60歳を過ぎ、生きがいをもって生きるのは、たいへん。
同じ「週刊現代」の別のところでは、年金問題に触れ、ある男性の言葉を紹介していた。
「もう、仕事はこりごり」と。
仕事はこりごり?
……だから退職後は、年金だけで遊んで生きていきたい?
ということで、この数週間、「週刊現代」は、年金の60歳からの繰り下げ受給論を展開してい
る。
その分だけ割り引かれるが、年金は、早めに受給したほうが、得、と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
ただ「週刊現代」は、重要な問題を見落としている。
多分、その記事を書いたライターは、若い人なのだろう。
●老後の生きがい
中には「仕事はこりごり」という人もいるかもしれない。
が、みながみな、そうではない。
こりごりということはわかる。
が、仕事をやめたあと、どうするのか?
よく「老後は、庭いじりと孫の世話」と言う人がいる。
しかしそんなことで、老後は過ごせない。
過ごせないことは、自分が老後を迎えてみて、よくわかった。
(私自身は、今の人生を老後とはまだ思ってないが……。)
「仕事はこりごり」と言う人は、よほど不幸な現役時代を送っていたにちがいない。
どんな仕事だったかは、知らない。
毎日が苦痛でたまらなかったのかもしれない。
が、やっとその仕事から解放された。
だから「こりごり」と。
が、たとえそうであっても、そのことと老後の生きがいとは別。
●統合性
もう何度も書いてきたが、いかに統合性を確立するか。
それが老後の第一課題ということになる。
(自分のすべきこと)を発見し、無私、無欲で、(それをする)。
思春期の「自我の同一性」の問題と、中身を同一にする。
若い人は、(自分のしたいこと)を模索し、その(したいこと)に自分を一致させていく。
これを「自我の同一性」という。
その(自分のすべきこと)を発見した老人は、幸福である。
その(すべきこと)に向かって、邁進努力している老人は、幸福である。
そのひとつのヒントとして、心理学の世界では、「真・善・美」という言葉を使う。
「真・善・美のどれかを追求する」と。
●無私、無欲
ここで「無私、無欲」という言葉が出てくる。
功利、打算、利潤の追求が混在すると、「統合性の確立」は霧散する。
無私、無欲でなければならない。
また無私、無欲でするからこそ、統合性を確立することができる。
●年金
年金をもらって生きる……。
若い人たちからみれば、うらやましいような話に聞こえるかもしれない。
(あるいは怒っている人も多いかと思う。)
しかし中には、それをよしとしない人もいる。
たとえばこの私。
年金制度ほど、不公平なものはない。
どう不公平かは、今さら改めて指摘するまでもない。
私も、お金は嫌いではない。
もらえるものは、もらいたい。
しかし国民年金など、もとからアテにしていない。……できない。
1、2年前、通知書が届いたが、それには満65歳から、月額6万4000円(?)とあった。
●繰り上げ受給
週刊現在によるまでもなく、年金はたとえ割引されても、早めにもらったほうがよい。
これを「繰り上げ受給」という。
実際には、老齢基礎年金のことをいう。
その老齢基礎年金について言えば、60歳からもらったほうが、70歳になる時点においては、
600万円ほど、多くなる。
しかし85歳までもらうとすると、反対に200万円ほど、少なくなる。
(以上、「All Aboutサイト」での試算による。)
その差額を、そう判断するか?
が、それでも年金は、早めにもらったほうがよい。
というのも、早晩、日本の年金制度は、まちがいなく破綻する。
2050年(=38年後)には、1・2人の実労者が1人の高齢者を支える時代になる。
消費税をあげようが、どんなことをしようが、それは不可能。
つまり1・2人の実労者が、1人の老人を支えるのは、不可能。
さらに言えば、この先、日本経済はどうなるか。
猛烈なインフレに襲われる心配もある。
だったら週刊現代が説くように、早めにもらったほうがよい。
が、だからといって、それが老後のあるべき姿ではない。
●労働力不足から粗大ゴミ
15年ほど前から、少子化が叫ばれるようになった。
当時は、少子化問題は、労働力不足問題のことをいった。
「どう労働者を確保するか」が、問題だった。
が、今は、大きく様変わりした。
労働力不足問題は、どこかへ消えてしまった。
職場そのものが、消えてしまった。
つまりとたん、老人は労働者ではなく、「粗大ゴミ」になってしまった。
が、これは(我ら)老人組にとっては、悲しむべき社会現象と考えてよい。
●「老人よ、働こう」
が、それでも私はこう説く。
「老人よ、働こう」と。
統合性を確立した老人は別として、その確立に失敗した老人は、働くしかない。
が、私は老人が働くことを、悲観的にとらえているのではない。
働くことによって、日々の生活の中に、緊張感が生まれる。
この緊張感が、その人をして、生き生きと生きがえさせる。
生きがいも、そこから生まれる。
●昼寝
たとえば私は現在、努めて昼寝を日課としている。
昼寝はボケ防止によいという説もある。
それはその通りで、歳を取ればとるほど、こだわりが強くなる。
(こだわり)は、脳の大敵。
こだわっている部分の脳は活発に働くかもしれないが、それ以外の脳は、休眠状態になる。
つまりその部分から、ボケ始める。
が、昼寝をすることによって、脳みそを一度、リセットすることができる。
カラッポにすることができる。
●緊張感
その昼寝をしているときのこと。
ときどき、ワイフに起こされる。
「あなた、仕事よ!」と。
そういうとき私は、仕事があることを心底、恨む。
「もっと眠っていたい」と思う。
その前に、体が動かない。
その動かない体にムチを打ち、起きあがる。
起きあがって、支度を整え、自転車にまたがる。
それがここでいう緊張感である。
そんなとき、ふと、こう思う。
「もし、仕事がなかったら、1か月でぼくは、病気になってしまうだろうな」と。
●長生
長寿をめざす。
それはそれで重要なことかもしれない。
しかしそれだけでは足りない。
それが「長生」ということになる。
「いかに生きるか」でもよい。
●こだわり
ここで(こだわり)という言葉が出てきたので、一言。
10年ほど前、たいへんこだわりの強い女性(70歳くらい)がいた。
「固執」「固着」「執着」ともいう。
これらの言葉は、それぞれの世界で使われる。
心理学の世界では、「固着」という。
仏教の世界では、「執着」という。
平たく言えば、(こだわり)。
老人の(こだわり)には、注意したほうがよい。
ひとつのことに、こだわればこだわるほど、脳のほかの部分の働きが、おろそかになる。
そうでなくても、脳みそは、不可逆的に退化していく。
その女性は、65歳くらいから、おかしな言動を繰り返すようになった。
突発的に興奮状態になることもあった。
70歳をすぎてから、音信が途絶えたので、様子はわからない。
しかし何かの脳の病気になり始めていたことは、じゅうぶん疑われる。
●こだわり
その女性は、ことあるごとに、弟氏の悪口を並べた。
「法事に来たが、タクシーに乗ってきた」
「夫が話しかけたが、形だけの返事しかしなかった」
「法事というのに、柄物の靴下をはいてきた」
「供養の袋だけで、供物を何ももってこなかった」などなど。
まるでその場をビデオカメラで収めたかのように、悪口を並べた。
が、そうした(こだわり)のほうこそ、大きな問題だった。
その女性は、それに気づいていなかった。
●3つの教訓
最近では、脳の活動の様子を、リアルタイムでそのまま知ることができる。
それによっても、こだわりの強い人というのは、脳のその部分は活動しても、ほかの部分が休
眠状態になることがわかっている。
このことは、私たちに3つの教訓を与えてくれる。
ひとつは、(こだわり)はもたないほうが、よいということ。
脳はいつも、平均的かつ全体的に、活動していたほうがよい。
もうひとつは、(こだわり)を少なくするため、いつも新しいことに興味をもったほうがよいという
こと。
平凡は美徳だが、老後の平凡は、美徳でも何でもない。
警戒すべきは、単調な生活。
変化に乏しい生活。
へたをすれば、そのまま死の待合室に直行……ということにもなりかねない。
そして3つ目は、こだわりが強くなったら、脳の変調を疑うということ。
老人性のうつ病の主症状は、(老人にかぎらないが)、こだわりと考えてよい。
うつ病イコール、こだわり。
こだわりイコール、うつ病。
●脳の老化
そうでなくても、脳の老化は、日常的に経験する。
記憶力の低下、集中力、気力の低下など。
好奇心の低下は、そのまま自分の住む世界を、小さくする。
来る日も来る日も、同じことを考え、同じことをするようになったら、脳の老化はすでに危機的
な段階に入っていると考えてよい。
それに(こだわり)が加われば、そのこだわっている部分はともかくも、ほかの部分が一気に
老化する。
その女性については、こんなことがあった。
●ボケ症状
ワイフのクラブの会費を、その女性がなくしてしまった。
その数日前まで、こう言っていた。
「会費は青い封筒に入れ、バッグの中にあります」と。
が、ワイフがその数日後に電話すると、こう言った。
「私、そんなお金、知りません」
「青い封筒など、知りません。そんな話をした覚えは、ありません」と。
こういうのを、「ボケ」という。
オーストラリアの友人が、こう教えてくれた。
「小便のあと、(ズボンの)チャックをあげ忘れても、ボケではない。
小便の前、チャックをさげ忘れたら、ボケ」と。
●静岡から沼津へ
今、列車は静岡を出た。
時刻は午後4時、少し前。
窓の外は、すっかり冬景色。
いつものように乗客観察を始める。
服装や話し方、その人のもつ雰囲気で、その人がどんな人物かを、言いあてる。
シャーロック・ホームズが得意とした芸である。
が、今日は、前に座った女性(30歳くらい)が気になった。
この列車に乗ってからというもの、もう1時間以上も、話しつづけている。
声はさほど大きくはない。
が、口が止まらない。
ペチャクチャ、ペチャクチャ……。
となりの女性に、一方的に話しかけている。
●AD・HD
私「AD・HDだよ」
ワ「……AD・HD?」
私「そうだよ、目を見ればわかる。焦点が空を向いているだろ。相手の顔を見ていない……」
ワ「そうね……」
私「相手が何を聞きたがっているか、相手がどの程度理解しているか、そんなことはお構いな
しに話しつづけている」
ワ「目も、どこかトロンとしているわね」
私「そうだよ。会話になっていない。脳に飛来する情報を、そのまま言葉にしている」と。
AD・HD児というと、男児に多い障害と考えられている。
が、実際には、女児にも多い。
その第一の特徴が、多弁性。
とにかくよくしゃべる。
うるさいほど、よくしゃべる。
注意しても、効果はその場だけ。
つぎの瞬間には、またしゃべり始める。
多動性や騒々しさは、おとなになると消えてくるが、女性のばあい、多弁性だけは残ることが
多い。
●鈍行列車
書き忘れたが、今日は、鈍行列車を選んだ。
急ぐ旅行ではない。
それに私は、このパソコンを叩きたかった。
新幹線で行けば、一度三島まで行き、そこで少し戻る形で、沼津に行く。
時間は、1時間10分。
鈍行列車では、2時間。
が、今、決めた。
「帰り(明日)は、新幹線にしよう」と。
●接客業
話題を変える。
私は若いころ、……35歳くらいのことではなかったか、旅館経営をしてみたくなった。
「毎日、温泉に入って、ごちそうが食べられる」と。
単純な発想だった。
で、長野市にいた友人に相談すると、すぐ、いくつかの旅館を紹介してくれた。
長野市で、司法書士をしていた。
「○○温泉郷あたりなら、いくらでも売り物件があるよ」と。
が、その直後から、私は山荘建設に取りかかった。
小さな山を丸ごと買い、造成した。
で、その話をしながら、列車の中でワイフとこんな話をした。
「あのとき旅館を買わなくて、よかったね」と。
接客業ならなおさら、人を接客するというのは、大仕事。
そのあと自分で山荘をもってみて、それがヨ〜ク、わかった。
●何もしない……
結論を先に言えば、40代以上(当時)の男たちは、何もしなかった。
山荘へ来ても、デンと座っているだけ。
何も手伝わない。
「手伝おうか?」とも、聞かない。
ただ座っているだけ。
「上げ膳、据え膳」……というような生やさしいものではなかった。
風呂の準備から、寝具の用意などなど。
食後のコーヒーまで。
あるとき、こんなことがあった。
高校時代の同級生が泊まったときのこと。
朝、居間でコーヒーを飲みながら、こう言った。
「なあ、林、近くにパルパル(近くの遊園地)というところがあるみたい。そこへ行こうか?」と。
見ると、浜松市内の観光地図がテーブルの上に置いてあった。
で、私はこう言った。
「行くといっても、1時間はかかる」と。
するとその友人は、こう言った。
「バカ言え。ここからなら10分で行くよ」と。
私「あのなあ、1時間というのは、これから洗い物をし、部屋を片づけ、戸締りをするまでに、1
時間かかるということ」
ワ「あとですればいい」
私「またこの山荘へ戻ってくるというわけにも、いかない」と。
人を接待したことがない人には、(現在、50代以上の男性に多いが)、接待の苦労がわから
ない。
●沼津・港八十三番街
沼津駅をおりると、すぐ「港八十三番街」に向かった。
タクシーでちょうど1000円前後の距離だった。
駅の案内書でもらったチラシには、こうある。
「目の前の沼津港で水揚げされた新鮮な魚介類や地元静岡の食材を使った料理が楽しめま
す」と。
タクシーを降りると、店をさがした。
かなりの数の店が並んでいる。
いつか見た台北の居酒屋のようでもある。
香港の裏通りのようでもある。
で、こういうときは、コツがある。
いちばん客の多い店を選ぶ。
……ということで、そのあたりをワイフと2人で歩いた。
で、裏通りへ入ると、ドヤドヤと客が出てきた店があった。
「丸天」という店だった。
中をのぞくと、ガヤガヤと客がいる。
そのほかの店は、どこも、ガランとしていた。
「平日の水曜日なのに、すごい店だな」と。
私たちはその丸天に入った。
●丸天
沼津港周辺にある海鮮料理屋の海鮮料理は、昔から量が多い。
刺身でも、天ぷらでも、はたまた寿司でも、ドカッと出される。
丸天でも、そうだった。
ワイフは海鮮丼。
私はマグロのテール・シチューと、かき揚げ。
その量を見て、驚いた。
マグロのテール・シチューだけでも、食べきれない。
私とワイフは、1時間ほどかけ、ゆっくりと食べた。
途中、汗が出てきた。
暑いというより、食べすぎ?
全体に7割前後食べ、そこでギブアップ。
料金は合計で、3600円。
マグロのテーブル・シチューは、ほかでは食べられない。
握りこぶし大のマグロの肉が、2切れ、大きな皿の上に載っていた。
珍味中の珍味。
おいしかった。
帰りにタクシーの運転手に話すと、運転手は、こう言った。
「ああ、あの店ね。昼は、行列ができる店ですよ」と。
沼津・港三十八番地、裏通り、丸天は、星5つの、★★★★★。
まちがいなし!
●沼津港深海水族館
今日は12月07日。
12月10日から、その食堂街の少し奥に、「深海水族館」なるものがオープンするという。
手にしたチラシによれば、「あのシーラカンスが見られる」とある。
水族館は、外から見た感じでは、それほど大きくなさそう。
しかしシーラカンスというのは、すごい!
冥土のみやげに、一度、見てみたい。
そうそう帰りのタクシーの中で、運転手が、こんな話をした。
あの3・11大震災の後のこと。
しばらくは、そのあたりでは、毎日客ゼロの日が続いたという。
「理由は?」と聞くと、「地震と津波ですよ」と。
運「このあたりも、あんな大きな津波が来たら、ひとたまりもありませんよ」
私「……それで、ですか?」
運「沼津駅あたりまで、津波は押し寄せるでしょうね」
私「……」
運「このあたりも大地震が心配されていますからね」と。
●三島へ
沼津から三島へは、1区間。
が、その1区間が長い。
途中、途切れることなく、街並みが続いている。
「みんな、このあたりの人たちは、どうやって通勤しているのだろう」と、その街並みを見なが
ら、ふとそんなことを考える。
同じ静岡県にありながら、西にある浜松市と、東にある三島市とでは、雰囲気がまったくちが
う。
経済が低迷する浜松市。
東京的な雰囲気を漂わせる三島市。
2年会った県会議員の女性は、こう言った。
「(静岡県の)西では、地価が下がっている。東では上がっている」と。
静岡県は、東西に長い県である。
●三島・ドーミンイン・ホテル
明日(8日)は、講演がある。
私は講演のある日は、食事を抜く。
「腹が減っては、戦はできぬ」という。
が、講演は、逆。
「腹がふくれていては、講演はできぬ」。
講演というのは、そういうもの。
で、今日は、素泊まり。
朝食抜き。
ホテルは、ドーミンイン・ホテル。
1泊、1人、3500(ダブルベッドルーム)。
2人で、7000円。
ポイントが使えたので、2人で、6600円。
「2人で6600円ですか?」と聞くと、「はい、そうです」と。
●ハイテク・ホテル
部屋はややせまいかな……という感じだったが、まさにハイテク・ホテル。
スイッチ類や水道の蛇口まで、今まで見たことがないようなものばかり。
大型の加湿器まで備えてあった。
説明書には、こうある。
「……インフルエンザ対策として、強力除菌噴霧器で各部屋を除菌、各フロアに空気清浄器、
各部屋に自動気化式加湿器を設置しています。
なお以下の各箇所を、アルコール消毒しています」と。
……加えて、無駄がない。
たとえば12階には温泉がある。
小さいが露天風呂とサウナルームも併設。
その風呂場には、洗濯ルームまである。
エレベーターにしても、まさにハイテク。
最新。
なおワイフの話では、女性風呂のほうは、そのつどフロントに電話をかけ、暗証番号を入力し
ないと、ドアが開かないようになっている、とか。
で、部屋にはシャワールーム設備のみがあったが、私はそれでじゅうぶんと思う。
内風呂までは、不要。
風呂へ入りたい人は、12階の温泉へ入ればよい。
風呂は、もちろん、オールナイト。
●文句なしの、5つ星
さらにタオル類には、ホテル名が刺繍してある。
(印刷ではなく、刺繍だぞ!)
またホテル全体、通路、部屋が、白と黒で統一されている。
壁は白、ドアは黒、と。
さらにコップと歯ブラシの色も、それに合わせて、それぞれ白と黒の2種類になっていた。
その色が、同じ!
しかもそれぞれが、ドーミーインのネーム入りの袋に入っていた!
私もワイフも、驚いた。
ここまで客を喜ばせるホテルは、そうはない。
料金を勘案すれば、星は文句なしの、5つ星の、★★★★★。
書き忘れたが、部屋は清潔。
汚れひとつない。
正式には、「HOTEL dormy inn」(案内書)という。
サウナで知りあった男性は、「連泊しています」と言った。
●明日(はやし浩司 2011−12−08)
部屋で落ち着くと、睡眠導入剤を、口にした。
いつもよりやや多めの、ひとかけら。
時計を見ると、午後7時30分。
「明日こそは、失敗しないぞ」と、心に誓う。
「うまくやろう」という気持ちは、まったくない。
「失敗しないぞ」と。
テレビを観ながら、床に就く。
●深夜の起床
ぐっすり眠った……と思いながら、夜中に目を覚ました。
が、時計を見ると、午後11時30分!
夢の中に、昔の生徒と母親が出てきた。
何かの議論をしていた。
しばらくそのまま横になったが、ワイフが寝返りを打ったとき、私は起きた。
……パソコンを開き、あちこちのニュースサイトをのぞく。
まず飛び込んできたのが、柔道の金メダリストによる、破廉恥事件。
10代の教え子を、酒に酔わせ、ホテルへ連れ込み、ワイセツ行為に及んだという。
余罪もあるらしい。
去年(2010年)だったか、泥酔中の女性と関係をもったら、強K罪になるという判例が出た。
当の本人は、「合意の上だった」と主張しているようだが、一度、こういう判例が出ると、それは
無理。
その判例をひっくり返すためには、日ごろからそういう恋愛関係にあったという客観的な証拠
が必要。
逆にみれば、その目的を隠しながら、わざとその女性を泥酔させたとも、考えられる。
もしそうなら、犯意は、かぎりなく醜悪。
ネットで経歴を調べてみたが、結婚はしているらしい。
「奥さんがかわいそう」と。
ふと、別の心で、そんなことを考える。
●欲望
「金メダルを取りたい」という欲望。
その欲望は、そのまま性的欲望と、一直線につながっている。
ともにドーパミンの作用による。
心理学でいう「リビドー」をあてはめて考えると、理解しやすい。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
『……リビドー(ラテン語: Libido)とは、日常的には性的欲望または性衝動と同義に用いられ
る。
これはジークムント・フロイトが「性的衝動を発動させる力」とする解釈を当時心理学で使用さ
れていた用語Libidoにあてたことを継承したものである。
一方で、カール・グスタフ・ユングは、すべての本能のエネルギーのことをLibidoとした』と。
平たく言えば、生きるエネルギーが強力な人ほど、他方で、性的欲望も強力ということ。
『英雄、色を好む』という俗説も、そんなところから生まれた。
が、だからといって、私はその柔道選手を擁護しているわけではない。
バカである。
『バカなことをする人を、バカというのよ。(頭ではないのよ)』(「一期一会・フォレスト・ガンプ」)
と。
●性癖
ワイフにこう聞く。
「もし、ぼくが10代の女性を泥酔させ、ホテルへ連れ込んだと知ったら、どうする?」と。
が、ワイフは即答を避け、こう言った。
「もともとそういう人とは、結婚しないわ」と。
性癖というのは、みな、ちがう。
こと性癖について書くなら、「男はみな……」という論法ほど、アテにならないものはない。
たとえば(スカートの中)。
手鏡を使ってスカートの中をのぞいた、どこかの大学教授がいた。
で、そういう事件を見聞きすると、女性たちは、「男はみな……」と考えるかもしれない。
が、これはここで私はこう、断言できる。
興味の程度には、大きな個人差がある。
興味があっても、実際、そうした行動に出る男もいれば、そのなん歩も手前で、自分を引いてし
まう男もいる。
そのエネルギーは、男によって、みなちがう。
私自身も、若いころ、興味がなかったわけではない。
しかしあえて見たいと思ったことはない。
●性癖
ではその男の性癖は、いつごろどのようにして作られるのか。
それには、「抑圧」の問題が、大きくからんでいる。
たとえば私のばあい、思春期のころ銭湯に通っていた。
その銭湯へ行くたびに、入り口のところから、そっと女湯のほうをのぞく
それは楽しみなことでもあった。
が、それはたいへん悪いことでもある。
自分にそう言って聞かせた。
つまり心の中に抑圧し、封印した。
今にしてみると、それが私の性癖を作った。
今でも、入浴後の女性のにおいをかぐと、ふつうでない色気を感ずる。
だから私は若いころから、いつもこう願っていた。
一度は、女性と混浴をしてみたい、と。
いや、一度だけだが、ある。
●混浴
その混浴だが、生涯において、一度だけ、したことがある。
私が大学4年生のときのことだった。
伊豆の堂ヶ島でのことだった。
舟を利用した天然の温泉にひとりつかっていたら、3人の若い女性がそこへ入り込んでき
た。
驚いたのなんのと言ったら、なかった。
が、女性たちは慣れた雰囲気で、そのままジャバジャバと、舟の中へ。
そして私と並んで湯船につかった。
が、それは想像していたのとは、まったくちがっていた。
健康的というか、卑猥(ひわい)感は、まったくなかった。
世間話こそできなかったが、平静だった。
じっと身動きもせず、私はだまったまま、下を向いていた。
私にとっては、生涯忘れえぬ、すばらしい(?)思い出となった。
●リビドー(心的エネルギー)
ついでながら、ウィキペディア百科事典には、つづけて、つぎのようにある。
『……精神分析学ではリビドーを、様々の欲求に変換可能な心的エネルギーであると定義して
いる。
リビドーはイド(簡単にいえば無意識)を源泉とする。
性にまつわるものだけでなく、より正確には人間の性を非常にバラエティに富んだものへと向
ける本質的な力と考えられている。
リビドーが自我によって防衛・中和化されることで、例えば男根期の露出癖が名誉欲に変わる
など、社会適応性を獲得する。
また支配欲動が自己に向かい厳格な超自我を形成して強い倫理観を獲得することもある』と。
わかりやすく言えば、こうしたエネルギーは、使い方の問題ということ。
うまく使えば、すばらしい人間になれる。
が、使い方を誤ると、先の柔道選手のようなことをするようになる。
逆に言えば、善人も悪人も、紙一重。
大きく違うようで、どこも違わない。
……これは私の昔からの持論。
●深夜の入浴
これから一風呂浴びてくる。
多分、そのまま、最就寝。
日は替わって、今日は12月08日。
こんな状態で、今日はよい講演ができるのだろうか。
かなり心配になってきた。
●午前6時05分
先ほど、目を覚ました。
時刻は、薄明るくなり始めたころの、午前6時05分。
外は雨模様。
加湿器のおかげで、エアコン独特の、あの乾燥もなく、ぐっすりと眠れた。
起きるとワイフはそのまま温泉へ。
私は、あちこちのニュースサイトに目を通す。
日本が夕方になると、EUが動き出す。
日本が真夜中のうちに、アメリカが動き出す。
日本が朝を迎えるころ、EUやアメリカがその日の結論を出している。
●新聞
風呂から戻ってきたワイフが、新聞をもってきた。
「エレベーターのところに、『ご自由にどうぞ』とあったから」と。
最近では、一流ホテルでも、ここまでのサービスはしない。
……この数日、経済ニュースは読まないようにしている。
どうでもよいというか、狂っている。
ささいな動きをとらえて、ヌカ喜び。
株価は大暴騰。
その翌日には、反対に、取り越し苦労。
株価は大暴落。
1日ごとに、大変動。
それよりも心配なのは、こうしたストレスが、新興国に与える影響。
長引けば長引くほど、その圧力が、それぞれの国で政情不安を引き起こす。
●女性天皇
週刊誌(新聞広告)は、相変わらず女性天皇の問題について論じている。
すでに国民の70%以上(各種世論調査)が、女性天皇を支持している。
が、ここで重要なのは、天皇自身の意思。
天皇自身はどのように考え、願っているのか。
私たちはもう少し天皇の気持ちを、大切にすべきではないのか。
即位に際しても、そうだ。
日本国の象徴であるということは、想像を絶する重責である。
そんな重責を、天皇自身の意思を無視したまま、一方的に押しつけるのも、どうか。
あるいは一度でも、「重責を担(にな)っていただけますか」と、天皇に聞いたことがあるのだろ
うか。
それもしないで、外野席だけが、ワイワイと勝手に騒ぐ。
ワイワイと騒いで、「これが結論です」と、一方的に天皇家の人たちに、押しつける。
天皇にしても、天皇である前に、1人の人間としての「人権」がある。
その人権を踏みにじりながら、後継問題を論じて、どうする?
どうなる?
さらに一歩踏み込めば、こうも言える。
「どうして日本人は、こうまで『格式』にこだわるのか」と。
今は、もう、そんな時代ではない。
もっと皆が、(もちろん天皇家の人たちも含めて)、自由に自分の意見を言い、したいようにす
る。
その結果としてなら、女性天皇が誕生しても、何もおかしくない。
国民も、(もちろん私も)、喜んでそれを支持する。
●準備完了
時刻は7時50分。
先ほどシャワーを浴び、身支度を整えた。
準備、完了!
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 沼津 第三十八番地 丸天 はやし浩司 三島 ドーミンイン・ホテル は やし浩司 リビドー 性的エネルギー 心的エネルギー 天皇の人権 皇室問題)2011/12/08 記
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司※
【封建時代の清算】(あの江戸時代を不必要に美化してはいけない!)
●恐怖政治(双葉社「江戸残酷物語」を読んで)
+++++++++++++++++++++
江戸時代が、どういう時代であったか。
日本の法制史を少しでも学んだことがある人なら、
それを知っている。
江戸時代という時代は、世界でも類を見ないほど、
暗黒かつ、恐怖政治の時代であった。
たとえば不義密通(不倫)程度のことでも、斬首刑!
その江戸時代の人たちにすれば、現代の北朝鮮ですら、
「天国」に思えるだろう。
裁判にしても、まさに「形」だけ。
自白と拷問。
拷問と自白。
人権の「ジ」の字もない。
それだけで、無数の人たちが、公開で処刑されていった。
また江戸時代の刑罰がいかにすさまじいものであったかは、
今さらここに、改めて書くまでもない。
+++++++++++++++++++++
●徳川家康
あの徳川家康にしても、この静岡県では、「神様」のように扱われている。
それもそのはず。
300年(265年)に渡る江戸時代という時代を通し、徹底的に美化された。
その一方で、徳川家康にまつわる都合の悪い事実は、繰り返し抹消された。
が、証拠がないわけではない。
あの築山殿(徳川家康の正室)にしても、残虐極まりない女性であったという。
侍女の虐待、拷問なども、日常茶飯事。
その息子の信康も、これまたしかり。
「領民を面白半分に殺害することも、たびたびあった」という(「江戸残酷物語」(双葉社))。
徳川家自身が記録した、『当代記』『三河後風土記』などに、記録されているという(同)。
……こう書くと、「林は、負の部分にばかり気を取られている」と批評する人がいるかもしれな
い。
が、事実は、まったくの逆。
その築山にしても、(静岡県では、哀悼の念をこめ、「築山御前」と呼ぶ)、家康の命令により、
佐鳴湖畔(浜松市の西にある湖)のほとりで、殺害されている。
表向きは、織田信長の命によって殺されたということになっている。
が、実際には、徳川家康が織田信長を悪者にしたて、自ら殺害を企て殺害した。……という説
もある。
●疑問
私が織田信長に最初に疑問を感じたのは、高校生のときのことだった。
郷里に岐阜城という、山城がある。
その城を訪れたときのこと。
そこに織田信長についての記述が、パネル形式で、壁に張ってあった。
そのひとつに、「織田信長は、毎日、長良川の河畔で、5〜60人もの人を処刑した」とあった。
数字については、記憶によるものだから、確かではない。
またいつどのようなときに、織田信長がそうしたのかも覚えていない。
しかしその記述を目にしたとき、それまでの私がもっていた「信長観」は、吹き飛んでしまった。
事実、織田信長は、冷酷無比、残忍な暴君であったようだ。
もうひとつ、こんな例もある。
●新居の関所跡
浜松市の西に、「新居の関所跡」というのが、保存されている。
江戸時代という時代がどういう時代であったかを知る、ひとつの手掛かりになる。
以前にもそれについて書いたことがあるので、その原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2000年ごろ書いた原稿より。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●新居の関所
浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。
関所の中でも唯一現存する関所ということだが、それほど大きさを感じさせない関所である。
江戸時代という時代のスケールがそのまま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「き
びしさ」。
関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわかる。
つかまれば死罪だが、その関所破りを助けたものも同程度の罪が科せられた。
当時は、家族もろとも処刑されるのが、習わしであった。
それだけではない。
たとえば新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどさ
れ、そこでさらにはりつけに処せられたという記録も残っている※。
移動の自由がいかにきびしく制限されていたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。
が、さらに驚いたことがある。
あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。
その中の随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんで
いた」というような記述があったことである。
当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事はいっさいなかった。
私と女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまった。
「江戸時代が自由な時代だったア?」と。
●北朝鮮
もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつ
とは思わなかっただろうということは、私にもわかる。
あの北朝鮮の人たちだって、「私たちは自由だ」(報道)と言っている。
つまりあの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家だ」と主張している。
(北朝鮮の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)
現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコメン
ト)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことである。
私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかということ。
新居の関所はその象徴ということになる。
たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町
だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであったのが気になる。
関所がそれくらい身分の高い人によって守られ、新居町が特権にあずかっていたということだ
が、批判の対象にこそなれ、何ら自慢すべきことではない。
たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。
(そういう意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。
それはまちがいない。)
そしてその関所をとおして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌
で感じてみたらよい。
何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。
しかし決して美化してはいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。
そういえば関所の中には、これまた美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎
役者のように美しかった。
私がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。
(※こまかい点は、記憶によるものなので、事実と違うかもしれない。)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●武士道を美化する人たち
いまだに武士道なるものを美化する人が多いのには、驚かされる。
「武士道こそ、日本人の精神的根幹である」と主張してやまない。
が、本当に、そうか。
そう考えてよいのか。
これについても、今までに、たくさんの原稿を書いてきた。
さがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2009年ごろ書いた原稿が見つかった。
少し長いが、よく読んでほしい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●死の美学と隷属意識
武士道の根幹は、死の美学と隷属意識。
++++++++++++++++++++
●武士道(1)
+++++++++++++++++++++++
けっして、死を美化してはいけない。
生を美化することはあっても、死を美化してはいけない。
私たちは、まず、生きることを考える。
生きて生きて、生き抜く。
死はその結果としてやってくるかもしれないが、
そのときは、そのとき。
死の向こうには、何もない。
そこは太虚の世界。
だから、死を美化してはいけない。
武士道を一言で言えば、その底流にあるのは、
死の美学ということになる。
武士の象徴が、「刀」にあるとするなら、その
刀は、人を殺すためのもの。
この原点を踏み外して、武士を論じてはならない。
武士道を論じてはならない。
新渡戸稲造は、「武士道」の中で、あの赤穂浪士を、
最大限の言葉を使って、称賛している(「武士道の世界」
イースト・プレス)。
「義士と呼ばれるこの正直な率直な男子たちの徳は、
宝石のように光り輝き、人々のもっとも高く、褒め
讃えたものだったのである」と。
+++++++++++++++++++++
●真の勇者(?)
新渡戸稲造は、真の勇者について、こうも書いている。
「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」(同
書、P18)と。
私は一度は、新渡戸稲造の「武士道」を一度は読破しなければならないと、思ってきた。
しかしその機会はなかった。
(20年ほど前、一度、目を通した記憶はあるが……。)
断片的な知識はたくさんもっている。
しかしそれらは、断片的なものでしかない。
で、今度、イースト・プレス発刊の「武士道の世界」という本を買ってみた。
サブタイトルに、「誇るべき日本の原点」とあることからもわかるように、この本は、武士
道を礼賛する内容の本である。
そういう本を使って、私なりに武士道のもつ矛盾を指摘するのは気が引ける。
しかし礼賛する本であるがゆえに、私の脳みそに与える刺激も大きい。
1ページ読むごとに、脳の中で、バチバチと神経細胞が火花を飛ばすのを感じた。
が、この本ほど、「死」「自害」「討ち死に」「戦」という言葉が並ぶのも、そうは多くない。
「武士道の真髄」(P181)というところを紹介する。
「真髄」とあることからもわかるように、武士道の根幹を説明したものである。
+++++++++++++++++++
●『武士道といふは、死ぬ事と見付けたり』(葉隠)。
『武士道といふは、死ぬ事と見付けたり』(葉隠。
このあまりにも衝撃的で有名な言葉は、山本常朝が口述し、田代陣基が筆記、編纂した
『葉隠』の冒頭に記された、武士道の真髄を表すものだ。
主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の武士であるという
心得を説いている。
「武士は生と死、どちらかを選ぶ場合、必ず死を選ばなければならない」のである。
「生き恥をさらす」と言われるように、この時代の武士道精神においては、戦に勝てな
いときは、死ぬことで忠義を果たさなければならないと考えられていた。
しかしこの言葉には、さらに深い意味がこめられている。
生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、その武士は本分を全
うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教えだと言えるだろう』
と。
++++++++++++++++
●命を捧げる
この部分を読んだとき、まっさきに頭に浮かんだのが、K国の金xx。
あの独裁者。
金xxが読んだら、涙を流して喜ぶにちがいない。
あの国では、幼稚園の子どもですら、「金xx将軍様を、命をかけて守ります」と連呼して
いる。
おとなたちは、「死守」という言葉を使っている。
それはさておき、「主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の
武士である」という部分だけでも、バカげている。
もしあなたがまともな思考力をもっている人なら、あなたもそう感ずるだろう。
主義や理想、正義や真理のためなら、命をかけることはある。
しかし「命をかける」イコール、「命を捧げる」ではない。
いわんや、相手が、人間である、「主君」?
こういう思想を、私の世界では、「隷属思想」という。
●主君の主君は?
学生のころ、友人と、こんな議論をしたことがある。
「主君にさらにその上の主君がいたら、そのばあいは、どちらに命を捧げるのか」と。
つまりあなたの仕える主君が、あなたの住む領地を治める領主だったとする。
当然、その領主には、彼が主君とあがめる、藩主がいる。
藩主の上には、将軍がいる。
こういうばあい、あなたという家来は、藩主や将軍に命を捧げる必要はない。
何かを命じられても、それに従う必要もない。
あなたの主君は、あくまでも領主。
領主の命令だけを聞き、その領主のために、命を捧げる。
もう少し話をわかりやすくするために、会社組織で考えてみよう。
あなたが営業課の係長だったとする。
あなたの直接の上司は、営業課の課長。
そんなある日、営業課が入っている制作部の部長から、直接、あなたに命令が届いた。
つまり課長の頭を通り越して、あなたに命令が届いた。
こういうケースのばあい、あなたはその部長の命令に従う義務があるのか。
それともないのか。
会社によって組織の組織形態が異なるので、「従わなければならない」という会社もあれ
ば、「従わなくてもいい」という会社もある。
しかしこと武士の世界では、主君というのは、先のケースでは、あくまでも領主というこ
とになる。
藩主や、将軍の命令に従う必要はない。
命を捧げる相手でもない。
これが学生時代に、私たちが知った結論である。
そのヒントを与えてくれたのが、ヤクザの世界である。
当時、(今でもそうだが……)、ヤクザの世界には、武士道の精神が、そのまま残っていた。
ヤクザの世界では、直接上にいる兄貴分が、武士の世界でいう主君ということになる。
●主従関係
もっとも、封建時代の昔ならいざ知らず、「主君に命を捧げる」という発想は、今は、な
い。
主従関係も、西洋の契約説によって決まる。
わかりやすく言えば、「金の切れ目が縁の切れ目」。
給料がもらえなくなったら、そこで主従関係は、消滅する。
人それぞれだが、私なら、断る。
どう考えても、主君のために命を捧げるという発想そのものが、バカげている。
つまりこんなところにも、武士道が説く、(死の美学)が見え隠れする。
繰り返すが、死を美化してはいけない。
その延長線上に、戦争がある。
その一歩手前に、特攻隊があり、自爆テロがある。
私たちは死ぬために生きているのではない。
生きるために生きている。
この本の著者は、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、
その武士は本分を全うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教え
だと言えるだろう」と書いている。
それにしても、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間……悟りの境地に達する」と
は?
いつの間にか、仏教の教えが、そのまま武士道の精神にすり替えられてしまっている?
●武士の作法
戦国時代はともかくも、以後、日本は300年という長い年月の間、太平天国の時代を
迎える。
その間に、武士道も、当初の戦闘を目的としたものから、権威づけのための作法の「道」
として変質する。
作法に始まって、作法に終わる。
それが武士道の柱と考えてよい。
いくつかを拾ってみる。
(1)鞘(さや)当て……武士の世界で、刀と刀の鞘が当たることは、何にもまして「無
礼極まりないこと」だったそうだ。
だから武士どうしは、廊下を歩くときも、左側通行が作法と決められていた。
(2)手はぶら下げて歩く……いつでも刀を抜けるように、手荷物も持たないし、傘もさ
さない。
(3)妻は後ろを歩かせる……妻と並んで歩くなど、軟弱者の証。
襲撃から守るという意味もある。(以上、同書)。
こうした作法が、ズラズラと、それこそ無数にある。
武士の刀をまたいだだけで、切捨て御免になった人も多いという。
また女性は、武士の刀に、直接手を触れることさえできなかったという。
しかしなぜ、「刀」なのか?
●武士と刀
武士の人口は、江戸時代においては、5%前後と言われている※。
しかしこの数字とて控えめなもの。
武士の家族も含まれているため、実際には、刀を差していた武士は、全人口の1〜2%以
下だったと推計される。
残りの95%のほとんどが、農民であった。
その1〜2%が、為政者として、好き勝手なことをした。
その好き勝手なことをする象徴として、「刀」があった。
武士が刀に執着する理由は、ここにある。
私はこんな話を、直接、その女性から聞いている。
私が住んでいる山荘のある村は、400年以上もの歴史のある、由緒ある村である。
その山荘の隣人に、10年ほど前、88歳で亡くなった女性がいる。
いわく、「明治時代に入ってからも、士族の人たちは、このあたりでは刀を差して歩いてい
た」と。
「刀の鞘どうしがカチャカチャと当たる音が、遠くから聞こえてくると、みな、道路の
脇に寄って、正座し、頭をさげた」と。
言うなれば、95%の日本人が、5%の武士を支えるために、犠牲になっていた。
そういう世界が、いかにおかしな世界であるかは、あなた自身を、その農民の立場に置い
てみればわかる※。
あなた自身の先祖も、その農民であったはず。
(私の先祖も、農民だった。)
一生、土地にしばられ、職業選択の自由もなかった。
当時生きていた人たちもまた、私やあなたと同じ人間であった。
犬や猿とは、ちがう。
そういう人たちを原点に考えるなら、「何が武士道か?」ということになる。
さらに言えば、この武士道が、やがてあの戦陣訓へとつながっていく。
それについては、前にも書いた。
もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価は必要である。
しかしそれがもつ(ネガティブな側面)に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼
賛することは、危険なことでもある。
どうして武士道が、「誇るべき日本人の原点」(本のタイトル)なのか?
今、武士道を、教育の柱にしようとする動きが活発になっている。
またその種の本が、100万部単位で売れている。
これを民主主義の後退と言わずして、何と言う?
忘れてならないのは、新渡戸稲造が活躍した時代と、同じ時期に、福沢諭吉がいたという
こと。
福沢諭吉らは、やがて明六社に合流し、日本の封建主義を清算しようとした。
私は、福沢諭吉らのしたことのほうが、正道だと思のだが……。
それに「原点」とは何か?
何も原点にこだわる必要もない。
原点が正しいわけでもない。
大切なことは、おかしな復古主義にとらわれないこと。
私たちはいつも新しい原点を求めて、前に進む。
……と、少し頭が熱くなったので、この話は、ここまで。
なお本書(「武士道の世界」)は、つぎのように結んでいる。
『おわりに……そんな現代であるからこそ、日本人としての精神的意識が必要なのであ
る。
不道徳な世相を嘆いていても何も始まらない。
世界に通じる精神体系・武士道を心に携え、今こそ日本人としてのアイデンティティを世
界に発信してほしい』と。
(※注1)明治6年1月調べ・・・旧武士数は平民の16分の1にして総数408,823戸、
1,852,445人であった。幕末においてもこの数字と大差なかったものと考えられる。人口構
成は概数的に6.25%である。(土屋喬雄「幕末武士の階級的本質」)
どの藩も武士の数は軍事機密になっていた。
したがって、今となってはその人口は、推
計する以外にない(筆者注)。
(※注2) 徒士といえども、家老に対しては下駄を脱がざるをえなかったのが実情で、
城下において百姓町人は、足軽以上に出会えばまず平伏・土下座など屈辱的敬礼を強いら
れた。どの階層に属するか、着衣や服装で判断できる社会の仕組みになっていた。(「社会
構造と現代社会HP」より)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 武士道 武士の作法 武士道精神 武士の数 葉隠 忠臣蔵 新渡戸
稲造の「武士道」)
●真の勇者
繰り返す。
新渡戸稲造は、真の勇者について、こう書いている。
「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」と。
生きるべきときに生きるのは当然であるとしても、「死ぬべきときに死ぬ」とは?
この思想が、後の、『戦時訓』につながっていった。
++++++++++++++++
戦陣訓について書いた原稿です。
(2009年3月記)
++++++++++++++++
●文明の衝突(2)
++++++++++++++++++++
少し前、「文明の衝突」について、書いた。
それを読みなおす。
読みなおして、それをワイフに話す。
(090412)
++++++++++++++++++++
●日本vsアジア
「黄色い白人」と呼ばれて、一時、日本人が得意になったことがあった。
日本が高度成長の波に乗り、破竹の進撃をつづけていたときのことである。
事実、当時、日本で、「自分はアジア人」と思っている子どもはいなかった。
「ぼくはアジア人ではない。日本人だ」と。
それについては、先の原稿に書いたとおりである。
しかし私たちは今も昔も、立派なアジア人である。
容姿、顔つき、肌の色、すべてが、立派なアジア人である。
むしろ日本人のほうが、骨相学的には、貧相と言われている。
島国で、長い間、鎖国をつづけ、「血の交流」をしなかったためと考えてよい。
で、昔、こんなことがあった。
私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのことである。
中国からの留学生が何人かいた席で、だれかが私にこう言った。
「ヒロシ、君たちは中国人に、どんなイメージをもっているか。
それを絵に描いてみてほしい」と。
で、私は、目が釣りあがり、歯が飛び出た中国人を描いてみせた。
当時、新聞など出てくる中国人は、みな、そのような顔をしていた。
が、それを見て、みなが、ドッと笑った。
「ヒロシ、それは日本人の顔だよ」と。
●異種文明
こうした文明のちがいを克服するためには、どうしたらよいのか。
あるいはどうして文明の対立が起きるのか。
異種文明にも距離感がある。
(1) 隣接文明(隣接している文明)
(2) 非隣接文明(隣接していない文明)
先の原稿の中で書いたように、ドイツ人のロシア嫌いには定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。
同じように、中国人の日本嫌いにも、定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。
それには先の侵略戦争が大きく影響している。
が、それだけではないようだ。
「文明の衝突論」を当てはめてみると、それがうまく説明できる。
中国は、儒教文明圏に属する。
一方、この日本は、儒教文明圏に身を置きながら、西洋文明圏に属する。
つまりそこで「文明の衝突」が起きている。
が、日本とロシア、さらに日本とイラク、イランとの対立は生まれない。
(一部、日本とロシアは、対立しているが……。)
ロシアは、スラブ文明圏に属する。
イラク、イランは、アラブ文明圏属する。
なぜか。
それが「文明の距離」ということになる。
わかりやす言えば、文明の衝突は、それぞれの文明が接したところで起こる。
離れたところでは起きない。
たとえば今度は、スラブ文明とアラブ文明については、それぞれが接している。
だからたがいに仲が悪い。
アラブ人のロシア嫌いにも、これまた定評(?)がある。
非隣接文明についていえば、それは(情報)でしかない。
たとえば私たちがアラブ文明に触れたとき、それは(もの珍しさ)でしかない。
そのため文明の衝突は起きない。
●融和
問題はどうやって、隣接文明と融和していくかということ。
国と国の対立は、それぞれの国同士という(単体)の話しあいで解決できる。
しかし文明の対立となると、そうはいかない。
たとえば日本は、自らを西欧文明の中に身を置き、儒教文明と鋭く対立している。
日本は、儒教文明圏に属しながら、その一方で、自らを西欧文明圏に置いている。
この対立構造が、日本を現在の今、孤立させている。
このことは、相手の立場で考えてみると、よくわかる。
一度、ペキン(北京)という、中国の首都に、視点を置いてみるとよい。
日本は、はるか東の海上。
中国から見れば、大陸の端にへばりついているように見える。
それはたとえて言うなら、東京から、佐渡島を見るようなものではないか。
その日本が、ひとり、「私たちは西洋人」と主張している。
それから生まれる違和感というか、(滑稽さ)には、相当なものがある。
中国人が、日本を受け入れない本当の理由は、そんなところにもある(?)。
では、どうするか?
●儒教文明
最初に書いておきたい。
「儒教文明の再構築」といっても、復古主義的なものであってはいけない。
それについては、あとで「情報革命」のところで書く。
私たちはアジア人であることを再確認する。
それが儒教文明の再構築ということになる。
現在の今、私たちがこうして漢字を使っていること自体、その証拠ということになる。
中に「平仮名やカタカナは、日本人すばらしい発明」と書いている人がいる。
しかしそれはどうか?
平仮名にせよ、カタカナにせよ、漢字の簡略版にすぎない。
略字にすぎない。
「発明」などという大げさなものではなく、一バリエーションに過ぎない。
漢字で、「波也此」と書くより、「はやし」と書いたほうが楽に決まっている。
当時の人たちなら、だれしもそう考えただろう。
つまりこと日本人に関して言えば、私たちは、中国文明圏に属している。
まずそれを率直に認めること。
(だからといって、中国に隷属せよと、そういうことを書いているのではない。
誤解のないように!)
●日本史論
ついでに日本史論。
これについては、すでにたびたび書いてきた。
つまり日本では、日本史を東洋史と切り離して教える。
「日本は日本、東洋とは一線を画す」という思想が、その底流にある。
しかしこれがいかに偏狭なものであるかは、アジアの諸国をながめてみれば、わかる。
韓国を例に出すまでもない。
ほかに若いころ、タイへ行ったときにも、それを感じた。
タイという国は、そういう意味では奇異な国と考えてよい。
私たち日本人から見ると、同じ東南アジア諸国の一員ということになる。
しかし彼らは、そうは思っていない。
タイの人たちは、自分たちの歴史を、東南アジア全体から切り離して考えている。
日本史を東洋史と切り離してしまったところに、日本の歴史の悲劇性が潜む。
少し前も、ニセ石器に踊らされ、歴史の本そのものを書き換えてしまったことがある。
そのとき韓国の人たちは、こう言って笑った。
「日本に、韓国(中国)より古い歴史があるわけがない」と。
しかし日本史を東洋史の中に置いてみると、歴史観が一変する。
あの縄文時代にしても、弥生時代にしても、中国からの渡来民が深く関係している。
戦乱を逃れて、多くの民が、中国大陸から流れてやってきた。
そういう人たちが、大陸の文化を、日本に伝えた。
さらに天皇家のルーツにしても、そうだ。
少なくとも隣の韓国では、天皇家の祖先は、朝鮮からの騎馬民族ということになっている。
日本の天皇ですら、「ゆかり」という言葉を使って、それを臭わせたこともある。
しかし日本史を東洋史と切り離している間は、日本はいつまでも日本のまま。
日本が東洋と融和することは、ありえない。
●情報革命
が、否定的なことばかり言っていてはいけない。
ここで人類は、第二の産業革命とも言える「武器」を手にした。
「情報革命」という武器である。
以前、恩師の田丸先生がこう話してくれたことがある。
「情報革命が進めば、国はなくなりますよ」と。
具体的にはこうだ。
「年々、向こうの若者たちが日本の若者と区別できなくなってきた」と。
「姿、容姿、着ている服装など、「区別ができない」と。
つまりそういう形で、国と国は融合し、やがて文明の対立も解消される、と。
言い換えると、いかにこの情報革命を利用するかという問題に行き着く。
昔は、隣町どうしが、言い争った。
それが県どうしになった。
それが国
さらに文明。
情報革命は、その間を融和させる。
言葉の問題もあるにはある。
しかしたった10年前と比較しただけでも、その進歩にはめざましいものがある。
たとえば私が発行しているHPにしても、外国の人たちが読んでいる。
その中には「米軍」というのもある。
まだ10%程度だが、「10%にしても、すごい!」。
情報革命が進めば進むほど、国どうしの垣根も低くなる。
文明の衝突も、起きにくくなる。
その例が、あのEUである。
ほんの65年前にははげしい戦争を繰りかえしていた。
が、今は、ひとつの国になった!
●文明の衝突
私たちが警戒しなければならないのは、偏狂な民族主義。
その台頭。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき、日本人のアイデンテティ」と説く。
しかし今、どうしてこの日本で、武士道なのか?
仮にそれが「道」であったとしても、それは武士の世界での話。
しかも武士の本質は、軍人。
軍人で悪いなら、官僚。
あるいは警察、役人、特権階級。
何でもよいが、ともかくも支配階級。
私たちの先祖の94、5%は、農民であり、わずかな数の商人、工人であった。
それを忘れて、「武士道」とは?
あの江戸時代にしても、世界でも類を見ないほどの暗黒政治の時代であった。
さらに戦陣訓を例にあげるまでもなく、一方的に礼讃するのはどうか?
「生きて虜囚の……」とかいう、あの戦陣訓は、武士道の精神を拝借している。
そのため、どれだけ多くの日本人が犠牲になったことか!
「負の遺産」に目を当てることもなく、武士道を礼讃するのは、危険なことでもある。
つまり私たちが偏狭な民族主義にこだわればこだわるほど、互いの文明の溝を深くする。
あのアインシュタイン博士も、田丸先生への手紙の中で、「exaggerated nationalism」
という言葉を使って、強く戒めている。
「exaggerated nationalism」、つまり「誇張されたナショナリズム」=「偏狭な
民族主義」ということになる。
●過去から学ぶ
こう書いたからといって、どうか、誤解しないでほしい。
私は何も日本の歴史を否定しているのではない。
歴史は歴史として、当然、評価されなければならない。
しかしここにも書いたように、その「負の遺産」に目をくれることもなく、あの封建時代
を一方的に、美化してはいけない。
もっと言えば、悲しいかな、私たち日本人は、かつてただの一度も、あの封建時代を
清算していない。
たとえば「明治維新」にしても、英語では、「Meiji Restoration」と翻訳されている。
英語で、「レストレーション」というと、「王政復古」をいう。
革命でも、何でもない。
つまり「王政復古」である。
そういうものをもって、日本は近代化の道を歩み始めたとか、さらには江戸時代を清算
したなどとは、思ってはいけない。
清算していないばかりか、ここにも書いたように、むしろ、それを美化している。
この静岡県でも、徳川家康の出身地ということもあるが、徳川家康について悪く書くのは、
いわばタブー視されている。
この静岡県では、敬愛の念をこめて、「家康公」と呼ぶ。
が、こういう姿勢では、私たちは過去から何も学ぶことはできない。
できないばかりか、へたをすれば同じような歴史を繰り返すことになる。
今の今も、国盗り物語よろしく、政治を、己の出世欲を満たすための道具として
利用している人は、いくらでもいる。
●過渡期
話を戻す。
平等という言葉がある。
しかし「平等」というのは、たがいに高い次元で、認めあうことをいう。
民族の融和にしても、さらには文明の融和にしても、その平等感覚がなければならない。
「わが民族は優秀である」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、相手に
向って、「あなたがた民族は劣っている」と思ってはいけない。
民族には上下はないし、今はもう民族をうんぬんする時代ではない。
むしろ問題なのは、その上の段階の「文明意識」ということになる。
もう一度、私が書いた、段階論を見てほしい。
家族意識(先祖意識)
↓
同郷意識
↓
同国意識
↓
民族意識
↓
文明意識(無意識)
↓
人間意識(無意識)
↓
生命意識(無意識)
つまり今は、(民族意識)から、(文明意識)への過渡期ということになる。
さらに進めば、(人間意識)→(生命意識)となるが、それはさておき、
この段階あたりで、ウロウロしている。
それがこの極東アジアでも、もろもろの紛争の火種となっている。
●では、どうするか?
言うまでもなく大切なことは、文明の融和である。
そのために第一に、情報の交換をする。
その国の内部の人たちは、外の世界を知る。
外の世界の人たちは、その国の内部を知る。
これを頻繁に、行う。
これができれば文明の融和はできる。
できなければ、できない。
ひとつの例として、あのK国を見ればよい。
今のこの時代にあって、情報を遮断している。
国外に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
国内に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
その結果、アインシュタインの言った、「exaggerated nationalism」だけが、
異常なまでに肥大化してしまった。
もうおわかりのことと思うが、私たちは、その逆のことをすればよい。
私たちは自分の考えていることを、外の世界に向って、どんどんと発信していく。
と、同時に、外の世界の情報を、どんどんと取り込んでいく。
その結果として、私たちは人間のレベルを、つぎのステージにもちあげることができる。
最後に、よく「インターネットは、第二の産業革命」と言われる。
それが最終的に評価されるのは、もう少し時代を経てからになるが、私はそう断言して
よいほど、インターネットには、秘められた力がある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
民族意識 文明意識 民族主義からの脱却 インターネット 文明の衝突 誇張された
民族主義 はやし浩司 文明論 民族論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●江戸時代は悲劇の歴史
こんな原稿を書いたこともある。
一部は、中日新聞に載せてもらったことがある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●夏休みの宿題(ある女子中学生の宿題より)
+++++++++++++++++++++++
(1) 共通テーマは、武士、700年間の時代の中で、
人々が、幸せに暮らしたのは、いつか。
(2) 社会の安定、自由、繁栄、平和、家族という視点
の中から、ひとつ選んで、追究する。
+++++++++++++++++++++++
中学1年生のKさんが、こんな宿題をもってきた。
春休みの宿題だという。
日本の教育も変わってきた。
もちろん宿題の内容も変わってきた。
これを見たとき、私は、「日本の教育は確実に欧米化している」と感じた。
(暗記)から(思考力)へ。
(ジェネラリスト)から(スペシャリスト)へ。
(従順な子ども)から(問題意識をもった子ども)へ。
その変化は、いろいろな言い方で説明できる。
しかし教育というのは、「学校で学んだことを、すべて忘れてしまったあとに
残っているもの」とするなら、こうした教育は、その(残るもの)を目指した
教育と言える。
すばらしいことだと思う。
で、Kさんには、こう説明した。
(1) 武士の時代といっても、きびしい身分制度が敷かれていた。
武士の立場で考えるか、農民の立場で考えるか、それによって、
見方が大きく変わる。
(2)「幸せ」の定義をしっかりとしておくこと。何をもって「幸せ」というか。
それによっても、見方が、大きく変わる。
(3)「安定、自由、繁栄、平和、家族」の中から、何を選ぶか。
もちろんそのうちのどれを選ぶかで、見方が、これまた大きく変わる。
私「基本的には、あの江戸時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの
暗黒かつ恐怖政治の時代だった。それを忘れてはいけない」
K「結構、みな、楽しそうだったみたい」
私「だれが、そう教えたの?」
K「……教科書……?」
私「移動の自由もなく、職業選択の自由もない。もちろん言論の自由もない。
きびしい身分制度の中で、生まれながらにして、みな、職業が決まっていたんだよ」
K「武士にとっては、住みやすい時代だったかもしれないわね」
私「そう、武士にとってはね。でも、その武士は、6〜7%。農民は、80〜85%。
その農民たちは、武士に虐げられていた」
K「そう? 武士って、そんなに少なかったの?」と。
ちなみに、ヤフー・知恵袋によれば、つぎのようにある。
「幕末の人口約3200万人のうちわけは、諸藩の統計を平均して、武士6〜7%、農民80〜
85%、工商を含む町人5〜6%、神官・僧侶1.5%、穢多・非人1.6%と、
推測されている」と。
つまり人口の6〜7%に過ぎない武士が、人口の80〜85%もいる農民を虐げ、
好き勝手な生活を楽しんでいた。
「好き勝手」というのは、農民の納める年貢にしても、収穫高の4〜5割を自分たちの
ものにしていたことをいう。
身分制度については、こんな話が残っている。
浜松市の西に、江戸時代に代々、庄屋として栄えた農家がある。
そんな農家ですらも、上から下まで、厳格な身分制度が敷かれていた。
小間使いは、一生、小間使い。
代々、小間使い、と。
また恐怖政治については、こんな話が残っている。
私の山荘のある地域では、明治時代に入ってからも、士族たちは、
刀をさして歩いていたという。
歩くたびに、刀の鞘(さや)が、カチャカチャと音をたてたという。
農家の人たちは、その音が聞こえてくると、道路の脇に正座して、頭をさげ、
その氏族という人が通り過ぎるのを待ったという。
この話は、10年ほど前、90歳でなくなった女性から、直接、私が
聞いた話である。
こういう(事実)をすべて無視して、「江戸時代は、自由な時代だった」とは、
私はぜったいに言わせない。
Kさんが、どんなレポートを書くかは、私は知らない。
しかしそれが、江戸時代を考える、新しいきっかけになればよい。
……私はKさんが数学の問題を解いている間、「幸せな暮らし」と何か、
それを考えていた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 武士 農民 比率 江戸時代)
++++++++++++++++++
前にも取りあげたが、あの信長ですら、
この日本では、英雄(?)になっている。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
(中日新聞発表済み)
++++++++++++++++++
●「偉い」を廃語にしよう
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たよ
うな言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。
そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。
もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。
……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。
そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●福沢諭吉
今の今でも、この日本には、封建主義が色濃く残っている。
それに気づくか気づかないかは、ひとえにその人の問題意識ということになる。
教育の場で、それを考えてみたい。
●血統空想
++++++++++++++
「私だけは特別でありたい」という
思いは、だれにでもある。そのひとつ
が、「血統」。
「私の血統は、特別だ」「だから私は
特別な人間」と。
あのジークムント・フロイトは、
そうした心理を、「血統空想」という
言葉を使って説明した。
年齢で言えば、満10歳前後から
始まると考えられている。
しかしそう思うのは、その人の勝手。
それはそれでかまわない。しかし、その
返す刀で、「私以外は、みな、劣って
いる」と考えるのは、まちがっている。
自己中心性の表れそのものとみる。
EQ論(人格完成論)によれば、
自己中心性の強い人は、それだけ
人格の完成度の遅れている人と
いうことになる。
わかりやすい例でいえば、今でも
家系にこだわる人は多い。ことあるご
とに、「私の先祖は、○○藩の家老だ
った」とか何とか言う。
悪しき封建時代の亡霊とも考えられる。
江戸時代には、「家」が身分であり、
「家」を離れて、個人として生きていく
こと自体、不可能に近かった。
日本人がいまだに、「家」にこだわる
理由は、ここにある。
それはわかるが、それからすでに、
約150年。もうそろそろ日本人も、
そうした亡霊とは縁を切るべきときに
来ているのではないのか。
+++++++++++++++
●人間は平等
かつて福沢諭吉は、こう言った。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問
のすすめ」)と。
その「天は人の上に……」という名言が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎ
のような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。
『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。
諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対する
アメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰も ワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。
ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、
徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持って いないアメリカの社会制度に、諭吉は驚きを隠せなかった。
高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭
吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人 を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』 と。
意識のちがいというのは、恐ろしい。恐ろしいことは、この一文を読んだだけでもわかる。い
わんや明治の昔。福沢諭吉がそのとき受けた衝撃は、相当なものであったと考えられる。そこ で福沢諭吉らは、明六社に合流し、悪しき亡霊と闘い始める。
明六社……明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した人でもある。
その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。 その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。
そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。
明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運 動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。
で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、
(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。
しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)その100年の間に、この日 本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人 たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までい る。
こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、武士の立場で、武士道を礼さんするから、おかしい。悲しい。そして笑える。
武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかるはず。そういったことを、反 省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時 代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった ことを忘れてはならない。
その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。
で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本に、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている人は多い。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んで いる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人 となると、ゴマンといる。
はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、わからない。そ
れが精神的バックボーンになっていることすら、ある。
しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?
理由は簡単である。
そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。
いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人 には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて しまった。
100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建 時代の負の遺産の清算を進めなければならない。
日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。
……と話が脱線してしまったが、これだけは覚えておくとよい。
世界広しといえども、「先祖」にこだわる民族は、そうは、いない。少なくとも、欧米先進国に
は、いない。いわんや「家」だの、「血統」だのと言っている民族は、そうは、いない。そういうも のにこだわるということ自体、ジークムント・フロイトの理論を借りるまでもなく、幼児性の表れと 考えてよい。つまりそれだけ、民族として、人格の完成度が低いということになる。
(付記)
この問題は、結局は、私たちは、何に依存しながら、それを心のより所として生きていくかと
いう問題に行き着く。
名誉、財産、地位、学歴、経歴などなど。血統や家柄も、それに含まれる。しかし釈迦の言葉
を借りるまでもなく、心のより所とすべきは、「己(おのれ)」。「己」をおいて、ほかにない。釈迦 はこう説いている。
『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』(法句経)と。「自由」という言葉も、もともと
は、「自らに由る」という意味である。
あなたも一言でいいから、自分の子どもたちに、こう言ってみたらよい。「先祖? そんなくだ
らないこと考えないで、あなたはあなたはで生きなさい」と。
その一言が、これからの日本を変えていく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 血統
空想 封建時代 武士道)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●水戸黄門
『江戸残酷物語』(双葉社)は、あの水戸黄門についても、触れている。
徳川家康につづく、徳川家光、徳川綱吉、徳川吉宗らが、冷酷無比な暴君であったことは、私
も知っていた。
このことは、サダム・フセインの息子たち、あるいはカダフィ大佐の息子たちが、どういう息子た
ちであったかを知れば、おおよそ類推できる。
が、水戸黄門……つまり徳川光圀までそうだったということは、知らなかった。
『江戸時代残酷物語』は、つぎのように書いている。
「あの水戸黄門の実像は、血も涙もない冷血漢だった!
命乞いする罪なきものを斬殺、犬も大量に虐殺した無慈悲な副将軍。
……若いころは狼藉の日々、試し切りで、殺人も経験などなど。
その徳川光圀にしても、徳川光圀にとって都合の悪い事実は徹底的に抹消され、その一方
で、ドラマ「水戸黄門」にみるように、徹底的に美化された。
仮にそうであったとするなら、つまりそれほどまでに正義感にあふれた人物なら、なぜその上
の将軍に、その矛先を向けなかったのか。
今の今も、その美化は進行中!
時代はあの徳川綱吉の時代。
「生類憐れみの令」などという、まことにもって異常な法律を制定していた時代である。
犬を蹴飛ばしただけで、死罪。
そういう時代だったからこそ、徳川光圀は、マダマシ?
それが今日見られる「美化」の原点になっているのかもしれない。
●封建時代の清算
日本人は歴史の中で、一度とて、あの江戸時代を清算していない。
していないばかりか、いまだに美化してやまない。
その一例が、NHKの大河ドラマということになる。
たとえば新撰組。
あの新撰組のおかげで、京都の町は恐怖のどん底へと叩き落とされた。
『江戸残酷物語』の中にも、こうある(P72)
「……幕末の京は天誅(てんちゅう)の名のもとに、暗殺が横行する無法都市であった。
幕府の治安維持能力は著しく劣化し、もはやあてにならない。
どんな理由で尊王派の標的にされるか知れず、人々は暗殺の恐怖におびえた」と。
それも時代……という形で、私たちは過去を安易に美化してしまう。
日本人特有の精神構造というか、それがあるから日本人はそのつど、歴史を前進させること
ができない。
話は変わるが、私は今回の3・11大震災のあと、つぎのことを知った。
NHKをはじめ、公的な報道機関をはじめ、政府は、「ウソこそ言わないが、しかし本当のことも
言わない」と。
が、今は、そういう時代ではない。
インターネットを通し、私たちは生の情報を、瞬時に手に入れることができる。
あの原発事故のあと、女川原発付近で放射線が観測されたときもそうだ。
政府は、「今、ただちに健康に被害が及ぶものではありません」と、今から思うととんでもない
情報を流布していた。
最後に、私がその3月15日(2011)に書いた原稿を添付する。
「洗脳」という言葉を、心のどこかに置き、この原稿を読んでほしい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●原発事故(日本沈没)(はやし浩司 2011−03−16記)
恐ろしいことが起きつつある。
政府は、「落ち着いて」とか、「冷静に」とか言っている。
落ち着け?
