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【17】
2011年  5月  4日〜 7月  3日

*************2011年5月4日*****************

【日本海vs東海】(?? vs. ???)

●Goo−Blogだけで3000件!(5月4日)

++++++++++++++++++

昨日、Goo−Blogだけで、
アクセス数が、3000件を超えた。
しばし、その数字に見入る。

3000件!

出版社にもよるが、中小の出版社では、
初版として印刷する部数は、3000部。
よくて5000部。
3000部で、全国の書店に、1〜2冊並ぶ。

一方、大手の出版社では、1万〜1万2000部。
が、これとて10年前の話。
今は、もっと少ない?

「昔なら、初版部数の数」と思った。
「3000」という数字は、そういう数字。
その3000部が、たった1日で、売れた。
……中身はちがうが、私は、そう思った。

改めてインターネットのもつ力に、驚く。

が、もちろんそれだけではない。
HPの「BW公開教室」だけでも、700件。
YOUTUBEへのアクセス数(インサイト情報)
だけでも、1000件。
ざっと計算しても、毎日、2万人近い人たちが、
私の原稿やビデオに目を通している。

ただ、みながみな、好意的というわけではない。
中には、反感を覚えながら読んでいる人もいる。
「2万人」といっても、重複している人もいる。
チラッと読んで、そのまま去っていく人もいる。
先に「中身はちがうが」と書いたのは、そういう意味。

しかしそれにしても、すごい。

しかも世界中の人たちが、読んでいる。
FC2のアクセス記録サービスを使うと、県別のほか、
国別のアクセス数までわかる。
県別では、静岡県、東京都、大阪府が多い。
国別では、日本につづいて、アメリカが多い。

ついでに今では、IP番号から、その読者の
住んでいる地域まで、わかるようになった。
個人名までは特定できないが、○○県○○市
○○町程度までは、わかる。
相手が知人だと、「ああ、これはあの人だな」という
ところまでわかる。

この世界は、いったい、どこまで進歩するのか?
おもしろいというか、どこか恐ろしい。

++++++++++++++++++++はやし浩司

●「東海(トンヘ)」問題 (?? vs. ???)

 『坊主憎ければ……』とかいうが、韓国は、「日本海」という名称が、よほど、気に入ら
ないらしい。

 で、韓国政府は、全世界の各国に「特使」まで送って、「日本海」を「東海」へ変更しよ
うと努力している。
(「特使」だぞ! わかるか!)

が、どうして「東海」なのか。
これほどまでに自己中心的な発想はない。
もしロシアが、「太平洋を『東方洋』にせよ」と主張したら、世界はロシアをどう思うだろ
うか。

 ついでに韓国は、黄海を、「西海」にしようとしている。
そうでも言わないと、バランスが取れないからだ。
が、無理は無理。
韓国政府も、やっとそれに気づき始めた。

 中央日報(韓国)は、つぎのように伝える。

  『韓国政府は国際社会の東海(トンヘ、日本名・日本海)表記と関連し、「東海」と「日
本海」を併記すべきだという意見を国際水路機関(IHO)に提出したと、政府当局者が
1日明らかにした。 

  当局者は「IHO側が2日までに東海表記に関する公式意見を伝えてほしいと要求してき
た」とし、「東海単独表記主張は成功する可能性がないと判断した」と説明した』(5月4
日)と。

 繰り返すが、どこの国に対して、「東」なのか?
日本にとっては、日本海は、「北海」。
あるいは、「北西海」。
もしこんなメチャメチャな改名が許されるとしたら、それこそ世界は、大混乱。
「東海」だけでも、世界中に、何千も生まれる。

 ついでに……

対馬海峡→(韓国の)南海
東シナ海→(台湾の)北海
台湾海峡→中国海峡
南シナ海→北フィリッピン海
フィリッピン海→グアム海などなどとしたら、どうか?

そのうちベンガル湾も、インドの東にあるということで、「東海」になるかもしれない。
アラビア海は、パキスタンの南にあるから、「南海」になるかもしれない。

 特使まで送って改名させようとしているところが、すごい。
……というか、バカげている。

 原稿をさがしてみたら、2007年の5月に、同じ原稿を書いているのがわかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●またまた「東海(トンヘ)」?(2007年5月記)

Why should the Japan Sea be the Eastern Sea?
The Japan Sea is situated to the east of Korea, 
but is situated to the north to Japan.

++++++++++++++++++

韓国にとっては、東海(トンヘ)かも
しれないが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。

どうして韓国は、こうまで「東海」に
こだわるのか?

++++++++++++++++++

 『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺(ことわざ)を地で行くような事例が、これ。
今も、つづいている。韓国は、数年前から世界各国に特使まで送り、「日本海」を、「東海
(トンヘ)」に改称しようと運動を重ねてきた。

 韓国にとっては、たしかに「東海」だが、日本にとっては、「北西海」。あるいは「北海」。
韓国は、よほど、「日本」という名前が嫌いらしい。「日本海」ではなく、「日本」という名
名称が嫌いらしい。

 しかし日本の周辺を見ただけでも、その地域や固有の名前がついた海というのは、いく
らでもある。

 北から、東シベリア海、ベーリング海、オホーツク海、東シナ海、台湾海峡、フィリッ
ピン海、南シナ海などなど。

 しかし「東海」などという、自己中心性丸出しの名前は、どこにもない。英語で言えば、
「the Eastern Sea(東海)」。「トンヘの意味は?」と聞かれたら、韓国の人たちは、何と答
えるのか。

 こんな改名がまかり通るなら、まず日本とフィリッピンの間にある「フィリッピン海」
を、「南海」としたらどうか。が、それが韓国にとっては、おもしろくないらしい。こんな
記事が、今朝の朝鮮N報に載っていた。

 『5月7日からモナコで開かれる、国際水路機構(IHO)総会に参加する、加盟国78
カ国のうち、大多数が「日本海」の単独表記を支持していることが判明し、韓国政府に緊
張が走っている。

 韓国政府当局者は30日、IHO総会に関するブリーフィングを開き、「現在の状況では
大多数のIHO加盟国が日本海単独表記を支持しているが、どのような状況であれ、日本
海が単独表記されることを絶対に容認することはできないというの、われわれの基本的な
立場」と述べた』
(07年5月1日)と。

 どうして容認することができないのか? 韓国側は、その理由も述べたらよい。と、同
時に、どうして日本海ではいけないのか。その理由も述べたらよい。さらに、どうして「東
海」なのか、その理由も述べたらよい。

 仮に「東海」ということになれば、今度は、日本が猛反対するだろう。「どうして東海な
のか」と。

 さすがの韓国政府も、自分たちの愚かさに気づいたのだろう。今度は、「平和の海」とい
う代案を出してきた。「平和」という名前は、K国が好んで使う名称でもある。今の今も、
あの38度線をはさんで、韓国側にある村を、「自由の村」と呼び、K国側にある村を、「平
和の村」と呼んでいる。

 が、その「平和の海」論も、どこかへ消えた。そこで再び、「東海」。今度は、「日本海と
東海を併記せよ」と。

 こうした韓国側の動きを見ていると、反日運動の原点を見ているようで、興味深い。つ
まり韓国にとってみれば、日本の存在そのものが、おもしろくないのだ。理由など、ない。
まさに感情論。彼らが主張するところの歴史認識問題にしても、そのうちの何割か以上は、
その感情論と考えてよい。

 しかし一言。韓国政府も、いちいちそんな(名称)の問題にこだわらないで、もっと大
きな問題に取り組んでみたらどうか? たとえば国連への分担金を一人前にふやすとか、
そういうことを考えてみたらどうか? あるいは政府開発援助金を、人口比に応じて、せ
めて日本の3分の1くらいにまで、ふやすとか……。

 そういうことはまったくせず、言うことだけは、一人前。あるいはそれ以上!

 どちらにせよ、「東海」などという呼称そのものが、私たち日本人にとっては、言語道断。
どうして日本の北にある日本海が、東海なのか。日本としては、絶対に容認できない呼称
である。

ちなみに国際水路機構(IHO)総会では、大多数が、「日本海」の単独表記を支持してい
るという。当然のことである。

(付記)今まで、直接的な批判を避け、あえて東海を「西海」などとまぶして、批判記事
を書いてきましたが、今日から、正面から、「東海」とすることにしました。

(以上、2007年5月に書いた原稿より)

●グーグル翻訳でも……

 グーグル翻訳サービスを使って、「日本海」を韓国語に翻訳すると、韓国語で「東海」と
翻訳される。
韓国政府は、すでにグーグルにまで、こうした手を伸ばしている。
日本よ、油断するな!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 韓国 東海(トンヘ) 日本海名称問題 日本海と東海 韓国の反日感
情 反日運動)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●奇妙な事件・あれこれ

++++++++++++++++

2011年5月4日、奇妙な(?)事件が
2つ、あった。

ひとつは、北朝鮮で、2人の日本人が
麻薬と偽造通貨所持の犯罪で、北朝鮮当局
に逮捕されたという事件。

もうひとつは、ビンラディン殺害に関して、
パキスタン政府は事前に何も知らされておらず、
それに対してパキスタン政府が不快感を
示したという事件。

2つのニュースを並べてみる。

++++++++++以下、日本経済新聞より抜粋++++++++++

 ……北朝鮮の朝鮮中央通信は4日、3月14日に北東部の羅先(ラソン)市で日本人男性3人
を「麻薬や通貨偽造の犯罪」で拘束し、うち1人を国外に追放したと報道した。4月20日に拘束
が明らかになっていた3人とみられ、北朝鮮が拘束を確認したのは初めて。

 同通信は3人が犯罪行為を認めているとしたうえで「極めて重大な犯罪であり、しかるべき法
的責任を負うことになる」と指摘。拘束中の2人の法的な処理を進めていると報じた。朝鮮通信
(東京)が4日伝えた。(日本経済新聞・5月4日)

++++++++++以上、日本経済新聞より抜粋++++++++++

++++++++++以下、TBS-iより抜粋++++++++++

 「部屋にはビンラディンと一緒に女性、つまり妻がいました。この妻は米兵に突進してきたの
で足を撃たれましたが、死亡してはいません。ビンラディンは撃たれ、死亡しました。武装して
はいませんでした」(アメリカ カーニー大統領報道官)

 また、カーニー大統領報道官は「ビンラディン容疑者が生け捕りにされることに抵抗する懸念
があった。実際に抵抗した」と述べ、殺害は正当だったことを強調しました。

 今回の作戦は、対テロ同盟国のパキスタンとの間に微妙な軋轢を生んでいます。アメリカは
パキスタン当局から情報が漏れることを嫌い、事前通告しませんでしたが・・・

 「権限の与えられていない単独行動を常態化させることはできない。このような行為は両国
の協力関係を傷つけ、国際平和を脅かすことになりかねない」(パキスタン外務省)。

 パキスタンは奇襲作戦について、「アメリカ側から全く知らされていなかった」として、深い懸
念を表明しました。その一方で、「隠れ家の情報は以前から共有しており、ビンラディン容疑者
の殺害はパキスタンにとっても重要な転機だ」とも述べていて、複雑な胸の内が伺えます。

++++++++++以上、TBS-iより抜粋より抜粋++++++++++

 まず北朝鮮で逮捕された日本人についての事件。
このニュースの中に出てくるキーワードが、「羅先(ラソン)市」という町。

 国交のない北朝鮮へ、なぜ日本人が入ったのか。
3人の日本人は、羅先(ラソン)市で何をしていたのか。
どうして羅先(ラソン)市へ行くことができたのか。

 その羅先(ラソン)市について、調べてみる。
以下、ウィキペディア百科事典より。


●羅先(ラソン)市1991年12月、朝鮮民主主義人民共和国政務院の決定により、621km2の
「羅津・先鋒自由経済貿易地帯」(FETZ)が設定される。
1993年3月には「羅津・先鋒自由経済貿易区開発計画」によって地域が拡張される。
1998年には地帯の名称が「羅津・先鋒経済貿易地帯」となる。
計画は1993年〜94年の北朝鮮核問題や96年の飢饉など不安定な政治要因により曲折を経て
いるが、中国資本の投資活動や韓国とのコンテナ輸送などで一定の成果を見せている。

中国・ロシアへの羅津港使用権付与 

現在は中華人民共和国へ60年間に渡る租借権が付与されている。中華人民共和国が羅津港
の使用権を北朝鮮より獲得している。中国は国際貿易港としての利用できるよう、物流ターミ
ナル開発を進めていた。また2010年の報道では、北朝鮮はロシアにも50年の使用権を付与し
たとされる。

(以上、ウィキペディア百科事典より)

●自由貿易経済地帯

 羅先(ラソン)市は、「自由貿易経済地帯」ということらしい。
現在は、中国、ロシアが、租借権を獲得し、国際貿易港として使用している。

 羅先(ラソン)市と聞くと、エンペラーホテルを思い起こす。
北朝鮮でも、超最高級のホテルということになっている。
そのエンペラーホテルには、公設のカジノがある。
カジノでの賭博を目的に、多くの中国人観光客が羅先(ラソン)市へ、渡った。
が、中国人観光客との間に、トラブルが発生。
以後中国政府当局は、観光客の渡航を一時、禁止した(2004年)。

 その後(2005年)、渡航を解除。
現在(2011年)は、エンペラーホテルでのカジノも再開されているという。

●なぜ日本人が?

 最大の疑問は、なぜ日本人が、その羅先(ラソン)市にいたかということ。
それについて、「東京都渋谷区恵比寿1丁目・情報発信基地BLOG」は、つぎのように説明して
いる。

『……北朝鮮当局に拘束されたのは、北海道の70代の男性と東京・千葉の40代と30代の男
性で、3人には麻薬密輸の疑いが持たれており、70代の男性は釈放され帰国しましたが、2
人は現在も拘束されているということです。

3人は東京に本社がある機械メンテナンス会社の社員で、食品加工会社との仕事で、3月上
旬に中国東北部の吉林省から陸路で経済特区である羅先市に入っていたということです。

北朝鮮側は保釈金を要求しているとみられます』と。

 つまり3人は、陸路で、中国東北部の吉林省から、羅先(ラソン)市へ入ったということらし
い。

 北朝鮮側の情報によれば、(だれも信用していないが)、「麻薬密輸の疑い」とか。
盗人たけだけしいというか、麻薬(北朝鮮で「麻薬」というと、覚醒剤を意味する)にせよ、偽札
にせよ、北朝鮮では、国家事業のはず。
少なくとも、個人、あるいは企業レベルの話ではない。
国家事業として、北朝鮮は、麻薬や偽札の製造を行っている。

 本当に2人の日本人は、麻薬の密輸を企んでいたのだろうか。
だいたい時期がおかしい。
こんな時期に、食品加工会社のメンテナンスの仕事のために、羅先(ラソン)市へ入ったとは?
ふつうなら、羅先(ラソン)市へなどへは、行かない。
日本政府による、経済制裁のまっ最中である。
拉致問題、核兵器開発問題など。
少しでも国際常識がある人なら、北朝鮮へは近づかない。
が、あえて羅先(ラソン)市へ入った?

 いったい、どういう素性の人たちなのだろう?
本当に「麻薬=覚醒剤」の密輸をたくらんでいたのだろうか。
日本政府がまったく動く気配を見せないのは、やはりそういうスジの人たちだからなのだろう
か。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ビンラディン殺害

 あのビンラディンがアメリカ軍によって、殺害された。
アメリカでは、それを喜んで、祭騒ぎまで起きている。
気持ちはわかるが、それでテロが収まるとは、とうてい思えない。
貧者には、貧者の論理というのが、働く。
アメリカは、その貧者の論理というのが、まったくわかっていない。
(ついでに、この日本も!)

 で、貧者の論理については、たびたび書いてきた。
そこでここでは、このニュースについての「謎」を書いてみたい。

 ビンラディンの殺害について、パキスタン政府は、つぎのような声明を出している。
『権限の与えられていない単独行動を常態化させることはできない。このような行為は両国の
協力関係を傷つけ、国際平和を脅かすことになりかねない』(パキスタン外務省)と。

 つまりパキスタン政府は、「何も知らなかった」「何も知らされていなかった」と。

 しかしこんなことはありえない。
ありえないということは、ありえない。
今回の作戦は、アメリカ軍とパキスタン軍との共同作戦とみる。
が、パキスタン軍が、ビンラディンの殺害に荷担していたというのは、まことにもってま・ず・い。

 パキスタン政府が、即座に、報復の対象となってしまう。
そこで事実は、こうではなかったか。
これはあくまでも私の推測だが、あらかじめアメリカ軍とパキスタン軍との間に、こんな取り決
めがあったと考えるべき。

パ「私たちは、何も知らなかったことにしてくれ」
ア「わかった。アメリカ軍の単独行動ということにしよう」
パ「我々が荷担していたとわかったら、我々が報復される」
ア「わかった。君たちには、迷惑をかけない」
パ「だったら、ビンラディンを、君たちに渡す」と。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【土下座・論】(あまりにも悲しい、日本の奇習)


土下座を迫る人も、土下座をする人も、そしてそれを見る人も、みな、悲しい。
土下座は日本人の美徳(?)と説く評論家もいる。
しかし土下座は美徳でも何でもない。
東洋の島国に残る、ただの奇習。


++++++++++++++++++++++

日本に残る最悪の風習といえば、「土下座」。
悪習中の悪習。
世界に類をみない、悪習。
奇習。

土下座は、人間が基本的にもつ尊厳すらをも踏みにじる。
謝罪する側にしても、その尊厳まで、捨ててはいけない。
謝罪を迫る側にしても、その尊厳まで、踏みにじってはいけない。

私も人間、あなたも人間。
みな、人間。
同じ、人間。

相手が土下座したからといって、問題は何も解決しない。
謝罪したことにはならない。
またそれでもって、相手が謝罪したと錯覚してはいけない。

一方、相手に土下座させたからといって、問題は何も
解決しない。
謝罪させたことにはならない。
またそれでもって、あなたの正当性が相手に認められたと、
錯覚してはいけない。

中には土下座し、その場をごまかす人もいる。
ずるい政治家は、この手法をよく利用する。

土下座……。
あまりにも非人間的な謝罪法。
それを強いる人にしても、相手に向かって、人間であることを
あえて否定させる。
人間であることの尊厳を否定させる。
みなの前で、恥をかかせる。
恥をかかせて、「罰」とする。
それが土下座の原点。

東京電力の社長をかばうつもりは、まったく、ない。
天災というよりは、人災。
おかしな官僚体質が、今回の事故を引き起こした。
「国の基準を守り、やるべきことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。

一方、被災者の方たちの気持ちも、よくわかる。
つらくてきびしい生活も、よくわかる。
やりようのない怒りも、よくわかる。
が、しかし東京電力の社長たちは、少なくとも犯罪者ではない。
今後、過失などがあれば、それはそれとして、法的に罰せればよい。

が、それはそれ。
しかし少なくとも、今は、犯罪者ではない。
私やあなたと同じ、1人の人間。
家族もいれば、仲間もいる。
それを見ている親がいる。
子どもがいる。
孫もいるだろう。
そんな人に土下座など、させてはいけない。

大切なことは、東京電力の社長以下、みなに、
「今」を原点として、原発事故を収束させること。
がんばらせること。
責任の追及と謝罪は、そのあとでよい。

土下座する、社長以下、東京電力の役員たち。
それを取り囲み、立って見下す、被災地のみなさん。
それを見ている私たちだって、かえって悲しくなるだけ。
さみしくなるだけ。

もし今、原子炉が一機でも爆発してしまえば、それこそ万事休す。
福島どころか、東京にだって、人は住めなくなる。
今が最悪ではない。
最悪の下には、さらに別の最悪がある。
二番底、三番底がある。
土下座させたからといって、その最悪の最悪が回避できるわけではない。

++++++++++++++++++++++

●土下座した東京電力の社長

 私は、TBSのつぎの記事を読んで、いたたまれない気持ちになった。
責める側も、責められる側も、まさに地獄。
生き地獄。
どうして同じ日本人が、こうまで過酷な地獄を味あわなければならないのか。
傷つけあわなければならないのか。

 その悲しさ。
そのつらさ。

+++++++++以下、TBSNEWSより+++++++++++


●「土下座しろ!清水!」 東電社長に怒号

 5月4日(水)19時12分配信


 東京電力の清水社長は4日、2回目となる福島入りをしました。原発の事故で自治体の
機能ごと移転させたH町、N町、K村の対策本部を訪れ、それぞれの首長に謝罪を行いま
した。N町の対策本部では・・・


 「賠償補償については速やかにやっていただかないと。生業がなっていないんです。全
員失業者です」(N町 B町長)
 「生活の故郷であるところに戻っていただくよう、全力をあげて取り組んでいきたい」(東
京電力 清水正孝社長)


 町長らへの謝罪を終え、避難している住民のもとへ向かおうとする清水社長。しかし・・・


 「清水社長、町民に謝らないで帰るのですか?」


 詰め寄ったのは実家がN町だという女性。ただ頭を下げる清水社長。ですが、女性の怒
りは収まりません。


 「ここにもいっぱい浪江の人がいるんですよ。謝らないんですか?」(女性)


 さらに・・・


 「土下座しろよ!清水!」(男性)


 清水社長は激しい住民の怒りに対し、膝をついて謝罪しました。

 この後、清水社長は原発事故の影響で避難生活を送る人たちを訪問しました。ここでは
避難住民たちの悲痛な叫びが・・・


 「収入途絶えた・・・。『仮払金払います』、そんなもの3〜4か月でなくなる。その先
のこと考えてくれていますか」


 「頑張って家も建てました。ローンも残ってます。どうしてくれるんですか、これ。こ
れで(一時金が)100万って、あなたたちが一晩で飲んでなくなるような金額もらって、
みんなが納得すると思ってるんですか」(避難している住民)


 住民の具体的な要望に対しても清水社長の答えは・・・


 「誠意をもって対応したい。お話はよく分かりました」(東京電力 清水正孝社長)


 清水社長が繰り返す「わかりました」「誠意を持って」の言葉に、住民からさらなる怒り
が・・・


 「カスタマーセンターのオペレーターの返事と同じ。指針がない」(避難している住民)


 住民の納得を得られないまま、清水社長は避難所を後にしました。


 「期待していなかったが、がっかり」
 「みんなうちに帰りたい」(避難している住民)

 避難住民らへの一刻も早い補償の具体的指針が求められます。(04日17:28)


+++++++++以上、TBSNEWSより+++++++++++

●責任論

 あえて言うなら、大地震も、大津波も、天災だった。
人知の及ばない天災だった。
その天災が引き金となり、福島第一原発の事故は起きた。
けっして事故を容認せよと言っているのではない。
過失もあった。
油断もあった。
先にも書いたように、天災というよりは人災。
その結果として、事故は起きた。

 が、その一方で、使い放題電力を使ってきたのは、私たち。
ぜいたくな生活をしてきたのは、私たち。
少しでも停電になれば、そのつど電力会社に文句を言ってきたのも、私たち。
その私たちに責任がないと、どうして言えるのか。
今は清水社長も、こう言っている。
「生活の故郷であるところに戻っていただくよう、全力をあげて取り組んでいきたい」
と。
その言葉には偽りはないだろう。
だったら、今は、それを信ずるしかない。
応援するしかない。

 が、今のこの日本で、こう発言することは、たいへん勇気がいる。
同じようなことを書いて、袋だたきにあった人は、いくらでもいる。
しかし今大切なことは、みなが力を合わせて、そこにある危機を克服すること。
たがいに責めあって、何が解決するというのか。
へたをすれば、先にも書いたように、第一原発は明日にでも爆発するかもしれない。
もしそうなれば……。

 責任を追及し、法的な補償を求めるのは、そのあと。
そのときは東京電力の責任を、徹底的に追及すればよい。

●命がけの作業

 今、福島第一原発では、まさに命がけの作業がつづいている。
放射線という見えない敵を相手に、作業員の人たちが、懸命に努力している。
作業員といっても、大手ゼネコンの下請け企業の労働者のみなさん。
昨夜も、テレビでそういう人たちを紹介していた。
中に、涙を流しながら、仲間たちと安全を誓いあったという人もいた。
そういう人たちがいるの知るにつけ、ただただ頭がさがる。
本当に、頭がさがる。

 今すぐには影響がなくても、10年先、20年先に、どんな病気になるかわからない。
そういう不安とも、これから先、闘っていかねばならない。
そういう人たちが、今、がんばっている。
今は、そういう人たちを静かに、見守るしかない。

●土下座

 ともかくも、もうやめよう、こんな風習。
悪習。
奇習。

 「土下座しろ!」と叫んだ、被災地のみなさん。
気持ちはよくわかる。
やりようのない怒り。
不安。
孤独。
それに絶望感……。

 が、今、日本中の人たちが、被災地のみなさんと同じ気持ちになって、懸命に
闘っている。
悲しみや苦しみを共有したいと、みな、がんばっている。
相手が土下座したからといって、何も問題は解決しない。
相手に土下座させたからといって、何も問題は解決しない。

土下座する、社長以下、東京電力の役員たち。
それを取り囲み、立って見下す、被災地のみなさん。
それを見ている私たちだって、かえって悲しくなるだけ。
さみしくなるだけ。

 だからもうやめよう、こんな風習。
悪習。
奇習。

……というのが、このエッセーのしめくくり。

繰り返しになるが、だからといって、被災地の人たちを責めているのではない。
やむにやまれず、そういう状況を作ってしまった。
そういう状況を、作らざるをえなかった。
土下座させる被災地の人たちにしても、さぞかしつらかったことだろう。
悲しかったことだろう。

 何とも歯切れの悪い結論になってしまった。
「土下座」について書くつもりだった。
が、話が、原発事故につながったしまったのは、問題が今の今も進行中だから。
どう解決したらよいのか、その糸口さえ、まだ見つかっていない。
不安といえば、不安。
心配といえば、心配。
だから今は、こう書くしかない。

福島第一原発の事故が、一日も早く、収束に向かうことを、心から願っています。
同時に、被災地のみなさんに、一日も早く、平安な日々がやってくることを、
心から願っています、と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●土下座について

ウィキペディア百科事典(英語版)は、「土下座」について、つぎのように説明する。

In gishiwajinden (魏志倭人伝, the oldest Chinese record of encounters with the 
Japanese), as a custom of yamataikoku (邪馬台国, a country in old Japan), it was 
mentioned that commoners would, upon meeting noblemen along the road, fall 
prostrate on the spot, clapping their hands as in prayer (柏手 read: kashiwade), and 
this is believed to be an old Japanese custom. 
日本人に関するもっとも古い中国の文献によれば、邪馬台国の習慣として、道路で高貴な
人物に出会ったようなとき、庶民は、その場で、平伏し、拝むように手を合わせた。これ
は日本の古い習慣と理解されている。
The haniwa (埴輪) of the Kofun Period (古墳時代) can be seen prostrating themselves in 
dogeza.
古墳時代の埴輪にも、土下座したものが見られる。
 In addition, common people performing dogeza in modern times when being 
interviewed by higher-ups was normal. In the early modern period, popularly as the 
daimyo's procession passed by, it is believed that it was mandatory for the commoners 
present to perform dogeza, but that is incorrect.
さらに近代においては、位の高い人と面会するとき、一般庶民は土下座するようになった。
たとえば大名行列が通り過ぎるようなとき、一般庶民は、土下座するように信じられてい
るが、これは正しくない。
In the Japanese social consciousness, the act of sitting on the ground and creating a 
scene (dogeza), is an uncommon deference only used when one is deviating greatly from 
daily behavior. 
日本人の社会的意識においては、土下座をするということは、日常の生活から著しく逸脱
したようなときのみなされる、「ふつうでない服従的な行為」ということになる。
Seen as an etiquette filled with the meaning of "sorry to trouble you", in the Edo period, 
by performing dogeza and apologizing to someone, usually the person would have a 
tendency to forgive.
江戸時代には、土下座し、だれかに謝罪するときは、「ご迷惑をおかけしました」という意
味での行為として見られた。またふつうその人は、相手をそれで許した。
Even nowadays, as a method of self-protection and apology in which damage to one's 
image is neglected, the idea of feeling shame while performing dogeza remains firmly 
rooted.
今日においてでさえ、土下座は用いられているが、土下座は個人のイメージを傷つけ、土
下座をすることは、たいへん恥なこととされている。
 However, generally people willingly performing dogeza in order to show that they come 
from a lower social standing essentially has almost no meaning.
しかしながら自分が下であることを示すために、喜んで土下座をするということもあり、
土下座の社会的意味は、ほとんどなくなりつつある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●(補記)管総理大臣へ

 先日も国会中継を見ていたら、こんなシーンがあった。
同じ与党(民主党)の議員が、管総理大臣を口汚くののしっていた。
「見通しが甘かったことを、認めたらどうだ!」と。
そんなようなことを言っていた。

 それを評して自民党(野党)の議員は、「民主党は不思議な党だ」と酷評していた。
つまり民主党内部が、すでに分裂している。
分裂しながら、それをみじんも恥じない。

 今、重要なことは、挙国一致態勢で、この「危機」を乗り切ること。
足下どころか、身内でさえバラバラで、どうしてこの危機を乗り切ることができるのか。
へたをすれば、日本がバラバラになってしまう。
今、日本が置かれた状況は、それほどまでにきびしい。
だから今は、一言。

 管総理大臣、どうか、ここはがんばってほしい。
今のこの危機を乗り切る力があるのは、あなたしかいない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の悪習 日本の奇習 土下座論 土下座という悪習 土下座とい
う奇習)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【組み合わせと場合の数】(小1児のレッスン)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a

どこまで組み合わせと場合の数を理解できるか。
つづく小2児(うち小1児が飛び級で、3人)は、どこまで
理解できるか。

BW実験教室より(はやし浩司 2011−05−05)。

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/nnC0KOEs190?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/nnC0KOEs190?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【組み合わせと場合の数】(小2児のレッスン)

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v/0L0hVA4vhKE?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/0L0hVA4vhKE?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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さらに見てくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、「BW公開教室」→「2011年4月〜版」へ。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●管総理大臣の英断(5月6日)「浜岡原子炉の停止」

+++++++++++++++++++++

管総理大臣は、浜岡原子炉を全面的に停止する
と発表した。
けだし、英断である。
当然である。

私が4月29日付で書いた原稿を、もう一度、
読みなおしてみてほしい。

+++++++++++++++++++++

●浜岡原子炉に思う(万全の安全策が講じられるまで、停止すべし)
2011−4月29日記

++++++++++++++++++

福島第一原発事故のあと、浜松市の
近くにある、浜岡原子炉でも、緊急の
災害訓練が実施された(11年4月)。
内容は、非常用電源が停止し、原子炉の
冷却機能が停止したという状況を
想定したもの。

それに対して発電所側のした訓練というのは、
消防車を出動させ、放水するというもの。
私はこの分野では素人だが、その私ですら、
それを見て、笑ってしまった。
地元の中日新聞ですら、「緊張感がまるで
なかった」と酷評した。
つまり子どもだまし!

原子力発電所の事故が放水で防げる?
発想そのものが、バカげている。
がん細胞に、赤チンを塗るようなもの。
肺炎で熱を出して苦しんでいる人に、
コップで水をかけるようなもの。
福島第一原発事故を見てもわかるように、
それでは訓練にならない。

放射性物質を含んだ水は、どうする?
爆発か何かがあって、飛び散ったがれきは
どうする?
高濃度の放射線を浴びた作業員は、どうする?
周辺地域の人たちを、どこへどのように
避難させる?
放射性物質の中和剤は用意できているのか。
遠隔操作のロボットは、用意できているのか。
医療態勢は整っているのか。
つまりそういった一連の訓練を総合的にして、
はじめて、「訓練」ということになる。

浜岡原子力発電所は、砂丘の上に立っている。
揺れがつづけば、液状化現象も心配される。
もちろん津波による被害も想定される。
原子力発電所側は、これから防波堤を高く
すると言っている。
ならばそれが完成するまで、原子炉を停止
すべき。
それが当然。
「安全だ」と主張するなら、つまり
それほどまでに安全なものなら、
名古屋市内に、原子力発電所を建設すれば
よい。
どうして中部電力の発電所が、浜岡にあり、
海のそばにあるのか。
「安全ではない」という不安があるから、
そうしているのではないのか。

浜岡から浜松市まで、40キロ足らず。
その浜松市は、この東海道地域では、
東京、名古屋につづく、第三の大都市。
人口は約80万人。
周辺部の都市を加えたら、軽く100万人を
超える。

浜岡原子炉は、今すぐ停止すべし。
万全の安全策が確保されるまで、停止すべし。

(補記)

ある関係者いわく、
「浜岡原子炉については、今すぐ廃炉にしたい。
しかしその方法がないから困っている」と。

原子炉というのは、作るのは簡単。
壊すのがむずかしい。
原子炉というのは、どうやら、そういうものらしい。

+++++++++++++++++++

●5月6日の夜に

 私は真夏でも、また真夏の真夏日でも、家庭ではエアコンを使っていない。
扇風機だけ。
一度、(5、6年前のことだが)、体力に限界を感じ、3か所にエアコンをつけた。
しかし使ったのは、最初の1、2週間だけ。
すぐ体の変調を覚え、そのままもとの生活に。

 あんなもの、なければないで、すむ。
健康にも、そのほうがよい。
マンションのような高層ビルに住んでいる人は、そうでないかもしれない。
しかし一戸建ての住宅に住んでいるなら、いくらでも工夫できる。
太古の昔から、人間は、エアコンなしで生きてきた。

 で、それを理由に、つまり電力の不足を理由に、中部電力側は、政府の英断に不満を
漏らしている。
いわく「この夏は、猛暑が予定されている」「電力不足になる」と。
だったら名古屋市内に、原子力発電所を建設すればよい。
暴論に聞こえるかもしれないが、逆に言えば、なぜ浜岡なのか?
「浜岡なら安全」と言うほうが、もっと暴言。

浜岡原子炉は、まさに活断層の上にある。
1本や2本ではない。
その下には、3本も走っている。
しかし東海沖大地震は、「予想」ではなく「時間の問題」。
世界中の科学者たちが、みな、首をかしげている。
そんな場所に浜岡原子炉がある。

 福島第一原発の事故を受けて、浜岡原発でも、予備の発電機を、原発の
屋上に取りつけることになったとか。
バカげているというか、子どもじみている。
発想が、子どもじみている。

●JAL(日本航空)

 子どもじみているといえば、JAL(日本航空)。
昨日、5月5日に、恒例の「綱引き大会」をした。
飛行機に綱をつけ、それを子どもたちに引かせた(羽田空港にて)。
先日は福島産の農産物を、空港内で売ってみせた。
航空会社がするということで、それなりのニュース性はある。
テレビでも紹介された。
しかし子どもじみている。
やることなすこと、すべて、子どもじみている。
よく見ても、高校の学園祭風。
1兆円の国税を使い、経営再建中の航空会社。
その航空会社が、野菜市?
綱引き大会?
緊張感がまるでない。

 今すべきことは、LCC(格安航空路線)の拡充。
反対に言えば、そんなイベントで、これからの国際競争が生き残れるとは、とうてい
思えない。
私は綱引きを大会を見たとき、どこかの商店街が主催した、金魚すくい大会を思い出した。
客寄せにはなる。
子どもは喜ぶ。
しかしそこまで。

そんなことで、商店街は活性化しない。
つまり商店街の命運は、もっと巨大な流れの中で決まる。
航空会社なら、なおさら。
世界の航空会社に殴り込みをかけてこそ、またそういう意気込みをもってこそ、
生き残ることができる。
ためしに韓国で、福岡ー釜山間、往復1万円の航空チケットを売ってみたらよい。

 鎖国政策に守られ、ちまちまと国内便だけを飛ばす。
やることと言えば、野菜市に綱引き大会?
「JAL(日本航空)も、これでおしまいだな」と、
私は、そう感じた。

●浜岡原子炉

 話を戻す。

 福島原発事故のあと、浜岡原子炉でも、防災訓練が実施された。
それについては、4月29日に原稿を書いた。
その模様はテレビでも報道されたが、まるで子どもだまし。
緊張感、ゼロ。
私はそれを見ながら、反対にこう思った。

「ああいう人たちに原子炉を任せておいて、だいじょうぶなのだろうか?」と。
私のワイフでさえ、こう言った。
「あれじゃあ、火薬庫の管理を、中学生か小学生に任せているようなものね」と。

 何度も書くが、福島第一原発の事故は、現在の今も、進行中。
むしろ事態は、日に日に、悪化している。
新聞をほんの少しだけ注意深く読めば、だれにだってわかるはず。
だから今日、IAEA(国際原子力機関)は、つぎのような声明を発表した。
「(フクシマは)、依然、深刻な状態にある」(注※)(5月6日)と。

 が、ノー天気な人たちは、すでに問題は解決したとばかり、政権抗争を繰り返している。
補償問題だの、責任問題だのと騒いでいる。
が、へたをすれば原子炉の爆発だぞ!
そうなったら、この日本は、おしまいだぞ!

 すでに放射性物質は、外部に漏れ出ている。
それを指して、政府は「放射能の放出量は、チェルノブイリの10分の1程度です」と、
さかんに宣伝している。
が、実際には、原発には、放出量の250倍もの放射能が残っているとか(産経新聞・
4・13日)。
単純に計算しても、チェルノブイリの25倍!

 今夜もあの男性が出てきて、原発事故の様子を説明していた。
東京電力の社員という。
どこかドリフターズの「加藤チャン(加藤茶)」に似ている。
笑い顔。
私はいつもあの男性がテレビに出てくるたびに、こう思う。
「こんな男性に、福島第一原発の事故処理を任せておいてだいじょうぶなのだろうか」と。

●今、すべきこと

 批判ばかりしていてはいけない。
私は早急に、つぎのことを準備すべきと考える。

(1)原子炉が爆発したばあいを想定し、準備する

 原子炉が爆発したら、どうするか。
チェルノブイリのときは、コンクリートを投下し、原子炉全体を石棺化した。
同じように最悪のばあいも考え、コンクリートを数十万トン以上用意する。
コンクリートミキサーだけでも、数100台は必要となるだろう。
それで即座に原子炉を覆えるように、態勢を整えておく。
今のうちにしておく。

 また避難地域を、100キロから150キロに拡大したばあいを想定し、避難訓練を
実施する。
150キロといえば、茨城県全域から千葉県全域におよぶ。
東京都だって、あぶない。
今からでも遅くないから、首都機能を大阪市へ移動させておく。
先手、先手で、対策を考え、実施していく。
つまりそこまでして、はじめて「おとな」。

 子ども相手の仕事をしている私がこんなことを言うのもおかしいが、今のやり方は、
あまりにも子どもじみている。
JAL(日本航空)がした「綱引き大会」と、どこもちがわない。
そんなことで、会社が再建できると思っているのか。
そんなことで日本の危機を回避できると思っているのか。

(注※)フジテレビ(5−6より)

『IAEA(国際原子力機関)は5日、福島第1原子力発電所について、「依然、深刻な状況にある」
との認識を示した。

IAEAのフローリー事務次長は5日、ウィーンで開かれた記者会見で、福島第1原発の状況につ
いて、「依然、深刻な状態にある」と述べ、これまでの厳しい見方から変わっていないことを明ら
かにした』(フジテレビより)

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【5歳児にひらがな学習】


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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2011−05−07


●日本国家・危機存亡の時
2011/05/07記


++++++++++++++++++


昨夜は午前1時ごろまで、書斎で
原稿を書いていた。
床に就いたのが、そのあと。
しばらく雑誌を読んでいた。


で、今朝、起きてみたら午前8時。
あわてて運動。
30分!
さわやかな汗が、今も額から流れ落ちている。


++++++++++++++++++


●外貨準備高、100兆円!(1兆0420億ドル、2010年3月期。)


 日本には日本の貯金がある。
それが「外貨」。
日本がせっこら、せっこらと、
貿易で稼いだお金。
100兆円。
が、その外貨は、使えない。
アメリカが使わせてくれない。


 もし30兆円でも使うことができたら、
30兆円÷1000万円=300(万人)。
つまり300万人の被災者に、その場で
1000万円ずつの現金を渡せる。


 よく誤解されるが、外貨などというものは、
輸出入の決済に必要な分だけあればいいの!
余計にため込んだところで、意味はない。
腹のぜい肉のようなもの。
現にアメリカは、外貨準備高はゼロ。


 わかりやすく言えば、日本は戦後、
アメリカのドル(紙くずのようになったドル)を
買い支えてきた。
その結果が、今。
100兆円。


30兆円が無理なら、20兆円でもよい。
せめて10兆円だけでもよい。
こんな非常時にさえ使えない外貨とは、何か。
あの橋本政権のとき。
日本は5%だけ、米ドルからほかの通貨に
変換したいと申し出た。
たったそれだけのことで、橋本政権は
吹っ飛んでしまった。


●どうして円高?


 またまた円高が進行している。
昨日79円になった。
が、国際基準から見ると、日本の円は、まだ安い。
先月、オーストラリアへ行ってきたが、大学構内の自動販売機では、
ペットボトル入りのジュースを、3ドル50セントで売っていた。
日本円に換算すると、308円。
実際には空港で、1オーストラリアドルを93円で交換したから、326円。
(ただしボトルのサイズは、日本のそれより、1・3〜1・5倍ほど大きかった。)


 ちょっとしたホテルに泊まっても、1泊2〜4万円(食事なし)。


 生活の質、レベルを計算に入れても、日本の円は、まだ安い。
1アメリカ・ドル=70円前後でも、おかしくない。
もし今、日本がここで外貨を売ると宣言したら、アメリカドルはさらに安くなる。
同時に、そのドルで円を買うことになるから、当然、円高になる。
が、それは一時的なもの。


 今回の円高については、2つの流れがある。


(1)ユーロ、ドルともに、不安定になってきたこと。
それで世界のホットマネーが、「円」に向かった。


(2)もうひとつは、円借款で貸したお金が、日本へ逆流し始めていること。
いわゆる日本がもっとも恐れていた、円キャリーの逆流が始まった。
(円借款で借りたお金を日本へ返すためには、一度、円を買わなければならない。
だから円は、円高に向かう。)
もう少し詳しく説明しよう。


●円高?


 あなたは国際舞台で活躍する、国際投資家。
世界各国に投資して、お金を稼ぐ。
が、元手となる資金が必要。
お金が必要。


 そこであなたはお金を借りることにした。
が、どこで借りるか。
金利の安い、日本銀行で借りるか。
それとも金利の高い、アメリカ銀行で借りるか。


 あなたは当然、日本銀行で借りる。
金利は、何しろ、ゼロに近い。


 が、その円は、世界では通用しない。
たとえば中東で使いたいと思っても、そのままでは使えない。
あなたは日本銀行で借りた「円」を、一度「ドル」に交換しなければならない。
ドルなら、世界中で使える。


 このとき、あなたは「円を売り、ドルを買う」。
だから円安になり、ドル高になる。


 が、今度は逆のばあいを考えてみよう。
たとえば日本が今回のような大震災に見舞われた。
当然日本政府は、復興資金を必要とする。
そこで日本政府は、世界に貸していたお金を回収しようとする(と、世界はみた。)
が、回収するといっても、日本国内では、ドルは使えない。
そこで一度ドルを売って、円を買わなければならない。
「ドルを売って、円を買う」。
だから円高になり、ドル安になる。


 今が、そのとき。
しかしこれが無制限につづくと、円高は円高を呼び、同時に国内は、札束で、
ジャブジャブになってしまう。
経済が大混乱する。


●外貨を使う


 今こそ、外貨を使うべきとき。
が、管首相がそれを口にしたら、管首相のクビは、一夜にしてはねとばされるだろう。
率直に言えば、アメリカは、そんな甘い国ではない。
だからこそ挙国一致内閣が必要。
強力な内閣が必要。
アメリカの横暴をはねとばすだけの、パワーと底地からのある内閣が必要。


 が、すでにみなさん、ご存知の通り。


 同じ民主党内でさえ、派閥抗争。
足の引っ張りあい。
で、一言。


 小沢さん、もうバカげた抗争劇は、やめなさい。
贈賄側は、「1億円、渡した」と裁判の席で、認めている。
それを「もらっていない」だの、「知らない」だのと、主張しても無駄。
無理。
見苦しいというか、醜い。
醜いというより、醜悪。


 小沢さんも、小沢さんなら、その部下の国会議員たちもひどい。
平成の忠臣蔵よろしく、隷属意識丸出し。
国会という場で、同僚の管首相をはげしくののしりながら、みじんも恥じない。
自分では、小沢さんへの忠誠心を誇示しているつもりなのだろう。
バカげているというよりは、あわれ!
情けない!
「国」会議員として、少しは自分に恥じたらよい。


 今、日本に重要なものは、挙国一致内閣。
管総理大臣をみなで支え、この危機を乗り切ること。
こんな危機存亡の最中に、内輪もめして、何になる。
どうする。
少しは冷静になれ。
福島第一原発事故は、何も解決していない。
むしろ事態は、日に日に、悪化している。
どうしてこんな簡単なことが、わからないのか!


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【浜岡原子力発電所】「今すぐ停止すべし」


中部電力浜岡原子力発電所の危険性について

浜松市

はやし浩司


++++++++++++++++


菅直人首相は6日夜、緊急に記者会見し、
浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)にある
全ての原子炉の運転を停止するよう
中部電力に要請したと発表した【資料1】。


この発表を受け、地元の静岡県知事は、「英断」
(中日新聞)と評価。


理由は、「浜岡原子力発電所は、東海地震の震源域の
真上に位置する」こと【資料2】。


さらに最近、浜岡原子力発電所の周辺には、活断層が
3本も走っていることが判明。
(8キロメートル以内には、8本。)


うち2本は、原子力発電所直下を走っている【資料3】。


管直人首相の「停止要請」に対して、中部電力側は
表向きは従う様子を見せながらも、それを拒否。


さらにこの要請を歓迎するかと思われた御前崎市市長が、
「(我々の意見を)聞いていたのか」と、「不快表明」(5月6日)。


理由は、「雇用や地元商店街に大きな影響が出てくることは
間違いない」と【資料4】。

さらに御前崎市市長は、つぎのように述べている。
注意深く読んでみてほしい。
なお内容は、日本経済新聞、中日新聞の双方で
報道されている。

「国が原子力を危険・不安と思うのであれば、
浜岡原発だけではなく、全ての原発を見直すべきだ」
(御前崎市石原市長談)と。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



【資料1】

菅直人首相は6日夜、緊急に記者会見し、浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)にある全て
の原子炉の運転を停止するよう中部電力に要請したと発表した。

大規模な東海地震の発生が予測される中、重大事故が発生した場合の悪影響を未然に回避
する必要があると判断した。政府は浜岡原発以外の他の原発については停止要請をしない方
針だ(以上、日本経済新聞、5月6日)。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



【資料2】

 中部電力浜岡原子力発電所は、マグニチュード(M)8級が想定される東海地震の震源域の
真上に位置する。

以前から地震や津波の危険性が、ほかの原発に比べはるかに大きいと指摘されてきた。中部
電は多額の資金を投じて耐震性を強化してきたが、東日本大震災という「想定外」の巨大地震
の発生によって、政府は抜本的な対策を取らない限り、安全性は担保できないと判断したよう
だ(以上、日本経済新聞、5月6日)。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



【資料3】

東海地震の想定や敷地内のリニアメントについて、問題として取り上げられるようになったの
は、発電所が運開して間もない頃であった。

大規模地震対策特別措置法の施行などがあった頃からである。

同法施行直後に3号機の増設計画はまとめられ、1978年12月18日に設置変更許可申請書を
提出したが、審査書類の再提出を求められて、活断層調査などの記述を大幅に追加して、
1980年12月に再提出した。

その際、藤井陽一郎(当時筑波大学理学部教授)などから、「中部電力は、従来の検討の不
十分さを実際上は認め、部分的には新しい知識を取り入れながらも、いろいろと言いわけを
し」たなどと、業界誌である『原子力工業』の記事でも批判されていた。

この時点で、発電所敷地内に断層破砕帯が存在する点が既に憂慮の対象になっており、再提
出された設置許可申請でもH断層系として一部が呼称を与えられている。

このH断層系は1〜3号機の建屋をかすめている。

この件は静岡大学助教授(当時)の小村浩夫が1981年7月に発表した論文で紹介され、原発
から8km以内周辺には8本の活断層が知られており、ほかに3本のリニアメント(活断層の疑い
がある)があるが、そのうち2本が原発敷地内を走っている(以上、ウィキペディア百科事典よ
り)。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



【資料4】

 政府が中部電力に浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の全面停止を要請したことを受
け、同原発の地元、御前崎市の石原茂雄市長は7日朝、市役所内で緊急会見を開いた。

石原市長は「国が原子力を危険・不安と思うのであれば、浜岡原発だけではなく、全ての原発
を見直すべきだ」と述べ、政府の判断を改めて批判した。

 石原市長は「国策として進めてきた原発を、国が止めるというのであれば、重く受け止めない
といけない」とした上で、「地元は苦渋の判断で原発を受け入れてきた。

まさか、ここまで止める問題が急激に来るとは思わなかった」と、政府の突然の発表に驚きを
隠さなかった以上、。

(中略)

 全面停止後の見通しについては「防潮堤が2年間で完成するかという問題もある」として、停
止期間が2年以上になることへの懸念を示した。

また地元経済に与える影響について「雇用や地元商店街に大きな影響が出てくることは間違
いない」と述べた以上、(以上、日本経済新聞、5月7日)。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●安全が確保されるまでの停止

 福島第一原発事故を受け、全国で原発見直しの動きが見られる。
当然のことである。
それを受けて、静岡県御前崎市にある中部電力御前崎原子力発電所も、安全点検の
対象となった。
当然のことである。
その結果、「津波に対する防御態勢が十分でない」ということが判明した。

 それに対して、中部電力側は、『12日、浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)に新設予定
の防波壁の高さを、従来想定していた12メートル超から、15メートル超に引き上げる方針を
明らかにした』(World Note Site)。

 が、その工事が完成するまでに、2〜3年もかかる。
しかしその一方で、東海沖地震については、「30年以内にマグニチュード(M)8程度の地震が
発生する可能性が87%という数字も示されている」(同、サイト)。

 平たく言えば、今回の3・11大震災級の大地震が、今後30年以内に87%の確率で起こると
いう。
もちろんそれなりの大津波も予想される。
「87%」という数字は、「ほぼ確実に……」という数字である。

 で、常識のある人なら、こう考える。
「安全が確保されるまで、原子力発電所は、停止すべし」と。

 少なくとも防波壁が完成するまで停止すべし。
あるいは福島第一原発事故が、収束するまで停止すべし、と。
常識のある人なら、そう考える。

 が、御前崎市の石原市長は、そうは考えない。
「不快表明」をしたあと、こう述べている。
もう一度、この部分をよく読んでみてほしい。

「国が原子力を危険・不安と思うのであれば、浜岡原発だけではなく、全ての原発を見直すべ
きだ」と。

●論理的非論理

 あなたの子どもが、こう言ったとする。
「ママ、ジュース、買ってよ」と。
それに対して母親が、「今日はがまんしなさい」とたしなめたとする。
が、ここでその子どもが、こう言い返す。

「お兄ちゃんだって、買ってもらったじゃないか!」と。

 よく耳にする会話である。
子どもは不平等性を理由に、自分の主張の正当性を母親に訴える。

 が、こんな会話ならどうだろうか。

 あなたが子どもに、こう言ったとする。
「道路で、自転車に乗ってはいけません。まだあなたはうまく自転車に乗れないからね」と。
が、子どもはその子どもは、こう言い返す。

「道路が危険なら、お兄ちゃんだって、乗るべきではない。
お兄ちゃんも、やめさせろ!」と。

 こういうのを非論理的論理という。
論理的非論理でもよい。
一見、論理的だが、論理的ではない。
わかりやすく言えば、「ダダ」。
御前崎市長は、そのダダをこねた。
理由は、「お金(マネー)」(?)。

●御前崎市

 20代、30代のこと、私は子どもたちを連れて、よく御前崎市までドライブした。
その季節になると、サザエなどを、安く買うことができた。
車で、2時間ほど、かかった。

当時の1号機建設時には、原子炉建屋から最寄民家までの最低距離は、700メートル。
半径5キロメートル以内の人口は約1万7000人、10キロメートル以内は約6万人であった
(ウィキペディア百科事典)。

 が、それから30年。
御前崎市は一変した。
人口も3万8000人弱にふえた。
「バイパス」と現地の人たちは読んでいるが、都会にもないような4車線の道路(150号線)が、
走っている。
もちろん昔の面影は、どこにもない。

当時は、砂ぼこりが舞うような田舎道だった。
御前崎市は、丘を登った、丘陵地帯にあった。
やっとさがしあてた食堂にしても、吹きさらしの板間だった。
今は、ちがう。
どうちがうかは、行ってみればわかる。

 今回の福島第一原発事故に関して、どこかの市長が、「3700億円」という数字をあげたの
を記憶している。
「原発の経済効果は、毎年、3700億円もある」と。

 おそらく……というより、ほぼまちがいなく、御前崎市にも、その程度、あるいはそれ以上の
現金が、毎年投下されているにちがいない。
だから御前崎市市長は、こう言った。

「雇用や地元商店街に大きな影響が出てくることは間違いない」と。

 言い換えると、石原市長は、原発推進派の市長として、原子力発電所のもつ経済効果を長く
利用してきたことになる。
仮に3700億円としても、半端な金額ではない。
もし浜岡原子炉が停止ということにでもなれば、御前崎市は、巨大な利権を失うことになる。
非論理的論理(ダダ)であるにせよ、石原市長は、思わず本音を漏らしたことになる。

●それでも原発?

 福島第一原発事故の話に戻る。

 現在、福島第一原発周辺の市町村は、ゴーストタウン化している。
その地域に住んでいた住人の人たちの多くは、「早くもとの家に戻りたい」「もとどおりにしてほ
しい」と言っている。

 しかし現実問題として、チェルノブイリ事故の例をあげるまでもなく、それは現段階において
はほぼ不可能。
「ほぼ」という文字をはずしてもよい。
むしろ事態は、日に日に悪化している。
福島第一原発の原子炉は、まさにいつ爆発してもおかしくない状態。
もしそうなれば、「それどころではない」という状態になる。

 またよく広島を例にあげて、「福島も復興する」と主張する人がいる。
しかし放射性物質の量では、広島の原爆など、比較にならない。
規模、そのものが、ちがう。
チェルノブイリと比較しても、福島第一原発の原子炉は、世界最大級。
もしそんな原子炉が爆発したら、チェルノブイリの約25倍もの放射性物質が、周辺に飛散する
ことになる(この「25倍」という数字は、私の試算による。疑う人は、自分で試算してみたらよ
い)。

 が、それでもこんな意見があるのには、驚かされる。
福島第一原発の近くの町に住む住人は、テレビのインタビューに答えて、こう述べていた。
「それでも原発は必要です」「私たちはそれで生活していましたから」と。

 御前崎市市長も、同じような気持ちかもしれない。
「危ないことは、よくわかっている。しかし原発は、市の発展のために必要」と。

 が、もしつぎのような事実を知ったら、御前崎市市長というより、この浜松市に住む人たちの
気持ちも変わるのではないか(出典は、「ウィキペディア百科事典」)。
なおこの事実の中で、2001年以後、事故数が急速にふえているのには、2つの理由があるも
のと推理される。

(1)それ以前は、事故があっても闇から闇へと、葬られた。
(2)2001年以後、検査が厳格になり、事故が公表されるようになった。

 けっして以前は安全だったというふうに考えてはいけない。
データの改ざんは、日常的に行われていた。
そうのことは記録をていねいに読めば、わかるはず。

●御前崎原子力発電所関連の事故

★1991年4月4日ー3号機 原子炉給水量が低下、自動停止
★2001年11月7日ー1号機 配管破断事故
★2001年11月9日ー1号機 原子炉水漏洩事故
★2002年ー自主点検の書類に16箇所の記入ミス、ひび割れの兆候を見つけるも県へ報告せ

★2002年5月24日ー2号機 点検用水抜き配管水漏れ
★2004年2月21日ー2号機 タービン建屋屋上にて火災
★2004年8月ー4号機 骨材データ偽造問題(別項で詳述)
★2005年11月4日ー1号機 配管水漏れ事故
★2005年11月16日ー3号機 屋外配管の腐食による蒸気漏れ
☆2005年11月16日ー1号機 燃料プールに異物混入
★2006年6月ー5号機タービン羽根破損
★2007年3月ー不正行為やミスが計14件あったことを中部電力が発表など
★2009年4月13日ー3-5号機のデータ改竄問題で、542個所の溶接後の熱処理を行ったうち5
号機の94個所の作業を実際に改竄した作業員が担当していたことが判明し、県に報告すると
ともに早急に安全性を確認することとしている。
☆2009年8月11日ー駿河湾沖を震源とする地震の発生に伴い、4号機と5号機が緊急停止(放
射能漏れは無し)
★2009年8月19日ー8月11日の地震で点検停止中の5号機排気筒排ガスからごく微量のヨウ
素131を検出。モニタリングポストに変化はなく、外部への放射能の影響はなし
★2009年12月ー3号機で放射性廃液が漏れる事故があり、作業員34人が被曝したことが分か
った

●御前崎原子力発電所は、停止すべし

 以上のことから、あえて、かつ改めて、私はこう主張する。

「御前崎原子力発電所は、ただちに永久停止すべし」と。

 もしそれでもよいと考えるなら、またそういうふうに考える人がいるなら、これだけは覚悟して
おくとよい。

 もし御前崎原子力発電所が深刻な事故を起こし、この浜松市が避難地域に指定されても、
文句は言わないこと、と。

(補記)管直人首相は、東名高速道路や、東京への影響、さらには新幹線への影響を理由
に、御前崎原子力発電所の停止を要請した。
どうして人口80万人もいる、この浜松市という名前が、そこに出てこなかったのか。
浜松市に住む住人の1人として、たいへん不満である。
「東京に住む人だけが、日本人ではないぞ!」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 御前崎原子力発電所 停止 賛成)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞※

●短い瞬間

 オーストラリアの友人のR君が、「作者不詳」として、こんな詩を送ってくれた。訳は、私が感じ
たまま、つまり原文を読んで感じたまま、直感でつけた。どうか「誤訳」と、笑わないでほしい。

I read of a man who stood to speak
  At the funeral of a friend
  He referred to the dates on her tombstone
  From the beginning to the end.

友の葬式の日、皆の前で、
私は、追悼の言葉を述べた男の話を読んだことがある。
その男は、その女性の、生まれた日と、
死んだ日について、話した。

  He noted that first came her date of birth
  And spoke the following date with tears,
  But he said what mattered most of all
  Was the dash between those years.

その男は、彼女が生まれた日付を言った。
そして涙ながらに、つづく死んだ日付について話した。
しかし、誕生と死の間の
その時の流れの、何と短いことよ。

  For that dash represents all the time
  That she spent alive on earth...
  And now only those who loved her
  Know what that little line is worth.

その日付から日付までが、すべての時を表し、
彼女が、この地上で生きたことを示す。
いまや彼女を愛した人たちのみが、
その一行に、彼女のすべての価値を知る。

  For it matters not how much we own;
  The cars ... the house ... the cash,
  What matters is how we live and love
  And how we spend the dash.

どれだけ私たちがもっているか。
車や、家や、お金にせよ、そんなことは問題ではない。
大切なことは、いかに生きて、いかに愛して、
その短い瞬間を、どう過ごしたか、だ。

  So think about it long and hard
  Are there things you'd like to change?
  For you never know how much time is left,
  That can still be rearranged.

だから深く、静かに考えてみたらよい。
あなたには、変えたいものがあるか、と。
残された時間は、あまりにも少ない。
やりなおしがきくのは、今しかない。

  If we could just slow down enough
  To consider what's true and real,
  And always try to understand
  The way other people feel.

何が真実で、何が本物か、それを考えるために、
ほんの少しだけ時間をスローダウンすしてみるがよい。
そしていつも、ほかの人たちの感じ方を
理解してみるがよい。

  And be less quick to anger,
  And show appreciation more
  And love the people in our lives
  Like we'd never loved before.

怒りを鎮めよ、
もっと人に愛を示せ、
私たちの人生の中の人々をもっと愛せよ、
私たちが愛されたことがないほどまでに人を、愛せよ。

  If we treat others with respect
  And more often wear a smile...
  Remembering that this special dash
  Might only last a little while.

ほかの人を敬うなら、
そしてもっと微笑むなら、
この短い瞬間は、もう少しだけ、
長くつづくだろう。

  So when your eulogy's been read
  With your life's actions to rehash...
  Would you be proud of the things they say
  About how you spent your Dash?
  (Author Unknown)

あなたを作り変えるなら、いつか、あなたの葬儀で、
あなたの賛美が読まれるとき、
彼らが口にすることを、あなたは誇りに思うだろう。
あなたがその短い瞬間をどう過ごしたかについて……。
(作者不詳)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

***********************************


小学1年生(6)歳児に、大きな数を教えてみる。

1、10、100、1000、10000・・・(一、十、百、千、万・・・)

●種まきレッスン

 私はこうした一連のレッスンを、「種まきレッスン」と呼んでいる。
「教える」というよりは、「種まき」。
「種」として、子どもの脳の中に、まいておく。
そのときは、すぐ効果が現れなくても、それがしばらくすると、別の形で
現れてくる。
あるいは学校などで、その学習をしたとき、理解するのを助ける。
だから「種まき」。

重要なコツは、「楽しませること」。
具体的には、笑わせ、心を開放させること。
「楽しかった」という思い出が、やがて子どもを前向きに引っ張っていくように
なる。

【小1(6歳児)はどこまでできるか?】BW教室byはやし浩司 2011・5月


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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 2011−05−10)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【日本人の依存性と従順性】

++++++++++++++++++

毎年、5月3、4、5日に、浜松祭りが
催される。
東海地方でも、最大級の祭りである。
例年だと、50万人以上もの、観光客が集まる。

が、今年は3・11大震災が理由で、中止。
浜松市長の鶴の一声で、それが決まった。
表向きの理由は、「謹慎」。
が、本当の理由は、「安全管理」。
「安全管理ができないから、中止」
(中止通達書)と。

県の機動隊員ほか多数の警察官が、東北へ
駆り出されている。
そのため「じゅうぶんな安全管理ができない」と
いうことらしい。

++++++++++++++++++

●40年前

 40年前の浜松祭りは、おもしろかった。
本当におもしろかった。
このあたりの人たちの言葉を借りるなら、「血が騒いだ」。
町内ごとの練(ね)り(「練り隊」)が、随所で、別の練りと衝突した。
そのたびに怒号と衝突音。
旗ざおで殴りあう音、悲鳴。
その上には、汗が湯気になり、白いモヤが漂った。
もちろん、けが人も出た。
救急車も走り回った。
が、今は、そのころと比べると、まるでウサギの行進。
祭りの世話役の指示に従い、整然と並んで歩くだけ。
全員、提灯を手に持っている。
またそれをもたないと、祭りに参加できない。
練りの衝突そのものが、ありえない。

 だから私はこう言う。
「浜松祭りは、参加するもの。見るものではない」と。
参加してはじめて、おもしろい。
見ているだけなら、何もおもしろくない。

●自己責任

 「自己責任」という言葉がある。
この日本では、すでに死後になっている言葉である。
上はジー様から、下は赤ん坊まで、みな、キバを抜かれてしまった。
ことあるごとに、みな、こう言う。
「国が……」「国が……」と。

 言うまでもなく、「自由」と「依存」は、相克(そうこく)関係にある。
自由であろうとすればするほど、他者への依存性は低くなる。
依然性が高くなればなるほど、自由の幅はせばめられる。

また「自由」は「独立」に、「依存」は「隷属」に、それぞれつながる。
さらに言えば、自由は、常に不完全性をともなう。
「あいまい性」と言い替えてもよい。
たとえば管理された社会には、自由はない。
最近(11年4月)、私はこんな経験をした。

 メルボルン市(オーストラリア)で、オーバーランド号という列車に乗った。
アデレード行きの長距離列車である。
で、その列車が、メルボルンから1時間半ほどのところにある、ジーロンという町
に着いた。
予定より、20分も早く着いた。
そのとき車内アナウンスが流れた。
「20分早く着いた。ここで客が17人乗ることになっている。
その客を待つ」と。

 しばらくすると、何人かの客が、プラットフォームを歩いていくのが見えた。
それがその17人の客だった。
その直後、また車内アナウンス。
「客が乗ったので、出発します」と。

 ご存知のように、日本では、ぜったいにありえない光景である。
私はその「不完全性」に、たまらないほどの「自由」を覚えた。

●3・11大震災

 あの3・11大震災のときのこと。
あれだけの震災にありながらも、この日本では、暴動が起きなかった。
略奪も起きなかった。
壊れたコンビニからでさえ、ものを盗む人もいなかった。
店員がいるところでは、客はちゃんとお金を払ってものを買った。
しかも店員は、むしろ安い価格で、客にものを売ったという。

 被災者たちが身を寄せた避難所でも、そうだった。
みな、整然と並んで、「秩序」を守った。
「上」からの指示に従った。
用意された場所に身を置き、用意されたものを口にした。
それを見た外国の特派員たちは、みな、例外なく驚嘆の声をあげた。
「日本人は、すばらしい!」と。
私の40年来の友人(日本人)も、こう言った。
「あれこそが、日本人が本来的にもつ美徳」と。

 たしかにそうかもしれない。
私も、そう思った。
しかしそうでないかもしれない。
少しひねくれたものの見方をしてみる。

 ひとつには、被害の大きさが、あまりにも「想定外」だった。
想像を絶する心理状態。
そういう心理状態を、「想定内」にある心理学で分析することはできない。
私たちは、「絶望」というものがどういうものであるかさえ、知らない。
絶望のどん底で、人がどのようにものを考え、行動するか。
想像することはできても、それを知ることは不可能。

 3・11大震災で被災した人たちの心理状態を、私たちがどうこう分析
することはできない。
失礼というより、あまりにも恐れ多い。
ただ私たちができることは、そういう人たちを見て、そういうものかなと
思う程度。
家族、家、職場、地域を失った人たち。
別の見方をすれば、暴動を起こしたり、ものを略奪するほどのエネルギーさえ
残っていなかった。
そういうふうにも、考えられなくはない。

●あえて……

 が、ひとつだけあえて口をはさむとしたら、こういうことも言える。
本当にそれが日本人が本来的にもつ美徳のひとつかというと、私はそうではない
ような気がする。
「気がする」というだけで、断言しているわけではない。
たとえば当時、どの避難所でも、みな、こう言った。
「国が……」「国が……」と。
「国が何とかしてくれるべき」と。
それを聞いたとき、私はこう思った。
「ひょっとしたら、日本人は、本物の自由知らないのではないか」と。

 不完全性を認めない。
あいまいさを認めない。
そのため独立性を失い、自己責任という言葉を忘れてしまった。

 そこで短絡的に、私はこう結びつける。
日本人は、あまりにも長くつづいた官僚制度の中で、「国」の中に、「己(おのれ)」
を埋没させてしまった。
その結果、「国」というより、体制に隷属的になってしまった。
人とはずれたことをすることに、罪悪感を覚え、その一方で、「出る釘を
容赦なく叩いた」。

 その結果が、今では」ないか、と。

●サンケイスポーツ

 ところで数日前、こんな記事が、サンケイスポーツに載っていた(HPより)

+++++++++++以下、サンケイスポーツ+++++++++++++

●「自己責任」に住民らがキレた。

東京電力福島第1原発から半径20キロ以内の立ち入りが禁止されている「警戒区域」に自宅
がある住民の、初めての一時帰宅が10日、始まった。
第1陣はK村の54世帯92人。

帰宅直前に説明会が開かれたが、国側が「自己責任で立ち入る」とする同意書に署名を求め
ると、住民らは「責任を押しつける気か!!」と怒りを爆発させた。(以上、サンケイスポーツ)

+++++++++++以上、サンケイスポーツ+++++++++++++

●国の同意書

 ことのいきさつは、こうらしい。

(1)住民たちの、一時帰宅が「認められた」。
(2)住民たちの、一時帰宅が「始まった」。
(3)国側が「自己責任で立ち入る」という同意書に署名を求めた。
(4)これに住人たちが、反発した。
(5)「責任を押しつける気か!!」と。 

 先ほども書いたように、被災者の人たちの気持ちは、被災者たちにしかわからない。
「想定内」の世界に住んでいる私たちが、とやかく言うのは、許されない。
またそれはたいへん危険なことでもある。
私たちがすべきことは、まず被災者の人たちの声に耳を傾ける。
それを受け入れ、納得する。
その上で、自分の意見を添える。

 が、ここで国側から「自己責任」という言葉が出てきたことに注目してほしい。
「国」といっても、「役人=官僚」のことをいう。
つまり国側の言い分は、こうだ。

 「行くのは自由だが、その結果、あとあとどんな放射線障害による症状が
現れても、私たちには責任はありませんよ」と。
あるいはこういうことかもしれない。
「自分で考えて行動し、その結果についての責任は自分で取りなさいよ」と。

●放射線障害

 こと放射線障害については、「しきい値」というのは、ない。
あるはずもない。
「しきい値」というのは、「これ以下なら、安全」という基準をいう。
ごく微量でも、放射線は放射線。
危険であることには、変わりはない。
宝くじを例にあげ、考えてみればよい。

 1本買っただけで当たる人もいれば、100本買っても、当たらない人もいる。
「量」の問題ではなく、「確率」の問題。
もうひとつ付け足すなら、「時間の問題」。
放射線をたくさん浴びれば浴びるほど、晩発性の放射線障害が現れる確率は
高くなる。
障害が現れる時間も、早くなる。
「〜〜シーベルト以下なら安全」とか、「〜〜時間以内なら安全」と言うのは、
まったくのナンセンス。
1年以内に症状が現れなくても、10年後に、現れるということもある。

 そんなことは、常識。
逆に言うと、被災者の方には失礼な言い方になるかもしれないが、これだけは、
許可を求めるとか、求めないとかという問題ではない。
「許可」という言葉そのものが、なじまない。

一方、国側にしても、「認める」とか、「認めない」とかという問題ではない。
そんな権限は、たとえ国にもない。
ないにもかかわらず、「認める」という言葉を使うから、話がおかしくなる。
が、「認める」という言葉を使ってしまった。
言い換えると、「国が責任を負う」ということを宣言してしまった。
が、これでは困る。

●積算される放射性物質

 放射線の値が高い地域に足を踏み入れれば、危険に決まっている。
浴びる放射線の量にもよるが、それよりもこわいのが、放射線物質。
空中に漂う、放射線物質。
放射線物質は、たとえば微粒子の形で、呼吸や飲食物とともに、体内に取り込まれる。
蓄積される。
それが内部被爆を誘発する。
これがこわい。

 だからというわけでもないが、政府(原子力保安院)やNHKの解説委員の言う
言葉を信用してはいけない。
ときどき彼らは、たとえばこう言う。
「この値は、1時間、放射線を浴びたとしても、胸のレントゲンを1枚、撮った程度の
量です」と。

 バカめ!

 1時間に1枚ということは、1日に、24枚。
1年で……?
放射線物質を吸い込んでいれば、それが内部被爆として、10年単位でつづく。
20年単位でつづく。
(これに対して、X線でレントゲンを撮るのを、外部被爆という。
が、外部被爆は、一時的なもの。)

 つまり、そういうゴマカシが多すぎる。
ゴマカシが多いから、国民も、「国」を信じなくなる。

●国の責任

 危険だったら、「危険」と言えばよい。
あとの判断は、被災地の人たちに任せればよい。
被災地の人たちにしても、「国」に「自己責任」という言葉をつきつけられる前に、
「自己」を考えたらよい。

 つまり同意書を求める国も国なら、それを求められて怒る住民も住民ということになる。
「責任論」ということになれば、日本中のどこにいても、また同意書があっても、
なくても、その因果関係がはっきりすれば、責任を追及すればよい。

 同意書があるからといって、国は責任を逃れることはできない。
同意書を書いたからといって、責任の追及を放棄したわけではない。

 禁止区域に入っても、(「立ち入り禁止区域」という言葉は、まだ使われていないが)、
また入っていなくても、責任論は、国はまぬがれない。
反対に、禁止区域外にいたとしても、障害が現れ、因果関係がはっきりすれば、国は
責任を取らなければならない。
たとえ「想定外」であっても、だ。

●ショック!

 ところで今日(5月13日)、こんなショックなことがあった。
ネットの報道によれば、小田原市産のお茶が、出荷停止処分になった。
規定値を超えた放射性物質が検出されたためという。

 小田原市といえば、神奈川県。
東京都より、静岡県側に近い。
予想はしていたが、かくも早く、やってくるとは思っていなかった。
言い換えると、すでに千葉県全域、東京都全域は、放射性物質に汚染されている。
常識で考えれば、そうなる。

福島第一原発から小田原市まで、280キロ、
福島第一原発から私が住む浜松市まで、408キロ(グーグルアース上で測定)。
ちなみに、福島第一原発から東京までは、210キロ。
この浜松市が汚染されるのは、もはや時間の問題。
福島第一原発の状況は、日増しに悪化する一方。
この先も、放射性物質は、絶え間なく、たれ流される。

 すでに東京都の地価は、10%程度、下落し始めたという。
「バブル崩壊」という言葉を使う人もいるが、実際には、東京都に住む人たちが、
東京都を離れ始めた。
私はそう解釈する。

 ……ところで今日から、中部電力御前崎原子力発電所が停止措置に入った。
それに対して、どこかのノー天気な市長は、交付金が少なくなると心配していた。
バカめ!

 今に牧之原(御前崎を取り囲む茶の産地)のお茶も、出荷停止になる。
これも時間の問題。
そうなったとき、その市長は、何と言うのだろう。

●どうすればいいか

 私なら、数キロ離れたところに、巨大な穴を掘る。
日本の土木機械を総動員してでも、そうする。
そこに発電所で出る汚水をパイプで引き込む。

 この際、地下水が汚染されるとか、そんなこまかい手順を心配しているばあいではない。
緊急事態である。

 つぎにメルトダウンを予想し、(すでにメルトダウンしているが)、数十万トンの
コンクリートと、数百台のユンボやブルドーザーを用意する。
当然、東京都の首都機能を、名古屋や大阪に移す。
ものごとは先手、先手で、対策を練る。
またそうであってこそ、はじめて「対策」ということになる。

 「水位計を調べてみたら、原子炉はすでにメルトダウンしていました」(1号機)では、
話にならない。
報道によれば、対策を練るのは、これからという。
生ぬるいというか、まるで「うさぎの行進」。
こんなことを繰り返していたら、本当に、この日本は終わってしまう。

●自由

 自由とは、もともと「自らに由る」という意味である。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
それを「自由」という。

 よく日本は自由な国と言う。
しかしこの日本では、アホな人たちがアホなことをする自由は、ある。
が、本物の自由があるかというと、私はそうは思わない。
あるとしても「しくまれた自由」(尾崎豊「卒業」)。
しくまれた自由を自由と錯覚し、その中でうさぎの行進をしているだけ。
今の今も、そうだ。
「祭をやめます」と言われれば、何も文句も言わず、それに従う。
従うだけ。

 どうじて庶民の祭を、役人のご都合主義によって、中止しなければならないのか。
そのあたりから、日本人は、「自由」というものを考えなおす必要がある。
あるいは自分に問いかけてみる必要がある。

 「果たして私たちは、自由なのか」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自由論 浜松祭 中止 福島第一原発事故 放射線 放射線被害)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●老後、それぞれの生き方

ある女性。
今年60歳。
現在、北海道M町の有料老人ホームに住んでいる。
名前を、Yさんとしておく。
そのYさん、ときどき旅行に出かける。
先月は、浜松へやってきた。
四国へ行く途中ということだった。

有料老人ホームといっても、そこに住んでいるのは健康な老人ばかり。
仕事をつづけている人も多い。
またその有料老人ホームには、ゲストルームというのもある。
友人が客として、泊まることもできるという。
言うなれば、自活式のホテルのようなもの。
「老人ホーム」という名前から受ける、ジジババ臭さはどこにもない。
Yさんは、そう言う。

●新しい生き方

 新しい生き方を模索している老人は、多い。
そういう人がふえてきた。
今までの老人観を自ら打ち破り、自分なりの生き方を模索する。
実行する。
Yさんは、こう言う。
「一応生活の基盤をそこに置き、あとはあちこちを旅行して回っています」と。

 友人は、日本中にいるという。
中にはネットで知り合った人もいる。
また1人の友人ができると、友人の紹介からまたべつの友人ができる。
そうして自分の住む世界が、広がっていく。

 もちろん仕事もしている。
詳しくは聞かなかったが、週に3日ほど。
時間は、合計で、週に10時間ほど。
書き忘れたが、夫とは、5年前に死別。
そのとき得た遺産が、生活資金の基盤になっている。

●不良老人

 老後に「形」はない。
大切なのは、自分流に生きること。
他人の目を気にしないで、生きること。
私は私、あなたはあなた。
今は、そういう時代になりつつある。

 で、私たち夫婦はといえば、自称、「不良老人」。
いつも不良老人を目指している。
なにごとにつけ、不良ぽく生きる。
時間に縛られない。
「らしさ」に縛られない。
見栄、体裁、世間体は気にしない。
が、何よりも大切にしているのが、計画性のない生活。
そのときしたいことは、その瞬間に決める。

 「不良老人」と書いたが、実は、私たち夫婦は、若いときから、そうしてきた。
若いときは「不良夫婦」。
その私たちが、そのまま今の年齢になった。
ただし自分では、自分を「老人」とは思っていない。
思っていないが、「不良老人」と呼んでいる。
つまりこれも、ひとつの生き方。

●将来のこと

 「先はどうなるか?」と。
以前は、よく考えた。
55歳を過ぎたころのことではなかったか。
ものを買うときも、どこかでブレーキが働いた。
「どうせ無駄になる」と。
が、今は、かなりちがう。
おかしなことに、このところ年を重ねるごとに、あまり考えなくなった。
たとえば仕事にしても、50代のころより、積極的になってきた。
今の今も、新しいことにチャレンジしている。

 「今度は子どもたち(=生徒たち)に、確率論を教えてみよう」とか、
そういうことだが、それを考えていると楽しい。

●変化
 
 「老後は規則正しい生活をするといい」と説く人は多い。
東洋医学でもそう教える。
あるいは「老後になったら、コンパクトな生活に心がけるといい」と説く人もいる。
いろいろな考え方がある。
またそれぞれの人は、人生の集大成として、老後の生き方を定める。

 が、私のばあい、(あくまでも現時点での話だが)、「変化」を大切にしている。
つねに生活に変化をもたらす。
さらに言えば、「緊張感」。
緊張感の持続に心がけている。

 これも若いときからの習慣かもしれない。
趣味にしても、周期的に変化する。
数か月単位で変化する。
だからほとんどのことは、経験した。
50歳を過ぎてからは、パソコンを主体とした趣味になった。
が、それでもその合間を縫って、いろいろなことをしている。
今は、温泉旅行。
それが楽しい。

●今、したいこと

 先日、オーストラリアへ行ったとき、メルボルンからアデレードまで、
「オーバーランド号」という列車に乗った。
そのとき案内してくれた友人(オーストラリア人)が、もっとすごい列車があると
話してくれた。

 北の端にあるダーウィンから、南の端にあるアデレードまで走る、縦断鉄道がある、と。
そのときは、フ〜ンという感じでその話を聞いていた。
が、それから1か月。
日増しに、その列車に乗りたくなってきた。
ワイフに話す回数も、ふえてきた。
「なあ、x月に乗ってみないか?」と。

 今のところワイフは、あまり乗り気ではない。
二男が住むインデアナポリス(USA)に行きたがっている。
孫にも会いたいらしい。
しかし私は、その列車に乗りたい。
あるいは、この際、その2つとも実行してみるという手もある。

●山荘で

 ……といっても、実は、今朝は少し調子が悪い。
山荘へ来る前、途中の店で、カツ丼を食べた。
閉店間際の、午後10時ごろだった。
そのせいか、朝起きたとき、胃が少し痛かった。
しばらくうつ伏せに寝ていたら、楽になった。
大きな病気でないことは、わかっている。
2か月前に、胃カメラを飲んで検査している。
が、心配。

 若いときとちがって、そういう無理はできなくなった。
精神はともかくも、肉体のほうは、正直。
年齢相応に弱っていく。
変化を、あまり好まない。
たとえば一晩、徹夜をすると、その後遺症は数日、残る。

 で、今朝は、朝食抜き。
たぶん昼食も抜く。
あるいは軽く食べて、すます。

●うつ病

 知人(女性)でうつ病になってしまった人がいる。
かなり重症らしい。
一日中、だれとも会わず、部屋の奥で寝ているという。
窓を開けるのもいやがるとか。
夜も電気をつけない。

 年齢は80歳くらい?
若いときは活発な人で、宗教団体にしても、3つも4つも、掛け持ちで信仰していた。
「神様に悪い人はいない」というのが、その人の口癖だった。

 が、だれでもうつ病になる。
私だって、なる。
あなただって、なる。
心の病気。

 今朝、ワイフとその人の話になった。
「どうしてああなってしまったのか」という話をしているうちに、「どうすれば、
ああならないですむか」という話になった。

 うつ病といっても、基本的には、脳の機能障害。
脳ホルモンの分泌が、変調して、人は、うつ病になる。
慢性的なストレス、つまり心配ごとや悩みは、よくない。
それが脳ホルモンの分泌に、変調をきたす。

 老後は、ほがらかに、楽しく生きるのがよい。
……ということで、最初の話になった。

 どこかの有料老人ホームに籍を置き、そこを拠点に、好き勝手なことをする。
それもひとつの生き方。
ワイフはこう言う。

「そのうち気力も弱くなってくるから、今のうちに準備しなくちゃあ」と。

 老後には、そういう問題もある。
つまり「気力」。

●気力

 こうしてものを書くにも、気力が必要。
「書きたい」と思う気力。
それがないと、ものは書けない。
が、その原動力といえば、「怒り」。
私のばあいは、「怒り」。

 たとえば昨日は、夕食を食べたあと、浜岡原子力発電所についての原稿を書いた。
「怒り」があったから、一気に書けた。
言うなれば、私の正義感に火がついた。
が、もしそれがなかったら、ただの世間話程度の原稿で終わってしまったかもしれない。

 ただ誤解してほしくないのは、「怒り」といっても、感情的な「怒り」をいうのではない。
論理的な「怒り」。
それが爆発して、やがて原稿につながっていく。

●昨夜の「怒り」

 実は、昨夜は、それについては書かなかった。
しかしどうも、あの世界は、胡散(うさん)臭い。
阪神大震災のときも、こんなことがあった。

 あの大震災のときのこと。
どこかの高速道路の橋けたが折れて、倒れた。
それについてルポを書いていた友人がいた。
明らかに手抜き工事が原因だった。
が、その原稿を書き始めて間もなくのころ、その友人が行方不明になってしまった。

 最初にそれに気づいたのは、京都で出版社に勤めている、X氏だった。
そのX氏から問い合わせがあった。
「○○さんを知らないか?」と。

 X氏は、こう言った。
「○○さんは、消されたかもしれない」と。

 この日本では、巨大利権団体を攻撃した原稿を書くと、命の危険にさらされる。
宗教団体、ゼネコン、政治団体などなど。
とくに政治結社は、こわい。
X氏は、それを言った。
で、私たちがあれこれ心配していると、1年後、またひょっこりと○○さんが現れた。
理由を聞くと、こう言った。
「暴力団の連中に、追いかけまわされましてね」と。

 日本に言論の自由があると思っているのは、日本人だけ。
あたりさわりのない、バカなことを書いている間は、よい。
しかし一線を越えると、とたん、攻撃の嵐にさらされる。
私も何度か、経験した。

 つまり今回の福島第一原発、さらには御前崎原子力発電所について、私は何か、
胡散臭いものを感じている。
本当にそうとは言い切れないが、その向こうに巨大な利権団体がうごめいている。
この日本を食い物にしている。

 そういう点でも、今回の管直人首相の発言は、たいへん勇気のいるものだった。
表にこそ出てはこないが、今ごろは、電力会社のみならず、官僚、ゼネコンの猛攻撃に
さらされているにちがいない。
だからこそ、私たちが立ち上がる必要がある。
管直人首相を、裏で支える必要がある。

 この世界には、「御用学者」というのがいる。
同じように、「御用ライター」というのもいる。
巨大利権団体の意向に沿った記事を書かせ、世論を自分たちの都合のよいように誘導
していく。

法外な原稿料を払い、ライターを懐柔するという方法が一般的。
半端な原稿料ではない。
原稿1本で、ふつうの人の年収分の原稿料を払う(「週刊現代」)。
こうして「御用ライター」を育成していく。

 昨夜は、久しぶりに、その「怒り」を覚えた。

●団塊の世代

 が、その一方で、ときどきこう思う。
「私たち団塊の世代ががんばらなくて、ほかのだれががんばるか」と。
「怒り」といっても、私のためではない。
世のため、人のため。
……というのは、大げさかもしれない。
しかしそういう自負心もないわけではない。

 ……ということで今朝も始まった。
時は2011年5月13日。
雨戸を開けると、まだどこかに淡さを残した森の木々が、やさしく風に揺れていた。
その向こうには幾重にも重なった森の木々、そして水色の空。
先ほど、ワイフが窓も開けた。
ひんやりとした春の乾いた風が、サーッと吹き込んできた。

 今日の計画……。
連休中は家で静かにしていた。
が、これからが私の出番。
がんばろう!


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

はやし浩司先生へ

ご無沙汰しております。
長崎県のKHです。
浜松からこちらに引っ越してから、もう3年になります。

本日は、小学5年生の息子の事でご相談したい事がありましてメールいたします。
 
担任の先生の事です。
4月に新学期が始まりました。担任はこの春、日本から新しくいらした30代後半の女性です。
 
初日、学校の様子を聞くと、「先生こわい〜」とのこと。
 
とにかくよく怒るようです。クラスに一人、口の達者な男の子がいて、特にその子が怒られてい
るようです。

先生の怒り方をまねして教えてくれるのですが、その怒り方が乱暴なのに驚きました。
「テメエらそれでも5年生かよ!!」「(上記の男の子に向かって)テメエのようなヤツがいるか
ら授業が進まないんだよ」「お前らアホか」などなど。言う事を聞かない子の腕を引っ張って、引
きずって廊下に出したり、胸をつかんだりもするそうです。先生の意にそわない事を言ったり、
したりすると、すぐに黒板を叩いたりするとも言います。
 
同じクラスのお母さんたちに聞くと、私が息子から聞いた事と同じような事を聞いていました。
ただ、私たち母親は、子供からの話だけで、実際の様子を見たり、聞いたりしていません。
 
 
毎日「学校はどうだった?」と聞くといつも怒った先生の様子ばかり話します。
 
1か月がすぎました。先生の様子は変わらないようです。怒られていない子までが怖がって萎
縮してしまっています。こんな事言ったらきっと怒られる、こんな事やったら怒られる、といった
感じです。息子も最近はひどくイラついています。
 
先生のいいところは?と聞いても、考えつかないようです。
 
この春、その先生は他県から転入してきました。4月が始業式。慣れない土地で、生活も仕事
も一から、という事で大変なのだろうと思ってはいるのですが、毎日毎日息子から先生の愚痴
を聞いているうちに異常なものを感じ始めています。
 
学年主任の先生がいらっしゃいます。
その先生に相談を……という父兄もいます。
 
もう少し様子を見るべきなのでしょうか?

長崎県、KH(母親)より。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●KHさんへ

 こんにちは!

 この種の問題は、(1)けっして、単独行動をしないこと。
(2)まわりの人が動き出すまで、静観する、です。

 間に子どもがいるため、ここは慎重に!
もちろんあなたの子どもに直接的な被害(?)があれば、話は別です。
しかし今の状況では、様子をみるのが、最善かと思います。
またみなといっしょに行動に出るときには、一気に出る、です。
校長、もしくは副校長に直接談判することも、覚悟してください。

 実のところ、友人(58歳、現在小学校長)も、似たような問題をかかえ、
悩んでいます。
明らかに「不適格教師」なのですが、知人の指導に従わないばかりか、何か
指導めいたことを口にすると、猛烈に反発し、手がつけられなくなるとのこと。
教師の世界は、ふつうの会社における人間関係とは、かなりちがった部分があることを、
知っておかれるとよいでしょう。
校長といえども、人事権はありません。
学年主任といっても、年功序列型で、持ち回り的な存在です。
つまり親たちが騒いでも、何か犯罪行為でもなければ、ただの「騒ぎ」で終わって
しまうということ。
あるいは転校という形で、うやむやに終わってしまうということ、です。

 もっともその程度の「こわい先生」は、私たちが子どものころは、どこにでもいました。
毎日、剣道で使う竹刀(しない)をもって、学校へ来ていた教師(中学英語)もいました。
そういう点では、私たち団塊の世代は、たくましく育てられています。

 一方、この静岡県では、今では生徒に何かを命令する先生はいません。
「〜〜しませんか?」(提案型)、「〜〜してくれませんか?」(依頼型)の言い方が、
一般化しています。
掃除でも、昔のように、「掃除しなさい!」と言う先生は、いません。
それがよいことなのか、どうか、私にはわかりません。
(私自身は、そういう言い方をしませんので……。)

 こうしたトラブルを避けるため、本来なら、アメリカのように複数の教師で指導に
あたるようにするのが望ましいですね。
アメリカでは、クラスの教師+インターン(学生)+当番の親の3人で指導するのが、
一般化しています(小学低学年)。
オーストラリアでも、教師と当番の親の2人で指導するのが一般化しています(南
オーストラリア州・小学低学年)。

 ともかくも、今は、様子を見てください。
子どもが過度に萎縮し、神経症のような症状が出てきたら、またメールをください。
なおほかの親から、相談があっても、よき聞き役に徹すること。
「私もそう思う」などと言ってしまうと、今度はあなたの言った言葉として、学校中に
広がってしまいます。
それが理由で学校にいられなくなってしまった親も、います。

 つまりこの問題は、それくらいデリケートな問題ということです。
繰り返しますが、間に子どもがいるため、行動、言動は慎重に!

 では、今日はこれで失礼します。

 浜松の放射線量も、徐々にふえています。
心配です。

はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【楽しく+愉快な子どもたち】

++++++++++++++++++++++

今週は、小学1〜2年生は、「大きな数」を
テーマに学習しました(2011年5月2週目)。

本当に伸びやかな子どもたちです。
少しふざけすぎかな……?、といっても、
そこが私のBW教室のよいところ(?)。

子どもたちが自由に、学んでいます。
そんな楽しく、愉快な子どもたちを、ご覧ください。

小3〜4年生になったら、少しずつ、しめていきます。

+++++++++++++++++++++

【小1のクラスより】


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【小2のクラスより】


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もっと見てくださる方は、
「はやし浩司のメインHP」より、「BW公開教室」→「2011年5月」へ、どうぞ!


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●たったの5・24マイクロシーベルトだって(?)

++++++++++++++++++++

25年前にメルトダウンを経験した
ロシアのチェルノブイリ。
その周囲30キロは、今でも「立ち入り禁止
区域」になっている。

誤解があるといけないので、正確に
記事を転載させてもらう。

+++++++++++以下、JIJICOM++++++++++++++

……炉心溶融事故が起きた原発4号機。コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近づくと
放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴り続けた。通
常の50倍を超える放射線量だ。

●放射線量と人体への影響

 「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れないよう新
たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。原発の周囲30キロの立ち入り規
制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。
 事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、
欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、昨年から基礎工事が始ま
った。

+++++++++++以上、JIJICOM++++++++++++++

●たったの5・24マイクロシーベルト

 本当のところ、「シーベルト」という単位を聞いても、私には何もわからない。
センチとかグラムとか、そういう単位がもつ実感が、わいてこない。

 が、あのチェルノブイリでは、今でも5・24マイクロシーベルトの放射線量が
観測されるという。

「5・24マイクロシーベルト」?
「たったの5・24マイクロシーベルト」?
福島県では、校庭利用の基準は、毎時3・8マイクロシーベルトだそうだ(注※)。
つまり3・8マイクロシーベルト以下になれば、校庭の使用が許可される。
5・24と3・8。
その差は、たったの1・4!

 日本で聞いている数値と、あまりにもかけ離れているような気がする。
今では「マイクロシーベルト」と聞いて、驚く人はいない。
その1000倍の「ミリシーベルト」という単位が、ふつうになりつつある。

 が、ロシアのチェルノブイリでは、たった5・24マイクロシーベルトで、
「周囲30キロが、今でも立ち入り禁止区域」になっているという。
もしそんな基準をこの日本に当てはめたら、やがてこの日本は、全土が、
立ち入り禁止区域になってしまう。

 放射性物質というのは、拡散される時期が長ければ長いほど、そこで積算される。
毎日、0・1マイクロシーベルトでも、体内で蓄積されれば、10日で、
1マイクロシーベルトになる。
もちろん地中にしみこんだり、水とまざって流れていく分もあるだろう。
しかし基本的には、「溜まっていく」。

 さらにおかしなことに、毎日の放射線量はそれほどでもないはずなのに、
昨日(5月12日)、神奈川県の茶から、基準値を超える放射線が観測された。
いったい、こういう現象を、どう理解したらよいのか。

(毎日、文科省は、各地で観測された最大放射線量をネット上で、公開している。
それによれば、東海地方では、おおむね0・04〜0・05マイクロシーベルトで、
「平常値」となっている。

神奈川県も「平常値」のはず?)

平たく言えば、日本は、今、たいへんなときにある。
その存亡の危機の崖っぷちに立たされていると言っても過言ではない。
不測の事態が不測の事態を呼ぶ。
さらに「想定外」のことが、連続して起こる。
今は、そういう状態。

●鈍化する感覚

 それにしても、日々に感覚が鈍化していくのには、驚かされる。
私自身ですら、「メルトダウン」の恐ろしさは、よく知っていたはず。
チェルノブイリ事故のときは、体が震えた。
しかし今、それがこの日本で起きている。
明日には、その影響が、この静岡県にまで及んでくるかもしれない。
しかし今は、それがない。
つまり緊張感がない。
緊迫感もない。
ニュースを見ながら、「コンクリートで塞げばいい」などと、のんきなことを言っている。

 つまりこうして、(現実)と(感覚)が遊離していく。
「ミリシーベルト」くらいでは、驚かない。
現に今、「5・24マイクロシーベルト」と聞いて、「たったの?」と思っている。

 しかし現実は、重い。
5マイクローシーベルトと言えば、静岡県で観測されている放射線量の約100倍。
25年たった今でも、チェルノブイリでは観測されているという。
周囲30キロが立ち入り禁止区域になっているという。

 そこで重要なことは、この緊張感を失わないこと。
失ったとたん、油断が生まれる。
事故が拡大する。

 あのとき、みな、こう思ったはず。
「原発なんて、もうこりごり」と。
しかしもうすでに、産経新聞などは、原発必要悪論を堂々と論じ始めている。
この変わり身の速さこそが、危険。
心配。
油断こそ、禁物ということになる。

(2011年5月14日夜記)

(注※)(日本経済新聞より)

文部科学省は13日、福島第1原子力発電所事故を受けて屋外活動を制限していた福島市立
渡利中学校で実施した放射線量調査で、校庭利用の基準である毎時3.8マイクロシーベルトを
12日に続いて下回ったと発表した。屋外活動の制限対象になった13校・園すべてで基準を下
回ったことになる。制限解除の対象になるが、同省は放射線量が比較的高い学校などの調査
を続ける。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【奥三河・湯谷温泉・「湯の風・HAZU」】

++++++++++++++++++

昨日(13日)はいろいろあった。
いろいろあって、疲れた。
夜(9時ごろ)になって、突然、
温泉に入りたくなった。
ネットで温泉をさがす。

私は山の中の山育ち。
海の見えるホテルもよいが、川のせせらぎが
聞こえる、山の宿も好き。
・・・ということで、ここ、湯谷温泉へは
たびたび来る。

で、今日は、「湯の風・HAZU」に一泊。
土曜日の夜だから・・・とあきらめていたが、
「いい部屋が空いています」とのこと。

この湯谷温泉には、10軒近く、温泉が
並んでいる。
「湯の風・HAZU」は、その温泉通りとは、
川をはさんで反対側にある。
一軒宿である。
ワイフも驚いた。
私も驚いた。

和風の、造りは古いが、温泉宿としては、最高!
眼下に清流。
深い木々に囲まれ、5月の、どこか夏を
思わせる、さわやかな陽気。
部屋に一度入ったあと、ワイフと散歩。
歩いて数分のところに赤いつり橋があった。
そこを渡ると、そのままJR湯谷駅。

「いいところだね」と、ワイフは、
何度も言う。
もちろん私も異存なし!
そのつど、「いいところだね」と。

・・・ということで、湯谷温泉イチの旅館を発見。
ついでに露天風呂よし。
料理よし。
「湯の風、HAZU」。
名前もよい。

+++++++++++++++++

●体重オーバー

 このところ考えることと言えば、原発事故のことばかり。
私のような「うつ族」は、ひとつのことにこだわると、そのことばかり。
それが頭にこびりついて、離れない。
週刊誌、雑誌・・・。
いろいろ買い込んでは、読む。
が、これは精神の健康にはよくない。

 そこで先週から、運動量をふやした。
体重がふえたこともある。
4、5日前、恐る恐る体重計に乗ると、3キロオーバーの、54・5キロ!
「太ったな」とは感じていたが、3キロは、きつい。

 サイクリング1単位(40分)+ウォーキング1単位(1時間)。
ほかにあれこれ。
おかげで今日は、体もすっきり。
腹のポタポタ感もなくなった。
 
●「これから起こる原発事故」(宝島社)

 週刊誌は「週刊現代」。
3・11台震災以来、もっとも「事実」に近いことを書いている。
その一方で腹立たしいのは、NHK。
御用学者を並び立て、大本営発表を繰り返す。
今にして思うと、ウソばかり。
そのためこの先、どれだけ多くの犠牲者が出ることか!
たとえば最初に原発が爆発したときも、そうだった。
「落ち着いて」「冷静に」と。
そのとき大量の放射性物質が、風に乗ってあたりを汚染していた。

で、今日は、この旅館へ来る前、「これから起こる原発事故」(宝島社)
を買った。
「2007年10月、第一刷発行」とある。
つまり4年前の本。

 が、一読して、驚いた。
「どうしてこんなことが4年前にわかっていながら、政府は何も手を
打たなかったのか!」と。
ズバリ、現在の状況を言い当てている。
そのまま!
だから、買った。

●100キロ単位で汚染

 原発事故の恐ろしさは、規模が大きいこと。
100キロ単位で、被害が広がる。

 そう言えば、昨日、小田原市(神奈川県)が、新茶の出荷を停止した。
それについて農家の人たちは、「(福島から)何百キロも離れているのに!」
(新聞報道)と驚いていた。
しかしこれはまったくの認識不足。
その程度ですむならなら、まだよいほう。

チェルノブリイ事故のときは、半径300キロ(15キューリー/平方キロ)から、
半径600キロ(5〜15キューリー/平方キロ)まで、汚染されている。
600キロといえば、名古屋を中心とする中部圏内まですっぽりと入ってしまう。

 「キューリー」と聞いてもピンとこないかもしれない。
しかしつぎの事実を知ったら、あなたもまちがいなく震えるだろう。

『・・・急性障害死50%を引き起こす放射線量は、4シーベルト。
これは国際放射線防護委員会(ICRP)の認めた、「半数致死」に
相当する。
ちなみに、2・2シーベルトで、5%が急性障害死、9・3シーベルトで、
99%が急性障害死する』(ゴフマン博士、同書、P24)という。
わかりやすく言えば、10シーベルトが限界。
10シーベルトの放射線を浴びたら、人間は、その場で即死。
かろうじて生きても、「そのままひからびて」(本書)死ぬ。

 では、福島第一原発では、どの程度の放射線が観測されているか。
それは、つぎのニュースを読めばわかる。
そのまま転載する。

+++++++++以下、yahoo・news+++++++++++

 経済産業省原子力安全・保安院は14日、東京電力福島第1原発1号機の原子炉建屋内を13
日午後にロボットで調べたところ、最大で毎時2000ミリシーベルトの線量が観測されたと発表し

(5月14日)。

+++++++++以上、yahoo・news+++++++++++

 ゴフマン博士によれば、2・2シーベルトで、約5%の人が、急性障害死するという。
が、1号機では、13日、2000ミリシーベルトが観測されたという。
2000ミリシーベルト=2シーベルト!

