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【15】
2010年  12月  12日〜2011年  2月  16日

(15)最前線の子育て論byはやし浩司

【暴論・論】

●暴論

+++++++++++++++

偏(かたよ)った意見。
一方的な意見。
偏見と誤解に基づいた意見。
論理性のない意見。
実現性のない意見。
宗教かぶれした意見。
空理、空想をもとにした意見。
短絡的で感情的な意見。

そういう意見が、パワーを
もったとき、それを「暴論」という。

ものを書くとき、もっとも
警戒すべきは、暴論という
ことになる。

暴論というのがどういうものかを
知りたかったら、『文G春秋』
(今月号=正月号)の対談記事を
読んでみればよい。

2人の学者が、「英語教育をやめ、
論語を教えろ」と主張していた。

++++++++++++++

●「英語教育は必要なし」という暴論

 いまだに「英語教育は必要なし」という暴論が、天下の公論になっているのには、驚く。
中には、「日本語も満足に話せない子どもに、英語教育は必要ない」と説く人もいる。
一見、合理性があるように見えるが、その実、どこにもない。
仮に日本語も満足に話せない子どもがいたとしても、それは英語教育のせいではない。
すでにそうした現象は、20年前、30年前から見られた。
また英語教育をしたからといって、日本語が乱れるということもない。
外国に10年とか20年とか、それくらい長く住めば別。
日本語を忘れるということも、あるかもしれない。
そうでなければそうでない。

(ただし0歳〜2歳までの言葉の適齢期には、バイリンガルにしないほうがよいという
説もある。
この時期に子どもは、言葉の文法を脳に刻む。
その文法が乱れる。
私の孫の誠司(Sage)もそうだった。
どこかの遊園地へ連れていったときのこと。
「帰ろうか?」と声をかけると、「NO GO HOME」と。
そのとき孫は、1歳半だった。)

むしろ日本語を英語と対比させることによって、言葉として認識を深めることになる。
この私がそうだった。
「過去形」「進行形」「完了形」「過去完了形」……と学ぶうちに、日本語も併せて
正確になっていった。
私が中学生のときのことである。

●変化する日本語

 日本語はたしかに乱れている。
それは事実。
が、それは教育のせいと考えてはいけない。
また教育でできることにも限界がある。
とくに「言葉」については、そうである。
言葉を決めるのは、大衆。
教育ではない。
 
それにそもそも日本語という言語は、未完成な言語と考えてよい。
未熟な言語と言い換えてもよい。
たとえばほんの100年前に書かれた文章を読むのにさえ、私たちは苦労する。
400年前、500年前以上の文章となると、辞書なくして読むことさえできない。
書かれた手紙すら、読むことができない。

今の今でさえ、日本語は変化しつづけている。
10年単位で変化しつづけている。
たとえば10年前、「デニる」という言葉を知った。
意味を聞くと、その子ども(中学女子)はこう教えてくれた。
「(レストランの)デニーズで時間をつぶすこと」と。
ほかに「チクル」「シカト」「フタマタ」などなど。

 それが最近では、二語言葉になった。
「マジ」「ダサ」「クサ」「ウザ」……など。

完成された言語なら、こういうことはありえない。
たまたま手元に、ソニーのPSP(ゲーム機)がある。
子どもたちの世界で人気NO1のゲームソフトが、「モンスターハンター」。
1人のハンターが訓練と努力を重ね、最強のハンターとなり、モンスターと戦う。
私もときどきしているが、結構、おもしろい。

 そのゲームに出てくる会話をひとつ紹介する。
ハンターが、オープニングの第一に、猫と会話する場面である。

「ここはポッケ村。
雪山の懐に抱かれた、平和な村ニャ。
ほほう、あんたですニャ?
雪山で倒れてたっていうハンターは。

村長が心配してたニャ。
元気になったら、まず村長に挨拶してくる
ことニャ……」(モンスターハンター2Gより)と。

 このあたりが、もっとも最近的な日本語ということになる。
が、100年後の日本人が果たして、この文章を読めるだろうか。
読めても、理解できるだろか。
日本語には、そういう危うさが、いつもつきまとう。

●英語教育

 英語教育に賛成とか、反対とかいう議論そのものが、ナンセンス。
英語教育が必要と思う親がいる。
必要でないと思う親がいる。
英語を勉強したいと思う子どもがいる。
したくないと思う子どもがいる。

 だったら、どうして英語教育を自由化しないのか。
わかりやすく言えば、学校教育という「場」から離れて、子どもに英語を学べる場を
提供すればよい。
クラブ制でも、何でもよい。
ドイツやイタリアでは、そうしている。
オーストラリアでも、そうしている。
日本でも、学外教育として英語教室がある。
英会話教室もある。
民間に任せられるものは任せたらよい。
言うなれば教育の民活化。
何も学校だけが、「道」ではない。

 つまりそうした議論をまったく重ねないで、いきなり「英語教育は必要ない」は
ない。
さらに短絡的に、「日本語も満足に話せない子どもに……」と結びつけるのはおかしい。
昨日読んだ、文G春秋(今月号)では、2人の学者が対談していた。
いわく、「英語を公用語にしている会社はつぶれる」「イギリスでは全員英語を話せる
が、イギリスは落ちぶれてしまった」と。
そしてその返す刀で、「学校では、論語を教えろ」と。

 いくら文G春秋でも、これはメチャメチャな論理と言ってもよい。
反論するのも疲れるが、順に考えてみたい。

●英語が公用語 

 日本から外資がどんどんと引きあげている。
今年になってからも、多くの外国企業が東京市場から撤退している。
今では、数えるほどしか残っていない。
2008年には、たったの16社。
ピークだった1991年(127社)の、8分の1。
それが2009年、2010年と、さらに減った(注※)。

理由は簡単。
翻訳料が高額すぎる。
日本では日本人投資家保護のもと、一度すべての書類(決算書など)を日本語に翻訳しな
ければならない。
これが第一の理由である。

 で、日本を撤退した外国企業は、シンガポールや上海へ逃げている注。
とくにシンガポール。
シンガポールの公用語は、英語。
一人当たりの国民所得では、すでに日本はシンガポールに抜かれている。
こういう現実をさておき、「イギリス人はみな、英語を話せるが……」はない。
そのイギリスのことはよく知らない。
が、オーストラリアのグラマースクールでは、中1レベルで、中国語、日本語、
インドネシア語、フランス語、ドイツ語から、1科目を選択して学習できるように
なっている。
英語国では、英語しか教えないと考えるのは、まったくの誤解。

 また企業レベルで英語を公用語にするのは、すばらしいこと。
どうしてそれが悪いことなのか。
外国の情報を、直に、しかも「生(なま)」のまま、自分のものにすることができる。
どうしてそういう会社が、「つぶれる(倒産する)」のか。
仮につぶれたとしても、(つぶれる会社も出てくるだろうが)、英語を公用語にしたから
ではない。

 文G春秋には、こうあった。
「そういう会社をしっかり応援して、つぶれるのを楽しみにしましょう。
他山の石となるでしょう」と。

 もしこんなアホな論理がまかり通るなら、(「アホ」と断言してもよい)、毎日朝礼の
場で、論語の素読を社員にさせてみればよい。
ついでに孔子信仰も始めてみたらよい。
そういう会社なら、つぶれないのか。

●論語

 論語については、たびたび書いてきた。
「仁」は、まさに仏教でいう「慈悲」、キリスト教でいう「愛」と並ぶ。
尊い思想であることは、事実。
しかしこれは両刃の剣。

 「学校で論語を教えろ」と言うことは、「学校で仏教典を教えろ」「学校で聖書を教えろ」
と言うことに等しい。
「イスラム経典を教えろ」でもよい。
現に中国では、昔から孔子は信仰の対象となっている。
(ノーベル平和賞に替えて、中国では、孔子平和賞を創設しようという動きすらあるぞ!)

 最大の問題は、どうして英語教育と論語教育が、バーター(交換取り引き)されるのか
ということ。
両者の間には、つながりもなければ、因果関係もない。
英語教育に反対なら、反対でよい。
論語教育に賛成なら、賛成でよい。
しかしそれは別々の「場」で、別になされるべき議論。
その底流に見え隠れするのは、「教育万能主義」、あるいは「学校万能主義」。
飛躍した意見に思う人もいるかもしれない。

平たく言えば、文G春秋で意見を対論していた2人の学者は、現場で子どもたちを
教えた経験がない。
「学校」だけが、ゆいいつの教育機関と考えている。
また学校で科目として取りあげれば、それで問題は解決すると考えている。

子どもを教えたことがあるなら、こんなアホなことは言わない。
「学校で英語を教えれば、日本語がだめになる」
「学校で論語を教えたら、論語が身につく」と。

 だったら自分で教壇に立って、論語を教えてみればよい。
子どもたちがどんな反応を示すか、それを自分で体験してみればよい。

●日本の英語教育

 今ではほとんどの小学校で、何らかの形で、授業の中に組み込んでいる。
授業時間数や内容は、学校ごとに、まちまち。
が、同時に、多くの学校では、みな、デッドロックに乗り上げ、四苦八苦している。
英語の教師(外人)そのものが、逃げ腰。
資格がきびしい上に、重労働。
給料も安い。
地域によっては、英語教師をさがすのに苦労している。

「英会話」なるものにしても、言うなれば暗記につづく暗記。
が、だからといって、「英語教育が無駄」と書いているのではない。

 問題点はある。
批判すべき点や反省すべき点はある。
しかしそれはつぎの一里塚への一歩に過ぎない。
試行錯誤を重ねながら、現場で苦労している教師も多い。
つまり方法論の問題であって、目的とすべき方向性はまちがっていない。
英語を第二言語と設定しても、何らおかしくない。
それとも日本は、このまま日本語だけの世界で生きていくというのか。
生きていかれると、思っているのか。

 文G春秋の中の対談では、「英語を使って仕事をしているのは20%前後しかいない」
(数字は記憶)というようなことが書いてあった。
だから「英語教育は必要ない」と。
しかし本当にそうだろうか。
ひとつの例をあげて考えてみよう。

●山荘で

 今、この原稿を浜松市郊外にある、私の山荘で書いている。
以前は、このあたりもミカン畑に埋もれ、秋を過ぎると黄色いミカンがまるで咲いた花
のように見えた。

 が、今では見る影もない。
たった10年で、すっかり様変わりした。
その理由の第一が、専業農家の高齢化と人手不足。
ミカンの収穫作業は、まさに手作業。
重労働。
そこで考えられたのが、季節労働者を外国から呼び寄せること。
現にオーストラリアのリンゴ農家や、イチゴ(ワイン)農家ではそうしている。
東南アジアから労賃の安い労働者を連れてきて、彼らに収穫をさせている。

 が、悲しいかなそうした労働者を使いこなす力量が、このあたりには「ない」。
農家にもないが、それを取り仕切る農協にもない。
国際的なマナーで外国人労働者を使いこなすことはもちろん、簡単な英会話すらでき
ない。

 「英語を使って仕事をしているのは20%しかいない」(記憶)ではない。
「20%しかいないから、こういう問題が起きてくる」。
それが問題。
まず英語が話せる。
それが国際的であることの基盤。
国際性とは、それをいう。
その国際性のなさが、こんな山荘の周辺でも問題になっている。

●論語教室

 教育の力には限界がある。
「時間数」という限界である。
「何もかも教育で」という発想には、そもそも無理がある。
学校教育の場で、論語を教えようとすれば、どこかでほかの教科の時間を
削らなければならない。
それが「英語」というわけだが、どうして英語なのか?

 また「論語」という教科を作れば、それでよいというものでもない。
こういうのを教育万能主義というが、それについては、別のところで何度も書いて
きた。
だれが、何を、どう教えるのか?

 一方、人間の脳力、なかんずく子どもの脳力には、限界がない。
子ども自身が興味をもてば、あとは子ども自身が自ら学んでいく。
が、これだけ子どもの興味が多様化している時代に、逆に、どうして今、論語なのか
という疑問も起きてくる。

私の生徒の中には、フルートのレッスンを個人的に受けている子ども(小6)がいる。
毎週、韓国語の講座を受けている子ども(中2)もいる。
スポーツにしても、野球やサッカーだけではない。
スケボーのクラブや、水上スキーのクラブに通っている子どももいる。
まさに何でもござれ。

 つまりそういう子どもたちを、いっしょくたにして、「論語」とは!
もしそれでも……というのなら、先にも書いたようにクラブ制にすればよい。
何なら、自分で「論語教室」でも開いてみればよい。
自分で子どもたちに論語を教えてみればよい。

 私も子どもたちに、「塾」という立場で英語を教えてきた。
40年のキャリアがある。
が、これだけは断言できる。
「論語教室」など開いても、生徒は1名も集まらないだろう。
世の親たちは、そんなに甘くない。
だれがそんな教室に金を払うか。
子どもを通わせるか。
子どもだって、素読をさせたら、1日もがまんしないだろう。

 自分で子どもを教えたこともない学者が、研究室の奥から、やれ「英語教育は無駄」
だの、やれ「論語を教えろ」だのと、勝手なことばかり言っている。
このおかしさ。
それが集積されたとき、冒頭に書いた暴論となる。

●武士道?

 今までは、こういう大(?)先生の意見に耳を傾けた。
天下の「文G春秋」に載った意見ともなれば、なおさら。
しかしみなさん、もうこうしたバカげた意見に従うのは、やめよう。
ありがたがるのも、やめよう。
日本人の悪い癖だ。
中央から来たというだけで、ハハーと頭をさげる。
……さげてしまう。
が、それではいけない。

私たちは私たちで自分の頭で考える。
自分の頭で考えて、意見を言う。

 方法は簡単。
おかしいものに対しては、「おかしい」と声をあげる。
今が、そのときである。
結論を先に言えば、おかしな復古主義には、異議を唱えよう。
論語どころか、その学者は別のところで、「武士道こそ日本人の精神的バックボーンで
ある」と説いている。
が、どうして今、武士道なのか。
それについても私は繰り返し反論してきた。
無数の原稿も書いてきた。

 こうした意見を野放しにしておいたら、本当に日本はそちらの方向に向かって
進んでしまう。
戦前の日本どころか、江戸時代にそのまま逆戻り!
それだけは何としても、防がねばならない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●付記(1)

 少し頭を熱くし過ぎた。
ほどよく眠くはなっていたが、床に就くと頭が冴えてしまった。
30分ほどがんばってみたが、やはり眠れなかった。

 起きあがり、パソコンの前に……。
「MS」という熟睡剤を少し割ってのむ。
これは朝方、効く薬だそうだ。
しかし舌の上で溶かしてのむと、少量でも睡眠薬がわりになる。

 一度、自分の書いた原稿を読みなおす。
推敲する。
たしかに本を書くときとちがい、推敲の仕方も甘い。
いいかげん。
当然といえば当然だが、原稿料をもらって書くときの原稿と、そうでないときの
原稿とでは、書くときの真剣味がちがう。
言い換えると、こうした原稿を書くときは、自らの脳みそにムチを打たねばならない。
だれに頼まれたわけでもない。
原稿料が入るわけでもない。
こうした評論を書けば、損になることはあても、得になることはない。
文G春秋社にブラックリストがあるかどうかは知らない。
しかしあれば、まっさきに私の名前が載るはず。

 が、「はやし浩司」の名前で原稿を発表する以上、妥協は許されない。
あえて「真剣味」を奮い立たせなければならない。
それが結構、たいへん。

●時刻は午前1時10分

 時計を見たら、午前1時10分。
12月12日。
先ほど窓の外を見たが、満天の星空。
山荘でながめると、星空は何倍も広く見える。
寒さを忘れて、しばし見取れる。
 
 話を戻す。

 私は何も、論語教育に反対しているわけではない。
今の英語教育を支持しているわけでもない。
この原稿のタイトルは、「暴論・論」。
暴論というものが、この原稿を通して、どういうものかを読者のみなさんにわかって
ほしかった。
が、悲しいかな、私の力は、あまりにも弱い。
文G春秋に載った意見をブルドーザーにたとえるなら、私の意見など、その下に
巻き込まれる雑草。
その程度の抵抗力しかない。
一般世間の人たちも、そういう目で判断する。
天下の文G春秋にたてつけば、「何を偉そうに!」と、そう思う人も多いはず。
門前払いを受けるだけ。

 このところそういう自分の限界が、よくわかるようになった。
言うなれば負け犬。
負け犬の遠吠え。
おまけにこのところ文章に鋭さがなくなってきた。
脳みそが鈍ってきた?
集中力もつづかない?
それが自分でもよくわかる。
やはり今夜はここまで。
明日(本当は今日)、自宅に帰ったら、真剣に(?)、この原稿をもう一度推敲してみよう。

 今日(12月11日)も、たいした成果もなく終わった。
運動も、30分のウォーキングだけ。

 みなさん、おやすみなさい。
そうそう、この原稿を書いているとき、ワイフは、ずっとビデオを観ていた。
『小さな命が呼ぶとき』という、ハリソン・フォード主演の映画だったそうだ。
先ほどいっしょに床に入るとき、私にこう言った。

「あなたも観なさいよ。すばらしい映画だったから」と。
「どう、すばらしかったの?」と聞いたら、「涙がポロポロ、こぼれたわ」と。

 あのワイフが涙をこぼした!
それだけで星5つの、★★★★★と評価してよい。
言い忘れたが、ワイフは、めったに涙など、こぼさない。
私よりはるかに気丈夫。

●ついでに離婚劇

 ここ2週間ほどは、落ち着いている。
ワイフとはほどほどに、仲よく過ごしている。
「来年のX月には、オーストラリアへ行こう」という話し合いも重ねている。
そのためのパスポートの準備も始めた。

 ……名古屋のセントレア空港から南オーストラリア州のアデレードへ。
アデレードの友人宅で2、3日過ごしたあと、列車でメルボルンへ。
メルボルンでは、最高級のホテルに泊まる。
この宇宙でいちばん大切な女性に、私のいちばん大切な街を案内する。
NG先生が亡くなったあと、そう決心した。
私もいつポックリと逝くか、わからない。

 だからしばらくは、離婚劇のドタバタは、お預け。
私にもそのつもりはない。
ワイフにもない。
つまり離婚するつもりはない。
言うなれば夫婦げんかは、我が家の祭りのようなもの。
あるいは月例行事。
(倦怠期)→(緊張期)→(爆発期)→(冷静期)を、数か月単位で繰り返す。
しかしそれもそろそろ、おしまい。
こんなことを繰り返していたら、寿命を縮めるだけ。

 で、気がついたことがひとつ、ある。
つまり夫婦にもいろいろなタイプがある。
すっかり冷え切っているにもかかわらず、表面的にはうまくやっているように見える
夫婦がいる。
反対に仲がいいにもかかわらず、離婚騒動を繰り返している夫婦もいる。
どうであるにせよ、夫婦げんかというのは、自分の心を相手に投影させて起こる。
それに気づいた。

 たとえば私が自己嫌悪に陥ったとする。
そのとき「私はいやな人間」と思う気持ちを、ワイフに投影させる。
心理学の世界でも「投影」という。
「こんないやな自分だから、ワイフも私を嫌っているはず」と。
そこでワイフのささいな行動に、ケチをつける。
自分に対するイライラを、ワイフにぶつける。
それが夫婦げんかの原因となる。

 本当のところ、私はワイフなしでは、生きていかれない。
そういう自分が、時として、いやになる。
だらしなく思える。
これが自己嫌悪。
その自己嫌悪を、ワイフのせいにする。
ワイフが私を嫌っていると思い込む。
これが投影。

 その結果、「お前はぼくを嫌っている」「あなたの思い過ごしよ」と、夫婦げんかが
始まる。
みながみな、この図式に当てはまるとは思わないが、私たち夫婦のばあいは、そう。

 そう言えば、私の知人の中に、会うたびに、「私は今の夫を愛しています」「すば
らしい人です」と言う人がいる。
結構な話だが、しかし本当にそう思っているなら、口に出しては言わない。
そうでないから、つまり愛してもいないし、(愛の意味を誤解しているのかもしれない)、
すばらしい人とも思っていない。
むしろ逆。
あえてそれを口にすることによって、自分の心をごまかす。
だからそう言う。

 私のばあいだが、私は38年来、ワイフのことを他人にそう言ったことはない。
「あいつは、バカで、頑固で、アホだ」と言うことはある。
ワイフも、私のことを、他人に対して、「愛している」とか、「すばらしい人です」など
と言ったことはない。……と思う。
私は聞いたことがない。
外の世界で、何と言っているかは知らない。
たぶん私と同じように、「うちのダンナは、しつこくて、気分屋で、神経質」と言っている
にちがいない。

 が、2人だけのときは、ときどきこう言う。
今夜も言った。
「ぼくがこうして好きなだけ原稿が書けるのも、お前のおかげだよ。ありがとう」と。
そういうときワイフは、本当にうれしそうな顔をする。

晃子へ、

ありがとう!

……ということで、そろそろ目がしょぼしょぼしてきた。
眠くなってきた。
では、みなさん、2度目のあいさつ。
おやすみなさい!

2010年12月12日、午前1時40分、就寝。

●付記(2)

 朝起きて、居間の雨戸をあけると、目の前に秋の山々がどっと飛び込んできた。
このあたりでは、今が紅葉のまっさかり。
12月の初旬から、中旬。
幾重にも重なる赤や黄色。
それが朝日を受けて、黄金色に輝いていた。

 それを見て、ワイフがこう言った。
「あとでもう少し奥まで行ってみない?」と。

私「奥って?」
ワ「水窪(みさくぼ)のほうよ」
私「いいね」と。

 ここから水窪まで、車で行っても、2時間はかかる。

私「途中まで車で行って、そこから電車に乗ったほうがいいかも?」
ワ「そうねえ」と。

 私たち夫婦は、ほんとうにおかしな夫婦だ。
今月のはじめには、離婚届けの話ばかりしていた。
が、今は、オーストラリア旅行の話。
パスポートをどう申請するか。
「有効期間が5年だと、1万1000円。10年だと、1万6000円。おかしいと
思わないか?」と。

私「いいか、有効期限で申請料がちがうというのは、どう考えても合理性に欠ける」
ワ「どうしてそういうめんどうな料金システムになっているのかしら?」
私「それが役人根性というものだよ。ゴルフの会員権と同じように考えている」
ワ「10年にすれば、その分、役所の手続きが楽になるはずよ。だったら、みな、
10年にすればいいのよ」
私「5年ごとに更新させて、申請料でもうけようというわけさ。中には1回ポッキリの
外国旅行という人もいるからね」
ワ「だったら、みな、低額にすればいいのよ」と。

 役人が役人なのは、権限と情報、それに組織をもっているから。
役人からこの3つを除いたら、あとには、何も残らない。
同じように、中央の学者たちが学者なのは、権威と情報、それに組織をもっているから。
学者からこの3つを除いたら、あとには、何も残らない。
少なくとも、今まではそうだった。
が、インターネットの発達で、大きく変化した。
私のように地方に住む者でも、直に最新の情報を、外国から仕入れることができる。
権威と組織がなくても、ものを書くことができる。
書いたものを、直接読者に送ることができる。

 話をぐんと戻すが、中央の出版社を通さなければ、原稿の発表ができないという時代
は終わりつつある。
文G春秋にしても、しかり。
こんなアホな対談で誌面を飾るようになったら、おしまい。
先は短い。

 2010年12月12日、朝記。
みなさん、おはようございます。

(注※)(時事通信より)

 2008年に東京証券取引所への上場が廃止となった企業は27日現在、79社に達し、過去
最悪だった02年(78社)を上回った。
世界的な景気後退や金融危機のあおりで経営破綻(はたん)し、退場を余儀なくされた企業が
前年の4倍に膨らんだことが主因だ。

 東証によると、民事再生法・会社更生法の申請といった破綻による上場廃止は、アーバンコ
ーポレイションやオリエンタル白石など16社。
イラク情勢の緊迫化で世界経済が減速し、倒産が急増した02年の22社に次ぐ規模だ。今回
の景気低迷は長引く公算が大きく、「来年も高水準の上場廃止が続く可能性がある」(野村総
合研究所の大崎貞和主席研究員)との指摘が増えている。

 外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になっ
た。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コスト
に見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車をかけている。
東証上場の外国企業は16社と、ピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。(以
上、時事通信(2008年12・27))

(参考:2008年に書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【撤退する外国企業、規制緩和の必要性】

●この現実を、知っているか?

++++++++++++++++++++

日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

+++++++++++++++++++

時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。
株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに
見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上場の外国企
業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

++++++++++++++++++

●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で616円安。
それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れてい
ることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあるこ
とを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、20
02年になっている。

+++++++++++++++

【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125 
enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The 
number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for 
translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and 
liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my 
article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数は
ピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスの
ネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今
どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしま
つ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績
は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正
解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析
方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250
人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへん
お粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日
(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業で
した」と。


Hiroshi Hayashi+++++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●道路の落ち葉(没落する日本、いいのか、このままで!)

+++++++++++++++++++++

このあたりでも、道路の落ち葉を、「ゴミ」と
考える人が増えてきた。
落ち葉といっても、街路樹からの落ち葉。
そのたびに、市の担当課に電話が入る。
「ゴミを何とかしてほしい」と。

が、落ち葉はゴミではない。
自然の循環物。
それが気になるなら、自分で掃除すればよい。
つまりそれをしないから、役人の数ばかり増える。
外郭団体の数ばかり増える。
つまりその分だけ、税金が高くなる。

今、日本の求められている最大の課題は、行政改革。
公務員の削減。
簡単に言えば、公務員の人件費の削減。
本来なら自分たちですべき仕事まで、役所に
させてしまう。
頼んでしまう。
それをよいことに、役所は役所で、どんどんと
権限を拡大し、天下り先としての外郭団体を
増やしていく。
その結果が、今。

日本の法人税の表面税率は、40%(40・7%)を
超えている。
世界でも、最高額!
「日本の論点」(文藝春秋)は、キャノンを例に
あげている。
キャノンの法人税率は、38%。

韓国のLG電子が、19・2%。
アメリカのインテル社が、27・6%(「同書」)。

しかしこれでは勝ち目はない。
はっきり言えば、日本の民間企業は、役人を
食べさせるために金(マネー)を稼いでいるようなもの。

が、これだけではない。
一事が万事。
「日本の論点」は、ほかに、港湾のコンテナ
取り扱い料金、空港の着陸料などの例もあげている。
すべて高額。
ついでに食料品も高額。
他国のそれと比較するまでもない。

さらに悲しむべきことに、東証一部の外国企業は、
とうとう10社になってしまった(2010年9月現在、同書)。
ニューヨーク、ロンドン、シンガポールの
証券取引所には、それぞれ数百社以上もの外国企業が
上場しているというのに、10社以下(同書)。
理由は、翻訳料の負担。

……しかし日本の現状が、ここまで悲惨なものとは、
私も思っていなかった。
想像以上。
あまりにもひどい!

+++++++++++++++++++++

●公務員の給料

 いまだに闇に包まれているのが、公務員の給料。
給料というより人件費。
諸手当を含む、総人件費。
総額38兆円とも言われている(某経済学者推算)。
国家税収とほぼ同額。
が、いったいいくら使われているのか、使われていないのか、それすらわからない。

 さらに驚くべきことに、公務員の給料をあれこれ書いただけで、批判の嵐にさらされる。
が、何も私は無理なことを書いているのではない。
「公表したらいい」と書いているだけ。
またそれですべての問題が解決する。
どうしてそんな、当然とも言えるべきようなことが、この日本ではできないのか。

●立派なのは……

 もう20年ほど前になるだろうか。
飛騨高山線で高山から名古屋に向かっているときのこと。
断続的に、ひなびた町や農村がつづいた。
農村というより、寒村。
そんな町や村の中に、ときどき場違いなほど立派なビルがあるのを知った。
それが私にはちょうど、虫歯だらけの口の中にある、金歯のように見えた。
おかしな例(たと)えに思う人もいるかもしれないが、私には、そう見えた。

 で、つぎの駅から、私は目を凝らして、そういう建物が何であるかを見た。
結果……。
もうここに書くまでもない。
公共施設の建物である。

 どうしてこの日本では、公共施設ばかりが立派なのか。
豪華というより、札束を敷き詰めて建てたようなものばかり。
会館にはじまって、図書館、公民館、道路などなど。
最近開港した静岡空港にしても、そうだ。
わずかな利用客のために、静岡県は目の玉が飛び出るようなビルや関連施設を建てた。
オーストラリアにも地方空港はあるが、どこも小さなビルだけ。
雑草の中に滑走路が走っているだけという空港も、少なくない。

●おかしな完ぺき主義

 少し前、シドニーでオリンピックが開催された。
そのときのこと。
私はマラソンコースを、テレビで見ていて、唖然とした。
日本ではまず、見かけられない道路である。
スタートやゴール付近の道ですら、でこぼこというか、つぎはぎだらけ。
私の住む団地内の道路でも、それよりもはるかに立派。

 土木技術の差というよりは、金(マネー)のかけかたのちがいということになる。
掘っては埋め、掘っては埋め、それを毎年のように繰り返している。
この状況は、あなたが住んでいる市町村でも同じのはず。
そして意味のない道路標識が、角によっては、5〜7本ずつ、立っている。
あの道路標識にしても、1本が120万円前後とか(20年ほど前に聞いた話、伝聞)。

 粗悪なものよりは、良質なもののほうがよいに決まっている。
しかしそれにも限度がある。
「公共」という呼び名がつくと、それが「超豪華」なものに変身する。
これ称して、「おかしな完ぺき主義」。
やらなくてよいようなところまで、完ぺきに仕上げる。
が、これではいくらお金があっても、足りない。
その結果が、今。

●原点

 一方、私は浜松市内と、郊外の山荘での、二重生活をしている。
距離にして20キロ足らず。
車で35〜40分の距離。
しかし生活姿勢は、まったくちがう。

 山荘の周辺では、道路工事ですら村の人たちが出て、自分たちでする。
道路沿いの草刈りですら、自分たちでする。
落ち葉など、気にする人はいない。
あっても、自分たちで、清掃する。

 それがその村の人たちの基本的な生活姿勢。
が、どちらが原点かと言えば、当然、こちらのほう。
つまり自分たちの生活環境は、自分たちで守る。

●質素革命

 日本の政府は、お金をかけるべきところを、完全に見誤った。
かけなくてもよいようなところに、無駄なお金をかけ、かけるべきところにかけない。
その結果が、今。

 もう一度、ここを読んでほしい。

「……さらに悲しむべきことに、東証一部の外国企業は、
とうとう10社になってしまった(2010年9月現在、同書)。
ニューヨーク、ロンドン、シンガポールの
証券取引所には、それぞれ数百社以上もの外国企業が
上場しているというのに、10社以下(同書)。
理由は、翻訳料の負担」。

時事通信社は、「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を
かけている」と報道している(2008年)。

いいのか、このままで!
……と叫んで、この話は、おしまい。
既得権益者、つまり官僚政治の壁を破るのは、容易なことではない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2010−12−13

+++++++++++++++++++++

今朝は、目覚めがよくなかった。
軽い頭痛。
不快感。
寝不足感。
「起きようか」と迷ったが、朝の冷気を頬に感じて、
そのままじっとしていた。

1時間半は、無駄にした。

ワイフが起き上がるのを感じて、私も布団から出た。
時刻は午前7時を過ぎていた。

私はそのままウォーキングマシンへ。
30分の運動。
終わったときには、かなりの汗をかいていた。
頭痛は消えていた。

よかった!

みなさん、おはようございます。
今日は12月13日、月曜日。
曇り空。

++++++++++++++++++++

●コメントへの反論

 若い人だと思うが、こんな反論がBLOGに、書き込まれていた。
「外資企業が日本から撤退するのはよいことだ。それによって日本は、持ち前の
底力を発揮できるようになる」と。

 もう一度、数年前の時事通信社の記事を読んでほしい。
この記事に対する、書き込みである。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。
株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに
見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上場の外国企
業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

 現在は、さらに減り、一桁台にまで落ち込んでいる。
この投稿者はその深刻さが、まったく理解できていないようだ。
外国企業が日本から撤退するということは、同時に、それだけ日本が投資先としての
魅力を失いつつあるということ。
もっとわかりやすく言えば、日本は外国に相手にされなくなってきているということ。
時事通信社は、つぎのようにも伝えている。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

 外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になっ
た。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コスト
に見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車をかけている。
東証上場の外国企業は16社と、ピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。(以
上、時事通信(2008年12・27))

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

 深刻さが理解できないようなら、こういうたとえで考えてみればよい。

 あなたの町には、良質な温泉がある。
それを囲んで、ホテルや旅館がいくつかある。
以前は、あなたの町には、いろいろな旅行会社の支店(=外資企業)があった。
その支店が、客(=投資)を全国各地(=全世界)から呼び込んでくれた。
が、この長引く不景気とコスト高。
旅行会社の支店は、つぎつぎとシャッターをおろした。
支店を、別の町(=シンガポール)に移した。

 が、中に、ノー天気な若者がいて、こう言った。
「旅館の入浴料が安くなった。これからは毎日、銭湯がわりに、温泉へ通える」と。

 かなり荒っぽいたとえだが、おおざっぱに言えば、そういうこと。

だから日経新聞は、つぎのようにつづける。

『……今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。
終値で616円安。
それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れてい
ることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあるこ
とを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという』(日本経済新聞)と。
 
 さらに一歩進んで、「外国人労働者を、追い出せ」と主張する人もいる。
「日本人の職場を奪っている」というのがその理由だが、これこそまさに暴論。
どう暴論かは、もう何度も書いてきた。
外国人労働者の助けなしには、日本経済はもう成り立たない。
そういう状態にある。
目先の損得論に振り回され、短絡的なものの考え方をしてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司 

●クリスマス

 クリスマスが近くなってきた。
この5〜6年、ワイフと2人だけで、クリスマスを祝っている。
正月も、似たようなもの。
それを今朝、ワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「別にいいんじゃな〜い。私たち、クリスチャンというわけでもないから」と。

 ワイフは、どこまでも楽天的。
うらやましい。
「2人だけというのも、さみしいね」と追い打ちをかけると、さらにこう言った。
「私の友だちなんかも、みんな、そうよ」と。

 もっともその分だけ、教室での行事が多くなる。
忙しくなる。
年末には、生徒たちを連れて、近くのレストランへ行くことにしている。

 で、スケジュールを見ると、12月24日は金曜日。
この日の最終クラスは、小4クラス。
私がいちばん大切にしているクラス。
このクラスのあとに、クリスマスパーティができる。
決定!

 私には、すばらしい友だちが、たくさんいる。
その友だちと、パーティをすればよい。
ものごとは何でも、前向きに考えよう!


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●友情(はやし浩司 2010−12−14朝記)

++++++++++++++++++

私はひとりぼっちではなかった。
それを知ったとき、熱い涙が、とめども
なく流れた。

++++++++++++++++++

●友の死

 この広い世界で、自分の心の内を話せる友人は、私のワイフだけ。
この浜松市では、ワイフだけ。
今は、そういう状態。
学生時代からの友人の1人は、2年前に他界した。
それほど親しくはなかったが、何かにつけ、彼が近くにいるというだけで、心の支えに
なっていた。

 もう1人いたが、この12月1日(2010年)に、同じく他界した。
だれも予想すらしなかった、突然の死だった。
それまでは毎日のように、その朝に書いた原稿を、メールで送っていた。

 ほかに3人の息子たちがいるが、「心の内」を話すといっても、どうしても愚痴になって
しまう。
息子たちにしても、不愉快だろう。
老後の不安を口にしただけで、顔をそむける。
何も、めんどうをみてほしいと言っているわけではないのだが……。

●老後

 そんな中、最近ワイフがよくこう言う。
「オーストラリアへ移住しない?」と。
移住といっても、数年、あるいはもう少し長く、オーストラリアに住んでみないか、と。
ワイフ自身のためというよりは、私のことを考えてのことらしい。
このところずっと落ち込んでいる。
気分が重い。
老後のことはできるだけ考えないようにしている。
が、いつも心から離れない。
打ち寄せる渚(なぎさ)の波のように、折につけ、心を塞(ふさ)ぐ。
ザザー、ザザーと。

 それに……。
ワイフは、こう言う。
「人生も短いのだから、したいことをしましょうよ」と。
そういう話の流れの中で、「オーストラリア」という名前が浮かんできた。

●解放

 オーストラリアといっても、今は大きく変わった。
私の知っているオーストラリアは、昔のオーストラリア。
あのメルボルン市(当時の人口は300万人)にでさえ、日本人の留学生は、私、
1人だけだった。
そんな時代のオーストラリア。
が、今は、多くのアジア人たちが、ひしめくように住んでいる。
犯罪も多くなり、男性でも夜のひとり歩きは危険になったという。

私「今のオーストラリアは、ぼくが知っているオーストラリアとはちがうよ」
ワ「知っているわ」
私「向こうの人は、日本人といっても、ほかのアジア人と区別しないよ」
ワ「知っているわ」
私「それでも、お前は、オーストラリアに住みたいのか?」
ワ「……あなたのためよ」と。

 私の夢は、いつかオーストラリアに移住することだった。
しかしそれができなかった。
郷里に母と、病弱な兄がいた。
生活力が、ほとんどなかった。
が、2年前、兄が。
つづいて母が、他界した。

 私はやっと「家」から解放された。

●孤独

 私は孤独だった。
ずっと孤独だった。
今も、孤独。
「友」と呼べるような人は、ワイフしかいない。
それが不満というのではない。
私にとって老後の不安というのは、ワイフのいない世界をいう。
もしワイフが先に逝ってしまったら、私はどうなるのか。
どうしたらよいのか。

 親類といっても、面従腹背。
つきあいといっても表面的なもの。
家庭の事情を話すと、その話は、1、2週間のうちに、みなに伝わってしまう。
みながみな、私に好意的というわけではない。
いつも私が話す話は脚色され、どこかでゆがめられてしまう。
たとえばいとこの1人に、(いとこといっても、60数人のいとこがいるが)、今日、
電話で、「最近、腰がこわばることがあって、痛い」と話したとする。
すると1週間後には、別のいとこから、こんな電話が入る。
「浩司君、あんたは車椅子に乗っているのか?」と。

 言うなれば、私の親類たちは、自分を「家」という砦で囲み、その中だけで生きている。
その「ワク」から外れる者を許さない。
昔ながらの利己主義的な「家意識」。
それが亡霊となって、そのまま生きている。
つまり私が住む世界ではない。

●限界

 私とワイフが出した結論は、こうだ。
もし来年(2011年)、仕事に限界を感じたら、オーストラリアへ行こう、と。
私も来年64歳になる。
自由業に定年はないとはいうものの、しかしここ数年、限界を感ずることが多くなった。
少子化に不景気。
加えて私の教え方は、どこか古典的。
古臭い。
今の若い親たちには、受けない(?)。

私「でもね、ぼくは慎重の上に、慎重に考えたい。住んでみたが、やっぱり日本のほう
がいいというのでは、困る。若いときならまだいい。しかしこれからはやり直しがきか
ない」
ワ「……」
私「行くのは簡単なこと。しかし向こうで、ぼくは何をすればいいのかな。毎日、景色
だけを見て過ごすわけにはいかない。仕事をしたい。が、ぼくの年齢では無理」

 私はそういうとき、すぐ「死に方」を考えてしまう。
死ぬのがこわいというのではない。
死ぬまでのプロセスがこわい。
どう死ぬか。
つまり「死に方」。
それを考えると、こわい。

ワ「じゃあ、こうしたら……。つまりね、とにかく1週間だけでも行ってみるのよ。
2人で、住めるかどうか、確かめてきましょうよ」
私「そうだな。それがいいかな。それを何度か繰り返したあと、その後、どうするかを
決める……っていうことだね」
ワ「そうよ……」と。

●準備

 パスポートの準備を始めた。
が、これは第一歩……というより、ほんの一部。
ほかの国とはちがう。
ただの旅行ともちがう。
私にとってオーストラリアというのは、そういう国。
私の青春時代、そのもの。

 あの時代はたしかに私の出発点だった。
すべてがそこから始まった。
が、今、この40年を振り返ってみると、あの時代が、そのまま私のゴールになって
いるのを知る。
私の人生のすべてが、加齢とともに、そのゴールに向かい動き出している。

 ……あの時代が、つぎつぎと私の脳裏に浮かんでくる。
しかも遠い昔の日々としてではなく、つい昨日のように浮かんでくる。
「オ〜イ」と声をかければ、すぐそこから返事が返ってくる。
この空の向こうには、同じ別の空があって、そこに私の青春時代がある。
私はあの世界で、1日1日を1年のようにして生きた。
ウソでも誇張でもない。
本当に、1日1日を、1年のように長く感じた。

 オーストラリアへ行くということは、いつもそうだが、私にとっては、その青春時代
に戻ることを意味する。
それなりの心の準備なくして、私にはオーストラリアへ行くことはできない。

●友情

 で、昨日、2人の友人にメールを出した。
メルボルン市に住む、D君。
それにアデレードの近郊の町に住む、R君。
軽い気持ちで、連絡した。
少なくとも、メールでは、そう書いた。
「来年X月XX日、1週間の予定で、オーストラリアへ行く」と。

 簡単な予定も書いた。
アデレードで2泊、列車の中で1泊、そしてメルボルンで2泊、と。
往復の飛行機の中で、1泊ずつ過ごす。
すかさず、返事が入った。
が、その返事を読んだとき、私の心の内から熱いものが、こみあげてくるのがわかった。
「私は、ひとりぼっちではなかった」と。

 D君は、ちょうどそのころ、中国→韓国→日本への旅行を計画していた。
「ヒロシがオーストラリアへ来るなら、それをとりやめる」と。
R君は、「小型飛行機でアウトバック(荒野)を案内する」と。
それに「アデレードからメルボルンまで、車で行こう」とも。

 40年前と何も変わっていなかった。
オーストラリアには、私を迎えてくれる人たちがいる。
それを知ったとき、大粒の涙が、とめどもなく頬を伝わった。

●「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)」

 学生時代、そのD君が、こんな歌を教えてくれた。
アイルランドのドリンキング・ソング(民謡)である。
私はその歌を、全部、ソラで歌える。
が、歌の題名が長くわからなかった。

 アイルランドへ行くという人が近くにいると、いつもその人にこう頼んだ。
「もし、こんなメロディ(歌詞)をどこかで聞いたら、題名を調べてきてほしい」と。
そんなこともあって、いつだったか、SKさん(前S大学教授)が、アイルランドで
CDを何枚か買ってきてくれた。
が、その中には、その歌はなかった。

 が、簡単なことだった。
旅行の連絡をするとき、その歌のことを書いた。
「君が教えてくれた、あの歌の題名を教えてほしい」と。
するとD君が、同じメールの中でこう教えてくれた。
「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)だよ」と。

 30年もさがしつづけてきた歌が、たった1日でわかった。
1日というより、一瞬!
そのあっけなさに、驚いた。
「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)」!

http://www.youtube.com/watch?v=kI8bPVw3scA&feature=related

♪オレは、この世界中を旅してきた。
 今、オレは、もうひとつの世界に行く。
 オレにはわかっている。
 そこでは親友だちが、みな、待っている。
 ローザン・ザ・ボーを迎えるために。
 ローザン・ザ・ボーを迎えるために。

♪オレが死んで、バーのカウンターの
 上に置かれたら、みんなはその下から
 声が聞こえてくるのを知るだろう。
 オレにウィスキーのブタ樽をもってこい、と。
 オレとウィスキーを飲むために。
 オレとウィスキーを飲むために。

 YOUTUBEに題名を書き込むと、すぐその歌が見つかった。
「ザ・ダブリナーズ」というグループが、それを歌っていた。
2、3度、それを聴いていると、またあの涙が、とめどもなくあふれ出てきた。
いっしょに歌っていたが、声にならなかった。

 ……あのノートンの酒場で、私たちは顔を合わせると、いつもこの歌を歌っていた。
それが昨日とか、おとといとかではなく、その瞬間の現実として、よみがってきた。

 ……そういう私をワイフがどこで見ていたのかは知らない。
が、そのあと、横から私にこう言った。

「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。
私はためらわず、頭を小刻みに、何度も縦に振った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ローザン・ザ・ボー Rosin the Beau Roisin the 
Bowアイルランド民謡 青春時代International House Melbourne University Australia 
241 Royal Parade)

(追記、SKさんへ)

 ご無沙汰しています。
お元気ですか。
京都も寒いですか。
今朝、久しぶりにSKさんのことを書きました。
この原稿を送ります。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●オーストラリア(2)

+++++++++++++++++++++

2011年、X月XX日。
ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。
「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。
サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に
もどるようなもの。
私にとっては、オーストラリアは心の源流。

それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず
返事が届いた。
アデレードで2泊の予定だった。
が、2泊ではとても足りそうにない。
それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。
が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。
そうなると、とても2泊では足りない。

+++++++++++++++++++++

●Rosin the Beau

 オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」
というのがある。
アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を
今でもソラで歌える。
しかし歌の題名がわからない。
YOUTUBEで調べてみた。
「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、
うまくヒットできなかった。

 が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。
正しくは、「Rosin the Beau」。
さっそくYOUTUBEで検索。
いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。
その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。
こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。
その歌を聴いていると、ポロポロと涙がこぼれた。
そのときの情景が、そのままそこにあった。
私はちょうど40年前に、タイムスリップした。

 それを横で見ていて、ワイフがこう言った。
「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。

 私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。
「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。
やっとこの歌に、めぐり会えた。
ありがとう」と。

●1日が1年

 あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。
けっして大げさな言い方ではない。
本当に、そう感じた。
1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。
そんなある日のこと。
ちょうど3か月目のことだった。
私はこう思った。
「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。
うれしかった。
それがたまらなく、うれしかった。

 私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。
そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚いた。
4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。
思い出がない。
あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。
そのため金沢での学生生活がかすんでしまった。
その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。
金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。
単調な生活。
スケールの小さな生活。
刺激のない生活。

「勉強」と言っても、暗記また暗記。
受験のための暗記。
あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。
疑問をもてば、なおさら。
疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまった。

●不思議な世界

 そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。
地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。
興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。
私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば
よい。

 が、時代が変わった。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
私たちが学生のころには、考えられなかった。
往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。

 私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
日本には綿棒すら、まだなかった。
バンドエイドもなかった。
風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。
医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。
こんなこともあった。

 カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。
大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられていた。
が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。
驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。
(地面だぞ!)

 あるいは冬の寒い日。
1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。
水着をもってくるように言われた。
今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、
オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター
といった。
自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と話していた。

 で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という
パイを食べた。
オーストラリアでもっともよく食べられているパイである。
それを食べていると、彼女は、水着姿になってしまった。
泳ぐためではない。
「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。
・・・などなど。

言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという
習慣は、当時の日本人にはなかった。
そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、
金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ
に出かけていた。
そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。

 こうして書き出したら、キリがない。

●常識論

 アインシュタインは、常識について、「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と言った。
たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。
そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。
が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。
それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。
ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。

 たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て
いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。
その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。

 では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。
15歳くらいか。
16歳くらいか。
それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。
少なくとも私は驚いた。
そのとき私は23歳だった。
ということは、やはり18歳前後ということになる。
(アインシュタインという人は、本当にすごい!)

 そのころまでに「常識」が形成される。
それがその人の意識の基盤になる。

●自由

 が、今では、高校生でも驚かない。
綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。
むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。
彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。

 話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。
が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。
彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの
だった。
たとえば職業観。
たとえば家族観。
たとえば人生観。
それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。

 当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。
「寄らば大樹の影」。
それが常識だった。
が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。
私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく。
「家」に対する意識も、ちがっていた。

 また私が大学で使ったテキストには、こうあった。
「日本は、君主(Royal=天皇)官僚主義国家」と。
が、これには私は反発した。
「日本は民主主義国家だ」と。
しかしだれも相手にしてくれなかった。

 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
首相以下、国会議員の大半は、元官僚。
県知事の大半も、元官僚。
大都市の知事も、これまた元官僚。
40年前の日本は、さらにそうだった!

●自由の意識

 もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。
それがよかったのか、悪かったのか。
現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。
この日本は、組織社会。
組織に属している人は、実力以上の「得」をする。
たいした努力をしなくても、「得」をする。
今の公務員たちをみれば、それがわかる。
組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。
努力に努力を重ねても、「損」をする。
今の商工店主の人たちをみれば、それがわかる。

 「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。
しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を
おろしている。
そう簡単には、なおらない。
この国で組織に背を向けて生きるなどということ自体、常識ハズレ。
ほとんどのばあい、生きていくことすら、むずかしい。

 が、あえて私は自由の道を選んだ。
たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。
その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。

 人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。
何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。
私のばあい、「生き様」を学んだ。
一編の論文を書いたわけではない。
もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。
オーストラリアという国は、私にはそういう国。
・・・というより、「オーストラリア」という国の名前には、そういう意味がある。

 「旅行に行こう」「はい、行きます」と、安易に考えることは、私にはできない。
(International House in Melbourne Univ.)

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Hiroshi Hayashi++++++Dec 2010++++++はやし浩司(林浩司)

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【歌をみなの前で、ひとりで歌う】

何でもないことのようですが、みなの前で、ひとりで、立って歌を
歌うというのは、幼児にとっては、たいへんなことです。
またそれができる子どもは、少ないです。

で、今日は、歌を歌うというレッスンをしてみました。
みなが、「歌いたい」「歌わせろ」と言うようになるよう、指導してみました。
結果は、大成功でした。
最初は、「歌いたくない」と言っていた子どもも、中盤くらいから、「歌いたい!」と
自分から言うようになりました。
その変化を、どうかご覧ください。

なおこうして歌うことによって、子どもは、発表力、発言力を身につけていきます。
幼児のこの時期に、そういう力が一度身につくと、一生の財産になります。

またこの時期に、それができる子どもは、その後、心を開放できるようになります。
何でもないことのようですが、みなの前で、ひとりで、立って歌を
歌うというのは、幼児にとっては、とても大切なことです。

●年長児クラス(12月13日)

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児 独りで歌を歌う ひとりで歌を歌う 幼児の発表力 発言力)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●家族主義の限界(新・家族主義に向かって)What is Family for us?

++++++++++++++++++

家族主義にも条件がある。
家族主義が、ベストというわけではない。
問題がないわけではない。

「核家族」からさらには、「カプセル家族」へ。
それがさらに極限化した家族主義。
もしそれを家族主義と呼ぶなら、
家族主義など、クソ食らえ(尾崎豊)!

私が説く「家族主義」には、2つの条件が
ある。

(1)家族に、両親を加えること。
(2)「私の住む世界だけが大切」という壁を
取り払うこと。

それが家族主義ということになる。

+++++++++++++++++++

●利己主義としての、家族主義

 利己主義がワクを広げる。
その中に家族を取り込む。
多くの人たちは、その状態を、「家族主義」と誤解している。
しかしそれは家族主義ではない。
私が20年に渡って説いてきた、家族主義ではない。

 「自分だけがよければ、それでいい」と。
そこに家族が入ると、「私の家族だけがよければ、それでいい」となる。
平たく言えば、個人的な利己主義が、少しワクを広げて、家族主義になっただけ。
「家族主義」という言葉が利用されただけ。

●出世主義から家族主義へ

 当初、私は日本にはびこる出世主義を批判した。
その反対側に位置する「主義」として、「家族主義」を説いた。
とくに団塊の世代は、「家族よりも仕事」と考えた。
戦後の経済高度成長の荒波の中で、家族を犠牲にした。
が、2000年を境に、日本人の心は大きく変化した。
「サイレント革命」という名前を使った人もいる。

 「仕事より家族が大切」と考える人が、アンケート調査をするたびに、多くなった。
40%から50%に。
50%から80%に。
1年単位で、変化した。

 こうした変化は当然であるとしても、ここにきて、大きな曲がり角にやってきた。
「家族主義」が誤解され、変形した。
それが「利己主義的家族主義」ということになる。

●親不在の家族主義

 今、若者たちの中で、「将来、親のめんどうをみる」と考えている人は、驚くほど少ない。
内閣府(総理府)の調査結果を見るまでもない。
それについては何度も書いてきた。

 若い人たちがいう「家族主義」の中には、「両親」は含まれていない。
彼らが第一に考える「家族」というのは、自分たち夫婦と、その子どもたちだけの
世界をさす。
核家族からカプセル家族へ。
人間関係だけではない。
価値観も、自分たちの中だけで熟成させる。
世代から世代に連続する価値観の橋渡しをしない。
「カプセル家族」という名前は、そういうところから生まれた。

 が、これは若人たちにとっても、不幸なことである。
「私たちは古い世代とはちがう」と言いながら、古い世代がしてきた経験や、得てきた
知恵を生かさない。
そしてすべてをゼロから始めてしまう。

 私たちの世代の60%が、やがて独居老人となり、孤独死、あるいは無縁死をする。
そういう運命にある。
それはそれで構わない。
自業自得と心得る。
しかし自分たちもまた、同じ道をたどることになる。
それに気づいていない。
「私たちだけはだいじょうぶ」と。
それがいかに幻想であるかは、もう少し時間がたってみるとわかる。

●利己主義

 若い人たちがますます利己主義的になってきている。
私はそれを強く感じている。
あなたも心のどこかで、それを感じているはず。
自分のことしか考えない。
自分の利益しか考えない。
それが高じて、自分さえよければ、それでよいと考える。
またそれでもって、「個人主義」と誤解する。

 誤解がないように書いておきたい。
個人主義というのは、生き様の問題。
「私は私」と、自分の生き方を貫く。
それが個人主義。

 その「自分さえよければ、それでよい」という世界に、家族が加わる。
夫や妻、子どもが加わる。
そこで「私たち家族がよければ、それでよい」となる。
しかし繰り返すが、これは家族主義ではない。
利己主義という。
利己主義をごまかすために、家族主義という言葉を使ってはいけない。

●家制度

 昔ながらの「家制度」にどっぷりとつかっている人には、それがわからないかもしれ
ない。
しかし家制度ほど、利己主義でかたまった世界はない。
「家を守る」ということは、同時に、他者の侵入を徹底的に排除することを意味する。
「家」がもつ権限と利得にしがみつく。
「家」の一員であるかどうかで、明確な差別意識をもつ。

 中には「家制度など、残っていない」と主張する人がいる。
本当にそうか?
そう断言できるか?
あと数週間で2011年になろうという今、いまだに家制度を意識として引きずっている
人は、ゴマンといる。
私の実家がそうだった。
私の親類がそうだった。
地方の町や村へ行くと、いまだに血縁だけで動いているところは、いくらである。

 方向はまったく別かもしれないが、この家制度と、利己主義的な家族制度は、どこか
よく似ている。
自分の周囲に厚い壁を作り、その中だけで生きている。
一見、居心地のよい世界だが、その分だけ風通しが悪い。
悪い分だけ、思想が極端化しやすい。

 たとえば子どもの世界。
同じ過保護、過干渉、過関心でも、カプセル家族の中では、それが極端化しやすい。
子どもに現れる症状も、当然のことながら極端化する。

●家族主義の是正

 何ごとも「中庸」が肝心。
過ぎたるは、及ばざるがごとし。
家族主義も、度が過ぎると、かえって弊害が現れる。
その2つが、(1)世代間の断絶と、(2)極端な利己主義化。

 自己愛者といえば、個人の問題。
それが家族にもワクを広げることがある。
言うなれば、「自己愛家族」ということになる。
言い忘れたが、自己中心性が極端化した状態を、「自己愛」という。
恥ずべきことであって、何ら自慢すべきことではない。
では、どうするか。

●意識改革

 家族主義というのは、意識の問題。
それだけに、その意識を改革するのは、むずかしい。
「改革」というよりも、自分でそれに気づくまでがたいへん。
脳のCPU(中央演算装置)にかかわる問題だけに、ほとんどの人は、自分を基準にする。
つまり「私は正しい」という前提で、ものを考える。
だから気づかない。

 自分が利己主義的であるかどうか。
それを知るためには、2つの方法がある。
ひとつは、他人と比較してみる。
もうひとつは、絶え間ない自己改革を繰り返し、10年単位、20年単位で、自分を
振り返ってみる。
早ければ早いほど、よい。
若ければ若いほど、よい。
ある程度の年齢になると、自己改革そのものがむずかしくなる。
「私は正しい」と思う刀で、そうでない相手を、「まちがっている」と言って切り捨てる。
ある男性は、私にこう言った。

「無料で原稿を読ませている? 道楽でも、私にはそんなことはできません」と。

 ものを書くということは、自分の経験を切り売りするようなもの。
自分の命を削りながら、それを収入に換えていく。
が、その人は、私がそれを無私無欲でしていることに、驚いていた。

(ただし誤解がないように、断っておく。
いくら無料でも、無断転載、盗用、盗作は、ぜったいに許さない!)

 しかしこうした心境に到るまでには、いろいろあった。
簡単な道ではなかった。
私は人一倍、利己主義的であった。
若いころは、お金のためにものを書いた。
それが当たり前という世界で、生きていた。

 家族にしてもそうだ。
最近になってやっと、私と世間を隔てる壁を取り払うことができるようになった。
(最近だぞ!)
そこにいる子どもたち(生徒たち)が、私の息子や娘、孫に見えるようになった。
言い替えると、意識を変えるということは、それくらいむずかしい。
アインシュタインは、常識について、「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と言った。
その偏見を取り除くのは、さらにむずかしい。

●終わりに

 金融街で、金融ビジネスをしている人には、ボランティア活動をしている人が
バカでアホに見えるかもしれない。
しかしその一方で、ボランティア活動をしている人には、金融街で血眼(ちまなこ)に
なっている人が、バカでアホに見える。

 意識というのはそういうもの。
立場によって、相対的に変化する。
そのひとつが、家族主義ということになる。

 あなたは今、どのような家族像をもっているだろうか。
家族はどうあるべきと、考えているだろうか。
一度、ここで立ち止まって考えてみてほしい。
よりよい家族をもつために。
より太い家族の絆で結ばれるために。
(あるいは私のように失敗しないため……と書いた方が、正直なところかもしれない。)

 今朝は、家族主義について考え方を訂正してみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 家族主義 新家族主義 新・家族主義 家族主義の訂正、悪玉家族主義、
善玉家族主義)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【子どもを非行から守る法】

●時事・雑感(Yahoo Newsより)


●性描写漫画の規制条例が成立(東京都)(注※1)


 石原都知事が言っているように、こんなことは、当たり前。
石原都知事は、こう言った。「当たり前。日本人の良識だ。
子どもにあんなものを見せられるのか」と。


ただし今となっては、焼け石に水。
手遅れ。
子どもたちの世界は、さらにその先に進んでいる。
漫画やアニメではなく、そのものズバリのDVDを見ている。


 また近くに高校があるが、日暮れ時になると、目のやり場に困る。
高校生たちが、木陰の隅のあちこちで抱き合っている。
少し前までは、まだ隠れながらしていた。
が、今は、堂々というか、車のライトに照らされても、平気。


 で、その話を、ある中学校教師(中高一貫校)に話すと、こう言った。
「ここ数年、さらに低年齢化してますよ」と。
驚いていると、「放課後なんか、使われていない部屋や道具置き場は、ラブホテル
みたいです」とも。
ほとんどの男子高校生は、コンドームを持ち歩いている。
携帯電話と同じ。
必携品。
「何も今さら……」というのが、私の実感。


 こうした規制は、20年近く前、「PT」という女子向き雑誌が、
国会で問題になったとき、しておくべきだった。
が、これに対して、いくつかの団体が、猛反発。
「表現の自由、言論の自由の侵害」「捜索活動を萎縮させる」と。


 しかしこういうのを、表現の自由とは言わない。
言論の自由を盾に取って守らなければならない、自由でもない。
むしろ逆。
表現の自由とか、言論の自由とか、そういう言葉を使って、自分たちの
醜い商業主義をカモフラージュしているだけ。


 日本には、モラル、哲学、宗教がない。
ないから、法律で規制するしかない。
たとえば援助交際にしても、話題にのぼらなくなったのは、それがなくなったからでは
ない。
あまりにも日常的になり過ぎたからにほかならない。
それがわからなければ、その時間帯(夕暮れ時)に、コンビニをのぞいてみること。
コンビニが待ち合わせ場所になっている。
携帯電話を片手に、女子中学生や高校生が、あやしげな車につぎつぎと乗り込んでいく。


 世界でも、ここまで退廃した国は、そうはない。


+++++++++++++以下、Yahoo Newsより++++++++++++


(注※1)【性描写漫画の規制条例が成立】=付帯決議で「慎重な運用を」


 過激な性描写のある漫画やアニメの販売規制を目的に、東京都が12月議会に提出していた
青少年健全育成条例改正案が、15日の都議会本会議で民主、自民、公明各党の賛成多数に
より可決、成立した。ただ、「創作活動を萎縮させる」との指摘もあるため、条例の慎重な運用
を求める付帯決議も行った。条例は来年7月1日までに施行される。共産党と生活者ネットワー
ク・みらいは反対した。


+++++++++++++以上、Yahoo Newsより++++++++++++


●では、どうすれなよいか


 こうした風潮を改めるには、つまりあなたの子どもをこうした風潮から守るためには、
方法は、ただひとつ。
子どもに心の抵抗力をつける。
方法は簡単。
子どもに夢と希望をもたせ、その先に目標をもたせる。


 わかりやすく言えば、子どもが好きなことをできる環境を用意する。
それについては、何度も書いてきたので、その原稿を、このあとに添付する。
が、残念なことに、現在の教育環境は、子どものもつ多様性に答えるしくみになって
いない。
「学校以外に道はなく、学校を離れて、夢や希望を育てる方法もない」。
どうして欧米がみなしているように、教育を自由化しないのか。
多様な教育方法を認めないのか。
たとえばドイツやフランスでは、子どもたちはみな、クラブに通っている。
いろいろなクラブがある。
英数国社理のような基本科目は、学校で教えればよい。
しかしそれ以外の科目は、民間に任せればよい。


 私が言う「自由化」というのは、それをいう。
何も学校を解体せよと言っているのではない。


+++++++++++++++


心の抵抗力について書いた
原稿をさがしてみました。
2007年10月に書いた原稿です。


+++++++++++++++


【心を支える、3つの物語】
2006年5月期、講演レジュメ(要旨)より


●私が「私」であるためには、3つの柱が必要です。


(1)(したいこと)を、現実に(している)という実感、つまりは自我の同一性
(2)「いつも、私は、私でいられる」という連続性、一貫性
(3)他者との関係で、いつも良好な人間関係をもつことができるという社会性。


+++++++++++++++++++


  「したいことをする」という姿勢の中から、夢や希望、それに目標が生まれます。自分の描い
た自己概念と、現実の自分が一致している。それが「私」でいるための第一条件ですね。
  つぎに、どんなばあいも、私は、自分でいられる。動じない。それが「私」ということになりま
す。
  また「私」は、いつも、社会というカガミの中で、映し出されます。そもそも社会性をもたない
「私」は、私ではないということです。
  今回は、これら3つの柱を中心に、時間が許すかぎり、私の個人的な過去もふまえて、子ど
もの心を伸ばす、3つの物語を、みなさんに、お伝えしたいです。どうか、よろしくお願いしま
す。


+++++++++++++++++


【意外とシンプルな、心をはぐくむメカニズム】


●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、その
先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子ども
は、その抵抗力も強くなります。

 
***************************


●同一性の危機(1)


万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。


●夢・希望・目的(2)


夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力(3)


同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。


●同一性の崩壊(4)


同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。


●顔のない自分(5)


同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力(6)


暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。


●子どもの自殺(7)


おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。 


●自虐的攻撃性(8)


攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って攻
撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで勉
強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」とい
う場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポーツ
選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性(9)
 

(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力(10)


「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる(11)


たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器(12)


子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。


●役割混乱(13)


子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)(14)


しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。


●進学校と受験勉強(15)


たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。


●これからはプロの時代(16)


これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。


●大学生の問題(17)


現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成(18)


子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司●同一
性の危機●夢・希望・目的●子どもの忍耐力●同一性の崩壊●顔のない自分●校内暴力●
子どもの自殺●自虐的攻撃性●自我の同一性●心の抵抗力●夢や希望を育てる●子どもを
伸ばす三種の神器●役割混乱●思考プロセス(回路)●進学校と受験勉強●これからはプロ
の時代●大学生の問題●自我の同一性と役割形成)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の抵抗力 子どもを非行から守る法 子どもの心を守る。)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2010−12−16

●寒い

++++++++++++++++++

今朝も、ふとんの中で、1時間ほど、
時間をつぶした。
寒かった。
が、ほんのりと外が明るくなったころ、
ふとんから飛び出した。
時計を見ると、すでに午前7時。
そのままウォーキングマシンへ。

このところ朝は、30分と決めている。
が、30分も運動すると、体中が汗ばむ。
ついで額から汗が吹き出る。

そうそう今朝は、その前にハナ(犬)に、
牛乳を温めて与えた。
白内障が進んでいるためか、目が白い。
が、そこは猟犬。
嗅覚だけはすぐれている。
庭に肉団子を数個放り投げてやると、
臭いだけで、それを見つけて食べる。
すごいね!

+++++++++++++++++

●日課

 パソコンに電源を入れながら、まず目薬をさす。
3種類、いつも用意してある。
どれがどれというわけではないが、色もちょうど3種類。
ライオン社のスマイル40(緑)、ロート社のクールEX(青)、滋賀県製薬会社の
B12(赤)。
その日の気分に応じて、使い分けている。

(ところで「滋賀県製薬会社」という会社名は、いいのかな?
こういうケースで、民間の一会社が、「県」という文字を入れるのは、たしか禁止のはず?
公的機関と誤解される。
あるいは紛らわしい?)

 そのあとメールに目を通して、返事を書く。
今朝はアメリカに住む二男と、オーストラリアの友人からの2通。
それがすむと、ニュースに目を通す。
昨日のアクセス数を調べる。

 おもむろに原稿を書き始めるのは、そのあと。
今朝は、東京都が可決した、性描写漫画の規制条例についての原稿をまとめた。

●「滋賀県」

 原稿を書き終え、一服したところで、「滋賀県製薬会社」なる会社に電話を入れてみた。
その前にインターネットを使って調べてみると、「昭和18年設立」とあった。
そのころから、その会社は、「滋賀県」と、「県」の文字を入れていたのだろうか?

 電話を入れると、女性が応答してくれた。
「県という文字を入れるのは、静岡県ではきびしく規制されていますが、滋賀県では
だいじょうなのでしょうか」と聞いた。
それについてその女性は、「私にはわかりません」「折り返し、わかるものに電話させます」
と。
それで終わってしまった。

 昭和18年には、規制が甘かったのかもしれない。
しかしこんなことは、現在は、許されない。
たとえば「静岡県運送会社」という会社があったとする。
名前を聞いたら、だれでも、静岡県という県が運営している公的な運送会社と思って
しまう。
「浜松市幼児教室」でもよい。
名前だけを見たら、「市」が運営している幼児教室と思ってしまう。

 電話をくれるということだから、もう少し待ってみる。

●朝食のとき

 朝食のときワイフと、名古屋市議会のゴタゴタ劇が話題になった。
新聞を読んでも、内容がよくわからない。
市長と市議会が、はげしく対立しているらしい。
少し前、名古屋市民も、すごい市長を選んだものと、感心していた。
何しろ、名古屋弁、丸出し。
名古屋市民の代表ということはよくわかる。
が、それも度を超すと、イヤミに聞こえる。

市民向けにはそれでよいとしても、外の世界、つまり全国に向けては、やはり
きちんとした標準語を使ってほしい。
テレビカメラが向けられたようなとき、など。

 オーストラリアの政治家なども、内の世界ではオーストラリア英語を使う。
しかし公的な場では、きちんとしたクイーンズ英語を使う。
それが知性の証(あかし)にもなっている。

 日本の政治家も、外国人にマイクを向けられたら、英語で答えたらよい。
それがその政治家の知性ということになる。

 今回の名古屋市のゴタゴタ劇の内容については、私にはよくわからない。
どうしてこうまでこじれてしまったのだろう。
あとでゆっくりと、それについて調べてみたい。

●東京と名古屋

 私が住む浜松市は、東京よりも、名古屋に近い。
浜松市から名古屋市まで、直線距離で、80キロ。
浜松市から東京都まで、直線距離で、210キロ。
グーグル・アースのスケール(ものさし)を使って調べてみた。

 が、浜松市は、東京都の文化圏に入る。
東京のほうばかり、目が向いている。
だから「東京から来た」というだけで、何でもかんでもありがたがる。
悲しき田舎根性かな。

 一方、「名古屋から来た」といったときには、ほとんど相手にされない。
浜松市に昔から住んでいる人には、それがわからないかもしれない。
しかし私のように、岐阜県という、名古屋市の文化圏から来たものには、それがよく
わかる。

 たとえば転勤族の人たちにしても、そうだ。
東京から来た人は、いつも浜松市を「田舎」(=下)に見る。
あの片山S氏(浜松市選出の国会議員)にしても、私たちを「田舎者」(雑誌「諸君」)
と呼んだ。
つまり、威張っている。

 こういうのを中央集権意識という。
奈良時代の昔から、日本人は、その中央集権意識が、骨のズイまで叩き込まれている。
列車にしても、方向によって、「上り列車」とか「下り列車」とかいう。
こういうバカげた言い方は、もうやめにしたらよい。
何も東京だけが日本ではない。
東京人だけが、文化人でもない。
おかしな上下意識が、こんなところにも、はびこっている。

(追記)

 たった今、滋賀県製薬会社という会社から電話が入った。
いわく、「昭和18年という戦時中から、この名前を使っている。
滋賀県とは、関係ありません。
滋賀県から行政指導が入ったということもありません」と。

 ……ということで、では、みなさん、おはようございます。
今日の予定。
ワイフと、午後に歩いて教室に向かう。
運動のため。
ほかに、大きな予定はなし。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司※

 
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【楽しく学ぶ】(幼児教室・1年間の総復習)
 年長児クラス(2010−12−16)

「笑うこと」には不思議な力(パワー)があります。
笑うことによって、子どもは心を開放します。
が、それだけではありません。
前向きな学習姿勢も、そこから生まれます。
2010年度のまとめのレッスンということで、少しハメをはずしましたが、
どうかお許しください。

なおビデオではわかりませんが、教室で直接受ける子どもたちのエネルギー(=迫力)
には、ものすごいものがあります。
このエネルギーを大切にしたいですね。
子どもたちの生き生きとした声を、どうかお楽しみください。

(参考)

●笑いの効用

 笑うと、血液の流れがよくなるそうだ。それだけではないと思うが、「笑うこと」には、
不思議な力がある。それは私自身が、幼児教育の場で、日常的に実感していることでもあ
る。

今度、アメリカ・メリーランドのマイケル・ミラー医師らが、こんな発表をした。
いわく、「血管の内側にある組織が刺激を受けて、血液の流れがよくなることが、調査で明
らかになった。『笑いは健康にいい』との説が医学的にも裏づけられた形だ。なぜ笑うとこ
の組織が活性化されるのかまでは突きとめられなかったが、同医師は『ストレスからくる
血行障害のリスク、減らすことができる』と、笑いの効用を力説している」と。  
(時事通信・05年3月15日 )



●テーマ「楽しく学ぶ」


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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 笑い 不思議な力 笑いの効用 はやし浩司 笑う 魔法の力)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●自己認識能力

++++++++++++++++

権力に溺れると、自分の姿が客観的に
見えなくなる。
今朝、2つのニュースを読みながら、
そう思った。

ひとつは、民主党の小沢一郎代表に
関するニュース。
もうひとつは、あの北朝鮮。
韓国の国防部新長官を指して、
「戦争狂の反逆者」とこきおろした。

ともに、自分のことがまったく
わかっていない。
つまりともに自己認識能力、ゼロ!

民主党が支持率を落とし続けているのは、
民主党に小沢一郎代表がいるから。
それを忠臣蔵よろしく盲従的に支える
取り巻きがいるから。

北朝鮮については、もう「?」マーク
あるのみ。
韓国を砲撃しておいて、「戦争狂の
反逆者」はない。

2つの記事の一部を抜粋してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【日本経済新聞社・12月17日より】

民主党の小沢一郎元代表は17日、自らの「政治とカネ」を巡る問題で、岡田克也幹事長が要
請している衆院政治倫理審査会への出席について回答する。
出席要請は拒否する見通しで、岡田氏との会談にも応じず、17日に代理人を通じて岡田氏側
に伝える。
執行部は回答を受け、来週にも政倫審で招致議決する方向で調整する一方、菅直人首相は
直接会談で小沢氏に要請することも検討する。


【ソウル12月16日・聯合ニュースより】

北朝鮮の朝鮮中央通信は16日、国防部の金寛鎮(キム・グァンジン)新長官を「戦争狂」「民族
反逆者」などの強い言葉を用い非難した。

 同日の論評で、金長官は就任のあいさつで「北が完全に屈服するまで対応すべきだ」と妄言
を述べたほか、前線地帯を視察し「北朝鮮指導部と軍が主敵だ」と騒いでまわったと指摘。
こうした行動は「鮮半島の緊張を悪化させ戦争の導火線に火をつけようとする戦争狂の発作で
あり、同族対決を招く危険極まりないでたらめな行動だ」と批判した。
金長官は「かねてから反逆の銃を手に同族対決に血眼になっている醜悪な売国奴、民族反逆
者だ」と、攻撃的な言葉を浴びせた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自分を知る(ジョンハリ理論)

 去年(09年)、『ジョンハリの窓』という題で、原稿を書いた。
それをそのまま紹介します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自分を知る


++++++++++++++++++++++


私の教室(BW教室)のビデオを撮るようになって、
ちょうど2か月。
ほとんど手を加えないで、そのまま紹介している。
「ほとんど」というのは、「選択、カット、編集を
しないで」、という意味。


そのビデオを見ていて、たくさんのことに気づいた。
それまでの私が気がつかなかった部分である。
よい面もあるし、悪い面もある。
ときどき「私って、こうだったんだ」と、自分で
へんに納得することもある。


そういう(私)。
(ジョンハリの窓)理論によれば、私の「盲点領域」と
いうことになる。
それに気づいた。


++++++++++++++++++++++


●ジョンハリの窓


アメリカの心理学者の、ルフトとイングラムの2人が、こんな学説を提唱した。
つまり「私」というときの「私」は、つぎの4つに区分されるという。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++
自分も気がついていて     +     自分が気がついていなくて、
他人も気がついている部分   +     他人が気がついている部分 
(開放領域)         +     (盲点領域)  
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
自分は気がついているが、   +     自分も気がついていなくて、
他人が気がついていない部分  +     他人も気がついていない部分 
(隠ぺい領域)        +     (未知領域)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
         (参考:深堀元文監修、「心理学のすべて」(日本実業出版社)


2人の学者の名前を取って、「ジョン・ハリの窓」という。
で、私が自分のビデオを見て、再発見した部分は、このうちの(盲点領域)と、
(未知領域)ということになる。


たとえば癖(くせ)。
ビデオを見ながら、「私にはこんな癖があったのだ」と。
これはジョンハリの窓に従えば、(盲点領域)ということになる。
もちろんジョンハリの窓でいう(盲点領域)は、癖のことを言っているのではない。
心の奥深くに潜む、深層心理を言ったものである。
しかし癖は手がかりにはなる。


たとえば私は子どもたちを指導するとき、すぐ「わかった?」とか、「わかったか?」
と言う。
よい言葉ではない。
私はそう言いながら、わからないでいる子どもを無視して、そのまま先へと進んで
しまう。
この言葉は、そういうときの自己弁解として使われる。
つまり、イヤ〜〜ナ言葉!


で、それを見て、このところその言葉をできるだけ使わないようにしている。
ほかにもある。


●未知領域


自分でも気がついていなくて、他人も気がついていない部分を、「未知領域」
という。
が、中に、「私のことは、私がいちばんよく知っている」と豪語(?)する人がいる。
しかしそういう人ほど、本当のところ、自分のことがまったくといってよいほど、
わかっていない。
というのも、脳みその活動領域をみるまでもなく、私たちが「私」として意識
する部分というのは、恐ろしく小さい。
一説によると、数10万分の1と言われている。


だから謙虚になるのが、よい。
「私は自分のことが何もわかっていない」という前提で、自分を見る。
すべては、ここから始まる。


いろいろな方法がある。
たとえば私のばあい、幼児を教えることによって、始終、自分を見つめることができる。
これには、2つの意味がある。


よく幼児の中から、幼児期の私に似た「私」をさがすことがある。
「私も幼児のころ、こういう子どもだったんだなあ」と。
そういう子どもを手がかりに、自分を知る。
あるいは自分と同じような生い立ちをもった子どもを知る。
そういう子どもを手がかりに、自分を知る。


たとえばこの方法で、私はいつだったか、私も、帰宅拒否児であり、愛情飢餓の状態
だったことを知った。
そしてそれがいまだに尾を引いているのを知った。


もう一つは、相手が幼児のばあい、容赦なく、私を批評する。
「先生の口は臭い(=口臭がする)」に始まって、「先生は、ジジイだ」というのまで
ある。
子どもというのは、そういう意味で正直。
私の盲点を、ズケズケと指摘する。
頭にカチンと来ることもあるが、そこはそこ。


そういう意味では、私は、職場を通して、いつも自分を見つめなおすことができる。


●私を知る


最近の研究によれば、「私」と言える部分は、実はほとんどなく、そのほとんどは、
脳みその中の別の部分に操られているだけということがわかってきた。
条件反射運動を例にあげるまでもない。


愛煙家は、タバコの臭いをかいただけで、あるいはアルコール中毒の人は、
酒のコマーシャルを見ただけで、猛烈な欲求がわくのを感ずる。
そういう人たちは、「私は私だ」「自分で考えて行動している」と思いがちだが、
実際には、ドーパミンという神経伝達物質によって操られているにすぎない。


これが「性欲」となると、人間の活動のほとんどの部分にまで、影響を及ぼしている。
中学生や高校生が、スポーツでがんばるのも、あるいはファッションに興味をもつのも、
その原点にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)ということになる。
私たちは操られるまま、操られているという意識ももたず、操られている。


だから「私」がわからない。
自分の心を解剖してみたとき、どこからどこまでが「私」で、どこから先が「私」
でないか、それがわからない。
実際には、「私」と言える部分というのは、ほんのわずかかもしれない。


話が脱線したが、「私を知る」ということは、それほどまでにむずかしいということ。


●どうすればよいか?


未知領域があるとして、では、どうすればその未知領域を知ることができるか。
このことは、病識のない認知症の人たちを観察してみると、わかる(?)。


私の近くに、このところどうも(?)という女性(60歳くらい)がいる。
……いた。
(最近になって、アルツハイマー病と診断されたようだが……。)
最初は平気で約束を破ることが気になった。
しかしそのうち、その女性は約束を破るのではなく、約束そのものを忘れてしまう
ことに気がついた。


日時を忘れる。
モノを忘れる。
支払いを忘れる。
預かったお金を忘れる。
計画を忘れる、など。


その一方で、その女性は、こまかいことにたいへんうるさく、私にあれこれと
指示をした。
一言ですむような話を、くどくどと1時間くらいかけて話したりした。
で、私がやんわりとその女性の会話をさえぎった。
「私は、そんなバカではないと思います」と。


するとその女性は何を勘違いしたのか、突然、ヒステリックな声を張りあげて、
こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。


これには驚いた。
驚くと同時に、「この女性は自分のことがまるでわかっていない!」と。
私は何も、その女性のことをバカと言ったつもりではない。
で、しばらくして、こうも思った。


「この女性が未知領域について気がつくときは、あるのだろうか?」と。


しかし答は、わかっている。
その女性がそれに気がつくよりも早く、認知症は進む。
つまりその女性は生涯、自分の中の未知領域に気がつくこともなく、人生を
終えるだろう。


……と考えたとき、それはとりもなおさず、私自身の問題であることを知った。
認知症にならなくても、この先、脳みその活動は、加齢とともに、ますます
鈍くなる。
(その女性)イコール、(私自身の近未来の姿)と考えてよい。


●心理学の世界では……


「心理学のすべて」(深堀元文監修)によれば、未知領域を知るために、いろいろな心理
テストが用意されている。
しかしここでは割愛させてもらう。
というのも、これはテストによってどうこうという問題ではなく、日頃の私たちの
生き方に、深く関係しているからである。
またこのエッセーを書く、目的でもない。


先にも書いたように、「私の中には、私が知らない部分のほうが多い」を知り、
自分自身に対して、謙虚になる。
それによって、私たちは自分のことをより深く知ることができる。
またそういう視点を常にもつ。
つまりは日頃の心がけの問題ということになる。


繰りかえしになるが、もし今、あなたが、「私のことは、私がいちばんよく知っている」と
思っているなら、あなたは、かなりあぶないと考えてよい。


さらに蛇足になるが、もし今、あなたが、「私の子どものことは、私がいちばんよく
知っている」と思っているなら、それも、かなりあぶないと考えてよい。
それについては、あちこちで何度も書いてきたので、そちらを参考にしてほしい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ジョンハリの窓 ジョン・ハリの窓 ジョンハリ学説 心の盲点 盲点領域 未知領域
はやし浩司 私とは 私を知る はやし浩司 ジョンハリ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己認識能力

 自分を知ることは、本当にむずかしい。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と言う人ほど、実は自分のことを何も
知らない。
「知っている」と自分で、そう思い込んでいるだけ。

 しかし……。
それにしてもなぜ、あの小沢代表は、ああまでがんばるのか?
がんばれるのか?
また北朝鮮は、なぜああまで、トンチンカンなことを言いつづけるのか?
言いつづけることができるのか?

 その答は、ただひとつ。
ともに醜い出世主義にこり固まっている。
古典的な出世主義と言い替えてもよい。
いまだに明治や大正時代の「出世主義」にこだわっている。

 北朝鮮にしても、しかり。
上から下まで、出世主義のかたまり。
だから自分の姿を、客観的に見ることができない。
権欲に振り回されてしまう。
つまりそれだけ、人間として、また国家として未熟ということ。

 欧米の首相たちは、自転車通勤している。
そういうことが、日常的なこととして、ごく自然にできる。
民主主義の完成度が、まるでちがう。
そのあたりから政治にメスを入れないと、日本は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ジョンハリの窓 ジョン・ハリの窓 ジョンハリ理論 ジョン・ハリ理論 自分を知る
 自己認識 自己認識能力)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【デジタル教科書】(どうして時代の流れに反対するのか?)


+++++++++++++++


昨日(12月17日)、書店に
立ち寄った。
驚いた。
デジタル教科書など、時代の
常識と考えていた。
が、そこにはズラリと、
「デジタル教科書・反対論」なる
タイトルの書籍が、並んでいた。
平積みではない。
棚に、同じ本が、表紙を前に、
10冊前後ずつ、並んでいた。
かなりの威圧感があった。
が、即座に私の脳みそが反応した。


デジタル教科書に反対?
これはどういうことなのか?
どうしてデジタル教科書に、
反対なのか?


隣の韓国では、2011年の4月から、
すべての学校でデジタル教科書が
使われるようになるという(報道)。
それが時代の流れなら、デジタル教科書
に反対する理由などない。
近未来の学校教育を想像してみればよい。
「紙」を使った、現在の教科書の
ほうが、時代遅れ。
地球温暖化防止を理由にするまでもない。


++++++++++++++++


●SONYのPSP


 私は現在、SONYのPSP(電子ゲーム機器)を使って、遊んでいる。
「モンスター・ハンター2G」(通称「モンハン」)。
現在、「3G」が発売になっている。
が、「2G」だけでも、精一杯。
買って、もう10日になるが、いまだに初期ステージの村で、うろうろしている。


 そのゲーム。
子どもたちの心を捕らえて放さない。
ゲーム機器を見せただけで、目の色を変える。
PSPをもっているというだけで、私はみなの人気者になってしまった。


毎日のように子どもたちがいろいろなソフトを見せてくれる。
ゲームの仕方を教えてくれる。
おとといは(15日)は、ゲームを無線LANでつないで、たがいに対戦する方法
を教えてもらった。


 私はそういう子どもたちを見ながら、どうしてこういう機器を、教育に
もっと利用しないのか、と考えた。


●パソコンの世界


 パソコンを使っていない人に、いくらそのすばらしさを説明しても無駄。
理解すらできない。
しかしパソコンがそこにあり、ネットにつながっているということは、
座右に、巨大な図書館があるようなもの。
しかも司書つき。
最近では、私は語句の使い方まで、検索をかけて調べるようになった。
辞書がわりにもなる。


 そのパソコンの世界は、まさに日進月歩。
たった10年前には、10GBのハードディスクの出現に目を丸くした。
それまでは「メガバイト」の時代だった。
それがやっと「ギガバイト」の時代になったと思っていたら、友人から電話。
「台湾製だが、10GBのパソコンが出た。買わないか?」と。
私は、すぐとびついた。


 今では、デスクトップパソコンともなると、1TB(1000GB)
は当たり前。
2TBの時代になりつつある。
搭載するメモリーについても、そうだ。
現在私が使っているデスクトップは、12GBのメモリーを搭載している。


 仮に1TBもあれば、全世界の全学年の教科書を丸コピーしても、おつり
がくるはず。
しかしそんな必要はない。
ネットでつなげば、その?億倍の情報を、居ながらにして、自分のものに
することができる。


 私など、この数年、ほとんど図書館へ行っていない。
それまでは毎週のように、図書館へ通っていたが……。
これが時代の流れ。


●可能性


 デジタル教科書の是非を争っても、意味はない。
というのも、デジタル教科書そのものが、無限の可能性を秘めている。
すでに紙のようにペラペラと曲がるモニター(表示装置)も開発されている。
その気になれば、現在使っている教科書とそっくり同じよな教科書も作る
こともできる。


 どうしても……ということなら、それも可能。
(そんな必要はないと思うが……。)


 が、そこで進歩が止まるわけではない。
デジタル教科書といっても、将来的には、かぎりなく薄く、軽くなる。
さらに学校と子どもを、デジタル教科書を介して、直接つなぐことも可能。
もし「性能がよすぎる」というのであれば、いくらでもダウンサイズできる。
大は、常に小を兼ねる。


 反対派の人たちは、「無駄になる」というようなことを言っているようだ。
そういう話は聞いたことがある。
どうして?


 たとえばもっともシンプルにデジタル教科書を考えてみよう。


(1)教科書を、SDカードのようなものにコピーする。
あとはそのSDカードを学年ごとに、差し替えればよい。
子どもたちは、何冊も教科書をもって歩く必要はない。


(2)全国の教師が、自作のテキストやワークブックを共有する。
それだけでも、膨大な情報量になる。


 いいことづくめで、悪いことは何もない。


 どうしてもっとシンプルに、ものごとを考えることができないのか。


●反対論者


 私は私で、白紙の状態から、この問題について考えたかった。
どういう理由で反対しているのか、今の段階では、私にはわからない。
しかしこの問題を考えるとき、ひとつの大きな問題をクリアしなければならない。
それが「知識と思考」の問題。


 この先、知識は、かぎりなく価値を失う。
知りたいことがあれば、パソコンを使い、その場で知ればよい。
言い換えると、「もの知り」は、お呼びではない。


 その半面、「思考」が重要な意味をもつようになる。
わかりやすく言えば、「自ら考える子ども」。
「自ら考える人間」。


 考えるということは、そこにある事実を加工、分析、さらに論理的に
積み重ねることをいう。
その意識、つまり教育に対する考え方を、基本的な部分で、まず変えなければ
ならない。
すでに多くの大学では、「辞書、参考書、持ち込みOK」という入試方法を
とっている。


(AO入試方法については、学力の低下を理由に、見直す大学がふえているのも
事実だが・・・。)


 つまり「学校教育イコール、知識教育」という、旧態の固定観念を捨てる。
「知識」にこだわるかぎり、便利すぎる文明の利器は、人間をかえって怠惰にする。
それはそうだが、暗記に始まって、暗記に終わる現在の教育システムが、だれも正常
とは考えない。


●過去


 少し話を過去に戻す。


 戦後のある時期までは、日本の電子機器は、世界をリードしていた。
が、それは今では、当時の面影は見る影すらない。
ほとんどの分野を、とくに韓国、台湾に奪われてしまった。


 コンピューター教育にしても、しかり。
なぜに、現在の韓国があり、台湾があるか、それを考えてみればよい。
日本が二の足を踏んでいる間に、彼らは、小学レベルから、コンピューター教育を
始めた。
オーストラリアでさえ、現在34歳の二男が11歳だったから、23年以上も前から、
小学レベルでコンピュータ教育をしていた(南オーストラリア州)。
私が目撃した。
さらにアメリカでは、10年以上も前から、しかも4歳児からコンピューター教育を
していた。
私が目撃した(アーカンソー州)。


 が、この日本では、「教員がいない」「教員資格がどうの」「教授を育てるまでに
20年」「カリキュラムが定まらない」などという、理由にもならない理由を並べて、
結局、コンピューター教育は実現しなかった。


 少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、まず、やってみること。
多少の試行錯誤はあるかもしれない。
失敗もあるだろう。
しかしそんなことを恐れていて、何ができる?


●否定派


 ……という段階で、今朝、反対派の人たちが、どんな理由を並べているか、調べて
みた。
書店にあった本を書いた著者のHPを開いてみた。
そこには、同じようにズラリと、いろいろな人が反対意見を並べていた。
それを箇条書きに、整理してみる(以下、池田信夫氏のウェブサイトより)。


(1)同じような話は20年前からあった。
当時の文部省は、BTRONという日の丸パソコンを全国に配布しようとしたが、
失敗した。


(2)ソフトバンクが、全国2000万人の学生と教員全員に、無料でiPadを
配布すると宣言した。
実態は、デジタル教科書のリース料(ひとり月額280円)を子ども手当てでまかなおう
というもの。
これは税金の食い逃げ。


(3)英語教育ひとつとっても、北朝鮮に負けるような状態。
英語のできない教師をクビにすることもできない。
こんな状態で、生徒に端末を配っても無駄。


(4)ハコモノのばらまき行政では、何も解決しない。
まずやるべきなのは、非効率な教育システムをITで合理化し、無能な教師や
不要な事務員を削減すること。
教育バウチャーなどによって、学校間の競争を導入すること。
(以上、池田信夫氏のウェブサイトより)


●順に検討してみよう


(1)同じような話は20年前からあった。
当時の文部省は、BTRONという日の丸パソコンを全国に配布しようとしたが、
失敗した。


★20年前というと、コンピューターの世界では、やっとラップトップ・パソコンが
TOSHIBAから発売になったころ。
そんなとき、今と同じデジタル教科書の話があった?
少なくとも私は知らない。


(なおBTRONについては、池田氏は誤解している。後述。)


私はそのころ東京の秋葉原まで二男を連れて行き、その1台、買った。
値段は40万円を超えていた。
そんな時代の失敗を、今、どうして持ち出すのか?


(2)ソフトバンクが、全国2000万人の学生と教員全員に、無料でiPadを
配布すると宣言した。
実態は、デジタル教科書のリース料(ひとり月額280円)を子ども手当てでまかなおう
というもの。
これは税金の食い逃げ。


★280円なら、安い!
280円x12か月x12年=40320円。
リースだから、12年後には、さらにすぐれた機能をもった端末機が、現れるはず。
子ども手当てだけも、じゅうぶん、おつりがくる。
教科書会社は巨億の利権にぶらさがり、好き勝手なことをしている。
教科書会社ならよくて、どうしてソフトバンクだと、だめなのか。


(3)英語教育ひとつとっても、北朝鮮に負けるような状態。
英語のできない教師をクビにすることもできない。
こんな状態で、生徒に端末を配っても無駄。


★どうしてここで「英語」が出てくるのか。
「英語教育をやめて、論語を読ませろ」と主張する学者も多い。
英語ではなく、数学や理科では、どうしていけないのか。
英語という「言語」教育であれば、英会話ができる・できないは、つぎの問題。
それに今どき、英語の話せない英語教師はいない!
いつの話をしているのか。
現に今、税金の食い逃げをしている教科書会社を、どうして問題にしないのか?


