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【20】
2010年  10月  18日〜 11月  26日

最前線の子育て論byはやし浩司(20)2011−10−18

【富士宮へ焼きそばを、食べに行こう!】(はやし浩司 2011−10月)

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 昼食を・・・と思い、台所へ。
ワイフが、ポツンとそこに座っていた。
「昼ごはんは・・・?」と聞くと、
「柿があるわ」と。

うちの庭でできた柿である。
農薬ゼロ。
皮ごと食べられる。

それを食べながら、「なあ、焼きそばを
食べにいかないか?」と声をかけると、
二つ返事で、「あらっ、いいわ!」と。

私「富士宮焼きそばだよ」
ワ「どこにあるの?」
私「富士宮だよ」
ワ「富士宮まで行くの?」
私「そう・・・」と。

 で、今は、新幹線の中。
浜松から静岡まで新幹線。
静岡から富士まで、在来線。
そこで身延線に乗り換え、富士宮まで。

私「往復の旅費が、12640円。
焼きそばが、1000円・・・くらいかな?」
ワ「ぜいたくね・・・」
私「ホント・・・」と。

+++++++++++++++++

●掛川

 乗ったと思ったら、もう掛川。
いつもは在来線。
今日は新幹線。
今週は、大阪のユニバーサルスタジオに行くつもりだった。
が、その日、ワイフは高校の同窓生に会うとか。
しかも天気予報を見ると、全国的に雨。
「あきらアメ(雨)たあ」と言うと、「そうね」と。

 それで富士宮焼きそばとなった。
さあ、みんなで行こう、富士宮焼きそば!
みんなで食べよう、富士宮焼きそば!

●あるコラム

 ある週刊誌に、知人のF氏が、毎週、短いコラムを書いている。
そのコラム。
久しぶりに読んでみたが、???。
論理性がなく、自慢たらしい話。
やたらと漢字が多く、読みづらく、おもしろくない。
おまけに支離滅裂。
全部で、60行足らずのコラムである。
一読して、すぐわかった。

「あぶないな」と。
つまり脳みその働きが、あぶないな、と。

●認知症

 文章が書けないから認知症ということではない。
文章を書くのが苦手という人はいくらでもいる。
しかしF氏はちがう。
大学元教授。
ベストセラー本ももっている。
そういう人が、文章を書けなくなったら、認知症を疑ってみたらよい。
特徴がある。

(1)ことさら古臭い漢字遣いが多い。(読者の立場になって書かれていない。)
(2)話がくどい。(こまかいところで、へんにこだわる。)
(3)連続性がない。(話がポンポンと飛ぶ。)
(4)支離滅裂(突然、だれも知らない中国の四字熟語が飛び出したりする。)
(5)趣旨が不明(何を言いたいか、よくわからない。)

 その週刊誌の、そのF氏のコラムは、まさにそれだった。
が、「明日は我が身」。

たとえば今朝、私は「メタ認知能力」についての原稿を書いた。
途中で、何を書いているか、自分でもわからなくなってしまった。
BLOGに載せようかどうか迷った。
認知症を疑われてもしかたないような文章だった。

●映画『送り人』

 これは現実の話。
事実。
だからその人たちとわからない程度に、ありのままを書く。

 数か月前、1人の男性が死んだ。
名前をUT氏としておく。
享年84歳。
妻も84歳。
妻のほうは、自活できる程度に、元気だった。

 その男性が危篤状態になったときのこと。
東京に住んでいる息子氏が、叔母から連絡を受け、30年ぶりに、浜松へ戻った。
30年ぶり!
いろいろあったらしい。

 父親は自宅で倒れた。
息子が戻ったとき、(ふつうは「駆けつけた」と書くが、そういう雰囲気ではなかった)、男性の意
識ははっきりしていた。
男性と息子氏の間に、母親が立った。
母親は息子氏に、こう言った。
「あんたなんか、帰ってちょうだい」と。

 息子氏は玄関口に立って、母親にこう聞いた。
「親父はどうなんだ! 親父も同じ気持ちか!」と。
そこで母親が父親のところへ行き、息子が来ていると話した。
しかし父親は、一瞬かなりの興奮状態になったあと、首を横に振った。
それを知って、息子氏は、そのまままた東京に帰っていった。

 この話をワイフがしてくれたとき、即座に、私はあの映画『送り人』を思い出した。
その映画の中では、死んだ父親が、最期まで息子との思い出の石を握っていた。

●映画『送り人』

 静岡から、在来線(東海道線)に乗り換えた。
その電車の中で、映画『送り人』の話になった。

私「なあ、あんなことありえないよな」
ワ「そうねえ・・・。ありえないわよね」
私「親父が、そんな石、握って死ぬだろうか」
ワ「ありえないわよね」と。

 その前に、UT氏の話をしていたこともある。

私「あの映画の脚本を書いたのは、若い人だと思うよ。視点が若い人のほうにある」
ワ「そうよね。父親の立場からすれば、息子に捨てられたわけだし・・・」
私「理由はともあれ、息子は親を捨てた・・・。最近の若い人たちは、ささいな理由をこじつけて
は、親を捨てる」
ワ「この半世紀で、立場が逆転したわね」
私「そこなんだよ。ぼくたちが社会へ出たころは、みな、収入のいくらかは、実家へ送った」と。

●二番煎じ

 UT氏と息子氏の間に、何があったかは知らない。
しかし昔風の言い方をするなら、「30年も親を放っておいて、私は息子です」は、ない。
息子の側は永遠の親の愛を期待するかもしれない。
しかし親側は、別の考え方をする。
神や仏ではない。
その愛にも限界がある。

UT氏にしても、そうだろう。
が、今は、時代も逆転した。
親が子ども(息子や娘)の心配をする。
子ども(息子や娘)が、それを親に要求する。
「親なら親らしくしろ!」と。

 で、話は映画『送り人』に戻った。

私「母親なら、石を握っていたかもしれない」
ワ「そうねえ・・・」
私「が、父親は、そんなことはしない。古い世代の父親なら、なおさら」
ワ「お涙、ちょうだい・・・というわけね」
私「若い人たちなら、泣いただろうね。しかしあの映画は、『マジソン郡の橋』の二番煎じ。ぼく
はそう思った」と。

 映画の中では、息子が父親の死に駆けつけると、父親は、息子との思い出のある石を手に
握って、死んでいた。

●富士

 電車は富士に着いた。
そこで身延線に乗り換え。
富士宮まで。
(現在、富士宮から先へは、バス運行になっている。)

 ネットを使って、おいしい店をさがそうとしたが、一件もヒットせず。
通信販売で、今では富士宮焼きそばを買うこともできるそうだ。
それはわかったが、店によって味がみなちがうという。
そういう話を、いつか、だれかから聞いたことがある。

 浜松からわざわざ参上した手前、富士宮では、いちばんおいしい店を探し当てたい。
ワイフは「駅前でだれかに聞けばいい」と、のんきなことを言っている。
しかしそんなことで、いちばんおいしい店が見つかるだろうか。
少し心配になってきた。
おまけに、今日は、柿を食べただけ。
腹のほうは、ペコペコ。

 それにもうひとつ気がかりなことがある。
現在、時刻は14:49分。
個人の店だったら、休憩中ということになる。
だいじょうぶかな?

●車内

 日曜日というが、高校生らしき学生の姿が目立つ。
みな、それぞれ乱れた服装をしている。
平気で携帯電話を使っている。
少し前まで、ドアの手前の床に座っていた女性もいる。

 たった今しがた、実に、奇天烈(きてれつ)な恰好をした高校生の一群が通路を通り過ぎてい
った。

私「あのなあ、富士宮には、チンドン屋学校というのがあるそうだ」
ワ「うそでしょ!」
私「ああ、うそだ」と。

●タクシー

 富士宮駅からは、タクシーに乗った。
運転手に聞くと、「うるおいてい」がよいと薦めてくれた。
(富士宮市淀師415−2:電話0544−24−7155)
駅からは、1150円の距離だった。

●うるおいてい

 タクシーの運転手が薦めてくれただけのことはあった。
おいしかった。
その様子は、ビデオに収めた。
家に帰ったら、編集し、YOUTUBEにUPするつもり。

 で、帰りは、西富士宮駅まで、歩いた。
30分ほど。
それが今日の運動。

 途中、富士の清流か。
川もあり、側溝もあったが、水は清らかに住んでいた。
「このあたりに、友人が経営する幼稚園があったはず・・・」と。
そんなことを考えながら、道を歩いた。

●西富士宮駅

 駅に着いたら、ちょうど電車が発車するところだった。
つぎの電車は、5時7分発。
約50分、待ち。
私たちは交番の前にある、「M−Fuji」という喫茶店というか、雑貨屋に入った。
道路に面したテラスで、紅茶とコーヒーを飲んだ。
時刻は16:49分。
すでにあたりは暗くなり始めていた。
低い雲が、隙間なく天を覆っていた。

 ・・・その前に、こんな事件があった。
駅を出たところで、カバンが落ちているのがわかった。
中を見ると、長野県・・・と書いた封筒が見つかった。
私たちはそれを交番に届けようと、交番に向かった。
で、あと数メートルというところで、一人の男が追いかけてきた。
「私のかばんです」と。

 2、3言、言葉を交わしたあと、私はその男にカバンを渡した。

●帰りの電車の中で

 ところで中華料理店というと、気取った高級店が多い。
料金も高い。
そういう中にあって、本物中の本物の中華料理を食べさせてくれる店がある。
「紅虎餃子店」。
JR浜松駅から北へ、数百メートル。
駅から歩いて7〜8分のところに、その店がある。

数日前も、ワイフと2人で、その店で夕食をすませた。
いつ行っても、おいしい。
「本物を食べた」という実感が、食事を終え、外に出ると、どっと湧いてくる。

●和風中華料理店

 もう少しグルメの話をつづける。

 南オーストラリア州の、Dという町へ行ったときのこと。
オーストラリアの友人が、その町に一軒しかないという中華料理店へ案内してくれた。
経営者は、中国人夫婦。
私とワイフは、定番料理をいくつか注文した。
酢豚、ギョーザ、えびのチリソース炒めなど。
が、食べてみて、びっくり。
日本で食べなれた味ばかり。
と、同時に、私はそれが和製中華料理とわかった。
つまり日本のインスタント食品に、適当に食材を加えた、和製中華料理とわかった。
製造元の食品会社名まで、わかった。
「味の素」である。

 私が、「おい、これ、味の素の味だぞ」と言うと、ワイフも素直に、それを認めた。

●タイ風インド料理店
 
 反対にこんなこともある。

 浜松の郊外に、一軒のインド料理店がある。
経営者はインド人とか?
で、そこで私とワイフは、3種類のカレーがセットになった夕食を注文した。

 が、食べてみると、どれもタイ風カレーの味。
「どこかで食べた味だなあ」と思いながら、食べた。
グリーンカレー?
レッドカレー?

 が、やがてわかった。
東南アジア系の食材店で売っている、缶詰に入ったカレーだった。
ある時期、私はエスニック料理が好きで、よくその食材店へ通った。

そのインド料理店では、(多分x10?)、そのカレーをそのまま使っていた。
牛肉や鶏肉は、適当に加えてあったが、ベースとなっている味まではごまかせない。

 が、それでもおいしければ、私は文句を言わない。
しかし食材店で一缶、80〜120円前後。
一缶もあれば、4〜5人前は作れる。
それを店で、簡単なサラダをつけ、1200円!

 あとで人づてに聞いたところでは、その経営者はインド人ではない。
バングラデッシュ人だったという。
残念ながら、こういうインチキな店は少なくない。

●本物

 もちろんその一方で、本物を食べさせてくれる店もある。
冒頭にあげた「紅虎餃子店」も、そのひとつ。
中国語のほうでは、「紅虎餃子房」となっている。
本物の中華料理を食べてみたいと思う人は、一度行ってみたらよい。
はやし浩司の保証つき。

 「餃子店」という名前がついていることからもわかるように、その店には10種類のギョーザが
ある。
浜松も「浜松ギョーザ」で、名を売り出している。
が、率直に言って、中国の本場のギョーザには、かなわない。
かなわないことは、10種類のうち、どれひとつをとっても、すぐわかる。

 ところでこれは、何かの雑誌に載っていた話だが、中国には、焼きギョーザというのは、ない
そうだ。
(浜松ギョーザと言えば、すべて焼きギョーザ。)
で、その理由が書いてあった。

 中国では食べ残し、古くなったギョーザを、焼きギョーザとして食べる、と。
だから中国人に、焼きギョーザを出すと、出された人はそれを不愉快に思う、と。

 そう言えば、この日本でも、食べ残した刺身は、あとで焼いて食べる。
それと同じ?

●本物論

 本物というのは、どんな世界でも、どんなばあいでも、光る。
それを見た人を、感動させる。

 ただし一言。

 私の30年来の友人に、北京から来た人(現在55歳・男性)がいる。
その人に、紅虎餃子店の話をすると、その人は、こう言った。
「ああ、あれは、日本の味ですよ」と。

……!

 つまり日本人向けに、味を変えている、と。

 そういうものか?
本物を超えたその向こうにある「味」までは、私たち日本人にはわからない。

●10月2日も終わって・・・

 こうして10月2日も、こうして終わりに近づいた。
電車に乗ると、外の景色は一段と、暗さをましていた。
まさに衝動的な旅だったが、それなりに楽しかった。
「一度は・・・」と思いつつ、その「一度」を果たした。
本場の焼きそばを食べた。
これで「富士宮へ焼きそばを食べに行こう」という話はしないだろう。

・・・ということで、富士宮への旅はおしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW BW教室 富士宮やきそば うるおいてい はやし浩司 富士宮焼きそば)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 2011+++++++++はやし浩司

●ゆがむ子どもの心


+++++++++++++++


F県に住んでいる、YSさん(母親)から、
こんな相談が届いた。
転載許可がもらえたので、そのまま紹介する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


おはようございます。
前回は夫との事についての返信ありがとうございました。
今のところ、ごくごく普通に(?)過ごしています。
(腹の立つこともありますが…。)


今回は、小1から不登校中の次女(小5)のことで、少し気になることがあったので
相談させてください。


つい最近、次女がとても怖いことを言い出しました。


「ナイフとか銃とかで、人を殺してみたい。あと、魔法が使えたら一回死んでみたい。 


 一回死んで、魔法で生き返る。飛び降りるのとか楽しそう。」


とか、さらっと普通の口調で言ったんです。


「魔法が使えなかったら、生き返らないね。」って言ったら、
「魔法が使えなかったらそんなことしない。」とは言っていましたが、とても不安で
怖くなりました。


「この世がつまらない?」って聞いたら、「べつに。」だそうです。


毎日家で普通に元気に過ごしているようにみえますし、会話も普通に
しています。
他に気になるような症状などはないと思っているのですが…。
これが本音ならどうしたらいいのか怖くなってしまいました。


5年生になってからの担任が熱心(?)で、今までよりも少し学校に関する
刺激は増えているかなとは思いますが、そのせいもありますか?
学校のことを聞いてみても、特別嫌そうな顔はしませんし、イヤだと言ったことは
すぐに引いてしつこくはしていません。


最近アニメが大好きで、アニメばかり見ているのですが、(ガンツという殺し合いの
映画も見ました)、戦いモノがあったりもするので、その影響?とも思ってはいますが…。 


半年ほど前にも「火をつけてみたい。」と言ったことがあったので、
次女の心の中はどうなっているのかとても不安です。


どうぞよろしくお願いいたします。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧は悪魔を作る」

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的な抑圧感が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったもの。

その一例として、H・フォスデックも、つぎのように言っている。

『Hating people is like burning down your house to kill a rat(人を恨む(憎む)というのは、ネズ
ミを殺すために、家を燃やすようなものだ)』と。

 ゆがんだ感情(劣勢感情、陰性感情、劣等感情)は、脳内ホルモンの分泌そのものにも大き
な影響を与える。
サイトカインを例にあげるまでもない。
サイトカインは、脳内ストレスを引き起こす。
それだけではない。
低体温を引き起こし、免疫機能を低下させる。

 もちろん精神活動にも大きな影響を与える。
YSさんの子どものばあい、表面的にはともかくも、かなりこころがゆがみ始めているとみる。
が、このタイプの子どもは少なくない。

●I君(小6)のケース

 I君は、父親が中学校の教師だった。
それもあって、教育熱心な家庭環境で生まれ育った。
ふだんは静かで、それなりに勉強もよくできた。
私の指示にも、素直に(?)従った。

 が、ある日、そのI君のノートを見て、びっくりした。
そこには血を出してもがき苦しむ人間の顔が、実にリアルに描かれていた。
ほかに「死」「殺」などの文字も並んでいた。
現実にそこに見る(I君)と、ノートに見る(I君)は、あまりにもかけ離れていた。
私はそれに驚いた。

●M子さん(中1)のケース

 M子さんは早熟で、体格もすでにおとなになっていた。
そのM子さんが、教室にプリクラ・ブックを置き忘れていった。
で、私はそれを「忘れ物コーナー」に置いた。

 が、翌日、そのブックが、騒動の種になった。
別の子どもがそのノートを開いた。
見て、ワーワーと騒ぎ出した。
ほかの子どもたちも騒ぎ出した。

 見ると、メモページには、全裸の女性が椅子に縛られ、性的拷問を受けている絵が、何枚も
描かれていた。
残虐な絵もあった。
そのM子さんの絵も、絵というよりは、写真を思わせるほど、リアルな絵だった。

 ただM子さんは、頭もよく、行動的で活発。
絵から想像するような陰湿さは、みじんもなかった。

 M子さんは、脳内で起きている性的エネルギーを、自ら抑圧し、それが原因で、心をゆがめ
ていた。

●抑圧

 心理学でいう「抑圧」を、安易に考えてはいけない。
私は「心の別室」と呼んでいる。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)
(電子マガジン・2009年7月15日より)

++++++++++++++++++++

よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。

こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。

が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。

++++++++++++++++++++

●抑圧

 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。

 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。

●上書きされない

 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。

 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。

 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。

 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。

●子どもの世界でも

 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。

 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。

 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。

●兵士のばあい

 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。

 が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。

●教授の殺害事件

 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。

 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。

●心の別室

 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。

 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか

 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。

 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。

 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。

 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。

 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。

 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。

 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)

(付記)

 心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。

 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。

 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。

(追記)

 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。

『●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思春期の子どもの心理

 抑圧は、(1)内的抑圧と、(2)外的抑圧に分けて考える。

 内的抑圧というのは、欲望、願望、希望などが原因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不
完全燃焼感などを抑圧することをいう。
外的抑圧というのは、たとえばきびしい家庭環境、威圧的、権威主義的な親の育児姿勢が原
因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不完全燃焼感をいう。

 思春期前夜から思春期にかけては、この双方が、子どもの内部で起こりやすい。
それが結果として、子どもの心をゆがめる。

●すなおな子ども

 「すなお」というより、「さわやかな」と言い換えたほうがよいかもしれない。
このことは幼児を観ると、よくわかる。

 たとえば「野原と森、それに赤い屋根の白い家」を描かせてみる。
そのとき心がさわやかな子どもは、見ても、ほっとするようなやさしい絵を描く。
そうでない子どもは、どこか不気味。
もう30年前のことだが、こんなことがあった。

 お父さんとお母さんの絵を描かせていたときのこと。
M君(年中児)が、お父さんの顔を描き始めるとすぐ、その顔を真っ黒に塗りつぶしてしまった。
で、別の紙をあげ、もう一度描かせてみたが、結果は同じだった。

 しばらくしてから母親に理由をたずねると、母親はこう言った。
「実はあの前の夜、夫が蒸発しまして」と。
当時は突然の家出を、「蒸発」といった。

 その前後にも、似たような子どもがいた。
年長児の男児だったと思う。
その子どもは、父親の顔を描くのだが、体、とくに腕から手の部分を、鉛筆で真っ黒に塗りつぶ
してしまった。
母親に理由を聞くと、母親はこう言った。

 「主人(=父親)は、子どものころ大きな事故を経験し、右手が使えません。しかし息子がそ
んなことを気にしているとは、夢にも思っていませんでした」と。

●YSさんのケース

 それが内的抑圧によるものなのか、それとも外的抑圧によるものなのかは、わからない。
というのも、年齢的に、思春期に入っている。
脳内で起きている変化によるものであれば、内的抑圧になる。
しかし環境的に考えると、外的抑圧になる。

 どちらであるにせよ、先に書いた、欲求不満、不平、不完全燃焼感が、怒濤のごとく渦を巻い
ていると考えられる。
そのはけ口があればよいが、そのはけ口もない。
YSさんの娘は、きわめて閉塞的な環境の中で、袋小路に入ってしまっている。

 心理カウンセラー的な言い方をすれば、スポーツでも何でも、自分を発散させる場所を与え
ろということになる。
が、実は、これと並行して、「自我の葛藤」の問題もある。

●自我の同一性

 自我の同一性についても、たびたび書いてきた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Q: 最近わが子の親に対する話し方が気になります。
たとえば、私が何か「こうしなさい」と注意すると、「そんな法律がどこにあるの?」などと言ってく
るので、ついつい怒ってしまうこともしばしば……。

 これは反抗期なのでしょうか?


A:思春期最大のテーマは、「同一性の確立」(エリクソン)です。
(私はこうでありたい)という理想の自己像と、(現実の私)、つまり現実自己を、一致させようと
します。
一致した状態を「自我の同一性」と言います。その第一歩が、おとなの優位性の打破です。そ
れが「思春期の反抗」と考えてください。

 (悪態)もそのひとつ。「そんな法律がどこにあるの?」と。
それを許せということではありません。
それができないほどまでに、子どもを抑えてはいけないということです。カリカリするのはしかた
ないとしても、「ああ、うちの子は、今、児童期から青年期へと、脱皮を始めているのだ」と、一
歩退いて子どもを見ます。

 この時期、親意識(とくに「親に向かって何よ!」式の悪玉親意識)が強すぎると、子どもは親
の前では仮面をかぶるようになります。
自我の確立に失敗し、非行に走ったり、親子の間にキレツが入り、親子が断絶するケースも目
立ちます。
最悪のばあいには、自我の崩壊……。
ナヨナヨとした軟弱な人間になることもあります。

 親には3つの役目があります。 ガイドとして子どもの前に立つ。 保護者として子どものうし
ろに立つ。 そして3番目が重要ですが、友として子どもの横に立つ、です。

 悪玉親意識を捨て、子どもの友になるつもりで、子どもの横に立ってみてください。とたん、肩
の荷が軽くなりますよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言葉として発散させる

 YSさんの娘が慢性的な抑圧状態にあることは、まちがいない。
が、こうした抑圧は、多かれ少なかれ、どの子どもにもある。
それがない子どもは、いない。
YSさんは、自分の子どもを「異常」と思う必要はない。
平たく言うと、「この時期の子どもによく見られる現象」ということになる。

 あまりおおげさに考えないこと。
「バカなこと言ってないで、さっさと自分のことをしなさい」程度に、軽く受け流していく。
ただし何らかの行動をともなうようであれば、要注意。

 たとえば「殺したい」と言いつつ、ナイフを買い求める。
「死にたい」と言いつつ、その種の本を買ってくる。
あるいはペットなどに、残虐な行為を繰り返す。
リストカットをする。

 そういうことがあれば、「観察」の段階を超えているとみる。
学校を通して、専門医もしくは心理療法士を紹介してもらう。
「治療」を考えた指導に切り替える。

 で、同時に、「子どもは家族の代表」と考え、原因は家庭にあると考え、YSさん自身が猛省す
る。
「家庭は休む場所」「憩う場所」「心を休める場所」と心得、それに適した環境を娘に用意する。
そのときコツは、娘の中で、心の別室がどのように形成されているか、静かに観察、判断する
こと。
子どもの立場になり、子どもの心の中から、子どもを見る。
頭ごなしに叱ったり、注意しても意味はない。
ないばかりか、かえって症状を悪化させるので、注意する。

 以上ですが、ここの書いたことを参考に、子どもを観察してみてほしい。
何が子どもを抑圧状態にしているかがわかれば、解決策も自ずと見えてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 抑圧 心の別室 はやし浩司 自
我の同一性 はやし浩司 残虐な言葉 思春期の子どもの心 心のゆがみ ねずみを殺すた
めに家に火をつける はやし浩司 内的抑圧 外的抑圧)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

【1】日本のお人よし外交(日韓経済戦争・10月19日の巻)

●「正義」のない、拝金主義

+++++++++++++++++++++++++

日本の総理が、あろうことか、
ノコノコと韓国まで、自ら出かけ、
韓国救済の申し出をしてきた。
どうして?
どうして、日本が、韓国へ?
どうして、韓国側に一度は、頭をさげさせないのか?

もうひとつ……。
どうして「ノコノコ」なのか。
その理由は、この原稿を読んでもらえば、
あなたも納得するはず。

+++++++++++++++++++++++++

●お人よし外交

 日本は、どうしてこうまでお人よしなのか。
ブレイン・レスなのか。
外交音痴なのか。

現在韓国は、外貨不足、ウォン安、個人負債の増加で、にっちもさっちも立ち行かなくなってい
る。
今年度末までに返却しなければならない債務(借金)が、4000億ドル(中央日報)※。
「外貨準備高が世界〜位になった」とはしゃいでいるが、大半は有価証券。
一般家庭債務も、「63兆円を越えた」(朝鮮日報)。
 
中身はボロボロ。
4000億ドルだぞ。
63兆円だぞ!
(韓国政府の大本営発表には、じゅうぶん、気をつけたほうがよい。
これらの数字とて、韓国政府が発表したもの。
じゅうぶん疑ってみたほうがよい。)

 日本の経済規模になおすと、つまり人口比に換算すると、4000億ドルx2.5=1兆ドル。
100兆円。
63兆円は、63x2・5=160兆円。
国も、国民も、そんな金(マネー)、返せるはずがない!

 おまけに8月1日以後、韓国からは外資がどんどんと逃げ出している。
当然、ウォンを売って、アメリカ・ドルや日本・円を買うから、ウォン安。
ドル不足、円不足……。

一家にたとえるなら、「借金の返済ばかりで、現金(ドル)がナ〜イ!」。
そういう状態。

●スワップ協定

中国とのスワップ協定は、この11月に切れる。
が、中国は、どうも再スワップ協定に応ずる気配がない。
そこで韓国は、日本に触手を伸ばしてきた。
「日本なら、ニコニコ笑って応ずるだろう」と。

 日本経済新聞は、つぎのように伝える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 『……通貨スワップ(交換)協定については現行の130億ドル(1兆円)を700億ドルに増やすこ
とで合意した。
2012年10月末までの臨時措置。欧州の債務危機で金融市場が不安定になっていることを
受け、外貨不足に備えた安全網を手厚くする。

 日本政府と韓国銀行の間で300億ドルのドル融通枠を新設。
日銀と韓国銀行が現在結んでいる円・ウォンのスワップ協定も30億ドルから300億ドルに増
額する。
既存の危機対応のドル融通枠の100億ドルと合わせ、総額は計700億ドルとなる。

 10月に入り、韓国ウォンが対ドルで急落するなど、韓国の金融市場の動揺が目立ってい
た。
協定に基づいて韓国側が要求すれば、日本は米ドルや日本円をウォンと引き換えに渡す。
逆に日本が日本円と引き換えに米ドルやウォンの供給を求めることもできる。

 供給された外貨は外国為替市場で自国通貨を買い支えるための介入資金や外国との貿易
の支払いに使われる……』(以上、日本経済新聞・10月19日)と。

 ロイターもつぎのように伝えている。

『……このところ、韓国から投資資金を引き揚げる動きが強まりウォンが急落、韓国内では中
堅・中小企業などで外貨の調達難が生じ、日韓貿易にも間接的に影響が出始めている。
欧州発金融不安の余波を東アジアも受けつつあるなか、日本の通貨当局としては通貨交換の
拡充・強化で東アジア域内経済への影響の軽減を図りたい考えだ』と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●スワップ協定

 スワップ協定というのは、たいへんわかりやすく言えば、「お金、貸します」という約束。
もう少し具体的には、「困ったときには、韓国・ウォンを、日本円で買ってあげますよ」と。

この約束(=協定)によって、仮に韓国・ウォンが紙くずになっても、日本は、韓国・ウォンを買
い支えなければならなくなる。
一見、相互に平等に見える協定だが、中身は、一方的なもの。
日本が、「円を買ってください」と韓国に頼むようなケースは、現状ではありえない。
日本には、ありあまる(ドル)がある。
つまりこれほど、不平等な協定はない。
一方的に、韓国を救済するためだけの協定!

 そんなことが、どうして日本政府にわからないのか。
だから、「ノコノコ」。

●わかりやすく言うと……

 理由があるとすれば、今、ここで韓国がデフォルト(債務超過=ドル不足)に陥れば、日本の
金融機関が、莫大な損失を被ることになる。
貸し倒れになる。
もう少しわかりやすく説明しよう。

 隣の金さん(=韓国)は、見た目には派手。
「儲かった、儲かった」とはしゃいでいる。
しかし実際には、利益はほとんど、残らない。
それもそのはず。
借金の額も、莫大。
利息分だけで、利益は消えてしまう。
国全体が、ワーキングプアの状態。

 が、この経済危機。
近所でも羽振りのよいの米(アメリカ)太郎(=アメリカ)さんは、金さんへ貸した金を勝手にどん
どんと持ち出し始めた(=資金の引き上げ)。
金さんの金庫番は、米太郎さん(=韓国の銀行は、ほとんどがアメリカ資本下にある)。
米太郎さんは、お金(ドル)を金さんの家から、自由に持ち出せる。

 困った金さんは、日雄さん(=日本)に助けを求めてきた。
「現金(ドル)が不足したら、どうか貸してください」と。
日雄さんも、金さんには、ものすごい金額の現金(ドル)を貸しつけている。
もし金さんが、自己破産でもしたら、その金(ドル)が、返ってこなくなる。
焦げついてしまう。

 金さんは、ずるい。
「金を貸してくれ」と言いながら、実は、日雄さんを、内々では、こう言って脅している。
「うちが自己破産したら、あなただって、ただではすまないよ」と。

 そこで日雄さんは、金さんとこんな約束(協定)をかわした。

日「わかりました。万が一のときは、あなたの家にある、絵(ウォン)を買ってあげましょう。700
億ドルでは、どうですか」
韓「それはありがたい」と。

ウォンが紙くずになる前に、買い支えてやる、と。
それがスワップ協定である。

●韓国と北朝鮮

 韓国と北朝鮮は、精神構造が同じ。
自分たちは、「ちがう」と思っているかもしれないが、同じ。

 北朝鮮は、同じ手法で韓国を脅迫しつづけている。
「ソウルを火の海にしてやる。戦争をするのがいやだったら、経済援助(食糧援助)をしろ」と。

 北朝鮮が韓国に戦争をしかければ、当然、北朝鮮も、滅亡する。
それはわかっている。
しかし韓国としては、たとえ勝敗が最初から決まっていても、戦争は困る。

 同じように韓国は、日本を脅迫しつづけている。
「韓国が破綻すれば、日本だって、ただではすまないぞ」と。
つまり「損をするのがいやだったら、俺たちを助けろ」と。

●逃げるアメリカ、穴埋めをする日本

 IMFは、韓国は数か月以内に、デフォルトする可能性があると警告している。
韓国政府は、それを否定するのに躍起なっているが、内情は火の車。
それについては、先に書いたとおり。

 で、アメリカ資本が逃げ始めた。
中国資本も逃げ始めた。
そこへ割って入ったのが、日本。
おバカ日本。
お人よし日本。

「現行の130億ドル(1兆円)を、700億ドルに増やす」と。

 だから97年末〜98年初頭のあのデフォルト(実際には回避できたので、韓国では「経済危
機」と呼んでいる)のときから、私はこう書いてきた。
「韓国に深入りしてはいけない」と。
あのときも、日本政府は、頼まれもしないうちから、総額500億ドルという現金をかき集め、韓
国を救済した。
アメリカの反対を押し切っての、救済である。

 その結果、韓国はどうなったか?
日本に感謝したか?
「ありがとう」の一言でも言ったか。
むしろ事実は、逆。
「日本のせいで、こうなった」と逆恨み。
日本が直接貸した110億ドルも、うち半分が、未返還のままという。

●「ありがとう」の一言もない

 今に至るまで、竹島問題、日本海の呼称問題などなど、どれをとっても、「反日、反日」の大
合唱。
日本が安保理の理事国入りをめざしたときには、韓国政府は、各国に特使まで送り込み、そ
れを阻止した。
で、最近は、慰安婦問題。
在韓日本大使館前に、慰安婦の慰霊塔建設問題。

 おバカなオバちゃんたちは、そういう外交問題があるのを知ってか知らずか、韓流スターの
尻を追いかけている。
ニューズウィーク誌は、「韓流バブル」という言葉すら、使っている。

 テレビでは、毎日、韓国製の洗脳番組が流されている。
オバちゃんたちには、ハングルが読めないらしい。
現在、韓国の各地には、「ここから竹島(独島)まで、〜〜キロ」という立て札が、あちこちに立
っている。

●日本よ、引きあげろ

 日本よ、韓国から手を抜け。
足を抜け。
資金を引きあげろ。
もっと戦略的に行動しろ。
どうしてこんな簡単なことが、わからないのか。

 仮に韓国の経済力が増大し、日本と韓国の立場が逆転したら、日本に明日はないぞ。
韓国の仏国寺へ行ってみろ。
いまだに秀吉の朝鮮出兵を、恨んでいる。
それが韓国。

●最後のババ

 隣国だから、仲よくしたい。
それはわかる。
しかし何も、日本のほうから頭をさげてまで、韓国詣でをする必要はない。
立場が、逆。
借金するほうが、威張っている。
(北朝鮮も同じ。援助を受けるほうが、威張っている。)

 恐らく私の推察によれば、その裏でアメリカが動いている。
アメリカが日本を動かした。
「韓国を救済しろ」と。
つまり最後のババを、引け、と。

●今後のこと

 今回のスワップ協定は、2012年10月末までの「臨時措置」という。
(実質的には、2013年の3月まで。後述。)
期限を設けたのは、賢い。
もしそれまでに韓国が、目に余る反日行動を見せたら、「それ以後、更新しない」と脅せばよ
い。
が、見方を変えれば、日本の金融機関、投資機関に与えられた猶予期間は、1年。
たったの1年。
みんな、今のうちに、逃げろ!
「また日本政府が何とかする」と思っているとした、甘い。

 韓国には、北朝鮮問題がある。
その北朝鮮。
ミサイル発射実験と核兵器実験を準備しているという。
小競り合いが、戦争につながる可能性もある。
もしそうなれば、万事休す。
浜岡という地震断層の上に原子力発電所があるのと同じくらい、現在の韓国にお金(ドル)を
貸すのは、バカげている。
日本の未来、つまり現在の子どもたちの未来を考えるなら、なおさら。

●1967年 

 私は1967年の夏、UNESCOの交換学生として韓国に渡った(第二回日韓UNESCO交換
学生)。
その当時、まだ日韓の間に正式の国交はなかった。
だからその人物が、どういう人物だったか、覚えていない。
が、私は「領事」と呼ばれる人から、こう聞いた。

 日本の全額援助で、韓国政府は、ソウルの北に、ダムを建設した。
当初、そのダムの入り口に、「このダムは日本の援助で建設された」という文言を書いた記念
碑を建てる約束だったという。
が、建設が完成し、祝典に呼ばれたが、その記念碑はなかった。
韓国という国は、基本的には、今もそのまま。

 今回、こうしてスワップ不平等協定を結んでも、彼らは何も感謝しない。
そういう「事実」すら、韓国国内では伝えられないだろう。
(そのあたりの精神構造も、北朝鮮と同じ。)
だからいつまでたっても、反日感情は収まらない。

 ……だから私はいつも、こう書いている。
救済するにしても、一度は、頭をさげさせろ、と。
それを韓国国民にわかる形で、示せ、と。
こんなことは、当然のことではないか。

 ともあれ、救済する側が、ノコノコと韓国へ出かけて行く。
笑顔であいさつを交わす。
大国意識、丸出し。

 野田政権というのは、うわさどおりの内閣なのか。
経済がどういうものか、まったくわかっていない(?)。
もしそうなら、そんな内閣に、日本の外交を任せておくことはできない。
もう少し様子を見てから、このつづきを書いてみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【参考】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先週、書いた原稿の一部を再掲載する。

(注※)

 ……中身はボロボロ。
『韓国の対外債務、4000億ドルに迫り、過去最高額を相次いで更新している』(中央日報・11
年09月)と。
一般家庭債務も、「63兆円を越えた」(朝鮮日報)と。
4000億ドルだぞ!
63兆円だぞ!

 これに対して、韓国政府は、「各家庭の純資産も、その程度あるから心配ない」と、繰り返し
応戦している。
が、その中身といえば、住宅バブル。
バブル資産。
そこへ来て、今回の大恐慌。
世界の新興国からの資金引きあげ。
韓国もそのひとつ。

今日のレートでみると、1ドルが、1155ウォン(10月18日)。
3・11大震災のあと、「このとき」とばかり、ウォン安に舵を切った。
徹底した輸出攻勢で、この日本に取って替わろうとした。
が、それが裏目に出た。

 モノを売りたくても、売り先の国々の経済が収縮してしまった。
韓国政府は、「外貨準備もじゅうぶん」と豪語しているが、大半は現金ではなく、有価証券。
(外国からの借金)ですら、(投資)に組み入れてしまう国である。
数字のインチキは、し放題。

先ごろ野村證券は、「韓国はアジアの中でももっとも通貨の安定した国」(東亞日報)という経済
報告書を発表した※。
が、その報告書を書いたのは、野村證券の社員だが、韓国人。
野村證券にしても、今ここで韓国がこけたらたいへんなことになる。
先に書いた4000億ドルにしても、その大半がジャパン・マネー。
週刊文春誌の記事をそのまま紹介させてもらう。

(注※)「野村證券の首席エコノミスト、クォン・ヨンソン氏は27日の記者懇談会で、「ファンダメ
ンタルの側面から見たとき、韓国はアジアで通貨危機発生の可能性が最も低い」と主張した
(東亞日報・9月27日)。


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●教室で……

 ときどき1時間ほどの、空き時間がある。
たいてい雑誌やカタログを読んで過ごす。
頭を休めるには、カタログがよい。
今も、そのカタログに目を通していた。
SONYの「VIO Z」。
VIOシリーズの中では、最薄。
カタログには、厚さ16・7ミリ。
最薄部で、何と、9ミリ以下!

 ノートパソコンは、薄ければ薄いほど、よい。
もう10年前になるだろうか。
私はTOSHIBA製の、超薄型パソコンを買った。
軽く、持ち運びも楽だった。
しかし買った直後から、故障つづき。
それにすぐ本体が熱くなり、手のひらを置くこともできなかった。

 しかし私は、そのパソコンが好きだった。
いつももって歩いた。
そのときの感触が忘れられない。
だからノートパソコンについては、薄型が発売になるたびに、それに乗り換えてきた。
で、今度は、VIO・Z。

【2】優越感

●数学者

 いつとは書けないが、少し前、「数学者」と呼ばれる人と、話したことがある。
その数学者。
どこかの大学で教授をしているということだった。
そのため頭の回転だけは、やたらとよい(?)。

 しかしどこか、へん。
おかしい。
が、私がここに書きたいことはそのことではない。

●知的優越感

 それぞれの分野には、それぞれ、すぐれた人がいる。
専門、職種を問わない。
その個人について言えば、得意、不得意がある。
しかしこと数学に関していうなら、数学者のもつ「知的優越感」には、並外れたものがある。
「数学ができる人間は、天才(=人間)。できない人間は、バカ(=人間にあらず)」と。

それが鼻持ちならないほど、極端。
それがありありと、よくわかる。
だから、へん。
おかしい。
もちろんみながみな、そうというわけではない。
しかし数学者と呼ばれる人には、そういう人が目立つ。

 どうしてだろう?

●子どもの世界でも

 こうした現象は、進学高校と呼ばれている高校へ通っている子どもにも、見られる。
「勉強がよくできる」ということを、「優秀」と誤解している。
「自分は優秀」と思うのは、その人の勝手。
が、返す刀で、相手を下に見る。

 たとえばこんな人。
テレビで何かの講演をしていた。
その中でのこと。
相手のキャスターが何かをとちった。
その瞬間、その講演者は、すかさず、そのキャスターにこう言った。

「君! 子どものころ、算数は、何点だったの?」と。

親、とくに母親にも、ときどき、同じような現象をみることがある。
都会の有名大学を出たような母親である。
上下意識が強く、相手の価値を出身大学で判断する。

 どうしてだろう?
どうして数学者に、このタイプの人間が多いのだろう。

●数学の特性

 数学という分野は、ほかの分野(国語や社会、英語)とちがい、(できる・できない)が、はっき
りとしている。
それが目立つ。
得点差も大きく、出る。

 これは私自身の経験だが、私は中学生のとき、数学と理科が得意だった。
その私は、自分が勉強ができるとは、思っていなかった。
しかしこうは思った。
「どうして、みな、こんな簡単な問題ができないのだろう」と。

 数学ができる人は、当たり前のように、それができる。
当たり前のようにできるから、できない人がいるということが信じられない。
その(信じられない)部分が増幅したのが、「優越感」ということになる。

 数学ができる人は、この「優越感」をもちやすい?

●優越感

 優越感ほど、錯覚と誤解によるものはない。
よい例が、「大学出」。
私が子どものころには、まだ、「大学出」という言葉が残っていた。
「大学を出た人」という意味である。

 この大学出。
それはそれで結構なことだが、退職し、70歳になっても、80歳になっても、大学出を鼻にかけ
ている人は少なくない。

 母が生前通っていた、老人ホームでのこと。
その男性は、慶応大学を出たあと、ドイツの大学に留学したこともあるという。
当時、ドイツの大学に留学したということは、かなりのエリートとみてよい。
年齢は、85歳くらいだったか?
 
 いつもグループのいちばん後ろの席で、ふんぞりかえって座っていた。
みなが体操したり、ゲームをしたりしているときも、その輪の中には入らなかった。
が、おもしろかったのは、その話し方。

 ケアセンターの職員が、お茶を渡したりすると、こう言った。
「無礼者!」と。
私が「おもしろい人ですね」と言うと、その職員は笑っていた。

 みながみな、そうなるということではない。
しかし「優越感」を振りかざす人ほど、俗性を失う。

●人間関係は、すべて数学で……

 つまり優越感というのは、「他人を見下す」という点で、自尊心とはちがう。
自己評価能力が高いとも言わない。
つまり、「優越バカ」。
子どもの世界で、それを見ると、よくわかる。

 こと数学に関して言えば、いろいろなタイプの子どもがいる。
瞬時に、数桁掛ける数桁の掛け算をやってしまう子ども。
10〜20桁の数字を、やはり瞬時に暗記してしまう子ども。
能力というよりは、「こだわり」。

 たとえば高校生でも、三角関数の微分、積分のような問題を、瞬時に解いてしまう子どもがい
る。
神業に近い。
しかし私はそういう子どもを、「頭のいい子ども」とは、思わない。
ほかの部分で、常識に欠けるというか、ふつうでない部分ばかりがよく目立つ。
たとえばボサボサ頭で、いつも臭いとか、など。

 昔、私にこう言った男子高校生がいた。
「先生、人間関係は、すべて数学で成り立っています。
未来も、過去も、すべて数学で証明できます」と。

 頭だけは鋭い。
しかし言っていることが、へん。
その子どもはやがて国立大学の医学部へと進学していったが、「それでいいのかなあ?」と。
そういう疑問だけは、いつまでも残った。
(今でも、残っている。
というのも、その子どもは浜松市に戻ってきて、今、市内で、開業医として仕事をしている。)

●頭のよい子

 その一方で、ジェネラルな(=総合的な)意味で、「頭のいい子」というのは、いる。
しかし数学が得意とはかぎらない。
それについてはまた別の機会に書くとして、これだけは確実に言える。

 「数学がよくできるからといって、頭のいい子ということにはならない」と。
もっと言えば、「勉強がよくできるからといって、頭のいい子ということにはならない」と。
「高学歴だから、頭がいい人ということにはならない」でもよい。

 数学バカ、勉強バカ、学歴バカと呼ばれる子どもは、いくらでもいる。
勉強しかしない。
勉強しかできない。
頭の中は、偏差値だらけ。
本当に頭のよい子どもというのは、四方八方に触覚が伸びていて、相手の心を包むように、相
手を理解する。

 話していても、ほっとするような温もりを覚える。

●移植

 繰り返すが、もちろん数学者、数学が得意な子どもが、みなそうというわけではない。
もちろん本当に頭のよい子どもというのも、いる。
またそういう子どものほうが、多い。

 しかしあの「受験戦争」を経験すると、たいていみな、おかしくなる。
おかしくなったとは気がつかないまま、おかしくなる。
もちろん親も気がつかない。
そのひとつが、優越感ということになる。
その反対の、劣等感でもよい。
つまり勝てば(?)、優越感。
敗れれば(?)、劣等感。

 さらにおかしなことに、親に、その優越感や劣等感が移植されることもある。
概して言えば、子どもと一体性の強い母親に、そうした現象が多く見られる。
「うちの子は優秀だ。だから私も優秀だ」と。

●結論

 結論として、言えること。
人間に優劣はない。
あるはずもない。
もちろん上下もない。
あるはずもない。

 仮に数学が得意であるとしても、それは能力の一部。
それがすべてではない。
……というひとつの例として、数学者をあげた。
数学の得意な子どもをあげた。
どうか、誤解のないように。

●10月20日

 昨夜、【1】「日韓経済戦争」と、【2】「優越感」についての原稿を書いた。
一気に書いた。
この「一気」というところが、私にとっては、大切。
それから得られる爽快感が、楽しい。

 とくに【1】の日韓経済戦争については、(怒り)を爆発させた。
97、8年ごろから書いてきたことを、この原稿に集約した。
日本は、繰り返し、同じ「愚」を犯している。
今回も、そのひとつ。

 が、ある人は、こう言った。
私といっしょに、1967年に韓国へ渡った、交換学生の1人である。

「林君、韓国では、政治と経済が2つに分かれている」と。
つまり政治の世界では、反日。
経済の世界では、親日。

 が、こうした精神的なダブル構造は、私もよく知っている。
それについては、テグ大学での経験として、文に書いたことがある。
ネット上で、さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本が嫌い?(以下、2008年9月28日に書いた原稿より)

++++++++++++++++

韓国での世論調査によれば、
「もっとも嫌いな国は、日本」だ、そうだ。

++++++++++++++++

このほど韓国における、対外国感情についての世論調査が、
公表された(中央N報が創刊43周年を迎えて実施した世論調査、08年)。

それによると、

『好きな国=昨年に続いて韓国国民が最も好きな国、経済的に最も協力すべき国は「米国」だ
った。 最も嫌いな国、最も見習うべき国は「日本」だった』(原文)という。 

『 米国に対する好感と日本に対する非好感は07年に比べて強まっている。 最も好きな国に
「米国」を選んだ回答は16%から18%に、経済的に最も協力すべき国に「米国」を選んだ回
答も35%から42%に高まった。 

最も嫌いな国に「日本」を選んだ回答は38%から57%に高まり、最も見習うべき国を「日本」
とする回答は27%から24%に減った。 

最も好きな国の2−3位は「オーストラリア」(14%)、「スイス」(9%)、最も嫌いな国の2−3位
は中国(13%)、北朝鮮(10%)、最も見習うべき国の2−3位は「米国」(18%)、「ドイツ」
(9%)、経済的に最も協力すべき国の2−3位は「中国」(38%)、「日本」(6%)となった』(同)
と。

●日本が嫌い

注目すべき点は、「最も嫌いな国に日本を選んだ回答は38%から57%に高まった」という点。
韓国民の約6割、つまり大半が「日本は嫌い」と答えている。
おおむねそんなものだろうと、私も感じている。
しかしその一方で、韓国の人たちのもつ、精神的ダブル構造。

「嫌い」ながらも、日本への「あこがれ」は強い。
この精神的ダブル構造は、40年前の昔と、ほとんど変わらない。

こんな経験がある。

 1960年代の終わり、私は、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った。日韓の間にまだ
国交のない時代で、私たちは、どこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

 そんなある日、大邸(テグ)大学での議論を終えたあと、私は、ひとり、大邸(テグ)大学の屋
上にのぼった。屋上からは、眼下に大邸の町並みが一望できた。

 そこでぼんやりとしていると、ひとりの学生が近づいてきた。私は、「こんなところでも、また議
論か……!」と身構えたが、その学生は、こう言った。つい先ほどまで、私たちを、口汚く攻撃
していた学生である。

 「ぼくは、日本へ留学したい。君は、何か、方法を知らないか」と。

 私は、その(落差)に驚いた。一方で、燃えるような反日感情をもちながら、その一方で、「日
本に留学したい」と(?)。

 つまり、こうした調査結果は、決して、数字だけで判断してはならないということ。現に、台湾
の人たちは、ことあるごとに、反日的な姿勢を示している。と、同時に、ではその韓国が、反日
的かというと、そうでもない。会って話をしてみると、個人的には、みな、よい人たちばかりだ。

一方、ひとりこの日本に好意を寄せる国がある。
台湾である。

●もっとも、移民したい国は、日本!

 台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思う国」「旅行し
たい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 ことあるごとに、日本のアラさがしをしては、悪口を書きたてる、韓国の報道機関。最近でも、
「日本の株式市場は、新興市場」(朝鮮N報)とか、「指導国家としての資質なし」(N大統領)と
か、書きたてている(06年)。

●しかし、自由主義陣営の中で、日本が敵?

韓国の人たちが日本を嫌うのは勝手だが、日本は韓国なしでも生きていかれる。
しかし韓国は、日本なしでは生きていかれない。
その現実に、もっとすなおに目を向けるべきではないだろうか。

 が、何は、ともあれ、今回の「遠見」誌による調査結果には、ほっとした。「日本の近くには、
そういう国もあったのだ」と、改めて思い知らされた。と、同時に、日本は、台湾のような国を大
切にしなければならないと感じた。

 で、話は、ぐんと現実的になるが、パソコンの液晶モニターにしても、私は韓国製というだけ
で、自分の選択肢からはずしている。買うなら、日本製。どうしても……ということなら、台湾製
ということにしている。

 近く、液晶テレビを買うつもりだが、それもそうだ。性能のよい日本製にしようか、値段の安い
台湾製にしようか、今、迷っている。韓国製などは、もとから、眼中にない。ぜったいに、韓国
製だけは、買わない。

【付記】(06年7月1日)も、朝鮮N報の記事にはこんなのがあった。
1〜3番の記事は、どれも、日本がらみの記事ばかり。

(1) 韓国の家は、実は日本の家より、狭い……。
(2) 自負心調査では、日本、18位、韓国、31位……。
(3) 韓国の殺人、性犯罪、日本の約2倍……と。

 「韓国の人たちよ、もう日本のことなどかまわず、自分たちの道を行きなさい」と、私は言いた
い。韓国の新聞に目を通すたびに、過関心ママに支配された子どものような心境になる。
つまり、イヤ〜ナ気分!

●台湾へ向かう日本の投資

 韓国か台湾か?

当然のことながら、日本の投資は今、韓国を避け、台湾に向かっている。
こういう現実に、韓国も、少しは気がつくべきではないのか。
(以上、2008年9月28日に書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでにその前後(2008年9月末)に書いた原稿を、紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●1ドル=1224ウォン!(2008年9月30日、午前9:30記)

7000億ドルの金融安定化法案が否決された。
その動きを受けて、アメリカドルは、世界的に全面安。
各国通貨は、値をあげた。

現在日本円は、1ドル=104円。

が、ひとり韓国の通貨だけは、ウォン安。
現在韓国ウォンは、1ドル=1224ウォン!

アメリカのドルも売られているが、それ以上の勢いで、韓国ウォンが、猛烈に
売られている。
「1224」という数字は、そういう数字である。

まだはっきりとした数字は出てこないが、韓国銀行の手持ち外貨は、すでに
底をついているはず。
これ以上、為替相場に介入したら、年末の借金が返せなくなってしまう。
なすすべもない。
指をくわえて、見ているだけ。

そのため危機ラインと言われていた、1200ウォンをあっさりと、超えて
しまった。

ゆいいつの救いは、日銀が、市中へのドル資産の大放出を決めたこと(9月29日)。
韓国経済救済のためというわけではないが、これによって、韓国経済は、
何とか生き延びられるはず。
(あるいは、それも無理かも? 9月危機の結果は、今夕までにわかる。)
 (以上、2008年9月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●お金(マネー)すべて!

 日本の経済界も、甘えてしまっている。
国家戦略というものが、ない。
ただ「お金(マネー)が稼げればいい」と。
「万が一のときは、国が何とかしてくれる」と。

 今回も、そうだ。
日本の金融界、投資家たちは、貸し金が焦げ付くのを何よりも恐れた(?)。
野田政権に、泣きついた?
が、韓国は、それを裏から見透かしている。
「日本は、金(マネー)のためなら、平気で正義を捻じ曲げる」と。
が、こういうことばかりしているから、日本はバカにされる。
一人前になれない。

 スワップ協定は、来年の10月末までつづく。
原稿の中では、『2012年10月末までの「臨時措置」という。期限を設けたのは、賢い』と書い
た。
しかし同時に、「この10月末」というところに、巧妙なワナがしかけられている。

「韓国の9月危機」という言葉があることからもわかるように、毎年、韓国では9月に「危機」が
やってくる。
「10月末」ということは、つまりは、実質的に、2013年の3月、あるいは2013年の9月末まで
の2年間、スワップ協定の期間を延長したに等しい。
なぜ「9月末」にしなかったのか?

 今ごろ韓国の当局者たちは、こう言って笑っているにちがいない。
「まんまと、うまくやりましたな。これで日本の経済も、一蓮托生。その間に、われわれは、日本
経済を叩きつぶしましょう」と。

 これは憶測でも邪推でもない。
今までの韓国の動きを観察していれば、だれにもわかる話。
もしそれを疑うなら、この原稿を機会に、あなたもこれから先、韓国がどのような動きを見せる
か、よく観察してみたらよい。

 韓国は、日本に対して、ぜったいに感謝の念を示さないぞ!

 ……前にも書いたが、経済戦争というのは、サッカーの試合とはちがう。
食うか、食われるか。
負けたら最後、日本国全体が沈没する。
国籍不明の若者たちには、それがわからないかもしれない。
しかし日本全体が沈没する。
「沈没」ということは、「沈没」。

 お金(マネー)にしても、食料にしても、天(=親たち)から降ってわいてくるものと思っている
若者たちには、それがわからないかもしれないが……。
(はやし浩司 2011−10−20朝記)

●【2】の数学者について

 以前、テレビに「哲学者」あるいは、「心理学者」と呼ばれる人たちが、よく出てきた。
「軍事評論家」と呼ばれる人たちでもよい。
独特の風貌と雰囲気。
見るからに、へん?
……へんだった。

 子どもの世界には、『裸の王様』という、よく知られた物語がある。
そういう点では、子どもの目は、正直。
へんなものは、へんと、すぐ見破る。
そういう子どもたちの目を通してみると、たしかに、へん。
「へん」というのは、俗世間でいう、「ふつう」ではないということ。

 私たちはおとなになるにつれて、「へん」と「ふつう」を見分ける能力を見失う。
たとえば昔、真っ白な顔をしてテレビに出てきた、オバーちゃんがいた。
あるいは、70歳を過ぎても、赤いミニスカートをはき、「うちのトーちゃんがね」と、赤ちゃん言
葉を話す、オバーちゃんもいた。

 マスコミの世界では、もてはやされたが、私は「へん」と感じた。

 そこで大切なことは、何かの専門家になることは重要なことだが、その道の「バカ」になっては
いけないということ。
先日亡くなったが、アメリカ人の友人(ロン・ケリー)は、いつもこう言っていた。

「ヒロシ、日本の学校では、野球部というと、毎日、野球ばかりやらせている。あれはよくない」
と。

 彼は日本へ来る前、30年間、高校で音楽の教師をしていた。
で、私が、「では、アメリカではどうなのか?」と聞くと、こう話してくれた。

「アメリカの高校では、野球部でも、毎週、絵画や音楽の鑑賞会に行く。練習するのは、土曜日
だが、日曜日には、しない」と。
専門バカを作らないための、ひとつのヒントとして、大切にしたい。

●さあ、今日もがんばるぞ!

 10月20日が始まった。
ふだんどおりの1日。
仕事もある。
そう言えば、昨日、どこかの週刊誌にこう書いてあった。

「老人たちが仕事を手放さないから、若者たちに仕事が回ってこない」と。

 が、この見方はまちがっている。
仕事はいくらでもある。
その気になったら、いくらでもある。
が、現代の若者たちは、頭を下げるということを知らない。
「仕事というのは、相手のほうから頭を下げて、もってくるもの」と錯覚している。
「仕事がないのは、社会の責任」(中日新聞・投書欄)と書いた女子学生もいた。

 要するに、最初からセレブな生活を前提とするから、仕事など回ってこない。
私たち老人組が、若者たちの仕事を奪っているのではない。

それにもう一言、付け加えるなら、現代の若者たちは、(たくましさ)に欠ける。
仕事がなかったら、電柱に張り紙でもして、仕事を取ってくればよい。
(私は、そうしたぞ!)
そういうことをすべて棚に上げ、「老人たちが……」は、ない。

 ちがうかな?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 テグ 大邸(テグ)大学での議論
 大邸大学での議論 日韓経済問題 スワップ スワップ協定


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【日韓経済戦争・追記】(2011年10月20日)

++++++++++++++++++++

先日、オーストラリアの友人が、こう書いてきた。
「ヒロシ、これ以上、日本の技術を、韓国に
盗まれてはいけない」と。

私もいつもそう思っている。
思っているが、どうしようもない。
この日本には、それを規制する法律すらない。
産業スパイなど、まさに野放し。
やりたい放題、し放題。
監視対象にもなっていない。

その結果が今。

++++++++++++++++++++

●韓国紙の報道より

 「韓国の対外債務、4000億ドルに迫り、過去最高額を相次いで更新している」(中央日報・1
1年09月)と。
一般家庭債務も、「63兆円を越えた」(朝鮮日報・9月)と。

 この数字とて、控えめなもの。
ふつう借金をかかえている人は、少なめに申告する。
国も、また同じ。
その一例が、ギリシャ。
ウソにウソを塗り固めて、世界をだましてきた。
韓国もしかり?
この数字を見ただけでも、なぜIMFが、警告を発しているか、それがよくわかる。
「韓国は、数か月以内に、国家破綻する」と。

●4000億ドル

 日本の借金も多いが、いわば身内の借金。
が、韓国はちがう。
外部(=外国)から、借りている。
その額、4000億ドル(中央日報)。
それを「今年度末までに返却しなければならない」(中央日報)。

 が、今、外資が、どんどんと韓国から逃げ始めている。
逃げるときに、ウォンを売るから、当然、ウォン安になる。
その分だけ、4000億ドルの負担が、増大する。

 そこで韓国政府は、ウォン高に誘導したい。
が、そのためには、金利をあげなければならない。
しかしあげたとたん、今度は、63兆円という負債をかかえた個人が、パンクする。

 金利をさげれば、ウォン安。
金利をあげれば、国内の個人債務者が破産する。

 この両者の板挟みになり、韓国政府は、現在、にっちもさっちも行かない状態に陥っている。
もちろん私は韓国のことを心配して、こう書いているのではない。
ただこう書いている。

 日本が韓国を救済するにしても、一度は、相手に頭を下げさせろ、と。
何もこちら側から韓国詣でまでして、救済を申し出る必要はない、と。

●4000億ドルvs700億ドル

 韓国の借金額は、4000億ドル。
日本がスワップ協定で応じた額が、700億ドル。
4000億ドルvs700億ドル。
微妙な金額である。

 今回の欧州(EU)の経済危機がなければ、日本の金融機関にしても、韓国の借り換えに応じ
たかもしれない。
しかし今は、日本も、それどころではない。
つまり4000億ドルが、そのまま焦げ付く可能性が出てきた。
となると、700億ドルでは、とても足りない。
どうして「700億ドル」なのか?

 私にはこれ以上のことはわからない。
が、こうも推察できる。

(1)本当の借金額は、もっと多いのでは、ということ。
(2)韓国が申し入れてきた、スワップ協定での「額」は、もっと大きかったのでは、ということ。
それを日本政府は、700億ドルに抑えた?
日本としては、日本の投資機関さえ守ることができれば、それでよい。
外国の投資機関が焦げ付いたところで、日本の知ったことではない。

●きびしさ

 何が起きてもおかしくないが、EUの経済危機、アメリカの貿易赤字、途上国の債務危機…
…。
それらが混然一体となって、世界は大恐慌(経済パニック)に陥ろうとしている。
もちろんこの日本とて、無傷ですむはずがない。

が、日本が採るべき道は、まずこの日本を守ること。
日本を第一に考えること。
お人好しや大国意識は、捨てること。
そうでなくても、世界は海千山千の世界。
食うか食われるか。

 今の日本に欠けるのは、その(きびしさ)。
その(きびしさ)のないのが、いちばん気になる。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●10月21日朝記

+++++++++++++++++

肌寒い朝。
足に心地よい痛みを感ずる。
昨夜、サイクリングをした。
汗をかいた。
それで足が痛い。

朝食のあと、ウォーキングマシンの上で
歩いてみよう。
それでこの痛みは、消えるはず。

ところでおとといの夜、温泉(浜名湖かんざんじ荘)で
いっしょになった人たちと、しばらく話した。
群馬大学工学部の同窓会で、来ていた。
年齢は「80歳前後」と言った。
みな、元気そうだった。

「80歳でも、みな、元気なんだ」と。
そう思ったとき、うれしかった。

元気な老人を見て、励まされる。
最近は、そんなことが多くなった。

+++++++++++++++++

●才能

 小学1年生のOKさんが、ルービック・キューブの早わざを見せてくれた。
ビデオに収めた。
まずは、ご覧、あれ!

<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/b0J5qDsgoqo" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

 それを見ながら、いろいろ考える。
「能力とは何か」と。

 そのあと私もルービック・キューブに挑戦してみた。
が、まったくできなかった。
1面をそろえることすらできなかった。

 家に帰ってワイフに、こう聞いた。
「なあ、人にはそれぞれ、その人にしかない恵まれた才能というのがある。
それはその通りと、ぼくは思う。
では、ぼくの才能は何かと聞かれると、それがよくわからない」と。

 すでに私の才能は、サビついている。
それが自分でもよくわかる。
現状維持が精一杯。
が、その現状維持も、このところ、怪しくなってきた。
何かにつけ、ミスや失敗が多くなった。

 そう言えば、昨夜も、どこかの塾から帰ってくる高校生と競争状態になった。
私が自転車でその高校生を追い抜いた瞬間、相手もややスピードをあげた。
私は懸命にペダルをこいだ。
が、相手はそれほど力んでいる様子もなく、私をスーッと追い抜いていった。
「もう少し若いときなら、負けなかったのに……」と、淡い敗北感を覚えた。

 で、そのOKさん。
YOUTUBEを見ながら、改めて、こう考える。

 ほとんどの人は、幼児は、幼稚で未熟と考えている。
しかしそれはまちがっている。
未経験で、知識は乏しいかもしれないが、能力は私たちおとな以上にある。
幼稚園児でも、ていねいに教えれば、方程式だって、分数だって、小数だって理解できる。
対称図形だって、正負の数だって、さらにはツルカメ算だって、理解できる。
簡単な問題なら、そのあとスイスイと解いてみせてくれる。

 それをあえておとなたちは、そういう幼児をあえて小さな世界に閉じこめようとする。
歌といえば、動揺、絵といえば、クマさんやウサギさん……。
幼児教育といえば、お遊戯会に運動会……、それに七夕だの、月見だのという、年中行事。
そういう教育も必要かもしれないが、しかしそれだけが幼児教育ではない。
またそうであってはいけない。

 OKさんの手さばきを見ながら、そんなことを考えた。

●日韓経済戦争

 日韓の間で、スワップ協定が結ばれた。
それについて今朝の韓国の新聞各社(東亞、朝鮮日報、中央日報)は、事実のみを客観的に
報道している、のみ!

 中央日報にいたっては、こう書いている。

「08年に、(韓国が金融危機に陥ったときも)、アメリカとはスワップしたが、日本とはしなかっ
た」と。
つまり前回、スワップ協定を結んだが、日本の世話にはならなかった。
今回も、日本の世話になることはないだろう、と。
さらに「こうしたスワップ協定は、恒常化する必要がある」(10・21)とも。

 なぜだろう?
どうして「礼」の一言もないのだろう?

●サラ金に礼を言う人はいない!

 それについて、ワイフが明快にこう答えた。
「サラ金からお金を借りたとき、サラ金に礼を言う人はいないでしょ。それと同じよ」と。

 ナルホド!

 現在、韓国の各銀行は、東京に支店を置き、日本の銀行と同じように、金(マネー)の貸し借
りができる。
そういうしくみになっている。
そのしくみを使って、韓国の銀行は、多額の金(マネー)を日本からも借りている。
で、その額、今年度末までに返済しなければならない分だけで、4000億ドル。
1ドル80円で計算しても、32兆円。
現在の韓国にしてみれば、とても返せる金額ではない。
そこでスワップ協定ということになった。

 が、金(マネー)の力は、弱い。
人間の欲望と深くからんでいるから、人間の心をつなぐ接着剤にはならない。
貸した方は、「相手は喜んでいるだろう。感謝しているだろう」と思う。
しかし借りた方は、そうは思っていない。

 国にしても、他人にしても、さらには親類や親子にしても……。
むしろ貸したほうが、逆恨みされる。
そんなケースが目立つ。
今回の日韓スワップ協定にしても、しかり。

 たぶん野田首相は、こう思っているにちがいない。
「これで韓国も未来志向型の国なるだろう(=過去の怨念を少しは和らげてくれるだろう)」と。
しかしそんなことはありえない。
ありえないことは、自民党の河野元外務大臣の時代に経験済み。

 ニコニコ顔の野田首相。
その横で口で笑っても、目までは笑わないイ韓国大統領。
そのイ韓国大統領は、「未来志向を……」と言った野田首相に対して、「歴史を……」という言
葉を、しっかりと野田首相に伝えた。

 日本は現在、巨大なサラ金国家となっている。
世界中に金(マネー)を貸し、その利息で何とか生き延びている。
産業空洞化は予想以上の速さで進んでいる。
モノで稼ぐ貿易収支は、全体の11%程度にすぎない。
だから、私たちもしっかりと、心にこう言い留めておきたい。

 「人の心は、金(マネー)では買えない」と。

 その上で、経済援助を考え、スワップ協定を考える。

●その他

 リビアでは、カダフィ大佐の死亡が確認された。
タイでは、洪水が広がっている。
ギリシャでは、デモが拡大している。

 カダフィ大佐の最後の写真が、何枚かネット(ロイター)に載っている。
そういう写真をあえて選んで載せたのかどうかはわからない。
しかしどの写真でも、カダフィ大佐は、あわれな表情をしている。
手をすりあわせ、命乞いをしているかのように見える写真もある。

 『すべてをもつものは、すべてを失うことを恐れる』と、ある賢人は言った。
独裁者と呼ばれる人は、一見、すべてを手にしているように見える。
本人も、そう思っているにちがいない。
しかし実際には、何ももっていない。
中身は、カラッポ。

 つぎにタイの洪水。
バンコックの北に、「ローズガーデン」と呼ばれる公園がある。
今でもあるかどうかは知らない。
そこでは観光客を像に乗せてくれる。

 地図でみると、そのあたりまで水没しているようだ。
そしてその洪水は、バンコック市内まで、流れ込み始めた。

 が、古い家は、みな、高床式になっている。
ちょうど一階部分は、柱だけという構造になっている。
昔から洪水は、タイの名物も言われた。
だから高床式になった。

が、都市の近代化とともに、そういった歴史を忘れた?
今度の大洪水は、近代化でおごり高ぶったタイの人たちへの、警鐘とも考えられる。
「自然は、そんなに甘くないよ」と。

 最後に、ギリシャのデモ。
私は昔から「ギリシア」と書いてきた。
しかし新聞などは、みな「ギリシャ」となっている。
英語では「Greece」と書く。
どうして「ギリシャ」なのだろう。

 それはともかくも、欧州の経済危機は、そのギリシャだけですむわけではない。
もしギリシャだけなら、とっくの昔に解決していただろう。
それにつづくポルトガルがある。
イタリアがある。

 ギリシャの2大債権国は、フランスとドイツ。
もしギリシャが破綻すれば、フランスも危ない。
必死になるフランス。
のらりくらりとそれをかわす、ドイツ。
私には、そういう構図に見える。

 なおウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……ギリシャあるいはギリシアという名称は、ラテン語名のGraecia (グラエキア)がポルトガ
ル語でGr?cia (グレスィア)となり、これが宣教師によって日本にもたらされ変容したとされる』
と。

 どうやらポルトガル語の「グレスィア」が、「ギリシャ」になったらしい。
何度も「グレスィア」と繰り返し唱えてみると、たしかに「ギリシャ」という音に聞こえる。

2011/10/21朝記


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

【私は私】「私とは何か?」(山荘の朝、居間で)

●山荘の居間

 こたつの天板の上には、昨夜飲んだ、チューハイの缶、ひとつ。
まだ半分、残っている。
ほかに、パソコンのモニター、ピーナツの袋、テッシュペーパー、お盆、それにメガネ・ケース。
無造作に散らかっている。

 コップにミネラル・ウォーターを注ぎ、それを飲む。
パソコンに電源をONにする。
時計を少し前に見たが、針は6時半を示していた。

 昨夜遅く、この山荘にやってきた。
着くとすぐ、ワイフは、DVDを見始めた。
私は、その横で、それをいっしょに見た。
星はつけようもないほど、つまらない映画だった。
途中で、ギブ・アップ。
猛烈な睡魔に襲われ、そのままふとんの中に。
寝たのは、午後11時ごろでは、なかったか。

●肉食

 まだ外を見ていないが、今日は、雨とか。
窓は薄暗く、外は静か。
鳥のさえずりも、コオロギの鳴き声も聞こえない。
ときどきやってくる、大きなあくび。

 昨夜食べたハンバーグが、腹の上のほうで、まだタプタプしている。
併せて食べた、エスカルゴがよくなかったかもしれない。
月に、1、2度、油っこいものを食べる。
そのたびに、腹の調子が悪くなる。

私の体は、90%が、ベジタリアン。
残りの10%が、肉食系。
肉類は嫌いではないが、どうも体に合わない。
胆嚢の機能が低下している?
自分では、そう思っている。
半年前にエコーで検査してもらったら、「胆石がありますよ」と。
ドクターは、そう言った。

 今日は、朝食を抜く。
昼と夜は、ソバ類。
今、そう決めた。

●脳(さて、本題!)

 ところで、昨日、こんな経験をした。
仕事に出かける前、私はこう思った。
「今日は、ヘルメットをかぶっていこう」と。
たしかに、そう思った。

 が、その出かける前、あれこれと雑務がつづいた。
教材を用意し、身支度を整えた。
その間中、私は、ヘルメットのことを忘れていた。
まったく忘れていた。
が、家を出る、その瞬間、私はヘルメットをさがした。
いつもなら勝手口の手すりに、それが掛けてある。
が、そこにはなく、床の下にころがっていた。

 私はヘルメットを拾いあげ、頭にかぶった。

●自転車 

 自転車にまたがりながら、こう考えた。
「雑務をしている間、『ヘルメットをかぶっていこう』という思いは、どこに消えていたのか」と。
脳のどこかに、記憶としては、あったはず。
しかし雑務をこなしている間には、それが脳から消えていた。
ヘルメットのことは、まったく忘れていた。

 が、家を出る瞬間、ヘルメットのことを思い出した。
床にころがっているヘルメットを拾いあげ、頭にかぶった。

●別の脳

 最近の脳科学によれば、私たちが(自分の意思)と思っている意思にしても、意識としてそれ
を認知する前に、すでに脳の別の部分が決定しているという。
もう少しわかりやすく説明しよう。

 たとえばあなたが台所へ行く。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、それを飲む。
あなたは一連の行為、つまり(台所へ行く)→(冷蔵庫を開ける)→(ペットボトルを取りだす)→
(水を飲む)という行為を、自分の意思でしたと思っている。
だれかにそう聞かれれば、あなたは、そう答える。
「私は私の意思で台所へ行き、私は水を飲んだ」と。

 しかしそれ以前に、・・・時間的なことはわからないが、30分とか1時間前に、すでに別の脳
が、一連の行為をするように決めているという。
ばあいによっては、5分前かもしれない。
が、そのとき、私という「私」は、まだそれを意識していない。
つまり私たちが自分の意思と思っているものにしても、その大半が、・・・というより、そのほとん
どが、すでに別の脳で作られている。
「もうすぐのどが渇く。お前は台所へ行って、水を飲んでこい」と。

 わかりやすく言えば、「私の意思」と思っているその「意思」にしても、別の脳に操られている
だけ。

●ウソ発見器

 ひとつの例としてよくあげられるのが、ウソ発見器。
いくら言葉でウソを並べても、ウソ発見器は、別の脳の中の反応を観察している。
自分の意思では、その(別の脳)までは、ごまかせない。
だからウソ発見器は、ウソを見破ることができる。

 ・・・というふうに考えていくと、どこからどこまでが「私」なのか、よくわからなくなってくる。
ほとんどの人は、「私は私」と思って、行動している。
しかしそのほとんどは、別の脳がそれ以前に、勝手に決定している。
「私」という部分は、それに従って、行動しているだけ。

 先のヘルメットの話にしても、そうだ。
私は「今日は、ヘルメットをかぶっていこう」と、思った。
自分の意思で、そう決めた。
が、雑務の中で、そのヘルメットのことは忘れた。
「かぶっていこう」という意識さえなかった。

が、出かける瞬間、私はヘルメットをさがし、それを頭にかぶった。
それは私の意思だったのか。
それとも無意識のまま、別の脳に操られただけだったのか。

●レストランで

 昨日は、ほぼ1か月ぶりに、ハンバーグを食べた。
が、それとて、その意思は、昨日の昼過ぎには、別の脳が決めていたのかもしれない。
昨日は、朝食と昼食をかねたブランチを食べただけ。
しかも、いつもの半分。

 その一方で、このところ運動を毎日、2単位こなしている。
1単位は、30〜40分。
ランニング、ウォーキングマシン、それに自転車。
全身がひと汗、ザッと出る程度を、1単位としている。

 仕事に行く前から、空腹感があった。
たぶん、そのときすでに別の脳が、「今夜はハンバーグ」と決めていたのかもしれない。
私はそれを意識として、意識することはなかった。
が、別の脳は、そう決めていた。

 仕事が終わり、その帰り道。
私とワイフは、いつもの行きつけのレストランに寄った。
「何を食べる?」「何にしようか?」「ハンバーグにしよう」と。

●ワイフ

 今、雨の音が聞こえてきた。
雨あしが強くなった。
ボタボタと雨どいをあふれて落ちる水の音がする。

 秋の今ごろは、いつも、近くのスギ林の枯れ枝が、雨どいを塞ぐ。
雨どいを詰まらせる。

 ・・・たった今、ワイフが寝床から起きてきた。
「おはよう」と言ったようだったが、私は何も答えなかった。
めんどうだった。
「風呂はどうする?」と、ワイフが聞いた。
「うん・・・」と気のない返事。

 私はこうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。
それには理由がある。

●最後の砦(とりで)

 このところ自分の住む世界が、どんどんと小さくなっていくのを感ずる。
体力、気力、思考力、集中力・・・。
それらがどんどんと弱くなっていく。

 そこで私はいくつかのことを自分に決めた。
目標とか、そういった甘いものではない。
「義務」として、位置づけている。

 その第一。
どんなことがあっても、毎日、BLOGだけは、発行する。
週3回の電子マガジンだけは、発行する、と。

 BLOGについては、1日、10枚の原稿と決めている。
電子マガジンのついては、1回分20〜30ページと決めている。
それは言うなれば、私の最後の「砦(とりで)」。
この砦を打ち破られたら、明日の私は、ない。

 市内の自宅に帰るまでに、何としてもその10枚を書きたい。
・・・何としても、書きあげたい。

●性欲からの解放

 話を戻す。

 私の脳の中に、別の「私」がいる。
それが裏から、私を操っている。
そのことは、60歳を過ぎると、よくわかるようになる。

 ・・・というか、私は、55歳前後に、それがわかった。
その前後に、私は「男の更年期」というのを経験した。
医学的に実証されたものではないが、そのころ、急速に性欲の衰えを覚えた。
いや、性欲はあったが、「女体」への関心が、ほとんどゼロになった。

 たとえば週刊誌に載っているようなヌード写真を見ても、どれも肉塊にしか見えなかった。
ときに豚の脂身(あぶらみ)のように感じたこともある。
そのときのこと。
それまでの私が、いかに性欲の奴隷であったかが、わかった。
だから私はある日、ワイフにこう言った。

「今のぼくならね、女湯にだって平気で入れるよ。裸の女の人と、湯船につかって、平気で世間
話ができるよ」と。

 が、それはすがすがしいほどまでに気持のよい、解放感だった。

●性的エネルギー(リビドー)

 若い人たちに、いくらこんなことを言っても、理解されないだろう。
その渦中にある。
が、男性にしても、24時間、頭の中は「女」でいっぱいという人がいる。
そういう人にしても、自分が性欲に操られているだけとは思っていない。
自分の意思で、そうしていると思い込んでいる。
が、実際には、どの人もみな、別の脳で操られているだけ。
ついでに言えば、男がスポーツで目立ちたいと思うのも、女が化粧をするのも、別の脳に操ら
れているだけ。

 その原点にあるのが、性的エネルギー(フロイト)ということになる。
そのエネルギーが、脳の奥深くから、・・・最近の研究によれば、視床下部あたりから、パルス
信号として発信されているらしいが、そこから発信されている。

 このことは、ほかの動物を見れば、わかる。
動物だけではない。
植物にしても、そうだ。
どの生物も、生きる目的を、種族の存続に置いている。
種族の存続にはじまり、種族の存続に終わる。
残りのもろもろの行動は、言うなれば、「雑務」のようなもの。

●ドラマ

 が、だからといって、それが無駄とか、無意味とか言っているのではない。
それがあるから、人生も、また楽しい。
あの映画『タイタニック』にしても、もしジャックとローズがいなければ、ただの船の沈没映画。
沈没再現映画。
ジャックとローズがいたから、人々を感動させ、涙を誘った。

 人生も、また同じ。
私たちがもし、無機質なまま、種族の保存だけを考えて生きていたとしたら、そこからはドラマ
は何も生まれない。
もちろん感動も、生まれない。

 言い換えると、その「ドラマ」にこそ、生きる意味がある。

●予期せぬ変化

 先に、私は、私たちは別の脳に操られていると書いた。
それはその通りだが、その別の脳が、混乱するときがある。
たとえば別の脳が、その人の方向性を決めていたとする。
が、その方向性が、乱されたようなとき。

 それが他人との接触ということになる。

 「そろそろ喉が渇いてきた。台所へ行って、水を飲んでこい」と。
別の脳がそう決めていたところへ、突然、電話がかかってきた。
友人からの電話である。
「今、近くに来ているから、ちょっとそちらに寄るよ」と。

 とたんあなたは、行動計画を変更する。
「あと10分で、仕事の準備を終え、居間を片づけなければならない」と。
つまりそう考えたとき、あなたは別の脳の支配から、抜け出る。
あなたはあなたとして、行動を開始する。

 それを「ドラマ」という。

 やがて友人がやってきて、居間のソファに座る。
友人にお茶を出し、自分もお茶を飲む。
渇いたのどを、お茶でうるおす・・・。
ついでに友人のおもしろい話を聞いて、笑う。
それが「私」ということになる。

●生きる意味

 私はEメールの署名のところに、こう書いている。
「Life is full of Dramas」と。
だれかの言葉だったが、だれの言葉だったかは、忘れた。
「人生はドラマでいっぱい」と。

 で、「なぜ生きているか」と聞かれれば、私は迷わず、こう答えるようにしている。
「ドラマを残すため」と。

 言い換えると、私がなぜ「私」であるかと言えば、そのドラマを残すからということになる。
別の脳に操られるままでは、ドラマは生まれない。
そこに「私自身の意思」を注入することによって、私は「私」を取り戻すことができる。
それがドラマということになる。

 さらに言い換えると、ドラマのない人生ほど、味気なく、つまらないものはない。
そのことは、10年を1日にして生きる老人、20年を1日にして生きる老人を見れば、わかる。
意味もなく、また意味を持たせることもなく、毎日同じことを繰り返している。
そういう人生からは、ドラマは何も生まれない。

●感動

 が、ドラマにも、軽重がある。
振幅の大小と言い換えたほうが、正確かもしれない。
さらにわかりやすく言えば、感動のあるなし。
感動の大きさが、ドラマのスケールを決める。

 近所の人に会い、立ち話をするのも、感動。
しかしその一方で、たとえばワールドカップで、ゴールを決めるのも、感動。
さらに言えば、喜怒哀楽の世界で、人を愛するのも、また憎むのも、これまた感動。
日々に葛藤し、もがき、苦しむのも、これまた感動。
そうした無数の感動を通して、私たちは身の回りに、ドラマを築きあげていく。

 それが「私」であり、生きる意味ということになる。

●ザマーミロ

 話が繰り返しになってきたので、この話はここまで。
今もはげしい雨が、外で降っている。
雨どいからこぼれ落ちるボタボタという音は、そのまま。

 気がつくと、ワイフがいつの間にか、私の横で眠っている。
動くものは、何もない。
いや、私がキーボードを叩くたびに、ペットボトルの水面が、かすかに、小刻みに揺れる。
それが蛍光灯の光を受け、チラチラと光を放つ。

 ・・・こうしてものを考え、キーボードで文にしているときだけ、私は私でいられる。
別の脳に支配されない、私。
きっと別の脳は、・・・もともと人間というのは、基本的には怠け者だから、こう叫んでいるにち
がいない。

 「せっかくの土曜日なのだから、横になって休め」と。

 が、私はあえて、それに逆らう。
逆らって、私は自分の意思で、私の文を、こうして書いている。
「ザマーミロ! お前の言いなりになってたまるか!」と。
別の脳に向かって、そう叫ぶ。
それが私にとっては、楽しい。

(はやし浩司 2011−10−22記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司

【今日、あれこれ】(10月22日)

●放射線物質汚染

 政府の発表で、どうしても納得できないのが、これ。

茶葉から規制値を超えた放射線を観測したとき・・・「お茶でも、飲むときはお湯で薄めるから、
問題ありません」、
乾しシイタケから、やはり規制を超えた放射線を観測したとき・・・「乾しシイタケだから、料理し
たときには水分で薄められるから、問題ありません」と。

 つまり「濃度を薄めれば、問題なし」と。

 その延長線上にあるのが、表土のすき返し。
放射線物質で汚染された表土と、その下の土とを入れ替える。
それを「除染作業(?)」という、と。

●非論理

 どうしてこういう非論理的なことを言うのか、私には理解できない。
土を入れ替えるといっても、それは土をかき混ぜるだけ。
わかりやすく言えば、濃度を薄めているだけ。

 お茶にしても、10倍の水で沸かして飲めば、濃度は10分の1になる?
乾しシイタケにしても、料理にして食べれば、濃度は何分の1かになる?

 いくら濃度を薄めても、その分だけの放射性物質は、体内に取り込まれる。
いくら土の汚染濃度を薄めても、放射性物質は、そこに残ったまま。
どうしてそれを「除染」というのか。

 もしこんな非論理がまかり通るなら、規制値など、必要ない。
こう言えばよい。
「魚でも野菜でも米でも、みんな水で薄めて食べれば安全です」と。

●拡散

 この先、この日本では、大悲劇が始まるだろう。
福島の第一原発周辺の人たちだけではない。
東京都の人も、そしてこの浜松市の人も・・・。
がん性の病で、バタバタと人が死んでいく。

 「拡散」というのは、それをいう。
事実すでに、たとえば魚類にしても、約50%の魚から放射線が観測されている(日刊「ゲンダ
イ」紙・10・21号)。
とくに北海道方面から、南下してくる魚の汚染度が高いという。
この先、100%になるのは、もはや時間の問題。
 
 その一例を、日刊「ゲンダイ」からここに転載する。

●スーパーで検出された魚(日刊ゲンダイ紙より)

イオン店・・・茨城 イナダ(48ベクレル)
  カツオ(13ベクレル)
       千葉 カツオ(22ベクレル)
       宮城 カツオ(14ベクレル)
          マイワシ(19ベクレル)(単位は1キログラムあたりの量)
(以上、日刊ゲンダイ紙より)

 この数値を見て、気がついたことがある。
たとえばカツオの放射線量をよく見てほしい。
茨城でも千葉でも、また宮城でも、放射線量が、13〜22ベクレルの範囲にあるのがわかる。
産地はそれぞれ、宮城、岩手となっているが、魚の産地ほど、あてにならないものはない。
水揚げした港が、産地となる。
仮に福島県沖で取れた魚でも、御前崎港と水揚げすれば、「御前崎(浜松)産」となる。

 で、こうして数値を並べてみると、イオンのばあい、同じ産地の魚を全国に流している疑いが
出てくる。
もちろんこの浜松でも、同じ魚が売られている可能性が高い。

 つまりこうして放射性物質は、全国に拡散されていく。
「私は浜松市に住んでいるから、だいじょうぶ」などと、高をくくっていると、たいへんなことにな
る。

 ちなみに他店におけるカツオの放射線量をここに載せる。

(参考)カツオについて

 イトーヨーカー堂  カツオ(8〜17ベクレル)
 ユニー       カツオ(8〜20ベクレル)
 ダイエー      カツオ(6〜15ベクレル)
 西友        カツオ(5〜11ベクレル)
(以上、茨城、千葉、埼玉、東京で測定)  

●正確な情報

 私たちが今、いちばん必要としているのは、正確な情報である。
イオンならイオンでもよい。
それぞれの魚に汚染度を、しっかりと表示してほしい。
あるいは店先に、放射線測定器を置いてほしい。

 売る側は、「風評被害」という言葉を使う。
しかし食べる側は、「健康被害」という。
この先予想される健康被害を考えるなら、風評被害など、何でもない。
健康被害は、「命」の問題。
風評被害は、「金(マネー)」の問題。

 風評被害程度のことで、ガタガタ言う方が、おかしい。

●大本営発表

 政府の立場もよくわかる。
今ここで、「日本は終わりました」と認めると、国そのものが、崩壊してしまう。
だからウソでも何でも、「日本はだいじょうぶ」という体裁を取り繕わなければならない。
今が、そのとき。

 だから政府(文科省)は、そのつど、放射線想定値を、低め、低めに発表する。
この手法は、あの大戦中の大本営発表と、何ら変わらない。

 あの大戦においても、軍国主義を先頭に立って推し進めたのが、ほかならぬ当時の文部省
であった。
本来なら学術の府として、良識を旗印に、国民を先導すべき文部省だった。

 今、文科省は、その愚を再び犯そうとしている。
政府側にべったりと寄り添い、政府側のつごうのよい情報だけを流す。
つごうの悪い情報は、必要最小限にして流す。
ウソまでは言わないが、本当のことも言わない。
その前に、どうして文科省なのか?
どうしてこうした発表をするのが、文科省なのか?

 サッカー賭博を始めたときも、そう感じた。
どうして文科省なのか?

●自分で守る

 ともあれ、自分の「命」は、自分で守るしかない。
「健康」ではない。
「命」。

 ・・・ということで、私も放射線測定器を購入することにした。
今まで迷ったが、最近は国産のもので、安価なものが手に入るようになった。
(従来は、中国製、ロシア製のものが多かった。アメリカ製については、入手が困難だった。)

 魚類はもちろん、口にするものは、自分で調べてから食べる。
またそれくらいのことをしないと、「命」は守れない。
死ぬのがこわいわけではない。
アホなことで、「命」を無駄にしたくない。
その報告は、今日の昼にでもできると思う。
(現在は、山荘にいて、ネットがつながらない状態にある。)

【追記】(放射測定器についての報告)

 放射線測定器について。
どの製品にするか。
それを選ぶのがむずかしい。

 その瞬間の空間の放射線を測定する製品がある。
しばらくONにした状態で、1時間あたりの積算量を表示する製品がある。

 が、私がほしいのは食品の放射線量を測定する製品。
しかしこちらは装置がおおげさで、価格も100万円前後。

 空間放射線量については、この浜松市では、必要ない。
多くても少なくても、今のところ、どこかへ引っ越すつもりはまったくない。
だから調べても無駄。

 どうしようか?、と、今も悩んでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司

●映画『カウボーイ&エイリアン』

+++++++++++++++++++++++++

ハリロン・フォードとダニエル・クレイグ。
その2人が主演。
しかも西部劇とSF映画の合体。
そんな映画、見ないわけにはいかない……ということで、
先ほど、『カウボーイ&エイリアン』を見てきた。
今日が公開日。

で、星は、私が3つ、ワイフが、4つの、★★★+。

おもしろかったが、どこかデタラメ。
矛盾だらけの、ボロボロ映画。
『OK牧場』あり、『プレデター』あり、『宇宙大戦争』あり、
『駅馬車』あり……の映画。
最後は、『荒野の用心棒』風に、ダニエル・クレイグが町を去っていく。

むずかしく考えないで、気楽に楽しめば、それでよい。
そういう映画。

来週からは、『三銃士』が始まる。
楽しみ!

+++++++++++++++++++++++++

【日韓スワップ協定(10−22)】

●「?」の300億ドル

 韓国紙の中央日報は、日韓スワップ協定について、こう考えている(同紙、10月20日)

『9月末現在の外貨準備高額は、3034億ドル』ある、と。

 が、韓国でいう「外貨準備」には、多額の有価証券が含まれている(詳細は不明)。
日本とは、いろいろな意味で、経済の算出方式も異なる。
だからそのまま額面通りに、受け取ることはできない。

 中央日報紙(=韓国紙の中でも、もっとも反日姿勢の強い新聞)は、こう書いている。

『韓日両国が合意した700億ドルの通貨スワップ規模は現在の130億ドル水準の5倍を超え
る。当初市場が予想した規模より大きかった。その上世界的安全資産のドルで借りることがで
きる300億ドル規模の通貨スワップが新しくできた。2008年の金融危機の際に韓国は米国
と300億ドルの通貨スワップを締結し、その後韓日、韓中とも通貨スワップを締結した』(同日)
と。

 私には、これ以上のことはわからないが、記事の中には、こうある。
「300億ドル」という数字に注意してほしい。

『……その上世界的安全資産のドルで借りることができる300億ドル規模の通貨スワップが新
しくできた』と。

 これはどういう意味なのか。
日韓スワップ協定で決められた700億ドルの一部が、300億ドルということなのか?
ふつうスワップ協定といえば、日韓の間なら、(円)と(ウォン)の交換を目的としたものをいう。
が、中央日報紙は、「ドルで借りることができる300億ドル」と書いている。
そのまま読めば、「300億ドルを、緊急時には貸します」と。
日本政府は、本当に「ドルを貸します」と言ったのか?
つまりもし何かのことがあれば、日本政府は、300億ドル、韓国に貸しますよ、と。
その額、300億ドル!
日本円で、約2兆4000億円!
まさか、アメリカを救済するため?

●まず日本の債権者を守る

 韓国経済が破綻すれば、日本の金融機関が、大きな傷を負う。
貸し金が焦げ付いたり、貸し倒れになったりする。
それは私にもわかる。
だったらその時点で、日本の金融機関を保護、補償すればよい。

 これについて日本政府側は、韓国には、日本企業が多数進出しているから、そういった企業
も保護しなければならないというようなことを言っている。
しかし本当に、そうか?

 この浜松市にも韓国に工場などを移転した企業は多い。
しかし大半は、現在、撤退している。
韓国で、韓国人を従業員にして工場を経営することについては、ほかの国にはない困難さが
つきまとうらしい。
それもあって、韓国に残ったのは、もともと在日韓国人の経営していた企業が多い。
在日韓国人のN氏自身(浜松で工場経営)が、そう話してくれた。

 で、中央日報紙は、『……9月末現在の外貨準備高額3034億ドル、中国との通貨スワップ
260億ドル相当を含め4000億ドル水準の外貨流動性を確保した』と書いている。

 しかし中韓のスワップ協定は、この11月末で、期限が切れるはず。
それはともかくも、韓国の外貨(?)の3034億ドル+日韓スワップ協定で決まった700億ドル
=3734億ドル。
中国との協定を含めて、約4000億ドル。

●どうして?

 中央日報紙は、前回(2008年)の金融危機のときも、日韓スワップ協定はあったが、日本
の世話にはならなかった。
アメリカの世話にはなった。
今回も、日本の世話にならないだろうというようなことを記事の中でにおわせている。
あくまでも韓国ウォンの安全策のため、と。 

『……2008年の金融危機の際に韓国は米国と300億ドルの通貨スワップを締結し、その後
韓日、韓中とも通貨スワップを締結した。だが、実際に通貨スワップを活用して金を借りた先は
米国だけだった』(同紙)と。

 だったら、疑問が振り出しに戻る。
それほどまの外貨があり、貿易も順調なら、韓国政府は、そもそも日韓スワップ協定など必要
ないはず。
にもかかわらず、なぜ協定を求めてきたのか、と。

●世界は見抜いている

 今回の日韓スワップ協定で、韓国の総合株価は、2日連続で上昇している。
(日本を含め、アジア各国の株価は、2日、連続で下がっている。)
つまり今回のスワップ協定は、韓国国内ではプラスに働いた。
(=韓国国内では、通貨危機への不安が、和らいだ。)

 が、ウォンについては、こう書いている。

『……韓日通貨スワップ拡大のニュースにウォン相場は1ドル=1130ウォン台まで上がった
(日本式に言えば、下がった)。19日のソウル外国為替市場でドルに対するウォンの相場は前
日より13・70ウォンのウォン高(安)ドル安(高)となる、1ドル=1131・90ウォンで取引を終
えた。これは先月16日の1112・50ウォン以来の高値(安値)水準だ』と。

が、日韓スワップ協定のあとも、韓国ウォンは、1ドル=1130ウォンにまで下落。

 ついでながら、韓国では、通貨の上下を、逆に表現するので注意。
「これは先月16日の1112・50ウォン以来の高値水準だ」は、「これは先月16日の1112・5
0ウォン以来の安値水準だ』と読む。

 今日(10月22日)現在、1ドル=1153ウォン。
この2日間で、さらに22ウォンも下落したことになる。
つまり世界は、韓国の経済危機をしっかりと見抜いている。
わかりやすく言えば、外資の逃避がいまだにつづいている。
(外資が逃げるときは、ウォンを売って他の国の通貨に乗り換える。
だからウォンが下がる。)

●お人好しはやめよう!