 さらに、ゴフマン博士は、晩発性のガン死について、「1万人・シーベルト」という
推計値を提起している。
これは「1万人の人が、1シーベルトの放射線を浴びたばあい、何人がガン死するか」を
推定したもの。
その計算によれば、つまりゴフマン説によれば、やがて1万人中、4000人がガン死
するという。
2シーベルトといえば、その2倍。

 福島第一原発のばあい、最初の爆発とともに、桁はずれの放射性物質が飛び散ったと
推定される。
その量は、その爆発だけでチェルノブイリの爆発時の、約半分程度と言われている。

●MOX燃料

 5月14日現在、1号機が、「最悪の状態」(官房長官)にあるという。
が、それよりもこわいのが、実は、3号機。
3号機では、MOX燃料、つまりウランとプルトニウムの混合酸化物
燃料を使っている。

 プルトニウム・・・放射線そのものは、それほどないが、プルトニウムは、
1ミクロン単位の微粉末となって、空中に散る。
空中に散った放射性プルトニウムは、呼吸によって体内に取り込まれる。
内部被爆を引き起こす。
それがこわい。

 横尾試算(京都大学原子炉実験所)によれば、たった7キログラムの
MOX燃料が火災にあっただけで、風下600メートルで、プルトニウム
による短期の被ばく線量は、4・3シーベルト。
それだけで約半数の人が、そのまま急性死するという。
(風力、火災時間などのこまかい条件は、省略する。)

 「1シーベルト」という放射線量が、いかに恐ろしいものであるか、
これでわかってもらえたと思う。

●広島型原子爆弾x4万7000発

 原子炉の中には、いったいどれだけの放射性物質があるのか。
それについても、同書は、くわしく解説している。
ほとんどの人は、たとえば広島型原爆と比較して、原子力発電所のそれは、
それほどたいしたことはないと考えている。

 しかしこれは誤解!
同書には、こうある。

「100万キロワットの原発が、1年間稼動した場合に燃えるウランの
量は、広島型原発のそれの1000発分ある。
2年稼動した場合には、2000発分、3年では原爆3000発分。
事故が起きれば、それだけの放射能が環境中に漏れ出ることになる」(P32)と。

 福島第一原発の発電能力は、計4696KW(川北英隆)だそうだ。
つまり4696x1000=約470万キロワット。
1年間稼動しただけで、広島型原発の4700発分。
10年で、4万7000発分。
福島第一原発は、稼動し始めてから、すでに40年が経過している。
 
 が、政府はさかんに、「風評被害」という言葉を使う。
つまり「政府の言うこと以外は、信用するな」と。

 しかし実際はその逆。
風評のほうが、はるかに現実に近い。
近いばかりか、現実のほうが、はるかに深刻。
私たちが「予断」しているより、はるかに深刻。

声を張り上げ、「募金活動」なるものをしている子どもたちには悪いが、
今、日本が直面している問題は、そんな程度の問題ではない。
募金活動で、どうこうなるような問題ではない。
「明日は、わが身」。
明日は私たちが、この浜松から逃げなければならない。
このあと事故処理に何年かかるか知らないが、長引けば長引くほど、
被害は拡大する。

●1時間当たり、0・04ミリシーベルト

 毎日のように、日本各地の放射線量が新聞に載っている。
この静岡県では、平均して、約0・04〜0・05ミリシーベルト。
1時間あたりの放射線量である。
そしてそれと同時に、「過去最大平常値」というわけのわからない
数値が併記してある。
私たちはそれを見て、「ああ、平常値以下なのか」と、へんに安心する。
が、「過去最大平常値」とは何か。
それはさておき、0・045ミリシーベルトにしても、それを24倍し、
さらに365倍すると、1年間の被爆量ということになる。

 0・045x24x365=400ミリシーベルト。

 ところで最初に書いたように、チェルノブイリでは、1平方キロメートル
あたり、40キューリーもの放射線が観測されたという。
その値をベクレルに換算すると、1キューリー=370億ベクレル。
たいへんな放射線量のように思うかもしれないが、この値を、
1000x1000=100万で割ると、1平方メートルあたりの放射線量
が計算できる。

 それによれば、370億÷100万=3万7000ベクレル。
すごい量に思うかもしれないが、食品衛生法で決められている暫定規制値は、
1キログラムあたり、500ベクレル。
すでに福島県のアユなどからは、1キログラムあたり、720ベクレル(いわき市)の
放射線が観測されている。
アユ100キログラムで、7万2000ベクレル!

 つまりこの程度の放射線なら、福島第一原発の周辺では、日常的に観測されている。

・・・と、とんでもない数字ばかり並ぶが、結論は、ただひとつ。
日本は、現在、きわめて深刻な状況にあるということ。
今のような状況がつづけば、数か月以内には、東京都ですら、高汚染地域に
なってしまう。
放射性物質の恐ろしいところは、日々にそれが積算されること。
チェルノブイリでも、事故後3年後には、高汚染地域は、300キロに拡大
している(同書)。

 いうまでもなく、福島第一原発は、世界でも最大級の原子炉。
チェルノブリイで爆発した4号機も、出力100万キロワット。
福島第一原発には同規模の原子炉が4機もある。
それだけでもチェルノブイリの約4〜5倍ということになる。

●では、どうするか

 どこかのニュースサイト(産経新聞)に、こんな言葉があった。
「(1号機は)、もう打つ手なし」(注※3)と。
先にも書いたように、1〜10シーベルトの放射線が観測されたと
するなら、人間は、その場で「急死」。
「穴を塞げばそれでいい」という問題ではない。
穴そのものを塞ぐ方法がない。
そこでコンクリート詰めということになるが、3000度もある核燃料は
コンクリートすらも、溶かしてしまう。

 (さらに今夜になって、2号機、3号機も同じようにメルトダウンしていると
いうことがわかった。5月14日。)

●気休めはもうやめよう

 政府にも、原子力保安院にも、東京電力にも、がんばってもらうしかない。
・・・というか、現場で作業している作業員のみなさんには、本当に頭がさがる。
そうした人たちの努力のおかげで、今の今も、私たちは何とかこうして無事でいられる。
希望を捨てたわけではない。
しかし同時に、私たちは、さらに最悪のばあいに備えて、準備をしておかなければ
ならない。
心の準備と行動的な準備。
具体的には、日本経済の崩壊と国外脱出。
そうなったとき、私たちは自分をどう支えたらよいのか。
気休めは、もうよい。
ウソとゴマカシは、もうたくさん。

 「今」を原点として、前向きに生きていくしかない。
たまたま昨日、事故現場で、1人の作業員の方が急死した。
放射性物質が原因だったとは、まだ断定されたわけではない。
緊張感とストレス。
それが急死の原因とも考えられる。

 その作業員の方の死を受けて、菅総理は、つぎのように述べている。

「本当に気の毒に思っている。原因が放射能被害かどうか、しっかりと確かめてもらいたい」
と。

 首相官邸で記者団の質問に対して、そう答えた(ヤフー・ニュース)と(注※)。

(注※)15日になって、この作業員は、心筋梗塞で死亡と発表された。

●川

 旅館の下を、川が流れている。
先ほど窓の外を見たワイフが、こう言った。
「わっ、きれい。川がライトアップされている!」と。

 その声につられて私も外を見た。

 美しかった。
幻想的だった。
いろいろなライトアップを見てきたが、ここは格別。
川のライトアップは、はじめて。
しばし見とれる。

 これから露天風呂に入ってくる。

 ・・・それにしても、私はその本(「これから起こる原発事故」(宝島社))を読んで、
驚いた。
心底驚いた。
4年前に、すでにこういう本が出版され、今回の事故をそのままズバリ、言い当てて
いる。
東京電力の「再循環冷却型原子炉」の危険性についても、言及している。
しかも今回と同じような事故が、1989年1月に、福島第二原発で、起きていることが
わかった。
「この事故では、再循環ポンプが破損し、炉心に大量の金属片が流入し、炉心を傷つける
という事態に立ち至ったのである」(同書、P60)と。

にもかかわらず、起こりうる地震や津波を、「想定外」とし、何ら対策をとらなかった。
さらに職員たちの士気の低さについても言及している。
「言われたことはする。しかしそれ以上はしない」と。
役人根性丸出しというか、平たく言えば、そういうこと。

 権限と情報にしがみつき、管轄外のことは何もしない。
何か問題が起きると、すかさず責任逃れ。
給料(収入)や権限が侵害されると、ワーワーと騒ぐ……。

 ・・・原子力発電所。
そこにあるのは、冷徹なマネーの論理だけ。
金儲け優先の原子力政策(「週刊現代」)。
その結果として、今回の事故につながった。

 そこに私は人間が原罪的にもつ愚かさを感じた。

(はやし浩司 2011−05−14記)

(補記)

 私の近辺にも、国外脱出を試み家族がふえてきた。
祖父母が外国人のばあい、その祖父母のいる外国へ避難していった人も多い。
政府は、「年間20ミリシーベルト」という基準をもちだし、「子どもについて
は、10ミリシーベルト」とまで言い出した。
が、すかさずアメリカの学者が、それに対して異議を唱えた(注※2)。
「放射線障害に、しきい値は存在しない」(5月14日)と。

 少量であればあるほど、(かえって少量のほうがこわいという説もある)、より
晩発性になるだけ。
10年後、20年後に、症状が現れてくる。
20年後でなければ、30年後に症状が現れてくる。
チェルノブイリのときは、遠く離れたスェーデンでがん死亡者が、その後、急増した。

 だからあえてこう言う。
「機会とツテがあるなら、福島の子どもたちよ、今すぐ、福島から脱出せよ」と。

 ……ア〜ア、またまた福島第一原発の、事故のことを書いてしまった。
ゴメン!

(注※2)「日本経済新聞WEB版」より(5月15日)

 福島第1原発事故で政府が、福島県内の小中学校などの屋外活動制限の可否に関する放
射線
量の基準を、年間20ミリシーベルトを目安として設定したことに対し、米国の民間組織「社会的

任のための医師の会(PSR、本部ワシントン)」が2日までに、「子供の発がんリスクを高めるも

で、このレベルの被曝(ひばく)を安全とみなすことはできない」との声明を発表した。

 PSRは1985年にノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師の会」の米国内組織。

 声明は、米科学アカデミーの研究報告書を基に「放射線に安全なレベルはなく、子供や胎児

さらに影響を受けやすい」と指摘。「年間20ミリシーベルトは、子供の発がんリスクを200人に1

増加させ、このレベルでの被曝が2年間続く場合、子供へのリスクは100人に1人となる」として
「子供への放射線許容量を年間20ミリシーベルトに引き上げたのは不当なことだ」と批判した。

(注※3)

 産経新聞はつぎのように書いている。
「12日、東京電力福島第1原発1号機で、原子炉圧力容器内の核燃料棒が完全に露出したこ
とが判明し、圧力容器損傷の可能性も浮上した。原子炉を安定冷却するための作業が進めら
れているが、見直しは避けられない。専門家からは「圧力容器に穴が開いているなら、もう打
つ手がない」と危惧する声も上がり、事故の収束に向けた工程表の達成に「黄信号」がともっ
た。(原子力取材班)」
2011/05/15記


Hiroshi Hayashi++++++May 2011++++++はやし浩司(林浩司)

●文部科学省の「都道府県別環境放射能水準調査結果」に疑念あり

++++++++++++++++++++

「週刊現代」(5月28日号)は、こう伝える。
「(実際の放射線測定値は)、2倍から5倍」(P46)と。

文部科学省(文科省)は、毎日、「都道府県別環境放射能水準調査結果」なるものを
発表している。
しかしその「結果」がどうもあやしい(?)。

たとえば東京都のばあい、新宿区百人町にある、東京都健康安全研究センターの
屋上に設置されたモニタリングポストによって、計測されているという。
その高さ、地表からの距離はおよそ18メートル、とか。

「放射線量(放射能)の濃度は、地表近くで測定してはじめて意味がある」と。

その結果、文科省の発表する数値と、実際、地表近くで測定した数値には、大きな
開きがある。
それが冒頭に書いた、「3〜5倍」という数字である。

●週刊現代より

 週刊現代は、(文科省の発表する数値)と、(実際の測定値)を比較して掲載して
いる。
そのまま紹介させてもらう。
(かっこ内)は、文科省が発表している数値(週刊現代・P48)。

群馬県……0・071(0・034)
栃木県……0・243(0・062)
茨城県……0・166(0・102)
埼玉県……0・074(0・058)
東京都……0・359(0・068)
千葉県……0・394(0・054)
神奈川県…0・090(0・056)
(単位は、マイクロシーベルト)

●文科省の言い分

 週刊現代によれば、文科省は、放射線の測定をかなり高い位置で測定しているという。
「岩盤の影響を受けないように」ということらしい。
岩盤があれば、それが発する放射線の影響を受ける(?)。
しかしこの論理は、おかしい。
どう考えても、おかしい。

 仮に岩盤があるとしても、それは地下深くの話。
仮に18メートル程度高くしたとしても、影響がなくなるわけではない。
(新宿区百人町は、岩盤の上にあるのか?)
また新宿区が、「岩盤の上にある」などという話は聞いたことがない。
さらに言えば、岩盤があるとするなら、岩盤をはずした位置で、測定することもできる
はず。

 が、何よりも重要なことは、地表近く、つまり人間がもっとも影響を受ける位置でこそ
測定してはじめて意味をもつ。
週刊現代は「人間ではなく、鳥の被爆量」(P47)と皮肉っている。

●静岡県は、0・04〜0・05前後(?)

 文科省の発表によれば、静岡県での測定値は、連日、0・04〜0・05程度。
「過去最大平常値」より、低い数値となっている。
しかし本当に、そのまま信じてよいのか?

 同じく神奈川県でも、連日低い数値が報告されている。
しかしその神奈川県では、先日、地域によって茶の出荷が停止された。
基準値を超えた放射線量が測定されたためである。
つまり「話が矛盾している」!

 そこで私がとるべき方法は、ただひとつ。
自分で調べる!

●放射能測定器

 現在、ネットで放射線測定器が10種類以上、販売されている。
値段は4万〜8万円程度。
しかしよくみると、どれも中国製。
あの国の製品は、どうも信用がおけない。

 そこでオーストラリアのM大学の研究室にいる友人にメールを送った。
「大学の研究室で使っているものを教えてほしい」と。
すかさず、返事が届いた。

G'day mate,

I am trying to find out about this. Actually at the moment there is a world wide 
shortage of radiation detectors because so many people in Japan and USA are buying 
them.

『これについて、今、さがしている。
実際、現在のところ、放射測定器は、世界的に不足している。
日本およびUSAのそんなにも多くの人たちが、買いに走っているから』と。

 私は自分で調べる。
文科省の発表している数値が、正確なものであるかどうかを、自分で調べる。
もしインチキだったら、私は許さない。
あの文科省は、戦時中は、先頭に立って軍事教育(洗脳)を推し進めていた。
その文科省は、今もそのまま。
敗戦と同時に、クビになった官僚はひとりもいない。

 ……ともあれ、「週刊現代」に書いてあることは事実なのか。
命にかかわる問題だから、自分で調べるしかない。
放射能測定器は、自分で手に入れる。

 それに加えて一言。

 新聞社にせよ、ほかのマスコミ機関にせよ、どうして独自に調べようとしないのか。
この浜松市には、中日新聞と静岡新聞社がある。
そういうところが、たとえば1キロ四方単位で、放射線を測定し、それを発表しても、
私はおかしくないと思う。

 どうしてか?
2011/05/17記

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

++++++++++++++++

去る5月15日に書いた原稿を
再掲載します。

++++++++++++++++

●たったの5・24マイクロシーベルト(?)

++++++++++++++++++++

25年前にメルトダウンを経験した
ロシアのチェルノブイリ。
その周囲30キロは、今でも「立ち入り禁止
区域」になっている。

誤解があるといけないので、正確に
記事を転載させてもらう。

+++++++++++以下、JIJICOM++++++++++++++

……炉心溶融事故が起きた原発4号機。コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近づくと
放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴り続けた。通
常の50倍を超える放射線量だ。

●放射線量と人体への影響

 「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れないよう新
たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。原発の周囲30キロの立ち入り規
制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。
 事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、
欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、昨年から基礎工事が始ま
った。

+++++++++++以上、JIJICOM++++++++++++++

●たったの5・24マイクロシーベルト

 本当のところ、「シーベルト」という単位を聞いても、私には何もわからない。
センチとかグラムとか、そういう単位がもつ実感が、わいてこない。

 が、あのチェルノブイリでは、今でも5・24マイクロシーベルトの放射線量が
観測されるという。

「5・24マイクロシーベルト」?
「たったの5・24マイクロシーベルト」?
福島県では、校庭利用の基準は、毎時3・8マイクロシーベルトだそうだ(注※)。
つまり3・8マイクロシーベルト以下になれば、校庭の使用が許可される。
5・24と3・8。
その差は、たったの1・4!

 日本で聞いている数値と、あまりにもかけ離れているような気がする。
今では「マイクロシーベルト」と聞いて、驚く人はいない。
その1000倍の「ミリシーベルト」という単位が、ふつうになりつつある。

 が、ロシアのチェルノブイリでは、たった5・24マイクロシーベルトで、
「周囲30キロが、今でも立ち入り禁止区域」になっているという。
もしそんな基準をこの日本に当てはめたら、やがてこの日本は、全土が、
立ち入り禁止区域になってしまう。

 放射性物質というのは、拡散される時期が長ければ長いほど、そこで積算される。
毎日、0・1マイクロシーベルトでも、体内で蓄積されれば、10日で、
1マイクロシーベルトになる。
もちろん地中にしみこんだり、水とまざって流れていく分もあるだろう。
しかし基本的には、「溜まっていく」。

 さらにおかしなことに、毎日の放射線量はそれほどでもないはずなのに、
昨日(5月12日)、神奈川県の茶から、基準値を超える放射線が観測された。
いったい、こういう現象を、どう理解したらよいのか。

(毎日、文科省は、各地で観測された最大放射線量をネット上で、公開している。
それによれば、東海地方では、おおむね0・04〜0・05マイクロシーベルトで、
「平常値」となっている。

神奈川県も「平常値」のはず?)

平たく言えば、日本は、今、たいへんなときにある。
その存亡の危機の崖っぷちに立たされていると言っても過言ではない。
不測の事態が不測の事態を呼ぶ。
さらに「想定外」のことが、連続して起こる。
今は、そういう状態。

●鈍化する感覚

 それにしても、日々に感覚が鈍化していくのには、驚かされる。
私自身ですら、「メルトダウン」の恐ろしさは、よく知っていたはず。
チェルノブイリ事故のときは、体が震えた。
しかし今、それがこの日本で起きている。
明日には、その影響が、この静岡県にまで及んでくるかもしれない。
しかし今は、それがない。
つまり緊張感がない。
緊迫感もない。
ニュースを見ながら、「コンクリートで塞げばいい」などと、のんきなことを言っている。

 つまりこうして、(現実)と(感覚)が遊離していく。
「ミリシーベルト」くらいでは、驚かない。
現に今、「5・24マイクロシーベルト」と聞いて、「たったの?」と思っている。

 しかし現実は、重い。
5マイクローシーベルトと言えば、静岡県で観測されている放射線量の約100倍。
25年たった今でも、チェルノブイリでは観測されているという。
周囲30キロが立ち入り禁止区域になっているという。

 そこで重要なことは、この緊張感を失わないこと。
失ったとたん、油断が生まれる。
事故が拡大する。

 あのとき、みな、こう思ったはず。
「原発なんて、もうこりごり」と。
しかしもうすでに、産経新聞などは、原発必要悪論を堂々と論じ始めている。
この変わり身の速さこそが、危険。
心配。
油断こそ、禁物ということになる。

(2011年5月14日夜記)

(注※)(日本経済新聞より)

文部科学省は13日、福島第1原子力発電所事故を受けて屋外活動を制限していた福島市立
渡利中学校で実施した放射線量調査で、校庭利用の基準である毎時3.8マイクロシーベルトを
12日に続いて下回ったと発表した。屋外活動の制限対象になった13校・園すべてで基準を下
回ったことになる。制限解除の対象になるが、同省は放射線量が比較的高い学校などの調査
を続ける。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【奥三河・湯谷温泉・「湯の風・HAZU」】

++++++++++++++++++

昨日(13日)はいろいろあった。
いろいろあって、疲れた。
夜(9時ごろ)になって、突然、
温泉に入りたくなった。
ネットで温泉をさがす。

私は山の中の山育ち。
海の見えるホテルもよいが、川のせせらぎが
聞こえる、山の宿も好き。
・・・ということで、ここ、湯谷温泉へは
たびたび来る。

で、今日は、「湯の風・HAZU」に一泊。
土曜日の夜だから・・・とあきらめていたが、
「いい部屋が空いています」とのこと。

この湯谷温泉には、10軒近く、温泉が
並んでいる。
「湯の風・HAZU」は、その温泉通りとは、
川をはさんで反対側にある。
一軒宿である。
ワイフも驚いた。
私も驚いた。

和風の、造りは古いが、温泉宿としては、最高!
眼下に清流。
深い木々に囲まれ、5月の、どこか夏を
思わせる、さわやかな陽気。
部屋に一度入ったあと、ワイフと散歩。
歩いて数分のところに赤いつり橋があった。
そこを渡ると、そのままJR湯谷駅。

「いいところだね」と、ワイフは、
何度も言う。
もちろん私も異存なし!
そのつど、「いいところだね」と。

・・・ということで、湯谷温泉イチの旅館を発見。
ついでに露天風呂よし。
料理よし。
「湯の風、HAZU」。
名前もよい。

+++++++++++++++++

●体重オーバー

 このところ考えることと言えば、原発事故のことばかり。
私のような「うつ族」は、ひとつのことにこだわると、そのことばかり。
それが頭にこびりついて、離れない。
週刊誌、雑誌・・・。
いろいろ買い込んでは、読む。
が、これは精神の健康にはよくない。

 そこで先週から、運動量をふやした。
体重がふえたこともある。
4、5日前、恐る恐る体重計に乗ると、3キロオーバーの、54・5キロ!
「太ったな」とは感じていたが、3キロは、きつい。

 サイクリング1単位(40分)+ウォーキング1単位(1時間)。
ほかにあれこれ。
おかげで今日は、体もすっきり。
腹のポタポタ感もなくなった。
 
●「これから起こる原発事故」(宝島社)

 週刊誌は「週刊現代」。
3・11台震災以来、もっとも「事実」に近いことを書いている。
その一方で腹立たしいのは、NHK。
御用学者を並び立て、大本営発表を繰り返す。
今にして思うと、ウソばかり。
そのためこの先、どれだけ多くの犠牲者が出ることか!
たとえば最初に原発が爆発したときも、そうだった。
「落ち着いて」「冷静に」と。
そのとき大量の放射性物質が、風に乗ってあたりを汚染していた。

で、今日は、この旅館へ来る前、「これから起こる原発事故」(宝島社)
を買った。
「2007年10月、第一刷発行」とある。
つまり4年前の本。

 が、一読して、驚いた。
「どうしてこんなことが4年前にわかっていながら、政府は何も手を
打たなかったのか!」と。
ズバリ、現在の状況を言い当てている。
そのまま!
だから、買った。

●100キロ単位で汚染

 原発事故の恐ろしさは、規模が大きいこと。
100キロ単位で、被害が広がる。

 そう言えば、昨日、小田原市(神奈川県)が、新茶の出荷を停止した。
それについて農家の人たちは、「(福島から)何百キロも離れているのに!」
(新聞報道)と驚いていた。
しかしこれはまったくの認識不足。
その程度ですむならなら、まだよいほう。

チェルノブリイ事故のときは、半径300キロ(15キューリー/平方キロ)から、
半径600キロ(5〜15キューリー/平方キロ)まで、汚染されている。
600キロといえば、名古屋を中心とする中部圏内まですっぽりと入ってしまう。

 「キューリー」と聞いてもピンとこないかもしれない。
しかしつぎの事実を知ったら、あなたもまちがいなく震えるだろう。

『・・・急性障害死50%を引き起こす放射線量は、4シーベルト。
これは国際放射線防護委員会(ICRP)の認めた、「半数致死」に
相当する。
ちなみに、2・2シーベルトで、5%が急性障害死、9・3シーベルトで、
99%が急性障害死する』(ゴフマン博士、同書、P24)という。
わかりやすく言えば、10シーベルトが限界。
10シーベルトの放射線を浴びたら、人間は、その場で即死。
かろうじて生きても、「そのままひからびて」(本書)死ぬ。

 では、福島第一原発では、どの程度の放射線が観測されているか。
それは、つぎのニュースを読めばわかる。
そのまま転載する。

+++++++++以下、yahoo・news+++++++++++

 経済産業省原子力安全・保安院は14日、東京電力福島第1原発1号機の原子炉建屋内を13
日午後にロボットで調べたところ、最大で毎時2000ミリシーベルトの線量が観測されたと発表し

(5月14日)。

+++++++++以上、yahoo・news+++++++++++

 ゴフマン博士によれば、2・2シーベルトで、約5%の人が、急性障害死するという。
が、1号機では、13日、2000ミリシーベルトが観測されたという。
2000ミリシーベルト=2シーベルト!

 さらに、ゴフマン博士は、晩発性のガン死について、「1万人・シーベルト」という
推計値を提起している。
これは「1万人の人が、1シーベルトの放射線を浴びたばあい、何人がガン死するか」を
推定したもの。
その計算によれば、つまりゴフマン説によれば、やがて1万人中、4000人がガン死
するという。
2シーベルトといえば、その2倍。

 福島第一原発のばあい、最初の爆発とともに、桁はずれの放射性物質が飛び散ったと
推定される。
その量は、その爆発だけでチェルノブイリの爆発時の、約半分程度と言われている。

●MOX燃料

 5月14日現在、1号機が、「最悪の状態」(官房長官)にあるという。
が、それよりもこわいのが、実は、3号機。
3号機では、MOX燃料、つまりウランとプルトニウムの混合酸化物
燃料を使っている。

 プルトニウム・・・放射線そのものは、それほどないが、プルトニウムは、
1ミクロン単位の微粉末となって、空中に散る。
空中に散った放射性プルトニウムは、呼吸によって体内に取り込まれる。
内部被爆を引き起こす。
それがこわい。

 横尾試算(京都大学原子炉実験所)によれば、たった7キログラムの
MOX燃料が火災にあっただけで、風下600メートルで、プルトニウム
による短期の被ばく線量は、4・3シーベルト。
それだけで約半数の人が、そのまま急性死するという。
(風力、火災時間などのこまかい条件は、省略する。)

 「1シーベルト」という放射線量が、いかに恐ろしいものであるか、
これでわかってもらえたと思う。

●広島型原子爆弾x4万7000発

 原子炉の中には、いったいどれだけの放射性物質があるのか。
それについても、同書は、くわしく解説している。
ほとんどの人は、たとえば広島型原爆と比較して、原子力発電所のそれは、
それほどたいしたことはないと考えている。

 しかしこれは誤解!
同書には、こうある。

「100万キロワットの原発が、1年間稼動した場合に燃えるウランの
量は、広島型原発のそれの1000発分ある。
2年稼動した場合には、2000発分、3年では原爆3000発分。
事故が起きれば、それだけの放射能が環境中に漏れ出ることになる」(P32)と。

 福島第一原発の発電能力は、計4696KW(川北英隆)だそうだ。
つまり4696x1000=約470万キロワット。
1年間稼動しただけで、広島型原発の4700発分。
10年で、4万7000発分。
福島第一原発は、稼動し始めてから、すでに40年が経過している。
 
 が、政府はさかんに、「風評被害」という言葉を使う。
つまり「政府の言うこと以外は、信用するな」と。

 しかし実際はその逆。
風評のほうが、はるかに現実に近い。
近いばかりか、現実のほうが、はるかに深刻。
私たちが「予断」しているより、はるかに深刻。

声を張り上げ、「募金活動」なるものをしている子どもたちには悪いが、
今、日本が直面している問題は、そんな生やさしい問題ではない。
リビアの戦場で募金活動をするようなもの。
募金活動で、どうこうなるような問題ではない。
「明日は、わが身」。
明日は私たちが、この浜松から逃げなければならない。
このあと事故処理に何年かかるか知らないが、長引けば長引くほど、
被害は拡大する。

●1時間当たり、0・04ミリシーベルト

 毎日のように、日本各地の放射線量が新聞に載っている。
この静岡県では、平均して、約0・04〜0・05ミリシーベルト。
1時間あたりの放射線量である。
そしてそれと同時に、「過去最大平常値」というわけのわからない
数値が併記してある。
私たちはそれを見て、「ああ、平常値以下なのか」と、へんに安心する。
が、「過去最大平常値」とは何か。
それはさておき、0・045ミリシーベルトにしても、それを24倍し、
さらに365倍すると、1年間の被爆量ということになる。

 0・045x24x365=400ミリシーベルト。

 ところで最初に書いたように、チェルノブイリでは、1平方キロメートル
あたり、40キューリーもの放射線が観測されたという。
その値をベクレルに換算すると、1キューリー=370億ベクレル。
たいへんな放射線量のように思うかもしれないが、この値を、
1000x1000=100万で割ると、1平方メートルあたりの放射線量
が計算できる。

 それによれば、370億÷100万=3万7000ベクレル。
すごい量に思うかもしれないが、食品衛生法で決められている暫定規制値は、
1キログラムあたり、500ベクレル。
すでに福島県のアユなどからは、1キログラムあたり、720ベクレル(いわき市)の
放射線が観測されている。
アユ100キログラムで、7万2000ベクレル!

 つまりこの程度の放射線なら、福島第一原発の周辺では、日常的に観測されている。

・・・と、とんでもない数字ばかり並ぶが、結論は、ただひとつ。
日本は、現在、きわめて深刻な状況にあるということ。
今のような状況がつづけば、数か月以内には、東京都ですら、高汚染地域に
なってしまう。
放射性物質の恐ろしいところは、日々にそれが積算されること。
チェルノブイリでも、事故後3年後には、高汚染地域は、300キロに拡大
している(同書)。

 いうまでもなく、福島第一原発は、世界でも最大級の原子炉。
チェルノブリイで爆発した4号機も、出力100万キロワット。
福島第一原発には同規模の原子炉が4機もある。
それだけでもチェルノブイリの約4〜5倍ということになる。

●では、どうするか

 どこかのニュースサイト(産経新聞)に、こんな言葉があった。
「(1号機は)、もう打つ手なし」(注※3)と。
先にも書いたように、1〜10シーベルトの放射線が観測されたと
するなら、人間は、その場で「急死」。
「穴を塞げばそれでいい」という問題ではない。
穴そのものを塞ぐ方法がない。
そこでコンクリート詰めということになるが、3000度もある核燃料は
コンクリートすらも、溶かしてしまう。

 (さらに今夜になって、2号機、3号機も同じようにメルトダウンしていると
いうことがわかった。5月14日。)

●気休めはもうやめよう

 政府にも、原子力保安院にも、東京電力にも、がんばってもらうしかない。
・・・というか、現場で作業している作業員のみなさんには、本当に頭がさがる。
そうした人たちの努力のおかげで、今の今も、私たちは何とかこうして無事でいられる。
希望を捨てたわけではない。
しかし同時に、私たちは、さらに最悪のばあいに備えて、準備をしておかなければ
ならない。
心の準備と行動的な準備。
具体的には、日本経済の崩壊と国外脱出。
そうなったとき、私たちは自分をどう支えたらよいのか。
気休めは、もうよい。
ウソとゴマカシは、もうたくさん。

 「今」を原点として、前向きに生きていくしかない。
たまたま昨日、事故現場で、1人の作業員の方が急死した。
放射性物質が原因だったとは、まだ断定されたわけではない。
緊張感とストレス。
それが急死の原因とも考えられる。

 その作業員の方の死を受けて、菅総理は、つぎのように述べている。

「本当に気の毒に思っている。原因が放射能被害かどうか、しっかりと確かめてもらいたい」
と。

 首相官邸で記者団の質問に対して、そう答えた(ヤフー・ニュース)と(注※)。

(注※)15日になって、この作業員は、心筋梗塞で死亡と発表された。

●川

 旅館の下を、川が流れている。
先ほど窓の外を見たワイフが、こう言った。
「わっ、きれい。川がライトアップされている!」と。

 その声につられて私も外を見た。

 美しかった。
幻想的だった。
いろいろなライトアップを見てきたが、ここは格別。
川のライトアップは、はじめて。
しばし見とれる。

 これから露天風呂に入ってくる。

 ・・・それにしても、私はその本(「これから起こる原発事故」(宝島社))を読んで、
驚いた。
心底驚いた。
4年前に、すでにこういう本が出版され、今回の事故をそのままズバリ、言い当てて
いる。
東京電力の「再循環冷却型原子炉」の危険性についても、言及している。
しかも今回と同じような事故が、1989年1月に、福島第二原発で、起きていることが
わかった。
「この事故では、再循環ポンプが破損し、炉心に大量の金属片が流入し、炉心を傷つける
という事態に立ち至ったのである」(同書、P60)と。

にもかかわらず、起こりうる地震や津波を、「想定外」とし、何ら対策をとらなかった。
さらに職員たちの士気の低さについても言及している。
「言われたことはする。しかしそれ以上はしない」と。
役人根性丸出しというか、平たく言えば、そういうこと。

 権限と組織にしがみつき、管轄外のことは何もしない。
何か問題が起きると、すかさず責任逃れ。
給料(収入)や権限が侵害されると、ワーワーと騒ぐ……。

 ・・・原子力発電所。
そこにあるのは、冷徹なマネーの論理だけ。
金儲け優先の原子力政策(「週刊現代」)。
その結果として、今回の事故につながった。

 そこに私は人間が原罪的にもつ愚かさを感じた。

(はやし浩司 2011−05−14記)

(補記)

 私の近辺にも、国外脱出を試み家族がふえてきた。
祖父母が外国人のばあい、その祖父母のいる外国へ避難していった人も多い。
政府は、「年間20ミリシーベルト」という基準をもちだし、「子どもについて
は、10ミリシーベルト」とまで言い出した。
が、すかさずアメリカの学者が、それに対して異議を唱えた(注※2)。
「放射線障害に、しきい値は存在しない」(5月14日)と。

 少量であればあるほど、(かえって少量のほうがこわいという説もある)、より
晩発性になるだけ。
10年後、20年後に、症状が現れてくる。
20年後でなければ、30年後に症状が現れてくる。
チェルノブイリのときは、遠く離れたスェーデンでがん死亡者が、その後、急増した。

 だからあえてこう言う。
「機会とツテがあるなら、福島の子どもたちよ、今すぐ、福島から脱出せよ」と。

 ……ア〜ア、またまた福島第一原発の、事故のことを書いてしまった。
ゴメン!

(注※2)「日本経済新聞WEB版」より(5月15日)

 福島第1原発事故で政府が、福島県内の小中学校などの屋外活動制限の可否に関する放
射線
量の基準を、年間20ミリシーベルトを目安として設定したことに対し、米国の民間組織「社会的

任のための医師の会(PSR、本部ワシントン)」が2日までに、「子供の発がんリスクを高めるも

で、このレベルの被曝(ひばく)を安全とみなすことはできない」との声明を発表した。

 PSRは1985年にノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師の会」の米国内組織。

 声明は、米科学アカデミーの研究報告書を基に「放射線に安全なレベルはなく、子供や胎児

さらに影響を受けやすい」と指摘。「年間20ミリシーベルトは、子供の発がんリスクを200人に1

増加させ、このレベルでの被曝が2年間続く場合、子供へのリスクは100人に1人となる」として
「子供への放射線許容量を年間20ミリシーベルトに引き上げたのは不当なことだ」と批判した。

(注※3)

 産経新聞はつぎのように書いている。
「12日、東京電力福島第1原発1号機で、原子炉圧力容器内の核燃料棒が完全に露出したこ
とが判明し、圧力容器損傷の可能性も浮上した。原子炉を安定冷却するための作業が進めら
れているが、見直しは避けられない。専門家からは「圧力容器に穴が開いているなら、もう打
つ手がない」と危惧する声も上がり、事故の収束に向けた工程表の達成に「黄信号」がともっ
た。(原子力取材班)」
2011/05/15記

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【老後をどう前向きに生きるか】

●老後について

++++++++++++++++

これからの人生を、どう生きるか。
いろいろ考える。
そのひとつ。

年を取ると、より無難な道を歩もうとする。
日々平凡を旨とし、冒険を避ける。
それはそれとして賢い生き方なのかもしれない。
しかしその一方で、そうした生き様は、自らが
もつ多様な可能性を、つぶしてしまう。
生き方そのものが、硬直化する。
型にはまってしまう。
それがその人の生き方そのものを、ジジ臭く、
ババ臭くする。

大切なことは、最後の最後まで、生き抜くこと。
「生きる」という緊張感を失わないこと。

年齢という「数字」に、惑わされてはいけない。
私は私。
あなたはあなた。
どこまでいっても、私は私。
あなたはあなた。

が、そうは言っても、「肉体」の問題がある。
体力、気力の衰えは、いかんともしがたい。
同時に、脳みそも、肉体の一部。
思考力も減退する。

++++++++++++++++

●可能性

 若いころは、それなりに可能性がある。
ときには、怒涛のように押し寄せてくる。
その分だけ、選択肢も多い。
だから迷う。
迷うから、そのつど選択に迫られる。

 が、年を取ると、可能性がしぼんでくる。
総じてみると、その人の生き様は、30歳前後に決まる。
そのころになると、輪郭がはっきりしてくる。
その分だけ、選択肢が少なくなる。
40歳になると、さらに少なくなる。
50歳になると、ほとんどといってよいほど、少なくなる。
それだけに失敗するのも、こわい。
そのため無難な道を選ぼうとする。

 さらに言えば、「平均余命」という言葉もある。
今度はそういう言葉が、前から迫ってくる。
「ゴール」というよりは、「先の見えない閉塞感」。
それが前から、迫ってくる。

今年、男性の平均余命は、80歳になった(2011)。
それで逆算すると、私の残りの人生は、17年。
が、80歳でポックリと死ねるわけではない。
晩年の10年は、病魔との闘いと言われている。
つまり「健康寿命」は、よくてあと7年。

それがわかるから、ますます慎重になる。
無難な道を選ぼうとする。
冒険を避ける。

●選択

 考えてみれば、若いころは、いつも選択ばかりしていた。
そのときは気がつかなかった。
が、選択ばかりしていた。
たとえば仕事にしても、そのつど選択。
「あれをしよう」「これをしよう」「どちらにしよう」と。
生き様も、無数にあって、そのつど選択。

 あるとき、だから、こう思ったことがある。
「信仰をしている人は、楽だろうな」と。
何かの信仰をしている人は、迷うということがない。
その「道」一筋に、生きていけばよい。
何も考えなくてもよい。
生き様にしても、脳に注入してもらえばよい。

ある信仰者は、こう言った。
私が「教祖の言うことを疑うことはないのですか」と
聞いたときのこと。
「教祖様は、何万冊もの本を読んでいる」と。

 が、だからといって、信仰的な生き方が正しいというわけではない。
それを必要としている人は別として、そうでなければそうでない。
信仰的な生き方が正しい生き方ではない。
信仰的な生き方をつづけていると、自ら「私」を放棄してしまう。
そういうことにもなりかねない。

 あくまでも蛇足だが、不完全でもよいから、自分の足で立つ。
未熟であることを恥じることはない。
失敗したからといって、敗北者というわけではない。
失敗を通して、未熟であることに気づく。
つぎの人生は、そこから始まる。

●面影

 生活にしてもそうだ。
「ああしたい」「こうしたい」「こうでありたい」と。
欲望が、そこにある現実と、はげしくぶつかる。
家庭のあり方、家族のあり方、それに夫婦のあり方、など。
思うようにならない生活。
思うようにならない人間関係。
衝突もある。
葛藤もある。

 が、年を取ると、その可能性がしぼんでくる。
選択肢がかぎられてくる。
たとえばラブ・ストーリー。

若いときは、それなりに女性(男性)に相手にされる。
浮いた話が、花のように彩(いろどり)をそえる。
が、年を取ると、それも少なくなる。
相手にされなくなる。

 が、ロマンスを求める心が消えるわけではない。
ときどき思い出したように、ポッと火がつく。
が、そこにいるのは、ワイフ(夫)だけ。
しかたないので、ワイフ(夫)のシワをのばす。
のばしながら、若いころの面影をさがす。
その面影に満足し、「性」を吐き出す。

 かなり不謹慎で、ごめん。
ただ生きざま全体が、総じてみれば、そうなる。
その一例として、色恋の話を書いてみた。

●浮気願望

 私にも経験がある。
若いころ、こんなことがあった。
40歳くらいのことではなかったか。
電車に乗っていたら、目の前の席に、すてきな女性が座った。
私はその女性を見ながら、あらぬ恋愛を夢想した。
が、やがてその想像は、(恋愛)→(結婚)→(育児)と、
進んでいった。
とたん、それまでの夢想が、パチンとはじけた。
消えた。

 「またイチからやりなおす」と言っても、私にはできない。
それがとても、めんどうなことのように思えた。
「どうせやりなおすくらいなら、結婚は一度でじゅうぶん」と。

 同じように今、私はこう考える。
「人生は一度でじゅうぶん」と。
もし神様かだれかが、私にこう言ったとする。
「もう一度、君を、青春時代に戻してやろう」と。
が、やはり人生は、一度でじゅうぶん。
たくさん。
だからこう答えるだろう。
「結構です」と。

●住めば夫婦

 そういう点では、私は不器用な人間と思う。
「浮気」にしても、私にはできない。
すぐ本気になってしまう。
つまり2人の女性を、同時に愛することなど、できない。
で、もしそうなったら、苦しむのは、私自身。
それに、「女」といっても、性格や性質は別としても、
それほど違違わない(たぶん?)。
違っていても、数回もつきあえば、みな、同じ。

 昔から『住めば都』という。
同じように、『住めば夫婦』。
どんな妻(夫)でも、いっしょに住んでいれば、それなりに「都」。
だったら、「今」を大切にしたほうがよい。
今、そこにいる「人」を大切にしたほうがよい。
(この意見については、異論のある人も多いだろうが……。)

●落穂拾い

 選択肢がせばまった分だけ、生活が単一的になる。
単一的になった部分だけ、生き様が「落穂拾い」的になる。
ミレーの落穂拾い(絵画)を、想像してもらえばよい。
わかりやすく言えば、残りカスを大切に、細々と生きていく。

 当然、刺激も弱くなる。
何とも老人臭い生き方だが、もちろんそれがよいというわけではない。
が、こと夫婦生活について言えば、そうなる。

 ワイフにしても、不平不満はあるだろう。
物足りなさはあるだろう。
しかし今さら、どうにもならない。
だから最近は、夫婦喧嘩をするたびに、ワイフは、こう言う。
「いいかげんに、あなたも私を受け入れてよ!」と。
つまり「あきらめてよ!」と。

 が、それが簡単にできない。
できない分だけ、私はまだ若い(?)。

●呂律(ろれつ)

「あと7年か……」と思ってみたりする。
しかしたったの7年。
が、よく誤解されるが、人間は、ある日突然、死の待合室に
入るわけではない。
徐々に、少しずつ、マイナスの一次関数的に入っていく。

 たとえば今朝も、床から起きてからしばらく、呂律(ろれつ)が
回らなかった。
いつもならもう少し早口で話せるのだが、今朝は、どこか口が重い。
ワイフに、「ぼくの話し方、おかしいか?」と聞く。
「……そうねエ〜」と。

 そこで早口の練習をする。
「となりの客は、よく柿食う、客だ」と。

 水分を多めにとり、ウォーキングマシンの上で汗をかくころには、
ふつうに話せるようになった。

 つまりこうした不調が、この先、多くなる。
呂律が回らないというのは、たとえば脳梗塞の前兆と考えてよい。
あるいは微細脳梗塞がすでに起きているのかもしれない。
やがて脳も、硬直化する。

●夫婦問題

 ところでよく夫婦問題の相談が届く。
育児問題なら、それだけの「ケース(経験)」を踏んでいる。
しかしこと夫婦の問題となると、私は門外漢。
自分たちのことしか、知らない。

 が、そういう相談があるたびに、こう思う。
「まだ、若いなア……」と。
つまり若いから、夫婦のことが問題になる。

 やがて否応なしに、その若さも消える。
消えると同時に、現実を受け入れるようになる。
あきらめる。
納得する。
「まあ、いろいろやってはみたけれど、私の人生はこんなもの」と。
それが家族になれば、「私の家族はこんなもの」と。
夫婦についても、同じ。
「私たち夫婦は、こんなもの」と。

 とくによかったわけでもない。
しかし悪かったわけでもない。
「こんなもの」と。
同時に、「問題」そのものが、霧散する。
 
●終末

 そう言えば、60歳を過ぎると、みな、こう言うようになる。
「私は今の夫(妻)で、満足しています」とか、
「今の夫(妻)と結婚して、よかったと思います」とか。

 だからこそ、60歳まで、つづいた。
そうでなければ、どこかで破綻していた。
あるいは「よかった」と、思うことで、(本当は自分を慰める
ことで)、人生をしめくくることができる。

 ついでに、死後の世界。
ホーキング博士は、最近、こう言っている(注※)。

『天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎない』と。
そして重要なことは、『自らの行動の価値を最大化するため
努力すべき』と。

●気力
 
 ……と書いてきたが、人生が終わったわけではない。
先ほど17年と書いたが、うまくいけば、20年は生きられるかもしれない。
もしそうなら、こうなる。
何も、自ら選択肢をせばめていく必要はない。
20年といえば、誕生から成人まで。
あのビル・ゲーツにしても、マイクロソフト社を今にみる会社にするまでに、
20年もかからなかった。

そこで生きる力。
生きる力が強ければ強いほど、選択肢がふえる。
選択肢をふやすことが、人生を豊かに生きるコツである、と。
「まだ、こうしたい」「まだ、ああしたい」と。
それを素直に受け入れ、それに従って生きていく。
……というか、あえて自分と闘いながら、それを求めていく。
というのも、体力と同時に、気力も弱くなる。
それがこわい。
最近、こんなことをワイフと話した。

●山荘
 
 私が山荘をもとうと考えたのは、30歳も過ぎてからのこと。
それまでもずっと、「夢」として、それを考えていた。
が、決意したのは、30歳も過ぎてからのこと。

 結果的に、土地の造成に6年をかけた。
建築に半年。
山荘が手に入ったのは、40歳のとき。
いろいろあった。
最大の問題は「水」。
都会であれば、水道を引くことで、水を手に入れることができる。
しかし山の中では、そうはいかない。

 最終的に、村の人たちと折り合いをつけ、自分で水道管を
埋設した。
下水の処理にも、苦労した。……などなど。

 そういう過去を思い出しながら、今、ワイフにこう言う。
「よく、やったなア」と。

 現在の私なら、とても、できない。
それを支える気力そのものが、ない。
当時の私は毎週、土日になると、ユンボを借り、土地を造成した。
テントを張って、一夜を過ごしたこともある。

 だから今は、こう思う。
「そんな元気があったら、温泉でも行ってきたほうがいい」と。

●決意

 あえて自分の心と体にムチを打つ。
ムチを打って、奮い立たせる。
いつか限界が来るかもしれない。
そのときは、そのとき。
しかし今は、ムチを打つ。

 だから私は、今、こんなことに心がけている。

(1)朝、目を覚ますと同時に、その日にすることを決める。
(2)朝、床から出ると同時に、ウォーキングマシンの上で歩く。
時間は、30分。
汗をかくまでする。
(3)パソコンを開き、文章を書く。
マガジンを発行する。
BLOGを書く。
(4)週に1、2度は映画館に足を運ぶ。
(5)週に1度は、どこかの温泉に泊まる。
(6)本や雑誌は、惜しみなく買う。読む。
(7)これが重要だが、その朝に「やる」と決めたことは、かならず、
実行する。
(8)仕事は、つづける。
つづけるというより、やめない。
死ぬまで、やめない。
こと、仕事については、来年のことは考えない。

●最後の最後まで……

 私たちはいつも、そのつど選択しながら、生きている。
しかしそれこそが、まさに「今」を生きるものの、特権ということになる。
その選択がなくなったら、それこそ人生はおしまい。

 夫(妻)への不満、おおいに結構。
家族(親、子ども、兄弟)への不満、おおいに結構。
ばあいによっては、衝突もし、絶縁もする。
それもおおいに結構。
それも人生の関門のようなもの。
それを通り過ぎないと、つぎのステップに進むことができない。

 あちらでぶつかり、こちらでぶつかる。
あちらで叩かれ、こちらで叩かれる。
それもおおいに結構。

 私についても、辛らつな批判を繰り返している人は多い。
しかし私は私。
人は人。
私が書きたいように、ものを書くように、言いたい人には、
好きなように言わせておけばよい。
私の世界では、批判、中傷、悪口は、「勲章」のようなもの。
それ自体が、生きる原動力になっている。
(これは言い訳?)

 とは言っても、年を取ると、その気力も弱くなる。
めんどうになる。
選択肢もせばまってくる。
それこそ、毎日、仏壇の金具を磨いて過ごすようになる。
が、それこそ、まさに死の待合室。
あとは静かに死を待つだけ。
急がなくても、やがて人は、みな、そうなる。

しかしあえて、それを求めることはない。
そのときは、そのとき。
そのときまで、私たちはいつも、選択を繰り返しながら生きていく。
最後の最後まで……。

 それができるかどうか?
自信はないが、今は、そう考える。

(注※)(参考)2011年5月18日(産経ニュースより)

『「天国も死後の世界もない」車いすの物理学者ホーキング氏が断言

「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、英紙ガ
ーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない」と語った。

 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(69)は、
天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、死後の世界があるとの考えを否定した。16
日付の英紙ガーディアンに掲載されたインタビューで述べた。

 ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと
見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐
れる人のおとぎ話だ」と述べた。

 博士は21歳の時に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という進行性の神経疾患と診断され、余命
数年とされた。「自分は過去49年間にわたって若くして死ぬという可能性と共生してきた。死を
恐れてはいないが、死に急いでもいない。まだまだやりたいことがある」と語った。

 また、人々はどのように生きるべきかとの問いに対し「自らの行動の価値を最大化するため
努力すべき」と答えた。

 1988年の著書「ホーキング、宇宙を語る」で世界中に広く知らるようになった博士は、201
0年の著書「The Grand Design(原題)」では宇宙の創造に神の力は必要ないとの主張を
展開し、宗教界から批判を浴びている』(ロイター)と。

●補記

 ホーキング博士のこの言葉を聞いて、私はハッとした。
ホーキング博士は、私が長々と書いてきたことを、たった一行で表現している。

『自らの行動の価値を最大化するため努力すべき』と。

 原文がないので、正確な意味はわからない。
この翻訳を信用するなら、ホーキング博士は、『行動の価値』という言葉を使ったことになる。
『私の価値』とか、『個人の価値』とかではない。
『行動の価値』である。

 同じようなことは、あのトルストイも書いている。
それについては一度、中日新聞に書いた原稿があるので、ここに掲載する。
トルストイも、『ただひたすら生きることこそ重要』と書いている。

 行動の価値の追求に、老いも若きもない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【高校野球】(トルストイの言葉)

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●来る人、去る人

 おととい、義兄の母親が他界した。
が、私は、おとといの夜は、家にいなかった。
知ったのは昨日。
で、昨夜は、通夜。
今日は、本葬。

 が、私とワイフは、今は、電車の中。
その電車の中で、考える。
義兄の母親といっても、一度も会ったことはない。
この15年以上、老人ホームで寝たきりの生活をしていたという。
義兄自身もいろいろあって、会うのは年に1、2度とか、言っていた。
が、このさみしさは、いったい、どこから来るのか?

●『去るものは追わず』

 『去るものは追わず』という、冷徹なまでにクールな格言がある。
まさにニヒリズムを凝縮したかのような格言である。
(英語で「クール」というと、「かっこいい」という意味である。
ここでは「冷たい」という意味で、「クール」という言葉を使う。)

 この格言は、いろいろなふうに、拡大解釈できる。
ただ誤解していけないのは、「去る」といっても、「心の問題」をいう。
距離の問題ではない。

●A氏の息子

 親類でも旧友でも、兄弟でも、さらには親子でも、去る人は去っていく。
こんな話を聞いた。

 A氏(63歳、学友)が、2年前の正月、狭心症で倒れた。
A氏の妻はは、そのことをすぐ横浜に住む、息子(30歳)に連絡した。
息子は仕事中だったので、息子の妻に伝えた。
が、息子のほうからは、なしのつぶて。 
以後、10か月以上、連絡がなかった。

 息子の妻は、A氏の病気のことを、息子に伝えなかったらしい(?)。
理由はわからない。
それで10か月たったところで、A氏が息子の妻をなじると、息子はこう言ったという。
「K子(妻)の悪口を言うのは許さん!」と。

 それでA氏と息子との関係は切れた。
それまでにも、いろいろあったというが、その事件が、「結論づけた」(A氏談)。

●親子の縁

 心のつながりが切れる。
親子でも、切れるときには、切れる。
近くに住んでいれば、修復ということも可能。
しかし同時に『去るもの、日々に疎(うと)し』という格言もある。

 このばあいは、昔の格言だから、「距離」を言った。
昔は、今のように、電話やメールで連絡を取り合うということはできなかった。
手紙さえなかった。
つまりたがいの「距離」が離れれば、その人との関係も、「疎くなる」と。

 が、いくら連絡方法があっても、A氏のばあいでもそうだったが、絶縁するときには、
絶縁する。
A氏は以後、2年をかけて、息子の思い出を消したという。
一時は、転居も考えたという。
「今の家には、いろいろな思い出がしみついていましてね」と。
A氏の妻も、同じくらい、悲しんだ。

●去るときには去る

 年を取れば取るほど、こうした別れが多くなる。
親類縁者の死別、肉親の死別など。
息子や娘と死別することもある。
孫と死別することもある。
そのつど、人は、身を切られるほど、つらい思いをする。

 そこで『去るものは追わず』。
言うなれば、この年齢になって生きるということは、
無数の荷物を引きずって歩くようなもの。
荷物には一本、一本、ひもがついている。
そのひもが、体中にからんでいる。
一歩、前に進むたびに、ズルズルという音が、うしろから聞こえてくる。

 が、それではいけない。
去る人は、去っていく。
失っていく人を悲しんでいたら、前には進めなくなる。
どこかで割り切らなければならない。
冷酷なようだが、(たしかに冷酷だが……)、それは私自身のことでもある。
私も、(そしてあなたも)、去るときには、去る。
が、逆に言えば、そのとき、この世界は、それこそ宇宙もろとも去る。
つまり『去るもの』の「者(もの)とは、私自身、あなた自身を意味する。

 そういう自分を知ればこそ、去るものを悲しんでいては、前には進めない。

●葬儀

 最近、私は、……というか、この10年、儀礼的な葬儀には、ほとんど参列していない。
肉親の葬儀にしても、実兄の葬儀だけは、派手になった。
実姉に段取りを頼んでおいたら、そうなった。
が、それが最後。

 儀礼的な葬儀に、どれほどの意味があるというのか。
実際には、なにもない。
まったくない。
そのことは、自分自身に当てはめてみると、よくわかる。

 派手な葬儀など、望むべくもないが、それでも私が死んだら、参列に来てほしい人は、
1人か2人。
本当に私をしのんでくれるひとだけでよい。
(が、それとて、かなわぬ希望かもしれないが……。)

 もっとも最近の葬儀には、近親者が集まる機会という意味もある。
そのことは、オーストラリアの友人たちの生き方を見ていると、よくわかる。
オーストラリアの友人の家族(親類縁者たち)は、ことあるごとにパーティという形式で集まる。
先日は、孫の1歳の誕生日に、親類縁者たちが、20人ほど、集まった。
そういうのを見ていると、「ああ、日本では、冠婚葬祭が、それに当たる」ということがよくわか
る。
日本人は冠婚葬祭、とくに葬儀を口実に、みなが集まる。

 そういう習慣もあるだろう。
しかしそれでも私は参列しない。
それには私自身の死生観がからんでいる。
「生」は厳粛なもの。
それ以上に、「死」は厳粛なもの。
儀礼的な葬儀で、「死」を茶化してはいけない。

 ……こう書くと、どこかカルト的な雰囲気になるが、私は「死」を認めていない。
だれの死であれ、「死」を認めていない。
となると、「生」はどうなのかということになる。
が、ここで巨大なパラドックス(論理的矛盾)にぶつかる。
「死を認めないということは、生を認めないことにもなる」と。

 そう、最近の私は、「生」そのものを、疑って考えるようになっている。
今年63歳だが、振り返ってみると、その63年が、ない。
どこにもない。
そこにあるのは、光と分子が織り成す、「無」の世界。
そこまで自分を徹底して考えることは、まだできないが、ときどき、ふと
そう考える。
今も、そうだ。

 だからこう考える。
「私は生きていない」、「だから私は死なない」と。

●死を認めない

 おかしな論理に聞こえるかもしれない。
が、最近(01年の11月)、私の友人が他界した。
私の原稿をいつもていねいに読んでくれた。
その奥さんに、よく会うが、いつも私はこう言う。
「ぼくは、先生(=その友人)の死を認めていませんよ」よ。

 そのつど、奥さんは、怪訝(けげん)な顔で私を見る。
が、私はそのつど、こう思う。
「10年(20年でも、30年でもよいが)、早く死んだとか、あるいはあとで死んだとか、
そんなことにどれほどの意味があるのか」と。
宇宙的な時間でみれば、私たちは瞬時に生まれ、そのまた瞬時に、死ぬ。
仮に100年間生きたとしても、瞬時。
そのことは、20年前、30年前に死んだ人を思い浮かべてみれば、わかる。
みな、あっという間に生まれ、そして死んだ。
それから20年、30年が、これまたあっという間に過ぎた。

 わかりやすく言えば、「先に死んだ」とか、「まだ生きている」という言葉そのものが
無意味。
私が「死を認めない」というのは、そういう意味。
あっという間の、つぎの瞬間、私も死ぬ。
死んで消える。

 ……だからというわけでもないが、あのアインシュタインは、こう言った。

「生きていること、すべてが、奇跡」と。

●息子は息子

 『去るものは追わず』。
過去を断ち切りながら、前に進む。
過去にこだわっていても、しかたない。
それに先に書いたA氏も、こう言った。

「息子は息子。
私は私。
修復にかかる時間を考えると、もうその余裕はありません」と。

 どうせ死ねば永遠の別れになる。
A氏のばあい、それが20年、早くやってきたということか。
私はそう解釈した。

●失うことを恐れない

 平たく言えば、失うことを恐れてはいけないということ。
どうせ私たちは「死」によって、すべてを失う。

 たった今も、この電車の中で、女子高生たちが、何やら話し合っている。
ペチャクチャ……と。
この世の主人公のような顔をしている。
しかしほんの20年前には、姿、形もなかった子どもたちである。
それが今は「主」。

 が、私だってそうだ。
「無」から生まれ、「無の世界」を生き、やがて「無」へともどっていく。
だから去るものは、追わず。
追っても意味はない。

 これは老後を楽しく生きるための鉄則のように思う。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【日本人と思考力】

●冷却装置の穴

+++++++++++++++++++

浜岡原子炉(静岡県御前崎市)の原子炉が
停止された。
とたん、トラブル発生!

原子炉の冷却水に、塩水が400トンも
逆流したという。
中日新聞はつぎのように伝える。

『……中電によると、トラブルが確認されたのは14日午後4時半ごろ。
復水器内には、 海水が流れている配管が通り、蒸気を冷やす仕組みだが、
この配管が破損し、海水400トンが復水器内に流れた可能性が高い。
流入経路が逆で、復水器から海水の管に水が流れ込めば、放射線物質に
汚染された水が、外部に流れ出すことになる。 

(中略)

山口彰・大阪大教授(原子炉工学)は「復水器内は、構造的に腐食や亀裂は
起こり得る」と 指摘する。
師岡慎一・早稲田大特任教授(原子炉熱流動)は「海水の流入で圧力容器の 
腐食が心配される。
これまで400トンもの流入は事例が無く、あってはいけないトラブル」と 
問題視する。 

NPO法人原子力資料情報室の伴英幸共同代表は「電力会社の公表は常に遅いが、 
今回は特別な状況下。すぐに出すべきだった」と批判。
「緊急停止ならともかく、通常の 停止作業で400トンもの海水がいきなり
流れ出る穴が開くか。もっと前から漏れ出て いたのではないか」と推測する』と。

++++++++++++++++++

●冷却装置

 原子炉で蒸気を発生する。
その蒸気で、タービンを回して発電する。
その蒸気を再び、「復水器」で冷やして、水に戻す。
その水を原子炉に戻す。
その原子炉で、蒸気を発生する。

 チャート化すると、つぎのようになる。

(原子炉で蒸気を発生)→(タービンを回す)→(復水器で蒸気を冷やして
蒸気を水に戻す)→(水を原子炉に戻す)→……。

  基本的には、原子力発電所というのは、そういう構造になっている。
その「冷やすとき」に、海水を使って冷却装置を使う。
今回の事故は、その復水器の中の冷却装置の中で起きた。

構造は簡単なものらしい。
何かの液体の冷却が必要な工場なら、たいていどこでも使っている。
近くのメッキ工場でも使っている。

 電話をかけて構造を聞くと、こう話してくれた。

 「薄い金属製の板で間を仕切り、交互に、冷却水と熱水を通過させる」と。

 私が「塩水が冷却水に入ったということは、どういうふうに考えたらいいのですか」と
聞くと、「仕切り板に穴があいていたのですよ」と。

 これに対して、中部電力側は、『復水器内は真空状態で、配管内の圧力
が高いため、復水器内との圧力差で配管側に流入する可能性はない』(中日新聞)
と答えている。

●疑問?

 疑問がいくつかある。

(1)穴はいつあいたのか?
(2)復水器は真空状態という。真空状態というのは、いつのことか?
(3)穴から、放射性物質を含んだ汚染水が、漏れた形跡はないのか?

 原発が稼働中に、復水器が「真空状態になる」ことは、ありえない。
高圧力をもった蒸気でタービンを回す。
その蒸気が復水器に送られる。

 が、原発は停止状態になった。
復水器にたまった蒸気は水になり、圧力はさがる。
真空ではないが、「真空状態」になる。
それは私のような素人にもわかる。

が、もしそうなら、原子炉圧力容器内の冷却水も同時に逆流するはず。
が、「真空状態だった」(中電)という。
真空状態になったとするなら、どこかで原子炉から送られてくる水蒸気を、
遮断しなければならない。
が、遮断したら、今度は原子炉圧力容器そのものが、超高圧となってしまう。
ばあいによっては、爆発してしまう。
ご存知のように、停止したからといって、原子炉の温度が急激にさがるという
わけではない。
それこそ20〜30年という長い時間が必要。

 中電側は、『復水器内は真空状態で、配管内の圧力が高いため、復水器内との
圧力差で配管側に流入する可能性はない』(中日新聞)と答えている。

 ……となると、「穴」は、停止と同時にあいたことになる。
(実際には、「遮断」と同時にあいたことになる。)
可能性としては、ないわけではない。

が、これに対して、NPO法人原子力資料情報室の伴英幸共同代表は、
「緊急停止ならともかく、通常の 停止作業で400トンもの海水がいきなり
流れ出る穴が開くか。もっと前から漏れ出て いたのではないか」と推測している。

 つまり通常の停止状態で、いきなり400トンも海水が逆流するような
穴は、あかない(?)、と。

●思考力

 原発事故は、まさに思考力との闘い。
私たちの思考力そのものが、今、試されている。
新聞の記事を、何度も読みなおす。
そのつど、考える。

 が、「事実」はどうなのか、今の段階では、よくわからない。
穴は、いつあいたのか。
停止前からあいていたのか。
それとも停止後にあいたのか。
「放射性物質は観測されていない」(中電)ということであれば、かなり
希望的な推測だが、「穴は停止後にあいたことになる」。

 が、本当にそう考えてよいのか。
現状をみるかぎり、電力会社の言うことは、どうもアテにならない。
ウソは言わないが、本当のことも言わない。
ひょっとしたら穴は、ずいぶん前からあいていたのではないか。
それが停止と同時に、爆発的に拡大した。
もしそうだとするなら、放射性物質は、海水とともに、海に漏れ出ていた
ことになる。
が、中電側は、それを否定する。

 謎は深まる。

●黒潮

 御前崎市・浜岡原子炉のある遠州灘では、南からの黒潮が南から北に流れている。
もし汚水がたれ流されていたとすると、その汚水は黒潮にのり、駿河湾全体に
流れ込み、そのあと伊豆半島を回り、東京湾へ。
静岡市は、その駿河湾に面している。

 が、ここまで書いて、もうひとつの疑問が解けた(?)。

 毎日中日新聞には、その前日の放射能測定値(文科省調査)が載っている。
それによれば、日によって、静岡県(静岡市)の測定値が、東京都のそれよりも
高いときがある。
毎日……というわけではないが、「どうして?」と思うことが多い。
その理由のひとつが、ひょっとしたら、浜岡原子炉にあるのではないか。
これはあくまでも私の憶測だが、浜岡原子炉からの汚水が、静岡県の測定値を
高くしている(?)。
その可能性は、ないとは言えない。

静岡県も、文科省や中電の発表だけを信用するのではなく、独自に調査を
したらよい。
ついでに、おかしなことに、本当におかしなことに、テレビ局も新聞社も、
この問題については、あまり触れたがらないようにも見える。
本来なら事実の追及を先頭に立ってすべきマスコミが、どうしてこうまで
消極的なのか?

 御前崎市にしても、そうだ。
交付金の減額のことばかり、心配している。
私にはそう見える。

 放射線測定器にしても、10万円前後で手に入る。
その気になれば、簡単に調べられる。
どうして独自に調べて、公表しないのか?

 ちなみに焼津市焼津での放射線測定値は、0・051(5月13日、地上100センチ
で測定by放射線・原子力教育関係者有志による全国環境放射線モニタリング)。
文科省の公表した数値は、0・04(静岡市、5月13日、環境放射能水準調査)。

 ……ということで、今ほど、私たち日本人の思考力が試されている時期はない。
大本営発表だけを鵜呑みにし、それを信じてよいのか。
もしそうなら、私たち日本人は、戦時中の日本人と何も違わないことになる。

 中部電力側は、「詳しく調べて、事故の調査結果を詳しく報告する」と述べている。
それをみて、このつづきを書いてみたい。

2011/05/19


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●福島第一原発3号機

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 東京電力福島第1原子力発電所では3号機が最も不安定な状況が続いている。
18日に、3月14日の爆発後初めて作業員が原子炉建屋内に入ったが、
放射線量が高く、再爆発を防ぐための窒素注入がすぐに実施できないことがわかった。
注水量を増やし圧力容器の温度は下降傾向にあるが、1、2号機に比べるとまだ高い。
政府と東電の統合対策室が19日に開いた記者会見で、細野豪志首相補佐官は
「3号機が一番心配な炉である」と改めて強調した(以上、日本経済新聞・5・19)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●なぜ「3号機が一番心配な炉である」のか?

 細野豪志首相補佐官は、「3号機が一番心配な炉である」と改めて強調した。
なぜか?
理由は、言わずと知れた、「3号機はMOX燃料を使っているから」である。

(私もこの1週間、猛烈に勉強したぞ!)

●MOX燃料

 福島第一原発3号機では、MOX(プルサーマル)燃料を使っていた。
MOXというのは、「混合酸化物燃料」をいう。
混合というのは、ウランとプルトニウムの混合をいう。
そのプリトニウムが、恐ろしい!
毒性となると、ウランの比ではない。

 どう毒性があるかということについては、どうか自分で確かめてほしい。
ネットで「MOX」で検索をかければ、今日現在(5月19日)、1000万件も
ヒットする。
簡単に言えば、たった1〜2個のホットパーティクルが体内へ入っただけで、
たとえば肺に届けば、確実に肺ガンを引き起こす。
大きさは1ミクロン。
微粉末。
「大腸菌とほぼ同じ大きさ」(「これから起こる原発事故」(宝島社P24))だそうだ。

 その危険性、つまり放射性物質の量は、1号機、2号機、4号機の比では
ない。
だから、アメリカのTIMEは、福島第一原発事故が起きた直後、3号機を
問題にした。
ほかの原子炉ではない。
3号機!
2011年、3月17日のことである。

題して、「MOX、今日の言葉"フクシマ"、なぜそれが悪いニュースなのか」と。 
 
+++++++++++以下「TIME」++++++++++++++

MOX: The Fukushima Word of the Day and Why it's Bad News

Posted by Jeffrey Kluger Thursday, March 17, 2011 at 3:01 pm 

With four busted reactors at the Fukushima Daiichi site, engineers and rescue workers have 
plenty to do just to keep all their plates spinning. But over the past few days, there always 
seems to be one reactor causing them more headaches than others. Yesterday it was 
reactor 4, with its coolant pool empty of water and the spent fuel rods stored there 
emitting massive waves of gamma radiation.
(昨日までは、4号機が問題だった。)

Today it's rector 3. The day began-at least in the West-with images of helicopters flying 
over the reactor building, dumping seven-ton loads of water in an attempt both to cool the 
containment vessel and prevent that storage pool from drying up as well. But what makes 
reactor 3 so special? In one acronymic word: MOX.
(今日は、3号機。ヘリコプターが水を投下したが、どうして3号機が特別なのか?)

All of the fuel rods in all of the other reactors are made essentially of uranium with a 
zirconium cladding to seal in radioactive emissions. Reactor 4 uses something different. Its 
fuel rod are only 94% uranium, with 6% plutonium stirred in and then the same zirconium 
shell. This mixed oxide (hence the MOX moniker) formulation has one advantage-and a 
number of disadvantages.
(3号機では、94%のウラニウムと、6%のプルトニウムの混合燃料を使っている。)

The advantage-no surprise-is money. Plutonium is a natural byproduct of radioactive decay 
and spent fuel rods are thus full of the stuff. You can always put them into long term 
storage for a few dozen millennia-which is where most spent rods have to go-but you can 
also reprocess some of the waste and combine it with pricier uranium for a cheaper and still 
energy-intensive rod. With nuclear power still more expensive than fossil fuels like coal, 
manufacturers need to save where they can to remain competitive, and MOX is a good 
budget cutter.
(理由は、ズバリ、マネー。そのほうが安いからである。)

But MOX is also temperamental. Physicist Arjun Makhijani, president of the Institute for 
Energy and Environmental Research in Takma Park, MD., spoke to TIME earlier in the week 
and heaped scorn on the Mark 1 reactors used at the Daiichi site. His criticism in that 
conversation was the comparatively flimsy (by nuclear reactor standards at least) 
containment vessels used in the Mark 1s. But he's no fan of the use of MOX either.

"This sort of fuel is more difficult to control than uranium fuel," he told the Augusta 
Chronicle. "The risk of accidental criticality are different. You have the same kinds of 
problems, they are just more intense with plutonium."
(MOXは、制御するのが難しい。)

What Makhijani means by "accidental criticality," of course, is that the stuff just combusts 
more easily. That's particularly dangerous in a Mark 1, according to some studies. A report 
by the Sandia National Laboratories in Albuquerque, for example, found that in the event of 
a core meltdown, a Mark 1's containment vessel has a 42% chance of failing-a whole lot 
closer to a coin flip than you want with something like a nuclear reactor.
And when plutonium is dispersed into the wind you want to be pretty much anywhere else. 
As I reported last week, there are four kidns of carcinogenic isotopes released when a nuke 
plant blows: iodine-131, cesium-137, strontium-90 and plutonium-239. Plutonium is not only 
the most lethal of the four ("extrordinarily toxic" is how Dr. Ira Helfand, a board member for 
Physicians for Social Responsibility, describes it), it also hangs around the longest. It's half 
life is a whopping 24,000 years, and since radioactive contamination is dangerous for 10 to 
20 times the length of the isotope's half.life, that means plutonium emitted in Fukushima 
today will still be around in close to half a million years.
(プルトニウムは、毒性がきわめて強いのみならず、半減期は2万4000年。
50万年は、フクシマに残ることになるだろう。)

That, more than anything, explains why the day began with flyovers by water helicopters. 
And that explains why we're likely to see a lot more of the same-at least until another 
Daiichi reactor starts to look even deadlier.

+++++++++++以上「TIME」++++++++++++++

●毒性

 プルトニウムの毒性について、つぎのように書いている文献が見つかった。
(「楽天、みんなで解決! Q&A」より、転載。)

+++++++++++++以下、転載++++++++++++++

(NaturalNews) Largely absent from most mainstream media reports on the Fukushima 
Daiichi nuclear disaster is the fact that a highly-dangerous "mixed-oxide" (MOX) fuel in 
present in six percent of the fuel rods at the plant's Unit 3 reactor. Why is MOX a big deal? 
According to the Nuclear Information Resource Center (NIRS), this plutonium-uranium fuel 
mixture is far more dangerous than typical enriched uranium -- a single milligram (mg) of 
MOX is as deadly as 2,000,000 mg of normal enriched uranium.
On March 14, Unit 3 of the Fukushima reactor exploded, sending a huge smoke plume into 
the air. http://www.youtube.com/watch?v=T_N-... [ソースチェック]

既に外国のメディアでは3号炉が「プルトニュウム」を含んだMOX燃料が使われ、爆発し大気と
海洋に放出したと報じている。その破壊力は他の炉の精製ウラニウムの2000000倍であると恐
れている。しかし日本では3W経っても東電・官房長官は福島第1でのプルトニュームとMOX燃
料の存在を公表せず、その流出検査値も発表されていない。

+++++++++++++以上、転載++++++++++++++

●逃げるしかない!

 もし3号機がどんな形であれ、爆発するようなことがあれば、(格納容器からの
漏えいでも同じだが……)、もう逃げるしかない。
よくチェルノブイリと比較されるが、放射性物質の量は、チェルノブイリの比ではない。
つまりその分だけ、被災地域が拡大する。

 私はもうこれ以上、ここに書くつもりはない。
こういうことは自分で調べて、自分で判断する。
あとは自分で行動する。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【新小学1年生に、繰り下がりのある引き算を教えてみる】

++++++++++++++++++++++

今週は、小学1年生に、繰り下がりのある引き算を
教えてみました。

小学1年生の多くが、つまずく難所です。

++++++++++++++++++++++

(1)
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v/UgDFEe8_V5M?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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object>


(2)
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v/OBNukuZiu5I?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


(3)
<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/cinL-OJ4iwA?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/cinL-OJ4iwA?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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(4)
<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/kARvQUlyn60?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/kARvQUlyn60?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>



(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 繰り下がりのある引き算 引き算 小学1年生)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

【NPR HEALTH BLOGより】

National Public Radio(USA)


++++++++++++++++++

放射能の測定は、簡単ではない。
場所、測定の仕方、放射線の種類などに
よって、大きく数値が変化する。

多くの市民有志が測定結果を、ネット上に
公開している。
しかしそれが集合され、信頼性のおけるデータと
なるためには、いくつかの関門がある。

市民団体による放射線測定について。
NPRは、私たちにつぎのような注意を
促している。

++++++++++++++++++ 

Citizen Scientists' Crowdsource Radiation Measurements In Japan

日本の市民科学者有志による放射線測定について



Marcelino Alvarez was getting frustrated and a little paranoid last week as he watched news 
reports about radiation levels in Japan and plumes drifting across the Pacific. 
"There were a lot of talking heads speculating about how this could happen or that could 
happen," says Alvarez, a Web developer, news friend and allー
around data junkie. "But not a lot of facts."
いろいろな議論がなされ、データが集められているが、「事実」でないものも多い。

Alvarez got an idea: Enlist an army of citizen scientists to buy Geiger counters - they're 
advertised online for several hundred dollars - and send radiation measurements to a 
website for posting and continual updating.
ひとつの方法として、ガイガー測定器をより多くの市民科学者に購入させ、それをウェブサイト
に送り、そのつど、更新させる。
  
"We thought there was something noble to the notion of having people purchase their own 
detection devices and post data," Alvarez says. "The word 'crowdsourced' has been used to 
describe this."
人々に検知器を購入させることはよいことと思った。
「集団で測定する」ことには意味がある。

By last Saturday the Portland, Ore.-based group launched a website called RDTN.org - "
radiation" without the vowels - and began putting up data on a map of Japan. Last we 
checked there were 100 or so data points from citizen scientists, official Japanese sources, 
and a data-aggregating site called Pachube.
で、アメリカでそうした測定結果が、ウエブ上に公開された。

Is this a good idea? Or the latest example of garbage in producing garbage out?
There's no question crowdsourcing is a great way of finding out what's going on in real time 
by aggregating the input of lots of people in Tahrir Square,Tehran or Benghazi. But what 
about technical data, of the sort measured in sieverts? Might that require some expertise of 
a kind citizen scientists shouldn't be assumed to have?
みながデータをもちよるということは、ケースによってはよいことだが、しかし放射能測定につい
ては、どうか。
測定するにも、ある程度の専門的知識と経験が必要である。

I put the question to a couple of experts in radiation detection and analysis.
Kim Kearfott, a professor of nuclear engineering and radiological science at the University 
of Michigan, sounded notes of caution. "Radiation detectors sometimes can read very high 
and sometimes very low," she told Shots. "It depends on the proper calibration. The device 
should be calibrated to the type of radiation energy it's going to be exposed to."
で、何人かの専門家に聞いてみた。
結果、放射能測定値というのは、測定の仕方によって、高く表示されたり、低く表示される。
また放射線の種類によっても、測定値は違ってくる。

In addition, there's a lot of variation in background radiation in the environment, influenced 
by such things as altitude, rock outcroppings or mining operations, even nearby hospitals 
that do radionuclide testing.
測定する高さ、岩盤のあるなし、あるいは近くに病院があるかないかなどによっても、影響を受
ける。

"Perhaps most importantly," Kearfott says, "radiation detectors can become contaminated. 
If they do, they will give you very, very high spurious readings."
Keafott's all for "as much monitoring as possible," she told us. "But one must interpret the 
radiation reports on RDTN.org rather skeptically."
そうした測定値だけを集めて、公表すると、まちがった情報を広めてしまうことになる。

The other expert is Evan Douple, associate research director of the Radiation Effects 
Research Foundation in Hiroshima, which has been monitoring the health of atom bomb 
survivors for six decades. He agrees that calibration of off-the-shelf radiation detectors is "
a big factor" in getting meaningful data.
放射線の測定値は、とくに岩礁、岩盤の影響を受けやすい。

"On the other hand," Douple says, "if the network becomes widespread, it could provide 
indications of hot spots or potential plumes or interesting activities. So it could be 
interesting, depending on how it's analyzed."
ネットワークが広がれば、「ホット・スポット」がどこにあるかはわかるだろう。
要は、分析の問題ということになる。

So far RDTN.org hasn't turned up any hot spots. But the network is still small. Expanding it 
quickly may be a problem, as Alvarez, the mastermind, acknowledges. There's been a run on 
handheld radiation detectors, so they're not so easy to get - even if lots of people could be 
persuaded to shell out a few hundred dollars to join the team.
今のところネットワークは小さく、ホットスポットがどこにあるかわかっていない。
仮により多くの人が、放射線探知機をもったとしても、簡単なことではない。

"If we could get these devices cheaper and more dependable, it could be a network for 
radiation detection," Alvarez says. "We're nowhere near that level of sophistication. It most 
certainly is a work in progress and it's still too early to assess it."
今のところ「進行中」。
検知器が安価になり、より広がればネットワークでつながれ、集められたデータは、信頼性の
おけるものとなるだろう。
今のところ、それを公表するのは、まだ時期尚早ということになる。
(以上、NPR Health Blog より)



Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【National Public Radio(USA)の記事より】

●子どもの睡眠時間と肥満

iStockphoto.com 
Kids who don't get enough sleep face a greater risk of being overweight or obese. But being 
overweight could also be causing the sleep problems, making it hard for children to stay 
awake and alert during the day.
じゅうぶんな睡眠時間をとっていない子どもは、肥満あるいは体重超過の危険と直面すること
になる。また体重超過は、睡眠障害を引き起こす。たとえば日中、眠気に襲われたりする。

Researchers at Pennsylvania State University were looking for risk factors for daytime 
sleepiness in kids. To their surprise, they found that sleep-disordered breathing, a common 
problem that can range from snoring all the way up to sleep apnea, wasn't the biggest risk 
factor.
日中、眠気を催す子どもについて、ペンシルバニア州立大学の研究によれば、驚いたことに、
いびきなどの睡眠呼吸障害などは、それほど深刻な問題ではないことがわかった。

Instead, it was obesity, followed by mood disorders like anxiety and depression, and asthma.
そのかわり、不安やうつ(気分の落ち込み)のような、気分障害による肥満や、ぜんそくが原因
であることがわかった。
  
That's a bit of a wake-up call to parents, because sleep-disordered breathing is often cited 
as a cause of ADHD-like behavior problems in children, based on the notion that a sleepy 
kid can't pay attention in school. 
日中眠気に襲われる子どもは、集中力に欠けるということもあり、睡眠時呼吸障害が、たとえ
ばADHD児の原因として考えられることもある。

The most common treatment: tonsillectomy. A sleep-disordered breathing diagnosis is now 
the most common reason for tonsillectomy in children.
もっともありふれた治療法としての扁桃腺摘出手術:
睡眠時呼吸障害が診断されると、子どものばあい、扁桃腺摘出手術が、もっともありふれた治
療法となっている。

But tonsillectomy isn't without its risks, says sleep specialist Edward Bixler, a professor of 
psychiatry at the Penn State Milton S. Hershey Medical Center. He's one of the authors of 
this new study, published in the current issue of Sleep.
しかし扁桃腺摘出手術では、ない。

There's considerable research linking lack of sleep in young children and adults to increased 
weight.
子どもに限らずおとなも、睡眠不足と体重増加には、有意の関連性がみられる。

 For example, infants and toddlers who slept less than 10 hours a night were more likely to 
become overweight or obese within 5 years, according to a report last fall from researchers 
at the University of Washington.
たとえばワシントン大学の研究によれば、睡眠時間が10時間以下の幼児は、5年以内に体重
増加になりがちであることがわかっている。

Naps don't make up the sleep deficit. Another 2010 study found that teenage boys who 
stayed up late playing video games or texting were more likely to be overweight or obese. 
But sleep had little effect on weight for girls.
昼寝をしたからといって、睡眠に悪影響を与えるわけではない。
2010年の研究によれば、夜遅くまで起き、テレビゲームをしたり試験勉強をしている子ども
は、体重増加や肥満になる傾向がみられる。
が、女子のばあい、睡眠は、ほんとど体重には影響を与えない。

But quite a few of those studies rely on self-reports of sleep, or reports by parents. They 
can be subjective. Bixler's group observed the children overnight in a sleep lab. 
多くは親からの報告などであったりして、主観的なものである。
そこでBixlerたちは、睡眠研究所で、子どもの観察をした。

They also arranged for extensive medical workups. Of the 508 children ages 5 to 12 years 
old, 15 percent of them had "excessive daytime sleepiness." 
日中眠気を訴える5歳から12歳までの、508人の子どもについて、集中的に観察した。

That was most strongly associated with being overweight or obese. Kids taking asthma 
meds, those reported to be anxious or depressed by a parent, and those said to have 
trouble sleeping at night by their parents were also risk factors.
これらの子どもは、かなり体重超過と肥満傾向をともなっていた。
ぜんそくの薬を服用している子どもは、睡眠障害を起こしやすい。
その原因として、両親による不安や抑鬱感、また両親による睡眠障害なども報告されている。

So which comes first, the weight problem or the sleep problem? That's impossible to know 
from this study, because it didn't look at cause and effect.
それ故に、どちらが先か。
体重問題か、睡眠障害か。
この研究では、どちらが先かということは言えない。
なぜならそれは双方ともに、原因であり、結果であるからである。

But it does suggest that parents might want to first consider weight loss, adjusting asthma 
meds, and treating a child's mood problems before getting a tonsillectomy.
しかしつぎのことは言える。
子どもの肥満を解決しようとしたら、ぜんそく治療を考え、扁桃腺摘出手術を考える前に、子ど
もの(心の問題=MOOD)を治療すべきということになる。

"Sleepiness in children I'm sure is a very complicated factor, we're only touching on some of 
the issues here," Bixler told Shots. "A whole lot of things can influence your sleep. It's an 
extremely sensitive marker, but it's not very specific." In other words: "It doesn't tell you 
what the problem is. But it's clearly a red flag."
子どもの眠気は、複雑な要素が重なって引き起こされる。
日常のすべてのことが、睡眠に影響を与える。
眠気は、あくまでも結果。
言い換えると、それが問題というのではなく、それは何らかの病気の赤信号ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●The Other Big Deficit: Many Teens Fall Short On Sleep
もうひとつの大きな睡眠問題:10代の多くの子どもは、睡眠不足である。
  

The typical high school senior gets less than seven hours of sleep on school nights. But 
teenagers need a great deal more.

iStockphoto.com 
The typical high school senior gets less than seven hours of sleep on school nights. But 
teenagers need a great deal more.
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May 16, 2011 
Most high school students are chronically tired. They juggle school, sports, homework, 
chores, friends and family.
To meet all of these demands, surveys show, high schoolers usually stay up close to 
midnight on school nights. And then they have to get up early the next morning, typically 
around 6 or 6:30 a.m., to get to school on time, as most high schools start classes around 7:
30 a.m.
By Friday, most teens are very tired, says Dr. Helene Emsellem, a sleep researcher with 
George Washington University in Washington, D.C. And then comes the weekend.
Submit Your Sleep Questions
Got questions about teens and sleep? Submit them in the comments section at the bottom 
of this page by Tuesday at noon EDT. We'll pose some of them to Dr. Helene Emsellem and 
other sleep experts. Come back to NPR.org on Thursday to read their responses.
"Every parent of a teenager knows that if you try to get them up in the morning on the 
weekends, they're tired, grouchy, irritable and not the charming individuals that they're 
capable of being, because they're so exhausted," says Emsellem, a neurologist who also runs 
the Center for Sleep and Wake Disorders in Chevy Chase, Md. 
She says the typical high school senior gets less than seven hours of sleep on school nights. 
But they need a great deal more.
Growth Spurts Call For Sleep
"Most studies show a fairly consistent 9 1/4 hours sleep requirement," says Emsellem. "So 
there's a huge gap between what they're getting on an average school night and what they 
require."
An adolescent's biology bears some of the blame for this sleep problem. As teens progress 
through puberty, unprecedented growth occurs in body and brain that requires a lot of sleep.
In addition, something else is changing: The very brain chemical that makes one feel sleepy - 
a hormone called melatonin - is released later and later in the evening as teens get older.
Because of this shift in the onset of melatonin, teenagers don't feel sleepy until later at 
night, says Stephanie Crowley, a sleep researcher at Rush University Medical Center in 
Chicago.
"A 16- or 17-year-old might be able to stay awake later compared to a 10-year-old who 
will likely fall asleep on the couch watching TV," Crowley explains.
Accruing A 'Sleep Debt'
Most studies show a fairly consistent 9 1/4 hours sleep requirement. So there's a huge gap 
between what they're getting on an average school night and what they require.
- Helene Emsellem, neurologist at George Washington University and medical director of the 
Center for Sleep and Wake Disorders
When a teen's propensity to fall asleep later is coupled with the early-to-rise school start 
times, most high school students end up accruing a "sleep debt" of five to 10 hours by the 
end of a school week.
And teenagers' typical habits on the weekend create even more chaos in their sleep-wake 
cycle.
"What the majority of adolescents do is they will try to recover their sleep on the weekends,
" Crowley observes. "And what usually will happen is they'll stay up late to socialize with 
friends and then sleep in in the morning."
But this sleep-wake pattern makes things worse for the teen, not better, Emsellem says.
"Even if you catch up by sleeping in late on your weekend mornings," she says, "by doing 
so, it makes it harder for you to fall asleep by 10 or 10:30 on Sunday night. And you start all 
over again, sleep restricted."
But Emsellem offers some suggestions for the weekends, based on her sleep research in the 
lab - and her personal experience of raising three daughters.
"As a parent myself, I feel like a criminal if I ask them to get up at 7:30 or 8 in the morning. 
But I do try to get them up by 9. And I encourage them to get some activity and some light 
exposure in the morning," she says.
Let There Be Not Much Light At Night
Light, Emsellem says, is a "drug that promotes wakefulness" in the morning, in the same 
way that darkness can promote sleep at night. In the evening, she recommends dimming and 
even turning off some lights in the house to minimize light exposure.
The teen should also try to make the transition to sleep time by taking a warm shower or 
doing some gentle stretching. Emsellem suggests that there be a lights-out time in the teen'
s bedroom during the school week and that they try to stick with it.
But if the teenager gets into bed and turns out the lights but cannot sleep, Emsellem says, 
just lying there in bed doing nothing is just as frustrating for the teen as it is for an adult. In 
that case, electronics can be helpful if used carefully - for example, soothing music or an 
audio book. But she suggests limiting such sleep aids to 30 minutes.

Making The Case For Sleep
Emsellem wants teenagers to understand what sleep does for them every night.
"I think it's important for teens to recognize that during the day, they're gathering 
information," she says. "But they're really not learning it till they sleep on it."
Another tip for teens: no caffeine - including chocolate - after midafternoon. Emsellem says 
caffeine stays in a teen's system for at least six hours.
Experts also recommend naps. Over the weekend, an hour or so can help a teen catch up 
on sleep. During the school week, naps should be short - 20 to 30 minutes - and are best 
taken during study hall or a break before midafternoon. Otherwise, they could interfere with 
nighttime sleep.
Naps can be particularly helpful when teens have a test in the afternoon. "Studies have 
shown they'll do better on their test with a nap midday," Emsellem says.
There's another advantage to an early afternoon nap: Teens will then have more energy and 
concentration to power through homework later in the evening.

【以上、National Public Radio(USA)の記事より】

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どもの睡眠障害 居眠り 眠気 体重超過 肥満 睡眠と肥満 肥満と睡眠 
睡眠障害と喘息 ぜんそく はやし浩司 子供の睡眠 肥満)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【年長児(大半が5歳児)・数の遊び】

新年長児に、数(1〜100)を教えてみました。年長児だから、順に簡単なところから……とい
うような考え方は、おかしいですね。子どもたちのもつ知識欲とエネルギー。そういうことも、こ
のビデオを通して、知っていただければ、うれしいです。5歳という新年長児を、50分前後のレ
ッスンに引きつけておくのは、たいへんなことです。リズミカルに、テンポの速いレッスンに心が
けました。大切なことは、子どもたちの頭を「熱くすること」。それがそのまま知能教育につなが
ります。


(1)

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(2)

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(3)

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(4)

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(はやし浩司 2011−05−20)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 年長児 幼児 幼児教室 幼児教育 知恵 知能教室 はやし浩司 知能教育)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【損得論】


●山荘にて


5月末。
山荘に、ベストシーズンがやってくきた。
野生のジャスミンが咲き誇り、野いちごが赤い実をつける。
空には、もちろんホトトギス。
終日、トーキョートッキョ、キョカキョク……と鳴きながら、
空を舞う。


●野生のジャスミン


今日は、夜中に、山荘に着いた。
甘い香りが、厚い層となって、ゆっくりと全身をやさしく包む。
歩くのをやめ、そのまま深く息を吸い込む。
気温は21度。
車をおりるとき、外気温度を見たら、21度だった。
クーラーの設定温度より低かった。


 湿った冷気が心地よい。
空を見上げると、低い雲が町の明かりを受けて、ぼんやりと光っていた。
先週来たときには、満天の空に星々がまばたきもせず、輝いていた。
台風一過の、その翌日のことだった。


 見ると、ワイフが車から荷物をおろし終えるところだった。
私は土手にライトを向けた。
野いちごが、そこにあるはず。
先週来たとき、ワイフがこう言った。
「来週あたりが、食べごろね」と。


●野いちご


 野いちごが袋に一杯になった。
それをもって居間へ行くと、ワイフが驚いた。
「そんなにたくさん!」と。


 得意げな気持ちを抑えながら、私はだまってコタツに入る。
パソコンを並べる。
テーブルの上に散っていたミニコプター(おもちゃのヘリ)を、並べなおす。
ワイフが注いだ、ミネラルウォーターを飲む。


「生きていてよかった」と。
少し大げさな感じがしないでもないが、そう思った。
そこで損得論。
人は何をもって、損といい、得というか?


+++++++++++++++++++++++++


 ふつう「損・得」というと、金銭的な損得をいう。
しかし何も金銭的な損得だけが、損・得ではない。


時間的な損得論もある。
健康的な損得論もある。
心のつながりの損得論もある。
「人間的な損得論」というのが、それ。
しかし何が損か、得かということになれば、精神的な損得論。


 精神的に「損」をすれば、人生、すなわち命そのものを、
無駄にすることになる。


++++++++++++++++++++++++


●時間的な損得論


 「時間は財産である」。
が、若い人にこんなことを言っても、理解されないだろう。
時間は無限にあるように思っている。
10年後も、20年後も、今のまま・・・と考えている。


 自己中心性の強い中学生だと、こう言う。
「ぼくは、歳を取らない」と。
中学生や高校生でも、そう考えている子どもは、少なくない。
I君(高校男子)も、こう言った。
「ジジイのような役立たずは、早く死ねばいい」と。
そこで私が、「君だって、やがて歳を取って、ジジイになる」と言うと、こう言った。
「ぼくはそれまでにうんとお金を稼いでおくからいい」「だれにも迷惑をかけない」と。


 が、時間はけっして無限ではない。
わかりきったことだが……。
しかも皮肉なことに、加齢とともに、時間が過ぎるのが、加速度的に早くなる。
脳のCPUの働きそのものが、遅くなる。
鈍くなる。


 私は・・・時間というのは、金の砂時計のようものと思うことがある。
金銭的な価値に例えているのではない。
それくらい貴重、……という意味で、「金の砂」に例える。
それが絶え間なく、サラサラと下へ、下へと流れていく。
もちろん流れ切ってしまえば、寿命は尽きる。


 そこで「浪費」。
少し前、こう書いた。
「パチンコなどで、一日をつぶしている人は、時間を無駄にしている」と。
中には、娯楽としてパチンコを楽しんでいる人もいる。
娯楽は娯楽。
仕事の合間の息抜き。
だからみながみな、無駄にしているとは思わない。


 もしパチンコを否定してしまったら、魚を釣るのも、映画を観るのも、無駄と
いうことになってしまう。
私だって、旅行先では、何もせずぼんやりとしていることが多い。
が、ことパチンコとなると、話は別。
私には、できない。
1〜2時間、無駄にしたと思っただけで、「しまった!」と思う。


 残された時間は、みな、同じ。
要は過ごし方の問題ということか。


●健康的な損得論


 健康的な損得論といえば、第一に思いつくのが、運動と食事。
たとえば寒い朝、ジョギングに出かけるのはつらい。
しかしその(つらさ)に負けていたのでは、健康にはなれない。
「なれない」というよりは、維持できない。


 寒い朝、寝床の中で時間をつぶすのは、「損」ということになる。
一方、一見「損」に見える運動だが、運動した方が、「得」ということになる。
だからときどきビルのエスカレーターに乗りながら、こう思う。
「歩いたほうが、得なのに……」と。


 が、問題は「食事」。


 最近はホテルや旅館などでは、どこでもバイキング料理というのが、ふえた。
あのバイキング料理。
食べなければ、損なのか?
それとも食べたら、損なのか?