冷静になれ?
しかし落ち着いているばあいではない。
冷静になれるばあいではない。
アメリカ・ホワイトハウス報道官でさえ、「緊急事態」という言葉を使っている。
「緊急」というのは、「緊急」。
それ以上でも、またそれ以下でもない。
●テレビに釘付け
テレビに釘付け。
じっと見入る。
襲い来る不安感。
政府の役人や東京電力の職員の一言一句に、何も聞き漏らさないと、神経を集中する。
が、どれもおかしい?
まずあのED官房長官。
役人の書いた作文を読んでいるだけ。
それ以上の知識は、ゼロ。
記者の質問には何一つ、答えられない。
質問されそうになると、「私からは以上です」と言って、逃げてしまう。
答えられないばかりか、今朝は、こんな珍説も。
FD官房長官は、こう言った。
「マスコミの無責任は発言は、国民の不安を増大させるだけ。
謹んでほしい」と。
それに対して、すかさず1人の記者が質問した。
「どこのマスコミか?」と。
が、FD官房長官は、それに対して、タジタジ。
FD官房長官の、その発言こそが、「無責任な発言」ということになる。
保安院の役人にしても、そうだ。
イチバン最初に登場してきた役人は、「マイクロ・シーベル」の意味すら知らなかった(?)。
記者に質問されると、一瞬、二瞬、戸惑った表情をして見せた後、「あとで報告します」と。
さらにこんなバカげた返答も。
福島第一原発の北、20キロに、女川原発がある。
そこでは8マイクロ・シーベル・の放射能が検出された(14日)。
それについて、「この放射能は、福島第二原発からのものと思われます。
8マイクロ・シーベルは、まったく心配ない数値です」と。
バカヤロー!
バカ、バカ、バカ!
大バカ!
あのね、放射能の濃度というのは、距離の二乗に反比例するの!
仮に20キロとするなら、20000メートル。
20000x20000=400000000=4億!
つまり放射能の発生元の1メートル四方では、その4億倍の放射能が漏れたことになる。
もちろん風向きにもよるが、実際には、それ以上とも考えられる。
たまたま南風に乗って、女川原発に直行したと考える方が、無理。
8マイクロx4億が、どういう数値になるか、自分で計算してみらたよい。
(この計算によれば、発生元では、32億マイクロシーベル、つまり320万ミリ
シーベル。
とんでもない放射能が漏れ出たことになる!)
……と思っていたら、またまた同じ発言。
今度は、福島第二原発から、100キロ離れた、東海村原子炉周辺で、5マイクロ・
シーベルの放射能が検出された。
それについても、同じ意見。
「(福島第二原発から流れてきた放射能と思われるが)、この程度なら、心配ありません」
(NHKテレビのコメンテイター)と。
今度ほど、私は科学者(?)の脳みそを疑ったことはなかった。
ド素人の官房長官。
役人根性丸出しの東京電力の社員たち。
深刻さを、あえて覆い隠そうとする科学者たち。
「こんな連中が、日本の安全を担っていたのか」と、私は唖然とした。
が、不測の事態は、不測の事態を呼ぶ。
人為的ミスが、それに追い討ちをかける。
電源機が燃料切れで、2時間も停止していた。
こうして1号基、3号基、2号基とつづいて爆発。
今は、4号基まで、爆発。
1号基が爆発したとき、「ほかの原発はだいじょうぶです」と、確か、言っていたぞ!
そのとき2号基、3号基、4号基も併せて、対策を講じていれば、こんな大惨事には
ならなかったはず。
いいか、爆発したこと自体、大惨事!
緊急事態!
私なら総理大臣なら、半径100キロ以内の人たちに、避難命令を出す。
福島第二原発から東京まで、直線距離にして、170キロ。
東京だって、あぶない。
が、管総理は、こう言った。
「関係者は、命がけで、懸命な作業をしています」(記憶、3月15日)と。
前回のときは、「東京電力に、任せるしかない」というようなこと言っていた。
だから、どうなの?
それが、どうしたの?
私には責任逃れの詭弁にしか聞こえなかった。
こういうときほど、ものごとがすべて裏目、裏目と出る。
まるでドミノ倒しのように、それがつづく。
日本の経済も、大きく揺らいだ。
株価は大暴落。
円は急上昇。
円が急上昇したのは、円キャリーの逆流が始まったため。
このあとやってくるのは、国家破綻(デフォルト)。
ハイパーインフレ。
わかりやすく言えば、札が紙くずと化す。
そこで日銀は、昨日(15日)、15兆円のお金を市中にバラまいた。
日本の心臓に、電気ショックを与えた。
メチャメチャな対策としか言いようがない。
ないが、この際、しかたない。
死ぬか、生きるか?
私とて、日本人。
福島第一原発が、このまま静かに収まってくれればよい。
心から、そう願う。
が、このザワザワとした不安感を、払拭することができない。
このままでは、この日本は、本当に沈没してしまう!
2011/03/15
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
さあ、みなさん、勇気を出してあの江戸時代という封建時代を、今、ここで清算しよう。
心の中に潜む、おかしな上下意識、職業意識、身分意識を清算しよう。
でないと、日本人は、いつまでたっても、同じ失敗を繰り返す。
過去を未来にひきずる。
もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価はしなければならない。
その歴史がもつ負の遺産に目を閉じたまま、一方的に、あの時代を美化してはいけない。
(はやし浩司 2011−12−10記)
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 封建主義の清算 暗黒 恐怖 恐怖政治 はやし浩司 徳川光圀 水戸黄門 安倍川 由比正雪 はやし浩司 徳川時代 徳川幕府 はやし浩司 3・11大震災 女川 女川原子力発電所 女川発電所)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●はやし浩司 2011−12−10夜記(映画・リアル・スティール、ほか)
++++++++++++++++++
今夜は、映画『Real Steel(リアル・スティール)』を観てきた。
土曜日ということで、劇場内は、かなり混んでいた。
内容は、ロボットどうしの闘い。
結構、おもしろかった。
どこか『ロッキー・ザ・ファイナル』を思い起こさせるような映画だった。
最後のシーンでは、かなり涙が出た。
星は4つの、★★★★。
(最近は、映画の採点が甘くなったような記がする。
イコール、何かにつけ、涙もろくなった。)
++++++++++++++++++
●クリスマス・プレゼント
アメリカに住む孫たちに、クリスマス・プレゼントを送った。
合計で、5個になった。
最初の2個は、孫たちがほしがりそうなもの。
つづく3個は、使わなくなったパソコンとか、ゲーム機、それにカメラなど。
2年ほど前に買ってやったゲーム機を、まだ大切に使っている様子。
それを聞いて、ジー様の私としては、胸にジンときた。
それで今年は、5個も送った。
あとはクリスマス前に届くことを、願うばかり。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●善と悪
++++++++++++++++++++
「この世の中には、4割の善と4割の悪がある」。
すべてが善ではない。
すべてが悪でもない。
が、悪もある。
その割合は、それぞれが4割前後ではないか?
……ということで、私は以前、「4割の善と4割の悪」という
エッセーを書いた。
中日新聞に載せてもらった。
が、この「4割」という数字は、けっして出任せではない。
こんな話を聞いた。
+++++++++++++++++++
●300円
よく道路沿いで、野菜や果物などを売っている。
無人の販売所で、それを買う人は、100円とか200円を貯金箱のような箱に入れて買う。
私もよく利用させてもらう。
このあたりだと、秋になると、ミカンを売るところが多い。
そういう販売所を出している人に、Kさんという人がいた。
昨年亡くなったが、山荘の造成では、たいへん世話になった。
自宅の周辺に、ミカン園ももっていた。
そんなKさんに、ある日、こう聞いた。
もう20年前近くも、前のことである。
「たとえば1000円分の果物を並べておくと、実際にはいくら、みな払っていきますか」と。
するとそのKさんは、すかさずこう言った。
「700円くらいだよ」と。
つまり料金をごまかしていく人が、(300円分)いる、と。
私が驚いていると、「車の通りの少ないところでは、600円くらいかな」とも。
それで私は「4割」という数字をはじき出した。
30〜40%が、料金をごまかしていく!
●善悪論
もっとも何を善といい、何を悪というか。
その判断は、むずかしい。
きわめて観念的な概念で、定義づけることは、不可能。
あえて言うなら、みなが常識と思っていることの中に、善はある。
みなが非常識と思っていることの中に、悪がある。
が、だからといって、その常識が正しいとはかぎらない。
非常識がまちがっているとはかぎらない。
12年ほど前に書いた原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【四割の善と、四割の悪】
子どもに善と悪を教えるとき
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの 世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校 の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放 り投げていた。
その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどう
なのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親 だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話 が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい 人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」 と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問 題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、
あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ れと闘っているだろうか。
私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘
もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていた ら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せ
るか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめで たさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、 大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(参考)
子どもたちへ
魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って言うんだよね。
みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。
ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。
そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●善と悪
要するに、善と悪と、2つに区別することのほうが、まちがっている。
とくに善人と悪人を区別することのほうが、まちがっている。
善も悪も、紙一重。
善人も悪人も、紙一重。
同じ善(善人)でも、見る人がちがえば、悪(悪人)に見えることがある。
同じ悪(悪人)でも、見る人がちがえば、善(善人)に見えることがある。
だから私たちはそのつど常識をみがき、その常識に従って生きていくしかない。
それを決定づけるのが、(思考)(思索)ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 善と悪 善悪論)
Hiroshi Hayashi+++++Dec.2011+++++はやし浩司
【今週から、数の勉強】(年長児)「1〜100までの数」
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Hiroshi Hayashi+++++Dec.2011+++++はやし浩司
●宇宙人との接近遭遇(冬の夜のロマン、2011年版)
+++++++++++++++++++++
先日、義兄と会ったときのこと。
義兄が、おもしろいことを言った。
「もしね、浩司君、ぼくがね、宇宙人に会ったら、
宇宙船(UFO)を一機、もらえないかと頼んでみるよ。
でね、もらえたら、その宇宙船の構造を徹底的に分析し、
同じものを作るよ。
その技術を、いろいろなものに応用する。
でもね、その技術は、ぜったいに外国には渡さない。
日本だけのものにするよ」と。
++++++++++++++++++++
●「猿の惑星」
「猿の惑星」という映画があった。
あの映画の中の猿は、人間と同等か、それ以上に知恵もあり、賢い。
が、それでも私は、猿の惑星には住みたくない。
「王様にしてやるから、どうか?」と誘われても、断る。
あんな猿たちの上に、最高権力者として君臨したからといって、それがどうだというのか。
何が、楽しいのか。
●野生の猿
もう少し現実的な話をしよう。
私の山荘の近くに、野性の猿が出没するようになって、もう10年になる。
奥のほうで第二東名の建設が進んでいる。
そこから逃げてきた猿たちである。
20〜30匹が1つの群れをつくり、その群れが、数組ある。
ときどき群れどうしが、はげしく対立することもある。
あの猿。
山荘のすぐ下の道にまで来る。
が、私たちの姿を見ても、逃げようともしない。
ふてぶてしいというか、堂々としているというか……。
で、あの猿を見ていると、ときどき猿が人間に見えてくるときがある。
しぐさも、表情も、人間そっくり。
反対に人間のほうが、猿に似ていると感ずることもある。
で、そんなとき、ときどき同じことを考える。
猿がある日私のところへやってきて、こう言ったとする。
「林さん、どうか私たちのリーダーになってくれ」と。
……私は、その申し出を、即座に断るだろう。
●猿の世界
猿の世界にも、序列があるらしい。
私にはよくわからないが、研究者の話によれば、ボス猿がいて、一群を率いているという。
で、そのボス猿。
猿の世界でも、威張っているらしい。
たとえばミカンの木を独占するとか……。
メス猿をすべて自分の妻にするとか……。
人間の私から見れば、バカげた世界だが、猿どうしは、そんなふうには考えていない。
逆に、人間の世界をながめてみれば、それがよくわかる。
●権力者
権力者と呼ばれる人がいる。
独裁国家の「長」を思い浮かべれば、よい。
そういう人は、その国のありとあらゆる富を独占する。
で、そういう権力者は権力者で、結構、得意になっているのかもしれない。
「オレが一番、偉いんだ」と。
私にはそういう感覚は理解できない。
が、国家の最高権力者にでもなると、自分が神になったような気分になるらしい。
事実、神のように振る舞う最高権力もいる。
●宇宙人→人間→猿
そこで宇宙人。
宇宙人に登場してもらう。
上下関係で考えるなら、(宇宙人)が(人間)の上。
(猿)が(人間)の下。
並べると、(宇宙人)→(人間)→(猿)ということになる。
つまり宇宙人にすれば、私たち人間を見る目は、ちょうど私たち人間が猿を見る目と同じで
はないかということ。
で、たとえば宇宙人にこう頼んでみる。
「人間という生物は争いばかりしています。
どうか人間のリーダーになって、人間を指導してください」と。
人間がそう頼んだら、宇宙人は何と答えるだろうか。
恐らくこう答えるだろう。
「断ります」と。
●UFO
ところで少し前、YOUTUBEで、UFOの映像を見た。
この世界も、奥が深い。
長い間、いろいろなUFOの映像を見ていると、偽物か本物か、だいたい区別がつくようにな
る。
その(だいたい)という部分を、さらにきびしく切り落としていくと、中には、「これは本物」というよ
うなものに出会うときがある。
ポイントは、飛び方というより、その消え方。
私とワイフが見たUFOは、夜空に溶け込むようにして、消えていった。
独特の消え方というよりは、この世のものとは思えないような消え方をしていった。
それが私の脳裏に焼きついている。
私はUFOの映像が本物かどうかを判断するとき、いつもその消え方を見る。
……話は脱線したが、UFOがもつ技術力は、人間がもつ技術力を、はるかに超えている。
恐らく猿が、自動車を見るようなものではないか。
やっと木片を叩くことを覚えた猿に、自動車を作れと言っても、無理。
●願う
で、私はときどきこう思う。
UFOでもよいが、死ぬまでに一度は乗ってみたい、と。
UFOを一機くれなどというような、ぜいたくなことは願わない。
しかし一度だけでよいから、乗ってみたい。
で、そのことをワイフに言うと、ワイフはこう言った。
「それくらいなら、宇宙人も、あなたの言うことを聞いてくれるかもしれないわよ」と。
が、つぎの言葉は、ショックだった。
ワイフはこう言った。
「そう言えば、昔、動物園などでは、子どもが乗る電車を、猿が運転していたわよ」と。
……!
●「差」
宇宙人と人間の差は、どれくらいあるのだろうか。
一説によると、宇宙人は自分たちのDNAを、猿人に移植し、私たち人間を創造したという。
「改造」でもよい。
また宇宙人に会ったと証言する人もいる。
信ぴょう性は低いとしても、そういう人たちの話によれば、姿、形は、私たち人間に似ていると
いう。
目撃例の多い「グレイ」と呼ばれる宇宙人にしても、基本的には人間の姿、形に似ている。
が、知的能力は、どうだろうか。
それについては、私はそれほどないのでは……と思っている。
少なくとも、人間と猿ほどの差はない。
おとなと幼児程度の差ではないか。
●宇宙人の住む世界
逆に考えてみよう。
あなたは月の奥深くに住む、宇宙人である。
月の中心部は、広い空洞になっていて、その中心部には、怪しげな光を放つプラズマ太陽が、
輝いている。
人口は、それほど多くない。
せいぜい数十万人程度。
宇宙人たちは、月の内部の内側にへばりつくようにして、生活している。
もちろん住宅もあれば、工場もある。
水もあれば、植物もある。
一説によれば、宇宙人の寿命は、3000年ほどと言われている。
グレイのような宇宙人は、宇宙人の中でも、人造ロボットに近いそうだ。
つまり宇宙人の手下となって働く、奴隷。
ここでいう宇宙人というのは、もっと上位にいる、高度な宇宙人をいう。
そういう宇宙人であるあなたは、はたして地球へやってきて、人間のリーダーになりたいと思
うだろうか。
その答は、あなたが猿たちに、「リーダーになってくれ」と頼まれたばあいを想像してみればよ
い。
答は、「NO!」。
宇宙人にしてみれば、人間など相手にしても、どうしようもない。
●男と女
で、問題は、なぜそうなのか、ということ。
私たち人間は、こう考える。
猿の世界なんかでリーダーになっても、ゼンゼン、楽しくない。
おもしろくない。
なぜだろう?
……その理由のひとつに、男と女の関係がある。
ずいぶんと飛躍した考えに聞こえるかもしれない。
それを説明してみよう。
●AKB48
現在、子どもたちの世界では、AKB48が、たいへん人気がある。
私から見れば、まるで子ども。
またそのAKB48を見て騒いでいるのも、これまた、まるで子ども。
その子どもたちが私のところへやってきて、私にこう頼んだとする。
「私たちのリーダーになってくれ」と。
が、私ならやはり、さっさとその申し出を断るだろう。
またリーダーになっても、意味はない。
それは幼児や小学生に、「先生のこと、好き」と言われるのと同じ。
35歳前後の女性にそう言われたら、私はうれしい。
しかし相手が幼児や小学生では、どうしようもない。
つまり、ここにヒントがある。
「35歳前後の女性」である。
宇宙人や猿には、それがない。
つまりロマンがない。
もっと言えば、種族としての未来がない。
相手が宇宙人や猿では、子孫を残すことができない。
「残すことができない」という部分で、ロマンがスーッと萎えてしまう。
35歳前後の女性が作る、「女の惑星」があれば、私は喜んで、リーダーになるかもしれな
い。
……なってもよい。
つまり私自身の判断を決めるのは、ここでも「性的エネルギー」(フロイト)ということになる。
先に「男と女の関係」と書いたのは、そういう意味。
●義兄の話
冒頭に書いた義兄の話に戻る。
私が宇宙人なら、自分たちのもつ技術を、人間には与えない。
与えたら、たいへんなことになる。
そうでなくても、人間は強欲で、喧嘩ばかりしている。
そんな人間に、宇宙人がもつ技術を分け与えたら、それこそ地球そのものを破壊してしまうか
もしれない。
平和利用というのは、こと人間に関して言えば、絵に描いたボタモチ。
100人の善人がいても、1人の悪人がいたら、それで地球は、おしまい。
だから私は義兄にこう言った。
「もしそんな技術を兄さんが手にしたら、兄さんはあっという間に、国によって抹殺されてしまう
でしょうね」と。
●資格
……ということで、結論は出た。
私たち人間は、宇宙人から、高度な技術をもらってはいけない。
たとえ「あげる」と言われても、もらってはいけない。
またそんな程度のことなら、宇宙人も知っているはず。
「人間に高度な技術を与えたら、自分たち(=宇宙人)だって、あぶないぞ」と。
言うなれば、猿に機関銃を渡すようなもの。
つまり私たち人間には、その資格はない。
たしかに人間は、産業革命以来、科学、技術面では、飛躍的な進歩を遂げた。
しかし「心」は、昔のまま。
原始時代のままとまでは言わないが、その時代から、ほとんど進歩していない。
事実、人間の中には、原始人そっくりなのが、いくらでもいる。
携帯電話を片手に、高級車を乗り回しているが、原始人。
こんな状態で、人間がさらに高度な科学や技術をもったら、どうなるか。
それこそこの地球は、おしまいの、そのまた、おしまいになってしまう。
●冬のロマン
毎年秋になると、「秋のロマン」を書く。
が、今年は「冬」?
……実はこのあたりでは、今ごろが秋、まっさかり!
山荘周辺の紅葉も、今が見ごろ。
「冬のロマン」と書きながら、中身は「秋のロマン」。
浜名湖周辺は、照葉樹林帯とも呼ばれ、一年中緑の木々が生い茂っている。
木の種類も、日本一と言われている。
で、このままこの地方は本格的な冬を迎えることもなく、春になっていく。
今朝も寒かったが、それでも気温は9度前後。
書斎には、暖房器具は、いっさい、なし。
脳みその活動には、そのほうがよい。
今朝(2011/12/11)は、『第4種(宇宙人との)接近遭遇』※について、考えてみた。
(注※)(ウィキペディア百科事典より)
●接近遭遇
接近遭遇には、大きく分けて4段階ある。
"第一種接近遭遇は空飛ぶ円盤を、至近距離から目撃すること。
"第二種接近遭遇は空飛ぶ円盤が、周囲に何かしらの影響を与えること。
"第三種接近遭遇は空飛ぶ円盤の搭乗員と、接触すること。
"第四種接近遭遇は空飛ぶ円盤の搭乗員に誘拐されたり、インプラントを埋め込まれたりする
こと。また、空飛ぶ円盤の搭乗員を捕獲、拘束すること。
(以上、ウィキペディア百科事典より)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 第4趣接近遭遇 秋の夜のロマ ン 2011 冬の夜のロマン)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●はやし浩司 2011−12−11
++++++++++++++++++++++
鳥の餌を庭にまく。
犬のハナが、それを遠巻きにしてながめる。
いつもの光景。
見慣れた光景。
私が居間に戻ると、ハナがそれを食べ始める。
それを見て、ワイフが、こう叫ぶ。
「ハナ! ハナ!」と。
ハナは、一瞬、食べるのをためらうが、また食べ始める。
今度は私が窓を開け、「ハナ! それは鳥の食べ物だ!」と。
ハナはいそいそと、自分の犬小屋に戻っていく。
のどかな冬の日。
空には雲ひとつない。
まっすぐ伸びた白い光線が、木々の葉の上で照り返す。
……居間に入ってきて、ワイフがこう、こぼす。
「犬が、鳥の餌を食べるなんて……」と。
いつも同じ言葉を繰り返す。
++++++++++++++++++++++
●発語障害
こう書くからといって、どうか誤解しないでほしい。
私は幼児を教えて40年以上になる。
が、子どもの発語障害を、私の側から問題にしたことは、一度もない。
知っていても、知らぬフリ。
知らぬフリをして、指導する。
親から相談があったときだけ、それに応じて、発語障害の話をする。
つまり発語障害などというのは、どうでもよい部類の問題。
私はふだんは、そう考えている。
で、その発語障害で多いのが、「サ行障害児」。
「サカナ」を、「シャカナ」と発声したりする。
もっともサ行障害児は、数も多い。
4歳児についてみるなら、20〜30%に、その傾向がみられる。
私自身も、サ行障害児ではなかったかと思う。
いまだに「サシスセソ」の発音が苦手。
直りにくいのが、カ行障害児。
「5個」を、「ドット」と発声したりする。
が、そうした発語障害に当てはまらない若い人たちがふえている。
しかも女性ばかり。
実におかしな話し方をする。
息と音が鼻に抜ける。
たとえば「メリー・クリスマス」も、「フムムリー・クリスモォース」などと発音したりする。
もしそんな発声する子どもがいたら、私はただちにそれを正そうとするだろう。
が、子どもには、そんな発声するのはいない。
だからどの発語障害児にも、当てはまらない。
つまりそういう発声は、成人になるにつれ、身につくものと考えてよい。
それにしても、聞きづらい。
本人は、それが「都会風」とでも誤解しているのかもしれない。
……それにしても、へん。
おかしい。
日本語そのものが壊れ始めている。
ついでに発音そのものまで、壊れ始めている。
●列を作らない若者たち
ついでにもうひとつ、気になっていることがある。
先日、ある演奏会のチケットを買いに行ったときのこと。
電話で先に予約したが、チケットはその日、手にすることになっていた。
そこでのこと。
みなは一列に並んでいた。
が、途中に、5人組の若者たちがいた。
彼らだけは、列に並ぼうともしない。
一度、係の人が、「最後尾」というプラカードをもって、やってきた。
そのとき「まっすぐ並んでください」と注意した。
が、それでも、そのまま。
平気で円陣を作り、話しこんでいた。
こうした現象は、今、いたるところで起きている。
駅のプラットフォーム、ショッピングセンター、郵便局などなど。
よく話題になる。
「最近の若い人は、列を作って並ばない」と。
が、それが悪いかというと、そうでもない(?)。
その逆もある。
長く外国の日本人学校で教壇に立っていた、K先生(現在、小学校教諭)が、こう話してくれ
た。
「日本の子どもたちが2列になり、校舎へ入っていくのを見たとき、ぞっとしました」と。
子どもたちが機械仕掛けのロボットに見えたというのだ。
が、そのことと、そうしたチケット売り場で、列を作らないというのは、話は別。
欧米人のばあい、学校での様子は知らないが、そういった場所ではきちんと列を作る。
で、そういう若者が途中にいると、列の秩序、そのものが乱れる。
私自身も、先のプラカードを見るまで、どこか最後尾なのか、わからなかった。
……これも社会現象のひとつと考えてよいのではないか。
世の中、私たちが知らないところで、脳レベルの異変が起きつつある。
●EU金融危機
イタリア政府が、超緊縮政策を発表した(12月10日)。
EU各国は、それを歓迎した。
が、そうでなくても、景気は低迷している。
「緊縮」すれば、景気はますます悪くなる。
ゆいいつ利点があるとすれば、EUからの援助を受けやすくなること。
たとえて言うなら借金漬けの男が、銀行にこう約束した。
「これから支出を抑え、ぜいたくをひかえます」
「だからどうか助けてください」と。
イタリアも、そこまで追い詰められている。
が、それでイタリアが立ち直るとは、だれも思っていない。
つまり一時しのぎ。
EUの金融危機は、それほどまでに深刻。
●「週刊現代」誌
今朝の広告によれば、(今週号は、まだ買っていない)、「週刊現代」には、こうある。
「日本は倒産する。国債を買うのはバカだ」(「週刊現代」)と。
事実は、その通りだから、反論のしようがない。
さらに、こんな記事も。
「年金運用、またも大失敗!」「わずか3か月で、約4兆円負けた!!」と。
興味はあるが、今週号は多分、買わない。
国債は、もっていない。
年金は、もとからアテにしていない。
●「葬式を見ればその人がわかる」(週刊現代)
もうひとつこんな記事も。
「有名も肩書も関係なし。これがあなたの人生の評価だったのです……」(週刊現代)と。
記事は読んでないが、有名であっても、また肩書きがあっても、さみしい死に方をする人はいく
らでもいる……というような記事を載せているらしい。
が、この意見はおかしい。
●評価
葬式でその人の評価は決まらない。
その人がどんな死に方をしようが、またその葬式がどうであろうが、気にしてはいけない。
日本民族のいやらしさというか、人の価値を裏から見て判断する。
中身ではなく、外見。
表ではなく、裏。
その集約されたものが、葬式。
どこかのカルト教団では、さかんにこう教えている。
「死に顔を見れば、その人の人生がわかる」と。
どこかイヤーナ、言い方!
「有名も肩書も関係なし」というのは、当然。
関係があるとすれば、利害関係と地縁関係。
そのことは派手な葬式をみれば、よくわかる。
何かの組織の「長」の葬式は、派手。
地縁の深い人の葬式は、派手。
この先、60%の人が孤独死、無縁死を迎えるという。
発見までの平均日数は、6日。
派手な葬式どころか、葬式そのものも期待できない。
だったら、居直るしかない。
葬式不要論、おおいに結構。
さみしい葬式で、何が悪い!
●第14回オムニバスタウン展
今朝の新聞(12月11日・中日新聞)に、第14回オムニバスタウン展の表彰式の写真が載
っていた。
小学生以下の子どもたち、3793点の応募があったという。
その上位入賞者(20名)の中に、森田さん、大野君の名前があった。
うれしかった。
私の教え子たちである。
おめでとう。
●第九演奏会
これから駅前のアクトタワーで催される、第九演奏会を聴きに行ってくる。
演奏は東京フィル、それに合唱は、地元・浜松のフロイデ合唱団。
それもあって、昨夜は、第九のリハーサルを何度もした。
YOUTUBEの第九(4楽章)に合わせ、何度も歌った。
準備万端、整った。
さあ、行こう!
●第九演奏会
よかった!
第3楽章が終わり、第4楽章に入ったところで、いつものように涙がこぼれてきた。
そしてあの歌……。
♪……おお、友よ、これらのような音ではなく、
もっと快い、歓びに満ちた調べを歌おうではないか……!
冒頭のこの部分は、ベートーヴェン自身が作詞したものと言われている(パンフ)。
が、当のベートーヴェンは、家族の愛にも恵まれず、孤独な死を迎えている。
先の話につなげるなら、「孤独死」。
それに近い形で、死んでいる。
それにベートーヴェンには、友らしい友もいなかった。
そのベートーヴェンが、「♪おお、友よ!」と歌う。
繰り返す。
「週刊現代」は、「葬式を見ればその人がわかる」と説く。
が、この説は、明らかにまちがっている。
どこかのカルト教団や、ヤクザの世界の人たちの葬式を見れば、それがわかる。
彼らは葬式だけは、やたらと派手にやる。
第九を聴きながら、別の心でそんなことを考えた。
●私は私
その人の評価は、葬式を見ればわかる?
ならば聞くが、だれにわかるのか?
どう、わかるのか?
わかったところで、どうなるというのか?
この前、鎌倉で田丸謙二先生に会ったとき、先生はこう言った。
「私は葬式などしてほしくありません。
病院から火葬場まで、直葬で結構です」と。
で、私が「先生はそう言っても、まわりの人がそうはさせませんよ」と言うと、先生はさらに強く
こう言った。
「娘たちにも、しっかりとそう言ってあります」と。
偉大な先生というのは、田丸謙二先生のような人物をいう。
要するに、私は私。
あなたはあなた。
葬式などという結果など気にせず、ただひたすら前だけを見て生きていけばよい。
●12月11日
今日も、もうすぐ終わる。
時刻は今、午後6時16分。
そうそう帰りの車の中で、ワイフがこう言った。
「あなたももう一度、第九を歌ってみたら?」と。
が、私はこう言った。
「時間が、ない。ぼくの寿命も、よくて残り15年。もう回り道をしているヒマはない」と。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【撤退する外資企業・理由は翻訳料と言葉の壁】
●今ごろ、何?(今ごろ外国向けパンフ?)
今ごろ「海外投資家向けの情報発信を強化する」(東証)だって?
+++++++++++++++++++++
●英語教育
どこかのお馬鹿教授がこう言った。
「日本に英語教育は必要ない。英語よりも論語を教えろ」と。
その教授は、小学校での英語教育に猛烈に反対していた。
さらにこうも言っている。
「武士道こそが、日本人の精神的バックボーンである」と。
さらに自著の中で、「恥を教えれば、いじめはなくなる」とも。
子どもを直接教えたことのないお馬鹿教授の戯言(たわごと)。
たしかに今、小学校における英語教育は、さまざまな困難にぶつかっている。
しかし現代というこの時代にあって、「英語が必要ない」とは!
あきれると言うより、馬鹿げている。
私の意見ではない。
以下のような事実を、どれだけ多くの人が知っているだろうか。
●時事通信(2008年記事)より
「……さらに悲しむべきことに、東証一部の外国企業は、とうとう10社になってしまった(2010
年9月現在、(「日本の論点」・文藝春秋))。
ニューヨーク、ロンドン、シンガポールの証券取引所には、それぞれ数百社以上もの外国企業
が上場しているというのに、10社以下。
理由は、翻訳料の負担」(同書)と。
また時事通信社は、「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を
かけている」と報道している(以上、2008年)。
その結果、外資企業は、拠点をシンガポールへ移してしまった。
アメリカへ行ったことがある人なら、みな知っている。
現在、アジアの経済ニュースは、(日本の経済ニュースも含めて)、シンガポール経由でアメリ
カへ入っている。
日本ではない。
シンガポールである。
そのこともあって、国民1人当たりのGDP所得では、日本はシンガポールにさえ、抜かれてい
る。
以前、こんな原稿を書いた。
一部内容が重複するが、許してほしい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●遅れた教育改革(以下、2009年3月記)
2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。
この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。
さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退
を決めている。
理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。
悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しな
ければならない。
これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。
日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。
今どき英語など常識なのだ。
しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。
日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、1
65か国中、150位・99年)。
日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。
日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問
題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。
●日本の現状
東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。
「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。
が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。
オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。
しかし日本には数えるほどしかいない。
あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨー
ロッパ全体では、もっと多い。
「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへん
お粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。
はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。
「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。
●低下する教育力
こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。
やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。
その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。
うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。
そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習
本を読んでいる」と。
さらに大学もひどい。
大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう
言った。「ぼくたちには考えられない」と。
大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」
が、かろうじて日本の教育を支えている。
もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育だってあぶない。
(以上、2009年3月記)
【教育改革】(以下、2009年3月記)
●この現実を、知っているか?
++++++++++++++++++++
日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。
かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)
その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。
+++++++++++++++++++
時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。
++++++++++以下、時事通信より++++++++++
外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。
株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに
見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。
東証上場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。
(時事通信・12・27)
++++++++++以上、時事通信より++++++++++
日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。
言葉の問題だけではない。
シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。
だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。
もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。
日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。
だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。
こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)
日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。
東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?
もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。
++++++++++++++++++
●日本から逃げる外資
今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。
終値で616円安。
それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れてい
ることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあるこ とを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。
この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。
つぎのが、それである。
日付は、2002年になっている。
+++++++++++++++
【みんなで考えよう、日本の教育改革】(以下、2002年記)
(Open the door and liberate the market)
More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125
enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The
number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for
translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and
liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my
article which I wrote 6 years ago in 2002.
●遅れた教育改革
2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。
この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。
さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退
を決めている。
理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。
売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎
日新聞)。
悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しな
ければならない。
これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。
日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。
今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしま
つ。
日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、1
65か国中、150位・99年)。
日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。
日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。
「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だ
そうだ。
●日本の現状
東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。
「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。
が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。
オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。
しかし日本には数えるほどしかいない。
あの天下の東大には1人もいない。
ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。
ヨーロッパ全体では、もっと多い。
「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへん
お粗末。
今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。
はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。
「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。
●低下する教育力
こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。
やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。
その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。
うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。
そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習
本を読んでいる」と。
さらに大学もひどい。
大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう
言った。
「ぼくたちには考えられない」と。
大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」
が、かろうじて日本の教育を支えている。
もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊す
る。
確かに一部の学生は猛烈に勉強する。
しかしそれはあくまでも「一部」。
内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000
年)。
98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。
●規制緩和は教育から
日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。
政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと生きてきたため、国際競争力をなくしてしまっ
た。
しかし日本の教育は、銀行の比ではない。
護送船団ならぬ、丸抱え方式。
教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねばならない。
が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以
上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。
メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイ
ツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。
もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピ
ュータの科目もある。
芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。
もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つ
とのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。
さらにこんなニュースも伝わっている。
外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減しているという。
カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。
「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。
日本語クラスを閉鎖した学校もあります」と。
こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。
●規制緩和が必要なのは教育界
いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。
もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。
地方に任すものは地方に任す。
せめて県単位に任す。
だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。
日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。
が、それこそまさに世界の非常識。
あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!
今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。
「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために命を落とせ」という教育に
置きかわった。
企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。
が、これからはそういう時代ではない。
日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育
観は、もう通用しない。
いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。
いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。
「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。
つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。
しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。
「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかってい
ないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。
私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。
しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。
●多様な未来に順応できるようにするのが教育
これについて議論を深める前に、こんな事実がある。
アメリカの中南部の各州の小学校では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談し
ながら決めている。
たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子
どを預かり、コンピュータの授業をしている。
近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれ
た。
「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。
事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の 席)と。
オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が
終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要は ない」とは!
●文法学者が作った体系
ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。
日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。
数学も国語もそうだ。
将来その道の学者になるには、すぐれた体系をもっている。
理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。
だからおもしろくない。だから役に立たない。
こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。
子どもたちはもっとかわいそうだ。
たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思
を相手に正確に伝えるか、だ。
それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはます
ます英語嫌いになる。
ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。
が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。
●数学だって、無罪ではない
数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。
さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものなのか。
仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。
こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。
「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。
もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。
「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。
また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。
その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。
現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調 査」2001年)。
●教育を自由化せよ
さてさきほどの話。
英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。
こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。
早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。
早くから英語を学びたい子どもがいる。
早くから学びたくない子どももいる。
早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。
大切なことは、それぞれの自由にすればよい。
今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくしてしまっていることだ。
雑務、雑務、その上、また雑務。
しつけから家庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。
ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。
「授業中だけが、体を休める場所です」と。
「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師も
いた。
そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。
またそれができる環境をつくればよい。
「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。
それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。
また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。
教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという
制度が徹底している。
教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。
だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとし
ばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。
こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、
そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。
+++++++++++++++
6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。
しかし、それでは不十分。
同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実に表
している。(以上、2002年記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)東京証券取引所に株式を上場しているオランダの生命保険大手とスイスの大手金融
グループが、来月までに相次いで上場を取りやめることになり、東証で株式を取り引き
できる外国企業の数は、ピーク時の10分の1まで減少することになりました。
東京証券取引所では、「1部」に株式を上場している外国企業のうち、▽オランダの
大手生命保険会社、「AEGON」が27日、上場廃止となったのに続いて▽スイスの
大手金融グループの「UBS」も来月16日に上場廃止になることが決まっています。
この2社は日本でビジネスは続けますが、これで、東証で株式を取り引きできる
外国企業は13社となり、最も多い127社が上場していた平成3年の時と比べますと、
およそ10分の1にまで落ち込むことになります。
(以上、BIZ速報HP・2010年3月29日より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)(参考資料:東京証券取引所の弁明とウソ)(2011年12月12日)
市場開設以降、2004年10月まで、上場外国会社の形態は全て本国市場に上場している重複
上場でした。
この重複上場の形態は、ITが進展した今日、売買が本国市場に集中する傾向が顕著である
ため、重複上場の主目的は、重複上場国における知名度維持・向上や現地通貨での資金調 達にあると一般に考えられます。
これまでの東証からの上場廃止外国会社を見ても、売買高の少なさを主たる理由に挙げた会
社が最も多く、重複上場会社数の減少は、今日の環境下にあっては、ある意味必然的な面も ありました。
そこで、東証は、外国会社にも市場機能を十分提供できるよう、2000年以降においては、本国
に上場していない外国会社も上場のターゲットと捉え、特に、アジア地域における資金需要旺 盛な会社に焦点を当ててプロモーション活動を展開し始めました。
単独上場会社としては、新華ホールディングス(2004年上場)、ジャパンインベスト・グループ
(2006年上場)及びチャイナ・ボーチー(2007年上場)があります。
2011年3月末現在、単独上場外国会社数は3社となっています。
(以上、東京証券取引所HPより)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●現状(2011年12月12日記)
現在、単独上場外国企業は、たったの「3社」(東京証券取引所)!
東京証券取引所は、こう述べている。
「これまでの東証からの上場廃止外国会社を見ても、売買高の少なさを主たる理由に挙げた
会社が最も多く、重複上場会社数の減少は、今日の環境下にあっては、ある意味必然的な面 もありました」と。
簡単に言えば、外資企業は、規制と規則、それに翻訳料(時事通信)から逃げた。
それを今ごろになって、「海外向け情報誌」?
Bloomberg(2011ー12ー12)の記事を紹介する。
私はこの記事を読んで、「今ごろ?」と、思わず笑ってしまった。
「……12月12日(ブルームバーグ):11月に経営統合を発表した東京証券取引所と大阪証券取
引所が、海外投資家向けの情報発信を強化する。
国際的な存在感が低下傾向にある日本の株式市場、企業の魅力を訴えることで海外の取引
所に対抗し、日本市場の活性化につなげたい考え。
東証は海外向けの広報誌を創刊、大証は初めてベンチャー企業の海外IR活動を主催する」
(2011ー12−12、Bloomberg)より。
今まで海外情報誌すらなかった?
この記事を裏から読むと、そうなる。
教育界もそうだが、経済界も、そう。
日本の経済が好調なとき、その上で、あぐらをかいてしまった。
未来を見据え、その準備をすることを忘れてしまった。
その結果が、今。
まことにもって悔しい話だが、私はすでに2000年ごろから、この事実に気づいていた。
原稿も書いてきた。
恐らくこの原稿も無視され、さらに10年後、つまり2020年には、日本の衰退は、より確実な
ものになるだろう。
最後に一言!
いいかげんに、日本よ、日本人よ、目を覚ませ!!!
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 外資企業 東京証券取引所 外 資企業 逃げる外資 はやし浩司 理由は翻訳料 閉鎖主義 鎖国主義 はやし浩司 英語 教育 英語教育論 低下する教育力 東証外国部 上場企業の撤退 はやし浩司撤退する外 資 たったの3社 はやし浩司 TOEFL 北朝鮮とビリ2)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●情報と思考(物知りと賢い子)
数日前、テレビを見ながら、ワイフが何かを言った。
言った内容は忘れた。
テレビの内容も忘れた。
何かを言ったのは、覚えている。
そのとき、つぎのように言った。
「情報というのは、頭の中で反芻(はんすう)し、加工しなければ意味がないよ」と。
つまり情報の一方的な受け入れは、意味がない。
●野球中継
このことは野球中継を見ているとわかる。
たとえば10年前の野球中継を、音声を切った状態でながめてみる。
サッカーの試合でもよい。
(実際に、そういう実験をしたわけではないが……。)
そのときその中継を、10年前のものだとわかる人は、まずいない……と思う。
よほどの野球通でも、わからないだろう。
いわんや、野球中継をたまにしか見ていない人には、ぜったいにわからない。
端的に言えば、10年前の野球中継も、5年前の野球中継も、そして今見る野球中継も、同
じ。
情報というのは、そういうもの。
つまり覚えては忘れる。
その繰り返し。
●反芻(はんすう)と加工
手に入れた情報は、一度脳の中で、反芻する。
一方的に受け入れてしまうのは、危険なことでもある。
情報を提供する側に、よいように操られてしまう。
野球中継にしてもそうだ。
興業側の餌にされながら、自分が餌になっていることに、気がつかない。
……思い出した。
ワイフが見ていた番組は、太極拳についてのものだった。
1人の女性が中国本場の太極拳を取材していた。
女優だったかもしれない。
「C式太極拳」の取材だったと思う。
その番組を見ながら、その女性が日本人離れしている体型であることに気づいた。
日本人というより、欧米人。
背が高く、細い体をしていた。
足も長かった。
●スタイル
たまたまその日、別のニュースサイトで、日本の中高校生たちが、細くなっているという記事
を読んだ。
「スタイルを気にする若者がふえた」と。
私はその記事のことが頭に残っていたので、その女性を見ながら、こう思った。
「最近の若い人は、こういう体型にあこがれているのだ」と。
その女性は、周囲の中国人とは、明らかにちがう体型をしていた。
が、私が気になったのは、「胸」。
ほかの女性たちは、太極拳をしながら、ユラユラと胸を揺らしていた。
その女性の胸は、大きさは周囲の中国人の女性と、それほどちがわなかった。
しかしまったく、揺れなかった。
……なぜか……ということについては、私にはわからない。
しかしそういう体型が、健康的な体型かというと、私は、そうは思わない。
アジア人にはアジア人の体型がある。
それを無視し、体型を欧米人のそれに近づけようと、無理をすればするほど、健康を害する。
もちろんその女性が、そうというのではない。
が、気にはなった。
●太極拳
さらに言えば、こんな心配もある。
太極拳については知らないが、こうした健康法は、得てしてカルトと結びつきやすい。
オウム真理教を例にあげるまでもない。
オウム真理教は、ヨガと教義を巧みに混ぜ合わせながら、信者を獲得していった。
番組の中でも、指導(?)を始める前に、「老師」と字幕の出た指導者が、(中国語では「老師」
というのは、年齢に関係なく、「先生」という意味なのだが)、先祖の墓に参るシーンが出てき た。
「先祖にあいさつしてから、指導する」と。
まさに宗教的行為!
さらに気になったのは、その老師の家での食事。
「日本から来た客(?)」ということで、もてなしをしたのだろう。
テーブルの上には、所狭しと、料理が並んでいた。
しかしよくよく考えてみると、へん(?)。
どうしてその老師は、まったくの素人に近いその女性を、そんなにも歓待するのか。
ふつうなら、そんな歓待はしない。
なぜか?
テレビカメラを背負った人が、そばにいたからなのか。
テレビカメラを背負った人は、どこへでもズカズカと入り込んでいく。
よい例が、NHKの「昼時〜〜」何とかいう番組。
平気で民家へあがりこみ、ときには、そこに並べてあった昼食までいっしょに食べていく。
が、どうもそれだけではないようだ。
老師は、こう言った。
「日本へも、たびたび(指導に)行っています」と。
それでピンと来た。
宣伝に利用している!
……であるなら、なおさら、疑ってみる必要がある。
こうした健康指導団体は、組織化しやすい。
「法輪功」と呼ばれる教団も、そのひとつ。
組織化が悪いというのではない。
が、どうして組織化するのか。
健康指導団体が、どうして組織化するのか?
(そのC式太極拳がそうであるというのではない。誤解のないように!)
●ウソと本当
こうして番組を見ながら、自分の頭で考え、判断をくだす。
これが「反芻と思考」ということになる。
が、それをしないで、一方的に、「すばらしい」「私もやってみよう」などと、短絡的に行動しては
いけない。
中には「天下のBSで紹介されていたから、安全」と考える人もいるかもしれない。
が、NHKがアテにならないことは、今回の3・11大震災で証明された。
「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。
●情報に操られる
私たちは知らず知らずのうちに、情報に操られる。
子どもの世界も、また同じ。
1年前のこと。
PSP(ソニーのゲーム機)のソフトで、「モンスター・ハンター・サード(3rd)」が発売になった。
そのソフトについて、予約で買った子どもが、私の生徒の中にも何人かいた。
「中身を確かめてから買ったのか?」と聞くと、「そんな必要はない」と。
「どうして?」と聞くと、「おもしろいに決まっている」と。
子どもたちの世界では、いかに他人より1歩抜きんでるかが、重大事。
1日でも早く先へ進むのが、ステータスにもなっている。
が、そんな子どもたちは、(もちろんそれだけの知恵も経験もないから、しかたないが)、自分た
ちが情報に操られていることに、気づいていない。
もっと辛辣な言い方をすれば、おとなたちの金儲けの餌になっているだけ。
●では、どうするか
情報を得たら、反芻し、その情報をもとに、自分の思想を組み立てる。
方法はいろいろある。
近くの人と議論するのもよし。
日記風に書きとめるだけでもよい。
さらに言えば、それについて、自分なりの意見をまとめてみる。
こわいのは、情報の渦に、のみ込まれてしまうこと。
それを無批判なまま、脳の中に格納してはいけない。
もし「反芻する時間がない」というのであれば、むしろそういう情報には接しないほうがよい。
そうでなくても、現代社会は、情報にあふれている。
10分、ネットサーフィンしただけで、頭の中が満杯になる。
が、さらにこわいことがある。
情報には、中毒性がある。
●情報中毒
「情報中毒」について、以前、こんな原稿を書いたことがある。
日付は、2007年10月になっている。
●情報、過剰社会(2007年10月に書いた原稿より)
++++++++++++++
いつも音を聞いていないと、
落ち着かない……とまあ、
そんな人は多いですね。
何かの雑誌に書いてあったので
すが、日本では、エレベーターの
中、バス停でも、音声ガイダンス
が流れますね。それについて、ある
外人が驚いていたそうです。
日本人には、静かな環境で、静かにものを
考えるという習慣そのものがない?
あるいは、日本人は、静かに
ものを考えるという習慣そのものを
放棄してしまったのかもしれません。
情報、また情報。
情報の洪水の中で、情報が途切れたとたん、
不安になってしまう?
よい例が、バスガイドのガイドです。
聞いてもすぐ忘れるような情報を、
つぎからつぎへと流す。
またそれをもって、サービス?、と
誤解している。
どこかおかしいですね。
++++++++++++++
●情報の洪水
先日、パソコンで、メモリー診断をしようと思いついた。VISTAには、メモリー自己診断ツール
が標準でついている。以前には、何度か使ったことがある。
が、である。その何度か使ったはずのツールがどこにあるかわからない。あちこちをさがして
みたが、結局は、見つからなかった。その説明をしてある雑誌をさがしてみたが、その雑紙も どこかへ、なくしてしまった。
たった数か月前にできたことが、できない? 私は改めて、脳みその底にできた(穴)に驚い
た。私たちは情報の洪水の中で生きている。それはわかる。が、一方で、その情報は、容赦な く、脳みその底にできた(穴)から、外へ流れ出てしまう。
情報の洪水は、つぎつぎとやってきて、またどこかへ消えていく。脳みその中に残る情報とい
うのは、ほんとうに少ない。その少ない情報も、時間とともに、どこかへ消えていく……。
●情報中毒
いつも情報にさらされていないと落ち着かないという人は、多い。情報の流入が途切れたとた
ん、不安になるらしい。少し前まで、私の母がそうだった。
実家に行くたびに、テレビはガンガンとかけっぱなしだった。私がそれを止めようとすると、母
は、がんこに抵抗した。「見ていないのだからいいだろ?」と言っても、母は納得しなかった。母 は、テレビの音が聞こえていないと、落ち着かなかったのだ。
こういうのを、「情報中毒」という。意味のある情報とか、ない情報とか、そういうことは、考え
ない。選択することもない。料理番組、健康番組、ニュース……まさに、何でもござれ。そういう 情報を、つぎつぎと脳みその中に入れ、また出していく。
何かの雑紙に書いてあったが、日本へ来た外人が、こんなことに驚いていた。日本では、エ
レベーターの中、バス停にすら、音声ガイダンスがある、と。その記事を最初に読んだときに は、「どうして?」と私は、思った。「どうして、そんな程度のことで、驚いたのか?」と。
少し前、観光バスで、オーストラリアの友人夫妻を長野県のほうへ連れていってやったのだ
が、そのときも、そうだった。オーストラリアの友人夫妻は、情報の洪水に驚いていた。バスガ イドが、間断なくしゃべりつづけていたからだ。それにどこの観光地へ行っても、ガイド、ガイド、 またガイド。「右に見えますのが〜〜山、左に見えますのが、〜〜湖」と。
一度、情報中毒にかかると、情報なしでは、落ち着かない。つまり音が聞こえていないと落ち
着かない。
●情報と思考
何度も書くが、(情報)と(思考)は、まったく別のもの。情報量が多いからといって、その人に
思考力があるとはかぎらない。たとえていうなら、幼稚園児が、かけ算の九九を暗記して口に するようなもの。それができたからといって、「算数ができる子ども」ということにはならない。
しかしほとんどの人は、幼児が、かけ算の九九を口にしただけで、「算数のできる子ども」と
思い込んでしまう。しかしそれは誤解。まったくの誤解。
同じように、バスガイドが、観光地にまつわる歴史的な話をしても、だれも、そのガイドが、歴
史のプロだとは思わない。(思う人もいるかもしれないが……。)どうせどこかのガイドブックに 出ていたような内容を、丸暗記しているだけ(失礼!)。
先日も、紀伊半島のほうへ行ったときも、織田信長ゆかりの地を、あちこち回った。そのつ
ど、ガイドは、もの知り顔に、あれこれ説明してくれた。が、どれも、まちがいだらけ。しかしそう いう話を聞いて、質問する人は、いない。かけ算の九九を暗記している幼児に向かって、その 意味を問いただしても意味はない。それと同じ。
●考えるという習慣
考えるという習慣のない人に、(考える)ことの重要性を説いても意味はない。(考える)という
意味すら、理解できない。できないばかりか、情報の量をもって、つまりもの知りであることをも って、「私は頭がいい」と思いこんでいる。
しかし重要なのは、(考えること)。さらに言えば、(考えるという習慣)。
たとえば健康を維持するため、毎朝、ジョギングしている人がいる。毎日の運動が、健康にと
っていかに大切であるかを、そういう人たちは知っている。運動をした日と、しない日とでは、体 の調子はまるでちがう。運動したあとには、体の細胞のひとつひとつが、ピチピチとはじける音 すら、感ずる。
しかしそういう習慣のない人に、運動の大切さを説いても意味はない。ないばかりか、たとえ
ばテレビの健康番組に流されるまま、「酢がいい」と聞けば、酢を買い、「ニンニクの焼酎漬け がいい」と聞けば、自分でそれを作ってみたりする。無駄とは思わないが、そのつど情報に振り 回されているだけ。
同じように、重要なのは、(情報)ではなく、(それを選択し、加工するという習慣)である。
●考えさせない社会
日本の社会は、騒々しい。ほんとうに騒々しい。どこへ行っても、騒音、また騒音。情報の洪
水、また洪水。
また観光バスの話にもどるが、うるさいのはガイドだけではない。静かな人も多いるが、その
一方で、おしゃべりな人も多い。バスに乗っている間中、となりの人と、ペチャペチャと間断なく しゃべっている。概してみれば、女性に多いが、男性にもいる。
話している内容といえば、たわいもない世間話。あるいはその繰りかえし。私はそういう人た
ちを見ながら、「こういう人たちは、どこでものを考えているのだろう」と思う。「あるいは、どこで そういう時間をもっているのだろう」とも。
もっと言えば、日本の社会構造そのものが、そうなっている。つまり、人が静かにものを考え
るという社会構造になっていない。さらにもっと言えば、教育の段階で、ものを考える子どもを 育てていない。
●情報の選択
だからといって、情報が無駄であると言っているのではない。良質で、適確な情報は、思考の
基盤となる。その情報に上に、私たちは自分の思考を組み立てることができる。
そこで私たちがすべきことは、情報の選択。洪水なら洪水でもよい。しかしその中から、情報
を選択していく。たとえて言うなら、無数の絵画の中から、名画と、そうでないものを選ぶのに 似ている。これはそれほどむずかしいことではない。ほんの少し訓練すれば、だれにでもでき るようになる。
私自身は、つぎのようにして選択している。
(1) その人自身の言葉であるか、どうか。
(2) その人自身が、どういう思想的背景をもっているか。
(3) その人自身が、どういう経験をしているか。
(4) その人自身が、どういう経緯で、その情報を手に入れたか。
(5) 普遍性はあるのか。視野の広さはどうか、公正であるか、など。
つまりその人自身の言葉でないと、意味がないということ。その人自身を見て、判断するとい
うこと。
当然のことながら、苦労に苦労を重ねた人の言葉は、重い。意味がある。そうでない人の言
葉は、そうでない。人生も永遠なものであれば、無駄な情報も、それなりに生きることを楽しくし てくれるかもしれない。しかし今は、もうそうではない。今さらパチンコの攻略本を読んで、それ を応用してみようなどという気持ちには、とてもなれない。
●生きるということは、考えること
人は、考えるから、人である。考えない人は、人というより、サル。だからといって、サルが人
より劣っているというのではない。サルのほうが、ひょっとしたら、人間より考えているかもしれ ない。幼児だって、そうだ。
私たちは、幼児イコール、幼稚と考えやすいが、これはとんでもない誤解。幼児は幼児なり
に、懸命に考えている。そういう幼児に出会うと、心底、感動を覚える。ずいぶんと前のことだ が、こんなことがあった。
ある日、幼稚園へ行くと、1人の子ども(年長男児)が、地面を掘っていた。「何をしている
の?」と聞くと、その子どもは、こう言った。「石の赤ちゃんをさがしている」と。
その子どもは、石は、土の中で生まれるものと思っていた。だから地面を掘れば、石の赤ち
ゃんがそこにあると思っていた。その幼児は、その幼児なりに、懸命にそう考えて、穴を掘って いた。
レベルの問題ではない。たしかに私たちおとなから見れば、幼稚(?)な行動かもしれない
が、そこに、私は、生きる価値を見た。もしそれを否定するとなると、つまり私たち自身も、否定 されることになる。
人間にしても、まだ進化の過程にある。1000年後、あるいは1万年後の人たちが、現在の
私たちを見て、幼稚だと思うかもしれない。しかしだからといって、それを批評することは、許さ れない。それを許すということは、とりもなおさず、私たちが、私たち自身を否定することにな る。
私たちは私たちで、懸命に生きている。考えている。内容は幼稚かもしれないが、そこに人が
生きる価値がある。それがわからなければ、ここに書いた幼児を頭の中で、もう一度、想像し てみてほしい。
●考えることのすばらしさ
ところで考えることは、宝さがしに似ている。ひとり荒野の中を歩いている。そこで小さな宝石
を見つけるのに似ている。小さな宝石かもしれないが、キラリと輝く。それを見つけたときは、う れしい。ほんとうに、うれしい。
が、考えることは、けっして、楽な作業ではない。難解な数学の問題を前にして、その問題を
解くようなもの。考えることには、苦痛や苦労がともなう。しかもその問題は、必ずしも、解ける とはかぎらない。解答用紙もない。
だからできるなら、考えないですませたいと思う。もっとも手っ取り早い方法は、宗教なら宗教
に身を寄せること。思想をだれかに注入してもらうこと。しかしそれは同時に、その人の「死」を 意味する。
パスカルの言葉を借りるまでもなく、たとえか弱く、細いアシであっても、人は、自らの足で立
ち上がる。そこに人が生きる意味があるし、気高さも、そこから生まれる。しかし、その価値は ある。
考える人からは、考えない人がどういうものか、よくわかる。反対に考えない人からは、考え
る人がどういうものか、わからないだろう。だからいって、私がその考える人というわけではな い。つまりは相対的な立場でしかない。
私よりものをよく考える人は、いくらでもいる。そういう人たちから見れば、私など、何も考えな
い部類の人間でしかない。しかし一度、考える習慣を身につけると、それまで見ていた世界が 一変する。
それは山登りに似ている。下から見ると低く見える山でも、登ってみると、意外と視野が広い
のには驚く。そのすばらしさは、山に登ったことがある人でないとわからない。
同じように、考えることによって、だれでも、思考の山に登ることができる。そしてその視野の
広さに驚くことができる。
さあ、あなたも勇気を出して、考えてみよう。あなたも、きっとそのすばらしさを、実感するは
ず。……という結論で、この話は、おしまい。
(以上、2007年10月記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●再び、2011年12月(現在へ)
2007年に書いた原稿を、今、こうして読み直してみる。
内容的には、それ以前に、あちこちで書いたものを寄せ集めただけの原稿である。
で、ここが重要だが、そういう原稿を4年前に書きながら、ではその私は、この4年間で、4年
分の進歩をしたかということ。
答は、「NO」に近い。
ただ情報を一方的に受け入れることだけは、2007年の当時も、今もしていない。
繰り返しになるが、あの3・11大震災を契機に、私は情報のもつ恐ろしさというか、洗脳される
ことの恐ろしさを、いやというほど、思い知らされた。
政府にせよ、NHKにせよ、「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。
その(本当のことも言わない部分)で、私たちは日々に少しずつ、洗脳されていく。
すでに今ですら、「原発事故は片づいた」と考えている人は多い。
少し前だが、中学3年生のOさんですら、そう言った。
学年でもトップクラスの成績を収めている子どもである。
私「何も片づいていないよ」
O「ウッソー!」
私「あのね、被害が出てくるのは、これからだよ。チェルノブイリでも被害が出始めたのは、2
年後から5年後。10年後にピークを迎えた。現在の今でも、チェルノブイリでは被害がつづい ているよ」
O「今でも……?」
私「今でも、だ。そのとき汚染された子どもが母親になり、その母親が子ども産む。その子ども
に症状が現れている」と。
不必要に心配することはない。
しかし必要以上に安心するのも、よくない。
今、「もう片づいた」と考えている子どもがいること自体、私たちが情報に操作されていることを
示す。
もろもろのどうでもよい情報の洪水の中で、思考力そのものを失っている。
つまり、それが、コ・ワ・イ。
●最後に
ここに書いたことを参考に、(物知りな子ども)と、(賢い子ども)について考えてみてほしい。
遠回しな言い方をしたが、このエッセーで書きたかったことは、この1点に尽きる。
情報が多いことイコール、思考力があるということではない。
情報と思考は、まったく別のもの。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 情報と思想 情報中毒 思考力 反芻と思考 はやし浩司 物知り もの 知り 賢い子ども 考える子ども はやし浩司 情報の反芻 はやし浩司 思想と情報 はやし 浩司 情報論)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●国際経済(買い時、売り時)
+++++++++++++++++++++++++++++
昨夜、遅くまで、オーストラリアの友人と、
国際経済について、チャットした。
が、もちろん、私はまったくの門外漢。
とくにオーストラリア経済については知らない。
その友人が言うには、「今が投資のチャンス」と。
特殊な金属を採掘している、採掘会社に投資
している、とも。
昔から、オーストラリアのことを、「ラッキー・
カントリー」と呼ぶ。
天然資源が豊富にある。
40年前には、世界でも1、2位を争う、豊かな
生活を楽しんでいた。
今も、そうだ。
食糧と資源……この2つがあれば、仮に世界の経済が
ひっくり返っても、何とか生き延びていくことができる。
が、この日本は、ちがう。
すでにあの3・11大震災の前ですら、「日本の
デフォルト(国家破綻)は、可能性の問題ではなく、
時間の問題」(経済各誌)と言われていた。
が、あの大震災で、その問題がどこかへ隠れてしまった。
直後日本政府は、11兆円とも、あるいは30兆円とも
ささやかれる復興資金を市中にばらまいた。
言うなれば、カンフル注射。
が、それでデフォルトの問題が解決したわけではない。
今の今も、闇の奥でくすぶりつづけている。
いつまた火がつくかわからない。
つまり銀行や郵貯に余裕がある間は、日本国債は、安泰。
しかしその余裕がなくなったときが、こわい。
カンフル注射にしても、応急処置。
効果がいつまでもつづくとは、かぎらない。
昨日も、書店で立ち読みをしたが、「EUのつぎは、日本」と。
おおかたの経済誌は、そう書いている。
いつも買っている「週刊現代」誌は、「国債を買う人はバカ」と
まで言い切っている。
(今週号は、立ち読みですました。ごめん!)
オーストラリアの友人は、こう言った。
「今が、投資に最善のとき」と言ったあと、
「Robert Friedland said "when you can feel the urine
running down your leg, then it is time to buy."」と。
(ロバート・フリードランドは、「小便をちびったときが、
買い時」と言っている、と。)
つまり「株価の乱高下で小便を漏らしたときが、投資のしどき」と。
残念ながら、私にはよくわからない。
ロバート・フリードマンは、投資家としてそう言ったのかもしれない。
あるいはヘッジ・ファンド?
が、私たちには、そこまでの余裕はない。
つまり一日中、数字が動き回るモニターをながめている余裕はない。
孔子はこう言った。
「君子、危うきに近寄らず(A wise man keeps away danger)」と。
"Fools rush in where angels fear to tread"(天使が二の足を踏んでいるとき、
愚か者は突進する)ともいう。
どうであるにせよ、プロの投資家を相手に、私たちのような素人が
勝てるわけがない。
能力的な問題ではない。
時間的な問題である。
先にも書いたように、プロの投資家は、ロボット取り引きも含め、
1000分の1秒単位で、取り引きを繰り返している。
また非公式の統計によっても、一般投資家の95%は、
損をしているという。
私の周辺だけでも、金融資産を、10分の1どころか、100分の1
に減らしてしまった人もいる。
何人かいる。
「95%」という数字は、辛らつに解釈するなら、
「資産の95%を失った」とも読める。
だからその友人には、結論として、こう言った。
「もし貴君が今、利益を出しているなら、さっさと債権(bonds)を売り、
現金で資産を保有しておいたほうがいい」と。
「もっと儲かる……」と思っていると、結局は大損をする。と。
今朝は、国際経済論で、(「論」と言えるほど、おおげさなものではないが)、
1日が始まった。
おはようございます。
12月13日(2011)、火曜日。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
●経済記事
経済記事というのは、本当にむずかしい。
専門用語が多いこともさることながら、それぞれの利害関係が複雑にからみあっている。
さきほども、Bloombergの記事を読んでみた。
そこには、こうあった。
『欧州の銀行は監督当局が求める資本基準を満たすために政府の支援に頼れば、支援した
政府の国債がさらに下落し、保有債で一段の評価損が発生するという悪循環に直面している』 (Bloomberg)と。
数度読み返してみたが、それでも意味がよくわからない。
が、つまりこういうことらしい。
イタリアやスペイン、ポルトガルやギリシャの銀行は、現在、資本増強を強いられている。
つまり「もっと現金(マネー)をもち、体力を強化しろ」と。
が、そんな現金、どこにもない。
経済は低迷し、失業率も高い。
だれも預金をしてくれない。
そこで新株発行(=借金の申し込み)ということになる。
なるが、新株を発行しても、(=民衆に借金を申し込んでも)、だれも応じてくれそうにない。
そこで最後の頼みの綱は、政府ということになる。
政府に現金(マネー)を借りる。
が、ここで大きなジレンマにぶつかる。
政府に頼れば頼るほど、その政府もまたほかの国から、現金(マネー)を借りてこなければな
らない。
それが国債ということになる。
政府は国債を発行し、現金(マネー)を手に入れる。
(「国債」というのは、このばあい、「借用証書」ということになる。)
が、借りれば借りるほど、国債の価値はさがる。
その国債を大量にかかえている銀行にしてみれば、国債の価値がさがればさがるほど、そこ
で多額の含み損をかかえることになる。
つまり現金(マネー)は、クルクルと宙を回っているだけ。
……というのが、ここでいう「悪循環」という意味らしい。
ナルホドと思うと同時に、「そんなこともあるのか!」と驚く。
この世界、本当に複雑。
利害関係が、ごちゃごちゃにからみあっている。
●相手はプロ
……ということで、今朝の私の頭の中は、(経済一色)。
相場の動きに一喜一憂している人には申し訳ないが、まるで将棋の名勝負を観覧しているよう
なおもしろさがある。
(最近は囲碁のほうに、関心が向きつつあるが……。)
あちこちから情報を集め、つぎの一手を予想する。
もちろん油断は禁物。
突然、「角」が斜めに飛んできて、いきなり「王手!」と来るときもある。
だからこそ、余計にこう思う。
「素人には勝ち目はない」と。
……そう言えば、若いころ、こんなことがあった。
私はあるプロの人と、将棋の手合わせをさせてもらったことがある。
が、結構いい勝負になった。
私はプロの人の真剣なまなざしを肌で感じながら、こう思った。
「私も、結構、やるじゃないか」と。
が、結局、私が負けた。
負けたとき、相手のプロの人は、こう言った。
「先日、私の父が死にましてね。90歳でした。
で、あなたをちょうど90手で負かしてやろうと考えました。
あなたをその90手で負かすことができました」と。
つまり私は、もてあそばれただけ。
……といっても、こういう話は、将棋の世界ではよく耳にする。
たとえば相手の「玉」(=下位にある先手の「王」)を、将棋盤の中央で詰みにするとか、など。
プロの人が、アマチュアを相手にするときは、よくそんなことをするらしい。
で、こういうときは、傍観するにかぎる。
へたに手を出すと、大やけどをする。
相手は、私やあなたが考えているほど、甘チャンではない。
これは株や債権の話。
2011/12/13朝記
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【とんでもない、嫌がらせby韓国】(日本大使館前に、慰安婦の銅像?)