 日本よ、もうこれ以上のお人好し外交はやめよう。
ついでに大国意識も捨てよう。
こんなことを繰り返していたら、日本の企業は、本当に消えてしまうぞ。
こういうお人好しばかり繰り返しているから、日本人はどんどん、職場を奪われていく。
鉄鋼、造船、土木、そして電子産業……。
昨日、日本のパナソニック社は、1000人の人員解雇を発表した。

 3・11大震災のとき、アジア株は、韓国をのぞいて、すべて下落した。
韓国だけは数日後から大上昇。
それが「日本の大地震をお祝い(し)ます」という、あの垂れ幕事件へとつながった。
(韓国側サポーターは、「日本の旭日旗はどうなのか」と、反論しているが……。)
もう一度、その株価を示すグラフをここに掲載しておく。
3・11日以後、韓国の株価がどのように動いたか。
またどうしてか?
それをみなさんの目で、しっかりと確かめておいてほしい。

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/77/img4019443bzik8zj.gif" 
width="360" height="230" alt="韓国の株価.gif">

●日韓友好

 日韓友好が重要なことは言うまでもない。
私も1967年から、してきた。
しかしおかしなことに、韓国という国は、それをすればするほど、反日に傾いていく。
日本を攻撃する材料がなくなると、秀吉の朝鮮出兵や、ベトナム戦争まで持ち出す。
今度は、従軍慰安婦問題。

 この状態は、恐らくこれかもつづく。
日本側の問題ではない。
韓国側の問題。
ゆがんだ民族主義と国粋主義。
これが改まらないかぎり、野田首相が求めるような「未来志向型の両国関係」など、育つはず
がない。

 政治はどこまでも現実的に。
国際政治は、さらに現実的に。
甘いロマンをいだき、国際外交を推し進めてはいけない。
「これだけのことをしてやったのだから、相手もそれに応じてくれるだろう」などという幻想は、も
ってはいけない。
そんな甘えは、日本を一歩でたら、通用しない。
とくに韓国には通用しない。

 きびしい意見ばかり書いているが、私は私なりに40年間、日韓関係を外からながめてきた。
これが私の現在の結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日韓関係 日韓スワップ協定)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【宗教VSカルト論】BYはやし浩司

●インチキ予言

 「5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。
そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。

 その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。

『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロ
ルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

 ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審
判の日」と予言して一躍話題の人となった。その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミス
だと釈明し、新たに10月21日を世界の終末の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。

●終末論

 キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になる
こともある。
つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。

 が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。

 とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのたびにユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism(イズム)」として、独立した。

●思い込み

 現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。

 が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。
人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信的宗教団体」。

 アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。
4〜5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。

●エアーポケット

 不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。

 が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2004年の3月に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)

 こういう時代なのかもしれない。今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は
多い。夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。いや、本
当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしまう。そして
気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。そして
夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、
どうでもよい部分については、それなりにうまくいく。しかし基本的な部分では、わかりあえなく
なる。

 その妻は、夫にこう言った。

 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。それがかろうじて、こうして何と
か、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおかげよ。それがわからないの
オ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。彼らが言
うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そん
なの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)
することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむけ
る。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろん
のこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。「接するだけでも、バチが当たる」と教えていると
ころもある。


●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。あと少し
で、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。そ
の一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。もともとは、さらに大きな母体団
体から分離した団体だと聞いている。わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼
ばれる信者たちだけが、別のSS教をつくって独立した。それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に
集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。それが約1時間。それが終わると、集会、勉強
会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せ
なくなりました。週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。

 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、
勧誘を始めたことです。

 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の
勝手ではないか」と思うかもしれない。しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想
像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。今は、どんなことを
言っても、受けつけません。親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。


●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味
はない。原因のほとんどは、その信者自身にある。もっと言えば、そういう教団に身を寄せね
ばならない、何かの事情が、その人自身に、あったとみる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えてい
るよう。その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそ
うになってしまう。

 何のための人生? なぜ生きているのか? どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにあ
る? どこに求めればよいのか? 何もできないむなしさ。力なさ。そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。何のた
めに、どう生きたらよいのか。心配ごともつきない。自分のことだけならともかくも、子どもはど
うなるのか? 国際情勢は? 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。いくら「私は私だ」と叫んでも、そ
の私はどこにいるのか? 生きる目的は何か? それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。その穴のあいたところに、ちょうどカギ
穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。

 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとた
ん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。とたん、孤独感も消える。す
ばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にする。

 しかし……。

 それは錯覚。幻想。幻覚。亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。思想を注入してもらうかわりに、自
らの思考力をなくす。だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。あるいは
教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。さらに足の裏を診断し
てもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお金を教団に寄付した信
者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。そういう信者でも、会って話をしてみる
と、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人である。「どこかおかしのか?」と思ってみる
が、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠
陥のない人は、いない。


●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係
は、すでに破壊されたとみてよい。夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になった
と考えてよい。親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。親はともかくも、
子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚
を禁止している。またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養
を第一に考えている。

 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始め
た」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言っ
た。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明し
てみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どう
だ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。会社の経営者としては、すでに
適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすかの、どちらかを覚悟しなさい。夫婦
でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひ
たすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。無理をしても、ダメ。それこそ5年、10年単位の時間が必
要です。頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。


●常識の力を大切に!

今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。どう自分たちを守ればよいの
か。

 私は、常識論をあげる。常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、
あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。「おかしいものは、おかしいと思おうではな
いか。それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。これも方法は、簡単。ごくふつうの
人として、ふつうの生活をすればよい。ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩
をする。もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。(おかしなも
の)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。習慣といってもよい。何を見ても、ふと考えるクセをつ
ける。そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ! みなさんといっしょに、戦うぞ!

 世の正義のため、平和のため、平等のために! ……と少し力んだところで、このつづき
は、またの機会に!

(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●信者がいるから宗教団体は生まれる

 先の原稿を書いてからだけでも、もう7年。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上にな
る。

 が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。

 宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。

●スピリチュアル?

 ……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。

 原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・07・12・20)。

いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉が
メディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされ
る。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

 「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷
居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

 たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られた
り、物品を買わされたりする、と。

 「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間
に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もい
たという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行く
と、この種の本が、ズラリと並んでいる。

 「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。釈迦ですら、そんなこと
は一言も言っていない。ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。
そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー
教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術? ばか! アホ! インチキ!

 あのね、占星術は、立派なカルト。そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流
す。そのおかしさに、まず、私たちが気づかねばならない。私がたまたま見たテレビ番組の中
では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり! 反論するのも、いや! ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

 10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3〜6年生)が、
占い、まじないを信じていた。今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたち
の理科離れの一因になっているとも考えられる。

 子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

 年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの指導では

 学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。

 それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。

 が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱ
りと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)

●宗教について

●霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなけ
ればならない。数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。しかしその問題が「解けないことを証明す
る」のは、至難のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。非公式の調査でも、約七〇〜
八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。「信ずる」といっても、度合い
があるから、一概には論ずることはできない。で、それはそれとして、子どもの世界でも、占い
やまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。またこの出版不況の中でも、そう
いった類(たぐい)の本だけは不況知らず。たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万
件ものアクセスがあるという(二〇〇一年秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

 私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を一八〇度変えなければならない。これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじ
のようなものだ。宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。「当たる
かもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。もちろん当たれば、もうけも
の。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。見たことも、感じたこともないの
だから、これはしかたない。で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけ
もの。それから霊の存在を信じても遅くはない。何と言っても、霊の世界は無限(?) 時間的
にも、空間的にも、無限(?) そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足り
ない小さなもの(?) 

 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。だからこの世界を、まず大切にしたい。神様
や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。ただ
言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。人間
として懸命に生きる。そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様の
ほうこそ、まちがっている。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(1)
 
 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、
私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は
一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

 そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必
要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願
い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

 一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコー
ナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、
でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!

 あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前に
は、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこち
らのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……?

 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、
こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞く
と、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすこと
ができる!」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。

 たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向
論である。これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは
仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に
包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・
石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわか
らなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。
 
 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育
するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、
そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に
は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

 私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらい
のことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄
へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?

 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄で
も何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生
……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをか
なえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そ
うなればなったで、かえってその子どものためにならない。

 人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自
ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかし
そう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(4)
 
 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども
(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たった
からだ」と。そこで私はこう言った。

 「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜ん
だはずだ」と。

 翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てこと
を教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信
者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人に
は、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理という
のは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところで
す」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わな
い。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がい
るから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定さ
れたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるもの
ではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の
美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それ
だけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰してい
る。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」とい
う言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さら
に心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、
もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」と
いうことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったという
ことも、あとから母に言われて、はじめて知った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。無間地獄。だれにも心を許さない。だれからも心を許されな
い。だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。だれも愛さない。だれからも愛されな
い。……あなたは、そんな孤独を知っているか? もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだ
け、自分の心に、耳を傾けてみよう。あなたは何をしたいか。どうしてもらいたいか。それがわ
かれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。あな
たの中のあなた自身を信ずればよい。あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇
万年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。ほかの人に親切にすれば、心地よい響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、
どこまでも誠実に生きる。ウソをつかない。飾らない。虚勢をはらない。あるがままを外に出し
てみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこま
でも誠実に生きてみる。人を助けてみる。人にものを与えてみる。聞かれたら正直に言ってみ
る。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。が、もし、あなたが進んで
心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かに
する。一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を
冷たくし、邪悪にする。だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。

静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。言いたいと思うことを言
えばよい。ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独
から、逃れることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。たったこれだけのことで、
あなたはあなたの常識をみがくことができる。大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の
心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。

 手始めに、空を見てみよう。あたりの木々を見てみよう。行きかう人々を見てみよう。そして
今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。つっぱることはない。いじけるこ
とはない。すねたり、ひがんだりすることはない。すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心
に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。そのときは、「今夜は家には戻ら
ない」と、そう思った。しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけて
みた。「お前は、ひとりで寝たいのか? ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。すると本
当の私がこう答えた。「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝
たい」と。

 そこで家に帰った。帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだ
った。自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。しかし私がそうして心を開いたとき、ワ
イフも心を開いた。と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。あなたの心に、がまんすることはない。ご
まかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。あなたが心を開かないで、どうして相手が
あなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。みなは、それができな
いから、苦しんだり、悩んだりする。本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認
め、自分が弱いことを認める人をいう。みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をは
ったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。一見、何でもないことのよ
うに見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最
初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年10月23日の朝に

 ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。

 言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。

 が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。

 そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道
をすることになる。

 若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。

 現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちが
いない」と思う。

 だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。

 要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくる
はず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。

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Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●10月23日(日曜日)「退職した団塊の世代」

+++++++++++++++++

昨夜午前3時ごろ、ワイフが私を起こした。
「寝損(ぞこ)ねたみたい」と。

睡眠導入剤と精神安定薬をもってきて、
ワイフの口に含ませる。
「寝損ねたときはね、自然体がいちばんいいよ。
無理に眠ろうとすると、かえって眠れなくなるよ」と。

しばらく2人でそのまま横になっていたが、
今度は私が眠れなくなってしまった。
で、ワイフを寝室に残し、私は書斎に。

……こうして今朝を迎えた。
時刻は、午前9時を過ぎていた。
雨の音とジェット機の騒音。
今日は「浜松航空フェスタ」のある日。
つまり自衛隊基地で航空祭のある日。

テーブルでお茶を飲む。
新聞に目を通す。
ワイフに「そのあとは、どうだった?」と聞く。
「そのあとは朝まで、ぐっすりと眠ったわ」と。
で、私はそれを聞き、ウォーキングマシンで30分、汗をかく。

のどかな朝。
日曜日。
今日は、部屋の掃除。
今週、オーストラリアの友人が来る。
現在、台湾の北部を旅行中。
そのあと日本に向かってくる。
昨夜、そんなメールが届いた。

+++++++++++++++++

●ワイフの友だち

 ワイフは現在、週3回、テニスのクラブに通っている。
その中の1つのクラブは、どういうわけか、同年代の人たちが集まっている。
「同年代」というのは、それぞれの夫の年齢をいう。
みな私と同じ、団塊の世代という。

 で、昨夜もワイフとこんな話をした。

私「お前さ、10人のうち、仕事をつづけているのは1人くらいと言ったよね」
ワ「そう、1人くらいね」
私「でね、ぼくは、残りの9人の人たちが気になる。残りの9人の人たちは何をしているの?」
ワ「Nさんのダンナは、一日中、テレビを見ているそうよ」
私「一日中?」
ワ「そうみたい……」と。

 あとは孫の世話をしている人。
ときどき旅行などに行って、息抜きをしている人。
町内会の仕事をしている人。
妻の仕事の手伝いをしている人、など。

 仕事をつづけている人というのは、ずっと自動車の販売会社にいた。
その延長線上で、今も、自動車のセールスをしているという。
歩合制で給料をもらっているとか。

 時刻は午前3時を回っていた。
話をしながら、ワイフの意識がだんだんと遠のいていくのがわかった。
が、そのうち、そのままワイフは眠ってしまった。

 私はそれを見届けたあと、暗い天井に向かって、こう思った。
「10人に1人かア……」と。

 そのあと、私は自分の書斎に入った。

●こりごり

 「私なら、そんな生活、1日も耐えられないだろう」と。
テレビを1時間見ただけでも、「しまった!」と思う。
「時間を無駄にした」と思う。

そう考えれば考えるほど、そういった人たちは、どんな思いで毎日を過ごしているのか、それを
知りたくなった。
が、本心を明かしてくれる人は、少ない。
同窓会に出ても、そこまで踏み込んだ話はしない。
……しないというより、たがいに避ける。

 ワイフはこう言った。
「パソコンで遊んでいる人は、1人か2人ね」と。
あるいは「みな、仕事はもうこりごりと言っているみたいよ」とも。

 こりごり?

 サラリーマンの仕事の切なさは、この一語に集約される。
「こりごり」。

 私も仕事で多くの人たちとつきあってきた。
しかしそこに金銭関係がからむと、深い人間関係など、望むべくもない。
「金の切れ目が縁の切れ目

いわんや大半の退職者は、リストラ、解雇を経験している。
その瞬間、それまで自分と会社をつないでいた糸は、すべて煙となって消える。
ついでに友人関係も消える。
その人が「こりごり」と言い、仕事をしないからといって、だれがその人を責めることができるの
か。

●人生の不可逆性

 しかしそれでも私は心配する。
一度、仕事から離れると、その人は、2度と仕事に戻れなくなる、と。
若いときはまだ柔軟性に富んでいる。
しかし40歳を過ぎると、その柔軟性が急速に消える。
硬化する。
ゴムにたとえると、伸びたまま縮まなくなる。

 そのことは、10日前後の休暇のあとによくわかる。
若いときは、そのスイッチングが簡単にできる。
が、年を取ると、それができなくなる。
休み明けの数日間は、仕事場に向かうことすら、つらい。
調子を戻すのに、数日もかかったりする。

 そう言えば、原稿を書くときもそうだ。
2、3日も書かないでいると、自分の手を重く感ずる。
ミスタイプも多くなる。
その前に、考えそのものが、まとまらない。

 だから脳の水は、つねに流しつづけたほうがよい。
止めたとたん、そこでよどみ、腐る。

 先の同年代の人たちにしても、ひょっとしたら、内心ではこう考えているかもしれない。
「そのうち、できる仕事でも見つかれば、やってみよう」と。

 が、実際には、仕事に復帰するのは不可能。
私の周辺を見ても、3〜5年のブランク(休職期間)のあと、仕事に復帰した人はいない。
1年でもいない。

 だから今、あなたが仕事をしているなら、石にかじりついてでも、仕事はつづけたほうがよ
い。
収入のためではない。
あなたの脳みそのため。
肉体と精神の健康のため。

●老人観察

 50歳を過ぎるころから、私は老人観察を務めてするようになった。
それまでは、老人というのは、私の関心の外にいた。
が、最初に気になったのは、歩き方。
とくに脳梗塞を起こした人の歩き方。

 「右側が不随なのだろうか、それとも左側が不随なのだろうか」と。

 今では見た瞬間、それはわかるようになったが、歩き方に影響を与えるのは、脳梗塞だけで
はない。
いろいろな病気がある。
病気によって、歩き方も、微妙にちがう。
私は歩き方を見ただけで、その人がどんな病気をかかえているか、おおよその見当がつくよう
になった。

●寿命

 さらにこうも考える。
「60歳前後の人の健康状態を見れば、その人の寿命も予測できる」と。

 もちろん、がんや脳梗塞などの大病は除く。
しかし60歳前後の人の健康状態を見れば、「ああ、この人は70歳を過ぎて生きるのはむず
かしいだろうな」とか、反対に「この人は90歳を過ぎても元気だろうな
とか、そんなことまでわかる。

 言い換えると、老後の健康状態は、60歳で決まる。
たとえて言うなら、街道の関所のようなもの。
60歳という関所を通るとき、それがわかる。

 で、そういう視点で、今度は私自身を観察する。
「私はどうなのか?」と。

 その結果、大病さえなければ、80歳までは生きられるのではないかということ。
が、それには条件がある。
体重を現在の65キロ前後から、60キロ前後に落とすこと。
毎日の運動を欠かさないこと。
それさえ守れば、今のままで、80歳までは生きられるのではないか。

●時刻は12時

 時計を見たら、もう12時!
これから部屋の大掃除。
買い物。
その他、いろいろ。
書斎の階下からは、ワイフが掃除機をかけている音がする。
私も手伝わなければならない。

 ……ということで、今朝はここまで。

 今は、雨もやみ、航空ショーも始まったにちがいない。
鳥のさえずりが、急に耳に飛び込んできた。
暑くもなく、寒くもなく、湿った秋風が心地よい。

2011/10/23朝記


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・はやし浩司※

●「万策尽きた」(教師による破廉恥事件に関して)

+++++++++++++++++++++++++++++

性欲をコントロールすることは、不可能と考えてよい。
研修会や指導会程度で、性欲をコントロールできるようになるとは思わない。
メカニズム的には、アルコール中毒、ニコチン中毒と同じ。
本能に根ざすだけに、線条体に受容体ができやすい。
様態はさまざま。
つまり性癖といっても、その人(男性)がもつ受容体によって、みなちがう。

で、一度受容体ができると、条件反射的に、脳は反応する。
アルコール中毒者が、ビールのコマーシャルを見ただけで、酒が飲みたくなるように、またニコ
チン中毒者が、他人が吸うタバコの臭いをかいだだけで、タバコが吸いたくなるように、その状
況に応じて、猛烈な性欲が発生する。
このとき視床下部からの指令を受け、多量のドーパミンが分泌されるという。
線条体に受容体ができていると、受容体は即、ドーパミンに反応する。

こうした一連の条件反射をコントロールするのが、前頭連合野ということになる。
「理性の府」と呼ばれている。
しかしその「力」には限界がある。
そのことも、アルコール中毒者やニコチン中毒者をみれば、よくわかる。

では、どうするか。

もしどうしても……ということであれば、2つの方法しかない。

(1)厳罰主義(アメリカやオーストラリアでは、そうしている。)
(2)制度を改革する(2ーTeacher システムにする。あるいは教師と生徒の直接的な接触
を、禁止する。カナダでは、そうしている。)

残念なことに、この静岡県では、教師による破廉恥事件が多発している。
教育委員会による指導も頻繁に、なされている。
しかしそういう指導を受けたにもかかわらず、この種の事件を起こした教師もいるという。
そこで県の教育委員長は、こう嘆いた。

「万策尽きた」と。

読売新聞の記事を紹介する。

++++++++++以下、読売新聞より(10−22)+++++++++

 静岡県で教師が生徒への強制わいせつ容疑で逮捕されるなど性的な不祥事が止まらず、県
教育行政トップの県教育長が「万策尽きた」と発言する事態になっている。

 県教委は、懲戒免職処分を受けた教職員の氏名公表に加え、研修などの対策を打ってき
た。
教育現場から教育長に理解を示す声も漏れ、無力感が漂う。
生徒から「誰が生徒を守るのか」「先生は何やっているんだ」と厳しい声が噴出している。

 県立科学技術高校の男性教諭(47)が17日、女子生徒への強制わいせつ容疑で逮捕され
た事件を受け、県教委は20日、臨時校長会を開催。
AB教育長は「私としても万策尽きた」と苦渋の表情で語り、「学校で連帯感を持った人間関係
を作ってほしい」と約120人の校長らに訴えた。

 静岡県内で、校長や教諭がセクハラで懲戒処分されたり、教諭が盗撮やのぞきで逮捕され
たりするなど、8月からだけでも5件の性的不祥事が発覚。
県教委は、外部講師による研修やセクハラ根絶のためグループ研修を導入してきた。

 ところが、研修を受けていた高校教諭が9月に女性のスカート内を盗撮した容疑で逮捕。
生徒への強制わいせつ容疑で捕まった教諭も研修を受けている。

 AB教育長は「万策尽きたという言葉は、思わず口に出てしまった」と打ち明ける。
不祥事防止を訴える機会が再三あり、「また同じような状況で同じような話をしなければいけな
いのか」と無力感に襲われたという。
「適切な言葉でなかったと反省している。
効果的な対策を考えていかなければいけない。
具体策の検討を始めている」と話した。

 県高等学校長協会会長のAS県立静岡高校長は「苦しい心境が表れた言葉」と理解を示す
一方、「現場は万策尽きていない。
即効性がある対策はないかもしれないが、まだ努力することはある」と話す。

++++++++++以上、読売新聞より(10−22)+++++++++

●だれが「石もて打てる」のか?

 性欲……この無にして、不可思議な欲望。
たとえば「女性のスカート内の盗撮」。
私のワイフはいつも、こう言っている。
「どうしてあんな(汚い)ところを、男は見たがるの」と。

 そう汚い。
臭い。
その器官は、大便、小便の排泄器官と隣接している。
いくらそうとわかっていても、人(男)はそこに限りないロマンを抱く。
若い男なら、24時間、そのことで頭がいっぱい。
が、だからこそ、人間は、(ほかの動物もみなそうだが)、子孫を後世に残すことができる。
私たちがなぜ生きているかといえば、結局はすべてこの一点に集約される。
子孫を残すため。

 が、その様態は、さまざま
私のことを正直に書く。

 私は大学生のとき、女性の脚(太もも)を見ただけで、興奮状態になってしまったことがある。
そのとき私はたまたま自転車に乗っていた。
当時はまだミニスカートというのが、珍しかった。
で、信号か何かで、止まったときのこと。
前に立っていた女性の太ももが見えた。
風にスカートが舞ったのかもしれない。
明るく輝く、白い脚だった。

 とたん、下半身のほうが勝手に反応してしまった。
理由などない。
当時の私は、そのメカニズムなど、知る由もない。
そういう反応は、健康な男なら、みな、ある。
あって当然。

●様態

 私はこの分野については、あまり詳しくない。
一応、私がスタンダードという前提で考えると、私は女性のスカートの中には興味はない。
ないから、そういう男が理解できない。
だから京都大学の教授(当時)が、手鏡で女性のスカートの下をのぞいたという事件を知ったと
きも、「どうして?」と思うと同時に、そこで思考が停止してしまった。

 が、私自身は風呂上がりの女性に弱い。……弱かった。
濡れた髪。
甘い石けんの香り。
美しく光る肌。
……とたん、猛烈な性欲がわいてくる。……わいてきた。
 
 こうして「過去形」にするのは、遠い昔の話だからである。
今でも「美しい」とは思うが、性的な反応は、ほとんどない。
足腰は鍛えてきたが、しかしそれでも年齢には勝てない。

 が、そうした自分が正常であるとか、異常であるとかは考えない。
手の指が5本、あるように、目が2つあるように、それは「私であって私でない」と、自分を客観
的に見るようになった。

 そうした性欲の存在を知っているからこそ、仮にそれが教師によるものであっても、私は教師
を責める気にはなれない。
先にも書いたように、様態は、みなちがう。
たとえば私が親しくしていた友人は、太った女性が好きと言った。
太った女性の尻で、顔を押しつぶしてもらうと、最高の恍惚感を覚えるともいった。
彼は当時、ある通信会社で部長職をしていた。
部下は、50〜60人もいた。
もちろん都内の有名大学を出ている。
そういう男でも、そう言った。

 で、指導とか、研修会。
それも結構だが、では、その指導者はどうなのか?、という問題も残る。
教職が聖職とは、今どきだれも思わない。
私自身も思わない。
それともその指導者は、スケベDVDを観たことがないというのか。
不倫や強姦を夢想したことがないというのか。
もしそうなら、私はむしろ、その指導者のもつ「異常性」のほうを疑う。

 この場で、こんなことを宣言するのも馬鹿げていると、自分でも思う。
しかし私はこう宣言する。
「私だって、ふつうの男だ」と。

言い換えると、それぞれの男は、自分がもつ性癖に応じて、性欲を覚える。
それ自体を、どうして「悪」と決めつけることは、まちがっている。
もちろん反社会的な行為は、別である。
相手の女性の心を傷つけたり、あるいは犯罪性のある行為は、別である。

●では、どうするか?

 その答は冒頭に書いた。
教師による破廉恥行為と、その予防については、つぎのように考える。

(1)厳罰主義(アメリカやオーストラリアでは、そうしている。)
(2)制度を改革する(2ーTeacher システムにする。あるいは教師と生徒の直接的な接触
を、禁止する。)

 これについては、すでに何度も書いてきた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ハレンチ事件(2010年6月18日に、電子マガジンで発表した原稿より)

++++++++++++++++++

数日前、またどこかの教師が、18歳未満の
女性とS交渉をもって、逮捕された。
その教師は、出会い系サイトで、女性と
知り合ったという。
逮捕されたとき、その教師はこう言った
という。
「こんなに簡単にできるとは思っていなかった」と。

「簡単」ということは、「簡単」ということ。
そういったシステムが、アンダーワールドの
世界では、すでに完成している。

+++++++++++++++++++

●悪者?

 こういう事件を見聞きすると、私たちはすかさず、教師を悪者として見る。
たしかに悪者だが、しかし「悪者」と断言することもできない。
正常な(?)男性なら、若い女性に興味をもつのは、当然のこと。
またそうした本能をコントロールするのは、容易なことではない。
実際には、不可能。
こうした本能は、理性の外にある。

だからといって、その教師を擁護するわけではない。
私が言いたいのは、「誰が、その男性を、石をもって打てるか?」ということ。
最近、ときどき、こんなことを考える。

 つまり男性は、若い女性と遊びたがる。
しかし実際には、若い女性に遊ばされているのは、男性のほうではないのか、と。
たとえばえばタバコがある。
喫煙者は、タバコを吸う。
そのとき喫煙者は、「自分の意思でタバコを吸っている」と思うかもしれない。
しかし実際には、「タバコにタバコを吸わされている」。

 酒にしても、そうだ。
一日の仕事を終え、家に帰って一杯のビールを飲む。
うまい!
暑い日には、なおさらうまい!

 そういうとき、私たちは、「自分の意思でビールを飲んでいる」と思うかもしれない。
しかし実際には、「ビールにビールを飲まされている」。

●ナンパ・ビデオ

 どこかあやしげなビデオショップへ行くと、その種のビデオがズラリと並んでいる。
私も若いころは、そういうビデオをよく見た。
「よく見た」といっても、「ふつう程度に」という意味。
当時はやったビデオに、『洗濯屋のケンちゃん』というビデオもあった。
私たちの世代には、衝撃的なビデオだった。

 そんなある日、ちょうど1年ほど前のこと。
いつも通うビデオショップの裏口に、そういったビデオだけを並べているコーナーがあるのを知
った。
それまで10年近くその店に通っていたが、そんなコーナーがあることさえ気がつかなかった。
私は入ったついでに、「ナンパもの」と呼ばれるビデオを1本、借りた。

●ナンパもの

 「ナンパもの」というのは、街角で男たちが若い女性に声をかけ、その女性と最終的には、Sx
xするというもの。
「モデルになってください」とか、「水着を試着してくれませんか」とか、そんなことを言って、女性
に近づく。
このとき理性というブレーキが働くなら、女性たちは男たちの申し出を断るはず。
しかし女性たちは、男たちについていく。
いとも簡単についていく。
部屋の中に入っていく。
はじめは抵抗するそぶりを見せるが、はじめだけ。
やがてすぐ、本気になっていく。
で、ある一線を越えたとき、女性は、今度は、むしろ積極的に男たちの体を求め始める。

 こうした「ナンパもの」で驚くことは、今では、「中出し」が当たり前ということ。
男たちは、女性の体の中で、射Sする。
もしこのときも、女性たちに一片の理性でも残っていれば、それがどういうことかわからないは
ずはない。
が、その時点になると、女性たちには、その理性はない。
無我夢中。
されるがままというより、むしろ自らそれを求めて、それに応ずる。

 そういうのを見ていると、先にも書いたように、「男たちが、女性を誘惑している」というより
は、「男たちが、女性に女性を誘惑するよう仕向けられている?」と。
ストレートな言い方をすると、「男たちが、女性を誘惑しているのではない」。
「男たちが、女性に、もてあそばれている」と。
そんなふうに考えてしまう。

●食欲

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
たとえば食欲。

 最近ではどこの旅館でもホテルでも、バイキング料理が多くなった。
そのほうが、人件費が安くすむ。
そこでのこと。
おいしそうな料理がズラリと並んでいる。
そういうのを見ると、「食べなければ損」という、あの卑しい根性がわいてくる。
が、実際には、「食べなければ損」ではなく、「食べたら損(そこ)ねる」。
理性で考えたら、「食べたら損」。
が、そういうとき、食欲と闘うのは、容易なことではない。
いつもなら食べないデザートまで、しっかりと食べてしまう。
2つ、3つと、余計に食べてしまう。

 が、部屋にもどったとたん、後悔の念。
「しまった!」と思う。
「食べたのではなく、食べさせられた!」と。

●一片の理性

 じゅうぶん分別もある男性の教師が、18歳未満の若い女性に手を出す。
もしそのとき、その男性の教師に一片の理性でも残っていれば、そういった女性には手を出さ
ないはず。
が、現実には多くの教師たちが、そういった事件を引き起こし、警察沙汰になり、職場を追わ
れていく。
それまでの名誉も地位も、すべて失っていく。

が、「一片の理性もない」という点では、会ったばかりの男に、体内での射Sを許す女性も同
じ。
が、だからといって、そうした教師や女性を責めるのもどうか?
(もちろん擁護もしないが……。)
ともに、その人たちの責任というよりは、その人たちの中に潜む、もっと大きな力によって、操
られている。
当人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、「私」など、どこにもない。
そういうふうに考えないと、この問題は理解できない。
 
●自分の意思

 で、こうした人間の一連の行動を見ていると、こういうことが言える。
私たちはなにごとにつけ、自分の意思でしているかのように思っている。
が、実際には、そうするように、仕向けられている、と。
もっと平たく言えば、「操られている」。

 とくに本能と呼ばれる部分についてはそうで、それゆえに理性の力でコントロールすること
は、たいへんむずかしい。
不可能ではないが、それをしようとがんばると、心の状態そのものがおかしくなることもある。

 たとえば私のばあいは、「モノ」。
ある特定のモノがほしくなると、終日、そのモノのことばかり考えるようになる。
デジカメならデジカメでもよい。
そうした状態が1、2週間もつづいたりすると、神経そのものが、苛立ってくる。
自分でもその変化が、よくわかる。
が、買ってしまえば、落ち着く。
そのモノを、手の中でいじって遊ぶ。

●生かされている

 私たちは「している」のではない。
「させられている」。
あらゆることがそうだ。
たとえば「生きる」こともそうだ。

今、私はこうして生きている。
一見すると、自分の意思で生きているようにも感ずる。
が、実際には、「生かされている」。
脳の視床下部あたりから、「生きろ!」「生きろ!」という強力な信号が出ている。
その結果として、「生かされている」。

 話をもとに戻すと、冒頭に書いた男性の教師にしても、自分の意思でそういう行為をしたとい
うよりは、「若い女性によって、仕向けられた」と考えられなくもない。

(だからといって、そういう男性教師を擁護しているのではない。
反社会的行為については、弁解の余地はない。
どうか、誤解のないように!)

繰り返しになるが、男も女も、それぞれにもっている本能によって、操られる。
たとえば若い女性が、化粧をしたり、ファッションに気をつかうのも、結局は「男の目」を気にし
ているからではないのか。
もちろん当の本人は、それを否定するだろう。
「私は男性を誘惑するために、化粧をしたり、ファッションに気をつかっているのではない」と。

●「私」

 こうして考えていくと、私たちはいったい、どこからどこまで生かされ、どこから先で生きている
のか、わからなくなる。
もっとわかりやすく言えば、どこまでが「私」で、どこから先が「私でない」のか、わからなくなる。
先に書いたように、「生きている」ことにしても、そうだ。
本当に私たちは、自分の意思で生きているのか?
あるいは、ひょっとしたら、生かされているだけではないのか?

 そういうふうに考えていくと、「私」と言える部分は、ほとんどないのではないかということにな
る。
話を戻す。

 冒頭で書いた男性の教師にしても、結局は「私でない」部分に操られてしまった。
相手の女性にしても、それは同じだろう。
現在の社会通念からすれば、男性の教師は「悪人」ということになる。
18歳未満だったその女性は、「被害者」ということになる。
しかし私には、「悪人」「被害者」と、決めつけることが、どうしてもできない。

 では、どうするか?

●結局は厳罰主義

 この問題だけは、結局は厳罰主義で臨むしかない。
18歳未満の女性に声をかけられただけで、男たちは震えあがる。
そういう法的な環境を用意する。

 オーストラリアでは、そうした関係を見聞きしただけで、罪に問われる。
見聞きした人には、警察への通報義務が生まれる。
通報義務を怠ったばあい、警察に逮捕されることもある。

 日本も、とくに教職にある者であれば、問答無用式に2年の懲役刑とすればよい。
見聞きして、通報義務を怠った人も、同罪。
そういう形で、理性の欠陥を、補う。
つまり理性によるコントロールには、限界がある。
その限界を認め、それを厳罰主義で補う。
それしか方法はない。

 が、現実には、「教職を追われるなど、すでに社会的制裁を受けている」とか何とか、
理由にもならない理由で、たいていは執行猶予刑になる。
(教職を追われることは、当然のことではないか。)
こうした(甘さ)が、こうした犯罪を野放しにする。
いつまでたっても、跡を絶たない
繰り返し、繰り返し、新聞で報道される。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 厳罰主義 本能と理性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●カナダでは……

なお、カナダでは、教師と生徒との接触を、きびしく制限している。

たとえばカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。

教育のあり方を、基本的な部分で考えなおす
ための、その参考にしてほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーン
だが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過
ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解でき
る。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐
をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と
いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害
を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府
時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本
では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。
欧米の教育は能力主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメ
リカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言
し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の
基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出
す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地
ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになって
いる」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこ
で「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてく
れた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 
1999年記

************************

【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。



●日本の常識は世界の非常識



(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1
4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長
二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。



ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。



(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……
と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。



なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●「自由に学ぶ




 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。

(以上、2000年ごろ書いた原稿より)

(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識 
はやし浩司 教育評論 教育論 はやし浩司 教師による性犯罪 破廉恥事件 はやし浩司 
ハレンチ行為)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ネットの世界(10月24日記)

 最初にその変化を感じたのは、「2チャンネル」でのことだった。
当初、……といっても数年前のことだが、それをのぞいたときには、あまりの低劣さに驚いた
(失礼!)。
しかし最近は、ちがう。
読み応(ごた)えがある。
内容も深い。
文章もしっかりしている。

 この世界も、確実に進化している。
たとえばニュースサイトにしても、10年前には、新聞社やテレビ局の「小出しニュース」しかな
かった。
少しだけ一部を見せ、あとは新聞で……と。

 が、今はたとえば、ロイターやYahooなどは、新聞やテレビ以上の情報を提供している。
情報の質と量も、桁違いに多くなった。
もちろんそれに並行して、私たち(私?)の生活も、大きく変わりつつある。
たとえばテレビのニュースにしても、私はたまに見る程度。
新聞の記事にしても、ネットの記事の確認用。

●情報の質

 ほんの5、6前には、(確たる資料があるわけではないが)、ネットで得られる情報には、信頼
感がほとんどなかった。
「本に書いてあった……」「新聞に書いてあった……」と言えば、みな黙った。
しかし「ネットに書いてあった……」と言っても、だれも本気にしなかった。

 が、今はちがう。
辞書や百科事典にしても、安心して読んだり、引用したりできるようになった。
もちろん中身も濃くなった。

 たとえばときどき世界の株価の動向を調べるときがある。
そういうときでも、たとえばBloombergを使えば、世界中の株価が、リアルタイムでわかる。
しかもどれも、詳細なグラフ付き。

 この先、ネットの世界はさらに進化する。
無限というか、そこには限界がない。
が、私が常々、不思議に思うことがひとつある。
たとえばYOUTUBE。

私は週に、10〜15本のビデオをUPLOADしている。
が、どれだけUPLOADしても、制限なし。
期限なし。
現在、3300本近いビデオをUPLOADしているが、そういった情報は、どのような形で、どこへ
蓄積されていくのだろう。

 膨大な情報量とは思うが、それが不思議でならない。
つまりこの世界は、底なし(?)。

●選択と淘汰

 が、情報量が多い分だけ、その一方で「選択」の問題がある。
へたをすれば、私たちは情報の洪水の中で溺れてしまう。
そこで必要な情報だけを取りあげ、それ以外は捨てる。
それをしないと、あっという間に、わけがわからなくなってしまう。

 たとえば私のこのメインのパソコンには、「お気に入り」がズラリと登録されている。
その数、500〜1000。
フォルダーに格納してあるのもあるから、実際にはもっと多いかもしれない。

 そこで私はそのつど、使わなくなったサイトを削除する。
しかしその一方で、興味のあるサイトを、どんどん登録していく。
こうしてサイト、つまり情報源が淘汰されていく。

 もっとも利用者はそれでよいかもしれない。
しかし情報を提供する側は、そうではない。
淘汰されるということは、「消える」ことを意味する。
そこで提供する側は、より良質の情報を提供しようとする。
それが先に書いた、「質の向上」につながる。

 利用者は選択する。
そのつど提供者は、淘汰されていく。
選択と淘汰。
現在、それがネットの世界では、目まぐるしく繰り返されている。

●私のばあい

 私も、ほかのネットユーザーと同じように、ネットの利用者でもあり、同時に情報の提供者でも
ある。
利用者である部分については、大きな問題はない。

しかし提供者である部分については、そうではない。
「淘汰」という問題がある。
「淘汰される」ということは、先にも書いたように「消える」ことを意味する。
たとえば電子マガジン。

 今年の夏、10年近く利用させてもらった、Eマガ社が閉鎖された。
ひとつのマガジン社が消えるということは、(この世界では、本当に跡形もなく消えてしまうが…
…)、それまでに蓄積された原稿そのものが消えることを意味する。
これは私にとっては、恐怖以外の何ものでもない。

 そこで私は原稿の救出をしたが、その作業だけで、1か月もかかった。
が、それだけではない。

 たとえば私は、ホームページにしても、メインにしているサイトから、10〜15本のサイトに枝
分かれさせている。
それぞれが独立している。
その10〜15本のサイトにしても、アクセス数がふえていくのもあれば、減っていくのもある。

 最近急速にアクセス数がふえているのが、YOUTUBEを紹介している「BW公開教室」。
これは現在、毎日1000〜1500件もある。
「最前線の子育て論byはやし浩司」も、ほぼ同じ。

その一方で、1年前には、毎日500〜1000件近いアクセスがあった「音楽と私」は、このとこ
ろ100件前後で低迷している。

 情報を提供する側としては、アクセス数が多いサイトにどうしても「力」が入る。
そうでないのには、そうでない。
「音楽と私」は、このところ更新するのも、おっくうになってきている。
つまりこうして私自身が、情報を淘汰していく。

●この先

 この先もネットの世界は、どんどんと変化していく。
「ついていくだけで、たいへん」と書きたいが、このところ、そういうことはあまり考えない。
「どうすれば、私の書いたものを、私の死後も残せるか」と。
そんなふうに考えることが多くなった。
というのも、「変化」というのは、まさにエンドレス。
命には限界がある。

 エンドレスvs限界。

 エンドレスなものと闘っても意味はない。
負けるに決まっている。
だったらはじめっから負けを認め、その分のエネルギーを、「限界」のほうに使ったほうがよ
い。

「どうすれば原稿を残せるか」と。

 「書籍」という方法もあるが、私のばあい、毎月、単行本にして、3〜4冊分の原稿を書いてい
る。
そんな原稿を本にしてくれるような出版社は、ない。
また出版したところで、売れないだろう。
いや、それ以上に、あの書籍という世界は、窮屈。
こうして自由にものを書いている今の私を、空を飛ぶカモメにたとえるなら、書籍の世界は、
「鳥かご」のようなもの。

 ああでもない、こうでもないという出版社からの注文を聞きながら、自分の思想を、ギュウギ
ュウと本の中に押し込めていく。
だから「鳥かご」。

 本を書くのをやめてから、もう10年近くになる。
こうして自由にものを書くようになってから、もう10年近くになる。
だから私はもう、あの書籍の世界に戻ることはないだろうし、戻れない。

●賭(かけ)

 これは大きな賭(かけ)かもしれない。
実のところ先に書いたYOUTUBEにしても、もしYOUTUBE社が閉鎖ということにでもなった
ら、万事休す。
バックアップはどこにも保存していない。
仮にバックアップしてあっても、3300本近いビデオ(ほとんどが10〜15分編集)を、再UPLO
ADするのは、時間的にも無理。

 同じように、ホームページの世界は、「金の切れ目が縁の切れ目」。
私が死んだら、それでおしまい。
(メインサイトは、有料サービスを利用している。)
が、フリーのホームページ・サービスを使えば、永遠ということはないにしても、10年単位程度
には、そのままそこに残してくれる。

 だから私はあえて、フリーのサービスを利用している。
が、それで安心できるわけではない。
フリーということは、無料ということ。
これもいつ閉鎖されるか、わからない。
閉鎖されても、文句は言えない。

 そこで私はホームページのほうで原稿を保存しながら、同時にBLOGのほうでも原稿を発表
している。
現在、7〜8社から、同時に発表している。

 たいへんな作業に思う人もいるかもしれない。
しかし原稿は、コピペ(コピー&ペイスト)すればよい。
時間にすれば、毎回5分程度ですむ。

 が、これに文句を言ってきた人がいた。
「同じ原稿を、あちこちで出すな!」と。

 しかしそれは私の勝手。
しかもそれにはちゃんとした理由がある。

 最近はBLOGのサービス会社も安定してきた。
が、草創期にはそうではなかった。
それこそ雨後の竹の子のようにBLOGのサービス会社が生まれ、そして消えていった。
その「消えていく」とき、私の原稿も消えていった。
そういう苦い経験があるから、7〜8社となった。

●毎月50万件以上!

 こうしてカウントを取っている分だけでも、毎月50万件以上のアクセスをカウントするようにな
った。
2年前には、30万件だったから、上昇傾向にあることには、ちがいない。
が、実際には、ハイパーリンクといって、サイトの一部に直接アクセスしてくる人も多い。
そういうアクセスも含めると、もっと多いはず。
あるいはその数倍はあるはず。

 もっともアクセス数が多いからといって、それは「数字」の話。
実感はない。
利益もない。
が、そうであるからこそ、別の楽しさがある。
言うなれば、未知の宇宙を航行するような楽しさ。
私の目の前には、漆黒だが、無限の宇宙が広がっている。
それに向かって進んでいくような楽しさ。

 ひょっとしたら、10年後には、アクセス数が、毎月500万件とか、1000万件になるかもしれ
ない。
それを想像するだけでも楽しい。

 ……ということで、今朝は「ネットの世界」について考えてみた。

 みなさん、おはようございます。
はやし浩司 2011−10−24朝記


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●八方美人(日韓経済戦争・2011−10−25版)

 今日だけを見ているのではない。
ここ数日、日本の株はさがりっぱなし。
『東京株式午前10時:指数はマイナス転換、値下がり銘柄数は1000超に』(Yahoo経済記
事の)の見出し。

 一方、日韓スワップ協定のあと、韓国の株価は上昇に転じ、ウォン安にも歯止めがかかっ
た。
そればかりか、サムスンは、増資増資の大合唱。
何しろ日本政府のお墨付き。
資金調達も楽になった。
「万が一のときは、スワップ協定が起動します」と。
その額、700億ドル。
約6兆円!

 が、もちろん韓国側からは、一言の礼もない。
ないばかりか、またまた竹島(独島)問題。
言いたい放題、やりたい放題。

●戦略なき日本外交

 一方で韓国を助け、その韓国に、日本の産業が叩きのめされている。
が、何も言えない。
何もできない。

 IMFは、つい先月まで、「韓国はここ数か月にデフォルト(債務不履行)に陥る」と警告してい
た。
だったら、デフォルトさせればよい。
何も日本の首相がノコノコでかけて行ってまで、救済を申し出る必要はなかったはず。
仮に韓国のデフォルトで、日本の金融機関が被害を被れば、日本の金融機関を救済すればよ
い。

 ウィキーリークスの暴露報道によれば、日本の鳩山内閣が誕生したとき、韓国のイ大統領
は、アメリカの国務大臣(クリントン)に、つぎのように打電している。
「鳩山内閣は、自民党内閣とはまったく異質の、北朝鮮側寄りの政府である」と。
「北朝鮮側と、何本もの人脈もある」というようなデタラメまで伝えている。

 こういうのをモマシという。
告げ口という。
たしかに反米色の濃い内閣ではあったが、そこまでの左翼政権ではなかったはず。
つまりこうしてアメリカを日本から離反させ、自らはアメリカの忠実な子分であることを宣言し
た。
現在の日米関係は、その延長線上にある。

 今まで私は、お人好し外交はやめようと書いてきた。
しかし今、もうひとつ、新しい言葉を思いついた。
日本よ、八方美人は、やめよう、と。
このままでは、本当に日本は沈没してしまう。

 最後にもうひとつ。
オバマ大統領とイ大統領との晩餐会での席でのこと。
何でも日本料理が出たそうだ。
それについて今(10月25日)、韓国では大問題になっている。
フランス料理やドイツ料理には、文句を言わない。
中華料理にも文句を言わない。
日本料理にだけ、文句を言う。

 料理をごちそうになる立場であっても、日本料理が出たことに腹を立てる。
韓国という国は、この44年間、何も変わっていない。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【もの書き論byはやし浩司】2011/10/24記

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私はしがないもの書きでござんす。
しかし一寸の虫にも五分の魂とか。
そんな私にも、誰にも譲れないものは
あるには、あるんです。
称して、
「もの書き論byはやし浩司」。

++++++++++++++++

●頭の切り替え

 昨日、ワイフがおもしろいことを言った。
「私、寝るとき、いろいろ考えていると、眠れなくなる」と。

 が、一方、私はこうしてものを書いているとき以外、ほとんどものを考えない。
寝るときはなおさらで、頭の中はカラッポ。
それまで書斎で、何を書いていたかさえ、忘れてしまうことがある。
だから横になったら、昼でも夜でも、数分から、長くても5〜10分以内には、眠ってしまう。
「あなたの特技みたいね」とワイフは、よく言う。
そう、私の特技のようなもの。

●書く前

 今もそうだった。
書く前というのは、ツンとした緊張感が走る。
「さあ、書こう」と意気込む。
が、基本的にはカラッポ。

 で、おもむろにキーボードを叩き始める。
まず日付を書く。
ラインを入れる。
しばらくすると、頭の中がモヤモヤし始める
そのモヤモヤが、急速にふくらんでくる。
ときに書きたいことが、怒濤のごとく押し寄せてくる。
あとは、それを文章にし、指先で叩き出していく。

 が、それはけっして、楽な作業ではない。
書いている間は、結構、神経を使う。
重苦しい。
憂うつ。
ときにそこへ怒りが混入してくることもある。

そう(怒り)。
それを感ずることが多い。
他人に対する怒り。
自分に対する怒り。
とにかく「怒り」。

 ときに緊張感が持続できず、意識がもうろうとしてくることもある。
しかし叩き出す。
頭の中のモヤモヤを叩き出す。

●爽快感

 では、なぜ書くか?
少し前だが、こんなことを言った人がいた。
「そんなこと(=原稿を書くこと)をして、何になるの?」と。
あるいは「人間、ものごとをあまり深く考えないほうがいいよ」とも。

 私に好意をもって、そう言ったのではない。
私をさげすんで、そう言った。
だから私は、こう答えた。
「便秘のウンチみたいでね。吐き出さないと、気分が悪くなるからです」と。

 実際、その通り。
頭の中のモヤモヤを叩き出したときの爽快感には、格別なものがある。
頭の中がスッキリする。
カラッポになる。
便秘の人が、1週間分の便をドッと出したときのよう……というたとえは、あまりよくない。
わかっている。
下品。
しかしそれに近い。

●インナー・トリップ

 ものを書くことの楽しさは、それだけではない。
だれもいない原野を歩く。
未踏の原野で、そこには荒涼たる世界が広がっている。
空もあるが、光はあっても、漆黒の空。

 「インナー・トリップ」という言葉を使う人がいる。
「心の旅」という意味でそう言うらしい。
が、私は「脳の旅」という意味で、そう言う。
(あまりちがわないが……。)

 脳の中の、あちこちを旅する。
それがおもしろい。
何があるかわからない。
だから、おもしろい。
が、ものを書く楽しさは、ここから始まる。

 ……だれもいない原野を歩いていると、ときに、その下にキラリと光るものを見つけることが
ある。
私はそれを「宝石」と呼んでいる。
それまでだれも知らなかったもの。
だれも手を触れたことがなかったもの。
それを見つけたときの喜びは大きい。

 あとはその宝石を拾いあげ、その宝石をみがいていく。
文にする。
それが「私」ということになる。

●死後の世界を生きる

 そういう意味で、私の頭の中には、「読者」というのは、いない。
率直に言って、もう、どうでもよい。
読んでくれる人がいれば、うれしい。
いなくても、構わない。

 「ものを書いて稼ぐ」という卑しい根性は、10年以上も前に捨てた。
「読者を意識して、媚(こび)を売る」という浅ましい根性も、10年以上も前に捨てた。
それよりも重要なのは、時間。
私に残された時間は、短い。
脳みその老化も、このところ、強く感ずるようになった。

 あと5年か?
長くて10年か?
10年といっても、瞬時。
そのことは自分の過去を振り返ってみれば、わかる。
私はもうすぐ満64歳になる。
54歳から、今日までの10年は、瞬時に過ぎた。
これからの10年も、そうだろう。

その間にできるだけたくさん、「私」を叩き出していく。
どうせ死ねば、「私」はこの宇宙もろとも、消えてなくなる。
そのあと、ひょっとしたら、私が書いた文の一部でも読んでくれる人がいるかもしれない。
そのとき私は、時空を超えて、その人と心をつながる。
私にとっては、それが「死後の世界を生きる」ということになる。

●いっぱしの作家気取り?

 ……とまあ、いっぱしの作家のようなことを書いてしまった。
「何を偉そうに!」と思っている人も多いはず。
そう、「はやし浩司」などという存在は、そこらのチリよりも軽い。
自分でも、それがよくわかっている。
だから余計に、「私は私」となる。
今さら他人の目など、気にしても、どうしようもない。
どうにもならない。
私のことを奇人と思おうと、反対に奇特な人間(実際、そう言ってきた人が何人かいる)と思お
うと、私の知ったことではない。

 「だれもいない原野を歩く」ということは、それをいう。
そこには、だれもいない……。

 ただし一言。

●五分の魂

 私は今まで、他人の文章をまねたり、盗作したことは一度もない。
もしそんなことをすれば、私の努力(=過去)のすべてが、水のアワ。
もしどこかで私が書いているのと似たような文に出会ったら、私ではなく、そちらの人間のほう
を疑ってほしい。
名もない、チリのような物書きだが、その心意気だけは、世界の大作家にも負けない。

 ……というか、最近の育児書の中には、明らかに私の文からの流用、盗作といったものが、
多い。
新聞広告の見出しを読んだだけでも、それがわかる。
そういうことが平気でできる人というのは、「文」に対する考え方が、私とは基本的な部分でち
がう。
言うなれば「金儲けの道具」として、「文」を利用している。
こういう言葉はあまり使いたくないが、私はそういう人を「軽蔑する」。
心底、軽蔑する。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
●10月25日(EUの経済危機)

 今朝は、何と、午前5時起き。
その少し前、蚊に刺されて目が覚めた。
しばらく天井を見て、おとなしくしていたが、そのまま起床。
そのまま書斎へ。

 このところ毎日の運動量をふやしている。
昨日は、ワイフと1時間、ウォーキング。
夜はサイクリング。
近く、大きな講演会がある。
怠(なま)けた脳みそでは、講演会はできない。

●EU経済危機問題

 一家にたとえるなら、こういうこと。
 
 E子さん(EU)家族には、10人の息子がいる。
E子さんの夫は、すでに他界。
E子さんには収入がない。
が、息子には、でき・ふできがある。

 いちばん年少の息子(十男=イタリア)は、のんきな性格で、ロクに働きもせず、遊んでばか
りいる。
趣味は、ヨット遊び。
借金がかさみ、破産寸前。

 そこでE子さんは、長男(ドイツ)と二男(フランス)に、十男を助けるように指示。
が、長男は、こう言った。
「すでに何100万円と貸しているが、一向に返してくれない。もういやだ」と。
とくに長男が、しぶった。
長男は、そこそこの働き者で、それなりに収入もある。
E子さん家族の中では、いちばんの金持ち。
乗っている車も、ベンツ。

●二男

 二男(フランス)には、もうひとつ大きな事情がある。
二男は、三男(イタリア)にも、長男よりも多額の金を貸している。
それだけでない。
二男は三男の連帯保証人にもなっている。
三男に何かのことがあれば、二男がその責任を負わねばならない。
が、その三男と十男は、一蓮托生。
隣同士で、同じ商売をしている。

 言い忘れたが、二男は農業を営んでいる。
裕福ではないが、ブドウ畑でそこそこの収入をあげている。
三男は、二男にこう言った。
「何とかして十男を助けてやろうよ」と。

●E子さんの決断

 そこでE子さんは、十男を除く9人の息子に、1人、100万円ずつ出すように言った。
計900万円。
このお金は、何とか、集まりそう。
それをE子さんが預かり、万が一のときは、そのお金を融通しあって、たがいに助ける。
助け方は、3つある。

(1)直接的に金に困った息子を助ける。

 が、この方法のばあい、900万円では、とても足りない。
十男は何とかなるが、三男は小さいが町工場を経営している。
もし三男が破綻ということにでもなれば、その倍の2000万円くらいが必要になる。
そこでE子さんは、こう考えた。

(2)みなに倍の、200万円ずつ出させる。

 100万円で足りないなら、200万円ずつにする。
が、これには、長男が反対した。
「母さん、甘やかすのも、いいかげんにしておけ!」と。
ほかの兄弟たちも、反対した。
「そんなお金、ナ〜イ!」と。

(2)E子さんが、利息の支払いの保証人になる。

 そこで第三の方法。
 
 たとえば長男や二男が、ほかの兄弟を助けるため、銀行から借金をしたようなとき、その利
息分について、E子さんが保証人になる。
あるいは一部を、立て替えて払う。
こうすれば、銀行から、より多額のお金を借りることができる。
が、元本は、そのまま。

 が、銀行側は、渋った。
「お金を貸すのはいいが、元本はだれが返してくれるのか」と。

 そこでE子さんは、銀行とかけあった。
「借金を、半額に棒引きにしてほしい。もし二男が自己破産するようなことにでもなれば、あな
たがには1円も返ってこないよ」と。

 が、銀行にも銀行の事情がある。
もしそんなことをすれば、信用を失う。
銀行の経営そのものが成り立たなくなる。
こうして3者(E子さん、ほかの兄弟たち、銀行)が、話し合いに入った。
「どうしよう」「どうしましょう」と。
兄弟の中には、「思い切って十男とは縁を切ろう」という意見を出す者もいた。
が、そんなことをすれば、家族の結束を誇ってきた、E家がバラバラになってしまう。

 十男(ギリシャ)が破綻すれば、三男(イタリア)もあぶない。
二男(フランス)もあぶなくなる。
こうしてE家の内部では、ああでもない、こうでもないという内部紛争(もめごと)がつづいてい
る。
が、E家の人たちは、もうひとつ、重要なことを忘れている。

 こうした(もめごと)は、E家全体の信用をなくす。
それまでほかの兄弟たちと取り引きをしていた人たちまで、E家全体を、要注意家族として警
戒するようになる。

 仮に今回の危機を何とか乗り越えたとしても、さらに大きな経済危機となって、E家を襲う。
あるいはその前に、ドカンと、全体がおかしくなる。
世界の金貸したちは、常に「先読み」をする。
「あの家、あぶないぞ」と。
そのウワサが出たら最後、E家全体が、破産する。

●国の危険度

 国の危険度は、たとえば、国債の利回りをみればわかる。
10月25日現在の、国債の利回りをみてみる。

イギリス・10年国債……2・554%
フランス・10年国債……3・300%(額面割れ)
ドイツ・10年国債 ……2・118%
イタリア・10年国債……5・927%(額面割れ)

 ギリシャ(十男)は、番外。
イタリア(三男)の利回りが、5・927%!
かなりあぶない。
あぶないから、利回りをよくしなければならない。
そうでなければ、だれも国債を買ってくれない。
それが、5・927%!

 今度の経済危機問題は、ギリシャではなく、本命はイタリア、それにつづくポルトガルというこ
とになる。

●そこで日本!

 長男と二男は、ズル賢い。
長男はその町内でも、「オオカミ」という異名をもつ。
長男は、こう言った。
「だったらさあ、あの金持ちをカモにしないか? 日本(ニチモト)の馬鹿だよ。あいつなら金を
出す」と。

 二男は、即、それに応じた。
「それがいい。あいつは少しおだてれば、すぐその気になる」と。
 
 そこで長男(ドイツ)と二男(フランス)は、ニチモト家に電話をかけた。
ニチモト家は、E子さんの家族から電話がかかってきたというだけで、大喜び。
「一人前に相手にしてもらえた」と、大喜び。
二つ返事で、「何とかしましょう」と。

 ニチモ家の懐(ふところ)には、たんまりと現金(ドル)がある。
プラスみな、経済音痴。
いろいろ災難はあったようだが、ほかの国よりは、マシ。

 ……昨日(10月24日)までの動きを追ってみると、おおかたそういうことになる。

●どうなるか?

 私たちが「どうなるか?」と心配しても、どうにもならない。
日本政府(=官僚)すら、アテにならない。
国民のことなど、何も考えていない。
年金問題ひとつ取りあげても、それがわかるはず。
「いかにすれば、外国で大きな顔ができるか」と、そればかりを考えている。

 となると、私たちの仕事と資産は、(あればの話だが……)、自分で守るしかない。
が、それをここに書くのは、私の管轄外。
いちばん確実なのは、タンス預金。
しかしタンス預金にしても、どんどんと目減りしていくだけ。
そのうち菓子パン一個、300円とか500円になる。

 ただひとつ気になっているのは、3・11大震災以来、バブル経済が始まっているということ。
地域によっては、土地の価格が5〜6倍になったところもあるという(新聞報道)。
何千万円という絵画が、飛ぶように売れ始めたという(新聞報道)。
温泉地でも、1万円前後で泊まれるホテルや旅館がある一方、一泊、10万円前後のホテルや
旅館がにぎわっているという(新聞報道)。

 震災直後、日本政府(日銀)は、30兆円という金を、市中にバラまいた。
それ以後、その額が100兆円になったと報道しているところもある。
銀行はあり余る資金を、どんどんと客に貸しつけている。
それがバブルを引き起こし始めている

 何やら恐ろしいことが、この日本でも起こりつつある。
……というか、メチャメチャ。
スタグフレーション※下の、ハイパーインフレ。
私はそんな印象をもち始めている。

(注※)スタグフレーション……経済現象の一つ。stagnation(停滞)とinflation(インフレーショ
ン)の合成語。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【ドラ息子、ドラ娘症候群】

●子どもの堪忍度

++++++++++++++++++

許容度でもよい。
寛容度でもよい。
許認度でもよい。
わかりやすく言えば、「やさしさ」。

ともかく、相手をそのまま受け入れ、
それを認める度量のことを、「堪忍度」という。

この堪忍度は、相手への「想い」によっても
異なるが、それが広い子どももいれば、
そうでない子どももいる。

そうでない子どものことを、昔は、ドラ息子、
ドラ娘と呼んだ。

ささいなことで、相手を好きになったり、
嫌いになったりする。
とくに(嫌いになる)部分がはげしく、露骨。
それを平気で態度で示したり、言葉で
示したりする。

+++++++++++++++++

●思春期

 Mさんという中学1年生の女子がいた。
私が強制的に退塾を命じた、数少ない生徒の1人だった。
頭は切れ、学校での勉強もよくできた。
市内の進学校に通っていたが、成績はクラスでも1、2番だった。

 そのMさんが、ある日、私にこう言った。
「私ね、老人を見ると、生理的な嫌悪感を覚えるのね」と。

「生理的な嫌悪感」という言葉が強く印象に残った。

 で、私が「その生理的嫌悪感って、何?」と聞くと、こう話してくれた。
「トイレでもさあ、便器にうんちがついていると、使う気しないでしょ。
あれと同じよ」と。

 私はそのとき50歳を過ぎていたのではなかったか。
そろそろ老人組を意識し始めたころである。
で、私が反発して、「君だって、いつかはその老人になるんだよ」と諭すと、こう言い返した。
「私は、老人には、ならない!」と。

 自己中心性も、ここまでくると、バカ。
頭の善し悪しではない。
ものの道理がわからないから、バカ。

●ドラ息子、ドラ娘

 このタイプの子どもは、昔(30〜40年前)には、少なかった。
いたとしても、裕福な家庭で、わがままいっぱいに育てられた子ども。
そういう子どもを、昔は、ドラ息子、ドラ娘と呼んだ。

 が、今は、ごくふつうの、ごく平均的な家庭の子どもでも、そうなる。
事実、そういう子どもは多い。
飽食とぜいたくの中で、自分を見失ってしまった。
好きか嫌いかと言われれば、私はそういう子どもが嫌い。
「こんな子どもに知恵をつけさせたくない」とさえ思う。
またそういう子どもにしないよう、努力している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以前書いた原稿を検索してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ドラ息子

 ドラ息子、ドラ娘には、つぎのような特徴がある。
もしこれらの項目のいくつかに当てはまるようなら、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘
とみてよい。
今はまだ体も小さく、あなたの保護のもとでおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの
手に負えなくなる。

(1)ものの考え方が自己中心的。
自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜ばせるためにいると考える。ゲーム
などで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。
あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。
約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成すること
ができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかける
ことができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え
方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。
他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼
児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(3) バランス感覚が消える。
ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。

また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
そういう姿勢が、子どもをますますドラ息子、ドラ娘にする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
もう一作、検索で見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ドラ息子、ドラ娘】

●甘やかしと、きびしさ

+++++++++++++

甘やかしと、きびしさ。一貫性の
ない親の育児姿勢が、子どもを
ドラ息子、ドラ娘にする。
甘やかしで、規範そのものが
崩れる。一方、アンバランスな
きびしさが、子どもを反抗的に
する。
わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、
キレる……。

+++++++++++++

 一方で甘やかす。しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。はじめは、小
さなすき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。(甘やかす)→(ますます
きびしく接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくなる。一貫性のない親の育
児姿勢が、子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。 
 このタイプの親には、共通点がある。

(1) 溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)
(2) 育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)
(3) 飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)
(4) 視野が狭い(目先のことしか、考えていない)
(5) 見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)
(6) 代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたい)
(7) 親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)

 これらの特徴と併せて、(8)一貫性がない。そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびし
く接したりする。A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。

 A君の父親は、もの静かな人だった。一方、母親は派手好き。裕福な家庭で、生まれ育っ
た。ほしいものは、何でも買い与えられた。

 A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。近くに祖父母もいて、A君の世話をし
た。A君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。

 母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えてい
た。A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。いや、するにはしたが、
とても手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげさに喜んでみせたり、ほ
めたりした。「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。

 が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。あと片づけをしない、ほしいものが手に
入らないと、怒りを露骨に表現するなど。母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。A君は、そ
れに泣いて抗議した。

 A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。夫の収入だ
けでは足りなかった。A君の母親は、実家の両親から、毎月、5〜8万円程度の援助を受けて
いた。夫には内緒、ということだった。

 A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。そのためA君の
母親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。そのころすでにA君は、オーバーヒート気
味だったが、母親は、それに気づかなかった。「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさ
せた。

 A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。好き嫌
いがはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。簡単なゲームをさせても、ルールを
守らなかった。そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえし
たりした。

 人格の完成度が遅れた。他人の心が理解できない。自己中心的。ほかの子どもたちとの協
調性に欠けた。幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをした
が、そうでないときは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。

 小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。そのころになると、母親にも
乱暴を繰りかえすようになった。母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。ものを投げつけることも重
なった。が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。学校の宿題をするだけで、精一杯。そ
の宿題すら、母親に、手伝ってしてもらっていた。

 ……という例は、多い。今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないと
いうこと。『溺愛は、親を盲目にする』。A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。

 こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処で
きる。アドバイスもできる。しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんに
は、問題があります」とは、現実には、言えない。言ったところで、そのリズム、つまり子育ての
リズムを変えることは、不可能。親にとっても、容易なことではない。そのリズムは、子どもを妊
娠したときから、はじまっている。そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。

 が、やがて行き着くところまで、行き着く。親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなく
なる。が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。「うちの子にかぎって……」
「そんなはずはない……」と、親は親で、がんばる。

 A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。小学5、6年になるころには、まさに王様。食事
も、ソファに寝そべって食べるようになった。母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届け
た。母親は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与え
ていた。「機嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。

 本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。が、A君
の父親は、静かで、やさしい人だった。家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。仕事か
ら帰ってくると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
 
 ……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに
気づくか、それが大切。早ければ早いほど、よい。できれば3、4歳ごろには、気づく。(それで
も遅いかもしれない。)

 というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。そのリズムを
変えるのは、容易なことではない。1年や2年はかかる。あるいは、もっと、かかる。さらに親自
身がもつ、子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。それこそ行き着くところまで行き、
絶望のどん底にたたき落とされないかぎり、親も、それに気づかない。

 ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのも
のを、もみ消してしまった。あちこちを回り、お金で解決してしまった。また別の子ども(高1男
子)は、無免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。そのときも、母親が、一晩で、事件
そのものをもみ消してしまった。
こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。で、やっとそのころになると、
自分の(まちがい)に気づく。それまでは、気づかない。ひょっとしたら、この文章を読んでいる
あなた自身も、その1人かもしれない。が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には
関係ない」と、無視する。これは子育てがもつ、宿命のようなもの。

 そこで教訓。

 あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。責めるべきは、
あなた自身。反省すべきは、家庭環境そのもの。あなたの育児姿勢。家庭のリズム。あなたの
人生観、それに子育て観。

 子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。なおるはずもな
い。この問題は、そういう問題である。

+++++++++++++++

ドラ息子、ドラ娘について書いた
原稿を、いくつか添付します。

+++++++++++++++

●子どもは、使う

 子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。
 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、
日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。
「ときどきホームステイをさせてやるのだが、料理の手伝いはしない、食事のあと、食器を洗わ
ない。片づけない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさな
い」などなど。つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームス
テイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われ
るような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状として
は、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1) ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。

(2) ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を
楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3) ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4) バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動す
ることができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。しかし一度この
時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省
する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」
とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつく
ってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん
が捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシー
で、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用
をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家
事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなく
なる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き
なことをしているだけ。

幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所の生ゴミを
始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛
玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。
こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのお
ばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、
こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれ
るのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして
も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える
力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき
ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋さ
んが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされ
ると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。

しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省
したほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わ
ったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。
さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の
草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと
をいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それ
が、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)生活感
のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなう
ことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困る
のだ」という意識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。(3)忍耐
力をつけさせるため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを守らせる。(5)不自由である
ことが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、(6)バランスのある生活
に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。

●子どもの金銭感覚

 年長(6歳)から小学2年(8歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感覚
は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期を
通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、100倍して考えるとよい。たとえば子どもの100円は、おとな
の1万円に相当する。1000円は、10万円に相当する。
親は安易に子どもにものを買い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってか
らの、1万円、10万円に相当する。「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を
満足すること」に慣れた子どもが、将来どうなるか。もう、言べくもない。

さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくなったが、それでも「高価なものを買って
あげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。より高価なものを買い与えることで、親
は「子どもの心をつかんだはず」と考える。

あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆
効果。それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子
ども(小2男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行
ってもらう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおく
れてしまう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。

最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによって、自分
のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容そのものが、昔とは違う。変質している。……
というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーンが出てきた。

援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。「どうしてそういう
ことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚そのものが、マヒしている。もって
いるものが、10万円、20万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。1000
円のものだろうか。それとも1万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与える
としても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その
前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。

どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。5、6歳の子どもに、1万、2万円のプレゼン
トをホイホイと買い与えていると、子どもが高校生や大学生になったとき、あなたは100万円、
200万円のものを買い与えなくてはならなくなる。

つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と度量が
あれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあなたの子
どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労するのはあ
なたではなく、結局は子ども自身なのだ。

●ドラ息子症候群

 英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。要する
にものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう例は、教育の
世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしな
いのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小3)
は、そんなタイプの子どもだった。

 口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。その
場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にかなわない
と、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってな
いようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。
バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。こ
うも言った。

「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地主で、そのと
きは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えることそのも
のが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっとほかに学ぶべき
ことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこともあった。

受験を控えた中3のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまった
のである。悪質な万引きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という
理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。そして彼
が高校二2生になったある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼ん
でいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」と。
そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその
万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった! とたん私は彼
に飛びかかっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を
狂ったように責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)

「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。が、M君の父親が、私を救
ってくれた。うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。「先生、よくやっ
てくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがとう」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ドラ息
子 ドラ息子症候群 スポイルされる子どもたち)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Mさんという中学1年生

 そのクラスに、かん黙児(中1)の男子がいた。
教室でもほとんどしゃべらなかった。
だれかが話しかけても、ニンマリと笑うだけ。
私は、その子どもを、それまでに2年間教えていた。

 が、時間帯のつごうで、Mさんが、その男子と同じクラスで勉強するようになった。
そのときのこと。
Mさんがこう言って叫んだ。
いっしょに勉強するようになって、数か月目のことだった。

「先生、この子(=緘黙症の男子)、キモイ!」と。
そしてその男の子に向かって、こう言った。
「あんた、何か、しゃべりなよ。黙っていたら、キモイでしょ。
しゃべれよオ〜!」と。

 私はその場で、Mさんを退室させた。
「お前のようなヤツは出て行け!」と。

●「出て行け!」

 この一件だけではなかった。
そのうち、私に対しても、ズケズケとものを言うようになった。
自分自身が、今で言う、軽いAD・HD児であることにも、気づいていなかった。

 指導しているとき、私がお茶を飲むと、すかさずこう言った。

「あんた、先生でしょ。お茶ぐらい、音をたてて飲まないでよ」と。
熱かったので、ズーズーと音を立てて飲んだのが、気に障ったらしい。

 ……ということが重なり、ある日、私のほうが、キレた。

「あのね、そんなにぼくのことが嫌いなら、この教室、やめてもいんだよ」と。

 その言葉がきいたのか、それからしばらくは、静かだった。
が、そのしばらくが過ぎると、また言い始めた。

 ……その内容を書くのが、ここでの目的ではない。
ともかくも、冒頭の会話になったとき、私は爆発した。

「出て行け!」と。

 今でもときどき、ワイフとの会話の中に、そのMさんが出てくる。
「あれは、すごい子だったね」「そうね」と。

 その後の消息は知らない。
私も聞かない。
勉強だけは抜群にできる子どもだったから、現代という世界では、それなりに成功していること
だろう。
が、ワイフはこう言った。

「ああいう子(娘)は、結婚できないと思うわ」と。

 もう10年以上も前の話だから、今ごろは、30歳近くになっているはず。
結婚できただろうか。
それとも独身のままだろうか。

 私はそのMさんの話になったとき、こう言った。
「お前がああだったら、1か月も無理だろうね」と。
つまり1か月で離婚だろうね、と。

 強く印象に残った子どもだが、二度と会いたくない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ドラ息子 ドラ娘 許容度 寛容
度 忍耐力)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【BW子どもクラブより】(はやし浩司 2011−10−24&25)

++++++++++++++++++++++++++

★お礼……私のホームページからのYOUTUBEへのアクセス数が、毎日、1400〜
1500件を超えるようになりました。
心からお礼、申し上げます。
ありがとうございました。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

より「公開教室」へおいでください。

2011/10/25記

+++++++++++++++++++++

●年中児の表情、動作、表現

 「サイレント・ベイビー」という言葉があります。
その延長線上に、「表情の乏しい子ども」がいます。
程度の差もありますが、表情がない、もしくは乏しい子どもは、全体の20%前後います。

 豊かな表情は、子どもの財産です。
うれしいときは、うれしそうな顔をする。
悲しいときは、悲しそうな顔をする。
それができる子どもには何でもないかもしれませんが、そうでない子どももいることは
事実です。

 欧米では、教育の場でも、子どもの表情(表現力)を重要視しています。
中学レベルになると、「ドラマ」という科目があることからも、それがわかります。
今回は、その表情の指導をしました。

(1)
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
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fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/_5tsu1gL6do?hl=ja
&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/fcsq0-oxQC0?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小3児に、立体模型を作ってもらいました。

 立体図の指導として、今回は、みなで宇宙船を作りました。
それぞれに宇宙線のパーツを作ってもらい、最後に組み立てました。
導入部をうまく指導すると、みな、夢中になって作ってくれます。

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/iCYxDDyCxSQ?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小1児に、円錐を作ってもらいました。

 箱作りは、小4レベルの学習ですが、今回は、1年生に円錐を作ってもらいました。
最初は、子どもたちに自分で考えさえ、自分で作らせました。
自分で円錐を作った子どもがいたのには、驚きました。
円錐は、小5〜6児でも、できない子どもは、いくらでもいます。
併せて、小1児の学習風景を、紹介します。
カメラは、後方にセットしました。

(1)
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&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【小1児&小2児と立体模型作りをする】+BW教室、ありのまま

●立体模型作りをしました。BWでは、「まだ教えてもらっていないから、できない」などと弱音を
吐く子どもは、いません。(教えない)ことを前提に指導しているからです。この指導法は、学校
での指導法の逆です。学校では、(まず教える)。つぎにそれを子どもたちに(まねさせる)。「学
ぶ」という言葉は、「まねる」という言葉からうまれていることからも、それがわかります。「失敗
してもいい。まちがえてもいい。まずやってみなさい」というところから、いつもレッスンをスタート
させています。(2011/10/27)

(1)小1児
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/agJ-oup1hF8?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)小1児
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fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(1)小1&2児
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)小1&2児
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

【ビデオ2作】(はやし浩司 2011−10−28)満64歳の誕生日に

●自宅(浜松市西区入野町)から、浜松市内まで歩く(途中からバス)

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/6f70zaroR1A?hl=ja
&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

●オーストラリアの友人を案内する(浜北区・森林公園内、森の家に一泊)
 10月26日&27日
 (奥山半僧坊を案内する。)

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/QHi-wPeNXOI?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【BW教室より】

●年長児に、「動物」を教える

(1)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/bHod0KM7OKQ?hl
=ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/9UMnX2b9lzY?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/4LUHZiAH2fk?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/ghBzb1cZ2WE?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 浜松市 入野町 浜松市西区入
野町)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●講演会の資料(10月29日)

++++++++++++++++++

今日の講演会で使う資料について、整理してみた。
で、改めて、私が説明を加えるまでもない。
「数字」が、すべてを語っている。

あなたはこうした数字を見て、どのように感ずるだろうか。
それが今日の講演会の骨子ということにもなる。

育児、教育は、今、大きな曲がり角に来ている。

++++++++++++++++++

【資料集】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人の貯蓄額

50代で、貯金額ゼロの人は、約30%もいるそうだ。
また60歳の定年退職時で、貯金ゼロの人は、50%もいるそうだ(F投信調査)。
どこかの証券会社が、そんな調査結果を公表している。


●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%

●男は仕事、女は家庭?(2008年、調査)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

読売新聞社(2008年8月27日)が公表した意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほど、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%

そうは思わない……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに
対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

●父親論

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私たちの老後

●1・2人で、1人の老人

 今朝のエッセーの中で、こう書いた。

『……この先何年かすると、1・2人の人が、1人の高齢者を支えなければならなくなるという
(週刊現代)。
試算によれば、2050年以後。
逆算すると、現在、現在25〜26歳の人が、65歳になるころということになる。
 が、常識で考えても、不可能。
つまり満足な老人福祉など、とうてい不可能。
(現在の今でも、約2・6人の人が、1人の老人を支えている。)……』と。

 今日は、一日中、この中の数字が気になった。
現在の今ですら、約2・6人の人が、1人の老人を支えている。
それがこの先(2050年)、約1・2人の人が、1人の老人を支えなければならなくなる。
2人の夫婦が、2人の老人を養う……というような単純な問題ではない。
医療費、介護費、生活費、すべてを含めて、1・2人に1人ということ。
が、そんなことは、常識で考えても、不可能。
実のところ私は、少子化が、そこまで深刻な問題をはらんでいるとは、知らなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家族崩壊

韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。見慣れない
ものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感することが、より重
要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。

この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。

「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。

●どう生きるか?

(ひとつの例)

●タイの大洪水の中で(TBS−iより、2011年10月29日)

『……川からの水がどんどん流れてくる中、まさにその上では屋台の営業が続けられていま
す。足元を流れる水をものともせず、屋台ではさまざまなおかずが売られていました。しか
し・・・

 「洪水がすごくて、店を開いてもお客さんが来ない」(屋台で働く人)

 積み上げられた土のうの間を流れて行く水。傍らのコンビニエンスストアでは従業員が必死
にバケツで水をくみ出していました。別の場所では浸水した道路へ網を投げ、魚を取ろうとする
男性が・・・。あちこちで同じような漁をする光景が見られました。こちらの女性、ボートの上でタ
イ風のソーセージを焼き、売っていました。
 「今までやってた仕事が(洪水で)やれなくなったからこの商売を始めたの。工場は全部休み
になったから」(ボートでソーセージを売る女性)

 水は日本人居住区にも迫りつつあります。……』(10月29日)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【私は私】「私とは何か?」(山荘の朝、居間で)

●山荘の居間

 こたつの天板の上には、昨夜飲んだ、チューハイの缶、ひとつ。
まだ半分、残っている。
ほかに、パソコンのモニター、ピーナツの袋、テッシュペーパー、お盆、それにメガネ・ケース。
無造作に散らかっている。

 コップにミネラル・ウォーターを注ぎ、それを飲む。
パソコンに電源をONにする。
時計を少し前に見たが、針は6時半を示していた。

 昨夜遅く、この山荘にやってきた。
着くとすぐ、ワイフは、DVDを見始めた。
私は、その横で、それをいっしょに見た。
星はつけようもないほど、つまらない映画だった。
途中で、ギブ・アップ。
猛烈な睡魔に襲われ、そのままふとんの中に。
寝たのは、午後11時ごろでは、なかったか。

●肉食

 まだ外を見ていないが、今日は、雨とか。
窓は薄暗く、外は静か。
鳥のさえずりも、コオロギの鳴き声も聞こえない。
ときどきやってくる、大きなあくび。

 昨夜食べたハンバーグが、腹の上のほうで、まだタプタプしている。
併せて食べた、エスカルゴがよくなかったかもしれない。
月に、1、2度、油っこいものを食べる。
そのたびに、腹の調子が悪くなる。

私の体は、90%が、ベジタリアン。
残りの10%が、肉食系。
肉類は嫌いではないが、どうも体に合わない。
胆嚢の機能が低下している?
自分では、そう思っている。
半年前にエコーで検査してもらったら、「胆石がありますよ」と。
ドクターは、そう言った。

 今日は、朝食を抜く。
昼と夜は、ソバ類。
今、そう決めた。

●脳(さて、本題!)

 ところで、昨日、こんな経験をした。
仕事に出かける前、私はこう思った。
「今日は、ヘルメットをかぶっていこう」と。
たしかに、そう思った。

 が、その出かける前、あれこれと雑務がつづいた。
教材を用意し、身支度を整えた。
その間中、私は、ヘルメットのことを忘れていた。
まったく忘れていた。
が、家を出る、その瞬間、私はヘルメットをさがした。
いつもなら勝手口の手すりに、それが掛けてある。
が、そこにはなく、床の下にころがっていた。

 私はヘルメットを拾いあげ、頭にかぶった。

●自転車 

 自転車にまたがりながら、こう考えた。
「雑務をしている間、『ヘルメットをかぶっていこう』という思いは、どこに消えていたのか」と。
脳のどこかに、記憶としては、あったはず。
しかし雑務をこなしている間には、それが脳から消えていた。
ヘルメットのことは、まったく忘れていた。

 が、家を出る瞬間、ヘルメットのことを思い出した。
床にころがっているヘルメットを拾いあげ、頭にかぶった。

●別の脳

 最近の脳科学によれば、私たちが(自分の意思)と思っている意思にしても、意識としてそれ
を認知する前に、すでに脳の別の部分が決定しているという。
もう少しわかりやすく説明しよう。

 たとえばあなたが台所へ行く。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、それを飲む。
あなたは一連の行為、つまり(台所へ行く)→(冷蔵庫を開ける)→(ペットボトルを取りだす)→
(水を飲む)という行為を、自分の意思でしたと思っている。
だれかにそう聞かれれば、あなたは、そう答える。
「私は私の意思で台所へ行き、私は水を飲んだ」と。

 しかしそれ以前に、・・・時間的なことはわからないが、30分とか1時間前に、すでに別の脳
が、一連の行為をするように決めているという。
ばあいによっては、5分前かもしれない。
が、そのとき、私という「私」は、まだそれを意識していない。
つまり私たちが自分の意思と思っているものにしても、その大半が、・・・というより、そのほとん
どが、すでに別の脳で作られている。
「もうすぐのどが渇く。お前は台所へ行って、水を飲んでこい」と。

 わかりやすく言えば、「私の意思」と思っているその「意思」にしても、別の脳に操られている
だけ。

●ウソ発見器

 ひとつの例としてよくあげられるのが、ウソ発見器。
いくら言葉でウソを並べても、ウソ発見器は、別の脳の中の反応を観察している。
自分の意思では、その(別の脳)までは、ごまかせない。
だからウソ発見器は、ウソを見破ることができる。

 ・・・というふうに考えていくと、どこからどこまでが「私」なのか、よくわからなくなってくる。
ほとんどの人は、「私は私」と思って、行動している。
しかしそのほとんどは、別の脳がそれ以前に、勝手に決定している。
「私」という部分は、それに従って、行動しているだけ。

 先のヘルメットの話にしても、そうだ。
私は「今日は、ヘルメットをかぶっていこう」と、思った。
自分の意思で、そう決めた。
が、雑務の中で、そのヘルメットのことは忘れた。
「かぶっていこう」という意識さえなかった。

が、出かける瞬間、私はヘルメットをさがし、それを頭にかぶった。
それは私の意思だったのか。
それとも無意識のまま、別の脳に操られただけだったのか。

●レストランで

 昨日は、ほぼ1か月ぶりに、ハンバーグを食べた。
が、それとて、その意思は、昨日の昼過ぎには、別の脳が決めていたのかもしれない。
昨日は、朝食と昼食をかねたブランチを食べただけ。
しかも、いつもの半分。

 その一方で、このところ運動を毎日、2単位こなしている。
1単位は、30〜40分。
ランニング、ウォーキングマシン、それに自転車。
全身がひと汗、ザッと出る程度を、1単位としている。

 仕事に行く前から、空腹感があった。
たぶん、そのときすでに別の脳が、「今夜はハンバーグ」と決めていたのかもしれない。
私はそれを意識として、意識することはなかった。
が、別の脳は、そう決めていた。

 仕事が終わり、その帰り道。
私とワイフは、いつもの行きつけのレストランに寄った。
「何を食べる?」「何にしようか?」「ハンバーグにしよう」と。

●ワイフ

 今、雨の音が聞こえてきた。
雨あしが強くなった。
ボタボタと雨どいをあふれて落ちる水の音がする。

 秋の今ごろは、いつも、近くのスギ林の枯れ枝が、雨どいを塞ぐ。
雨どいを詰まらせる。

 ・・・たった今、ワイフが寝床から起きてきた。
「おはよう」と言ったようだったが、私は何も答えなかった。
めんどうだった。
「風呂はどうする?」と、ワイフが聞いた。
「うん・・・」と気のない返事。

 私はこうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。
それには理由がある。

●最後の砦(とりで)

 このところ自分の住む世界が、どんどんと小さくなっていくのを感ずる。
体力、気力、思考力、集中力・・・。
それらがどんどんと弱くなっていく。

 そこで私はいくつかのことを自分に決めた。
目標とか、そういった甘いものではない。
「義務」として、位置づけている。

 その第一。
どんなことがあっても、毎日、BLOGだけは、発行する。
週3回の電子マガジンだけは、発行する、と。

 BLOGについては、1日、10枚の原稿と決めている。
電子マガジンのついては、1回分20〜30ページと決めている。
それは言うなれば、私の最後の「砦(とりで)」。
この砦を打ち破られたら、明日の私は、ない。

 市内の自宅に帰るまでに、何としてもその10枚を書きたい。
・・・何としても、書きあげたい。

●性欲からの解放

 話を戻す。

 私の脳の中に、別の「私」がいる。
それが裏から、私を操っている。
そのことは、60歳を過ぎると、よくわかるようになる。

 ・・・というか、私は、55歳前後に、それがわかった。
その前後に、私は「男の更年期」というのを経験した。
医学的に実証されたものではないが、そのころ、急速に性欲の衰えを覚えた。
いや、性欲はあったが、「女体」への関心が、ほとんどゼロになった。

 たとえば週刊誌に載っているようなヌード写真を見ても、どれも肉塊にしか見えなかった。
ときに豚の脂身(あぶらみ)のように感じたこともある。
そのときのこと。
それまでの私が、いかに性欲の奴隷であったかが、わかった。
だから私はある日、ワイフにこう言った。

「今のぼくならね、女湯にだって平気で入れるよ。裸の女の人と、湯船につかって、平気で世間
話ができるよ」と。

 が、それはすがすがしいほどまでに気持のよい、解放感だった。

●性的エネルギー(リビドー)

 若い人たちに、いくらこんなことを言っても、理解されないだろう。
その渦中にある。
が、男性にしても、24時間、頭の中は「女」でいっぱいという人がいる。
そういう人にしても、自分が性欲に操られているだけとは思っていない。
自分の意思で、そうしていると思い込んでいる。
が、実際には、どの人もみな、別の脳で操られているだけ。
ついでに言えば、男がスポーツで目立ちたいと思うのも、女が化粧をするのも、別の脳に操ら
れているだけ。

 その原点にあるのが、性的エネルギー(フロイト)ということになる。
そのエネルギーが、脳の奥深くから、・・・最近の研究によれば、視床下部あたりから、パルス
信号として発信されているらしいが、そこから発信されている。

 このことは、ほかの動物を見れば、わかる。
動物だけではない。
植物にしても、そうだ。
どの生物も、生きる目的を、種族の存続に置いている。
種族の存続にはじまり、種族の存続に終わる。
残りのもろもろの行動は、言うなれば、「雑務」のようなもの。

●ドラマ

 が、だからといって、それが無駄とか、無意味とか言っているのではない。
それがあるから、人生も、また楽しい。
あの映画『タイタニック』にしても、もしジャックとローズがいなければ、ただの船の沈没映画。
沈没再現映画。
ジャックとローズがいたから、人々を感動させ、涙を誘った。

 人生も、また同じ。
私たちがもし、無機質なまま、種族の保存だけを考えて生きていたとしたら、そこからはドラマ
は何も生まれない。
もちろん感動も、生まれない。

 言い換えると、その「ドラマ」にこそ、生きる意味がある。

●予期せぬ変化

 先に、私は、私たちは別の脳に操られていると書いた。
それはその通りだが、その別の脳が、混乱するときがある。
たとえば別の脳が、その人の方向性を決めていたとする。
が、その方向性が、乱されたようなとき。

 それが他人との接触ということになる。

 「そろそろ喉が渇いてきた。台所へ行って、水を飲んでこい」と。
別の脳がそう決めていたところへ、突然、電話がかかってきた。
友人からの電話である。
「今、近くに来ているから、ちょっとそちらに寄る」と。

 とたんあなたは、行動計画を変更する。
「あと10分で、仕事の準備を終え、居間を片づけなければならない」と。
つまりそう考えたとき、あなたは別の脳の支配から、抜け出る。
あなたはあなたとして、行動を開始する。

 それを「ドラマ」という。

 やがて友人がやってきて、居間のソファに座る。
友人にお茶を出し、自分もお茶を飲む。
渇いたのどを、お茶でうるおす・・・。
ついでに友人のおもしろい話を聞いて、笑う。
それが「私」ということになる。

●生と死

 生と死。
それはだれにも、平等にやってくる。
が、「生」にしても、それは闘うもの。
闘って、勝ち取るもの。

 たとえば昨日も仕事から帰ってきてからすぐ、ウォーキング・マシンの上で30分、歩いた。
体というのはおもしろいものだ。
秋から冬にかけては、27分目に、汗がポタポタと下へ落ち始める。
正確に27分。

 もしそのとき、つまり仕事から帰ってきてから、こたつの中に座ってしまえば、それだけのこ
と。
しかし汗をかくことによって、細胞が活性化する。
そのあと、細胞のひとつひとつがプチプチとはじけるのが、自分でもよくわかる。
「生」は、そのあとやってくる。
つまり闘って、勝ち取るもの。
もちろん敵は、怠けた心。

●生きる意味

 私はEメールの署名のところに、こう書いている。
「Life is full of Dramas」と。
だれかの言葉だったが、だれの言葉だったかは、忘れた。
「人生はドラマでいっぱい」と。

 で、「なぜ生きているか」と聞かれれば、私は迷わず、こう答えるようにしている。
「ドラマを残すため」と。

 言い換えると、私がなぜ「私」であるかと言えば、そのドラマを残すからということになる。
別の脳に操られるままでは、ドラマは生まれない。
そこに「私自身の意思」を注入することによって、私は「私」を取り戻すことができる。
それがドラマということになる。

 さらに言い換えると、ドラマのない人生ほど、味気なく、つまらないものはない。
そのことは、10年を1日にして生きる老人、20年を1日にして生きる老人を見れば、わかる。
意味もなく、また意味を持たせることもなく、毎日同じことを繰り返している。
そういう人生からは、ドラマは何も生まれない。

●感動

 が、ドラマにも、軽重がある。
振幅の大小と言い換えたほうが、正確かもしれない。
さらにわかりやすく言えば、感動のあるなし。
感動の大きさが、ドラマのスケールを決める。

 近所の人に会い、立ち話をするのも、感動。
しかしその一方で、たとえばワールドカップで、ゴールを決めるのも、感動。
さらに言えば、喜怒哀楽の世界で、人を愛するのも、また憎むのも、これまた感動。
日々に葛藤し、もがき、苦しむのも、これまた感動。
そうした無数の感動を通して、私たちは身の回りに、ドラマを築きあげていく。

 それが「私」であり、生きる意味ということになる。

●ザマーミロ

 話が繰り返しになってきたので、この話はここまで。
今もはげしい雨が、外で降っている。
雨どいからこぼれ落ちるボタボタという音は、そのまま。

 気がつくと、ワイフがいつの間にか、私の横で眠っている。
動くものは、何もない。
いや、私がキーボードを叩くたびに、ペットボトルの水面が、かすかに、小刻みに揺れる。
それが蛍光灯の光を受け、チラチラと光を放つ。

 ・・・こうしてものを考え、キーボードで文にしているときだけ、私は私でいられる。
別の脳に支配されない、私。
きっと別の脳は、・・・もともと人間というのは、基本的には怠け者だから、こう叫んでいるにち
がいない。

 「せっかくの土曜日なのだから、横になって休め」と。

 が、私はあえて、それに逆らう。
逆らって、私は自分の意思で、私の文を、こうして書いている。
「ザマーミロ! お前の言いなりになってたまるか!」と。
別の脳に向かって、そう叫ぶ。
それが私にとっては、楽しい。

(はやし浩司 2011−10−22記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司

【今日、あれこれ】

●放射線物質汚染

 政府の発表で、どうしても納得できないのが、これ。

茶葉から規制値を超えた放射線を観測したとき・・・「お茶でも、飲むときはお湯で薄めるから、
問題ありません」、
乾しシイタケから、やはり規制を超えた放射線を観測したとき・・・「乾しシイタケだから、料理し
たときには水分で薄められるから、問題ありません」と。

 つまり「濃度を薄めれば、問題なし」と。

 その延長線上にあるのが、表土のすき返し。
放射線物質で汚染された表土と、その下の土とを入れ替える。
それを「除染作業(?)」という、と。

●非論理

 どうしてこういう非論理的なことを言うのか、私には理解できない。
土を入れ替えるといっても、それは土をかき混ぜるだけ。
わかりやすく言えば、濃度を薄めているだけ。

 お茶にしても、10倍の水で沸かして飲めば、濃度は10分の1になる?
乾しシイタケにしても、料理にして食べれば、濃度は何分の1かになる?

 いくら濃度を薄めても、その分だけの放射性物質は、体内に取り込まれる。
いくら土の汚染濃度を薄めても、放射性物質は、そこに残ったまま。
どうしてそれを「除染」というのか。

 もしこんな非論理がまかり通るなら、規制値など、必要ない。
こう言えばよい。
「魚でも野菜でも米でも、みんな水で薄めて食べれば安全です」と。

●拡散

 この先、この日本では、大悲劇が始まるだろう。
福島の第一原発周辺の人たちだけではない。
東京都の人も、そしてこの浜松市の人も・・・。
がん性の病で、バタバタと人が死んでいく。

 「拡散」というのは、それをいう。
事実すでに、たとえば魚類にしても、約50%の魚から放射線が観測されている(日刊「ゲンダ
イ」紙・10・21号)。
とくに北海道方面から、南下してくる魚の汚染度が高いという。
この先、100%になるのは、もはや時間の問題。
 
 その一例を、日刊「ゲンダイ」からここに転載する。

●スーパーで検出された魚(日刊ゲンダイ紙より)

イオン店・・・茨城 イナダ(48ベクレル)
  カツオ(13ベクレル)
       千葉 カツオ(22ベクレル)
       宮城 カツオ(14ベクレル)
          マイワシ(19ベクレル)(単位は1キログラムあたりの量)
(以上、日刊ゲンダイ紙より)

 この数値を見て、気がついたことがある。
たとえばカツオの放射線量をよく見てほしい。
茨城でも千葉でも、また宮城でも、放射線量が、13〜22ベクレルの範囲にあるのがわかる。
産地はそれぞれ、宮城、岩手となっているが、魚の産地ほど、あてにならないものはない。
水揚げした港が、産地となる。
仮に福島県沖で取れた魚でも、御前崎港と水揚げすれば、「御前崎(浜松)産」となる。

 で、こうして数値を並べてみると、イオンのばあい、同じ産地の魚を全国に流している疑いが
出てくる。
もちろんこの浜松でも、同じ魚が売られている可能性が高い。

 つまりこうして放射性物質は、全国に拡散されていく。
「私は浜松市に住んでいるから、だいじょうぶ」などと、高をくくっていると、たいへんなことにな
る。

 ちなみに他店におけるカツオの放射線量をここに載せる。

(参考)カツオについて

 イトーヨーカー堂  カツオ(8〜17ベクレル)
 ユニー       カツオ(8〜20ベクレル)
 ダイエー      カツオ(6〜15ベクレル)
 西友        カツオ(5〜11ベクレル)
(以上、茨城、千葉、埼玉、東京で測定)  

●正確な情報

 私たちが今、いちばん必要としているのは、正確な情報である。
イオンならイオンでもよい。
それぞれの魚に汚染度を、しっかりと表示してほしい。
あるいは店先に、放射線測定器を置いてほしい。

 売る側は、「風評被害」という言葉を使う。
しかし食べる側は、「健康被害」という。
この先予想される健康被害を考えるなら、風評被害など、何でもない。
健康被害は、「命」の問題。
風評被害は、「金(マネー)」の問題。

 風評被害程度のことで、ガタガタ言う方が、おかしい。

●大本営発表

 政府の立場もよくわかる。
今ここで、「日本は終わりました」と認めると、国そのものが、崩壊してしまう。
だからウソでも何でも、「日本はだいじょうぶ」という体裁を取り繕わなければならない。
今が、そのとき。

 だから政府(文科省)は、そのつど、放射線想定値を、低め、低めに発表する。
この手法は、あの大戦中の大本営発表と、何ら変わらない。

 あの大戦においても、軍国主義を先頭に立って推し進めたのが、ほかならぬ当時の文部省
であった。
本来なら学術の府として、良識を旗印に、国民を先導すべき文部省だった。

 今、文科省は、その愚を再び犯そうとしている。
政府側にべったりと寄り添い、政府側のつごうのよい情報だけを流す。
つごうの悪い情報は、必要最小限にして流す。
ウソまでは言わないが、本当のことも言わない。
その前に、どうして文科省なのか?
どうしてこうした発表をするのが、文科省なのか?