 私のばあい、いまでも、それに迷う。
迷うが、結局はいつもより食べ過ぎてしまう。
が、結果からみると、食べ過ぎることのほうが、「損」。
歳を取れば取るほど、体の機能が微妙になる。
少し油断をすれば、すぐ肥満。
糖尿病にもなる。
ほかにもいろいろ。
病気の種類だけでも、分厚い家庭医学書ほどもある。


 だから私のばあい、いつもこう問いかけながら食べる。


「食べたら損ねるのか?」「食べなければ損ねるのか?」と。


●人間的な損得論


 人間は社会的な動物である。
社会、つまり人との関わりをもって、はじめて人は人でありえる。
人と隔絶された世界で、たったひとりで生きたとしても、生きたことにはならない。
これはあくまでも極端なケースだが、たとえば猿だけが住む猿が島に、ひとりで
住むようなケースを空想してみればよい。
あなたはそのとき「人」でいられるだろうか。
猿たちを相手に、幸福で満ち足りた生活を送ることができるだろうか。


 たとえば私もこうして今、ひとりでものを書いている。
たったひとり?
しかしやがてすぐこの文章は、ネットにのって、全世界に配信される。
そこで人とのつながりが、できる。


 当然のことながら、(こう決めてかかるのも危険なことだが)、人間関係は、幅広く、
豊かであればあるほどよい。
もちろん密度の問題もある。
つまらない友人が100人いたところで、心の隙間を埋めることはできない。
ある賢人はこう書き残している。


「歳を取ったら、少数の人と、親密に交際した方がいい」と。


 いろいろな考え方があるようだが、人間関係そのものは、貴重な財産である。
もちろん金銭的な意味で、そう言っているのではない。
友や親類、近親の人をなくすのは、「損」ということになる。
わかりやすく言えば、「理解しあえる相手」こそが、財産ということになる。
その数が多ければ多いほど、「得」ということになる。


●精神的な損得論


 若いころ、こんな話を聞いた。
生徒の家の近くに、80歳前後になる女性が住んでいた。
(年齢は記憶による。)


 その女性は、近所で花の植木鉢を盗んできては、自分の家にそれを並べていたという。
私はその話を聞いたとき、頭の中で思考がバチバチとショートするのを覚えた。
理解できなかった。
「花を楽しむという美しい心と、ものを盗むという醜い心は、衝突しないのか」と。
ほかのものならともかくも、「花」である。
美しい花である。


 この話は私の心に中にずっと残った。
そして今は、こう思う。
「花を盗むことで、人は回り道をすることになる」と。


 話を少し飛躍させてしまった。
私がここで書きたいことは、こういうこと。


 人はいつも何かの目標に向かって生きている。
真・善・美がその代表的なものだが、ほかにもある。
その目標に向かって生きている。
そのとき、自分の心を偽ることは、それ自体が回り道になる。
しかも一度、回り道をすると、そこで「得?」をした分の、何倍も「損?」をする
ことになる。


 たとえば先の女性のばあい、花の植木鉢を盗んだことにより、一時の得(?)を
するかもしれない。
しかしその分だけ、人生の目標からはずれることになる。
たとえば一度醜い心に染まってしまうと、それを消すのに、何倍もの時間がかかって
しまう。
つまり損(?)をする。


 これが精神的な損得論である。


●寛大


 それぞれの損得論は、それぞれ別のものに思う人もいるかもしれない。
私もそう思っていた。
が、人間の脳みそは、それほど器用にできていない。
一部が全部、全部が一部と、それぞれ関連しあっている。


 たとえば私は若いころ、金銭的な損得に、かなりシビアだった。
そのつど敏感に反応した。
が、以来30〜40年?
自分の人生を振り返ってみても、金銭的な意味で「得」をしたということは、
ほとんどない。
損ばかりしていた。


 最初は10万円単位だった。
それが100万円単位になり、そのあとさらにふえた。
が、それに慣れると、そのうち、金銭的な損がどうでもよくなってしまった。
・・・というか、免疫性ができ、寛大になった。


 が、ほかの面に寛大になったというわけではない。
金銭的な損得論から解放されることによって、それまで見えなかった損得論が
見えるようになった。


 ここに書いた、時間的な損得論、健康的な損得論、人間的な損得論、精神的な
損得論が見えるようになった。
わかりやすく言えば、金銭的な損を重ねるうち、「損」というものが、どういうものか、
それがよりよくわかるようになった。
「何をもって、私たちは損というか?」と。
そしてその反射的効果として、何が「得」なのかも、よくわかるようになった。


●時間的な損


 時間的な損と言えば、くだらないテレビが、あげられる。
もっとも私の年齢になると、あのバラエティ番組を見る人は少ない。
少ないが、その一方で、どうしてあんな番組が、人気があるのか、私にはよく理解
できない。
それなりに意味のあること(?)をまぶしてはいるが、まさに情報の羅列。
洪水。
それを見る人にしても、見ては覚え、そして覚えては忘れる。
それを繰り返している。


 が、これを繰り返していると、思考力そのものが衰退してしまう。
自分の力で考えることができなくなってしまう。
言うなれば情報中毒。
その情報中毒が、こわい。


バカになりながら、自分がバカになっていることにさえ、気がつかない。
よい例が、バスや電車の中で、大声で話し立てるオバチャンたち。
もし今度そういうオバチャンたちを見かけたら、どんな話をしているか、
少し耳を傾けてみたらよい。


(1)脳に飛来した情報を、そのまま話しているだけ。
(2)話の内容が、どんどんと変化していく。
(3)世俗的な世間論のみで、議論による深まりがない。
(4)発展性もなければ、創造性もない、など。


 つまり時間を無駄にしているだけ。
せつな的な時間つぶしをしているだけ。
話しては忘れ、話しては忘れ、それを繰り返しているだけ。
もっと辛らつな言い方をすれば、口の運動をしているだけ。


●健康的な損


 健康的な損といえば、第一にあげられるのが、喫煙。
高額な税金を払い、病気を買っているようなもの。
タバコにしても、「吸っている」のではなく、タバコに「吸わせられている」。
自分の意思で吸っているのではない。
吸わせられている。


 結果、喫煙は健康のあらゆる面に、影響を与える。
病気を引き起こす。
がんを例にあげるまでもない。


 要するに、肉体というのは、だらしなく、怠けもので、誘惑に弱いということ。
そういう前提で、自分の肉体を考える。
もう少しわかりやすく例えると、あなたの脳みそは、経営者。
肉体は言うなれば、労働者。
文句ばかり並べて、働こうとしない労働者。
だからあなたは自分の肉体に向かって、こう叫ぶ。
「働け!」と。


 それが健康につながる。
つまり「得」。


●最大の損


 最大の損といえば、当然、「死」ということになる。
人は死ぬことで、すべてを失う。
名誉も地位も財産も、そして命すらも。


 あのホーキング博士は、最近、こう言っている。


『天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎない』と。


 天国はあるのか、ないのか。
本当のところは、私にもわからない。
わからないが、「天国はない」という前提で私は生きている。
「死んでみて、あればもうけもの」と。


 が、ホーキング博士は、「そんなものは、ない」と。
わかりやすく言えば、死は、「コンピューターが壊れたような状態」(ホーキング
博士)という。
「私」どころか、死ねば、この宇宙もろとも、消えてなくなる。


 そんな損……それを「大損」というのなら、大損でもよい。
そんな大損を前にすれば、目の前の損など、どれもささいなもの。
が、ここで誤解してはいけない。


 だから人生は虚しいとか、つまらないとか言っているのではない。
その逆。
私たちはかぎられた時間の中で、懸命に生きる。
生きながら無数のドラマを残す。
ときに運命にさからい、土俵の間際で足をふんばる。
そこに人が生きる意味があり、価値がある。


 あのトルストイもこう書いている。
『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛するこ
と。
信ずること』(『戦争と平和』・第五編四節)と。


 ホーキング博士も同じようなことを書いているのは、たいへん興味深い。
『(重要なことは)、自らの行動の価値を最大化するため努力すべき』と。
わかりやすく言えば、とにかく懸命に生きろ、と。


●『自らの行動の価値』


 ホーキング博士は、「自らの価値」とは言っていない。
「自らの行動の価値」と言っている。
そこがすごい。
「行動の価値」である。


 人はただ生きているだけではない。
何かの行動を繰り返している。
その行動の価値を「最大化するため努力すべき」と。


 反対の例で考えてみると、ホーキング博士の言わんとしている意味がよくわかる。


 たとえば近所にこんな老人(80歳くらい)がいる。
彼は毎日時刻表に沿って、生活をしている。
恐ろしく時刻に正確な人で、近所の人たちは、みなこう言っている。
「あの人の姿を見ると、時刻がわかります」と。


最近は少し元気がなくなってきたようだが、一日中、裏の畑の世話をしている。
家の横には、花木も10本近く、ある。
が、訪れる人もいない。
その季節になると、花木は美しい花を満開させる。
もちろん、それを見る人はいない。


 で、考える。
「彼の行動に価値はあるかないか」と。
答は、「NO!」。


 その老人の生き方の中で、何が欠けているかといえば、「価値を高める」という
努力である。
平たく言えば、自分の欲望のおもむくまま、好き勝手なことをしているだけ。


価値の高め方には、いろいろあるだろう。
新種を開発するのもよし、他人を楽しませるのもよし。
絵を描いたり、写真を撮って、それを発表するのもよし。
花の育て方の本を書くのもよし。
それが即、生きる目的ということになる。
私たちがなぜ、ここに生まれ、ここにいるかという答ということになる。


●老後のテーマ


 私たちはこの年齢まで、生きてきた。
「息(いき)てきた」のではなく、「生きてきた」。
が、その中身といえば、「行動してきた」。
その結果、多くのものを失い、同時に多くのものを得てきた。


 が、もう無駄にできるものはない。
失ったものは、しかたない。
過去を振り返り、愚痴を並べても、しかたない。
大切なことは、今、ここにあるものの価値を、最大限高めること。


 時間的価値、健康的価値、人間的価値、そして精神的価値。
そのつど、何が大切で、何がそうでないか。
もっとわかりやすく言えば、何が得で、何が損か。
それをそのつど考えながら、行動する。
それが結果として、行動の価値を高める。


 そこで最後の命題。


 が、「ただ高めるだけでは足りない」。
ホーキング博士は、「最大限」という言葉を使っている。
同時に「努力」という言葉も使っている。
ぐうたらな生活を繰り返していたのでは、行動の価値を高めることはできない。
仏教の言葉を借りるなら、ただひたすら精進(しょうじん)あるのみ。
つまりその(きびしさ)こそが、人生を光り輝くものにする。
またそれにまさる「得」はない。


 ……ということで、久々に、改めて損得論について書いてみた。


 ワイフは、横で寝支度にかかり始めた。
私はボサボサになった髪の毛のうしろを指でかきながら、こう言う。
「どうしようか?」と。
それに答えてワイフは、こう言う。
「明日の朝にしましょう」と。


 時計を見ると、12時を過ぎていた。
風呂に入るのは、「明日の朝」にする。


 窓を開けると、網戸を通って、相変わらずジャスミンの甘い香りが、
部屋の中にサーッと入ってきた。


 少し眠くなった。
疲れた。
では、みなさん、おやすみ!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 損得論 損とは何か 得とは何か)
2011/05/22


【補記】


 懸命に生きて、その先に何があるか?
それは私にもわからないし、だれにもわからない。
1人の人間の寿命が、1000年に延びてもわからないだろう。
大切なことは、1歩でも2歩でも、あるいは半歩でもよい。
その(何か)に近づくこと。

 
 が、このとき2つの考え方があるのがわかる。
「どうせ何があるかわからないなら、はじめからあきらめ、人生は楽しんだほうが
よい」と考える考え方。
昔、私の知人も、そう言った。


 「林君(=私のこと)、どんなに偉くなっても、人は死ねばおしまいだよ。
首相の名前だって、10年は残らない。だったら、今は、楽しく生きるのが
いい。苦労して首相になっても、意味はないよ」と。


 それから20年近く、彼のその言葉がときどき私の頭の中を横切る。
が、それほど悪魔的な言葉も、そうはない。
生きる力そのものを、後ろへ引く。
後退させる。
「損」を「損」とその人にわからせないまま、つまりだましながら、その人を
後退させる。
だから悪魔的。


 首相にしても、「首相になるかどうか」は、あくまでも結果。
(もちろん首相という地位を求めて首相になる人もいるだろうが……。)
大切なことは、そういうことには構わず、自分の道を進むこと。
だからもし今、その言葉を聞いたら、私はこう言い返すだろう。


 「君は、そういうふうに考えることによって、大きな損をしているのだよ」と。



Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【年中児(4歳児)・数の学習】(1〜30まで数えてみよう)

+++++++++++++++++++++

年中児(つまり大半が4歳児)のレッスンです。

レッスンを始めてから、ほぼ2か月がすぎました。
今日のテーマは、「数」。
「1〜30まで数えてみよう」です。

年長児(5歳児)と同じ教材を使いますが、年中児は
約3分の2程度のところで、時間切れ。
また全体に、(当然のことですが)、年長児のレッスンの
内容よりは、浅くなります。

今日は3歳児のY君が見学にやってきました。
1時間、座ってくれていたのには、驚きました。
この年齢の子どもには、座っているというだけでも、
たいへんな作業です。

最初は穏やかに導入し、徐々に盛り上げていくという
手法を、今回は使ってみました。
10分後には、みな、ワイワイと大声を出すように
なりました。
その変化をどうかご覧ください。

+++++++++++++++++++++

(1)

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(2)

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(3)

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(4)

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 年中児 幼児教室 数の学習 4歳児の数 幼児教育)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●5月24日(2011年)朝

●『ゆでガエル』と「アパシー」

+++++++++++++++++

昨日、15枚ほど原稿を書いた。
USBメモリーに保存した。
が、今朝さがしたら、それがない!
つまりUSBメモリーがない!
たしかそれを、目がねケースに入れて
おいたはず……。

こういうときというのは、やる気をなくす。
本当になくす。

今朝もこうしてパソコンに向かう。
が、頭の中はからっぽ。
何をどう書いてよいものか?

これは私の性格。
同じことを繰り返すということができない。
いつも変わったことをしていないと、
気がすまない。
だから今、昨日書いたのと同じ原稿を
書けと言われても、それができない。
できないから、からっぽ。

ぼんやりと、……どこかうつろな気分で、
あちこちのニュースサイトをながめる。
読んでは、忘れる。
読んでは、忘れる。
気分は、どこか投げやり。

そう言えば昨日、どこかのサイトに
こんな言葉があった。
『ゆでガエル』。

カエルをゆでるにも、ゆで方というのがあるそうだ。
カエルを食用にしている国は多い。

つまり生きたカエルをゆでるとき、(残酷な
話だが……)、いきなり熱い湯に入れると、
カエルは飛び跳ねて、逃げてしまう。

そこでカエルをゆでるときには、水の中に入れ、
徐々に温度をあげる。
カエルは温度があがっているのに気づかず、
そのままゆであがってしまうという(※)。

(これはあくまでも「警句」として使われている
言葉で、実際にそうであるということではない。)

今度の福島第一原発事故に関しての
話である。

今ごろになって、東京電力は、事故直後すでに
メルトダウン(炉心融解)が始まっていたことを、
認めた(5月23日)。
もしあのときそれを公表していたら、
日本中は大混乱に陥っていただろう。
つまり熱い湯の中に、カエルを落とした
状態になっていた。

が、そのカエルも徐々に温度をあげられると、
それに気づかない。
そのまま湯の中で、ゆであがってしまう。
つまり今が、その状態ということになる。
だから「ゆでガエル」。

今朝のニュースを読むと、1号機も、2号機も、
3号機も、みな、メルトダウンしているという。
メルトダウンだぞ!
最悪の原子力発電所事故だぞ!
が、その深刻さが、どうもイマイチ、伝わって
こない。
状況に慣れてしまったというか、無関心に
なってしまった。

こういう心の状態を、英語では、「アパシー」という。
apathy……つまりものごとに、冷淡的に無感動
であること。
「無関心」と訳すが、それともややニュアンスが
ちがう。
アパシーはアパシー。
英語で「アパシー」という言葉を使うときは、
そこに「罪」というニュアンスをからませる。

 つまり問題があまりにも大きすぎて、対処できない。
言うなれば戦争状態。
法や秩序、良識や常識が、みな、吹き飛んでしまった。
もう少し具体的に説明すると、こうなる。

たとえば現在、どこかで保険金殺人事件が
話題になっている。
保険金をかけて、その人を殺す……。
何ごともない平和な時なら、今ごろは大問題になって
いただろう。
しかし現在、原発周辺で起きていることは、
そんな程度の問題ではない。
この先、何十万人、あるいは何百万人という
人たちが、放射線障害で命を落とすことになる。

それほどまでに深刻な問題である。
そういう深刻な問題をさておいたまま、何が
保険金殺人だ、となる。
が、これがアパシーというわけではない。
本物のアパシーは、もっと恐ろしい。

 たとえば今、原発事故の現場では、500〜
1000人の作業員の方たちがその処理に
従事しているいう。
同時に、大量の放射線を浴びている。
そういう作業員の人たちが、今後、無事で
あるはずがない。
「今、ただちに……」ではないとしても、
今後1、2年から10年のうちには、
深刻な放射線障害が現れてくる。
チェルノブイリの例をあげるまでもない。

そこで本来なら、「退避しなさい。危険だ!」と
言いたいが、それができない。
口をつぐんでしまう。
「がんばってもらうしかない」と、目や耳を遠ざけて
しまう。
それがアパシーということになる。

「冷淡的に無関心になり」、わざと心を、
外に向ける。
向けたまま、何ごともないかのように、
自分の生活をつづける。
考えてみれば、これほどの「重罪」は、そうはない。
「だれかにやってもらわなければならない」と自分に
言い聞かせる。
またそう言い聞かせながら、自分の心をごまかしてしまう。
いつの間にか、私たちの心はそうなってしまった。

わかりやすく言えば、私たちが今、
「ゆでガエル」の状態になっている。

……で、「ゆでガエル」の話は知らなかったが、
以前、こんな原稿を書いたことがある。
2002年に書いた原稿だが、この原稿の
中で私が書きたかったことは、やはり「アパシー」
ということになる。

++++++++++++++++++++

【杉原千畝副領事のビザ発給事件を考える】 

●杉原千畝副領事のビザ発給事件 

 「1940年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫害
から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人6000人に対して、ビザ(査証)を発給した。
これに対して1985年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられる勲章、
『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行20世紀デザイン
切手第九集より)。

●たたえること自体、偽善

 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、1100万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュビッ
ツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約400万人ものユダヤ人が
虐殺されたとされる。
杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたものだが、日本人はこの
事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。
郵政省発行の記念切手にもなったことからも、それがわかる。
が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっては偽善そのものと言ってよい。

●杉原副領事のしたことは、越権行為?

 当時日本とドイツは、日独防共協定(1936年)、日独伊防共協定(37年)を結んだあと、日
独伊三国同盟(40年)まで結んでいる。
こうした流れからもわかるように、杉原副領事のした行為は、まさに越権行為。
日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定違反の疑いすらある。
杉原副領事のした行為を正当化するということは、当時の日本政府がしたことはまちがってい
ると言うに等しい。
その「まちがっている」という部分を取りあげないで、今になって杉原副領事を善人としてたたえ
るのは、まさに偽善。
いやこう書くからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。
問題は、その先と言ったらとよいのか、その中味である。
当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。
しかも今になっても、その体質はほとんど変わっていない。
どこかで日本があの戦争を反省したとか、あるいは戦争責任を誰かに追及したというのであれ
ば、話はわかる。
そうした事実がまったくないまま、杉原副領事のした行為をたたえるというのは、「今の日本人
と戦争をした日本人は、別の人種です」と言うのと同じくらい、おかしなことなのだ。

●日本はだいじょうぶか?

 そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。
仮にこの日本に、100万単位の外国人不法入国者がやってくるようになったとしよう。そしてそ
れらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日本の経済を動かすまでになったとしよう。
さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口の何割かを占めるようになったとしよう。
そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし始めたとしよう。もうそのころになると、
日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。
が、彼らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかり
と払わないとする。
そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? 
あなた自身のこととして考えてみてほしい。
あなたはそれでも平静でいられるだろうか。
ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、まさにそういう状況だった。
つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂ったということ。
ゲーテやシラー、さらにベートーベンを生んだドイツが、だ。
この日本が狂わないという保証はどこにもない。
現に2000年の夏、東京都の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。
そして具体的に自衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(2000年9月)。
石原都知事のような日本を代表する文化人ですら、そうなのだ。

●「日本の発展はこれ以上望めない」

 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。
「日本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。
そしてそれを受けてその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移
民を認める」と宣言した。
日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果論。
チグハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。
石原都知事の発言は、「私たち日本人も、外国で同じように差別されても文句は言いません
よ」と言っているのに等しい。
多くの経済学者は、2015年には日本と中国の経済的立場は逆転するだろうと予測している。
そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならない。
そういうことも考えながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石原都知事の
発言を考える必要があるのではないだろうか。
(02−10−4転載)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アパシーという重罪

 私はこの原稿を読みながら、改めてこう考える。

 いつの日か、福島第一原発の事故も、過去の一大事件として振り返られるときが
やってくるだろう。
そのとき、その事故処理で多量の放射線を浴び、犠牲になった人たちのことも振り返られるだ
ろう。
「あの人たちのおかげで、私たちは、今、こうして無事でいられるのです」と。

 それはその通りだと思う。
しかしだからといって、今、私たちがもっているアパシーが、それで許されるというわけ
ではない。
もう少し辛らつな言い方をするなら、犠牲となった人たちに感謝する程度のことで、
私たちが今、犯しつつあるアパシーという重罪が、帳消しになるわけではない。

 杉原千畝副領事のビザ発給事件にしても、そうだ。
一方でドイツと手を組み、間接的であるにせよ、ユダヤ人の大量虐殺に手を貸し、
アジア地域で似たような虐殺事件を起こしてきた日本人。
軍人だけではない。
その周辺の日本人すべて。
そういう虐殺事件を見て見ぬフリをつづけた。
それがアパシー。

その同じ日本人が、杉原千畝副領事のビザ発給事件にしがみつく。
が、だからといって、私たちが犯したアパシーという重罪が、それで帳消しになる
わけではない。
さらに一歩進んで、もし杉原千畝副領事を称えるとしたら、それこそまさに偽善。
その前にやるべきことは、山のようにある。……はず。

 ……やはり今朝は、うまく原稿がまとめられない。
どこかバラバラ。
昨日書いた原稿が、とくによかったというわけではない。
ただこうも言う。
『釣り逃がした魚は大きい』と。
今は、そんな感じ。
「からっぽ感」は、今もある。

 ……しかしそれにしても、この罪悪感は、どこから来るのか。
原発事故の現場で事故処理に当たっている作業員の人たちのことを思うと、どうしても
気分が重くなる。
申し訳ないというより、罪悪感。
何か悪いことをしているという気分を、どうしてもぬぐい去ることができない。

 ……ということで、今日も始まった。
5月24日、肌寒い曇り空。
みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)『ゆでガエル』(ウィキペディア百科事典より)

『ゆでガエル』

茹でガエル現象、茹でガエルの法則とは、ビジネス環境の変化に対応する事の重要性、困難
性を指摘するために用いられる寓話の一種。
『ウサギとカメの競争』などと同様、自然科学とは無関係である。

出典は不明だが、スタンレー・ホールによって1887年に紹介されており、英語圏で伝えられて
きた古典的な警句と見られる。
要旨は「2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れ
る。すると、前者は直ちに飛び跳ね脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できず
に死亡する」というものである。

およそ人間は環境適応能力を持つがゆえに、暫時的な変化は万一それが致命的なものであ
っても、受け入れてしまう傾向が見られる。
(例えば業績悪化が危機的レベルに迫りつつあるにもかかわらず、低すぎる営業目標達成を
祝す経営幹部や、敗色濃厚にもかかわらず、なお好戦的な軍上層部など)。
(以上、ウィキペディア百科事典より転載)

(補記)

 ついでに、2000年ごろには、「2015年ごろ、日本と中国の経済的立場は逆転するだろう」
と言われていた(本文より)。
しかし実際には、2011年(今年)、日本と中国の経済的立場は逆転した。
予定より4年も早まったことになる。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●YOUTUBE

フランスのみなさん、ありがとう!

France Cher,
Merci!
YOUTUBE vu beaucoup, vous ?tes toujours les bienvenus.
Merci ? l'avenir.
Hiroshi Hayashi

Le Japon

++++++++++++++++++

この2、3か月、YOUTUBE(動画)
へのアクセス数が、毎日1000件前後で
推移している。
「インサイト」情報というのを見ると、
それがわかる。
が、それだけではない。
同時に、どの国の人たちが
見てくれているかも、そのコーナーでわかる。
国別に、それが表示される。

で、「?」と思うのは、フランスの人たちが
多いということ。
2位がアメリカ。
3位がフランス。
アメリカとフランスの人たちを合計すると、
日本の人たちのそれと、ほぼ同数になる。

そう言えば、ときどきこんなコメントが
寄せられる。
「毎日、日本語の勉強に見ています」と。
機械で翻訳したような、ぎこちない日本語で、
そう書いてある。
フランスの人たちは、たぶん、そういう
目的で見てくれるのだろう。

が、よくわからないのが、「人気度」。
同じインサイト情報には、
「人気度」がわかる(?)コーナーもある。
が、その日本語の意味がよくわからない。
そのままコピーして、紹介する。

『あなたの動画を他の人がアップロードした
動画と比較した場合の人気度』と。

数回読みなおしてみたが、それでも意味が
よくわからない。
私の動画など、「他の人の」動画と比較しても
意味がない。
もとから見る人は、かぎられている。
人気度は、かぎりなくゼロに近い。
毎日1000件とはいうが、人気動画の中には、
数100万件から、中には1000万件を超えて
いるのもある。
「1000件」という数字は、この世界では、
誤差のようなもの。

が、これからは世界。
世界が相手。
タイトルや説明文を、英語で書くことにした。

フランスのみなさん、ありがとう!

France Cher, Merci!

++++++++++++++++++

【小1クラスで……】

2011年の4月から、小学1、2年生のレッスン風景も、
動画に収め、それをYOUTUBEにアップしている。
昨日は、小学1年生のレッスン風景を動画に収めた。

にぎやかなクラスで、教えていても、たいへん楽しい。
そんな楽しさを、この動画を通して、みなさんと共有
できれば、うれしい。

(1)

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(2)

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(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/DKoalMCblyg?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/DKoalMCblyg?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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(4)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/K33RK1Mo-9Q?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●変遷

 5月いっぱいで、Eマガ社からの電子マガジンを廃刊にすることにした。
6月からはマガジンの配送が有料になるという。
月額3000円とか。
この世界も、『チリも積もれば、何とか』。
ざっと計算しても、現在、3万円前後の出費になっている。
その上、さらに3000円は、きつい。
きついというか、こうして積み重ねていったら、キリがない。
だから5月末で、廃刊することにした。
ちょうど10年つづけてきた電子マガジンである。
残念だが、やむをえない。

 そのかわり、今は、BLOGと、このYOUTUBEに力を入れている。
私のもっているエネルギーがそれで減るわけではない。
(かなり弱くはなってきているが……。)
今も書いているし、これからも書く。
どこまでできるかわからない。
しかしやれるところまで、やってみる。
今の私から(書く)という生きがいを取り去ったら、何も残らない。
だから書く。

●再考

 昨日書いた原稿を読みなおしてみる。
疲れていたせいか、(それともボケたせいか)、思っていることを、文章に
うまくまとめることができなかった。
その悔しさが、今も、心のどこかに残っている。
こんなことはめったに、ないことなのだが……。

 ところで文筆家には、大きく分けて2つのタイプがあるという。
(私は文筆家ではない。ただのもの書き。)
森鴎外のように、苦しみながら文を書くタイプ。
夏目漱石のように、サラサラと思いついたことを、楽しんで書くタイプ。
(本当にそうであったかどうかは、知らないが……。)

 私のばあいは、どちらかというと、夏目漱石型。
苦しむことはあるが、それほどほど苦しまない。
サラサラと書き、頭の中にたまったモヤモヤを吐き出す。
その爽快感がたまらない。
だから、文を書く。

 しかし昨日は、結構、苦しんだ。
そこに書きたいことがモヤモヤとあるのだが、それをうまく表現することが
できなかった。
それで苦しんだ。
そこでもう一度、そのモヤモヤに挑戦してみることにした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【アパシー(冷淡性をともなった無関心)】

●無関心

 現在、福島第一原発では、500人から1000人近い、作業員の方たちが、
原発事故と闘っているという(週刊誌)。
すでに事故は、チェルノブイリ級にまで深刻な状態になっている。
1〜4号機を合わせると、500万キロワット弱。
チェルノブイリ事故で爆発した原子炉の、約5倍である。

 当然、これらの作業員の方たちは、相当量の放射線を浴びている。
一応防護服を着用しているということだが、中性子線になると、コンクリートの壁で
すら貫いてしまう。
とくに3号機は、MOX燃料といって、プルトニウムの混合燃料を使っている。
毒性では、ウランの比ではない。
その3号機もすでにメルトダウンし、溶けた核燃料が、原子炉から格納容器を
貫き、さらにその下まで落ちているという。
またそのあたりでは、2000ミリシーベルト(2シーベルト)の放射線が
観測されているという。
10シーベルトで、ふつう人間は、即死状態になるという。

 が、私たちはそういう作業員の方たちを、見て見ぬフリ。
これが「アパシー」である。
「冷淡性をともなった無関心」。
「だれかにやってもらわなければ……」というよりは、「だれかに犠牲になって
もらわなければ……」というふうに、考える。
そう考えて、自分はその問題から逃げてしまう。
そこに「人間」はいない。
つまり作業員の方たちを、同じ人間とはみていない。
が、これほどまでに残酷な心理状態が、ほかにあるだろうか。

●アパシー状態

 私はそのアパシーについて考えているとき、同時にこう思った。
「戦時中の日本人も、そうだったのかなア」と。

 多くの日本人が戦地で死んだ。
その数、約300万人。
同時に日本人は、多くの外国人を殺した。
その数、同じく約300万人。

 そういう事実を日々に感じながらも、多くの日本人は、自らを無関心にすることに
よって、戦争から逃げてしまった。
つまりアパシー状態になってしまった。
またそうでもしないと、自分の心を守ることができなかった。
仮に「戦争、反対!」などとでも言おうものなら、そのまま投獄。
ばあいによっては、処刑。
当時は、そういう時代だった。

●ゆでガエル

 『ゆでガエル』理論については、昨日、書いた。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「茹でガエル現象、茹でガエルの法則とは、ビジネス環境の変化に対応する事の重要性、
困難性を指摘するために用いられる寓話の一種。
『ウサギとカメの競争』などと同様、自然科学とは無関係である」(以上、ウィキペディア
百科事典)と。

 わかりやすく言えば、深刻な状況でも、少しずつ徐々に与えられると、その深刻さが
わからなくなってしまうということ。
つまり今の日本の現状が、それに当たる。

 あのチェルノブイリ事故が起きたとき、世界中が大騒ぎになった。
もちろんこの日本でも大騒ぎになった。
が、今、それと同程度、あるいはそれ以上の事故が、この日本で起きている。
へたをすれば、日本はこのまま本当に沈没してしまうかもしれない。
が、その深刻さが、イマイチ、私たちに伝わってこない。
というか、その深刻さが日々に薄れていく。
多くの日本人は、原子炉はすでに安定状態になったと信じている。

●残酷極まりないアパシー

 しかし私が書きたかったのは、このことではない。
頭の中にあったモヤモヤは、このことではない。
私はこう考えた。

 いつか、……10年後かもしれない。
20年後かもしれない。
そのとき現在の事故を反省するときがやってくる。
そのとき、日本人は、現在「犠牲になりつつある」作業員の方たちを、どう評価する
だろうかということ。
あれほどまでの放射線を浴びながら、無事ですむはずがない。
多くの方が、晩発性の放射線障害で苦しむことになるかもしれない。
中には、それで亡くなる方も出てくるかもしれない。

 ありきたりな評価の仕方としては、感謝祭とか、あるいはもしそれで亡くなった方が
出れば、追悼式ということになる。
が、そんなことで、私たちが今もっているアパシーが、許されるかというと、私は
そうは思わない。
今、私たちが感じている、「だれかに犠牲になってもらわなければ……」という、
残酷極まりないアパシーが、それで許されるかというと、私は、そうは思わない。
またそんなことで許されては困る!

 そのアパシーと闘うゆいいつの方法があるとすれば、(1)私自身が現場に行き、
作業員の方を助ける、(2)作業員の方たちに、「あぶないから逃げなさい」と
言う、そのどちらか。

 が、その勇気は私にはない。
現場へ行き、即死はしないまでも、2シーベルトもの放射線を浴びる勇気はない。
また「逃げなさい」と言うのは簡単なこと。
が、そのあと原発はつぎつぎと爆発を繰り返すことになる。
結果、その被害は、日本を越えて、朝鮮半島から中国まで及ぶと言われている。
日本列島には、もちろんだれも住めなくなる。

 ……だから結局は、自らを冷淡にし、無関心にする。
「しかたない」と。

●偽善

 このことは、同時に、先の戦争にも、そのまま当てはまる。
私たちは今、あたかも日本人が平和主義者であるかのような顔をして、たとえば
世界に向けて平和宣言をしてみせたりする。
それはそれで尊いことかもしれない。
しかし私は、そこに「偽善の影」を見てしまう。

 もちろん戦争の犠牲になった人たちは、そうだろう。
「二度と戦争はいやだ」と思うのは、当然のこと。
しかし大半の日本人は、被害者ではなく、加害者だった。
侵略戦争に侵略戦争を重ね、多くの外国人を殺してしまった。
もちろん、国内にとどまり、直接は戦争に荷担しなかった人たちとて、無罪という
わけにはいかない。
見て見ぬフリ、知って知らぬフリを、重ねていた。
それがアパシーである。
ある意味で、戦場にいる兵士たちより、罪は重かったかもしれない。
自分は安全地帯にいて、戦場で戦う兵士をたきつける……。

 今の私たち(それとも「私」?)が、そうだ。
浜松市という、今のところ原子炉事故とは無縁の世界にいて、「だれかに犠牲になって
もらわなければ……」と、平気で考える。

●何が反省か!

 だからこうも思う。
いつか、今の事故を反省するときがやってきたとき、事故そのものよりも、反省すべき
点は、このアパシーということになる、と。
私たちは今、「だれかに犠牲になってもらわなければ……」と考えている。
そのアパシーこそ、反省すべき。

 どうして人は、これほどまでに残酷になれるのか。
また残酷であることが、許されるのか。
言い換えると、今、この時点でアパシーと闘わずして、何が反省かということになる。
事故が無事収束し、感謝祭を開くにしても、また犠牲になった方が本当に出て、その
追悼式を開くにしても、(無論、そんなことはあってほしくないが)、本当に反省
すべきは、このアパシーということになる。

●本当に、そうか?

 言い換えると、先の戦争にしてもそうだ。
私たちが今、責めるべきは、「戦争」そのものよりも、それを裏で支えてきた
「アパシー」ということになる。
「冷淡性をともなった無関心」。

 さらに言い換えると、今、アパシー状態にある人が、どうして「戦争、反対!」などと、
偉そうなことが言えるのかということになる。
原発事故にしても、そうだ。
被災地の人たちは、さかんに、「国が……」「国が……」という。
「原発事故は、国の責任」と。

中には、「私らは、何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目にあわなければ
ならないのだ」と、テレビの画面に向かって叫んでいる人もいた。
が、本当に、そうか?

被災者の人たちの気持ちもよくわかる。
このまま事故が拡大すれば、(あるいは作業員の方たちが原発から逃げ出してしまえば)、
私たち自身も、その被災者になる。
そういう立場でものを考えると、どうしても、「本当に、そうか?」ということになる。

●大罪

 私たちは、今、意識の向こうで、(無意識のままとは言わないが)、大きな許される
ことのない大罪を犯しつつある。
その大罪をさておいて、「国が……」「国が……」と、国の責任になすりつけるのは、
むしろ卑怯というもの。

 私もそうだったが、今回こうした事故が起きてはじめて、放射線の恐ろしさを、
身をもって知った。
「ベクレル」「シーベルト」「キュリー」という単位も知った。
同時に原子力発電所のもつ危険性も知った。

 が、そのどれも、知ろうと思えば、知ることができたものばかり。
知らなかったのは、無知というとりは、無学。
無関心。
県によっては巨額の交付金がほしくて、むしろ原子力発電所を誘致していたところもある。
そういう事実をさておいて、「私ら何も悪いことを……」とは、とても言えない。

●ユダヤ人虐殺

 この浜松市も、近くに浜岡原子力発電所をかかえている。
外国人がみなあきれるほど、危険な地帯に、それはある。
予想される大地震。
活断層。
で、私は、こう考える。

 もし地震、あるいは津波によって、浜岡の原子炉が破壊されたとしても、私は言わない。
「私ら何も悪いことを……」とは!

 アパシーであること。
それ自体が、先にも書いたように、大罪なのである。
その一例として、昨日、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺事件を取りあげた。
実のところ、当時のドイツ人たちはみな、うすうすではあるにせよ、同じ仲間のドイツ
人が、ユダヤ人を虐殺していることを知っていた。
知っていたにもかかわらず、冷淡性をともなった無関心を装った。
直接的には手をくださなくても、それ自体が大罪なのである。

●何をか言わんや

 私たちは今、アパシーの状態にある。
原発事故の現場で、作業をつづけている作業員の方たちの危険性を知りながら、
「私だけは……」と、安全な地域に身をおき、無関心を装う。
つまりそれ自体が、「悪いこと」なのである。
そういう大罪を犯しつつ、あとになって、「私ら何も悪いことをしていないのに……」
とは、私なら、とても言えない。

 そう言えば、ある県の県知事はこう言っていた。
「国に裏切られた」と。
原発誘致推進派の知事として知られていた人物である。
私はそれを聞いたとき、「何をか言わんや」と思ってしまった。
「裏切られた」と騒ぐ前に、自分自身の無学を恥じるべき。
それまで受け取った、巨額の交付金を叩き返すべき。
その知事はテレビに向かって、こう言っていた。
「原発には、3700億円の経済効果があります」と。

 交付金のことを言ったのかどうかは知らない。
しかし3700億円!
当然、原発周辺に住む人たちは、今の今も、その恩恵を受けているはず。

●無念!

 現に今、被災者となって苦しんでいる人がいる。
そういう人たちを責める気持ちは、毛頭ない。
原発事故だけは、明日は我が身。
地域だけの問題ではない。
放射線はDNAにまで影響を与え、その後遺症は、この先、何世代にもわたってつづく。
すでに私たち自身が、被災している。

 当然のことながら、責められるべきは、政治家、ゼネコン、官僚。
これらが三つ巴となって、原子力政策を推し進めてきた。
この先、これも明確になってくるだろうと思うが、その底流を支える金儲け主義が、
今回の事故を引き起こした。
当然のことながら、タダでは済まない。
しかし同時に、私たちが今、もっているアパシーも、責められるべき。
タダで済ませてはいけない。

 安易な欲望に溺れるまま、つまり電気を使い放題使いながら、今になって、原子力
発電は必要なかったとは、とても言えない。
少しでも自分に恥じる謙虚さのある人なら、なおさらそうだろう。

 ……まだ何か、頭の中でモヤモヤしたものが残っている。
何だろう?
すべてを吐き出したわけではない。
何だろう?

 あえて言うなら、「虚しさ」ということになる。
「無念」でもよい。

 今回の原発事故を総じてみると、(もちろん3・11大震災もそうだが)、
ただただ無念でならない。
どうしてこういう事故を引き起こすことになってしまったのか。
それを考えると、ただただ無念でならない。

 それがいまだに、頭の中にモヤモヤとして残っている。
このモヤモヤだけは、文にして叩き出すわけにはいかない?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 福島第一原子力発電所 事故 アパシー はやし浩司 apathy論 アパシー論 
冷淡性 無関心)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

●5月26日(スポーツ医学)

+++++++++++++++++++++++

朝はランニングで始まる。
……といっても、ウォーキングマシン上での
ランニング。

このところ、朝は30分と決めている。
が、30分もすると、全身が汗、ダクダクになる。
その運動をしながら、今朝は、こんなことを考えた。
題して「スポーツ医学」。

+++++++++++++++++++++++

●スポーツ医学

 ランニングといっても、もともとはウォーキング用。
時速は6キロまでしか、出ない。
が、実際には、自分の体重の重みでブレーキがかかったような状態になるので、
4〜5キロ?

 最初10分は、慣らし運動。
時速6キロ(実際には、4〜5キロ)で、歩く。
できるだけ大股で歩く。
ちょうど10分になったところで、駆け足。
前方に体重をかけ、小股で走る。
かかとを地面からあげ、つま先だけで走る。
このときマシーンは、ウィーンと回転音を立て、全速で回り始める。
時速6キロ。

 脈拍数をみると、毎分70前後から100前後まで、急にあがる。
この状態で、3分、走る。
とたん体中から汗が噴き出す。
額からポタポタと汗が落ち始める。
が、意外なことに脈拍は低下する。
80〜90前後で推移する。

 で、それから最後の10分まで、また歩く。
ちょうど20分が過ぎたところで、また駆け足。
これを2〜3分、つづける。
長さは、日によってちがう。
調子のよいときは、数分ごとに、(歩く)→(駆け足)を繰り返す。
同じように脈拍は急にあがるが、また低下する。
汗だけが、ダクダクと噴き出す。

 で、また歩いて、最後の1分だけ、今度はひざを大きくあげ、大股の駆け足をする。
最後のしめくくり。
全力を出し切る。
息が切れかかったところで、ちょうど30分!
「ピッ」と音が鳴って、終了。

 が、今朝はそのまま脈拍数を計りつづけた。
脈拍はあがるのか、それともさがるのか。
興味があった。

 で、終了直後は、あがることがわかった。
ハーハーとあえぎながら、汗を拭いているときには、110〜115前後まであがった。
それが10〜20秒近くつづいたあと、今度は急速にさがった。
80から70まで。

 そこで今朝の運動は終了。

 ところで運動の前にトイレに行くことにしている。
が、30分も運動をすると、また尿意を催す。
これはたぶん、体内の脂肪が燃焼し、水と二酸化炭素になったためではないか。
それが尿となって、膀胱にたまる。

 今朝はこの程度のことしかわからなかったが、その延長線上に、スポーツ医学がある。
言うなれば、スポーツ医学という「山」の登山口に立ったようなもの。
何かしら奥深いものを、その向こうに感じた。
今度、機会があったら、それについて調べてみたい。

 なお私のばあい、筋肉の回復力がたいへんよい。
どこで検査を受けても、そう言われる。
運動をやめた直後は脈拍数があがるが、その後、急速に今度は、さがる。
20代のころから自転車通勤を欠かさなかったためと思う。
毎日、往復、1時間は自転車で走った。
今になって、そのありがたさが、しみじみとよくわかる。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●からっぽの頭

 これは私だけに起きる現象なのか。
それともどの人にも共通して起きる現象なのか。

 書斎のデスクに向かって座ったとき、私の頭の中は、からっぽ。
何もない。
本当にからっぽ。
広い空間は感ずるが、そこには何もない。
そんなはずはないと、自分に言って聞かせるが、やはりからっぽ。
何も考えられない。
考えるテーマもない。
が、それでも何かを書き始める。
今の私がそうだ。
すると、やがてモヤモヤしたものが、からっぽの頭の中に充満してくる。

 で、私のばあいは、こうだ。
とにかく書いてみる。
パソコンのキーボードを叩いてみる。

●日課

 パソコンを立ち上げ、一通りの日課(ルーティーン)をこなす。
メールを読み、返事を書き、つぎにニュースサイトを見る。
それが終わると、HPやBLOGへのアクセス数を調べる。
このところとくに気になるのが、YOUTUBEへのアクセス数。
毎日、1000件近く、アクセスがある。

この「1000件」のもつ意味は大きい。
というのも、YOUTUBEのばあい、最初から最後まで、しっかりと
視聴しないと、「1件」としてカウントされないしくみになっているらしい。
(まちがっていたら、ごめん!)

 つまりチョット見だけでは、「1件」にならない。

 ところが私の動画は、どれも1本、15分。
(昨年までは、10分だった。)
それに見てくれる層も決まっている。
1000件ということは、1000人以上の人が、15分間、見てくれたことになる。
(もちろん1000人といっても、延べ数。)

15(分)x1000(件)÷60(分)÷24(時)=10・4日

 つまり私は、1日を、10・4倍にして生きていることになる。
(こんな計算をしても、意味はないが……。)
が、何よりもうれしいのは、それだけ生徒数がふえたことを意味する。
単純に考えれば、毎日、1000人の生徒が、15分間、私のレッスンを受けて
いる。
そういうことになる。

 ……と書いているうちに、だんだんと書きたいことが定まってくる。
からっぽの頭の中が、ザワザワと騒がしくなってくる。

 ……これは私だけに起きる現象なのか。
それともどの人にも共通して起きる現象なのか。

●マガジン過去版

 で、この数日をかけ、電子マガジンの過去版を整理した。

 やっと2001年6月(創刊号)から、2007年1月分あたりまで、
HPにアップすることができた。
興味のある人は、下のアドレスから、「電子マガジン総集編」へと進んでみてほしい。

      http://magazinepast.ninja-web.net/

 何しろ膨大な量だから、私のパソコンにしても、ハラハラのしどうし。
メモリー不足で、いつフリーズしてもおかしくない。

 で、それが終わると、すかさず、データのバックアップ。
ここまで作業が済んで、「終わったア」と一息つける。

……たった今、それが終わったところ。
つまりデータのバックパックが、済んだ。

 が、私が今使っているパソコンは、10前後の作業を同時に並べても、ビクともしない。
(メモリーは12GB。マウス社製の、64ビット・ハイエンドマシン。)
すばらしいと思う前に、「どうしてこんなことができるのだろう」と、不思議に思う。
35年前のパソコンは、1つの仕事しかできなかった。
しかもポツポツと画面に点を描く程度の仕事。
それがダブル・コアの時代になり、トリプル・コアの時代になった。
わかりやすく言えば、1つの脳みそが、8つの仕事を同時にこなすようなもの。
……というか、1人の人間が8つの頭をもっているようなもの。

 が、トラウマというのは、恐ろしい。
XPマシンも、ビオタマシンも、そのときどきの最先端のものを購入した。
が、作業が80〜90%終わったところで、フリーズ。
よくフリーズした。

そのたびに冷や汗をかきながら、……というか、泣きべそをかきながら、
コンピューターと格闘した。
徹夜したことも、しばしば。
そういうトラウマが残っているから、今も、ハラハラ。
現在のパソコン(セブン)にしてからも、ハラハラ。
私は基本的には、パソコンを信用していない。

 ……ということで、この世界も、先手必勝。
フリーズを経験する前に、新型のパソコンに乗り換えることにした。
予定では、8月までに、さらにその先を行くパソコンに買い換える。
先日、電話で相談したら、担当者はこう言った。
「あなたのは、もう1年半前のものです。
この2年で、パソコンもはるかに性能がよくなりましたよ」と。
 
 フ〜ン。
この世界では、たった2年で、骨董品。
価値のない骨董品。
だれかにあげてもよいが、パソコンだけは、自分で処分したほうがよい。
ハードディスクはとくにそうで、どこでどう個人情報が漏れるか、わかったものではない。

 ……先ほどワイフが朝食の声をかけてくれた。
それからもう20分。
パンも冷えてしまったことだろう。
これからやや遅い朝食。

 みなさん、おはようございます。
午前9時。
5月26日。
2011年。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【福島原発事故・5月27日】

●「私はいったいなんだったのか」

 今は、責任問題を論じているばあいではない!
1号機だけならまだしも、2号機、3号機、4号機、すべてがメルトダウンしている。
とくに3号機があぶない。
MOX燃料を使っている。
にもかかわらず、1号機の55分間の海水中断がどうのこうの、
それがだれの命令によるものかどうのこうの、
首相はウソを言っているかどうのこうの、と、
そんなレベルで、政治家たちは大騒ぎしている!

火事はまだ延焼中。
ボーボーと燃えさかっている。
その最中に、放水を中断したのはだれかと騒ぐようなもの。
まず火を消せ! 
責任問題は、そのあと!

が、だれも中断など、していなかった。
結局は自民党と原子力安全委員会のHH委員長の、ひとり芝居だった
日本経済新聞は、つぎのように伝える(5月26日)。

「『私はいったいなんだったのか』……福島第1原発1号機への海水注入をめぐる問題で、東
京電力が実際は注入を続けていたと一転して発表したことを受け、原子力安全委員会のHH
委員長は26日、「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのか」などと不信感をあらわ
にした」(日本経済新聞)と。

 「私はいったいなんだったのか」って? 
答は簡単。
「ただのバカだった」。

●現実検証能力

 今、私たちは、いったいどういう状況に置かれているか。
それを知る能力が、現実検証能力。
が、ただ客観的に知るだけでは足りない。
ことの大小が、的確に判断できなければならない。
ことの軽重が、的確に判断できなければならない。
そういうことが総合的に判断できて、はじめて、現実検証能力があるということになる。

 が、今回の「中断騒動」には、それがなかった。
55分間の海水中断があったにせよ、あるいはなかったにせよ、今は、全力を投じて
事故処理に専念すべきとき。
被災者の人たちの救援に全力を尽くすべきとき。
先にも書いたように、火事は目下、延焼中。
東京電力や原子力安全保安院は、さかんに「安定(stable)」という言葉を使って、私たち
を煙に巻こうとしている。
「原発は安定しています」と。

しかし新聞記事を読んだだけでも、それがウソとわかる。
問題は、何も解決していない。
むしろ日々に新たな問題が生まれ、日々に状況は悪化している(5月27日現在)。

 たとえばその近辺の学校では、表土を取り除き、すでに「除染?」を始めている。
気持ちはわかるが、まだ早い。
今の今も、放射性物質は、放出されたまま。
放射性物質は、この先も、どんどんと降り積もっていく。
雪かきの「雪」とは、訳がちがう。

●55分間の中断

 何も「55分間の中断」が、ささいな問題だったと言っているのではない。
それはそれで大きな問題かもしれない。
が、現在、起こりつつある問題は、それをはるかにしのぐほど、深刻かつ重大な問題。
仮に1号機について、55分間の中断があったにせよ、そのときすでに1号機とは
関係なく、2号機、3号機、それに4号機すべてが同時におかしくなり始めていた。
自民党やHH委員長は、「55分間の中断があったこと」が、あたかもすべての原因
であるかのような論陣を張り、管首相を追い落とそうとしていた。
が、繰り返すが、今は、そんな時ではない。

 仮に3号機が爆発でもしたら、そのとき、この日本はどうなるか。
それを少しでも頭の中で、想像してみればよい。
燃えたプルトニウムの微細粉末が、全国に散らばる。
「プルトニウムは比重が重いから(比重=19)、飛び散らない」と説く人もいる。
しかし1ミクロン(大腸菌とほぼ同じ)の微細粉末である。
地球の重力が、そこらの金属棒と同じように働くと考えるほうがおかしい。

 そのたった一個(ホット・パーティクル)でも体内に入れば、そこで内部被爆。
確実にがんを引き起こす。
「毒性がきわめて強い」というのは、そういう意味。

 そういう判断も的確にできないから、ここで「バカ」という言葉を使った。

●イタチごっこ

 このところこの浜松市へ、福島県のみならず、東京や千葉県から疎開してくる人が、
目立ってきた。
昨日も、「福島県から転校してきた子がいる」と話してくれた子ども(小2)がいた。
あるいは一度は福島県から千葉県へ疎開したものの、さらにその千葉県から浜松市へ
再疎開してきた人もいるという。
たまたま参観に来ていたSさんが、そう話してくれた。

 いくら「安定」という言葉を使っても、だれも安定しているとは思っていない。
現に放射性物質は、垂れ流し状態。
「貯蔵タンクが満杯になってしまった」と言っていたら、今度は「そのタンクに穴が
空いていた」と。
毎日がこの繰り返し。
つまりイタチごっこ。
私が現場で働いている作業員なら、とっくの昔にサジを投げてしまっていただろう。
つまり原子力発電所事故の恐ろしさは、ここにある。

 一度事故が発生すると、ドミノ倒しのドミノのように、つぎつぎと問題が発生していく。
が、問題はそのとき起こる。
それぞれのばあいに応じて、対策が用意されていれば、まだよい。
が、その対策が用意されていない。
用意されていないから、また別の新たな問題が発生していく。

 3号機についても、格納容器は鋼鉄製というが、配管などはゴム製のパッキングで
つながれているという。
格納容器そのものが熱に強くても、ゴムはそうでない。
そのゴムが溶けて、そこから高濃度の放射性物質が飛び出る。
が、そうなったら、もう打つ手はない。
(すでに溶け始めているが……。)

相手は超高濃度の放射性物質である。
現在2シーベルト前後の放射線が観測されているというが、10シーベルトの
放射線に当たれば、人間は即死状態になるという。

●敦賀原発

 選挙のとき政治家たちは、みなこう言う。
「命をかけて……します」と。
ならば今がそのとき。
地元の政治家たちは、どうか命をかけて、福島の事故現場へ駆けつけてほしい。
……というのは、言い過ぎと言うことは、よくわかっている。
政治家たちは、言葉のアヤとして、選挙のときだけ、そう言っているに過ぎない。

 しかし驚いたのは、こういう状況を目の当たりに見ながらも、まだ原発を擁護している
政治家がいるということ。
昨日(5月26日)見た、NHKの報道の中でも、そう言っている政治家がいた。
「原発は必要です」(敦賀市長)と。
ならば今、一筆、書いておいてほしい。
「事故にあっても、私たちは『国が……』『国が……』などと泣き言を言いません」と。
ずいぶんと辛らつな言い方に聞こえるかもしれない。
しかし実際、福島の事故現場で働いている作業員の方たちは、仕事に就く前に、こんな
念書を書かされているという。
「将来、放射線障害が現れても、(東電に対して)、責任を追及いたしません」と。

 番組の中では、鍵職人の男性も紹介されていた。
その男性も、「もし原発がなくなったら、私たちは別の県へ引っ越すしかありません」
(以上、記憶によるものなので、内容は不正確)と言っていた。
が、私にはその言葉が、こう聞こえた。
「原発事故が起き、強制避難が命じられても、私は文句を言いません」と。

●石棺化

 最終的には、チェルノブイリ事故のように、石棺化するしかないのか。
今の状況を見るかぎり、そういう心配は、ぬぐえない。
もちろん石棺化したからといって、それで問題が解決するというわけではない。
25年たった今ですら、チェルノブイリでは、その問題で苦しんでいる。 

 ……だったらというわけでもないが、つまりそういう可能性もあるなら、今すぐ、
何十万トン、あるいは何百万トンというコンクリートを用意しておくべきではないのか。
ブルドーザーにしても、何百台も並べておいたらよい。
つまりそこまでしてはじめて、「対策」ということになる。
それもしないで、その場しのぎのことばかりしているから、事故は拡大する。
今の今が、そうだ。

 もし政府に責められるべき点があるとするなら、まさしくこの点ということになる。
「だれかが何とかするだろう」と、責任を押しつけあっている。
おかしな楽観論が蔓延している。
あるいは「まだ、何とかなる」と、あえてそこにある事実から、目をそらそうとしている。
たとえば敦賀市長は、たしかこう言っていた。

「日本には原発は必要です」と。

 記憶によるものなので、言葉は不正確。
しかし私には、敦賀市長がそこまで高邁な国家論をもっているようには、見えなかった。
「日本には……」ではなく、「敦賀には……」ではないのか。
それとも「私には……」ではないのか。
「敦賀が、日本国の発展のために犠牲になってもいい」というような、そんな高邁な
精神は、私にはとても感じられなかった。

 が、もし敦賀市長に、ほんの少しでも現実検証能力があったら、とてもこんな言葉は
出てこなかったはず。
さらに一言。
NHKの報道では、飛行機事故を想定していた。
飛行機が原発に衝突したら、そうなるか、と。
が、それよりも心配なのは、テロ。
武力攻撃。

 もし敦賀にたった一発でも、K国のミサイルが撃ち込まれたら、それこそこの日本は
万事休す。
全滅。
そういう国際感覚はあるのか?
つまりそのあたりまで検証する能力があってはじめて、現実検証能力あり、という
ことになる。

 ともかくも今は、国家の存亡をかけた、一大危急時。
些細な問題はさておき、今そこにある危機と闘うしかない。
「現実」を原点として、つぎの対策を考えるしかない。
責任問題、原因追及は、つぎのつぎ。

あろうことか、民主党内部では、政権抗争が激化しているという。
バカげているというか、開いた口が塞がらない。
日本の政治のレベルがここまで低いとは、正直に告白するが、私は思っていなかった。
その一例が、今回の「55分間の海水注水中断劇」ということになる。
2011/05/27朝記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【小学1年生と2年生に、「形」を教える】

●同じ教材を使って、小学1年生と2年生に「形」を教えてみました。
 反応のちがいなど、比較してくださると、この時期の子どもの発達の様子が
 わかっていただけるのではないでしょうか。

(小1クラス)

(1)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/uuSExcXJrpk?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/uuSExcXJrpk?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

(2)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/qsR_dZYpL14?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/qsR_dZYpL14?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/Ulo7z0SubjQ?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/Ulo7z0SubjQ?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(小2クラス)

(1)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/pByKYaSj10o?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/pByKYaSj10o?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

(2)

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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●5月27日、戦いすんで日が暮れて……

昔(昭和44年)、佐藤愛子という作家が、『戦いすんで日が暮れて』という小説を
発表した。
直木賞を受賞した。
私は、その小説は読んでいないが、この『戦いすんで日が暮れて』という言葉は、当時の
流行語にもなった。
一日の仕事が終わり、家に帰りほっと一息ついたようなとき、今でも自然とこの言葉が
口をついて出てくる。

『戦いすんで日が暮れて』と。

 昭和44年というから、私が22歳のとき。
大学4年生のときのことだった。

●日々に戦い

 今日は霧のような小雨の中、町までの4キロを歩いた。
時間にして、ちょうど40分前後。
一度佐鳴湖畔に出て、その湖畔沿いに歩く。
途中、「富士見橋」という橋がある。
その名の通り、そこからは天気のよい日には、富士山を見ることができる。
いつもの散歩コースである。

 が、歩いている人は、ほとんどいなかった。
(そういえば、ゼロ?)
原発事故の影響か?
私も雲の動きが気になった。

 浜松から見ると、富士山は、やや北よりの東方向にある。
それをさらに延長したところに、福島第一原発がある。

その富士山のあるあたりを基準にすれば、風の方向がおおよそわかる。
富士山の方から吹いてくれば、東風。
要注意!
ときどき歩くのをやめ、私は空の雲の動きを追った。
風は、やや南よりの東から吹いていた。
が、それで安心したわけではない。
風というのは、そのつど向きを変えて吹く。

 言い忘れたが、このあたりでも、みな、こう言うようになった。
「雨の日は、出歩かないほうがいい」と。

●疎開

 そう言えば、昨日会ったSさんも、こう言っていた。
何でも知人が、福島から千葉へ、千葉からさらに、この浜松へ引っ越してきたという。
Sさんは「疎開」という言葉を使った。
もともと「疎開」というのは、「各地へ分散する」という意味である。
戦時中の学童疎開が、それ。
その言葉を聞いたとき、私はこう思った。

 「まさに、戦争だな」と。

 その知人もSさんにこう言ったそうだ。
「浜松は、まるで別世界ですね」と。
もともと浜松市民というのは、大ざっぱで、ノー天気(失礼!)。
この浜松で、原発事故を心配している人は、まずいない。……いなかった。
が、神奈川県で茶葉が汚染されたと聞いてからは、少し雰囲気が変わった。
「つぎは静岡。そのつぎは浜松」と。

 「東京では、青山でも、人通りがぐんと少なくなりました」と。
その知人は、Sさんにそう言ったという。
ましてや雨の日に出歩く人は、いない。

 私はときどき口の中に飛び込んでくる雨粒をなめながら、「だいじょうぶかな?」と。
そんなことを心配しながら、4キロを歩いた。
イヤ〜ナ気分だった。

●仕事

 が、こういうときというのは、かえってカラ元気が出る。
またそうでもしないと、そのまま心まで曇ってしまう。
私はいつも以上に、子ども(生徒)たちとはしゃいだ。
楽しかった。
おもしろかった。

 その様子はビデオに収めた。
幼児教室の今日のテーマは、『言葉』。

(1)

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(2)

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www.youtube.com/v/orqEtmh63pw?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
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www.youtube.com/v/1ofdDsy4hkE?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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(4)

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param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/EQ82Iux-NMw?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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●ついでに小4、5クラスの様子も、ビデオに収めた。
一番手前の子ども(男児)は、まだ小学1年生である。
名前をK君という。
私はこれほどまでに勉強癖のしっかりした子どもを、ほかに知らない。
冷静沈着。
しかも頭がキレる。
シャープ!

このタイプの子どもは、よく過干渉児と誤解される。
が、K君はちがう。
生まれもった性質そのものが、ちがう。
たいへん恵まれた子ども(Gifted Child)ということになる。

私はK君の将来を見届けることはできないが、K君はいつか、
ずば抜けた才能を光らせるはず。
恩師の田丸謙二先生のような、鋭い眼光をもっている。
そういう子どもに出会うと、私のほうがうれしくなる。

率直に言うと、私は勉強が嫌いな子どもを教えるのが、苦手。
反対に、K君のような頭のよい子どもを教えるのが得意。
ずば抜けてすばらしい子どもにする自信がある。

 ……というようなことも心のどこかに置き、このビデオを観てもらえれば、
うれしい。
またK君にとっても、あとあとすばらしい思い出になればうれしい。

●小4、5クラス+K君(小1)

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www.youtube.com/v/7PEGi_hHgA4?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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●最善

 ということで、今日もがんばった。
自分を出し切った。
完全燃焼というには、ほど遠い。
しかし点数をつければ、70点くらい?

あとは、今日撮ったビデオをYOUTUBEにアップすればよい。
それで今日は、おしまい。

で、最後に一言。

『戦いすんで日が暮れて』。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●宇宙人はいる!


++++++++++++++++++++


「はやし浩司」という1人の、小さな人間が住む、
そのまた小さな世界。
その中で、はやし浩司ははやし浩司なりに、
宇宙人の存在を確信した。


それは私の人生の中でも、特筆すべきできごと
といってもよい。
「他人を介していない」という意味において、
また私自身が確信できるという意味において、
特筆すべきことできごとといってもよい。


小さな、そのまた小さな証明だが、しかし
それ以上の証明が、この私にできるだろうか。
組織力も、調査力もない。
どこまでも小さな私である。
あなたと同じ、小さな人間である。


何はさておき、ここに新聞のコピー(1)と、
火星で撮影された写真(2)を、並べて掲載する。


(1)の記事は、私が2000年11月25日(土)に、
中日新聞に寄稿したエッセーである。
「2000年」という年号に注意しておいてほしい。


(2)の写真は、2003年6月10日に打ち上げられた、
アメリカの火星探査機「スピリット」が、地球に
送ってきた写真である。
スピリットは、2004年1月3日に火星に到達している。
つまりこの写真は、どんなに早くて、2004年1月
3日以後に撮影されたものということになる。


この「2004年」という年号に注意しておいてほしい。
その上で、私自身が描いた新聞上のイラストと、
スピリットが送ってきた写真を見比べてみてほしい。


もし逆、つまり私が描いたイラストがスピリットが
送ってきた写真よりあとということなら、私が
スピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたと疑われてもしかたない。
しかし私のほうが、先に書いている。
2000年の11月である。
スピリットがこの写真を送ってきたのは、少なくとも
2004年1月以後である。
私がスピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたということは、ありえない!


つまりこれが、私という小さな人間の、ささやかな、
実にささやかな「証拠」ということになる。
「宇宙人は存在する」という、ささやかな証拠
ということになる。


+++++++++++++++


(1)

 


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/84/imge35bb262zik5zj.jpeg
" width="652" height="846" alt="2000年月1125日発表の原稿">
★2000年、私が発表したコラム


★原稿より(上、写真版の読みづらい人は、どうか下をお読みください。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●見たぞ、UFO!(中日新聞記事より)(2000年11月)


見たものは見た。巨大なUFO、だ。
ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。
見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という
迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいな
く、あれはUFOだった」。


 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。


そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。
あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が
凍りつくのを覚えた。
その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。
私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。
「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていっ
た。


 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。
その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告
はありません」と。
もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。
私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに
巨大なものがあるとは思ってもみなかった。


が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届
けてくれた。
当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。
矢追氏はその番組のディレクターをしていた。
あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。
私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUF
Oがあったからだ。


 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。
人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなこと
だ。
そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしく
はない。
もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソ
ということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。


 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。
この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。
君の資質が疑われる」と言う人もいる。
しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論
だけではない。
小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊
書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。


そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。
たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私は
それについて書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/85/imgecf17303zik8zj.jpeg
" width="682" height="653" alt="イラスト拡大図(2000年11月の記事より)">
★コラムの中のイラストの拡大図

 


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/66/img61c597d8zik2zj.jpeg
" width="1023" height="1023" alt="d88cbd81.jpg">
★火星探査機「スピリット」が送ってきた、火星上空を浮遊するUFO(2004年)


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/65/img62d89929zikczj.jpeg
" width="480" height="640" alt="●火星上のUFO.jpg">
★(UFOの拡大写真)


 


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/86/img4e55c54czikbzj.jpeg
" width="874" height="980" alt="2004年に火星探査機「スピリット」によって撮影された火星
上空のUFO">
★別の本に紹介された、火星上空のUFO(「世界のUFO現象」(学研))


●宇宙人は、確かにいる!


 私はあの夜のことを忘れない。
あの夜、私とワイフは、UFOを見た。
が、当初、私は、それをUFOとは思わなかった。
私が聞いていたUFOは、円盤形のものをいう。
「く」の字型(ブーメラン型)のUFOなど、知るよしもなかった。
しかも、巨大だった。
天空をぐいと横切るほど、巨大だった。
新聞記事の中では、1、2キロと書いたが、実際のところ、よくわからない。
それよりも大きかったかもしれない。
あるいは小さかったかもしれない。
が、飛行機とは比較にならないほど、巨大だった。


 あの夜見たものを、もう一度、整理しておきたい。


(1)窓


 私もワイフも窓らしきものを目撃している。
大きな丸い窓(?)で、よく見ないとわからないほど、淡い橙色のものだった。
私はそれはジグザグに並んでいたように思うが、ワイフは、一直線だったと言っている。


(2)黒いシルエット


 私は黒いシルエット(輪郭)を見ているが、ワイフはよく覚えていないという。
最初はそのシルエットは見えなかった。
少しずつ黒くなって、真上にきたとき、黒いシルエットとなった。
黒いシルエットが、その背景の夜空よりも黒く、夜空に浮かびあがった。
月は出ていなかったように記憶している。


 私が記憶しているシルエットは、中日新聞紙上で発表したとおりである。
私はその形を忘れないように、当時、何かにメモした記憶がある。


(3)消え方


 私が見たそのUFOは、西の方角からゆっくりやってきて、真上に来たとき、突然
スピードをあげ、東の方角へ飛んでいった。
スーッという感じだった。
そのときのこと。
そのUFOは、遠ざかって消えるというよりは、空に溶け込むようにして
消えていった。
大きさは遠ざかるにつれて小さくなったように感じたが、そのまま透明になり、
消えていった。


 その先に白い小さな筋雲がいくつかあったように記憶している。
そのUFOは、雲の中に消えたのではない。


(4)自衛隊に電話


 その直後、私は電話帳で自衛隊基地の番号を知り、電話をかけた。
何度もかけたように記憶している。
その夜は、ほとんど一睡もせず、朝を待った。


 電話がやっとつながったのは、午前8時30分だったように記憶している。
つながった先は、たしか「管制室」だったと思う。
電話口の向こうの男性は、「そういう報告はあがっていません」とだけ、何度も
繰り返した。
私は「そんなはずはない!」と、何度も押し問答を繰り返した。
「あんな大きなものが上空を通過したのに、レーダーに映っていないはずがないだろ!」
と言った記憶がある。


(参考)(豊田ひろし氏のHPより抜粋)


『……火星の表面を移動し、水が存在した証拠を探る米航空宇宙局(NASA)の無人探査車
「スピリット」が米太平洋時間3日[2004年1月]午後8時35分(日本時間4日午後1時35分)、火
星に着陸、周囲の写真撮影に成功しました。


 スピリットは、火星の大気圏に時速1万9000キロ以上の高速で突入。パラシュートとロケット
噴射で減速するとともに、24個のエアバッグを膨らませて本体を包み、着陸後バウンドを繰り
返した末に無事停止しました。専門家が「地獄のようなもの」と呼ぶ、1400度を超す高温と接地
時の激しい衝撃に耐え、探査車は生き残りました。 


 スピリットは2003年6月10日MER-A 1号機によって打ち上げられ,約7ヶ月弱で火星に到着し
ました。


スピリットは今後約1週間かけて観測機器の機能を確認。その後約3カ月間、周囲を走り回
り、カメラや試料採取装置などを使って岩石や土壌の組成を分析、水の痕跡を探ることで、生
命の有無を確かめます。いままでは,すべてモノクロ写真の地上撮影でしたが,今回は地上のカ
ラー写真もはじめて撮影しました』(豊田ひろし氏のHPより)。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【電子マガジン・2008年8月号より、転載】

 
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【月は、巨大な宇宙船か?】以下、【電子マガジン・2008年8月号より、転載】


●『月の先住者』(Secrets of our Spaceship Moon)
written by Don Wilson 昭和58年発刊、たま出版)  

++++++++++++++++++H.Hayashi

ドン・ウィルソン著、『月の先住者』という本を
読み直す。
昭和58年7月発刊、ということだから、今から約
24年前の本ということになる。
私が36歳のときである。

月にまつわる謎は多い。
その謎について書かれた本だと思えばよい。

++++++++++++++++++H.Hayashi

 ドン・ウィルソン著、『月の先住者』という本を読み直す。原題は、『Secrets of the 
Spaceship Moon』である。「宇宙船、月の秘密」と訳せる。

 この本の中では、各章ごと冒頭で、月にまつわる謎を、箇条書きにしてある。

 全体では19章。339ページ。文字が小さいから、かなりボリュームのある本と思って
もらえばよい。

 その中のいくつかを紹介する。

+++++++++++

●第7章 月軌道を決定した動力

次の疑問点について考えてみたい。

○NASAは、月がなぜ地球の衛星となったかを、最大の疑問としている。
○あるノーベル科学賞受賞者の告白のように、月の起源や地球の衛星となった理由につい
○て、「どう説明してもありえない」と述べているのは、なざだろう。
○NASAの科学者が、「月は存在しないといったほうが説明しやすい」と発言した真意は?
○なぜ今日の科学者は、起源を説明できないからといって、月は存在しない、などと提議
○するのか。
○科学者の中には月を、「自然のなせる宇宙のいたずら」とし、月が地球の衛星にしては大
○きすぎると主張しているのは、なぜだろう。
○現在定説となっている、"自然捕獲説"でさえ、一般の科学者は充分に説明できないのだ
○ろうか。
○天文力学の権威者でさえ、地球の引力が月を引き寄せたことを「不可能」「とてもありえ
○ない」としているのは、なぜか。
○月の軌道が正確であるはずなのに、自然に地球の衛星となったと説明できない理由は?
○天文学者の中には、「ある力が月を地球の軌道に乗せた」という者もいる。「ある力」と
○はいったい、何なのか。
○なぜ月の公転面は、太陽とまったく同じ公転面に配置され、月食が起きる位置にあるの
○か。
○月が信じられないほど正確な位置にあるということはわかっているが、"月宇宙船説"以
○外の方法ではその理由が説明できないのは、なぜだろう。
○天文力学の知識や月計画による実際の研究成果によって、月が地球の軌道に「乗せられ」
○「操縦されている」と説明されることになるのだろうか。

++++++++以上、「月の先住者」より、転載++++++++++

 わかりやすく説明しよう。

 まず、夜の空に輝く、月を見てほしい。あの月は、地球の周囲を、(1)ほぼ真円に近い
軌道上を、回っている。
 つぎにあの月は、(2)地球から見ると、太陽とほぼ同じ大きさに見える。もちろん太陽
のほうがはるかに大きいが、(みかけの大きさ)は、ほぼ同じ。だから、皆既月食、皆既日
食を、数年おきに、世界のどこかで観測することができる。
 さらにあの月の(3)公転面は、太陽の公転面とまったく、同じである。

 ほかにも(4)月の自転周期と公転周期が、1秒の狂いもなく、一致しているというこ
ともある。だから月は、地球に対して、(月の表側)だけを見せ、いわゆる(月の裏側)を、
見せることはない。(私たちは、常に、月の表側のみを見ていることになる。)

 こうした月の存在について、現在の今も、(1)捕獲説と、(2)地球からの分離説、さ
らには(3)隕石の衝突説などが、意見を戦わせている。(最近の学説によれば、太古の昔、
地球に隕石が衝突し、その衝撃で飛び出した地球の一部が、月になったというのが、定説
になりつつある。)

 しかしこの説に従っても、なぜ月の軌道が、真円に近いのか。月の(みかけの大きさ)
が、太陽と同じなのか。さらに月の公転面が太陽の公転面と一致しているのかということ
は、説明できない。

 偶然というには、あまりにも偶然すぎるのである。

 もちろん「捕獲説」にしても、大きな矛盾がある。「太古の昔、月が遠い別の天体からや
ってきて、地球の重力によって捕獲された」という説である。しかしならばその軌道面は、
楕円形になるはず。ぜったいに、真円にはならない。

 そこで「乗せられた」という説が出てくる。
 
 太古の昔、月は、だれかによって、その位置に、「乗せられた」と。つまり月自体が、巨
大な宇宙船というわけである。

 そこでこの説を補完するのが、『月内部、空洞説』である。つづく第8章の冒頭には、つ
ぎのようにある。

++++++++++++++

 ……さらにじれったい疑問を投げかけてみよう。

○月の不思議な密度は、月が空洞であるどのような証拠になるか。
○なぜ英国天文学協会。月面課の主任を努めた、"月の権威"が、「何もかもが、月の20
○〜30マイル下が空洞であると示しているようだ」と結論したのか。
○なぜ有能な第一線の科学者たちが、自然の衛星は空洞であるはずがない、という意見で
○一致しているのか。では、月が空洞だというのは、人工的だからだ、とはいえないのか。
○NASA の第一線の科学者によるアポロ計画以前の研究は、なぜ月の動きが空洞の球体み
○たいだと結論したのか。
○重力場の研究は、月が空洞であるという裏づけにはなりえないのか。なぜこの結果が驚
○くべきものなのか。
○宇宙飛行士が持ち帰った、"月の石"は、月が空洞であると、どう説明しているのか。
○人工的に作られた月面地震(月着陸船やロケットなどによる)の時、月はなぜゴングの
○ように4時間も鳴りつづけたのか。このことが、どうして空洞の球体であることを説明
○しているか。
○米国の宇宙局が、月内部が巨大な空洞であるかもしれないと、秘密裡に調査を行ったの
○は、どういう証拠があってのことだろうか。
○月の密度が一番高いのは、月面近くである(月が空洞であるという証拠)という月の研
○究(質量の中心運動)は認められなかったのか。このような科学的証拠が、宇宙船説を
○引き起こさなかったのか。
○数々の証拠がどのように"空洞の月"を証明しているのか?

それでは、ここでショッキングな証拠を提示することにしよう……。

++++++++以上、「月の先住者」より、転載++++++++++

 簡単に言えば、月の内部は空洞であり、おかしなことに、つまり常識に反して、月の外
郭部ほど、密度が高く、重金属でおおわれているということ。

 ……こう書くと、「月は巨大な岩石のかたまりではないか。宇宙船という(船)と考える
には、無理がある」と考える人がいるかもしれない。
仮に巨大な宇宙船であるとしても、それは映画、『スター・ウォーズ』に出てくる、デス・
スターのようなものではないか、と。

 しかし残念ながら、宇宙を航行するとき、もっとも安全な乗り物といえば、それなりの
大きさの隕石や衛星をくりぬいた船ということになる。
外壁を、厚い岩石で覆われているため、小さな隕石程度の衝突では、びくともしない。
が、何よりもすばらしいことに、危険な放射線類から、乗り組員を守ってくれる。
仮に映画『スター・トレック』に出てくる、エンタープライズ号のような宇宙船だったら、
隕石の衝突や放射線類から、乗り組み員を守ることはできない。

 では、動力源は何か。

 これも隕石や衛星をくりぬいた宇宙船であれば、方法は簡単。
緻密に計算をしながら、その上のどこかで、何かを爆発させればよい。
それでその宇宙船は、その反動によって、目的の方向に向かって、まっしぐらに進んでい
く。
もちろん宇宙船を止めるときには、その反対のことをすればよい。

 こうして考えて見ると、月が宇宙船であっても、なんらおかしくはない。
ないばかりか、実に精巧、かつ科学的に作られた乗り物ということになる。

 ちなみに月空洞説を裏付ける、ひとつの事実を紹介しよう。

 「月に人類が到達する以前解明されていたのは、『月の密度は地球の半分くらいだ』とい
うことぐらいだった。実際、月の密度は、地球の約6割だった。月の土、1立方センチメ
ートルと、地球の土1立方センチメートルでは、地球の方が、約2倍も重いということだ」
(同書、111P)と。

 言い換えると、月の内部の40%は、空洞ということになる。

+++++++++++++++

 改めて『月の先住者』を読んで、私は、ふと、こう思った。
「私はこの24年間、何をしていたのか」と。

 この地球には、いろいろな問題がある。
教育問題からはじまって、時事、環境、宗教、哲学、医学問題などなど。
しかし私たちが住む、この地球のそばに宇宙人がいて、それが月に住んでいるかもしれな
いという話については、ほとんど考えてこなかった。

 さらにとても残念なことに、この日本では、UFO問題にしても、幽霊や心霊と同格の、
「超常現象」として位置づけられている。
そのためこの日本では、「UFOを見た」というだけで、奇人、変人扱いされる。

 しかしUFOは、「科学」である。少なくとも科学的に解明されうる世界の乗り物である。
また科学の対象と考えて、なんらおかしくない。
それを一部の良識派(?)と呼ばれる科学者たちは、UFOを否定することによって、自分
たちの良識性を誇張する。
 
 が、もしいつか、(やがてその日は来るだろうが)、UFOなるものが、その姿を私たちの
前に姿を現したとき、そういった人たちは、どう自分たちの(非良識性)を弁解するのだ
ろうか。

 私とて、「見たものは見た」というだけで、どれだけ、白い目で見られたことか!
これからも、自分が納得するまで、この問題を追求してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
UFO 超常現象 はやし浩司 月空洞説 月宇宙船説)

(付記)

私とワイフが見たUFO と同じものを見た人が、この浜松に、2人いる。
BT氏(男性、現在54歳)と、その弟氏である。
見た時期と、飛んでくる方向はちがったが、ほとんど同型のUFOである。
私が私の見たUFOについて中日新聞に書いたのを、BT氏が読んだ。
それで知り合いになった。

そのBT氏と、今夜(7月27日)、電話で、1時間ほど、話す。
私はこう言った。

「私は、あのUFOを見て以来、ずっと、自分の中のもう一人の自分と闘わねば
なりませんでした。
『私が見たのは、幻覚だ、夢だ、見まちがいだ』と言う私自身。
しかし一方で、『見たものは見た』とがんばる私自身。
ときに、『見たものは見た』という私自身が負けそうになりましたが、そういうとき、ワイ
フが、『私も見た』と言のです。
それでまた話が、振り出しにもどってしまう……。
毎回、その繰り返し。
記憶も、時間とともに、どこか薄れてきます。
もし見たのが私ひとりだけだったら、私はもう一人の自分に負けてしまっていたかもしれ
ません。
今ごろは、『やっぱり、あれは幻覚だったのだ』と、自分を納得させてしまっていたでしょ
う。
私は死ぬまでに、何としても、あの夜に見たものが何であるか、それに決着をつけておき
たいのです」と。

BT氏についても、事情は同じ。
BT氏もこう言った。
「私も弟と2人で見ました。私も、もし私ひとりだけで見ていたら、今ごろは、『やっぱり
あれは夢だったのだ』と自分を納得させてしまっていたでしょう」と。

しかしE・ミシェル博士の言葉で、私は、救われた。
肩の荷がはずされたというか、スーッと心が軽くなるのを感じた。
と、同時に、大きな使命感のようなものを覚えた。

私ももう60歳。
世間に遠慮しなければならない年齢ではない。
書きたいことを、書く。
伝えたいことを、伝える。
私のことを、奇人だとか、変人だとか、そういうふうに思いたければ思うがよい。

……しかし、この爆発的なエネルギーはどこから生まれてくるのか。
つい先日まで、私はものを書くということそのものに、嫌気すら覚えていた。
その私が、何かに取りつかれたように、今、こうして文章をたたいている。

……で、この話とは別に、私には、こんな奇妙な体験がある。
それについて書く前に、この話に出てくる、DK君について書いておく。

DK君は、現在、オーストラリアのM大学で、教授職級の地位にいる。
そのDK君が、この2月に日本へ、娘さんといっしょに、来た。
そしてあの日のことについて、話し合った。
DK君も、あの日のことをよく覚えていた。
そしてその話になると、「ヒロシは、その話をよくするが、たしかに、あの日のことは、
理解できない」と言った。

当時の私たちは、UFOについて、ほとんど興味はなかった。
知識もなかった。
(アダムスキー型のUFOについては、俗説程度には、知っていたが……。)
いわんや、それがUFO現象と関係あるなどとは、思ってもみなかった。
「アダプション(誘拐)」という言葉にしても、それを耳にしたのは、それから
10年以上もたってからのことである。

以前書いた原稿を、そのまま紹介する。

+++++++++++++++++++

●奇妙な体験

+++++++++++++++++++

●秋の夜のロマン、UFO

●資質を疑われるから、書かないほうが……

 私は超自然現象というものを信じない。まったく信じない。信じないが、UFOだけは
別。信ずるも信じないもない。私は生涯において、三度、UFOを目撃している。一度は、
ワイフと一緒に目撃している。(あとの二度については、目撃したのは私だけだから、だれ
にも話したことがない。文として書いたこともない。ここにも書かない。)

 が、私には、こんな不思議な体験がある。結婚したとき、ワイフにだけは打ち明けたが、
こうしてものに書くのははじめて。だから前もって断っておくが、これはウソではない。
ここにはウソは書かない。こういう話は、書けば書いたで、私の評論家としての資質が疑
われる。損になることはあっても、得になることは何もない。事実、「林君も自分の仕事を
考えたら、そういうことは人には言わないほうがよいよ」とアドバイスしてくれた人もい
る。それはわかっているが、しかしあえて書く。

●不可解な体験

 オーストラリアに留学していたときのこと。あと一か月ほどで、日本へ帰るというとき
のことだった。オーストラリアの暑い夏も、終わりに近づいていた。私は友人のD君にビ
ーチハウス(海の別荘)で、最後の休暇を過ごしていた。ビーチハウスは、ローンという
港町の手前、一〇キロくらいのところにあった。避暑地として有名なところで、そのあた
りには、「グレートオーシャンロード」という名前の街道沿いに、無数の別荘が点在してい
た。

 ある日のこと。D君の母親が、サンドイッチを作ってくれた。私とD君は、そのサンド
イッチをもって、ピクニックにでかけた。「ビクトリア州の最南端にある、オッツウェイ岬
(Cape Otway)に行こう」ということになった。時刻は忘れたが、朝、ほどよい時刻に出か
けたと思う。あともう少しで、オッツウェイ岬というところで、ちょうど昼食時になった
のを覚えている。小高い山の中に入って、私たちは車の上に座って、そのサンドウィッチ
を食べた。

 そこからオッツウェイ岬までは、車で半時間もかからなかったと思う。彼らがいうブッ
シュ(やぶ=雑木林)を抜けてしばらく走ったら、オッツウェイ岬だった。

 私たちは岬へつくと、百メートルくらい先に灯台が見える位置に車を止めた。そして車
の外へ出ると、岬の先のほうへと向かって歩き出した。そのときのこと。どちらが言った
わけではないが、「記念に大地に接吻をしよう」ということになった。背丈の短い雑草が、
点々と生えているような殺風景な岬だった。ほかに見えるものといえば、灯台だけだった。
たしか、「オッツウェイ岬」「オーストラリア、最南端」というような表示だけは、どこか
にあったように思う。私たちは地面に正座してひざまづくと、そのまま体を前に倒した。
そして地面に顔をあてたのだが、そこで記憶がとだえた。

 気がつくと、ちょうど私が顔を地面から離すところだった。横を見ると、D君も地面か
ら顔を離すところだった。私とD君は、そのまま車に戻り、帰り道を急いだ。ほとんど会
話はなかったと思う。

 そのオッツウェイ岬からは、舗装された道がつづいていた。そしてほどなく、アポロベ
イという港町に着いた。港町といっても、波止場が並ぶ、小さな避暑地だった。私たちは
そのひとつのレストランに入って、ピザを食べた。日はとっくに暮れていた。まっ暗とい
ったほうが正確かもしれない。

 この話はここで終わるが、それからほぼ一週間後のこと。そのとき私とD君は、D君の
両親の住むジーロンの町の家にきていた。そこで、ベッドに入って寝る前に、私はD君に、
こう切り出した。胸の中でモヤモヤしているものを、吐き出したかった。

 「D、どうしてもわからないことがある……」
 「何だ、ヒロシ?」
 「いいか、D、あの日ぼくたちは昼食を食べたあと、オッツウェイ岬に向かったね」
 「そうだ」
 「サンドイッチを食べたあと、すぐオッツウェイ岬に向かった。時間にすれば、三〇分
もかからなかったと思う」
 「そんなものだな、ヒロシ」
 「でね、D、そのオッツウェイ岬で、同時に二人とも眠ってしまった。そんな感じだっ
た。あるいは眠ったのではないかもしれない。同時に地面に顔をつけ、同時に地面から顔
を離した。覚えているだろ?」
 「覚えている……」
 「それでだ。ぼくたちは、オッツウェイ岬から帰ってきた。そしてあのアポロベイの町
で、夕食を食べた。ぼくはそれがおかしいと思う」
 「……?」
 「だってそうだろ。オッツウェイ岬から、アポロベイまで、どんなにゆっくりと走って
も、一時間はかからない。が、アポロベイへ着いたときには、あたりはまっ暗だった。時
刻にすれば、夜の七時にはなっていた。ぼくたちは、同時にあの岬で眠ってしまったのだ
ろうか」と。

 昼過ぎにオッツウェイ岬に着いたとしても、午後一時か二時だったと思う。それ以上、
遅い時刻ではなかった。が、そこからアポロベイまで、一時間はかからない。距離にして
も、三〇キロくらいしかない。が、アポロベイに着いたときには、もうとっぷりと日が暮
れていた! どう考えても、その間の数時間、時間がとんでいる!

 私はその話をD君にしながら、背筋がどこかぞっとするのを感じた。D君も同じように
感じたらしい。さかんに、ベッドの上で、首をかしげていた。

 そのオッツウェイ岬が、UFOの有名な出没地であることは、それから数年たって、聞
いた。D君が、そのあたりで行方不明になったセスナ機の事件や、UFOが撮影された写
真などを、そのつど届けてくれた。一枚は、あるカメラマンが海に向けてとったもので、
そこには、ハバが数百メートルもあるような巨大なUFOが写っていた。ただしそのカメ
ラマンのコメントによると、写真をとったときには、それに気づかなかったという。

 さらにそれから五、六年近くたって、私たちと同じような経験をした人の話が、マスコ
ミで伝えられるようになった。いわゆる、「誘拐」(アブダクション)というのである。私
はあの日のあの経験がそれだとは思いたくないが、どうしてもあの日のできごとを、合理
的に説明することができない。

簡単に言えば、私とD君は、地面に顔をつけた瞬間、不覚にも眠ってしまったというこ
とになる。そして同時に、何らかのきっかけで起きたということになる。しかも数時間
も! しかし現実にそんなことがあるだろうか。私はその前にも、そのあとにも、一度
だって、何の記憶もないまま、瞬間に眠ってしまったことなど、ない。電車やバスの中
でもない。寝つきは悪いほうではないが、しかし瞬間に眠ってしまったようなことは、
一度もない。

 私とD君は、UFOに誘拐されたのか?

 今になってもときどきD君と、こんな話をする。「ぼくたちは、宇宙人に体を検査された
のかもね」と。考えるだけで、ぞっとするような話だが……。

●再びUFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、前にも書いた。繰り返すが、私たちがあの夜見たも
のは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛
び去るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのように
して消えていった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。そ
の原稿につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点に
ついては、ワイフも同意見である。つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並ん
で飛んでいるのに気づいた。そのときは、黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、
しばらくすると、その窓を取り囲むように、ブーメラン型の黒いシルエットが浮かびあが
ってきた。そのときは、夜空に目が慣れてきたために、そう見えたのだと思ったが、今か
ら思うと、空から浮かびあがってきたのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●造反したのは、E・ミシェル博士だけではなかった!

+++++++++++++++++++

月表面のみならず、この地球上でも、
またその間の宇宙空間においてでさえも、
今までに厖大な数の、UFO目撃例が
ある。

しかしどういうわけか、NASAは、それら
すべてを否定している。

UFOに関する情報は、NASAの中でも、
極秘中の極秘、最高度のトップ・シークレット
扱いということは、容易に推察できる。
が、今回、E・ミシェル博士は、あえて、その
暴露戦術に、うって出た。

が、ほかにも、いた。

「月面に9番目に人類として足跡を残した、宇宙飛行士のジョン・アームストロングは、
月でのUFOの存在について、こう語った。『もし君が(UFOが)存在しないと思うなら、
勝ち目のない勝負をしているようなものだ』と。

また同じく宇宙飛行士のユージン・サーナンは、『UFOは、どこか他の文明から来たと信
じている』といっている」(以上、「月の先住者」)と。

E・ミシェル博士自身の言葉も、収録してある。

「月での6番目の人類となった宇宙飛行士、エドワード・ミッチェル(本書では、「ミチェ
ル」となっている)は、UFOについて、こう述べている。『UFOに関して、あとわから
ないのは、どこからやってきたのか、ということだけだ』」と。

 私は、月での不可思議現象を、ひとつずつ、検証してみたい。
が、その中でも、とくに私の注意をひいてやまないのが、『オニール橋』である。
私は子どものころ、(小学3年生前後ではあなかったかと思うが、記憶は定かではない)、
何かの博覧会で、そのオニール橋について知った。

 そこには大きなパネルで、月のクレーターからクレーターにまたがってかかる、巨大な
岩石のアーチが描かれていた。
見た感じは、大きな洞窟のような感じだった。
子どもが泥で作る、橋のようなものを想像すればよい。
が、そのオニール橋はその後、その場所から、こつ然と姿を消す。
一説によれば、巨大なUFOが、2つのクレーターの山の上にまたがって、着陸していた
ということだが、真偽のほどはわからない。

「月の先住者」のなかにも、そのオニール橋に触れた箇所がある。
それをそのまま紹介する。

「……そのころのもっとも驚くべき記事は、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の
科学部門編集者であった、ジョン・オニール氏が、1954年に危難の海に、巨大な橋の
ような建築物が見えると発表したときだった。

 おもしろいことには、他の著名な天文学者にも各自の望遠鏡で、その橋らしきものが確
認されたことだった。ある者は、その橋は全長12マイル(約20キロ)にも達するとい
った。

 はたしてその(橋)が建築物であったのか、それとも単に自然のなせる技だったのだろ
うか。英国の有名な天文学者である、H・P・ウィルキンス博士(英国天文学協会、月面
課主任)は、BBCのラジオ番組の中で、『(橋)らしきものは、建造物のようだ』(『UF
Oの陰謀』、ドナルド・キーホー、1975)と発言した。

 さらにその番組で、『建造物とは具体的にどういうことなのですか』と質問され、『つま
り、それは技術的に作られたものだということです』と答えている。

 そしてその(橋)は地面に影を落としていて、外観もふつうの(橋)のようだと付け加
えた。
またこの月の権威者は、『橋の下に太陽光が差し込んでいるのさえ、よく見える』と述べ、
人々をびっくりさせた。

 このラジオ番組の中で、ウィルキンス博士は、この(橋)が、『自然にできたものである』
とは一度も言わないばかりか、『人工のものらしい』と、何度も述べたのだった。

 危機の海自体、かつて何度もよく観察され、研究されつくした場所だけに、以前この(橋)
が存在しなかったことは事実である。
そればかりか、この(橋)は近年になって、他の惑星の人類(?)によって建設された可
能性が大となった。

 他にも、たくさん、知的生物によって、四角形、あるいは三角形の壁状のものや、ドー
ムのようなものでさえ造られつづけ、どこからともなく現れては消えた……」(同書、P1
7〜18)と。

 現在の今、そのオニール橋なるものは、存在しない。
また1954年に発見されたというのだから、私が、満7歳のときのことである。
私がどこかの博覧会で、その橋の想像図を見たのは、その直後のことということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
UFO 月面 危機の海 オニール橋)

Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●月は、巨大なUFO?

 このところ毎晩、眠る前に、「月の先住者」(ドン・ウィルソン著・たま出版)を読んで
いる。かなり前に買った本だが、それが結構、おもしろい。なかなかよく書けている。要
するに、月には、謎が多いということ。そしてその謎を集約していくと、月は、巨大なU
FOということになる、という。

 私が子どものころには、月の危難の海というところに、オニール橋というのがあった。
オニール(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニー
ル)という科学者が発見したから、「オニール橋」というようになった(一九五三年七月)。
どこかの科学博覧会に行ったら、その想像図まで展示してあった。一つの峰からつぎの峰
にまたがるような、端から橋まで、二〇キロもあるような橋だったという。

 が、そんな橋が、月の上にあること自体、おかしなことだった。しかもそんな橋が、そ
れまで発見されなかったことも、おかしなことだった。それまでに、無数の天文学者が、
望遠鏡で月をのぞいていたはずである。

 しかし、最大の謎は、その後まもなく、そのオニール橋が、その場所から消えたという
こと。なぜか。その本によれば、あくまでも、その本によればの話だが、それは巨大なU
FOだったという。(ありえる!)

 そこでインターネットを使って、オニール橋を調べてみた。ヤフーの検索エンジンを使
って、「月 オニール」で検索してみると、いくつか出てきた。結局、オニール橋は、一部
の研究者の「見まちがい」ということで、公式には処理されているようだ。(残念!)

 私自身は、信じているとかいないとかいうレベルを超えて、UFOの存在は、確信して
いる。ワイフと私は、巨大なUFOを目撃している。私たちが見たのは、幅が数キロもあ
るような巨大なものだった。だからオニール橋が、巨大なUFOだったとしても、驚かな
い。

 しかしこういうのを、私たちの世界では、「ロマン」という。つまり、「夢物語」。だから
といって、どうということもないし、また何ができるということでもない。またそれを基
盤に、何かをすることもない。ただの夢物語。しかし心地よい夢を誘うには、この種の話
が、一番。おもしろい。楽しい。それはちょうど、子どもたちが、かぐや姫の話を聞いて、
夜の空に、ファンタジックな夢をはせるのと同じようなものではないか。

 興味のある人は、その本を読んでみるとよい。しかしあまりハマらないように! UF
Oの情報は、インターネットで簡単に手に入るが、そのほとんどのサイトは、どこかの狂
信的なグループ(カルト)が、運営している。じゅうぶん注意されたし。
(030702)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●UFO

Have you ever seen an UFO? My wife and I did. It was a midnight after 12:00 o'clock. 
We were walking in a narrow street near our flat. It was a huge one, which might be 2 or 
3 kilometers in width. Of course it was not a plane. It was so huge. Then if someone asks 
me if I believe in UFO's, I would say, "Yes". These days at the Parliament House of 
Japan, some congressmen discuss about UFO's in the public. Does this have something 
to do with "Kaguya", a Japanese moon-search rocket? Kaguya is now on the orbit of the 
moon, taking photos from the space. I hope the government show us everything about 
the Moon. Some scientists as well as people say that the Moon is a giant space-craft for 
the aliens. Do you think so too? 

+++++++++++++++++

このところ、国会議員たちが、「UFO」
という言葉を、よく口にする。

国会という、公式の場でも、この問題
が取りあげられた(07年12月)。

一応、政府見解は、「存在しない」だが、
一部の議員たちは、「信じている」、「いる
と思う」などと発言している。

こうした一連の発言は、日本が打ちあげた
月探査衛星「かぐや」と、どこかでつながって
いるのではないだろうか?

「かぐや」は、とんでもない映像を地球へ
送り届けてきた(?)。

「とんでもない」というのは、「ありえない」
という意味であり、私はそれがUFOであって
も、少しも、おかしいとは思わない。

アポロ宇宙船で、月の裏側に回ったある宇宙
飛行士は、こう言ったという。

「まるでラッシュ・アワーのように、UFO
が飛び交っている!」と。

+++++++++++++++++++

 月の内部には、巨大な空間がある。その中心部では、プラズマの人工太陽が、さんさん
と輝いている。月の内側に住む住人たちは、地球人の私たちと同じような生活をしている。

 一見、荒唐無稽(むけい)のような話だが、こうした説を信じている人は多い。科学者
の中にも、いる。たとえば私が子どものころには、月には、オニール橋※というのがあっ
た。「オニール」というのは、その橋を発見した人物の名前である。

 オニールは、ある日、望遠鏡で月を見ていたとき、斜め方向からの太陽光線を浴びて、
そこに橋のような影ができているのを発見した。それでそれを「オニール橋」と名づけた。

 私はその橋のことを、どこかの博覧会に行ったときに知った。巨大なアーチ型の橋で、
全長はたしか、20キロ近くあると聞いたのを記憶している。

 しかし、だ。今、同じところをさがしても、その橋はない。「ない」というより、「消え
た」。今にして思えば、その橋というのは、山から山へと、ちょうどそれらにまたがるよう
に着陸していたUFOではなかったかと思う。

 私自身も、巨大なUFOを目撃している。ブーメラン型のUFOである。全長が2〜3
キロはあったかと思う。あるいはもっと長かったかもしれない。よく「葉巻型UFO」が
話題になるが、葉巻型UFOともなると、全長が20〜30キロもあるという。

 こういう話を聞くと、月へのロマンが、かぎりなく、ふくらむ。

 月の住人たちは、どこから来たのか?
 月の住人たちは、何をしているのか?
 月の住人たちは、地球人の私たちを、どうしようとしているのか?

 あの月をくりぬいて住むほどの宇宙人だから、かなり頭のよい人たちとみてよい。私た
ち人間より、ひょっとしたら、何千年も、何万年も進化しているかもしれない。あのUF
Oにしても、光速に近いスピードで、宇宙空間を自由自在に動き回れるという。

 私が見たUFOにしても、空にそのまま溶け込むかのようにして、消えていった・・・。

 「かぐや」は、どんな映像を送ってきているのか? その一部は、インターネット上で
も公開されているが、どれも高・高度からのものでしかない。私(=私たち)が見たいの
は、もっと低高度で撮った、倍率の高い写真である。
 
 そこには、月に住む住人たちの、その直接的な証拠が写っているかもしれない。どうか
ウソ隠しなく、(=修正しないで)、すべての写真を公開してほしい。

(注※)(月探査情報ステーションの公式HPより、転載)

オニール橋事件を振り返ってみます。1953年7月、ニューヨーク・ヘラルド・トリビ
ューン紙の科学部長であったJ・J・オニール氏は、月面の「危難の海」の西側に人工的
に作られた橋のようなものを発見したと発表しました。この橋は二つの峰をまたぐような
形で、20kmにもおよび、日没時には観測できましたが、日の出の時には見えなかった、
ということです。

同年8月、英国天文学協会の月研究部長だったH・P・ウィルキンス氏らも同じ構造を確
認したと発表しました。しかし、その後この構造は観測できなくなり、見まちがいだった
のではないかという批判が起こりました。ウィルキンス氏はその批判に抗議し、月研究部
長を辞任したそうです。

当時、オニール橋はかなりの話題を呼び、一部UFO研究家などからは巨大なUFOが一
時的に着陸していたのではという推測もされたそうです(以上、「月探査情報ステーション
の公式HP」より)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist UFO オニール オニー
ル橋)

++++++++++++++++
オニール橋と並んで、私が知った
月の2つのクレーターについて。

++++++++++++++++

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の二つのク
レーターがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描い
たような真円である。

 そこで二つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その
点は不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2セン
チ! 実際の直径は、数一〇キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリ
と一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、
よく話題になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満
ちた影がたくさん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこ
ちのサイトを開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。
火星はもちろん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるとこ
ろにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけ
でも、NASAは、数一〇万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのう
ちの数パーセントにすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりし
ているという。しかし、クレーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、二つのク
レーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コ
ーナー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれ
ば、その写真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上にいて、それこそ地上のカビのような存在でしかない私。その私がはいつくばっ
て東洋医学の勉強をした。その私が、天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手
なことをしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはで
きる。そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間
の改造など、何でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回
すくらい簡単なことだ。

 この二つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の二つが、
合体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、
まさに「人間に、約五五〇〇年前に起きた変化」ということになる。

 その五五〇〇年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその
変化は、メチャメチャ。その一つが、少し前に書いた、『黄帝内経』である。黄帝というの
は、司馬遷の「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄
帝の時代に書かれたものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般
的になされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソ
ポタミアで起きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体
となって旧約聖書が生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、
どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、
遺伝子工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいは
エイリアンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は
黄河流域に住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人で
ある。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能
力をもつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教
え、文字を教えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく
似ている。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。
「天から来た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」
(この形に似た楔形文字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神とい
う意味である。メソポタミアでは、神(エホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳し
くは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったというこ
と。が、これだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて
呼ぶならわしがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、
「dingir 〜〜」というように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を
先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだ
ったのかどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうな
の?」という部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさに
そこらのサルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居す
ることになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってし
まった。人間がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。し
かしそんなことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどん
と自分が小さくなっていく一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなって
いく。「人間は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自
分が、かぎりなく自分の中で、ウズを巻く。

 あさって(二七日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る
夜空は、どこまでも明るい。
(030925)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(今日・あれこれ)(7月28日)

++++++++++++++++

ここ数日、UFOについて考えている。
と、同時に、「自分はとんでもないことを
書いている」という気分から、抜け出る
ことができない。

向こう岸の見えない、湖に飛び込んだ
ような気分とでも書くべきか?