●12月14日(ホテル・グリーン・プラザ・浜名湖)「Hotel Green Plaza Hamanako」
●夕日
明るい橙色の夕日が、石垣の向こうの民家を照らす。
白い壁が、2つ、3つと並び、古い蔵のような建物が、その横に並ぶ。
湖面は、鏡のよう。
紅葉した山の木々が、それを包む。
乾いた心には、こうした景色が、ジンと浸み込む。
しばしその美しさに、息を止める。
胸の底から、生きる喜びがわいてくる。
「もうすぐホテルね」と。
車のナビを見ながら、ワイフがそう言った。
今日は、ホテル・グリーン・プラザ・浜名湖へ、やってきた。
「旬の蟹、食べ放題」という案内につられて、やって来た。
●遠州弁
部屋で一息ついていると、ワイフがホテルの案内書を読み始めた。
遠州弁の説明が載っていた。
レッスン1……「〜〜ダラ」
レッスン2……「〜〜ダニ」
レッスン3……「……ダデ」
レッスン4……「ダモンデ」
レッスン5……「ジャンね」(以上、「初級編」だそうだ。)
たとえばこんな使い方をする。
「それ、蟹ダラ」「そう、蟹ダニ」「蟹はうまいダデ」「ダモンデ、みな好きジャンね」と。
しかしそういう言葉を聞いていると、山荘の近くに住むKさんが、思い浮かんでくる。
もう26年のつきあいになる。
Kさんは、その村で生まれ育ち、その村の近くの農業高校へ通い、現在はミカン農園を経営し
ている。
遠州弁は、温かい。
独特の響きがあり、その響きが心地よい。
ワイフが読む解説を聞きながら、何度も小さな笑いを、フフフと漏らす。
●ホテル・グリーン・プラザ・浜名湖
前回来てから、1年ほどになる。
3・11大震災の少し前のことだったと思う。
そのときも、「蟹、食べ放題」という宣伝につられて、やってきた。
が、今回は、さらにやる気度を強く感じた。
エントランスには、クリスマスの飾りつけがしてあった。
こういう心遣いが、うれしい。
風呂はやや狭いかなと思ったが、BGMがよかった。
たった1人。
のんびりと「音浴」を楽しむことができた。
料理は、蟹と白いご飯。
それさえあればじゅうぶん。
……ということで、気楽に泊まれるという点を高く評価して、星は4つの★★★★。
●とんでもない、嫌がらせ
産経ニュースは、つぎのような記事を配信している(12月14日午後)。
……日本統治時代の元慰安婦を支援する「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」は、14
日朝、ソウル市鍾路(チョンノ)区の在韓日本大使館前路上に、元慰安婦を象徴する少女の碑 を建立した。
昼からは除幕式が行われ数百人が参加した。
在韓日本大使館は外交ルートを通じて韓国側に建立させないよう要請してきたが、「外交公館
の尊厳に関わる重大な問題」(大使館幹部)とし、韓国側に改めて抗議する方針だ。
(以上、産経ニュースより)
日本大使館の真ん前に、堂々と、元慰安婦の銅像!
こんな嫌がらせは、前代未聞。
敵対国でも、そこまではしない。
が、それを見て笑われるのは、日本人ではない。
韓国人である。
あの国には、そういう常識が、まるで通じない。
だから私は先月、こう書いた。
「お人好しをやめろ!」と。
どうして日本の首相は、韓国にまでのこのこ出かけていって、スワップ協定など結んだのか。
その額、700億ドル(約5兆円)。
「これだけのことをしてやったのだから、韓国側は感謝しているはず」と、その「ハズ論」だけ
で、国際外交を推し進める。
その愚かしさ。
そのバカ臭さ。
いいかげんに、日本よ、日本人よ、目を覚ませ。
こと「ハズ論」について言えば、韓国については、通じない。
こんなことまでされて、日本政府は、黙っているのか。
日韓首脳会談を開くのか。
慰安婦像を撤去するまで、日本政府は、外交官を引きあげたらよい。
あとは、シカト。
(ただし紛争にまでは、もちこんではいけない。
そんなことをすれば、喜ぶのは北朝鮮と中国。
だから、シカト。)
(追記)
私が韓国へUNESCOの交換学生として渡ったときのこと。
1967年のことだった。
日韓の間には、まだ正式な国交はなかった。
私たちはUNESCOが発給するビザで、韓国に渡った。
以下、ここに書くことは、そのとき知った話。
当時の領事や関係者から聞いた。
その年の前後、(年代ははっきりと覚えていないが)、日本は「屋台骨を何本も抜くようにし
て」、韓国に巨額の戦後補償費を支払った。
そのとき日本政府は、「韓国の国民へ」という形で、保障費を支払った。
が、時の韓国政府は、その保障費を、全額、国家建設のために使用した。
つまり1人ひとりの韓国の人たちには、1円(ウォン)も渡らなかった。
結果、韓国は、「漢江の奇跡」とも呼ばれる大復興を遂げたわけだが、そのとき、韓国政府
は、慰安婦問題も含め、それ以上の補償請求権を放棄した。
日本政府が、「解決済み」と主張している背景には、それがある。
……というのが、私が当時、韓国で知った事実である。
細部についてはまちがっているかもしれない。
私がここに書いたことを疑う人は、一度、自分で調べてみたらよい。
が、例によって例のごとく、韓国政府は、自分にとってつごうの悪い事実は、国民には知らせ
ない。
それもあって、韓国の人たちは、今になっても、「補償」「補償」と騒ぐ。
韓国政府も、当時の補償交渉のいきさつを、国民にしっかりと説明べきではないのか。
また韓国、それに北朝鮮という国は、そういう国であるという前提で、外交を考えたらよい。
「これだけのことをしてやったから、感謝しているハズ」という「ハズ論」は、ことこの2つの国に
は、通用しない。
国の約束など、あってないようなもの。
●睡魔
ホテルでのバイキングは、じゅうぶん満足できるものだった。
鰻のまぶし飯まであった。
蟹を食べる目的だったが、……蟹も結構食べたが、それ以上にほかのものもおいしかった。
ホテルの案内書によると、50種類の料理が用意されていたとか。
私とワイフは、デザートまでしっかり食べ、部屋に戻った。
時間的には40分前後の食事だった。
が、部屋に戻ると、猛烈な睡魔に襲われた。
横になろうかどうか……?
ワイフはテレビを見ている。
私は、ネットであちこちのニュース・サイトをのぞいている。
……中国の韓国大使館に、小さな銃弾が撃ち込まれたとか、そんなニュースばかり。
だれが撃ち込んだかはしらないが、犯人は中国人ではないのではないか。
それをもっとも喜ぶ人物(団体)によって撃ち込まれた(?)。
韓国への抗議によるものというよりは、その裏で何か別の謀略が動いているような気がする。
●2人の人によい顔はできない
イギリスの格言に『2人の人によい顔はできない』というのがある。
一方の人によく思われても、他方の人にはそうでないときがある。
だれしもみなによく思われたいと願う。
しかしそれは、「ぜいたく」。
『八方美人』という言葉もあるが、これは「軽蔑」の代名詞。
そのことは、こうしてBLOGを発行していると、よくわかる。
好意的な反応もあれば、辛辣(しんらつ)な反応もある。
とくに私のように実名を公表してBLOGを書いている者には、よく辛辣な批評が届く。
「辛辣」というより、悪態?
先日は、45歳の女性から、「もう一度、勉強し直して来い!」というのがあった。
で、その話をネット仲間の1人に話すと、こう言った。
「それも慣れですね」と。
そう、そのうち慣れる。
慣れて無視できるようになる。
それにしてもこのところ、まともな文章の書けない人がふえている。
感情をそのままぶつけてくる。
怒鳴り散らす。
そういう文章(?)には、一顧の価値もない。
犬の遠吠え。
だから無視。
●ホケる
遠州地方ではあまり使わない。
しかし神奈川県から東京の人は、この言葉をよく使う。
「ホケる」。
ボケるの意味らしい。
というか、このあたりでは、「ボケる」という。
が、ややニュアンスがちがうように思う。
というのも、東京の人たちは、「ホケる」と「ボケる」を、どこかで使い分けている。
「ホケる」は「呆ける」と書く。
「遊びホケる」の「ホケる」。
一方、「ボケる」は、そのままズバリ、認知症か何かになることをいう。
似たような意味だが、どこかちがう。
先日、東京の知人に、別の知人の消息をたずねたら、その知人はこう言った。
「あいつねえ、ホケたよ」と。
60歳を過ぎると、がぜん、こういう会話が多くなる。
●「若いですねエ」
昨日も、ある母親にこう言われた。
年齢を聞かれたので、正直に「64歳です」と言ったら、エーッと驚いたあと、「先生は、若く見え
ますねエ〜」と。
……そういうとき、喜んでよいのやら、悲しんでよいのやら……?
ときどき迷う。
男の世界では、「若い」というのは、「バカ」を意味する。
「お前は若いよ」と言われるのは、「お前はバカだよ」と言われるのと同じ。
しかし反対にこんなこともある。
突然、老人ぽくなる人がいる。
退職したあと、しばらく何もしないでいると、そうなる。
昨日も、車で道路を走っていて、そんな人を見かけた。
20年前には、子ども会の仕事をいっしょにした人である。
年齢は私より少し若いが、今では、私よりずっと年上に見える。
……というか、すっかりジーさん顔。
顔だけではない。
自転車に乗っていたが、ヨタヨタという感じだった。
仕事をしていないから、そうなったのか。
そうなったから、仕事ができなくなったのか。
どちらであるにせよ、昔から漢方(東洋医学)では、『流水は腐らず』と教える。
ストレス学説でも、「適切なストレス(=善玉ストレス)は、脳を活性化させる」という。
生活のハリ、つまり緊張感が、その人を若返らせる。
だから退職しても、その緊張感を失ってはいけない。
……ということで、私は自らの体にムチを打つ。
「どんなに苦しくても、仕事はつづける」と。
(つづけるしかないのだが……。)
●のぞき
ときどき用もないのに、私の家をのぞきにくる人がいる。
私だけではない。
よほど他人のことが気になるらしい。
あちこちに電話をかけては、情報を集めている。
それがその人の生き様のようにもなっているから、私はとやかく言わない。
のぞきたいように、のぞかせてやる。
私のほうは、隠すものは何もない。
で、そういう人たちには、ひとつの大きな共通点がある。
つまり「自分がない」。
自分がないから、他人が気になる。
幸福感も相対的なもので、他人が自分より幸福だと、自分を不幸と思う。
他人が自分より不幸だと、自分を幸福と思う。
だから他人の不幸話を、何よりも好む。
つまりそのために、私の家をのぞきにくる。
わかりやすく言えば、心のどこかが壊れている。
何かの問題を話したりすると、さも同情したようなフリをする。
しかし、ただのフリ。
口はうまいが、心が通じない。
が、私はともかくも、このところ、ワイフのほうがそれを嫌がるようになった。
「ねえ、あの人とつきあうの、もうやめない?」と。
わかってはいるが、こちらから断ることもできない。
「もうつきあうのはやめます」などとは言えない。
で、遠ざかるようにはしているが、相手側から接近してくる。
「林さん、今朝、あなたの夢を見ましたよ」とか、何とか言う。
だからワイフに、数日前、こう言った。
「あのなあ、あいつから電話があったら、今度は、こう言ってよ。『主人は亡くなりました』と。き
っと喜ぶと思うよ」と。
●2回目の入浴
2回目の入浴をすませてきた。
眠気は取れた。
すっきりとまではいかないが、こうして文章を書くことができる。
時刻は午後9時を回ったところ。
……今日の午後、NEWSWEEK誌を読む。
(立ち読みで、ごめん!)
EUの金融危機を特集していた。
全体としてみると、EUの金融危機は、起こるべきして起きた。
そんな論調だった。
つまり通貨統合はしたが、経営統合はしなかった。
その結果、国によって、政策がばらばらになってしまった。
その矛盾が、ここにきて一気に噴き出した、と。
(以上、NEWSWEEK誌より)
で、今、ドイツを中心に、経営統合をしようという動きが出てきている。
従わない場合には、罰則まで考えられている。
長期的にはそれでよいとしても、では、そこにある金融危機は、どうするのか。
ギリシャやポルトガル、それにスペインなどは、EUにしがみつこうと必死になっている。
EUにしがみついていれば、まだ何とかなる。
が、それをドイツは、重荷に感じ始めている。
……ということで、EUは、分裂か崩壊か。
その瀬戸際に立たされている。
ディズニーランドなどへ行くと、「♪世界はひとつ……」などと歌っている。
しかし世界がひとつになるのは、先の先。
そうは簡単ではない。
今回のEUの金融危機を見ていて、そう感じた。
●人、それぞれ
人、それぞれ。
私が標準でもない。
あなたが標準でもない。
が、今、風呂で、こんな男性を見かけた。
年齢は60歳くらいか。
頭を洗っているのだが、そのつど、桶いっぱいの湯を頭にかける。
豪快というより、傍若無人。
ザザーッ、と。
しばらく間をおいて、またザザーッ、と。
数えていたわけではないが、それを50〜60回も繰り返した。
すぐ脇にはシャワーがある。
が、シャワーは、使わない。
桶に湯をため、それがいっぱいになると、またザザーッ、と。
そのたびに、湯が周囲に飛び散る。
世の中にはいろいろな人がいる。
だからといって、私が標準というわけでもない。
あなたが標準というわけでもない。
しかし私は風呂場で、そういう洗い方をする人を、今までに見かけたことがない。
言い忘れたが、髪の毛は薄かった。
その男性が風呂を出るとき、うしろ姿を見た。
首から上の顔や頭は、真っ赤だった。
幼児に、ときどき潔癖症と呼ばれる子どもがいる。
休み時間になると、手洗い場で手を洗っている。
手が真っ赤になっても、洗っている。
その男性のうしろ姿をみやりながら、「そのタイプの子どもと同じかなあ」と思った。
●重力
重力には、「ヒッグス」と呼ばれる、素粒子が関係しているという。
今までは未知の素粒子ということになっていた。
が、その素粒子が発見されたという。
この素粒子は、ありとあらゆるものに作用する。
金属にも、紙にも、そして髪の毛一本にも。
もしこれが事実なら、つまり本当にヒッグスが発見されたというのなら、すごいことだと思う。
重力のメカニズムを解明することができる。
さらにすごいことができるようになった。
何とフェムト秒単位で、1コマ撮影をするカメラができたという(アメリカ・MIT)。
そのカメラを使えば、光が流れていく様を、カメラで動画として撮影できるという。
「フェムト秒」については、以前、原稿として書いたことがある。
それを探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
フェムト秒について。
日付は、2002年の9月になっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●フェムト秒
田丸謙二先生から、こんなメールが届いた(02年9月)。
いわく……、
「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独のジョ
イントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノーベル 賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今は固体表面に吸着し た分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起こさせたり、フェムト秒 単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でその挙動を追っかけたり、大変な技術が 発達してきました」と。
このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェムト秒
単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。
ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、その研
究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単位の観察」と いうのには驚いた。
わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒
になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらにかみくだい て言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分に相当する。計算するだけで も、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。
こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察で
きる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題を、考えざるを えなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きることができたら、そのたった1 秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!
昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品だったかは忘れたが、こういう内容だっ
た。
ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中がガ
チガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけでも、地球 の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から数百万年も かかる。
しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆっく
りと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自然に動いて いると思っている。
ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとしても、
あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間に、地球上 の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅しているかもしれない!
……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私は今、カチカ
チカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短い時間だが、もしフ ェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチまでの間に、3100万年を過 ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチまでを一秒と、だれが、いつ、どのよう にして決めたか。
アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在することがわ
かっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次元、そし てそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できない。)ここでい う時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。
たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たとえばロケットに 乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。
しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケットに乗っ
ている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめまぐるしくな る。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も世代を繰り返す… …、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、ロケットの中の人間は、 地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果てにはたどりつけないというこ とになる。
こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者からメール
を受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。
私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。これを人
間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分過ごすのと同 じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。
反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、不治の
病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人の三〇年分、 四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと三〇年。あと三〇年 は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日分にしか生きられない人も いるということ。どうも時間というのは、そういうものらしい。
いや、願わくは、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万年分の人生を
送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を長くすることはでき る。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることができたとしたら、私は自分の人生 を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60年、生きることができることになる。
……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。幼児が
過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人がもつ時間の 単位とはちがうということ。
当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感ずる1
秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、たった1日で も、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいはもっとかもしれな い。
つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく理解
するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(以上、2002−9−17記)
●重力素粒子
「ヒッグス」とは何か。
あえて言えば、「重力素粒子」(はやし浩司の呼び方)ということになる。
つまり重力の正体。
そこでもしこの重力素粒子を、自由にコントロールすることができれば、私たちは、重力から
解放されることになる。
それこそUFOのような乗り物も、可能になる。
が、それだけではない。
急発進、急停止しても、平気ということになる。
あのUFOは、驚くべきスピードで急加速したり、急停止したりする。
もしそれが通常の飛行機だったら、中に乗っている人間は、そのつどペチャンコになってしまう
だろう。
が、重力素粒子を自由にコントロールできるようになれば、それもなくなる。
さらにそれこそ光速で、宇宙を飛び回ることも可能になるかもしれない。
スイスのあのCERNという研究所では、何やらとんでもない実験が繰り返されているよう。
小さなブラックホールさえ作り出すこともできるという。
「微小だから問題はない」とは言っているが、微小の段階でとどめることはできるのか。
まちがえると、地球もろとも、そのブラックホールに飲み込まれてしまう。
そんな危険性もはらんでいる。
息子は、アメリカのIU大学で、その情報分析を行っている。
CERNから通信衛星を介して送られてくる膨大な量のデータを、コンピューターを使って分析し
ている。
誇らしいような、恐ろしいような……。
●おやすみ
再び睡魔が襲ってきた。
今日はここまで。
パッとしない1日だったが、こうしてホテルで一泊できることに感謝しながら、今日を終える。
おやすみなさい。
(はやし浩司 2011−12−14夜記)
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 フェムト フェムト秒 ヒッグス はやし浩司 1000兆分の1秒 はやし浩司 日本大使館前に従軍慰安婦の銅像 露骨な嫌がらせ いやがらせ はやし浩司 嫌がらせ はやし浩司 CERN 重力素粒子 はやし浩司 2011−12−14 ホテル・グリーン・プラザ・ 浜名湖にて)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●日本大使館前の従軍慰安婦像
韓国政府は、日本大使館前に従軍慰安婦像を設置した。
日本でもそうだが、公共の道路に「像」を設置するには、管理者である国の許可が必要。
「民間団体が勝手に設置した」という理屈は、残念ながら、通らない。
今朝も書いたが、敵対国でも、そこまではしない。
しないという点で、今回の従軍慰安婦像の設置は、常軌を逸している。
●無視
従軍慰安婦像の設置で、笑われるのは、この日本ではなく、韓国である。
「韓国というのはおかしな国だ」と、まともな神経の持ち主なら、みな、そう思うだろう。
「抗議」というよりは、「露骨な嫌がらせ」。
だから無視すればよい。
やりたいように、させておけばよい。
そのほうが、「韓国というのは、そういう国」ということを、世界のみならず、日本国民にも教える
ことができる。
韓流何とかで、浮かれているお馬鹿日本人の頭を、少しは冷やすことができる。
お人好し外交をつづける現政権も、少しは自分の愚かさに気がつくだろう。
●武士道
武士道を批判すると、どっと抗議の書き込みがふえる。
嫌がらせも多い。
そういうのを読んでいると、武士道が、今、カルト化している(?)。
そんな印象をもつ。
が、さらに私は、あえて反論する。
江戸法制史を学んだことがある人なら、みな知っている。
当時の日本は、拷問と自白のみによって、罪刑が確定していた。
が、ひとたび拷問が始まれば、自白するまで……つまり死ぬまで拷問はつづいた。
途中でやめれば、江戸幕府の沽券(こけん)に傷がつく。
名誉が失墜する。
だから江戸時代の拷問は、これまた世界でも類をみないほど、過酷かつ残虐なものであっ
た。
先にも書いたように、自白すれば、即、処刑。
処刑の仕方も、罪状に応じて、これまた残虐きわまりないものであった。
そういう時代をさして、「武士道」とは?
つまり武士が説くところの「恥」とは、「沽券(権威)に対する恥」をいう。
正義のためでも、自由のためでも、博愛のためでも、平和のためでもない。
もちろん人間のためでもない。
「文武」の「文」は、自らを特権階級に仕立てるため。
平民には文字の読み書きすら教えなかった。
「文武」の「武」はもちろん、自らの特権階級を守るため。
刀をもった人間が、いかに恐ろしい存在であるかは、10年ほど前に佐賀県で起きた、少年に
よるバス・ハイジャック事件を思い出してみれば、わかるはず。
繰り返すが、だからといって、歴史は歴史。
それなりの評価をくだすことは重要。
私とて、武士道をすべて否定しているわけではない。
しかしおかしな復古主義に毒されてはいけない。
私も、あなたも、かつては、その武士階級に虐げられた平民の子孫である。
農民の子孫である。
そんな私やあなたが、武士道を礼賛して、どうする?
どうなる?
それがわからなければ、もう一度、福沢諭吉の書いた『学問のすすめ』※を紐解いてみること
だ。
(注※)『学問のすすめ』
『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万
人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心 との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自 在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども 今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるも あり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。そ の次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚 人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の 中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と 名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかし くして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる 商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし』 (書き出し部分を抜粋)と。
あの時代にあって、ここまで書いた福沢諭吉の勇気に驚く。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【はやし浩司 2011−12−17朝記】
●今朝は午前3時起き
昨夜床に入る前、ワイフがこう言った。
「柿を食べたせいかしら。お腹(なか)がゴロゴロするわ」と。
イヤ〜ナ予感がした。
で、午前3時。
猛烈な腸内ガスの臭いで目がさめた。
が、外は真冬の冷気。
寝る前に気温計を見たが、2度C。
顔だけを布団から出し、そのまま1時間。
あれこれ考えているうちに、脳みそが活発に活動し始めた。
時計を見ると、午前4時。
1時間も、無駄にした。
起きあがると、そのまま書斎へ。
手には、お湯で薄めたペットボトル1本。
時おり深いあくびをしながら、今、この文章を書いている。
●Dynabook R631(Toshiba ノートパソコン)
実は布団の中で、パソコンを立ち上げ、あちこちのニュースサイトをのぞいていた。
Dynabook R631(パソコン)は、すばらしい。
数日前、駅前の電気店で価格を見たが、値段はあまりさがっていない。
私が買ったときは、(発売日当日ということもあって)、13万5000円だった。
そのときよりも5000円程度、安くはなっていた。
が、パソコンの世界では、こういうことは珍しい。
ふつう1か月もすると、1〜2万円は、価格がさがる。
機種によっては、2〜3万円は、価格がさがる。
そのDynabook R631。
ほかのパソコンでは、LANの電波を拾うことができない。
が、Dynabook R631は、拾うことができる。
だから布団の中でも、ネットに接続することができる。
おまけに光るキーボード仕様になっている。
枕元の電気をつけなくても、そのまま使用できる。
Dynabook R631は、まさに、こういうときのためにあるパソコン。
ハハハ、私は何と、布団の中でもネットを楽しんでいる!
●性的虐待
オランダでは、1945年から2010までに、数万人の未成年者が、神父や修道士らによっ
て、「性的虐待」を受けていたという。
欧米では、協会関係者による性的虐待事件は日常茶飯事。
「話題にならない日はない」と言われるほど多い。
……ということはオーストラリアの友人たちから聞いていたが、ここまでひどいとは思わなかっ
た。
数万人を、仮に4万人として計算すると、1945年から2010年までの66年で割ると、年間6
15人。
毎日2人という計算になる。
闇に隠された事件となると、もっと多いはず。
しかもこれはオランダだけの話。
スポニチANNEXは、つぎのように伝える。
++++++++++++以下、スポニチANNEX++++++++++++++++
オランダのカトリック教会における性的虐待の実態を調べていた同国の独立調査委員会は1
6日、1945年から2010年までに「数万人の未成年者」が神父、修道士ら教会関係者から性 的虐待を受けていたとする報告書を発表した。
報告書は、カトリック教会が虐待の報告を受けながら評判を気にして対策を怠り、子どもを虐
待した神父らをかばってきたと厳しく批判している。
同国カトリック教会の司教らは声明を発表し、性的虐待への後悔を表明、犠牲者らに謝罪し
た。
調査委は、約1800件に及ぶ被害届などを基に、3万人以上から聞き取り調査し、虐待に関
与したとみられる約800人を特定、うち105人は存命だという。
報告書によると、子どもたちはオランダのカトリック教会関連の学校、神学校、孤児院などの
施設で、体を触られるなどの行為から性的暴行までさまざまな程度の虐待を受けた。45〜81 年に最大2万人が、81〜10年にさらに数万人が被害を受けたと推計している。
カトリック教会の神父らによる長年にわたる児童への性的虐待の実態は欧米諸国で次々と
明らかになっており、ローマ法王ベネディクト16世は昨年、犠牲者に謝罪した。(共同)
(スポニチANNEX・2011−12−17より。)
++++++++++++以上、スポニチANNEX++++++++++++++++
●心の別室
こうした虐待事件……というより、聖職者のもつ仮面は、私が説く「心の別室論」で説明でき
る。
聖職者は、表向き、聖人ぶる。
仮面(ペルソナ)を、かぶる。
同時にそのとき自分の中に潜む邪悪な「私」を、心の別室に押し込む。
仮面を仮面と気づいている間は、まだよい。
やがてその仮面がわからなくなる。
仮面の自分を、本当の自分と思い込んでしまう。
が、それで心の別室に抑圧された邪悪な自分が消えるわけではない。
消えないまま、そこで別人格を形成する。
その別人格が、時と場合に応じて顔を出し、その人を裏から操る。
しかしそれにしても多すぎる?
言い換えると、本能(欲望)を抑え込むのは、それほどまでにむずかしいということ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 聖職者 虐待事件 性的虐待 心の別室 はやし浩司 シャドウ オランダ 教会関係者 はやし浩司 邪悪)
●経済ニュース
またまた素人の経済論。
1週間ほど前、オーストラリアの友人からメールが届いた。
「金(ゴールド)は、買うべきか、どうか」と。
私は「今は、時期が悪い。2、3か月待て」と返事を書いた。
が、けっして憶測でそう書いたのではない。
長い間、貴金属の動向をながめていると、その動きがおおかた予想できるようになる。
理由の第一。
高騰のし過ぎ。
いくらリスクオフ資産とはいえ、現在の価格はメチャメチャ。
金(ゴールド)のほうが、プラチナよりも高い。
あんな延べ棒1キロ分だけで、TOYOTAのプリウスが1・5台も買える!
理由の第二。
資産の現金化が始まっている。
現金(キャッシュ)が、市場で回らなくなっている。
その分だけ、投資家は金(ゴールド)を売って、現金(キャッシュ)を手に入れようとする。
ふつう、経済が不安定になると、金(ゴールド)のような現物資産に、お金(マネー)が集まる。
が、今は、その逆。
みなが一斉に金(ゴールド)を売り始めた。
資産を現金化し始めた。
つまり金(ゴールド)の価格が急降下し始めた。
年末まで、この状態はつづく。
ともあれ、毎日ハラハラするようであれば、その金融資産は手放したほうがよい。
健康にもよくない。
●オーストラリア経済
ついで「株はどうか?」と。
その友人は、どこかのレアメタル採掘会社の株をもっているという。
株価は今まで上昇してきた。
現在も、安定している。
だから「どうしたらいいか?」と。
が、私はオーストラリア経済については、ほとんど知らない。
知らないが、私の経済論は、単純。
たとえば自動販売機で売っているペットボトルの値段を見て、それを知る。
つまり為替相場を知る。
現在、オーストラリアでは、日本で120円前後で売られているペットボトルが、3ドル50セント
前後。
量は、日本のそれの約1・5倍。
それで計算すると、実勢レートは、120x1・5=180円=3・5ドル。
つまり1豪ドル=51円。
51円が、実勢レート。
(180÷3・5ドルで計算。)
現実には、1豪ドル=78円(12月16日現在)で取り引きされている。
51円の価値しかないものを、78円で取り引きされている。
つまり豪ドルは、まださがる。
加えて、オーストラリアの10年もの国債の利回りは、現在、3・786%。
この利率は、ニュージーランドの3・783%よりも、悪い。
フランスの3・036%よりも、悪い。
もう少していねいにみると、こうなる。
『……オーストラリアの輸出は、2010年後半は前年比で30%を超える高い伸びとなってい
た。
が、2011年以降は豪州の洪水被害による石炭の輸出減や、3・11大震災による対日輸出な
どが減少し、2011年6 月には前年比+1・6%まで急減速した。
直近9月はそういった供給サイドの要因が剥落してきたことから、前年比+17・2%まで伸び
が拡大している。
ただ、今後は9月から11月にかけて鉄鉱石の中国向けスポット価格が、3割程度急落してお
り、そういった影響が顕在化していくとみられる。
中国が12月に入って預金準備率の引き下げなど金融緩和に動いているものの、中国や欧米
など世界景気の減速が2012年前半にかけて続くことから、輸出は当面、軟調な展開が想定 される』(以上、MIZUHOリサーチ・要約)と。
こうした事実から、現在、オーストラリア政府は、豪ドルを何とか強く見せようと無理をしてい
るのが、わかる。
わかりやすく言えば、化粧で、元気ぽく見せかけている。
が、長くはつづかない。
つまり豪ドルは、やがてドスンとさがる。
そのとき株価も、ドスンとさがる。
だから友人にはこう書いた。
「今、利益が出ているなら、現金に換えたほうがいい。株価がさがったとき、また買い戻せばい
い」と。
どうであるにせよ、こういうときは、素人は株や債権には手を出さない方がよい。
素人が手を出せば、(私も含めてだが)、やけどを負うに決まっている。
すでにこの日本では、95%の一般投資家が、損をしているという(某経済誌)。
95%だぞ!
で、この「95%」という数字をどう読むか。
読み方にもいろいろある。
が、こうも読める。
「金融資産の95%を失った人もいる」と。
事実、私はそういう人を、何人か知っている。
なお株や債権がさがりはじめると、たいていの投資家は、「塩漬け」を決め込む。
が、これがますます墓穴を深くする。
気がついたときには、10分の1、あるいは20分の1になっている。
だからプロの投資家はこう教える。
「10%の損失を出したら、損切りをしろ」(某経済誌)と。
この鉄則は、私が商社マンだったころの40年前と、何も変わっていない。
それに一言。
株や債権で損をしても、だれも同情してくれないぞ。
助けてくれないぞ。
ただ笑われるだけ。
私ごとで失礼。
私は3・11の大震災直前に、株はすべて売り逃げた。
8月はじめのアメリカの債務上限問題直前に、債権はすべて売り逃げた。
債務上限問題のときは、おおかたの予想では、「追いつめられたアメリカは、結局は債務上限
を棚上げにせざるをえない」「そのあと同時に株価は上昇するだろう」となっていた。
債務上限は棚上げにされたが、しかし直後、逆に全世界の株価は大暴落した。
EUの金融危機問題が発生した。
●貪欲
総じてみれば、今の世の中、狂っている。
みな、必要以上に貪欲になるから、こういうことになる。
みなが、みな、あるところで一線を引き、「これ以上は不要です」と言えば、こういうことにはなら
ない。
が、現実は、そうではない。
「もっと欲しい」「さらに欲しい」と。
貪欲の追求こそが善であると、思い込んでいる。
それが世の中を狂わせる。
わかりやすく言えば、「だからそれがどうしたの?」という部分がないまま、人間はみな、今、暴
走状態にある。
高級ワインを飲んだ……だからそれがどうしたの?……コンビニの120円チューハイでいいじ
ゃないの?
高級な衣服で身を飾った……だからそれがどうしたの?……本当の美しさは健康から生まれ
るんじゃないの?
高級な車で買い物に行った……だからそれがどうしたの?……歩いて行ったほうが、体のた
めにもいいんじゃないの?
今、私たち人間に必要なのは、ほどほどのところで満足するという哲学。
欲望をコントロールする理性。
それを支える思考力。
それがないから、富や権力の偏在が起こる。
それが弱者をたたきのめす。
社会を不安定にする。
今朝は、経済問題を取りあげながら、別の心でそんなことを考えた。
これからもう一度、布団の中にもぐりこむ。
あの臭気が消えていることを願いながら……
2011/12/17朝記
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
心の別室論については、たびたび書いてきた。
原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●心の別室と加害意識
(Another Room in the Mind and Consciousness of Guilty)
2009年4月に発表した原稿より。
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カレー・ヒ素混入事件で、現在無実を争って
いる女性が、HM。
地下鉄サリン事件で、これまた無実を争って
いる男性が、OS教のMT。
現在刑事裁判が継続中なので、これらの人たちは
無実という前提で、ものを考えなければならない。
どんな被告人でも、有罪が確定するまで、推定無実。
カレーにヒ素を混入させたのは、別人物かも
しれない。
地下鉄サリン事件には、MTは関与していなかった
かもしれない。
そういう可能性が、1000に1つ、万に1つでも
あるなら、これらの人たちは、無実。
そういう前提で、ものを考えなければならない。
が、同じ無実でも、いまだに納得できないのが、
あの『ロス疑惑事件』。
Kさんの殺害現場に、一台の白いバンがやってきた。
そのバンが走り去ったとき、Kさんは、殺されていた。
Kさんのそばには、MKがいた。
白いバンは、近くのビルにいた男性たちによって
目撃されている。
MK自身が撮った写真の中にも、白いバンの
一部が写っている。
しかしMKは、「白いバンは見ていない」と。
そのMKは、ロス市警へ移送されたあと、留置場の中で
自殺している。
MKは無実だったのか?
無実だったのなら、自殺などしないで、最後の最後まで
闘ってほしかった。
どうもこの事件は、すっきりしない。
どう考えても、すっきりしない。
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●心の別室論(Another Room in the Mind)
人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、
そこへ押し込めてしまうという習性がある。
心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつ
と考えられている。
その防衛機制は、つぎの7つに大別される。
(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)
この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを
無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」
という。
つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことを
いつまでも覚えている」と言われる。
(そう言っているのは、私だが……。)
この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは
忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。
が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。
たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、
心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われている。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。
これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ
従順だったことがわかる。
世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。
話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、
仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。
このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。
よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、
20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。
心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、
それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。
私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。
そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、
私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、
わからなくなるときがある。
ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、
重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。
ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、
カギをかけてしまっている(?)。
しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【岐阜→関市、ぶらり旅】(はやし浩司 2011−12−18)
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(岐阜市「一兆家」)
●映画『ミッション・インポッシブル』(はやし浩司 2011−12−17)
++++++++++++++++++
今日の午後、映画『ミッション・インポッシブル』を観てきた。
土曜日の午後ということもあり、劇場の後半座席は、ほぼ満員。
トム・クルーズの映画は、いつもそう。
いつも、ほぼ満員。
私も、『トップ・ガン』以来、彼の大ファン。
が、映画そのものは、かなりがっかり。
トム・クルーズの大ファンということで、大甘に採点しても、星は3つの、★★★。
道具仕立ても、チャチ。
随所に無理が見られた。
「?」と思うことも、しばしば。
加えて乱闘シーンが、多すぎた。
昔の「スパイ大作戦(IMF…Impossible Mission Force)」は、もっと知的な仕掛けが多かったよう
に記憶している。
それがおもしろかった。
が、今回は、ハラハラドキドキ……の連続。
……というか、そういう製作意図が見え見え。
だからがっかり。
高所恐怖症の私でも、ほとんどハラハラしなかった?
直近の前作は、(名前は忘れた)、あまりにも複雑すぎた。
だれがだれなのかさえ、よくわからなかった。
が、今回は、わかりやすかった。
が、内容的には、IMFというよりは、007風?
主役がジェームズ・ボンドであっても、何もおかしくない。
そんな映画だった。
そうそうトム・クルーズも年を取った。
ときどき肌が大写しになった。
そのつど、そう思った。
+++++++++++++++++++++
●自転車の免許制には反対
オーストラリアの話をしよう。
オーストラリアのメルボルン。
大きな道路には、例外なく、自転車道が用意されている。
広い歩道を、歩道と自転車道に分けている。
狭い歩道になると、道路側に線を引き、そこを自転車道にしている。
自動車が(主)か、自転車が(主)か、と聞かれれば、自動車が(主)。
それはそうだが、しかし自転車の存在感も大きい。
道路の随所には、「貸自転車」の看板が立っている。
その横には自転車が5〜10台、並べてある。
観光客などは、自由にその自転車を利用し、街中を回る。
きびしいと言えば、規則。
どんな田舎町でも、ヘルメットの着用、前部のライトと、後部の赤いテールランプがないと、自
転車を乗ることができない。
つまりそういうことなら、私も納得する。
が、現在のように、自転車の走る道路もない状態で、免許とは?
免許がどうのこうのというより、私たち日本人は、そこまで管理されてよいのか。
管理を許してよいのか。
そういう問題もある。
今ではこの日本は、どこへ行っても、何をしようとしても、許可、認可、資格、免許……。
息苦しいほどまでに、生活そのものが、がんじがらめになっている。
そこで、今度は、自転車の免許?
この話を聞いて思い出すのが、自転車の鑑札制度。
自転車の登録制のことを言ったが、当時は「カンサツ」と呼んでいた。
今から50年ほど前のことだった。
自転車にも、車と同じナンバーが取りつけられた。
そのカンサツのついていない自転車は、強制的に、自転車屋でカンサツを取りつけるように
指導された。
大きさは、ハガキの半分くらい。
それを後部の泥除けの上に、特殊な器具を使い、取りつけられた。
当時私は、自転車屋の息子だったが、そんな私にさえ、それがバカげて見えた。
そのバカげたことを、また、政府(官僚)は始めようとしている?
そんな制度を作れば作るほど、天下り先がふえるだけ。
その分だけ、税金がふえるだけ。
「もう、いいかげんにしろ!」と。
私は声を大にして、そう叫びたい。
(付記)
私が小学生のとき、学校で「自転車の乗り方教室」のようなものがあった。
それに参加すると、学校単位の私製の免許証のようなものがもらえた。
●マナーの問題
要するに、マナーの問題。
法律の問題ではない。
そのマナーまで、規則で縛ってはいけない。
そうでなくても、この日本は息苦しい。
官僚国家というのは、そういうもの。
日本がもつ異常性は、外国の人と話してみると、それがよくわかる。
オーストラリアでは、役人が政治家にたてつけば、即、クビ。
アメリカでは、公務員の解雇は日常茶飯事。
給料も「コンビニの店員より低い」(アメリカの友人)。
それに比べて、イギリスでは、官僚制度が進んでいる。
が、日本とはくらべものにならない。
むしろ逆。
規制緩和こそが、日本の社会に活性化をもたらす。
前にも書いたが、あのタイの大洪水のときのこと(2011年)。
何と積み上げられた土嚢の上で、屋台を開いていた人がいたという。
また職を失った16歳の少女は、舟を借り、その舟の上でソーセージを焼いて売っていたという
(報道記事)。
今の日本人に欠けるのは、そういう(たくましさ)。
少なくともこの先、日本が外国で生きていくためには、そういう(たくましさ)が必要。
また日本を一歩外に出れば、そういう(たくましい)連中ばかり。
そういう連中を相手に、日本はこの先、どう戦っていくというのか。
多少の不完全さは、享受しようではないか。
不完全さは、私自身で補完していこうではないか。
今では、道路に落ちた街路樹の葉ですら、市の外郭団体(=天下り先)の人たちがやってき
て、清掃している。
「日本の公務員数は、欧米並み」というのは、真っ赤なウソ!
文科省だけで、天下り先となっている外郭団体が、2000近くもある。
そういう外郭団体の職員は、もちろん公務員としてカウントされていない。
こうした清掃員のような、準公務員を数に入れたら、さらに多くなる。
道路の落ち葉くらいは、その近所の人たちが清掃すればよい。
●12月18日(岐阜まで、ぶらり旅)
明けて日曜日。
昼を過ぎて、突然、「どこかへ行こうか?」という話になった。
寒いが、空は青い。
白い雲が美しい。
「岐阜へ行こうか」と声をかけると、「うん」とワイフ。
……若いときから、私たちはいつもそうだった。
夜中でも、よくドライブに出かけた。
一泊旅行もよくした。
私たちはそれを、「ぶらり旅」と呼んでいた。
で、岐阜駅の前にある、岐阜キャッスル・インに予約を入れる。
旅支度(じたく)を整える。
ハナ(犬)の餌を、多めに用意する。
いくつかの事務をすませ、いざ出発!
●豊橋へ
浜松から岐阜まで行くには、2つの方法がある。
浜松から豊橋までJRで行き、豊橋から岐阜までは名鉄電車で行く。
もうひとつは岐阜まで、JRで行く。
私はいつも豊橋で名鉄電車に乗り換えている。
シートも快適。
今回も、豊橋から名鉄電車に乗り換える。
その電車の中。
たった今、鷲津駅を通過したところ。
ワイフは家からもってきた新聞に目を通している。
このあたりの紅葉は、今が見ごろ。
遠くの山々が、傾きかけた夕日を浴び、美しく輝いて見える。
●豊橋
豊橋駅のキオスクで、「週刊アスキー」誌と、「徹底予測2012」(日経BP社)を買う。
その「徹底予測2012」を、先ほどまで読む。
こうした旅の楽しみのひとつが、読書。
電車の規則正しい振動を感じながら、読書する。
私にとっては、至極の時。
……ということで、窓の外は、すっかり夕方景色。
橙色の夕日が、真横から注ぎ込んでくる。
家々の壁も橙色。
こうして今日も一日、終わりに近づいてきた。
名鉄電車は、今、名古屋駅を出て、「こうのみや」という駅に向かっている。
車内にそんなアナウンスが流れた。
どんな字だったかな?
電車の前部の表示板に、「次は、国府宮」と出た。
「国府宮」と書いて、「こうのみや」と読む。
岐阜へ来るのは、1年ぶり。
今年のはじめ、伯父が他界した。
たった今、右側に、「稲沢総合文化センター」が見えた。
10年ほど前、そこで講演をさせてもらった。
「ほら!」とワイフに声をかけたときには、すでにうしろへと消えていた。
……で、岐阜から、その先、どこへ行くか。
大垣、関、板取……。
大垣は近すぎる。
板取は遠すぎる。
関には、刃物会館というのがある。
岐阜からはバスで、30分ほど(?)。
午後4時37分に、新岐阜駅に着く。
すぐバスに乗れたとしても、関に着くとしても、午後5時過ぎ。
刃物会館は、もう閉まっているかもしれない。
どうしよう?
腹も減ってきた。
どこかで何かを食べながら、考えよう。
●岐阜
岐阜県は私の生まれ故郷。
郷愁感は、あまりない。
とくに母と兄が他界するまでの20年間は、私にとっては苦痛の20年間だった。
今、やっとその苦痛から解放された。
何も考えず、こうして電車に乗っていられる。
むしろ、そちらのほうが不思議。
仏教の四苦八苦のひとつに、「怨憎会苦(おんぞうえく)」というのがある。
その怨憎会苦を、身をもって体験した。
理由は、今日は書きたくない。
今日は、こうして気楽に岐阜へ行けること。
そのことを、素直に喜びたい。
●関市へ
ホテルでチェックインをすますと、そのまま岐阜バスの乗り場に向かった。
ワイフが、「岐阜の名物は何?」と聞いた。
歩きながら、何だろうと考えた。
昔からアユ料理とか、そういうのは知っているが、岐阜名物というのは知らない。
「味噌かつとか、そんなものかなあ……?」と。
しかしどうして、今、関市に向かっているのか、その理由がわからない。
100%、気まぐれ。
思いつき。
ぶらり旅。
●岐阜から関市へ
バスに乗ると、雨が降り出した。
私「関には、何か名物があるかもしれない」
ワ「うどんとか、ソバ?」
私「う〜ん、そういうものしか思いつかないなあ」
ワ「……」
私「計画性がないというのは、よくないね。時間があれば、板取へ向かったのにね」と。
バスは学生時代通いなれた道を、ブォーブォーと大きな音をたてながら走っていた。
あたりの様子は、そのころとほとんど変わっていない。
岐阜市は今、不景気のどん底で、もがいている。
この15年、その状態は、そのまま。
それ以前は、既製服の町として栄えた。
が、今は、見る影もない。
……先ほど案内所で、関までの時間を聞いたら、50分と教えてくれた。
50分!
切符を買ってから、それを知った。
「大垣にすればよかった……」と。
●関の町
関の町には思い出が多い。
子どものころは、何かにつけ、関まで足を運んだ。
今はシャッター街になってしまったというが、そのころは、私には巨大な都市に見えた。
おもちゃ屋にしても、郷里の美濃町のそれの、何倍も大きかった。
その関市には、善光寺という天台宗の寺がある。
その善光寺の地下には、「戒壇巡り」という、地下迷路がある。
全国でも地価迷路があるのは、この寺だけと聞いている。
子どものころ、母とその地価迷路に入ったことがある。
壁を手探りで歩きながら先に進む。
そのとき覚えた恐怖感は、今でも忘れない。
私は、それ以前から、閉所恐怖症だった。
●ぶらり旅
いつか「外出する勇気論」について、書いた。
私の年齢になると、外出すること自体、おっくうになる。
が、それではいけない。
ワイフはいつもこう言う。
「家にいるのも好き。でも、外出するのも、好き」と。
私は「外出するのはおっくう。できれば家の中にいたい。しかし外出するたびに、楽しい」と思
う。
だから「勇気」。
「外出する勇気論」について、書いた。
外出するときはいつも、それなりの勇気が必要。
その勇気を失ったら、死の待合室にまっしぐら!
こうして外出するのも、私にとっては、必死。
一方、ワイフは若いときから、行動派。
こうした(ぶらり旅)を、趣味にしている。
●関の町
それにしても、今回のぶらり旅ほど、目的があいまいなものはない。
それをワイフに話すと、こう言った。
「いいかげんな旅ね」と。
その関の町。
真っ暗だった。
うわさには聞いていたが、シャッター街は、まさにゴーストタウン。
驚いた。
と、同時に、身が詰まるような、さみしさを覚えた。
脳に刻まれた思い出の一部が、欠け落ちたようなさみしさだった。
私とワイフは、その通りを歩いたあと、またバス乗り場へ戻った。
戻って、そこから川沿いに、北のほうに向かった。
小学校と高校の恩師が、そのあたりに住んでいた。
小学校のときは、6年生のときの担任。
その先生が、高校生のとき、家庭科の教師として赴任してきた。
言い忘れたが、女性の先生だった。
温厚で、どこまでもやさしかった。
小学校のときは、市原麗子という名前だった。
高校のときは、結婚して、森 麗子という名前だった。
その先生が結婚したとき、みなで先生の家に遊びに行ったのを覚えている。
が、家は見つからなかった。
暗い夜道で、人通りもなかった。
私とワイフは、そのままもと来た道を通って、バス停まで戻った。
●商店街
私も商店街で、生まれ育った。
だからというわけでもないが、私は「商売」という仕事そのものが、嫌いだった。
プライドなどというものは、どこにもない。
いつも客にペコペコ、ヘラヘラ。
ペコペコ、頭をさげる。
ヘラヘラ、へつらう。
「商売」というのは、基本的には、だましあい。
売る側と買う側の、だましあい。
私はいつもそういう印象をもっていた。
だから、嫌いだった。
……が、そのシャッター街を歩いているとき、そこで店を開いていた人たちの悲鳴が、私には
聞こえた。
明日は、今日より悪くなる。
来年は、今年より悪くなる。
それを繰り返しながら、一軒、また一軒と、店はシャッターをおろしていく。
それはたとえて言うなら、真綿で首をしめられるようなもの。
ジワジワ、ジワジワ……、と。
私の実家もそうだった。
が、客には、そんな姿は見せられない。
精一杯、虚勢を張り、明るい声で、こう叫ぶ。
「いらっしゃいませ!」と。
以前、こんな原稿を書いた。
この中の『父のうしろ姿』は、中日新聞に載せてもらった。
たいへんな反響があった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2000年ごろ書いた原稿より。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●貧乏
私が高校生になるころには、私の家は、まさに火の車。家業は自転車屋だったが、月に、4
〜5台も売れればよいほう。ときには、数台ということもあった。
あとはパンク修理で、何とか、その日を食いつないでいた。が、そのパンク修理とて、毎日あ
ったわけではない。一日の大半は、祖父も、父も、兄も、することもなく、店先と奥を行ったりき たりしながら、過ごしていた。
祖父は、すでに病気がちで、現役から引退していた。祖母は、二階にあった物干し台ですべ
って腰を打ってからといもの、そのときすでに、寝たきりの状態だった。
父は、酒を飲みすぎて、すでに肝臓を悪くしていた。兄は、子どものころから、今でいう自閉
症で、そのため、母は、兄を、家の中に閉じこめたままにしていた。
私にとっても、人生の中で、一番、つらい時期だった。
言い忘れたが、私には、もう1人、姉がいた。5歳年上の姉で、そのときは、G市にある洋裁
学校を卒業し、家の中で、縫製の仕事をしていた。稼ぎは、それほど、多くはなかった。
●父の酒乱
貧乏というのは、慢性疾患に似ている。痛みをともなった慢性疾患である。いつ止(や)むとも
なしにつづく。が、それだけではない。よどんだ空気、重苦しい空気、それが口をふさぐ。おま けにあの独特の臭い。木にしみこんだ、腐った油の臭い。
その私は、自転車屋の仕事を、まったく手伝わなかった。手伝おうという気持ちも、起きなか
った。すでにそのとき、私の目から見ても、自転車屋という私の家の商売は、もうどうしようもな いところまで行ってしまっていた。
それまでの長いいきさつも、ある。おまけに父は、今でいうアルコール依存症だった。酒を飲
まない日には、借りてきた猫の子のように、静かで、おとなしかったが、酒が口に入ると、様子 が一変した。
肝臓を悪くするまで、つまり私が中学3年生くらいまでは、2、3日に一度は、酒を飲み、家の
中で暴れた。
ふつうの暴れ方ではない。食卓のテーブルをひっくり返し、障子やガラス戸を、容赦なくこわし
た。父が発する大声や、ものをこわす音は、おそらく近所中に聞こえていただろう。が、私は、 気にしなかった。
私の家には、「恥」という言葉すら、もう、なかった。
●大学生に……
私はいつも母に、こうおどされた。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」と。しかしその言葉ほ
ど、私にとっては、恐ろしい言葉はなかった。
私はいつしか、あの郷里のM町から逃れ出ることだけを考えていた。「ふるさと」という思い
は、とっくの昔に消えていた。
さらに大学入試が近づくと、母は、こう言い出した。「大学は、国立でないと、行くな。お金がな
い」と。
それについては、何も母に言われなくても、よくわかっていた。母は、私が、外に出て行くの
を、何よりも恐れていた。「地元に残って、私のめんどうをみろ」というようなことまでは言わなか ったが、言われなくも、それが私には、よくわかった。
具体的には、「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れるな」と言った。耳にタコができ
るほど、よく言った。
その私が、倍率、8・6倍のK大学に合格した。今では考えられないような倍率だが、当時
は、どこの国立大学も、同じようなものだった。私たちの世代は、団塊の世代と呼ばれている。 中学校でのクラス数も、1学年上が、5、6クラス。私たちの学年からは、11クラスもあった。し かも1クラス、55人前後。まさに寿司詰め!
●仕送りは、1万円だけ
当時、下宿代が、8〜9000円前後だったと思う。4年生のときには、1万2000円になって
いた。
が、実家からの仕送りは、4年間を通して、月に1万円だけ。学費と、足りない分は、アルバ
イトで稼ぐしかなかった。が、試験期間中になると、そのアルバイトもできなかった。私は、朝と 夕に出される下宿の食事だけで、生き延びたこともある。
その1万円も、母は、「頼母子講(たのもしこう)」と呼ばれた、相互金融救済制度をつかっ
て、工面していた。1万円といっても、当時の大卒の初任給が、4〜5万円の時代だった。それ なりの高額であったことには、まちがいない。
こうして私は、大学を卒業するまで、貧乏が当たり前の生活をした。今になってみると、それ
がよかったのか、悪かったのか……。中には、「若いころに、貧乏を経験しておくといい」と言う 人もいるが、その貧乏にも、程度というものがある。それに期間というものがある。
私のばあい、中学生になるころには、「ジリ貧」を感じていた。ジリジリジリと、家が貧乏になっ
ていくのが、私にも、よくわかった。
が、父も兄も、なすすべもなく、それに耐えるだけ。祖父は、道楽でオートバイをいじっている
だけ。母は母で、おかしな迷信ばかり信じて、そのときすでに私とは、まったく会話がかみあわ なかった。今でも家の中には、仏壇のほか、4〜5種類の神棚が祭ってある。
私のばあい、その期間が長すぎた。多情多感なあの思春期という時代にしてみれば、それは
「一生」と言えるほど、長すぎた。
●実家への仕送り
プライド? そんなものは、どこにもなかった。店は、M町という田舎町だったが、その町の中
心部にあった。その町の中心部で、父は、先にも書いたように、酒を飲み、大声をあげて、暴 れた。
だれの目にも、私の家が、そういう家であることは、よくわかった。私ができることといえば、
居直って生きるだけ。「今だけだ」と、自分を慰めて、生きるだけ。
私は、そんなわけで、あのM町については、今も、「ふるさと」という思いは、まったく、ない。
帰りたいと、思ったこともない。
ただ私が、ワイフと結婚する前から、収入の約半分を、実家へ仕送りをしていたのは、それ
をするのが、私の義務と感じていたからにほかならない。「ふるさとを捨てた」という自責の念が あったためかもしれない。
何も、好きこのんで、そうしていたわけではない。
そういう思いの中で書いたエッセーが、つぎのエッセーである。これは中日新聞に発表した記
事だが、ほかの記事とちがって、大きな反響があった。それを紹介する。
++++++++++++++++
●父のうしろ姿
私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の
父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。2、3日おきに近所の酒屋で酒 を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。
そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から
帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を 飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。
その私も52歳。1人、2人と息子を送り出し、今は三男が、高校3年生になった。のんきな子
どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを20人も呼んで、パーティを開くという。「が んばろう会だ」という。
土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこう
聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。
すると三男は、「どうして?」と聞いた。理由など言っても、三男には理解できないだろう。私に
は私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友 だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。
「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子の
さんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。
私は父をうらんだ。父は私が30歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、ど
こか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じ がした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。
40歳を過ぎるころになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。商
売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよ りも安いものもあります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。
「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたことも
ある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった。
叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったの
だろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。
同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからう
しろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うし ろには誰もいない。そんなことも多い。
ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、い
つも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、 黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独な ど、何でもない。
私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。
いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。
「パパ、ありがとう」と。
そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。
+++++++++++++++++
この中で、「叔父が……」という話を書いた。これについて、その叔父の息子、つまり従兄弟
(いとこ)から、「Jストアに店を出したのは、父ではない。このぼくだ。(だから父のことを悪く書 かないでほしい)」という、抗議の電話をもらった。
それについては、私は知らなかった。叔父といっても、私にとっては、父親のような存在だっ
たから、悪口を書いたという思いは、私にはなかった。
それに私は子どものころから、商売というのは、そういうものだと、わかっていた。勝った、負
けたは当たり前。負けたからといって、どうと思うこともないし、私は、何とも思わなかった。つま り叔父をうらんだことは、一度も、ない。
それに勝ったと思ったところで、そんな思いは、長くても、1世代もつづかない。今度は、自分
が、だれかに追われる立場になる。あとは、その繰りかえし。
●貧乏という心のキズ
そんなわけで、私の心には、無数のキズがついている。貧乏という、キズである。そのキズ
が、具体的に形となって現れているのが、今の私の不安神経症ではないか? いつも何かに 追われているという強迫観念、それが、心のどこかにある。
悪夢も、よく見る。
たいていはどこかの旅先にいて、そこでバスや電車に乗り遅れるという夢である。あるいはホ
テルで荷物の整理をしているうちに、刻々と時間だけが過ぎていく。そんな夢である。
で、おそらく私は、死ぬまで、そういう夢から解放されることはないだろう。だからといって、そ
ういう自分の過去を、うらんでいるというわけではない。そののち、いろいろな人と会った。知り あった。
そういう経験を通してみると、ほとんどの人が、形や内容こそちがえ、みな、何らかの心のキ
ズをもっている。心のキズをもっていない人はいない。そしてそれぞれの人が、そのキズを背 負いながら、懸命に生きている。それがわかった。
こうした私の過去は、決して私だけのものではない。むしろ、私など、まだ幸福なほうだった
かもしれない。
そのあと、今のワイフに恵まれた。3人の健康な息子たちにも恵まれた。結婚してからは、そ
れほどぜいたくな生活はできなかったが、ほどほどに、自分の人生を楽しむことができた。今 も、こうして自分の人生を、思う存分、楽しんでいる。
が、ひとつだけ言えることは、私がしたような経験は、私、ひとりでたくさん。息子たちには、そ
ういう思いだけは、させたくないということ。今も、そのつもりで、がんばっている。
そういう私を知ってか知らずか、息子の1人は、よくこう言う。「パパは、何でも、お金で解決し
ようとする」と。
私は、そう言われたとき、ふとこう思う。「何を、生意気なことを! 私の気持ちを話したところ
で、お前たちに、理解できるものか!」と。
しかしその(思い)を伝えたくて、今朝、このエッセーを書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 私の
過去 過去 貧乏論 岐阜県関市 関の町 はやし浩司 岐阜県 関 シャッター街 シャッタ ー通り 父のうしろ姿 Jストア Jストアより安い 関市本町通り はやし浩司 森 麗子先生 市原麗子先生)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●再び岐阜の町へ
関市では、30分ほど、過ごした。
で、そのまま再び、岐阜の町へ。
「お城が見える」とワイフ。
見ると、山の上に城が見えた。
とたんうしろから、岐阜弁が飛び込んできた。
「やっとかめやなア〜、〜〜しちょったんやけどオ〜」と。
「やっとかめやなア〜」というのは、「お久しぶりですね」という意味。
「〜〜しちょったんやけどオ〜」というのは、「〜〜していたのですが」という意味。
若いころは、岐阜弁にあこがれた。
私の郷里の美濃町の方言とは比較にならないほど、都会的に聞こえた。
が、今はその岐阜弁も、地方の田舎の言葉に聞こえる。
だからといって遠州弁が都会的というのではない。
東京の人たちが聞くと、かなり田舎の言葉に聞こえるらしい。
いつか、ワイフがそう言っていた。
ワイフは、一時期、東京で仕事をしていたことがある。
●一兆家
岐阜駅へ着くと、夕食屋をさがした。
ホテルのフロントで聞くと、「郵便局の前の〜〜家がおいしいですよ」と。
それでそこへ行くと、「本日は休業」の看板。
しかたないので、ぐるりと駅前(名鉄新岐阜駅)のほうに回った。
そこで見つけたのが、「一兆家」というラーメン店。
「ゆず塩らーめん」と書いた看板が、大きく目にとまった。
温もりのあるレタリングが気に入った。
で、私はその「ゆず塩らーめん」とネギ丼、ワイフはギョーザとチャーシュー丼を注文。
が、これがおいしかった!
星は文句なしの、5つ星、★★★★★。
私はラーメンの最後の一滴まで、飲み干した。
場所は、名鉄新岐阜駅から郵便局の方面へ向かった、北側の角。
1号店と2号店が並んで営業している。
私たちが入ったのは、1号店のほうだが、本気度、満点。
店は狭いが、その狭さが、たまらなくノスタルジック。
代金を払うとき、「おいしかったです」と一声かけると、若い店員は、うれしそうに笑った。
一兆家、ゆず塩らーめん、ぜひ、一度、ご賞味あれ!
チャーシュー丼も、これまたお勧め。
●岐阜キャッスルイン・ホテル
実は、以前、このホテルに泊まろうとしたことがある。
若いころで、懐(ふところ)に余裕がなかった。
それでこのホテルに泊まるのを、断念。
そんな思いが、心のどこかに残っていた。
つまり断念したという無念さが、どこかに残っていた。
が、今夜、その仇討(あだうち)をした。……というほど大げさなものではない。
ないが、このところ、そういうものの考え方をすることが多くなった。
人生も残り少ない。
やり残したことを、つぎつぎと実行していく。
それが最近の私の生き様にもなっている。
岐阜キャッスルイン・ホテル。
清潔でモダン。
ビジネスホテルとしては、上級クラス。
満足度、Aaa(ムーディーズ評価法)。
とくに布団、シーツが清潔。
布団は羽根布団。
枕は低反発。
サラサラとした肌触りで、気持ちよい。
今夜は、よく眠られそう。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 一兆家 ゆず塩らーめん 岐阜駅 新岐阜駅)
●団塊の世代
今日、電車の中で、ワイフとこんな会話をした。
団塊の世代……バイキングでは、いつも食べすぎる。
団塊の世代……拾ったサイフは、自分のもの。(一般論)
団塊の世代……料理屋ではいつも、座席を2人分取る。
団塊の世代……温泉では、1泊する間に、3回、入浴する。
団塊の世代……蟹とエビに、目がない。
団塊の世代……ぜいたくをすることに、罪悪感を覚える。
団塊の世代……負けず嫌いでがんばり屋。
ほかにもいろいろある。
一言で表現すれば、団塊の世代は、たくましい。
●就寝
ぶらり旅は、よい運動になる。
今日も、時間にすれば、2〜3時間は歩いた。
距離にすれば、10キロ前後か。
このホテルには、大浴場はない。
残念!
ということで、先ほど、内風呂でゆっくり、体を休めた。
ほどよい睡魔。
ほどよい疲労感。
それにほどよいワインの酔い。
そろそろ就寝タイム。
ワイフは、洗面所で寝支度をしている。
私は今日最後の、メールチェック。
明日は、朝一で、帰宅。
午前7時にホテルを出れば、9時には、自宅へ戻れるはず。
ではみなさん、おやすみなさい。
●午前3時起き
が、午前3時に目が覚めてしまった。
軽い頭痛。
久々の二日酔い(?)。
夕食後に飲んだ、ワイン。
あれがよくなかった。
しばらくそのままでいると、ワイフが大きく寝返りを打った。
「頭が痛い……」と漏らすと、「私も……」と。
小瓶で500円前後だった。
「安物のワインは、よくないね」と、私。
部屋はエアコンで乾燥していた。
のどもガラガラだった。
ワイフは加湿器を取り出し、それに水を入れ、電源をつないだ。
●ラッシュアワー
しばらく起きていよう……ということで、今、この文章を書いている。
こういうときは、自然体。
自然体がいちばん。
私「明日は、始発で帰ろうか」
ワ「そうねエ」と。
さっそくネットで時刻表を検索。
始発で帰れば、9時前には、自宅へ戻れる。
それがわかった。
私「5時53分の特急がある」
ワ「まだ暗いうちね……」と。
名鉄電車は、ラッシュアワーに重なると、たいへん。
東京の山手線程度に、混む。
それを避けなければならない。
その前に帰るか、そのあとに帰るか。
私たちはその前に帰ることにした。
●GDPで、20位以下
日本が経済大国という話は、遠い昔の話。
現在、1人当たりのGDPでは、世界で17位(2010年)。
2011年(今年)は、20位以下にさがっているという。
全体としては、世界第3位をかろうじてキープしているが、1人当たりでは20位!
今はまだ円高だからいようなもの。
円安に向かえば、さらに順位はさがる。
わかりやすく言えば、日本という国が、それだけ貧乏になっているということ。
給料はあがらず、(……実際には、さがっている)、経済も活力を失った。
未来も、お先真っ暗。
国の債務(債務負担)も、1000兆円を超えた。
地方の債務も含めると、さらに多くなる。
EUの金融危機が収束したあとは、この日本。
日本が金融危機に、陥る。
●『徹底予測2012』(日経ビジネス)
『徹底予測2012』(日経ビジネス)に、こんな興味深い一文が載っていた。
いわく「世界経済の勢力図は、産業革命前に戻る」と。
つづいて、こうある。
「18世紀の産業革命以前、世界のGDPの過半を占めていたのは、中国とインドだった。その
後、世界の覇権はイギリス、アメリカへと移ったが、中国とインドが急成長中。2050年には、 産業革命前の姿に戻る」(P11)と。
今、世界はその流れに沿って、動き始めている。
アメリカは別として、イギリス、つまりEUは、この先どうもがいても、衰退する。
とても残念なことだが、この日本は、その前に消えてなくなる。
同誌10Pには、こうある。
「日本は少子高齢化の最先端を行く」と。
つまりあと10年もすれば、団塊の世代が後期高齢者になる。
そうなれば、1・2人の実労働者が、1人の後期高齢者を支えることになる。
が、そんなことは常識で考えても、不可能。
現在ですらも貧弱な老人福祉だが、それがさらにひどくなる。
……というか、壊滅状態になる。
(データ:2020年には、全世帯の34・4%が、1人暮らしになる。
2025年には、人口の30%超が、65歳以上になる。……以上、『徹底予測2012年』より。)
●老人福祉の不公平
それにしても最近、目に余るのが、老人福祉の不公平。
福祉を受けられる人は、徹底的に手厚い福祉(=保護)を受けられる。
そうでない人は、そうでない。
たとえば知人(近所)の隣人は、夫婦2人。
ともに80歳前後だそうだが、ふだんは介護など必要がないほど、元気。
近くの有料老人ホームにも、入居している。
ところがどこでどう介護度をごまかしたのかは知らないが、週2〜3回の訪問介護を受けてい
る。
で、その訪問介護のある日だけ、自宅に戻る。
動けないフリをしている(?)。
午前10時ごろ訪問介護士がやってくる。
掃除、洗濯、料理をすます。
午後3時ごろ、訪問介護士は帰る。
そのころ、その夫婦は外へ出て、庭いじり。
それが終わると、夜は有料老人ホームへ。
近所の知人は、こう言う。
「ああいう老人がいるのを知ると、矛盾を感じます」と。
つまりその知人の隣人は、訪問介護士を、自宅管理に利用している……ということになる。
今、こうした不公平が、あちこちで起きている。
●なすすべもなく……
そこにヒタヒタと押し寄せてくる、大洪水の兆候。
しかし私たちはその現実を、見て見ぬフリをしながら、それをやり過ごそうとしている。
「何とかなるだろう」「どうにかなるだろう」と。
その前に、どうにもならない。
心配したところで、どうにもならない。
この虚脱感、プラス不安感。
それを救うのが「教育」ということになるが、教育というのは、常に20年後をみて組み立てる。
その視点すら、この日本には、ない。
相も変わらず、従順でおとなしい子どもほど、「いい子」となっている。
相も変わらず、50年前の教育を繰り返している。
それがわからなければ、どうか私のYOUTUBEをのぞいてみてほしい。
(http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html)
小学1年生だって、方程式だって、負の数だって、分数だって、理解できる。
小数だって、対象図形だって、グラフだって、理解できる。
教えられる。
さらに皮肉なことがある。
私はこうした教育をYOUTUBEで公開しているが、日本人によるアクセス数と同じくらい最近
ふえてきたのが、韓国、台湾からのアクセス。
本当は日本人にもっと見てほしい。
が、肝心の日本人は、安穏の上に、あぐらをかいている。
こんな時代になっても、「英語教育は不要」「コンピューター教育は不要」と。
そういう意見ばかりが、ハバをきかせ、大通りをかっ歩している!