 サッカー賭博を始めたときも、そう感じた。
どうして文科省なのか?

●自分で守る

 ともあれ、自分の「命」は、自分で守るしかない。
「健康」ではない。
「命」。

 ・・・ということで、私も放射線測定器を購入することにした。
今まで迷ったが、最近は国産のもので、安価なものが手に入るようになった。
(従来は、中国製、ロシア製のものが多かった。アメリカ製については、入手が困難だった。)

 魚類はもちろん、口にするものは、自分で調べてから食べる。
またそれくらいのことをしないと、「命」は守れない。
死ぬのがこわいわけではない。
アホなことで、「命」を無駄にしたくない。
その報告は、今日の昼にでもできると思う。
(現在は、山荘にいて、ネットがつながらない状態にある。)

【追記】(放射測定器についての報告)

 放射線測定器について。
どの製品にするか。
それを選ぶのがむずかしい。

 その瞬間の空間の放射線を測定する製品がある。
しばらくONにした状態で、1時間あたりの積算量を表示する製品がある。

 が、私がほしいのは食品の放射線量を測定する製品。
しかしこちらは装置がおおげさで、価格も100万円前後。

 空間放射線量については、この浜松市では、必要ない。
多くても少なくても、今のところ、どこかへ引っ越すつもりはまったくない。
だから調べても無駄。

 どうしようか?、と、今も悩んでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司

●今日の雑感・あれこれ(はやし浩司 2011−10−30)

●セシウムの量

 福島第一原発の事故が起きた直後のこと。
私は原発付近の風の方向を調べた。
そのサイトを見つけるのに苦労した記憶がある。
が、やがて日本地図に、矢印が記されたサイトを見つけた。
それを見て、まず、ほっとした。
矢印、つまり風の方向が、海のほうに向いていた。

 その翌日も、そうだった。
その翌々日もそうだった。
ずっとそうだった。
当時はまだ気圧配置が冬型で、風は西から東に吹いていた。

 だから私は当時の日記に、こう書いた。

「日本は、風に守られた」と。
事実、その通りだった。

 このたび、フランス政府は、空中にただよう放射性物質の量から、つぎのような計算をした。

++++++++++以下、TBSーi(10・29)+++++++++++

 フランスの放射線防護原子力安全研究所は、福島第一原発から海に流出したセシウム137
の総量がおよそ2.71京ベクレルにのぼるという推計を発表しました。
東京電力は4月下旬の発表で福島第一原発から流出したセシウム137の放射能の総量を9
40兆ベクレルと推計していましたが、今回発表された数値はその30倍近くに相当します。
報告書は海に流出した放射性物質の量としては過去最大としています。

++++++++++以上、TBSーi(10/29)+++++++++++

 2.71京ベクレルと聞いても、ピンとこない。
放射線の世界は、単位がメチャメチャ。
メチャメチャだが、「東京電力の発表の30倍」という点については、へんに納得できる。
当初、あの連中は、ウソばかりついていた。

 が、やはり日本は、風に守られた。
もしそれだけの量が、仮に30分の1であっても、東、もしくは南に向かっていたら、東京はもち
ろん、この浜松市だって、人が住めなくなっていたかもしれない。
「海に流れたからよかった」というわけではない。
しかしなぜ原子力発電所が、海の近くに設置したかといえば、そうしたことも念頭に置いてのこ
とではなかったのか?

 だれもはっきりと言わない。
しかし本音を言えば、こうだ。
「万が一のときは、海へ流しましょう」と。
それが暗黙の了解事項になっていたことは、じゅうぶん、推察される。

 それにしても、2.71京ベクレルとは!
さっそく、チェルノブイリ事故のときの数値と見比べてみる。

++++++++++++以下、Nikkan Sportより+++++++++++

東京電力福島第1原発事故に伴う放射性セシウムの放出量は、日本の原子力安全委員会に
よる推計の3倍近くに達し、チェルノブイリ原発事故の4割を超すとの論文をノルウェーの研究
者らが27日までにまとめた。

大気物理学の専門誌に投稿され、結果が妥当かどうか専門家らが検証している。

 研究チームは、日本国内のデータや、核実験を監視するために世界中に設置された観測網
を利用し、事故発生から4月20日までに大気中に放出されたセシウム137は約3万6000テ
ラベクレル(テラは1兆)と推計。

原子力安全委員会は8月、全ての放射性物質57万テラベクレルのうち約1万1000テラベク
レルをセシウム137が占めると推計しており、これを大幅に上回った。

チェルノブイリの放出量は8万5000テラベクレル。

 放出量の19%が国内に、残りの大部分は海に落ちたとみている。

 また、日本政府の見方とは異なり、4号機の使用済み燃料プールから大量の放射性物質が
漏れたとの見解を示した。その理由として、4号機に放水を始めた直後から、放射性物質の量
が大幅に減ったことを挙げた。

++++++++++++以下、Nikkan Sportより+++++++++++

●チェルノブイリは、8万5000テラベクレル

 チェルノブイリ原発の事故では、8万5000テラベクレルの放射性物質が放出されたという。

 福島第一原発事故では、2.71京ベクレルだったという(フランスの放射線防護原子力安全
研究所)。

 ……ア〜ア、またまた「単位」の問題。

8万5000テラベクレル=8万5000x10の12乗=8万5000x1兆。
つまり
85000000000000000。

2・71京ベクレル=2・71x10の16乗x1億x1億
つまり
27100000000000000。

 これら2つの数字を並べてみる。
85000000000000000(チェルノブイリ)
27100000000000000(福島第一原発)

 最近、頭がボケてきたせいか、こうした計算ではよくミスを犯す。
もう一度、しっかりと計算しなおしてみる。

まちがいない……ということは、福島第一原発では、チェルノブイリ原発の事故の、約3分の1
の放射線が放出されたということになる。
これからの人的被害がそれに比例するとは思わないが、相当の被害が出るのは確実。
チェルノブイリと福島(東北地方)とでは、人口密度、そのものがちがう。
(もちろん東北地方のほうが、人口密度が高い。)
それを考慮に入れると、たとえ「19%」(Nikkan Sport)ではあっても、たいへんな量というこ
とになる。

 今からでも遅くないから、福島県の人たちを、全員、強制退去させるべきと、私は考える。

●「バカなやつ」発言

 韓国紙は、つぎのような報道を繰り返している(東亞日報ほか)。

いわく『19日、読売新聞など日本のマスコミによると、平野逹男復興相は18日夜、福島県二
本松市で行われた民主党参議院研修会で、「津波当時、(私の)高校の同級生のように、逃げ
ずに死んだバカなやつがいる」と話した。
まるで大震災の時、逃げられず津波に巻き込まれて死んだ人々がバカだという意味に受け止
められかねない軽率な発言だった』と。

 しかし、本当にそうか?

 韓国人だから、日本語の微妙な表現までは、理解できなかったらしい。
このばあい、バカだらか、「バカ」と言ったのではない。
「とても残念だ」という意味で、「バカ」と言った。
また発言をよく読むと、こうある。
「逃げずに死んだバカなやつがいる」と。

 逃げようと思えば、逃げられらのに、逃げなかった、と。
理由はよくわからないが、平野逹男復興相は、それを「バカ」と言った。
死んだ人を、「バカ」と言ったのではない。

 似たような表現は、日本語のあちこちに見られる。
「ぼくはバカを見たよ」とか、「彼はバカ正直だよ」とか。
韓国紙としては、日本の世論を混乱させたかったのかもしれない。
しかしこれは不発に終わった。

 韓国のみなさん、もう日本のことは、放っておいてほしい。
あなたがたは、あなたがたとして、どうか未来に向かって進んでほしい。
ああでもないこうでもないと、過去ばかりほじくり返して、どうなる?
過去だけではない、日本の政治家の発言までほじくり返して、どうなる?
ああ、いやだ!

●竹島問題

 数学の問題でも、答のある問題を解くのは簡単。
しかし「この問題は解けません」ということを証明するのは、至難の業。

 私が中学生のとき、数学の先生が、こう教えてくれた。
「コンパスと定規だけを使って、5角形を描いてみなさい」と。

 そこで私は数日間、悪戦苦闘した。
そしてその先生にこう言った。
「コンパスと定規だけでは、5角形を描くことはできません」と。

 するといつもはやさしい顔の先生だったが、顔を真っ赤にして、こう言った。

「だったら林君、描くことができないということを証明してみせなさい」と。

 で、それからさらに何日か悪戦苦闘した。
結局私は五角形を描くことができなかった。
「五角形を描くことはできない」ということを証明することは、さらにできなかった。
 
 先生にそれを話すと、そのあと先生は、コンパスと定規を巧みに使って、五角形を描いて見
せてくれた。

 ……この話と、「竹島問題」は、どうつながるか。

 産経新聞によれば、『東京都教職員組合(都教組)が今夏の中学校教科書採択にあたり、教
員向けに各教科書を比較検討した資料の中で、日本固有の領土である竹島について「日本領
と言える歴史的な根拠はない」と、日本政府の見解を否定していたことが27日、分かった』と。

 その上で『竹島は尖閣諸島や北方四島と違い、「日本固有の領土」と言える歴史的な根拠は
ない』と断定している。

 が、これはおかしい。
つまりこの東京都教職員組合の論理はおかしい。

 先の数学の問題を思い浮かべてみてほしい。

 「日本の領土であると証明できる根拠はない」。
だから「日本の領土ではない」と。
つまり「証明できないから、日本の根拠はない」と。

 これは自分の能力を棚に上げ、「五角形を描くことができなかったから、五角形を描く方法は
ありません」と言った、あのときの私の論理と同じ。

 韓国側は、この記述に大喜び。
「日本は自ら、竹島(独島)を韓国の領土であると認めた」と。

 さらに和田春樹東京大学名誉教授は、つぎのように発言している。
なお和田春樹氏は、私が学生時代の政治学の恩師でもある。

 『日本政府は慰安婦問題について1965年の日韓請求権協定で解決済みとの主張を繰り返し
ているが、これでは韓国政府が求める外交交渉を拒否できない」と指摘。
続けて「独島問題は日韓関係に致命的な悪影響を与えている」として「慰安婦問題と共に議論
し解決方案を探す必要がある」と主張した』(2チャンネル・政治速報)と。

 和田春樹氏は、当時、週に何日か金沢大学やって来て、教壇に立っていた。
70年安保の真っ最中。
左翼系の教授として知られていた。

 この発言をとらえて、これまた韓国側は大喜び。
もっとも和田春樹氏は、「竹島が韓国のもの」とは言っていない。
それはわかるが、しかしこれも先の数学の問題とからんでくる。

 ならば、韓国側が、「竹島は韓国の領土である」と証明してみせればよい。
あるいはそれができるのか?
韓国側はどうなのか?
韓国側にしても、『「韓国固有の領土」と言える歴史的な根拠はない』のではないのか?

日本側はかねてより何度も、国際司法裁判所で判断してもらおうと提案している。
それを拒否し、一方的に、つまりなし崩し的に既成事実化しようとしているのは、韓国側。
そういう現実を忘れ、「日本の領土であるという証明はできない」「だから日本の領土ではない」
「つまり韓国の領土である」という論法は、数学的に考えても、メチャメチャ。

 「日本の領土ではない」と証明するのは、至難の業。
「この数学の問題は解けません」というのを証明するのと同じ。

だからこそ、双方は、「私たちの領土です」という証拠を出し合って、議論をする。
それが正攻法というものではないのか。
それを裁定するのが、国際司法裁判所ということになる。

 さらに一言、付け加える。

 東京都教職員組合は、つぎのように述べている(産経新聞)。

 『……もし、この記述通り『竹島は日本固有の領土』『韓国が不法に占拠』という政府の一方
的な見解を学校で教えることになれば、『感情的なナショナリズム』を子供たちに植えつけるこ
とにもなりかねない』と。

 あのね、ゼンゼンわかっていない。
感情的なナショナリズムで沸き立っているのは、韓国側。
言うべき相手がちがう。

 自分の家が泥棒に占拠された。
それを自分の息子たちの知らせると、息子たちが怒るかもしれない。
だから怒らせないよう、ここは黙っていよう、と。
私にはそんなふうに聞こえる。

 なお韓国側は、竹島で、ファッションショーまで開いている。

TBSーiは、つぎのように伝えている。

 「日韓両国が領有権を主張する竹島で韓国のデザイナーがファッションショーを開きました。
 28日、竹島で開かれたのは韓国のデザイナーによるファッションショーです。竹島の領有権
を主張する韓国の財団などが主催したもので、40人あまりのモデルが伝統的な韓国の民族
衣装に身を包み、およそ1時間にわたって行われました』と。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●朋有り、遠方より来たる。また楽しからずや。
「有朋自遠方来 不亦楽 」(論語)

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オーストラリアからの友人を連れ、今日は浜北にある、
樹香庵(森林公園内、森の家)へやってきた。
前から計画していた。
予約を申し込んだのは、2か月以上も前のこと。

台北での学会の途中、この日本に寄ってくれた。

++++++++++++++++++++++++

●入浴

 入浴は4時からだった。
着いたのは、ちょうどその少し前。
夕食前に……ということで、風呂に入った。
熱い湯だったが、気持ちよかった。
出ると、風邪が抜けていた。
よかった。

●L君の消息

 共通の友人にL君がいる。
そのL君の話になった。
私も、その友人も、もう30年以上会っていない。
「どうしたんだろう?」と。

友「Facebookに書き込みをしておいたが、返事がない」
私「Facebook……。つぎからつぎへと書き込みがあるから、いちいち返事を書くのがめんどう
になる。L君も、きっとめんどうなのだろう」
友「でも、ぼくなのだから、返事を書くべきだ」と。

 同じ学部だった。
友人は中国学科、L君は日本学科。
当時、メルボルン大学の東洋学部(オリエンタル・スタディズ)には、2つの学科で、10〜15人
しかいなかった。
その中のL君である。

●樹香庵

 樹香庵には、たびたび泊まらせてもらっている。
浜松の北では、イチオシの一軒宿。
(ただしお勧めは、樹香庵だけ。その理由は、あとで……。)
これだけの自然環境を、フルに利用した宿は、そうはない。
半径1〜2キロは、深い緑に、すっぽりと包まれている。
また高台にあって、眼下に、旧浜北市の市外を見下ろす。
とくに夜景がすばらしい。

 食事は、隣のレストランでとることになっているが、季節もよく、苦にならない。
書き忘れたが、私たち夫婦はその北隣にある別棟の一室に、部屋を借りた。

●夜景

 ……今は、午後7時39分。
5時半ごろレストランに入り、今までそこで時間を過ごした。
いろいろ話したが、少し疲れた。
日本語と英語を交互に使っていると、疲れる。
疲れるから、よけいに頭の切り替えができない。
「疲れたから……」と言って、早めに自分の部屋に戻ってきた。

 内障子を開けると、美しい夜景が目に飛び込んできた。
私は、それをそのままビデオに収めた。

●芸当

 二度目の風呂から帰ってきて、ワイフがこう言った。
「老後になって、こんなところに泊まれるなんて、幸せね」と。
珍しくワイフが、本音を漏らした。
めったに手の内を見せない。
自分の弱みを見せない。
そのワイフがそう言った。

 楽天的というか、ささいなことの中から、喜びを見出していく。
うつ病とは無縁の世界に住んでいる。
私にはできない芸当。

●満足感

 ……こういう幸せなときには、何を書いたらよいのかわからない。
頭の中には、甘い陶酔感が残ったまま。
書いて、自分の気持ちを吐き出したくない。
そんなブレーキが働く。

 ……といことで、今夜は、いやな予感を覚えながらも、午後9時半、就寝。

●ドンチャン騒ぎ

 レストランで夕食をとっているとき、東側に、15〜7人のグループ。
西側に、10人前後のグループが陣取った。
平日ということもあって、ともに、どこかの作業員?
私たちがちょうど到着するころ、同じようにしてそれぞれの車でやってきた。

 レストランでも、大声で騒いでいた。
傍若無人。
その人たちが、ちょうど私たちの部屋の上、つまり2階で、二次会を始めたらしい。
(それとも三次会?)
まさにドンチャン騒ぎ。
ギャーギャー、ドスン、バタン……。

 あとで知ったが、この「森の家」は、木造。
二階の騒動が、そのまま階下に伝わってくる。

 まずワイフが目を覚ました。
つづいて私も目を覚ました。
時計を見ると、午後11時。
30分ほどがまんしたが、ワイフがギブアップ。
フロントに電話をかけ、苦情を告げた。

 しばらくすると、少し静かにはなったが、今度は廊下をドカドカと歩き回る音。
やっと静かになったと思って時計を見ると、12時。
物音は、午前1時ごろまでつづいた。

●宿としては、最悪

 私たちはいつも樹香庵に泊まっていた。
先に、「イチオシ(一押し)」と書いたのは、その樹香庵をいう。
私たちが今夜泊まっている部屋は、別棟。
1階の106号室。

 「研修所」とあるところからもわかるように、「宿」にはならない。
壁は薄く、1階と2階を隔てる、天井も薄い。
「旅館」というよりは、巨大なバンガロー。
料金が安いのはありがたいが、それを勘案しても、失望感は大きい。

 つまり「宿」としては、最悪。
「のんびりと温泉に……」という雰囲気はまったくない。
「宿」として泊まるなら、樹香庵へ。
「二度と宿泊棟には、泊まらないぞ」と、心に決める。

●パソコン

 今、時刻は午前2時56分。
障子戸の向こうには、浜北の町が見える。
美しく、宝石のように輝いている。
私はこうして寝損ねて、パソコンを叩いている。
が、こういう時間は、嫌いではない。

 パソコンさえ手元にあれば、時間をもてあますということはない。
こうして好き勝手なことを書いていればよい。

●急性咽頭炎

 今朝、いつもの医院へ行くと、「急性咽頭炎」と診断された。
今朝、起きるとき、のどが痛かった。
で、そのとき2種類の薬を処方してもらった。
そのどれかが、体に合わないらしい。

 起きたときから、軽い不快感。
気持ちが悪い。
手の届くところに、水はない。
お湯もない。
眠りそこねてしまった。
こういうときは、自然体。
このまましばらく、思いつくまま、文を書いてみる。

●協議が行き詰る

 たった今、ニュースサイトを開いてみた。
ひとつは円が、とうとう1ドル=75円台に突入したという記事。
もうひとつは、バンコク全体が、浸水する可能性が出てきたという記事。

 75円台に突入したということは、EUの代表者会議が不調に終わったということ。
ついでにアメリカのダウ(株式)を見ると、午後2時現在、207ドル安。
Bloombergサイトで調べてみると、こうあった。

「10月26日(ブルームバーグ):第2次ギリシャ救済の一環であるギリシャ債保有者の損失を
めぐり、銀行団と欧州連合(EU)の協議が行き詰まり、話し合いは一時中断されている。EU当
局者が26日、明らかにした」(日本時間、27日、午前0時10分現在)。

 借金の50〜60%の棒引きを迫る、欧州連合。
それを拒否する、銀行団。
銀行団がそれに応ずれば、それぞれの銀行の格付けは、大幅にさがる。
あるいはデクシア(先日、経営破綻)のように、つぎつぎと銀行が破綻する。
応じなければ、EUそのものが、崩壊する。
両者ともに、引くに引けない、土壇場に追いつめられている。

 その結果が、1ドル=75円台ということか。

●日本は……?

日本とて、無事にすむわけがない。
今のところ「中断」ということだが、これが「決裂」ということにでもなれば、……?

 2、3週間前のある週刊誌(名前は忘れた)に、こうあった。
どこかの経済学者が書いたものだった。
「外債はすぐ売れ。金(ゴールド)は手放すな」と。

 すでにいくつかのメガバンク、証券会社の経営危機が取りざたされている。
「何とかなるだろう」と、もしあなたが思っているなら、それは甘い。
ギリシャはともかく、(というのは、ギリシャの経済規模は神奈川県程度)、イタリアやスペインと
なると、そうはいかない。
桁が2桁もちがう。

 それにしても、銀行は罪なことをしたものだ。
ほんの数年前には、銀行の窓口で、外債の購入を勧めていた。
うるさいほど顧客に勧めていた。
そういう勧めに応じて外債を購入した人たちは、少なくない。
今、例外なく、大きな損失を出している。

●バンコク

 バンコク全体が、浸水する可能性が出てきたという。
ニュースなどでは、土嚢を積んで防止しようとしているようだが、下水道などを逆流してくる水も
ある。
そういった水は、防ぎようがない。

3・11大震災前なら、こうした「ありえない事件」に驚いたが、今は、そうではない。
ありえないことが、つぎつぎと起こる。
日本のメガバンクや、1、2位を争う証券会社が経営破綻に陥っても、今は、驚かない。
バンコク全体が、水没しても、今は、驚かない。
ついでにEUが崩壊しても、今は、驚かない。

 もちろんそれを望んでいるわけではない。
できれば世界は平和であってほしい。
しかし同時に、3・11大震災とそれにつづく原発事故が、ただの悪夢であってほしかった。

 2011年……今年は、日本にとっては、たたり年だった。
大震災に原発事故。
加えてタイの大洪水。
それにしてもバンコクに、これほどまでに多く、日系企業が進出しているとは知らなかった。

(注:たった今、NIKKEI(日本経済新聞)サイトを見たら、1ドル=76円台に、またアメリカの株
式(ダウ)は、プラスに転じている。
少しだけ、ホッとした。)

●10月27日、満64歳

 暗い話はやめよう。
今夜は今夜。
ツゥナイト(tonight)。

 ワイフはやっと眠りについたようだ。
あの連中たちも、やっと静かになった。
今は、物音ひとつしない。

 今日は、10月27日。
私の本当の誕生日は、10月27日。
父が役所に届けるとき、まちがえて10月28日にしてしまった。
それで10月28日が、私の誕生日になってしまった。

 当時はそういう時代だった。
私の父は、またそういう人だった。

Happy Birthday to Me!

 はやし浩司、満64歳!

●自由と孤独

 自由と孤独は、ペアになっている。
よく子どもに、マッチングの問題を出す。

「テーブルと仲がいいのは?」と。
すると子どもたちは、「椅子」と答えたりする。

 では、「自由と仲がいいのは?」と聞くと……こんな質問をしても意味はないが、答は「孤
独」。

 自由であろうとすればするほど、孤独が襲ってくる。
孤独がいやだとするなら、自由を犠牲にするしかない。
人々は、その微妙なバランスを保ちながら、生きている。

●老後

 「私はどうだったか?」とよく考える。
「私はどう考えていたか?」と。

 私にも青年時代があり、壮年時代があった。
そのとき、私は老人の住む世界を、どう考えていたか、と。

 が、それがどういうわけか、ぼんやりとしたままで、輪郭が浮かび上がってこない。
言い換えると、私は、自分の老後はもちろん、老人の世界など、考えたことがなかった。
現在のほとんどの若者と同じように、「私は老人にはならない」と思っていた。

 無頓着。
無関心。
が、こう考えていた。
「老人というのは、死んで当然の人たち」と。
が、誤解しないでほしい。
「死ね」ということではない。
「老人というのは、その分だけ、死に近い人たち。
だから死ぬことに対して、心の準備もできている人たち」と。

 で、あるとき、恩師の松下哲子先生(幼稚園、元園長)にこう聞いたことがある。
そのとき松下先生は、84、5歳だったと思う。
「先生、年を取ると、死ぬのがこわくなくなりますか?」と。
すると松下先生は、こう言った。
「林さん、いくつになっても死ぬのは、こわいですよ」と。

●情

 老後といっても、人によっては、20〜25年もある。
1人の子どもが生まれ、成人するまでの年月に等しい。
長いといえば、長い。
その期間を、どう生きるか。
……というより、その準備をどうするか。

 脳のCPUそのものが、鈍る。
クロック数も落ちる。
が、だからといって、感情が鈍るわけではない。
むしろ逆で、喜怒哀楽の情は、むしろ繊細になる。
外界の刺激に対して、心がより敏感に反応するようになる。

 むしろ若い人たちのほうが、無神経。
前だけを見、前に向かって生きているから、横やうしろが見えない。
見えない分だけ、無神経。

●孤独

 老後の最大のテーマは、孤独ということになる。
どう、その孤独を克服していくかということ。
だからこの日本では、昔から、こう言う。
『老後は、庭いじりと、孫の世話』と。
しかしそんなことで、20〜25年は、過ごせない。

 孫の世話というが、言うなれば、時間つぶし。
勉強がいやな子どもが、フリ勉、ダラ勉するのと同じ。
やらなくてもよいような、簡単な計算問題だけをし、時間をつぶすのと同じ。
「人間関係」とは言うが、相手が孫では、その人間関係もできない。

 「老人は死ぬもの」と、子どもたちは考えている。
幼児なら、なおさら。
一度、こんな調査をしたことがある。

「おじいちゃんや、おばあちゃんが死んだとき、泣いた人?」と。

 当時、10人前後の幼稚園児にそう聞いたことがある。
が、結果は、みなさんの想像どおり。
「泣いた」という子どもは、ゼロ。
いても、1人いるかいないかという程度。
そのことは祖父母の葬儀の席で、はしゃぎ回る幼児を見ればわかる。

●基礎

 が、だからといって、孫の世話が無駄と言っているのではない。
要するに過度の期待と幻想はもたないこと。
孫の世話もよいが、ほどほどに!

 これは「依存性」の問題に直結している。
一度、その依存性が一方向性をもつと、それは常に祖父母から孫への一方的なものになる。
孫の側からすれば、「してもらうのが、当たり前」となる。
が、一度、その依存性ができると、それを是正するのは、ほぼ不可能と考えてよい。

 これは親子の間でも、同じ。
兄弟、親戚の間でも、同じ。
私たちはいつも、その限度をわきまえながら、生きる。
それがよりよき人間関係の基礎となる。

●もう寝よう

 時刻は午前3時30分。
「もう寝よう」と、今、思った。
眠気が襲ってきた。
それにしても、騒々しいグループだった。
「研修」とは名ばかり。
まさに忘年会。

 浜北森の家。
旅館としての利用は無理。
いや、ふつうの旅館なら、こういうヘマはしない。
女将なり、支配人が、注意する。
「静かにしてください」程度のことは言う。

 とても残念な一夜だった。
今日は軽く眠り、家に帰って寝直そう。

 2011年10月27日、朝、3時30分。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 森の家 森林公園 樹香庵)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●映画『ミッション:8ミニッツ』(mission:8 minutes)原題『Source Code』

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映画にも相性がある。
人によって、みなちがう。
自分の相性に合わないからといって、評価を
さげてはいけない。

たとえば戦争映画が好きな人が、ラブストーリー
ものを観るようなばあいを考えてみればよい。
もちろんその反対でもよい。

で、今日、『ミッション:8ミニッツ』を観てきた。
主演は、ジェイク・ジレンホールとミシェル・モナハン。
よかった!
おもしろかった!
星は文句なしの5つの、★★★★★。
私の相性と、ピタリと合った。

『シクス・センス』『マトリックス』『ミラーズ』
『インセプション』……につづく映画。
私はこの種の、つまり知的ゲーム風の映画が大好き。
思う存分、楽しませてもらった。

ただ最後の部分で大きな矛盾を感じたが、それは後の話。
映画館を出て、しばらくしてからのこと。
よくよく考えてみると、「?」、と。
そのときはそこまで深くは考えなかった。
ハハハ…で、終わった。
(「?」の部分は、どうか自分で判断してみてほしい。
映画を観てからのお楽しみ!)

ただし、先にも書いたように、映画にも相性というのがある。
楽しいと思う人もいるだろう。
反対に、つまらないと思う人もいるだろう。

私は『ミッション:8ミニッツ』を見終ったあと、
学生のころに観た、『惑星ソラリス』を思い出した。
(この映画には、リメイク版があるので、注意。)
あの映画で受けた衝撃は、今でも忘れない。
『ミッション:8ミニッツ』でも、同じような衝撃を受けた。
(映画慣れしたせいか、衝撃度は年々弱くなってきているが……。)

今週は新作が、あと2つある。
『三銃士』と『フェア・ゲーム』。
がんばって、2つとも観る。……つもり。
(私たち夫婦が頻繁に映画を観るのは、ボケ防止のため。
どうか誤解のないように!)

ところで今日は、昼前に映画館へ行った。
日曜日ということで、かなり混雑していた。
やはり映画は、ふつうの日(平日)に観るのがよい。
2011/10/30記

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●ウィルス・メール

 最近、ウィルス・メールが、ますます巧妙になってきた。
今朝も、1通、届いた。

あるBLOGサービス会社からの、連絡を装ったメールである。
差出人は、その会社名になっていた。
が、件名がいつもと違っていた。

 いつもは「〜〜さんが、あなたのBLOGを登録しました」で届く。
「〜〜さん」の部分には、相手のハンドルネーム(英文字)が書き込んである。
しかし今朝のには、その「〜〜さん」の部分に、日本語で個人名が書き込んであった。
「?」と思いつつ、そのまま削除。

 この種のメールの恐いところは、メール自体はふつうのもの。
何も仕込んでない。
ウィルス・チェックをかけても、素通りしてしまう。
が、メールを開き、「〜〜さんは、どんな人」というところをクリックしたとたん、どこかのサイトに
誘導され、そこからウィルスが侵入する。

 要するに、あやしげなメールは、削除、削除、即、削除。
迷わず、削除。
「何だろう」と思ったとたん、ウィルスにやられる。

●罪の意識

 実は、4、5年前に一度、この種のメールで被害を受けたことがある。
そのときは、ある友人のコンピューターが発信源になっていた。
その友人の名前で、メールが届いた。
で、いつものようにメールを開いてしまった。

 で、そのときのこと。
とたん、パソコンの動きがおかしくなってしまった。
私はあわててパソコンの電源を落とした。

そのあと、その友人に電話をかけた。
が、その友人は平然としたもの。
「ハハハ。あちこちから苦情の電話が届いています」と。

 率直に言って、これにはあきれた。
まるで罪の意識がない。
「ウィルス対策ソフトは使っているのか」と聞くと、「古いのを、ね」と。

 私は念のため、コンピューターをリカバリー(再セットアップ)した。
ご存知の方も多いと思うが、この作業が結構、たいへん。
めんどう。
冷や汗をタラタラ流しながらの、1日仕事になってしまった。

 友人のものからといって、安心してはいけない。
とくに相手が素人ぽい人のばあいは、要注意。

(私のばあいは、メインで使っているパソコンに、「?」のメールが届いたときには、別のパソコ
ンで、本人のものかどうか、確認することにしている。
いちばん困るのが、差出人がメールアドレスになっていて、件名がたとえば、「お元気ですか」
などとあるもの。
メールも手紙と同じ。
差出人のところには、自分の名前、件名のところには、相手の名前を書くべき!)

●FAX

 迷惑と言えば、FAX。
このところ毎日のように、FAXが届く。
広告FAXである。

 そのたびに感熱紙が、ザラザラと無駄になる。
(最近の機種では、必要なのだけをプリント・アウトすることができるというのもあるそうだが…
…。)

 で、そのつど、私は電話線を抜き取っているのだが、しばらくするとまたかかってくる。
そこで電話機自体がもっている「拒否機能」を使って、決まった電話番号からのものは、受け
付けないように設定する。
その機能を使うと、その相手からの電話を拒否することができる。
しかし敵も然る(=猿)者、ひっかく者。
たぶん大がかりな、FAX送信業者なのだろう。
番号も1つではない。
複数〜10数回線ももっている。
一方、私の電話機では、20件までしか、相手を登録できない。

 で、その広告FAXの広告主に電話をかける。
「こういうものは、送らないでほしい」と。
その電話代は、もちろん、有料。

 ……つまり広告を出すのは、相手の自由。
しかしたとえ1円でも、受信者側に負担がかかるような広告は、法律で禁止すべき。
つまりFAXを専門に流すようなサービス会社は、法律で禁止すべき。

 もちろん当方と何かの取り引きがある会社からのFAXは、別である。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●11月1日(火曜日)2011年

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今日から2011年、11月。
寒い朝。
軽い花粉症もあって、鼻水が出る。
空は、どんよりと曇っている。
低い雲。
鉛色の雲。
気分はあまりよくない。
……ということもあって、朝の運動は省略。
起きるとすぐガウンをはおり、そのまま書斎へ。

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●チンピラの喧嘩

 TBS−iは、つぎのような記事を配信している。

『5、6号機は深刻な事故は免れたものの、津波で押し寄せた海水や事故後に亀裂から流入し
た地下水が建屋の中に溜まっていて、東京電力では、この水を処理した上で、10月から発電
所の敷地内に散水しています。

 東京電力は「放射性物質の濃度は検出できない低さだ」と説明してきましたが、政府と東京
電力の統合会見では、この水の安全性について質問が相次ぎ、フリーの記者数名が繰り返
し、この水を飲むことを迫っていました』(TBS−i)と。

 そこで『細野原発担当大臣を補佐する内閣府の園田康博政務官が飲んでいるのは福島第
一原発5、6号機に溜まっていたとされる水です』(同)と。

 その場のやり取りがよくわからないが、「フリーの記者数名」(同)が、繰り返し、「だったら、自
分で飲んでみろ」と迫ったにちがいない。
そこで園田氏が、その水を飲んでみせた。

 が、この記事を読んで、何ともいたたまれない気持ちになった。
「飲め」と迫る「フリーの記者数名」。
それに応じてそれを飲む、「内閣府の園田康博政務官」。
陰湿かつ殺伐とした記者会見であったにちがいない。

 しかしこういう記者を、「バカ記者」という。
仮にそうであっても、つまり安全であっても、また安全でなくても、そんな水を飲めと、相手がだ
れであっても、迫ってはいけない。
それが人間がもつ、良識というものではないのか。
いくら相手が政府高官であっても、彼らもまた別のところでは記者たちとは変わらない、「1人
の人間」。
飲む瞬間に、「もういいです」「飲まなくてもいいです」と、どうしてだれも言わなかったのか。

 飲む側の園田康博政務官にしても、「それとこれは問題がちがう」と、どうして言えなかったの
か。
これではまるでチンピラの喧嘩。
「ガン(眼)をつけたな!」と因縁をつけるチンピラ。
それに応じて、金を払う通行人。

 そのフリーの記者数名は、自分たちなりの正義を押し通したつもりかもしれない。
が、やったことは、チンピラのそれと同じ。
低劣。
低レベル。
いくら記者の肩書きをもっていても、「フリー」。
そこらの通行人と同じ。
そんな通行人の要求に応じて、水を飲んでみせる必要はない。

もしこんなことで、通行人が相手を裁判し、罪刑を科していたら、それこそこの日本はメチャメ
チャになる。
記者にしても、責任を問うことはできても、相手をそこまで追いつめてはいけない。
同じ苦しみを分かち合う、仲間ではないのか。

言い換えると、今、日本人の精神構造は、そこまでガタついている。

 その記事を読んで、たいへん残念に思った。

●狂乱

 このところ連日、世界の株価が乱高下している。
ドルにしても、100〜200ドル単位で、乱高下している。
メチャメチャというより、狂乱状態。

 たった一日で、ささいなことに反応しては、乱高下する。
で、今回ほど、私は資本主義体制に疑問をもったことはない。

 たとえばヘッジファンドという、訳の分からない組織がある。
要するに、マネーそのものを、商品のように売買し、金を儲ける組織。
しかもそのやり口が、きわめて投機的。
バクチ的。

 今回もそうだ。
日本政府が「(円高に対しては)、断固たる措置を取る」と、繰り返し声明を出した。
が、ヘッジファンドの連中は、それをこう読んだ。
「近く、日本政府は円売り、ドル買いに走るぞ」と。

 そこでヘッジファンドは、世界中からドルを買いあさり、その日に備える。
日本政府が円売り、ドル買いに出たら、即座にドルを売る、と。
で、その日はやってきた。
昨日(10月31日)、日本政府(政府+日銀)は、円売り、ドル買いの為替介入に打って出た。
円は75円台から一気に、79円台に。

 中身はよくわからないが、日本政府のこの措置によって、ヘッジファンドの連中は、莫大な利
益を得たはず。
つまり、ここがおかしい。

 一日、こつこつとまじめに働き、1000円、2000円というお金を稼いでいる人たちがいる。
その一方で、一夜にして、100億円とか200億円とかを稼ぐ人たちもいる。
これを「狂乱」と言わずして、何と言う?
私たち庶民は、打つ手もなく、それに振り回されているだけ。

 で、今朝のニュースを読むと、アメリカの株価(ダウ)は、5日間連騰したあと、昨日は276ド
ルの急降下。
欧州債務危機問題が再燃。
アメリカのある銀行が経営破綻。
それで急降下。

 そこに「経済」という化け物がいる。
巨大な化け物。
化け物の気分は、毎日、コロコロと変わる。
昨日はニコニコ笑っていても、今日になると、豹変。
ささいなことで、カーッと怒り、ものを投げつける。

 そういう化け物とは、つきあわないほうがよい。
こちらまで気がヘンになる。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●浜名湖・弁天リゾート・The Oceanにて(2011年10月30日)

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料金は、1泊2食付で、1人6500円。
やる気度、本気度満点。
浜名湖周辺で、イチオシのホテル。
食事も、部屋も、申し分なし。
この部屋(5階の501号室)にしても、17畳もある。

……ということで、またまたやってきた、The Ocean。
「入野町の林です」と電話で言うと、フロントの女性が、「あら、林さん?」と。

……実を言うと、このホテルの経営者は、YSさん。
YSさんの2人の子ども(兄&妹)は、私の教え子。
私は、それぞれ4〜5年、教えた。
応援しないわけにはいかない。
が、そうしたひいき目を差し引いても、このホテルで文句を言う人はいない。
窓を開ければ、すぐ下に浜名湖が広がっている。

もしあなたが出張か何かで、もちろん旅行でもよいが、浜松市へと考えているなら、
The Oceanを選択肢に入れてみたらよい。
このホテルから浜松市内までは、車で20〜30分。
ビジネスホテル並みの料金で、旅行気分を味わえる。
はやし浩司の保証付き。

料理もよし、風呂もよし。
一流ホテル並みの食事(バイキング)を楽しむことができる。
風呂はやや小さいかなと思うが、清潔できれい。

ただし目下人気、急上昇中。
今夜は日曜日というのに、駐車場の空きを見つけるのもむずかしいほど、混んでいた。
フロントで、「今日は混んでいますね」と声をかけると、いつもの女性が笑いながら、
こう言った。
「今日は大入りです」と。
うれしそうだった。

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●K楼ホテル

 このホテルは、YSさんの経営。
このホテル東側に、数軒おいて、K楼ホテルというのがある。
以前は、そこによく泊まった。
そのK楼の前経営者が、MBさんだった。
MBさんの息子氏も、私の教え子だった。
その子どもは、幼稚園のときから、小学校を卒業するまで私の教室に通ってくれた。

 が、おかしなもので、その子どものことでよく覚えているのは、教室でのことではない。
その子どもが交通事故にあったときのこと。
市内の鴨江町に自宅があり、そこから自転車で教室へ通ってきてくれていた。
途中、なだらかだが、長い坂がある。
そこで交通事故にあった。
たしか右足の骨を折ったと記憶している。
その子どもが小学3年生くらいのときのことではなかったか。

 MBさんの息子氏といえば、その事件が強烈すぎて、ほかの思い出はあまり浮かんでこな
い。

 が、残念なことに、今は経営者が変わってしまった。

 そうそう、そのK楼ホテルでは、東京からの客を連れていくと、芸者踊りをサービスで見せてく
れた。
私はホテルや旅館で、芸者踊りを見たのは、後にも先にも、そのK楼ホテルで、だけ。
そういう世界とは、無縁の世界を生きてきた。
バーもキャバレーも、ついでにトルコ風呂も、生涯において数回しか行ったことがない。
どれも1〜2回行って、それで懲りてしまった。

●教え子たち

 幼児を教えるようになって、40年以上。
浜松は大きな町だが、たいていの人のことは知っている。
直接知らなくても、人と人の間には、つながりがある。
そのつながりを、ひとつ、ふたつとつなげると、たいていふたつ目くらいで、99%の人とつなが
りができてしまう。

 日本を代表する楽器メーカーや自動車メーカーの社長の子どもたち。
毎年、長者番付に名前を連ねる人の子どもたち。
ワールドカップの選手の子どもたち、などなど。
暴力団の親分の孫たちも、教えたことがある。
名前を出して恐縮だが、浜松医科大学の初代学長の息子さん、医療センターの院長の息子さ
ん、みな、私の教え子である。
浜松市内では、ほとんどの医院の子どもを教えた。

 が、私はそういう人脈を仕事に利用したことは、生涯において、一度もない。
またほかの生徒と区別したことも、一度もない。

●影武者

 私は自分では、「影武者」と思っている。
けっして表に出てはいけない影武者。
親たちにしても、そう考えている。
仮に目的の高校や大学へ入学したとしても、私や私の教室の名前が外に出ることはない。
だから「影武者」。

 しかしそういうニュースを耳にするたびに、「そういう子どもの方向性を作ったのは私」と思う。
自己満足かもしれない。
しかしそれは幼児教育を知らない人の意見。
私自身は、確信をもって、そう思う。
「私が方向性を作った」と。

つまり幼児教育というのは、そういうもの。
「たった週1回で?」と思う人もいるかもしれない。
しかし教育というのは、密度の問題。
ダラダラと5日間教えるよりも、週に1時間だけ、高密度のレッスンをすればよい。
子どもは、その1時間のレッスンを「柱」にし、ほかの5日間を組み立てる。

 たとえば私の教室に入会した子どもは、例外なく、翌週のレッスンを楽しみにする。
1週間の間中、「まだか、まだか」と親に催促する。
それを「柱」という。

●宣伝

 私の教室の宣伝ばかりになったが、しかし今さら「宣伝」などということは考えていない。
私も64歳。
生徒が多すぎても、困る。
あと何年、今の仕事ができるのか、それさえもおぼつかない。
願わくは、ピンコロ。
ピンコロだったら、明日でも構わない。
本気で、そう思っている。

 「林も、宣伝ぽいことを書くな」とは、そんなわけで、どうか思わないでほしい。
……とはいえ、この業界も、目下大不況。
そろそろ来年度の計画を立てなければならない。
競争相手はいないが、しかしジーちゃん先生は、この世界ではあまり人気がない。
そのうち加齢臭でもするようになったら、おしまい。
自分でも、それがよくわかっている。

●縁

 ところが最近、不思議に思うことがある。
心というのは、そういう点で通いあうものなのか。
最近、多くなったのが、OBの息子や娘さんたち。
そのOBについてだが、全員、私のほうもよく覚えている人たちばかり。
というのも、生徒によっては、1年もたたずして、名前も顔も忘れてしまう人も多い。
そういう人たちは、相手のほうも、私のことを忘れてしまうらしい。

 たとえば今、来ている生徒に、T君の娘さんがいる。
そのT君は、生涯において、殴ったことがある3人の生徒のうちの1人である。
T君が中学3年生のときのことである。
勉強に対して、すっかり自信をなくしてしまい、「ぼくはもうダメだ」と。
それで私はM君を裏庭へ連れていき、頬を思いっきり殴った。
「そんな弱音を吐いてどうする!」と。

 T君の娘さんの顔を見るたび、そのときのT君の泣き顔がその上にダブる。
こうしたつながりを、仏教では、「縁」というらしい。

●35歳

 そう、縁のある人は、縁がある。
いつまでも、その人のことを覚えている。
ない人は、ない。
そのまま静かに去っていく。

 が、私も男。
子どもの母親を、「女」としてみることがある。
(最近は、それがぐんと減ってきたが……。)
その母親の中には、声をかけるのも怖いほど、美しい人がいる。
そういう人は、当然のことだが、強く印象に残る。

 これは私のきわめて個人的な感覚だが、女性がもっとも美しくなるのは、35歳前後。
が、皮肉なことに、35歳を過ぎると、女性は満開時を過ぎた花のように、急速に枯れていく。
具体的には、バーさん顔になる。
言い換えると、35歳の女性というのは、花火大会で言えば、花火のクライマックスを飾るスタ
ーマインのようなもの。
ドカドカド〜ンと空に咲いて、そのまま散っていく。

 これについてワイフは、「30歳よ」と反論した。
しかし男性にとって、重要なのは、色気。
30歳というと、その色気がまだ未熟。
だからやはり35歳。

●以心伝心?

 しかし当然のことながら、母親というのは、全員、人妻。
そこにどんなに美しい人がいても、たとえて言うなら、その人は、ショーウィンドウに入ってい
る。
見るだけで、触ることはもちろん、心を通わせることもできない。
が、私が先に「不思議」と書いたのは、その先。

不思議なことに、本当に不思議なことに、私が「美しい人だな」と思った人は、私の教室を去っ
てからも、毎年、年賀状をくれたりする。

 やはりどこかで心が通いあうのかも、しれない。
以心伝心?
好意の返報性?

●肥満

 ところで最近、温泉は入るたびに、ひとつ気になることがある。
若い男でも、肥満体の人が目立つようになってきたこと。
肥満体といっても、ブヨブヨに太っているといったふう。

 先ほども2度目の入浴をすませてきたが、そこにいた男たちもそうだった。
ポテポテ……。
タプタプ……。
明らかに20代と思われる男たちである。
それでもそんなに太っている。

 先日、別の温泉で見た男などは、背は低かったが、相撲取りと思われるような太り方をして
いた。
やせて、細い人となると、5〜6人に1人くらい?
今は、そういう時代なのか。
やがて日本人も、メキシコ人やアメリカ人のようになるのかもしれない。

●異常(者)心理

 ところで心理学にも、表と裏がある。
光と闇と言ってもよい。
闇の心理学を「サイコパス」という。
異常(者)心理学ともいう。
つまり精神的に反社会的な人格をもった人は、ふつうの人には理解できないものの考え方を
する。
(何をもって「正常」といい、何をもって「異常」というかは、定義がむずかしい。
むずかしいというより、不可能。)

 最近買った本の中に、こんな例が紹介されていた。
(「最後のタブー」晋友社版)。

 たとえば……。

(1)ある女性がマンションの別の棟を見ていた。
そのとき、別の棟の一室で、1人の男が、1人の男性にナイフを突き刺していた。
   その女性は、殺人現場を目撃してしまった。
   「アッ!」と声を出すと、その男と目が合ってしまった。
   男は、その女性の顔をじっと見つめた。
見つめながらその男は、ゆっくりと指をさしながら、手を振った。

   (問1)なぜ、その男は、ゆっくりと手を振ったか?

(2)ある男が、1人の男性を、路上で殺した。
たまたまそこへ、別の男性が車で通りかかった。
その男は、車でやってきた男性を、外へ引きずり出すと、その男性も殺してしまった。

(問2)なぜ、その男は車に乗っていた男まで殺してしまったか。

 ふつうの人は、(「ふつう」という言い方には抵抗を感ずるが)、常識的な考え方をする。
たとえば(問1)であれば、「男は、今度はお前の番だ。そこで待っていろ」と合図したと考える
(同書)。
(問2)であれば、「殺人現場を目撃されたから」と考える(同書)。

 しかし異常心理学の世界では、別の答を用意する。
つまり心のゆがんだ人(=犯罪者)は、別の考え方をする。
たとえば、つぎのように考え、つぎの行動を開始する。

(問1)「向こう側の棟から、男は、つぎにその女性を殺すため、その女性の階を、指を使って
調べている」
(問2)「逃走に使うための車を手に入れるために、車の中の男性を引き出し、殺した」

(以上、「最後のタブー」(晋友社)より)

●子どもの世界でも

 子どもでも、心がゆがみ始めると、「死」「殺」「闇」に対して、強い関心をもち始める。
とくに「死」について、独特の考え方をするようになる。
印象に残っている子ども(小4男児)に、H君がいる。

 H君は、ふだんは静かで、おとなしい子どもだった。
従順で、言われたことには素直に従った。
勉強もよくできた。

 が、ある日のこと。
私はH君のノートを見て、驚いた。
そこには血を出してもがく人間、手足がちぎれ、頭蓋骨がむき出しになっている人間など。
ぞっとするような絵が、ぎっしりと描かれていた。
頭蓋骨の絵は、細部に至るまで、精密だった。

 原因や理由はいろいろ考えられるが、それを書くのが、ここでの目的ではない。
ここではそういう子どももいる……という程度に、理解しておいてほしい。
H君の描いている絵が、あまりにも現実の(?)H君とかけ離れていたため、私は驚いた。

●ゆがんだ心

 一度ゆがんだ心というのは、元には戻らない。
そう断言するのは、危険なことかもしれない。
そうであってはいけないということで、多くの人たちが「セラピー」という形で努力している。
しかし基本的には、元に戻すのは、たいへん難しい。
先にも紹介したように、それがその子ども(人)の心理の基本形を作ってしまう。

 たとえば「子どもの盗み」がある。

 多少の「盗み」は、どんな子どもでも経験する。
しかし心がゆがんだ子どもの「盗み」には、際限がない。
「このお金を盗んだら、家族が困る」というブレーキが働かない。
それこそ学校の給食費ですら、盗んで使ってしまう。
盗んだお金で、好き勝手なものを買い、自分の欲望を満足させる。

 大切なことは、そういう子ども(人)にしないこと。
親の異常な過干渉、過関心は、子どもの心をゆがめる。
イギリスの教育格言にも、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
慢性的な抑圧状態がつづくと、子どものものの考え方は悪魔的になる。
その延長線上に、ここに書いた「サイコパス」がある。
そう考えてよい。

 サイコパス……「性格が逸脱した、反社会的な人格のこと。
連続殺人犯、重度のストーカー、常習的詐欺師、放火魔、カルトの指導者の多くがサイコパス
に属すると考えられる」(同書)と。

「恐怖に関する感情が抜け落ちているのが特徴」(同書)ともある。

●もう1冊

 話題を変えよう。
不気味な話は、ここまで。

 もう1冊、本を買ってきた。
「大人のクイズ」(逢沢明著・PHP文庫)というのが、それ。
昔、TK教授の「頭の体操」という本があった。
それに似た本である。

たいへんおもしろい本で、1ページごとに、「チクショー」と思いつつ、読んだ。
「チクショー」と思ったのは、まちがえたり、解けなかったりしたとき。

 2つほど、紹介させてもらう。

(問35)

 ある人が、「私の父は、私の息子です。また、私の娘は、私の母です」と言いました。
 こんなことはありうるでしょうか。

(問21)

 ある町で、6000人の人、全員について、数学の試験を実施しました。
 その結果、足の長い人ほど、よい成績を取ることがわかりました。
 足の長さと成績の間には、相関関係があると考えてよいでしょうか。

●老化 

 このところときどき、脳みその老化を覚える。
サビついてきた。
自分でも、それがよくわかる。

 そういうときは、こういう問題に挑戦するのがよい。
そうでなくても、知識や経験、技術や知恵は、どんどんと消えていく。
集中力や思考力さえ、消えていく。

 が、中には、それにすら気づかない人も多い。
「私は利口」と、いつまでもその幻想にしがみつく。
努力しない。
そういう人は、やがてボケる。
皮肉なことに、「私はだいじょうぶ」と居直っている人ほど、あぶない。

 あの特別養護老人ホームにいる人たちにしても、なぜ自分が「特別」なのか、それに気づい
ている人は少ない(?)。

 で、先の問題の答。

(問35)

 「私は、成人した娘がいる未亡人と結婚しました。
ところが、私の父が、私の義理の娘に恋をして、結婚しました。
ですから私の父は私の義理の息子になり、私の娘が私の母になりました」。
「つづいて私の娘は、男の子を産みました。
それは私の孫です。
けれども、私の娘は、私の母でもあるのです。
その男の子は私の弟でもあることになります。
だったら、その兄である私も、私自身の孫なのです」(以上、同書要約)。

 人間関係を、紙に描きながらじっくりと読んでみるとよい。

(問21)

 「町の全員というと、赤ん坊や子どもも含まれています」(同書)。

 つまり6000人の中には、赤ん坊や子どもも含まれている。
数学の問題ができないのは当たり前。
だから全体として平均化すると、足の長さと成績との間には、相関関係があるということにな
る。

 秋の夜長を過ごすには、この種の本がたいへん役に立つ。

 ただし一言。
「大人のクイズ」(逢沢明著・PHP文庫)の表紙には、「京都大学助教授」という肩書きが載って
いる。
しかしこういうところに肩書きを並べるのは、「地位利用」ということで、欧米では40〜50年前
からきびしく禁じられている。
(「禁じられている」ということは、「自粛」ではなく、「禁止」ということ。)
日本でも、ここ20〜30年、ほとんど見かけなくなった。
が、この本には堂々と、それが載っている。

 PHPという大手の出版社が、「地位利用」という言葉を知らないはずがない。
「まだまだ日本は肩書き社会だな」と思った。
つまり「日本人は、まだまだ肩書きに弱いからな」と。
おもしろい本だが、「京都大学助教授」ともあろう人が、肩書きを並べてまで発表するような内
容のある本ではない。

●The Ocean

 The Oceanに泊まりながら、The Oceanの話を書かないのは、まずい?
しかしすでにこのホテルには、何度も泊まっている。
そのつど、書いていることは、同じ。

 こうしたホテルや旅館は、料金と照らし合わせて、良し悪しを判断する。
料金が高いホテルや旅館は、良いに決まっている(?)。
料金が安いホテルや旅館は、それなりに決まっている(?)。
しかしこと、このThe Oceanについて言えば、文句を言う人はいない。
料金は、このあたりのホテルや旅館の約半額。
2人で、1人分。

●気分転換
 
 気分転換というより、転地療法。
転地療法というより、転地刺激(?)。

 これはあくまでも私の老人観察によるものだが、老人が小さな世界にこもるのは、よくない。
こもったとたん、脳の老化は一気に進む。
「進む」というより、それまであった「種」が、急速に拡大する。
うつ病の気(け)があった人が、ひどいうつ病になるとか。
ボケ気味だった人が、本当にボケてしまうとか。

 だからあえて、外の世界に出る。
その「あえて」という部分が大切。
わかりやすく言えば、「気力」ということになる。
生きる気力を失ったら、そのまま死の待合室に、まっしぐら。

 だから老後というのは、気力との闘いということになる。
気力を、どう奮い立たせるか。

 で、私はつぎのような方法を考えている。

(1)仕事を手放さない。
大切なのは収入ではなく、仕事を中心にして回る生活感。
現実感。
緊張感。
だから最近の私は、こう考える。

 やがて収入よりも、家賃のほうが高くなる。
このまま行けば、時間の問題。
が、そのときでも、つまり赤字になっても、仕事はつづける、と。

 これには、もうひとつ、理由がある。

 私はよく「運動は、習慣の問題」と書く。
とくに私のばあいはそうで、どこかのスポーツジムへ通っても、長つづきしない。
最長で、10か月前後だった。

 しかし仕事があるからこそ、その仕事先まで、歩いたり、自転車に乗っていったりする。
途中で、「やめた」とは言えない。
どんなに寒くてても、また雨が降っていても、歩くしかない。
自転車に乗るしかない。
それが運動になる。
だから「習慣」。
運動は、習慣の問題。

 スポーツジムに通い、月謝を払うくらいなら、赤字でも仕事はつづけたほうがよい。

 その習慣があるかないかで、老後の健康は決まる。

(2)やりたいことは、即、実行

 「やりたい」というエネルギーは、「生きたい」というエネルギーと同じ。
脳の視床下部から発せられる信号に応じて、ドーパミンが分泌される。
そのドーパミンが、人間の欲望を司る。

 欲望をすべて「悪」と決めつけてはいけない。
老後は、とくに、そうである。
「旅行をしたい」
「ものがほしい」
「おいしいものを食べたい」
「人に会いたい」と。

 これらすべてが、そのまま生きる力、原動力につながる。
が、これがまた不思議なことに、あくまでも観念的な感覚だが、それをローソクの灯のように感
ずることがある。

 脳の中心部にローソクがあり、そのローソクが燃えている。
強い灯ではない。
かよわく、おぼつかない。
細々とした光。

 それがときどき力を失い、消えそうになることがある。
それが自分でもよくわかる。
だから、奮い立たせる……ということになる。

 ……実は、今夜もそうで、こうしてものを書いていても、気力がつづかない。
「こんなこと書いて、何になるのだろう」とか、そんなふうに考えてしまう。
「もう一度、風呂に入って寝ようか」とも。
言うなれば、脳の中のローソクが消えかかっている。

●精力

 先日、こんなことがあった。
いつもは冗談ばかり言っている知人である。
年齢は、私と同じくらいということしておく。
その人が、私の家に来て、真顔でこう言った。
その前に、「林さん、これは真剣な話だから……」と言った。

 聞くと、今度、何でも愛人ができたという。
20歳、年下の愛人という。
で、その愛人とときどき会っているのだが、どうもあれが、うまくいかないとのこと。
そこで「どうしたらいいか?」と。

知「林さんは漢方薬に詳しいと聞いている。何か、よい薬はないか」
私「東洋医学では、自然体を大切にしている。年齢相応の変化については、問題にしていな
い。あるとすれば、補養剤ということになる」
知「補養剤?」
私「そういうのは、いろいろある。東洋医学では、『精』というのは、栄養分をいう。食物から得ら
れる精微なる物質という意味。精力、精子に通ずる」と。

 ついでに言えば、私のばあいは、ニンニクが効く。
生ニンニクをすり、白いご飯に載せ、醤油を少しかけて食べる。
半日ほどで、ビンビンとしてくる。
ただしそのときは、ワイフにも、ニンニクを食べてもらう必要がある。
ともに臭いときには、ともに気にならない。

 それともうひとつ重要なことがある。
これは泌尿器科のドクターに教えてもらったことだが、あれというのは、一度刺激を与えると、
敏感になるのだそうだ。
たとえば一度、小便を強くがまんするようなことがあると、そのあと頻尿になるとか、など。

 同じように、たとえば一度ポルノグラフィック・DVDを観ると、そのあとつづけて強い性欲を覚
えるようになる。
あれが敏感になったため、そういう反応が起きると考えると、わかりやすい。
実際、若い人でも、倦怠感を乗り越えるために、その種のDVDを利用している人は多い。
「DVDをうまく利用してみたらどうか」と、私はその知人に提案してみた。

私「あとは、バイアグラかな?」
知「林さんは、使っているのか?」
私「まだ、ない。うちのワイフなんか、放っておいたら、1年でも2年でも平気というタイプだから
……」と。

●就寝

 こうして時間だけは、過ぎていく。
ワイフは横で、今、大きなあくびをした。
ぼんやりとした時間だけは、過ぎていく。

 ……またあくびをした。
今度は小刻みに、アッアッア〜、と。

 ……ということで、今日は、これでおしまい。

 今、ほしいもの。
TOSHIBAのウルトラ・ブック。
R631。
11月中旬、発売とのこと。
楽しみ。
「楽しみ」というのは、すぐには買わないということ。
ネットで追いかけると、1〜2か月後には、値段が20〜30%はさがる。
そのときを待って買う。

 が、それまでがまんできるか、どうか?
今の私には、自信がない。

 では、The Ocean、今夜は、ここまで!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 はやしひろし 子育て 育児論 子育て論 評論 はやし浩司 浜松市 BW
教室 BW子どもクラブ Hmamatsu-city Japan はやし浩司 サイコパス 異常心理 異常心理
学 はやし浩司 浜名湖弁天リゾート the Ocean ジ・オーシャン)


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【小学1年生に、掛け算を教える】

●今週は、小1クラスでは、掛け算をテーマにレッスンを進めました。
 にぎやかなクラスで、子どもたちとワイワイやりながら、教えました。
 学級崩壊寸前のようなクラスですが、たいへん楽しかったです。

(1)
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)
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&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(3)
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(4)
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●サイコパス(反社会性性格)Psychopathy

+++++++++++++++++++++

【問】

 A男氏は、45歳。
2人の息子がいる。
ともに高校生。
この10年以上、仕事らしい仕事はしていない。
親の残した遺産と、妻のパートの仕事で、何とか生計を立てていた。

 が、2人の息子が高校生になったところで、家計がパンク。
医師をしている遠い親戚のNさん宅を訪ねた。
「このままでは一家心中しなければなりません。助けてください」と。
シクシクと泣きながら、土下座までしてみせた。

 見るに見かねて、その親類は、「100万円くらいなら……」といって、現金を渡した。
それが15年ほど、前。
A男氏は、「ありがとうございます」「恩は忘れません」と何度も頭をさげ、その場を去っていっ
た。

 そこでクエスチョン。
あなたは、A男氏をどのように判断するだろうか。

●サイコパス

 『私たちはどんな悪人も、少しくらいは良心を持っているだろうと信じていると思います。しか
し、世の中にはそんな考え方が全く通用しない「サイコパス」と呼ばれる人間が存在しているの
です』(「サイコパスとは何か」サイトより転載)と。

 この一文が、サイコパスのすべてを語っている。
診断基準として、同サイトは、つぎの7つをあげている。

(1)口達者で、一見、魅力的。
(2)同情を引こうとする。
(3)無責任で問題行動が目立つ。
(4)責められると逆ギレする。
(5)非常によくウソをつく。
(6)感情が浅く、思いやりがない。
(7)衝動的に行動する。

 「ウソがうまく、泣いても空涙」。
「言葉はよく知っていても、心に響かない」などが、大きな特徴としてあげられている(同サイ
ト)。

 詳しくは、
http://www.psy-nd.info/
で。

 またウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

三省堂の大辞林によると「性格が逸脱し、そのために社会を困らせたり自らが悩むもの。性格
異常」とある。
連続強姦殺人犯、シリアルキラー(連続殺人者)や、重度のストーカー、常習的詐欺師・放火
魔、カルトの指導者の多くがサイコパスに属すると考えられている。
さらに、窃盗/万引き、ドメスティックバイオレンス、幼児虐待、非行少年グループ、資格を剥
奪された弁護士・検察官や医師、テロリスト、組織犯罪の構成員、金のためならなんでもやる
人間、悪徳実業家なども当てはまることがある。

サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け容赦
なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽くした
人を後に残して行く。

良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、
人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。
その多くは刑務所内にいるが、社会に出ている者もまた多い。
その大部分は殺人を犯すことなく自分たちの業を押しつけてくる。北米には少なくとも200万
人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいると、犯罪心理学者ロバート・D・ヘア(en:
Robert D. Hareは統計的に見積っている。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

 ついでに「はてなキーワード」の説明文も、掲載する。

『精神病質者の意。現在サイコパスという言葉は無く、反社会性人格障害(APD)と変更されて
いる。

サイコパスの特徴は極端に自己中心的で、慢性的な嘘つきで後悔や罪悪感が無く、冷淡で共
感が無い。加えて自分の行動に責任が取れない。

多くは脳の前頭葉に問題がある可能性が高く、ホルモン異常と考えられる。
それに加えて幼少時の虐待・生育環境の劣悪が重なりサイコパスとなる可能性が高い。
8〜9割のサイコパスは言語能力を司る認知機能に障害があり、通常左脳で行われる言語処
理が右脳で行われている。

一般的にサイコパスとサイコは同じ意味で捉えられている』(以上「はてな・キーワード」より)
と。

●サイコパスの自己診断

 自分がサイコパスであるかどうかは、つぎのところで自己診断できるようになっている。

http://www.psy-nd.info/diagnosis.html

興味のある人(心配な人)は、このサイトで、自己診断をしてみるとよい。

●問に対して

 冒頭の【問】を読んで、もしあなたが、「A男氏は、親戚の医師に感謝し、喜んでいる。A男氏
は、自分の家に帰り、息子たちにこう言うにちがいない。『あのNさんのおかげで、お前たち
は、高校へ通うことができる。恩を忘れるな』と。A男氏は、それからは定職につき、妻に毎月
給料を渡すようになったはず」と答えるようなら、あなたは、ここでいうサイコパスではない。(断
定はできないが、その可能性はほとんど、ない。)

 が、サイコパスは、そうは考えない。
「しめしめ、うまくだましてやった。あのバカ医師め。まんまとオレの空涙にひっかった。あんな
ヤツ、オレが土下座をすれば、イチコロよ」と。

●Nさん(医師)

 冒頭にあげた話は、実話である。
このあともたびたびA男氏は、親類の医師、つまりNさん宅を訪れている。
が、そのつど、ああでもない、こうでもないと言葉巧みに、Nさんからお金を引き出すのに成功
している。

 Nさんは、私にこう言った。
「何でも毎朝、毎晩、私の家のほうに向かって、家族全員で手を合わせて感謝しているというの
ですね。
でもね、私は仏様でも神様でもないから、そんな気味の悪いことはしなくていいって、言ってや
りました」と。

 が、A男氏の話は、すべてウソだった。
その証拠に、……というか、私はそれが証拠と考えているが、Nさんが亡くなったとき、A男氏
はもちろん、家族はだれも葬儀に来ていなかった。
「2人の息子は来ているだろう」と思って、Nさんの家族に聞いてみたが、息子も、そして妻も来
ていなかった。
A男氏というのは、そういう人間だった。

●サイコパス

 ……だからといって、A男氏が、サイコパスというわけではない。
しかし実際に、このタイプの人は少なくない。
もう一度、先に引用した文を読んでみてほしい。

 『私たちはどんな悪人も、少しくらいは良心を持っているだろうと信じていると思います。しか
し、世の中にはそんな考え方が全く通用しない「サイコパス」と呼ばれる人間が存在しているの
です』(「サイコパスとは何か」サイトより転載)と。

【サイコパスの診断基準】(DSM−IVによる診断基準)

●Psychopathy Checklist (PCL)

1 口達者/表面的な魅力
2 過去におけるサイコパスあるいは類似の診断
3 自己中心性/自己価値の誇大的な感覚
4 退屈しやすさ/欲求不満耐性の低さ
5 病的に嘘をついたり人を騙す
6 狡猾さ/正直さの欠如
7 良心の呵責あるいは罪悪感の欠如
8 情緒の深みや感情の欠如
9 無神経/共感の欠如
10 寄生虫的な生活様式
11 短気/行動のコントロールの欠如
12 乱交的な性関係
13 幼少期からの行動上の問題
14 現実的で長期的な計画の欠如
15 衝動性
16 親として無責任な行動
17 数多くの結婚・離婚歴
18 少年時代の非行
19 保護観察あるいは執行猶予期間の再犯の危険が高い
20 自分の行動に対する責任を受け入れることができない
21 多種類の犯罪行為
22 薬物やアルコールの乱用が反社会的行動の直接の原因ではない

●注意

 このサイコパスの診断基準について、つぎのような注意書きが添えられている。

『サイコパスチェックリスト」は専門家が使う場合でも相当に複雑な臨床診断の道具であり、自
分自身やそばにいる人をこれを使って診断してはいけない。この診断にはしっかりした訓練
と、正式な採点方法が必要である』と。

 安易な素人判断は、危険であるという意味である。

●善意の通じない人

 私のまわりにも、サイコパス(?)と思われる人は、少なくない。
あなたのまわりにも、ひょっとしたらいるかもしれない。
あるいはあなた自身が、そうかもしれない。
つまり善意の通じない人である。

 その人がサイコパスというわけではない。
しかし私もNさんに似たような経験を、いくつかしている。
「これだけのことをしてあげたのだから、相手はそれなりに感謝しているはず」と。親切にしてあ
げたほうは、そう思いがちだが、このタイプの人には、そうした(お人好し)は通用しない。
心そのものが欠けている……振り返ってみると、そんな印象をもつ。

 私の知人にMさん(女性、60歳くらい)がいる。……いた。

●Mさん(女性、60歳くらい)

 Mさんの第一の特徴をあげるなら、とにかくウソがうまいということ。
10のうち1つも、本当のことがない。
その場その場で、ペラペラと適当なウソをつく。
あまりウソが多いので、自分でも忘れてしまうよう。

 口もうまい。
近所の独居老人たちの世話をしている……みなに感謝されている……市から表彰されそうに
なったが、辞退した……先週も、ある独居老人のために、一日中、車であちこちへ行ってやっ
た……という話が、つぎつぎと口から出てくる。

 さらに近所の別の独居老人が死んだときには、自分が喪主になって葬儀をしてやったなどと
いう話もした。
しかもその内容が、詳細。
こっちらが聞きもしないのに、葬儀社との電話のやり取りまで話した。

 先にも引用したように、『言葉はよく知っていても、心に響かない』の通り。
ペラペラと話すが、真実味に欠ける。
「私は親切だ」「やさしい」とは言うが、そうした行為にあるべきはずの「温もり」が伝わってこな
い。

 そしてあとは、お決まりの同情論。
Mさんが、実の父親の介護をするようになったときのこと。
Mさんは毎晩のように親戚中に電話をかけた。
私のところにもかかってきた。
「あれがたいへん」「これがたいへん」と。

 実際に、親の介護はたいへん。
そういう意味でMさんの気持ちを理解できなかったわけではない。
が、同時にMさんは妹氏の悪口を、あれこれと言った。
「近くに妹が住んでいるが、見舞いにも来ない」「来ても10分足らずで帰ってしまった」などな
ど。
が、一度、こんなことがあった。

 私のワイフが、Mさんの妹氏のことをよく知っていた。
妹氏は、共働きで、父親の介護ができなかった。
そこでその代わりにということで、毎月10万円の現金を、Mさんに直接、届けていた。
そのことを私は知っていたので、ふとこう言ってしまった。

 「でも、妹さんもあなたと同じようにお父さんのことを心配していると思いますよ」と。

 この一言が、Mさんを激怒させた。
ふつうの激怒ではない。
錯乱状態に近い、激怒だった。
突然ギャーギャーと声を張り上げ、「あなたは他人の家族のことだと思って、勝手なことを言
う!」と。

 以来、私はMさんからの電話には、出ないことにした。

●離婚歴
 
 DSM−IVによる診断基準によれば、17番目に、「数多くの結婚・離婚歴がある」という項目
がある。
が、Mさん自身には、離婚歴はない。
(こうした診断基準は、あくまでも多数決的なものだから、みながみな、そうなるというわけでは
ない。)
しかしMさんの、2人の娘と1人の息子は、みな、離婚しているか、離婚状態にある。
離婚状態というのは、現在別居中ということ。

 Mさんの反社会的人格と、子どもたちの離婚と、どういう因果関係にあるかは、私にはわか
らない。
何かの影響を与えたということは、じゅうぶん、考えられる。
つまりMさんは、明らかに「温かい家庭作り」に、失敗していた。
3人の子どもたちは、そういう状態にありながらも、Mさんの家(子どもたちにとっては実家)に
は、寄りつかないという。

●劣悪な家庭環境

 医学的な見地で「サイコパス」と呼ばれている人は、(子どもでもよいが)、そういう点で、かわ
いそうな人とみる。
同情的な意味で、そう言うのではなく、「自分自身でもコントロールできない」という意味で、そう
言う。

原因としては、『幼少時の虐待・生育環境の劣悪が重なりサイコパスとなる可能性が高い』(は
てな・キーワード)とあることからもわかるように、乳幼児期の育児環境が第一に考えられる。

 というのも、私が知るかぎり、サイコパスは後天的なもの。
しかも幼児期に入るころには、その傾向がはっきりしていることがあげられる。

心の冷たさだけが、強く印象に残る。
やさしくしてあげても、それがスーッとどこかへ抜けていってしまう、など。
また空想的虚言(妄言)といって、頭の中に別の世界をつくり、それに基づいて、それをあたか
も事実のように話したりする。
一見、明るく快活だが、調子がよいだけ。

 このタイプの子どもがすべてサイコパスというわけではないが、(というのも、サイコパスと診
断されたケースはないので)、サイコパスの診断基準に照らし合わせてみると、このタイプの子
どもがなぜそうなのか、それがよく理解できる。

 ともあれこのサイコパスには、さらにいろいろな問題が隠されている。
たとえば私がよく使う『貧者の論理』『弱者の論理』『被虐待者の心理』など、総じてみると、(心
のゆがみ)の問題と、その底辺でつながっている。

 貧者にせよ、弱者にせよ、はたまた被虐待者にせよ、サイコパスもしくは、サイコパス的な症
状を示す。
が、それについては、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 サイコパス Psychopathy サイ
コパス診断 診断基準 反社会性性格 人格障害 異常心理学)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●友だちのできない子ども

【ある相談を考える】

【Q】

  今年小学生になった娘が、友達が出来なくて困っています。
  自分から話しかけたり、笑ったりするのが恥ずかしくて出来ない・・・
  そうなんです。
  最近では、学校へ行きたくないと言い出しました。
  今の所、登校拒否にはなっていません。
  「友達の作り方」って、あるんでしょうか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【A】

●友だち

 年齢的には、幼児期後期もすみ、児童期に入っています。
人格の核(コア)も、すでに完成しつつあるとみます。
つまり「この子は、こういう子」という(つかみどころ)ができているということ。
この時期に入ったら、鉄則はただひとつ。
「あるがままを認め、その上で、子育て(教育)を組み立てる」です。

 「友だちを作りなさい」式の人格を否定するような指導は、子どもをかえって崖っぷちに追い
込んでしまうようなことになりかねませんので、注意が必要です。
子どもの立場で、それを考えてみればよくわかるはずです。

●自己認識力

 小学1年生には、まだ自分を客観的に観察し、判断する能力はありません。
それができるようになるのは、小学3年生以上です。
「自分には友だちが多い」「少ない」とかいう、判断はできないということ。

 そんなとき親から、「もっとみんなと親しくなりなさい」などと言われても、困るのは子どもという
ことになります。
言い方をまちがえると、子どもは自信喪失から、自己否定、さらには心配しているような不登校
児に……ということにもなりかねません。

●人間関係は、密度

 人間関係は、密度の問題です。
その密度は、横軸を「幅」とするなら、縦軸は「深さ」ということになります。
「広く浅く」が必ずしも、理想というわけではありません。
そうでなくても、日本の学校は、昔から「すし詰め教育」と揶揄(やゆ)されています。
少なくとも欧米の基準からみれば、そうです。
たとえばオーストラリアには、「エアー・スクール」というのがあります。
無線で勉強する学校です。

 週に1度ほど、近くの学校に集まり、スクーリングを受けますが、そのときでも全学年で、20
〜25人程度です。
そういうところの子どもが、どこかヘンかというと、そういうことはまったくありません。
さらにアメリカでは、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で教育を受けている子ども)
が、推定で200万人を超えています。

 そこで大切なのは、「深さ」です。

 数は少なくても、その人と深く交際する、です。

●では、どうするか

 この時期、親ができることと言えば、各論でしかありません。
イギリスでは、『馬を水場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』と教えま
す。
子どもを馬にたとえるのは、日本では失礼な感じがしますが、イギリスではその逆です。
それはともかくも、各論です。

 たとえば子どもの友だちを呼んで、パーティを開くとか、反対に友だちの誕生日には、手作り
のケーキを届けるとか、など。
コツは、親同士が仲よくなるつもりで、相手の子どもをその中に巻き込んでいきます。
つまりそれが「水場」ということになります。

●10人に1〜2人

 実際には、集団にとけ込めない子どもというのは、10人に、1〜2人(小学低学年児)はいま
す。

 たいていは、心が開けない子どもというように考えて対処します。
自分の心を開放し、ワーッとその中に入っていけないわけです。
しかしこのばあいも、子どもの問題というよりは、乳幼児期の母子関係に問題があったとみま
す。
発達心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って説明します。
つまり母子関係の不全ということになります。

 子どもというのは、絶対的なさらけ出し(=どんなことをしても許されるのだというさらけ出し)
と、絶対的な受け入れ(=親は子どもがどんなことをしても、許すという受け入れ)の上で、基本
的な信頼関係を構築します。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味です。

 このタイプの子どもは、(孤独)と(集団での苦痛)の間で、はげしく葛藤します。
(おとなでも、そうです。)
(さみしいから皆の中に入る)→(しかし神経疲労を起こしやすい)を繰り返す。
こうした現象を、ショーペンハウエルという心理学者は、(哲学者ではない)、「二匹のヤマアラ
シ」という逸話を使って説明しました。

 ある寒い夜のこと。
二匹のヤマアラシは穴の中で、身を寄せ合って過ごすことにした。
しかし近づきすぎると、互いの針で痛い。
しかし離れすぎると、寒い。
一晩中、それを繰り返した……というのが、『二匹のヤマアラシ論』です。

●親の姿勢

 なおこの相談を読んで、それよりも気になったのは、親の育児姿勢です。
「子ども自身はどうなのかな?」という視点が、ないのが気になります。
子どもが「友だちがいない……」と悩んだのでいるのでしょうか。
(友だちがいる・いない)は、ひょっとしたら、親の主観的判断ではないでしょうか。
あるいはひょっとしたら、子どもは、集団生活が苦手で(=いやで)、悩んでいるのかもしれませ
ん。

 中には、対人恐怖症であるとか、そういった心の問題(回避性障害、自閉症、緘黙症など)を
かかえている子どももいます。
どれにしても子ども自身では、コントロールができない問題です。

 そういった問題を取りあげることもなく、頭から「どうすればいいか」を考えるのは、育児姿勢
としては、危険です。
最近では、子どもに何か問題があったときは、「子どもは家族の代表」と考え、家族全体の問
題として考えるようになってきています。
「子どもだけ何とかしよう」と考えるのは、危険というより、無謀です。

 「なぜそうなのか?」という視点で、ものを考えます。
「なぜ、そうなったか?」でもよいでしょう。
この親は、そういう視点で、子どもの問題を考えているでしょうか。
でないとするなら、過関心、過干渉ということになります。

●不登校児

 子どもがどの程度、集団から孤立しているか。
また心の問題が、どの程度なのか。
それがわかりませんから、ここでいきなり不登校児の問題を取りあげるのは、適切ではないか
もしれません。

 「学校へ行きたくない」と子どもが言うようであれば、親はまず聞き役に回ってあげます。
子どもの立場で、「そうね」「そうだよね」と言ってあげるだけでも、子どもの心は軽くなるはずで
す。
まずいのは、「学校とは行かねばならないところ」と考え、親自身がもつ固定観念(古風な常
識)を子どもに押しつけることです。

 ときにはズル休みも、よいでしょう。
私は自分の子育てで、そうしました。
平日に学校をズル休みし、動物園などへ連れていくと、どこもガラガラでした。
あのとき感じた解放感は、今でも忘れることができません。

●不登校は前兆をとらえる

 ジョンソンというイギリスの学者は、不登校、つまり学校恐怖症を3期に分けて考えています。
前兆期、パニック期、不登校期です。

 その前兆期に、子どもはさまざまな症状を示します。
頭痛、腹痛、脚痛、下痢、嘔吐などの身体的症状、ぐずりや、ふさぎこみ、グチ、無口、無言な
どの精神的症状などなど。
ほかにたとえば、食欲不振、不眠、早朝覚醒など。
こうした症状が慢性的につづくなら、要注意ということになります。

 が、もしそうでないなら、つまりただのグチとして、「学校へ行きたくない」と言うのであれば、よ
く子どもの話に耳を傾けてやることで、解決するはずです。

 ついでに言うなら、本当に行きたくないときは、「行きたくない」と直接的な言い方ではなく、
「友だちがいじめる」とか、「学校の先生がこわい」とかなど、別の言い方をします。
子ども自身が、(行きたくない)という気持ちと、(行かねばならない)という気持ちのはざまで、
葛藤するからです。
つまり自分の心をごまかしたり、正当化(合理化)したりします。

この葛藤が頂点に達したとき、パニック期を迎えます。
ある朝、突然、狂人のように暴れて、学校へ行くのを拒否する、など。

●あきらめる

 で、これが結論ということになります。
「あきらめる」です。
親としてできることにも限界があります。
一方、子どもには、子どもの世界があります。
今の段階で親ができることといえば、「温かい無視」と、「求めてきたときが与えどき」程度のこ
とです。

 子どもが学校から、疲れて帰ってきます。
それがわかったら、家庭では、思う存分、羽を伸ばさせてあげます。
温かい無視というのは、それをいいます。

また子どもが何らかの形で、甘えてきたら、すかさず、ぐいと抱いてあげる。
たったそれだけのことですが、それで子どもは、落ち着くはずです。
「求めてきたときが与えどき」というのは、そういう意味です。

小学1年というのはそういう時期です。
言うなれば、野原を飛んでいた小鳥をカゴの中に、押し込めたような状態。
子どもにしてみれば、たいへんなストレスを感じて、当然です。

 そこで子どもはそのストレスを解消しようと、大きくわけて2つの反応を示します。

 ひとつは外放型(プラス型)。
もうひとつは、内閉型(マイナス型)。

 外放型というのは、暴れる、騒ぐ……という方法で、ストレスを発散する方法をいいます。
内閉型というのは、内に引きこもり、身の安全を図る方法をいいます。
相談の子どものケースは、内閉型ということになります。

 なおあまり情緒が不安定であるようなら、白砂糖を断ち、カルシウム、マグネシウム、カリウ
ムの多い食生活に心がけます。
わかりやすく言えば、甘い食品や、肉類の多い献立から、海産物の多い献立に切り替えます。
それだけで子どもは、ぐんと落ち着くはずです。
1週間ほどで効果が現れてきますので、一度、試してみてください。

 最後に、「うちの子は、まあ、こんなもの」と、割り切り、繰り返しになりますが、あるがままを
認め、その上で家庭教育を組み立てていきます。
けっしてオールマイティな子どもを求めないこと。
だれにも、得意、不得意があります。

 正直に告白しますが、私自身も集団行動が苦手です。
旅行でも、ワイフと2人だけで、のんびりとしています。
余計なことですが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 集団にとけ込めない子ども 溶け
込めない子ども 友だちのいない子ども はやし浩司 友だちが少ない子ども 神経疲労を起
こしやすい子ども はやし浩司 IDOBATA こまち)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司※
 
【11月3日】

++++++++++++++++++++

昨日、映画『三銃士』を観てきた。
内容はともかくも、映像技術に驚く。
「ここまで進歩したか!」と驚くこと、
しばしば。
映像技術に感動し、星は文句なしの
5つ星の★★★★★。

++++++++++++++++++++

●三島市での講演会

 三島市での講演会の感想が届いた。
うれしかった。
協議会のみなさん、ありがとうございます。
当日は市長ならびに、教育長もおいでになるということで、
かなり緊張していました。
(講演は聞いてもらえませんでしたが……。)

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/71/imgdfe49791zik9zj.jpeg
" width="1169" height="923" alt="img220.jpg">

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/70/img10046a54zik0zj.jpeg
" width="1186" height="1577" alt="img219.jpg">


●ラジオ相談(広島県のみなさんへ)

 これから広島のラジオ局で、子育てQ&Aに出演することになっています。
電話での相談です。
「IDOBATA」という番組です。
広島県の方で、まにあうようでしたら、どうか、お聞きください。
午後1時〜(11月3日)です。

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●緊張する世界経済

++++++++++++++++++

世界経済が、極度に緊張している。
キーンと張り詰めた糸のよう。
目を凝らし、記事を読む。
息を詰める。
私のようなまったくの部外者でも、
経済ニュースを拾い読みしているだけで、
体がこわばってくる。

まさに今は、世界大戦前夜。
世界中が、今、ひっくり返るか返らないか。
その瀬戸際に立たされている。

+++++++++++++++++

●ヨーロッパ製はどこにある?

 ざっと家の中を見回してみる。
私の家も、そうだ。
あなたの家も、そうだ。
どこにヨーロッパ製のモノがある?

 何かないかとさがしてみるが、やはり、ない。
あるとすれば、ワインだが、最近は南米産のワインを飲むことが多くなった。
が、それでもさがしてみる。
食料品は、どうか?
飲料水は、どうか?

 私には縁がないが、あるとすれば、ドイツの高級車。
それだけは、今でも健在。
が、それを除くと、ヨーロッパ製のモノは、何もない。
本当に、何もない。

●アメリカでも

 7〜8年ほど前のこと。
アメリカに行った。
そのときのこと。
リトルロック(クリントン大統領の出身地)にある、ホテルに泊まった。
リトルロックの中でも、一流ホテルと呼ばれるホテルだった。
そこでのこと。
私は部屋の中のモノを見て、驚いた。

アメリカにありながら、アメリカ製のモノは、何もなかった。
テレビも、電灯も、時計も、すべて外国製。
洗面具もに至るまで、外国製。
かろうじてひとつだけあったのが、クロゼット。
見栄えだけは立派だったが、扉を開けて、これまたびっくり!
内側からはベニア板が、無造作に打ちつけられていた。
(あのクロゼットにしても、たとえばメキシコ製ではなかったか?)

 それを見て、私はワイフにこう言った。
「これじゃあ、日本では売れないよ」と。

●日本でも

 それから7、8年。
アメリカで見たのと同じ現象が、私の家でも起こりつつある。
あなたの家でも、起こりつつある。

 どれもこれも、みな、Made in China。
日本のブランド名をつけてはいるが、よくよく見てみると、Made in China。
が、まだ日本製がないわけではない。
あのときのアメリカほどひどくはないが、今、それに近い状況になりつつある。

●モノ

 私の経済学は、こんなところから始まる。
つまりヨーロッパには、もうその「力」はない。
アメリカにも、ない。
この日本にも、ない。

 で、アメリカがアメリカなのは、アメリカには軍事力があるから。
日本が日本なのは、日本が世界のサラ金国家になっているから。
産業の空洞化がよく問題になるが、貿易収支(モノの売買で稼ぐマネー)は、11%しかない。

 ……で、そうした視点で、ギリシアやイタリアをながめてみる。
「ギリシアやイタリアのものはあるか?」と。
フランスのモノでもよい。
が、ご存知のように、ギリシアやイタリアのものなど、どこをさがしても、ない。
フランスのモノといえば、装飾品や香水などということになる。
しかし必需品ではない。

●サラ金国家

 欧米先進国とは言うが、今ではそれが有名無実化している。
何をもって、「欧米先進国」というのか?

ヨーロッパだけではない。
アメリカにしても、衰退の一途をたどっている。
世界に君臨した軍事国家も、イラクから撤退。
アフガニスタンすら、制圧できないでいる。

 一方、この日本についても、ここ半年、銀行や証券会社は、軒並み大幅に株価を下げてい
る。
あちらで大損失、こちらで大損失。
サラ金国家も、いまや、風前の灯火。

 つまり今、世界中で、大シャッフルが起きつつある。
新旧交代?
わかりやすく言えば、「富の再配分」が始まりつつある。
今まで、欧米先進国と呼ばれる国々が、世界の富をあまりにも独占しすぎていた。
それほど働かなくても、楽な生活ができる欧米先進国。
働いても働いても、貧しいままのそれ以外の国々。
日本も、一応欧米先進国の一員だったが、戦後は懸命に働いた。
金(マネー)をためた。
その金(マネー)を世界中に投資することで、今の地位を築いた。

●自衛

 あくまでも私の経済学によれば、大恐慌は、もう避けようがない。
どういう形であれ、ギリシアは破綻する。
イタリアとフランスが、それにつづく。

 アメリカと日本も、その嵐に巻き込まれる。
日本でも、メガバンクの1つや2つは、つぶれるだろうと言われている。
大手の証券会社も、あぶない。

 ……ということで、私たち庶民は、自衛するしかない。
「あぶない」とささやかれている銀行や証券会社とは縁を切る。
こんな時期に、株や債権を買って儲けようなどというのは、まさに自滅行為。
正気の沙汰ではない。

 数日前も昼食時に、ある証券会社の前を歩いてみた。
株価も300円を切った、某証券会社である。
店頭には、「〜〜債」という大きな広告が張ってあった。
で、中を見ると、それらしき客が、若い女子店員の説明を受けていた。
知らぬが仏というか、私にはその客が、証券会社のカモに見えた(失礼!)。
ネギを背負ったカモ。

 少なくとも、証券会社の幹部には、そう見えるにちがいない。
……というのは、書き過ぎ。
それはよくわかっているが、今がどんなときぐらいかは、ほんの少しネットをのぞいてみれば、
わかるはず。

●11月4日

 先のところまで書いて、私はYOUTUBEをのぞいてみた。
昨夜、11時ごろのことだった。

まず飛び込んできたのが、「3号機は核爆発していた」という映像。
1号機の爆発との比較映像が収録されていたが、たしかに3号機の爆発はすごい。
茶色のキノコ雲が、目測で500メートル近くまで昇っている。
これに比較して、1号機のほうは、水平に爆発。
煙も白い。

 で、そのあとが悪かった。
ついでに……ということで、YOUTUBEの映像をつぎつぎと見た。
その中には、あの3・11大震災で、津波に呑み込まれる人々の映像もあった。
泣き叫ぶ人……。
「逃げろ」と大声を出し、走り回る人。
そういう人たちが、路上で、つぎつぎと津波に呑み込まれていく……。

 30分ほど、見ただろうか。
とたん、眠気が吹き飛んでしまった。
そうした映像が、脳に焼きついてしまった。

 一度床の中に入ったが、1時間以上も、眠れなかった。
で、起きて書斎へ。
やっと眠気を感じたのが、午前3時ごろ。
で、今朝は、午前9時半起き。
ワイフが心配そうに、「だいじょうぶ?」と聞いた。
私は「あまり気分がよくない」と答えた。

●電子マガジン

 書斎でパソコンを開くと、マガジン(11月4日号)が配信されていた。
それを読む。

 自分で自分の書いた原稿を読みなおす。

 みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司 
●11月5日朝(2011)
++++++++++++++++++

昨夜は、午後9時前に就寝。
その前夜、安眠に失敗。
寝る前に、大震災のYOUTUBEを見たのが
悪かった。
津波に呑み込まれていく人たちの、
生々しい映像がつづいた。
それを見て、ショックを受けた。
それがよくなかった。
あれこれ努力をしてみたが、午前3時過ぎまで、
眠れなかった。

で、昨夜は、睡眠時間は、3〜4時間。
それもあって、昨日は、最悪のコンディション。
1日中、夢うつつというか、フラフラの状態。

で、昨夜は、仕事から帰ると、風呂にも入らず、
そのまま就寝。
起きたのが、先ほど、午前5時。
スッキリというわけではないが、気分は悪くない。

+++++++++++++++++++

●御殿場

 近く、伊豆半島にある伊東市で、講演をすることになっている。
その帰り道、私とワイフは、御殿場にあるホテルに一泊する。
その予約を、昨日、すました。
ロッジの一軒家で、貸し切りの露天風呂がついているという。
楽しみ。
昨夜寝る前、ワイフがこう言った。
「x日は、晴れみたいよ」と。

●LibreOffice

 ワープロといえば、マイクロソフト社の「ワード(word)」が定番。
私も、すべてのパソコンにワードをインストールし、それを使っている。
が、このワード、値段が高い。
パソコンでも、それが組み込んであると、プラス2万円ほどUPになる。

 が、最近、メキメキと頭角を現してきたのが、「LibreOffice」。
「OpenOffice」の後継版だが、機能も進化し、動作も安定してきた。
もちろんワードの文章も、そのまま開き、編集もできる。
将来的には、LibreOfficeが主流になり、現在のワードに置き換わると予想されている。

……ということで、この11月から、ワードからLibreOfficeへの移行を始めた。
まだ本格的に使っているわけではない。
どこか恐る恐るというか、おっかなびっくり。

 ……というのも、ワード2003以前のバージョンであれば、問題なく使える。
が、ワード2007とか、2010で作成した文書のばあい、そのままでは使えないときがある。
そういうときはワード2007とか2010で作成した文書を、一度、ワード2003に変換しなおさな
ければならない。
変換した後、LibreOfficeで読み出し、編集する。

 が、何よりもすばらしいのは、無料ということ。
使っていると、「どうして無料?」と思うことが、しばしばある。
(だからおっかなびっくり?)
さらにLibreOfficeのすぐれている点は、そのソフトを補強するための、プラグイン(ソフト)が、
いろいろと用意されていること。
それをインストールすると、自分の好きなように、LibreOfficewoカスタマイズできる。
たとえば……、

日本語環境改善拡張機能……ワードのIMEに相当するフリーソフト
writer2epub……文書を電子書籍形式に変換するフリーソフト、などなど。

 現在、そのLibreOfficeを使って、この文書を編集している。
ワード2010→LibreOffice→ワード2010を繰り返しているが、今のところ、まったく問題な
し。

フ〜〜ン、それにしても、どうしてこんなソフトが無料なのだろう?