(4)ハコモノのばらまき行政では、何も解決しない。
まずやるべきなのは、非効率な教育システムをITで合理化し、無能な教師や
不要な事務員を削減すること。
教育バウチャーなどによって、学校間の競争を導入すること。


★教育は、能率だけではできない。
「カリキュラム」という言葉を使って反対する人も多い。
しかし教育は、カリキュラムどおりには、進まない。
相手は、子どもという「人間」である。
そのときの様子をみて、臨機応変に対処する。
それが教育である。


 また「無能」という言葉を安易に使ってほしくない。
同じ公務員の中でも、もっともハードな仕事を強いられているのが、学校の教師。
1週間の間に、「空き時間(=休み時間)」が、カリキュラム通りだと、1〜2時間
しか取れない。
それを教師たちがみな、たがいにやりくりしあって、3〜4時間にしている(静岡県)。
「無能」という言葉を使うなら、まず自分でやってみること。


●「やらまいか精神」


 浜松に住むようになって、40年。
当初、この浜松へ来て、驚いたことが2つある。


 ひとつは、「文化」の「ブ」の字も感じなかったこと。
おそろしく文化の低い町と思った(失礼!)。


 たとえば私が学生時代を過ごした金沢では、毎週のように近くの公民館で、
講演会があった。
大学やその道の専門家が、町の人たちに何かの講演をしていた。
夕方になると、あちこちから三味線や謡(うたい)の音や声が聞こえてきた。
祭りともなると、城内の大学生が率先して参加していたし、コンサートも頻繁に
行われていた。
浜松には、静岡大学の工学部もあったが、学生の「臭い」すら、どこにもなかった。
しかし、この話は、今回のテーマには関係ない。


 もうひとつは、「やらまいか精神」。
無責任と言えば、無責任。
無謀と言えば、無謀。
しかしこの浜松の人たちは、何でも新しいものが、好き。
当時私はいくつかの会社を回りながら、貿易の手伝いをしていた。
社内報も書いていた。
そんなとき私が何か新しいことを提案すると、経営者たちはみな、即座に、
「やらまいか(やってみよう)!」と答えてくれた。
ポンと言えば、ポンと返ってくる。
そんな感じだった。
これを称して「やらまいか精神(魂)」という。


 金沢は何かにつけて、保守的。
それに対比して、浜松は何かにつけて、革新的。
今では、そうした土着性はともに、かなり薄められてしまったが、なくなってしまった
わけではない。
逆算すると、50年前には、その「やらまいか精神」は、もっと強かった。
100年前には、もっと強かった。


だからこの浜松から、HONDAが生まれ、SUZUKIが生まれた。
YAMAHAが生まれ、KAWAIが生まれた。
ROLANDもうまれた。
ホトニクスも生まれた。
ついでにあの豊田左吉も、この浜松(浜名湖の西)で生まれ育っている。
TOYOTAの豊田左吉だぞ!


 もしこの浜松がなかったら、その後の、そして現在の日本はなかった!


●BTRON


 日本全体が、今風に言えば、草食系になってしまった。
おとなしく、万事、事なかれ主義。
池田信夫氏のウェブサイトを読んでいると、それを強く感ずる。
BTRONの話が出たので、ついでに一言。


 BTRONというのは、東京大学の坂村健氏によって開発された、ビジネス向き
OS。
(デジタル教科書の話ではなく、OSの話だぞ!)
当時日本には、アップルのOSのみがあり、Windowsは、まだ実用段階には
入っていなかった。
それで時の政府が、BTRONに目をつけ、全国の学校を基盤に普及させようとした。
が、これに「待った!」をかけたのが、時のアメリカ政府。
「スーパー301条」の適応をちらつかせ、それを抑え込んでしまった。
池田氏が言うように失敗したのではない。
日本が二の足を踏んでいるちょうどそのとき、アメリカによってつぶされてしまった。


 またBTRONは、OS(オペレーティング・システム)の話であって、今回の
デジタル教科書の話とは、まったく関係がない。
BTRONが失敗したから、今度も……という主張には、無理がある。
池田氏は、デジタル教科書とBTRONの失敗(?)を、たくみにすりかえている!


 一方、この日本でもコンピューター教育の動きはあった。
やはり20年ほど前のことである。


 それを全国に普及させようとしたのが、時の通産省。
反対したのが、時の文部省。
失敗したのでは、ない。
その理由は、先に書いた。


再度、平たく言えば、「教員免許をもった工学系の教師がいない」「教員免許をもたない
教師は、教壇に立たせるわけにはいかない」「コンピューターの指導資格をもった
教員を育てるためには、教育学部に、その学部を作らねばならない。そのためには、
20年かかる」と。


●終わりに


 あのとき、BTRONを全国に普及させていたら、その後の日本は大きく
変わっていただろう。
日本には電子産業の分野で、世界をリードする底力があった。
現にアメリカにさえ、一歩も二歩もリードしていた。


もしあのとき、日本がコンピューター教育を推進していたら、その後の日本は
大きく変わっていただろう。
今ごろ世界中のコンピューターで、BTRONが活躍していたかもしれない。
少なくとも韓国や台湾に、遅れを取ることはなかった。
今や日本の電子産業は、風前の灯火(ともしび)。
今では国民1人あたりの所得では、シンガポールに抜かれてしまった。
2025年には、韓国にも抜かれる。


 どうして「やってみないのか!」。


 それがわからなければ、40年前の映画、『2001年、宇宙の旅』を観てみる
ことだ。
あの映画の中に、紙製の本でも出てくれば話は別。
近未来の世界というのは、そういう世界。
どうして今、紙製の教科書にこだわるのか。
その理由が、まったく私には理解できない。


 迷っているヒマはない!


 デジタル教科書は、いますぐ軌道に乗せたらよい。
何を迷っているのか!
「まず、羽ばたけ。体はあとからついてくる!」。


 このつづきは、またあとで書いてみたい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 デジタル教科書 電子教科書 教科書のデジタル化)

池田信夫氏のサイト
http://agora-web.jp/archives/1065328.html


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司※

●ボケが始まるとき(グチ論・愚痴論)

++++++++++++++++++

今日(12月18日)、東名西インターの
少し北にある、「S」というレストランで、
遅い昼食をとった。

そのときのこと。
運悪く(?)、その席に案内されてしまった。
隣の席、つまり背側の席に、2人の女性が
座っていた。
1人は、65歳〜70歳。髪の毛は根本が
白く、始末の悪いなりをしていた。
ボサボサの頭に、ヨレヨレの衣服。
この女性を、女Aとする。

もう1人は、40歳前後。
この女性を、女Bとする。
最初、2人は親子かなと思った。
似たような顔をしていた。

が、席についたとき、瞬間、「しまった!」と
思った。
耳のそばで、間断なく女Aがしゃべっていた。
ペチャペチャ、クチャクチャ……
ペチャペチャ、クチャクチャ……、と。
そのうるさいことといったら、なかった。

脳に飛来する情報を、そのまま口にしているだけ。
話の内容が、クルクルと変化していく。
愚痴につづく、愚痴。
ところどころで、わかったようなことを言う。
「人生、前向きにいきなきゃあ」と。
が、それらはすべて、だれかの受け売り。

それに対して、女Bが、適当に相づちを入れる。
女Aはさらに気をよくして、しゃべる。
……しゃべりつづけた。

私は覚悟を決めた。
どんな話をしているか、確かめてみようと。
そういう気になった。

最初は、話のストーリーがつかめず、
苦労した。
内容が理解できなかった。
話の内容が、ポンポンと飛ぶ。
つかみどころがない。
が、5分もすると、おぼろげながら、輪郭が
見えてきた。
どうやら娘のダンナの話をしているらしい。
親類の話をしているらしい。
昔の仕事の話をしているらしい。

よく誤解されるが、ペラペラとよくしゃべるから、
頭がよいということにはならない。
頭のよさは、思考力のあるなしで決まる。
思考の深さによって決まる。
頭のよい人ほど、(子どもでもそうだが)、
相手の言ったことを、一度頭の中で反すうする。
が、女Aのばあい、一方的にしゃべるだけ。
相手の話を聞かない。
聞く耳すら、ない。

私は女Aの話し方の特徴を、そこでメモした。

(1)間断なく、よくしゃべる。
(2)聞き手の意見を聞こうともしない。
(3)相手に意見を求めない。
(4)話のないようが、つぎつぎと変化する。
(5)無表情で、口先だけで話す。
(6)内容が浅い。つまり思考を反復しない。
(7)自己の優位性を、相手に押しつける。
(8)不平不満、愚痴が多い。

私は女Aの話を聞きながら、「人間は、こうして
ボケていくもの」と確信した。

++++++++++++++++++++

●不安神経障害

 愚痴は、アメリカの精神医学会(DSM)の診断基準によれば、不安神経障害の
主症状のひとつになっている。
「Complaint」を「愚痴」と訳すと、そうなる。
つまり愚痴を言うのは、それ自体、心の病気。
だから愚痴は言わない。
聞かない。
相手にしない。

ある賢人は、こう言った。
「怒ったときは愚痴を言うな。愚痴を聞いても怒るな」と。
けだし名言である。

 原稿をさがしてみたら、昨年、同じテーマについて書いたのを知った。
それをそのまま再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●愚痴(Complaint or Grumble)

++++++++++++++++++++++++

英語と日本語を一致させることはできない。
微妙にニュアンスがちがうことが多い。
たとえば「愚痴」を、英語では、「complaint(不平・不満)」という。
しかし「愚痴」と、「complaint」は、どこかちがう?
そういうことはあるが、その「complaint」について、アメリカの精神医学会
(American Psychiatric Association)は、「不安神経障害(Anxiety Disorder)」
の主症状のひとつにあげている(DSMー4)。

愚痴をあれこれ言うこと自体、「障害(Disorder)」のひとつというわけである。
なるほど!
だから、愚痴は言わない。

APAのHPには、つぎのようにある(一部抜粋)。

In behavioral health care as in general medicine, when an individual complains of a 
subjectively experienced disturbance or unpleasant perception such as pain or anxiety, 
we call this a symptom. We distinguish this from a sign such as slurred speech which a 
professional can observe.
(苦痛や心配ごとのような混乱や不快感について、不平、不満を訴えることを、「症状」と
いい、たとえばおどおどした態度のような、専門家でないと区別できないような症状を、「兆
候」という。)

+++++++++++++++++++++++++

●日本語

 日本語を使っているとき、ときどき、こう感ずることがある。
「日本語って、すぐれているなあ」と。
とくに(心)を表現する用語が、きわめて豊富である。

 たとえば10年ほど前から、欧米では、さかんに「attachment(アタッチメント)」
という言葉が使われるようになった。
「愛着行為(行動)」と翻訳されている。
が、これなどは、「赤ちゃん返り」の類義語と考えればよい(反論もあるだろうが……。)

 心理学で言う「固着」にしても、日本語には、「わだかまり」とか、「こだわり」とか
いう言葉がある。その類義語と考えればよい。(反論もあるだろうが……。)

 さらに日本語には、「取り越し苦労」とか、「ヌカ喜び」という言葉もある。
これなどは、まさに「不安神経障害(Anxiety Disorder)」の主症状のひとつと考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)
精神的に不安定な人ほど、取り越し苦労とヌカ喜びを、いつも繰り返す。

 私たちは専門家ではないから、(逃げるわけではないが……)、要するに、心理学と
いっても、よりよく自分の人生を生きるための道具にすぎない。
またそういう目的のために利用すればよい。
(それでお金を稼いでいる人は別だが……。)

冒頭にあげた、愚痴(complaint)にしてもそうだ。
「愚痴を口にしたら、精神状態はふつうでない」と考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)

●K子さん(62歳)の例

 当時、私は無料で、電話相談なるものを受け付けていた。
そんなある日、K子さんという女性から、家族の問題について、相談があった。
静かで、落ち着いた女性だった……と感じたのは、最初の1回目のときだけ。
それにつづく相談は、まさに「?」としか思えないようなものだった。

 いくつか特徴があった。

(1)一方的にしゃべるだけ。
(2)不平、不満をしゃべるだけ。
(3)「では、どうすればいいのか」という話し合いができない。
(4)ことこまかに、どうでもよいことを、しゃべるだけ。
(5)つぎの相談のときには、前の相談のことを忘れてしまっている(?)。
(6)前回の相談のときの矛盾をつくと、パニックになる。
(7)「私はすばらしい」「まちがっていない」ということを強調する。
(8)私が反論的な意見をそえると、それに猛反発する。
(9)子どもの相談といいながら、ときとして、夫や姑の話になる。
(10)そういう電話が、毎回、ときに1時間以上も、ねちねちとつづく。

 当時の私は、「愚痴を聞いてやるだけでもいいのでは」と考えて、K子さんの
言うままにしておいた。
しかしまともに聞いていると、こちらまで気が変になりそう。
そう感じたから、ときには受話器を耳からはずして、「そうですか」「そうですね」だけを
繰り返した。
一度だが、私の方から電話を切ろうとしたことがある。
とたん、K子さんは、パニック。
激怒。

「どうして私の話を聞いてくれないのですかア!」と。

●愚痴 

 「愚痴は言わない」というのは、さわやかに生きるための大鉄則。
だが、同時に、「他人の愚痴を聞かない」というのも、重要。
愚痴には、恐ろしい魔力がある。

 仏教でも、肉体の奴隷になることを、強く戒めている。
もし肉体の命ずるままに、精神が動揺したら、人間はそのまま畜生と化す。
その中でも、とくに警戒すべきものが、『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』。

ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』をいう。

 要するに、(愚かさ)が極まった状態を、『痴(ち)』といい、それが愚痴の語源に
なっている。
わかりやすく言えば、愚痴を言うこと自体、その人が愚かであることを意味する。
その(愚かさ)に接していると、接するこちら側まで、愚かになる。
だからある賢人は、こう言った。

 「怒っていたら、愚痴を言うな。愚痴を聞いても、怒るな」と。
けだし、明言である。

 ともかくも、愚痴を言うということ自体、アメリカでは、精神障害(mental disorder)
を疑われるということ。
日本では、愚痴を軽く考える傾向があるが、アメリカでは、そうでないということ。
気をつけよう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 愚痴 愚痴論 complaint 不安神経障害)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●追加

 昨年書いた原稿に、今日の経験を追加してみる。

 私は女Aよりも、女Bのほうに、興味をもった。
介護士ではない。
ヘルパーでもない。
友人や娘でもない。
これについてワイフが、あとでこう話してくれた。
「今はね、ああいうふうに老人の話を聞くだけのヘルパーさんも、いるのよ」と。

 知らなかった!

 そこでネットを使って調べてみると、つぎのようなことがわかった。
介護ヘルパーのばあい、被介護者の話をよく聞くというのも、重要な仕事のひとつに
なっているということ。
「聞いてやるだけでも、老人は安心する」と。

 ナルホド!

 また聞き役専門のヘルパーというのはいないが、ある「何でも屋」の広告には、
「老人の話し相手になる」というのもあった。
つまり孤独な老人を相手に、聞き役になる、と。
話を聞いてもらえるだけでも、孤独な老人には、助けになるらしい。
しかしその老人自身は、どうなのか?
それで満足するのか?
見知らぬ相手に、愚痴を並べて、それで救われるのか?
相手は、仕事のひとつとして、話を聞いてくれる。
が、私なら、そんな相手に、内輪の話はしない。
ふつうの思考力のある人なら、そう考える。
しかし、そういう判断力も、ない。
ないから、やはりそういう話し方をする人は、ボケ症状が始まっているとみてよいのでは。

 レストランを出てから、ワイフとこんな会話をした。

私「愚痴を言わないことだよね」
ワ「そうね」と。

 ところで私はよく愚痴をこぼす。
しかしこと私のワイフにかぎっていえば、結婚してから40年近くになるが、私は
ワイフが愚痴をこぼしたのを聞いたことがない。
つまり不安神経障害とは、それだけ無縁ということ。
うらやましい。

 で、この原稿の結論。
それは先に書いた。
つまり愚痴を口にしたら、精神状態はふつうでないと考えてよい。
あるいはボケの始まりと考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 愚痴 愚痴論 愚痴は聞いても怒るな 怒ったときは愚痴を言うな グチ 不安神
経障害(DSM))


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●映画『トロン(TRON)』

+++++++++++++++++++++++

前作を見てから、25年(?)。
前作が衝撃的だったから、期待も大きかった。
当時主流になりつつあった、レーザーディスク版も買った。
当然、何度も観た。

が、時代は変わった。
映画も変わった。

昨夜、その映画、つまり『トロン』を観てきた。
星は2つか3つの、★★+。
(かなり、がっかり!)

3D映画だったが、それほどの迫力もなかった。
先週観た『ロビンフッド』が、よかったこともある。
そちらは、星4つの、★★★★+。
久々に、「これが娯楽映画!」と言わせるような映画だった。
その反動?
感覚が鈍化したため?
今では『トロン』程度の映画なら(失礼!)、いくらでもある。
たくさん観てきた。
ワイフはこう言った。
「前宣伝が派手な映画ほど、がっかりすることが多いわ」と。

半分、同感。

+++++++++++++++++++++++

●DVD『運命のボタン、THE BOX』

 この原稿を書き始めたころ、ワイフもこたつの中で、『運命のボタン、THE BOX』
というDVDを観始めた。
劇場で上映されたとき、忙しくて見損ねた。
で、今夜になった。
私はパソコン、ワイフはDVD。
が、途中から、おもしろそうだったので、原稿を書くのをやめ、合流。
あら筋は、つぎのよう。

 宇宙の知的生命体(たぶん、火星人?)が、人間の「質」を試すという筋書き。
そのために、ボタンのついたBOX(箱)を、人間に渡す。
「押せば、100万ドルをあげる。しかし押したとき、どこかでだれかが死ぬ」と。
が、どこでだれが死ぬか、それは当人たちにもわからないという。

 その映画を観ながら、私なら、迷わず押すと思った。
100万ドルといえば、約1億円。
もともとインチキ臭い話。
押してダメもと。
第一、そんな話は信じない。
本当に100万ドルもらえるとは、思わない。

つまり欲望vs理性ということになれば、私のばあい、欲望のほうが、はるかに強い。
こういうケースでは、理性の力で欲望をコントロールするのは、たいへんむずかしい。
で、それを見て、火星人は、人間というか人類の「質」を判断する。
いうなれば投票のようなもの。
ボタンを押す人間がより多ければ、人類を絶滅させる。
押さない人間がより多ければ、人類を存続させる、と。
(しっかりと観ていたわけではないので、このあたりの展開は不正確。)

 映画自体、少し回りくどい。
全体としてわかりにくい構成になっている。
何もそんな手のこんだ方法を使わなくても、人間の「質」を知る方法は、いくらでもある。

 ストーリーは、1組の夫婦が、そのモニター(?)に選ばれるところから始まる。

●摂氏400度

 この映画を別として、こんなことを考えてみたい。
つまり人間にはその価値があるかどうか。
地球上で存在する価値があるかどうかということ。
もしそれを判断せよと言われたら、あなたなら何と答えるだろうか。
たとえば地球温暖化が、温暖化程度ではすまなくなり、いよいよ火星化するとわかった
ときでもよい。

 人間という一種類の動物のために、そんほかのありとあらゆる動植物が、犠牲になる。
それでもあなたは、「人間は存在すべき」と判断するだろうか。
どうせ人間も絶滅するなら、ほかの動植物を存在させるためにも、早めに人間を絶滅
させたほうがよい。
私ならそう考えるし、それが常識的な判断ということになる。

が、人間は、簡単には絶滅しない。
ありとあらゆる無間地獄を経験してでも、人間は最後の最後まで生き残ろうとする。
あがく。
もがく。
最終的に、地球の平均気温が摂氏400度になっても、だ。
(摂氏で、400度だぞ!)
実は、それがこわい。

●SFファンなら、必見映画

 『BOX』の中では、火星人は人間の欲望の醜さを知り、全体として、人間を
絶滅させる方向に考えているようだ。
が、その1組の夫婦の「愛」を知り、考え方を少し改めたかな(?)というところで
映画は終わる。

 映画の撮り方をまちがえると、とんでもない映画になりそうな映画。
が、そこはアメリカ映画。
実にたくみに、かつ、俳優の名演技でカバーしていた。
お金をかけ、ていねいに制作されていたこともある。
星は『トロン』より1つ多く、3つの、★★★。
SFファンなら必見。

 で、先の話に戻る。
もしあなたにその選択が任されたら、あなたはどう判断するだろうか。
「人間は存続する価値があるか、どうか」と。

 で、同じ質問をワイフにすると、ワイフはこう言った。
「神様なら、どうするかしら?」と。

私「実は旧約聖書にも、似たような話が出てくるね。キリストにしても、最後の
晩餐のあと、そういう選択を迫られる」
ワ「キリストは、すべての人間の罪を背負って、自ら犠牲になったというわけでしょ」
私「キリスト教では、そう教える」
ワ「……私なら、どうするかしら……」
私「ぼくなら、迷わず、押すよ。ハハハ」
ワ「そうね、ハハハ」と。

●批評

 映画『BOX』では、「どこかでだれかが1人、死ぬ」という筋書きになっている。
しかしそれでは弱い。
つまり1人では、弱い。
私が製作者なら、「どこかでだれかが、一度に100人死ぬ」というような筋書きにする。
たとえばその主人公の夫婦がボタンを押したとき、近くで爆発事故が起き、ちょうど
100人が死ぬ、とか。
あるいは夫婦の年齢の数だけ、人が死ぬでもよい。
(あくまでも映画としての、話だぞ!)

 主人公の夫婦は100万ドルを手にするが、同時にそれ以後、良心の呵責に苦しむ。
そのほかの展開は、映画どおりでよい。
どこかでだれかが死ぬといっても、病気や事故で亡くなる人は多い。
「どこかでだれかが、1人死ぬ」では、直接的な因果関係を結びつけるのは、むずかしい。
つまりそのあたりの結びつけが、少し甘い。
(偉そうなことを書いて、ごめん!)

●『トロン』

 一方、『トロン』では、コンピューターの中に、人間が入る。
発想としては、最高におもしろい。
映画の中では、人間のDNAをデジタルDNA化してコンピューターの中に入るという。
そんな筋書きになっている。
が、観ているうちに、いくつかの疑問がわいてきた。
その第一が、感情の問題。

最近の脳科学によれば、感情=脳内ホルモン説が、主流になってきている。
私たちが感ずる喜怒哀楽など、もろもろの情感は、脳内ホルモンによるもの。
コンピューターの中に入った人間には、(仮に入れたとしても)、その情感があるのか。
あるとするなら、どうやってその情感を作り出すのか。

 前作を観てから、いつもどこかで私はそれについて考えてきた。
で、私の得た結論は、コンピューターの内部というのは、おそろしく冷たく、機械的
な世界ということ。
コンピューター内部で、何かしらのホルモンでも分泌されれば、話は別だが、それは
ありえない。

 このことは人間の脳を、そっくりそのままコピーしたばあいを考えてみればわかる。

たとえばあなたの脳を、そのままそっくり、1台のコンピューターにコピーできた
とする。
そのとき、そのコンピューターは、あなたそのもの。
カメラをつけ、マイクをつけ、ついでにスピーカーを取り付ければ、「あなた自身」。
見ることも、聞くことも、話すこともできる。
しかしそのコンピューターに感情があるかいなかということになれば、ない。
コンピューター内部で、どうやってホルモンを合成し、分泌するのか。

 映画『トロン』の中では、コンユーターの中であるにもかかわらず、そこに出てくる
人間は、みな、地上の人間と同じように感情をもっていた。
さらに言えば、「時間」の問題もある。

映画の中では、コンピューターの中の8年間は、地上の1秒に相当するというような
ことを言っていた(記憶により、不正確)。
それはその通りだろうと思う。
であるとするなら、コンピューターの中の父親は、どうして年を取ったのか。
悪玉のコピーされた父親は、どうして年を取らなかったのか。

 また「次元」の問題もある。
コンピューターの中は、上下、左右のない、異次元の世界のはず。
が、映画の中では、地上の様子とまったく同じ。
バイクが、地上を走るバイクと同じように、コンピューターの中を走る。

 ……とまあ、いろいろ考えながら、観た。
そういう点ではおもしろかったが、言い換えると、私自身も、前作から今日までに
観方が大きく変わったということ。
知識もふえた。
それで星は、2つということになってしまった。
『トロン』は、やはり前作だけで終わればよかった。
そのほうが、伝説的価値が残ったと思う。

●付記

 DVD『BOX』を観終えたあと、ワイフとこんな話をした。
「ぼくが映画製作者なら、『未知との遭遇』のリメイク版を作るよ」と。

ワ「どんなふうに?」
私「今度は、宇宙人側に視点を置いた映画にする」
ワ「おもしろそうね」
私「そうだよ。人間とコンタクトするかどうか、宇宙人は迷う。そのためいくつかの
実験を重ねる。反対派や、人類滅亡を主張する宇宙人と、あれこれやりあう。そういう
筋書き」
ワ「おもしろそうね」
私「だろ……」と。

 こういうバカ話は、本当に楽しい。
いつまでしていても、飽きない。
(2010年12月18日夜記)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●韓国の人たちへ(?? ?????!)

●射撃訓練を中止しろ!(?? ??? ????!)

北朝鮮という国を、本気で相手にしてはいけない。
またその価値もない。
「勝った」「負けた」ということになれば、
韓国は、すでに勝っている。
負けているものは、何もない。

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今、君たちがしていることは、竹島でしていることと同じではないか。
延坪島にしても、38度線が、北へ大きく迂回している。
あの島を、韓国の領土と主張するほうが、おかしい。
仮に韓国の領土であるとしても、相手は世界の最貧国。
あんな島のひとつやふたつ、与えてやれ。
早晩、自己崩壊する。
自己崩壊すれば、すべて君たちのものになる。

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それよりも私たち日本人に理解できないのは、つぎのこと。
どうして開城工業団地があるのか。
いろいろな思惑があることは、わかる。
わかるが、君たちが今、第一にすべきことは、開城工業団地の閉鎖である。

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一方で経済援助をしながら、他方で銃撃戦を用意する。
そのおかしさ。
矛盾。
しかしそれこそ北朝鮮の思うつぼ。
君たちは再び、北朝鮮の罠にかかろうとしている。
北朝鮮の独裁者たちは、自国民の注意を外にそらすため、戦争を口実にしている。
どうしてそんな簡単なことがわからないのか。

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戦争というのは、一度始めたら、最後。
収拾するのに、その何倍もの時間と費用がかかる。
損害が出れば、なおさら。

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君たちが日本を嫌っているのは、よくわかる。
しかしその日本は、アメリカ軍の基地になっている。
佐世保にせよ、横須賀にせよ、はたまた沖縄にせよ、日本の領土だぞ。
日本が基地費用を負担している。

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その日本が、邦人救出のための自衛隊派遣を口にしただけで、「一蹴」とは!
君たちは、2つのことを誤解している。
ひとつは、アメリカはそんな甘い国ではないということ。
日本の沖縄問題をひとつ取りあげてみれば、それがわかるはず。

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もうひとつは、日本には、朝鮮半島侵略の意図は、みじんもないこと。
戦時中はどうであれ、現在の日本という国は、そういう国。
もう少し、日本を信頼してみたらどうか。

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今、ここで局地戦であるにせよ、戦争を始めたら、ソウルは本当に火の海になる。
仮に3日で北朝鮮を制空権を掌握できたとしても、ただではすまない。
10万人単位の、狂信的な工作員がいることを忘れるな。
貧者には貧者の論理というものがある。
彼らは、その貧者の論理にしたがって生きている。
「俺たちが貧しいのは、お前たちが富を独占しているから」と。

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それよりも重要なことは、人権問題を先頭に、北朝鮮を自己崩壊に導くこと。
中国を孤立さえ、中国を動かすこと。
中国が北朝鮮を支える限り、北朝鮮は自己崩壊しない。
が、中国が動けば、北朝鮮は崩壊する。
すでにその兆候は見えている。

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君たちが今日、しようとしていることは、竹島で射撃訓練をするようなもの。
実効支配というのを確立したという気持ちは、よくわかる。
しかしそんなことをしても、世界の人たちは、君たちの行為を笑うだけ。
自分たちの島でないことを、自分たちがよく知っているから、無理をする。
どうしてそんなことが、わからないのか。

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また君たちは「正義」という言葉をよく口にする。
しかし一歩離れて、この日本から見ていると、君たちも北朝鮮も同じ。
思考回路が、実によく似ている。
些細なことにこだわり、すぐ頭を熱くする。
少しでも批判されると、それに対して過剰反応する。

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いいか、ここで戦争の火ぶたを切れば、一番喜ぶのは、アメリカだぞ。
アメリカの軍需産業だぞ。
君たちは、それに操られているだけ。

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この日本にしても、そうだ。
朝鮮半島が有事ということにでもなれば、日本の経済も大打撃を受ける。
無事ではすまない。
仮に北朝鮮を抑え込み、解放したとしても、そのあと莫大な請求書が舞い込んでくる。

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だから、ここは冷静に。
射撃訓練をしたければ、ほかの島ですればよい。
ああいう暴力国家を、本気で相手にしてはいけない。
日本には「負けるが勝ち」という諺がある。
韓国にもあるかどうかは、知らない。
つまり負けたふりをして、勝つ。
それとも君たちは、あんな国と、心中するつもりなのか。

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へたをすれば、何十人、何百人、あるいは何万人という人が死ぬ。
あんな小さな島のために。

だから、あえて言う。

韓国の人たちよ、射撃訓練を中止しろ!

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2010年12月20日、朝記
2010 ? 12 ? 20 ? ??

++++++++以下、Yahoo News より++++++++

韓国の聯合ニュースは20日、韓国軍が同日午前にも、延(ヨン)坪(ピョン)島周辺の黄海で海
上射撃訓練を実施すると伝えた。ただし気象条件によっては午後になる可能性もあるという。
韓国軍合同参謀本部は、気象条件の良好な日を1日選んで実施するとしており、訓練は1日
で終了する見通し。(2010−12−20)

++++++++以上、Yahoo News より++++++++

Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

SK様へ (To Ms. SK:)

+++++++++++++++++

今朝は、こんな実験をしてみます。
ちょっとおもしろい実験です。

グーグルの翻訳サービスを利用して、一度、日本語を英語に翻訳してみます。
つぎに今度は、その英語を、日本語に翻訳してみます。
元の日本語に、どこまで戻るか。
たいへん興味があります。

言い忘れましたが、おはようございます。
NJって、どんなところか、たいへん興味をもちました。
またいつかNJの話をしてください。

では、実験、開始です。

+++++++++++++++++

こんにちは!
昨日は、忙しい1日でした。
まず起きて、草刈り。
草払い機というエンジン付きの機械で草を刈ります。
それが終わると、1時間ほど、ランニングをしました。
歩いたり、駆け足をしたりのランニングです。

それから近くの大型DIYショップへ行き、電気ストーブを購入しました。
この寒さです。
家に帰り、寝室を、和室から洋間に移動しました。
和室はすきま風が入ります。
それでそうしました。

で、夕方になり、ワイフといっしょに買い物。
土日は、私が料理をすることが多いです。
また先日、SONYの、ゲーム機を買いました。
PSPというゲーム機です。
これが結構楽しくて、今、毎日のように楽しんでいます。
で、あちこちの店で将棋のソフトがないか、さがしてみました。
が、ありました。
2000円弱でした。
即、購入。
そのソフトを相手に、今のところ、5戦5勝です。
もともと子ども相手のソフトですから、弱いです。

++++++++++++++++++++

まずここまでを翻訳してみます。
以下がその結果です。
お笑いになると思います。

++++++++++++++++++++

Hello!
Yesterday was a busy day.
Wake up first mowing.
Mow the grass with a machine equipped with aircraft engine plant pay.
When you are done, about 1 hour for running.
Walking, and running the fast lane or to.

Then go to the nearby large DIY shop and bought the electric stove.
It is this cold.
Home, the bedroom, Hazama Hiroshi moved from the tatami.
Japanese-style room is filled with drafts.
To do so.

In the evening and went shopping with my wife.
The weekend is that I cook often.
The last Sun, SONY, and bought the game.
This is a PSP game.
This is quite fun, and now enjoys a daily basis.
, And if there are any chess software in stores everywhere, I'm looking.
, But there.
Was about 2000 yen.
Immediate purchase.
Against the software, so far, and five against five wins.
The software was originally from the other children. Weak.

+++++++++++++++++

何となくわかる……という程度の英語みたいですね。
今度は、この英語を日本語に
翻訳してみます。

+++++++++++++++++

こんにちは!
 昨日は忙しい一日だった。
 目覚め第一草刈り。
 航空機エンジン工場支払いを備えたマシンで草を刈る。
 あなたが実行するために、約1時間を行っている場合。
 、ウォーキング、高速車線をまたは実行している。

 その後、近くの大規模なDIYショップに移動し、電気ストーブを買った。
 これは寒いです。
 ホーム、ベッドルーム、ハザマ浩は畳から移動。
 和室は、ドラフトで満たされている。
 に行ってください。

 夕方とでは、妻と一緒に買い物に行きました。
 週末は、私がよく料理ということです。
 最後の日は、ソニー、ゲームを買った。
 これは、PSPのゲームです。
 これは、とても楽しいです今毎日を楽しんでいます。
 どこにでも店舗内の任意のチェスのソフトウェアがあるとしたら、私が探しています。
 、しかし、そこ。
 約2000円だった。
 即時購入。
 ソフトウェアに対しては、これまでのところ、5勝に対して5。
 ソフトウェアは、他の子供たちから最初にあった。弱い。

++++++++++++++++++++++

ハハハ。
以上が、結果です。
やはりこうした翻訳ソフトを使うときは、最初に、きちんとした日本語で書かないと
だめのようですね。

「私は朝、7時に起きました。
それから草刈りをしました」というようにです。
それからできるだけ文を短くするのも、コツのようです。
あまりむずかしい漢字でもだめ。
しかしひらがなで書くと、誤解されてしまう。
いろいろあります。

今朝は、ちょっとした実験をしてみました。
何かの参考になれば、うれしいです。

では、ご家族のみなさんに、よろしく!

Merry Christmas!

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●ウソと小細工

++++++++++++++++

私は、「ウソ」に対して、過剰とも
言えるような反応を示す。
心の中に大きなトラウマがある。
それが反射運動的に激怒となって、
外に現れる。

小細工にしても、そう。
私の心は、同じように反応する。
それが小細工とわかったとたん、
その人への信頼感は、その瞬間、
粉々に壊れる。

ウソと小細工。
見た目には大きく違うが、中身は
同じ。

ウソつきは、小細工が好き。
小細工をする人は、ウソが好き。

++++++++++++++++

●小細工

 小細工をする人は、繰り返し、小細工をする。
小細工しながら、生きている。
思考回路が、そうなっている。
だからそれが悪いこととは、思わない。
ごく日常的な行為として、それができる。
平たく言えば、一事が万事。

 だれがそうとは言わない。
しかしこのタイプの人は、あなたの周囲にも、1人や2人はいるはず。
こまかいことに神経をつかい、それでもって相手を、自分の思い通りに動かそうと
する。

少し前に観た映画に、『君に読む物語』(The Notebook)というのがあった。
その中で、ボーイフレンドは、ガールフレンドに毎日手紙を書く。
が、ガールフレンドの母親が、その手紙をそのつど握りつぶしてしまう。
これも小細工。
そういうことが平気でできる人というのは、心がかなり壊れた人とみてよい。

●壊れた心

 心というのは、一度壊れると、もとに戻すのがむずかしい。
一生、不可能ではないかとさえ、思う。
たとえば一度、人間らしい心を失ってしまった人、など。
そういう意味では、幼児期、少年期は、たいへん重要な時期と考えてよい。
この時期の子どもの心は、たいへん傷つきやすい。

 当然のことながら、穏やかで、静かで、心豊かな環境で育てるのがよい。
もちろん両親の暖かい愛情も重要。

 が、意外と甘く見過ごされてしまうのが、赤ちゃん返り。
下の子どもが生まれると、上の子どもにさまざまな変化が現れることがある。
そのひとつが、赤ちゃん返り。
嫉妬という、きわめて原始的な感情がからんでいるだけに、基本的な部分で人間性
そのものをゆがめる。
嫉妬がからむと、人間は、(動物の世界でも似たような現象が数多く報告されているが)、
相手を殺すというところまでする。

 そういう事例を、数多く、私は見聞きしている。

 だから「心」というのは、作るものではなく、壊さないようにするもの。
そういう意味では、私は性善説を支持する。

 人間は本来、みな、やさしくて穏やかな心をもっている。
が、それが何らかの理由で壊れ、そして心をゆがめていく。
たとえば「悪人」とか、「犯罪者」という言葉がある。

 しかし悪人も善人も、大きくちがうようで、それほどちがわない。
紙一重というか、どこかで歯車が狂っただけ。
最初は小さな狂いだったかもしれないが、それが時間とともに大きくなる。
大きくなって、悪人は悪人になり、犯罪者は犯罪者になる。

 少し前、法務省の依頼で、40分x2本の、受刑者用の講演テープを作った。
横浜のラジオ局で収録した。
そのあと全国の刑務所に配布された。
そのときも、そういう話をした。

 そこで重要なことは、まず自分を知ること。
その第一歩が、自分の幼児期を知ること。
「私」を知ることは、すべてそこから始まる。
その方法については、すでに何度も書いてきた。

 話がそれたが、ウソをつく。
小細工を重ねる。
こうした症状も、「壊れた心」という視点に立ってみると、よく理解できる。
繰り返しになるが、「子どもの心は壊さない」。
これは子育てにおける、もっとも重要なポイントということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 小細工 ウソ 嘘 子育ての要 壊れた心)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


●Happy Learners


BW子どもクラブbyはやし浩司
浜松・Japan


●2010年の終わりに……(年長児、5−6歳のみなさん)2010−12−20


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Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●12月20日、夜記

++++++++++++++++

PSPを使っての将棋は、連戦連勝。
しかし画面が小さく、私には見づらい。
根を詰めて指していると、すぐ頭が痛くなる。
これはどういう理由によるものなのか。

だからそのつど1試合が、限度。
間に1時間以上の休憩が必要。
・・・というより、将棋ばかりしている暇はない。
楽しいが、そこまで。

++++++++++++++++

●失聴

 左の耳が聞こえなくなって、もう20年以上になる。
「突発性〜〜」という病名が使われ始めたころのことである。
正月も近いというある夜、左耳が焼けるように痛くなった。
熱もあった。
それが一昼夜つづいた。
いろいろな薬をのんだ。
扁桃腺か風邪かと思った。
が、その熱が冷めたとき、左耳は聴力を失っていた。

 で、左耳というのは、右脳に直結している。
身体の神経と脳の神経は、左右逆に交差している。
その右脳は、音楽やグラフフィックなど、アナログ的な働きを得意とする。
一方左脳は、論理や分析、言語や計算などの、デジタル的な働きを得意とする。
だから芸術家には、左利きが多いとよく言われる。
一方、作家や数学者には、右利きが多いとよく言われる。
もっともこの日本では、以前は、左利きは全体の5%前後と言われていた。
左利きは、嫌われていた。
左利きの子どもは、無理に矯正された。
が、実際には、左利きにしても、人類の約5%が、左利きといわれている
(日本人は3〜4%)。
原因は、どちらか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。
親からの遺伝という遺伝説。
生活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。

 それはともかくも、左耳を失聴してから、ステレオ音楽がわからなくなった。
音の方向もわからなくなった。
教えていて困るのが、これ。
幼児の声は、みな、よく似ている。
口の動きをみて、その子どもがしゃべっていると知る。
が、もっと困ることがある。

 たとえば一方向から、親の声と子どもの声が、耳に入ったとする。
こういうばあい、頭の中で、音を分離できない。
できないから、親の声と子どもの声が、混ざって聞こえる。
あるいは講演会の席などで、だれかが質問したとする。
そのとき講演会の外を走る車の音と、質問の声がまざって聞こえる。
つまり大きい音に小さい音が、負けてしまう。
質問した人の声が小さいと、声を聞き取れなくなる。

●右脳vs左脳

 さらに論理的に考えると、こうなる。
左耳が聞こえないということは、右脳に直接信号が届かないということになる(?)。
音楽を理解する中枢は、その右脳にある。
が、私は音楽が好きだし、よく聞く。
しばらく聞いていると、よい気分になる。
脳の中で、モルヒネ系のホルモンが分泌されるためと考えられる。
つまり左耳からの信号はなくても、右脳はちゃんと機能している(?)。

 大脳生理学の専門家が聞いたら、「おい、林、それはちがうよ」と言う
かもしれない。
右脳に音楽を司る中枢があるといっても、理解するのは脳の別の部分かも
しれない。
それに右耳から入った信号でも、右脳に届くということもあるかもしれない。
右脳と左脳は、脳梁(のうりょう)と呼ばれる、神経の太い束でつながっている。
左脳に入った信号が、右脳に伝わるということは、じゅうぶん考えられる。
さらに脳には、補完作用というのがある。
たとえば左脳がダメージを受け、言語中枢に支障が出たようなばあい、訓練に
よって右脳がそれをカバーする、など。
さらに最近の研究によれば、女性のばあい、右脳にも言語中枢があるという。
だから女性には、おしゃべりの人が多い、とか。
つまり脳というのは、私たちが考えるよりはるかに柔軟性や適応性がある。

 わかりやすく言えば、脳は使えば使うほど、よくなるということ。
そればかりか、失われた機能まで、回復することもあるという。
これも何かの本で、読んだことがある。
(本といっても、ちゃんとした研究論文だぞ!)

●ボケ

 一方、使わなければ、どうなるか?
・・・というより、50歳も過ぎると、脳の底に穴が開いたような状態になる。
それまで脳の中にあった知識や知恵が、どんどんと下へとこぼれ落ちていく。
みごとなほど(?)、下へとこぼれ落ちていく。
それが自分でも、実感として、よくわかるようになる。
つまり放っておいたら、バカになるだけ。

 それを防ぐためには、2つの方法がある。
(1)頭をよく使う。(いろいろな刺激を多方面から与える。)
(2)失われた分以上に、新しい知恵や知識を脳の中に叩き込む。

 これは私という人間の素人判断。
が、ときとしてボケは、その向こうで始まることがある。
血栓性の脳梗塞や、アルツハイマー病など。
こうなるとお手上げ。
言い換えると、自分ではどうしようもない。
その恐ろしさは、左耳を失聴した私にはよくわかる。
どんなに努力しても、一度切れた神経は、つながらない。
こうした状態が、脳全体で起こる。

●相手にされない

 ボケになると、人に相手にされなくなる。
それがさみしい。
たとえば私たちでも、相手がボケているとわかると、相手にしない。
適当にあしらって、それですます。
「どうせボケた人の言うことだから・・・」と。
言い換えると、自分がボケになると、相手は私を適当にあしらって、
それですますようになる。
相手にされなくなる。

 もっともボケた本人は、それに気づかない。
このことはボケた人と話していると、よくわかる。
「頭のほうは、だいじょうぶですか?」などと言おうものなら、即座に、こんな
返事が返ってくる。
「私は、だいじょうぶです。どこも悪くありません!」と。
アルツハイマー病の初期段階の人ほど、猛烈に反発するという。
取り繕(つくろ)いや、辻褄(つじつま)あわせ、弁解や言い訳が多くなるという。
何かの本で、そう読んだことがある。

 が、それも限度を超えると、つまり本人があきらめてしまうのか、
ボケは急速に進む。
もっともそうなれば、自分がボケていることさえ、わからなくなる。

●メガネ店で

 メガネ店では、補聴器も売っている。
補聴器といっても、ただ音を大きくするだけのものから、耳の状態に合わせて、
きめこまかく調整して使うものまである。
後者のばあい、耳鼻科の医師と相談して使うのがよい。

 それはそれとして、先日、骨振動系の補聴器を貸してもらい、試してみた。
ボリュームは最大。
わずかだったが、左耳でも音を聞くことができた。
そのときのこと。
音がすばらしく奥行きのあるものに聞こえた。
絵画にたとえるなら、それまで白黒だったものが天然色になったような
気分だった。

 けっして大げさなことを書いているのではない。
本当にそう感じた。
と、同時に「私は損をしている」と思った。
美しい音でも、その10分の1も味わっていない。

●相対的

 賢明な人は、それを失う前にその価値を知る。
そうでない人は、それを失ってはじめて、その価値を知る。
健康というのは、そういうもの。
しかし脳の健康には、それが当てはまらない。
失ったことにすら気がつかない。
気がつかなくても、生きていくうえにおいては、ほとんど支障がない。
ボケた人はボケた人なりに、何とか生きていく。
しかもボケというのは、相対的なもの。
私やあなたにしても、若くて聡明な人たちから見れば、ボケて見える。

●今日もがんばろう!

 今は、PSPを使って、脳トレをしている。
PSPの将棋(D3パブリシャー社「The将棋」)では、
レベル20まで難度を調整できる。
で、昨夜ふとんの中で、そのレベル20に挑戦してみた。
結果は、私の負け。
このゲーム機器で遊んで、はじめて負けた。
(もっともPSPのほうでは、そのつど30秒も思考を繰り返す。
私は、5秒以内の速攻。
これは負けたことの言い訳か?)

 ……しかし今朝は、脳がよく働かない。
目の前に、処理しなければならない書類が、4〜5通、ある。
が、どれから手を付けようか……?
何かにつけて、投げやり。
迷っている間に、時間ばかりが過ぎていく。
やはり頭の働きが、悪くなったのか?

 ……ともかくも、今日も始まった。
12月22日。
みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司※

【保護と依存について】

●保護と依存

 今朝、ワイフと食事中に、こんな会話をした。
いつもの「保護と依存」の問題。
一度保護と依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
保護するほうは、いつもまでも保護を求められる。
負担感に苦しむ。
一方、依存する側は、いつまでも依存する。
依存して当たり前と考えるようになる。
だから保護、依存の関係は、できるだけ作らないほうがよい。
親子でも、兄弟でも、親類でも、また友人でも。

●甥、姪の学費を全額負担したT氏

 T氏というドクター(内科医)が2年前に他界した。
私の30年来の友人であった。
そのT氏は、それぞれの親を通して、4〜5人の甥、姪の学費を負担した。
そのつど、ほぼ全額、負担したという。

 その話をT氏から生前、よく聞いていたから、私は当然、それらの甥や
姪が、葬儀に来ているものとばかり思っていた。
が、葬儀には、甥や姪はもちろんのこと、その親たちすら来ていなかった。
T氏の奥さんに、「どういうことですか?」と聞くと、奥さんはこう言った。
「主人が現役を退いてからも、みな、よくお金を借りにきました。
が、主人がそれを断っていたからです」と。

 俗な言い方をすれば、それまでさんざん世話になっておきながら……ということになる。
これが「保護と依存の関係」ということになる。

 私の母にしても、私は20歳のはじめから、収入の半分を母に届けていた。
27歳くらいのときから、法事の費用もすべて負担した。
しかし母はそのことを、だれにも話さなかった。
で、私が40歳を過ぎてから、姉に、そういう話を母から聞いているかと尋ねてみた。
が、姉は「そんな話は聞いていない」と。
その話をしながら、私がワイフに、「金を借りた人は自分の手柄と思うから、だれにも
話さないものだよ」と言うと、ワイフは、「そうね」と。

 母は質素な人だった。
無駄遣いはしなかった。
それは認める。
しかし私から得たお金で、母は母の実家や親類の人たちを助けていた。
従弟たちの学費にもなっていた。
このことは最近になってわかったことだが、もちろん母の実家や親類の人たちは、
そうしたお金の出所を知らない。
知らないから、母のことをほめちぎっても、私には礼の一言もない。
今にしてみると、私もバカなことをしたものと思う。
つまりこれが「保護と依存の関係」ということになる。

●子どもの学費

 子どもの学費についても、同じようなことが言える。
今、高校でも、さらに大学でも、親に感謝しながら高校や大学へ通う子どもはいない。
皆無と断言してよい。
お金が必要になると、電話をかけてくる。
で、親は、爪に灯をともしながら、学費を送る。
が、そんな親の苦労など、どこ吹く風。
親からのお金をかすめとっては、遊びほける。

 ……と断言するのも、失礼なことかもしれない。
中には、そうでない学生もいる。
しかしそういう学生は、少ない。
本当に少ない。

 それもそのはず。
子どもは子どもで、小さいときから、「勉強しろ」「宿題はしたか」「成績はどうだった」と、
尻を叩かれてばかりいる。
親は子どものためと思って、そうしている。
しかし子どもは、そうは思っていない。
「したいこともできず、勉強ばかりをさせられた」と思う。
だから高校へ入っても、また大学へ入っても、親に感謝などしない。
するはずもない。
中には、「親がうるさいから、大学へ入ってやる」と言う子どもさえいる。

 一方、親は親で、「大学まで出してやったのだから、息子(娘)は感謝しているはず」
と考える。
しかしこれは幻想。
まったくの幻想。
親はその幻想にしがみつき、自分の親バカを正当化する。
自分を慰める。

 もっとも親子の間に、一本でも良好な親子関係が残っていればよい。
それさえないと、自己否定から絶望感すら覚える。
ふと気がついてみると、老後の資金さえない。
そんな状態になる。

 つまりこれも「保護と依存の関係」ということになる。

●これからの親子関係

 私は63歳。
が、これは私だけの問題ではない。
40代、50代の人にも、共通の問題と考えてよい。
それがわからなければ、息子や娘が巣立ったとき、あなたが何歳になっているかを
計算してみればよい。
簡単な足し算をしてみれば、わかるはず。

 現在、日本の若者で、(あなた自身もそうかもしれないが)、「将来、親のめんどうを
みる」と考えている若者(成人)は、30%もいない。
この数値は、欧米やアジアの若者たちと比べても、極端に低い。
つまりあなたの老後は、そういう息子や娘たちの上に、載っている。
独居老人、無縁老人、そしてその先では孤独死。
それが今、あたりまえの老後になりつつある。

 だったら……というか、ここまで書けば、では子育てはどうあるべきか、賢明な
あなたにならわかるはず。
子どもに向かって、「勉強しろ」というのは、親の勝手。
しかしそう言えば言うほど、その責任を取らされるのは、あなた自身ということ。
それでももしあなたが「私はだいじょうぶ」「うちの子にかぎって、親を裏切ることは
ない」などと思っていたら、それは幻想。
まったくの幻想。

 先日もある男性(長野県出身)と、近くの温泉でこんな会話をした。
S町という、北信から来ていた。
その北信でも、過疎化に併せて、墓地の放棄が目立ってきたという。
そこで地域ごと、寺ごとに、無縁仏用の大きな石碑を建て、そこに遺骨を納めなおし、
集団で供養しているという。

 その男性は、こう言った。
「一度、都会へ出たら、今の若者たちはぜったいに戻ってきませんね。
それだけの社会システムが整っていればよいのですが、それが不完全です。
だから私が住んでいるS町でも、独居老人がどんどんとふえています。
私もその1人です」と。

 で、私が「息子さんや娘さんのところに会いに行かないのですか」と聞くと、
こう話してくれた。
「行きません。もう20年来、会ったこともありません。そのかわり、今は、
弟と仲よくしています。
その弟も、豊橋(愛知県)で独居老人です」と。
言い忘れたが、その老人は、「今、82歳です」と言った。

 こうした傾向は、この先、20〜30年はつづく。
つまりこの原稿を読んでいるあなた自身も、その独居老人になる可能性は高い。
おおざっぱな試算によるものだが、約60%(某評論家)がそうなると言われている。
この数字が決して誇張されたものでないことは、あなたの周辺に住んでいる老人を
観察してみればわかる。

●保護と依存(2)

 だから保護と依存の関係については、慎重に対処したらよい。
相手が自分の子どもであっても、慎重に対処したらよい。
つまり過剰な保護意識は禁物。
禁物というより、危険。
子ども自身も、不幸になる。
保護に慣れきってしまった子どもは、保護なしでは生きていかれなくなる。
だからあのイギリスのバートランド・ラッセル(イギリス・ノーベル文学賞受賞者、
哲学者)もこう言っている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれ
ども、決して限度を超えないことを知っている、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与
えられる」と。

 けだし名言である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 保護と依存 保護と依存の関係)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【Independent Thinker】 

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In 
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves no 
effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than 
his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very 
exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. It 
causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that 
position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are 
few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so 
aristocratic a good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner in 
the young than in grown mean and women. Among children it is very common, and 
grows naturally out of the period of make-believe and fancy. It is rare in later life 
because everything is done to kill it during education... The wish to preserve the past 
rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who control 
the teaching of the young. Education should not aim at passive awareness of dead facts, 
but at an activity directed towards the world that our efforts are to create

教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対して
は、楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほ
とんど要しない。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。そ
れ以上に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒に
とっては、教師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生におい
て、大きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。
そしてそれがだれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを
理解する子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育
のよさが、子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い
人たちの間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれた
ことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period 
of make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、す
べてが教育によって、これがつぶされてkillしてしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保
全したいとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせ
ることpassive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向
って、能動的に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to 
create。

バートランド・ラッセル(1872〜1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベ
ル文学賞受賞者

++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そ
のときの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい自分
を発見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。
それが自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去
の事実を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって
能動的に向わせることを目的としなければならない」(Education should not aim at 
passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our 
efforts are to create)と書いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論
の中で、「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」
ということになる。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということに
なる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せ
ば、「ひとりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思う
のは待ってほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、
そのつど、いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、
頭をさすりながら、その頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。
しかしその実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。そ
れぞれが、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていな
い。が、その実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、
電車に乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食
べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれな
いということ。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、
そのワクを踏み超えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメ
というワクを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先
に巣をつくらないで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)
の条件ということにもなる。

 恩師のT先生は、科学研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重要
性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バー
トランド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、
ありふれた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽な
こと。しかしそのワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味があ
る。私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰
りかえしているだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たち
も、若いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言っ
た。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事
実は、私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。
やがて君も母親になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。
つまり繰りかえしているだけだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなけれ
ばならない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。
私の家の近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、
自分の人生を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前
と同じ生活を繰りかえしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとした
ら、そのままつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むこ
とである。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いて
いる。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろ
んその女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、
そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心
をキズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ
出す勇気を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでい
くというのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そし
てそのつど、さらにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知
る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そして
そのあと、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、
Independent Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこ
に何か、目には見えない糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。

(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人) (はやし浩司 家庭教育 育児 教育
評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 保護と依存 バートラン
ド・ラッセル ラッセルの言葉)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●人生の密度(感動と驚き)


++++++++++++++++


人生の密度は、何によって決まるか。
もちろん密度は、濃いほど、よい。
仮に人より2倍、密度の濃い人生を
送ることができれば、同じ時間でも
人より2倍長く生きることができる。
そうでなければ、そうでない。


++++++++++++++++


●サイエンス


 人間にも、コンピューターに似た、「クロック数」のようなものがあるのか?
脳にも回転速度のようなものがあるのか?


 それについては最近では、脳科学が急速な進歩を遂げ、科学的にそれが証明され
つつある。
たとえば2008年、アメリカのサイエンス誌に、こんな興味深い論文が
掲載された。


 それは人間の、(これは人間にかぎらない)、条件反射についての論文だったが、
人間を基本的な部分で動かすシグナルは、どうやら脳下垂体の下部から
発せられているらしいということがわかってきた。
そこからシグナルが発せられると、たとえばドーパミンという神経伝達物質が
放出され、それが線条体などを刺激する。
ドーパミンというのは、人間の欲望と快楽を調整している神経伝達物質をいう。


 わかりやすく言うと、脳の中心部、奥深くで、(生きるための信号)が
常に発せられ、それが生きることの原点になっている。


●子どものシグナル


 子ども、とくに幼児のシグナルは、おとなの私たちより2倍は、速い。
(これはあくまでも私の印象によるものだが……。)
つまり頭の切り替えというか、回転が速い。
もしおとなのもつリズムで、幼児を指導していたら、幼児はそのリズムに乗れず、
あっという間に飽きてしまうだろう。
そのことは、幼児を教えてみれば、よくわかる。
テンポを速くし、小刻みに内容を変えていく。
そうでもしなければ、幼児を、50分なら50分の指導に引きつけておくことはできない。


●クロック数


 脳下垂体から発せられるシグナルに、「クロック数」という概念が当てはまるか
どうかは知らない。
そういう議論もあるかと思う。
が、ここではあくまでも仮説として、こんなことを考えてみたい。


 1秒間に発振する(電圧の最大値と最小値を繰り返す)回数を、クロック周波数という。
コンピューターの世界では、そのクロック数によって、CPU(中央演算装置)の
性能が決まる。
たとえば私が現在使っているパソコンは、インテル社製で、3・06GHzの性能を
もっている。
1秒間に、約3000000000回のスイッチON/OFFを繰り返す。
(すごいね!)
が、もし脳のシグナルの速さを計測できるとしたら、それが脳のクロック数という
ことになる。


 たとえば人間のクロック数が、1000回/秒であるとする。
実際には、それほどもないと思うが、もし1000回/秒であるとするなら、
私のコンピューターは、300万倍の能力をもっていることになる。
能力というよりは、計算速度をもっていることになる。
平たく言えば、私が脳の中で、23x45の1つのかけ算を暗算する間に、
コンピューターは、同じようなかけ算を、300万回、計算できることになる。


 が、ここで重要な問題が起きてくる。
脳の大きさと、伝達速度の問題である。


●伝達速度


 庭を見ていると、今朝もスズメたちがやってきて、餌をついばんでいる。
そのスズメたち。
チョコチョコと動いては、また別の行動をチョコチョコと繰り返す。
行動が素早い。


 3メートルほどの高さなら、ヒョイヒョイと上下し、木々の間を飛び回っている。
人間に例えるなら、100メートル近い山を瞬時に上り下りするようなもの。
また目と脳の距離も短いから、とらえた信号には、即座に反応する。
私が庭へ顔を出した瞬間に、サーッと高い木へと逃げていく。


 ……つまりいくらクロック数が速くても、脳の中の伝達速度が遅ければ、その分だけ、
頭の回転は遅くなる。
つまり脳の大きさと、伝達速度は、反比例する。
(正確に反比例するというわけではないだろうが……。)


 で、私はあるときこう考えた。
もし数億年後、現在のゴキブリが進化し、ゴキブリ人間のようなものが現れたとする。
彼らは時計の秒針よりさらに細かく分けた、1秒を60に分けた針のあるような
時計を作るだろうな、と。
体だが小さい分だけ、脳内の伝達速度は速くなる。
(反対に像のような巨大な生物ともなると、少なくとも秒針は必要ない。)


 結論を先に言えば、クロック数は同じでも、伝達速度が遅くなれば、その分だけ、
脳の活動は鈍くなる。
つまり密度は薄くなる。
(いろいろ反論はあるだろうが……。)


●頭の回転


 ここでは割愛するが、「信号の伝達」という点では、動物の脳は、たいへんのんびり
というか、非効率な方法を用いている。
電線を伝わる電気信号のようなわけにはいかない。
ちょうどドミノ倒しに似た方法で、ひとつずつの神経細胞が、信号をつぎの神経細胞へと
伝えていく。
つまり脳が大きくなればなるほど、人間はより知的にはなるが、その分だけ、反応が
鈍くなる。
単純に考えれば、おとなより、子どもの方が、脳が小さい分だけ、頭の回転が速いという
ことになる。


●密度


 密度……もしここでいう密度が、2倍速くなったらどうなるか……?

 たとえば1時間に1本の映画を観ることができたとする。
もし密度が2倍になれば、それぞれの映画を早送りして、1時間に2本の映画を観る
ことができることになる。
4倍になれば、さらに早送りして、1時間に4本の映画を観ることができるように
なる。


 言い替えると、1時間に4本の映画を観ることができる人は、1時間に1本の映画を
観ることができる人の、4倍、密度の濃い人生を送ることができる。
(実際には、ここまで単純に計算できないとは思うが……。)
しかし密度を濃くするということは、とても重要なことである。
そのことは、あなたの今の生活と、あなたが子どものころの生活を比較してみればわかる。
たとえば10歳から20歳までの10年間と、30歳から40歳までの10年間。
同じ10年間のはずだが、「長さ」そのものが、ちがう。


 このことは、50歳、60歳になってみると、さらによくわかる。
よく「年を取れば取るほど、時間が短くなる」という。
それが実感として、よくわかる。
つまり子どものころのほうが、密度が濃かったということになる。


●密度の計算


 そこで多くの学者たちは、密度の計算式を求めた。
いろいろな説がある。
が、どれも「?」。
で、私は「爆発説」を考えた。
人生をある一定量のガソリンにたとえてみる。


 誕生と同時に、人間は爆発的にガソリンの大半を消費する。
そのあと10年ほどで、2分の1とか、3分の1を消費する。
そのあと10年ほどで、さらに4分の1とか、5分の1を消費する。
それ以後は、わずかに残ったガソリンを、少しずつ使って生きていく。
63歳になった今は、言うなれば燃えかすのようなもの。
残っているガソリンもわずか。
そのことは特養で生活する老人たちを観れば、よくわかる。


 今日は昨日と同じ。
明日は今日と同じ。
そんな生活を毎日、繰り返している。
1年前も、今年も同じ。
10年生きたとしても、10年前と同じ、と。


 つまり人生の密度は、反比例のグラフのように、加齢とともに、小さくなっていく。


●では、どうするか


 具体的に考えてみよう。


 私は今朝は、午前7時に起きた。
昨夜は長男とワイフと3人で、舘山寺(浜松市内から40分ほどの温泉街)へ行って、
温泉につかってきた。
帰りに回転寿司屋に寄って、遅い夕食。


 私はそれからYOUTUBEに動画を1本、アップした。
床に就いたのが、午前0時。
目を覚ましたとき、外気は冷たかった。
が、そのまま眠っていても、起きて運動をしても、1時間は1時間。
私は思いきって起きて、ウォーキングマシンの上で、30分、歩いた。
(ときどき駆け足もするが……。)


 30分も運動すると、全身に汗をかく。
その運動をしながら、いろいろ考える。
今朝は、今ここに書いている「人生の密度」について考えた。
で、そのままの状態で書斎へ。
メールやニュースを読んだあと、原稿を書く……。


 かなり密度の濃い(?)時間の使い方をしていることになる。
が、その実感が、あまりない。
これはどうしたことか。


 そう言えば、昨夜車の中で、長男がこう言った。
「記憶というのは、感動したり、驚いたりしたときに、強く残るもの」と。


 ナルホド!


 時間を小刻みに使ったからといって、密度を濃くしたことにはならない。
大切なのは、「感動」や「驚き」ということになる。


●ホメオスタシス効果


 が、感動や驚きにしても、それが繰り返されると、回を重ねるごとに、どんどんと
その感動や驚きが薄れていく。
よい例が旅行。


 あちこちへ旅行をし始めたころは、そのつど感動したり、驚いた。
が、回を重ねるにつれて、それが薄れてきた。
最近では、先月行った旅行先のことすら、よく思い出せない。
これもホメオスタシス効果と言ってよいのか。
ウィキペディア百科事典には、こうある。


「恒常性、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)は生物のもつ重要な性質のひとつで
生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性
質、
あるいはその状態を指す。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重
要な要素でもある。生体恒常性とも言われる」と。


 わかりやすく言えば、同じことを繰り返していると、マンネリ化しやすいということ。
言い替えると、密度を濃くするということは、「感動」や「驚き」を、どう自分の人生の
中に取り込んでいくかということ。
時間を有効に使えばよいということでもないらしい。
もっと言えば、忙しいから、それでよいということでもないらしい。
仮にスズメのクロック数が人間の2倍速いとしても、スズメが人間の2倍、密度の濃い
人生を送っていることにはならない。


●感動と驚き


 以上が、私の偏見と誤解による、「人生の密度論」である。
隙間だらけの、つまりは理論としてはボロボロの仮説に過ぎない。
しかしひとつの結論を得た。


 感動と驚き。


 これを大切にする。
……ということで、今日も始まった。
12月23日。
教室では生徒たちが、クリスマス会を楽しみにしている。
その準備をする。
買い物をする。
生徒たちとワイワイと騒ぎ、楽しむ。
それが直接、ここでいう感動と驚きにつながるとは思わない。
が、しかし心に何かしらのインパクトを与えるだろう。
少なくとも、寝て暮らすよりは、よい。


 さあ、今日も感動しよう。
驚こう。


 では、みなさん、おはようございます。
今日も、がんばります!!!


Merry Christmas!!!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 人生の密度 ホメオスタシス効果 クロック数 視床下部 シグナル 
人生の密度論)


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08年と02年に、同じようなテーマで
原稿を書きました。
もう一度、ここに掲載します。


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●孔子の60代(Confucius on 60's)


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60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。


孔子(前551〜前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。


その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。


『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。


+++++++++++++++++++++


●66歳で


計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。


ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。


それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。


が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。


もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。


私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。


このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。


老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。


ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!


さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 論語 春秋時代 Confucius はやし浩司 密度の濃い人生)


●朝に道を聞かば……

+++++++++++++++++


論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。


それについて以前書いた原稿を添付します。


+++++++++++++++++


『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』


●密度の濃い人生


 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。


 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。


 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。


 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考え
ることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。


 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目
です」と。そういう女性は美しい。輝いている。


 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いて
いる。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。


 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。


●どうすればよいのか


 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お
金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も
残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。し
かし何も残っていない。


 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
三〇〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そん
なある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一
日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書
いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、
振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。


 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。


(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。


 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くするこ
とになる。


 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)


(追記)


 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、二倍の人生を
生きることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一
年の人生と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生き
ることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を
聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方
に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、
そういう意味も含まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司


●密度の濃い人生(2)


 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場
になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつ
も七〜八人の老人がいる。


 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、
小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性
たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕
事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。
悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!


 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」
と思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思
う部分は、「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分
は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。


 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだ
けなら、それは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。
そういう人生だったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を
生きたくらいの価値にしかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の
何倍も長く生きることができる。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分に
して生きることができる。人生の長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。


 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間を
ムダにしていることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな
私でも、つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。
いわんや、七〇歳や八〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。
いや、本当のところ、その「山」があるのかないのかということもわからない。が、ある
らしいということだけはわかる。いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山が
あった。今もある。だからこれからもそれが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴール
へたどりつけるという自信はないが、できるだけ先へ進んでみたい。そのために私に残さ
れた時間は、あまりにも少ない。


 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で
考えられなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは
思わない。ボケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私
はもう真理に近づくことはできない。つまり私の人生は、そこで終わる。


 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今
の私がこう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつ
づけたい。だから空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしという
ふうにして過ごす人生だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)※


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●眠られぬ夜(2010−12−24記)

++++++++++++++++++

昨日は、仕事も順調。
体調もよかった。
自分なりに満足できる1日だった。
が、床に入ると、どうも寝付きが悪い。
安定剤を半分に割ってのむ。
舌の先でなめていると、やがて眠くなる。

1度、トイレに起きた。
再び床に就いてから、PSPで将棋を指した。
勝った。
そのあと「おめでとう、5戦連勝」と表示された。

時計を見ると、午前1時。
ワイフは横で寝息をたてていた。

私は静かに目を閉じ、巨大なUFOを
思い浮かべた。
何でも土星の輪の中には、日本列島を
2倍したほどの大きさのUFOが常駐
しているという。
何かの本で、そう読んだ。
写真も添えられていた。

半端な大きさではない。
長さだけでも4000キロ!
それが尾部(あるいは頭部)から、岩石を
吹き出しているという。
またそれによって、なぜ土星の輪の模様が
変化するか、その説明ができるという。

何とも信じがたい話だが、あまりにも
突飛すぎるが故に、かえって真実味がある。

私はそのUFOの内部を想像した。
円筒形ということだから、回転しながら
遠心力を利用した人口重力を作っているに
ちがいない。
ということは、UFO内側の壁面に張りつくように、
生活空間があるということになる。
地球で見るような山や川もあり、草原もある。

眠られぬ夜は、私は決まってそんなUFOを
頭の中で空想する。
子どもの世界でいう、おとぎ話。
それと同じ。
私もそんなことを空想しながら眠る。

+++++++++++++++++++

●現実性と空想性

 子どもの世界では、空想性はあまり好ましくない。
イギリスの教育格言にも、『空中の楼閣を想像するのはよいが、子どもを空中の楼閣に
住まわせてはならない』というのがある。
現実は現実。
空想は空想。
その両者は、はっきりと区別する。

言い替えると、現実性のあるなしで、その子どもの精神の発達度を知ることができる。
たとえば乳幼児期のある一時期、子どもは空想の世界にハマることがある。
が、その時期を過ぎると、子どもは急速に現実的なものの考え方をするようになる。
言い替えると、少年、少女期に入って、空想性が強すぎるというのは、好ましいこと
ではない。

 占いやまじない、さらには「スピリチュアル」。
ゲームの世界にハマるのも、そのひとつ。
そういうものにハマるということ自体、精神の発達が未熟と考えてよい。

●UFO

 UFOが存在するとか、しないとかいう議論はさておき、地球を宇宙からながめる
という点では、UFO問題を考えることは、それなりに楽しい。
視野が広くなる。
冒頭に書いた、長さ4000キロのUFOでもよい。

 しかしまったくのデタラメかというと、私はそうは思わない。
私とワイフは、長さ数キロもあるようなUFOを目撃している。
さらに月には、「オニール橋」と呼ばれる橋があったという(後述)。
(現在、その橋は消えている。)
子どものころ、どこかの科学展示会に行ったとき、その橋のことを知った。
長さは、20キロ前後もあったという。
その空想図が、大きく描かれていた。
あのオニール橋にしても、UFOだったと考えると、辻褄(つじつま)が合う。
4000キロなら4000キロでもよい。
人間には想像を絶する大きさだが、ものごとは人間中心に考えてはいけない。
一匹のアリが、100万トンの石油タンカーを想像するばあいを考えてみればよい。
この宇宙では、人間は、アリのようなもの。

●空想性

 広く考えれば、人間が「あの世」を想像するのも、空想性のひとつということになる。
天国でも、極楽浄土でもよい。
言い替えると、人は加齢とともに、その空想性が強くなる。
またそういった空想をすることによって、一抹の安堵感を覚える。
孤独な夜も、それによって癒される。

 つまり加齢とともに、精神の発達が萎縮する。
後退する。
現実から離れて、空想の世界を生きるようになる。
私について言えば、この傾向はますます強くなることはあっても、弱くなることはない。
そのことは、老人たちを観察してみれば、よくわかる。

 たとえば私の母は、特養にいたころ、介護士の人たちをみな、親類の人や、昔なじみ
の人に置き換え、その名で呼んでいた。
「あの人は、隣のXさんの息子さんの、〜〜さんや」
「この人は、在所のK村から来ている、〜〜さんや」と。

 さらに言い替えると、こうした空想性が強くなったら、それだけ老人に近づいたという
こと。
けっして好ましいことではない。
だから闘う。
そういう自分と闘う。
「あの世」を信ずるにしても、そんなことは、死の直前でじゅうぶん。
それから信じても、遅くはない。

●現実性

 一方、現実性は、現実の世界を現実的に生きることで養われる。
簡単に言えば、仕事をする。
お金を稼ぐ。
そういう連続性のある緊張感の中で、養われる。
釈迦もこう言っている。
『己(おのれ)こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』と。

 それについて以前、こんな原稿を書いた。
話が少し脱線するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。
釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」
にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となること
もある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるように
なるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴
な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子
どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。
その原点をふみはずして、子育てはありえない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●検証

 現実的に生きようとする私。
その私が別のところで、空想の世界に生きている。
この矛盾?
そこで私はその矛盾を合理化するために、「UFOは迷信ではなく、科学である」と主張
する。

 が、「見たことがある」というだけで、そこから話が前に一歩も進まない。
そういう「会」が、この浜松市にもいくつかあるらしい。
一度は顔を出してみたいと思いつつ、まだ一度も、実行していない。
その会の人たちにしても、立場は、私と同じではないか?
言うなれば、小田原評定。
ああでもない、こうでもないという議論ばかりしていて、先に進まない。
みなで調査に行くというわけにも、いかない。

 が、ここにきて、ひとつ、新しい検証手段が見つかった。
YOUTUBEという検証手段である。
YOUTUBEには、土星のUFOについての映像もアップしてある。
そういうものを検証しながら、自分でそれを確認することができる。
「これは本物だ」とか、「これは怪しい」とか。

 そう言えばこんなUFOもあった(YOUTUBE)。

 そこかの空にUFOが現れた。
そのUFOのこと。
空に浮かんでいたのだが、移動するときだんだんと薄くなり、やがて空に溶け込むよ
うに消えていった。
透明化したとも考えられる。
そのYOUTUBEを見たとき、「このUFOは本物」と、私は確信した。
私が40近くワイフと見たUFOも、そうだったからである。
また当時、そのように文として記録した。
「私が見たUFOは、スーッと空を横切ると、そのまま空に溶け込むようにして
消えていった」と。

 YOUTUBEでその画像を見る、何十年も前のことである。

 ……ということで、眠られぬ夜は、目を閉じて、UFOのことを考える。
しばらくしていると、そのまま眠ってしまう。
それが私にとっての「おとぎ話」。
母親が寝床で子どもに話して聞かせる、「おとぎ話」。
昨夜の私がそうだった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 眠られぬ夜 UFO問題 オニール橋 土星のUFO)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●UFO(2007年12月の原稿より)

Have you ever seen an UFO? My wife and I did. It was a midnight after 12:00 o'clock. 
We were walking in a narrow street near our flat. It was a huge one, which might be 2 or 
3 kilometers in width. Of course it was not a plane. It was so huge. Then if someone asks 
me if I believe in UFO's, I would say, "Yes". These days at the Parliament House of 
Japan, some congressmen discuss about UFO's in the public. Does this have something
 to do with "Kaguya", a Japanese moon-search rocket? Kaguya is now on the orbit of the 
moon, taking photos from the space. I hope the government show us everything about 
the Moon. Some scientists as well as people say that the Moon is a giant space-craft for 
the aliens. Do you think so too? 

+++++++++++++++++

このところ、国会議員たちが、「UFO」
という言葉を、よく口にする。

国会という、公式の場でも、この問題
が取りあげられた(07年12月)。

一応、政府見解は、「存在しない」だが、
一部の議員たちは、「信じている」、「いる
と思う」などと発言している。

こうした一連の発言は、日本が打ちあげた
月探査衛星「かぐや」と、どこかでつながって
いるのではないだろうか?

「かぐや」は、とんでもない映像を地球へ
送り届けてきた(?)。

「とんでもない」というのは、「ありえない」
という意味であり、私はそれがUFOであって
も、少しも、おかしいとは思わない。

アポロ宇宙船で、月の裏側に回ったある宇宙
飛行士は、こう言ったという。

「まるでラッシュ・アワーのように、UFO
が飛び交っている!」と。

+++++++++++++++++++

●オニール橋

 月の内部には、巨大な空間がある。その中心部では、プラズマの人工太陽が、さんさん
と輝いている。月の内側に住む住人たちは、地球人の私たちと同じような生活をしている。

 一見、荒唐無稽(むけい)のような話だが、こうした説を信じている人は多い。科学者
の中にも、いる。たとえば私が子どものころには、月には、オニール橋※というのがあっ
た。「オニール」というのは、その橋を発見した人物の名前である。

 オニールは、ある日、望遠鏡で月を見ていたとき、斜め方向からの太陽光線を浴びて、
そこに橋のような影ができているのを発見した。それでそれを「オニール橋」と名づけた。

 私はその橋のことを、どこかの博覧会に行ったときに知った。巨大なアーチ型の橋で、
全長はたしか、20キロ近くあると聞いたのを記憶している。

 しかし、だ。今、同じところをさがしても、その橋はない。「ない」というより、「消え
た」。今にして思えば、その橋というのは、山から山へと、ちょうどそれらにまたがるよう
に着陸していたUFOではなかったかと思う。

 私自身も、巨大なUFOを目撃している。ブーメラン型のUFOである。全長が2〜3
キロはあったかと思う。あるいはもっと長かったかもしれない。よく「葉巻型UFO」が
話題になるが、葉巻型UFOともなると、全長が20〜30キロもあるという。

 こういう話を聞くと、月へのロマンが、かぎりなく、ふくらむ。

 月の住人たちは、どこから来たのか?
 月の住人たちは、何をしているのか?
 月の住人たちは、地球人の私たちを、どうしようとしているのか?

 あの月をくりぬいて住むほどの宇宙人だから、かなり頭のよい人たちとみてよい。私た
ち人間より、ひょっとしたら、何千年も、何万年も進化しているかもしれない。あのUF
Oにしても、光速に近いスピードで、宇宙空間を自由自在に動き回れるという。

 私が見たUFOにしても、空にそのまま溶け込むかのようにして、消えていった・・・。

 「かぐや」は、どんな映像を送ってきているのか? その一部は、インターネット上で
も公開されているが、どれも高・高度からのものでしかない。私(=私たち)が見たいの
は、もっと低高度で撮った、倍率の高い写真である。
 
 そこには、月に住む住人たちの、その直接的な証拠が写っているかもしれない。どうか
ウソ隠しなく、(=修正しないで)、すべての写真を公開してほしい。

(注※)(以下、月探査情報ステーションの公式HPより、転載)

オニール橋事件を振り返ってみます。1953年7月、ニューヨーク・ヘラルド・トリビ
ューン紙の科学部長であったJ・J・オニール氏は、月面の「危難の海」の西側に人工的
に作られた橋のようなものを発見したと発表しました。この橋は二つの峰をまたぐような
形で、20kmにもおよび、日没時には観測できましたが、日の出の時には見えなかった、
ということです。

同年8月、英国天文学協会の月研究部長だったH・P・ウィルキンス氏らも同じ構造を確
認したと発表しました。しかし、その後この構造は観測できなくなり、見まちがいだった
のではないかという批判が起こりました。ウィルキンス氏はその批判に抗議し、月研究部
長を辞任したそうです。

当時、オニール橋はかなりの話題を呼び、一部UFO研究家などからは巨大なUFOが一
時的に着陸していたのではという推測もされたそうです。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist UFO オニール オニール橋)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●12月24日夜記(2010年)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不景気

 コンビニで、週刊誌を立ち読みする。
一読して、暗い気分になる。
どの週刊誌も、「不景気」一色。
たとえば週刊Sは、「シャッター街」を特集していた。
不景気でシャッターを下ろした、シャッター街。
その通りでは、どの店もシャッターを下ろしたまま。

私自身も、商店で生まれ育った。
それだけに、こういう話は、つらい。
身につまされる。
シャッターを下ろした商店主たちは、どこへ行けばよいのか。
どこへ行ったのか。
さぞかしつらかったことだろう。
そのつらさは、私自身が経験している。

 負け戦(いくさ)なら負け戦でよい。
短期間に終わるなら、まだよい。
しかし商店のばあいは、それが10年単位でつづく。
言うなれば真綿で首を絞められたような状態。
それが綿々とつづく。
ジワジワ、ジワジワと……。
その間に、心まで蝕(むしば)まれる。
もちろん健康にもよくない。

2010年は不景気で始まり、不景気で終わった。
そんな感じがした。
もう少しワクを広げると、平成時代は不景気で始まり、
それがいまだに続いている。
「失われた10年」が、「失われた20年」になった。

今にして思えば、宮Z総理大臣、橋M大蔵大臣。
あの2人が、日本の経済をメチャメチャにしてしまった。
ある週刊誌は、この2人をさして、「戦後の日本のA級戦犯」と書いていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●北朝鮮、つぎの一手

 北朝鮮は、「聖戦」と称して、またまた韓国を脅した。
今度は、「核戦争の準備を整えた」(12月24日)と。
それに対して、韓国政府は、いつもの脅し(レトリック)ととらえている。
が、本当に、そうか?
そう考えてよいか?

 こういうときは、一度自分の脳を、あの独裁者の脳の中に入れてみる。
彼になりきって、ものを考えてみる。
そうすると彼の思考回路が手に取るようによくわかるようになる。
その状態で、あの独裁者のつぎの一手を考える。
で、そのつぎの一手とは……。

(1)適当に韓国を挑発する。
(2)韓国がそれに応じて、反撃してくるのを待つ。
(3)しばらく間を置いて、核実験を強行する。

 問題は核実験する場所だが、北朝鮮の北部や、日本海側ではない。
ズバリ38度戦のすぐ北。
韓国や在韓米軍を脅すには、最適。
そこなら全面戦争にはつながらない。
自国の領土内だから、名分も立つ。

 では、どうやって核兵器を、38度線近くまで運ぶか?
方法は簡単……というより、すでにその場所はできている。
何十本もあるとされるトンネルのひとつを使えばよい。
が、もし韓国の反撃が過ぎたものであれば、ソウルの地下で、ということも
考えられる。
ソウルの下にも、トンネルが走っている。
が、その場合は、核爆発と同時に、北朝鮮軍を一斉に南下させる。
アメリカ軍が反撃を整える前に、プサンまで南下する。
猶予期間は7日。
7日以内なら、北朝鮮は韓国を制圧できる。
それ以後だと、国連軍は反撃態勢を整える。
(2010年12月24日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国vs中国

 少し前、中国の漁船が韓国の巡視船に体当たりをした。
韓国の領海内での違法操業が、発端だった。
その結果、中国漁船は沈没。
何人かの死者が出た。

 それについて韓国政府は、それ以上、ことを荒立てないようにという配慮からか、
「遺憾声明」なるものを出した。
「遺憾」という言葉を使った。
死者が出たことについて、「I'm sorry」と言った。
これを受けて、中国政府はそれを「謝罪声明」と曲解し、中国国内で発表した。
「韓国政府が謝罪した」と。
が、これに韓国のマスコミが一斉に反発した。
「事実を歪曲した」、「わざと反韓感情を、かきたてている」と。

 しかし「遺憾」も「謝罪」も、英語では「I'm sorry」。
「残念」「ごめんなさい」という意味。
こういうケースのばあい、「遺憾声明」を出すほうが、おかしい。
少しでも国際外交の知識があったら、こんな言葉は使わなかったはず。
ずいぶんと昔だが、日本もアメリカに対して、同じ失敗をしている。

 それに一言。

 韓国の新聞は、いつも日本のニュースをゆがめて韓国国内へ伝えている。
わざと反日感情をかきたてている。
それについては、今までたびたび書いてきた。
そういう韓国が、中国に対して文句をつける。
このおかしさ。

 少し前のことだが、中国の自動車会社が、韓国の車のデザインを盗用したと、
韓国で問題になった。
しかしその韓国は、どうか?
どうだったか?
10年前まで、日本車をコピーして車を作っていた。
前から見るとTOYOTA、うしろからみるとNISSAN。
そんな車ばかりだった。

 自分の姿を客観的に知ることは、むずかしい。
自分の国を客観的に知ることは、さらにむずかしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●性欲の奴隷たち

 ある賢者はこう言った。
『若者たちは老人を見ると、みな、バカと思う。
しかし老人たちは若者を見ると、みなバカと思う」と。

 その「境界」、つまり若者と老人を分ける壁が、「性欲」ということになる。
60歳を過ぎると、人は、急速に性欲から解放される。
「衰退する」とか「減退する」というのではない。
「解放される」。

 たとえばこの私。
(こういう話は、正確に書きとめておきたい。)
性欲が消えたわけではない。
ただ最近は、若い女性には、ほとんど興味がない。
どんな写真を見ても、ただの肉塊に見える。
(それとも脂肪の塊?)
胸にしても、腰にしても、ただの肉塊に見える。

 もともとただの肉塊。
肉塊でないと言うほうが、おかしい。
つまり私たちが人間として本来的にもつ本能が、私たちの目を狂わせているだけ。
性欲から解放されると、それがよくわかる。
言い換えると、この私にしても今まで、性欲の奴隷でしかなかった。
それがよくわかる。

 が、それだけではない。
若い女性、とくに化粧に化粧を塗り重ねたような女性を見ると、本当にバカに見える。
恩師のT先生は、そういう人たちを評して、「昆虫のような脳みそ」と表現した。
その言葉をはじめて聞いたときには、私は少なからず違和感を覚えた。
が、今、私も、そう思うようになった。
中身がまったくない。
ないばかりか、薄汚ささえ覚える。
まさに昆虫のような脳みそ。
そういう脳みそしかもっていない。

 性欲の奴隷となり、本能の命ずるままに行動している。
それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、ヒトも、子孫を後世に残すことができる。
が、それに溺れてはいけない。
……と言っても、それに溺れている人に、それを説いても意味はない。
それが生きる原動力にもなっている。
あのフロイトも、それを「性的エネルギー」という言葉を使って説明した。
女性だけではない。

 男性がスポーツでがんばるのも、仕事や業績でがんばるのも、結局はその向こうに、
その性的エネルギーがあるから。
それが背後でその人を操る。

 が、60歳を過ぎると、そういう自分が、たいへんよくわかるようになる。
同時に、脳の中を、さわやかな風が吹き通るようになる。
それを私は「性欲からの解放」と呼んだ。

 だから今、私は、若者たちがみな、バカに見える。
ちょうど若者たちが私たち老人をバカと思うように、バカと思う。
自分であって自分でないものに、振り回されているだけ。

 で、今は、どうか?
相手が男性でも、また女性でも、その向こうにある「人間」を見るようになった。
「男性だから……」とか、「女性だから……」とか、そういう外見では区別しない。
1人の人間として、どうなのか、と。

 で、私と同年齢以上の人は、このエッセーを読んで、「そうだ」と納得してくれるはず。
しかし若い人たちには、このエッセーの内容すら理解できないだろう。
「そんなはずはない」とか、「はやし浩司は、きれいごとを並べているだけ」とか、
そう言って反発するかもしれない。
「何を偉そうに」と思う人もいるかもしれない。
私自身もそうだった。
私も若いころは、老人がみな、バカに見えた。

 しかしもしそうなら、男性も女性も、もう一度冷静な目で、異性をながめてみるとよい。
自分にこう問うてみたらよい。
「どうして相手が、ただの肉塊に見えないのか」と。
つまりその(見えなくしているもの)が、私であって私でない部分、つまり本能という
ことになる。

 ……ただしまったく性欲がなくなったわけではない。
ときどきだが、今でも性欲がわいてくるときがある。
突発的にと書くべきか、それとも発作的にと書くべきか。
どうであるにせよ、まったく消えてしまったわけではない。
しかしそれは小便とか大便と同じ。
それに相手は、若い女性ではない。
私のワイフである。

また若いときとちがって、そうした性欲には、いつもある種の虚しさがともなうように
なった。
その虚しさを感じたとたん、自分の中から性欲がスーッと萎(な)えていく。
それが自分でも、よくわかる。
そう言えば、10年ほど前のこと。
ワイフとこんな会話をしたことがある。
私が「今なら、混浴風呂に入っても、そこにいる女性と平気で会話ができると」と
言ったときのこと。
ワイフはこう言った。

「バカねえ。相手の女性がいやがるでしょ。どうしてあなたにはそれがわからないの!」
と。

 ハハハ。
そうだった。
相手のことを考えていなかった。
若い女性が私のようなジジイなど、相手にするはずがない。
ハハハ。
この話は、ここまで。
こういう話は、どうも苦手。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●12月24日

 今夜はクリスマス・イブ。
夜遅く、ワイフと山荘にやってきた。
毎年、家でクリスマスをささやかに祝ってきた。
2人だけで。
ときに長男を加えて3人だけで。

が、今年は、やめた。
つまり家で祝うのは、やめた。
そのかわり、教室の生徒たちといっしょに、祝った。
いくつかのゲームをした。
記念撮影もした。
それがめちゃめちゃ、楽しかった。
ワイフもうれしそうだった。
その様子は、ビデオカメラに収めた。
明日にはYOUTUBE上で、公開するつもり。

 で、ここへ来る途中、ワイフといろいろな話をした。

私「ぼくね、最近は、生徒と自分の息子たちや孫たちと区別できなくなった」
ワ「私も、そうよ」
私「なっ、そうだろ。少し前までは、生徒は生徒、家族は家族というふうに区別していた」
ワ「たしかに区別していたわね」
私「が、今はちがう。息子たちや孫たちが、毎日ぼくに会いに来てくれる。そんなふうに
考えるようになった」
ワ「そうね。あなたの生徒を見る目は、明らかに変わってきたわよ。生徒を見たとたん、
あなたの顔がパッと輝くわよ。それがわかるわ」と。

 去年までは、さみしいクリスマスだった。
しかし今年は、ちがった。
楽しかった。
つまり家族を家族と区別するから、さみしくなる。
しかしその壁を取り払えば、そこにいるのは、みな、私の家族。
とたん、今まで感じていたさみしさが、ウソのように消える。

 今年のクリスマスは、そういう点では意味があった。
自分の世界を広げることができた。
新しい感覚を、ゲット!
これからは、そのワクを広げていけばよい。
みなさん、メリークリスマス!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●良妻vs悪妻

 昨日、二男にこんなメールを出した。
「貴君のワイフはすばらしい人だよ。自信をもっていいよ」と。
すかさず二男から返事が届いた。
「どうして、パパにそれがわかるのか?」と。

 で、私はこう書いた。
「ぼくは若いころから、女性の世界で生きてきた。
今でも毎日、10〜20人の母親と呼ばれる女性と会っている。
だからそれがよくわかる」と。

 良妻か悪妻か。
それは当の夫には、判断できないかもしれない。
良妻であっても、悪妻であっても、その女性しか知らない。
比較して判断することができない。

しかし良妻と呼ばれる人は、たしかにいる。
またそういう女性と結婚した男性は、幸福。
そうでない男性は、不幸。
さらに悪妻と結婚した男性は、もっと不幸。
が、不幸なことに、自分が不幸であることにさえ気がつかない。
やがて子どもができたりして、一生を、憂うつなまま過ごす。
棒に振る。

 それについてワイフがやはり車の中で、こう聞いた。
「じゃあ、どうして結婚してしまうのかしら?」と。

私「本能の力のほうが、それだけ強力ということじゃないかな」
ワ「がまんできなくなるというわけ」
私「そうだろうね。そこに異性がいると、たがいにがまんできなくなる。
だから結婚してしまう。理性のブレーキが働かなくなる」
ワ「私たちもそうだったかしら」
私「例外はないよ」と。

 悪妻になるとわかっていても、性欲のほうが理性を押しつぶしてしまう。
だから結婚する。
子どもまで作ってしまう。
しかしそのあたりで、「恋のホルモン」の有効期限が切れる。
とたん、そこに待っているのは、きびしい現実。
悪妻だったからという理由で、離婚することもできない。

ワ「だったら、結婚なんて、くじを引くようなものね」
私「ぼくも、そう思う。くじ引きと同じ」
ワ「でもそのときは、『この人しかいない』と思って、みな、結婚するわよ」
私「ハハハ、それが本能。本能のなせるわざ」
ワ「で、あなたはどうなの?」
私「ぼくかあ? ぼくねえ? ぼくは運がよかったと思っているよ。
お前のようないいワイフに恵まれて……」と。

 良妻か悪妻か。
それは10年とか20年とかでは、わからない。
少なくとも子育てが終わるまで、わからない。
そのころわかる。
子育てが終わったとき、ともに理解しあい、助けあい、励ましあうことができるなら、
良妻ということになる。
が、それよりも大切なことは、そばにいるだけで安心感を覚えること。
やすらぎを覚えること。
ふだんは空気のような存在。
けんかもするが、2日以上は、つづかない。
それがあれば、良妻。
それがなければ、悪妻。

私「派手な恋愛をしたからといって、幸福な家庭を築くとはかぎらない。
結婚式にしても、そうだ。
皮肉なことに、派手な結婚式をしたカップルほど、あとがあやしいね」
ワ「……」と。

 これは慰めか。
私たち夫婦は、その結婚式をしていない。
そのお金がなかった。
が、今になってみると、しなくてよかったと思っている。
私流の生き様を貫くことができた。
一抹のさみしさは、ある。
しかしそれは耐えられない(さみしさ)ではない。

 晃子へ、

 いろいろ今まで、ありがとう。
口ではうまく言えないが、愛しているよ!