つかみどろこがない。
直接、そうした問題と取り組んでいる
わけでもない。
ゆいいつの接点は、かつて、巨大なUFO
を見たことがあるというだけ。

まるで雲をつかむような話というのは、
こういうことを言うのか。

しかしこれは重大な問題と言ってもよい。

もし月が空洞で、人工的に建造された
宇宙船であるとするなら、人間の
歴史そのものがひっくり返ってしまう。
過去のありとあらゆる出来ごとが、すべて
UFO現象と関連づけて考えられるように
なるかもしれない。

そうなったときの混乱と騒動には、
想像を絶するものがある。
その前に、人間は、そうした混乱と
騒動に耐えることができるだろうか。

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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司



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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   27日号
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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【宇宙人は、存在する!】(改)(Aliens are definitely out there!)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

驚くべきニュースが、伝えられた。
時事通信、7月25日、ニューヨーク発は、
つぎのように伝える。
その記事を、そのまま紹介する。
まさに驚愕すべきニュースである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

++++++++++以下、時事通信より+++++++++++++

【ニューヨーク 25日時事】米航空宇宙局(NASA)の元宇宙飛行士が英国の音楽専門ラ
ジオ局のインタビューで、政府は宇宙人の存在を隠ぺいしていると発言。米英メディアが
相次いで報じる騒ぎに発展した。

 この元宇宙飛行士は、1971年に打ち上げられたアポロ14号の元乗組員、エドガー・
ミッチェル氏(77)。

 同氏は23日の放送で、政府は過去60年にわたり宇宙人の存在を隠してきたが、「われ
われのうちの何人かは一部情報について説明を受ける幸運に浴した」と説明。宇宙人は「奇
妙で小さな人々」と呼ばれているなどと語った。(ヤフー・ニュースより転載) 

++++++++++以上、時事通信より+++++++++++++

この記事の信憑性を確かめることにした。
が、それは今日(7月25日)、オーストラリアの友人が送ってくれた情報の中に、含まれ
ていた。

それをそのまま紹介する。
訳は急いで私がつけたが、あえて、原文に忠実に訳してみた。
(荒っぽい訳なので、後日、改めて訳し直してみたい。)

++++++++++++++以下、NEW.COM.AUより+++++++++

FORMER NASA astronaut and moon-walker Dr Edgar Mitchell - a veteran of the Apollo 
14 mission - has stunningly claimed aliens exist.
月面歩行者であり、元NASAのベテラン宇宙飛行士である、エドガー・ミシェル博士(ア
ポロ14号のベテラン飛行士)が、「宇宙人は存在する」と強く主張した。

And he says extra-terrestrials have visited Earth on several occasions - but the alien 
contact has been repeatedly covered up by governments for six decades. 
彼が言うには、外惑星人は、地球を、何度かに渡って訪問しているとのこと。しかし宇宙
人とのコンタクト(接触)は、この60年間、政府によって繰り返し、隠蔽されてきた、
という。

Dr Mitchell, 77, said during a radio interview that sources at the space agency who had 
had contact with aliens described the beings as 'little people who look strange to us.' 
77歳のミシェル博士は、ラジオ・インタビューの中で、宇宙人と接触したことのある宇
宙局(の係官)は、その生き物を、『ワレワレには奇妙に見える小さな人々』と表現したと
語った。

He said supposedly real-life ET's were similar to the traditional image of a small frame, 
large eyes and head. 
ミシェル博士は、本物のETは、小さな体の、大きな目と頭をもった、あのよく知られて
いる(=伝統的な)イメージに似ていると思っていると語った。

Chillingly, he claimed our technology is "not nearly as sophisticated" as theirs and "had 
they been hostile", he warned "we would be been gone by now". 
ミシェル博士は、ワレワレ人間の技術力は、彼らのものととても同程度のものではなく、「も
し彼らが敵対的であるなら、人類は、今ごろは絶滅していただろう」と、警告した。

Dr Mitchell, along with with Apollo 14 commander Alan Shepard, holds the record for 
the longest ever moon walk, at nine hours and 17 minutes following their 1971 mission. 
ミシェル博士は、アポロ14号のアラン・シェパード船長とともに、1971年のミッシ
ョンでは、9時間17分の最長月面歩行をしたという記録を保持している。

"I happen to have been privileged enough to be in on the fact that we've been visited on 
this planet and the UFO phenomena is real," Dr Mitchell said. 
ミシェル博士は、「ワレワレは宇宙人によってこの惑星を訪問され、またUFO現象は事実
であるという事実に関して、それをじゅうぶん知りうる立場にあるという特権を、私はた
またまもった」

"It's been well covered up by all our governments for the last 60 years or so, but slowly 
it's leaked out and some of us have been privileged to have been briefed on some of it. 
「過去60年間、私たち政府すべてによって、それは隠蔽されつづけてきた。しかし少し
ずつ、外に漏れてきた。そしてワレワレの中の何人かは、それらのいくらかの部分につい
て、述べるという特権を与えられた」

"I've been in military and intelligence circles, who know that beneath the surface of 
what has been public knowledge, yes - we have been visited. Reading the papers 
recently, it's been happening quite a bit." 
「私は軍と情報部に属してきた。軍と情報局は、一般的に知られているその表面下で、(そ
うだとも)、ワレワレは訪問を受けていたということを知っている。最近の新聞を読めば、
それがたいへんしばしば起きてきたということがわかる」と。

Dr Mitchell, who has a Bachelor of Science degree in aeronautical engineering and a 
Doctor of Science degree in Aeronautics and Astronautics claimed Roswell was real and 
similar alien visits continue to be investigated. 
ミシェル博士、つまり航空工学分野の科学学士号、ならびに、航空力学ならびに宇宙船学
の博士号をもっているが、ロズウェルは現実にあったと主張し、同様の宇宙人の訪問は、
調査されていると語った。

He told the astonished Kerrang! radio host Nick Margerrison: "This is really starting to 
open up. I think we're headed for real disclosure and some serious organisations are 
moving in that direction." 
ミシェル博士は、驚いているケラング・ラジオ局のホストである、ニック・マーゲリソン
にこう語った。「これは情報開示の第一歩であり、私たちがその開示の先頭にいる。いくつ
かの重要な組織が、その方向で動きつつある」と。

Mr Margerrison said: "I thought I'd stumbled on some sort of astronaut humour but he 
was absolutely serious that aliens are definitely out there and there's no debating it." 
マーゲリソンは、語った。「私は宇宙船乗組員のユーモアと思ったが、(ミシェル博士は)、
まったく真剣だった。彼は宇宙人は、確実にそこにいて、議論の余地はないと語った」と。

Officials from NASA, however, were quick to play the comments down. 
しかしNASAの高官はすかさず、つぎのようなコメントを発表した。

In a statement, a spokesman said: "NASA does not track UFOs. NASA is not involved in 
any sort of cover up about alien life on this planet or anywhere in the universe. 
その中で、スポークスマンは、「NASAは、UFOの存在を確認していない。NASAは、
この惑星上の宇宙生命体について、この惑星においても、また宇宙においても、どこでも、
いかなる隠蔽にも関与していない」。

'Dr Mitchell is a great American, but we do not share his opinions on this issue.'
「ミシェル博士は、偉大なアメリカ人だが、ワレワレ(=NASA)は、この問題につい
て、彼の意見と共にすることはない」と。

++++++++++++++++++以上、NEW.COM.AUより++++++++

+++++++++以下、オーストラリアUFO研究団体のHPより++
A RECENT spate of UFO sightings around the world has believers in a frenzy, but even 
the inside scoop from a former astronaut is not enough to sway the sceptics.
Yesterday, aliens popped up in the news again as NASA sought to distance itself from 
former Apollo 14 astronaut Edgar Mitchell who claimed extra-terrestrials have been 
coming to visit for decades. 

Dr Mitchell, 77, said governments had been covering it up for 60 years.

"I've been in military and intelligence circles, who know that beneath the surface of 
what has been public knowledge, yes - we have been visited. Reading the papers 
recently, it's been happening quite a bit," he said. 

Dr Mitchell's former bosses were quick to distance themselves from the renewed buzz.
"NASA does not track UFOs. NASA is not involved in any sort of cover up about alien 
life on this planet or anywhere in the universe," the agency said. 
But the Australian Skeptics were not impressed by what Dr Mitchell - or anyone else - 
thought they saw.  Skeptic spokesman Barry Williams said today the truth was closer 
to home: it's all in your head, and you're wrong. 
"We love mysteries and we love solving them, just look at how popular crime fiction and 
crime TV shows are," Mr Williams said. "The brain needs to find answers, it can't 
stand not knowing, so it comes to an explanation and quite often it's wrong." 

+++++++++以下、オーストラリアUFO研究団体のHPより++

+++++++++++++++はやし浩司

しかし私はこの記事を読んだとき、肩から、スーッと力が抜けていくのを感じた。
「やはり、そうだったのだ」と。

私とワイフは、35年近くの前の夜のこと、散歩中に、巨大なUFOを目撃している。
以来、「あの夜、私たちが見たものは何だったのか」と、それをずっと考えてきた。
が、「考える」といっても、相手は、煙のような存在。
手でつかまえようとしても、いつもそのままどこかへ消えてしまう。
この35年間、その歯がゆさとの闘いだった。

しかしとうとう、告白者が現れた。
アポロ14号の元乗組員、エドガー・ミッシェル氏である。
これ以上の証言者が、ほかにいるだろうか。

しかも、60年前といえば、「1947年のロズウェル事件」と、重なる。
60年前、アメリカのロズウェルというところに、UFOが墜落している。
エドガー・ミッシェル氏がいう「60年前」と、「1947年のロズウェル事件」とを結び
つけるのは、まだ早計かもしれない。
しかしほかに結びつく話が、ない。

で、「奇妙で小さな人々」とは、どんな人々をいうのか。
ロズウェルでのUFO墜落事件では、「グレイ」とそののち呼ばれるようになった、小さな
体の宇宙人が、アメリカ軍によって収容されている。
エドガー・ミシェル氏が言うところの、「小さな人々」というのは、その「グレイ」のこと
をさすのか。

今のところ詳細は不明だが、エドガー・ミッシェル氏の勇気に、敬意を表したい。
おそらくこれからしばらくの間、エドガー・ミシェル氏は、アメリカ政府内の、そのスジに
人たちによる、猛攻撃にさらされるにちがいない。
ばあいによっては、逮捕、投獄されるかもしれない。
しかしそんなことをすれば、かえってエドガー・ミシェル氏の正当性が、証明されるよう
なもの。

……私は何度も、この記事を読みなおした。
「UFOを見た」というだけで、この日本では、奇人扱いされる。
しかし見たものは、見た。
記憶の中で、もう何千回も、反復してみたが、見たものは見た。
たったそれだけのことだが、そのつど、同時に私は、(私のワイフもそうだろうが……)、
自分の脳みそを疑わねばならなかった。

が、この記事で、私はその重圧感から、解放された。
「やはり、そうだったのか」と。

私たちがあの夜見たものは、やはりUFOだった。
宇宙人が操縦する、UFOだった。
今まで、私やワイフを奇人扱いしてきた者どもよ、悔しかったら、この記事を自分で読ん
でみることだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 宇宙人 宇宙人は存在した
 アポロ14号 エドガー・ミシェル Dr Edgar Mitchell ET ALIEN エイリア
ン ロズウェル グレイ 宇宙人 はやし浩司)

++++++++++++++++

私たちが見たUFOについて書いた
記事がつぎのものです。
地元の中日新聞に掲載してもらいました。

++++++++++++++++

●見たぞ、巨大なUFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二
人で、それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで
「ひょっとしたら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、
いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の十
二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見上げると、淡いだいだい色の丸いも
のが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛ん
でいるのだと思った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。

あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私
は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の
字型の物体がそこに現れたからだ。私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきもの
だった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び
去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれ
がUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のも
ので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。が、
このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を
届けてくれた。

当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢
追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でも
ある。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同
じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物
と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその
宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはな
い。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私
はその人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を
汚したくないし、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 …とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君
は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑わ
れる」と言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。
文を書くといっても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィ
クションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊
書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。

 そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえば
この世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそ
れについて書いてみた。

(補記1)

私とワイフの見たUFOは、いわゆる「ブーメラン型」のもので、後に、アリゾナ州のフ
ェニックスで目撃されたUFOと同型のものと思われる。

しかし喜んでばかりは、いられない。
UFOが公然と語られるようになり、それを操縦する宇宙人の存在が明らかになるという
ことは、それだけ人類滅亡の危機が迫っていることを示す。

いつだったかこれについて詳しく書いたことがあるが、人類に希望があるかぎり、宇宙人
は、人類の前に姿を現すことはない。

しかしその希望がなくなったとき、宇宙人は、自らの姿を、私たち地球人の前に現すであ
ろう。
そのことは、宇宙人という外惑星人に視点を置いてみるとわかる。
近い将来、絶滅するとわかっている地球人に対して、どうして自分たちの存在を隠さなけ
ればならないのか。

言うまでもなく、地球温暖化(Global Warming)の問題は、それほどまでに深刻になりつつ
あるということ。
2100年までに、地球の平均気温は、4〜6度も上昇するというが、しかし気温上昇が、
2100年で止まるわけではない。
仮にここで今、化石燃料の使用を停止したところで、その後も、不測の事態がさらなる不
測の事態を招き、地球の平均気温は、さらに上昇する。
2200年までに、さらに4〜6度(この数字とて、控えめなものだが……)上昇すると
考えるのは、甘い。
一説によると、その後、地球の平均気温は、二次曲線的に上昇し、最終的には、400度
Cにまで上昇するという。

私が「地球火星化」という言葉を使うのは、そのためである。
そう、まさに地球は、火星化する。

エドガー・ミシェル博士の告白を、「希望」ととるか、それとも「絶望」ととるか。
とても残念なことだが、私は、「絶望」ととる。

(補記2)

宇宙人の存在が、ここまで確定的に断言されると、つぎに私たちは、こう考える。
「では、現在、エイリアンたちは、どこに住んでいるか」「またどんな生き物なのか」と。

これについては、すでに多くの研究家たちが、つぎのような推論をくだしている。

(1)彼らは、月などの衛星内部をくりぬいて、その中に居住している。

ほかにも、火星や木星の衛星が考えられている。
地球へ自由にやってくることからもわかるように、彼らは、すでに地球上の細菌やウィル
スに対して、免疫性をもっているか、あるいは人間の兄弟的存在であると考えてよい。

地球上で二足歩行できるということであれば、彼らが住む居住空間の重力は、この地球と
ほとんど変わらないということになる。
少なくとも、無重力状態ではないらしい。

(2)地球よりは弱い重力の世界で、そこは薄暗い空間である。

巨大な目と瞳をもっているということから、(あくまでも人間と比較しての話だが……)、
かなり暗い空間に住んでいるものと想像される。
恐らく地球の夜程度の光があれば、あたかも私たちが日中に、景色を見るように、夜の景
色を見ることができるはず。
反対に、日中は、光がまぶしくて、何も見えないかもしれない。
そのため眼球に直接張りつける、黒いサン・スクリーンのようなものを、装着している。

また頭が巨大であることから、人間のように、母体の産道を通り抜けて生まれるタイプの
生物ではないらしい。
恐らく体外受精による、人工胎盤によって育成されるタイプの生物と考えてよい。

(3)性格はきわめて温厚で、平和的である。

エドガー・ミシェル博士も述べているように、「もし彼らが人類に対して敵対的であるなら、
人類は、とっくの昔に絶滅していただろう」ということになる。
またそうであるからこそ、彼らもまた、ここまで進化するにまで、存在することができた。
仮に人間のように、好戦的で、挑発的であったとしたら、宇宙人といえども、その進化の
過程で、戦争を繰りかえし、絶滅していたはずである。

が、これから先のことはわからない。
「このまま地球人を生かしておいたら、人類どころか、地球そのものが、火星化してしま
う」とわかれば、宇宙人のほうも、遠慮していないだろう。
私の印象では、この太陽系の中で、彼らの食糧を生産できるのは、この地球だけというこ
とになる。
地球が火星化すれば、彼らとて、絶滅の危機に直面することになる。

彼らが公然とその姿を、地球人の前にさらけ出したとき、すなわちそのときこそが、地球
人の最期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist エイリアン ET 宇宙
人)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●多治見で39度!

++++++++++++++++++H.Hayashi

今日(7月25日)、岐阜県多治見市で、最高気温39・0度を記録した。
猛烈な暑さである。
この浜松市でも、37・5度!
ちょうどその時刻に、私とワイフは、街中を歩いていた。
乾いた、肌を貫くような白い太陽光が、容赦なく天から降っていた。
「暑い」というよりは、「熱い」。
そんな感じだった。
私とワイフは、駐車しておいた車に飛び乗ると、クーラーをガンガンと
回した。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●宇宙人(ET)の話、PART2

●人間と宇宙人

昨日、久しぶりにUFOの話を、書いた。
あえて言うなら、「夏の夜のロマン」というところか。
UFOについて書けば、かえって変人扱いされるだけ。
「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういうことを書くのは、
やめたほうがいい」と忠告してくれた人もいた。

が、あのE・ミシェル元宇宙飛行士が、「UFO現象は、現実(real)である」
「宇宙人(ET)は存在する(real)」と断言した。

久々に、胸の内がスカッとする、ビッグ・ニュースである。

しかし問題がないわけではない。
私はかねてから、こう書いてきた。
「宇宙人がおおっぴらに、人間の前に姿を現すのは、人類最期のときである」と。
宇宙人にしても、自ら身を隠す必要がある間は、身を隠す。
少なくとも、存在を明らかにする必要がないときは、身を隠す。
あえて地球人である人間を、混乱させる必要はない。

それは自然動物園を守る、管理者の心理に共通する。
動物園内の動物は、できるだけそっとしておいてやるのがよい。
自然動物保護の世界には、『暖かい無視』という言葉さえある。
あれこれ人間が手出しするのは、最低限がよいという意味である。

しかしもし動物園の中が混乱し始めたとしたらどうだろうか。
動物たちがともに殺しあったり、施設を勝手に破壊し始めたとしたら……。
当然のことながら、自然動物園の管理者たちは、園の中に割って入り、動物たちを
隔離したり、保護したりするだろう。

それだけではない。

宇宙人にしても、この地球が、太陽系の中でも、食糧が確保できるゆいいつの惑星と
考えてよい。
一説によれば、宇宙人たちは、海草を中心とする、ヨード系の食物を口にしている
と言われている。
地球の温暖化が進んで、そうした食物の確保がむずかしくなるということになれば、
彼らにとっても、重大問題ということになる。
だまって見過ごすわけにはいかない。

●どこに住んでいるか?

すでに40年ほど前から、『月空洞説』(「月の先住者たち」)というのがあった。
旧ソ連の2人の科学者が言い出した説だが、根拠はいろいろある。
その第一は、月が体積に比して、比重が軽すぎるということ。
また月全体がまるで釣鐘のようになっていて、人工的に起こした地震波が、
いつまでも月の表面を伝わるなどの現象ガー・ミられる、など。

この月空洞説に、UFO基地説に重ね合わせてみると、今まで合点のいかなかった
ことが、頭の中ですっきりする。
ジグソーパズルをしていて、コマがぴったり重なったときのような気分である。

一方、宇宙人にしても、月の内部ほど、快適な居住空間はない。

重力は、地球の6分の1、あるいは場所によっては、それ以下。
(だから穴を掘るのも、楽?)
太陽からの有害な放射線は、月の厚い岩石が防いでくれる。
一見荒唐無稽な話に聞こえるかもしれないが、考えれば考えるほど、つじつまが
合ってくる。

事実、アポロ飛行士の中には、月のクレーターの間から出入りするUFOを
目撃した人もいるという。
さらに太古の昔、チベットには、天に使者に連れられて、月の内部の世界を見たという
伝説まで残っている。
私たちが今に見る、絵曼荼羅は、その月の内部の世界を表現したものだと説く研究家も
いる。

今の段階では、すべて風説ということになっているがUFOの存在が
確認され、宇宙人の存在が確認されれば、そのひとつひとつが、人類の
歴史をひっくり返すような(事実)となって、表に出てくる。

アメリカのNASAが心配するまでもなく、人間に与える衝撃には、はかり
しれないものがある。

●人類は、宇宙人の子孫なのか?

若いころ中国に伝わる『黄帝内経(こうていだいけい)』という本を調べているとき、
そのとほうもない科学性に驚いたことがある。
「地球は球である」「地球は虚空の宇宙を回転しながら浮かんでいる」という記述にも
出会った。
(詳しくは、私のHP上で紹介。)

宇宙人がそこにいたとするなら、当然のことながら、私たちは常に、宇宙人の監視と
指導を受けてきたと考えるのが、自然である。
(そうでないと考えるのは、その数百倍も、不自然である。)

「指導」といっても、直接的な会話によるものもあっただろうが、もう少し高度な
立場では、たとえば遺伝子操作による人間の改造も、考えられる。
直接人間の脳みその中に、情報チップを埋め込むという方法も、あるだろう。
「将来的にはそういう方法も可能になる」と、あのホーキング博士も書いている。

少なくとも、今から5500年前を境として、人類は、それまでの新石器時代から、
青銅器、鉄器時代へと、飛躍的に進化している。
このころ、黄河文明が生まれ、チグリス・ユーフラテス文明生まれた。
文字の発明も、このころと考えてよい。
で、先にあげた「黄帝内経」の「黄帝」というのは、司馬遷の「史記」の第1ページ目を
飾る黄帝である。

●超高度な文明?

宇宙人がもっている技術力は、人間のそれをはるかに超えたものと考えるのが自然である。
すでに数十世紀にわたって、このあたりの宇宙を自由に航行していたであろうということ。
それだけでも、彼らのものすごさがわかる。
私とワイフが目撃した巨大なUFOしても、頭上にきたあとは、猛スピードで、
東の空に消えていった。
まるで空に溶け込むかのように、だ。

人間が乗っている飛行機とは、比べものにならない。

一方、今、私たちが最先端の技術として手にしている、コンピュータ技術、遺伝子工学、
宇宙工学などにしても、この半世紀の歴史しかない。
おそらく宇宙人の目に映る人間は、チンパンジーか何かのようではないか。

E・ミッシェル博士が指摘するまでもなく、「もし彼らが敵対的であるなら、人類は
とっくの昔に、滅びていただろう」ということになる。
考えるだけでも恐ろしいことだが、宇宙人がその気にさえなったら、人類など、
部屋の中のハエを殺虫剤で殺すほど簡単に、殺してしまうかもしれない。

●なぜ、今なのか?

しかしなぜ、今なのか?
5500年前から人類にかかわってきたとしても、彼らはけっして、その姿を
おおっぴらに、私たちの前に現すことはなかった。
が、なぜ、今なのか?

E・ミッシェル博士は「さらに重大な開示が予定されている」と述べている。
言葉通りに解釈すれば、もっとはっきりとした証拠なり事実が示されるということに
なる。

だとすると、さらに「なぜ、今なのか?」という疑問が膨らんでくる。

が、今さら、言うまでもない。
この問題は、地球温暖化と、深くかかわりあっている。
現在考えられている対策がすべて実行されたとしても、2100年までには、日本の
気温についてだけをみても、4〜5度も上昇するという。

中には、「たった4〜5度?」と思う人もいるかもしれないが、4〜5度もあがれば、
真冬でも、現在の夏のような気候になる。
地球温暖化の影響は、赤道付近よりも、南北の極地方、また季節で言えば、寒い冬の
ほうに、より大きく現れる。

が、そこで地球温暖化が止まるわけではない。
2100年以後も、また2200年以後も、つづく。
2300年以後もつづく。

そのとき、地球は、どうなっているか?

地球温暖化の問題よりも、私は人類の精神の荒廃のほうを危惧する。
自暴自棄になった人々が、それこそどんなことをしでかすようになるか、
私はそれを心配する。
それこそ地獄絵図そのままの世界が、そのまま具現化される。

●宇宙人の視点で……

そんなとき、もしあなたが宇宙人なら、どうするだろうか?
それをだまって見ているだろうか。
それとも、人間の世界に、積極的に介入していくだろうか。

人間の私が、自分たちの心理状態を基本に、彼らの心を推し量るのは正しくない。
彼らは、私たち人間とはまったくちがった、思考回路をもっている。
感情の中身もちがうだろう。
精神構造もちがうだろう。
ひょっとしたら、人間がもっているような、喜怒哀楽の感情はないかもしれない。
あるいは反対に、たいへん愛情深く、慈愛に満ちた生物かもしれない。

ひょっとしたら、旧約聖書の中に出てくる、「ソドムとゴモラ」のように、
一気に、人間を焼き払ってしまうかもしれない。

が、反対に、ひょっとしたら人間の愚かさを指摘し、人間を指導し、
さらには地球温暖化防止のための知識を分け与えてくれるかもしれない。
が、そこまで期待できるかどうかというと、それはむずかしい。
反対の立場で、「私たち人間は、生き延びる価値があるかどうか」ということを
考えみれば、それがわかる。

あるいは、あなたならどうだろうか。
だれかに、「あなたは生き延びる価値があるかどうか」と聞かれたら、
あなたは何と答えるだろうか。

●宇宙人の限界

が、宇宙人が、全知全能かというと、私は、そうは思わない。
絶対的な(数)、つまり人口そのものが少ないということも考えられる。
あるいは、宇宙人と呼ばれる(人)は、実は(人)ではない可能性もある。

もっとメカニックな、つまり人間が手にした人工知能のかたまりのようであるかも
しれない。

……と書くと、「あのグレイは何か?」と思う人もいるかもしれない。
あのグレイ(本物かどうかは別として)、どこか人間的な体をしている。
しかしあのグレイをもって、宇宙人とするには、少し、無理がある。
私は、親分格の宇宙人は、もっと別の場所にいるのではないかと思っている。
別の場所にいて、グレイのような手下を、ロボットのようにして使っている?

つまりこのあたりに、宇宙人のもつ力の限界がある。
「なぜ人間の前に姿を現さないのか?」という問題にしても、単純に考えれば、
「それができないから」ということになる。
その(できない)部分が、そのまま彼らの(限界)ということになる。

●事実の一端

E・ミシェル博士のような人の発言を聞いて、私は、ほっとしている。
「いつか、そういう人が現れて、真実を語ってくれるだろう」とは思っていた。
しかしその一方で、「私が生きている間に、それをしてくれるだろうか」という
不安もあった。

「間に合った」という言い方は、どこかおかしいかもしれないが、間に合った。
あの夜以来、ずっと私とワイフは考えてきた。
ときどき「夢だった」と、自分にそう思い込ませようとしたこともある。
しかし私たちの結論は、いつも同じだった。
「見たものは、見た」。

そこで私はいつしか、「自分が死ぬまでに、あの夜見たUFOの正体を知りたい」
と思うようになった。
E・ミシェル博士の発言は、その一端を、私につかませてくれたことになる。
「私は、やはり、見たのだ」と。

●心の準備

この先、E・ミシェル博士が語っているように、「さらに重大な(serious)な発表」
がつづくかどうか、今の私にはわからない。
しかしそれよりも重要なことは、そういう発表があるという前提で、私たち自身が、
それに備えて、心の準備をしておくということ。

これは映画の中の話ではない。
現実の話である。

もし宇宙人の存在が確実になったとしたら、宗教はもちろん、歴史すらも、その
根底からひっくり返ることになる。
そうした混乱に、人間は、どう対処したらよいのか。
また対処できるだけの度量はあるのか。
これはあくまでも仮定の話だが、仮に、(あくまでも仮に)、あのイエス・キリスト
ですら、宇宙人とかかわりをもっていたとしたら、それだけで、キリスト教その
ものが、ひっくり返ってしまう。

「今までの歴史は何だったのか」ということにもなるだろう。
あるいは今の今、神に救いを求めている人もいるはず。
そういう人たちは、信仰の基盤を、根元から破壊されてしまうことにもなりかねない。
この問題だけは、「宇宙人がいます」「はい、そうですか」というレベルで片づけられ
るような、単純なものではない。

夏の夜、あなたも、あの月を見ながら、そんなことを考えてみるとよい。
そこには、とてつもないほど壮大なロマンが隠されている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 壮大なロマン

【月は、巨大な宇宙船か?】以上、【電子マガジン・2008年8月号より、転載】


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【悪しき恋愛至上主義の弊害&社会的害毒】


●映画『アジャストメント』

++++++++++++++++++

おととい、急に思い立って、映画
『アジャストメント』を観てきた。
急に思い立ったのは、ワイフ。
「4時に間に合うから、行こう」と。

で、家を出たのが、3時10分ごろ。
映画館には、10分ほど前についた。

主演は、マット・デイモン、エミリー・ブラント。
映画そのものは、かなり期待はずれ。
星は、3つの★★★。

が、その映画を観ていて、こんなことを考えた。

++++++++++++++++++

●恋愛至上主義

 神がかった『アジャストメント・ビューロウ(調整局)』は、マット・デイモンが演ずるデイビット
を、ゆくゆくは大統領にし、世界を変えようともくろむ。
調整局は、人の運命を自由に操ることができる。
しかしデイビットは、エミリー・ブラントが演ずるエリースに恋をする。

 調整局は、何とかして2人の間を裂こうとする。
さまざまな妨害工作を繰り返す。
理由は、エリースと結婚すると、デイビットは大統領になれなくなる。
そういう「運命」を、2人はかかえている。
が、2人はそうした(運命)を乗り越え、愛を誓いあう。
それを見て、つまりその愛の深さに感動して、調整局の議長(チェアマン)は、2人の運命を、2
人に任す……。

 要するに『愛が全て』という映画である。
つまり恋愛至上主義映画。

●若い男女の愛は、「愛」か?

 が、若い男女の「恋愛」は、本当に「愛」と言えるのか。
またそれでもって、「すべて」と考えてよいのか。

 端的に言えば、若い男女の「恋愛」というのは、ただの熱病。
もう少しわかりやすく言えば、本能に応じて分泌される恋愛ホルモン(フェニルエチルアミン)に
よるもの。
そこらのスズメやハト、犬や猿の恋愛とどこもちがわない。
そういうものを見て、神(天使)は感動する。
感動して、2人を許す。
最後はハッピーエンド。
つまりその部分が、おかしい。

 「恋のホルモン」について書いた原稿をさがしてみる。
少し回り道になるが、許してほしい。

●フェニルエチルアミン(2009年5月24日記)

++++++++++++++++

脳の活動は、「ニューロン」と呼ばれる
神経細胞が司っている。
それは常識だが、しかしでは、その
神経細胞が、「心」を司っているかというと、
そうではない。

最近では、心の原点は、脳内の化学物質、
つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。

私たちの心は、常に、この脳内ホルモンに
よって、影響を受け、コントロールされて
いる。
その例としてわかりやすいのが、
フェニルエチルアミンというホルモン
ということになる。
そのフェニルエチルアミンについて書いた
原稿がつぎのものである。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というわけである。
その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態、つまり平常の状態
が保たれる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、
その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。(これらの年数は、私自身の経験によるもの。)

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる(?)。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。
 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?

(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恋のホルモン)

●恋愛至上主義

 恋愛至上主義は、まさにアメリカからもたらされた、「社会毒」と考えてよい。
今の若い人たちを見ると、それがよくわかる。
「恋こそすべて」と考えている。
また「愛があれば、すべて許される」と考えている。
それがある一定の範囲内にあれば、まだよい。
それが過激なほどまでに、行きすぎてしまっている。

が、そんなものは「愛」ではない。
脳内ホルモンの奴隷になっているだけ。
さらに言えば、本能の奴隷になっているだけ。

 ただし、それが悪いというのではない。
それが原点となって、もろもろのドラマが展開される。
人間の行動の原点にもなっている。
だからあのフロイトはこういう言葉を使った。

「性的エネルギー」。

「人間のすべての行動の原点には、性的エネルギーがある」と。

 それを補完すべく、最近の大脳生理学は、つぎのように説明する。
「子どもの気力」について書いた原稿だが、「性的エネルギー」を説明するのには、わかりやす
い原稿と思う。

 またまた少し回り道をするが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの気力

+++++++++++++++++++++++

最近の研究によれば、生命の根源、つまり(生きる
力)の根源は、どうやら脳の中枢部にある、視床下部
というところにあることがわかってきた(アメリカ・
サイエンス誌・2009)。

そこから脳みそ全体に、強力なシグナルが発せられ、
それが脳みそ全体の活動の根源、しいては人間の
生命活動の根源になっている(?)。

+++++++++++++++++++++++

●強力なシグナル

「強力なシグナル」と書いたが、当然、個人差がある。
シグナルの強い人もいれば、弱い人もいる。
そう考えてよいことは、特別養護老人ホームにいる
老人たちを見ればわかる。

先日も久しぶりに、母がいたホームを訪れてみたが、
その中に1人、こんな女性がいる。
年齢は今年95歳になるという。
母が1年半前に入居したときもそうだったが、そのときも、
大きな声で、看護士や介護士さんたちに向かって、こう言って
叫んでいた。
「飯(めし)は、まだかア!」
「わっち(私)は、何も食べておらんぞ!」と。

大半の女性たちは、(そこは女性専用のフロアなので)、
ぼんやりとした表情のまま、時間をつぶしている。
何割かの女性は、大きな車椅子に横になったまま、鼻からチューブを
通して、一日中、眠っている。
そういう中なので、よけいにその女性が目立つ。

恐らく視床下部からの指令を受けて、ドーパミンが大量に分泌され、
それが線条体という組織を刺激しているのだろう。
性欲、食欲など、人間の欲望は、こうして生まれる。

おなじ高齢者なのに、たとえば私の母もそうだったが、
自分の意思をはっきりと持っている人もいれば、そうでない人もいる。
このちがいこそが、シグナルの強弱ということになる。

私という素人が考えた仮説なので、あまりあてにはならないが、
しかしそう考えると、子どもの世界がよく理解できる。

●萎縮した子ども

 たとえば親の過干渉、あるいは過関心などで精神活動そのものが、
萎縮してしまった子どもがいる。
「萎縮児」とも呼ばれる。
覇気(はき)がなく、おとなしく、静か。
自我の核形成も遅れ、つかみどころがない。
何を考え、何をしたいのかも、よくわからない。
一見、従順で、人なつっこい。
好奇心も弱く、遊びといっても、ごく限られた範囲で、
同じことしかしない。
一部が萎縮しているというよりは、人格全体が萎縮している。

あるいは何らかの原因で燃え尽きてしまった子どもや、
荷をおろしたように無気力になってしまった子どもでもよい。

そういった子どもを見ていると、脳の中枢部、つまり視床下部
あたりから出るシグナルが、弱いのではないかと考えてしまう。
このばあいは、親の過干渉、過関心などで、脳の機能そのものが、
変調したと考えられる。
(本当にそうであるかどうかは、わからないが……。)

つまり私たちが俗に言う、「気力」というのは、そういうものでは
ないか。
「やる気」と言い換えてもよい。

●視床下部

 先の女性でいえば、95歳という高齢にもかかわらず、食欲だけは、
異常に旺盛。
それが好ましいことかどうかという判断は別にするとして、視床下部
あたりから出るシグナルが、人一倍強いことだけは、確か。
それがその女性の(生きる力)の根源になっている。
だからまわりの看護士や介護士さんたちは、みな、こう言う。
「こういう人は、100歳まで生きますよ」と。

実は私の母も、今年(08年)の2月ごろまでは、その女性に、
勝るとも劣らないほどの生命力をもっていた。
一個の茶菓子を取り合って、テーブルの向かい側に座っている
別の女性と、ものを投げ合って喧嘩までしていた。
が、2月ごろ、脳梗塞を起こした。
そのあと、別人のように、静かで穏やかになってしまった。
私が見たところ、生命力そのものが、その日を境に、しぼんで
しまったかのように感ずる。

●エネルギーの根源

 こうしたことから、私たちがいうところの(気力)というのは、
脳の奥深くにある根源的な部分から生まれると考えてよい。
視床下部から発せられるシグナルならシグナルでもよい。
そのシグナルが、やがて(気力)につながっていく(?)。
(そうでないかもしれないが、ここでは、そうであるという
仮定の上で、話を進める。)
そのシグナルが強い人は、あらゆる面で旺盛な気力を示し、そうでない
人は、そうでない。

では、どうすればよいのか。

こと子どもに関していえば、子どもというのは、あるべき環境の
中で、あるべきように育てれば、自然とそういう力を発揮する。
DNAレベルで、そのようにプログラムされている。

が、ここでいう気力にしても、それをつぶすのは、簡単。
ガミガミ、ガンガンと、子どもを叱りつづければよい。
ついでに親の気分で、罵声を浴びせたり、暴力を振るったりすればよい。
無視、冷淡、育児拒否などがあれば、さらに効果的。
子どもは、確実に萎縮する。
動作そのものが、緩慢になることもある。
(あるいは同じような家庭環境であるにもかかわらず、反対に粗放化する子どももいる。
親の過干渉、過関心に抑えられてしまった子どもが萎縮児、
それに反発し、やり返した子どもが粗放児と考えるとわかりやすい。
同じような環境であるにもかかわらず、兄が萎縮し、弟が粗放化する
というケースは、多い。)

●環境

 わかりやすく言えば、(気力)を奪うのは、環境ということになる。
とくに親の接し方ということになる。
だから英語では、「教育」を、「education<educe(引き出す)」という。
つまり能力は、すべての子どもが平等にもっている。
あとはそれを(引き出すか、つぶすか)、そのちがいによって、
子どもは伸びたり、反対に萎縮したりする。
それが教育ということになる。

 なおここで「脳の機能が変調した」という言葉を使った。
これは私が使い始めた言葉だが、ひとつの例として、夜尿症(おねしょ)
がある。
本来なら睡眠中は、脳の命令によって腎臓での尿の生産が抑制される。
が、脳の機能が変調すると、その抑制に乱れが生ずる。
最近では、それが夜尿症の原因と考えられている。
だから夜尿症にしても、ここに書いた子どもの気力にしても、
(しつけ)によって、どうこうなるような問題ではない。
いわんや叱ったり、説教したりして、なおるような問題ではない。
(心の問題)というより、(大脳生理学の問題)。
そういう前提で、こうした問題を考える。

 ずいぶんと荒っぽい書き方をしてしまったが、大筋ではそれほど
まちがっていないと思う。
大切なことは、無理や強制などで、子どものやる気を奪ってしまわないこと。
一度幼児期に萎縮させてしまうと、その後遺症は一生つづくと言っても
過言ではない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
子どもの気力 子供の気力 子どものやる気 子供のやる気 視床下部 ドーパミン
ドーパミン効果 夜尿症 おねしょ 萎縮する子供 萎縮児 緩慢動作 緩慢行動)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●変化する日本人

 話をもどす。

 私たちの時代には、「家族」というときには、そこに「祖父母」がいた。
「父と母」がいた。

 が、今の若い人たちが「家族」というときには、「祖父母」はもちろん、「父と母」もいない。
いるのは、自分たち「夫婦」と「子ども」だけ。
しかしこれは日本人が昔からもっていた家族観ではない。

 たとえばよく知られた本に、『きけわだつみのこえ(声)』がある。
「第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集」(ウィキペディア百科
事典)である。
その中でも、学徒兵たちは、みな、「お父さん」「お母さん」という言葉を使っている。
「お父さん、さようなら」「お母さん、ありがとう」と。
が、それが今は、「妻」や「恋人」に置き換わった。
学徒兵の残した遺書だから、それが当然かもしれないが、私の時代にあっても、それほどちが
っていたわけではない。
結婚したあとも、妻や息子たち以上に、実家の父や母のことを心配した。

●デキスギ!

 ずいぶんと遠回りをしたが、映画『アジャストメント』にしても、しかり。
天使(運命を操作しているのは天使という想定になっている)にしても、最後は2人の男女の深
い愛(?)に、心を打たれ、自らその場から引き下がる。
つまりデキスギ!

 最近の若い人たちは、そういう映画を観ても、違和感を覚えないだろう。
当たり前のこととして、受け入れてしまうだろう。
しかし私たちの世代はちがう。
祖父母や親たちの意向を無視して、結婚に走る……ということは、事実上、ありえなかった。
たまに駆け落ち事件というのはあるにはあったが、例外。
「事件」になるほど、例外。
さらにその一世代前はというと、見合い結婚がふつうだった。
私の父と母ににしても、2度目の見合いで結婚を決めた。

 が、それが今は、逆。
「恋愛があれば、すべてが許される」と。
親の意見など、無視。
聞く耳すら、もたない。
昔から「恋は盲目」とは言うが、盲目以上の盲目になって、恋愛から、多くは結婚へと突っ走っ
ていく。

 が、責められるべきは、こうした風潮。
何も親の意見を聞けと言っているのではない。
「自由」にブレーキをかけろと言っているのではない。
恋愛イコール、欲望と考え、「欲望の奴隷になってはいけない」と、私は説く。
事実、脳下垂体から発せられる信号に応じて、ドーパミンが分泌される。
そのドーパミンの働きは、恋愛による反応も、また喫煙者やアルコール中毒者が見せる反応と
どこもちがわない。
平たく言えば、「新しい車がほしい」と思うのも、「女性を抱きたい」と思うのも、脳内のメカニズ
ムは、同じということ。

 つまりその原点には肉欲があり、その肉欲には中毒性があるということ。
恋愛至上主義の害は、すべてこの一点に集中される。

●愛論

 映画『アジャストメント』を観て、こうも考えた。
「神様も幼稚だな」と。

 あくまでもこの映画の中で表現されている「神」をいうが、「愛」の解釈そのものがちがう。
好いた、惚れたというのは、「愛」ではない。
(当の本人たちは、「愛」と思っているかもしれないが……。)
そんなことは、キリスト教の世界では、常識ではないのか?
が、この映画の中では、それが「主題」になっている。
だから「幼稚」。

 で、私はこう考えた。

 最近の若い人たちは、こういう映画ばかり見せつけられているから、それを「愛」と誤解し、恋
愛至上主義に突っ走ってしまう、と。
言うなれば(まがいものの愛)を「愛」と思い込んでしまう。
が、繰り返すが、そんな程度の恋愛なら、そこらの犬や猫でもしている。
犬や猫でもしているような恋愛をもって、「愛」と誤解する。

 ……と書くからといって、先にも書いたように、私は何も恋愛を否定しているのではない。
それはそれですばらしい。
人生の花と言ってもよい。
私たち人間だって、もとを正せば動物。
犬や猫と、それほどちがわない。
が、恋愛至上主義に走るあまり、自分を見失ってはいけない。
欲望の奴隷になってはいけない。

 たとえば恋愛するにも、ルールがある。
「自分たちさえとければそれでいい」と考えるのは、まさにルール違反。
そんな身勝手な恋愛は、それ自体が「自己愛」。
自己中心性が凝縮した状態を、「自己愛」という。

●アメリカ映画の弊害

 アメリカ人がどんな文化をもとうが、それはアメリカ人の勝手。
しかし日本には日本の風土、文化というものがある。
優劣はない。
ないが、人間はそれでよいとしても、日本の風土、文化が、それをフォローできないとき、そこ
に弊害が生まれる。
たとえば冒頭に書いた、「家族」。

 古来よりこの日本では、年老いた両親は、息子や娘たちがめんどうをみることになっていた。
少なくとも私たちの世代まではそうだった。
が、今はちがう。
「恋愛しました。結婚します。お父さん、お母さん、ハイ、さようなら!」と。

 老後の社会環境がシステムとして確立している欧米なら、まだそれも許される。
しかしこの日本では、そうでない。
老人たちだけが、ハシゴをはずされた状態になってしまう。
その結果が今。
独居老人、孤独死、無縁死……。
老人ホームに入るのにも、2年待ち、3年待ち……。

 「宗教心はありません。墓など不要です」と言うのは若い人たちの勝手だが、ものの価値観と
いうのは相互に認めあってこそ、意味をもつ。
「自分たちは正しい」と思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向かって「あなた
はまちがっている」と切り捨ててはいけない。
もちろん相手が親であっても、だ。

 が、今の若い人たちは、古い世代を平気で切り捨てる。
恋愛至上主義にしても、そうだ。
そこには親がいる。
兄弟もいる。
家族がいる。
そういうことを忘れて、それだけが「すべて」と思ってはいけない。

 映画を見終わったあと、私はこう思った。
「こういう映画ばかり観ていると、ますます恋愛至上主義者がふえるだろうな」と。
これをアメリカのたれ流す「社会毒」と言わずして、何という?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 恋愛至上主義 社会毒 はやし浩司 恋の寿命 恋愛の寿命 フェニルエチルア
ミン はやし浩司 フェニールエチルアミン フェニルエチルアミン 恋のホルモン 恋愛論)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【反原発運動が理由で、芸能界から干される?】

●ある俳優

 ある俳優が、原発反対を唱えたところ、それが理由で、「ドラマを降板させられた」という。
その俳優は、ツイッターで、こう述べていた(現在、その文言は削除されている。)

「今日、マネージャーからmailがあった。『7月8月に予定されていたドラマですが、原発発言が
問題になっており、なくなりました。』だって。マネージャーには申し訳ない事をした。僕をブッキ
ングする為に追い続けた企画だったろうに。ごめんね」(J-cast News)と。

 反原発を唱える学者が、研究費を削られたとか、研究室から閉め出されたという話は、雑誌
などで読んだことがある(「週刊現代」ほか。)
しかし一芸能人にまで、そうした「力」が及ぶというのは、私の常識では考えられない。
それがだれであるにせよ、原発推進派の「黒幕?」が、そこまで手を延ばすとは!
それこそまさに神の力(それとも悪魔の力?)。

 その俳優は、こうも書いている。

 「(反原発運動に関わると)芸能界で仕事干される」(同・4月)と。

 もしこれが事実とするなら、憲法違反に抵触する、重大な言論弾圧事件と考えてよい。
が、よくよく読むと、どうも、「?」。

●事務所側の言い分

 この俳優の発言に対して、事務所側は、「事実ではない」と否定した。

 「ところがYさん(当該、俳優)の所属事務所「S・カンパニー」では、J-Castの取材に対し、Yさ
んの発言を全面的に否定した」(J-Cast)と。

 事実なにか、それとも事実でないのか。
Yの発言にも、矛盾がある。
「事務所辞めました! 今日。これ以上(事務所に)迷惑かける訳いかないから」と一方で言い
ながら、実際にはその事務所に迷惑をかけている。
こういうのをパラドックスという。

「張り紙をするな」という張り紙をする。
「うるさい!」と言って、大声で怒鳴る。
「事務所に迷惑をかけたくない」と言って、事務所に迷惑をかける、など。

 もし本気で事務所に迷惑をかけたくないと思っていたのなら、黙って去ればよかった。

●藪の中?

 当該俳優は、問題が大きくなったのを知ってか、ツイッター上の発言を削除している。
J-Castはつぎのように伝える。

「現在、発端となった「降板」発言は消去され、見られない状態となっている。またYさんは26日
深夜、「舞台終了まで、Twitterやめます」と投稿しており、「降板」の真相は藪の中だ」と。

 そう、まさに藪の中。

 Yは、反原発の姿勢を見せた。
これは事実。
が、疑問の第一はそんなことを理由に、番組を降板させられるのだろうかということ(※)。
たかがテレビ番組(失礼!)。
たかが一俳優(失礼!)。
が、そういうことがないとはいわない。

 実も昨年(2010年)、私にもこんな経験がある。

 ある教材会社から教材制作の依頼があった。
久しぶりの依頼だったから、私はかなり意気込んでいた。
が、2週間ほどすると、今度は、こう言ってきた。
「あなたの書いた『ポケモン・カルト』という本が問題になりましてね。
我が社としても、S館(出版社)にたてついてまで、仕事はできません。
そんなわけで申し訳ありませんが……」と。

 さらに宗教本(反カルト)を書いているときには、当該宗教団体から、さまざまな
いやがらせを受けた。
出版社に対しては、さまざまな工作を繰り返した。
そういうことはある。
しかし今、どうして?

 しかもSがしたことと言えば、反原発というよりは、『文部科学省前で子どもに定められた年間
許容被ばく量「20ミリシーベルト」の撤回を叫んだ』(※)程度のことである。

 本当にSは、それが理由で、「干された」のか。
それとも、ただ単なる売名行為なのか。
もしそうでないというのなら、どうして自分の発言を引っ込めてしまったのか。
デモ行進するほどまでの信念は、どこへ消えたのか。
まさに藪の中。

●売名行為

 で、Yのことはよく知らない。
しかし芸能人(タレント)の中には、この種の売名行為を繰り返す人は少なくない。
Yもその1人と書いているのではない。
ただこの種の発言、つまり月光仮面的な発言は、じゅうぶん疑ってみる必要がある。
というのも、「信念」というのは、一朝一夕に、確立するものではない。
若い人ならなおさらで、そのつど迷ったり悩んだりする。
が、やがて「周囲哲学」というものが、できあがってくる。
その周囲哲学が、その人を支える。

 言い換えると、その周囲哲学が重要。

 たとえば若いころから何かのボランティア活動に専念し、たとえばホームレスの人たちに炊き
出しをしてきたとか、そういうことが重なって、やがて難民救済運動へとつながっていく。
そういう経験も経歴もないようなタレントが、ある日突然、涙ながらに難民救済をテレビ画面に
向かって訴え始める。
私たちはそういうインチキ(=偽善)を、いやというほど見せつけられてきた。
 
 Yについては、残念ながら、「現在、発端となった降板発言は消去され、見られない状態とな
っている。またYさんは26日深夜、『舞台終了まで、Twitterやめます』と投稿しており……」(J-
Cast)という状態らしい。

 どうして消去したのか。
どうしてTwitterをやめたのか。
高邁な信念はどこへ消えたのか。

 当の本人がこれでは、周囲の人たちも援護できない。
腰砕けになってしまう。
真相はどうだったのか。

 Yが反原発運動に参加したため、番組を降板させられたというのは、事実だったのか。
それともYのただ単なる思い込みだったのか。
Y自身が沈黙してしまった以上、これ以上のことは、私にもわからない。

 だから「藪の中」(J-cast)。

(注※)シネマトゥディより

 Yは、27日21時半ごろのツイッターで、「事務所辞めました! 今日。これ以上迷惑かける訳
いかないから。辞めるな、と社長、スタッフの皆さん何度も引き止めて下さった。最後には僕の
わがままを聞いて貰いました。13年もいたS社は正義感強く情に厚い事務所。もう関係ないか
ら事務所への電話しないでね。他の役者に迷惑かかる(原文ママ)」と報告した。

 福島第一原発で起こった原発事故のあと、「反対。って言うと、芸能界で仕事干されるんで
す、 御存知でした?でも言ってやります、反対!」とYは、脱原発を自身のツイッターで声高に
訴え、デモに参加するなど原発反対運動を続けてきた(以上、シネマットゥデイ・5月30日よ
り)。

(注※2)J-Castより

  「本人がツイッターで発言した内容については『事実ではない』とお答えするように、と担当
者から言われています」と電話に出た女性は繰り返した」(J-Cast)と。

福島第一原発の事故以来、積極的に反原発運動に参加していた俳優のYさんが2011年5月
25日、ツイッターで「原発問題発言」が原因で、「7月8月に予定されていたドラマを降板させら
れた」と発言した。ところが事務所は27日、Yさんの発言内容について「事実ではない」と否定
した。

 話題になったのは、Yさんの以下の発言だった。

■降板の作品名などは明かさず

  「今日、マネージャーからmailがあった。『7月8月に予定されていたドラマですが、原発発言
が問題になっており、なくなりました。』だって。マネージャーには申し訳ない事をした。僕をブッ
キングする為に追い続けた企画だったろうに。ごめんね」

 Yさんはこれまでツイッターを中心に、原発反対を繰り返し訴えている。4月には「(反原発運
動に関わると)芸能界で仕事干される」と明言し、高円寺で行われた反原発デモに参加、5月2
3日にも福島県の父母たちとともに、文部科学省前で子どもに定められた年間許容被ばく量
「20ミリシーベルト」の撤回を叫んだ。

 Yさんは「外されたドラマでも、現場には迷惑掛けられない」として具体的な作品名などは明か
さなかったが、ネット上では「降板させたテレビ局、スポンサーに抗議活動を」との声も上がり、
さまざまな憶測が飛び交っている。

■「舞台終了まで、Twitterやめます」

 ところがYさんの所属事務所「S・カンパニー」ではJ-CASTの取材に対し、Yさんの発言を全
面的に否定した。

  「本人がツイッターで発言した内容については『事実ではない』とお答えするように、と担当
者から言われています」

と電話に出た女性は繰り返した。

 現在、発端となった「降板」発言は消去され、見られない状態となっている。またYさんは26日
深夜、「舞台終了まで、Twitterやめます」と投稿しており、「降板」の真相は藪の中だ(以上、J-
Castより)。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

●オーストラリアの土地税制vs中国の土地税制

++++++++++++++++++++++++

オーストラリアの土地税制に興味がある。
オーストラリアには、「Land Valuer(土地査定人)」
と呼ばれる、専門の査定人がいて、土地家屋の
価値の査定をする。
その査定に応じて、税金が決まる。

++++++++++++++++++++++++

Dear Hiroshi,
ヒロシへ

In Australia there are "Commonwealth" (national) taxes and State taxes (eg. State of 
Victoria). 
オーストラリアには、連邦税と州税の2つがある。
When I buy a house in Victoria I must pay a tax ("stamp duty") of 1.4% of the value. 
私がビクトリア州で家を買うとき、その家の価値の1・4%分に相当する、「スタンプ税」を払う。
No need to pay when selling.
家を売るときは、払わなくてもよい。
 That is a State tax.
これは「州税」。
Once I own a house I must pay annual "rates" to the local council. 
家を所有するときは、地方局に、毎年「率税」を支払わなければならない。
This is partly calculated on the land value but also includes fees for garbage collection.
これは土地の価値に応じて別に計算されるが、それには、ゴミ収集の費用も含まれる。
I pay no other tax on my own home but if I own a second property then I must pay "land tax
" on the second property according to the value of the property. 
私はこれ以外には、税金を払っていないが、もし2番目の不動産を所有するときは、「土地税」
を、その土地の価値に応じて、払わなければならない。
That is a State tax.
これは「州税」。
If my business is buying and selling properties then I will be taxed on the profit just like any 
other business. 
もし私が不動産屋を経営しているなら、他のビジネスと同じように、所得税が課せられる。
That is a Commonwealth tax.
これは「連邦税」。
When calculating land value, the local council or the State government will use a 
professional land valuer. 
土地の価値を計算するとき、地方局と州政府は、専門の「土地査定人」を使う。
The vlauer will decide how much the house is worth if it was sold. 
土地査定人は、もしその家が売られるなら、いくらの価値があるかを査定する。
That becomes the "taxable value". 
これが「課税評価価値」となる。
The valuation is fair and is usually lower than a real sale value.
課税評価価値は、公正でで、ふつう実際の売買価格よりも低い。
In my case I pay the annual "rates" to my local council. 
私のばあい、毎年地方局に、「率」を払っている。
In return they arrange for garbage collection, provide various services such as a library and 
assistance for old people etc.
その代わり、彼らはゴミ収集をし、図書館や、老人介護などの種々のサービスを提供してくれ
る。
It is a bit complicated, I suppose.
少し複雑かな。
D
Dより

The government knows that owning a house is important for people and people will vote for 
a party which makes it easier to own a house.
政府は、家の所有は、人々にとって重要と心得ているし、人々は家を所有しやすくしてくれる正
当に票を入れる。
 So taxes are not too high.  
だから税金は、そんなに高くない。
Owning a home is like a sacred thing for Aussies.
オーストラリア人にとっては、家をもつということは、神聖なことだ。
The difficult thing for home-owners is bank interest rates for loans.
家の所有者にとって、難しいことは、銀行からの借入金の利率ということになる。
 Maybe that is more a problem than taxes. 
たぶんそれのほうが、税金より大きな問題だ。
Anyway people talk about interest rates more than taxes.
オーストラリア人は、税金より、借り入れ金利のほうに関心がある。

Dより
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●中国の土地税制について

++++++++++++++++++++

D君は、オーストラリアでも中国研究の第一人者でもある。
中国の土地税制についても教えてくれた。

++++++++++++++++++++

Dear mate,
友へ、

In China, people do not pay tax for their house but the system is different. 
中国では、自分の所有する家には税金を払わない。システムが異なる。
Firstly, they can only buy a house not the land underneath. 
第一に、彼らは家を買うのであり、その下の土地は買わない。
The land belongs to the government. 
土地は政府に属する。
Secondly, they can only buy a house for 70 years.  
第二に、彼らは70年間、家を買う。(最長限度は70年。)
So in China, a big company or corrupt official can easily push people of the land which they 
are living on.
それで、中国では、大きな会社や役人は、そこに住んでいる人々を容易に追い出すことができ
る。
When a company wants to build a factory in a village, there is a negotiation over price but 
the local government is in charge of everything and they can favour the powerful side. 
会社が村に工場を建てるとき、価格の交渉をするが、地方政府はすべてに責任をもち、力の
あるほうに味方することができる。
So many farmers sell as soon as they receive a good offer and move into a town. 
それで多くの納付は、よい条件がつけば、すぐ家を売り、町へ移動する。
Eventually there will be a shortage of good farming land.
結果的に、農地が不足することになるだろう。
One day the system in China will crash down like a shaky old house.
いつか中国のこのシステムは、がたがたの古い家のように崩壊するだろう。
D
Dより


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【年中4歳児に、言葉のレッスン】(5月30日、2011)

年中4歳児クラスです。今週は、言葉の学習をしました。最終的に、「お話作り」までできるよう
に指導しました。言葉は、まず正しく、話す、ですね。「ハンカチ、ハンカチ、もった?」ではなく、
「あなたはハンカチをもっていますか?」と。そういう日常的な会話が、その子どもの国語力の
基礎となります。

(1)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/E5HNX4DC27k?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/E5HNX4DC27k?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

(2)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/vjG9sRIUTGo?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/vjG9sRIUTGo?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/lsziMJUxRsU?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/lsziMJUxRsU?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

(4)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/4zAJuWFv9EI?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/4zAJuWFv9EI?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

●おまけ(小3クラスの子どもたち)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/3fGW0EBXe_c?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/3fGW0EBXe_c?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●5月31日(火曜日)夜記(今月も終わった!)


++++++++++++++++++++


今日で、2011年5月は、終わり。
いつもなら月末パーティ(打ち上げ式)を
ワイフとするのだが、今日はなし。
教室のドアが壊れたので、それを直して
いるうちに、パーティのことを忘れて
しまった。


ハハハ。


++++++++++++++++++++


●北朝鮮


 北朝鮮が、「韓国など相手にせず」という声明を発表した。
おかしな国だ。
だれもあんな国など、相手にしたくない。
相手にもならない。
できるならもう、日本のことなど放っておいてほしい。
忘れてほしい。
忘れて自分の国のことだけを考えて、勝手にやってほしい。
韓国にしても、そうだろう。


 武力で脅し、それがすむと今度は援助を求める。
その繰り返し。
あえて「韓国など相手にせず」と言わなくても、北朝鮮は、もとから相手にされていない。
自己認識能力ゼロの国というのは、今の北朝鮮のような国をいう。


●韓国


 韓国も思考回路は同じ。
北朝鮮と同じ。
北方領土へ国会議員を送り込んだ。
韓国政府は、「勝手に行った」と弁解したが、これはウソ。
韓国政府がビザ申請にからんでいたことが、発覚。


 日本人の国民感情としては、「何もこの時期に!」となる。
日本が混乱しているのをよいことに、竹島の実効支配を進め、北方領土に国会議員を送り込
む。
イヤ〜ナ国。
本当に、イヤ〜ナ国。


 今に竹島(独島)どころではなくなる。
38度線以北が、ゼーンブ、中国の領土になる。
日本の知ったことではないが……。


●管首相


 民主党が割れた。
明日(6月1日)にも、内閣不信任案が提出され、議決されるかもしれない。
私は何も、民主党支持者ではないが、言いたいことは同じ。
「何も、この時期に!」。


 週刊文春(6月2日)によると、「……もはや1億円の裏献金は、真っクロ以外の何物でもな
い。やっぱり(小沢一郎は)万事休す」(P38)とある。
裁判傍聴記の結論として、そう書いてある。


 管首相にも問題はあるかもしれない。
しかし今は、原発事故処理に全力を傾けるとき。
管内閣以下、国民が一致団結して、この難局を乗り越えるべきとき。
煙こそ見えないが、福島第一原発からは、今の今も、モウモウと放射性物質が空中に放出さ
れている。
そんな時期に内輪もめをしていて、どうする?
どうなる?


 ここで内閣不信任案が可決されたら、日本の政局は大混乱。
火事の真っ最中に、夫婦喧嘩に始まる離婚騒動をしているようなもの。
そんなヒマがあったら、国会議員たちよ、福島の原発事故現場へ行け!
火を消せ!
選挙のたびに、「命をかけて……」と君たちは言っているではないか。
だったら、今こそ、そのとき。
命をかけて行け。
君たちの信念を、形で示せ。


 さあ、どうだ!


●UFO


 2日前、UFOについての原稿を書いた。
反響は大きかった。
BLOGへのアクセス数で、それがわかる。


 で、今、こう考える。
もし私が宇宙人なら、(神でもよいが)、人間をどうするだろうか、と。
人間を許し、人間を宇宙人の世界に、(神の世界でもよいが)、迎え入れるだろうか、と。
もう少し具体的には、宇宙人から見た人間は、どんなふうに映るだろうか、と。


 たとえば人類全体が存亡の崖っぷちに立たされたとする。
現在、すでに崖っぷちに立たされているとみてよいが、そんなとき宇宙人は、人間を助けの来
るだろうか。
神でもよい。
神は助けに来るだろうか。


 そこでいきなりこう考える。
「もし私が宇宙人なら、どう判断するだろうか」と。
あるいは「もし私が神なら、どう判断するだろうか」と。
あるいはこの文を読んでいる、あなたなら、どう判断するだろうか。


 人間である私がこう言うのもおかしいが、私が宇宙人なら、(神でもよいが)、答はかなり否定
的にならざるをえない。
人間の世界では、「力」をもった人間ほど、より強欲になる。
貪欲になる。
北朝鮮の金xxを見れば、それがわかる。
民主党の小沢一郎を見れば、それがわかる。
ああいう人たちは、自らが発する悪臭に気がついているのだろうか。


 ひょっとしたら今ごろ、この太陽系のどこかでこんな評決がなされているかもしれない。
「人間に、生存する価値、なし」と。


 「ヒト科ヒト属」という、たった1種類の生物のために、ほかの何百万種類という生物が犠牲に
なっている。
こんなバカげたことを、宇宙人が許すはずがない。
神が許すはずがない。


 ……という原点から、人間は、自らを反省しなければならない。
あるいは自らがもつ欠陥を改めなければならない。
宇宙人に、(あるいは神でもよいが)、叱られてからそうするのでは、あまりにも遅い。
その前に、それをする。


 たしかに私たちは何ものかによって、試されている。
宇宙人かもしれない。
神かもしれない。
だれであれ、何ものかによって、試されている。
が、こわいのは、その結論。
もしそれが「NO!」であったら……。


 私たちはいとも簡単に、宇宙人によって、(あるいは神でもよいが)、抹殺されてしまうだろう。
たった1日かもしれない。
1時間かもしれない。
あるいは数秒かもしれない。


 もし宇宙人に、(神でもよいが)、最後の慈悲というものがあるなら、人間がそれに気づく前
に、彼らは人間をこの地球から抹殺するだろう。

 ……とまあ、かなりSF的なことを書いてしまった。
これもおととい観た映画、『アジャストメント』の影響かもしれない。
そう言えば、6月末に、『スーパー・エイト(SUPER 8)』という映画が封切りになる。
製作は、あのスティーブン・スピルバーグ。
楽しみ!


 では、おやすみ。
5月31日夜記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●6月1日

+++++++++++++++++++++++++

●消えた2時間

 今日は7時起き。
よく眠った。
頭痛もなし。

 ……先週は、軽い頭痛がつづいた。
朝方、いつも頭が重かった。
それが毎日、昼ごろまでつづいた。
おかしな神経痛もあった。
左耳の下から脳を突き抜けるような神経痛。
偏頭痛(?)と判断しかねているうちに、週末になって風邪の症状が出てきた。
くしゃみと発熱。
市販の風邪薬をのんだ。
頭痛も消えた。
風邪だった。
よかった。

 で、今朝も、いつもの日課。
起きるとすぐ、ウォーキングマシンに。
30分もすると、全身から汗が噴き出す。
それが気持ちよい。

そのまま書斎へ。
パソコンに電源を入れる。

……

 時刻は……ギョッ!
現在、時刻は午前9時!

メールを読み、ニュースサイトに目を通した。
いくつかの原稿をBLOGにアップした。
それだけで、午前9時!

2時間は、どこへ消えたのか?

++++++++++++++++++++++++++++++++++

●時間がない!

 週末にK市で某大会がある。
その大会の記念講演の講師を務める。
今は、その準備。
準備といっても、私のばあい、体調を整えること。
運動量をふやすこと。
食事の量を減らすこと。
眠った脳みそでは、講演はできない。
が、この緊張感がたまらない。
楽しい。

 ところで先週、ワイフと映画を観に行ったときのこと。
映画館は、市内のZ・シティというショッピングセンターの
中にある。
その地下街を通ったときのこと。
明らかに私と同年齢、あるいは私より若いと思われる
男たちが、ぼんやりとした様子で、椅子に座っていた。
3、4人もいた。

それなりの服装はしていたが、緊張感がなかった。
うつろな目つきで、空(くう)を見つめていた。
私はそれを見て、ドキッとした。
ドキッとして、口を閉じてしまった。

ワ「どうしたの?」
私「……」と。

 明日は我が身。
明らかに退職者たちだった。
仕事もなく、かといって、家の中では粗大ゴミ(?)。
行くところもなく、そういうところで時間をつぶす。
もちろん遊ぶお金もない。

 ……エスカレーターに乗って1階へ出ると、
そこにも小さなたまり場があった。
が、そのたまり場にも、2、3人!

私「これから先、ああいう人たちがふえるだろうね」
ワ「そうね」と。

++++++++++++++++++++++++

●パソコン

 パソコンを相手に仕事をしている人なら、異論はないだろう。
パソコンというのは、「時間を食う」。
たいした仕事はしていないのに、時間ばかり過ぎていく。
パソコンというのは、そういうもの。

 数日前も、マガジンの過去版を整理した。
6月1日(2011年)で、1526号を数えた。
2001年6月、創刊。
以来、ちょうど10年。
コピーして張りつけていくだけの単純作業。

 朝から作業を始め、ホッと一息ついたのが、午後3時。
1日仕事になってしまった。
……ということで、今の今も、時間が足りなくて、困っている。
やりたいことは山のようにある。
書きたいことは山のようにある。
が、その時間がない!
時間が足りない!
忙しくはないが、時間が足りない!

 ……だからといって、ショッピングセンターで無意味に時間を
つぶす人を、どうこう言っているのではない。
先にも書いたように、「明日は我が身」。
「私はああいう人たちとはちがう」と思うのは、その人の勝手。
しかしどこもちがわない。
ちがわないというより、中身は同じ。
言うなれば、今の私は「包装紙」のようなもの。
包装紙をはがしたら、中身は同じ。

 ただ、そうはなりたくないと思い、懸命にふんばっている。
がんばっているというより、ふんばっている。
もしその気力が途絶えたら、私も明日からショッピングセンターで
時間をつぶすようになる。
そういう自分をよく知っているから、ふんばるしかない。

 ……おとといも、静岡県教育委員会の担当者の方が、講演の仕事を回してくれた。
そのときのこと。
いつもなら「ありがとうございます」で終わる電話だった。
が、思わず私は「生きがい」という言葉を使ってしまった。
「いつも、生きがい、ありがとうございます」と。

 ……ということで、この先、死ぬまでハラハラとした人生がつづきそう。
肉体の健康、精神の健康、心の健康、それに脳みその健康。
が、何よりも大切なのは、「気力」。
前に向かって生きるという気力。
いつまでつづくかわからないが、とにかくつづけるしかない。

 で、そのあとは、ピンポク。
願わくは、ピンポク。
前日までピンピンしていて、その翌朝、ポックリと逝く。

 しかしみなさん、誤解してはいけない。

 ああしてショッピングセンターで、ぼんやりと時間をつぶしている人たちは、
本当は苦しんでいる。
けっして、したくて、そうしているのではない。
もちろん楽しんでいるのでもない。
苦しんでいる。
その苦しみがほんの少しでも理解できたら、けっして責めたり、バカにしてはいけない。
なぜなら、明日は、それがあなたの姿。
あなた自身の姿。
それを忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【2011年6月期・講演会・レジュメ】

+++++++++++++++++

昨夜(6月1日)、6月用の講演会の
レジュメを書いた。
未完成だが、これをたたき台にし、
今週からの講演で話したい。

++++++++++++++++++

【価値観の転換と、意識・常識の改革】

●「どうすればうちの子は……」

もう20年以上も前のこと。
1人の父親が私の家にやってきた。
そしてこう言った。

「私はあなたの本を何冊も読む暇はない。
どうすればうちの子どもをいい子にすることができるのだ。
一言で言ってくれ」と。

 そのとき私はとっさの思いつきだったが、こう答えた。
「子どもは使うことです。
使えば使うほど、いい子になりますよ」と。

 それから20年以上。
この言葉は何度も私の頭の中で反芻された。
そしてその結論は、今でも同じ。
「子どもは使えば使うほど、いい子になる」と。

(今回は4つのテーマの中から、時間の関係上、X番目のテーマについてのみ、
話す。
この問題を、常識論、意識論をからめて話す。)

2011年6月2日記

●常識

アインシュタインは、こう言った。
「その人がもっている常識などというものは、18歳のときまでにもった偏見のかたまりである」
と。

 こう言うと、「いや、ちがう。私のもっている常識は正しい」と反論する人も多い。
しかしそう断言するのは、少し待ってほしい。
私は40年前、こんな経験をした。

●オリエンタル・スタディズ

メルボルン大学の南の端に、オリエンタル・スタディズという学部があった。
「東洋学部」と訳すのが正しい。
その学部には、日本語学科というのもあった。
私はときどきその学部で、日本語を教えていた。
そんなある日、1人の学生が、私にこう聞いた。
「どうして浅野内匠頭の家来は、吉良上野介を殺害したのか」と。

 いろいろ説明してみたが、だれも納得しなかった。
「悪いのは、浅野内匠頭ではないか」
「死罪(切腹)というのは、重すぎるが、しかし当時の法律でそうなっていたのなら、しかたのな
いこと」
「もし重罪に意見があるというのなら、どうして裁判で闘わなかったのか」と。
さらに「大石内蔵助らが職を失ったのは、浅野内匠頭の責任。どうして浅野内匠頭に責任を追
及しないのか」と。

 西洋では古来、主従関係といっても、契約が基盤になっている。
家来たちは職を失えば、つぎの主君を求めて、いわゆる職探しに歩く。

 さらに困ったのは、水戸黄門。
ある学生がこう聞いた。
「もし水戸黄門が悪いことをしたらどうなるか」と。
そこで私が「水戸黄門は悪いことをしない」と答えると、教室中が騒然となってしまった。
「それはおかしい!」と。

●「釣りバカ日誌」

常識というのは、それぞれの時代を経て、熟成される。
が、こんなこともある。

 釣りバカ日誌という映画がある。
ハマちゃんとスーさんが、あちこちへ釣りに行くという映画である。
あの映画にしても、おかしな点はいくつかある。

その第一。
ハマちゃんにせよ、スーさんにせよ、妻や子どもたちを連れていくことは、まず、ない。
そこで釣りバカ日誌の大ファンという中学生がいたので、聞いてみた。
「ハマちゃんやスーさんは、奥さんを釣りに連れていったことがあるか」と。
するとその中学生は、ウ〜ンと一呼吸考えたあと、こう言った。
「ないなア〜」と。
「へんな女の人がついてくることはあるけどね」とも。

 日本では何でもない映画だが、欧米では、そういうことはありえない。
もし休日を夫たちだけで過ごしたら、それだけで離婚事由になる。
あるいは男どうしで旅館に泊まれば、同性愛者とまちがえられる。

 欧米では、夫の会社のパーティであるにせよ、夫婦同伴が原則である(注※1)。

●出世主義から家族主義

日本が劇的に変化し始めたのは、1999年のことである。
その年のはじめ、「仕事より家族のほうが大切」と答えた人が、40%を超えた(文部省調査)。
その年の終わりには、45%になった(中日新聞調査)。
それが2007年には、75%(読売新聞・11月)。
これは中日新聞社が調査した。
こうした変化を、当時、「サイレント革命」という言葉を使って説明する人がいた。
そう、まさに「革命」。
今では、どんな調査結果をみても、80〜90%の人が、そう考えている。

 が、私たちの時代には、そうでなかった。
仕事か家族かと聞かれれば、みな、迷わず、「仕事」と答えた。
だからこんなことがあった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考2)

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、
「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化
である。

(参考2)2007年11月11日、読売新聞

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざというとき、
家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大きく上回っ
た。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親と子供
だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私が三井物産という会社にいたときのこと。
当時はまだ、「単身赴任」という言葉はなかった。
2年以内の海外出張を「短期出張」と呼んだ。
短期主張は、単身赴任が原則だった。
だから同僚を大阪の伊丹空港へ見送りにいくと、こんな光景がよく見られた。
「あなたア、がんばってきてねエ!」
「お前もがんばれよ!」と。

 今とちがい、日本は、まだ貧しかった。
休暇ごとに日本へ帰ってくるなどということは、できなかった。
が、2年で帰ってこられるという保証はなかった。
当時は、「短期出張のハシゴ」というのもあった。
赴任先の外地から、また別の外地へ短期出張で飛ばされる。
だからどこの商社でもそうだったが、一度外国へ出ると、4年は戻れなかった。

 その一例として、つまり日本のもつ後進性を表す一例として、1999年に入って、単身赴任に
よる被害について、損害賠償事件に対して、こんな判決があった。
ある男性が、「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校にな
るなど、さまざまな苦痛を受けた」として、会社を訴えた。
それに対して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。
いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。
もう何をか言わんや、である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

 一方、日本にはこんな話がある。
以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。
東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。
いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、
さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。
子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。
仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。
今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。
私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」
と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。
「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービ
ン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。
たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすす
めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。

が、日本ではそうではない。
軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。
言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ある中国人夫婦

 話を先に進める前に、ここで意識について、簡単な実験をしてみたい。
常識の実験と言い換えてもよい。
まず、こんな話。
それを聞いて、みなさんは、どう考えるか、それを静かに心の中をさぐってみてほしい。
みなさんは、みなさんの常識で、まず判断してみてほしい。

 こんな話。
 
 ある商店街に、1組の中国人夫婦が移り住んできた。
中華料理店を始めた。
当初はそれなりに繁盛していたが、そのうち商店街全体が不況の嵐の中に飲み込まれた。
一軒二軒と、シャッターをおろし始めた。
そのときのこと。

 となりの美容院が、ときどき店を閉めるようになった。
それに対して、中国人夫婦が激怒した。
となりの美容院へすごい剣幕で、怒鳴り込んでいった。
「店、開けるあるね!」と。
それだけではない。
道をはさんで、菓子屋があった。
昔からの菓子屋で、その菓子屋だけは客足が落ちなかった。
そこで中国人夫婦は、今度は菓子屋へ行き、こう言ったという。
「客を回してほしい」と。

 美容院を経営している女性は、この中国人夫婦に憤慨した。
菓子屋を経営している夫婦も、憤慨した。
「何という、常識知らず!」と。

●常識

 この話を聞いた私も、最初は、そう思った。
「どう考えても、この中国人夫婦のとった行動は、常識にはずれている」と。
が、もしこんな話を知ったら、たぶん、あなたは別の考え方をするようになるだろう。
こんな話だ。

●周囲との調和

 この4月にオーストラリアへ行ったときのこと。
ボーダータウンという、南オーストラリア州とビクトリア州の、ちょうど州境にある町へ立ち寄っ
た。
友人がそこに住んでいる。

 で、少し郊外へ行くと、みな、日本では想像もつかない広い土地に、広い家を建てて住んでい
る。
土地だけでも、5、6エーカー。
日本風に言えば、数千坪から1万坪。
家も広い。
T氏の家は、居間だけでも40畳以上。
それにどれも20畳以上もある部屋が、5〜8つとつづいている。
そこで私が心配になって、こう聞いた。

「税金はどうなっているのか?」と。

 さぞかし税金が高いだろうと思ってそう聞いた。
が、答えは意外なものだった。
「家の広さで、税金は決まらない」と。

 オーストラリアでは、ランド・バリュアー(Land Valuer)という人が税金を査定する。
「この家なら、いくらで売れるか」ということを基準にして、決める。
しかも家を買う側は、売買価格の1.4%の税金を払うだけ(ビクトリア州)。
売るほうには、税金はかからない。

 あとは毎年、決められた税金を払うが、その中心は、ゴミ収集のための税金。
またその程度。

 そこでその地域の住人たちは、家を含めた環境の価値を高めようとする。
価値が高くなれば、売るときに有利。
たとえばとなりの家の芝生が、だらしない状態になっていると、隣人たちがすぐ文句を言いに行
く。
実は私の二男も現在、アメリカに住んでいる。
その二男もこう言っていた。
「芝生を伸ばし放題にしておくと、すぐ文句を言われる」と。
だから二男は、毎週のように芝を刈っている。

 が、この日本では、そうではない。
となりがどんな家を建てようが、それはとなりの人の勝手。
イタリヤ風であろうが、和風であろうが、あるいはビルであろうが、その人の勝手。
土地の価値にしても、駅に近ければ近いほど、原則として高い。

 中国では、土地は、原則として、国のもの。
家にしても、建ててから70年は住めるという条件がつく。
が、思考回路は、欧米人のそれに近い。
町の商店街にしても、商店街全体がたがいにもり立てあいながら発展していくもの。
そういう考え方をする。

 そこで先の中国人夫婦のような考え方をするようになる。
「シャッターをおろせば、その影響は自分の家にも及ぶ。だから許せない」と。
また客にしても、たがいに回しあう。
それが中国では常識になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

Dear Hiroshi,
ヒロシへ

In Australia there are "Commonwealth" (national) taxes and State taxes (eg. State of 
Victoria). 
オーストラリアには、連邦税と州税の2つがある。
When I buy a house in Victoria I must pay a tax ("stamp duty") of 1.4% of the value. 
私がビクトリア州で家を買うとき、その家の価値の1・4%分に相当する、「スタンプ税」を払う。
No need to pay when selling.
家を売るときは、払わなくてもよい。
That is a State tax.
これは「州税」。
Once I own a house I must pay annual "rates" to the local council. 
家を所有するときは、地方局に、毎年「率税」を支払わなければならない。
This is partly calculated on the land value but also includes fees for garbage collection.
これは土地の価値に応じて別に計算されるが、それには、ゴミ収集の費用も含まれる。
I pay no other tax on my own home but if I own a second property then I must pay "land tax
" on the second property according to the value of the property. 
私はこれ以外には、税金を払っていないが、もし2番目の不動産を所有するときは、「土地税」
を、その土地の価値に応じて、払わなければならない。
That is a State tax.
これは「州税」。
If my business is buying and selling properties then I will be taxed on the profit just like any 
other business. 
もし私が不動産屋を経営しているなら、他のビジネスと同じように、所得税が課せられる。
That is a Commonwealth tax.
これは「連邦税」。
When calculating land value, the local council or the State government will use a 
professional land valuer. 
土地の価値を計算するとき、地方局と州政府は、専門の「土地査定人」を使う。
The vlauer will decide how much the house is worth if it was sold. 
土地査定人は、もしその家が売られるなら、いくらの価値があるかを査定する。
That becomes the "taxable value". 
これが「課税評価価値」となる。
The valuation is fair and is usually lower than a real sale value.
課税評価価値は、公正でで、ふつう実際の売買価格よりも低い。
In my case I pay the annual "rates" to my local council. 
私のばあい、毎年地方局に、「率」を払っている。
In return they arrange for garbage collection, provide various services such as a library and 
assistance for old people etc.
その代わり、彼らはゴミ収集をし、図書館や、老人介護などの種々のサービスを提供してくれ
る。
It is a bit complicated, I suppose.
少し複雑かな。
D
Dより

The government knows that owning a house is important for people and people will vote for 
a party which makes it easier to own a house.
政府は、家の所有は、人々にとって重要と心得ているし、人々は家を所有しやすくしてくれる正
当に票を入れる。
So taxes are not too high. 
だから税金は、そんなに高くない。
Owning a home is like a sacred thing for Aussies.
オーストラリア人にとっては、家をもつということは、神聖なことだ。
The difficult thing for home-owners is bank interest rates for loans.
家の所有者にとって、難しいことは、銀行からの借入金の利率ということになる。
Maybe that is more a problem than taxes. 
たぶんそれのほうが、税金より大きな問題だ。
Anyway people talk about interest rates more than taxes.
オーストラリア人は、税金より、借り入れ金利のほうに関心がある。

Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中国の土地税制について

++++++++++++++++++++

D君は、オーストラリアでも中国研究の第一人者でもある。
中国の土地税制についても教えてくれた。

++++++++++++++++++++

Dear mate,
友へ、

In China, people do not pay tax for their house but the system is different. 
中国では、自分の所有する家には税金を払わない。システムが異なる。
Firstly, they can only buy a house not the land underneath. 
第一に、彼らは家を買うのであり、その下の土地は買わない。
The land belongs to the government. 
土地は政府に属する。
Secondly, they can only buy a house for 70 years. 
第二に、彼らは70年間、家を買う。(最長限度は70年。)
So in China, a big company or corrupt official can easily push people of the land which they 
are living on.
それで、中国では、大きな会社や役人は、そこに住んでいる人々を容易に追い出すことができ
る。
When a company wants to build a factory in a village, there is a negotiation over price but 
the local government is in charge of everything and they can favour the powerful side. 
会社が村に工場を建てるとき、価格の交渉をするが、地方政府はすべてに責任をもち、力の
あるほうに味方することができる。
So many farmers sell as soon as they receive a good offer and move into a town. 
それで多くの納付は、よい条件がつけば、すぐ家を売り、町へ移動する。
Eventually there will be a shortage of good farming land.
結果的に、農地が不足することになるだろう。
One day the system in China will crash down like a shaky old house.
いつか中国のこのシステムは、がたがたの古い家のように崩壊するだろう。
D
Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識の変化

 どちらが正しいとか、正しくないとか、そういうことではない。
しかしここまで話を聞くと、多くの方は、こう思うにちがいない。
「最初は、中国人夫婦の言い分は、常識はずれと思った。
が、そうでもないのではないか」と。

 私も知れば知るほど、むしろ中国人夫婦の言い分のほうが、正しいように思えてきた。
日本人は、「自分がどんな家を建てようが、自分の勝手」と考える。
となり近所の家との調和を考えて、家を立てる人はまずいない。
店を閉めるときもそうだ。

 また「地域」という考え方も、希薄。
商店街の店々が、客を回しあうという話は、最近ではめったに聞かなくなった。
……というか、全国的に、町の通りに並ぶ商店街は、つぎつぎと姿を消しつつある。

●意識

 長い前置きになったが、意識というのは、絶対的なものではないということ。
当然、常識にも絶対的なものは、ない。
私の経験をもとに、話を進めてみたい。

●親のめんどうをみる

 4年おきに、内閣府(旧総理府)は、青年の意識調査をしている。
それによれば「将来、親のめんどうをみる」と考えている若者は、どんどんと減っている。
その多くは、「経済的な余裕があれば、みる」と答えている。

 将来、どんなことがあっても、親のめんどうをみる……28%(日本人・内閣府、平成21年調
査)。

 この数字がいかに衝撃的なものであるかは、他の国々の若者たちのそれと比較してみると
わかる。
私たちが内心では、「さぞかし低いだろうな」と思っているアメリカ人にしても、64%。
アジア各国の若者についてみると、軒並み、80%前後。

 が、この数字はどう考えてもおかしい。
日本は1970年代から高度成長の大波に乗り、世界の歴史の中でもまれにみるほどの大発
展を遂げた。
当然、その時代に生まれた子どもたち、つまりこの会場にいるお父さん、お母さんたちは、たい
へん恵まれた環境の中で、生まれ育った。

 つまり親にもっとも感謝してよい世代の人たちということになる。
そういう人たちが、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
が、現実問題として、経済的に余裕のある人は少ない。
とくに若い世代の人たちは、そうだ。
みな、目一杯の生活をしている。
車にせよ、家財にせよ、あって当たり前の時代に生きている。
私たちの時代と比較するのもヤボなことはよく知っている。
しかし私たちの新婚時代は、たとえばボットン便所から始まっている。
が、やがて小さなアパートに移った。
6畳と4畳だけの、小さなアパートだった。
そこで私ははじめて、水洗トイレの家に住んだ。
うれしかった。
何度も水を流し、においのしないトイレに感動した。

 そういう積み重ねがあった。
が、何よりも大きな違いは、親に対する考え方である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%


★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?


自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。


★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか


『そう思う』(2)
イギリス  70.1%、
アメリカ  67.5%、
フランス  62.3%、
日本  47.2%、
韓国  41.2%
(以上、内閣府、平成21年調査より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●収入の半分は、実家へ

 私たちの時代に、だれかがこう聞いたとする。
「君は将来、親のめんどうをみるか」と。
もしそんなことを聞かれたら、私は迷わず、こう答えたであろう。
「バカなことを聞くな!」と。

 「当然のこと」という意味で、そう答えたであろう。

 事実、私は浜松市に住むようになってから、収入の約半分を、実家に送った。
結婚前からそうしていた。
現在のワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だからワイフも、何も文句を言わないで、収入の半分を実家へ送った。
それだけではない。
私の母は、ときどき私のアパートへ来ては、現金をもって帰っていった。
私の土地を勝手に売ってしまったこともある。
それについて私が泣いて抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。
「親が先祖を守るために、息子の金を使って、何が悪い!」と。

 母を責めているのではない。
母は母で、その当時の常識に従って生きていた。
今の私が自分の常識に従って生きているように。
今のあなたがたが、自分の常識に従って生きているように。

●出世主義から家族主義へ

戦時中から戦後へ。
日本は敗戦により、大きく変わった。
が、そう見えるのは、表面的な部分だけ。
つまり包装紙が変わっただけ。

「お国のため」が、「会社のため」になった。
「兵士」は、「企業戦士」になった。
それまでの「神国日本」は、「金権日本」になった。

 こうして戦後生まれの世代、つまり団塊の世代と言われる私たちの世代は、会社人間とし
て、社会へと巣立っていった。
だから当時の学校では、卒業式などには、決まってこう言われた。
「社会で役立つ人間になってください」と。
耳にタコができるほど、私たちはそれを聞かされた。

 が、これではいけない。
個人が組織の犠牲になってはいけない。
個人が家族の犠牲になってはいけない。

 たとえば私などは、「親孝行」という言葉も、それこそ耳にタコができるほど、聞かされて育っ
た。
それを如実に表す言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という、あの言葉である。
あの言葉ほど、恩着せがましく、同時に、真綿で首をしめるような言葉はない。
だからこそ、それが私の常識となり、給料を手にするようになってからも、収入の半分を実家
へ送るということにつながっていった。

●反動

だから私は3人の息子たちを育てながらも、そういう言葉は、絶対に口にしないと誓った。
事実、言ったことはない。
反対に、こう言った。
「お前たちの人生は、お前たちのもの。お前たちはお前たちの人生を、自分の好きなように生
きろ」と。

が、変革は、若者たちのほうから始まった。
その象徴的な人物が、尾崎豊である。

●尾崎豊の『卒業』

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」という、あの歌である。
私ははじめてあの歌を聴いたとき、ふつうでない衝撃を受けた。
「ああいう歌を歌うから、学校の窓ガラスが割られるのだ」と。

 が、それはまさに若者たちの、世代闘争の始まりだった。
少し時代が逆行するが、私たちの時代は、60年安保、70年安保を経験した。
それは権力との闘いだった。
何かわからない。
わからないが、自分たちの体をがんじがらめにしているものと闘った。
よくイデオロギー(政治的信条)が問題になったが、イデオロギーをもっているのは、学生の中
でもほんの一部。
大部分の学生たちは、言うなれば、祭り騒ぎのひとつとして、闘争に参加した。
「祭り騒ぎ」というのは、少し言い過ぎかもしれない。
しかし今、振り返ってみると、そういう印象をもつ。

 で、私たちの時代を、反権力闘争の時代とするなら、尾崎豊らが提起した闘争は、反世代闘
争ということになる。
旧態の価値観を打ち破り、自分たちの時代を確立しようとした。
わかりやすく言えば、自分たちの世代を、それまでの世代と、切り離そうとした。

 が、これはその世代の人たちにとっては、不幸なことでもあった。

●世代闘争

 知恵や知識は、世代から世代へと、受け継がれていく、
が、それを自ら断ち切ってしまう。
切るだけならまだしも、古い世代の知恵や知識を、意味のないもの、価値のないものとして、排
斥してしまう。
事実、排斥した。
古い世代の言葉に耳を傾けなくなった。
つまり断ち切った世代は、すべてを、ゼロから始めなければならない。

●行き過ぎた価値観

 こうして尾崎豊の世代は、より過激になっていった。
というより、尾崎豊は、その時代の若者たちの心を代弁した。
共感を得たというのは、そういう意味。
CBSソニーに問い合わせたところ、あの『卒業』は、シングル盤も含めて、200万枚以上も売
れたという。

 誤解がないように申し添えておくが、私自身は、尾崎豊が大好きである。
『卒業』も大好きである。

 で、若者たちは、世代闘争を繰り返し、自分たちの時代を確立した。
その結果が、今のみなさんの世代ということになる。
新しい価値観を構築した。

●2つの問題

 が、今、ここで大きな問題が起きてきた。
私はその問題を、つぎの2つに集約する。

ひとつは、(1)行き過ぎた家族主義。
もうひとつは、(2)欲望至上主義。

 行き過ぎた家族主義については、先に少し触れた。
日本が行動性長期にさしかかるころ、「核家族」という言葉が生まれた。
それがしばらくすると、「カプセル家族」という言葉に置き換わった。

 核家族というのは、夫婦と子どもたちだけで構成される家族をいう。
カプセル家族というのは、硬いカラの中に閉じこもってしまい、独自の価値観を極端化してしま
う家族をいう。
高学歴の父母に、多く見られた。
「私たちの育て方が正しい」と言いながら、その返す刀で、相手の価値観を否定する。
教師すらも、「下」に置くことによって、自分流の育児観をごり押しする。
具体的には、その派生として、「教育ママ」という言葉が生まれた。
「モンスターママ」という言葉も生まれた。

 が、問題はこれだけでは収まらなかった。
行き過ぎた家族主義の結果として、その「家族」から、「祖父母」の姿が消えた。
今、若い世代の人たちが使う「家族」という言葉の中には、「祖父母」、つまり自分たちの両親
の姿はない。
祖父母は、つまり自分の親たちは、家族ではない。

 このことを短絡的に、独居老人、孤独死、無縁死と結びつけるのは危険なことである。
ある社会学者の推計によれば、今後約60%の老人が、孤独死するという。
しかも発見までの平均日数は、6日。

 こういう話をすると、ここにいるみなさんは、「私はだいじょうぶ」と思うかもしれない。
「私と子どもの関係は絶対。親子の絆も太い」と。
しかしそれはどうか。
ここにあげた60%という数字は、私たちの世代の数字ではなく、現在の40代、50代の人たち
の数字である。

ともあれ家族、とくに祖父母とその息子、娘の間の絆が、もろく壊れやすくなっているのは、事
実。
それが先にも書いた、「経済的に余裕があれば……」という言葉につながっていく。
この言葉を裏から読むと、「経済的に余裕がなければ、親のめんどうはみない」。
さらには「親の恩も遺産しだい」という考え方につながっていく。

 ついでながら、世代闘争をした結果、老人は社会の隅に追いやられてしまった。
本来なら政治がそうした社会的欠陥を補完しなければならない。
が、その政治が追いついていない。
その結果が、現在の老人福祉政策ということになる。

 昔は、息子や娘が親の老後のめんどうをみた。
今は、みない。
そのかわり……という部分が未完成のまま、労時福祉政策だけがアタフタとしている。
たとえば私の近所にある特別養護老人ホームにしても、症状にもよるが、2年待ち、3年待ちと
いうのは、ザラ。
順番にしても、100番待ちという状況がつづいている(浜松市中区長寿保険課調べ)。

●欲望
 
 もうひとつは、欲望至上主義。
その代表的なものが、恋愛至上主義。

 韓流ブームに代表されるように、今の日本は、恋愛市場主義一色。
たがいに愛しあっていれば、何でも許される、と。
昔で言う駆け落ちなど、いまどき珍しくも何ともない。
結婚するについても、ほとんどが事後承諾。
親の許可を求めたり、親の意見を聞く子どもは、皆無。
まずいない。
皆無ということは、実は、この会場に来ているあなたがた自身が、いちばんよく知っているは
ず。

 ある男性は、実家へ規制するたびに、別の女性を連れてきた。
そしてそのたびに親にこう言ったという。
「パパ、(彼女の)名前をまちがえないでよ」と。

 そして別のある日のこと。
また突然、別の女性を連れてきて、「結婚することにしたから、よろしく」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、理解できないだろう。
「どこが悪いのだ」と。
それが冒頭で話した、「常識」ということになる。
「意識」そのものが、ちがう。

 私たちの時代には、それがよかったとは思っていないが、しかし親の承諾なしには結婚はで
きなかった。
仮に恋人ができたとしても、そこには「実家」という大きな関門があった。
私自身にしても、実家の父や母のことを考えるあまり、一度、ある女性との結婚を断念してい
る。
親が反対したわけではないが、自ら、そうした。
それが私たちの時代には、常識だった。

●フェニルエチルアミン

最近の脳科学では、感情は、脳ホルモンによるものというのが、定説になりつつある。
恋愛とて例外ではない。
恋愛も、脳ホルモンによるもの。
それがフェニルエチルアミンである。

 その時期になると、男や女は、熱烈な恋愛をする。
身を焦がすような、甘い陶酔感。
当の本人たちは、自分の意思で恋愛しているように思っているかもしれない。
しかし実は、脳ホルモンの奴隷になっているだけ。
それが悪いというのではない。
人間には、動物として、種族を後世に残すという重大な任務がある。
またそれがあるから、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに価値がある。

 たとえば10年ほど前、『タイタニック』という映画が、大ヒットした。
あの映画の中に、もしジャックとローズがいなかったら、あの映画はただの船の沈没映画にな
っていただろう。

 しかし何ごとも行き過ぎはよくない。
恋愛はすばらしい。
人生の花。
しかしそれに溺れてしまってはいけない。
恋愛至上主義に走るということは、欲望の奴隷になることを意味する。
酒に溺れたり、タバコに溺れるのと同じ。
最近の脳科学によれば、視床下部から発せられたシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され
る。
それが生きる原動力にもなっている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」にもつながる。
しかしそれが行き過ぎると、先にも書いたように中毒性をもつ。
麻薬性をもつ。

 わかりやすく言えば、自分を見失う。
自分が自分であって、自分でなくなる。
恋は盲目とはいうが、盲目程度ではすまなくなる。
だから、こわい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。

 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。

 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。
食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まって、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。
わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容体が形成されるかによって決まる。

たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それぞれ別の受容体が形成されること
がわかっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これから……

まず念頭に置くべきことは、私たちがもっている常識というのは、絶対的なものではないという
こと。
その常識を疑う。
私やあなたがもっている常識を疑う。
いろいろな弊害が生まれてくれば、なおさら、である。

 その常識の基本となっている意識。
その意識を変えることは可能である。
その一例として、冒頭で、中国人夫婦の話をした。
つまりこの話の中に、問題を解くヒントが隠されている。

 方法は、(1)常識のおかしさに気づくこと。
つぎにそれに気づいたら、(2)意識を変える。
そのために自分の心を風通しのよいものにする。
視野を広くして、他人に考えに進んで耳を傾ける。
そういうことをわかってもらいため、冒頭で、忠臣蔵の話をした。
水戸黄門や釣りバカ日誌の話をした。

 同じように、私たちが今もっている家族観、育児観をながめなおしてみてほしい。
意識が変われば、ものの見方が180度変わるということもよくある。
同時に常識も、変わる。

 今日の講演では、つぎの2つの焦点をしぼって、みなさんに伝えたい。

(1)家族主義から新家族主義へ

 これから子どもたちに「家族」の話をするときは、そこに「祖父母」、つまりあなたがたの両親
の姿を加える。
これはあなた自身のためでもある。
それがわからなければ、今の自分の年齢に、子どもが社会人になるまでの年数を足してみれ
ばよい。
「子育てがやっと終わった」と思った瞬間、そこに待っているのは、あなた自身の「老後」であ
る。
今度は、あなた自身が、その「祖父母」ということになる。

が、今、みなさんは、自分の姿と「下」、つまり子どもの姿しか見ていない。
しかしそれではいけない。
「家族」というときは、そこには当然、「祖父母」も含まれなければならない。
これが第一。

(2)欲望至上主義の是正

 欲望の追求には、ブレーキをかけなけばならない。
そのひとつとして、「恋愛」を例にあげた。
恋愛はけっして、すべてに優先されるべきものではない。
たとえそれが身を焦がすほどつらいものであっても、だ。
あなたであってあなたでない部分が、あなたを操っているだけ。

 ニコチン中毒や、アルコール中毒と、メカニズム的には同じ。
脳の中の線条体というところに受容体ができ、そこで条件反射運動を起こしているだけ。
欲望の奴隷になってよいことは、何もない。

 で、恋愛をひとつの例としてあげた。
もちろん恋愛を、欲望と考えてよいかどうかという点については、異論、反論もあるだろう。
しかしフロイト学説に従うなら、「性的エネルギー」は、すべての欲望の原点になっている。
そういう意味で、ここで恋愛をひとつの例として、考えてみた。
つまり「恋愛」という仮面にだまされてはいけない。
それが正当化されるのを許してはいけない。

●では、どうすればよいのか

子育てには、多くの誤解がある。
たとえば「すなおな子ども」という言葉がある。
「すなおな子ども」というと、ほとんどの人は、親や先生に従順で、親や先生の言うことを、ハイ
ハイと聞く子どもと考えている。
が、これは誤解。

 心理学の世界で「すなおな子ども」というときは、情意、つまり「心」の状態と、顔の表情が一
致している子どもをいう。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。
悲しいときには、悲しそうな顔をする。
そういう表現が、自然な形でできる子どもを、すなおな子どもとい。

 つぎにやさしさ。

●やさしさ

「やさしい子ども」というと、たとえば柔和でおだやかな子どもを想像する人は多い。
が、そういう子どもを、「やさしい子ども」とは言わない。
たとえばブランコに乗ってたとする。
そのとき別の誰かがやってきて、ブランコを横取りしたとする。
そういうとき、「いいよ……」と言って、ブランコを明け渡してしまう。
そういう子どもを、やさしい子どもとは言わない。
またそういう子どもほど、また別のところでさまざまな問題を引き起こすことがわかっている。

 では、どういう子どもをやさしい子どもというか。

 子どもにとって「やさしさ」というのは、より相手の立場になって考えられる子どもをいう。
たとえばショッピングセンターで、ものを買うときも、いつもだれかのことを考えて買う。
「これはお父さんの好物だね」とか、「これを買ってあげると、お兄ちゃんが喜ぶね」と。
もう少し専門的に言えば、より自己中心的でない子どもを、「やさしい子ども」という。
またそれができる子どもを、(子どもに限らないが)、人格の完成度の高い子どもという。
人格指数、つまり人格の完成度を知る、ひとつのバロメーターにもなっている。

 が、今日の話に関係しているのが、忍耐力ということになる。
その忍耐力も、よく誤解される。

●忍耐力

よく「うちの子はサッカーだと一日中しています。
忍耐力はあるはずです。
そういう力を、勉強に向けさせたいが、どうしたらいいか」と相談してくる親がいる。
しかしそういう力は、忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。

 子どもにとって、またおとなにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。
ためしに今日、家に帰ったら、子どもにこう言ってみるとよい。
「台所の生ゴミ、きれいにして」と。
「風呂場にたまった毛玉を掃除して」でもよい。

 そのときあなたの子どもが、何もためらわずそれができたとしたら、あなたの子どもは忍耐力
のある子どもということになる。

●では、どうするか

 それが冒頭にあげた話、ということになる。

 子どもは使う。
使って使って、使いまくる。
長い前置きと、回り道をしたが、これが結局は、この講演の結論ということになる。

『子どもは使う』。

 ついでに言うなら、古来、この日本では、子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせ
ることというふうに考える。
「楽」イコール、「楽しませること」と考える人も多い。
それに拍車がかかったのが、高度成長期に入ってから。
それこそ子どもが生まれると、蝶よ花よと手をかけた。
時間をかけた。
お金もかけた。

 その結果、私たちの時代で、「ドラ息子」「ドラ娘」と呼ばれる子どもたちがふえた。
ふえたというより、そういう子どもが主流になった。
すでに20年前には、そうでない子どもは、さがさなければならないほど、少なくなった。
今では、高校生にしても、親に感謝しながら通っている子どもはいない。
大学生でもいない。
お金をもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかしそこまで。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どももいる。
それもそのはず。

 現在の子どもたちは、そしてここにいるお父さん、お母さんは、子どものときから「勉強しろ」
「勉強しろ」と言われて育っている。
ある女子高校生は、親が「大学進学をあきらめてくれ」と言われたとき、それに猛烈に反発し
た。
「子どもを大学へやるのは、親の役目。借金でも何でもして、私を大学へやって!」と。

 今は、そういう時代である。
子どもが社会人になりとき、その支度金まで、親が出す。
結婚式の費用も、親が出す。
さらに子どもが生まれると、その生活費まで、援助する。

 私たち団塊の世代は、こういう現状を見ながら、こうこぼす。

「私たちは両取られの世代」と。
親に取られ、子どもたちに取られ……と。
なぜ、こうなってしまったか。
それが言うまでもなく、常識であり、意識であるということになる。
それがどのようなものであれ、一度はその常識を疑ってみる。
そして「おかしい」と感じたら、今度は意識を変えてみる。
そのヒントとして、今日は常識論、意識論にからめて、子どもをどう育てたらよいかを話してみ
た。

 これからの子育てのひとつの指針になればうれしい。
なぜならこの問題だけは、あなたがたみなさんの近未来の老後に直結する問題である。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(注※1)

●男は仕事、女は家庭?(2008年、調査)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(2008年8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほど、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%

そうは思わない……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに
対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)
●ああ、父親たるものは……!
++++++++++++++++++
平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(3)人格の完成

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。 

(1) 自己管理能力 
(2) 良好な対人関係 
(3) 他者との良好な共感性

とくに需要なのが(3)の共感性(より愛他的、非自己中心性)

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。



(2011年6月2日、作成)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 常識論 意識論 常識改革 意識改革 はやし浩司 父親のようになりたくない 
はやし浩司 父親を尊敬していない 総理府調査 青少年白書)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●無念

++++++++++++++++++++++

朝、起きる。
一番に、庭に鳥の餌をまく。
そのとき合図として、数回、ピーッ、ピーッと
口笛を吹く。
とたんスズメたちが、屋根の端でにぎやかくなる。

それがすむと、私は、縁側にあるウォーキングマシンの
上に乗る。
今朝も30分。
途中、2回、ウォーキングからランニングに変える。
このところずっと4分を限度にしてきた。
が、今朝は心に決めた。
5分間ずつ、2回、ランニング、と。

そうして歩き始めて数分のこと。
庭先のスズメたちを見ながら、歩いていると、
突然、上方から猫が飛びかかってきた。
白と黒の、目立つ色をした猫だった。
スズメたちは、一斉に飛び散った。

++++++++++++++++++++++

●消えたドバト

 そう言えば、ここ1か月、庭からドバトが消えた。
どれも私の庭の木の上で生まれ育ったドバトである。
先月だったか、庭先を掃除していると、ドバトの羽が一本、落ちていた。
ちょうど換羽期。
それほど気にはとめなかった。

 また3週間ほど前。
ワイフがやはり庭先で、ドバトの雛を拾ってきた。
冷たく、すでに死んでいた。
そのときも巣から落ちたのだろうくらいにしか、考えなかった。
が、理由がわかった。
猫だった!
猫がドバトを襲った!