●次期、ノートパソコン(ウルトラブック)

 11月中旬に、TOSHIBAから、最薄、最軽量のパソコンが発売になる。
すぐ買うというわけではない。
1〜2か月もすると、値段がさがるはず。
それを待って、買う。

 ほかにもいろいろな機種を考えてみた。
AppleのMac・Airも、そのひとつ。
魅力的な機種だが、Mac・Airにすると、今までのソフトがすべて無駄になる。
周辺機器も、買いそろえなければならない。
……ということで、TOSHIBA。

●ついでにIP電話

 Skypeを利用すれば、テレビ電話が、無料で使える。
私もよく利用させてもらう。
それがさらに進化したのが、Skype5・5だそうだ。
まだ私は利用していないが、これを使えば、いわゆるIP電話が、使い放題、無料で利用できる
ようになるという。

 Skype社は、先般、マイクロソフト社に買収された。
つまりより安全、より使い勝手がよくなった……ということらしい。
近く、それを使ってみる。
つまり固定電話の時代は、終わりつつある(?)。

●YOUTUBE

 先ほど、YOUTUBEに動画を3本、UPLOADした。

【年長児・植物】

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/diSFe4Y9lJE?hl=ja
&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/l2uCOuRmuAg?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【仲間に入れない子ども】

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/raKg-VasMO0?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●日進月歩

 この世界も、まさに日進月歩。
何度も書くが、ついていくだけで、たいへん!
そこで私のばあい、(人生も短いこともあるが……)、手を出す分野とそうでない分野を、はっき
りと区別するようになった。
すべてに手を出していたら、それこそいくら時間があっても、足りなくなってしまう。
現在の私は、モノ書きに徹したい。
パソコン用語を使うなら、モノ書きに特化したい。

 あとはこの道、一筋。
おかしなたとえだが、夫婦生活に似ている。
結婚は、1回でこりごり。
妻は1人で、たくさん。
ついでに人生は、1回で、じゅうぶん。
その日が来てもうろたえないよう、日々を完全燃焼させる。
願わくは、ピンコロ。
それあるのみ。

 では、みなさん、おはようございます!
2011/11/05


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●野村證券研究(はやし浩司 2011−11−05)

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おととい、市内の地下街を歩いてみた。
その一角に、特設販売をしているコーナーがあった。
見ると、「福島産の野菜市」と書いてあった。
それを目ざとく見つけ、ワイフがこう言った。
「安いわ」と。

たとえばキュウリが2本で、50円など。
ほかにもいろいろあったが、値段は忘れた。

が、そのときのこと。
私の心が複雑に揺れ動いた。
「買うべきか、買わないでおこうか」と。
しかし目の前に立ちはだかる現実という壁を、
どうしても乗り越えることができなかった。
たとえその野菜は、規制値以下であっても、
放射性物質は蓄積される。
すでに産地偽造問題も発覚している。
大手のスーパーなどでも、約50%の魚が、
すでに放射性物質に汚染されているという。
キュウリだけですむ話ではない。

だから私はこう言った。
「やっぱり、やめとこう」と。

福島県の人たちが聞いたら、がっかりするだろうと思う。
その心情は痛いほど、よくわかる。
しかし買えないものは、買えない。

そこを去るとき、振り返り、特設販売会を見た。
通りを7、8人の人が歩いていたが、だれも立ち止まらなかった。
それを見て、私はもう一度前を向きなおした。
足早にその場を立ち去った。

++++++++++++++++++++

●CDS値

 週刊文春誌、最新号(10・20日号)によれば、日本の金融機関にも影響が及び始めたとい
う。

 名指しで経営危機が危ぶまれているのが、(1)「三菱UFJ」銀行(P24)。
(2)「野村ホールディングズ」(P25)。
ともにEU経済に、深く入りこんでいる。

 で、ここではじめて聞いた言葉が出てきた。
「CDS値」という言葉である。
週刊文春誌によれば、「経営破綻の危険度」を示す指標だそうだ。
(CDS……クレジット・デフォルト・スワップ)

 それによれば、モルガン・スタンレー銀行は、529ベーシスポイント。
この値は、リーマンショック時の値を超えているという。

(CDS値がどの程度なら危険かということは、よくわからない。
しかしモルガン・スタンレー銀行が、三菱UFJに買収されたときの値よりも、現在、モルガン・ス
タンレー銀行は、さらに高い値になっているという。
529ベーシスポイントというのは、そういう数字らしい。)

 ほかにバンク・オブ・アメリカが、458ベーシスポイント。
野村ホールディングズが、340ベーシスポイント。
三菱UFJは、モルガン・スタンレー銀行を、リーマンショックのあと、1兆円で買収している。
なおイタリアでは、主要金融機関のCDS値が、軒並み400〜600ベーシスポイントに上昇し
ているという。

●大本営発表

 私が韓国というより、野村證券に疑問をいだいたのは、つぎのような記事を読んだときであ
る。
その記事は、韓国の東亞日報に、紹介されていた。
(日本の新聞にでなく、韓国の新聞にだぞ!)
いわく、『野村證券の首席エコノミスト、クォン・ヨンソン氏は27日の記者懇談会で、「ファンダメ
ンタルの側面から見たとき、韓国はアジアで通貨危機発生の可能性が最も低い」と主張した』
(東亞日報・9月27日)と。

 そんはずはない。
 実はギリシャより危ないのが、韓国。
韓国政府は、「韓国経済は盤石である」というような大本営発表を繰り返している。
が、だれもそんな話は信用しない。

 『韓国の対外債務、4000億ドルに迫り、過去最高額を相次いで更新している』(中央日報・1
1年09月)と。
一般家庭債務も、「63兆円を越えた」(朝鮮日報)と。
4000億ドルだぞ!
63兆円だぞ!

 これに対して、韓国政府は、「各家庭の純資産も、その程度あるから心配ない」と、繰り返し、
応戦している。
が、その中身といえば、住宅バブル。
バブル資産。
そこへ来て、今回の大恐慌。
世界の新興国からの資金引きあげ。
韓国もそのひとつ。

 モノを売りたくても、売り先の国々の経済が収縮してしまった。
韓国政府は、「外貨準備もじゅうぶん」と豪語しているが、大半は現金ではなく、有価証券。
(外国からの借金)ですら、(投資)に組み入れてしまう国である。
数字のインチキは、し放題。

 が、それを救済したのが、日韓スワップ協定。
それについては、すでに何度も書いてきた。
ここでは野村證券に焦点をあて、考えてみたい。

 つまりIMFですら、「韓国は数か月以内にデフォルトする可能性がある」と発表した。
これに対して、野村證券は、「韓国はアジアで通貨危機発生の可能性が最も低い」と。
まったく正反対の意見を並べた。
この意見の乖離(かいり)こそが、私が野村證券に疑問をいだいた、突破口だった。

●大きくてつぶせない!

 ところでロイターは、つぎのように伝える。

++++++++++以下、ロイター+++++++++

 ……フランスのカンヌで開かれていた20カ国・地域(G20)首脳会議は4日、国際金融システ
ム上重要な金融機関(GーSIFIs)として世界の大手金融機関29行を指定した。
金融安定理事会(FSB)が公表したリストによると、内訳は欧州が17行、米国が8行、日本が
3行、中国が1行となっている。

これらの金融機関には、2016年から段階的に自己資本の1〜2.5%上積みが求められる。

 邦銀でG−SIFIsに指定されたのは、三菱UFJ、みずほ、三井住友の3行。
中国は中国銀行が指定された。
米銀ではシティグループゴールドマン・サックス、JPモルガン・チェースなどが含まれる。

++++++++++以上、ロイター+++++++++

 要するに、「大きくて、つぶせない」ということらしい。
が、ここに野村證券が含まれないのは、どうしたことか。
ロイター伝も、わざわざそう書いている。
「野村證券もうわさされていたが、今回のリストには含まれなかった」(同)と。

●株価

 そこで残るは、株価ということになる。
つまり経営状況はどうなのか。

 今年の最高値は、557円(2月17日)
最安値は、261円(10月4日)
昨日(11月4日)は、290円で今週の取り引きを終えている。
ヨーロッパの動向に敏感に反応しているところから、今は、ヨーロッパ次第というところか。

 ただ銀行と証券会社は、ちがう。
銀行はつぶれると、大きな波紋を広げる。
融資という形で、それぞれの地域の産業と深くかかわっている。
が、証券会社は、つぶれても、困らない。
あの山一証券の倒産劇のときのことを、思い出してみれば、それがわかるはず。
いくら「ガリバー」の異名をもつ野村證券であっても、つぶれるときは、つぶれる。
そのヒントは、「290円」という数字にある。

●なぜ?

 なぜ、野村證券は、韓国の経済を「安全」というのか。
「340ベーシスポイント」を、どう読んだらよいのか。
三菱UFJは、モルガン・スタンレー銀行を、リーマンショックのあと、1兆円で買収している。
つまり経営危機がささやかれているモルガン・スタンレー銀行と三菱UFJは、深く関わり合って
いる。
その三菱UFJと野村證券も、これまたたがいに深く関わり合っている。

 本当に野村證券は、安全なのか。
だいじょうぶなのか。
これ以上のことは私には、わからない。
わからないから、私は来週中には、すべての縁を切ることにした。

 三菱UFJとは、東海銀行時代からのつきあいを含めると、40年以上になる。
野村證券とのつきあいは、25年以上になる。
いくら「安全です」「心配ない」と言われても、客である私たちは、別の考え方をする。
その心情は、福島産のキュウリを見たときに感じた、あれと同じ。

●後記

 ところで福島県の人たちは、今、どうしているのか。
地元産の野菜を食べているのか。
それとも他県産の野菜を、選んで食べているのか。

 が、率直に言えば、私はこんなことを心配している。
たとえばこのあたりでも、良心的な店は、「うちでは、メキシコ産の牛肉を使っている」(「スキ
ヤ」ほか)とか、「うちの肉は、アメリカ産です」(「吉野屋」ほか)とか言って、ちゃんと説明してく
れる。
「オーストラリア産牛肉使用」とか、メニューに表示している店も多い(「サイゼリア」ほか)。

 が、その一方で、まったく説明してくれない店もある。
昨夜立ち寄った「N食堂」にしても、そうだ。
自分でおかずを選んで買うのだが、そこには、サンマ、サバなどの魚類、野菜類が50〜70種
類並んでいる。
もちろん「ご飯」もある。
そういった食品の産地は、どこなのか。
いくら規制値以下であっても、できるだけ汚染された食品は、避けたい。
あとになって「汚染されていました」では、困る。

 私の印象では、むしろ浜松市のような、どこかのんびりした市で、汚染食品が多く出回ってい
るような気がする。
今のところガイガーカウンターなどで、調べ回っている人もいない。
が、警戒するにこしたことはない。

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 

●11月 5日夜記(映画『フェア・ゲーム』)

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今日、映画『フェア・ゲーム』を観てきた。
イラク戦争の内幕を暴いた映画だった。
おもしろいというより、たいへん興味深かった。
星は3つの、★★★。
公式サイトの説明文には、こうある。

「アメリカ合衆国史上最大のスキャンダル。
イラク戦争を巡る巨大な謀略。
権力に立ち向かった、CIAエージェントの孤高なる戦い」と。

ただ一方的にブッシュ政権を「悪」という前提で描いていた
点については、ついていけなかった。
(「悪」は「悪」だが・・・。)

当時の状況を思い出してみると、フセイン大統領にも、
責任がなかったわけではない。
核兵器などもっていないのに、もっているというフリをしてみせた。
「(アメリカが)攻めてきたら、核兵器を使うぞ」と。
周辺の国々も、それが理由で、イラクを恐れた。

映画は、1人のCIA女性局員を中心に、描かれていた。
またそういう視点からだけで、描かれていた。
あの映画だけを観て、「ああ、そうだったのか」と思うのは、少し危険。
別にブッシュ大統領を擁護するつもりはない。
だれがみても、あの戦争は、無謀だった。
やるべきではなかった。

が、当時のアメリカのあのエネルギーを止める力は、だれにもなかった。
9・11のあの事件のあと、アメリカ人の怒りは、頂点に達していた。
仮にその女性局員の主張が通っていたとしても、あの戦争を止めることは、
だれにもできなかっただろう。

+++++++++++++++++++++++

●予定ミス

 数日前の上映時刻表をもとに、映画館へ足を運んだ。
その上映時刻表によれば、午後2時30分からの上映時間のはずだった。
が、行ってみると、午後4時35分に変更されていた。
しかたないので、街の中で2時間、つぶすことにした。

 コースは決まっている。
駅前まで行き、ビッグエイトでパソコンをながめる。
そのあと近くのレストランで、夕食。
・・・ということで、駅のほうに歩いた。
が、駅前で、どこかのブラスバンドが、生演奏をしていた。
ちょうど坂本九の『♪上を向いて歩こう』を演奏していた。
胸にジンと響いた。
で、そのまま椅子がちょうど2つ空いていたので、そこへ座った。
最前列の中央席だった。

 で、そこで50分ほど、時間をつぶした。
・・・「つぶした」という言い方は、失礼。
久しぶりに、本物の演奏を楽しませてもらった。
2〜30分もすると、脳の中に、甘い陶酔感が漂うのを感じた。
美しいというよりは、気持よかった。

 そのあと、その勢いを借り、私が「うな丼を食べようか?」とワイフに言うと、「いいわね」と。
久々のうな丼である。
ビッグエイトでパソコンをながめたあと、その裏手にある、うな丼屋に向かった。
が、ここで予定ミス。
うな丼がテーブルに運ばれてくるまでに、20分もかかってしまった。
映画の上映まで、15分。

 やっと並んだうな丼を、(せっかくのうな丼だったが)、胃にかき込むようにして食べた。
「ゆっくり食べたかったね」と言うと、ワイフも、「そうね」と。
そのあと小走りで、劇場へと向かった。

●ASUSのZENBOOK

 ビッグエイトで、ASUS社のZENBOOK(新型パソコン)を見た。
台湾製である。
「ZEN」とは、「禅」のことか?
私は台湾の人たちの、こういうフレンドリーな姿勢が好き。
「台湾製」と聞いても、違和感(=反感)なく、手で触って楽しむことができる。

 そのZENBOOKは、今度発売になる、TOSHIBAのR631の競合品。
しかし名前で、TOSHIBAは、すでに負け。
どうして「R631」なのか?
名前がつまらない。
(昔からTOSHIBAは、パソコンを事務機器としか考えていない。
そういう姿勢が、今でも残っている。)
値段もZENBOOKのほうが、5万円ほど、安い。
(R631は、オフィスソフトを付属しているが・・・。)

 近くR631が発売になる。
そのとき、それほど性能に差がないということであれば、私はZENBOOKを買う。
(SPECで比較するかぎり、ZENBOOKのほうが、上のよう。
画面解像度も高い。
あとは手で触ってみた感じ。
それで決める。
私には、キーボードの感触が重要。)

買うことについては、すでにワイフの了解も、取りつけてある。

●山荘へ

 夜遅く、山荘に向かった。
(今、その山荘で、この文章を書いている。
時刻は午後11時40分。)
途中、コンビニでチューハイとか菓子とか、いつもの定番品を買う。
が、今夜はビデオなし。
横に座っているワイフが、「眠くなってきた」と言った。
「寝るかア」と声をかけると、「うん」と。

 ・・・ということで、今夜はここまで。
このつづきは、また明日。
たぶん、明日も、午前3〜4時に目が覚めるはず。
静かな時間に、静かな文章を書きたい。

 今日の成果は、とくになし。
変哲のない、1日だった。
明日こそは、充実した1日を送りたい。
がんばろう!

●午前7時(11月6日)

 静かな朝だった。
窓の外を見ると、小雨が煙っていた。
山の朝は、いつもそうだ。
雨の時は、雨というより、雲の中に、すっぽりと入ってしまう。
あたり一面、霧模様。

 昨夜、寝る前に庭に出てみた。
そのときのこと。
周囲をぐるっと見回してみた。
見えたのは、谷の向こうの1灯だけ。
4〜5キロ離れたところにある、たぶん、電柱の電灯だと思うが、それだけ。
この20年で、あたりの様子は、大きく変わった。
農家の人たちは、つぎつぎとミカン栽培から、離れていった。
減反につづく、減反。
そのかわり、そこに大きな雑木が茂るようになった。

 私の山荘の周辺にしても、そうだ。
今では、10メートルを超える木々にすっぽりと覆われている。

●『♪ダニーボーイ』

 昨日聴いたブラスバンドのメロディーが、まだ耳の中に残っていた。
数曲を除いて、私の知らない曲ばかりだった。
それもあって、アイルランド民謡の『♪ダニーボーイ』が、強く印象に残った。

 ダニーボーイ・・・アイルランドでは、日本の『♪故郷』のように、親しく歌われている。
それぞれの国が、似たような曲をもっている。
たとえば韓国の『♪アリラン』、アメリカの『♪シェナンドー』、オーストラリアの『♪ウォルチング・
マチルダ』など。
アイルランドでは、『♪ダニーボーイ』。

 家に帰ってから、YOUTUBEでさがして、ダニーボーイを何度か聴いた。
しばらくすると、ワイフがそれを聞きつけて、やってきた。
2人で、聴いた。

●インターネット

 雨戸は、まだ閉めたまま。
ワイフはまだ、ふとんの中。
音もなく過ぎ去る時間。
廊下にロッキング・チェアーがあり、そこに衣服が無造作にかけられている。
その衣服を、どこかうらめしそうに、しばらくながめる。
ワイフが起きるまで、雨戸を開けられない。
今は、じっとがまんのとき。

 つまり雨戸を開けないと、ネットがつながらない。
ここは山の中。
電波状況が、あまりよくない。

 ・・・そう言えば、少し前、心にこう決めた。
「土曜日は、ネット無しディーにしよう」と。
土曜日だけは、インターネットを無しですまそう、と。
しかしその翌週には、インターネットをもう使っていた。
今では、インターネット無しの生活は、考えられない。
携帯端末を買ってからは、この山荘でも使うようになった。

●ネット中毒

 私のような人間も、「ネット中毒」というのか。
雑誌などによれば、1日、20回以上、ネットをのぞく人は、ネット中毒というのだそうだ。
しかし私のばあい、20回以上。
数えたことはないが、こうしてパソコンを開いているときは、同時に、いつもインターネットにつ
なげている。
ニュースを見たり、情報を手に入れたり・・・。
メールそのものは、10〜20回程度かもしれないが、インターネットの使い方は、もちろんそれ
だけではない。

 今は、経済ニュースから目が離せない。
Bloomberg、ロイター、ヤフー、MSI、それにNIKKEIなどなど。
TBS−iなどは、動画でニュースを配信してくれる。
それを一通り見るだけで、30分以上はかかる。
そのこともあって、ニュースの見方が、このところ大きく変わってきた。

 たとえばひとつの記事を読むと、「ほかではどんなふうに書いているのだろう」と比較するよう
になった。
あるいは「ヨーロッパやアメリカでは、どんなふうに報道されているのだろう」と、直接向こうの記
事を読むようになった。
以前なら、東京でしか手に入らなかった情報が、東京を素通りして、直接手に入る。
それもあって、インターネットのない時代と比べると、情報量が、格段と多くなった。
その分だけ、ニュースを読む時間が、長くなった。
 
 そういう私でも、やはりネット中毒ということになるのか。

●ネットの世界

 言うなれば、ネットはすでに脳みその一部になっている。
しかもその脳みそが、有機的に、他者とつながっている。
TwitterやFacebookが、それを可能にした。

 だれかの(つぶやき)が集合されると、それがそのまま「革命」につながることもある。
エジプトもリビアも、それでひっくり返った。
言い換えると、脳みそにネットワークができてしまった。
たとえば今、私がこうして書いている文章にしても、ふだんならBLOGとして発表したとたん、世
界中の人が、そのまま読むことができる。
(今朝は、それができないが・・・。)
それを「すばらしい」ととらえるか、「恐ろしい」ととらえるか。
とらえ方は、さまざまだろうが、私は「すばらしい」と、とらえる。

 たとえば以前は、図書館通いが日課になっていた。
が、今は、もうそんな必要はない。
座右に、超巨大な図書館を置いたような状態。
調べたいことは、即座に、その場で調べることができる。

 もちろん情報量もちがう。
ときにアメリカの大統領になったような気分になるときがある。
必要な情報を、直接外国から、手に入れることができる。
つまり私は、CIAのような情報局すら、自分のものにすることができるようになった。

●エネルギー

 そこで重要なことは、すでに何度も書いてきたことだが、「情報の洪水の中で溺れないこと」。
それにはいくつかの方法が、ある。

(1)選択・・・つねに情報は、選択する。
(2)吟味、考察・・・自分の考えを加える。

 この2つを怠ると、それこそ本当に、溺れてしまう。
何がなんだか、訳が分からなくなってしまう。
つまり1人の人間がもつ情報消化能力には、限界がある。
能力的な限界というより、時間的な限界。

 だからたとえば今の私には、スポーツ記事に目を通す余裕は、まったくない。
ニュースにしても、海外ニュースがほとんど。
国内ニュースには、ほとんど興味がない。
大半は、読み捨て、それでおしまい。

 で、ニュースを読んだら、それについて「私はどうなのか?」と、自分で考える。
が、これについては、脳みそのほうが、勝手に反応してくれるから、問題ない。
ときにバチバチと火花が飛ぶのを感ずることがある。

文章というのは、基本的には、(怒り)を覚えないと、書けない。
その(怒り)が、(書きたい)というエネルギーに変わる。
「バチバチと火花が飛ぶ」という状態は、それをいう。

●ワイフの起床
 
 たった今、ワイフが寝床から起きてきた。
時刻は、午前8時15分。
「雨戸を開けて・・・」と頼むと、ワイフが雨戸を開けてくれた。
とたん、森の景色が飛び込んできた。

 手前から栗の木、杉の木・・・。
少し離れたところに、コナラの木と椎の木・・・。
その向こうに谷がつづき、薄い紙のように、山々が連なる。
その間を白い雲が筋を引いて流れている。
その雲が見えるということは、天気が快方に向かっていることを示す。

 今日は浜松市内で、サンバの祭りがある。
どこかスケベったらしい祭りだが、11月にサンバ・・・というのも、どうか。
リオデジャネイロとは、季節が逆。
裸に近いかっこうで街中を歩くには、11月は寒すぎる。
若いころなら、私も、望遠レンズつきのカメラをもってでかけたかもしれないが、今はそんな元
気もない。

●ネット

 ネットにつなげるためには、雨戸を開けなければならない。
……ということで、今、そのネットにつながった。
メールを読んで、あちこちのニュースサイトに目を通す。

 Szさんから、メールが届いていた。
「昨日、近くのイタリアンレストランで、七五三の祝いをしました」と。

 「2人の娘のために、祖父母+両親、計7人で祝いました」と、それにはあった。
「私たちの老後を支えるためには、増税しかないですね」とも。
が、それよりも重要なのは、70歳を過ぎても働けるような社会的環境の整備と、個人の健康。
この2つを本気で考えないと、日本は、本当に沈没してしまう。

 ところで、私の近所には、この30年以上、まったく仕事をしないまま、年金生活をしている老
人が、何人か、いる。
社会への貢献度も、ゼロ。
毎日、好き勝手なことをして、遊んでいる。

 若いころはそんなことは考えなかったが、このところ、そういう老人を見ると、腹が立ってくる。
もちろんその老人個人に、責任があるわけではない。
しかし30年以上も遊ばせておく制度に、腹が立ってくる。
年金額を、月30万円で計算しても、30万x12か月x30年=1億円以上!

 1人、1億円だぞ!
実際には、妻の年金分もあるから、みな、その倍近い。

 が、そういう老人にかぎって、近所でも、威張っている。
いかにもエリート老人といった顔をして、威張っている。
草刈りひとつしない。
ゴミ拾いひとつしない。
そのつど、市や自治会に苦情の電話をかけている。
だから腹が立つ。

 ・・・というような老人になってはいけない。
反面教師というか、この先、私たち老人を見る目は、ますますきびしくなる。
そういうことも考え、これからの私たちの老後を考える。

●ニュース

 ニュースサイトには、当然のことながら、よいニュースは、あまり載っていない。
今度はイタリア経済がおかしくなったとか、タイの洪水がさらにひどくなったとか、そんな話ばか
り。

ついでに昨日のニュースによれば、北朝鮮が、日本側の報道陣の数はもちろん、サポーター
の数まで制限してきたという。
サッカーのアジアリーグ戦についてである。

 「だったら、そんな試合、日本側がボイコットすればいい」と考えたが、あんな国、まともに相
手にしてはいけない。
その価値もない。
「ああそうですか」と言って、試合だけして帰ってくればよい。
日本には、「シカト」という、すぐれた(?)問題回避方法がある。
つまりここはシカト。
無視。

●雑談

 ワイフとの雑談がつづく。
ワイフがこう言った。
「スプレーを買って帰る」と。

 このところスズメバチが、庭の周辺を飛び交うようになった。
3〜5匹、まとまって見かけたら、近くにかなり大きな巣があるとみてよい。
が、どこにあるか、わからない。
昨日も朝、それをさがしてみたが、見えるところにはなかった。

スプレーというのは、殺虫剤のスプレーをいう。
5〜6メートル先まで届くスプレーもある。
「それを買って帰る」と。

 ハチも毒をもたねば、殺されはしまい・・・ということか。

 その「毒」といえば、中国。
今回の通貨安競争の元凶といえば、中国だった。
世界中が中国の安売り攻勢に音をあげ、それぞれが通貨安競争に突入した。
その結果が今。
世界経済は、メチャメチャ。

 G20の会議を通して、オバマ大統領と胡中国国家主席と話し合ったが、成果ゼロ。
むしろ反対に中国は、EUに対し、こう言って脅した。
「欧州基金へ投資を検討してやる。そのかわり、見返りをよこせ」(日本経済新聞・11・5))と。

 ワイフはこう言った。
「ああいう独裁国家は、いやね。民主主義がないから、こわいわ」と。

私「日本だって、独裁国家のようなものだよ。官僚主義という独裁国家。中国と、どこもちがわ
ない」
ワ「だって日本はまだ政治家を、選挙で選んでいるわ」
私「形だけはね・・・」
ワ「そういえば、先日家に来た、D君(オーストラリア人)も、そう言っていたわよ。オーストラリア
では、一言でも政治家に楯突(たてつ)いたら、その役人は、即座に左遷されるそうよ」
私「それが民主主義だよ。この日本では、その逆。役人に楯突いたら、生きていくことすらでき
ない。政治家だって、吹き飛ばされてしまう」と。

 日本が民主主義国家と思っているのは、日本人だけ。
日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、そうだ。

 ・・・話は脱線したが、民主主義という点では、韓国や台湾、それにフィリッピンのほうが、日
本より完成している。
民意がダイナミックに反映されるという点で、より完成している。
が、中国には、それがない。
どこかに毒針を隠している。
それが不気味。

 日本の官僚制度も、それに近い。
「伏魔殿」と評した政治家もいた。

●国債

 日本経済新聞(11月5日朝刊)に、こうある。
「国の借金、1000兆円、突破!」と。
09年に地方自治体の借金も含め、すでに1000兆円を超えていたはず。
現在は、もっと多い。

 その記事の末尾にこうある。
「国債が信認を失えば、国家財政はそのまま危機に瀕する」と。

 国債というのは、つまりは借金。
国は国債を発行しながら、国の内外から借金を重ねる。
今はまだ、大手の銀行を中心に国債を引き受けているからよい。
しかしその引き受けてがいなくなったら・・・?
それが「信認を失う」という意味になる。

 ただその大手銀行にしても、10年ものの長期国債から、1年の短期国債への移動を進めて
いるという。
イタリアやフランスが財政危機に陥れば、つぎはこの日本。

 ・・・このことはすでにあの3・11大震災の前に、うわさされていた。
経済誌はこぞって、「日本の国家破綻は、可能性の問題ではなく、時間の問題」と。
が、そこへあの3・11大震災。
アメリカの赤字上限問題、EUの金融危機……、それにつづいた。

が、日本の経済危機が、それで去ったわけではない。
こんな私でも、老人たちと温泉に入ると、若造に見える。
それと同じ。
相対的に、日本のほうがまだ安全・・・ということで、円が買われている。

 現在の円高は、その結果。

●帰り支度

 ア〜ア、またまた暗い話になってしまった。
イヤダナ〜・・・ということで、こういう話は、ここまで。
横でワイフが帰り支度を始めた。
ガサゴソ、ガサゴソ・・・。

 今朝の日記はここまで。
つづきは、自宅の書斎で。
では、みなさん、おはようございます。
今日も1日、がんばりましょう。
がんばるしかないのです。

(ここまでLibreOfficeを使って、文章を書いた。
文字が読みにくいので、やはりLibreoffice専用の、Baidu IMEをインストールしたほうがよ
い。
現在、MS社のIMEを使っているが、文字間が窮屈そうに詰まってしまう。
それに英数字への変換が不安定。
家に帰ったら、このパソコンにも、LibreOffice専用のIMEをインストールするつもり。)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司※

【LibreOfficeとMSのWordの互換性について】

(1)Wordで作成した文書を、(W)とする。
LibreOfficeで作成した文書を、(L)とする。

 (L)で、(O)の文書を開くことについては、問題ない。
が、そのあと、こんな問題が起きた。

 (O)で編集し、保存をかける。
いつもの作業である。
そのとき、(元の書式で保存するか)(O)の書式で保存するかをたずねてくる。
そこで(元の書式)を選択し、保存をかける。

(2)つぎに一旦、LibreOfficeを終了し、今度は、Wordを立ち上げる。
先ほど編集した文書を開こうとすると、ほかの文書まですべて、LibreOffice形式で保存されて
いることがわかった。

 ゾーッ!

その状態で、先ほどの文書を開いてみると、たとえば文書の色(私は目を疲れさせないよう、
背景の色を、薄いブルーかグリーンに設定している)が、その色が消えている。
つまり白地になってしまっている。
ページ番号が消えている。
ほかに、ネットから引用した文書の文字間がバラバラになってしまっている。

 以上の不都合が、あれこれと起きているのがわかった。
つまりいくら互換性があるからといっても、完ぺきではない。
(W)にするか、(L)にするか。
やはりどちらか一方に、統一したほうがよい。

 で、「今はやはり、ワードを使おう」ということで、ワードにしたいが、先ほども書いたように、ワ
ードで開くと、文字間がばらばらになってしまったりする。
(今のところ、ワード上では、元に戻すことができないでいる。)
背景の色を変えることができない。
(何か、方法があるのかもしれないが、今のところ、どうしたらよいかわからない。
……たった今、いろいろ試してみたら、(書式)→(ページ)→(背景)で、背景色を変えることが
できることがわかった。
ただし文字部だけで、白い枠が外側にできてしまう。
こうなると、明暗度が際だってしまい、かえって目が疲れるのではないか。)

 しばらく試行錯誤がつづきそう。
パソコンが1〜2台の人ならまだよい。
私のように、常時5〜6台使っている人や、1〜2年ごとにパソコンを買い換えている人にとって
は、そのつど2万円前後のソフトを購入しなければならないというのは、つらい。
やはり少しずつ、LibreOfficeに乗り換えていくのが賢明なのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●老人心理(前向きに生きるvs後ろ向きに生きる)

+++++++++++++++++

老人は、老人独特のものの考え方をする。
先の見えない死生観が、ものの考え方に
大きな影響を与える。
が、その考え方を大きく、2つに分けると、
つぎのようになる。

(1)開放型(前向き型)
(2)閉塞型(後ろ向き型)

+++++++++++++++++

●年金で家?

 少し前、ある老人(男性)が死んだ。
2年近い、苦しい闘病生活のあとに、死んだ。
何かの難病だったと記憶している。

 その様子を、あるテレビ局が取材した。
レポーターが話しかけると、老人の妻が、こう言った。

「2年もがんばってくれたおかげで、娘の家が建ちました」(某テレビ局)と。

 つまり2年間生き延びてくれた。
その分の年金で、娘のために家を建てることができた、と。

 この話は以前にも書いた。

 私のBLOGに、その話を書いた(2009年9月)。
その記事をそのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【損得論】

●損と得

++++++++++++++++++

60歳をすぎて、「損と得」についての考え方が、大きく変わってきた。
「損とは何か」「得とは何か」と。
それをしみじみと(?)、心の中で思いやりながら、
「老人になるというのは、こういうことなのか」と思う。
「老人」といっても、使い古された、老いぼれた人のことではない。
少し照れくさいが、「円熟した人」をいう。

++++++++++++++++++

●何が損か

 この世の中で、「損かどうか」を考えること自体、バカげている。
どんなにあがいても、「死」というもので、私たちは、すべてを失う。
この宇宙もろとも、すべてを失う。
「死」を考えたら、それほどまでの「大きな損」はない。
たとえばあなたが地球上の、ありとあらゆる土地を自分のものにしたとする。
北極から南極まで。
一坪残らず、だ。
が、死んだとたん、すべてを失う。
つまり「死」にまさる(?)、損はない。

 これには、自分の死も、相手の死もない。
そのため「死」をそこに感ずるようになると、日常的に
経験する損など、何でもない。
損とは感じなくなる。

●「金で命は買えん」

 たとえば私の友人の中には、数か月で、数億円も稼いだ人がいた。
その友人は、数年前、死んだ。
莫大な財産を残したが、死んだとたん、「彼の人生は何だったのか?」
となってしまった。

私の母ですら、死ぬ直前、こう言っていた。
「金(=マネー)で命は、買えん」と。
あれほどまで、お金に執着していた母ですら、そう言った。

●得

 一方、「得」と思うことも多くなった。
昨日も、秋の空を見たときも、そう思った。
澄んだ水色の空で、白い筋雲が、幾重にも重なって流れていた。
それを見て、「ああ、生きていてよかった」と思った。

 ただ「損」とちがって、「得」という感覚は、実感しにくい。
大きな青い空を見たからといって、大きく得をしたとは思わない。
反対に、小さな花を見たからといって、大きな青い空を見たときに感ずるそれに、
劣るということはない。

 もちろん私も、金権教にかなり毒されている面もあるから、お金は嫌いではない。
たいていのばあい、金銭的な価値に置き換えて、ものの損得を考える。
たとえば予定外の収入があったりすると、「得した」と思う。
しかし同時に、そこにある種の虚しさを覚えるようになったのも事実。
「だから、それがどうしたの?」と。

●長生き

 では、長生きはどうか?
長生きをすればするほど、得なのか、と。
が、これについても、最近は、こう考える。
「それが無駄な生き方なら、長生きしても、意味はない」と。

 「生きることが無駄」と言っているのではない。
「どうせ生きるなら、最後の最後まで、意味のある生き方をしたい」と
いう意味で、そう言う。
もちろん、できれば、長生きしたい。
たった一度しかない人生だから、それは当然のこと。
問題は、どうしたら、意味のある人生にすることができるか、ということ。

●今のままで、よいのか

 未来は現在の延長線上にある。
とするなら、今の生き方が、未来の生き方になる。
となると、「今のままでいいのか」となる。
今、意味のある人生を送っていない私が、この先、意味のある人生を
送れるようになるということは、ありえない。

 言い換えると、今の生き方そのものが、大切ということになる。
「今日」という「今」ではなく、「この瞬間」における「今」ということになる。
「私は、この瞬間において、意味のある生き方をしているのか」と。

●命の換算

 この話は前にも書いたので恐縮だが、テレビでこんな人を紹介していた。
ある男性だが、何かの病気で、2年近い闘病生活のあと亡くなった。
その男性について、妻である女性が、こう言った。

 「がんばって生きてくれたおかげで、娘の家が建ちました」と。

 つまり夫であるその男性が、死の病床にありながらも、がんばって生きて
くれたので、その年金で、娘のための家を建てることができた、と。

 私はその話を聞いたとき、「夫の命まで、金銭的な価値に置き換えて
考える人もいるのだなあ」と、驚いた。
まあ、本音を言えば、だれだってそう考えるときがある。
私もあるとき、ふと、こう思ったことがある。

「1年、長生きをして、1年、仕事がつづけられたら、○○○万円、
得をすることになる」と。
しかしこの考え方は、まちがっている。
もしこんな考え方が正しいというなら、私は自分の命すら、金銭的な
価値に置き換えてしまっていることになる。

 仕事ができること自体が、喜びなのだ。
収入があるとすれば、それはあとからついてくるもの。
生きる目的として、収入があるわけではない。

●奇跡

 さらに言えば、アインシュタインも言っているように、「この世に生まれた
ことだけでも、奇跡」ということになる。
(あなた)という人間が生まれるについても、そのとき1億個以上の精子が1個の
卵子にたどりつけず、死んでいる。

 もしそのとき、隣の1個の精子が、あなたにかわって卵子にたどりついていたら、
あなたという人間は、この世には存在しない。
そのことは、二卵性双生児(一卵性双生児でもよいが)を見れば、わかる。
外の世界から見れば、(あなた)かもしれないが、それはけっして、(あなた)
ではない。
他人が見れば、(あなた)そっくりの(あなた)かもしれないが、けっして、
(あなた)ではない。

 つまり私たちは、この世にいるということだけ、この大宇宙を手にしたのと
同じくらい、大きな得をしたことになる。

●統合性の確立

 若いときは、生きること自体に、ある種の義務感を覚えた。
子育ての最中は、とくにそうだった。
働くことによって収入を得る。
その収入で、家族を支える。

 しかし今は、それがない。
どこか気が抜けたビールのようになってしまった。
生きる目的というか、心の緊張感が、なくなってしまった。
「がんばって生きる」とは言っても、何のためにがんばればよいのか。

 そこで登場するのが、「統合性」ということになる。
(自分がすべきこと)と、(現実のしていること)を一致させていく。
それを「統合性の確立」というが、この確立に失敗すると、老後も、みじめで
あわれなものになる。
くだらない世間話にうつつを抜かし、自分を見失ってしまう。
そんなオジチャン、オバチャンなら、いくらでもいる。
あるいは明日も今日と同じという人生を繰り返しながら、時間そのものを無駄に
してしまう。

 が、その統合性の確立には、ひとつの条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は霧散する。
こんな話を、ある小学校の校長から聞いた。

●植物観察会

 ある男性(80歳くらい)は、長い間、高校で理科の教師をしていた。
その男性が、今は、毎月、植物観察会を開いている。
もちろん無料。

 で、雨の日でも集合場所にやってきて、だれかが来るのを待っているという。
そしてだれも来ないとわかると、そのまま、また家に帰っていくという。

 その男性にとっては、植物観察会が生きがいになっている。
参加者が多くても、またゼロでも構わない。
大切なことは、その(生きがい)を絶やさないこと。

 が、もしその男性が、有料で植物観察会をしていたら、どうだろうか。
月謝を計算し、収入をあてにしていたら、どうだろうか。
生徒数がふえることばかり考えていたら、どうだろうか。
同じ植物観察会も、内容のちがったものになっているにちがいない。
つまり、無私、無欲でしているから、その男性の行動には意味がある。
「統合性の確立」というのは、それをいう。

●変化

 損か、得か?
それを考えるとき、これだけは忘れてはいけない。
今、ここに生きていること自体、たいへんな得をしているということ。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 そして損ということになれば、「死」ほど、大きな損はない。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 つまり生まれたこと自体、大きな得。
死ぬこと自体、大きな損。
私たちは、その得と損の間の世界で、ささいな損得に惑わされながら生きている・

 ・・・というようなふうに、このところ考えることが多くなった。
私自身が「死」に近づいたせいなのか。
それとも「生」の意味が少しはわかるようになったせいなのか。
どうであるにせよ、「損と得」について、私の考え方が大きく変わってきた。
この先のことはわからないが、人は老人になると、みな、そう考えるようになるのか。
それとも、私だけのことなのか。
どうであるにせよ、今は、自分の中で起こりつつある変化を、静かに見守りたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 老後 損得論 損か得か 自己の統合性 統合性の確立 2年の闘
病生活 おかげで 娘の家 建った)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「1円も渡したくない」

 冒頭にあげた老人の話は、原稿の内容からして、2009年の9月より、さらに以前の話という
ことになる。
それはともかくも、その妻の言葉は、老人心理をうまく表現していて、たいへん興味深い。
というのも、このタイプの老人は、たいへん多い。

 たとえば、ある老人は、1か月でも長生きをすれば得と考えている。
その分だけ、年金が余計に入るからという。

 また別の老人は、反対にそれまでもっていた土地(実家の跡地)を、市に寄付してしまった。
その土地は、現在、「記念公園」になっている。
理由を聞くと、「息子や娘には、1円も渡したくないから」と。

 一見、正反対の老人のようにみえるが、中身は同じ。
ものの考え方が、後ろ向き。
つまり閉塞型。

 が、こんな話は、どうだろう。

●失う

 ある老人(75歳くらい)は、マラソンが趣味。
若いころは、いろいろな大会に出ては、賞を取っていた。
そのこともあって、今でも、毎朝、1〜2時間ほど、走っている。

 で、こういう話を聞くと、みなこう思う。
「健康のために走っている」「すばらしい老人」と。
しかしその老人のばあいは、中身が、かなりちがう。

 その老人は、失うことを恐れて走っている。
つまり「走れなくなること」を恐れて、走っている。
わかるかな?

 その中身は、金持ちが金(マネー)を失うのを恐れる心理と、同じ。
……と書いても、一般の人には、なかなか理解できないかもしれない。

●優越感

 その老人にとっては、「走れる」ということが、ステータスになっていた。
ちょうど金持ちが、貧しい人を見下すように、それでもって、いつも不健康な人を見下してい
た。
そしてその分だけ、優越感に浸(ひた)っていた。
「あいつは、もう歩けなくなった」とか、「あいつはもう車いすに乗っている」とか。

 その優越感を守るために、毎朝、走っていた。

●老人心理

 もちろん、みながみな、そうであるというわけではない。
またそうした損得感や優越感を、「悪」と決めつけて考えるのも、正しくない。
年金を1か月でも長くもらうために長生きするのも、人生。
優越感を保つために、毎朝走るのも、これまた人生。
人は、それぞれの人生を、それぞれの思いをもって生きる。

 が、先にも書いたように、老人の心理というのは、若い人たちが考えているより、はるかに複
雑。
年季が入っている分だけ、複雑。
一筋縄では理解できない。
……というようなことを、年々、より強く感ずるようになった。

●開放型

 では、開放型の老人は、どうか?
それについては、ワイフが今夜、散歩の途中で、私に聞いた。
「どこで見分けるの?」と。

私「簡単だよ」
ワ「どこ?」
私「そのあとに、……だからそれがどうしたの?、という言葉をつなげてみるとわかる」
ワ「どういうこと?」
私「いいか、たとえば毎朝ランニングしている老人がいたとする。そういう老人に、『だから、そ
れがどうしたの?』という疑問を、そのままぶつけてみればいい。前向きに生きている老人の
ばあい、答が直接、はね返ってくる。そうでなければそうでない」と。

 話が、入り組んできたので、話題を少し変える。

●Nothing(虚無)!

 イラクのフセイン大統領は死刑になった。
エジプトのムバラク大統領は、失脚した。
もっとも悲劇的だったのは、リビアのカダフィ大佐。
最後は下水管の中で発見され、射殺された。

 『すべてをもつ者は、すべてを恐れる』という。
あるいは『すべてをもつものは、失うことを恐れる』でもよい。
へたに余計なものをもっているから、失うことを恐れる。
何も独裁者だけの話ではない。
ある女性(70歳)の口癖は、いつも同じ。
「そんなことすれば、貯金が減る」と。

 貯金に異常なこだわりをみせている。

 つまり人生も、(もの)と考える。
(もの)と考え、失うことを恐れる。
(反対に、長生きすることを得と考える。)
そういう人は、万事において、生き方が後ろ向き。
表面的な様子にだまされてはいけない。

 一方、数は少ないが、「命」を別の人たちに還元しながら生きている人もいる。
そういう人たちは、(失うこと)を恐れない。
自分の命すらも、他人に捧げてしまう。
そういう人を、ここでいう「開放型の人」という。
(ネーミングがあまりよくないかもしれないが、ほかによい言葉を思いつかなかったので、「開放
型」とした。)

 それを知るために、私は「……だから、それがどうしたの?」という言葉を思いついた。

 カダフィ大佐が、すべての権力を手に入れた……だから、それがどうしたの?、と。

 そう問いかけてみると、カダフィ大佐のばあい、そのあとに、何も残らないのがわかる。
つまり、Nothing(虚無)!

●「……だからそれがどうしたの?」

 わかりやすく言えば、生きる意味を、常に他人と結びつけていくのを、開放型という。
反対に自己満足のためだけに生きている人を、閉塞型という。
どちらがよいかといえば、開放型がよいに決まっている。
が、自分を開放型にするのは、並大抵の努力では、できない。
つまりそこらの、(私も含めての話だが)、凡人には無理。
ほとんどの人は、その一歩も二歩も手前で、その先に進むことをあきらめてしまう。
が、そうであってはいけない。

 そこでひとつのヒント。
何かを言ったり、したりしたら、すかさず、「だからそれがどうしたの?」と自問してみればよい。
前向きに生きているときには、そのとたん、ズシリとした答が返ってくる。
が、そうでないときは、そうでない。
スーッとそのまま答がどこかへ消えてしまう。

 たとえば……。
新しい車を買った……だからそれがどうしたの?
今夜はおいしいものを食べた……だからそれがどうしたの?
息子がよい大学へ入った……だからそれがどうしたの?、と。
 
 ……しかしこれについては、以前にも書いたことがある。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

書いた日付はわからないが、No.600となっているから、
10年ほど前(2000年ごろ)に書いた原稿ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(600)

●「xxxx」を読んで……

 どういうわけか、ポロッと、古い本が、出てきた。「アレッ」と思って表紙を見ると、20年ほど前
に買った、単行本(新書版)だった。
タイトルは、「xxxx」。

 そのときは、1ページごとに、頭をハンマーでたたかれるような衝撃を受けた。
著者は、ST。
今まで気づかなかったが、M大学の元学長だったそうだ。
奥付を読みながら、ふと、「今でも生きているのだろうか?」と思った。

 ほぼ20年ぶりに、その本を読みなおす。「感動よ、再び……」と思って、読みなおす。が、読
めば読むほど、「そうかなあ?」と思ってみたり、「私なら、こう書くのに……」と思ってみたりす
る。

 奥付から計算すると、ST氏が、60歳くらいのときに、書いた本ということになる。
当時は、週刊誌にも連載記事を書くなど、よく知られた評論家だった。
そのST氏の書いたことに、「?」をもつようになったのは、それだけ私に、「私」ができたため
か。
それとも、私に、「クセ」ができたためか。

 本の内容より、そうした自分自身の変化のほうを知ることが楽しい。
その本は、いわば、私の心のカガミのようなもの。
20年ほど前の私の心を、その中に、映(うつ)し出してくれる。

 このところ、ヒマさえあれば、その本ばかり、読んでいる。

(追記)ST氏のことを、ヤフーで検索してみたが、同姓同名が多くて、消息を知ることができな
かった。
多分、もう亡くなってしまったのかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●目的

 目的のない人生は、地図の上で、右往左往するようなもの。
へたをすれば、同じ場所を、ぐるぐると回るだけ、ということになりかねない。
 
 そこで、目的ということになる。
この目的が、その人を、前にひっぱっていく。進むべき、方向を決める。
が、ここで注意しなければ、ならないことがある。
つまり「だからそれがどうしたの?」という部分がないまま、我欲を追求する。
それは、ここでいう「目的」ではない。

 たとえば、おいしい料理を食べる。
 たとえば、すばらしい高級車に乗る。
 たとえば、きれいな服を着る。

 そのとき、ほんの一言でよいから、自分に問うてみる。
「だから、それがどうしたの?」と。

 ほとんどの人は、その時点で、がく然とするはず。
それもそのはず、ほとんどの人は、ほとんどの時間を、目的など考えないで、過ごしている。
「ただそうしたいから、そうしているだけ」「ただ、そうできるから、そうしているだけ」と。

 それが悪いというわけではない。
「生きる」ということは、そうした日常生活の積み重ねの上に、成りたっている。
が、それでは、満足できない。
そこで私たちは、その中から、自分の目的をさがし始める。もう少し、順を追って、説明してみ
よう。

 たとえばA氏は、車に、関心があった。
そしていつか、ドイツのBxx車を買いたいと願っていた。

 そこでA氏は、いつもより懸命に働き、そしてお金をためた。
ためて、念願のBxx車を手に入れた。

 つまりA氏は、Bxxを買うことを目的とした。
それで働いて、その車を手に入れた。A氏にすれば、A氏の目的を達成したことになる。
その車は、A氏のものになった。

 が、この段階で、もしA氏が、自分に、「だからどうしたの?」と、問うてみたとしたら、どうなる
だろうか。

 毎日、ワックスをかけて、ピカピカにみがくのが楽しい。
 毎日、近くの行楽地を走ってみるのが、楽しい。
 毎日、知人や友人を助手席に座らせて、ドライブするのが、楽しい。

 それはわかる。しかし、それがどうしたの?

 昨日、子ども(生徒、小3)たちと、こんな会話をした。

私「おとなになったら、何になりたい?」
A「野球の選手」
私「野球の選手になって、どうする?」
A「有名になって、お金を稼ぐ」

私「お金を稼いで、どうする?」
A[ほしいものを買う]
私「ほしいものを買って、どうする?」
A「(ほしいものが、手に入れば)、うれしい」と。

 しかしそれで心の満足は得られるのだろうか。
……と考えたが、それは言わなかった。

私「がんばって、野球の選手になれよ。応援するよ」と。

 つまり、こうした我欲の追求は、「目的」ではない。
たとえば織田信長。
今でも、織田信長を信奉する政治家や、実業家は多い。
それはわかる。信長自身は、毛利遠征の途上に逗留した本能寺(京都市)で、家臣の明智光
秀に襲われ、自害した。
そのため彼がめざした、天下統一が、何であったのかは、今では、知ることができない。

 私の印象では、ただがむしゃらに、殺戮(さつりく)、平定を繰りかえしただけの人物ではなか
ったかと思う。
信長が、商工業者に、楽市、楽座の朱印状を与え、経済を活性化させたとか、関所を廃止し
て、流通を自由にしたとかいうのは、あくまでも、自分の野望を完成させるためにした、その結
果でしかない。

 信長が、日本人全体の、安寧(あんねい)と、幸福を考えて、天下統一をめざしたかというと、
そういうことは、ありえない。
いくら歴史書を読んでも、そういう意図が、浮かびあがってこない。

 つまり信長も、結局は、明智光秀に自害を迫られるまで、「だからそれがどうなの?」という部
分のないまま、生きたことになる。

 そこで再び、目的論ということになる。

 つまり私たちが「目的」としていることは、実は、目的ではなく、手段にすぎないということ。
そこに気づけば、これらの問題は、解決する。

 「Bxxの車を買う」「野球の選手になる」「天下を自分のものにする」というのは、実は、目的に
たどりつくための手段にすぎない。

 では、目的は何かということになる。

 たとえばあのアンネ・フランクは、当時、ただの少女でありながら、こう、看破(かんぱ)してい
る。

 We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same.
 (私たちは、みな、幸福になるという目的をもって、生きるのよ。みんなの生活は、みな、ちが
うけど、目的は、同じよ、と。

 つまり、「幸福になるのが、目的」と。

 今朝は、ここまでしか書けないが、ギリシャの劇作家のソフォクレスは、こう書き残している。

 知恵のみが、幸福の最高の部分である。(Wisdom is the supreme part of happiness. )と。 

 モノや金ではない。知恵である、と。

 私は、このソフォクレスの言葉を、信じたい。
この原稿のしめくくりとして、そしてあえて(?)、自分をなぐさめるために。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●真・善・美

 教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。
その基盤と方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。

 今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。
若い人たちは、真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思ってい
る。
その価値がわからないどころか、その価値すら、否定する。

 しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。
そしてその価値にひれ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。

 そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていればよし。そ
うでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。

 「私は何のために生きてきたのか?」と。

 そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。
そのときを予想しながら、子どもの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。
それが教育の目標。

+++++++++++++++++++++++++++

【補記】

 真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。
ものを書き始めたのが、40歳前後。
それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くようになったのは、そのあとである。

 現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。
どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づかなかったのか。
どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。

 今となっては、ただただ悔やまれる。
本当に悔やまれる。
もっと早くスタートしていれば、頭の働きだって、まだよかったはず。
どこかボケかけたような状態で、そしてこれから先、ますますボケていくような状態で、私に何
が発見できるというのか。

 これは決して、おおげさに言っているのではない。
本心から、そう思っている。

 だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・善・美の
追求を、今から始めてほしい。
30代でも、20代でも、早すぎるということはない。

 今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。
どんな本に目を通しても、出てくるのは、ため息ばかり。
「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。
と、同時に、「後悔」のもつ恐ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。

★読者のみなさんへ、

 つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。
時間や健康、それに脳ミソの働きには、かぎりがあります。
余計なお節介かもしれませんが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これからの老人像

 もう答は出たようなもの。

 老人はけっして老人臭くなってはいけない。
後ろ向きになってはいけない。
そういう意味で、老人心理を知るひとつのヒントとして、ここで老人論を考えてみた。
あくまでも私自身の努力目標のひとつとして。

 明日こそは、その目標に、少しでも近づいてみよう……ということで、今夜はここまで。
ワイフが横へ来て、「寝よう」「寝よう」と言っている。
高貴な哲学者にでもなったような気分だったが、それが消えた。

 私のワイフは、どうしてこうまで俗っぽいのか?


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【伊豆から、御殿場へ】(はやし浩司 2011−11−08)
●伊東市で講演+時之栖(ときのすみか)に一泊

●新幹線の中

 静岡までひかりで行き、静岡駅で、こだまに乗り換える。
乗り換え、熱海まで。
熱海から、伊東まで。
予定では、8時20分前後に、伊東へ着くはず。

●世界経済

 JR浜松駅では、週刊誌(「週刊現代」)と、タブロイド紙の「日刊ゲンダイ」を買う。
いつもならパソコン雑誌を買う。
気分を和らげるなら、パソコン雑誌がいちばんよい。
私(的)には……。

 が、今は緊迫の度をます、世界経済。
それが気になる。

●株

 昨日、X証券とは、完全に縁を切った。
口座に残った金額は、ゼロ。
いつもの社員に電話をかけたが、「接客中です」の繰り返し。
何も怒っているわけではないが、私を避けている雰囲気が、アリアリ。
(そう言えば、どうもこのところX証券の動きが、おかしい?)

 すでに3月のはじめの段階で、日本経済の先行きに暗雲が漂い始めていた。
そのとき私は手持ちの株をすべて売り払った。
その直後に、あの3・11大震災。
ギリギリのセーフだった。
(売り損ねた人も多いと思うが、ゴメン!)

●投資信託

 金融商品には、大きく分けて、3種類ある。
株投資を中心にしたもの。
債権投資を中心にしたもの。
それに外貨(FX)取り引きを中心にしたものもある。
それらの混合型も、もちろん、ある。

 今回、大きく被害を受けた人は、株投資型の金融商品に手を出した人。
が、そこへきて、今度は、債券投資もあぶなくなってきた。
個人だけではない。
たとえば先ほど買った「日刊ゲンダイ」紙によれば、三菱UFJファイナンシャルだけでも、イタリ
ア国債を、2600億円分も保有しているという。
第一生命保険は、イタリアとスペイン国債を、3000億円分も保有しているという。
日本全体で、1兆円(同紙)というが、実態は不明。

●イタリアの金融危機

 そのイタリア。
今朝、出かける前に確かめると、国債の金利が、6・6%を超えていた(11・8朝)。
昨日までは、6・5%だった。
7%を超えると、実質的にデフォルト状態という。

 ペイオフ制度で、銀行のばい、預金は1000万円まで保証される。
しかし外貨預金は、その対象外。
(対象外ということは、1円も戻ってこないということ。)
証券会社は、繰り返し、「分別保管していますから、安全です」と言う。
しかしそんな言葉を信ずる客は、いない。
先に倒産したアメリカのE銀行のばあい、巨額の顧客資金が行方不明になっている。
仮に保証されても、顧客は、どこでどのようにして、自分の債権の取り立てをすればよいのか。
とくに私のようにネットで取り引きしている者は、その証拠となる「書類」そのものがない。
セゾン投信代表取締役社長の中野晴啓氏自身ですら、「投信は今すぐ、手放せ」と論じている
(「週刊現代」11・19日号P39)。

●大恐慌のあと……

 で、私はいつも、その先を考える。
大恐慌は避けられないもの。
からなず、やって来る。
すでにその真っただ中にある。
で、問題は、その先。
日本も大被害を受けるが、日本は、どう立ち直っていくか。
とくに教育の分野において、どう立ち直っていくか。
が、私はそれについては、あまり悲観していない。

●頭脳と組織

 たとえばタイへ進出した企業がある。
中国でもよい。
現地でモノを作ることはできても、研究開発はできない。
結局、研究開発は、日本国内で……となる。
日本は、その「日本国内で……」という部分で生き残る。

 加えて日本人がもつ勤勉性。
日本に住んでいるとそれがわからないかもしれない。
しかしあのオーストラリアにしても、なぜ大企業が育たないかといえば、その勤勉性がないか
ら。
もう少し正確には、「組織的勤勉性」。
それがない。
その一言に尽きる。
独立精神が旺盛なのはよいが、それがかえって災いし、「組織」が育たない。
組織が育たないから、組織的な研究や開発ができない。

 この2つ、つまり「頭脳」と「組織」が、大恐慌のあと、この日本を再生させる。

●教育

 が、後発組の国とて、手をこまねいているわけではない。
アジア各国は、日本に追いつけ、追い越せを合言葉にしている。
すでに国民1人当たりの所得では、日本はシンガポールに抜かれている。
経済大国、世界第二位の地位は、中国に明け渡した。

 そこで日本は日本として、独自の教育を組み立てる必要がある。
「世界と同じことをしていて、世界に勝てるわけがない」。

●数学

 わかりやすい例で考えてみよう。
たとえば小学1年生では、(数)→(足し算)→(引き算)→(繰り上がりのある足し算)→(繰り下
がりのある引き算)→……と、学習を進めていく。

 しかしこんなカリキュラムでは、子どもを算数嫌いにするだけ。
おもしろくない。
つまらない。

 そこで発想を変える。
1〜10までの数の範囲でも、方程式を教えることができる。
分数だって、少数だって教えることができる。
鶴亀算はもちろん、正負の数、棒グラフ、折れ線グラフだって、教えることができる。
そういう発想に切り替える。
どうできるかは、またそれにはどうしたらよいかは、私の「BW公開教室」を見てほしい。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 繰り返す。
今のような「形」にこだわった教育では、これからの日本を支えることはできない。
つまりそういう子どもを育てることは、できない。

●三島

 時間が飛ぶ。
2時間ほど前に、伊東市での講演を終えた。
そのあと電車を乗り継いで、ここ三島へやってきた。
たった今、昼食を終えたところ。
このあとシャトルバスに乗って、「時之栖(ときのすみか)」というホテルに向かう。
三島駅から40分ほどの距離という。
今、そのバスをまっている。

 伊東市では、佐々木教育長※と、1時間ほど話をする機会があった。
いろいろな話をした。
久々に有意義な時間を過ごした。
同じ団塊の世代。
意見がことごとく一致した。
同志を得たような、喜びを感じた。
うれしかった。

●たくましさ

 現代の子どもたちに欠けるものと言えば、「たくましさ」。
その一言に尽きる。
小学1年生でも、いじめられ、泣くのは男児。
いじめ、泣かせるのは女児。
が、本当のたくましさは、生活力で決まる。

 数日前、あのタイの大洪水のニュース記事を読んだ。
その中に、こんな記述があった。

 何でも洪水をせき止める土のうの上で、屋台を開いている人がいるという。
職を失った若い女性が、舟を借り、ソーセージを焼いて売っているという。
私が言う「たくましさ」というのは、それをいう。

 私が20代のころは、この日本にも、そうしたたくましさが残っていた。
私自身も、そういう生き方をしてきた。
が、今、そのさくましさが消えた。
その結果が、今!

 この先、この日本人は、海千山千の、それこそ海賊や山賊のような外国人を相手に、どうや
って戦っていくというのか。
佐々木教育長も、それを心配していた。

(※佐々木教育長……伊東市教育長 佐々木誠氏)

●損得論

 昨夜、損得論について書いた。
何をもって「得」といい、何をもって「損」というか。
その判断は、人によってみなちがう。
つまり人、それぞれ。

 しかし大切なことは、2つある。
それがどんなものであれ、損得論ほど、個人的な幻想に包まれたものはないということ。
私がもっている損得論が正しいというわけではない。
同じように、あなたがもっている損得論が正しいというわけではない。
人々は、それぞれの損得論をもち、その範囲で、「得をした」「損をした」と右往左往する。

 数年前に亡くなった、アメリカ人の友人は、いつもこう言っていた。
「ヒロシ、友だちの数こそが、財産だよ」と。
そういう損得論もある。

●金権教

 金権教については、たびたび書いてきた。
自分自身への戒めの意味もある。
私たち日本人は、戦後、それまでの神国日本教を捨て、金権教に走った。
「国のため」が、「会社のため」となり、さらに「金(マネー)のため」となった。

 金銭的な得を、「得」といい、損を、「損」と、言うようになった。
またそういった基準で、仕事を考え、生き様を考えた。
が、そこはまさにゲームの世界。
お金がなければ、人はたしかに不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。

●バスの中で

「私たち、今までこうして無事で来られてよかった」と。

 その意味が、今になって、つくづくとよくわかる。
もしそれを「得」と考えるなら、私たちは本当に得をしたことになる。
が、それを声に出して言うことはできない。
そこにだれか相手がいるなら、なおさら。
この世の中、そうでない人も多い。
病気や事故で苦しんでいる人も多い。
金銭的なトラブルや人間関係で苦しんでいる人も多い。

そうした人もいるから、「得をした」という思いは、しっかりと心の中に封印する。
それに、今はそうであっても、この先のことはわからない。
明日、その「無事」が、どこかへ飛んで消えるかもしれない。
だからよけいに口が重くなる。

●時之栖(ときのすみか)

 選択をまちがえたかな……?
ホテルといっても、ロッジ。
ブルーベリーロッジ、スローハウスヴィラ。
部屋に入って外を見ていると、女子中学生らしい一群が、ロッジの中へ消えていった。

 部屋は4部屋ある。
和室、ベッドルーム、洗面所+風呂+トイレ、それにこの居間+台所。
広さはそれぞれ8畳ほど。
ホテルや旅館とは、まったく趣を異にする。
どこかのマンションを借りて入ったよう。
あるいはどこかの有料老人ホームに入ったよう。
よく言えば、外国の大学の家族寮のようでもある。

 あまり楽しくない。
生活臭が強すぎて、旅館に泊まったというな実感がない。
ついでに言えば、旅行で来たというような実感もない。
好き好きもあるだろうし、何とも言えないが、星は2つ?
(あとで、星は4つに上昇。その理由は、あとで……。)

 造りはカナダ風(ロッジの説明書)とある。
「そうだろうな……」と思いつつ、あちこちを部屋の中を探索する。

●林檎の湯(りんごのゆ)

 風呂は、「林檎の湯」だそうだ。
歩いて数分のところらしいが、今夜はこのまま冷えそう。
風呂へ行くためには、一度、部屋を出て、外気の中を歩かねばならない。
だいじょうぶかな?

 また低い雲に隠れて見えないが、目の前には富士山がそびえ立っているはず。
この御殿場は、同じ静岡県の中でも、毎年、初雪が、もっとも早く降る。


 入浴は4時から〜とある。
時刻は現在、3時42分。
ほかにも2つの温泉施設がある。
一眠りしてから行こうか、それとも夕食後に行こうか……。
目下、思案中。

●入浴
 
 林檎の湯は、よかった。
客は私、1人だけ。
途中からもう1人、客が入ってきたが、フレンドリーな人だった。
「結構、寒いですね」と声をかけると、ハハハと笑ったあと、「そうですね」と。
そのあと、いろいろ、話がはずんだ。

 浴室で体を洗ったあと、露天風呂に飛び込んだ。
湯加減もよく、気持ちよかった。

●部屋

 今日は「朝食のみ、貸し切り風呂」の料金ということで、1人1泊7500円(ジャラン)。
何かの目的があれば別だが、わざわざこうしたロッジに泊まりに来る客はいない。
フロントで聞くと、スポーツ選手やその団体が、よく泊まりに来るという。
隣には、サッカー場もある。

 私は、居間+台所が気に入った。
ごくふつうの家の台所といった感じ。
ここでなら、思う存分、文章が書ける。

●本

 何冊か、本をもってきた。
ほかに週刊誌や新聞など。
これだけ情報が氾濫しているにもかかわらず、どうも落ち着かない。
「もっと知りたい」というより、知れば知るほど、底が抜けていくように感ずる。
底が抜けていくから、結論が出せない。

 ネットであちこちのニュースサイトを読みあさる。
とくに経済ニュース。

特筆すべきは、オリンパス工業の株価、大暴落。
つづいて野村證券の株価、暴落。
野村證券は、オリンパス工業の「主幹」証券会社になっているという。

(主幹という意味が、よくわからない。
風説によれば、野村證券の元社員が、オリンパス工業の株価大暴落の裏で、インサイダー取
り引きを指南していたという。
野村證券側は、即座に否定会見を行ったが、時、すでに遅し。
40%と言われる外国人を中心にした投資家が逃げた(Bloomberg)。
今日の終値は、240円前後。
43円安(15%安)。
一時は、2500円前後(2000年ごろ)もあった。
そのときと比べると、10分の1以下。
「すでに200円割れも視野に入っている」とか。)

 しかし……。
オリンパス工業は、損失を先送りしながら、投資家をだましたということになる。
こうした手法を使ったのは、本当にオリンパス工業だけなのか。
ほかにもあるのではないのか。
それが証明されないかぎり、私たちはますます株式市場を信用しなくなる。
仮に天下の野村證券がそういうインチキに加担していたとするなら、これはとんでもない話。
詐欺以上の、詐欺。

●ラッキー!

 夕方、時之栖の中を散策してみた。
とたん、目に飛び込んできたのが、イルミネーションのアーチ!
それが数百メートルにわたって、つづいていた。

 私とワイフは、まっすぐそのアーチの中に飛び込んだ。
うわさには聞いていたが、これほどまでのものとは想像もしていなかった。
ワイフは何度も「天国みたい」と言った。
私はなんども「夢の中みたい」と言った。

 本格的な展示は、11月10日からという。
(今日は11月8日。)
最後の仕上げ作業ということで、試運転を始めていた。
途中、作業員の男性に、「今夜は何時までですか?」と聞くと、「6時までだよ」と。
時計を見ると、まだ5時少し前。

 私とワイフは、天国と夢の中を歩いた。

●訂正

 時之栖は、旅行で来るようなところではないと、先に書いた。
しかしそれはまちがいだった。
帰る途中、時之栖美術館とBOOKS&CAFEに寄った。
BOOKS&CAFEでは、軽い夕食をとった。

 温泉も3か所、ある。
気楽坊、茶目湯殿、それに林檎の湯。
ホテルもあり、もちろんホテルの中にもあるという。
もちろん目の前には、富士山。
時之栖だけを目的に来ても、じゅうぶん楽しめる。

 「先に星は2つ」と書いたが、星は4つにUPの、★★★★。
ホテルに泊まって、東海地方イチという、イルミネーションのアーチをくぐるのもよい。
小さいが、3-D劇場というのもある。
手づくり工房というのもある。
地元のみやげ物を売っている。

 家族で来ても、じゅうぶん、楽しめる。

●リラックス

 講演のできは、最悪だった。
あれも話そう、これも話そうと、話を広げすぎてしまった。
そのため途中で、あせってしまった。

その分、早口になったが、舌のほうが、それについてこなかった。
 
 で、こういうときは、あまり気分がよくない。
ワイフは、「よかったわ」と慰めてくれたが、それを聞くのも、つらい。
講演のあと、今にいたるまで、その話題は、避けている。

●仮眠

 6時ごろ、仮眠をとった。
2時間ほど、眠った。
深夜の貸し切り風呂になるまで、あと数時間。
フロントの女性は、「(午後)11時半からです」と言った。

 ローソクの灯で、日本酒つきの貸し切り風呂へ入れるという。

●相談

 今日、講演に来てくれた人から、早速、相談が届いていた※。
いわく、「家庭で、いくらしつけをしても、実家などへ帰ったとき、それが破られてしまう。
あまりうるさく言うのもどうかと思い、黙っているが、そういうときは、どう考えたらよいか」と。

 答……何ごとも完ぺき主義は、よくない。
とくに子育てでは、そうで、子どもはファジー(あいまいな部分)で息抜きをする。
またその部分で、伸びる。
言うべきことはいいながらも、あとは子どもに任す。

 というのも、(しつけ)の中身が問題。
日本で(しつけ)というと、(細かい作法やマナー)が多い。
「ウソをつかない」とか、「約束を守る」というのは、世界共通、普遍的な(しつけ)ということにな
る。
一方、「食事の間は席を離れない」(相談者)などというのは、つまりは作法。
それが破られたからといって、子どもの人格に影響を与えるということはない。
私など、食事中に、いつも席を離れている。

 問題とすべきは、子どもの(しつけ)ではなく、その相談者の完ぺき主義。
程度の問題もあるが、度を越すと、育児ノイローゼになる。
詳しくは、YOUTUBEで。

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/jl9VnNzWGSg?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

●YOUTUBE

(注※)「こんにちは、はじめまして。
今日の講演会でお話を聞かせていただきました。
質問したかったのですが手をあげれなかったのでコメントしました。

お話の中の「責任論」につながるんでしょうか、
躾というか、家でのルールがあるのですが、場所が変わると通せなくなり、うやむやになったり
します。

例えば、食事中に立ち上がったら食事は終わり、が、家では出来るのですが、実家などでは難
しくなります。
周りに厳しい、可愛そうみたいにされてしまうと、私が間違いみたいな状態になってしまうので
はないかと思ったりもします。

場所が変わっていることを子供が分かっているので、ルールがリセットされる事はないのです
が複雑です。
教えていただけたら嬉しいです。」(以上、ココログへのコメントより)

●11月8日

 現在、時刻は、午後10時45分。
もうすぐ今日も、終わる。
私とワイフは、テーブルに相向かって座り、それぞれ勝手なことをしている。
私はパソコンを叩き、ワイフは、雑誌を読んでいる。
ときどき話しかけてくる。
適当に、私はそれに答える。

 PRESIDENT誌(11・14日号)に、おもしろいことが書いてある。

●幸せなお金持ちの共通点(PRESIDENT誌より)

(1)人と自分を比べない。
(2)がんばらない。
(3)競争しない。
(4)ギラギラしない。
(5)ジタバタしない。
(6)苦労しない。
(7)自己投資している。
(8)大きく発想する。
(9)大きい挫折の経験がある。
(10)好きなことで成功している。
(11)人のためを考えている。
(12)さわやかな図々しさがある。
(13)夫婦仲がよい。(以上P43)

 つまり金持ちかどうかは、収入の額によって決まるのではなく、生き様の問題ということらし
い。
本文の中に、こうある。

『夫婦仲がよくないと、お金は残りません。
夫婦間にストレスがあって、それを手っ取り早く解消する方法は、お金を使うことだからです。
反対に、夫婦仲がいい家庭は、お金を使わない傾向がありますね。
家でパスタでもつくって、映画でも観ていれば、それだけでハッピーなんです』(同誌)と。

 (1)〜(13)項目の中で、「さわやかな図々しさがある」というのは、どういう意味か。
それをワイフに聞くと、こう教えてくれた。
「図々しいけど、イヤミのない人ね」と。

 ウ〜ン、ナルホド?
わかったような、それでいてわからない説明だが、へんに納得。

●福島県の人

 先ほど、フロントの女性に聞いた。
何でもこのロッジには、福島県からの避難してきた人たちが住んでいるという。
フロントの女性は、「女の子たち」と言った。
その言葉通りとするなら、集団で、女の子たちだけが、避難しているということになる。
ここへ着いたとき見かけた女子中学生風の子どもたちは、彼女たちだったかもしれない。

 浜松市にも、福島県からの避難者が来ているという。
私は直接的には知らないが、子ども(生徒)たちから、そういう話を聞いている。
「福島から転校生が来たよ」と。

●カナダ風ロッジ

 このロッジは、カナダ風という(宿の案内書)。
カナダ規格で建てられたロッジにちがいない。
廊下も幅が広く、ドアの高さも高い。
キッチンも高い。
全体に大ざっぱだが、がっしりとしている。

 どこか外国のモーテルに泊まっているよう。
だんだんと、そういう気分になってきた。
つまり気に入ってきた。

●自己投資

 幸せなお金持ちの共通点(PRESIDENT誌より)の(7)に「自己投資」という言葉が出てくる。
自己投資……たいへん重要なこと。

とくに60歳を過ぎたら、重要。
努めて、自己投資する。
というのも、60歳を過ぎると、どうしてもケチになる。
金銭的にケチになるというよりは、自分の保守的な部分が削られるのを、恐れる。
守銭奴ならぬ、守「我」奴になる。

 自己投資ということは、つまりは新しい「我」を、どんどんと注入すること。
そうでなくても、知恵や知識は、容赦なく、こぼれ出て行く。
努めて補充していかないと、要するに、バカになる。
保守的になる。
その「努めて」という部分が、「自己投資」ということになる。
具体的には、「しっかりと金を使え」ということか。

●自己投資

私「なあ、自己投資しろとあるよ」
ワ「どうせまた、パソコンが欲しいと言うのでしょ」
私「ビンゴー(当たり)」
ワ「自分の都合のいいように解釈しないほうがいいわよ」
私「そうかなあ……」と。

 パソコンという機器は、いくら高性能でも、数年たてばただのパソコン。
たとえば数年前、私は当時では最先端を行くデスクトップ・パソコンを買った。
が、今では、ノートパソコンでも、同等の性能をもっている。
言い換えると、パソコンという機器は、使い倒してこそ、価値がある。
飾ってしまっておくようなものではない。

●富士山

 先ほど露天風呂の鍵をFRONTへ返しに行ってきた。
そのときFRONTの男性に、「富士山はどちらですか?」と聞くと、指をさしながら、「そこ!」と
言った。
「目の前です」と。

 ついでに天気も調べてくれた。
「明日は快晴ですね」と。

 これまたラッキー。
最近、旅行に恵まれている。
どこへ行っても、「ラッキー」がつづく。

●ロッジ
 
 昼間見たら、さびれたロッジだった。
が、夜のロッジには、独特の風情がある。
都会のホテルのよな冷たさが、ない。
反対に人間的な温もりすら覚える。

私「あのなあ、老人ホームってさあ、こうでなくちゃあ」
ワ「そうねえ。オーストラリアで見たオールドマン・ビレッジ(老人村)によく似ているわね」
私「ぼくも、そう思っていた。二階部分を取り払ったら、まさにオールドマン・ビレッジだ」と。

 またまたケチをつけて、恐縮だが、日本の老人ホームは、お金のかけ過ぎ。
どこも一流ホテル以上。
お金をかければ、それでよいというものではない。
それがわからなければ、日本の役人も、一度、オーストラリアのオールドマン・ビレッジを見学
してくることだ。
一戸一戸、それぞれが別棟になっていて、庭もある。
その横には、幼稚園が併設されている。

●就寝

 FRONTでもらった日本酒。
それをワイフが飲み始めた。
私が泊まった、「貸し切り風呂付きコース」には、こうしたサービスがついている。

 「これ発泡酒よ」と言って、今、テーブルに置いてくれた。
「フ〜ン」と言って、私はそれを横目で見る。
今日も、これでおしまい。
忙しかったが、それだけ。
成果、なし。

 明日は、午前9時25分にここを離れ、三島駅で10時過ぎの新幹線に乗る。
昼までには、家に帰れるだろう。
途中、義兄に、みやげを届けるつもり。

 ……では、このつづきは、また明日!
Have a good Nite!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●11月9日

 朝、7時にモーニングコール。
部屋というより、ロッジ中に響き渡るような大音響だった。
ジリジリジリ……、と。

 目覚ましにはなったが、そのあとすぐ、また夢を見た。
ほんの数分のことではなかったか。
どこかの体育館のようなところにいた。
いろいろな人がいた。
何でもない夢だった。

 起き上がって、「目覚ましが鳴ったあと、夢を見た」と告げると、ワイフは怪訝(けげん)そうな
顔をしてみせた。

●朝食

 朝食は近くの朝食センターでとった。
窓の外には、サッカー場が見えた。
どこかの女子チームが、三角のポールを並べているところだった。

 私は和食。
ワイフは洋食。
「9時25分のバスで帰ろうか?」と聞くと、「あわてなくてもいいんじゃない?」と。
朝食のあとのコーヒータイム。
ゆるやかに時間が流れる。
頭の中はまだぼんやりとしている。
まだ夢の中。

●散歩

 朝食のあと、あちこちを散歩した。
お薦めは、『茶目湯殿』。
風情のある建物で、もし時之栖(ときのすみか)に泊まるようなことがあれば、ぜひ行ってみた
らよい。

 ほかにもいろいろな催し物が用意されている。
スケート場もある。
私自身は寒いのが苦手。
だから冬場に来ることはない。
来るとしても、春。
今度は来年の春にでも、もう一度、来てみたい。

●批評

 時之栖(ときのすみか)について、ほめてばかりいては、いけない。
全体としてみると、随所に(やる気なさ)が感じられる。
看板は立て放題。
美的感覚も乏しい。
路上の三角ポールに張りつけた紙も、風に舞ってパラパラしている。
建物の形、色づかいにも統一性がない。

 あと数歩崩れると、全体として町中の小さな公園風、もしくはさびれた遊園地風になる。
要するに、手当たり次第というか、その場、その場で、とってつけたような建物が無造作に並ん
でいる。

 この不況下。
何かとたいへんだろうとは思うが、唯一の救いは、料金が安いこと。
ときにこれからの冬場は楽しそう。

●鼻水

 帰りのバス。
軽い鼻水が出る。
風呂から出たあと、風邪をひいたらしい。
今のところ、症状は鼻水だけ。

●新幹線の中で

 今ごろになって、眠気が襲ってきた。
横では、ワイフが「サンデー毎日」を読んでいる。
「雅子さまの高まるストレス」というタイトルの記事を読んでいる。
女性というのは、皇室でのできごとが気になるものらしい。
よく知っている。

昨日も、「雅子さんは〜〜だけれども、紀子さんは〜〜」と、詳しく説明してくれた。
まるで知人か友人でもあるかのように、性格分析までしてくれた。
私は「どうしてそんなことを知っているのだろう?」と思いながら、聞いた。

が、私自身は、ほとんど興味がない。
大切なことは、そっと静かにしておいてやること。
どんな家庭にも、問題がある。
問題のない家庭など、ない。

 それにしても、眠い。
「家に帰ってから寝よう」と言うと、「うん」とワイフは言った。

●新富士

 列車は新富士に着いた。
FRONTの男性は「明日は(=今日は)、快晴」と言った。
ところが起きてみると、どんよりとした雲が、低く垂れ下がっていた。
新幹線の中からも、そうだろう。
向かって太平洋側の席に座ったこともある。
私は見上げることもなく、パソコンを開いたまま、まどろみ始めた。

 ……こんな話をした。

「もし、敦賀原発(福井県)が事故を起こしたら、岐阜県は全滅する。
少し間をおいて、静岡県も全滅する。
そのときは、逃げるしかないね」と。

 浜岡原発(静岡県御前崎町)については、すでに行動計画は立ててある。
間髪を入れず、即、避難。
風向きにもよるが、浜松市は一夜にして、高汚染地帯に入る。
政府の避難勧奨など、まったくアテにならない。
アテにならないことは、一連のフクシマで証明された。

 が、どこへ避難するか?

 ……放射線を浴びても、症状が現れるのは2〜5年後(チェルノブイリ)。
だったら、寿命のほうが先にくる。
そんな意見もある。
しかし放射線のような得体の知れないもので、寿命を縮めることはない。
そこらのチンピラにからまれ、怪我をするようなもの。
死ぬときになって、「原因は、あの原子力発電所の事故によるでは?」と疑うことくらい、無念な
ものはない。
はっきりと因果関係がわかっていれば、まだ救われる。
恨んで死ぬことができる。
が、それもあいまいなままだと、恨んで死ぬこともできない。
つまり生殺し!

 土俵際に立たされたような私だが、まだまだふんばってやる!

●静岡

 新幹線は、静岡駅を離れた。
窓の下には、大井川が見える。
今回の講演旅行も、終わりに近づいてきた。

 ところでボケには、転地療法がよいという。
もちろん予防にもなる。
称して「転地予防」。
部屋の様子が変わるだけでも、脳みそへの刺激になる。
ワイフもそう言った。

 これからも機会を見つけ、もちろん懐(ふところ)とも相談しながら、転地予防をつづけたい。
肉体の老化もこわいが、脳みその老化は、もっと、こわい。
私が私でなくなってしまう。
そう言えば、先ほどバスの中で、うしろに座った老夫婦が、こんな話をしていた。
何でもその老夫婦の知人が、認知症になってしまったという。
そこで家族がその老人を、施設に入れた。
が、入れたとたん、その老人が盲目になってしまったという。
恐らく緑内障か何かになったのだろう。
一時的でも、強力なストレスが加わると、それまでボヤボヤとしていた持病が一気に悪化す
る。
そういうことは多い。
いくら認知症になっても、まだ「心」は残っていた。
私はその老夫婦の話を、そのように理解した。

 窓の外には、寒々とした冬の景色が広がっている。
こういうときは、気分まで暗くなる。
ア〜ア、暖かい布団に入って、昼寝をしたい!
列車は、掛川駅に止まった。
つぎは、浜松駅。

(伊豆、御殿場、講演旅行記、おしまい!)
はやし浩司 2011−11−09


Hiroshi Hayashi+++++++NOV. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●11月10日朝記(はやし浩司 2011ー11−10)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

昨夜、友人宅から帰ったのが、午後11時。
4時間近くも、話し込んでしまった。

そのときのこと。
何かを説明するために自分のパソコンを開いた。
ついでに……ということで、EUの経済動向を見て、驚いた。
イタリアの10年国債の利回りが、7・14%になっていた(午後19:00)。
朝方は、たしか、6%前後だったはず。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●イタリアの金融危機

 家に帰ったのが、午後11時ごろ。
それから軽い夜食。
お茶漬けを食べた。
そのあとイタリアの金融危機が気になった。
今では、リアルタイムで、その国の国債の利回りを知ることができる(Bloomberg)。
で、「寝る前に……」とパソコンを開く。

23:30……7・213%
24:00……7・282%
00:10……7・299%
00:26……7・251%

 7%を超えたとき、アイルランドもギリシアも、金融危機に陥った。
Bloombergは、つぎのように伝える。

『……ロンドン時間午後5時3分現在、イタリア5年債利回りは前日比70ベーシスポイント(b
p、1bp=0.01%)上昇し7.57%。
同国債(表面利率4.75%、2016年9月償還)価格は2.54下げ89.265』と。

 この報道によれば、日本時間で、今朝(11月10日)午前4時3分ごろ、7・57%まで達したこ
とになる。
で、現在(日本時間:午前7時15分)は、やや落ち着いて、

07:15……7・206%

 今度はイタリア!、ということか。
しかし不思議なのは、……というか、私には理解できないのは、「では、ギリシアはどうなったの
か?」という疑問。
ギリシアの金融危機問題にしても、何も解決していない。
が、EU関連のニュースのどこを見ても、ギリシアの名前が出てこない。
イタリアの陰に隠れてしまった。
言い換えると、イタリアの金融危機問題は、それほどまでに大きいということ。

●フランスの金融危機

 イタリアの最大債権国は、フランス。
ドイツは2番目。
そのフランスの国債(10年もの)の利回りも、ジワジワと上昇している。

00:00……3・147
00:10……3・184
00:26……3・168
07:15……3・179

 不気味なことに、フランスが今度は、イタリアのあとを追いかけ始めた。
中村清次日銀審議委員は9日、「イタリアに債権を沢山抱えるフランスについてもいろいろなう
わさが出ている」と問題の深化・複雑化に懸念を示したという(ロイター)。

同時に、ニューヨーク・ダウ・工業株30種も、大暴落。
389ドルの下げを記録している(11月09日、終値)。

TBS−iは、つぎのように伝える。

『……9日からは、EUヨーロッパ連合がイタリアの財政監視を開始しましたが、ギリシャの5倍
という巨額の国債発行残高のあるイタリアが、財政再建に失敗すれば、世界的な影響は計り
知れません(10日03:50)』と。

 何やら恐ろしいことが起こり始めている……というところまでは私にもわかる。
わかるが、そこで思考停止。
世界経済は、一度、行き着くところまで、行き着く。

●証券会社の格下げ

 同じくTBS−iニュースは、こんな記事を配信している。

『……金融市場の混乱が証券業界を直撃しています。
アメリカの格付け会社・ムーディーズは、国内証券2位の大和証券グループの格付けを1段階
引き下げるとともに、国内最大手の野村ホールディングスの格付けも引き下げる方向で見直
すと発表しました』と。

 が、私には、この「ムーディーズ」(信用格付け)というのが、よくわからない。
経営の健全性を示す指標になっているということらしい。
たとえば日本経済新聞は、『……ムーディーズ・インベスターズ・サービスは9日、野村ホール
ディングス(HD)の格付けを現在の「Baa2」から引き下げ方向で見直すと発表した』と報道して
いる。

「Baa2」とは何か。
そこでおさらい。

●格付け(ムーディズのばあい)

+++++++++++++++++

信用リスクが低い   Aaa
           Aa
           A

中程度の水準     Baa 
           Ba
           B
           Caa
           Ca

信用リスクが高い   C
債務不履行に陥っているD

++++++++++++++++

 大和証券、野村證券(ホールディングズ)は、上述「Baa」のレベルにあるということらしい。
しかし信用を第一とする銀行や証券会社にとって、この格付けはそのまま営業に直結する。
事実、この発表を受け、野村證券は、即、反応した。
「我が社の経営は、堅固である」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田丸謙二先生(11月10日)

 昨夜(11月09日)、田丸謙二先生から、メールが届いていた。
ドイツでの講演が無事終わったらしい。
「前回のメールでは、命が心配です」とあった。
よかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田丸謙二先生の講演旅行記より

     Fritz Haber Institut の創立百年祭に招待されて


1911年にKaiser Wilhelm Institut として Berlinに創立された研究所が途中で Fritz Haber 
Institut (FHI) と名前を変えて、今年の10月26日〜28日に創立百年のお祝いをした。


4年前にノーベル化学賞をとった前所長の Ertl 教授の75 歳の誕生日のお祝いも兼ねて、世
界中から一流の学者を招いての盛大な講演会でもあった。


参加した人たちは物理、化学は言うまでもなく化学史の専門家まで含み、千人近くの集まりで
あった。


私は百年の歴史の中での「Haber と日本」と題して、原稿も見ずに、この百年の間での田丸家
と Fritz Haber Institut との関連について講演をした。


  内容的には亡父が1908年2月に Karlsruhe の Haber 研究室に留学し、「死ぬほど働いて」
アンモニア合成の成功に関与し、Haber が新設されたBerlin の Kaiser Wilhelm Institut の所長
になった折に直ちに亡父を所員に招き、第一次世界大戦が始まって日独が敵対関係になるま
で合計6年間 Haber と共に研究をして来た。


今回においてその当時亡父が撮った百年前の写真を何枚も出して見せたのは現在見せられ
た聴衆にとっては大変に印象的であったようであったし、FHI としても非常に貴重なものであっ
た。


その後1918年に Haber はノーベル化学賞を受け、1924年に星一さんの招待に応じて夫妻で
来日をした。


在日中は各地で講演をし「国を発展させるには科学の振興が必要である]という、彼がドイツで
英仏をしのいで国を振興させた実績に基づいた講演をし、亡父がそれを翻訳し、自分なりの科
学振興の必要性も加えて、一冊の本として岩波から出版したのである。


(事実その頃の我が国から欧州への自然科学の留学の75%はドイツに行ったものである)そ
の影響もあってわが国では昭和一桁の非常な経済不況の中にありながら、Kaiser Wilhelm 協
会をモデルにして日本学術振興会を作り、大学や研究所に研究費を増額分配し、ベルリン工
科大学をモデル化して東京工大を新設もした。


(尤もこの両方の学術振興の実積は亡父の尽力なしでは実現しなかったものである)Haber が
ドイツの学術振興だけでなく結果的にはわが国でも科学振興の実績を積んだことは、ドイツ人
たちにとっても初耳であったし,大変に印象的でもあったらしい。(わが国でもほとんど知られて
いない)


   次世代として私が、世界で初めて触媒反応中に固体触媒表面の挙動を直接観察して、そ
れまで反応機構は推論に基づいていただけだったのを飛躍的に発展させて、触媒科学が科学
として生まれたことを触れて、それをErtl が例えば Photoemission electron microscope を用い
て見事な発展をもたらしてノーベル賞に至ったことに触れ、さらに婿の大山茂生(現東京大学
教授)がフンボルト賞を三年前にうけて Hajo Freund と共に半年間FHI に滞在したことを告げ
て、結局田丸家は過去百年の間三代にわたり FHIと深い関係を持って来たことを紹介し、これ
まで一世紀の間世界をリードして来たFHI が更なる新しい世紀も世界をリードすることを願う、
と言って話を閉じた。 


  話の途中に亡父が残した百年前の写真の中にある亡父が着ていたモーニングがベルリン
製であり、百年の間無事に保たれ、興味あることに私の娘の大山秀子にピッタリのサイズであ
ることを言って、秀子がその服を着て現れた時は拍手大喝采であったし、ハ―バー夫妻が鎌
倉の我が家を訪問した折の写真の中に、私が母の腕の中にいた赤ん坊であって、ハーバーと
直接会っている証拠でもあると言った時も拍手が湧いた。


  話が終わってからの皆の態度はそれまでとはガラリと変わり、何十人もの人が入れ替わり
に、素晴らしい話だった、wonderful だけでも十何人か、, beautiful, elegant, moving (感動的), 
gem (宝石)(招待に与った Friedrich さんの表現)、highlight (今回のCentenary の議長を務め
た FTI のdirector のGerard Meijer 教授も使った表現), excellent (Ertl さんの表現)と各人なり
の言葉を使って私に対してベタ褒めであった。


英語も解りやすく、素晴らしかったし、とにかく88歳の人があんな素晴らしい presentation をす
るなんて考えられない、という大変な評判であった。


そうしてあの話はとても内容が素晴らしくて、話を聞いておくだけではもったいないし、是非テレ
ビで放送させ、その資料をドイツ化学会やFHIに永久に保存すべき話であるから、面倒でももう
一度同じ話をして貰いたいということになり、今度は聴衆は十何人か位のままでもう一度 
presentation をさせられた。


ビデオにまとまったら送ってくれるという。


とにかくこの上ない大変な好評であった。


ビジネスクラスの旅費まで出してくれてのご招待であったので、それに充分以上に報いること
が出来て本当によかったと思った。


中には鎌倉まで人を派遣して古い資料を見せてくれないか、とまで言われた。


FHI の図書室に「田丸古文書」の枠を作ることも議論されているとのことであった。


  昔は従来英語で苦労をすることがなかったが、今回は耳が遠くなり、英語が聞き難く、秀子
が大分助けてくれた。


老化現象も耳の遠くなる不便さはどうにかしなければ、もっと優れた補聴器にするか、というの
が正直の感じであった。


幸い婿が全てを手配してくれたし、私は日本円を彼らにまとめて手渡しただけで、ドイツのお金
は一文も使わずに、済ますことが出来た。


ベルリンでは日本に比べて非常な寒さであって、往復途中もよく眠れず、時差もあって肉体的
に大変な苦労であったし、風邪をこじらせながらようやく無事に帰国できた。(会議が終わって
から秀子たちと Romance Road を回って来た)


  秀子が科学史の専門家に我が家には亡父が百年前に購入した Lavoisier ヤ Liebig などの
手書きの手紙があると伝えたら大変に興味を示していたという。


亡父が購入したままに置いてあっただけに、多分世界で唯一の本物の手書きの手紙だけに、
科学史の資料としても大変に貴重なものであるからである。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ハーバー博士

 ハーバーのおかげで、今、私やあなたは、ここにいる。
そう言っても何ら、過言ではない。
ハーバーは、空気中の窒素の固定化に成功した。
当時は、『空気からパンを作った』と、絶賛された。
私たち人類が受けた恩恵には、計り知れないものがある。

 その私といえば……おととい、伊東市で講演をし、帰りに御殿場のホテルに泊まってきた。
何とも書くのもみじめなほど、スケールが小さい。
情けない。
田丸謙二先生という方は、42年前から、いつもそうだった。
言うなれば、私にとっては、北極星。
Unreachable Star! (ラ・マンチャの男より)
いつも私の数十歩先を歩き、その先で、私のようなヒヨコがヨチヨチ歩いてついてくるのを、笑
って見ていた。

 ともかくも先生、無事のご帰国、お喜び申し上げます。
いただいた原稿は、さっそく、先生のHPにUPしておきます。

 で、私が言えることは、ただ一言。
「私も88歳まで、がんばります!」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●7・206

 現在(08:15)、イタリア(10年国債)の利回りは、7・206。
午前7:15分時と、変化なし。
はげしい動乱のあと、EUも、やっと眠りについたらしい。

 で、今度は、この日本。

 株価はどう動くか。
大和、野村の株価は、どう動くか。
目が離せない!