 二男へ、

 最近の若い女性には、貴君が想像もつかないようなバカが多い。
「バカママ」という言葉が、一時流行語になったが、それが最近はさらにひどくなった。
理性のひとかけらもないような女性が、母親の顔をして、子育てをしている。
まだ幼児の子どもに、整形手術を施したりしてね。
ああいうのは、法律で禁止すべき、と、ぼくは思う。
先日は、コンビニで自分の息子(小学生)に、「テメエ、マジ、バカか!」と叫んでいた
母親を見かけた。
まともな日本語すら、話せない。

 貴君は幸いにも、そういう女性を知らない。
そういう世界で生きていない。
だから身近にいる人の、すばらしさが理解できない。
貴君のワイフは、まちがいなくすばらしい人だよ。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●コタツの中で

 ワイフは隣の部屋で眠っている。
私はこうしてコタツの中で、文を書いている。
私にとっては、至極のとき。
楽しい。
できるなら明日の朝まで、こうして文を書いていたい。

 外気は冷たいはずなのに、寒さを感じない。
コタツだけで、じゅうぶん暖かい。

どうしてだろう。
どうしてこんなに文を書いていると、楽しいのだろう。
いや、反対に1日も文を書かないでいると、頭の中がモヤモヤとしてくる。
それが、私にはかえって苦痛。
だから文を書く。
書いて、モヤモヤを叩き出す。
その爽快感は、たまらない。
たとえて言うなら、便秘か何かでたまったウxxが、ドサッと出たときの気分に似ている。
うまく文章にまとまれば、なおさら。

 さらに最近は、私に似た人に出会うと、うれしくてならない。
「私はヒマさえあれば、文を書いています」「私もそうです」と。
とたん100年来の友人のようになってしまう。

 ……そう言えば、今井修という人もそうだった。
この浜松に住むようになって、最初の友人だった。
年齢は、私より7歳ほど、上だった。
その今井さんも、いつも原稿用紙に文を書いていた。
「いつか作家になる」が、口癖だった。

 その「今井修」という名前が出てきた。
ワイフのほうから、その名前を口にした。
「あの今井さんは、若くして死んでしまったわね」と。

 いつも焼酎片手に、タバコを吸いながら原稿を書いていた。
死因は食道がん。
わかりすぎるほど、わかりやすい死因だった。
ちょうど30歳になったときのことだった。

私「ぼくね、今井さんを思い出すたびに、今井さんの分まで、書いてやろうという
気持ちになるよ」
ワ「いい人だったわね」
私「そうだよ。本当にいい人だった」
ワ「文章はどうだったの?」
私「昔風の、くどい文章だった。ぼくは好きではなかった。ほら、ぼくは短い
文で、ポンポンと書くのが好きだったからね。漢字もできるだけ使わないように
している」
ワ「今井さんは……?」
私「ほら、あの人はアル中だっただろ。酒を飲んでいないと手が震え、ペンが
持てなかった。だからああいう文章になったんじゃないかな」と。

 文の書き方は、人それぞれ。
みな、ちがう。
読む側にしても、好き好きがある。
私の文章が好きという人もいれば、そうでない人もいる。
私は私。
今井さんは今井さん。
しかし重要なことは、自分の心を偽らないこと。
ありのままを、正直に書くこと。
文のじょうず、へたは、次の次。

 だれのためでもない。
文というのは、自分のために書く。
多くの人に読んでほしいとは思う。
しかしだからといって、媚(こび)を売ってはいけない。
言い換えると、私は文を書いているときだけ、言いようのない解放感を覚える。
大空をはばたくことができる。
またそれがあるから、文を書く。

 ……ということで、かなり眠くなってきた。
12月24日は終わり、今はもう25日。
2010年12月25日。
では、みなさん、おやすみなさい!
今日も、1日、無事、終わりました!
ありがとうございました!


Hiroshi Hayashi+++++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●実例

 こんな話(例1)

 その男には、子どもがいた。
若いころ、たまたま遊んだ女性との間にできた子どもである。
しかしその男は、そのことを告げないで、相手の女性と結婚した。
で、それから20年。
ある日、突然、その子どもがその男の前に名乗り出た。
「私はあなたの子どもです。母から、聞きました」と。
そのことが、妻の耳にも入り、家の中は大騒動。
妻は、「娘(当時10歳)が、中学を卒業したら離婚する」とまで言い出した。

 こんな話(例2)

 その女性は結婚してからも、妊娠できず、病院通いをしていた。
表向きは「不妊症」と言っていたが、実際は「アッシャーマン症候群」。
若いころの中絶のときの処置が不適切で、子宮の内膜に傷がついてしまった。
「子宮腔癒着症」とも呼ばれ、子宮の内膜がうまく成長することができなくなる病気を
いう。
排卵などは正常に行われるのだが、着床がしにくくなる。
中絶や流産が必ずしも不妊症につながるというわけではないが、ここにあげたような
ケースは少なくない。

女性の両親は、それを知っていた。
知らないのは、夫だけ。
現在の今も、妻と不妊教室に通いながら、子ども作りに励んでいるという。


●本来なら……

 本来なら、こうした過去は、結婚時、あるいはその前に相手に話すのがよい。
(私は、話すべきと思うが……。)
「ぼくには別に子どもがいる」「私は若いころ中絶したことがある」と。
その上で、たがいに納得した上で、結婚する。
それをしないというのは、それ自体、不作為による背信行為ということになる。
(「不作為」というのは、法律用語で、「本来ならすべきことをしないで」という意。)

 が、問題は、父親にせよ、母親にせよ、それを知っていたばあい。
いろいろなケースがある。

 こんな話(例3)

 息子の嫁が自宅に泊まったときのこと。
母親は、嫁の体に妊娠線(妊娠した経験のある女性に現れる、特有の線模様)が
あることを見てしまった。
しかし息子は、それに気づいていない。
妊娠線がどういうものであるかすらも知らない。

 こういうケースのばあい、たいていの親は、そのまま黙ってしまう。
大切なことは、息子にせよ、娘にせよ、幸福な家庭を築くこと。
だれにもひとつやふたつ、過ちや失敗(?)はある。
母親はその事実を、墓場までもっていくことにした。
嫁は嫁で、生涯、それについて夫に話すことはないだろう。

 こんな話(例4)

 相手の娘には、重度の人格障害があった。
子どものころは、不登校を繰り返し、それが終わると今度は、家庭内暴力。
家の外ではおとなしかったが、家の中では暴れた。
青年期に入ると引きこもりを繰り返し、定職にも就かなかった。
病院で、うつ病の薬を処方してもらっていた。

 が、結婚。
自分の息子が、「どうしても」というので、結婚した。
かなり資産家だった。
両親は興信所を使って、相手の女性、つまりその娘について調べた。
その娘の過去を知った。
が、いくら説得しても、息子は、「結婚する」と。
相手の両親にも、それとなく反対の意思を伝えた。
が、相手の両親は両親で、「良縁です」「良縁です」と喜ぶだけ。
話し合いにならなかった。

 現在、息子夫婦は同じ市内に住んでいるが、行き来は途絶えた。
子ども(孫)も2人生まれたが、この5年、会っていないという。

●誠実

 誠実に生きるというのは、むずかしい。
が、こんな皮肉な話を耳にしたことがある。

 「不倫相手の方が、何でも話せる」と。
つまり相手が不倫相手だと、夫や妻にさえ話せないような話でも、話せる、と。
これはどういう心理によるものなのか。
ワイフに相談すると、ワイフがこう教えてくれた。

「不倫という罪深いことをたがいにしているから、罪の意識が薄れるんじゃ、
な〜い?」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
「だったら、はじめっから、不倫相手と結婚すればいいのに」と私。
「そのほうが、たがいに誠実でいられる」と。
 
 ともかくも、こうして男と女のドラマが始まる。
またそうであるから、10組の夫婦がいれば、10通りのドラマが生まれる。
が、それが人生。
人間の人生。
みな、同じようだったら、つまらない。
おもしろくない。

 ほかにもいろいろ書きたいことがあるが、今朝はここまで。

 みなさん、おはようございます。

2010年12月25日朝記


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【子どもの自己主張】

●自己主張する幼児たち(年中児、3〜5歳児)@BW幼児教室(子どもクラブ)
 はやし浩司 2010−12ー24 Hamamatsu Japan

(YOUTUBEより)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教え育てる?(教育の原点とは)

++++++++++++++++++++

日本の教育は、「教え育てる」が基本になっている。
だから「教育」という。
しかしこの教育法は、日本では通用しても、
外国では通用しない。

英語国では「education」という。
「educe(引き出す)」が語源になっている(TK先生指摘)。
つまり引き出す。
「ちがいは何?」と考える人も多いかもしれない。
が、ちがいは、大きい。

わかりやすく言えば、本山教育が日本の原点。
「頭から小僧に叩き込む」。
それが教育。

一方欧米では、「引き出す」。
そのため「debate(討論)」が、教育の重要な柱になっている。
欧米の教育は、討論に始まり、討論に終わる。
ペーパーワークなど、たまにしか、しない。

韓国の朝鮮N報(新聞)の一部を紹介する。
日本の現状を客観的に見ている。

++++++++++以下、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++

米ハーバード大のマイケル・サンデル教授による「正義論」の授業は、大教室で熱い討論
が繰り広げられることで有名だ。
教室を埋め尽くす学生たちの国籍は多種多様で、これも授業の特徴の一つとなっている。
アジア系の学生も多い。だが、討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない。
昨年の時点で、ハーバード大に在学中の外国人学生(学部生)666人のうち、韓国人が42
人、中国人が36人、シンガポール人が22人、インド人が20人だったのに対し、日本人は
わずか5人だった。

++++++++++以上、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++

●幼児教室でも

 私が主宰する幼児教室でも、討論を大切にする。
子どもたちに活発に発言させる。
ペーパーワークは、子どもたちを抑えるときに利用する。
(詳しくは、BW公開教室を観てほしい。
http://bwhayashi.cool.ne.jp/index.html
より)

 しかしこの方法は、親たちには、受けがよくない。
「勉強というのは、机に向かってペーパーワークをするもの」という、明治以来の、
(あるいはそれ以前からの)、詰め込み教育が「教育」の柱になっている。
親たちもまた、それが教育と思い込んでいる。
反対にペーパーワークが多ければ多いほど、「プリントという証拠が残るため?」、
親は喜ぶ。

 しかし現実には、ペーパーワークをさせることほど、楽な指導法はない。
教師は座って、○×をつけるだけ。

●討論しない日本人

 日本の学生が討論しないというのは、世界の常識。
どこへ行っても、静かでおとなしい。
学生だけではない。
国際会議のような席でも、みな、ニンマリと笑いながら、座っているだけ。
それを朝鮮N報は、「討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない」と評した。
事実、その通りだから、これについては、反論のしようがない。

 が、これを日本の教育の欠陥と言わずして、何という。
むしろ日本人は、(日本の教育者は)、自己主張する子どもを嫌う傾向にある。
そのことも、私の「公開教室」を観てもらえばわかる。
幼稚園や、学校教育とのちがいが、わかってもらえる。
私の教室では、静かに黙って教育を受けるような子ども(幼児)はいない。

 が、それだけではない。
つまり討論するかしないかは、「個」の問題と深く結びついている。

 そう言えば、これについてはいろいろな原稿を書いてきた。
いくつかを探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●大河ドラマ(2007年5月に書いた原稿より)


 「絶対、見ないぞ」と思っていたが、チャンネルをかえるついでに、NHKの大河ドラマを見た。
……しばらく見てしまった。何かの評定会議をしているシーンだった。

 それを見て、びっくり。10年前の大河ドラマとそっくり。20年前の大河ドラマとそっくり。

 武将たちが、それぞれ自分のセリフを言っていたが、その言い方が、ワンパターン。実にワ
ンパターン。あんな演技なら、私にだって、できる。あなたにだって、できる。武将というのは、こ
ういうものの言い方をするものだというような、決められた言い方。こういうときには、こういう表
情をするものだという、実にわざとらしい演技。

 自然さが、どこにもない。人間味が、どこにもない。

 私も、20年ほど前のことだが、その会社の命運を決するような会議に出させてもらったこと
がある。昨日の大河ドラマのように、そこには、15人前後の役員が集まっていた。そして同じ
ように、自分の意見を述べあっていた。

 しかし雰囲気は、まるでちがう。それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の意見を述べて
いた。どこかへつらいがちに、ものを言う役員。頭を下に向け、ポツリ、ポツリとしゃべる取締役
社長。だまりこくったまま、ため息ばかりつく、別の役員などなど。大河ドラマの監督も、一度、
そういうシーンをどこかで見てくるとよい。

 領地を取っただの、取られただの、まるで餓鬼の会議。そこには、一片の正義もない。何の
ために、戦っているのか、戦うのか、その大義名分すら、ない。まったく、ない。民衆のために
闘うとか、民主主義のために戦うとか、はたまた自由を求めて戦うというのなら、まだわかる。
しかしそういう正義は、まったく、ない。

 要するに、みな、我欲の追求だけが目的。そのための会議。のどに力を入れて、力んでいる
だけ。見ているうちに、あのK国の軍人たちを連想してしまった。

 大河ドラマというのは、こういうものでございます……という、まさに型にはまった演技。どうし
てNHKは、10年一律のごとく、同じような番組ばかりつくるのだろう。

++++++++++++

以前(1999)、書いた原稿を
添付します。

++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え
られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●大学生の親"貧乏盛り"

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万
7000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすま
ない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は
子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの十年間、
毎年4〜5%前後で推移している。

大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大
きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金
を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつ
の奨学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世
界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも
個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが
積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。

「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう
言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レ
ノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。
(1999年ごろ記)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●引く文化・押す文化

 日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、向こ
う側に払って、机の上に残す。

考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうするよ
うになる。考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、相手のほ
うに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。日本では引きながら切る。欧米では押しながら切
る。

これを称して、日本の文化は「引く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。たとえ
ば「庭」。日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。つまり家の中に美しさを、引きこむよ
うにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。

わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないようなことだが、こうした文
化は、教育にも大きな影響を与えている。

 日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大切
にする。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。

日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたな
い。いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風をたてる
よりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。

つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界がそう
だ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。文部省が
「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。いつも
すべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。

そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それから生
まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の封建時代が残
したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。

 ……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させる
か、だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明
治、大正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。歴史は歴史だからそれなりに
正当に評価しなければならない。しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。

たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、
徳川博』なるものが催された。たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形で、
あの封建時代を美化するのはたいへん危険なことである。

あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、
苦しんだか、それを忘れてはならない。一方、徳川家康についても、その後、300年という年
月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返し抹消された。

私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうしたことを繰り
返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉
に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本
能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子
育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習
って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。
スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるも
のなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必
要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経
験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自分たちが教えられたよう
にして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育
てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。

その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、
ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水
道、
ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ま
すか」と質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さ
に慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような
知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。

私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二年で微分
や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。

もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつとい
うのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々て
いる」(学外研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たち
が得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、
かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。将来、
子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするの
が、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 教育の原点 和をもって尊し educe education 個の教育)

●討論を大切に

 「もの言わぬ従順な民」の時代は、もう終わった。
またそういう子どもを求めてはいけない。
少なくとも、そういう人間は、世界では通用しない。
日本の中では、それでよいとしても、一歩、外に出れば、そこは修羅場。
百戦錬磨の怪獣たちが住む、修羅場。
もの言わぬ従順な民が、どうしてそういう怪獣たちを相手に、勝負できるか。

 現在の教育のあり方を、基本的な部分から、もう一度ながめ直してみる必要がある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)

++++++++++++++++++++++++

バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。
It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows 
more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a 
very exceptional man. 
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っているという
点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。
Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. 
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわかる。
It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that 
position... 
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、その人
をリーダーと受け入れてしまうようになる。
It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can 
appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほとんど
いない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、よいと
言われる。
I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。
The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and women. 
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験してい
る。
Among children it is very common, and grows naturally out of the period of make-believe 
and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。
It is rare in later life because everything is done to kill it during education... 
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうことが稀にな
る。
The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the 
minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教育する
教師の心を、より強く支配する。
Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed 
towards the world that our efforts are to create. 
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そうでは
なくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすることを目的としな
ければならない。

++++++++++++++++++++ 

●死んだ教育vs生きた教育

 教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。

 しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生まで、
教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。

 つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」とい
うことになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。

だから子どもたちは、よくこう言う。
「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまっている!

●では、どうするか?

 教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。

 フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。

 もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。

 親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、感じ取っ
ている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「クラブ」
になってしまう。
それでは元の木阿弥。

 が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているのが、官
僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。

 その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。

 日本の教育を真正面から批判してみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 生きた教育 バートランド・ラッセル もの言わぬ従順な民 格差 差別 自由な
教育論)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●12月26日夜・日曜日(はやし浩司 2010ー12−26)

●真冬のダイエット

 この数週間、体重計には乗らなかった。
……乗れなかった。
こわかった。
が、数日前、近くの温泉に行った折、乗った。
恐る恐る……。
ジャジャーン!

何と64・5キロの、2・5キロ、オーバー。

 早速、一昨日から、ダイエット。
小食+運動、あとはコンニャク食。
で、昨日体重を量ってみたら、63キロ。
今日は、62・5キロ。

ほっとしたのも束のが、異変はすぐ起きた。
体がいわば、ガス欠状態になってしまった。
寒い。
とにかく寒い。
寒いというより、どこにいても、体の芯から冷える。
ストーブをたいていも、寒い。
こたつの中に入っても、寒い。
布団乾燥機をつけ、ふとんにもぐっても、寒い。

 ワイフがそのつど、葛根湯を作ってくれた。
それでも寒い。

 ……ということで、今夜は、カニすき鍋。
ダイエットは、一時、中断。

●「日本の論点・2011」(文藝春秋)

 こたつの中で、「日本の論点」を読む。
あちこちを拾って読む。
その中のひとつ。
葬儀。

 「葬儀など不要」と説く人。
「葬儀は必要」ととく人。

 私はどちらでもよいと考える。
人、それぞれ。
それぞれが、納得する方法で、すればよい。
こうした議論そのものが、ナンセンス。
したい人は、すればよい。
したくない人は、しなければよい。
したい人に向かって、「しなくてもいいです」と言う必要はない。
しない人に向かって、「したほうがいいです」と言う必要はない。

 が、こういう問題もある。

 「葬儀は不要」と思っていても、世間体という圧力をはねかえすためには、相当の
覚悟とエネルギーが必要。
私自身がそうだった。
そこで自分なりの理論武装。
母を介護している間、20年ぶりに、あちこちから宗教論について書いた本を引き出し、
それを読んだ。
が、こうした理論を自分のものにするには、熟成期間が必要。
5年とか、10年とか、そういう時間の経緯が必要。
「今日読んだから、明日から、私もそうします」というわけにはいかない。

 で、その熟成期間を待たずして、実兄が他界。
つづいて実母が他界。
結局、世間並みの葬儀をすることになってしまった。
世間体という圧力と闘うのは、それほどまでに難しい。

●葬儀

 葬儀費用は、平均で220万円前後だそうだ(「日本の論点)。
実兄のときは、それ以上にかかった。
実母のときは、それ以下ですんだ。
間に2か月しかなかった。
実兄の100か日法要と、実母の七七回忌が重なった。

 で、その葬儀を振り返ってみて、こう考える。

 やはり葬儀というのは、質素にやればよい、と。
直送でも自然葬(密葬)でもよい。
派手にやったから、よいというのでもない。
質素にやったから、悪いというのでもない。

 ただ大切なことは、それぞれの人が、相手の葬儀の仕方、あるいは葬儀のやり方を、
理解すること。
受け入れること。
尊重すること。
いくら相手のやり方が気にくわないからといって、それをとやかく言ってはいけない。
それこそ「傲慢」というもの。

 一方、葬儀をする人は、自分流のやり方を、声高らかに、宣言すればよい。
「うちでは、こうします!」と。
地域によっては、勇気のいることかもしれない。
しかし、宣言する。
自分流のやり方を、押し通す。
もしそれをとやかく言う人がいたら、こちらから蹴飛ばしてやればよい。

 ……しかし220万円前後?
私の年金は、月額6万4000円。
34か月分。
約3年分。
葬儀費用もバカにならない。

●日曜日

 昨夜は、午前1時ごろまで義兄の家で、話し込んだ。
長話をした。
家に帰って寝たのが、午前2時。
今朝起きたのが、午前9時。
「まだ6時ごろかな?」と思って起きたら、午前9時だった。

 で、今日は日曜日。
やるべきことは、山のようにある。
そのひとつが、年賀状書き。
おおまかなデザインは、決まっている。
たいした作業ではない。
その気になれば、1時間足らずですむ。
が、その1時間を作るのが、むずかしい。
どうしても後回しになってしまう。
今の今も、そうだ。

 年賀状を書くより、こうして文を叩いていたほうが、楽しい。
どうしよう?

 ……先ほど、ワイフが買い物に行かないかと声をかけてくれた。
ということで、これから買い物。
カニすき鍋のカニを仕入れてくる。
ついでに同じものを、義兄に届けてくる。
昨夜は、真夜中まで、失礼をした。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●私(林 浩司)の運勢


+++++++++++++++++


どこかの団体が、勝手に私の姓名判断を
している。


詳しくは、
http://mei.longseller.org/o26/i21222.html
で、ご覧になっていただきたい。


で、私はこの類の運勢占いを、いっさい、
信じない。
もとから思考回路にない。
「占い」「まじない」と聞いただけで、
脳みそが拒絶反応を示す。
それに比べて姓名判断というのは、かなり
数学的。
姓名にも、バランス感覚が働く。
あまりヘンチクリンな名前では、笑いものに
なるだけ。
それを調整するのが、姓名判断。
私はそう理解していた。


が、読んでみて、驚いた。
「ヘ〜エ」と感心するほど、驚いた。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という。
しかしここまで当たっていると、
ぞっとする。


どこかで私を観て、書いたのではないかと
思えるほど、よく当たっている。


そのまま紹介させてもらう。


+++++++++++++++++++


●天格


勤勉 努力 成功
資産家で、同族意識強く、地域社会で活躍してきました。
天格とは、姓の漢字の画数の総計です。祖先運を表しています。天格だけで吉凶は判断し
ません。


●人格


苦労 挫折 障害
神経が細かく、直感が鋭い偏屈強情な直情型です。頭はよいが金運は弱いようです。配偶
者、実子に縁が薄く、病難が周囲にいて面倒を看ます。
人格とは、姓の最後と名前の最初の画数合計です。名前の中心にあたる部分で、家庭・仕
事・結婚運、二十代くらいまでの運勢を表し、主運とも言われます。


●地格


人望 大成 逆転成功
自分の理想実現に全力を尽くすタイプです。親や他人に精神、物質両面で惜しみなく援助
します。
地格とは、名前の画数の総計です。性格・才能・金運・適職、幼年期から中年期までの運
勢を表します。


●外格


信頼 誠実 努力
人からは、ファイト満まん、頭の回転が速い、プライドが高い人というように見られてい
ます。
外格とは、総格から人格を引いた数です。家族・職場などの外因的要素、対人関係・社会
的環境の運勢を表します。一字姓、一字名の場合、天の恵みとして霊数1を加えます。


●総格


柔軟性 順調 家庭運
要領よく処理がテキパキと早くまじめ、プライド高く厳しく冷たい自分勝手な印象、など
の特徴があります。
総格とは、姓・名前の画数合計です。人生全体に影響を及ぼし、主に中年期以降を表しま
す。


●私の判断


 しかしよくよく読んでみると、どれも「だれにでもそういう面はある」というような
ことばかり。
あるいは「時には、そういう面もある」というようなことばかり。
「成功」という言葉もあるが、どの程度をもって、「成功」というのか。
またたとえば「人からは、ファイト満まん、頭の回転が速い、プライドが高い人というよ
うに見られています」という部分について。


たしかに私をそういうふうに見ている人もいる。
若いときの私を知っている人は、今でもそういう印象をもっているかもしれない。
少なくとも、ヤワな男ではない。
が、最近は、かなり変わってきた。
ファイトもしぼみがち。
頭の回転も鈍くなってきた。
プライドなどというものは、とうの昔に捨てた。


 姓名判断というのは、名前が同じなら、年齢には関係ないはず。
しかし同じ人間でも、年代ごとに環境も変わり、人間関係も変わる。
浮き沈みは、人の常。
そういう(変数)は、どう勘案するのか。


 若いころの私は、とても「誠実な人間」とは言えなかった。
ウソつきで、インチキなことばかりしていた。
「誠実」を努めて心がけるようになったのは、浜松へ来て、ドン底の、そのまたドン底へ
叩き落とされてから。
そのときから、タバコをやめ、酒もやめ、ついで女遊びもやめた。
自分でもバカではないかと思うほど、クソまじめに生きるようになった。
1972年のはじめごろのことである。
(ドン底に落ちたのは、1971年の冬。)


 もっとも私は「はやし浩司」。
「林浩司」と書くのは、公的な書類の上だけ。
で、こういうばあいは、どうなるのか。
「はやし」は、もともとは、「波・也・之」の一部が、ひらがなになったもの(万葉仮名)。
だったら、「波也之浩司」で姓名判断してもらったほうがよい。
それなら現実に即している。


 久々に姓名判断なるものを、読ませてもらった。
おもしろかった。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 姓名判断 占い まじない)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●12月27日(今年も秒読み段階)

 今日は12月27日、月曜日。
朝、ふとんの中でモジモジしていたら、午前8時になってしまった。
あわてて起き、そのままウォーキングマシンへ。
今朝は20分で切り上げた。

 ワイフが朝食を用意してくれていたので、急いで食べた。
書斎へ入ったのは、そのあと。
いくつかのメールが届いていたので、返事を書く。
ニュースを読む。
で、今朝は「姓名判断」について書いた。
それが先の原稿。

●総括

 あと丸5日、ある。
2010年が終わったわけではない。
だからまだ2010年を総括したくない。
この5日に、全精力を傾けたい。
1日、1日を大切に生きたい。

 数年前までだと、この時期は正月の準備に明け暮れた。
いっぱしに、餅つきもしたりした。
そう言えば、年賀状を書くのも、1週間仕事だった。
私が絵柄を描き、ワイフが宛名を書いた。
居間の床が年賀状で、埋まった。

が、今は、プリンターで簡単にできる。
昨夜遅く、印刷を始めたが、片手間。
私がしたことと言えば、ときどき年賀状をトレイに補充することだけ。
「こんなことでいいのかなあ」と思いつつの作業だった。

 こんな年賀状なら、あまり意味はない。
ただの印刷物。
儀礼的印刷物。
こんなことを繰り返しても、「大切に生きた」という喜びにはつながらない。

●あと5日

 もしあなたが「余命はあと5日です」と宣告されたら、あなたなら何を、どうする
だろうか。

 ウーン。
私なら、身辺の整理を始める。
とくに原稿の整理。
私の書いた原稿こそが、まさに私の「墓石」。
最後にその墓石を磨く。

 別れの手紙を書くかもしれない。
友人や家族、それに親しかった人たち。
そういう人に手紙を書く。

すべてを許し、すべてを許してもらう。
許してもらえないかもしれないが、許しを乞う。

 あとはその瞬間、瞬間、思いついたことを文にする。
死ぬ間際まで、文を書く。
激痛がなければ、幸い。
頭と手が動けば、幸い。
目が見えれば、幸い。

 ……明後日で、今年の仕事はおしまい。
それがすんだら、やはり原稿の整理を始める。
あちこちに分散している原稿を、ひとつのまとめ、DVDに焼く。
HPも整理する。

 この世界、まさに『金の切れ目が縁の切れ目』。
プロバイダーへの支払いが止まれば、HPも削除される。
もっとも墓石という「石」ですら、やがて朽ちてぼろぼろになる。
私の書いたものにせよ、10年ももてば、御の字。
100年後に、1文でも残っていれば、それが「はやし浩司」。
「私」が生きたという証(あかし)。

 残りの5日間は、その1文を残すために、全力を傾ける。
しかしどうすれば、1文を残すことができるか。
方法のひとつは、二男に頼むこと。
DVDに焼いた原稿を、30年後、50年後に、再び、アップロードしてもらえばよい。
ナルホド。
これはよい方法だ。
あとで二男に相談してみよう。

 この広い宇宙。
とてつもなく広い宇宙。
その宇宙の、ゴミにもならない小さな惑星で、私は生まれ育った。
そしてゴミにもならない文章を書きつづけた。
あとの判断は、これから生まれ育ってくる人たちに任せればよい。

 ともかくも、私はこの5日間で、完全燃焼すること。
来年は、ない。
明日も、ない。
あるのは、今日だけ。
この瞬間だけ。

がんばるぞ!

2010年12月27日朝記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 2010−12−27)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●12月28日

+++++++++++++++++++

我ら団塊の世代は、ぜいたくをすることに、
罪悪感を覚える。
悲しき、かつ、貧しき世代。
「ひもじさ」が身にしみている。

戦後のあの時代を知るが故に、現在のこの
繁栄に、おぼつかなさを覚える。
もう少し平たく言えば、いつ何時、あの
時代に逆戻りしてもおかしくない。

そういう不安感を、いつも抱えている。
だからぜいたくが、できない。
ぜいたくをすることに、罪悪感を覚える。

++++++++++++++++++++

●嫁vs姑戦争

 嫁と姑(しゅうとめ)が、仲よくいっているケースは、今、ほとんどない。
なぜか。

 姑にしてみれば、自分の息子は、「自分のモノ」。
その「モノ」が、ある日突然、嫁に取られてしまう。

 一方、嫁にしてみれば、夫は「自分のモノ」。
子どもができれば、なおさら。
夫をはさんでの争奪戦が始まる。

 ……とまあ、簡単に言えば、そういうこと。
そこで大切なことは、この「モノ」意識を、できるだけ早く解消すること。
たとえば今、あなたが自分の子どもを育てているなら、自分の意識の中に、
「モノ意識」がないかどうか、一度、探ってみるとよい。
「私の子ども」と、いつも「私の」をつけている人ほど、あぶない。

 子どもはたしかに、あなたから生まれたかもしれない。
腹も痛めた。
苦労もした。
しかしあなたの「モノ」ではない。
わかりやすく言えば、いつかは去っていく。
そういう存在。
そう考えて、その年齢になったら、その覚悟と準備を始める。
幻想は、禁物。
期待は、禁物。
それはちょうど、宝くじのようなもの。

 当たれば、それでよし。
はずれても、がっかりしない。
当たることを、過度に期待しない。

それよりも重要なことは、あなたはあなたで自分の人生を組み立てる。
前向きに生きていく。
つまり子どもという「モノ」など、相手にしない。
これは老後のあなたの心を守るために、とても大切なことのように思う。
理由が、ある。

 いくら戦争をしても、姑には勝ち目はない。
どうせ先細りの人生。
その先は、真っ暗。
戦争をして、惨めな思いをするのは、いつも決まって姑。
あがけばあがくほど、墓穴を掘る。

 今日もあちこちで、嫁vs姑戦争がくり広げられている。
あなただけが無事ですむという保証は、どこにもない。
だから今が、大切。
コツは簡単。
「限度をわきまえ、子育てにのめり込みすぎない」(ラッセル)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 嫁姑戦争)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●今朝も寒かった

 今朝は5時半ごろ、目が覚めた。
が、床から起きたのが、午前7時すぎ。
ふとんの中で、PSP将棋を相手に、2試合。
1勝1敗。
将棋を指しながら、ワイフとバカ話。

 で、話題は餅つき。
「どうしようか」「どうしよう」「やっぱりしよう」と。

 電気の餅つき機はあるが、最後の仕上げはいつも、臼(うす)でしている。
毎年1臼だけ。
それでも臼でしている
臼でついた餅は、ねばりがちがう。

 起きてから、すぐウォーキングマシンで運動。
10分もすると、全身から汗が出てくる。
それが心地よい。

 で、今日は午前中から仕事。
1日、忙しい。
そうそう昨夜、DVDショップで、4本もDVDを借りてきた。
今年の正月は、DVD三昧。
兄弟会、温泉旅行とつづく。

 寒いが、がんばろう。
雪が降らないだけ、まだよいほう。
それにいくら寒いといっても、浜松は、まだ暖かいほう。
ぜいたくを言ってはいけない。

 今夜は教室の忘年会。
またまた太るかな?

 おはようございます。
はやし浩司 2010−12−28


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
 
●雑感(はやし浩司 2010−12−30)

●宗教観 

 12月24日は、クリスマス。
つまりキリスト教。
大晦日は除夜の鐘を聞きながら、
初詣。
つまり仏教。
近隣の神社に参拝する人も多い。
つまり神教。

 年末から年始にかけて、日本人の
宗教観は、めまぐるしく変化する。
私もそうだし、たぶん、あなたも
そうだろう。

 言い換えると、信仰というよりは、
儀式。
お祭り。
もともと「教え」に従ったものではない。
ないからどこか、いいかげん。
言うなれば、多神教的無神論。
それが日本人の宗教観。
総じて言えば、そういうことになる。

●宗教

 アメリカという国は、おもしろい国だ。
どこのどんなところへ行っても、キリスト教が深く
しみこんでいる。
札にも、「God」という文字が刷り込んである。
そのくせ、「君たちの国は、キリスト教国だ」と言うと、
彼らはそれに猛烈に反発する。
「アメリカはキリスト教国ではない!」と。

 で、その一方で、「日本は仏教国」と言う。
そう言われた私のほうも、困る。
「そうかなあ」と思ってみたり、「そうでも
ないのだがなあ」と思ってみたりする。

 ただし日本の仏教ほど、いいかげんな宗教もない。
釈迦は1人のはずなのに、四分五裂。
仏教と言いながら、中身はヒンズー教。
チベット密教。
それが中国の土着宗教と結びついて、日本へやってきた。

 「大乗仏教」というのはそれをいう。
ヒマラヤ山脈の北側を迂回して中国へ入った仏教をいう。
「北伝仏教」ともいう。
その一方で、南伝仏教を、「小乗仏教」と呼び、さげすむ。
しかし南伝仏教のほうが、はるかに色濃く、釈迦仏教を
今に残している。
僧が身にまとう衣を見ても、それがわかる。
どうして日本の仏像がみな、古代ギリシャの衣を
身にまとっているのか。
インドで男性だったカノン(観音)が、どうして日本では
女性なのか。
いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
ここに書いたことは、常識。

 が、何よりも大切なことは、どんな宗教であるにせよ、
それによって心の安穏を得ること。
それがあれば、宗教。
なければ、ただの気休め。

●宗教vs人間

 古代の世界にも、数多くの国があった。
それぞれが何かの宗教をもっていた。
が、それらの宗教は、文明の崩壊とともに、闇に消えた。
それを信仰する人間がいなくなったから、闇に消えた。
つまり人間が宗教を作った。

 このことは、浜松近郊の寺を見ればわかる。
車で1時間も郊外へ行くと、無住の寺が目立つ。
廃寺になった寺も少なくない。
若い人たちが町へ出た。
そのため、檀家がいなくなってしまった。
そのため住職も町に出てきてしまった。
必要に応じて、村にもどり、そこで仏の供養をしている。

●不景気

 昨日も、行きつけの弁当屋の親父が言った。
「不景気だねエ〜」と。

私「政府は、10兆円近いお金をバラまいているわけだし……」
弁「それがどこかへ消えてしまっているというわけ」
私「どこへですか?」
弁「タンス預金でしょうかねエ〜」と。

 街の中の飲食店が最悪。
シャッターをつぎつぎと下ろしている。
こういう現実を、政府はどれほど知っているのか。

弁「ふつうなら、暴動が起きてもおかしくない状況だよ、これは」
私「そうですね。若者たちがおとなしすぎますね。介護保険ひとつとりあげても、
反対運動ひとつ起きない」
弁「どうして暴動が起きないのですかねエ〜」
私「親がめんどうみているからじゃ、ないですかねエ〜」
弁「しかしいつまでも親にお金があるわけでもないだろうし」
私「そうですねエ〜」と。

 つぎに出てくるのは、ため息ばかり。

●UFO

 今度、中国で出たUFOは、すごい!
細長いUFOで、窓らしきものも並んでいた。
下部からは白い光線。
大きさは、写真で見た感じでは、100メートル前後(?)。
もちろん飛行機ではない。

今年の夏ごろ、話題になった。
そのため近くの空港が一時的に閉鎖になったという。

 昨日、その写真を書店で見た。
ある雑誌に載っていた。
目玉はその写真だけだったので、雑誌は買わなかった。
だから詳しくは、ここには書けない。
あとで家に帰って、ネットで調べてみる。
が、それにしても、すごい。
あれをUFOと言わずして、何という。

 つまりUFOは、オカルト現象ではなく、科学的事実。
その雑誌にも書いてあったように、いまや存在を議論しているばあいではない。
「存在する」という前提で、議論を始めるべき。

●神の存在

 神が神の正体を現したら、地球もいよいよあぶないということ。
同じように、UFOがUFOの正体を現したら、地球もいよいよあぶないということ。
現れることによる、混乱どころではない。
それ以上に、ことは深刻。
地球はもう、取り返しのつかないところまで来ている。
そういう状態と考える。

 たとえば地球温暖化。
現在、地球温暖化(火星化)は、不測の事態が別の不測の事態を呼び込みながら、
急速に進んでいる。
10年前に、温暖化によって海洋の海流の流れが変わるなどと、いったいどこのだれが
予想しただろうか。
この先、さらに不測の事態が、別の不測の事態を招く。
地球温暖化は、人間の想像力をはるかに超えたところで、進む。

 たとえば今。
驚くなかれ、外では稲妻が走り、雷鳴がとどろいている。
雨が窓を叩きつけるように降っている。
雹(ひょう)も、降った。
人生、60年を生きてきたが、12月28日に、このような天気を見たのははじめて。
これを異変と言わずして、何という。

 つまりその異変が限界を超えた。
神にせよ、宇宙人にせよ、今さら姿を隠しておかねばならない理由がない。
言い換えると、神にせよ、宇宙人にせよ、堂々と姿を現したら、おしまい。
「終末」は近い。

 ……とまあ、悲観的な見方はさておき、今度、中国で出たUFOは、すごい。
あとでゆっくりと調べてみよう。

●韓国

 日本の政局が混乱している。
そのスキ(?)をついて、韓国が竹島の実効支配を、さらに推し進めている。
今度は巡洋艦を常駐させるという。

 本来なら日本は、国交断絶を覚悟で、それに抗議すべき。
しかし肝心の日本の政治は、ガタガタ。
混乱につづく混乱。
それをよいことに、韓国は、やりたい放題。
ついでに北朝鮮を口実に、軍事訓練。
「北朝鮮からの防衛」を口実にしているが、それはウソ。
韓国人の大多数は、「北朝鮮より日本のほうが脅威」と考えている。

 日本人の私は、日本のどこが脅威なのだろうと考える。
意識というのは、そういうもの。
ほんの少し立場がちがうと、180度、意識がちがうということは、よくある。

●熟年離婚

 最近は、あまり話題にならない。
ならないが、熟年離婚が、減っているというわけではない。
相変わらず、多い。
ある日、突然、たいていは妻がこう宣言する。
「離婚します」と。

 「豆腐を買いに行ってきます」と言ったきり、そのまま家出する妻もいるという。
沖縄で聞いた話である。

 もちろん話し合いなどは、いっさいなし。
一方的というか、妻のほうは、「話し合っても無駄」という状態になる。
が、夫側の受ける衝撃には、相当なものがある。
自己否定などという甘いものではない。
絶望のどん底へと叩き落される。
足が宙へ浮いたような状態になる。
何がなんだか、訳が分からなくなる。
狼狽するだけ。
オロオロするだけ。

●がまん

 知人の中にも、最近、熟年離婚をした人がいる。
結婚したてのころは、熱々の、相思相愛。
奥さんのあのデレーッとしたものの言い方が、今でも私の耳に残っている。
で、やがて妊娠、そして出産。
そのあたりまでは、うまくいっていた。
というか、熟年離婚の芽は、すでにそのころできたらしい。
心の奥深いところで、かつ静かに、音もなく……。

 総じてみると、がまん強いと評される女性ほど、こわい。
その(がまん)が、妻の心をゆがめる。
抑圧されたうっ憤が、時間をかけて蓄積される。
それがある日突然、爆発する。
ドカーン、と。

 これも総じてみると、離婚される側の夫は、全体的に権威主義的。
家父長意識が強く、仕事一筋。
(現在の私のよう!)
前ばかり見ているから、うしろが見えない。
妻の心を見失う。

●妻は死んだ

 が、熟年離婚から立ち直る人も、いないわけではない。
ある知人は、(もともと転勤族ということもあったが)、それをきっかけに海外移住。
現在は、クイーンズランド(オーストラリア)に住んでいる。
そこで知り合ったインドネシア人の女性と同棲。
仲よく暮らしている。
現在、年齢は、67歳。
インドネシア人の女性は、40歳。

 その知人はこう言った。
「熟年離婚されたからといって、失敗組と考えてはいけませんよ。
離婚されたのではなく、ひょっとしたら私のほう離婚を望んでいた。
妻がそれを具体化しただけです」と。
で、私が、「前の奥さんを恋しく思うことはありませんか」と聞くと、
笑いながら、こう言った。

 「それはありません。心のつながりが切れれば、他人。離婚は他人の死と同じ
です」と。
ただ「最後にいっしょに住んでいた、S県のK町にだけは帰りたくありません」
と付け加えた。

●死

 大切なことは、どういう状況であれ、そこを原点として、前に向かって生きて
いくこと。
人との世には、出会いもあれば、別れもある。
その繰り返し。
夫婦の離婚もあるが、親子の離縁も、これまた多い。
兄弟姉妹の離縁となると、さらに多い。

 もちろん仲がよいのが、理想。
周囲の人たちと、暖かい愛情で結ばれている。
が、それでも狂うときは狂う。
狂って、やがて別れに向かう。
仮に仲がよくても、最後の最後には、「死」がやってくる。
これだけは、何人にも、どうしようもない。

●夫側からの熟年離婚

 12月30日というのに、暗い話になってしまった。
何とか明るい話でしめくくりたいと思うが、話はつづく。
反対に夫のほうから離婚届を妻に叩きつけたという話も聞いた。
(夫が妻に、だぞ!)

 もともとの原因は、親子喧嘩。
その男性(父親)には2人の息子がいた。
そのうちの1人と、ある夜、取っ組み合いの大喧嘩になった。
そのときのこと。
息子がげんこつを振り上げ、その男性(父親)に殴りかかろうとした。
が、その男性は、微動だにせず、息子に向かって、こう叫んだ。
「殴りたければ殴れ!」と。

 瞬間、その男性は、妻のほうを見た。
いつもそうなのだが、そういう状況になっても、妻はじっとそれを傍観しているだけ。
が、その夜はちがった。
男性が妻の顔を見ると、うっすらと笑みすら浮かべていたという。
それを見て、その男性は妻との離婚を決意した。
その男性はこう言った。
「息子の怒鳴り声は、どうということはありませんでした。
しかし妻の笑みを見たときには、心底、ゾッとしました」と。
 
●ただの「いとなみ」

 こういう話をつづけて聞いていると、夫婦とは何か。
親子とは何か。
さらに人生とは何か。
そこまで考えてしまう。

 ひとつのヒントととして、キジバトの世界がある。

 あのキジバトは、産卵、孵化のときだけ、つがいを組む。
たいてい2個の卵を産み、2羽の雛を育てる。
が、やがて1羽の体の小さいほうの雛が、大きいほうの雛に巣から落とされる。
キジバトは、こうして1羽だけの雛を大きくする。

 が、雛が成鳥になるやいなや、親は自分の子どもと別れる。
それ以後は、たとえ自分の子どもでも、自分の縄張りには寄せ付けない。
ときどき親鳥が、自分の子どもを追い払う姿を見かける。

 人間とキジバト。
いっしょに考えることはできない。
しかし結婚、出産、育児の原点は、そんなものかもしれない。
大きな意味があるようで、そうはない。
深い意味を求めても、無駄。
人間がまだ原始的な動物であったときからつづいている、ただの「いとなみ」。
それに過ぎない。

 ……というのは、言い過ぎ。
わかっている。
人間の子育てには、プラス、ドラマがある。
このドラマにこそ、価値がある。
人間とキジバトを同列に置くことはできない。

●12月30日

 夜も少し明けてきた。
窓の外が、ほんのりと明るくなってきた。
12月30日。
あと2日で、新年。

 今年1年、我が家でもいろいろあった。
ゴタゴタつづきというか、ドタバタつづきというか。
大切なことは、切り捨てるものは、切り捨てる。
あきらめるものは、あきらめる。
失敗とか、敗北とか、そんなふうに考えてはいけない。
割り切って考える。
どの道、人生は短い。

 実のところ、この私にしても、いつ離婚届を突きつけられてもおかしくない状態。
自分でもそれがヨ〜ク、わかっている。
覚悟はしている。
が、問題は、そのあと。
まだその道筋が見えてこない。
年齢も年齢。
健康にも、このところ自信がなくなってきた。
となると、私もやはり、狼狽(ろうばい)組か。
オロオロするのみ。

 昨夜も私はワイフにこう聞いた。
「離婚してあげようか?」と。
が、ワイフは何も答えなかった。
(やっぱり、私の家も、あぶないねエ〜。)

●希望

 さて、今日の目標。
とくになし。
2011年1月号のマガジンを出さなければならない。
しかし何となくめんどう(ごめん!)。
昨夜も長男にこう言われた。
(……言われてしまった。)

「だれが、あんなもの読んでるの?」と。
「自分のことを書くのは構わないが、ぼくたちのことは書かないでよ」とも。

私「でもね、毎月、最低でも30万件のアクセスがあるよ」
長「アクセスというだけだろ」
私「そうだな」
長「ちょっと見て、ポイという人でも、1件だよ」
私「そうだな」
長「それにぼくのYOUTUBEにしてもそうだけど、批判的な人も多いはず」
私「そうだな」と。

 反論の余地なし。
事実、その通り。
まったく、その通り。
しばらく電子マガジンは休刊にしようか。
そんなことを繰り返し、考える。
そう言えば、「静岡アットS」というサービスも、この2月末をもって、
突然、閉鎖されるという。
昨日、メールが入った。
静岡新聞社が支えているポータルサイトだから、だいじょうぶかなと思っていた。
つまりこの世界、それだけ動きがはげしい。

 ……が、いくら小さくても、電子マガジンは私の「希望」。
「生きがい」。
BLOGにも原稿を書いているが、そのBLOGからよい原稿を集め、推敲し、
それをマガジンとして発表している。
今の私から電子マガジンを取り去ったら、あとに何が残る?
……実際には、何も残らない。

 私のマガジンを毎回読み、同じように毎回批評を届けてくれていたNG先生が、
この12月1日に、亡くなった。
私にはよき理解者だった。
それだけにショックも大きかった。
終日、放心状態になってしまった。

で、そのあと、アメリカに住む二男に原稿を送るようになった。
その二男が、今度はあれこれ批評を書いて送ってくれる。
これがたいへん参考になる。

 先日も「良妻vs悪妻」という原稿を送った。
それについて、「アメリカで良妻とか悪妻とか、そんなことを決めつけて書くと、
差別主義と言われ、大問題になるよ」と。

 ナルホド!

 国がちがうと、意識もちがう。
基本的なものの考え方もちがう。
私がそのあとすべきことは、「なぜ、そうなのか」を考えること。
どうして良妻vs悪妻というテーマでものを書いたら、差別主義になるのか。
たしかにアメリカでは、「差別」(ディスクリミネーション)にうるさい。
それはわかるが、どうして?

 それを考えていくと、その先に「アメリカ」が見えてくる。

 世の中には、私の知らないことが、まだ山のようにあるようだ。

●年賀状

 昨日、1日で年賀状を書き、近くのポストに投函してきた。
時間にすれば、2時間ほどでできた。
で、そのときのこと。
こんなことを考えた。

 現在「筆M」というソフトを使っている。
2〜3年おきに、UPGRADE版を購入。
が、この筆M、UPGRADEするたびに、複雑になる。
使い勝手が悪くなる。
昨日もそうだった。
こまかい設定ができるのはよいが、それが不必要なまでに、こまかい。
こうしたソフトは毎日使うようなものではない。
使うとしても、年に1度だけ。
その間に、操作方法を忘れてしまう。
ああでもない、こうでもないと操作しているうちに、30〜40分も時間が
過ぎてしまった。

 どうしてもっと、簡単にしないのか?
わかりやすいソフトにしないのか?
一般の人は、ここまで高度なソフトは求めていない。

 で、その年賀状。
書くのは便利になった。
が、その分だけ、ありがたみが消えた。
書くほうも、もらうほうも、気楽になった。
「これでいいのかなあ」と思いつつ、ポストに投函。

●PSP(ソニー製)体験記

 この10日あまり、PSP将棋にハマっている。
おもしろい。
たとえばリーグ戦では、Dグループから始まり、最終的にはS1グループへと
勝ち進んでいく。
現在は、Cグループあたりをウロウロしている。

 で、PSP体験記。

 PSP(ソニー製)で遊ぶようになって、いくつか感じたことがある。
そのひとつ。
画面が小さいだけに、疲労感も大きいということ。
つづけて将棋を指していると、イライラ感がつのる。
自分でもそれがよくわかるほど、つのる。
ゲームは2試合までと決めているが、それでも気分が重くなる。
高じると、そのまま頭痛に。

勝ったときは、それなりに気分がよい。
しかし負けたときには、ドンと気分が悪くなる。

 総合的に判断すると、やはり子どもには、よくないということ。
幼児には、とくに避けたほうがよい。
将棋ゲームですら、こうなのだから、怪獣ものは、なおさら(?)。
将棋にしても、大きな将棋板の上で、人間相手に楽しむのがよい。
またそれが正道。

 ……というような理由で、アメリカの孫たちに送るのは、やめた。
嫁さんに叱られそう。

●さて、朝

 さて、朝になった。
考えることは、まず運動。
散歩に出ようか。
それともウォーキングマシンですませようか。
が、今朝は、かなりの睡眠不足。
昨夜は長男と、午前1時ごろまで、話しこんだ。
今ごろになって、眠くなってきた。
どうしよう?
もう一眠りしようか?

 やはり、一眠りしよう。
そして目が覚めたら、中国に現れたUFOについて、詳しく調べてみよう。
たしかに、あれはすごい!
乞うご期待!、というところ。

 みなさん、おはようございます。
2010年12月30日、朝記。

Hiroshi Hayashi+++++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

****************************
【中国・杭州・蕭山(しょうざん)国際空港に現れたUFO
****************************

●インチキか本物か、それを確かめるのは、あなた!


http://www.youtube.com/watch?v=WzQc-UCHXtA&feature=related


2010年7月9日、中国杭州の、蕭山に、UFOが出現した。
多くの目撃者もおり、またさまざまな角度から写真も撮影されている。
このUFO騒動が、インチキでないことは、当日、近くの空港が閉鎖
されたことでもわかる。


エルエル(NEWS)サイトは、つぎのように伝える。


『浙江省杭州市にある蕭山(しょうざん)国際空港が一時閉鎖され、18便の飛行機に影響が出
たそうです。
この写真は午後8時40分頃に撮影されたそうです。空港が閉鎖されたのは8時41分〜9時4
5分まで』(エルエル)と。


詳しくは、
http://10e.org/mt2/archives/201007/092319.php


このUFOの特徴は、上部に客室らしき構造をもち、下部が光線に包まれて
いるということ。
また上部の客室らしき部分には、2つずつ、窓が並んでいるのがわかる。
さらに写真によっては、下部から下方向、あるいは尾部方向に、光線を発して
いるのがわかる。
鮮明な写真も数多く撮影されている。


計18便の飛行機に影響が出たということだから、相当数の目撃者がいたはず。
最近にない、UFO目撃例ということになる。

そのUFOが、どういうものであるかは、みなさん自身で見て、確認してほしい。
HTML版も、ここに添付しておく。

<object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/QvGUaIPgqJw?fs=1&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="
true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="
http://www.youtube.com/v/QvGUaIPgqJw?fs=1&amp;hl=ja_JP" type="application/x-
shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="
385"></embed></object>

インチキか本物か、それはあなた自身で確かめてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 中国 杭州 UFO 2010−07−09)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司※

【ヘリコプターママ】

●溺愛ママの子育てブルース

++++++++++++++++++

ある日、ある母親(47歳)は、娘(22歳)
から、三下半(みくだりはん)を突きつけられた。
娘が大学を卒業した直後のことだった。

江戸時代、簡略に離婚事由と再婚許可文書を、
3行半で書いた。
そのことから、そういう。
ふつうは、夫から妻に出す離縁状をいう。

が、実際に、三下半だった。
携帯電話のメールで、娘は母親にこう伝えた。

「今後生涯にわたって、絶縁します。
一切、連絡はしないでほしい。
私を捜すこともしないでほしい。
         ○○圭子」

++++++++++++++++++

●ヤボな話

 これはヤボな話かもしれない。
しかしこういうケースのばあい、母親は、娘を訴えることができるか。
それまでの養育費と学費、それに慰謝料を請求することができるか。
法律的には可能かもしれない。
しかし実際には、子育てに対する構え方によってもちがうが、裁判沙汰にする親は
いない。
泣き寝入りするのが、ふつう。
実際、その母親はそれがきっかけで、うつ病を発症し、気が変になってしまった。

●溺愛の果て

 親が子どもを溺愛して、よいことは何もない。
親はよかれと思い、子どもを溺愛するが、子どものほうこそ、ありがた迷惑。
親が思うほど、子どもは感謝していない。
そればかりか、それを「干渉」ととる。
ある男子高校生は、母親にこう言って叫んだ。

「いつオレが、お前に産んでくれと頼んだ!」と。
母親の存在感が大きすぎた。
その男子高校生は、それに反発した。

●溺愛ママ

 溺愛ママについては、たびたび書いてきた。
全体としてみると、もっぱら、子どもの立場で書いてきた。
しかしここでは親の立場で考えてみたい。
というのも、「溺愛ママ(パパでもよいが)」というと、自業自得と考える人が多い。
子育ての失敗が原因で、結果として、親自身がひどく傷つく。
だから自業自得、と。

 しかしそうとばかりは言えない。
溺愛ママと呼ばれる人は、それなりに愛情も深い。
子育てに没頭する分だけ、子どもに時間とヒマ、それにお金をかける。
子どものためならと、どんな苦労も厭わない。
ただ子どもを溺愛する母親(父親でもよい)には、情緒的な欠陥があることが多い。
未熟性といってもよい。
それが母親をして、子どもを溺愛に走らせる。
が、それは母親自身の責任ではない。
その母親を育てた、両親の責任である。
溺愛ママだけに、自業自得と、責任をおおいかぶせるのは、あまりにも酷。
かわいそう。

++++++++++++++

溺愛ママについて書いた原稿を
さがしてみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●溺愛

親が子どもに感ずる愛には、3種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえ
ば母親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本
能的な愛で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類は
とっくの昔に滅亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをい
う。一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべ
ればよい。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する
親も、同じように考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに
押しつけているだけ。

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と
意識したとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで
決まる。英語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子ども
のできが悪くても、また子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。
その度量の広さこそが、まさに真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいて
いは親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭
不和、騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子
どもを溺愛するようになる。

 溺愛児は親の愛だけはたっぷりと受けているため、過保護児に似た症状を示す。

(1)幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、
(2)人格形成の遅れ(「この子はこういう子だ」というつかみどころがはっきりしない)、
(3)服従的になりやすい(依存心が強いわりに、わがままで自分勝手)、
(4)退行的な生活態度(約束や目標が守れず、生活習慣がだらしなくなる)など。全体にちょう
どひざに抱かれておとなしくしているペットのような感じがするので、私は「ペット児」(失礼!)と
呼んでいる。柔和で、やさしい表情をしているが、生活力やたくましさに欠ける。

 溺愛ママは、それを親の深い愛と誤解しやすい。中には溺愛していることを誇る人もい
る。が、溺愛は愛ではない。このテストで高得点だった人は、まずそのことをはっきりと
自分で確認すること。そしてつぎに、その上で、子どもに生きがいを求めない。子育てを
生きがいにしない。子どもに手間、ヒマ、時間をかけないの3原則を守り、子育てから離
れる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ブルース

 自分の中に溺愛性を感じたら、子どものためというよりは、自分自身のために、子育てから
離れたほうがよい。
その時期はできるだけ早いほうがよい。
溺愛にのめりこめばのむほど、あとあと傷口が深くなる。

 親が子どもを溺愛して、子どもが親の望み通りになるケースは、100に1つもない。
ご注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 溺愛 でき愛 溺愛ママ でき愛ママ でき愛ママブルース)

●モンスターママvsヘリコプターママ

●ヘリコプター・ママ(Helicopter Mothers in South Korea)

++++++++++++++++++

韓国には、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれる
母親たちがいるそうだ。

「ヘリコプターのように子どもの周囲を駆けずり回り、
あれこれ世話をする母親」(朝鮮N報)という意味だ
そうだ。

++++++++++++++++++

朝鮮N報、8月10日付け(2008)に、こんな興味深い記事が載っていた。
少し日本語を読みやすくして、紹介する。

+++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++

ある名門大学の経営学科に通うキム某君(19)は、夏休みを利用してソウル・鐘路にある有名
な公認会計士試験予備校に通っている。母親が「次の学期の"会計原理"の授業で良い成績
を取らなければならないから、夏休みに予備校へ通っておく必要がある」という話を周囲の人
たちから聞き、どの予備校が良いか調べた上で、登録までした。

キム君の母親は、息子が次の学期に履修する科目をすべて決めていた。「公認会計士試験に
向け、徹底的に準備するためには、会計分野の専門教育科目が重要だから、この科目は英
語ではなく国語の授業として臨めばよい。○○教授の講義は上手いというから、必ず取らなけ
ればならない」といった形だ。

 大学1年のチェ某君(19)は、ある金融機関でインターンとして働いている。まず大学の就職
情報センターや学科のホームページで情報を集めた後、「ここ(金融機関)で働いた経歴は、
就職の際に一番プラスになるだろうから、ここへ行きなさい」という母親のアドバイスを聞き、そ
の通りにしている。チェ君の母親は、息子に代わって自動車教習所の登録もしている。

 キム君やチェ君の母親のような人が最近増え、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれている。ヘリコ
プターのように子どもの周囲を駆けずり回り、あれこれ世話をする母親という意味だ。自分の
子どものことを何でもしてあげることで、子どもを「マザコン」に仕立て上げているともいえる。

 ソウル大宗教学科のユ・ヨハン教授は「成績を出した後、教授に直接会って"うちのこの成績
が良くないと、専攻を決める際に人気のない学科に行かされるかもしれないから、成績を上げ
てくれ"と懇願する母親もいた」と話す。

 釜山に住む主婦のユン某さん(49)は、大学1年の息子が「ほかの人よりも早く司法試験の準
備をしたい」と言ったため、その願いを叶えるために東奔西走した。息子の軍隊への入隊や大
学の休学の時期をすべて調整し、さらに自らソウルへ行って、司法試験の合格者を多く出して
いるという冠岳区新林洞一帯の予備校を探し歩いた。

 京畿道に住む主婦キム某さん(54)は、31歳になる会社員の息子の「金融アドバイザー」だ。
銀行や不動産鑑定士に依頼して綿密な分析をし、利回りが良いファンドや株式投資、積立口
座などを選んで、息子に代わって加入するとともに、毎月の収益実績をチェックして資金の運
用までしている。息子の月給の管理も母親の役目だ。息子が女性と会えば、条件や趣向など
を把握し、引き続き会ってもよいかどうかを息子に言い聞かせてもいる。

 問題はこうした「ヘリコプター・ママ」の下で過保護に育てられた子どもたちが、困難な状況に
直面したとき、自らの力で問題を解決していく経験が絶対的に不足しているということだ。その
子どもたちもまた、「マザコン」になってしまうのではないかという不安を感じているという。

 高麗大社会学科の玄宅洙(ヒョン・テクス)教授は「就職難が続き、"ニート"が増える中、子ど
もが大学を卒業した後の進路を決めることも、親(特に母親)の役目になっている。母親の"行
き過ぎた親心"が、成人した子どもの親への依存度を高め、"一人では何もできない"大人に仕
立て上げている」と苦言を呈した。

+++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++

日本でいう「モンスター・ママ」に似ている。
少し前は、「教育ママ」と読んだ。
要するに、過干渉、過関心、過保護、それに溺愛を複合した母親ということになる。
本来なら、社会や自分自身に向けるべき生きがいまで、すべて子どもに向けてしまう。
その結果、朝鮮N報にもあるように、子どもは、マザコン化する。
50代、60代になっても、母親のうしろを、いそいそとついて歩いたりする。

が、もちろん、本人自身に、その自覚はない。

自分では、「親孝行の、すばらしい息子」と思っている。
あるいは「自分の親は、自分がそうするに足る、すばらしい親」と思いこんでいる。

問題は、なぜ、こういう母親が生まれるかということ。
それには、社会の不備があげられる。

女性は結婚し、家庭に入ると、その時点から、子どもを産み、子どもを育てる(道具)としか見ら
れなくなってしまう。
いくら才能やキャリアがあっても、家庭の中では、それを生かすこともできない。
またその途中で、自分を磨くこともできない。
勉強といっても、せいぜい資格試験のため。
その先がない。

約30%の女性は、それでよいと考えている(某、調査)。
しかし大半の女性は、不完全燃焼症候群の中で、悶々とした日々を過ごす。
それから生まれるストレスは相当なもので、「家庭は、女性にとっては監獄である」と説いたイ
ギリスの評論家さえいた。

つまりそうしたエネルギーを、すべて子どもに向けてしまう。

モンスター・ママにせよ、ヘリコプター・ママにせよ、ゆがんだ男女差別観が生んだ、犠牲者に
すぎない。

韓国も日本も、この点では、よく似ている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 ヘリコプターママ 
ヘリコプター・ママ モンスター・ママ モンスターママ)

Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司


【離婚問題、私たちのケース】(孤独論)


●初老期クライシス


今日は、明日の初日の出を見るため、
牧之原市相良にある、ペンションにやってきた。
「ワイフが、どこかの海で、初日の出を見たい」と言った。
それでそうした。

ワイフと長男、それに私。
「海まで歩いて、1分」とか。
海が見えるペンションではないが、それは
しかたない。


……ところで日の出は、何時何分か。


今、ふと、そんなことを考える。
朝、6時はまだ、暗い。
6時30分になると、明るくなる。
「6時ごろ起きればいいかな?」と、
そんなことを考える。


車で来るとき、ワイフとこんな話をする。
「初老期になると、さまざまな問題が、
どっと起きてくるね」と。
「みんな、それぞれの方法で、解決して
いるみたいだけど、あまり表には出てこない」とも。


何が問題というわけではない。
しかし初老期の倦怠期は、それまでの倦怠期とは、
大きくちがう。
今までの倦怠期には、「未来」という出口があった。
倦怠期といっても、どこかへ寄り道するような感じだった。
が、初老期の倦怠期には、その「未来」がない。
そのまま暗い袋小路に入ってしまう。
寄り道というよりは、分かれ道。
後戻りのできない、分かれ道。
そのまま離婚してしまう人も多い。


現在の私たちも、そうだ。
私は私。
ワイフはワイフ。
そんな考え方をしているうちに、いつの間にか、
心が離れてしまった。
とくに意見が衝突するというわけではない。
会話が途絶えたわけでもない。
むしろ以前より、よくしゃべる。
が、たがいにどこか理解しあえない。
どこか分かりあえない。
一方的に、私は私の意見を言う。
ワイフはワイフの意見を言う。
それが時として、言い争いになる。
数日前の夜も、そうだった。

 原因は、ささいなことだった。
いつもの夫婦げんかだった。

たがいに言いあっているとき、ワイフのほうから、
こんな言葉が出てきた。
覚悟はしていたが、しかし実際にそう言われると、
その言葉が、槍のように胸を刺す。


「別れましょうか?」と。
おとといの夜のことだった。


●初老期


初老期に、どっとやってくるのが、
初老クライシス。
生活のリズムが、大きく変わる。
夢や希望が消え、生きる目的が見えなくなる。
老後への不安が、それに拍車をかける。
病気があれば、なおさら。
なくても、病気への不安は、いつもそこにある。
が、とくにこわいのが心の病気。
脳の病気。
ボケ。


若いときは気力でそれを乗り越えることができる。
が、加齢とともに、その気力も弱くなる。
ごまかしがきかなくなる。
それまで隠してきた精神的な(もろさ)が、表に出てくる。
中には60歳を過ぎて、人格が極端に後退する人もいる。
そうでなくても、50歳を過ぎると、知力も落ちてくる。
知恵や知識も、脳みその下から、容赦なく、こぼれ出て行く。
まるで穴のあいたバケツのよう。

よい例が、英語の単語。
新しい単語など、100に1つも脳に残らない。
(若いときに覚えた単語は、今でも忘れないが……。)
歌にしても、そうだ。
歌詞を覚えるのに苦労する。
メロディーなど、最近の曲は、楽譜を見ても歌えない。


が、何が怖(こわ)いかと言って、「孤独」ほど、怖いものはない。
孤独に苛(さいな)まれるようになると、目の前で、「死」がちらつくようになる。
自殺の道を選ぶ人も多い。
そうでなくても、心を狂わす。
腐らせる。
この時期、離婚率もピークを迎える。
「熟年離婚」という言葉も定着した。
初老クライスに破れ、40年来の縁を切る夫婦も多い。


そこで孤独論。
初老期イコール、孤独との闘い。
「喪失の時代」と位置づける人もいる。


●孤独論


 大前提として、孤独でない人はいない。
みんな孤独。
みな、孤独が怖いから、それをごまかして生きているだけ。
はしゃいでいるだけ。
楽しそうに見えるが、それは表面だけ。
うわべだけ。
その日、その日をごまかして生きているだけ。
その下では、孤独が渦を巻いている。
その人が落ちてくるのを、「今か、今か」と、そこで待っている。
手招きをしながら、待っている。


孤独であることを、隠す必要はない。
恥じる必要はない。
あなたは悪人でも、罪人でもない。
ごくふつうの人。
ごくふつうの人だからこそ、孤独になる。


 たしかに孤独は、怖い。
恐ろしい。
足下をすくわれるような恐怖感。
が、怖いからといって、逃げてもしかたない。
もがいては、だめ。
苦しんでは、だめ。
逃げれば逃げるほど、孤独はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
追いかけてくる。
もがけばもがくほど、苦しめば苦しむほど、あなたは心をむしばみ、やがて「死」を
考えるようになる。
「孤独」は、いわばガン細胞のようなもの。
心のガン細胞。
あなたを食いつぶし、やがて自らも命を絶つ。


孤独になったら、静かに身を任す。
流れに身を横たえ、流れに身を任す。
身を任せ、とことん孤独の世界に身を横たえる。
行き着くところまで行き着けば、やがて身は止まる。
必ず、止まる。
それまでは苦しい。
苦しいが、歯をくしばる。


が、孤独は、真理を開く扉。
真理にたどりつくための関門。
第二の産道。
母の胎内から外に出るのが、第一の産道。
孤独の世界から真理の世界に出るのが、第二の産道。


とことん孤独になる。
ドン底に落とされる。
そのとき、その先に小さな光が見えてくる。
それが愛という希望の光。
『絶望した人間だけが、その先に希望を見る』と
言った賢人がいた。
同じように、『孤独をくぐりぬけた人間だけが、
真理を知る』。


その世界を見たとき、あなたは大粒の涙を流すだろう。
熱い涙。
そのときは、泣きたいだけ、泣けばよい。
大声で、泣きたいだけ、泣けばよい。


♪孤独、
孤独は、いやなもの。
孤独、
孤独は、つらいもの。
だけど、孤独から逃げてはいけない。
孤独、
孤独は、恐ろしい。
逃げれば逃げるほど、
キバをむく。
あなたに襲いかかってくる。
孤独、
孤独は真理に至る、関門。
一度は通り抜けなければならない、関門。


あのイエス・キリストですら、
孤独に苦しんだ。
「ハンガー(飢え)」という孤独に苦しんだ。
その結果、「愛」にたどり着いた(マザーテレサ)。


♪父は死んだ。
母も死んだ。
友も死んだ。
ワイフは去っていった。
息子たちも去っていった。
残されたのは、私だけ。


私は孤独におびえ、
身を震わす。
誰も愛することができない。
誰にも愛されない。
それが無間地獄。

が、私たちが探し求めている真理は、その向こうに隠されている。
言うなれば、孤独は真理を取り囲む「砦(とりで)」。
巨大な砦。
戦っても、あなたに勝ち目はない。
勝つ必要もない。
あなたはただ静かに、それを受け入れればよい。
それであなたはその砦を、粉々にすることができる。


私はさみしかった。
いつもひとりぼっちだった。
心を開くこともできず、
だれにも心を開かせなかった。


私は孤独だった。
毎晩、暗闇の中で、
体を丸めて眠った。
助けを求めた。
だれも答えてくれなかった。


が、今は、ちがう。
私はその向こうに、小さな光を見た。
「希望」という名の、小さな光を見た。


うれしかった。
心が軽くなった。
穏やかで、やさしくなった。
安らいだ気持になった。


その夜も、ワイフは私に背を向けて寝ていた。
体を固くしていた。
このところ同じふとんの中でも、どうも居心地が悪い。
一体感が消えた。

私はそっとワイフの背中に手をかけた。
反応はなかった。
もう一度、そっと手をかけた。
うるさそうに、ふとんの中に顔をもぐらせた。

そのとき私はこう言った。
「やっぱり、離婚するのはよそう」と。
ワイフは、「ウン」とうなずいてくれた。


(2010年12月31日夜、牧之原市相良・ペンション・リリカルにて)



(はやし浩司 孤独論 孤独 孤独は第二の産道 孤独は関門 孤独という砦 孤独は
第二の関門 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●1月1日


 今日から2011年。
「2010年」は過去になった。
時刻は、午前5時53分。
私はベッドの中。


 トリプル・ルームということになっている。
しかしひとつは、子どもの2段ベッド。
そこで昨夜は、2つのベッドをひとつにし、私とワイフ、それに長男の3人で
雑魚寝をすることにした。
こんな寝方をするのは、30年ぶり?
長男の横顔が、子どもの顔に見えた。
いとおしさが、ググーッとわいてきた。


 もうすぐ6時になる。
起きて支度をしなければならない。
今日の初日の出は、ビデオに収め、YOUTUBEにアップする。
が、ワイフは横で、いびきをかいて眠っている。


 部屋は西向きで、空の様子がわからない。
それに今朝も冷え込んでいる。
外は寒そう。


●読み直し

 
 することもないので、暗闇の中で、パソコンを開く。
昨夜書いた原稿を読み直す。
そのあと、先の文を書く。


 時刻は午前6時を過ぎた。


 もう5〜10分もしたら、起きよう。


(ぼんやりとしたまま、時間だけ過ぎる。)


 初老期を総括すると、こうなる。


「何かをしなければならない」「しかし何をしたらよいか、わからない」
「何かができるはず」「しかし何をしても、空回り」


そういう思いが頭の中で、堂々巡り。
そのうち精神がよどんでくる。
腐ってくる。
取り越し苦労とヌカ喜び。
この2つを、繰り返す。


 一本の筋道が見えてくればよい。
その道筋が見えてこない。
それが初老期。
……というか、私の知る初老期。


 初老期のみなさん、
苦しいのは、あなただけではない。
さみしいのは、あなただけではない。
みんな、そうだ。


 新年、あけまして、おめでとうございます。
新年早々、暗い話で、すみません。
我が家もいろいろあります。
外から見ると、幸福そうな家庭に見えるかもしれませんが……。


 大切なのは、ドラマ。
そのドラマに生きる価値があるのですね。
だから失敗を恐れない。
いつもそこを原点にして、前に進む。
それが人生ですね。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
***********************


新年、明けまして、おめでとうございます!


今年も、よろしくお願いします。


2011年元旦、牧之原市(浜松市から車で2時間)
相良海岸のペンションで一泊。
早朝、初日の出を拝みました。


そのときの様子を送ります。


<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/X43VfLyFq68?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/X43VfLyFq68?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

YOUTUBEの中で「相模」と書いてしまいましたが、「相良」のまちがいです。

(HTML)

http://www.youtube.com/watch?v=X43VfLyFq68

***********************


●1月1日の予定


 何人か、年始のあいさつに回り、そのあと、映画を観てくる。
『ハリーポッター』。
そのあと今夜は市内の、ビジネスホテルに一泊。
ダブルベッドルームで、5500円。
朝食は無料(クレタケ・イン)。


 明日は、ワイフの兄弟会。
明後日は、N町の友人を訪問。
車で2時間ほど、かかるかな?


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
はやし浩司 牧之原市 相模 相模海岸 はやし浩司 2011−01−01


●夫婦げんか


 昨日(1月1日)、ワイフとこんなことを誓いあった。
「もう過去のことを持ち出して、けんかするのはやめよう」と。
というのも、私たちの夫婦けんかのパターンは、いつも同じ。
それには理由がある。


 私は何でも口に出して、パッパッとものを言う。
ワイフは、それに反して、何でも胸の中にためこんでしまう。
それが臨界点に達すると、爆発する。
何を言っても、反発する。
そのときに、いつも過去の話を持ち出す。
「あのとき、あなたは!」と。
私も負けじと、「お前だって!」とやり出す。


 あとはお決まりのエスカレート。
だから誓いあった。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【家族の粘着力】


●パサパサ家族


 家族どうしの粘着力が、なくなった。
密着力もなくなった。
今の若い世代のもっている「家族観」と、私たちがもっているそれとは、明らかにちがう。
私たちがもっている家族観には、それがよいものかどうかという議論もあるが、もう少し
粘着力がある。
ネバネバというか、ベタベタというか……。


 が、今の若い世代の人たちには、それがない。
言うなれば、「パサパサ」。
だからパサパサ家族。
「サバサバ」という言葉もあるが、それとは、少しニュアンスがちがう。
たとえて言うなら、水分が明らかに足りないパンか、うどんのようなもの。
口に運ぶ前に、パサパサと粉になって下へ落ちてしまう。


●お金


 よく誤解されるが、「お金をかけたから、子どもは親に感謝しているはず」と考えるのは、
まったくの幻想。
お金がなければ、家族は危機的状況に陥る。
しかしお金で、家族の心をつなぐことはできない。
むしろお金が、家族の絆を粉々にすることが多い。


 「親の介護を2年もつづけば、兄弟はバラバラ」という。
それに遺産問題がからむと、メチャメチャ。
金額の問題ではない。
わずか数百万円のことで、兄弟が険悪な状態になることもある。
反対にたがいに数億円近い財産を手にしながら、それでも険悪な状態になることもある。
遺産問題がこじれ、以後、行き来が途絶えた兄弟となると、ゴマンとある。


●心の問題


 が、家族がパサパサになったのは、それだけが原因ではない。
ひとつには乳幼児期の母子関係がある。
現在、幼保一元化(こども園)が、国会でも問題になっている。
しかし論じられているのは、制度の問題のみ。
「心」の問題が、置き去りになっている。


 0歳児から保育所へ預けるのが、今では常識になっている。
共働きだけが理由ではない。
「母親の育児負担の軽減」が、大きな理由になっている。
それはそれでしかたのないことかもしれない。


 しかしそのため、本来その時期に形成されるべき親子の絆、つまり粘着力や
密着力が犠牲になる。
が、肝心の親たちがそれに気づいていない。
親たち自身も、あの高度成長期の中で、同じような環境の中で、生まれ育っている。
つまり親たち自身も、パサパサ。
親がパサパサだから、子どももまた、パサパサ。
パサパサのパサパサ家族。


 0歳から人工飼育された子どもの心が、どうなるか。
これは何もSF映画の世界だけの話ではない。
「心」というのは、学習によって作られる。


●家族の絆


 皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。
今の若い家族は、毎週のようにドライブをしたり、行楽を楽しんでいる。
私たちの世代には、想像もできかった豊かな生活である。
が、その分だけ、家族の絆が太くなったかといえば、それはどうか。
むしろ絆は細く、薄くなった。
絆をつくるヒモにしても、ここに書いたようにパサパサ。
いとも簡単に切れてしまう。


 「それでもいい」と言うのなら、それはそれ。
たとえば「国民意識」にしても、そうだ。
「地域意識」でもよい。
それもパサパサ。


 少し前だが、高校生たちと、こんな会話をした。
「もし北朝鮮が日本へ軍隊を送ってきたら、君たちはどうする」と聞いたときのこと。
みな、こう答えた。
「アメリカ軍が、追い払ってくれる」と。
中には「ぼくは逃げる」と言った高校生もいた。
あるいは「そのために自衛隊がいる」と言った高校生もいた。


 さらにある老人(82歳)はこう言った。
現在、長野県で、ひとり住まい。
「年金制度が悪い」と。


 つまり息子や娘たちは、「親には年金があるから、ぼくたちはめんどうをみなくていい
と考えている」と。


●団塊世代vs若い世代


 世の中が、あまりにも急激に変化しつつある。
ついていくだけでたいへん……というより、不可能。
意識を変えるのは、簡単なことではない。
10年単位(それでも短いほうだが……)の時間がかかる。


 だから若い世代の人たちの意識に合わせるということが、むずかしい。
つまり私たちがもっている「家族観」と、今の若い人たちがもっている「家族観」は、
あまりにも違いすぎる。
私は「こうあるべき」と考える。
しかし若い世代は、私たちの家族観を、容赦なく否定する。
理解しようとすら、しない。
戦後のあの苦しい時代の話をしても、すかさずこう言い返される。
「そんなのは自業自得。ぼくらには、関係ない」と。

 が、これだけは覚えておくとよい。
若い人たちも、やがて年を取る。
年を取って老人になる。
そのとき、さみしい思いをするのは、結局は、あなたがた自身であるということ。
それがわからなければ、乾いた砂を思い浮かべてみればよい。
あれこそ、まさに、パサパサ。
あなたの人間関係も、そうなる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 パサパサ家族 薄れる親子の絆 現在の家族観 ネバネバ家族 はやし浩司 
家族の粘着性 粘着力 密着度 密着性)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月3日(雑感、思いつくまま)


++++++++++++++++


時刻は、午前0時15分。
1月3日になったところ。
昨日(1月2日)は、忙しかった。
原稿を書くヒマもなかった。
一日中、動き回っていた。
で、今。
やっと自分の時間ができた。
ホ〜〜ッ!
ワイフは隣の部屋で、眠っている。
アルコールが入ると、それこそ
コテンと眠ってしまう。
うらやましい!


++++++++++++++++


●年賀状


 毎年、1月2日には、年賀状の配達はないものと思っていた。
が、今年から、2日にも配達をするようになったらしい。
朝、起きて郵便受けを見ると、年賀状が届いていた。


 で、その年賀状。
私が「少なくなったね」と言うと、ワイフは、「当たり前でしょ」と。
数年前、一度、年賀状廃止宣言なるものをした。
みなに、断わりのハガキを出した。
「これからはインターネットの時代なので・・・」とか、何とか、書いた。


またおととしは、喪中ということで、だれにも出さなかった。
知らない人は年賀状をくれたが、そのままにしてしまった。
それもあって、年賀状の枚数は、ガクンと減った。


40代のころは、800〜1000枚にもなった。
年賀状を書くのも、1週間仕事。
私が図柄を描き、ワイフがあて先を書いた。
考えてみれば、そのころが私の人生のピーク?
が、今年は・・・まだ数えてないが、150枚前後(?)。
私が出した年賀状の枚数も、それくらい。
年齢に反比例して、年賀状の枚数も、少なくなっていく。

オー・ヘンリーの「最後の1枚」という短編小説を思い出す。
病弱な少女が、枯れ木に残る最後の1枚に希望を託し、生き延びる。
私も、やがてそうなる。
最後の1枚に、望みを託す。
0枚になったとき、死ぬ。
(あるいは、その逆?)


●休日の過ごし方 

 この数年、休日の過ごし方を変えた。
それまでは予定も立てず、家でゴロゴロしていることが多かった。
が、それは私には向いていない。
私のやり方ではない。
それがわかった。

家の中でじっとしていると、かえってイライラ感がつのってしまう。
だから最近は、休日になったら、遊びまくる。
ヒマを見つけては、外出する。
毎日、どこかの旅館やホテル、山荘に寝泊りする。
「だったら、どこか外国へでも行ってくればいい」と思う人もいるかもしれない。
しかし私は飛行機が苦手。
一度飛行機事故を経験してから、飛行機に乗れなくなってしまった。
いや、乗れなくはないが、いつもひどい緊張感に襲われる。
旅先のホテルでは、一睡もできない。
「帰りの飛行機に乗らなければ・・・」と思うだけで、不安になる。
動悸が始まる。
体が宙に浮いたような状態になる。
こういうのを「飛行機恐怖症」というのか。
症状を、列挙してみる。


(1)飛行機に乗るのが、怖い。(棺おけに入ったような気分になる。)
(2)みなについて、ぞろぞろと乗ることはできる。(前の客の背中に隠れて乗る。)
(3)席に着いても落ち着かない。(目を閉じて、じっとしている。)
(4)体から緊張感が抜けない。(体中がコチコチになる。全身に冷や汗をかく。)
(5)先方のホテルで眠れない。(睡眠薬をのむ。)


 そんなわけで、特別なばあいをのぞいて、飛行機には乗らない。
時間はかかっても、国内では、列車を利用する。


 こうした恐怖症というのは、それがない人には理解できないものらしい。
「思い過ごし」とか、「気のせい」とか、言う。
しかし怖いものは、怖い。
足が勝手にすくんでしまう。
これは脳の奥深いところで起こる反応。
理性でコントロールできるようなものではない。


 話は脱線したが、そんなわけでこれが私の休日の過ごし方ということになる。
つまり人、それぞれ。
私は私。


●骨董市


おととい(1月1日)は、市内のグランドホテルであった骨董市に行ってきた。
昨日(1月2日)も、市の産業展示館であった、骨董大市に行ってきた。
若いころは骨董が好きで、いろいろなものを買い集めた。
が、今は、売りどき。
もっていても、しかたない。
飾るところもない。


 全部で50店ほど並んでいただろうか。
ワイフとああでもない、こうでもないと言いあいながら回った。


 収穫は、明治時代の教科書。
6冊、買った。
ボロボロの本だった。
ワイフはそれを見て、「一度、消毒したらどう?」と言った。


ついでに私がもっている骨董品の写真を見てもらった。
が、どれも「全国版」とか。
おもしろい言い方だった。
つまり私がもっている骨董品は、東京、京都、大阪のような大都市でしか鑑定できない
という。
だから「全国版」。
「この浜松では鑑定できません。京都へ行ってみたらどうか」と、言われた。
「あるいは美術館でもいい」とも。


私が「ニセモノではありません」と言うと、骨董店の男はこう言った。
「ニセモノでないことは、あなたの顔を見ればわかります」と。
瞬間、意味がわからなかった。
が、そう言われて、そのあとうれしくなった。


 全体としてみると、今、骨董品は底値。
中国からニセモノがどんどんと入り、骨董品の価値がさがってしまった。
一時は100万円を超えたような絵皿でも、今では1〜2万円で取り引きされて
いるという。


 時代が変わった。
日本人の趣好が変わった。


●無精髪


 今、髪の毛はボサボサ。
「床屋へ行かなければ」と思いつつ、日を延ばしてしまった。
その結果が、今。
正月というのに、何たるザマ!
「明後日から床屋が始まるから、行って来たら?」とワイフは言う。
が、それもめんどう。
もう少し先延ばしにする。
それまで整髪料で、ごまかす。


・・・しかし私の年齢で、これほどまでに髪の毛がフサフサしているのは珍しい。
白髪も少ないほう。
去年、大学の同窓会に出たら、半数以上が照れ照れのハゲ頭だった。
「床屋へ行かなくてもすむからいいなあ」と思ったが、やはりハゲ頭は」いや。
めんどうでも、髪の毛はあったほうがよい。


●正月


 「正月」という言葉から緊張感が消えた。
私たちが子どものころは、正月というと、一大行事だった。
重大事だった。
が、今はちがう。
のんべんだらりというか、正月といっても、ただの休日。


 たとえばこの山荘周辺の農家の様子も、変わった。
20年前には、どこの家の前にも、門松が並んだ。
が、今は、ほとんど見ない。


 私の家にしても、そう。
今年は1月1日になって、あわてて正月らしくあれこれ飾った。
餅つきも予定していたが、市内に住む友人が、その前日、餅を送ってくれた。
そのため餅つきは、中止。


 先にも書いたように、あちこちで寝泊りしているため、おせち料理もなし。
ワイフが2、3品、用意した。
が、それだけ。
そんなわけでますます緊張感が抜けた。
「こんなことでいいのかなあ」という思いが、心をふさぐ。


●不安神経症(パニック障害)

 このところときどき、不安神経症に陥る。
動悸がはげしくなり、不安感が脳内に充満する。
気分が浮いたような状態になり、落ち着かない。
ささいなことで、イライラする。

 で、私のばあい、そういうときは、自分の胸の内を文章にして叩き出す。
(キーボードを叩くから、「叩き出す」と言う。)
たいてい30分もすると、落ち着いてくる。
心が軽くなる。
反対に、そのままにしておくと、頭の中がモヤモヤしてくる。
症状がひどくなる。

 もっともそういうときに書いた原稿は、外に向かっては発表しない。
言うなれば、ボツ原稿。
どうしても愚痴ぽくなる。
読みたい人もいないだろう。
だから書き終わったら、そのまま削除。
趣味の魚釣りと同じ。
魚を釣っても、また水の中に戻す。

 さてさてやっと眠くなってきた。
時刻は、もうすぐ午前1時。
明日も忙しい。
起きたらすぐ、周辺の草刈をするつもり。
一汗かいて、風呂に入る。
それが楽しみ。

 では、みなさん、おやすみ!
(はやし浩司 2011−01−03)


Hiroshi Hayashi++++++Jan 2011++++++はやし浩司(林浩司)

●初夢

++++++++++++++++++++++

今年の初夢。
見たはずなのだが、よく覚えていない。
どこかの温泉に入っていた?
湯船が2つあったが、ひとつには、
レスラーのような黒人の大男が入っていた。
私たちは隣の部屋にあった、もうひとつの
湯船に入った。
隣の客と肩がこすりあうほどの混みようだった。

あのフロイトも「夢判断」を重要視している。
いろいろな説がある。

時計の夢を見るのは、強迫観念の強い人。
旅先であわてる夢を見るのは、不安神経症(パニック障害)の人。
混浴の夢を見るのは、性的に欲求不満の人。
トイレをさがす夢を見る人は、小便がしたい人、など。
(以上、はやし浩司説)

もう10年近くも前のこと。
1月2日の朝、私はヘビの夢を見た。
昔からヘビの夢を見ると、金運がよくなると言われている。
私は喜んだが、その年は最悪だった。
つまり、こういうのは迷信。

ところで中国では、すでに2000年以上も前から、
夢判断をしていた。
そういう話を知っている人は少ない。
『黄帝内経(こうていだいけい)』という本に、
それがちゃんと載っている。
詳しくは小生の『目で見る漢方診断』(飛鳥新社)を
見てほしい。

http://farm1.static.flickr.com/27/44248065_6d77fe9e35_b.jpg

http://farm1.static.flickr.com/32/44248066_dfea74d843_b.jpg

見方によっては、フロイトの夢判断より、はるかに合理的である。
漢方理論にしっかりと基づいている。

で、目をさましてから、ワイフとこんな話をした。

私「よくさあ、認知症か何かになると、どこどこへ帰りたいと言う人がいるよね」
ワ「みんな、言うみたいよ」
私「ぼくの母は、生まれ故郷のID村に帰りたいと、いつも言っていた」
ワ「そうね」
私「でね、ぼくのばあいだけど、ぼくが老人になり、そういう状態になったら、
どこへ帰りたいと言うだろうか」

ワ「どこ?」
私「お前は、どこだ?」
ワ「砂山の実家かしら?」
私「ああ、あそこならいつでも連れて行ってやるよ」
ワ「新幹線の改札口のあたりよ」
私「ハハハ、それはわかりやすい。新幹線の改札口へ連れて行ってやるよ」

ワ「あなたは、どこなの?」
私「それがね、ぼくのばあい、根無し草だから、とくに帰りたいというところがない」
ワ「この家じゃなくて?」
私「夢の中に出てくるとすれば、それがね、おかしなことに、裏のNKさんの家なんだよ」
ワ「あの大豪邸?」
私「そうなんだよ。あの家なんだよ。ハハハ」と。

ワイフの生まれ故郷(実家)は、今は新幹線の浜松駅、その改札口あたりにあった。
もしこの話を覚えていてくれる人がいたら、JR浜松駅で降り、新幹線の改札口を
通るようなとき、こう思ってほしい。
「ああ、ここがあのはやし浩司の妻の実家のあったところか」と。

が、私のばあいはどこか?
やはり郷里のM町か?
それともこの浜松市か?
よく旅先から家に戻る夢を見る。

そのときは岐阜のほうを目指して帰る。
しかし夢の中に出てくる家は、先にも書いたように、裏のNKさんの大豪邸。
オレンジ色の屋根、白壁の家。

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 夢判断 フロイト 黄帝内経 初夢)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●デジタル人間vsアナログ人間(あなたは、どちら?)

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デジタル人間。
人間関係を、ON/OFFだけで決めてしまう。
つきあうか、つきあわないか、そのつど、スパスパと判断し、行動する。
つきあう価値のある人間とは、つきあう。
つきあう価値のない人間とは、つきあわない。
ドライ、淡泊、計算ずく。
最近の若い人たちの一般的な、考え方。

これに対して、アナログ人間。
ON/OFFの切り替えが苦手。
人間関係が癒着していて、妥協しながらも、相手との関係を維持する。
つきあいたくなくても、嫌われるのを避け、いい人ぶる。
そのつどYES/NOが言えず、ズルズルとあいまいなまま生きる。
人情的、濃密、計算しない。
従来の日本人の一般的な、考え方。

デジタル人間からは、アナログ人間は、ネバネバして見える。
田舎ぽい。
アナログ人間からは、デジタル人間は、サバサバして見える。
都会ぽい。

++++++++++++++++++

●珍現象

 A氏の家に、東京へ出た息子夫婦が、帰ってきた。
孫も2人、連れてきた。
1年半ぶりの帰郷である。

A氏は現在、65歳。
定年まで、地元のバイク会社に勤めた。
現在は、部品管理会社の守衛をしている。
そのA氏が、こう言った。

(1)息子夫婦は、みやげを何も持ってこなかった。
(2)2人の孫の分だけではなく、息子まで、お年玉を請求した。(A氏の妻が、3万円
渡したという。)
(3)正月に来たといっても、嫁は家事をいっさいしない。子ども(孫)を預けて、
同窓会だの、友人宅回りだのと言って、遊んでばかりいた。(A氏の妻が、料理を用意した。)
(4)A氏夫婦は2人の孫を連れて、近くの遊園地へ行ったりした。
(5)みなでレストランで食事をしたが、息子夫婦は、1円も負担しなかった。
そればかりか、帰りの車のガソリン代を、A氏の妻から受け取っていた。

●意識のちがい

 「どうして?」と理由を聞くと、A氏はこう教えてくれた。
「息子夫婦は、生活がギリギリで余裕がないのです」と。

 それもそのはず。
最近の若い人たちは、給料を手にしても、目一杯の生活を始める。
高級マンションに住み、大型の車を乗り回す。
冷蔵庫、レンジ、エアコン、液晶テレビなどなど。
「あって当たり前」の生活をする。

「それに私の方から遊びにおいでと声をかけた手前上、息子夫婦は、お客様です。
嫁さんに家事をさせたら、息子が怒ります」と。

 A氏の息子夫婦を責めても、意味はない。
つまりこの40年間で、日本人の常識が逆転した。

●40年前

 私たちは6畳と4畳のアパートに住んでいた。
車は買ったが、中古のHONDAの小型車だった。
長男が生まれたとき、そうだった。
収入は人並みにあったが、約半額は、毎月実家の母に届けていた。

 盆暮れには、どんなに忙しくても、時間を作って実家詣でをした。
もちろんみやげも、そのつど持っていった。
帰るときには、少なくとも10万円程度の現金を置いてきた。

 ワイフはワイフで、私の実家へ帰ると、家政婦のように働いた。
ときどき家族を連れて、近くの温泉へ行ったりした。
もちろん費用は全額、私が負担した。
が、私たちだけが特殊というわけではない。
それが当時の「常識」だった。

 が、今はちがう。
意識が180度、変わった。
子どもが親の世話をするのではない。
親が子どもの世話をする。
孫の世話をする。
たった40年で、親子の立場が逆転した。
(たったの40年だぞ!)
原因は、何か?
それが冒頭にあげた、デジタル人間の台頭である。

●ドラ息子

 いつごろから、こうなったのか?