愚痴になるが、(実際、愚痴だが……)、1980年には、日本は電子立国をめざすべきだっ
た。
あのころ先陣を切っていたら、今ごろ日本は、コンピューターの分野で、世界の覇者として君臨
していたはず。
が、田中角栄には、その知力はなかった。
列島改造論を唱え、土建業に邁進した。
その結果が今。
ほとんど車が走らないような林道さえも、オーストラリアのハイウェイ並みに整備されている。
「公」の名をもつ会館は、どこも、超の上に超がつくほど、立派。
豪華。
アメリカのカーネギーホール(ニューヨークにあるMusic Hall)より、豪華。
カーネギーホールは、古ぼけた4〜5階建の建物。
作るのは簡単。
建てるのは簡単。
今、地方自治体は、その維持費で苦しんでいる。
なすすべもなく……。
●さて、帰り支度
今、時刻は、5時17分。
5時53分の始発まで、あと30分と少し。
帰り支度を始める。
2011年12月19日、朝。
みなさん、おはようございます。
●名鉄電車の中で
1号車(指定席)の客は、私たち夫婦だけ。
貸し切り電車。
もうすぐ名古屋だが、窓の外は真っ暗。
今日は雨。
これは予想していなかった。
●ぶらり旅
今回のぶらり旅で印象的だったのは、やはり関市、「関の町」。
うわさには聞いていたが、シャッター街が、これほどまでに凄まじいものとは、知らなかった。
同時に、関市へ入る街道筋の変化。
大型店舗が、ズラリと並んでいた。
浜松で見る、ファースト・フードの店も、すべて並んでいた。
「ガスト」「吉野家」「マック」などの馴染み店のほか、「ジョイフル」「はま寿司」「かつや」「かっぱ
寿司」などなど。
関市としては、苦渋の選択だったかもしれない。
市内の旧商店街を犠牲にし、郊外に大型店を誘致した。
そこに大型店が並べば、周辺の市町村の客も呼び込める。
全体としてみれば、税収はふえる。
しかしこんな状況も、長くはつづかない。
この先、大型店どうしの競争は、さらに熾烈さをます。
全国規模のファースト・フード・チェーン店も、低価格競争で、そのうち何割かが消えるだろうと
言われている。
鍵は、いかにサロン風にし、女性客を呼び込めるかという点にあるそうだ(「徹底予測201
2」)。
浜松だけに住んでいると、その変化はわからない。
子どものころよく知っていた町へ行くと、その変化がよくわかる。
今回のぶらり旅の成果は、それを肌で感ずることができたこと。
●名古屋
電車は今、名古屋駅の構内へと進んでいる。
速度を落とし、信号待ちをしているよう。
並行して走る新幹線は、動きを止めている。
たぶん名古屋始発の新幹線なのだろう。
横のワイフは、目を閉じ、静かに休んでいる。
先ほどまで、「日本が5位に転落?」と驚いていた。
日本の自動車産業は、世界5位(生産台数)に転落する。
それを読んで、驚いていた。
今にして思うと、1970年代がなつかしい。
あのころは、日本中が輝いていた。
何をやっても、押せ押せムード。
私たち団塊の世代が、その先陣を切った。
が、ここで日本が終わるわけではない。
終わらせてはいけない。
「では、どうするか?」と。
今回のEUの金融危機の最中にあっても、スウェーデンやフィンランドは、きわめて安定的な
経済運営をしている。
もし日本がモデルにする国があるとすれば、(官僚や役人はいやがるだろうが)、スェーデンや
フィンランドということになる。
●行政改革
現在のように、日本が稼ぐ外貨のほとんどが、公務員と準公務員の人件費に消えていくという
のは、どう考えても尋常ではない。
もちろんひとりひとりの公務員の人たちに、責任があるというのではない。
しかし行政改革(=官僚制度の是正)は、もう待ったなし。
この先、日本人の平均余命は、2020年以後、毎年1年ずつ上昇していく。
公務員だけが豊かな年金を死ぬまでもらえるというのは、どう考えてもおかしい。
そのおかしさを正さないかぎり、日本に未来はない。
さらに言えば、「教育」。
「人材」。
人材教育をどうするか。
●ハーバード大学
先日、私の教え子(女性)が、ハーバード大学へ入ったことを知った。
現在は2つの博士号をものにし、同大学の医学部で、医局をもっているという。
東大や京大では驚かなくなった私だが、「ハーバード」という名前には驚いた。
母親はこう言った。
「あの子は、子どものころから負けん気が強くて……」と。
そう、その「負けん気」を育てるのが、幼児教育ということになる。
(多分に手前味噌的で、申し訳ないが……。)
そのあたりから、日本の教育を見なしていく。
先に書いたことの繰り返しになるが、総じてみても、日本の子どもたちは、キバを抜かれたよ
うな子どもたちばかり。
むしろこの日本では、キバのある子どもを、「できの悪い子」と位置づけてしまう。
こんなこともあった。
もう10年ほど前になるだろうか。
私が「日本ではシャイな子どもほど、いい子となっている」と言ったら、相手のアメリカ人の女性
(小学校の校長)は、心底、驚いていた。
「シャイな子ども」は、アメリカでは、AD・HD児や、LD児と並んで、問題児に位置づけられてい
る、と。
小児うつ病の診断基準のひとつにもなっている。
●もうすぐ豊橋
名残惜しいが、もうすぐ豊橋。
今回の(ぶらり旅)も、これでおしまい。
窓の外は、美しい朝焼け。
茜色のちぎれた雲の間から、黄金色の太陽が輝いている。
はやし浩司 2011−12−19朝記。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 ぶらり旅 はやし浩司 行政改革 平均余命 日本の凋落)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
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Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●12月21日(TSUTAYAにて)
++++++++++++++++++++++
今夜は久しぶりに、TSUTAYAにやってきた。
車で自宅から、5分ほどの距離。
奥の、左の一角に読書コーナーがある。
400円前後で、コーヒーやココアを飲むこともできる。
そこへ読みたい本を持ち込み、つまり「立ち読み」ならぬ、「座り読み」が、できる。
書籍(雑誌、週刊誌を含む)というのは、そういう商品。
書店は売れなければ、そのまま返本(=返品)できる。
汚れても、折り曲がっても、どうということはない。
出版社へ返本すればよい。
書店にしてみれば、痛くもかゆくもない。
だからこういうサービスができる。
客の私たちにとっては、ありがたいサービス。
新刊書でも何でも、読み放題。
が、その分だけ、心のどこかで何かしらの罪悪感を覚える。
週刊誌2冊で、350+400=750円。
だからこうして、飲みたくもないミルクやコーヒーを買う。
++++++++++++++++++++++
●二日酔い
とりあえず……ということでもってきたのが、週刊誌4冊。
(あとで知ったが、「持ち込みは2冊まで」だ、そうだ。
「週刊文春」と「週刊ポスト」を、おおかた読み終える。
あちこちで、カチンときたが、今夜は、あまりそれについては書きたくない。
今日は朝から二日酔い。
昨夜寝る前に、チューハイ(発泡酒)を一杯飲んだのが、悪かった。
アルコールを飲めない私が、酒を飲む……。
このところ、そんなバカなことばかりしている。
そのツケが、今朝、どっと出た。
今は、できるだけ、精神を安定させたい。
●正面の男
私とワイフは、喫茶コーナーの一番奥に陣取った。
右横は、黄土色の壁。
背中側は、茶色の壁。
左横に、どこかのネームカードをぶらさげた女性が2人、座っている。
学生なのか、たがいに何やら教えあっている。
左前にも、似たような女性が2人、座っている。
ノートを見ると、大腸の絵が、ミミズのように描いてあった。
看護学校の学生か、何かのだろう。
得体のわらからないのが、正面、つまりワイフの背中側に座っている男。
作業帽子を深くかぶり、深いえりのついたジャンパーを着ている。
えりは鼻の下まで届き、顔はほとんど見えない。
芸能雑誌を熱心に読んでいる……というより、ときどき、周囲の動きに目を配っている。
腕時計をしている。
ジーパン。
ジャンパーは、農作業の人が着るような、作業服。
服装とは不似合な、明らかに安物とわかる派手な靴を書いている。
白地に薄い水色の線が、3本。
「何をしている男だろう……?」と。
テーブルの上に、i−podを、これみよがしに置いている。
年齢は、……今、顔をあげたが、30歳くらい。
40歳くらいに見えたが、30歳くらい。
●正面の男(2)
いや、もう1人、いた。
左奥に、小さく体を丸めて、1人の女性がノートに何かを懸命に書き込んでいる。
左前の2人の女性の陰に隠れて、今まで気がつかなかった。
その女性は、本当に勉強しているといったふう。
ただひたすら、ノートに何かを書き込んでいる。
あとの女性は、勉強というより、おしゃべり。
小声だが、それでも雀がさえずるように、ペチャペチャ、クチャクチャ……。
加えてBGMは、すっかりクリスマス・ムード。
ジャス風のクリスマス・ソングが、ずっと流れている。
前の男が席を立った。
うしろ姿を見た。
首から頭にかけ、すっかり禿げあがっているのがわかった。
帽子を深くかぶっている理由が、それでわかった。
手にした雑誌を見ると、それには『flick』と書いてあった。
『flick』?
私の知らない雑誌である。
男は、私の住んでいる世界とは、別の世界に住んでいる。
そう思った。
●DVD
2階が、DVDショップになっている。
私「何か、新しいのを借りたの?」
ワ「メリル・ストリープのと、それに新作を1本、ね」
私「フ〜〜ン」と。
……その男を見ながら、30年前に亡くなった、今井 修氏(実名)のことを思い出した。
そのとき32、3歳だった。
焼酎とタバコを片手に、いつも原稿を書いていた。
最後に会ったのは、ショッピングセンターの中だった。
一角に小さな椅子が置いてあり、今井 修氏はそこに座っていた。
話しかけても、何も言わなかった。
うつろなまなざしで、宙をぼんやりとながめていた。
あとでわかったことだが、そのとき、今井 修氏は、ホスピスにいた。
そこを抜け出し、そのショッピングセンターへ来ていた。
今井 修氏が食道がんで亡くなったと知ったのは、それから1か月もたたないときのことだっ
た。
私は、今井 修氏ががんだったということも、またホスピスにいたということも知らなかった。
だからそのときは、今井 修氏の態度に少なからず、ショックを受けた。
冷ややかな態度だった。
「どうして怒っているのだろう?」と。
●死に行く人
今までに死に行く人を、何人か見かけてきた。
数年前に亡くなった、大学の同窓生のIK君も、そうだった。
亡くなる、ちょうど2か月前ほどに、街中で偶然、会った。
話しかけたが、やはり私を避けた。
やや強引に、私は近くの時計店に誘ったが、迷惑そうだった。
そのときワイフも横にいた。
ワイフも同じように感じたらしい。
「IKさん、おかしいわね」と。
IK君は、そのあとしばらくして、病院で亡くなった。
直接の死因は肺炎ということだったが、あとで聞くとそのとき、前立腺がんが大腸に転移してい
たという。
前の席に座った男が、どうこうのと書いているのではない。
その男のもつ、どこか暗い雰囲気が、気になった。
●8時半
ワイフが、こう言った。
「8時半よ……」と。
私「山(=山荘)へ行く?」
ワ「そうね……。頭(=頭痛)治ったの?」
私「うん、まあね……。山でビデオを観るの?」
ワ「時間があればね……」と。
●資料
週刊ポスト誌(2011年12月23日号・P46)には、こうある。
「職業別官民格差」として、一覧表が載っている。
(かっこ)内は、民間平均。
バス運転手 ……526万円(344万円)
自動車運転手……541万円(234万円)
清掃職員 ……604万円(210万円)
守衛 ……548万円(293万円)
福祉施設職員……574万円(289万円)
幼稚園教諭 ……598万円(330万円)
看護師 ……521万円(427万円)
用務員 ……534万円(274万円)
定年退職金……2452万円(2075万円)
(以上、筆者のほうで、1000の位で四捨五入。)
(注:公務員は「地方公務員給与実態調査結果」(総務省・平成22年)、
民間は、「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省・平成22年)による。
「自動車運転手は、公務員は公用車、民間はタクシー。
民間の「清掃職員」は、ビル清掃員をいう。)
週刊ポスト誌は、こう伝える。
「役人という肩書をもつだけで、2倍近い給料を受け取っている」(P47)と。
ほかにも驚くべき事実が、官僚の発言として紹介されていた。
「……知的水準の低い一般国民から、保険料をまきあげる……」
「官僚の出世の条件は……国民からカネを巻き上げて、省益を拡大させること」(以上、ポスト
誌、覆面座談会の席で)と。
公務員の給料が民間の2倍近くもあるのは、「優秀な人材の確保のため」だそうだ。
また国家公務員と地方公務員の給与格差がほとんどないのは、地方公務員の不満を抑制す
るためだそうだ(ポスト誌)。
先にあげた官民格差表でいう「公務員」は、地方公務員の給与をいう。
……こんな日本が、どうして北朝鮮の悪政を笑うことができるだろうか。
●相談
たった今、メールを開くと、こんな相談が届いていた。
【韓国在住のKUさん(母親)より、はやし浩司へ】(一部、文字化け)
【 お子さんの年齢(現在の満年齢) 】:満4歳
【 お子さんの性別(男・女) 】:男
【 家族構成・具体的に…… 】:
父母、姉(10歳。精神遅滞)、祖父、祖母
【 お問い合せ内容】
韓国在住の来月満4歳になる男の子の母子分離不安について相談します。
母子分離不安について検索していると、はやしさんのサイトに行き着き、母子分離不安につい
ての解答を拝見させていただきました。
家の事情もあり、もう少し具体的どうしたらいいか知りたく、メールしています。
上の子は10歳ですが、重度の精神遅滞があり、まだ一人で歩けず、話せません。
1歳前後の状態で、オムツをしています。
激しく泣いたり、物をなめたりかんだり、泣いてもなぜ泣いているのかわからなかったり、一緒
にいてほしかったり、眠いのに眠れなくて、ないていたり、手がかかります。
下の子が生まれてからも、上のこの障害児保育園(家から遠い)や物理治療などに通うのに私
が連れて行って、その間下の子はおじいちゃんかおばあちゃんと一緒にいました。
下の子が2歳になった時、上の子が小学校に就学させたのですが、(韓国では親の判断で入
学を遅らせることができる)、小学校の送り迎えや、お昼の食事介助などで手がかかるので、 下の子を保育園に入れました。
送るのはおじいちゃんおばあちゃんがしてくれたのですが、あまりにも泣いくので3日ほどで泣く
のが耐えられないとやめさせてしまいました。
次の年、満3歳になった時再び送ったのですが、やはりおじいちゃんとおばあちゃんがやめさ
せてしまいました。
それでも、私があまりにも大変なので、その5月から再び送りました。
今度は時間をやりくりして、私が送りました。
相変わらず泣いていくのですが、保育園の先生の言うとおりがんばって送りました。
2週間ぐらいはお昼ぐらいに帰ってきていました。
しかし、私が顔面神経麻痺にかかってしまい、その後5時まで送っていました。
朝は相変わらず激しく泣いて行き、帰ってくると元気がない、1ヶ月ほど様子を見ていたのです
が、「このこまでおかしくなったらどうする?
嫌がる子を保育園に送っていって、後で精神科に通っている子もいっぱいいる」など、周りに言
われ心配になり、やめさせました。
先生いわく、おじいちゃんおばあちゃんにとってもかわいがられ、甘やかされて育っているので
忍耐力がまだない、とのこと。
園でも「たいくつだ」と先生に言ってばかりで、友達が寄ってきても遊ぼうとしない、お昼寝もしな
い、そうです。
姉の事もあって、お母さんをお姉ちゃんに取られるという心配もあるのかも、とも。
3ヶ月まえから・u梛:・・ぢ回の美術の習い事を始めたのですが(美術というより友達を作るた
め)、本来部屋で子供2,3人と先生とでするのですが、子供が離れようとせず、私が部屋の中 の隅で座ってみていないといけません(先生の提案で)。
少しずつ、しばらくしたら部屋の外に出て行けるようにはなったのですが、「窓からずっとみてい
て」とか途中で「お母さんどこ?」と出てきたりします。
友達と遊びたい気持ちがあって、同じ教室の女の子のお世話?をしたり、ゆずってあげたり。
お母さんが一緒で子供と遊ぶ機会があればいいのですが。
最近の韓国は、1歳過ぎから保育園に通う子が多く、公園にいっても遊ぶ子がいなく、習い事な
ども夕方の時間しかなく(昼間は子もがいないので)、このまま保育園にいかずうちで過ごすの もどうなのか悩んでいます。
月数の少ない48ヶ月までの文化センターなどのクラス(お母さんと一緒にする)はある事はある
ので、同い年ではない、小さい子達と混ざってでも、したらいいのかなぁとも考えています(来年 は保育園に送らないで)。
家では、「遊ぼう、遊ぼう」と人形遊びやブロックなど私とやりたがります。
一人ではほとんど遊べません。
私もずっととなると疲れて、いやになります。
休日など公園に行っても、別の人がいると遊ばず、「いなくなるまで待ってる」とただ見ていま
す。
うちに来る私の友達などは割りと問題なくいられるのですが、外で会う知らない人やたまにあう
人には警戒心丸出しで、「嫌いだ、いやだ、あっち行け」などと言います。
美術の先生にも、です。
朝は上の子を学校に送りに行く時はおじいちゃんかおばあちゃんに見てもらうのですが、おじ
いちゃんがいるとき(一日おきの仕事をしている)は「お母さん、いってらっしゃい」と送ってくw)? 「譴襪里任垢・△、个△舛磴鵑了・蓮◆岼貊錣帽圓・繊廚筏磴い特紊い突茲泙后・發β腓C・ 覆辰燭里念貊錣僕茲討發いい里任垢・△、个△舛磴鵑・蹐覆い・蕕醗貊錣帽圓・擦泙擦鵝・・ w)現状をだらだら書いてしまいましたが、サイトに書いてあるように、対人恐怖症というのもあ ると思います。
又、スキンシップも「抱っこ、抱っこ」とせがむ時はしてあげているし、十分にしていると思ってい
るのですが、思っている以上に足りないのでしょうか?
上の子も家ではけっこう泣くので、この子もみんながストレスを抱えているようです。
八方塞のように感じて、アドバイスいただけるとうれしいです。
(以上、相談より。)
【はやし浩司より、韓国のKUさんへ】
KU様へ
こんばんは!
現在、出先なので、
あとでゆっくりと返事を書きます。
大切なことは、(現実)と闘うことではなく、(現実)を受け入れることです。
「私は私」と居直ることです。
こと子育てについて言えば、闘っても意味はありません。
居直れば、おのずと、道が前に見えてきます。
あとは静かに、その道(流れ)に身を任せてください。
温かい愛情と、生きていく勇気を見失わずに、ね。
あなたの子どもは、今、あなたに何か尊いことを教えるために、そこにいます。
子どもに教えを乞うてください。
あなたはすばらしい人になれますよ。
どうか、自信をもって、前に進んでください。
またあとで返事を書きます。
はやし浩司
●幼稚園教諭 ……598万円(330万円)
さきほどあげた「官民格差」で気になったのが、幼稚園教諭の給料。
公立幼稚園の教諭が、598万円。
私立幼稚園の教諭が、330万円。
本当かな?、と思った。
公立幼稚園の教諭についてではない。
私立幼稚園の教諭についてである。
私が知る範囲では、私立幼稚園の教諭は、330万円も、もらっていない。
月額に換算すると、(12か月で割ると)、27〜8万円。
退職金にしても、定年退職時まで勤める教諭は、ほとんどいない。
だから2000万円以上の退職金など、こと私立幼稚園の教諭に関して言えば、ありえない。
どこの幼稚園(私立)でも、人件費は、削るだけ削っている。
まず未婚の若い教諭を、インターン(見習い)の形で雇う。
結婚と同時に退職……というのが、暗黙の了解事項になっている。
相場では、そういう若いインターンは、月額10数万円程度。
(手取りで、月額14〜5万円と聞いている。)
ボーナスを入れても、330万円ということは、ありえない。
どこからこんな数字が出てきたのだろう?
公立幼稚園のばあい、ありとあらゆる労働者の権利が認められている。
産休で3年間休職したとしても、職場を失うことはない。
さらにたいていの教諭は、最終的には園長に昇格したあと、退職する。
「幼稚園の先生になるなら、公立の幼稚園」というのは、この世界では常識。
役人の言葉を借りるなら、「知的水準の高い教諭は、公立幼稚園。知的水準の低い教諭は、
私立幼稚園」(「週刊ポスト」誌)ということか。
……グググーッと怒りがわいてきたが、今夜はここまで。
もちろん一人一人の役人に責任があるわけではない。
責任を感じてほしいと書いているのでもない。
が、このままでは、日本は本当に沈没してしまう。
怒りというより、私は強い危機感を覚える。
●知的水準?
知的水準とは何か?
あの片山さつき氏は、私の地元で国会議員に当選したあと、東京に戻り、こう言ったという。
「(浜松の)田舎者は、私が土下座すれば、イチコロよ」(雑誌「諸君」)と。
が、こうした差別意識は、何も片山さつき氏だけのものではない。
ある男は、私にこう言った。
某大銀行の部長職をしていた。
「退職したら、君の故郷のM市にでも行き、市長でもしようかな」と。
なぜ、人は、こんな愚かなことを言うようになるのか。
そのルーツをずっとたどっていくと、そこにあの「受験競争」が、見え隠れする。
そういう意味では、意識というのは、恐ろしい。
中学生でも、高校生でも、受験競争に勝った(?)とたん、おかしなエリート意識をもち始める。
「勉強ができる人ほど、優秀」と。
返す刀で、「勉強ができないヤツは、劣等」と。
が、それは待ってほしい。
私はこの40年間、受験生と言われる子どもを指導し、側面から観察してきた。
もちろん中には「優秀な子ども」もいる。
しかしそういう子どもほど、最後の最後まで謙虚さを失わない。
推薦で、一流大学の一流学部へと進学していく。
(学校の先生にも、それがわかるから、推薦される。)
が、すでに小学生のときから、鼻持ちならぬエリート意識をもつ子どもも少なくない。
勉強ができることを鼻にかける。
どうしようもないほどのドラ息子、ドラ娘。
で、ある日私はそんな1人の母親に、こう告げた。
「あのオ〜……」と。
すかさずその母親は、私にこう言った。
「あんたは、黙って息子の勉強だけをみてくれればいい。(余計なこと、言うな!)」と。
これは本当にあった話である。
親は、浜松市内でいくつかのパチンコ店を経営していた。
そういうことを経験しているから、「知的水準」という言葉を聞くと、バチバチと頭の中で火花
が飛び散る。
いろいろ書きたいことは、山のようにある。
あるが、今夜はここまで。
要は、人も謙虚さを見失ったら、おしまい。……ということ。
●もう1人の男
TSUTAYAで、もう1人、気になった男がいた。
60歳くらいの男だった。
私とワイフがTSUTAYAへ入ったときも、そこにいた。
雑誌を取りに行ったときも、そこにいた。
そのあたりを、ブラブラしていた。
今も、そのあたりにいる。
本を読む気配もなかった。
手に取って読む雰囲気もなかった。
が、私にはすぐわかった。
その男は、ホームレスの男だった。
最近、このタイプの大型店で、このタイプのホームレスの男を、よく見かけるようになった。
今日のように、寒い夜は、さらにそうだ。
●KUさんへ(母子分離不安)
KUさんの子どもを考える。
KUさんは、母子分離不安を心配している。
症状としては、母子分離不安そのもの。
母親がそばにいないと、極度の不安状態になる。
このとき子どもは、2つのタイプに分かれる。
ワーッと攻撃的に泣き叫んで、母親の後を追うタイプ。
オドオドとしてしまい、混乱状態になるタイプ。
症状から私は、前者を「プラス型」、後者を「マイナス型」と呼んでいる。
どちらであるにせよ、子どもの側からみて、「捨てられるのでは?」という恐怖心が、母子分離
不安による症状へと結びついていく。
理性ではなく、本能的な部分からの恐怖心であるため、叱ったり説教したりしても意味はない。
子どもの心というのは、環境の変化に対しては、たいへんタフ。
しかし愛情の変化には、たいへんもろい。
母親が数日、入院しただけで、母子分離不安になってしまったケースがある。
遊園地で一度、迷子になっただけで、母子分離不安になってしまったケースがある。
KUさんのように、……というか、通常のケースとは逆なのだが、下の子が生まれたことによっ
て、上の子が母子分離不安になるケースもある。
が、KUさんのケースは、もう少し根が深いように考える。
●ユングのシャドウ(影)論
ユングのシャドウ(影)論をもちだすまでもない。
子どもというのは、親の心をそのまま引き継いでしまう。
たとえば親が、Aさんを内心で嫌っていたりすると、その子どももAさんを嫌うようになる。
Bさんを内心でよい人と思っていたりすると、その子どももBさんのことをよい人と思うようにな
る。
こんなことがあった。
もう10年近くも前に書いた原稿に、こんなのがある。
親の心を、そっくりそのまま再現してしまう子どもの話である。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2000年ごろ、中日新聞出に発表させてもらった原稿である。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●親の心は子どもの心
一人の母親がきて、私にこう言った。「うちの娘(年長児)が、私が思っていることを、そのま
ま口にします。こわくてなりません」と。
話を聞くと、こうだ。
お母さんが内心で、同居している義母のことを、「汚い」と思ったとする。
するとその娘が、義母に向かって、「汚いから、あっちへ行っていてよ」と言う。
またお母さんが内心で、突然やってきた客を、「迷惑だ」と思ったとする。
するとその娘が、客に向かって、「こんなとき来るなんて、迷惑でしょ」と言う、など。
昔から日本でも以心伝心という。心でもって心を伝えるという意味だが、濃密な親子関係にあ
るときは、それを望むと望まざるとにかかわらず、心は子どもに伝わってしまう。
子どもは子どもで、親の思いや考えを、そっくりそのまま受け継いでしまう。
こんな簡単なテスト法がある。
まず二枚の紙と鉛筆を用意する。そして親子が、別々の場所で、「山、川、家」を描いてみる。
そしてそれが終わったら、親子の絵を見比べてみる。
できれば他人の絵とも見比べてみるとよい。
濃密な関係にある親子ほど、実によく似た絵を描く。
二〇〜三〇組に一組は、まったく同じ絵を描く。親子というのは、そういうものだ。
こういう例はほかにもある。
たとえば父親が、「女なんて、奴隷のようなものだ」と思っていたとする。するといつしか息子
も、そう思うようになる。
あるいは母親が、「この世の中で一番大切なものは、お金だ」と思っていたとする。
すると、子どももそう思うようになる。
つまり子どもの「心」を作るのは親だ、ということ。親の責任は大きい。
かく言う私も、岐阜県の田舎町で育ったためか、人一倍、男尊女卑思想が強い。
……強かった。
「女より風呂はあとに入るな」「女は男の仕事に口出しするな」などなど。
いつも「男は……」「女は……」というものの考え方をしていた。
その後、岐阜を離れ、金沢で学生生活を送り、外国へ出て……、という経験の中で、自分を変
えることはできたが、自分の中に根づいた「心」を変えるのは、容易なことではなかった。
今でも心のどこかにその亡霊のようなものが残っていて、私を苦しめる。
油断していると、つい口に出てしまう。
かたい話になってしまったが、こんなこともあった。
先日、新幹線に乗っていたときのこと。
うしろに座った母と娘がこんな会話を始めた。
「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。
どうやらどこかの大病院の院長を夫にもつ妻とその娘が、結婚相手を物色していたようだが、
話の内容はともかくも、私は「いい親子だなあ」と思ってしまった。
呼吸がピタリと合っている。
だから冒頭の母親に対しても、私はこう言った。
「あなたと娘さんは、すばらしい親子関係にありますね。
せっかくそういう関係にあるのですから、あなたはそれを利用して、娘さんの心づくりを考えたら
いい。
あなたのもつ道徳心や、やさしさ、善良さもすべて、あなたの娘さんに、そっくりそのまま伝える
ことができますよ」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●親の不安
KUさんのケースでは、KUさんが日常的に感じている不安感が、そっくりそのまま子どもに伝
わってしまっている。
私はKUさんからのメールを読んだとき、それを最初に感じた。
同時に、もしKUさんの近くに、祖父母がいなかったら、KUさんの子育ては壊れてしまっていた
かもしれない。
KUさんの必死さを感ずるが故に、近くに祖父母がいて、KUさんの子育てを支援していること
を、私は「よかった」と思った。
もちろんKUさんは、そうしているだろうが、こうしたケースでは、けっして祖父母と対立しては
いけない。
逆に言うと、祖父母と対立するのではなく、協力しあいながら、KUさんが日常的に感じている
であろう不安感、心配、孤立感と闘う。
子どもと闘うのではない。
自分と闘う。
……と書くのは簡単なこと。
私はKUさんからのメールを読んだとき、私自身も、ズシンと心が重くなってしまった。
「顔面神経麻痺」「八方ふさがり」という言葉が、今のKUさんの心情を、そのまま象徴してい
る。
●許して忘れる
昨夜、ワイフは、DVDを観ていた。
メル・ギブソン主演の『復讐捜査線』というタイトルのDVDだった。
娘が暗殺された。
刑事役のメル・ギブソンが、その犯人を追いつめていくというストーリーの映画だった。
その中で、こんなことをだれかが言う。
「子どもがいる悲しみと、子どもがいないさみしさ。あなたはどちらを選ぶか」と。
それに答えて、メル・ギブソンがこう答える。
「子どもがいる悲しみ」と。
記憶によるものなので、まちがっているかもしれない。
が、それには条件がある。
「良好な親子関係」という条件である。
それがなければ、……というより、多くの親たちは、子どもをもったことを後悔する。
「子どもなんか、産まなければよかった」と。
というのも、親というのは、良好な親子関係がある間は、子どもを「許して忘れる」ことができ
る。
そうでなければ、そうでない。
親ばかである自分を恥じ、自分を責める。
子どもを「許して忘れる」ことはできる。
しかし自分を「許して忘れる」ことはできない。
親子関係、つまり子育ての結論は、この一点に集中する。
「良好な親子関係」と。
メル・ギブソンと娘は、良好な親子関係で結ばれていた。
だからこう答えた。
「子どもがいる悲しみのほうがいい」と。
●親ばか
「親ばか」という言葉を使った。
親というのは、子どもを許すことはできても、自分を許すことはできない。
親ばかだった自分を恥じる。
責める。
ついでに口を閉じる。
子どものでき・ふできが問題ではない。
人間性の問題。
世の中には、子どもをだます親は、いくらでもいる。
同時に、親をだます子どもも、また同じほど、いる。
男性や女性をだますのと同じくらい、平気で親をだます。
自分の欲望の追求のために、親を利用する。
そういう子どもをもった親は、子どもを責める前に、自分を責める。
●明日は、かならずやってくる。
KUさんのケースでいえば、八方ふさがりでも、何でもない。
袋小路には入ってはいるが、八方ふさがりではない。
大切なことは、自分の子どもだけを見つめ、その「流れ」の中に身を置くこと。
身を置けば、おのずとその先に、道が見えてくる。
いや、見えてこなくても、今日、そして今、この瞬間できることだけを、懸命にする。
明日は、今日の結果として、かならずやってくる。
世の中、けっして悪い人たちばかりではない。
KUさんが明るく、さわやかに生きていけば、みなもそれに勇気づけられる。
その勇気が希望を生む。
生きる希望を共有することができる。
けっして卑屈になってはいけない。
取り越し苦労や、ヌカ喜びを繰り返してはいけない。
KUさんはKUさんで、ただひたすら前だけを見て、生きていく。
その心が伝わったとき、子どもの心の中からも、不安症状が消える。
●子どもから学ぶ
どんな家庭も、外から見ると、平和で幸福に見える。
が、問題のない子どもはいない。
問題のない家庭も、これまた、ない。
それぞれがみな、重い十字架を背負い、あえぎながら生きている。
KUさんがそうというわけではない。
しかし子どもに何か問題が起きると、みな親はこう思う。
「どうして私だけが……」とか、「どうしてうちの子だけが……」と。
そこで発想を転換してみる。
「子育てというのは、そういうもの」と。
苦労や悲しみは、つきもの。
あって、当たり前。
とたん、気が晴れる。
大切なことは、子どもから学ぶという姿勢。
子どもが泣いているときも、そうだ。
泣くのを「悪」と決めつけてはいけない。
子どもには子どもなりの理由がある。
「あなたも悲しいのね。お母さんも悲しいのよ」と。
すなおに負けを認め、子どもの立場で、いっしょにものを考える。
●帰る
TSUTAYAを出た。
車にエンジンをかけると、猛烈な勢いで、窓ガラスから温風が吹き上げてきた。
自動的にフロントガラスの曇りを消す装置が、働いた。
外気は、9度と表示されている。
寒いというより、冷たい。
私たちは一度、家に戻った。
そのまま山荘へ向かう準備を始めた。
●山荘へ
私「KUさんのこと、どう思う?」
ワ「近くに、祖父母がいて、よかったわね」
私「うん、ぼくもそう思う。KUさんひとりでは、たいへんだ」
ワ「夫は、どうしているのかしら?」
私「ぼくも気になっている。でも、夫については、何も書いてない」
ワ「韓国の人かしら?」
私「たぶんね。韓国では、夫婦別称が、当たり前だし……」と。
「KU」というのは、日本名である。
●コンビニ
途中、コンビニで、遅い夕食を買った。
私は、菓子パン。
ワイフは、日本ソバ。
あと、せんべいなどの菓子類。
……それと近く、修善寺(静岡県伊豆半島の温泉地)で、講演をすることになっている。
その講演が終わったら、修善寺温泉に一泊する。
その宿探しを、雑誌でした。
20冊近い、旅行雑誌が出口のところに並んでいた。
コンビニを出るとき、店員にこう聞いた。
「だめだと思いますが、このページをそこのコピー機で、コピーしてもいいですか」と。
すると店員は、半ばあきれ顔で、「だめです」と。
私「ハハハ、そう言われるとわかっていました。わかっていましたから、聞いてみただけです。
ハハハ」と。
だめに決まっている。
しかしその雑誌だって、売れなければ、返本するだけ。
●母子分離不安
KUさんが今、いちばん先にすべきことは、(すでにしているかもしれないが)、同じ障害をもつ
親同士のネットワークに参加すること。
けっして孤立しないこと。
けっして「私だけが……」と思わないこと。
どういった障害なのかは、メールだけでは、よくわからない。
が、そういった専門のネットワークもあるはず。
今ではネットを使えば、簡単に検索できる。
韓国のことは知らないが、この日本では、そうした子どもへのケアも、かなり充実してきてい
る。
子どもが進むべき道は、けっして一本ではない。
幸福になる道も、けっして一本ではない。
あとは前だけを見て、先にも書いたように、明るく、さわやかに生きていく。
結果として、母子分離不安の問題など、吹き飛んでしまう。
子どもが泣きながら後を追いかけてきたら、KUさんは、やさしく抱いてあげればよい。
あれこれ考えないで、子どもの心になって、子どもと悲しさやさみしさを共有してあげればよい。
それと「甘やかす」ということとは、別。
つまりそうしてあげたからといって、甘やかしたことにはならない。
「甘やかす」というのは、規律のない生活の中で、欲望に溺れさせることをいう。
甘やかしたから、母子分離不安になるというわけではない。
きびしくしたからといって、母子分離不安が治るわけでもない。
●寝支度
昼寝をしたこともある。
時計を見ると、時刻は、午前0時を越えていた。
ワイフは寝支度を始めた。
外はかなり寒いはず。
「明日は、凍っていないだろうか……」と。
水が氷れば、山荘は使い物にならなくなる。
最後に、KUさんへの返事を書くことにした。
【はやし浩司より、KUさんへ】
お気づきのように、これは母子分離不安の問題ではありません。
またそんな問題は、何でもありません。
10人の子どものうち、2〜3人が経験する、ありふれた問題です。
だからあまり深刻に考えないこと。
自然体で、子どもに接したらよいでしょう。
それよりも重要なことは、あなたが今、もっているであろう閉塞感、それに基づく、不安や心
配を、どうするかということです。
お子さんたちは、それをそっくりそのまま受け継いでいまっています。
『子どもの心は、親の心の鏡』と考えてください。
……と、こんなことを書くと、KUさんは、自分で自分を追い込んでしまうかもしれませんね。
そこでこう考えてみてください。
親になることは、子どもをもつことで、だれでもなれます。
しかし「真の親」となると、そうはいかない。
何度も何度も、絶望のどん底へ叩き落とされながら、親はやがて「真の親」へとなっていきま
す。
私たち夫婦にしても、そうです。
何度も何度も、子育てで行き詰まり、そのつど近くの山に車を走らせ、そこで泣きました。
今でもときどき、泣きます。
運命がどうのこうのと考える前に、人生も残り少なくなってきました。
だったら、もう運命を受け入れるしかない。
最近は、そう考えるようになりました。
「なるようになれ」というよりは、ありのままをさらけ出して、生きる。
どうもがいたところで、これが私の人生。
完璧な人生、完璧な人間関係、完璧な親子関係など、もとから望むべくもない。
孤独死、無縁死、何でも結構。
人に嫌われようが、悪く思われようが、それも構わない。
生まれが生まれですから……。
あとは勇気をもち、足を前に一歩、踏み出す、です。
そこにある問題から逃げるのではなく、2人のすばらしいお子さんといっしょに、前を向き、いっ
しょに歩く。
なおどうしても母子分離不安が気になるようでしたら、こうします。
(1)求めてきたときが与えどき……子どもが何かのアクションを求めてきたら、「与えどき」と思
い、すかさず、(すかさず、です。1〜2秒も間をおかない)、抱いてあげます。
力いっぱい抱くのがコツです。
たいてい数秒〜10秒前後で、子どもは安心し、満足します。
(2)温かい無視
愛情だけは忘れず、そっと距離を置くようにします。
あなたとあなたのお子さんだけのことを考えます。
他人がどうこう言っても気にしないこと。
先にも書きましたが、そうしたところで、「甘やかす」ということにはなりません。
お子さんは、心底、つらいから泣くのです。
わがままとか、そういうふうに考えてはいけません。
「さみしかったのね?」とお子さんをねぎらいながら、愛情を表現してあげてください。
添い寝、抱っこ、いっしょの入浴など、濃密にしてあげてください。
その年齢がくれば、自然と収まってきます。
少なくとも児童期へ入るころには、症状は消えます。
●就寝
山荘ではいつも、枕元で、香を焚くことにしている。
お気に入りは、「オウピアム」。
名前が恐ろしい。
日本語で、「大麻」!
市販の香で、どこの店でも売っている。
どうか、どうか、誤解のないように。
が、気にはなった。
そこで一度、近くの交番にもっていったことがある。
「こんなのが市販されていますが、だいじょうぶですか?」と。
が、交番の警官は、オウピアムの意味すら、知らなかった。
「調べておきます」と言ったきり、そのままになっている。
それから2年近くになる。
……どうして「オウピアム」という名前がついているのだろう。
本物の大麻のにおいなど、知る由もない。
常識的に考えれば、においだけ似せて作った、偽物ということになる。
だからときどき「大麻って、こんなにおいなのかなあ」と思う。
(本物だったら、事件になるぞ!)
そうそう、その反対のこともある。
欧米人がみな、驚く。
「日本では、覚せい剤を堂々と売っている!」と。
英語で「アシド・ミルク(乳酸飲料)」と言えば、「覚せい剤」を意味する。
車の側面などに、「Acid Milk(乳酸飲料)」と書いてある。
それをみて、欧米人は、みな驚く。
(枕元でオウピアムの香を焚いているからといって、どうか誤解しないでほしい。)
では、今夜は、これでおやすみ。
韓国のKUさん、おやすみなさい。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 母子分離不安 よく泣く子ども 子どもの心は、親の心の鏡)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【性欲の奴隷たち】
●クリ○○ス
昨日の中学3年生のK君が、こう聞いた。
「先生、この○の中の字は、何?」と。
見ると、そこに、「クリ○○ス」と書いてあった。
即座に、「(ス)(マ)」と答えると、何やら意味ありげな笑みを浮かべた。
それでピンときた。
この時期の子どもは、24時間のうち、23時間、「SXX」のことを考えている。
(残りの1時間は、眠っている。)
私もそうだったし、あなたもそうだった。
それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、私たちは子孫を後世に残すことができる。
しかしその子どもは、自分が性欲の奴隷になっていることには、気づいていない。
●性欲の奴隷
性欲の奴隷なら、奴隷でもよい。
それに気づいているなら、それでよい。
しかし中学生にかぎらず、おとなの私たちにしても、それに気づいている人は少ない。
「私は私」と思い込みながら、奴隷になっている。
奴隷になりながら、それを「私」と思い込んでいる。
意識というのはそういうもの。
自分で築きあげた意識というのもあるには、ある。
0・01%。
1万分の1もない。
99・99%は、作られた意識。
たとえて言うなら、「私」というのは、タマネギのようなもの。
作られた意識で覆われた、タマネギのようなもの。
そこで「私」と思っている部分(皮)をどんどんとめくっていく。
「これでもか」「これでもか」とめくっていく。
が、どこまでめくっても、「私」にたどりつくことはない。
「私」というのは、それほどまでに小さく、頼りない。
●「性的エネルギー」(Ribido)
「性的エネルギー」という言葉を考えたフロイトは、すばらしい。
後にフロイトの弟子のユングは、それを「生的エネルギー」という言葉に置き換える。
どちらであるにせよ、それが生きる原点になっている。
で、最近の脳科学によれば、そうした原点的な信号が、脳下垂体の下部あたりから発せられ
ていることがわかってきた。
コンピューターのパルス信号のようなものではないかと、私は勝手に想像している。
その信号が、たとえばドーパミン(欲望と快楽を司るホルモン)の分泌を促したりする。
それが生きる原動力となって働く。
さらに今では、私たちが「感情」と称しているものにしても、ホルモン説、つまり脳内ホルモンに
よって引き起こされるという説は、常識である。
つまり脳内ホルモンを軽く考えてはいけない。
この脳内ホルモンこそが、人間を裏から操る。
●「私」
私は鼻先で、「フン」と笑って、その場を去った。
が、それが青春。
この時期の子どもに、「君は性欲の奴隷になっているよ」と諭しても意味はない。
理解することさえ、不可能。
ぜったいに不可能。
その子どもは子どもなりに、それが「私」と思い込んでいる。
思い込みながら、つぎつぎと行動を発展させていく。
恋愛もあるだろう。
結婚もあるだろう。
育児もあるだろう。
その過程で名誉を求めたり、肩書きを求めたりする。
欲望には際限がない。
富や権力を求め、それなりに苦労もするだろう。
そして最後に、こう思う。
「どうだい、私はすばらしいだろう!」と。
●メタ認知能力
だからといって、「性的エネルギー」にせよ、「生的エネルギー」を否定してはいけない。
それがあるからこそ、人生も、これまた楽しい。
男が女を求め、女が男を求める。
そこから無数のドラマが生まれる。
そのドラマが、楽しい。
あえて言うなら、できればその間に一線を引く。
(タマネギの皮)と、(タマネギの芯の私)の間に、一線を引く。
一線を引き、自分を客観的に見る。
これを「メタ認知能力」と言ってよいかどうかは知らない。
しかしこれこそが、まさに「高次(メタ)な認知能力」ということになる。
大切なことは、性欲の奴隷であるにせよ、その奴隷のまま性欲に溺れてはいけないというこ
と。
常に自分を客観的に、醒(さ)めた目で見る。
そういう自分を見失ってはいけない。
私は鼻で「フン」と笑ったとき、そう考えた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「精神のメルトダウン」
昨日、「精神のメルトダウン」という言葉を知った。
外国の社会学者が、何かの評論の中で使っていた。
「日本人は、精神的にもメルトダウンしている」と。
ナルホド!
私に欠けるのは、こうした自由な発想。
造語能力。
実にうまい。
的確。
精神的メルトダウン!
たしかに日本人は、精神的にメルトダウンしてしまっている。
日本語的に表現すれば、「もの言わぬ従順な民」に、なりさがってしまっている。
自分で考えない。
自分で行動しない。
自分で責任を取らない。
その前に、そこにある不正、腐敗、矛盾、不公平、不平等に対しても、声をあげようともしな
い。
「だれかが何とかしてくれるだろう」
「何とかなるだろう」と。
そしてその返す刀で、「自分だけ、そこそこによければ、それでいい」と、そこにある問題から
逃げてしまう。
まさに精神のメルトダウン。
実にうまい表現。
昨日、その言葉に感心した。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●静かな早朝
人間はいつものを考えるか。
今朝は布団の中で、そんなこと考えた。
時計を見ると、午前6時。
運動するのも、30分。
そのまま横になっているのも、30分。
今朝の私は、怠け者の30分を選んだ。
周囲はまだ暗かった。
気温は10度前後。
かすかに掛け時計が時を刻む音が聞こえた。
が、それだけ。
静かな朝だった。
2011/12/23朝記
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●無事、64歳!
2011年を振り返る。
あれこれ振り返る。
いろいろあった。
あったが、私は無事、64歳になった。
昭和22年(1947年)生まれ。
団塊の世代、第1号。
先週、10年ぶりに、1人の男が我が家を訪ねてくれた。
突然の訪問だった。
話を聞くと、今は大学を卒業し、浜松の貿易会社に勤務しているという。
OBである。
年中児(幼稚園)から、中学3年まで、私の教室に通ってくれた。
「まだ高校3年生くらいかなと思っていたよ」と告げると、「そんなはずないですよ」「もう10年に
なりますよ」と言って笑った。
10年!
あっという間の10年だった。
と、同時に、こう思った。
「よくもまあ、この10年間、無事だったなあ」と。
その男のことではない。
この私が、無事だったなあ、と。
●2012年
来年のことは、わからない。
何やら大変な年に、なりそう。
悪い予感がする。
いちばん心配なのが、日本経済。
EU、中国、アメリカ……。
どのひとつが経済破綻しても、そのまま日本も破綻する。
あるいは日本のほうが、先に破綻するかもしれない。
(私が心配したところで、どうにもならないが……。)
経済の世界には、「イベント・リスク」という言葉がある。
不測の事態(=イベント)による、危険因子(=リスク)をいう。
今回の3・11大震災も、そのひとつ。
今、日本の経済は、薄氷の上を、恐る恐る歩いている。
何か起きたら、おしまい。
そのまま奈落の底へ……。
私について言えば、今までは無事だった。
しかし2012年のことは、私にもわからない。
無事、来年、65歳を迎えることができるだろうか。
●老人段階論
退職後の友人たちをみていると、一定のパターンがあるのがわかる。
称して「老人段階論」。
(1)準備期……老後に向けて、何かの運動(体力づくり)を始める。
(2)活動期……「何かをしなければ」と言いながら、行動を開始する。
(3)限界期……突然の病気になったり、仕事が行き詰ったりする。
(4)葛藤期……老人になることに抵抗し、心理的にはげしく葛藤する。
(5)受諾期……老人であることを認め、心の整理を始める。
ほとんどの人が、判を押したように、運動を始めるのは興味深い。
ウォーキング、ランニング、サイクリング、ゴルフ、テニスなどなど。
それまでに下地のできている人は別として、たいていは、長続きしない。
ちょっとした病気や怪我がきっかけで、そのまま休んでしまう。
このとき自分に、「限界」を覚える。
また自分が老人であることを認めるのは、平均して75歳だそうだ。
それまでは抵抗する。
「私はまだ若い!」と。
●どちらが現実なのか?
再び、この1年を振り返ってみる。
あれこれ思い出してみる。
……あの3・11大震災は、あまりにも現実離れしていた。
この世のできごととは、思えなかった。
同時に、今の今ですら、こうして無事でいられることが、不思議でならない。
どうして3万人近い人たちが、あっという間に、津波に飲み込まれたのか。
どうして今、私がこうしてここに生きているのか。
どちらが現実なのか。
それを考えていると、心の中がバラバラになってしまう。
だから9か月たった今でも、こう思う。
「あの3・11大震災さえなければ……」「あの原発事故さえなければ……」と。
●2012年
ともあれ、とにかく生きていくしかない。
あれこれ悩んだところで、どうにもならない。
2012年は2012年。
今日できることは、今日、する。
がんばってする。
その結果として、明日はやってくる。
2012年は、やってくる。
が、2012年は、先にも書いたように、たいへんな年になりそう。
ロイターは、つぎのように報道している(12月23日)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
……2012年は米国とロシアとフランスで大統領選が行われ、中国ではポスト胡錦濤体制が
始動する。欧州はソブリン危機の不透明感が晴れず、民主化の波を受けた中東は政治的動 揺が続き、経済の悪化は世界各地でデモなどの混乱を引き起こす可能性がある。足元では、 ユーロをめぐる不安が根強く、核開発を続けるイランをイスラエルが軍事攻撃するとの懸念も 残ったままだ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
もう少しこの記事を、整理してみる。
(1)2012年は米国とロシアとフランスで大統領選が行われ、
(2)中国ではポスト胡錦濤体制が始動する。
(3)欧州はソブリン危機の不透明感が晴れず、
(4)民主化の波を受けた中東は政治的動揺が続き、
(5)経済の悪化は世界各地でデモなどの混乱を引き起こす可能性がある。
(6)足元では、ユーロをめぐる不安が根強く、
(7)核開発を続けるイランをイスラエルが軍事攻撃するとの懸念も残ったままだ。
が、本当に困るのは、以上のことではない。
こうした不安定な状況がつづくと、発展途上国のもならず、先進国においても政情が不安定に
なること。
ロイターは、つぎのよう結んでいる。
『……中東の紛争やユーロ圏の崩壊といった事態が避けられたとしても、専門家の間では、経
済成長の鈍化と失業率の上昇に伴い、先進国でも発展途上国でも社会不安のリスクが増大 し、世界中で政治情勢は難しさを増すと指摘する声は多い』と。
この先、北朝鮮がどう出てくるか。
それもこの日本にとっては、心配の種。
●現状維持
2012年も、「現状維持」。
それだけで精一杯。
それができれば、御の字。
健康イコール、運動。
ボケ防止イコール、仕事。
何も望まない。
何も期待しない。
ただひたすら、懸命に、かつまじめにその日を生きる。
抱負?
そんなもの、あるわけない。
とにかく現状維持。
結果は、あとからついてくる。
2011/12/24
メリークリスマス!
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【年賀状】(2012年・新年)
今年の年賀状は、東洋医学(黄帝内経・素問)の一節で飾った。
「毎年、ちがった年賀状を出す」が、私のモットーになっている。
(中には、10年、20年と、まったく文面の人もいるが……。)
『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。
行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすことも
ない。
身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自
足を事とする』(上古天真論篇)と。
が、これだけでは、何ともおもしろくない。
そこでムーディーズなどの評価法を借り、現状を分析してみた。
『2011年の成績
ボケ度…Aa (ムーディーズ)
離婚騒動…6回くらい(前年度比−20%)
一泊旅行…50泊くらい(前年度比+10%)
仕事…弱含み (日銀短観)
体力…Bbb (ムーディーズ)(運動量前年度比ー15%)
精力…Ca 沈没寸前 (ムーディーズ)
ピンコロ可能性…5年以内に50%(前年度比+10%)
劇場映画鑑賞…48回(前年度比+10%)』と。
こうしてできあがったのが、つぎの年賀状。
<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/85/imgd929afdfzik5zj.
jpeg" width="696" height="873" alt="img237.jpg">
多くの方に、年賀のあいさつを失礼している。
こんな年賀状だが、そういう人たちの目にとまれば、うれしい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●映画『山本五十六』、『世にも不思議な留学記』
●12月25日(風邪?)
++++++++++++++++++++
昨夜、寒い中、がまんしたのがよくなかった。
11時ごろまで、書斎で、あれこれ作業をしていた。
というか、このところ気温センサーが鈍くなったよう(?)。
寒いはずなのに、それほど寒く感じない。
足腰が金属のように冷たくなって、はじめて寒さを感ずる。
昨夜が、そうだった。
「寒い」というより、冷え冷えとした感覚が足の先から腰までやってきて、はじめて外気の冷たさ
がわかった。
それがわかって、あわてて暖かいはずの布団の中に入った。
が、足の先だけは、なかなか温まらなかった。
足を布団の中でこすりつけたりした。
30分ほど、もがいた。
……ということで、今朝は、起きたときからゾクゾクする。
腰が痛い。
のども痛い。
どうやら風邪をひいたらしい。
が、負けてはおられない。
10分のウォーキングのあと、熱い風呂へ飛び込む。
まだ風邪薬はのんでいないが、あとで葛根湯をのむつもり。
風邪(かぜ)のひき始めは、葛根湯(かこんとう)。
風邪(ふうじゃ)が、体の内部に入り、悪寒がするようになったら、麻黄湯(まおうとう)。
インフエンザのばあいは、張仲景の『傷寒論』(『傷寒雑病論』ともいう)が、参考になる。
後漢時代の医家である。
(注:ただし、張仲景が言う「傷寒・雑病」というのは、チフスやコレラのような伝染病をさすとい
う説もある。
「傷寒」というのは、文字通り、「寒邪に敗れる」を意味する。
それもあって、私は「インフルエンザ説」を唱える。)
ともあれ、今日は、とくに予定はなし。
家で静かにしている。
ゾクゾク……。
症状が麻黄湯に近くなってきたような感じがする。
++++++++++++++++++++++
●「はやし浩司 目で見る漢方診断」
たった今、ヤフーの検索機能を使って、「はやし浩司 目で見る漢方診断」を検索してみた。
2340件、ヒットした。
そのトップに、「AMAZON COM JP」があった。
それをクリック。
私の本が、AMAZONで、6339円で売られているのを知った。
紹介には、こうあった。
「……状態の悪い本です、カバーがなく、ページに水ぬれ跡がずっとついています。書き込み
や線引き、ページの欠落はありませんが、読めればよい方向けです」(わだ古書店)と。
うれしかった。
ボロボロの中古本が、6339円!
少し状態のよい本になると、7000〜9000円で取り引きされている。
現在、その「目で見る漢方診断」は、HPのほうで無料で公開している。
興味のある人は、どうか、そちらを見てほしい。
http://bwtachiyomi.ninja-web.net/page051.html
(私が生きている間の、早いもの勝ち! ……つまり死んだら、HPは、閉鎖になり、公開も終
わるという意味。
無料で読むなら、今のうち!)
おかしなもので、最近は、自分の書いた本を参考にし、ものを書くことがときどきある。
『目で見る漢方診断』にしても、100%、私が書いた本である。
にもかかわらず、同時に2000年前(黄帝の時代になると、5500年前)に、他人によって書か
れた本のような感じもする。
自分の本であって、自分の本でない?
その本を書いたころでさえ、遠い遠い昔のような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 目で見る漢方診断 東洋医学 はやし浩司 東洋医学基礎編 基礎篇 東洋医学基礎篇 黄帝内経 素問)
●映画『山本五十六』
昨日の午後、映画『山本五十六』を観てきた。
久々に観る、邦画である。
CGの稚拙さは随所に見られたが、星は3つの、★★★。
よかった。
途中、何度か涙がこぼれた。
ただし悪役の新聞記者の演技が、大げさ。
露骨。
俳優そのものの、脳みそが薄っぺらい。
だから演技に、深みが出てこない。
知的な俳優が、ああいう役をこなせば、すばらしい俳優ということになる。
が、そうでない俳優が、無理に悪役を演ずるから、かえって底が見えてしまう。
現実に、ああまで感情をむき出しにする人がいたら、私たちはその人を「バカ」という。
もし『山本五十六』を観る機会があったら、新聞記者の演技に注目してほしい。
私がここで言っている意味が、わかってもらえるはず。
で、その山本五十六について、こんな原稿を書いたことがある。
中日新聞に発表させてもらった原稿である。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●国によって違う職業観
職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学
に留学していたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
正規の日本人留学生は私1人だけ。(もう1人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もと
もとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。
私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、1通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、
「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。
私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、そ
の手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行き
たくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日
本人のそれとはまったく違っていた。
さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本
へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本で
は軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ
入らないのか」と、やんやの非難。
当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コース
ということになっていた。で、私の番。
私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼく
は日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言って
いた。が、ある日、1番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
を言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパ
イズ(軽蔑する)」という言葉を使った。
当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社
マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかな
かった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。
さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなた
の夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこ
れだけは言える。
こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代
によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるというこ
と。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があ
るということ。
私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそ
ってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。
しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、
もうそういう時代ではない。あってはならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 通俗性 はやし浩司
金権教 はやし浩司 ディスパイズ despise 軽蔑という言葉を使った はやし浩司 山本五
十六)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
もう1作。
これも中日新聞で発表済み。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
イソロクはアジアの英雄だった【2】
●自由とは「自らに由る」こと
オーストラリアには本物の自由があった。自由とは、「自らに由(よ)る」という意味だ。こんな
ことがあった。
夏の暑い日のことだった。ハウスの連中が水合戦をしようということになった。で、一人、二、
三ドルずつ集めた。消防用の水栓をあけると、二〇ドルの罰金ということになっていた。で、私 たちがそのお金を、ハウスの受け付けへもっていくと、窓口の女性は、笑いながら、黙ってそれ を受け取ってくれた。
消防用の水の水圧は、水道の比ではない。まともにくらうと学生でも、体が数メートルは吹っ
飛ぶ。私たちはその水合戦を、消防自動車が飛んで来るまで楽しんだ。またこんなこともあっ た。
一応ハウスは、女性禁制だった。が、誰もそんなことなど守らない。友人のロスもその朝、ガ
ールフレンドと一緒だった。そこで私たちは、窓とドアから一斉に彼の部屋に飛び込み、ベッド
ごと二人を運び出した。運びだして、ハウスの裏にある公園のまん中まで運んだ。公園といっ
ても、地平線がはるかかなたに見えるほど、広い。
ロスたちはベッドの上でワーワー叫んでいたが、私たちは無視した。あとで振りかえると、二
人は互いの体をシーツでくるんで、公園を走っていた。それを見て、私たちは笑った。公園にい た人たちも笑った。そしてロスたちも笑った。風に舞うシーツが、やたらと白かった。
●「外交官はブタの仕事」
そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可
をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と 言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイ ギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。彼は「ブタ」という言葉を使った。
あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったく
ちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内のほうがよい、と考えていたよう だ。また別の日。
フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」と。
「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍 隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になること イコール、出世を意味していた。
マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進する
だけで、そのマカティに、家つき、運転手つきの車があてがわれた。またイソロクは、「白人と対 等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。これには驚いた が、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になったという暗い歴史 がある。
そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本 へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するも のがなかった。が、国変われば、当然、価値観もちがう。
私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選
んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつく られたものだった。私は、それを思い知らされた。
時、まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●山本五十六
私がいたカレッジには、世界中から学生たちが集まっていた。
アジアからの学生も、70〜80人、いた。
が、それらの学生たちは、山本五十六だけは、尊敬していた。
先の原稿の中で書いたことは、事実である。
東条英機は嫌われていたが、山本五十六は、尊敬されていた。
今でも、「白人と対等に戦った最初のアジア人」と言った相手の名前と顔をよく覚えている。
タン・アー・チュウアン君である。
マレーシアから来ていた留学生だった。
そのタン君について書いた原稿もある。
それを掲載する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●処刑になったタン君【12】
●日本人にまちがえられたタン君
私の一番仲のよかった友人に、タン君というのがいた。マレ−シアン中国人で、経済学部に
籍をおいていた。
最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの
祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのタン君。ある日私にこう言った。
「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で
書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。
そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、
マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。
日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にま
ちがえられると、もっと怒る。タン君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。 街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、タン君は、地面を足で蹴 飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。
そのタン君には一人のガ−ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとし
なかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。 が、やがて卒業式が近づいてきた。
タン君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのタ
ン君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ−は……」と。 喉の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ−は四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。 今、夫から訴えられている」と。
そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。
●赤軍に、そして処刑
そのタン君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授
の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。
田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授
はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、タン君がマレ−シアで処刑され たと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。
この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでタン君が生きているとしたら、それは
それですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、タン君は、マレ −シアで、一九八〇年ごろ処刑されている。タン君は大学を卒業すると同時に、ジェニ−とクア ラルンプ−ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。
しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみた
が、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた 新聞記事によるものだ。
その後、タン君は、マレ−シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そし
て処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ−ルの墓地に埋葬されているという。
田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、
さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼にで会ってからというもの、「私は日本人だ」と 言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きてい る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 タン君 タン・アー・チュアン マレ ーシア 田丸謙二 はやし浩司 世にも不思議な留学記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
これらの原稿は、以下のところで紹介している。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●では、今日は、ここまで
やはりこれから葛根湯をのんでくる。
そのあとのことはわからないが、しばらく布団の中で横になるつもり。
ワイフは、現在、美容院へ行っている。
ワイフが帰ってくるまで、無事、生きていたい。
2011/12/25朝記
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●1日遅れのクリスマス
12月25日。
1日遅れのクリスマス。
ワイフは「老人組はクリスマスなど、しないわ」と居直っている。
「……しかしねエ〜」と、私。
それで1日遅れのクリスマス。
25日になって、クリスマスをすることになった。
夕食の材料を買いに行ったついでに、ケーキを一個。
「売れ残りのケーキはありますか?」と聞くと、店員はあっさりとこう言った。
「今日が本番です」と。
ホント?
知らなかった……!
我が家では12月24日の夜に、ずっとクリスマスを祝っていた。
「シャンパーンが1本、あるわ」とワイフ。
●寒い
日昼でも、気温は6度前後。
寒いというより、冷たい。
午後1時ごろ、雹(ひょう)が降った。
が、私はそのころ、昼寝中。
ちょうど1時間40分。
1レム分、ぐっすりと眠った。
今夜は山荘で1泊するつもり。
●岐阜は大雪
従兄が餅を送ってくれた。
「郡上のやきもち」という餅だった。
故郷の温もりが、プ〜ンと香った。
礼の電話をした。
あれこれ話をした。
岐阜(関市板取村)では、昨夜から雪が降り始めたという。
「30センチは積もった」という。
「いいなア」と思う気持ち半分。
「たいへんだなア」と思う気持ち半分。
●不景気
従兄は何度も「不景気」という言葉を使った。
「浜松もひどいもんですよ」と言うと、「がんばるしかないねエ」と。
そう、がんばるしかない。
生きるのもたいへん。
死ぬのもたいへん。
簡単には死ねない。
だからがんばるしかない。
●乾杯!
……ということで、今夜、1日遅れのクリスマス・パーティを開いた。
ケーキとシャンパーンだけ。
プレゼント交換もない。
食事の終わりに、「メリークリスマス」。
それに乾杯。
それだけ。
棚の上のクリスマスカードも、どこかさみしそう。
「R君から、クリスマスカードは来た?」とワイフに聞くと、「ほら」とそこを指さした。
見ると、棚の上に並んでいた。
「会いたいなア」と私。
「3月に、またオーストラリアへ行こうか?」とワイフ。
「クリスチャンでもないぼくたちが、クリスマスだなんて、おかしいよ」と。
そう言って、自分を慰める。
さみしいクリスマス。
言い訳をする。
●形相
近所に、そのあたりでも評判の意地悪ジー様がいる。
何かにつけ、意地悪。
利己主義というか、自分の家の前にだれかが車を止めただけで、パトカーを呼ぶ。
30分も止めておくと、写真を撮る。
撮った写真を警察へ送る。
私も一度、やられた。
一事が万事。
万事が一事。
……というジー様。
で、そのシー様、今年、80歳くらいになった。
久しぶりにその顔を見た。
散歩の途中だった。
ワイフも横にいた。
が、その顔を見て、ゾッとした。
ワイフも、そうだったとあとで言った。
なぜ、ゾッとしたか……。
……つまり、そういう顔。
ゆがんでいた。
恐ろしい形相をしていた。
「心がゆがむと、顔もゆがむね」と。
そんな話をワイフと2人で、しあった。
●老人心理
老人には老人独特の心理がある。
独特の死生観と言うべきか。
ワイフの父親は、生前、いつもこう言っていた。
「申し訳ない、申し訳ない」と。
「自分だけ生き残り、日本へ帰ってきて、申し訳ない」と。
行きは3000人。
帰ってきたのは、たったの300人。
ワイフの父親は、戦時中、ラバウルへ出兵していた。
その一方で、知りあいが死ぬたびに、「あいつが死んだ」「こいつが死んだ」と喜ぶ人もいる。
表では悲しんでいるフリをするが、それは演技。
仮面。
常人には理解できない心理だが、そういう老人もたしかに、いる。
世間体を気にし、見栄や体裁ばかりを気にする。
だからそういう死生観になるのか。
あるいはそういう死生観をもっているから、そういう人生観になるのか。
ワイフの父親のような老人もいれば、心のゆがんだ老人もいる。
そのちがいは、日々の積み重ねによって決まる。
老人になってから、決まるのではない。
若いころからの生き様によって、決まる。
●小雨
山荘へ向かう途中、小雨が降り始めた。
午後6時だった。
が、外は真っ暗。
路面が鏡のように、街の明かりを照り返していた。
寒々とした景色だった。
よく見ると、雨ではなく雪だった。
●『2012年・マヤ予言の謎』
買い癖。
コンビニへ行くたびに、この種の本を買う。
今夜は『2012年、マヤ予言の謎』(Gakken)。
「予言など当たるわけがない」と思いつつ、ついつい買ってしまう。
よい例が「ノストラダムスの大予言」。
結果は、ハズレ!
あれほどまでに騒いでおきながら、ハズレもハズレ、大ハズレ!