 ……ということで、今日も始まった。

 田丸謙二先生、みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【教育とエデュケーション】

●2011年11月11日(金曜日)(はやし浩司 2011−11−11)

++++++++++++++++++

今朝は、雨。
冷たい雨。
肌寒いが、身がひきしまる。
一、二度、くしゃみを繰り返す。

そう言えば、昨日から鼻水が出る。
どこか花粉症ぽい?
今日は、インフルエンザの予防注射を受けてくる。
ワイフは、2週間ほど前にすませた。

+++++++++++++++++

●雑感

 曇天より、雨のほうがよい。
降るなら降る。
はっきりしてほしい。
私はそのほうが、好き。

 ところで、こんな話。

 教育観は、教師によって、みなちがう。
180度ちがうときもある。
たとえば私は、いつも、(そこにいる子ども)を原点にし、子どもを考える。
さまざまな問題があっても、それはそれ。
仮に何かの障害(?)をもっていても、不問。
IQなど、話題にしたこともない。
すべてが、そこからスタートする。

 一方、テストにテストを重ね、「ここに問題がある」「あそこに問題がある」と子どもの問題を指
摘しながら、指導する教師もいる。
もちろんIQテストも頻繁に繰り返す。
子どもの問題や能力を、数値化する。
指導の結果も、数値化する。
どこか教育の視点が、無機質化している。

 が、この方法は、私のやり方ではない。
AD・HD児を例にあげて、考えてみたい。

●「教育」と「エデュケーション」

 「教育」と「エデュケーション」は、基本的に方向性が、逆。
反対向き。
「教育」とは、「教え育てる」ことをいう。
寺の本山教育を思い起こせばよい。
わかりやすく言えば、「教え育てることによって、子どもを一定のワクに閉じこめようよする」。

 一方、エデュケーションは、「educe」が語源になっている。
もともとは「引き出す」という意味である。

 それぞれの子どもには、すでに自ら伸びる能力が宿っている。
その能力を引き出すのが、「educe」。
が、その能力は、みな、ちがう。
個性をもっている。
わかりやすく言えば、「子どもがもつそれぞれの能力を、じょうずに引き出してやる」。
それが「エデュケーション」ということになる。

●AD・HD児

 ……という話は、何度も書いてきた。
田丸謙二先生は、いつもそう言っている。
が、この(ちがい)には、もうひとつ、重要な意味が隠されている。
たとえばこんな例で考えてみよう。

 AD・HD児と呼ばれる子どもがいる。
昔は、多動児とか、多動性児とか、あるいは活発型遅進児(まったく遅れてなどいないが)と
か、呼ばれた。
このタイプの子どもでも、小学3〜4年生を境に、急速に症状が落ち着いてくる。
自己認識能力(=自分を客観的に評価する能力)と、自己管理能力(=自分を自らコントロー
ルする力)が、身についてくるからである。

 が、幼児期や児童期においては、そうでない。
どう(そうでない)かは、すでに、みな、よくご存知の通り。
「問題児」とか、「指導困難児」とか呼ばれている。

●私の経験

 AD・HD児という言葉がさかんに使われるようになったのは、2000年前後から。
そのころ、日本にはまだ診断基準もなかった。
時の厚生省が研究班を組織し、特定の大学に診断基準の作成を依頼したのも、そのころのこ
と。
が、ADHD児と呼ばれる子どもは、すでに40年前にもいた。
(当然のことだが・・・。)

 私は一度、このタイプの子どもに、自分の研究授業をメチャメチャにされたのをきっかけに、
たいへん興味をもつようになった。
強く叱っても、効果は一時的。
10〜15秒も効果はつづかなかった。

 で、勤めていた幼稚園の園長に相談し、このタイプの子どもだけを数人、教えさせてもらうこ
とにした。
数人が限度だった。
が、教えるというよりは、毎日、プロレスごっこ。
20代の私でも、1時間、接しただけで、ヘトヘトになるほどだった。

●診断名

 西洋医学の世界では、体に不調が起きると、まず診断名をつける。
診断名をつけたあと、診断名に応じて、攻撃的な治療にとりかかる。
これが西洋医学的なものの考え方であり、治療法である。

 つまり診断基準を設けるということは、すでにその時点において、西洋医学的な視点で子ど
もを見ているということになる。
「この子どもは、ADHD児である」と。
一見科学的(?)だが、しかし重要な視点を見落としている。
「相手は、人間である」。

 しかし40年前の当時には、そんな診断名すら、なかった。
またなくても、困らなかった。
私はやがて、・・・といっても、それを知るまでに、10年以上もかかったが、こう考えるようになっ
た。
「時を待てば、自然に解決する」と。
脳の器質的障害(=機質的障害)は別として、AD・HDのような機能的障害については、子ども
自身に自己治癒能力が備わっている。
年齢とともに、脳の機能が、自らを正常化していく。

 その結果というわけではないが、それ以後の研究によれば、あのモーツアルトも、エジソン
も、そしてチャーチルも、AD・HD児だったと言われている。
さらに最近では、あのアインシュタインも、そうであったと、言われ始めている。

 もちまえのバイタリィテイが、ある年齢以上になると、よい方向に作用し始める。

●複雑化

 が、2000年以後、診断基準が確立されると、「リタリン」という薬がこの日本でも使用される
ようになった。
私は、即、その薬についての文献を、アメリカでさがした。
が、驚いたことにすでにそのとき(2000年ごろ)、リタリンの副作用や弊害が指摘されていた。
そのことは、私のHPにそのまま翻訳し、収録した。
(現在でも、その当時の文献は、そのままHPに残っている。)
が、それから数年の間、リタリンは、ADHD児の特効薬として、ごくふつうに、学校内部でも使
用された。
昼休みの時間などに、保険の教師が、子どもに投与しているのを、私は何度も見かけたことが
ある。

 が、子どものばあい、とくに幼児のばあい、脳の機能(=脳間伝達物質)をいじる薬物治療に
ついては、慎重であったほうがよい。
脳には、フィードバック機能というのがある。
ある特定の脳間伝達物質を服用すると、脳自体が本来もつ機能を停止してしまう。
これがかえって症状を、悪化させてしまう。

 それが理由だと思うが、現在、リタリンの使用は、AD・HD児に関しては、使用がきびしく制限
されている。

●幼児性

 つまり私はADHD児という言葉がポピュラーになる前、すでに30年近い経験を積んでいたこ
とになる。
(こんなことを自慢しても、何にもならないが・・・。)
そこへ降ってわいたように、AD・HD児という言葉が出てきた。
治療法(?)も、出てきた。
学校によっては、診断基準に応じて、特別学級が用意されるようになった。

 たしかにAD・HD児は、「指導困難児」である。
それは事実。
教育の場である「教室の秩序」を、容赦なく破壊してしまう。
が、幼児期から児童期にかけ、症状さえこじらさなければ、先にも書いたように、症状はやがて
落ち着いてくる。
が、こじらせば、話は別。

 薬物療法を受けた子どもや、はげしい指導(強圧的、威圧的な指導)を受けた子どもは、A
D・HDの症状のほか、複合的な症状をあわせもつようになる。
当然のことながら、その分だけ、「立ち直り」が遅れる。
顕著な症状としては、人格の核(コア)形成の遅れがあげられる。
その年齢(学年)なのに、その年齢(学年)に比して、著しく幼い印象を与える。
小学6年生なのに、小学3〜4年生のように見えるなど。

 だから指導のポイントは、つぎのようになる。
「症状をこじらせないよう、あとは時期を待つ」。

●自然治癒力

 話を戻す。

 そこにAD・HD児がいたとしても、それはそれ。
まずその子どもが、そういう子どもであることを認める。
診断名がついていたとしても、教育の場では、不問。
わかっていても、知らぬフリをし、指導を開始する。

 指導が「困難」といっても、「不可能」ではない。
それにワクに入らないからといって、「問題児」と決めつけてはいけない。
(日本人は、古来より、「型」を重要視する。
ワクからはみ出る子どもを、嫌う。
しかしこれこそ、悪しき「本山教育」の弊害。)

 ポイントは、先にも書いたように、症状をこじらせることがないよう、時期を待つ。
つまりここで「引き出す」という言葉が生きてくる。
仮にAD・HD児であっても、子ども自身がもつ、自然治癒力や自然平衡能力、そういった力が
自然に機能するまで、待つ。

 平たく言えば、脳の機能も、年齢とともに成長する。

●終わりに

 要するに(引き出す)ということ。
つまりこと教育に関して言うなら、(診断)→(治療)という、西洋医学的な視点は、参考にはなっ
ても、本題であってはならない。
なぜなら、どんな子どもでも、1人の人間であり、現にそこにいるからである。
相手がどんな子どもであっても、そこにいる子どもを認め、その上で、指導を組み立てていく。

 教育者の考えるワクに入らないからといって、その子どもを問題視するほうが、まちがってい
る。
いわんや「型」に押し込めようとするのは、まちがっている。
もし教師がやるべきことがあるとするなら、その子どもがもつ、自然治癒力を引き出すというこ
とになる。

……という意味で、今一度、「educe(引き出す)」の意味を考えてみた。
その一例として、AD・HD児について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 教育とエデュケーション 引き出
す教育 ADHD児 AD・HD児 多動性児 多動児 はやし浩司 教育における診断と治療)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【小学1&2年生に、割り算を教えてみました】

(1)小学1年生クラス
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&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)小学1年生クラス
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(3)小学1年生クラス
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(1)小学1&2年生クラス(Active Children)
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



(2)小学1&2年生クラス(Active Children)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/19cerFdKphY?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



(3)小学1&2年生クラス(Active Children)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/L46BUArgYcA?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 割り算 割り算レッスン 日本の
小学1年生 Active Learning 愉快な子どもたち 活発に学ぶ子どもたち わり算練習)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●雑感(なぜ男性便器の周辺は、汚れるのか?)

 ときとして、(……というより、いつもそうなのだが……)、無駄なことを考えて遊んでいる。

 たとえば先日来より気になっているのが、男子トイレの汚れ。
不潔さ。
女性は知らないかもしれないが、どこの男子トイレへ行っても、便器のまわりは汚れている。
それを見て、だれしもこう考える。
「ちゃんと便器の中へすれば、そんなに汚れないのに……」と。

 私もそう考えていた。……考えている。
「どうして汚れるのか」「汚れないようにするためには、どうすればいいのか」と。

 いろいろ理由があることがわかってきた。
そのひとつは、小便というのは、本体の小便のほか、周囲を霧状になって散る小便がある。
これは明るい太陽を横にし、立ち小便をしてみるとよくわかる。(大発見!)
チリも積もれば……ということで、それが便器の周辺に飛び散る。
便器の周辺を汚す。……(1)
が、それだけではない。

 男性のばあい、(女性のことは知らないが)、それが終了するとき、そのまま途切れるのでは
なく、一部が、ソーセージに沿って、下内側へ逆行する。
表面張力という力が働いて、逆行する。
……と考えていたが、よくよく観察すると、どうもそれだけではなさそうだ。

 実は……ということで、前から知ってはいたが、改めて発見した。
小便の出口は、管状になっているのではない。
細い縦糸状になっている。

 男性というのは、いつも上からソーセージを見ているので、知っていても、直接それを見るこ
とは、めったにない。
イメージとしては、管状。
しかし実際には、縦糸状。

 つまり出口が縦糸状になっているから、それが終わるとき、しずくが縦に流れる。
それが先に書いた表面張力の力で、ソーセージの下から逆方向に落ちる。(大発見!)
だから便器の中へではなく、そのまま便器の外へ落ちる。
便器の周辺を汚す。……(2)

●では、どうすればよいか?

 (1)による汚れをなくすためには、小便をできるだけ低い位置からすればよい。
立ってするから、霧状の小便が、周囲に飛び散る。

 (2)による汚れをなくすためには、ソーセージより後方に、便器を広げる。
しかし実際には、足がじゃまになるので、それができない。
そこでもう少し深く、考えてみる。
なぜ出口が縦糸状なのか、と。

 理由はすぐわかった。

 もともと人間は、四つ足で歩いたり、走ったりしていた。
犬が小便する様を思い浮かべてみればよい。
その姿勢では、ソーセージは、真下に向かってたれさがっている。
が、人間は二足歩行をするようになった。
そのため人間は、ソーセージを真横に向けて、小便をするようになった。
そもそも、……こう結論づけるのは危険かもしれないが、横に向かって小便をすることには、無
理がある。
無理だから、小便の一部が逆行してしまう。

 では、どうするか?

 もうおわかりかと思うが、ソーセージを真下に向けて小便をする。
ズボンのチャックを横にではなく、真下にあける。
真下にあけて、そこから手を突っ込んで、ソーセージを引き出す。
そして真下に向かって、シャーッ(ジャーッでもよい)と、小便を出す。

 が、実際問題として、手を下から入れて、ソーセージを出すのは不可能。
だったら、男性もスカートをはけばいい?
が、そうすると、これまたいろいろな問題が出てくる。
下着はどうするか?

●結論

 よく純和風の旅館に泊まったりすると、便器が、筒状の傘立てのようになっているところがあ
る。
あれならよい。
男性はその筒状の便器の真上に、それをまたいで立ち、ソーセージをまっすぐ下に向け、小便
をする。
そうれば、(1)と(2)の問題を、同時に解決することができる。
便器のまわりを汚さないですむ。(大発見!)

 要するに、現在の便器には、欠陥がある。
その欠陥故に、便器のまわりが汚れる。
ふとどきな連中が、便器のまわりを汚すのではない。
ソーセージそのものが、汚すようにできている。

 そこで結論。

 便器は傘立てのように筒状にする。
小便はその上でまたいでする。
そのときソーセージをしっかりと下に向けてする。
ソーセージと便器の高低差はできるだけ小さくする。
そうすれば、便器の周辺を汚さないですむ。……はず。

 以上、男子トイレについて、考察を加えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 男性便器 便器 どうして男性の
トイレは不潔なのか 汚れるのかはやし浩司 男子トイレ 男子トイレ考察)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ULTRABOOK TOSHIBA R631/28D

+++++++++++++++++++++++

ACER社とSUSAS社、それにTOSHIBA社。
これら3社から、ULTRABOOKが、出そろった。
3社3様。
が、私は、カタログで、私はTOSHIBAのR631に、決めていた。
そのR631が、11月11日(本日)、発売になった。

駅前のB店に行くと、それが並んでいた。
他の2社と比較すると、やや値段が高いかなと感じた。
「Office/Home & Business2010」が、付属しているということもある。
が、私は日本人。
迷ったら、日本製。
それにノートパソコンは、TOSHIBA製と決めている。

ただ発売当日に購入というのも、どうかと思った。
1〜2か月もすると、値段が、数万円程度は安くなる。
が、それまで待ちきれない。
・・・ということで、購入。

今、そのR631で、この文章を打っている。

+++++++++++++++++++++++

●R631

 一度自分のモノになったら、批評はしない。
批評すれば、自分がさみしくなる。
よくても悪くても、この先、いっしょにつきあうしかない。
私のほうが、パソコンに慣れる。
自分に「これはよいパソコン」と、繰り返し言って聞かせる。
それしかない。

 そのR631。
よいパソコンだ。
ENTERキーが大きいのが、二重丸。
バッテリーのもちも、9時間(実測でも7時間程度)。
それだけあれば、ほぼ一日中、使える。
が、何よりもすばらしいのは、起動が速いこと。
電源を入れて、10秒ほどで、デスクトップ画面が現れる。
SSD(ハードディスクの代わりにSDを使ったパソコン)のすごさを、改めて実感する。

●欲望

 で、その欲望。
欲望をすべて「悪」と決めつけてはいけない。
欲望そのものは、生きるエネルギーと直結している。
そのことは、生きる力をなくした老人を見れば、よくわかる。
私の母がそうだった。

 元気なころは、ちぎり絵に没頭していた。
一日中、部屋にこもって、作品と取り組んでいた。

 が、晩年の母は、ちぎり絵にまったく関心を示さなくなっていた。
私が材料や道具を用意して置いてみたが、手も触れようとしなかった。
生きる意欲そのものを失っていた。

 もう1人、こんな人がいた。
車が好きで、元気なころは、つぎつぎと新型の車に乗り換えていた。
が、あるときから、パタンと、・・・本当にパタンと、車に興味を示さなくなってしまった。
何かの大病を患ったときのことだった。
その人はそのあと、しばらくして、亡くなってしまった。

 だから・・・。
たとえば、(ものが欲しい)という欲求が生まれたら、(あくまでも60歳以上の人についての話だ
が)、それを消さないようにする。
しばらく放っておくと、その欲望そのものが消えてしまう。
どうでもよくなってしまう。

●自己投資

 が、こうなると、時間との勝負。
私が早くくたばるか、欲望が早くくたばるか・・・?
平均余命まで、あと15年。
何とかそれまでは、元気で過ごしたい。
そのためにも、欲望を大切にしたい。

 ずいぶんと身勝手な、かつ手前味噌的な意見だが、今の私は、そう思う。
だから家に、ノートパソコンがいくらゴロゴロしていても、新しいパソコンを買う。
もう少し専門的な表現を借りるなら、自己投資。
脳みその健康のためには、自己投資を怠らない。
命はお金では買えない。
が、お金で命を延ばすことはできる。 
だから、自己投資!

●条件反射 

 物欲そのものは、線条体に、受容体を作りやすい。
つまり条件反射が起きやすくなる。
ニコチン中毒やアルコール中毒と同じ。
新製品のカタログを見ているだけで、ググーッとそのモノがほしくなる。
これはまさしく条件反射。
若い男性が、女性のヌードを見たときのようなもの。
性欲本能は、(本能)で、ここでいう(条件反射)とは異質のものかもしれない。
しかし性欲も、扱い方によっては、受容体を形成しやすい。

 たとえば女性の下着を見ただけで、(それも汚れた下着のほうがよいそうだ)、ググーッと性
欲を覚えるなど。
だから欲望といっても、善玉と悪玉とに分ける必要がある。
どこでどうこの両者を区別するかについては、むずかしい。
しかし基本的には、欲望イコール、(生きる原動力)と考えてよい。
もちろん犯罪性をともなう、反社会的行為は別である。

●甘い陶酔感

 ・・・今のところ、R631が、たいへん気に入っている。
キーボードが打ちやすい。
画面も13・3インチ(ワイド)ある。
それに軽い!
驚くほど、軽い!

 部屋の中を持ち歩いても、苦にならない。
それにもうひとつ、大発見。
欲望をじょうずに満たすと、脳の中に、モルヒネ様のホルモンが分泌される。
それが脳内を、甘い陶酔感(=満足感)で満たす。

 その結果、買うまでは軽い頭痛があったが、それが消えた。
反対に欲望を抑え込むと、ストレスが増大する。
それが脳内ストレスを引き起こす。
サイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。

 このサイトカインには注意したほうがよい。
最悪のばあいには、体の免疫機能に作用して、免疫力そのものを弱めてしまう。

●結果論

 これは結果論。
冒頭に書いたように、私は3つパソコンの中から、どれにするか、それに迷った。
が、もっとも値段が高く、性能もよいTOSHIBA製のパソコンを選んだ。
しばらく使ってみると、それが心地よい喜びとなって返ってきた。
「いちばん気に入ったパソコンを手にした」という喜びである。

 こういうときは、いちばんよい機種を手にするのがよい。
二番手、三番手をもつと、かならず飽きる。
後悔する。
飽きて、結局は一番手が、またほしくなる。
ミニパソコンが出始めたころ、私はそれで失敗した。
つぎつぎと新製品が出たこともある。
気がついたときには、5〜6台のパソコンがテーブルの上に並んでいた。
もっとも当時は、それをもらい受けてくれる息子たちが近くにいたからよかった。
が、そういう失敗は、二度と繰り返したくない。
多少、値段は高くても、一番手、つまり本命をねらう。
だから昔の人は、こう言った。

『安物買いの、銭(ぜに)失い』と。

 ただし一言。
パソコンだけは、いくら使わなくなっても、自分で処分する。
リカバリーしてから渡すという方法もないわけではない。
しかしめんどう。
削除したファイルでも、プロの手にかかると、簡単に生き返ってしまうそうだ。

●ワイフとの仕事

 さて、そろそろ今年1年間を振り返るときが、やってきた。
早いもので、もう11月の中旬。
あっという間の1年だった。

 で、この1年間を振り返ってみて、ひとつよいことがあった。
ワイフのこと。
ワイフが私の仕事を手伝ってくれるようになって、もう4〜5年になる。
当初は、ためらっていたが、今は、自分のほうから手伝ってくれるようになった。
親や子どもたち(=生徒たち)とのつながりができたこともある。
それがワイフなりの(生き甲斐)になってきた。

 が、それだけではない。
私の仕事は、孤独との闘いだった。
その孤独を、ワイフが共有してくれるようになった。

 たとえば若いころ、大切に思っていた生徒が退会したとする。
私はつらくて、それをワイフに話すことができなかった。
1〜2か月もして、「実は・・・」と。

が、今は、ワイフはそれを目の前で見ている。
私が思うのと同じくらい、それをつらく思ってくれる。
それだけでも、私の心は軽くなる。

 ・・・若いころは、ワイフにはそれが理解できなかったらしい。
私がそのつらさを、八つ当たりという形でワイフにぶつけたりした。
すると、ワイフはいつもこう言った。
「あなたは仕事のことしか考えていない!」と。
それが私を、さらに孤独のドン底へと、叩き落とした。

●すごい国!

 もちろん、あの3・11大震災もあった。
あの震災が、日本という国を、根底からひっくり返した。
今も、その状態がつづいている。
電話でだれと話しても、みな不安そうにこう言う。
「この先、この日本はどうなるんでしょう?」と。

 どうにもならない。
なるようにしか、ならない。
ただこう思うときもある。
「日本って、すごい国なんだなあ」と。
こんな状況になっても、見た目には、びくともしない。
円高をどうこう言う人もいるが、こんな大災難の中にあっても、円高!?

 アメリカをはじめ、世界中が、通貨安競争を繰り広げた。
日本だけは、しなかった。
自制した。
(本当は、アメリカの圧力で、できなかったのだが・・・。)
その結果が今。
この先のことはわからないが、世界中が大恐慌に見舞われている中、日本だけは何とか持ち
こたえている。
(・・・と言っても、経済の動きは、そんな単純なものではない。
日本が円高なのは、ヘッジファンドが、この先日本経済が崩壊するのを先読みしているからに
すぎない。
そう説く経済学者もいる。)

●緊張感

 経済の話は、もうやめよう。
憂うつになるだけ。
こうした金融危機は、いつなんどき、自分たちの身に降りかかってくるか、わかったものではな
い。
とんでもないところから、突然、始まる。
ギリシャ、ギリシャと騒いでいたら、今度はキプロス、イタリア。
イタリア、イタリアと騒いでいたら、今度はオーストリア、ベルギー。
さらに今度は、フランス、それにベルギー・・・。
それらがそのまま、さらなる恐慌へとつながっていく。

 それにしても、このピンと張りつめたようなこの緊張感。
息が抜けない。
これはどうしたものか。
が、人間は、こうした緊張感に弱い。
それほど長く、もたない。
そのときが、こわい。

●バツをつけると怒る子ども

 数日前、こんなことがあった。
小学高学年の子ども(生徒)だった。
その子どものテストを採点しているとき、当然のことだが、まちがえたところに赤ペンで正しい
答を書いてやった。
それを見て、その子どもはパニック状態になってしまった。

 体中を緊張させ、恐ろしいほどの形相で、私をにらみ返した。
大声で泣きたいのを、必死でがまんしているといったふうだった。
それをワイフがうしろで見ていて、あとでこう言った。
「きっと悔しかったのね」と。

 が、その子どもは悔しくて、そうなったのではない。
簡単に言えば、かんしゃく発作を起こした。
それ以前の問題として、軽いアスペルガー症候群、あるいは自己愛者的な症状も見られる。
心が閉じているから、そうなる。
つまりその分だけ、心に余裕がない。
その場で、ハハハと笑ってすますことができない。

 そういう性質を私もよく知っていたから、ていねいな言い方で、採点をした。
それでもそうなった。

●儀式

 新しいパソコンを買うと、最初の数晩は、枕元に置いて寝る。
またその前後には、指をキーボードに慣れさせる。
キーボードを指でこする。
これが私の儀式。
新しいパソコンを買ったときの、儀式。

 指先の神経は、脳細胞のどこかに直結している。
指先の神経を刺激していると、やがて甘ったるい陶酔感が脳に満ちてくる。
モルヒネ様のホルモン(エンケファリンやエンドロフィン)が分泌されるためと言われている。
また古来より中国では、モノをいじることによって、ボケを防止しているそうだ。
そういう効果もあるらしい。

 ともかくも、指がキーボードに慣れるまで、少し時間がかかる。
やがてキーの表面が、指でこすれてピカピカになるころには、ブラインド・タッチができるように
なる。

 大のおとな(ジー様)が、パソコンを枕元に置いて寝るというのも、おかしな話に聞こえるかも
しれない。
しかしこの習慣だけは、私が子どものころから変わっていない。
何か欲しいものを手に入れたときは、枕元に置いて寝た。
おそらく、死ぬまで変わらないだろう。

●光るキーボード

 今回買ったパソコンは、キーボードが光る。
闇の中でも、文章を書くことができる。
いつか映画『トロン』の中で見たようなパソコンである。
横でそれを見たワイフがこう言った。
「不思議なパソコンね」と。

 これがなかなか重宝。
車の中でもパソコンを使える。
枕元の電気を消したあとでも、パソコンを使える。
が、こんなに便利なものとは、知らなかった。
一度使ったら、後戻りできない。
光るキーボードは、そういう機能と考えてよい。
つぎにまたパソコンを買うときは、光るキーボード付のパソコン・・・ということになりそう。
 
●柿

 家に帰ると、従姉から柿が届いていた。
岐阜の柿である。
大きくて、色があざやかに輝いていた。

 すぐ礼の電話を入れた。
私より1歳、年上の従姉だが、元気そうだった。

●浜北文化センターでの講演

 今度、11月30日(水曜日)に、浜松市浜北区にある、文化センターで講演をすることになっ
た。
浜松市内では、今年最後の講演会である。
主催者の先生に電話を入れて確かめると、「一般参加もOK」とのこと。

 もしこの文章を読み、時間がある人は、どうか聞きにきてほしい。
自信はないが・・・というのも、いつも失敗ばかりしているので・・・今度こそ、最高の講演をして
みたい。
真剣勝負。
開場は、午後6時30分。
講演時間は7:00〜8:30ということになっている。

 演題は『思春期前夜から思春期の子どもの心と発達』『こうすれば伸びる3つの方法』。

*********************

11月30日(水曜日)
浜北文化センター、午後7:00〜より
参加費、無料

主催:浜北区・健全育成会

*********************

●就寝

 先のところまで書いて、今まで、数時間。
とくに何かをしたわけではないが、時間だけ、過ぎてしまった。
時計を見ると、午後11時30分。
もうそんな時刻!

 ふとんの中で半分体を起こし、今、この文章を書いている。
光るキーボードが美しい。
・・・ふと見ると、ワイフがすでにイビキをかいている。
ほんの5分前まで、まだ起きていた。

 私も眠い。
しかしいつまでもこうして、文章を書いていたい。
本当のことを言えば、こうしてキーボードに触れていたい。
超薄型パソコンということで、ストローク(キーの深さ)は浅いが、じゅうぶんなクリック感はあ
る。
パチパチというより、ひざの上で、トントン、パタパタと鳴る。
(「パタパタ」というのは、ENTER・KEYを叩いたときの音。)
それが心地よい。

 ・・・とはいえ、もう私も眠らなくてはいけない。

●午前5時(2011ー11ー12)

 今朝は午前5時に目が覚めた。
トイレに行き、そのまま居間へ。
軽い偏頭痛があったので、Z剤を半分に割ってのむ。
熟睡していても痛いのが、偏頭痛。
その偏頭痛のせいで、寝起きに、いやな夢を見た。

 どうしてだろう?
つまりどうして偏頭痛なのだろう。
このところ精神状態は、悪くない。
日々が楽しく、それなりに満足している。
ワイフとも仲がよい。
神経を使うということもない。

●原稿依頼

 自動車技術会(公益社団法人)から、原稿依頼をもらった。
その機関誌に、6P(ページ)の原稿を書かせてもらうことになった。
年に1度の機関誌という。

 前もって打診はあったが、依頼書を見て仰天。
20P近い企画案内と、原稿の体裁についての注意書きがあった。
ワイフにそれを見せると、「すごい企画書ね」と。

日本の自動車会社が共同して発行する機関誌という。
私もこうして原稿を書くようになって40年。
しかしここまで「すごい!」企画書は、見たことがない。
たいていは、「○○字x○○行」ですんでしまう。

 原稿は完成しているので、再度推敲し、来週中には相手方へ届けたい。

●レッツノート

 今日は土曜日。
とくに予定はない。
会う人もいない。

 ・・・こうしてR631を叩いていると、12年ほど前に使っていた、TOSHIBAのダイナブックSS
と、PANASONICのレッツノートを思い出す。

 ダイナブックSSは当時としては、超薄型のパソコンだった。
23万円ほどもした。
ボロボロになるまで使い倒した。
(本当にボロボロになった。)

 レッツノートも薄型だったが、キーボードが平たく、ツルツルしていた。
その感触が、このR631と同じ。
どちらも愛用のパソコンだったが、両方とも、1〜2か月で故障。
とくにレッツノートは、それ以後、4、5回も修理に出した。
CDドライブが着脱式になっていて、本体との相性がたいへん悪かった。
当時は、一度修理に出すと、戻ってくるまで、1か月以上もかかった。

 そんなこともあり、レッツノートは、それ以後、一度も買っていない。

●狂乱状態

 今朝はまだニュースに目を通していない。
見たいが、心のどこかでブレーキが働いている。
目まぐるしいというより、狂乱状態。

 先にも書いたように、ギリシャがあぶないと思っていたら、今度はイタリア。
その前にキプロスがおかしくなった。
同時に、ベルギー、オーストリア、フランスまで……。
今度は、ハンガリー?
なぜか?
少し、視野を広げてみると、それがよくわかる。

 ・・・つまり地中海の上(北)と下(南)。
距離はそれほど離れていないが、生活レベルがあまりにも、ちがいすぎる。

同じ人間が、同じように働いている。
しかし「上」の人たちは、それほど働いてもいないのに、優雅な生活を楽しんでいる。
一方、「下」の人たちは、働けど働けど、極貧状態。
「南北格差」という言葉がある。
しかしこれほどまでにひどい「格差」のある地域は、ほかにない。
ヨーロッパだけ。

 今、その格差が縮み始めている。
そう考えると、EUの狂乱状態が、よく理解できる。
必死でユーロの「力」を守ろうとする、EU。
それをよしとしない、新興勢力。
激震に激震を重ねながら、ユーロも、やがて、ごくふつうの通貨になっていく。

 ついでにアメリカのドルも、日本の円も・・・。

●破壊主義

 が、だからといって、そのまま享楽主義に走ることは、正しくない。
もしそれぞれの人が享楽主義、つまり自分だけがその場を楽しめばよいと考えるようになった
ら、それこそ、世界はおしまい。
欲望だけが、むき出しになってしまう。

 人間は頭がよい分だけ、教育の仕方をまちがえると、たいへん。
欲望がぶつかりあうと、破壊主義が生まれる。
破壊主義は、そのまま戦争につながってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。

●人間の価値

 とは言っても、そこには「現実」がある。
生きていかねばならない。
そのためには、ある程度の収入を確保しなければならない。

 ・・・これについては、がんばるしかない。
それぞれの個人が、それぞれの立場で、がんばるしかない。
どこまでがんばれるか、本当のところ自信はないが、がんばるしかない。

ただひとつ気になっているのは、「命」の価値が、年々、たいへん軽くなりつつあること。
私にしても、(そしてこの文章を読んでいるあなたにしても)、死ねば、骨から灰になり、そのま
ま消えてなくなってしまう。
数年もすれば、身内の人にすらも、忘れられてしまうだろう。
人と人のつながりが、家族の中においても、希薄になってきている。
つまり(つながり)イコール、(人間の価値)と考えてよい。
その価値が低下し始めている。

 今では隣人が亡くなっても、「ああ、そう」で終わってしまう。
その人が老齢であれば、なおさら。

●仕事

 私はまだラッキーなほう。
仕事がある。
が、老後を考えると、暗たんたる気持ちになる。
年金というと、国民年金だけ。
「何もないよりはマシ」という金額だが、この先、猛烈なインフレが待ち構えている。
「タクシーの初乗りが、1万円」と。
そんな時代に、6万5000円前後の年金をもらって、どうする?
どうなる?

 貯金ゼロの家庭が、全体の30%以上もあるという。
60歳の定年退職時においてですら、約50〜60%。
気がついてみたら、子どもの学費で使い果たしてしまったという人も多い。

 だから死ぬまで働くしかない。
が、それを「不幸」と、とらえてはいけない。
少なくとも、私は不幸とは思っていない。

●講演活動

 たとえば講演にしても、それがあるからこそ、生活の中に緊張感が生まれる。
1週間ほど前から、体調を整える。
運動量をふやす。
食事に気をつける。

 ここ4〜5年は、講演旅行をかねて、ワイフとその先で、できるだけ一泊するようにしている。
それがまた楽しい。
雑誌「President」の最新号の中にも、こう書いてあった。

 『心の豊かさは収入の額ではない。お金の使い方で決まる』(記憶)と。

 映画を観て、帰りに回転寿司を食べる。
それだけでハッピーになれる人は、いくらでもいる。

●アンチ・ウィルスソフト

 偏頭痛は収まったが、何かした頭がフア〜ッと浮いたような状態。
薬の副作用と思われる。
要するに、偏頭痛薬というのは、基本的には血管収縮剤。
緩んだ血管を、収縮させる。
今が、その状態?

 ・・・しかし今、EUは、どういう状況なのだろう。
気にはなる。
が、このR631は、まだネットにはつながっていない。
アンチ・ウィルスソフトをどうしようか、まだ結論が出ていない。
市販(有料)のものもあるが、雑誌などによれば、マイクロソフト社から、無料のアンチ・ウィル
スソフトが配布されているという。
「Microsoft Security Essentials」というのが、それ。
有料版に近い、ウィルス検出能力があるという。
ほかにも、「AVG Anti-Virus Free Edition 2012」というのもある。

 どうしようか?
この世界では、無料イコール、無責任。
アンチ・ウィルスソフトだけは、しっかりとしたものをインストールしたい。
ネットに接続するのは、そのあと。

●天高く……

 今、雨戸を開け、今日、はじめて空を見た。
「天高く・・・」というのは、こういう空のことを言うらしい。
昨夜までの雨模様は収まり、そこには水色のさわやかな空が広がっていた。

 こういう朝は、筋雲が美しい。
それが幾重にも連なり、まるで長い髪の女性が、髪を風になびかせているかのようにも見え
る。
先ほど雨戸を開けたとき、サーッと冷気を含んだ風が部屋の中に入ってきた。
さわやかな朝。

GOOD MORNING!

 しばし空の美しさに、見とれる。

●ニュース

 もう一台のノートパソコンで、いくつかのニュース・サイトを開いてみた。
今では新聞よりも先に、(もちろんテレビよりも先に)、ニュースはネットで読む。
新聞は、その確認用。

 一方、まったく意味のないのが、テレビのニュース。
ウソこそ言わないが、本当のことも言わない。
これだけ情報が氾濫してくると、私たちはその向こうにある、隠された意図というものまで読み
取ることができるようになる。
テレビは、たしかに私たちの心を、巧みに操っている。
それがわかるようになる。

●ニュース

 NYダウは、259ドル高。
EU市場も、落ち着いているよう。
Bloombergによれば、「EUに楽観論、広がる」とある。
が、「よかった!」とは、私は思わない。
明日のことは、わからない。
こんなことで一喜一憂していたら、それこそ気がヘンになる。

 取り越し苦労に、ヌカ喜び。
むしろ気になったのは、アメリカ・サンフランシスコ連銀のウィリアムズ総裁が、つぎのように発
言したこと(Bloomberg)。
「新たな資産バブルが形成される、著しいリスクがある」と。
それもそのはず。

 これだけ市中に、お金(マネー)をばらまけば、そのあと世界はどうなるか。
そんなことは、私のような者でも、よくわかる。
ウィリアムズ総裁は、「それが暴走したときが、こわい」と。

●朝風呂

 今朝は朝風呂になりそう。
朝風呂といっても、昨夜、風呂に入るのをサボった。
それで朝風呂になりそう。
ワイフがタブに湯を入れ始めた。

 ・・・こうしてR631の処女航海は、無事すんだ。
使い勝手は、たいへんよい。
当初、キーの縦幅がやや狭いのが気になった。
が、打ち始めてみると、それはすぐ解消した。
巨大なENTERキーにも、すぐ慣れた。
叩くたびに、パタパタという音がするのは、許容範囲。
愛嬌。
今までの周辺機器が、そのまま使えるのもよい。
(他社のUltra bookは、接続コネクターが必要。)

 ただ色が、あまりよくない。
「色はシルバー」とあるが、実際には、ダーク・シルバー。
イメージが暗い。
悪い。
これはTOSHIBA製のパソコンすべてに共通している点だが、どこか事務機器ぽい。
オシャレ感に乏しい。
が、パソコンは事務機器ではない。
愛用品。
心の通う愛用品。
もっていて楽しい・・・というパソコンにしてほしい。

 しかしこれで現役のTOSHIBA・ダイナブックは、計5台になった。

(はやし浩司 2011−11−12朝記)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【幼児に、言葉としての英語をどう教えるか】(実践教育)

●会話ではなく、言葉。言葉としての英語を、幼児にどう教えるか。それが今回のレッスンの目
的です。もちろん相手は幼児ですから、「文法」を教えても意味はありませんね。……ということ
で、今回のレッスンを考えてみました。結果はまずまずでした。

(1)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/E-83SzwvgWk?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/L8F9JW9oGZ8?hl=
ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/VM30locA55I?hl=ja
&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/t4nhhyi-R-c?hl=ja
&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 言葉としての英語をどう教えるか
 英語教育 幼児の英語教育 はやし浩司 言葉教育 幼児教育 英語の文法 言葉)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●秋の夕暮れ時

 夕方になって、やっと少し時間ができた。
……というか、現在、TOSHIBAのR631の初期設定を進めている。
アンチ・ウィルス・ソフトは、「Microsoft Security Essentials」(無料版)を使うことにした。
それと現在は、WINDOWのUPDATE中。
この2つだけで、すでに1時間ほど時間を無駄にした。

 外はすっかり夕暮れモード。
庭のクルミの木の葉が、冷たい冬の風の中で、ヒラヒラと揺れている。
今にも落ちそうな、枯れた葉。
私は子どものころから、こういう景色が苦手。
気分まで落ち込んでしまう。

●パソコン作法

 パソコンをネットにつなげるためには、この先、無線LANの設定をしたあと、メールの初期設
定をしなければならない。

作業そのものは、たいしたことない。
しかし今は、それがもどかしい。
言い換えると、こういう作業がつづくから、パソコンはただの電気製品ではない。
この段階で、パソコンを投げ出してしまう人も多い。

 では、だれかに接続してもらえば、それでよいかというと、そうでもない。
パソコンを使いこなすには、それなりの知識と経験、それに失敗が必要。
冷や汗をかきながら、人は、パソコンの使い方を学習する。
「ウィルスが入った」と平気な顔をしておられる人は、まったくの素人か、それなりの経験者。
そのどちらか。

 重要なファイルは、いつも二重、三重に保存しておく。
それはパソコンを使うときの、大鉄則。

●遠鉄デパート

 JR浜松の駅前に、今度、遠鉄デパートが、新しいオープンした。
南側に旧館。
北側に新館。
「冥土のみやげに」ということで、今夜、ワイフと行ってみた。

 私の印象としては、電車の乗客を、どこまで取り込めるかで、成否が決まるのでは?
車でやってくる人もいるが、それだけでは各フロアを客で満たすことはできない。
やはり電車の乗客。
が、それ以上に驚いたのは、人通りの多いこと。
土曜日の夜ということもあって、通りにはゾロゾロと人が歩いていた。

 浜松市は、町(=駅前)の活性化ということで、毎年、億単位の予算を組んでいる。
その効果はあるのか、ないのか。
たとえば遠鉄電車のガード下を利用した、「べんがら横丁(ラーメン横丁)」は、5、6年を経た
今、閑古鳥が鳴いている。
半数は、店をたたんでいる。
正確には、13店舗中、5店舗が厚いボードで店を包んでいる。
遠鉄デパートから、歩いて1分もない。
理由は、本気度の欠落。
店の作りからして、お粗末。

 で、成否を決めるのは、本気度。
遠鉄デパートでは、その本気度を感じた。
……というか、今、全国、どこへ行っても駅前は元気がない。
みじめなのは、郷里の岐阜市。
岐阜駅の前。
シャッター街がずらりと並んでいる。
最近、駅前の2つのデパートですら、閉店したと聞いている。
だから浜松くらいは……というふうに、最近は考えるようになった。

 で、その遠鉄デパート。
私が見たところ、高級品店をねらっているよう。
どの階でもワイフがこう言った。
「高いわねえ」と。
松菱デパートの失敗もある。
現在のバブル経済がはじけ、この先、大不況の荒波が押し寄せたとき、果たして遠鉄デパート
は、生き残ることができるのか?

 がんばれ、浜松!
がんばれ、遠鉄!
……と書いてみたが、私自身は、リピーターになることは、まずないだろう。
モノを買うこともない。
あれほどの高級店は、私には縁がない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●映画『1911』

 帰りに、劇場で、映画『1911』を観てきた。
断言はできないが、台湾製の映画と思う。
それとも香港製?
孫文をこの上なく、称えている。

 イマイチ、主題がどこにあるのか、よくわからなかった。
編集が甘いというか、的をしぼりきれていない?
孫文の映画なのか、ジャッキーチェンの映画なのか、それとも戦争映画なのか?
恋愛映画のようでもあり、政治的プロパガンダ映画のようでもあった。
映像そのものは、『赤壁』に優るとも劣らない映画であっただけに、残念。
……というか、「台湾映画、恐るべし!」という印象をもった。
星は、3つの、★★★。

 楽しんで観る映画というよりは、歴史の重みをズシリと感ずる映画だった。

(注)ネットで調べてみたら、「製作国、中国」となっていた。
漢字が簡略体になっていたので、「?」と思っていたが……。
中国映画、恐るべし!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【R631】【映画「1911】【優越感vs劣等感】

●秋の夕暮れ時

 夕方になって、やっと少し時間ができた。
……できたというか、今現在、TOSHIBAのR631の初期設定を進めている。
その第一。
アンチ・ウィルス・ソフトのインストール。
そのアンチ・ウィルス・ソフトには、「Microsoft Security Essentials」(無料版)を使うことにした。

無料ながら、ほかの有料ソフトにひけをとらない(Mr. PC誌)。
Microsoft社製ということからもわかるように、安心して使える。
が、さらにすごいことができる。
エクスプローラーで調べたいファイルを選び、そこで右クリックをすると、そのファイルだけをチ
ェックしてくれる。

それと目下、WINDOWのUPDATE中。
この2つだけで、すでに1時間ほど時間を無駄にした。

 外はすっかり夕暮れ時。
庭のクルミの木の葉が、冷たい冬の風の中で、ヒラヒラと揺れている。
今にも落ちそうな、ボロボロの枯葉。
私は子どものころから、こういう景色が苦手。
気分まで落ち込む。

●パソコン作法

 パソコンをネットにつなげるためには、この先、無線LANの設定をしたあと、メールの初期設
定をしなければならない。

作業そのものは、たいしたことない。
10〜20分前後ですむはず。
しかし今は、それがもどかしい。
言い換えると、こういう作業がつづくから、パソコンはただの電気製品ではない。
この段階で、パソコンを投げ出してしまう人も多い。

 では、だれかに設定を手伝ってもらえば、それでよいかというと、そうでもない。
パソコンを使いこなすには、それなりの知識と経験、それに失敗が必要。
冷や汗をかきながら、人は、パソコンの使い方を学習する。
「ウィルスが入った」と平気な顔をしていられる人は、まったくの素人か、それなりのプロ。
そのどちらか。

 そういうこともあるから、重要なファイルは、いつも二重、三重に保存しておく。
それはパソコンを相手にするときの、大鉄則。

●遠鉄デパート

 JR浜松の駅前に、今度、遠鉄デパートが、新しいオープンした。
南側に旧館。
北側に新館。
「冥土のみやげに」ということでもないが、今夕、ワイフと行ってみた。

 私の印象としては、電車の乗客を、どこまで取り込めるかで、成否が決まるのでは?
車でやってくる人もいるが、それだけでは各フロアを客で満たすことはできない。
やはり電車の乗客。
が、それ以上に驚いたのは、人通りの多いこと。
土曜日の夜ということもあって、人がゾロゾロと歩いていた。

 浜松市は、町(=駅前)の活性化ということで、毎年、億単位の予算を組んでいる。
その効果はあるのか、ないのか。
たとえば遠鉄電車のガード下に、「べんがら横丁(ラーメン横丁)」というのがある。
が、5、6年を経た今は、閑古鳥が鳴いている。
半数は、店をたたんでいる。
正確には13店舗中、5店舗が厚いボードで覆われている。
遠鉄デパートから、歩いて1分もない。
そんなところでも、このあり様。
理由は、本気度の欠落。
店の作りからして、お粗末。

 で、成否を決めるのは、本気度。
遠鉄デパートでは、その本気度を感じた。
……というか、今、全国、どこへ行っても駅前は元気がない。
みじめなのは、郷里の岐阜市。
JR岐阜駅の前。
シャッター街がずらりと並んでいる。
最近、駅前の2つのデパートですら、閉店したと聞いている。
だから浜松くらいは……というふうに、最近は考えるようになった。
「浜松くらいは、がんばってほしい」と。

 で、その遠鉄デパート。
私が見たところ、高級店をねらっているよう。
どの階でもワイフがこう言った。
「高いわねえ」と。
つまり値段が高い、と。
松菱デパートの失敗もある。
浜松の松坂屋をねらったが、数年で倒産した。

現在のバブル経済がはじけ、この先、大不況の荒波が押し寄せたとき、果たして遠鉄デパート
は、生き残ることができるのか?

 がんばれ、浜松!
がんばれ、遠鉄!
……と書いてみたが、私自身は、リピーターになることは、まずない。
モノを買うこともない。
あれほどの高級店は、私には縁がない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●映画『1911』

 街へ行った帰りに、劇場で、映画『1911』を観てきた。
断言はできないが、台湾製の映画かと思う。
それとも香港製?
孫文をこの上なく、称えている。

 が、イマイチ、主題がどこにあるのか、よくわからない映画だった。
編集が甘いというか、的をしぼりきれていなかった。
孫文の歴史映画なのか、ジャッキー・チェンの映画なのか、それとも革命映画なのか?
恋愛映画のようでもあり、政治的プロパガンダ映画のようでもあった。
映像そのものは、『赤壁』に優るとも劣らない映画であっただけに、残念。
……というか、「台湾映画、恐るべし!」という印象をもった。
星は、3つの、★★★。
ジャッキー・チェンの演技がすばらしかったので、おまけに(+)の★★★+。

 楽しんで観る映画というよりは、歴史の重みをズシリと感ずる映画だった。

(注)ネットで調べてみたら、「製作国、中国」となっていた。
漢字が簡略体になっていたので、「?」と思っていたが、中国映画だった。
中国もすごい映画を作るようになった。
中国映画、恐るべし!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●SSDパソコン

 R631には、ハードディスクは搭載されていない。
SDメモリーのみ。
そのため、起動がめちゃめちゃ速い。
スイッチONから、デスクトップ画面まで、10秒もかからない。
「速い」「速い」と喜んでいたら、こんな弊害も現れた。

 私はほかにも、TOSHIBAのダイナブックを4台使っている。
が、そのどれもが、使い物にならなくなってしまった。
遅いのなんのといったら、これでは勝負にならない。
モタモタというより、モッタリ、モッタリ……という感じ。

 この先、パソコンは、SSDが主流になる。
一度、SSDパソコンを使ったら、ほかのパソコンが使えなくなる。
まちがいなく、そうなる。

●人生は一度でたくさん

 人は先へ行ってはじめて、うしろが見える。
自分が利口になってはじめて、それまでの自分がバカだったと知る。
R631を使ってみて、改めて、それを確認した。
つまりより性能のよいパソコンを使ってはじめて、それまでのパソコンがいかに性能の悪いも
のだったかがわかる。

 映画『1911』の中に、こんな気になるシーンがあった。
若い男性が、ジャッキー・チェンに向かって、こんなようなことを言う。
「あなたはもう老人だから、未来はない」(記憶)と。

 しかし本当に、そうか?
自分が老人組だからというわけではないが、私たちには過去があり、その分だけ、若い人たち
の未来がよく見える。
が、若い人たちには、それが見えない。
私たち老人組は、みな、バカと思っている。
しかし私たち老人組からみると、若い人たちは、みな、バカに見える(失礼!)。
私たちがしてきたのと同じ過去を繰り返しながら、自分では自分の人生を歩んでいるつもりで
いる。

 つまり老人には未来がないのではない。
若い人たちが言う「未来」は、すでに経験済み。
その上で、私たち老人組は、自分の人生を生きている。
少し回りくどい言い方をしたが、平たく言えば、こう。

 「私たちには未来がある。老人には未来がない」と、優越感に浸(ひた)ってはいけない。
明日のことはわからない。
あなたは老人になる前に、命を終えるかもしれない。
事故や病気は、運と確率の問題。
さらに言えば、「命」は、「生き様」の問題。
無益にダラダラと時間を無駄にするかもしれない。
年齢という数字の問題ではない。

 優越感に浸れば浸るほど、いつか、逆の立場になったとき、あなたが今度は追われる立場
になる。
これは何も、(年齢)にかぎった話ではない。

 だから私自身は、こう思う。
神様か何かが現れて私にこう言ったとする。
「君を、40年、若くしてあげようか」と。

 もし今のままの知識と経験をもったまま、40年、若くしてくれるならよい。
しかし脳みそも一度、リセットされるというのであれば、私は断る。
人生は一度で、たくさん。
こりごり。
またすべてをイチから始めろと言われても、私には、できない。
だから断る。

 相手の命の短さを理由に、優越感に浸ってはいけない。
浸れば浸るほど、今度はその人生観で、いつか自分が苦しむことになる。

●人間の価値

 もし優越感があるとするなら、(その反対に劣等感でもよいが)、こんなとき。
たとえばだれにもまねできないような、偉業をなしたとき。
あるいは反対に、だれにもまねできないような偉業をなした人に出会ったとき。

 一度、ワールドカップ・日本代表だった選手と、2時間ほど、話したことがある。
私の教室の生徒の親だった。
そのときのこと。
対峙して座ったとたん、身がひきしまるような緊張感を覚えた。
同時に、別の心でこんなことを考えた。
「私は20代の男性を前に、大きな劣等感を覚えている」と。
「私は彼の年齢のとき、何をしていたのだ」とも。

 そういう過ごし方をした人なら、反対に私に対して優越感をもったとしても、おかしくない。
しかしそういう人にかぎって、おおらかで、穏やか。
人を包み込むようなやさしさを、併せもっている。

 つまりその人の価値は、(何をした人か)(何をしている人か)で決まる。
肩書や経歴など、腸から出るガス程度の意味もない。
もちろん(年齢)ではない。

 ……こう書くからといって、私はけっして自己弁護しているわけではない。
私は先日、64歳になった。
若い人たちからみれば老人組だが、私自身は、自分が老人と思っていない。
まだまだ若い……という意味で、「ヤング・オールド・マン(Young Old Man)」と位置づけている。
仕事も健康も、快調。
「仕事がない」と言って、そこらでショボくれている若い人たちよりは、ずっと意気軒昂(けんこ
う)。

 そういう私だから、年配の人にも、年齢に関係なく、敬意を払っている。
どんな老人を見ても、「この人には未来がない」などと思ったことはない。

●優越感

 要するに優越感にせよ、劣等感にせよ、そういったものには、意味はない。
ナンセンス!
そう言い切ってもよい。

 ……というようなことを、映画『1911』の1シーンを観ながら、考えた。
本物をベースにした映画だけに、迫力もあった。
次回は、ブラッド・ピット主演の『マネー・ボール』。
あるいは『インモータルズ』。
楽しみ。

●11月12日夜

 こうして2011年11月12日も終わる。
家に帰り、寝支度がすんだのが、午後11時40分。
明日の午前中は、とくに予定がない。
早起きして、思う存分、R631を叩いてみたい。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●「宇宙人の存在」(はやし浩司がつかんだ、ささやかな証拠)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 MSN・ニュースサイトに、こんな興味深い記事が載っている。

 ノーベル科学賞を受賞した、ポール・クルーグマン氏が、11月10日、自身が担当する米ニュ
ーヨークタイムズ紙のレギュラーコラムで、先日ホワイトハウスが宇宙人との接触を否定した発
表について、厳しく批判したというのだ。

 「Fools」「Fools」と冒頭から冗談か真剣からともかく激しい批判の口調で書き始めている「S
pace:The Final Stimulus」と題して論を展開している。

 「宇宙人の存在こそが、次の経済の希望になるということをわかっていないのか」と政府を批
判したという(以上、MSNニュース・サイトより)。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●宇宙人の存在

 私は気がつかなかったが、この記事によれば、ホワイトハウスが、宇宙人との接触を否定し
たらしい。
それについて、ノーベル科学賞を受賞した、ポール・クルーグマン氏が、「バカ、バカ!」と一
蹴。
その上で、「宇宙人の存在こそが、次の経済の希望になるということをわかっていないのか」と
政府を批判した、というのだ。

●希望

 宇宙人の存在は、たしかに大きな希望である。
恐ろしい宇宙人もいるそうだが、逆説的に考えるなら、そういう宇宙人は少数派。

もし宇宙人がいて、その宇宙人が邪悪で、攻撃的であったとするなら、その宇宙人はとっくの
昔に自滅していたはず。
破滅的な兵器も、同時にもっているはず。
その兵器で、自滅していたはず。

 宇宙を自由に行き来できるような科学力をもっている宇宙人がいるとするなら、その宇宙人
は、同時に、穏やかで平和的。
そうでなければ、……たとえば人間のように半世紀ごとに大きな戦争を繰り返すような宇宙人
なら、この宇宙では生きてはいかれない。
とっくの昔に自滅していたはず。

 もしそこに宇宙人がいるとするなら、穏やかで平和的。
そういう宇宙人に接触することは、希望以外の何ものでない。

●宇宙人がいるという証拠

 それにしても不思議なのは、なぜこの場に及んでも、アメリカ政府やNASAは、宇宙人の存
在を否定するかということ。
もうここまでわかっているのだから、いいかげんに事実を認めたらよい。
繰り返しになるが、私がつかんだ、「ささやかな証拠」をここに再掲載する。

 なおここに紹介する「火星上空を飛ぶUFO」について、知人の1人は、「カメラのレンズにつ
いたゴミ」と評している。
が、カメラをいじったことのある人なら、みな知っている。
レンズについたゴミは、こんなふうには、写らない。

 さらにおかしなことに、その後発表された写真には、このUFOは写っていない。
消されている。
NASAはなぜ、そんな小細工ばかり、繰り返すのか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宇宙人はいる!(2011年5月に書いた原稿より)


++++++++++++++++++++


「はやし浩司」という1人の、小さな人間が住む、
そのまた小さな世界。
その中で、はやし浩司ははやし浩司なりに、
宇宙人の存在を確信した。


それは私の人生の中でも、特筆すべきできごと
といってもよい。
「他人を介していない」という意味において、
また私自身が確信できるという意味において、
特筆すべきことできごとといってもよい。


小さな、そのまた小さな証明だが、しかし
それ以上の証明が、この私にできるだろうか。
組織力も、調査力もない。
どこまでも小さな私である。
あなたと同じ、小さな人間である。


何はさておき、ここに新聞のコピー(1)と、
火星で撮影された写真(2)を、並べて掲載する。


(1)の記事は、私が2000年11月25日(土)に、
中日新聞に寄稿したエッセーである。
「2000年」という年号に注意しておいてほしい。


(2)の写真は、2003年6月10日に打ち上げられた、
アメリカの火星探査機「スピリット」が、地球に
送ってきた写真である。
スピリットは、2004年1月3日に火星に到達している。
つまりこの写真は、どんなに早くて、2004年1月
3日以後に撮影されたものということになる。


この「2004年」という年号に注意しておいてほしい。
その上で、私自身が描いた新聞上のイラストと、
スピリットが送ってきた写真を見比べてみてほしい。


もし逆、つまり私が描いたイラストがスピリットが
送ってきた写真よりあとということなら、私が
スピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたと疑われてもしかたない。
しかし私のほうが、先に書いている。
2000年の11月である。
スピリットがこの写真を送ってきたのは、少なくとも
2004年1月以後である。
私がスピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたということは、ありえない!


つまりこれが、私という小さな人間の、ささやかな、
実にささやかな「証拠」ということになる。
「宇宙人は存在する」という、ささやかな証拠
ということになる。


+++++++++++++++


(1)


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/84/imge35bb262zik5zj.jpeg
" width="652" height="846" alt="2000年月1125日発表の原稿">
★2000年、私が発表したコラム


★原稿より(上、写真版の読みづらい人は、どうか下をお読みください。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●見たぞ、UFO!(中日新聞記事より)(2000年11月)


見たものは見た。巨大なUFO、だ。
ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。
見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という
迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいな
く、あれはUFOだった」。


 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。


そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。
あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が
凍りつくのを覚えた。
その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。
私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。
「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていっ
た。


 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。
その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告
はありません」と。
もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。
私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに
巨大なものがあるとは思ってもみなかった。


が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届
けてくれた。
当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。
矢追氏はその番組のディレクターをしていた。
あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。
私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUF
Oがあったからだ。


 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。
人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなこと
だ。
そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしく
はない。
もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソ
ということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。


 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。
この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。
君の資質が疑われる」と言う人もいる。
しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論
だけではない。
小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊
書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。


そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。
たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私は
それについて書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/85/imgecf17303zik8zj.jpeg
" width="682" height="653" alt="イラスト拡大図(2000年11月の記事より)">
★コラムの中のイラストの拡大図


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/66/img61c597d8zik2zj.jpeg
" width="1023" height="1023" alt="d88cbd81.jpg">
★火星探査機「スピリット」が送ってきた、火星上空を浮遊するUFO(2004年)


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/65/img62d89929zikczj.jpeg
" width="480" height="640" alt="●火星上のUFO.jpg">
★(UFOの拡大写真)


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/86/img4e55c54czikbzj.jpeg
" width="874" height="980" alt="2004年に火星探査機「スピリット」によって撮影された火星
上空のUFO">
★別の本に紹介された、火星上空のUFO(「世界のUFO現象」(学研))


●宇宙人は、確かにいる!


 私はあの夜のことを忘れない。
あの夜、私とワイフは、UFOを見た。
が、当初、私は、それをUFOとは思わなかった。
私が聞いていたUFOは、円盤形のものをいう。
「く」の字型(ブーメラン型)のUFOなど、知るよしもなかった。
しかも、巨大だった。
天空をぐいと横切るほど、巨大だった。
新聞記事の中では、1、2キロと書いたが、実際のところ、よくわからない。
それよりも大きかったかもしれない。
あるいは小さかったかもしれない。
が、飛行機とは比較にならないほど、巨大だった。


 あの夜見たものを、もう一度、整理しておきたい。


(1)窓


 私もワイフも窓らしきものを目撃している。
大きな丸い窓(?)で、よく見ないとわからないほど、淡い橙色のものだった。
私はそれはジグザグに並んでいたように思うが、ワイフは、一直線だったと言っている。


(2)黒いシルエット


 私は黒いシルエット(輪郭)を見ているが、ワイフはよく覚えていないという。
最初はそのシルエットは見えなかった。
少しずつ黒くなって、真上にきたとき、黒いシルエットとなった。
黒いシルエットが、その背景の夜空よりも黒く、夜空に浮かびあがった。
月は出ていなかったように記憶している。


 私が記憶しているシルエットは、中日新聞紙上で発表したとおりである。
私はその形を忘れないように、当時、何かにメモした記憶がある。


(3)消え方


 私が見たそのUFOは、西の方角からゆっくりやってきて、真上に来たとき、突然
スピードをあげ、東の方角へ飛んでいった。
スーッという感じだった。
そのときのこと。
そのUFOは、遠ざかって消えるというよりは、空に溶け込むようにして
消えていった。
大きさは遠ざかるにつれて小さくなったように感じたが、そのまま透明になり、
消えていった。


 その先に白い小さな筋雲がいくつかあったように記憶している。
そのUFOは、雲の中に消えたのではない。


(4)自衛隊に電話


 その直後、私は電話帳で自衛隊基地の番号を知り、電話をかけた。
何度もかけたように記憶している。
その夜は、ほとんど一睡もせず、朝を待った。


 電話がやっとつながったのは、午前8時30分だったように記憶している。
つながった先は、たしか「管制室」だったと思う。
電話口の向こうの男性は、「そういう報告はあがっていません」とだけ、何度も
繰り返した。
私は「そんなはずはない!」と、何度も押し問答を繰り返した。
「あんな大きなものが上空を通過したのに、レーダーに映っていないはずがないだろ!」
と言った記憶がある。


(参考)(豊田ひろし氏のHPより抜粋)


『……火星の表面を移動し、水が存在した証拠を探る米航空宇宙局(NASA)の無人探査車
「スピリット」が米太平洋時間3日[2004年1月]午後8時35分(日本時間4日午後1時35分)、火
星に着陸、周囲の写真撮影に成功しました。


 スピリットは、火星の大気圏に時速1万9000キロ以上の高速で突入。パラシュートとロケット
噴射で減速するとともに、24個のエアバッグを膨らませて本体を包み、着陸後バウンドを繰り
返した末に無事停止しました。専門家が「地獄のようなもの」と呼ぶ、1400度を超す高温と接地
時の激しい衝撃に耐え、探査車は生き残りました。 


 スピリットは2003年6月10日MER-A 1号機によって打ち上げられ,約7ヶ月弱で火星に到着し
ました。


スピリットは今後約1週間かけて観測機器の機能を確認。その後約3カ月間、周囲を走り回
り、カメラや試料採取装置などを使って岩石や土壌の組成を分析、水の痕跡を探ることで、生
命の有無を確かめます。いままでは,すべてモノクロ写真の地上撮影でしたが,今回は地上のカ
ラー写真もはじめて撮影しました』(豊田ひろし氏のHPより)。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●希望論(2000年ごろ書いた原稿より)

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。
『希望とは、めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。
『絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。
『私のばあい、希望をなくしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャ
ンフォールがいる。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう一〇年にもなるだろうか。
「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子どもたちの世界で流行した。
その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯王、マジギャザというカードゲ
ームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。
そのときその女の子(小一)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。
ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よくわか
る。
希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。
それにまつわる人間たちが、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希
望をもったり、ときに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。
もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。「神よ、
こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらなかったのか」
と。

それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。
 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに転載す
る。

++++++++++++++++++++

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪  

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の
悪がある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。
おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて
読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。
時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。
あるいはそういうワナにハマりやすい。
ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プー
ルの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。
社会に対しては、そこまできびしいのか。
親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少な
い。
________________________________________
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。
人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないと
いうような世界になってしまったら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。
無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いた
ときのこと。
神はこう答えている。

「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくし
てしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。
________________________________________
●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。
それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。
たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。
そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについ
て、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。
高校生の娘もいる。
そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は
許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が
悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。
それが問題なのだ。
________________________________________
●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。
そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。
その中に、「希望論」を織りまぜた。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべ
て天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。それが希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だらく)」という
言葉を使って、それを説明する。
もちろんこれはキリスト教の立場にそった、希望論であり、絶望論ということになる。
だからほかの世界では、また違った考え方をする。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶望論を
説いた。
が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひかれる。
「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。
だからいきなり、「そういう人間になるのが希望だ」と言われても困る。
しかし何となく、この説話は正しいような気がする。
言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望論や絶望論
は、たしかに「虚妄」に思えてくる。
つい先日も、私は生徒たち(小四)にこう言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイ
ワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。
強いカードをもっていると、心はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。
幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線を引か
ないと、時間をムダにすることになるよ。
カードなんかより、自分の時間のほうが、はるかに大切ものだよ。
それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否定するの
は、正しくない。
もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、心を休めたり、癒(いや)したりす
る。
が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではない。
またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。
大切なことは、どこかで一線を引くこと。
でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ポール・クルーグマン氏(ノーベル科学賞受賞者)

 ポール・クルーグマン氏について、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『ポール・クルーグマン(Paul Robin Krugman、1953年2月28日)は、アメリカの経済学者、コラ
ムニスト。
現在、プリンストン大学教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授を兼任。
1991年にジョン・ベーツ・クラーク賞、2004年にアストゥリアス皇太子賞社会科学部門、2008年
にはノーベル経済学賞を受賞した。

専門の国際経済学の分野以外でも積極的に発言しており、反ジョージ・W・ブッシュの旗手とし
ても知られる。

また、2008年の民主党大統領候補指名のキャンペーンでヒラリー・クリントン候補のメディケア
政策を擁護し、一時的にバラク・オバマ陣営から批判が出たものの、結果的にはメディケアに
対してオバマ陣営が当初表明していた共和党寄りの方針を撤回させ、民主党の本流の政策に
転換させることに成功している。
ただし、この論争がしこりとなりクルーグマンは民主党の要職から外れることになった』(以上、
ウィキペディア百科事典より)と。

 ポール・クルーグマン氏については、そういう人であるということがわかった。
MSNニュースにあるように、「ノーベル科学賞」ではなく、「ノーベル経済学賞」。
そう言えば、「ノーベル科学賞」というのは、聞いたことがない。
正しくは「ノーベル経済学賞」。

 ともかくも、そういう人の発言であるだけに、たいへん興味深い。

●宇宙人はいる!

 宇宙人論では、私はかなり叩かれた。
事実、教育の世界で宇宙人を口にすると、即、変人扱いを受ける。
(ただし私は教室で、子どもたちに宇宙人の話をしたことはない。念のため。)

 「君は教育者を名乗るのだから、そういうことは口にしないほうがいい」と忠告してくれた人も
いる。
(私自身は、「教育者」を名乗ったことは、一度もないのだが……。)

 が、ここに書いたコラムのように、「見たものは、見た!」。
たったそれだけのことだが、この日本では、それすら、自由に言ったり書いたりすることができ
ない。

 ……つまり、こうして一歩、一歩、アメリカ政府やNASAを追いつめていく。
彼らは、何かを隠している。
つまり何かを知っている。
それを知るのは、人類全体の「希望」でもある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ノア 人間を滅ぼすくらいなら ポ
ール・クルーグマン はやし浩司 火星上空のUFO ブーメラン型UFO)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●時間という砂時計

++++++++++++++++++++

ワイフの老眼鏡が、合わなくなった。
老眼の度が進んでいるという。
眼科医で調べてもらうと、ドクターがそう言ったという。
そこで近くのメガネ屋へ。

大通りに出て右に曲がると、やがて橋を越える。
橋全体が高くなっていて、一瞬だが、見晴らしがよくなる。
川幅は50メートル前後はあるだろうか。
近くの佐鳴湖から浜名湖へ流れる、人工の用水である。

時は晩秋。
明るい日差しを浴びて、川面が光っていた。
が、見ると、ちょうど釣り人が、ルアーを川に投げ込むところだった。
カラフルな服を着ていた。

++++++++++++++++++++++

●人それぞれ……

 生き様は人、それぞれ。
私は私、あなたはあなた。
人は人。
しかしそれを見た瞬間、私はこう思った。
「ぼくには、できないな」と。

 ……こう書くからといって、魚釣りが、どうこう言うのではない。
また釣り人が、どうこう言うのではない。
先にも書いたように、人、それぞれ。
が、私にはできない。
そうでなくても、時間が足りない。
「忙しい」というのではない。
「時間が足りない」。

●レジュメ

 午前中は、今度浜北区の文化センターで講演をすることになった。
その資料をまとめた。
浜松市内では、今年度最後の講演会である。
総まとめ。
その日に向け、テンションを高めていく。
昨日から少しずつだが、運動量もふやした。

 そのため、つまり資料の整理のために、1〜2時間ほどつぶした。
で、そのあと、もう一度、自動車G会の原稿に目を通す。
英文で要約説明文も、書かねばならない。
巻頭言で6ページ。
全世界で発行されるという。
それぞれの国の言語に翻訳されるという。
いろいろな原稿を書いてきたが、これほどまでの依頼は、はじめて。
気合いが入る。

●田丸謙二先生

 田丸謙二先生が、いかに偉大な人物であるかは、いまさらここに書くまでもない。
肩書(経歴)を並べたら、とても1枚の紙には収まらない。
その田丸謙二先生が、先日、ドイツで行われた「ハーバー記念講演会」に講師として招かれ
た。
全世界から1000人近い、科学者が集まったという。
ノーベル賞受賞者も多数、いたという。

 が、何よりも驚くのは、今年、田丸謙二先生が、88歳であるということ。
常識的に見れば、ヨボヨボの老人ということになる。
その田丸先生に、自動車G会の原稿を送った。

●裸で勝負

 「田丸謙二先生へ、
今度自動車G会のために書いた原稿を送ります。
年1回発行され、全世界で配布されます。

 先生にお会いしたのが、1970年。
そのとき私は心に誓いました。
『この先生と、裸で勝負してやる』と。
先生は東大で、30代で教授になったとか。
東大でも最年少で教授になったと、先生は自慢していました。

 で、以来、42年。
先生から見れば、ヒヨコみたいかもしれませんが、いっさいの組織に属することもなく、いっさい
の肩書もなく、ここまでがんばってきました。
ぼくも、88歳までがんばってみます」と。

●魚釣り

 先にも書いたように、「とにかく時間がない」。
今の私は、その一言に尽きる。

 知りたいことは、山のようにある。
知らないことも、これまた山のようにある。
1冊の週刊誌を読んだだけでも、頭の中でバチバチと火花が飛ぶ。
だからといって、私の生き様が正しいとか、また人もそうであるべきとか、そんなふうに考えて
いるわけではない。
私は私。
人は人。

 が、今の私には、仮に100歩譲っても、魚釣りはできない。
食べ物に困って、その食材にということであるなら、話は別。
しかしすぐ、こう考えてしまう。
「……だから、それがどうしたの?」と。
つまり「魚を釣ったからといって、それがどうしたの?」と。

 私に当てはめてみると、その答が返ってこない。
どうしても返ってこない。

●健康余命まで、あと4年

 命は砂時計のようなもの。
「……ようなもの」ではなく、「命は砂時計」と断言してもよい。
刻一刻と、命は短くなっていく。
その心境は大病で、死を宣告された患者と同じ。
「あなたはがんです。余命はあと半年です」と宣告されれば、だれだって慌てる。
が、「あなたの寿命は、あと14年です」と言われても、慌てる人はいない。
が、どうして?

 たったの14年だぞ!
私は現在、64歳。
日本人の平均余命(男性)は、79歳前後。
もっともそれまで元気なら、まだよいほう。
その前、平均して10年間ほど、病魔と闘わねばならない。
(平均余命)から10年を引いた年齢。
これを「健康余命」という。
つまり健康でこうしてがんばれるのも、あと4年。
たったの4年だぞ!

 それを思ったら、とても魚を釣って時間をつぶす余裕などない。
少なくとも、私にはない。

●だからそれがどうしたの?

 私はよく自分に問いかける。
「だから、それがどうしたの?」と。

 そのときズシリとした答が返ってくるときもあれば、そうでないときもある。
その答がないとき、私は深い悔恨の念にとらわれる。
「時間を無駄にした」と。

 先に『命は砂時計』と書いた。
命は、砂時計の砂のように、刻一刻と、下へ落ちていく。
「砂」といっても、ただの砂ではない。
それがわからなければ、「金」に置き換えてもよい。

 若い人にしても、そうだ。
時間給はそれぞれちがうだろう。
しかし同時に、命は、1時間ごとに減っていく。
金銭で置き換えることはできない。
しかしまさに「金(ゴールド)」。
あるいは、はるかにそれ以上。

●定年退職者?

 のどかな風景。
どこにでも見られる風景。
このところ、プラス気になるのは、私の年代層の人たちが、急にふえてきたということ。
見た感じでは、定年退職者?
本当に魚釣りを楽しんでいるというよりは、暇つぶし?

 こう書くとたいへん失礼ということは、よくわかっている。
あるいは本当は、そういう人たちでも、こう叫びたいのかもしれない。
「もっと仕事をしたい」「もっと意味のあることをしたい」と。

 書き忘れたが、用水といっても、全国でも汚染度ナンバー5前後を争っている。
そんな湖から流れ出てくる用水の魚を釣って、食べる人はいない。
だとするなら、なおさら、「……だから、それがどうしたの?」となる。

●老後は孫の世話?

 が、たぶん、若い人たちはこう考えるにちがいない。
「人生も終わったのだから、ゆっくり休んだらどう?」と。

 私も若いころは、老人たちを見て、そう考えていた。
「老後は、庭いじりと孫の世話」と。

 しかし私のその年齢になった。
なってみて、こんなことがわかった。
青い空は、やはり青い空。
白い雲は、やはり白い雲。
老人組に入ったからといって、色があせてくるわけではない。
自分の髪の毛の白さにしても、顔のシワにしても、自分では見えない。
つまり心は、若いときと、何も変わっていない。

 若い人たちが、「庭いじりと孫の世話はできない」と思うのと同じように、私たちだって、本音を
言えば、それだけで時間をつぶすことはできない。
が、それよりも恐ろしいことが起きるようになる。

●底に穴のあいたバケツ

 これは推測でも何でもない。
医学的に証明された事実でもない。
しかし実感として、老人組に入ると、それがよくわかる。
つまり脳みその底に穴があいたような状態になる。
それがよくわかる。
その穴から、知識や経験、技術や能力が、どんどんと外へこぼれ出ていく。

 ほんの数か月前まで知っていたことが、消えてしまったり、ほんの数週間前までできたことが
できなくなったりする。
そんなことが連続して起きるようになる。

 ど忘れなど、日常茶飯事。
 
 それは恐怖以外の何物でもない。
が、闘う方法がないわけではない。
先に書いた田丸謙二先生は、50歳を過ぎて中国語を独学し、60歳のころ、中国の科学院(も
っとも権威のある学会)で、記念講演をしている。
もちろん中国語、で!

 そういう先生を鏡にすると、一瞬一秒、無駄にできる時間はない。
が、もしここで今、現在の状態の上にアグラをかいてしまったら……。
それこそ死の待合室にまっしぐら。
たわいもない世間話か、兄弟親類のゴシップ話。
そんな話に花を咲かせるようになる。
しかも繰り返し、繰り返し、同じ話をするようになる。

●終わりに

 だからといって、繰り返すが、魚釣りがどうのとか、それを楽しんでいる人がどうのとか、そん
なことを書いているのではない。
私は私。
あなたはあなた。
人は人。

 それぞれの人が、それぞれの人生を歩む。
大切なことは、それぞれの人がそれぞれの人の人生を認めあうこと。

わかっている!

 このエッセーを読んで、こう思っている人もいるにちがいない。
「はやし浩司もかわいそうな男だ」と。
「人生を楽しむことも知らない、あわれな男だ」と。

 しかし誤解しないでほしい。
今の私には、今の私が楽しい。
こうして日々に新しい発見をしていくことが、私には楽しい。

 ……こうして私に好き勝手なことをさせてくれるワイフに感謝しながら……。

(はやし浩司 2011―11―13日記)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林 浩司

【自己主張する幼児】(年長5〜6歳児)

●自己主張

 まずつぎのYOUTUBEを観てほしい。
前半は、ややかったるいレッスンがつづくが、やがて子どもたち(年長児)が造反し始める。
ワイワイと私に抵抗をし始める。
このYOUTUBEを観ていただければ、子どもの自己主張というものがどういうもか、よくわかっ
てもらえる。

 ただ残念なことに、この日本では、子どもを判断する基準が昔と違ってきた。
国際的にも、かなり違う。
こうして自己主張を繰り返す子どもを、この日本ではむしろできの悪い子どもと位置づける。
が、それは世界の常識ではない。
とくにアメリカでは、「シャイな子ども」を、問題児と位置づけている。
小児うつ病の診断基準のひとつにもなっている。
それもあってアメリカでは、はげしく自己主張する子どもほど、できのよい子どもと考える。
またそういう子どもにするために、教育をする。
「教え育てワクに入れる」のではなく、「子どもの能力をエデュース(educe=引き出す)する」た
めに、教育をする。

 この違いは大きい。
その結果、日本人は、成人になるころには、キバを抜かれてしまう。
ハキのない、草食系人間になってしまう。
日本国内ではそれでよいとしても、このタイプの人間は、世界では通用しない。
日本を一歩外に出れば、そこは海千山千の世界。
盗賊と海賊が、食うか食われるか、血みどろの戦いをしている。

 ともあれ、子どもの自己主張がどういうものであるか、一度、このYOUTUBEを観てほしい。
年長児(5〜6歳児)の子どもたちである。

<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/t4nhhyi-R-c" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 幼児の自己主張 幼児期後期の
子どもたち 幼児期後期 自立期の子ども 2011/11/13記)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●スカートの下(提言:スカートをやめ、ズボンにせよ!)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

またまた、ある男性がスカートの中を盗撮していて
逮捕された。
今度はテレビTというテレビ局の社員。
ヤフー・NEWSは、つぎのように伝える。

++++++++++++++++++++

女子高校生のスカート内を携帯電話で撮影しようとしたとして、
警視庁練馬署が13日までに、テレビT東京報道局社員、
KK容疑者(34)を都迷惑防止条例違反容疑で、
現行犯逮捕していたことが分かった。

 逮捕容疑は12日午前11時10分ごろ、
同区豊玉北の都営地下鉄大江戸線練馬駅構内の、
上りエスカレーターで、女子高校生(18)の
スカート内に携帯電話を差し入れたとしている。
同署によると、KK容疑者は偶然近くにいた
非番の警察官に取り押さえられた。
容疑を認めているという(以上、ヤフーNEWSより)。

+++++++++++++++++++++

●性癖は理性では理解できない

 男の私でも、そう思う。
男の性癖は、理性では理解できない。
人、それぞれ。
みなちがう。
またその性癖には、ものすごいパワーがある。
ひとたび発情すると、本人の理性の力では、どうにもならない。
(だからといって、その男性の行為を擁護しているわけではない。)

●スカートの下

 まともな男性なら、(女性でもよいが)、「どうして?」と思ったまま、思考停止になってしまうだ
ろう。
私も、その1人。
細かいことを言えば、私にもいろいろな性癖はある。
が、「スカートの下」にはない。
興味がないわけではないが、手鏡やカメラを使ってまで見たいとは思わない。
見たところで、汚れた下着。

●男も女も同じ

 基本的には男も女も同じ。
ホルモンの作用によって、それが外へ飛び出したのが「男」。
そのままの状態で中に残ったのが、「女」。
さらにホルモンの作用によって、思春期前夜から性差は大きくなるが、それでも基本的には男
も女も、同じ。

 私も子どものころ、クレヨンしんちゃんと同じように、ソーセージを(おまた)にはさんで、女の
まねをしたことがある。
そのまねをすれば、男と女は区別できない。
……できるはずもない。

●神秘

 が、「スカートの下」を、なぜか男たちはのぞきたがる。
なぜか?
理由は簡単。
そうした性癖がある男性は、それが神秘であるからではなく、条件反射的に脳の一部に操られ
るからである。
しかもそうした性癖は、成長過程のどこかで作られる。
その結果、それを見たいと思う男性もいれば、そうでない男性もいる。

●のぞき

 私は子どものころ、近くに、のぞきが趣味という友だちをもっていた。
最初に誘われたのが、小学3〜4年生のころのことではなかったか。
学校の帰りなどに、「林君、行こう、行こう」と盛んに誘われた。
それぞれの家が、先を競って、家の中に内風呂を作り始めていたころのことである。

 が、私は行かなかった。
興味がなかったというより、それだけのエネルギーがわいてこなかった。
が、つぎに記憶しているのは、おとなになってからのこと。
久しぶりに会うと、その友だちは、温泉の話ばかり。
郷里のG県には、まだ、混浴温泉というのが、あちこちに残っていた。
その友だちは、混浴温泉に入るのが何よりの楽しみと言った。

 すでに奥さんも、子どももいたのだが……。

●友だち

 が、その友だちが、実は「スカートの下」に異常な興味と関心をもっていたのではないかと知
ったのは、10年ほど前のこと。
3階建てのビルを建設した。
1階は、自宅用。
2階と3階を貸し店舗にした。
2階がブティック、3階が金融会社になっていた。

 私はその家を見て、何となく「?」とは思ったが、そこまで。
が、ワイフがこう言ったときに、気がついた。
「私なら、あんな店(ブティック)には、行かないわ」と。

●格子の階段

 2階と3階へ行くためには、一度ビルの内側に入らなければならない。
そこから格子でできた、ゆるくカーブした階段を上らねばならない。
そのとき、1階の住居から、その階段を上っていく人がよく見えた。
もちろん「スカートの下」も!

 もちろんこれは私の邪推かもしれない。
しかし私は子どものころから、その友だちの性癖をよく知っていた。
だから私はこう思った。
「あいつなら、やりそうだな」と。

●性的エネルギー(フロイト)

 ふつうの人なら、こう思う。
「そこまでやるか?」と。

 が、そこまでやるのが、「性的エネルギー」(フロイト)。
こうした事件が繰り返し起こるたびに、強くそう思う。
言い換えると、このエッセーを読んでいる人の中にも、そういう人は多いはず。
(あるいはあなたが女性なら、あなたの夫の中にも、多いはず。)

 が、実態調査はむずかしい。
こうした性癖は、本人自身も隠す。
そうした性癖が強ければ強いほど、そうだ。

●性欲からの解放

 何度も書くが、私は50代のはじめ、「男の更年期」というのを経験した。
本当にそういう更年期があるのかどうかは、知らない。
が、ワイフがそう言った。
私はその時期、「女」にほとんど興味を失ってしまった。

 その種の写真を見ても何も感じなくなってしまったばかりか、時に、ブタの脂身のように感じて
しまったこともある(失礼!)。
が、それはきわめてさわやかな世界でもあった。
体中を取り巻いていた無数のクサリが、飛び散ったような感じだった。
私はそれを勝手に、「性欲からの解放」と呼んだ。

 ……と、同時に、私はそれまでの「私」が、いかに性欲の奴隷であったかを知った!

●民族性

 これには民族性の問題もからんでいると思う。
たとえば私が学生時代を過ごしたオーストラリアでは、当時、女子学生たちは平気で下着を見
せていた。
中には下着をつけないまま、あぐらを組んで座る女子学生もいた。

 私は日本人とオーストラリア人は、羞恥心そのものがちがうと考えていた。
だから私が知るかぎり、オーストラリアの友人と話していても、そういうことが話題になったこと
がない。
「近くのヌーディスト村へ行っている」とか、そういう話はする。
しかし「スカートの下」はない。
(最近のオーストラリアの女性は、ほとんどがジーパンをはいているということもある?)

●ではどうするか?

 日本人は「下着」を意識しすぎるのではないか?
男性も女性も、である。
逆に、水着と下着は、どこがどうちがうのか、それを説明できる人はいるだろうか。
水着は見られてもよいが、下着はだめというのは、あまりにも合理性に欠ける。
極端な言い方をすれば、「そんなもの見られたからといって、ガタガタするな」ということになる。
……というのは書きすぎ。

 それはよくわかっているが、しかしそれが「男」と「女」ということになる。
男は自分の意思で、そういう行動をしていると思い込んでいる。
しかし実際には、「女」に操られている。
その「女」も、実は本能に操られている。
本能に操られているから、「男」を挑発しているという意識はない。
短いスカートをはき、無意識のうちにも、男を挑発している。

 だったら、どうするか?
方法は簡単。
女子学生も、みな、ズボン(パンツ)にすればよい。
学校の制服も、そうすればよい。
どうして今、この時代に、スカートなのか?
一方、見られても構わないという女性は、(見られるのを前提に)、スカートをはけばよい。
男性もそうだ。
自分に露出狂のケがあるなら、下着をはかないで、スカートをはけばよい。
どうして男は、スカートをはかないのか?

●終わりに……

 この種の事件は、これからもずっとつづく。
実態はわからないが、数%〜数10%の男性には、そのケがあるのでは?
その中でも、とくに強い性癖をもった人たちがいる。
そういう人たちが、こうした事件を引き起こす。

 わかりやすく言えば、防ぎようがない。
これは理性の問題ではない。
本能の問題である。
(繰り返すが、だからといって、そういうことをする男性を擁護しているのではない。
どうかくれぐれも、誤解のないように。)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●明日からの1週間(11月13日夜記)

++++++++++++++++++++

明日からの1週間を予測するのは、楽しい。
予言者にでもなったかのような気分になれる。
もちろん私には、そういう能力はない。
想像できなくはないが、しかしあくまでも想像の範囲。

そう言えば、近く、あの霊能力者がこの浜松市へ
やってくるそうだ。
ディナーショー形式で、対談会を開くそうだ。
会場は、某ホテル。
夕食付きで、1名、1万5000円前後とか。

++++++++++++++++++++

●EUの金融危機

 マクロな見方をすれば、EUの金融危機は拡大することはあっても、収束することはありえな
い。
EUという先進国が、無理に無理を重ねてきた。
金融を操りながら、ごまかしてきた。

収入は減り、国家経済は火の車。
にもかかわらず、生活水準はそのまま。
あとはお決まりの、借金漬け。

 今はイタリアに目が向いている。
しかしどこからどのような伏兵が出てくるか、わからない。
スペインやポルトガルではなく、今はまったく名の出ていない国が、突然金融危機に陥ることも
考えられる。
たとえばベルギー?
ハンガリー?

 しかし誤解してはいけないことが、ひとつ、ある。
仮にイタリア(本当はスペインのほうが、あぶないが……)が金融危機に陥ったとする。
そのとき本当に困るのは、イタリアではなく、イタリアに金を貸している(=イタリアの国債を大
量に抱えこんでいる)ドイツやフランス、それにイギリスということ。
こういうのを経済学の世界では、「Counter Party Risk(カウンター・パーティ・リスク)」と呼んで
いる。
だからドイツやフランスが、今、慌てふためいている。

 11月14日からの1週間は、さらに激動の1週間になるはず。

●野田政権

 政治の動きが、よくわからない。
野田首相は、トラブルを起こすのを何よりも恐れているようにも見える。
慎重すぎるというより、長期政権をねらっている(?)。
「自分のしたいことをするのは、その後」と。

 このまま可もなく不可もなく……という状態がつづく。
今は実績作り。
そのため日本の政治は眠ったような状態。

それに野田首相は、顔の脂肪が厚く、感情がどうも読み取れない。
何を考えているのか、それがよくわからない。

●霊能力

 霊(スピリチュアル)能力というのは、私は信じない。
信じないというより、最初から、そういう思考回路が私の脳の中には、ない。
まったく、ない。
ないから論評のしようがない。

 しかしそれを否定してしまうと、町の祭もなくなってしまう。
寺も神社もなくなってしまう。
だからほどほどに……ということになるが、世の中には悪党も多い。
そういう(力)があると人に信じ込ませ、金儲けにつなげる人もいる。
そういう人は許せない。

 私の母も、晩年、ある宗教団体の女性から、白い壺を買わされた。
値段を聞くと、10万円だったという。
どうしてそんなものを買ったのかと叱ると、母はこう言った。
「若くて、親切な女の子だったから」と。

 母は毎晩、その壺を磨いていた。
が、御利益はあったのか。
それともなかったのか。
母は死んでしまったので、私にはわからない。

●しめくくり

 今日もこうして終わった。
先ほどあちこちのニュースサイトをながめてみた。
できるだけ、私の頭を刺激しないよう、コントロールしながらそうした。
今夜は、このまま静かに眠りたい。

 運動は1単位だけ。
今日はだれにも会わなかった。
従姉から電話があったが、それだけ。
静かで、穏やかな1日だった。

 では、みなさん、おやすみなさい。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●11月14日

 今朝は、ぐっすり眠った。
1、2度、目を覚ましたが寒かったので、そのまままた目を閉じた。
起きて時計を見ると、午前8時!

 運動をさぼって、そのまま書斎に。
Eメールに目を通し、ニュースをいくつか読んだら、それだけでもう30分。
で、そこに名古屋にいるM君から電話。
今度、浜松市内にフード・バンクを設立するとか。
11月xx日に、浜松市内で会うことにした。

 あと「月曜日の電話」。
月曜日の朝というのは、あちこちに電話をしなければならない。
私はそれを「月曜日の電話」と呼んでいる。
つまりこうして私の1週間が始まる。

●R631

 話題はやはり、R631。
TOSHIBAの新型パソコン。
「買ってよかった」というか、たいへん気に入っている。
11月11日の発売日に購入して、今日で4日目。
R631のおかげで、ほかのパソコンが使えなくなってしまった。
つまりこのパソコンは、次世代のパソコンのあり方を示唆している。

(1)薄型、軽量は、時代の流れ。
(2)バッテリー9時間は、必需。
(3)光るキーボードは、便利。
(4)SSDは、常識、と。

 スイッチ・ONから、10秒前後で、スタンバイ状態になる。
指紋認証というのもついていて、めんどうなパスワード入力も、簡単にできる。
サーッと指でこするだけ。

 すでに裏面には、こまかい傷がつき始めた。
こうしてパソコンは年をとっていく。
傷まるけになったとき、パソコンは私の脳の一部になる。

●英訳(英文の抄訳)(日本語→グーグル翻訳→訂正→友人の推敲)

 私の書いた原稿に、英文の抄訳をつけてほしいという。
ある出版社からの依頼である。
そこでまず、和文の抄訳を書く。

「子どもを知ることによって、私たち自身を知ることができる。あのワーズワースは、『子どもは
人の父』といった。私たち自身にも子ども時代があり、その時代に私という人間が作られていっ
た。子どもの心の形成過程を、乳幼児期から思春期まで、段階的に追いかけてみた。自分発
見の手がかりになればうれしい。」

 まずグーグルの翻訳サービスを使って、おおまかな翻訳をしてみる。
つぎのが、それ。

By knowing your child, we can know ourselves. That Wordsworth, the "father of the children,
" and. There is also our own childhood, that I were a human being made in that period. 
Formation process of the mind of a child, from infancy to adolescence, I pursued in stages. 
Once your happy to discover clues.……(1)

つぎにこの英文に手を加える。

By knowing children, we can know ourselves better. W. Wordsworth once wrote, "A Child is 
Father of the Man". We all were once that children and our mind was formed through these 
ages. Here in the article I write about the process of how the minds of children are formed 
from the age of infancy to adolescence. I hope this article would be some of your help to 
know yourselves better.……(2)
 
 ここでワーズワースの言葉を取りあげたが、原文を知らなければならない。
本当に「A Child is Father of the Man」のままでよいのか。
私の書いた原稿のどこかに、それが書いてあるはず。

 それも「はやし浩司 子どもは人の父」で検索をかければ、すぐわかった。
原文では、つぎのようになっている。

●The Child is Father of the Man

My heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man,
So be it when I shall grow old
Or let me die !
The Child is Father of the Man :
And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety.

●子どもは、人の父

イギリスの詩人ワーズワース(1770〜1850)は、次のように歌っている。

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 正しくは、この原文からもわかるように、「The Child is Father of the Man」である。

 そこで(2)の英文を、書き改める。

By knowing children, we can know ourselves better. W. Wordsworth once wrote, "The Child 
is Father of the Man". We all were once that children and our minds were formed through 
these ages. Here in the article I write about the process of how the minds of children are 
formed in stages from the age of infancy to adolescence. I hope this article would be some 
of your help to know yourselves better.

また、名前はW.Wordsworthでよいのか。
ウィキペディア百科事典で調べると、「William Wordsworth」となっていた。
つまり、これでOK。

 で、この英文を、オーストラリアのモナーシュ大学にいる友人に送る。
いつも私の英文を添削してくれる。
その結果は、またあとで……。

(追記)

 30分後、オーストラリアの友人から、添削が届いた。
英語の勉強になった。

By knowing children, we can know ourselves better.
William Wordsworth once wrote, "The Child is Father of the Man". 
Once we were all children and our minds were formed during this age of childhood. 
In this article I have written about the process of how the minds of children are formed in 
stages from the age of infancy to adolescence.
I hope this article will be of some help to you in getting to know yourselves better.

 「さすが!」と驚くのもどうかと思うが、これで完ぺきになった。
英語の勉強に役立てばうれしい。

●環太平洋連携協定(TPP)問題

 環太平洋連携協定(TPP)問題。
参加に賛成する工業団体。
反対する農業団体。
ともに利権(=既得権)がからんでいるため、たがいに一歩も譲らない。

 しかし大切なことは、一度、こういう形でもよいから、日本の農業の実態を明確にすること。
もう少し端的に言えば、メスを入れること。
日本の農業は、あまりにもわかりにくい。
闇に包まれている。
つまり補助金行政の中で、「補助金漬け」になっている。

 その上で不必要な補助金は廃止し、もう一度日本の農業を、基本的な部分から再検討す
る。
既得権にあぐらをかいている農家の人たちにとっては、きびしい協定になるかもしれない。
しかし同じ農業を経営しながらも、「このままではよくない」と考えている人も多いはず。
私はそういう人たちの良識を信じたい。

 何がなんでも反対!、というのは、あまりにも時代の流れに逆行している。

●株価

 11月14日、日本の株価は高値で始まった。
午前10時30分……125円高。
しかしこの乱高下がこわい。

 EUの金融危機は、何も解決していない。
しかも本当にあぶないのは、ギリシャでもイタリアでもない。
スペイン。
スペインがあぶない。
が、肝心のスペインは、のんきなもの。
それもそのはず。
スペインがデフォルトして困るのはドイツ。
そのドイツが慌てまくっている。

 こういうケースのばあい、金を貸しているほうが、慌てる。
またそういう視点で見ると、EUの金融危機がどういったものであるか、それがよくわかる。

 では、今朝はここまで。
みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
●韓国・中央日報のウソ記事(?? ?? ??? ??? ??)

++++++++++++++++++++

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中央日報のウソ記事には、うんざりする。
今朝(11・14)の記事には、こうある。

『日本首相、韓国・中国牽制のためTPP参加を決定』と。

いつ、どこで日本の野田首相が、「韓国牽制のため」という言葉を使ったか?
つまり中央日報はこうした記事を韓国国内で報道することによって、
韓国国内の反日感情をあおりたてている。

いつもの常套手段である。

韓国の国内のBLOGに、このまま投稿する。
2011/11/14

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

**********************

【講演会のお知らせ】

11月30日(水曜日)

午後6時30分開場
午後7:00〜8:30

場所:浜北文化センターにて
主催:浜北区健全育成会

入場は自由(無料)

『こうすれば、伸びる3つの話し』

**********************

【11月14日】(落ち込み)
浜北区での講演会に向けて……(浜松市内では今年度最後の講演会)

●時の流れ

 「時」は流れに沿って、すべてを変えていく。
つい先日までそこにいた人が、今は、いない。
反対につい先日までそこにいなかった人が、今は大きな顔をして、そこにいる。
モノにしても、そうだ。
つい先日までカタログでながめていたパソコンが、今は、目の前にある。

●64歳

 大切なことは、時の流れを感じたら、それに逆らわないこと。
やって来る人もいれば、去って行く人もいる。
モノにしても、いつまでもそこに「形」があるわけではない。
私自身にしてもそうだ。

 いつの間にか、64歳。
50代の記憶は、あるにはあるが、どれも断片的。
40代の記憶は、さらに断片的。
シワだらけの自分の手や顔を見る。
64歳であることを実感する。
しかしそんな「数字」に、どれほどの意味があるというのか。

●人来たりて、また去る

 フランスの詩人、ジャン・ダルジーはかつてこう歌った。

『……人来たりて、また去る
   人来たりて、また去る
   かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、彼らの人生が流れる
   あたかも何ごともなかったかのように……』と。

 詩の内容は、記憶によるものなので、不正確。
しかし私はこの詩の意味が、歳を経るごとに、よくわかるようになった。
「まさにそうだ……」というよりは、人生の悲哀感が、この詩の中に深くこめられている。
その悲哀感に、共鳴するようになった。

●失敗組

 率直に言えば、私は失敗組。
自分でもよくわかっている。
地位にも肩書にも、一生、縁がなかった。
いろいろやってはきたが、いろいろやってきたというだけ。
今の今だって、そうだ。

 虚勢こそ張らないが、……というか、張れるようなものは何もないが、私を飾るものは、何も
ない。
見たまま。
裸のまま。

●負け戦

 が、体質というのは、恐ろしい。
そうでありながら、まだどこかに、出世主義が残っている。
ときどきそれが顔を出す。
出して、こう言う。
「お前の人生も、たいしたことなかったな」、
「若いときは、あんなに偉そうなことを言っていたのに」と。

 この無念さは、いったい、どこから来るのか。
劣等感に近い。
それとも不完全燃焼感?
考えてみれば、いつも負け戦。
その連続だった。

●原因

 今夜の私は、落ち込んでいる。
理由がある。
浜松市のX区に、SN医院という医院がある。
かなり前から、別の同級生から、その医院の院長は、金沢大学出身と聞いていた。
学年も同じだった。
一度は、私はそれを確かめたかった。
同じ合唱団に、SNという名前の仲間がいた。
もしそうなら、ふつう以上に親しい間がらだった。
合唱団での練習が終わると、よく香林坊の盛り場を飲み歩いた。

 で、今夜いろいろあって、その医院に電話をしてみた。
夜、6時を過ぎていた。
自分なりに失礼でない時刻を選んだつもりだった。
が、電話口に出た、SN医師は、きわめて傲慢だった。
傲慢というより、強圧的。
威張っていた。
私の話をほとんど聞かないうちから、「どこのだれだ!」「何の用だ!」「用件を早く言え!」と。
私のほうがたじろいでしまった。
説明したくても、それができなかった。
SN医師は、私を何かのセールスマンと誤解したようだ。
ワイフはあとで、そう言った。

 SN医師は、一方的に電話を、そのままガチャンと切った。
私もこういう性格だから、かなり頭に来た。
そこらのヤワな男とは、ちがう。
しかし自分を抑えた。
抑えて、怒りを鎮めた。

●無念さ

 怒りはしばらくすると、収まった。
が、それと反比例する形で、無念さが、胸の中に充満してきた。
「どうしてあんなバカな電話をしたのだろう?」と。
と、同時に、自分がかぎりなく小さくなっていくのを感じた。
自分のしていることが、かぎりなくつまらなく思えてきた。

●SK君

 金沢市にSK君というのがいる。
同じ法科出身。
合唱団でもいっしょだった。
そのSK君だったら、SN君のことを知っているはず。
私はそのあとしばらくしてから、電話をした。

私「SN君というのがいたよな?」
S「ああ、彼なら金沢市で開業しているよ」
私「金沢でか?」
S「そうだよ」
私「ナーンダ」と。

 しばらく話していると、話が混乱してきた。

S「林君ねえ、君ねえ、SN君とNT君をまちがえているんじゃないか」
私「……ああ、そうだ、NT君だ。今、思い出した……」
S「君が言っているのは、NT君だよ。ほら、NT君」
私「そうだ、あいつだ。同じ名前だったから、それでまちがえた」
S「あのNT君も、金沢にいるよ。今は、金沢大学の付属病院で、院長をしているよ」

私「院長か?」
S「そうだ。ほら、あのNT君は、MBさんと結婚したよ。合唱団のMBさんだよ」
私「ああ、その話なら覚えている。MBさんが好きだという話は、NT君から直接、聞いていた」
S「そのあと、結婚したんだよ」と。

 それを知って、少しだけだが、胸がスカッとした。
SK君はある都市銀行の取締役まで務めた。
今は定年退職し、金沢大学で教壇に立っている。
 
●しょせん……

 ……とは、書きつつ、しょせん、私も、この程度。
今夜は、それがよくわかる。
わかりすぎるほど、よくわかる。
わかるから、落ち込んでいる。

 朝までの元気は、どこへ消えたのか。
……ということで、これからサイクリングに行ってくる。
時刻は午後9時。
一汗もかけば、気分も収まるだろう。

●サイクリング

 今夜は、思いっきり全力で道路を走った。
薄着だったが、寒さは感じなかった。
途中、何人かの人を、追い抜いた。
が、足を休めなかった。

 近く大きな講演がある。
その講演に向け、体力をつける。
整える。
浜松市内では、今年最後の講演。
真剣勝負で臨みたい。

2011/11/14夜記

**********************

【講演会のお知らせ】

11月30日(水曜日)

午後6時30分開場
午後7:00〜8:30

場所:浜北文化センターにて
主催:浜北区健全育成会

入場は自由(無料)

『こうすれば、伸びる3つの話し』

**********************

【英語教育、ひとつの提言】

●小学校での英語教育が今、デッドロックに乗り上げている。
どう乗り上げているかは、みなさんすでにご存知の通り。
そこで私はそれを打開するため、ひとつの方法を提案する。
「英会話」ではなく、「言葉として英語を教える」。
その具体的な方法を、今週は年長児、年中児のみなさんで試してみた。
「英語の前に日本語」とか、「論語を教えろ」という暴論もある。
この方法なら、そういう人たちも、反対をしないはず。

(1)
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&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
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&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
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ja&fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●11月15日(2011)

今日は、友人にメールを書くことから始まった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Good morning, D!