 私が最初に強くそれを感じたのは、すでに30年も前のことである。
当時、昔でいう「ドラ息子・ドラ娘」が、急速に増え始めた。
時はちょうど、高度成長期。
それにつづくバブル経済期。
子どもが生まれると、みなが寄ってたかって、蝶よ花よと、子どもに手をかけた。
金をかけた。
時間をかけた。

 その結果、子どもたちは、自分を中心に世界が回っていると錯覚し始めた。
「もらうのが当然」「してもらうのが当然」と。
その結果が、今。
そのときの子どもたちが、今の親たち。

 正月に実家へ帰っても、ただで寝泊まりする。
親に小遣いを渡すのではない。
親から、さらに小遣いをせびる。
先に書いたA氏の息子夫婦のようなケースは、けっして特殊ではない。
が、悲劇はつづく。

●金の切れ目が、縁の切れ目

 子どもが大学へ入ると、親たちは爪に灯をともしながら、学費を送る。
生活費を送る。
しかしそんな苦労など、どこ吹く風。
子どもたちは、遊ぶ。
ただひたすら遊ぶ。
バイトもするが、それはすべて遊興費のため。

 もちろん勉強の「ベ」の字もしない。
愛だの恋だのと、恋愛ゲームに明け暮れる。
で、何とか卒業。
何とか就職。
で、最後には、ある日突然見知らぬ女性を家に連れてきて、「結婚します」と。

 親の意見を求めることもない。
恋愛を、人生の最大の重要事と考える。
またそれが、す・べ・て。

 で、こんな話を聞いた。

 結婚して間もなくのこと。
B氏の息子が、やはり東京から帰ってきた。
突然の帰郷である。
「どうした?」と聞くと、「結婚式をしたい」と。
「どこでやるのか?」と聞くと、「この浜松でしたい」と。

 で、それについて、結婚式の費用を出してくれないかと。
B氏が、「少しなら負担してやってもいい」と答えると、息子は突然、激怒。
こう言い放ったという。
「親なら、結婚式の費用くらい、出してくれてもいいだろ。
この浜松でしてやるのだから!」と。

 それ以後、1年以上になるが、息子からは音信なし!
どこかで結婚式をしたらしいが、B氏夫婦には招待状は来なかったという。

 以上の話を読んで、「この息子はおかしい!」と思ったら、あなたはアナログ人間。
「息子の言い分の方が正しい!」と思ったら、あなたはデジタル人間。
さて、あなたは、どちら?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 デジタル人間 アナログ人間 どら息子 ドラ息子 親子の絆 はやし浩司 逆転
する親子関係 はやし浩司 ON OFF人間 ON−OFF ON・OFF人間)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●子離れ(親意識との決別)(親の依存性vs親の自立)

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70歳を過ぎても、子離れできない親がいる。
一方、子どもがまだ中学生なのに、さっさと
子離れしてしまう親もいる。
そのちがいは、何か。
どちらがよいのか。
また子離れするには、どうしたらよいか。

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●「なりすまし詐欺(オレオレ詐欺)」

 いまだになりすまし詐欺が跡を絶たないという。
電話一本で、いとも簡単に親たち(祖父母たち)が騙(だま)されてしまう。
この話を、オーストラリアの友人(60歳)に話したら、こう言った。
「オーストラリアでは考えられない」と。

 「もしそういう電話がかかってきたら、オーストラリア人の親なら、こう言うだろうね。
それは私の問題ではない。息子(娘)の問題。私は知らない」と。

 つまりなりすまし詐欺というのは、きわめて日本的な現象ということになる。
その根底で、日本人独特の甘えの構造(=依存性)と、深く絡(から)みあっている。

●「二度と帰ってくるな!」

 10年ほど前だが、こんなTV番組を見た。

 深夜、東京のKB町にレポーターとカメラマンが入った。
2人の中学生らしい女の子をつかまえた。
その女の子たちに、「おうちの人は心配してないの?」と。

 が、その女の子たちは、「心配してないヨ〜」と。

 そこでレポーターは何とか女の子たちの自宅の電話番号を聞き出した。
自宅に電話した。
電話に母親らしき女性が出た。
が、その母親らしき女性の言い方に驚いた。
娘たちの外出を心配しているかと思いきや、その逆。
「私には関係ありません!」「放っておいてください!」と。

 そこで女の子(=娘)が電話に出ると、母親らしき女性は、電話口の向こうでこう
叫んだ。
「あんたなんか、二度と家に帰って来るんじゃないわよ。わかったア!」と。

●解放

 親はどこまで子どものめんどうをみるべきか。
その内容と基準、それに程度は、それぞれの家庭によって、みなちがう。
子育ての意識そのものが、ちがう。
夫婦(父親vs母親)によっても、ちがう。

 仮に70歳を過ぎても、ネチネチと子離れできない親を、(10)とする。
一方、子どもが小学生、もしくは中学生のころに、「私は関係ありません」と、
子どもを突き放す親を、(0)とする。
上記、テレビに出てきたような母親をいう。

 が、これは意識の問題。
(10)の親から見れば、(0)のような親がいること自体、信じられない。
(0)の親から見れば、(10)のような親がいること自体、信じられない。
その一方で、ほとんどの親は、自分のもっている意識を、標準と考える。
ほかの親たちも、みな、そうと考える。
しかしそう考えてはいけない。
人、それぞれ。
意識も、それぞれ。

●私たち夫婦のばあい

 私たち夫婦ですら、たがいに意識がちがう。
生まれ育った環境がちがうから、ちがって当然。

 私はネチネチとした、濃密な親子関係のある世界で、生まれ育った。
ワイフは、幼いころ母親を亡くし、父親の手だけで育てられた。
そのため私から見ると、「親子感覚」が希薄。
上記(0)〜(10)に基準に当てはめるなら、私は、(7)もしくは(8)。
ワイフは、(3)もしくは(4)。

実際、私のワイフが、3人の息子たちに向かって、「勉強しなさい!」などという
言葉を使って、息子たちの世話を焼いているのを、見たことがない。
息子たちがまだ小学生のころから、学校の宿題にしても、「やりたければやりなさい」
「やりたくなければ、やらなくてもいい」という接し方をしていた。

 ほかにたとえばアメリカに住む孫に対しても、毎月のようにプレゼントを送ったのは
私。
ワイフはただの一度も、自分からは送っていない。

 が、おかしなもので、いつも嫌われるのは、私。
好かれるのは、ワイフ。
どうして……?、と書きたいが、俗世間では、こう言う。
『うるさい親は、嫌われる』と。

●子離れ

 子離れとは、何か?
つまるところ、いつ、どの時点で、「私とは関係ない」と、子どもを突き放すかで、
決まる。
言い替えると、子どもにもっている依存性を断ち切ることを、子離れという。
子離れと、親の自立は、紙で言えば、表と裏。

 私も、さんざん辛酸をなめさせられたあと、やっと、こう思えるようになった。
「勝手にしろ!」「知ったことか!」と。
決別したというのではない。
息子たちを見捨てたというわけでもない。
息子たちに抱いていた、期待感を払拭した。
とたん、心の中が、スーッと軽くなったのを覚えている。
つまりそのとき、私は親として自立した。
……というか、親意識と決別した。

●それまでの私

 それまでの私を総括すると、こうなる。
「いつか、めんどうをみてもらわなければならないときがあるかもしれない」
「息子や息子の嫁たちに、嫌われたくない」
「親として、優位な立場にいたい」と。

 いつもそう考えていた。
が、息子たちにその気がまったくないことを知った。
仮に私が心筋梗塞で倒れたと連絡しても、「ああ、そう?」で終わってしまうだろう。
(だからといって、それが悪いというのではない。
それが現代の若者たちの標準的な意識ということになる。
また私自身も、そういうふうに息子たちを育ててきた。)

そういった息子たちの意識を、はっきりと自覚したとき、息子たちに抱いていた
依存性が消えた。
同時に、そこに私の人生があることを知った。
「私は私の人生を生きる」と。
つまり私は、子育てから、解放された!

●依存性

 体にしみついた依存性と決別するのは、たいへん苦しい。
自己否定から、絶望感、さらには襲い来る孤独感と闘わねばならない。
意識を変えるというのは、並大抵の努力では、できない。

 が、この問題だけは、自分たちの問題。
子どものもっている意識を変えようとしても、無駄。
子どものもっている意識と闘っても、これまた無駄。
親の私たちは、それを認め、受け入れるしかない。

 少し前、「デジタル人間」について書いた。
ドライで合理的。
人間関係ですら、ON/OFFだけで片づけてしまう。
そういう人間をデジタル人間という。
「人情」というものが、通じない。
現代の若者たちが、そうであるなら、私たちはそれに合わせて生きていくしかない。
あるいは相手にしない。

 今の私なら、仮になりすまし詐欺の電話がかかってきても、即座にこう言うだろう。
「それは私の問題ではない。息子(娘)の問題。私は知らない」と。

 子離れについて、別の角度から考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子離れ論 依存性 子離れ 親の自立 はやし浩司 親子感覚)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●東亜日報の反日記事

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+++++++++++++++++


東亜日報(韓国紙)は、「あきれた日本の新聞」と題して、つぎのような
記事を掲げた。

そのまま紹介する。

++++++++++以下、東亜日報、1月4日記事より++++++2011

国防部が発表した「2010年国防白書」に独島(トクト・日本名竹島)の写真がなかったことにつ
いて、日本の産経新聞が昨年12月31日、「日本への配慮ではないかと関心を呼んでいる」と
し、その背景に注目した。 

韓日間に独島の領有権問題が起こった08年には、韓国政府が国防白書の表紙に独島を背
景にした大型強襲揚陸艦のカラー写真を載せ、本文にも、海軍艦艇の独島防衛訓練のカラー
写真を載せたが、今回は2つの写真が削除されているということだ。2010年度版には、独島
関連の写真として、島の上空を哨戒飛行する空軍戦闘機の小さな写真1枚だけが掲載され
た。 

これについて、軍当局は、「ひと言で言って、あきれた」と述べた。軍関係者は、「これまで表紙
に写真が3枚入っていて散漫であるうえ、毎回デザインが同じだという反応もあり、今回はデザ
インに変化を与えたのだが、過剰な解釈だ。表紙の写真を抜いただけであり、独島に対する
韓国の確固たる守護意志の内容はすべて含まれている」と反論した。

++++++++++以上、東亜日報、1月4日記事より++++++2011

●検証

 そこで産経新聞を調べてみた。
実際、そのような記事があることがわかった。

++++++++++以下、産経新聞、記事より++++++2011

【ソウル=黒田勝弘】

 韓国国防省は30日、2010年版の国防白書を発表したが、前回の08年版白書の表
紙に掲載されていた竹島(韓国名・独島)の写真が表紙から消えており、日本への配慮で
はないかと関心を呼んでいる。

 韓国では近年、金大中・盧武鉉政権(1998〜2008年)時代の対北融和策で北朝
鮮への警戒心が後退。代わって竹島・独島をめぐる日韓の領有権紛争から「独島防衛」が
強調され、マスコミなどはまるで日本が"仮想敵"かのような雰囲気になっていた。

 国防白書(08年版)では表紙に「独島」を背景にした大型強襲揚陸艦のカラー写真が
掲載され、本文でも北朝鮮などによる「局地挑発に対する備え」の項に、海軍艦艇による
「独島防御訓練」のカラー写真が出ていた。

 今年の白書ではこの2枚の写真は削除され、「独島」がらみでは島上空を哨戒飛行する空
軍機の小さな写真1枚だけになった。

 韓国では今年、哨戒艦撃沈事件や延坪島砲撃などで北の軍事的脅威が大問題になり、政
府はこれまでの安保政策の立て直しを迫られている。韓国政府として現実離れした"日本脅
威論"をあおるような写真は不必要と判断したものとみられる。

++++++++++以上、産経新聞、記事より++++++2011

●「日本への配慮ではないかと関心を呼んでいる」

 産経新聞の記事の中で、最大の問題点は、「日本への配慮ではないかと関心を呼んでいる」
という部分。

 いつ、だれが、どこでそのような「関心を呼んだ」のか?
記事には、「黒田勝弘」の記者名がある。
となると、こういう独断的判断を下したのは、黒田勝弘氏自身ということになる。
黒田勝弘氏は、勝手に国防白書を自己流に解釈し、最後に、こう結んだ。

「韓国政府として現実離れした"日本脅威論"をあおるような写真は不必要と判断した
ものとみられる」と。

●韓国側の反発

 これに対して、韓国側は、強く反発した。
それが東亜日報の記事である。

 が、私は黒田勝弘氏のこう言いたい。
「日韓問題は、貴殿が考えているような、底の浅い問題ではない。
韓国の人がもっている反日感情は、そんな甘いものではない。
認識不足もよいところ」と。

 つまり私はこれほどまでに、オメデタイ記事を、そうは知らない。
産経新聞というよりは、黒田勝弘氏の、視野の狭さに驚く。
つまりこの程度のことで、一喜一憂してはいけない。
自己流の解釈を加えて、日韓関係が改善に向かっていると安易に判断してはいけない。
東亜日報が反発して、当然である。

 私も、この記事には、日本側の立場で、あ・き・れ・た!


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【1月5日朝記】(さあ、今日も始まった!)

●目と口

++++++++++++++++++

感情は口に先に表れる。
目は、それにつづく。

わかりやすく言うと、喜怒哀楽、
とくに驚き、笑いは、まず口に現れる。
ついでそれに対して目の動きが追従する。

つまりそれによって、作られた表情か、
本物の表情かを、判断することができる。

……というような話を、若いころ、
何かの本で読んだことがある。

++++++++++++++++++

●日本映画

 日本映画が、全体として、演技ぽいのは、「演技」を意識しているから。
たとえば1人の男が町を歩いている。
そのとき突然、後ろから、だれかに肩を叩かれる。
その瞬間のこと。
その男は、相手の顔を確かめる前に、つまり振り向く前に、目の筋肉が先に緩(ゆる)む。
その状態で振り返る。
相手は男で、彼の友人だった。
(ふつうなら、まず相手を見てから笑う。
笑うとしても、口の方が先に笑う。)

 ……というような「瞬間」を、私たちは見落とさない。
笑顔についても、同じことが言える。

 たとえば1人の女性が、何かのジョークを聞いて笑うようなばあい。
まず口の方が先に反応して、笑う。
目が笑うのは、そのあと。
それが本当の笑い。

 が、日本映画では、あらかじめ用意した表情で、笑う。
こういうときは、こういう表情をしてみせるもの……というような表情で笑う。
たとえて言うなら、ショッピングセンターに立つ売り子のような表情をしてみせる。
ニコニコ笑うが、作り笑い。
どこか不自然。
演技ぽい。
ここでいう「演技」というのは、それをいう。

 こうした稚拙な演技を防ぐゆいいつの方法は、俳優が、その人物になりきること。
その人物の心になりきること。
演技はそのあと、ついてくる。

●孤独は心のがん細胞

 数日前、「孤独は心のがん細胞」という内容の原稿を書いた。
孤独感がつのると、精神状態が変調する。
その先に「死」が見え隠れするようになる。
そのまま自殺してしまう人も少なくない。
だから「孤独は心のがん細胞」。

 ところが、である。
孤独は心のがん細胞だけではなく、肉体のがん細胞であることもわかってきた。
絶望感を味わった人ほど、心臓病、脳卒中、さらにはがんになる人が多いのだそうだ。
理屈としては、納得できる。
絶望感が、体内の免疫機能を減退させる。
孤独感にしても、同じ。
孤独感ほど、強烈なストレスはない。

 私の学生時代の友人も、そう言った。
彼はこの6年、胃がんと闘っている。
「林、がんはね、ストレスが原因で起こるんだよ」と。

 ストレス、イコール、がんということでもないだろう。
しかしストレスは、体によくない。
2008年に、その友人について書いた原稿を、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●S君の生き方(Immunocyte & Cytokine)
A cytokine brings the effect that multiple functions, that is, a single cytokine varies in the 
condition of the target cell.

+++++++++++++++

昨夜、T県T市に住んでいる、S君と
電話で、1時間ほど、話す。

大学の同窓生である。

彼も、4、5年前、内臓にガンを患い、
現在も、「闘病生活をしている」(同君)
とのこと。

「毎月、いろいろな検査を受けている」
「毎週、リハビリに通っている」
「毎日、いろいろな薬をのんでいる」と。

しかし生き方が、すばらしい。
何ごとにつけ、前向き。

「ぼくはクラシック音楽が好きだから、
チケットはいつも、何枚ももっている」と。

心配して電話をかけたつもりだったが、
かえって私の方が、教えられた。

「なあ、林君、ガンなんて、治せば
いいんだよ。すぐ死ぬというわけでも
ないからね。ていねいに検査を受けていれば、
転移も、それでわかる。わかったとき、対処
すれば、まにあうよ。これで最初のガンから
5年になるから、あと10年は生きられるよ。
これからの10年は、(もうけもの)と
思って生きるよ」と。

「悪いのは、ストレスだよ。ストレスが、
ガンを引き起こすと考えていいよ。
ぼくの周囲でガンになった人を見てもね、
何らかのストレスが引き金になったと
思われるのが、多い。ストレスが免疫細胞の
力を弱めてしまうんだよ。ガン細胞なんて
ものはね、みな、もっているんだよ」とも。

次回の同窓会には出ることを約束して、
電話を切る」

++++++++++++++++

●ストレス

++++++++++++++++

以前、ストレスについて書いた原稿を
さがしてみた。

++++++++++++++++

●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、どん
なにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶものは、その(わず
らわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人間が、
原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何
かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は「うつ
病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 孤独感、絶望感は、ただ単なる感情ではない。
肉体をもむしばむ「がん細胞」ということになる。
こわいのは、脳内ストレス。
年齢的なことはよくわからないが、50歳を過ぎたら、要注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ストレス 免疫 免疫機能の低下 免疫機構 サイトカイン 孤独 強力なストレス
 はやし浩司 絶望 孤独 心のがん細胞 ガン細胞)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●2つのニュース(はやし浩司 2011−01−05)

++++++++++++++++++++

「?」と思った、2つのニュース。
ひとつは、アメリカのアーカンソー州で起きた、鳥の大量死事件。
もうひとつは、北朝鮮の金xxに関するニュース。

並べて考えてみる。

++++++++++++++++++++

●花火で、鳥が大量死?(Yahooニュースより)

【ニューヨーク山科武司】

 米アーカンソー州で野鳥が大量に死ぬ"事件"が発生した。原因は不明だが、「新年を祝
う花火の音が鳥のストレスを高めた」との見方が出ている。

 CNNなどによると、アーカンソー州中部の人口5000人の町ビーブで、先月31日
の夜から今月1日未明にかけ、ハゴロモカラスやムクドリが約5000羽、1.6キロ四
方の範囲で死んだ。落下してくる鳥のため車の運転は困難となり、住民は傘をさして鳥を
避けたという。

 夜行性の鳥ではなく、なぜ巣から一斉に飛び立って死んだかは不明だ。研究機関で死体
を解剖したが、感染性の病原はなかった。31日夜には同町で新年を迎える花火を打ち上
げており、AP通信は「その音に鳥が驚いたのでは」との見方を紹介している(以上、Y
ahooニュースより。)

●金xxの公開活動(朝鮮日報より)

 統一部は4日、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記による昨年の公開活動が161
回に及んだと明らかにした。ちなみに2009年には159回で、脳卒中で倒れた2008年は97
回だった。

 分野別では工場や企業所など経済部門での視察が63回で最も多く、軍部隊の視察など軍
事部門の現地指導が38回でその次に多かった。さらに公演の観覧28回、中国訪問など対
外活動12回、大学訪問や政治関連行事などが20回だった(以上、朝鮮日報より)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思いつくまま

 花火が原因なのか。
それとも何かの伝染病によるものなのか。
しかし私にはこんな経験がある。

 子どものころのこと。
私が住んでいた町では、「川開き」といって、川のそばで毎年、花火大会が催された。
8月1日だったと記憶している。

 で、その直後の、その翌朝のこと。
近くに小倉公園と呼ばれる小さな山がある。
そこを歩いていたとき、無数の小鳥が死んでいるのを見かけた。
無数といっても、点々と、何十羽という数だった。
それを見て、だれかがこう言った。

 「昨夜の花火で驚いて、死んだのだろう」と。

 で、それから30年後。
そのことについて、本に書いた。
『受験に克つ子育て法』(三一書房)という本の中だった。
が、それについて、ある人がこう言った。
「花火で、鳥は死なない」と。

 以来、私はどちらが正しいのか、迷うようになった。
が、今回、アメリカのアーカンソー州で、似たような事件が起きた。
まだ花火と確定されたわけではないが、疑ってみる価値はじゅうぶん、ある。

 人間にとっては「楽しみ」の花火だが、小鳥にとっては、恐怖そのもの。
小鳥だけではない。
私はこの30年近く、犬を飼っているが、犬だっておびえる。

 花火大会イコール、人間の傲慢さの象徴と考えてよい。
人間だけが、地球の住人ではない!
花火が原因とまだ確定したわけではないが、そうであっても、またそうでなくても、
人間の傲慢さの象徴と考えてよい。

●公開活動が161回?

 常識で考えて、161回は、ありえない。
ほぼ2日に1回の割合である。
それがいかにハードなスケジュールであるかは、自分のこととして考えてみると、わかる。

 私は健康なほうだが、1泊旅行をして帰ってきただけで、ヘトヘトになる。
翌日は1日中、横になっていることもある。
いわんや、脳梗塞を経験した人が?
年齢も68歳。

 私は替え玉ではないかと、疑っている。
重要な公開活動については、本人自身がすることもあるだろう。
しかしそれ以外は、替え玉による、公開活動。
そう考えてよい。
以前、やはり何かの本で、金xxには、何人もの替え玉(=影武者)がいると
読んだことがある。
そのときは、身の保全のためにそうしているという話だった。

 それに年に161回もあちこちに出かけていたら、動きがすべてわかってしまう。
これはアメリカの暗殺を恐れる金xxにしては、たいへん、まずい。
あの国は、何からなにまで、ウソで塗り固めている。
こういう話は信じないほうがよい。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●離婚が悲劇になるとき(10%のニヒリズム)

++++++++++++++++++

離婚というと、夫婦だけの問題と
考える人は多い。
しかしけっして、夫婦だけの問題ではない。
その夫婦を包む、家族の問題でもある。

こんな話を聞いた。

その老夫婦(ともに65歳)には、2人の
息子がいる。
その2人の息子が、相次いでこの数年間の
うちに離婚してしまった。

それぞれに3人ずつの子ども(孫)がいた。
つまり息子たちの離婚によって、その夫婦は
一度に6人の孫を失ったことになる。

こういうケースのばあい、いくら離婚しても、
元夫には、面会権のようなものが残る。
家事調停の場で、そのような取り決めもできる。
「養育費を支払うかわりに、月に1度は元夫と面会
させる」と。
が、家事調停らしい調停もしないまま、
つまり妻の方が、一方的に家を出てしまった。
また2人の息子にしても、この不況下。
養育費を支払う能力はなかった。

こうなると、本当に「失った」という状態になる。
それまでは毎年のように行き来していた家族だったが、
離婚と同時に、縁は切れた。
たがいに相手を罵倒しあうような状態になってしまった。

……この話を聞いたとき、私は、「孫も考えもの」と
思うようになった。
というのも、私にも3人の息子がいる。
うち2人は結婚している。
で、もし離婚ということになれば、孫たちは
元妻側に引き取られることになる。
そうなったとき、ショックは、大きい。

事実、ここに書いた老夫婦は、それ以後、一度に
10年は老(ふ)けてしまったという。
息子たちとの関係も切れてしまったという。

一度は、家族全体(老夫婦+息子たち+孫)の写真を、
誇らしげに年賀状に載せたこともある。
が、それも一時の夢で終わってしまった。
これを悲劇と言わずして、何と言う?

++++++++++++++++++

●10%のニヒリズム

 こういう話を聞くたびに、「10%のニヒリズム」という言葉を思い出す。
どこかの塾の教師が教えてくれた。
つまりいくら全力投球しても、最後の10%だけは、自分のためにとっておけ、と。
100%投球してしまうと、万が一のとき、そのあとがない。

 夫婦はともかくも、親子、親戚、近所づきあいなどなど。
とくに教育の世界では、そうかもしれない。
傷つくのは、いつも一方的に、こちら側だけということになる。
事実、私のばあいも、その子どもに全力投球しながらも、別の心で、つまり10%の
部分で、「この子も、いつか去っていく」と考える。
心の準備を怠らない。
またそれがあるからこそ、「さようなら」「元気でね」と、さわやかに別れることができる。

 一見、ニヒリズムに見えるかもしれない。
しかしこれはこの複雑な社会を楽しく生き延びるためのコツということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
●2011年1月5日(はやし浩司 2011−01−05)

●伊良湖ビューホテルへ

 浜松周辺で、景観第一のホテル言えば、伊良湖ビューホテル。
渥美半島(愛知県)の先端にある。
このホテルに泊まるようになって、もう4、5回目になる。
電車で豊橋まで。
豊橋から迎えのバスで、1時間10分。

 あいにくの曇り空。
どんよりとした灰色の雲が、下のほうまで降りている。
寒いというよりは、冷たい。
冬の冷気が体の芯までしみる。
バスが出る時刻まで、40分ほどあった。
駅構内のパン屋で
コーヒーを飲んで時間をつぶす。

●夢の中の家

 豊橋へ着く直前、私は一軒の家を見て、驚いた。
夢の中にときどき出てくる家、そのものだった。
小高い丘の上にあって、左右対称の形をした家だった。
赤い屋根に白い壁。
玄関は中央にあって、モダンな感じの家だった。

 「おい、夢の中に出てくる家があった!」と声をかけると、ワイフはこう言った。
「その反対じゃ、ないの?」と。

 実は、その通り。
私はこの当たりは何十回となく、電車で往復している。
そのときその家が、何らかの形で、記憶に残った。
記憶したという意識もないまま、記憶に残った。
どう記憶に残ったかも、わからないまま記憶に残った。
しかし残った。
それがときどき、私の夢の中に出てくる。

 つまり夢の中に出てくる家と同じ家を見たのではなく、脳のどこかに記憶された家を、
私は夢の中で見ていた。

●脳内ストレス

 ストレスが慢性化したり、許容限度を超えると、脳内でサイトカインが分泌
される。
脳内ストレスを引き起こす。
症状は、今の「私」。

 食欲が減退し、体が冷える。
性欲も減退するというが、これはもとから減退している。
やる気を失い、何を考えても、憂うつになる。

 「うつ」というのは、「こだわり」をいう。
何かのことでそれにこだわると、そればかりを考える。
取り越し苦労が多くなる。
被害妄想も強くなる。

 ……それではいけないということで、暮れの30日から、こうして
遊び回っている。
自宅で寝たのは、1日だけ。

 言い忘れたが、脳内ストレスを軽く考えてはいけない。
心臓疾患(心筋梗塞)や脳疾患(脳梗塞)の原因となる。
私も一時、心臓の変調を感ずるようになった。
それだけではない。
免疫機能が低下するため、がんを引き起こすこともあるという。

●ワイフ

 そういう私を心配して、……というか、それにかこつけて、ワイフは
私をあちこちへ連れ出す。
昨日は、法多山(はったさん)へ、初詣に行ってきた。
浜松から車で1時間半ほどのところにある。
1月4日に初詣?
去年は、12月末に初詣の先取りをした。
人の混雑は、あまり好きではない。

 ふだんはもの静かな女性だが、ワイフは若いころから行動派。
「趣味は旅行」などと、平気で人に言う。
(旅行というのは、お金がかかるんだぞ!)

私も若いころは、ワイフに負けないほどの行動派だった。
しかしこのところ、「出かけたい」という気力そのものが、弱ってきた。
もしワイフの誘いや励ましがなかったら、今ごろは家の中でゴロゴロしていたはず。

●豊橋

 よその町に来てみると、それがよくわかる。
官民格差というか、「公・官」と結びついた業種は、立派。
結びついていない業種は、みすぼらしい。

 たとえば病院や医院など。
豪華な建物。
つぎに建設業や銀行など。
鉄筋のビル。。
昔は、米屋や酒屋が保護を受けたが、今は自由化された。
タバコ屋もそうだ。
とたん、みな、店を閉めた。

あわれなのは、一般商店。
何の保護もなく、みすぼらしい姿を、さらけ出している。
少し郊外へ行くと、正月の5日というのに、シャッターを下ろしたまま。
そんな商店が、ズラズラと並ぶ。

 ある程度の「格差」なら、まだがまんできる。
しかしここまで格差が広がってしまうと、そうはいかない。
心の下から怒りがわいてくる。
「公・官」が潤い、「民」は、重税であえぐ。
「公・官」は我が世の春を謳歌し、「民」は明日の仕事を心配する。

●被害妄想

 先ほど「被害妄想」という言葉を使った。
不安神経症ともいう。
最近ではパニック障害という。
心配ごとだけが、どんどんと勝手に膨(ふく)らんでいく。
動悸と胸騒ぎ。
体全体がフワフワと宙に浮いたようになる。
その恐怖感は、経験したものでないとわからない。

 が、おかしなもので、そういう状態になると、そういう状態のほうが、
ふつうとなる。
自分がおかしいと思う前に、みながおかしく見える。
が、やがて心が落ち着いてくる。
静かになる。
今度は逆に、「どうしてあんなことを心配したのだろう」となる。

●ハエ

 窓の外に、一匹のハエがいる。
大きな黒いハエで、それが上下、左右に動き回り、もがいている。
何とかして部屋の中に入ろうとしている。
私にはそう見える。

 この寒さ。
明日の朝には、死ぬだろう。
ハエにしてみれば、命がけの闘いということになる。

 ところでこの伊良湖ビューホテルは、東向きの部屋と西向きの部屋に
大きく分かれている。
今日は東向き。
明日は日の出が、部屋から見えるはず。
楽しみ。
で、その東向きの部屋。
眼下に渥美半島が豊橋のほうまでつづいているのがわかる。
通りの明かりが筋となって、遠くまで連なっている。

 ハエと明かり。
おかしな取り合わせだが、私はその2つを見ながら、この原稿を書いている。

●脱水症状

 食事は7時15分から。
たった今、大浴場から戻ったところ。
体中がすっきりした。
ついでに頭の中も。

 ワイフは目の前で、ガラスに顔をつけて外をながめている。
長男は、何かの本を読んでいる。
「何時?」と聞くと、「(6時)半」と、ワイフは言った。

 今日は一日中、ほとんど水を飲まなかった。
そのせいか、現在は、脱水状態。
自分でも、それがよくわかる。
その話をすると、ワイフがコップに水を入れて、もってきてくれた。

●食事から帰る

 食事のとき、ワイフとこんな話をする。
「ぼくたちは、よく今まで(=この年齢まで)、無事で生きてこられたね」と。
ワイフはそれに軽く同意してくれた。

 食欲が満たされると、人間は幸福感を覚えるという。
脳下垂体の一部にそういう機能がある。
反対に空腹になり、血糖値がさがると、イライラしてくる。
神経が過敏になる。

 今が、そういう状態。
つまり満腹感+満足感。

料理はバイキング方式。
このホテルのバイキング料理は、種類が豊富で、質もよい。
ジュース類の飲み物だけは、有料。
残念と言えば、残念。

 が、これはホテル側の判断ミス。
私が支配人なら、ジュース類を無料にする。
甘味料の入ったジュースは、それだけで血糖値をあげる。
食欲を減退させる。
つまりその分だけ、客の食べる料理の量が減る。

 フルーツ類は食べ放題なのだから、どう考えても矛盾している。
ジュースを飲む代わりに、フルーツをかじればよい。

ワ「本当ね。それだけでも感謝しなくちゃあ」
私「だろ。息子たちもみな、それなりに育ったしね」と。

(注:朝食もバイキング方式だったが、朝食の方では、ジュース類は飲み放題
だった。)

●「給料よりも、心の豊かさ」(C新聞・1面コラム)

 昨日、C新聞のコラム(1面)に、こんなエッセーが載っていた。
題して「給料よりも、心の豊かさ」と。
内容は、読まずとも、私にはすぐわかった。
言いたいことも、私にはすぐわかった。
が、読んでみた。

 ……あるサラリーマンが会社をやめ、どこかの島に移住した。
そこで鍼灸師の資格を取り、今はその島で生活している。
収入は何分の1かに減ったが、心豊かな生活を楽しむことができるようになった、と。

 ありきたりの幸福論である。
貧しさや苦労を知らない世代の、たわごとである。
こんなふうに考える人が多くなったら、それこそこの日本は沈没してしまう。
すでに日本は、1人当たりの国民所得で、シンガポールに抜かれている。
2025年までには、韓国にも抜かれると予想されている。
GDPでは、すでに中国に抜かれてしまった。

 タイトルが、『モノよりも、心の豊かさ』というのなら、まだ私も納得する。
しかし今の若い世代は、あの「貧しさ」を知らない。
知らないから、今のままの繁栄が、この先もずっとつづくと錯覚している。
だから平気で、こう言う。

 『給料よりも、心の豊かさ』と。
その記事をまとめたのは、たぶん若い編集者なのだろう。
生活の苦しさを知らないロマンチスト?
あるいは女性?
中高年の編集者なら、こういう記事は書かない。

 たしかにお金では、幸福は買えない。
心の豊かさも買えない。
しかしお金がなくなったら、まちがいなく不幸になる。
心も貧しくなる。
「現実」のもつきびしさが、まるでわかっていない。

●苦労

 私の息子たちにしても、こう言う。
『パパは、仕事ばかりしていて、家族をかまってくれなかった。
家族はバラバラだった』と。

 それはその通りだったかもしれない。
いや、たしかにそうだった。
認める。
しかし私はこう言いたい。
「もっと不幸な家庭を、たくさんのぞいて来い!」と。

 私が子どものころ住んでいた隣の人は、OTさんと言った。
今でも、よく覚えている。
OTさんの家業は、キャラメルを紙を包む仕事。
仕事といっても、内職仕事。
その仕事を朝から夜中までしていた。
2人の子どもがいた。
1人は、私より1級、年上。
その同級生が、家事全体を担当していた。

 そういう苦労を、今の若い人たちは知らない。
知らないから、平気で言う。
「仕事よりも家庭が大切」と。

 が、今のままでは、やがて日本も、あの時代に逆戻り。
すでにそのようになりつつある。
国際経済を戦争にたとえるなら、戦争というのは先手、先手で攻めてこそ、勝てる。
守勢に回ったとたん、負ける。
世界中が血眼(ちまなこ)になって戦争をしているのに、『給料より……』とは!

●日本は貧しい

 またまた愚痴になってしまった。
が、これだけは言える。
苦労を知らないから、感謝の念も生まれない。
今のこの日本の繁栄にしても、自分たちが作り上げたものと錯覚している。

 いつだったか、私が息子の1人に、「戦後の日本は貧しかった」と言ったときのこと。
息子はこう言い返した。
「パパ、そんなのは、自業自得だよ」と。

 しかし今でも日本は、貧しい。
土地も狭い。
農地もない。
資源もない。
あるのは、「日本人」というマンパワーだけ。
そのマンパワーが、パワーを失いつつある。

 公務員が就職人気業種の1位になり、外国へ出たいという若者が
どんどんと減っている。
恋愛ごっこだの、家族ごっこだの、そんな遊びに明け暮れている。
言うなれば、ままごと。
だから義兄は、こう言った。

 「もう一度、日本を貧乏のドン底に叩き落してやればいい。
そうすれば、今の若い人たちも、目が覚めるだろう」と。

 暴論に聞こえるかもしれない。
しかし私は少しも暴論とは思わない。
苦労をしていないから、富や幸福は、「もらうもの」と思っている。
この依存性をぶち壊すには、一度貧乏を、自ら経験させるしかない。

●無事

 が、私たちが「無事で生きてこられたね」というときの「無事」には、もっと
別の意味がある。
たとえばバブル経済のころ、私の教室の周辺だけでも、10教室ほど、幼児教室や
小学生対象の個人塾があった。
しかし今、残っているのは、私の教室だけ。

 また私は学G研という塾連盟のメンバーにもなっていた。
最盛期には、50〜60人のメンバーがいた。
アカデミックな雰囲気をもった、すぐれた連盟だった。
が、現在、その中で、生き残っている教室(塾)は、ほとんどない。
私の教室を含めて、1〜2教室程度ではないか。
この10年、音信が途絶えてしまったから、詳しくは知らない。

 そういう現実をふまえて、「無事」という言葉を使う。
もっともワイフが「無事」というときは、「健康」をさすことが多い。
「大きな病気をしなかったから、よかった」と、いつも言っている。
そのワイフにしても、0〜2歳のころは、やせ細り、「2歳まで生きている
かどうかわからない」と言われていた。

●つぎの世代

 では、どうするか?
どう考えたらよいのか?

 ひとつには教育がある。
教育によって、日本の活力を生み出す。
が、私たちの世代が、つぎの世代に残せるものとしたら、それしかない。
それ以外の部分については、無力でしかない。
はっきり言えば、どうしようもない。

 つぎの世代の世界は、つぎの世代の人たちが作っていく。
「元気」といっても、私たちに残された元気は、もうどれほどもない。
現状を生きるだけで、精一杯。
どうであれ、私たちは、その世界を見ることはないだろう。

●中国人

 ワイフが2度目の入浴から戻ってきた。
濡れたタオルを、物干しに掛けている。
「隣の4部屋くらいは、中国人みたいよ」と。

 前回、秋に来たときも、中国人がたくさん来ていた。
たまたま尖閣諸島付近で、日本の海上保安庁の船と、中国の漁船が衝突したころだった。
中国政府は、日本への観光旅行を中止するなどと言っていた。
が、このホテルには影響はなかった(?)。
そのときも、結構、混雑していた。
ただ回を重ねるごとに、つまり毎年、見るたびに、中国人の態度が大きくなっていく
のには、驚く。
今の今も廊下で、甲高い声をあげて、騒いでいる。
傍若無人。

 このホテルにとっても、また日本全体にとっても、今は、中国サマサマ。
日本のバブル経済がはじけたとき、日本は経済破綻の崖っぷちに立たされた。
その日本経済をかろうじて支えてくれたのが、実は中国だった。
中国の高度成長の波に乗って、日本は何とかもちこたえた。
もし中国からの観光客が来なかったら、このホテルも、経営が成り立たない
だろう。

 ここはじっとがまんのとき。
そのうち静かになるだろう。

●時刻は10時

 時間のたつのは早い。
夕食をとり、2度目の風呂につかって戻ったら、もう10時!
1〜2時間という時間が、あっという間に過ぎてしまった。
これはどうしたことか。

 眠りたいという思いと、もっと文を書いていたいという思いが、交互に
現れては消える。
どうしよう?
ワイフと長男は、ベッドの上で、本を読んでいる。

 そう言えば、この1〜2日、PSP(ソニーのゲーム機)将棋では、負けてばかり。
集中力がつづかない。
これもサイトカイン(脳内ホルモン)によるものか。
このつづきは、明日の朝、また書く。
この部屋からは、もし天気がよければ、すばらしい朝日が拝めるはず。
では、おやすみ。
1月5日、午後10時。

●午前6時

 時刻は午前6時。
真っ暗闇の中で、パソコンを立ち上げる。
この文を書き始める。

 ……目が覚める前、こんな夢を見ていた。

 私はどこかの(自宅?)にいた。
裏のほうを見ると、雑草の生えた広場になっていて、子どもが何人か遊んでいた。
ワイフは家の中にいて、家事をしていた。
が、そこへ2人の子どもが、家の中に入ってきた。
あとを追いかけるようにして、ブラジル人の母親が入ってきた。
日本語が話せない。
が、どうやら「しばらく子どもを預かってくれ」と言っているようだ。
私とワイフは、2人の子どもを預かることにした。

 夢は、私が何かの遊具を取り出すところで終わった。
そこで目が覚めた。
(自宅?)と言っても、見覚えのない家だった。
古い農家のような家で、土間は、黄色の土がむき出しになっていた。
どうしてそんな夢を見たのだろう。

●1月6日

 今年の日本経済について、どこかの雑誌がその特集を組んでいた。
5〜6人ほどの学者や研究者が、その予想を書いていた。
立ち読みだったので、記憶をたどってみる。

(1)中国のバブル経済が崩壊する。
(2)日本のインフレが進む(円安になり、1ドルが100円になる。)
(3)株価があがり、景気がよくなる。
(4)韓国が「失われた10年に突入する」などなど。

 こうした予想は、例年だと、それほどの幅もなく一致するもの。
が、今年の予想は、みな、バラバラ。
X氏は、景気はよくなると主張し、Y氏は、景気は悪くなるという。
Z氏は、第二、第三のリーマンショックが襲ってくるという。
つまりそれだけ今年の景気は予想がしにくいということらしい。
ひとつの問題として、日本の航空業界を考えてみる。

●J社問題(航空業界)

 J社がかかえる問題は、いくつかある。
ひとつは旧態依然の経営体質。
ひとつはLCC(激安運賃運行)時代への対応。
ひとつはオープンスカイ問題。

 この先、J社が生き残っていこうとすれば、現在のような鎖国状態を政府に維持して
もらう。
国内便専門会社として、国内便だけに徹する。

EUでは、すでにLCCは、日常化している。
わかりやすく言えば、街中の乗り合いバスのような存在になっている。
場合によっては、パリから地方空港まで、300円(日本円で300円だぞ!)で
乗れる時代になった。
客はネットを見ながら、最低料金になったところでチケットを買う。
それをプリントアウトして、空港へかけつける。
そのまま飛行機に乗る。

 そんな芸当が、日本の航空会社にできるだろうか?
とくにJ社にできるだろうか?
プライドばかりが、やたらと強い。
そのプライドをかなぐり捨てて、そこまでLCCに徹することができるだろうか?
できないとするなら、従来どおり、鎖国主義を貫くしかない。
日本の空を細々と飛ぶしかない。
が、それで安泰かというと、そうでもない。

 近く、東京―大阪間が、リニアモーター列車で結ばれる。
新幹線網がさらに充実する。

さらに世界中のLCCが、日本へ参入しつつある。
すでにたとえば札幌から福岡へ行くとき、札幌から仁川(韓国)まで
大韓航空を使い、同じ大韓航空を使って仁川から福岡まで行く。
そんな人がふえている。
そのほうが料金にしても、はるかに安い。

 当の昔に、日本の航空会社は、国際競争力を失っている。
J社はさかんに「黒字になった」とはしゃいでいるが、中身は赤字路線を廃止しただけ。
余剰人員をクビにしただけ。
体質は何も変わっていない。
問題は何も解決していない。

 J社がかかえる問題は、日本経済全体がかかえる問題と考えてよい。
つまりJ社は、日本経済の縮図。

製造会社は海外で活路を見出しているが、航空会社にはそれができない。
できるとすれば、逆に人件費の安いパイロットや客室乗務員を、外国から雇うという
方法がある。
整備は外国の整備会社に任す。
つまり日本の航空会社を、外国の航空会社と同じレベルに置く。
そこからスタートする。
何なら、J社の本店を、タイのバンコクに置けばよい。 

いっそのこと、日本、台湾、韓国、マレーシア、シンガポール、フィリッピンで
共同して、1つの航空会社を作ったらどうか。
そのほうがわかりやすい。

かなり乱暴なJ社再建論だが、大筋ではそれほどまちがっていないと思う。

 ……それにしても、1企業を救済するために、国税を1兆円も使う必要は
本当にあったのだろうか。
国民1人当たり、約1万円。
浜松市の人口は80万人だから、浜松市だけで、80億円。
カルフォルニア州より小さな国に、航空会社が2社。
子会社も含めると、10社以上。

●ロビーで

 先ほどワイフがホテルのアンケート用紙に、意見を書いた。
それには「大満足」とあった。
よかった。

 私はロビーにあった椅子を窓側に向けた。
そこに座り、今、この文を書いている。
眼下には、渥美半島の先が見える。
小さな小山があり、灯台はその小山に隠れて見えない。
先ほど自動車運搬船が、左方面からやってきて、右方面へと消えていった。
空は相変わらず曇り。
鉛色の黒い影を伴った雲が、すぐ上に見える。

 風は強い。
朝、露天風呂に入ったが、風で湯しぶきがあがり、私の顔面を叩きつけた。
波も荒いはずだが、ここから見るかぎり、のどかな冬の海。
幾重にも皺(しわ)になった海面が、ゆっくりと岸へ打ち寄せている。

 「いい正月だったね」と言うと、ワイフは満足そうに笑った。
やりたいことは、すべてした。
そんな満足感が私の心を満たした。

 で、今度の正月を総括すると、こうなる。

「子離れと、居直りの正月」。
やっと子離れができた。
子離れを完成させた。
「これからは私の人生」と。

「居直り」というのは、「私の人生は、こんなもの」と、自分に納得できた。
たいしたことはできなかった。
これからもできないだろう。
あるがままの自分を認め、そのまま残りの人生を生きていく。
つまり、これからは、もうだれにも邪魔されず、自分の人生を生きていく。

 ……2年前、実兄と実母を亡くした
昨年、実家を処分した。
姉との5年闘争にも、ケリをつけた。
そして今年、2011年の1月。
息子たちとも、ケリをつけた。
私は生まれて始めて、「自由」を勝ち取った。
今の私を束縛するものは、何もない。
「私は自由だ!」と。

 もっともワイフに言わせると、「何よ、今ごろ」となる。
「あなたはね、若いころは、どうしようもないマザコンだったのよ。
60歳を過ぎて、やっと子離れできたのよ」と。
先ほども、ここまで書いたことを読み聞かせてやったら、そう言った。

私「でもね、つい昨年まで、ぼくはこう考えていたよ。
もし息子たちの身に何かあれば、家や土地を売ってでも助けてやろうと」
ワ「今どき、そんな親はいないわよ。息子たちだって、そんなこと望んでいないわよ」
私「そうだね。でもね、ぼくはお前と結婚する前から、収入の半分を、
実家へ送っていたよ。息子たちには、そんな気持ちはみじんもないよ」
ワ「今どき、そんな若い人はいないわよ。時代が変わったのよ」
私「そうだね」と。

●常識と意識

 一度心の中にできた常識を変えるのは、容易なことではない。
意識を変えるのは、さらに難しい。
が、私には私の常識があった。
その常識に従って、自分の意識を作りあげた。
私なりの家族像、親像、親子像、家庭像を作りあげた。

 が、時代は変わった。
たしかに変わった。
その変化を知りつつ、その変化に順応できなかった。
できないから、がんこ親父となり、それをワイフや息子たちに押しつけた。
が、そこで猛烈な反発を食らった。
考えてみれば、それだけのこと。

 本当によい正月だった。
2011年1月6日。
伊良湖ビューホテル・ロビーにて。
近く、改装工事に入るという。
それが終わったら、また泊まる予定。
最後に繰り返しになるが、伊良湖ビューホテルほどの景観を備えたホテルは、
そうはない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 2011年正月 伊良湖ビューホテル はやし浩司 2011−0106)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月7日

++++++++++++++++++

今朝は、運動、なし。
そのこともあって、寒くてしかたない。
先ほどまで、手先は、こたつの中に入れたまま。
今、やっと手を出した。
キーボードを叩き始めた。

いよいよ明日から、仕事始め。
長い休みだった。
それもあって、緊張感が、どうも盛りあがらない。
ワイフは「午後は、映画を観に行こう」と言っている。
運動不足もあって、何となく、体がだるい。
ブルブルと震えたあと、あくびがつづけて出る。

窓の外には、栗の木。
まだ黄色い葉を残して、がんばっている。
この浜松では、今ごろが、「秋」ということになる。
やがて冬のないまま、春を迎える。

+++++++++++++++++++

●折りたたみ式自転車

 3、4日前、折りたたみ式自転車を買った。
値段は1万500円。
定価は1万5000円とか。
新春初売り、目玉商品ということで、その値段で売ってもらった。
安い!

 この自転車なら、車(プリウス)で持ち運べる。
そう考えて、買った。
が、まだ一度も乗っていない。
明日から通勤に乗るつもり。
帰りはワイフの車に積んで帰ればよい。

●「遊びにおいでください」

 日本人は、「遊びにおいでください」という言葉を、あいさつ代わりに使う。
深い意味はない。
あくまでも、「あいさつ」。
年賀状などにも、そう書いてくる人は多い。

 とくに岐阜県の山間地方では、よく使う。
「正月には来てください」
「昼飯を食べていってください」
「またうちに寄ってください」と。

 そう言われた方も、それをよく知っているから、適当に答える。
「ええ、また……」とか、何とか。
そういう言葉を真に受けてはいけない。
「じゃあ、来週にでもおうかがいします」などとでも言おうものなら、さあ、たいへん!
相手の様子や態度が、ガラリと変わることも珍しくない。

 一方、オーストラリア人は、こうした「あいさつ」をしない。
「うちで泊まれ」と言ったら、言葉通り、受け取ればよい。
むしろ断るほうが、失礼。
だからめったにそういう言葉を、使わない。

 で、困るのが私。
相手にそう言われたとき、どこまで本気で考えてよいか、わからないときがある。
迷う。
一方、「口のうまい人」というのは、多い。
相手が本気になる一歩、すれすれの手前で、言葉を切る。
「じゃあ、一度、行こうかなあ」と思い始めた矢先、「じゃあ、さようなら」と。

 こういた言い方を、日本人のやさしさと解釈すべきか。
それともいいかげんさと解釈すべきか。
ただ言えることは、日本人も、欧米化し始めているということ。
言葉を言葉通りに受け取る人が、ふえてきた。
一方、そういうあいまいな言い方をする人が、減ってきた。

 私は、そのほうが、よいと思っている。
たとえばこの浜松では、あまりそういう言い方をしない。
その分だけ、相手の心がよくわかり、つきあいやすい。

 ところで私自身は、そういう言葉を使わない。
あいまいな言い方イコール、ずるい言い方ととらえる。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【土星の輪(環)】(不思議探検byはやし浩司)

+++++++++++++++++++++++

昨夜、床に就いてから、土星のことを考えた。
土星の輪が気になった。
(本当は「環」と書いて「わ」と読む。以下、「輪」で統一。)
「どうして土星の輪が、輪なのか?」と。
とたん、頭の中が冴えてしまった。

土星の輪が輪であるためには、何らかの力、たとえば
磁場が働いているはず。
その力は、どこでどのようにして生み出されて
いるのか。

また輪なら輪でよい。
どうしてその輪は、レコード盤のようになっているのか。
もちろん厚みはあるはず。
が、宇宙から見ると、紙のように薄い。
土星の大きさに比べると、極薄のパラフィン紙のよう。

あの輪は、小さな岩石でできているという。
それはわかるが、どうして岩石どうしが衝突をしないのか。
衝突を繰り返せば、輪はバラバラになってしまうはず。
小さな岩石というか、衝突を繰り返せば、砂のように
なってもおかしくない。

が、最大の謎は、なぜあの輪には、「筋」があるのか。
しかもその筋は、写真で撮影されるたびに、微妙に
模様を変えている。
(これは写真の取り方にもよるのかもしれないが……。)
どうして筋の模様が変わるのか。

いつもならこういうときは、つまり何か疑問をもったような
ときは、書斎へ入る。
調べる。
しかし昨夜は、寒かった。
私の書斎は、小さなこたつだけ。
床は、アイススケート場の氷のように冷たい。
書斎へ戻る気がしなかった。
そのままがまんした。
眠ってしまった。

++++++++++++++++++++++

●カッシーニ

 土星探査機、カッシーニが、不思議な写真を地球に届けてきた(2009年8月12日)。
それには土星の輪を横切る、謎の物体が移されていた。
輪の大きさから計算しても、巨大な物体と考えてよい。

(Photo1)

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/71/img7fe65bedzik3zj.jpeg
" width="461" height="316" alt="090811-saturn-equinox-rings-picture_big.jpg">

中央の白い物体が、それである。
いったい、この物体は、何なのか。

 それはさておき、土星の輪の構造について、「AstroArts」サイトは、
つぎのように説明している。

『粒子の大きさを表している。5センチ以下の大きさの粒子が少ない領域が紫、5センチと1セン
チ以下の粒子が含まれる領域がそれぞれ緑と青に着色されている。写真で白く写っている領
域は、粒子があまりに集まっているため電波による撮影ができなかった部分である。他の画像
と合わせて考えると、どうやら土星の環は、どの領域も様々な大きさの粒子が集まってできて
いて、大きい物で数メートルになるようだ』(同・サイトより)。

(Photo2)

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/72/imgee2edadczikczj.jpeg
" width="1000" height="750" alt="rings.jpg">

 つまり岩石といっても、大きいので数メートル、5センチ〜1センチ程度ということ
らしい(カッシーニの分析による)。
が、土星にまつわる謎は、これだけではない。

たとえば土星の北極付近を流れるジェット気流は、何と六角形になっている。
カルフォルニア工科大学の、サヤナギ・クニオ氏も、「地球の気象現象の規模が数週間程度で
あることを考えると、この六角形構造の寿命の長さは特別な現象だ。これは、木星の大赤斑を
形成する不思議な気象条件に匹敵する謎だ」(Livedoor News)と述べている。

 詳しくは……
http://news.livedoor.com/article/detail/4498557/

 が、ここでは土星の輪についての謎に焦点をしぼりたい。

●インターネット
 
 しかし便利になった。
すばらしく便利になった。
15年前なら、こうした疑問をもったら、図書館へ足を運ばねばならなかった。
が、今は、小さな書斎の中で、瞬時にそれが調べられる。
しかもそれだけではない。

 たまたま火星の写真を見ていたときのこと。
何と、その中に、私とワイフがあの夜見たのと同じ形のUFOが写りこんでいるのを
知った(NAVARサイト)。
驚いた!

http://matome.naver.jp/odai/2128073146356728601/2128081244857809503

(Photo3)

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/66/img61c597d8zik2zj.jpeg
" width="1023" height="1023" alt="d88cbd81.jpg">

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/65/img62d89929zikczj.jpeg
" width="480" height="640" alt="●火星上のUFO.jpg">

 火星の上空に、ブーメラン型のUFOが写っている。
この形は、まさに私たちが、あの夜、見たUFOの形である。
しかも35年近くも、前に!
それについては、地元の中日新聞に記事を書かせてもらった。
またまた話が脱線してしまうが、どうか許してほしい。
そのときの記事の一部をここに掲載する。
イラストは、その夜私たちが見たUFOである。
このUFOと、火星上空を飛ぶ(?)UFOと比べてみてほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(photo4)

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/67/img431e3b27zikazj.jpeg
" width="907" height="1215" alt="img126.jpg">

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/58300138/
http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/58300138/sizes/l/in/photostream/

 こんなことまでわかるから、インターネットは、たまらない!
ぞっとするほど、楽しい!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●再び土星の輪

 土星の輪は、12本の環と、6本の隙間でできているという。
それぞれに名前がついている。
が、それについて調べていたら、またまたとんでもない写真が、目にとまった。

 同じ「NAVAR」サイトは、土星の輪の上に写る、巨大なUFOの写真を紹介
している。

http://matome.naver.jp/odai/2128073146356728601/2128081197357795203

 いったい、これはどういうことなのか?
この写真の信憑性も問題になるが、土星には、(「土星にも」と書くべきか)、底知れぬ
謎が隠されていることがわかる。

●土星

 土星自体は高速で回転している。
そのため土星は完全な球形ではなく、扁平な形をしている。
そのことと磁場の形成と関係あるかどうかは、私にはわからない。

 なおウィキペディア百科事典は、土星の構造について、つぎのように説明している。

『……土星の内部は木星と似ている。中心に岩石の核があり、その上に液体金属水素の層、
水素分子の層がある。様々な氷も存在している。
土星の内部は高温であり、核では12,000K に達し、土星が太陽から受けているよりも多くのエ
ネルギーを放出している。
このエネルギーのほとんどは、ケルビン・ヘルムホルツ不安定(重力によるゆっくりとした圧縮)
により生成されていると考えられているが、それだけで熱生成の全てが説明できているわけで
はない』と。

 土星の内部では、何か、不思議なことが起きているらしい。
では、土星の輪はどうなのか?

●輪の構造

 土星の輪の構造については、『宇宙ニュース大辞典』が詳しく説明している。

http://kakocha.blog119.fc2.com/blog-entry-45.html

『……最近の望遠鏡や性能のよい双眼鏡を使えば土星の環は容易に観測することができる。
環は土星の赤道から 6,630 km から 120,700 km の距離まで広がっており、シリカや酸化鉄、
氷の粒子などで構成されている。
粒子は細かい塵状のものから、小さな自動車程度の物まで様々である。
土星の環の起源については有力な説が2つある
一つは19世紀にエドゥアール・ロシュが唱えた説で、土星の衛星が土星に近づきすぎて潮汐力
によって破壊されたというものである。
この前提として、破壊された衛星に彗星や小惑星が衝突したとされている。
もう一つはリングの構成物は元々衛星ではなく、土星形成時の星雲の成分がそのまま外に残
った物という説である。
後者で形成された場合、土星の環は数百万年も形状を維持できるほど安定していないため、
この説は今日ではそれほど広くは受け入れられていない。

土星の環は内側から順にD環、C環、B環、A環、F環、G環、E環があり、F環、G環はよじれた
構造をしている。
地球から観察した場合、環の間隙は最も大きなカッシーニの間隙とエンケの間隙のみ見ること
ができるが、ボイジャーは土星の環に何千もの空白区間があることを発見した。
この構造は土星にある多くの衛星の副産物と考えられる。
また、衛星の運動以外では粒子同士の重力的共鳴現象によって環を形作っていると考えられ
る。

環の厚さはその大きさに比べて非常に薄く、特に内側ほど薄い。
各環の中央部の厚さは不明であるが、端部ではC環が約5m、B環が5〜20m、A環が10〜30m
である。仮に土星本体の直径を10mとして模型を作ったとすると、環の厚さは数μm程度とな
る。
なお、G環の厚さは100km、E環は1万kmと推定されている。

F環は、羊飼い衛星のパンドラとプロメテウスの二つの衛星によって形を維持していると考えら
れており、物質密度の高いコアという部分と淡いストランドという部分で構成され、形状は常に
変化している。
2005年9月のカッシーニの観測により、F環のストランドが螺旋状であることが発見された。螺
旋構造の成因はF環とS/2004 S 6の衝突によると推測されている。

2006年3月、カッシーニによってエンケラドゥス南極付近に噴出孔が発見され、E環はここから
放出された物質によって形成されたと考えられている』(以上、『宇宙ニュース大辞典』より)。

●どうして「輪」なのか。

 土星の輪の構造については、よくわかった。
が、どうして「輪」なのか。

それについても、『宇宙の大辞典サイト』(上述)は、詳しく説明している。

『1980年まで、土星の環の構造は土星の重力のみによって形作られると説明されてきた。
しかし、ボイジャーはB環のなかに暗い放射状の構造を発見した。
これはスポークと呼ばれ、重力による環の軌道運動だけでは説明できない物だった。
この現象は土星の環がほぼ土星の磁気圏内を運動しているため、環を構成している粒子の
電磁相互作用によって生じていると考えられている。
しかしスポークが形成される原因ははっきりと分ってはいない。

カッシーニは2004年7月の土星到着以来、ボイジャーと同等以上の精度で環を撮影したが、し
ばらくの間スポークは認められなかった。
2005年9月に、スポークの写真が得られ、四半世紀を経てその存在があらためて確認された。
スポークは、環の平面が太陽と大きな角度をなす土星の夏・冬には消失し、環の平面が公転
面と重なる土星の春・秋に姿を現すと考えられている』(以上、『宇宙ニュース大辞典』より)。

●スポーク?

 スポーク?
自転車のスポークと同じように考えてよいのか?
B環の中に、放射状の構造(?)を発見したという。

(Photo5)

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/69/imgb083fe55zik5zj.jpeg
" width="470" height="485" alt="土星の輪に現れるスポーク">

『……この現象は土星の環がほぼ土星の磁気圏内を運動しているため、環を構成している粒
子の電磁相互作用によって生じていると考えられている。しかしスポークが形成される原因は
はっきりと分ってはいない』(Wapediaより)。
写真の黒い影が、そのスポークと呼ばれる部分である。
そのスポークも、土星の輪の生成に関係がある(?)。

●結論

 結局、私ごときの素人が、とやかく言うような問題ではない。
それが結論ということになる。
この分野の専門家たちが、土星の輪についても、徹底的に研究、分析を行っている。
私がもったような疑問など、この世界では、幼児の戯言(たわごと)のようなもの。
月を見ながら、「どうして月は落ちてこないの?」と。
そうたずねる幼児と同じ。

 ……ということで、この話はここまで。

 それにしても宇宙は謎に満ちている。
あれこもこれも謎だらけ。

 土星の輪にしても、しかり。
これで謎が解けたわけではない。
輪のことを調べていたら、今度は「スポーク」が出てきた。
「UFO」も出てきた。
六角形を描いて回転する、大気の流れまで出てきた。
さらに火星上のUFOまで出てきた。
ふつうの形なら驚かないが、それは明らかにブーメラン型をしていた。
さらに土星の輪の上に並ぶ、巨大なUFOも出てきた。

 まさに何でもござれ!

 ……しかし眠られぬ夜は、こうしてはるかかなたの宇宙に視点を置くとよい。
心が広くなる。
夢見もよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 土星の環 土星の輪 スポーク 土星の輪の謎 土星の環の謎 火星のUFO)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月8日(仕事初め)

+++++++++++++++++

今日から「仕事初め」。
「始め」とも書く。
どちらでもよいが、私は「仕事始め」と
書くのが好き。
「今日から始まったぞ」という意味。

で、気合いを入れて、スタート。
まずまずの出来。
子どもを連れて帰る母親たちの様子を
見て、そう判断する。
親たちの満足そうな表情(?)が、うれしい。

+++++++++++++++++

●ネチネチした話し方

 ある母親から、今日、こんな相談があった。
その子どもは中学生になる。
が、いまだに、赤ちゃんぽい話し方をする。
ネチネチとした、甘えるような言い方である。
構音障害が、とくにあるというのでもない。
私も気にはなっていたが、しかし相手が中学生のばあい、指導が難しい。
本人に自覚があれば、まだ何とかなる。
自覚がないと、指導が難しい。

 言い忘れたが、その子どもは女子。
上に姉がいる。
姉が赤ちゃん返りを起こすことはあるが、妹が赤ちゃん返りを起こすのは珍しい。
たとえば、こんな話し方をする。

「キニョウ〜ウ(昨日)〜、ウマウマ(=ママ)と、ショッピング、シェンター(=センター)へ、行っ
てキィタア(=来た)ノウ〜」と。
 
 よく「メリ−・クリスマス」を、「ウメリー・クリスモ〜ス」と発音する女性がいる。
コンビニやレストランで、よくそういう話し方を耳にする。
が、それともちがう。

 デレーとした言い方で、思わず、私ですらこう言いたくなるときがある。
「君ねえ、中学生にもなったのだから、きちんとした話し方はできないの?」と。

●原因?

 原因はよくわからない。
先にも書いたように、赤ちゃん返りを起こした子どもの話し方によく似ている。
しかしその子どもは、妹。
(赤ちゃん返りは、ふつう下の子が生まれたことが原因で、上の子に症状が現れる。)

依存性がたいへん強く、情緒的に不安定、もしくは精神的に未発達な子どもによく
見られる。
人格の完成度は、きわめて低い。
善悪の判断の(けじめ)が、あいまい。
自分で考えて行動するというよりは、いつも他人のあとを追いかける。
知恵の発達も全体にみると、遅れている。
が、それでいて、行動派。
動きも活発で、すばやい。
俗に言う「甘えん坊」ということになる。

 が、本人にその自覚があるかというと、疑わしい。
それがその子どもの言い方として、定着してしまっている。
またそういう言い方をするのが、「かわいい言い方」と誤解している(?)。

●相談

 母親の話では、父親がその子どもを溺愛したという。
ベタベタの関係だったという。
仕事がら、父親とその子どもがいっしょにいる時間が長かった。
その間中、父親は、片時もその子どもを放さなかった。
中学生になった今でも、いつもいっしょに入浴しているという。

 こういうケースのばあい、子どものほうより、父親のほうに原因があるとみる。
子離れできない父親。
子どもが代償的過保護の道具になっている。
つまり自分の心の隙間を埋めるための道具になっている。
が、私はその父親を、よく知っている。
ときどき参観に来て、うしろで見ている。

 顔つきはいかめしく、チャンパラ映画に出てくる侍のような風格すらある。
が、母親にせよ、父親にせよ、外からの様子だけで判断してはいけない。
むしろ外の世界では、まったく反対の「我」を演ずることが多い。
これを「反動形成」という。

 が、こういうケースのばあい、もうひとつの問題がある。
この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。
言い方をまちがえると、家庭騒動の原因となる。
それは私のすべきことではない。
わかっていても、知らぬフリ。
また言ったところで、どうにもならない。
それぞれの家庭には、それぞれの事情があり、歴史がある。
それに触れることは、タブー。
タブー中のタブー。

●結論

 結局は「話し方がおかしい」だけ。
またそのレベルの問題。
「かわいい」と言えば、「かわいい」。
私に話しかけるときも、デレーっと、体をよじらせてくる。
最近の女子は、みな、男っぽい。
そういう中では、目立つ。

しかしそれが好ましい人間像かどうかというと、そうとは言えない。
人格の完成度と、話し方は連動している。
人格の完成度の高い女性(男性でもそうだが……)は、それなりの話し方をする。
キリッとした、メリハリのある話し方をする。

 もう1人、私の知り合いにそういう話し方をする女性(40歳くらい)がいる。
今度会ったとき、その女性の心を観察してみる。
このつづきは、またそのあとに書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ネチネチとした言い方をする女性 デレーッとした話し方をする 甘えん坊 話し
方と人格の完成度)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【2011年1月9日】

●ファーザーコンプレックス

2、3日前、ファザコン(ファーザーコンプレックス)について書いた。
それについて、相談フォームのほうにメールが寄せられた。
「うちの上さん(=妻)がそうで・・・」と。
「父親(=義父)とのよからぬ関係を疑っています」とも。
(転載不許可ということなので、以下、要約。)

 その男性は、結婚して3年目になるという。
子どもも1人(男児)がいる。
で、その男性の妻のファザコンを疑い始めたのは、分娩のときだった。
それまでは何かにつけ、よく気がつく父親程度としか思っていなかった。
引越しの手伝いに来てくれたり、日曜日には、車を洗いに来てくれたりなど。
しかし出産当日、分娩室に入ってくると言って、きかなかったという。

 で、異変を感じたのは、家族旅行のとき。
宿泊先の温泉で、父親が家族風呂を頼んでくれた。
その男性は、自分たちへの気遣いと感謝した。
が、驚いたことに、夫婦と子どもの3人で風呂へ入ろうとしていると、
何と、父親まで入ってきたという。
妻の様子を見ても、とくにいやがるふうでもない。
その男性は不快だったので、父親には遠慮してもらいたかった。
が、そのときすでに遅し。
妻と父親は並んで湯船の中に!

 その夜妻がその男性にこう言ったという。
まったく悪びれた様子もなく、シャーシャーと、
「あなたと結婚する前まで、いつも父と入浴していたのよ」と。

 ガクン!(男性の言葉)

 母親が息子を溺愛する。
その結果、マザコン男性が生まれる。
その反対に、父親が娘を溺愛する。
その結果、ファザコン女性が生まれる。
症状、タイプはちがうが、基本的には、中身は同じ。

 どこかゆがんだ家族関係だが、今どき、マザコンにせよ、ファザコンにせよ、
珍しくない。

●火星のUFO

 昨日は、土星の輪(環)について書いた。
書いたが、専門家たちは、すでにはるか遠くまで調べている。
私の出番はない。
そう感じたので、筆を汚しただけで書くのをやめた。

 が、同時に火星上空に浮かぶUFOの写真を発見した。
そのUFOだが、私とワイフが、35年前に見たUFOとまったく同じ
形をしていた。
「ハア〜〜」と言ったきり、息が止まった。

私とワイフが見たUFOは、イラストにした。
そしてそれからほぼ20年後。
その夜のことは、そのまま中日新聞にコラムとして書かせてもらった。
イラストもそのまま載せた。

 私が火星上空のUFOをまねてイラストを描いたのではない。
火星上空のUFOを、NASAが捕らえたのは、そのずっと後。

 私は(ワイフも)、あの夜見たものが何であったのか、ずっと考えてきた。
新聞にコラムを発表すると、「私も同じものを見た」という人も、何人か現れた。
しかし「見ただけ」。
何ともつかみどころのない話である。
またそれ以上、進展のしようが、ない。
話の進めようが、ない。
ただ、見ただけ!

 しかし火星上空を浮遊する(?)UFOは、たしかに私が見たUFOと
形が似ている。
似ているというより、同じ。
細部の角の形まで、同じ。
驚いたというより、やっと巡りあえたという喜びのほうが強かった。

(今まで、目の錯覚だったとか、飛行機だったとか言った、みなさんへ)

 私はウソをつかないぞ!
ウソまで書いて、自分のコラムを汚(けが)したくない。
私を疑うなら、NASAが公表した、火星上空を浮遊する(?)UFO
の写真を見ろ!
それが何であるか説明した上で、私の書いた記事を否定しろ!

 もう一度、2枚の写真と絵を並べてここに掲載しておく。
上が火星上空を浮遊する(?)UFO。
下が、私たちが見たUFO。

(注)火星上空を浮遊するUFOについて、「これはレンズ上のゴミ」と思う人も
いるかもしれない。
私のワイフもそう言った。
しかしそれについては、そばにいた長男が、即座に反論した。
「NASAの火星探査機のカメラに、ゴミなど、つかないよ!」と。
それにレンズ上のゴミなら、焦点距離がまったくちがう。
黒くぼやけるはず。
一度、自分のもっているデジカメで確かめてみるとよい。

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/65/img62d89929zikczj.jpeg

width="480" height="640" alt="●火星上のUFO.jpg">

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/67/img431e3b27zikazj.jpeg

width="907" height="1215" alt="img126.jpg">

●オーストラリア

 近く、オーストラリアへワイフと行ってくる。
それについて、私はJ・ライン(航空機)を利用するつもりでいた。
私とて、日本人。
日本の飛行機に乗りたい。
が、昨日、J社の労働組合機関誌を読んで、やめた。
ネットサーフィンをしているとき、それを見つけた。
J社は目下、経営再建中。
労使問題で、社内はゴチャゴチャ。

 その新聞には、こうあった。

「……不具合があっても、要領よく見なかったことにすること
も可能ですが、出発遅れや欠航の可能性があっても、見つけた
不具合は直す整備士としての良心がなければ安全運航は守れません」
(「W」より抜粋)と。

 念のため、もう一度、しっかりと読みなおしてみてほしい。
その上で、つぎに進んでほしい。

 私はこの文を読んでゾッとした。
中学生程度の読解力があるなら、理由はわかるはず。
裏を返して言うと、こうなる。
「へたに(整備員を)整理解雇したら、手抜きをするぞ。
適当に整備をすませて、それですますぞ」と。

 こういうのを「恫喝(どうかつ)」という。
まさに恫喝。
だからJ社・ラインの飛行機を利用するのは、やめた。
やはりカンタス航空にする。
カンタス航空は、戦後一度も、航空機事故を起こしていない。
(=事故による死者を出していない。)

 J社の社員の気持ちも、よくわかる。
解雇がいかにつらいものかも、よくわかる。
しかしこんなことを社内機関誌に書くようでは、おしまい。
読み方によっては、「手を抜こう」「適当にやろう」と、仲間に
呼びかけているともとれる。
まことにもって、常識ハズレ!

機関誌の終わりには、こうある。
『それは社員の中に浸透していきます』と。

ここでいう(それは)とは、何か?
中学生でも、こう書くだろう。
「手抜き整備」と。
恐ろしい!
だからJ社の飛行機を利用するのは、やめた!

 労働新聞の一部を、そのままここに転載する。

『……私たち日本航空ユニオンは、整備職が中心の組合です
が、この秋以降の管財人・支援機構の不誠実な発言に大き
な不安と、危機感を持ちます。

航空機の整備の仕事は、絶対にウソをつかず、誠実で
なければ成り立ちません。不具合があっても、要領よく
見なかったことにすることも可能ですが、出発遅れや欠
航の可能性があっても、見つけた不具合は直す整備士と
しての良心がなければ安全運航は守れません。

その航空会社の経営者(管財人・支援機構)が、その
場その場を取り繕う形だけの行動を取り、目的(人員削
減)のためには心にも無い発言を平気ですれば、それは
社員の中に浸透していきます』(J社機関誌「W」
10−12−09日号)より。

詳しくは、以下に。

http://www.bekkoame.ne.jp/~jcau/wing229.pdf


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月10日、朝

【家族とは何か?】(ネバネバ社会の復活)

++++++++++++++++++

今日も始まった。
がんばろう。
今夜は、弁天島にあるK旅館で会食会。
それ以外は、とくに予定なし。

++++++++++++++++++

●パサパサ家族vsネチネチ家族

 少し前、パサパサ家族について書いた。
パサパサになったパンのような家族を、「パサパサ家族」という。
手で持った先から、パサパサの粉のようになって、飛び散る。
粘着性が、まるでない。
だから「パサパサ家族」。

 これに対して、家族の絆が濃密で、ネチネチした家族を、「ネチネチ家族」という。
私が生まれ育った家族が、そうだった。
何かにつけ、ネチネチしていた。
息苦しいほど、ネチネチしていた。

が、今は、パサパサ。
夫婦関係も、パサパサ。
親子関係も、パサパサ。

 が、この「パサパサ」「ネチネチ」は、地域社会、さらには国にも当てはまる。
パサパサ社会vsネチネチ社会。
パサパサ国家vsネチネチ国家。

 ネチネチ家族で生まれ育った私には、パサパサ家族というのが、どういものか、
それがよくわかる。
しかしパサパサ家族の人には、それがわからない。
パサパサ家族しか知らない。

●恋愛ごっこから結婚ごっこ

 最近の若い人たちを見ていると、「恋愛こそ、すべて」という考え方をしているのが、
よくわかる。
まるで一生の大事ごとのように考えている。

 私たちの時代にも、恋愛ごっこというのは、あるにはあった。
しかしいざ結婚となると、大きなブレーキが働いた。
両親や親戚との関係。
仕事や収入との関係。
年齢も大きな問題となった。
そういった関係や問題の中で、自分の恋愛にブレーキをかけた。
私も、大学時代の恋人とは、それが理由で別れた。
が、今は、それがない。

 恋愛ごっこは、そのまま結婚ごっこになり、ついで子育てごっこになっていく。
生活感がない。
昔風に言えば、地に足がついていない。
後先のことを考えず、(ごっこ)に走ってしまう。

●幻想

 が、口では偉そうなことを言う。
苦労を知らない。
貧乏を知らない。
貧乏の恐ろしさを、知らない。
今に見る富と繁栄は、天から降ってきたものと思う。
だからこう言う。
「仕事より、家族の方が大切」と。

 これについては、私は反論しない。
私もそう思っている。
しかしそれはあくまでも、仕事第一主義への反省として、そう思っているだけ。
私たちの世代は、仕事を第一に考える余り、家族を犠牲にした。
犠牲にしすぎた。
その反動として、私も「家族主義」を唱えた。
が、それが今は、行きすぎてしまった(?)。

 つまり今の若い人たちからは、(仕事)という部分が欠けてしまっている。
それがわからなければ、自分の年齢に、30とか40を足してみたらよい。
そのとき自分がどうなっているか、ほんの少しだけ、頭の中で想像してみればよい。
中には「私たちの親子関係は絶対」「死ぬまで良好な親子関係をつづける」と
思っている人もいる。
しかしそれは幻想。
まったくの幻想。

●勝ち組vs負け組

 現在、老人社会は、大きく2つのグループに分かれる。
勝ち組と負け組である。
「日本の論点・2011」(文藝春秋社刊)によれば、(1)元公務員、(2)蓄財に成功
した老人を、「勝ち組(既得権益者)」と言うそうだ。
そうでない人は、負け組。

 勝ち組の人たちは、リッチで豊かな老後を、何不自由なく暮らすことができる。
負け組の人たちは……?
この部分については、あまり書きたくない。
書けば書くほど、さみしくなる。

 ともあれ、自分の将来がどうなっているか、ほんの少しだけ、頭の中で想像してみたら
よい。
あなたは勝ち組となって残るのか、それとも負け組となって残るのか。
それを分けるのが、「仕事」ということになる。

 で、私は数多くの「勝ち組」という人たちを見てきた。
私のまわりにも、そういう人たちがいる。
そういう人たちは、(公務員をのぞいて)、すでに30歳くらいのとき、勝敗を決めている。
少なくとも40歳を過ぎて、勝ち組になる人はいない。
50歳を過ぎて、勝ち組になる人は、さらにいない。
30歳になった今、「明日も今日と同じ」という人生を歩んでいる人が、勝ち組に残る
確率は、きわめて低い。

 これは健康論に似ている。

●健康論

 健康であるかどうかは、運動する習慣をもっているかどうかで決まる。
30歳前後までに、その習慣を作りあげた人は、60歳を過ぎても健康。
そうでない人は、そうでない。

 たとえばA氏は、20代のはじめから夕方ジョギングをしている。
B氏は、週に2回、道場に通い、柔道をしている。
Cさんは、テニスの大会に毎年、出場している。

 つまりそうした習慣をもっている人は、60歳を過ぎても健康。
そしてそれは30歳前後のその人の生活姿勢を見れば、わかる。
つまりこの時期、その人の方向性が決まる。
若いことをよいことに、のんべんダラリの生活をしていれば、60歳はない。

 言い添えると、タバコは害にこそなれ、よいことは何もない。
中にヘビースモーカーの人でも、健康(?)な人はいるには、いる。
しかし60歳を過ぎて、健康な人はほとんどいない。
がんや脳疾患、心臓疾患で亡くなった仲間の大半は、そのヘビースモーカーだった。

 話が脱線したが、勝ち組になるか、負け組になるか。
それも30歳くらいまでに決まる。
その方向性を作った人は、勝ち組。
そうでない人は、負け組。
「明日こそ、何とかなるだろう」「明日があるさ」と慰めながら生きている人に、
明日はない。

●幸福はお金では買えないが……

 何度も書くが、たしかに幸福はお金では買えない。
しかしお金がなければ、その人は確実に不幸になる。
心も貧しくなる。
それが「現実」。
「ごっこ」には、その現実感がない。
つまり「生活感」がない。

 そうでなくても、世界中の人たちが、そのパイを取り合って競争している。
熾烈な競争である。
今の世の中、10年単位で変わっていく。

 「仕事より家族の方が大切」と説くのは結構なこと。
しかしそれはある程度、……というか、方向性をしっかりと作った人が使う言葉。
少ない収入で、生活費を切り詰め、ピーピーと言っている人が使う言葉ではない。
それこそ、「何を偉そうに!」となる。

 で、最後の頼みの綱が、「家族の絆(きずな)」ということになる。
この絆さえあれば、まだ何とかなる。
しかしその絆さえ、このところ、音をたてて崩れ始めている。

●パサパサになる人間関係

 いくらあなたが「私の子どもたちはだいじょうぶ」と思っていても、それは幻想。
「私たちの親子関係は安泰」と思っていても、それは幻想。
子どもを包む環境を「海」にたとえるなら、あなたの親子関係は「川」程度の意味
しかない。

 やがて子どもたちは巣立っていく。
そのとき海へ解き放たれる。
とたん、海のもつ「力」にそのまま染まっていく。
ひとつの例をあげて考えてみよう。

 10年ほど前、私の家の近くに、静岡県でも最大級とも言われるショッピングセンター
がオープンした。
そのあと1〜2年は何とか持ちこたえたが、近隣の商店街はつぎつぎと、シャッターを
下ろしていった。
私自身は、田舎町の商店街で生まれ育ったから、そういった商店街のもつ粘着性をよく
知っている。
ネチネチというか、ベタベタ。
私の父にしても、自転車屋を経営していたが、自分で縄張りを決め、その外での仕事を
自粛していた。
そういう(温もり)が、まだ随所に残っていた。

 が、今はちがう。
パサパサというか、サラサラ。
人間関係も希薄になった。
そういう世界、つまり「海」に染まるうちに、当然、ものの考え方も影響を受ける。
現在のあなた自身を見れば、それがわかるはず。
平たく言えば、「親の恩も遺産次第」となる。

 ……というのは書き過ぎとしても、今では『子、大学生、親貧乏盛り』という。
爪に灯をともしながら、親は子どもの学費を工面する。
老後の資金を食いつぶす。
が、子どもはどうかというと、社会人になったとたん、ハイ、さようなら!

●これからの老後

 貧困の時代から、高度成長期へ。
バブル経済期から、衰退期へ。
この日本は大きく激動した。
が、意識というのは、そうは簡単には変わらない。
アインシュタインも言っているように、ほとんどの人は18歳くらいまでに、その
意識(常識)を完成させる。
その意識を死ぬまで、もちつづける。
多少の修正はあるだろうが、あくまでも「修正」。

 が、それぞれの世代のもつ意識は、10年単位で変わっていく。
ついていくのは不可能。
理解するのさえ、難しい。
今では親子関係ですら、パサパサと切っていく若い人は、珍しくない。
「ON/OFF人間」というのは、そういう人たちを指す。

が、私たちのような旧世代の者にとっては、ここに書いたように、理解するのさえ、
難しい。
それこそ心臓を2つに裂くような苦しみを経験しなければならない。
「どうでもなれ!」という思いと、「しかしそれでも親子は親子」という思いの中で、
悶絶する。
が、これもやがて一巡する。
決別する。

 で、パサパサ家族で生まれ育って子どもは、さらにパサパサ家族を作っていく。
そういう意識もないまま、またそれがどういうものであるかさえわからないまま、
パサパサ家族を作っていく。
が、こうなるともう私の知ったことではない。
「あとは野となれ、山となれ!」。

 つまりそこまで割り切らないと、若い人たちを私たちの世代から切り離すことは
できない。
自分の老後さえ、見つめることができない。
私たちがいくらネチネチ家族を望んだとしても、若い人たちは、それを「干渉?」と
捕える。
自分ひとりで母親の産道をくぐりぬけ、社会人になったつもりでいる。
オメデタイというか、バカげている。
自分で自分のクビを絞めるようなことを、平気でしている。

●ネバネバ社会の復活

 名古屋に住む友人夫妻は、近隣の人たちと旅行会を結成している。
毎月会合を開き、定期的にあちこちを旅行している。
すばらしい会である。

 で、私もそれに触発されて、近隣の人たちに話しかけてみた。
みな、好意的に反応してくれた。
近く、第1回目の会合をもつことになっている。
会の内容については未定だが、それはこれからの話し合いを通して決める。
つまり「ネバネバ社会の復活」である。

といっても、それですべての問題が解決するわけではない。
しかしこのままでよいとは、だれも思っていない。
このままでは、日本の社会そのものまでパサパサになってしまう。
現に今、「老人はゴミ」と考える若い人たちが、ふえている。
ウソだと思うなら、たまには2チャンネルで、若い人たちがどんな会話を交わしているか、
それを読んでみたらよい。

 恐らくこの傾向はさらに強くなることはあっても、弱くなることはないだろう。
介護問題にしても、医療問題にしても、私たちの老後のあり方に直結している。
ならば私たちは私たちで、ネバネバ社会を自ら守るしかない。
私たちは私たちの豊かな老後を、自ら守るしかない。
それがここに書いた、「会」ということになる。

 その結果はまた近く報告できると思う。

********************************

【月末会のお知らせ】

 先日、話させていただきましたように、私たちの近隣でも、何かの「会」を
もちたいと思います。
称して「月末会」(仮称)。
月末に一番近い金曜日の夜を、とりあえずその日にどうかと思っています。
最初は、みなでお茶を飲む程度(あるいは自己紹介程度)でよいのではないかと
思っています。
時間帯は、午後8時〜9時ごろで、いかがでしょうか。
つごうの悪い方は、またお知らせください。
みなで、話し合って決めたいと願っています。

 で、会のメンバーについてですが、名古屋に住む友人夫妻のばあい、5組(10人)
で運営しているそうです。
一度、機会があれば、浜松の方へ招待して、会の内容を話してもらうつもりでいます。
すでに10年ほど、つづけているそうです。

メンバーについては、それぞれのメンバーが、とくに親しい人を呼んでくるという
方法がよいかと思います。
そのほうが居心地もよいですし、メンバーに上下関係を作らなくてもすみます。

 いろいろ考えていますが、「継続することが大切」とか。
いかがでしょうか。

 第一回目の会合は、1月xx日(金曜日)、午後8時〜9時でいかがでしょうか。
私の自宅へおいでくだされば、うれしく思います。
会合場所は、持ち回り制がよいのではないかと思います。

 いかがでしょうか?
ぜひ、おいでください。

                        林 浩司
                          晃子


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【子どもを知る心理学】 by はやし浩司


●心の別室

 子どもというのは、(おとなもそうだが)、何かいやなことがあると、それを心の中に別室を作
り、そこに押し込むことによって、その場をやり過ごそうとする。こうした現象を心理学の世界で
は、「抑圧」という言葉を使って説明する。が、この抑圧された不満や不平、うっぷんは、時と場
合に応じて、爆発する。「オレがこうなったのは、お前のせいだ!」と。心の別室には、時間とい
う概念が働かない。また楽しい思い出によって、上書きされるということもない。だから20年、
30年を経ても、そのときの自分がよみがえる。それこそ70歳を過ぎた老人夫婦が、若い日の
ことを理由に、喧嘩することも珍しくない。要するに、子どもには心の別室を作らせないこと。そ
のつど適当なガス抜きをする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「偉い」を廃語に

 何をもって、「偉い」というのか。「偉い人」とは、どういう人を言うのか。地位か、名誉か、財力
か。英語では「respected man」という。「尊敬される人」という意味である。が、そのときは、地
位や名誉、財力は関係ない。マザーテレサをひきあいに出すまでもない。が、この日本ではい
まだに、「偉い」という言葉が、のさばっている。とくに政治の世界では、のさばっている。今では
少なくなったが、大臣という肩書きをもった瞬間から、胸を張り、ふんぞり返って歩く政治家は
少なくない。傍から見るとバカげている。悪しき封建主義時代の亡霊そのもの。が、当の本人
はそうは思っていない。「偉い」という言葉を廃語にしよう。そして子どもたちには、こう言おう。
「人に尊敬される人になりなさい」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●摂取理論

 初対面での印象が、いかに大切なものであるか。それについて、今さら、書くまでもな
い。

 幼児のばあいは、とくにそうで、そのときその幼児がもった第一印象で、そのあとのそ
の子どもの、伸び方が、まったくちがうということは、よくある。

 よい例として、集団恐怖症、対人恐怖症、さらには、かん黙症などがある。

 こうした症状は、はじめて保育園なり、幼稚園へつれていったその日をきっかけとして、
発症することが多い。そして一度、発症すると、無理をすればするほど、逆効果。かえっ
て症状をこじらせてしまう。

 幼児の心は、そういう意味では、きわめてデリケートにできている。親や教師は、「集団
生活になれていないだけ」とか、「しばらく集団生活をすれば、なおるはず」と、安易に考
えるが、そんな簡単な問題ではない。

 集団のもつ威圧力というか、恐怖感というのは、相当なもの。私もよく経験している。
今でも、ときどき仕事などで東京へ行く機会があるが、あの東京駅の雑踏には、いまだに
なれることができない。自分の歩くスピードで歩くことすら、許されない。おまけにあの
ラッシュアワー!