●土手

 それ以前は、庭の中に餌をまいていた。
この20年近く、そうしてきた。
が、犬のハナがその餌を食べるようになった。
このところややボケてきた。
腹が減ると、何でも口にする。
それで数か月ほど前から、庭の前にある土手に餌をまくようにした。
土手は、囲いの外にある。

 土手の高さは、数メートル。
土手の上方には、ツツジの低木が生えている。
猫にはかっこうの隠れ場所である。
そこに猫は陣取り、ドバトやスズメの来るのを待つ。
上からジャンプすれば、スズメは逃げられるかもしれないが、ドバトにはそれができない。
それがわかったとたん、何とも言えない無念さが胸をしめつけた。

「しまった!」と。

●運動

 ウォーキングの上で運動している自分がもどかしかった。
今すぐにでも、土手に行き、ツツジをすべて切り払いたかった。
見通しをよくすれば、スズメたちにも、それがわかるだろう。

「明日からは、また庭にまこう」
「気を切ろう」
「柵を作ろう」と。

 しかしドバトは、もういない。
この1か月、姿を見ていない。
私は予定どおり、10分が過ぎたときから、ランニング・モードに入った。
とたん汗がにじみ出てきた。
一番汗は、ちょうど13分が過ぎたときのことだった。
ポタリとベルトの上に汗が落ちた。

 猫だった。
ドバトが消えた理由は、猫だった。
繰り返し、そう思った。
そのたびに、無念さが、何度も胸をしめつけた。

●柵

 運動がすむととすぐ、庭へ出た。
全身に汗をかいていた。
ひんやりとした風が、パジャマの下から流れ込んできた。

長靴に履き替えた。
このところの雨で、土手もすべりやすくなっている。
私は庭切りバサミをもつと、土手に登った。
低木の枝を片っ端から切った。
何度も、「チクショー」とつぶやいた。

 で、それが終わると、今度は網をもってきた。
温室の中にそれが残っていた。
それを土手の上方に、かけた。
何という無念さ。
「こんなところに餌をまかなければよかった」と。
何度も、自分を責めた。
何度も責めたが、責めきれなかった。

 土手に網をかけたところで、作業はストップ。
猫は上方ばかりから飛びつくとは、考えにくかった。
横からも、あるいは下からも飛びつく。
地形的に、それがわかった。

●無意味な権力闘争

 昨日、内閣不信任案が、国会で否決された。
簡単に言えば、小沢一郎がしかけた、政治的ワナ。
それに管総理が、ハマった。

 何という醜悪な権力闘争。
ヘドが出そうなほど、醜悪な権力闘争。
その醜悪さは、あの小沢一郎の顔を見ればわかる。
今の今も、東北地方では、被災者たちが苦しんでいる。
その最中に、内閣不信任案?
管おろし?

 火事で家が燃えさかっている。
家の中では、子どもたちが「助けて!」「助けて!」と泣き叫んでいる。
そんなときに夫婦げんか?
離婚騒動?

私は私なりに政治をながめてきたが、これほどまでに醜悪な権力闘争を見たことがない。
2011年という、今どき。
ああいう旧態依然の、つまり出世欲にとりつかれたような政治家がいること自体、信じられな
い。
国会を、『国盗り物語』の舞台にしている!

……というより、無念。

 今は、すべての責任問題を棚にあげてでも、挙国一致態勢で、震災処理、原発処理をしなけ
ればならないとき。
そんなときに、揚げ足をとり、内閣の足を引っ張っている。
その愚かさ。
その醜さ。

 小沢一郎がどうのこうのというより、そういう政治家しか選べない私たち。
そういう政治しかできない、この日本!
それが無念。
ただただ無念。

 何も管首相に肩入れするつもりはない。
しかしこんな時期に、首相を務めたいと願う人はいるだろうか。
想像を絶する重責。
私なら、とても務まらない。
頼まれても、断る。
事実、東京電力の社長は、イチ逃げた!

 それがわかったら、自民党にせよ、公明党にせよ、はたまた小沢一郎一派にせよ、今すべき
ことは、管首相に知恵を出し、協力すること。
そうでなくても、日本経済は崖っぷちに立たされ、よろめいている。
被災地での復興、復旧、さらには被災者たちの救済も、今、やっと始まったばかり。
何よりも心配なのは、原発。
原発事故は、日増しに深刻さをましている。

●無念

 今朝は、そういうわけで、どうも気分がすっきりしない。
何とも言えない無念さが、胸の中でじゅうまんしている。
やりようのない無念さ?
壁をかきむしるような無念さ?

 自分の愚かさを恥じ、日本の愚かさを恥じる。
小沢一郎も、少しは自分に恥じたらよい。
ヘラヘラと意味のわからない高笑いを繰り返すのではなく、もう少し国民の目線で、政治をなが
めてみたらよい。
そうすれば少しは、自分の醜さもわかるだろう。

 ただただ無念。
もうすぐワイフが床から起きてくる。
どうやって猫の話をしようか。
ワイフも悲しむだろう。
それを想像すると、つらい。

 今朝の「日本経済新聞」の見出しには、こうある。

『「菅降ろし」早くも再燃
 延命狙い、民主内部に反発』と。

 もう私には、バカとしか言いようがない!

 2011年6月3日、朝記。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【ある相談より】

++++++++++++++++++

徳島県に住んでいる、HSさんという
女性より、こんな相談が届いた。

++++++++++++++++++

●離婚問題

夫(37歳)、私(35歳)、長女(小5)、長男(小4)

++++++++++++++++++

【HSさんより、はやし浩司へ】

先日は、子どもの友達のことでの返信を頂き、ありがとう
ございました。

今回は以前にも相談にのって頂いたことがあるのですが、夫の
ことで相談させて下さい。

何年か前に「離婚」を考えている内容の相談をさせていただきましたが、
未だに離婚には至っておりません。

子どもに対して、それほどヒドイ言動や態度はありませんが、
長女は朝起こした時によく、「パパは(今何してる)?」と聞きます。
息子(小2より不登校中)は、「パパと留守番するなら一人の
方がいい」と言ったことがあります。
夫が一緒だと出かけるのも嫌がります。

息子が不登校児になってからは、私の勤務時間が短くなり、食費を
出せなくなりました。
(それまでは私のパート代から食費を出していました)
それを夫に伝えると、食費を渡すことはしてくれませんでしたが、夫が食事
の支度(買い物も)を、してくれるようになりました。

食事の支度をしてくれることは、ありがたいと思っています。

 私が今回お話したいのは、夫にコミュニケーションをとる気が
ないことです。

「明日のお弁当いるみたいだよ」と言っても返答なし。
「聞いてる?」と言うと、「さっき、聞いた」と。

こんな感じの会話ばかりです。
家では(子供の前でも)ニコリともせず、口を開けば不機嫌そう
な言い方や命令ばかり。
挨拶もロクにしません。

最近は、晩御飯を食べ終わったあとに、子どもたちは私の実家へ
行きたがり、近いこともあり、毎日行っています。
(夫が飲み会などでいない時も行っていますが。)

2年ほど前に、電話の受話器を投げつけられ、私の腕に当たって
ケガをしたこともあります。
 
 コミュニケーションをとろうとしない夫は、どこにでも
いますか?

私自身、子どものまえでは明るく振る舞っていますが、家の中の
雰囲気がが暗くてうんざりしています。

家計を夫が握り、子どものものを買うのにも、いちいち夫に
言わなければ買えなかったり、嫌な顔をされたりするのにも
疲れました。

こんな気持ちで離婚せずに今の生活を続けることは、子どもに
とってどうなんでしょうか?
不登校中の次女にとって、離婚は悪影響ですか?

長くなってしまいすみません。
よろしくお願いします。

【はやし浩司より、HSさんへ】

●家庭騒動

 現在のHSさんの家庭を支えているのは、HSさんの実家の両親ということになります。
あなたと実家の両親との関係がよくわかりませんが、良好なものであることを願っています。
また良好であれば、まず相談すべき相手は、あなたの両親ということになります。
離婚という形になればなおさら、実家の存在は大きくなるでしょう。

書き忘れましたが、いまどき離婚など、何でもありません。
珍しくもありません。
日本人でも、20数%の人が、離婚を経験しています。
5人に1人です。
アメリカ人の離婚率と、それほど、ちがいません。

 離婚が問題ではありません。
離婚に到る家庭騒動が問題です。
子どもの心に影響を与えるのは、離婚ではなく、そこに到る家庭騒動、ということです。
家庭騒動だけは、避けてください。

●まず自立

 現在、お子さんがその年齢なので、あなた自身の経済的自立はむずかしいかもしれません。
しかしもう少したてば、あなたも仕事ができるようになります。
そのときは、経済的自立をめざしてください。
あとのことは考えない。
まず経済的自立。
あとは、成り行きに任せます。
水が流れ行く場所を求めて流れていくように、自然な形で、あるべき方向に向かってものごと
は進んでいきます。
それでも夫婦であれば、それもよし。
離婚に向かうようであれば、それもまたよし。
あとは自然体。
自然の流れに任せます。

(実際、私の周辺でも離婚していく人というのは、本当に静かです。
なるようになっていくという感じです。)

どうせこの世に、完ぺきな夫婦など、いません。
みな、外から見ると幸福そうに見えますが、そう見えるだけ。
どの夫婦も毎日、いろいろな問題をかかえ、悩んだり迷ったりしています。

 とにかく今は、2人の子どもをかかえ、たいへんなとき。
経済的にもきびしい様子なので、がまんできるなら、がまんしたほうがよいでしょう。
「それでも離婚!」ということなら、実家の両親に相談してみてください。
実家の両親の協力なくして、今の状況では、離婚は不可能です。

●夫婦の会話

 ああでもない、こうでもないと、それを繰り返しながら、たがいに生きていくのが、夫婦です。
私たち夫婦も、公式どおり(?)、倦怠期→緊張期→爆発期(夫婦げんか)→冷淡期→仲直り
期→円満期→倦怠期を、繰り返しています。
周期は、2〜3か月といったところでしょうか。
若いころ(30〜40代)は、1〜2か月でした。

 現在HSさんが、どういう状況にあるかわかりませんが、夫婦というのは、そのつど変化する
ものです。
だから昔からこう言います。
『夫婦げんかは、犬も食わない』と。

 で、どうであるいせよ、今まで夫婦でいられたということは、それなりにたがいに惹かれるもの
があったからではないでしょうか。
あなたは愚痴を言いながらも、少しゆがんだ形かもしれませんが、内心では夫を愛していま
す。
本当に離婚を考えるときというのは、子どものことなど考えられなくなります。
つまり子どもの心配をしているようであれば、離婚などできないということ。
まだその段階ではないということ、です。

●倦怠期

 「うんざり」ですか?
 
 だったら、HSさんは、HSさんで好き勝手なことをすればよいのです。
夫にそれを求めるのではなく、自分で自分のしたいことをする。
今の私も、こうしてパソコンに向かって好き勝手なことをしています。
ワイフはワイフで、台所で好き勝手なことをしています。
だから夫婦でいられるのです。

 ある賢人は、こう言いました。

『結婚前はよく見つめ合う。結婚したら、たがいに前だけを見て、進む』と。
あるいはアンネ・フランクは、こう書いています。

Think of all the beauty that's still left in and around you and be happy! 
(まだあなたのまわりに残っているすべての美しいものを頭の中で考えなさい。そして幸福を感
じなさい。)

 危機とまではいかないにしても、危機的な状況かもしれませんが、心のどこかで「夫婦って、
まあ、こんなもの」と割り切れるようであれば、割り切ってください。
いろいろ不満もあるでしょうが、夫に期待しすぎないこと。
求めすぎないこと。

 私の年齢になるとですね、平均余命も少なくなってきたこともありますが、同時にあちこちで
友人や知人、その妻や夫が、ポツポツと他界していきます。
そのため、ものの考え方が大きく変化してきます。
たとえば今のHSさんの家庭の様子を読んでも、内心では、うらやましく思ってしまいます。
「いいなあ」とです。

 健康だし、死の影はどこにもない。
その気になれば、やりたいことが、何でもできる。
歩ける、走れる、見える、聞こえるということだけでも、すばらしい。
そこに夫がいて、2人の子どもがいる。
それだけでも、すばらしい。
孤独とは無縁。
孤独の恐ろしさも知らないですむ。
うらやましいです。

 どうかそういう私のような人間もいることを、心のどこかにとめ、もう一度自分や家族、みなの
置かれた環境をながめてみてください。
アンネ・フランクのいう「beauty(美)」の意味がわかると思いますよ。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司



Hiroshi Hayashi+++++++JUNE 2011++++++はやし浩司・林浩司

【管直人首相、めげるな!】

●火事場の夫婦喧嘩

+++++++++++++++++++++

今日(6月4日)、福島第一原発の1号機で、
4000ミリシーベルト(4シーベルト)の
放射線が観測された。

『4000ミリシーベルトは、一般人の
年間線量限度(1ミリシーベルト)の
4000倍に相当し、一気に浴びると
半数が死ぬとされる』とある(毎日新聞・
6月4日)。
「9〜10シーベルトで即死」とも
言われている。
4000ミリシーベルトという量は、
そういう量をいう。
(4000ミリシーベルト=4シーベルト。念のため。)

放射線の種類にもよるが、たいへんな量である。
が、東京電力側は、つぎのようなコメント
を寄せている。

『放射線量は、3日に遠隔操作ロボットが入って測定した。
東電は「これほど高い線量が出ているのは建屋内の
限定的な範囲で、従来の収束計画に大きな影響が出るとは
考えていない」(同、毎日新聞)と。

私もかなり詳しくなった。
勉強した。

で、4シーベルトという放射線量は、きわめて
危険な値であることには、ちがいない。
つまり火事場の現場では、今の今も、
ボーボーと火が燃え盛っている。
ただ、相手は放射線。
煙といっても、その煙は目には見えない。
その向こうには、いつもと変わらない、
のどかな青い空が見える……。

++++++++++++++++++++

●火事場の夫婦喧嘩

 昨日も書いたが、自分の家がボーボーと燃えているとき、その外で夫婦喧嘩をしているバカ
がどこにいる?
家の中では、子どもたちが「助けて!」「助けて!」と声を張りあげている。
が、肝心の夫婦(両親)は、言った言わないで、大喧嘩。
今の日本の現状を簡単にたとえると、そうなる。

●「管首相、やめろ」?

 が、その一方で、国民まで「管首相、やめろ」の大合唱。
今日の世論調査を見ても、60%近い人たちが、「退陣せよ」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
が、問題は、そのあと。
だれがその後を、引き継ぐのか。
別の報道によれば、官庁も、同じ民主党の政治家たちさえも、管首相に非協力的な姿勢をみ
せ始めているという。
しかしこれでは、ますます問題はこじれるだけ。
解決が遠のくだけ。

●協力

 今は、挙党態勢どころか、挙国体制で、問題解決に臨むべき時。
みなが知恵を出し合って、問題解決に臨むべき時。
政治評論家の中には、「戦時」にたとえる人もいる。
そんな時に、「足の引っ張りあい」をしていて、どうする。
どうなる。

 ある小学校では、避難が40分も遅れ、(40分だぞ!)、7割の子どもたちが津波にのまれ、
命を落としている。
理由は避難場所をどこにするか、教師どうしで、決まらなかったためという(報道)。
何とも痛ましい悲劇だが、今まさに、この日本は、同じ悲劇を繰り返そうとしている。
しかも国家レベル、で!

●国家危急の一大事

 今、私は日本の政治に、心底、失望している。
この原稿を読んでいる、ほとんどの人もそうだろう。
管首相をかばうわけではないが、ものごとはそこにある「現実」を基盤に考えなければならな
い。
こうした国家危急の一大事の時は、とくにそうである。
原因を追究したり、責任を追及すべき時ではない。
まず「火を消す」。
喧嘩は、その後。

●万事休す

 原発事故を、軽く見過ぎている。
……というより、考え方が、甘い。
原発事故は、そんなものではない。
へたをすれば、やがてすぐ東京にだって、人はだれも住めなくなる。

たしかに対策はつぎつぎと、とられてはいる。
浄化装置の設置、タンクの設置などなど。
が、肝心の原子炉自体はというと、事は、日々に悪化している。
そんなことは新聞報道を少しだけ注意深く読んでみたらわかるはず。
今日報道された「4000ミリシーベルト」というのもそのひとつ。
原子炉一機だけでも爆発したら、(とくに3号機が爆発したら)、万事休す。
広島原爆の数百倍もの放射性物質が、周囲に飛び散ることになる。

●知恵を出す

 みなさん、ここは冷静になろう。
冷静になって、今は管首相というリーダーを信じ、任せよう。
心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。
私たちは今、管首相を信ずるしかないし、ことの重大さを管首相はじゅうぶん認識しているは
ず。
少なくとも今、管首相の足を引っ張ったところで、よいことは何もない。

 ここで私たちが非協力的になり、騒げば騒ぐほど、管首相はリーダーシップを発揮できなくな
る。
むしろ復旧、復興の足を引っ張ることにもなりかねない。
今大切なことは、「あれが悪い」「これが悪い」と揚げ足を取ることではない。
「あれもできる」「これもできる」と、みなが知恵を出しあうことである。

●ペテン師?

 あの鳩山氏が、管首相をさして、「ペテン師まがい」と言った。
いくらなんでも、これは言い過ぎでは?
言った本人(=鳩山氏)のほうが、品をさげる。
本物のバカはどちらかということになれば、鳩山氏のほうということになる。
たとえそうであっても、それは内部で使う言葉。
外に向かって言う言葉ではない。

そんなこともわからない人物が、総理大臣をしていたのか?
自身の退陣時の結末を振り返れば、とてもそんな言葉は出てこないはず。
野党の政治家ならまだしも、同じ与党の政治家ではないか。
鳩山氏は、さらにこうも言った。
「(こんなことなら)不信任案に賛成しておけばよかった」と。

 もしそうなら、まず民主党に離党届を出すべき。
出した上で、こうした発言をすべき。

●管直人首相、めげるな!

 私には、どうしても理解できない。
どうして管首相が、こうまで叩かれるのか。
叩かれなければならないのか。

 しかし私が見るかぎり、管首相は、精一杯、職務を尽くしている。
がんばっている。
誠実な人柄は、テレビ画面を通してでも、わかる。
むしろ醜悪なのは、小沢一郎氏のほう。
あるいは日本人は、そんなこともわからないほど、目が曇ってしまったのか。

 原発にしても、それを先頭に立って推進してきたのは、自民党。
さんざん甘い汁を吸ってきたのは、自民党のほうではないのか。
そういう事実をさておき、内閣不信任案とは?
だから私は、少数派かもしれないが、こう言いたい。

「管直人首相、めげるな!」と。

●国家破綻

 今は、すべての政党が一時休戦をすべき時。
そこにある「危機」と戦うべき時。
わかりやすく言えば、夫婦喧嘩をしているようなばあいではない。

 こんなことをしていれば、喜ぶのは、あのK国だけ。
韓国や中国だけ。
どうしてそんなことが、わからないのか。
今や、日本経済そのものが、崖っぷちに立たされている。
ここで舵取りを誤ったら、日本は、それこそ奈落の底へ。
デフォルト(債務不履行)。
国歌破綻。
アジアの中でも、二流国、三流国になりさがってしまう。

「それでもいい」と考える人もいるかもしれない。
が、もしそうなれば、これからは日本人が外国へ出稼ぎに行かねばならない。
食料不足で、餓死者が出ることにもなりかねない。
私やあなたの世代の話ではない。
今の子どもたちの世代の話である。

●失望

 私は失望した。
心底、失望した。
「これが私の国か」と。

 火事の最中に、離婚騒動?
どこかの首長は、涙をにじませながら、こう言った。
「どうしてこんな時に!」と。
言い換えると、現実と政治が、あまりにも遊離している。
かけ離れている。
永田町に住んでいる政治家たちには、それがわからないのかもしれない。
しかしものごとは、一歩退いて考えてみたらよい。

 この広い宇宙の中の、小さな惑星。
その惑星の中の、これまた小さな国。
私たちは、その小さな国で、一瞬にして生まれ、そして死ぬ。
が、人間の命は、この宇宙より重い。
現に今回の3・11大震災では、3万人近い人たちが、尊い命を落とした。
その(重さ)を少しでも感じたら、バカげた足の引っ張りあいをやめよう。
もううんざり。
たくさん。
書き忘れたが、「権力」などというものは、腸から出るカスのようなもの。
そんなもので身を飾って、どうなる?

 管首相に、いろいろ言いたい人もいるだろう。
しかしそれは問題が解決してからでよい。
管首相が言うように、1年後でもよい。
2年後でもよい。
どうして「6月いっぱい」なのか?
「9月いっぱい」なのか?
だからあえて私は、繰り返す。

「管首相、めげるな!」。


Hiroshi Hayashi+++++++JUNE 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
●思考と思想

+++++++++++++++++++

思想家とそうでない人のちがいは何か。
それについて考えてみたい。

+++++++++++++++++++

ある著名なドイツの哲学者の脳みそを解剖
した人がいた。
が、その人は、脳みそのどこをさがしても、
一文も言葉を発見できなかったという。
……というのは、ジョーク。
いつか、だれかから聞いたジョーク。

それはその通りで、思想にせよ、哲学にせよ、
それは「形」として脳みその中に残るものではない。
思想というのは、(もちろん哲学にしても)、
考えながら、同時進行の形で、脳の中で
形成されていく。
たとえば今の私が、そうだ。
(もちろん私は、著名でもなんでもないが……。)

最初から書きたいことが決まっているわけではない。
おおざっぱな部分は、あら筋のように決まっている。
しかし細部は、決まっていない。
さらに言えば、最初は、真っ白。
脳の中には、何もない。
それはちょうど白い紙のようなもの。
広い空間ががらんとしているだけ。

が、こうして書き始める。
するとつぎつぎと言葉が浮かんでくる。
言葉だけではない。
四方八方に、思考が飛び散る。
あちこちへ話がつながっていく。
それをコントロールしながら、思想に
まとめていく。

そのとき当然、さまざまなブレーキも働く。
「これはちがうぞ」「別の意見もあるぞ」
「これは書き過ぎ」と。

こうしてそのつど自らを軌道修正していく。
ものを考えるということは、そういうこと。
だから私のばあいも、「ものを書くとき以外、
ものを考えない」となる。
こうして文字にしてはじめて、思想が「形」を
もち始める。

そこで自分の脳の働きを観察する。

(1)ばくぜんと書きたいことが浮かんでくる。
(2)それを書き始める。
(3)とたん、無数のモヤモヤが脳に充満してくる。
(4)それを文として、まとめあげる。
(5)そのつど軌道修正する。
(6)さらに文として、まとめあげる。
(7)これを繰り返す。

 ということは、基本的には、脳みそは2つの
仕事しかしていない。
ひとつは、ものを書くという仕事。
もうひとつは、軌道修正するという仕事。

もし脳みそを解剖して見つかるものがあると
するなら、この2つのことということになる。
ほかのものは、つまりこうして書いた文章は、
片っぱしから忘れていく。
脳みその中には、残らない。

もちろん記憶としては残るが、あくまでも記憶。
だからつぎにそれに矛盾したことを考えると、
その記憶が今度は、ブレーキとして働く。
「先日書いた思想と、矛盾するぞ」と。

言い換えると、思想家とそうでない人の
ちがいはといえば、この2つでしかない。
(いっぱしの思想家のようなことを書いて、
ごめん。)
一本の筋があるか、どうか。
それがある人を思想家といい、そうでない人を、
ただのもの書きという。

わかりやすく言えば、「習慣」。
習慣のちがい。
たいした習慣ではない。
歯を磨くときの、磨き方のようなもの。
虫歯にならない人と、虫歯になる人の
ちがい。
その程度。

で、あとは集中力の問題。
ものを書くときには、かなりの集中力を
必要とする。
が、これも習慣?
あるいは訓練?
毎日文を書いていると、書くこと自体が
楽しくなる。
反対に書いていないと、頭の中がすぐ
モヤモヤとしてくる。
あまりよいたとえではないが、腸にたまった
便のようなもの。
とくに便意はなくても、それを吐き出したくなる。
吐き出さないと、不快感ばかりつのる。
が、こういうこともある。

ものを書いていて何が楽しいかといって、
新しい発見をすることぐらい楽しいことはない。
原野で宝石を見つけるような楽しさである。
そういう宝石が、小さく、キラリと光る。
「何?」と思って、近づいていく。
が、それが想像もつかないほど、大きな
宝石だったりする。
それが楽しい。

たとえばこんなことがあった。

「愛国心」という言葉を調べていたときのこと。
もう13年近くも前のことである。
英語では「ペイトリオティズム(patriotism)」という。
私はその語源を知りたくなり、手元にあった
2冊構成の英和辞典を調べた。
日本でも最大級の英和辞典である。
そこにこうあった。

「語源は、パトリオ。
『父なる大地を愛する』(ギリシャ語)」と。

私はそれを原稿にし、ネットで公表した。
(詳しくは、あとでそのとき書いた原稿を
さがしてみる。)

つまり日本人がいう「愛国心」と、欧米人がいう
「ペイトリアズム(patriotism)」は、基本的な部分で
意味がちがう。
欧米では、「郷土愛」のことをいう。
それをこの日本では、勝手に、「愛国心」と、「国」を
つけて訳す。

たまたまそのころ、愛国心教育が話題に
なり始めていた。
そのこともあった。
私のこの意見は、あちこちで紹介された。
著名な経済評論家も使った。
(著名といっても、商社マン時代の同僚だが……。)
K党という天下の公党も使った。
どの人も、それを言ったのは、2002年以後。

私はそれを聞くたびに、「ぼくが最初に
見つけた!」と、誇らしかった。
荒野で見つける宝石というのは、そういうものをいう。

で、今の今も、私はこうして書いている。
書き始めたときには、「愛国心」のことまで
書くつもりはなかった。
書いているうちに、だんだんとそういう話に
なっていった。
つまりこれが「思想」ということになる。

こうして文にしてしまうと、「思想」となるが、
もとからあったわけではない。
だから文を一通り書き終わると、私は再び、
脳みその中を空っぽにする。
忘れる。
とたん、また真っ白になる。

脳の中に、思想が残るわけではない。
また残ってもらっては困る。
白紙になるからこそ、またつぎに
別のテーマで文を書くことができる。

ただ最後に、こういうことは言える。
どれだけ多くの文を書いても、自分の書いた
文かどうかは、即座に判断できる。
読んだとたん、スーッと脳みその中に
消化されていく。
文そのものの内容は忘れても、波長が一致する。
とたん「これは私の文」と、判断できる。

が、反対にこんなこともある。

ときどき書店で、他人の書いた育児書などを読む。
めったに買わない。
あくまでも立ち読み。
そのときのこと。
他人が書いた育児書(?)なのに、スーッと
自分の脳にしみ込んでいくことがある。
「アレッ!」とは思うが、たしかに私の文。
あれこれ手を加えてはあるが、たしかに私の文。
たくみに内容や構成を変えてはいるが、たしかに私の文。

回りくどい言い方はやめよう。
現在、こうして私の書いた文章が、あちこちで
流用されている。
中には、数十万部から百万部近く売れた本もある。
新聞広告などには、そう書いてある。
他人にはわからないかもしれないが、
私にはわかる。
流用されたということが、わかる。
文というのは、そういうもの。

だからあえて一言。
どこのライターか知らないが、そういう
ズルイことはやめるべき。
流用といっても、盗作。
窃盗!
私があなたを訴えないのは、めんどうだから。
けっして許しているわけではない。

文というのは、書いた日付が残る。
いくらあなたが争っても、日付がそのまま
証拠となる。
それに私のばあい、文が盗まれたら、その
何10倍もの文を書く。
書いて抵抗する。

たとえば『許して忘れる(Forgive and Forget)』
は私の持論。
この世界へ入ってから、もう40年近く、私は
この言葉を使っている。
当初、その持論を、あちこちのライターが
盗用した。
あたかも自分が見つけた言葉であるかのように
書いた人もいる。
(ある評論家は、テレビの中でこの言葉を使った。
そのときは、「ある人の本にあった言葉ですが……」と
断りを入れたが……。)

ちなみに、「許して忘れる」は、つぎで検索できる。
だれが流用しているかは、これでわかるはず。

http://www.google.co.jp/search?q=%E8%A8%B1%E3%81%97%E3%81%A6%E5%BF%98%E3%82%8C%
E3%82%8B&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&ie=UTF-8&oe=UTF-8&sourceid=ie7&rlz=
1I7TSJH_jaJP427JP427&redir_esc=&ei=ybDqTb3NLIO2vwPZsLHeDw

だから私はこの持論を、何十倍もふくらませて
ものを書いた。
で、ありがたいことに、今はインターネット時代。
浜松という地方に住んでいても、じゅうぶん、
それに対抗できる。
以前は、都会人優先というか、都会に住む人が
テレビやラジオでそれをしゃべったとすると、
逆に私のほうが盗用したことになってしまった。

が、今はちがう。
そういった垣根が取れた。
都会も、地方も、ない。
……というようなことに興味をもった人が
いたら、一度、検索をかけてみてほしい。
「許して忘れる」「許して忘れろ」、あるいは
「はやし浩司 許して忘れる」でもよい。
どういう人たちが、私の持論を盗用しているか、
それが瞬時にわかるはず。

ついでながら、この言葉は、オーストラリアの
友人が直接教えてくれた(1970年)。
私が学生だったときのことである。

「さあ、どうだ!」と力んだところで、
この話はおしまい。
こんなことを書いても、グチにもならない。

最後の最後に一言。

今のところ、自分でもどうしようもないほど、
モヤモヤがつぎつぎと湧いてくる。
どうしようもないほど、だ。
だから盗みたい人は盗めばよい。
それ以上に、私は書く。
恥をかくのは、むしろそちらのほう。

……ということで、思想と哲学に
ついて書くのは終わり。

2011年6月3日、夜。
静岡県掛川市グランドホテル、515号室にて。
今夜はここで一泊し、明日の朝の講演に備える。
記念講演を務める。
掛川市主催の講演会である。
こんな名誉なことはない。
では、おやすみ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(2002年に書いた原稿より、愛国心について。
「2002年の原稿」という証拠は、Goo Blogの日付。)
http://blog.goo.ne.jp/bwhayashibw/e/53e7be2f6d8fd211bef63d45240feae9

●愛国心について考える
……ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら……。

 毎年8月15日になると、日本中から、「愛国心」という言葉が聞こえてくる。今朝の読売新聞
(02年・8月12日)を見ると、こんな記事があった。

「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・TK・東北大教授)のメンバーが執筆した「中学歴史教
科書」が、愛媛県で公立中学校でも採択されることになったという。採択(全会一致)を決めた
愛媛県教育委員会の井関和彦委員長は、つぎのように語っている。

 「国を愛する心を育て、多面的、多角的に歴史をとらえるという学習が可能だと判断した。戦
争賛美との指摘は言い過ぎで、きちんと読めば戦争を否定していることがわかる」(読売新聞)
と。

 日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば
中国や北朝鮮などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。

日本では、「愛国心」と、そこに「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オー
ストラリア人も、「国」など、考えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。こ
の単語は、ラテン語の「patriota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日
本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という
意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

● patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
● patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
● Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。こ
の戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは
愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。

ここに日本人と欧米人の、大きなズレがある。(ごまかしがある。)つまり体制あっての国と考え
る日本、民あっての体制と考える欧米との、基本的なズレといってもよい。が、こうしたズレを
知ってか知らずか、あるいはそのズレを巧みにすりかえて、日本の保守的な人たちは、「愛国
心は世界の常識だ」などと言ったりする。

たとえば私が「織田信長は暴君だった」と書いたことについて、「君は、日本の偉人を否定する
のか。あなたはそれでも日本人か。私は信長を尊敬している」と抗議してきた男性(四〇歳くら
い)がいた。

このタイプの人にしてみれば、国あっての民と考えるから、織田信長どころか、乃木希典(のぎ
まれすけ、明治時代の軍人)や、東条英機(とうじょうひでき・戦前の陸軍大将)さえも、「国を支
えてきた英雄」ということになる。

もちろん歴史は歴史だから、冷静にみなければならない。しかしそれと同時に、歴史を不必要
に美化したり、歪曲してはいけない。

先の大戦にしても、300万人もの日本人が死んだが、日本人は、同じく300万人もの外国人
を殺している。日本に、ただ一発もの爆弾が落とされたわけでもない。日本人が日本国内で、
ただ一人殺されたわけでもない。

しかし日本人は、進駐でも侵略でもよいが、ともかくも、外国へでかけていき300万人の外国
人を殺した。日本の政府は、「国のために戦った英霊」という言葉をよく使うが、では、その英
霊たちによって殺された外国人は、何かということになる。

こういう言葉は好きではないが、加害者とか被害者とかいうことになれば、日本は加害者であ
り、民を殺された朝鮮や中国、東南アジアは、被害者なのだ。そういう被害者の心を考えること
もなく、一方的に加害者の立場を美化するのは許されない。それがわからなければ、反対の
立場で考えてみればよい。

 ある日突然、K国の強大な軍隊が、日本へやってきた。日本の政府を解体し、かわって自分
たちの政府を置いた。つづいて日本語を禁止し、彼らのK国語を国語として義務づけた。日本
人が三人集まって、日本語を話せば、即、投獄、処刑。しかもK国軍は、彼らのいうところの首
領、金元首崇拝を強制し、その宗教施設への参拝を義務づけた。そればかりではない。

数10万人の日本人をK国へ強制連行し、K国の工場で働かせた。無論、それに抵抗するもの
は、容赦なく投獄、処刑。こうして闇から闇へと葬られた日本人は数知れない……。

 そういうK国の横暴さに耐えかねた一部の日本人が立ちあがった。そして戦いをしかけた。し
かしいかんせん、力が違いすぎる。戦えば戦うほど、犠牲者がふえた。が、そこへ強力な助っ
人が現れた。アメリカという助っ人である。アメリカは前々からK国を、「悪の枢軸(すうじく)」と
呼んでいた。そこでアメリカは、さらに強大な軍事力を使って、K国を、こなごなに粉砕した。日
本はそのときやっと、K国から解放された。

 が、ここで話が終わるわけではない。それから50年。いまだにK国は日本にわびることもな
く、「自分たちは正しいことをしただけ」「あの戦争はやむをえなかったもの」とうそぶいている。
そればかりか、日本を侵略した張本人たちを、「英霊」、つまり「国の英雄」として祭っている。
そういう事実を見せつけられたら、あなたはいったい、どう感ずるだろうか。

 私は繰り返すが、何も、日本を否定しているのではない。このままでは日本は、世界の孤児
どころか、アジアの孤児になってしまうと言っているのだ。つまりどこの国からも相手にされなく
なってしまう。今は、その経済力にものを言わせて、つまりお金をバラまくことで、何とか地位を
保っているが、お金では心買えない。お金ではキズついた心をいやすことはできない。日本の
経済力に陰(かげ)りが出てきた今なら、なおさらだ。

また仮に否定したところで、国が滅ぶわけではない。あのドイツは、戦後、徹底的にナチスドイ
ツを解体した。痕跡(こんせき)さえも残さなかった。そして世界に向かって反省し、自分たちの
非を謝罪した。

(これに対して、日本は実におかしなことだが、公式にはただの一度も自分たちの非を認め、
謝罪したことはない。)その結果、ドイツはドイツとして、今の今、ヨーロッパの中でさえ、EU(ヨ
ーロッパ連合)の宰主として、その地位を確保している。

 もうやめよう。こんな愚劣な議論は。私たち日本人は、まちがいを犯した。これは動かしがた
い事実であり、いくら正当化しようとしても、正当化できるものではない。また正当化すればす
るほど、日本は世界から孤立する。相手にされなくなる。それだけのことだ。

 最後に一言、つけ加えるなら、これからは「愛国心」というのではなく、「愛郷心」と言いかえた
らどうだろうか。「愛国心」とそこに「国」という文字を入れるから、話がおかしくなる。が、愛郷心
といえば、それに反対する人はいない。

私たちが住む国土を愛する。私たちが生活をする郷土を愛する。日本人が育ててきた、私た
ちの伝統と文化を愛する。それが愛郷心ということになる。「愛郷心」と言えば、私たちも子ども
に向かって、堂々と胸を張って言うことができる。「さあ、みなさん、私たちの郷土を愛しましょ
う! 私たちの伝統や文化を愛しましょう!」と。
(02−8−16)※

(注)こうしたものの見方を、自虐的史観というらしい。しかし私は何も、日本を否定しているの
ではない。日本を嫌っているのではない。日本の未来を心配しているから、そう書く。

 私たちおとなが、正義となる見本を見せないでおいて、どうして、子どもたちに向かって、「国
を愛せよ」と言うことができるだろうか。

 ここに書いたことが、過激な意見だとは、自分でもわかっている。しかし、少しはショックを感
じてほしかったから、あえて、愛国心について書いてみた。

 ただ忘れないでほしいのは、私は、人一倍、日本の将来を心配している。日本に、もっとすば
らしい国になってほしいと、願っている。

 そういう思いを、何と言ったらよいのか。それを「愛郷心」というなら、その心だけは、だれにも
負けない。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【6月4日、講演会、要旨】@掛川

+++++++++++++++

子どもの社会性について
これからの育児、家庭教育

+++++++++++++++

●子どもは使う

(1)忍耐力(社会性)
  
教育の誤解(やさしさ、すなおさ、忍耐力)
今回は、とくに「忍耐力」について話す。

変わる子どもたちの意識
 一億、総ドラ息子、ドラ娘化現象
  あるアメリカ人教師の話
子どもの金銭感覚と欲望論
 欲望のメカニズム
  小2ごろまでに決まる金銭感覚

(2)家族の絆

昔の親子関係vs現代の親子関係
(尾崎豊の世代間闘争)
不況下の育児論
 ある知人の悲劇
弱くなる家族の絆(パサパサ家族)
祖父母(両親)の存在感の喪失
 老後の問題
出世主義、家族主義から新家族主義へ
日本の現状と欧米化の問題点

(参考)
●第8回世界青年意識調査より
(将来、親のめんどうをみるか?)
年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。
★年老いた親を養うことについてどう思うか
『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国    35.2%、
日本    28.3%

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)
●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』(ちょうど聴衆の世代)によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(3)人格の完成

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。 

(1) 自己管理能力 
(2) 良好な対人関係 
(3) 他者との良好な共感性

とくに需要なのが(3)の共感性(より愛他的、非自己中心性)

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

(結論)

子どもは使う……家庭の緊張感に巻き込む
 使い方のコツと方法
  便利になりすぎた現代社会
  仕事の分担

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 愛国心 patriotism 郷土愛 思考力 思想)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●6月5日(2011)(はやし浩司 2011−06ー05)

●天国論

シャットダウンをする。
コンピューターの電源を切る。
画面にあのロゴが現われ、やがてすぐ光が消える。
ホーキング博士は、「死ぬということは、そういうことだ」と説く。
「天国というのは、闇をこわがる人のためのおとぎ話だ」とも。

そういうものかもしれない。
少なくとも私は、「そういうもの」という前提で、生きている。
あの世はない。
あればもうけもの。
それは死んでからの、お楽しみ。

●復讐

昨日、土手に柵を立てた。
鳥の餌場を柵で囲んだ。
猫が、鳥の餌場に飛びかからないようにした。
その柵を立てながら、私は復讐を考えた。

方法はある。
昔、学生のころ、友人が教えてくれた。
まず針金で輪をつくる。
カウボーイが使う投げ縄のように、一方を小さな輪にして、針金に通す。
猫がその輪の中を通ると、針金が、自動的に締まる。

が、この方法は、残酷!
友人が言うには、猫はギャーギャーと声をあげ、はね回るという。
針金をはずしてやりたくても、それができない。
そのため猫は死ぬ、と。

「あの猫め!」と何度も思った。
ドバトは、みな、あの猫に殺された。
白と黒の、いわゆる三毛猫。
しかしそれも残酷。
つまり猫を殺すのも残酷。
一度、オーストラリアで、野生の猫を撃ち殺したことがある。
あのとき感じた後味の悪さは、今もしっかりと心に張りついている。

そう言えば、二男もそう言っていた。
学生のとき、野生の鹿を撃ちに行ったという。
アメリカでの話である。
で、二男は1頭、銃で撃ったらしい。
が、それについて、こう言った。
「二度としたくない。あの鹿の目が忘れられない」と。

昼食のとき、それをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「あら、ドバトね、一羽、さっきいたわよ」
「いたのか!」
「いたわよ」
「エッ、猫に殺されたのではなかったのか!」と。

うれしかった。
ドバトは生きていた。
一羽でも生きていれば、うれしい。
とたん、スーッと復讐心が消えた。
よかった。

人でも動物でも、何かを恨むのは疲れる。
大量のエネルギーを消耗する。
復讐を考えれば、なおさら。

……どうであるにせよ、私は猫が鳥を襲う場面を目撃している。
柵を立てることは、必要。
どこか傾いた柵。
これでドバトも安心して餌を食べられるはず。
私も、安心して、餌をまける。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

●6月6日(2011)「絶望感」

●マウスをモニターに?

 友人のDさん(男性)が、今度、インターネットを始めた。
ちょうど50歳。
50の手習い。

 が、今までキーボードにすら、触れたことがないという。
高校1年生の娘さんに、あれこれ教えてもらっているという。
で、生まれて初めての、記念すべきメールを、私宛に出すという。
が、「メールを出しました」と電話があってから、3日たっても、メールは届かなかった。

 で、今度は私の方から電話。
「メールが届いていませんが……」と。

 こういうやり取りが、2回ほどあって、やっとメールが届いた。
が、こわくて、開けなかった。
件名の欄が、空白。
差出人の名前が、「ポンポコ……」とかいう、そんなような名前になっていた。
「たぶん……?」とは思ったが、開けなかった。
どう見ても、ウィルスメール。

 で、電話をかけて確認。
娘さんのアドレスをそのまま使っていた。
Dさんは、「ポンポコ……というのは、うちの娘のです」と。

 ……ということで、メールを開くと、「Dです。届きましたか?」と。
私はすぐメールで返信した。

「件名欄は空白にしてはいけない。
差出人の名前を書くこと」と。
電話で、私のホームページを見たいと言ったので、アドレスを張りつけておいた。

 が、しばらくするとまた電話。
D「メールが届いていません。ホームページも見ることができません」
私「マウスでカーソルをその上にもっていって、左、ダブルクリックです」
D「マウス? ……そんなもの、ありません」
私「ない? パソコンはどんなの? ノート、それとも……」
D「携帯電話です」

私「携帯電話では、見られません。携帯端末なら、見られます」
D「やっぱりそうですか。じゃあ、ちょっと待ってください」と。

 それから待つこと1時間あまり。
しびれを切らして電話をかけると、「今、やっているところです」と。

D「出ました、出ました。先生(=私)のメールが出ました」
私「その中に、私のHPのアドレスがあるでしょ。その上にマウスをもっていき、ダブルクリックで
す」
D(カチャカチャという、聞き慣れない音)「出ませんねえ……」
私「マウスは今、どこにありますか?」
D「テレビ(モニター)の上です」
私「テレビの上?」
D「そうです」
私「あのう……。マウスは下に置いて、使うものですが……」と。

 こういうやりとりが、……つまり電話のかけあいが、1時間ほど、つづいた。
私は絶望感を覚え始めた。
Dさんも、「もう、疲れました」と言い始めた。

で、結局、今度、Dさんに、私の家に来てもらうことにした。
私が直接、教えることにした。
で、その夜は、そのまま電話を切った。

●パソコンの世界

 インターネットというのは、(パソコンの操作もそうだが)、それができる人は、日常の会話の
ようにできる。
何も考えず、簡単にできる。
が、できない人には、できない。

数年前だが、近所の奥さんを助けたことがある。
「パソコンが動かない」というから、見に行ってやった。
が、見ると、フロッピーディスクが差し込んだままになっていた。

 またつぎの日、今度は、「プリンターが使えない」と言ってきた。
また見に行ってやると、プリンタードライバーが壊れていることがわかった。
ドラーバーを再インストールするしかない。
そこで奥さんに、「ドライバーはありますか?」と聞くと、「あります」と。
画面を見つめながら、あちこちを操作していると、奥さんがドライバーをもってきた。
見ると、ねじ回し用のドライバー!

 ……といっても、けっして笑ってはいけない。
みな、こういう経験を経て、パソコンの世界に入っていく。
私も、若いころ、いろいろな失敗をした。
さんざんした。
真っ青になり、冷や汗をタラタラと流しながら、徹夜したことも多い。
だからDさんにこう言った。

「パソコンというのはね、あきらめたら、負け。何としても解決してやるという意気込みがない
と、そこでくじけてしまう。くじけたら最後、そこで終わってしまう」と。

●パソコン嫌い

 その一方で、パソコン嫌いという人も、たしかにいる。
50代、60代の人に多い。
「あんなものなくても、一向に困らない」と。

 便利さを知る前に、便利さそのものを否定する。
そればかりか、インターネットを使っている人を、逆に軽蔑する。
(軽蔑だぞ!)
「ああいうものをやっていると、頭ばかりでっかちに(=大きく)なって、どうしようもない人間にな
ってしまう」と。

 私が「パソコンで原稿を書いています」と言ったとき、「よく頭が痛くなりませんね?」と言った
人もいた。
何でもその人は、パソコンに向かって文字を打とうと考えただけで、頭が痛くなるという。
そういう人もいる。
が、私はいつもこう言う。

 「モニター画面の向こうには、もうひとつの宇宙がある」と。

 モニターという「窓」の向こうには、広大な宇宙が広がっている。
しかもそれぞれのモニターを介して、無数の人とつながっている。
今も、この画面の向こうには、無数の人たちがいる。
顔は見えないが、たしかにいる。
インターネットを否定する人は、自らその宇宙を否定していることになる。
だからそういう人に出会うたびに、私はこう思う。
「もったいない!」と。

●幼児教育

 ともあれ、パソコンの操作を知らない人は、本当に何も知らない。
またそういう人もいるという前提で、指導書などを充実させる。
たとえば先に書いたDさんにしてみれば、「アドレスの上に、カーソルを置く」ということを理解す
るだけでもたいへん。
Dさんは、アドレスの上、つまりアドレスの上にある空白部分に、カーソルを置いていた。
「上」という意味が、わからない。
正しくは「重ねる」。
が、どの指導書を見ても、「上」となっている。
「重ねる」と書いてある指導書はない。

 つまりそういうレベルから、指導を始める。
そのコツと内容は、幼児教育のそれに似ている。
たとえば年中4歳児あたりに、「『はしる(走る)』の反対は?」と聞くと、「ルシハ」と答えたりす
る。
あるいは、昔、こんなことがあった。

 園庭で園児を指導しているとき、手を下げたまま走っている子どもがいた。
そこで私がその子どもに、「手を振って走れ」と号令をかけると、その子どもは「先生、バイバー
イ」「先生、バイバーイ」と、手を振りながら走り始めた。

 ……などなど。
いろいろある。
Dさんの話をワイフにすると、ワイフは笑った(失礼!)。
が、私は笑えなかった。
フフフと笑ったが、それ以上には笑えなかった。
私は何とも表現しがたい、絶望感を覚えたままだった。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【O−104と、77万テラベクレル】(はやし浩司 2011−06−07)

++++++++++++++++++

今朝は6時ごろ、目が覚めた。
が、そのままふとんの中で、あれこれ考えた。
起きあがったのは、7時過ぎ。

庭に出て、鳥の餌をまく。
30分の運動。
汗をぬぐいながら、そのまま書斎へ。

いつもの日課。
まずニュースサイトを読む。

++++++++++++++++++

●6月7日

 今朝は、つぎの2つの数字が気になった。
ひとつは、「Oー104」。
もうひとつは、「77万テラベクレル」。

 【産経新聞より】欧米で腸管出血性大腸菌「O(オー)104」の感染が拡大している。これまで
に感染者は13カ国で2150人を超え、ドイツで22人が死亡、スウェーデンでも1人が亡くなっ
た。ロシアが欧州連合(EU)からの生野菜輸入を停止するなど、財政危機に苦しむ欧州に追
い打ちをかけている。


 【TBS NEWS−iより】福島第一原発の事故で大気中に放出された放射性物質の量につい
て、原子力安全・保安院は77万テラベクレルだったという新たな推定結果を明らかにしまし
た。これまで公表されていた値のほぼ倍の値です。

●O−104

 あの「Oー157」のときは、日本中が大騒ぎになった。
それが今度は、「Oー104」。

『今回のO104は、1996年に日本で11人が死亡、約9000人が感染したO157との遺伝子
交換で変異した種とみられ、毒性も強いとされる』(産経新聞)そうだ。
日本への侵入は、もはや時間の問題。
警戒しよう。

●77万テラベクレル

 もうひとつは、「77万テラベクレル」。
が、77万テラベクレル?

「テラ」は、10の12乗。
つまり「1兆」。
だから「77万テラベクレル」は、77万x1兆=770000x1000000000000=77、0000、
0000、0000、0000(0が、16個!)ベクレル。
つまり77京(けい)ベクレル。
これだけの放射能が、3・11大震災直後、11日から16日までに放出されたという。
が、それでもピンとこない。

 そこでチェルノブイリ事故以後の、スウェーデンにおける「地域汚染区分図」を見る。
そこでは、「kベクレル」という数字が使われている。
セシウム137による汚染度だが、もっとも高いところで、120Kベクレル/平方メートルだった
とか。
120K=120x1000=120000ベクレル。
それでもその後、スウェーデンでは、がん患者が急増している。
これについて京都大学の研究グループは、こう結論づけている。
「……今後増える分を含めて、その10倍のガンが発生するとするなら、チェルノブイリ事故に
よって、ヨーロッパ全体に80万人のガンがもたらされる」(「原発事故」(宝島社))と。

 飛散した面積にもよるが、「77万テラベクレル」というのは、相当な量である。
同じく京都大学の研究グループの計算によれば、チェルノブイリでこれまで放出された放射能
の量は、1880京ベクレル(同書、P52)ということだそうだ。
福島第一原発では、その約20分の1とはいえ、それが3月16日までに放出されている。
(ただし不幸中の幸いと言うべきか、当時は東風で、大半は海側に流れたとみられている。)

 が、だんだんと、「数字」の意味がわかってきた。
もう一度、整理してみる。

(1)チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射能が放出された。
(2)福島第一原発では、3月16日までの5日間に、77京ベクレルの放射能が漏れた。
(3)1平方メートル当たり、12万ベクレルというのは、スウェーデンでも最高値。そのためガン
患者が、ヨーロッパ全体だけでも、80万人もふえた!

 が、もちろんその「77万テラベクレル」で終わったわけではない。
いろいろな対策は講じられつつあるが、現在の今も、3・11日当時と同じか、もしくはさらに悪
化している。
つまり放射能は、それ以後も、日常的に漏れつづけている。
その量はいったい、どれだけなのか?
それすらも、現在、よくわかっていない。

 チェルノブイリでは、現在、原発から300キロ圏内まで「高汚染地帯」、600キロ圏内まで「汚
染地帯」となっている。
ちなみに福島第一原発から東京まで、約250キロ。
この浜松市まで、約400キロ。
このことから、つぎの2つがいかに重要なことかがわかる。

(1)できるだけ早く、放射性物質の漏えいを食い止める。
(2)原子炉をけっして、爆発させてはならない。とくに3号機に警戒する。3号機は、MOX燃料
(プルサーマル)を使用している。
3号機がきわめて不安定な状態になっているのは、そのため。
またプルトニウウムの毒性は、ウランのそれの比ではない。

(「軽水炉にMOX燃料を使うのは、灯油ストーブに、ガソリンを使うようなものだそうだ(同書に
よる)。)

●岐阜市での放射能測定値(錯覚と誤解)

 岐阜県という県は、3本の川によって、それぞれ独特の文化圏を形成している。

東から木曽川文化圏、長良川文化圏、そして揖斐川文化圏。
横のつながりは、ほとんどない。
ただし岐阜県は、昔から、南側の美濃地方と北側の飛騨地方に別れている。
飛騨地方については、山を越え、東西につながっている。
生活習慣や言葉などは、よく似ている。
昔の人々は、山を越え、それぞれに交流していたにちがいない。

 その岐阜。

 私は今回の原発事故が始まった直後は、こう考えていた。
「もし放射能が浜松まで及んできたら、岐阜へ逃げよう。それでもだめなら石川県の金沢に逃
げよう」と。

 しかし福島第一原発のある場所に中心を刺し、コンパスで円を描いてみて驚いた。
浜松も岐阜も金沢も、同一円内にある。
つまり逃げても、無駄。
が、誤解……あるいは錯覚というのは、恐ろしい。
頭の中の「地図」は、そうなっていない。
岐阜や金沢は、福島よりずっと遠いと感ずる。
長い間の地理的誤解が、そういう感覚を形成してしまった。
が、さらに今回、驚いたことがある。

 現在、文科省とは別に、『放射線・原子力教育関係者有志による全国環境放射線モニタリン
グ』というのが、公表されている。
(文科省の公表値は、ほとんどアテにならない。)
http://www.geocities.jp/environmental_radiation/

 それでみると、
静岡県は、このところ平均して、0・045前後の値を推移している。
ところが岐阜県は、0・080前後。
「静岡」の約2倍!

 これはどうしたことか?

 福島第二原発からの風が、静岡より、北側を流れているということか?
が、それにしても、腑に落ちない。
そこでつぎに福井県を調べてみた(同、調査)。
それを見て、理由がわかった。

福井県は、0・90〜1・00前後。
つまり原因は、どうやら福井原発にあるらしい?
福井原発から岐阜市まで、たったの70キロ弱(岐阜市ー敦賀市、直線距離)。
岐阜県全体が、100キロ圏内にすっぽりと入ってしまう。

 が、誤解というのは、恐ろしい。
私も岐阜県人だったが、福井原発が、そんなに近いところにあるとは知らなかった。
福井原発についても、岐阜県で反対運動が起きたという話は聞いたことがない。
岐阜からみると、福井は、山の向こうの、さらにそのまた向こうの遠いところ。
「岐阜には関係ない」となる。……となっていた。

 が、これはまさに錯覚!

 いいか、岐阜県の人たちよ。
福井原発は、すぐ目と鼻の先だぞ。
たったの70キロだぞ。
知っていたか!

ちなみに浜岡原発から浜松市まで、40キロ前後。
もし浜岡原発や福井原発で、福島第一原発と同じような事故が起きたら、浜松市はもちろん、
岐阜市も、「避難勧告地域」になる。
のんきに構えている方が、おかしい。

 ということで、福井第一原発事故は、地図の見方まで変えた。
今までは、「車で何時間」というような考え方が、主流だった。
が、今は「直線距離」。
山も川も、文化圏もない。
「直線距離」。
またそれでみなければ、意味がない。

で、岐阜県の人たちへ

 岐阜での放射能測定値は、静岡の2倍。
福井原発までの距離は、たったの70キロ。
知っていたか?
 
●6月7日

 ということで、6月7日も始まった。
そうそう、昨日、庭のキーウィの木に、ヘビが現われた。
中型のシマヘビ。
ワイフが昼寝をしていて、それを見つけた。

 私は手元にあった殺虫剤をかけた。
顔にもかけた。
が、ヘビのほうは、平然としたもの。
そのまま体を反対側に向けると、スーッと葉の中に消えていった。

教訓1。
ヘビには殺虫剤は、効果なし。

教訓2。
人間はより大型の動物になればなるほど、殺すのをためらう。
つまり小さな動物(虫など)は、平気で殺すことができる。
しかしある一定以上の大きさの動物になると、殺せなくなる。
私のばあい、家ネズミ程度が限度。
それ以上の大きさの動物となると、よほどの殺意を覚えないと、殺せない。
たとえばマムシなど。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2011−06−08

++++++++++++++++++++++

今夜は、A氏が夕食に招待してくれるという。
カニ(ズワイガニ)食べ放題のバイキング料理。
ワイフと2人で行く。
楽しみ。

また、このところ、自分のYOUTUBEを見て、
癒されることが多くなった。
昨夜も遅くまで、ワイフとふとんの中でそれを
見ていた。
教室では聞き漏らした子どもたちの声が、
そのまま残っている。
それを聞くのが楽しい。
「ああ、あのとき、あの子は、こんなことを
言っていたんだア」と。

++++++++++++++++++++++

●朝食のとき

 このところハチを多く見かけるようになった。
2〜3匹、飛び交うのを見たら、近くにかなり大きな巣があるとみてよい。
これは私の経験。

「どこだろう?」
「どこかしら?」と。

 が、ハチというのは、(とくにスズメバチは)、自由気ままな虫。
すぐには巣に戻らない。
じっと見つめているが、そのうちフイとどこかへ行ってしまう。
見失ってしまう。
まるで忍者のよう。

 私は、しかしハチの巣を見つけたら、容赦しない。
何度か刺されて、私の体の中には抗体ができている。
刺されるたびに、体中が腫れる。
今度刺されたら、命があぶない。

 蜂の巣については、いろいろな退治の仕方がある。
しかしもっとも簡単な方法は、殺虫剤を使うこと。
ハチというのは、どういうわけか、あの殺虫剤に弱い。

夜中に、懐中電灯で照らしながら、巣の入り口に向けて、噴霧する。
たいてい入り口のところに、1〜2匹、門番がいるので、まずそいつを殺す。
そのあとすかさず殺虫剤の口を、巣の入り口につけ、5分前後、噴霧しつづける。
やがて殺虫剤の液体が、巣の底を破り、ポタポタと落ちてくる。
そのころには、巣の中のハチは全滅。

 「殺す」というのも、残酷な話?
しかし「殺虫剤」という。
「退虫剤」とは言わない。
だからやはり「殺す」となる。

●「私の人生を、返して!」

 私の知人(男性)の妻が、夫にこう言ったという。
「私の人生を返して!」と。
知人は、そのとき60歳。
妻も、そのとき60歳。

 その話を聞いたときには、「そういうものかなア」と思った。
しかし今になって、その言葉が、ジンと胸にしみる。
言い忘れたが、その話を聞いたのは、4、5年前。
その知人は、現在、65歳。

 人生の(可能性)が小さくなり、(選択)の幅が狭くなる。
それまでは「何かあるかもしれない……」と、未来に希望を託すことができる。
が、60歳をすぎると、それができなくなる。
老後から「死」へ、一本道が、そこに現われてくる。
とたん、先細りの閉塞感。
が、振り返っても、そこには、何もない。
だから、こう言う。
「私の人生は、何だったのか」と。

●自分の人生を生きる

 この世の中で、自分の人生を生きている人は、いったい、どれほどいるだろうか。
みな、そのつど、何かの犠牲になりながら生きている。
仕事にしても、そうだ。
自分のしたい仕事をしている人は、ほとんどいない。
みな、何かにじっと耐えながら、その日の仕事をこなしている。
しかし何のために?

 ひとつには、家族がある。
妻や夫、子どもがいる。
しかしそれもやがて終わる。
「子はかすがい」と言う。
しかし一歩誤れば、「三界の足かせ」とも言う。

 憩いややすらぎを得るはずの家庭が、監獄へと一転する。
別の知人(男性)はこう言った。
「娘が2人いますが、2人とも片づいたら、今の妻とは別れます」と。
そういう夫婦もいる。

 ……となると、ここで最大の命題。
私たちは何のために生きているのか。

●不満

 そんな話をワイフとする。
もっとも私のワイフは、若いころから楽天的。
超がつくほど、楽天的。
うつ病とは、まるで無縁の世界で生きている。

私「お前は、そんなふうには、思わないのか」
ワ「私は、思わないワ……」
私「『私の人生を、返して!』って、思わないのか」
ワ「思わないはねエ」
私「どうして?」
ワ「思わないから、思わないだけよ」と。

 会話にならない。
つまりこれは生き様の問題というより、とらえ方の問題ということになる。
人生をどうとらえるか。
簡単に言えば、日常的に、不満があるかないかのちがい。
その不満が積もり積もって、「私の人生を、返して!」となる。
だったら、そのつど、不満を解消すればよい。

 その第一。
やりたいことをする。
言いたいことを言う。

 まずいのは(やるべきこと)もしないで、「何もできない」と愚痴をこぼすこと。
が、ワイフは、いつもこう言う。
「要するに、期待しないことよ」と。
「へたに期待するから、あとあと傷つくのよ。だったら、最初から期待しないことよ」と。

●期待しない人生

ワ「あなたの悪いところはね、いつも人に期待するところよ。これだけしてやったのだから、お
返しがあるはずとね」
私「……」
ワ「人生についても、そうよ。これこれこれだけのことをしたのだから、お返しがあるはずとね。
でもね、そんなものはないのよ。だって、あなたは自分のしたいことを、自分のためにしている
だけでしょ」
私「まあ、そうかもしれないなア……」
ワ「そうでしょ。世の中の人たちはみな、自分のことで精一杯なのよ。いちいち他人のことに、
構っておれないのよ。どうしてそれが、あなたには、わからないの」と。
 
 しばし、知人の妻が言った言葉を、頭の中で繰り返す。
庭先の畑の間では、相変わらずハチが飛び交っている。
まったく関係のない話だが、あのハチの寿命は、恐ろしく短いそうだ。
スズメバチについて言えば、女王蜂で1年程度。
(ハチの種類によっても、ちがう。)
しかし働き蜂は、30日程度。
たったの30日!

 そんな話をしながら、ワイフに、「たった30日じゃあ、何もできないね」と。

私「もっとも30年あっても、何もできないけどね」
ワ「ハチは子孫を残すことだけを考えているのよ」
私「そんなことも考えていないよ、きっと。プログラムされたとおりに行動し、そして死んでいく」
ワ「人間も似たようなものね。そう考えれば、気が楽になるでしょ」
私「そうだなア……」と。

●期待と犠牲心

 (期待)は、いつも(犠牲心)を引き連れてやってくる。
期待するから、犠牲心が生まれる。
その犠牲心が、心をゆがめる。

 子育てについても、同じ。
わかりやすく言えば、子どもには期待しないこと。
やるべきことを淡々とし、それで終わる。
へたに期待するから、あとになって、「裏切られた」と騒ぐ。

 もっともそのとき「先」があれば、まだ救われる。
その「先」がないから、「私の人生を、返して!」となる。

ワ「その点、あなたは幸せよ」
私「ぼくがア……?」
ワ「そうよ。あなたは毎日、自分のしたいことができるでしょ。今までだって、自分のしたいこと
をしてきたでしょ」
私「お前は、どうなんだ?」
ワ「私は満足しているわ」
私「そうかなあ……?」
ワ「そうよ」と。

●生きがい

 ……先ほど、ワイフはテニスクラブへ出かけていった。
私は書斎にひとり、残された。
朝食のせいか、眠気が襲ってきた。
たった今、椅子をうしろに大きく倒し、腕をあげ、あくびをしたところ。

 今日の予定は、会食以外に、とくになし。
「昼飯は抜きだな」と、今、思ったところ。
おいしいものを食べるのは楽しい。
しかしそのあと、体重計に乗って、いつも後悔する。
だから今は、こう考える。

「……だからそれがどうしたの?」と。

 つまり私たちはいつも、本能の奴隷になっている。
奴隷になりながら、奴隷になっているとも気づかない。
が、「……だからそれがどうしたの?」と自分に問いかけることで、奴隷になっていることに気づ
く。

おいしいものを食べた……だからそれがどうしたの?、と。

 言い換えると、私たちの人生は、どんなにがんばっても、99%は、意味のないことばかり。
それを繰り返している。
残りの1%だけでも、自分の人生を生きられれば、御の字。
それすらできない人も多い。
だから今は、こう思う。
もし私のワイフが、「私の人生は何だったの? 私の人生を、返して!」と言ったら、私はこう答
えるだろう。

「それがあなたにふさわしい、あなたの人生」と。

 ……少し、きびしいかな?
今朝は眠いので、ここまで。
このあたりが思考の限界。
おはようございます。
6月8日朝、記。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【孤独は第2の人生のための産道】

●BW公開教室byはやし浩司

 現在、もっとも力を入れているのが、YOUTUBE。
昨年度までは、幼児クラスを中心に録画し、それをYOUTUBEに載せていた。
が、今年からは、小学1年生クラスも録画するようにした。
その分、忙しくなった。
が、しかしそれ以上に楽しい。

 ひとつには、アクセス数がふえたこと。
3月(2011年)末までは、400〜600件/日を推移していた。
それが4月に入ってから、つまり小学1年生クラスを録画するようになってから、800〜1000
件/日へと増えた。
この先も、どんどんと増えそうな気配である。
YOUTUBEでは、「インサイト情報」として、それをグラフ化して示してくれる。

 で、外国からのアクセスも、多い。
コメント欄には、いろいろな書き込みがある。
が、今までは日本語を勉強している人のものばかりだった。
そのたびに「そういう使い方もあるのだなあ」と思った。
もともとは孫の芽衣のために開いたホームページである。
しかし肝心の芽衣からの反応は、ゼロ。
昨夜も二男とスカイプ(テレビ電話)で話したが、見ている気配はなかった。
(残念!)

 少しやる気をなくしていたところへ、上海に住む工藤さんという方から、コメントが届いた。
5歳になる息子さんが、私のYOUTUBEを利用しているという。
その学習している様子を、同じくYOUTUBEに載せて、送ってくれた。

 うれしかった・・・というより、驚いた。
教室の子どもたちと同じように、いっしょになって声をあげているではないか!
表情も、すばらしい。
それを見たとき、ひとつまた、インターネットの世界が広がったように感じた。
双方向性というか、ほかの通信媒体ではまねできない芸当である。
私はさっそく、工藤さんからのYOUTUBEを、公開教室に並べて掲載した。
息子さんが画面に向かって勉強している顔を、そのまま紹介させてもらった。
興味のある方は、どうか「公開教室・2011」を見てほしい。

●休み時間

 さて、2時間。
今、私は2時間の休み時間をもっている。
この2時間を、どう使うか。
先ほど、ワイフが書斎へお茶を届けてくれた。
そのときこう言った。
「至極の時だ」と。

 何か、書きたい。
何を書こうか。
小説に挑戦してみようか。
それとも評論を書いてみようか。

 評論といえば、このところ北朝鮮の動きがどうも怪しい。
何かをたくらんでいる。
中国政府の高官が、北朝鮮の高官に、わざわざこう警告した。
「冒険主義に走るな」と。

 この警告を裏から読むと、「今は、静かにしていろ」となる。
時折しも、韓国軍が、金日成や金正日らの写真を標的にした射撃訓練をしているのがわかっ
た。
これに北朝鮮が、大激怒。
連日、「ただではすまさない」と騒いでいる。

 たしかに国家元首の写真を標的にした射撃訓練は、ま・ず・い。
北朝鮮が怒って当たり前・・・と書きたいが、北朝鮮だって、言いたい放題、書きたい放題のこ
とをしている。
韓国のイ大統領を、「逆賊」と呼んでいる。

 が、こういうときが、あぶない。
一触即発というよりは、ささいなことがきっかけとなり、導火線に火をつける。
加えて北朝鮮の経済状況は、目下、どん底。
最悪。
国民の不満をそらすため、北朝鮮が韓国に向かって軍事的冒険をしかけてくる可能性は、き
わめて高い。
今が、そのとき。

 ・・・というようなことを書いても、おもしろくない。
政治の話は嫌われる。
よくわかっている。
だからこの話は、ここまで。

●浜岡原発、反対!

 3・11大震災以来、私は浜岡原発反対派になった。
原発が危険というより、管理・維持技術のおそまつさに、驚いた。
防災訓練の様子を見て、さらに驚いた。
中部電力は、原子炉に水をかけていた。
原子炉に水?
それが防災訓練?

原子炉事故の恐ろしさは、これでよくわかった。
一旦事故が起きたら最後、事故が事故を呼ぶ、連鎖地獄に陥る。
福島第一原発にしても、応急手当はつづいている。
現場で作業をしている方たちには、本当に頭がさがる。
そういう人たちの努力がなかったら、今ごろ東京にだって、人は住めなくなっていたはず。
しかし残念ながら、基本的な問題は、何一つ、解決していない。
そればかりか、状況は日々に悪化している。
3号機の温度も、100度から再び180度に上昇している(6月8日)。

今朝の新聞報道によれば、どの原子炉も、「メルトダウン」より悪い、「メルトスルー」の状態に
なっているという。
まさに「チャイナ・シンドローム」。

 それに昨日、自分でこんなことを調べた。
敦賀市(福井原発の並ぶ「つるが市」)から、岐阜県の岐阜市までの直線距離。
今ではグーグルアースを使えば、瞬時にそれがわかる。
それによれば、たったの70キロ!

 私は子どものころから、また昨日の昨日まで、敦賀市は岐阜市からみて、はるか遠いところ
にあるとばかり思っていた。
間には山地がいくつか並んでいる。
が、たったの70キロ!
車で1時間の距離!

もし敦賀市にある福井原発が事故を起こしたら・・・?
今の時期だと、風は西から東に吹いている。
岐阜市の住民には、即、退避勧告が出されるだろう。
(政府はずるいから、「命令」という言葉は使わない。
退避命令にすると、その責任を負わなければならない。)

 さらに御前崎にある浜岡原発からこの浜松市までは、たったの40キロ。
原発事故にあっては、40キロなどという距離は、誤差のようなもの。
距離と呼べるような距離ではない。

 ・・・というようなことを考えていくと、反対派にならざるをえない。
いくら電力が必要と言っても、町や村を追われ、命まで奪われたら、元も子もない。

●代替エネルギー

 原子力に替わる代替エネルギーとして、恩師の田丸謙二先生の弟子たちは、アンモニア燃
料を考えている。
水を触媒で分解し、酸素と水素に分解する。
それに同じく空気中の窒素と化合させて、アンモニア燃料を作り出す。
これなら安全かつ、無尽蔵のエネルギーを手に入れることができるようになる。

 夢のような話だが、理化学研究所を中心に、今、その研究は着々と実を結びつつある。
「時間の問題です」と、田丸謙二先生は言っている。

 が、ここで、もうひとつの問題にぶつかる。
安価で安全、かつ無尽蔵のエネルギーというのはよい。
こうした科学の発達には、いつももうひとつの「剣」がある。
「両刃の剣」という。
もしそれが軍事目的に利用されたら・・・?
たとえば太平洋の海が、そのまますべて火薬庫になることもありえない話ではない。
もしそれに火がついたら、それこそ地球が丸ごと、吹っ飛んでしまう。

 田丸謙二先生は、そのあたりをどう考えているのだろう。
核燃料と核爆弾。
アンモニア燃料と水素爆弾。
使い方をまちがえると、たいへんなことになる。
この原稿をあとでそのまま先生に送ってみよう。

Hiroshi Hayashi+++June 2011+++はやし浩司(林浩司)

【孤独は、第二の産道】

●言葉

 よい生活をする・・・それがどうした?
よい食事をする・・・それがどうした?
楽しい思いをした・・・それがどうした?

 こうして人はいつも、自分に問いかける。
「だから、それがどうしたの?」と。
するとその答えがない。
どこにもない。

 たとえば今日、私はカニを腹いっぱい食べた。
バイキング方式だったから、食い散らすようにして食べた。
いつもなら細い足まで食べる。
が、今夜は、カニの爪か、太い足だけ。
細い足は、そのまま捨てた。

 が、私の年齢になると、「食べたら、損」。
わかってはいるが、止まらない。
欲望というのは、そういうもの。
コントロールするのが、むずかしい。

・・・というか、理性の力でコントロールするのは、ほぼ不可能。
アルコール中毒やニコチン中毒の人たちを見ればよい。
一度、脳の線条体に受容体ができると、条件反射的に、人間は行動してしまう。

 そう、人は、パンと水(豪華な食べ物)だけで生きるのではない。
キリストの教えを借りるなら、人は、言葉、つまり教えによって生きる。
その教えがないと、「だから、それがどうしたの?」と聞かれると、そこで行き詰まってしまう。
反対に教えがあれば、即座に答えが返ってくる。

●言葉(教え)

 楽しんで、笑って、腹いっぱいおいしいものを食べ、そのときを愉快に過ごす。
それは人生の一部かもしれない。
しかし先にも書いたように、「だから、それがどうしたの?」と聞かれると、そこで言葉が行き詰
まってしまう。

 そこで私たちは、言葉(教え)を求める。
反対に言葉(教え)のない人生ほど、味気なく、意味がなく、かつ、つまらないものはない。
そこでキリストは「愛」、釈迦は「慈悲」、孔子は「仁」を、それぞれ説いた。
これら三者は、基本的には同一のもの。
言葉というのは、それをいう。
この言葉があるから、私たちは今、ここにこうして生きていることができる。
そうでなければ、そうでない。
ただ「息(いき)る」だけの人間になってしまう。

●みんな孤独でさみしい

 老いるということは、孤独との闘い。
よく「老後は孫の世話と庭いじり」と説く人がいる。
が、これはウソ。
そんなもので、老後の心の隙間を埋めることはできない。
ごまかすことはできる。
しかし埋めることはできない。

 酒にしても、そうだ。
飲んだときは、忘れられる。
しかし酔いから覚めたとき、その何十倍もの孤独が襲ってくる。

 が、心配無用。
あのキリストだって、孤独だった(マザー・テレサ)。
キリストは、それを「ハンガー(飢え)」という言葉を使って表現した(マザー・テレサ)。
あなただけではない。
私だけではない。
みんな孤独。

 その心の空白を埋めるのは、言葉(教え)でしかない。
いくらよい生活をしても、よいものを食べても、楽しいときを過ごしても、それは一時の幻想。
霞(かすみ)。
むしろそういうものには、麻薬性がある。
一度毒されると、かえってそこにある真実が見えなくなる。

 だから孤独であることを、嘆く必要はない。
孤独から逃げる必要もない。
前にも書いたが、孤独は、人間がつぎの世界に入るための関門。
言うなれば、第二の産道。
その関門を通らずして、私たちはつぎの世界に入ることはできない。

 苦しい。
つらい。
おまけに痛い。
だから産道。

●関門(第二の産道)

 人は否応なしに、老いる。
老いることによって、そこに死を見る。
そのおかげで、私たちは、孤独を知る。
が、その孤独を恐れてはいけない。

 ほとんどの人は、燃え盛る火を見て逃げるように、孤独をそこに見ると、そこから逃げてしま
う。
ごまかそうと、必死になる。
もがく。
苦しむ。
中には、その苦しさに耐え切れず、命を絶つ人もいる。
が、もがく必要はない。
苦しむ必要はない。
もちろん命を絶ってはいけない。

 あなたがすべきことは、ただ静かに身を横たえ、それを受け入れる。
とたん、その向こうに、道が見えてくる。
恐らくその道は、人によってみな、ちがうだろう。
が、それが第二の世界ということになる。

 このころになると、人は、フロイトが説く「性的エネルギー」がどんなものであったかがよくわか
る。
平たく言えば、それまでの私たちがいかに欲望の奴隷であったかを知る。
その奴隷的呪縛感から解放される。
・・・というか、その解放感は、解放されてみないとわからない。

●朝に知れば・・・

 こうして考えると、老後は、大きなチャンス。
老後があるおかげで、私たちは真理を知る。
真理に到達することができる。
もし老後がなかったら、100年生きても、200年生きても、人は愚かなまま。
愚かなことを繰り返し、それが愚かなことであるかさえ気がつかない。
長寿は美徳だが、中身のない長寿は、ただの数字の遊び。
だからある賢人は、こう言った。

『朝に知れば・・・』と。

 無駄に100年生きるより、有益に1日を生きたほうがよい。
それを決定するのが、言葉(教え)ということになる。

●第二の産道論

 実は、「第二の産道」論は、以前にも書いた。
原稿をさがしてみる。
日付は2011年1月となっている。
たった半年前!
私にはずいぶんと昔に書いた原稿のように思える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●喪失の受容段階論(孤独と真理)「喪失の受容段階論」


●孤独は心のがん細胞(2011年1月28日記)


++++++++++++++++


喪失の内容、程度は、さまざま。
失恋、事業の失敗、健康、離婚、
子どもの巣立ち、肉親の死、配偶者の
死など。


そのつど人は、はげしい喪失感を
覚える。
ときにそれがそのまま絶望感になることもある。
襲い来る孤独感、孤立感、虚無感……。


少し前、「孤独は心のがん細胞」という
記事を書いた。
孤独をけっして軽く見てはいけない。
孤独は、心をむしばみ、やがて自らの死、
つまり自殺へと、心を導く。


が、この孤独。
闘えば闘うほど、キバをむいて
私たちに向かって襲いかかってくる。
もがけばもがくほど、孤独という糸に
からまれ、身動きが取れなくなる。


仏教でも、「無間地獄」と位置づける。
あのイエス・キリストも、孤独に
苦しんだ(マザーテレサ)。


が、受け入れてしまえば、何でもない。
孤独に身を任せ、静かにそれを受け入れる。
それで苦しみが消えるわけではない。
悲しみが消えるわけではない。
孤独であることは、苦しい。
魂が引き裂かれるほど、苦しい。
が、その苦しみを受け入れたとき、
その先に小さな光明が見えてくる。


人は、人生において2度、産道をくぐりぬける。
母胎からの産道。
そして孤独からの産道。
2度目の産道をくぐりぬけたとき、人は、
真理の世界に生まれ出ることができる。


++++++++++++++++++


●喪失


 人は、どう喪失感を受け入れていくか。
その参考となるのが、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」。
言うまでもなく、「自分の命」を失うことを超える喪失感は、ない。
まさに死は究極の喪失感ということになる。


●死の受容段階論


 キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)は、つぎ
のような段階論をいう。


(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを
試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)


●喪失の受容段階論


 喪失感がはげしければはげしいほど、ロスの『死の受容段階論』に似た段階を経て、やがて
人は喪失を受け入れるようになる。
こまかい点ではちがいはあるのだろうが、おおまかに言えば、それに近い。
順に整理してみる。


(第1期) 否認……失ったことを知り、大きなショックを受けたのち、失ってはいないと、はげしく
否認する。ささいなことに希望をつなぎ、「まだ何とかなる」と思う。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の幸福
そうな人、家族で、相手本人に対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……喪失の回復の見込みがないことを自覚すると、神や医者、家族と取り
引きを試みる。祈ることでの延命や、喪失の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……喪失感が持続的につづくと、虚無主義に陥ったり、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至る。運命に身を任せ、運命に従い、喪失による孤
独感を静かに受け入れる。(以上、ロスの『死の受容段階論』を一部、改変。)


●孤独をどう受け入れていくか


 孤独というのは、闘っても意味がない。
闘う必要もないし、また人間にはそれに打ち勝つ力はない。
そこで大切なことは、居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
同時に、「みな、そうなんだ」と思えばよい。


 一見、派手な世界で愉快そうに振る舞っている人にしても、孤独でない人はいない。
みな孤独を背負っている。
あるいは孤独という氷の上を歩いている。
薄い氷。
その下では孤独が、「おいで、おいで」と手招きしている。


孤独を知らない人というのがいたら、本物のバカか、ものを考えないノーブレイン
(=脳なし人間)。
あるいは孤独をごまかして生きているだけ。
孤独から逃げているだけ。


 もちろん財力や名誉、地位、肩書き、経歴など、孤独の前では、一片の価値もない。
意味もない。
乾いた煙ほどの力もない。
孤独を癒す力など、まったくない。
もがけばもがくほど、孤独の糸がからんでくる。
身動きが取れなくなる。


 が、ひとたび孤独を受け入れれば、周りの世界は一変する。
それまで見えなかったものが、見えるようになる。
何が大切で、何がそうでないか。
何が価値があり、何がそうでないか。
言うまでもなく、私たちが探し求めている真理は、その向こうにある。


●真理探究


 財力や名誉、地位、肩書き、経歴に毒されている間は、真理など求めようもない。
そういう世界で踊っている人は、作りあげられた幻想の世界で、酔いしれているだけ。
それは一時のさみしさを紛らわすために飲む、酒のようなもの。
酒から覚めたら、その何倍もの孤独感が襲ってくる。


 言い替えると、財力や名誉、地位、肩書き、経歴にしがみつけばつくほど、その人は
孤独を前に、もがき、苦しむ。
絶望のどん底へ叩き落とされる。
「自らの死」を選択することにもなりかねない。


 が、孤独は「第二の産道」。
その産道をくぐり抜けることなしに、人は、真理の世界に入ることはできない。
もちろん「真理」は、その人によってちがう。
真理はひとつではないし、真理の向こうにまた別の真理がある。
そこは平和で、満ち足りた世界。
豊かで、おおらかな世界。
が、その世界もまた、無限のかなたへとつづく。


 方法は簡単。
孤独を受け入れる。
静かに受け入れる。
それで苦しみや悲しみが消えるわけではない。
しかしやがて、その先に、一筋の光明が見えてくる。
あとはその光明に向かって歩いていけばよい。


 ……この先のことは、私にもわからない。
ただこれだけは言える。


真理などというのは、そんなに遠くにあるものではないということ。
私やあなたのすぐそばにあって、私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて
じっと待っている。


 さあ、あなたも勇気を出して、孤独の世界に身を横たえてみよう。
声に出して叫んでみよう。
「私はさみしい!」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 第二の産道論 真理の探究 真理 孤独論 喪失論 喪失の受容段階論 はや
し浩司 ロス 死の受容段階論 はやし浩司 孤独は心のがん細胞 はやし浩司 第二の産
道 第2の産道論 孤独は真理への関門 はやし浩司 関門論 産道論)

(参考)

●ストレス論byはやし浩司

++++++++++++++++

昨夜、知人(65歳、男性)が、こう言った。
「私たちの年齢になると、勇気を出して、外出する。
それが心の健康に、とても重要です、と。

同感!
賛成!

ともすれば、私たちは外出するのがおっくうになる。
「できれば家の中で、のんびりしたい」と思うようになる。
が、それは心の老化のはじまり。

心が老化すると、
(1)刺激を嫌うようになる。
(2)変化を嫌うようになる。
(3)現状維持のまま楽をしたいと願うようになる。

 どれも同じようなもの。
だから「勇気を出して」となる。
その「勇気」が途絶えたとき、私たちの心は、ジジ臭くなる。
ババ臭くなる。

 ……ということで、昨夜は会食。
たがいに勇気を出して、行ってきた。
その席で、「ストレス」が話題になった。
「人間関係がストレスの原因」と、その男性は言った。

同感!
賛成!

それに答えて、私はこう言った。
「孤独は、心のがん細胞」と。

●ストレス学説
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、
どんなにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶもの
は、その(わずらわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人
間が、原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの
頭を、棒か何かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫ら
れる。具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活
動が高まる。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)
が、その人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サ
イトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の亢進ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は
「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 孤独感、絶望感は、ただ単なる感情ではない。
肉体をもむしばむ「がん細胞」ということになる。
こわいのは、脳内ストレス。
年齢的なことはよくわからないが、50歳を過ぎたら、要注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ストレス 免疫 免疫機能の低下 免疫機構 サイトカイン 孤独
 強力なストレス はやし浩司 絶望 孤独 心のがん細胞 ガン細胞)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【小学1年生+2年生混合クラスで、立体図、展開図を教える】
(2011−6月10日)

●BW教室(実験教室)

今週は、立体図、展開図を教えてみました。
最終的には、直方体まで……と思っていましたが、子どもたちは、踏み台づくりに
挑戦しました。
このチャレンジ精神が、重要ですね。
そんな熱気を、どうかこのビデオの中で感じてください。

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【ついでに、能力的にたいへん恵まれた子ども(小1・6歳児)を紹介します)

●この程度まで、立体図を描ける子どもは、小学1年生で、数百人に1人です。

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 立体図 展開図 見取り図 立体模型)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●静岡県茶が、出荷自粛?

+++++++++++++++++++++

静岡県内で生産された製茶の一部から、
国の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出
されたという(6月9日)。

「とうとう」と書くべきか。
「ついに」と書くべきか。

しかし記事の内容をよく読むと、おかしな点が
いくつかある。

(1)民間の販売店からの検査が先?

まず静岡県は、民間による自主検査からの指摘を
受けたあと、調査したという点。
つまり民間の販売店から、「基準値を超えている」という
指摘を受けたあと、静岡県は検査をした。
もし民間の販売店からの指摘がなかったら、静岡県は
再検査などしなかったであろうし、汚染された静岡茶は
そのまま市中へ流通していたであろう。

(2)静岡県は、安全圏ではなかったのか

文科省の放射線測定データをみるかぎり、
この静岡県は、「安全圏」に入っているはず。
日々の観測データには、ほとんど変化はない。
3月11日以来、一時、0・05マイクロシーベルトを
越えたことはあったが、それ以後は、0・04
マイクロシーベルト前後(最大平常値以下)を推移している
(文科省調査・中日新聞)。

この測定結果は、岐阜県や愛知県、福井県での測定結果
よりも、低い。
なのに、どうしてこの静岡県で?
ならば岐阜県や愛知県はどうなのか?
福井県はどうなのか?

(3)飲む場合には、影響はない?

これに対して製茶業界は、「安全」宣言を
繰り返している。
「飲む場合には、影響はない」と。
その論法が、おかしい。

製茶業界の言い分はこうだ。

  (1)基準値を超えたのは、ある特定の製茶工場にすぎない。
  (2)荒茶にすれば、濃度は5倍になる。製茶の段階でも5倍。
     5倍になった状態で、国の基準値を超えた。
     しかし実際に飲用するときには、お湯で薄めるので、8分の1になる。

が、すべての製茶工場で検査したという事実はない。
にもかかわらず、「特定の」という言葉を使ってよいのか。

また「薄めて飲むからだいじょうぶ」という論法は、
こと放射性物質に関していえば、ナンセンス。
もしこんな論法がまかり通るなら、どんな放射性物質も、
素通りになってしまう。

逆に言えば、こうだ。
いくら飲むときに薄められても、体内では逆に濃縮される。
内部被爆を引き起こす。

(4)放射性物質は、本当に福島第一原発から来たものなのか。

静岡市のすぐ近くには、御前崎原発がある。
今回、基準値を超えた放射性物質が検出された「本山(ほんやま)茶」
の産地である、静岡市葵区から、浜岡原発までは、
直線距離にして、たったの43キロ(グーグルアース上で測定)。

その御前崎原発は、停止措置を取ったとたん、冷却装置の
故障が起きている。

+++++++++++++以下、TBS−iより+++++++++++++++

 静岡県内で生産された製茶の一部から国の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出さ
れました。静岡県はこの製茶を生産した工場に対し、出荷の自粛を要請しました。

 静岡県によりますと、静岡市藁科地区の工場で生産された「本山茶」から国の暫定規制値の
1キログラム当たり500ベクレルを超える679ベクレルの放射性セシウムが検出されました。

 民間の販売店による自主検査で規制値を超えたとの報告を受け、県が同じ製茶工場で再検
査をして確認しました。

 「飲む場合には健康に影響はないと考えている」(静岡県の担当者)

+++++++++++++以上、TBS−iより+++++++++++++++

●茹(ゆ)でガエル

 こうして私たちは少しずつ、情報に対して、敏感に反応しなくなる。
こうした心理状態は、『茹でガエル』理論によって、説明される。

生きたカエルをいきなり熱湯に入れれば、カエルは飛びはねて逃げてしまう。
しかし最初は水の中に入れ、徐々に熱を加えていけば、カエルはそれに気づかず、最終的に
は茹であがってしまう。……という。

 これが茹でガエル理論だが、実際には、こういうことはないそうだ。
カエルは水温があがれば、そこから逃げ出してしまうそうだ。
ともあれ、私たちは今、その茹でガエルの状態にある。
つい先日、神奈川県の足柄茶で、放射性物質が検出された。
東京を越えて、神奈川県で!

が、今度は伊豆半島を一気に越えて、この静岡県で!
やがてこの浜松市(三方原茶)でも、放射性物質が検出されるようになるだろう。
時間の問題というよりは、福島第一原発からの放射性物質は、今の今も、たれ流されたまま。
事態は、悪化の一途をたどっている。

●風評被害

 「風評被害」という言葉をよく耳にする。
しかしこの言葉は、不愉快。
あたかも私たち一般庶民が、加害者であるかのような印象を受ける。
風評か、風評でないかは、そんなことは一般庶民が決めること。
いくら県側が「基本的に安全」(静岡県知事)と言っても、私たちは「本山茶」は買わない。
飲まない。
そこに別の産地のお茶が並んでいれば、そちらを買う。

 つまりこれは「風評」の問題ではなく、「選択」の問題。
また「風評」というのは、根も葉もない「デマ」をさす。
今回の放射性物質の発見は、その「デマ」ではない。
「事実」である。
その「事実」を、「風評」という言葉で、置き換えてよいものか。
さらに言えば、当該製茶組合は、風評被害による損害賠償を県や国に求めていくという。
が、ここでも大きな疑問。

 どうして東京電力にではなく、国や県に対してなのか。
東京電力では、賠償能力に限界がある。
だから国や県に対してなのか。

 今、多くの人たちは言いようのない不安、やりようのない怒りを感じている。
こうした不安や怒りを、だれにぶつけたらよいのか。
……というか、その不安や怒りは、そのまま自分に対して向かってくる。
「私たちがバカだった」と。
無念といえば、無念。

 私自身も、今回の3・11大震災が起こるまで、大津波のことはもちろん、原発事故の可能性
についても、ほとんど考えなかった。
どこかで原発反対運動があっても、他人ごととして、それを心の中で片づけていた。
そういう私たちがバカだった。
その「バカ」を棚に上げて、今、「国が悪い」「電力会社が悪い」と、どうして言えるのか。
こと電力についていえば、私たちは、使い放題電気を使ってきた。

●汚染

 とても残念なことだが、これからもしばらく、放射能汚染はつづく。
放射性物質が風に乗るたびに、それは全国各地にばらまかれていく。
それがどんどんと蓄積されていく。
原子力発電所事故というのは、そういうもの。
あのチェルノブイリ事故でも、500〜600キロ単位で、被害は拡大した。
600キロといえば、福島第一原発から、大阪の関西国際空港までの距離に等しい。

 それだけではない。
同じくチェルノブイリ事故のあと、1000キロ以上離れたヨーロッパでも、がん患者は100万人
単位でふえているという(宝島社「原発事故」)。

 残念ながら、これが「事実」である。
風評ではない。
事実である。
「被害」ということになれば、すでに日本中のすべての日本人が被害を受けている。
今はまだ「国」も何とかもちこたえているが、やがてその国の力にも限界が出てくる。
「国が……」「国が……」と言っておられるのも、いまのうち。
つまり今回の福島第一原発の事故は、それほどまでに深刻であるということ。
私たちが想像しているより、はるかに深刻であるということ。
言うなれば、戦争状態。

 今回、その爆弾が、静岡市にも投下された。
それが葵地区で爆発した。
願わくは、ともかくも1日も早く、福島第一原発事故が収束すること。
放射性物質の放出が、止まること。
ただただそれを心から願うしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【日中経済戦争】(はやし浩司 2011−06−10)

●中国のバブル経済の崩壊

 2011年に入ってから、中国経済が
急速のおかしくなってきた。

「11月、北京市の賃貸家賃と住宅価格の比率は500倍を突破、国際的な基準とみなされてい
る200倍を大きく上回るなどバブルが懸念されている」(「ネットの声」より)と。

500倍?
200倍?

 その国の経済はさまざまな統計的データをもとに、算定される。
しかしこんな経済指標があるとは、私は知らなかった。
わかりやすく言えば、こうだ。

 国際的な基準によれば、一戸あたり2000万円で建設された高層住宅であれば、家賃は、2
00分の
1の、約10万円(月額)が、相場、それが中国では、4万円。
「安い」というのではない。
貸し手は、住宅価格の高騰を見込んで、つまり投資として高層住宅を建設する。
が、10万円では高すぎる。
だから4万円。
が、これでは元は取れない。
つまり無理がある。
その無理が、今、まさにはじけようとしている。

 ……というのは、一例。
今、「中国経済 バブル崩壊」で検索すると、60万件もヒットする。
中国経済の崩壊は、きわめて近い。
サーチチャイナのHPには、つぎのようにある。

「……投資調査会社A・ゲーリー・シリングのシリング氏はこのほど、「中国経済は2012年に
『ハードランディング』することでバブルがはじけ、世界経済が衰退する可能性がある」との見
解を示した。環球時報が報じた」(サーチチャイナ)と。

 日本のときとちがい、中国では土地バブルは、起きない。
土地はすべて国家に帰属する。
それで「住宅」となる。
が、それにしても……!

●被害を最小限に

 とはいっても、私は何も中国経済のことを心配しているわけではない。
ただいつもこう、思っている。
「日本よ、日本人よ、お人好しはやめよう」と。

 こと経済に関して言えば、食うか食われるか。
それが現実。
サッカーの試合を思い浮かべればよい。
それが巨大化したのが、国際経済。
勝つか、負けるか。
そういう世界では、「お人好し」は通用しない。
よい例が、オウンゴール。
相手チームがヘマで、オウンゴールにしてくれれば、私たちはそれを喜ぶ。
もちろんその反対もある。
それが国際経済。

 中国のバブル経済が崩壊すれば、もちろん日本経済も大打撃を被る。
しかし日本は、中国の、これ以上の台頭を許してはいけない。
経済的脅威だけが問題ではない。
軍事的脅威もある。
そのためにも、中国のバブル経済崩壊を、歓迎はしないまでも、日本はうまく利用する。
あるいは被害を最小限に抑えるための準備だけは、今から、しっかりとしておく。

●アメリカ経済

 中国経済だけではない。
アメリカ経済もおかしい。
このままではデフォルト(債務超過=国家破綻)すると言われている。
この8月にも、第一の危機がやってくるという(2011)。

が、アメリカのばあい、いざとなったら、札・印刷機を回せばよい。
お金はいくらでもある。
その一方で、アメリカ・ドルをほしがっている国は、いくらでもある。
そういう意味で、「基軸通貨」というのは、強い。
強いが、いつまでも強いというわけではない。
ドルへの不信感は、そのまま貴金属価格の高騰へとつながっている。
現在、金はグラム4000円以上、プラチナは、グラム5000円以上。

 が、それだけではない。
加えてEU経済もおかしい。
もちろん日本経済もおかしい。
おかしいが、こうして書き出したら切りがないので、この話はここまで。

●上海の現状

 上海に住むMさん(友人、女性)が、こんなレポートを送ってくれた。
中国の実態経済をかいま見るようで、たいへん興味深い。

【上海のMさんより】

●不動産について:
 
不動産を買う事がないので、また、周囲の日本人駐在員で不動産を買う人も聞いたことが無
いので何ともいえませんが。。。
知り合いの中国人は既に上海市内に3物件、日本に2件あるそうです。
更に、もう1件、日本に買うとか。
我が家の家賃はこの3年上がっていませんが、上海市内では、少し前から家賃は上昇傾向に
あります。
賃貸に関してはまだまだ強気だと思います。

大家が店子を追い出したいがためにビルの電気を止めてしまって、お店を移転せざるを得なく
なった。。。なんて話はよくあります。
分譲は、先にも書いたように、具体例を知らないので何も言えません。
ただ、億ションは未だ、たくさんあります。
 
今まで住んでいたところが更新を機に値上がりするので、引っ越す、という知人が最近2件あり
ました。
2人ともマンションは別の場所です。
 
携帯にマンションの宣伝がよく送られてきます。
今日来た物件は「72平米。頭金46万元(=570万円)」。
物件の値段は書かれてません。場所は未だ開通してない地下鉄の駅のそば、というだけ。
昨日きたのは「100万元(=1240万円)より。
地下鉄○号線××駅そば。
サービスアパートメント」。
決して上海市中心部ではありません。
 
ちなみにスターバックスのカフェラテ(トールサイズ)、25元(310円)。
タクシーの初乗り料金12元(149円)。
朝日が中国で生産販売している牛乳、1L、25元(310円)。
近所の果物屋の今日のスイカ、1.7元(21円)(500gあたり)。
近所のローカルパン屋の食パン、1斤7元(87円)。
 
2006年当時は4、5本しか通ってなかった地下鉄がいまや建設中のものを含めて13本ありま
す。
(あっという間に出来てしまう上海の地下鉄!)
  
Mより

1元=12・4円(2011年6月10日現在)
(以上、(かっこ)内は、私の方で計算。)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【今週は、「家族」について学習しました】(年長5、6歳児)


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Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●今日は6月10日、ワイフの誕生日

+++++++++++++++++++++

今日は6月10日、ワイフの誕生日。
ワイフは、満xx歳になる。

仕事の帰りに、弁当とケーキを買った。
家に帰って、息子と3人で祝った。
が、すぐ外出。
今夜は、『X−Men』の先行上映会があった。
午後8時から。

ワイフの誕生日プレゼント(?)をかねて、それを観た。
星は、3つの★★★。

その映画の帰り。
今夜は田町(浜松市の中心街)にある、
クレタケ・インというビジネスホテルに
泊まることにした。
誕生日には、特別割引ということで、
一泊2800円で泊まれる。
それにポイント割引が200円ついて、
2600円!

2人で、2600円。
クレタケ・インさん、ありがとう。

・・・ということで、今、この原稿を
そのホテルの中で書いている。

時刻はまもなく11時になるところ。
ワイフは、風呂に入っている。

+++++++++++++++++++

●出かける(=外出する勇気)

 先日、近くの温泉で出会った男性が、こう教えてくれた。
70歳くらいの男性だが、精悍な顔つきをしていた。
「秘訣は何ですか?」と聞くと、こう教えてくれた。
「出かける勇気をもつことです」と。

私「出かける勇気?」
男「そうです。出かける勇気です。年を取ると、出かけるのがおっくうになります。できれば家の
中で、ゴロゴロしていたいと思うようになります。そういう自分にムチを打って、あえて出かけま
す。その出かけるとき、勇気がいります。だから出かける勇気なのです」と。

 ナルホド!
その通り!

 年を取ったら、あえて外出する。
その努力を怠らない。
用がなくても、外出する。
その勇気を失ってはならない。

 実は、今夜もそうだった。
「X−Men」(ファースト・ジェネレーション)については、あまり観たいという欲求が起きてこなか
った。
似たような映画はたくさん観た。
「アイアンマン」もそのひとつ。
しかしあえて外出。
映画は、ボケ防止によい(?)。
証明された事実ではないが、そんな気がする。

●ミュータント(突然変異体)

 猿人に対して、人類がいる。
その人類に対して、ミュータント(突然変異体)がいる。
人類とミュータントの関係をわかりやすく説明すると、そうなる。
そのミュータント。
さまざまな超能力(特殊能力)をもっている。……そうだ。
映画「X−Men」の中では、そうなっていた。

 が、観ているうちに疑問、また疑問。
ただの娯楽映画なのだから、楽しめばよい。
それはよくわかっているが、疑問、また疑問。
で、結論はこう。

 「あんな程度のミュータントたちが出現したら、世界は大変なことになる」と。
「あんな程度」というのは、あんな程度。
そこらのチンピラに少し毛が生えたような人間(?)。
欲望のかたまり。
仮にそんな能力があったとしても、安易に使ってもらっては困る。
映画の中で、ミュータントたちはこう言う。
「我々が王となって、世界を支配する」と。

 しかし、だ。
私なら人間の世界など相手にしない。
冒頭に書いたことを思い出してほしい。
こう書いた。

「猿人に対して、人類がいる。
その人類に対して、ミュータントがいる」と。

 猿が島へ行って、猿の「王」になったところで、どんな意味があるというのか。
あんな猿どもを相手にし、王様気分になったところで、それで満足できるというのか。

 たとえば私の山荘近辺には、数10匹もの野生の猿が住んでいる。
動物は嫌いではないが、猿たちといっしょに生活しろと言われても、私にはできない。
断わる。

 ミュータントにしても、そうだ。
自由に空を飛べる。
すさまじい破壊力で、ビルごと吹っ飛ばすこともできる。
どんな人間にも変身できる。
そんなミュータントが、人間の世界など、相手にするだろうか。
相手にされる人間だって、困る。

 つまり脳みそのレベルは、そのまま。
人間のまま。
だから「世界はたいへんなことになる」。

●「お茶にすれば、8分の1」?