1999年の終わりにあったのは、「2000年問題」だけ。
全世界のコンピューターが狂うと言われた。
が、それも、結局は何ごともなく、終わった。
今夜は、私は、これを読む。
暇つぶしには、この種の本がいちばん。
読んでいるうちに、たいてい眠くなる。
●イスラエルによるイラン攻撃
新年早々というか、ひょっとしたら明日かも知れない。
イスラエルによるイラン攻撃が心配される。
可能性の問題ではない。
時間の問題。
運転しながらワイフがこう言った。
「いつかしら?」と。
私「だれもが、そうでないと思っているときさ」
ワ「じゃあ、いつ?」
私「ぼくはクリスマスの夜と思っていた。が、何ごともなかった。つぎは新年だろうね」と。
こうした奇襲攻撃は、相手がいちばん油断しているときをねらう。
相手が構えていたら、奇襲攻撃にならない。
が、それをきっかけに原油価格の高騰。
とたん、世界経済は、さらにおかしくなる。
●人類滅亡7つの可能性
『2012年、マヤ予言の謎』によれば、人類滅亡には、7つの可能性があるという。
そのまま書き出してみる。
(1)バイオハザード
(2)小惑星NEOの衝突
(3)スーパー・ソーラーストーム
(4)超新星ベテルギウスの爆発
(5)エイリアンの侵略
(6)氷河期の到来
(7)闇の集団による世界統一
マヤが以上のことを予言しているわけではない。
2012年に起こるかもしれないということで、7つの可能性があげられている。
で、私なりに、その可能性を採点してみる。
(1)バイオハザード……いつ起きてもおかしくないが、2012年とはかぎらない。
(2)小惑星NEOの衝突……直径が10メートル前後のものは、ありうる。
(3)スーパー・ソーラーストーム……ほぼ確実視されている。規模は不明。
(4)超新星ベテルギウスの爆発……どうかな?
(5)エイリアンの侵略……地球など侵略しても、意味はない。
(6)氷河期の到来……海流の流れが変わると、局地的に極寒期に入ることもありえる。
(7)闇の集団による世界統一……何を今さら! すでに無数の集団が誕生している。
●山荘にて
山荘では、ワイフはいつものようにビデオを見始めた。
私は、TOSHIBAのR631を叩き始めた。
ウルトラ・パソコン。
R631は、週刊アスキー誌で、今年のベスト・バイ賞を受賞した。
この賞に異議はない。
たしかに完成度が高い。
使えば使うほど、愛着がわいてくる。
●騎士道
ワイフの見ているDVDの中に、こんなセリフがあった。
『デビル・クエスト』というDVDである。
主演は、ニコラス・ケイジ。
そのニコラス・ケイジ演ずる騎士が、1人の若者に騎士(ナイト)の称号を与える。
「身が灰塵となるまで……神に忠誠を誓うべし……」(記憶)と。
西洋の騎士道の原点である。
スケールが大きい。
相手は「神」。
「日本の武士道とは、ずいぶんと違うなア」と、私。
日本的に考えるなら、『仏に忠誠を誓うべし』となるのか?
しかし『仏に忠誠』というのも、おかしい。
●死に際の美学
そう言えば、昨日観た映画、『山本五十六』の中にも、武士道を思わせるセリフがいくつか出
てきた。
たとえばこんなセリフ。
役所公司演ずる山本五十六が、こう言う。
「武士は、夜討ち(=暗殺)をしかけるときも、相手の枕を一度蹴る。
蹴って相手が起きあがったところで、相手を殺す」(記憶)と。
つまり武士たるもの、宣戦布告もしないで、真珠湾を攻撃するような卑怯なことはしない、と。
これも死に際の美学ということになる。
正確には、「殺しの美学」?
そのときは「うまいこと言うなア」と、感心した。
●卑怯
では、イスラエルはどうか?
一度、宣戦布告をしてから、イランを攻撃するだろうか。
それには前例がある。
一度、イランの核施設を攻撃したことがある。
が、イスラエルはそういう布告をした例(ためし)がない。
いつも奇襲攻撃。
日本流に考えれば、武士道の精神から完全にはずれている。
だいたい西洋の騎士道には、「卑怯」という言葉そのものが、ない。
あえて言えば、「ずるい(sneaky)」という言葉がある。
が、殺し合いに、ずるいも何もない。
●映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』
映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』は、よい映画だった。
直後の評価では、星を3つ、つけた。
しかし1日たった今、少しずつだが、評価が崩れてきた。
私が映画『トラ・トラ・トラ』を観たのは、1970年。
オーストラリアにいたころ。
その『トラ・トラ・トラ』と比べたら、……というか、『山本五十六』は、比較にならない。
つまりお粗末。
「空前のスケールで描く、一大巨編」(公式サイトおよび広告)と言うほど、すごくはなかった。
そのあと発表された映画『パールハーバー』と比べても、そうだ。
比較にならない。
……たしか最後のところで、こんなナレーションもあったように記憶している。
「戦後70年もたち……」「私たちは……を忘れている」(記憶)と。
日本映画の悪いところ。
必ず、こうした説教がましい説明が入る。
説教がましい説明が、映画そのものを台無しにしてしまう。
●卑怯(2)
Weblio辞書には、こうある。
「卑怯を英語に訳すと(おくびょう)、 cowardice(卑劣)。
【形式ばった表現】 meanness卑怯な(おくびょうな) cowardly;
《口語》 chicken(卑劣な)
【形式ばった表現】 mean(不正な)」と。
卑怯イコール、臆病(おくびょう)ということになる。
私は武士道でいう「卑怯」は、「ずるい」のほうに近いと思う。
これは解釈の違いによるものか。
少し気になったので、Weblio辞書を使って、「卑怯」の英訳を調べてみた。
●正月休み
正月休み。
10日も、ある。
どうしようか。
ワイフは「あちこちへ旅行しよう」と言う。
私も、そう思う。
しかし今年は、まだ計画を立てていない。
とくに行きたいところは、ない。
行くとしたら、「ひおき」(民宿)。
岐阜県板取村にある、「ひおき」。
明日にでも電話をしてみよう。
●おでん
時刻は午後9時。
先ほど、ワイフがこう言った。
「9時以後は、何も食べてはだめよ」「太るから」と。
その9時が、近づいてきた。
家からもってきた、おでんが食べたい。
うらめしい。
が、ここはがまん。
現在、体重は66キロ。
適正体重より、2キロもオーバー。
●死生観
ところでこのところ、おかしな死生観が漂うようになった。
たとえばこんなふうに、考える。
何かの大病になったとする。
そのとき私は、どうするか、と。
大病と闘う人もいる。
闘っている人もいる。
しかし私のばあい、闘っても、意味はない。
だからこう思う。
「息子たちにはもちろん、ワイフにも知らせないでおこう」と。
つまり静かに、その時を迎えよう、と。
手遅れなら、手遅れでもよい。
私はもう、じゅうぶんすぎるほど、長く生きた。
無理に生きて、みなに迷惑をかけるくらいなら、さっさと死んだほうがよい。
たぶん、ワイフも同じ考えだろう。
ああいう性格の女性だから、大病になっても、私には知らせないだろう。
静かに死ぬことだけを望むだろう。
命を天に預ける。
共に命を天に預ける。
ジタバタしない。
……そんな死生観。
●「ああ、これで死ねるのか」
だからといって、誤解しないでほしい。
「死にたい」と書いているのではない。
生きたい。
どこまでも生きたい。
しかし同時に、「死」が、それほど怖い存在ではなくなってきた。
この正月(2011年)に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねるのか」と。
不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
本当に不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
あれほどまでに死を恐れていた私が、穏やかな気持ちだった。
そのほうが、私にとっては不思議だった。
この世に未練はない。
はじめから期待していない。
期待していないから、未練はない。
●孫たち
孫(誠司と芽衣)のビデオ(YOUTUBE)が届いた。
http://youtu.be/1PAtjz0jPsA
送ったプレゼントは無事、届いたようだ。
誠司は「石」に関心をもっている。
芽衣は「料理」に関心をもっている。
この時期、子どもたちは自分の方向性(思考回路)を決定する。
与えるものには、慎重でありたい。
●就寝
今日の総括。
今日は、どうだったか。
一言で表せば、寒い1日だった。
それ以外、印象の薄い1日だった。
とくに成果なし。
平凡な1日。
不完全燃焼感を心の底で押しつぶしながら……、
みなさん、おやすみなさい!
……私たち夫婦は、冬場はいつも、布団乾燥機で布団を暖めながら寝る。
その音が寝室のほうから聞こえてくる……。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 孫 誠司 芽衣 Sage Mae Soichi727 林 宗市 Soichi Hayashi はや し浩司 2011−12−25)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●寒い朝(12月27日)
++++++++++++++++++++
昨日、最後の歳暮の品を、発送した。
「最後」というのは、私はそれぞれの人に、
それぞれの歳暮の品を、送っている。
親類の人たちには、正月に口にしてもらえるのが、
いちばんよい。
そう考え、親類の人たちには、
いつもぎりぎりの年末に送っている。
今日は、12月27日。
火曜日。
昨日、日本列島は、今年いちばんの寒気に見舞われたとか。
この浜松市でもわずかだが、雪が降った。
寒いというより、冷たかった。
夕方、ワイフと市内のレストランへ行ったが、
肌が切れるような冷気を感じた。
そのころ気温は、2〜3度ではなかったか。
++++++++++++++++++++
【リビドーvsサナトス】(創造vs破壊、生と死のはざまで……)
●心理学で考える、善と悪
●隕石
昨日、子ども(中学生)たちと、隕石の話になった。
1人が、「2012年に、巨大な隕石が落下し、人類が滅亡するかもしれない」と言った。
それに答えて、ほかの子どもたちが、「おもしろい」とか、「○○国に落ちればいい」とか言っ
た。
「この日本に落ちるかもしれないよ」と私が言っても、本気にしない。
むしろ楽しみにしているような雰囲気さえある。
ことに深刻さが、まるでわかっていない。
が、こうした心理を、どう理解したらよいのか。
つまり危機的状況を、子どもたちは明らかに楽しんでいる。
こうした心理を、どう理解したらよいのか。
●死へのあこがれ(サナトス)
フロイトは、「生への欲求」を、「リビドー」と定義した。
その「リビドー」に対して、人間には、「死への欲求」もあると説いた。
「死への欲求」を、「サナトス」という。
ここでいう「サナトス」とは、自己に向かう破滅的な力を、総称していう。
必ずしも「死」もしくは、「自殺」を意味するのではない。
当然のことである。
この2つの相反した欲求が、人間の中で、同時に起こる。
「生」と「破滅」。
このことは、年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる。
生命力(=リビドー)そのものが弱くなり、その陰から破滅的なエネルギーが顔を出してくる。
つまり(リビドー)を、生産的な生命力とするなら、(サナトス)は、破滅的な破壊力ということにな
る。
●創造vs破壊
誤解してはいけないのは、(サナトス)自体が、エネルギーであるということ。
虚無的になり、逃避し、その結果として「死にたい」というのとは、中身がちがう。
ちがうことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。
たとえば子どもたちと、ドミノ倒しをしたとする。
ドミノを順に並べ、あとでそれを倒す。
(積み木遊びでも、何でもよい。)
すると子どもたちの心理が、(リビドー)と(サナトス)の間で、はげしく揺れ動いているのがわ
かる。
「長く並べたい」という思いは、創造性によるものと考えられる。
「早く倒してみたい」という思いは、破壊性によるものと考えられる。
この両者が、交互に顔を出し、子どもたちの行動を裏から操る。
●フロイト
フロイトの理論でたいへん興味深いのは、つぎの点である。
フロイトは、ひとつの心理状態があるとすると、他方に、それと相反する心理状態があると考え
る。
こうした相反する心理状態を、フロイトは、「アンビバレンツ」と名づけた。
このことは、交感神経と副交感神経に結びつけて考えてみると、わかりやすい。
人間の脳の命令は、つねに(プラス)と(マイナス)が、同時に働く。
「動け」という命令に対して、「止まれ」という命令。
どちらか一方が強すぎると、行動はちぐはぐなものとなる。
つまりこの両者が、バランスよく働いたとき、人間の行動はスムーズなものとなる。
人間の心理にも、同じように考えることができる。
●プラス型vsマイナス型
幼児に接していると、常に(プラス型)と(マイナス型)があるのがわかる。
たとえば同じ赤ちゃん返りという現象にしても、下の子ども(弟、妹)に対して攻撃的になるケー
スがある。
嫉妬がからんでいる分だけ、執拗かつ陰湿になりやすい。
反対に、ネチネチと甘ったるい言い方をし、赤ちゃんぽく演ずることによって、親の関心をひこ
うとするケースもある。
5、6歳児になって、とつぜん、おもらしをしたりするなど。
(この両者の混在型もあるが……。)
フロイトも、たぶん、同じような現象をどこかで見たにちがいない。
「生きたい」という欲求があるなら、当然、「死にたい」という欲求もあるはず。
フロイトがそう考えたところで、何もおかしくない。
●バランス
要はバランスの問題ということになる。
そのバランスをうまくコントロールしながら、良好な人間関係を保つ。
そのコントロールする力が、「理性」ということになる。
またそれができる人のことを、人格の完成度の高い人という。
ピーター・サロベイのIQ論を引き合いに出すまでもない。
最初の話に戻る。
子ども(中学生)たちは、隕石の話をしながら、「そうであってはいけない」という思いと、「そう
あってほしい」という思いの中で、揺れ動く。
が、子どもたちであっても、そこに理性の力が働く。
「そうであってほしい」という思いは、冗談として、脳の中で処理される。
もっとわかりやすい例としては、銀行強盗がある。
私もよく夢想する。
「どうすれば、うまく強盗ができるか」と。
そのときも、「やってみたい」という気持ちと、「やってはだめだ」という気持ちが、同時に働く。
しかし実際に、行動に移すことはない。
脳の中で、強いブレーキが働く。
それが「理性の力」ということになる。
●距離感
こう考えていくと、では「理性の力」とは、何かということになる。
もちろん程度の差がある。
力の強い人もいれば、そうでない人もいる。
そこでその程度を決めるのが、「距離感」ということになる。
先に銀行強盗の例をあげた。
わかりやすいから、銀行強盗にした。
その銀行強盗。
「一度、危険を犯せば、一生、楽な生活ができる」というのは、たしかに魅力的に聞こえる。
あとは遊んで暮らせる。
(もちろん失敗すれば、一生、刑務所の中で過ごすことになるが……。)
だれかが、「おい、林、一度してみないか?」と言ったとする。
そのとき、私は、それをどう思うだろうか。
……そこでこう考える。
銀行強盗をするにも、銀行強盗から遠い距離にいる人がいる。
頭の中で空想することはあっても、「実行」ということは、まったく考えない。
が、ひょっとしたら、何かのきっかけさえあれば、「実行」を考える人もいるかもしれない。
このタイプの人は、それだけ銀行強盗に近い距離にいるということになる。
つまりこの「距離感」をつくる力こそが、「理性の力」ということになる。
(私は映画が好きだから、よく映画のシナリオを自分で考える。
そのひとつとして、銀行強盗を頭の中で夢想する。
どうか誤解のないように!)
●サナトス
さらに踏み込んで考えてみよう。
フロイトの理論に従えば、リビドーの強い人は、当然、サナトスも強いということになる。
反対にリビドーの弱い人は、当然、サナトスも弱いということになる。
「生きよう」という力の強い人であれば、お金に困れば、銀行強盗を、より強く考えるかもしれな
い。
反対に、もとから「生きよう」とする力の弱い人であれば、銀行強盗を考える力も弱いということ
になる。
つまり「銀行強盗を考えない」からといって、理性の力が強いということにはならない。
もとから生きる力の弱い人は、銀行強盗をしようという気力も弱い。
●善人論vs悪人論
このことはそのまま、善人論、悪人論に結びつく。
よいことをするから、善人というわけではない。
(善人の仮面をかぶり、悪いことをしている人はいくらでもいるぞ!)
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
(小さな世界で、小さく生きている人は、いくらでもいるぞ!)
善人が善人であるためには、そこにある「悪」と積極に闘わねばならない。
その積極性のある人を、「善人」という。
つまり「生きる力(リビドー)」の強い人は、「死にたいという力(このばあいは、破滅的な力)」
も、同時に強いとことになる。
言い換えると、その分だけ、「理性の力」も、強くなければならない。
もし生きる力だけが強く、理性の力が伴わなければ、その力は破滅的な方向に向かってしま
う。
生きる力が強い人は、それだけ悪に手を染めやすいということにもなる。
●バランス感覚
そこで重要なのが、バランス感覚。
私たちは、(生きたいという力)と、(死にたいという力)、
(創造したいという願望)と、(破壊したいという願望)、
さらに言えば、(善)と(悪)。
その相反するエネルギーの中で、絶妙なバランスを保ちながら生きている。
このバランスが崩れたとき、悪人は悪人になる。
行動が破滅的になり、それがときとして自分に向かう。
さて、本論。
●老人論
私は先に、こう書いた。
「年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる」と。
その理由は、年を取ると、生きる力が弱くなる。
そのためそれまで姿を隠していた、サナトスが、姿を現すようになる。
現在の「私」についてではなく、過去の「私」について、である。
その点、子ども(中学生)たちは、正直に自分を表現する。
自分を隠さない。
しかし同時に、それは私自身の過去の姿でもある。
私も心のどこかで、こう思ったことがある。
「隕石か何か落ちてきて、地球なんか、木っ端微塵に壊れてしまえばいい」と。
実のところ、最近でもときどきそう思う。
そういう自分が、よく見えるようになる。
●善人vs悪人
……こうして考えていくと、結論はただひとつ。
善人も悪人も、違いは、紙一重。
ついでに言えば、成功者も失敗者も、違いは、紙一重。
見た目には大きな違いに見えても、紙一重、と。
被災地で被災者のために懸命に働く人を、私たちは善人と言う。
隕石の落下を望むような人を、私たちは悪人と言う。
が、そのちがいは何かと言えば、その間には、何もない。
ちょっとしたきっかけで、善人は悪人になる。
悪人は善人になる。
善人の裏には悪がある。
悪人の裏には善がある。
善だけの善人はいない。
悪だけの悪人はいない。
ではそのちがいは何かと言えば、「理性の力」ということになる。
そのきっかけを、どう作っていくかが、結局は「教育」ということになる。
先に書いた「距離感」を作っていくのが、「教育」ということになる。
今朝は、善と悪について、心理学の立場で考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 リビドー サナトス 善人論 悪人 論 善と悪 距離感 はやし浩司 心理学 善と悪)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
以下、2006年にBLOGで発表した原稿です。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【善と悪】(2006−04−28記)
●昆虫のような脳みそ
+++++++++++++++++
「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。
「お前は、いったい、何様のつもり?」と。
+++++++++++++++++
「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前
は、いったい、何様のつもり?」と。
たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、い
つも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしま った。しかし、私にも、言い分がある。
いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪
は神の右手』と説く。しかし平等ではない。
善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れ
ば、どんな人でも、やがて善人になれる。
しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期
までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の 心の奥底に潜む。
それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。
仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとす
る。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、 翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人 の支配下に置かれるようになるかもしれない。
悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって
考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということ も、珍しくない。
この点でも、善と悪は、平等ではない。
恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もあ
る。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく 知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわ してしまう」と。
T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争
の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆 弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だ が、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところ から生まれた(?)。
「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをし
ないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦って はじめて、人は、善人になれる。
その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」
という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」とい うタイトルのもあった。
あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし
誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力 をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすば らしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。
だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもっ
た人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとた ん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。
このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのもの
は、即、削除してしまったが……。)
で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。セルバンテス
の男。ハハハ。
++++++++++++++++++
4年前に書いた原稿を、ここに添付します。
++++++++++++++++++
●善と悪
●神の右手と左手
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善が
あるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということら しい。
そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。
『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)
要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。
●悪と戦う
私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。
トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だ が、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪 は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をも つ。
子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦 うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。
たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれも
いない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の 邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。
●近づかない、相手にしない、無視する
が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。
たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐 車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止 まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこ れ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。
あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にすると いう意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。 かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だか ら、近づかない。相手にしない。無視する。
こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を 得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思 う。
●子どもの世界
子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪 への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子 どもがいた。
ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言 った。
この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう か。ノー! では、何か?
●考える力
そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分 の判断に従って行動しようとする意思ということになる。
となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解さ れるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでも ない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。
が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。
一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということ
になる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。
もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶか は、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。そ れについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、そ の「考える力」があるからということになる。
とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは 考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、 「神の力」ということになる。
(02−10−25)※
++++++++++++++++++++
●補足
善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。
今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。 小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本 当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。
私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目 の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われると か、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。
本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ 「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自 分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。
いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
ここに転載する。
++++++++++++++++++++
●四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)
子どもに善と悪を教えるとき
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの 世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校 の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放 り投げていた。
その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だ ってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話 が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい 人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」 と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問 題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あ
なたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれ と闘っているだろうか。
私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、 君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せる
か」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでた さが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、 大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(参考)
子どもたちへ
魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って言うんだよね。
みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。
ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。
そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●数遊び
今日のテーマは、数遊び。
年中児(4〜5歳児)のみなさんです。
数をテーマに、子どもの脳をいろいろな角度から、刺激してみました。
(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/puqcKCSlVzs"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/mmH0Y3inSdg"
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(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/DRpuVY366l8"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/d2X1w7NvQTY"
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【今日が仕事納め】(明日から、冬休み!)
●サイゼリアで夕食(12月27日)
夜のクラスまでに、1時間半の空きができた。
ワイフと2人で、サイゼリア(レストラン)へ行った。
夕食をとり、1時間ほど、そこで過ごした。
教室の外へ出ると、身を切るような冷気を感じた。
寒かった。
●正月の予定
正月の予定は、とくになし。
温泉地も、この時期はどこも満員。
料金も高い。
だから例年、私たちは静かにしている。
たぶん、今年も、そうなるだろう。
初詣なるものは、この数年、していない。
が、初詣の先取りというのは、している。
12月の終わりに、近くの神社へ行く。
人ごみが平気な人もいる。
そうでない人もいる。
が、私は基本的には、人ごみが苦手。
落ち着かない。
だから先取り。
「今年もよろしく」ではなく、「来年もよろしく」と。
いつもそう祈念する。
●年賀状
「年賀状はどうするの?」とワイフ。
「明日、書くよ」と私。
昔は手書きで、1週間仕事だった。
今は、プリンターを操作するだけ。
片手間で、できる。
楽になった。
が、同時に、ありがたみが消えた。
それもあって、数年前、年賀状廃止宣言なるものをした。
が、それでも(人とのつながり)は、残る。
この1、2年、逆戻り。
出す枚数が、ふえてきた。
ここは自然体で考えるしかない。
なりゆきに任せる。
それが(人生の流れ)。
●保安院
今日のニュース。
保安院が、東京電力に対して、厳重注意をしたという。
東京電力の(いいかげんさ)を、問題にしたらしい。
が、そんなことは、当初から、わかっていたこと。
3・11大震災から、すでに9か月もたっている。
どうして、今ごろ?
私たち一般庶民の目から見ると、保安院も東京電力も同じ。
同じ穴のムジナ。
当初はその両方が、肩を並べて、記者会見に臨んでいた。
●計画停電→料金値上げ→国有化
3・11大震災直後、東京電力は「計画停電」なるものを、実施した。
「私たちをいじめると、停電しますよ」と。
が、そのあと、電力が不足したという事実は、まったくない。
そこであの手、この手を使って、「国」から金(マネー)を出させようとした。
が、それがうまくいかないとわかると、今度は、「料金の値上げ」という言葉を使うようになった。
「私たちをいじめると、料金を値上げしますよ」と。
幼稚な心理。
幼稚な発想。
幼稚な脅迫。
そこで政府は、伝家の宝刀を抜いた。
「国有化するぞ」と。
逆に東京電力を脅した。
が、その前に、責任問題を明確にしてほしい。
これだけの被害を出しながら、責任者がいないでは、すまされない。
東京電力はすでに、こう言って、防波堤を立てている。
「私たちは国の基準に従い、許可を得てやっている(つまり責任はない)」
「私たちは国の指示通りに、行動している(つまり責任はない)」と。
どこまでも狡猾(こうかつ)な東京電力。
●北朝鮮と天皇制
だれもが、そこまでわかっている。
知っている。
しかしそれを口に出して言うことは、この日本では、タブー。
北朝鮮の新しい指導者は、金正恩。
その金正恩……。
独裁制がおかしい?
世襲制がおかしい?
偶像化がおかしい?
権威化がおかしい?
が、私たち日本人は、それを声に出して言うことができない。
言えば、日本という国自体が、自己矛盾の世界に落ち込んでしまう。
北朝鮮という国は、皮肉なことに、戦前、戦時中の日本とそっくり。
日本以上に、日本的?
私が子どものときでさえ、(戦後、10年近くもたってのことだったが)、「天皇」と呼び捨てにし
ただけで、父に殴られた。
「陛下と言え!」と。
「日本と北朝鮮は違う」と主張する人も多い。
しかしどこがどう違うのか?
それをきちんと説明できる人はいるのだろうか。
日本に言論の自由があるというのは、ウソ。
言論の自由度にしても、日本は、178か国中、11位(国境なき記者団2010)。
順だけをみれば、まずまず。
が、皇室問題に関しては、どうか?
男系男子?
賛成、反対?
男はよい?
女はダメ?
今どき、こんなアホなことを議論している国は、そうはない。
……おっと、口がすべった。
日本の言論の自由も、ここまで。
この程度。
●北朝鮮を支持?
中国が北朝鮮支持の姿勢を、鮮明にし始めた。
が、こんなことは、最初からわかっていたこと。
6か国協議が始まったときから、私はこう書いてきた。
「茶番劇」と。
「泥棒に、泥棒の管理を任せるようなもの」とも。
その結果が、今。
が、いつか必ず、現在の歴史を振り返るときがやってくる。
そのとき、恥をかくのは、中国。
現在の今の今も、政治犯収容所には、約20万人もの人が収容されているという。
「10年もたたずして、みな死んでいく」(脱北者証言)とも。
単純に計算すれば、1年で、2万人。
50年で、100万人。
あるいはそれ以上。
現在の悲惨な状況は、やがて明るみになる。
そのとき中国は、現在の中国を、どう弁解するつもりなのか。
●「窮乏者の年末」
数日前、どこかの新聞社が、こんな社説を載せていた。
題して「窮乏者の年末」(仮称)。
記事は読まなかった。
読むまでもなかった。
現在、「どうやって年越しをしたらいいのか」と、困っている人は多い。
お金がなくて、途方に暮れている人は多い。
そういう人たちへの、励ましの記事。
表題だけで、中身がわかった。
が、ここでパラドックス。
そういう人たちは、新聞代を払うお金もない。
つまり新聞を読まない。
読まない人に向かって、「がんばれ」と励ましても、意味がない。
貧乏の恐ろしさは、それを体験したものでないと、わからない。
まさに精神の拷問。
長くつづくと、心そのものが腐る。
●リビドーvsサナトス
昨日、善悪論を、心理学の世界で考えてみた。
15枚ほど原稿を書いた。
が、どうもうまく、まとめることができなかった。
そのことを、夕食をとりながら、ワイフに話した。
要するに、生命力が強い人ほど、同時に、破壊力も強いということ。
フロイトは、生命力を「リビドー」、破壊力を「サナトス」と呼んだ。
人は、この2つの力を、同時にもっている。
つまり飛躍した意見に聞こえるかもしれないが、こういうこと。
善への志向性が強い人ほど、悪への志向性が強いということ。
で、それをコントロールする力が、「理性」ということになる。
が、この理性ほどアテにならないものはない。
そこで釈迦は、「精進」という言葉を使った。
正しくは「正精進」。
つまり「中正かつ公正な精進」。
この場合の「正」は、「ごくふつうの」という意味。
わかりやすく言えば、「人が総じてもっている常識的な」という意味。
その常識を日々に、研さんし、磨く。
それが正精進。
それがないと、人は偏(かたよ)ったものの考え方をするようになる。
これが理性のコントロールを狂わせる。
●最後の一仕事
今年も、残すところ、あと1クラス。
それが終われば、冬休み。
帰りにワイフと打ち上げ会。
毎年、そうしている。
……今年も、いろいろあった。
本当に、いろいろあった。
その「いろいろ」という言葉の中に、ぎっしりと思い出が詰まっている。
が、こうして無事、年を越せることに感謝する。
大きな病気は、しなかった。
みな、健康だった。
来年(2012年)も、現状維持。
それを目標に、がんばる。
がんばるしかない。
さあ、これから教室に戻り、一仕事。
(以上、市内、サイゼリアにて、はやし浩司 2011−12−27夕方記)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【冬休み】(今年は、遊ぼう!)
●第1日目
昨日、岐阜県関市板取村にある、「山の宿・ひおき」に電話を入れた。
コテジ風の民宿である。
宿泊を申し込もうとしたが、「冬の間は、やっていません」とのこと。
つまり休業中。
残念!
しかたがないので(失礼!)、今朝、浜名湖かんざんじ荘に電話を入れた。
「本日なら、部屋が取れます」と。
ラッキー!
……ということで、冬休み初日は、かんざんじ荘の温泉(温泉だぞ!)で、1泊。
1年のアカ落としを、そこですることにした。
●年賀状
本日(28日)、年賀状を発送。
元旦に着くことを願いながら、本局まで行って、投函した。
途中、DVDショップに立ち寄った。
ワイフは旅館ではいつも、DVDを観る。
そのDVDを借りた。
ついでに郵便局の帰りに、行きつけのざるそば屋で、ざるそばを食べた。
そのとき私はこう宣言した。
「今年の冬休みは、遊んで、遊んで、遊びまくるぞ」と。
●ベトナム
オーストラリアの友人は、今、ベトナムにいる。
オーストラリアを出発する前、そんな連絡が入った。
「ベトナムかあ……いいなあ」と。
あの国の人たちは、ヒマさえあれば、外国へ出かける。
距離に対する感覚が、日本人のそれとは、まったくちがう。
500キロ、1000キロなど、彼らにしてみれば、隣町。
加えて移民国家。
「外国」という言葉についても、私たちとはちがった概念をもっている。
●舘山寺に向かう
舘山寺に向かう前、沼津のH会館(ホテル)に電話した。
正月X日の講演のあと、沼津の温泉に一泊する。
あれこれ迷ったあと、H会館にした。
ネットで予約できないからといって、あきらめてはいけない。
電話で直接交渉すると、繁忙期でも部屋が取れるときがある。
H会館にしても、そうだ。
ネットでは、「満室」となっていた。
「念のため……」と思って電話をすると、「空いています」と。
ラッキー!
X日は、そのH会館に一泊することにした。
●小食派
若いころは、温泉に泊まるなどということは、考えもしなかった。
どこか老人臭い。
「温泉というのは、老人が泊まるもの」と。
(たしかにそうだが……。)
そう思っていた。
が、今はちがう。
どこへ行っても、まず温泉地をさがす。
そこで一泊する。
料理には、あまりこだわらない。
そこそこのものであればよい。
ワイフも私も、小食派。
ところで「小食」と書くのが正しいのか、それとも「少食」と書くのが正しいのか。
が、こういうときは、その反対を考えてみると、わかる。
「大食」とは言うが、「多食」とは言わない。
だから「小食」が正しいということになる。
理屈の上では……。
●講演
講演をするようになってから、もう20年になる。
当初は近くの小学校や幼稚園でさせてもらった。
もちろん私のほうから頼んで講演をさせてもらったことは、一度もない。
講演というのは、そういうもの。
ただ政治家とちがい、講演したからといって、メリットはまったくない。
講演には、(そのつぎ……)がない。
いつも話しっぱなしで、終わる。
名誉にはなるが、数週間もすれば、私の話したことなど、人々の記憶からも消えてしまうだろ
う。
が、楽しいことも多い。
●講演旅行
何が楽しいかといって、そのまま旅行ができること。
その地域の名物が食べられること。
それもあって、講演の依頼があると、すぐその地域の温泉や名物を調べる。
最近では私たちよりワイフのほうが、楽しみにしている。
「今度、○○で講演だよ」と報告すると、「じゃあ、○○温泉ね」と。
のんきな性格で、私の苦労など、ぜんぜんわかっていない。
講演といっても、かなり神経を使う。
緊張する。
講演のあと数時間は、食欲そのものが失(う)せる。
実際には、講演のある日は、朝から食事を抜く。
胃の中をからっぽにしておかないと、脳みその活動そのものが鈍る。
それに体調。
大きな講演会があるときは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
また当日にしても、どんなに近くても私は電車を利用する。
車だと、渋滞に巻き込まれたりする。
まだある。
約束の電車より、いつも1つ前の電車で現地へ着くようにする。
この仕事には、遅刻は許されない。
「旅行」と浮かれることができるのは、講演が終わってから。
が、そうでないときもある。
講演のできが悪かったりすると、そのあとガクンと気分が落ち込む。
そうなると旅行気分など、どこかへ吹き飛んでしまう。
●湖上百景・浜名湖かんざんじ荘にて
かんざんじ荘には、午後4時ごろついた。
軽い悪寒を覚えたので、そのまま温泉に。
温泉には、私、ひとりだけだった。
のんびりできた。
ほぼ夕暮れ時だったが、直線的な白い陽光が、ガラス窓を通して顔に当たった。
部屋に戻ると、ベランダの椅子に座り、あれこれ考えた。
遠くには、山荘のある山々も見える。
が、この安心感は、どこから来るのか?
……?
最近、気がついたことがある。
ときどき海ぎわの旅館やホテルに泊まることがある。
そのときのこと。
どうも落ち着かない。
このあたりでも3・11震災並みの大地震が起こるかもしれないという。
もし起これば、同じような津波が海岸地域を襲うはず。
海ぎわの旅館やホテルなど、ひとたまりもない。
それが私を不安にさせる。
が、このホテルは、山の上。
津波の心配は、まったくない。
それが安心感につながっている。
たぶん……。
●特異現象
金正日が死んだ日、北朝鮮ではいろいろな特異現象が観察されたという。
たとえば……。
『……冬空に稲妻が走り、タンチョウヅルはこうべを垂れた……。北朝鮮メディアは金正日総
書記の死去発表後、特異な自然現象の発生を死去と関連付け相次いで報じている』(ロイタ ー)と。
朝鮮中央通信という公的機関(?)が、そういうことを報道するから楽しい。
いわく『同通信はまた、東部の咸興市に建てられた金日成主席の銅像に20日夜、タンチョウ
ヅルが飛来し、銅像の上を3回、回って木に止まった後、長時間こうべを垂れていたとも伝え た。
目撃者は「ツルも弔意を表したようだ」と話したという』(共同通信)と。
が、こういう記事を読んで、笑ってはいけない。
この程度の記事なら、カルト教団の機関紙には、いつも載っている。
言い換えると、北朝鮮という国家そのものが、カルト化しているということ。
わかりやすく言えば、「宗教国家」。
核兵器を本尊とする、宗教国家。
またそういう前提で考えないと、あの国を真に理解することはできない。
だからいくらアメリカや韓国が、がんばっても、北朝鮮は核兵器を放棄などしない。
いくら餓死者が出ても、それはそれ。
カルト教団では、理屈はご法度(はっと)。
理屈で考えたら、教団そのものが崩壊してしまう。
北朝鮮にしてもそうだ。
どうしてタンチョウヅルなのか?
タカやワシでは、だめなのか?
あの種の鳥はどれも、クチバシが長いから、休むときは、みな頭(こうべ)を垂れる。
が、こうして理屈で考えたら、体制そのものが崩壊してしまう。
もし私が今、北朝鮮に住んでいたら……。
あっという間に、公開処刑!
それを考えると、ゾッとする。
●心の汗?
肉親や親類の死を知り、ほとんどの人は、その死を悲しむ。
しかし(悲しむ)ことと、(泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
さらに(泣く)といっても、(密かに泣く)という行為と、(公然と泣く)という行為の間には、大きな
距離がある。
個人差もある。
一般論から言えば、人は泣くことによって、抑圧された感情を発散する。
わかりやすく言えば、泣くことによって悲しみを軽減することができる。
が、それにも臨界点がある。
悲しみもその臨界点を超えると、泣いたくらいでは癒せなくなる。
そのため悲しみを、さらに倍加させてしまう。
このことは泣く子どもを観察してみると、わかる。
たとえばピアノのレッスンなら、ピアノのレッスンでよい。
そのとき子どもによっては、その前になると、決まってぐずったりする。
が、このばあいの涙は、心の汗のようなもの。
ぐずることによって、心にかかった負担(=ストレス)を発散する。
だからある程度それがすむと、ケロッとし、ピアノのレッスンを始めたりする。
だから親にはこう教える。
「子どもがぐずるときは、温かく無視し、ぐずりたいだけぐずらせてあげなさい」と。
こういうケースのばあい、けっして無理をしてはいけない。
叱ったり、強制してはいけない。
が、それでもぐずるようであれば、本人の処理能力を超えたと判断する。
ピアノのレッスンを控える。
金正日の葬儀の場で、ワーワーと泣く北朝鮮市民の姿をネットで見ながら、そんなことを考え
た。
みなの見ているところで、おおげさに泣いて見せる。
ふつうの常識のある人なら、そんなことはしない。
たとえ本当に悲しくても、そんなことはしない。
感情をむき出しにするというのは、怒りであれ、恨みであれ、それだけその人の人格の完成度
が低いことを示す。
もちろん大げさに泣くのも、そのひとつ。
●男が男湯で盗撮?
さらに驚いた事件が、これ。
『……京都教育大学の職員の男が、東京・調布市にある温泉施設の男湯の脱衣所に、盗撮
目的で侵入したとして、警視庁に現行犯逮捕されていたことがわかりました』(TBSi−。ニュー ス)と。
男が男の脱衣所に侵入し、カメラで男の裸を撮ろうとした、と。
「京都教育大学の職員」という部分は、愛嬌。
私はこの記事を読んだ直後、「何かのまちがいではないか」と思った。
が、何度読んでも「男湯」。
どうして?
そんなに見たかったら、湯船にでもつかり、ゆっくりと見ればよい。
どうして盗撮なのか?
性癖ほど、摩訶不思議なものはない。
それはよくわかっているが、この事件は、私の常識をはるかに超えている。
私「妻のために、夫が盗撮してやったのだろうか」
ワ「女性は、そんなこと、望まないわよ」
私「わからないよ。中には男の裸を見たいと、夫にねだる妻だっているかもしれないよ」
ワ「いないわよ……」
私「そう、決めつけてはいけないよ」と。
以前、記憶にある事件には、こんなのがあった。
男児や少年の裸を盗撮し、それを児童ポルノとして販売していた男がいた。
そういうケースも考えられなくはない。
が、この記事からだけでは、よくわからない。
何か、裏がありそう。
●男心vs女心
ここでクェスチョン。
男が女湯に入ってみたいというのは、よくわかる。
男は視覚的に、女性の中に、「女」を感ずる。
が、女はどうか?
ワイフの説によれば、女にはそれがないという。
ならば聞くが、どうして女は、男に体を見られるのをいやがるのか。
「見たい」と思う男。
しかし女は、「見られたくない」と。
私は「見られても減るものではないから、もっと見せてくれてもいい」と思う。
が、現実には、そうでない。
なぜか?
男に、「見たい」という本能があるとするなら、女には「見られたくない」という本能があるという
ことになる。
が、これはおかしい。
「見られたくない」と言いつつ、女は無意識のうちにも、肌を露出し、男心を誘っている。
誘っておきながら、「見られたくない」とは?
そういう矛盾を、どう理解したらよいのか。
●夕食
浜名湖かんざんじ荘の夕食は、すばらしい。
今回も、もっともスタンダードなコースを頼んだ。
が、それでも大満足。
景観、料理ともに、これで文句を言う人はいない。
ただ部屋だけは、旧国民宿舎ということもあり、狭い。
8畳+2畳ほどのベランダ。
内湯はなし。
部屋食もなし。
が、こういうところでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
それがわかっていても、食べ過ぎてしまう。
部屋へ戻ってから、しばし後悔の念で、心が塞ぐ。
●DVD『ロシアン・ルーレット』
ワイフは、『ロシアン・ルーレット』というDVDを観ている。
発想からして、バカげている。
意味のない殺人映画。
こんなシーンが目に留まった。
10数人の男が、円になってぐるりと並ぶ。
それぞれがその前の人の後頭部に、ピストルの銃口を向ける。
ピストルには、弾が、1発ずつこめられている。
合図と同時に、ピストルの引き金を引く。
(ピストルは、リボルバー式。
弾が1発のときは、弾が発射される確率は、6分の1となる。)
……こうしてそのつど、何割かの男たちが床に倒れていく。
それを見ながら、別の男たちが、だれが生き残るか、お金を賭ける。
問題は、その合図。
DVDの中では、天井につりさげられた電球が灯ったとき、みながピストルを撃つ。
そのときのこと。
合図の電球が灯ったら、すかさず、すぐ引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味で引き金を引いたほうが、得なのか。
(1対1のとき)……すぐ撃ったほうが、得。
(3人のとき)……すぐ撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は低くなる。
つまり自分を撃つ男の生き残る確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、高くなる。
が、反対に、遅れ気味で撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は高くなる。
つまり自分を撃つ男の死ぬ確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、低くなる。
だから3人のときは、遅れ気味に引き金を引いたほうがよい。
敵の敵は味方。
そう考えると、わかりやすい。
(4人以上のとき)……どちらが得なのだろう?
合図と同時にすかさず引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味に引き金を引いたほうが得なのか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、眠くなってきた。
●鈴木M氏
あの鈴木M氏が、仮釈放により出所してきた。
その鈴木M氏が、すかさず始めた運動が、新党結成。
届け出た名前が、ウサン臭い。
「真民主党」。
その政党がそうというわけではない。
が、人は、自分の醜い意図を隠すため、えてして逆の名前をつけたがる。
「真」という文字も、そのひとつ。
何をもって、「真」というのか?
それに私の記憶にまちがいがなければ、鈴木M氏は、今後5年間は選挙に出られないはず。
法の趣旨からすれば、5年後であれ、今は選挙活動を自粛するのが常識。
が、ことあの鈴木M氏に関していえば、そういった常識が通じない。……らしい。
受託収賄罪についても、当初から無罪を主張。
最高裁まで争った経緯がある。
その話は別として、私はあの鈴木M氏を見るたびに、こう思う。
「この男を動かしているエネルギーは、いったい、何なのか。どこから生まれるのか」と。
ふつうのエネルギーではない。
すさまじいばかりのエネルギーである。
私には権力欲に狂った、ただの亡者にしか見えないのだが、亡者なら亡者でもよい。
どこからそういったエネルギーが生まれるのか。
「日本をよくしたい」と、鈴木M氏は、本気でそう考えているのかもしれない。
それにしても、すさまじいばかりのエネルギーである。
が、フロイト風に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)が強い分だけ、サナトス(破滅的エネ
ルギー)も強いはず。
今はまだよくわからないが、「日本をよくしたい」という思いよりは、「日本をメチャメチャにした
い」という思いのほうが強いのではないのか。
鈴木M氏の今までの言動を追ってみると、私には、そう見える。
あのタイプの政治家の出現には、じゅうぶん注意したらよい。
●深夜
午後10時ごろ、2回目の入浴をした。
部屋に帰ると、そのまま就寝。
だから10時半ごろ、就寝したことになる。
が、夜中に夢を見た。
……というか、のどの渇きを覚え、目が覚めた。
●リクラゼーション・ルーム
温泉の右隣に、リクラゼーション・ルームという部屋がある。
夜中に3時に、パソコンをもち、その部屋に移動した。
その部屋でなら、思う存分、パソコンを叩ける。
そう考えた。
入り口の前には、自動販売機があった。
私は2本のペットボトルを買った。
ルームの中には、2台のマッサージ機と、いくつかのソファ。
本棚と本箱があった。
本棚には、マンガ本がずらりと並んでいた。
本箱には、「司馬遼太郎・街道をゆく」という写真雑誌が、5冊並んでいた。
●「街道をゆく」
3本目のペットボトルを買うため、立った。
そのついでに、「街道をゆく」を、何冊かパラパラとめくって読んでみた。
一読して、「すごい旅行記だなア」と思った。
思ったが、その中の1ページに、立松和平のコラムが載っていた。
とたん、読みたいという気持ちが、スーッと萎えてしまった。
立松和平……1度、盗作事件が発覚してからというもの、彼の文章を読みたいとは思わなく
なってしまった。
が、2度目があった。
そのとき立松和平は、テレビ画面に向かって、こう言って泣きじゃくっていた。
「許してもらえましたア」と。
盗作した相手に許してもらえた、と。
が、この問題は、許すとか、許されるとかいうレベルの問題ではない。
私はいつも逆の立場で考える。
こんな事件があった。
●盗作事件
ちょうど1年ほど前のこと。
ネットで私の文章を検索していたら、私の書いた原稿がそのまま載っているサイトを見つけた。
1ページや2ページではない。
全体で、10ページ前後。
N県の県警本部が管理するサイトであった。
(N県の県警本部という、県警本部が管理するサイトだぞ!)
私の文章が3〜5段に分割され、前後を入れ替えた状態で、そこに掲載されていた。
しかも丁寧に、いちばん下に、「無断転載禁止」と。
私は即座に、そのN県の県警本部に電話を入れた。
が、電話に出た相手は、逆ギレ。
「証拠があるのか!」というようなことまで言った。
そこで私は私が書いた文章と、そのサイトに載っている文章を、電話口で読み比べてみせ
た。
1時間半ほど、かかった。
結果、相手はそれを認め、一転、「浜松まで謝罪に行く」と言い出した。
力のある者が、力のない者を利用する。
有名人が無名人を、利用する。
私は、それが許せなかった。
つまり立松和平がした行為は、まさにそれに当たる。
もの書きの世界では、一事が万事。
万事が一事。
立松和平は、日常的に盗作をつづけていた。
そう疑われても、しかたない。
そういうことが平気でできる(作家)というのは、そうはいない。
一般の世界では、「ちょっと他人の文章を拝借して……」ということもあるかもしれない。
しかし(ものを書く人間)には、それはない。
それをしたら、おしまい。
こんな私でも、……つまりまったく無名で、しがないもの書きの私でも、「盗作」だけはしない。
したら、おしまい。
ものを書く人間には、ものを書く人間の(魂)というものがある。
文に対する、思い入れそのものが、ちがう。
立松和平は、そんなもの書きの心を、自ら土足で踏みにじった。
立松和平はそれでよいとしても、その悲しみ、怒りは、盗作されたものでないとわからない。
「許してもらえましたア」と、泣きじゃくって喜ぶようなレベルの話ではない。
それにもう一言、付け足すと、こうなる。
「盗作」などというのは、偶然の、そのまた偶然が重ならないと、発覚しない。
N県の県警本部のサイトにしても、それが見つかったのは、偶然中の偶然だった。
相手がサイトにUPしていたからこそ、わかっただけで、ふつうなら、わからない。
●仮面
人はだれしも、仮面をかぶっている。
私もかぶっているし、あなたもかぶっている。
仮面が悪いというのではない。
仮面をかぶるからこそ、円滑な人間関係が維持できる。
わかりやすいのは、ショッピングセンターの女子店員。
にこやかな顔をし、やさしい声で、こう言う。
「いらっしゃいませ」と。
が、そういう女子店員を見て、人間的にすぐれた人と思ってはいけない。
(だれもそうは思わないが……。)
女子店員は、「店員」という仮面をかぶっているだけ。
そういう仮面をかぶりながら、私たちをよい気分にさせる。
それを利用し、私たちから、金(マネー)を、むしり取る。
(と、まあ、そこまで考える必要はないが……。)
が、中には、仮面をかぶったまま、仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。
仮面の自分を、本物の自分と思い込んでしまう。
「聖職者」と呼ばれる人たちに、このタイプの人が多い。
そこで大切なことは、私たち自身も、その仮面を見抜く力を養うこと。
仮面にだまされては、いけない。
さらに言えば、仮面の向こうにある、本物の相手を見抜くこと。
このことは子どもを教えてみると、よくわかる。
たとえば中に、従順で、私の指示にそのまま従う子どもがいる。
が、そういう子どもほど、心配。
いろいろな問題を引き起こす。
教えにくい。
反対に、そのつど反発する子どもがいる。
プリントを渡したりすると、「また、プリント! いやだ!」と。
このタイプの子どもは、一見生意気で、教えにくい。
が、その実、心がつかみやすい。
教えやすい。
●得体の知れない人
私の年齢になると、人間関係を総括することが多くなる。
が、それはむずかしい作業ではない。
心の中の印象をさぐってみればよい。
そのとき、ふと温かい印象が返ってくる人もいれば、そうでない人もいる。
中には、20年とか30年もつきあっているはずなのに、得体の知れない人もいる。
いろいろ思い出してみるのだが、その人の(形)が浮かび上がってこない。
上辺(うわべ)では、よい人ぶっている。
しかしその実、心の中は、ねたみと怒り、恨みと不平不満だらけ。
こんな人もいた。
●辛辣(しんらつ)な書き込み
こうして文や動画を公表していると、ときどき、辛辣な批判が届く。
が、そんなことをいちいち気にしていたら、文や動画など、公表できない。
しかしその批判は、群を抜いていた。
原文のまま、ここに紹介する。
「このおっさんなんですか、全然わかってない。
本人にしかわかんないこともあるんだよ。
このおっさん何でたらめばかり言ってんだ。
ちゃんと勉強してから出直せば・・・・ って言いたいです。
とにかくでたらめ。
やってる子供は気持ちいいって何・・ xx症の娘を持つ母親ですが、この人、何者。
ドーパミン説は知っていますが、なぜ、ドーパミンが過剰分泌されるか(その反対でもよい)、そ
こに家庭に原因があると解いています。
今は家庭環境のせいではなく、ドーパミンの過剰発生が原因とされているようです。
親の教育が悪いというのは偏見だそうです。
偏見を助長するだけだよ。
娘は辛くて泣きそうなんだよ 浜松のおっさんへ!
育児論で障害を語るなよ」と。
反論は別の機会にすることにして、私はこの女性に興味をもった。
そこでいろいろなチャンネルを使って、この女性を追跡してみた。
まずハンドルネームを検索。
そこからその女性が発行している、別のBLOGをヒット。
さらにそこで使っている、別のハンドルネーム(MR)を検索。
最終的に、九州のK県に住んでいる、45歳の女性ということがわかった。
本名もわかった(TM)。
しかもその女性は、1冊だが、育児書を出版していることまで、わかった(「〜〜日記」)。
「ちゃんと勉強してから出直せば・・・・」という言葉も、そのあたりの(自信?)から出てきたらし
い。
「○○症」という神経症の多くが、家庭環境に原因があると書いたのが、よほど強く癇(かん)
に障(さわ)ったらしい。
が、現在では、子どもの問題は、家族の問題と考えるのが常識。
子どもは家族の「代表」にすぎない。
私がそう言っているのではない。
医療機関でも、子どもに何かの問題があると家族全員を集め、家族全員を指導する。
2000年ごろから、そういう傾向がたいへん強くなった。
それはともかくも驚いたのは、その女性が別のBLOGなどでは、まさにレディ然とした文章を
書いていること。
どちらが仮面で、どちらが本物かなどということは、論ずるまでもない。
私はその(落差)に驚いた。
●仮面は仮面
話を戻す。
仮面は仮面。
仮面はかぶらないほうがよい。
かぶっても、それが仮面であることを、いつも自覚する。
また相手を見るときも、そうだ。
仮面の向こうにどんな顔があるかを、知る。
こうした操作を忘れると、人間関係がメチャメチャになってしまう。
みながみな、悪人というわけではない。
しかし同時に、みながみな、善人というわけでもない。
●第2日目
冬休み、第2日目になった。
12月29日、木曜日。
部屋のカーテンを開けると、真っ青な空が一面に飛び込んできた。
朝食まで、あと15分。
現在時刻は、午前7時15分。
そろそろ帰り支度をしなければならない。
……ということで、浜名湖かんざんじ荘とも、そろそろお別れ。
では、みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 2011−12−29朝記)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【橋下徹市長の行政改革・支持する】「がんばれ、大阪市長、橋下徹氏!」
●あわててダイエット
ハハハ!
今日から、あわててダイエット!、プラス、運動!
体重が3キロも、オーバー。
現在、67キロ!
ハハハ!
正月には、いつも太る。
何を食べても、おいしい。
運動も、さぼり気味。
これだから正月は、困る。
●おせち料理
ワイフは、おせち料理の心配ばかりしている。
毎年、そうだ。
年末になると、そうだ。
HPの更新作業が終わったら、買い物に行くつもり。
まとめて買ったほうが安くつく……という説もある。
が、私たちはいつも、バラバラ。
つまり気に入ったものだけを、個別に買っている。
今年は、岐阜の従兄(いとこ)が、餅を送ってくれた。
だから、餅つきはなし。
(もともと餅つきをするつもりは、なかったが……。)
何ともさみしい正月。
まったくふだん通りの正月。
平凡であることを、喜ぼう!
●計画
計画はいくつか、ある。
あるが、こうしたBLOGでは、公表できない。
またしてはいけない。
公表すれば、泥棒に「おいで」を言っているようなもの。
以前は、講演日時を公開していた。
それについて、親切な人が、こう教えてくれた。
「公表しないほうが、いい」と。
BLOGには、予定や計画を、書いてはいけない。
さて、本題。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●大阪市長
橋下市長の意気込みには、頭がさがる。
まさに平成の坂本龍馬!
今朝の読売新聞には、「(橋下市長)、労組に闘争宣言」とある。
++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++
原稿に目を落とすことが多かった橋下徹・大阪市長が顔を上げて訴えたのは、職員労働組合
との「闘争宣言」だった。
橋下市長が就任後初の施政方針演説に臨んだ28日の市議会。橋下市長は演説で……「組
合が、公の施設で政治的な発言を一言でもするようなことがあれば、断じて許さない」と職員組 合批判を繰り出した。
問題にしたのは、大阪交通労組(大交)など労組による市庁舎内の政治活動。
市長選で争った前市長の推薦者カードを、勤務時間に配布したなどとされる。
橋下市長は、労組側がこの問題で謝罪文を提出しようとしたことを明かし、「組合は謝罪文1
枚で済まそうとした。市民感覚とかけ離れている」とかみついた。
その後も「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」と敵視す
る発言を繰り返し、最後は「市役所の組合を改善することで、全国の公務員組合を改めること しか、日本再生の道はない」と言い切った。
労組批判は用意した原稿にはなく、すべてアドリブで、約5分間に及んだ。
さらに、演説後の市の幹部会議でも批判は続き、橋下市長は「組合の言うことを聞かないと人
事で冷遇される、という手紙やメールが中堅、若手職員から来ている」と言い放った。
市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市
民受けを狙ったんだろう」と漏らした。
++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++
●目の前で歯磨き
だれが見ても、現在の公務員社会は、おかしい。
先日も、県の○○局へ書類を取りに行った。
そこでのこと。
12時JUSTになったら、収入印紙の販売窓口が、パタリと閉まった。
収入印紙が買えなければ、自動的にすべての業務が停止する。
……停止してしまった。
私とワイフは、しかたがないので、午後1時まで、その前の座席で窓口が開くのを待った。
が、私が信じられないような光景を見たのは、そのあとのことだった。
しばらくすると職員たちが、食事から戻ってきた。
が、そのうちの2人が、私たちの見える場所で、歯を磨き始めた。
そのうち1人は、歯ブラシをくわえたまま、フラフラと歩いていた。
その態度のでかいこと、でかいこと。
民間企業では、ぜったいにありえない光景である。
客である私たちの見ているところで、歯磨き?
私とワイフは、その光景を見て、心底、驚いた。
仕事に対する感覚そのものが、ずれている。
完全に、ずれている。
市民感覚から、完全にずれている。
大阪市長は、恐らくそういう光景を、毎日のように見ているのだろう。
だからかみついた!
●橋下市長の闘争宣言
「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」(読売新聞)と。
現在、公務員が覆面のまま、政治活動をしている例は、たいへん多い。
そういうサイトが、(正確な数はわからないが)、何10とある。
ためしに公務員を批判したBLOGを書いてみるとよい。
そのあと、かならずと言ってよいほど、抗議の書き込みやコメントが届く。
あるいは試しに、「はやし浩司」を検索してみるとよい。
どういう連中が、どのように私をこき下ろしているか、それを読めばわかる。
それが現在の公務員社会である。
ともかくも、今や、公務員社会に対する怒りは、爆発寸前。
1人ひとりの公務員に責任があるわけではない。
それはよくわかっているが、しかし爆発寸前。
が、悲しいかな、私たち一般庶民は、どうすることもできない。
ワイフはこう言った。
「だって、警察も機動隊も、それに自衛隊も公務員でしょ」と。
つまりいくら騒いでも、勝ち目はない。
私たちはいつの間にか、この日本をそういう国にしてしまった。
詳しくは『おいしい公務員』(週刊ダイアモンド・2011・10・15日号)を読んでみたらよい。
怒る前に、あきれてしまう。
だからいろいろ問題はあるが、今は、橋下市長に、エールを送りたい。
「めげるな、橋下市長! その旋風を全国にまき起こせ!」と。
なおこれに対して、読売新聞はつぎのように伝える。
『市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市
民受けを狙ったんだろう」と漏らした』(読売新聞)と。
そうじゃないよ、民主系市議さん。
あなたの感覚は、市民感覚から、完全にずれている!
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 大阪市 橋下市長 がんばれ 支持 支持する はやし浩司 橋下 徹 橋下徹)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●冬休み、3日目(映画『ニュー・イヤーズ・イブ』 (New Year's Eve)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
昨日、『ニュー・イヤーズ・イブ』という映画を観てきた。
一言で表現すれば、ゴチャゴチャ映画。
8組の人々が新年に向け、それぞれの思いをもって、動き出す。
……という内容の映画。
最初の90%は、観るに耐えない映画。
何度も席を立って帰ろうかと思った。
ボン・ジョビや、ロバート・デニーロなど、スターは
豪華だが、駄作は駄作。
アメリカ人の軽薄さを、そのまま凝縮したような映画。
恋愛主義、セックス主義……。
星など、つけようもない。
おまけに8組の人々が、同時進行で描かれているため、
場面ごとに頭を切り換えるだけでも、たいへん。
何がなんだか、さっぱり訳が分からない。……分からなかった。
料理にたとえるなら、ラーメンと寿司、スパゲッティと
ドーナツ、(←これで4組)、カツ丼と焼き肉、シャブシャブと
豆腐料理、その8組を同時にテーブルに並べたような映画。
最後の10%は、ほどほどのできだったが、それまでがまん
できる人は、少ない。
劇場だったから最後まで観たが、家庭では無理。
家庭だったら、私なら最初の10分で、DVDをパッケージに
しまっていただろう。
頭の中がゴチャゴチャになる苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
がまんして、椅子に座っている苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
私はその『ニュー・イヤーズ・イブ』を観ながら、改めて
こう実感した。
「日本は、完全にアメリカ文化にノックアウトされている!」と。
先に書いた恋愛主義もそのひとつ。
「恋愛がすべて」というものの考え方を、恋愛主義、あるいは恋愛
至上主義という。
(私がそういう名前をつけた)。
プラス、セックス主義……といっても、節度のないフリーセックスだが、
日本もそのセックス主義に毒されてしまった。
恋愛とセックス……それがすべて!
私はそのつど、頭の中で、昔の日本と対比させた。
(昔の日本が、かならずしもよいわけではないが……。)
「昔の日本は、こうだったのだがなあ……」と。
『ニュー・イヤーズ・イブ』の中に描かれている世界は、
そっくりそのまま、日本の現代の若い世代の世界ということになる。
享楽主義と快楽追求主義。
親には無私の愛を求めながら、自分たちは勝手し放題。
酒とセックスと金(マネー)。
人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにもない。
で、ああいう映画を無批判に観てはいけない。
気がついたつきには、そのままアメリカの低俗文化に、毒されてしまう。
(現代が、そうだが……。)
そのまま恋愛主義、金権主義、ゆがんだ家族主義、さらには
享楽主義、快楽追求主義に、洗脳されてしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ニューイヤーズ・イブ ニュー・イ ヤーズ・イブ ニューイヤーズイブ New Year's Eve 映画評論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●浜松の言葉
前にも書いたが、浜松には浜松の、独特の言い方がある。
たとえば、ほかの地方で、「本当ですか?」と言うとき、浜松では、「ウッソー!」と言う。
浜松の人たちは、ごく日常的にこの言葉を使う。
が、私はそうでなかった。
はじめて浜松へ来たときには、この言葉には心底、面食らった。
「ウソとは何だ!」「失礼ではないか!」と。
本気で、けんか腰になったこともある。
ほかに、たとえば、「まだ、(あの仕事を)やってるのノ〜?」という言葉がある。
「ノ〜?」という部分で、尻上がりになる。
「まだ、あの仕事をつづけているのですか?」という意味で、相手に、そう言う。
が、この言葉は、ときとばあいによっては、相手を激怒させる。
浜松に住んで40年以上になるが、今でも、頭にカチンと来る。……ときがある。
たとえば昔の知り合いに、久しぶりに会ったとする。
そのとき、相手が、こう言う。
「まだ、(あの仕事を)やってるのノ〜?」と。
聞き方によっては、「まだ、(あんなつまらない仕事)、つづけているの?」とも取れる。
「いいかげんに、やめたら」とか、「くだらない仕事してるね」とか、そんなふうにも取れる。
だからカチンとくる。
ほかにもある。
浜松の人は、相手の行為を傍から見ながら、よくこう言う。
たとえば自転車に乗ろうとすると、それを傍から見ながら、こう言う。
「自転車に乗るのオ〜?」と。
とたん、「見ればわかるだろ!」と言い返したくなる。
わかりきったことを、いちいち確認してくる。
これも聞き方によっては、馬鹿にされたように感ずる。
「今どき、自転車で通勤するなんて!」とも取れる。
「恥ずかしくない?」とも取れる。
全体としてみると、浜松の言葉は、ぶっきらぼう。
感情をそのままぶつけてくる。
そのため、奥ゆかしさがない。
浜松が、「街道沿いの宿場町」と言われる所以(ゆえん)は、こんなところにもある。
●恋愛主義
映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の話に戻る。
先に「恋愛主義(恋愛至上主義)」について、書いた。
「恋愛こそ、すべて」と考え、行動の原点にするのが、恋愛主義。
ほかにも出世主義、金権主義、家族主義などがある。
『ニュー・イヤーズ・イブ』に出てくる、8つの組のうち、7組までが、恋愛がらみ。
残り1組だけが、死にいく父親(ロバート・デニーロ)と娘の関係。
それぞれがそれぞれの立場で、恋愛を成就していく。
が、どうしてそれが「奇跡」(映画案内)なのか。
もちろん私は恋愛を否定する者ではない。
しかしそれにも、限度というものがある。
人間は恋愛のためだけに、生きているのではない。
いわんやセックスのためだけに、生きているのではない。
それぞれがそれぞれの目的や使命をもって、生きている。
が、こうしたアメリカ映画ばかり観ていると、それがわからなくなる。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、それが最高にすばらしいことと錯覚してしまう。
●お涙ちょうだい
ロバート・デニーロ演ずる父親は、最後に娘と再会し、そのまま息を引き取る。
そのあとのこと。
娘が父親の遺品をみると、そこに自分の子ども時代の写真があることを知る。
娘は、じっとその写真に見入る……。
おなじみの(お涙ちょうだいシーン)である。
が、現実は、きびしい。
昨年、こんな話を聞いた。
この話も前に書いたことがあるが、こんな話。
父親が臨終を迎えた。
そこで娘が、遠くにいる弟に連絡をした。
弟、つまりその父親の息子からは、15年来、音信がなかった。
息子が病院へかけつけると、それを制したのは、母親だった。
母親はその息子に、こう言った。
「今ごろ、何をしに来たの!」と。
息子は病院の玄関先で、追い返されてしまった。
●幻想
こういう話を聞くと、若い人ならこう思うにちがいない。
「何てひどい母親なんだ!」と。
が、本当にそうだろうか。
そう思ってよいのだろうか。
その母親というのは、ワイフの遠い親類にあたる女性だが、ワイフにはこう言った。
「夫(息子の父親)からは、万が一、息子が会いに来ても、部屋へ通すなと言われていましたか
ら」と。
それぞれの家庭には、それぞれの家庭の、複雑な事情というものがある。
その事情を無視し、第三者が短絡的に判断をくだしてはいけない。
その父親と母親にしても、息子が去ったさびしさを、15年間も堪え忍んだ。
15年間だぞ!
それは想像を絶する苦しみだったにちがいない。
そのため、夫婦関係がおかしくなったこともあるという。
そういう困難を何とか、夫婦で力を合わせ、乗り越えた。
その結果の、15年間である。
息子は、「親だから……」という幻想でもって、親をみるかもしれない。
「親だから、子どもに深い愛があるはず」と。
しかし親とて、1人の人間。
神や仏ではない。
息子のほうは、神や仏のような愛や慈悲を期待するかもしれない。
が、それは先にもかいたように、「幻想」。
映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の中では、父親と娘が最後の瞬間、抱き合って、(許し合う)。
感動的なシーン(?)のはずだったが、私は感動しなかった。
私なら、こう思っただろう。
「このまま、そっと死なせてくれ」と。
先に書いた父親と母親だが、ワイフが聞いたところによると、息子を忘れるため、アルバムさ
え、すべて燃やしてしまったという。
私はこちらのほうが(現実)だと思う。
恋愛主義、セックス主義の若い人たちには、それが理解できないかもしれないが……。
もちろんその逆もある。
●山城新吾
少し前、俳優の山城新吾氏が亡くなった。
生前、山城新吾は、娘にだけは会いたがっていた。
が、娘は、それをがんとして拒否した。
そのころ、つまり山城新吾氏が亡くなったころ書いた原稿に、こんなのがある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「やさしさがないなとは思う」とは?
++++++++++++++++++
俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。
++++++++++++++++++
『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。
07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人
ホームに入所。
その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花
園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。
その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまった
という。
S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。
生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。
このままひっそりとしてほしい。
人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいな
あ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。
なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発
起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分 骨される……』と。
この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。
わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。
何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、
容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らした』という。
この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。
こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。
こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えて
よい。
(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。
問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。
マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このよ
うな内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。
「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。
(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強
い。)
むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそ
れまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。
恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているに
ちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。
私自身は、山城新伍が好きだったし、今も好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではな
い。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●アメリカ文化の侵襲
……かくして日本人の心の中に、今の今も、アメリカ文化が侵襲しつつある。
ありとあらゆるメディアを使って、侵襲しつつある。
それがよいものであれば、それはそれでよい。
しかしこと恋愛主義、セックス主義については、どこかでブレーキをかけないと、人間が本来的
にもっている(まじめさ)まで、破壊されてしまう。
(まじめさ)というのは、静かな牧歌的な温もりのある(まじめさ)をいう。
時間が今より、はるかにのんびりと流れていたころの(まじめさ)をいう。
私が子どものころには、恋愛といっても、そこにはいつも両親がいたし、親類、近所の人たち
がいた。
そういう人たちに支えられて、恋愛というものがあった。
だから恋愛するにしても、そういう人たちの気持ちも考えて、恋愛した。
ここでいう(まじめさ)の中には、そういう人たちへの(思いやり)も含まれる。
が、今は、ちがう。
若い人たちは、恋愛したとたん、両親はもちろん、親類、近所の人たちを蹴飛ばしてしまう。
「自分たちが幸福なら、それでいい」と。
その返す刀で、「息子や娘が幸福なら、親も喜ぶべき」と。
へたに異議を唱えようものなら、息子や娘のほうが、親を捨ててしまう。
先に書いた、父親と母親にしてもそうだ。
その結果の15年である。
父親が死ぬ間際になって、のこのことやってきた息子。
それにおめおめと会う父親は、いない。
映画の中では、感動的なラスト・シーンということになる。
しかし映画は映画。
機関銃をバンバンと撃ち合う警官と銀行強盗。
映画の中ではおもしろいシーンだが、それと同じように、現実には、ありえない。
私「許すにも、時間がかかるよ」
ワ「そうね、会った瞬間に、許し合うということは、ありえないわよね」
私「それまでのわだかまりを溶かすというのは、容易なことではない」
ワ「……死ぬ間際だったら、余計に、無理でしょうね」
私「みんな、誤解していることがある。それはね……」と。
●死ぬ間際
死ぬ間際に、人は、どんな心理状態になるか?