 私は昔、M物産という会社に勤めていたが、その会社をやめる直接のきっかけになった
のが、あのラッシュアワーである。

 私は、毎朝、H電鉄の満員電車で、伊丹から、塚本へ出て、大阪の中ノ島にある会社に
通勤した。たまたまオーストラリアから帰ってきたばかりで、どうにもこうにも、あのラ
ッシュアワーには、がまんならなかった。それはもう、男どうしが、顔をすりあわせるよ
うな混雑ぶりだった。
 
 もちろん、子どもにもよるが、つまり集団の中にすぐ溶けこめる子どももいるし、そう
でない子どももいるが、あくまでもその子どもの視点で、ものを考えること。

 たとえば入園する前には、あらかじめ、その場所を見学させたり、子どもに見せておい
たりするとよい。そのとき、あらかじめ、集団に対する、心構えを話しておく。いわば病
気の予防接種のように、子どもの心の中に、免疫力をつけておく。こうしておくと、子ど
もは、いきなり集団を見せつけられたときよりは、そのショックをやわらげることができ
る。

こうした一連の心理作用は、「接種理論」という理論で、説明される。

 また子どもが悪い印象をもったときも、大人の一方的な意見を押しつけてはいけない。
「そうだよね」「あなたの気持ちよくわかる」「お母さんも、そう思う」と、子どもの立場
で、子どもの心になりきって、考える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●パブリック・コミットメント

 まず外の世界に向かって、宣言する。宣言することによって、自分を縛る。これを「パブリッ
ク・コミットメント」という。たとえば禁酒、禁煙。「酒をやめました」「タバコをためました」と、みな
に言う。できるだけ大声で、多くの人に言う。そうすることによって、自分の行動を厳格化する。
多くの人に伝わっているから、簡単に約束を破るわけにはいかない。子どもの世界について言
うなら、子どもにそれを言わせる。言わせることによって、子どもが自らを縛るように仕向ける。
ただし無理強いはいけない。当然のことである。あるいは子どもの名前が載った新聞や本など
を、大切に切り抜いて張る。そしてこう宣言する。「あなたはすばらしい子」と。これもパブリッ
ク・コミットメントのひとつということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●プラトー

 子どもに英語を教えてみると、ある程度までは、ぐんぐんと伸びる。が、やがてそれが停滞す
る時期にやってくる。この「停滞期」を「プラトー」と呼ぶ。子どもの発達段階においては、よく見
られる現象である。たとえば単語にしても、教えても教えても、先に教えたことを忘れてしまう。
進歩が止まってしまう、など。こういうとき親も教師もあせりがちになるが、けっしてあせっては
いけない。こういう時期がしばらくつづいたあと、(英語のばあい、1〜3年)、時間数をふやした
りすると、殻を破ったようにまた伸び始める。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●気負い

 不幸にして不幸な家庭に育った親ほど、「いい親になろう」「いい家庭を作ろう」という気負い
が強くなる。この気負いが子育てをゆがめる。どこかぎこちなくなる。極端にきびしい親、極端
に甘い親などは、たいていこのタイプの親と考えてよい。一方、心豊かで愛情にあふれた家庭
で育った親は、自然な形で子育てができる。自然な形での「親像」が身についているからであ
る。だから子育てをするときは、子育てをしながら、その子どもの中で、「親像」がどのように育
っているかを観察しながらするとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ピーターパン・シンドローム

 おとなになりきれないおとな。そうした人がもつ症状を総称して、ピーターパン・シンドローム
(症候群)と呼ぶ。退行的なものの考え方(幼児性の持続)、人格の未完成など。強圧的な環
境、たとえば親の過関心、過干渉が日常的につづくと、子どもは自ら考えて行動することがで
きず、ここでいうピーターパン・シンドロームに陥りやすい。行動や言動が、その年齢に比して、
子どもぽくなる一方、善悪の判断がうとくなり、とんでもないこと、たとえばコンセントに粘土をつ
めたりするなどの常識外れなことをする。近所のおとなの人に、通りすがり、「大きな鼻の
穴!」と叫んだ子ども(小2男児)もいた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの「顔」

 子どもは何らかの形で、自分の「顔」をもちたがる。思春期においては、なおさら。たてば勉
強のできない子どもは、スポーツで。スポーツのできない子どもは、たとえばツッパリで、と。だ
から暴力的な子どもに、「あなたがそんなことをすれば、みんなに嫌われるのよ」と諭しても、意
味はない。それがその子どもの「顔」ということになる。ありはひょうきんなことを言ったりしたり
して、ほかの子どもたちを笑わせる子どももいる。わざと失敗したり、ヘマをしたりする子どもも
いる。それぞれの子どもには、それぞれの顔がある。その「顔」をつぶしてはいけない。子ども
は糸の切れた凧のようになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●共依存

 酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。典型的な共依存関係で
ある。妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。依存されることで、自分の立場を確保
する妻。妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。殴られたり蹴られたりす
ることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。たがいに依存しあいながら、自分を
支える。傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起き
ることもある。家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。ニートとなり家の中に引きこもる子ども
と親の関係。子どもを突き放すことができない。親自身も、無意識のうちに子どもに依存してい
るからである。

(補記)

●共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的な例とし
ては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に怒鳴り
散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前
でやめる。(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。サービス
精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけ
ている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。だ
からこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰ってくるとき
は、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ
があった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依存性をも
たせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だ
った。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をも
たせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダ
ルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。こ
のような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないか
という不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル
ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症と
も考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような
症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、
貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存するように
なる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」であるが、
しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。親
子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざと、弱々しい
母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いてい
る自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、友人た
ちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではな
い。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。決して珍し
くない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、
男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっしょに風呂
に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題には
ならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性
のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティック
バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●心の反射運動

 1970年のころの話。オーストラリアでは、レストランでもどこでも、あとにつづく人がいると、
その人はその人のためにドアを開けて待つ。それが当時の常識だったし、どこでもみなが、し
た。こういうのを「心の反射運動」という。つまりさりげない行為が、相手の心をとらえたり、心を
和ませたりする。またそれができる人(親)ほど、よい人(親)ということになる。自己中心的な人
ほど、心の反射運動が鈍いということになる。反対にいつも相手の立場でものを考えたり、行
動する人ほど、心の反射運動がすぐれた人ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●権威主義

 親の権威主義は、百害あって一利なし。が、遠く、江戸時代の昔には、「家制度」もあり、その
ため家父長の権威が何よりも、重んじられた。親は問答無用式に子どもに向かって、親に従う
よう求められた。が、時代が変わった。それに応じて、親子の平等意識、さらには対等意識が
芽生えた。「親だから……」とか、「子だから……」という『ダカラ論』が通用しなくなった。また最
近の若い人たちに向かって、ダカラ論を振りかざしても、意味はない。反発を受けるか、さもな
ければ、親子の間に大きな亀裂を入れることになる。権威主義の親ほど、子育てで失敗しやす
い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親の優位性

 親の優位性を押しつけすぎると、子どもは未来像を描けなくなり、自分の将来に大きな不安
を抱くようになる。思春期において、自我の確立に失敗することもある。赤ちゃん返りならぬ、
幼児返りを起こすこともある。これは子どもにとって、たいへん不幸なことと考えてよい。おとな
は、(もちろん教師も)、ときには子どもにわざと負けてみる。それによって、つまり子どもはおと
なの優位性を破ったことによって、自信をもつ。私もときどき幼児を相手にプロレスをする。わ
ざと負けてみせる。とたん、その子どもの表情や様子が大きく変わる。そういう方法で、子ども
に自信をつけさせる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ライナスの毛布

 私は幼児のころ(小学1、2年生ごろまで)、貝殻を指先でいじっているのが好きだった。とく
に眠りにつくときにそうだった。こうした子ども特有の現象を、「ライナスの毛布」と呼ぶ。毛布の
端を口でなめたり、指先でいじる子どもは多い。子どもは自分の心を落ち着かせるため、指先
の刺激を求める。それによって脳の中である種の反応を引き起こす。モルヒネ系(エンドロフィ
ン、エンケファリン)の分泌を促すという説もある。さらにこの方法は、老人のボケ防止にも役
立つという説もある。ともかくも、子どもがある特定のモノ(毛布や貝殻、やや大きくなって、ぬ
いぐるみなど)にこだわっても、それを「おかしな行為」と決めつけ、禁止してはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●代償的愛(代償的過保護)

 過保護には、その背景に「愛」がある。その愛の欠落した過保護を、「代償的過保護」という。
子どものことを愛しているのではない。子どもを自分の支配下において、自分の思い通りにし
たいだけ。その代償的過保護の原点になっているのが、代償的愛。いわば「愛もどきの愛」。
自分勝手で、わがままな愛。この愛の特徴は、(1)親はそれでもって、親の深い愛と誤解して
いるということ。(2)何かのことでつまずくと、一転して、「憎悪」の念に変わりやすいということ。
真の愛というのは、無私の愛をいう。「息子(娘)に裏切られた」と騒いでいる親は、一度、この
代償的愛を疑ってみるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●上下関係

 日本語には、上下関係を作る言葉が多い。「兄・弟」「姉・妹」というのが、それ。「長男・二男・
三男」というのもある。親はこうして無意識のうちにも、子どもたちの世界に序列をもちこむ。そ
してその上下関係に従って、「あなたはお兄ちゃんだから……」とか、「あなたはお姉ちゃんだ
から……」とか言って、『ダカラ論』で子どもを縛る。が、ダカラ論には根拠がないばかりか、そ
の子どもにとって重荷になり、その子どもを苦しめることにもなりかねない。なお、兄弟姉妹の
間で、名前(序列ではなく、名前)で呼び合っている兄弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲が
よい。「お兄ちゃん」ではなく、「ミキ君」、「お姉さん」ではなく、「光ちゃん」と呼ぶなど。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ツァイガルニック効果

 ほっとした瞬間、自分のすべきことを忘れてしまう。これを『ツアィガルニック効果』と呼ぶ。記
憶を持続(保持)するためには、ある程度の緊張感が必要である。(メモによって残すという方
法もあるが……。)その緊張感がゆるみ、「何だったけ?」となる。このことはよく将棋を指して
いるときに、経験する。「もう勝った」と思った瞬間、へんなところから「角」が飛び出してきて、
飛車を取られたりする。「勝った」と思った瞬間、心の中にスキができる。そのため、そういうヘ
マが多くなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育て愛憎劇

 自分の娘に、「死んでも、お前をのろってやる」と言った母親がいた。「墓場で、お前が不幸に
なるのを楽しみにしている」とも。これはワイフの友人の話である。で、昔から愛と憎しみは、紙
一重という。愛が深ければ深いほど(?)、それが転ずると、今度は憎しみに変わる。が、それ
にはたいへんなエネルギーを消耗する。ある賢人は、こう言った。『人を憎むのは、ネズミを追
い出すのに、家に火をつけるようなもの』と。そのため愛にせよ、憎しみにせよ、それほど長く
つづくと、心身が疲れきってしまう。まさに底なしの消耗戦。時に人間性まで狂う。だから「家に
火をつけるようなもの」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●幸福論

 賢い人は、そのものの価値を失う前に気づき、そうでない人は、失ってから気づく。健康しか
り、青春時代しかり、そして子どものよさ、またしかり。子どもの問題であれこれ悩む前に、そ
の子どものもつ「良さ」に気づき、ほどほどのところで満足する。「もっと…」とか、「さらに…」と
思っていると、子どもも疲れるが、あなたも疲れる。同じように、幸福にしても、そんなに遠くに
あるわけではない。あなたのすぐそばにある。すぐそばにあって、あなたに見つけてもらうの
を、じっと待っている。「私は不幸だ」と思っている人は、一度、静かに自分の身の回りを見直し
てみるとよい。「今、ここに生きている」ということが、どんなにすばらしいことか、あなたにも、そ
れがわかるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●コンフリクト(葛藤)

 人は常に葛藤しながら、生きている。葛藤のない人生はない。たとえばいろいろなケースが
ある。(1)一等賞が当たった。自転車かパン製造機がもらえる。そういうときは、どちらをもら
おうかで、悩む(++)。(2)あるいは高原へ旅行に行きたいが、花粉症が心配と、悩むことも
ある(+−)。(3)さらに罰ゲームで、みなの前で歌を歌うか、それとも顔に墨を塗られるかを迫
られることもある(――)。(4)またこういうのもある。険しいイバラ道を渡らなければ、食物にあ
るつけないようなケース(−+)。人は常にこのコンフリクトを繰り返しながら、生きている。詳し
くは、「はやし浩司 コンフリクト」で検索をかけてみてほしい。

(補記)

●コンフリクト(葛藤)

+++++++++++++++

人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。

+++++++++++++++

 二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリ
クト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。

 コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。

 たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。

 このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。

 反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。

 このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。

 また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。

 正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。

 ……というような話は、心理学の本にも書いてある。

 では、実際には、どうか?

 たとえば私は、最近、こんな経験をした。

 ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。

 が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。

 お金のために体を売る、あの娼婦である。

 そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。

 あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。

 それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。

 ほかにも、いろいろある。

 たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。

 本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。

 そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。

 自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。

 そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。

 そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。

【補記】

 ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。

 ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。

 で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。

 すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。

 このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。

 しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。

 もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 コンフリクト 葛藤 葛藤の中身 親子の葛藤 夫婦の葛藤)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司※

●窮地の演出

 子どもの自尊心を高める方法が、これ。つまり「私はお母さんのピンチを救った」と思わせな
がら、子どもを得意にさせる。「家族のピンチ」でもよい。これを『窮地の演出』(はやし浩司)と
いう。「あなたのおかげで、お父さんは無事だったのよ。命の恩人ね」と。といっても、そういう場
面は、そうは多くない。が、そのときどきにおいて、それを演出する。「今日、あなたのおかげ
で、助かったわ。あなたがいなかったら、どうなっていたことか」と。要するに負けを認めるとこ
ろでは認める。意地を張って、親の優位性を子どもに押しつけてはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司※

●クロス・コンプレインニング

 コンプレイン(Complain)は、アメリカの精神医学会の診断基準によれば、精神障害の主症状
のひとつになっている。愚痴をよく言う人は、何らかの精神障害を疑ってみる。その愚痴を言い
合うのが、クロス・コンプレインニング。「お前はあのとき、みなの前でぼくに恥をかかせた」「あ
なただって、私の兄に、悪口を言ったじゃない」「それはお前が、ぼくの言ったことを、バカげて
いると笑ったからだ」と。ある賢人はこう書き残した。『怒っているときは愚痴を言うな。愚痴を
聞いても、怒るな』と。とくに子どもには愚痴を言わない。子どもの愚痴を聞いても、怒らない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の拡大

 「私は私」と強く認識することを、「自我」という。その自我がさらに強くなると、周りの人たちを
自分の支配下に置こうとする。「私」を実際以上に、大きく見せようとする。それが「自我の拡
大」。親意識も、総じて言えば、この自我の拡大として理解できる。それほど力もない親が、大
物ぶって見せるなど。あるいは物知りであるように振舞うなど。なけなしのサイフを振りながら、
金持ちぶるのも、それ。つまり「私は力がある」ということを誇示しながら、相手を自分の下に置
こうとする。力のない親が、陥りやすいワナのひとつ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己効力感

 人は常に他者との関わりの中で生きている。かかわりももたず、ひとりで生きている人(?)
は、何か心に大きな障害をもった人と考えてよい。その(関わり)の第一が、自己効力感という
ことになる。自己肯定感ともいう。「私は他人に認められている」「自分は社会で役に立ってい
る」「私を必要とする人がいる」「私はやればできる」と。子どもの世界でいうなら、「私は親に守
られている」「私の親は、私を信じてくれている」というのも、それ。こうして人は、他人との関わ
りの中で、自分を位置づけていく。またそれがあると、その人(子ども)は、それをバネとして、
前向きに伸びていくことができる。まずいのは、ネガティブな育児姿勢。「あなたはやっぱりダメ
ね」式の言葉は、子育てではタブー。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マザコン(マザーコンプレックス)

 マザコン男ほど、相手に「マドンナ(=理想的な女性)」を求めやすい。が、この世の中に、マ
ドンナ(聖女)など、いない。だから一般論として、マザコン男ほど、離婚しやすいと言われてい
る(確たる統計があるわけではないが……。)あるいはマザコン男ほど、浮気をしやすいとも言
われている。だから子ども(男児)をマザコンにすると、子どもは将来、幸福な結婚生活を送れ
なくなる可能性が高くなる。で、それを是正するのが、父親。『子どもを産み育てるのは母親。
狩の仕方を教えるのが父親』と。母子関係の是正と、社会性の認識。それが父親の役目という
ことになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●空想的虚言

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのは構わない。しかし空中の楼閣に住
まわせてはならない』というのがある。空想するのは、子どもの自由。自由というより、特権。し
かし空想は空想。現実との間に一線を引く。この一線が引けなくなると、子どもは、空想的虚言
を口にするようになる。ウソの世界に生きているから、空想と現実の区別さえつかない。「私は
イタリアの女王」と言い張った女の子(小2)がいた(オーストラリア)。が、その一方で、空想が
まったくできない子どもがいる。冗談を言っても笑わないどころか、反対に怒り出してしまう。頭
がカチカチで、融通がきかない。アスペルガー児によく症状のひとつである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●夢の加工

 私たちが見る夢は、そのつど加工されている。現実をそのまま夢に見ることは、めったにな
い。たとえば私は電車に乗り遅れる夢を、よく見る。これは私の心の中に内在する強迫観念が
圧縮され、象徴化されたものと考えることができる。「電車」は、「人生」を置き換えたもの。乗り
遅れることによってハラハラするのは、強迫観念が象徴化したもの。つまり夢は心の中を映す
鏡ということになる。反対にどんな夢を見るかを知ることによって、たとえば子どもの心の中を
のぞくことができる。意外なのは、幼児でもこわい夢を見る子どもが多いということ。先日幼児
クラスで聞いてみたら、約60%の子どもが、こわい夢をよく見ていることがわかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己達成感

 子どもに何かをやらせるときは、自己達成感を大切にする。「できた!」という喜びが、つぎの
意欲へとつながっていく。たとえばワークブックでも、半分程度できればよしとする。あるいは子
どもにとって、やや簡単すぎるかな(?)と思えるようなものにする。こんなことがあった。生徒に
30問くらい計算問題をさせたときのこと。1〜2問、答がちがっていたが、私は花丸をつけて、
その子どもをほめた。それについて祖母が、こう言った。「いいかげんな丸はつけないでほし
い」と。私はこう反論した。「一生懸命したことに、花丸をつけたのです」と。その子どもは計算
が苦手だった

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●セルフ・サマライジング(自己完結)

 相手の立場や心を勝手に結論づけてしまう。それを「セルフ・サマライジング」という。「自己
完結」と訳す。たとえばこういう会話。「あなたの成績は最悪ね。これじゃあ、あなたの人生は終
わりね」とか、など。相手をさして、「人間のクズ」とか、「負け犬」とか、反論できないような言葉
を使うのも、それ。「君は本当は、ぼくを嫌っている。だからそういうことを言うのだ」というのも、
それ。相手の立場や心を確かめることなく、「そうだ」という前提で、自分の立場や心を決めて
しまう。自己中心性の強い人が陥りやすいワナである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ウィンザー効果

 子どもをほめるときは、第三者の口を借りるとよい。それとなく子どもの耳に入るようにしむけ
る。あるいは第三者を介してほめる。子どもが聞こえるようなところで、(あるいは聞こえなくて
もよいが)、父親に向かってこう言う。「うちの子ねえ、今日、先生にほめられたのよ。うれしい
わ」と。これを私は「間接話法」(はやし浩司)と呼んでいる。心理学の世界では「ウィンザー効
果」という。ウィンザー公爵夫人(小説『伯爵夫人はスパイ』)が言った言葉とされる。「あなたは
すばらしい」とほめるのが、直接話法。直接話法よりも、間接話法の方が効果的。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●セルフ・ハンディキャッピング

 テスト前なのに、子どもがやるべきことをやらないで、ゲームばかりしている。そういう姿を見
ると、親は、イライラする。が、子どもとて、テスト前ということを知らないわけではない。あせれ
ばあせるほど、勉強が手につかなくなる。どうしようもない状態に、自分を追い込んでしまう。こ
れを心理学の世界では『セルフ・ハンディキャッピング』という。自ら、ハンディを設定し、その中
に自分を押し込んでしまう。こういうときは子どもを追いつめるのではなく、逆に気分転換をさせ
るとよい。「レストランでおいしいものでも食べてきましょう」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●完璧主義の子ども

 何をやらせても、完璧。また完璧でないと、気がすまない。先生やほかの親たちには、「すば
らしい子ども」と評価される。またそう評価されることで、自分の立場を作る。が、このタイプの
子どもは、その一方で、他人に仕事が任せられない。他人の失敗を許さない。何でもイチから
自分でしたがる。またそれができないと、突然、仕事を投げ出したりする。そのため、仲間の間
では嫌われる。心を許さないから、いつも孤独。本人が思っているほど、仲間の間ではよく思
われていない。が、このタイプの子どもは、一度何かでつまずくと、ガタガタになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●好意の返報性

 子どもを伸ばす最大の秘訣は、その子どもを「いい子」「すばらしい子」と、信ずること。たとえ
そうでなくても、何度も心の中で繰り返し、自分の心をだます。英語のことわざにも、『相手は、
あなたが思うように、あなたを思う』というのがある。あなたがその子どもを「いい子」と思ってい
ると、その子どもも、あなたを「いい人」「いい先生」「いい親」と思うようになる。以心伝心ともい
う。魚心あれば水心ともいう。好意には、返報性がある。

(補記)

●灯をともして引き出す

 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。

 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。そのせ
いか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参観している私の
ほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。

 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。

●脳内ホルモンが脳を活発化させる

 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときには、脳
内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化
し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。

 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつぶ
る。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳内ホルモ
ンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始め
る。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象
である。が、それだけではない。

ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことがあった。

●子どもをほめるときは本気で

 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当
たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。

 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休みになる少
し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。

 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。ウソや仮
面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思
う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あな
たのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉があ
る。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。相手の
好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ばす。

●「先生、肩もんでやるよ。」

 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助手席
に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。

 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれませんが、
今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。

 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解した。頭も
よい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。

 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。

 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。

 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ストレス学説

 ストレスの原因を、「ストレッサー」という。人間はある程度のストレスには耐えられる。が、限
界を超えると、さまざまな身体的変調となって、それが外に現れる。が、それがさらに慢性化す
ると、脳内でサイトカインが分泌され、脳内ストレスを引き起こす。食欲不振、低体温、性欲減
退など。さらにそれが進むと、免疫機能が低下し、ばあいによっては心疾患、脳疾患、がんな
どの病気の引き金を引くこともある。けっして軽く見てはいけない。なおストレスの程度と、それ
に対する反応には、個人差がある。Aさんには何でもないストレスが、Bさんには大きなストレッ
サーとなることもある。ところでこんな話を耳にした。「庭で放し飼いにしている犬ほど、長生き
する」と。それだけストレスが少ないということか。私の家のハナ(犬)も庭で放し飼いにしている
が、今年で16歳になる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己開示度

 相手がどの程度まで秘密を暴露しているかで、相手が、どの程度、あなたと親密になりたが
っているかがわかる。それを知るのが、「自己開示度」。いつもどうでもよいような世間話だけ
で終わる人は、あなたと親しくなるのを拒んでいるとみてよい。反対に、自分の病気や家族の
問題などを話す人は、あなたと親しくなりたがっているとみてよい。反対にあなたがその人と親
密になりたかったら、秘密を暴露してみるとよい。あなたの秘密を知ったことで、相手は信頼さ
れていると思い、あなたに親近感を覚えるようになるかもしれない。これを「自己開示の返報
性」という。

(補記)

自己開示(2)

 自分をさらけ出すことを、自己開示という。そしてそれが極限にまで達したのを、「カタルシス
(除反応)」※という。心を最大限、開放させることにより、心理的、精神的負担を軽減させるこ
とをいう。

 他人との信頼関係をうまく結べない人は、まず自己開示をしてみるとよい、あなたが妻であれ
ば、夫や子どもに対して。あなたが夫であれば、妻や子どもに対して。家族には、そういう機能
がある……というより、これは家族の重要な機能の一つと考えてよい。

 方法としては、自分の過去を、あらいざらい、すべて告白するというのがある。悲しかった思
い出、つらかった思い出、恥ずかしかった思い出など。心の中に秘めている思い出を、すべて
吐き出してみる。

 これはたいへん勇気のいることだが、しかし自己開示することによって、あなたは自分の心を
開放することができる。が、それだけではない。自己開示することによって、(1)相手もあなた
に自己開示する。(2)あなたもそれまで気づかなかった自分に気づくことができるようになる。

 私はときどき、中学生に、こんな作文を書かせる。

【つぎの文につなげて、作文を書いてください。】

● 私にとって、今まで、一番楽しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番悲しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番うれしかったことは、
● 私にとって、今まで、一番つらかったことは、
● 私には、人に話せないような思い出が、

ほかにもいろいろあるが、子どもが書く内容は、それほど重要ではない。(また、内容について
は、一切、不問にすること。)その子どもがどこまで、具体的に自己開示するかで、たがいの信
頼関係の深さを知ることできる。

つぎに、子ども自身が、仮面をかぶっているかどうか、どこまで自分と向き合っているかどう
か、心の問題をもっているかどうかなどを、知ることができる。「のぞく」という言葉は、あまり好
きではないが、しかし、この方法で、子どもの心の中を、のぞくことができる。家庭では、たとえ
ば、子どもに向かって、「あなたにとって、今まで、一番うれしかったことは、どんなこと?」という
ように聞いてみるとよい。

……と、書いたが、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。

 あなたが妻なら、夫に話せない話もあるはず。結婚前の男性関係とか、身体的なコンプレッ
クスとか、など。子どものころの家庭環境も、それに含まれるかもしれない。もしそういうのがあ
れば、思い切って、夫に話してみる。

 あなたはそれで、人間関係が壊れると思っているかもしれないが、多少の混乱を経て、あな
たと夫の心の絆(きずな)は、それで太くなるはず。とくに、他人との人間関係がうまく結べない
人、他人と接すると、すぐ神経疲労を起こす人などは、まず、身近な人に対して自己開示して
みるとよい。つまりこうして、自分の心を作り変えていく。

 もっとも注意しなければならないのは、他人への自己開示である。信頼基盤そのものがない
人に、自己開示するのは、危険なことでもある。そういうときは、相手をより深く理解するという
方法に切りかえる。たとえば……。

 日ごろ、相手が、言いたいと思っていること、知りたいと思っていることを、相手の立場になっ
て聞く。「この前、あなたはこう言ったけど、その意味がよくわからないから、もう一度、話してく
れない」「あなたの言うことはよくわかるけど、もし私だったら、どうするか、いろいろ考えてみた
わ」とか。相手をより深く理解しようとしよう姿勢を見せることで、同時に、自分もまた相手に対
して、自己開示することができる。

 前にも書いたが、自己開示をすることは、違いの信頼関係を築く、基盤となる。たがいにわけ
のわからない状態で、信頼関係を結ぶことはできない。さあ、あなたも勇気を出して、自己開示
してみよう。心を解き放ってみよう!
(030707)

※ ……自己開示することで、心理的、精神的負担を軽減することができる。ばあいによって
は、症状が焼失することもあるという。これをカタルシス効果という。自己開示には、そういう作
用もある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●感受性訓練法

●感受性訓練法

 5〜6人のクラスで、そのままにしておくと、子どもたちは勝手な会話を
し始める。
ふだんは制止するが、ときには、そのままにしておく。
それによって子どもたちの本音を知ることができる。
が、それだけではない。
言いたいことを、そのまま言わせることは、大切なこと。
それによって、よりよい人間関係を築くことができる。
たとえば心理学の世界には、「感受性訓練法」というのがある。
「ラボラトリー・トレーニング」とも呼ばれている。

 これは体験者を一室に隔離して、ありのままの感情を、さらけ出させるという方法。
それを体験者の状態に合わせて、数時間とか数日間、つづける。
やがてカタルシス効果が現れて、体験者は、大声で泣きわめいたり、怒ったりする。
不平不満をぶつけたり、ときに暴れたりする。
が、それが一巡すると、体験者は、やがて心を抑圧していた殻(から)から解放され、
感情をストレートに表現できるようになる。

 この訓練を受けると、感受性が豊かになり、他人に対して、深い思いやりが
生まれたり、相手の悲しみや苦しみが、よりよく理解できるようになるという。
が、似たような経験を、実は私は教育の場ではよくする。

 私はときどき、子どもたち(幼稚園児)に、こう言う。
「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」と。
すると子どもたちは、最初は、はにかみながら、「嫌いだよ〜オ」などと答えたりする。

 そこで私は、語気を強めて、こう言う。
「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」「自分にウソをつくのは
悪いことだ!」と。
まじめな顔をして、叱る。
するとやがて子どもたちは、「好きだけどオ〜」とか言うようになる。

 が、何もおっぱいの話にかぎらない。
ときに子どもたちをじらしながら、「見たかったら、見たいと言え!」と促したりする。
(この方法は、私がレッスン中によく使う。「BW公開教室」(私のHPより)
でも紹介しているので、興味のある人は見てほしい。)

 つまりこうして内にたまった(思い)を、一度、外に吐き出させる。
大声で言えるようにする。
感情を、そのまま表現させる。
言うなれば、これもカタルシス効果のひとつということか。
この方法により、一義的には、(性)に対して暗いイメージをもたせることを
防ぐことができる。
が、それ以上に、子どもの心をまっすぐにすることができる。

その結果として、子どもをして、かつ感受性豊かな子どもにすることができる。
「感受性が豊か」ということは、それだけ「他人の心に敏感に反応できること」を
いう。
 
反対に心がゆがんでくると、心(=情意)と表情が、一致しなくなってくる。
ばあいによっては、遊離し、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)になる。

 むずかしい話はさておき、親子の間でも、夫婦の間でも、また友人との間でも、
たがいに言いたいことを言うというのは、人間関係の基本。
それなくして、良好な人間関係は育たない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 感受性訓練 感受性訓練法 ラボラトリー・トレーニング 心の訓練 はやし浩司 
カタルシス効果)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●シンクロ効果(同調理論)

 その人と親しくなりたかったら、「同一景色」を見る。同一景色を見ながら、話をする。
たとえば美術館へ行ったようなとき。つねにその相手と同じ位置に立ち、同じ角度から同じ絵
や像を見る。たったそれだけのことだが、相手のあなたへの親近感がぐんと増す。これを「同
一景色理論」(はやし浩司)という。「同じものを見ている」という無意識下の意識が、「シンクロ
効果」を生み出す。けっしてあなたは、その相手を置いてきぼりにしたり、勝手な行動をしては
いけない。子どもの心をつかみたかったら、子どもと同じレベルに置いて、ゲームを楽しむのも
一手。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●夫婦の相補性

 夫婦というのは、不思議なもの。30年とか40年もいっしょに暮らしていると、たがいにたがい
を補完しあいながら生きるようになる。行動だけではない。性格、性質についても同じ。神経質
な夫に、ヘマばかりしている妻。無口な夫に、おしゃべりな妻。独立心が旺盛な夫に、甘えん坊
の妻。活動的な夫に、従順な妻など。これを「性的相補性」と言う。夫婦が100組いれば、10
0通りの夫婦が生まれる。だから夫婦はおもしろい。男と女の世界は、おもしろい。

(補記)

●夫婦の相補性

++++++++++++++

夫婦が円満に暮らすためには、
相補性が必要である。

たがいにたがいを補いあう。それ
を「相補性」という。

++++++++++++++

 仲のよい夫婦を観察してみると、そこにはひとつの共通点があるのがわかる。「相補性」
という共通点である。たがいにたがいを補いあう。それを「相補性」という。

 たとえば1人の人間には、得意な点もあれば、不得意な点もある。良点もあれば、欠点
もある。そうしたもろもろの(点)を、たがいに補いあう。それが歯車のように、しっか
りとかみあう。それが「相補性」ということになる。

 もし夫婦のどちらも、勝ち気で社交的ということになれば、衝突から離婚……というこ
とになる。タレントどうしの結婚を例にあげるまでもない。が、そういう夫婦でも仲良く
やっているというケースもなくはないが、しかしよくよく観察してみると、ここでいう相
補性があることがわかる。

 反対に言うと、夫婦が円満であるためのコツは、いかにしてその相補性をつくるかとい
うことにもなる。

 これは私たち夫婦のばあいだが、私は車の運転免許証をもっていない。いろいろ理由は
あるが、私は車には、興味がない。だからワイフが近くにいないと、身動きが取れない。
たとえ夫婦げんかの最中でも、頭をさげなければならないときは、さげる。しかたないか
ら、さげる。これも相補性のひとつということになる。

 車を運転できない私を、ワイフが補ってくれる。

 つまり夫婦というのは、たがいに無数の相補性をもっている。結婚生活が長ければ長い
ほど、歯車の数もふえ、そしてそれぞれの歯車が、しっとりとかみ合うようになる。私が
担当すべきところは、私が担当する。半面、ワイフに任すべきところは、ワイフに任す。
一方、身を引くところは、引く。

 車の運転を例にあげるなら、車の運転は、ワイフに任せておけばよい。こうしてたがい
の相補性を、さらに濃密にしていく。

 が、それだけではない。

 相補性には、それぞれの分野で、主従関係をもつ。車を運転するワイフが、(主)であ
るとするなら、乗せてもらう私は、(従)ということになる。一方、仕事、収入という面
では、私が(主)であるとするなら、家計を管理するワイフは、(従)ということになる。

 この主従関係をうまくつくるのも、相補性を考える点で大切である。「夫が主で、妻が
従」というのではない。それぞれの分野で、主従関係をつくる。つくるというより、自然
にできる。もっとも、だからといって、私たち夫婦が、仲がよいというわけではない。

 要するに、私はワイフなしでは生きていかれないし、一方、ワイフは、私なしでは生き
ていかれない。そういうたがいの関係が、ときに(あきらめ)につながり、ついで(妥協)
につながる。総じていえば、結婚生活などというものは、そういうもの。またそれができ
る夫婦のことを、「仲のよい夫婦」という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
夫婦の相補性 仲のよい夫婦 仲の良い夫婦)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●同性愛

 子どもはつぎの過程を経て、成長していく。(自己愛)→(同性愛)→(異性愛)と。フロイトがそ
う言っている。つまり子どもの成長過程で、同性愛的傾向があるからといって、あわててはいけ
ない。ほとんどの子どもは、思春期前夜から思春期以前は、同性愛的傾向をもつ。その時期
を経て、それが異性愛へと変化していく。が、その時期を過ぎても同性愛的傾向がつづくようで
あれば、性同一性障害が疑われる。(だからといって、それが異常と考えてはいけない。どうで
あれ、あるがまま認め、納得する。)「性」の世界には、常識は通用しない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どもを知る心理学 幼児を知る心理学 学童期の子ども 心理)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●エディプス・コンプレックス

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王
子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。

つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ
バルとして父親を憎むようになるという。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するという
ことも、これに含まれる。)

 この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのことに
疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。母親からの異
常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてなくなることが多
い。

 で、私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この
日本ではそのまま当てはめて考えることはできない。
その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある
程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく
進む。現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんか
く)そのものが、ぼやけてくる。

つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。
現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい
う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、
当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、
まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろ
な意味において、明確ではない。
少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあい
によっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多
いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。

 また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる
「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ
論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。

 ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ
る。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、
つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそば
の、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置
いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。
常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬し
た。家全体を自分のものにしたい衝動にかられた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆ
がんだ嫉妬心だ。

そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。
「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私
にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい
う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●父親の役割

●母子関係の是正

 母子関係は、絶対的なものである。それは母親が、妊娠、出産、授乳(育児)という、子ども
の「命」にかかわる部分を、分担するためである。

 同じ親でも、母親と父親は、そういう意味においても、決して平等ではない。はっきり言えば、
父親がいなくても、子どもは生まれ、育つ。

 が、ここでいくつかの問題が生まれる。
 その第一は、精神の発育には、父親の存在が、不可欠であるということ。それには、つぎの
二つの意味が含まれる。

(1)父親像の移植
(2)母子関係の是正

 人間は、社会的な動物である。そしてその「社会」は、「家族」という、無数の共同体が集合し
て、成りたっている。世界のあちこちには、大家族制度や、かつてのヒッピー族が経験した、集
団家族制度のような家族形態をとっているところもある。
しかしこの日本では、一人の父親と、一人の母親が結婚して、家族を構成する。それが家族の
基本であると同時に、子育ての基本となっている。(だからといって、そうであるべきと言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 そうした家族形態の中における、父親の役割を、子どもに教える。「父親というのは、こういう
もの」「父親というのは、こうあるべき」と。これが父親像の移植である。子どもは、父親に育て
られたという経験があってはじめて、その父親像を、自分のものとすることができる。

 しかしこれに加えて、もう一つ、重要な役割がある。それが、(2)の母子関係の是正である。

 このことは、離婚家庭や、父親不在家庭の子どもをみれば、わかる。
 父親像がない状態で育った子どもは、母子関係がどうしてもその分、濃密になり、母親の影
響を大きく受けやすい。そのためマザーコンプレックスをもちやすいことは、すでにあちこちで
指摘されているとおりである。

 子どもは、その成長過程において、母子関係から離脱し、社会性を身につける。これを「個
人化」という。その個人化が、遅れる。あるいは未発達なまま、おとなになる。三〇歳を過ぎて
も、四〇歳を過ぎても、さらに五〇歳をすぎても、母親なしでは、生きられない状態を、自ら、つ
くりだす。

 六〇歳をすぎても、「お母さん」「お母さん」と、甘えている男性など、いくらでもいる。
 しかしこうした依存性は、決して、一方的なものではない。
 ふつう子どもが、依存性をもつと、子どもの側だけが問題になる。しかし実際には、子どもの
依存性を許す、甘い環境が、その子どもの周辺にあると考える。もっとはっきり言えば、母親
自身が、依存性が強いことが多い。

だから母親自身が、子どもの依存性を見落としてしまう。あるいは子どもに、自分がもっている
依存性と同じものを、もたせてしまう。
たとえば依存性の強い母親は、親にベタネタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よ
い子、としてしまう。反対に、親に反抗したり、自立心が旺盛な子どもを、「親不孝者」と、排斥し
てしまう。

 こうしてベタベタに甘い、母子関係が、生まれる。
 そのベタベタになりがちな母子関係を制限し、修復するのが、父親の役目ということになる。

 具体的には、(1)行動に制限を教える。(2)社会的人間としての、父親の役割を教える。
 たとえば溺愛ママと呼ばれる母親がいる。
 このタイプの母親は、母親と子どもの間にカベがない。だから子どもが何かの不祥事を起こ
したりすると、自らが責任をかぶることにより、子どもの責任をあいまいにしてしまう。

 子ども(中3男子)が、万引き事件を引き起こして補導されたとき、一夜にして、あちこちをか
けずりまわり、事件そのものをもみ消してしまった母親がいた。
 つまりそういうことをしながら、子どもの精神的な発育を、母親自身が、むしろ、はばんでしま
う。

 こうした母親の行動にブレーキをかけるのが、父親の役目ということになる。もともと父子関
係は、「精液一しずく」の関係にすぎない。しかしこうした父親のもちうる客観性こそが、父親像
の特徴ということにもなる。
 つぎに(2)社会的人間としての、父親の役割だが、これは、現代の社会構造と、深く結びつ
いている。たとえば少し前まで、この日本では、「男は仕事」という言葉が、よく使われた。「男
が仕事をし、女が家庭を守る」と。(だからといって、こうした考え方を、私が肯定しているわけ
ではない。誤解のないように!)

 こうした「男」と「女」のちがいは、さまざまな形で、社会の中に組みこまれている。そのちがい
を、教えていくのも、実は、父親の役割ということになる。
 父親は、決して、母親にかわることはできない。またかわる必要もない。母親には母親の、そ
して父親には父親の限界がある。その限界をたがいに、補いあうのが、父親の役目であり、母
親の役目ということになる。

 その役割を混乱させると、子育てそのものが、混乱する。
 よくあるケースは、(1)父親の母親化。(2)母親の父親化。(3)それに父親の不在(疑似母
子家庭)である。こういう家庭では、子育てそのものが、混乱しやすい。
 父親の母親化というのは、父親自身が、女性化していることをいう。子どもを、溺愛ママよろ
しく、息子や娘を溺愛する父親は、決して珍しくない。

 つぎに母親の父親化も、ある。このばあい、その影響は、子どもに強く現れる。本来なら、母
子関係ではぐくまれねばならない、基本的な信頼関係(絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け
入れ)が、結べなくなる。その結果、子どもの情緒、精神の発育に、深刻かつ重大な影響を与
える。

 一般的に言えば、母親が父親化すれば、子どもは、愛情飢餓の状態になり、心の開けない
子どもになる。

 さらに父親の職業などで、疑似母子家庭と呼ばれるようなケースになることもある。夫の長期
にわたる、単身赴任が、その一例である。
だからといって、母子家庭が悪いと言っているのではない。ただこうした問題があるというの
は、事実であり、そういう事実があるということを知るだけでも、母親は、自分の子育てを、軌
道修正できる。母子家庭が本来的にもつ問題を、克服することができる。

 まずいのは、こうした問題を知ることもなく、母子関係だけに溺れてしまうケースである。この
原稿は、そういう目的のために書いたのであって、決して、母子家庭には問題があると書いた
のではない。どうか、誤解のないようにしてほしい。
(はやし浩司 父親役割 母子家庭 問題 エディプス コンプレックス)
________________________________________
【追記】

 母子家庭でなくても、母親が、日常的に父親を否定したり、バカにしたりすると、ここでいう父
親像のない子どもになることがある。

 このタイプの子どもは、言動に節制がなくなったり、常識ハズレになったりしやすい。あるいは
マザコンになりやすい。

 マザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、ことさら親(とくに
母親)を、美化するところにある。「私の母親は、偉大でした」「世のカサになれと、教えてくれま
した」と。そして親を批判したりする人物がいると、それに猛烈に反発したりする。

 こうしたマザコン性から子どもを救い出し、父親像をインプットしていくのが、実は、父親の役
目ということになる。これを心理学の世界では、「個人化」という。もともと個人化というのは、家
族どうしの依存性から脱却することを言う。つまりわかりやすく言えば、「自立化」のこと。

 マザコンタイプの人は、その個人化が遅れる。ベタベタとよりそう関係を、かえって美化するこ
ともある。親は、「親孝行のいい息子」と思いこみ、一方、子どもは、「やさしく、すばらしい親」と
思いこむ。

 簡単に言えば、父親の役目は、子どもを母親から切り離し、子どもを自立させていくこと。

 もちろんその過程で、子どもの側にも、さまざまな葛藤(かっとう)が起きることがある。エディ
プスコンプレックス※も、その一つということになる。

 が、最近の問題として、父親自身が、じゅうぶんな父親像をもっていないことがあげられる。
父親自身が、「父親」を知らないケースである。

 さらに父親自身が、マザコンタイプであったりして、ベタベタになっている母子関係を見なが
ら、それに気がつかないということもある。あるいはさらに、父親自身が、母親の役割にとって
かわろうとするケースもある。

 溺愛パパの誕生というわけである。

 このように、現代の親子関係は、今、混沌(こんとん)としている。しかし今こそ、改めて、父親
の役割とは何か、母親の役割とは何か。それを冷静に判断してみる必要はあるのではないだ
ろうか。でないと、これから先、日本人のそれは、ますますわけのわからない親子関係になって
しまう。

 ここに書いたことが、あなたの親子関係をわかりやすいものにすれば、うれしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ピーターパン・シンドローム

ピーターパン症候群という言葉がある。日本では、「ピーターパン・シンドローム」とも
いう。いわゆる(おとなになりきれない、おとな子ども)のことをいう。


この言葉は、シカゴの心理学・精神科学者であるダン・カイリーが書いた「ピーターパ
ン・シンドローム」から生まれた。もともとこの本は、おとなになりきれない恋人や息子、
それに夫のことで悩む女性たちのための、指導書として書かれた。

 症状としては、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着
などがあげられる。体はおとなになっているが、社会的責任感が欠落し、自分勝手で、わ
がまま。就職して働いていても、給料のほとんどは、自分のために使ってしまう。

 これに似た症状をもつ若者に、「モラトリアム人間」と呼ばれるタイプの若者がいる。さ
らに親への依存性が、とくに強い若者を、「パラサイト人間」と呼ぶこともある。「パラサ
イト」というのは、「寄生」という意味。

 さらに最近の傾向としては、おもしろいことに、どのタイプであれ、居なおり型人間が
ふえているということ。ピーターパンてきであろうが、モラトリアム型であろうが、はた
またパラサイト型であろうが、「それでいい」と、居なおって生きる若者たちである。

 つまりそれだけこのタイプの若者がふえたということ。そしてむしろ、そういう若者が、
(ふつうのおとな?)になりつつあることが、その背景にある。

 概して言えば、日本の社会そのものが、ピーターパン・シンドロームの中にあるのかも
しれない。

 国際的に見れば、日本(=日本人)は、世界に対して、無責任、自信喪失、意見を言わ
ない(=感情を外に出さない)、無関心、自己中心的、無頓着。

 それはともかく、ピーターパン人間は、親のスネをかじって生きる。親に対して、無意
識であるにせよ、おおきなわだかまり(固着)をもっていることが多い。このわだかまり
が、親への経済的復讐となって表現される。

 親の財産を食いつぶす。親の家計を圧迫する。親の生活をかき乱す。そしてそれが結果
として、たとえば(給料をもらっても、一円も、家計には入れない)という症状になって
現れる。

 このタイプの子どもは、乳幼児期における基本的信頼関係の構築に失敗した子どもとみ
る。親子、とくに母子の関係において、たがいに(さらけ出し)と(受け入れ)が、うま
くできなかったことが原因で、そうなったと考えてよい。そのため子どもは、親の前では、
いつも仮面をかぶるようになる。ある父親は、こう言った。「あいつは、子どものときから、
何を考えているか、よくわからなかった」と。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉、過関心になりやすい。こうした一方的な育児
姿勢が、子どもの症状をさらに悪化させる。

 子どもの側にすれば、「オレを、こんな人間にしたのは、テメエだろう!」ということに
なる。もっとも、それを声に出して言うようであれば、まだ症状も軽い。このタイプの子
どもは、そうした感情表現が、うまくできない。そのため内へ内へと、こもってしまう。
親から見れば、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)といった、感じになる。
ダン・カイリーも、「感情を外に表に出さない」ことを、大きな特徴の一つとして、あげて
いる。

 こうした傾向は、中学生、高校生くらいのときから、少しずつ現れてくる。生活態度が
だらしなくなったり、未来への展望をもたなくなったりする。一見、親に対して従順なの
だが、その多くは仮面。自分勝手で、わがまま。それに自己中心的。友人との関係も希薄
で、友情も長つづきしない。

 しかしこの段階では、すでに手遅れとなっているケースが、多い。親自身にその自覚が
ないばかりか、かりにあっても、それほど深刻に考えない。が、それ以上に、この問題は、
家庭という子どもを包む環境に起因している。親子関係もそれに含まれるが、その家庭の
あり方を変えるのは、さらにむずかしい。

 現在、このタイプの若者が、本当に多い。全体としてみても、うち何割かがそうではな
いかと思えるほど、多い。そしてこのタイプの若者が、それなりにおとなになり、そして
結婚し、親になっている。

 問題は、そういう若者(圧倒的に男性が多い)と結婚した、女性たちである。ダン・カ
イリーも、そういう女性たちのために、その本を書いた。

 そこでクエスチョン。

 もしあなたの息子や、恋人や、あるいは夫が、そのピーターパン型人間だったら、どう
するか?

 親のスネをかじるだけ。かじっても、かじっているという意識さえない。それを当然の
ように考えている。そしてここにも書いたように、無責任、自信喪失、感情を外に出さな
い、無関心、自己中心的、無頓着。

 答は一つ。あきらめるしかない。

 この問題は、本当に「根」が深い。あなたが少しくらいがんばったところで、どうにも
ならない。そこであなたがとるべき方法は、一つ。

 相手に合わせて、つまり、そういう(性質)とあきらめて、対処するしかない。その上
で、あなたなりの生活を、つくりあげるしかない。しかしかろうじてだが、一つだけ、方
法がないわけではない。

 その若者自身が、自分が、そういう人間であることに気づくことである。しかしこのば
あいでも、たいていの若者は、それを指摘しても、「自分はちがう」と否定してしまう。脳
のCPU(中央演算装置)の問題だから、それに気づかせるのは、容易ではない。

 が、もしそれに気づけば、あとは時間が解決してくれる。静かに時間を待てばよい。

(040201)(はやし浩司 ピーターパン シンドローム ピータパンシンドローム モラトリアム
人間 パラサイト人間 ダン・カイリー 大人になれない若者)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●天皇の敬称問題

産経新聞は、天皇の敬称問題について、以下のように報じている。(2011年1月12日)。
教育の世界では、たいへんデリケートな問題だから、全文、そのまま掲載させてもらう。

++++++++以下、産経新聞、2011年1月12日++++++++++

 天皇陛下に敬称を付けず"呼び捨て"の記述が文部科学省の教科書検定をパスし、今年4
月から小学校6年生の教科書として供給・使用されることが10日わかった。巻末の用語の索
引に「天皇」を盛り込まなかった教科書もあった。天皇、皇后両陛下はじめ「皇室軽視」の傾向
はこれまでも教科書でみられたが、学習指導要領では「天皇への理解と敬愛の念を深める」よ
う求めている。専門家からは「指導要領の趣旨が教科書に十分浸透していない」との批判の声
が上がる。

 敬称がない表記があったのは、小6社会の教科書。文科省の検定を通過した4出版社のう
ち教育出版と日本文教出版、光村図書の教科書が、陛下ご自身が写った写真を説明する際
に「文化勲章を授与する天皇」「インドの首相をむかえた天皇」と表記していた。

 2つの教科書を出す日本文教出版は、別の教科書でも天皇、皇后両陛下の写真説明を「福
祉施設を訪問される天皇と皇后」と表記。「される」と敬語はあるが敬称はなかった。

 「天皇」という地位自体の説明は、憲法や法律、指導要領でも敬称を付けずにただ「天皇」と
記述し、新聞や出版物も同様。しかし、陛下ご自身の行動や表情などを伝える際には必ず敬
称をつけるのが一般的。

 しかし、教科書は陛下に敬称がなく、一方で一般国民や外国人らの名前には「被爆体験を持
つ○○さん」「緒方貞子さん」(元国連難民高等弁務官)などと敬称があった。

 東京書籍は"呼び捨て"はないが、教科書の重要語を並べた巻末索引に「天皇」はなし。一
方で「内閣総理大臣」「ユニバーサルデザイン」などはあった。

 過去の小中高の教科書でも「仁徳天皇陵」の記載が括弧書きや「大仙陵古墳」「大山古墳」
「仁徳陵」として検定をパス。「皇太子明仁」の記載が「明仁皇太子」となったり、皇后陛下を「正
田美智子」とした記載がパスしたことがあった。

 皇室や教科書問題に詳しい高崎経済大学の八木秀次教授は「憲法上の『天皇の地位』は、
重い。国民の敬愛を受ける存在で、教科書では敬称を付けるべきだ」と話すが、文科省は「教
科書記述の内容に誤りがあるわけではない」とする。

++++++++以下、産経新聞、2011年1月12日++++++++++

●私も……

 私も子どものころ、「天皇」と言っただけで、父に殴られた経験がある。
父はそのとき、こう言った。「陛下と言え!」と。
私が小学3年生のときのことだった。
で、父はそのあと学校へ出向き、担任の教師たちに、「貴様らは学校で、何を教えているか」と
怒鳴り散らしたという。

 天皇のために命を捧げた父にしてみれば、当然の行為だった。
しかし天皇は、「天皇」でよいのではないか。
私も、天皇にかぎらず、客観的に事実を書くときは、いっさい敬語を使わないようにしている。
また「天皇」と書いたことによって、呼び捨てにしているという意識はない。
いわんや軽んじている意識はない。

もちろん産経新聞にもあるように、『陛下ご自身の行動や表情などを伝える際には必ず敬称を
つけるのが一般的』というのには、異論はない。
当然のことである。

 それがわからないときは、たとえば日本の国政を論ずるとき、「内閣総理大臣」と書くべきな
のか、それとも「内閣総理大臣閣下」と書くべきなのか、それを考えてみればよい。
こういうとき「閣下」という敬称をつける人は、いないはず。
もっと卑近な例では、「浜松市長」と書くことはあっても、「浜松市長様」と書く人はいない。
また敬称をつけたからといって、「敬愛の念」を示したことにはならない。

今では、学校の先生に対して、「先生」という敬称をつけて、先生を呼ぶ生徒はいない。
呼び捨てが一般化している。
私も幼児に、「はやし!」「はやし!」と呼ばれている。
親たちの中には気にする人もいるようだが、私は気にしない。
私も、子どもたちを特別なばあいを除き、呼び捨てにしている。

 で、この問題は、どこかのだれかが決めるようなことではない。
その向こうに、(大きな流れ)がある。
いくら教科書にそう書いてあるからといっても、子どもたちのもつ(流れ)を変えることはできな
い。
つぎの世代が、時間をかけて、ゆっくりと解決していけばよい。
ただ私の印象としては、つまり現在の(流れ)を見る限り、それがよいことなのか、悪いことなの
かという判断はさておき、こうした敬称は消える運命にあると思う。

 八木秀次教授は「憲法上の『天皇の地位』は、重い。国民の敬愛を受ける存在で、教科書で
は敬称を付けるべきだ」と話している(同紙)。
そういう意見もあるだろう。
が、文科省は「教科書記述の内容に誤りがあるわけではない」としている。
文科省の立場を支持したい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 天皇の敬称 敬称問題 陛下という敬称 天皇陛下の敬称問題 敬語 敬称)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【子どもと自尊感情】(改訂版)はやし浩司 2011−01−13

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
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OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


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●自尊感情

+++++++++++++++++++++++++++++++++

『日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9.
4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思
いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な
回答をしていた』(以上、毎日新聞の記事より・08・11・26)。

数字をもう一度、整理してみる。

「私は自分に大体満足している」と答えたのは、

アメリカ……53.5%
中国  ……24.3%
日本  …… 9.4%

「自分には、よいところがあると思いますか」という質問に対して、否定的な回答を
したのは、

都内の小学6年生……29.4%、
中学3年生   ……39.6%

++++++++++++++++++++++++++++++++

東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てない子どもの自尊感情を高める指導方
法について研究を始める方針を固めたという(毎日新聞※)。

しかしどうして今ごろ?、というのが、私の率直な感想。
つまりどうして今ごろ、「研究を始めるのか?」と。
こんなことは発達心理学を少しでも勉強してことがある人なら、みな、知っている。
つまり常識。
「自己の同一性」(アイデンティティ)という言葉を知らない人は、ない。
自尊感情にしても、やる気にしても、すべてこの自己の同一性で、決まる。

その自己の同一性について、

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているいるということを、親自身が気がつい
ていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないと
きは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になる人さえいる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【私らしく生きるために……】

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実
際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」とい
う。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像
とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信する
ことができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなけれ
ば、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。
心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、そ
の地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。
ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つ
まり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になっ
た。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくか
みあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適
応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささ
いなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進
学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していた
のだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならなな
かった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。
夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だっ
た。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の
三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。
「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばって
いるつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、
Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こう
なると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱
られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自
分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。
ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいと
は思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定す
るCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて
言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親です
ら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いか
えると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自
分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心を
バラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていく
ということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくてい
い」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければなら
ない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければな
らない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見
つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望に
そって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

この日本には、子どもたちに用意された道が、一本しかないということ。
すべての問題の根源はここにある。

一人の人間が、子どもからおとなになる過程において、子ども自身が選べる
道が、もっとたくさんあってもよいのではないか。

たとえばドイツやイタリアでは、中学生たちはたいてい午前中だけで授業を
終え、それぞれがみな、クラブに通っている。
その費用は、(チャイルド・マネー)として、国から支給されている(ドイツ)。

東京都教育委員会は、「脳科学の専門家と連携して」、その方法を探るという。
すごいことだと思うが、これは脳科学の問題ではない。
制度の問題である。

今の制度では、(ものを考えない、従順な子ども)のみが、受験競争を勝ち抜く
ことができる。
その異常さに、まずみなが先に気がついたらよい。

(注※)(以下、毎日新聞の記事より)東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てな
い子どもの自尊感情を高める指導方法について研究を始める方針を固めた。日本の子どもは
最近の学力テストや国際調査で自己肯定感が低いことが分かっている。いじめや不登校など
教育問題の根底にも子どもの自尊心が少ない点があるともみられ、向上策の開発に着手す
る。

 都教委の計画では、都教職員研修センター(文京区)と大学が共同研究を進める。脳科学な
どの専門家と連携し、子どもにどのような働きかけをすれば自尊感情が高まるかを探る。さら
に小学校1校を研究協力校に指定し、児童の意識調査を行い、指導方法を実証する。事業費
として400万円を要求している。

 日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9.
4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思
いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な
回答をしていた。

 都教委の担当者は「子どもに自信が育つ核心の部分をできるだけ解明し、いろいろな手立て
で働きかけられるようにしていきたい」と話している(以上、毎日新聞の記事より)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自尊感情 やる気 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子どもに自信をつけさせる)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月13日(木曜日)

+++++++++++++++++++++

数日前、人間ドックを受けてきた。
半日の、もっとも簡単なコース。
そのドックを受けながら、いろいろ考えた。

ひとつ。
検査の非効率なのには、驚いた。
それぞれの検査は、数分程度で終わるものばかり。
が、その間の待ち時間が長かった。
1か所で、平均1時間ほど待たされる。
長いところで、3時間。
看護士に、「……まだですかア〜?」と声をかけると、
「あら、まだ、ここに(いたのか)?」と。

で、調べてもらったら、「先ほど、救急車が入って……」とのこと。
つまり後回し。

結果は、オール、シロ!

残りの検査は2月の定期検診に回された。

++++++++++++++++++++

●健康

 ときどきだれかに、「元気?」と聞かれると、困ってしまう。
元気と言えるほど、元気ではない。
毎日、体調を維持するだけ、精一杯。
おとといと昨日は、浜名湖の周辺を、40分ほど自転車で走った。
あとは機会を見つけては、運動に利用している。
それでも疲れを感ずることが多い。

 そういうときは、こう聞いてほしい。
「何か、病気をしていますか?」と。
そう聞かれれば、答えやすい。
しかしそんなふうに聞く人はいない。

●寒い

 この1週間、寒かった。
「寒い」というより、「冷たい」。
冬の冷気が容赦なく、肌を刺した。

 で、問題は、寝るとき。
私の寝室は、隙間だらけの和室。
いまどきエアコンなしの部屋は珍しい。
しかし和室には、エアコンはない。
布団乾燥機で布団を暖めながら、寝る。
が、これがなかなか、よい。
まるで露天風呂か何かに入っているよう。
(布団乾燥機をもっている人は、一度試してみたらよい。
ここに書いたことに納得するはず。)

 そこでこんな電気製品を作ってほしい。

(1)基本的な構造は、布団乾燥機と同じ。(あるいは全体に、もっと細くてもよい。)
(2)温度調整ができる。(布団乾燥機では、それができない。)
(3)スイッチが切れたあと、通気性が悪くなるので、通気性のよい材質で作る。
(4)長時間タイマー付きのもの。(低い温度と弱風で、5〜7時間使える。)
(5)厚い布団でも、チューブがつぶれないもの。(細いパイプ状でもよい。)

 称して、「布団暖房機」。
コメントなどを読むと、結構、暖房の目的で使っている人が多いのには、驚いた。
「私だけかな?」と思っていた。
こんな暖房機があったら、売れるのにと、私は思う。

●幼児に小数を教えてみる

 今日は幼児教室(年長児)で、小数を教えてみた。
実験的にしてみた。
結果は、みごと、成功!
最後には、「0・3+3」の計算ができた子ども(年長児)がいた。
驚いた。
感動した。
答はもちろん、「3・3」。

 少し前は、分数を教えてみた。
最後には簡単な分数の計算もできるようになった。
で、考えてみると、学校のあのカリキュラムほど、いいかげんなものはないということ。
大切なのは、「教え方」。
それさえ工夫すれば、幼児でも、分数や小数ができるようになる。
つまり概念を理解し、それを応用することができるようになる。

 YOUTUBEの「BW公開教室」で紹介しているので、ぜひ見てほしい。
HPへは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●1月13日

 1月13日も、もうすぐ終わる。
時刻は、午後9時55分。
今日は昼寝ができなかったので、早めに床に就く。
何とも、さえない一日だった。
これという成果もなかった。
新しい発見もなかった。
よい原稿も書けなかった。

 今は、動画の編集を静かに待っている。
(編集したあとのファイル交換、結構時間が、かかる。)
YOUTUBEにUPするのは、明日の朝。
高画質版でUPすると、15分程度のビデオでも、30分ほどかかる。
7本分UPすると、それだけで3時間以上。
だから今夜は、できない。

 眠くはないが、ほどよい疲れ。
ビデオのファイル交換(レンダリング)が終わったら、今日の作業は、おしまい。
それがもうすぐ終わる。

 では、みなさん、おやすみなさい。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月14日(金曜日)

【幼児に小数は理解できるかvs教えられるか】(BW実験教室byはやし浩司)
○結果はみごとに、成功!!


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www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/"> <IMG SRC="http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/22/66/
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(1)
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(2)
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(3)
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(4)
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++++++++++++++++++++

1か月前に、「夫婦論」を書いた。
それを今日、マガジンで発表した。
ちょうど1か月前の原稿ということになる。
それを読んで、いろいろ考える。

++++++++++++++++++++

●離婚

 ある本に書いてあったが、本当に離婚する夫婦というのは、静かなものだそうだ。
会話もなく、話し合いもない。
「話し合っても無駄」と。
離婚相談所はおろか、友人や、親類にも相談しないそうだ。
夫婦でも、たがいに心が冷え切ると、そうなる。
(親子でも、そうだが……。)

 一方、家事調停などに臨む夫婦などは、調停委員の一言で、またもとのサヤに収まる
ことが多いとか。
つまり相手のここが悪い、あそこが悪いと言い合っている夫婦というのは、それほど
危機的な状況ではない、と。
別れたくないから、言い争う。

 しかし考えてみれば、不思議なもの。
親子とは何か。
夫婦とは何か。
そして家族とは何か。
考えば考えるほど、わからなくなる。
私たちは本能に操られた、ただの奴隷なのか。
となると、「私」とは、いったい、何なのか。
何だったのか。
考えれば考えるほど、わからなくなる。

●JAL(日本航空)の再建問題

 昨日の報道によれば、ANAは、売上高、乗客数ともに、JALを上回った。
ANAは、全体に20%以上伸び、半面、JALは、30%近く、落ち込んだ
(2010年)。
ふつうの会社でも、業績が10%落ち込むと、社内に異様な雰囲気が漂うようになる。
社員同士が、ピリピリし始める。
それが30%!
30%という数字は、危機的な数字と考えてよい。
会社という組織そのものが、空洞化する。
わかりやすく言えば、ガタガタ。

 そのJALに日本政府は、1兆円という税金を注いで、救済した。
借金をチャラにした。
その上さらに1兆円近い、債務保証。
もし再建問題が頓挫すれば、日本政府は、2兆円という税金を、ドブに捨てることになる。
もうメチャメチャな金額と言ってもよい。
浜松市(人口80万人)に当てはめると、約160億円の損失ということになる。
(1人、2万円で計算。)

 ……で、こうして今回のJALの一次破綻劇を振り返ってみると、結局は、
JALではなく、銀行の救済劇だったことがわかる。
JALに多額の債権をかかえていた銀行を、税金を使って救済した。
本来ならJALを倒産させ、その分の損失を銀行にかぶせればよかった。
が、政府はJALの救済と称して、銀行を救済した。
この手法は、あの日債銀の倒産時のそれとよく似ている。
あのときも、「預金者保護」という名前を使って、銀行を救済した。
本当に預金者を保護するためだけだったら、預金者だけを保護すればよかった。

 で、ここからは私の憶測。
(あくまでも憶測。)

 政府は銀行を救済する過程で、銀行とこんな話し合いをしたのかもしれない。

国「税金を使って、あなたがたを助けてあげたのだから、再建時には、また1兆円貸して
やってほしい」
銀「もうコリゴリです」
国「そこを何とか。政府保証をつけるから……」
銀「いくら?」
国「融資額の80%ではどう?」
銀「……?」
国「2年間の猶予があるから、その間に残りの20%分は、利益として吸い上げればいい」
と。

 それを知ってか知らずか、まじめに働かされる社員こそ、あわれ。
言うなれば巨大資本のために、ただ働きさせられているようなもの。
このままではJALの二次破綻は避けられそうにもない。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【孤独論】(孤独で眠られぬあなたへ)改

++++++++++++++++++++

孤独感は、強烈なストレッサーとなり、
脳内で、脳内ストレスを引き起こす。
短期的には、アドレナリンの分泌を誘発し、
動悸、発汗などの症状を引き起こす。
慢性化すると、サイトカインを分泌し、
低体温、思考力の低下、憂うつ感、
気力や性欲の減退を引き起こす。
心がバラバラになるだけではない。
免疫機能にも影響し、体内の免疫力が低下する。
もろもろの病気を誘発し、心疾患、脳疾患、
さらにはがんをも誘発する。
孤独、それにまつわる孤独感を、安易に
考えてはいけない。
孤独はまさに、「心のがん細胞」。

++++++++++++++++++++

●孤独=絶望

 仏教でも、孤独を「無間地獄」と位置づけている。
まさに地獄。
人は孤独の世界に陥ると、目に見えない業火で体中を焼かれる。
孤独ほど、恐ろしいものはない。

だれにも相手にされない。
だれにも愛されない。
だれにも理解されない。
あなたの存在を気にかける人さえいない。
あのイエス・キリストでさえ、始終、弟子たちに、「あなたは私を愛しているか?」と
問いつづけたという。

 その孤独。
闘えば闘うほど、あるいはもがけばもがくほど、キバをむいてあなたに襲いかかってくる。
また闘って、闘えるような相手ではない。
もがいたところで、どうにもならない。
最悪のばあいは、(多くの人はそうしているが)、自ら命を絶つということにもなり
かねない。
孤独は、まさに心のがん細胞。
自ら増殖し、自分の宿り主の命さえ、奪う。

 では、どうするか?

●受け入れる

 孤独もひとつの「運命」にすぎない。
私たちの体や心は、無数の目に見えない糸で、がんがらめになっている。
過去の糸、現在の糸、生い立ちの糸、社会の糸、家族の糸、仕事の糸、肉体の糸、
健康の糸、人間関係の糸、などなど。
自分で「あっちに行きたい」と思っていても、「糸」がそれを許さない。
ときに自分の望む方向とはちがった方向に、自分を引っ張っていってしまう。
こうして人には、「運命」が生まれる。
人は、常に、その運命に翻弄される。

 その運命。
逆らえば逆らうほど、運命は、キバをむいてあなたに襲いかかってくる。
「いやだ」「避けたい」と思えば思うほど、それが重荷になってくる。
が、その運命も、受け入れてしまえば、何でもない。
受け入れてしまえば、運命は、向こうのほうから去っていく。
尻尾を巻いて去っていく。
で、そのあとやってくるのは、すがすがしいほどに、さわやかな世界。
孤独も、また同じ。

●「生きたい」vs「死にたい」

 孤独との闘いは、壮絶なものとなりやすい。
それもそのはず。
「生きたい」という人間の根源的な欲望と、「死にたい」という人間の根源的な
自己否定が、孤独をはさんで、まっこうから対立する。
これほどまでにはげしい葛藤(コンフリクト)は、ほかにない。

 そもそも「生きたい」という欲望は、「死にたい」という自己否定を裏返して生まれる。
言い替えると、「生きたい」と強く思う人は、その一方で、「死にたくない」という思いと
闘う。
つまり日頃から、「生きたい」と願っている人は、それだけ「死にたい」という自己否定感
が強い人ということになる。
何も考えない人、つまりノー天気な人は、「生きたい」という思いもなければ、自己否定感もな
い。
ただその日、その日を、のんべんだらりと生きているだけ。
そういう人には、もちろん、孤独感はない。

●孤独を受け入れる

 孤独になったら、それと闘ってはいけない。
もがいてはいけない。
静かに身を横たえて、孤独に身を任す。
孤独を受け入れる。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
とたん、(多少の時間はかかるが、しかし一晩眠れば)、孤独は向こうから去っていく。
もちろん、苦しい。
が、そのうち尻尾を巻いて、去っていく。

 孤独でない人はいない。
もしあなたが「生きよう」と懸命に考えている人なら、孤独から逃れることはできない。
いつも孤独はそこにあって、あなたがそこに落ちてくるのを、待っている。
手招きをして待っている。
言うなれば、孤独は、あなたの「影」のようなもの。
どんなことをしても、その影を切ることはできない。
もちろん先にも書いたように、ノー天気な人は、別。
が、孤独は、悪いことばかりではない。

●第二の産道

 人は母親の産道をくぐり抜けて、この世に誕生する。
同じように、人は、孤独という産道をくぐり抜けることによって、真理の世界に誕生する。
孤独は、まさに第二の産道。
孤独の苦難をくぐりぬけた人だけが、真理の世界に到達することができる。
そこは、まさに安穏の世界。
愛と慈悲にあふれた、やすらぎの世界。

 言うなれば、孤独は、その産道の前にたちはだかる衛視のようなもの。
簡単には、その道を通してくれない。
それが「苦しみ」ということになる。
だから苦しむことを恐れてはならない。
苦しむことを、「結論」と考えてはいけない。
それが「終わり」と考えてはいけない。
絶望の、そのまた絶望の淵に叩き落とされたとき、はじめて真理は姿を現す。

 方法は、簡単。
静かに身を横たえる。
闘ってはいけない。
もがいてもいけない。
静かに身を任す。
そしてこう居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。

●孤独でない人はいない

 孤独でない人はいない。
「生きよう」と懸命に努力人に、孤独でない人はいない。
だから雑音は無視する。

 派手な人づきあい。
派手な交友関係。
派手な活躍。
地位や肩書き、見栄えや世間体。
そういう世界に溺れている人は、あわれんでやればよい。
そういう人たちは「私は孤独ではない」と、虚勢を張っているだけ。
自分をごまかして生きているだけ。

 だから孤独であることを喜ぼう。
それはまじめに生きているという「証(あかし)」。
けっして恥ずべきものでも、隠さなければならないものでもない。
「私はさみしい」「私は孤独」と、声を出して言えばよい。
それが人間のあるべき本来の姿。

 マザーテレサも、「イエス・キリストは孤独だった」と看破している。
マザーテレサ自身も、孤独だった。
そしてイエス・キリストも、マザーテレサも、それぞれが、その孤独を乗り越え、
その向こうに真理を発見した。
 
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はやし浩司 孤独論 孤独とは 孤独と闘う 孤独な人へ 絶望 絶望感 運命論)


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【年中児に時計の読み方を教える】(実験教室byはやし浩司@BW子どもクラブ)
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【1】

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【2】

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【3】

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【4】

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●映画『ぼくが結婚を決めたワケ』(1−16)

+++++++++++++++++++

午前中、街へ行く用事があったので、そのついでに
劇場で映画を観てきた。
『ぼくが結婚を決めたワケ』というのが、それ。
軽いタッチのホームドラマ風の映画。
気楽に観る映画ということで、星は2つの★★。
気軽に楽しめた。

で、映画を観たあと、ワイフとこんな話し合いをした。
もし友人の妻が浮気をしていると知ったら、
どうするか、と。

ワイフは、「よく考えて、ケースバイケースね」と。

映画も、親友の妻の浮気がテーマになっている。
親友の妻が、若い男生と、浮気を重ねている。
それを知ったその男は、親友に告げるべきかで、苦しむ。
悩む。
『ぼくが結婚を決めたワケ』というのは、そういう映画。
で、あなたならどうするだろうか。
親友の妻が、若い男生と浮気をしているのを知ったら、
あなたはどう考えるだろうか。
どう行動するだろうか。

が、ここでひとつ誤解してはいけないことがある。
映画の中では、「浮気」がテーマになっている。
親友の妻の浮気をからませながら、ストーリーが
展開していく。
が、本題は、「誠実さ」。
浮気の前提として、夫はどこまで妻に誠実で
あるべきか。
友は親友に、どこまで誠実であるべきか。
(当然、誠実であるべきだが……。)

浮気の問題は、あくまでも、その結果として、
自然に処理されるべきもの。
その「誠実さ」に、英語国では、たいへんシビア。
「ウソ」をたいへん、嫌う。
「ウソも方便」と考える日本人とは、ここが
大きくちがう。
「本音と建て前」にしても、そうだ。

そのあたりのちがいをよく知った上でこの映画を観ないと、
日本人の私たちには、この映画は理解できないだろう。
「どうしてここまで?」となってしまうだろう。

さらに言えば、「誠実さ」を問題にしない日本人に
してみれば、「浮気」は、それほど重大事ではない。
ただの「浮ついた遊び」。
今でもバーやクラブで遊ぶ程度なら、浮気ではない。
そう考える男たちは多い。
戦前まで、男たちは愛人の数によって、「力」を競った。
そういう名残は、今でも日本のどこかに残っている。

一方、夫の浮気を知りつつ、体面を重んじる女性は多い。
「家庭」とか、「家族」とか、形にこだわる。
つまり「夫の浮気、即、離婚」と考える女性は、少ない。

総じて言えば、日本人の辞書には、「誠実」という言葉がない。
だから平気でウソをつく。
表面(おもてづら)を裏面(うらづら)を使い分ける。
しかしこうした二面性というのは、日本以外では理解されない。
「奇異なる民族」という言葉も、そこから生まれた。

「どうして白人は、浮気ごときでこうまで大げさに
騒ぐのか」と。
この映画を観て、もしあなたがそう感じたら、
あなたもその「奇異なる民族」の1人ということになる。

++++++++++++++++++++

●浮気

 私は浮気をしている「男」を信用しない。
妻でさえ、平気で裏切っている男である。
友人を裏切ることなど、何とも思っていない。
だから信用しない。
浮気をしていると知ったときから、一線を引く。

 が、中には、バカ(養老孟司の言葉)がいる。
平気でこう言う。
「なっ、林、若い女はいいぞ。いっしょに遊びに行くか?」と。
半ば得意げに、そう言う。
だからバカ。

 しかしそうした常識をひっくり返したのが、小説『マディソン郡の橋』。
それについて書いた原稿がある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●母親がアイドリングするとき(中日新聞発表済み) 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。

結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃
に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と
何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏
は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」へ
の執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、い
つまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが
新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進
む。方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それで
また風は吹き始める。人生は動き始める。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●真剣かどうか?

 見た目には「浮気」でも、真剣かどうかで、中身は変わる。
「真剣」というのは、内なる「生」に基づいているかどうかということ。
「生」が発する叫び声に基づいているかどうかということ。
それがあれば、浮気は浮気ではない。
そのよい例が、R・ウォラーの『マディソン郡の橋』ということになる。
映画『マディソン郡の橋』を観てみるのもよい。

もしそれさえ「悪」と否定されてしまったら、人間は人間でなくなってしまう。
だから私はときどき、こう言う。
「どうしても浮気をしたかったら、命がけでしたらいい」と。
そう、命がけ。

 それができないようであれば、やめたほうがよい。
夫や妻への誠実さを優先させ、ぐいとがまんする。

●最初の命題

 さて、最初の命題。
親友の妻が浮気をしていると知ったら、あなたはどうするか。

 実のところ、私は今までそういう経験を数度、している。
親友ではないが、近い知人である。
で、私のばあいは、今までそうした事例を、黙認というか、無視してきた。

 バカな伯父がいて、私に彼の愛人を自慢げに紹介してくれたこともある。
あるいはある会社の社長に呼ばれて、小さな割烹へ行くと、そこにその社長の愛人が
同席していたこともある。

 が、そのつど私は、こう考えた。
「へたに騒いで、ことを荒立てたくない」と。

 が、親友だったら、どうか。
もっとも親友といっても、数名程度しかいないが、そういう親友の妻が浮気をしていると
知ったら……。

 やはり映画の中にもあったように、まず最初に、親友自身にではなく、浮気をしている
妻に警告するだろう。
「あなたの夫のために、浮気をやめなさい」と。
親友に告げるかどうかは、そのあとの状況による。
それで妻が浮気をやめたのなら、そのままにしておく。
が、それでもやめなかったら……。

 そのあとの展開は、映画のストーリーと同じになるだろう。
言い替えると、映画『ぼくが結婚を決めたワケ』は、そういう意味では、たいへん常識的
な映画ということになる。
(あくまでも私の常識に照らし合わせて……という意味だが。)

●本能の奴隷

 ともあれ、その映画を観ながら、こう考えた。
「みな、本能の奴隷だな」と。

 私のように本能、つまり性欲から解放されつつある人間からみると、どの人も、本能の
奴隷のように見える。
本人たちは意識していないかもしれないが、まさに奴隷。
奴隷となって、ドタバタ劇を演じているだけ。
「私」と思い込んでいるだけで、その実、「私」はどこにもない。

 若い人たちにこんなことを言っても、理解されないだろう。
「私は私」と思い込んでいる。
思い込んだ上で、行動している。
恋愛にしても、それにつづく結婚、育児にしても、そうだ。
が、それが無駄とか、虚しいとか言っているのではない。
私が言いたいのは、その逆。

 つまり本能の奴隷であるがゆえに、そこから無数のドラマが生まれる。
私たちがなぜ、今、ここで生きているかと言えば、そのドラマに価値を見出すからである。
もしあの映画『タイタニック』に、ジャックとローズが出てこなかったら、あの映画は
ただの船の沈没映画で終わってしまっていたはず。
あの映画を観て涙を流す人はいなかっただろう。
言い替えると、それが本能に基づくものであれ、何であれ、「真剣さ」こそが大切。
その真剣さが、ドラマを、光り輝かす。
人間が織りなす無数のドラマを、光り輝かす。
『マディソン郡の橋』を観れば、それがわかる。

 その真剣さについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞発表済み)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている
から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わってい
た……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の
中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちに
はすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一
杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違
いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからない
のではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。
生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意
味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもっ
て言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪その人はどこにいる。私
たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこにいる」と。

それから30年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだした。生のむなしさを
感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きること
そのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエール
はこう言う。

「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第五編四
節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画「フォレスト・ガンプ」の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」
と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に
生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。

言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も希望もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生きる意味などわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様でしか
ない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は、何も生まれ
ない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 今を生きる 高校野球 はやし浩司 マジソン郡の橋 マディソン郡の橋 ドラマ
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【年長児・指導、1年8か月の幼児クラス】

●笑えば子どもは、伸びる!

 「笑い」を大切にし、指導させてもらっています。
そんな雰囲気を、このビデオの中で感じ取っていただければ、うれしいです。
なお現在、4月生を募集しています。
興味のある方は、上記、「はやし浩司のメインサイト」より「BW教室案内」へ
おいでください。
お待ちしています。





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Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

3月号相談事例

相談(1)小学6年生の母親から
 長女は几帳面な性格で、宿題もきちんとするし、忘れ物もしないしっかりした子なのですが、
もう少し自分の意見をみなの前で言えるような積極性を身につけてほしいと思います。
 報道で社会の状況がますます厳しくなることを知るにつけ、この子の将来を考えると、このま
までいいのか考えてしまいます。何かできることはないでしょうか?


A:私の母は、いつもこう言っていました。『上見てキリなし、下見てキリなし』と。子どもはすでに
思春期に入っています。この時期は、子どもの良い点だけを見、それを伸ばすことだけに心が
けます。欠点を指摘すれば、役割混乱が起き、自我の確立に失敗します。結果として自己評
価力の低い子どもになり、「まだ以前の方が良かった…」を繰り返しながら、「下へ、下へ」と向
かってしまいます。親子の間に、大きなキレツを入れることにもなりかねません。
 文面から判断するかぎり、すばらしい子どもです。『まじめにまさる美徳なし』。むしろ心配な
のは、不安先行型(=取り越し苦労型)のあなたの育児姿勢です。恐らくその姿勢は、長女を
妊娠したときからつづいていると考えられます。その結果が、「今の状態」ということになりま
す。ではどうするか。
 最初は言いにくくても、「うちの子はすばらしい」を、みなの前で繰り返し言ってみてください。
その言葉はやがて第三者を経て、子どもの耳に入ります。直接、子どもの耳に入るよりも、は
るかに効果的です。これを「ウィンザー効果」といいます。またこうすることによって、それが「パ
ブリック・アナウンスメント(公的宣言)」になり、あなた自身の心を作り替えることもできます。
 で、6年後、10年後の心配はしないこと。まず「今」できることを、懸命にします。「結果」はか
ならず、あとからついてきます。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どもの将来 不安 積極性 子供の積極性)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


相談(2)中学3年生の父から
 入試を控え、合格に向けてがんばっている息子。しかし志望している高校は、少し背伸びをし
て届くかどうかという学校を選びました。
 受験する高校を選んだのは本人だし、親としても本人とよく相談したことなので、合格を信じ
て応援しています。でももしものとき、親はどういう態度を取ったらいいのかを考えると、憂うつ
です。どうしたらいいでしょうか?


A:憂うつになって当然です。憂うつにならない親はいません。そこで大切なことは、視野を広く
もつ、です。そこに健康な子どもがいる。元気で生きている。そこを原点に考えれば、子どもの
受験など、腸から出るガスのようなものです。賢明な人は、その価値を失う前に気づき、そうで
ない人は、失ってから気づきます。健康しかり、青春時代しかり、そして子どもの良さも、またし
かり。
 で、相談の件。子どもの受験はすべて、「不合格のときを考えて準備する」です。そのとき親
はどのように対処し、子どもの心を守るか。いかに心の傷(トラウマ)を最小限に抑えるか。そ
れを今から準備します。ポイントは子どもとともに、どうそれを乗り越えていくか、その道筋を、
あなた自身が用意しておく、です。方法は簡単です。親ではなく、子どもの「親友」として、子ども
の横に立ちます。それができれば、つぎの行動は自ずと決まってきます。
 なお、あなた自身もそうであったように、子どももまた、挫折し、失敗し、そのつど傷まるけに
なりながら、よりたくましくなっていきます。親としてはつらいところですが、その苦しみに耐える
のも、親の仕事のひとつです。恐れないこと。逃げないこと。
 あとは子どもに任せます。合格すれば祝い、そうでなければ、おいしいものでも食べて忘れま
す。それがドラマ。そのドラマの中にこそ、生きる意味や価値が隠されています。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子供の受験対策 子どもの受験への心がけ 準備 親の対処の仕方 親の心構
え 受験競争 はやし浩司 不合格 合格)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月19日

●不良老人

 ワイフは、私たち夫婦のことを、ときどき、
「不良老人」と呼ぶ。
行動が、昔で言う「不良」のそれだかからである。

夜な夜な、遊び回っている。
気が向いたら、即実行。
深夜映画を観て、そのままビジネスホテルに。
これには理由がある。
自宅に帰っても、寒い。
寒いというより、「冷たい」。
暖房機をONにしても、暖かくなるまでには
時間がかかる。
だから「どこかに泊まっていこうか?」となる。

 浜松市内では、一泊3000円(1名分)で
泊まれる。
セミダブルの部屋だと、朝食付きで、
5500円(2名分)。
部屋に入ったら、暖房をがんがんつける。

安いというか、この業界でも、価格破壊が起きている?
利用者の私たちにはありがたい。

●今朝は、5時起き

 昨夜はワイフは、ふとんの中でDVDを観ていた。
私は反対側を向いて、PSPを相手に将棋を指していた。
電気を消すとき時計を見たら、午前0時。

 そのせいか、あまりよく眠られなかった。
トイレに起きたのが、午前4時。
1時間ほどふとんの中でがんばってみたが、そのまま頭が冴えてしまった。
再び時計を見たら、午前5時。
で、起床。
書斎へ。
途中、台所を通ると、パン焼き機(ホームベーカリー)が、ゴトゴトと音を立てていた。
気になって中を見ると、パンの生地をこねているところだった。

 「こんな朝早くから、仕事をしている!」と、へんに感心した。

●キジバトの餌

 数日前、餌を切らした。
この数日、餌をまいてない。
そのせいか、キジバトが一羽、終日、キーウィの木の上でじっとしている。
餌を待っている?
去年の秋(ほんの数か月前)に、生まれた雛である。

 餌はいつも近くの農協で買っている。
農協で買うと、10キロ入りで、1700円前後で買える。
今日の午後、買いに行くつもり。
しかし……。

 野生の鳥を餌付けするのは、よくない。
それはよく承知している。
依存性ができてしまい、自立できなくなってしまう。
で、餌の量を減らすなどの方法で、自分なりに考えている。

しかしこのところ、野鳥の数がめっきりと減った。
スズメなどは、10分の1程度になってしまった。
今ここで餌付けをやめたら、このあたりから野鳥は、本当にいなくなってしまう。
それもまた、さみしい。

●Eマガ 

 このところEマガの配信が、乱れている。
「配信終了」のメールは届くが、実際には配信されていない。
そこで「再配信版」を、配信する。
が、それも配信されない。

 ……で、今朝(1月19日)は、1月17日号と、1月19日号の2号を、再々度、
配信してみた。
で、それはうまくいった。
数分もたたないうちに、Eマガが、メールボックスに入った。

しかし……?
理由も原因もわからない。
以前、Eマガ社に問い合わせたが、返事はなし。
いつも無料で配信してもらっているため、文句は言えない。
そのつど、手動で対処するしかない。

【Eマガ読者のみなさんへ】

 そんなわけで、できれば、Eマガからメルマガに乗り換えてください。
こちらも無料です。
メルマガの申し込みは、私のメイン・ホームページからできます。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 なおメルマガのほうでは、今年も、人気投票で第1位(カテゴリー別部門)を受賞
した。
投票してくれた読者のみなさん、ありがとう!

●花粉症

 今年はまだ1月というのに、花粉症による症状が出てきた。
ときどきクシャン、クシャンと、はげしいクシャミが出る。
新聞報道などによれば、今年の花粉の飛散量は、例年の数倍以上になりそう、とか。
昨年(2010)の夏の猛暑の影響らしい。

ユーウツ!

 私のばあい、シソの葉エキスがよく効く。
初期の段階で、やや濃いのを、空腹時にのむ。
最初の1週間ほどで症状は、そのまま消える。
今日あたり、それを買ってくるつもり。

 そういう私でも、若いころは花粉症に苦しんだ。
一時は、沖縄への移住を本気で考えた。
沖縄には、杉の木やヒノキがない。
それでそう考えた。

Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
はやし浩司 2011−01−19

【BW子どもクラブ】(中日ショッパー紙・2011年1月号より)

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>




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Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●自由と孤独(父親の存在とは?)「父子論」byはやし浩司

++++++++++++++++++

昨日も介護に疲れた息子(50代)が、
父親(80代)を殺すという事件が起きた。
痛ましい事件である。

こういう事件を見聞きすると、介護の経験の
ない人は、「どうして?」と首をかしげる。
私もそうだったし、今のあなたもそうかも
しれない。

しかし「介護」のもつ重圧感には、相当な
ものがある。
それはいつ晴れるともなく綿々とつづく、
曇り空のようなもの。
被介護者との間に良好な人間関係があれば、
まだ救われる。
が、それがないと、「介護」はとたん、巨大な
重石となって、あなたを押しつぶす。

それはそれとして、つまり介護の問題は別として、
息子が父親を殺した。
ここに焦点を当てて、今朝は、父親と
子ども(息子や娘)、つまり「父子論」について
考えてみたい。

++++++++++++++++++

●自己評価力

 ほとんどの人は、「私はふつう以上の、ふつうの人間」と思っている。
少なくとも、平均以上の人間と思っている。
自分のことを客観的、かつ正確に知る人は少ない。
さらに、ほとんどの親は、「私はふつう以上の、ふつうの親」と思っている。
ここでは親といっても、「父親」に的をしぼって考えてみる。
つまりこと、父親に関して言うなら、少なくとも、平均以上の父親と思っている。
自分のことを客観的、かつ正確に知る人は少ない。

 が、まわりの人たちは、あなたを「ふつうの人」とは思っていない。
あなたの子どもたちは、あなたを「ふつうの父親」とは思っていない。
このことはいろいろな調査結果を見ても、わかる。

 以前「断絶」という題で、それについて書いたことがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●断絶とは

 「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないな
どがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、
わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になる
と、家族がその機能を果たさなくなる。

親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即
発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親
で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こうい
う状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子ども
はそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。

 しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認め
あわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は5
5%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青
少年白書』平成10年)。

もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論した
り、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ
親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の
何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまれば
そのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、
今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。

 日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。た
とえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家
族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入っ
てくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。

価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきでは
ないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の
大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあ
い、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべ
てマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えては
いけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●79%!

 この原稿の中で、とくに注意してほしいところは、つぎ。

……「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成
10年)……。

 あなたはこの「55%」「79%」という数字をどう読むだろうか。
さらに一言、付け加えるなら、この中には、「父親を軽蔑している」という調査項目がなか
ったのは、なぜか?
言うまでもなく、総理府(現在の内閣府)の調査では、そこまではできなかった。
つまり「父親を尊敬していない」の中には、当然、「父親を軽蔑している」という子どもも、
多数含まれる。

 さらに言えば、100−79=21%の子どもが、「父親を尊敬している」という
ことにはならない。
「何とも思っていない」という子どもが、大半と推定される。

 つまり父親の存在感は、きわめて薄い。
父親の立場は、きわめて弱い。
しかしほとんどの親(父親)は、「私はだいじょうぶ」と高をくくっている。
つまり自己評価力は、その分だけ、きあめて低い。

 そこで私は、この数字を、逆にこう読む。
「父親というのは、そういうもの」と。
あのフロイトも、「血統空想」という言葉を使って、それを説明している。
それについて書いたのが、つぎの原稿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●父親・ヨセフ   

●今朝・あれこれ(2007年11月19日)

++++++++++++++

昨夜、どこか風邪っぽかった。
が、外食。大きな店だったが、
暖房があまりきいていなかった。

肉料理を久しぶりに食べたが、
家に帰ると、悪寒。薬をのんで、
そのまま就寝。

ところで、この土日に、2本の
DVDを見た。

『敬愛なるベートーベン』と、
『ドレスデン』。ともに、すばらしい
映画だった。

学生のころは、毎年、第九交響曲を
歌っていた。映画を見ながら、
いっしょに合唱。涙、ポロポロ。
『敬愛なるベートーベン』は、
星は4つの、★★★★。

もう1本の『ドレスデン』も、
星は4つの、★★★★。2時間半もの
大作なので、じっくりと構えて見るの
がよい。

ドイツも、このところ、すばらしい
映画を制作するようになった。
CGも、ハリウッド映画に追いついた
という感じ。

よかった! 感動した!

ほんとうは、どれも星は5つかも
しれない。乱発すると価値が
さがるので、あえて、星は、
4つにした。

++++++++++++++

●ヨセフ

 今度、キリストの父親のヨセフをテーマにした映画が、劇場で公開されるという。公開されしだ
い、ワイフと見に行くつもり。ワイフは、たいへん楽しみにしている。

 チラシには、こうある。

 「あの日、ヨセフがマリアを信じなければ、あの時、ふたりが大王による虐殺から逃れえなけ
れば、キリストは誕生しなかっった」と。

 キリスト教会の中には、「聖ヨセフ教会」というのもあるが、全体としてみると、父、ヨセフの影
は薄い。マリア像をかかげる教会は多いが、ヨセフ像をかかげる教会は、ほとんど、ない。

私は、若いころから、教会へ行くたびに、それを疑問に感じていた。そういう疑問をベースに、
以前、いくつかの原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++

●育児に参加しない父親

Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかか
ってきます。

A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうではな
い。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だったかもしれ
ない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。

ある女の子(小5)は母親に、こう言った。「どうしてあんなパパと、結婚したの。もっといい男の
人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考えれば、母親が別の男性と結婚していたら、そ
の子どもは存在していなかったことになるのだが…。

 そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方をす
る。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親のヨセフ
は、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?

 これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、そ
の一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約30%の夫は、家事をほとんどしてい
ない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。

 そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親にしても
らう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」と。決して男尊
女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親なら、私はその反対
のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬しあうことをいう。まちがっ
ても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とくに子どもの前では、してはいけない。

 こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、母親
の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女性(32歳)
は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑していた。原因は、
その女性の母親にあった。

 母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父親は、
まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親を、「甲斐性
(生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?

 これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過渡期
にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約30%の若い夫は、育児はもちろん、炊事、
洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。

 …というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を張って
いる。あせらず、じっくりと構えること。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●母親の役目

 子どもにとって、自分と母親の関係は、絶対的なものだが、しかし自分と父親の関係は、絶
対的なものではない。「母親から生まれた」という実感はあるが、「父親から生まれた」という実
感は、もちにくい。だからたいていの子どもは、自意識(だいたい10歳前後から)が発達してく
ると、父親との間に、一定の距離を置くようになる。「ひょっとしたら、自分は父親の子どもでは
ないかもしれない」と思う子どもも少なくない。

ある男の子(小5)は、こう言った。「ママが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、も
っと幸福になれた」と。

 こういうケースでは、「パパが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福にな
れた」とは、言わない。中には母親に向かって、「どうしてあんなパパと結婚したの!」と、迫る
子どもさえいる。理屈で考えれば、もし母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは、絶対
に生まれていなかったことになるのだが……。

 このことは、子どもと母親の結びつきを理解するには、たいへん重要なポイントとなる。わか
りやすく言えば、子どもと母親のつながりは、父親のそれよりも太いということ。もちろん中に
は、そうでないケースもあるが、少なくとも、子どもの側からみると、太い。だから父親と母親
が、けんかをすると、特別の事情がないかぎり、子どもは、母親の味方をする。歌にしても、母
親をたたえる歌は多いが、父親をたたえる歌は少ない。

 たとえば窪田聡氏が作詞した、『かあさんの歌』にしても、森進一氏が歌う、『おふくろさん』に
しても、母親をたたえる歌である。「♪母さんは、夜なべをして……」とは、歌うが、同じように苦
労をしている父親に対して、「♪父さんは、夜なべをして……」とは、歌わない。

最近、演歌歌手のK氏が、父親をたたえる歌を歌いだしたが、そういう歌は例外と考えてよい。
つまり母親というのは、どこかたたえやすいが、父親というのは、どこかたたえにくい?