It is a bit cold morning but I don't need a heater yet.
The temperature is now 17 C degrees now.
It is 5:16 AM in the morning.
I woke up this morning earlier than usual.
Akiko and I are well and there seems to be no problems so far for us.
But we have many as a matter of fact.
The best way to live happily is just to forget them and to go my own way.
How are you?

お早よう、D君!
少し寒いが、まだヒーターは必要ない。
今、気温は17度。
午前5時16分。
今朝はいつもより早く起きた。
晃子と私は元気で、ぼくたちにとって、何も問題がないように見える。
が、実際には、たくさんの問題をかかえている。
幸福に過ごすための最善の方法は、それらをただ忘れ、自分の道を行くことだ。
元気か?

I had a small trouble with a doctor yesterday 
and it made me feel very bad. 
But now I am recovering from it.

昨日、ある医師とトラブルがあった。
それが気分を悪くした。
が、今は、回復しつつある。

Whatever I am I have no choice but to go my own way.
Since this is the life of mine and I have no other way to go.
This is why I woke up this morning earlier and started my job.
I miss those days with you and Bob in Melbourne this March.

自分が何であれ、ぼくは自分の道を行くしかない。
これがぼくの人生だし、ほかに進むべき道もないから。
これが今朝、早く起き、仕事を始めた理由。
3月に、君とB君にメルボルンで会った日々が、なつかしい。

Hiroshi
浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●スペイン危機

++++++++++++++++

ギリシャ、イタリアにつづいて、
スペインの金融危機が表面化してきた。

今朝のBloombergは、つぎのように伝える。

『……イタリアの銀行最大手、ウニクレディトは6.2%の値下がり。
同行は最大75億ユーロ相当の新株発行計画を明らかにした。
スペインも借り入れコストが上昇し、ビルバオ・ビスカヤ・
アルヘンタリア銀行(BBVA)を中心に銀行株が下げた。
ドイツの建設会社ホッホティーフも大幅安。
空港運営事業の売却の遅れが売り材料となった』

『スペイン10年債と独10年債のスプレッドは、
36bp広がり432bpとなった。
スペイン30年債利回りは6.74%に達し、
ブルームバーグがデータ収集を開始した1998年以来の最高となった。
 
 CMAによれば、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)で、
スペイン国債の保証コストは21bp上昇し、441bpと、
過去最高を記録した』(以上、Bloomberg 2011・11・15)と。

 注意深く読むと、スペインの金融危機の本質がよくわかる。
つぎの1点に注目してほしい。 

(1)ドイツの建設会社ホッホティーフも大幅安

 どうしてスペインの金融危機なのに、ドイツの建設会社の株が大幅安になったか。
理由は言わずと知れた、乱開発と過剰融資。
スペインは、低金利のユーロをドイツから借り、スペインの地中海沿岸で、リゾート開発を推し
進めた。
ドイツ人のための、ドイツ人によるリゾート開発。

 それを後押ししたのが、言うまでもなく、ドイツ。
ドイツ銀行。
ドイツは自国の経済が好調なことをよいことに、スペインにユーロを貸しつづけた。
言うなれば、ドイツはスペインで、バブル経済を発生させた。
その結果が、これ。
平たく言えば、自業自得。

 が、ドイツはそれではおもしろくない……ということで、現在、メンケル首相が慌てふためいて
いる。
(肝心のスペインは、のんきなもの。
もともとドイツは、EU内部では、嫌われ者。
いつも大きな顔をしている。)

 ギリシャ問題は解決した……と考えている人は多い。
しかし実際には、何も解決していない。
借金に借金を重ねる、自転車操業。

 イタリアにしても同じ。
しかし本当の問題はスペインにある。
借金の規模がちがう。
ギリシャが倒れれば、フランスは肺炎。
スペインが倒れれば、ドイツは肺がん。

 そこでドイツとフランスは、この日本にあれこれ、言い寄ってきている。
最後のババは、日本に引かせよう、と。

「ドイツの建設会社ホッホティーフも大幅安」という一文の中には、そういう現実が隠されてい
る。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●はやし浩司の独り言

 日本に残された道……結局は大増税しかないんだろうね。
歳出カットといっても、人件費の削減は無理。
役人の力が強すぎる。
結局は、行政サービスの低下。

 今回のEUの金融危機について、アメリカが音無しの構えを見せているのは不気味。
が、考えてみればそれもそのはず。
EUは、もともと、アメリカの一局支配に対抗して生まれた。
ユーロが強くなればなるほど、相対的にドルが弱くなる。
が、ユーロが弱くなれば、再びドルの時代が戻ってくる。
中国がギリシャを助け、スペインを助けた。
なぜ中国なのか……という理由も、これでわかるはず。

 そのアメリカも神経質な動きを見せている。
たった0・1%、失業率が下がっただけで、株価は大上昇。
『向こうの2年間の経済成長率予想が下方修正され、失業率見通しも悪化した』(ロイター・1
1・14)というニュースが流れただけで、今度は大暴落。
世界はたった1日で変わるわけではないのに、1日ごとに乱高下。
もうめちゃめちゃ。

 日本はどうなるんだろう……と考えたところで、思考停止。
これだけ借金が多いと、身動きが取れない。
打つ手もない。
世界の激流の中で、流されるまま、あたふたとするしかない。
つまりもうなるようにしか、ならないということ。
が、これだけは忘れてはいけない。
結局は、最後の最後にババを引くのは、私たち一般庶民ということ。
「どう生きるか」ではなく、「どう貧困に耐えるか」。
今から、それを覚悟するしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●八卦とDNA(古代中国の科学と謎)

+++++++++++++++++

昨夜、ワイフが、こう聞いた。
「中国では2進数を使っていたの?」と。
それで私が「そうだよ。が、それだけではない。
あの八卦(はっけ)が、DNA言語と一致
しているという説もある」と説明すると、
心底、驚いた様子をしてみせた。

昨年書いた原稿を、さがしてみる。

+++++++++++++++++

まず、つぎの2表をよくみてほしい。
その上で、以下の文章を読んでくれれば、
ここでいう「八卦とDNAの関係」が、
よくわかるはず。
出典は、『ニビルの謎』(学研)。

+++++++++++++++++

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/64/img866cb8ffzik9zj.
jpeg" width="721" height="777" alt="img221.jpg">

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/65/imga0558262zik8zj.
jpeg" width="699" height="1211" alt="img222.jpg">

+++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(以下、2010年10月8日Eマガに書いた原稿より)

●中国の二進数(古代中国の大ロマン)

+++++++++++++++++

今、端緒をつかんだばかり。
今までの不勉強が悔やまれる。
まだ不確実な段階だが、5000年以上も
さかのぼる太古の昔、中国に、何と
二進数があったらしい。
(こんなことも知らなかったのか、と
笑われそうだが……。)
もしこれが事実とするなら、私は、今までの
古代観を根底から、作りなおさなければ
ならない。

+++++++++++++++++

●二進数

 二進数では、(0)と(1)だけの
数字を使って数を表す。

だからたとえば、0、1、2、3、4、5、6……は、二進数では、
0、1、10、11、100、101、110……となる。
コンピューター言語の基本にもなっている。

 それを古代中国では、つぎのように表す。
ワード文書を使って表記するので、たいへんぎこちない書き方になるが、許してほしい。

+++++++++++++
0……  
     
     
+++++++++++++
1……  
     
     
+++++++++++++
2……
      
     
+++++++++++++
3……  
     
     
+++++++++++++
4……
     

+++++++++++++
5……
     
     
+++++++++++++
6……     
     
     
+++++++++++++

 つまり横線2本は、(0)を表す。
横線1本は、(1)を表す。
これを冒頭に書いた、二進数と見比べてみてほしい。
念のため、数字をその横に並べて、もう一度、ここに書いてみる。

+++++++++++++
0……  
     
     
000
+++++++++++++
1……  
     
     
001
+++++++++++++
2……
      
     
010
+++++++++++++
3……  
     
     
011
+++++++++++++
4……
     

100
+++++++++++++
5……
     
     
101
+++++++++++++
6……     
     
     
110
+++++++++++++

十進数の「5」は、二進数の「101」になるが、それを横にすれば、
ここに書いたようになる。
こうして6段の線を使えば、何と、0から63までの64個の数を、二進数で
表すことができる。
コンピューターの世界でいう、まさに64ビット!

●易(えき)

 漢字には(0)の概念がない。
たとえば、「120」は、「百二十」と表記する。
そういう中国で、どうしてこうした「0」の概念が生まれたか。
しかも二進数。
それだけでも不思議だが、それを知ったのは、つまり中国の二進数を知ったのは、
「易(えき)」。
昔から日本では、『当たるも八卦、当たらぬも八卦』という。
あの「易」。
「易占い」の「易」。

 EX-Word(シャープ)には、つぎのようにある。

「周易で、陰陽の(こう)を組み合わせた8つの形象。
自然界、人事界百般の現象を象徴する」(広辞苑)と。

 さらにマイペディアには、つぎのようにある。

「(はっか)とも読む。易(えき)による占いの基本となる図形。
乾(けん)、坤(こん)、震(しん)、巽(そん)、(かん・土へんに「欠」)、離、
(ごん)、兌(だ)の8種をいう。
これを組み合わせたのが64卦。
この形を得るために、算木を用意する。
八卦は伏義(ふくぎ)の創案と伝えられる。
易占の基本として、易占と同義にも用いられる」と。

 その易の起源については、「易経」の注釈には、つぎのようにある。

「……伏義が天下を支配していたとき、天と見、地を見、鳥獣を見、身近を見、
こうしてその中から伏義は八卦を考案した……」と。

●64ビット

 ここでひとつの疑問が生まれる。
「易」は、「占い」なのかという疑問である。
くどいようだが、もう一度、2つの八卦、つまり8x8=64(64卦)を、
今度は、点と線で表してみる。
(左上が、十進数で「0」、3段目、右端が、「14」。)

・・     ーー     ・・      ーー      ・・
・・     ・・     ーー      ーー      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ーー
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・



ーー     ・・     ーー      ・・      ーー
・・     ーー     ーー      ・・      ・・
ーー     ーー     ーー      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ーー      ーー
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・



・・     ーー     ・・      ーー      ・・
ーー     ーー     ・・      ・・      ーー
・・     ・・     ーー      ーー      ーー
ーー     ーー     ーー      ーー      ーー
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・



以下、こうして二進数で表現すると、
「63」は、

ーー
ーー
ーー
ーー
ーー
ーー
となる。

 コンピューターの64ビット言語と同じ!
プラス、驚き!

●黄帝内経(こうていだいけい)

 もっともこんなことは、八卦の世界では常識。
もちろん私が発見したことではない。
そこでさらに調べてみると、この64卦は、「4つの塩基から3つを選び出した
DNA言語の単語と一致する」(「ニビルの謎」北周一郎・学研)とか。

 ますますおもしろくなってきた。
私も若いこと、黄帝内経(こうていだいけい)という書物にたいへん興味をもった。
3冊も本を書いた。
うち1冊(「東洋医学・基礎編」学研)は、今でも全国の医学部や鍼灸学校で教科書
として使ってもらっている。

 あの黄帝内経は、歴史の中で書き換えられるうち、いつの間にか「医学書」として
の体裁を整えてしまった。
が、私はもともとは、天気の運行に関する科学書ではなかったかと考えている。
わかりやすく言えば、天文学に関する書物。
その片鱗は、黄帝内経(素問)の随所に残っている。
『五運行大論篇』もそのひとつ。

 それについてはたびたび書いてきたので、興味のある人は、そちらを読んでみて
ほしい。
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page055.html

●大ロマン

 過去の歴史の中には、何やらとてつもない謎が隠されているらしい。
つまり(現在)は(過去)の上に積み重ねられてできたのではなく、遠い過去に、
すでに(現代)以上の(現代)があったことになる。
ロマンといっても、これ以上のロマンがあるだろうか。

 デニケンやシッチンの説に従えば、遠い昔、人類をはるかに超越した知的生物体
が、この地球にやってきた。
そして人類を見つけ、その中に自分たちにDNAを組み込んだ!
それをのちのちの人間に教え伝えるために、「易」を教えた。

……という説は、一見、荒唐無稽に思えるが、しかしありえない話ではない。
ないことは、この「易」をみてもわかる。

 この問題については、もう少し情報を集め、理解を深めてから書いてみたい。
2010/09/15

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 八卦 易 伏義 古代中国の二進数 2進数 64卦)

Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【易経と64卦】

●易経の二進数(古代中国の大ロマン)

+++++++++++++++++

今、端緒をつかんだばかり。
今までの不勉強が悔やまれる。
まだ不確実な段階だが、5000年以上も
さかのぼる太古の昔、中国に、何と
二進数があったらしい。
(こんなことも知らなかったのか、と
笑われそうだが……。)
しかもその配列の仕方は、(漢字との意味の符合性において)、
DNAの配列と同じという。
もしこれが事実とするなら、私は、今までの
古代観を根底から、作りなおさなければ
ならない。

もちろんこの説を鵜呑みにするわけにはいかない。
それが正しいかどうか、自分で検証してみる
必要がある。
「根底から作りなおす」というからには、
それなりの確信が必要である。
本当に、「易」は、「DNA」の配列と関係が
あるのか?

+++++++++++++++++

●二進数(PART2)

 二進数では、(0)と(1)だけの
数字を使って数を表す。

だからたとえば、0、1、2、3、4、5、6……は、二進数では、
0、1、10、11、100、101、110……となる。
コンピューター言語の基本にもなっている。

 それを古代中国では、つぎのように表す。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4996382953/ 
<src="http://farm5.static.flickr.com/4104/4996382953_f02920464f.jpg" width="353" 
height="500" alt="img058" />

●まずはじめに……(国立がんセンターのHPより引用)

 『……遺伝子が設計図だとすると、どのような言葉(言語)で書かれているのでしょう
か。遺伝子は、物質としてはDNAと呼ばれる分子からできていますが、この DNAは「A、
G、C、T」という4つの「塩基」の並びでできています。

言語というのは英語であればアルファベット26文字、日本語であれば平仮名50音の組み
合わせでつくられますが、遺伝子の場合には、この4つの文字からなる遺伝子の言語で書
かれているということになります。人間ではこのA、G、C、T という文字が30億個並ん
で遺伝子全体をつくっています。

比喩的にいうと、4つの文字の配列によりつくられた、意味のあるひとつひとつの「文章」
がひとつひとつの「遺伝子」に相当し、ヒトの場合、そのような遺伝子が40,000個ぐらい
あるといわれています。

ある生物がもつすべての遺伝子、人間なら人間のすべての遺伝子を全部ひっくるめて「ゲ
ノム」といいます。遺伝子を句点「。」で区切られたひとつの文章だとすれば、文章が集ま
った一冊の本がゲノムであるといえます。遺伝子が一本の木だとすると、その木が集まっ
た森がゲノムにあたります』(以上、国立がんセンターHPより)。

●「易経」の二進数




●赤ワク

 この中で赤ワクで囲んだのは、上下3本ずつが、同じ配列になったものである。
そこでさらに、これら64のパターンを、8つのグループに分けてみる。
(0)と(1)の組み合わせは、8種類ある。

 こういうグループ分けに、とくに意味はない。

(A)上部3本が、(000)のグループ

(B)上部3本が、(001)のグループ

(C)上部3本が、(010)のグループ

(D)上部3本が、(011)のグループ

(E)上部3本が、(100)のグループ

(F)上部3本が、(101)のグループ

(G)上部3本が、(110)のグループ

(H)上部3本が、(111)のグループ

 8つのグループに、それぞれ8つの組み合わせがある。
合計すると、8x8で、64種類ということになる。

●DNA言語も64語

 ところでDNA言語は、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、
T(チミン)という4種類の塩基が基本になっている。
これらの塩基が鎖状に連なって、遺伝子情報を伝える。

 一見無秩序に見える塩基情報だが、実際には、A、G、C、Tの4つの塩基から、
3つを取り出し、その組み合わせによって、64種類の言葉が生まれることがわかって
いる。

AAA、AAG、AAC、AAT、AGA、AGG,AGC,AGT……TTT、と。

 『易経の謎』(光文社)、『ニビルの謎』(学研)によれば、こうした遺伝子言語は、
そのままDNA言語と一致するという。
並び方だけではない。
意味まで、一致するという(『ニビルの謎』)。

 たとえば「DNA言語の(ATG)は、「開始」を意味するが、これに対応する
八卦は、「かん(土偏に欠)」で、これも「開始」を表す。
DNA言語の(TAA)は、「停止」を意味するが、これに対応する八卦は、「ごん」で、
これも「停止」を表す」(『ニビルの謎』)と。

 上述、「易経の二進数」のうち、(18)(010010)が、「かん」、
(9)(001001)が、「ごん」にあたるという。

しかし自分で改めて検証してみると、つじつまが合わなくなる。

(1)と(0)の組み合わせは、
(00)(01)(10)(11)の4つである。
この4つを、どう「A」「G」「C]「T]と結びつければよいのか?

たとえば、
10……「A」
01……「G」
11……「C」
00……「T」とすると、

「ATG」は、「10・00・01」となる。
並び方を反対にすると、つまり「GTA」にすると、「01・00・10」となり、
たしかに「かん」となる。

が、同じように「TAA」は、「AAT」にすると、「10・10・00」となり、
「ごん」にならない。
「ごん」は、二進数では、「00・10・01」である。
(「00・10・10」なら、つじつまが合うのだが……。)
私の解釈の仕方がまちがっているのだろうか。
あるいはどこかまちがっているのだろうか。

これら2冊の本だけではよくわからない。

●4つの組み合わせx4通り

 わかりやすく言えば、「A」「G」「C」「T」と、(00)(01)(10)(11)を、
どう結びつけるかということ。
これがうまく結びつけば、中国の二進数は、まさにDNA言語そのものを表している
ことになる。

(00)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(1)

(01)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(2)

(10)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(3)

(11)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(4)

 そこでヒントとなるのが、DNAが複製されるときの性質、つまり「A」は「T]と
のみ結合し、「G」は「C」とのみ結合するという性質。
これを二進数と組み合わせてみると、興味深い事実が浮かびあがってくる。

(00)と(11)の関係。
(01)と(10)の関係。
これらは、数字の上では補完関係にあることがわかる。

仮に(00)を「A」とすると、(11)は「T」ということになる。
同じように(01)を「G」とすると、(10)は「C」ということになる。
この仮定の上で、もう一度、表を作り直してみる。
それがつぎの表ということになる。

00……「A」
01……「G」
10……「T」
11……「C」

仮にこの配列で、中国の二進数を並べ直してみると、つぎのようになる。

00……AAA(00・00・00だから、AAAとなる。)
01……AAG
02……AAT
03……AAC
04……ATA
05……AGG
06……AGT
07……AGC
08……ATA
09……ATG(00・10・01だから、ATGとなる。TAAにならない)(ごん)
10……ATT
11……ATC
12……ACA
13……ACG
14……ACT
15……ACC
16……GAA
17……GAG
18……GAT(01・00・10だから、GATとなる。ATGとならない)(かん)

 ????

別の組み合わせを考えてみる。
というより、上記(1)(2)(3)(4)の4つの組み合わせを、総当たり的に
確かめてみる。

「9」の「ごん」で、「TAA」に、「18」の「かん」で、「ATG]になればよい。
そういう組み合わせは、あるのか?

●矛盾

 もう一度、数字を並べてみる。

「9」(ごん)……(00・10・01)……「TAA」
「18」(かん)…(01・00・10)……「ATG」

 これらの数字(二進数)に、「A」「G」「C」「T」を当てはめてみる。
いわば暗号解きのパズルのようなものだが、一見して共通性がないのがわかる。
(01)が「A」で、(00)が「T」ということまでは、わかる。
が、そのほかは、矛盾する。

 で、ここに先にあげた、補完関係を応用してみる。
(「補完関係」といっても、私が勝手に仮説として考えたものにすぎないが……。)

(01)が「A」とすると、(10)が「T」ということになってしまう。
つまりまたまた矛盾してしまう。
(01)が「A」とすると、「T」は、(10)でなければならない。

アアアア!

●謎への再挑戦

 もう一度、『ニビルの謎』を読んでみる。
繰り返しになるが、許してほしい。
この壁を乗り越えないと、謎を解くことができない。

「……DNA言語の(ATG)は、「開始」を意味するが、これに対応する
八卦は、「かん(土偏に欠)」で、これも「開始」を表す。
DNA言語の(TAA)は、「停止」を意味するが、これに対応する八卦は、「ごん」で、
これも「停止」を表す」(『ニビルの謎』)と。

 そこにはたしかに(ATG)は、(かん)、(TAA)は(ごん)と書いてある。
(かん)は、二進数で、(01・00・10)。
(ごん)は、二進数で、(00・10・01)。

 この2つを並べてみると、(00)は、「T」ということになる。
両者が共通にもっている(10)、あるいは(01)は、「A」ということになる。
残ったのは、この両者にない、(11)。
この(11)は、「C」ということになるのか?
となると、「G」は、(10)と(01)のどちらなのか?
「A」が(10)なら、「G」は、(01)、
「A」が(01)なら、「G」は、(10)ということになる。

 一応、ここまでを、一覧表にしてみる。

10、あるいは01……「A」
01、あるいは10……「G」
11……「C」
00……「T」
 
 ほかに手がかりはないのか?
ということで、今、あちこちをネットでサーフィンしながら、調べてみた。
が、私が調べたところ、それに関する情報は手に入らなかった。

 「A」は、(10)なのか、(01)なのか?
それさえ決まれば、易経の二進数と、DNAの関係が、少しだけだが浮かびあがって
くる。

 ……が、ここでタイプアップ!
仕事の準備をする時間になった。
このつづきは、またの機会にしたい。

(2010年9月17日、午前10時)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 易経の謎 中国の二進数 2進数 DNAの謎 DNAと易経 ニビ
ルの謎)

【注】今回『ニビルの謎』(学研)という本を参考にさせてもらったが、私自身は、
「ニビル」なる惑星については、まだ半信半疑。
真夏の夜のロマンのひとつにしか考えていない。
興味をもったのは、その中に書かれていた「二進数」、つまり易経でいう「64卦」。
そこに「64卦は、DNA言語と関係がある」と書いてあったので、興味をもった。
どうか誤解のないように!


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●今日の目標

 今日は、「八卦とDNA」について、もう一度、その謎解きに挑戦してみたい。
もし八卦と、DNA言語が一致していたら……。
これは世界の科学の常識をひっくり返すほどの大発見となる。

 では、このつづきは、またあとで……。

2011/11/15朝記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●謎の八卦(易経)

+++++++++++++++++++++++++

今日は1日、八卦(易経)とDNAの関係について考えてみた。
何度も図表を見ながら、その向こうに隠された関係を
考えてみた。
(……関係があれば……という条件つきだが。)

が、意外と簡単に、謎解きの糸口をつかむことができた。
それを今日は、わかりやすく説明してみたい。

+++++++++++++++++++++++++

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/64/img866cb8ffzik9zj.jpeg" 
width="721" height="777" alt="img221.jpg"> 
    【表は、学研『ニビルの謎』より】

●はじめに

 これは言うなれば、知的道楽のようなもの。
私自身、易経というものをほとんど知らない。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という程度にしか、「八卦」のことを知らない。
そんな私が現在、八卦に興味をもっているのは、それがDNAと関係があるのではないかという
点に着目したから。

 改めて、その謎解きに挑戦してみる。
ちょうど1年ぶりの再開である。

●2進数

 私たちは日常生活の中では、10進数を使っている。
これは人間の指が10本であることに、大きく関係しているという。

 これに対してたとえばコンピューターの世界などでは、2進数を使用する。
2進数というは、(0)と(1)だけの世界をいう。
(―)と(+)でもよい。
便宜上、10進数の(1)と(2)を使用する。

 その2進数では、たとえばつぎのように数える。
(かっこ)内は、10進数による数え方をいう。【表1】

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/85/img0144c68ezik0zj.
jpeg" width="587" height="718" alt="img228.jpg">

0(0)
1(1)
10(2)
11(3)
100(4)
101(5)



 これでは数が大きくなるについて、段がついてしまうので、頭に(0)をつけ、わかりやすくす
る。
つぎの表がそれである。
便宜上、6桁にしたが、それには理由がある。
その理由は、あとで述べる。

000000(0)
000001(1)
000010(2)
000011(3)
000100(4)
000101(5)
000110(6)
000111(7)
001000(8)
001001(9)
001010(10)
001011(11)
001100(12)



 
 これですっきりした。

●八卦との関係

 八卦では、一本の長い棒(−)と、二本の短い棒(・・)で、数を表す。
たとえば……、
(・・は、短い二本の棒、ーは、長い棒を表す。)【表2】

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/87/imgbec9b955zikdzj.
jpeg" width="771" height="1094" alt="img229.jpg">

000000(0)⇒・・
          ・・
          ・・ 
000001(1)⇒―
          ・・
          ・・ 
000010(2)⇒・・
          ―
          ・・  
000011(3)⇒―
          ―
          ・・  

●長い棒と二本の短い棒

 まずここで理解してほしいことは、八卦は、2進数で書かれた数字であるということ。
俗説によれば、伏義※という伝説上の賢者によって、発明されたという。
その当時の中国には、もちろん、数字の(0)(1)は、存在しなかった。
(中国語でいう漢字には、(0)の概念はない。)

 だから(長い棒)と(二本の短い棒)で、「数」を表したとしても、何もおかしくない。
……というような回りくどい説明は、ここでは省略する。
八卦で使う(棒)は、二進数を表す。

 たとえば10進数の(50)は、2進数では「110010」となる。
それを2種類の棒で書き表すと、【表3】のようになる。

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/88/img854d9d6ezik0zj.
jpeg" width="771" height="841" alt="img226.jpg">

●DNA

 同じようにDNAについての説明も省略する。

 そのDNAは、4つの塩基(AGCT)から、3つの組み合わせで、構成される。
Aは「アデニン」、Gは「グァニン」、Cは「シトシン」、Tは「チミン」を表す。
その4つの中から、たとえばATCと3つが結合し、それが螺旋階段のように並び、DNAを構成
する。
それを1個とするなら、人間のDNAは、約30億個あるとされる。
それはいわばコンピューターでいうプログラムのようなもの。
「設計図」と表現する人もいる。
この設計図に応じて、人間の「形」ができる。

●必要条件

 そのDNAと八卦との不思議な関係については、すでに多くの研究家が本に書いている。
しかしDNAはDNA。
八卦は八卦。

 それもそのはず、DNAは、戦後、発見された。
歴史は浅い。
八卦は、俗説に従えば、5500年前からあったという。
3000年前でも、2000年前でもよい。
この際、年代はどうでもよい。
少なくとも、DNAの発見は、ごく最近のもの。
八卦は、それよりもずっと昔からあった。

 だからもし八卦がDNAの配列をうまく説明したとしても、それだけでは必要十分条件を満たし
たことにはならない。
偶然の一致ということも、ありえる。
が、ともかくも、その「必要条件」だけでも、ここで考えてみたい。
本当に、何らかの関係があるのか。
それともないのか。

(十分条件を満たすためには、その論理で、ほかの未知のDNAの構造まで説明しなければな
らない。)
はたして八卦とDNAの間には、何かの関連性があるのだろうか。

●64卦

 八卦では、64卦ともいうように、8x8=64の卦(け)を基本にものを考える。
そこで10進数でいう(0)を2進数で、(0000000)(6桁)とする。
(63)は、(111111)(6桁)となる。

 最近のコンピューターは、64ビットマシンが主流。
そのことも記憶のどこかにとどめておいてほしい。

 この6桁の数字を、(長い棒)と(短い2本の棒)で表したのが、八卦ということになる。

【64卦の方位図】

●DNA

 先にも書いたように、DNAは、4つの塩基のうち、3つの塩基の組み合わせで、最小単位を
構成する。
「3文字言語」という言葉も、そこから生まれた。
そこでここでは、6桁の(棒)を、3組に分けてみる。
当然のことながら、2本ずつの3組になる。

(八卦をDNAに、無理にこじつけようとしている感じがしないでもないが、そこは許してほし
い。)

 が、ここでたいへん興味深い事実に気がつく。
(長い棒)と(短い2本の棒)の組み合わせは、4通り。
この4通りという数は、4つの塩基の数と、奇妙なことに一致する。
が、ここでは、まだ、偶然の一致ということにしておく。
つまりだからといって、八卦とDNAとの間に、何らかの関連性があるとは言えない。

 ともかくも、4つの組み合わせ、つまりパターンができる。
それをここでは、パターン(1)(2)(3)(4)としておく。【図4】

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/89/img67623bfazikfzj.
jpeg" width="752" height="877" alt="img225.jpg">

パターン(1)― ―
       ― ―

パターン(2)―――
       ― ―

パターン(3)― ―
       ―――

パターン(4)―――
       ―――【図4−2】

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/90/imgbf4d386azik3zj.
jpeg" width="773" height="663" alt="img224.jpg">

●10進数の(50)は、(110010)

 こうして6桁の八卦を、3つに分解し、それぞれのパターンに、(1)(2)(3)(4)と番号をふっ
てみる。

 たとえば10進数の(50)は、2進数では(110010)となる。
これを3つの組に分けると、(11)(00)(10)となる。
が、八卦をよく見てもらうとわかるが、数字の並び方が逆になっている。
(50)は、(010011)となっている。

 だから3つの組に分けると、(01)(00)(11)となる。
これを先にあげた、4つのパターンに当てはめてみる。
すると(50)は、(3)(1)(4)となる。

 同じように、(51)は、(4)(1)(4)。
(52)は、(1)(2)(4)となる。【表5】

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/91/img55c85ba7zik6zj.
jpeg" width="775" height="1109" alt="img223.jpg">

●AGCTの相性

 ここで最初の難関は、DNAでいう4つの塩基と、ここでいう4つのパターンの間には、何か関
係があるのだろうか。
あるとすれば、DNAの4つの塩基、(AGCT)は、それぞれ4つのパターンのうち、どれと同じと
考えたらよいだろうか。

 その関連性を解く鍵がひとつある。
それはDNAにおいては、4つの塩基の中から3つの塩基で最小単位を構成するが、それぞれ
に相性というのがあるそうだ。
たとえば、「AはTとのみ結合し、GはCとのみ結合する」(「ニビルの謎」)とある。
(DNAについての勉強は、今始めたばかりなので、不正確で申し訳ない。)

●プラスとマイナス

 そこでさらに仮定を飛躍させる。
今まで(長い棒)と(二本の短い棒)と書いてきた部分を、(+)と(−)に置き換えてみる。
すると、ここで磁力的な説明がつくのがわかる。
(短い棒を、マイナス、長い棒を、プラスとした。
もちろんその反対でもよい。)【図4−2】

パターン(1)は、(−)
(−)
パターン(2)は、(+)
(−)
パターン(3)は、(−)
(+)
パターン(4)は、(+)
(+)となる。

 ここで電磁的にものを考えると、……どれとどれが結合すると考えてよいのか?
(+)と(−)は結合する。
(−)と(−)は結合しない。

 つまりパターン(1)は、パターン(2)と(4)と結合する。
同じようにパターン(4)は、パターン(1)と(3)と結合する。
(+とーは、結合する。)

 反対に考えると、パターン(2)は、パターン(4)のみとしか結合しない。
パターン(3)は、パターン(1)のみとしか結合しない。

 つまり、パターン(2)は、Aもしくは、G。
パターン(3)は、Aもしくは、G、ということになる。

 ここでパターン(2)をAと仮定すると、パターン(4)がTということになる。
すると、パターン(3)は、Gということになる。
残ったパターン(1)は、C!

 もう一度、整理してみる。

パターン(2)をAと仮定すると、

 パターン(1)=C
 パターン(2)=A
 パターン(3)=G
 パターン(4)=T、ということになる。……仮定(1)

同じように、今度はパターン(2)をGと仮定すると、

パターン(1)=T
 パターン(2)=G
 パターン(3)=A
 パターン(4)=C、ということになる。……仮定(2)

 2つのケースが考えられる。
仮定(1)と仮定(2)はどちらが正しいのだろうか。

 あとは実際のDNAの配列に当てはめて考えてみるしかない。
矛盾なく、合理的に説明できるほうが正しいということになる。

●塩基(3文字言語)

 「ニビルの謎」に紹介されている、DNAの3文字言語を並べてみる。

「CGTAGAATTCT……」(P142)。

 この並び方を合理的に説明するのは、(仮定1)のほうなのか。
それとも、(仮定2)のほうなのか。

?????

●DNA言語

 では具体的に、10進数の(0)から(63)までを、DNAの3文字言語で置き換えてみる。
ここでは前述(仮定1)に従って、並べてみる。

0……CCC
1……ACC
2……GCC
3……TCC
4……CAC
5……AAC、となる。

 同じように、今度は前述(仮定2)に従って、並べてみる。

0……TTT
1……GTT
2……ATT
3……CTT
4……TGT
5……GGT、となる。

 どちらが正しいのだろう?
頭の中を整理するため、10進数の(50)(51)(52)を、64卦で表し、さらにそれを3つのパタ
ーンに分けてみる。【図5】

 八卦とDNAの間には、何か、関係があるのだろうか。
そこでもう一つのヒント。

DNA言語では、「TAA」は、「停止」を意味するという。
これはコンピューターでプログラムを組んだことがある人なら、みな知っていることだが、プログ
ラムの始めと終わりには、特殊な命令を入れる。
私はベーシック言語しか知らないが、ベーシックでは、「END」を書く。

 その「END」に当たる言葉が、DNA言語では、「TAA」という。
この「TAA」を、(仮定1)で翻訳すると、「TAA」は、2進数で「11・10・10」となる。
10進数になおすと、「23」。
漢字では、「訟」。
数字を反対に並び替えると、「01・01・11」とすると、「58」。
漢字では、「需」。

 今度は「TAA」を、(仮定2)で翻訳すると、「TAA」は、2進数で、「00・01・01」となる。
10進数になおすと、「40」。
漢字では、「明夷」。
数字を反対に並び替え、「10・10・00」とすると、「5」。
漢字では、「晋」。

 整理してみる。

 28……訟
 58……需
 40……明夷
  5……晋

 これら4つの漢字の中で、「END」を表すものがあれば、ビンゴー!
しかし残念ながら、「ニビルの謎」によれば、「END(停止)」を表すのは、「9」、「ごん(「良」の
上の点を取った文字)」だそうだ。

●今日はここまで

 何か関係がありそうで、ない?
なさそうで、ある?
今日は、しかし、ここまで。
Time Up!
このつづきは、またの機会に書いてみたい。

 が、これだけは覚えておいてほしい。
年代を特定するのはむずかしいが、古代中国では、何かとてつもない不思議なことが起きてい
た。
周囲文化とはかけ離れた、突出した科学が存在していた。
文中に書いた、「伏義(「義」の文字は現代漢字を使った)」にしても、調べれば調べるほど、不
思議な人物(?)である。
興味のある人は、自分で調べてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 DNA 八卦 易経 
八卦の謎 謎の八卦 伏義 はやし浩司)
2011/11/16追記

【東洋医学(黄帝内経・素問)の謎】

 こうした「八卦とDNAの関係」に興味をもったのには、理由がある。
私が書いた本の一部を、ここに紹介する。
(出典は、はやし浩司著『目で見る漢方診断』。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●黄帝内経・地動説
 
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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2569492907/" title="img375 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3064/2569492907_
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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2570318190/" title="img376 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3281/2570318190_
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●黄帝は実在したか?
 
<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2570318350/" title="img377 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3109/2570318350_
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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2569493345/" title="img378 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3005/2569493345_
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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2570318812/" title="img380 by 
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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2570318946/" title="img381 by 
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9f6a04fc0f_o.jpg" width="729" height="1068" alt="img381" /></a>



Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
【DNA情報は、64ビット言語で書かれたプログラム】byはやし浩司2011/11/16夜記

+++++++++++++++++++++++++++++

昨日(2011年11月15日)から、DNAについて考えている。
今日で2日目。
ド素人の、そのまたド素人の私が、DNAに興味をもっている。
きっかけは、八卦。
あの八卦は、実はDNA配列を説明したものという説に、興味をもった。
自分なりに検証してみようという気になった。

言うなれば、知的道楽。

で、今朝(2011/11/16)、つぎのような原稿を書いた。
前もって断っておくが、DNAを2進数で表そうとしているのは、世界でも私が最初だと思う。
あちこちのサイトをのぞいてみたが、DNAを2進数で表した論文は、私が知るかぎりない。

だから、おもしろい。
……ということで、昨日、そして今朝につづいて、原稿のつづきを書いてみる。

+++++++++++++++++++++++++++++

●4つの塩基を、2進数で表してみる

 昨日、4つの塩基を(ー)と(+)に置き換え、さらに2進数に置き換えるところまで考えた。
この世界は、現在恐ろしく進歩していて、私がここに書いていることは、英語で言えば、アルフ
ァベットのようなもの。
プロの人が読んだら、私のことを「アホ」と思うだろう。
が、だからといって、遠慮することはない。
私は私。
私の発想で、ものを考えてみる。

 で、今朝、4つの塩基について、(−)(+)の置き換え方は2通りあると書いた。
(1)パターン(2)を「A」と仮定するばあい。
(2)パターン(2)を「G」と仮定するばあい。
それについて書いた部分を抜粋してみる。

『パターン(2)をAと仮定すると、

 パターン(1)=C
 パターン(2)=A
 パターン(3)=G
 パターン(4)=T、ということになる。……仮定(1)

同じように、今度はパターン(2)をGと仮定すると、

パターン(1)=T
 パターン(2)=G
 パターン(3)=A
 パターン(4)=C、ということになる。……仮定(2)

 2つのケースが考えられる。』と。


●遺伝子情報を、2進数で書き換えてみる

 ここでいう「パターン」というのは、つぎの4つの組み合わせをいう。

 パターン(1)は……(−)(−)
 パターン(2)は……(+)(−)
 パターン(3)は……(ー)(+)
 パターン(4)は……(+)(+)。

ここでは(仮定1)に従って、
パターン(1)=C
 パターン(2)=A
 パターン(3)=G
 パターン(4)=T、としてみる。

すると(C)(A)(G)(T)は、それぞれ、2進数で、つぎのように表せる。

C=(00)
A=(10)
G=(01)
T=(11)

 この規則に従って、大腸菌の遺伝子を、2進数で表してみる。
どんなことになるだろうか。


●例題塩基配列:大腸菌由来 RNase HI 遺伝子

大腸菌の遺伝子配列(一部、4501〜5041)は、つぎのようになっている。

4501 taaaaacaag ccacgaattc gccaggcggt tggagccacc cggcaatgtc gtaaaccaca
4561 ggcttaaact tcaacttggt agcctgtatc ttccagtgtg ggattcatcg ccgcggcacg
4621 agccagttca tcacagcgtt cgttttccgg gtgtccggca tggcctttaa cccattccca
4681 tttgatttga tgctgcccca atgcagcatc aagacgttgc cagagatcga cattttttac
4741 tggttttttg tctgcggttt tccagccacg ttttttccag ttatggatcc actgggtgat
4801 accctggcgg acatactggc tgtcggtact caaaatgact tcgcaatgtt cttttaacgc
4861 ctccagcgcg acaatagcgg ccatcaactc catacggttg ttggtggtgc gggtgtagcc
4921 agcgctaaag gttttctcgc gtccgcgata gcgtaaaata gcgccgtaac ccccaggtcc
4981 tggattgccc agacacgaac catcggtgaa aatttctacc tgtttaagca tctctggtag
5041 acttcctgta attgaatcga actgtaaaac gacaagtctg acataaatga ccgctatgag

 以上の中の(4501)と(4561)だけを、2進数で置き換えてみる。
(何しろ数が膨大なので……。)

以下が、その結果である。

4501 (11)(10)(10)(10)(10)(10)(00)(10)(10)(01) 
  (00)(00)(10)(00)(01)(10)(10)(11)(11)(00) 
  (01)(00)(00)(10)(01)(01)(00)(01)(01)(11)
  (11)(01)(01)(10)(01)(00)(00)(10)(00)(00) 
  (00)(01)(01)(00)(10)(10)(11)(01)(11)(00) 
  (01)(11)(10)(10)(10)(00)(00)(10)(00)(10)

4561 (01)(01)(00)(11)(11)(10)(10)(10)(00)(11) 
  (11)(00)(10)(10)(00)(11)(11)(01)(01)(11) 
  (10)(01)(00)(00)(11)(01)(11)(10)(11)(00) 
  (11)(11)(00)(00)(10)(01)(11)(01)(11)(01) 
  (01)(01)(10)(11)(11)(00)(10)(11)(00)(01) 
  (00)(00)(01)(00)(01)(01)(00)(10)(00)(01)

 数字の羅列だけで、まったく意味がわからない。
そこで最初から、3組ずつ、まとめてみる。
全部はできないので、最初から3x10個だけにする。

(11)(10)(10)
(10)(10)(10)
(00)(10)(10)
(01)(00)(00)
(10)(00)(01)
(10)(10)(11)
(11)(00)(01)
(00)(00)(10)
(01)(01)(00)
(01)(01)(11)

 これから(かっこ)を取り外してみる。

(111010)
(101010)
(001010)
(010000)
(100001)
(101011)
(110001)
(000010)
(010100)
(010111)

 これらの数字を、今度は、10進法で書き改めてみる。

(111010)……58
(101010)……42
(001010)……10
(010000)……16
(100001)……33
(101011)……43
(110001)……49
(000010)…… 2
(010100)……20
(010111)……23

 つぎに今度は、これらの10進法の数字に、八卦でいうところの漢字をあてはめてみる。

(111010)……58(需)
(101010)……42(既済)
(001010)……10(蹇)
(010000)……16(師)
(100001)……33(?)
(101011)……43(家人)
(110001)……49(損)
(000010)…… 2(比)
(010100)……20(解)
(010111)……23(訟)

 その「END」に当たる言葉が、DNA言語では、「TAA」という。
この遺伝子配列の中では、冒頭にそれがあるのがわかる。
「TAA」は、2進法配列では、(111010)。
10進法に改めると、58、つまり漢字では、「需」。

 この「需」というのは、どういう意味なのだろう。

『漢字牧場サイト』では、つぎのように説明する。
『……「需」の復習ですが、巫祝が雨乞いをすることを「需」といいます。そして、その雨乞いを
する巫祝のことを「儒」というのです』(「漢字牧場」より)と。

 念のため八卦の表現方法にするため、「(111010)……58(需)」の数字を、逆に並びかえ
てみる。

(111010)は、(010111)となる。
これを10進法に改めると、23(訟)となる。
Goo辞書には、「訟……裁判で是非を争う。訴える」(Goo辞書)とある。

 「需」も「訟」も、意味の上においては、DNAの3言語の意味とはつながらない?
もしここで「スタート」を表す漢字とつながれば、私は飛び上がって喜んだだろう。
八卦は、DNA言語の意味と一致した!、と。
しかしそういうことは、なさそうだ。
(ガッカリ……。)

 が、ここでへこたれてはいけない。
この世界は、先にも書いたように、底なしに深い。

 とにかく今夜はここまで。

 おもしろかった。
楽しかった。
明日からもまた、DNAについて考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 DNA言語と二進数 2進数 DN
A 2進数論 八卦とDNA 3文字言語 DNA言語 2進数 易経 八卦)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●「地元に張りつく」?(日本人の島国根性と、都会的優越感)

++++++++++++++++++はやし浩司

 産経ニュースは、つぎのように伝える(11・17)。

『……民主党の小沢一郎元代表は16日夜、東京・赤坂のレストランで同党所属の衆院当選1
回の若手議員5人と会食し、「年が開ければ、翌年(平成25年)が任期満了で選挙の空気が
強まる。みんな、地元に張り付いてどぶ板でがんばれ」と語った』(産経ニュース)と。

++++++++++++++++++はやし浩司

●「上」からの視点

 2006年に、こんな原稿を書いた。
私たち浜松に住む人間は、「田舎者」だそうだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田舎者はイチコロよ!

+++++++++++++++++++++++

片山さつき氏は、私の選挙区から選出された、
国会議員である。

ふつうは、こうしたエッセーでは、実名を伏せる
ことにしているが、ここでは、あえて、実名で
書かせてもらう。

雑誌「諸君」の中に、こんな記事があった。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」(片山さつき談)と!

++++++++++++++++++++++

 06年の8月。先の衆議院議員選挙(05年8月)が終わって、ちょうど1年になる。
同じ自民党の城内実氏を僅差で破って、衆議院議員になった。それが片山さつき氏である。
城内実氏は、郵政民営化に反対して、K首相の反感をくらった。

 つまり片山さつき氏は、城内実氏をたたき落とすために、中央から送り込まれた、刺客
ということになる。片山さつき氏は、財務省主計局主計官(防衛担当)を退官し、静岡県
7区から立候補した。

 私が住む、この選挙区で、である。

 その片山さつき氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書い
ている。

 『……片山さつきさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪では
ない、媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務
省キャリア」という自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土
下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、
自分が客観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もは
やお手上げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田
真由美氏に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 片山さつき氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話
は、当時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんて
したら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした
発言はない。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないか
とは疑っていたが、片山さつき氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは
何か? あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私は片山さつき氏を許さない。片山さつき氏は、
まさに選挙のために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだ
け利用しておきながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、片山さつき氏が、この1年間、この地元に
帰ってきて、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞い
てみたが、ワイフも、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、片山さつき氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言え
ば、自己の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、ま
かり通ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。
もちろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをく
ぐりぬけて、国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の
代表なのか?

 そののち片山さつき氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話
題をふりまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元
の利益につながったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知
らない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」

 先の原稿は、2006年に書いたもの。
あの国会議員のパフォーマンスには、どこか不自然なものを感じていた。
そんなとき、雑誌「諸君」は、先の記事をあげた。
「田舎者」と。

 片山さつき氏の選挙区(つまり私の選挙区)は、浜松市の西に位置する。
半分程度は、浜松市内に隣接しているが、「田舎」といえば「田舎」。
しかしそれにしても、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(片山さつき
氏談)とは!

 ……この種の発言は、ときどき中央からこの地方まで、漏れてくる。
冒頭にあげた、「張りつけ発言」(小沢一郎氏談)も、そのひとつ。
中央集権意識がかなり強くなければ、こういう言葉は出てこない。
つまり「主体」は、東京にあり、地方はただの「借り家」?
視点が「上」にある。
地方を上から見ている。
だから下にある地元に、「張りつけ」?

 一方、地方に住む私たちは、そういう考え方をしない。
国会議員というのは、あくまでも私たちの住む地方を代表する議員。
「国会でがんばってきてほしい」とは言うが、「張りついてほしい」とは言わない。

 言葉の切れ端を問題にするつもりはない。
しかし全体としてみると、小沢一郎氏というのは、そういう人物だろうなということが、よくわか
る。
失言というより、「しっぽ」。
まさに氷山の一角。
私にはこう聞こえた。

「土下座でも何でもして、また東京へ戻って来い」と。

●中央集権意識

 中央集権意識というのが、どういうものか。
それはアメリカやオーストラリアへ行ってみると、よくわかる。
とくにオーストラリア。

 もともとは州ごとに独立していた。
列車の線路の幅もちがっていた(1970年当時)。
だから首都をどこにするかで、もめた。
結果、シドニーとメルボルンの間にあるキャンベラに首都が置かれた。

 で、こんなことがある。
「♪ウォルチング・マチルダ」と言えば、だれもが知っているオーストラリアのブッシュ・ソングで
ある。
しかし南オーストラリア州の人たちは、それを歌わない。
「浩司、あれはニュー・サウス・ウェールズ州(NSW)の歌だよ」と。

 「東京から来た」というだけで、何でもかんでもありがたがる田舎根性。
アホでもバカでもよい。
インチキでもよい。
それを知りたければ、年末恒例のディナーショーをみればよい。
少し大きなホテルになると、東京からタレントを呼んできて、ディナーショーを開く。

 一方、中央(東京)に住む連中は、みな、こう言っている。
「東京で有名になって、地方で稼げ」と。
私は若いころ、NETのアフターヌーショー(川崎敬三)や、11PM(水曜)の脚本を書いていた。
そのあたりの事情をよく知っている。

 その集約されたものが、「政治」ということになる。

●都会的優越感

 都会的優越感が、いかに幻惑であるかは、都会の中を走る電車に乗ってみればわかる。
私のいちばん記憶に残っているのは、京急久里浜線(神奈川県)に乗ったときのこと。
たしか三崎口(始発)というところから、横浜まで乗った。

 乗ったときは、ガラガラ。
まわりにはまだ田園風景も見られた。
が、4〜5駅も過ぎると、ラッシュアワー時ということもあって、急に混み始めた。
ふつうの混み方ではない。
私はそれを見ながら、こう思った。
「このあたりの人たちは、毎日1時間も、こんな環境の中で過ごしているのか」と。
とたん、都会がもつ「幻惑」が、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じた。
私たち地方人のほうが、はるかに人間らしい生活をしている。

 が、都会に住んでいる人たちには、それがわからない。
「自分たちは地方に住んでいる人間より、(偉い)」と思い込んでいる。
馬鹿げた優越感だが、都会に住んでいる人にはわからない。
その理由のひとつが、「田舎根性」。
つまり田舎に住む私たち自身にも、責任がある。

●慇懃無礼

 現在、東京には友人は1人もいない。
親類もいない。
少し前までは、何人かいたが、仕事上のつきあいだった。
だからあえて、書く。……書ける。

 東京から来る人は、それなりに電話などで連絡をしてくる。
「それなり」というのは、「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という意味。
が、決まってこう言う。
「○○時○○分に、浜松駅へ着くから」と。

 その言葉の向こうで、「当然、浜松駅まで、迎えに来い」と。
いまだかって、「あなたの自宅へ、何時ごろ着く」と言った人は、1人もいない。
JR浜松駅から、私の自宅まで、タクシーで約25分。
料金は2000円とちょっと(2011年現在)。
この浜松市を、地図上の「点」としか考えていない。

 帰るときもそうだ。
いまだかって、「タクシーを呼んでください」と言った人は、これまた1人もいない。
が、その一方で、礼儀正しいのは、むしろオーストラリア人。
どう礼儀正しいかは、今さらここに書くまでもない。

●「地元に張りつく」

 恐らく東京に住んでいる人には、理解できないだろう。
「地元に張りつく」という言葉を聞いても、それを当然と思うかもしれない。
それ以前に、疑問にも思わないだろう。

 が、私はちがう。
この浜松市に住んで40年。
50歳になるころまで、浜松と東京の間を行き来しながら、仕事をしてきた。
だから東京に住む都会人がどのように考え、一方地方に住む「田舎人」がどのように考える
か、それがよくわかる。

 さいごに今朝の中日新聞に載った、放射線拡散の様子をシミュレーションした図を紹介する
(気象研究所発表)。
3・11大震災のあと、3月19日と3月20日の拡散様子図である。

 ここで見てほしいのは、放射線の拡散した様子ではない。
いかにこの日本が小さいかということ。
こんな小さな国で、中央だの、地方だの言っていること自体、馬鹿げている。
それがわかってほしかったから、あえて紹介する。

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/37/img35ea577fzik4zj.
jpeg" width="413" height="492" alt="img230.jpg">

 ……改めて、日本が島国であることを知る。
本当に日本は、小さな国。
この図をじっとながめていると、それがよくわかる。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
●映画『インモータルズ』

+++++++++++++++++++

今夜、映画『インモータルズ』を観てきた。
が、驚いたのは、観客。
観客は、私たち2人だけ。
(あの広い劇場で、私たち2人だけだぞ!)

3D映画で、アメリカでは大好評だったとか。
しかし私はあの手の映画は、見飽きた。
いつもパターンは同じ。

で、ほしはきびしいく、2つの★★。

で、再び、観客の話。
私たちだけということで、おしゃべり自由。
それが楽しかった。

++++++++++++++++++++

●浜松駅前

 駅前は活気を取り戻しつつある。
それは私にもわかる。
が、その一方で、駅(JR浜松駅)から歩いて数分も離れると、とたんに人影はまばらになる。
5分も歩けば、ザザ・シティというショッピング・センターにやってくる。
現在、中央館と西館が営業している。
しかし大理石のらせん階段をおりると、そこはスーパー。
たこ焼き屋に、いくつかの飲食店。
占いのコーナーもある。
少し前まで、100円ショップもあった。

 無残なのは、中央館。
1階ですら、人影はまばら。
2〜4階は、まばらどころか、空き部屋だらけ。
エスカレーターで上がってくる人も、ほとんどいない。

 駅前にEデパートがオープンしてから、人足がさらに遠のいた。

●失敗の連続

 私が浜松に住むようになってしばらくしてからのこと。
そのザザ・シティのあったところに、西武デパートができた。
当初はたいへんなにぎわいようだった。
が、駅前に、イトーヨーカー堂ができた。
その前にJR浜松駅が大改修を行い、メイワンというデパートもできた。
とたん、西武デパートから人が去った。

 が、決定的だったのは、昔からあった松菱デパートの倒産。
駅とザザ・シティの中間あたりに位置していた。
その数か月前、つまり松菱デパートが倒産する数か月前、ザザ・シティと松菱デパートをつなぐ
空中歩道を市が建設した。
空中歩道は、まったくの無駄づかいになった。
もちろん税金の無駄づかいである。

●ザザ・シティの不振

 今日も映画の帰りに、ザザ・シティの中を歩いてみた。
(映画館はそのザザ・シティの西館にある。)
が、今夜も、人影はほとんどなかった。
あやしげな雰囲気の男子高校生、女子高校生が、あちこちに数人ずつのかたまりをつくってい
た。
それだけ。
1階には店が並んでいるが、客のいる店はなかった。

 ザザ・シティは、今、沈没しかかっている。

●行政不信

 考えてみれば、浜松市はおかしなことばかりしている。
たとえば駅前に巨大なビルを建てた。
アクトタワーというビルである。
が、フタをあけてみると、新規に外からやってきて事務所を開いた会社はゼロ(当時)。
みな、市内から、横滑りで入居していった。

 その結果、市内の貸しビルは、空き室だらけになってしまった。
不動産業を営んでいた友人(学生時代の同級生)は、こう言った。
「3分の2が空き室だ」(当時)と。

 それからもう12、3年になる。
その状況は、今も変わっていない。

 で、今回の駅前開発。
駅前に力を注げば注ぐほど、その直近にある外側のデパートや商店街から客足が遠のく。
市内へやってくる客の数は、ほとんど変わらない。
たとえば駅から歩いて1〜2分のところにある、「べんがら横丁」は、今、3分の1ほどが店を閉
めている。

 で、今度は、ザザ・シティ。
笛吹けど、(客は)、踊らず。
そのつど、いったいいくらの税金が無駄になっていることやら。

●発想の転換

 何度も書くが、「駅前は浜松市の顔」という発想を捨てる。
よくても、悪くても、浜松市の工業にはほとんど影響はない。
無理に活性化させようとしても、うまくいくはずがない。
それが世界の常識。
郊外に大型店があれば、なおさら。

 外国へ行っても、駅前はどこもガランとしている。
倉庫街の真ん中にあるところもある。
どうして日本人だけが、(浜松だけが)、駅前に、こうもこだわるのか。
そんな化粧をしても、見る人が見れば、わかる。
そういうのを「化けの皮」という。

●映画『源氏物語』

 まだ予告編しか観ていない。
映画『源氏物語』。
その予告編の中で、男女が接吻(=口と口の接吻)するシーンが出てくる。
まことにもって、生々しいシーンだが、ちょっと待った!

 平安時代の昔、日本人は、接吻などしただろうか?
私が子どものころですらなかった。
日本人が接吻をするようになったのは、戦後のこと。
アメリカ映画の影響とされる。
(つまり映画のもつ影響力には、ものすごいものがある。)
ときのGHQは、日本映画界に対して、1回はかならず接吻シーンを入れろという命令を出した
とか。
昔、そんな風説を耳にしたことがある。

 そこであちこちを調べてみた。
この分野の研究は、みなが関心をもっているだけに、かなり進んでいる。
その中でも、「教えて、GOO」の中に、こんな記述があった。
そのまま一部を紹介させてもらう。

『……文献にも、平安初期の「土佐日記」に

「ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を押鮎もし思ふやうあらむや」

船旅の途中、正月に祝い膳もなく、口吸いたい恋人もいないから、押し鮎を(彼女に見立てて)
吸ってみたりしたよ。鮎も、口吸ってる相手(=人)の事を、愛しいと思ってくれるかなぁ〜(笑)
(私訳)

と言う記述があります』と。

 「ああ、日本にもあったんだ!」というところで、この話はおしまい。
しかし、だ。
日本人がこうまで接吻をするようになったのは、最近のことだぞ!
2011/11/17朝記
 

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●11月18日(じっと我慢するしかない)

+++++++++++++++++++++

規則正しい生活は、健康の要(かなめ)という。
しかし不規則という規則もあるのでは?
万事、自然体。

そのことは、犬のハナを見ていると、よくわかる。
ハナは、いつも庭で放し飼いになっている。
しつけらしいしつけは、いっさい、していない。
そのハナ……すでに老齢ということもあるが、
毎日、好き勝手なことをしている。
朝も、昼も、夕方も、起きたいときに起き、
眠りたいときに眠っている。
基本的には、天気任せ。
昨日のように、小春日和(びより)の日は、
芝生の上で、ずっと横になっている。
暑くなったら、そのまま小屋へ。

人間の年齢に換算すると、100歳を超えている。
もう22歳を超えた。

だから……というわけでもないが、私たち夫婦は、
若いときから、不規則であることを、とくに
気にしたことはない。

昨日は8時、起き。
今朝は5時、起き。
起床時刻ですら、めちゃめちゃ。

++++++++++++++++++++++

●EUの金融危機

 私は、言うなれば河原の小石のような人間。
そんな人間が、横を流れる川の心配をしても、どうしようもない。
どうにもならない。

が、だからこそ、おかしなことに、川の流れがよくわかる。
どちらの方向に向かって、どのように流れているか、それがよくわかる。
恐らく川に呑み込まれてしまった人には、それがわからないだろう。
川の中で溺れるまま、右往左往している。
現在のEUの金融危機を、一言で説明すれば、そういうことになる。

●貸し手と借り手

 お金(マネー)の力は、恐ろしく弱い。
人間と人間をつなぐ力(パワー)は、ほとんどない。
貸したほうは、「相手は感謝しているはず」と考える。
が、借りたほうは、一時的。
しばらくすると、それが当たり前になってしまう。
さらにしばらくすると、今度は、貸した方が逆恨みされるようになる。
「オレたちが貧しいのは、お前たちのせい」と。

 これには友人、知人もない。
親類、親、兄弟もない。
もちろん国もない。

 現在のドイツとスペインの関係は、まさに、それ。
ひとり勝ちのドイツ。
借金漬けのスペイン。
強い経済力を背景に、ドイツはスペイン国内でしたい放題。
豪勢なリゾート開発に、豪勢な生活。
肝心のスペイン人は、それを指をくわえて見ているだけ。

●慌てまくるドイツとフランス

 貸し手と借り手。
その借り手が金融危機に陥った。
こういうケースのばあい、慌てまくるのは、貸し手側。
借り手側ではない。
借り手側のほうは、むしろ、のんびりとしたもの。
「破産、結構」と。
むしろ破産したほうが、借金が帳消しになって、気が楽になる。
現在のギリシャ、イタリアが、その立場。

 食べ物とワインと、明るく輝く太陽があれば、それでよい。
そこはまさしく、「オーソレミオ」の世界。
あとはバックギャモンでもして、一日を過ごす。

 が、ドイツとフランスは、事情がちがう。
つまり貸し手側。

●ドイツvsフランス

 フランスは、ユーロ(札)の大増刷で、難局を乗り切ろうとまたまた言い出した。
が、ドイツは、「ナイン(NO)!」。
そんなことをすれば、ユーロの価値が暴落してしまう。
ユーロを大量にもつドイツとしては、それに納得するはずがない。

 かたやフランスはといえば、ギリシャ→イタリアとつづいて、自分の足下(もと)が燃えだした。
このまま行けば、貸し金の回収どころか、自分まで破産してしまう。
だからドイツに向かって、なりふり構わず、こう言い出した。
「ユーロを大増刷しよう」と。

●アメリカも……

 傍観、静観、無視……。
アメリカはかねてより、EU経済をよく思っていなかった。
ユーロが台頭すればするほど、ドルの価値がさがる。
自分たちの立場が、相対的に弱くなる。

 だから今まで、傍観、静観、無視を決め込んでいた。
が、ここにきて、火の粉が大西洋を越えて、自分たちにも襲いかかってきた。
放っておけば、自分たちまで燃えてしまう。
それもあって、数日前から、オバマ大統領の発言が、目立って多くなった。
「お前たちで、何とかしろ!」と。

 で、こういうとき「ファイア・ウォール(防火壁)」という言葉を使うらしい。
私はずっと、これをパソコン用語と思っていた。
が、経済用語にもなっていた。
つまりオバマ大統領は、「防火壁を作れ」と。
アメリカの株価は、ささいなことに一喜一憂し、大冒頭、大暴落を繰り返している。
つまり大揺れ!

●大国意識

 日本よ、大国意識は、捨てろ。
お人好しは、やめろ。

 この場に及んで、フランス国債やドイツ国債を買い込んで、どうする。
どうなる。
……どうにもならない。

 一時的に日本の金融機関を救済することができても、それは救済というより「避難」。
世界の動き……つまり川の流れは、すでに激流に変わりつつある。
濁流でもよい。
今や、それが大洪水となって、日本をも、巻き込もうとしている。
どうしてこんな簡単なことがわからないのか。

 アメリカにペコペコしていれば、それですむという時期は、とっくの昔に過ぎた。

●狂騒曲

 お金(マネー)が、ゲームの対象になっている。
称して「マネー・ゲーム」。
汗水流し、働いて稼ぐお金もマネーなら、ゲームで稼ぐお金もマネー。
が、桁がちがう。
2桁も、3桁も、ばあいによっては、4桁もちがう。

 そこらの若造が、パソコンの画面を見つめながら、億単位のマネーを買ったり売ったりしてい
る。
その異常性。
つまり、狂っている。
狂ったまま、世界を騒がせている。
まさに「狂騒曲」!
いくら資本主義社会とはいえ、こんなアホなことが、野放しになっていて、よいのか。
「ヘッジファンド」と言えば、聞こえはまだよい。
しかし中身は、博徒。
バクチ屋。
今、そのバクチ屋に、世界が振り回されている。

●大洪水

 長引けば長引くほど……すでに8月3日から4か月になろうとしているが、その波紋は周辺国
に及ぶ。
……及び始めた。
ハンガリーなどの周辺国はもちろん、新興国から、中東へ。
そしてこのアジアまで……。

 へたにあがくから、みなが、迷惑する。
傷口が深くなる。
さっさとEUを一度、解体し、あぶない国は破産させる。
またそのときが来たら、EUを再興させればよい。
一瞬の激流なら、まだ何とかなる。
しかし大洪水となると、そうはいかない。
日々に世界は、疲弊する。
その疲弊がこわい。

●円高

 円売り介入をつづける日本政府と日銀。
しかしそれ以上の円が、買われている。
その差額が、昨日(11・17)あたりで、1兆円とも言われている。
(1兆ドルだったかもしれない。記憶があいまいで、ごめん!)
狂ったバクチ屋どもが、さらなる円高を見越して、円を買いつづけている。

 が、それよりも恐ろしいのは、そのあと、つまり円が行き着くところまで行ったあと、今度はそ
の揺り戻しが始まること。
円が逆流し、日本中が、円でダブダブになる。
猛烈な円安に、日本は見舞われる。
これは可能性の問題ではない。
確実に起こる、つぎの事実。

 が、そのとき、日本の命運が決まる。
1000兆円以上とも言われる国の借金が、日本経済の息の根を止める。
それがいやなら、今すぐ、超緊縮予算を組み、大増税をするしかない。
役人の数を3分の1に減らし、給料も50%カットする。
消費税を20%にする。

が、現実的には、それは不可能?
だったら、私たち(小石族)は、自ら覚悟するしかない。
大洪水の中で、身を寄せ合って、じっと洪水が収まるのを待つ。
川のいちばん底で、静かにしていれば、流されることもない。

 大恐慌は大恐慌だが、2〜3年もすれば、またその先に光が見えてくる。
それまでじっとがまんするしかない。
さあ、今すぐ、その準備を始めよう!

(1)預金の現金化(失業しても、2〜3年は生きられるようにしておく。)
(2)そのうちの半分は、金、プラチナなどへの、現物資産化。(貴金属は現物でもつ。)
(3)こういうとき、いっぱしの投資家気取りで、株や外債に手を出すと、大やけどをする。
(この(1)〜(3)は、あくまでも参考的意見。あとの判断は、(つまりリスク負担は)、自己責任
で!)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【通俗性とどう闘うか】(金権教に毒されると……)

++++++++++++++++++

コンディションは、よくない。
朝からイライラする。
イライラというより、「ピリピリ」。

Ca不足かもしれない。
天候のせいかもしれない。
忙しいこともある。
昨夜も、遅くまで、講演会用のレジュメづくりをした。

++++++++++++++++++

●不快な男

 そういえば、少し前、ある男から電話がかかってきた。
通俗を「地」で這うような男である。
私より、5、6歳、年下。

私が、「毎晩仕事が終わるのは、9時半です」と話すと、こう言った。
「林さん、そんなに稼がなくてもいいんじゃない」と。
私はその言葉を聞いた瞬間、返答に困ってしまった。
「はあ〜」と言っただけで、黙ってしまった。

 何もその男を責めているのではない。
その男は、一見、正当なことを言いながら、実は、自分の心の中を吐露した。
つまりその男は、(仕事)を、瞬間、(金)に結びつけた。
それだけ(金)に執着しているからに、ほかならない。

 それがわからなければ、逆の立場で考えてみればよい。
もしあなたなら、こういうケースのばあい、何と答えるだろうか。
久しぶりに、割と仲がよい知人に電話をした。
が、留守だった。
で、夜遅く、電話した。
9時ごろになって、やっと連絡が取れた。
その相手が、こう言った。
「やっと今、仕事が終わったところで……」と。

 いろいろな返事の仕方がある。

(1)「お疲れ様」と相手をねぎらう
(2)「体をこわすないでよ」と相手の健康を心配する。
(3)「がんばれよ」とエールを送る。

 返事の言い方はさまざまある。
そのつど、こちら側の心と反応する。
自分が睡眠不足であったりすると、「眠くないか?」などと言うかもしれない。
しかし「そんなに稼がなくてもいいんじゃない」は、ない?

 つまりその男はそう言いながら、自分の内部に潜む下劣性をさらけ出していた。

●他山の石

 こういう例は多い。
ひとつには、自分の心の中を、思わず吐露してしまうケース。
もうひとつは、醜い自分を、思わぬところで、さらけ出してしまうケース。
先に書いた「通俗」というのは、それをいう。

 では、どうするか。

 こういう不快感をどこかで味わったら、即、反面教師にする。
他山の石でもよい。
他山の石というのは、『他山の石以て玉を攻(おさ)むべし』という意味。
見本といっても、悪い見本。

 が、私にも、こんな失敗がある。
30代のころのことだったと思う。
ある日、オーストラリアの友人にこう聞いたことがある。
「君の給料はいくらだ」と。

 ご存知の人も多いかと思う。
オーストラリア人やアメリカ人に、給料を聞くのはタブー中のタブー。
当時の私は、金権教の信者(=亡者)。
反対に私の方が、叱られてしまった。

●金権教

 通俗と、どう闘っていくか。
自分の中の(通俗)である。
通俗であることが悪いというのではない。
しかし通俗とは、心のどこかで一線を引く。
そうでないと、その人の人間性は、一気に下劣化する。

 その一例というわけではないが、私が嫌いな番組に、『なんでも鑑定団』というのがある。
当初は「おもしろい」と思って見ていたが、やがて自分の心の中に、別の見方が育っているの
を知った。
芸術の価値すら、金銭的価値で置き換えてみる見方である。
「この絵は、100万円の価値があるから、すばらしい絵」と。
それについては、以前にも書いたことがある。
原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●【金権教】(2009年6月に書いた原稿より)

●ぜいたくな悩み

+++++++++++++++++++++

悩みといっても、本来、悩むような問題ではないかもしれない。
ぜいたくな悩みということは、よくわかっている。
この地球上では、約3分の1の人たちが、飢餓状態に
あると言われている。
食べるのもなくて、困っている。

が、そういう中、私は今、ときどきこんな選択に迫られる。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

+++++++++++++++++++++

●レストランで……

 昨日、ワイフの誕生日祝いということで、郊外のホテルで昼食をとった。
フルコースの半分の、ハーフコースというのを注文した。
肉料理を省略したコースをいう。

 そのコースのあと、最後にデザートが出た。
最近はやりの、バイキング・デザートというのである。
10種類くらいのケーキから、好きなのを選んで、いくらでも食べられる。

 私はイチゴ系のケーキ、ワイフはオレンジ系のケーキを選んだ。
1個というよりは、ひとかけらと言ったほうがよい。
小さなケーキだった。
で、それを食べ終わるころ、ボーイが、「ほかに、どれになさいますか?」と
聞いてきた。
そのときのこと。
またあの選択が頭の中を横切った。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

 私は現在、ダイエット中。
昨日の朝、体重計に乗ってみたら、目標にしていた63キロ台!
この1か月半で、約5キロの減量に成功した。
「何としても、今の体重を維持しよう」と、心に決めていた、その矢先のことである。

 私はググーッとわいてくる食欲を懸命に抑えながら、「もう結構です」と答えた。
「食べたら損」のほうを、選択した。

●ムダ肉

 脂肪細胞というのは、わかりやすく言えば、エネルギーの貯蔵庫のようなもの。
ノートパソコンにたとえるなら、バッテリーのようなもの。
たとえば数日おきくらいにしか食べ物にありつけないような環境なら、脂肪細胞も
必要。
脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しておく必要がある。

 しかし現在の日本のように、1日3食、もしくは2食、食べるのが当たり前になって
いるような国では、脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しても、意味はない。
その必要もない。
必要なエネルギーは、そのつど摂(と)ればよい。
それに体は軽ければ軽いほどよい。
運動量もふえるから、筋肉も鍛えられる。
それが良循環となって、肉体は健康になる。
ポテポテとした肉体を引きずっていて、よいことは、何もない。

 が、どうしてか、「食べなければ損」という意識が、いつも働く。
どうしてだろう?
つまりこんなところでも、マネーの論理が働く。
「同じ値段なのだから、たくさん食べなければ損」と。
言い換えると、その人の健康観まで、マネーに毒されている(?)。
これは忌々(ゆゆ)しき問題と考えてよい。

●金銭的感覚

が、「損とは何か?」「得とは何か?」、それを考えていくと、
その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

●○○鑑定団

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという、あの番組である。
しばらくああいう番組を見つづけていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

 モノならまだしも、自分の健康となると、そうはいかない。
またそうであってはいけない。

●社会のCPU(中央演算装置)

 話は少し脱線する。

世の中には、「カルト」と呼ばれる、宗教団体がある。
正確には、「狂信的宗教団体」と言うべきか。
で、そういう団体に属する信者の人たちと話していて、いつも不思議に思うことがある。
10年前に、世間を騒がせた、あの宗教団体の信者の人たちにしても、そうだ。
会って、個人的に話をしている間は、ごくふつうの、どこにでもいるような人。
そういう狂信的な団体に属しているから、どこかおかしいのでは(?)と思って観察して
みるのだが、そういうことはない。
どこもおかしくない。
冗談も通ずる。
ふつうの常識も、もっている。

 が、全体として、つまりその団体を全体としてみると、やはりおかしい(?)。
集団となったとき、反社会的な行為を繰り返す。
団体の教義を批判したり、否定したりすると、彼らは猛烈にそれに対して反発する。
あるいはそのまま私たちを、ワクの外にはじき飛ばしてしまう。

 ……これは「カルト」と呼ばれるカルト教団の話である。
が、実は、私たちも全体として、同じような宗教を信仰しているのではないか。
「マネー教」というカルト教である。
その信者でいながら、全体がそうであるから、それに気がつかない。
そういうことは、じゅうぶん考えられる。

つまり社会のCPU(中央演算装置)そのものが狂っているから、その(狂い)すら、
自分で気がつくことができない。

●私の子ども時代

 このことは、私の子ども時代と比較してみてもわかる。
当時の特徴を2つに分けるとこうなる。

(1) 戦時中の軍国主義的な色彩が、まだ残っていた。
(2) その時代につづく金権主義の色彩は、まだ薄かった。

 軍国主義的な色彩というのは、たとえば教育の世界にも強く残っていた。
(学校の先生)にしても、戦時中のままの教え方をする人もいた。
反対に民主主義的な(?)教え方をする人もいた。
それがおもしろいほど、両極端に分かれていた。

 一方当時は、まだ牧歌的な温もりが残っていた。
私の父にしても、将棋をさしながら、仕事をしていた。
将棋に熱中してくると、客を待たせて将棋をさしていたこともある。
客が、その将棋に加わることもあった。

 そういう時代と比べてみると、たしかに(現代)はおかしい。
狂っている。
が、みな狂っているから、それが見えない。
わからない。

●飽食の時代の中で

 アメリカ(USA)では、肥満をテーマにしたエッセーを書くのは、タブーだそうだ。
それだけで、「差別」ととらえられるらしい。
しかしご存知のように、アメリカ人の肥満には、ものすごいものがある。
どうすごいかは、見たとおり。
あの国では、肥満でない人をさがすほうが、むずかしい。

 で、最近、私は日本もそうなりつつあるのを、感ずる。
アメリカ人型の肥満がふえているように思う。
飽食のせいというよりは、アメリカ型食生活の影響ではないか。
ともかくも、そういった人たちは、よく食べる。

このことは以前にも書いたが、浜松市の郊外に、バイキング料理の店がある。
ランチタイム時は、1人、1200円で、食べ放題。
そういうところで食事をしている人を見ると、まさに「食べなければ損」といった感じ。
デザートのケーキでも、一個を一口で食べている。
パク、パク、パク……の3回で、3個!

 食事を楽しんでいるというよりは、食欲の奴隷。
「食べる」というよりは、「食べさせられている」。
そんな印象すら、もつ。
もちろんそういう人たちは、例外なく、太っている。
歩くのも苦しそう。

 しかしそういう人ほど、「食べたら、損」なはず。
食べれば食べるほど、健康を害する。
が、そういう人たちほど、よく食べる。

●散歩の途中で

 私たちの日常生活は、マネーにあまりにも毒されすぎている。
それに気づかないまま、毒されすぎている。
芸術も文化も、マネー、マネー、マネー。
ついでに健康までも、マネー、マネー、マネー。
その一例として、「食べなければ損」について考えてみた。

 しかしどうして「食べなければ損」なのか。
たまたま今日、ワイフと散歩しながら、途中でラーメン屋に寄った。
今度から「ランチ・メニュー」が始まった。
ラーメン+ギョーザ+ミニ・チャーハンの3点セットで、580円。
安い!
私は、チャーシュー丼を注文した。
ワイフは、ランチセットを注文した。
が、とても2人で食べられるような量ではない。
ランチセットを2人で分けても、まだ量が多すぎる。
しかし1人分の料理を、2人で分けてたべるというのも、気が引ける。
で、2人分、頼んだ。

 が、そこでもあの選択。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか?

 私はチャーシュー丼には、ほとんど口をつけなかった。
そのかわり、ワイフが注文したランチセットを、2人で分けて食べた。
が、それでもラーメンの麺は、40%近く、食べないで、残した。

 大切なことは、「ラーメンの味を楽しんだ」という事実。
味を楽しめばじゅうぶん。
目的は達した。
「もったいないから、食べてしまおう」と思ったとたん、マネー教の虜(とりこ)
になってしまう。

●マネー教からの脱出

 お金がなければ不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。
心の満足感も買えない。
お金の力には、限界がある。
が、その一方で、人間の欲望には、際限がない。
その(際限なさ)が、ときとして、心をゆがめる。
ゆがめるだけではない。
大切なものを、大切でないと思い込ませたり、大切でないものを、大切と
思い込ませたりする。

 子どもの世界でそれを考えると、よくわかる。

 10年ほど前のこと。
1人の女の子(小学生)が、(たまごっち)というゲームで遊んでいた。
私はそれを借りて、あちこちをいじった。
とたん、あの(たまごっち)が死んでしまった。
その女の子は、「たまごっちが死んでしまったア!」と、大声で泣き出した。

 私たちはそういう女の子を見ると笑う。
しかし本当のところ、私たちはその女の子と変わらないことを、日常的に
繰り返している。
繰り返しながら、それに気づかないでいる。

●ではどうするか?

 私たちはカルト教団の信者を見て、笑う。
「私たちは、あんなバカではない」と。
しかし同じようなバカなことをしながら、そういう自分に気づくことはない。
自分を知るというのは、それくらい難しい。

 つまり自分自身を、そうしたカルト教団の信者に置き換えてみればよい。
あなたならそういう信者を、どのようにして説得し、教団から抜けださせることが
できるだろうか。

 いきなり頭から「あなたは、まちがっている!」と言ってはいけない。
梯子(はしご)をはずすのは簡単なこと。
大切なことは、同時に、その人に別の救いの道を提示すること。
それをしないで、一方的に、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
同じように、自分に対して、「私はまちがっている」と思ってはいけない。
大切なことは、自分の中で、別の価値観を創りあげること。

 方法は、簡単。
常に、何が大切で、何が大切でないか、それを問い続ければよい。
何があっても、それを問い続ける。
あとは、時間が、あなたを導いてくれる。
やがてその向こうに、その(大切なもの)が、見えてくるようになる。

 (見えてくのもの)は、それぞれみなちがうだろう。
しかし見えてくる。
その価値観が優勢になったとき、マネー教はあなたの中から、姿を消す。

●食べたら損

 で、結論は、「食べたら損」ということになる。
いっときの欲望を満足させることはできるが、かえって健康を損(そこ)ねる。
同じように、いくらそのチャンスがあったとしても、人をだましたら、損。
ずるいことをしたら、損。
自分を偽ったら、損。
その分だけ、心の健康を損なう。

 「損(そん)」とは、もともと「損(そこ)なうこと」をいう。
失うことを、「損」というのではない。
が、今では、金銭的な損を、「損」という。
またそういうふうに考える人は多い。

 「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか。
そういうふうに迷うときがあったら、あなたも勇気を出して、「食べたら損」を
選択してみたらどうだろうか。
たったそれだけのことだが、あなたの心に、何らかの変化をもたらすはず。

 ついでに言うなら、マネーが日本で、一般社会に流通するようになったのは、
江戸時代の中期ごろから。
このことについては、以前、私がかなり詳しく調べたから、まちがいない。
つまりそれまでは、日本人は、マネーとは無縁の生活をしていた。
私が子どものころでさえ、「マネー」を、おおっぴらに口にすることは、
卑しいこととされていた。
それが今は、一変した。
何でも、マネー、マネー、マネーとなった。
マネー教の信者になりながら、信者であることにさえ気がつかなくなってしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(付記)

 「食べ物を残すことはもったいない」という意見に、一言。

レストランへ行くと、「お子様ランチ」というのがある。
同じように、「シルバー・ランチ」、もしくは「シルバー・メニュー」のようなものを、
もっと用意してほしい。

 最近の傾向として、レストランでの料理の量が、多くなってきたように感ずる。
全国規模で展開しているレストランほど、そうで、たいてい食べ残してしまう。
しかしこれは食料資源という面で、「もったいない」。
私も、そう思う。
だから高齢者向けに、高齢者用のメニューをふやしてほしい。

 「カロリー少なめ、塩分少なめ、糖分控え目、ハーフサイズ」とか。

 もちろん値段も、その分、安くしてほしい

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 マネー教 金権教 金権教団 はやし浩司 なん
でも鑑定団 お宝鑑定団 金権教 マネー教)

++++++++++++++++++はやし浩司

●欲望性

 こうして考えてみると、「通俗」というのは、「マネー」にいかに毒されているかで決まるというこ
とになる。
わかりやすく言えば、そのさらに向こうにある(欲望)と結びついている。
欲望性が強ければ強いほど、人は通俗になる。
わかりやすく言えば、欲望に溺れるまま生きている人は、通俗的になる。
異論もあるだろうが、それほど的をはずしていない(?)。

 が、マネーと権力。
この2つには恐ろしいほどの魔力がある。
それでもって、相手の価値を判断したり、自分の価値を判断したりする。
こちら側が積極的に闘う姿勢を見せないかぎり、あっという間に、その毒牙にかかってしまう。

 金権を手中に収め、おごり高ぶることも、毒牙。
反対に、金権といえるようなものもなく、自分を過小評価するのも、これまた毒牙。
冒頭で、私はある男の話を書いた。
「林さん、そんなに稼がなくてもいいんじゃない」と言った、あの男の話である。

 考えてみれば、なぜ私がああまで不愉快に思ったかといえば、私自身の中に潜む金権教
を、その言葉がえぐり出したからとも考えられなくはない。
「痛いところを突かれた」……そうも考えられなくはない。

 しかしその人の文化性の高さは、いかに通俗的でないかによって、決まる。
最後に私がオーストラリアで経験した話を載せる。
これも古い原稿である。
もともとは「意識」について書いた原稿である。
ここでいう「通俗性」の理解に役立てば、うれしい。

++++++++++++++++++はやし浩司

【意識論】

++++++++++++++

自分がもっている(意識)ほど、
アテにならないものはない。

「私は私」と思っていても、
そのほとんどは、(作られたもの)。
本当の「私」など、どこにもない?

++++++++++++++

●日本の商社マンは、軽蔑されている?

 今から、40年も前のこと。日本には、まだ綿棒もなかった。バンドエイドもなかった。乾燥機
もなかった。ほとんどの家では、まだボットン便所を使っていた。

 そんなとき、私は、オーストラリアのメルボルン市へと渡った。人口300万人(当時)のメルボ
ルン市ですら、日本人の留学生は、私1人だけだった。そんなある日のこと。ある友人(顔は覚
えているが、名前をどうしても思い出せない)が、私にこう言った。

 「ヒロシ、日本の商社マン(ビジネスマン)は、オーストラリアでは、軽蔑されている」と。「軽蔑
(despise)」という言葉を、はっきりと使った。

 その少し前にも、仲のよかったD君もそう言った。それで気になって、その友人に、私はこう
聞いた。

 「いったい、君は、日本の商社マンのどこを見て、そう思うのか?」と。すると、その友人は、こ
う話してくれた。

 その友人の父親も何かのビジネスをしていたらしい。そしてあるとき、日本の商社マンと知り
あいになった。その商社マンを、食事に招待した。向こうの人たちは、少し親しくなると、自宅へ
食事に招待する習慣がある。

 で、いっしょに食事をしているときのこと。日本の商社マンは、家の中をあちこち見まわしなが
ら、目ざとく日本製を見つけ、「これは日本製」「あれも日本製」と言いだした。日本の商社マン
にしてみれば、親近感をもってもらいために、そう言ったのかもしれない。が、オーストラリア人
であるその父親にしてみれば、不愉快だった。

 しかしそれで終わったわけではない。食事がすむと日本の商社マンは、大きなバッグから、
何かの繊維見本を見せて、「これを買わないか?」ともちかけたという。その父親は、取り扱い
分野がちがうからという理由で、それを断った。するとすかさず、今度は、何か別の商品を取り
出し、「これはどうだ?」と迫ったという。

 ……つまり、そういう経験から、その友人の父親は、日本の商社マンを軽蔑するようになった
という。それでその友人は、そう言った。

●しかし……

 しかし当時の私は、その話を聞いて、日本の商社マンのそうした行為が、どうして「軽蔑」につ
ながるのか、それが理解できなかった。私自身も、日本の商社への入社が内定していたことも
ある。その上、当時の日本の経済は、高度成長期へと突入しつつあった。日本中が、「マネー」
「マネー」の大合唱に揺れていた。

 それに羽田―シドニー間の航空運賃(往復)だけでも、42、3万円の時代である。大卒の初
任給が、やっと5万円を超えた時代である。しかもオーストラリアドルは、1ドルが、400円に固
定されていた。

 オーストラリアでの生活費は、日本での生活費の、10倍、もしくはそれ以上だった。オースト
ラリアへやってきた商社マンたちも、それゆえ、必死だった。

 今でこそ、日本は豊かになった。しかし当時の日本人のだれが、日本がここまで豊かになる
と予想しただろうか。私はあるとき日記に、こう書いたのを覚えている。「日本が、オーストラリ
アに追いつくためには、50年かかる。あるいは、100年でも不可能かもしれない」と。

 ほとんどの学生は、車をもっていた。学生の親たちは、別荘をもっていた。農場を経営してい
たT君(南オーストラリア州)の父親の年収は、1400〜1500万円(当時)もあった。ごくふつう
の、平均的な農場主である。

 「1400〜1500万円」と聞くと驚く人もいるかもしれないが、1ドルを400円で計算すると、そ
うなった。とくにリッチな生活をしていたわけではないのだが……。

●作られる意識

 一方、私たちはどうかというと、みな、就職といえば、迷わず、銀行、証券会社、商社の道を
選んだ。またそれが学生が進むべき道として、正しい方向と信じていた。

 私も三井物産という会社と、伊藤忠商事という会社の2社の入社試験に合格した。しかし「大
きいほうがいい」ということで、三井物産という会社にした。

 日本でいえば「商社マン」だが、オーストラリアでは、「ビジネスマン」。その商社マンが、軽蔑
されていると知って、心底、驚いた。私は、商社マンは尊敬されることはあっても、軽蔑される
存在などとは、考えたこともなかった。

 が、こうした意識も、同じように外国からやってきた留学生たちの意識とくらべてみると、作ら
れたものだということがわかった。たとえばフィリッピンからやってきた留学生は、こう言った。

 「ヒロシ、君は、どうして日本の軍隊に入らないのか?」と。

 当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になること、イコール、出世コースということにな
っていた。(今も、基本的にはそうだが……。)彼らがもっていた、軍事としてのエリート意識に
は、相当なものがあった。

 一方、私は私で、ほかに自慢できるものがなかったこともあり、ことあるごとに、私は、「日本
へ帰ったら、ミツイ&カンパニーの商社マンになる」と、言っていた。が、先の友人は、こう言っ
た。

 「ヒロシ、そんなことを言うのは、もうよせ。君は知らないかもしれないが、日本の商社マン
は、ここオーストラリアでは、軽蔑されている」と。

●それから40年

 それから40年。私ももうすぐ60歳になる。三井物産という会社は、どうにもこうにも肌に合わ
なくて、入社後半年を待たずして、やめた。

 理由はいろいろある。が、その前に、私の意識そのものが変わってしまった。その話はとも
かくも、今度は、反対の立場で、似たような経験をすることになった。

 いきさつはともかくも、ある女性から、ある日、電話がかかってきた。「どうしても会いたいの
で、会ってほしい」「お伝えしたいことがある」と。

 二男が高校生のとき世話になった友人の母親からのものである。私はその申し出をていね
いに受けた。そして食事に招待することにした。

 私はその母親と会うことについて、かなり緊張した。そのとき二男はすでにアメリカに渡って
いた。内心では、二男が何かトラブルでも起こしたのではないかと心配していた。

 が、食事は始終、よい雰囲気のままだった。私はほっとした。が、そのあとのこと。私がおも
むろに、「で、大切な話というのは何ですか?」と切り出した。

 とたんその母親の表情が、さらに緩(ゆる)んだ。その母親は、こう言った。

 「林さん、こういう健康食品がありますが、興味ありません?」と。

 その母親は、ズラズラと、テーブルの上に健康食品を並べた。とたん、私はむっとするような
不快感を覚えた。「私に会いたいというから会ったが、こんな話で会いたかったのか!」と。

 利用されたという不快感。金儲けに利用されたという不快感。そういう商品を売りつけられる
という不快感。そうした不快感は、その女性が、「漢方」という名前を出したときに、頂点に達し
た。

 漢方(東洋医学)の「カ」の字も知らない女性が、私に漢方の説明をし始めた。そしてこうも言
った。

 「林さんは、お顔も広いようですから、ほかに買ってくださる方を紹介してくださったら、1個に
つき、xx%のマージンをさしあげます」と。

 私は、そのときは、はっきりとこう言った。その少し前にも同じような経験をしたこともあった。
「お帰りください。あなたが話があると言ったから、こういう場を用意しました。しかしモノを売り
つけるために、こんな場を利用するなんて、失敬でしょ!」と。

 私は、その瞬間、40年前の、あのオーストラリアの友人の言った言葉を思い出した。

●意識

 私たちがもっている(意識)ほど、アテにならないものはない。40年前のその少しあと、私は、
三井物産という会社をやめ、そのあとしばらくして、幼稚園の講師になった。それについても、
当時の私を知る人たちは、みな、こう言った。

 「あの林は、頭がおかしくなった」と。

 たしかに私の頭はおかしい。今も、おかしい。それはわかる。しかしそうした私を支えてくれた
のは、実は、オーストラリアの友人たちだった。私が幼稚園で働いていると手紙に書くと、み
な、こう言った。

 「ヒロシ、すばらしい選択だ」と。

 今でこそ、私のような生き方をする人がふえてきた。だから商社マンをやめて、幼稚園の講
師になった人がいたとしても、それほど目立たない。しかし当時は、ちがった。私の母ですら、
電話口の向こうで泣き崩れてしまった。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と。

 けっして母を責めているのではない。母は、母で、当時の常識をもとにして、そう言った。「常
識」というよりは、「意識」と言ったほうがよいかもしれない。

 で、この話の結論。

 私たちは、無数の意識をもっている。しかしその意識にも、2種類ある。意識的に意識する意
識と、無意識のまま意識しない意識である。

 脳みその活動をもとにすると、私たちが意識できる(意識)というのは、脳みそ全体の数10
万分の1にもならないという。あるいは、もっと少ないかもしれない。

 つまり人間の脳みその中には、無意識のまま意識しない意識のほうが、絶対的に多いという
こと。ほとんどがそうであるとみてよい。

 この無意識のまま意識しない意識が、実は、私たちの意識を、ウラから操る。が、その操ら
れる私たちは、それに気づかない。操られていると知ることもなく、操られている。実は、ここ
に、(意識)のおもしろさというか、恐ろしさがある。

 ……ということで、この話は、おしまい。今までに「意識」について書いた原稿を、ここに添付
する。

+++++++++++++

●指で鼻をさす(教育のダークサイド)

 子どもたち(小学生)は、「自分」を表すとき、指で鼻先を押さえる。欧米では、親指で自分の
胸を押さえる。そこで私はいつごろから、子どもたちが自分の鼻を押さえるようになるかを調べ
てみた。「調べた」というのもおおげさだが、授業の途中で、子どもたちにどうするかを聞いてみ
た。

結果、年長児ではほぼ全員。年中児でも、ほぼ全員。年少児になると、何割かは鼻先を押さえ
るが、ウロウロと迷う子どもが多いということがわかった。そんなことで、こういう習慣は、四歳
から五歳ぐらいにかけてできるということがわかった。つまりこの時期、子どもたちは誰に教え
てもらうわけでもなく、いつの間にか、そういう習慣に染まっていく。

 私は何も、ここでジェスチャについて書くつもりはない。私が言いたいのは、教育には、常に
「教えずして教える」という、ダークサイドの部分があるということだ。これはジェスチャという、ど
うでもいいようなことだが、ものの考え方や道筋、思考回路などといったものも、実はこのダー
クサイドの部分でできる。

しかもその影響は、当然のことながら、幼児期ほど、大きい。この時期に論理的なものの考え
方を見つけた子どもは、ずっと論理的なものの考え方ができるいようになるし、そうでない子ど
もは、そうでない。そればかりではない。

この時期に、人生観や価値観の基本までできる。異性観や夫婦像といったものまで、この時期
に完成される。少なくとも、それ以後、大きく変化するということはない。そのことはあなた自身
を静かに観察してみれば、わかる。

 たとえば私は、今、いろいろなことを考え、こうして文を書いているが、基本的なものの考え方
が、幼児期以後、変わったという記憶がない。途中で大きく変化したということは、ないのだ。
今の私は、幼児期の私であり、その幼児期の私が、今の私になっている。それはちょうど金太
郎飴のようなもので、私の人生は、どこで切っても、「私」にほかならない。幼児期に桃太郎だ
った私が、途中で金太郎になるなどということは、ありえない。

 もうわかっていただけると思うが、幼児教育の重要性は、実はここにある。この時期に作られ
る「私」は、一生、「私」の基本になる。あるはその時期にできた方向性に従うだけである。中に
は幼児教育イコール、幼稚教育と考えている人がいるが、それはとんでもない誤解である。

 ……と書いたところで、今、ふと、別のことが頭の中を横切った。実は今、ある男の子(小二)
のことが気になっている。彼は男の子なのだが、言い方、ものごしが、女の子っぽいというよ
り、その女の子を通り越して、同性愛者ぽい。まちがいを指摘したりすると、「イヤーン」と甘っ
たるい声を出したりする。いくら注意してもなおらない。

で、私が悩んでいることは、このことではなく、それを親に言うべきかどうかということだ。もうこ
の傾向は、ここ1年以上続いている。
なおそうとしてもなおるものではないし、さりとて放置しておくわけにもいかない。放置しておけ
ば、彼はひょっとしたら、一生、そのままになるだろう。近く、結論を出すつもりでいる。(以上、
01年記「子育て雑談」)

(付記)

 教えずして教えてしまうこと。実は、これがこわい。ユングも、「シャドウ」という言葉を使って、
それを説明した。

 たとえばあなたが、本当は邪悪な人間であったとする。その邪悪さをおおいかくして、善人ぶ
っていたとする。そのときその邪悪さが、その人のシャドウとなる。子どもは、あなたの近くにい
るため、そのシャドウをそのまま引き継いでしまう。

 要するに、ウソやインチキ、ごまかしや仮面で、いくら善人ぶっても、子どもはだませないとい
うこと。子どもは、あなたのすべてを見ている。

 そういう意味で、子育ては怖いぞ〜オ!