数は多くないが、私も人に死に、何度か立ち会ってきた。
私自身も、そこに死を、直接感じたこともある。
そういうときの心理を、自分なりに解釈してみると、こうなる。
死ぬ間際というのは、人はみな、心が抜けたような静けさと穏やかさを覚える。
私もそうだった。
ちょうど2年前、山荘の廊下で倒れたときがそうだった。
あれほどまでに死を恐れていた私だったが、こう感じた。
「ああ、これで死ねる」と。
その瞬間、うらみ、ねたみはもちろん、さみしさや孤独、さらには、家族や親類の人たちへの愛
や思いまで、消える。
そこは恐ろしく何もない世界。
まったく何もない世界。
そんな死の瞬間に、「父親と娘が抱き合って、許し合う」などということは、ありえない。
だから私は、先にこう書いた。
「映画は映画」、つまり作り話、と。
●12月30日、金曜日
これから大掃除。
庭掃除。
正月の準備。
残すところ、今年も、あと1日。
私の時間も、ここまで。
……ということで、今日もがんばる。
2011/12/30朝記
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 臨終の心理 臨終の 心理学)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
【生きる目的と意味、そしてその生き様】(はやし浩司 2012ー01−01)
●前向きに生きる
前向きに生きるということは、簡単に言えば、過去を引きずらないということ。
そのためには、つぎの7つを守る。
(1)失ったものを、嘆かない。
(2)去った人を、追わない。
(3)ないものを、ねだらない。
(4)亡くなった人を、思わない。
(5)過去を、くやまない。
(6)失敗を、気にしない。
(7)自分の不幸を、数えない。
が、それだけでは足りない。
生き様そのものを変える。
自分に対しては、つぎの3つを守る。
(1)あるがままの自分を認める。
(2)負けを認める。
(3)今を原点として、生きる。
人間は、希望さえあれば、生きていくことができる。
が、希望は、だれにでもある。
今、ここに生きている、そのこと自体が、希望。
目が見える、音が聞こえる、風を感ずることができる……それが希望。
人と心を通わせることができる、ものを考えることができる……それが希望。
その希望は、自ら創り出すもの。
待っていても、やってこない。
日々の弛(たゆ)まない鍛練こそが、希望を生む。
肉体の健康、しかり。
精神の健康、しかり。
他人に対しては、つぎの5つを守る。
(1)人を、恨んではいけない。
(2)人を、ねたんではいけない。
(3)人に、ねだったり、甘えてはいけない。
(4)人を、うらやましがってはいけない。
(5)人に、へつらい、自分を裏切ってはいけない。
さらに老後の、しっかりとした設計図をもつ。
そのためには、つぎの4つを守る。
(1)私は私と割り切り、自分を他人と比較しない。
(2)年齢という数字を、気にしない。
(3)最後の最後まで、居直って生きる。
(4)孤独死、無縁死を、恐れない。
あとは日々、平穏を旨とし、取り越し苦労にヌカ喜びをしない。
時の流れの中に身を置き、その流れに身を任す。
命は、そのまま天に任す。
朝、起きたときに、やるべきことがある人は、幸福と思え。
今日1日、今週1週間、今月1か月、今年1年、やるべきことがある人は、幸福と思え。
それを「真の幸福」という。
前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
さあ、あなたも勇気を出し、足を一歩、前に踏み出そう。
明るい未来に向かって、まっすぐ歩こう!
『心を解き放てば、体はあとからついてくる』(アメリカの格言)。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
はやし浩司 幸福論 前向きに生きる 老後の生き様 過去を振り返らない はやし浩司 失 ったものを嘆くな)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●人を恨まない
H・フォスディック(Henry Fosdick)はこう言った。
『Hating people is like burning down your house to kill a rat.
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで心が腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
人を恨めば、人生を棒に振る。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげている。
が、それでも恨みが消えないときは、どうするか。
●真の自由
過去を引きずったとたん、人生は監獄になる。
が、だれしも、恨み、つらみはある。
失ったことを嘆き、不運を悔やむ。
が、そういうときは、それから逃げてはいけない。
とことん、恨め。
とことん、憎め。
とことん、過去を悔やめ。
身がボロボロになるまで、恨め、憎め、過去を悔やめ。
恨んで恨んで、憎んで憎んで、悔やみたいだけ悔やめ。
自分を燃やし尽くせ。
すべてのエネルギーを燃やし尽くしたとき、あなたはその先に、恐ろしく静かな世界を見る。
それはあなたの魂が解放された、無の世界。
そのときあなたは、はじめて、真の自由を知る。
●運命
今、あなたが苦しんでいるなら、幸いと思え。
あなたが悲しんでいるなら、幸いと思え。
あなたは今、まさに真理のドアを叩いている。
そのドアの向こうでは、真理が、あなたがドアを開いてくれるのを待っている。
息を潜(ひそ)め、静かに待っている。
大切なことは、苦しみや悲しみから、逃れようとしないこと。
逃れようとしたとたん、運命はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、あなたが苦しみや悲しみに、真正面から立ち向かえば、運命はシッポをまいて、向こうから
退散していく。
方法は簡単。
あるがままを、そのまま受け入れる。
そこに運命があるなら、その運命をそのまま受け入れる。
書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という。
もちろん闘うことができる運命であれば、それと闘う。
「逃げろ」という意味ではない。
闘う。
ふんばる。
そこに人間の生きる価値があり、美しさがある。
が、どうにもならない運命というものもある。
もしそうであれば、負けを認める。
受け入れる。
とたん、あなたはそこに真理が待っていることを知る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ネズミを追い出すために はやし 浩司 運命論 真理 負けるが勝ち 希望とは 希望論)
●2012年01月01日
さあ、ともあれ、2012年は始まった!
友よ、仲間よ、力を合わせて、前に向かって歩こう。
馬鹿は、相手にしない。
愚か者は、相手にしない。
欲望の奴隷となり、道を見失った人間は、相手にしない。
どうせ、その程度の、つまらない人生しか歩めない。
そんな愚劣な人間のために、時間を無駄にしてはいけない。
私たちはそういう人を、憐れんでやろう!
人生は山登りに、似ている。
下から見れば、低い山でも、登ってみると、意外と遠くまで見渡せる。
それと同じ。
あなたが勇気を出し、山に登れば、下にいる人間が、さらに小さく見える。
あなたは前だけを見て、前に向かって進めばよい。
ただひたすら前に向かって、進めばよい。
それですべての問題が、解決する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 2010−01−01 はやし浩司 前向きの人生)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【運命と自由について】(はやし浩司 2012−01−01)
+++++++++++++++++++++++
硬い話をする前に……。
昨夜寝る前に、宝くじの当選番号を調べた。
毎年、10枚だけ、買うようにしている。
その番号、何と、2等と、たったの30番ちがい!
2等は、1億円。
(2等は、37組101799番。
私がもっていたのは、101760〜101769番!)
ハズレはハズレ。
が、宝くじというのは、当たって喜ぶ人より、
わずかにハズれ、悔しがる人のほうが、はるかに多い。
だったら、買わないほうがよい。
ワイフは、「だいぶ、近づいたわね」と喜んでいる。
「次回は、当たるわよ」と。
私は「二度と接近遭遇はないだろう」と。
こうして新春の夢は、フワ〜ッと消えた。
では、硬い話……。
++++++++++++++++++++
●運命論
2004年12月24日に、運命論について書いた。
今からちょうど7年前になる。
それをそのまま掲載する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●運命論
ある文学者は、こう言った。
『幸福な家庭は、みな、よく似ている。
しかし不幸な家庭は、みな、ちがう。
一つとて、同じものはない』※と。
どこかの文学者だったが、名前は忘れた。
(※トルストイの「アンナ・カレーニナ」冒頭の言葉。)
その不幸な家庭。
こんな話がある。
両親は、その女性が3歳のときに、離婚。
原因は、父親の酒乱と借金。
が、そのあとまもなく、父親は、自殺。
その女性が23歳になったとき、実の兄(当時、30歳)も自宅に放火、そして自殺。
言い忘れたが、その女性が叔母のところに引き取られたのが、彼女が、6歳のとき。
しかし叔母の夫(叔父)に、性的虐待を受け、それが理由で、今度は、別の叔母の家に預けら
れた。
彼女が10歳のときのことだった。
現在は、浜松市の東にあるT町という町に住んでいる。
この話は、控えめに書いたが、事実である。
今は、無数の心のキズと戦いながらも、その女性は、2人の子どもをもち、幸福な家庭を築い
ている。
私は「運命」を否定しない。
その人とは関係のないところで、無数の糸がからんで、その人の人生を決めてしまう。
そういうことは、よくある。
それを「運命」というなら、運命は、ある。
しかも不幸がつづくときには、不幸は、その人に、つぎつぎと襲いかかってくる。
容赦なく、襲いかかってくる。
いくらそれを払いのけようとしてしても、その人の力には、限界がある。
不安と心配。
悲しみと苦しみ。
それらがこん然一体となって、その人に襲いかかってくる。
しかしいくら運命があったとしても、最後の最後で、ふんばるのは、その人。
そのふんばるところに、人が生きる美しさがある。
生きる意味がある。
今、絶望の渕に立たされて、その運命と戦っている人は、ゴマン(5万)といる。
5万どころか、50万、500万といる。
世界という規模でみれば、反対に「私は幸福だ」と自信をもって言える人のほうが、はるかに少
ない。
だから大切なことは、決して、「私だけ」と、思わないこと。
「私だけが不幸だ」と、思わないこと。
みなが、みな、そうだ。
そしてつぎに大切なことは、不幸は不幸として、それを笑い飛ばしながら、生きていくというこ
と。
運命に負けてはいけない。逃げてもいけない。
悪いことばかりではない。
運命に向かってふんばればふんばるほど、その人は、より真理に近づく。
不幸は、それ自体は、ありがたくないものだが、しかし、その人に、真理への道を教えてくれ
る。
何が大切で、何が大切でないか。
そしてなぜ、私たちはここにいて、なぜ生きているか。
それを教えてくれる。
さあ、恐れることはない。
あなたも勇気を出して、自分の運命と戦ってみよう。
前に向かって一歩、踏み出してみよう。
明るく、さわやかに! クヨクヨしないで、生きてみよう。
(2012年12月31日夜、一部、改変)
冒頭にあげた女性だが、たびたび私に手紙をくれた。その手紙の中に、こんなことが書いて
あった。
「私の家庭づくりは、ぎこちないものです。しかし私は、幸福というものがどういうものか、よく
知っています。私はその幸福を、毎日、かみしめながら生きています」と。
(以上、2004年記)
(はやし浩司 運命論 幸福論 幸福な家庭 不幸な家庭 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩
司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 幸福な家庭は みな よく似ている)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●7年前
7年前に、今と同じことを考えていたというのは、興味深い(?)。
あるいは私は、この7年間、何も進歩しなかったということか(?)。
基本的な部分では、7年たった現在も、同じ。
同じ運命論をもっている。
ただ誤解しないでほしいのは、運命論といっても、今、流行(はや)りのスピリチュアル風のもの
ではない。
また運命といっても、自分の過去を振り返ってみたとき、そこに残っている足跡をいう。
未来に向かって、あるのではない。
もちろんもろもろの「糸」をていねいに総合すれば、ある程度の未来は予測できる。
しかしあくまでも「予測できる」という範囲のもの。
仮にある程度、未来が決まっていたとしても、最後の最後ではふんばる。
そのふんばるところに、生きる意味がある。
生きる美しさも、そこから生まれる。
●死後の世界
死後の世界については、よく考える。
原稿もたくさん書いてきた。
で、原稿をさがしてみると、ちょうど去年の今ごろ、それについて書いていたことがわかった。
日付は、2010年11月16日になっている。
書いた場所は、昼神温泉にある、ホテル阿智川。
そのまま紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●あの世
何度も書くが、あの世などというものは、存在しない。
釈迦だって、そんなことは、一言も言っていない(法句経)。
それを言い出したのは、つまり当時それを主張していたのは、バラモン教の連中。
仏教はやがてヒンズー教の中に組み入れられていく。
輪廻転生思想は、まさにヒンズー教のそれ。
その上さらに、中国、日本へと伝わるうちに、偽経典が積み重ねられた。
盆供養にしても、もとはと言えば、アフガニスタンの「ウラバン」という
祭りに由来する。
それが中国に入り、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となった。
日本でもつぎつぎと偽経典が作られた。
私たちが現在、「法事」と呼んでいる行事は、そのほとんどが偽経をもとに作られた。
もちろん寺の経営的な収入をふやすために、である。
『如是我聞(これが私が(釈迦から)聞いたことである)』で始まる経典は、まず疑ってかかった
ほうがよい。
●宝くじと同じ
話はそれたが、あの世はない。
あるとも、ないとも断言できないが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみて、あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。
同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う。
だから私はよく生徒たちに冗談ぽく、こう言う。
「あの世があるなら、早く行きたいよ。
あの世では働かなくてもいいし、それに食事もしなくていい。
空を自由に舞うことだってできる」と。
●「もうこりごり」
そんなわけで、人生は1回ぽっきりの、1回勝負。
2度目はない。
この先、どうなるかわからない。
しかし1回で、じゅうぶん。
1回で、たくさん。
「こりごり」とまでは言わないが、それに近い。
「同じ人生を2度生きろ」と言われても、私にはできない。
たとえば定年退職をした人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたはもう一度、会社に入って、出世してみたいと思いますか」と。
ほとんどの人は、「NO!」と答えるはず。
あるいは、「会社人間はもうこりごり」と言うかもしれない。
●別れ
たださみしいのは、今のワイフと別れること。
息子たちと別れること。
友人たちと別れること。
ひとりぼっちになること。
そのうち足腰も弱り、満足に歩けなくなるかもしれない。
そうなったら、私はどう生きていけばよいのか。
それを支えるだけの気力は、たぶん、私にはない。
だったら今、生きて生きて、生き抜く。
今の私には、それしかない。
さあ、もうすぐこのパソコンの寿命は切れる。
何度もコントロールキーと「S」キーを押す。
文章を保存する。
いよいよ晩年になったら、私は同じようなことをするだろう。
ていねいに保存を繰り返しながら、やがて「死」を迎える。
繰り返しになるが、あの世はない。
……と、今は思うが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
(以上、2010年11月16日記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●あの世論
先の原稿の中で、私は「あの世はない」と、断定的に書いた。
が、最近の私は、ときどきこう考える。
仮にあの世があるとするなら、今住んでいるこの世こそが、あの世ではないか、と。
つまりどこか別の世界に、本元となる世界がある。
その世界から、私たちは、現在のこの世界に、ときどきやってくる。
ときどきやってきて、極楽や、(天国でもよいが)、地獄を経験する。
それは別として、ともかくも今は、「ない」という前提で生きる。
もう一度、核心部分を、ここに掲載する。
『……死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。
同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う……』
この考え方は、現在の今も、まったく揺らいでいない。
★Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it away, and
in the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, and
sometimes we lose them there again. ―Stephen King, "The Green Mile"
時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを奪い、
運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。そしてとき に私たちは、その人すら再び見失う。(S・キング・「グリーンマイル」)
●死の恐怖
なぜ私たちは、死を恐れるか?
それについては、どこかの国の独裁者を思い浮かべれば、わかる。
ある賢人はこう言った。
『すべてをもつものは、すべてを失うのを恐れる』と。
仏教でも、一貫して、死の恐怖が大きなテーマになっている。
もう少し掘り下げて言えば、死の恐怖は、どのようにすれば克服できるか。
死の恐怖と対比させながら、生きる意味を教える。
それが仏教ということになる。
そこで仏教では、やがて「空」の概念にたどり着く。
それについては、私があえてここで説明するまでもない。
が、たいへん興味深いことは、あのサルトルもまた、同じ結論に達している点である。
仏教という観念論。
実存主義という唯物論。
この両者が、同じ結論に達している。
サルトルは、最終的に、「無の概念」という言葉を引き出している。
それについて書いた原稿がある。
書いた日付は、2009年11月24日になっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「無の概念」(サルトル)について
++++++++++++++++++
【自由であること】
+++++++++++++++++
自由であることは、よいことばかりで
はない。
自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。
その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。
それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。
+++++++++++++++++
私は私らしく生きる。……結構。
あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。
しかしその自由には、いつも代償がともなう。
「苦しみ」という代償である。
自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。
わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。
毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。
話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。
明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。
「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。
自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。
(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)
そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。
そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。
人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。
そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。
わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例と
して、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。
ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。
そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。
傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。
みな、それぞれ、結構楽しそうである。
が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。
「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。
つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。
いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、
その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。
そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。
しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。
こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。
少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。
決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。
個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。
そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。
自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることな
ど、なんでもない。
が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。
サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。
しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたよう
に思う。
そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。
が、あるとき、そのヒントを手に入れた。
それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●真の自由を子どもに教えられるとき(2000年ごろ、中日新聞で発表)
私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。
「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。
が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれ
は可能なのか……? その方法はあるのか……?
一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。
自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。
●無条件の愛
息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
息子とこんな会話をした。
息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。
その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。
苦しかった。つらかった。
しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。
息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。
私は息子に妥協したのではない。
息子をあきらめたのでもない。
息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。
英語には『無条件の愛』という言葉がある。
私が感じたのは、まさにその愛だった。
しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。
●二男に教えられたこと
「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。
生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。
「私」があるから、死がこわい。
が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。
一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。
死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。
そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。
真の自由を手に入れたことになる。
その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。
ないが、しかし一つの目標にはなる。
息子がそれを、私に教えてくれた。
(以上、2000年ごろ、中日新聞で発表)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。
またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。
そういう人は多い。
しかしそれはここでいう「自由」ではない。
自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ るがままに生きる』ことをいう。
だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。
どこまでも研(と)ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。
しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(以上、2009年11月24日)
さて、あの独裁者。
最近、亡くなった。
恐らく死の直前まで、安穏たる日々は、1日とてなかっただろう。
不安で不安でならなかったはず。
だから病身を奮い立たせ、各地を回った。
「軍事指導」というのは、あくまでも口実。
失うことを、何よりも恐れていた。
(2012年01月01日記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念 はやし浩司 自由論 真の自由 サルトル 自由刑 自由からの逃走)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●2012年01月01日の朝に
年越しは、ワイフと長男の、3人で過ごした。
2011年から2012年。
現在、時刻は午前9時。
先ほどまで、自分の書いた原稿を読んでいた。
起きたのは、午前8時ごろではなかったか。
寝室から出ると、まばゆいばかりの朝の陽光が、障子戸を通して居間に注いでいた。
「初日の出は、今年は拝めない」と聞いていたので、「?」と。
昨年(2011年)は、相良海岸の民宿に一泊し、初日の出を拝んだ。
●運命と自由
昨夜、こう書いた。
『……書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という』と。
振り返ってみると、私はいつもその運命に翻弄されてきた。
いくら声高(こわだか)に、「私は自由だ」と叫んでも、そこにはいつも運命があった。
どうしようもない運命。
その糸の中で、もがいた。
苦しんだ。
だから……こう書くからといって、どうか誤解しないでほしい。
決して兄や母の死を喜んだわけではない。
しかし兄が他界し、母が他界し、つづいてちょうど母の1周忌に、実家を売却したとき、私は生
まれてはじめて、「家」から解放された。
生まれてはじめて、心底、ほっとした。
「家」という「糸」がもつ呪縛感には、ものすごいものがあった。
40代のころは、郷里へ入るときにはいつも、経文の一節を唱えなければならなかった。
『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉を知ったのも、そのころだった。
怨憎会苦について書いた原稿があるはず。
さがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2008年08月19日に、こんな原稿を
書いた。
知人の家庭騒動を聞き、書いた原稿である。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●魔性との闘い(怨憎会苦※)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)
仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。
が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。
で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。
そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。
こんな話を聞いた。
A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。
A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、「じゅうぶんな介護
をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、「あの土地は、お前に
やる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、「あの土地は、私のもの」と騒い
だ。
A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。
「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という話になってしま
いました。
で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、あなたには遺産相続権はありません。つまり部
外者ですと説明するのですが、そういう道理すら、通じませんでした」と。
娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、オレもちゃ
んと横で聞いた。オレが証人だ」と。
A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。
A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと言われたと
きには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。
まさに怨憎会苦。
魔性をもった人と関わることの苦しみ。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。
「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を貸そうとさえし
ませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。
A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、ゴマンとあ
る。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースとなると、もっ
と多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。
恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、貨
幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと言われて
いる。
(このあたりについては、私はかつてかなり詳しく、自分で調べた。)
今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。
では、どうするか?
釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。
つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。
音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。
そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)
(注※、「怨憎会苦」について)
【補記】怨憎会苦について
●生・老・病・死
+++++++++++++++++
私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。
それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。
たとえば……
生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。
四苦八苦の「四苦」である。
では、あとの4つは、何か?
+++++++++++++++++
生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。
(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。
(1) 愛別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦し
みをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構
成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが 盛んになりすぎることから生まれる、苦しみをいう。
こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの 原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。
(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。
(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかとい
えば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、 その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ね
はん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。
原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
(以上、2007年07月03日記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自由とは何か
自由とは何か。
一言で表せば、「欲望からの解放」ということになる。
「私」には、無数の「しがらみ」が、まとわりついている。
「私の財産」「私の名誉」「私の家族」「私のお金」「私のモノ」「私の地位」と。
そういったものに縛られている間は、自由など、求むべくもない。
つまりそうした(しがらみ)をひとつずつ、糸をほぐすようにして、自分から解きほどいていく。
わかりやすく言えば、自分を飾っている衣服を一枚ずつ、脱いでいく。
その結果として、つまり丸裸になったとき、人は、自らを解放させることができる。
「私」がある間は、魂に、安穏たる日々はやってこない。
仏教では、それを『執着(しょうじゃく)』という言葉を使って、説明する。
その執着を、自ら解き放つ。
わかりやすい例で説明すれば、こうなる。
私の講演などでは、こんなふうに言って、説明する。
「……こうして私の講演を聞きにきてくださっている方の中には、こんな人もいるでしょう。
家の中に、多額のタンス預金をしている人です。
そういう人は、こういう場にいても、家のことが心配でならないはずです。
『うちの子は、ちゃんと戸締りをして、友だちの家に行っているか』とです。
しかし無一文の人は、そうでない。
家のことは、何も心配しなくていい。
『私』を簡単に説明すれば、そういうことになります。
へたに『私』があるから、死ぬのが怖いのです。
私の財産、私の名誉、私の家族、私のお金、私のモノ、私の地位と。
が、自分から『私』を取ってしまえば、もうこわいものはない。
そのときがきても、『ああ、おいでなさったか』と、平穏な気持ちで、それを迎えることができ
る。
つまり死を克服することができる。
サルトルという哲学者は、それこそが、『真の自由』と説いたわけです。
『無の概念』という言葉も、そこから生まれました……」と。
●真の自由
大切なことは、そこに苦しみや悲しみがあるなら、(孤独でもよいが)、それから逃げないこ
と。
真正面から、立ち向かうこと。
それができる人のことを、『真の勇者』という。
(剣を振り回したり、暴力を振るう人は、ただの馬鹿という。)
運命というのは、(あくまでも私の運命論によるものだが)、それから逃げようとすると、キバ
をむいて、襲いかかってくる。
が、真正面から立ち向かうと、運命のほうからシッポを巻いて、逃げていく。
臆病で卑怯。
それが運命。
そして身が燃え尽きるまで、悩み、悲しむ。
とことん、身を燃やし尽くす。
あなたが「もう、だめだ」と思ったその瞬間、あなたは自らを解放することができる。
『真の自由』を手にすることができる。
●2012年1月1日
さて、今日も1日、始まった。
寒い朝だ。
衣服を着替えるとき、何度も身震いした。
これを(現実)という。
(現実)は(現実)。
私たちはその現実世界の中で生きている。
その現実世界を無視することはできない。
……庭にたまった落ち葉を、掃除しなければならない。
帰り道、どこかで朝食をとらねばならない。
家に帰れば、年賀状が待っている。
生徒たちからのものについては、みな、今日中に返事を書く。
そうそう、楽しみもある。
1月X日、西浦温泉のA旅館に1泊することになっている。
その旅館の最上階のペントハウスに予約できた。
1日1組だけの、露天風呂付きペントハウスである。
ずいぶんとぜいたくな話に聞こえるかもしれない。
が、これはワイフへの感謝の念をこめた、私からのプレゼント。
この10年近く、モノは買っていない。
ワイフも、いらないと言う。
だからこういう形で、ワイフに感謝している。
……つまり私たちはこうした(現実世界)の中で生きている。
またその中でこそ、無数のドラマが生まれる。
無数の人たちが織りなす、無数のドラマ。
そのドラマの中にこそ、生きる意味があり、価値があり、美しさがある。
(現実世界)の中で、たくましく、力強く生きていく。
その現実感だけは、どんな人生観をもっても、けっして見失ってはいけない。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
はやし浩司 2012−01−01 現実世界 運命論 現実社会 運命と自由 解放と運命 はやし浩司 真の勇者 真の自由 魂の解放)
(以上、2012年01月01日、整理、記)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012−01−01夜記)
++++++++++++++++++++++++
年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。
思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。
ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。
人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。
子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。
その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。
では、私は、どうなのか?
これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。
最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。
が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。
要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。
そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。
もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。
ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。
では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。
+++++++++++++++++++++++++
【己こそ、己のよるべ論】
●ジョン・レノン
ジョン・レノンは、つぎのように言っている。
★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's Yoko's story . That's
what I'm saying now. Produce your own dream. If you want to save Peru, go save Peru. It's quite possible to do anything, but not to put it on the leaders and the parking meters. Don't expect Jimmy Carter or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or Jesus Christ to come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great masters and mistresses have been saying ever since time began. They can point the way, leave signposts and little instructions in various books that are now called holy and worshipped for the cover of the book and not for what it says, but the instructions are all there for all to see, have always been and always will be. There's nothing new under the sun. All the roads lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You can wake you up. I can't cure you. You can cure you.
……John Lennon, In Music/John Lennon
君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。その
ことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルー へ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パ ーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。
ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、ある
いはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだ よ。自分でしなければ、いけないよ。
それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼ら
はみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできる よ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方とい うのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。
太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のため
にはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だ けが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)
●仏教では
ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あたなを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●中日新聞に掲載記事より
法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。
(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使
った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)
釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。
この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。
子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。
このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになる
の!」と、はげしく叱っていた。
次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。
さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを
殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を
叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その
原点をふみはずして、子育てはありえない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【家庭内宗教戦争】
福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。
●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。
●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫し
てしまう。
●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれて
いなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。
●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やして
いる。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。
●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけ
で、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。
●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」
と、逆にやり返される。
今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するように
なる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追
い込まれる。
こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラ
になった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。
よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗
教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を
伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブ
ッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。
『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法を
よりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。
生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や
教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダの やり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。
「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたも
って、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、その
ことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れ むために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書 店より)と。
そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き
方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。
また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。
たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそ
が、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しか
しその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、その
うちのひとつであるということは常識。
中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原
典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いて いる。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。
私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。
●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っ
ていない。
いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。
●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。
しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。
(だからといって、仏の心に甘えてはいけないが……。)
そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分から離れたからといって、バチなど与えな
い。
とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしな
い。
大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだろう
か。
バチなど与えるだろうか。
ものごとは常識で考えたらよい。
●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドア
を閉ざす。
「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。
時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。
ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一
巻三二頁)と言っている。
友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて
迎えあう関係をいう。
夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。
繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。
すでにその前から、危機的状況にあったとみる。
ただこういうことだけは言える。
この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。
あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。
そういう人でも、つぎの鉄則だけは守ってほしい。
(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。
(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。
(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにし
てほしいということ。読んで、決して、損はない。
(02−7−24)
【注】
法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。
話し言葉のままと言ってもよい。
もともと吟詠する目的で書かれた文章である。
それが法句経の特徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解で
きる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。
仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。
寺の僧侶が読む経典にしても、ほとんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。
肝心の中国人が聞いてもわからないのだからどうしようもない。
さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいな
い。
いるわけがない。
(サンスクリット語の当て字によるものというのが、その理由である。
たとえば、サンスクリット語では、「ナム」=「帰依する」、「ミョウホウ」=「不思議な」、「レンゲ」
=「因果な物語」を、それぞれ意味する。
それぞれに漢語(中国語)の漢字を当てた。
だから「南無妙法蓮華」は、「不思議な因果な物語」という意味になる。
南無も、妙法も、蓮華も、すべて当て字。)
そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうやうや
しく読みあげる。
そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。
日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。
それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそ
れ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。
中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏
教は、釈迦の説いた本来の仏教ではない)を唱えていたが、それが世界の常識。
こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本ということになる。
たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてある
が、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。
むしろ法句経の中には、釈迦が来世を否定しているようなところさえある。
法句経の中の一節を紹介しよう。
『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※
来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。
そういう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。
「チベット密教そのもの」と主張する学者もいる。
チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりす
る。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。
みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩をたいているところを見たことがあると
思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。
釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。
『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。
外のものによって、完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。
バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッ
タ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。
仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろ
うか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去
論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教 ダンニパダ ゴー タマ・ブッダ はやし浩司 木片を焼いて バラモン はやし浩司 中村元 中村 元 原始仏教 北伝仏教 大乗仏教 はやし浩司 パーリ原本協会)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2003年6月、今から9年ほど前に
こんなことを書いていた。
宗教とは何か。
それについて書いた原稿である。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●未来と過去
未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。
70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後
は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。
が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。
が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。
10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」と
いう程度のことでしかない。
ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。
イエス・キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。
(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベ
ット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)
今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしても
できない。
本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。
だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。
個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまい
ということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるも
のはない。
そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。
1年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。
++++++++++++++++++++++++
【前向きの人生、うしろ向きの人生】
●うしろ向きに生きる女性
毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。
偉そうなことは言えない。
しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。
しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。
自信はないが、そうしたい。
自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。
その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だった。
くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を5人ほど雇うほ
どまでになった。
が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで
追い込まれた。
(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから二年後に他界している。)
それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。
が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。
その人には、私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。
「母は、異常なまでにケチになりました」と。
たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出し
たという。
「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。
値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。
●人生は航海のようなもの
人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。
つぎからつぎへと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。
波があることが悪いのではない。
波がなければないで、退屈してしまう。
船が止まってもいけない。
航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。
同じところをぐるぐる回ること。
もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。
死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。
私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。
雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。
唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がいる。
しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。
いくら釣りがうまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率
を暗記しても、それがどうだというのか。
そういう人は、まさに死んだも同然。
しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。
昨年、私はある会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた
女性だった。
乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。
私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。
「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。
「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばら
しい女性も、少ないが、いるにはいる。
のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。
しかしそういう航海からは、ドラマは生まれない。
人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。
そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。
人生の大波小波は、できれば少ないほうがよい。
そんなことはだれにもわかっている。
しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。
その姿勢が、その人を輝かせる。
●神の矛盾
冒頭の話にもどる。
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。
そこで信仰論ということになるが……。
人は何かの救いを求めて、信仰する。
信仰があるから、人は信仰するのではない。
あくまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。
よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなければ、神など生まれなかった。
もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明するのだろうか。
これは私が若いころからもっていた疑問でもある。
人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。
ひょっとしたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。
しかし嘆くことはない。
そのあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。
たとえば昆虫が進化して、昆虫人間になるということも考えられる。
その可能性はきわめて大きい。
となると、その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。
反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。
隕石の衝突が恐竜の絶滅をもたらしたという。
となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。
そのときの恐竜には神はいなかったのかということになる。
数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数十万年など、マバタキのよう
なものだ。
お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。
しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。
数億年と数十万年の違いは大きい。
モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年ほど
前のこと。
たったの6000年である。
それ以前の数十万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。
……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。
この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多い。
だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。
そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書い
たのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。
●ふんばるところに生きる価値がある
つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。
(だからといって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)
仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というの
は、そういうものを期待してするものではない。
ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つ
まり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。
キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているので
は……。
生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。
仏や神の意思ではない。
またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。
ドラマもそこから生まれる。
が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。
毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その一人と言ってもよい。
同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。
たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。
そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。
いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが
……)、さらに困る。
もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格
で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
●私の意見への反論
……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。
そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。
が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。
またその女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。
その女性の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。
この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。
まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。
ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。
何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないこと
と言ってもよい。
が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。
どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。
そしてどうすれば、うしろ向きに生きなくてすむかということ。
●今、どうしたらよいのか?
少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。
そういう人生は敗北だと思っている。
が、いつか私はそういう人生を送ることになるかもしれない。
そうならないという自信はどこにもない。
保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようにな
るかもしれない。
私とその女性は、本質的には、それほど違わない。
しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。
歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという
間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。
しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。
生きる価値もそこから生まれる。
もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。
……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。
●老人が気になる年齢
私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。
電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察する。
先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目
的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考え ているのだろう」と。
そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。
で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。
その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと考えている人も多い。
中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。
クシャクシャになったオートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。
人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。
愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでし
まうこともある。
私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。
しかしふと油断すると、いつの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていく
のがわかる。
それは実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということ
になる。
何も考えなければ、それだけ人生も楽?
●前向きに生きるのは、たいへん
前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。
それは体の健康と同じで、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。
ゴータマ・ブッダは、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。
精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始める。
そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。
つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。
改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(以上、2003年06月13日記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自分の力で生きる
生きることは、孤独なこと。
自由に生きようと思えば思うほど、
またひとりで生きようと思えば思うほど、
孤独。
が、孤独を恐れてはいけない。
孤独であるのが、当たり前。
最後にマザーテレサの言葉をあげる。
あのイエス・キリストも孤独だった、と。
マザーテレサは、そう説いている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●孤独は、無間の地獄
孤独とは、究極の地獄と考えてよい。
イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。
When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger.
キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。
彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも
受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身 も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も 孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹というこ とになる。
(終わりに)
マザー・テレサのこの言葉には、本当に勇気づけられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 孤独論 マザーテレサ hunger 渇き イエスキリスト はやし浩司 マザーテレサ キリストも孤独だった イエス・キリスト 孤独論 はやし浩司 マザー・テレサ)
(はやし浩司 2012−01−01夜記)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【菅直人前首相、吉田昌郎所長、ありがとう!】
●励まし
昨日(01月01日)、何通かのメールが届いた。
1通は、男性からのもの。
もう1通は、女性からのもの。
そのまま紹介させてもらう。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【KO氏より、はやし浩司へ】
貴兄のブログで菅前首相、吉田前工場長を絶賛されているので驚き、嬉しく思いました。
特に菅前首相は史上最悪の首相と様々な分野で評価されていますので。
私は東工大機械工学卒で菅さんの後輩、吉田さんの先輩に当たります。
菅さんも自分の行為は歴史が評価するというようなことを言っていますが、まさにそういうことに
なるのだと思います。
私は早期退職、セミリタイア状況で、技術アドバイザーとして週に2日程度活動しております。
また高校OB会の地元の会長をやって(やらされて)おります。
原発関係ではあの清水前社長や天野IAEA事務局長が、高校先輩になります。
宇宙飛行士の古川さんは後輩ですが、彼のことだけは嬉しいことでした。
環境・エネルギー関係そしてハワイについてのブログをUPしていますので、お時間のある時に
見ていただけたら幸甚です。
【GTさんから、はやし浩司へ】
はやしさん、こんばんは。
GTです。
日本はお正月ですね。
韓国は、旧正月なので、今日から普通の生活が始まっています。
はやしさんも韓国に住まれていらっしゃったんですね。
当時だったら、反日感情も大変だったのではないでしょうか?
いろんな経験をされていて、すばらしいです。
お返事ありがとうございました。
温かい無視ってそういう事だったんですね。
実際信じて待つって大変なことですよね。
義母なんかは未だにこれができなくて、息子(私のだんな)は責任感がないようです。
下の子が何かをやろうとしていると、すかさず「こうするんだよ〜」と口を出すので、下の子も
「ハルモニ(おばあちゃん)いや!」って、言います。
自力でやりたがっているので。
端から見ているとよく見えるけれど、実際私はどうなのか客観的に見てみる必要があります
ね。
基本的に待つようにしていますが、時間がかかってつい教えようとすると、怒り出してしまって、
そうなると、「あ、待っているべきだったのに」と気づくことがあります。
ほんとに子供が親を教育してくれていますね。
それから、はやしさんの「そのうちおさまってくる」という言葉を信じて、今年は下の子を保育園
に送らないと腹をくくって、関わっていこうと覚悟を決めました。
聞いてくださってありがとうございました。
にっちもさっちもいかない状態が楽になりました。
ありがとうございました。
GTより
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●励まし
私は毎日、こういう読者の方たちに支えられている。
またそれがあるからこそ、こうしてものを書くことができる。
KOさん、GTさん、ありがとうございました!
今年も、がんばります。
よろしくお願いします。
●菅直人前首相
たいへん恥ずべきことだが、私は「菅直人前首相」を、「管直人前首相」を書いていた。
正しくは、「管」ではなく、「菅」。
KO氏は、以下の私の書いた原稿に、先に転載したコメントを寄せてくれた。
もう一度、そのとき私が書いた原稿を、掲載する。
日付は、2011年09月12日になっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●日本を救った、菅直人前首相と吉田昌郎所長
+++++++++++++++++
あの日、あのとき、菅直人前首相は、
日本を救った。
それはまぎれもない事実である。
読売新聞は、以下のように内幕を伝える。
+++++++++++以下、読売新聞、2011−9−12+++++++++++
枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所
事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発か ら全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。
東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済
産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題 に関する具体的な経過を初めて公にした。
枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そ
ういう言い方だった」と指摘した。
枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話した
という。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関 に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見 方を示した。
菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と 幹部らに迫った。
枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人
が首相で良かった」と評価した。
+++++++++++以上、読売新聞、2011−9−12+++++++++++
●菅直人前首相の大英断
東京工業大学出身の菅直人前首相であったからこそできた、大英断である。
もしあのとき東京電力が、福島第一原発を放棄していたら、菅直人前首相が言うように、「東
京ですら、人っ子1人、いない状態になっていた」。
もう一度、読売新聞の記事を整理してみる。
(1)東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、
との意向を伝えられたと語った。
(2)が、東電側は、これまで全面撤退の申し出を否定している。
(3)しかし政府側は、東電側が全面撤退を申し出てきたと、全員が認識した。
いわく、『枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有して
いる。そういう言い方だった」と指摘した』と。
つまり東電側は、そういう言い方をしてきた。
その後の東電側の動きを重ね合わせてみると、東電側は、事故直後早々と、「全面撤退」を考
えていたことがわかる。
「政府側の安全基準を満たしていたから、(私たちには責任はない)」(報道)などという発言も
そのひとつ。
(4)原発の直接責任者である吉田氏は、「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要
との見方を示した。
これはあとになってわかることだが、吉田氏は、東電側のあいまいな指示を無視、海水を注
入しつづけ、原子炉の爆発を防いだ。
もしあの段階で、吉田氏の英断がなければ、福島第一原発は大惨事を招いていたはず。
(5)ここからがとくに重要。
読売新聞は、つぎのように伝えている。
『菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と 幹部らに迫った』と。
●福島第一原発・吉田昌郎所長
「The Wall Street Journal」(2011年5月27日)、日本語版は、以下のように伝える。
++++++++++++以下、The Wall Street Journal++++++++++++
本社の停止命令に背いて注水を続けていた福島第1原発の吉田昌郎所長、彼の判断をどう評
価すべきか、社会人としていろいろ考えた人が多かったのではないだろうか。
同所長は、会社の命に背いて注水を続けたことに加え、その報告を怠って政府や国会を混乱
させたことの責任を問われ処分されるという話だ。
昨日、テレビに大写しになった吉田所長は、うつろな顔をしていた。
会社の判断を無視したのは確かだ。
しかし、会社の注水停止判断は、技術者なら誰でも認めるような明らかな間違いだったのだ。
確かに、もう少し早く報告できただろうという気はする。
++++++++++++以上、The Wall Street Journal++++++++++++
この吉田氏の行為に対して、菅直人前首相は、『視察後、首相が名指しで謝意を表明したの
は東京から同行した武藤栄副社長ではなく、吉田所長だったそうだ』(日本経済新聞・4月8 日)とある。
なお東京電力側が海水の注入をためらったのは、一度「海水」を注入すると、原子炉そのも
のが使い物にならなくなるからである。
東京電力側は、あの場に及んでも、そんなことを心配していた(?)。
●もしあのとき……
もしあのとき菅直人前首相ならびに、吉田昌郎所長の英断がなければ、日本は完全に沈没
していた。
事実を、よく見てほしい。
100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を
起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。
電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質
が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(横尾試算「原発事故」宝島社)。
数千発分だぞ!
ちなみに、チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射性物質が放出されたという(京大グル
ープ調査。)
が、もしあのとき福島第一原発が放棄されていたら、原子炉の爆発は避けられなかった。
それが4機+2機。
つぎつぎと爆発。
それで計算すると、11万京ベクレルx4=44万京ベクレル(以上、瀬尾試算、「原発事故」宝
島社)
チェルノブイリの比ではない。
東京都も含めて、東北地方には、人はだれも住めなくなっていた!
その深刻さを鑑みるにつけ、菅直人前首相、吉田昌郎所長を、日本を救った大英雄と言わ
ずして何という。
ともに東京工業大学出身であったからこそ、こうした判断ができた。
だから、枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間は
あの人が首相で良かった」と評価した。
●後書き
やがてあの事故が、詳細に検証される日がやってくるだろう。
そしてそれがわかったとき、みな、こう言うにちがいない。
「菅直人さん、ありがとう! 吉田昌郎さん、ありがとう!」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の英雄 日本を救った2人 の英断。)
以上、2011年09月12日の原稿より
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●なぜ、菅直人前首相ではだめだったのか?
菅直人前総理大臣が、首相の座を降り、ちょうど4か月になる。
(菅直人氏は、2011年09月02日に、内閣総理大臣を辞職。)
が、この4か月、日本は、よくなったのか。
何か、変わったのか。
現在は、野田佳彦首相が、総理大臣職を引き継いでいる。
が、私はいまだに野田佳彦首相が、どんな人物なのか、よくわからない。
顔が見えてこない。
見えてこないから、批評のしようがない。
ただここで言えることは、野田佳彦首相が、菅直人氏をやめさせてまで、首相になる価値のあ
る人物だったかどうかというになると、私はそうは思わない。
談合政治?
八方美人?
無色透明で、言葉はうまいが、中身がない?
当たり障りのない、無難政治家?
長期政権をねらっている?
こうした(?)マークを、野田佳彦首相には、10個ほど並べたい。
これはあくまでも仮定の話だが、あの3・11震災時に、もし野田首相が事故を取り仕切って
いたとしたら、この日本はどうなっていたか。
それを想像するだけでも、ぞっとする。
東京電力と保安院の言い分に押され、福島第一原発は、放棄。
そのあと発電所はつぎつぎと爆発、メルトダウン。
最近になって、事故直後、菅直人前首相が、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという報道
が伝わっている。
「感情をむき出しにするような人物は、首相として失格」と。
バカヤロー!
あの時点において、感情をむき出しにしない首相はいない。
むき出しになってくれたからこそ、東京電力側は、菅直人前首相の言うことを聞いた。
菅直人前首相の命令に従った。
こう書くと、福島県の人たちには申し訳ない。
が、今、福島県以外の人たちが、(私たち静岡県人も含めてだが)、事故以前とほとんど変わ
りない生活ができているのは、菅直人前首相、ならびに吉田昌郎所長のおかげである。
そのことを思えば、ささいなミスや失敗など、腸から出るガスのようなもの。
菅直人前首相は、「いつか、私の正しさは歴史が証明してくれる」というようなことを言ってい
る。
それはその通りで、その歴史は、すでに今、始まりつつある。
読売新聞(11−09−12)の記事は、それを証明する、貴重な証拠のひとつということになる。
私たちはこの事実を、後世の人たちに伝えていかねばならない。
菅直人前首相、吉田昌郎所長、あなたがたは日本を救った、大英雄である。
大恩人である。
ありがとう!
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
はやし浩司 菅直人首相 英雄 大英断 吉田昌郎 英雄 日本を救った恩人 福島第一原 発事故 はやし浩司 英雄 菅直人)
●GTさんへ
GTさんは、子どもの母子分離不安について、相談してきた。
それに対して、私は2つのポイントをあげた。
(1)温かい無視
(2)求めてきたときが、与えどき、と。
その「温かい無視」について、「では、具体的にはどうすればいいのか?」と。
それについて、GTさんには、つぎのような返事を書いた。
【はやし浩司より、GTさんへ】
GT様へ
こんばんは。
こちらは昨日まで寒くてしかたありませんでした。
韓国はもっと寒いかと思います。
「温かい無視」は、子育ての鉄則のひとつです。
要するに、子どもの側に視点を置き、子どもが親の鋭い
視線を感じないようにするということです。
どうしても今の時期は、過関心、過干渉に
なりやすいので、注意します。
子どものやりたいようにやらせながら、しかし愛情だけは
しっかりともつということです。
ラッセルは、「限度」という言葉を使いました。
「限度をわきまえろ」と。
子どもに任すところは任す。
親の思い通りにならないことについては、じっとがまんし、耐える。
その耐える部分が。愛情ということになります。
(子どもを愛するということは、つらいことですよ。)
韓国という地で、がんばっておられるGT様を尊敬します。
何かとたいへんだろうと思います。
私も1967年、交換学生として、韓国に行きました。
テグ、ソウルなどを転々としました。
ヤンセイ大学、テグ大学などなど。
男のくせに、リファ女子大学(ソウル)にも行きました。
宿舎はなんと、ナムサンにあった、(今でもあるそうですが)、
タワーホテルでした。
当時の韓国は、本当に貧しかったです。
ミョンドンの大通りも、ロープに裸電球をぶらさげただけの明かりしか
ありませんでした。
ただ、焼肉がおいしかったです。
(当時の日本人には、焼肉は高級料理で、とても食べられませんでした。)
いろいろ思い出があります。
では、
はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
冒頭にあげた、GTさんからのメールは、その返事。
GTさん、今年もよろしくお願いします。
2011年から2012年をまたいだ、もう1年のつきあいということになりますね。
では、今夜は、これで失礼します。
どうか、お元気で!
はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【占星術というカルト】
●「占いを信ずる」……「はい」(27・0%)!
++++++++++++++++++++
雑誌「MOM」にこんな調査結果が載っていた。
「占いは好きですか」……「はい」と答えた人(79・0%)
「占いを信じますか」……「はい」と答えた人(27・0%)
……「いいときだけ、信じる」と答えた人(57・1%)
(以上の両者を合計すると、84・1%!)
「どんな占いが好きですか」……星座占い(51・8%)
……手相(17・9%)
……タロット・カード(11・8%)
(以下、血液型、生年月日、姓名判断、四柱推命……とつづく)
++++++++++++++++++++
●雑誌「MOM」
雑誌「MOM」は、雑誌名からして、女性向けのもの。
ここに出てきた数字は、女性、とくに育児まっさかりの母親を対象にしたものと考えられる。
が、それにしてもというか、私はここに出てきた、「27%」「星座占い」という数字と言葉に驚い
た。
約3人に1人の女性(母親)が、占いを信じていることになる。
しかも「星座占い」という、訳の分からないものを信じている人が多いという。
●占星術
占星術は、立派な宗教である。
とくに占星術とイスラム教の間には、密接な関係がある。
占星術イコール、イスラム教、イスラム教イコール、占星術と考えてよい。
それについては、以前、いろいろな原稿を書いてきた。
さがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●占星術
+++++++++++++++++
今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。
街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。
占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。
+++++++++++++++++
占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星
術」である。
今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。
星が見えるところ、すべての世界に、それがある。
興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。
で、占星術では、「万物は、神によって創造された。
ならば、その万物の構成要素から、神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基
本になっている。
わかりやすく言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。
だからそれら万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。
そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。
ついで、それらと一体として連動している、人間の運命を知る、と。
しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。
たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕
生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。
原理的には、男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではない
のか。
例がないわけではない。
中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。
つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごして
いると考えるからである。
イスラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。
ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたよう
に、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。
少なくとも、占星術では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべき
である。
年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断す
る、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星 術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを 参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。
が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。
しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。
あるいは生物という単位で、ものを考えるべきではないのか。
たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよい。
もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業によるも
の。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住むア リ全体が、その影響を受ける……。
……という話を書くことすら、バカげている。
星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、
つまり天空という平面で見ているにすぎない。
星々までの距離は、計算に入れていない。
つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。
サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。
宇宙船で、100光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。
1000光年も先に行けば、もっと、変わる。
星位という概念すら、消えてなくなる。
もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。
占星術イコール、数学と考えてよい。
その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占
星術をするから、話がおかしくなる。
こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれ
だけは言える。
「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄
することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよ いと言うのなら、それはそれでかまわない。
そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知ったことではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 カルト 狂信)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
もう1作、見つかった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●占星術(2)
超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。
占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。
つまり占星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべて
が一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。
大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。
これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性があ
る。
事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。
イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。
つまり、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。
反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめ
ながら、こう言ったとする。
「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソ
クを立てて眠りなさい」と言ったとする。
信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。
……というより、それはあなたの宗教性による。
意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それ
を超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。
笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。
その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。
信仰心といっても、おおざっぱに言えば、2種類ある。
ひとつは、教えを重要視するもの。
もうひとつは、超自然的なパワーを盲信するもの。
前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。
もちろん、その中間もある。
色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。
宗派によっても、ちがう。
しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存在を、信
仰の中心に置く。
「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせることはできない。
神や仏がよい。
あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教が生まれる。
そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係によって、発展し
たり、衰退したりする。
たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。
どこかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。
ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国
でもあったようだ。
中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。
しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私
の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。
こと「星」について言えば、日本人は、元来、無頓着な民族と言える。
星座、それにつづく天文学については、それについて研究したという史料は、ほとんどといって
よいほど、残っていない。
(これは多分に、私の認識不足によるものかもしれないが……。)
占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。
(発達したのではなく、発展した。誤解のないように。)
もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい(占い)に飛びついた。
占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということになる。
それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを
埋めていた。
私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、その年の計画を
立てる慣わしになっていた。
一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのも
のがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。
そして今に見る、占星術、全盛期を迎えるにいたった。
書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。
占星術師なる人物が、テレビに顔を出さない日は、ない。
しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わし
い。
占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義と結
びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。
あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体
は、表向きは、なりを潜めている。
が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れてはならない。
こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかっ
たものではない。
忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。
しかもその信仰は、神秘主義そのものである。
何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)
している。
それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。
ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。
「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。
また外見上、いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件であ
る」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評 論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 イスラム教と占星術 狂気性)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●思考力をなくした人々
宗教性と理性は、常に対立関係にある。
とくに注意したいのが、宗教がもつ神秘性。
この神秘性に毒されると、理性そのものが破壊される。
このあたりで、もう一度、しっかりと結論を出しておきたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●宗教とは何か(カルトについて考える)
【宗教VSカルト論】BYはやし浩司
●インチキ予言
「2011年の5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。
そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。
その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。
『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロ
ルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。
ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審
判の日」と予言して一躍話題の人となった。
その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末
の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。
●終末論
キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になる
こともある。
つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。
が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。
とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのつどユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism」として、独立した。
●思い込み
現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。
が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。
人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信」。
アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。
4〜5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。
●エアーポケット
不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。
が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。
たとえば「家庭内宗教戦争」。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)
こういう時代なのかもしれない。
今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は多い。
夫婦の間で、そして親子の間で。
たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。
いや、本当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしま
う。
そして気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。
ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。
「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。
明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。
そして夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。
家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。
価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、どうでもよい部分については、それなりにうまくい
く。
しかし基本的な部分では、わかりあえなくなる。
その妻は、夫にこう言った。
「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。
それがかろうじて、こうして何とか、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおか
げよ。
それがわからないのオ!」と。
そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。
彼らが言うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。
が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そん
なの見たくもない!」と。
こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)
することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむけ る。
だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろん
のこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。
「接するだけでも、バチが当たる」と教えているところもある。
●ある親子のケース
富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。
あと少しで、2000年というときだった。
U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。
その一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。
全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。
もともとは、さらに大きな母体団体から分離した団体だと聞いている。
わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼ばれる信者たちだけが、別のSS教を
つくって独立した。
それがSS教ということになる。
教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に
集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。
それが約1時間。それが終わると、集会、勉強会。そして布教活動。
相談してきた男性は、こう言った。
「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せ
なくなりました。
週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。
それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、
勧誘を始めたことです。
何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。
部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の
勝手ではないか」と思うかもしれない。
しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想像を絶するものである。
「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。
今は、どんなことを言っても、受けつけません。
親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。
●カルトの下地
よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団は生まれ、そして成長する。
だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味
はない。
原因のほとんどは、その信者自身にある。
もっと言えば、そういう教団に身を寄せねばならない、何かの事情が、その人自身に、あったと
みる。
冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。
どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。
仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えているよう。
その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそうになっ
てしまう。
何のための人生?
なぜ生きているのか?
どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにある?
どこに求めればよいのか?
何もできないむなしさ。
力なさ。
そして無力感。
しかし不安。世相は混乱するばかり。
社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。
何のために、どう生きたらよいのか。
心配ごともつきない。
自分のことだけならともかくも、子どもはどうなるのか?
国際情勢は?
環境問題は?
そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。
いくら「私は私だ」と叫んでも、その私はどこにいるのか?
生きる目的は何か?
それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
どこにどう救いを求めたらよいのか?
……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。
その穴のあいたところに、ちょうどカギ穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。
それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。
彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとたん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感
が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。
信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。
とたん、孤独感も消える。すばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にす
る。
しかし……。
それは錯覚。
幻想。
幻覚。
亡霊。
一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。
思想を注入してもらうかわりに、自らの思考力をなくす。
だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。
少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。
あるいは教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。
さらに足の裏を診断してもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお
金を教団に寄付した信者もいた。
常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。
が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。
そういう信者でも、会って話をしてみると、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人であ
る。
「どこかおかしのか?」と思ってみるが、どこもちがわない。
だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠
陥のない人は、いない。
●どうすればよいか?
妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係
は、すでに破壊されたとみてよい。
夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になったと考えてよい。
親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。
親はともかくも、子どものほうは、もう親を親とも思っていない。
しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚
を禁止している。
またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養を第一に考えて
いる。
そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始め
た」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。
こうなったら、もう方法は、三つしかない。
(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。
私は、第3番目の方法をすすめている。
富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言った。
「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明し
てみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どう だ!』と。
つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。
会社の経営者としては、すでに適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすか
の、どちらかを覚悟しなさい。
夫婦でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。
そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひ
たすら無視。また無視です。
この問題だけは、あせってもダメ。
無理をしても、ダメ。
それこそ5年、10年単位の時間が必要です。
頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。
あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。
●常識の力を大切に!
今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。
信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。
では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。
どう自分たちを守ればよいのか。
私は、常識論をあげる。
常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。
むずかしいことではない。
おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、あなたの心を守る。
家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。
「おかしいものは、おかしいと思おうではないか。
それはとても大切なことだ」と。
そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。
これも方法は、簡単。ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。
ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩をする。
もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。
(おかしなもの)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。
あとは、自ら考えるクセを大切にする。
習慣といってもよい。
何を見ても、ふと考えるクセをつける。
そういうクセが、あなたの心を守る。
さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ!
みなさんといっしょに、戦うぞ!
世の正義のため、平和のため、平等のために!
……と少し力んだところで、このつづきは、またの機会に!
(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●信者がいるから宗教団体は生まれる
先の原稿を書いてからだけでも、もう7年になる。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上にな
る。
が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。
宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。
●スピリチュアル?
……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。
原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・2007・12・20)。
いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉
がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。
わかるか?
アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされ
る。
全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。
「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷
居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。
たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られた
り、物品を買わされたりする、と。
「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間
に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もい たという」(同紙)ともある。
中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行く
と、この種の本が、ズラリと並んでいる。
「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。
釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。
ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。
そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー
教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。
いわんや、占星術?
ばか!
アホ!
インチキ!
あのね、占星術は、立派なカルト。
そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気
づかねばならない。
私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。
「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。
もう、うんざり!
反論するのも、いや!
ばか臭い!
が、問題は、子どもたち。
10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3〜6年生)が、
占い、まじないを信じていた。
今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になってい
るとも考えられる。
子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?
年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どもの指導では
学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。
それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。
が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱ
りと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)
●宗教について
●霊の存在
霊は存在するか、それともしないか。
この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。
これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならな
い。
数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。
しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。
ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。
非公式の調査でも、約七〇〜八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。
「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。
で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はい
くらでもいる。
またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。
たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年
秋)。
私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。
だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。
私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を一八〇度変えなければならない。
これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。
宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。
「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。
もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。
同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。
見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。
で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。
それから霊の存在を信じても遅くはない。
何と言っても、霊の世界は無限(?)
時間的にも、空間的にも、無限(?)
そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?)
私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。
だからこの世界を、まず大切にしたい。
神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。
ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。
人間として懸命に生きる。
そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがって
いる。
……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。
私は私。どこまでいっても、私は私。
今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
宗教について(1)
小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかっ
た。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもお
かしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。
かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった
少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。
そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまっ
た。
「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずが
ない。いたとしたらインチキだ。
一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコー
ナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇
〇万件とは!
あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占
い」とは……?
人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
宗教について(2)
ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。
たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向
論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与え
られているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。
しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。
そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
宗教について(3)
ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。
が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。
私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、
それはもう神や仏ではない。
悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?
子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。
そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。
さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でし
なさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。
人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自
ら努力することをやめてしまう。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。
しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。
そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
宗教について(4)
教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。
こんな失敗をしたことがある。
一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。
「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私はこう言った。
「バチなんてものは、ないのだよ。
それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。
翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。
「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。
その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。
また別の日。
一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「
先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。
私は「真理」のことだと思ってしまった。
そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。
実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。
その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだと
わかった。
さらに別の日。
一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。
夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。
そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声
で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。
その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
宗教について(5)
人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。
そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
だから宗教を否定しても意味がない。
それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。
今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。
その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。
それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。
そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。
その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。
子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。
「先生、神様って、いるの?」と。
私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。
おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。
あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。
そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。
霊魂や幽霊についても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来 世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。
信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。
私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。
「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。
いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われ
て、はじめて知った。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●孤独
孤独であることは、まさに地獄。
無間地獄。だれにも心を許さない。
だれからも心を許されない。
だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。
だれも愛さない。
だれからも愛されない。
……あなたは、そんな孤独を知っているか?
もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。
あなたは何をしたいか。
どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。
人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。
あなたの中のあなた自身を信ずればよい。
あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わってい
る。その常識を知り、その常識に従えばよい。
ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。
ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。
ウソをつかない。
飾らない。虚勢をはらない。
あるがままを外に出してみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。
ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。
ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。
人を助けてみる。人にものを与えてみる。
聞かれたら正直に言ってみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。
生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。
が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周
囲の人を温かく、心豊かにする。
一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たく
し、邪悪にする。
だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。
静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。
言いたいと思うことを言えばよい。
ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れ
ることができる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●常識をみがく
おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。
大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさな
いこと。
手始めに、空を見てみよう。
あたりの木々を見てみよう。
行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよ
う。
つっぱることはない。
いじけることはない。
すねたり、ひがんだりすることはない。
すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。
私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。
そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。
しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。
「お前は、ひとりで寝たいのか?
ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。
すると本当の私がこう答えた。
「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。
そこで家に帰った。
帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。
自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。
しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。
と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。
仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。
あなたの心に、がまんすることはない。
ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。
あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。
本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。
みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。
本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をい
う。
みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。
おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無
間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●2011年10月23日の朝に
ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。
言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。
が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。
そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道
をすることになる。
若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。
現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちが
いない」と思う。
だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。
要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくる
はず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 カルト 予言 預言 信仰とは はやし浩司 宗教論 宗教 はやし浩司 占い まじない)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●2011年01月03日朝
今朝は、占いからはじまり、宗教について考えてみた。
この文章の中に出てくる、「富山市U市の男性」というのは、「新潟県X市の男性」である。
よく覚えている。
私の家まで、2度も来てくれた。
またそのあと、毎年、新潟産の米を届けてくれた。
もう10年近くも前のことである。
今、その男性を思い浮かべながら、「元気だろうか?」と思った。
遠い昔のような気もするが、ごく最近のできごとのような気もする。
大切なことは、思考力。
自分で考えるという思考力。
最後に、思考力について書いた原稿を掲載する。
こうしたカルトと闘うためには、思考力しかない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●思考力とは何か
当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。
「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、
「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、
さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけ
たモンテーニュ(「随想録」)などがいる。
ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。
それほど楽なことではない。
それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。
いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。
しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。
子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。
もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救
われる。
大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテル
を張られてしまう。
だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。
が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じよう
な苦痛がついて回る。
それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。
そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。
一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。
●ループ性
……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。
とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。
●退化性
……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。
それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。
思考も同じ。
●先鋭化
……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。
ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。
こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。
もちろんこのほか、年齢的な問題もある。
私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。
集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。
そういうことはある。
で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止す
る人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。
個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。
概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。
それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 思考力 パンセ パスカル カル トと闘う 宗教と神秘主義 はやし浩司 宗教論 霊について スピリチュアル インチキ)2012 /01/03記
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【西浦温泉・たつき別館、葵(旅館)へ】(はやし浩司 2012−01−03)
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●01月03日、火曜日
ただ今、車の中。
JR浜松駅から、愛知県蒲郡(がまごおり)まで。
そこから名鉄電車に乗り換え、西浦まで。
JR浜松駅から、1時間ほど。
今日はその中にある、『葵』という旅館に一泊。
案内書では、『たつき別館・葵』となっている。
1日1組限定という、ペントハウス(特別室)に泊まる。
西浦温泉は、ほぼすべての旅館を回った。
今回は、その中の、『葵』。
とくに理由はないが、「露天風呂付きに部屋」という文句に、
引かれた。
●義兄の訪問
先ほど、義兄が年始のあいさつに来てくれた。
ちょうど出かけるところで、簡単な会話しかできなかった。
……ゆっくりと話をしたかった。
今度の日曜日に、山荘で食事をいっしょに楽しむことにした。
「一席、もうけますから」と言うと、喜んで、それに応じてくれた。
今朝は、それで失礼した。
玄関先へ出たときには、朝の運動がちょうど終わったとき。
汗をぬぐいながら、「これから西浦温泉へ行ってきます」と言うと、「いいねエ〜」と。
●家を出る
「家を出る」ということは、とても大切なこと。
「出る」だけでも、刺激になる。
けっして家の中に引っ込んでいてはいけない。
ボケる。
うつ病になる。
「50代では、年50泊、60代では、年60泊……」を目標にする。
あくまでも「目標」だが、60泊というと、週1泊以上ということになる。
が、幸運なことに、私にとっては、それほど無理な回数ではない。
どこかへ講演に行くときは、講演先のどこかに、かならず一泊するようにしている。
それがだいたい、週1回ほどになる。
ともあれ、これはあくまでも努力目標。
しかしそれくらいの目標を立てないと、どうしてもダラけてしまう。
ジジ臭くなってしまう。
●G神社
JR浜松駅へ向かう途中、G神社の前を通る。
境内に、車が一列になって並んでいるのが見えた。
「車の初詣」!
私たちはそう呼んでいる。
(正確には、「車のお祓い」というのだそうだ。)
一列に並んだ車の前を、神主らしき男性が、何やらお祓いをしながら歩いていた。
が、こんな調査結果を何かの本で、読んだことがある。
そうした「車の初詣」をしたからといって、事故率が下がるわけではない。
お祓いをしてもらった車も、そうでない車も、事故になる確率は同じ。
理由がある。
●迷信
その前に……。
私たちは、こうした迷信とは、まったく無縁の世界に生きている。
若いころから、そうだった。
私は、こうした宗教的行為を、「迷信」と断言する。
が、そう断言するには、勇気が必要。
「迷信」と断言するということは、そういった「力」との決別を意味する。
私たちだけで、生きていかねばならない。
だれも助けてくれない。
万が一のときも、だれにもすがれない。
が、今はちがう。
64歳にもなって、何かに遠慮してものを書くのも、いやになった。
だから「迷信」と断言する。
はっきり、断言する。
冷静に考えてみれば、わかるはず。
運転する「人間」に、お祓いをするなら、まだ理解できる。
金属でできた車に、お祓いをして、どうなる?