 このことと関連しているのかもしれないが、たとえばキリスト教でも、聖母マリアをたたえる信
者は多いが、父親ヨセフをたたえる信者は少ない。実のところ、これがこのエッセーを書き始
めたヒントになっている。昨夜ワイフが、ふと、「どうしてヨセフは影が薄いのかしら?」と言った
のが、きっかけになった。

 話が脱線したが、つまり子どもの側からみたとき、父親と母親は、決して対等ではない。子ど
もにとって母親は、父親以上に、特別な存在である。幼児でも、「お母さんがいないと、どんなこ
とで困りますか?」と質問すると、つぎつぎと答がかえってくる。しかし「お父さんがいないと、ど
んなことで困りますか?」と質問すると、とたんに、答が少なくなる。

 そこで母親は、このアンバランスを、子育ての場で、調整しなければならない。そして結果とし
て、子どもの側から見たとき、父親と母親が、等距離にいるようにしなければならない。この仕
事は、父親ではできない。それをするのは、母親自身ということになる。

方法としては、母親の立場をよいことに、母親だけが親であるというような押しつけはしないこ
と。もっと言えば、家庭教育の場で、父親の存在を、いつも子どもに感じさせるようにする。「こ
れは大切な問題だから、お父さんに判断してもらいましょうね」「お父さんががんばってくれるか
ら、みんなが安心して生活ができるのよ」とか。

 決して男尊女卑的なことを言っているのではない。賢い母親なら、そうする。たがいに高い次
元に置き、尊敬しあうことを、「平等」という。もちろんこの文章を読んでいるのが父親なら、そ
の反対のことをすればよい。

 しかし、なぜ私がこのエッセーを書いているかについては、もう一つの理由がある。それは
今、父親の存在感が、ますます薄くなってきているということ。これに対して、「父親の威厳を回
復せよ」という意見もあるが、今は、もうそういう時代ではない。「威厳論」をもちだしても、子ど
も自身が従わない。そこでここでいうように、「たがいに高めあう」という意味での、平等論という
ことになる。

 またまた話が脱線したが、家庭教育においては、いかにして子どもと父親のパイプを太くする
かが、重要なテーマと考えてよい。またその努力を怠ると、家族そのものが、バラバラになって
しまう。話せば長くなるが、問題行動を起こす子どもの家庭ほど、父親の存在感が薄いことが
知られている。

もっとはっきり言えば、母親だけでは、子育てはできないということ。できなくはないが、失敗す
る確率は、ぐんと高くなる。そのためにも、子どもと父親のパイプは、今から太くしておく。そして
それをするのは、母親の役目ということになる。
(03−1−5)

【追記】
 よく父親の教育参加が話題になるが、それはここにも書いたように、そんな単純な問題では
ない。父親が、「では、私も子育てに参加してみるか」と思うころは、すでに手遅れ。問題の
「根」は、もっと深い。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●父親、ヨセフ

●存在感の薄い、ヨセフ

 イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。一説に
よると、そのときヨセフは、マリアと婚約関係にはあったが、マリアとは性的関係はなかったとさ
れる。また一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせたが、ヨセフには、知
らせなかったという。さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の子としての活動を始める前に、死
んでいる。ここでキリスト教、最大の謎にぶつかる。父親ヨセフは、では、いったい、何であった
のか、と。

 この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。私のよう
な門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を先に進めてみた
い。

●母親は絶対

 母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的な方
法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの関係は、母
親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」の関係にすぎない。
このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。

 たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そればか
りか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」という疑いを
もつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさわしい人物にちが
いない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。

 実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気にさえな
れば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一方、女に
は、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。

もし男も女も、同等の快感であったとするなら、女はセックスなどしないだろう。そのあと予想さ
れる「重荷」を考えたら、とても割にあわない。たとえば男というのは、そのセックスの途中であ
っても、冷静に、女の反応を楽しむことができる。しかし女はそうではない。無我夢中というか、
我を忘れてセックスの快感に酔いしびれる。

またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深い。恐らく長い間
の進化の過程でそうなったのだろう。つまり女にとっての快感は、そのあと予想される「重荷」
を忘れさせるほど、すばらしいものであるらしい。またそれがあるから、女も、あと先のことを考
えることなく、セックスに没頭することができる?

 となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理することはでき
る。

●親は、母親だけ?

 人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代において
は、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形ができたの
は、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、母親でしかなかっ
たのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、如実に示されていると
考えられなくもない。

 で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存在するこ
とがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれを克服した崇高
さを、ことさら美化している。

しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が確立した、「現代」から見た
視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛盾する。おかしい。おかし
いから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?

 しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことながら、
家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考える家族観、…
…つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、異質のものであっ
たと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」中心の家族観に改めら
れたのは、戦後のことである。

●母親と父親は平等ではない?

 こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、同一のも
のでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子どもに対する意
識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の子どもではない」と
疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見ながら、「ひょっとしたら、この
子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。そしてそれがちょうどカガミに映さ
れるかのように、子どもの心となる。

 つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念は、ずっ
とあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、一夫一妻制度が
確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、まさに「精液一しず
く」。

 そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考える。父
親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、子どもの意
識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を吸う子どもはいな
い。

●母親は父親を立てる

 で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父親と子
どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、(1)子どもが父親と
の関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと自体、すでに、父親と
子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。

 つぎに(2)母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在を高め
る。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というのは、互いに相手
を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。「大切な判断は、お父さ
んにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。そういう姿勢を通して、子ども
は、父親像を学ぶ。身につける。

●父親ヨセフの苦悩

 こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストをもうけるために
マリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなかったのではということ
になる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうをみるなら、だれでもよかった? 
……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を冷静に積み重ねていくと、そうなる。ある
いは、あなたがヨセフならどうだったかという視点で考えてみるとよい。

 妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつめる
と、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。そういう状
況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。

ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗り越えたところに、父親ヨセフの偉大さがある」
というような論陣を張るが、それはあくまでも結果論。結果的に、イエス・キリストが、偉大な人
物になったから言えることであって、そうでなかったら、そうでなかったであろう。

 いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、おそらく母親
のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と聞かされていた。イ
エス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を感じなかったのか。あるいは
それこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかったのか? 

 「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教会では、マ
リア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑問をもったのがきか
っけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこかの教会へ行ったときにで
も、じっくりと考えてみる。
(03−1−15)

++++++++++++++

 「マリア」のチラシの裏面には、こうある。

 「本作は、神学、歴史、政治、社会、文化などのあらゆる専門家の協力を得て、マリアとヨセ
フ、そしてキリスト誕生までの物語を、忠実に再現。突然、神からの啓示を受けた若いふたり
がどのように困難を乗り越え、お互いの親愛を築いていったのか? そしてクリスマスの本当
の意味とは……」とある。

 映画が楽しみだ。

 そうそう、ほかに、ニコラス・ケイジ主演の、「ナショナル・トレジャー」と、アンジェリーナ・ジョリ
ー主演の、「マイティ・ハート」も封切りになる。ワイフは「みんな見に行く」とがんばっているの
で、つきあうつもりでいる

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 フロイト 血統空想 マリア ヨセフ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●父親と子ども(息子と娘)

 自分という人間が、他人にどう評価されているか、それを知る能力が、「自己評価力」
ということになる。
その力がある人ほど、自分を客観的に見つめる能力をもっている。
(あるいは、その逆でもよいが……。)

 が、こと「父親」に関していうなら、子どもにどのように評価されているか、それを
客観的に評価できる父親は、いない。
そのヒマもない。
余裕もない。
家族や生活を支えるだけで、精一杯。
だから父親は、「自分」をそのまま、ストレートに子どもたちにぶつけてしまう。
私もそうだったし、今のあなたも、そうかもしれない。

 だからといって、今ここで、「子どもたちの視点で、もう一度、自分を見つめなおして
みよう」などと、提案するつもりはない。
はっきり言えば、そんなことは、どうでもよい。
先にも書いたように、父親というのは、そういう存在。
「嫌われて当然」という存在。
それがわからなければ、一度、あなたの周囲を見回してみればよい。
あなたの周囲で、父親と子ども(息子や娘)が、仲よく、「友」の関係にある人は
いるだろうか。
私にも、60数名近い、いとこたちがいるが、父親と子ども(息子や娘)が、うまく
いっている親子は、ほとんどいない。
「ゼロ」と断言してもよい。

★父親が心筋梗塞で倒れても、見舞いにいかない。
★同居して40年になるが、たがいに口をきかない。
★生まれてこの方、父親と会話らしい会話をしたことがない。
★離婚したあと、父親には一度も会っていない。
★仏壇を開いて、手を合わせたこともない、など。

 だからといって、そういう、いとこたちを責めているのではない。
私自身も似たようなもの。
私の息子たちも似たようなもの。
言い替えると、「子ども(息子や娘)に好かれよう」「尊敬されよう」と考えても無駄。
子どもたちはさらにその向こうで、「父親のようになりたくない」と考える。
いかにあなたが、平均以上のすばらしい父親であっても、だ。

 だからわかりやすく言えば、こういうこと。
「あなたの知ったことではない。
父親の役目を果たしたら、さっさと子どもたちから去ればよい」と。

●パラドックス

 どこの家庭も、表面的には、うまくいっているように見える。
しかしそれは「表面」だけ。
どこの家庭にも、それぞれ問題がある。
問題のない家庭は、ない。

 ただ残念なことに、今の若い夫婦(父親と母親)は、不幸な家庭、あるいは生活の
苦労というものを知らない。
つまりそうした不幸や苦労を受け入れる度量が、きわめて狭い。
小さい。
だから父親の(父親にかぎらないが)ささいな欠点をとらえては、おおげさに騒ぐ。
(してもらったこと)を忘れ、(ないものねだり)に始終する。
「私の父親は、ここが悪い」「あそこが悪い」と。

 が、これだけは忘れない方がよい。
私も若いころ、私の父親を、そういう形で批判した。
つまり今度は、やがてあなた自身も、そういう形で批判される。
いかにあなたが「私は完ぺきな父親」と思っていても、だ。
つまりそこに自己評価力の、落とし穴がある。

 たとえばひとつの例として、「寝る前の読み聞かせ」を取りあげてみる。

●読み聞かせ

 私は戦後生まれのあの時代の人間である。
父親に本を寝る前に読んでもらったという経験がない。
母親にもなかったと思う。
記憶には、ない。

 で、そういう私が父親になった。
子どもを3人、もうけた。
が、世代連鎖というのは、恐ろしい。
無意識のうちにも、親は、自分が受けた子育てを再現する。
よい再現なら、問題はない。
しかしそうでない再現もある。

 私は3人の息子たちに、寝る前に読み聞かせをしてやったことは、一度もない。
そういう習慣そのものがなかった。

 で、たとえば、(実際に、息子たちがそう不満を漏らしているわけではないが)、
息子の1人が「パパは、ぼくたちが子どものころ、寝る前に読み聞かせをしてくれ
たことがない」と言ったとする。
息子たちは外国の映画を見、外国にはそういう習慣があることを知ったらしい。
が、この日本には、なかった。

 そういうふうに言われたら、この私は何と答えればよいのか。
まさか「ごめん」とは、言えない。

 で、息子たちは結婚し、子ども(孫)をもうけたとする。
そして自分がしてほしかったことを、子ども(孫)にする。
寝る前に、ベッドで横になり、本の読み聞かせをしてやる。
いつか見た、あの「映画」のように、だ。

 で、ここで一件落着。
めでたし、めでたし……ということになる。
息子たちは、私ができなかったことをし、親子(息子と孫)の絆を深める。
よい親子関係を築く……と書きたいが、ここで待ったア!

 本当に、それでよい親子関係を築くことができるだろうか?
答は、「NO!」。
たぶん息子たちの子ども(孫)は、いつかこう言うにちがいない。

「パパは、毎晩、頼んでもいないのに本を読み聞かせ、ぼくたちを眠らせてくれ
なかった」と。
わかるかな?
このパラドックス?

 私は私で、私の思いがあって、子育てをした。
その第一、息子たちには、ひもじい思いだけはさせたくなかった。
貧乏の恐ろしさは、いやというほど、身にしみている。
大学の学費についても、これまた惜しみなく注いだ。
自分がしたような苦労だけは、させたくなかった。
私は毎月、実家から、下宿代しか送ってもらえなかった。
が、そういう思いというのは、息子たちには、伝わらない。
伝わらないばかりか、(実際に、そう言っているわけではないが)、息子たちは、
たぶん、こう思っているにちがいない。

 「パパは、毎日仕事ばかりしていて、家族を顧みなかった。そのため家族はバラバラ
だった」と。

●決別

 子離れとは、結局は、依存性との決別を意味する。
相互依存と言い替えてもよい。
この依存性があるかぎり、「父親というのは、さみしい存在」ということになる。
が、ひとたび依存性を断ち切ってしまえば、あとは楽。
目の前の道が、パッと開ける。

 つまり宝くじと同じ。
当たればもうけもの。
父親と子どもの関係も、またしかり。
たまによいことがあれば、もうけもの。
そう考えて、当たることを期待してはいけない。
また当たろうと努力しても、無駄。
こと、父親と子どもの関係について言えば、当たらなくて、当たり前。
期待しない。
幻想を抱かない。
そういう前提で、自分の将来を考える。

 それが父親と、子ども(息子や娘)との、あるべき姿ということになる。
これであなたも、少しは気が楽になっただろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 父子論 父親と子ども論 父親と子供論 親子論 親子とは何か 総理府調査 
青少年白書 将来親のめんどうを見る 父親のようになりたくない 総理府 青少年白書 は
やし浩司 父親の役割 断絶 親子の断絶)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●映画『ソーシャル・ネットワーク』  ●教師が親を訴えた?!

 昨夜、映画『ソーシャル・ネットワーク』を観てきた。
ストーリー性に乏しい、ただの映画。
娯楽性も、ほとんどゼロ。
ネット・ユーザーには興味深い映画かもしれない。
が、その範囲。
つまりその範囲に収まる映画。
一般性のある映画ではない。
星は、1つか2つの、★。

 劇場を出たのが、午後11時過ぎ。
そのままワイフと近くのビジネスホテルへ。
そこで一泊。
今朝、早く、帰宅。

+++++++++++++++++++

●「人体の不思議展」

 私は、子どものころから、ああいうのが苦手。
道路にころがっている、動物の死骸を見ただけで、吐き気を催す。
少なくとも、あえてお金を出してまで見たい展覧会ではない。
称して「人体の不思議展」。
この浜松市でも10年ほど前から、ときどきその「不思議展」が、催されている。
で、見てきた子どもたちに「どうだった?」と聞くと、みな「おもしろかった」と。

 おもしろい?
人間(もちろん死体)を、盾に薄く切った現物を、パネルに挟んで展示してある。
それがおもしろい?
学生時代、医学部へ遊びに行くと、よくホルマリン漬けの標本が並べられていた。
臭いも不快だったが、それを見るたびに、私はゾッとした。
私は、「おもしろい」と思ったことは、ない。
それが今では、「展覧会」として、堂々と市中で公開されている。
どんなものかは、直接は見たことがないので、ここではコメントできない。

しかし率直に言えば、ああいうものは、子どもには見せない方がよい。
10人のうち8人までは大丈夫であるとしても、残りの2人の子どもが心配。
大きなショックを受ける。
そのショックが、トラウマ(傷)になることもあれば、ひょっとしたら残忍性の
引き金を引くことにもなりかねない。

 また見せたところで、それがどういう意味があるのか。
どういう教育的効果があるのか。
みながみな、ドクター(医師)になるというわけでもあるまい。
「腹の中には腸がある」と教えて、イラストで見せれば、それですむ。
それを現物まで見せて、「これが腸です」と。
(「人体の不思議展」に、そういうものがあるかどうかは、知らないが……。)

 むしろ映画『ミクロの決死圏』のような提示の仕方のほうが、好ましい。
どこかの大学付属の科学館に、そういうところがあった。
大きな口(これが入り口)を入っていくと、食道や胃を通り、最後は肛門から出てくる。
肛門が出口になっていた。
全体が、大きなお化け屋敷のようになっていた。
そういうものなら、楽しめる。

 「科学展示会」というのは、口実。
実際には、興業屋の金儲け。
私も若いころ、そういう仕事を手伝ったことがあるので、内情をよく知っている。

「人体の不思議展」は、どうか?


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●教師が親を訴える

 新聞などで報道されている程度の情報しかない。
だから本当のところは、どうなのか?
それはよくわからない。
だからあくまでもここでは、一般論として、自分の考えを書いてみたい。
学校の教師が、親を訴えた!
そういう事件である。

Jcastは、つぎのように伝える。

++++++++++以下、Jcastより++++++++++++

  S県の市立小学校に勤務する女性教師が、女児の親から何度もクレームを受けて不眠症に
陥ったとして、慰謝料500万円の支払いを求めて係争中の騒動。「とくダネ!」は騒動の原因に
迫った。 

  女性教師が提訴したのは昨年9月(2010年)。担当していたクラスの女子児童2人が喧嘩とな
り、それを仲裁したときに一方の保護者から差別をしていると非難された。さらに、背中を触れ
ただけで警察に暴行容疑の被害届が出されたという。

  取材したKAキャスターによれば、「2人の喧嘩はクラスでも話し合いが行われました。でも、
提訴している親は、もめ事は喧嘩ではなくイジメであると思ったようです。それで、連絡帳に娘
が差別されていると30行から80行にわたる教師批判の文章を何回も書いたようです」

  女性教師の言質を取るために、親がICレコーダーを密かに子供に持たせていたことも紹
介、メインキャスターのOGは「モンスターペアレントではないのか」と疑問を投げかけた。

  提訴するまでに、両親と女性教師の話し合いの場が設定されていたが、両親は拒否したと
いう。

++++++++++以下、Jcastより++++++++++++

 その親がどうであったかは、知らない。
またこう書くからといって、その親がそうであるというのではない。
ただ一般論として、10人の親がいれば、そのうち1人くらいの割合で、「たいへんな親」
がいるのは事実。
「たいへんな親」というのには、いろいろな意味が含まれる。
教える側からみて、「たいへん」。
そういう親をいう。
受験ノイローゼの親も、それに含まれる。

 以前、(もう20年以上も前のことだが)、書いた本に、こんな話を書いた。
BLOGに紹介したのは、2006年8月の日付になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【受験ノイローゼ】

●受験ノイローゼ

 子どもが受験期を迎えると、受験ノイローゼになる親は多い。子どもではない。親がなる。あ
る母親はこう言った。「進学塾の光々とした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼりました」
と。「家でゴロゴロしている息子(中2)を見ただけで、気分が悪くなり、その場に伏せたこともあ
ります」と言った母親もいた。

 親が受験ノイローゼになる背景には、親自身の学歴信仰、それに親自身の受験体験があ
る。「信仰」という言葉からもわかるように、それは確信を超えた確信と言ってもよい。学歴信仰
をしている親に向かって、その信仰を否定するようなことを言うと、かえってこちらが排斥されて
しまう。

「他人の子どものことだから、何とでも言えるでしょ!」と。話の途中で怒ってしまった母親もい
た。私が、「これ以上ムリをすると、子ども自身が、燃え尽きてしまう」と言ったときだ。

 また受験体験というのは、親は自分の子どもを育てながら、そのつど自分の体験を繰りかえ
す。とくに心の動きというのは、そういうもので、子どもが受験期を迎えるようになると、親自身
がそのときの心を再現する。将来に対する不安や、心配。選別されるという恐怖。そしてそれ
を子どもにぶつける。

もっと言えば、親自身の心が、極度の緊張状態におかれる。この緊張状態の中に、不安が入
り込むと、その不安を解消しようと、一挙に情緒が不安定になる。

 「受験ノイローゼ」と一口に言うが、それは想像を絶する「葛藤」をいう。そういう状態になる
と、親は、それまで築きあげた家族の絆(きずな)すら、粉々に破壊してしまう。家族の心を犠
牲にしながらも、犠牲にしているという感覚すらない。小学5年の女児をもつある母親はこう言
った。

「目的の中学入試に合格すれば、それですべてが解決します。娘も私を許し、私に感謝するは
ずです」と。その子どもは毎晩、母親の前で、泣きながら勉強していた。

 その受験ノイローゼにはきわだった特徴がいくつかある。そのひとつ、ふつうの育児ノイロー
ゼと違うところは、親自身が、一方でしっかりと自分をもっているということ。たとえば人前で
は、「私は、子どもが行ける中学へ入ってくれれば、それでいいです」とか、「私はどこの学校で
もいいのですが、息子がどうしてもS高校へ入りたいと言っているので、何とか、希望をかなえ
させてやりたい」とか、言ったりする。

外の世界では、むしろ温厚でものわかりのよい親を演じたりすることが多い。

 もちろん育児ノイローゼに似た症状も出てくる。育児ノイローゼの症状を、まず考えてみる。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1) 生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞……どこかぼんやりとしてくる。うつろな目つき、元
気のない応答など。

(2) 思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)……同じことを考えたり、繰り返したりする。

(3) 精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)……ものごとに興味がみてなくなる。

(4) 睡眠障害(早朝覚醒に不眠)……朝早く目が覚めたり、眠っても眠りが浅い。

(5) 風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)……不注意による
事故が多くなる。

(6) ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)……万引きをしてつかまったりする。
衝動的に高額なものを買ったりする。同じものを、あるいは同じようなものを、同時にいくつか
買う。

(7) ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)……ささいなことが頭から離れず、それ
が苦になってしかたない。

(8) 同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)……怒っている最中は、自分のしていることが絶対正しいと思うことが多い。ヒ
ステリックに泣き叫んだりする。

(9) 他人との接触を嫌う(回避性障害)……人と会うだけで極端に疲れる。家の中に閉じこも
る。

(10) 過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。……過食症や拒食症になる。体重
が極端に変化する。

(11) また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)……ささいなことで、
相手に謝罪の電話を入れたりする。自分のしていることが客観的に判断できなくなる。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●受験ノイローゼ

 受験ノイローゼも、ノイローゼという意味では、育児ノイローゼの一種とみることができる。し
かし育児ノイローゼに見られない症状もある。先に述べたように、「自分をしっかりもっている」
のほか、ターゲットが、子どもの受験そのもの、あるいはそれだけにしぼられるということ。

明けても暮れても、子どもの受験だけといった状態になる。

むしろ子どもの受験以外の、ほかのことについては、鈍感になったり、無関心になったりする。
育児ノイローゼが、生活全体におよぶのに対して、そういう意味では、限られた範囲で、症状
がしぼられる。が、その分だけ、子どもの「勉強」「成績」「受験」に対して、過剰なまでに反応す
るようになる。

 毎日、書店のワークブックや参考書売り場へ行っては、そこで1〜2時間過ごしていた母親が
いた。あるいは子どもの受験のためにと、毎日、その日の勉強を手作りで用意していた母親も
いた。しかしその中でもナンバーワンは、Tさんという母親だった。
 
 Tさんは、私のワイフの友人だった。あらかじめ念のために書いておくが、私はこういうエッセ
ーを書くとき、私が直接知っている母親のことは書かない。書いても、いくつかの話をまとめた
り、あるいは背景(環境、場所、家族構成)を変えて書く。それはものを書く人間の常識のよう
なもの。そのTさんは、私が教えた子どもの母親ではない。

 そのTさんは、子どもが小学校に入ると、コピー機を買った。それほど裕福な家庭ではなかっ
たが、30万円もする教材を一式そろえたこともある。さらに塾の送り迎え用にと、車の免許証
をとり、中古だが車まで買った。そして学校の先生が、テストなどで採点をまちがえたりすると、
学校へ出向き、採点のしなおしまでさせていた。

ワイフが「そこまでしなくても……」と言うと、Tさんはこう言ったという。「私は、子どものために、
不正は許せません」と。

 こういう母親の話を聞くと、「教育とは何か」と、そこまで考えてしまう。そのTさんは、いくつ
か、Tさん語録を残してくれた。いわく、「幼児期からしっかり子どもを教育すれば、東大だって
入れる」「ダ作(Tさんは、そう言った)を二人つくるより、子どもは一人」と。

Tさんの子どもが、たまたまできがよかったことが、Tさんの受験熱をさらに倍化させた。いや、
もっともTさんのように、子どものできがよければ、受験ノイローゼも、ノイローゼになる前に、あ
る程度のレベルで収めることができる。が、その子どものできが、親の望みを下回ったとき、ノ
イローゼがノイローゼになる。

●特徴

 受験ノイローゼは、もちろんまだ定型化されているわけではない。しかしつぎのような症状の
うち、5個以上が当てはまれば、ここでいう受験ノイローゼと考えてよい。

あなたのためというより、あなたと子どもの絆(きずな)を破壊しないため、あるいはあなたの子
どもの心を守るため、できるだけ早く、あなた自身の学歴信仰、および自分自身の受験体験に
メスを入れてみてほしい。

○ 子どもの受験の話になると、言いようのない不安感、焦燥感(あせり)を覚え、イライラした
り、情緒が不安定になる。ちょっとしたことで、ピリピリする。

○ 子どもがのんびりしているのを見たりすると、自分の子どもだけが取り残されていくようで、
心配になる。つい、子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ってしまう。


○ 子どもがテストで悪い点数をとってきたり、成績がさがったりすると、子どもがそのままダメ
になっていくような気がする。何とかしなければという気持ちが強くなる。

○ 同年齢の子どもをもつ親と話していると、いつも相手の様子をさぐったり、相手はどんなこと
をしているか、気になってしかたない。話すことはどうしても受験のことが多い。


○ 子どもが学校や塾へ言っているときだけ、どこかほっとする。子どもが家にいると、あれこ
れ口を出して、指示することが多い。子どもが遊んでいると、落ち着かない。

○ 子どものテストの点数や、順位などは、正確に把握している。ささいなミスを子どもがしたり
すると、「もったいないことをした!」と残念に思うことが多い。


○ テスト期間中になると、精神状態そのものがおかしくなり、子どもをはげしく叱ったり、子ども
と衝突することが多くなる。たがいの関係が険悪になることもある。

○ 明けても暮れても、子どもの学力が気になってしかたない。頭の中では、「どうすれば、家庭
での学習量をふやすことができるか」と、そればかりを考える。

○ 「うちの子はやればできるはず」と、思うことが多く、そのため「もっとやれば、もっとできるは
ず」と思うことが多い。勉強ができる、できないは、学習量の問題と思う。

○ 子どもの勉強のためなら、惜しみなくお金を使うことが多くなった。またよりお金を使えば使
うほど、その効果がでると思う。今だけだとがまんすることが多い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結局は犠牲者

 繰り返すが、こう書くからといって、今話題になっている親が、そうと言うのではない。
その親のことは知らない。
テレビなどではキャスターのインタビューに答えているようだが、それも見たことがない。
本当に教師による体罰があったのかもしれない。
本当に教師による差別があったのかもしれない。
それはこれからの裁判の中で、明らかになっていくだろう。

 しかしその前に、受験ノイローゼと言われる親にしても、現在の日本がかかえる、
学校神話、受験競争、学歴主義の犠牲者にすぎないということ。
他の多くの親同様、現代の日本がもつ価値観の中で、踊らされているだけ。
「私」を見失っているだけ。
やがて時がくれば、それに気づく。
が、今は、わからない。

 が、本当の犠牲者は、子ども自身。
それを忘れてはならない。
同じく以前、こんな原稿を書いたことがある。
これがこの原稿の結論ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【ある母親からの相談】(先生の誤解で、自分の子どもが叱られた)


++++++++++++++++++


息子が先生に叱られた。
それに納得できないという、母親からの
相談が届いた。
そのまま紹介させてもらう(一部、変更)。


【Aさんよりはやし浩司へ】(掲示板より)


[投稿者] 小6の母 
こんばんは。先生のご意見が聞きたくてメールしました。
先ほど息子が2泊3日の修学旅行から帰ってきました。
さぞ楽しんできたのだろうとバスの到着を待っていると何とも不機嫌そうにバスから息子が下り
てきました。


解散の合図が出ないうちにさっさと帰ろうとしたので私は息子に勝手なことをしたらいけないと
注意をしました。その時の息子の目つきが鋭く、私を不安にさせました。
車に乗り込み2人になってから「修学旅行楽しかった?」と声をかけました。
ムッスとした声で「別に」・・・「叱られた」と答えました。
少しずつ重い口が開いてきました。


2日目の旅館で大浴場で入浴をしたそうです。
15人の生徒に男の先生が1人で一緒に入りました。
お風呂からあがるとその後夕食になり、大広間に集まったとき
息子ともう1人の生徒Aくんがみんなの前で呼ばれ、「入浴はルールを守りなさい」と注意されま
した。息子はなぜ自分が注意されているのかわからず「なんのことですか?」「僕ではない」と
みんなの前で言ったそうです。ルールとは洗いおけで水の掛け合いをしたというのです。


でも先生たちには信じてもらえず「自分がしてしまったことをどうして認めないのか?」と逆にま
た叱られたのだそうです。素直ではないように見えたのだと思います。A君はすみませんと謝り
ました。


いやな気分のまま翌日を迎え帰りのバスの中で、今度は担任の女教師が近づいてきて「自分
のしたことを反省して、これからリベンジしなさい」と話しました。
息子はカチンと来たまま帰ってきたからあんな態度をしたのだと思いました。
息子を信じてあげたいけれど一緒に入浴していた先生がおっしゃるのだから、なにかしらない
間に友達に水をかけてしまったのではないのか?と息子に聞きました。
本当にやっていないならどうして最後まで「自分ではない」と言い張らなかったの?とも言いまし
た。


というと余計に息子は無口になり、「誰も信じてくれない」「どうして」・・・
それから一言も話さなくなりました。
私はA君のお母さんに電話をして聞いてみました。
A君はすぐに電話口で答えてくれました。
「水の掛け合いはしたけれど相手はB君だよ。」と。
A君のお母さんはA君に対して「どうして●●君が一緒に叱られたときに人違いだと言ってあげ
られなかったの?」と話してくれました。
息子もA君も同じことを言うのですが「とてもそんな雰囲気ではなかった」というのです。口を挿
むすきがなかったというのです。


息子にとってみんなの前で叱られたこと、旅館の人たちもみんな見ていたと話します。
旅館のおばさんたちはそんな事何とも思っていないよ。と言って聞かせましたがて聞かせまし
たが本人にとってはすごく恥ずかしかったのだそうです・
まるで口答えをしたように息子は見られたのでしょう。
私は月曜日に学校に行ってこようかと今思っています。でも心の片隅でこんなことで親が出て
いくことだはないだろうとも思います。息子が納得できる解決法ってあるのでしょうか?
このまま修学旅行が嫌な思い出になってしまわないようにできる方法ってあるのでしょうか。


私が学校に行って話をすることは間違っていますか?


【はやし浩司より、Aさんへ】


 この種のトラブルは、日常茶飯事。
よくあることです。
お子さんの気持ちもよくわかりますが、どうか、ここはがまんしてください。
つまり子どもは、こうした経験を通して、たくましくなっていきます。
社会のありかた、その中での生き方を学んでいきます。
お母さんとしては、つらいでしょうが、『負けるが勝ち』。
もしどうしても納得できないなら、子ども自身が、先生に抗議する形で、自分でするよう、しむけ
ます。


一度子ども自身と話し合ってみてはどうですか。
「私が先生のところへ行こうか?」とです。
おそらく子どもは、「放っておいてほしい」と言うはずです。
つまりこんな程度の問題で、親は出ない!
小学6年生という年齢からして、親が出なければならない問題ではありません。
 修学旅行に行って、その先の風呂で、お湯をかけあってふざけた。
それを先生が叱った。


そのとき、まちがえて、自分の子どもが叱られた……。
それだけのことではありませんか。
私なら、笑ってすませます。
 で、あなたは……


(1)不機嫌そうな顔を見て、親のほうから、理由を問いただした。


(2)仲間の親に電話をかけて、内容を確かめた。


(3)あたかも自分が恥をかかされたかのように、それを問題視する。


(4)先生に抗議しようと考える。


 こうした一連の行為から想像できるあなたの育児姿勢は、過干渉、過関心+
溺愛ということになります。
あるいは心配先行型の過保護?


 先生に抗議して、得られるものは何ですか?
むしろやり方をまちがえると、先生との信頼関係を破壊することにも、なりかねません。


 少し先生の立場で、ものを考えてみましょう。
 もしあなたが30人近い子どもを連れて、修学旅行に行ったとします。
(2人や3人ではない。30人ですよ!)
おそらく目が回るほど、先生は、忙しかったと思いますよ。
児童たちが床に就いたあとは、反省会。
翌日の予定の確認などなど。


それがいかに重労働であるかは、経験した人なら、みな、知っています。
そういう中で、人まちがいで、あなたの子どもが叱られた。
……といっても、先生は、本気で叱ったわけではないと思いますよ。
(本気で叱るような話でもありませんし……。)
修学旅行先で、子どもがハメをはずした。
それを叱った。
いちいちそんなことで、本気で叱っていたら、先生だって、神経がもちません。
先生にしても、つぎつぎと類似の問題が起きたはずですから、もう覚えては
いないでしょう。
あるいは仮に問題であったとしても、時間が解決してくれます。


 それよりも疑問なのは、(1)あなたの子どもが、なぜ自分で、そのとき、「ぼくでは
ない!」と言えなかったのか、ということ。


(2)風呂場でのトラブルが、どうして家に帰ってくるまで、尾を引いたかということ。
 このあたりに、もっと別の基本的な問題があるように思います。
もともとそれほど、おおげさな問題ではないのですから……。


 で、それはそれとして、結論は、同じ。
「この程度の問題で、親はカリカリしない」です。
繰り返しになりますが、「うちの息子が、人まちがいで叱られた。水をかけあって
遊んでいたのは、うちの子どもではない」と主張して、その結果、何が、どうなる
というのでしょうか。


 次回、どこかで先生に会ったようなとき、「修学旅行ではすみませんでした。
いろいろあったようですね。ハハハ」と、笑えばよいのです。
またそれですませます。


 こんなこまかいことで、それをおおげさにとらえて、(名誉)だの(誤解)だの、
さらには(信ずる・信じない)だのと、言っていたら、この先、あなた自身の神経が
参ってしまいますよ。


(私は、先生のほうにむしろ同情してしまいます。ごめん!)
子どもはすでに親離れを完成させています。
(年齢的にはそうです。
もし親離れしていないとするなら、やはりあなたの育児姿勢のほうに問題がある
ということになります。)
で、今は、あなた自身が、子離れをするときです。
あなたはあなたで、好き勝手なことをすればよいのです。
子育てから離れて、あなたは1人の人間として、別の生き様を確立する。
子どもの方から、相談でもあれば、話は別ですが、そうでなければ、静かに、暖かく
無視します。
「暖かく無視」です。


子どもというのは、最後の最後で、1人でも、自分を信じてくれる人がいれば、それで
安心します。
その重役を担うのは、(あなた)です。


その(あなた)が、この程度の問題で、動揺してはいけません。
「お母さんは、あなたを信じているからね」と言えば、それでよいのです。
またあなたの子どもは、すでに思春期前夜から思春期に入っています。
すでにあなたの手の届かないところに、入りつつあるということです。
なお「リベンジ」というのは、「復讐」という意味です。
何かのまちがいか思います。


+++++++++++++++++


『負けるが勝ち』


これは子育ての鉄則です。
以前書いた原稿をさがしてみます。
(あなた)や(あなたの子ども)が
そうだと言うのではありません。
あくまでも参考のため、です。
大切なことは、子どもが楽しく
学校へ通うことです。
そのために、負けるところは
負け、引き下がります。
もちろん重大な問題のときは
そうでありません。
子どもの方から、相談でもあれば、
話は別です。
しかしたかが(失礼!)、風呂場の
水のかけあいではないですか。
そんなことで、親は出ない。
私も中学生のとき、旅館で
枕のぶつけあいをして、先生に叱られ
ました。
小学生のときは、廊下で騒いでいて
叱られました。
その程度のことは、みな、しています。


+++++++++++++++++


●負けるが勝ち


 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。
 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に1人はいる。こ
のタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまともで
ない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。


 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。


しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」と
なる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。
 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あな
たのすべてを知っていただろうか。


それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よ
ほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄
則と考えてよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


【親の欲目】


●親の欲目


 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。


親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その
子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれだが、こうした親の目は、えてして子どもの本
当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。


●やってここまで


 ある子ども(小6男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。またある夜1人の父親が、A君(中1)
の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまった」と。
A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの中心に
いた、などなど。こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子ども
の学力となると、さらに難しい。


 たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉
強の量が少なかっただけ」とか、「調子が悪かっただけ」と。そう思いたい気持ちはよくわかる
が、しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものばあい、(やる・やらない)も
力のうち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはな
い。そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。


●子どもを受け入れる


 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしても
し後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほど
よい。


そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成績はま
すますさがる。要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それまで見
えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」というのは、
そういう父親をいう。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【Aさんへ】


 かなりきびしい意見を書きましたが、この問題は、もう忘れなさい!
おいしいものでも食べて……。
あとは時間が解決してくれますよ。

 
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 先生の誤解 負けるが勝ち 濡れ衣 子どもの名誉 はやし浩司 家庭教育 育
児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 負けるが勝ち 
教師が親を訴える モンスターママ論 育児ノイローゼ 受験ノイローゼ)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【合理化】(合理化という非合理)

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自分の中にある失敗や挫折。
それから生まれる憎しみや怒り。
それを相手のせいにしてしまう。
つまり相手が、自分に対して、
憎しみや怒りをもっているから、
自分もそれに反応しているだけ、と。
これを心理学の世界では、「投影」という。
自分の心を、相手の心にそのまま
投影し、自分の感情を合理化する。

夫婦の間、親子の間、友人や近隣の
人たちの間で起こりやすい。
さらには教師と生徒の間でも、よく見られる。
国際外交の場でも、よく見られる。

が、この投影のこわいところは、
それにとどまらない。
いわば妄想のひとつ。
妄想が強ければ強いほど、ときとばあいに
よっては、それが思わぬ事件へと発展
してしまう。

「あいつが悪いから、オレはこうなった
のだ!」と。
思い込みがはげしければはげしいほど、
敵意と攻撃心も大きくなる。
国際外交の場では、それが戦争につながることも
珍しくない。

その投影についてはたびたび書いてきたので、
ここではその先。
「合理化」について、考えてみたい。

++++++++++++++++++

●合理化

 たとえば買った宝くじの券をなくしたとする。
カバンに入れておいたはずなのに、ない。
どこにもない。
そういうとき心は、それから発する不快感を消すために、たとえばこう言って、
自分をなぐさめる。
「どうせハズレに決まっている。今まででも、当たったためしがない」と。

 こうして(紛失したという失敗)を合理化する。
自分に対する怒りを、収める。
これが心理学でいうところの「合理化」である。

 こうした合理化は、日常生活の中でよく経験する。
で、ここではもう一歩、話を先に進めてみたい。

●子育ての失敗

 こと子育てについては、「失敗」という言葉ほど無意味なものはない。
失敗の連続。
それが子育て。
が、それでも「失敗」と思うようなことがあったとしよう。
そういうとき、親は、こう思う。
「私が子育てで失敗したのは、私の両親(祖父母)が悪いからだ。
私はちゃんとした家庭で育っていない。それが原因だ」と。

 実は、私も、若いころ、よくそう思った。
わかりやすく言えば、よく親を恨んだ。
そしてそれから生まれる敵意や攻撃心を、親(私の両親)に向けた。
「どうして、ちゃんと私を育ててくれなかったのだ」と。

たとえば私の父は、2、3日おきに酒を飲んで暴れた。
それが私には、つらかった。

●私の父

 が、当時は、そういう時代だった。
戦後直後ということもあった。
みな、食べていくだけで、精一杯。
家庭教育の「カ」の字もない時代だった。

 たとえば私などは、家族旅行などといったものは、小学6年生までに、ただの1度
しか経験していない。
(ただの1度だぞ!)
その1度も、父が旅行先(伊勢参り)で酒を飲んでしまい、そのままパー。
私と母は、その夜のうちに実家へ戻ってしまった。

 が、その原因といえば、あの「戦争」だった。
さらに言えば、父が酒に溺れるようになったのも、あの「戦争」だった。
父は、台湾で貫通銃創を受けている。
傷痍(しょうい)軍人として帰国。
今で言う、PTSDになっていたとしても、おかしくない。

が、それ以上に、価値観の変化に、父はついていけなかったのかもしれない。
それまでは、天皇を神と仰いでいた。
その神国日本が敗れ、天皇は「人」に戻った。
今にして思えば、父が受けた落胆感には、相当なものがあったはず。

●合理化の修正

 が、それがわかるようになったのは、私が40歳を過ぎてからのこと。
それまではわからなかった。
わからなかったから、子育てで行き詰まるたびに、私は両親を恨んだ。
恨んで、自分の失敗を、合理化しようとした。

 といっても、その程度のことは、みなしている。
「私の親はすばらしかった」と思っている人は、まず、いない。
みな、どの人も自分の親を踏み台にし、さらにそのつぎの親を目指そうとする。
私だけが特別だったとは、思っていない。

 先に「子育ては失敗の連続」と書いたが、それ以上に、親にはその余裕がない。
毎日の生活に追われる。
仕事に追われる。
家族を支えるだけで、精一杯。
私にしても、そうだった。
それがわかったとき、私の私の親たちに対するものの考え方が変わった。
「私の親たちも、戦後のあの時代の中で、生きていくだけで精一杯だった」と。

●国際社会では

 要するに、人は自分にとって不愉快なものからは、目を遠ざけようとする。
自分にとって都合のよいものだけで、見ようとする。
さらに自分にとって都合の悪いものがあったとしても、それを合理化によって、
自分のつごうのよいものに、作り替えようとする。
こうして人は、自分の「心」を防衛する。

 たとえば視点を大きく広げてみよう。

 現在、アメリカと中国は、(そして日本も)、印刷機をフル回転させて「札」を印刷
している。
すでに世界のあちこちで、(この日本でも)、インフレの兆候が見えだした。
が、こうしたインフレで、そのしわ寄せ的打撃を被るのは、中進国以下の国々。
政情も不安定化する。
アメリカやEU、それに日本のような先進国は、そういうインフレを乗り越える力が
ある。
世界の資金が、ドル、ユーロ、円、ほかに金やプラチナに集約される。

 が、日本は、そういう「事実」を知っていながら、あえて目をつぶる。
知らぬフリをする。
これも合理化といえば、合理化ということになる。
「悪いのは、それだけの努力をしていない、中進国以下の国々」と。

●合理化の恐ろしさ

 合理化がはげしければはげしいほど、人は、自分の姿が見えなくなる。
ばあいによっては、それが妄想を引き起こし、先にも書いたように、敵意や攻撃心に
変化することもある。
実際に行動に移せば、たいていのばあい、取り返しのつかない結果を招く。

 たとえばあの北朝鮮は、韓国に対して軍事攻撃をしかけたのは、韓国の責任と
主張している。
韓国内部にも、そう主張して、北朝鮮を擁護する勢力がある。
「そこまで北朝鮮を追い込んだ、韓国のほうが悪い」と。

 もしこんな論理が正当化されるなら、あらゆる強盗が正当化されてしまう。
「私は強盗などしたくなかった。しかし私に強盗をさせた社会が悪い」と。
合理化の恐ろしさは、ここにある。

●反省

 そこで大切なことは、心が本来的にもつ、そうした弱点というか盲点を、何らかの
形でカバーするということ。
「自分を知る」ためのひとつの方法ということになる。

たとえば何か、自分にとって不都合なことが起きたら、即座に「相手が悪い」と
決めつけてはいけない。
何かを見落としていないかを、反省する。
つまり人は、その瞬間、瞬間に、つねに自分を合理化しながら生きている。
程度の差もあるだろう。
が、つねに合理化しながら生きている。
そういう前提で、そのつど、自分を見直してみる。

 で、最後に一言。

 この合理化が一度進むと、その相手とは、会話ができなくなる。
たとえばあなたの息子(娘)が、「自分が不幸なのは、親のせいだ」と言ったとする。
あなたの息子(娘)は、自分を合理化しているだけ。
が、その合理化には、つねに狂信性がともなう。
先にも書いたように妄想性が強ければ強いほど、そうなる。
つまりその時点で「合理」は「非合理」に変身する。

 一度、そうなったら、夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、あるいは近隣の人や
親類の人であるにせよ、遠ざかるのがベスト。
たがいに時間をかけ、頭を冷やす。
相手の非合理性を指摘しても意味がないばかりか、かえって火に油を注ぐことに
なりかねない。

 ご注意!

(注)何とも中途半端な原稿です。
書き足りないところもありますが、後日推敲し直すことにし、ここではそのままBLOG
に載せます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 合理化 合理化の恐ろしさ 防衛規制 投影 敵意 攻撃心 合理化
という非合理)

Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【山荘にて】(はやし浩司 2011−01−21)

++++++++++++++++++++

今夜は、8時過ぎになって、山荘へやってきた。
途中、コンビニで菓子類を買った。
山荘へ着いたのが、午後9時、少し前。

途中、車の中でワイフとあれこれ話す。

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●苦労論

 よく「私は苦労しました」と言う人がいる。
「苦痛に耐えること」。
それを「苦労」という。
それはそれで、よくわかる。
しかし「苦労」というときには、2つの意味がある。

(1)自分のための苦労。つまり私利私欲のための苦労。
(2)他人のための苦労。つまり無私無欲に根ざした苦労。

その中間にあるのが、(3)家族(配偶者、子ども、親)のための苦労ということ
になる。

 たとえば1人の学生が、受験勉強で苦労したとする。
夜遅くまで勉強した。
進学塾にも通った。
しかしこれは自分のための苦労。
上の分類法によれば、(1)の苦労ということになる。
(中には、将来、家族を支えるためにと考え、受験勉強にいそしむ学生もいるかも
しれない。
しかし今どき、そんな学生は、探さなければならないほど、少ない。)

 一方、世話好きで、いつも他人の心配ばかりしている人がいる。
あれこれ仕事を引き受けて、忙しい毎日を送っている。
自分の時間は、ほとんどない。
残ったお金も、あまりない。
明けても暮れても、ボランティア。
そういう人もいないわけではない。
上の分類法によれば、(2)の苦労ということになる。

 その間にあって、(3)子育てで苦労している人がいる。
子どもの学資を稼ぐために、パートに出て働く母親を想像すればよい。
子どもは「他人」ではない。
しかし「自分」でもない。
入れ込みの程度にもよるが、他人にかぎりなく近い子どももいれば、自分に
かぎりなく近い子どももいる。
どうであるにせよ、「自分」ではない。
「他人」でもない。

 そこであなたのばあいは、どうだろうか。
「私は苦労しました」と言うときのあなたを考えてみてほしい。
そのときあなたは、どういう苦労を、「苦労」と言うだろうか。
たとえば私のワイフは、いつもこう言う。

「私は、あなたで苦労したわ」と。

 が、これは(1)の苦労だろうか。
それとも(2)の苦労だろうか。
あるいは(3)の苦労だろうか。

●「私は苦労した」

 それを話すと、ワイフはこう言った。
「『私は苦労した』と言う人は、たいてい(1)の自分のことで苦労した人よ。
(2)の他人のために苦労した人は、『苦労した』とは言わないわよ。
むしろ楽しんで、そうしているのだから」と。

 ナルホド!

 ということは、「私は子育てで苦労しました」と言う人ほど、どこかで
私利私欲が、からんでいる。……ということになる。
無私無欲で子育てをした人ほど、「苦労した」とは言わない。
つまりその言葉を聞けば、親と子どもの関係がわかるということになる。

●私のばあい

 私のばあい、苦労したといえば、介護ということになる。
しかし介護そのものは、さしたる苦労ではなかった。
あるとき、兄や母の介護をしながら、こう思った。
「子どもの世話より、楽」と。

 苦労というより、苦痛だったのは、実姉からの電話。
何がどうということは、ここには書けないが、実姉から電話があるたびに、
心臓が踊った。
手が震えた。

 つぎに苦労と言えば、実家への仕送り。
が、その仕送りについても、ある時期までは、むしろ楽しんでしていた。
ワイフも協力的だった。
実母を助ける。
実兄を助ける。
それが楽しかった。

 その(楽しさ)が失われたのは、たがいの間の信頼関係が消えたとき。
以後、金銭的な負担というよりは、社会的な負担に苦しんだ。
「それでも仕送りをしなければならない」という思いが、そのまま重圧感となり、
私を押しつぶした。

 言い換えると、自分が納得しているばあいには、苦労は苦労ではない。
納得できないときに、「苦痛」は「苦労」に変わる。
その逆でもよい。

●問題は子育て

 サイトカイン。
カテコールアミン。
私は脳内ホルモンについては、名前しか知らない。
見たこともない。
手にしても、ただの液体にしか見えないだろう。

 が、この2つは、対照的な脳内ホルモンと考えている。
ストレスが慢性的につづくと、脳内は、サイトカインで満たされる。
一方、前向きに生き生きと活動していると、脳内は、カテコールアミンで満たされる。
あるいはその逆でもよい。
それぞれが悪循環、あるいは良循環となって、その人を後ろ向きに引っ張たり、反対に
前向きに引っ張ったりする。
このことは子どもの学習態度を見ていると、よくわかる。

 いやな科目を、いやいや学習している子どもは、表情が暗い。
苦労がとたんに、苦痛に変わる。
その逆でもよい。
好きな科目を、前向きに学習している子どもは、表情が明るい。
苦労を苦労とも思わない。
むしろそれを楽しんでしている。

 となると、自ずと結論が出てくる。
それが苦労であるかどうかは、その人の(心構え)で決まるということ。
子育てについても、しかり。
いやいや子育てをしていれば、苦労は苦労になる。
楽しく子育てをしていれば、苦労はそのまま霧散する。
で、そのちがいは何かといえば、「愛情」の問題ということになる。

●私とワイフ

 ワイフはこう言う。
「私の子育ては楽だった」と。
私はこう言う。
「ぼくは苦労ばかりしていた」と。

 つまりワイフは、3人の息子たちを愛情でくるんでいた。
一方、私は、生活の心配ばかりしていた。
自営業というのは、そういう職種をいう。
(たぶんに、弁解がましいが……。)
今日、病気か事故で倒れれば、万事休す。
明日からは、路頭に迷うことになる。
毎日が、そういうきびしさとの闘いだった。

 そう言えば、私の母はいつもこう言っていた。
「サラリーマンの人たちは、気が楽でいいわねえ」と。
サラリーマンの人たちは、そうは思っていないかもしれない。
サラリーマンの人たちには、サラリーマンの人たちの苦労がある。
しかし自営業の人たちから見ると、たしかにそう見える。
上り坂のときはよいが、下り坂になると、とたんに苦労が倍加する。

 話がそれたが、親子についても、そこに細くても一本の絆があれば、救われる。
しかしそれが消えたとき、苦労は苦痛に変わる。
その逆でもよいが……。
私には息子たちを愛情でくるむような、心の余裕はなかった。

●苦労

 ところで義兄は、いつもこう言う。
「今の若い人たちは、苦労をしていないからねエ」と。
つまり「だから、今の生活のありがたさがわからない」と。
けっして若い人たちを責めているのではない。
むしろ逆。
「……だから、かわいそう」と。

 「幸福」というのが、そこにあるのが当たり前と考える。
だから不幸に対する、耐性というものがない。
たとえば便器。

私たちの世代は、ボットン便所から出発している。
尻を拭く紙も、ザラザラの再生紙。
それ以前は、新聞紙。
だから最近の便器を見ると、臭いがしないというだけで、夢のように感ずる。

 が、今の若い世代は、それを知らない。
少しでも汚れていると、「生理的な嫌悪感を覚える」と言う。
生理的な嫌悪感?
いったい、それは何?
私はそういう言葉を聞くと、人間的な嫌悪感を覚える。
で、ときどき、こう思う。
「今のような豊かさが持続できれば、それでよし。
そうでなければ、この先、苦労の連続だろうな」と。

●耐性

 そんな話をしていると、ワイフがこう言った。
「私ね、父の酒を買いにいくのが、私の仕事だった」と。

 ワイフの父親は酒豪だった。
で、ワイフは子どものころ、一升瓶をもって、いつも酒屋へ酒を買いに行ったという。
一升瓶をもっていくと、酒屋がそれに酒を注いでくれた。
その一升瓶を、また家にもって帰る。

 当時の日本では、どこにでも見られた光景である。
それについて、私が「今の若い人は、それをしないね」と。

私「しないとうか、親がさせないね」
ワ「そんなことをさせたら、虐待と騒ぐ人もいるかもね」
私「……そうだろうな。ぼくでも、そこまではしなかった」
ワ「そういう生活感が、子どもの世界から消えたのよ」
私「そうだね」と。

 あくまでも比較の問題だが、私のワイフには、そういう耐性がある。
私よりはるかに、ある。
耐性のある人は、苦労をしながらも、苦痛を減少させることができる。
耐性のない人は、多少の苦労をしただけでも、大げさに騒ぐ。
私とワイフのちがいには、この耐性が大きくからんでいる。
言い換えると、「苦労」について考えるとき、「耐性の問題」も無視できないということ。

●結論

 このあたりでひとつの結論が出てくる。
こと、子育てにおいては、「子どもには苦労をさせろ」と。
その苦労が耐性を生む。
苦痛を乗り越える力となる。

しかしその苦労といっても、冒頭に書いた(1)のような苦労では意味がない。
(2)のような苦労をいう。

 たとえば受験勉強を熱心にして、有名大学(こういう言葉は本当に不愉快だが)に
入学したとしよう。
子ども自身は、自分では苦労したと思っているかもしれないが、それはここでいう
苦労ではない。
平たく言えば、自分の欲望を満足させただけ。

だから当然のことながら、そこからは感謝の念は生まれない。
それ以後、親が爪に灯をともしながら学資を送ったとしても、その子どもにとっては、
当たり前。
中には、「親のために大学へ行ってやっている」と豪語(?)する子どもさえいる。
(これは本当の話だぞ!)

 それもそのはず。
幼児のときから、「ほら、英語教室!」「ほら、ピアノ教室!」と。
中には、七五三の祝いに、親戚中を呼び集め、披露宴を開く親さえいる。
子どもをかえって不幸にしながら、その事実にすら気がついていない。

 最後に、こんな話。
これから書くことは、事実。
「事実」と断らなければならないほど、そうでない人には信じられないような話。
こういう話。

 毎週のように、嫁が、夫の実家にやってくる。
(嫁が、夫の実家にやってくるのだぞ!)
そして夫の両親から、小遣いをせびる。
「夫の給料だけでは、生活が苦しい」と訴える。
「夫の給料だけでは、子どもを進学塾へ通わせることもできない」と訴える。
で、最近、こんなことがあったという。

 いつものように、嫁が夫の実家にやってきた。
こう言った。
「100万円が必要。100万円、出してほしい」と。
が、両親といっても、80歳を過ぎている。
義父は元薬剤師。
義母は元看護士。
財産があるといっても、無限にあるわけではない。
そこで母親(=夫の母親)が、5万円を渡すと、その嫁は、「それでは足りない!」と言い、
その5万円を机の上に置いたまま、家に帰ってしまったという。

 ドラ娘も、ここに極まれり!、というような話である。
苦労を知らない人間というのは、そうなる。
そんな人間には、死ぬまで「幸福」は訪れない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 苦労論 苦労 苦労について)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【滋賀県・O市のY先生(小学校教諭)より、はやし浩司へ】

●代償的過保護

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滋賀県のY先生より、こんなメールが届いている。
以下、要約。

「……私のクラスにKさん(女児、小4)という子がいるが、家に帰りたがりません。
いつもみなが帰ったあとも真っ暗になるまで、校舎の裏庭(小さな山になっていて、
ふだんは児童の遊び場になっている)で、時間を過ごしています。
近くに住むEさん(女児、小4)に話を聞くと、母親がたいへんきびしい人らしく、
おおまかに言えば、つぎのようだそうです。

(1)毎日、1時間の漢字の書き取りと、計算練習が義務づけられている。
(2)そのあと母親にテストされ、満点でないと、夕食が食べられない。
(3)友だちにもらった遊び道具などは、すべて捨てられる。
(4)家の前まではいっしょに帰るが、いつも裏の勝手口から家に入る。
(5)ほかに毎日プリント学習を2枚することになっていて、それがしてないと、
ベッドから引きずり出され、それをさせられる。
(6)「成績がさがったら、お弁当を作らない」と、母親に言われている。

 学校でも、ときどき「おなかが急に痛くなった」「足が痛い」と言って、保健室
で横になっています。
小学2年生ごろまで、授業中に、おもらしをすることがあったそうです」と。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++

●代償的過保護と帰宅拒否

+++++++++++++++

典型的な代償的過保護である。
親の支配下におき、子どもを
親の思い通りにする。
一見、過保護だが、過保護に
ともなう(愛情)が希薄。
「代償的過保護」という。
過保護もどきの過保護。
そう考えるとわかりやすい。

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●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償
的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウ
ゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ミュン
ヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母親)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。
S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。
「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。
それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。
どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。
そこで皆でさがすのですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」
と。
私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、
家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。
まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。
幼児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれ
て、当然、家庭の役割も変わってくる。
また変わらねばならない。
子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。

つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。
が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。
「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(随筆家・ソロー)というのがある。
つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のよう
でなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡
単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。
もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関係に
ある。
しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げてい
くようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。
もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。
毎日のように寄り道や回り道をしてくる。
あるいは外出や外泊が多いということであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。
家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなこと
を避けるための行動をする。
帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒
否につながる。
裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけ
でも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。

(はやし浩司 子供の帰宅拒否 帰宅拒否 家に帰りたがらない子ども 帰宅を拒否する子
供)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Y先生へ】

 メール、ありがとうございました。
いろいろな母親がいますね。
まさに典型的な代償的過保護と言うべき母親ですね。
まず「子どもはこうあるべき」という設計図を頭の中で作り、その設計図どおりの
子どもにしようする。

 疑うべきは、まず母親の情緒問題です。
自分の情緒的欠陥、つまり穴をふさぐために子どもを利用しているだけ。
何かの精神的な問題をもった女性と考えます。

一見、過保護に見えますが、過保護には愛情があります。
その愛情(=「許して忘れる」)がありません。
先にも書いたように、過保護もどきの過保護。
だから代償的過保護と言います。
発達心理学の用語にもなっています。
それが過度になれば、「虐待」ということになります。
「食事を与えない」「眠らせない」というのは、立派な虐待です。

 が、母親には、その自覚がない。
「私は子どものためにそうしている」と確信しています。
だから余計にやっかいですね。
説得しても、その母親には理解できないでしょう。

 ……私も子どものころ、帰宅拒否児だったと思います。
(いろいろな思い出をつなぎあわせると、そういう「私」が浮かびあがってきます。)
いつも学校帰りには、道草を食って遊んでいました。
夏でも、毎日真っ暗になるまで、近くの寺で遊んで時間をつぶしました。
今、思い出しても、暗くて、つらい毎日でした。

 もしKさん(小4)も、同じようであるとするなら、同情します。
恐らく一生、その傷が癒されることはないでしょう。
今の私が、そうです。
63歳になろうというのに、いまだに心の中に暗い影を落としています。

 やはりこの問題は、先生が指摘しておられるように、児童相談所が介入
すべき問題ですね。
先にも書いたように、「食事を与えない」「眠らせない」というのは、虐待です。
また無理な勉強を強制するのも、虐待と考えてよいでしょう。
一応、報告だけは、きちんとしておかれることを、お勧めします。

 なお小4と言えば、思春期前夜。
この先、Kさんには、いろいろな試練が待ちかまえています。
非行に走らなければよいと心配しています。
(あるいは、引きこもり(マイマス型)、家庭内暴力(プラス型)へと進むことも
多いです。)

 父親はどういう人なのか。
またどのように考えているのか。
それがわかったら、どうかまたメールをください。
では、今日は、これで失礼します。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

はやし浩司 2011−01−23

●格安ホテル

++++++++++++++++++

今日は、日曜日。
といっても、今朝は、何と朝帰り。
昨夜は、近くの浜名湖ロイヤルホテルに一泊。
ワイフと息子と、それに私の3人で
泊まった。

1名、1泊、3000円+入湯税。
ただし食事なし。
が、20畳以上もある広い部屋。
洋室。

当日の朝、旅行会社のHPを、チェック。
部屋に空きがあると、格安で泊めてくれる。
この方式は、あのLCC(格安航空会社)の
それと似ている。

EUでは、みな、こうして飛行機に乗っている。
ネットをチェックしながら、格安航空をさがす。
離陸直前ほど、料金が安くなる。
ばあいによっては、パリから地方空港まで、
300円で乗れることもあるという(Sさん)。
ただし満席になると、そこでストップ。

飛行機にしても、ホテルにしても、空席や
空き室をつくるよりは、そのほうがよい。
平たく言えば、従業員を遊ばせておくよりは、
よい。

一方、私たちには、あの豪華な料理は必要ない。
簡単な食事でよい。
のんびりと温泉に入れれば、それでよい。
それで満足。
ホテルに泊まれば、食事前、就寝前、それに早朝の
3回、温泉に入れる。

++++++++++++++++++

●ホテルにて

 いつもなら私はパソコン相手に、キーボードを叩く。
が、このところ、(……といっても、この数日のことだが)、どうも気が重い。
書きたいことはいくつかあるのだが、頭の中が整理できない。
整理できないというより、ぼんやりとしていて、「形」にならない。

 ……というわけで、昨日は、数年ぶりにプラモデル屋を訪れてみた。
ドイツのタイガー戦車の模型を買ってみた。
子どものころは、よく作って遊んだ。
あとはPSP(ソニーのポータブル・ゲーム機)。
現在は、「将棋・ゲーム」にハマっている。

 クラス分けのリーグ戦があり、現在S1クラスの15位。
Cクラスから始まり、Bクラス、Aクラス、S1へと勝ち進む。
今のS1クラスを制覇すると、つぎは……?
何かあるはず。
ワイフは、「ボケ防止にはよいかもね」と言う。
私も、そう思う。

 が、たかがPSPとあなどってはいけない。
結構、強い。(=私が、弱い?)
昨夜は、そんなわけで私はベッドの上で、PSPと格闘していた。
ワイフはDVDを観ていた。
息子は、タイガー戦車を組み立てていた。

 それぞれの土曜日。
土曜日の夜。

●将棋

 将棋というのは、集中力のゲーム。
集中力が途切れたとき、スキを作る。
そのスキを、すかさず、相手(コンピューター)が突いてくる。

 おもしろくないのは、ヘマをしないこと。
相手が人間のときは、ヘマをしてくれる。
それがおもしろい。
が、コンピューターはヘマをしない。
だからおもしろくない。

 もちろん弱点もある。
負け戦になると、自滅的な戦法に出てくる。
相手が人間なら、途中で投了ということもある。
コンピューターは、投了するとしても、最後の最後。

 それに思考ルーチンが同じなのか、繰り返し、同じ手を使ってくることがある。
それを繰り返していると、相手方(コンピューター)に、駒がなくなってしまうことが
ある。
こういうとき人間なら、1回でやめ、別の手を考える。
同じ手を使って、駒を失うのは、まずい。
が、コンピューターには、そういう判断ができない。

 また「王将」を左右交互に動かしていると、つまり時間稼ぎをしていると、
やはり思考ルーチンに従って、どんどんと駒を前に進めてくる。
そのとき相手方(コンピューター)に、スキが生まれる。
私はそこを突けばよい。

 が、クラスがあがるごとに、たしかに強くなっていく。
Cクラスのときは、こちらが駒を動かすと、すかさず相手方(コンピューター)も
駒を動かした。
ほとんど考えていない。
が、Aクラスになると、反応が鈍くなる。
S1クラスになると、さらに鈍くなる。
時に10〜15秒ほど考えてから、駒を動かしてくる。
つまりそれだけコンピューター側も、考えているということ。

 ワイフは「囲碁もしたら?」と言ってくれる。
Sクラスをクリアしたら、つぎに囲碁に挑戦してみる。
学生時代は、下宿で囲碁ばかりしていた。
楽しみ。

●HD(ハーディスク)交換

 またまたHD交換に挑戦している。
数か月前、何度目かに挑戦し、失敗した。
で、昨日、新しい交換ソフトを購入。
しかしそれでも途中で、STOP。

 原因がわからない。
理由もわからない。
で、このあと、つまり今日の午後、もう一度、挑戦してみる。
うまくできても、4〜5時間はかかる。
やってみるしかない。

 で、なぜ今、HD交換か?
ご存知の方も多いと思うが、HDも、時として故障する。
寿命もある。
そこで古いHDを、新しいHDに丸ごとコピー。
そのあとHDを交換する。
古いHDをそのまま保管しておけば、(新しいHDでもよいが……)、
HDに何かトラブルが起きたようなとき、ハードディスクを取り替えることで、
トラブルを回避することができる。
つまり安全策。

 パソコンとつきあうときは、いつもファイルの保存に心がける。
いつ何時、何があるかわからない。
それがパソコンの世界。

●今日(日曜日)の予定

 今日の予定は、とくになし。
書きたいテーマはあるが、どうも気が進まない。
が、これではいけない。
たとえば昨日、こんな原稿を書いた。
もう一度、ここにその一部を掲載する。

++++++++++++++++

 ……最後に、こんな話。
これから書くことは、事実。
「事実」と断らなければならないほど、そうでない人には信じられないような話。
こういう話。

 毎週のように、嫁が、夫の実家にやってくる。
(嫁が、夫の実家にやってくるのだぞ!)
そして夫の両親から、小遣いをせびる。
「夫の給料だけでは、生活が苦しい」と訴える。
「夫の給料だけでは、子どもを進学塾へ通わせることもできない」と訴える。
で、最近、こんなことがあったという。

 いつものように、嫁が夫の実家にやってきた。
こう言った。
「100万円が必要。100万円、出してほしい」と。
が、両親といっても、80歳を過ぎている。
義父は元薬剤師。
義母は元看護士。
財産があるといっても、無限にあるわけではない。
そこで母親(=夫の母親)が、5万円を渡すと、その嫁は、「それでは足りない!」と言い、
その5万円を机の上に置いたまま、家に帰ってしまったという。

 ドラ娘も、ここに極まれり!、というような話である。
苦労を知らない人間というのは、そうなる。

+++++++++++++++

 繰り返しになるが、この話は事実。
直接、その「義父」から聞いた。
(もちろんその人とわかるような部分は、変えてあるが……。)
その「義父」が、「うちの嫁さんはねえ……」と言って、この話をしてくれた。

 ワイフもその席にいた。
その嫁については、あれこれ聞いていたので、ワイフも私もさほど、驚かなかった。
しかし今回の話は、明らかに度を越している。
「エスカレートしてきた」と書くべきか。
年老いた義父母。
ともに80歳近い。
判断力も鈍ってきた。
それをよいことに、義父母を手玉にとって、もてあそぶ。

 つまりこの話には、いくつかの問題点が隠されている。

(1)老夫婦の財産管理は、どうすべきか。
(2)「嫁」とのつきあいは、どうすべきか。

 で、この話にはもうひとつ伏線がある。
嫁は、そのつど3人の孫を連れてくる。
つまり孫をダシに、義母から、小遣いをせびる。

 いろいろ考えさせられる。
が、今朝はこれまで。
このつづきは、またあとで!
では、みなさん。

おはようございます!


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●老齢期の自己概念(ソーシャル自己概念の構築)

+++++++++++++++++++++++

 「私はこうありたい」「私はこうあるべき」という、
自分像を、「自己概念」という。
この自己概念に対して、現実の「自分」がいる。
これを「現実自己」という。

 青年期の自己概念と、老齢期の自己概念には、
内容において、大きなちがいがある。
青年期の自己概念については、シャベルソンという
学者が、4つの領域に分類している。

(1)アカデミック自己概念(どういう学歴を身につけるか)
(2)ソーシャル自己概念(どういう社会的人間になるか)
(3)エモーショナル自己概念(どういう感情をもった人間になるか)
(4)フィジカル自己概念(どういう身体的特徴をもった人間になるか)

 が、当然のことながら、老齢期に入ると、
上記(1)のアカデミック自己概念は、終了している。
(3)のエモーショナル自己概念も、それほど重要ではない。
(4)のフィジカル自己概念についても、「ああはなりたくない」と考える
ことはあっても、そこでSTOP。
いつもそこに(どうしようもない自分)を発見する。
肉体の老化だけは、いかんともしがたい。

 問題は(2)のソーシャル、つまり「社会的な」自己概念である。
これをどう自分の中に構築していくか。
というのも、この時期、人は仕事を退職し、子育てからも解放される。
(正しくは、仕事からも追放され、子どもには逃げられる?)
言うなれば、心の中に空白部分が生ずる。

 心理学的には、「私的領域」が拡大する。
その私的領域でどう生きるか。
それを模索する時期ということになる。

++++++++++++++++++++++

●人生の節目

 人生にはそのつど、大きな節目がある。
個人的な環境によってもちがうが、一般的には、(1)青年期、(2)壮年期、(3)
老年期に分ける。

 青年期は思春期から始まり、自分の進むべき道が決まる時期までをいう。
壮年期は長く、ばくぜんとしている。
壮年期を通して、人は社会的地位を固め、その中における評価を定める。
老年期は、別名「喪失の時代」とも言われている。
「喪失」(この言葉は、あまり好きではないが……)との闘いの時期ということになる。

 そこで重要なのは、(1)自己概念をどう構築するかということ。
その前提として、(2)どう現実を受け入れていくかということ。
その上で(3)自分の役割を策定し、(4)現実の自分(=現実自己)をどう
一致させていくかということ。
順に考えてみよう。

●現実の受け入れ

 多くの人は、こう言う。
「温泉などで、自分の姿を鏡に映してみたとき、それがわかる」と。
緩んだ肉体、垂れ下がった臀部(でんぶ)、張りのない肌……。
若い人と比較するまでもない。
歩き方まで、老人臭くなる。

 が、それが現実。
受け入れるしかない。
が、そこは人間。
簡単には受け入れない。
もがく。
抵抗する。
無理をする。
が、それも一巡するときがやってくる。

●自己概念の構築

 老後の自分はどうあるべきか。
退職すると同時に、あるいは子育てが終わると同時に、みな、同じように
考え始める。
が、簡単には、答が出てこない。
ばくぜんとして、つかみどころのない毎日。
悶々として、いつ晴れるともわからない世界。
「これではいけない」と思っていても、それにつづく道が見えてこない。

 「老後は孫の世話と庭いじり……」と、だれかが言った。
「それが理想の老後」と。
しかし自分がその老後を迎え、それがまったくの虚構であると知った。
そんなことで自分の心の隙間を埋めることはできない。
かえって虚しくなるだけ。

 そこでエリクソンという学者は、「統合性」という言葉を使った。
青年期の自我の同一性の確立と、同じに考えてよい。
「老後になったら、やるべきことを見つけ、現実にそれをする」と。

が、(やるべきこと)と言っても、条件がある。
無私無欲でする。
功利、打算が入ったら、統合性はそのまま霧散する。
かといって、「退職しました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」と
いうわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、長続きしない。
そこでエリクソンは、その準備を、人生の正午と言われる、40歳から始めろと説く。

●自分の役割の策定

 「私は何をなすべきか」と。
周りの人たちの老後が、参考になる。

 学生時代の先輩の1人は、観光ガイドを始めた。
現職時代の技術能力を生かして、世界中を回りながら、技術指導している人もいる。
家庭菜園を本業にした人もいる。
団体で、やはり現役時代の経験を生かしてがんばっている人もいる。
それぞれが、それぞれの道を進んでいるが、みながみな、うまくコースに乗って
いるわけではない。

 仕事から仕事へと、渡り歩いている人もいる。
日雇い労働者と同じ身分の人もいる。
が、健康であれば、まだよいほう。
脳梗塞や糖尿病を悪化させてしまった人もいる。
この時期になると、若いころからもっていた持病が、急に表に出てくる。
とくにこわいのが、精神病。
若いときは気力で何とかごまかせるが、老齢期にさしかかると、その気力が弱くなる。
肉体にしても、そうだ。
ひざや腰を痛めると、それがそのまま定着してしまう。
もちろんボケの問題もある。

 そういうのを乗り越え、私たちは「自分の役割」を設定しなければならない。
で、ここで言えることは、ただひとつ。
「この問題で苦しんでいるのは、あなただけではない」ということ。
総じて老齢期を迎えると、みな、この関門をくぐり抜けなければならない。

●現実自己との一致

 役割が設定できたら、あとはそれに向かって邁進(まいしん)していく。
「自己概念」と「現実自己」を一致させていく。

 子育てから解放され、仕事からも解放される。
親の介護からも解放される。
そのため自分で使える時間がどんとふえる。
これを「私的領域の拡大」という。

 考え方によっては、もっとも気楽な時期ということにもなる。
この時期になると、無責任であることが、ひとつの美徳になる。
もちろん人生そのものが、いわゆる「死の待合室」に突入する。
先の見えない袋小路。
先細りの人生。
すべてが不可逆的に悪化する。

が、ものごとは悪い方ばかりに考えてはいけない。
だからといって、落ち込んでばかりいてはいけない。
先にも書いたように、だれしも一度は通り抜けなければならない「関門」。
私ひとりだけがそうではないし、あなたひとりだけがそうではない。
そう考えるだけでも、気が楽になる。

●終わりに……

 こういう原稿を書くと、「では、私はどうなのか?」と考える。
率直に言えば、こういう原稿を書きながら、自分はどうあるべきかをいつも考える。
が、道筋だけできてしまえば、あとは楽。

 そのときが来たら、有料の老人ホームに入居する。
そこでも死ぬまで原稿を書きつづける。
さみしかったら、さみしいと書く。
悲しかったら、悲しいと書く。
そんな人生を、最期までつづける。

 もっともそれとて、運がよければ……という条件がつく。
明日、何かの大病が発見されるかもしれない。
すでに私の年齢の人は、約10%が他界している。

が、こうして書いていること自体が、あとにつづく人たちの参考になる。
どの人もこの世に生まれ、やがて老齢期を迎える。
あえて言うなら、今まで、その老齢期を老人の立場で考え、ものを書いた人が、
あまりにも少ない。
だから私は書く。
無私無欲で書く。
つまりこれが私にとっての「統合性」ということになる。
いつまでできるか自信はないが、とにかく、つづけるしかない。
どうか、よろしく!
(今朝の私は少し悲観的かな?)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自己概念 統合性の確立 現実自己 人生の節目 ソーシャル自己概念)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●30年前の生徒たち

++++++++++++++++++++

今、パソコの横に、30〜35年前の写真がある。
みなで、何かのことで記念撮影したときのもの。
先週、棚の隅からポロリと出てきた。
様子から見て、年長児(5〜6歳児)の子どもたち。
場所は、A幼稚園の東園舎(当時)。
その写真をときどき見ながら、ふとこう思う。
「みんな、今ごろ、どうしているだろう?」と。

当時の私は、幼稚園の年中児から、高校3年生まで
教えていた。
午前中はA幼稚園で教え、午後からは、「教室」で教えた。
幼児クラスが終わると、別の場所で小学生、中学生
を教え、夜は、高校生を教えていた。
この写真の中の子どもたちにしても、そのあと、
高校を卒業するまで教えた子どもが、3人いる。
14年間、教えたことになる。

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/75/img55e667c8zik5zj.
jpeg" width="882" height="543" alt="img130.jpg">

で、名前を思い出してみる。

上段(男児)、左から、
KD君
TK君
MZ君?
SZ君
??君
??君
下段(女児)、左から、
??さん
AZさん
ETさん
??さん
??さん
IGさん
??さん
MRさん
もちろん右端に立っているのが、私。

 名前を覚えているのが、14人中、8人。
約60%。
「そんなものだろうなア」と、自分をなぐさめる。
何といっても、30年以上も前の生徒たち。
それに忘れたのは名前だけで、今でもこうした写真を見るたびに、
スーッとその世界にタイムスリップする。
そのままその当時の「私」になる。

声が印象に残っている子どもがいる。
しぐさが印象に残っている子どもがいる。
その後、家族ぐるみで交際した人がいる。
兄弟が同時に通ってくれていて、いっしょに遊んだ子どもがいる。
うち何人かは、おとなになってからも、連絡をくれた子どもがいる。
(現在は途絶えているが……。)

みな、それぞれだが、この時代も、私の一部。
まぎれもない、私の一部。

あのころの私は、無我夢中だった。
朝9時から教え始め、いつも仕事が終わるのが、午後10時ごろ。
13時間労働!
その間をぬって教材を作ったり、本を書いたりしていた。
このころは、テレビ局の脚本も書いていた。
翻訳もしていたし、通訳もしていた。
貿易の手伝いもしていた。

写真を見ているだけで、あれこれと脳裏に浮かんでくる。
あの日も今朝と同じような太陽が輝いていた。
写真は、どこか色あせているが、青い空は青い空。
ただ自分だけが、年を取ったよう。
私だけが変わったのか?
あるいはここに写っている私は、どこへ行ったのか?

なんともしまりのない、バカな顔をしている。
そう、それにあのころは、いつも写真のようにネクタイをしていた。
幼稚園の園長がきびしい女性で、いつもこう言っていた。
「人前に立つには、それなりの服装をしなさい!」と。
それでそうしていた。
(現在は、セーターなど、ラフは服装で教えているが……。)

今日も午後は、年長児から教え始める。
教える子どもたちは、30年前と同じ。
毎年、毎年、この繰り返し。
こうして教えながら、この4月からは、41年目に入る。

++++++++++++++++++++

●今週の予定

 今週は、何かの大会の場で、基調講演することになっている。
学校の先生たち、300人が集まってくれる。
それもあって、今朝から運動量をふやした。
だらけた脳みそでは、講演はできない。
その日までに体調を整えなければならない。

 朝早く出れば、会場に間に合う。
が、大事を取って、その前夜、現地に到着。
ホテルに一泊。
ワイフも付き添ってくれる。
このところあれこれ、私の健康に気を遣ってくれる。
心配なのは心臓だが、この1年間、狭心痛らしきものは、数回だけ。
(どういうのを狭心痛というのか、私にはよくわからない。
ただの神経痛だったのかもしれない。
逆流性食道炎によるものだったのかもしれない。)
が、私の父は、今の私の年齢と同じ63歳で、心筋梗塞で他界している。
油断は禁物。

●「子ども手当てより、空母」?

 今朝の朝刊に、週刊誌のコマーシャルが載っていた。
いわく「子ども手当てより、空母を」と。
SKという女流評論家の意見らしい。
(見出しだけで、記事は読んでない。)

 が、私なら、こう書く。
「空母より、防空壕(核シェルター)」と。

 日本の防衛と将棋を対比させるのは正しくないかもしれない。
しかし将棋を指しているとき、攻め一方では、あっという間に、敗れる。
攻める一手を指す前に、相手の飛車・角の位置、それに持ち駒を確認する。
つまり攻撃6割、防御4割。
(この割合は、あくまでも私の将棋の指し方だが……。
また序盤、中盤、終盤で、そのつど変わる。)

 つまり日本の防衛は、あまりにも脆弱。
ちゃんとした防空壕(核シェルター)がどこにもないというのは、おかしい。
どう考えてもおかしい。
いくら近代的な兵器で海岸線を守っても、内陸部、つまり守りがガタガタでは、
どうしようもない。
どうして日本政府は、防空壕(核シェルター)を用意しないのか?

 今は、ミサイルの時代。
空母なんか造っても、意味はない。
「どうしても……」というのなら、韓国のように高速道路と滑走路を兼用させればよい。
いざとなったら、高速道路を遮断し、滑走路して使用する。
コンクリートの厚さを40センチ(韓国)にし、中央分離帯を除去する。
そのほうがコストもはるかに安くつく。

 ついでに言えば、トンネルと防空壕を兼用させるという方法もある。
(大都市では、いざとなったら地下鉄のトンネルを防空壕にするという方法を考えて
いるそうだが……。)

 「空母」という発想が、陳腐。
SKさんには悪いが、空母にしてもミサイルに攻撃されたら、ひとたまりもない。
第一、何のために、どこに浮かべるのか?
仮想敵国が中国ということであれば、やめたほうがよい。
中国はすでに核ミサイルを、実戦配備している。
まともにぶつかったら、日本に勝ち目はない。

 さらに一言。
どうして「子ども手当て」と「空母」が、バーターされるのか。
どうして「子ども手当て」なのか。
「戦闘機より空母」と書くなら、まだ話もわかるのだが……。

●インフレ進行中!

 今朝の経済ニュース(2011/01/24)を読むと、世界的にインフレが進行しているという。
たしかにこの日本でも、物価がジワジワとあがり始めた。
食料品にガソリン。
それが私にも、よくわかる。

 インフレを知るひとつの指数として、金・プラチナ価格がある。
で、今朝の金、プラチナ価格を調べてみると、金が3795円、プラチナが5195円。
金は、下降傾向。
プラチナは、上昇傾向。

 ほかにニッケル、アルミ、銅は、この数か月で最高値を更新しつづけている。
金価格はたしかに異常。……だった。
それがここにきて、調整局面に入った。
だから下降傾向。
一方、不気味なのは、プラチナ。
投機性が強く、上昇傾向に乗ると、一気に7000円台まであがる。
今がそのときか?

 ともあれ、これだけ市中に札をばらまけば、影響が出ないという方がおかしい。
アメリカを中心として、札印刷機は、現在フル回転中。
日本もEUも、現在フル回転中。
かわいそうなのは、中進国。
それだけのインフレを吸収できる能力がない。
同じように札を印刷しても、世界で通用しない。
世界の人は、やはりドルをほしがる。
円やユーロをほしがる。
(中国の元をほしがる人もふえてはいるが……。)

 つまり世界の政治情勢が不安定化するということ。
この先、それがツケとなって、中進国以下に回っていく。
そのときがこわい。
世界中で紛争が始まる。

 ということで今朝も、始まった。
先ほどまで、布団の中でPSPを相手に将棋をさしていた。
今朝は、1勝2敗。
脳みその調子は、あまりよくない。

(そう言えば、PSPの将棋をうまく利用すれば、ボケ診断ができるのでは?
たとえば満55歳のとき、勝率、40%。
60歳のとき、勝率、30%。
65歳のとき、勝率、20%、と。
ゲーム機のほうは、「力」は同じ。
勝率の低下イコール、ボケの進行度ということになる。
それを使えば、ボケ診断ができる。)

 1月24日、2011年。
みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【講演会要旨】

●親を尊敬しない

 平成10年というと、ちょうどみなさんが、成人式を迎えられたころのことです。
当時の総理府がした調査、つまり「青少年白書」によりますと、「父親のようになりたくない」と答
えた、中高校生が、79%、つまり約80%もいました。
「父親を尊敬できない」と答えた子どもも、55%もいました。

 ここで注意しなければならないのは、「55%」という数字です。
では残りの45%はどうかということです。
45%の子どもは、「父親を尊敬している」ということにはなりません。
大半は、「何とも思っていない」ということではないでしょうか。

 また「尊敬できない」という子どもの中には、「軽蔑している」という子どもも含まれているはず
です。
総理府の調査ですから、「父親を軽蔑している」という調査項目をつけるわけにはいかなかっ
たのでしょう。
だからどこか遠まわし的に、「父親を尊敬していない」という調査項目にしたのだと思います。
それにしても、80%の子どもが、「父親のようになりたくない」と答えているのには、驚きまし
た。

 で、「私は母親だから」と思っている人にしても、安心してはいけません。
たしかに子どもにとって、父親と母親の存在はちがいます。
父親は、子どもにとっては、「一滴(ひとしずく)」の関係です。
一方、母親は、子どもを宿し、産み、そのあと乳を与えます。
同じ親でも、絆(きずな)ということになれば、母親のほうが太いということになります。
さらに最近の研究によれば、人間にも、一部の鳥類に似た「刷り込み」(インプリンティング)と
いうのがわかってきました。
生後0か月から7か月くらいまでの間をいいます。
この時期を「敏感期」と言います。
この時期を通して、親子の関係は、本能に近い部分にまで刷り込まれます。

 それはそれとして、つまり「一滴」の希薄な関係を、あのフロイトという学者は、「血統空想」と
いう言葉を使って説明しました。
子どもは少年少女期から思春期前夜、学年的に言えば、小学3、4年生ごろを境にして、急速
に親離れをはじめます。

 男児ですと、それまで学校であったことを、親に話します。
が、このころを境に、急に話さなくなります。
女児ですと、それまで父親といっしょに風呂に入っていたのが、このころを境に、急に入らなく
なります。
そのころ、子どもは、自分の血統を疑うようになります。
「私は、あの父の子どもではない」とです。
「私の父は、もっと高貴で、気高い人だ」とです。
これを「血統空想」と言います。

 残念ですが、母親との血筋を疑う子どもはいません。
先にも書いたように、母親からは「命」を授かっているからです。
それが脳にしっかりと刻まれています。
が、母親とて、安心してはいけません。
先の総理府(現在の内閣府)の調査でも、それほど大きな差は出ていません。
ちがいは数%程度です。

●親の恩も遺産しだい

 さらにショッキングな調査結果があります。
数年置きに、こんな調査がなされています。
総理府の調査結果によれば、「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と考えている
子どもが、日本人のばあい、28%前後しかいないということ。
たいはんの若者たち、あなたがた自身の意識ということになりますが、たいはんの若者たち
は、「経済的な余裕があれば、めんどうをみる」と答えています。

 が、残念ながら、「経済的に余裕のある人」など、今では探さなければならないほど、少ない
です。
みな、目一杯の生活をしている。
また目一杯の状態で、結婚し、子どもをもうけます。

 私たちの世代と比較するのもヤボなことですが、私たちの世代は、20歳を過ぎるまで、ボット
ン便所がふつうでした。
トイレットペーパーが世に出てきたのもそのころでした。
では、それ以前はどうだったかというと、「落とし紙というザラ紙」でした。
さらにそれ以前はというと、これは私が小学生のころの話ですが、新聞紙でした。
そういう私ですから、はじめてアパートに住むようになり、水洗便所になったとき、それがうれし
くてたまりませんでした。
きれい……というより、臭いがしませでした。
それがうれしかったです。

 さらに結婚したときは、中古の軽自動車を買いました。
冷蔵庫と洗濯機だけは早く買いましたが、それ以外のものは、収入に応じて、少しずつ買い足
していきました。
が、今は、すべて、「あるのが当たり前」というところから始まります。
つまり目一杯の生活というのは、それをいいます。
ですから「経済的に余裕のある人はいない」ということになります。
言い換えると、「親のめんどうはみない」ということになります。
あるいは『親の恩も遺産しだい』というところでしょうか。

 こんな話をしても、みなさんにとっては、耳が痛いだけかもしれません。
が、私は何も今のみなさんを批判するために、ここに立っているわけではありません。
その逆です。

 みなさんとて、あの飽食とぜいたくの時代の犠牲者かもしれないということです。
みなさんが生まれたころは、日本は、バブル経済の真っ只中。
高度成長期の流れの中で、この日本は、世界でも経験したことがないほどの反映を謳歌しまし
た。
そんな中、みなさんは生まれました。
それこそ祖父母がやってきて、手をかけ、時間をかけ、お金をかけた。
まさに「蝶よ、花よ」と育てられたわけです。
が、そのあと、日本は長くて暗いトンネルに入ってしまいました。
「失われた10年」と言われていましたが、今では「失われた20年」と言われるようになりまし
た。

 「2015年には中国に抜かれるだろう」と予測されていましたが、それよりも5年も早く、中国
に抜かれてしまいました。
また国民1人当たりの所得にしても、とっくの昔にシンガポールに抜かれています。
今のままでは、2025年には韓国に抜かれ、国力においては、インドやブラジルにも抜かれる
だろうと言われています。

 日本がアジアの中心という話は、すでに遠い昔の話です。
アメリカでも、アジアのニュースは、シンガポール経由で入ってきます。
東京ではありません。
シンガポールです。
東京のマーケット情報ですら、一度シンガポールに集められ、そこからアメリカへ入ってきてい
ます。
東京証券取引所に上場されている外資系企業も、一時は200社近くもありましたが、今年に
入って、とうとう9社になってしまいました。
こういう現実を、いったい、どれほどの日本人が認識しているでしょうか。

 ……またまた暗い話になってしまいました。
寒いところおいでくださった方には、本当に申し訳ないと思います。
「元気になる話ならいいが、こんな暗い話を聞きにきたのではない」と思っておられる人も多い
かと思います。
もう少しがまんして、どうか私の話を聞いてください。
この問題は、そのままみなさんの将来に直結してくる問題だからです。
またそれがわかれば、みなさんの将来、さらには現在の子育てがどうあるべきかがわかってく
るからです。

●「親の責任でしょ!」 

 こんな事件がありました。
こういう不況です。
今では珍しくない事件です。

 そのお父さんには、2人の娘がいました。
1人は大学生。
もう1人は、そのとき高校3年生になったばかりです。

 お父さんはその数年前、それまで務めていた会社をリストラされ、自分でそれまでに取った資
格をもとに、小さな事務所を開きました。
が、最初のころこそはそこそこに仕事がありましたが、数年もすると左前になり、閉鎖というこ
とになってしまいました。

 そこでそのお父さんは高校3年生になったばかりの娘にこう言いました。
「お金がないから、大学進学をあきらめてくれ」と。
が、この言葉にその娘が猛反発。
「何を今さら! 借金でも何でもして、私を大学へやって。親の義務でしょ!」と。

 この話を私は私のワイフから聞きました。
ワイフの友人の娘です。
そこで私はその夏休みのある日、その娘を私の家に呼びました。
「何という、ドラ娘め!」と。
腹の底では煮えくり返るような怒りを覚え、しかし表情はにこやかに……。
が、私はその高校生の一言で、見方が180度、変わってしまいました。
その高校生は、こう言ったのです。

 「だって、先生、私は子どものときから、親に『勉強しろ、勉強しろ』と言われつづけてきたの
よ。行きたくもないのに塾へ通わされ、成績はどうの、順位はどうのと、そんなことばかり言わ
れつづけてきたのよ。この状態は中学校へ入ってからも変わらなかった。どうして今になって、
『もう勉強しなくていい』と、そんなことが言えるの!」と。

 ……子どもに向かって『勉強しろ』と言うのは構いませんが、安易に言ってはいけませんよ。
言えば言うほど、あとあと責任を取らされますから。
今ね、学校へ通うことについて、親に感謝しながら通っている子どもは、ゼロとみてよいです。
高校生では、ゼロ。
大学生でも、「ありがとう」と言うのは、お金をもらうときだけ。
たいていの大学生は、社会人となったとたん、「ハイ、さようなら」。
しかしまだそんな大学生は、よいほう。
先日も、こんな話を聞きました。

 ある日、突然、息子が彼女を連れて帰ってきた。
帰省するたびに、ちがった彼女を連れてくる。
で、親にこう言ったそうです。
「結婚式をしたいが、お金を出してくれるか?」と。
そこでその親が、「少しくらいなら……」と答えると、その息子はこう言ったそうです。
「親なら、結婚式の費用を出してくれてもいいだろ!」と。

 今はそういう時代なのでしょうか。
私などは、結婚する前から、収入の約半分は実家に送金していました。
今のワイフもそれに納得して、私と結婚しました。
以後、30年近く、実家に、お金を送り続けました。
それ以外にも、法事や冠婚葬祭の費用、すべてです。
ですから私たちは、結婚式をあげていません。
その費用がありませんでした。

●世代闘争

 何かが、おかしい。
何かが、狂っている。
あるいは今は、その過渡期ということになるのでしょうか。
この半世紀を振り返ってみると、こんなことが言えます。

(1)私たちの世代……反権力闘争の時代。
(2)つづくつぎの世代……反世代闘争の時代。

 私たちの時代は、反権力との闘いが、大きなテーマになっていました。
安保闘争も、そのひとつです。
しかしよく誤解されますが、あの学生運動に参加した学生にしても、何も共産主義を求めてい
たわけではありません。
共産主義の「キ」の字も知らなかった。
ただ私たちは、私たちの体をがんじがらめにしている鎖を、解き放ちたかった。
それが反権力闘争へと結びついていったわけです。

 が、それも一巡すると、今度は、反世代闘争へと変化していきました。
そのよい例が、あの尾崎豊の歌った、『卒業』です。
「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った」というあの歌です。
あの歌には大きなショックを受けました。
「学校」というより、「教育」の否定。
私はそれを感じたからです。

 教育というのは、言うまでもなく、先人たちが得た知識や経験を、あとにつづく人たちに伝えて
いくのが、第一の目標です。
その教育を否定するということは、若い人たちは若い人たちで、まさにゼロからの出発を意味
します。
これは若い人たちにとっても、たいへん不幸なことです。
同時に、私たち老人族にとっても、たいへん不幸なことです。
最近のインターネットをのぞいていると、ますます言葉が辛らつになってきているのがわかりま
す。
少し前までは「粗大ゴミ」と言われていましたが、今では、「老害」とまで言われるようになってき
ています。
社会に「害」を与える存在というわけです。

 で、その世代闘争も、今は、一巡しました。
尾崎豊と言っても、今では名前すら知らない人も多いかと思います。
長淵剛にしても、そうです。

 では今は何か。
私は「恋愛ごっこ」の時代と位置づけています。
恋愛ごっこ、です。
恋愛こそ、人生の最大の関心ごと。
今の若い人たちは、それしか頭にない。
またそれがすべて。
この話を先に進める前に、ひとつ話しておかねばならないことがあります。

●自我の同一性

 思春期から青年期にかけて、最大のテーマといえば、自我の同一性の確立ということになり
ます。
「私はこうありたい」「私はこうあるべき」という、自分像のことを、「自己概念」と言います。
一方、そこには「現実の自分」がいます。
それを「現実自己」と言います。

 この自己概念と現実自己をどう一致させていくか。
これが青年期における最大のテーマとなります。
その確立に成功した人は、自分が信ずる道を、力強くまい進することができます。
そうでない人は、そうでない。
中途半端で、訳のわからない人生を送ることになります。
が、これは、発達心理学の世界では、常識的な話です。
で、ここではその先というか、「自己概念」の中身について考えてみます。

 問題は「私はどうあるべきか」という部分。
話を戻しますが、私たちの世代では、それがいつも「天下・国家」と結びついていました。
つづく尾崎豊の世代では、「親」と結びついていました。
私が出世主義に対して、家族主義を唱え始めたのも、そのころです。

 で、今はそれがどうか?
それが先に書いた「恋愛ごっこ」ということになります。
私がそれを強く感じたのは、あの韓流ドラマがブームになったころです。
今でもブームがつづいていますが……。

 あの韓流ブームを知ったとき、私はこう思いました。
「今までの私たちは何だったのか」と、です。
韓国の人たちの反日感情には、ものすごいものがあります。
最初に私がそれを経験したのは、1968年に、UNESCOの交換学生として、韓国に渡ったと
きです。
以後、韓国の人たちの心は、大きく変わったとは思っていません。

 一方、そういう韓国に対して、私たちは「嫌韓」という言葉を使いました。
間にはげしい経済戦争があったからです。
好きになるのは、その人個人の自由ですが、しかしそういう歴史というか、現状を一足飛びに
飛び越えて、韓流ブーム?
若い人たちだけではない。
それなりの年配の女性まで、韓国の若い俳優を追いかけまわしていました。
一方で経済戦争。
一方で韓流ブーム。

 こうした時代の流れの中に、みなさんがいます。
で、今では、高校生でも大学生でも、政治の話をする人はほとんどいません。
いわんや天下、国家を論ずる人もいません。
世代の話をする人もいません。
するといえば、恋愛。
恋の話。
愛の話。
明けても暮れても、携帯電話片手に、恋愛の話。

 これを自我の同一性の中に押し入れてみると、こうなります。

「私はどんな人を好きになるべきか。またどんな人が私を好きになるべきか」。
それが「自己概念」ということになります。
そして現実に、どんな異性と交際しているか。
どう交際しているか。
それが「現実自己」ということになります。
またこの両者が一致した状態を、「自己の同一性」ということになります。

●変わる家族意識

 こうした変化に大きく影響を受けたのが、「家族意識」です。
たとえば私たちの世代は、企業戦士おだてられ、会社一筋で仕事をしてきました。
「一社懸命」という言葉も、生まれました。
当時の私たちが、「仕事と家庭とどちらが大切か」と聞かれれば、まよわず「仕事」と答えたも
のです。

 が、それが大きく変化したのが、ちょうど2000年ごろです。
この2000年を境にして、「仕事」と「家族」の地位が逆転しました。
それ以後は、「家族のほうが大切」と考える人のほうが多くなり、今では、80〜90%の人が、
「家族」と答えています。

 が、ここで重要な欠陥が生じてきました。
先ほども言いましたように、私が説いた「家族主義」とは、異質のものになってきたということで
す。
私はそれまでの「出世主義」に対して、「家族主義」という言葉を使いました。
が、それが行き過ぎてしまった。
「家族を大切に」という思いが行き過ぎてしまい、「仕事はどうでもいい」というふうに考える若い
人たちが多くなったということです。

 仕事もしない、かといって、将来の準備もしない。
そんな若い人たちの出現です。
しかもその数が、年々ふえています。
推定64万人もいるということです(2009年版「青少年の現状と施策」・青少年白書)。

 が、私が言う問題は、そのことではありません。
「仕事より家族が大切」というのは、よく理解できます。
またそれに異論を唱えるつもりはありません。
が、最近の若い人たちが使う家族主義には、ひとつ大きな欠陥があります。
欠陥というより、世界の常識からはずれている、と言ったほうが正確かもしれません。
つまりその家族主義には、両親の姿がないということです。

 家族主義……簡単に言えば、夫婦とその子どもだけの世界をいいます。
それぞれの両親は、その外の世界に置かれます。
あるいは、その世界の中に入っていない。
しかしこれは世界の常識ではありません。

 冒頭のところで、「どうしても親のめんどうをみる」と答えた若者は、28%と書きました。
この数字がいかに低いものであるかは、世界の青年の意識と比べてみるとよくわかります。

イギリスの若者…66%、アメリカの若者…64%、という数字と見比べてみてほしい。
たとえば内閣府(平成21年)の調査によれば、「将来、どんなことをしてでも親のめんどうをみ
る」と考えている日本の青年は、たったの28%。

 日本だけが突出して(?)、低いのです。
ね、おかしいと思いませんか。
世界でもっとも豊かな繁栄を築いた日本ですよ。
みなさんもそうだったでしょうが、食べ物にも困らず、ほしいものは何でも手に入れることができ
た。
本来なら、昔風に言えば、親の恩をもっとも強く感じてよいはずの世代です。
その世代が、「経済的に余裕があれば……」と。
繰り返しになりますが、経済的に余裕のある人はいません。
裏を返して言うと、「めんどうはみない」ということです。

 どうしてでしょうか?
……というよりも、この問題は、そのままみなさんの近未来の問題ということになります。
中には、「私はだいじょうぶ。私と子どもたちとは、深い絆で結ばれているから」と。
そんなふうに考えている人も多いかと思います。

 しかしそれは幻想。
まったくの幻想。
それがわからなければ、あなたがた自身の心の中をのぞいてみればいいでしょう。
先ほどあげた数字は、まさにここにいるあなたがた自身の心だからです。
平たく言えば、この先、私たちの世代はもちろんのこと、あなたがたの世代も、やがて60%以
上が独居老人、もしくは無縁老人になり、孤独死を迎えるのです。
孤独死をしても、すぐ発見されるというわけではありません。
平均発見日数は、6日です。
私の知人の老人などは、死後30日を経て、やっと発見されたそうです。
そういう現実が、そこに迫ってきています。

 あなただけが無縁と、どうして言えるでしょうか。

●苦労論

 では、どうすればよいのでしょうか。
私たちはどう考え、その中で、どう子育てを考えていったら、よいのでしょうか。
が、その前に、ひとつだけ考えなければならない問題があります。
それが原因です。
どうしてそうなってしまったか、ということです。

 そのひとつが、「苦労」という言葉に集約されます。
苦痛を乗り越える経験ということになります。
その苦労をしていない。

 ……と書くと、反発する人も多いかと思います。
「私は苦労した」とです。
しかし苦労にも、2種類あります。
自分のための苦労と、他人のための苦労です。
おおざっぱに言えば、そういうことになります。

 で、たとえば受験勉強をし、有名な、こういう言葉は本当に好きではありませんが、一流大学
に合格したとします。
これは自分のための苦労ということになります。

 一方、無私無欲でするボランティア活動というのがあります。
これが他人のための苦労ということになります。
今の若い人たちは、子どものときから、後者の他人のための苦労というのをしていない。

(以下、つづく)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【伯父の訃報】

●電車で岐阜へ

昨夜、伯父の訃報が届いた。
「トイレの前で倒れ、そのまま亡くなった」と。
3年前に亡くなった母と、ちょうど12歳違いだったということだから、今年89歳か90歳。
よい伯父だった。
いろいろあったが、総括してみると、そうなる。

こう書くと、ほめているのか、けなしているのかはわからない。
が、映画『男はつらいよ』のフーテンの寅さんのような伯父だった。
もちろんよい意味で、寅さんのような伯父だった。
人情豊かで、世話好きだった。
それにやさしかった。

●ワイフの頭痛

 この数日、ワイフはあまり調子がよくない。
花粉症のせいとワイフは言う。
鼻づまりと軽い頭痛。
昨夜も、寝るまで「頭が痛い」と言っていた。
最後に時計を見たのは、午前1時。

 で、今朝、「どうする?」と聞くと、「今朝はだいじょうぶ」と。
顔色はあまりよくない。
元気もない。
話す声も、どこか沈んでいる。

●電車

 電車に乗ると、すぐうしろの男が、さかんにクシャミをし始めた。
私たちはすぐ席を移動した。
幸い、電車はすいていた。

 窓の外はすっかり、冬景色。
枯れた草木の葉が、さらに色を落としている。
残ったわずかな緑も、黒い影のようにしか見えない。
今年の冬も、あと少し。
今、そう思った。

●おかしな計算

 時間がなかったので、浜松→名古屋間の切符を買った。
浜松駅では岐阜までの切符は、自動販売機では買えない。
が、切符売り場(ブース)には、ズラリと客が並んでいた。

 浜松から名古屋まで、1名、1890円。
浜松から岐阜まで、1名、2210円。
車掌が通りかかったので、「乗り越し」を頼むと、差額は1名、450円という。
が、この計算は、おかしい。
で、それを告げると、名古屋から岐阜まで、1名、450円だから、と。

・・・?
差額分だけというのなら、320円でよいはず。
「そういう規則なら、しかたないね」と言うと、「そうなんです」と。

●さざ波

 人生にはいろいろある。
そのつど小さなドラマがさざ波のようにやってきて、また去っていく。
ときどき大きな波もやってくる。
それが繰り返し、繰り返し、つづく。

 で、大切なことは、できるだけ大きな船になること。
大きな船になればなるほど、波に揺れることはない。

・・・とまあ、偉そうなことを書いたが、親類づきあいだけは別。
簡単にON/OFFで割り切ることができない。
理屈や合理が通じない。
ふと油断すると、ささいな問題に巻き込まれ、自分を見失う。
小さなさざ波に、心を煩わされる。

●思い出

 子どものころ、伯父は私をよく遊びに連れて行ってくれた。
川で魚も取ってくれた。
若いときからスポーツマンで、そういう点ではたくましかった。

鉈(なた)一本で、イノシシと対峙し、そのイノシシを倒した話。
猟に行った帰りに、サルを撃ち殺した話。
大水で流れ出た墓場の死体を、背負って帰った話。
ダイナマイトを使って、魚を取った話、などなど。

 今まで思い出したことのないような話が、つぎつぎと脳裏をかすめる。
いろいろあったが、伯父は、私にはよい伯父だった。

●いつもの声

 電車は豊橋を過ぎて、「新快速」になった。
名鉄電車の特急ほどの速さがある。
浜松からは、乗り換えなしで岐阜まで行くことができる。
時刻は今、午前10時37分。

 ワイフはぼんやりと、(多分?)、窓の外の景色を見ている。
昨日も、「どこかへ旅行したいわ」と言っていた。
その希望がかなった?
伯父の死といっても、あぶないという話は、すでに前から聞いていた。
覚悟をしていた。
それもあるのかもしれない。
訃報を知らせてくれた、いとこたちにしても、いつもの声だった。
今朝、別のいとこに道路の雪の状態を問い合わせた。
そのいとこも、いつもの声だった。

 こうして人は去っていく。
あたかも何ごともなかったかのように。
そしてそのあと、また何ごともなかったかのように、また新しい時が始まる。

●タクシーで

 岐阜からT村までは、車で1時間半余り。
タクシーで行くと、片道、1万5000円?
前回、・・・3年ほど前だったが、それくらいかかった。
往復で、3万円。

 「バスで行って、その分で、どこかに泊まってこようか」と言うと、ワイフも、
「そうねエ・・・」と。
あまり乗り気ではなさそう。
どうしようか?
どうしてこんなとき、こんなセコイことを考えるのか。

●寒い

 窓の外が急に曇ってきた。
いつもなら見える遠くの山々も、今日は雪雲に隠れて、見えない。
灰色の、どんよりとした境目のない雲だ。
「雪かもしれないよ」と。

 しばらく黙っていたが、ワイフがこう言った。
「今年は寒いわね」と。
寒いというより、冷たい。
先週、浜松でも40年ぶりと言ってよいほどの降雪があった。
雪はそれほど積もらなかったが、道路が凍結した。
そのためバイパスや東名高速道路は閉鎖。
その朝だけで、何と370件余りもの交通事故が起きたという。
浜松市内だけ、で。
370件余り、だぞ!