 まず民間の販売会社から、指摘をされた。
それを受けて、県側はこう言った。
「混乱を招くから、公表を差し控えてほしい。県も独自で検査をするから」(中日新聞)と。

 その結果、静岡県の本山茶から、基準値以上の放射線が観測された。
それを受けて、県側は、「出荷自粛を要請した」。

 が、このあとの説明が、ヘン!
「検査したのは、5倍に濃縮された荒茶。お茶にしてのむときは、(湯で薄められるので)、8分
の1になる」と。
だから「基本的には安全」(静岡県知事・談話)と。

 私はこれを読んだとき、「日本の数学教育は何のためにあるのか?」と、思わず考え込んで
しまった。
微分や積分の問題は解けても、簡単なかけ算ができない?
もう一度、よく読んでみてほしい。
製茶組合(=県)の言い分は、こうだ。

(1)5倍の濃縮した荒茶で検査したのだから、放射線濃度も5倍になった。
(2)しかし飲むときは、お湯で薄めて飲むので、8分の1になる。と。

●放射線量に「しきい値」はない

 しきい値……つまり「これ以下の量なら、安全」という基準は、こと放射線に関してはない。
ほかの薬物、毒物には、それがある。
しかし放射線に関しては、ない。
つまり「20ミリシーベルト以下なら安全」という、言い方そのものが、ナンセンス。
それを百も承知の上で、「8分の1になるから、安全」とは?

 では、同じお茶を8杯飲んだら、どうなるのか。
お茶というのは、毎日、飲む。
飲む量にも、個人差がある。
多い人だと、(私のばあい)、1日に1〜2リットルも飲む。
体内に蓄積される放射性物質は、当然、その分だけ、多くなる。

●10シーベルトで即死

 10シーベルトの放射線を浴びたら、即死と言われている(「原発事故」宝島社)。
もう少し正確には、こうある。
(ベクレルとシーベルトちがいについては、何度も書いてきたので、ここでは省略する。)

『4シーベルトで、50%が急性傷害死。
 これは国際放射線防護委員会(ICRP)の認めた(半数致死)に相当する。
 ちなみに、2・2シーベルトで、5%が、急性傷害死、9・3シーベルトで、99%が
 急性傷害死する』(同書、P24)と。

 もう少し数字を整理してみよう。

2・2シーベルト…… 5%が急性傷害死
4シーベルト  ……50%が急性傷害死
9・3シーベルト……99%が急性傷害死

 そこで問題なのは、では1シーベルトなら安全かという問題。
もちろん答えは「NO!」。
「急性」から「晩発性」へと移行するだけである。
仮に1シーベルトの放射線を受けた人が、平均1年後に死亡したとする。
では、半分の0・5シーベルト(500ミリシーベルト)の人はどうなるのか。
単純に計算すれば、2倍の平均2年後に死亡することになる。
「しきい値はない」というのは、そういう意味である。

●風評?

 すでにオーストラリアでは、「静岡県も汚染された」というニュースが飛び交っている。
さっそく、オーストラリアのK君からメールが入った。
「静岡県も汚染されたというニュースが流れているが、これは誇張なのか、それとも事実なの
か」と。

 私はこう返事を書いた。
「残念ながら、事実だ」と。

 こうした事実を、何とか「風評」とした片づけたがる県や製茶業界。
気持ちはわかるが、これはもう風評の段階を超えている。
風評というのは、根も葉もないデマをいう。
つまりもうデマではない。
事実である。

 そこで重要なことは、事実は事実として受け入れた上で、たとえばこうする。

(1)これから出荷するお茶については、すべて検査し、それがもつ放射線量を表示する。

 今のように、(たまたま販売会社から指摘され、県が検査した製茶工場だけをさして)、「ほか
の製茶工場では、基準値を下回っていました」では、国民は納得しない。
言い換えると、こういうごまかしを繰り返すから、国民は不信感をもつ。
政府の言うことを信用しなくなる。
結果として、風評(?)だけが、ひとり歩きするようになる。

●数学

 ともあれ、お湯に溶かして飲むから、8分の1の放射線濃度になるというのは、インチキもよ
いところ。
繰り返すが、そういうお茶を、8杯飲んだら、同じ。
どうしてこんな簡単なかけ算も、できないのか?
言い換えると、学校教育というのは、何のためにあるのか。

 計算はできる。
問題も解ける。
しかし自分で考える力がない。
またそういう力を育てていない。
だからこういう説明を受けると、そのまま鵜呑みにしてしまう。
「5倍に濃縮したのだから、放射線量が5倍になって当たり前」
「お湯に溶かすから、8分の1になるから、安全」と。

 繰り返すが、荒茶であろうが製茶であろうが、私たちはそれを「お茶」という。
私たちは、そのお茶を飲む。
「濃縮したから、放射線量が5倍になった」というのは、言い訳にもならない。

 ともあれ、福島第一原発では、多くの人たちが事故処理の作業に当たっている。
今の今も、大量の放射線を、全身に浴びながら、作業に当たっている。
そういう人たちには、本当に頭がさがる。
申し訳ない気分にすらなる。
が、「どうかがんばってください」と言ったところで、言葉が詰まってしまう。

 つまりそういう人たちと比べると、私たちが心配している放射線の量などというのは、微々た
るもの。
それに10年後、20年後にがんになるとしても、ちょうどそのころ平均寿命も尽きる。たいへん
悲しいことだが、そこまで割り切らないと、この先、お茶すら飲めなくなる。
ただ一言。

 政府も自治体も、ウソや隠しごとをしないで、「事実」をありのまま公表してほしい。
あとは私たち自身が、自分で考え、行動する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 X-MEN 放射線と致死量 ワイフの誕生日 はやし浩司 出かける勇気)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

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韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。

申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。見慣れない
ものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感することが、より重
要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。

浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。

が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。

今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

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●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。

いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。
 
●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される

(2)子どもたちを尊敬する

(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない
 
 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬してい
ない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。


★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に
対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。
 
 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

 「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 はやし浩
司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

●管直人首相、がんばれ!(I support Mr. Naoto KAN, the Prime Minister of Japan)改

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善人は悪人に嫌われる。
……ということでもないが、管直人首相は、目下、四面楚歌。

内閣官房副長官ですら、こう述べている。

『仙谷由人官房副長官は12日、東日本大震災の本格的復興のための2011年度第2次補正
予算案の編成について、「与野党の広い枠組みで共同作業でやっていく方がいい」と述べ、菅
首相の退陣後の新体制で行うべきだとの考えを示した』(読売新聞・6月12日)。

何という、官房副長官!
ほかのところでは、「2次補正編成はつぎの総理で」とか、「6月末が退陣のタイミング」(同、読
売新聞)などとも述べている。

首相を支えるべき官房副長官が、堂々とこういうことを公言するところが恐ろしい。
常識をはずれている。
だったら、まず官房副長官の職を退いてから、それを口にすべき。
まさに自らが乗る船に穴を開けるような行為をしながら、みじんも恥じない。
この愚かさ。
低劣さ。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●管直人首相が何をした?

 私は毎日新聞やテレビ、ネットや雑誌、ついでにタブロイド版の新聞にも目を通している。
が、今回の管直人首相の「引き下ろし劇」の理由がよくわからない。
約束を守らないとか、約束を破ったとか。
そういうレベルの話しばかり。

 私が見るかぎり、管直人首相は、よくやっている。
すばらしい。
どこかうさん臭い、悪臭漂う政治家の中にあって、管直人首相だけが、その誠実さを光らせて
いる。
思い出すのは、あの三木武夫元首相。
同じような経緯を経て、政界の場から引きずり下ろされた。
が、ああいう人物こそ、政治家の中の政治家。
政治の世界では、まともなことを口にした政治家ほど、袋だたきにあう。
今回の「浜岡原子炉停止」にしても、そうだ。

 今までの政治家たちは、電力業界=官僚がこわくて、それを口にすることもできなかった。
が、管直人首相は、それを断行した。
浜岡原子炉を停止させた。
まさに大英断!
もっとも過激に管直人首相を口汚く攻撃しているのが、あのSK新聞、ということも、私には納
得できる。
自民党よりの最右翼!

●今は、そんなときではない!

 仙谷由人官房副長官……私には彼がどういう人物か、よくわからない。
しかし「ペテン師まがい」という言葉を使った、鳩山氏同様、かえって自らの品位を落としている
ことに、どうして気がつかないのか。
こういう例は、教育の世界にも多い。

 かなり前のことだが、ある母親が私のところに来て、こう言った。

「先生、うちのダンナは高卒なんです。給料も少ないし、生活も苦しいです。息子にはああいう
父親のような人間にはなってほしくないです。だから何としても大学へ……」と。

 こういう母親を、「バカ!」という。
本物のバカという。
が、自分のバカさかげんに、気づいていない。
仙谷由人官房副長官も、その1人。

 官房副長官なら、まず、何をさておき、首相を支えるべき立場の人間。
世間の批判があれば、盾となって、それを振り払うべき立場の人間。
その人間が、内閣という(内側)にいて、管直人首相下ろしに、一役買っている。
「うちのダンナは高卒なんです……」と言った母親と、精神構造は同じ。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

 もし不満があるなら、最初から結婚など、しないこと。
あるいは離婚してから、それを言え!
さらに言えば、結婚などというものは、たがいにふさわしい人間どうしが結びつくもの。
ダンナがもし、本当にその程度なら、妻であるその母親もその程度。
自分の脳みそと学歴を棚にあげ、「ああいう父親のような人間にはなってほしくない」は、な
い!

 私はその話を聞いたとき、(私も男、夫)、唖然とした。
開いた口がふさがらなかった。
今の今もそうだ。

 みなさん、今一度、冷静になろう。
今は、そんなときではない。
このままでは、日本本土の3分の1以上が、人が住めない場所になる。
東京だって、危ない。
名古屋だって、危ない。
今の今も、放射性物質は、空中に放出されたまま。
3・11大震災以来、原発事故は、何一つ解決していない。
どうしてその深刻さが、わからないのか!

 みなが一致団結して、原発事故の処理に当たらねばならないとき。
言うなれば戦時。
つぎの総理がだれであっても、まただれでなくても、今は管直人首相に集結すべき時。
みなが知恵を出しあい、協力すべき時。
原因や責任を追及するのは、あとの、そのまたあとでよい。

 管直人首相!
私はヘソ曲がりかもしれないが、あなたを支持する。
どうか今の日本の危機を救うため、全力を尽くしてがんばってほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 管直人首相 愚かな政治劇 権力闘争)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Mさんからのコメント(ココBLOG)

はじめまして。こんにちは
私もまったく、同意見です。  なんで、こんな非常時に、菅さんを助けて協力しないのでしょう。
 政治家ってほんとになさけない。

何の為に政治家になったのでしょう?
 
こんな、災害が多重に起こってる中すべて、管総理に押し付けている人たちは、日本人を
やめればいいのに。 

 マスコミだって、レベルが低すぎる。総理変えて、原発がおさまるのでしょうか。     

管さんは間違ったことしていない。 ただ、あまりの困難なのだと、思います。  
 私も応援しています。同意見の人がいてよかった。 ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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●DROPBOX

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Dropboxという、インターネットストーレッジのサービスがある。
今朝、それをドウンロードし、試しに使ってみた。
で、使い勝手は、最高!
今まで、BOXとか、WINDOW LIVEとか、ほかに3つ、インターネットストーレッジを使ってき
たが、使い勝手のよさでは、群を抜く。

まだ本格的に使っているわけではないが、この先、世話になりそう。

そうそう「インターネット・ストーレッジ」というのは、言うなれば、仮想のハードディスクのようなも
の。
わかりやく言えば、ネット上の原稿倉庫。
原稿や写真、動画などを、その中に保管しておくことができる。
そこへ保管しておけば、いつでも、どこでも、またどのパソコンを使っていても、自分の原稿や
写真、動画を呼び出すことができる。

が、Dropboxのすごいところは、それだけではない。
それだけなら、今までのインターネットストレッジと同じ。
Dropboxでは、たとえば呼び出したあと、書き足したり、変更したりすると、そのまま上書きを
してくれる。
今までのように、いちいち改めて保存をかけなくてもよい。

利点は、まだある。
「Public」(公開)フォルダーに保管しておけば、だれとでもファイルを共有することができる。
電子メールに張りつけ、相手にそのまま原稿を送ることもできる。
容量に制限はあるものの、ふつうに使う分なら、不便はない。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●6月14日、今朝は4時半起き!

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数日前から、扁桃腺が痛かった。
軽い風邪をひいた。
悪寒と倦怠感。

で、昨日は合計して、10時間ほど眠った。
それもあって、今朝は、4時半起き!
すでに外は明るかった。
いつもならそのまま目を閉じ、眠りなおし。
が、今朝は起きた。
起きて、そのままウォーキングマシンに!

一汗かいて、そのまま書斎に。
たった今、動画のUPLOADが終わったところ。
時刻は6時30分。
あっという間に、2時間が過ぎてしまった。

朝食後に、再び寝る予定。
このところ睡眠調整が、どうもうまくいかない。
が、ここは自然体。
犬のハナに倣(なら)って、自然体。
ハナは、好きなときに眠り、好きなときに
遊んでいる。

きっと人間も、太古の昔には、そうであったに
ちがいない。

++++++++++++++++++

●国によってちがう、生活時間

 どこの国の人も日本人と同じように、朝、起き、夜、眠っていると考えている人は多い。しかし
これは誤解。
南米や地中海地方では、昼寝時間を取るところが多い。
そのため夜が長い。
午後10時から夕食、という家庭も少なくない。
あるいは夜12時ごろまで、通りで子どもが遊ぶ声が聞こえたりする。
少し前、スペインにいる友人が、こう話してくれた。
「コンサートが夜10時から、というのには、驚きました」と。

 私もアルゼンチンで似たような経験をしている。
土曜日の夜などは、夜12時を過ぎても、人々がぞろぞろと通りを歩いている。
店にしても、夜中の2時、3時まで開いている。
つまり私たちが、日本人として考える生活時間などというものは、日本人のものであって、けっ
して世界の標準ではないということ。
言い換えると、こと生活時間についていうなら、日本人はもう少し自然体で考えたほうがよいの
ではないか。
子どもが幼稚園で過ごす時間にしても、そうだ。
どうして8時30に登園し、午後2時00分に降園するのか。
昼の1時から午後5時までだって、いっこうに構わない。

 ……というのは弁解にしかならないが、人間もある年齢を超えたら、自然体で時間を過ごし
たらよい。
寝たいときに寝、起きたいときに起きる。
不規則がよいというのではない。
それが一定の規則性をもっていれば、それも「規則正しい生活」ということになる。

 なお詳しくは、総務省統計局が、「社会生活基本調査」というので調査している。
興味のある人は、そちらを見ればよい。
が、私は興味がない。
私は私、人は人。
私は若いときから、一般の人たちよりは、はるかに自由気ままに生きてきた。
要は、「睡眠時間」。
累計して、ある一定以上の睡眠時間を確保できれば、それでよい。
それさえきちんと守れば、あとは自然体。

●ワイフと私

 ワイフは子どもころから、母親を早く亡くしたということもあり、独立心が旺盛。
兄弟も7人もいた。
それもあって、いつも独りで寝る。……寝ていた。

 一方、私は祖父母の子。
寒い夜などは、小学6年生になっても、よく祖父母のふとんの中に潜り込んで寝ていた。
(私の家は、北西の角地にあって、とくに寒かった。)

 そういう2人が不幸にも(?)、結婚した。
だから結婚当初から、こと寝ることについては、不協和音がつづいている。
「独りで寝たい」というワイフ。
「いっしょに寝たい」という私。
60歳を過ぎた今もそうだ。

 で、おかしな人間関係ができてしまった。
私の方は、毎晩のように、「いっしょに寝てもいいか?」と、ワイフの機嫌をうかがう立場。
それに対してワイフのほうは、いつもこう言う。
「寝たければ、寝れば」と。
結婚して40年になるが、ワイフのほうから、「一緒に寝よう」と声をかけられたことは、一度もな
い。

 だから正直に告白するが、いつも寝心地はよくない。
遠慮がちに横になる私。
体が触れあうのさえ、気が引ける。
つまり窮屈。
で、ときどき、別のふとんで寝る。

 が、そういうときというのは、悪夢ばかり見る。
落ち着かない。
が、ワイフといえば、私がいないほうが、よく眠られるといったふう。
朝なども、すがすがしい様子で、起きてくる。

 が、こんな生活に、やや疲れを覚えるようになった。
で、今は、できるだけ独りで寝るように心がけている。
しかし悪夢だけは、何ともしようがない。
が、ワイフには、それが理解できない。
のんきな性格の人で、「そんな夢を見る方がおかしい」と片づけてしまう。

 では、どうするか?
……と悩みつつ、もう40年が過ぎた。
どうしようもない。
どうすることもできない。
これも「性格の不一致」ということになるのか。

 どうであるにせよ、たがいの平均余命も、15年近くになってしまった。
どこかチグハグな夫婦だが、私たちのような夫婦も少なくないはず。
「みんな、どうしているのだろう?」と思うが、そんなことを話してくれる人はいない。
これは生活の中でも、きわめてプライベートな部分。

 私の印象では、みんなそれぞれ、いろいろな問題をかかえながら、何とかうまくやっている…
…。
夫婦というのは、そういうものか。

 睡眠時間のことを書いたので、私とワイフのことを書いてみた。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●年中児「家族」、小3クラス「箱作り」


(年中4歳児の様子)


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(小3、箱作りの様子)


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www.youtube.com/v/IB_k8vrJBXc?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【子どもの心、親知らず】

●「うちに帰って相談して決めます」

 幼稚園でいうと、今、「入れて(=入園させて)もらえますか?」と聞いてくる親は、まずいな
い。
生徒、様々。
「入れる」という前提で、見学に来たりする。
で、幼稚園側も、そうした親や子にていねいに対処する。
今では給食を提供するのも、当たり前。
手のあいている教師に、マンツーマンでガイドさせることもある。

 が、親の方はどうかというと、帰りがけに、こう言う。
「入園するかどうか、うちへ帰って相談してから決めます」と。
中には、「明日、もう一度、見学させてください」と言う親もいるという。

 親にしてみれば、何げない一言かもしれないが、この一言が、グサリと園側の園長や教師の
心を刺す。
ある教師(教師歴20年以上)は、こう言った。
「いくら慣れたとはいえ、この言葉だけには、慣れることができません」と。

●自動販売機

 こうした傾向は、私の教室でもある。
あるいはもっと、ひどい(?)。
お金さえ払えば、だれでも入れると思っている。
立場が「塾」だから、それはしかたない。
以前は、「自動販売機」と揶揄(やゆ)された。
いちいちそんなことで傷ついていたら、この仕事はできない。
慣れたわけではないが、その瞬間、その親や子どものことは忘れる。
私のばあい、「縁があったら、またおいでください」というような言い方をして、別れる。

 そう、この世界は、「縁」で始まり、「縁」で終わる。

 小さな種かもしれないが、それを蒔いておけば、いつか芽が出る。
そう思って、別れる。

 が、反対に、こういうこともある。
ときどき何かの問題をもった子どもがやってくる。
若いときは、そういう子どもでも引き受けた。
が、50歳を過ぎるころから、それができなくなった。
体力的な限界を覚えるようになった。
で、それとなく断ることもある。
が、その断り方がむずかしい。
いくらていねいな言い方をしても、たいていの親は、店で販売拒否にでもあったかのように激怒
する。
「どうして、うちの子は入れてもらえないのですかア!」と。

 一度だけだが昔、こう言われたこともある。
「お高くとまって、あなたは何様のつもりですか!」と。

●「メイリークリスモース」

 親といっても、若い女性の世界。
若い女性がみな、そうだというのではない。
しかし中には、テレビのバラエティ番組からそのまま出てきたような若い女性もいる。
モンスターママというよりは、プチ・モンスターママ。
電話のかけ方どころか、話し方までおかしい(失礼!)。

「オタクウ(お宅は)、ヤウジウ(幼児)キャオウシツウ(教室)?」と。
口をほとんど閉じたまま、鼻から音を出して話す。
たとえば「メリークリスマス」を、「メイリークリスモース」というような言い方をする。
都会(東京)などで、接客業をしている女性に、そういう話し方をする人が多い。
この浜松市でも、ふえてきた。

 そういう女性のばあい、私は電話の問い合わせの段階で、入会を断ることにしている。
一事が万事。
万事が一事。
母親がそういう話し方をしていて、どうして子どもにまともな国語力が育つというのか。

●ジー様

 ……とはいえ、私の仕事もいよいよ秒読み段階に入ってきた。
よく「あと何年、この仕事ができるだろうか」と考える。
若い母親たちからみると、私はとんでもないほど遠くにいるジー様に見えるはず。
私も若いとき、そう思っていた。
30代のころは、50歳の人でも、ひどくジー様に見えた。
そのジー様。
こと幼児教育の世界では、ジー様はお呼びではない。
子どもも小さいが、親も若い。
それがよくわかっているから、否応なしに、私は謙虚になる。
……ならざるをえない。
「来てもらえるだけも、ありがたい」と。

 で、残り2年か、それとも3年か?
ワイフはいつもこう言っている。
「できるところまでしましょうよ」と。

●「あんなヤツ、早く死ねばいい」

 ……と書くと、私の愚痴で終わってしまう。
で、ここから先は、育児論。

 こうしたケースで注意しなければならないのは、親たちは、子どもの心をどれだけ大切にして
いるかということ。
「うちの子は、まだ判断力がないから」という理由だけで、親側がすべてを決めてしまうケース
が目立つ。
あるいは「うちの子のことは、私がいちばんよく知っている」と思い込んでいる親も多い。
幼稚園やおけいこ塾のみならず、学校や進路、進学についても、である。

 教師というのは、当然のことながら、親と子どもの(間)に立つ。
だから双方の気持ちや考え方がよくわかる。
が、こんなケース。

 親は、(母親であることが多いが)、「私は子ども思いのいい母親」と思い込んでいる。
子どもの生活のあらゆる場面に介入してきては、親が一方的にすべてを決めてしまう。
「今度からあの塾へ行きなさい」
「来週からは、A塾をやめ、B塾へ移りなさい」など。

 で、そういう親に対して、子どもの側が、それなりに感謝しているかというと、それはない。
ある男児(小6)は、口癖のように、いつもこう言っていた。
「あんなヤツ、早く死ねばいい」と。
ふつうの言い方ではない。
顔を引きつらせ、体をこわばらせて、そう言った。
「あんなヤツ」というのは、彼の母親をいう。

 が、こんなケースもある。

●成績は最下位

 S君はそのとき中学1年生だった。
進学校にはいたが、成績はいつも最下位。
1学年2クラスしかない小さな中学校だった。
S君は、悪い意味で、目立った。

 が、母親はプライドが高く、メンツを重んじた。
で、S君を、半ば強制的に転校させようとした。
隣の町に、全寮制の中高一貫校があった。
そこへ転校させようとした。
理由は、「今の学校は、うちの息子には合っていない」だった。

 で、手続きがほぼ完了したところで、S君が反撃に出た。
「ぼくは転校しない!」と。
そのあと、私に母親から相談があった。
「どうしたらいいか?」と。

 私はS君と一対一で、話した。
その中で、S君は、こう言った。
「今の学校のままでいい」と。

私「今の学校に入ったことを、後悔していないか?」
S「していない」
私「どうしてお母さんが、君を転校させようとしているか、君は知っているか」
S「知っている。ぼくが、バカだから……」
私「君は、バカではないよ」
S「でも、お母さんは、そう言っている」

私「学校はそれで、楽しいか」
S「楽しいよ。友だちもたくさんいる」
私「みんなに、いじめられないか」
S「いないよ。ぼくは人気者なんだ」
私「そうだろうな。君はユーモアのセンスもいいし……」と。
 
●悪玉親意識

 結局、S君は中学3年生までその学校に籍を置き、そのあと市内の公立高校へと進学してい
った。
……というようなケースは、多い。
本当に多い。
親意識だけが、(親意識といっても、悪玉親意識だが)、やたらと強い。
子どもの気持ちを確かめることもなく、子どもの(すべて)を親が決めてしまう。
結果、親子の心は、バラバラ。

 が、こうなると断絶は、時間の問題。
というより、すでに断絶状態。
それに気づかぬのは、親ばかり……といった状態になる。

 では、どうしたらよいか?

 簡単に言えば、そのつど子どもの気持ちを確かめる。
その一言に尽きる。
が、こうした関係は、簡単には是正されない。
それがその親の、子育てのリズムになっているから。
しかもそのリズムは、恐らく、子どもを妊娠したときから始まっている。
つまり根が深い。

悪玉親意識が強い。
権威主義者。
家父長意識も強い。

 こうした子育て観が、しっかりとできあがってしまっているため、それを直すのは、簡単ではな
い。
簡単ではない……というより、ほぼ不可能。
親自身が行き着くところまで行き、それを「失敗だった!」と認めて、はじめてわかること。

 が、方法がないわけではない。
たとえばこうした私のエッセーを読むのも、そのひとつ。
読んで、自分の姿を客観的に知る。
(そのために、私は今、こうしてそれを書いている。)

 繰り返しになるが、私の長い経験から、これだけははっきりと言える。
「うちの子のことは、私という親がいちばんよく知っている」と思っている親ほど、失敗しやすい。
その実、自分の子どものことなど、まるで知らない。

 ということで、幼稚園やおけいこ塾を選ぶときも、子どもの心を大切にする。
そういう習慣をそのころから、身につける。
その第一が、「謙虚さ」ということになる。

 「この幼稚園へ(おけいこ塾へ)、入れていただけますか」と聞く親は、それだけ子どもに対し
ても謙虚ということになる。
その謙虚さを、忘れてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 謙虚 悪玉親意識 親風 子どもの心、親知らず 断絶の始まり)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【小学1年生に、立体図(展開図)を教えてみる】

今週は、展開図に挑戦してみました。
(1)〜(4)までありますが、(1)のみを紹介します。
もっと見てくださる方は、「はやし浩司のHP」より「BW公開教室、2011年6月」へおいでくださ
い。

お待ちしています。

(1)

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●ついでに、小学6年生にも、箱作りをさせてみました。
その様子も、あわせてご覧ください。

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
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www.youtube.com/v/CyuAFAYAQ0s?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 見取り図 立体図 展開図 立体模型 箱作り)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【国民の不信感、目下、増大中!】

●風邪が抜けた!

 この数日間、体がだるくてしかたなかった。
全体に熱っぽいというか、いつもホカホカ、フワフワした状態だった。
が、体温計で体温を測定しても、36・5度前後。
私は低体温症だから、私にしては、いつもより高温。
ふだんは36度以下。
「風邪薬をのむまでもないな……」と思いつつ、数日間が過ぎた。

 が、今朝(6月15日)は、それがない。
気分はさわやか。
スッキリ。
やっと風邪が抜けた。
みなさん、おはようございます!

●集団ヒステリー

 「当然、あれだけ大きなアクシデントがあったわけですから、集団ヒステリー状態になる……
分かります、それは。心情としては」(TBS NEWSーi)と。
自民党・石原伸晃幹事長は、そう語った。

 集団ヒステリー?

 私は逆のことを考えていた。
むしろこの(静けさ)こそが、信じられなかった。
「もの言わぬ従順な民、ここに極まれり」と。

 欧米では、日本の原発事故に触発され、各地で原発反対の運動が燃えさかっている。
が、肝心のこの日本では、みなさん、ご存知の通り。
静か。
静かすぎる。
集団ヒステリーが起きて当然。
その当然の国が、かくも、静か?

 石原氏ものんきな人だ。
このたび筑波大学が中心となって、「放射能による土壌汚染地図」が公表された。
それによれば、福島第一原発から200キロも離れた、千葉県の取手市や流山市などで、1平
方メートル4万ベクレル、通常の400倍もの放射線が観測されている。
千葉県から東京まで50キロ。
放射能汚染の世界では、50キロなど、誤差の範囲。
ことの深刻さが、まるでわかっていない。

●1平方メートル当たり、4万ベクレル?

 チェルノブイリ原発事故のときは、遠く離れたスウェーデンにまで、大きな影響を与えた。
そのスウェーデンは、かなり詳しい汚染地図を公表している。
ちなみにチェルノブイリからストックホルムまでは、約1200キロ。
この距離は、福島第一原発から、鹿児島までの距離に等しい。

 それを見ても、つまり汚染地図を見ても、汚染は、同心円状に汚染されるのではなく、スポッ
ト的に汚染されているのがわかる(「原発事故」宝島社)。
たとえて言うなら、ミサイルに攻撃されたかのように、あちこちが虫食い的に汚染されている。
遠いから安全……というのは、こと原発事故には当てはまらない。
ヨーロッパ全体でみれば、がん患者は、80万人単位でふえていると推定されている(京都大
学・今中氏)。

 が、福島第一原発から東京までは、たったの200キロ!
集団ヒステリーどころか、集団暴動が起きても何らおかしくない。
その東京に住む石原氏が、「集団ヒステリー」とは?

 もちろんチェルノブイリと福島第一原発とでは、原子炉の形そのものがちがう。
「だからチェルノブイリのときのような爆発は起きません」と説く学者もいる。
しかしその一方で、福島第一原発のほうは、発電量でみるかぎり、チェルノブイリの4〜5倍以
上もの規模があることを忘れてはいけない。
(チェルノブイリでは、4号炉のみ、出力100万キロワットが爆発した。)

 今後のことは、だれにもわからない。
しかしこんな事実もある。

 チェルノブイリでは、事故から3年たってから、やっと詳細な汚染地図が公表された。
その結果、原発事故現場から、300キロも離れたところまで高汚染地域が広がっていることが
わかった。
その結果、チェルノブイリから200〜300キロ離れた、ベラルーシ共和国でさえ、11万人の
人々が強制的に移住させられた。

 3年もたってからだぞ!
200〜300キロも離れていても、だぞ!

 さて本題。
簡単な算数。

 1平方メートル当たり、4万ベクレルは、1キロ平方メートルにすると、何ベクレルになるか。

 4万x1000x1000=40000000000ベクレル=400億ベクレル!

 しかしこんな数字を見ても、ピンとこない。
が、こういう言い方をすれば、深刻さがもう少し理解できるのでは?

●X線撮影室

 1キューリー=約3万7000ベクレルで計算する。
それでみると、4万ベクレルは、約1キューリー強に相当する。
この値は、X線撮影室の放射線量に等しい。
つまり千葉県の取手市や流山市の人たちは、日常的に、X線撮影室の中にいるのと同じ放射
線を受けていることになる。
 
 いわく「1キューリー以上の地帯には、かならずそのドアの前には、黄色の警告マークが描か
れ、『関係者以外、立ち入り禁ず』と書かれています。
京大原子炉実験所の性質上、僕もその中に入ることがあるが、その際かならず放射線測定器
を身につける。
仕事が終われば、さっさと出る。
中に入ったが最後、水も飲めない。
もちろんそんな場所に子どもを連れて入ってはいけないし、子どもを産んではいけない。
妊娠の可能性のある女性は、医者の相談なしに入ってはいけない。
ましてやそこで人々は生活してはいけない。
1キューリー以上の汚染域というのは、そういうイエローゾーンのことなんです」(「原発事故」)
と。

●さらにおかしな論理

 静岡県のお茶から、規制値以上の放射線が観測された。
これに対して、静岡県の川勝平太知事は、こう言った。

「(飲用茶について)それぞれ1キロ当たり、5・8〜7・3ベクレルと、飲用茶の規制値(1キログ
ラム当たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調。……飲用茶は数
ベクレルで安心して飲んでほしい」(中日新聞・6・15)と。

 川勝知事は学者であったはず。
その川勝知事が、こういう「?」なことを堂々と言うところがおかしい。
言うまでもなく放射性物質は、ほかの薬物や毒物とちがい、一度体の中に取り込まれたら最
後、体の中でどんどんと蓄積されていく。
尿となって排出される分や、半減期を経て、半減して分もある。
しかし基本的には蓄積されていく。

そういうお茶を、20キロ(20リットル)飲んだら、どうなるのか?
40キロ飲んだら、どうなるのか?
お茶にも濃さがある。
逆にこんな論理がまかり通るなら、どんなに汚染されたお茶でも、お湯で薄めれば安全という
ことになってしまう。
さらに「?」なことがある。

 先日の報道では、(原茶)→(製茶)にした段階で、放射線の濃度は5倍になる。
しかし飲用する段階では、(お湯で薄めるので)、8分の1になると言っていた。

 どうして規制値内(500ベクレル以下)の製茶が、お湯で薄めたら、「5・8〜7・3ベクレル」に
なるのか?
単純に計算すれば、83分の1になったことになる(500÷6・0で計算)。
何度も計算しなおしてみたが、やはり83分の1。

 念のため、新聞記事をそのまま紹介する。
私の書いていることを疑う人がいたら、自分で計算してみたらよい。

「……一方で、規制値(500ベクレル)を超えた2工場の製茶を、飲用茶として独自検査したこ
とを(川勝知事は)明かし、それぞれ5・8〜7・3ベクレルと、飲用茶の規制値(1キログラムあ
たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調」と。

 つまり製茶の段階で、500ベクレルを超えていたお茶だったが、お湯で溶かしてみたら、6・
0ベクレル前後になった。
だから、安全、と。

 こんなバカな、手品みたいなことが、どうして起こるのか?
さらに今回の検査では、重大な見落としがある。
こうある。

「放射性セシウムの検出量は、581〜654ベクレルで……」と。

 わかるかな?
放射性物質といっても、その種類は、無数にある。
毒性がきわめて強いプルトニウム、ストロンチュームもそれに含まれる。
放射性ヨウ素もその1つだが、そのヨウ素にしても、134,132,135,133,131などの種
類がある。
調べたのは、たったの1種類。
放射性セシウムだけ。

 さらに県の報告が1日遅れたことについて、川勝知事は、こう居直っている。
「(遅れたことで、どういう)損害が出たのか言ってみてください」(中日新聞)と。

 こういうバカなことを平気で言うところが恐ろしい。
あのね、損害は、これから出るの!
1日遅れれば、その分だけ、工場からの出荷が野放しになるの。
正確な数字はわからないが、仮に1日、1トンの出荷量のある工場だったら、その1トンが、市
中に出回ることになるの!
それを日本人が、飲むことになるの!

●やがて否応なしに……

 東京に住む石原氏にしても、静岡市に住む川勝氏にしても、やがて否応なしにその事実を突
きつけられる日がやってくる。
私はけっしてそれを望む者ではないが、しかしこんなごまかしは、いつまでもつづかない。
やがて東京都全体に避難勧告が発布されるようになるかもしれない。
静岡県茶が全面、出荷禁止になるかもしれない。
だったら今は、「?」なコメントは控え、事実の収集だけに心がけるべきではないのか。
が、現実は、逆行している。
同じ中日新聞には、こうある。

「(すでに)一番茶の出荷を終えた工場も多いことから、地区内にある約100工場すべてを検
査する当初の方針を変更し、今後は要望のある工場のみを検査する」と。

 「今後は、要望のある工場のみを検査する」と。

 そうでなくても、静岡県茶については、農薬汚染が問題になっている。
ご存知の方も多いかと思うが、茶の産地にある、ため池、川からは、生物という生物が、ほと
んど姿を消した。
そういう事実を、隠しに隠しつづけている。
そういう地域で、「今後は、要望のある工場のみを検査する」?
どこの工場が、あえて「要望」など、するものか?
バカも休み休み言え。

 ……つまりこうして私たちの不信感は、募(つの)っていく。
庶民の代表として、本来なら庶民の側に立つべき人間が、企業側の利益の保護だけを考えて
発言する。
行動する。

 私の予想では、この日本は、このまま行き着くところまで行く。
またそこまで行かないと、気がつかない。
本来なら、ヒステリー状態ではなく、パニック状態になっていてもおかしくないのだが……。
2011/06/15記


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【舘山寺温泉・浜名湖かんざんじ荘にて】(2011年6月)

●今日は6月xx日、ワイフの誕生日

++++++++++++++++++

今日は、ワイフの誕生日。
仕事を早めに切り上げ、舘山寺温泉へ。
大草山頂上にある、「浜名湖かんざんじ荘」
へやってきた。
「常連」とまでは言わないが、よく利用
させてもらう。

ワイフと息子、それに私。
Happy B−Day, Akiko!

浜松市内では、一押しの簡易旅館。
いつ来ても、この旅館だけは、期待を裏切らない。
サービスも料理も安定している。
もし浜松へ来るようなことがあれば、
この旅館を推薦する。
最近、内装をリニューアルしたよう。
清潔!
(もともとは国民宿舎ということもあり、
作りは豪華だが、部屋はやや狭い。念のため。)

が、何といっても、展望風呂がすばらしい。
全面ガラス張りで、舘山寺温泉街が眼下に
一望できる。

料金も手ごろ。
3名一室のばあい、1人、8800円前後で泊まれる。
曜日によって料金が微妙に異なる。
ネットで調べてから予約を入れるとよい。
(当然のことだが・・・。)

電話は、053−487−0330。

+++++++++++++++++++

●Y温泉

 先週泊まった、Y温泉のS旅館は、最悪。
こういうよい旅館に泊まってみると、それがよくわかる。
カビ臭く、料理もまずかった。
デザートが、オレンジ一切というだけでも、料理の内容がわかろうというもの。

 「二度と来ない」と心に誓う。
が、幼稚園を選ぶときも、これは参考になる。
要するに幼稚園のよしあしは、園長のやる気。
それで決まる。

 が、先日、ある母親が私にこう言った。
「うちの幼稚園のY園長は、知育教育に反対だそうです」と。
それを聞いて、私は私の教室が攻撃されたように感じた。
だからこう思った。

「知育教育が何であるかもわかっていないのに」と。
そう思ったが、言わなかった。
その母親の子どもは、まだそのX幼稚園に通っている。

もう少しきびしい言い方をすると、「知育教育をするノウハウも知らない。
その能力もない。だからやみくもに反対する」となる。
ギルフォードという学者が知能因子論を唱えて、もう35年以上になる(注※)。
(私が知ったのが、35年ほど前のことだから、35年以上と書いた。)

 そのころから世界の科学者たちは、幼児の脳の発達を、懸命に研究し始めた。
知能教育の重要性も認識され始めている。
「臨界期」という言葉も、常識化している。
にもかかわらず、「反対」とは!
「賛成しない」という意見はわかる。
しかしあえて「反対」すべきようなことではない。
子どもが親に、「漢字を教えて」とくれば、いくらでも教えてよい。

 「反対」というのは、要するに、やる気なしという意味。

●臨界期

 臨界期という言葉を使ったので、少し説明しておく。

 幼児は、それぞれの発達段階において、やっておくべきことがある。
その時期を逃すと、健全な心身の発達そのものが、障害を受けることがある。
その時期を、「臨界期」という。
よい例が、野生児。
(しかしインドで発見された野生児については、最近の研究では、疑問視されている。
もともと精神に障害をもった子どもが、野生に捨てられたという説である。
詳しくは後述。)

 その一方で、たとえば音楽教育などは、かなり早い時期に臨界期が来ると言われている。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●特別な時期(臨界期)

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
たとえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しなくな
るとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話というこ
とだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、目の
機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもであ
る。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)を取
り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児〜1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでいる(ワ
シントン大学・メルツォフ教授ら)。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわかって
きた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的にし
ているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれる。
こうした相互の働きかけを「相互愛着(アタッチメント・mutual attachment)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究所の津
本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果で、人間の
早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」で27日発表
した』(2010年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、もの
の細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を個別に計測
した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨界期後のマウス
は興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に反応が落ちた。抑
制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウスの
視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがあるので
はないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機にもな
るだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回復
することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す研究と
して、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は性
格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってからも残
すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らかの治療を
目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)

『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られること
を、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成熟した個
体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。米科学誌「ネ
イチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新生が確
かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質については明
確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30〜40歳にあたる生後6カ月
のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現した細胞を
見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、この細胞が約1・
5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7〜10日かけて
移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新しい細胞が
活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」が存在
し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チームは、ヒト
でも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は抑
制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り出す
ことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療法が見
つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷り込み 神
経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●先取り教育

 平たく言えば、(1)知能教育と、(2)早期教育と、(3)先取り教育はちがうということ。
多くの人は、先取り教育をもって、知能教育と誤解している。
早期教育でもよい。
たとえば幼児に掛け算の九九を暗記させるのは、先取り教育ということになる。
意味のない教育である。

 ついでながら、オオカミ少女(野生児)についての疑問について書いた原稿を添付する。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●野生児(タマラとアマラ)

 ひとつの情報に出会い、つぎに同じような情報に出会うのは、
こちら側が求めてそうするばあいをのぞき、めったにない。
たとえば最近、私はタマラとアマラに関する文献を目にすることが
できた。
偶然だった。
もしその偶然がなかったら、私は自分がもつ知識を修正することは
なかっただろう。

俗に言う、『オオカミ少女』と呼ばれる2人の少女である。
そののち、心理学の本でもたびたび取りあげられている。
「野生児」という言葉も、そこから生まれた。

要点をまとめると、こうだ(「オオカミ少女はいなかった」鈴木光太郎
(新曜社))。

(1) オオカミの乳は、人間には飲めない。……だから少女たちがオオカミの
乳で育つはずがない。
(2) オオカミは、人間の子どもを連れ歩くのは不可能……オオカミはどうやって
赤子を運んだのか。
(3) ウィリアム・オグバーンというアメリカの社会学者が、
1951年に現地に入った。
が、オオカミ姉妹が発見されたという「ゴダムリ」という村は存在しなかった。
(4) 現地に新聞が残っていて、「少女たちが見つかったのは、トラの
穴」と記述されていた。
(5) 少女たちを発見したのは、シング牧師ではなく、サンタル族の住民
だった。
(6) 写真を詳しく調べてみたが、推定年齢(カマラは8歳半、アマラは
1歳半)が合わない。

 私はたびたびオオカミ姉妹(少女)について書いてきた。
この本だけで、すべてを否定するものではないが、しかし大きな疑念が
生まれたのは事実。
さらにその本は、シング牧師夫妻が寄付金集めのためにしくんだ作り話の
可能性があると説く。
実際、現在の今でも、欧米ではこの手の詐欺が後を絶たない。
(ついでに書き添えると、欧米では、孤児院経営を看板に、この種の詐欺が
日常化している。
じゅうぶん、注意したらよい。)

 で、結論としては、「自閉症か何かの障害をもった姉妹が、親に捨てられた。
その姉妹が、何年かあとに見つかった。村人たちは世話に困り、シング牧師の
ところへ連れていった」ということらしい。

 ・・・となると、私が今まで引用してきた話は、すべて訂正しなければ
ならない。
野生児の話は、ウソだったのか?

が、ここで注意したいのは、だからといって子育て論の本筋、たとえば
人間性と臨界期の問題、言語発達と臨界期の問題まで否定されるというのでは
ない。
人間はそれぞれの成長期に、それぞれの適切な環境で、適切に育てられなければ
ならない。
人間性にしても、言葉にしても、さらにたとえば音感やもろもろの美的感覚
にしても、その時期を逃すと、その後、修復がたいへんむずかしくなる。
たとえオオカミ少女の話がウソであったとしても、その重要性は変わらない。
またまったくのデタラメだったとしたら、こうまで長く、多くの心理学者や
精神学者、さらには哲学者たちの支持は受けなかっただろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 オオカミ少女の謎 オオカミ姉妹の謎 野生児への疑問 オオカミ少女は存在し
なかった はやし浩司 タマラ アマラ シング牧師 疑惑 野生児疑惑 オオカミ少女疑惑 オ
オカミ姉妹疑惑)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●幼児の脳は、底なし

 こうした事実を知った上で、「知育教育反対」というのであれば、私も納得する。
しかしそうでなければそうでない。
むしろ文科省が定めるカリキュラムなるものが、いかに幼児(子ども)の能力を伸ばす障壁に
なっていることか。
30年も前のことだが、当時の文部省の技官と対談したことがある。
そのときその技官も、こう言っていた。
「幼児教育では、文字、数は教えてはいけません。
へたに教えると、小学校の先生が、やりにくくなります」と。

私は自分の幼児教室で、幼児たちに分数は小数、正負の数、割合、確率などを教えている。
要は、教え方の問題。
幼児の脳は、まさに底なし。
教えていて、そういう印象をもつ。

 わかりやすく言えば、自分がピアノを弾けないからといって、幼児にできるわけがないと考え
てはいけない。
「早すぎる」と考えるのは、まちがっている。
いわんや、「ピアノ教育、反対!」を唱えてはいけない。
反対に、私の実感としては、6歳を過ぎてからピアノ教室へ通ったばあい、それなりにピアノを
弾けるようにはなるかもしれない。
しかし「それなりに」というレベルで、進歩は停止する。

●やる気

 話はそれたが、やる気のあるなしで、旅館のよさは決まる。
たとえばこの部屋。
テーブルの上には、水の入ったポットと、お湯の入ったポットが2つ並べてある。
お茶を入れる急須も茶碗も、ピカピカに磨いてある。
客の私たちは、そういうのを見て、やる気度、つまり本気度を知る。

 で、一事が万事。
浴衣もノリがきいて、パリパリ。
丹前も新品のよう。
アイロンもしっかりとかかっている。
掃除も部屋の隅々まで行きとどいている。
空調の音も、ほとんどしない。

 幼稚園にしても、そうだ。
やる気を感ずる幼稚園には、園長の哲学を感ずる。
その哲学があれば、よし。
そうでなければ、そうでない。
園長は毎日、幼稚園と銀行の間を行ったり来たりしているだけ。
そういう幼稚園へは、子どもをやってはいけない。
これは私の意見というよりは、常識。

 それにしても「知育教育、反対」とは!
論法としては、「日本語すら満足に話せない子どもに、英語教育反対」と言うのに似ている。
あるいは「日本のこともよく知らないのに、外国へ行っても意味がない」と言うのにも似ている。
さらに「お尻も拭けない子どもが、バイオリンを弾くのはおかしい」でもよい。

 もしこんな論法がまかり通るなら、こうも言える。

「先の短い老人が、英語の勉強などしても無駄」
「旅行しても、お金が無駄になるだけ」
「足腰が曲がった老人が、ミュージカルを観劇して、何になる」と。

 幼児のもつ可能性に、もう少し目を向けてほしい。
・・・というのが、このエッセーの主題。
ちょうど食事時間になったので、この話はここまで。

+++++++++++++++++++++++

●手紙

 食事中、こんなことが話題になった。
ワイフのクラブ仲間に、Uさんという女性がいる。
そのUさんの息子(26歳)が結婚することになった。
相手の女性が妊娠したらしい。
それであわてて籍だけ入れることになった。
が、Uさんは、その結婚に反対。
相手の女性が、世間ズレしすぎているという。
Uさんの夫を、いきなり「パパ」と呼んでいるという。

ワ「でもね、おかしいのよ」
私「どこが?」
ワ「相手の女性が、子宮外妊娠を心配しているんだって・・・」
私「初産の人が、子宮外妊娠?」
ワ「そうでしょ。ふつうそんなこと心配しないわね」
私「そうだな。ぼくも聞いたことがない」
ワ「……」

 まあ、人それぞれ。
結婚も、それぞれ。
それでたがいに幸福になれば(?)、それでよい。

 ついでに言えば、「知育教育・賛成・反対」にしても、最終的には親や子どもが決めること。
そういう幼稚園を選ぶ親もいれば、そうでない親もいる。
あとは親の判断に任せればよい。
それでたがいに納得すれば(?)、それでよい。

●後記

 たった今、カラオケルームから帰ってきた。
ワイフと息子、それに私の3人で、歌を20曲近く歌った。
この旅館のカラオケルームは、超一流。
まるで豪華な劇場のよう。
照明も、四方八方から調整できる。
楽しかった。

 で、夕食だが、もちろん5つ星。
★★★★★。

 改めて確認。
浜松で、一押しの簡易旅館は、この「浜名湖かんざんじ荘」。
家族連れに最適。
はやし浩司は、ウソは申しません。
ぜひ、おいでください。
では、おやすみなさい!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 知育教育 幼児教育の重要性 2011−06)

(参考※)2004年11月に書いた原稿より

●ギルフォードの立体知能モデル

 ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。196
7年のことだった。

 私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集
部員が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。

 それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い
衝撃を受けた。

 そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。そ
れらはすぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『な
かよし学習』という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。

 ギルフォードの「立体知能モデル」。

 今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡
散的思考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けてい
るが、具体性が、ほとんどなかった。

 今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、
知能因子を、このように分けた意義は大きい。

 というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サー
ストンの「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜん
としていた。

 それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!

 で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQと
いう言葉も生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つま
り因子と言えない因子も考えられるようになった。

 たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野
だけではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右
脳教育という言葉がもてはやされているが、それもその一つ。

 今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書
くことができない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無
理なのかもしれない。

 人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、1
0万個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。
その数は、10の9乗〜10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思
考の可能性を、ワクの中で考えることのほうが、おかしい。

 ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。

(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス 子どもの知能 知能教育
 早期教育と先取り教育 臨界期 敏感期)


Hiroshi Hayashi++++++++June 2011+++++++++はやし浩司

【欲望(煩悩)論】(今朝のキーワードは、「怒り」)はやし浩司 2011−06−17

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束した希
望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。
たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life after 
you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、
道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリクソン
は、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわけには
いかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎり、統
合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統合性
の確立 無私 無我)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後であ
る。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボランティア
活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではな
い。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめることがあ
る。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問して
みるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ず
るときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」が、一
致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。
一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。

(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)

 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)
一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。

 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに
由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるとい
う意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れて
も、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらい
だろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人
も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間
は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら
自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカル
ト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようにな
る。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結
構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつ
きつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところ
で、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を
宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなも
の。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思
える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいう
なら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動の
ために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をも
って、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代
から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックにな
っていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可
能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその
愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここで
いう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ
るがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみ
をいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構
成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが
盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの
原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかとい
えば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、
その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ね
はん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。
原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではな
いか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

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もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

+++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であ
ることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここ
に、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。
ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹になってい
る、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともない。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨みや
ねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。
……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)


(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)

+++++++++++++++++++++

人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

+++++++++++++++++++++++++

●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真
論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み
怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇
高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも
悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。

「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。

そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8〜10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけていく
かということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

●6月18日(土曜日)

+++++++++++++++++

まずホトトギスが鳴いた。
へたくそな鳴き方だった。
「……ポッポー、ポキャキョク……」と。
外は、ほんのりと明るくなり始めていた。

窓のすぐ外で鳴いた。
大きいというより、クリアな声だった。

しばらくすると、今度はウグイスが鳴いた。
こちらはこのあたりの主。
春先には、終日、このあたりで鳴いている。
じょうずな鳴き方だった。
つづいてコジュケイ。
「……チョットコイ、チョットコイ……」と。
これは谷の向こうで鳴いた。

ついでヒヨドリ、カラス……。
山の朝は、鳥の合唱で目が覚める。

横を見るとワイフも起きていた。
「なあ、あのホトトギス、へたくそだな」と言うと、
ワイフは笑った。
「本当に、ヘタクソねエ」と。

6月18日、土曜日。

++++++++++++++++++

●ビワの収穫

 今朝は、ビワの収穫で始まった。
どんよりと重い空。
雨で湿った枯れ葉。
それを長靴で踏みながら、畑へ。
一応、果樹園。
柿、梅、ハッサクなど。

 こういう日は、マムシに注意。
昨年と今年は、まだ見ていない。
しかしマムシはどこにいるか、わからない。
このあたりの農家の人たちも、みなこう言う。
「マムシに居場所なし」と。
が、日中は、枯れ草の間で、とぐろを巻いて休んでいる。

 長靴でそのあたりの枯れ葉をどかす。
安全を確かめる。
そのあと脚立を立て、ビワの木に登る。

 そう言えば、数日前、近くのショッピングセンターへ行ったら、ビワを売っていた。
8個入りで、700円だった。
高い!
そんなことを思い出しながら、つぎつぎと、もいでは、口に入れる。
少しでも酸(す)っぱいと、そのまま吐き出す。
甘いのだけを選んで食べる。
「うちのは見栄えは悪いが、完全、無農薬」と。

 のこぎりで大きな枝ごと、下に切り落とす。
その枝からワイフが、ビワの実をちぎって、カゴに入れる。
今年は大豊作。
あっという間に、ダンボール箱、数杯分のビワが収穫できた。

●暑気(あつけ)

 居間に戻ると、頭がフラフラした。
暑気に当たったらしい。
作業服の上に、厚いビニール製の雨合羽。
作業服を脱ぐと、全身、汗でぐっしょりと濡れていた。

 扇風機の前で涼んでいると、ワイフが水を持ってきてくれた。
「水分をたくさんとって、横になりなさいよ」と。

私「水分はビワで摂(と)った……」
ワ「気温がそれほど高くなくても、熱中症になる人はいるのよ」
私「気をつけるよ」と。

 マムシがこわくて、私は雨合羽を着た。
それがよくなかったらしい。
私はそのままワイフの膝の上に、頭を置いた。

●雑談

 いろいろな雑談をした。
まず映画の話。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』。
これは今日の午後、観に行くつもり。
もうひとつは、『スーパー・8』。
近く劇場で公開される。

 そのあとは、雑談、また雑談。

私「ないものねだりをしたら、キリがないよね」
ワ「そうよ」
私「ぼくたち、クリスマスも正月も、それに誕生日も、3人だけになってしまったよ」
ワ「みんなそうよ。私の友だちなんかも、みんなそうみたいよ」
私「でもね、名古屋のM君ね、還暦の祝いのときは、娘さん夫婦や、近所の人たちまで集まり、
祝ってもらったそうだよ」
ワ「私たちのときは、何もなかったわね」
私「でもね、こんな話もある……」と。

●あるもの感謝

 友人に、K氏という人がいた。
10歳ほど、私より年上だった。
この20年近く、音信が途絶えた。
そのK氏。
私の家に遊びに来るたびに、こう言った。
「林さんは、いいなあ」と。

 私たちの息子を見て、そう言った。
K氏には、子どもがいなかった。
が、そのときは、K氏の気持ちが理解できなかった。
私たちにしてみれば、子どもがいるのが当たり前。
日々の生活に追われ、むしろ、子育てをうっとうしく思っていた。

 が、今は理解できる。
K氏はK氏なりに、子作りに励んでいたのかもしれない。
そのつど、親子連れを見るたびに、それをうらやましく思っていたのかもしれない。
だから「林さんは、いいなあ」と。

私「ないものをねだり始めたら、キリがない」
ワ「私も、そう思うわ。私たちは健康だし、したいことができるわ」
私「そうだよな。健康だよな」
ワ「そうよ。あなたももうすぐ64歳になるけど、64歳で持病のない人は、珍しいのよ」
私「そうだよな……」
ワ「それに仕事もあるでしょ。何、ぜいたく言っているのよ」
私「ないものねだりではなく、あるもの感謝だね」
ワ「そうよ。今、あるものに、感謝しなくちゃあ」と。

●夫婦仲

私「ところでさ、この前、名古屋のO君が遊びにきただろ」
ワ「……」
私「あのO君、今は、別居中みたいだよ」
ワ「そうみたいね」
私「そのO君が、ぼくたちを見てね、『林君たちは、仲がいいね』と言っていたよ」
ワ「私たちね、他人が見ると、仲がいい夫婦に見えるらしいわ」
私「ぼくは、ゼンゼン、そうは思っていないけどね」

ワ「あら、そんなことないわよ。私の友だちのKさんね、寝室も別々だって言っていたわ」
私「それでも夫婦なのかア?」
ワ「そうよ。たがいに1か月以上、口をきかないこともあるって……」
私「1か月? ぼくならとても耐えられないなア……」
ワ「みんな、いろいろな問題をかかえているのよ。私たちなんか、いいほうよ」と。

●人工中絶

 ワイフの友人に、Uさん(女性)という人がいる。
その息子氏は、5年ほど前に結婚した。
そのときのこと。
息子氏がはじめて婚約者を家に連れてきた。
そのときのこと。
Uさんは、婚約者の体に妊娠線があるのを見落とさなかった。
妊娠した経験のある女性にできる、あの「白い線」である。
が、Uさんは、息子氏には、それは話さなかった。
「2人が幸福になれば、それでいい」と。

 が、それから3年。
息子氏夫婦には、いまだに子どもができないという。
妊娠はするらしいが、すぐ流産してしまう。
で、先月も、息子氏から電話があり、また妊娠した、と。

ワ「でね、その電話がおかしいのよ。息子さんは、子宮外妊娠のことを心配していたというの
ね」
私「ああ、あの話ね。ぼくも若いころ、産科医のゴーストライターをしていたから、よく知っている
よ」
ワ「でしょ。初産の人は、子宮外妊娠のことなど、心配しないわよね」
私「ふつうは、しない」
ワ「だからね、私、そのお嫁さんはね、子宮外妊娠もしたことがあるのではないかと思っている
の」
私「……可能性としては、ありえない話ではないよね」と。

 人工中絶にも、時期がある。
早い時期であれば、外来手術で済んでしまう。
が、胎児がある程度大きくなると、そうはいかない。
子宮口を開くための処置も必要になる。
当然、入院手術ということになる。
さらに子宮外妊娠になると、かなりおおがかりな手術になる。
そのときの処置が悪いと、最悪のばあい、不妊症になってしまうこともある。

私「人工中絶した女性は、流産、早産をしやすくなるよ」
ワ「息子さんは、そういうことを知っているのかしら……?」
私「知らないだろうね。嫁さんにしても、そういうことは話さないだろうから……」
ワ「でも、Uさんは、知っているわよ」
私「Uさんも、息子さんには言わないだろうね」
ワ「言えないわよね」と。

 前回、妻が流産したとき、Uさんの息子氏は、涙を流して泣いていたという。
たまたまその場にいたUさんは、「またがんばればいいから」と言って、息子氏を慰めたという。
それにしても罪深いのは、その妻(=嫁)。
日々の生活の中で、どうやって、その罪を償っていくのだろう?

●罪

 罪深いと言えば、こんな話も聞いたことがある。

 15年ほど前、私の知人の娘が、オーストラリアへ留学したいと言い出した。
そこでオーストラリアの友人のN君に連絡すると、すぐ身元引受人になってくれた。
オーストラリアには、ワーキングホリディという留学制度がある。
昼間は働いて、夕方から夜学に通う。

 で、最初の2か月は、N君の家に下宿(ホームステイ)した。
それからは自分でフラット(アパート)を借りて、そこに住んだ。
そのN君から、私に数回、こんな手紙が届いた。

「ヒロシ、親に話して、あの女の子をすぐ日本へ戻した方がいい」と。

 で、理由を聞くと、毎晩のように取っ替え、引っ替え、男遊びに狂っているという。
オーストラリア人のN君の目にもあまるほどの(遊びぶり)だったらしい。
当時、『イエローキャブ』という本も話題になった。

 ニューヨークのイエローキャブ(タクシー)のように、男を乗せて遊ぶ日本の若い女性を揶揄
(やゆ)したタイトルの本だった。
だれでも平気で乗せるから、「イエローキャブ」という。
「イエロー」というのは、もちろん黄色い肌の日本女性をいう。

 が、私もその知人の娘をよく知っている。
いつだったか、その知人(父親)は、私にこう言った。
「娘には、門限をきびしく守らせています」と。
事実、私が知るかぎり、その娘は、親の前では、おとなしく静かな女性だった。

 が、その女性が、やはり3年ほど前、結婚した。
相手は、何と京都のK大学を出た男性。
都市銀行に勤めている。
かなりの資産家の御曹司。
その話をN君にすると、N君は、すかさずこう言った。
「A stupid man!(バカな男だ)」と。
N君は、相手の男性を、「バカ」と言った。

 何も男遊びする女性が悪いというのではない。
人並みはずれた性欲をもっている女性は、ゴマンといる。
またそういう女性を責めても意味はない。
現代は、そういう時代ではない。
所詮、「性は無」(今東光)。
便の排泄行為と同じ。
深い意味はない。
しかし私も、同意した。
「Yeah, a stupid man!(ホント、バカな男だ)」と。

●メール

 体を起こして、メールを開く。
ドコモの携帯端末を購入してから、山荘でも、メールを読むことができる。
その中に、ある女性からの相談が届いていた。
四国のE県に住む女性からのものだった。
転載許可とあったので、そのまま紹介させてもらう。

『娘は幼稚園の年中児です。1歳の時離婚をし、実家に戻りました。
 
 以前から幼稚園でのお友だちに対する言動が気になっていました。具体的には「あっちいっ
て」「じゃまだよ」「〜したらいけないんだよ」などと否定的な言葉を強い調子で言います。
 
 一度、それを聞いたお友だちのママから、「○○ちゃんって怖いね」「気が強い子だよね」「う
ちの子もそういってた」などと言っているのを耳にしたことがあります。

 悲しい気持ちになりましたが、私の育て方が原因であることは認識しています。家庭環境も
良くないと思っています。仕事柄、週の半分は私が帰宅する前に就寝しています。さらに私の
父と私は殆ど会話がありません。食事も(朝・昼・晩)父は自分の部屋に持って行き、テレビを
見ながら一人で食べています。理由はみたいテレビがあるかららしいです。

 母は非常にだらしが無く、部屋は散らかり放題で、食事も惣菜など出来合いのものをよく利
用します。お菓子やジュースも欲しがるだけ与えているようで、歯磨きなどもお願いしてもなか
なかしてくれません。子供も肥満気味です。

 私は出来る限りと思い、週3回の早く帰れる日は食事を作り、一緒に食べます。仕事の都合
をつけて、幼稚園の行事なども積極的に参加しています。

 でも、頻繁にヒステリックに怒ってしまいます。お菓子をだらだら食べているとき、お友達にき
ついことを言ったことがわかったとき、さらに私が、自分の親に対して苛々した時などです。自
分でも止められません。心療科を探してみたこともありますが行動に移せませんでした。娘に
人格を否定する言葉を投げつけたことも何度もあります。

 自分なりに一生懸命やってはいるものの子供にとっては心が休まらないのかと悩んでいま
す。離婚をして実家に戻ってからずっとです。2歳児クラスのときは、「明るく元気な子」と先生方
もおしゃっていましたが、あのような言動から、ひとりで遊ぶことも増えたようです。笑顔も減り
ました。

生活は自立していますが、仕事中、子供を見てもらっているため、親に意見することはありま
せん。以前「お菓子ばかりでなく・・・」といった際、母親には「じゃあもう2度と買ってこない」と強
く言われ、それからは「子供が一人で留守番できるようになるまでの辛抱だ」と自分に言い聞
かせながら過ごしています。

 子供が、優しい子、お友だちとケンカしながらも、仲良く元気に遊べる子、勉強や運動はどっ
ちでもいいから、ただこれだけを望んでいます。アドバイスをお願いします』(E県、MSより)。

 現在、娘さんは、4歳という。

●MSさんへ

 子育ては重労働。
仮に子どもがそばにいなくても、その精神的負担には、相当なものがある。
一瞬たりとも、気が抜けない。
4歳児といえば、動きも活発。
目も離せない。
いわんやMSさんは、現在は離婚し、ひとりで子育てをしている。
そのための支援制度もあるが、現実には、不備だらけ。

 が、こういうときの鉄則は、ひとつ。
「今できることだけを懸命にし、先のことは悩まない」。

 「先」を求め、「先」を悩み、「先」に期待すると、不平や不満はかぎりなく増大する。
心配や不安も増大する。
というのも、「先」には、いつも欲望がからんでいる。
その欲望には、際限がない。
ひとつの「先」を達成すると、「もっと……」とか、「さらに……」となる。
だからいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。

 MSさんも、「今」のこの瞬間に、集中する。
今、そこにある現実を原点とし、今、すべきことをする。
いろいろ問題が起きたとしても、過去は過去。
問題を過去(離婚)に結びつけないこと。
というのも、MSさんの子どもが現在示しているような症状は、少し生意気な子どもなら、だれ
にでも見られるもの。
「○○ちゃんって怖いね」「気が強い子だよね」「うちの子もそういってた」などなど。
心に引け目があると、悪い言葉ばかりが、気になるもの。
これらの言葉を言い換えると、こうなる。
「○○ちゃんって、しっかりしてるね」「負けず嫌いね」「うちの子もそういってた」と。

 ただ現状をみるかぎり、両親の協力は不可欠。
両親に任すべきことは、両親に任す。
両親に任せても、MSさん以上には、「悪い子」にはならないはず(失礼!)。
なぜならMSさん自身も、その両親に育てられているから。

 たとえば糖分の多い食生活にしても、生活全体から見れば、マイナーな問題(=あとで取り返
しのきく、小さな問題)。
メールを読む範囲では、MSさん自身も、またMSさんの子どもも、満たされない欲求をかか
え、欲求不満状態にあると思われる。
MSさん自身は、かなり性的なものかもしれない。
MSさんの子どもは、いわゆる愛情飢餓状態。
MSさん自身のことは、私にはどうとも書けないが、子どもについては、つぎの方法で、改善で
きる。

(1)MSさん自身がもっと心を開くこと。おかしな親意識を捨て、さみしかったら、さみしいと言え
ばよい。
(2)MSさんが、もっと濃密な愛情表現をすること。添い寝、手つなぎ、抱っこなどなど。子ども
をもっと、甘えさせる。MSさん自身が心を開いていないため、子どももまた心を開けない状態
にある。

 「ママもさみしいから、いっしょに寝ようね」と、そう言えばよい。
ただし元夫(父親)の悪口、愚痴、不満、不平は、タブー中のタブー。
これらは、いつか子どもが、母親に何かのことで反感を覚えたとき、即、母親攻撃の材料に転
化してしまう。

 要するに、今は今で、MSさんは、今の人生を楽しめばよい。
両親に子どもを任せ、したいことをすればよい。
考えようによっては、すばらしいチャンス。
MSさんが生き生きと楽しく過ごしていれば、かならずつぎのチャンスもやってくる。
繰り返しになるが、過去をジクジクと引きずってはいけない。

(追記、MSさんから、はやし浩司へ)

はやし浩司様
 
ご返信有難うございました。
 
涙でメールが読めませんでした。
 
娘が愛情飢餓状態なのはご指摘頂き、確信しているところです。
自分がそうだった、と思いながら・・、また昔のことと比べながらと後悔しながら、
今日も仕事から帰宅し、寝ている娘を見ながら感じました。
 
私の母は今日も、私が帰宅するとすぐに、私と娘の寝室から無言で出て行きました・・・。
私は寂しいけど、それまで娘と一緒に寝てくれていた、と考えるように、考えられるように、なっ
ていきたいと思います。
 
 
娘が、今後、波風ありながらも健やかに明るく過ごせればいいのだなと改めて感じています。
私が満たされない部分があることは解かっていても、自分でも具体的に認識できていないけれ
ど、やりがいのある仕事を続けられることを支えに、何とか、何とか、日々、毎日つつがなく終
わることを願って過ごしていました。
 
 
少し楽しもうかなとも思います。昔のように。
自分の人生も考えようと思います。そうは言っても、大げさなことは出来ないけど、楽しい、明る
いお母さんになりたいと思います。
 
はやし浩志司様、ただいっぱいいっぱいになり、突発的に、偶然に見て、初めて送ってみたこ
のようなメールでしたが、
返信頂き、救われた人間がいることを、お知らせすると共に、感謝したいと思います。
 
大切なお時間を割いて頂き、有難うございました。
今日はこれから、娘の出世時のアルバムを見ながらビールを飲みたいと思います。
 
ありがとうございました。
 
【はやし浩司より、MSさんへ】

 つっぱらないで、負けを認め、心にすなおになればいいのです。
『負けるが勝ち』ですよ。
負けていると、心はキズまるけになりますが、キズまるけになればなるほど、元のキズがわか
らなくなります。

 あのね、あなたのお母さん。
本当は、あなたのお母さんが、いちばん苦しんでいるのですよ。
娘には幸福になってもらいたい。
しかし自分を捨てた娘が、そこにいる。
(あなたにはその意識はなかったかもしれませんが……。)
たいへんな葛藤をしていると思いますよ。

 一度、心を開いて、お母さんにこう言ってみてはどうでしょうか。
「お母さん、ごめんね」と。
たった一言でいいです。
あとは時間が解決してくれます。
すぐに反応がないからといって、あきらめてはいけません。
「お母さんに心配をかけて、ごめんね」と、です。

 もし4歳の子どもが、今、あなたと同じ境遇に置かれたとしたら、あなたは自分の子どもをどう
思うでしょうか。
あなたはきっと苦しむと思いますよ。

あなたは結婚するのも、離婚するのも、私の勝手……と思っているかもしれません。
しかしその向こうには、親がいて、そういうあなたをいつも心配して見ているのです。
ちょうど今、あなたが4歳の子どもを心配して見ているようにです。
だから「ごめんね」です。

 心を開いて!
体はあとからついてくる!
問題も、それで解決する!

●恋愛至上主義について

 電子マガジンに『恋愛至上主義』について書いた。
それについて2人の人から、メールが届いた。

1人は男性。
もう1人は女性。

【S氏から、はやし浩司へ】

……そう、こういうはなしは、温泉にでも浸かりながらのんびり語り合うのがいいで
すね(笑)。

ちなみに、『アジャストメント』は観ていないのですが、このごろアメリカ人の
恋愛観には辟易しています。

ドラマ『デッドゾーン』とか『ギャラクティカ』のような奥深い人間ドラマがあ
る一方で、フェロモンに支配された?老若男女の乱交?礼賛のような底の浅いも
のも多数あります。

ゆうべたまたま見たドラマ『グレイズ・アナトミー』で、「人はなぜ浮気するの
だろう?」というセリフがあってアングリしたのですが(笑)、その前にもっと
自制とかしないのかとツッコミ入れたくなりました。

アメリカ人は、性の欲望のままに行動することを、ちょうど「警察官に銃を向け
たらその気はなくても撃ち殺されてもしかたない」という価値観というかカルチャー
と同様に、全面肯定しているんだなと納得しました。そのくせ議員には潔癖を求
める矛盾。

少なくとも、「性=愛」とするアメリカ恋愛観は、日本人にとってはかなり異質
なものであるとおもいます。

【Hさんから、はやし浩司へ】

……現代、映画が世の中の人たちに及ぼす影響はどれほどなのでしょうか?
見れば何かしら影響はあると思いますが、あまり大きいものではないと思うのですが。
(中には非常に大きな影響を受けてしまう人もいるでしょうが)
そう考える私はこう思います。
映画はあくまでも映画。「昔々あるところに〜そして二人は、ず〜っと幸せに過ごしました。」
で、好いのではないでしょうか?
 
恋愛の賞味期限についてあっさり語っている映画もたくさんあります。
なかでも印象にあるのは"ダメージ"という映画です。
先生はご覧になったでしょうか?
ジェレミー・アイアンズ扮する外交官が息子の恋人であるジュリエット・ビノシュと恋に落ちるの
ですが、恋というよりも、愛欲に陥る、です。
最後に全てを失った男が、かつての"女"を偶然見かけて思うのです。
「なんてことない、どこにでもいる普通の女だった」と。
 
ハッピーな気分になれる映画を見て、それから少しの間楽しくウキウキした気持ちで過ごし、そ
の後厳しい現実社会に向き合う。ハッピーエンドの映画の役割はそれだけだと思います。愛さ
えあれば。。。と考える事ができる人がどれだけいるでしょうか。日本人であっても、欧米人で
あっても。そう思うことが出来れば、どれほど幸せなことでしょうか。

●懐疑派と否定派

 S氏(男性)は、おおむね、私の意見に同感ということか。
Hさん(女性)は、「映画には、それほどの力はない」と。

 『恋愛至上主義』というのは、恋愛という「愛」があれば、何でも許されるという考え方をいう。
しかしこれはあくまでも比較してみてわかること。
その時代のその渦中にある人には、理解できない。
自分の姿を、客観的に浮かびあがらせることすらできない。
だから現在の若い人たちに、「君たちは、恋愛至上主義者だ」と言っても、理解されないばかり
か、かえって猛反発をくらってしまうだろう。

 が、私にはできる。
私はすでに半世紀以上も生きてきた。
この半世紀だけを見ても、過去と現在を比較することで、その変化を知ることができる。
わかりやすく言えば、現在の恋愛至上主義が、たった50年前には、いかに異常なものであっ
たかということが、そのころの自分と比較するとわかる。

 さらに言えば、男も更年期を迎え、性欲から解放される時期がやってくる。
そのころになると、若いころの自分がいかに「性」の奴隷であったかがわかる。
若い男性のばあい、(私もそうだったが)、24時間のうち、23時間は「女」のことばかり考えて
いる。
だからフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使った。

 が、それは重要な現象かもしれないが、(種族を後世に残すという意味において)、しかしけっ
してすべてではない。
もちろん至上ではない。
が、現代という社会においては、人は、欲望の追求に生きがいを求め、それがまた「善」である
という前提で生きている。
もろもろの経済活動を例にあげるまでもない。
「恋愛」も、その「欲望」のひとつ。
S氏は、それをつぎのように端的に表現している。

『少なくとも、「性=愛」とするアメリカ恋愛観は、日本人にとってはかなり異質なものであるとお
もいます』と。

 で、私たち日本人は、アメリカ式の恋愛観の影響を受けているか、いないか。
ひとつの例として、戦後、アメリカのGHQは、日本で見せるアメリカ映画について、ひとつの条
件をつけた。
ウソか本当かという話は別として、(というのも、事実、すべてそうであったから)、「映画の中に
は、かならずキスシーンを1回は入れること」と。

 それまでの日本人は、キス(接吻)とは、無縁の世界に生きていた。
性愛行為の途中でのことは知らないが、「好きよ」「好きだ」と、唇を重ねるということは、まずな
かった。
私の子どもの時代にもなかった。
それが日本映画にも影響を与え、日本映画の中にも、キスシーンがごくふつうのこととして現
れるようになった。
(この説に疑問をもつ人は、自分で調べてみたらよい。)

 私なんかは、いつもこう思った。
「あんな臭い口を、どうしてくっつけあうのか?」と。
当時の日本人にとっては、虫歯は、老若男女問わず、国民病でもあった!

●草刈り

 ないものをねだっても、仕方ない。
今、ここにあるものに感謝する。
で、今日のキーワードは、「ねだる」。

 今、あるものをさがそう。
それを感謝しよう。

(1)今のところ健康
(2)今のところ仕事も順調
(3)今のところ夫婦仲も良好
(4)今のところ人間関係も良好(つきあっている人だけの範囲内で……)

 というのも、今朝、起き、雨戸を開けてびっくり!
何と我が家の前の土手の草刈りを、だれかがしてくれていた。
私が草を刈らねばならない、私の土地である。
その土地を、ときどき草刈りをしてくれる人がいる。

 先ほどまで心当たりのある人、何人かに電話をかけてみた。
が、みな、「私ではない」と。
?????????????

 本当に不思議なことがあるものだ。
というか、村の人たちの温かい心遣いが、うれしい。

Life is beautiful!

 そうそう10時ごろになって、あのホトトギスがじょうずに鳴くようになった。
「トウキョウー、トッキョ、キョカキョク(東京、特許、許可局)」と。
鳥も練習を重ねて、じょうずに鳴くことができるようになるものらしい。

6月18日、みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●インチキ検査をしても、バレるぞ!(静岡県茶から放射能!)

++++++++++++++++++++

業者を守ろうと、インチキ検査を繰り返しても
バレるぞ!

少しは恥を知れ!

++++++++++++++++++++

(東京新聞)6−18日

『【パリ発】フランス競争消費違反取り締まり総局(DGCCRF)は十七日、日本からパリ近郊の
空港に 空輸された静岡県産の緑茶の葉から欧州連合(EU)の許容基準の二倍を超える一キ
ログラムあたり1038ベクレルの放射性セシウムが検出されたため、押収 したと発表した。
福島第一原発の事故後、フランスに輸入された日本産食品から放射性物質が検出されたの
は初。

EUでは三月下旬から福島や東京など十二都県産の食品を輸入する際、放射性物質検査を
義務付けているが、静岡県産の食品は対象外としていた。ただフランスは日本からの食品に
対して独自に検査していた。

フランスは今回の結果を受け今後、静岡県産の検査を強化していくことを決定。さらに欧州全
体でも従来の十二都県産に加え、静岡県産も検査対象とするよう欧州委員会に要請する。AF
P通信によると、出荷元などは明らかにされていない』(以上、東京新聞)と。

●今日は6月18日、6月15日に書いた原稿より

 3日前に書いた原稿を再掲載!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●さらにおかしな論理

 静岡県のお茶から、規制値以上の放射線が観測された。
これに対して、静岡県の川勝平太知事は、こう言った。

「(飲用茶について)それぞれ1キロ当たり、5・8〜7・3ベクレルと、飲用茶の規制値(1キログ
ラム当たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調。……飲用茶は数
ベクレルで安心して飲んでほしい」(中日新聞・6・15)と。

 川勝知事は学者であったはず。
その川勝知事が、こういう「?」なことを堂々と言うところがおかしい。
言うまでもなく放射性物質は、ほかの薬物や毒物とちがい、一度体の中に取り込まれたら最
後、体の中でどんどんと蓄積されていく。
尿となって排出される分や、半減期を経て、半減して分もある。
しかし基本的には蓄積されていく。

そういうお茶を、20キロ(20リットル)飲んだら、どうなるのか?
40キロ飲んだら、どうなるのか?
お茶にも濃さがある。
逆にこんな論理がまかり通るなら、どんなに汚染されたお茶でも、お湯で薄めれば安全という
ことになってしまう。
さらに「?」なことがある。

 先日の報道では、(原茶)→(製茶)にした段階で、放射線の濃度は5倍になる。
しかし飲用する段階では、(お湯で薄めるので)、8分の1になると言っていた。

 どうして規制値内(500ベクレル以下)の製茶が、お湯で薄めたら、「5・8〜7・3ベクレル」に
なるのか?
単純に計算すれば、83分の1になったことになる(500÷6・0で計算)。
何度も計算しなおしてみたが、やはり83分の1。

 念のため、新聞記事をそのまま紹介する。
私の書いていることを疑う人がいたら、自分で計算してみたらよい。

「……一方で、規制値(500ベクレル)を超えた2工場の製茶を、飲用茶として独自検査したこ
とを(川勝知事は)明かし、それぞれ5・8〜7・3ベクレルと、飲用茶の規制値(1キログラムあ
たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調」と。

 つまり製茶の段階で、500ベクレルを超えていたお茶だったが、お湯で溶かしてみたら、6・
0ベクレル前後になった。
だから、安全、と。

 こんなバカな、手品みたいなことが、どうして起こるのか?
さらに今回の検査では、重大な見落としがある。
こうある。

「放射性セシウムの検出量は、581〜654ベクレルで……」と。

 わかるかな?
放射性物質といっても、その種類は、無数にある。
毒性がきわめて強いプルトニウム、ストロンチュームもそれに含まれる。
放射性ヨウ素もその1つだが、そのヨウ素にしても、134,132,135,133,131などの種
類がある。
調べたのは、たったの1種類。
放射性セシウムだけ。

 さらに県の報告が1日遅れたことについて、川勝知事は、こう居直っている。
「(遅れたことで、どういう)損害が出たのか言ってみてください」(中日新聞)と。

 こういうバカなことを平気で言うところが恐ろしい。
あのね、損害は、これから出るの!
1日遅れれば、その分だけ、工場からの出荷が野放しになるの。
正確な数字はわからないが、仮に1日、1トンの出荷量のある工場だったら、その1トンが、市
中に出回ることになるの!
それを日本人が、飲むことになるの!

●やがて否応なしに……

 東京に住む石原氏にしても、静岡市に住む川勝氏にしても、やがて否応なしにその事実を突
きつけられる日がやってくる。
私はけっしてそれを望む者ではないが、しかしこんなごまかしは、いつまでもつづかない。
やがて東京都全体に避難勧告が発布されるようになるかもしれない。
静岡県茶が全面、出荷禁止になるかもしれない。
だったら今は、「?」なコメントは控え、事実の収集だけに心がけるべきではないのか。
が、現実は、逆行している。
同じ中日新聞には、こうある。

「(すでに)一番茶の出荷を終えた工場も多いことから、地区内にある約100工場すべてを検
査する当初の方針を変更し、今後は要望のある工場のみを検査する」と。

 「今後は、要望のある工場のみを検査する」と。

 そうでなくても、静岡県茶については、農薬汚染が問題になっている。
ご存知の方も多いかと思うが、茶の産地にある、ため池、川からは、生物という生物が、ほと
んど姿を消した。
そういう事実を、隠しに隠しつづけている。
そういう地域で、「今後は、要望のある工場のみを検査する」?
どこの工場が、あえて「要望」など、するものか?
バカも休み休み言え。

 ……つまりこうして私たちの不信感は、募(つの)っていく。
庶民の代表として、本来なら庶民の側に立つべき人間が、企業側の利益の保護だけを考えて
発言する。
行動する。

 私の予想では、この日本は、このまま行き着くところまで行く。
またそこまで行かないと、気がつかない。
本来なら、ヒステリー状態ではなく、パニック状態になっていてもおかしくないのだが……。
2011/06/15記


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【恋愛至上主義】について、補足

(はやし浩司より読者の方へ)

こんばんは!
 
尾崎豊の時代から始まって、世代間の確執闘争が
はげしくなったように感じています。
若い人たちが、高齢者の経験や知恵に耳を傾けなくなった。
とくに子育てにおいては、です。
ご存知のように、子どもの教育においては、若い親たちは、
自分がもっとも正しいと考えています。
その返す刀で、両親の育児観を否定してしまいます。
が、これはたいへんまずい結果をもたらします。
先人の知恵を織り込まない分だけ、ものの考え方が、極端化しやすくなります。
 
そのひとつとして、恋愛至上主義をあげました。
一度恋愛すると、若い人たちはそれがすべてと考えます。
しかしそこで冷静になってほしいのです。
自分が知りうる人間(異性)の数というのは、限られているのです。
その狭い範囲の中で、最良?の人を選んでいるにすぎないのです。
つまりそれでもって、至上と考えてはいけません。
性がきわめて自由なオーストラリアにおいてでさえ、婚約期間は
長くなる傾向があります。
1〜2年と言うのは、当たり前です。
彼らは籍を入れるのに、きわめて慎重です。
むしろ日本のほうが異常です。
犬やネコの血統書登録程度にしか、考えていません。
「恋愛しました」「結婚します」「籍を入れます」と。
 
またアメリカにしても、カルフォルニア州は一部です。
全体では、もっと保守的ですね。
アメリカ人自身がそういっています。
ハリウッド映画だけを観て、アメリカを判断しないでほしいとです。
 
が、日本では、何度も書きますが、いまや、恋愛至上主義、全盛期です。
後先のことを考えないで、恋愛、即、結婚へと突っ走ってしまいます。
が、その分だけ、破綻する夫婦もふえています。
その結果、離婚率こそ、アメリカ並ですが、仮面夫婦となると、
その数倍はいるとみてよいでしょう。
みな、子どもの養育や世間体を考えて、仮面夫婦をつづけています。
その点アメリカ人は、そういう「仮面」が苦手…、つまり表と裏、本音と建前を
使い分けませんから、そのまま離婚してしまいます。
オーストラリア人もそうですね。
言い換えると、日本人のほうが、実際には形だけの夫婦が多いということです。
これを「家族崩壊」といいます。
(家庭崩壊ではなく、家族崩壊です。)
 
日本人の恋愛観、夫婦観、家族観は、戦後大きく変わりました。
これは事実です。
この先のことはわかりませんが、ますますアメリカぽくなっていくことだけは
事実です。
それはそれでしかたのないことですが、そのため世代間の軋轢(あつれき)は
ますますはげしくなっていくことでしょう。
社会のシステムがそれについてくればよいのですが、そうでなければ、そうでない。
「混乱」あるのみ。
これから先、20〜30年は、それがつづくと思います。
 
最後に意識を変えるのは、本当にむずかしい。
新しいシステムになれるのは、もっとむずかしい。
脳の中の思考回路が、加齢と共に、固定化するからです。
若い人たちが、それを理解してくれればよいのですが、それを期待しても
無理でしょう。
私たちは私たちで、防衛するしかないのです。
わかりやすい例として、「墓」の問題があります。
われわれの年代以上の者は、墓にある種のこだわりをもっています。
(宗教心のあるなしにかかわらず、です。)
しかし若い人たちに、「墓など、無意味」と言われてしまうと、
それまでです。
反論のしようがありません。
 
だから私のばあいは、友人の寺の墓地に、無縁仏として入れてもらうよう、
すでに今から頼んであります。
それが「防衛」ということになります。
 
「アジャストメント」は、もちろんただの娯楽映画です。
私のような視点をもって見るような、ヘソまがりはいないでしょう。
ハハハと笑って楽しめば、それでよいのです。
おおせの通りです。
(ただありきたりの映画評論ではつまらないから、あのような意見を書きました。)

で、たった今、「パイレーツ・オブ・カリビアン」を観てきました。
これも実にくだらない、たわいもない映画です。
哲学性、ゼロ。
ストーリーも、ありきたり。
「インデイアナ・ジョーンズ」のリメイク版?
聖杯がどうの、永遠の命がどうの、と。
星は、がっかりの、2つだけ。
★★
 
で、期待は、いよいよ「SUPER・8」。
来週、公開です。
楽しみにしています。

では、これで・・・
 
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●静岡県川勝知事の反論(飲茶は安全?)

まず時事通信の記事(6・16)。

『……仏当局などによると、162キロの緑茶に対する検査で、欧州連合(EU)基準の1キロ当た
り500ベクレルを上回る、同1038ベクレルの放射性セシウムが検出された。緑茶は廃棄処分さ
れる。
 仏当局は今回の検出を受け、静岡県産の野菜類に対する検査強化を決定。また、同県産品
をEUレベルでも検査対象に加えるよう欧州委員会に申し入れる方針という』(以上、時事通
信)。

 これに対して静岡県の川勝知事が、即座に反応。
こう反論した。
「飲茶にすれば、放射線量は100分の1程度になるので、飲んでも安全」(ヤフーNEWS)と。
 

●「しきい値」

 川勝知事は、放射線のしきい値について、大きな誤解をしている。
「しきい値」というのは、「それ以下の値なら安全」という「値」をいう。
しかしこと、放射線に関して言えば、しきい値は、存在しない。
そんなことは科学者の間では、常識(注※1)。

 たとえば1時間当たり、1シーベルトの放射線を浴びた100人のうち、1年以内に10人がが
んで死んだとする。
では、0・5シーベルトなら、どうなるか。
100人のうち、5人が、がんで死ぬことになる。
あるいは2年以内に10人が死ぬでもよい。
(実際には、こんな単純な計算ではないが……。注※2)

 では、1シーベルトの1000分の1ではどうか。
1時間当たり、1ミリシーベルトの放射線を浴びたとする。
このばあいは、100人のうち、1年以内に0・01人が死ぬことになる。
0・01人ではわかりにくいから、10000人のうち、1人が死ぬと言い換えてもよい。
10年の以内に、10人が死ぬでもよい。
もし放射線を浴びた人が、10万人だったら、10年に以内に、100人が死ぬことになる。

 放射線は、ほかの毒物や薬物とはちがって、ある一定量以下なら無害ということは、ありえな
い。
量が少なければ、死者の数が減るだけ。
あるいは仮に10年はだいじょうぶでも、20年後には障害が現れる。
つまり「しきい値」は、存在しない。

●お湯で薄めれば安全?

 そこで再び、川勝知事の論理。

「飲茶にすれば、放射線量は100分の1程度になるので、飲んでも安全」と。

もしこんなバカげた論理が、(「バカ」と断言しても、さしつかえないと思うが)、まかり通るなら、
どんな放射線物質でも、水で希釈すれば、安全ということになる。
もちろんお湯でもよい。
水で1000倍に薄めればよい。
1万倍に薄めればよい。
だったらわかりやすく、海水に混ぜて、海へ流せばよい。
海水によって、かぎりなく希釈され、放射線物質でも安全になる(?)。

 しかしこんなバカげた論理は、世界では通用しない。
むしろかえって、世界の人の笑いものになるだけ。
が、それだけではすまない。
静岡県は信用を失う。
世界中が、静岡県茶の輸入を禁止にするのは、時間の問題。

 最初からきちんと検査し、その数値に応じて、しっかりと出荷停止処分にすればよかった。
それをごまかすから、こういうことになる。
それに当初は、「飲茶にすれば8分の1になる」と言っていたはず。
それが今度は、「100分の1になる」と。

 仮に100分の1でも、そのお茶を、100杯飲んだら、どうなるのか?
またベクレルとシーベルトは、ちがう。
放射性物質の能力が、ベクレル。
人体への影響度を数値化したのが、シーベルト。
今後の人体への影響を考えるなら、「1キロ当たり1038ベクレル」というのは、きわめて深刻な
数字と考えてよい。

 へたな反論を繰り返せば繰り返すほど、静岡県は、信用を失う。
事実、失った。
フランス政府は、こう決定した。

「仏当局は今回の検出を受け、静岡県産の野菜類に対する検査強化を決定」(時事通信)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

(注※1)低い線量の被曝についても、線量とがんや白血病などの発生確率は比例すると考え
るのが直線しきい値なしモデル(LNTモデル)と呼ばれる仮説である。LNTモデルはICRP勧告
第26号(1977年)において、人間の健康を護る為に放射線を管理するには最も合理的なモデ
ルとして採用された。各国の国内規制もICRPの勧告に準じていることが多い。

(注※2)1990年のICRP勧告60号においては、放射線に起因する発がんの確率は被曝線量に
対する二次式の形で増えると評価されている。線量が低いときには二次項は一次項よりずっと
小さくなるので、実用上は一次式で表される(すなわち線量と発がんの確率は比例している)。
その比例係数は0.05、すなわち被曝1シーベルトごとにがん発生の確率が5%上がるとしている
(以上、ウィキペディア百科事典より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●インチキ検査をしても、バレるぞ!(静岡県茶から放射能!)

++++++++++++++++++++

業者を守ろうと、インチキ検査を繰り返しても
バレるぞ!

少しは恥を知れ!

++++++++++++++++++++

(東京新聞)6−18日

『【パリ発】フランス競争消費違反取り締まり総局(DGCCRF)は十七日、日本からパリ近郊の
空港に 空輸された静岡県産の緑茶の葉から欧州連合(EU)の許容基準の二倍を超える一キ
ログラムあたり1038ベクレルの放射性セシウムが検出されたため、押収 したと発表した。
福島第一原発の事故後、フランスに輸入された日本産食品から放射性物質が検出されたの
は初。

EUでは三月下旬から福島や東京など十二都県産の食品を輸入する際、放射性物質検査を
義務付けているが、静岡県産の食品は対象外としていた。ただフランスは日本からの食品に
対して独自に検査していた。

フランスは今回の結果を受け今後、静岡県産の検査を強化していくことを決定。さらに欧州全
体でも従来の十二都県産に加え、静岡県産も検査対象とするよう欧州委員会に要請する。AF
P通信によると、出荷元などは明らかにされていない』(以上、東京新聞)と。

●今日は6月18日、6月15日に書いた原稿より

 3日前に書いた原稿を再掲載!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●さらにおかしな論理

 静岡県のお茶から、規制値以上の放射線が観測された。
これに対して、静岡県の川勝平太知事は、こう言った。

「(飲用茶について)それぞれ1キロ当たり、5・8〜7・3ベクレルと、飲用茶の規制値(1キログ
ラム当たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調。……飲用茶は数
ベクレルで安心して飲んでほしい」(中日新聞・6・15)と。

 川勝知事は学者であったはず。
その川勝知事が、こういう「?」なことを堂々と言うところがおかしい。
言うまでもなく放射性物質は、ほかの薬物や毒物とちがい、一度体の中に取り込まれたら最
後、体の中でどんどんと蓄積されていく。
尿となって排出される分や、半減期を経て、半減して分もある。
しかし基本的には蓄積されていく。

そういうお茶を、20キロ(20リットル)飲んだら、どうなるのか?
40キロ飲んだら、どうなるのか?
お茶にも濃さがある。
逆にこんな論理がまかり通るなら、どんなに汚染されたお茶でも、お湯で薄めれば安全という
ことになってしまう。
さらに「?」なことがある。

 先日の報道では、(原茶)→(製茶)にした段階で、放射線の濃度は5倍になる。
しかし飲用する段階では、(お湯で薄めるので)、8分の1になると言っていた。

 どうして規制値内(500ベクレル以下)の製茶が、お湯で薄めたら、「5・8〜7・3ベクレル」に
なるのか?
単純に計算すれば、83分の1になったことになる(500÷6・0で計算)。
何度も計算しなおしてみたが、やはり83分の1。

 念のため、新聞記事をそのまま紹介する。
私の書いていることを疑う人がいたら、自分で計算してみたらよい。

「……一方で、規制値(500ベクレル)を超えた2工場の製茶を、飲用茶として独自検査したこ
とを(川勝知事は)明かし、それぞれ5・8〜7・3ベクレルと、飲用茶の規制値(1キログラムあ
たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調」と。

 つまり製茶の段階で、500ベクレルを超えていたお茶だったが、お湯で溶かしてみたら、6・
0ベクレル前後になった。
だから、安全、と。

 こんなバカな、手品みたいなことが、どうして起こるのか?
さらに今回の検査では、重大な見落としがある。
こうある。

「放射性セシウムの検出量は、581〜654ベクレルで……」と。

 わかるかな?
放射性物質といっても、その種類は、無数にある。
毒性がきわめて強いプルトニウム、ストロンチュームもそれに含まれる。
放射性ヨウ素もその1つだが、そのヨウ素にしても、134,132,135,133,131などの種
類がある。
調べたのは、たったの1種類。
放射性セシウムだけ。

 さらに県の報告が1日遅れたことについて、川勝知事は、こう居直っている。
「(遅れたことで、どういう)損害が出たのか言ってみてください」(中日新聞)と。

 こういうバカなことを平気で言うところが恐ろしい。
あのね、損害は、これから出るの!
1日遅れれば、その分だけ、工場からの出荷が野放しになるの。
正確な数字はわからないが、仮に1日、1トンの出荷量のある工場だったら、その1トンが、市
中に出回ることになるの!
それを日本人が、飲むことになるの!