神社にしても、最初から断ったらよい。
いくら信者が「やってくれ」と願ったとしても、断ったらよい。
「車には、できません」と。
また「お祓いをしてもらったから、安全」と思ってはいけない。
そう思うことによって、かえって油断が生まれる。
反対に「私たちを守ってくれるものは、何もない」と思うのも、悪くない。
そう思うことによって、運転が慎重になる。
どちらであるにせよ、事故になる確率は同じ。
詳しい調査をしたら、ひょっとしたら、「車の初詣」をした車のほうが、事故率が高いという結果
が出るかもしれない。
●生き様
ならば人生の途中で、そうした迷信を捨てることができるかというと、それはできない。
迷信が、生き様の基盤になってしまう。
そういう人たちは、捨てたとたん、不安になる。
車について言えば、不安で、運転もできなくなる。
だから一度依存したら最後、死ぬまで依存するしかない。
宗教いうのは、そういうもの。
もしどうしても……、ということであれば、生き様そのものを変えなければならない。
「依存」から「自由」へ。
「自由」というのは、「自らに由(よ)る」という意味である。
それまで「依存」で生きてきた人が、ある日を境に「自由」に生きるなどということはできない。
●功徳(くどく)
こんな調査結果もある。
「金持ちになれる」をキャッチフレーズに、戦後、勢力を拡大した宗教団体があった。
「この信仰をすれば、庭の枯れ木に、札束の花が咲く」と。
が、実際に調査してみると、その宗教団体の信者のほうが、貧しい人が多かったという。
それについては、2つの考え方ができる。
ひとつは、もともと貧しい人たちが多かったということ。
もうひとつは、彼らが言うところの「功徳(くどく)」などというものは、もとからなかったということ。
今では、日本人全体が金権教の信者のようなもの。
欲得のかたまりのようなものだから、功徳(=信仰によって得られる利益)を、金権に換算する
人は少なくない。
もとから宗教に対する、心構えがズレている。
金権を求めるために、信仰をしてはいけない。
またそんなことに「力」を貸す神や仏がいるとするなら、それこそ、その神や仏は、エセ。
ニセモノ。
そんな神や仏は、相手にしてはいけない。
私が釈迦なら、こう言うだろう。
『バラモンよ、拝んで金が儲かると思ってはいけない。
拝んで権力が手に入ると思ってはいけない。
拝むなら自分の心に拝め。
蔵の財より、心の財。
それを求めよ』と。
●JR浜松駅
正月の3日。
JR浜松駅は、混んでいた。
電車の中も混んでいた。
途中から席に座れたが、豊橋の、2、3駅手前でのこと。
「やはり車で来るべきだった……」と、ふと、心の中でそう思った。
●JR蒲郡(がまごおり)
蒲郡(がまごおり)に、着いた。
が、ここで問題、発生。
時計を見ると、午後1時30分。
このまま行けば、旅館へは、午後3時前に着いてしまう。
案内書には、「チェックイン可能時間、15:00〜」とある。
「どうしようか?」と聞くと、ワイフは「水族館でも見てこようか」と。
が、外は寒々とした冬の景色。
蒲郡には、その水族館がある。
「西浦の駅で、時間をつぶそう」と私。
「そうね」とワイフ。
●西浦
西浦へは、午後2時、少し前に着いた。
宿へ電話をすれば、迎えに来てもらえるはず。
「どうしようか?」と、またワイフ。
「早く行って、ロビーで待とう」と、私。
●歩く
私たちはしばらく歩くことにした。
駅前で子ども連れの男性に道を聞くと、「この先、『力寿司』という寿司屋があるから、そこを右
へまっすぐ行けばいいよ」と。
私たちは教えられたとおりに、歩き始めた。
……西浦の町は、いつ来ても、元気がない。
多くの店は、正月なのか、それともふだんからそうなのかは知らないが、みな、シャッターを下
ろしていた。
私たちは、寿司屋の前を右に折れると、そのまま西浦温泉のほうに向かって歩き出した。
●八王子神社
途中、左手に立派な社(やしろ)が見えてきた。
場違いなほど立派な、社だった。
私たちはその神社にひきつけられるように、境内へと入っていった。
「八王子神社」と、大きく石碑に彫り込んであった。
私とワイフは、石段を上り始めた。
何度も「立派な神社だね」と。
●境内
境内で写真を撮っていると、白い着物を着た男性が、親しげに近づいてきた。
「どちらから?」と。
「浜松です」と答えると、うれしそうに、あれこれと説明してくれた。
由緒ある神社だった。
境内には、ほかに3、4人の人たちがいた。
掃除をしたり、あと片づけをしたりしていた。
帰るとき、ワイフがまた同じことを言った。
「こんなところに、こんな立派な神社があるなんて……」と。
●親切な男性
街道を歩いていると、(幡豆(はず)街道という)、うしろから軽のバンが追いかけてきた。
私たちの横に止まると、中から70歳くらいの男性がこう言った。
「乗せていってあげるよ」と。
先ほどまで神社にいた男性だった。
「はあ……」と私。
「西浦温泉まで、乗せていってあげるよ」と。
私とワイフは、そのままバンに乗った。
男「まだ、だいぶあるよ」
私「すみません……。いえね、私、こうして見知らぬ人に車に乗せてもらうのは、この40年で、
はじめてではないかと思います」
男「ははは……」と。
そう、この40年間で、はじめての経験だった。
他人を乗せたことはあるが、見知らぬ人に乗せてもらったことはない。
が、居心地は悪くなかった。
先ほどの神社で、賽銭として、もっていた小銭をすべてはたいた。
そのご利益?
●旅館「葵」
一文字で、「葵」。
立派な旅館だった。
玄関を入ると、フロントまで一直線の赤いジュータンが敷いてあった。
ここで訂正……「ペントハウス(最上階)」を思ったが、フロントからつづきになっている、一番
奥の部屋だった。
露天風呂付きの部屋。
ドアを開けると、下足置場だけで一部屋分あるほど、中は広かった。
「すごい部屋だな」と。
仲居さんが、露天風呂の使い方を、あれこれ説明してくれた。
●温泉
私たちはいつものように一服すると、そのまま大浴場へ。
大浴場には、私、1人だけだった。
ラッキー!
こういうのを私は子どものころ、「一番風呂」と呼んでいた。
町の銭湯で、そういう言葉を使った。
●銀波荘
部屋からは、渥美湾が一望できた。
少し前に泊まった、銀波荘がすぐ前の眼下に見えた。
その銀波荘の料理は、超一級。
料金も高かったが、それだけの価値はあった。
そんな話をしながら、ワイフと遠くの景色を眺めた。
別の旅館に泊まりながら、隣の旅館をほめるというのも、どうかと思う。
が、銀波荘の料理には、驚いた。
一品、一品に、奥深い趣向がこらされていた。
●人間関係
ここへ来る電車の中で、ワイフとこんな話をした。
人間関係について。
都会に住んでいる人は、あまりそういう話はしない。
理解できないだろう。
しかし人間関係が濃密な田舎に住んでいると、それがよくわかる。
こういう話。
たとえばA、B、C、D、Eさんの5人がいたとする。
五角形を頭の中で描いてみればよい。
そのとき、対角線を描くと、計10本の線が引ける。
具体的には、A−B、A−C、A−D、A−E、B−C、B−D、B−E、C−D、C−E、D−Eと。
それぞれが、別の人間関係を形成する。
実際には、双方向性ができるから、20本の線ということになる。
A−Bの関係と、B−Aの関係が、異なるときがある。
Aさんは、Bさんが好き。
が、Bさんは、Aさんが嫌い、と。
だから20本。
こうして地方の田舎では、複雑な人間関係が形成される。
●評価
たとえば同じBさんを、Aさんは、ほめちぎる。
が、同じBさんを、今度はCさんが、ボロクソに叩く。
同じ人物なのに、人によって評価が、まったくちがう。
ときに、その評価が180度、異なるときがある。
もちろんこの私についても、だ。
Aさんは、私のことを、よい人だと言う。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。
が、私は同じ「私」なのに、Bさんは、私のことを、ボロクソに叩く。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。
そのときたいへん興味深いのは、そういう評価は、若いころはまだ流動的ということ。
が、50歳を過ぎると、それが固定化してくる。
ボロクソに叩く人は、それこそ20年前、30年前の話を持ち出して、叩く。
が、それだけではない。
心のどこかにもっていた(わだかまり)が、50歳や60歳を過ぎたころ、一気に噴き出す。
そのため評価の仕方も、極端になりやすい。
●人間のクズ
たとえば、こんな例。
A氏とB氏は、ほぼ同じ年齢。
が、A氏は、よい家柄の御曹司。
B氏には、その家柄がない。
それもあって、A氏は、子どものころからB氏を、「下」に置いていた。
B氏は、「下」という立場に甘んじていた。
こうして20年、30年と過ぎる。
が、そのころから、B氏はA氏をボロクソに叩くようになった。
「あいつは、人間のクズ」と。
が、肝心のA氏は、いまだにそれに気づいていない。
「私は尊敬されるに値する人間だ」と。
が、ここで先にも書いたように、おもしろい人間関係が形成される。
ふつうは、「好意の返報性」といって、相互に似たような人間関係になる。
A氏がB氏をよい人と思っていると、B氏もまたA氏のことを、よい人と思うようになる。
日本でも昔から、『魚心あれば、水心』という。
英語の格言にも、「相手は、あなたが思うように、あなたのことを思う」というのがある。
ふつうなら、そうなるのだが、先にも書いたように、人間関係はそれほど単純ではない。
とくに濃密な近隣関係にある世界においては、そうだ。
●おもしろい人間関係
で、そのA氏を、C氏は、高く評価している。
「Aさんは、すばらしい人だ」と。
理由を聞くと、「先祖を大切にしているから」と。
A氏は、毎年、盆暮れになると、名古屋からやってきて、墓参りをきちんとする。
が、A氏は、C氏をボロクソに叩く。
「あいつは、墓参りすら、きちんとやっていない」と。
A−Cの関係と、C−Aの関係が、中身において、ちがう。
それがここに書いた「おもしろい人間関係」ということになる。
●表面(おもてづら)
が、さらに興味深い現象が、起きる。
そういう関係にもかかわらず、(たいへん複雑に入り組んだ関係にもかかわらず)、それぞれの
人たちは、みな、見た目には、よい人間関係をつづけている。
表面(おもてづら)と、裏面(うらづら)を、巧みに使い分けている。
まさに面従腹背。
ボロクソに叩きながらも、だからといって、喧嘩しているわけではない。
いっしょに飲み食いをしたり、ときには、いっしょに旅行もしたりする。
都会に住んでいる人には信じられないような話かもしれない。
しかしこの浜松という、人口80万人の都市においてすらも、そういう現象が起きる。
それをワイフは、「おもしろい」と言う。
私も「おもしろい」と言う。
私「だけどね、ぼくは、そういうことができない」
ワ「そうね、あなたには、できないわね」
私「そうなんだよ。裏で悪口を言いながら、表では仲よくつきあう……。とてもぼくにはできない」
ワ「私もできないわ」
私「だからね、ぼくのばあいは、その人の悪口を書いたばあい、その人とは、つきあわないこと
にしている」と。
そう、それは事実。
私は一度でも、その人のことを悪く書いたばあいには、(たとえその人とわからないように書い
たばあいでも)、その人とは縁を切ることにしている。
それをしないと、脳みそがバラバラになってしまう。
だから……当然のことだが、その人の悪口を書くときは、最後の最後……。
……というより、めったに書かない。
そんなことをすれば、筆が汚れる。
自分の住む世界を狭くする。
●『道徳的未熟児』?
たった今、あちこちのニュース・サイトに目を通した。
その中に、こんなのがあった。
朝鮮中央通信(北朝鮮)が、こんな論評を出している。
いわく、
『朝鮮中央通信は3日、「大国葬を迎えた朝鮮民族の胸を刃物で刺す日本の道徳的未熟児」と
いう論評で、隣国の大国葬をともに悲しみ慰めることができないとしても、朝鮮民族声援の弔 問までも遮断する日本当局の行為は卑劣だと主張した』(ヤフーNEWS)と。
ごちゃごちゃと書いている部分は、無視してよい。
あの国の言っていることは、いつも常識をはずれている。
が、この中にある、『道徳的未熟児』という言葉だけに注目してほしい。
(『道徳的未熟児』だぞ!
この私たち日本人が!)
こうして世界中にニュースが配信されたから、私もあえて書く。
「道徳的未熟児」とは、いったい、どういう子どもや人をさして言うのか。
ためしに「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみてほしい。
一例も、ヒットしないはずである。
「未熟」という言葉はよく使う。
しかし子どもや人をさして、「未熟児」とは言わない。
また言ってはならない。
(この原稿は別として。)
私は幼児教育歴43年になるが、「未熟児」などという言葉は使ったことも、口に出して言った
こともない。
講演などでも、一度もない。
(当然のことだが……。)
タブーというより、禁句。
禁句と意識する以前の、禁句。
こういう言葉を、堂々と使う北朝鮮が、恐ろしい。
1.どういう子どもをさして、未熟児というのか
怒れるよりも先に、あきれる。
それとも北朝鮮には、未熟児はいないというのか。
子どもの3分の1以上が、栄養失調と言われている。
そういう子どもたちが、未熟児になる心配はないのか。
ともかく、この言葉には、驚いた。
私たちがけっして口にしてはいけない言葉。
それが「未熟児」。
もともと私の思考回路の中にさえ、ない。
そういう言葉が、こうして堂々と、活字になっている!
私はそれに驚いた。
●露天風呂
夕食前に、2度目の露天風呂に入った。
雲ひとつない、紺碧の夜空だった。
月が美しく、星もまばたきもせず、その横に散らばっていた。
それを見ながら、決心した。
「露天風呂を作ろう!」と。
以前から計画していたが、二の足を踏んでいた。
とくに理由はないが、その時間がなかった。
しかし作ろうと思えば、1日で、できる。
板を敷き、その上に、風呂釜を置く。
風呂釜は何でもよい。
友人のTH氏は、ドラム缶を置いて、風呂にしている。
(本物のドラム缶だぞ!)
この温泉の露天風呂は、陶器でできた瓶(かめ)。
どこかにそれを売っている店もあるはず。
……しかし、お湯を抜くときはどうすればよいのか。
陶器に穴をあけるのも、たいへん。
ウ〜ン?
●「はやし浩司 未熟児」
たった今、「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみた。
これは念のため。
万が一にもその言葉を使っていたら、私は自分の評論生命を絶たねばならない。
そう思いながら、検索をかけてみた。
ヤフーの検索で、557件、ヒットした。
「未熟」という言葉で、ヒットした。
「未熟児」という言葉は、やはり一度も使ったことがない。
それがわかった。
で、その2件目に、つまり557件中、上から2件目で、「脳の未熟化」について書いた原稿が見
つかった。
こんな旅行記に、その原稿を載せるのもどうかと思うが、ここに転載する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「脳の未熟化」(澤口俊之著「したたかな脳」)
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。
言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。
私も、そう思う。
つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。
ただのサルになってしまう。
が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。
いろいろな原因が考えられているが、要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」
(養老孟子)になってきたということ。
先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んだという。
「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。
これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。
服装や、かっこうはともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。
つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。
最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあることがわかって
きました」(同書、P34)と。
その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。
しかもその発達時期には、「適齢期」というものがある。
言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくると、発達を停止してしまう。
「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適切にその能力を伸ばさな
いと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。
それを「適齢期」という。
私の経験によればの話だが、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満
4・5歳から5・5歳。
この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることができる子どもになる。そう
でなければ、そうでない。
この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。
遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。
一度、定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。
で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。
わからないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完
成されると考えてよい。
この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。
澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳 はやし浩司 教育 林
浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●言語能力
その言語能力で気になるのが、最近の若い人たちの話し方。
鼻から息を抜きながら、フガフガした言い方をする。
たとえば、「いらっしゃいませ」を、「ヒラッアシャハイ、ムァーセ」と。
幼児教育の世界には、「発語障害」という言葉がある。
が、そのどれにも属さない。
ということは、後天的に、こうした言い方は、クセとしてその人に定着する。
若い女性に多い。
「このままでいいのか?」と、考えたところで、思考停止。
言葉というのは、そういうもの。
いつも大衆が、その流れを決めていく。
が、好きか嫌いかと聞かれれば、私は嫌い。
聞きづらいという点で、私はそういう言い方が、嫌い。
日本語が基本的な部分で、壊れつつある。
そんな危機感さえもっている。
フロントでチェックインしていたとき、同時に並んだ若い女性たちが、みな、そんな話し方をし
ていた。
●夕食
夕食は、海賊焼き。
伊勢エビ、アワビなどの豪華品に、あとは定番。
量は多すぎるほど。
満足したというより、楽しかった。
凝(こ)った懐石料理もよいが、私はこのタイプの夕食のほうが楽しい。
肩も凝らない。
●露天風呂
夕食後、私は再び、露天風呂へ。
ワイフはDVD鑑賞。
これもいつもの定番。
月に白いモヤのような雲が、かかり始めた。
そんなことを考えながら、ぼんやりと空をながめる。
無我の時。
よく誤解されるが、私はいつも、ものを考えているわけではない。
ものを書いていないときの私の頭の中は、カラッポ。
いつも馬鹿話ばかりしている。
ふだんの私を見たら、あなたはこう思うだろう。
「この男は、馬鹿?」と。
(実際、馬鹿なのだが……。)
それが私の特技かもしれない。
ものを書いているときの私の脳みその中は、モヤモヤでいっぱいになる。
が、そうでないときの私の脳みそは、カラッポ。
モヤモヤとカラッポ、それをいつも繰り返している。
そのときが、そうだった。
露天風呂に入っているとき、私の脳みその中は、カラッポだった。
完全にカラッポだった。
●近視主義者
ワイフは、「今を楽しもう」と言う。
私は、悲観論者。
自分の末路を考えると、どうしても悲観的になる。
このちがいは、どこから生まれるのか。
が、私はワイフが楽観論者とは思っていない。
現実主義者でもない。
私は「近視主義者」と呼んでいる。
いつも目先のことしか、考えない。
目先のことしか、見えない。
つまり未来を予測しながら生きるということを、しない。
「何とかなるわ」が、ワイフの口癖。
そういうワイフを、うらやましいと思うときもある。
そういうときは、こう思う。
「ぼくのような変人には、ワイフのような妻がいちばん似あっている」と。
が、そうでないときもある。
私の未来的な絶望感を理解できないときがある。
老後のことを心配したりすると、すかさず、こう言い返す。
「忘れなさいよ」と。
そういうときは、たいへん苛(いら)立つ。
「忘れることができないから、悩んでいるのだ!」と。
が、結局のところ、……いつも、最終的にはいつもそうなるが、ワイフが正しい。
私が負けを認め、それでおしまい。
……この文章をワイフが読むかどうかは、わからない。
わからないが、正直に告白する。
負けを認める。
私が恐れていることは、自分の老後のことではない。
孤独死とか、無縁死でも、何でもよい。
そんなことは、どうでもよい。
私が恐れているのは、いつか、ワイフがいなくなったときの世界、である。
はたして私は、そんな世界に耐えられるだろうか。
●10年、早ければ……
時刻は、午後9時を、少し回った。
ワイフは相変わらず、DVDを見ている。
聞き慣れない言葉である。
ドイツ語のようでもあるが、ドイツ語でもない。
「No」という意味で、「ネイ」と言っている。
雰囲気からして、オランダの映画?
北欧の映画?
よくわからない。
……というか、この世界には、私の知らないことのほうが、多すぎる。
だからときどき、こう思う。
気がつくのが、もう10年、早ければよかった、と。
10年早ければ、もっと新しいことを知ることができた、と。
が、今は、ちがう。
脳みその働きそのものが、鈍くなってきた。
片端(かたっぱし)から新しいことを知り、同時に、片端から忘れていく。
これではいつになっても、前に進むことができない。
このはがゆさ。
このもどかしさ。
DVDの主人公たちは、私たち日本人がもっている価値観と、まったく異質な価値観をもって
いる。
それを知るためには、彼らとともに生活しなければならない。
苦楽を共にしなければならない。
反対の立場で考えてみると、それがよくわかる。
たとえば「家・意識」。
アメリカ人やオーストラリア人に、日本人がもつ「家・意識」を説明しても、理解できない。
彼らがそれを知るためには、また理解するためには、日本に住み、日本人といっしょに生活し
なければならない。
●知的優越感
知的優越感というのは、確かにある。
私も、ある時期、それを強く感じた。
「私は、君たちの知らない世界を知っている」と。
が、今はそれも色あせ、老後の中で、ごちゃ混ぜになってしまった。
ただその一方で、私から見ると、化石のような人に出会うことは、多くなった。
その人が「化石」というのではない。
私の中に残っている「化石」そのままだから、「化石のような人」という。
少し入り組んだ話になるが、許してほしい。
若いときに(外の世界)へ出た人と、反対に、生まれも育ちも、そしてそれ以後も、ずっと(内
の世界)に住んでいる人がいる。
(外の世界)へ出た人には、(内の世界)がよく見える。
が、ずっと(内の世界)に住んでいた人には、当然のことながら、(外の世界)がわからない。
わからないまま、(内の世界)を基準にして、ものを考える。
(外の世界)を想像したりする。
こう書くと、(内の世界)に住んでいる人は、こう反論するかもしれない。
「外国のことはよく知っている」「ときどき外国へ旅行する」「テレビでもよく紹介されるから、それ
を見ている」と。
しかし(外の世界)を知るということと、観光客として、外国を訪れるということの間には、天と
地ほどの開きがある。
(外の世界)の人だって、観光客には、自分たちの世界を見せない。
さらに中には、私にこう言う人もいる。
「君は、外国かぶれしている」と。
●化石
そこで私自身を振り返ってみる。
もし私があのまま日本の会社に入り、そのまま60歳を迎えていたら、私はどうなったか、と。
「あのまま」というのは、99・9%の日本人がそうであったように、(外の世界)を知らないまま、
日本だけに住み、日本の中で生活をしていたら、という意味である。
が、これについては、何も、想像力を働かせなくてもよい。
そういう人を、あなたの周辺から探してみれば、それでよい。
探して、そういう人が、どういうものの考え方をしているかを、知ればよい。
つまり、それが(あのままの私)ということになる。
が、最近は、そういう人たちが、私には、「自分自身の化石」に見えるようになった。
先に「化石のような人」と書いたのは、そういう意味。
「過去の自分のまま」という意味で、そう言う。
で、私と彼らはちがう……というのは、あくまでも結果論にすぎない。
ここでいう「化石」というのは、私自身の内部で、核になっている「私」を意味する。
固くて、心の中で石のようになっている。
だから「化石」。
●因習
もう少し具体的に話そう。
私は子どものころ、学校が休みになると、決まって母の実家のある田舎で過ごした。
そこには、古い因習が、ぎっしりと詰まっていた。
そこはまさに、(情の世界)。
すべてが「情」を中心に動いている。
(だからといって、因習や情を否定しているわけではない。誤解のないように!)
しかしそれが因習とわかったのは、ずっと後になってからのこと。
30代、40代になってからのこと。
が、もし私があのまま(外の世界)を知らないでいたら、私自身が因習を因習とも気づかないま
ま、私はそれをそのまま踏襲していただろう。
事実、そのあたりにそれ以後も住み、そこで暮らした人たちは、そっくりそのまま因習を踏襲し
ている。
●智に働けば……
が、ここでいつも、厚い壁にぶち当たる。
そういう化石のような人たちに出会うと、(けっしてそういう人たちが、「下」とか、そういうことを
書いているのではない。誤解のないように)、言いようのない無力感を覚える。
あまりにも遠くに住んでいて、どこからどう説明したらよいのか、わからなくなる。
実際には、不可能。
つまり私を理解するのは、不可能。
だから私のほうが、先に引いてしまう。
引いて、私のほうが、彼らに合わせる。
「そうですね」「そのとおりです」と。
が、それはむずかしいことではない。
私の中にある「化石」を、そのまま引き出せばよい。
ちょうど机の引き出しから、古い本を取り出すように、だ。
あとはその化石を見ながら、相手に合わせていけばよい。
ところで夏目漱石は、『草枕』の冒頭で、こう述べている。
『智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される』と。
理性だけを主張していると、他人との衝突がふえる。
しかし相手の情に同調していると、自分を見失ってしまう、と。
たしかにそうだ。
相手に合わせるのは、むずかしいことではないが、いつも後味が悪い。
いや〜な気分になる。
●01月04日
今日は1月4日。
時刻は午前8時30分。
西浦駅に向かうバスが、9時に出るという。
今、そのバスを待っている。
まぶしいばかりの白光。
昨夜は遅くまで波の音が聞こえたが、今は、それもない。
窓の外の波を見ると、岸のほうから太平洋側に向かって、動いている。
今日も、北風。
寒い1日に、なりそう。
そうそう、昨日、オーストラリアのB君からメールが届いた。
南オーストラリア州では、ここ2日ほど、気温が41度を超えているという。
41度!
もっともオーストラリアでは、空気がカラカラに乾燥しているから、41度といっても、日陰に入
れば、涼しさを感ずる。
夜も寝苦しいということはない。
が、心配なのは、ブッシュ・ファイア(山火事)。
大平原が、それこそ関東平野分ほど、燃えたりする。
それが気圧の移動とともに、あちこちを燃やし尽くす。
それがこわい。
●旅の終わり
あわただしいが、これで旅行記はおしまい。
西浦温泉、たつき別館、『葵』にて。
2012年の英気を、ここで養う。
はやし浩司・晃子
はやし浩司 2012−01−04
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
はやし浩司 西浦 葵 たつき別館 西浦温泉 葵)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
はやし浩司 2012−010−05
●1月5日
●怪談
私は、子どものころから怪談が苦手。
どこかでそういうトラウマを作ってしまったらしい。
もともと閉所恐怖症だったから、暗い所や、狭いところが嫌いだった。
が、よく覚えているのは、映画。
当時、猫化け映画や怪談映画が、流行(はや)った。
その中に四谷怪談とか牡丹燈籠というのもあった。
播州皿屋敷というのもあった。
そういう映画を見に行くと、決まって映画館の通路に、祭壇がもうけてあった。
その上に、線香がたいてあった。
私たち子どもは、それを見ただけで、震えた。
私が小学1〜3年生のころのことである。
●恐怖体験
こうした恐怖体験は、子どものうちは、しないほうがよい。
今ではそれが常識だが、当時の日本には、まだそれがなかった。
子どもの心理がどうのこうのと、問題になるようなことはなかった。
おとなたちは、むしろ、そういうふうに子どもたちが怖がったりするのを、楽しんでいた。
映画館の中でも、私たちの恐怖心をあおりたてるようなことを、平気で言った。
「あれは本当の話だ」とか、何とか。
そのこともあって、今でも、怪談が苦手。
日本の会談は、どこか湿っぽい。
あの湿っぽさが、苦手。
旅館に、古い行燈(あんどん)があったりするだけで、背筋に冷たいものを感ずる。
……実は、その古い行燈が、先日泊まった旅館の中にあった。
木製の、障子張りのものだった。
遠い昔、女性に化けた猫が、その行燈の油を、ペロペロとなめていた……。
ゾーッ!
●女たらし
ほかにも、苦手なものがいくつかある。
その第一が、女性。
私は、団塊の世代がみなそうであったように、中学に入るまで、女の子と遊んだ経験がない。
女の子と遊んでいると、「女たらし」と言って、馬鹿にされた。
……というか、女の子と遊んでいる男を、「女たらし」と言って、馬鹿にした。
女の子と遊ぶことは、悪いこと。
そう思っていた。
●腕白ボーイズ
だからいまだに、女性が苦手。
ついでに言えば、女の子を教えるのも苦手。
どうしても一歩、退いてしまう。
距離を置いてしまう。
半面、私がそうだったということもあって、腕白ボーイズが得意。
そういう子どもたちを相手に、ワイワイやっていると、そのまま私の子ども時代に、そのままタイ
ムスリップしてしまう。
●傷
このように人間の心というのは、その成長過程で、雑音のように作られていく。
「雑音」というのもおかしな言い方だが、それに近い。
種々雑多なことが、無秩序に積み重なって、心はできていく。
その途中で、「傷つく」ということも、ある。
が、傷つくことを恐れてはいけない。
だれしも傷まるけになりながら、おとなになっていく。
(もちろん傷にも、程度の差というものがあるが……。)
●ひ弱な子ども
で、最近よくこんなことを考える。
今の若い母親たちは、神経質すぎる、と。
「もう少し、乱暴に育ててもいいのではないか」と思うときも、多い。
こうした傾向は、学校教育の場でも、みられる。
このあたりの小中学校でも、子どもが学校で怪我をしたりすると、かならず病院へ連れていく
ことになっている。
とくに首から上の事故のばあいは、教師が診断書をもって、家庭訪問をすることになっている。
「そこまでするのですか?」と聞くと、「そこまでします」と。
ある小学校の校長が、そう教えてくれた。
怪我の程度にもよるが、子どもというより、「子ども様々」。
こういう環境の中で、子どもはますますひ弱になっていく。
日本国内では、それでよいとしても、日本から一歩外に出れば、通用しない。
こんなニュースが、先週、どこかのサイトに載っていた。
記憶によるものなので、内容は不正確。
●強行着陸
どこかの国の飛行機が、中国のある空港に着陸しようとした。
が、濃霧か何かで、その空港に着陸できなかった。
そこで50キロ離れた、別の空港に着陸しようとした。
残りの燃料は、10分を切っていた。
そこへ中国国内の航空会社の飛行機が接近してきた。
「私のほうが先」と。
そこでそのどこかの国の飛行機は、上空で待機した。
が、燃料がいよいよ5分を切った。
そこで再度、「先に着陸させてほしい」と連絡したら、中国の飛行機の機長はこう言ったという。
「こちらは4分しかない。だから先に着陸する」と。
そこで先に、中国の飛行機が着陸し、つづいてどこかの国の飛行機が着陸した。
どこかの国の飛行機は、燃料切れ寸前だった。
しかもギリギリの強行着陸。
あわや衝突事故……というような、ギリギリの強行着陸だった……という。
が、ここからが実に中国らしい話。
あまりにも中国的!
着陸したあと、中国の飛行機の燃料を調べたら、1時間分も残っていたという。
つまり中国の飛行機の機長は、ウソを言っていた。
この先、すでに現在がそうだが、私たち日本人は、こうした連中を相手に商売をしていかね
ばならない。
今の日本の子どもたちに、その野生臭があるか?
(以上、記憶による話なので、内容は不正確。
●記憶錯誤
ここで脱線。
この事件について、調べてみた。
あちこちを検索したら、いろいろわかった。
事件は2011年の08月28日に起きた。
ここに書いた「どこかの国」というのは、「カタール」のことだった。
また中国機(吉航空機)を操縦していたのは、韓国人のパイロット。
なお管制官にこうした虚偽の報告をしたり、支持に従わなかったばあい、パイロットは死刑にな
る可能性もあるという。
記憶というのは、こういうものかもしれない。
ストーリーは覚えているが、枝葉の部分は、すべて消えてなくなる。
記憶錯誤が起きる。
それはともかくも、さて本題。
●「好きな子どうし並んでいい」
日本を一歩、外に出れば、そこは野獣うごめく海千山千の世界。
食うか食われるか。
中国には、こんな格言すらあるという。
『だまされる前に、だませ。だまされたほうが、バカ』と。
きれいごとだけでは、生きていくことすらむずかしい。
今の若い母親たちには、そういう現実が、まったくわかっていない。
それこそ先生に、子どもがプリントで頭を叩かれただけで、「そら、体罰!」と言って騒ぐ。
これも本当にあった事件だが、こんなことがあった。
ある学校で、先生が子どもたち(小1児)の席決めをすることになった。
そのとき先生が、こう言った。
「好きな子どうしで並んでいい」と。
が、この言葉に1人の母親が、猛反発。
こう言ったという。
「うちの子のように、友だちがいない子どもは、どうしたらいいのか。そういう子どもに対する配
慮に欠ける行為。許せない!」と。
校長室にまで怒鳴り込んでいって、「あんな教師、やめさせろ!」とまで言ったという。
(この事件について書いた原稿があるはず。
記憶を正すため、探してみる。)
●訂正
1999年ごろに書いた原稿が見つかった。
そのまま紹介する。
『ある日一人の母親が私のところへやってきて、こう言った。
「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うちの子(小2男
児)のように友だちがいない子どもはどうすればいいのか。
そういう子どもに対する配慮に欠ける行為だ。これから学校へ抗議に行くので、あなたも一緒
に来てほしい」と』(1999年ごろに書いた原稿)と。
ここでも記憶錯誤が起きている。
先に「小1男児」と書いたのはまちがいで、正しくは「小2男児」。
「校長室まで怒鳴り込んでいった」というのは、私の憶測。
が、そのときの雰囲気はよく覚えている。
その母親とは、道路でバッタリと会った。
「先生!」と声をかけられたから、振り向くと、その母親がそこに立っていた。
そこで、その話になった。
「これから学校へ抗議に行く。先生も(=私も)、いっしょに来てほしい」と。
ものすごい剣幕だった。
そのときの原稿を読みながら、今、こう思う。
「小1の子どもではなく、小2の子どもだったのかあ……」と。
私はそのときの雰囲気で、「校長室へ怒鳴り込んでいく母親」を想像した。
だから今、記憶の中では、そうなっている。
ついでに、そのとき書いた原稿を、全文、紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●過関心は子どもをつぶす
子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、しかしそれが度を超すと、過関心になる。
こんなことがあった。
ある日一人の母親が私のところへやってきて、こう言った。
「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うちの子(小2男
児)のように友だちがいない子どもはどうすればいいのか。
そういう子どもに対する配慮に欠ける行為だ。
これから学校へ抗議に行くので、あなたも一緒に来てほしい」と。さらに……。
子どもが受験期になると、それまではそうでなくても、神経質になる親はいくらでもいる。
「進学塾のこうこうとした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼる」と言った母親もいたし、「子
どものテスト週間になると、お粥しかのどを通らない」と言った母親もいた。
しかし過関心は子どもの心をつぶす。
が、それだけではすまない。
母親の心をも狂わす。
子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑う。
症状としては、ささいなことで極度の不安状態になったり、あるいは激怒しやすくなるのほか、
つぎのようなものがある。
(1)どこか気分がすぐれず、考えが堂々巡りする、
(2)ものごとを悲観的に考え、日常生活がつまらなく見えてくる。さらに症状が進むと、不眠を
訴えたり、注意力が散漫になったりする、
(4)無駄買いや目的のない外出を繰り返す、
(5)他人との接触を避けたりするようになる、など。
こうした症状が見られたら、黄信号ととらえる。
育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。
子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。
過関心にせよ、育児ノイローゼにせよ、本人自身がそれに気づくことは、まずない。
気づけば気づいたで、問題のほとんどは解決したとみる。
そういう意味でも、自分のことを知るのは本当にむずかしい。
『汝自身を知れ』と言ったのはターレス(古代ギリシアの七賢人の一人)だが、哲学の世界で
も、「自分を知ること」が究極の目的になっている。
で、このタイプの親は明けても暮れても、考えるのは子どものことばかり。
子育てそのものにすべての人生をかけてしまう。
たまに子どものできがよかったりすると、さらにそれに拍車がかかる。
いや、その親はそれでよいのかもしれないが、そのためまわりの人たちまでその緊張感に巻
き込まれ、ピリピリしてしまう。
学校の先生にしても、一番かかわりたくないのが、このタイプの親かもしれない。
あなたがここでいう過関心ママなら、母親ではなく、妻でもなく、女性でもなく、一人の人間とし
て、生きがいを子育て以外に求める。
ある母親は、娘が小学校へ入学すると同時に手芸の店を開いた。
また別の母親は、医療事務の講師をするようになった。
そういう形で、つまり子育て以外のところで、自分を燃焼させる場をつくり、その結果として子育
てから遠ざかる。
●ターレス
ハハハ、ここでまた記憶錯誤!
先の原稿の中で、「ターレス」という名前を書いた。
が、「キロン」ではなかったのか。
それについて書いた原稿も見つかった。
日付は2009年6月になっている。
そのまま紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●『汝自身を知れ』(Know Yourself)
古代ギリシャの7賢人、アポロン神殿)
++++++++++++++++++++++
おととい講演をしているとき、『汝自身を知れ』という
言葉の話をした。
しかしその場で、それがだれの言葉あるかを忘れて
しまった。
ショックだった。
あれほどまでに有名な言葉の作者を忘れてしまうとは!
スパルタのキロンだったのか?
それともギリシャのターレスだったのか?
スパルタだったのか、それともギリシャだったのか?
ソクラテスはその言葉に、電撃的な衝撃を受け、哲学
の本質を知った。
++++++++++++++++++++++
●ターレス
私は『汝自身を知れ』というのは、長い間、スパルタのキロンの言葉と思っていた。
あちこちの原稿に、そう書いた。
が、あるとき、掲示板にそのまちがい(?)が指摘されていた。
「キロンではなく、ターレスだ」と。
そのとき書いた原稿をさがしてみる。
が、便利になったものだ。
いちいち自分の原稿を開かなくても、ヤフーの検索を使えば、即時にそれができる。
検索窓に、「はやし浩司 汝自身を」と記入して、(検索)ボタンをクリックすればよい。
で、わかったことは、『汝自身を知れ』とは、ギリシャのアポロン神殿に刻まれている、
七賢者の一人、ターレスの格言ということがわかった。
しかもターレスというのは、『古代ギリシア世界には7人の卓越した賢者がいたといわれる
が、その7人が誰であるのかについては諸説あり統一的な見解は得られていない。
古代ギリシアの7賢人として一般的に知られている人物は、ターレス(タレス)、ソロン、ペリアン
ドロス、ビアス、ピッタコス、クレオブゥロス、ケイロンである』。
『ターレス(B.C.624−546)は、名門出身だったので、初め政治家としての
道を志すが、その後天文学など自然学の研究に熱意を燃やし、万物の根源(アルケー)
を探求する自然哲学の祖としての思索を行った』(以上、『』内、Biglobe・HP
より、転載)。
キロンではなく、ターレスだった。
思い出した!
それにターレスというのは、古代ギリシャの7賢人の1人。
スパルタ、ではない。
で、こうした記憶というのは、しっかりと上書きしておかねばならない。
また時間がたつと、その下の記憶が表に出てきてしまう。
記憶が混乱してしまう。
古代ギリシャの7賢人の1人、ターレスが、ギリシャのアポロン神殿に残した言葉。
それが結論ということになる。
が、不安が残る。
このところ自分の脳みそが信用できなくなった。
こういうときは、どうするか?
どうすれば、記憶として、脳みその中に残すことができるか?
ウ〜〜ン……。
高校の受験生のように、クソ暗記するしかない。
キーワードは、「古代ギリシャ」「アポロン神殿」「ターレス」である。
どれもよく知っている言葉だが、どうかすると、ポンとそれらの言葉を思い出せなくなってしま
う。
脳みその老化が進むと、そういう現象はよく起きるという。
「ド忘れ」ともいう。
これから先、そういうことが多くなるだろう。
心して、脳みその中に叩き込もう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)
(こうして(↑)、検索ワードを書き加えておけば、ヤフーもしくは、グーグルでの検索
ができるようになる。
すでに多くの人もしていると思うが、私がオリジナルに考えた方法である。)
またこういうことも言える。
私はすでに、この5年間だけでも、3万ページ以上(40x36字)の原稿を書いた。
が、2600年後に残る言葉など、一行もないだろう。
しかしたーレスは、アポロン神殿に、『汝自身を知れ』という言葉を残した。
たったの一言である。
しかしその一言が、2600年を経た今、哲学の(柱)になっている。
すごいことと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)
●01月05日
話が「怪談」から、「私の子どものころ」。
そしてさらに「ひ弱な子ども」から「記憶」へと脱線してしまった。
最後は「親の過関心」から「ターレス」。
脱線につづく脱線。
ここまで読んでくれた人に感謝しながら、今朝はここまで。
今朝の私の脳みそは、ここに書いたエッセーのように、バラバラ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 親の過関心 はやし浩司 過関 心)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【拡大する、貧富の差】
●マグロ1匹、5649万円!
まず、ブルームバークの記事より。
マグロ1匹が、5649万円で、競(せ)り落とされた、とか!
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
1月5日(ブルームバーグ):
東京・築地の中央卸売市場では5日朝の初競りで、青森県大間産の269キログラムのクロマ
グロが1本5649万円で競り落とされた。
1キログラム換算では21万円となる。
落札した寿司チェーン店「すしざんまい」を経営する喜代村の広報担当、梅原裕史氏が明らか
にした。
マグロを競りに出した東都水産や、中央卸売市場ウェブサイト情報によると、記録のある近年
の初競りの最高値は昨年の3249万円(北海道戸井産、342キロ)。
喜代村では、今回のマグロ1本をにぎり寿司にした場合、1万貫余りになるだろうとみている。
(以上、Bloomberg記事より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●計算
どうも計算が合わない。
1匹が、5649万円。
キロ当たり、21万円。
このマグロで、1万貫の寿司が握れるという(Bloomberg)。
ということは、1貫につき、5649円。
わかりやすく言えば、寿司1個が、5649円。
しかもそれが原価。
記事のまちがいではないのか。
念のため、今度は、キロ当たりで計算してみる。
1キロで、21万円。
100グラムで、2・1万円。
10グラムで、2100円。
1グラムで、210円。
一円玉の重さのマグロが、210円!
回転寿司屋で出される、薄い切手のようなマグロでも、5グラムはある。
ということは、1貫で1050円!
仮に1貫が5グラムとすると、269キロのマグロなら、269000(グラム)÷5で、5万3800貫
ということになる。
つまり約5万4000貫の寿司が握れる。
が、それを1貫100円で売ったとしても、売り上げは、約540万円。
やはり1貫を1000円前後で売らなければ、採算は合わないということになる。
……こうして四方八方から計算してみるが、私にはどうしても理解できない。
計算が合わない。
どうなっているのか。
私の計算によれば、超高級料亭で、1貫、1万円程度で売らなければならない。
しかしそんな寿司を食べる人はいるのだろうか。
●貧富の差
「不況、不況と言いますがね、1泊1名、10万円という旅館に泊まる人もいますよ」と。
(夫婦2人で、20万円!)
岐阜県の下呂市(下呂温泉郷)に住む知人が、そう言った。
そういう客なら、1貫1万円のマグロ寿司を口にできるかもしれない。
で、そういう客は、例外的な客かと思ったが、実際には、そうでもないようだ。
「1泊9000円前後の宿に泊まる客と、1泊10万円以上の宿に泊まる客との、2極化が進んで
います」とも。
これを貧富の差と言わずして、何という?
●バブル経済
温泉街は、日本経済の縮図。
ときどきそう思う。
見た目には、超高級旅館。
しかし中は、それなりにボロボロ。
ちょうどバブル経済のころのこと。
こうした超高級旅館が、まるで雨後の竹の子のように、あちこちで建築された。
そういった旅館が、今、大不況のドン底で、あえいでいる。
バブル経済が破たんして、22年※。
「それなりにボロボロ」というのは、どの旅館も、22年程度の月日を感じさせる。
(注※『日本の景気動向指数で見る景気循環における第11循環の拡大期にあたる。指標の
取りかたにもよるが、概ね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51か月)間を指す のが通説である』(ウィキペディア百科事典、「日本のバブル景気について」))。
そこで今、都会の資本が、こうした倒産寸前のホテルや旅館を、買い占め始めている。
丸ごと買い取るわけだが、その価格は、「驚くほど、安い」とのこと。
で、その結果生まれたのが、1泊8000〜9000円前後の格安旅館。
●日本経済の象徴
料理は、バイキング方式。
布団敷きは、セルフ。
昔風のサービスは、ほとんどない。
仲居さんといっても、人材派遣会社から派遣された、言うなればパート。
旅館のことは、何も知らない。
つまりこれが現代の日本経済を、そのまま象徴している。
わかりやすく復習すると、こうなる。
(1)バブル経済のころ、豪華な旅館がつぎつぎと、建った。
(2)バブル経済が、崩壊した。
(3)旅館業は大不況の時代へと突入した。
(4)温泉街は、真冬の時代を迎えた。
(5)倒産も相次いだ。
(6)大手資本が、そういった旅館を買いたたいた。
(7)内装をしなおし、安い旅館として再生した。
どうであるにせよ、日本は22年前に、時計の針を止めてしまった。
どこの旅館街も、またそこにある旅館も、22年前のまま。
●利得権
そのはざまにあって、貧富の差は、急拡大している。
それもそのはず。
これだけ市中に現金をばらまけば、こうなるのは、わかりきったこと。
利得権や資格、保護に守られた企業や団体、個人は、こういう不況下にあっても、私が世の春
を謳歌している。
公務員もその中に含まれる。
(今朝のニュースによれば、公務員のばあい、父母、孫にまで遺族年金が支払われているとい
う(MSN)。
配偶者に支払われているという話は聞いていたが、父母や孫にまで、という話は知らなかっ
た。
これは余談。)
こうした貧富の差を測るバロメーターとして、「ジニ指数」というのがある。
「ジニ係数」ともいう。
そのジニ指数について書いた、私の原稿をさがしてみる。
「豊かさとは何か」という原稿が見つかった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【豊かさとは何か】
●相対的貧困層
+++++++++++++
貧困かどうかということは、
相対的な満足度によって決まる。
家と車と家電製品をもっていても、
貧しい人は、貧しい。
その日、その日を生きていくだけで、
精一杯という人も、少なくない。
そこで最近では、国の豊かさを
測る尺度として、「相対的貧困率」
という言葉を使う。
+++++++++++++
生活の豊かさは、「モノ」では決まらない。
いくら家と車と家電製品をもっていても、貧しい人は、貧しい。
その日、その日を生きていくだけで、精一杯という人も少なくない。
そこで最近では、国の豊かさを測る尺度として、「相対的貧困率」という言葉を使う。
わかりやすく言えば、生活に対する満足度ということになる。
それによれば、
メキシコ ……20・3(満足度が、もっとも低い)
アメリカ ……17・1
トルコ ……15・9
アイルランド……15・4
【日本】 ……15・3
ポルトガル ……13・7
……
……
スウェーデン…… 5・3
チェコ …… 4・3
デンマーク …… 4・3、だ、そうだ。
(OECD24か国平均……10・4)(2005年)
日本は相対的貧困率でみるかぎり、貧しい国としては、上位5位ということになる。
実際、「ワーキングプア」という言葉があることからもわかるように、この日本には、「働いても、
働いても楽になれない」という人たちが、「全体の4分の1、400万世帯もある」(朝日新聞「キ ーワード」)そうだ。
これらの人たちは、最低賃金や、生活保護以下の収入しか得られない人たちという。
つまりその分だけ、所得格差が進んでいる。
ジニ係数(ジニ指数ともいう)でみても、日本は、OECD25か国中、第10位ということになって
いる。
ジニ係数は、所得のかたよりを測る、「かたより指数」と考えてよい。
たとえば高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占め、残りの4分の3の人たち
が、残った4分の1の所得を分けあう状態で、ジニ係数は、0・5となる。
日本は、0・314(2005年)である。
……そういう意味では、この日本は、たしかに住みにくい国になりつつある。
何をするにも、お金がかかる。どこへ行っても、お金がついて回る。
まさに、マネー、マネー、マネーの国。
お金がないと、それこそ、身動きができない。
そこで知恵をしぼって、たとえば休日でも、できるだけお金を使わないですまそうとする。
お弁当を用意して、無料の公園を散策したり、山歩きをしたりする。
が、それでもお金がかかる。
どういうわけだか、かかる。
そういうしくみが、できあがってしまっている。
言いかえると、お金を使わないですまそうと思ったら、家の中で、ゴロゴロしているしかない。
しかしそういう生活を、だれも、豊かな生活とは言わない。
つまり今、日本人の多くが感じている貧困感は、そういうところから生まれている(?)。
では、どうすれば、豊かに生きられるのか?
「豊か」というより、「心豊か」と言いかえたほうがよい。
私なりの実践法を並べてみる。
(1)家族が円満であること。
これは心豊かに生きるための、第一条件。
(2)みなが、健康であること。
これも心豊かに生きるための、第一条件。
かりにだれかが病気であっても、それを前向きに受け入れてしまう。
(3)収入の範囲で、ほどほどの生活をする。
できれば、常に最低限の生活を心がける。
(4)価値観を、(お金)から、(心)と(知恵)に移す。心の豊かさ、知恵の豊かさをもって、「豊
か」と判断する。
(5)「私は私」という生き方を貫く。
世間体、見栄、体裁は無視。冠婚葬祭を含めて、儀礼を廃する。
つまり自分と他人を比較しない。
私はとくに(4)が大切だと思う。
心や知恵は、みがけばみがくほど、そうでない人が、そうでなく見えてくる。
他人に対して優越感をもつことは、好ましいことではないが、しかしそのうち、愚かな人たちを
相手にしなくなる。
「私は私」という生きざまを貫きやすくなる。
……ともかくも、相対的貧困率が高いということは、けっして望ましいことではない。
社会がそれだけ不安定化することになる。
また国の豊かさというのは、いかに弱者にやさしいかで決まる。
弱者にきびしい国というのは、それだけ未熟な国ということになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
ジニ指数は以下のようにして、計算する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
**********以下、日本共産党のHPより***********
《ジニ係数の算出方法》
ジニ係数の算出方法は、次の手順をふんで計算します。
(1)対象となる集団に含まれるすべての数値間の差の絶対値を合計して、平均する(これを
「平均差」という)。
(2)全体の平均値を計算する。
(3)平均差を全体の平均値の2倍で割る(2倍で割るのは、ジニ係数を0と1の間に収めるた
め)。この結果がジニ係数です。
たとえば(245万円、362万円、826万円)のジニ係数は次のようになります。
(1)(|245−362|+|245−826|+|362−245|+|362−826|+|826−
245|+|826−362|)/6
=2324/6=387.3(平均差)
(2)(245+362+826)/3=1433/3=477.7(平均値)
(3)387.3/(2×477.7)=0.4054
よって、ジニ係数は、0.4054
(注・| |は絶対値記号)
**********以上、日本共産党のHPより***********
●ジニ指数(係数)、0・5
中国のジニ係数も、0・5を超えているのではないかと言われている。
先にも書いたように、0・5というのは、おおざっぱに言えば、高所得者の4分の1の世帯が、全
所得の4分の3を占めることを意味する。
残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことになる。
たとえば10世帯の人が、1億円を稼いだとする。
ジニ係数0・5の社会では、2・5人が、7500万円を自分のものにする。
平均所得は、3000万円となる。
残りの2500万円を、7・5人の人が分け合う。
平均所得は、333万円となる。
3000万円と333万円。
その格差は、約10倍となる。
つまりジニ係数が0・5を超えるほどになると、不公平感が増大し、社会そのものが、不安定
化する。
今の日本もあぶないが、中国は、もっとあぶない。
つまりこのジニ係数には、ひとつの盲点がある。
●ジニ係数の盲点
ウィキペディア百科事典は、こんな例をあげている。
そのまま紹介させてもらう。
『……例えば、ある高級住宅地に年収10億円の人が99人、年収1兆円の大富豪が1人いると
する。
そこでこの高級住宅地に住む100人を対象にジニ係数を計算すると約0.91となり、非常に格
差が大きいが、年収10億円でもかなりの高収入であり、この状態が悪いとは一概に言えな い』と。
つまり日本でいう「0・5」と、中国でいう「0・5」には、本質的なちがいがある。
不平等は不平等だが、年収333万円でも、何とかそれなりの生活を維持することができる。
年収3000万円の人を、ときに「うらやましい」と思うことはあるが、「まあ、そんなものかな」と、
たいていは黙って見過ごすことができる。
しかし中国のような発展途上にある国では、そうでない。
1人当たりの国民所得が全体的に低い国では、不平等感は相乗的に大きくなる。
今日の食費もままならない家庭が大半を占める一方で、外国製の大型車を乗り回す家庭が、
その隣にある。
中国政府がもっとも恐れている部分は、実はここにある。
アキレス腱といってもよい。
不公平感が、いつその矛先を中国共産党に向けてくるか。
ハラハラドキドキ!
あの天安門事件にしても、その不公平感が引き金となったことは、よく知られている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●伊勢海老とイカ
最近、私はこう思う。
この正月に、伊勢海老なるものを食べた。
(それだけでもありがたいことだが……。)
が、おいしいかったかというと、そうは思わなかった。
量も少なかった。
ただ自分にこう言って聞かせて、食べた。
「これは超高級食材だぞ」と。
ところが、である。
同時に出されたイカ刺身のほうが、ずっとおいしかった。
味に甘味もあった。
で、こう思った。
「蟹や海老より、イカのほうが、本当はおいしいのではないか」と。
蟹や海老は、稀少食材。
イカは、今のところ、まだふんだんに取れる。
だから値段も安い。
安いから、「おいしくない」という先入観が働いてしまう。
つまり「貧富の差も、これに似ている」と。
●心の満足度
だからといって貧富の差を放置しておいてよいというのではない。
深刻な社会問題である。
しかし「豊かさ」というのは、もっと別の尺度で測定されるべきもの。
「心の満足度」となると、さらにそうである。
伊勢海老を食べたから、リッチということにはならない。
イカを食べたから、プアということにもならない。
おいしいものは、おいしい。
そうでないものは、そうでない。
いくら高級食材であっても、そうでないものは、そうでない。
1泊10万円の宿に泊まったからといって、それで満足感が得られるというものではない。
(これはたぶんに、私のひがみによるものだが……。)
1泊8000円の旅館でも、楽しみ方によっては、じゅうぶん、楽しめる。
要は、心の持ち方。
それで決まる。
●マグロ
で、最初の話に戻る。
1貫1万円の寿司があったとする。
食べられる人は、それを食べればよい。
が、食べられないからといって、どうということはない。
が、1口、1万円というのは、常識で考えても、狂っている。
マグロ1匹が、5000万円というのは、もっと狂っている。
たかが魚1匹が、5000万円だぞ!
こんなバカげたことのために、世界経済があるなら、世界経済などクソ食らえ!
もてる者が、「さらに……」と欲張るから、こういうバカげたことが起きる。
が、もてる者が、「私はこれくらいでいいです」と遠慮すれば、こういうバカげたことは起きない。
……たいへん残念なことに、今、その貧富の差が、この日本で急拡大している。
恐ろしいほどの勢いで、急拡大している。
同時に、庶民のもつ不公平感も、限界に近づきつつある。
そのひとつが、マグロ。
庶民感覚からすれば、ボッタクリもいいところ。
1匹5000万円と聞いて、腹立たしく思う人がふえている。
1貫1万円の寿司と聞いて、腹立たしく思う人がふえている。
私もその1人だが、それはけっしてそれを口にすることができない者のひがみではない。
またそうとらえてもらっては、困る。
「狂っている」という意味で、腹立たしく思う。
一貫、1万円のマグロをパクパク、食べている人がいる。
回転寿司で、2貫、100円のマグロを食べている人もいる。
これが日本の、今の現実ということになる。
ブルームバーグのニュースを読んで、そんなことを考えた。
さて、あなたはどう思うだろうか。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
はやし浩司 貧富の差 ジニ係数 ジニ指数 はやし浩司 まぐろ マグロ 1貫1万円)
はやし浩司 2010−01−07記
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【鬼嫁】【権威主義(都会人的優越感、田舎人的田舎根性】
●R先生へ
++++++++++++++++++++
昼は、おせち料理の残り物+お汁粉(しるこ)。
それだけ。
このところ肥満気味。
昨夜は、計10キロ近くを歩いた。
で、今日。
1月5日。
食事のあと、軽く(?)、30分ほど運動。
ウォーキングマシンの上で、歩いた。
その前に、読者の女性(母親)から、子育て相談があった。
1時間ほど、電話で話した。
どこの女性かは、わからない。
その女性は、関西弁を話していた。
それもあって、今は眠い。
本来なら昼寝タイム。
しかし今は、こうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。
頭の中がモヤモヤする。
それを叩き出したい。
深いあくびと、睡魔。
それが時折、私を襲う。
+++++++++++++++++++
●R先生
R先生が、嫁のことで苦しんでいる。
年末に、またまた大騒動があったという。
年賀状に、そう書いてあった。
「困っています」と。
ひどい嫁ということは、よく知っている。
つい先日も、R先生のところへやってきて、「100万円、よこせ!」と。
で、R先生が、「5万円くらいなら……」と言って5万円を渡すと、その嫁は、その5万円を床に
叩きつけ、そのまま帰っていったという。
無言のままだったという。
一事が万事。
万事が一事。
そういう嫁である。
つまりそういう嫁(女性)も、世間にはいる。
そうでない人には信じられないような話だが、この話は、事実。
●息子氏
書き忘れたがR先生は、女性である。
夫のU先生は、10年ほど前に、他界している。
U先生は、そのあたりでは著名な整形外科医だった。
また私と、夫だったU先生とは奇縁で、たまたま郷里が同じだった。
30年近く、たがいに行き来した。
それで親しくなった。
で、夫のU先生が亡くなってからは、妻のR先生と、そのまま交際している。
今年、R先生は、xx歳になる。
R先生は、いつも嫁の夫、つまり自分の息子氏に、電話をかけたり、手紙を出したりした。
が、その嫁が、電話を取りつがない。
手紙は、途中で勝手に処分してしまう。
……というようなことが繰り返され、私が、代わりに息子氏との連絡係をすることになった。
息子氏と私は、ほぼ同年齢。
息子氏の結婚式では、私が友人代表を務めさせてもらった。
U先生(夫)がなくなったときは、葬儀場で、弔辞を読ませてもらった。
その息子氏がある日、私にこう言った。
「ぼくら、形だけの夫婦です」と。
まだ結婚して間もない、20年近くも昔の話である。
そのころ、すでにそういう状態だった。
離婚話も何度か出た。
が、そのたびにその嫁は、狂ったように暴れ、それに抵抗した。
家族たちが集まり、その嫁を病院の精神科へ連れていこうとしたときも、そうだった。
狂ったように暴れ、それに抵抗した。
何度か私が間に入って仲裁したこともあったが、無駄だった。
息子氏は気が弱く、やさしかった。
嫁の前では一言も、口答えできなかった。
夫婦げんかも激しい。
目の前で、息子氏が、靴で殴られるのを、何度も目撃した。
(靴で、だ。)
嫁はいつも、カッとなると、靴で、夫の顔面を殴った。
また興奮してくると錯乱状態になり、手当たり次第に、ものを投げた。
私が見たときには、フライパンを夫にめがけて、投げていた。
(フライパンだぞ! まともに当たれば、死ぬぞ!)
R先生に、手紙を書くことにした。
●R先生へ
お元気ですか?
背中のかゆみは、いかがですか?
年賀状を読み、いつものこととはいえ、ショックを受けています。
つらいお気持ちは、よくわかります。
あきれるというか、何とも残念でなりません。
かといって、何もできないことをお許し下さい。
しかしこんな状態が、綿々と、こうまで長くつづくとは、私も思っていませんでした。
もう30年になります。
とはいえ、Kさん(=嫁)のような女性は、いくらでもいます。
あのとき、先方の親たちが、「良縁です、良縁です」と喜んでいた顔が忘れられません。
何が良縁ですか!
今になってみると、そう叫びたいです。
先方には良縁でも、こちら側には、悪縁ですね。
あの両親は、もともと常識に欠ける人たちです。
が、あのKさんは、会って話していると、ごくふつうの女性だから驚きます。
人なつっこく、甘ったるい言い方で話しかけてきます。
人当たりだけはよい人なので、私が「あの女性は鬼嫁」と言っても、だれも信じないでしょう。
もちろん近所の人たちは、みな、それを知っていますが……。
一度だけですが、U先生(夫)に連れられて、Kさん(=嫁)の両親と会食したことがあります。
H町の、あのレストランで、です。
そのとき気がつきました。
原因は、あの母親ですね。
つまりKさん(=嫁)は、あの母親の気性をそっくりそのまま受け継いでしまっている。
私はそう感じました。
「この母親にして、この娘」と。
そういうケースは、少なくありません。
私の知り合いにも、似たようケースがいくつか、あります。
ただ今回のケースは、……(以下省略)……。
どうであれ、先生は、すばらしい人生を送られました。
研究者としての先生の地位は、揺るがないでしょう。
お名前も、後世の研究者たちに語り継がれるでしょう。
うらやましいと思うことも、しばしばです。
あとはいつものように、忘れ、明日に向かって生きていくしかないですね。
2012年も始まったばかりです。
あんな鬼嫁のことは忘れ、私たちは私たちで楽しく生きていきましょう。
私も、まだ、あきらめたわけではありません。
今年は何かできる!
そんな期待を抱いています。
言い忘れました、今年、私は65歳になります。
かねてから人生の目標にしてきた、65歳です。
やりたいこと、やるべきことが、山のようにあります。
あとはひとつずつ、それを崩していくしかありません。
X日ごろ、遊びにおうかがして、よろしいでしょうか。
その前に一度、また電話します。
そのとき、ご都合をお聞かせくだされば、うれしく思います。
林 浩司
●何ともしようがない
R先生は、薬学の世界ではよく知られた女性である。
著書もあり、論文の数も多い。
4、5年前のことだが、こんな話をしたことがある。
「先生のように、ボケない秘訣は何ですか?」と。
R先生は、「何もありませんよ」と言って、カラカラと笑っていた。
R先生という先生は、そういう女性である。
ただ息子氏の嫁には、恵まれなかった。
息子氏が結婚して以来、苦しみと悲しみの連続。
嫁が起こしたトラブルは、数知れず。
そのたびに、U先生(=夫)が、あちこちを走り回っていた。
U先生にしても、つらい毎日だった。
が、かといって、こうした問題だけは、私には何ともしようがない。
夫婦の問題は夫婦の問題。
私のほうから離婚を勧めるというわけにもいかなかった。
そういう相談があれば、相談に乗ることもできたのだが、先にも書いたように、息子氏はもの静
かな男性。
が、これも人生、あれも人生。
みな、それぞれの糸を引きずりながら、自分の人生を生きていく。
「運命の糸」という「糸」である。
かく書く、私たち夫婦だって、似たようなもの。
偉そうなことは書けない。
年がら年中、ドタンバタン……。
今朝も、どちらが先に起き、ヒーターの電源を入れるかで、もめた。
「お前、行ってこい」「どうしていつも私なのよ」と。
今、この文章を読んでいるあなたにしても、そうだろう。
「私たちはパーフェクト」と胸を張れる人はいるだろうか。
私は、いないと思う。
話題を変える。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●都会人vs田舎人
都会人は、都会的な優越感をもっている。
半面、田舎人は田舎的な田舎根性をもっている。
人間の心理というのはそういうもの。
表があれば、かならず裏がある。
その両者が対立しながら、社会の中でバランスを保っている。
今でこそ、こうした都会的な優越感&田舎根性も、影が薄くなってきた。
しかし私がこの浜松市に移り住んだころは、そうではなかった。
浜松の人は、「東京から来た」というだけで、何でもかんでも、ありがたがった。
それが滑稽(こっけい)なほど、大げさだった。
40年近くの前のことである。
半面、都会の人は、明らかに浜松の人たちを見下していた。
たとえば東京の人が、浜松へ遊びに来たとする。
そのとき、みやげをもってくる人は、まずいなかった。
いつも「来てやる」という態度だった。
少し前にも書いたが、たとえば電話で連絡してくるときも、「xx時xx分に、浜松駅に着きますか
ら」と。
「だからその時刻に駅まで迎えに来い」と。
もし反対に、私が東京に住む人に、その逆のことを言ったら、どうなるだろうか。
たとえば「東京駅に、xx時xx分に着きますから」と言ったら、どうなるだろうか。
果たして東京の人は、東京駅まで迎えに来てくれるだろうか。
親類でも、仕事上の人でもよい。
迎えに来てくれるだろうか。
その答はここに書くまでもない。
●「東京までなら……」
が、こうした都会人のもつ、都会的優越感はなくなったわけではない。
50代、60代の人は、いまだにその亡霊を引きずっている。
義弟がこんな話をしてくれた。
義弟の息子氏が、埼玉県の女性と結婚することになったときのこと。
義弟は、相手の両親と一度、会うことにした。
で、電話を入れて相談すると、相手の父親が、こう言ったという。
「東京までなら、出て行ってもいいです」と。
その「東京までなら……」という言い方が、義弟を怒らせた。
義弟は「埼玉のご自宅まで、おうかがいしていいですか」と聞いた。
その返事が、「東京までなら……」と。
義弟はこう言った。
「どうして東京の連中は、ああまで威張っているのかねえ」と。
(埼玉は東京ではないが……。
その父親は東京都内の某銀行に勤めていた。)
●中央集権意識
その話をしながら、ワイフがこう言った。
「中央集権意識ね」と。
日本は奈良時代の昔から、中央集権国家。
「中央が上」という意識が、骨のズイまで、染みこんでいる。
加えて日本人ほど、上下意識のはげしい国民は、そうはいない。
日本は世界に名だたる、儒教国家。
たった1歳年上でも、年長風を吹かす。
(たった1歳だぞ!)