●NG先生の奥さん

 今朝、先月亡くなったNG先生の奥さんから、メールが入っていた。
「さみしい」とそれにはあった。
それで今度の日曜日に、食事に誘ってみた。
一度、みなで会食をしたことがあるレストランを提案した。
まだ返事はないが、家に帰ったら、もう一度強引に誘ってみる。

 レストラン・・・名前は忘れたが、丘の上にある外国風のレストラン。
途中の道から、浜名湖が一望できた。
NG先生夫妻が、私たち夫婦を誘ってくれた。
今度は、私たちが、誘う番。

●思考停止

 愛する人が亡くなると、いろいろな段階を経て、やがて現実を受け入れるようになる。
何かの本にそう書いてあった。

 最初は(混乱)。
それが一巡すると、(怒り)。
それが収まると、・・・?
詳しくは忘れたが、キューブラー・ロスの「死の段階論」に似ている。
そのときは、そう思った。

 また同じ「喪失」でも、衝撃度によって、いくつかに分類されている。
その中でも、配偶者の死は、最大級とか。
「そうだろうな」と思ったところで、思考停止。
それ以上のことは、私にもわからない。
興味本位で書くには、あまりにも失礼。
だから思考停止。

●心の余裕

 今日のお供は、TOSHIBAのUX−23。
最軽量のミニ・パソコン。
バッテリーは5時間ほどもつ(?)。
が、たった今見たら、「残り63%」。
もう37%も消費!

 ところで今度、電気自動車が発売になるとか。
その試乗記を、何かの雑誌で読んだ。
フル充電で、120キロ走るそうだ。
そのつど、バッテリーの残量が「%」表示されるそうだ。
しかし・・・。

 私ならそんな車には乗らない。
いつもハラハラ。
ハラハラのしどうし。
今の私の心の状態と同じ。
生活には、いつも「余裕」が必要。
昔、こんな話をしたことがある。

●余裕論

 サラリーマンをしていると友人が、私にこう言った。
「林さん(=私)はいいですねえ。ぼくらの何倍も収入があるから」と。
それに答えて、こう言った。

「サラリーマンの人が手にする20万円(月給)と、ぼくらが手にする20万円は、ちがいますよ。
ぼくらの20万円は、明日のない20万円です。
来月の保証が、まったくない。
だから予定が立たない。
もしぼくらがサラリーマンの人たちと同じ安心感を得ようとしたら、数倍でも足りないくらいです」
と。

 このパソコンにしても、そうだ。
「まだ100時間、使える」というのなら、安心。
が、「あと5時間」というのは、今の私には心細くてしかたない。

●余裕

 心の余裕について書いた。
が、「余裕」とは何か?
最初に思いつくのが、金銭的な余裕。
つぎに肉体的(健康的)な余裕。
そして心の余裕。

 どうであれ、余裕をもって生きるというのは、大切なこと。
が、だからといって、ぜいたくがよいというわけではない。
ぜいたくをしたいというわけではない。
万事、控えめ。
質素。
そう、「質素を旨とすべし」。
いつもあと一歩という、その手前の状態で、やめる。
それが「余裕」。
つまり余裕というのは、そのときの状態ではなく、自分で作るもの。
2000円しかなかったら、1000円のものを買えばよい。
1000円しかなかったら、500円のものを買えばよい。
それが「余裕」。

 人生も、これまた同じ。

●仕事

 4月からの仕事を考える。
あれこれ考える。
私の仕事は、4月が新年度。
1月という正月ではない。

 仕事があるとか、ないとかいうことではない。
仕事ができるか、どうか。
それが問題。
体力と相談しながら、仕事を考える。
そう言えば、事務所の隣人の姿を、このところ見ない。
今朝、車を駐車しながら大家さんにそれを話すと、「入院なさっています」と。

 私より15歳は、若い。
そんな人が、1か月近くも入院?
「明日はわが身」と、身を引き締める。
廊下で立ち話程度のつきあいしかない。
が、それでも気になる。
心配。
ザワザワとした心配。

●1月27日

 先のところまで書いて、今は、その翌日の1月27日。
昨夜、暗くなってから、家に着いた。
以後、何をするでもなし、しないでもなし……という状態で、夜、床に就いた。
時刻は10時前。

 「ここ数日、原稿が書けない」とワイフにこぼす。
こぼしながら、またまたPSP相手に将棋。
やはり子どもには、PSPなどのゲーム機器は、買い与えない方がよい。
時間が、無駄になる。
将棋ならまだよいが、……というのも、それなりにためになる部分もあるが、怪獣を倒すとか、
動物を闘わせるとかいうのは、そもそも意味がない。
そんな意味のないゲームで、1時間とか2時間を浪費する。

 そんなヒマがあったら、家事の手伝いをさせる。
そのほうがよほど、子どものためになる。

●I村

 I村では、夢のような美しい景色を見た。
白銀の世界を、白い粉雪が舞っていた。
私は夢中でデジタルカメラのシャッターを切った。
タクシーの運転手も、気を利かして、ところどころでスピードを落としてくれた。
ワイフは、「映画の中のシーンみたい」と、何度も言った。
美しかった。
こんな簡単な言葉しか思いつかないが、とにかく、美しかった。

マガジン2月号用の写真ということになる。
マガジン2月号は、その写真で飾りたい。

 ……遠い昔に見た景色。
一点の汚れもない、純白の世界。
顔にかかる粉雪が、心地よかった。

●今日も始まった!

 さて、今日も、始まった。
1月27日、木曜日。

 最後に一言。
昨日乗ったタクシーの運転手は、「ものすごい人」(ワイフの言葉)だった。
ヨボヨボのジーさんだった。
髪の毛がほとんど抜け、残った髪の毛もちぢれていた。
その上やせこけて、色も浅黒かった。

 が、年齢を聞いてびっくりした。
というのも、少し心配になったので、年齢を聞いてみた。
私には、75歳前後の老人に見えた。
すると運転手は、ためらうことなく、こう言った。
「63歳です。昭和23年生まれです」と。

 な、何と、私と同じ年齢!
「あ、そうですか」と言っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。
それについて、ワイフは、帰りの電車の中でこう言った。
「タバコのせいよ」と。
「ドアのハンドルも、タバコのヤニで、ベタベタしていたわ」と。

 かなりのヘビースモーカーとみた。
それが老化を早めた?
それにしても、「ものすごい人」だった。
強く印象に残った。
(私は、22年生まれの63歳。)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●喪失の受容段階論(孤独と真理)「喪失の受容段階論」


●孤独は心のがん細胞


++++++++++++++++


喪失の内容、程度は、さまざま。
失恋、事業の失敗、健康、離婚、
子どもの巣立ち、肉親の死、配偶者の
死など。


そのつど人は、はげしい喪失感を
覚える。
ときにそれがそのまま絶望感になることもある。
襲い来る孤独感、孤立感、虚無感……。


少し前、「孤独は心のがん細胞」という
記事を書いた。
孤独をけっして軽く見てはいけない。
孤独は、心をむしばみ、やがて自らの死、
つまり自殺へと、心を導く。


が、この孤独。
闘えば闘うほど、キバをむいて
私たちに向かって襲いかかってくる。
もがけばもがくほど、孤独という糸に
からまれ、身動きが取れなくなる。


仏教でも、「無間地獄」と位置づける。
あのイエス・キリストも、孤独に
苦しんだ(マザーテレサ)。


が、受け入れてしまえば、何でもない。
孤独に身を任せ、静かにそれを受け入れる。
それで苦しみが消えるわけではない。
悲しみが消えるわけではない。
孤独であることは、苦しい。
魂が引き裂かれるほど、苦しい。
が、その苦しみを受け入れたとき、
その先に小さな光明が見えてくる。


人は、人生において2度、産道をくぐりぬける。
母胎からの産道。
そして孤独からの産道。
2度目の産道をくぐりぬけたとき、人は、
真理の世界に生まれ出ることができる。


++++++++++++++++++


●喪失


 人は、どう喪失感を受け入れていくか。
その参考となるのが、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」。
言うまでもなく、「自分の命」を失うことを超える喪失感は、ない。
まさに死は究極の喪失感ということになる。


●死の受容段階論


 キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)は、つぎ
のような段階論をいう。


(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを
試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)


●喪失の受容段階論


 喪失感がはげしければはげしいほど、ロスの『死の受容段階論』に似た段階を経て、やがて
人は喪失を受け入れるようになる。
こまかい点ではちがいはあるのだろうが、おおまかに言えば、それに近い。
順に整理してみる。


(第1期) 否認……失ったことを知り、大きなショックを受けたのち、失ってはいないと、はげしく
否認する。ささいなことに希望をつなぎ、「まだ何とかなる」と思う。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の幸福
そうな人、家族で、相手本人に対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……喪失の回復の見込みがないことを自覚すると、神や医者、家族と取り
引きを試みる。祈ることでの延命や、喪失の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……喪失感が持続的につづくと、虚無主義に陥ったり、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至る。運命に身を任せ、運命に従い、喪失による孤
独感を静かに受け入れる。(以上、ロスの『死の受容段階論』を一部、改変。)


●孤独をどう受け入れていくか


 孤独というのは、闘っても意味がない。
闘う必要もないし、また人間にはそれに打ち勝つ力はない。
そこで大切なことは、居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
同時に、「みな、そうなんだ」と思えばよい。


 一見、派手な世界で愉快そうに振る舞っている人にしても、孤独でない人はいない。
みな孤独を背負っている。
あるいは孤独という氷の上を歩いている。
薄い氷。
その下では孤独が、「おいで、おいで」と手招きしている。


孤独を知らない人というのがいたら、本物のバカか、ものを考えないノーブレイン
(=脳なし人間)。
あるいは孤独をごまかして生きているだけ。
孤独から逃げているだけ。


 もちろん財力や名誉、地位、肩書き、経歴など、孤独の前では、一片の価値もない。
意味もない。
乾いた煙ほどの力もない。
孤独を癒す力など、まったくない。
もがけばもがくほど、孤独の糸がからんでくる。
身動きが取れなくなる。


 が、ひとたび孤独を受け入れれば、周りの世界は一変する。
それまで見えなかったものが、見えるようになる。
何が大切で、何がそうでないか。
何が価値があり、何がそうでないか。
言うまでもなく、私たちが探し求めている真理は、その向こうにある。


●真理探究


 財力や名誉、地位、肩書き、経歴に毒されている間は、真理など求めようもない。
そういう世界で踊っている人は、作りあげられた幻想の世界で、酔いしれているだけ。
それは一時のさみしさを紛らわすために飲む、酒のようなもの。
酒から覚めたら、その何倍もの孤独感が襲ってくる。


 言い替えると、財力や名誉、地位、肩書き、経歴にしがみつけばつくほど、その人は
孤独を前に、もがき、苦しむ。
絶望のどん底へ叩き落とされる。
「自らの死」を選択することにもなりかねない。


 が、孤独は「第二の産道」。
その産道をくぐり抜けることなしに、人は、真理の世界に入ることはできない。
もちろん「真理」は、その人によってちがう。
真理はひとつではないし、真理の向こうにまた別の真理がある。
そこは平和で、満ち足りた世界。
豊かで、おおらかな世界。
が、その世界もまた、無限のかなたへとつづく。


 方法は簡単。
孤独を受け入れる。
静かに受け入れる。
それで苦しみや悲しみが消えるわけではない。
しかしやがて、その先に、一筋の光明が見えてくる。
あとはその光明に向かって歩いていけばよい。


 ……この先のことは、私にもわからない。
ただこれだけは言える。


真理などというのは、そんなに遠くにあるものではないということ。
私やあなたのすぐそばにあって、私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて
じっと待っている。


 さあ、あなたも勇気を出して、孤独の世界に身を横たえてみよう。
声に出して叫んでみよう。
「私はさみしい!」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 第二の産道論 真理の探究 真理 孤独論 喪失論 喪失の受容段階論 はや
し浩司 ロス 死の受容段階論 はやし浩司 孤独は心のがん細胞)



Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●雑感(2011/01/28)

●金価格

 少し前まで天井知らずに見えた金価格が、この数週間、じわじわとなだらかな山をくだ
るように低下している。
が、こういう低下のしかたそのものが、不自然。
「じわじわ」というところが、不自然。
つまり巨大な力が、その裏で動いている。
つまりコントロールしている。

 「巨大な力」というのは、国家的規模の力をいう。
こうした操作をするには、それくらいの規模の力が必要。
「急激に下がりすぎても困る」……そのときは適当に(買い)を入れる。
しかし「現在のような高値で何とか売り抜けたい」……しかし下がりすぎても困る、と。
言い替えると、利食いの売りを入れながら、一方で金価格の暴落を防ぐ。
こんな芸当ができるのは、やはり「巨大な力」だけ。

 アメリカか?
それとも中国か?
現在、グラム3700円前後(田中貴金属)。
が、いつまでも下がりつづけるわけではない。
3500円くらいで底を打つはず。


●窓から小便

 みんなやっている。
男なら、みんなやっている。
窓から、小便。

 私は高校生くらいのときから、よく窓から小便をした。
前に小屋根があって、店の看板がそこに立っていた。
その看板の下あたりを、めがけて小便をした。
それには理由がある。

 ひとつは私の家は細長い家で、私の部屋は二階の一番北側。
便所は一階の一番南側にあった。
だからいつだったか、間に合わないと思ったとき、窓から外に向かってした。
もうひとつは、私は子ども(幼児)のころから、あの便所が怖かった。
ボットン便所で、いつも薄暗かった。
それに臭かった。
で、以後、それが習慣になった。

 で、今でもときどき、窓から外に向かってする。
それについてワイフが、こう言った。

ワ「あなたは窓からしているしね……」と。
私……ドキッ!、「……知っていたの?」
ワ「知っていたわよ。ずっと前から……」
私「だったら、言ってくれればいい」
ワ「言う必要もないでしょ」と。

 ナーンダ!
私だけの秘密かと思っていた。
ワイフは、とっくの昔に知っていた。

私「ぼくね、高校生のときから、していたよ」
ワ「……」
私「でね、ある夜、いつものようにそれをしたら、下の道路から声が聞こえてきたよ」
ワ「その話は、いつか、聞いたわよ」
私「そうだったか? 母親と娘だった。その娘がこう言った。『あら、お母さん、雨よ!』
って」

ワ「……かわいそう……」
私「だろ。だからそれからは、じょうずにするようになった」
ワ「じょうずにって?」
私「左右に振りながら、小出しに、うまく樋(とい)の中に流すんだよ」
ワ「今も、そうしているの?」
私「まあ、ね」と。

 立ち小便は、男の特権。
(女性でも、できなくはないらしいが……。)
尿を膀胱にいっぱいためて、一気に放出する。
あの解放感は、たまらない。

 いちばんよいのは、山の頂上から、下をめがけてする。
そういう場所を見つけて、下をめがけてする。
あの解放感は、たまらない。

●若い人たちのアイデンティティ(同一性の確立)

 私たちの世代では、権力との闘いが、ひとつのテーマになっていた。
安保闘争もそのひとつ。
政治のことは何も知らなかった。
しかし自分たちを抑えつける権力に、抵抗した。
それが私たちにとっての、安保闘争だった。

 が、つぎの世代では、世代との闘いが、ひとつのテーマになっていった。
それをわかりやすく表現したのが、尾崎豊の「卒業」。
「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った」と。
あの歌の出現に、私たちは少なからず、驚いた。
その歌の向こうに見える、若者たちの猛烈な反発を感じ取ったからだ。

 で、現在はどうかというと、それが「恋愛ごっこ」。
「韓流ドラマ」の流行に、私は、それを見る。
歴史も政治も、どこかへ吹きとんでしまった。
「反日、嫌韓など、どうでもいい」と。
つまり「恋愛こそ、すべて」。

 つまり自我の同一性といっても、「だれを、どの程度好きなのか、それが問題」。
これが現在の若い人たちの「自己概念」。
そしてその人と、どうつきあっているか。
それが「現実自己」。
それが一致した状態を、今の若い人たちがいう、「自我の同一性」ということになる。

 今ではほとんどの男子高校生は、避妊具つまり、コンドームを持ち歩いている。
「放課後の部室、空き部屋はラブホテルのよう」と。
ある高校の教師はそう言った。

これをわかりやすく、チャート化してみる。

(私たちの世代) 権力との闘い
(つぎの世代)  世代との闘い(=古い世代の否定)
(現在の若者)  恋愛ごっこ

 「これでいいのか?」と思ったところで、この話はおしまい。
私たちの世代にしても、その前の世代のこととなると、ほとんど知らない。
たとえば私たちの一世代前の人たちは、国を守るためと、戦場で命を落としていった。
その数、300万人。
(日本人が殺した外国人の数も、同じく300万人。)
そういう人たちから見れば、私たちの世代は、何ともだらしない。
「何が、権力闘争だ!」となる。

 それぞれの世代は、それぞれ勝手なことをしながら、自分たちの世界を作る。
私たちの世代が正しいというわけではない。
私たちの前の世代が正しいというわけでもない。
つぎのつぎの今の世代が、正しいというわけでもない。

●運動のしすぎ

 重要な講演が近づいた。
日を追うごとに、運動量をふやした。
その結果、昨日あたりから、太ももや腰が痛くなり始めた。
ギコギコとした感じ。

 運動もやはり、ほどほどに……。

 では、今日も始まりました。
みなさん、おはようございます。
これからいつもよりやや遅い、朝食です。
1月28日 2011年
はやし浩司 2011−01−28


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林 浩司

【沼津市での講演会】

●沼津へ

 夜行列車で沼津へ向かう。
今夜は沼津で一泊。
明日の講演会に備える。
地域の学校の先生たちが、集まってくれる。
予定では300人とのこと。

 が、出だしが決まらない。
どこから切り出そうか。
今、そんなことを考える。
……というより、私のばあい、いつもその場の雰囲気で決める。
壇上に立ったその瞬間、その瞬間に、決める。

●夜行列車

 「新幹線にすればよかった」と、先ほどワイフにこぼした。
夜行列車といっても、通勤列車。
客が一列に対峙して座る。
どうも落ち着かない。
横を見ると、ワイフはすでに本を開き、それを読んでいる。

 さっそく客の観察を始める。
これは私のいつものクセ。

反対側左から、40歳くらいの女性。
60歳くらいの女性。
真ん前は、50歳くらいの男性。
この男性は単行本を片手で持ち上げて、それを読んでいる。
5〜6人をおいて、若いカップルが一組。
女のほうが、ペチャクチャと何やら話しつづけている。

●乗客

 列車は各駅停車。
そのつど駅に止まり、そのつど冬の冷気が足元に流れてくる。
あとは間断なくつづく電気モーターの音と、ガタンガタンという車輪の音。
軽い眠気が繰り返し私を襲う。

 そう言えば、斜め右前の男が気になる。
65歳くらいか。
浅黒い顔色をし、ときどき小さな魔法瓶に口をつけて、何やら飲んでいる。
職業は何だろう。

……たった今、その男が読んでいる本の表紙が見えた。
パソコン用めがねをかけているので、大きな文字しか見えない。
それには「台湾」とあった。
旅行案内の本か?
右脇に大きな黒いバッグ。
ワイフに「表紙に何と書いてある?」と聞くと、「食べ物の本みたい……」と。

●隣人 

 事務所の隣人が、入院しているという。
それほど親しくはないが、気になる。
穏やかで、誠実な人だ。
ときどき「何か手伝いましょうか?」と声をかけたことがある。
パソコンのことなら、多少の知識がある。
が、相手にしてもらえなかった。
隣人はいつもパソコンを前に、何かをしていた。

 が、見舞いに行くほど、親しくはない。
突然行くのも、好ましくない。
相手の都合もあるだろう。
大家さんの話では、げっそりと痩せていたという。
書き忘れたが、入院してもう1か月になるという。
検査入院とかで、入院した。
それが1か月?

●伯父の他界

 数日前、伯父が他界した。
おととい、香典を届けた。
岐阜の山奥で、峠を越えたら、一面の雪景色。
久しぶりの雪景色。
その美しさに、思わず声をあげた。

 母方の兄弟が13人。
父方の兄弟が5人。
私には18x2=36人のオジやオバがいた。
が、今は、もう2、3人になってしまった。
さみしいというより、「つぎは私たち……」。
そんなふうに考える。
ワイフも、「順番ね」と言った。

 伯父は、自宅のふとんの中で横になっていた。
若いころは色白だった。
大柄な人だった。
が、そこに見た伯父は、小さく、顔色も土色だった。
表情も、別人のようだった。

●封建主義

 その伯父。
よい意味でも、そうでない意味でも、昔の武士のような人だった。
私はいつもその伯父を通して、江戸時代を見ていた。
家父長意識が強く、家意識も強かった。
ものの考え方も権威主義的で、上下意識も強かった。
もちろんプライドも高かった。
封建時代というより、封建主義のかたまりのような人だった。

嫁いできた伯母などは、最初の10年ほどは、「女中」のような存在だった。
妻というよりは、「女中」。
みな、そう言っていた。

 ……あの封建時代を礼賛する人も多い。
「武士道こそ日本の……」と説く人も多い。
しかし封建時代の、「負の側面」を語ることなしに、一方的に武士道なるものを
礼賛してはいけない。
平たく言えば、「人間」を語ることなしで、武士道を語ってはいけない。

●前の男

 列車は掛川を過ぎた。
静岡までの半分の距離を過ぎた。
斜め右側の若いカップルは、相変わらず、ペチャクチャと話しつづけている。
その横の男は、本を読むのをやめ、今は、両手をコートのポケットに入れ、
眼を閉じている。
横には、大きな黒いバッグ。
 
 大きなバッグである。
通勤用ではなさそう。
どこかへ行くのだろうか。
それとも帰ってきたのだろうか。
頬は、ブルドックの顔のように垂れ下がっている。

●文を書く

 この列車は鈍行列車ということになる。
が、私は嫌いではない。
1〜2時間の距離なら、いつも鈍行列車を利用する。
こうして列車の中で、文を書くのは楽しい。
新幹線だと、それができない。
……というか、落ち着かない。

 時間はたっぷりとある。
そう言えば、あのカップルが、先ほどの駅で降りた。
とたん、夜行列車独特の静けさが、車内に充満した。
みな、目を閉じて黙りこくっている。
聞こえるのは、車掌の声、笛の音、それに客が動かす荷物の音。

 ……またまたあの眠気。
もしこうしてキーボードを叩いていなかったら、私は眠っていただろう。
横を見ると、ワイフも目を閉じて眠っている?

●OFF

 たった今、ぐるりとあたりを見回した。
そのとき、斜め前の男と、視線が合ってしまった。
気がつかなかったが、向こうは先ほどから私のほうを見ていたらしい。
私は会釈する間も取らず、目をそらした。
そらしながら、左手で首筋をかいた。

 人間というのは、不思議な生き物だ。
こういう世界では、すべての人を、OFFにしてしまう。
人間を人間と見ない。
記憶にも残さない。
記憶にも刻まない。

 相手の男もそうだろう。
私をどう見たかはわからないが、見ると同時に、忘れているはず。
大脳生理学の本によれば、数分の1秒程度で、忘れてしまうそうだ。
でないと、脳みそは記憶だらけになってしまう。
パンクしてしまう。
この文を読んでいるあなたにしても、そうだ。
読んだ先から、内容を忘れていく。
それでよい。

●空想

 では、どうすればよいのか。
どうすれば、この瞬間を、脳に刻むことができるのか。
またこの文を読んでいる読者のみなさんの脳に、どうすればこの文を刻むことが
できるのか。

 何かの事件があれば、それでよい。
それを書けばよい。
何かないか……?

 そう、こんな話はどうか。
実はこの夜行列車は、今日死んだ人を、黄泉(よみ)の国へ運ぶ、死人列車。
昔、そんなようなテレビ映画があった。
「ミステリーゾーン(ツワイトライトゾーン)」というのが、それだった。

 が、列車の中の客たちは、自分が死んでいることに気がついていない。
いつもの自分と思っている。

 あるいは火星に向かう宇宙船でもよい。
ただの宇宙船では退屈するだろう.
そこでわざと夜行列車風に作り変える。
この列車の中の人たちは、みな、それなりの科学者。
外の景色も、作り物。
しかし速度は、秒速数万キロ!  
 
●乗り換え

 この列車は、静岡で乗り換え。
乗り換えて、沼津に向かう。
同じ静岡県なのに、結構、遠い。
少し尻が痛くなってきた。
この一週間、運動量をふやした。
筋肉痛が、あちこちに残る。

 ……それにしても、腹が減った。
沼津で何かを食べる。
それが楽しみ。

 明日は講演のあと、主催者の人たちが、昼食を用意してくれるとか。
先日、電話で「生ものでいいですか?」と聞いてきた。
沼津といえば、魚。
サシミ類なら、毎日でもよい。
私の大先祖は、肉食の魚だった!
楽しみ。
空腹なときは、とくに楽しみ。

●真剣勝負

 私にとって講演というのは、まさに真剣勝負。
集まる人の数には、左右されない。
関係ない。
10人でも、500人でも同じ。
まったく同じ。
「手を抜かない」というよりは、どこでも同じ。
真剣勝負。

 ……といっても、このところ心配なのは、気力。
気力がつづかない。
気力がつづかないと、途中で何を話しているか、わからなくなる。
脱線しても、話を元にもどすことができなくなる。
それが心配。

 だから講演の朝は、食事を抜く。
腹をからっぽにしておかないと、脳みそのほうに血が回らなくなる。
私は低血圧症。
上が110、下が60〜70前後。
長生きはできるそうだが、その分、ボケやすい、とか。

 それに中には、同じ話をする人もいるとか。
私のばあいは、いつもちがった話をする。
会場ごとに、ちがった話をする。
で、明日の話は、やはり新家族主義から入る。

●新家族主義

 家族主義もよいが、行き過ぎはよくない。
現在は、その家族主義が行き過ぎている。
「仕事より家族」と言うのは結構だが、貧乏の恐ろしさを知った上でなら、それもよい。
貧乏の恐ろしさを知らないまま、「家族のほうが……」というのは、おかしい。

 たしかにお金では幸福は買えない。
が、お金がなければ、確実に不幸になる。
また多くの親は、子どもに楽しい思いをさせること、あるいは楽をさせることが、
親の愛の証(あかし)と考えている。
親の絆もそれで太くなる、と。

 しかしこれは誤解。
まったくの誤解。
子どもを「よい子」にしたければ、(「よい子」の定義もむずかしいが……)、
子どもには苦労をさせる。
その苦労が、子ども自身を育てる。

●苦労

 が、苦労といっても、二種類、ある。
自分のための苦労と、他人のための苦労。
(1)利己的苦労と、(2)利他的苦労。
よく「私は受験勉強で苦労しました」と言う人がいる。
しかしそれは自分のための苦労。

 子どもは、(おとなもそうだが……)、他人のために苦労を重ねて、自分の人格を
磨くことができる。
できれば無私無欲。
忍耐力も、それで育つ。

 これも誤解がないように、ここではっきりと書いておきたい。
子どもにとっての忍耐力というのは、(おとなにとってもそうだが……)、「いやなことを
する能力」をいう。
たとえばためしにあなたの子どもに、トイレ掃除でもさせてみればよい。
何の抵抗もなく、自然にそれができれば、すばらしい子どもということになる。
つまりそういう「力」は、苦労によって育つ。
「自分のための苦労」ではない。
「他人のための苦労」で育つ。

 ……反対に、よく「うちの子はサッカーだと一日中しています。忍耐力はあるはずです。
そういう力を、勉強面でも伸ばしたい」という親がいる。
しかしそんな力は、ここでいう忍耐力ではない。
自分のために苦労しているだけ。
好きなことをしているだけ。

 親としてはつらいところだが、……というのも、日本人は骨のズイまで、日本人独特
の育児観がしみこんでいる。
そういう常識を変えるのは、容易なことではない。
たとえばニュージーランドでは、学校から帰宅したあと、子どもたちは家事の手伝いを
日課としている。
夕食までの時間が、その時間。
その間に、親の指示に従い、自分の役割を果たす。
私が「学校の宿題があるときは、どうするのか?」と聞くと、その大学生はあっさりと、
こう言った。
「夕食後だ」と。

 それが彼らの常識。

●見返り?

 となると、明日の講演は、このあたりから話したい。
今どき、高校生はもちろん、大学生でも、親に感謝しながら学校へ通っている子どもは、
さがさなければならないほど、少ない。
実際には、いない。
中に、お金を受け取るときだけ、「ありがとう」と言う子どももいる。
が、それだけ。
親がへたに何かを期待(?)しようものなら、すかさず子どものほうが、こう反論する。
「あんた(=親父)は、見返りを求めて子育てをしてきたのか!」と。
子どものほうに、親が叱られる時代である。
また今どきの子どもたちは、それを「干渉」という言葉で表現する。

 「将来、親のめんどうをみる」などと考えている若者は、30%もいない!

●沼津東急ホテル

 沼津は、沼津東急ホテルで一泊。
食事はまだだったので、歩いて100メートルほどのところにあった居酒屋で夕食。
「さえ丸おじさんの店」。

サスガ!

さすが沼津。
私は、カンパチの頭(かしら)焼き。
ワイフは、サシミの5点盛り。
新鮮で、おいしかった。
私もワイフも、大満足。

●エジプト騒乱

 部屋に帰ると、午後11時のニュース。
九州の新燃岳の火山爆発。
全国的なインフルエンザの流行。
エジプトの騒乱。
断片的なニュースが、横にあるテレビから流れてくる。
今日も、あちこちでいろいろなことがあったらしい。

 ……そのエジプト。

先進国は今、自国の経済を守るために、「札」を大増刷している。
世界中が、インフレの荒波にさらされている。
が、当の先進国は、それでよい。
インフレを吸収するだけの余力をもっている。
たとえばアメリカドルにしても、いくら印刷しても、それをほしがる国がある。
自国の通貨よりも、アメリカドルのほうをほしがる国のほうが多いのではないか。
しかしエジプトの通貨は、どうか?

本来なら、同じ割合だけ札を増刷して、アメリカドルに対抗したい。
しかしエジプトの通貨など、だれもほしがらない。
つまりそうしたしわ寄せが、中進国以下に集まり始めている。

不況と高い失業率。
物価の高騰と食料不足。
そのひとつが、エジプトの騒乱となって表面化した。
この先、世界情勢は、ますます混沌としてくる。

●1月29日

 今朝は、よく眠れなかった。
朝、4時に、目が覚めた。
エアコンのせいか、空気がカラカラに乾燥。
目が覚めたとき、喉もカラカラだった。

 冷蔵庫から、スポーツドリンクを取り出して飲む。
ワイフも半分、飲む。
再び電灯を消し、目を閉じる。

 ……頭の中で、巨大な宇宙船を想像する。
円筒形の宇宙船である。
直径は、数100キロ以上、長さは、数1000キロ以上。
実際、それに近いUFOが、土星の環(輪)付近で見つかっている。
「どんなUFOだろう?」と想像する。

 ……いつも眠れない夜は、そんなことを考える。
いつもなら、そのまま眠ってしまう。
が、今朝は反対に、かえって頭が冴えてしまった。

●円筒形の宇宙船

 円筒形の宇宙船。
居住区は、円筒の内側に張りつくように位置する。
もちろん人工の山や海もある。
球体の表面に張りつく地球と、ちょうど逆ということになる。
宇宙船は、ゆっくりと回転する。
その遠心力を利用し、人工重力を生み出す。

 直径が100キロ以上もあるから、空のかなたに、別の都市群が見える。
もちろん地球上と同じような大気の気流もあり、天候も日々に変化する。
空を飛行機が飛び交い、海には船も浮かぶ。
中央にはプラズマ太陽。
それが24時間単位で、明るくなったり、暗くなったりする。

 この程度の大きさがあれば、1億人から数億人ほどの人たちが、居住できる。
で、今朝はこんなことを考えた。

 円筒形の宇宙船は、ゆっくりと回転する。
そのとき回転する方向と逆に、同じ速度で走る列車があったとする。
理屈で考えれば、遠心力はそれによって相殺されることになる。
つまり無重力状態になる。
となると、その列車は、そのまま宙に浮かぶことになる。
……浮かぶことになるのか?

 そんなことを考えていたら、かえって頭が冴えてしまった。

●さらに10兆円?

 現状のままでは、2、3年後には、赤字国債がさらに10兆円ほどふえるという。
寝る前に見たテレビで、解説者がそう言っていた。
これは、もうメチャメチャな額と言ってよい。
わかりやすく言えば、月給40万円しかない人が、毎月90万円近い生活費を使って
いることになる。
差し引き50万円は、借金。
その借金が、さらに10万円増える。

 ただ救いなのは、息子や娘のできがよく、資産を1000万円近くもっていること。
いざとなったら、息子や娘の預貯金を食いつぶせばよい。
一家の親父は、そんなことを考え、借金のことなど、どこ吹く風。
今月も庭の改造や、離れの改築に忙しい……。

 バカげているが、だれもそれを止めることができない。
本来なら親父の小遣いを減らし、道楽をやめさせる。
経済学者たちは、みなこう言っている。
「日本経済の破綻は可能性の問題ではなく、時間の問題」と。

●行政改革

 ここまで来たら、行政改革、つまり官僚制度の是正を断行するしかない。
わかりやすく言えば、公務員数の削減と公務員の給料の削減。
ボーナスにしても、公務員の人たちには、年4回も支払われている。
夏と冬の通常のボーナスのほか、年2回の「調整金」という名目のボーナス。
恩給にしても、「転籍特権」という特権がある。
その人が死んでも、家族は、それ以後も年金を受け取ることができる。
つまりそういう特権が無数に積み重ねあげられ、現在の公務員社会を作っている。

……いったいいくらの給料が支払われているのか。
支払われていないのか、それを正確に知る人は少ない。
が、計算方法がないわけではない。

 総人件費を、総公務員数で割るという方法がある。
いろいろな計算がなされている。
が、それとて、よくわからない。
複雑に入り組んでいる。

 で、昨日、政府は、公務員の給料を総じて2割削減するということを言い出した。
当然のことである。
が、O県のばあい、以前、5%(たったの5%だぞ)削減すると首長が提案しただけで、
大騒動になった。
提案は、そのままつぶされてしまった。

 さて、どうなることやら。
が、このままでは日本の経済は、確実に破綻する。
ある評論家はテレビ報道の中で、「残りの猶予期間は、ここ1、2年です」と言っていた。
それを過ぎると、赤字国債の買い手が見つからない。
つまり国家破綻!

 それぞれの公務員の人に責任があるわけではない。
が、ここまで丸々に肥大化した公務員社会。
そこにメスを入れないかぎり、日本に明日はない。

●会場へ

 会場へは、迎えの車で。
朝食は抜いた。
そうでなくても、眠い。
ここで食事をしたら、本当に眠ってしまう。
一度、そういうヘマをしたことがある。
昼に出された寿司を食べてしまった。
講演は、そのあと。
その講演の途中で、瞬間だが、コクリと眠ってしまった。
以来、講演の前には、食事をしないことにした。

 が、寒いせいか、今朝は、呂律(ろれつ)がよく回らない。
たとえば「きょう(今日)」というのを、「ケウ」などと言ってしまう。
こういうときは、発声練習をする。
脳と口の筋肉をシンクロナイズさせる。
合唱団員のとき、よくした。

 ……あるいは脳の微細脳梗塞が始まっているのかも?
血栓性の脳梗塞。
心配。
本来なら30分でもジョギングできればよい。
脳の回転がよくなる。
が、その時間もなさそう。
今朝はこれからこのまま会場へ。
あと30分。
チェックアウトをすませ、ロビーで待つ。

それでは、みなさん、おはようございます。
(2011年1月29日)


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●1月31日朝記

++++++++++++++++++++

昨日、NG先生の奥さんと、私とワイフ、
3人で食事をしてきた。
場所は、いつかいっしょに行ったことがある、
「浜名湖・オーベルジュ・キャトルセゾン」。
広い窓の下に浜名湖を見下ろすことができる、
「すてきな」レストラン。
「すてきな」という、どこか女性的な表現に
ぴったりのレストラン。
静かで、上品で、まるで中世の城を思わせるような
雰囲気。

NG先生は、昨年の暮れ、12月1日に亡くなった。
あまりにも突然の死だった。
いつものように日課をこなし、いつものように
医院へ……と。
そこでそのまま亡くなってしまった。
そのNG先生が、そのレストランを紹介してくれた。
覚えにくい名前だが、一度行ったら、忘れることの
できないレストラン。
それが「浜名湖・オーベルジュ・キャトルセゾン」。

私とワイフは、奥さんをなぐさめるつもりで、
奥さんを誘った。
奥さんはあれこれ都合をつけ、私たちの申し出を
快く受けてくれた。

+++++++++++++++++++

●NG先生

 話はつきなかった。
奥さんの話を聞きながら、そのつど私はNG先生の、あの静かな笑顔を思い浮かべていた。
私にとっては、もっとも大切な理解者だった。
短いエッセーでも、文の向こうにある私の心を読み取ってくれた。
たわいもない旅行記。
そんな旅行記でも、NG先生は、ていねいに読んでくれた。
感想文を届けてくれた。
「さぞかし、つらい旅行だったようですね」と。

 それが私にとって、うれしかった。
そのため毎回、「これは……」と思うエッセーをメールで送った。
NG先生は、かならず返事をくれた。
そのNG先生がいなくなってしまった。
心に穴が開いてしまった。

 私はNG先生の訃報を聞くと、そのまま家を出てしまった。
何時間も、家のまわりを徘徊した。
私は子どものときから、そうしている。
何かさみしいことや、つらいことがあると、決まって徘徊した。
その夜もそうだった。
その夜も家に帰ったのは、午前3時ごろ。
足が痛くなって、歩けなくなってしまった。
コンビニから電話をかけ、ワイフに車で迎えに来てもらった。

●NG先生

 人はなぜ、やさしくなれるか?
やさしさは、どこから生まれるか?
その答をNG先生は、よく知っていた。

幼いころより、苦労の連続。
「不運」というには、あまりにも過酷な人生。
そういう人生を通して、NG先生は、心の中に無数のポケットを作っていった。
そのポケットが、NG先生をやさしくした。
あの奥深い人間性はそこから生まれた。

 ……いつだったか、こんな相談があった。
まだ知り合って、間もないころのことだった。

「私の知人に不幸な女性がいましてね……」と。
その手紙には、その女性の不幸な生い立ちと、心の病が長々と書かれていた。
私はその手紙を読んで、あまりにもありえない境遇に驚いた。
が、それは事実だった。
やがて少しずつわかったことだが、それはNG先生自身のことだった。

 奥さんは、NG先生のことを、断片的に話してくれた。
それが私の頭の中で、ジグソーパズルのようにつながっていった。
NG先生の過去が、そして現在が、頭の中で浮かびあがってきた。
話の途中で、ワイフが奥さんにこう言った。

「先生が亡くなられたと聞いたとき、主人は、へんになってしまったのですよ」と。

●死

 私は基本的には、それがだれの死であれ、「死」を認めない。
たとえその人の葬式に出たとしても、認めない。
それはただの儀式。
その人は、いつもどこかで生きている。
ただ、「会えないだけ」。

 だれでも、事情によって、数か月、あるいは数年、あるいは数十年、会えない
ことはある。
それと同じ。
同じと思うことで、私は人の死を見送ってきた。

 だからNG先生の奥さんからメールが入っても、私はいつものように「NG先生奥様へ」
という書き出して返事を書いていた。
「NG先生は、そこにいる」と。

 それはそのまま私の死生観でもある。
私はいつもワイフにこう言っている。
「私が死んでも、だれにも知らせなくていい」と。
親戚、友人はもちろん、息子たちにも、知らせなくていい、と。
いつか、どこかで、だれかが「あの林は?」と聞いたとき、そのとき死んでいたと
わかればよい。

 さらに言えば、10年前に死んだ人も、50年前に死んだ人も同じ。
明日、死ぬ人も、20年後に死ぬ人も同じ。
この宇宙という時間枠で見れば、100年や200年、瞬時の、そのまた瞬時。
誤差にもならない。
こんな文章を書いている私だって、つぎの瞬間には、この世から煙となって消える。
 
●形見

 奥さんを家に送り届けると、奥さんがこう言った。
「渡したいものがありますから、寄ってください」と。

 気遣いを感じたので、私は遠慮したかった。
が、どういうわけか、私はそれに素直に応じてしまった。
「NG先生の論文集を、HPにまとめて掲載したい」という思いがあった。
それをどこでどう頼むか、その糸口をさがしていた。
しかしそれはあまりにも、恐れ多い。

 奥さんは玄関前にある客間へ通してくれた。
私はそこでNG先生の遺骨を見た。
座って手を合わせた。

 「80歳まで元気でがんばりましょう」と、つい先日、誓いあったばかり。
学年は1級上だったが、年齢は、私と同じ。
享年、63歳だった。

奥さんは「主人は、先生のこと(=私)を尊敬していました」と言ってくれた。
それに答えて、ワイフがかわりにこう言ってくれた。
「主人(=私)も、先生(=NG先生)を尊敬していました」と。

 と、そのとき、奥さんが一着の服を私にうしろからかけ、こう言った。
「主人の形見です。どうか、これを着てください」と。

 奥さんはサイズを気にしていた。
が、サイズなど、問題ではない。
「どうしてサイズが……!」と。
そう思った瞬間、目から涙があふれ出た。
止めどもなく、涙があふれ出た。
そのとき私ははじめて、NG先生の「死」を認めた。
自分の中の死生観が、サラサラと粉のように崩れていくのを感じた。

●帰りに

 ワイフがこう言った。
「あなたにとって、大切な人だったのね」と。
私はただ「うん」と。

そう、大切な人だった。
どこかの部屋に、こんな色紙が飾ってあった。

 「たったひとりでも、あなたをわかってくれる人がいたら、それでいい」と。
たしか「みつを」という署名があった。
人は、その「たったひとり」を探し求めて、人生という荒野をさまよい歩く。
とぼとぼと、あてどもなく、さまよい歩く。

 が、その「ひとり」の人がいなくなってしまったら……。
残された人は、どう生きていけばよいのか。
やっとわかりあえた、……わかりあえそうになったそのときに、NG先生は去って
しまった。
約束の80歳までに、まだ17年もあった。
それを思ったとき、また涙があふれ出した。

 ……いちばん最後のメールで、こんなことを言い合った。
「ぼくは、この先、小さな小さな希望を見つけ、その希望に向かって生きていきます」と。
すかさずNG先生から返事が届いた。
「私もそうです」と。

NG先生は、そのとき絶滅種になっている植物の探索をしていた。
「未発見のシダを見つけるのが、私の希望です」とも。

 NG先生へ

 11年間、ありがとうございました。
最後に奥さんに手紙を見せていただいて驚きました。

 先生と講演先の学校で知り合ったのが、平成11年12月1日、水曜日。
先生が亡くなったのは、平成22年12月1日、水曜日。
これは偶然なのでしょうか?


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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●はやし浩司 2011−02−01

+++++++++++++++++

朝、普段着のまま、ランニングをする。
白い朝の光線、春草のかすかな匂いの
混ざった冷気、
それを頬で感じながら、ヒタヒタと走る。

しばらく走ると、目の下から、一番汗。
それがスーッと下に流れた。
時折、自動車が風を切って、走り抜ける。
乾いた風が、体をあおる。

少し前、同じようなランニングをしたとき、
ひざを傷めた。
それを心配しながら、かかとをあげないよう、
すり足で走る。

途中、待ち合わせ場所に来ると、ワイフが
そこにいた。
「早かったわね」とワイフ。
「うん、今朝は走った」と私。
車に乗ると、ドカッと汗が噴き出した。
時計を見ると、40分。
今日一日の運動量の、半分をこなした。

+++++++++++++++++


【かん黙児&過敏児】


悪循環から抜け出る法(身勝手を捨てろ!)
教師が子育ての宿命を感ずるとき


●かん黙児の子ども


 かん黙児の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をす
る。その無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。
指導といっても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結
構、神経をつかう。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじま
ない。が、その年の年末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親
が考えたことは、「いかにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてその
あと、私にこう相談してきた。「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学
級に入れてもらえます。ですから心理療法士にかかることにしました。ついては先生(私)
のところにもいると、パニックになってしまいますので、今日限りでやめます」と。「何が
パニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者が二人では、私の頭が混乱します」と。


●経過は一年単位でみる


 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が
軽かったことに気づく。あとはその繰り返し。私が「三か月は何も言ってはいけません。
何も手伝ってはいけません。子どもと視線を合わせてもいけません」と言った。が、親に
は一か月でも長い。一週間でも長い。そういう気持ちはわかるが、私の目を盗んでは、子
どもにちょっかいを出す。一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切
るのは、たいへん難しい。情緒障害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべ
て、どうだったか」「一年前は、どうだったか」と。一か月や二か月で、症状が改善すると
いうことは、ありえない。が、親にはそれもわからない。最初の段階で、無理をする。時
に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってしまう。初期の段階で、つ
まり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれば、「障害」という言葉を使うこ
ともないまま終わる。が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えていた。


●「そんな冷たいこと言わないでください!」


 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どもがかん黙児と
わかった。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、
「音楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。それが今度は、「心
理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます」と。母親
自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだわって
いる。もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で
判断なさってください」と言うと、母親は突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこ
と言わないでください! 私を突き放すようなことを言わないでください!」と。


●親は自分で失敗して気づく


 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たい
ていの親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、
症状を悪化させる。それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさ
っちもいかない状態になっている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくし
かない。確かに冷たい言い方だが、子育てというのはそういうもの。子育てには、そうい
う宿命が、いつもついて回る。


(参考)


●かん黙児


 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変
わると貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の
学習環境での指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学
生で一〇〇〇人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子ど
もまで含めると、二〇人に一人以上は経験する。


 ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙す
る、全かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイ
プの子どもや、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを
当てて意見を述べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。


 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子ど
もはかん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したと
きをきっかけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われて
いる。


 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめ
る)、口をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももい
る。心と感情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。


かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たり
すると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあ
いがヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話
しなさい」「どうしてハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障
害によるもので、子どもの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければ
ならない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


神経質な子どもに対処する法(性質を見ぬけ!)
子どもが神経質になるとき


●敏感(神経質)な子ども 


 A子さん(年長児)は、見るからに繊細な感じのする子どもだった。人前に出るとオド
オドし、その上、恥ずかしがり屋だった。母親はそういうA子さんをはがゆく思っていた。
そして私に、「何とかもっとハキハキする子どもにならないものか」と相談してきた。


 心理反応が過剰な子どもを、敏感児という。ふつう「神経質な子」というときは、この
敏感児をいうが、その程度がさらに超えた子どもを、過敏児という。敏感児と過敏児を合
わせると、全体の約三〇%の子どもが、そうであるとみる。一般的には、精神的過敏児と
身体的過敏児に分けて考える。心に反応が現れる子どもを、精神的過敏児。アレルギーや
腹痛、頭痛、下痢、便秘など、身体に反応が現れる子どもを、身体的過敏児という。A子
さんは、まさにその精神的過敏児だった。


●過敏児


 このタイプの子どもは、(1)感受性と反応性が強く、デリケートな印象を与える。おと
なの指示に対して、ピリピリと反応するため、痛々しく感じたりする。(2)耐久性にもろ
く、ちょっとしたことで泣き出したり、キズついたりしやすい。(3)過敏であるがために、
環境になじまず、不適応を起こしやすい。集団生活になじめないのも、その一つ。そのた
め体質的疾患(自家中毒、ぜん息、じんましん)や、神経症を併発しやすい。(4)症状は、
一過性、反復性など、定型がない。そのときは何でもなく、あとになってから症状が出る
こともある(参考、高木俊一郎氏)。A子さんのケースでも、A子さんは原因不明の発熱に
悩まされていた。


●子どもを認め、受け入れる


 結論から先に言えば、敏感児であるにせよ、鈍感児であるにせよ、それは子どもがもっ
て生まれた性質であり、なおそうと思っても、なおるものではないということ。無理をす
ればかえって逆効果。症状が重くなってしまう。が、悪いことばかりではない。敏感児に
ついて言えば、その繊細な感覚のため、芸術やある特殊な分野で、並はずれた才能を見せ
ることがある。ほかの子どもなら見落としてしまうようなことでも、しっかりと見ること
ができる。ただ精神的な疲労に弱く、日中、ほんの一〇数分でも緊張させると、それだけ
で神経疲れを起こしてしまう。一般的には集団行動や社会行動が苦手なので、そういう前
提で理解してあげる。


●一見鈍感児なのだが……


 ……というようなことは、教育心理学の辞典にも書いてある。が、こんなタイプの子ど
ももいる。見た目には鈍感児(いわゆる「フーテンの寅さん」タイプ)だが、たいへん繊
細な感覚をもった子どもである。つい油断して冗談を言い合っていたりすると、思わぬと
ころでその子どもの心にキズをつけてしまう。ワイワイとふざけているから、「ママのおっ
ぱいを飲んでいるなら、ふざけていていい」と言ったりすると、家へ帰ってから、親に、「先
生にバカにされた」と泣いてみせたりする。このタイプの子どもは、繊細な感覚をもちつ
つも、それを茶化すことにより、その場をごまかそうとする。心の防御作用と言えるもの
で、表面的にはヘラヘラしていても、心はいつも緊張状態にある。先生の一言が思わぬ方
向へと進み、大事件となるのは、たいていこのタイプと言ってよい。その子ども(年長児)
のときも、夜になってから、親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「母親のおっぱいを
飲んでいるとかいないとか、そういうことで息子に恥をかかせるとは、どういうことです
か!」と。敏感かどうかということは、必ずしも外見からだけではわからない。


(参考)
●過敏児と鈍感児


 過敏児と対照的な位置にいるのが、鈍感児(知的な意味で、鈍感というのではない)。ふ
つうこの両者は対比して考える。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 かん黙児 緘黙児 場面かん黙児 全かん黙児 過敏児 はやし浩司 
敏感児)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●佐久間象山(1811〜1864)と皆神山(長野県長野市)

++++++++++++++++++++

こんなロマンがある。
つまりおとぎ話。
その話というのは……。

佐久間象山という幕末の学者がいた。
幕末の志士たちに、大きな影響を与えたとされる。
その中には、吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬
などがいた。
とくに勝海舟とは縁が深い。
勝海舟の妹の順が、佐久間象山の妻である。

たいへんな学者で、国家論のみならず、ガラスの
製造法、電話の研究、地震予知機まで研究して
いたという。

その佐久間象山の生まれ故郷が、長野県松代。
現在は、長野県長野市になっている。
その松代。
ワイフに、「一度は行ってみなければいけないね」と
言うと、「どうして?」と。

+++++++++++++++++++

●皆神山

 松代には、不思議な山がある。
ピラミッドのようでもあるが、上部半分が、火山口のようにもなっている。
名前を「皆神山」という。
昔からその山の地下に、3キロx1・6キロの大空間があるとされる。
人工的に造られた山という説もある。
ウソか本当か?

 今では、インターネットを使えば、簡単に調べられる。
YOUTUBEで、「皆神山」を調べると、ズラリと画像が並ぶ。
その皆神山と佐久間象山の関係は、わからない。
ただ佐久間象山が、そのあたりで、生まれ育ったというだけである。
が、ここで私が「不思議な山」というのは、地下の大空間のことを言うのではない。
実は、皆神山というのは、UFO研究者たちの間では、UFOの出没地として
よく知られているということ。
(以上、「UFOエイリアン」(ダイアプレス参考))。

●佐久間象山

 佐久間象山の写真(国会図書館蔵)を見て、まず驚くのが、その日本人離れした顔。
長い顔。
大きく鋭い目。
日本人というよりは、アラブ系もしくはユダヤ系。
耳たぶが頭部にぴったりくっついているのか、写真では、両耳が見えないこと。
佐久間象山は、遺伝子操作によって宇宙人によって作られた人間……。
……と書くと、何となくあやしげなエッセーになってくる?
しかしこれはロマン。

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/48/img5dccf106zikfzj.
jpeg" width="247" height="347" alt="39-10.jpg">

ウィキペディア百科事典には、こうある。

「……象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。
ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。
嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を
訪れている」と。

 SF小説的に考えだすと、思考が止まらなくなる。
おもしろいというより、ワクワクしてくる。
(ただしロマンの範囲で……。)

私「なあ、今度、長野へ行ったら、皆神山まで足を延ばしてみようか」
ワ「春になったら、ね」と。

 現在は雪の中。
それまでに資料集め。
(ただしロマンの範囲で……。)

●旅行(ロマンを求めて……。)

 ……というようなことを書いたが、佐久間象山がどうのとか、皆神山がこうのとか、
いうのではない。
ただ「こういう話は、おもしろい」という範囲での話。
同じ旅行でも、ロマンを描きながらするのと、そうでないのとでは、おもしろみがちがう。
たとえば伊豆の天城峠。
そこに一本のトンネルがある。
何の変哲もないトンネルだが、(どこにでもあるようなトンネルだが)、「踊り子」
(川端康成)が通ったトンネルと思うだけで、楽しさが倍増する。
それと同じ。

 近く大学時代の友人を訪問しながら、長野まで行く。
そのときここに書いたことを思い出しながら、そのあたりを旅をする。
おもしろさが、倍増するにちがいない。
ワイフと議論を重ねるのも、楽しい。
つまりそれがここでいう「ロマン」。

 佐久間象山は、ひょっとしたら、宇宙人だったかもしれない。
皆神山は、UFOの発着場であったかもしれない。
つまりそれがここでいうロマン。
おとぎ話。
もちろん本気で信じているわけではない。
(UFOの存在は、信じているが……。)

 今日は、2月2日。
将棋(PSP)をしながら、ウォーキングマシンの上で、30分、歩いた。
汗をかいた。
みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【相撲疑獄】(八百長事件)

●国技?

++++++++++++++++++

ときどき、子どもたち聞く。
「相撲を見ている?」と。
が、そのたびにみな、こう言う。
「見ていない」と。

私が知るかぎり、「相撲ファン」の子どもはいない。
ゼロ!

が、そんな相撲中継を、NHKは、毎日午後1時過ぎから、
6時前後まで中継している。
NHKと相撲協会。
何か、あやしい?
何か、臭い?

「国技」とは名ばかり。
ただの「興業」。
金儲けのための興業。
もちろんスポーツではない。

++++++++++++++++++

ちょうど1年前、こんな原稿を書いた。
2010年2月の日付になっている。

++++++++++++++++++

●おかしな投票(日本相撲協会の理事選挙)

+++++++++++++++++

相撲協会が、理事選挙を行った。
その結果を、まずよく見てほしい。

■理事選の各候補得票数

武蔵川 ・・・11票
北の湖 ・・・10票
出羽海 ・・・10票
放駒  ・・・11票
ニ所ノ関・・・11票
大島  ・・・ 8票(落選)
友綱  ・・・10票
陸奥  ・・・10票(新任)
鏡山  ・・・10票(新任)
九重  ・・・10票
貴乃花 ・・・10票(新任)

投票は、111人の評議員
(親方107人、力士2人、立行司2人)によって、
無記名で行われた。

++++++++++++++++

●まちがいさがし

 「まちがいさがし」という遊びがある。
2枚の絵を見比べながら、まちがいをさがす。
で、そのまちがいさがしをするような気持ちで、この投票結果をよく見てほしい。
何か、おかしい?
どこか、おかしい?

 投票は、無記名でなされたはず。
「投票」ということは、「投票」。
選挙である。
しかしこんな選挙があるか?
土建業者の談合でも、ここまではしない。

●インチキ選挙

 落選した大島は、8票。
が、残る1人は、全員、11票か10票!
きれいに、11票か10票!

 今回の選挙で注目されたのは、貴乃花。
当初、貴乃花を支持を表明したのは、親方6人だけと言われていた。
が、フタをあけてみたら、10票!
この票の動きも、どこか不自然。
もっと言えば、うさんくさい。

 あらかじめ支持を集めながら(?)、理事候補者たちが立候補した。
それはわかる。
しかし結果は、先に書いたとおり。

●闇の奥の日本相撲協会

 日本の相撲協会ほど、闇に包まれた協会はない。
巨額のお金が、その闇の奥で、乱舞している(?)。
ときどきその一端がマスコミに流れ、世間を騒がす。
それはそれとして、こういう選挙結果を見ると、相撲協会とは、いったい何なのか?
さらに踏み込んで言えば、国技とは何なのか?
そこまで考えてしまう。

 そこでさっそく、小学生を中心に、50人ほどの子どもたちに聞いてみた。
「相撲を見ている人?」と。
答は、ゼロ!
「相撲が好きな人?」と。
答は、ゼロ!

 にもかかわらず、NHKだけは、BS放送で、午後1時半前後から夕方6時前後まで、いつも
実況中継している。
NHKと相撲協会は、会長職でつながっている。

 「国技」ということは、わかる。
が、もちろんスポーツではない。
何も、ここまで保護しつづけなければならない理由などない。

 日本相撲協会の理事選挙の結果を見ながら、いろいろと考えさせられた。
つぎの選挙は、(今回が4期8年ぶりだったということを考えるなら)、8年後ということになる。
そのときは、もう少し自然な(?)、投票結果になるかもしれない。
こんなインチキ臭い選挙は、見たことがない。
聞いたこともない。
私が書いていることがおかしいと思うなら、もう一度、あなた自身の目で、「まちがいさがし」をし
てみてほしい。
もう一度、選挙結果を、よく見てほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 相撲協会 日本相撲協会 理事選挙)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●八百長事件

 相撲の八百長は、私が学生時代のころからうわさになっていた。
取り組みが終わると、下っ端が、現金を包んで部屋を走り回るというような話もあった。
が、そのたびに相撲協会は、「八百長はない」と。

 しかし今度ばかりは、逃げられない。
物的証拠が出てきた!

 日本経済新聞は、つぎのように伝える。

+++++++++++++以下、日経新聞++++++++++++++

高木義明文部科学相は3日午前の衆院予算委員会で、日本相撲協会の放駒理事長から同
日朝に八百長問題について報告があったと明らかにし「名前があがっている(13人の)力士の
うち、3人が八百長に関与したことを認め、新たに1人の力士の名前があがっている」と述べ
た。

 文科相は「相撲協会は弁護士など専門家により徹底した調査を本日から行う。計14人の力
士については6日の理事会までに中間報告を終えて概要を報告する」と説明した。「事の重大
性に鑑み状況を踏まえて厳正に対処していきたい」とも述べた。自民党の斎藤健氏への答
弁。

+++++++++++++以上、日経新聞++++++++++++++

●相撲協会

 相撲協会の罪は重い。
またもや、「八百長は今回だけ」などと、うそぶいている。
だいたい「相撲協会からの報告」というのが、おかしい。
今回の八百長は、野球賭博事件を調べていた警察当局筋から明るみになった。
そこで相撲協会。
逃げるに逃げられなくなり、「調査」をした。
その結果が、日経の記事。

 億単位の現金が乱舞する、相撲の世界。
そういうものを「国技」と称して、保護する価値があるのか。
意味があるのか。
毎日実況中継する、意味があるのか。
過去……というより戦後、そのつど八百長疑惑が取りざたされ、そのつど「完全否定」。
逆に、それを追及したライターを逆告発。
裁判で勝ったことを理由に、「無実が証明されました」と。

 八百長などというものは、当事者が口をつぐんでしまえば、だれにもわからない。
こういうことを、繰り返しながら、今に至った。
即刻、「公益認定」を取り消すべきである。
何からなにまで、どんよりと腐った世界。
地元のC新聞は、「氷山の一角」という見出しをかかげた。

+++++++++++++以下、読売新聞++++++++++++++

枝野官房長官は3日午前の記者会見で、大相撲の力士が八百長への関与を認めたことに関
連し、「八百長が蔓延(まんえん)しているような法人であれば、公益認定を得ることは難しい」と
述べた。

 日本相撲協会は新公益法人制度のもとでの公益財団の認定を目指しているが、八百長が
常態化していることが明らかになった場合は認められないとの考えを示したものだ。

 また、枝野長官は日本相撲協会について、「うみをすべて出し、(八百長を行った力士らに)
厳しい処置をとるよう、(所管する)文部科学省を通じて厳しくやってもらう」と強調した。

+++++++++++++以上、読売新聞++++++++++++++

Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●2011年2月3日

●街まで歩く

++++++++++++++++++++++

このところ朝食以外は、外食ですますことが多くなった。
ワイフに仕事を手伝ってもらっていることもある。
そのため外食は、できるだけ安く、おしいものをさがす。
美食家といえば、美食家。

……といっても、その一方で、カロリー計算も
しなければならない。
それに「量」。
今、どこでも私たちには、量が多すぎる。
若い人たちを基準にしている。
もっとも量は、食べ残すという方法で対処できる。
しかし私たち団塊の世代には、それができない。
食べ残すということに、罪悪感を覚える。
罪悪感というよりは、損失感か?
だからどうしても一人前、食べてしまう。
つまり食べ過ぎ。

ときどきこう思う。
よくもまあ、この年齢になるまで、糖尿病に
ならなかったな、と。
本来なら、とっくの昔に、糖尿病になって
いてもおかしくない。
美食家の大敵は、糖尿病。

……ということで、このところ運動に気を遣っている。
昨日も、ワイフと2人で、街までの6キロを歩いた。
時間にして、ちょうど1時間。
コースは、自宅→西伊場→根上がり松(地名)まで。
大回りしたのは、途中の雑貨屋に立ち寄るため。
その近くで昼食。

根上がり松近くに、「コンコルド」という、
イタリアン・レストランがある。
Aさんという、私が幼稚園の講師をしていたころからの
友人が、経営している。
雰囲気、味、ともに最高!
ワイフも私も大満足。
で、そこからは、バスに。
Aさんと話し込んでしまった。
それでバスに乗った。
しかし楽しかった。

こうしたレストランでは、それはホテルや旅館にも
通ずることだが、「哲学(=ポリシー)」が大切。
それに本気度。
久々に、哲学と本気度を感じた。
帰り際、「お店の紹介を、HPでしていいですか?」と
聞くと、快く応諾してくれた。

店を出たとき、ぐっと懐かしさがこみあげてきた。
Aさんと知り合って、もう40年になる。
その40年前が、風のように目の前を通り過ぎていった。

コンコルド……浜松市の西、根上がり松から西へ
150メートルほどのところにある。

++++++++++++++++++++++

●暖かい

 今朝は5時ごろ目が覚めた。
肌で気温を感ずる。
「暖かい!」。

 そのまま起きて、ウォーキングマシンへ。
「ウォーキング」といっても、小股で走ることが多い。
いつもは30分と決めているが、今朝は、10分。
早く書斎へ入りたかった。

●花粉症

 目が覚めたとき、鼻の奥がツンツンと痛かった。
花粉症の始まりである。
先週あたりから、様子がおかしかったが、ここにきてはっきりした。
花粉症である。
例年より、1週間程度、早い。

 が、私のばあい、最初の1週間程度で、症状が消えるようになった。
19年ほど前、全身に花粉を浴びるような事件があった。
たまたまその時期に、杉の木の植え替え作業をした。
それ以来、そうなった。
つまりそれまでは、この季節になると、地獄の苦しみを味わった。
こういうのを「減感作療法」というらしい。
GooのHPには、こうある。

「……免疫療法の一種で、今のところ花粉症を根本的に治す唯一の治療法とされています。ア
レルギーを起こす花粉の抽出液(エキス)を少しずつ患者さんの体内に注射し、花粉に対する
慣れを体内につくってしまおうという方法です」(Goo HP)と。

 ただし私がしたような方法を、まねしないこと。
へたをすれば、命取りになるという。
専門医師に相談して、「少しずつ、慣れをつくる」(Goo HP)のが安全。

●映画

 この数週間、映画のことは、あまり書かなかった。
しかし劇場へ行かなかったわけではない。

 最近観た映画は、「RED」「ソーシャル・ネットワーク」「グリーン・ホーネット」
「アンストッパブル」。
すべて現在も上映中。
つまりめぼしいものは、すべて観ている。
で、今日から、「ウォール・ストリート」が始まる。
近く、「ヒア・アフター」が始まる。
楽しみ。

 ついでながら、私の星評価。

「RED」……★★★(できすぎ)
「ソーシャル・ネットワーク」……★★(ただのストーリー映画)
「グリーン・ホーネット」……★★(飛びすぎ)
「アンストッパブル」……★★(ハラハラ度が低い)

 ちょっときびしいかな?

 私たち夫婦は、ボケ防止を意識し、週に1、2度は劇場へ足を運んでいる。
「映画を楽しむ」というよりは、「ボケ防止」。
本当にボケ防止になっているかどうかはわからない。
が、映画はたしかに脳みそを刺激する。
つまり肉体の運動と同じ。

●胃カメラ

 来週、胃カメラを飲むことになっている。
軽い逆流性食道炎がつづいている。
医師に相談すると、「一度は飲んでみたほうがいい」と。
それでそうなった。

 散歩のとき、それがワイフと話題になった。

私「なあ、もし胃がんが見つかったら、どうする?」
ワ「切れば、治るわよ」
私「切るのか?」
ワ「まだ早期でしょ」
私「症状が出ているから、もう早期ではないよ」
ワ「今は、がんで死ぬ時代ではないわよ」と。

 ワイフのよいところ。
何ごとも、楽天的。
ワイフのような人間は、うつ病にはならない。
うらやましい。

 で、私のばあい、死ぬのがこわいのではない。
死ぬまでのプロセスがこわい。

「命」というのは、皮肉なもの。
生きるのもたいへん。
しかし死ぬのも、これまたたいへん。
簡単には死なせてくれない。
そのプロセスがこわい。

 独居老人→無縁老人→孤独死。
その「孤独」がこわい。

●ニュースより

(日本の相撲)

 日本の相撲が、揺れている。
激震というより、「やっと……」という感じ。
あの世界は、何からなにまで、うさん臭い。
日本相撲協会は、「八百長は今回だけ」「うみをすべて出す」というようなことを
言っている。

アホ!

だれがそんな話を信ずるか。
うみをすべて出したら、残るのは「皮」だけ。

(エジプト)

 揺れていると言えば、エジプト。
それに民主党。
誤解していけないのは、頂点に立つ権力者というのは、いわば「象徴」。
御輿(みこし)で言えば、御輿。
それを担(かつ)ぐ人間がいるから、御輿が御輿になる。
そういう意味では、頂点に権力者というよりは、それを担ぐ人間のほうが、悪(ワル)。
自分は権力者の陰に隠れて、身の保全を図る。
利益をむさぼる。

 ムバラク大統領にも、小沢一郎氏にも、そういう取り巻きがいる。
そういう取り巻きを崩さないかぎり、政治は変わらない。

(新燃岳)

 それにしてもすごいのが、新燃岳。
爆発。
ワイフに「見に行きたいね」と言うと、叱られてしまった。
「不謹慎よ」と。

 たしかにそうかもしれない。
しかし見たいものは、見たい。
上空2000〜3000メートルまで煙があがっているという。
「すごいだろうな」と思ったところで、思考停止。
たしかに不謹慎。

ワ「それにあぶないわよ」
私「そうだな……」
ワ「みんな避難しているというのに、わざわざ見に行くなんて……」
私「そうだな……」と。

 自分の声が、だんだんと小さくなっていくのがわかる。
しかし私には、こんな経験がある。

(伊勢湾台風)

 私は子どものころ、台風が好きだった。
台風が来るのが、楽しみだった。
伊勢湾台風がやってきたときも、私は風向計を作って、遊んでいた。
が、そこへ直撃。
台風の目が、まともに私の住む町を通過した。

 で、そのバチが当たったというか、窓ガラスが割れ、足を大けがするハメに。
今も右足に、そのときの傷跡がはっきりと残っている。
ウィキペディア百科事典には、こうある。

「1959年(昭和34年)9月26日、後に伊勢湾台風と呼ばれる台風15号の接近の為小学
校の運動会は中止となる。
その後、台風は勢力を強め紀伊半島潮岬に上陸、東海地方に甚大な被害をもたらしていた。 
伊勢湾は満潮と台風の高波で決壊、木材を押し流し家々を破壊、そして大勢の人々も一緒
に飲み込んでゆく。 
ついにはひかり一家も流されるが、ひかりは愛犬の命がけの行動によって翌日神社の大木
にひっかかっているところを発見され無事救出される。 
しかし両親や利夫は助からなかった」(映画「伊勢湾台風物語」より)と。

 昭和34年ということだから、私が12歳のとき。
小学6年生ということになる。
しかしこの話は、私だけの秘密だった。
つまり「台風が好き」ということは、その前にもだれにも言わなかった。
伊勢湾台風以後は、さらにだれにも言わなかった。

 しかし、である。
15年ほど前に知り合った、アメリカ人(元高校教師)が、そのときこう言った。
「ヒロシ、ぼくは台風が好きだよ。
台風がやってくると、ベランダに椅子を並べて、それを見ているよ」と。
彼は高層マンションの8階当たりに住んでいた。

 この話を聞いたときには、驚いたというよりは、うれしかった。
「ナーンダ、私だけではなかった!」と。

 で、それ以来、ときどき生徒たち(幼児や小学生)にこう聞く。
「みんなは、台風が好きか?」と。
するとほとんどの子どもたちが、こう答える。
「好き」と。

 理由を聞くと「学校が休みになる」とか、そういうことらしいが、それを聞いて、
私はほっとした。
私は長い間、私の頭はおかしいと思っていた。
「台風が好き」というのは、どう考えても、まともではない。
それに台風といっても、伊勢湾台風のような台風は、例外。
この浜松では、この数十年、台風による被害らしい被害は、ほとんど起きていない。
それもある。

 もっとも私自身は台風の恐ろしさをよく知っている。
伊勢湾台風が、よい経験になった。
だから今でも、台風が近づくたびに、過剰とも言えるほど過剰な防御策を取る。
言い替えると、この浜松の人たちは、無防備過ぎる。
むしろそちらのほうが、心配。

 「台風が好き」と言っても、その範囲での話。
「新燃岳を見たい」と言っても、その範囲での話
つまり「被害が楽しい」と言っているのではない。
どうか誤解のないように!

●おもしろい現象

 現在、私の教室に、ずば抜けて頭の切れる女子(中2)がいる。
鋭いというか、論理的で、少しでも矛盾を覚えると、すかさず私を攻撃してくる。
進学校でも、学年トップクラスの成績を修めている。
その女子の名前を、(尊敬の念をこめて)「Nさん」という。

 そのNさんだが、意外なことに、まじないや占いを信じている。
先日も手相の話をしてやったら、(私自身は、まったく信じていないが)、それを本気に
してしまった。
あらかじめいろいろな情報を別のところから仕入れておいた。
その情報をもとに、「君は……」と。
いろいろと言い当ててやった。

 言うなれば手品のようなものだが、Nさんは、それを信じてしまった。

私、Nさんの手のひらをまじまじと見ながら、「君は……!」
N「何よ、言ってよ!」
私「……言えない」
N「だから、どうなのよ!」
私「言わない方がいい。君も聞かない方がいい……」
「ぼくには君の未来がわかる。だから言わない方がいい……」と。

 Nさんは、それを気にした。
私は遊びのつもりだったが、そのあと、Nさんは勉強どころではなくなってしまった。
そんな感じだった。
ときおり私の方を見て、「どうだったの。教えて。私はどうなるの?」と。
今にも泣きべそをかきそうな雰囲気だった。

 私には、Nさんが、どんな反応を示すか、そちらのほうに興味があった。
ふだんは知性と理性のかたまりのような女子である。
活動的で行動的。
そんなNさんが、手相を信じる?

(脳のエアー・ポケット)

 脳には、エアー・ポケットのような部分がある。
言うなれば「盲点」。
そのことを知ったのは、あるカルト教団の信者と話していたときのこと。
一流大学の理科系の卒業者でも、ある日突然、カルト教団の信者になってしまう。
ほんの少し、常識を働かせれば、「おかしい」と思うようなことでも、わからなく
なってしまう。
それこそ、バチとかタタリとか、そんなことを信じてしまう。
そういうことは珍しくない。

 そういった現象を説明するのが、「エアー・ポケット論」である。
そこへ入ると、知性や理性がそのままどこかへ吹き飛んでしまう。
合理的にものを考えることができなくなってしまう。

(翌朝)

 私は翌朝一番に、Nさんの家に電話を入れた。
父親が出た。
私は事情を話した。
「Nさんが、本気にしてしまうと困るので、早めに説明しておきます。
今夕、Nさんが学校から帰ってきたら、あれは手品だったと、どうか伝えてください」と。

 父親はすぐ納得してくれた。
そしてこんな話をしてくれた。

「Nはね、小学5年生ごろまで、サンタクロースを信じていたんですよ。
それにね、昔の写真……ほら、昔の写真って、白黒でしょ。
それを見てね、昔は白黒の時代だったと信じていたんですよ」と。

 つまり、(頭のよさ)と(脳のエアー・ポケット)とは、別。
頭がよいから、カルトにハマらないということはない。
頭が悪いから、カルトにハマりやすいということもない。
言い替えると、エアー・ポケットはだれにでもある。

 Nさんを見ていて、そんなことを考えた。

●ワイフはテニスに

 朝食後、ワイフはクラブに出かけて行った。
私はひとり、書斎に残された。
軽い睡魔が、私を襲う。
心地よい眠気。

 ひとつだけ困ったことがある。
現在ワードを使って文を書いているが、いつの間にか、上書きモードになってしまった。
以前は(ツール)の(オプション)から、モードを変更できた。
が、今はそれができない。
どうすれば(挿入モード)に戻せるか。

 言語バーを、(IME2007)から(ATOK2007)に変更してみたが、だめ。
一度ワードを閉じ、再び立ち上げてみたが、だめ。
「どうしたらいいのか?」と考えながら、この文を書いている。
パソコン自体を、再起動すればたぶん、再び(挿入モード)に戻るとは思うが、現在、
YOUTUBEに動画をアップ中。

 機能が複雑になった分だけ、ときどきこうしたトラブルが起きる。
かえって簡単なことができなくなってしまう。
ワードだけではない。
カメラにしても、ビデオカメラいしても、さらに携帯電話にしても、そうだ。
 
 ……少し眠ってきます。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2011−02−05

●世界経済(2011年という年)

 まずアメリカ!
それにつづいて、日本、EUが、札(=マネー)を大増刷した。
世界中にバラまいた。
その総額、100兆円とも、それ以上とも言われている。
(アメリカだけで100兆円という説もある。)

 おかげで世界は、ダブダブのお金漬け。
ジャブジャブというより、ダブダブ。
(どちらも同じようなものだが……。)

 で、困ったのは、中進国以下。
中進国以下の国々。
「我も、我も……」と自国通貨を印刷し始めた。
が、悲しいかな自国以外では通用しない。
そのため、インフレ。
ハイパーインフレ。
物価は上昇、食糧の輸入もままならなくなった。
わかりやすい例として、北朝鮮がある。
この1年間だけで、米の価格が50倍も、はね上がったという。

 では、なぜアメリカや日本では、インフレが起きないか?
貨幣価値がさがらないか?
つまりその分だけ、ドルや円が強いということになる。
世界中が、ドルや円をほしがっている。

絵画にたとえてみると、それがよくわかる。
「ピカソ」という署名があるだけで、絵は売れる。
「○△xx」という名前では、絵は売れない。
わかりやすく言えば、先進国には、インフレを吸収するだけの余力がある。
食糧価格にしても、少しくらいならあがっても、どうということはない。

●中進国以下が犠牲に

 結局、しわ寄せは、中進国以下に集まる。
中進国以下の「国々」に集まる。
不況と失業、加えて物価高。
とくに食料品の不足と価格の高騰は、影響が大きい。
直接、市民生活に大きな打撃を与える。
今回のエジプトの騒乱は、起こるべくして起きた騒乱ということになる。

が、エジプトだけで収まるとは、だれも思っていない。
端的に言えば、中進国以下の国々が、先進国の犠牲になる。
そういう「構造」になっている。
今後、こうした騒乱は、世界中で起きる。

 で、私たち日本人は、ひょっとしたらこう思うかもしれない。
「日本人でよかった!」と。
日本は今のところ、一応「先進国」として、その地位を保っている。
(いつ、コケるかわからないが……。)
「円」を増刷しても、それをほしがる人がいる間は、安泰。
が、ここで忘れてはいけないことが、2つある。

(1)ここにも書いたように、私たちの今の生活は、中進国以下の国々の犠牲の
上に成り立っているということ。

(2)やがて回り回って、先進国にも、その影響が及んでくるということ。
すでに北海油田の原油価格は、1バレル、100ドルを突破した。
世界情勢が不安定になれば、世界経済も狂い始める。

●2011年

 今は、まだよい。
ここに書いたような「構造」に、まだ気がついていない。
中進国以下の人たちには、まだそれがわかっていない。
エジプトにしても、抗議の矛先は、ムバラク大統領に向かっている。
アメリカや日本にではなく、ムバラク大統領に向かっている。
しかしやがて気がつく。
「なぜ、私たちは貧しいのか?」と、
それを、そのうち考えるようになる。
そしてその先に、アメリカや日本、EUがいることを知る。
そうなったとき、果たして、アメリカや日本、EUは、どうなるか?
アメリカや日本が、無事でいられるとは、私には思えない。

 アメリカは、(日本もその仲間だが)、本当にズルイ国だと思う。
自国さえよければ、それでよい、と。
自国の救済しか考えていない。
つまり自分勝手。
なりふり構わず、ドルを大増刷している。
その結果、世界を犠牲にした。……している。

 1月に入ってから、アルミ、銅などの素材金属の価格が上昇している。
ジリジリとさがりつづけていた金価格も、エジプト騒乱を境に、上昇に転じた。
ガソリンの価格も、それに同調し始めている。
日本の経済破綻についても、「可能性の問題ではなく、時間の問題」と
ささやかれている。
もしそうなったら、円キャリーで流出した「円」が、日本に逆流する。
わかりやすく言えば、円の大洪水。
それが始まる。
某経済誌によれば、そのため円は大暴落。
1ドルが、300〜400円になるという。
もちろんハイパーインフレ。
「タクシーの初乗りが、1万円になるだろう」(某経済誌)と説く学者もいる。

 つまり2011年は、日本にとっても、たいへんな年になりそう。
それがこの2月になって、いよいよはっきりしてきた。

(注:私という、ド素人の書く経済論なので、本気にしないでほしい。
そのためこのままボツにしようかと思ったが、このままBLOGに掲載する。)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●日本相撲協会(疑惑の理事会選挙)

++++++++++++++++++

数日前、日本相撲協会の批判記事を書いた。
BLOGに載せた。
が、その反響というか、アクセス数に驚いた。
いつもの倍以上。

Goo−Blog、楽天など、いつもなら
合計で3000〜4000件(1日)だったのが、
1万件を超えた!

つまりそれだけ反響があったということ。
読者のみなさんの関心が大きいということ。

私は、「日本相撲協会ほど闇に包まれた世界はない」と
書いた。
そのひとつが、あの理事会選挙。
昨年(2010年)の2月に書いた原稿を、
再掲載する。

つまりこの理事会あって、日本相撲協会。
その日本相撲協会あって、今回の八百長事件。
テレビでは、八百長相撲をそのまま紹介していた。
あらかじめ示し合わせた通りの、八百長相撲。
八百長を八百長とも知らず、それを解説してみせた
NHKの解説者が、今回ほど、ピエロに見えたことはない。

+++++++++++++++++++

●疑惑の理事会選挙(2010年2月の原稿より)

++++++++++++++++++

●おかしな投票(日本相撲協会の理事八百長選挙?)(改)

+++++++++++++++++

相撲協会が、理事選挙を行った。
その結果を、まずよく見てほしい。

■理事選の各候補得票数

武蔵川 ・・・11票
北の湖 ・・・10票
出羽海 ・・・10票
放駒  ・・・11票
ニ所ノ関・・・11票
大島  ・・・ 8票(落選)
友綱  ・・・10票
陸奥  ・・・10票(新任)
鏡山  ・・・10票(新任)
九重  ・・・10票
貴乃花 ・・・10票(新任)

投票は、111人の評議員
(親方107人、力士2人、立行司2人)によって、
無記名で行われた。

++++++++++++++++

●まちがいさがし

 「まちがいさがし」という遊びがある。
2枚の絵を見比べながら、まちがいをさがす。
で、そのまちがいさがしをするような気持ちで、この投票結果をよく見てほしい。
何か、おかしい?
どこか、おかしい?