++++++++++++++

内容が少しダブりますが、
こんな原稿を書いたこともあり
ます。
(中日新聞、掲載済み)

++++++++++++++

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学し
ていたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、正規の日本人留
学生は私1人だけ。(もう1人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もともとメルボルンに住ん
でいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、1通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、その手
紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行きたくない」
と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとは
まったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コースというこ
とになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、1番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日本
のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉を
使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によっ
て、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なこと
は、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩
れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう
言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそう
いう時代ではない。あってはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 通俗性 はやし浩司 金権教 は
やし浩司 ディスパイズ despise  軽蔑という言葉を使った)2011/11/19記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●「浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャン」にて

++++++++++++++++++++++

弁当を買う。
DVDショップで、DVDを借りる。
雑誌「Sapio誌」(小学館)を1冊仕入れる。
「中国・大崩壊」という特集が気に入った。

そのあと一度、家に戻り、そのままジ・オーシャンに。
先ほど電話を入れたら、「今日は、けっこう混んでいます」と。
で、和室で頼んだら、太平洋側ではなく、裏弁天側という。
「裏弁天側なら、和室が空いています」と。

この際、ぜいたくは言わない。
温泉に入れるだけでも、ありがたい。

+++++++++++++++++++++

●雨

 今朝から、土砂降り。
昼ごろになって雨脚(あまあし)が、やや弱くなった。
庭に出てみると、生暖かい南の風。

 私とワイフは、弁当屋に向かった。
600円の弁当でも、ホテルで食べると、おいしい。
言い忘れたが、今回は、1泊朝食。
夕食なし。
料金は6200円+消費税+入湯料とか。
通いなれたホテルだけに、気分も落ち着く。

●無理

 が、いつもそうだが、迷わなかったわけではない。
せっかくの土曜日だから、一日、家の中でのんびりしていたいという気持ちもないわけではな
い。
それに土曜日は、どこへ行っても、混雑している。
ホテルにしても、料金は割高。

 が、そこは思い切って、アクセルを踏む。
この「踏む」という部分で、かなり無理をする。
年を取れば取るほどなおさらで、その(無理)がないと、「一日中、家の中で……」となる。
しかしこれは、まずい。
気力がますます弱くなる。
刺激を求めなくなる。
廊下の入り口に立つと、そうなる。

●老人性無気力症

 老人になると、何ごとにつけ、無気力になる。
フロイトが説いた「性的エネルギー」は、そのままユングの説いた「生的エネルギー」に一致す
る。

 性的エネルギーの衰退は、当然、生的エネルギーの衰退と考えてよい。
その生的エネルギーが衰退する。

 だから「アクセルを踏む」となる。
しかしこれは努力の問題というよりは、習慣の問題。
その習慣があればよし。
そうでなければ、そうでない。
それは(運動)に似ている。

 運動することよりも、「運動をする」という習慣が大切。
その習慣をどう作るか。
老後に向け、どう作っていくか。
その習慣作りに失敗すると、あとは死の待合室にまっしぐら!

●中国大崩壊

 中国がおかしい。
……ということは、みな、感じている。
不動産(マンション)価格が、今年に入ってから、暴落に近い値下がりをつづけている。
日本でもそういう事件はあった。
先にマンションを買った住人たちが、価格を下げた業者に対して、暴動を起こしたという。そん
なニュースも伝わってきている。
そのためマンションの売買取引は、「(昼間はあぶないので)、夜になされている」(上海)とか。

 しかしこれはおかしい。
いくら値下がりしたとはいえ、そのときはそのときで、納得して買ったはず。
あとになって価格がさがったからといって、つまり高いでマンションを買わされたからといって、
怒るほうがどうかしている。

 私が住んでいるこの団地にしても、買ったときは坪11万5000円だった。
が、あのバブル時代には、坪50万円近くまで、はねあがった。
現在は坪30万円前後で落ち着いている。
つまり中国政府は、ここにきて突然、急ブレーキを踏んだ。
(まだSapio誌を読んでいないが、たぶんそのあたりを切り口にしているはず。)

●R631(28D)、TOSHIBA・ウルトラブック

 今日のお供は、R631。
たいへん気に入っている。
指紋認証が、こんなに便利なものとは、知らなかった。
それに光るキーボードというのも、よい。
スイッチONから、デスクトップ画面が現れ、スタンバイになるまで、10秒前後。
軽くて、持ち運びやすい。
世界イチ、軽くて薄いとか。
まるでふつうのノートのよう。

 今、そのパソコンを、車の中で使っている。
楽しい。
気持ちよい。
指が慣れてきたせいか、キーボードの感触がよい。
今夜はだれにもじゃまされず、思う存分、文章を叩ける。

●大雨注意報

 3時に家を出た。
こういう日は、駐車場の確保に苦労する。
夕方になると、温泉が混雑してくる。
だから3時。
早めのチェックイン。

 バイパスから国道1号線へ抜けるとき、東海道線の線路をまたぐ大橋を渡る。
そのときのこと、車が風で、左右に大きく揺れた。
ワイフは、「台風みたい……」と、2、3度、言った。
見ると、どこかの倉庫を包むビニール・シートが、風に大きくはためいていた。
国道1号線に出てからも、みな、速度を落として走っている。
そういえば現在、大雨注意報、発令中。

 もうすぐ弁天島に到着。

●中国とEU

 風呂から出て、先ほどまで居間のほうでSapio誌を読んでいる。
中国では、不動産価格が、今年に入って20%下落したとある。
「高値づかみした住民が暴動を起こした」という記事も載っていた。
ハイパーインフレも目下、進行中。
おおかたの見方は、予想範囲というか、常識的。
(偉そうなことを書いて、ごめん。このところ私も、経済にかなり明るくなってきた。)

 ただ知らなかったのは、中国がEU経済に深く、関わりこんでいるということ。
Sapio誌によれば、「ギリシャ国債やポルトガル国債、スペイン国債など、危機に直面するEU
各国の国債を、数10億ユーロ単位で大量に保有している」(P8)とか。
具体的な数字は書いてなかったが、「日本の対EU貿易は全体の1割にすぎず、デフォルトが
懸念される欧州国債を保有する金融機関もわずか」(P6)だ、そうだ。
道理で中国は、「助ける」「助ける」を連呼している。
助けなければ、自分があぶない。

 悪魔のシナリオを考えるなら、EUが破産し、中国と韓国が破産し、日本だけ何とか生き延び
る。
……というのは、どうやら無理のようだ。
崩壊度にもよるが、中国が中程度以上の崩壊をすれば、日本経済もそのまま崩壊する。

●世界の荒波

 要するに、今、世界中の銀行が、札を印刷機をフル回転で増刷した。
世界中が、通貨安競争を繰り返した。
その結果が、今。

この際いつまでも優等生ぶらないで、日本も印刷機をフル回転させたらよい……というのは、
暴論だが、このままでは本当に1ドル=50円になってしまう。
ハイパーインフレ、やむなし!
またそれによって、日本の借金も、(仮に物価が2倍になれば)、半分に減る。
……つまりそこまで腹を決めないと、この激流は、乗り切れない。

 とはいっても、やがてそうせざるをえなくなる。
たとえるなら、日本は小さな防波堤で囲まれた一軒家。
世界の荒波は、そのすぐそこまで押し寄せてきている。

●ジ・オーシャン

 ホテルは、2間つづきの広い和室を用意してくれた。
寝室と居間が分かれている。
このホテルの中でも、スィートルーム。
こういう心遣いがうれしい。

 夕食は、もちろん弁当。
ほかに家からもってきた、柿とみかん。
景色がいつもとはちがうので、部屋に入った瞬間、かなりとまどった。
今回は裏弁天側。
いつもはそこにあるはずの太平洋が、今日は見えない。

 ……浜松に来たころには、この裏弁天にあった友人の別荘に寝泊まりしていた。
冬場は、だれも使っていないということだった。
それでその別荘の一部屋を貸してもらった。
そのこともあって、浜松市内に居を構えてからも、夏になると毎週のようにこの裏弁天へ遊び
に来ていた。

東海道線のガードをくぐると、西山貸し船店というボート屋がある。
私と同年齢の主人が、その店を経営していた。
今も、その主人が経営しているという。
2、3年前だったか、その西山氏が、何かのことで新聞に紹介されていた。
なつかしいというより、うれしかった。
そのボート屋でボートを借り、浜名湖へ出た。

 ジ・オーシャン……大理石に覆われたピカピカのホテルではない。
古い旅館をていねいに改装したホテルである。
それだけに居心地がよい。
従業員の人たちも、やる気満点。
随所に本気度が満ち溢れている。
今回は夕食抜きで泊まったが、いつも一流ホテルの客のように、私たちを扱ってくれる。
満足度で評価するなら、文句なしの5つ星の、★★★★★。
今ならキャンペーン中ということで、1泊2食付で、7500円前後で泊まれる。

正確には、1室4名……6510円(1泊2食付)
      1室3名……7035円
      1室2名……7560円
 詳しくは……053−592−1155まで

●年賀状

 今年も年賀状の季節になった。
ときどき文面を考える。
が、年々、簡素なものになってきた。

 今日もこのホテルへ来るまで、遠くの景色を見ながら考えた。
「どうしようか?」と。

 そういえば、すでに喪中の知らせが、何通か届いている。
が、そのたびに、私はこう思う。
「なぜ日本人は、こうまで年賀状にこだわるのか」と。

 5、6年前、私は年賀状廃止宣言をした。
が、そののち、少しずつ復活。
昨年も、X百枚かの年賀状を出した。
もちろん今年、世話になった人には、令状として年賀状を出す。
親しい知人や友人にも出す。
毎年欠かさず年賀状をくれる人にも出す。
しかしそこまで。

 虚礼で出す年賀状ほど、意味のないものはない。
そういう相手からだと、年賀状をもらっても、かえって不愉快になるだけ。

 その年賀状だが、2年ほど前までは減少傾向にあったという。
が、今年になって発行枚数の減少が止まったとか。
しかしその今年。
あの3・11大震災が日本を襲った。
「明けましておめでとうございます」という気分には、どうしてもなれない。
放射線による被害が出てくるのは、これから。
チェルノブイリ事故のばあい、2〜5年後から被害が現れ始め、10年後にピークを迎えたとい
う。

 ともあれ、そういうことも考えながら、文面を考える。
 
2008年……40億2000万枚
2009年……39億5000万枚
2010年……38億2000万枚
2011年……38億2000万枚(財経新聞)

●午後5時2分

 ワイフがこう言った。
「5時で、真っ暗よ」と。
時計を見ると、5時02分。
日が沈むのが、早くなった。

 隣の部屋には、ダブルのベッドが2つ、ゆったりと並べてある。
1つだけでも、自宅のダブルベッドより広い。

……先ほどワイフが「少し頭が痛い」と言った。
私も少し痛い。
若いころは偏頭痛に苦しんだ。
が、ワイフはちがう。
若いころから、頭痛とは無縁だった。
が、このところ急に、体力が衰えてきた。
そんな感じがする。

 ……たった今、ワイフが「寒いわね」と言った。
見るとエアコンが切ってあった。
スイッチを入れ、24度に設定した。

●私流の尺度

 私にとって経済学というのは、もっと直接的なもの。
つまり肌で感ずるもの。

 たとえば今回の一連のEU金融危機についても、30分ごとに入れ替わるニュースを読んでい
ても、実感がわかない。
それよりもむしろ株価の動きを見ていたほうがよくわかる。
グラフで示される。
たとえば野村ホールディングズ(野村証券)の株価。

 私は野村ホールディングズの株価を見ながら、EUの動向を探っている。
株価が上がれば、EU経済は快方に向かっている。
下がれば、EU経済は悪化している。
私のような素人があれこれ判断するより、無数のプロたちが集合して出す結論のほうが正し
い。
(ただし私は野村株は、一度ももったことはない。
株は、3・11大震災の1週間前に、すべて売り払った。)

 同じように中国経済をみるときは、100円ショップを見ればよい。
今では大きなゴミ箱まで、100円で買える。
が、もし品数が減ってくれば、中国の中小企業が傾き始めたことを示す。
品質が悪くなり、小物ばかりになってきたら、元高に向かっていることを示す。
(それほど単純でないことは、よくわかっているが……。)

 言うまでもなく、あの100円ショップの商品は、そのほとんどが中国から入ってきている。
私はいつも、「どうしてこんなものが、100円でできるのだろう」と思いながら、買い物をしてい
る。
それもやがて限界にくる。
そのとき中国は崩壊する。

 ほかにたとえばガソリン価格。

 ガソリンの価格が上がれば、資源の価格が上昇している。
下がれば、下降している、などなど。
おおまかに言えば、原油価格と貴金属価格は連動している。
たとえばガソリン価格が上昇していて、貴金属価格が上昇していないときは、「貴金属は買い」
と判断できる。

●Sapio誌

 Sapio誌は、「中国崩壊」について、つぎのような記事を並べている。

(1)倒産→夜逃げラッシュ、不動産価格の一斉下落で、中国経済崩壊はもはや秒読み。
(2)日経平均株価5000円、冷凍食品が消滅、日本経済&生活は、こう変わる。
(3)来年1月総選挙が分岐点…追い詰められた中国は、台湾併合で覇権の歩を進める
(4)中国は焦っている! TPP日本参加の本質は、日米同盟強化と中国封じ込め
(5)「2歳女児ひき逃げは見殺し」は、氷山の一角! 「冷漠社会」よりこわい「誘拐多発地帯」
(6)極貧生活者3億人、大卒失業者800万人…世界最悪の格差社会と反格差デモ。
(7)中国GDPを押し上げてきた「金持ち愛人」たちの逆襲。
(8)胡錦濤「共青団」と習近平「太子党」が暗闘中、ほか。
 
 どれもギョーギョーしい記事ばかり。
この雑誌は、何かにつけ、ギョーギョーしい。
信頼性は、あまりない。

●資本主義

 資本主義は、今、大きな曲がり角に来ているのではないか。
またそういう視点で考えると、世界の動きが、より正確に理解できる。
たとえば(資本=マネー)そのものが、ゲーム化している。
神聖な……とまでは言えないが、労働力の対価としてのお金(マネー)が、ばくち(バクチ)の対
象になっている。

1日中働いて、数ドルしか稼げない人もいれば、一昼夜で、数億ドルも稼ぐ人もいる。
ドル、ユーロ、元、円は強いが、そうでない通貨は、そのつどジャンク(ゴミ)になってしまう。
強い通貨をもった国は繁栄し、弱い通貨をもった国は、ますます貧乏になっていく。

 こんなバカげたことをつづけていたら、世界は本当におしまい。
やがて世界は、メチャメチャになってしまう。
精神的な部分から、破壊されてしまう。

●11月20日

 日本の若者たちで、何がいちばん欠けているかといえば、(たくましさ)。
数日前、高校生と大学生の就職率が発表された。
それを見ても、かなり悪い。
が、仕事がないわけではない。
(きれいな仕事)がないだけで、その気になれば、何だってできるはず。

 タイの若者たちは、先般の大洪水のとき、土嚢の上で屋台を開いていた。
16歳の少女だが、自分でボートを借り、ソーセージを焼いて売っていた。
そういう(たくましさ)が、この日本から消えてしまった。
かわりに、あのトレンディ・ドラマ。

 就職したら、マンション住まい。
車もあり、冷蔵庫も、エアコンもあり……。
そのつど「給料があがったら、金を返す」と言っては、親から金をせびる。
最初からこんな生活をしようと思うから、「就職先がない」となる。

 が、日本国内ではそれでよいとしても、日本を一歩外に出れば、そこは猛獣が行き交う野獣
の世界。
そんな連中を相手に、この先、どうやって日本人は生きていくというのか。

 日本の若者たちよ、仕事先ではなく、仕事をさがせ!

●二日酔い

 今朝は4時30分に目が覚めた。
毎度のこと。
エアコンのサワサワとした乾いた風が、どうも肌に合わない。
温度を23度に設定したが、寒い。
……ということで、午前4時30分、起き。

 頭が痛いのは、昨夜、寝る前に飲んだチューハイのせい。
いつもより多く、飲んだ。
つまり二日酔い。

●仕事

 先に「仕事先ではなく、仕事をさがせ」と書いた。
それについて、追記。

 これはその年齢の若者たちだけの問題ではない。
子どもたちの問題でもある。
さらに言えば、(依存性)の問題でもある。

 子どもたちにしても、仕事、つまり家事をまったくといってよいほど、しない。
親自身がさせない。
「家事をさせなさい」などと言うと、「させることがありません」と。

 掃除は掃除機で、ものの10分足らずですんでしまう。
料理にしても、レトルト食品。
電子レンジに入れて、ポンで終わってしまう。
洗濯は、もちろん全自動。

 だから最近の子どもたちは、(してもらうこと)を、当然と考えている。
が、(すべきこと)がないわけではない。
アメリカ人の友人が、こんな話をしてくれた。

その友人は、浜松市内で英語を教えていたとき、ときどき生徒を自宅へホームスティとして招
いていた。
そのときのこと。
そのアメリカ人は、こう言った。

 「ヒロシ、日本の子どもたちは、みなスポイルされているよ」と。

 「スポイルされている」というのは、簡単に言えば、「ドラ息子・ドラ娘」という意味。
そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう言うのか」と聞いてみた。
するとその友人は、こう話してくれた。

「何もしない。ぼくが料理をしているときも、遊び回っている。
食べた食器は、いつもそのまま。
シャワーを使っても、泡を流さない。
朝起きても、ベッドをなおさない。
何もしない」と。

 そういう子どもが勉強だけして、やがて就職先をさがすようになる。
が、この不況。
おいそれと仕事先が見つかるわけではない。
だからある女子大生は、中日新聞の投書欄にこう書いた。
「就職先を(私たちのために)用意するのは、社会の役目」と。

 私はその投書を読んで、こう思った。
「こんな女子大生が公務員にでもなったら、日本はおしまい」と。

●経営者は1人

 私の教室は、経営者は、私1人だけ。
ワイフが手伝ってくれるから、従業員は1人ということになるが、実際には、家族経営。
だから、それがよくわかる。
「1人」の意味がよくわかる。

 つまり1人の人間が生きていくだけで、精一杯。
もしアルバイトの人を雇ったら、私の教室など、あっという間に閉鎖。
それだけの余力は、どこにもない。

 ……というようなことを、先日も、道路清掃をしている人たちを見たときに考えた。
道路の落ち葉を片づけていた。
清掃車の前後に、旗振りの男女が1人ずつ。
清掃する人、落ち葉を清掃車に詰め込む人、それが4人。
合計で、6人!

 私はそれを見ながら、「6人の人を食べさせていくのは、不可能」と思った。
半ば公的な仕事で、国からそれなりの補助金でも出ればまだ、できる。
しかしそれもなかったら、不可能。

 だいたい落ち葉など、その近所の人たちが清掃すれば、すむはず。
それを6人がかりで、清掃する。
税金の無駄というより、馬鹿げている。

 つまり(仕事)に対する感覚が、完全にズレている。
それがわからなければ、一人(独りでもよい)で生きてみること。
何ができて、何ができないか、すぐわかるはず。
(仕事)の原点は、いつもそこにある。

●雨上がり

 20日になって、雨が上がった。
同じ雨雲だが、空が高い。
車はゆっくりと自宅に向かっている。
頭痛が残っているため、最適のコンディションとは言えない。
文章を書いていても、どうしても暗くなる。

 ……今日の予定。

 アメリカに住む孫に、「石」を送ること。
何でも「石」に興味があるとか。
私の家に来たときも、庭のあちこちを掘っていた。

 ……実は私もちょうどその年齢のころ、石に興味があった。
何かの本の付録についてきた石である。
最近までその石の名前を覚えていたが、忘れた。
黒く、コーヒーの結晶のような石だった。
私は毎日、その石を磨いて遊んでいた。

 あとは昼寝をしてから考える。
やろうと思えば、いくらでもやることはある。
しかしどうも気が進まない。
今日一日は、おとなしくしていよう。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 はやし浩司 ジ・オーシャンズ はやし浩司 2011−11−20 浜名湖弁天
リゾート・ジ・オーシャン)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●老人心理と貪欲さについて(はやし浩司 2011−11−20)
(John Milton's "On Time")

++++++++++++++++++++++

今夜の夕食は、私がインスタント焼きそばと白いご飯。
ワイフが、レトルトの牛丼。
息子が、インスタント・ラーメン。
まことにもって、質素な夕食。……でした。

++++++++++++++++++++++

●運動2単位

 先ほど、ウォーキングマシンの上で30分、歩いた。
時速は6キロ(MAX)。
ダラーと汗をかいたところで、終了。
これで1単位。
(1単位=約30〜40分。全身に汗をかく程度を1単位とする。)

●竹やぶ

 自宅の横に、大きな竹やぶがある。
その竹やぶの竹を、草払機で100本ほど、切り倒した。
放っておけば、自宅のほうまで伸びてくる。
壁をこする。

また枯れた竹や葉が、かなり積もっている。
だれかがタバコの吸い殻でも捨てたら、そのまま火事になる。
……ということで、毎年、今の時期になると、竹やぶの竹を切る。

 夏場は、ハチの巣があるので、それはできない。
切るなら、今ごろ。
毎年、それが恒例行事になっている。
で、今日はそのあと、庭の芝生も刈った。
その運動が、ちょうど1単位。

だから今日は、計2単位。
運動の量としては、まずまず。

●半眠状態

 脳みその健康のためには、運動は欠かせない。
とくに私のような低血圧気味の人間には、欠かせない。
運動をする前と、運動したあととでは、脳みその働きはまったくちがう。
ものを書いていると、それがよくわかる。

 が、今は、どこかぼんやりとしている。
集中力というより、(怒り)がわいてこない。
食後ということもあって、脳みそは半眠状態。
平和。
穏やか。
さて本論。

++++++++++++++++++はやし浩司

イギリスの詩人、ミルトンはこう書いている。
『老人が落ち込む、その病気は、貪欲である』と。

私は英語の原文を知らない。
「貪欲」というのは、「greedy」のことか。
卑しい意味で、「greedy」という。
「あなたはgreedyだ」と言われ、それを喜ぶ人はいない。
日本語で言うと、「むさぼる」という意味になる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●老人のこだわり

 ある老人が、自宅で倒れた。
たまたま隣人が医師だった。
それでその老人は隣人の家まで、這うようにしてやってきた。
が、ここからが常人には、理解できないところ。

 その医師が「救急車を呼びましょう」と声をかけると、「それだけはやめてくれ」と。
理由を聞くと、「近所に恥ずかしいから」と。

●見栄?

 こうした老人特有の(こだわり)は、あちこちでよく耳にする。
たとえばA氏、82歳。
A氏の妻も、同じく、82歳。
A氏は自宅に住んでいる。
A氏の妻は、有料老人ホームに住んでいる。

 ところが最近、A氏の体調が悪くなってきた。
10年ほど前に、前立腺がんの手術を受けている。
それが再発。
大腸がんを併発した。

 が、A氏は、どんなことがあっても、自宅の雨戸を閉めたまま、あるいは開けたままにしない。
A氏が自宅にいないときは、A氏の妻が有料老人ホームからタクシーでやってきて、その時刻
になると、雨戸を開けたり、閉めたりしている。

 見栄なのか?
それとも虚栄なのか?

 これらの老人に共通しているのは、自分の弱みを人に知られることを、極度に警戒している
ということ。
私の母にしても、そうだ。
兄と自転車店を経営していたが、60歳を過ぎてからは、めったに外泊すらしなかった。
店を閉める……ということを、極端にいやがっていた。
たとえば兄が胃潰瘍で入院したときも、医師とかけあって、1週間程度で病院から連れ出してし
まった。

●恥?

 こういう老人特有の心理を、どう理解したらよいのか。
ふつうの常識のある人なら、ケース・バイ・ケースでものを考える。
若い人なら、なおさらであろう。
救急車を呼ぶことを、恥と考える。
自宅や店を閉めることを、恥と考える。

 他人の目の中で生きてきた人ほどそうかもしれない。
が、それだけでは、理解できない。
もうひとつ考えられるのは、そうした老人たちは、そういう目で他人を判断してきたということ。
たとえば近所の人が救急車で運ばれたりすると、それを喜んだり、笑ったりする。
店を閉めた人についても、そうだ。
あれこれとその家の事情を詮索し、それを世間話にして花を咲かせる。

 低俗な人たちだが、そういう人は、たしかにいる。

●他人の不幸をのぞく人

 義姉の母親が倒れた。
義姉の義母、つまり夫の母親だった。
その母親は2年間ほど、義姉の家にいた。
義姉が介護した。

 そのときのこと。
ある日突然、夫の従姉と従兄の2人が見舞いに来たという。
いろいろ事情があった。
その事情について書くのは、ここでの目的ではない。
簡単に言えば、「来るはずもない2人が来た」(義姉)と。

 義姉はこう言った。
「好奇心というか、物見見物といった感じです。義母が倒れたのが、よほどうれしかったのでし
ょうね。それを自分の目で確認するために来たのです」と。

 私にも似たような経験がある。
あるので、そのときの義姉の気持ちがよく理解できた。
世の中には、本当に残念なことだが、他人の不幸を酒の肴(さかな)にして、喜ぶ人がいる。

●人生の総決算

 老齢期になると、それまで奥に隠し持っていた醜悪な人間性が、そのまま表に出てきてしま
う。
隠そうという意欲そのものが、薄れてくる。
(反対に若いときは、気力で、それをごまかすことができる。)
言うなれば、持病のようなもの。
それがどっと表に出てくる。

 老齢期というのは、そういう意味で、人生の総決算期。
老齢期の人間性を見れば、その人がどういう人生観をもっていたかが、おおよそわかる。
もちろんそれがよいものであれば、よし。
しかしそうでなければ、そうでない。
みなにあきられ、嫌われる。

●では、どうするか

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
「日々に鍛練あるのみ」と。
この鍛練にみによって、自分の人生観を変えることができる。
しかもその時期は、早ければ早いほど、よい。
30歳や40歳を過ぎてからでは、遅い。
50歳では手遅れ。
60歳では、先に隠された人間性のほうが表に出てきてしまう。

 つまり一度できた人間性は、簡単には改まらない。
ゆがんだ心となると、さらにそうだ。
ばあいによっては、(ほとんどがそうだが)、死ぬまでそのまま。

●縁を切る

 あなたの周囲にも、ずる賢い人はいくらでもいる。
小細工に小細工を重ね、善人ぶっている人はいくらでもいる。
ウソをつき、インチキを繰り返す。
大きな悪事こそできないが、平気で人をだます。

実のところ、私のまわりにもそんな人がいた。
が、50歳を過ぎるころから、私は心に決めた。
「縁を切ろう」と。

 そういう人たちとつきあっていても、得るものは何もない。
ないばかりか、しばらくつきあっていると、そういう人たちがもつ、あの独特の毒気に染まってし
まう。
そういう人たちは、そういう人たち同士が集まり、独特の社会を形成している。
そういう社会に取り込まれると、それこそ私やあなたは、酒の肴にされてしまう。

 が、それが本当の被害ではない。
本当の被害は、時間を無駄にすること。
時間を無駄にすること以上の、「損」はない。

●総決算

 「救急車を呼ぶな」と言った老人。
毎日、雨戸をきちんと開けたり閉めたりする老人。
それがその老人たちがもつ人生観の、総決算ということになる。

 ……この話は以前にも書いた。
原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++++

「救急車を呼ぶな」と言った老人。
日付を見ると、2002年となっている。
今から9年前。
その前後に書いた原稿と併せて、再掲載する。

++++++++++++++++++++


●ある退職者


 退職してからも、現役時代の肩書きや地位を引きずって生きている人は多い。とくに「エリー
ト」と呼ばれた人ほど、そうだ。そういう人にしてみれば、自分が歩んだ出世コースそのもの
が、自分の人生そのものということになる。Y氏(六七歳)もその一人。


 私に会うと、Y氏はこう言った。「君は、学生時代、学生運動か何かをしていたのかね? そ
れでまともな仕事につけなかったのかね?」と。


 彼は数年前まで、大手の都市銀行で、部長をしていた。この浜松へは、生まれ故郷というこ
とで、定年と同時に、移り住んできた。彼の父親の残した土地が、あちこちにあった。そこで私
が、「本も書いています」と言うと、「いやあ、こういう時代だから、本を書いてもダメでしょ。本は
売れないでしょ」と。たしかにそうだが、しかしそういうことを面と向かって言われると、さすがの
私でもムッとくる。


 問題は、なぜY氏のような人間が生まれるか、だ。仕事第一主義などという、生やさしいもの
ではない。彼にしてみれば、人間の価値まで、その仕事で決まるらしい。いや、それ以上に、な
ぜ、人は、そこまで鼻もちならないエリート意識をもつことができるのか。自尊心という言葉が
あるが、その自尊心とも違う。肩書きや地位にしがみつくのは、自尊心ではない。自尊心という
のは、生きる誇りをいう。肩書きや地位とは、関係ない。彼のような人間は、戦後の狂った経
済社会が生みだした、あわれなゾンビでしかない。


 もっとも彼にしてみれば、過去の肩書きや地位を否定するということは、自分の人生そのも
のを否定することになる。最後は部長になったが、その部長をめざして、どれほど身を粉にし
て働いたことか。家庭を犠牲にし、自分を犠牲にしたことか。それはわかるが、「では、Y氏は
何か?」という部分になると、実のところ何もない。何も浮かんでこない。少なくとも私には、た
だの定年退職者(失礼!)。


 別れぎわ、「今度、また自治会の仕事をよろしくお願いします」と言ったら、こう言った。「あ
あ、県や市でできることがあれば、私に一度、連絡してください。私のほうから口をきいてあげ
ます」と。そうそう、こうも言った。「林君は、カウンセリングもできるのですか。だったら、国のほ
うでも、そういう仕事があるはずですから、今度、私のほうで、話してみてあげますよ。知事と
も、懇意にしていますから……」と。


 おめでたい人というのは、Y氏のような人をいう。が、私は心の中で、Y氏とは、完全につなが
りを切った。「何かの仕事の話になっても、(そういうことはありえないが)、断ろう」と心に決め
た。
(02−12−2)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●老後


 おととい、Pペイントという、日本でも一、二を争うペンキ会社で、会長をしていたというT氏が、
久しぶりに我が家へ寄ってくれた。一五年ぶり? 玄関で会ったとき、「お元気ですか」と言い
かけたが、思わず、その言葉がのどの奥に引っ込んでしまった。T氏は、すっかり老人ぽくなっ
てしまっていた。


 居間でしばらく話していると、やがて年齢の話になった。私が「五五歳になりました」と言うと、
「いいですねえ、これからですよ」と。私が驚いていると、こうつづけた。「ちょうどバブルのころと
いうこともありましてね。私が本当に自分の仕事ができたと思うのは、五六歳から六三歳まで
のときでした。頭も体も、すこぶる快調で、気持ちよく仕事ができました」と。


 実のところ、私は、自分でも実感できるほど、体の調子がよい。昨日も講演先の小学校で、
階段を三段とびにのぼっていたら、あとから追いかけてきた校長が、「足がじょうぶですね」と
ほめてくれた。「はあ、自転車で鍛えていますから」と答えたが、そのおかげというか、健康に
は、これといって、不安なところはない。ダイエットしたおかげで、どこか頭の中もスッキリしてい
る。


 私は年配の人が、私に向かって、「若くていいですね」と言うときは、いつもそれを疑ってしま
う。「本当にそうかな?」「なぐさめてくれているのかな?」「お世辞かな?」と。五五歳になった
私の印象としては、「先が読めない」という不安感のほうが強い。「これからはガンになる確率
がぐんと高くなる」とか、「これからはすべてが先細りになる」とか、そんなことばかり考える。よく
ワイフは、「あなたは、見かけは若々しいけど、中身は老人ぽい」と言うが、本当にその通りだ
と思う。


 ルソー(フランスの思想家、一七一二〜七八)が、『エミール』の中でこう疑問を投げかけてい
る。多分、これを書いたとき、彼も今の私と同じ、五〇歳代だったのだろう。


 「一〇歳では菓子に、二〇歳では恋人に、三〇歳では快楽に、四〇歳では野心に、五〇歳
では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるだろうか」と。


 あのルソーですら、「貪欲に動かされる」と。いわんや私をや……と、居なおるわけではない
が、五五歳というのは、ちょうど、「そうであってはいけない」「しかしそういう自分も捨てきれな
い」と、そのハザマで悩む年齢かもしれない。まだ野心の燃えカスのようなものも、心のどこか
に残っている?


 T氏はさかんに、「まだまだ、これからですよ」と言ってくれたが、「これから先、何ができるの
だろうか」という思いも、また強い。またそういう思いとも戦わねばならない。「貪欲さ」がよくない
とはわかっているが、しかしそれがなくなったら、生活の基盤そのものが、あやうくなる。働い
て、仕事をして、稼ぎを得て、それで生きていかねばならない。私のばあい、悠々自適(ゆうゆ
うじてき)の年金生活というわけにはいかない。いわんや「英知のみを追う」などというのは、夢
のまた夢。


 そうそうT氏は別れぎわ、こうも言った。「林さんは、いいねえ。道楽が多くて……。私なんぞ、
人間関係のウズの中で、自分を支えるだけで精一杯でした」と。しかしこれは、T氏一流の、私
への「なぐさめ」と理解した。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●アンビリーバブル


 世の中には、信じがたい人たちというのは、たしかにいる。ふつうの常識では、考えられない
人たちである。実は、先日も、こんなことがあった。


 その男性は、現在、八五歳。子どもはいない。大手の自動車会社の研究所で、研究員を長
年したあと、筑波(つくば)の国立研究所で、一〇年ほど研究員をした。そのあと、しばらく私立
大学の教壇に立ったあと、今は、退職し、年金生活を送っている。が、そのあといろいろないき
さつがあって、このH市に住んでいる。


 ここまではよくある話だが、実は、その男性は、がんを患っている。もう余命はそれほど、な
い。手術も考えたが、年齢が年齢だからという理由で、抗がん剤だけで治療している。が、私
が「信じがたい」というのは、そのことではない。その男性は、莫大な資産家でもある。市内だ
けでも、大きなビルを、三か所もっている。それに大地主。市の中心部と郊外に、一〇〇〇坪
単位の土地をいくつかもっている。ハンパな金持ちではない。


 が、だ。その男性、今、別の男性(五二歳)と、わずか一〇坪の土地について、民事調停をし
ている。本来なら、話しあいでどうにかなった問題だが、関係が、こじれてそうなった。先日も、
その土地をはさんで、二人が道路で、大声で怒鳴りあう喧嘩(けんか)をしていたという。


 私はこの話を聞いて、「へえエ〜」と言ったきり、言葉が出なかった。


 もし私ががんを宣告されたら、それだけで意気消沈してしまうだろう。何もできなくなるだろう。
しかも八五歳といえば、私より三〇歳も年上ということになる。そういう人生の大先輩が、その
上、大金持ちが、わずか一〇坪の土地のことで、言い争っている? 人間の「生」への執着心
というか、はっきり言えば、愚かさというか、それが私には信じられなかった。あるいは何がそう
まで、その男性を、駆り立てるのか?


 ここまで考えて、私はしばらく、あちこちの本を読みなおしてみた。で、最初に目についたの
が、ミルトン(一六〇八〜七四、イギリスの詩人)の『わめく女』。その中でミルトンは、こう書い
ている。「老人が落ち込む、その病気は、貪欲である」と。これだけを根拠にするわけではない
が、どうも年をとればとるほど、人間的な円熟味がましてくるというのは、ウソのようだ。中に
は、退化する人もいる? そういえば、ギリシャのソフォクレスも、「老人は再び子ども」という有
名な言葉を残している。


 私はこの男性の話を聞いたとき、「老年とは何か」、それを考えてしまった。あるいはこういう
人たちは、その年齢になっても、まだ人生は永遠につづくとでも、思っているのだろうか。仮に
あの世があるとしても、あの世まで、財産をもっていくことができるとでも思っているのだろう
か。さらに「死」を目前にして、我欲にとりつかれることの虚しさを覚えないのだろうか。さらにあ
るいは、老年には老年の、私たちが知る由もない、特別の心理状態があるのだろうか。


 これは近所の男性(八〇歳)のことだが、こんな話もある。ある夜、隣の家の人に、その男性
が「助けにきてほしい」と電話をしてきたという。そこでその隣の人が、その男性の家にかけつ
けてみると、その男性は玄関先で倒れていたという。隣の人がそれを見て、「救急車を呼びま
しょうか?」と声をかけると、その男性は、こう言ったという。「恥ずかしいから、それだけはやめ
てくれ」と。


 この話を聞いたときも、私はわが耳を疑った。その男性は、だれに対して、何を恥ずかしいと
思ったのだろうか。


 さてさて、人はだれしも、老いる。それは避けることのできない未来である。末路と言ってもよ
い。そういうとき、どういう心理状態になり、どういう人生観をもつか。私は私なりに、その準備
というわけでもないが、それを知りたいと思っている。で、こういう人たちが一つの手がかりにな
るはずのだが、しかし、残念ながら、私には、まったく理解できない。冒頭に書いたように、どれ
だけ、また何回、頭の中で反芻(はんすう)しても、理解できない。信じられない。つまりアンビリ
ーバブルな話ということになる。この問題は、ひょっとしたら、私自身がもう少し年をとらねば、
わからない問題なのかもしれない。


 ただここで言えることは、老人のなり方をまちがえると、かえってヘンな人間になってしまうと
いうこと。偏屈でがんこになるのならまだしも、邪悪な人間になることもある。そういう意味で
は、人間は、死ぬまで、前向きに生きなければならない。うしろを向いたときから、その人間
は、退化する。釈迦も、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、それを説明した。「死ぬまで精
進せよ(前向きに生きろ)」と。
(02−12−4)


●老人が、人生の大家であるというのは、まったくの幻想である。何と醜い老人が多いことか。
またこの世の中に、のさばっていることか。……と書いて、私たちはそうであってはいけない。
またそういう老人になってはいけない。一方的に老人を礼さんする人というのは、その人自身
がすでに、その老人の仲間になっているか、前向きに生きるのをやめたということを意味す
る。本当にすばらしい老人というのは、自らが醜いことを知っている老人である。安易な老人美
化論には、注意しよう!


●私の観察では、人間は、早い人で、もう二〇歳くらいから進歩することをやめてしまう。ある
いは三〇歳くらいから、それまでの人生を繰り返すようになる。毎年、毎月、毎日、同じことを
繰り返すことで、そのときどきを、無難に生きようとする。あるいは考えることをやめてしまう。
が、なおさらに、タチが悪いことに、自らを退化させてしまう人もいる。そういう意味で、人間にと
っては、「停滞」は、「退化」を意味する。それはちょうど、川の流れのようなものではないか。よ
どんだ水は、腐る。


●自らを輝かせて生きるためには、いつも前向きに生きていかねばならない。恩師は、一つの
方法として、「新しい情報をいつも手に入れることだ」と教えてくれた。また別の恩師は、「いつも
トップクラスの人とつきあうことだ。新しい世界にチャレンジすれば、自然と、自分が磨かれる」
と教えてくれた。方法はいろいろある。山に登るにも、道は必ずしも一つではない。


●そこで考えてみよう。あなたのまわりには、老人と呼ばれる人がたくさんいる。あなた自身
も、すでにその老人の仲間になっているかもしれない。そういう老人や、あなたは、今、輝いて
いるか、と。実は、これは私自身の問題でもある。私は今、満五五歳。このところとみに気力が
衰えてきたのがわかる。何かわずらわしいことが起きると、それが若いころの何倍も気になる
ようになった。チャレンジ精神も薄れてきたように思う。できるならひとり、のんびりと暮らしたい
と思うことも多い。つまり私自身、輝きをなくしつつあるように思う。


●そこで、考える。どうすればいいのか、と。逃げるわけではないが、この問題は、これから
先、私にとっては、大きな問題になるような気がする。今は、ここまでしか書けないが、この問
題は、近々、決着をつけなければならないと思っている。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ルソーとミルトン

 ルソーもミルトンも、同じ言葉を使っている。
「貪欲」という言葉である。

(1)まず、ルソー。

 ルソー(フランスの思想家、一七一二〜七八)が、『エミール』の中でこう疑問を投げかけてい
る。
多分、これを書いたとき、五〇歳代だったのだろう。

 「一〇歳では菓子に、二〇歳では恋人に、三〇歳では快楽に、四〇歳では野心に、五〇歳
では貪欲に動かされる。
人間はいつになったら、英知のみを追うようになるだろうか」と。

(2)ミルトン(一六〇八〜七四、イギリスの詩人)は、『わめく女』の中で、こう書いている。
「老人が落ち込む、その病気は、貪欲である」と。

 ただしミルトンは、敬虔なキリスト教徒の立場で、「貪欲」という言葉を使っている。
そのことは、ここにあげる「On Time」という詩を読んでもわかる。

 ともあれ年を取れば取るほど、貪欲になっていく老人は多い。
少なくとも、加齢とともに、人は賢くなっていくわけではない。
多くは世俗に巻き込まれ、自分を見失い、強欲になっていく。
それを避けるために、私たちは何をすべきか。
何を準備すべきか。
結局は『精進』という言葉に行き着く。

 それがそのまま、このエッセーの結論ということになる。

●補記(John Miltonの詩より・「On Time」)

ON TIME(予定どおりに)

FLY, envious Time, till thou run out thy race;ねたましい時よ、燃え尽きるまで過ぎろ
Call on the lazy leaden-stepping hours,怠惰で、鉛にように重い時を訪ねよ
Whose speed is but the heavy plummet's pace;その速さは、恐ろしく遅い
And glut thyself with what thy womb devours,子宮がむさぼるもので、汝の食欲を満たせ
Which is no more then what is false and vain,それは失敗でも無駄でもない
And merely mortal dross;ただの死すべき無価値なもの
So little is our loss,失うものは、ほとんどない
So little is thy gain.得るものも、ほとんどない。
For when, as each thing bad thou hast entomb'dなぜなら悪しきものはすべて墓に葬られ
And last of all thy greedy self consumed,汝の貪欲さは、すべて消耗されるから
Then long Eternity shall greet our bliss,そのとき長い永遠が、祝福で私たちを迎える
With an individual kiss;それぞれの接吻で
And Joy shall overtake us, as a flood,喜びが洪水のように、私たちを包み、
When every thing that is sincerely good,誠実でよきものすべてが
And perfectly divine,完ぺきに神々しいものとなる
With truth, and peace, and love, shall ever shine,真実と平和と愛が、永遠に輝く
About the supreme throne神の最高位の王位の上に
Of Him, to whose happy-making sight, alone,そこに見えるのは、幸福な光景のみ
When once our heavenly-guided soul shall climb,ひとたび魂が天に導かれ昇るなら
Then all this earthly grossness quit,地上の世俗は、消え失せる
Attired with stars, we shall for ever sit,星々で飾られ、私たちは永遠にそこに座る
Triumphing over Death, and Chance, and thee, O Time死と運命と汝を乗り越えて。

(注:訳は私が直感的につけたので、かなり不正確。
ミルトンの基本的なものの考え方を知るにはよい。
ミルトンは、こう言っている。

『貪欲にやりたいことを、とことんやってみろ。
自分を燃やし尽くしてみろ。
それは失敗でも、無駄でもない。
やがてそれが無価値であったことがわかれば、
あなたも神の座に座ることができる』と。)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 「救急車を呼ぶな」 老人の見栄と体裁 貪欲 人格の暴露 人間性 邪悪な
人間性)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●悪魔の論理(強者の合理主義vs弱者の論理)

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抑圧が長くつづくと、心は悪魔的になる。
サイコパスもそのひとつだが、それ以前の段階で、
ものの考え方がゆがんでくる。

たとえばこんな例で考えてみよう。

たとえば今、あなたは失業しているとする。
働いても、働いても、たいした収入にはならない。
子どももいる。
家計は火の車。
明日の食費すらままならない。
もしそんな状態が、1年から10年単位でつづいたとする。

こんな状態で、ものの考え方を正常に保つのは不可能。
ひがみ、ねたみ、不平、不満、怒り、不安、心配……。
これらが混然一体となって、あなたの心をゆがめる。

が、これは個人にかぎらない。
国全体が、そうなることもある。

たとえば北朝鮮。
先のワールドカップ3次予選では、日本側チーム、サポーターは、
「冷遇」(ニュース各社)されたという。
どう冷遇されたかは、すでにみなさんご存知の通り。

それに対して、北朝鮮が、猛然と反論してきた。
「冷遇したのは、日本側」と。
読めば読むほど、ガラスに爪をたて、それをかきむしるような不快感が充満してくる。
しかしこれが「悪魔の論理」である。
国も心がゆがむと、そこまでゆがむ。

MSNの記事を、そのまま紹介する。

+++++++++++++以下、MSN記事より++++++++++++++

●「まるで監獄だった」北が日本での待遇を逆非難

 北朝鮮・平壌で15日に行われたサッカーワールドカップ(W杯)予選の日朝戦で、日本代表
が空港で足止めされるなど異例の対応を受けたと、日本メディアが報じたことに対し、北朝鮮
は機関紙を通じて9月に日本であったW杯予選での北朝鮮代表への待遇を挙げ、「まるで監
獄だった」と逆非難した。

 ラヂオプレス(RP)によると、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は18日、ウェブサイトで、北朝
鮮選手に対して日本警察がトイレまで付いてきたりしたとし、「まるで監獄に行ってきたようだ」
との選手の話を紹介した。入国時にチョコレートを没収されたとも訴えたが、真偽は全く不明
だ。

 日本サポーターは日の丸などの応援グッズを没収され、観客席の一角に押し込まれる"冷遇
"を受けたが、「選手団も応援団、取材団も平壌に来て、商店をはじめ行きたいところに自由に
行った」と事実に反する主張を繰り広げている。

+++++++++++++以上、MSN記事より++++++++++++++

●相手にしない

 こういう国は、相手にしないほうがよい。
言いたいように言わせておけばよい。
こちらが本気になればなるほど、相手の思うつぼ。

 で、ここでは話を、もう一歩、先に進める。

●まともでない国

 経済学がそのつど、かならずといってよいほど、デッドロックに乗り上げるのは、悪魔の論理
を計算に入れていないから。
つまり経済学は、(まともな論理)を基盤にし、その上に成り立っている。
が、世界には、(まともでない国)のほうが、多い。
北朝鮮もそうだが、たとえばスペインも症状は軽いが、そのひとつ。

 多額の国家負債をかかえ、明日にでもデフォルト(債務不履行)を起こすかもしれない。
が、スペイン自体は、どこか居直っている?
一部の人たちは都市で、緊縮予算反対などと騒いでいるが、あくまでも一部。
たいはんの人たちは今日も裏通りで、バックギャモンに興じている。

それに対して、ドイツやフランスが、大あわて。
表向きはスペイン救済を口にしているが、実際には、自分たちの救済。
「国」ではなく、「一家」にたとえてみると、それがよくわかる。

●アンダーワールド

 あなた(スペイン)は年収の何倍もの借金をかかえている。
明日の生活を維持するためには、さらに借金を重ねるしかない(=国債を発行するしかない)。
利息も、バカにならない。
この先、増収分よりも、利息のほうが多くなる。
つまり働いても働いても、そこはアリ地獄。

 もうこうなったら、自己破産(デフォルト)するしかない。
自己破産して、借金をチャラにする。
その上で、もう一度、一家を立て直す。

 が、金を貸している銀行(ドイツ銀行)は、そうでない。
もしここでチャラにされたら、元も子もなくなる。
相手が個人なら、財産の没収ということもできるが、相手が国ではそれもできない。
スペインの半分の領土を、ドイツに渡せとも言えない。
本当に、元も子もなくなる。

 つまり(まともな論理)を振りかざすドイツと、(まともでない論理)を振りかざすスペイン。
ここで両者がたがいに、はげしく衝突する。
が、その衝突を裏で支えるグループがある。
それが23%とも言われる、失業中の若年労働者たち。
この人たちにしてみれば、もうこれ以上、失うものは何もない。
このグループが、「力」で、政治を裏で操ろうとする。
つまりここで悪魔の論理が働く。
まともな経済学の論理が通じない、いわば、アンダーワールドの世界。

 このアンダーワールドの世界が、こわい。

●弱者の論理

 悪魔の論理をさらに理解するためには、弱者の論理を知らなければならない。
弱者には弱者独特の論理がある。
またその上で、ものを考える。

++++++++++++++++++はやし浩司

 2006年6月に書いた原稿より。

++++++++++++++++++はやし浩司

【主義の限界】

++++++++++++++++++++

なぜ、共産主義も、資本主義も、そして
民主主義も、最後の最後のところで、
行きづまってしまうのか?

わかりやすく言えば、そのどれも、
最後の、あと一歩というところで、
ほころびを生じてしまう。ボロボロに
なってしまう。

よい例が、今のイラク。民主主義は最善
とばかり、それを押し付けようとする、
アメリカ。

しかしその民主主義とやらを、イラクの
人たちは、どうやら別の目で見ている?

なぜか?

++++++++++++++++++++

●教育論の限界

 教育論という「論」がある。それはそれとして、その「論」にも、限界がある。いくら高尚な教育
論を説いたとしても、そこには、一定の限界がある。

 こんな例で考えてみよう。

 私たちが「子ども」というときは、子ども全体をさす。1人ひとりの子どもについて書くこともあ
るが、しかしそれでも、「個人」については、書かない。また書いてはならない。

 私たちが「子ども」というときは、顔をもたない、子どもたちの世界、全体を意味する。

 教育論は、そうした「子ども」を前提として、組み立てる。が、最後の最後のところで、子どもを
もつ親は、こう言う。

 「先生、うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。

 つまり、「うちの子は、ちゃんと目的どおり、SS中学校へ、入学できるでしょうか」と。

 これが教育論の限界である。私たちは「論」を説きながらも、そこにいつも、一定の限界があ
ることを知る。

●主義の限界

 資本主義にも、共産主義にも、似たような限界がある。民主主義にも、ある。ある一定のとこ
ろまでは、その「主義」は、有効であり、それなりの支持を得る。が、それを越えると、とたん
に、ほころびが生ずる。ボロが出る。矛盾が生ずる。

 なぜか?

 こうした限界も、教育論がもつ限界を当てはめてみると、簡単に理解できる。

 「高尚な教育論も結構だが、私という親が目的とすることは、自分の子どもを、SS中学に入
れることなのです」と。

 つまり今日の生活にも困っている人に向かって、資本主義や共産主義、さらには、民主主義
という「主義」を説いても意味はない。「高尚な主義も結構だが、今日の生活を、まず、何とかし
てくれ。主義の話をするのは、そのあとで、結構!」となる。

●強者の論理vs弱者の論理

 こうした「限界」を、如実に表しているのが、「経済理論」である。ご存知のように、経済理論ほ
ど、ツギハギだらけの理論はない。ツギハギにツギハギを重ねながら、何とかその場、その場
をしのいでいる。ごまかしている。

 遠い昔には、アダム・スミスがいた。ケインズがいた。マルクスがいた。最近では、ドラッカー
(1909〜)がいた。しかし一度とて、その理論どおりに、経済が動いたためしがない。

 理由は、簡単である。

 こうした経済理論は、いわば、強者の論理でしかないからである。わかりやすく言えば、とり
あえずは、日ごろの生活には困らない、それなりのエリートたちが考えた論理だからである。

 それに対して、弱者と呼ばれる人たちは、いつも別の論理で、ものを考え、行動する。しかも
不幸なことに、そういった弱者は、「もの言わぬ民」である。自分たちの主義(?)を、論理とし
て、まとめることもできない。今日という現在を、生きていくだけで、精一杯。明日の生活を心配
しながら、不安な毎日を送っている。

 そのためには、ときには、法もやぶる。悪いこともする。そうでもしないと、生きていかれな
い。そういう人たちが、時として、主流となり、エリートたちが説く「主義」を、ことごとく否定してい
く……。

●教育の世界でも……

 高尚な教育論など、受験塾の玄関をくぐれば、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。そこで
は、教育そのものが、個人の欲得の追求の場になっている。

 「1人でも多く、他人を蹴落とせ」
 「点数こそ、すべて」
 「人間の勝ちも、それで決まる」と。

 しかしだれが、そういう受験塾を否定することができるだろうか。彼らは、みな、決まってこう
言う。

 「私の目的は、SS中学校の入試に、合格すること」と。

 わかりやすく言えば、歴然とした社会的格差をそのままにしておいて、いくら、高尚な教育論
を説いても意味はない。親や子どもたちは、日々の生活を通して、否応なしに、その格差を、
肌で感じ取っている。

 「来月はどうやって生きていこうか」と悩んでいる人もいれば、数千万円の年収を稼ぎ、外車
を何台も乗り回している人もいる。

 その入り口に、「教育」がある。つまり彼らにとっての「教育」とは、そういう教育をいう。そして
私たちが説く教育論とは、まったく異質のものである。

●民主主義の限界

 民主主義といっても、いかにいいかげんなものであるかは、すでに、みさなん、ご存知のとお
り。国政選挙があるたびに、だれしも心のどこかで、何かしらの疑問を感じている。「こんなこと
で、本当に政治が変わるのだろうか」と。

 このH市でも、中央から天下り官僚がやってきて、選挙に出馬する。当選する。そしてまた中
央へと戻っていく。それが明治の昔から、慣例になっている。

 で、選挙が終わっても、生活は、何も変わらない。相変わらず、今日という「今」を生きていく
だけで、精一杯。

 もっとも、これは「個人」の話だが、これが、「国家」の話になることもある。

 欧米先進国が、いくら高尚な民主主義を説いたところで、国によっては、今日という「今」を生
きていくだけで精一杯という国もある。

 そういう国へ行けば、「何が民主主義だ!」となる。つまりこれが、民主主義の限界ということ
になる。

●弱者の論理

 こうした「限界」を乗り越えるためには、弱者の論理でものを考え、そのレベルで主義を作ら
ねばならない。が、しかしそうした主義は、今度は、強者の利害と、まっこうから対立する。

 これも教育の場で考えてみると、それがよくわかる。

 「とにかく、この日本では、学歴のあるものが勝ち」
 「勝てば、官軍」
 「1点でも、点数をあげろ。すべては偏差値で決まる」と。

 講演などでも、「日本の教育の未来」という演題では、人は、集まらない。しかし「こうすれば、
あなたの子どもを、目的の大学へ入学させることができます」と言えば、人は、集まる。

 現実の世界は、そこにある。

 しかし教育論を説く人が、そんな話をするわけには、いかない。先にも書いたが、「子ども」と
いっても、子ども、そのものが、ちがう。こんな私にしても、ものを書きながら、その限界を、毎
日のように感じている。

●主義の限界

 つまりは主義には、限界があるということ。それがつまりは、共産主義にせよ、民主主義にせ
よ、資本主義の限界ということにもなる。

 もちろん限界があることが、悪いというのではない。またそれがあるからといって、それぞれ
を否定するのも、おかしい。

 大切なことは、いくら主義をもっても、それは強者の論理でしかないということ。弱者は弱者
で、別の論理で動く。たとえば宗教、さらにはカルト、迷信、占い、まじないにしても、それを「お
かしい」と思うのは、その人の勝手だが、だからといって、そういうものに身を寄せている人を、
「まちがっている」と言ってはいけない。

 そういうものに身を寄せることで、懸命に自分を支えている人だっている。

 それを忘れると、いくらすばらしい主義を唱えても、やがて矛盾を露呈し、ここに書いたよう
に、ボロボロになってしまう。

 なぜあのイラクで、ブッシュ大統領が説く民主主義が定着しないかという理由も、こんなところ
にあるのではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 主義
 はやし浩司 弱者の論理 貧者の論理 主義の限界 民主主義 経済学の限界)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●弱者の論理vs依存性

+++++++++++++++++

弱者が必ずしも正しいというわけではない。
弱者の論理が、同じように、正しいというわけではない。
弱者の論理の根底を流れるのが、「依存性」。
弱者の論理を、依存性の観点から、考えてみた。
それがつぎの原稿。
日付は2009年の2月(BLOG)になっている。

+++++++++++++++++

●依存性(Dependence)

++++++++++++++++++++++++++++

依存性には中毒性がある。
依存される側を、「主者」とする。
依存する側を、「従者」とする。
一度、二者の間で依存関係ができると、主者はいつも主者となり、
従者は従者となる。
途中で、立場が入れ替わるということはない。
これについては、前にも何度か書いた。
そこでここでは、もう一歩、話を進める。

++++++++++++++++++++++++++++

●親子の依存性

 実は、親子関係においても、この依存性が生まれることがある。
親が主者となり、子が従者となるケースが多い。
が、反対に、親が従者となり、子が主者となるケースもある。
一般的に、精神的欠陥、情緒的未熟性があると、従者になりやすい。
親側にそれがあれば、親が従者になる。

 で、こうした依存性を、自分の中に感じたら、できるだけ早い時期に、
依存性と決別したほうがよい。
自分の親や、自分の子どもに感じたときも、そうである。
主者はますます主者になり、従者はますます従者になる。

従者は、「助けてもらうのが当たり前」という考え方をする。
そのためお金やモノの流れが、一方的になる。

で、親子のばあいは別として、(親子でもそうなるケースは多いが)、
従者が主者にそれだけ感謝しているかというと、それはない。
立場が逆転したとき、その分だけ、今度は従者が、主者を助けてくれるかというと、
それはない。

 こんな例がある。

●麻痺する感覚

 A氏(50歳)は、実母の実家ということで、長い間、伯父を財政的に援助してきた。
伯父は実家を守っていたが、定職はなかった。
そこで「小遣い」と称して、実母はそのつど、伯父に渡していた。
もとはと言えば、A氏が実母に渡したお金である。
ハンパな額ではない。
合計すると、年間、数百万円にはなった。
それを10年近く、つづけてきた。

 が、A氏が50歳になったとき、A氏の事業が行き詰った。
一時的に多額の借金を負った。
そこでA氏はそれとなく伯父に打診してみたのだが、伯父は、だんまりを決め込んだ。
A氏はこう言った。

 「私の窮状を知りつつ、音なしの構え。そればかりか、それとなく『うちは貧乏』と、
そればかりを口にするようになりました。
それもズルイ言い方をするのですね。『この3年間、旅行などしたことがない』とか、
『家の改築費に、600万円かかった。ローンの返済で、たいへん』とかなど。
実際には、町に空き地を買い上げてもらっていたのですが……」と。

だからA氏はこう言う。

 「依存関係ができたら、その人を援助しても無意味です。感謝されるのは、最初だけ。
しばらくすると、それが当たり前になり、さらにしばらくすると、援助しないでいると、
逆に請求されるようになります。
それに応じないと、かえって恨まれることもあります」と。

なぜか。

●弱者の立場で

 従者の心理を理解するためには、一度、弱者の立場に自分を置いてみる必要がある。
弱者には、弱者の論理がある。
こんな例で考えてみよう。

あなたの隣に、金持ちが住んでいる。
大型の外車に乗り、大きな家に住んでいる。
毎日、ごちそうを食べている。
が、あなたは貧乏。
その日の食費さえ、満足にない。
子どもの学費もままならい。

 そんなある日、隣人が、金銭的な援助をしてくれた。
あなたは涙を出して、それを喜んだ。
が、あなたは一時的には感謝するかもしれないが、その気持ちは、いつまでも
つづかない。

 あなたはそれまでにも、そしてそのときにも、別の心で、隣人をねたみ、そういった
不公平があることについて、大きな不満を感じていた。
だから「隣人が自分を助けてくれるのは当然」とまでは考えないにしても、
助けてくれたからといって、それまでのねたみや不満が消えるわけではない。
そのねたみや不満が、それまでにもていった慢性的な(怒り)が、
感謝の念を消してしまう。
むしろ助けてもらったことによって、ねたみや不満を増大させてしまうこともある。

●日本政府の援助

 よい例が、日本政府が外国に対してする、政府間援助。
日本は毎年、東南アジアを中心に、70〜80億ドル規模の、援助をしている
(政府開発援助・06)。
しかしそういう国々が、日本に対して感謝しているかといえば、それはない。
中国にせよ、韓国にせよ、東南アジアの国々やアフリカ諸国の国々にせよ、
いまだかって、日本に感謝したという例は、ひとつもない。
「援助をやめる」と言っただけで、逆に抗議される。

 あのK国にいたっては、核兵器で脅して、日本から援助をとりつけようとしている!

だから冒頭の話に戻る。
依存性には、中毒性がある、と。

 が、それでもだれかを助けたくなったら、どうするか?
そういうときは、無私、無欲、自分とは関係のない人に対してしたらよい。
人間関係を破壊したくなかったら、そうする。

 そうそうもうひとつ。
援助するならするで、相手をよく見極めてからするのがよい。
「逆の立場だったら、この人は、私を助けてくれるか」と。
そういう目で、相手を見ながら援助するのがよい。

●依存性の内容について

 依存性にも、(1)攻撃型と、(2)同情型、(3)服従型がある。
ある親に向って、自分の努力なさを棚にあげて、「こんなオレにしたのは、お前だろ!」と
叫んだ男性がいた。
「だから、オレの責任を取れ」と。
これを攻撃型依存性という。

 一方、弱々しい自分を演じながら、相手に依存する人もいる。
相手が援助しなければならないように、相手を追い込んでいく。
ある男性は、「あなたが助けてくれなければ、一家心中です」と言って、相手に
援助させていた。
これを同情型依存性という。

 さらに相手に、「あなたにすべてを任せます」といった様子を売りこんで依存する
ケースもあります。
ある女性は、実弟が生活費を渡すたびに、こう言った。
「大切に使わせてもらいます」と。
つまり(もらう)のが当然という考え方をする。
これを服従型依存性という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
依存性 攻撃型依存性 服従型依存性 同情型依存性)

++++++++++++++++++はやし浩司

●弱者の論理

+++++++++++++

最後に、私が好きな私の原稿。
この原稿を読むたびに、ジンと
胸が熱くなる。
(中日新聞発表済み)

+++++++++++++

●尾崎豊の「♪卒業」論

 学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。
そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。
「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。

 「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。
現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしま
う。
尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

 宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。
「子どもたちよ、夢をもて」と。
しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許され
ない。
ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえる
ことができる。 

大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。
尾崎はこう続ける。

 「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。
目が上ばかり向いている。

 たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。
しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。
それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。
そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。
「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。
彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

 実際この世の中、偽善が満ちあふれている。
年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめ
て見せる。

 いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への
寄金を訴える。
こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。
そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。
「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

 もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が
思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」の
か。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった
。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カ
セットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。

 この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではない
のか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 尾崎豊 卒業)

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●合理との対立関係

 人の心もゆがむときには、ゆがむ。
が、問題は、どうゆがむかではなく、なぜゆがむかということ。
そこにメスを入れないかぎり、この世の中は、ますますゆがんでいく。

 わかりやすく言えば、人間が原罪的にもつ(欲望)。
その欲望をどうコントロールしていくか。
そのあたりまで掘り下げないと、この問題、つまり弱者の論理(貧者の論理)は、解決しない。
いつまでたっても、合理と対立関係を維持したまま、私たちの住む世界を、ゆがめていく。
2011/11/21

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●寒い! (はやし浩司 2011−11−22)

+++++++++++++++++

時計は見なかった。
午前4時半ごろだった。
顔に肌を刺すような冷気を感じ、そのまままたふとんの中へ。

昨夜遅く、30分ほど、自転車で走った。
そのときも寒かった。
が、今朝は一段と冷えていた。
(現在時刻は5:53AM。
デスクの上の気温は、11・9度。)

枕元にあったパソコンをネットにつなぐ。
欧米の経済動向を探る。
そのままふとんの中で30分ほど、過ごす。

++++++++++++++++++

●無私無欲

 昨日は2つのテーマについて考えた。
ひとつは、「貪欲」について。
もうひとつは、「弱者の論理(貧者の論理)」について。

 楽しかった。

 書いている間、オーストラリアの友人からメールが入った。
「時には休息も必要だから、休息をとれ」と。
「休息は、土への肥料のようなもの」とも。
オーストラリア人らしい言い方である。
つまり休息をとることによって、それが心の肥料になる、と。

 が、どうか誤解しないでほしい。
私はこうしてものを考えているときが、いちばん楽しい。
無私、無欲で書いているから、なお楽しい。
苦しいときもあるが、それを乗り越えたとき、その苦しみが大きな喜びに変わる。

 つまり休息のとり方は、人それぞれ。
問題は、そのあと。
その休息を、そのあと何のために使うか。

●……だから、それがどうしたの?

 イギリスの格言に、『休息を求めて、疲れる』というのがある。
愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。
つまり「いつか楽になろう、楽になろうとがんばってきた。
で、やっと楽になったと思ったら、疲れてしまって、何もできない」と。

 が、この格言を反対から読むと、こうなる。

『楽にはなった。しかし気がついてみたら、何もやることがない』と。
これも愚かな生き方ということになる。
だから私はいつも自分にこう問いかける。
「……だから、それがどうしたの?」と。

 たとえば休暇になった。
気分を休めた。
羽を伸ばした。
……だから、それがどうしたの?、と。

 ただ休息のための休息であるなら、意味はない。
時間の無駄という。

●誤解

 オーストラリアの友人は、もうひとつ誤解していることがある。
ものを書くというのは、運動技術に似ている。
たとえば1週間でも、ものを書かないでいると、そのあと調子を戻すのに苦労する。
もしそれが1か月にでもなったら、さらにそうで、考えそのものが、まとまらなくなる。

 毎日書いているから、ものを書くことができる。

 ……と書くと、「何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれない。
「いっぱしの作家気取りで、何を言うか!」と。

 もちろん私は作家ではない。
無名。
ベストセラーとなった本は、1冊しかない。
あとはよくて2、3刷で絶版。
ほとんどの本は、初版だけで、絶版。
皮肉なことに、若いころゴーストライターとして書いた本のほうが、今でもよく売れている。
が、支持者がいないわけではない。
HPやBLOGへのアクセス数は、月間、50万件以上を記録している。
もちろんみながみな、好意的というわけではない。
それはわかっているが、しかしその「数」こそが、私を支えていてくれる。
私はそうした人たちの期待を裏切ることができない。

●実験
 
 さらに一言。
私はときどき、こう思う。
「私は今、おもしろい実験をしている」と。

 実験というのは、こうしてものを書くことが、どういう意味をもつのか、それを知ることをいう。
まったく意味のないことをしているのか。
そいれとも意味のあることをしているのか。

 ネットに乗せた原稿だけでも、すでに20万枚を超えている。
(40字x36行を、1枚とする。) 
あるいはそれ以上かもしれない。

 こうして書いた原稿は、10年後にはどうなっているか。
20年後にはどうなっているか。
今年は2011年だから、もし興味のある人は、10年後でもよい。
20年後でもよい。
そのころ気がついた人がいたら、はやし浩司の原稿がどうなっているか、一度、チェックしてみ
てほしい。
それが今、私がしている実験の結果ということになる。

●田丸謙二先生から

 同じころ、田丸謙二先生からメールが届いた。
先週の月曜日、体の調子を悪くし、先週の土曜日、退院したとか。
田丸謙二先生は、すでに歴史上の人物になっている。
この先、何十万、何百万の人たちが、田丸謙二先生の名を口にすることになる。

●悲観的な見方

 話は変わる。
こういう時期だから、どうしても経済の話になる。

 で、いろいろな見方があるだろう。
悲観論、楽観論……。
しかし現在のEUは、ソ連崩壊のあのときの状況に似ている。
かなり悲観的な見方だが、大きな流れは、まっすぐその方向に向かって進んでいる。

 で、現在、民主党主導による「仕分け作業」がつづいている。
しかし今は、そんなばあいではない。
そんなことをしているばあいではない。
このまま進めば、日本という国家すら危うくなる。
破産するかもしれない。

 たとえて言うなら、原子力発電所が爆発するかもしれないときに、節電を呼びかけているよう
なもの。
日本が今すべきことは、そこにある巨大な危機を、どう回避するかということ。
そのあと日本をどう再生させるかということ。
「仕分け」などという手ぬるい手法では意味がない。
一刀両断に国家予算を緊縮する。

まず手をつけるべきは、公務員の人件費の削減。
不要な箱物行政の縮減。
そういうこともさておいて、何が年金制度の改革だ!
消費税の税率アップだ!
「危機」を先取りしながら、その準備をする。
今の日本人に欠けるのは、その危機意識。

 今、世界で何が起こりつつあるか。
永田町の政治家たちには、それが見えないらしい。

●基軸通貨

 結局は、アメリカのひとり勝ちになるのか。
すでにユーロからドルへ、再び基軸通貨の動きが、加速し始めている。
つまり再び、ドルが世界の基軸通貨になるということ。
(今でもそうだが……。)

 何だかんだといっても、アメリカは強い。
強大な軍事力を擁している。
資源もある。
農産物もある。

 EU危機を巧みに利用しながら、「肉を切らせ、相手の骨を切る」という戦術に出ている。
したたかなアメリカ。

 『ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドのストラテジスト、ブライアン・キム氏(コネティカット州
スタンフォード在勤)は、「米国の格付けが再び引き下げられるのかどうか、市場は見極めよう
としている」と指摘。
「リスクを回避し、ドルを選好する傾向になっている」と述べた』(Bloomberg)と。

●ドジのドジ、大ドジのバカ

 ドジといえば、この事件。

『……衆参両院のコンピューターシステムがサイバー攻撃を受けた問題で、参議院は21日、
一部のサーバーがウイルスに感染し、すべての国会議員のIDやパスワードが流出した可能性
があると発表しました』(TBSーi・11/22)と。

 開いた口が塞がらないというか、バカげているというか……?
「すべての国会議員のIDやパスワードが流出した」という部分が恐ろしい。

その深刻さが、国会議員たちには、わかっているのだろうか。
日本の国家機密が、そのままどこかの国へ、筒抜けになっていた。
無知な議員が、どこかのファイルを開いてしまったのだろう。
改めて国会議員の知的レベルの低さに驚く。

●11月22日

 ……ということで、今日も激動の1日になりそう。
私の予想では、今日も300円前後、株価(日経平均)は下がるはず。
証券株と銀行株を注視!

++++++++++++++++++はやし浩司

【BW教室より・カタカナ(年中児)の学習】

満4・5歳(4歳6か月)を境に、幼児は急に文字に興味をもち、自らそれを学ぼうとします。この
時期をうまくとらえ、指導もしくは種まきをしておくと、子どもは自然な形で(=無理をしなくて
も)、文字を覚えてしまいます。「文字は楽しい」という印象作りを大切に! そういう目的をもっ
て、今日のレッスンを進めました。

(1)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/zzjE95hAvas" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/4_NMNyhB3-c" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(3)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/yMILqUmM2eo" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(4)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/c1IU0MW4KRs" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●『休息を求めて疲れる』"Men tire themselves in pursuit of rest."

 Laurence Sterne(ローレンス・スターン:1713〜1768)の言葉という(「英語で読む世界の名言
サイトより)。
『イギリスの小説家。奇抜な発想とスタイルを持った作品が多い』(同サイト)とある。

 が、ネットで調べてみると、Florence Nightingale(フロレンス・ナイチンゲール)の言葉という説
もある。
あのナイチンゲール(1820−1910)である。

生年月日でみるかぎり、Laurence Sterneのほうが先ということになる。

 ……しかし何よりも驚くのは、こうした調べが、私の小さな書斎で、しかも瞬時にできてしまう
ということ。
以前は、図書館まで出かけ、1日仕事だった。

 で、私はこの言葉を、1970年に、オーストラリアで知った。
オーストラリアの友人の、いつもの口癖だった。
それで耳に残った。
が、訳は私がつけた。
『休息を求めて疲れる』。

 もっともだれが訳しても、同じ訳になる。
Men tire themselves in pursuit of rest.……「直訳すれば、人は休息の追求の中で、自らを疲
れさせる」ということになる。
が、これではおかしい。
だから「休息を求めて疲れる」と。
20年ほど前に書いた本の中で、この格言を紹介した。
が、その訳で検索をかけてみると、460万件近くもヒットした。

 が、何よりもすばらしいのは、こうして過去と現在が、ひとつの格言を通してつながること。
「あのとき、あの人が言った言葉は、Laurence Sterneの言葉だったのだ」と。

 繰り返しになるが、この格言は、愚かな生き方の代名詞のようにもなっている。
言外で、「そういう生き方をしてはいけませんよ」と。
今日はこの言葉を、肝に銘じたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 休息を求めて疲れる 
はやし浩司 休息を求めて、疲れる)

+++++++++++++++++

10年ほど前、中日新聞に書いた
コラムを紹介する。2011/11/22

+++++++++++++++++

 ●「休息を求めて疲れる」。

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできなくなる」とい
う意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかった。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味があると
いうのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。

だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100万円
は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなければなら
ないのか。

未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。
幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学
は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることはできな
い。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。
学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」
と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれるもの
だが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをしたら、
その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、その気
力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。
(以上、中日新聞のコラムより)

++++++++++++++++++はやし浩司2011/11/22

【思考回路(プロセス)と思考力】
Independent Thinker論

++++++++++++++++++++

思考回路とは何か?
ひとつの例として、私は田丸謙二先生のことを思い浮かべる。
田丸謙二先生は、50歳をすぎてから独学で中国語を学んだ。
いつも手紙で、「50歳を過ぎてからの独学はたいへんです」と書いていた。

その田丸謙二先生は、そのころよく中国へ行った。
年に数回という頻度ではなかったかと記憶している。
大の中国びいきで、そのことは田丸謙二先生のホームページを見てもわかる。
ホームページのトップには敦煌(とんこう)で撮った写真。
随所に、中国での写真が飾ってある。

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/69/img081e73a5zik3zj.
jpeg" width="593" height="398" alt="tonnkou.jpg">
(田丸謙二先生撮影)

が、ここからが田丸謙二先生のすごいところ。
田丸謙二先生は、そのあと中国化学界(南京)の総会で、記念講演をしている。
もちろん中国語で。

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/68/img46c4872ezik3zj.
jpeg" width="554" height="464" alt="中国化学会.jpg">
(田丸謙二先生のHPより転載)

つまりこれが思考回路である。
先生の脳の中には、そういう思考回路ができている。
「学ぶ」→「ものにする」という思考回路。
さらに詳しく書けば、「学びたい」→「どう学ぶか」という思考回路。
そうした思考回路ができている。
できているからこそ、中国科学院での記念講演ができた。

私たちにとって重要なのは、この思考回路。
情報ではなく、思考回路。
この思考回路をどう頭の中で作っていくか。
が、それは実は、乳幼児期から始まっている。
乳幼児期から形成される。
おとなになってからでは、遅い。
思考回路というのは、そういうもの。

脳科学の世界では、「思考プロセス」ともいう。
意味はややちがうが、「回路」のあるなしで、その人のものの考え方、さらには生き様は大きく
異なってくる。
田丸謙二先生を例にあげるまでもない。

++++++++++++++++++++ 
●愚劣な情報

 先週、何かのテレビ番組を見た。
5分程度のことだったので、内容は断片的なもの。
その中で、司会者が、「歯磨きをするのは、食事のあとすぐあとがいいか、それともしばらくして
からのほうがいいか」と、質問していた。

 食後直後?
それとも食後、しばらく間をおいてから?

 私も瞬間あれこれと考えたが、専門家と言われる人が説明を始めたところで、自分の書斎に
入った。

●歯磨き

 歯磨きなど、いちいちそこまで考えてする人はいない。
食べたものにもよる。
昼食か、夕食かにもよる。
場所にもよる。
レストランで1〜2時間かけてディナーを楽しむときもある。

 甘いものを食べれば、口の中が何となくねばっこくなる。
そういうときは、すぐ磨く。
しかし仕事中のときは、そうはいかない。
歯磨きというのは、それができるとき、その場ですればよい。
いくら早くしたくても、できないときがある。
ばあいによっては、家に帰ってからということもある。
直後がよいとか、悪いとか、そんなことを議論するほうが、ナンセンス。

●150万時間

 もしこんな情報に振り回されていたら、頭の中が混乱する。
それだけが情報ではない。
磨き方。
歯ブラシの選び方、などなど。
ほかにもいろいろある。
それこそ重箱の底をほじり始めたら、きりがない。
つまりこれが、無用の情報。
……とまでは言えないにしても、テレビで全国に流さなければならないような情報ではない。

仮に視聴率が5%として、1億2000万人の中の、約600万人が見る。
その人たちが15分間、その番組を見たとするなら、延べ150万時間。
日本人全体で、150万時間を無駄にしたことになる。
(人間の一生を、80年とするなら、70万時間。
2人の人が、一生、同じ番組を繰り返し見たとすると、140万時間になる。)

●批判精神

 幸い私は、批判精神が旺盛。
いつごろから私がそうなったかはわからないが、小学1、2年生のときには、そうなっていた。
前にも書いたが、小学3年生のときのこと。
私の家に、10数人の人たちが集まっていた。
「M・倫理研究会」という団体に、私の父が入っていた。
その団体が、定期的に各家庭を回って、座談会のようなものを開いていた。
私もそのとき、それを聞いていた。

 その中で、中央に座った男性が、「親の因果、子にたたり……」というような話をした。で、そ
の直後私に向かって、その男性が、こう聞いた。
「そこにいるぼく、君はどう思うかね?」と。

 が、私はこう言った。
「そんなもの、ありません」と。
「たたりなどない」という意味で、そう言った。
まわりの人たちが、シーンとしたというか、ざわめいたのを脳のどこかで記憶している。

●自己実現のための思考回路

 このことは、子どもたちを観察していると、よくわかる。
思考回路のできている子どもは、自分の思考回路に沿って、ものを考え、行動する。
どうすれば自分の夢を実現させることができるか、それをよく知っている。
発達心理学の世界では、それを「自己実現」という言葉を使って説明する。
自分の夢や希望を、やがて目的に昇華し、その目的に向かって努力していく。
その「力」を、「自己実現能力」という。

 たとえば昔、宇宙飛行士になりたいと言っていた子どもがいた。
たまたまペットボトルのロケット実験で、市長賞を取ったこともある。
中学生のときのことだった。
で、最近その消息を聞くと、あのNASDAで、本当に宇宙ロケットを設計しているという。
その子どもは自分の思考回路に従い、自分の夢を実現した。

 その思考回路については、たびたび書いてきた。
原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【思考回路】

●夢や希望を育てる
________________________________________

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親
は、それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育てて
みましょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててや
ること。
が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。
そし
てこう言う。
「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。 

●子どもを伸ばす三種の神器
________________________________________

 子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。
しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。
また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども
学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。
子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。

●役割混乱
________________________________________

 子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。
これを内面化というが、そのとき同時に、「自分らしさ」を形成していく。
「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の周囲に、それらしさを作ってい
く。これを「役割形成」という。
子どもを伸ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。
それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安
定になり、混乱する。 

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

●思考プロセス(回路)
________________________________________

 しかし重要なのは、「思考プロセス」。
幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばっていた子どもが、年齢とともに、今度は、
「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。
しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセス
は、そのまま残る。
その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。
中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始め
る。 

●進学校と受験勉強
________________________________________

 たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目
的になりえたが、今は、そういう時代ではない。
学歴社会を支える、権威主義社会そのものが崩壊してしまった。
親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子どもにとって
は、それは、ここでいう目的ではない。
「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親
は子どもの夢をつぶす。
「つぶしている」という意識すらないまま……。 

●これからはプロの時代
________________________________________

 これからはプロが生き残る時代。
オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロのほうが、尊重される。
大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。
そのかわり、「君は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。
大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生を歩んでいくこと。
そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けない」というものを、子
どもの中につくる。
それが将来、子どもを伸ばす。

●大学生の問題
________________________________________

 現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選ん
でいる。
もともと、勉強する目的すらもっていない。
そのため、入学すると同時に、無気力になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が
多い。
燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子ども
も多い。
当然、誘惑にも弱くなる。 

●自我の同一性と役割形成
________________________________________

 子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在している
こと)に一致させていく。
そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そんなことは意味
がない」などと、言ってはいけない。
繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と
言ってあげる。
こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。 

●結果はあとからついてくるよ!
________________________________________

 大切なことは、今できることを、懸命にすることだよ。
結果は、あとからついてくる。
またその結果がたとえ悪くても、気にしてはいけないよ。
ぼくたちの目的は、失敗にめげず、前に進むことだよ。
あの「宝島」を書いたスティーブンソンは、そう言っているよ。 

●子育ては工夫
________________________________________

 子育ては工夫に始まって、工夫に終わる。
わかりやすく言えば、知恵比べ。
この知恵比べによって、子どもは、伸びる。
が、それだけではない。
何か問題が起きたときも、同じ。
家庭環境は千差万別。状態も状況も、みなちがう。
子どもについて言うなら、性格も性質も、みなちがう。
能力もちがう。そんなわけで、「子育ては知恵くらべ」と心得る。
この知恵比べが、前向きにできる人を、賢い親という。 

●内政不干渉
________________________________________

 たとえ親類でも、兄弟でも、内政については、干渉しない。
相手が相談をもちかけてきたときは別として、こちらからあれこれアドバイスしたり、口を出した
りしてはいけない。
相手を説教するなどということは、タブー中のタブー。
ばあいによっては、それだけで、人間関係は、破壊される。
それぞれの家庭には、人には言うに言われぬ事情というものがある。
その事情も知らないで、つまり自分の頭の中だけで考えてものを言うのは、たいへ
ん危険なことである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考回路

 よく私はこんな説明をする。
私はこうしてものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐ、文章によってそれを解決
しようとする。
また文章でないと、落ち着かない。
そのため口約束というものを、信用しない。

 が、たとえば暴力団と呼ばれる人たちはどうだろうか。
本当のところそういう人たちがどういう思考回路をもっているか、私には、わからない。
わからないが多分、何か問題が起きると、暴力によって解決しようとするかもしれない。
それが思考回路(厳密には、行動回路)ということになる。

 で、この思考回路は、人によってみなちがう。
問題への対処の仕方が、みなちがう。
もちろん夢や希望をもったとき、その実現方法も、みなちがう。
人それぞれだが、ではあなたはどうか?
あなたにも、その思考回路があるはず。

●田丸謙二先生

 同じ「学ぶ」といっても、私と田丸謙二先生とは、ちがう。
たとえば私は、今、外国語をマスターしたいという気持ちは、ほとんどない。
ないから、それを実現しようというエネルギーがわいてこない。
もしそれだけのエネルギーと時間があれば、もっとほかの面に向けたい。

 が、田丸謙二先生は、研究者として、若い時から、そういう思考回路をもっていた。
並大抵のチャレンジ精神ではない。
未開の分野を切り開いていく。
そのことは、日本触媒学会の会長、国際触媒学会の会長という経歴をみてもわかる。
40年前の昔、「触媒」に目を向ける学者は少なかった。
が、今や、触媒なしでは、科学の世界は成り立たないほど、触媒は私たちの日常生活に溶け
込んでいる。
もう一言、付け加えるなら、田丸謙二先生のような研究者がいたからこそ、この分野では日本
は世界のトップを走っている。
それがチャレンジ精神であり、それを実現していく道筋が、思考回路ということになる。

●終わりに……

 そこで私やあなたには、どんな思考回路があるか。
それを少しだけ、探ってみるとおもしろい。
あるいはあなたの子どもでもよい。

たとえば何かの夢や希望があったとする。
問題でもよい。
あなたはそれを、どのような形で実現したり、解決したりするだろうか。
が、中には不幸にして、その思考回路そのものがない人(子ども)もいる。
その時々の波にのまれ、のまれるまま、右往左往する。
子どもにたとえるなら、夢や希望にしても、とんでもないものをもったりする。
「ぼくは、ゴレンジャーになりたい」とか、など。

 最後に私が心配するのは、今、その思考回路のない人(子ども)が、多いということ。
考え方や行動に、一本の筋が通っていない。
発達心理学風に表現すれば、自我の確立に失敗し、役割混乱を起こしている。
そしてそのままおとなになり、社会人になる。
だからいつもこう悩む。
「私とは何か?」と。

 いつも心のどこかに不完全燃焼感をもち、その日その日を、ただ何となく過ごす……。
ここでいう(思考回路)には、そういう問題も含まれている。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 思考回路 思考プロセス 役割混乱 不完全燃焼感 はやし浩司 自我の確
立 自我の同一性 はやし浩司 田丸謙二先生 Independent thinker)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【子どもの学力】(ウィキペディア百科事典より)(資料として保存)

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より抜粋++++++++++

●試験・調査の結果

●国際的機関による調査

●学習到達度調査 (PISA) 

2007年12月に発表されたPISA2006の被験者(当時高校1年生)は、小学6年生からゆとり教育
を受けている世代として結果が注目されたが、

読解力は41か国中14位→56か国中15位へ(統計的には9〜16位グループ)、
数学的リテラシー(能力・知識)は41か国中6位→56か国中10位へ(同4〜9位)、
科学的リテラシーは41か国中2位→56か国中6位へ(同2〜5位)へ、
と全分野で順位を下げる結果となった。
また、同一問題による正答率の比較でも、前回を下回る問題の方が多かった。

PISA2003では、日本は読解力でレベル1あるいはレベル1未満の下位層の割合が増えている
こと、及びフィンランドや韓国と比べて下位層の割合が高いことが問題視された。
さらにPISA2006では、数学でレベル5やレベル6といった上位層の割合が減っているなど、新た
な課題も判明した。

読解力の正答率の推移と比較では、2000年、2003年、2006年で共通に実施された(同一)問
題28題について、平均正答率は00年が65.2%、
03年が62.2%、06年59.5%であり、年ごとに低下していた。

正答率の比較では、06年は03年より上回った問題は6問、下回った問題は22問であった。そ
のうち5ポイント以上、上回った問題が1問、下回った問題が6問だった。

科学的リテラシーの正答率の推移と比較では、2003年と2006年で共通に実施された(同一)問
題22題について、

平均正答率は03年が59.5%、
06年が60.1%であった。
正答率の比較では、06年は03年より上回った問題は13問、下回った問題は8問、変わらず1問
であった。
そのうち5ポイント以上、上回った問題が1問、下回った問題が1問であった。

また、2000年と2006年の共通問題14題について、平均正答率は00年が65.7%であったのに対
して、06年は61.5%であり、00年に比べ約4.2%低下していた。

正答率の比較では、06年は00年より、上回った問題が9問、下回った問題が4問、変わらず1
問だった。
そのうち5ポイント以上、上回った問題が0問、下回った問題が4問だった。

数学的リテラシーの正答率の推移と比較では、2003年と2006年で共通に実施された(同一)問
題48題について、

平均正答率は03年が56.1%、
06年が53.4%であり、約2.7%低下していた。

正答率の比較では、06年は03年より、上回った問題が8問、下回った問題が40問だった。その
うち5ポイント以上、上回った問題が1問、下回った問題が10問だった。


国際数学・理科教育動向調査(TIMSS) 

2003年に国際教育到達度評価学会(IEA)が行った国際数学・理科教育動向調査
(TIMSS2003)では、

小学4年生の算数の平均得点は1995年より3点低くなったが統計上の誤差を考慮すると有意
差はなかった。
小数第2位までのひき算「4.03−1.15」では、正答率が95年の87.3%から03年の72.3%へと15.0ポ
イントも下げている。

中学2年生の数学同一問題全79題の平均正答率は、1999年より4%低くなっていて、前回より
上がった問題が7問、下がった問題が72問となっている。

同時に行われた調査では、「数学の勉強が楽しい」かについて「強くそう思う」割合は9%(前回
は6%)と若干増えたものの、国際平均29%と比べると依然低いままであった。

また「そう思う」割合は30%(前回33%)、「そう思わない」「まったくそう思わない」割合は61%(前回
61%)、前々回(1995年)の54%より7%増えた。

国内機関による調査

小・中学校教育課程実施状況調査 
2003年に国立教育政策研究所が行った平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査 (無
作為抽出により、1学年1教科1問題冊子当たり、1万6千人対象 小学校 1万6千人×4教科×3
冊子÷2(1人2教科)×1.1×2学年 中学校 1万6千人×5教科×3冊子÷3(1人3教科)×1.1×3
学年) では、多くの学年、教科で前回調査と同一の問題については、正答率が有意に上昇し
た設問が、正答率が有意に下降した問題よりも多かった。

特に、小学生と中学3年生の上昇が顕著で、理科では前回より正答率が上昇した。
また、アンケートで「勉強が好き」「どちらかというと好きだ」と答えた子の割合は増加傾向にあ
った。

高等学校教育課程実施状況調査 

2007年4月13日に文部科学省が発表した教育課程実施状況調査 (6教科12科目。1科目1問
題冊子当たり 1万6千人対象。各教科問題冊子は二種類のうち一つ)国内においてのみの調
査なので、国際比較はできない。

では、平成10年以降の指導要領で学んだ高校生はそれ以前の指導要領で学んだ高校生に比
べ、同じ内容の問題181問(総数657問中)において、145問は正答率が前回並、26問は前回を
上回り、10問は前回を下回るという結果になった。

内訳は、国語(上1、同4、下5)、
数学(上0、同11、下0)、
英語(上4、同16、下1)、
地歴公民(上10、同58、下0)、
理科(上11、同56、下4)で、前回を有意に上回る問題の多くは、地歴公民と理科に見られた。

同時に学習についての意識面でも「勉強は大切」と答えた生徒の割合は増加するなど、学力
に関する肯定的な傾向もみられた。

大学入試センター試験 

2006年1月に行われた大学入試センター試験では、現役受験生は中学3年生から2002年度以
降施行の学習指導要領で学んだ1期生となった。
しかし、この学習指導要領では学習内容が減っており、試験内容もそれを反映しているので、
この成績によって以前との世代の学力の単純比較を行うことはできない。

他国との比較による議論

G8での順位比較(PISA2006)
国\科目 科学的リテラシー 読解力 数学的リテラシー  
 カナダ
347
 ドイツ
131820
 フランス
252323
 イタリア
363338
 日本
61510
 ロシア
353934
 イギリス
141724
 アメリカ合衆国
29-35

 このようにG8のほとんどの先進国は日本よりも順位が低いため、日本としては昔のように
「先進国に追いつき追い越せ」というスタイルを再現するよりも、先進国としての新しいスタイル
で子ども達に意欲をもたせるかを国民全体で考えることが重要であるとの指摘がある。

保護者の意識

学力低下への不安から、子供を塾に通わせる意識は高くなっており、塾費用は増加している。
そのため、ゆとり教育の導入後、教育費を得るために母親が仕事をせざるを得なくなり、親子
の接触が減り、かえって家庭のゆとりがなくなることもある。

学力低下の要因としては、ゲームや漫画、ゆとり教育、教師の質の低下を挙げている。
『学力低下の原因(複数回答)では「ゲームやマンガなど誘惑の増加」53%がトップ。続いて、
「授業時間の削減」50%、「教師の質の低下」41%』 
PISAにおける日本の成績

左側の数字は平均を500とした時の点数。()内の数字は順位。 上位10位までの結果について
はOECD生徒の学習到達度調査を参照。

参加国数日本の参加学校数日本の参加生徒数数学読解力科学問題解決
PISA200032カ国135学科約5300人557(1)522(8)550(2)
PISA200341カ国・地域144学科約4700人534(6)498(14)548(1)547(4)
PISA200657カ国・地域185学科約6000人523(10)498(15)531(5) 
PISA200965カ国・地域185学科約6000人529 (9)520 (8)539 (5) 
●TIMSSにおける日本の成績
左側の数字は点数。()内の数字は順位。 上位10位までの結果については国際数学・理科教
育調査を参照。

小学校4年生 
参加国数日本の参加学校数日本の参加生徒数算数理科
TIMSS1995597(3)574(2)
TIMSS200325カ国・地域150校4535人565(3)543(3)
TIMSS200737カ国・地域148校4487人568(4)548(4)

中学校2年生 
参加国数日本の参加学校数日本の参加生徒数数学理科
TIMSS1995605(3)571(3)
TIMSS199938カ国・地域140校4745人579(5)550(4)
TIMSS200346カ国・地域146校4856人570(5)552(6)
TIMSS200750カ国・地域146校4312人570(5)554(3)


<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/37/img6c2d39c7zik5zj.
jpeg" width="991" height="1388" alt="img231.jpg">


<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/38/img24e07281zikbzj.
jpeg" width="991" height="684" alt="img232.jpg">

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より抜粋++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●11月23日(勤労感謝の日)

++++++++++++++++

朝から、あちこちへ電話をかける。
が、どこへかけても、応答なし。
それもそのはず。
今日は祭日。
会社は休み。
忘れていた!

++++++++++++++++

●仕事

 ギリギリまでたまっていた仕事を、午前中に片づける。
ほっとする。
今どき「郵送?」と思う人もいるかもしれない。
しかし重要な原稿や書類類は、郵送。
あとで届いたかどうかの確認を入れる。
が、それでも郵送。

 せっかく早めに仕事をすましたが、今日は郵便局も休み。
が、その分だけ、すっきりした。
午後からは、フリータイム!