●やがて否応なしに……

 東京に住む石原氏にしても、静岡市に住む川勝氏にしても、やがて否応なしにその事実を突
きつけられる日がやってくる。
私はけっしてそれを望む者ではないが、しかしこんなごまかしは、いつまでもつづかない。
やがて東京都全体に避難勧告が発布されるようになるかもしれない。
静岡県茶が全面、出荷禁止になるかもしれない。
だったら今は、「?」なコメントは控え、事実の収集だけに心がけるべきではないのか。
が、現実は、逆行している。
同じ中日新聞には、こうある。

「(すでに)一番茶の出荷を終えた工場も多いことから、地区内にある約100工場すべてを検
査する当初の方針を変更し、今後は要望のある工場のみを検査する」と。

 「今後は、要望のある工場のみを検査する」と。

 そうでなくても、静岡県茶については、農薬汚染が問題になっている。
ご存知の方も多いかと思うが、茶の産地にある、ため池、川からは、生物という生物が、ほと
んど姿を消した。
そういう事実を、隠しに隠しつづけている。
そういう地域で、「今後は、要望のある工場のみを検査する」?
どこの工場が、あえて「要望」など、するものか?
バカも休み休み言え。

 ……つまりこうして私たちの不信感は、募(つの)っていく。
庶民の代表として、本来なら庶民の側に立つべき人間が、企業側の利益の保護だけを考えて
発言する。
行動する。

 私の予想では、この日本は、このまま行き着くところまで行く。
またそこまで行かないと、気がつかない。
本来なら、ヒステリー状態ではなく、パニック状態になっていてもおかしくないのだが……。
2011/06/15記

Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ある悲惨な事件(Yahoo Newsより)「息子を撲殺した父親」

Yahoo News様へ

転載をお許しください。
あまりにも悲惨な事件なので、胸が詰まりました。

++++++++++++++++++

Yahoo Newsに、たいへん悲惨な
事件が紹介されていた。
一行読むごとに、胸が詰まった。
息苦しかった。
数回、読みなおした。
さらに胸が詰まった。
さらに息苦しくなった。

そのまま紹介させてもらう。
つまりこういう現実が、現実にある。
そういう現実を、より多くの方にも
知ってもらいたい。

ここに登場する父親、母親、そして
殺された息子。
みんないい人だ。
そんないい人たちが、ときとして悲惨な
事件を引き起こす。

+++++++++++++++++

************以下、Yahoo Newsより**************

【法廷から】(Yahooニュースより)

 銀行員として定年まで堅実に勤め上げた男は、30年間自宅に引きこもっていた息子の頭や
顔に何度も金属バットを振り下ろした。真面目な男がなぜこれほど残虐な犯行に及んだのか。
秋田市で長男=当時(50)=を金属バットで殴り殺した父親で無職、田口脩吉被告(79)の口
からは、仕事に邁進し、定年を迎えた男の寂漠たる光景が綴られた。(原圭介)

 ■動かなくなった息子の顔を洗面器に

 事件は昨年11月12日午後6時ごろ、発生した。自宅で夕食を食べている長男の背後から
父親が金属バットで襲いかかり、執拗に頭部や顔を殴って、外傷性ショックで死亡させた。凄
惨きわまりない殺人だった。

 秋田地裁(馬場純夫裁判長)で開かれた裁判員裁判。

 被告人質問で、検察官は田口被告の残虐性を浮かび上がらせようとした。

 検察官「途中で長男にバットを取り上げられ、投げられた。しかも長男は反撃もしなかった。
なぜ殴るのを止めなかったのか」

 被告「夢中になってやっていて、中途でやめるのはダメだと思った」

 被告は長男が動かなくなってからも、洗面器の水に長男の顔をつっこみ、死んだことを確認
した。

 一人息子の長男は東京の専修大学に進んだ。ところが大学3年生のときに意味不明の言動
が始まり、精神疾患と診断された。卒業はしたものの、就職できずに帰郷。2階の部屋に閉じ
こもって、本を読みふける生活を始める。以来約30年、部屋から出るのは食事のときだけ。
自分では着替えもせず、髪やひげも伸び放題で、部屋は酸えた臭いが充満していたという。

 隣家の証言では、2階の窓は曇りガラスで、長男の姿はほとんど見えなかった。ただ、夜は
明かりが着き、音楽が大きな音で流れることがあったという。

 一方、田口被告は福島大経済学部を卒業後、地元の北都銀行(旧羽後銀行)に就職。約40
年間、真面目に勤めた後、さらに8年間、別の会社にも勤務した。厚生年金と長男の障害者年
金、妻の国民年金を合わせると月の収入は30万円を超え、老後の生活は決して貧しくはなか
った。

 ■被告も鬱病に罹患

 被告は犯行の2カ月前、弁護士に相談して遺言書を作成。親類宛に自分の死後の後始末に
ついて頼む手紙も書いている。弁護人は被告が自殺も考えていたことを引き出した。

 弁護人「遺言書や手紙をどんな気持ちで書いたのですか」

 被告「息子を殺して私も死のうと思いました。私が先に死ねば、息子が一人残り、女房もかわ
いそうだと思ったから」

 10年ほど前、長男の将来を心配し、被告も鬱(うつ)病に罹患(りかん)。治ったものの、不眠
は続き、犯行前まで睡眠薬を手放せなかった。21年10月には大腸ポリープの手術をした。そ
の後、退院したが、貧血を起こして救急車で運ばれた。その頃から体力の衰えを痛感し、長男
の殺害と自殺を漠然と考えるようになったという。

 犯行の3週間前にも、長男を殺そうと、風呂場にいる長男の背後から漬け物石を首に押しつ
け水死させようとしたが、石を落としたため未遂に終わった。気づいた妻(75)から「今度こん
なことをしたら、あんたを殺す!」とどなられた。

 ■まだ体力が残っているうちに…凶行へ

 未遂後いったんは反省したものの、殺意は再び鎌首をもたげてくる。犯行当日、自宅近くの
スポーツ店にバットを買いにいった被告は、重すぎると振れないし、軽すぎると長男への衝撃
が少ないと、念入りに品定めし、ちょうどいいと思った720グラムの金属バットを購入した。

 自宅に戻った被告は、妻や長男に見つからないように、自分のベッドの下に隠したあと、夕
食で長男が降りてくる直前に、彼がいつも食事で座る席の斜め後ろに隠した。食事に集中して
いる長男の後ろにそっと回り、死角から襲いかかる計算だった。妻がいたら殺せないと、妻が
留守の間に殺害することも計算の内だった。

 被告は犯行後、血で染まった室内で少しだけ床や家具を拭いたあと、返り血を浴びた服を着
たまま、自分のベッドに横たわり、ぐったりしていた。自殺することもなかった。

 検察官「包丁で自分を刺すことは考えませんでしたか」

 被告「包丁は痛いので、使おうと思わなかった」

 検察官「服が脱げかかっていた遺体に、ふとんをかけてやる気は起きませんでしたか」

 被告「ふとんをかけるような力は残っていませんでした」

 帰宅した妻に発見され、「あんたがやったんだべ。あんたなんかいらない。息子さ返せ」となじ
られたが、「どこさ行ってた」と応じた。

 検察官「『殺してすまん』とどうして(妻に)一言謝る気持ちになれなかったんですか」

 被告「うーん…」

 検察側は、強い殺意と計画性の裏側に、長男への憎しみや、愛情の薄さが感じられると指
摘する。

 長男は最近、被告の財布からたびたび数千円の金を抜き取り、お菓子や雑誌を買ってい
た。被告専用の冷蔵庫からも食べ物を失敬していた。

 検察官「注意したとき、長男は反発しましたか」

 被告「はい。『やってねー』『おれじゃねー』と」

 検察官「そういう長男をどう思っていましたか」

 被告「腹立たしく思いました」

 検察官「長男がいない方が自分は楽だ、という気持ちがありませんでしたか」

 被告「ありました」

 被告は体力の衰えを感じ、まだ体力が残っているうちに長男を殺害しようと考えたという。

 ■財産譲る相手は被告の妻の妹

 被告は、長男の病気を治したり、環境を変える努力をしなかったのだろうか。

 一度だけ市内の病院に入院の手続きをして部屋も決まったが、長男は被告の手を振り切
り、強く拒否して自宅に逃げ帰った。通院も最初の5、6年は続けたが、その後は、長男の代
わりに妻や被告が病院に症状を話して薬をもらうようになっていた。

 事件の数カ月前、妻から、財産を処分し将来、長男を施設に入れることを提案された。

 検察官「提案にどう答えましたか」

 被告「金がかかるからだめだと言いました」

 検察官「いくらかかるか調べたことはありますか」

 被告「ありません」

 検察官「施設に入れるのに反対した理由は」

 被告「長男は入院もいやがったので、無理に施設に入るように言ってもだめだと思いました」

 被告の自宅の土地価格は約1千万円。200万円の貯金もあった。

 しかし、被告が書いた遺言状では、被告が死んだあと、財産を譲る相手は妻ではなく、妻の
妹だった。

 弁護人「なぜ妻に相続させようとしなったのですか」

 被告「女房とは仲が悪いので…」

 弁護人「息子の病状や将来について妻に相談しようとしたことは?」

 被告「ありません」

 弁護人「なぜですか」

 被告「『そばに来るな』と手で払われるので、話ができませんでした」

 ■「家族の中で孤立、同情する側面も」

 退職して終日家にいるようになった被告の唯一の趣味は、植木や花の世話。妻は友だちと
遊びに行ったり、パチンコに興じたり。パチンコをやめる、やめないで夫婦は何度か口論にな
った。犯行の日も妻はパチンコに出かけ、帰ってきたのは午後11時ごろだった。

 退職後、長男と食事をともにすることはあっても、会話はほとんどなかった。妻とは会話はも
ちろん、食事をいっしょにすることもほとんどなかった。

 裁判員「会社に40年間勤めて、楽しかった想い出は?」

 被告「(社内)旅行」

 ぽつりと答える被告の背中に孤独感がにじむ。エリート銀行員としてまじめに働いた人生。し
かし、いつの間にか妻子との心の絆は切れてしまっていたのか。

 しかし、公判の中で、こんな話が明らかになる。風呂場での殺害未遂のあと、妻は長男に「お
父さんを許してね」と話した。長男は「何でもない」と応じたという。被告はちょっと驚いた表情を
見せた。

 検察官「この話をどう思いますか」

 被告は「うーん」と言ったきり黙ってしまった。法廷で田口被告が表情を露わにすることはな
かった。

 証人として出廷した妻は、「(被告を)許してやってほしい。刑を軽くしてやってほしい」と訴え
た。

 被告が退職するまでの40数年、長男の身の回りの面倒を見てきたのは妻。妻と長男の心
はつながっていたが、退職後、被告は孤立感を募らせ、母子の愛情に嫉妬し、言うことを聞か
ない母子に憎しみさえ覚えていったのではないかと感じた。

 検察側は、さしたる抵抗もせずに逃げ回る長男を執拗(しつよう)に追いかけて殺害した残虐
性や、確実に殺害できる方法を用意周到に準備して実行した計画性を重視。「安易で自分勝
手な犯行」と、懲役10年を求刑した。

 これに対して弁護側は、鬱病や老い、治る見込みのない長男の精神疾患、妻との不仲が絶
望につながり、「八方ふさがりで、やむなく犯行に及んだ」と情状酌量を求めた。

 戦後の高度経済成長の中で、ひたすら働いてきた不器用なサラリーマンが、仕事を失って家
庭に戻ると、拠り所がなかったという悲哀も考えさせられた。

 弁護人「これからの人生をどうしたいと思っていますか」

 被告人「部屋の中で、ずっと長男のことを拝んでいきたい」

 細々とした声が、静まりかえった法廷に響いた。

 10日、秋田地裁は懲役7年の判決を言い渡した。判決理由には「犯行は安易で短絡的だ
が、家族の中で孤立感を深め、同情する側面も……」と。

************以上、Yahoo Newsより**************

●一言一句のもつ重み

 息子を案ずる父親。
殺されそうになりながらも、父親をかばう息子。
その間にあって、悶絶する母親。
そして父親の孤独。
絶望。

 ここに書かれた一言一句を、じっくりとみなさんも読んでほしい。
コメントなど、つけようもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 息子を撲殺した父親)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●静岡茶から放射能!(フランスで1000ベクレル以上)2011/06/19記


 1970年ごろのこと。
オーストラリアでは、日本人は、「Sneaky Nips(小ずるい日本人)」と呼ばれていた。
大阪万博が開かれた当時のことである。


 が、その後の努力で(?)、日本は今の地位を築き上げた。
世界でも、もっとも信頼できる国のひとつとして評価されるようになった。
が、そんな最中、フランスで静岡茶から、1キログラム当たり1000ベクレル以上もの放射線が
観測された。
当然のことながら、このニュースは、私も含めて静岡県の人たちに、強烈な衝撃を与えた。
理由はいくつかある。


 そのひとつ。
私たち静岡県人は、今回の福島第一原発事故とは無縁と信じていた。
放射能汚染地帯の(ワクの外)にいると信じていた。
事実、毎日報道される放射線量にしても、平均値以下。
0・04〜0・05マイクロシーベルト前後(文科省観測)。
川勝静岡県知事も、そのつど、「安全」「安全」と、バカのひとつ覚えのように、その言葉を繰り
返していた。


 本当にバカだった!


●お湯で薄めれば安全


 原茶、および製茶から、500ベクレル以上もの放射線量が観測された。
が、最初に観測したのは、販売業者。
県に通報すると、県側は、「混乱を招くから、発表をさしひかえてほしい」と要請。
そのあと静岡県は、独自に放射線量を検査した。
その結果、いくつかの製茶工場の製茶から、基準値以上の放射線量が観測された。


 が、ここでおかしなことが起きた。


 県側はこう説明した。
お茶は、原茶、製茶にする段階で、5倍に濃縮される。
だから放射線の量も、5倍になる。
しかし飲茶にすると、(お湯で薄めるので)、放射線の量は8分の1になる。
だから安全、と。


 私はこの説明を聞いたとき、我が耳を疑った。
程度が低すぎるというか、バカというか、アホというか……。
いくら8分の1になっても、同じお茶を8杯飲んだら、同じ。
それがその数日後には、80分の1程度になると、訂正。
さらに数日前の川勝知事は、「100分の1になる」と、さらに訂正。
仮にお茶の中の放射線の量は薄められても、放射線物質は、そのまま溶け出ることになる。


 わかりやすく説明しよう。


 今、ここに大きなバケツがある。
そこにビー玉を100個入れる。
重さは計1キログラム。
すべてが放射線物質である。
測定してみたら、1000ベクレル。


 そこでそのバケツに水を入れる。
ビー玉の100倍の水を入れる。
重さは、約110キログラムになる。
その中から、1キロを取りだして測定すれば、放射線量は、たしかに約10分の1になる。
100倍に薄めたのだから、約100ベクレル。
しかし残りのビー玉が、それで消えるわけではない。
その水の中に残る。


 その水を飲み続ければ、当然、ビー玉は、すべて体内へ取り込まれる。


(ただし製茶の中のすべての放射性物質が、お湯の中に溶け出るわけではない。
ある程度の分は、製茶の中に残り、カスとして捨てられる。)


 どうしてそれが「安全」なのか?


●「要請があれば、検査する」


 そこで静岡県は、製茶工場から要請があれば、(放射線の)測定検査をする」と発表した。
言い換えると、「今後は、放射線検査はしない」と。
が、ここで疑問。
どこのだれが、そんな要請をするだろうか。
そうでなくても、静岡県茶は、農薬による薬害が問題になっている。
このあたりの農家でも、製品として出荷するお茶と、自分の家で飲むお茶を、しっかりと作り分
けている。
へたに要請すれば、それこそまさにヤブヘビ。


 その直後。
まさに静岡県が安全宣言した、その直後の翌日、フランスで、放射能汚染された静岡茶が発
見された。
しかも静岡県で観測された放射線の2倍以上!


 御前崎市にある浜岡原発が停止要請を受けたとき、御前崎市長はまっさきに、交付金の減
額を心配した。
が、そのとき私はこう書いた。
「交付金の減額程度ですめば、まだよいほう。今に、川根茶すべてが、出荷停止になるだろう」
と。


 たいへん残念なことに、今、現実にそうなりつつある。
フランスでの検査に触発され、世界各国でも検査を始めるはず。
まっさきに韓国、中国が反応するはず。
すでにオーストラリアの友人から、「だいじょうぶか」というメールが入った。
4月にオーストラリアへ行ったとき、みなに、製茶をみやげとしてもっていった。
私は、「君たちにあげたお茶は、去年のものだから安心して飲むように」と返事を書いたが、オ
ーストラリアでも輸入禁止になるはず。
つまりこうして輸入禁止は、世界中に及ぶ。


 で、もし川勝知事にできることがあるとすれば、世界の新聞に、こういう記事を載せること。


「静岡茶は、100倍に薄めて飲めば安全です。放射線量も100分の1になります」と。
が、そんなことを書けば、世界の笑いものになるだけ。
バカにされるだけ。
が、それだけではすまない。
それ以上に、静岡県は、信用を失う。
再び、「Sneaky Nips」と呼ばれるようになる。

 
●県知事はだれの代表?


 川勝県知事は、単科大学の元学長。
静岡県では珍しい、民間代表の県知事。
それだけに期待も大きかった。


 が、しばらくすると、官僚病にどっぷりと冒されていた。
民衆の安全より、業者の利益を優先。
言わなくてもよいのに、そのつど安全宣言。
結局、大恥をかいたのは、川勝県知事自身ということになる。


 だいたい、安全宣言なるものは、そこらの役人のすることではない。
役人たるものは、まず冷静に情報収集。
このばあいは、こまめに放射線量の観測。
それがわかったら、そのまま国民に知らせる。
必要な情報はそのつど提供はしても、あとの判断は、国民に任せる。


 へたに小細工をするから、バレる。
インチキをするから、信用を失う。
が、こういう小細工やインチキは、もうこれで最後にしてほしい。
民衆の代表であるという原点に立ち返って、民衆の立場で、ものを考えてほしい。


 あの浜岡原子炉が停止要請を受けたとき、川勝静岡県知事は、「英断」という言葉を使って、
それに賛成したはず。
「よく言った」と私は感激していたが、今回の一連の発言で、その評価は、霧のように消えてし
まった。
とても残念なことだが……。


●補記


 さっそく静岡県側は、調査団をフランスへ送ることにしたという。
しかし製茶は、トン単位で、すでに世界中にばらまかれている。
先日の記者会見で、川勝県知事は、「発表が1日遅れたことで、どんな損害が出るのだ」という
ようなことを言った。


 こういう姿勢が、損害、つまり被害を拡大させる。
静岡県茶の損害を私は心配しているのではない。
より多くの人が、健康被害を受ける。



Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
【親が子どもを虐待するとき】

●虐待

 虐待の内容については、すでに様々な方面から考察がなされている。
肉体的な虐待(暴力的虐待)をふつう虐待というが、暴力(殴る、蹴る、叩く)に限らない。
精神的虐待(威圧、恐怖心を与える)、不作為による虐待(ネグレクト、無視、冷淡、無言)、言
葉による虐待(「死ね」「捨てる」)などもある。

様態はさまざまで、多くは虐待と意識しないまま、虐待する。
そのため親側に罪の意識が薄く、また多くは、「子どものため」と錯覚して虐待することも多い。
一般的には、指導、しつけ、教育の範囲を逸脱し、子どもに肉体的、精神的苦痛を与え、子ど
もの肉体および精神に、後に残る傷痕を残すような行為を虐待という(以上、はやし浩司)。

●虐待の背景

 親が子どもを虐待するとき、その原因も多岐にわたる。
多くは親側の精神的欠陥、情緒的未熟性があるとみる。
さらに虐待は、世代連鎖しやすく、虐待する親自身が、子どものころその親に虐待された経験
をもっていることが多い。

 また育児ノイローゼから、うつ病を発症し、その結果として子どもを虐待するケースもある。
このばあいは、ささいなことで、カッとなり突発的に虐待に走るのが特徴。
行動に自制がきかず、子どもを殺す寸前までのことをする。
が、しばらくすると冷静になり、「○○ちゃん、ごめんね」と謝ったりする。

 ほかに子どもを自分の支配下に置き、思い通りにする(代償的過保護)、あるいは自己の親
としての存在感を訴えるために虐待するケースもある(代理ミュンヒハウゼン症候群)。

 さらに現在、子どもを愛せないと人知れず悩んでいる母親が、8〜10%いる(はやし浩司・浜
松市内で調査)。
母親自身の乳幼児期における母子関係の不在が原因であることが多いが、こんなケースもあ
る。

 Aさんは子ども(男児)が幼稚園児のころ、離婚した。
夫がAさんと子どもを捨てて、家を出た。
で、そのあとしばらくしてからAさんは、子どもを虐待するようになった。
バットで子どもを叩きつけることもあったという。
理由を聞くと、「横顔が自分を捨てた夫そっくりだから」と。

 潜在意識の奥に潜む、憎しみが、虐待という形になって、具象化するケースも少なくない(以
上、はやし浩司)。

 ほかにキレる子どもに準じて考えることもできる。
環境ホルモン説、脳の微細障害説など。

●精神的欠陥、情緒的未熟性

 精神的欠陥については、私は専門外なので、ここでは割愛する。
簡単に言えば、大脳の前頭連合野の自己管理能力に、何か問題があるとみる。
激情的に行動に走りながら、抑制が働かない。
そのため虐待も、狂乱的になり、暴力、暴言も過激なものになりやすい。
精神的欠陥によるものであれば、精神科での治療対象となる。

 また情緒的未熟性については、その親自身の乳幼児期の環境が影響していることが多い。
とくに母子関係の不全を疑ってみる。
基本的信頼関係の構築の失敗すると、いわゆるマターナル・デブルベーション(母子関係不全
症候群)を引き起こしやすくなる(注※1)。
子どもは、心豊かで、落ち着いた静かな環境で、心をはぐくむ。
そのどこかに欠陥があると、将来的に、マターナル・デブリベーションを引き起こしやすい(以
上、はやし浩司)。

●埼玉県T市のSKさんの相談

 埼玉県T市に住んでいるSKさんより、こんなメールが届いている(はやし浩司 2011−06
ー19)。
転載許可とあるので、そのまま紹介させてもらう。

【SKさんより、はやし浩司へ】

長女9歳のことで相談です。

お恥ずかしい話ですが、下の子が生まれた頃から上の子に対してイライラが募るようになりま
した。
手を上げることも多く、精神的に追い込むような言葉を言ってしまいます。
その上ピアノや勉強・・・と子どもの能力以上のことを求めてがんじがらめの状態。

徐々に子どもが激しいつめかみ・まつげや眉毛を抜く。
最近では、ぎゃーぎゃー泣き叫ぶというかわめきちらすし、ものを投げたり、話し合っても矛盾
したことばかり言います。

すべて私のせいで愛情不足・精神的においつめたせいだと思います。
学校では普段と変わらず生活しているようですが、家では異常な行動が多いです。

心が壊れてしまっていてこのままではいけないと、何とか自分が変わらなければ・・・と思いなが
らもやはり娘に対しては怒りの感情が強く、なかなか自分の力ではどうしようもありませんでし
た。

そして色々調べる中私も小さいころから虐待を受け、アダルトチルドレンであると思うようになり
ました。
カウンセラー?病院?どこを受診していいのかわからず、私は6月末からマイツリーの虐待に
ついてのプログラムを受けることにしました。

ただ子どもについてもこのままではいけないような気がして、どこかの機関を受診したいのです
が、なかなか傷ついた子どもを見て頂けるというか対処法がみつかりません。
色々検索して先生のサイトにたどりつきました。

どのような機関を受診すればいいのか? 対処法など教えていただけないでしょうか。
勝手な母親ですが、ご返答よろしくお願いします。

●マイツリー(My Tree)

 マイツリー・ペアレント・プログラムについては、いろいろなホームページで紹介されているの
で、そちらをご覧いただきたい。
(「マイ・ツリー」で検索をかければ、ヒットできる。)
私(はやし浩司)は、直接的には、知らない。

 すでにマイツリーでの指導を受けているなら、しばらくはそちらで指導を受けてみた方がよ
い。
私自身は、ここにも書いたように直接的には、それがどういう内容のものか、知らない。

●SKさんの子ども

 SKさんのケースでは、子どもの症状から、子ども自身がかなりの恐怖心を日常的にもってい
ることがわかる。
激しいつめかみ、まつげや眉毛を抜くといった、神経症による症状は、その代償的行為とし
て、外に現れる。

ふつうこういうケースでは、子どもは、(1)極端に萎縮する、(2)極端に粗放化するのどちらか
の様態を取る。

 親の異常な暴力的威圧に、抑え込まれてしまったのが、(1)のタイプ、
それをはね返し、見かけ上たくましくなったのが、(2)のタイプということになる。
SKさんの子どもは、(2)のタイプ、つまり攻撃型と考えられる。
予後について言えば、(1)のタイプは、立ち直りがたいへんむずかしい。
(2)のタイプは、一見、扱いにくいが、立ち直りが早い。
その分だけ、生命力がたくましいということになる。

 で、こういうケースのばあい、子どもは「家族の代表」にすぎない。
子どもに何か、ふつうでない症状が現れたら、子どもに問題があるとみるのではなく、家族(こ
のばあいは、母親の育児姿勢)に問題があるとみる。
SKさんは、「子どもを治そう」と考えているが、逆。
まずSKさん自身を治す。
その結果として、子どもも治る。

●では、どうするか

 先にも書いたように、「マイツリー」という団体で指導を受けているなら、しばらくそちらのほう
で、いろいろな人たちの意見を聞いたらよい。
が、私自身は、メールの内容からして、SKさん自身の「心」に大きな問題があるとみる。その
ため、一度、心療内科を訪れてみることを勧める。

 それによって、子どもへのこだわり、うつ病的な症状は、かなり改善する。
SKさんが精神の安定を取り戻せば、子どもも、それに並行して、落ち着く。
9歳という年齢は、まだじゅうぶん取り返しのつく年齢である。
(思春期前夜から思春期に入ると、子どもの心の問題を解決するのが、たいへんむずかしくな
る。
人格の「核(コア)」が完成するためである。)

 つぎのようにアドバイスする。

(1)父親(夫)とはどういう関係なのか。
もし父親が近くにいるなら、父親の協力、理解が不可欠。
育児をひとりで背負わないで、よきパートナーとして、協力してもらう。
(このメールを見せるのもよい。)

(2)心療内科で安定剤を処方してもらう。
今ではこだわりを取り除く、すぐれた薬も開発されている。
ささいなことが気になり、それが爆発的に興奮状態につながるようであれば、うつ病も疑われ
る。
適切な治療こそ、最善。

(3)自分の心の中をのぞく
SKさんは、自身の不幸な過去について、少し触れている。
そういう形で、自分をもう一度、客観的に見つめ直してみる。
自分がわかれば、つまりそれが原因とわかれば、あとは時間が解決してくれる。
(5年単位の時間はかかる。その覚悟はしておくこと。)

(4)子どもの神経症
9歳という年齢からして、まだじゅうぶん、間に合う。
ただし子どもへの薬物投与は、慎重に。
これは子どもの問題ではなく、SKさん自身の問題と考えること。
子どもは「代表」であり、「結果」でしかない。
また攻撃型に出ているという点からして、予後もよい。
あまり深刻に考えないこと。

(5)SKさんへ

 あなたはすばらしい母親です。
まず、そう考えてください。
ここまで自分を客観的にみつめ、また自分を改めようとする母親は、たいへん少ないです。
ただあなたには、あなたの、自分の意思ではどうにもならない問題をかかえています。
(SKさんのケースでは、マイツリーが提案しているような、プログラム的な指導で、改善すると
は、私は考えていません。
心だって風邪をひくときには、ひきます。
風邪をひいたら、病院へ行けばよいのです。)
だから自分を責めてはいけません。
どうしようもないのです。

 そのためにも、一度心療内科のドクターに相談してみるとよいでしょう。
私も仕事上、神経をすり減らすことが多く、精神安定剤を常用しています。
あとはイライラを、自分のしたいことで、解消しています。
それぞれの人にはそれぞれに合った解消法があります。
SKさんにもあるはずです。
やがてそれを見つけ、適当に発散する。
つまりこの種の病気(病気と決めつけて、ごめん!)は、治そうと思わず、うまくつきあえばよい
のです。

 へたにがんばると、かえってストレスがたまってしまいます。

 あまりよい返事になっていないかしれませんが、いくつか原稿を添付しておきます。
どうか、参考にしてください。

Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※1)
 
●マターナル・デブリベーション(母子関係不全症候群)

+++++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デブリベーション」
という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デブリエイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である(以上、はやし浩司)。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。 
漠然と怖い。 
超泣く。所構わず突発的に。 
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 

【その他質問、追加事項】 
抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。 
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続け
た。 

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。 
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、 
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようにな
り 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言
葉)自分の存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感
じます。電話に出たり一人で外出できません。 

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち
直れません。フラッシュバックがよく起きます。 

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り
続ける妙な癖のようなものがある。 

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放される
と信じていたりして自分でもマズイと思ってます。 

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。 
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽ
い奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、
心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこ
む習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特
の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってき
た。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになってい
る。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の
発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、そ
れを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってき
た。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされた
が、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

●いじめの問題

 このマターナル・デブリエイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少
し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児〜年長児(4〜6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとし
た表情を示す。
全体の7〜8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももい
る。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持すること
ができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要
がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子ども
がいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満
足げでおっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえ
ば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デブリベーションという問題があるのは、わかった。では、私はどうなのか?」
と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難し
い。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれな
い。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、
そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この
「マターナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高
い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なこ
とではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということ
もある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もり
に関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エ
ンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デブリエイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ホスピタリズム(追記)

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて
自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そ
のくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をか
ぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということに
なる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 マターナルデブリエイション マターナル・デブリエイション 母子関
係 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込
み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期)

Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●虐待

 ●虐待される子ども

++++++++++++++++

 カナーという学者は、虐待を次のように
定義している。

(1) 度の敵意と冷淡、
(2) 完ぺき主義、
(3) 代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、
愛情に根ざした本来の過保護ではなく、
子どもを自分の支配下において、思い
通りにしたいという、親のエゴに基づ
いた過保護をいう。

代償的過保護ともいう。

+++++++++++++++

                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚
園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その
子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。

 カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主
義、(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の
支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。代償的過保護
ともいう。

その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫され
ているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状
を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親
が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあげてい
る。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの
ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習
中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、
近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。
父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。

あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻した
りを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ
ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが虐待されている
のを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」という方法もあるが、「どうして
も大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよいでしょう。そのほうが適切に対処してくれ
ます」(S小学校N校長)とのこと。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虐待
 虐待の定義 ホルネイ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●環境虐待

+++++++++++

虐待といっても、直接虐待と
間接虐待がある。

このほか、最近私は、環境
虐待という言葉を考えた。

+++++++++++

 虐待といっても、直接虐待と間接虐待がある。「間接虐待」という言葉は、私が考えた。たとえ
ばはげしい夫婦げんか、家庭騒動、家庭不和、家庭崩壊など。こういったものは、子どもに対
して直接的ではないにしても、子どもの心に大きな傷を残す。

 が、最近、こんな経験をしている。

 あるところにある母親がいる。年齢は、今年40歳を少し過ぎた。上の子どもが小学5年生
(男児)、下の子どもが小学2年生(女児)。

 母親は、結婚まもなくから、うつ病になった。うつ病には(こだわり)や(妄想性)はつきものだ
が、その母親もそうだった。その母親のばあいも、ささいなことを気にして、それを異常なまで
に針小棒大に問題にした。

 あるときは、隣の浄化槽のポンプがうるさいからといって、夜中に、それを破壊してしまったこ
ともある。そのときは隣人が、その母親の病状を理解し、弁償程度で話がすんだ。あるいは、
家の近くの駐車場を借りているのだが、その駐車場で隣の車が、自分の車に傷をつけたと騒
いだこともある。

 見ると、ほんの数ミリにもならないすり傷だったのだが、その母親は、隣に駐車してあった車
のドアが当たったと主張した。このときは、警察官まで呼んで、実地検分までしたという。

 そういう母親だから、家庭の中では、どんな母親か、容易に察しがつく。数週間の間、家の中
に引きこもったかと思うと、今度は突然、手芸の店を開くといって、夫をあわてさせたりしたこと
もある。が、かわいそうなのは、2人の子ども。そのつど、その2人の子どもは、そういう母親に
引き回された。私が聞いた話に、こんなことがあった。

 2年生の子どもが、学校からテスト用紙をもらって帰ってきた。かけ算の九九のテスト用紙だ
った。見ると、下3分の1程度の答が、ちょうど一列ずつ下へ、ずれているのがわかった。母親
は、自分の子どもが、隣の子どもの答案を丸写しにしたと考えた。(実際、そうだったかもしれ
ないが……。子どもの世界では、よくあることである。)

 そこで母親は、その子どもを問いつめた。しかった。が、それでは足りないと思ったのか、そ
の足で学校へ行き、「しっかりと監視していてほしい」と先生に告げた。

 そういう家庭環境だから、上の子ども(小5男児)は萎縮してしまった。ハキがなく、母親の前
では、いつもオドオドしていた。一方、下の子ども(小2女児)は、やや粗放化した上、虚言癖を
もつようになった。こんなことがあった。

 ある日、突然、その母親が学校の職員室に飛び込んできた。そして大声でこう怒鳴った。

 「○○先生が、うちの娘を殴った。何とかしろ!」と。

 それを聞いた教頭が、授業の途中だったが、担任の先生を呼び、事情を聞いた。しかし担任
の先生には、まったく身に覚えがなかった。ほかの子どもの頭を手で、あいさつがわりに軽くた
たいたことはあるが、その子どもには、なかった。

 それを話すと、その母親は、「うちの娘は、嘘をつかない」「あなたはうちの娘を、嘘つきと言う
のか!」と。さらに大声で怒鳴ったという。

 結局、この話、つまりその先生がその子どもを殴ったという話は、その子どもの作り話とわか
ったという。その前日あまりにも忘れ物が多いので、、その先生が、その子どもにこう言った。
「今度、忘れ物をしたら、君のお母さんに電話するよ」と。そこでその子どもが先手を打つ形
で、先生の悪口を言った。それが「殴った」という話になった。

 こうした症状はともかくも、母親がつくる家庭環境が、子どもの心に大きな影響を与えている
ことは、明白だった。虐待という虐待ではないかもしれないが、それに近い影響を与えていた。
そこで私は、こうした虐待を、「環境虐待」と呼ぶことにした。

 子どもの立場からして、心静かにくつろげる環境がない。家庭が家庭として、機能していな
い。情緒が不安定な母親に、そのつど、生活が乱される。程度の差もあるが、こうした家庭環
境も虐待に準じて考え、ひどいばあいには、子どもの隔離ということも考える。

 虐待といっても、内容、程度は、さまざま。子どもの体に直接危害を加える、「直接虐待」にし
ても、虐待を加える親にしても、始終、虐待を加えているわけではない。ふだんは、むしろやさ
しく、思いやりのある親であることが多い。(もちろん日常的に虐待をしている親もいるが…
…。)

 週に1度とか、月に2、3度とか、そのときの親の気分に左右されて、子どもを虐待する。しか
しそれでも子どもの心に大きな傷跡を残す。そういうことも考えると、ここでいう環境虐待のほう
が、ずっと質(たち)が悪い。そういう前提で、考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 間接
虐待 直接虐待 環境虐待)

++++++++++++

間接虐待について、以前
書いた原稿を添付します。

++++++++++++

● 間接虐待

 直接虐待を受けなくても、まわりの騒動が原因で、子どもが、心理的に、虐待を受けたのと同
じ状態になることがある。これを私は、「間接虐待」と呼んでいる。

 たとえばはげしい夫婦げんかを見て、子どもがおびえたとする。「こわいよ」「こわいよ」と泣い
たとする。が、その夫婦には、子どもを虐待したという意識はない。しかし子どもは、その恐怖
感から、虐待を受けたときと同じキズが、心につく。これが間接虐待である。

 というのも、よく誤解されるが、虐待というのは、何も肉体的暴力だけではない。精神的な暴
力も、それに含まれる。言葉の虐待も、その一つである。言いかえると、心理的な苦痛をともな
うようであれば、それが直接的な虐待でなくても、虐待ということになる。

 たとえば、こんな例を考えてみよう。

 ある父親が、アルコール中毒か何かで、数日に1回は、酒を飲んで暴れたとする。食器棚を
押し倒し、妻(子どもの母親)を、殴ったり、蹴ったりしたとする。

 それを見て、子どもが、おびえ、大きな恐怖感を味わったとする。

 このとき、その父親は、直接子どもに暴力を加えなくても、その暴力と同じ心理的な苦痛を与
えたことになる。つまりその子どもに与える影響は、肉体的な虐待と同じということになる。それ
が私がいう、間接虐待である。

 が、問題は、ここにも書いたように、そういう苦痛を子どもに与えながら、その(与えている)と
いう意識が、親にないということ。家庭内騒動にせよ、はげしい夫婦げんかにせよ、親たちは
それを、自分たちだけの問題として、かたづけてしまう。

 しかしそういった騒動が、子どもには、大きな心理的苦痛を与えることがある。そしてその苦
痛が、まさに虐待といえるものであることがある。

 H氏(57歳)の例で考えてみよう。

 H氏の父親は、戦争で貫通銃創(銃弾が体内を通り抜けるようなケガ)を受けた。そのためも
あって、日本へ帰国してからは、毎晩、酒に溺れる日々がつづいた。

 今でいう、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)だったかもしれない。H氏の父親は、やがてア
ルコール中毒になり、家の中で暴れるようになった。

 当然、はげしい家庭内騒動が、つづくようになった。食卓をひっくりかえす、障子戸をぶち破
る、戸だなを倒すなどの乱暴を繰りかえした。今なら、離婚ということになったのだろうが、簡単
には離婚できない事情があった。H氏の家庭は、そのあたりでも本家。何人かの親戚が、近く
に住んでいた。

 H氏は、そういうはげしい家庭内騒動を見ながら、心に大きなキズを負った。

 ……といっても、H氏が、そのキズに気がついていたわけではない。心のキズというのは、そ
ういうもの。脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、本人が、それに気づくということ
は、むずかしい。

 しかしH氏には、自分でもどうすることもできない、心の問題があった。不安神経症や、二重
人格性など。とくに二重人格性は、深刻な問題だった。

 ふとしたきっかけで、もう一人の人格になってしまう。しかしH氏のばあい、救われるのは、そ
うした別の人格性をもったときも、それを客観的に判断することができたこと。もしそれができ
なければ、まさに二重人格者ということになったかもしれない。

 が、なぜ、H氏が、そうなったか? 原因を、H氏の父親の酒乱に結びつけることはできない
が、しかしそれが原因でないとは、だれにも言えない。H氏には、いくつか思い当たる事実があ
った。

 その中でも、H氏がとくに強く覚えているのは、H氏が、6歳のときの夜のことだった。その夜
は、いつもよりも父親が酒を飲んで暴れた。そのときH氏は、5歳年上の姉と、家の物置小屋
に身を隠した。

 その夜のことは、H氏の姉もよく覚えていたという。H氏は、その姉と抱きあいながら、「こわ
い」「こわい」と、泣きあったという。その夜のことについて、H氏は、こう言う。

 「今でも、あの夜のことを思い出すと、体が震えます」と。

 心のキズというのは、そういうもの。キズといっても、肉体的なキズのように形があるわけでは
ない。外から見えるものでもない。しかし何らかの形で、その人の心を裏からあやつる。そして
あやつられるその人は、あやつられていることにすら、気がつかない。そして同じ苦痛を、繰り
かえし味わう。

 間接虐待。ここにも書いたが、この言葉は、私が考えた。

【注意】

 動物愛護団体の世界にも、「間接虐待」という言葉がある。飼っているペットを、庭に放置した
り、病気になっても、適切な措置をとらないことなどをいう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【虐待と非行】

●非行の子ども、3割虐待経験(駐日新聞)

 全国の児童相談所で非行相談を受けた子どもの30%は、親などから、虐待されたことがあ
り、ほぼ半数は、育つ途中で、養育者が代わり、親や家族らとの愛着関係を建たれる経験をし
ていたことが、6月13日(05)、犬塚峰子、東京都児童相談センター治療行政課長らの、厚生
労働省研究班の調査で分かった(以上、中日新聞の記事より)。

++++++++++++++++++

 非行の内容

 男子……63%
 非行内容……盗み、家出、外泊
 
 こうした非行問題を起こした子どものうち、

 虐待を受けた子どもは、全体の30%。複数の種類の虐待を受けた受けた子どもが目立ち、
殴るなどの身体的虐待が、78%、ネグレクト(養育放棄)が、73%で、心理的虐待が50%、
性的虐待が32%。

 親が離婚したり、施設に預けられたりして、養育者が途中で代わった子どもは、47%で、うち
約4分の1は、3歳未満で経験。代わった回数は、1回が、66%、2回が、18%、3回は、1
1%いた。

 ドメスティックバイオレンス(DV)のある家庭で育った子どもが、全体の10%いることも判明。

 攻撃性が高い、情緒不安定などの何らかの心理的・精神的問題をかかえる子どもは、85%
おり、虐待経験のある子どもだと、92%に上昇した(以上、同新聞、6・14、朝刊)。

+++++++++++++++++

●虐待は好ましくないが……

 子どもは、絶対的な安心感と、親子の信頼関係のある家庭でこそ、その心をはぐくむことが
できる。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。

 虐待にかぎらない。育児拒否、放棄、冷淡、家庭騒動、夫婦不和、暴力、貧困など。子ども
の側から見て、「不安」を覚えたとき、子どもの心は、大きく、ゆがむ。キズつく。離婚にしても、
離婚そのものが子どもの心に影響を与えるのではない。離婚にいたる、家庭騒動が、子ども
の心に大きな影響を与える。

 子どもがいる夫婦のばあい、離婚をどのように進め、離婚後も、どのようにして、子どもの心
を守るか。この日本では、そうした問題については、ほとんど、考えられていない。

 ただ、この調査で、「?」と思ったのは、つぎのこと。

現在、子どもに体罰を加えている母親は、全体の50%近くはいる。そしてそのうち、約70%
(全体の35%)は、虐待に近い、体罰を加えているのがわかっている(筆者、調査)。

 つまり虐待イコール、非行ということではないのではないかということ。虐待を受けながらも、
子どもの側で、ふんばりながら、がんばっているケースは、いくらでもある。この記事を読むと、
(あくまでも記事を読んでの印象だが)、非行の原因のすべては、虐待にあるような印象をもっ
てしまう。)

 また虐待といっても、肉体的虐待、精神的虐待のほか、間接虐待もある。はげしい夫婦げん
かを見て育った子どもも、虐待を受けたのと同じような症状を示すことがある。

 結論から先に言えば、子どもは、心豊かで、愛情に満ちた、静かな環境で、両親によって育
てられるのがよい。その年齢は、2歳まで(WHO)だが、実際には、満3歳まで。この時期に、
子どもは、親との(とくに母親との)、基本的信頼関係を結ぶ。

 この基本的信頼関係が、そののちの、子どもの精神的発達の基盤となる。が、この時期に、
その信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、精神的に大きな影響を受け、慢性的な不安感
を覚えたりするようになる。生涯にわたってつづくため、「基底不安」という。

 さらに精神的未熟性が、残ることもある。50歳、60歳をすぎても、親離れできず、そのため
自立そのものができず、親に依存して生きる子どもも少なくない。

 もちろん情緒的な問題も起きる。ここに書いてあるような、「攻撃性」もその一つだが、情緒が
不安定になるから攻撃性が生まれるのではなく、他者との良好な人間関係が結べなくなり、そ
の結果として、攻撃性が現れる。もっと言えば、このタイプの子どもは、他者に対して、心を開く
ことができない。

 その結果として、仮面をかぶって、いい子ぶったり、同情を求めたり、依存的、服従的になっ
たりする。内へ引きこもってしまうこともある。攻撃性は、あくまでも、その一部でしかない。

 全体としてみると、この調査は、その前提として、虐待と非行を、どこかで無理に結びつけよ
うとしているのではないかという印象をもった。図式としては、わかりやすいが、かえって、親た
ちに、誤解を生じかねない。つまりこれだけでは、近年ふえている、そうでない家庭(見た目に
も恵まれ、裕福で、家庭円満な家庭)での非行については、説明できない。

●非行の原因は、別の角度から考える

 むしろそうではなくて、家庭的な不協和音が、子どもの自我の形成に影響を与え、その結果
として、子どもは、たとえば非行問題を起こすと考えたほうが、よいのでは……。

 同じ虐待を受けても、自我の同一性のしっかりしている子どもは、自分の目的に向って進ん
でいく。虐待を受けなくても、同一性の確立に失敗した子どもは、さまざまな形で、その自我を
補修しようとする。その一つが、非行ということになる。

 最後に一言。

 非行イコール、即、「悪」ではないということ。今どき、「盗み」や「家出」など、珍しくも何ともな
い。そこには、当然、社会全体がもつ、社会的価値観が混入する。極端な例としては、体に爆
弾を巻いて、自爆することを美徳する社会も、ないわけではない。

 さらに、最近、こんなことも聞いた。

 南アフリカの日本人学校から帰任した小学校の先生が、こう言った。「(日本で)朝礼が終わ
って、子どもたちが二列に並んで教室へもどる姿を見て、ぞっとした」と。

 あなたはその先生が、どうしてゾッとしたか、その理由がわかるだろうか。

 この話をオーストラリアの友人(ドクター)に話すと、そのドクターも、そう言った。

 どこかの駅で列車をまっているときのこと。駅前が運送会社になっていて、そこに10台近いト
ラックが並んでいたという。そのとき、上司らしき人が、トラックの前に運転手を並べ、朝礼をし
ていたという。

 その友人も、それを見て、ゾッとしたという。

 なぜか?

 こうした感覚は、日本人として、日本に長く住んでいるとわからない。そこで私は、オーストラ
リアの友人に、こう聞いた。

 「オーストラリアでは、どうしているのか?」と。

 すると、そのオーストラリア人は笑いながら、「(朝の集会のあと)、みな、バラバラに教室へ入
る。ぼくは、いつも、窓から、入っていた」と。

 またトラックの運転手たちについては、みな「ロボットみたいだった」と。

●サブカルチャ(下位文化)

 「非行」ということを考えるとき、では、非行を経験しない子どものほうが理想的かというと、そ
うでもない。今の日本の子どもたちを見ていると、(決して、非行を奨励するわけではないが)、
キバを抜かれた動物のようで、かえって不気味ですらある。

 男児でも、たいはんが、ナヨナヨしている。おとなしい。やさしい。自己主張も、弱い。ブランコ
を横取りされても、文句一つ、言えない。よく子どもの攻撃性が問題になるが、その攻撃性そ
のものが、まるでない。そういう子どもを、はたして、(いい子)と言ってよいのか。

 むしろ子どものころ、サブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから、
常識豊かな子どもになることが知られている。反対に、子どものころ、優等生であった子どもほ
ど、あとあと、何かと問題を引き起こしやすいこともわかっている。外部に対して問題を引き起
こすこともあるが、内々で、悶々と苦しんでいる子どもとなる、たいへん、多い。)

 「非行」といっても、程度の問題もある。ハバもある。どこからどこまでが、許される非行であ
り、どこから先が、許されない非行なのかということを、一度、明確にしておく必要もあるのでは
……。

 盗みくらいなら、だれだって、する。家出にいたっては、みな、する。虐待が好ましくないことは
言うまでもないが、虐待イコール、非行という短絡的な発想には、私は、どうしても、ついていけ
ない。
(はやし浩司 子供の非行 虐待と非行 虐待 子供の攻撃性 ネグレクト 養育放棄)

(追記)

 日本の子どもたちは、全体としてみると、おとなしすぎる。先日も、アメリカ人の小学校の教師
と話したが、アメリカでは、シャイ(shy)な子どもは、問題児だそうだ。

 日本では、シャイな子どもは、問題児ではない。むしろ、控えめないい子と考えられていると
話してやったら、その先生は、本当に驚いていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【滋賀県・O市のY先生(小学校教諭)より、はやし浩司へ】
●代償的過保護
+++++++++++++++++++++++++++
滋賀県のY先生より、こんなメールが届いている。
以下、要約。
「……私のクラスにKさん(女児、小4)という子がいるが、家に帰りたがりません。
いつもみなが帰ったあとも真っ暗になるまで、校舎の裏庭(小さな山になっていて、
ふだんは児童の遊び場になっている)で、時間を過ごしています。
近くに住むEさん(女児、小4)に話を聞くと、母親がたいへんきびしい人らしく、
おおまかに言えば、つぎのようだそうです。
(1)毎日、1時間の漢字の書き取りと、計算練習が義務づけられている。
(2)そのあと母親にテストされ、満点でないと、夕食が食べられない。
(3)友だちにもらった遊び道具などは、すべて捨てられる。
(4)家の前まではいっしょに帰るが、いつも裏の勝手口から家に入る。
(5)ほかに毎日プリント学習を2枚することになっていて、それがしてないと、
ベッドから引きずり出され、それをさせられる。
(6)「成績がさがったら、お弁当を作らない」と、母親に言われている。
 学校でも、ときどき「おなかが急に痛くなった」「足が痛い」と言って、保健室
で横になっています。
小学2年生ごろまで、授業中に、おもらしをすることがあったそうです」と。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++
●代償的過保護と帰宅拒否
+++++++++++++++
典型的な代償的過保護である。
親の支配下におき、子どもを
親の思い通りにする。
一見、過保護だが、過保護に
ともなう(愛情)が希薄。
「代償的過保護」という。
過保護もどきの過保護。
そう考えるとわかりやすい。
+++++++++++++++
●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償
的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウ
ゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ミュン
ヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母親)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。
S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。
「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。
それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。
どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。
そこで皆でさがすのですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」
と。
私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、
家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。
まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。
幼児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれ
て、当然、家庭の役割も変わってくる。
また変わらねばならない。
子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。

つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。
が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。
「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(随筆家・ソロー)というのがある。
つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のよう
でなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡
単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。
もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関係に
ある。
しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げてい
くようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。
もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。
毎日のように寄り道や回り道をしてくる。
あるいは外出や外泊が多いということであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。
家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなこと
を避けるための行動をする。
帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒
否につながる。
裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけ
でも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。

(はやし浩司 子供の帰宅拒否 帰宅拒否 家に帰りたがらない子ども 帰宅を拒否する子
供)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Y先生へ】
 メール、ありがとうございました。
いろいろな母親がいますね。
まさに典型的な代償的過保護と言うべき母親ですね。
まず「子どもはこうあるべき」という設計図を頭の中で作り、その設計図どおりの
子どもにしようする。
 疑うべきは、まず母親の情緒問題です。
自分の情緒的欠陥、つまり穴をふさぐために子どもを利用しているだけ。
何かの精神的な問題をもった女性と考えます。
一見、過保護に見えますが、過保護には愛情があります。
その愛情(=「許して忘れる」)がありません。
先にも書いたように、過保護もどきの過保護。
だから代償的過保護と言います。
発達心理学の用語にもなっています。
それが過度になれば、「虐待」ということになります。
「食事を与えない」「眠らせない」というのは、立派な虐待です。
 が、母親には、その自覚がない。
「私は子どものためにそうしている」と確信しています。
だから余計にやっかいですね。
説得しても、その母親には理解できないでしょう。
 ……私も子どものころ、帰宅拒否児だったと思います。
(いろいろな思い出をつなぎあわせると、そういう「私」が浮かびあがってきます。)
いつも学校帰りには、道草を食って遊んでいました。
夏でも、毎日真っ暗になるまで、近くの寺で遊んで時間をつぶしました。
今、思い出しても、暗くて、つらい毎日でした。
 もしKさん(小4)も、同じようであるとするなら、同情します。
恐らく一生、その傷が癒されることはないでしょう。
今の私が、そうです。
63歳になろうというのに、いまだに心の中に暗い影を落としています。
 やはりこの問題は、先生が指摘しておられるように、児童相談所が介入
すべき問題ですね。
先にも書いたように、「食事を与えない」「眠らせない」というのは、虐待です。
また無理な勉強を強制するのも、虐待と考えてよいでしょう。
一応、報告だけは、きちんとしておかれることを、お勧めします。
 なお小4と言えば、思春期前夜。
この先、Kさんには、いろいろな試練が待ちかまえています。
非行に走らなければよいと心配しています。
(あるいは、引きこもり(マイマス型)、家庭内暴力(プラス型)へと進むことも
多いです。)
 父親はどういう人なのか。
またどのように考えているのか。
それがわかったら、どうかまたメールをください。
では、今日は、これで失礼します。

Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【児童虐待】

●児童虐待のうち、7割あまりが、核家族世帯で起きている?(Children Abuses)
(70% of Children Abuse cases are occurred so-called "Nuclear Families", or "Families 
eith only parents and children". But is this true?

++++++++++++++++++

児童虐待のうち、7割あまりが、「核家族」
で起きているという。

また虐待といっても、「ネグレクト」が、
約39%。
身体虐待の31%より多かったという。

このほど、奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」
が、そんな調査結果をまとめた。
(産経新聞・08年6月10日)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

+++++++++++以下、産経新聞より抜粋+++++++++++++++++

児童虐待の防止策などを協議する県の「児童虐待等調査対策委員会」(委員長=加藤曜子・
流通科学大教授)は9日、昨年度に奈良県と市町村が受理した児童虐待事案を対象にした、
初の調査結果を報告した。

全1228件のうち、7割あまりが父母以外の同居者のない「核家族」で起き、親が養育
を怠慢したり拒否する「ネグレクト」も全体の4割弱を占める実態が判明。県は「調査結
果から、児童虐待を早期発見することの困難さが浮き彫りになった」と深刻に受け止めて
いる。

児童虐待に関し、県内では今年度初めて、県と市町村が統一の調査票に基づいて記録する
システムを導入。昨年度は統一調査票がなかったが、同委員会では、深刻化する児童虐待
の実態をより詳しく分析する必要があるとして、昨年度分の事案も統一調査票の設問にの
っとる形で再精査した。

その結果、父母以外の同居者がいるかどうかを問う設問では、899件(73・2%)で
核家族にあたる「なし」と回答。無回答や不明を除く「あり」の回答は221件(18%)
に過ぎなかった。

また、種類別では「ネグレクト」が477件(38・8%)と最も多く、「身体的虐待」の
383件(31・2%)を上回っていた。

+++++++++++++以上、産経新聞より抜粋+++++++++++++++


●この調査結果は、おかしい?

児童虐待を調べたら、73%が、核家族世帯の子どもであったという。

だれしもこの数字だけを見たら、児童虐待のほとんどは、核家族で起きていると思うだろ
う。
中には、「核家族では児童虐待が起きやすい」と思う人もいるかもしれない。
「73%」という数字は、そういう数字である。

しかし、待ったア!

この調査結果を読んで、「?」と思った人はいるだろうか。
が、私は、一読して、「?」と思った。
奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」という公的な機関がまとめた調査だから、「まさ
か?」とは思いたいが、おかしいものは、おかしい。

この調査でも、「万引きした子どもを調べたら、50%が、女子だった。(だから女子は万
引きしやすい)」式の、きわめて初歩的なミスを犯している(?)。

よく読んでみてほしい。産経新聞の記事には、こうある。

「(虐待)全1228件のうち、7割(73%)あまりが父母以外の同居者のない「核家族」
で起きた」(だから児童虐待は、核家族世帯で、起きやすい)と。

しかしもし、核家族が、全体の7割だったとしたら、この「7割」という数字には、まっ
たく意味がない。

ちなみに奈良県のばあい、

「核家族世帯の割合は64・01で(全国)3位である。いずれの指標も上位10都道府
県のほとんどを東京・名古屋・大阪及びその周辺の府県が占めており、大都市及び周辺地
域の特性と見られる」(2000年10月・奈良自治体問題研究所)とのこと。

つまり、64%が、核家族である、と。

この64%をもとにすれば、つぎのようなことは、調査しなくても言える。

「私立高校へ通う子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
「ゲームをしている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
ついでに、もうひとつ。
「黒い靴を履いている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」と。

「64%」と「73%」の(差)こそが、問題ということになるが、その差は、たったの
9%。
誤差の範囲とは言い切れないが、それに近い。

とくに祖父母同居の家庭では、ここでいうネグレクトという虐待は少ないはず。
両親が衣食などの世話をしないばあいには、祖父母がする。
となると、「ネグレクトが39%」という数字を、どう処理したらよいのか?

つまりこの調査によって奈良県は、「核家族世帯では、児童虐待が起きやすく、たとえば祖
父母同居家庭世帯では、児童虐待は置きにくい」ということを裏づけたかったのだろう。
それはわかるが、私は、つぎの一文を読んで、思わず、吹き出してしまった。
(「児童虐待」そのものを笑ったのではない。どうか、誤解のないように!)

「県は『調査結果から、(児童虐待の73%は、核家族世帯で起きているから)、児童虐待
を早期発見することの困難さが浮き彫りになった』と深刻に受け止めている」と。

では、これらの数字を、どう読んだらよいのか?
今一度、数字を整理してみよう。

(1)奈良県の核家族世帯の割合      ……64%
(2)児童虐待の中に占める核家族世帯の割合……73%
(3)児童虐待の中のネグレクトの割合   ……39%
(4)児童虐待の中の身体的虐待の割合   ……31%
(祖父母同居世帯では、ネグレクトの割合は、当然、少ないはず。)

話をわかりやすくするために、具体的に数字を置いて考えてみよう。

今、ここに、虐待を受けている子どもが、100人いたとする。

(1)そのうち、73人は、核家族世帯の子ども。27人は、そうでない、たとえば3世
代〜同居世帯の子ども。
(2)100人のうち、39人は、ネグレクトを受けている子ども。31人は、人体的虐
待を受けている子ども。もちろんその両方の虐待を受けている子どももいる。
(3)しかし奈良県のばあい、核家族世帯は、64%。繰りかえすが、もし虐待を受けて
いる100人の子どものうち、64人が、核家族世帯の子どもであったという結果
だったら、この調査は、まったく意味のない調査だったということになる。

ウ〜〜〜〜〜ン。

これらの数字を並べてみると、「核家族世帯でのほうが、そうでない世帯よりも、児童虐待
が、やや多いかな」という程度のことでしかない。
しかも「3世代〜同居世帯では、ネグレクトが起きにくい」ということを考慮に入れるな
ら、ネグレクトは、比較的、核家族世帯で起きやすく、身体的虐待は、比較的、そうでな
い世帯で起きやすいという程度のことでしかない。
つまり児童虐待、とくに身体的虐待と核家族世帯を、無理に結びつけることはできないの
ではないかとさえ思われる。

身体的虐待についていえば、核家族世帯であろうとなかろうと、そういうことに関係なく、
起きる。

で、結論。
「73%」という数字に、だまされてはいけない!

+++++++++++++++++

ついでに、社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」
のした調査結果を、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の5人に1人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、3倍になっていることがわかった(有
効回答500人・2000年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどき
ある……1点」「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、
「虐待なし」が、61%であった。この結果からみると、約40%弱の母親が、虐待もし
くは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、1998年ま
での8年間だけでも、約6倍強にふえていることがわかった。(2000年度には、1万7
725件、前年度の1・5倍。この10年間で16倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた6932件のうち、身体的暴行が3674件(53%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、2109件(30・4%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が650件など。

虐待を与える親は、実父が1910件、実母が3821件で、全体の82・7%。また虐
待を受けたのは小学生がもっとも多く、2537件。3歳から就学前までが、1867件、
3歳未満が1235件で、全体の81・3%となっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 児童虐待 核家族 核家族
と児童虐待 ネグレクト)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2011−06−20

++++++++++++++++++

USAに住む息子から父の日の祝いが届いた。
知らなかった。
忘れていた。
昨日がその日だった。

++++++++++++++++++

●オーストラリア人のジョーク

1日で死にたかったら、ドイツの野菜を食べなさい。
1週間で死にたかったら、中国のペキン・ダックを食べなさい。
1年で死にたかったら、静岡のお茶を飲みなさい。

 オーストラリアでは、すでにこんなジョークが飛び交っている。

 静岡県側は、「(静岡産の製茶については、工場からの)要望があったら調べる」などと、アホ
なことを言っている。
しかし要望など出す製茶工場はない。
つまり「放射能検査はしない」と。

 どうぞ、ご勝手に!
こうして静岡県茶は世界の信頼を失う。
相手にされなくなる。
全世界から輸入禁止処分になるのは、時間の問題。

●報道機関

 報道は何のためにあるのか?
新聞社やテレビ局は、何のためにあるのか?

 このところ新聞やテレビがおもしろくない。
くだらない、どうでもよいようなニュースばかり。
とくに新聞がつまらない。
世界から配信されてくるニュースを、そのまま載せているだけ。
だからどの新聞を読んでも、似たような記事ばかり。

 どうして新聞社やテレビ局は、独自の取材、調査をしないのか。
たとえばフランスで基準値を2倍も超えた放射線量の静岡県茶が発見された。
私が編集局長なら、即座に特派員をフランスに送る。
事実を確認する。

 その力さえないのか。
取材費をケチっているのか。
今、何を報道すべきか。
それを考えたら、おのずと優先順位は決まってくるはず。

 各地の放射線量にしても、そうだ。
文科省の測定記録をそのまま載せるだけ。
「混乱を招くから、独自には発表するな」という趣旨の法律はあるらしい。
しかしこの問題は、地域住民の生命に直結している。
政府の反対を押し切ってでも、独自で測定すべき。
それを新聞に載せるべき。
テレビで報道すべき。

 アーア、かくして5年後の被災者が増大する。
10年後の被災者が増大する。

●大本営発表

 福島第一原発の事故現場では、目下、懸命の事故処理がつづいている。
そういうところで働いている方たちには、頭がさがる。
本当にさがる。
が、事故は、そうした処理作業でできる範囲と程度を、はるかに超えている。
「問題」は、3月11日以来、何一つ、解決していない。
むしろ事態は日々に、悪化している。
仮にもしここで、やや大型の地震にでも見舞われたら、万事休すx2!

 すでに放射能汚染は千葉県にまで及んでいる。
千葉県全体がX線レントゲン室のような状態になっているとか。
(取手市、流山市における測定値は、4万ベクレル=約1キューリー強。
この値は、X線レントゲン室内の数値に、ほぼ等しい。)
文科省の測定結果では、ずっと平常値のままだったはずの静岡県ですら、製茶から1000ベ
クレル(基準値の2倍以上)もの放射線が観測されている(フランス)。

 何もそれを望むわけではないが、では今までの文科省が発表していた測定値は何だったの
かということになる。
あるいはこれを「大本営発表」と言わずして、何と言う。

●避難(evacuation)

 昨日、ワイフと真剣に話し合った。
もしこれ以上、放射能汚染が広がってくるようであれば、とりあえずオーストラリアへ避難しよ
う、と。
「とりあえず」というのは、観光ビザ限界の、3か月。
それ以後は、様子を見て、行ったり来たりすればよい。
つい先週も、オーストラリアの友人に、メールでこう書いた。

「こんな形で、40年来の夢がかなうなんて、皮肉な話だ」と。

 が、私にはそれができなかった。
実家の問題が、深くからんでいた。
が、今ならできる。
数年前、兄と母が他界した。
実家も処分した。
やっと私は身軽になった。
移住しようと思えば、いつでもできる。

 が、「非国民」という後ろめたさがないわけではない。
しかしこの問題だけは、私個人ができる範囲と程度を超えている。
今の今も、多くの人たちが福島県内に残っている。
もちろん避難した人たちも多い。
が、私が福島県の人たちに、「早く逃げなさい」と言うのと同じように、オーストラリアの友人たち
は、みな、こう言う。
「早く、オーストラリアへ逃げてこい」と。

 今さら余分に長生きしたいとは思わないが、不安な毎日を送るよりは、よい。

●汚染予想図

 ドイツ、イギリス、ノルウェー、台湾の政府機関が、独自の放射能汚染地域の予想を発表して
いる。
もちろん日本の気象庁も発表している。
それらの予想地域と汚染度は、まちまちだが、ひとつだけはっきりしていることがある。
放射能汚染は、100キロ単位で広がるということ。
チェルノブイリ事故のときは、500キロ単位で広がっている。
(ちなみに福島第一原発から浜松市までは、420キロ前後。)

 が、そうした情報はネット上で、よほどていねいに検索しないと、目にすることはできない。
が、ただひとつ今まで幸運だったことは、風向きがよかったということ。
太平洋に向け、北寄りに風が吹いていた。
……と書いても、説得力はない。
イギリス、台湾の政府機関が発表した「放射性物質の拡散予想図」を、ここに収録する。
(ほかの国のは、ファイル形式が特殊なので、収録できず。)

(イギリス)2011年6月18日
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(台湾)2011年5月3日
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width="1027" height="771" alt="台湾.png">

(日本)2011年5月23日〜26日
<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/65/imgce9710c3zikazj.gif
" width="600" height="768" alt="日本.gif">

●我が身は自分で守る

 もう10年になるだろうか。
イタリア人の友人が、こんなメールをくれた。

「イタリアへ来る日本人観光客には、2種類ある。
ひとつは、旗をもったガイドを先頭に、ゾロゾロと歩いてついて歩く日本人。
これは高齢者に多い。
もうひとつは、数人のグループで行動する日本人。
これは若者に多い」と。

 ときにはみなとゾロゾロと歩くのも必要。
しかしときには、小さなグループで単独行動をするのも必要。
ケースバイケースだが、では、今は、どうすべきなのか。
実のところ、私は判断しかねている。

 オーストラリアへ行くといっても、簡単なことではない。
仕事も中断する。
帰国してからのことも、考えなければならない。
健康問題もある。
ワイフは、ああいう女性だから、どこかうれしそう。
先ほども少しその話をすると、「行きましょう」「行きましょう」と。

 どうしてああまでノー天気なのだろう。
認知症が始まっているのかもしれない(?)。
が、どうであれ、自分の命は、自分で守る。
それしかない。

6月20日
おはようございます。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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(2)

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(3)

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(4)

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Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●6月21日(はやし浩司 劇団たんぽぽ)

●劇団たんぽぽ

 今日は雨。
湿った空気を嫌う人も多い。
が、私は好き。
家の前には小さな森があり、
そこからひんやりとした冷気が流れてくる。
雨が木々の葉を叩く音に混ざって、小鳥の鳴く声も聞こえる。
しばし目を閉じ、その鳴き声に聞き入る。

 遠い昔。
学生だったころ。
ヒッチハイクをしながら、この浜松市を通り抜けたことがある。
拾ってくれた車が、劇団たんぽぽの車だった。
車というより、マイクロバス?
そのこき、「うちへ寄っていけよ」という話になったのだと思う。

 広い通りを右に曲がり、田舎の小道を走り抜けていくと、そこに事務所があった。
7〜8人の男女が、忙しそうに立ち回っていた。
時期は忘れたが、白い日差しが、舞台装置で使う板などを、明るく照らしていた。
そうそう途中、左手に神社があったのを記憶している。
何かののぼりが、何本か立っていた。
その神社の前を右へ。
細い田んぼのあぜ道だった。
そのすぐ先に劇団たんぽぽの事務所があった。
その事務所で、私は昼ご飯を食べさせてもらった。

 今から思うと、そのときその向こうで何やら話しかけてくれたのが、劇団の長だった、小百合
葉子という名前の女性の方だった。
やさしい人だった。
強く印象に残った。

 で、そのあと何年かして、私は浜松に住むようになった。
今のワイフと結婚した。
私は真っ先にその劇団たんぽぽに向かった。
一宿一飯の世話になった。
その礼を言いたかった。
が、そのあたりは、すっかり様変わりをしていた。
道路は整備され、自動車屋がずらりと並ぶ大通りになっていた。
あるはずの神社すら、私は見つけることができなかった。

 遠い昔の話。
が、あの小屋の様子は、今でも強く心に残っている。
みな、楽しそうだった。
目を閉じると、あの日のことが、たった今見た夢のようによみがえってくる。
なつかしいというより、切ない。
あの温もり。
あの暖かさ。

 ずっとあとになってわかったことだが、劇団たんぽぽは、そのあと事務所を別の場所に移し
たという。
またあのとき私の世話をしてくれた小百合葉子さんは、今は、もうこの世にいない。
「起きたら、今朝は劇団タンポポを調べてみよう」と、そのとき思った。

【劇団たんぽぽ】

 今ではネットで検索すれば、何でも簡単に調べられる。
ときに、この手軽さがこわくなることもある。
以前なら、そのつど図書館に足を運ばねばならなかった。
「劇団たんぽぽ」も、すぐ見つかった。

http://www.gekidan-tanpopo.com/ayumi/index.html

 このホームページのトップで、腕で丸を描いているのが、小百合葉子さんである。
私が会ったときは、もう少し若かったような気がする。
デスクの前に立ち、まわりの人たちに、あれこれと指示を出していた。
キビキビした言い方だった。
私に向かっては、「昼ご飯は食べたの?」「食べて行きなさい!」というようなことを言ったと思
う。
その場にいただれかに、私の食事の用意をさせた。

 白いご飯と、赤味噌の味噌汁。
事務所の中央にあったテーブルで、それを食べた。
ほかにも何品かあったように記憶しているが、それは思い出せない。
私はその日の午後、また別の車を拾い、伊豆半島へ向かった。

 私は目を開くとき、ふと「ありがとう」と、声を漏らした。
そのまま時計を見ると、針は午前7時を示していた。

(付記)

 古い人間と思われるかもしれない。
しかし私は一宿一飯の世話になった人には、その何倍ものお返しをすることにしている。
それが私の流儀。
が、あの劇団たんぽぽにも、また小百合葉子さんにも、礼はしていない。
それが今となっては、悔やまれる。
いや、一度、偶然、劇団たんぽぽの事務所を見つけたことがある。
何かの用で、その近くまで行った。
が、そのときすでに小百合葉子さんは、この世の人ではなかった。
劇団たんぽぽのホームページを見ると、『1986年、小百合葉子は84歳でこの世を去りました』
とある。

 1986年。
私が39歳のころ。
東洋医学の世界から足を洗い、教室(塾)も、ほぼ倒産状態にあった。
私にとっては、いちばん苦しい時代のころだった。
新聞か何かで、小百合葉子さんが亡くなったということは知ったが、そのままになってしまっ
た。

 ごめんなさい!
プラス、劇団たんぽぽのみなさん、ありがとう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 劇団たんぽぽ 小百合葉子)


+++++++++++++++++++++++

●原発事故

 30分の運動を終え、テーブルに座る。
新聞を読む。
あちこちで復旧作業が始まっている。
ある幼稚園では、土の入れ替え作業をしているという。
また見舞金も、1人10万円と決まったという。
が、残念なことに、本当に残念なことに、原発の事故現場では、何一つ問題は解決していな
い。
「あれをしています」「これをしています」という声は聞こえてくる。
しかし肝心の原子炉は、穴があいたまま。
今の今も、猛烈な勢いで放射性物質が、空にまき散らされている。
モウモウと空にまき散らされている。

 イギリス政府の「放射性物質飛散予想図」を見ても、それがわかる。

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/63/imgf4b34c2azik1zj.gif" 
width="587" height="730" alt="イギリス.gif">

 今はまだよい。
放射性物質は風に乗り、北東の方向に流れている。
しかし夏から冬にかけては、風向きが逆になる。
そうなったとき、この日本はどうなるか。
東京はどうなるか。

 放射性物資は、上空2000メートル近くまで上がり、風に乗って1000キロ近くまで飛ばされ
る(上記、資料)。
すでに九州の唐津でも、放射性物質が観測されている(「週刊現代」)。
それを知れば知るほど、「まだその段階ではないのだがなあ」と思ってしまう。
つまり「復旧作業どころではないのだがなあ」と。

●3号機と4号機

 3号機はMOX燃料を使っている。
わかりやすく言えば、プルトニウムを使用している。
毒性はきわめて強い。
原子炉の温度が不安定なのは、そのため。

 また4号機には、1331本もの使用済み核燃料棒が保管されている。
その数は1号機〜3号機の核燃料棒の合計数とほぼ同じ。

1号機…… 292本
2号機…… 587本
3号機…… 514本、(以上、計1393本)
4号機……1331本

 もし4号機のプールが崩壊したら、……ゾーッ!
広島型原爆の何千倍もの放射能が、空中に飛び出ることになる。
去る5月13日に書いた原稿をそのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 ……原子炉の中には、いったいどれだけの放射性物質があるのか。
それについても、同書は、くわしく解説している。
ほとんどの人は、たとえば広島型原爆と比較して、原子力発電所のそれは、
それほどたいしたことはないと考えている。

 しかしこれは誤解!
同書には、こうある。

「100万キロワットの原発が、1年間稼動した場合に燃えるウランの
量は、広島型原発のそれの1000発分ある。
2年稼動した場合には、2000発分、3年では原爆3000発分。
事故が起きれば、それだけの放射能が環境中に漏れ出ることになる」(「原発事故」宝島社・P
32)と。

 福島第一原発の発電能力は、計4696KW(川北英隆)だそうだ。

が、ウィキペディア百科事典によれば、
1号機……46万キロワット
2号機……78万キロワット
3号機……78万キロワット
4号機……78万キロワット

1〜4号機の合計、280万キロワット。
「原発事故」(宝島)によれば、福島第一原発の1〜4号機だけで、1年間稼動した場合に燃え
るウランの量は、広島型原発のそれの2800発分ということになる。

 が、政府はさかんに、「風評被害」という言葉を使う。
つまり「政府の言うこと以外は、信用するな」と。

 しかし実際はその逆。
風評のほうが、はるかに現実に近い。
近いばかりか、現実のほうが、はるかに深刻。
私たちが「予断」しているより、はるかに深刻。(5月13日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●広島型原爆の2800発分

 再度確認しておくが、福島第一原発の発電能力は、280万キロワット。
チェルノブイリで事故を起こした発電機の、約3倍。
世界でも最大級。

 1年間稼働しただけで、広島型原発の2800発分。
2800発分だぞ!
「安定している」などというのは、とんでもない話。
たまたま今は、風に守られている。
が、その風が、逆を向いたら、この日本はどうなるか。
3号機が崩壊したら、どうなるか。
4号機が崩壊したら、どうなるか。

 ことの深刻さが、少しでも理解できたら、ふつうの常識のある人なら、こう思うだろう。
「今は、それどころの話ではない」と。

(5月に、「4700発分」と書いたが、これは1機あたり100万キロワットで計算したため。)

●全力をあげて収束させてほしい

 「週刊現代」によれば、復旧・復興費だけで、60兆円もかかるという。
「そんなお金、どこにある?」とも。

 そうでなくても、日本経済は、崩壊寸前。
昨夜も、浜松市内で数店舗のレストランを経営している社長と話したが、その社長も、こう言っ
ていた。
「飲食店が、悪いです」と。
「店舗数が多いこともありますが、それにしても、最悪の不景気です」とも。

 この浜松市にして、このあり様。
これからのことを思うと、気分は重くなる一方。
まず、原発事故を処理する。
それが第一。
今、日本がもつすべての技術と能力を、そこへ集中させる。
責任追及も原因解明も、つぎのつぎ。
そのまたつぎ。

 補償だの土の入れ替えだの、そんな話も、つぎ。
今はまだ、そんなときではない。
そんなときでないことは、イギリス政府が発表した、放射性物質の飛散予想図を見てもわかる
はず。

 ……が、人々は、あたかも何ごともないかのように、笑い、しゃべっている。
日々はそのまま、いつものように流れてる。
この浜松では、福島第一原発事故など、どこ吹く風。
そんなふうに思っている人も多い。
それが悪いというのではない。
しかし今の私には、それが不気味なほどまでに不自然に思われてならない。
2011/06/21記


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【指導の、「動」と「静」について】

●私の教室では、「動」と「静」を大切にしています。
活発に騒ぐときは騒ぐ。しかしひとたび作業に入ったら、水を打ったように
静かに作業をする。
そういったメリハリのきいたレッスンを大切にしています。
前半部と後半部を、10分のビデオにまとめてみました。

テーマは、「遊びながら教える漢数字」です。

(対象は、小学1年生のみなさん)


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Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●伊豆長岡温泉・正平荘旅館にて(6月22日)

++++++++++++++++++++++

梅雨も一休み。
昨日、久しぶりに、青空が見えた。
今朝も、天気はよさそう。

ウォーキングは30分。
さわやかな汗。
扇風機に当たって、体を冷やす。
近くの森で、リスが、コンコンと鳴いている。
ケンケンか?
キンキンか?
動物の鳴き声をカタカナで表示するのは難しい。
リスの泣き声は、さらに難しい。
様々な周波数の音が、混ざり合っている。

++++++++++++++++++++++

●腰痛

 昨日、2か月ぶりにW氏(68歳)に会った。
見ると、腰全体を包むようなコルセットを巻いていた。
「どうしたの?」と声をかけると、「腰痛です」と。

私「原因は?」
W「老化現象です」
私「老化現象?」
W「医者はそう言いました」と。

 便利な言葉だ。
「老化現象」。
わかりやすく言えば、「もう治療方法がない」という意味。
この言葉ひとつで、老人はそのまま死に追いやられる。

 医者も少しは詩を勉強したほうがよい。
言葉の使い方を勉強したほうがよい。
たとえば「たそがれ腰痛」「ごくろうさま腰痛」「いたわり腰痛」「仲よし腰痛」など。
「要運動腰痛」「帝王腰痛」「晩年腰痛」でもよい。
何か未来に希望をもてるような言い方をしてほしい。
「老化現象」と言われると、「もう打つ手なし」と聞こえる。

●離婚

 数年前、私の知人が離婚した。
定年離婚である。
知人のほうが、ある日突然、妻から離婚届を突きつけられた。
この話については、すでに何度か書いた。

 で、この話にはつづきがある。
その知人、いわく。
「妻は、その数年前から、周到に準備していました。私はまったく気づきませんでした」と。

 心の準備だけではない。
モノの準備。
パソコン内のメール、アルバム、衣服などなど。
「壁にかけてあった結婚式の写真すら、いつの間にか、消えていました」と。

 未練があったら、離婚など、できない。
友人の妻は、数年をかけて、すべての未練を消した。

●原因

 原因は、友人の不倫。
会社の部下(女性、30歳)と、5年にわたって不倫をつづけていた。
最初は遊びだったが、そのうち、友人のほうが本気になってしまった。
よくある話である。

 が、女性のほうが遠ざかり始めた。
友人は、それに動揺した。
妻に、不倫がバレた。

 で、そのときは、妻は、「許してくれたはず」(友人談)。
しかし妻は、その直後から、準備を始めた。
少しずつ、少しずつ……。
で、ある日、突然、「離婚します」と。

●人格否定

 妻のほうはそれでよい。
しかし夫(友人)のほうは、そうでない。
それから受ける衝撃には、相当なものがある。
全人格の否定。
全人生の否定。
「今までのオレは、いったい、何をしてきたのだろうか」と。

 2人の娘がいたが、2人も嫁いでいた。
友人の妻は、その準備もしていた。
前もって、「私たちは離婚するから」と。
2人の娘は、母親側についた。
秘密を守った。

 ……と書くからといって、その女性が悪いとか、離婚が悪いとかいっているのではない。
それはそれ。
私が書きたいことは、つぎのこと。

●心の準備

 なにごとにつけ、心の準備は、数年かけて、する。
心というのは、そういうもの。
逆に、心の整理にも、数年かかる。

 一時は人生のドン底に叩き落された友人も、今は、立ち直っている。
好き勝手なことをして、自分なりに人生を楽しんでいる。
結果としてみると、一時はもてはやされた定年離婚だが、やはり、女性には不利。
経済的に自立していれば何とかなるが、そぅでなければ、やはり、女性には不利。
夫の退職金や年金を分離したところで、長くはつづかない。
結局今、妻は娘夫婦の住む家に、同居している。

 準備をするなら、「収入の準備」も、しておく。

●今日は、伊豆長岡温泉に一泊

 このところ講演を依頼されるたびに、その近くの温泉に一泊することにしている。
今日は、伊豆長岡温泉。
駅から歩いて5分ほどの、正平荘。
(実際には、「車で5分」だった。これは私の聞きまちがい。)
実名を出してしまったから、悪口は書けない。
まだ泊まってもいない旅館だから、感想も書けない。
しかし名前がよい。
「正平荘」。

 もしひどい旅館だったら、あとで、名前をアルファベットに置換する。
そういう手もある。
が、ネットで調べたところ、悪くなさそう。
口コミ評価も、高い。
楽しみ。

 昨夜も風呂に入ったが、「明日は温泉」と、軽く流しただけ。
温泉では、私は3度、入浴することにしている。
まず到着すると、すぐ1回。
食後、遅く、1回。
それに早朝、1回、計3回。

 私たちは料理には、あまりこだわっていない。
書き忘れたが、今回もワイフが同行してくれた。
ワイフも旅館に泊まるのを楽しみにしているよう。
講演依頼が入るたびに、「今度はどこ?」と聞いてくる。

 温泉記は、正平荘に着いてから、また書くことにする。

●講演

 実のところ、今日のコンディションは、あまりよくない。
頭は冴えているが、体がだるい。
眠い。
「こんな状態で、講演などできるか?」と思う。

 ところで、最近、ある知人がどこかで講演した。
仕事関係の、その研修会での講演だったという。
私は、その知人の話を聞きながら、「どうして?」と思ってしまった。

その人の経験や知識が、どうこうと言うのではない。
人格や性格が、どうこうと言うのではない。
会話そのものがおかしい。
ふだんしゃべっている日本語が、日本語になっていない。
言葉の使い方も、不適切。
「うん、まあ」「あっ、そう」「え〜と」というよな言葉がつづく。
私たちの世界ではぜったいに使ってはならない禁止用語も、ポンポンと会話の中で飛び出す。

 そこで……というわけでもないが、私のばあい、こうして毎日文章を書くことで、自分の表現
力をみがく。
またそれをしていないと、脳みそは、すぐ、さび付く。

 で、恐る恐る、その人に、こう聞いてみた。
「講演のための原稿を書くことはありますか」と。
するとその知人は、臆面もなく、こう言った。

「ぼくは、恥はカクけど、文はカカない」と。

 私は笑ったが、別の心ではこう思った。
「かえってこういう人の講演のほうが、おもしろいのかもしれない」と。
つまり私の講演は、おもしろくない。
自分でも、それがよくわかっている。
 
●政治家のトチリ

 よく政治家が、トチる。
少し前は、東京の石原氏(都知事の息子氏)が、こう言った。
「(今の日本は、原発問題で)、集団ヒステリーになっている」と。

 大問題になるかと思っていたが、そのまま沈静化してしまった。
平たく言えば、今は、それどころではない。
石原氏の言葉どころではない。
集団パニックになってもおかしくない。
つまりそんな言葉にいちいち目くじらを立てているばあいではない。

 夏から冬にかけて風向きが変われば、東京にさえ人はだれも住めなくなる。
そういう現実が、ヒシヒシとそこに迫っている。

 ……とまあ、石原氏は、言葉でトチった。
文を書いていないと、そういうトチリが多くなる。
言い換えると、そういうトチリと防ぐためにも、文を書く。

●伊豆長岡

 今、私は三島市での講演を終え、伊豆箱根鉄道の電車の中にいる。
ローカル線。
伊豆長岡で、もうすぐ下車。
今、「大場(だいば)」という車内アナウンスがあった。
「あと、(駅は)いくつぐらいかなあ」とワイフに話しかける。
ワイフは時計を見ながら、「あと少しね」と。

 電話で問い合わせたとき、旅館の女将は、「三島から20分くらいです」と教えてくれた。
もしそうなら、あと5分……。

 反対側の座席では、高校生らしい男女が、意味のわからないことを話しつづけている。
遠い昔、私もそうだった。
楽しそうだった。

今「伊豆仁田(にった)」という駅に停まった。
何人かの男女がおりた。
座席が、がらりと空いた。

西側から白い日差しが車内に流れ込んできた。
先ほどネットで知ったが、福井地方では33度を超えたところもあるという。
沖縄では、熱中症で死んだ人もいるという。
先日「沖縄へ避難しようか」という話もした。
しかし夏の沖縄も、考えもの。
寒いのもいやだが、暑いのもいや。

 なお、三島でタクシーの運転手に聞いたが、三島でも、原発事故は、どこ吹く風だそうだ。
「お茶? だれも心配などしてませんよ」と。
それを聞いて、私はへんに安心した。
事実を積み重ねれば、心配して当然。
しかしそれも限度を超えると、どうでもよくなってしまう。
運転手の話を聞きながら、『茹(ゆ)で蛙』理論を、私は、思い浮かべていた。

●伊豆長岡温泉・正平荘

 正平荘……まさに一級和風旅館だった!
京風割烹旅館とある。
これほどの旅館は、そうはない。
評価をつけろと言われたら、文句なしの5つ星、★★★★★。
料金の問題もあるが、この旅館に泊まって、文句をつける人は、まずいない。
つまり大満足!
来てよかった!

 「京風」とあることからもわかるように、「これが京都」と思わせる料理ばかり。
伊豆の長岡にいて、京風料理。
2倍、楽しめる。

 町中の温泉だから、露天風呂にしてもそれなりの制約はある。
が、昔でいうなら、武士が泊まるような旅館。
坂本竜馬でも勝海舟でもよい。
造りも本気度も、100点。
こだわり度も、100点。
男性トイレの前には、和紙まで敷いてあった。
和紙を敷いたトイレを見たのは、生まれてはじめて。

 ……露天風呂では、千葉市から来ていた家族といっしょになった。
「大都会ですね」と声をかけると、「浜松だって、大都市ですよ」と。

私「いやいや、千葉市と比べたら、田舎町。比較になりません」
男「ここへ、どうやって来ました」
私「新幹線で来ました」
男「私たちは車で来ました」
私「久々に、いい旅館に泊まりました」
男「そうですねえ。いい旅館ですね」と。

●夕食

 夕食はみな、「お食事どころ」という部屋でとった。
ひとつずつのブースが、色の濃いすだれで仕切られていた。
ローソクのような淡い光が、眠気を誘う。
そんなとき、ワイフがこう言った。

「京料理は、味が薄いのよ」と。

 本当のところ、私は京料理というものを、知らない。
生涯にわたって、舞妓さんがいるような部屋で食事をしたのは、ただの一度だけ。
商社マンのときのことだった。
が、何を食べたか、覚えていない。
当時の私は、今でもそうだが、料理にはあまり興味がない。
腹がふくれれば、それでよい。

 が、正平荘の料理は、おいしいというより、珍しかった。
ワイフと2人で、ああでもない、こうでもないと言っているうちに、2時間半も過ぎてしまった。

 2時間半!

 時計を見て、驚いた。

●朝食

 朝食は9時からという。
いつもの旅館だと、7時前後〜から。
正平荘から伊豆長岡駅まで、タクシーで5分。
そこから三島駅まで、電車で20分。
三島駅から浜松まで、新幹線で、1時間30分。

 昼間での仕事に間に合うか?
やや心配になってきた。

 こういう時期だから、この長岡温泉も、不景気とか。
旅館の皆さんには申し訳ないが、客の私たちには、うれしい。
今朝も、広い浴室で、たった一人、のんびりとくつろぐことができた。
気持ちよかった。

 近く、隣町の韮山町で別の講演会がある。
そのときは修善寺温泉に泊まる予定。
伊豆の踊り子でよく知られた、修善寺温泉!
たびたび行ったことがあるが、いつも旅館でハズレ。
が、今は、ネットで口コミを調べながら、宿を選ぶことができる。
この正平荘にしても、口コミ評価は、4・5(Jサービス)。
4・5というのは、めったにない。

 「京風料理」を楽しむなら、この正平荘がよい……?

●地震(6月23日)

 明けて、6月23日。
テレビのニュースでは、岩手県沖の地震の速報を流している。
近くの町で、震度5弱の震度を観測したとか。
マグニチュードは、6・7。
午前6時51分ごろだったという。
そのとき私は1人、温泉につかっていた。
揺れはまったく感じなかった。
 
 ネットで調べると、福島原発での汚染水処理は、進んでいないという。
心配というより、不安。
ジワジワとした不安。
心の壁に張り付いた不安。
がん検診で結果を待つときのような不安。
イヤ〜ナ気分。

 昨日もワイフとこんなことを話し合った。
「もし風向きが変わり、放射線物質がこちらに向かうようになったら、逃げよう」と。  
私たちは何もできない。
ただひたすら逃げるだけ。

●中国経済

 ここにきて中国経済が、急速にきしみ始めている。
ご存知の方も多いと思うが、あの国では、地方政府まで住宅投資に狂奔している。
その住宅価格が、今年に入ってからだけでも、20%近く急落している(主要都市)。
が、日本のバブル経済のときもそうだったが、こういうばあい、「慣性の法則」(経済用語)が働
く。
ブレーキが利かなくなる。
政府の抑止政策は無視。
そのままの状態で、民衆は「行け、行け」心理で、突っ走ってしまう。
これがこわい。
バブル経済がはじけたとき、被害を大きくする。
莫大な不良債権が残る。

 オーストラリアの友人(中国研究専門)は、こう言っている。
「古い家のように、やがて崩壊するだろう」と。

 が、今ここで中国経済が崩壊すれば、その影響は、ドバイショックのときの1000倍になると
も言われている(某経済誌)。
「1000倍」と聞いてもピンとこないが、たいへんなことになる。
日本にもたいへんな被害が及ぶ。
こういうときだから、余計に心配。
そうでなくても、日本経済は青息吐息。

●伊豆長岡温泉

 せっかくこんなすばらしい温泉に来ているのだから、もう少し伊豆長岡温泉の話をしたい。
泉質は、透明。
手でこすってみると、ヌルヌルした感じ。
このあたりの温泉は、みな、そう。
海の水が深くしみこんで、そこで温泉となって、再び陸に噴きあがってくる。
私は勝手に、そう想像している。

 若いころは食事がすむと温泉街へ繰り出したもの。
が、今は、そんな元気はない。
部屋でテレビを観たり、ビデオを観たりして、過ごす。
私のばあいは、こうしてパソコンで文を書いて過ごす。
だからというわけでもないが、通りのみやげもの屋は、元気がない。
この温泉街にかぎらない。
どこの温泉街も似たようなもの。
愛知県のN温泉では、ほとんどのみやげもの屋が、シャッターをおろしていた。

 となると、やはり料理と温泉。
この2つで旅館のよしあしは決まるということになる。
が、ここでまた問題。

 若い人には、京料理のよさはわからないだろう。
一方、私たち中老人には、量が多すぎる。
そのあたりのかねあいが、むずかしい。

●中老人

 たった今、「中老人」という言葉を使った。
英語では、「ヤング・オールド・マン(Young Old Man)」という。
老人というほどの老人ではないが、しかし老人予備群。
ほどほどに健康だが、しかしみな、何らかの故障をかかえている。
旅行をする元気は残っているが、観光地を歩き回るほどの元気はない。
中途半端な老人だから、「中老人」。
年齢的には65歳前後〜70歳前後か。
日本人のばあい、自分を老人と自覚するようになるのは、75歳前後と言われている。

 その75歳まで、あと12年。
おとといも、市内で金融業を営んでいる知人と話した。
私と同年齢(?)だが、その知人もこう言っていた。
「どう生きるかということよりも、どう死ぬかということのほうを、先に考えてしまう」と。
暗い話だが、それは事実。

知「放射能なんて、こわくありませんよ」
私「そう、死ぬのはこわくない」
知「もういつ死んでもいいですよ」
私「でもね、放射線障害は、即、骨に入りますから、痛いそうですよ」
知「……?」
私「ふつうの痛さではないらしい」
知「それもいやだな。やはりピンコロかな?」と。

●講演

 メールを開くと、昨日の講演会の主催者の方から、メールが届いていた。
「大好評」という文字が、大きく私の目にとまった。
うれしかった。
私としては、時間が足りなく、中途半端な講演会だった。
あちこちを端折った。

 が、そういうときというのは、そのつど罪の意識を感ずる。
どうしてもまちがった印象を与えてしまう。
本来ならじゅうぶん時間をかけて説明しなければならない。
それを途中で、切り上げてしまう。
その無念さは、たぶん、ほかの世界に住んでいる人たちには、理解できないかもれない。

 I校長、Wさん、みなさん、どうもありがとうございました。
たいへん気持ちよく講演をすることができました。

●正平荘の中庭

 9時からの朝食を待ちながら、中庭に面したテラスで、今、この文を書いている。
日本庭園がすばらしい。
左横には、小さな池があって、銀色の鯉が泳いでいる。
その池から左へ順、よく手入れされた庭木が、ずっと右側につづいている。
苔の生えた大きな岩、10層近くもある石灯篭。
ツツジ、サツキ、山法師、万作などなど。
目の前にはしだれヤナギが、長い枝を下へ垂らしている。

 風呂から出たばかりで、風が心地よい。
空は厚い雲でおおわれているが、その下の隙間から、ひんやりとした風が、左から右へとかけ
ぬけていく。
横にいるワイフはこう言った。
「やはりここは京都ね」と。

●睡魔

 うっとりとした睡魔が襲ってきた。
目を閉じれば、このまま眠ってしまいそう。
……どこかで横になりたい。
ふとんの上がよい。
このけだるさ。
この静けさ。

 ……
 ……

 眠い。
ただひたすら眠い。
朝食まで、あと10分。
先ほどワイフがタクシーの予約をすませた。
あとは朝食を軽く取って、帰るだけ。
そうそう義兄とNさんに、みやげを買わねばならない。
どうしようかと迷ったとことで、思考停止。

●新幹線の中で

 みやげは、駅前のコンビニから送った。
その間にワイフは、何か、飲み物を買った。
よい講演会だった。
よい旅行だった。
ほんわかとした満足感が、心地よい。

 旅館を出るとき、仲居さんに「YOUTUBE」に動画を載せますよ」と言うと、みなが、うれしそう
に笑ってくれた。
手を振ってくれた。
「宣伝しておいてくださいね」と、Hさんという仲居さんが言った。
若くて、美しい人だった。
目が印象的だった。
ハーフかな?

 どういうわけか、伊豆へ来るたびに、伊豆の踊り子がダブる。
学生時代に、川端康成の『伊豆の踊り子』を読んだ。
それが、それほどまでに強烈だったということか。
それが60歳を過ぎた今も、そうだ。
脳裏から離れない。
だからタクシーに乗って手を振ったときも、Hさんという仲居さんが、その踊り子に思われた。
ふと、切なさが、身にしみた。

●不完全燃焼

 ……こうして日々は、何ごともなかったかのように流れていく。
と、書くと、今回の旅行記は、おしまいということになってしまう。
しかしまだ何か、名ごり惜しい。
すべてを書いていない。
書きたいことは、そこにある。
が、それがうまく吐き出せない。
何だろう?
どうしてだろう?
脳みそが不完全燃焼を起こしている。

 あんなすばらしい旅館に泊まりながら、書くことといえば、ありきたりなこと。
もったいないというより、自分が情けない。

 満ち足りたときというのは、そういうものか。
あるいはただ単に、眠いだけなのかもしれない。
あえて言うなら、こういうこと。

 恨みや怒りは、人間性を腐らす。
「人間性を崩壊させる」と説く人もいる。
免疫細胞がカイトサインというホルモンを分泌する。
それが脳内ストレスを引き起こす。
それがあらゆる部分に影響する。
「八つ当たり」という言葉も、ある。
が、それだけではない。
脳内ストレスは、免疫力を低下させる。
精神を腐らすだけではない。
肉体をも腐らす。

 今回の講演旅行は、そういう点では、たいへんよかった。
気分を刷新することができた。
恨みも怒りも消えた。
消えたというより、それ以上に強い力が、私を前向きに引っ張り始めている。
「くだらない人間は、相手にするな}と。

●心の整理

 冒頭で、知人の定年離婚について書いた。
が、この問題は、離婚だけの問題ではない。
私たちはいつも、似たような選択に迫られる。
似たような行動を取る。
心の整理をするときは、いつもそうだ。

 少しずつ、ひそやかに、かつ一歩、一歩、準備する。
とくに「死」を意識しているわけではないが、それでも準備する。

 数日前も、息子に、ラジコンの戦車をあげた
その前には、生徒たちに今までもらったバッジやメダルをあげた。
どんどん身の回りから、モノが消えていく。

 そう、モノには、不思議な魔力がある。
物欲にとらわれると、ときとしてニコチン中毒やアルコール中毒に似た症状を示すことがある。
線条体に受容体ができると、反射運動的に、それを求めるようになる。
買い物症候群もそのひとつ。
ためこみ屋の人が、モノを家にためこむのも、そのひとつ。
物欲には、そんな魔力がある。

 その物欲と闘う。
そのもっとも簡便な方法が、「くれてやる」ということになる。

 人生は短い。
時間がない。
できるだけ早く物欲と決別しなければならない。

●浜松

 結局、たいしたことは書けなかった。
つまらない旅行記。
このまま家に帰ったら、1時間ほど、昼寝。

 横を見ると、ワイフは寝息を立てて眠っていた。
「あなたも座ったまま眠る練習をするといいわよ」と。
勝手なことを言っている。

 正平荘。
すばらしい旅館でした。
タクシーの運転手もそう言っていた。
「正平荘は、このあたりでも上級です」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 正平荘 伊豆長岡温泉 伊豆長岡 正平荘)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
●珍・事件?

++++++++++++++++++++

保安院の西山審議官が、時の人になった。
原発事故の解説者となった。
どこかドリフターズの加藤茶氏に似ている。
どんな深刻な事態になっても、笑い顔を絶やさない。

++++++++++++++++++++

 
●キジも鳴かずば、撃たれまい

 まことにもって、珍事件。
笑えるほどの、珍事件。
あの笑い顔の西山審議官の不倫が発覚した。
某週刊誌がそれをフォーカスした。
が、それはそれ。
私はその記事を読んだとき、こう思った。
『キジも鳴かずば、撃たれまい』(石川県の民話)と。
へたに鳴くから、居場所を知られ、人に撃たれる。
西山審議官もその1人。

 福島原発事故がなければ、西山審議官も表に出てくることはなかった。
へたに出てくるものだから、時の人になってしまった。
週刊誌にフォーカスされてしまった。
が、それが珍事件というわけではない。
そのあとが、その珍事件。
まず、MSN産経ニュースを読んでみてほしい。
 

 
*************以下、MSN産経ニュース*************
 

福島第1原発事故で経済産業省原子力安全・保安院の広報担当を務める西山英彦審議官は
23日、一部週刊誌に自身の女性問題が報じられたことを受け、海江田万里経済産業相から
同日朝、厳重注意を受けたことを明らかにした。

広報担当に変更はないといい、西山審議官は会見で「記事が出ること自体、私の至らなさを示
している。深く反省し、身を正して参りたい」と陳謝した。 
MSN産経ニュース(2011年6月23日より)


(珍事1)

どうしてたかが(私事中の私事)というべき、不倫について、海江田万里経済産業相が、西山
審議官を厳重注意したのか。
審議官職という職業は、聖職なのか。
聖職でなければならないのか。

(珍事2)

西山審議官は、どうして、「記事が出ること自体、私の至らなさを示している。深く反省し、身を
正して参りたい」と陳謝したのか。
この弁を裏から読むと、「運が悪かったのは、私の不覚」という意味になる。

●不倫

 大臣ともあろう方が、どうして審議官の一私事について、厳重注意するのか。
私事は私事。
公務とはまったく関係ない。

 つぎに西山審議官が、家庭で、妻に対して、「身を正して参りたい」というのはわかる。
が、どうして世間に向かって、「身を正して参りたい」のか。
身を正すということは、どういうことなのか。
不倫といても、中には、本気のものもある。
妻との離婚を前提に、不倫している人も、これまた多い。
不倫をしたからといって、即、「悪」ということにはならない。

 西山審議官は、妻の信頼を裏切った。
それだけの痴話話である。
そんな話なら、ゴマンとある。
不倫は別として、(どうして不倫が悪なのかという定義もあいまいだが)、そんな程度の裏切り
行為なら、みなしている。
私もしている。
あなたもしている。
この世に、聖人など、いない。

 あるいは大臣で不倫をしていない人など、いるのか。
そういう点では、西山審議官は、運が悪かった?
たったそれだけのこと。
が、大臣が「厳重注意」した。
言い換えると、「これからは隠れて、もっとうまくやりなさい」と。

 色恋沙汰は、注意されたくらいでは、止まらない。
最近にない珍事件なので、コメントしてみた。

(付記)

 むしろ許せないのは、偽善者たち。
名声と知名度を利用し、平和なときには、難民救済活動の先頭に立ったりする。
その実績もなければ、それを支える周囲活動もない。
ある日突然、聖人になりすます。
が、今回の震災を見ろ。
そういう連中にかぎって、まさに音無の構え。
どうしてもっと、そういう偽善者たちをマスコミは追及しないのか。
叩かないのか。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●卑劣な行為(スパイ行為)

++++++++++++++++++++++++

中国の海洋調査船が23日、宮城県石巻市沖の
日本の排他的経済水域(EEZ)で海洋調査を行った。
要するにスパイ行為。
こういうことが平気でできる国というのは、そうはない。
平気でできる人というのは、そうはいない。

++++++++++++++++++++++++

●意識

 これは意識の問題。
それができる人は、平気でできる。
できない人は、できない。
基本的な意識そのものがちがう。
倫理観や道徳観がちがう。

 ある母親は、毎日のように、娘(中学生)の部屋の中はもちろん、机の中まで調べている。
堂々と、それをしている。
が、その一方で、子ども部屋に入るときは、そのつど子どもの了解を求めて入る母親もいる。
そういう母親にしてみれば、机の中をこっそり調べるなどということは言語道断。
意識というのはそういうもの。

だからいつも机の中まで調べている母親は、こう言う。
「親として、当然のことをしているまでです」と。
罪の意識はまるでない。

一方、子ども部屋にすら入らない母親は、こう言う。
「机の中まで調べる親がいるなんて、私には信じられません」と。

●盗聴器

 今、学校や塾へ、携帯の録音機を子どもにもたせていく親は多い。
5000円も出せば、かなり高性能の、ICレコーダーが手に入る。
10時間ほど、録音できる。
盗聴器としては、じゅうぶん。

 理由はいろいろ。
目的もいろいろ。
しかしこれも意識の問題。
それが平気でできる人は、平気でできる。
できない人は、できない。

 さらにひどい(?)親となると、息子や娘に届く手紙を、そのつど選択し、捨ててしまう親がい
る。
母親に多い。
(妻でもいる。夫へ届く手紙やメールを、勝手に捨てたり、削除したりする。)
もちろん子ども(夫)のいないところで、開封して読む。
電話を取り次がない親もいたが、これは昔の話。
携帯電話では、それができない。
しかし毎日、子どもの携帯電話の着信記録を検閲している親はいる。

 こういう母親は、たぶん(?)、夫の手紙や電話についても、同じことをしている。
家族全員に対して、それをしている。
一事が万事。
そう考えてよい。

 しかし……。
子どもの人格という話になると、こうした一連のスパイ行為は、きわめて非人間的。
言い換えると、こういうことが平気ででき、それが当然と考えている親は(人は)、かなり人間性
が破壊されている人とみてよい。

●人間性

 だからといって、私の人間性が高邁というわけではない。
しかし私は結婚してこのかた、他人のカバンやバッグの中に手を入れたことがない。
のぞいたこともない。
生徒やワイフのバッグにすら、ない。
(ワイフのバッグからお金を取り出すようなときでも、そのつど断りを入れる。)

 だからたとえばどこかの母親がこう言ったとする。
「先日、娘の机の中を調べましたら、こんなものが出てきました!」と。
私はその瞬間、その母親との間に、壁を作ってしまう。
話の内容を聞く前に、その母親を遠ざけてしまう。
生理的な拒絶感すら覚える。

 が、先にも書いたように、これは意識の問題。
私がそうでないからといって、相手を否定してはいけない。
一応、「そうですか……」といって、相手の立場になって話を聞く。
が、その間ずっと、私はその母親の人間性を疑う。
疑いながら、話を聞く。

●学校でも

 今、どこの学校でも、授業を開放している。
親たちはいつでも、自由に、教室での授業を参観できる。
受付で、住所や名前などを記入すればよい。

 しかしそのとき、教室へは入らず、廊下でこっそりと参観(?)する親もいる。
私はそれを「スパイ参観」と呼んでいる。
それにも理由はいろいろある。
目的もいろいろある。

 が、それをされる教師のほうは、不愉快。
どんな理由や目的があるにせよ、不愉快。
「参観するならするで、堂々とそれをすればよい」と。

 中には、(ほとんどのばあい、そうだが)、近くまで足音を消しながらやってくる親もいる。
ソーッというより、密やかに……。
そして教室の戸口の向こうに立って、教室の様子をスパイする。
教師の教え方や子どもたちの声を聞く。

 ……そういう話を、先日、講演した学校の校長から聞いた。
「低学年児のことですか?」と聞くと、「いえ、小学6年生のクラスです」と。

私「小学6年生で?」
校「子離れができないのですね」
私「私なら、頼まれても行きません」
校「ふつうは、そうです」と。

●信頼関係

 で、ワイフとその話になった。
私はこう言った。
「もし、お前がぼくをそういうふうにスパイするようになったら、ぼくは離婚するよ」と。

 夫婦といっても、信頼関係が基本になっている。
信頼関係があるから、夫婦という。
たがいがたがいをスパイするようになったら、おしまい。
夫婦である意味そのものが、霧散する。

 親子関係にしても、そうだ。
たいては親のほうが子どもをスパイする。
が、その時点で、すでに信頼関係は崩壊しているとみる。

 では、教師と親の関係は、どうか。
実は教育も信頼関係で成り立っている。
それがあるから、教師は子どもを指導できる。
が、それにヒビが入れば、教育そのものが、成り立たなくなる。

 たとえば親の過干渉などで、萎縮した子どもがいたとする。
ハキがない。
仲間に入れない。
いつもひとりで、ポツンとしている。
そういうとき教師はその子どもを励まそうと、あれこれわざとふざけたり、おどけたりする。
このタイプの子どもは、大声で笑わせるのが、いちばん、効果的。
しかし精神そのものが萎縮していると、笑わない。
口をゆがめて、フフフと笑う程度。

 が、ドアの向こうで、そういう様子を、母親がスパイする。
そしてこう思う(たぶん?)。
「あの先生は、授業中に、ふざけてばかりいる」と。

●さて、中国

 読売新聞は、こう伝える。

『政府は23日、中国の海洋調査船が同日、宮城県石巻市沖の日本の排他的経済水域(EE
Z)で海洋調査を行ったことについて、在北京大使館を通じ、中国政府に「事前の同意のない
海洋調査は認められない」と抗議した。

 中国側は「事実関係を確認する」と答えた。国連海洋法条約は、他国のEEZで海洋調査を
行う場合には沿岸国の同意が必要と規定している』(以上、読売新聞)と。

 わかりやすく言えば、日本の近海にこっそりやってきて、海の水を調べる。
「海洋調査」の目的はわからないが、時節柄、放射線測定であったことも、じゅうぶん考えられ
る。

 が、こういうことが平気でできる国というのは、国全体が、かなりゆがんでいるとみてよい。
中国政府には、罪の意識すらないだろう。
またそれを説明しても、無駄。
理解すらできない。
調べるなら調べるで、ちゃんと日本の同意を求めてからすればよい。
日本にしても、拒否しなければならない理由はない。

 さわやかに生きるためには、身のまわりをさわやかにする。
……と書いたところで、筆が止まる。

アー、イヤダ!
本当に、こういう話は、アー、イヤダ!
書いているだけで、ムシズ(虫酸)が走る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 信頼関係 スパイ行為 こっそり参観 盗聴器 録音機でスパイする母親たち)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司※

【小学一年生に漢数字を教える&小学二年生に時間を教える】

●小学1年生クラス(漢数字)

 このところ夏ばて気味で、子どもたちの元気がありません。
そこでレッスン内容を、ゆるめています。

(1)(高画質)

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v/k0742HlGoXg?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/k0742HlGoXg?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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(2)(低画質)

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v/WW3QNSV6fjs?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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(3)(低画質)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/LlfK3qjyz2o?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/LlfK3qjyz2o?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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(4)(低画質)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/F1VtIDyH64M?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/F1VtIDyH64M?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


●小学2年生で、帯時計(高画質)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/2UoIurae844?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/2UoIurae844?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>



 「午前10時30分から、午後1時10分までは、何時間何分ですか」。
これを教えるためには、「帯時計」がもっとも効果的です。
(教科書には、その教え方は載っていません。)

 私は子どもたちに帯時計を作らせ、それで指導しています。




2011/06/24
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Do we deserve to survive or should we be wiped out?
(人類に生存の価値は、あるや否や?)