私の親類には、そういう男性がいる。
が、今、その権威が急速に崩れつつある。
つまり都会人の優越感を支える、都会的権威が急速に崩れつつある。
同時に田舎人も、田舎根性を捨てつつある。
また捨てなければならない。
そもそもこうした上下意識には、根拠がない。
何をもって「上」といい、何をもって「下」というのか。
……書いていくと、どうしてもあの『水戸黄門』に矛先が向いてしまう。
いまだにああいうバカげた番組が、この日本では、大手を振って歩いている。
「もう、いいかげんにしろ」と言いたいが、意識というのはそういうもの。
それを変えるには、10年単位の時間が必要である。
……かなり眠くなってきたので、以前書いた原稿を探して、その結論とする。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【権威主義と天下のバカ大臣】
+++++++++++++++++++++
ときどき講演に招かれる。
ていねいに迎えられる。
が、居心地があまりよくない。
窮屈。
そのときいつも、私はこう思う。
「私は、そんな人間ではないのだがなあ」と。
が、もしそんな私でも、毎日、そんなふうに
扱われたら……。
やがて感覚が麻痺し、意識が逆転するかも
しれない。
+++++++++++++++++++++
●官僚主義国家
今朝も中国の友人からメールが届いていた。
こうあった。
原発事故被災地についてのメールだったが、最後の一文が、グサリと胸に突き刺さった。
「China is a dictatorship country, even Japan is not a real democratic country. 」
「中国は独裁国家だが、日本も同じように、新の民主主義国家ではない」と。
これについては、世界中の人たちが、異口同音にそう書いている。
(1)なぜ日本では、大規模なデモ(抗議行動)が起きないのか、と。
答は簡単。
日本人は、江戸時代より「もの言わぬ従順な民」に作りあげられている。
それがまた教育の第一目標になっている。
「ものを言う民」は、官僚政治にとっては、まことにもって都合が悪い。
が、それが悲劇ではない。
本当の悲劇は、日本人自身がそれに気づいていないということ。
民主主義もどきの民主主義をもって、それが民主主義と思い込んでいる。
このことは私自身が経験している。
1970年に、オーストラリアのメルボルン大学(法学院)に留学したときのこと。
どのテキストにも、「日本は官僚主義国家」と書いてあった。
「君主(ローヤル)官僚主義国家」と書いてあるのもあった。
当時の私はそれに猛烈に反発した。
が、日本は世界に名だたる官僚主義国家だった。
それから40年以上。
今に到るまで、何も変わっていない。
日本は、官僚のための、官僚による、官僚の国。
日本の中に住んでいると、それがわからない。
日本の外に住んでみると、それがわかる。
あるいは外の国の人には、それがわかる。
「日本は新の民主主義国家ではない!」と。
●天下のバカ大臣、M/R
TBS−iは、つぎのように伝える。
++++++++++++++以下、TBS−iより++++++++++++++++
M/R復興担当大臣が就任後初めて、3日、宮城県庁を訪れましたが、村井知事が出迎えなか
ったことに腹を立て、知事を叱責しました。
宮城県庁を訪れたM/R復興担当大臣。村井知事が出迎えなかったことで顔色が変わりま
す。
「(村井知事が)先にいるのが筋だよな」(M/R復興相)
笑顔で現れた村井知事、握手を求めますが、拒否。応接室が緊張します。そして要望書を受
け取ると、M/R大臣が語気を強めて自らの考えを伝えます。
「(水産特区は)県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。
お客さんが来るときは、自分が入ってきてからお客さんを呼べ。長幼の序がわかっている自衛 隊なら、そんなことやるぞ。しっかりやれよ。今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうそ の社は終わりだから」(M/R復興相)
++++++++++++++以下、TBS−iより++++++++++++++++
問題点は4つある。
(1)村井知事が出迎えなかったことに腹を立て、知事を叱責したこと。
(2)笑顔で現れた村井知事、握手を求めますが、拒否したこと。
(3)「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ」と言ったこと。
(4)「今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうその社は終わりだから」と言ったこと。
ほかにも、「オレは九州の人間だから、東北の市が何県にあるか知らない」と言ったとも伝えら
れている。
いろいろな大臣がいるが、(……いたが)、ここまで権威主義の凝り固まった大臣というもの
少ない。
まるで封建時代の殿様、そのもの。
「上下意識」が強く、「自分は偉い人間」と錯覚している。
はっきり言えば、バカげている。
つまりその錯覚意識があるかぎり、日本の民主主義は、完成しない。
人は何をもって、「偉い」というか。
その前に「偉い」とは何か。
この日本では、地位が高く、肩書きが立派な人ほど、「偉い」という。
が、英語国には、「偉い」に相当する単語すらない。
あえて言えば、「respected」ということになる。
「尊敬される」という意味である。
が、「尊敬される」というときには、地位や肩書きは関係ない。
いわんや日本流の上下意識は、ない。
M/Rは、大臣。
一方は、県知事。
M/Rは、無意識のうちにも(?)、上下判断をし、それに応じない相手を「無礼」と決めつけた。
まさに時代錯誤。
が、これは何もM/Rだけの問題ではない。
●権威主義
権威主義と言えば、水戸黄門がある。
今でもテレビの人気番組になっている。
三つ葉葵の紋章をかかげ、「控えおろう」と一喝すれば、みなが、「ハハー」と言って頭をさげ
る。
日本人には、実に痛快なシーンということになる。
が、欧米人には、それが理解できない。
あるときオーストラリアの友人にこう聞かれた。
「ヒロシ、水戸黄門が悪いことをしたら、どうなるのか?」と。
で、私が「水戸黄門は悪いことはしない」と答えると、まわりにいた学生たちまで、「それはおか
しい」と言って騒いだ。
オーストラリアでは、ときの権力者といかに戦ってきたかが、歴史になっている。
ウィリアム・ウォレス(イギリス)、ロビン・フッド(イギリス)、マッド・モーガン(オーストラリア)など
など。
そういう人たちが英雄になっている。
つまりそれを支える権威主義者たちがいるから、こういうバカ大臣がいつまでものさばる。
話は少し脱線するが、以前書いた原稿を紹介する。
「意識」を考える、ひとつのヒントになれば、うれしい。
「世にも不思議な留学記」より。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●珍問答
私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。
中には、「空手を教えてくれ」「ハラキリ(切腹)の作法を教えてくれ」というのもあった。
あるいは「弾丸列車(新幹線)は、時速150マイルで走るというが本当か」「日本では、競馬の
馬は、コースを、オーストラリアとは逆に回る。なぜだ」と。
さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあった。
話を聞くと、「カルピス」という飲料を誤解したためとわかった。
カウは、「牛」、ピスは、ズバリ、「小便」という意味である。
●忠臣蔵論
が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、4、5人の学生が私を囲んで、こう
聞いた。
「忠臣蔵を説明してほしい」と。
いわく、「浅野が吉良に切りつけた。浅野が悪い。そこで浅野は逮捕、投獄、そして切腹。
ここまではわかる。
しかしなぜ、浅野の部下が、吉良に復讐をしたのか」と。
加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。
それに死刑を宣告したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府
に抗議すればよい。
また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。どうしてボスに責任を追及し
ないのか、と。
私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本人は、
水戸黄門に頭をさげるのか。
水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるのか」と。
私が、「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。
イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになっている。たと
えばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。
体中を鉄板でおおい、たった一人で、総督府の役人と戦った男である。
イギリスにも、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウォレスという人物がいた。
●日本の単身赴任
法学部でもこんなことが話題になった。ロー・スクールの一室で、みながお茶を飲んでいると
きのこと。
ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。
「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)とい
う制度があるが、法的な規制はないのかね?」と。
そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされ
て、何が仕事か!」と叫んだ。
日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでいるか
ぎり、絶対にわからない。
が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が日本へ帰ってきてからのことであ
る。
●泣き崩れた母
私がM物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのときす
でにM物産を退職し、教師になっていたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩 れてしまった。
「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア〜」と。
だからといって、母を責めているわけではない。
母は母で、当時の常識に従って、そう言っただけだ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支
えてくれると思っていた。
が、その一言で、私はすっかり自信をなくし、それから30歳を過ぎるまで、私は、外の世界で
は、幼稚園の教師をしていることを隠した。
一方、中の世界では、留学していたことを隠した。どちらにせよ、話したら話したで、みな、「どう
して?」と首をかしげてしまった。
が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、ほかな
らぬ、オーストラリアの友人たちである。
みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらしい仕事だ」と。その励ましがなかったら、今の私はなかっ
たと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 意識のズレ 浅野内匠頭 吉良 上野介 忠臣蔵 意識論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●原因は歴史教育
意識は、当然のことながら、教育によって、作られる。
とくに「歴史」については、そうである。
今でも、「私の目標は、織田信長になること」(M県・県知事)と豪語してやまない人がいる。
それについて書いた原稿ではないが、参考までに、以前書いた原稿を、ここに掲載する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●織田信長
++++++++++++++++++++++++++
織田信長は、なぜ、消防自動車を呼ばなかったのか?
「織田信長は、家来の(宴会中)に殺された」では、なぜまちがっているのか?
++++++++++++++++++++++++++
●珍回答
「織田信長は、本能寺で、なぜ消防自動車を呼ばなかったのか?」と聞いた、子どもがいたと
いう(某雑誌)。
子どもといっても、中学生(?)である。
年齢はわからないが、漢字をそこそこに使えるところをみると、それくらいの年齢である。
一方、「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」と、歴史のテストで答えた子どどもいた。
こちらも、中学生(?)である。
年齢はわからないが、ともに小学校の高学年児かもしれない。
あるいはひょっとしたら、高校生かもしれない。
「高校生」とは名ばかり。
歴史の知識にかぎらず、その程度の常識しかない高校生は、いくらでもいる。
●バカげた歴史教育
そこそこに歴史の知識のある人は、こうした子どもたちの疑問や、回答を笑う。
かれらがもっている常識でもよい。
その常識を笑う。
織田信長の時代には、消防自動車は、なかった。
また織田信長は、家来の(明智光秀)に殺された(=自害に追い込まれた)。
が、ここで私は、ハタと考えてしまう。
私たち自身だって、一応常識的な人間と思っているが、その一方で、非常識な情報に、そのつ
ど振り回されている。
織田信長にしても、日本では歴史上の人物となっている。
しかし(ほめたたえるべき人物)であったかどうかということになると、それはどうか?
見方をほんの少し変えると、織田信長は、ただの殺戮(さつりく)者。
それを本能寺で討ち殺した明智光秀も、これまたただの殺戮者。
(実際には、織田信長は本能寺で自害。)
言うなれば、本能寺での異変は、ただ単なる、殺戮劇!
権力の座についたというだけで、この日本では、「歴史上の人物」ということになる。
名を残すことになる。
事件があった年まで、記録され、今になっても、子どもたちは、それを暗記させられる。
どうしてそんなことが必要なのか。
重要なのか。
さらに一歩、踏み込めば、このバカげた歴史教育に、なぜ、私たち日本人は、気がつかないの
か?
たとえばあなたの近所で、親の遺産を取り合って殺人があったとする。
そうした殺人と、織田信長や明智光秀がした殺人と、どこがどうちがうというのか。
あなたはその(ちがい)を説明できるだろうか。
「戦国時代の昔、いろいろな武将がいて、国を取り合った。
その中に、頭のおかしい武将もいて、家来に殺されることもあった」と。
その程度の知識で、じゅうぶんではないのか。
またどうしてそれではいけないのか。
年号を正確に言えたからといって、それがどうしたというのか?
必要であれば、そのつど、調べて、それを書けばよい。
ちなみに私は「本能寺の変」という言葉は知っているが、何年にそれが起きたか、知らない。
大切なのは、中身。
今に残る、中身。
つまりなぜ私たちが歴史を学ぶかと言えば、過去の人たちのなした経験を、「今」に生かすた
め。
失敗でもよい。
そういうことをしないで、一方的に織田信長を美化するから、いまだに「国盗り物語」よろしく、
政治家の中には、権力闘争に明け暮れる人がいる。
またそういう人が、いつまでたっても、後を絶たない。
●大切なのは中身
もし本能寺での異変が重要な歴史的事実であるとするなら、なぜそういう事件が起きたか。
その背景を教える。
そこに至る経緯を教える。
ついでに権力闘争の醜さや、無意味さを教える。
それが歴史教育だと、私は思う。
だからテストの内容も、こう変えればよい。
【問】
「織田信長という独裁者が、本能寺という寺で、家来の明智光秀という人に殺された。
なぜ、明智光秀は、織田信長を殺したか。またあなたはこうした権力闘争を、どう思うか」。
ともかくも日本の歴史教育は、暗記一辺倒。
暗記に始まって、暗記に終わる。
この教育姿勢は、明治の昔からまったく、変わっていない。
ウソだと思うなら、大学の受験生たちがもっている歴史の参考書を見てみればよい。
センター試験の問題を見てみればよい。
重箱の隅の、そのまた隅をほじくり返したような問題ばかり。
教える側も、それを教えるのが歴史教育と錯覚している。
教わる側も、それを暗記するのが歴史教育と錯覚している。
ちなみにこうしたバカげた歴史教育をしているのは、この日本だけ。
欧米では、教師が生徒にテーマだけを与えて、そのテーマに沿ってレポートをまとめるのが、
歴史教育の(柱)になっている。
「あなたはトラガルファーの戦いについて、1年をかけて、調べなさい」
「あなたはフランス革命について、1年をかけて、調べなさい」(スペインの小学校)と。
そして年度の終わりに、自分の勉強したことを、調べたことを、みなの前で発表する。
そういう教育を、小学生のときからしている。
小学生のときから、受けている。
●知識は無価値
暗記ということになるなら、ついでに明智光秀のほかの家来たちの名前も暗記したらよい。
ついでにそれぞれが、どのような作業を分担したか、それも暗記したらよい。
本能寺にいた織田信長の家来たちの名前も、暗記したらよい。
本能寺の住所も暗記したらよい。
が、今では、こうした知識は、インターネットを使えば瞬時に手にすることができる。
詳しい内容を知りたければ、パソコンを使って調べればよい。
大切なのは、その上で、どう考え、どう判断するか、である。
そしてそれをどう「今」に生かしていくかである。
私たちもそろそろ気がつくべきときにきている。
「暗記は無価値」と。
暗記といっても、このばあい、暗記のための暗記を重ねるような暗記をいう。
地理にしても、無罪とは言えない。
この話で思い出すのは、5、6年ほど前に、つぎのようなことを暗記していた中学生である。
その中学生は、こう復唱していた。
「長野の高原野菜、富山のチューリップ・・・」と。
そこで私がその中学生に、「高原野菜って何?」と聞くと、その中学生はあっさりと、こう答え
た。
「知らない・・・」と。
で、私はこう言った。
「浜名湖のうなぎと、教科書には書いてあるけど、今ではうなぎを養殖している業者は、ほとん
どいないよ」と。
●新しい教育
「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」でも、よいではないか。
そのとき本当に宴会をしていたのかもしれない。
ひょっとしたら織田信長の家来たちは宴会でもして、油断していたのかもしれない。
それをまちがっていると証明できる人は、だれもいない。
百歩譲って、どうして「明智光秀」という名前を、書かねばならないのか。
またどうしてそれが重要なことなのか。
さらに百歩譲って、それが重要なことというのなら、それこそ重箱の底をほじくり返すような知
識を、生徒たちに暗記させたらよい。
暗記程度に応じて、成績をつけたらよい。
が、それは先にも書いたように、バカげている。
つまりこういうバカげた教育を教育と思い込んでいるから、その一方で、「なぜ消防自動車を呼
ばなかったのか?」という子どもが出てくる。
思考力そのものが欠落したような子どもである。
が、これでは、いつまでたっても、日本人は変わらない。
進歩しない。
愚劣な失敗を、いつまでも繰り返す。
たとえば私は、もう40年も前のことだが、北欧のどこかの国の首相が、議会まで自転車通勤
をしているのを知って、本当に驚いたことがある。
当時の常識(?)に凝り固まっていた私には、信じられないような話だった。
「首相が、自転車で通勤?」と。
ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛庁の
長官に就任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった。
悲しいことに、現在の日本は、まだその延長線上にある。
その責任の大きな部分は、日本のゆがんだ歴史教育にある。
・・・と言うのは書き過ぎかもしれない。
しかしそれくらいの緊張感をもって、この問題を考えないと、今の日本の歴史教育を変えること
はできない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 日本の歴史教育 暗記教育 暗記のための暗記 ゆがんだ歴史教育 暗記教 育)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●首相が自転車通勤
この原稿の中で、とくに注意してほしいのは、以下の部分。
「ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛庁の長
官に就任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった」。
まともな人が見れば、狂っている。
その狂っていることが、当時は常識だった。
国名は忘れたが、当時すでに欧米では、首相といえども、みな自宅から自転車通勤をしていた
(北欧)。
それが民主主義……というより、民主主義の「結果」。
●天下のバカ大臣
こういうバカが、大臣になった。
大臣になって、東北の復興を手がけることになった。
いわく、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ」と。
人間も謙虚さを忘れたら、おしまい。
「大臣」「大臣」とチヤホヤされるうちに、自分を見失ってしまった。
被災者たちの気持ちを忘れてしまった。
だいたい「我々は何もしないぞ」とは、何ごとか!
報道の内容が事実とするなら、この一言で、大臣失格。
即刻管直人首相は、M/Rをクビにすべき。
それができないというのであれば、管直人首相自身が責任を取るべき。
……朝、起きてニュース・サイトをながめた。
久々に、私は怒った。
で、あえて持論を確認。
「偉い」を廃語にしよう!
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【「偉い」を廃語にしよう】
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。
よく似たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。
日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり
偉い人とは言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。
そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。
もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。
……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。
そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 天下のバカ大臣 偉い 日本の民主主義 官僚主義 はやし浩司 偉いを廃語 にしよう 復興担当大臣)
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●眠い
再び睡魔が襲ってきた。
明日から仕事。
今夜は、舘山寺温泉にある、W温泉へ行くつもり。
外来で、1回、1000円で入浴できる。
明日から仕事。
それもあるから、ここらで気分を一新しなければならない。
2012/01/06夜記
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 権威主義 水戸黄門 偉いを廃 語に 都会人の優越感 はやし浩司 田舎根性)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【幸福論】byはやし浩司
私のBLOGに、コメントがついた。
コメントそのものは、珍しくない。
何かを書けば、かならずといってよいほど、コメントがつく。
しかしそのBLOGが、長い間、闘病生活をしている人の、何かの励ましになったらしい。
そういう内容のコメントだった。
うれしかった。
改めて、そのコメントのついたBLOGを、読みなおしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●Joy & Happiness(2010年4月記)
++++++++++++++++++++++++
英語の文章を読んでいたら、英語国では、「Joy(喜び)」と、
「Happiness(幸福)」を、使い分けて考えて
いることがわかった※。
Joy、イコール、Happinessではない。
ある賢人は、こう書いている。
「Joyは、液体的なもの。Happinessは、
固形的なもの」と。
ワイワイと喜ぶのを、Joyというのなら、Happiness
は、静かなもの。
Joyは一時的なものだが、Happinessは、その人の
根底をささえるもの。
Joyは目に見えて、わかりやすいが、Happinessは、
それを失ったときに、それがわかるもの。
それまでは空気のようなもの。
目立たず、あなたの周囲で、ひっそりとたたずんでいる。
……とまあ、いろいろに解釈できる。
+++++++++++++++++++++++++
●大切なのは「今」
幸福を考えるとき、皮肉なことに、犬の生き方を見ていると、おおいに参考になる。
犬は、その日、その日を懸命に生きている。
そこにあるのは、「今」という現実だけ。
たとえばうちのハナ(犬、ポインター種)は、今年で、満14歳になる。
7倍すると人間の年齢に相当するそうだ。
だから人間の年齢にすると、98歳ということになる。
が、「死ぬ」ということに、何ら恐れを抱いているようには見えない。
「死ぬ」という概念すら、もっていない(?)。
長い間、相棒だったもう一匹の犬は、6、7年前に死んだ。
「相棒」というよりは、母親的な存在だった。
さぞかしさみしいだろうなと思って、あれこれと気をつかった。
しかしそれほどショックを受けたようには、見えなかった。
●懸命に生きる
「死」を考えるから、人生に、閉塞感が生まれる。
だからといって「死」を軽んじろということではない。
しかし生きている間は、「死」のことなど、気にしない。
気にしても、どうしようもない。
仮にあなたが今、健康で、仕事をし、家族がいるなら、「死」のことなど、気にしない。
「今、生きている」。
それだけを考え、あとは前向きに生きていく
。
そのときは、そのとき。
死がやってきたときは、そのとき。
そうでなければ、犬のように生きればよい。
その日、その日を、懸命に生きればよい。
●回顧性
満55歳前後から、人は、それまでの展望性から回顧性へと、人生観が変化していく。
わかりやすく言えば、生き様が、うしろ向きになる。
過去ばかりを、振り返るようになる。
これには、理由がある。
脳みそについて言えば、後半期(recent)に蓄えた記憶ほど、先に消失していく。
そのため古い記憶ほど、脳みその中に残る。
だから歳を取れば取るほど、若いころ、さらには子どものころの記憶が、より強く
思い出されるようになる。
あるいは子どものころの記憶だけになる。
それが回顧性へと、つながっていく。
私の知人の中には、50歳になったばかりというのに、墓参りばかりしている人がいる。
またそうすることが、人として、正しい道と思い込んでいる。
「先祖」「親孝行」という言葉も、よく使う。
回顧性というのは、それをいう。
●日々の生活の中に
話が脱線したが、幸福に限界を感ずるのは、そこに「死」があるから。
病気になったとき、健康の意味がわかる。
そのとき健康の限界を知る。
同じように、いくら私は幸福と思っても、それは長つづきしない。
長つづきしないものという前提で、それを大切にする。
ここで誤解してはいけないことがある。
多くの賢者が書き残しているように、幸福というのは、私たちのすぐ身近にある。
身近の、すぐそこにあって、私たちに見つけてもらうのを、じっと待っている。
朝起きる。
目を覚ます。
朝日が、障子窓の向こうから白い光を投げかけている。
また目を閉じて、とりあえず、やるべきことを考える。
サクランボの木を切る。
空き地に、除草剤をまく。
ビワとレモンの木に、(催促肥料)をまく。
「礼肥料」ではない。
私たちは、「催促肥料」と呼んでいる。
「もっと実をつけろ」と催促しながらまくから、「催促肥料」という。
それが「幸福」ということになる。
●幸福論
懸命な人は、その価値を、失う前に気づく。
そうでない人は、それを失ってから気づく。
その第一が、健康。
その第二が、青春時代。
子どもがいれば、その第三は、子どものよさということになる。
が、それにもうひとつつけ加えれば、「幸福」ということになる。
つまるところ、幸福というのは、その人の賢明さが作り出すもの。
賢明な人は、そこに幸福があることを知る。
そうでない人は、そこに幸福があることも知らず、あたふたと、
幸福をふみにじって生きる。
そう考えてよい。
それがこのエッセーの結論ということになる。
(10−04−25)
(補記注※)
The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid.
J.D. Salinger
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【人間が存在する意味】
●映画『フライト・ナイト』(Fright Night)
昨夜、映画『フライト・ナイト』を観てきた。
昨日が、封切り日だった。
あまり観たくなかった。
この種の映画は、見飽きた。
が、このところよい映画がない。
ボケ防止のためにということで、観てきた。
内容は、3流。
予想通り、意味のない恐怖映画。
星はつけようもない。
帰りに劇場から歩いて5分ほどのところにあるレストランで、遅い夕食を食べた。
すでに時刻は午後10時を回っていた。
そこでワイフと、こんな話をした。
●ドラキュラ
ワイフがこう聞いた。
「ドラキュラって、本当にいるの?」と。
私は即座に、こう言った。
「いるわけがない。『いる』という意味がない」と。
映画『フライト・ナイト』は、ドラキュラの映画だった。
そのドラキュラ。
どんな生物にも、その生物が存在するためには、その「意味」がある。
たとえば庭を這うアリにしても、そうだ。
もしアリがいなければ、この地上は、ゴミだらけになってしまっていただろう。
動物や虫の死骸だらけになってしまっていただろう。
蚊にしても、ネズミにしてもそうだ。
基本的には、ふえすぎた生物を減らすという「意味」のために、「存在」する。
(もっとほかの「意味」もあるかもしれないが……。)
アリがいるから、地上はいつも、クリーンな状態に保たれる。
蚊にしても、ネズミにしても、伝染病を蔓延させることで、「数」を減らす。
あのクモにしても、もしクモがいなかったら、人間は絶滅していただろうと言われている。
私の意見ではない。
生物学者たちの常識である。
それが「意味」ということになる。
では、ドラキュラは、どうか?
存在したからといって、どういう意味があるのか?
つまり意味がない。
いなくても、何も困らない。
意味がない生物は、10万年単位の淘汰を経て、絶滅する。
1万年でもよい。
1000年でも、100年でもよい。
●思考力
言い換えると、人間にしても、そうだ。
人間が「存在」するには、それなりの「意味」がある。
「意味」があるから、この世界に「存在」する。
それを人間自身が自覚しているかどうかは、わからない。
庭を這うアリと同じように、自分たちの「存在の意味」を知らないまま生きているかもしれない。
が、人間には、思考力がある。
こうして文にして、他人に、考えたことを伝える能力がある。
そういう能力をフルに使えば、人間は、自ら、その「意味」を知ることができるかもしれない。
人間の「存在」をはるかに超えた、その向こうにある「意味」を知ることができるかもしれない。
その「意味」を知ることが、人間の英知の最後の目標ということになる。
●人間の存在
が、反対に、もし人間が「存在する意味」を失ってしまったら、どうだろうか。
たとえば今、地球温暖化が深刻な問題になっている。
人間どころか、そのため、ありとあらゆる生物が絶滅するかもしれない。
つまり「人間の存在」そのものが原因で、地球を火星のようにしてしまうかもしれない。
人間という、たった一種類の生物のために、その他ありとあらゆる生物が犠牲になる?
もしそうなら、人間には「存在する意味」がないということになる。
が、そう考えることは、あまりにも絶望的。
またそういうふうには、考えたくない。
●がん細胞
昔、東大の松井孝典教授(東京大大学院教授・惑星物理学)が、何かの会議でいっしょにな
ったとき、こんなような言葉を使った(「愛知万博・諮問委員会)。
「生物圏」と。
(「生命圏」だったかもしれない。あるいは「人間圏」だったかもしれない。)
宇宙から見ると、個々の生物を見ることはできない。
が、地上には「生物圏がある」と。
私はその言葉を聞きながら、「ああ、人間って、がん細胞と同じだな」と思ってしまった。
宇宙から見ると、地球そのものが生命体。
生物は、その地球の表面を、皮膚のように覆っている。
つまり人間が住む「生物圏」は、まさに細胞の集合体のようなもの。
その細胞の中にあって、人間は自ら、地球という生命体を自ら滅ぼそうとしている。
だから、がん細胞。
が、「がん」にしても、「存在する意味」がある。
最終的には、がんが、生命にピリオドを打つ。
もしがんがなければ、それこそ地球上は人間だらけになってしまう。
人間だらけになってしまったら、人間の進化は、そこで停止してしまう。
絶滅してしまう。
つまりがんは、最終的には古い人間を解体するという「意味」をもっている。
がんによって、古い世代が死に、新しい世代が生まれる。
そのプロセスの中で、人間は、進化をつづけることができる。
●貪欲さ
ということは、仮に地球が火星化したとしても、そうするのが人間の「存在の意味」ということ
になる。
つまりありとあらゆる生物を絶滅させる。
そのために人間は存在する(?)。
が、先にも書いたように、そういうふうには考えたくない。
またそんなことには、だれも、納得しないだろう。
この文章を読んでいるあなたにしても、「バカな!」と言って吐き捨てるかもしれない。
そこでもう一歩、踏み込んで考えてみる。
地球を破壊しつつあるのは、人間なのか、と。
「人間の存在」なのか、と。
どうもそうではないような気がする。
現在、この地球を破壊しているのは、「人間の存在」ではなく、「人間が原罪的にもつ貪欲さ」
が、原因ではないか、と。
もし人間が、ほんの少しだけその貪欲さをコントロールできれば、地球を破壊しないですむか
もしれない。
要するに、これは「頭の使い方」の問題であって、「存在」の問題ではない。
●「淘汰」というテスト
が、こうも考えられる。
人間は、現在、宇宙的な規模で、テストされているのではないか、と。
飛躍した意見なので、驚く人もいるかもしれない。
が、ありえないことではない。
もしどこかの惑星に、生物がいたとする。
その生物が、進化を遂げ、人間のような知的生物になったとする。
その生物は、やがて宇宙へと乗り出していくだろう。
ちょうど昔の船乗りたちが、海へ出て、つぎつぎと大陸を発見していったように、である。
そのとき、もしこれらの生物がみな、宇宙へ飛び出したとするなら、今ごろ、この宇宙は、東京
の渋谷や新宿のようになっていたはず。
この銀河系だけでも、100万の「技術文明」が存在するという(「ドレイク方程式」)。
つまり宇宙人だらけ!
が、そうなったら、それこそ星間戦争が始まるかもしれない。
知的にすぐれているだけに、宇宙人たちがもつ武器も、それに比例して破壊力も大きくなる。
太陽くらいの星なら、一瞬にして消すこともできる。
そうなったら、宇宙全体が、危機に瀕する。
そこで今、私たち地球人は、その「淘汰」というテストを受けている。
「宇宙へ飛び出す、宇宙人としてふさわしいか、どうか」と。
地球が火星化し、知的生物がそこで絶滅する。
その資格がないなら、その時点で、絶滅する。
宇宙規模で生命を考えるなら、それも「あり」ということになる。
地球程度の惑星なら、それこそ掃いて捨てるほどある。
●本質的な問題
人間が、科学、文化、芸術、教育、宗教……、ありとあらゆる英知を使って立ち向かうべきも
の。
すべての英知の最終目標といってもよい。
それが人間が原罪的にもつ「貪欲さ」ということになる。
この貪欲さの克服なしに、人間は、知的生物の地位を確立することはできない。
地球温暖化の問題も、いろいろな分野で議論されている。
しかしそれは言うなれば、各論。
それとも対症療法?
少なくとも本質的な問題ではない。
本質的な問題は、「貪欲さ」。
強欲さ。
この問題が残るかぎり、地球温暖化の問題は解決しない。
人間……ここまでくると、「人類」と書くべきだが……人間が絶滅するのも、しかたないというこ
とになる。
つまりまさに今、私たち人間は、宇宙的な規模でテストされている。
英知をうまく結集できれば、私たちはこの宇宙で、宇宙人として生き残ることができる。
そうでなければ、「存在の意味」を失う。
その前の段階で絶滅する。
●ドラキュラ
話が大きく広がってしまった。
再びドラキュラの話に戻る。
中世のヨーロッパには、人間の血を飲む集団があったらしい。
カルト教団のひとつと考えてよい。
それがドラキュラの原点という説もある。
つまり「フィクション」。
作り話。
フィクションだから、その存在の有無を論じても意味はない。
日本の幽霊とかお化けと、同じ。
もし「存在の意味」があるとするなら、この日本にも、「いた」はず。
西洋だけにドラキュラがいたというのは、論理的に考えても、おかしい。
私「しかしどうして西洋人は、ああまでドラキュラが好きなのかねえ」
ワ「ホント!」と。
日光に当たると、燃え出すとか、あるいは十字架を見せると、退散するとか、いろいろ考えて
いくと、矛盾だらけ。
論ずるのもバカらしいほど、矛盾だらけ。
娯楽映画は娯楽映画。
その範囲で楽しめばよい。
『フライト・ナイト』は、そういう映画。
観れば、少しはボケ防止になる。
ここに書いたことを参考に、そのあと、何かの議論をしてみると、おもしろい。
では、今朝はここまで!
これから義兄夫妻と山荘で、会食。
未完成な原稿だが、このまま掲載する。
ごめん!
(はやし浩司 2012−01−08記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 人間の存在の意味 人類はなぜ 存在するか ドレイク方程式 ドレイク公式 宇宙人の存在 はやし浩司 幸福論 はやし浩司 の幸福論 幸福論byはやし浩司)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【新・家族論byはやし浩司】(「家族崩壊(申京淑)」をどう考えるか)
+++++++++++++++++++++++++++
今、「家族崩壊」が、急速に進んでいる。
少子化だけが原因ではない。
日本人の意識が、180度、逆転してしまった。
なぜか。
またこの問題について、私たちはどう考えたらよいのか。
+++++++++++++++++++++++++++
●快晴
今日は快晴。
山荘へ行く途中、富士山が見えた。
濃紺の山々の向こうに、白い頂(いただき)が、見えた。
この浜松でも、富士山が見える日は、めったにない。
●山荘へ
車は今、我が山荘へと向かっている。
自宅から、35〜40分。
場所はxx町。
xx山の中腹あたりにある。
……その昔、そのあたりをワイフと2人で歩き回った。
そしてたどりついたのが、現在の山荘あたり。
一目見て、「ここだ」と。
そこに私たちの夢を「建てる」ことにした。
が、それからがたいへんだった。
地主が、なかなか「うん」と言ってくれなかった。
時折しも、バブル経済。
月ごとに、土地の価格は上昇していた。
●山荘
結局、小山だが、一山買うような形になった。
宅地らしい形はできていたが、山は山。
それからというもの、つまり買い取ってからは、私たちが自ら造成した。
土日ごとに、ユンボを借りてきた。
それで造成した。
以来、26年以上。
宅地造成に6年。
建築に半年。
家だけは、地元の建築会社に頼んだ。
「一条工務店」(会社名)といって、地元でも、もっとも信頼のおける建築会社だった。
「山荘だからといって、ぜったいに手を抜かないでほしい」が、私が出した条件だった。
●義兄夫婦
今日はその山荘に、義兄を招待した。
「一席、もうけますから」と。
義兄は、喜んでそれに応じてくれた。
……義兄夫婦といっても、ワイフにとっては、両親的存在。
ワイフは4歳のとき、母を亡くしている。
●会食
会食といっても、大げさなものではない。
仕出し屋で頼んだ弁当。
それを4人で食べた。
弁当はいつも、市内の一兆庵で頼んでいる。
四季折々の弁当を届けてくれる。
味もよく、値段も良心的。
●成人式
今日は成人式。
忘れていた。
義兄の孫が、その成人式を迎えた。
義兄夫婦は、孫の話をしながら、うれしそうだった。
が、ここで待ったア!
「今の若い人たちは、ぼくらの青年時代とは、ちがうね」と義兄。
誤解がないように言っておく。
その話題を持ち出したのは、義兄のほうだった。
●仕送り
義兄は、現在、76歳。
その義兄も、ボーナスを手にすると、毎年、全額、親に送っていたという。
当時はそれが常識だった。
私もそうしていたし、つづく世代の人たちも、みな、そうしていた。
が、それが今は逆転した。
成人式の祝いをするのも、ジー様、バー様だそうだ。
孫に祝い金(おひねり)を渡すのも、ジー様、バー様だそうだ。
「どうして?」と私が聞くと、「今の若い人は、貧乏だから」と。
●ワーキング・プア
貧乏ではない。
目いっぱいの生活をしている。
だからいつも、お金が足りない。
車にパソコン、マンションに家具一式……。
だから貧乏?
足りなくなると、親にせびる。
「車を買う金がないから、貸して」と。
返済計画をプリントアウトして、もってきたりする。
親だましの小道具。
しかし返す気は、最初からない。
●甘やかし
どうしてここまで変わったか。
親子の立場が、逆転したか。
いろいろな説がある。
が、基本的には、(甘やかし)。
それが世代間の意識を、逆転させた。
今の若い人たちは、「親にしてもらう」のが、当たり前と考える。
もう20年も前のこと。
そのころ書いた本に、こんな話を書いた。
ある母親が、臆面もなく、私にこう言った。
「生活費が足りないので、毎月、親に援助してもらっています」と。
(この話とて、20年前の話だぞ!)
●生活費は7分の5
そういう話になると、話題が尽きない。
こんな例もあるという。
その若夫婦は、毎週、土日は、夫の実家で過ごすという。
さぞかし親孝行夫婦と思いきや、中身はそうでない。
その若夫婦は、土日を実家で過ごすことによって、食費や生活費を浮かしていた。
つまりそうすれば、生活費は、土日分を除いて、7分の5ですむ。
(7分の2は、実家の両親が負担する。)
ついで孫の世話を両親に押しつけ、自分たちは遊び放題。
●孫はかわいい?
そうは言っても、孫が、「ジイジ……」「バアバ……」と寄ってくると、かわいい。
ほろっとする。
ほろっとして、「何か買ってやろうか」となる。
が、ここでも待ったア!
サイコパス(サイコパシィ)という言葉を聞いたことがあるかと思う。
反社会的人格のひとつ。
精神病質のひとつと考えられている。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
『……サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け
容赦なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽 くした人を後に残して行く。
良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、
人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う』(ウィキペディア百科 事典)と。
そのサイコパスは、大別して、先天的なものと、後天的なもの(ソシオパス)に分けて考える。
後天的というのは、『親の育て方など』(ウィキペディア百科事典)によるものとされる。
そのサイコパス(サイコパシー)とはちがうが、似ている部分もないわけでない。
たとえばあなたが孫に、高価なプレゼントを買ってあげたとする。
あなたはそのとき、「孫は喜んでいうはず」「感謝しているはず」「孫との絆(きずな)は太くなっ
たはず」と考える。
しかし孫は、そうではない。
ひょっとしたら、こう考えるかもしれない。
「しめしめ……うまくやった」「このジジーは単純だから、ちょっと甘えれば何でも買ってくれる」
「もっと高価なものを買わせてやろう」と。
こうしたものの考え方が、(そういうふうに考える孫は少数派と信じたいが)、どこかサイコパ
ス(サイコパシー)的。
ものの考え方が、捕食的。
●欲望の渦
実は、私たち老人組は、その愚かなことをしてしまった。
「子どもには、つらい思いや、ひもじい思いをさせたくない」と。
「貧乏で苦労させたくない」とか、「もっと楽しませてやりたい」とか、そんなふうに考えた人も多
いはず。
さらに戦後のあの物質文明の中で、自分を見失ってしまった。
「より高価なものを買ってやれば、親子の絆(きずな)も、その分だけ太くなる」と。
結果、子どもの周辺には、モノがあふれた。
が、もちろん弊害も現れた。
物欲の追求に慣れた子どもたちは、物欲的に自分を満足させることを、「善」とした。
……というのは書き過ぎかもしれない。
しかし「子どもたちが欲望の渦の中で、溺れてしまった」というのは、それほどまちがっていな
い。
●恋愛至上主義
戦後の日本は、当然のことながら、アメリカ文化の影響を強く受けるようになった。
その第一が、恋愛至上主義。
「恋愛こそが人生の一大事」と。
現在の若い人たちは、「恋愛」を人生の柱に据えた。
「恋愛が、すべて」と。
映画『タイタニック』を例にあげるまでもない。
が、そんな程度のことなら、街中をうろつくイヌやネコでもしている。
イヌやネコでもしていることをしながら、「これが人間だ」と。
まちがっているというより、馬鹿げている。
だから今では、自分たちの結婚式の費用ですら、親(ジー様&バー様)が負担する。
で、あとはお決まりの、「家族偏愛主義」。
「仕事より家族」と。
それがまちがっているというのではない。
私たちの世代は、仕事のために家族を犠牲にした。
その反動が、行きすぎてしまった。
●反射的弊害
昔は、「家族」というと、そこにはかならず、祖父母の姿があった。
祖父母がいて、両親がいて、そのつぎに子どもがいた。
が、今は、ない。
若い人たちが「家族」というときは、自分たち夫婦と、その子どもだけをいう。
目が下ばかり、向いている。
だから今、その反射的弊害として、老人問題が起きている。
独居老人はふえ、孤独死、無縁死は、当たり前。
この先、60%の老人が、そういう死に方をするという。
介護施設にしても、100〜200番待ちは、当たり前。
1〜3年待ちも、これまた当たり前。
私たち老人組だけの話ではない。
現在、40歳以上の人たちが、そうなる。
●限度
わかりやすく言えば、私たち日本人は、限度を超え、子どもたちにやりすぎてしまった。
一億、総親バカ!
親バカなことをしてしまった。
これは一例だが、子どものときから「勉強しろ」「勉強しろ」と子どもを追い立てるから、その責
任を取らされる。
今では、(もう30年前からそうだが)、親に感謝しながら高校へ通う子どもなど、ゼロ。
大学生でもいない。
アルバイトをしている学生にしても、学費のためではない。
遊興費のため。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすら、いる。
●大勢
こういう現実を前にしても、まだ「うちの子はだいじょうぶ」とか、「うちの子にかぎって」と、は
かない幻想にしがみついている親は多い。
が、子どもの先生は、子ども。
仲間。
あなたがいくらがんばっても、そこには限界がある。
大勢という流れの前では、あなたの抵抗など、激流に差した、竿のようなもの。
あっという間に、あなたの子どものその大勢の渦の中に、のみこまれていく。
あなたの子どもだけが無事……ということは、ありえない。
●では、どうするか
つまるところ、あのバートランド・ラッセルの言葉に行きつく。
バートランド・ラッセルは、こう言っている。
それについて書いた原稿をさがしてみる。
一部内容がダブるが、許してほしい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)(はやし浩司 2011−06−29日記)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。
『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろう
か」という質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感す
ることが、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。
ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)と。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。
『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。
私たちが当たり前のように耳にしながら育った。
この言葉は、いざ両親に対しては、かけたことがない。
言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)と。
つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。
申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
●保護と依存性
日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではな
い。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。
が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。
ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2,30年後に許してやる」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。
その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『自動二輪の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう5年になります」と。
この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話)を書くときは、その本人とわからないように書
く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。
家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。
●家族崩壊
申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。
そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。
が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてし
まった」。
前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年
以上、会っていません」と。
●2つの解決策
家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。
予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母、つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)
が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。
つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。
で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、
けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。
●3つのポイント
順に考えてみよう。
(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない
が、現実は、きびしい。
★父親のようになりたくない
平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬してい
ない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。
★親のめんどうをみない
第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に
対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、
イギリス 66.0%、
アメリカ 63.5%、
フランス 50.8%、
韓国 35.2%、
日本 28.3%、であった。
もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としていることの(愚かさ)に気づくはず。
●あなた自身のこと
こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。
が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。
では、どうするか?
結論は、すでに出ている。
『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。
子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。
先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。
「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。
へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 はやし浩 司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●良縁?
かなりネガティブな意見を書いた。
もちろん中には、すばらしい(?)親子関係を築いている家族もいる。
が、その(すばらしさ)も、見方を変えると、一転する。
たとえばある母親は、自分の娘が、地元の会社に勤める男性と結婚したことを、「良縁、良縁」
と言って、喜んでいた。
たしかにその母親にしてみれば、そうかもしれない。
「男を取ってきた」ということになる。
が、相手の親、つまり婿の親は、どうなのか?
その母親が「良縁、良縁」と騒げば騒ぐほど、相手の親にとっては、「悪縁」。
つまりこのあたりに、「家族論」の限界がある。
新年を迎え、すでに8日が過ぎた。
義兄と話しながら、こう思った。
「今夜、家に帰ったら、もう一度、家族論について考えてみよう」と。
それがこの原稿である。
子育てのあり方を見つめなおす、ひとつのきっかけになればうれしい。
もちろん、あなた自身の子育てが、うまくいくことを願いながら……。
●義兄と……
義兄はこう言った。
「こうした問題は、この先、何世代もつづくでしょうな」と。
私も、そう思う。
一度緩んだネジは、簡単には元には戻らない。
韓国の申京淑は、「家族崩壊」という言葉を使った。
欧米化といっても、それが正しいわけではない。
そこに至るには、それにふさわしい社会制度の整備が必要。
欧米では、そうした周囲制度が、すでに整っている。
家族崩壊を前提とした社会が、整っている。
が、この日本では、そうでない。
私たちの世代はそれでよいとしても、つぎの世代、さらにそのつぎの世代……。
苦労するのは、そういった世代ということになる。
私たちは自ら、自分の首を絞めてしまった。
つぎの世代は、さらに強く、自ら自分の首を絞めることになる。
「自分たちは、自分の親のようにはならない」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験す
る。
「自分たちは、すばらしい家族を築く」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験する。
中には、「私たち若者を、ここまでけなすことはないだろう」と怒る人もいるかもしれない。
その(怒り)はよく理解できる。
しかしもちろん、私はそれを願っているわけではない。
若い人たちは若い人たちで、すばらしい人生を送ってほしい。
そのヒントになればと思い、あえて『新・家族論』(家族崩壊)について書いてみた。
若い人たちは、私たちが犯した「愚」を、けっして繰り返してはいけない。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
はやし浩司 バートランド・ラッセル 限度 子育ての限度 はやし浩司 申京淑 『ママをお 願い』 家族崩壊 家庭崩壊 はやし浩司 親子論 逆転した親子関係)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【姉妹の嫉妬】(はやし浩司 2012−01−09・雑感)
●気力
++++++++++++++++++
貧乏性。
貧乏性と、昔は言った。
「何かをしていないと、落ち着かない」。
それを貧乏性と言った。
休みが1週間もつづくと、そうなる。
最初の2、3日は、あれこれと忙しい。
しかしそれを過ぎると、とたんに、貧乏性になる。
そこで何かをし始める。
ゴソゴソ……
ゴソゴソ……、と。
(コソコソではない。念のため!)
+++++++++++++++++
●モニター
4、5年前、27インチのモニターを買った。
解像度は、1920x1200(これをAとする)。
が、しばらくすると、ワイド画面が主流になった。
解像度は、1920x1080(これをBとする)。
そこでワイド画面のモニターに買い換えた(これをCとする)。
27・5インチ。
が、どうもの足りない。
もっと大きいのが、ほしくなった。
そこで液晶テレビをモニターに使ってみることにした。
テレビ用のモニターを購入。
32インチ。
画面がぐんと大きくなった。
「これはいい」と思ったのも、束の間。
字が粗くて使い物にならなかった。
それに明るすぎた。
で、しばらく(B)を使っていたが、これにも問題があった。
上下幅が狭いため、サイトによっては、そのつどスクロールをしなければならない。
そこで今朝、再び(A)に、戻した。
で、今は、その(A)を使いながら、この文章を叩いている。
で、一言。
パソコンのモニターは、明るすぎるのはよくない。
目が疲れる。
やや薄暗いかな……という程度のものがよい。
何時間もつづけて使うときには、とくにそうだ。
その点、パソコン専用のモニターは、かなり薄暗くすることができる。
テレビ用のモニターでは、それができない。
しばらくこのモニターを使ってみる。
●露天風呂
自家製の露天風呂が欲しくなった。
それに湯を張り、星空をながめていたい。
……ということで、あれこれ計画を練っている。
まず、小さなベランダを作る。
その上に、木製の浴槽を置く。
湯や水は、ホースで引けばよい。
その気になれば、半日仕事。
友人のTさんは、自分の山荘では、浴槽に、本物のドラム缶を使っている。
それを川沿いの空地に置き、露天風呂にしている。
Tさんは、何をするにも、本格的。
「浴槽はドラム缶がいちばんいい」と。
太陽熱温水器を使い、湯を入れる。
熱さが足りないときは、下から薪(まき)で温める。
風呂へは、下駄を履いて、入る。
ただし川のそばだから、使えるのは、春と秋だけ。
夏は虫が多く、使い物にならない。
昼間は、アブの襲撃を受ける。
冬は、寒い。
風呂から出た後が、つらい。
●オーストラリア
ワイフがオーストラリアへ行こうと言っている。
それをオーストラリアの友人に話すと、毎日のように資料を送ってくれる。
「縁」というのは、それをいう。
人というのは、自分を望んでくれる人のそばに行きたい。
1人でも、そういう人がいると、そこへ行きたい。
そこで計画。
が、オーストラリアの物価は、高い。
メルボルン市内でも、ちょっとよいホテルになると、1泊1名で、4〜5万円。
最低でも2万円前後。
もちろん素泊まり料金。
「料金が高い」というより、為替レートがおかしい。
現在、オーストラリアドルは、1ドル=80円前後で取り引きされている。
が、実際には、1ドル=40〜50円くらい(?)。
それくらいだと、日本の物価水準と同じくらいになる。
(食品価格をのぞいて……。)
どうしようか?
●のぞき
年賀状を見てわかったが、みな、私のHPを見ている。
「いつもHPを見ています」という人が、何人かいた。
しかし私的には、それを喜んでいいのか、悪いのか……?
本音を言えば、あまり見てほしくない。
そういう人がいると、書きにくい。
あれこれと、気を使わねばならない。
というのも、私は、プライベートなことを書くときは、その人とわからないように書く。
たとえば身内の話を、近所の人の話にしたり、親類や知人、友人の話にしたりする。
「私の親戚に……」と書いたからといって、親戚の話とはかぎらない。
そうでないことのほうが多い。
もちろんその逆もある。
さらに、2人〜3人の話を1つにまとめることもある。
もちろんその逆もある。
ウソを書いているのではない。
これは私のようなもの書きにとっては、最低限守らなければならないマナーである。
その人の名誉を傷つけると、たいへんなことになる。
が、読む人が読むと、それがだれかわかってしまう。
「これはあのXさんのことだ」と。
それがこわい。
とくに不愉快ななのは、「のぞき」。
HPをのぞいては、私の家の事情を探ろうとする。
数年前だが、こう言った男がいた。
「浩司君、君のHPだけど、この1年くらい、見てないかなア〜」と。
が、これはウソ。
今ではフリーのサービスや、フリーのソフトを使うと、どこのだれが何回くらいアクセスしてきた
かが、1日単位でわかる。
(もちろん相手のIP番号を登録しておく必要があるが……。)
その男は、毎晩、11時前後に、私のHPをのぞいていた。
で、私はその男にこう言ってやった。
「あなたのサーバーは、Axxxxネットでしたね」と。
その男は、一瞬ギクリとしたあと、そのまま黙ってしまった。
私のHPは、それを必要とする人に見てほしい。
のぞき目的で見るのは、厳禁!
あとはみなさんの良識に任せる。
●露天風呂(2)
このところ、物価が上昇している。
それが実感として、よくわかる。
先ほども、浴槽のHPをあちこちのぞいてみた。
露天風呂に使えそうな浴槽を探してみた。
が、価格を見て、驚いた。
ヒノキで作った丸形浴槽ともなると、いちばん小型のサイズでも、40万円前後。
その上のサイズとなると、50〜70万円前後。
(露天風呂付きの温泉でも、50万円もあれば、食事付きで、40回は入浴できる。)
「高いなア〜」と思ったところで、思考停止。
こうなったら、自分で作るしかない。
木材を買ってきて、自分で作る。
箱形のものであれば、まさに「箱」を作ればよい。
今日にでも近くのDIYショップへ行ってみる。
あれこれ、自分で考え、自分で作っているときが、いちばん楽しい。
●モニター(2)
やはりワイド型(16:9)のモニターのほうが、使いやすい。
……ということで、結局は、もとのモニターに戻すことにした。
ゴソゴソ……と。
ちょうどそこへワイフがお茶を届けてくれた。
「(テレビの)モニターはどうするの?」と。
私「不要だから、あげるよ」
ワ「じゃあ、もらとくわ」と。
意外と簡単に、もらい手が決まった。
が、階下の居間までもっていくと、そこから息子にバトンタッチ。
息子がそのままそのモニターをもって、自分の部屋に消えた。
●相談
……とまあ、つまらない話ばかり書いていてはいけない。
読者のみなさんに、申し訳ない。
……。
おととい、ある女性から、こんな相談を受けた。
電話での相談だった。
(ただし最初に書いておきますが、どなたかの紹介がないかぎり、電話での相談はお断りして
います。
おとといの相談は、昨年世話になった、ある学校の校長の紹介の方からのものでした。)
いわく、「姉妹が、仲が悪くて、悩んでいます」と。
おおざっぱに言えば、こういう内容である。
(1)2人の姉妹(娘)が、いる。
(2)年齢は、上が28歳、下が26歳。
(3)上の娘は、ケチでためこみ屋。家業を継がせたくない。
(4)下の娘は、負けん気でやり手。家業を継がせたい。
(5)いつも喧嘩ばかりしている。
(6)一方に家を出るように言っているが、姉のほうは、一歩も譲らない。
(7)妹にボーイフレンドができた。
(8)そのボーイフレンドに、姉のほうが横恋慕。姉との結婚話まで進んでいる。
(9)現在、そのボーイフレンドを取り合って、家の中が大騒動。
で、どうしたらいいか、と。
●姉妹
『年齢の近い姉妹は、憎しみ相手』と。
昔からそう言う。
乳幼児期からの(わだかまり)があるから、その分だけ、根が深い。
姉妹がうまくいっているケースとなると、10に1つもない。
が、話を聞くと、さらに深刻。
姉が、ボーイフレンドと妹の仲を裂こうと、あれこれと告げ口をしているというのだ。
そのひとつが、妹に、中絶経験があること。
それを、姉は、ボーイフレンドに話してしまった。
それが大騒動の原因にもなった。
相談してきた女性(母親)は、こう言った。
「明日にでも事件になりそうで、恐ろしくてなりません」と。
●現在の状況
姉は妹に向かって、「私が長女だから、家を出て行け」と。
妹は、「私が店を手伝っているから、あんたこそ、出て行け」と。
家は江戸時代からある、みやげもの屋。
その町の門前町の中でも、中心的な存在である。
敷地も広い。
現在の状況は、つぎのようらしい。
(1)たがいに口もきかない。
(2)ささいなことで、突発的に大げんかになる。
(3)夫(父親)は、「店を継いだものに、財産を譲る」と言っている。
(4)ボーイフレンド、つまり彼氏は、最近は、姉の方とデートしている。
●嫉妬
こういう話を聞くと、乳幼児期の子育てがいかに重要かがわかってもらえると思う。
この時期の兄弟・姉妹関係が、そのままおとなになっても、尾を引く。
嫉妬がからんでいるだけに、それこそ相手を、殺す、もしくはその寸前のところまで発展する。
(実際、そういう例は少なくない。)
原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
嫉妬について書いた原稿です。
中日新聞発表済み。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どもの嫉妬
嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、
その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。
「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。
犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。
また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。
そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。
嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。
ひがみが強くなったり、がんこになったりする。
幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。
「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、そ
れが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴 で、容赦しないのが特徴。
弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹
の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。
一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小2)もいた。
また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケー
ス、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。
ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするとき
は、愛情問題を疑ってみる。
そういうときは抱いてみるとわかる。
最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落
ち着く。
乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにす
る。
中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。
一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うま
でもない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●いろいろなケース
「嫉妬がからんでいるだけに、ことはたいへんやっかいです」と、私は答えた。
それに財産問題も、からんでいる。
(財産)イコール、(欲望の追求)と考えてよい。
こうなると、さらに、やっかい。
一筋縄では行かない。
私は今までに知ったケースをいくつか、話してやった。
(1)財産(土地)をきちんと2等分したのだが、今度は南側の土地、北側の土地で、けんかにな
ってしまった姉妹。
(2)娘の夫たち(夫には相続権はない)まで加わってきて、玄関先で毎週のように、大げんかし
た兄弟・姉妹。
(3)古い例では、『ブーリン家の姉妹』がある。
映画にもなっている。
●『ブーリン家の姉妹』
映画『ブーリン家の姉妹』の映画案内には、つぎのようにある。
『……16世紀のイングランド。
新興貴族のトーマス・ブーリン卿は一族繁栄のために才気あふれる美しい娘アンを国王ヘンリ
ー8世の愛人に差し出すことを目論む。
ところが、王の心を捉えたのはアンの妹で凡庸だが気立ての良いメアリーだった。
一家は宮中に移り住み……』と。
イギリス王室にも、そんな暗い歴史がある。
で、一度こうした確執ができると、それを解きほぐすのは、ほぼ不可能と考えてよい。
姉妹でも、他人以上の他人になる。
ではどうするか?
●「流れ」
この種の問題は、(流れ)に任すしかない。
『時は心の癒し人』(はやし浩司)だが、その「時」にも、手に負えないときがある。
で、そういうときは、(流れ)に任す。
流れに任せておくと、やがて水がより下を求めて流れていくように、自然な形で解決する。
親が介入すると、かえって火に油を注ぐようなことになりかねない。
姉妹関係は壊れたまま。
姉とボーイフレンドが結婚するようなことにでもなれば、さらに壊れる。
そうなればなったで、もうどうしようもない。
この先もずっとそうと、あきらめる。
『あきらめは悟りの境地』(はやし浩司)ともいう。
コツは双方の聞き役に回り、親が意見を言ったり、結論を出してはいけない。
成り行きに任せれば、姉妹双方で、何らかの結論を出す。
あとは、それに従う、と。
運命というのは、そういうもの。
無数の糸が、複雑にからみあいながら、その人の人生を決める。
「家」にしても、そうだ。
家の運命も、それで決まる。
……ということで、今朝はここまで。
昨夜、ワイフが食パン製造器をセットした。
そのにおいが、この2階にある書斎まで入ってきた。
「8時30分にセットしたはず」と。
今、時計を見るとその8時半。
台所のほうで、カチャカチャと器具を外す音がする。
では今朝はここまで。
2012/01/09朝記
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
『時は心の癒し人』『あきらめは悟りの境地』について書いた
原稿を探してみます。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●『時は心の癒し人』(2003年07月15日記)
●子育て随筆byはやし浩司(978)
A市にお住まいの、Bさんからのメール
先日、A市での講演会に行かせていただきました。HPも見させていただき、色々思う事があり
ました。
私の兄は公務員で一人暮らし、二年ほど前に神経症になりました。
ある日、兄から電話があり、「お父さんが俺の仕事場の上司に俺の話をしているみたいだか
ら、上司に電話したりするのはやめるように言ってくれ……」ということでした。
私は実家に帰ったときに早速その話をしました。
父は「おかしいな。そんな話したことないのに……」と言い、その返事も兄に伝えました。
それからも何度かそんな内容の電話が兄からかかってきましたが、父の返事は変わりません
でした。
そんな電話から三か月くらいあとだったでしょうか、四国に旅行中の両親から電話があり「KK
(兄)が調子悪くなって家に帰っているみたいだから、様子見てきて!」という事だったので実家 に行ってみたところ、生気のない兄が母達が留守だった為、雨戸も開けずに暗い家の中にい ました。
話しを聞けば病院で神経症と診断され、仕事を二週間休んできたという事でしたが、私にはと
ても二週間で復帰できるような状態でないことがわかりました。旅行中の両親も旅行をとりや め帰宅。
その後は、もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げるようにして父が
私の家に来たり……。
兄は乱暴ではなく、とにかく元気がない状態。目の感じが違っていました。
仕事を休み始めた当初は私を呼びだし「俺、ホントに頭がおかしくなるかもしれないから、後は
頼むな……。」
と言われた事もあります。「それだけ分かってるなら、頭おかしくないよ! 頭おかしい人はそ
んな事言わない」と返事しましたが、その返事も、それで良かったのか悪かったのか……。
どんな治療をしたかは、私は詳しく聞きませんでしたが「病院かえた方がいいかな?」とか、「こ
の薬は普通こういう病気では処方されないらしい……」とか、とにかく、何もかもに神経質にな っているのがわかりました。
あの時のおかしな電話の事もこれだったんだ……と後からわかりました。被害妄想のようなも
のだったようです。
「役所でみんなが俺の話をしてる。」とか「噂されてる。」とか色々言っていました。
結果、仕事場に行くとパニック症状が起きてしまい、どうにもならなくなり自分から病院に行った
ようでした。
HPに、チックの事や神経症の事が書いてあるのを見て思い出したのですが、兄は小学校の
頃チック症状で、目をぱちぱちさせていました。
それを母がとても気にしていました。
兄は昔からすくお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりしていました。誰かが病気になると自分も
調子が悪くなったような気がする……とか、とにかく変わった人でした。そして、神経症と診断さ れてから一年後、軽い鬱病だった……という診断にかわり(?)ましたが、とりあえず仕事に復 帰出来る状態にまで回復し、今は部所を変えていただき、実家からなんとか仕事に通っていま す。
チックに始まり、三四歳で神経症。同じ家庭環境に育った私は何事もなく過ごしています。
今、私には、年中児の息子と五年生の息子、中三の息子がいますが、子育てにおいてあれこ
れ真剣に考えることもなく過ごして来たような気がします。
でも兄をみて、HPをみて、小さい頃のささいな事と思えたものが、その後大きな問題に発展し
てしまう恐怖を感じました。
長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一回くらい)しました。
実は、それも何かのサインだったのかと思うとドキドキします。
数日前、私の親類の子供が、脳炎を起こしました。結果、大脳がほとんどやられてしまってい
て、治療の方法がない……と言うことでした。お見舞いに行きましたが、いとこは泣いていまし た。
かける言葉も見つからない状態です。
そんなこともあって、「おまえは生きているだけでいい……」という言葉が耳から離れません。
+++++++++++++++++++
【はやし浩司より、Bさんへ】
講演をしていて、一番、気をつかうのは、聞きにきてくれた人に、不安感を与えないということ
です。もし私の講演が、Bさんを不安にしてしまったようでしたら、どうかお許しください。
率直に言って、一つの講演の中でも、私は無数の話を織りまぜます。
で、そういう話のひとつずつに、それぞれの人が、まったく別の反応を示します。
ときに、私がまったく予期しないところで、まったく考えもおよばなかった反応を示す人もいま
す。
実のところ、Bさんがそうで、私は、申し訳ない気持ちで、いっぱいです。できれば楽しく、ハハ
ハと笑っていただければよかったのですが……。
しかし私の話は、いつも暗いですね。申しわけありませんでした。
が、私がここで答えられる部分は、「長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一
回くらい)しました。
実は、それも何かのサインだったのかと思うとドキドキします」という部分だ
けです。
これについては、寝言にしても、「たまに」ということですし、おねしょも、終わっているという点
で、もう心配する必要はないと思います。
それに寝言にせよ、おねしょにせよ、ほとんどの子どもが経験することで、大きな問題ではあり
ません。
ただ子どもを包む環境が、神経質になっていないかは、反省してみてください。
コツは、子ども自身が安心して休めるような、時と場所を、家庭の中に用意することです。
子どもを、温かく包むように、無視する。
子どもの側から見て、親の視線を感じさせないようにします。
こういうケースでは、Bさん自身が、問題そのものに気づいておられますので、少し時間はか
かりますが、それで問題は解決します。
どうか自分を信じてみてください。
で、話を戻します。
お兄さんの件ですが、どの家庭も、外から見ると、うまくいっているように見えますが、それぞ
れ似たような問題をかかえています。
ほとんどが、そうではないかと思います。
みんなある意味で、懸命に、そして必死に、そうした問題と戦っています。
ですから、決して「自分だけが……」と思ってはいけません。
思う必要も、ありません。
心だって、たまには病気になるのです。
ただふつうの、つまり風邪や肺炎のような体の病気と違うところは、心の病気は、外から見え
にくいということ。
それにたいてい長期にわたるということです。
こじらせれば、一生つづくということも、珍しくありません。
だから心が病気になったからといって、深刻になること自体、おかしいのです。
しかもこの種の「心の病気」は、まじめな人ほど、なります。
もっとわかりやすく言えば、そうなったとしても、基本的には、その人を取り巻く、社会や環境の
ほうが、おかしいのです。
脳に機質的な問題があれば、話は違いますが、機能的問題であれば、今、ほとんどの病気は
治るという時代です。
かく言う私も、過去において、何度か、人生そのものに絶望したことが、あります。
人前では、いつも明るく振る舞っている私ですが、実のところ、心はボロボロ。
私ほど、心の病気のデパートのような人間は、少ないと思います。
よく私は、「あらゆる精神病を、広く浅くもっている」と冗談ぽく言いますが、それはまちがってい
ません。
また生まれながらにして(?)、家庭問題のいざこざには、常に悩まされました。
実のところ、今も悩まされています。
しかし私のばあいは、どれも長期で、もうなれたというか、あきらめたというか、そういう状態に
なっています。
またそういう私を悪く言う人もいますが、「勝手にどうぞ」という心境です。
Bさんについても、今さら過去をほじくりかえしても、意味はありませんし、今の問題がどうか
なることもありません。
しかたないのです。
みんな、懸命に生きていても、どこかで穴があき、そこから水が漏れることだってあるのです。
懸命に生きていても、どうにもならない問題が、起きるときには、起きるのです。
ここで大切なことは、仮にそういう問題が起きたとしても、それは私やあなたの問題ではない
ということです。
それが人間が、人間であるがゆえに、つまりは生きることにまつわる限界のようなものです。
そんなわけで、つぎに大切なことは、そういう問題が起きたとしても、それはそのまま、受け入
れるということです。
まさに「なるようになれ!」と自分に言ってきかせることです。
この言い方は、一見、無責任な言い方に見えるかもしれませんが、あのジョン・レノンも、『レ
ット・イット・ビー』の中で、そう歌っています。
「♪レット・イット・ビー(あるがままにせよ)」と。
実のところ、私もずっと、そうしてきました。ものごとというのは、なるときには、放っておいても、
なる。
しかしならないときは、がんばっても、ムダ……ですね。
とくに心の病気について言えば、そうではないでしょうか。
ただお母さんの態度は、あまりほめられたものではありません。
娘のあなたに、「その後は、もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げ
るようにして父が私の家に来たり……」とは?
「逃げるようにして……」というのは、お父さんが、お母さんから、「逃げる」という意味でしょう
か。
こういうケースでは、一番、自分を律しなければならないのが、お母さんなのですが……。
少し残念ですね。
お母さん自身が、あなたのお兄さんを、まったく受け入れていないばかりか、そうした態度が、
お兄さんのみならず、あなたをも苦しめていることに気づいていない?
またあなたのメールだけで、こう結論づけるのは、危険なことかもしれませんが、お兄さんが
子どものころ見せた、いろいろな神経症による症状(チックなど)の原因も、お母さんにあった のではないかということです。
こういうケースでは、母親の態度というか、姿勢が、一番、重要なカギを握ります。
そのお母さんが、こうまで動揺してはいけません。
……と、ほとんど回答になっていない返事で、ごめんなさい。ただ言えることは、ことあなたに
ついて言うなら、『時は、心の癒し人』ということです。
時間が解決してくれます。時間がたつと、あなた自身が、周囲を受け入れ、そして心穏やかに
なります。こういうときは、あせって、あれこれしないほうがよいです。
じっとがまんします。(もちろんそれでお兄さんが、よくなるとかということではありませんが…
…。あくまでも、あなた自身の問題が、です。)
最後に、お兄さんがそうだったからといって、あなたのお子さんが、そうなるということは絶対
にありません。
どうか過剰に不安になったり、心配したりしてはいけません。
一つだけ心配される点について、書いておきます。
あなたのお母さんとあなたのお兄さんの関係においてですが、あなたのお母さんは、お兄さ
んを、全幅には受け入れてはいなかった?
それが今いる、「お兄さん」をつくったと考えられます。
いろいろ事情があったのでしょう。
だからあなたのお母さんを責めても意味はありません。
ただそういう関係、つまりあなたのお母さんのもつ、子育て観が、今のあなたの影響を与えて
いる可能性はあります。
これを心理学では、世代伝播とか連鎖とか言います。つまり子育ては繰りかえすということで
す。
そこでこれはあなたにとって、たいへんつらいことかもしれませんが、「母親である」という虚
像というか、偶像を排除して、一度、あなたのお母さんを、一人の人間として、冷静に判断して みてください。
そしてあなたのお母さんのもつ、人間的な欠陥というか、精神的な未完成部分というか、はた
また情緒的な未熟性というか、そういうものを、冷静に判断してみてください。
そしてそれに気づいたら、あなた自身は、それを繰りかえさないようにします。あなたの子ど
もに対して、です。
そこだけを注意すれば、もう心配はありません。ほとんどの人は、それに気づかないまま、同じ
ことを繰りかえします。
どうかご注意ください。
繰りかえしますが、だからといって、あなたのお母さんを責めても意味はありません。
多分、もうかなりの年齢の方だと思います。
人間も、満四五歳前後を境に、あとは、急速に、人間的な進歩をやめます。
ばあいによっては、そのころを境に、退化します。
年配だから、人間的にもすぐれているだろうと考えるのは、幻想以外の何ものでもないというこ
とです。
では、今日は、これで失礼します。また何かあれば、ご連絡ください。なおあなたからのメー
ルは、このような形で、マガジンに転載させていただきますが、よろしくご了解ください。勝手な お願いですみません。よろしくお願いします。
(030715)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 姉妹の確執 嫉妬 子どもの嫉 妬 はやし浩司 チック チック症)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●あきらめは悟りの境地(中日新聞にて発表済み)
子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。
子育てはまさに、あきらめの連続。
またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。
一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路
に入る。
そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。
要はどの段階で、親があきらめるかだが、その時期は早ければ早いほどよい。
……と言っても、これは簡単なことではない。
どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)してみるまで、
自分が失敗するとは思っていない。
「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。
また行きつくところまで行かないと気がつかない。
要は子どもの限界をどこで知るかということ。
それがわかれば親も納得し、その段階であきらめる。
そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならできるか」
「自分ならどうするか」という視点で考える。
あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。
子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。
たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分な
らできたか」と考える。
それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。
もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。
「あなたの料理のし方、76点。
接客態度、54点。
家計簿のつけ方、80点。主婦としての偏差値48点。
あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。
またそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを
叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。
子どもが置かれた立場というのは、それに近い。
親というのは身勝手なものだ。
子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を読んでいる親は少ない。
子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親は少ない。
そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。
そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。
親子のきずながその時点からまた太くなり始める。
もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほし
い。
それで道は開ける。
(以上、2012/01/09記)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
**********以上、はやし浩司 2012年01月09日**********
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