●フリータイム

 ということで、昼風呂。
午後12時ごろ、入浴。
そのあと昼ごはん。
ワイフがチャーハンを作ると言っていた。
私はそれを待ちながら、柿とキーウィを食べる。
柿は、もらいもの。
キーウィは、自家製。
今年は豊作。
今のところまだ野鳥の餌になっていない。

●寒い

 現在、居間のヒーターは故障中。
先日修理に来てもらったが、「寿命です」と。
それで新しいヒーターを注文したが、今のところ連絡なし。
もう4日もたつ。

 だから現在、居間の暖房は、こたつだけ。
寒い。
身の置き場がない。

●山荘へ

 こういう祭日は、どこへ行っても、混雑している。
……ワイフはチャーハンを作ると言っていたが、その気配なし。
で、あれこれ無意味な会話がつづいたあと、午後は、山荘へ行くことにした。
その途中で何かを食べることにした。

 ワイフは「ドーナツはどう?」と言った。
私は「NO!」と答えた。
しかし山荘も、寒い。
冬場だと、浜松市内より、気温もいつも、2〜3度低い。

●キャラバン隊

 昨夜、浜松市内で、大きなボンネットバスを見かけた。
ボディに、大きな文字で、「福島」「キャラバン隊」と書いてあった。
あとの文字は読めなかった。

 たぶん、福島県から、何かの運動のためにやってきたのだろう。
色は赤だったと思う。
大きなバスだったが、だれも乗っていなかったように思う。

 で、それを見たとき、「みんな必死にがんばっているのだなあ」と思った。
はるばる福島から、浜松へ。
こんにちは!

●ホームレスの男

 そう言えば、昨夜、ホームレスの男と並んで、パンを食べた。
たまたま並んだ。
私が菓子パンとミルク、ワイフがサンドイッチとコーヒーを食べていた。
そこへその男が、横に並んだ。
カウンター形式のパン屋だった。

 男の横顔が、死んだ父そっくりだった。
懐かしさの混ざった親しみを覚えた。
まじまじと横顔をながめた。
が、声をかけようとしたその瞬間、その男が、何やら独り言を口にし始めた。
かなり大きな声だった。
意味はわからなかったが、別のだれかに話しかけているような言い方だった。

 ????
話しかけるのをやめた。
その男は小さな菓子パンを、大切そうに、時間をかけ、ゆっくりと食べていた。

●組織レス

 私は若いころからホームレスのような生活をしてきた。
ホームレスというよりは、「組織レス」。
頼れる人は、だれもいなかった。
頼れる組織も、なかった。
だからというわけでもないが、ホームレスの人たちの心情がよく理解できる。
……というか、強い共感を覚える。

私たちが感ずる孤立感には、相当なものがある。
「孤独」ではない。
「孤立感」。

反対に、組織の中にどっぷりとつかりながら、安穏としている人たちを見ると、腹が立つ。
地位だの肩書だの、そんなことで、あくせくしている人を見ると、バカに見える(失礼!)。
(反対に、彼らから見ると、私がバカに見えるにちがいない。
世に中には、地位や肩書でしか、人を判断しない人は多い。)

●勲章

 これも負け惜しみか。
何もできず、社会の隅で細々と生きてきた。
しかし同時に今、地位や肩書の無意味さも、よくわかる。
言うなれば軍人の勲章のようなもの。
戦争がなければ、(もちろんないほうがよいにきまっているが)、ただの飾り。
そんなものをぶらさげ、「俺は価値のある人間」といくら声だかに叫んでも、だれも耳を貸さな
い。
「あら、そう?」で終わってしまう。

 が、その渦の中にいる人には、それがわからない。
ただひたすら貪欲に生きながら、それが人生と思い込んでいる。

●裸

 今でも、私を笑う人は多い。
笑わなければ、自分の立場がない。
口では、「子ども相手に、いい仕事ですね」と言う。
しかしバカにしている。
以心伝心というか、それがよくわかる。

 が、残念ながら、私自身は、自分をバカとは思っていない。
ラ・マンチャの男(=ドン・キ・ホーテ)とは思うことはあるが、バカとは思っていない。
価値判断の基準そのものが、ちがう。
もしそれでも私をバカと思うなら、ひとりで裸で生きてみたらよい。
社会のきびしさが、少しはわかるだろう。
その上で、私のことをバカと思えばよい。

●リチャード・マクドナルド

 そう言えば、昨日も1人の中学生がこう言った。
「先生は、どうしてこんな仕事をしているの?」と。
中学生くらいになると、急速に世俗的な価値観を見つけるようになる。
よほど私のしている仕事が、バカに見えるらしい。
それがわかったから、あのマクドナルドの話をしてやった。

 パソコンを開き、「はやし浩司 マクドナルド」で検索をかけてみた。
いくつかの原稿をヒットすることができた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

マクドナルドの生き様を書いた。
それを読み聞かせてやると、その中学生は何を勘違いしたのか、こう言った。
「それも先生の自慢話?」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●リチャード・マクドナルド

 投資に失敗し、自殺するのはバカげていると、私は書いた。
が、同時に、巨億の財産を築いたジョブズ氏を、私はうらやましいとは思わない。
世界のマスコミは、「世界の偉人」を失ったかのように書き立てている。
が、私はそうは思わない。
時流に乗っただけ。
もっとはっきり言えば、運がよかっただけ。

 あの程度の苦労をしている人なら、いくらでもいる。
私もそうかもしれないし、あなたもそうかもしれない。
たとえばその一方で、こんな人がいたことを、あなたは知っているか。
リチャード・マクドナルドという人である。

 13年ほど前に(1998年)、89歳でなくなったが、あのハンバーガーチェーンの「マ
クドナルド」の創始者と言えば、だれでも知っている※。
が、当のマクドナルド氏自身は、早い時期にレストランの権利を別の人物(レイ・クロッ
ク氏)に売り渡している。

それについて生前、テレビのレポーターが、「損をしたと思いませんか」と聞いたときのこ
と。
マクドナルド氏はこう答えている。

「もしあのまま会社に残っていたら、今ごろはニューヨークのオフィスで、弁護士や会計
士に囲まれてつまらない生活をしていることでしょう。
(こういう農場でのんびり暮らしている)今のほうが、ずっと幸せです」と。 

(注※)リチャード・ディック・ジェイ・マクドナルド(Richard "Dick" J. McDonald、1
909年生まれ、1998年死去)

●金権教団

 要するに私たちは、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、「金権」に毒されすぎ
ている。
そういうこと。
皮肉な言い方をすれば、全人類、オール「金権教団」というカルト教団の信者。
自由貿易体制(資本主義体制)の中ではしかたのないことかもしれない。
が、大切なことは、そういう世界にあっても、自分を見失わないこと。
見失ったとたん、たとえば「自殺」という道を選んでしまうかもしれない。

 で、再び、ジョブズ氏の話。

 たまたま彼は病気で死んだ(失礼!)。
巨億の富の蓄財にも成功した。
言うなれば、この世界では大成功者ということになる。
が、もし彼が、その事業で失敗していたとしたら、どうだろうか。
こんな仮定をするのは許されないことだということは、よく知っている。
が、もしその事業で失敗し、無一文になっていたとしたら……。
彼はどうなっていただろうか。
自殺していなかったと言えるだろうか。
現在の今、どう評価されていただろうか。

●結び

 ずいぶんと回りくどい言い方をした。
が、私は最近、現在の自由貿易体制(資本主義体制)に、疑問を感じ始めている。
もちろんだからといって、共産主義がよいというのではない。
(どこかのBLOGに、「はやし浩司は共産主義者」と書いてあったが、それはウソ。
マルクス経済学など、見たことも読んだこともない。)

が、今の自由貿易体制(資本主義体制)は、個人的にみても、また国家的にみても、不公
平。
矛盾だらけ。

 その人が老後を安楽に暮らせるのに、2億円の費用がかかるとする。
しかしこの世の中、60歳で貯金ゼロの人が50%もいる半面、何十億円もの蓄財に成功
した人もいる。

 国にしても、そうだ。
そうたいして働きもしないアメリカ人が、世界の富をかき集めている。
何かが、おかしい。
狂っている。

 私は経済学者ではないから、これ以上のことはわからない。
またどうあったらよいのかもわからない。
が、モヤモヤとしたものだけは、心の底に滞留している。

 現代という世界では、ジョブズ氏のような人物を、「大成功者」と呼ぶのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Uターン

 山荘に向かったが、急にラーメンが食べたくなった。
ショッピングセンターから、Uターン。
その近くにあった、「幸楽苑」(ラーメン店)に入った。

 こういう日は、熱いラーメンが恋しい。
「混んでないかしら?」とワイフが言った。
時計を見ると、午後2時50分だった。
「今なら、だいじょうぶだよ」と。

●ジョッブズ氏

 先の原稿は、その前段部分と、後段部分を省略した。
だから誤解されるかもしれないので、補足しておく。

 現在でいうパソコンにも、黎明期というのがあった。
1978〜80年ごろのことである。
そのころ日本も、いろいろなパソコンを世に送り出していた。
が、結果的にみると、日本は出遅れた。
当時の首相が、あの田中角栄氏。
土建部門は得意だったが、それだけの知的能力がなかった。
だからあれよあれよと思う間もなく、日本の電子産業は遅れていった。
すでにそのころから、オーストラリアでは、小学校レベルでコンピューターの授業を始めてい
た。

 その結果が今であり、ジョッブズ氏ということになる。
アメリカにとっては偉人だが、どうして私たち日本人が、彼を賞賛しなければならないのか。
私は右翼でも国粋主義者でもない。
しかし今の若い人たちをみていると、いったい何人かと言いたくなる。

 ……ということで、先の原稿を書いた。
その中で、リチャード・マクドナルド氏に触れた。

●昼寝

 家に帰り、こたつに入ると、猛烈な睡魔に襲われた。
そのまま、居眠り。
気がつくと、1時間半も眠ってしまった。

 いろいろな夢を見たが、今は、覚えていない。
何だったのか?

 ワイフが言うには、私は寝言で歌を歌っていたという。
プレスリーの「♪I can't help loving you」だったという。
が、私は覚えていない。

●N先生

 起きてから、N先生に電話をする。
久しぶり。
で、今度12月にネパールへ行くという。
8泊の旅行という。
今度の日曜日に会うことにした。

●世界経済

 日本は今日は、休日。
しかし世界経済は、さらに大きく動き始めた。
毎日Bloombergと、ロイターNEWSに目を通す。

 EUの金融危機について言えば、こうだ。

 ユーロを増刷して危機を乗り切れと主張するフランス。
「そんなことをしたら、モラルハザードが起きてしまう」と反対するドイツ。
最終的には、ユーロを大増刷するしかないだろう。
もしそれがだめなら、EUの解体……というところまで進む。

 どうであるにせよ、早く結論を出さないと、周辺国や新興国に被害が及ぶ。
数か月ならまだしも、こんな状態が半年とか1年もつづいたら、それこそ世界がめちゃめちゃに
なってしまう。

 社会不安から政情不安。
その先にあるのは、戦争!

●N證券

 そう言えばN證券が、証券部門以外を、売却し始めたというニュースも伝わってきている(11
月23日、ロイターNEWS)。
20年以上つきあったN證券だが、今月(11月)のはじめ、すべての縁を切った。
その少し前のこと。
私はおそるおそる、しかしていねいに、こう聞いた。
「あのう、もし……、これはあくまでも仮定の話ですが、もしN證券が倒産ということにでもなった
ら、私のもっている債権はどうなりますか?」と。

 たいへん聞きにくい質問だった。
が、若い女子店員は、何を思ったか、その電話をそのまま上司の男性に回してしまった。
私もそこまで深刻に考えてはいなかった。
あくまでも「仮定」の話だった。

 ところがその男性は、電話口に出るやいなや、神経質な声でこう言った。
「N證券はつぶれません。それでいいですか!」と。

 その声を聞いて、「これはかなり、あぶないな!」と直感した。
それで縁を切ることにした。

●日本再生

 日本政府は、当然、それを考えているにちがいない。
「それ」というのは、「大恐慌後の日本」。
しかしだいじょうぶか?
昨日は、国会議員のパソコン(サーバー)が、ウィルスに侵されていたというニュースも伝わっ
ている。
しかも全員。
「IDとパスワードが盗まれていた」と。

 こんな状態で、国家機密が保持できるのか。
今ごろ、「それ」を考えて、いろいろな策が練られているはず。
その策が、どこかの国に筒抜けになっていた可能性が、きわめて高い。
ことの深刻さが、まるでわかっていない。

 バカというか、アホというか……!
昔から日本はスパイ天国と言われている。
スパイを取り締まる法律さえない。
世界中のスパイが、日本国内で、したい放題のことをしている。
が、ここまでくると、もう言葉はない。

 重要なことは、おかしな大国意識を捨て、お人好しをやめること。
みなが1人1人、緊張感をもつこと。
世界は、そんなに甘くないぞ。

今回も野田首相は、東南アジアでの何かの会議に出て、2兆円をばらまいてきた。
2兆円だぞ!
そんなお金があったら、東北の復興費用に回せ。

●11月23日夜

 今日も終わった。
たいした成果もなく。
これといって、した仕事もない。

 こうして1日、1日が過ぎていく。
ア〜アと思って、今日の日記はおしまい。

 みなさん、明日からもがんばりましょう。
2011/11/23夜記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ドン・キ・ホーテ(2011年11月24日)【日本亡国論vs豆腐系人種】

++++++++++++++++

今朝は、ウォーキングから始まった。
30分間、時速6キロで歩いた。
全身にジワーッと汗をかいたところで、おしまい。
ウォーキングマシンから、降りた。

居間のヒーターは、目下故障中。
こういうときは自家発電しかない。
運動で体を温めるしかない。
称して「貧者の暖房法」。

++++++++++++++++

●ラ・マンチャの男(ドン・キ・ホーテ)

 昨日、ラ・マンチャの男について少し書いた。
セルバンテスの『ラ・マンチャの男』である。
その原稿を探してみる。

 2008年の1月に、BLOGにその原稿を
書いている。

++++++++++++++++++はやし浩司

●2月29日号(Magazine for Feb. 29th edition)

I will issue nr. 1011st magazine on Feb. 29th, which is this. I issued nr. 1000th on the last 
Feb. 4th but it is funny that I dont feel anything special in my mind that I have done 
something. Why not? I am stepping forward again to another goal of nr. 2000th, but I shall 
follow my nose. I just keep writing, which is everything for me.

+++++++++++++++++

この原稿は、2月29日号ということ
になる(2008年)。

去る2008年2月4日(月)に、電子マガジンは、
1000号になった。

だからこの2月29日号は、1011号という
ことになる。

つぎの1000号をめざして、また、
長い戦いが始まった。

しかし2000号は、目ざさない。
成り行きに任せる。

あとは行けるとこまで行く。
ただとても残念なことに、1000号
を超えたというのに、「何かをなし遂げた」という
実感は、ほとんど、ない。

どうしてだろう?

++++++++++++++++++

●雑感・あれこれ

今日は、2008年1月30日。
このところ、何かにつけて、忙しい。
たとえば、こうだ。

私のしたいことと、ワイフのしたいことが
同時にあったとする。

そういうときは、両方とも、する。

あるいは、1時間でもヒマができたら、
その1時間で、したいことをする。

けっして、あと回しにしない。

もちろん私の仕事もある。

+++++++++++++++++

●まじめに生きる

ときどき、まじめに生きるのが、バカらしくなる。
ほんとうは、そうであってはいけない。
それはわかっている。
しかしそのバカらしさと戦うのも、たいへん。
言うなれば、これは(内なる敵)との戦いということか。

ワイフも、ときどき、こう言う。
「あなたは、ラマンチャの男(=ドンキホーテ)みたい」と。


++++++++++++++++++

原稿をさがしてみた。
何と、6年前にも同じことを考えていた。

++++++++++++++++++

●私はドンキホーテ

 セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・1547〜1616・スペインの小説家)
の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。
『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家というか、妄想家というか、ドンキホーテという男
が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするという物語である。

 この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。
自らを騎士と思いこみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立ってい
ると思いこんでしまう。
そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗って、
旅に出る……。

 こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。
実のところ、この私にもある。
よくワイフは私にこう言う。
「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを言うね」と。
最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。
私があれこれ国際情勢を心配するからだ。

 が、考えてみれば、私一人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したとこ
ろで、日本や世界は、ビクともしない。
もともと、だれも私など、相手にしていない。
それはいやというほどわかっているが、しかし、私はそうではない。
「そうではない」というのは、相手にされていると誤解しているというのではない。
私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレーキをかけることができない。
そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。
あるいはどこがどう違うのか。

 よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。
私塾の経営者といっても、経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な
思想をもっている経営者も、少ないが、いる。
私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう経営者と議論しなが
ら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。

 私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。
しかし、いくら議論しても、まったく無意味。
それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。
あるいはそれ以下かもしれない。
論じたところで、マスターベーションにもならない。

しかしそれでも、私たちは議論をつづける。
まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。
あるいは頭の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。
だれにも相手にされず、ただひたすら、自分で自分をなぐさめる……。

 その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。
ジプシーたちの芝居を、現実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。
風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでいくドンキホーテ。
それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのものと言ってもよ
い。

 さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。
「役にたっている」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。
読んでもらっているかどうかさえ、わからない。
しかしそれでも、私は書いている。
考えてみれば小さな世界だが、しかし私の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。
心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 国連の事務総長より高い?

 ……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう思う。「私は、まさに、おめで
たいドンキホーテ」と。

 これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。
だれにも相手にされなくても、書きつづける。
おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私なのだ。だか
ら書きつづける。
(02−12−21)

● 毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。
それは頭の回転というのは、そのときのコンディションによって違うということ。
毎日、微妙に変化する。
で、調子のよいときは、それでよいのだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしま
うのでは……」という恐怖心にかられる。
そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。
こわいのは、アルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを
予防できるのでは……という期待もある。

● ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化し
たとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。
「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、どんどんとボケていく……。
そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者しかいないのでは。
あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。
「林の書いている文は、このところ駄作ばかり」と。
……実は、私自身もこのところそう思うようになってきた。ああ、どうしよう!!

●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

● 命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

● 自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばなら
ない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

● パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

● 裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス
「ドン・キホーテ」

● 真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●2011年11月24日へタイムスリップ(日本亡国論)

 9年前に書いた原稿を、こうして読みなおす。
ほぼ10年前。
当時の私は、認知症になるのが、何よりも恐(こわ)かった。
今も恐い。
しかし今のところ、何とかもちこたえている。

 認知症だけは、頭のよしあしでは決まらない。
東大の薬学部長をしていたMZ先生だって、認知症になってしまった。

●日本の命運

 この10月(2011)に始まった世界大恐慌。
今はまだ、その前哨戦に過ぎない。
あるいは「最後の悪あがき」?

 今朝のニュース(Bloomberやロイター)を読むと、あのドイツまでおかしくなってきた。
中国も、つい先日までは「ソフト・ランディング」と言われていたが、ここにきて急に「ハードラン
ディング」という言葉が使われるようになった。
もしそうなると、日本経済に与える影響は、計り知れない。

 最後に残された道は、ただひとつ。
EU中央銀行による、ユーロ(札)の大増刷(ユーロ共同債の発行)。
ユーロ(札)をばらまいて、急場をしのぐ。
ドイツのメルケル首相は、つい数日前までそれに反対していた。
が、昨日(24日)、10年物国債の入札で、応札額が募集額を35%も下回ったという。
つまり売れ残った。
わかりやすく言えば、ドイツ政府が「金を貸してくれ」と、世界に申し出た。
が、手にしたのは、そのうちの35%。

 ……この先、この日本は、どうなるのか?
ここまで考えて、思考停止。
日本の命運は、アメリカと中国の動向によって決まる。

●仕事がなかったら、屋台でも引け

 ちょうど1か月ほど前、市内で弁当屋を経営しているFD氏(社長)と話した。
そのFD氏がこう言った。
「林さん、今に失業者が街にあふれるようになりますよ」と。

 その弁当屋も現在、不況のドン底であえいでいる。
いくら値段を下げても、客の数は減っていくばかり。
「バブルのころは、1店舗だけで、1日、数百万も売り上げがあったのですがねエ」と。
が、今は、1店舗、店員を1人態勢にしても、経営が厳しいという。

 ……しかし『命のあるかぎり、希望はある』(セルバンテス)。
これをもじるとこうなる。
『希望がなくても、命があるかぎり、生きていくしかない』と。

私たちが考えるべきことは、「そのあとどうするか?」ということ。
大不況のあと、どう日本を立て直していくかということ。
その第一が、教育ということになるが、最近の子どもたちをみていると、絶望的と言わざるをえ
ない。
草食系と言えば、まだよい。
豆腐系?
中身は、「ヤワ」。
国を支えていくという、気概すら感じられない。
「仕事がなかったら、屋台でも引け」と言いたいが、そんなことを言えば、かえって私の方が奇
人に思われる。

 (私はしたぞ!
浜松に来たころ、画家の卵をしていたSJ君と2人で、SJ君の父親の描いた絵をリヤカーに積
み、団地で売って歩いたぞ。)

 この先この日本が立ちなおるためには、あの野生臭をもう一度、取り戻すしかない。
そうでなくても、日本を一歩、外に出れば、そこは海千山千の世界。
猛獣が住む、野蛮世界。
そんな世界を相手に、これからこの日本は、どうやって戦っていくというのか。

 何をするにも、資格、認可、許可、免許、登録……。
官僚制度によって、体中ががんじがらめに縛られている。
狭い世界でこぢんまりと生きていくには、よい。
しかしこんな日本を、どうして「自由な国」と言えるのか。

●曲がった信号

 話を変える。

 10月に、この浜松市を巨大な台風が直撃した。
それ以来、あちこちの四つ角の信号が、風で向きを変えた。
信号といっても、歩行者用の小さな信号。
ひどいところで、20〜30度、横を向いた。

 そういう信号が、自宅から4キロほど離れたところにある西郵便局(このあたりの主要郵便
局)までに、3〜4か所もある。
が、すでに2か月近くもたつのに、手つかずのまま。

 それに対して浜松市は、今度、補正予算を組んだ。
額は忘れたが、億単位。
名目は、「台風被害による……信号の……」とか何とか。

 しかし、である。
そんな信号なら、脚立とペンチ一個で、直せるはず。
金槌で叩いても直せる。
どうして自分でそれをしないのか?

 警察官でもよい。
市役所の役人でもよい。
つまりその(しないところ)が、(野生臭の欠落)ということになる。
豆腐系ということになる。

●よい子論

 今、教育現場では、こんな珍事が続発している。
世の母親たちは、静かでおとなしい子どもほど、「できのいい子」と評価する。
反対に、腕白で、元気があり、自己主張のはげしい子どもを、「できの悪い子」と評価する。
そういう子どもをもつ母親は、きまってこう言う。
「みなさんに、迷惑をかけてすみません」と。

 さらに私の教室でも、そういう腕白で、元気があり、自己主張のはげしい子どもがいたりする
と、母親のほうが「この教室はよくない」というレッテルを張ってしまう。
「うちの子がかえって萎縮してしまいます」などと言って、去っていく母親すらいる。

 が、これはとんでもない誤解である。
もし誤解でないというのなら、では、いったい、どういう子どもを「よい子」と言うのか。
たぶんこの日本では、柔和で、やさしく、ハキがなく、おとなしく、追従的で、キバのない子ども
を、「よい子」と言うのだろう。
しかしそんな子どもは、私のような団塊の世代から見ても、不気味。
世界の基準から見れば、さらに不気味。
映画に出てくる、平安時代の公家のようでもある。
顔中に「白粉(おしろい)」を塗りたくって、オホホホと口を押えて笑う。
女ではない。
男が、だぞ!

 その結果、小学1年生で、いじめられて泣くのは男児。
いじめて泣かすのは女児。
そういう構図ができあがって、もう20年になる。

●異常な完ぺき主義

 だからといって、私の生き様が正しいというのではない。
しかし今の日本人に求められているのは、まさに「ラ・マンチャの男」ではないのか。

 この違和感。
この孤立感。
私がおかしいというよりは、世の中がおかしくなってしまった。
完ぺき主義も、ここまでくると異常。
繰り返すが、この日本では何をするにも、資格、認可、許可、免許、登録……!
この完ぺき主義が、やがてこの日本を滅ぼす。
官僚主義にもよい点はある。
しかしそれにも限度がある。

 最後に7、8年ほど前、アメリカでタクシーに乗ったときの話を書く。

++++++++++++++++++はやし浩司

●日本は超管理型社会(2010年9月記)

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。
そこで私はこの歌(「♪卒業」)を説明したあと、中学生たちに「夢」を語ってもらった。
私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女子)がこう言った。
「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。
「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。

もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。
そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と
聞くと、こう言った。
「毎日、机の上に置いてながめている」と。
ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。
今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このこ
とは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えた
のが、41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。
アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2
001年4月)。
タクシーにはメーターはついていなかった。
料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。
しかも運転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予
約で来られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれない
が、一方ですき間をつぶす。
そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。
息苦しいだけならまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。
尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に対する、若者の抗議の歌と考えてよい。(2010年
9月記)

●今日も始まった

 ……ということで今日も始まった。
株価は、予想通り、3・11大震災直後のそれを下回った。
今になって、東京証券取引所と大阪証券取引所を統合するという。

 バカめ!

 今さら、それをしてどうなる?
上場している外資企業など、10社もない。
みんなシンガポールへ逃げていってしまった。
理由は言わずとしれた、翻訳料。
資格、認可、許可、免許、登録に加えて、規則、規制。
それがふえればふえるほど、天下り先がふえる。

 官僚たちは決まってこう言う。
「日本の公務員数は、欧米並みです」と。
が、文科省だけでも、天下り先機関は2000近くもある。
もしそういう機関の職員も含めたら、日本はギリシャ以上の公務員王国。
そういう現実が、まったくわかっていない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本亡国論 野生臭さの欠落 
豆腐系人間 恐慌後の日本)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●11月24日(夜)

++++++++++++++++++++++++

今日、居間にガスストーブがついた。
工事に1時間半ほど、かかった。
そのあと試運転。
暖かい空気を手であおりながら、ワイフがうれしそうに言った。
「これで暖かいわね」と。

書斎は、私の「城」。
台所と居間は、ワイフの「城」。
……というのは、少しおおげさ。
しかし私はいつも、そう考えている。

++++++++++++++++++++++++

●薬害頭痛

 「薬害頭痛」という言葉がある。
同じ頭痛薬を、慢性的に服用していると、頭痛薬そのものが頭痛を引き起こす。
それを「薬害頭痛」という。
肝臓が抗体を作るためではないか。
「薬」というのは、基本的には、毒物。
肝臓は、薬を毒物と判断する。

 頭痛薬をのんで、頭痛になる。
が、こういう例は多い。
子どもの世界でよく経験するのが、ワークブック。
能力を超えたワークブック(問題集)を買ったために、勉強がそこでストップしてしまうというよう
なケースは少なくない。
かえって成績がさがってしまう。
塾にしても、家庭教師にしても、そうだ。
家庭教育では、とくにこの点を注意する。

 親というのは、どこの親でもそうだが、難しいワークブックを買い与えれば、それで子どもの
学力は伸びると考える。
しかも字数が多く、問題数が多ければ多いほど、「得」と考える。
が、問題集は、スーパーのバーゲン品とはちがう。
安ければ、それでよいというものではない。

大切なのは、達成感。
「やった」「できた」「やり終えた」という達成感。
その達成感が、子どもを前向きに伸ばす。
そのためワークブックは、簡単なものを選ぶ。
子どもの能力で、楽にできるものを選ぶ。

●失われた10年?

 いまだに「失われた10年」という言葉を使う人がいる。
驚く。
実際には、「失われた20年」。
10年ではなく、20年。
この20年で、日本は、1980年代に戻ってしまった。
時計の針は、20年前で止まったまま。

 ドイツのメルケル首相が、EU債の発行にひとり抵抗している。
「そんなことをすれば、モラル・ハザードが起きてしまう」と。
つまり安易に債務国を助ければ、そういった国々は、自らの努力をやめてしまう、と。

 どこまでがんばれるかは、わからない。
しかしこういう根性のある政治家がいるドイツは、すばらしい。
少なくとも、この日本にはいない。
あちらでいい顔、こちらでいい顔……。
八方美人。
一本のスジ(筋)が通っていない。

 なぜ今、この日本が韓国との間で、スワップ協定を結ばなければならないのか。
そのひとつ取りあげても、日本政府のふがいなさが、なさけない。
政府が言うように、「日本の進出企業が被害を受ける」というのであれば、その後、つまり韓国
がデフォルト(債務超過)した後、そうした企業を救済すればよい。
またそのほうが、安くつく。
どうしてそれくらいの危機意識を、日本はもたないのか。

 日本よ、おかしな大国意識は、もう捨てろ!
お人好し外交は、もうやめろ!
日本は日本第一に考え、行動する。

 ロイターですら「日本の凋落ぶり」をつぎのように書いている(2011/11/24)。

『……東京株式市場の値動きは、香港や上海などアジア市場の値動きにさえ振りまわされる
従属的な状況。
もはやアジアのメイン市場との見方はされていない」(外資系投信)という』と。

++++++++++++++++++はやし浩司

●11月25日

 日は替わって、今日は11月25日。

 昨夜遅く、従弟(いとこ)と電話で話す。
柿を送ってくれた。
その礼の電話が、長くなった。
1時間ほど、話した。

 しめくくりのエッセーを書くつもりだったが、そのまま就寝。

●仕事

 EUの金融危機がどういう形で決着するにせよ、つぎは日本。
すでにこの3月、あの3・11大震災が起こる直前まで、日本の経済破綻は時間の問題とささや
かれていた。
「可能性の問題ではない。時間の問題」と。

 が、そこへあの3・11大震災。
とたん、「経済破綻」は、どこかへ消えてしまった。
が、それで問題が解決したわけではない。
今の今も、この問題はくすぶりつづけている。
あるいはいつなんどき、この日本へ飛び火してくるか、わからない。

 だから従弟には、こう言った。
「どんなことがあっても、仕事を手放してはいけないよ。
一度手放したら、つぎの仕事はないよ」と。

●危機感

 この浜松市を見ただけでも、危機感のなさには、これまた驚く。
あのバブル経済がはじけたあと、浜松市は「音楽の町」として、名乗り出た。
「楽器の町」が「音楽の町」になった。
豪華な楽器博物館もできた。
結構な話である。

 が、そのあとがまずい。

 浜松市からは、どんどんと工場が消えていった。
HONDA、SUZUKI、YAMAHA……。
名前だけは残っているが、工場はすべて、郊外の他の町へ。

 そこで浜松市がつぎに打った手は、「花木の町」。
フルーツパークができた。
花博も開いた。
これまた結構な話である。

 が、音楽や花木で、いくら稼げる?
外貨はいくら入ってくる?
この浜松市は、金持ちの道楽のようなことばかりしている。
で、最近は、市中心部の活性化。
が、笛吹けど、踊らず。

 もしここに私が書いていることが「?」と思うなら、あのザザ・シティの中央館を見たらよい。
エスカレーターに乗り、2〜5階を見たらよい。
西館にしても、ガラガラ。
地下にスーパーがあるが、ついでにその奥ものぞいてみたらよい。
広い空き部屋があって、中高校生たちが、テーブルを囲んでカードゲームをしている。

 いったいどれだけの税金が無駄に使われたことやら!
……使われていることやら!
楽器博物館にしても、今では閑古鳥すら鳴いていない。
言うなれば楽器のガラクタ倉庫。
危機感のなさ、ここに極まれり!

 書き忘れたが、建物だけは、超豪華。
どう豪華かは、皆さんの地域にある官製建物を見ればわかるはず。
エスカレーター付きの、大理石でできたラセン階段を下りたら、そこはスーパーだった!
以前は、100円ショップもあった(ザザ・シティ・西館)。

 ……笑うに笑えない話だが、それにしても不思議なのは、こうした失政を繰り返しながら、だ
れも責任を追及しないこと。
だれも責任を取らないこと。
民主主義というのは、そういう意味では便利な制度だ。
民主主義を隠れ蓑に、いくらでも失敗をごまかせる。

●精神状態

 ……ということで、今朝の私の精神状態は、あまりよくない。
何を考えても、イラつく。
(見た目には、穏やかでやさしいが……。)

 話題を変えよう。

 冬になったので、庭に鳥の餌をまき始めた。
数日前からである。
ところが、である。
イヌのハナが、それを食べてしまう。

 で、昨日、ハナの目を盗んで、こっそりと庭に餌をまいた。
ハナが食べにくいように、広く、まばらにまいた。
が、ふと気がつくと、ハナが右うしろに!
私が餌をまく手を、じっと見ていた。

●失敗

 これはおとといの話。

 中学生クラスで教えているときのこと。
ふと立ったとき、腸内ガスがブリブリと出てしまった。
本当にブリブリという音だった。

 「しまった!」と思ったが、中3のS君が、それを聞いてしまった。
見ると、笑いを必死でこらえていた。
それがよくわかった。
で、私はS君にこう言った。
「何も言うな!」と。

 が、その反対側にいる、Nさんも、同じように笑いを必死でこらえていた。
私がNさんの顔をのぞくと、そこで視線が合ってしまった。
私が気まずそうに顔をゆがめると、どういうわけか、Nさんも気まずそうに顔をゆがめた。
「あのなあ、君も、何も言うな!」と。

 が、その直後、教室中の生徒が、どっと笑った。
前の席に座っていた生徒たちまで、こう言った。
「聞こえたよオ!」と。

 ……で、そのあと、私は教室の隅で、ずっと小さくなっていた。
何も言わず、黙っていた。
だれと目が合っても、その生徒は笑った。

 教室が終わり、あとでワイフに聞くと、ワイフはこう言った。
「あんな大きな音だったから、みなに聞こえたにきまっているわよ。
ああいうときはね、だまって知らんぷりしているのがいちばんいいのよ」と。

 それにしてもドジな話。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【ユングのシャドウ(シャドウ)論(Shadow)】

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11月30日(水曜日)
浜北文化センターにて、浜松市内では
今年度最後の講演会をもちます。

開場時刻は、午後6:30。
講演は、午後7:00〜8:30です。
おいでください。

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次回の講演で、久しぶりに、ユングのシャドウ論に
ついて話してみたい。
(時間があればの話だが……。)

そこで私の書いた原稿を探してみる。
今では「はやし浩司 シャドウ論」で検索すれば、すぐ、
原稿が見つかる。
ネット全体が、私の書類倉庫のようなもの。
「どうしてこんなことができるのだろう?」と、よく思う。
本当に、不思議な世界だ。

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●子育て

 いかに子育てが恐ろしいものであるかは、私が書いた「シャドウ論」を読んでもらえばよくわか
るはず。
昔から『子は親の背を見て育つ』とはいう。
しかしそれは何も、よいことばかりではない。
親が隠している邪悪な部分まで、子どもがそっくりそのまま受け継いでしまうこともある。
それが「シャドウ論」である。

 たとえば欧米では、牧師による少年、少女への性的虐待事件が後を絶たない。
「虐待」と言えば、おおかた、その種の性的虐待をいう。
こうした心理も、ユングの「シャドウ論」をあてはめてみれば、よく理解できる。

●心の別室論

 その原稿、つまり以前書いた、ユングのシャドウ論を紹介する前に、「心の別室論」について
書いた原稿を紹介したい。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
つまり抑圧された心理状態が長くつづくと、子ども(人)は、心の中に別室をつくり、そこへそれ
を押し込んでしまう。
防衛機制のひとつとされている。
わかりやすく言えば、いやなことがあったら、別の心を作り、そこへ押し込んでしまう。

 が、この心の別室の怖いところは、(1)時効が働かないということ。(2)たとえそのあといろい
ろな楽しい思い出があったとしても、記憶が上書きされないということ。
いつまでも心の別室の中に、独立して残り、時と場合に応じて、顔を出す。

 たとえばこんな例がある。
80歳を過ぎた老夫婦だが、若いころから夫婦喧嘩が絶えなかった。
が、決まってそのとき出てくる言葉が、つぎのような言葉という。
「お前は、あのとき……!」
「あんただって、あのとき……!」と。

 40年とか、50年も前の話。
ときには結婚当初の話すら出てくるという。
心の別室というのは、そういうもの。

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心の別室については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、2009年4月に書いたもの。

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●心の別室と加害意識(Another Room in the Mind and Consciousness of Guilty)


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カレー・ヒ素混入事件で、現在無実を争って
いる女性が、HM。
地下鉄サリン事件で、これまた無実を争って
いる男性が、OS教のMT。


現在刑事裁判が継続中なので、これらの人たちは
無実という前提で、ものを考えなければならない。
どんな被告人でも、有罪が確定するまで、推定無実。


カレーにヒ素を混入させたのは、別人物かも
しれない。
地下鉄サリン事件には、MTは関与していなかった
かもしれない。
そういう可能性が、1000に1つ、万に1つでも
あるなら、これらの人たちは、無実。
そういう前提で、ものを考えなければならない。


が、同じ無実でも、いまだに納得できないのが、
あの『ロス疑惑事件』。


Kさんの殺害現場に、一台の白いバンがやってきた。
そのバンが走り去ったとき、Kさんは、殺されていた。
Kさんのそばには、MKがいた。


白いバンは、近くのビルにいた男性たちによって
目撃されている。
MK自身が撮った写真の中にも、白いバンの
一部が写っている。
しかしMKは、「白いバンは見ていない」と。


そのMKは、ロス市警へ移送されたあと、留置場の中で
自殺している。
MKは無実だったのか?
無実だったのなら、自殺などしないで、最後の最後まで
闘ってほしかった。
どうもこの事件は、すっきりしない。
いまだにすっきりしない。


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●心の別室論(Another Room in the Mind)


人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、
そこへ押し込めてしまうという習性がある。
心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつ
と考えられている。


その防衛機制は、つぎの7つに大別される。


(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)


 この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを
無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」
という。
つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことを
いつまでも覚えている」と言われる。
(そう言っているのは、私だが……。)
この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは
忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。


が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。


 たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、
心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。


 これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ
従順だったことがわかる。
世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。


 話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、
仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。


このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。


よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、
20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。


 心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、
それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。


私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。


そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、
私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、
わからなくなるときがある。


 ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、
重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。


 ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、
カギをかけてしまっている(?)。


 しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)

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そこで「シャドウ論」。
以下の原稿も、2009年ごろ書いた原稿である。
この中では、北朝鮮と韓国を例にあげ、「シャドウ論」を
展開してみた。

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●なし崩し的既成事実化

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「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。

答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

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●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。
K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。

が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、
既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。
……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。

今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。

 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの
問題を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。すでに韓国の
国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強
調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。
しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。
そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近く
にいる人に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

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ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

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●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。


●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 
幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ シャド
ウ論)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。
一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをして
いる。
韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。
どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。
そんな車を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、
何でも奪っていった。
その結果が今である。
ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20〜40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。

 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、
言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の
発言に、そのつどビクつく。
大騒ぎする。
それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて
闘おうではないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2
つに、頭の中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 
実効的支配 なし崩し的支配)(以上、2009年3月記)

Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●2011年11月25日

 先のシャドウ論を書いた日付は、2009年3月になっている。
それから2年。
今は、2011年11月25日。

 で、改めて自分の書いた原稿を読みなおす。
いろいろ考える。
「これはシャドウ論というよりは、サイコパス(性格障害)の問題ではないか」とか、「妄想とどう
区別するのか」とか。

●日韓問題

 日韓問題にしても、すべてをシャドウ論で説明できるわけではない。
が、シャドウ論をあてはめてみると、韓国人のもつ精神的に二重構造性が、よく理解できる。

 (1)「日本ごときに植民地にされた」という屈辱感。
 (2)「自分たちの力で独立できなかった」という不完全燃焼感。
 (3)さらに「南北に分断されたのも、もとはと言えば、日本の責任」という日本責任論。

 これら3者が混然一体となり、韓国人の心の別室の中に、押し込まれている。
それが時と場合に、表に出てくる。
よく「韓国人は政治と経済を、使い分けている」という。
政治で反日、経済では親日、と。
しかし使い分けているのではない。

 民族意識はどこの民族にもある。
それが誇張されたのが、民族主義。
「我ら民族がもっともすぐれている」と。
韓国人のばあい、「日本ごときに、蹂躙(じゅうりん)された」という思いが、心の別室の原点に
ある。
言い換えると、そう思いながら、実は日本人を徹底的に差別している。
(「差別」というよりは、「軽蔑」に近いが……。)
私はこれを「逆差別」と呼んでいる。

●二重構造性

 それはともかくも、ユングのシャドウ論で考えると、韓国人がもつ精神の二重構造性がよく理
解できる。
と、同時に、私たちが個人がもつ二重構造性も、よく理解できる。

 私たちは円滑な人間関係を保つために、常に、この二重構造的精神状態の中で生きてい
る。
冒頭にも書いたように、それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、またそれができるからこそ、私たちは、この複雑な社会で生きることがで
きる。

 が、問題は、親子関係である。
ほとんどのばあい、子どものほうが、心の別室を作り、そこへ不平や不満をためこむ。
そしてそれが、時と場合に応じて、爆発する。
「こんなオレにしたのは、お前だア!」と。

 そういう言葉が、10年たっても、20年たっても、口から出てくる。
もちろん子ども自身にはそれがわかっていない。
「抑圧」「心の別室」という言葉すら知らない。
加えて先にも書いたように、「心の別室」には、時効が働かない。
20年前、40年前の記憶がそのまま、生々しく残る。
また上書きされることもない。
楽しい思い出は、心の別室には入らない。

●よい子論

 終わりに「よい子論」についても書いておきたい。

 今、日本の子ども観、子育て観は、世界の標準から、かなりかけ離れつつある。
結論から先に言えば、たくましさがない。
またそうであることを、ほとんどの親たちは、「できのいい子」と誤解している。
たとえば従順で柔和で、やさしく、キバを抜かれてしまったような子どもほど、「よい子」と位置づ
ける。
またそういう子どもにしようと、あくせくしている。

 昔風の、腕白で、自己主張が強く、たくましい子どもを、「できの悪い子」として、むしろ遠ざけ
たり、白い目で見たりする。
私の教室でも、そうである。
ときどき「うちの子には、この教室は合いません」と言って去っていく親がいる。
が、そういう親でも自分の子どもが、親の過干渉や過関心で萎縮していることに気づいていな
い。
親自身のものの考え方が権威主義的で、威圧的であることに気づいていない。

その結果として、むしろそういう子どもほど、心をゆがめやすい。
ゆがめやすいことは、ここに書いた「シャドウ論」を読んでもらえばわかるはず。
あるいはイプセンの『人形の家』を読んでみたらよい。
自らを「人形子」と呼んだ主人公が、精神の二重構造の中で、いかに苦しみもがいたか。
それがよくわかるはず。

 本来、子どもは、そうであってはいけない。

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しめくくりに、イプセンの『人形の家』について
書いた原稿をさがしてみる。
日付は2008年6月になっている。

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●人形子(にんぎょうし)(2008年6月記)

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A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。

あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。

そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。

そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。

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ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1〜2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。

できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。

やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。

先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。

学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。

そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)

冒頭で、「10人のうち、1〜2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2〜3人に
なるかもしれない。

が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。

というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。

つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。

こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。

一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。

親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。

「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。

「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。

自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。

「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。

学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。

しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。

では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。

が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。

何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。

非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。

(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)

たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。

このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。

「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。

しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。

(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)

++++++++++++++++++++++++

【引きこもりvs家庭内暴力】

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将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。

それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。

この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。

思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。

そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。

つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。

が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12〜14歳前後か。

ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。

中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。

そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。

が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。

ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。

そこであなたの子どもは、どうか?

あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。

子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。

賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)

+++++++++++++++++++++++

●「人形の子」論

+++++++++++++++++++++++

●あるお母さんからのメール

++++++++++++++++++

親から受けた子育てが原因で、
長い間、大きな心のキズに苦しんでいた
お母さんから、こんなメールが
届いています。

読者のみなさんの力になればと、
公開してくださいとのこと。
喜んで、そうさせていただきます。

お名前を、Vさん(母親)としておきます。

Vさんは、子どものころ、親からきびしい
教育としつけを受け、それが原因で、
心に大きなキズを受けてしまいました。

Vさんは、「私がしたような経験を、ほかの
子どもたちにはしてほしくない」と言っています。

本当に、そうだと思います。

最近の研究によれば、うつ病の(種)のほとんどは、
その人の乳幼児期にあるということまで、
わかってきました。

乳児期から幼児期にかけては、
(1) 心豊かで、穏やかな家庭環境、
(2) 愛情豊かで、静かな親子関係、
この2つが、とくに重要かと思います。

Vさんからのメールをお読みください。

++++++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、こんばんは!

今日はレッスン前に、少しだけしたが、私がかかえる障害のお話を聞いてくださって、
ありがとうございました。

私は 先生のEマガによる「自己開示」でいえば4〜5レベルに入るほど、
まわりの人たちに、いろいろなことを話しています。

隠していなくてはならないことなど、そんなにはないし、
自分を知ってもらうことは 息子であるY男にとっても
良いことのように思ったりするからです。

先生が、私の経験を多くの人たちにお話してくださるのももちろん、歓迎です
良い例として、あるいは悪い例として、
私の経験してきたことが今、どんな風に私の人生で活かされているのか、
また、少女時代の私と同じ思いを、今まさにしている子供たちが今いるとしたら、
保護者の方に気づいていただきたいからです。

両親の教育が厳しく 過干渉で 私にとっては、長くて、辛い少女時代でした。
特に厳しかったのは母でした。しかし母だけを責めているのではありません。
母は 明治生まれの姑の前で、私たち姉妹を懸命に育て、
社会に出ても恥ずかしくない子に育てをしなくては……という使命のもとでの
思いだったわけです。

当時は今のように、相談できる機関や話を打ち明けられる相手もなく、
母も苦しんだと思います 父も相談相手にはならなかったようです。

というのも 父は自分の父親を第二次世界大戦で亡くし、
顔を見た事もないまま育ったそうです。
私は今でも、ラバウル上空を通過するときは 胸が苦しくなります。

そして実の母は 姑に父を残して 再婚して出て行ってしまったそうです。
どれほどの想像を絶する悲しみを乗り越えたでしょう。

父は曾祖母に対して異常なまでの執着心を持ち妻より子供より、曾祖母
という感じでした。

そんな生活の中で 母は私たちを厳しく育てることと、しつけることで、
自分なりのアピールをしていたのかもしれません。

また 別の観点からすると 母は私たちの子育てを、はけ口としていたかも
しれません。そのことも否定できないと思っています。

では、姉にはなぜ私のような障害が起きなかったか。

私の姉は3歳年上のキャリアウーマンですが、
何をするにも要領がよく、賢く、そして心優しく 暖かい人間で、
身内の私が言うのも恐縮ですが 尊敬しています。

母やきびしい習い事の先生がおっしゃる非道徳的な言葉ですら、
「あの人、なにいってるんだろ。私のどこまでしってるっていうの?」と
冷静な受け止め方が子供の頃からできたようです。

私はといえば、まったく正反対。

母の期待にこたえよう。今、Dropoutしてしまえば お母さんが悲しむかとか、
そんなことばかり考えていました。

生真面目で いつも良い子でいなくてはならない。いつも良い点を取らなくてはならない。
お母さんが悲しむから。クラス代表に選ばれなくてはならない。母が望むから、と。

小学校3年生のとき、サンタさんに手紙を出しました。
サンタさんの存在を信じていたころ書いた、最後の手紙だったと思います。

内容は、「お願いです プレゼントはいりません ただ習い事を全部やめさせてください」
というものでした。

サンタさんが願いをかなえてくれなかったのは、これが初めてでした。

心療内科の先生はおっしゃいました。

「あなたのお父様もお母様も 強迫性障害 の可能性がある」と。

思い当たる節はいくつもありました これは遺伝する可能性のある
障害だそうです。

今年前半は、T市にある児童心療内科まで、Y男をつれて、月に一度通っていました。
Y男のためというよりは 私が息子と、どう向きあえばよいのか、
どう育てていけばよいのか、全くわからなくなり、心は八方塞になったからです。

今思えば あの半年間の通院は 心療内科の先生に会って私がカウンセリングを受ける
私のいわば治療であったように思います。

時がたつにつれて、私は私の方法で Y男と向き合っていけばいいと思うように
なりました。

なぜなら、私はY男の母親なのだから……。

こんなシンプルな答えにたどり着くのに 随分と遠回りをしたし、
これからもしてしまうことがあるのかもしれませんが、今は 安定した気持ちで、
Y男に接しています。

父はY男がおなかにいるときに脳内出血で倒れ、現在は、右半身不随の生活をしています。
それがわかった当時は、みんな私のBabyではなく、
父の病気のことにばかり関心をもって、情緒不安定になり、
母や夫に当たったこともありました。

しかし母は立派に父のパートナーとして、父の治療に徹底的につき合っています。

ひところは東京のホテルに3か月ほど暮らして、有名な先生の治療を受けていました。
けれど回復には限度があり 今は良くも悪くもならないように、
リハビリとして、朗読や華道、陶芸など様々なことにチャレンジしています。

また 現在では障害者対応の施設も多く 年に3回ほど旅行に出かけています
障害者仲間の皆様との出会いも 両親を大きく支えてくださっていると思います

で、父もあきらかな強迫性障害者です。

強迫行為といって 鍵を閉めたか、ガスの元栓は締めたか、
冷蔵庫はちゃんとしまっているか、
出かける前もふだんの生活の中でも、あまりにもしつこいこれらの行為に
私たちは障害のことは何も知らずに、へきえきしていました。(以上、2008年6月記)

Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●講演では……

 次回の講演時間は、90分。
シャドウ論にはふれても、ここに書いたことまでは、話せない。
あちこちを端折(はしょ)る。
あるいは時間の関係で、話せないかもしれない。
(ここまでのページ数は、34頁(40字x36行x34頁)。)
もともに話したら、これだけで講演会は終わってしまう。

 どうしようか?

 言い換えると、講演というのは、いかに端折るかの闘い。
時計を見ながら、「ここまで!」とか、「ええい、ままよ!」と投げ捨てるような形で、その話題か
ら遠ざかる。

 で、最後に一言。

 心の別室というのは、実はだれにでもある。
大小、程度の差はあるが、だれにでもある。
だから大切なことは、まず自分の心の別室に気づくこと。
子どもについても、そうである。
あなたの子どもは、どうだろうか。
心の別室をもっていないだろうか。
もっているとしたら、その別室には、どんな思いが入っているだろうか。
この原稿を手がかりに、それを探ってみたらよい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 心の別室論 ユング シャドウ論 シャドー論 抑圧された心、はやし浩司 い
い子論 よい子論 心をゆがめる子ども 子供)

(付記)

●ゆがむ子どもの心

+++++++++++++++

F県に住んでいる、YSさん(母親)から、
こんな相談が届いた。
転載許可がもらえたので、そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

おはようございます。
前回は夫との事についての返信ありがとうございました。
今のところ、ごくごく普通に(?)過ごしています。
(腹の立つこともありますが…。)



今回は、小1から不登校中の次女(小5)のことで、少し気になることがあったので
相談させてください。



つい最近、次女がとても怖いことを言い出しました。



「ナイフとか銃とかで、人を殺してみたい。あと、魔法が使えたら一回死んでみたい。 



 一回死んで、魔法で生き返る。飛び降りるのとか楽しそう。」



とか、さらっと普通の口調で言ったんです。



「魔法が使えなかったら、生き返らないね。」って言ったら、
「魔法が使えなかったらそんなことしない。」とは言っていましたが、とても不安で
怖くなりました。



「この世がつまらない?」って聞いたら、「べつに。」だそうです。



毎日家で普通に元気に過ごしているようにみえますし、会話も普通に
しています。
他に気になるような症状などはないと思っているのですが…。
これが本音ならどうしたらいいのか怖くなってしまいました。


5年生になってからの担任が熱心(?)で、今までよりも少し学校に関する
刺激は増えているかなとは思いますが、そのせいもありますか?
学校のことを聞いてみても、特別嫌そうな顔はしませんし、イヤだと言ったことは
すぐに引いてしつこくはしていません。



最近アニメが大好きで、アニメばかり見ているのですが、(ガンツという殺し合いの
映画も見ました)、戦いモノがあったりもするので、その影響?とも思ってはいますが…。 


半年ほど前にも「火をつけてみたい。」と言ったことがあったので、
次女の心の中はどうなっているのかとても不安です。



どうぞよろしくお願いいたします。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧は悪魔を作る」

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的な抑圧感が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったもの。
その一例として、H・フォスデックも、つぎのように言っている。
『Hating people is like burning down your house to kill a rat(人を恨む(憎む)というのは、ネズ
ミを殺すために、家を燃やすようなものだ)』と。
 ゆがんだ感情(劣勢感情、陰性感情、劣等感情)は、脳内ホルモンの分泌そのものにも大き
な影響を与える。
サイトカインを例にあげるまでもない。
サイトカインは、脳内ストレスを引き起こす。
それだけではない。
低体温を引き起こし、免疫機能を低下させる。
 もちろん精神活動にも大きな影響を与える。
YSさんの子どものばあい、表面的にはともかくも、かなりこころがゆがみ始めているとみる。
が、このタイプの子どもは少なくない。

●I君(小6)のケース

 I君は、父親が中学校の教師だった。
それもあって、教育熱心な家庭環境で生まれ育った。
ふだんは静かで、それなりに勉強もよくできた。
私の指示にも、素直に(?)従った。
 が、ある日、そのI君のノートを見て、びっくりした。
そこには血を出してもがき苦しむ人間の顔が、実にリアルに描かれていた。
ほかに「死」「殺」などの文字も並んでいた。
現実にそこに見る(I君)と、ノートに見る(I君)は、あまりにもかけ離れていた。
私はそれに驚いた。

●M子さん(中1)のケース

 M子さんは早熟で、体格もすでにおとなになっていた。
そのM子さんが、教室にプリクラ・ブックを置き忘れていった。
で、私はそれを「忘れ物コーナー」に置いた。
 が、翌日、そのブックが、騒動の種になった。
別の子どもがそのノートを開いた。
見て、ワーワーと騒ぎ出した。
ほかの子どもたちも騒ぎ出した。
 見ると、メモページには、全裸の女性が椅子に縛られ、性的拷問を受けている絵が、何枚も
描かれていた。
残虐な絵もあった。
そのM子さんの絵も、絵というよりは、写真を思わせるほど、リアルな絵だった。
 ただM子さんは、頭もよく、行動的で活発。
絵から想像するような陰湿さは、みじんもなかった。
 M子さんは、脳内で起きている性的エネルギーを、自ら抑圧し、それが原因で、心をゆがめ
ていた。

●抑圧

 心理学でいう「抑圧」を、安易に考えてはいけない。
私は「心の別室」と呼んでいる。
それについて書いた原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)
(電子マガジン・2009年7月15日より)

++++++++++++++++++++

よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。

こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。

が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。

++++++++++++++++++++

●抑圧

 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。

 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。

●上書きされない

 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。

 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。

 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。

 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。

●子どもの世界でも

 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。

 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。

 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。

●兵士のばあい

 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。

 が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。

●教授の殺害事件

 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。

 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。

●心の別室

 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。

 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか

 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。

 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。

 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。

 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。

 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。

 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。

 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)

(付記)

 心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。

 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。

 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。

(追記)

 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。

●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思春期の子どもの心理

 抑圧は、(1)内的抑圧と、(2)外的抑圧に分けて考える。
 内的抑圧というのは、欲望、願望、希望などが原因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不
完全燃焼感などを抑圧することをいう。
外的抑圧というのは、たとえばきびしい家庭環境、威圧的、権威主義的な親の育児姿勢が原
因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不完全燃焼感をいう。
 思春期前夜から思春期にかけては、この双方が、子どもの内部で起こりやすい。
それが結果として、子どもの心をゆがめる。

●すなおな子ども

 「すなお」というより、「さわやかな」と言い換えたほうがよいかもしれない。
このことは幼児を観ると、よくわかる。
 たとえば「野原と森、それに赤い屋根の白い家」を描かせてみる。
そのとき心がさわやかな子どもは、見ても、ほっとするようなやさしい絵を描く。
そうでない子どもは、どこか不気味。
もう30年前のことだが、こんなことがあった。
 お父さんとお母さんの絵を描かせていたときのこと。
M君(年中児)が、お父さんの顔を描き始めるとすぐ、その顔を真っ黒に塗りつぶしてしまった。
で、別の紙をあげ、もう一度描かせてみたが、結果は同じだった。
 しばらくしてから母親に理由をたずねると、母親はこう言った。
「実はあの前の夜、夫が蒸発しまして」と。
当時は突然の家出を、「蒸発」といった。
 その前後にも、似たような子どもがいた。
年長児の男児だったと思う。
その子どもは、父親の顔を描くのだが、体、とくに腕から手の部分を、鉛筆で真っ黒に塗りつぶ
してしまった。
母親に理由を聞くと、母親はこう言った。
 「主人(=父親)は、子どものころ大きな事故を経験し、右手が使えません。しかし息子がそ
んなことを気にしているとは、夢にも思っていませんでした」と。

●YSさんのケース

 それが内的抑圧によるものなのか、それとも外的抑圧によるものなのかは、わからない。
というのも、年齢的に、思春期に入っている。
脳内で起きている変化によるものであれば、内的抑圧になる。
しかし環境的に考えると、外的抑圧になる。
 どちらであるにせよ、先に書いた、欲求不満、不平、不完全燃焼感が、怒濤のごとく渦を巻い
ていると考えられる。
そのはけ口があればよいが、そのはけ口もない。
YSさんの娘は、きわめて閉塞的な環境の中で、袋小路に入ってしまっている。
 心理カウンセラー的な言い方をすれば、スポーツでも何でも、自分を発散させる場所を与え
ろということになる。
が、実は、これと並行して、「自我の葛藤」の問題もある。
●自我の同一性
 自我の同一性についても、たびたび書いてきた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Q: 最近わが子の親に対する話し方が気になります。
たとえば、私が何か「こうしなさい」と注意すると、「そんな法律がどこにあるの?」などと言ってく
るので、ついつい怒ってしまうこともしばしば……。
 これは反抗期なのでしょうか?
A:思春期最大のテーマは、「同一性の確立」(エリクソン)です。
(私はこうでありたい)という理想の自己像と、(現実の私)、つまり現実自己を、一致させようと
します。
一致した状態を「自我の同一性」と言います。その第一歩が、おとなの優位性の打破です。そ
れが「思春期の反抗」と考えてください。
 (悪態)もそのひとつ。「そんな法律がどこにあるの?」と。
それを許せということではありません。
それができないほどまでに、子どもを抑えてはいけないということです。カリカリするのはしかた
ないとしても、「ああ、うちの子は、今、児童期から青年期へと、脱皮を始めているのだ」と、一
歩退いて子どもを見ます。
 この時期、親意識(とくに「親に向かって何よ!」式の悪玉親意識)が強すぎると、子どもは親
の前では仮面をかぶるようになります。
自我の確立に失敗し、非行に走ったり、親子の間にキレツが入り、親子が断絶するケースも目
立ちます。
最悪のばあいには、自我の崩壊……。
ナヨナヨとした軟弱な人間になることもあります。
 親には3つの役目があります。 ガイドとして子どもの前に立つ。 保護者として子どものうし
ろに立つ。 そして3番目が重要ですが、友として子どもの横に立つ、です。
 悪玉親意識を捨て、子どもの友になるつもりで、子どもの横に立ってみてください。とたん、肩
の荷が軽くなりますよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言葉として発散させる
 YSさんの娘が慢性的な抑圧状態にあることは、まちがいない。
が、こうした抑圧は、多かれ少なかれ、どの子どもにもある。
それがない子どもは、いない。
YSさんは、自分の子どもを「異常」と思う必要はない。
平たく言うと、「この時期の子どもによく見られる現象」ということになる。
 あまりおおげさに考えないこと。
「バカなこと言ってないで、さっさと自分のことをしなさい」程度に、軽く受け流していく。
ただし何らかの行動をともなうようであれば、要注意。
 たとえば「殺したい」と言いつつ、ナイフを買い求める。
「死にたい」と言いつつ、その種の本を買ってくる。
あるいはペットなどに、残虐な行為を繰り返す。
リストカットをする。
 そういうことがあれば、「観察」の段階を超えているとみる。
学校を通して、専門医もしくは心理療法士を紹介してもらう。
「治療」を考えた指導に切り替える。
 で、同時に、「子どもは家族の代表」と考え、原因は家庭にあると考え、YSさん自身が猛省す
る。
「家庭は休む場所」「憩う場所」「心を休める場所」と心得、それに適した環境を娘に用意する。
そのときコツは、娘の中で、心の別室がどのように形成されているか、静かに観察、判断する
こと。
子どもの立場になり、子どもの心の中から、子どもを見る。
頭ごなしに叱ったり、注意しても意味はない。
ないばかりか、かえって症状を悪化させるので、注意する。
 以上ですが、ここの書いたことを参考に、子どもを観察してみてほしい。
何が子どもを抑圧状態にしているかがわかれば、解決策も自ずと見えてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 抑圧 心の別室 はやし浩司 自
我の同一性 はやし浩司 残虐な言葉 思春期の子どもの心 心のゆがみ ねずみを殺すた
めに家に火をつける はやし浩司 内的抑圧 外的抑圧)
Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【不安にかられる母親たち】(気をつけたい不安先行型育児観)

++++++++++++++++++++++

こういう世相。
EUの金融危機。
景気も悪い。
加えて原発事故。
雨が降るたびに、今日はだいじょうぶかと思う。
不安でいない人をさがすほうが、むずかしい。

++++++++++++++++++++++

●みんな不安?

 ある母親がテレビで紹介されていた。
関東地方のある都市に住む母親である。
その母親は1歳になる子どものために、野菜類は北海道や九州から仕入れているという。
たまたま野菜(キャベツ)を調理しているところだった。
キャベツの葉を一枚ずつめくり、水で洗い、さらにペットボトルの水で表面をこするようにして洗
う。
一枚ずつ、ていねいに、ていねいに……

 気持ちは、よくわかる。
心配なのは、よくわかる。

しかし……。

関東地方あたりまでくると、心配なのは、放射性物質だけではない。
環境ホルモン、農薬、食品添加物、遺伝子操作野菜などなど。
放射性物質は、その中のワンオブゼムに過ぎない。
しかも放射性物質というのは、水で洗って流し落とせるようなものではない。
野菜そのものの中に、取り込まれている。

 私はその番組を見ていたとき、20年近くも前の話を思い出した。

 ある母親が私のところへ来て、こう言った。
「相談したいことがある」ということだったので、相談にのった。
いわく、「今度、幼稚園で英会話を教えてくれることになった。
しかし講師の先生は、アイルランド人です。
アイルランドなまりの英語が身につくのではないかと、心配です」と。

 アイルランド英語というのは、たしかにある。
たとえば「w」の発音を長く言う。
たとえば「what」でも、「ウォーワット」と。
しかしふつう聞いて、それがアイルランドなまりかどうか、それがわかる人はいない。
……当時はいなかった。

 この時期、親、とくに母親は、何かにつけ、神経質になりやすい。
それが悪いというのではない。
とくに今回は、放射性物質である。
色も、においも、何もない。
それだけに、不気味。
恐ろしい。
それはわかるが、(正しく)心配しないと、ときとして過剰反応を引き起こす。
つまり、その母親にはきびしい意見になると思うが、(放射性物質への心配)と、(過剰反応)
は、別物。
どこかで一線を引かねばならない。

●限度

 さて、一般論。

 子育ては人生の一大事だが、しかしそれがすべてではない。
ほかの動物や植物とちがい、人間には、(限度)がある。
その限度を踏み越えてまで、子育てに埋没してはいけない。
わかりやすく言えば、本能は本能。
その本能に溺れてしまってはいけない。
……と書くのは、書きすぎだろうか。

 もちろんそれぞれの親には、それぞれの思いがある。
哲学もあれば、同時に心の問題もある。
だから子育てには基準もなければ、標準もない。
家庭の事情も、みな、ちがう。
私は私。
あなたはあなた。
人それぞれということになる。

が、それでも、「?」と思うことはある。
私の理解の範囲を超えることがある。
それが先に書いた母親である。
(だからといって、その母親のしていることが、まちがっているとかそんなことを書いているので
はない。
誤解のないように!)

 私が書きたいのは、こうした母親の反応に対して、だれかが適切に指導をしないと、それが
子育てのベースになってしまうということ。
放射性物質の危険性についても、そうである。
どの程度、危険なのか。
またどうすれば危険を防げるか、など。
経済的に余裕のある家族は、まだよい。
ペットボトルの水を、ふんだんに使うことができる。
そうでない家族は、どうなのか。

それもしないで、「今ただちに、害はありません」などというウソをつくから、母親たちは不安に
なり、心配になる。

が、その一方で、子育ての世界で、何が悪いかといって、過保護、過関心、過干渉、溺愛ほ
ど、悪いものはない。
子どもの心をゆがめるだけではない。
母親自身の心までゆがめてしまう。
育児ノイローゼもそのひとつ。

●父親の役割

 『母親は子どもを産み育てる』。
では、父親の役目は何か。
その答は、発達心理学の世界では、2つ用意されている。

1.母子関係の是正
2.社会性の構築
 
 「母子関係の是正」というのは、子育てというのは、母親だけに任せておいてはいけないとい
うこと。
父親がその間に割って入り、母子関係にクサビを打ち込む。
また「社会性の構築」というのは、要するに「狩りの仕方」ということになる。
自立して生きるための能力と技術を、子どもに授ける。 

●花柄パンツ

 が、この日本では、それが大きく狂った。
狂って、今の状況を生みだした。
その第一が、男性の女性化。
男性ホルモンの分泌が弱くなり、精子の数そのものも減ってきているという。
原因のひとつとして、環境ホルモン説が声高に叫ばれるようになって、もう15年になる。

 が、原因が何であれ、10年単位で、子どもたち、とくに男児の質が変化してきたことは、まぎ
れもない事実。
35年前、花柄パンツをはいている高校生を知って、私は驚いた。
中日新聞でのコラムで、それについて書いた。
が、今では、小学生でも赤やピンクのパンツ(下着)を、ごくふつうにはいている。

 どんなものを着ようが、中身(精神力)とは関係ない。
それはわかるが、私が感ずるこの違和感は、いったいどこから来るのか。

●母子関係の是正

 母子関係は、濃密なものである。
それもそのはず。
子どもは母親の胎内で、10か月近く過ごす。
生まれてからも、母親から乳を受ける。
が、そのままの状態が、正しいというわけではない。

 概して言えば、母子関係が是正されないと、子どもはマザコン化する。
これには男児も女児もない。
(「マザコン」というと、母親と息子だけの関係と思う人は多い。
しかし実際には、母親と娘の関係においても、子どもがマザコン化することも、それ以上に多
い。)

 子どもは自立できないまま、母親とベタベタの人間関係を構築する。
子どもと母親が一体化する。
母親は母親で、そうであることを、親の深い愛によるものと錯覚する。

●一億、総マザコン

 が、今では、マザコン化していない子どもを探すほうが、難しい。
おとなでも、難しい。
本来なら、父親が、その間に割って入り、母子関係を是正しなければならない。
が、その父親自身が、マザコン化している。
自分の子どもが母親との関係で、マザコン化していても、それに気がつかない。
またそうであることを、よい親子関係と思い込んでいる。 

 こうして日本人全体が、一億、総マザコン化した。
このことと直接結びつけてよいかどうか、わからない。
しかし「草食系」という言葉も、そこから生まれた?
どこかナヨナヨし、ハキがない男性(女性)を、「草食系」というらしい。
平たく言えば、野性的なたくましさに欠ける。

 それが悪いと決めつけるわけにもいかない。
しかし今では男性でも整形をほどこし、朝の化粧に、半時間もかける。
が、こうした現象は、少なくとも、私が若いころには、考えられなかったことである。

●国際経済

 時、折しも、世界的なリセッション(景気後退)期。
今朝のニュースを読んでも、明るいことは何もない。
EUの崩壊すら、可能性として論じられるようになっている。

 もちろん日本の経済に与える影響も、深刻。
すでに日本国債の金利もジワジワと上昇し始めている。
1000兆円以上という借金をかかえ、日本は今、身動きが取れない状態にある。
へたをすれば、日本経済はこのまま奈落の底へ落ちていく。
あの3・11大震災の前ですら、「(日本経済の崩壊は)、可能性の問題ではない。時間の問題」
と言われていた。
書店に並ぶ、経済誌は、みな、そう書いていた。

 が、そこへあの3・11大震災。
「復興特需」とやらで、皮肉なことに経済は一息ついたが、しかし根本的な問題は何も解決して
いない。
むしろ悪化している。

●マスコミの責任

 私も今回、EUが、こんなひどい状況とは知らなかった。
たとえばスペインにしても、建設途中で放棄されたマンションや別荘が、あちこちにある。
セスナ機しか着陸できないような飛行場の周辺にまで、リゾート地を建設したところもあるとい
う(報道)。
そのあたり一帯は、ゴーストタウン化している。

 しかしそれとて、ネットで知ったこと。
テレビではない。
むしろテレビのほうは、「世界のグルメ、食べ歩き」とか、「列車の旅」とか、どこかノー天気な番
組ばかりを流している。……流していた。
あるいは意味のないバラエティ番組ばかり。

ギリシャにしても、そうだ。
チャンネル数もふえた。
画面も美しくなった。
旅行番組的なものは、見た記憶がある。
しかしギリシャの現状は、ネットで調べて私ははじめて知った。

 これを「大本営発表」と言わずして、何という。
報道の精神は、どこへ消えた?
あるいは、報道とは何か?
どうしてNHKならNHKでもよいが、「今、スペインはこんな状況になりつつある」というような報
道を、どうしてしてくれなかったのか。
それがあれば、被害者は、もっと少なくてすんだはず。
銀行や証券会社に勧められるまま、インチキ外債を買わされた人は、ゴマンといる。

●「現実内」

 冒頭の母親には悪いが、そんなことで放射性物質を避けることはできない。
放射性物質というのは、いわば空気のようなもの。
空気以下の、「気
のようなもの。

 どんな形であれ、1年とか2年とか、そういう年月をかけ、ありとあらゆるものから浸み込んで
くる。
今、身に着けている衣服からも、浸み込んでくる。
風呂の水からも、浸み込んでくる。
その母親がどうこう書いているのではない。
この日本は、また東京電力は、それほどまでに深刻な事故を引き起こしてしまったということ。
また原子力発電所というのは、それほどまでに危険なものであるということ。

「想定外」などという言葉に、だまされてはいけない。
そこに原子力発電所があり、日本は地震国であるという事実は、「現実内」である。
そしてこの先、多くの国民が、その後遺的症状に苦しむことになる。
これもまぎれもない「現実内」である。

●無力感

 この無力感。
この脱力感。
そういう母親がそこにいても、またそのそばに子どもがいても、みなが見て見ぬフリをしてい
る。
正直に、「そんなことをしても、あまり意味がありませんよ」と伝える人もいない。
本来なら、そういう不安をかかえる母親や子どもを、もっと遠くに避難させるのがよい。
しかしその国力は、もうこの日本にはない。
ないから、放射性物質を避ける、ひとつの方法として、こうした母親の行為を全国に流してしま
う。

 おそらくあの番組を見た多くの母親たちは、同じことを始めていることだろう。
キャベツの葉を一枚ずつめくり、水で洗い、さらにペットボトルの水で表面をこするようにして洗
う。
何とも痛ましい光景だが、だれがそうした母親たちの行為を批判することができるだろうか。

●終わりに……

 放射性物質はともかくも、(不安になってもしかたないと思うが)、親のもつ不安感は、かなら
ず子どもに伝播する。
何かにつけ、親は不安先行型の子育てをしてしまう。
子ども自身も、不安の連鎖から抜け出られなくなってしまう。
またそれが一度、子育てのリズムになると、そのまま親の育児観として定着してしまう。
親子関係の基本になってしまう。
子どもが20歳を過ぎても、30歳を過ぎても、「不安だ……」「不安だ……」となってしまう。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉になったり、過関心になったりする。
症状は様々だが、子どもの精神の発育にも、悪い影響を与える。
子ども自身も自立できなくなってしまう。
今回の放射性物質の問題はともかくも、不安先行型の子育てには、注意したらよい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 親の心配 不安 不安先行型子育て 過剰心配 神経質になる母親 はやし
浩司 過干渉 過関心)はやし浩司 2011−11−26記

+++++++++++++++

不安先行型の子育てについて書いた
原稿を探してみる。

+++++++++++++++

●パソコンの傷

 子どものことでトラブルが起きたら、一に静観、ニに静観、三、四がなくて、五に親に相談。
少子化の流れの中で、親たちは子育てにますます神経質になる傾向をみせている。
そうであるからこそなおさら、「静観」。
子どもにキズがつくことを恐れてはいけない。
子どもというのはキズだらけになって成長する。で、ここでいう「親」というのは、一、二歳年上
の子どもをもつ親をいう。
そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありましたよ」「あら、そうですか」というような会話
で、ほとんどの問題は解決する。

 話が少しそれるが、私は少し前、ノートパソコンを通信販売で買った。
が、そのパソコンには一本のスリキズがついていた。最初私はそのキズが気になってしかたな
かった。
子どももそうだ。子どもが小さいうちというのは、ささいなキズでも気になってしかたないもの。こ
んなことを相談してきた母親がいた。

何でもその幼稚園に外人の講師がやってきて、英会話を教えることになったという。
それについて、「先生はアイルランド人です。ヘンなアクセントが身につくのではないかと心配で
す」と。
子育てに関心をもつことは大切なことだが、それが度を超すと、親はそんなことまで心配するよ
うになる。

 さらに話がそれるが、子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑
う。
症状としては、つぎのようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。
育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、
子どもが犠牲になることも多い。

 要するに風とおしをよくするということ。
そのためにも、同年齢もしくはやや年齢が上の子どもをもつ親と情報交換をするとよい。とくに
長男、長女は親も神経質になりやすいので、そうする。……そうそう、そう言えば、今では私の
パソコンもキズだらけ。
しかし使い勝手はずっとよくなった。そういうパソコンを使いながら、「子どもも同じ」と、今、つく
づくとそう思っている。(中日新聞発表済み)

Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【子育てが不安でならない】

●【佐賀県にお住まいの、Kさん(母親)より、はやし浩司へ】


++++++++++++++++++++++++++++++

佐賀県にお住まいの、Kさん(母親)より、こんな相談のメールが
届いています。
子どもの不登校の問題です。
この問題を、みなさんといっしょに、考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++++++++++++

【Kさんより、はやし浩司へ】

こんばんは。

メールのお返事本当にありがとうございました。パソコンに不慣れなもので、このメールも送れ
ているのか心配ですが・・・。

文字化けした部分は母子登校を続けるべきなのかということです。学校恐怖症というのも拝見
しました。

実は今日先生とお話して明日から送迎はするけれど、教室まではついていかないようにすると
いう取り決めをしてきたのです。でもメールを拝見するとそれはかえってよくなさそうです
ね・・・。

でも私のなかでまだ学校は行かなくてはならないところという気持ちが、100%に近いです。引
きずってでも連れていくのは、私はしたくありませんが、私がついていくなら学校へ行くというな
らついていって連れていくべきなのでしょうか? そして教室にいるべきでしょうか? 私自身、
教室にいるとほかの子と比べたり、なんで私だけここにいるのだろうと、悲しくなってきます。

親としては今行かないとずっといけなくなる不安が襲ってきます。これが高学年とか中学生なら
休ませているでしょうが、私は低学年からいかないなんて、どんな将来があるのかと思ってしま
います。

今までの息子に対する子育ては本当に大変でした。まわりの人たちに、いい子だねとよく言わ
れるのです。私はそれがずっと嫌で私が息子に圧力をかけてしまっていたと反省の日々でし
た。私の身近に精神病を抱えた人がいて、その人がまさに小さい頃いい子だねとか親のいうこ
とをよくきく子ででもある時から親を困らせていて、自分もこんな未来が待っているのかと毎日
考えてしまいます。

息子はとにかく人前ではにこにこ明るくあまりもめごとをしないことです。でも今まで家ではいち
いち文句いったり、癇癪をおこしたり、てこずる場面が多くて障害があるのかと考える時もあり
ます。

私からみた息子は感受性が強く、小さな頃から大人の会話に混ざろうとしたり、まだわからなく
ていいことがわかったり、カンが強くていろんなことをわかりすぎる半面、幼さゆえに処理しきれ
なくて悩むといったところが、私の見たところだけですが、そう感じます。

よくいろんなことに気がつくしいろんな状況をみて判断したりできる半面、あんなことできるのに
ここができないの?と、思ってしまう部分もあります。小さなときから大人と話しているみたい
で、私も子供ではなく大人と話している気分になってしまい、息子の返答がおかしなときに、子
供らしいと思ったり、大人っぽくみずぎて、この子おかしいと思ったりしてしまいます。ついつい
7歳ということを忘れてしまいます。

気になる点は多々ありますが、なかなか次の行動にすんなりうつることができないことです。お
風呂とか小さいころからすんなりいきません。あと記憶力がものすごいです。こちらがこわくな
るほどです。

息子は本当に今まさに私の不安定さを見事に見抜いています。ついついぼーっとしてしまうと
楽しくないの?とか、ご機嫌取りしにきます。分離不安の症状がでてから、すごく私の言うことを
聞こうとしていて、私はそれが気持ち悪いのです。今の私は息子に対して否定的でほんとにい
けないなあとおもいます。

たぶん何か言ったことに対して反抗的ならほんとうにこの子は言うことを聞かないからおかし
い、と思い素直に、はいと返事されると気持悪いしといったかんじです。今は見捨てられ不安の
ためすごく言うことを聞いていたり、わかっていることをわざわざ言いにきたりそういうときに、
私がいらっとした態度や表情をしてしまいます。

先週、学校に行けなかったときに水族館に出かけてきました。そのこともまわりから賛否両論
で私は家で、テレビを見たり、ゲームをやってたら腐っちゃうと思って連れ出したのですがまわ
りから楽しませたら、余計行きたくないんじゃないかといわれましたが、メールをみて安心しまし
た。

今の私は日々が辛くて辛くて、もしもう一度人生があり、結婚したならば子供を持たないという
選択をしてしまうぐらいどん底です。かけがえのない宝なのですが・・・今の私は子育てが辛い
です。でも守るのは私たちしかいないですもんね。私自身、小さなころから感受性が強く、今の
息子みたいにいろいろなことを感じてしまい、辛い思いもしてきて、今の息子をよみとろうとしす
ぎる部分も、私自身を追い込んでるきがします。間違ってとらえたりもしているだろうけど、昔の
自分と重ねてしまっているなあと思います。

書きたいことがいろいろありすぎて何からかけばいいのか、てんでばらばらな文章になってしま
いましたがすみません。きっと忙しい方だからメールくるなんておもってもみませんでした。本当
にありがとうございます。少し気持ちが楽になりました。またきっと不安になってメールすると思
います。よろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Kさんへ】

 「子どもを、全幅に心を開いて信じきれない、母親の葛藤」ということになります。
子どもというのは、親の心をそのまま引き継いでしまいます。
親が「不安だ、不安だ」と思っていると、子どもの方も、自分に自信がもてなく、自己評価力をさ
げてしまいます。「ぼくは、ダメな子なんだ」とです。

 そういう点では、子どもは、親の(思い)どおりの子どもになるということです。
「うちの子は、すばらしい」「できがいい」と思っていると、その子どもはハツラツとしてきます。そ
うでないと、そうでない。
不安先行型の子育てのこわいところは、ここにあります。
Kさんの不安、心配は、恐らく妊娠したときから始まっています。
それが出産→育児→現在……とつながっています。

 原因は、母子関係の不全ということになりますが、さらにさかのぼれば、Kさん自身と、Kさん
の母親との関係が、疑われます。
KさんとKさんの母親との関係も、不全だったということになります。
これを子育ての世界では、「世代連鎖」と呼んでいます。
つまりKさんは今、自分が受けた子育てを、そっくりそのまま、自分の子育てで再現していると
いうことです。

 Kさん、あなたは、あなたのお母さんの前で、いい子(=人形子)だった。
言いたいことも言えず、がまんし、心を開いて、甘えることもできなかった。
あなたはいい子でいることで、母親に認められようとしていた……。

 少しきびしいことを書きましたが、実のところ、あなたは自分の子どもにさえ心を開けないで
います。
ひょっとしたら、あなたの夫に対してさえも、心を開けないでいるのかもしれません。
「もっと心を開きなさい!」と書きたいのですが、この問題を解決するためには、この先、5年と
か、10年とか、長い年月がかかります。

 しかしそうであることに気がつけば、長い年月をかけても、この問題は解決します。
そのつど努力して、自分の心を開いてみてください。
(いい人)ぶるのを、やめるのです。
居直るのです。
「私は私だ」と、です。

 で、今、あなたの子どもが、同じことを繰り返しています。
あなたはそういう子どもの中に、自分の過去を見ています。
それが不安の原因と考えてください。

 昨日もらったメール(一部、文字化け)を、そのまま紹介させてください。

++++++++++++++++++

【Kさんより、はやし浩司へ】

息子の分離不安で悩んでおります。9月の5連休ごろから様子がおかしくなり、ママがいなくな
るのが怖いといい、登校しぶりがでています。保育園時代から毎年年に1回1か月ほど登園拒
否があります。いつも秋ごろでだいたい同じ時期にでます。年中までは登園拒否でしたが、マ
マがいなくなるという不安を訴えるのは、去年の登園拒否のときからです。

その時は1か月ほどでぱたっとなくなりました。でもまた今年も同じ症状がでて対応にこまって
おります。家の中でも私を探したり、友達と遊びに行くのもお迎えの時間を何度も確認して絶対
迎えにきてねと念をおします。現在学校へは母子登校しています。今身体的にでている症状は
腹痛、頭痛、吐き気、チックです。

特に朝腹痛をうったえます。授業中も集中力がとぎれると、おなか痛い、寒い、疲れた、もうや
りたくないと私に助けを求めます。頑張れている時もあるのですが、私が学校にいることが彼
にとっていいのかぎもんです。私がいることによって甘えがでてしまい逃げ出す姿勢にさせてし
まっているのではないかとおもってしまいます。先生は無理して学校にこなくていい、早退す
る?それともお母さんにずっといてもら

……(以下、文字化け)……

……息子には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。ちいさなころから甘えさせてなかった
り突き放した態度ばかりで下の子たちの入院で1か月以上離れて生活したり、執拗に怒りすぎ
たり手もあげたりしました。本当に今は反省の日々です。もう過去にはもどれないけど今からで
も間に合うのでしょうか。彼の心に傷をつけたと自分を責める毎日です。

小さなころから育てにくく癇癪をおこしたり、何か障害があるんじゃないかと思ったこともありま
す。ここに書ききれないくらいいろいろありますが今家族みんなが不安定で下の子たちも不安
定になっていきて私自身子育てが辛すぎて苦しい日々です。少しでもお力を御貸しいただける
ことを、ねがっております。

++++++++++++++++++

【Kさんへ、はやし浩司より】

 子どもは、あくまでも家族の(代表)です。
子どもに何か問題(?)があると、親は、懸命に、子どもに向かってそれを直そうとします。
しかしこの見方は、親の身勝手というものです(失礼!)。
子どもに何か問題が起きたら、まず自分を疑ってみる。
子どもは、家族のかかえる問題を、別の形で表現しているだけです。
「代表」というのは、そういう意味です。

 以下、気がついたことを、箇条書きにしてみます。

●「どうしてうち子だけが……


 子どもに何か問題(?)が起きると、ほとんどの親は、「どうしてうちの子だけが……」と悩みま
す。
これは共通した親の心理と考えてください。
しかし実際には、問題のない子どもはいないし、みな、そうした問題をかかえながら、必死に闘
っているのです。
(外からはわかりませんが……。)

 Kさんのメールを読んでいて気になるのは、その視野の狭さ(失礼!)です。
読んでいるだけでも、読んでいる私の方が窮屈に感ずるほどです。
「学校とは、100%、行かねばならないところ」という部分もそうですが、人生観そのものが、狭
い(失礼!)。
「まだ幼いうちからこうでは、先が心配でならない」という部分も、そうです。

 Kさんの子どもは、いわば、心の風邪をひいて、熱を出している。
それを見て、「将来が心配」は、少し飛躍しすぎています。
それともKさん自身が、子どものころ、「学校とは行かねばならないところ」と、親にも迫られ、K
さん自身も、そういう形で、自分を追い込んでいた(?)。
学校神話というのは、それを言います。
日本人は、明治の昔から、そういう意識を叩きこまれていますから、それが今でも亡霊となっ
て、親や子どもたちを苦しめているのです。

 アメリカ人でも、オーストラリア人でも、彼らは、学校に対して、もっとおおらかに考えています
よ。
カナダ人は、もっとそうです。
学校の設立そのものが、自由です。
教科書なんて、もちろんありません。
どの子も、小学生のときから、落第(ドロップアウト)を自由に経験しています。

 が、日本人だけは、「学校、学校、学校……!」と。
バカみたいと言ったら、失礼かもしれませんが、少なくとも外国の人から見れば、そうでしょう
ね。

●母子登校

 母子登校など、何でもないことですよ。
いっしょに学校へ行ってあげてください。
他人の目が気になるようでしたら、そういう人たちは、河原の石ころとでも思えばよいのです。
まず、あなた自身が、心を開き、大きくなることです。
子どもの心だけを見て、行動すればよいのです。

 最近では、子どもを見る親たちの姿勢も変化してきました。
あなたが明るく、さわやかに母子登校をつづければ、みなも、あなたを暖かく見守ってくれるで
しょうし、あなたのすばらしさ(=度量の広さ)に感銘を受けるはずです。
もっと自分に、そして自分のしていることに自信をもちなさい!

 「私はすばらしい親だ」とです。

 ただ誤解がひとつ、あります。
症状だけを見ると、母子分離不安症のようにも思えますが、神経症による症状もいくつか出て
いますので、やはり「学校恐怖症」に準じて考えたほうがよいでしょう。

 7歳という年齢からして、母子分離不安症だけでは、そういった症状は出てきません。
学校恐怖症については、「はやし浩司 学校恐怖症」で検索してみてください。
(これは前回の返事で書いたとおりです。)

 ときどきパニック状態になりますが、どうかじょうずに、パニック期を乗り越えてください。
コツは、「学校恐怖症」のところで書いたように、無理をしないことです。
ここで無理をすると、本当に不登校児ということになってしまいます。
しかも、長期の、です。

●カルト抜き

 Kさんの心には、学校神話が、骨のズイまでしみ込んでいます。
「学校絶対教」と言ってもよいかもしれません。
それを抜くのは、たいへんなことです。

 しかし現実には、アメリカだけでも、ホームスクーラー(=家庭で教育を受ける子ども)が、20
0万人を超えていますし、EUでは、さらに教育が自由化されています。
みんな学校などほったらかしで、クラブ活動に専念しています。
そういう(自由ぽさ)を見るたびに、「何だ、この日本は!」と、私は感じてしまいます。
あえて言うなら、Kさんも視野を広めて、もう少し高い視点から、一度、子育てを考え直してみた
らいかがでしょうか。

 大切なことは、子どもが生き生きと、自分のしたいことをしながら、自分を見つけていくことで
す。
Kさんは、自分の子どもがいい子ぶることを心配していますが、そういう子どもにしているの
は、Kさん自身なのですね。
つまりあなた自身が、子どもにその「型」をあてはめようとしている。
子どもにしても、あなたは息苦しい母親だと思います。

 何をしても、親が心配そうな目つきで、自分をながめている。
何をしても、「あれはだめ」「これはだめ」と言われる。
私があなたの子どもだったら、「バカヤロー!」と言って、家を飛び出してしまうかもしれません
よ。

 仮に、あなたの子どもが学校へすんなりと通うようになっても、あなたの心配や不安は消えま
せん。
あなたはまた別の新たな心配や不安の種を見つけてきては、心配し、不安に思うのです。
「うちの子は、B中学校に入れるかしら?」
「友だちと仲よくやっていかれるかしら?」とか、など。

●これはあなたの問題です

 あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。
目が一方的に、子どもの方ばかりに向いている。
過関心というのは、今のあなたのような状態をいいます。

 親ではなく、妻でもなく、女でもなく、ひとりの人間として、したいことをさがし、それに向かって
進みます。
そういう形で、自分の中から、子どもを消していきます。

 (あるいは、これはあくまでも私の推測ですが、ひょっとしたら、あなたは、あなたの夫に対し
て、おおきなわだかまりをもっているのかもしれません。
不本意な結婚であったとか、あるいは愛情を感じない結婚生活であったとか、など。
それが子どもの問題として、転移している(?)。
そういう可能性もありますから、一度、考えてみてください。)

 どうであるにせよ、ここは自然体で!
あまり深く考えないで、学校の先生と相談して、母子登校が必要であれば、すればよいでしょ
う。
「取り決め」などという、恐ろしい言葉は使わないこと!
そんなものを取り決めて、どうするのですか?
子どもの心と、そのときの状況を見て、自然体で判断してください。

 また、今、そうであるからといって、この先も、ずっとそうであると考えてはいけません。
そういうのを、「取り越し苦労」と言います。
へたをすれば、あなた自身が、育児ノイローゼ(=うつ病)になってしまいます。
すでにその傾向が強く見られます。

 それについても、「はやし浩司 育児ノイローゼ」で検索してみてください。
いくつか記事をヒットできるはずです。

●子どもが親を育てる

 悪いことばかりではありません。
今、こうして問題にぶつかりながら、実は、あなたは成長しているのです。
あなたは自分の子どもを見ながら、自分の過去まで見ようとしている。
自分を知ろうとしている。

 コツは、「十字架のひとつやふたつ、背負ってやろうではないか」と居直ることです。
その思いっきりのよさというか、割り切りが、あなたの心に風の穴を開けます。
風通しをよくします。

 大切なことは、今、そこにある(運命)を受け入れてしまうということです。
あなたの子どもがそうであるなら、そうであると、受け入れてしまうことです。

 運命というのは、それを避けようとすればするほど、キバをむいて、あなたに襲いかかってき
ます。
しかし一度受け入れてしまえば、向うから、シッポを巻いて退散していきます。
童心に返って、母子登校を、いっしょに楽しみなさい!
楽しむのです。
人生は一度しかありませんよ!

 それにそういう思い出……つまり、子どもの心を守り切ったという思い出ほど、あとあと光り
輝きます。
親子の絆をすばらしいものにします。
仮に万が一、不登校児になったとしても、です。

 そしてあなたはあなたで、自分の運命を受け入れます。
もうそろそろその時期に来ています。
「私は私」と、自分を受け入れてしまうのです。

 そこは実におおらかで、すがすがしい世界です。
『あきらめは、悟りの境地』という格言は、私が考えた格言ですが、あなたも一度、経験してみ
てください。

●では、どうするか?

 『許して、忘れる』……何か苦しいことがあったら、この言葉を、心の中で何度も念じてみてく
ださい。
昔、私が学生のとき、オーストラリアの友人が教えてくれた言葉です。
私の子育て観の根幹にもなっている言葉です。

 これも、「はやし浩司 許して忘れる」で検索してみてください。
その意味をわかってもらえると思います。

 それとやはり心配なのは、Kさん、あなた自身の心の問題です。
私にも似たようなところがあります。
そういうときは、カルシウム分、カリウム分、マグネシウム分の多い食生活(=海産物)に心が
け、あとはハーブ系の安定剤を服用しています。
内科でも、軽い安定剤を処方してくれますので、ひどいときには、それを口の中で溶かしてのん
でいます。

 一度、ドクターと相談してみてください。

(1)求めてきたら、すかさず。
これについては、先に書いたとおりです。

(2)二番底、三番底に注意
こうした問題には、必ず、二番底、三番底がありますから、注意してください。
多くの親は、こうした問題をかかえると、「今が最悪」と思います。
しかしその下には、さらに最悪の状態が、待ち構えています。
ですから、「最悪」と感じたら、今の状態をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。

なおそうとか、そういうふうに考えていけません。
とにかく現状維持です。
今は、何とか学校に通っていますから、今の状況を大切に!
あとは半年単位、1年単位で、子どもの様子を観察します。
1〜2週間程度の範囲で、一喜一憂してはいけません。

また今こそ、あなたの真の愛が試されているときです。
親は子どもを産むことで、親になりますが、しかし真の愛への道は、遠くて険しいものです。
ですから勇気をもって、前に進んでください。
そういう姿に、みなが、気高さを感ずるようになるでしょう。

顔をゆがめてはいけません。
暗い表情をしてみせてはいけません。
明るく、さわやかに、みなにこう笑って言うのです。

「ハハハ、うちも母子登校ですよ」と。

(3)先生と父親との連携プレーを大切に
この問題は、あなたひとりでは、荷が重すぎます。
ですから、学校の先生や、あなたの夫との連携プレーを大切に。
今のあなたはひとりで問題を抱え込みすぎています。
自分に責任を求めすぎています。

いいですか、今、あなたがかかえている問題など、何でもありませんよ!
今どき、不登校など、何でもない問題です。
母子登校にしても、保健室登校にしても、何でもない問題です。
それで子育てに失敗したとか、私はだめな母親だとか、そういうふうに考えて、自分を追い詰
めないこと。

私のマガジンでも読んで、もっと視野を広くしてください。

たまたま昨日、別の母親から、こんなメールが届いています。
紹介します。

++++++++++++++

M件のEさんより

++++++++++++++

はやし浩司 様

いつもHPの記事で勉強させていただいております。
5歳の息子と2歳の息子がいます。
先生があちこちで何度もおっしゃっている通り、
上の息子に対しては、不安先行、心配先行の子育てをしてきました。
(今でもその気はまだあると思います…)

若干、上の息子に神経質な面があると感じられるのは、そのせいだと思います。

…ここまで書いて、あとが続かず、そのままメールソフトの下書きに保存していました。

当時、5歳と2歳だった息子は、7歳と4歳になりました。
上述のようなことを自分で書いていたことが信じられないほど、
今は、楽な気持ちで子どもと過ごしています。

イライラしたりすることもありますが、
子どもたちに対して、不安や心配に思うことは、ほとんどありません。

子どもたちを見て、そのままでいいと思い、細かいことにこだわらない。
それだけで、こんなに楽になるとは思いませんでした。

神経質な面があるなと思っていた上の息子が、
意外と動じないところがあったり、飄々としていたり、
こんな子だったんだ、と面食らう思いです。

下の息子は、最初から、ものすごくあけっぴろげで、
いつもニコニコしており、
「ありがとう」「ごめんね」「可愛いね」「きれいだね」
という言葉を、なんのてらいもなくスッと口にできる子どもです。
荷物を持っていれば、「持ってあげる!○○、力持ちだから!」と言い、
私が台所で何かしていると、「手伝ってあげる!これ、洗うね」と言い、
うーん、逆にオジャマなんだけどなぁと苦笑しつつ、
苦笑してしまうしかないくらい、ものすごく可愛げのある子どもなのです。

この下の息子が、非常にストレートに愛情を表現し、
上の息子は、それに比べるとわかりにくい感じだったのですが、
ここ最近は、素直に甘えてくるようになり、ああ、なんだか変わったなぁと思っています。
私の受け取り方、見る目が変わっただけかもしれません。

子育ての癖・心の癖は、なかなか治らないものだと思いますので、
できるだけ頻繁に先生の記事を読み、
いつも頭の中にあるよう、意識して心がけて行きたいと思っています。

これからも、どうぞよろしくお願いします。
先生とご家族の皆様のご健康をお祈りいたします。

++++++++++++++

【Kさんへ】

 では、今朝はこれで失礼します。
「心を解き放て! 体はあとからついてくる!」

 おはようございます。

浜松市・はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

**************2011年11月26日まで**************













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児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼
児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
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読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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