●6月24日(金曜日)

●「私たち人間には、存続するだけに足りる価値があるや否や」と。


++++++++++++++++++

今日から、映画『スーパー・8』が始まった。
『E.T.』のリメイク版ということらしい。
ということは、粗筋(あらすじ)は、もうわかった。

が、今夜は、おとなしく家に帰った。
この暑さ。
温度計も見ず、散歩に出た。
40分も歩いた。
疲れた。
バテた。

仕事の帰りに、ワイフと「山岡家」でラーメンと餃子を食べた。
こういうときは、ニンニクがうまい。
ちょうど明日は休み。
餃子にニンニクをたっぷりとつけて、食べた。
おいしかった。

……何でも埼玉県の熊谷市で、気温39・8度を
記録したとか。
原発事故の陰で忘れていたが、地球温暖化
(火星化)は、かなり進んでいるらしい。

+++++++++++++++++

●3凶

 今、世界&日本には3つの凶事がある。
地球温暖化(火星化)、EU&中国の経済崩壊+日本のデフォルト、それに福島第一原発の原
発事故。


 どれも深刻。
2番目の経済問題は、まだ何とかなる。
しかし経済が崩壊すると、人心も崩壊する。
ウソか本当か知らないが、韓国へ逃げた脱北者の1人は、こう告白している。
「人肉を食べていた。残りは市場で、羊の肉として売っていた」(韓国紙)と。

 原発事故は、今の今も、継続中。
現場では、必死の作業がつづいている。
作業の成功を祈るしかない。
作業員の方には、頭がさがる。
もしこういう方たちに万が一のことがあれば、日本政府は(=私たちは)、最後の最後までめん
どうをみる。
手厚い災害年金に障害補償。
それでも足りないかもしれない。

 また地球温暖化については、(温暖化程度ではすまないから、私は「火星化」と呼んでいる
が)、自然災害がますます大型化している。
大洪水に、大型ハリケーン。
場所も選ばない。
そんな印象をもっている。

 で、これらの3凶。
それぞれがバラバラのように見えるが、その実、複雑にからみあっている。
化石燃料の消費を減らそうと思えば、原子力発電に頼るしかない。
原子力発電を減らそうと思えば、化石燃料に頼るしかない。
つまり温暖化は進む。
一方、化石燃料には限りがある。
価格が高騰する。

 そこで主要国は、札を印刷する。
アメリカ、日本、EU、中国……。
それに耐えられない国は、崩壊していく。
今、ギリシア、ポルトガルがあぶない!

●VOTER(投票者)

 VOTER……SF映画のタイトルにもなりそうな言葉である。
「投票者」。

 10日ほど前、友人のT氏と電話で話しているとき、こんな言葉がひらめいた。
「VOTER」。

 かなりSF的な話になるが、こういうこと。

 今、宇宙のどこかで、宇宙人たちが、(神でもよいが)、こう話し合っている。
「地球の人間を存続させるべきか、滅亡させるべきか」と。
人間1種類で、ほかのあらゆる生物が、絶滅しようとしている。
人間1種類を滅ぼせば、ほかのあらゆる生物は、生存しつづけることができる。
そこで「投票」。

 が、ここで2つの問題が起きる。

 ひとつは、仮にすべての生物が滅んだとしても、地球には再生能力がある。
再び生命を生み出す力がある。
火星のようになってしまえば、おしまいだが、海が残れば、まだ何とかなる。
あわてて人間を絶滅させる必要はない。

 つぎに「投票」といっても、だれに投票させるか。
天の神々か、人間自身か?
その投票する人を、「VOTER(投票者)」という。

●絶滅か、存続か

 旧約聖書の中には、ソドムとゴモラ(創世記19章)の話が出てくる。
もしその話が事実とするなら、旧約聖書の中の神は、一度は、(あるいは何度も)、人間を滅ぼ
そうとしたことになる。
核兵器のような兵器を使ったという説もある。
今でもその地域には、ガラス化したテクタイトという岩石(注※)が散らばっている。

 となると、これはあくまでもSF小説の範囲での話だが、人間の存続・絶滅を決定するのは、
「神」ということになる。
が、神自身の判断能力にも限界がある(?)。
今のこの世界を見れば、それがわかるはず。
神が創造したはずの人間は、まさに欠陥だらけ。
自動車にたとえるなら、とっくの昔にリコールの対象になっていたはず。

 が、人間が、その「途上」にあるとしたら、どうか。
未熟な存在から完成された存在へと。
いつかこの人間も、神に近い存在になるかもしれない(「ノアの説話」)。
たとえて言うなら、まだ「幼児」。
子どもの段階。
そんな段階の人間を、あわてて滅亡させるのも、どうか?
……ということで、かろうじてリコールされないまま、存続している。
が、それにも限界がある。
その前に地球が火星化してしまったのでは、遅い。
地球のもつ再生能力そのものが、なくなってしまう。

 そこで神は、(宇宙人でもよいが)、人間自身に、それを判断させることにした。
それがT氏と話したときに出てきた言葉、「VOTER」である。

●YES・NO?

 方法は簡単。
無作為に、地球人の中から、数万人とか、数十万人とかの人間を選ぶ。
もちろんそれらの人間には、それを知らせない。
あくまでも無意識下の世界での話。
通信方法は、いくらでもある。

 神は、(宇宙人でもよいが)、こう問いかける。
「君たち人間には、存続するだけに足りる価値があるや否や」と。
で、そう問われた人間は、意識を総合し、やはり無意識下で答える。

「YES、その価値あり」と。
あるいは、「NO、その価値なし」と答える人もいるかもしれない。

 あとはそれを集計すればよい。
つまりこれぞまさしく、民主主義!

 で、K氏とはこんな話になった。

私「あなたなら、どうしますか? YESですか、NOですか?」
K「そうですねえ……。昔、手塚治虫の描いたコミックにも、そんなようなシーンが出てきました
ね。いろいろな動物たちが集まって、同じように投票をしました」
私「ああ、ありましたね……。名前は忘れましたが……」
K「……う〜ん、むずかしい問題ですね」
私「……むずかしい……」

 が、そのとき、こうも考えた。
何もYESとNOだけで、白黒をつける必要はない。
改造すべき点は、改造すればよい、と。
脳の視床下部あたりを少しいじって、ドーパミンの分泌を、何分の1かにするとか、など。
それだけでも、人間が本性的にもつ攻撃力は、半減するはず。

K「でも、そんなことをすれば、生殖本能も弱体化しますよ。生命力そのものも弱くなってしま
う。フロイトも性的エネルギーという言葉を使っているくらいですから」
私「そうですね。それもまずい。男も女も、フニャフニャになってしまったら、それこそ人類、滅
亡ですね」
K「じゃあ、前頭連合野を、今の2〜3倍にすればいい。宇宙人のような頭になりますがね…
…」
私「でも、それも困るんですよ。女性の産道にも限界がありますから。今でさえ、出産は、たい
へんな重労働。頭の大きさが2〜3倍にもなったら、帝王切開でしか、子どもは生めなくなりま
す。あるいは、思い切って、体外受精、人工胎盤で……という方法になりますね」
K「ゆくゆくはそうなるかもしれませんね。SF映画にも、そういうシーンがよく出てきます」

●結論

 では、どうするか。
もしあなたがVOTERとして、選ばれし人であり、どちらに投票するかと迫られたら、どうする
か?
もっともそれほど深刻に考える必要はない。
人類の存亡を決定する……などと、気負うことはない。
あなたの無意識下の判断であり、たとえ決断をくだしたとしても、あなたには決断をくだしたとい
う意識すら残らない。
それによって人間が滅亡したとしても、責任を感ずることもない。
何度も書くが、問いかけも、答えるのも、すべて無意識下でなされる。

 では、どうか?
静かに自分の心の中をのぞいてみる。

「私たち人間には、存続するだけに足りる価値があるや否や」と。

私「Kさんなら、どちらにしますか?」
K「……やっぱり、NOかなあ……。このままでは地球はメチャメチャになってしまうし……」
私「人間、一種類が滅ぶことで、つぎの時代に生物が残せるなら、私もやはりNOかなあ……」
K「でも、人間のような知的生物が滅ぶというのも、もったいないような気がします」
私「心配無用。神にせよ、宇宙人にせよ、遺伝子操作か何かで、またすぐ再生しますよ。それ
に遺伝子さえ保存しておけば、またいつでも人間を再生できます。人間という形ではないにして
も、たとえば人間の遺伝子を、ほかの動物に組み込むとか……」
K「今度は、どの生物を改造しますか?」
私「そうですねエ……。ほ乳類の中では、馬かなあ……。草食動物だし……。難しいですねエ
……」と。

 生存欲は常に、闘争欲をともなう。
闘争欲をともなわない生存欲はない。
その闘争欲が、知的生物を狂わす。
生きていること自体が、「罪」と考えてよい。
食卓で、魚を食べる。
肉を食べる。
つまりほかの生物を犠牲にしている。
その罪を、どう認識するか。
それを認識できる人を、善人といい、そうでない人を悪人という。

 あとはそれをどうコントロールするか。
それが大脳の前頭連合野の機能ということになる。
知性と理性の府。
つまりは思考力。
それをどう磨いていくか。

 もし人間に最後のチャンスがあるとするなら、今からでも遅くないから、知性と理性を磨く。
その努力を、神が、(宇宙人でもよいが)、知れば、最後のチャンスをくれるかもしれない。
そうでなければ、そうでない。

私「でも、こうして考えることは、無駄ではないと思いますよ」
K「荒唐無稽な話ですがね」
私「いや、私はね、地球というものを、その外に視点をおいて考えるのは、とても大切なことだ
と思うのです。それがSFであれ、なんであれ、構いません。視点を変えると、視野が広がりま
す」と。

 最後はいつもの笑いで終わった。
「今度、みんなで集まりましょう」と、K氏は言った。
「どこか、カルト的な会になりそうですから、そこは慎重にね」と私。


(注※……テクタイト)(ウィキペディア百科事典より)

テクタイト(英: tektite、語源はギリシャ語の tektos --溶けた-- から)は、隕石衝突によって作
られる天然ガラスである。成分は地球の鉱物と同じで、形状は円形のものや水滴形状のもの
が多いが、さまざまである。大きさは数センチのものもある。
起源については、地球で形成されたものかどうかで議論されたが、高速で衝突した巨大な隕石
のエネルギーで蒸発気化した地表の石や砂などが、上空で急冷して固まったものだと考えられ
ている。テクタイトが見られるのは、その起源から衝突クレーターの位置に関連し、また広く分
布する。チェコで採集されるモルダバイト (moldavite) と呼ばれるテクタイトは、ネルトリンガー・
リース(リース・クレーター)と関係するものである。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●幼児と地図の学習(Study of Maps for preschool children Age 5)

自分の位置を、鳥瞰(かん)図的に空中から知るというのは、たいへん重要かつ、難解な作
業。
江戸時代に描かれた地図などを見ても、斜め上方から見た地図が多い。
「真上から見る」というのは、それだけも画期的(革命的)なことであったにちがいない。
そんなことも少し頭のどこかに置きながら、今回のレッスンを観てもらえば、うれしい。
幼児の発達進度は、そのまま人類の発達進度そのままを表している。


(1)

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frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)

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v/MTFYsHa79rs?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/MTFYsHa79rs?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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(3)

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v/5G8LiUkUYfo?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/5G8LiUkUYfo?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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(4)

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v/fL9OBFdSRNw?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/fL9OBFdSRNw?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●6月25日(June 25th) 言論の自由(Freedom of Speech in Japan)+"Super8"

To: Mr and Ms Goo-Blog Readers, I thank you for your reading!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
+++

Goo−Blog、1誌でのアクセス数が、毎日3000件前後をキープしている。

3000件というと、少ないと思う人もいるかもしれない。
しかしアクセス数順位でみると、160万誌の中で、139位(2011年6月24日)。
127位(2011年6月25日)。

160万誌の中で、127位!
1600000誌の中で、127位だぞ!

もう1誌、同じGoo−Blogで、Blogを毎日発行しているが、こちらも、同じような成績。

ほかに楽天日誌、Blogger、FC2ーBlog、はてなダイアリーなども、毎日、発行している。
アクセス数を合計すると、これらのBlogだけでも、1日、軽く1万件を超える。

ほかにこのところぐんぐんと伸びているのが、YOUTUBE(動画)。
こちらは毎日1000件前後。

もちろんホームページもある。
私にとっては、ホームページ(以下、HP)が活動の中心になっている。
メインのHPが1本あり、そのHPから、約15本のHPが枝分かれしている。
それぞれにカウンターがつけてある。
こちらも合計すると、1日、5000〜6000件になる。

が、実は、それだけではない。
私の文章をそのまま転載しているBLOGやHPも少なくない。
動画にしても、一度ダウンロードしたあと、焼き直して掲載してくれているところもある。
さらに現在、2つのポータルサイトが、私の特設コーナーを設けてくれている。
もちろんカウンターの設置していないページへの、ハイパーリンクというのもある。
実際には、このハイパーリンクのほうが、はるかに多い。

総合計すると、いったい、どれだけになるのか?
毎日、どれだけの人が、私の書いた文章を読んでくれているのか。
そんなわけで、総合計数となると、私にもわからない。
おおざっぱに言えば、月に50万件前後?
あるいはそれ以上。

……それとも総合計数など気にしても、あまり意味がないのでは?
今、ふと、そう思った。

書籍の場合は、発行部数や販売部数で、明確な「数」が出てくる。
しかし書籍でも、回し読みをするばあいもあるだろう。
図書館などに置いてあれば、1冊の本を、何百人もの人が読むということもある。

要するに、たくさんの人たちが、私の文章を読んでくれているということ。
これを「励み」と言わずして、何という。

この文章を読んでくれた、みなさん、ありがとう!
とくにGoo−Blogの読者のみなさん、ありがとう!
本当に、ありがとう!
みなさんのおかげで、私は今日も、こうして生きていられる!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
+++

●自我の統合性

 ただし、誤解しないでほしい。
こうして毎日文章を書いているが、利益となると、ほとんどゼロ。
子育て相談にしても、私はいまだかって、1円だって受け取ったことはない。
(=お金を払ってくれた人はいない。)

 が、だからこそ、私は毎日、好き勝手なことを書くことができる。
だれも気にしなくてよい。
だれにも媚(こび)を売らなくてよい。
この気楽さ。
この自由。
が、この気楽さと自由こそが重要。
無私、無欲でするところに、意味がある。
また無私、無欲でなければ、意味がない。
「自我の統合性」とは、まさにそれをいう。
(注、(やるべきこと)と(現実にしていること)の一致を、「自我の統合性」という。)

●敵

 こういう私だから、無数の敵を作ってしまった。
ものを書くというのは、そういうこと。
音楽や絵画とは、性格がちがう。
「私のことを書いた」「私の親のことを書いた」と、怒ってきた人はたくさんいた。
「いた」というのは、最近は、ほとんどいなくなったということ。
たぶん、あきらめただろう。
あるいは相手にされなくなった?
私も相手にしなくなったが……。

 だから孤独といえば、孤独。
人間関係だけではない。
先日も、ある漢方薬局へ行った。
そこの薬剤師が、漢方薬の説明をあれこれとしてくれた。
「ビワの葉がどうの」「シソの葉がどうの」と。
この先は、たぶんに手前味噌的な話になるが、許してほしい。
ひとつの例として書く。

 しかしそういうのは漢方薬とは言わない。
あえて言うなら、民間薬。
漢方薬というときは、「君・臣、佐、使」の方剤論に従って処方された「薬」をいう(はやし浩司著
「東洋医学・基礎編」P239)。

 よく知られた風邪薬に「麻黄湯」がある。
麻黄湯についても、麻黄が(君=主薬)、それを桂枝が助ける。
桂枝が(臣薬)。
その君薬、臣薬に対して付随的に働くのが、「佐薬」。
麻黄湯のばあいは、「杏仁」がそれにあたる。
これらの薬物に対して、たとえば飲みやすくしたり、薬効を和らげたりするのが、「使薬」。
麻黄湯のばあいは、「甘草」をそれに使う。
(以上、はやし浩司著「東洋医学・基礎編」学研版)

 私の書いた本は、医学部や鍼灸学校で、今でも教科書として使われている。
何も自慢するわけではないが、どうしてその私が漢方薬の説明を受けねばならないのか。
「そうですか」「そうですね」と口を合わせながら、その一方で、私はひしひしと襲い来る孤独感
と闘わねばならなかった。

●その一方で……

 もちろんその一方で、私の知らないことは、まだ山のようにある。
恐ろしいほど、ある。
書店で半時間、立ち読みをしただけで、ドドーッと、それが頭の中に流れ込んでくる。
「家に帰ったら、それについて調べてやろう」とは思うが、家に着くころには、それも忘れてしま
う。
毎日が、この繰り返し。
だから私は、「林さん(=私)は、忙しいですか?」と聞かれるたびに、こう答えるようにしてい
る。
「忙しくはないですが、時間が足りません」と。

 けっして冗談でそう言っているのではない。
本気で、そう思っているから、そう言う。
時間が足りない!

 が、そのときも、また別の孤独感を覚えてしまう。
荒野にひとり、ポツンと取り残されたような孤独感である。
行けども行けども、先が見えない。
まわりには、人はだれもいない。

 こんなとき、励みになるのが、読者。
読者の人たち。
どこかでだれかが、私の文章を読んでくれる。
それが励みになる。

 先ほど、順位について書いた。
誤解しないでほしいのは、順位といっても、学校の成績でいうような順位ではない。
またそんな順位など、争ってもしかたない。
ただで、127位になったというだけ(6月25日・Goo−Blog160万誌中)。
読者がそれだけ多いということは、それだけみなに、注目されているということ。
言うなればサッカーの試合と同じ。

 サポーターが少なければ、さみしい。
しかし多ければ、自ずと力が入る。
そういうことはある。

●不思議な世界

 といっても、インターネットの世界は、不思議な世界だ。
本やテレビなどのような「反応」は、まったくといってよいほど、ない。
毎日、アクセス数が3000件(Goo−Blog、1誌のみ)もあれば、月になおせば、9万件。
1年間で、100万件を超える。
Goo−Blogだけで、100万件!
本とはちがうが、もし本で100万部も売れれば、かなりの話題作になる。
が、インターネットの世界では、それがない。
まったく、ない。

 事実、先にも書いたが、私のHPやBLOGへのアクセス数は、毎月50万件?
もっとあるかもしれない。
が、その私には、実感が、まったくない。

 また私のばあい、「敵」が多い。
ご存知の方も多いと思うが、テレビ局にかぎらず、雑誌社にも、「ブラック・リスト」というのがあ
る。
たいていその会社の管理室にそれがある。
編集員が何かの取材をするにも、まず管理室に相談する(G社)。
「あのはやし浩司という男は、だいじょうぶですか」と。
そこで管理室がブラックリストを調べる。
その出版社が、たとえば、その著者と何かの裁判で係争中であることを知る。
すると管理室は、「NO!」のサインを送る。
「だめ」とは言わない。
事実だけを伝える。

 こうしてその著者は、その取材からはずされる。
テレビ局などにも、もちろん、それはある。
私はこうして好き勝手なことを書いているので、もちろんあちこちのテレビ局や雑誌社のブラッ
クリストに名前が載っているはず(?)。
1社だけ確かなのは、子ども向け雑誌社のH社である。
H社と取り引きのある別の会社の社長が、そう話してくれた。
「あなたの名前が載っているようです」と。
私が書いた、『ポケモン・カルト』という本が、誤解されている。

 私はあの本を通して、ある宗教団体(カルト)を攻撃した。
「ポケモン」を叩いたわけではない。
が、出版社は、そこまでは読まない。
パラパラと読んで、「はやし浩司は要注意」という判断だけをくだす(たぶん?)。

 が、このことを裏から理解すると、こうなる。
だからこそ、私は、好き勝手なことを書ける。
たとえば東京あたりで、主要週刊誌を批判したら、そのライターは、仕事を失う。
テレビ局を批判すれば、テレビの番組からはずされる。
一応、この日本には、言論の自由というものはある。
しかしそれは(収入)を考えない人の自由。
もし(収入)を考えたら、その自由は、どこかへ吹き飛んでしまう。

 話が脱線したが、ネットの世界では、「実力」だけがすべて。
「読者の注目度」だけがすべて。
あとには、何もない。
だから不思議な世界。

●目標

 ともあれ、ワイフだけは喜んでくれる。
昨日も、Goo−Blogの話をした。
すると、一言、「よかったわね」と。

私「ずっと、100番台をキープしている」
ワ「すごいことね……」
私「1000番台を抜けるのに苦労したけど、1000番を抜けたら、あっという間に、100番台に
なってしまった」
ワ「今度は、2桁台ね」と。

 そういう意味では、私は新しいタイプのライターかもしれない。
今までのライターは、いつもだれかに媚を売りながら生きてきた。
マスコミという巨大な利権団体に、媚を売りながら生きてきた。
が、媚を売る分だけ、自説をゆがめなければならない。
どこかの組織や団体に属していれば、なおさら。
遠慮が入る。

 しかしインターネットの世界ではそれがない。
その必要がない。
自分が発行人、編集者、著者……。
読者といっても、もちろん日本人だけではない。
YOUTUBEのチャンネル登録者にしても、半数以上が外国に住む、外国人である。
そういう人たちを相手に、ものを書く。

 が、目標はただひとつ。
真・善・美の、「真」と「善」。
その目標に向かって、ただひたすら書いていく。
あとの判断は、読者の皆さんに任せればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 Goo-Blogの読者のみなさん、ありがとう Goo-Blog インターネットの世界 真の
言論の自由とは何か)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●『スーパー・8』(Super8)

昨夜、長男とワイフと私の3人で、映画『スーパー・8』を観てきた。
土曜日の夜ということで、ネットでチケットを予約して行った。
よい席が取れた。
が、映画は、???。
星は、せいぜい2つの、★★。
あるいは1つ。

 前宣伝がすごかっただけに、がっかり度も大きかった。
「JJエイブラムス×スピルバーグの新プロジェクト!」(公式サイト)とか。
何が「新プロジェクト」か?
おおげさ。
劇場の入りも、よくなかった。

まあ、一言で言えば、つまらない映画!

出てくるエイリアンにしても、チョット出しの小細工ばかりが、目立った。
しかも1匹だけ。
ストーリー性も、新鮮さも、なし。
もちろん「ET」や「未知との遭遇」のときのような感動もなし。
できすぎの娯楽映画。
まあ、劇場まで足を運んで観るような映画ではない。

先週は、『X−MEN』『パイレーツ・カリビアン』も観た。
どれもテーマが、陳腐。
ワイフは、「それだけ目が肥えたのよ」と言うが、そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
このところアメリカ映画がつまらない。
金儲けだけを考えた、駄作つづき。

……それとも私の脳みそがサビつき始めたのか?

しかし再度、一言。

黒沢映画がそうだった。
晩年になればなるほど、映画は大作化した。
が、それと反比例の形で、中身は薄くなっていった。
スピルバーグ映画も、しかり。
このところ目立った良作がない。

金と権力を手にすると、脳みそはサビつく?
その点、この私には、その心配はない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●新しい試み(はじめての自作BGM、ハーモニカで)・2011−6月26日

++++++++++++++++++

YOUTUBEでは、当然のことながら、
いつも著作権の問題がからんでくる。
映像は自分が撮った映像を使う。
映像については、問題ない。
が、問題はBGM。
音楽。
勝手には使えない。
使うと、音声が、(もちろん音楽も)、そのまま
消されてしまう。

そこで新しい試みとして、先日、
ハーモニカを買ってきた。
ハーモニカを自分で吹いて、それをBGM
にする。
曲も、著作権が切れた古いものにすればよい。
学校唱歌など。
それなら問題はないはず。

……ということで、うまくそれができるかどうか、
今日、試してみることにした。

もしこの方法がうまくいけば、YOUTUBE
の使い勝手が、ぐんと向上するはず。
音楽だけではない。
YOUTUBEの画像に合わせて、朗読もできるようになる。
説明も、自分の声で、できるようになる。

++++++++++++++++++++

【我が家の庭の紹介】(YOUTUBE 高画質版)

2011年6月26日、12時〜の庭の様子。
使用したビデオカメラは、SONYのCX−170。
優秀なカメラです。
手ぶれのほとんどを吸収してくれます。

BGMは、私がハーモニカで吹きました。
実にへたくそで、お粗末なBGMですが、お許しください。
これが私の処女作です。

次回は、少し練習を重ね、もう少しマシなBGMにします。


<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/jjPmKIwtrT8?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/jjPmKIwtrT8?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 2011−06−26 我が家の庭 裏庭 畑 はじめての自作BGM)

Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●はずれた予言(ジュセリーノ・ダ・ルース氏(51歳)の地震予見)
The Prediction did not come true that a big earthquke would attack Tokyo on June 25th!

以下は、6月20日に、書いた原稿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●2011年6月25日午後8時53分に、関東地方で地震が起きる?(「週刊現代」)


++++++++++++++++++


3・11大震災以来、私は『週刊現代』を欠かさず
購読している。
今日も買った。
7・2日号。


週刊現代は原発事故について、毎週、特集している。
今週号は、「日本全国放射能汚染地図」。
すべてを信ずるわけではないが、しかし放射能汚染は、
かなりのところまで進んでいる。……らしい。
またここで放射能汚染が止まったわけではない。
目にこそ見えないが、今の今も、放射性物質は、
モウモウと福島第一原発から空へ、飛散している。
モウモウ……とだ。


で、その週刊現代の中に、こんな記事もあった。
ふだんならこうした記事には目もくれないが、
今回はちがった。
人は不安になると、心に穴があく。
その穴を通して、こういう記事が心にスーッと
入りこんでくる。


いわく、『2011年6月25日の午後8時53分、
東京の都心から8キロメートル以内で、地震が起きる。
マグニチュードは、6・1で、震源の深さは18キロメートル。
建物は倒壊し、負傷者も出る』(P39)と。


ホントかウソか?
ウソに決まっているが、今度ばかりは、否定できない。
どうも自分に自信がもてない。
私の論理力も、こと原発事故に関しては、今や、ガタガタ。


++++++++++++++++++++++


●ジュセリーノ・ダ・ルース氏(51歳)


 6月25日の地震を予見しているのは、ジュイセリーノ・ダ・ルース氏、51歳。
ブラジル人。
夢の中で未来を見るということで、「予言」ではなく「予見」と言うらしい。
週刊現代によれば、「これまでにも阪神大震災や東日本大震災、アメリカ同時多発テロ事件、
さらにはダイアナ妃やビンラディンの死をも予見した」という。


 ウ〜ン?


 週刊現代が、同時にこういう記事を載せるところが、?。
しかも具体的。
具体的すぎる。
6月25日(土曜日)
午後8時53分
東京の都心から8キロメートル以内
マグニチュードは、6・1。
震源の深さは、18キロメートル。
で、まず思いついた疑問が、「午後8時53分」という時刻。
日本時間なのか、ブラジル時間なのか。


●時差、11〜12時間


 東京とサンパウロの時差は、11時間。
東京とリオ・デ・ジャネイロの時差は、12時間。
「午後8時53分」というのは、日本時間なのか、ブラジル(サンパウロ)時間なのか。
記事をそのまま読めば、日本時間ということになる。
が、ブラジル時間とすると、そのとき日本は、6月26日の午前9時53分ということになる。


 どちらなのだろうか?
 私はこの種の予言を、まったく信用しない。
もとからそういう思考回路が、頭の中にない。
が、もし本当にこの予言が的中したら……。
程度にもよるが、それでも私は「偶然の一致」と片づけてしまうだろう。
「程度」というのは、どの程度まで的中するか、ということ。


 時刻のみならず、距離や地震の規模、震源の深さなど。
もしそれらすべてが的中したら、私は今までの思考回路を、大幅に変更しなければならない。
当たるはずはないとは思っているが、しかしどういうわけか、今回は自信がない。
それが「心の穴」ということになる。


●疑問+考察


 ジュセリーノ氏は、夢を見て、未来を予見するという。
しかし夢というのは、ランダムに脳に飛来するもの。
意思ではコントロールできない。
「そういう夢を見たい」と思っても、そういう夢を見ることは、まずない。
また現実とのつながりは、ないと言われている。
現実とつながりのある夢を見たときは、精神に何らかの問題があると言われている。
……たとえばその前の夜に夫婦げんかをしたとする。
その夫婦げんかのつづきを夢として見たときは、精神に何らかの問題があると言われている。


 また夢といっても、目を覚ます寸前に、ごく短い時間にみると言われている。
長く感じた夢でも、実際には、短い時間でみるのだそうだ。
そのためふつうは、目を覚ますと同時に、忘れる。
夢の内容が、記憶として脳に記銘される前に、脳自体が別の活動を始めてしまうためである。
だから夢の内容を覚えていようとするなら、目を覚ました直後にでも、ノートなどにそれを書きと
めておくのがよい。
事実、「夢日記」として、その朝に見た夢をノートに書き記している人は、結構多い。


 が、ジュセリーノ氏は、「現実」とつながりのある夢を見るらしい。
(つながり)というより、現実そのもの。
夢の内容もさることながら、日時、場所まで、詳しく予見する。
この現実性が、あ・や・し・い。
私もよく夢を見るが、日時が数字となって現れるということは、めったにない。
場所となると、「どこかで見たような所」という程度。


 まあ、どうであれ、6月25日の午後8時53分に注目してみよう。
あるいは6月26日の午前9時53分(サンパウロでは、25日午後8時53分)でもよい。


 ホントかウソか?
ウソに決まっているが、今度ばかりは、どうも自信がもてない。
何しろこの日本では今、想定外の、わけのわからないことばかり起きている。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ジュセリーノ ジュセリーノ・ダ・ルース 予見者 予言者 地震の予言)


(補記)


 しかし「週刊現代」ともあろう週刊誌が、どうしてこんな記事を載せるのか。
もしその予見というのがハズレたら、恥をかくだけではすまない。
今までの地震関連の記事すべての、信憑性すら疑われかねない。
たいへん危険な記事と言ってもよい。(以上、2011年6月20日記)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●結果は、ハズレ!(6月27日記)

 結果は、ハズレ!
まったくのハズレ!
その日、その時刻に、その場所で、地震の「ジ」の字も起きなかった。

こんなインチキな予言(予見)が、当たるはずがない。
予言するほうも、予言する方だが、それを活字にして全国に流す、週刊誌も週刊誌。
愚かさ。
「週刊現代」も、少しは自分に恥じたらよい。
あるいはどう責任を取るつもりなのか。

 3・11大震災以来、骨太の報道を繰り返していた週刊現代。
私は毎号、欠かさず、購入していた。
この記事で、かなりの評価を落とした。
もう買わない。
そうでなくても、読者は心理的にかなり不安定な状態にある。
心に穴が開いた状態と言ってもよい。
平和なときなら、まだよい。
それなりの判断力が働く。
しかし今は、ちがう。
こんなインチキな予言を流すべき時ではない。

 今の今も、多くの人たちが心配と不安の中で眠られない日々を過ごしている。
そういう中、そういう人たちの心を、もてあそぶ。
その罪深さ。

●予言の矛盾

 だいたい、予言と日時は、符合しない。
予言は予言。
しかし「日時」という数字は、人間が勝手に決めたもの。
便宜上、勝手に決めたもの。
数字というのは、もともとそういうもの。

 たとえば「木星と火星が重なったとき……」とかいう話なら、私にも理解できる。
それから計算して、それが「6月25日(土曜日)午後8時53分」になったというのなら、私にも
理解できる。

 つまり自然界の現象と、人間が勝手に決めた日時とシンクロナイズするという発想が、おかし
い。
たとえば、「東京から半径8キロメートル以内」というのも、おかしい。
何なら、緯度と経度を使って表現したらどうか。
マグニチュード6・1というのもそうだ。
「震源の深さ……」にしても、そうだ。

 もし予見(?)するなら、こういう言い方にしては、どうか。

『大震災で、津波が暴れてから、100と4日の夜(6月25日(土曜日))、
人々が眠りに就こうと、支度を始めるころ(午後8時53分)、
東洋の島国の、もっとも賑やかな町で(東京の都心から8キロメートル以内)、
街路樹も大きく揺れ動く地震が起きる(マグニチュードは、6・1)。
震源の深さは、その町を見下ろす三角形の山の、6倍(震源の深さは、18キロメートル)』と。


 ……とまあ、反論するのもバカバカしいので、この話はここまで。
こんな話を真に受けた私がバカだった。
その時刻に時計を見た、私がバカだった。

では……。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【年中歳児】(遠い、近いの学習)
●この時期の子どもは、たいへんデリケート(繊細)です。
 注意深く、かつていねいな指導を必要とします。
 少しずつ、心を溶かすようにし、指導を重ねていきます。
 それまで、3〜4か月ほどかかることも、珍しくありません。

(1)
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(2)
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(3)
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(4)
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●場面かん黙児の指導の難しさについて(小3クラスのみなさんとともに)(2011年6月27日)


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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 年中児 予言について)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【親と子の逆転現象】(狂った日本の親子関係)

●妙な光景

 近くの大型ショッピングセンターに行った。
ドッグフードと野鳥の餌、それに水入りのペットボトルを、一箱買った。
合計すれば、70キロ近くになった。
それをカートに乗せ、車まで運んだ。
そのときのこと。
1人の男性が、気ぜわしく車と車の間を動き回っていた。
年齢は私と同じくらい。
60歳前後。
何をしているのだろうと思った。
荷物を車に入れながら、その男性が気になった。
顔には緊張感が漂っていた。
うっすらと汗ばんでいた。

 で、ハッチバックを閉じ、車のドアを開けたところで理由がわかった。
反対側に並んだ車の間から、中学1年生くらいの子どもが、どこか不機嫌そうな顔をして出て
来た。
男性はその中学生らしき子どもを見つけると、すかさず、こう言った。
「ごめん、ごめん」と。
子どもは表情を緩めることもなく、何も返事をしなかった。
ふてくされていた。

 男性は、その子どもの祖父らしかった。
どこかで迷子になった。
それでその男性は、その子どもを探していた。

●祖父と孫

 どこにでもある光景である。
よく見かける。
が、私はその光景を見ていたとき、ムラムラと怒りに似たものを感じた。
見たくもない暴力映画を見せつけられたような気分?

 2人が、どこかで行き違いになったのは、わかる。
大きなショッピングセンターである。
が、探していたのは、祖父らしき男性。
子どもの方はと言えば、「どうして迷子にしたんだ」と、どこか怒っているような様子。
私には、そう見えた。
が、問題は、そのあと。
男性は、子どもを見つけると、開口一番、「ごめん、ごめん」と。
子どもが「ごめん、ごめん」と言ったのではない。
祖父らしき男性のほうが、そう言った。

●本末転倒

 こういうケースのばあい、祖父のほうが、謝る。
威張っているのは、子ども、つまり孫のほう。
頭の中の記憶をいろいろさぐってみても、子どものほうが謝っている光景を、私は見たことがな
い。
この文章を読んでいる、あなたにしてもそうだろう。
謝るべきは、子どものほう・・・とまでは、書けない。
何か、私の知らない事情があるのかもしれない。
しかし同時に、たがいに謝ったところで、何もおかしくない。
が、私の見た光景は、それとはちがっていた。

 一方的に、祖父らしき男性は謝っていた。
一方的に、子どものほうは、ふてくされ、男性を睨(にら)み返していた。

●謝る親たち

 親は、いつも子どもに謝りながら、子育てをする。
子どもにできないことを、謝る。
子どもはそれに対して、つまり親に対して、(してくれないこと)を怒る。
ある男性(30歳くらい)は、退職したばかりの親に対して、こう言って叫んだ。
「こんなオレにしたのは、テメエだろ。オレなんか、産んでくれなかったほうがよかった」と。

 前後のいきさつを省略したので、わかりにくいかもしれない。
が、どんな理由があるにせよ、この言い方は、おかしい。
今の若い人たちは、日常的に、不平、不満をかかえている。
それもそのはず。
今の若い人たちは、(そこにモノがある)という前提で生きている。
(してもらうのが当たり前)という前提で生きている。
食べ物、家、車・・・などなど。
豊かな生活を、「豊か」ともわからない。
それが(当り前)。
当り前の生活。
だから足りないモノ、不足しているモノがあると、それを不平や不満に転化してしまう。
だから「こんなオレにしたのは・・・!」となる。

●ドラ息子

 今の日本の子育ては、おかしい。
たしかにおかしい。
ある父親(私と同年齢)は、こう言った。

「息子は、一応、東京の一流大学を卒業しました。
が、学費と生活費だけでは足りず、毎月のように、10〜15万円、余分に送りました。
息子は、そのつど、『就職したら返す』と。
で、就職しましたが、この不況。
今度は『給料があがったら、返す』と。
その貸した額だけでも、1000万円近くになります。
が、結婚すると同時に、ハイ、さようなら。
子ども(孫)ができたことをよいことに、借金の話は、忘れてしまったようです」と。

 こういうケースのばあい、親側の意識と、子ども側(息子側)の意識は、180度ちがう。
親は、「子どもに感謝してくれているはず」と考える。
しかし子どものほうは、感謝などしていない。
むしろその逆。
「あれをしてくれない」「これをしてくれない」と、不平、不満ばかりを並べる。
とどまるところを知らない。
不平、不満の上に、さらに不平、不満を重ねる。
たとえば「孫を産んでやったのに、それらしい祝い金もくれない」「世話もしてくれない」「妻(嫁)
に、ねぎらいの電話、一本くれない」と。

●意識論

 そこで登場するのが、意識論ということになる。
常識論と言い換えてもよい。
意識にせよ、常識にせよ、それは「偏見のかたまり」(アインシュタイン)。

最近の若い人たちは、赤ん坊のときから、蝶よ花よと育てられている。
ある程度大きくなれば、「そら、音楽教室」「そら、英語教室」と育てられている。
そのこともあって、今、高校生でも、親に感謝しながら、高校に通っている子どもなど、まず、い
ない。
100%いないと、断言してよいほど、いない。
大学生でも、いない。
お金を親からもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかし大半は、そのまま遊興費。
アルバイトで稼ぐお金も、遊興費。
そんな子どもに感謝の念を求める方が、おかしい。
無理。

 ある子どもは、結婚式の費用を親にせびった。
が、親にはその余力は、もうなかった。
定年退職をしてから、4年が過ぎていた。
そこでその親が、「少しくらいなら・・・」と、重い口を開いて言うと、その子どもは、こう言った。
「親なら、結婚式の費用くらい、出してくれてもいいだろ!」と。

 意識がちがうと、ものの考え方も、そこまでちがう。
たとえば私たちの時代には、実家への仕送りは、当り前だった。
私自身も、結婚をする前から、収入の約半分を実家へ送った。
結婚式についても、その費用がなく、断念せざるをえなかった。
私だけではない。
当時の日本では、それが常識だった。

 が、今は、ちがう。
そんな話をしただけで、若い人たちは、反発する。
「オレたちに恩を着せるのか!」と。

●逆転現象

 親が子どもに謝る。
子どもは、親を責める。
おかしな逆転現象だが、今、それが常識化している。
保護と依存の関係だけでは、説明できない。
つまりこの現象は、論理では説明できない。
つまり「狂っている」。

 行き違いになった孫を探す祖父。
それを怒る孫。
祖父は孫を見つける。
「ごめん、ごめん」と言って謝る。
それを見て、孫は、ふてくされる。
祖父を睨みつける。

 今では、こんな光景は、珍しくも何ともない。
この日本では、ごくふつうの、当り前の光景である。
恐らくその子どもは、こう思っているにちがいない。
「オレを、迷子にしやがって。この馬鹿ジジイ!」と。
子どもの顔からは、そんな言葉が読み取れた。

●では、どうするか

 私たちは、飽食とぜいたくの中で、子育てのあり方そのものを見失ってしまった。
その第一。

子どもに楽をさせることが、親の愛の証(あかし)と考えるようになってしまった。
楽しい思いをさせればさせるほど、親子の絆(きずな)は太くなると考えるようになってしまっ
た。
たとえばより高価なものを買い与えれば与えるほど、子どもは喜ぶはず、と。

 が、その一方で、先にも書いたように、子どもに向かっては、「ほら、音楽教室」「ほら、英語
教室」と。
子どもの意思を無視したまま、それを子どもに押しつける。
こうしたアンバランスな子育て観が、子どもの心を狂わせる。
が、親にはその意識はない。
「子どものため」と錯覚している。

 つまりこうした日常的な不協和音が、10年単位でつづき、親子の関係が逆転する。
今という時代が、そうだ。
が、これは子どものためにならない。
親のためにも、ならない。
子どもはますますドラ息子、ドラ娘化する。
そのドラ息子、ドラ娘が、つぎのドラ息子、ドラ娘を育てる……。
その一方で、親は、ますます社会の隅に追いやられる。

現在40代の人たちにしても、うち約60%の人が、やがて無縁老人、孤独老人になる。
その先で待っているのは、無縁死、孤独死。
発見までの平均日数は、約6日。
中には30日という人もいる。
(50代、60代の人の話ではない。
40代の人の話だぞ!)

 ・・・ということで、この問題は、いかに早い時期に、かついかにじょうずに子離れするかという
問題に行きつく。
先日も、ある雑誌社から、こんな質問が届いた。
「子ども(小5)に勉強しなさいと言ってもしません。どうしたらいいですか」と。

 私はそれに答えて、こう返事を書いた。
「そんなヒマがあったら、自分の老後のことを心配しなさい」と。
つまりそのあたりまで割り切らないと、子離れは、完成しない。
が、それができないとどうなるか。

 あなたは一生、それこそヨボヨボの老人になるまで、「ごめん、ごめん」と子どもに謝って暮ら
さなければならなくなる。
それでもよいなら、私には、もう何も言うことはない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.2011+++++++++はやし浩司

●珍奇な事件

+++++++++++++++++++

意識のちがいと言えば、それまで。
しかし時として、常識では計り知りえない
事件が起きる。

あらすじは、こうだ。

ある温泉街で、ある男性が、温泉をのぞき見していて逮捕された。
年齢は75歳前後。
それを見つけたのは男性。
65歳前後。
ともに同じ旅館に泊まる客。
(以上、事実とは少し内容を変えた。)

ここまではよくある事件。
似たような話はよく聞く。
が、さらに話を聞くと、頭が混乱してくる。

温泉といっても、男性客用の温泉。
つまり75歳の男性は、同性である男性の温泉をのぞいて逮捕された。
男性が男性の浴室をのぞいて、どうする?、と聞きたいが、そこが意識の問題。
だれしも、「そんならいっしょに、入浴すればいい」と考える。
そうすれば堂々と、男性の裸を見ることができる。

++++++++++++++++++++++++

●のぞき見

 「のぞく」という行為には、不思議な快感をともなう。
相手の秘密を知るという快感である。
それはわかる。

 私のばあいも、同じ女性でも、入浴後の女性には、そうでない女性よりも色気を覚える。
なまめかしい。
清潔感が漂う。
これは私だけの感覚かもしれない。

 が、だからといって、それがそのまま(のぞき)につながるというわけではない。
のぞきは、犯罪。
相手のプライバシーを盗むという点で、窃盗罪に準じて考える。

が、(のぞき)願望というのは、だれにでもある?
英語では「Peeping Tom」という。
英語にも常用語があることからもわかるように、これは世界人類共通の性癖と考えてもよい。

 が、それとて、相手が異性のばあい。
日本のように公衆浴場が発達したところで、どうして男性が男性の浴室をのぞくのか。
その必要性すら、ない。
つまりここがこの事件の最大の謎。

●男にもいろいろ

 男にも、いろいろある。
若いころは、それがわからなかった。
しかし半世紀も生きてくると、それがわかるようになる。
「濃い男」もいれば、「薄い男」もいる。
濃い男というのは、女性だけにしか興味をもたない男。
薄い男というのは、男性でも、女性でも……という男。
境界がはっきりしない。

 が、さらに進んで、同性愛というのもある。
温泉などに行くと、ときどきそれらしきカップルを見かけるときがある。
何となく雰囲気があやしい。
それで、それがわかる。

 が、男性が男性の浴室をのぞき、逮捕された。
しかし罪状は、何か?
罪状を、どうするのか?

●多様性

 ただ想像することは、できる。
私たちが、女性の裸体を見て、それなりに性的に刺激されるように、同性愛の男性たちは、男
性の裸体を見て、それなりに性的に刺激される。
「見たい」という欲望も、生まれる。

 だから同性愛の人たちが、温泉に入るということは、私たちが混浴に入るのと同じと考えてよ
い。……のか?
あるいは、それとはちがうのか?

 人間の心理は、かなりの部分まで類型化されている。
心理学という学問に体系化されている。
しかしそれですべて説明できるかというと、そうでない部分もある。
そのひとつが、男女の問題。
性の問題。
1000人いれば、1000様の個性があると思われるほど、この世界は、多様性に富んでいる。
私がそれを最初に知ったのは、20歳のはじめのころ。
ある男性(当時、30歳くらい)が、こう話してくれた。

「ぼくはね、関取のような太った女性が好きだ。そういう女性の尻で、顔を踏みつけてもらうの
が好きだ」と。

 私はそれを冗談か思った。
が、その男性の妻は、本当に関取のような人だった!
言い換えると、「自分が理解できない」という理由だけで、相手の心を否定してはいけないとい
うこと。
人、それぞれ。
私は、私。
あなたは、あなた。

●夫婦問題

 夫婦にしても、そうだ。
いろいろある。
千差万別。
私のワイフは、ああいう女性だから、結婚当初は、何をしても、私は「変態!」と言われた。
石部金吉(カタブツ男)という人がいた。
私のワイフは、その石部金吉。
石部金子。

 まじめなのはよいが、融通がきかない。
今でも、ときどき、こう言う。
「ほかの人は、そんなことしないわよ」と。

 そこで私が、「どうしてそんなことを知っているのか?」と聞く。
つまりワイフは、自分の常識だけで、他人を判断しようとする。
が、こと「性」の世界では、それは通用しない。
言い換えると、この多様性こそが、おもしろい。

 ……もう20年ほど前のこと。
ある会合で会った女性(当時30歳前の美しい女性)が、こう言った。
「私、毎月1回、70歳の男性の相手をしています」と。

 相手の男性には、妻もいる。
子どももいる。
孫もいる。
みなの前で、臆面もなく、そう言った。
私が驚いていると、その女性は、10歳以上も年上の私にこう言った。

「あなたは、まだお若いですね」と。

 この世界は、そういう世界。
それにしても、冒頭の事件。
いろいろ想像力を働かせてみるが、私には、どうしても理解できない。
(理解する必要もないが……。)
私には、実に珍奇な事件ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++June.2011+++++++++はやし浩司

●礼状

++++++++++++++++

先日、虐待についての相談があった。
その返事を書いた。
それについて、つぎのような礼状が
届いた。
こうして礼状をくれる人は、珍しい。
つまりこの礼状を書いた段階で、
その人の心の問題の大半は解決したと
みてよい。
自分を知るということは、そういうこと。

子育ての世界では、「うちの子のことは、
私がいちばんよく知っている」と思っている
親ほど、実は、自分の子どものことを知らない。

が、謙虚になったとたん、そこに自分の
姿が見えてくる。
「子どもは家族の代表」にすぎない。
それがよくわかるようになる。

++++++++++++++++++

【埼玉県のSTさんより、はやし浩司へ】(一部、プライバシーに関する部分は、改変)

何をどのように調べていいのか検索方法も正直わからないまま、先生のホームページにたどり
着いた時はすがるような思いで今思っていることを書き連ねました。

その後・・・メルマガの廃止・相談は現在休止していることを知りました。
お忙しいのに、突然のメールに丁寧に返信して頂き、読みながら涙が止まりませんでした。
子どものこの状態を作ったのは、明らかに私だ!早く何とかしなくては!!と感じながら、なか
なか一歩を踏み出せないまま、毎日を送りまたバトルをする・・・の繰り返しでした。

自分を振り返っても母との楽しい思い出はほとんど思い出せず、叩かれたりののしられた
り・・・辛い悲しい思い出しか浮かばず、虐待は連鎖すると聞いていたけれど、子どもを授かっ
た時に『絶対に優しいお母さんになる!!私は絶対手を出さない!』と理想の母になると決め
たはずでした。

ところが子育てはマニュアルどおりには全くいかず・・・それもわかっていたはずなのにイライラ
は募るばかりでした。
主人は、大変子育てには協力的で、母乳以外の事はすべてやってくれます。
むしろ私以上に母親です。
子どもの事もこんな私ですら大切にしてくれます。子どもたちももちろんいうまでもなく二人とも
パパっ子です。

主人は私にとっては、初めて嫌われるかどうかなど気にせず心を開ける唯一の人です。 

主人の優しさに私の心はやっと開き、前向きに生きれるようになり、主人と生活するようになり
生まれて初めて毎日が楽しく充実した日々をすごせるようになりました。

私と母との関係も知っています。
子どもに怪我した跡が見つかり、怪我するほど叱ってはだめだ!!とここ数年言われていまし
たが、
今年に入り子ども自身も今まで父親にはべたべた甘えていたのに、反抗的な態度をとる様に
なり、段々このままでは家族が崩壊すると心を痛めていました。
私はその主人の悲しそうな姿を見てこの人の為にも私自身が何とかしないと、本当に親子も夫
婦も・・・家族がバラバラになる。
それぞれが壊れてしまう・・・ニュースで取り上げているようなことがいつか我が家にも起こ
る・・・・主人に申し訳ないと。

以前テレビで見た【Mツリー】に問い合わせました。
しかし自分でもこれだけいいのか???子どももどこかにかからなくていいのか???とても
不安でした。

ネットを見ると【虐待】【アダルトチルドレン】【パーソナリティ障害】・・・・どれも当てはまりすぎる
ぐらい当てはまります。
子どもの荒れや自傷行為も私の関わりからだとはっきりしていますが・・・どこかわかっている
のに子どもに素直に謝る事も出来ず、自分を正す事も出来ません。

先生からの返事で戸惑っている場合でないことがよくわかり、心療内科の門をくぐろうと思いま
す。〔薬には正直抵抗がありますが・・・・〕
そして何より・・・・私たち家族の進むべき道が示されたような気がしてず〜っと先に光が見える
ように思えます。

私は母に色々相談したり、手をつないで出かけたり、ショッピングに行くとこはありませんでした
が娘といつか笑って並んで歩ける日がくるように頑張ります。

それとあつかましいのですが、M市でこのような心の問題に詳しい心療内科をご存知でしたら
教えて頂けないでしょうか??
紹介という形ではなく、特殊な問題ですので、ご存知であればそちらにかかろうかと思いまし
て・・・。
勝手なお願いばかりで申し訳ありません。なにとぞよろしくお願いします。
お忙しいところ本当にありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●蛍(ほたる)Fire Fly ●浜名湖かんざんじ荘 ●ポポンS信者

+++++++++++++++++++++

オーストラリアには、蛍はいない。
オーストラリアの友人が、そう言っていた。
英語では、「Fire Fly(火のハエ)」と言う。

その蛍が、今ごろ、山荘の周辺で飛び交う。
静かに、ひたすら静かに、羽音もなく、
静かに飛び交う。

2011年6月26日(日曜日)の夜、
私とワイフは、庭先で、蛍を追いかけた。
時刻は午後11時ごろ。
1匹、2匹……。
追いかけていくと、その先のヤブの中で、
10〜15匹が飛び交っていた。
クリアな光だった。
白い、鋭い光だった。
ホーッとため息が出るほど、美しかった。

毎年、今ごろ、ときどき蛍を見かける。
しかし今年は、格別。
私も、もちろんワイフも、これほどまでの数の
蛍を見たことがない。
何匹かは、それぞれがペアになり、まるで
戯れるように飛んでいた。
ときどき、スーッと庭を横切るのもいた。
横切るときは、一直線。
結構、速い。

懐中電灯を照らしたとたん、姿が消える。
見失う。

オーストラリアの友人にそれについて書くと、
「一度でいいから、見てみたい」と。

ビデオカメラに収めようと思ったが、
「たぶん、だめだろう……」ということで、
あきらめた。

(記録)

蛍……毎年6月の末。
今年は6月26日。
曇天で、雨がつづいたような夜。
霧のような小雨が降っているか、湿っぽい夜。
そんな夜に、山草の周辺では、蛍が出没する。

(はやし浩司 蛍 ほたる ホタル 山荘の蛍 山荘のほたる)

++++++++++++++++++

●ポポンS・信者

 友人のO医師が、こう言った。
前立腺ガンの権威である。
PSA検査の普及に努めている。
「私はポポンSの信者です」と。

 その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
それもあって、昨日、ワイフがポポンSを買ってくれた。
総合ビタミン剤である。

 ……というのも、その前の数日、体の疲れが取れなかった。
睡眠時間もじゅうぶん。
それほど体重がふえたわけでもない。
しかし何とも言えない疲労感。
横になっていても、だるい。
集中力もつづかない。

 そんなときワイフがO医師の言葉を思い出した。
「ポポンSを買ってきましょうか?」と。
即座に私は、ワイフにそれを頼んだ。

 で、その結果。

 昨夜は夕食後に2錠、のんだ。
今朝は、朝食後に1錠、のんだ。
たぶん、ポポンSが効いたのだと思う。
体のだるさが、消えた。
口から、ジョークがポンポンと飛び出るようになった。

 よかった!

私「きっと、ビタミン不足だったんだね」
ワ「夏になると、どうしても不足しがちになるからね」と。

 ということで、私もポポンSの信者になった。
これからは毎日、のむようにする。
死ぬまで、……たぶん。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浜名湖かんざんじ荘

++++++++++++++++++

昨夜、浜名湖かんざんじ荘に電話する。
浜名湖周辺では、一押しの簡易旅館。
清潔で、温泉もすばらしい。
浴衣にも丹前にも、アイロンがしっかりと
かかっている。
料理も、よい。
この旅館だけは、いつ行っても、期待を
裏切らない。
とくにカラオケスタジオがすばらしい。
一流の劇場並み。

で、X日の夜の予約を入れる。
常連と言ってよいほど、よく利用させてもらう。
それもあって、料金は、いつも特別料金。
xxxx円(1人一泊)。
「今度もその料金でいいですか」と聞くと、
「浜松の林さんですね、いいですよ」と。

こういう交渉が、電話でできるところがすばらしい。

「また、HPで、かんざんじ荘を宣伝しておきますから」と
言うと、「お願いしますね」と。
電話口の向こうの男性は、うれしそうだった。

みなさん、浜名湖かんざんじ荘へ行こう!
はやし浩司推薦の簡易旅館。
「簡易」をつけるのは、旅館街にある、ホテル九重や、花乃井
のような豪華なホテルではないという意味。

が、浜松イチのローケーション。
ほかにない!
ホント!
料金も、たいへんリ−ズナブル。
ウソでないことは、泊まってみればわかる。

〒431-1202
静岡県浜松市西区呉松町1768-1
TEL053-487-0330(予約専用)
   053-487-0257(代)

http://www.kanzanji.com/

夏休みに利用する人は、早めに予約するとよい。

もちろんふところに余裕がある人には、ホテル九重、あるいは花乃井がお勧め。
温泉で選ぶなら、ホテル・ウェルシーズン浜名湖。
あとの旅館やホテルは、どうかな?、といったところ。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●人間どうしをつなぐ粘着力

++++++++++++++++++++

心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。
それについては、たびたび、書いてきた。
よくあるケース。
暴力的な夫と、その夫に、涙ぐましいほどまでに、
献身的に仕える妻。
「ふつうなら……」ということになるが、一度、
共依存関係ができてしまうと、その関係を
断ち切るのは容易なことではない。

まず、共依存について書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●共依存(改)2011−06−29

酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。
典型的な共依存関係である。
妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。
依存されることで、自分の立場を確保する妻。
妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。
殴られたり蹴られたりすることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。
たがいに依存しあいながら、自分を支える。
傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起きることもあ
る。
家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。
ニートとなり家の中に引きこもる子どもと親の関係。
子どもを突き放すことができない。
親自身も、無意識のうちに子どもに依存しているからである。

(補記)

●共依存

 依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。

もちろん、人間が人間に依存することもある。
さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。
それを「共依存」という。典型的な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。
仕事はしない。
何かいやなことがあると、妻に怒鳴り散らす。
しかし決定的なところまでは、しない。
妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前でやめる。
(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。
日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。
お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。
私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と思い込み、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。
そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。
そして仕事から帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ
があった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。
本来なら、夫に、依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫に
させるといったことが必要だった。
当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。
そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をもたせ、自分の立場
を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。
「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダルト・チェルドレンになる可能性が
高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではない
かという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
身につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル
ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症と
も考えられなくはない。
もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような
症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。
このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、貢献心、服従性
を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。
だからますます、夫に依存するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。
これが「共依存」であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。
他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。
親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。
前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いている自分の
母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。
その同じ母親が、その翌日には、友人たちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。
「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。
言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。
むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。
母と成人した息子がいっしょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風
呂に入っても、それほど、話題にはならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性
のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティック
バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読み返してみて……

 前述の原稿は、ずいぶん前に書いた原稿である。
「ずいぶんと勝手な解釈をしているな」と思うところもないわけではない。
しかしこれは心理学一般に共通することだが、心理学の世界では、数学でいえば、いわゆる
「公式」的なことしか書いてない。
具体例が書いてある本というのは、少ない。
さらに「では、どうすればいいか」というところまで書いてある本は、さらに少ない。
「心理学」というのは、そういうものかもしれない。
言うなれば、心の作用を、結晶化したもの。
それを並べて説明したのが、心理学。

 言い換えると、心の作用は複雑。
複雑というより、もろもろの心理作用が、複雑にからみあって、その人の心理作用を決める。
共依存についても、純粋な意味での「共依存」というのは、ない。
だからそのあとは、「それぞれの人の解釈で……」となる。

 こうした勝手な解釈は、アカデミックな世界では許されないことかもしれない。
自分の意見を付け足すことについても、そうだ。
が、しかし逆に言えば、心理学だけで、人間の心の採用をすべて説明できるわけではない。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

●仮面夫婦

 「仮面夫婦」という言葉がある。
私たち夫婦もそれかもしれない。
あなたがた夫婦も、それかもしれない。
表面的には夫婦だが、中身は空っぽ。
形だけの夫婦をいう。

 が、そういう夫婦の方が多いことを思えば、「それが夫婦」ということになる。
結婚当初のように、ラブラブの関係にある夫婦というのは、まず、いない。
またそういう夫婦を基準にしていはいけない。
恋愛は、ロマンス(=夢の中のできごと)だが、結婚は、現実である。

●悪妻

 私は率直に言うが、Nさん(女性、45歳)ほどの悪妻を、ほかに知らない。
まさに悪妻中の悪妻。

 突発的に錯乱状態になり、夫を蹴る、殴るは当たり前。
一足数万円もするようなハイヒールの靴を、夫に投げつけたりする。
さらにはげしくなると、台所からフライパンをもってきて、それを夫に投げつけたりする。

 見るに見かねて、夫の両親と夫の兄が、Nさんを精神病院へ連れて行こうとしたことがある。
しかしNさんは、さらに暴れて、それを拒否。
近所中に聞こえるような声で、泣きわめいた。

 が、一晩……というより、数時間もすると、まったく別人になってしまう。
まったくの別人である。
穏やかで、やさしい。
言葉の使い方も、ていねい。

が、よく観察すると、どこか不自然。
どこか演技ぽい。
別の心を、どこかで押し殺しながら、そうする。

 こんなことがあった。

 夫は、宅配便の運転手をしている。
稼ぎは、それほど、多くない。
そのこともあり、生活費が足りなくなると、Nさんは、夫の実家へ行く。
やや痴呆症になりかけた父親と病弱な母親がいる。
それをよいことに、「100万円、出せ!」「200万円、出せ!」と。

 夫の両親は、ともに80歳を超えている。
会計士として蓄えた財産はあるが、それにも限度がある。
そこで母親が、「5万円くらいなら……」と言うと、Nさんは、その現金を、母親の顔に叩きつけ
て、その場を去っていったという。

 が、夫は、Nさんと離婚はしない。
2人の子どもがいた。
それにNさんの夫は、心のやさしい男性だった。
妻に蹴られたり、殴られたりしても、オロオロと逃げ回るだけ。

●心の病気

 こういう関係を、どう理解するか。
「共依存」という言葉だけでは、説明がつかない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、多分に心の病気がからんでいる。
夫にしても、そういう妻であるにしても、孤独であるよりはよい。
あるいは夫自身も、何かの心の病気をかかえているのかもしれない。
それに毎日がそうであるというわけでもない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、10日に1度くらい。
多くて、5日に1度くらい。
それ以外のときは、先にも書いたように、むしろおだやかで、やさしい。

 そこで私は、……つまりNさんの夫のことを思いめぐらすうち、「心の粘着力」という言葉を思
いついた。
もちろん心理学上の言葉ではない。
私が勝手につけた名前である。

●心の粘着力

 人間関係には、ある程度の粘着力がある。
強弱の差はあるかもしれない。
粘着力の強い人間関係もあるだろうし、弱い人間関係もある。
強い人間関係は、「ネバネバ」ということになる。
弱い人間関係は、「パサパサ」ということになる。

 夫婦の関係。
友人の関係。
親類、縁者の関係。
近隣の人たちとの関係。
もちろん親子の関係、などなど。

 最近の若い人たちの傾向としては、前にも書いたが、デジタル型の人間関係が目立つ。
人間関係を、「ON」と「OFF」だけで、割り切ってしまう。
一度、「OFF」にすると、まったくのゼロにしてしまう。

 で、ここではもう一歩、話を進めて、ではどういうときにネバネバになり、またどういうときにパ
サパサになるか。
それについて考えてみたい。

●ネバネバ

 最近、私とワイフの関係は、加齢とともに、よりネバネバになってきたように感ずる。
「先が短くなった」という思いもある。
積み重ねてきた思い出も多い。
とくに私たち夫婦は、すべてを、2人だけでしなければならなかった。
だれの助けも期待できなかったし、だれも助けてくれなかった。

 3人の息子たちにしても、ワイフは自分で助産院に行き、ひとりで子どもたちを産んだ。
そのあとも、だれにも助けてもらわなかった。

 一方、私は仕事オンリー。
それでも家計は苦しかった。
当時はそういう時代だった。
だから余計に、私はがむしゃらに働いた。
20〜30代のころは、休日は、月に1日だけ。
そんな年が何年もつづいた。

 だからというわけでもないが、私たち夫婦は、言うなれば「ネバネバ夫婦」。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、1〜2日のうちには、もとに戻る。
もとに戻って、また手をつないで歩く。
が、私がここで書きたい「ネバネバ」は、それとは意味が少しちがう。

 先のNさん夫婦のばあいである。
「ふつうなら、離婚」ということになるが、離婚しない。
「子はかすがい」とは言うが、それもあるのかもしれない。
が、何が2人をつないでいるのか。
そのつないでいるものが、ここでいう「ネバネバ」ということになる。

●理解のワク

 もう一度、共依存の話に戻る。
共依存の関係にある夫婦は、たしかにネバネバしている。
ほかにも、夫婦の間の会話が完全に途切れてしまった知り合いもいる。
まったく、しない。
そこでその夫婦のばあい、息子たちが、夫婦の、(つまり両親の)、連絡係をしている。
が、それでも夫婦。
離婚しないのか、できないのか、あるいはなぜそうなのか。

 そういうのを「仮面夫婦」というが、仮面の向こうに隠されたネバネバには、常識では理解で
きない(思い)が隠されている。
それこそ私のような人間が、いくら想像力を働かせても、理解できるようなものではない。
理解のワクを超えている。
「私なら、即、離婚」と口で言うのは、たやすい。
しかし、問題は、そんな簡単なことでもない。

●離婚率35・4%

 もちろん反対に、「パサパサ夫婦」というのも、いる。
昔、「成田離婚」というのも、あった。
新婚旅行から帰ってきたそのとき、成田空港で離婚する。
だから「成田離婚」。

 パサパサといえば、パサパサ。
成田離婚は別として、さしたる理由もないまま、簡単に離婚していく人も、これまた少なくない。
一般論からいうと、(統計的にもそういう数字が出ているが)、身近に離婚経験者がいると、そ
の影響を受けて、その夫婦も離婚しやすいという。
姉夫婦が離婚したとたん、妹夫婦も、離婚する。
親が離婚経験者だと、子も離婚しやすくなる、など。

 何も離婚することが悪いと書いているのではない。
離婚など、今どき、珍しくも何ともない。

厚生労働省が発表している人口動態総のデータによれば、平成19年度に結婚した人の数が
約72万人に対して、離婚した人の数は25万5000人ということになっている※。
72万人に対して、25万人。
離婚率でみるかぎり、254832÷719822=35・4%!

 この数字をどう読むかだが、意外と、都会に住む人ほど、離婚率が低いというのも、興味深
い(同、統計)。

(注※)結婚届を出す数が、毎年72万人。
離婚届けを出す人が、毎年25万人ということ。
結婚年数や、結婚→離婚を繰り返す人の数などは、考慮に入っていない。

●二人三脚

 私の考えでは、夫婦でも、「形」にしばられることなく、人間関係が破綻したら、さっさと離婚し
たほうがよいのでは、と思う。
思うだけで、では、実際、自分たちがそうなったら……というときのことを考えると、自信はな
い。
それでもネバネバとがんばるかもしれない。

 世間体もある?
もちろん子どもたちのこともある?
が、それ以上に、今は、もう夫婦でありつづけるしかない。
二人三脚でも生きていくのがむずかしい。
ひとりになって、どうやって生きていくというのか。

 が、結論から先に言うと、つまり、これがこのエッセーの結論ということになるが、人間関係
が、近年、ますますパサパサになってきた。
ネバネバ感が消え、パサパサになってきた。
つまり人間どうしをつなぐ、粘着力が、弱くなってきた。
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
その結果は、もう少し先になってみないとわからない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 粘着力 パサパサ人間 ネバネバ人間 離婚率 日本人の離婚率)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【浜名湖かんざんじ荘にて】2011年6月29日

●ストレス解消

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過度の精神的ストレスが、脳ストレスを引き起こすと言われている。
免疫細胞がサイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。
どちらが先で、どちらがあとでもよい。
同時進行の形で、脳ストレスが起こる。

脳ストレス(脳内ストレス)になると、気分が沈む。
重くなる。
ゆううつになる。

で、こうなったら、気分転換を試みるのがよい。
いろいろな解決策があるが、そのひとつとして、ドーパミンの分泌を促すという方法が考えられ
る。
つまり何らかの形で、欲望を満たす。
ドーパミンは、欲望と快楽を司るホルモン。

(これは私という人間の、素人考え。
しかし現象的には、たいへんうまく説明できる。)

 私のばあい、何か新製品を買うこと。
何でもよい。
説明書が、分厚いものほど、よい。
買うことによって、欲望を満足させる。
サイトカインとドーパミンの関係については、知らない。
ほしいものを手に入れたという満足感が、脳ストレスを軽減する。

しかし脳ストレスを甘く考えてはいけない。
うつ病などさまざまな精神的疾患を引き起こす。
長引けば長引くほど、慢性化、重症化する。

 だから私には、買い物依存症の人の気持ちがよく理解できる。
買い物依存症の人は、それがほしいから、買うのではない。
買うことによって、欲望を満足させる。
言うなれば条件反射。
アルコール中毒やニコチン中毒と同じ。
同じメカニズムが、脳内で働く。
だから逆に言うと、そういう人たちは、(私も)、すでに何らかの心の病気をかかえているという
ことになる。
心の病気を代償的に解消するために、ものを買う。

 先にも書いたように、これは私という人間の素人考え。
あくまでも参考程度に考えてほしい。

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●温泉

 このところ、温泉巡りがつづく。
講演に招かれるたびに、それにかこつけて、温泉に泊まる。
先週は、伊豆長岡温泉に一泊した。
「正平荘」という、伊豆でも10本の指に入る名旅館である。
そこで京風割烹料理というのを食べた。
おいしかった。
温泉もよかった。
中庭もすばらしかった。
その私、京料理など、食べたことがない。
どういうものを京料理というのかさえ知らなかった。
遠い昔、一度食べたことがあったはずだが、味は、覚えていない。

 で、そのことを、先日、Mさん(女性)に話した。
生徒の母親で、今でも京都弁を話す。
「鴨(丸)ナスのグラタンを食べました」と話すと、「鴨ナスは、京都のものどす」と。
Mさんは、本当に美しい。
父母の間でも、よく話題になる。

 で、今日は、ここ浜名湖かんざんじ荘。
先日、ワイフの誕生会をかねて、ここへ来た。
よかった。
それでまた来た。
何と言っても、展望風呂がよい。
浜松イチのローケーション。
温泉で、ゆっくりと体を温める。
浜名湖かんざんじ荘は、いつ来ても、私の期待を裏切らない。
脳ストレスの解消には、最高!

●喧嘩

 脳ストレスの話を書いたので、もう少し、その前後を書く。

 このところ何かと不愉快なことがつづく。
災難は忘れたころやってくるという。
私がまいた種が原因なら、まだあきらめもつく。
対処の仕方もある。
しかし災難という災難は、私とは関係なく、やってくる。
原発事故もそうだが、頭のおかしな人にからまれるのも、そのひとつ。
先週は、その頭のおかしな人に、2度もからまれた。
そういう人というのは、まともな論理が通用しない。
話しても、無駄。
突発的に錯乱状態になる。
あたりかまわず、怒鳴り散らす。

 私は逃げたが、本来なら、殴り飛ばしてやりたかった。
ポカーンと一発、殴り飛ばしてやりたかった。

そういう私は子どものころ、喧嘩が得意だった。
10人くらいの子どもを相手に、たった1人で戦ったこともある。
小学5年生か、6年生のときのことだった。
相手が「決闘したい」と言うから、そこへ行った。
学校の裏手の、山のふもとだた。
そこに10人ほどがずらりと並んで、私を待っていた。

 私はそれを見た瞬間、真ん中の親分格の子どもに、頭から突っ込んでいった。
相手に逃げるスキを与えなかった。
相手は、私の頭突きを受け、そのままうしろへひっくり返った。
たぶんそのとき、相手は後頭部をぶったのだろう。
そのまま大声でうめいた。

 私は相手を頭突きした勢いを借りて、そのままその場を走り去った。
あとのことは知らない。
知らないが、その相手は、それ以後、私の姿を見ると私におびえるようになった。

 そういう思考回路や行動回路が今でも残っている。
だからそういうわけのわからない連中に出会うと、先に書いたように、殴り飛ばしたい衝動にか
られる。

●キーボード

 もうひとつの解消法として、こうしてパソコンを使って文章を叩き出すという方法がある。
今、使っているのは、ドコモの携帯端末を買ったとき、おまけでもらったパソコン。
TOSHIBAのダイナブック。
性能はそれなり。
しかしワープロとして使う分には、問題はない。
キーボードのタッチ感が心地よい。
私は、パソコンは、キーボードのタッチ感で選んでいる。

 ……そういえば、将来的には、現在のようなキーボード付のノート(ミニ)パソコンは、姿を消
す運命にあるそうだ。
あと4〜5年で、タッチパッド式のパソコン(iPadなど)に置き換わるとか。
何かのパソコン雑誌に、そう書いてあった。

 が、それはどうかな?
そうなるかな?
キーボードの感触を楽しむために、パソコンを使う人もいる。
ピアノだって、そうだ。
タッチパッド式の鍵盤など、どう考えても、おもしろくない。
たぶん私はそういう時代になっても、キーボード付のノート(ミニ)パソコンを使いつづけるだろ
う。

●モヤモヤ

 思いついたことを、つぎつぎと書いていく。
頭の中にたまったモヤモヤを吐き出す。
これが私には、よいストレス解消法になる。
今が、そうだ。

 読んでくれる人には、申し訳ない。
しかし読者の方を利用しようなどという、失礼な思いは毛頭ない。
できるだけ何か、役に立てることを書きたいという気持ちは、ある。
たとえば今、私がここに書いたストレス解消法が、だれかの役に立てばよいと願っている。
脳ストレスにしても、それが脳ストレスによるものと気づかないまま、それに振り回されている人
は多い。

 が、少し慣れてくれば、(もちろんその知識も必要だが)、自分で自分の脳の中の様子を客観
的に知ることができるようになる。
脳の機能そのものが、重ぼったくなってくる。
不平、不満が多くなる。
こだわりが強くなり、ささいなことで悶々と悩んだりする。
ものごとを悪いほうへ、悪いほうへと考える。

 ……まさにうつ病の症状?

 が、甘く考えてはいけない。
サイトカインの分泌が慢性化すると、免疫細胞の活動が鈍くなる。
免疫機能が低下する。
その結果、がん細胞が活性化する。
最近では、「がんも生活習慣病」と位置づけられるようになった。
原因の第一は、もちろん、ストレス。

●孤独

 最大のストレスと言えば、もちろん「孤独」。
孤独から生まれる、絶望感。
疎外感。
虚無感。

「孤独は心のがん細胞」。
孤独感が高ずると、人は自殺まで企てるようになる。
だから「がん細胞」。

 その孤独。
逃げる方法と、闘う方法がある。
ひとつは、自分をごまかして、孤独であることを忘れる。
しかしこれは邪道。
もうひとつは、生きがいを確保する。
が、これがむずかしい。
一朝一夕には、できない。
10年単位の準備も必要。
「定年退職しました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木の植樹をしてきます」というわけには、
いかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。

●老人、お断り

 老後の最大の問題は、「孤独」ということになる。
今朝も、友人のR先生と話した。
R先生は、産婦人科医として、10年ほど前まで、医者をしていた。
5年ほど前、夫をなくし、それを機会に、現役から引退した。
そのR先生が、こう言った。

「息子がね、タクシーにでも乗って、温泉へ行って来いとよく言います。
でもね、ひとりで温泉に行っても、つまらないし……」と。

 そこでピンときた。
ひらめいた。
「そういう1人ぼっちの老人は多い。そういう人たち用の、特別コースを用意すればよい」と。
送迎は、タクシーですればよい。
旅館では、そういう老人たちのための親睦会を開けばよい。
カラオケ大会やダンス教室でもよい。

 この先、旅館業が生き残ろうとするなら、老人を考える。
老人をどう取り込むか、それを考える。
方法はいくらでもある。
が、こんなさみしい話もある。
隣の韓国では、こんな旅館がふえてきたそうだ。
旅館にも年齢制限のようなものがあって、「介護者なしの老人の1人客は、お断り」と。
つまり老人は、この先、敬遠される。
そういう流れができつつある。

●金貨金融

 先ほど、ニュースサイトをのぞいた。
TBS・News−iに、こんな記事が載っていた。

いわく『2人は、「金貨金融」と呼ばれる新たなヤミ金業を営んでいたのです。
その仕組みはこうです。
和田容疑者の店はまず、金を借りにきた客に相場より高い価格で、かつ後払いで金貨を買い
取らせます。

 客は、金貨を買い取り業者に持ちこんで現金を受け取る。最終的には、客が後払い金を店
に戻す。客は現金を手にするものの、法外な金利を負担する形です』と。

 ゆっくりと読んでみたが、(しくみ)がよくわからなかった。
で、2度、3度、読みなおしてみた。
「金」を「ゴールド」の意味と、「マネー」の意味で使っている。
まぎらわしい。

 つまりこういうことらしい。

 お金(マネー)を借りに来た客に、金貨(ゴールド)を買わせる。
たとえば時価20万円の金貨(ゴールド)を、法定金利の83倍というから、……ウーン、かなり
の金額になる。
15〜20%(法定金利)の83倍として、4万x約80倍=約320万円。
320万円で買わせる。
客は、その金貨を、別の業者のところへもっていき、そこで売る。
20万円の現金を受け取る。
客は20万円の現金を手にすることができるが、同時に、320万円の借金を背負うことにな
る。
(法定金利内であれば、1年後に23・6万円だけ返せばよい。)

(注)金銭消費貸借契約における上限金利は、基本的には利息制限法で定めている金利(元
本10万円未満は20%、元本10万円以上100万円未満は18%、元本100万円以上は15%)が適
用される(All About マネーサイトより)。

 しかしこうしたインチキ高利貸しは、30年前にもあった。
手口は、こうだ。

 1人の客が、金融業者のところへ、たとえば100万円を借りに行く。
すると金融業者は、その場では金(マネー)を貸さないで、電気店へ客を連れて行く。
そこで片っぱしから、電気製品を買わせる。
高額なパソコンなど。
支払いは、すべてローン。

 で、その電気製品を、そのまま買い取り屋へもっていく。
そのとき客も連れていく。
値段の30〜50%で、買い取り屋に買わせる。
それで得た現金を、客に渡す。
200万円で売れたら、100万円を客に渡し、残りの100万円を自分のものにする。
買い取り屋は、買い取った電気製品を、「未開封の新古品」として、別の業者に安く売る。

 客は、さらなる多額の借金をかかえ込み、やがて自己破産。
私の知人は、最初の借金は、たったの700万円。
1年半後には、それが1億5000万円になり、結局は自己破産に追い込まれた。
 
●ワル

 ワルはいつの世にもいる。
が、こんなワルは、そうはいない。

 自分の腎臓がだめになった。
そこで若い男と養子縁組。
その若い男から腎臓を摘出し、自分の体に移植した。
大病院の院長だったというから、開いた口がふさがらない。
なお現在、その若い男は、行方不明。
その若い男は、もうこの世にいないかもしれない。
が、もしそうなら、この医師こそ、本物のワル。
前代未聞のワル。
そのワルと比べたら、金貨金融をするワルなど、……何と表現したらよいのか。
私にはよくわからない。
どちらも、ワルはワルだが、レベルがちがう。

Yahooニュースより、一部転載。

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生体腎移植を巡る臓器売買事件で、逮捕された開業医、堀内利信容疑者(55)が移植を受け
た宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)を運営する医療法人沖縄徳洲会の顧問弁護士は29
日、堀内容疑者が同病院に提出した書類などを公開した。

養子縁組したドナー(臓器提供者)男性(21)が提供を決めた心情を記した手書き文書など7
点で、同病院で移植の可否を判断する倫理委員会にも提出された。

弁護士は「倫理委はできる限りのことをした結果、親子関係はあったと判断した」と説明してい
る。(以上、Yahooニュース・2011・6・30日より)

+++++++++++++++++++++

●6月30日

 6月30日になった。
風呂へは、朝5時半から入れる。
朝食は7時半。

 家までは20分足らずで帰れるから、9時以後は、ふだんの日常生活。
ちょうど月末。
毎月月末には、ワイフとどこかのレストランで、月末の打ち上げ会をすることにしている。
「今月も、無事、終了!」と。

 窓のカーテンを開けると、朝モヤに包まれた浜名湖が目に飛び込んできた。
窓の下の浜名湖では、水上スキーを楽しんでいる人がいた。
ボートが、走る。
そのあとを、波を切りながら、じぐざぐに別の人がスキーを走らせる。
幻想的だった。
ビデオに収めようとしたが、あいにくのバッテリー切れ。
残念!
今日も、暑くなりそう。
昨日は、全国的に、39度近くまで気温があがった。

 39度!

 もうメチャメチャな気温だが、今ではだれも驚かない。
私が子どものころは、30度を超えたら、真夏日。
それに夏も短かった。
盆の8月15日を過ぎると、秋風が吹くようになり、川の水も冷たくなった。
それが今では、6月に39度!

●新しい試み

 数日前から、新しい試みを始めた。

 まず動画を撮影する。
教室の子どもたちの様子や、町の風景など。
(昨日は、浜名湖の風景を撮った。)

 その風景を背景に、マイクを使って、子育て論を講演風に録音して重ねる。
そうすれば、ビデオを観てくれる人は、私の子育て論を聞きながら、観光も楽しめる。
私のジジ臭い顔も観ないですむ。

 で、今度の休みに、浜松市内のあちこちの観光地の様子を、ビデオカメラに収めてみるつも
り。
とりあえず浜松城公園あたりがよい。
あのあたりには、いくつかの観光スポットがある。
YOUTUBEでは、最長15分までという制約がある。
そのため録画も15分前後に収める。
それに同じく15分前後の子育て論を、マイクを使って、載せる。
なかなかよい企画だと、自分ではそう思っている。

●生きた証(あかし)

 が、ここでふと考える。
「この世界は、どこまで進歩するのだろう」と。
今、私が今、書いていることにしても、10年後には、消えてなくなってしまうかもしれない。
現に、10年間つづけた、Eマガ(電子マガジン)は、この5月末をもって廃刊にした。
Eマガ社(無料版)そのものが、閉鎖になってしまった。

 こういうとき大切なことは、過去が消えたことを嘆かないこと。
新しいものに向かって、また歩き出すこと。
今はFACEBOOKとか、TWITTERが、全盛を極めている。
が、それもやがて別のサービスに置き換わっていくだろう。
ただ私のばあい、インターネットを利用する目的がちがう。
FACEBOOKやTWITTERでは、私の目的を達成することはできない。
「文」を書いて、「文」を伝えたい。
「心」を書いて、「心」を残したい。

 人間関係の拡大や情報の拡散を図る、FACEBOOKやTWITTERでは、それができない。
だからしばらくはかじってはみたものの、そのまま遠ざかったままになっている。
ただふとさみしさを覚えるのは、先が見えないこと。

 「10年後はどうなっているのだろう」「20年後はどうなっているのだろう」と。
それを考えると、さみしくなる。
現在使っているHP(ホームページ)にしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
むしろ無料HPサービスのほうが、より長く原稿を保持してくれるかもしれない。
読者がいるかぎり、つまりアクセスする人がいるかぎり、サービスは存続する。
今すぐというわけではないが、そういうことも考えながら、HPのあり方を考えていきたい。

 名誉や地位、それに肩書など、とっくの昔に捨てた。
私は、「はやし浩司がこの世に生きてきたという証(あかし)」を、この世に残したい。
が、それとて、10年もつか、どうか?

●読者からのメール

 ネットを開くと、こんなメールが届いていた。
私のYOUTUBEを見ている人からのものだった。
うれしかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Hi, I am B's father, say hello to you from Shanghai China. My son enjoys your great lesson 
very much and learns lot from it. He is now in Japan visiting his grandparents (at Ixxxx) and 
his great grandparents (at Ixxx). You are a great teacher, it's a good luck for children to 
have a teacher like you. Children have their own little worlds and their own languages, you 
are the one who can go into their worlds. As a father, I also think it is meaningful to watch 
your video. Thank you! 

私はBの父親です。
上海からあいさつします。
私の息子は、あなたのレッスンをたいへん楽しんでいます。
たくさんのことを学んでいます。
彼は今、祖父母を訪問しながら、日本にいます。
あなたはすばらしい先生です。
あなたのような先生をもった生徒は幸福です。
子どもには子どもの世界が、子どもの言語があります。
あなたはそういう子どもの世界に入れる1人です。
父として、あなたのビデオを見ることに、意味を感じています。
ありがとう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 ここに書いてある、「子どもには子どもの世界が、子どもの言語があります」というのは、事
実。
子どもを教えるときは、その世界へ入らなければならない。
それができなければ、教えていても、疲れるだけ。
また子どもも反応してこない。

 私が言うのもおかしなことだが、私には、それができる。
たとえばショッピングセンターなどでも、目と目が合った瞬間、その子どもの心を、私は捕える
ことができる。
これは私の特技のようなもの。
つぎの瞬間、子どものほうが、私を見て、ニコッと笑ったりする。

 ワイフはそういう様子を見て、よくこう言う。
「あの子、知っている子?」と。
が、私はいつもこう言う。
「知らない子だよ」と。

(付記)

 その日の午後、K君兄弟が、私の教室へ来た。
お父さんとお母さんが、水上スキーをしているという話を聞いていた。
で、浜名湖で見た人たちの話をした。
するとあっさりと、こう認めた。

「うん、それ、ぼくのパパとママだよ。
赤と白のボートだろ。
朝、4時半ごろ出かけていって、7時ぐらいに帰ってくるよ」と。

 K君の父親は、日本でも1、2位を争う、水上スキーの選手だった。
「トロフィーが、50個くらいあったけど、この前、20個くらい、捨てたよ」とも。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 浜名湖かんざんじ荘)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【幸福論と死の覚悟】


●私が考える『幸福になるための10の鉄則』byはやし浩司


(注:あくまでも努力目標として……)


(1)去る者を負わず
(2)失ったものは忘れる
(3)今を原点として考える
(4)孤独を友とする
(5)私を飾らない
(6)争わない、競わない
(7)負けるが勝ち
(8)今、すべきことをする
(9)そこにいる人を大切にする
(10)生きていることを喜ぶ


+++++++++++++++++++++


(1)去る者を負わず

人は常に去り、またやってくる。
親や兄弟であれ、はたまた子であれ、友であれ、去る者は追わず。
来るものは拒まず。
人の心は、管理できない。
コントロールもできない。
人それぞれ。
私は私。
あなたはあなた。


(2)失ったものは忘れる

   基本的には、人は何も失わない。
   森の木々を見ろ。
   青い空を見ろ。
   天の星々を見ろ。
   失ったと思うものは、あなたの我欲だけ。
   もともと価値のないもの。
   だから忘れる。
   あとは考えない。


(3)今を原点として考える

すべては「今」から始まる。
過去はない。
未来もない。
繰り返しつづく、「今」だけ。
今を原点に、今を大切に生きる。
その結果として、明日はやってくる。
未来はそれにつづく。


(4)孤独を友とする

生きているかぎり、孤独はつきもの。
逃れようともがけばもがくほど、キバをむいて襲ってくる。
ごまかしても、無駄。
まぎらわしても、一時的。
だったら、友として、そこに置く。
友として、孤独と仲よくすごす。


(5)私を飾らない

見栄、体裁、世間体。
心を狂わす、三毒。
ありのままで生きる。
ありのままをさらけ出して生きる。
つまり裸で生きる。
そういう生き方を総称して、「質素」という。


(6)争わない、競わない

       私は、私。 
       あなたは、あなた。
       たがいに生きたいように、生きる。
       大切なことは、異論を認める。
       私とちがった人間を認める。
       マイペースで生きる。
       あとの判断は、「時の流れ」に任せればよい。


(7)負けるが勝ち

万事、負けるが勝ち。
人は損をすればするほど、心が広くなる。
強くなる。
損をすることを恐れない。
(あえて損をする必要もないが・・・。)
カッと怒ったら、黙る。
身を引く。
相手がカッと怒ったら、黙る。
身を引く。


(8)今、すべきことをする

今、すべきことを懸命にする。
今、する。
明日に回さない。
仕事しかり、家事しかり、そして健康しかり。
明日は、その結果として、やってくる。
未来は、その結果として、やってくる。


(9)そこにいる人を大切にする

そこにいる人を、私と思う。
私と思い、大切にする。
無私、無我、無条件。
見返りを求めない。
損得を考えない。
ただひたすら、大切にする。


(10)生きていることを喜ぶ

       息ができる。
       目が見える。
       音が聞こえる。
       ものが食べられる。
       歩ける。
       走れる。
       あたりまえのことに、価値を見出す。
       賢人は、その価値を失う前に気づき、愚人は、失ってから気づく。


●死への覚悟


 今朝(7月2日)、こんな夢を見た。
目を覚ます寸前のことだった。


 ・・・私はどこか高い崖の上にいた。
下を見ると、ちょっと変わった形をした小型機が飛んでいた。
風が強かった。
小型機は前に進めず、そのまま海に着水した。
が、見ると、それは自動車ほどもある大きな、白鳥だった。
その横に自動車が、何台か並んでいた。


 私はほとんど毎朝、このタイプの悪夢で目が覚める。
学生時代からずっとそうだったような気がする。
最近は、その瞬間、呼吸が止まっているようにも感ずるので、睡眠時無呼吸症候群(SAS)に
かかっているのかもしれない。
ただしSASと悪夢の関係は、はっきりしていない。


 それはともかくも、これまたふと気がつくと、私たちも小型機に乗っていた。
小さな飛行機だった。
風が強く、前に進めなかった。
エンジン音だけが大きく聞こえた。
が、そのとき、飛行機はゆっくりと機首を下に向けた。
前には、海の上に突き出た小岩が見えた。
茶色の小岩だった。


 私はその小岩を見ながら、死を直感した。
直感しながら、私はこんなことを考えた。
死ぬ直前に、海の水の冷たさがわかるだろうか、と。
それとも痛みが脳に伝わる前に、死んでしまうのだろうか、と。
死への恐怖感は、まったくなかった。
「死ぬんだ」ということはわかった。
が、何もこわくなかった。


●恩師、松下哲子(のりこ)先生(幼稚園もと園長、故人)


 若いころ、恩師の松下哲子先生にこう聞いた。
そのとき先生は、80歳を超えていた。
「先生、歳を取ると、死ぬのがこわくなくなりますか」と。
すると先生は、縁側に座ったまま、こう言った。
「林さん、人はね、いくつになっても、死ぬのがこわいもんですよ」と。


 ほかのことは覚えていないが、先生を照らしていた明るい日差しだけは、やけに印象に残っ
た。


 が、今の私は、その覚悟が少しずつできつつあるのを知る。
死ぬのは、こわい。
それは松下哲子先生が言ったとおり。
しかし同時に、やがてくるその日に向けて、覚悟ができつつあるのを知る。
言い換えると、その覚悟を作ることが、これからの私の生きるテーマということになる。
どうすれば、その覚悟を作ることができるか、と。


 が、これは意識の問題ではない。
意識として覚悟するのではない。
水が低いところを求めて流れていくように、生きざまそのものが、その覚悟に向かって進んで
いく。
たとえば私はこの数年、それまで買い求めてきた様々なものを、人に与えるようになった。
若いころに買った、小物は、今では、ほとんど、ない。
メダルやコイン、模型や装飾品など。
それが最近は、絵画や、置きものに広がりつつある。
今朝も、20年来世話になった、N氏に、我が家の家宝の大皿を届けることにしている。
江戸時代に制作された、花鳥を描いた絵皿である。


ワイフが、「いいの?」と言うから、「いいよ」と。


だから今は、こう思う。
「やがて私の周囲からは、モノはすべてなくなるだろうな」と。


 これには母の影響もある。
数年前の同じころ、母は他界した。
生前は、恐ろしくモノに執着した母だった。
が、その母も、死ぬときは、数枚の浴衣と、コップなど身のまわりの生活用品だけ。
で、あるとき私は母にこう言った。
「何か、欲しいものがあるか。何でも買ってやるよ」と。
すると母は、こう言った。
「命は、金で買えん!」と。


 それが母の結論だった。
人生の結論だった。
同時に、それが私の結論にもなった。
以来、身のまわりにあるものを、私はどんどんと減らしていった。


 が、もちろん「損をしている」という感覚はない。
人にモノを与えるたびに、さわやかな気分になる。
気が楽になる。
それは楽しいことでもある。


 ・・・で、やがて私も死ぬ。
この宇宙もろとも、私は消えてなくなる。
あの世があるかどうかについては、わからない。
あのホーキング博士は、「ない」と断言した。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかしそれは死んでからのお楽しみ。
が、今は、あの世はないという前提で生きる。
死ぬための覚悟を決める。
・・・覚悟というより、その覚悟も、無理をしなくても、自然な形でできていくものなのか。


 今朝の悪夢は、飛行機で墜落していく夢。
いつもならハラハラ・ドキドキして目が覚める。
が、今朝の私は冷静だった。
悪夢は悪夢だが、ふんと鼻先で笑えるような悪夢だった。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 死の覚悟 はやし浩司 幸福の鉄則 死への覚悟 幸福になるための10の鉄則 
はやし浩司 死への恐怖 死の恐怖)


(補足)

 以上を総論とするなら、各論として、私はつぎのことを守っている。

(1)モノやお金の貸し借りはしない。
(2)私を悪く言っている人とは、交際しない。
(3)私が一度でも文を通して、その人を批判したときには、その人とは交際しない。
(4)意味のない冠婚葬祭には、出席しない。
(5)ウソはつかない。ルールは守る。約束は守る。


Hiroshi Hayashi++++++++July 2011+++++++++はやし浩司・林浩司

●7月3日(日曜日)

●宮崎正明氏のこと(金沢アメリカ文化センター元館長)

+++++++++++++++++

昨夜、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、『マイティ・ソー』。
「宇宙って、こんなものかなあ」と
思いながら、観た。
帰ってきたのは、午前1時ごろ。

星は2つか、3つの、★★+。

その宇宙。
私が学生時代には、アメリカが
その宇宙だった。
遠くて、遠い国。

……金沢に、アメリカ文化センター
というのがあった。
そこに、宮崎という名前の人がいた。
館長だった。
その宮崎さんが、ある日、私に
1冊の本をくれた。
「アメリカ物語」という小さな本だった。
本というより、かわいい詩集。
しかし宮崎さんは、アメリカには
行っていなかった。
空想で書いた、旅行記だった。

当時の日本は、まだ貧しかった。
アメリカ旅行などというのは、
夢のまた夢。
アメリカ文化センターの館長をしていた
宮崎さんにしても、そうだった。

その宮崎さんは、そののち、
どこかの大学の講師となった。
一度NHKのラジオ番組で、
小説が連続で朗読されたこともある。

で、私はそれを聞いて、宮崎さんに即、電話を入れた。
私は自分のことのようのうれしかった。
宮崎さんは、私のことを覚えてくれていた。
それもそのはず。
本多町(金沢市)に下宿していたころは、
毎日のようにそこに通った。
論文(英文)コンテストで、
いくつかの賞をもらったこともある。

が、名前が思い出せない。
「宮崎……?」。

そこでネットで調べてみた。
すぐわかった。
すぐ思い出した。
宮崎正明という名前だった。

現在でも、「日本ローエル協会」の名誉会長をしている。
そのHPには、こうある。

『詩人、元金沢工大助教授。翻訳書「NOTO」
(日本翻訳 文化賞、金沢市民文学賞)、「知られざるジャパノロジスト」など』と。

ネットで知るかぎり、健在のようだ。
無数の著書がズラリと紹介されている。
よかった。

改めてうれしかった。
今朝は、そんなわけで、気分良好!

……ということで、今になって、宮崎さんの
『アメリカ物語』が、ジンと胸にしみる。

いつか人間も自由に、宇宙区間を旅するときが
やってくるだろう。
しかし今は、ただ空想するだけ。
上も下も、漆黒の空間。
虚無の空間。
その間に宝石のように散らばる、無数の星々。
星間物質。
大銀河……。
宮崎さんに負けないで、『銀河物語』という
詩集を書いてみたい。
が、残念ながら、私の詩の才能は、ゼロ。
若いころ、水橋晋(しん)という詩人がいた。
あれこれ指導してくれた。
が、途中であきらめられてしまった。

が、映画を見ながら、空想することはできる。
映画『マイティ・ソー』は、そういう点では、
おもしろかった。
3D映画ということもあって、自分が
宇宙空間を飛び回っているような錯覚を覚えた。

++++++++++++++++++++

●『宇宙物語』byはやし浩司

●あと2か月

あやゆる光を吸い込む漆黒の闇。
星々は、窓に張りついたライトのように近くに見える。
距離のない世界。
だれかがこう言った。
「あの青い星まで、20万光年」と。

20万光年?
手をのばせば、そこにあるではないか。
私は青い星の横に広がる赤茶けた雲を見ていた。
雲といっても、星々の集まり。
何百億個の、そのまた何百億倍もの星々。
ぼんやりとした光で、それが全体として、3本の木のように見えた。

窓は太陽光を避けるため、そのつど静かに開閉している。
そのモーター音が、やさしく耳をかすめる。
音と言えば、それだけ。
慣性航行に入って、もう5年になる。

といっても、ここまで来ると、太陽も、小さな白い点。
太陽系全体が、大きな胎盤のようになっている。
行けども行けども、たどりつくことのない、胎盤。
太陽から届く太陽風が、その胎盤をふくらませている。
が、その向こうには、まだだれも見たことのない宇宙が広がっている。

あと2か月。
地球時間であと2か月。
私とほかの2人のクルーは、人類としてはじめて、太陽系の外に出る。
出たとたん、別の星の胎盤に突入する。
そこは別の星の羊水で満たされている。
大洋風と大洋風が、はげしくぶつかりあう。
私たちが乗っている宇宙船は、その衝撃に耐えられるだろうか。

先行して地球を離れたロボット探査船は、そこで連絡を絶った。
私はふと、昔見た、潮の目を思い出した。
地球を巡回しているときのことだった。
大洋を流れる潮。
その潮どうしが、海の上でぶつかる。
渦を巻く。
それが宇宙からだと、水に流した絵の具のようによくわかった。

胎盤どうしが、激しくぶつかりあう潮の目。
そこまであと2か月。
数週間前に私が目を覚ました。
つづいて2人のクルーが目を覚ました。
その瞬間、無数の火花が見えるという。
言うなれば、国境を越えるときに打ち上げられる花火?
歓迎の花火か、それとも死者を弔う花火か。

(宮崎さんが読んだら、笑い出しそうな詩である。
だからここまで。
どうも詩は苦手。
うまく表現できない。)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司


*************2011年07月03日まで***************
 
































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児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼
児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス
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前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 
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子育てはじめの一歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東
洋医学基礎 目で見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアド
バイス 教育相談 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てス
トレス 最前線の子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交
換学生 三井物産元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在
住 はやし浩司 浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 B
W教室 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司
 無料マガジン 子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ 
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やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
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て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司

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