 投票は、無記名でなされたはず。
「投票」ということは、「投票」。
選挙である。
しかしこんな選挙があるか?
土建業者の談合でも、ここまではしない。

●インチキ選挙

 落選した大島は、8票。
が、残る1人は、全員、11票か10票!
きれいに、11票か10票!

 今回の選挙で注目されたのは、貴乃花。
当初、貴乃花を支持を表明したのは、親方6人だけと言われていた。
が、フタをあけてみたら、10票!
この票の動きも、どこか不自然。
もっと言えば、うさんくさい。

 あらかじめ支持を集めながら(?)、理事候補者たちが立候補した。
それはわかる。
しかし結果は、先に書いたとおり。

●闇の奥の日本相撲協会

 日本の相撲協会ほど、闇に包まれた協会はない。
巨額のお金が、その闇の奥で、乱舞している(?)。
「年寄株」が数億円で売買されているという話も、聞いたことがある。
(数億円だぞ!)
ときどきその一端がマスコミに流れ、世間を騒がす。
それはそれとして、こういう選挙結果を見ると、相撲協会とは、いったい何なのか?
さらに踏み込んで言えば、国技とは何なのか?
そこまで考えてしまう。

 そこでさっそく、小学生を中心に、50人ほどの子どもたちに聞いてみた。
「相撲を見ている人?」と。
答は、ゼロ!
「相撲が好きな人?」と。
答は、ゼロ!
(どうしてそういう相撲が、文科省の管轄になっているのか?
それもおかしい?)

 にもかかわらず、NHKだけは、BS放送で、午後1時半前後から夕方6時前後まで、いつも
実況中継している。
NHKと相撲協会は、会長職でつながっている。
(何か、臭いぞ!)

 「国技」ということは、わかる。
が、もちろんスポーツではない。
何も、ここまで保護しつづけなければならない理由などない。

 日本相撲協会の理事選挙の結果を見ながら、いろいろと考えさせられた。
つぎの選挙は、(今回が4期8年ぶりだったということを考えるなら)、8年後ということになる。
そのときは、もう少し自然な(?)、投票結果になるかもしれない。
こんなインチキ臭い選挙は、見たことがない。
聞いたこともない。

私が書いていることがおかしいと思うなら、もう一度、あなた自身の目で、「まちがいさがし」をし
てみてほしい。
もう一度、選挙結果を、よく見てほしい。

これこそまさに「八百長選挙」ではないか。
某力士は、メールの中で、こう言っていた。
「私らのやることなど、かわいいもんです」(報道)と。
私には、その意味が、よくわかるのだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 相撲協会 日本相撲協会 理事選挙 疑惑の八百長選挙)

Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●八百長

 八百長と相撲との関係は、深い。
「八百長」という言葉は、もともと「相撲の世界」から生まれた。

 広辞苑には、こうある。

「明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合わせで、
常に一勝一敗になるように、あしらったことに起こるという。

(1)相撲や各種の競技などで、一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの
勝負を争うこと。
なれあい試合。
(2)転じて、内々示し合わせておいて、なれあいで事を運ぶこと」と。

 で、それについて日本相撲協会は、「八百長は、今回が初めて」という煙幕を
盛んに張っている。
が、それを信ずる人はいない。
(私も、信じない。)
そればかりか、昨年、八百長相撲を指摘したライターを、逆告発までしている。
厚顔無恥とは、まさに現在の日本相撲協会のような団体をいう。
その罪は重い。

●時代は変わった

 私が子どものころといえば、野球、相撲、プロレス。
この3つが、最大の関心事だった。
しかし今は、時代も変わった。
今では、相撲中継を見ている子どもは、ゼロ。
「相撲が好き」と言う子どもは、さらにゼロ。

 かわってサッカーがある。
もろもろのスポーツがある。
どうしてこういう時代に、「相撲」なのか?

 伝統的国技として、それなりに残す努力は必要かもしれない。
しかしそれにも限度がある。
あえて比較するなら、相撲とプロレスはどこが、どうちがうのか。
興業なら興業でよい。
金儲けのための興業と割り切ればよい。
が、それを「国技」というカバーをかぶせて、金儲けをごまかす。
その結果が、今。
今回の八百長事件は、まさに「氷山の一角」(某新聞)。

 自浄能力は、現在の日本相撲協会には、ない。
そのことは、先にあげた「理事会選挙」の結果を見ればわかるはず。
これを「八百長選挙」と言わずして、何という?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本相撲協会 八百長相撲 八百長選挙)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
【虚栄の構造】(虚栄vs自慢)

+++++++++++++++++

虚栄心の強い人というのは、いる。
自分の体を、クジャクの羽で飾り、
自分ではクジャクになったつもりでいる。
が、(飾り)は(飾り)。
どこまでいっても、(飾り)。

その一方で、虚栄心のない人はいない。
程度の差はある。
が、人間が社会的動物、つまり他者との
つながりの中で生きる動物である以上、
この虚栄心と決別することはできない。

私たちはいつも、他者の(目)を意識している。
それが虚栄心の原点と考えてよい。

+++++++++++++++++

●私の母

 私の母も、虚栄心の強い人だった。
「本家」ということもあり、その分、自負心も強かった。
姉御(あねご)意識も強かった。
そのため、年金しか収入のないオジ、オバの生活費まで負担していた。

 が、母自身はぜいたくをしていたわけではない。
母自身は、質素な人だった。
死んだときも、祖父母が残した置物類をのぞいて、財産らしいものは何もなかった。
にもかかわらず、母は人一倍、見栄を張った。
つまりそれが母にとっては、ステータスだった。
母はそのつど、「祖父が財産を残してくれた」と、人には言っていた。
しかしこれは私の名誉(?)にかけて言う。
が、祖父が残した財産……というより、私が中学生のときには、家計はすでに火の車
だった。
祖父は毎日、道楽で、バイクをいじって遊んでいた。

 母はそれでよいとしても、金銭的負担は、すべて私がした。
母は、そのつど浜松へやってきては、私からむしり取るようにして、現金をもって帰った。
容赦しなかった。
貯金通帳がカラになるたびに、ワイフは、泣いた。
それでも母は、容赦しなかった。
結婚し、長男が生まれたときも、私のところへやってきて、私の貯金を全額おろさせた。
「先祖を守るために、親が息子の金を使って、何が悪い!」と。
それが母の口癖だった。

 この文を読んだ人は、「とんでもない親」と思うかもしれない。
しかし当時は、まだそういう時代だった。
そういう常識(=意識)をもっていた人は、少なくなかった。
私の母も、その1人に過ぎなかった。

 言い換えると、虚栄心には、それほどまでに強い「魔力」がある。
一度その魔力に染まると、自分でも自分がわからなくなる。
「世間体」という、他人の目の中で生きるようになる。
 
●自慢と虚栄

 ……私はあえて母のことを書くことによって、自分の中に潜む虚栄心を
たたきつぶしてみた。
本来なら、すばらしい両親をもち、それなりの家系の生まれと書きたい。
しかしそんなもの、どこを探してもない。
名字は「林」。
名前からもわかるように、先祖は、百姓。

 一度祖父に連れられて、祖父の生まれ育った家に行ってみたことがある。
私が小学6年生か、中学1年生のときのことだった。
祖父の家は、すでに空き家になっていた。
道路脇の小さな家で、土壁がむき出しになっていた。
窓らしい窓もない、粗末な家だった。
祖父は8歳のとき家を出、そのまま鍛冶屋で丁稚(でっち)として働いた。

 が、ここまで書いて、迷いが生じた。
「ここまで書く必要があるのか?」と。
こんなことを書けば、いとこの中には、不愉快に思う人もいるかもしれない。
「林家、林家」と、「林」の名を自慢にしている人もいる。

 私もこの年齢になったから、つまり平均余命まで、あと10数年になったから、
こんなことが書ける。
あと数年で健康寿命は尽き、そのあとは、病魔との闘いということになる。
ボケの心配もある。
今さら、虚栄を張ったところで、何になる。

●自慢

 が、それでも虚栄心は残る。
モヤモヤと残る。
自慢たらしい自分。
いつもそういう自分がそこにいて、上からにニヤニヤと笑って私を見おろしている。

 そこで私はやめた。
息子たちの自慢。
家の自慢。
夫婦の自慢、などなど。
自慢すればするほど、自分がみじめになる。
だから私はやめた。

 同時に幸福そうなフリをするのも、やめた。
健康そうなフリをするのも、やめた。
もっとも今は、それなりに満足した生活を送っている。
成人病とも無縁だし、小さな故障を除けば、健康。
ともかくも、自慢は、そのまま虚栄心に直結する。
その虚栄心が、自分の心を狂わす。

●本題

 さて、本題。

 何故に、人は虚栄心をもつのか。
もちろんその原点には、「人に認められたい」という本能的な欲求がある。
あるいは虚栄を張ることによって、「優越性を保ちたい」という本能的な欲求もある。
それほど収入のない人が、無理をして高級車を乗り回すケースを想像してみればよい。
(もちろん中には、車が好きで、そうしている人もいるが……。)

 が、ここで壁にぶつかる。
人に認められたからといって、それがどうなのか?
優越性を保ったからといって、それがどうなのか?
冷静に考えれば、そうなるが、これが地域社会という「狭い社会」に入ると、変節する。
とくに「田舎」と呼ばれる社会ではそうだ。
むかし、私にこう言った友人がいた。

 私が「自転車通勤をしている」と言ったときのこと。
その友人は、こう言った。
「ぼくらは会計士をしているから、恥ずかしくて、とてもそんなことはできないよ」と。

 そういうケースもないわけではない。
しかしあのビル・ゲーツは、ひとりで東京駅から成田まで、電車に乗っていった。
粗末な服装に、カバンひとつで。
そのときビル・ゲーツは、私たちのうしろに並んで立っていた。
私が「あなたはビル・ゲーツですね」と声をかけると、はにかみながら、「YES」と※。

 わかるかな?
あのビル・ゲーツが、電車に乗っていた!

(注※)そのとき、私とワイフ、それに息子(三男)がそこにいた。
息子はそのとき、興奮状態になってしまった。
みなで記念撮影をしたが、息子の携帯電話に、その写真は残っていなかった。
残念!

●虚栄心と闘う

 結局は「視野の広さ」ということになる。
「道徳の完成度」は、つぎの5つで評価される(コールバーグの「道徳の完成論」
を参考)。

(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性

 この中の(5)の視野の広大性こそが、虚栄心と闘う唯一の方法ということになる。
それができれば、(1) 公正性、(2) 普遍性、(3) 一貫性、(4) 正義性は、
自然な形で、おのずと生まれてくる。
言い換えると、虚栄心に毒されると、公平性、普遍性、一貫性、正義性が、粉のように
なって崩れていく。

 たとえば友人の中には、1億1000万円もするような車を、まとめて10台も
購入した人がいる。
全豪イチの長者番付にも載ったことがある。
そういう友人が近くにいると、高級車に乗って得意がっている人を見ると、正直に
告白するが、バカ(失礼!)に見える。
名誉や地位にしても、そうだ。

 だから、虚栄心を覚えたら、いかにしてそれと闘うというよりは、いかにして視野を
広くするかということになる。
その視野が広ければ広いほど、虚栄心が、姿を縮める。
宇宙観、人生論、生命観、死生観、宗教観などなど。

 要するに、ありのままの自分で生きるということ。
ありのままの自分をさらけ出して生きるということ。
チッポケな人間なら、チッポケな人間で、よいではないか。
つまりサルの惑星で、サルたちと競っても意味はない。
(私も、そのサルの1人。誤解のないように!)
これは自分の人生をより有意義に生きるための、大鉄則ということになる。

++++++++++++++++

以下、以前、書いた原稿をいくつか、
添付します。

++++++++++++++++

●道徳完成論(2007年11月記)
 
+++++++++++++

子どもにとって、道徳とは何か。
子どもの道徳の完成度は、つぎ
の5つで決まる。

称して、はやし浩司の「道徳
完成論」。

(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性

+++++++++++++

(1) 公正性

 たとえばあなたの親類の1人が、万引きしていたとする。そのときあなたは、その親類
に対して、どう行動をとるだろうか。見て見ぬフリをするだろうか。あるいは、悪いこと
は悪いこととして、その親類を注意するだろうか。さらに店の人に通報するだろうか。相
手がだれであれ、ものごとを公正に判断できる人を、道徳の完成度の高い人という。

(2) 普遍性

 ものの価値観が、世界的標準で、常識的であること。だれが聞いても、納得できる人生
観、哲学をもっている。おかしな思想に染まり、かたよったものの考え方をする人は、そ
れだけで道徳の完成度の低い人とみる。

(3) 一貫性

 言っていることに、いつも一貫性があること。反対に、会うたびに言うことが変わった
り、様子が変わったりする人は、それだけで道徳の完成度の低い人ということになる。誘
惑にも弱く、悪事に染まりやすい。一方、一貫性のある人は、言動と行動が一致している。

(4) 正義性

 視点がいつも弱者の側にあり、他人に対しても、また自分に対しても誠実であること。
自分に対して誠実ということは、心を偽らないこと。いつもありのままの自分を、外に出
すことをいう。また他人に対して誠実であるというには、ウソをつかない。約束を守る。
この2つが、日常生活の中で、自然な形で実行できることをいう。

(5) 視野の広大性

 ものの考え方が、人間、生物、地球、宇宙・・・と、広いことを、「視野の広大性」とい
う。一方、卑近な問題に右往左往し、私利私欲にかられたり、利己的なものの考え方をす
る人は、視野が狭いということになる。

 教育の場で、(家庭教育においても、そうだが……)、「道徳」を考えたら、この5つの柱
を参考にしてみてほしい。何かの役に立つはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
道徳 道徳の完成 道徳の完成度 道徳完成度 子どもの道徳 子供のの道徳 道徳教育)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「私」論、3つの条件(2005年6月10日記)

 「私」とは、何か? つまりそれぞれの人には、「私」がある。しかしそれぞれの人は、
いつも「私」とは何か、それを知りたくて、悩んでいる。とくに、若い人ほど、そうだ。

 そこで「私」論。その私をつかむためには、3つの条件が必要である。

(1)私は「私」であるという自覚。(自己自信性)
(2)私はいつも私であるという連続性(一貫性)。
(3)私は、他者と、良好な人間関係をもっているという、3つの条件、である。

 しかしこの「私」は、いつも、不変なものとはかぎらない。そのつど、状況に応じて、
変化する。とくに青年期においては、そうである。ゆれ動く。そのため多くの青年たちは、
「私とは何か」というテーマについて、思い悩む。

(1) 私であるという自覚

 「私であるという自覚」は、(私が考える私)と、(現実の私)が、一致したとき、自分
のものにすることができる。

 たとえて言うなら、結婚がある。好きで好きでたまらなくて、その人と結婚したという
のであれば、結婚生活を、そのまま自分のものとして、受けいれることができる。

 しかし反対に、いやな相手と不本意なまま結婚したとしたらどうであろうか。(自分のし
たかった結婚)と、(現実の結婚)が、大きくズレていることになる。こうなると、その結
婚生活は、ギクシャクとしたものになり、その結婚生活をそのまま自分のものとして、受
けいれることはできなくなる。

 同じように、(本来の私)と、(現実の私)が、一致していれば、その人は、「私は私であ
る」という自覚をもつことができる。そうでなければ、そうでない。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 あなたは、こう心の中で、願っている。容姿もよく、頭も聡明でありたいと。人気者で、
どこへ行っても注目される。資産家の子どもで、何一つ不自由のない生活をしたい、と。

 しかし現実には、そうでない。容姿は悪い。学校での成績も悪い。みなに嫌われ、とき
には、いじめも受けている。両親は離婚状態で、家計も苦しい。このままでは大学進学も、
おぼつかない。

 そこであなたは、(現実の私)を、(本来の私)に、近づけようとする。

 勉強面で努力する。あるいはスポーツマンになるべく、努力する。服装や、身だしなみ
にも、注意を払う。(こうあるべき)と思う「私」に、あなたは自分自身を近づけようとす
る。

しかしそこにも、限界がある。努力しても、どうにもならないことはある。それについて
は、あきらめ、受けいれる。

 が、それは決して、たやすい道ではない。あきらめることは、若いあなたにとっては、
敗北以外の何ものでもない。それにまだ、あなたには、無数の可能性が残されている。そ
ういう思いもある。だからあなたはいつも、こう悩む。「私は、いったい、どこにいるのか?」
と。

 が、この段階でも、うまくいかないことが多い。努力しても、それが報われない。せっ
かく新しい服を買ってきても、みなに、「あなたには似あわない」と笑われる。あなたは自
信をなくす。それが高じて、自暴自棄になり、自分を否定するようになるかもしれない。

 が、あなたの心の奥底に住む、「私」は、それを許さない。そこでその心の奥底に住む、
「私」は、自分を防衛しようとする。自分が崩壊していくのを、防ごうとする。

 もっとも手っ取りばやい方法は、攻撃的になること。みなに、暴力を振るって、みなに、
恐れられればよい。あるいはさらに自虐的になって、めちゃめちゃな勉強や練習をするよ
うになるかもしれない。

 これらをプラス型というなら、他人に服従的になったり、依存的になったりするのを、
マイナス型という。さらにその程度が進んで、逃避型になり、他人との接触をこばむよう
になるかもしれない。引きこもりも、その一つである。

 私が「私」であるためには、私がそうでありたいと思っている私、あるいは自分が自分
で描く自己像(自己概念)と、現実の私(現実自己)を一致させなければならない。

 なぜ、青年期に、私であるという自覚が混乱するかといえば、えてして、青年期には、
現実の自分とは、かけ離れた理想像をもちやすいからと考えてよい。夢や目標も、大きい。
そのギャップに悩む。「こんなはずではなかった」「もっと別の道があるはずだ」と。

 (私が考える私)と、(現実の私)が、一致すること。これが、私が「私」であるための、
第一の条件ということになる。

(2)私はいつも私であるという連続性

 あまりよいビデオではなかったが、こんなビデオがあった。

 ある女性捜査官が、ギャングにつかまってしまう。その捜査官は、イスにしばられたま
ま、拷問を受ける。そのとき、ギャングが、「仲間のいる場所を言え」と迫る。が、その捜
査官は、敵意をさらにむき出しにして、そのギャングに、ペッとつばをかける。

 その女性捜査官は、気の強い女性ということになる。で、そのシーンを見ながら、私は、
こんなことを考えた。

 「映画だから、そういうことができるのだ。現実に、そういう場面に置かれたら、ふつ
うの人なら、そこまで、私を押しとおすことはできないのではないか」と。

 とくに私は優柔不断な人間である。その場、その場で、だれにでもシッポを振ってしま
う。人間的なモロさをもっている。だからイスにしばられ、命の危険を感じたら、友人の
いる場所を、ペラペラとしゃべってしまうにちがいない。

 が、それでは、ここでいう「連続性」がないということになる。優柔不断であるという
ことは、それだけで、「私」がないことになる。つまりはいいかげんな人間ということ。

 そこで私が「私」であるためには、連続性がなければならない。「一貫性」ともいう。カ
メレオンが自分の色を変えるように、いつも私を変えていたのでは、「私」は、そもそも、
ないということになる。

 どんな場所でも、またどんな状況でも、一貫して、「私」がそこにいる。私が「私」であるため
の、これが第二の条件ということになる。

(3)他者との良好な人間関係

 私ひとりで、「私」を認識することはできない。他人の間にあって、はじめて、私たちは、
「私」を認識することができる。つまり「私」というのは、相手があってはじめて、「私」
でありえる。

 世俗的なつきあいをすべて断ち切り、山奥で、ひとりで生活を始めたとしよう。が、何
もしないわけではない。文章を書いたり、絵を描いたりすることもある。何かの工芸物を
作ることもある。

 しかしいくらひとりで生活をしていたとしても、その文章や絵を発表することによって、
他者とのかかわりをもつ。作品を売ることによって、他者とのかかわりをもつ。本気で、
他者とのかかわりを切るつもりなら、そうしたかかわりすらも、やめなければならない。

 たとえばひとり穴の中にこもって、原始人のような生活をする、とか。まったく他人の
目を感じない世界で、だ。

 こういう世界の中で、果たして私たちは、「私」を認識することができるだろうか。もう
少しわかりやすい例では、チャールストン・ヘストンが演じた『猿の惑星』がある。

 あとでわかったことだが、あの映画のモデルになったのは、日本人だそうだ。それはと
もかくも、ある宇宙飛行士が、ある惑星にロケットで不時着する。が、そこは猿の惑星。
が、猿といっても、知能は高く、言葉も話す。

 しかしそこがもし、本当に猿の惑星だったら、どうだろうか。猿といっても、映画の中
に出てくるような猿ではなく、日光の山奥に住む猿のような、本物の猿である。

 あなたははげしい絶望感を覚えるにちがいない。言葉も通じない。気持ちも通じない。
あなたがもっている文化性や道徳性は、猿たちの前では、何一つ、意味をもたない。つま
りいくら「私は私」と思ったところで、その私は、その絶望感の中に、叩き落されてしま
う。

 私が「私」であるためには、他者との良好な人間関係がなければならない。その上で、
はじめて、私は「私」でありえる。これが第三の条件ということになる。

 ほとんどの若い人たちは、それが一つの関門であるかのように、一度は、「自分さがし」
の旅に出る。「私は何か」「自分はどこにいるのか」「私は、何をすべきなのか」と。

 その一助になればと思い、この「私」論を書いた。

(はやし浩司 私論 私とは何か 自分さがし 自分探し 自我 自我の確立 青年期の
悩み 自我の一貫性 自我の連続性 自我の社会性 自我の一致 現実自己 自己概念
 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【日本のデフォルト】

●個人破産(NPさんのケース)

+++++++++++++++++++

現実の話。
まさに現実の話。

近くに、NP氏(62歳)という人が住んでいる。
若いときには、かなり儲けたらしい。
豪邸と言うにふさわしい、家に住んでいる。
庭は狭いが、白亜の殿堂。
3階建て。

家族は妻と、妻の両親、それに3人の息子と娘。
(息子2人に娘1人。長男と娘は、現在別居中。)
息子は一級建築士として、そこそこの高収入を
得ている。
娘は独身。
もう1人の息子は、現在、休職中。
年齢は、上から36歳(息子)、32歳(娘)、
30歳(息子)。

NPさんは、今でも月額50万円近い収入がある。
ある土建会社の専務をしている。
が、生活が派手。
国産だが高級車を乗り回し、休みごとに
あちこちの温泉に出かけている。
妻がいるが、その妻も浪費家。
毎月の生活費だけでも、月額70万円もかかる。
つまり20万円の赤字。

それには理由がある。
もうすぐ90歳になる両親がいる。
父親は、特養に入居。
母親は、有料の老人ホームに入居。
双方で、月々、20万円ほどの費用がかかる。

そのためNP氏は、毎月20万円を銀行から借りている。
土地や建物が担保。
が、それだけではない。
すでに借金が、9000万円近くもたまっている。
毎月の利子を返却するだけで、たいへん。
が、その利子分は、毎月建築士をしている長男から借りている。
それが月額20万円。

つまり50万円の収入で、90万円の支出。
借金は現在、雪だるま式にふえつつある。
が、NPさんは、こう言っている。
「息子の収入が、毎月70万円もある。
それに土地と家を売れば、何とかなる」と。

で、先月(2010年12月)、年の暮れ、
いつものように銀行へ足を運んだ。
「来月も、20万円ほど、用立ててほしい」と。
借金の申し込みをした。
が、その日は支店長が応対に出た。
いわく、「NPさん、悪いが、これ以上、
お金は貸せない」と。

NP氏は、あわてた。
「それは困る。何とか、貸してくれ」と。
銀行からの融資が止まれば、その先で
待っているのは、自己破産。

ああああ……。

++++++++++++++++++++

●100万円の札束を、わしづかみ

 この話は前にも書いた。
月末になると、郵便局に老人たちがずらりと並ぶ。
足や腰の曲がった老人も多い。
そういう老人たちが、それぞれ100万円の札束を、わしづかみにして帰る。
貯金の限度額は、1000万円。
国債の限度額も、1000万円。
だから現金!

 それぞれの公務員の人たちに責任があるわけではない。
しかしその老人たちこそ、元公務員。
三公社五現業の、元準公務員。
ご存知のように、年金は3か月ごとに支払われる。
それで100万円!

 が、その一方で、たった1万4000円(月額)の子ども手当て。
それがいまだに、国会でもめている。
週刊現代は、「天下の愚策」と評した。
「親がもうけるだけ」と。

 何が愚策で、何がそうでないか、私たちは、もう一度現実をよく見なければならない。
冒頭に書いたNPさんというのは、NIPPON、つまりこの日本のことである。

●国家破綻

 日本の国債の格付けが、またさがった。
私たちにはピンとこない話だが、今、この日本は世界からも、確実に見放され始めている。
が、その先にあるのは、国家破綻。
これは可能性の問題ではない。
時間の問題。

私の個人的意見として、そう書いているのではない。
ウソだと思うなら、書店に並ぶ経済誌を片っ端から読んでみたらよい。
おおかたの経済学者たちは、「ここ1〜2年がヤマ」と書いている。

 果たして来年度の国家予算は、組めるのか?
国債は、うまくさばけるのか?
そのどちらかが行き詰ったとき、この日本はデフォルト、つまり債務超過=国家破綻する。

 多くの銀行は倒産し、ついで日本経済は、奈落の底へと叩き落される。
倒産につづく倒産。
もちろん「札」は、紙くずと化す。

今朝の某経済新聞社の予測によれば、1ドル=1000円(現在82円)まで、暴落
する可能性があるという(2011年2月6日)。
当然のことながら、同時にドルも暴落するから、「タクシーの初乗りが、1万円になる」
という話も、けっしてありえない話ではない。
ここ数年のうちに、そうなると考えたほうがよい。

●では、どうするか

 では、どうするか。
これについても大方の経済学者の意見は、一致している。
資産は、「できるだけ現物資産でもて」と。

 何をもって現物資産というかは、よくわからない。
思いつくのは、土地、貴金属、それに外債。
外債にしても、銀行や証券会社がつぶれたら、やっかい。
あの山一証券の倒産のとき、辛酸をなめた人は多いはず。

 が、何よりも心配されるのは、食料。
食料品の大高騰。
どこまで高騰するか、それを予測している経済誌は見当たらない。
が、常識で考えても、それなりの価格になるのは必至。
1か月分の給料で、米が10キロも買えない……。
そうなるかもしれない。

●自己防衛あるのみ

 貨幣価値が10分の1になれば、国の借金も、実質的に10分の1になる。
国の借金を減らす方法としては、それしかない。
が、それを国というより、官僚たちが目ろんでいるとしたら、おおまちがい。
許せない。
とんでもない背信行為。

また現在、多額の借金をかかえている人には、一時的には朗報ということになる。
が、それを喜んではいけない。
そのあと、その何十倍もの生活苦が、津波のように襲ってくる。
もともと資産のない人たちだから、病気や事故で倒れたら、万事休す。

 また韓国紙は、連日、日本のデフォルトを心待ちにしているような記事を並べている。
が、その影響は、当然、韓国にも及ぶ。
何といっても、経済規模がちがう。
日本が風邪を引けば、韓国は肺炎になる。
日本が倒れれば、韓国は死ぬ。
そういう現実が、まるでわかっていない。
わかりやすく言えば、日本は韓国なしでも生きていかれる。
が、韓国は、日本なしでは生きていかれない。

 ともかくも、私たちの生命と財産は、私たち自身で守る。
その時期は、刻一刻と近づきつつある。

●あとがき

 結局は、政治の責任ということになる。
が、そういう政治を許してきた、私たちの責任ということになる。
私たち自身も、何も変えようとしなかった。
「明日がある」「何とかなる」と、その場しのぎを繰り返してきた。
その結果が、今。
行政改革、つまり官僚制度の是正が叫ばれるようになって、すでに30年以上が過ぎた。
が、何も変わらなかった。

官僚たちは、失われた20年を横目に、今の今も、我が世の春を謳歌している。
満額の給料に、満額の退職金。
満額の年金に、至れり尽くせりの社会保障。

 ただ悪いことばかりではない。
仮に1ドル=1000円になれば、日本人は、再び働き始める。
歯を食いしばって、がんばり始める。
戦後のあの時代のように。
あるいは団塊の世代が働いた、あの高度成長期のように。
輸出産業も、息を吹き返す。……はず。

 そのための布石だけは、今、しかりとしておかねばならない。
国家が破綻しても、知的産業の流出だけは、防がねばならない。
基幹産業だけは、守りぬかねばならない。

 ……それでも最初に息を吹き返すのは、公務員ということになるのか。
日本という国は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。
つぎの時代にも、やはりそうなるのか。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●欲望の奴隷たち(日本相撲協会)

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日本相撲協会が、揺れに揺れている。
おとといの新聞では、こんな記事もあった。
アンケート調査に対して、「親方が部屋の力士たちに、
みんな『なかった』に○をつけろ」と指示した」(中日新聞)と。
そういう部屋もあったという。
つまり「八百長があったかどうか」という
アンケート調査に対して、「なかった」に○をつけろ、と。
親方が部屋の力士に、それを指示したという。

さらに昨日の報道によれば、疑惑の渦中に
ある力士の中には、「携帯電話を壊してしまった」
「紛失してしまった」と答えた人もいたという
(同、中日新聞)。

が、韓国の報道によれば、読売新聞発として、
「さらに5人が、八百長相撲をしていた」とか。

が、何よりも忘れてならないのは、
我々が怒っているという事実。
春場所の中止くらいではすまない。

今までもそのつど八百長相撲がうわさされたことは、
何度かある。
が、そのつど日本相撲協会は、「事実無根」と、
反発してきた。
それを指摘した週刊誌を逆告発したこともある。

その日本相撲協会。
うみを出したら、皮しか残らない。
公益法人の取り消しは当然。
春場所の中止は、これまた当然。

……というのも、今回の一連の八百長相撲事件を
通して真っ先に思い出すのが、あの拉致事件。
北朝鮮による拉致事件は、あった。
にもかかわらずそれまで、北朝鮮は、それを
指摘されると、「知らぬ、存ぜぬ」を繰り返していた。
ときには会議の担当者が激昂(げっこう)し、机まで
叩いてみせたという。
たいていそのまま会議は中断。

日本相撲協会……人間の醜さ、ここに極まれり。
その裏では、億単位の現金が乱舞している。

八百長相撲は、日常的になされていた。
メールのやり取りを読んだだけでも、それがわかる。
言い慣れた書き方。
やり慣れた、取り組みの仕方。
だれも一部の力士による、今回だけの事件とは、
思っていない。

日本相撲協会は、「3人以外、関与否定」(中日新聞・
2011・2・6)という大見出しをトップに
かかげた。
証拠をつきつけられた範囲内でしか、罪を認めない?
こんなやり方で、国民が納得するはずがない。
我々の怒りのボルテージは、ますます上昇している。

+++++++++++++++++++++++++

●興業

 興業なら興業と割り切ればよい。
金儲けが目的。
プロレスがそうである。

 そこで素朴な疑問。
プロレスと相撲は、どこがどうちがうというのか。
「伝統的国技」とはいうものの、中身は同じ。
もちろん、「相撲を廃止しろ」と書いているのではない。
伝統的国技であることには、ちがいない。
それなりの保護や助成は、必要。
しかしそれにも「限度」がある。

たとえばNHKと日本相撲協会とは、太いパイプでつながれている。
その「場所」になると、NHK(BS)は、午後1時前後から、6時過ぎまで
実況中継している。
そのあとの定時のニュースでも、勝敗を紹介している。
が、常識で考えても、そこまでする必要があるのか。
明らかに「限度」を超えている。

●欲望

 現在の日本相撲協会を、報道という窓を通してその外から見ていると、
「欲望とは何か」。
そこまで考えてしまう。

 まったく話が変わるが、たまたま昨日も、どこかの小学校教師が、盗撮し、
逮捕された。
教室のあちこちに隠しカメラを設置し、女児の脱ぎ着を盗撮していたという。

「どうして?」……、つまり「どうしてそんなことをするのか?」というより、
「どうしてこういう事件が繰り返されるのか」ということ。
10年ほど前、この浜松市の高校でも、あった。
女子の更衣室にやはり隠しカメラを置き、女子生徒の脱ぎ着を盗撮していた。

学校の教師なら、こういう事件を、近くで見聞きしているはず。
どんな罪になるかも、知っているはず。
が、それでもその欲望を、抑えることができない。
つまりそれが「欲望の力」ということになる。
言い換えると、欲望の力には、ものすごいものがある。

+++++++++++++++++

昨年(2009年9月)に、こんな
原稿を書いた。

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●欲望vs理性

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昨夜遅く、近くにオープンした靴屋へ行ってきた。
開店初日には、何百台という車が並んだ。
西日本第一の規模を誇るという。
超大型店。
……それから1週間。
やっと楽に入店できるようになった。
で、オープンセールということもあった。
ふつうなら8000〜1万円もするような靴が、
(本当のところ、私には靴の値段はわからないが)、
2500〜3000円で売られていた。
私が1足、ワイフが1足、買った。
2足で、4800円!

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●生きる原動力

 生きているだけでも、すばらしいこと。
ものが見える、ものが聞こえる、話ができる……。
そういう視点に立てば、あらゆる問題が解決する。

 が、ただ生きているだけでは、人間は満足できない。
視床下部から脳全体に、常にシグナルが送られる。
そのシグナルに応じて、もろもろのホルモンが分泌される。
そのひとつにドーパミンがある。
人間の快楽と欲望を司る脳内ホルモンである。
それが人間が生きる原動力となる。
それをフロイトは「性的エネルギー」と呼んだ。
ユングは「生的エネルギー」と呼んだ。
(これは私の勝手な解釈によるもの。)

●理性vs欲望

 しかし脳内ホルモンの命令するままに行動していたら、たいへんなことになる。
人間のもつ欲望には、際限がない。
しかもドロドロと薄汚い。
そこでそれをコントロールするのが、理性、つまり前頭連合野ということになる。

 もし善と悪を大脳生理学的に考えるなら、前頭連合野が司る理性が、善、
ドーパミンに支配される欲望の世界が、悪ということになる。
が、前頭連合野の力には限界がある。
欲望の力のほうがはるかに強力。
パワーフル。
大学の教授だって、手鏡で女性のスカートの下をのぞく。
それもそのはず。
欲望は、「生きる力」そのものと直結している。
食欲にしても性欲にしても、また物欲、権力欲にしても、「生きる力」を土台にして
生まれる。
善と悪は、そういう点でも平等ではない。

●メカニズム

 では、理性に勝ち目はないかというと、そうとも言い切れない。
ここに書いたようなメカニズム、(あくまでも私が考えたメカニズムだが)、それが
わかるだけでも、そこに「敵」が見えてくる。
まずいのは、欲望に操られるまま、操られていると気がつかないで、行動すること。
欲望の奴隷になること。

 が、こうしたメカニズムがわかってくると、自分自身を一歩退いたところから、
客観的に見つめることができるようになる。
たとえば食欲にしても、「食べなければ損なのか。食べたら損(そこ)ねるのか」と。
自分で自分の食欲をコントロールすることができるようになる。
食べ放題の店とか、ホテルのバイキング料理とかへ行くと、そういう経験をよくする。
そういうところで、欲望の命令するまま食物を口に入れていたら、あっという間に、
体をこわす。

 ……といっても、そんなことでも簡単なことではない。
私などどこかの旅館やホテルで一泊するたびに、2〜3キロも体重がふえてしまう。
で、そのあとあわててダイエット。
その繰り返し。

●靴屋で……

 同じような現象を、昨夜、靴屋でも経験した。
安い。
確かに安い。
値段を見ているうちに、「買わなければ損」という欲望が、猛烈にわいてきた。
実際、近くを見ると買い物かごに、3〜6足も靴を入れて歩いている人がいた。
子連れだったが、10足近く、まとめて買っている夫婦もいた。

 が、それにブレーキをかけたのは、ほかならぬ理性だった。
(持ちあわせが少なかったこともあるが……。ハハハ。)
「靴などというものは、1足を大切にはく。それがはけなくなったら、また買う」と。
たとえば6足を3年ではくとすると、1年に2足となる。
しかし1足を1年はけば、結局は、半額ということになる。
それがわかったとき、「オール20%引き」という文字が、かなり色あせて見えた。

 つまりこうして自分の欲望にそのつどブレーキをかけていく。
そういう習慣を身につける。
それが積み重なって、理性の力で欲望をコントロールすることができるようになる。
平たくいえば、欲望をコントロールできるかできないかは、能力の問題ではなく、
習慣の問題ということ。
習慣の中で、理性の力を養っていく。

 ……今朝は、そんなことを発見した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 欲望 理性 生的エネルギー 欲望をコントロール)

●欲望

 欲望をコントロールするのは、むずかしい。
たいへんむずかしい。
個人の力では、(もちろん個人差もあるが)、不可能とさえ考えてよい。

 では、どうするか?

 私は「システム」の問題と考えている。
たとえば日本相撲協会。
たとえば学校制度。
政治にしても、そうだ。

 欲望の追求がすべて「悪」ということではない。
しかしそこにブレーキをかけるのが、システムということになる。
平たく言えば、できるだけ多くの人たちの目を通して、個人の欲望を監視する。
厳罰主義でもよい。

 たとえばオーストラリアでは、18歳未満の女子との性的な関係は、きびしく
禁止されている。
見聞きし、それを届けなかっただけでも、罪に問われる。
日本風に言えば、「不作為罪」ということになる。

 相撲について言えば、「八百長」という言葉そのものが、相撲の世界から生まれている。
明治の昔から、八百長相撲は、常識だったと考えてよい。
だったら、相撲というのは、もともとそういうものとして、見ればよい。
プロレスを例にあげるまでもない。
が、それでもだめだというのなら、万人が等しく参加できる「スポーツ」にすればよい。
サッカーや野球を例にあげるまでもない。

 日本相撲協会は、「国技」を隠れ蓑に、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。
欲望を追求しすぎた。
「うみ」が、たまり過ぎた。
それが今、一気に外に噴き出した。

 日本相撲協会の「土下座」だけを見て、それで終わらせてはいけない。


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●子どもの人格の完成度(2009年11月発表の原稿より)

++++++++++++++++++

子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。

やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。

子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。

+++++++++++++++++++

●前頭連合野

 「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。

 晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
 兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。

 子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
 
 強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。

●ある母親

 その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。

 その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。

 ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。

 「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。

 一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。

 私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。

●常識ハズレ

 結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。

 が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。

 が、常識ハズレはつづいた。

 これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。

●子育て自由論

 「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。

 そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。

 これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。

(1) 子どもをひとりの人間と認める。
(2) 親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3) 友として、子どもの横に立つ。

 ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
 頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。

 あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。

●早期診断

 こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3〜4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。

 基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。

 が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
 
 その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5〜6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。

●子どもらしさと幼稚性

 誤解がないように書いておく。

 子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。

 騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。

 が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。

●では、どうするか?

 自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。

 親自身についても、そうだ。

 先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。

 つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。

 母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。

●ものを書く

 あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。

 日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。

 それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欲望 欲望の抑制 コントロール 前頭連合野 理性の府 理性とは)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【2月8日という、「今」論】

●時の流れ

 今、この瞬間だけをみる。
遅々として進まない時間。
今朝は風もない。
昨日までの強風は消え、今は、庭の木々も、動きを止めている。

 これが時間か?
時間というものか?

 しかしそこにあるのは、「今」だけ。
過去は、ない。
未来は、ない。
つねに「つぎの今」がやってきて、また「過去の今」へと去っていく。
よい例が、人の死。

 NG先生が亡くなって、もう2か月になる。
早いというよりは、今と2か月前との間に「時間」がない。
「2か月」という数字はあるが、その実感がない。
つい数日前……というよりは、この2か月が、瞬時に消え去った。
……消え去ってしまった。

●人の死

 学研の幼児局に、斉藤洋三氏という編集長がいた。
世話になった。
その人が亡くなって、もう20年以上になる。

 そのあと、その斉藤洋三氏を追うように、本郷左智夫氏という編集長がが亡くなった。
「学習」「科学」という、日本を代表する学習雑誌を創りあげた編集長である。

 これら両氏が、今、ここでどうこうというのではない。
今、そういう人たちを思い出しながら、こう思う。
「瞬時だな」と。
その間に「20年」という時の流れがあるはず。
が、その実感が、どこにもない。

 さらに40年前に亡くなった、伯父がいる。
30年前に亡くなった叔父がいる。
それらのオジにしても、ともにその「時」から、今に至るまで、「瞬時」。
どの人を思い出しても、つい瞬間前に亡くなったような気がする。

 言い換えると、この先、10年、あるいは20年など、その瞬時に過ぎる。
いくら私やあなたが、「私たちは生きている」と実感しても、
その実感は、つぎの瞬時には、またたく間に消える。
時の流れというのは、そういうもの。

●順番

 人の死について、「順番」と考える人がいる。
それはその通りと思う。
うまくいけば(?)、人はその順番に従って、この世を去っていく。
ときどきその順番が狂う人もいる。
若くしてこの世を去る人もいる。
しかしおおむね、「順番」という考え方は、まちがってはいない。

 毎年、私より年上の人たちは、どんどんとこの世を去っていく。
どんどんと消えていく。
とくにこの数年の動きは、はげしい。
人も60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そのさみしさ。
そのはかなさ。

 しかしそれが人の世と割り切れば、同時に自分の死も割り切れる。
そのときが来たら、それを受け入れる。
仮にその先10年、長生きしたところで、(あるいは20年、長生きしたところで)、
それがどうだというのか。
瞬時は、瞬時。
だからこそ、私たちは、「今」を懸命に生きる。
一瞬一秒とて、無駄にできる時間はない。
また無駄にしては、いけない。

●死の恐怖

 先日、私は後頭部にはげしい神経痛を覚え、その場に倒れてしまった。
首を不意にひねったようなとき、ときどきそれが起きる。
が、そのときは、ちがった。
太い何百本もの神経が、一度にひねられたような痛さだった。

 私は床に倒れたとき、こう思った。
「ああ、これで死ねる」と。

 けっして死を望んでいたわけではない。
またそういう状況でもなかった。
が、不思議なことに、本当に不思議なことに、何もこわくなかった。
その瞬間だが、私は死をすなおに受け入れていた。
幸い……というか、いつもそうだが、その痛みは、数秒単位の短い時間で収まる。
私はそのあと、ゆっくりと床から、立ち上がった。

 私たちがなぜ死を恐れるか。
これはあくまでも私のばあいだが、私は死ぬまでのプロセスがこわい。
生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
簡単には死なせてくれない。
ワイフもときどき、こう言う。

「ボケ老人になり、みなに、迷惑をかけて死ぬのはいや」と。
同時に、「どうしてこの日本では、安楽死を認めてくれないのかしら」とも。

●ワイフと……

 昨夜は、寝床に入ってから、ワイフとこんな会話をした。

私「もしぼくが死ぬことになっても、悲しまないでよ。
ぼくが死んでも、やがてお前が死ぬときまでは、瞬時だからね」
ワ「私はあなたが死ぬまで、しっかりとめんどうをみるわ」
私「ありがとう。
そのかわり、お前が死ぬときは、かならず迎えに来るよ。
どんなことがあってもね。
神様や仏様が怒っても、迎えに来るよ」
ワ「頼むわ」と。

 そのほかにもいろいろ話した。
時計をみると、午前1時を過ぎていた。
それを最後に、私たちはいつの間にか、眠ってしまった。
 
 私たちは、こうする。

 私が死んでも、葬式などは、いっさい、しない。
だれにも知らせない。
だれも来なくてよい。
ただワイフだけ、一晩、横にいてくれれば、それでよい。
で、そのあと、火葬場で焼かれて、灰になる。
その灰は、ワイフが死ぬまで預かる。

 昨夜もワイフは、それをしっかりと約束してくれた。
私は何度も念を押した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 遺言 晃子への遺言)

●懸命さ

 私たちはこの宇宙で、瞬時に生まれ、そのまた瞬時に死んでいく。
その間に、長い時間があるように見えるが、もともとそんな「時間」など、存在しない。
100年前に生きた人も、1000年前に生きた人も、みな同じ。
1万年前に生きた人も、10万年前に生きた人も、みな同じ。

 この先の「未来」についても、同じ。
この先10年生きようが、20年生きようが、それがどうだというのか。
50年でもよい。
つぎの瞬時には、私もあなたも、この世から消えてなくなる。
それがわからなければ、私やあなた自身の過去をみればよい。
この10年間は、どうだったか?
この20年間は、どうだったか?
どれも瞬時に過ぎたはず。
そのいとおしさ。
切なさ。

 大切なことは、「今」を懸命に生きること。
懸命に生きて、生きて、生き抜く。
つぎの「今」は、その結果として、からなずやってくる。
が、それでも、「今日はよくがんばった」と思える日など、ない。
一日もない。
が、だからといって、生きるのが無駄というのではない。
その逆。
その(懸命さ)の中から、無数のドラマが生まれる。
人がなぜ、この世界に生まれ、そして死んでいくか。
その答は、シンプル。
無数の人間が織りなすドラマにこそ、価値があるから。
意味があるから。

 不完全でボロボロの世界。
だからこそ、おもしろい。
楽しい。

●はやし浩司 2011−0208

 今朝も5時に起きた。
睡眠時間は4時間(?)。
すぐウォーキングマシンで運動。
今朝は、10分間だけ、した。
書きたいことがたくさんあった。
汗が体ににじんだところで、そのまま書斎へ。

 パソコンを立ち上げ、メールに目を通す。
ニュースを読んで、あちこちのサイトのアクセス数を知る。
そのあと昨日撮影したビデオを、編集。
そのままYOUTUBEにアップ。
原稿を書き始めたのは、そのあと。
そう言えば、昨晩、ふとんの中でワイフがこう言った。

「あなたはいいわね。自分の書いたものが残るから」と。

 ワイフはいつもそう言う。
が、私は、そんな安易な気持ちで原稿を書いているのではない。
原稿イコール、私の墓石。
毎日自分の墓石に文字を刻むようなつもりで、文を書いている。
「私の命」そのもの。
「今」を生きる私の命そのもの。
今という瞬間を、実感のあるものにするためには、それしか方法がない。
だから書く。

●今日も始まった

 ……こうして今日も始まった。
何が書けるかということではない。
どんな新しい発見ができるか。
それが重要。
何か新しい発見ができれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。

 ただ願うことは、夜、床に就いたとき、深い後悔のため息だけは
つきたくないということ。
あれほどつまらない敗北感は、ない。
何としても、それだけは避けたい。
またそうあってはいけない。

 まさに『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』(論語)。
それをもう一度、深く、胸に刻む。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●アホの上塗り(How are you ashamed of yourselves, Mr. NHTST, USA?)

To: NHTSA, USA

What has been the "TOYOTA" problem?
Please re-read my article which I wrote in 2010.
In that article, I wrote, "Be ashamed NHTSA!"
I also agein write here, "Be ashamed, NHTSA!"

+++++++++++++++++++++++++

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

++++++++++++++++++++

このたび、TOYOTAの「シロ」が、
確定した。

まず、YOMIURIの記事から。

+++++++++++++以下、YOMIURI+++++++++++++++

 ラフード米運輸長官は8日の記者会見で、末娘からの問いあわせに"お墨付き"を与え
たことを明らかにした。末娘は、昨年、トヨタ自動車の2011年型ミニバン「シエナ」
を購入したという。

 長官は、「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買
うべきだ』と答えた」と語った。「我々が、トヨタ車が安全と感じているという例だ」とも
述べた。長官は昨年2月、議会で「トヨタ車の運転をやめるように」と発言していた。

+++++++++++++以上、YOMIURI+++++++++++++++

●ラフード米運輸長官

 こんな記者会見程度で、TOYOTAが被った損害が、解消できるのか?
それで責任を果たしたことになるのか。
このラフード米運輸長官は、アホ中のアホ。
TOYOTA車に、宇宙線をあててまで、欠陥を探し出そうとした、その張本人である。
「車に、宇宙線」だぞ。
それもNASAと協力して?!

 ラフード米運輸長官は、「論理学」の「ロ」の字も知らない、アホ。
アホ長官。

●2010年に書いた原稿より

 昨年(2010)に、私が書いた原稿を、もう一度、よく読んでみてほしい。
ここに書いた「アホ」の意味が、よくわかってもらえるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10−04−01)

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の
原稿が、あちこちのサイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスに
よるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの
不適切な操作によるもの。
ところで、こんな仰天ニュースが、読売
新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)
と全米科学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受け
て事故原因の調査に乗り出すことが30日、明らかになった。
 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月か
けて行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影
響を与えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行
う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立
てあげたいらしい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼したという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア〜〜〜?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、そ
の放射線とやらは、どこから発せられたのか。

そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるは
ず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授の
それと、どこもちがわない。

「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したと
か?

TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与え
るかもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほう
がよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠
とはならない。

もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こ
ぞって、放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●論理学(必要・十分条件)

 もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、
どれをめくってみるか。

1枚目……(△) 
2枚目……(□) 
3枚目……赤の(●) 
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明された
わけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。 
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)で
あったとしても)、この命題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがって
いることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●必要・十分

 話を戻す。

 「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、
TOYOTAの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。

(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)
さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA
車に、まんべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」
も証明しなければならない。
まだある。

「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、
証明しなければならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。

 また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残
る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。

 「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせな
くなってしまった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、
アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数
でもよい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も
走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●統計的調査(補足)

 ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、
アメリカには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。

 たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」
と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。

 そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。

(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。

 たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。
これが基礎データ。

 つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数値
に近ければ、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因があると
いうことになる。

 同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)
と、ほかのメーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。

●車の欠陥

 交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通
安全局(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。

 そこで改めて数字を拾ってみる。
 現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交
通安全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。

 もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題に
する前に、車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。

 さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしてい
る。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必
要があるのでは?

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題
は起きていないという。

(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでい
る。)

つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証
明しなければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータで
もあれば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響
を与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめ
て十分となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が
与える影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!

 ……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明
できた」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。

言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。

(はやし浩司 ラフード米運輸長官 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安
全局(NHTSA) NASA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制
御装置 影響 TOYOTA ハイブリッド車)

●終わりに

 ラフード米運輸長官は、こう言ったという。
「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買
うべきだ』と答えた」と。

 それに応じて、日本の経団連は、「安全性のお墨付きをもらった」とはしゃいでいる。
が、これもおかしい。
日本の車、社会、経済に与えた影響は、計り知れない。
それをさておき、「お墨付き」とは?
どうして日本は、ここまで隷属するのか。
シッポを振るのか。
本来なら、「コノヤロー!」と激怒し、損害賠償を請求してよい事案である。
どうしてそれをしないのか?

 つまりラフード米運輸長官のこの程度のリップサービスで、日本人のあのときの
(怒り)をご破算にしてすませてはいけない。
またそれですむような話ではない。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
  

●希薄になる親子関係(資料)


 自分の子どもが行方不明になれば、親は、必死になってその消息を
求める。
が、子どものほうは、どうか。
つぎの調査結果をみてほしい。
それが結論ということになる。


あるいは親子というのは、もともとそういうものなのか。
またそう考えてよいのか。


 今どきの若者たちに、親が、「親のめんどうはどうするのか?」と聞くと、こう答える。
「お前は(=親は)、見返りを求めて、オレたち(=自分)を育ててきたのか!」と。
あるいは気持ちをたずねただけで、「干渉」という言葉を使って、はねのける。


 日本と韓国は、双子国と揶揄(やゆ)されるほど、中身がよく似ている。
日本人の親子関係も希薄なら、韓国人の親子関係も希薄。
もう一度、日本の内閣府がした調査結果を、よく見比べてみてほしい。


+++++++++++++++


●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%


★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?


自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。


★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか


『そう思う』(2)
イギリス  70.1%、
アメリカ  67.5%、
フランス  62.3%、
日本  47.2%、
韓国  41.2%
(以上、内閣府、平成21年調査より)


++++++++++++++++


●何も書きたくない!


 この数字がすべて。
私は、何も書きたくない。
しかしこの問題は、結局は自分人に返ってくる。
それとも今どきの若者たちは、永遠に、若いままと思っているのだろうか。
もしそうだとするなら、これほど、オメデタイ話はない!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 内閣府 親子関係 どんなことをしてでも親のめんどうをみる 親の
めんどう 親のめんどうをみる 成人男女の意識調査 はやし浩司 将来親のめんどうを
みる 親を養う)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●愛する人の死

++++++++++++++++++

NG先生が亡くなって、もう2か月が過ぎた。
早いというか、長かったというか。
NG先生の奥さんから、今朝、メールが
届いていた。
「この2か月は、あっという間でもあり、
20年にも長く感じます」と。

自分の死を受け入れるのは、むずかしい。
いわんや、愛する人の死を受け入れるのは、
さらにむずかしい。

ひしひしと迫るくる孤独感。
さみしさ。
悲しさ。
それには理由がある。

「死」を前にした孤独感は、同時に
隔離感をともなう。
いくら近くに愛する人がいて、やさしい
言葉をかけてくれても、それは心に
しみこんでこない。
「死ぬのは、私ひとり」と。

その隔離感が、そばにいる相手にもわかる。
どんなに同情しても、同情しきれない。
あるところまで入ったところで、拒絶
されてしまう。
壁がある。
その壁を乗り越えることはできない。

だから死んでいく人も孤独だが、
しかしそれを近くで見守る人は、もっと
孤独。
さみしい。
悲しい。
足下をすくわれるような空虚感。
つかんでもつかみきれない、自分の心。
怒りと絶望感。
どうしようもない、怒りと絶望感。

死んでいく人も、また残された人も、
その怒りと絶望感と闘わねばならない。

++++++++++++++++++

●老後と孤独

 老後は、孤独との闘い。
先のない袋小路で、暗闇に包まれる。
日々に肉体は衰え、経験しなかった病魔が、つぎつぎとやってくる。
心配と不安。
いや、死ぬのがこわいのではない。
死ぬまでのプロセスが、こわい。
できれば、ポックリと死にたい。

しかしほとんどの人は、そうはいかない。
大病を患えば、なおさら。
オーストラリアの友人は、こう言った。
「さみしいか?」と私が聞いたときのこと。
その友人は、ポツリと、「うれしかった」と。

 友人の妻は、がんで、2年間苦しんだ。
そのあと死んだ。
その苦しみを見ていたからこそ、友人は、そう言った。

●散歩

 NG先生の奥さんの気持ちを察するにつけ、胸が痛む。
どんなにどうがんばっても、奥さんの気持ちの中には、入れない。
そこには、先に書いた隔離感がある。
だから私にできることと言えば、そっと奥さんの心を暖かく包んでやることでしかない。
それで奥さんの気持ちがやすらぐとは、思わない。
さみしさや悲しさが、癒されるとは思わない。
しかしそれしかできない。
その歯がゆさ。

 NG先生が亡くなったと聞いた午後、私は、長い散歩に出た。
例年になく冷たい北風が、吹いていた。
乾いた北風で、道路脇の木々が、それに大きく揺れていた。

通り過ぎる人にも生彩がなかった。
ふだんならけばけばしく見える店の看板も、色彩を失っていた。
……というか、ほとんど顔をあげないで、歩いた。
ときどき前を見、あとは側溝のふたの上を歩いた。
灰色の、どこまでも灰色の、味気ない道。
その上をとぼとぼと、歩いた。

●通夜

 通夜のときも歩いた。
NG先生の自宅までは、40〜50キロはある。
電車でも、4つ目の駅。
足が痛くなって、2つ目の駅で、電車に乗った。
それまで歩いた。
歩いているときだけ、私は、さみしさや悲しさを忘れることができる。
子どものころから、ずっとそうだった。
そのときも、そうだった。

 通夜の日は、さらに冷たい風が吹いていた。
身を切るような冷たさだった。
駅を下りてから、それからまた20分ほど、歩いた。
何度か、通った道。

 そう、NG先生だけだった。
NG先生だけは、私の原稿を、隅々まで読んでくれた。
一度の例外もなく、長い感想文をそのつど、送ってくれた。
NG先生という人は、そういう人だった。
そういう人を、私は失った。

 そのさみしさ。
その悲しさ。

●急死

 NG先生の死は、突然だった。
本当に、突然だった。
いつものように近くの病院へ、定期診断に行った。
注射を打ってもらった。
その直後、急変。
そのまま帰らぬ人になった。

 私はそんな死に方を、ほかに知らない。
それまで孫の世話をし、犬と散歩をしていた。
だからそれを認めろと言われても、すぐにはできなかった。
今もできない。

 ただおかしなことに、たいへんおかしなことに、私はNG先生を、うらやましく
思っている。
それを「ポックリ」と言わずして、何という。
そうでなくても、60歳を過ぎると、つぎつぎとやってくる。
経験したことのない、痛み、症状、病気……。
そのたびに「死」の影におびえ、ビクビクする。
70歳になれば、なおさらだろう。
80歳になれば、なおさらだろう。

 63歳の私ですら、ときどき、こう思う。
「もう、いいかげんにしてくれ。
命がほしいなら、さっさと持って行け!」と。

●NG先生の業績

 誤解しないでほしいのは、だからといって、死を望んでいるのではない。
死にたくない。
1回ポッキリの命。
しかし問題は、その生き方。
が、このところ、どう生きるかということよりも、どう死ぬか。
それをよく考えるようになった。

 できればこの世に生きたという証(あかし)を残したい。
かなわぬぜいたくということは、よく承知している。
しかしそれでも残したい。
その方法は、あるのか。
可能なのか。

 ……言い換えると、私がしなければならないこと。
NG先生は、教師であると同時に、学者だった。
その業績には、すばらしいものがある。
その業績をこの世に残すこと。
方法はいろいろある。
が、私ができることは、インターネット上に、先生の論文を残すこと。
このままNG先生が、この世から忘れ去られてしまうことには、耐えられない。
つまりそれが私の、NG先生との死と闘う、ゆいいつの方法ということになる。

 NG先生は、死んでいない。
まだ生きている。

 ……と力んではみたが、やはりさみしい。
このやるせなさを、どうしたらよいのか。
私は今、その怒りと絶望感と闘っている。
勝ち目のない闘いだが、がんばるしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【反動形成】2月10日(木曜日)

+++++++++++++++

今日は、木曜日。
よくわかっている。
が、木曜日は、何かと忙しい。
それもあって、木曜日になるたびに、こう思う。
「今日は、だいじょうだろうか?」と。
つまり体力がつづくだろうか、と。

昨日は、朝、30分のウォーキングをした。
午後、約3時間、外を歩いた。
歩きたくて歩いたわけではないが、ともかくも
歩いた。
計3時間30分。
運動量としては、まずまず。

そんなわけで、今は、こう思う。
「今日は、だいじょうぶ」と。

++++++++++++++

●反動形成

 「反動形成」という言葉がある。
何度かそれについて、書いた。

 要するに、本当の自分を隠し、仮面をかぶること。
よくあるのは、こんな例。

ケチな人が、そのケチを隠すために、気前のよい自分をわざとおおげさに見せたりする。
あるいは教育ママが、人には、「私は子どもに勉強しなさいと言ったことはありません」と、
ウソをついたりする。
子どもの世界でも、よく見られる。
よい兄、よい姉を演じながら、その実、裏で陰湿な弟いじめや、妹いじめを繰り返したり
する。

 本当の自分を見抜かれるのがこわく、その反動として、正反対の自分を演ずる。
たとえば内面に潜む攻撃心や、憎悪を隠すため、妙にやさしい人間を演ずるのもそれ。
「仮面(ペルソナ)」とちがうのは、「正反対」という部分。
たとえばショッピングセンターの売り子が見せる、あの笑顔は、仮面である。
仮面をかぶりながら、客にものを売る。

反動形成は、それとはちがう。
心の中に別室をつくり、その中に自分を押し込む。
これを「抑圧」というが、日常的に、心がその抑圧状態になる。
本当の自分をさらけ出したら、自分の立場そのものが、あやうくなる。
正反対の自分を演ずることによって、自分の立場を取り繕う。
意識的な行為というよりは、無意識的な行為。

●ぎこちなさ

 反動形成には、いくつかの特徴がある。
どこか不自然。
どこか変。
どこかぎこちない。

 わざとらしい言葉。
不自然な笑顔。
一貫性のない生活態度、などなど。

 ときに心の別室にたまった、不平や不満が爆発することもある。
ふつうの爆発ではない。
その瞬間、まったくの別人になる。
(……というか、そのときのほうが、その人自身のほんとうの姿ということになるのだが
……。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前に書いた原稿を拾ってみる。
一部、ダブるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反動形成(1)(2010年記)

 反動形成は、いろいろな場面で経験する。
よく知られた例として、長男、長女が見せる反動形成がある。
長男や長女は、下の子(弟や妹)に嫉妬しやすい。
親は、「兄も弟も、平等にかわいがっています」と言う。
しかし上の子ども(長男や長女)にしてみれば、その「平等」であることが不満。
それまで100%自分のものだった親の愛情が、半分に減った。

 そこで上の子どもは、赤ちゃんぽい自分を演出して、もう一度親の愛情を、100%、
自分のものとして取り返そうとする。
「赤ちゃん返り」というのは、そうして起こる。
本能的な部分で起こるので、叱ってなおるような問題ではない。
またそれが高じて、反対に、ときとして下の子どもに、攻撃的になることもある。
嫉妬がからんでいるだけに、陰湿かつ動物的。
下の子どもを、「殺す」ということもしかねない。

 が、それでは自分の立場がなくなる。
「あなたはお兄ちゃんでしょ(お姉ちゃんでしょ)!」と言われる。
そういう言葉で、抑圧される。
あるいは自らを抑圧する。
そこで上の子どもは、よい兄やよい姉を演ずるようになる。
「ぼくは弟(妹)が好き」などと、平然と言ったりする。
本当は弟(妹)が憎くてならないのだが、やさしくめんどうをみのよい兄(姉)を
演ずるようになる。

先にも書いたように、本能的な部分に根ざしているため、親はそれが仮面であることに気づくこ
とはない。
外面だけを見て、こう判断する。
「うちの子は、いい子」と。
これが「反動形成」である。

 ほかに聖職者(牧師や僧侶、教師)と呼ばれる人たちの反動形成も
よく知られている。
みなにあがめられている間に、そういう人間を、自ら作っていってしまう。
たとえばだれかが、性的な話や卑猥な話をしたりすると、ことさらそれを嫌って
見せたりする、など。
これが「反動形成」である。

 それはそれだが、そういった状態が長く続くと、仮面をかぶるようになる。
高徳者を演じているあまり、本当の自分を見失ってしまう。
が、本当の自分が消えるわけではない。
本当の自分は、心の奥に抑圧され、押し込まれる。・・・あるいは、自分を
押し込む。

本当に自分が、別のところで、別の人格となって現れることもある。
欧米では、聖職者による少年や少女に対する暴行や虐待が、問題になら
ない日がないほど、多い。
そういう形で、つまり別の形で、抑圧された自分が外に出てくる。
「反動形成」のこわいところは、ここにある。

●反動形成(2)(2009ー6記)

●もう1人の自分(反動形成)(Another Man in Me)

 自分にとって、受けいれがたい、もう1人の自分を感じたとき、その自分を抑圧するた
めに、人は、それとは正反対の自分を演ずることがある。
これを「反動形成」という。

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。
たとえば、牧師や教師の中には、ことさら、Sックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人
がいる。(S=セ、禁止用語)

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。
信者や生徒が、「Sックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫
んでみせたりする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとし
て起きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)
がいる。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。
しかしそんな感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。
しかしこれは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、そ
の自覚はない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。
老人に多い。
自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて(ニセの自
分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜くことがで
きない。
何十年も近くで住んでいる親類にすら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せる
かどうかで判断する。
反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。ときにサービス過剰になっ
たりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくして
みせる、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくあ
る。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。
あるいは体の弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。
 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を
心の中で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもある
そうだ。(私のワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、また別
の自分を発見することにつながるのではないかと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BW教室 はやし浩司 反動形成 仮面 ペルソナ)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。
そのときのこと。
私が子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方で、「嫌
いだヨ〜」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」という言葉の
意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいことと考える。だか
ら(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえておおげさに否定してみせたり
する。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。
が、中に、正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめると、小
声で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはいる。
しかしそういう子どもは、例外と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●夫婦のばあい

 よき夫、よき妻。
しかしたがいに反動形成。
内心では、憎しみあい、軽蔑しあっている……。
そういう夫婦は、少なくない。
私たち夫婦がそうかもしれないし、あなたがた夫婦も、そうかもしれない。
そういう「形」にしなければ、自分が、みじめ。
50歳とか60歳とかを過ぎ、「私たちの結婚は失敗でした」とは、とても言えない。
この年齢になると、自己否定ほど、恐ろしいものはない。
敗北感から、絶望感に発展することもある。

 だから妥協し、ほどほどのところで接点を見出し、よい夫婦を演ずる。
いっしょに映画を観に行ったり、旅行に出かけたりする。
世間体というより、ここにも書いたように、たがいに本当の自分を認めたら、夫婦という
より、自分自身が崩壊してしまう。
それがこわい。

 ……と書くと、身も蓋(ふた)もない。
しかし多かれ少なかれ、どんな人も、自分をごまかしながら生きている。
程度の差はある。
つまり反動形成は、みながしている。
していない人はいない。

ただひとり、自分をさらけ出しながら生きている女性と言えば、あの「みさえさん」。
「クレヨンしんちゃん」(コミック本、vol. 1~11前後)のママである。
私はみさえさん以外に、自分をさらけ出しながら生きている女性を知らない。
これは余談。

●さらけ出し

 そこで私自身の反動形成は何か、それを考えなおしてみる。

 たとえば、ウソとインチキ。
私はもともとウソつきで、インチキな男だった。
子どものころは、そうだった。
拾ったお金でも、交番へ届けたことは、めったにない。
(1、2度はあったように記憶しているが……。)

 それにウソつきだった。
……というか、私が住んでいた世界は、ウソが当たり前だった。
今でも、何が本当で、何がウソなのか、よくわからない。
そういう自分がいやになり、私は私なりの経験を通して、そういう世界から抜け出た。
その結果が今。
私はウソとインチキには、妥協しない。
ウソをついたり、インチキをする人を、許さない。
相手が息子でも、許さない。
自分でもときどき「過剰」と思うことがある。
ワイフもときどき、こう言う。
「もう少し妥協したら……」と。

 考えてみれば、これも反動形成。
自分の中に潜む邪悪な人間性を隠すために、(……隠すという意識はあまりないが)、
表では正反対の自分を演じてみせる。
それが長くつづいたため、それが生活態度として、定着してしまった(?)。

 が、それで邪悪な人間性が消えたわけではない。
今でも道路でサイフのようなものを拾ったりすると、頭の中が混乱する。
こんな経験がある。
2007年に書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●勇気(2007年8月記)

+++++++++++++++

昨夜、コンビニの前を通ると、
小さなサイフが落ちていた。

イヤ〜ナ気分だった。
私はそれを拾うと、自転車の前の
かごに入れた。

途中、信号待ちのところで、サイフを
開いてみると、何枚かのカードが
入っているのが、わかった。
住所と名前が書いてあった。

イヤ〜ナ気分だった。本来なら、
そのままコンビニの店員に渡すべき
だった。

悶々とした気分。
「もらっちゃえ」と言う、自分。
「落としたヤツが悪いんだ」と言う、自分。
そんな自分が、そこにいた。

そんな自分を感じながら、家に着いた。
ワイフがそこにいて、「お帰り!」と
声をかけてくれた。

明るい声だった。

私「サイフを拾っちゃった」
ワ「どこで?」
私「あの○○のコンビニの前」
ワ「……」
私「名前と電話番号が書いているから、
そこへ電話して!」
ワ「うん」と。

あとの処理は、ワイフに任せた。
いくら入っているかは、見なかった。
知りたくもなかった。

かばんをかけて、書斎へ入るとき、
振り返ると、ワイフは、どこかへ
電話をかけていた。

よかった……。

夜、床についてから、私は、ワイフに
こう言った。

「サイフを拾うたびに、いまだに迷う。
子どものころの、あの邪悪な小ズルサ、
それが、いまだに、ぼくの心の中で生きている。

ぼくが子どものころには、拾ったお金は、
そのまま自分のものになった。

ぼくはそういう時代に生きていた」と。

+++++++++++++++

 ほかのことでは迷わない私でも、どういうわけか、拾ったお金については、そうではな
い。迷う。私が子どものころには、終戦直後ということもあって、拾ったお金は、拾った
子どものものだった。当時は、そういう時代だった。

 モラルもルールも、なかった。親たちにしても、食べていくだけで、精一杯。家庭教育
の「か」の字もないような時代だった。

 だから今でも、迷う。「返そう」という自分と、「もらっちゃえ」という自分。その2人
が、自分の中で、はげしく対立する。一度、心にしみついた(汚れ)は、そう簡単には消
えない。昨夜もそうだった。

 で、ここに書いたように、今回は、処理は、ワイフに任せた。数年前にも一度、同じよ
うにコンビニの前で拾ったことがある。そのときは、コンビニの店員に届けた。しかし今
回は、自転車のかごに入れて、もち帰ってしまった。

 つまり、このあたりに、私の善人としての限界がある。が、限界といっても、このとこ
ろ、輪郭(りんかく)が、ぼやけてきた。以前は、コンクリートの壁のようだったが、今
は、木の柵のようになった。簡単に乗り越えられる。

 おかげで、今朝は、どこかすがすがしい。さわやかな気分。心の中で、掃除機をかけた
ような気分といってもよい。それに少しだが、自分に自信がついた。

 世の中には、こわいものはいくらでもある。子どもたちは、「お化け」「幽霊」というが、
それもそうかもしれない。

 しかしほんとうにこわいのは、自分自身である。自分自身の中に潜む、邪悪な自分であ
る。この邪悪な自分に毒されると、人生そのものを無駄にしてしまう。前にも書いたが、「今、
生きている」という、その一時(いっとき)一時の時間ほど、貴重な財産はない。その財
産を、無駄にしてしまう。

 その邪悪な自分と戦うためには、勇気がいる。どういうわけだか、勇気がいる。しかし
その勇気を実感したとき、それが今度は、喜びに変わる。ここに書いた、「自信」も、そこ
から生まれる。

 「よかった!」と思ったところで、この話は、おしまい。今日(8月31日)も、始ま
った。

 みなさん、おはようございます!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに……

 反動形成と仮面。
今日1日は、この2つをテーマに、いろいろ考えてみたい。
どうして人は(私は)、反動形成をするのか。
仮面をかぶるのか。

 では、今日は忙しいので、ここまで。
推敲しないまま、BLOGに原稿をアップする。
ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 反動形成 拾ったサイフ 邪悪な自分 邪悪な私 抑圧 心の別室)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
【ある老人】


●金指から伊目へ


 ときどき何のために生きているか、わからなくなる。
何のために生きてきたのかも、わからなくなる。
私の人生は、何だったのか、と。


 そのときもそうだった。
健康を考えての散歩だったが、ふとこう思った。
「どうしてこんなことをしているのだろう?」と。


 そのとき私は、浜名湖に沿って歩いていた。
細江(かなさし・浜名湖の北にある田舎町)から、
伊目(いめ・浜名湖沿いにある小さな村落)へ。
そこから内陸部に向かって、左に曲がる。
広い公道で、ゆったりと歩ける歩道が気持ちよかった。
ゆるい坂だった。


 山荘へ行ったとき、「帰りは歩いてみよう」と思い立った。
半端な距離ではない。
一度、正確に測ったことがある。
片道、27キロ。
その途中でのことだった。


少し前までは、秋になると、このあたり一帯、みかんの花が咲いた。
今は、みかん畑など、さがしても見つからない。
高齢化が進み、離農する人がふえた。


風は強く冷たかったが、体の熱気と打ち消しあい、寒くはなかった。
低い雲の間から、時折、白い太陽の光が、頬を照らした。


 私はその坂を、やや歩幅を狭くしながら歩いていた。
そのとき、そう考えた。
「どうしてこんなことをしているのだろう?」と。


●長い坂


 長い坂だった。
車だと、5分前後で登りきってしまう。
が、歩くと、結構、距離がある。
それまでの疲れが、足の裏に響いてきた。
歩くたびに、ツンツンと痛い。


 と、そのとき向こう側から、1人の老人が歩いてきた。
年齢は75歳前後か。
80歳を過ぎていたかもしれない。
体が左に傾いている。
2本の脚も、左右不ぞろいで、同じように左に傾いている。
歩くたびに、体が大きく揺れる。
ヒョコタン、ヒョコタン……。
そんな歩き方だった。


瞬間、何かの病気かと思った。
が、脳梗塞の人の歩き方とは、ちがっていた。
右手には、ポリ袋に入った食料らしきものを、ひとつもっていた。


 細い顔。
彫りの深いしわ。
色も浅黒く、目は、下を向いたままだった。
私はだまって、すれちがった。


●老人


 が、その瞬間、その老人が気になった。
気になって、立ち止まり、振り返った。
老人は、相変わらず、独特の歩き方で坂をくだっていった。
「あの歩き方では、さぞかし疲れるだろうな」と。
体のどこかに不自然な力が加わる。
それが体のどこかを傷(いた)める。
あるいはどこか痛いから、それをかばいながら歩いていたのか。


 が、意外と軽そうな足さばきだった。
不自然な歩き方だったが、リズミカルだった。
私は、じっとその後ろ姿を見ていた。


が、突然、その男性が止まった。
150メートルほど行ったところのことだった。
止まると同時に、体をくるりと回すと、私のほうを見た。
すばやい動きだった。
男の鋭い視線が、そのままズバリ、私の視線をとらえた。
視線をはずす余裕がなかった。
私はそのまま棒立ちになってしまった。


 不思議な光景だった。
その老人は、私の心を見透かしたかのようだった。
「ジロジロ見るな」と。
鋭い視線だった。
そんなふうに言っているようにも、見えた。


●元気


 時間にすれば、10秒とか20秒前後ではなかったか。
私たちは、たがいを見つめあった。
が、再びその老人が体をくるりと回し、また歩き始めた。
機械的な動きだった。
それを見届けて、私も体を回した。


「あんな老人でもがんばっている」と。
「あの老人と比べたら、私など、ただの小僧。まだがんばれる」とも。
そう思った瞬間、消えかけていた元気が、ポーッとまた燃え出した。
歩幅が大きくなった。


 「とにかく私たちは生きてきたし、今も生きている。これからも生きていくしかない」。
トルストイの書いた『戦争と平和』の一節を思い出した※。
理由など、ない。
目的もない。
夢や希望など、とっくの昔に消えた。
それでも生きていく。


●坂の上


 長い坂を上りきると、今度は道は大きく右へ曲がる。
あたりにはどこにもスーパーらしきものはない。
小さな店は1つ、2つあったが、食料品店とはちがう。
「あの老人は、どこで何を買ったのだろう?」と、そんなことを考えた。
酒だったのだろうか、それともタバコだったのだろうか。
袋の中のモノは、3〜4個程度だった。
 

 道はまだつづいていた。
長い道だった。
このあたりの人たちがよく使う幹線道路になっている。
数秒ごとに、乗用車が行き交った。
ときどき大型のダンプも通り抜けた。
そのたびに乾いたほこりが舞いあがった。


 相変わらず冬の冷たい風が吹いていた。
やがて私は東名高速道路のガードを抜けると、大きな四つ角へ出た。
右へ行けば、舘山寺温泉。
左へ行けば、浜松市内。
道路標識には、「市内まで10キロ」とあった。
「あと一息」と、私は自分に気合を入れた。


(注※) 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福にな
るピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひ
たすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)



Hiroshi Hayashi++++++Feb 2011++++++はやし浩司(林浩司)

●生きることは書くことbyはやし浩司

++++++++++++++++++

メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

今の私が、そうだ。

++++++++++++++++++

●大病の宣告

大病を宣告されたら、あなたはどうするか?
あるいは、だれかに大病を打ち明けられたときでもよい。
あなたは、どう応対するか?

参考になるのが、有名人。
有名人の中には、自らマスコミに向かって大病を告白する人がいる。
「私は乳ガンです」と。

反対に、死ぬまでまったく秘密にする人がいる。
有名人でなくても、自らの大病を告白する人もいる。
人、それぞれ。
それぞれの思いの中で、告白したり、秘密にしたりする。
大病を患った人には、患った人にしかわからない心理がある。
もしあなたが健康人なら、あるいは若いなら、そういう人たちのことを
とやかく言うのは許されない。
あなたの近親者についても、そうだ。
できることと言えば、相手の気持ちを思いやり、そっとしておいてやること。
仮にそういう噂を耳にしたとしても、こちらから聞き出すようなことをしてはいけない。
それが最善。

そこで「私なら・・・」と考えてみる。
実のところ、私は過去に数回、大病の疑いをかけられた経験がある。
そのつど、私のとった行動は、完全に秘密主義。
家族でも、ワイフだけにしか話さなかった。
話したところで、どうにもならない。
あの「死を前にした不安感」は、同時に隔離感をともなう。
裸で断崖絶壁に立たされたような、隔離感である。
あるいは巨大な鉄壁に囲まれたような隔離感。
あの隔離感だけは、どうしようもない。

●心のポケット

 先に、「大病を患った人には、患った人にしかわからない心理がある」と書いた。
それが「心のポケット」ということになる。
それがある人には、相手の心がよく理解できる。
それがない人には、理解できない。
そのポケットのない人に、いくら大病の話をしても意味はない。
心のポケットにない人は、まずこう考える。
「その人がいなくなったら、自分はどうなるか?」と。
まず自分の損得を優先させる。

 実のところ若いころの私がそうだった。
そのころの私は、死とは無縁の世界に住んでいた。
だからそう考えた。
つまり人の死ですら、自分にとっての「損得論」の中で処理した。
「この人がいなくなったら、自分はどうなるのだろう?」と。
このことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、よくわかる。
ほとんどの子どもたち(幼児、小学生)は、「老人は死ぬもの」と考えている。
「死んで当然」と。

 だからほとんどの子どもたちは、(特別なケースをのぞいて)、こう答える。
「悲しくなかった」と。
「おじいちゃん、おばあちゃんが死んだとき、悲しかったか」と聞いたときのことである。
子どもたちは、「老人は死ぬもの」という前提で、老人をみる。

 言い換えると、私が秘密主義なのは、ここに理由がある。
大病を告白して、それがどうだというのか。
何がどうなるというのか。
それが何かの役に立てばよい。
しかしそうでなければ、たいはんの人は、他人のことなら世間話としてすませてしまう。
みながみな、心のポケットをもっているわけではない。

●受諾

 私のような人間を、心気症という。
いつも死の影におびえ、ビクビクしている。
だからときどき、こう思う。
「そんなに私の命がほしければ、とっとと持って行け!」と。

 そのかわり、いつその「時」が来てもよいように、心の準備だけはしておく。
「準備」というか、「完全燃焼」。
とことん自分を燃やしつくし、あと腐れのないようにしておく。
わかりやすく言えば、悔いのない人生にしておく。
が、これがむずかしい。
むずかしいというより、できない。

 日々に決意し、日々に後悔する。
毎日が、この繰り返し。
が、どんなにがんばっても、死を避けることはできない。
キリストも、釈迦も、ムハンマドも、孔子も、みな、死んだ。
いわんや、あなたをや。
いわんや、私をや。

 つまり死はいつも、時間の問題。
が、こういうこともある。
数週間前、私ははげしい神経痛を覚え、床に倒れこんでしまったことがある。
そのとき不思議なことに、本当に不思議なことに、私は何もこわくなかった。
「ああ、これで死ねるのか」と。
そんなふうに考えた。

 心気症の私が、「ああ、これで死ねるのか」と。
私はその瞬間、死をすなおに、受け入れていた。
どうしてそういう心境になったのかは、わからない。
しかしそう考えた。

●猶予期間

 もっとも大病といっても、そこには猶予期間がある。
脳梗塞や心筋梗塞のような病気は別として、すぐ死ぬわけではない。
うまくいけば、6か月とか1年は生きられる。
その間に、何かができる。
(実際には、そんな甘いものではないが・・・。)

 それに6か月にしても、10年にしても、同じ。
同じ瞬時。
総じて言えば、60歳を過ぎたらみな、死の待合室に入る。
平均余命は80歳前後。
健康余命は、それから10年を引いた、70歳前後。
70歳を過ぎたら、病魔との闘い。
病気のない人はいない。
ダラダラとした闘いが、平均して10年、つづく。
だからときどきこう思う。

 「老人は、総じてみな、『老』という大病を患っている」と。
だから当然のことながら、加齢とともに、先に書いた心のポケットができる。
大病を患った人の気持ちが、よくわかる。
が、誤解しないでほしい。
私にしても、死ぬのがこわいのではない。
老人になるのが、こわいのではない。
こわいのは、そのプロセス。
苦痛と孤独。
それがこわい。

●これからの老後

 私はいろいろなことを書いてきた。
ありのままを書いてきた。
しかしこと「大病」ということになったら、恐らく何も書かないだろう。
書いたところで、何も役に立たない。
読む人にしても、気が重くなるだけ。
たいはんの人は、「ジーさん、バーさんは、死んで当然」と考える。
老人の死に際のグチなど、だれも聞きたくない。

 一方、死ぬ側の私にしても、人知れず、死にたい。
いつかどこかで、だれかがふと私のことを思い出す。
そしてこう思う。
「ああ、あのはやし(=私)は、死んでいたのか」と。
それでよい。
だからやはり、私なら、だれにも言わない。
秘密主義。
自信はないが、たぶん、秘密主義。

(補記)

 この肉体という乗り物は、もちろん私であって、私でない。
そのことは、自分の手のひらを見ただけでも、わかる。
私の意思で、手のひらが手のひらになったわけではない。

 が、私はその乗り物に乗っている。
ただふつうの乗り物とちがうところは、乗り物が壊れれば、「私」も死ぬと
いうこと。

 そこで「私」とは何か。
私論。
私にとって私とは、今、この見える世界、感ずる世界、その中心にいるのが、
私ということになる。
が、一歩、その私から離れてみる。
たとえばあなたなら、あなたでよい。
あなたから見た(はやし浩司)は、どうだろうか。
あなたは何を見て、(はやし浩司)という「私」を判断するだろうか。

 それが私のばあい、「文」ということになる。
「文で書かれた人間」、それが「私」ということになる。
つまり私が乗っている、この乗り物が動かなくなっても、今度は別の
乗り物に乗った(あなた)が、私を見る。
つまり「文」が残るかぎり、「私」は死なない。

平たく言えば、「私が乗っている乗り物」は、ただの乗り物。
壊れて動かなくなってしまったとしても、気にすることはない。
(気にすることも、ないだろうし・・・。)
言い換えると、私たちは乗り物が動かなくなるまでは生きている。
動かなくなれば、何もわからなくなる。
が、「私」は、ちゃんと残る。
「あなた」の中で、ちゃんと残る。

 いつだったか、私は新聞(中日新聞)のコラム(第110回、最終回)で、
「生きることは書くこと」と書いた。
その意味が、これでわかってもらえたと思う。

+++++++++++++++++

そのときの原稿です。

+++++++++++++++++

●生きることは、考えること

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新
聞を届けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、とき
どき、こんな意地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中か
ら引っ張ったらどうなるか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代
の子育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。

しかし新聞にものを書くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。
読者の顔が見えない。反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には
「こんなことを書いて!」と怒っている人だっているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果て
のない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でも
あった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくは
ないですが、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまっ
た!」と思うことが多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということ
は、「考える」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこま
でも歩いてみたい。そしてその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには
行きつけないかもしれない。しかしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された
時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事
があると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと
私は起きあがる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出てい
る朝は、そのまま読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころに
なると横の女房も目をさます。そしていつも決まってこう言う。

「載ってる?」と。その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読
みくださり、ありがとうございました。」 

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 中日新聞コラム 生きることは書くこと 大病の宣告)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●心気症(2008年3月記)

●心気症

++++++++++++++++++

ささいな病気を、ことさら大げさに
考えて、心配する。不安になる。

「もしや……?!」と思って、悩む。

そういうのを「心気症」という。

何を隠そう、私がその心気症なのだア!

++++++++++++++++++

 病気でもないのに、自分の心身のささいな変調にこだわり、苦痛を訴える症状を、心気
症という(「心理学用語辞典」・かんき出版)。

 つまりささいな病状を、ことさら大げさに考えて、あたふたと心配する。「もしや…
…!?」と思うこともある。つまり「がんではないか?」と。そういう症状を、心気症と
いう。

 「心気症」という用語があるほどだから、かなり一般的な症状と考えてよい。不安神経
症、あるいは強迫神経症の仲間と考えてよい。とくに病気と結びついた不安神経症、ある
いは強迫神経症を、「心気症」という。

 程度の差もあるのだろうが、何を隠そう、私が、その心気症なのだ。実は、数日前もあ
った!

 夜中に目が覚めると、のどが乾いたようになって、痛い。が、よく観察してみると、右
側の奥歯が痛い。ズーンとした痛み。その痛みが、のどから、上の歯のほうまで、響く。

 その奥歯は、治療して、金冠がかぶせてあるはず。指を口の中に入れて、その歯をさわ
ってみる。が、さわった感じでは、どうということはない。もっと奥のほうから痛みが骨
のほうに伝わっている。そんな感じがする。

 「風邪で、歯が痛むというようなことはあるだろうか?」と、最初は、そう考えた。し
かしそんなことはありえない。

 夜、ふとんの中で、暗い天井を見あげながら、いろいろ考える。考えては、それを打ち
消す。「しかし……。もしや……?」と。

 数年前に、脳腫瘍で死んだ、友人のことを思い浮かべる。その彼は、こう言っていた。
私が、「ぼくも、よく頭痛に悩むよ」と言うと、「林、何を、バカなことを言っているんだ!
あのな、脳腫瘍の痛さは、想像もつかん痛さだよ」と。

 どんな痛さだろうと考えながら、口の中から伝わってくる痛さに、静かに耐える。眠れ
ないほどの痛さということでもないが、しかし安眠できるような状態でもない。

 「しかし、初期症状というのもあるだろう。初期症状のときは、それほど、痛くないの
かもしれない。だんだんと痛くなって、やがて耐えきれなくなる……」「このまま、痛みが
どんどんひどくなったら、どうしよう?」と。

 横を見ると、ワイフが軽い寝息をたてていた。起こすのも悪いと思って、じっとそのま
まにしている。10分、20分……。と、そのとき、ワイフの寝息が止まった。モゾモゾ
と体を動かした。すかさず、話しかけた。

 「なあ、風邪みたいだよ……」
 「風邪……?」
 「なあ、歯が痛いよ……」
 「薬をのんだら……?」
 「うん……」と。 

 私は起きあがって、台所へ行くと、バナナとジュースをお湯に溶かしたものをもってき
た。枕元にはいつも、薬が一式、置いてある。湿布薬に頭痛薬、睡眠薬に精神安定剤、そ
のほかもろもろの漢方薬にハーブなどなど。もちろん風邪薬も置いてある。

 「どれにしようか?」
 「風邪薬にしたら?」
 「でも、歯が痛い……」
 「だったら、バッファリンがいいんじゃない?」
 「うん、……ノーシンではだめだろうか?」
 「じゃあ、それにしたら」
 「うん」と。

 私はバナナを食べながら、ジュースを飲んだ。時計を見ると、午前4時を少し回ったと
ころ。時計を見ながら、粉薬を口に入れた。

 「なあ、がんじゃないだろうか?」
 「どうしてがんなの?」
 「骨の奥が痛い……」
 「どんなふうに?」
 「ズーン、ズーンと痛い」
 「きっと虫歯よ」
 「だって、ちゃんと治療したところだよ」
 「金冠の中で、虫歯になることだってあるわよ」
 「そうかなあ……?」と。

 この世界には、骨まで腐るという、恐ろしいがんもあるそうだ。詳しい病名は知らない
が、昔、そんな病気になった女性の映画を見たことがある。私はそれかもしれないと思っ
た。思いながら、「ああ、これでぼくも死ぬ……」と思った。

 「このまま死んだら、どうしよう?」
 「死なないわよ」
 「どうして?」
 「バカねえ、虫歯で死んだ人の話なんか、聞いたことないわよ」
 「虫歯かねえ……?」
 「虫歯よ。ハーッて息を吐いてみたら」
 (ハーッ)
 「……おかしいわね、虫歯臭くないわよ」
 「だろ、虫歯じゃあ、ないよ」と。

 不安で、心臓がドキドキするのがわかった。いやな気分だ。ただほかに風邪の症状もあ
ったので、それに希望をつないだ。「風邪だ、風邪だ。これは風邪による症状だ」と。しか
し風邪で歯が痛くなったという話は、聞いたことがない。そう考えたとたん、また不安に
なった。

 で、その朝は結局、そのまま起きた。ふだんならそのまま書斎に入って原稿を書くのだ
が、そんな気は起きなかった。「まだ、やりたいことはあるのに……」「まだ、58歳じゃ、
ないか」「がんとわかっても、ぼくは治療しない。そのままオーストラリアへ行く」などと、
あれこれ考える。

 が、しばらく体を起こしていると、痛みがやわらいできた。薬がきいてきた。

 こういうとき、私のような心気症の人間は、頭の中で、2人の人間が戦うような状態に
なる。ボクシングで言えば、デス・マッチのようなもの。どちらか一方が死ぬまで、戦う。

 「風邪だ、虫歯だ! お前は、バカだ。いつもの取り越し苦労だ!」
 「何だと! 油断していると、命取りになるぞ。これはがんだ。がんの初期症状だ!」
 「前にも、似たような痛みがあったではないか。虫歯の治療のときを思い出してみろ!」
 「あったかもしれないが、その歯は、たしか神経を抜いているはず」と。

 「何でもない!」という私。「がんだ」という私。そういう2人の私が交互に現れては、
消える。おまけにのども、痛い。のどの奥に痰がからんでいる感じ。何度も、うがいを繰
りかえす。

 これは生への執着によるものか、それとも死がもたらす絶望感との戦いによるものなの
か。……わけがわからない状態で、朝を迎え、その日が始まった。

 「どう、具合は?」と、のんきな様子で、ワイフが起きてきた。「起きたら、痛みが収ま
ってきた」と私。「でしょ、心配ないわよ」とワイフ。

 そのときになって、恐る恐る、手鏡をもってきて、口の中をのぞく。「もし、大きな病変
でもあったら……」と、不安になる。心臓の鼓動が高まる。が、押しても引いても、歯は
ビクとも動かない。(動くはずもないが……。)とくに変わった様子もない。

 歯間ブラシを歯と歯の間に入れてみる。「がんなら、出血があるはずだ」と。以前、どこ
かの病院で、ドクターがそう言っていたのを思い出していた。「がんだとね、組織が破壊さ
れますから、出血があるはずです」と。

 しかし出血はなかった、が、よく見ると、金冠の下、つまり歯ぐきと、金冠の間のすき
間に、小さな薄茶色の穴が見えるではないか! 虫歯! そうだ、虫歯! 歯の側面から、
虫歯になっていた!

 とたん、安堵感で、胸のつまりが消えた。「ナーンダ、虫歯だア!!」と。

 「虫歯だよ、これは!」
 「でしょ、だったら、歯医者へ行ってきたら?」
 「うん、そうだな。風邪の様子をみてから行くよ」
 「そうね」と。

 で、その日は、歯医者へ行かなかった。昨日も、行かなかった。で、そのまま今日にな
った。時計は、午前8時、少し前。あれからも、ずっと、ズーン、ズーンとした痛みが、
ときおり、つづいている。これから行きつけの歯医者に電話をして、そこへ行くつもり。

 しかし心気症というのは、いやなもの。いつも早合点と、取り越し苦労。この繰りかえ
し。ときどきこう思う。「死神よ、そんなにぼくをいじめるなら、さっさと殺しに来い!」
と。

 が、ひとつだけ、変化がある。若いころとくらべると、「死」への恐怖感が、変わってき
たということ。若いころは、一度心気症になると、居ても立ってもおられなかったが、つ
まりそのままあわてて病院へ駆けこんだものだが、今は、ちがう。

 「勝手にしろ」という、どこか投げやりな気持ちも生まれてきた。「まあ、今まで健康に
生きてこられたのだから、文句はないだろう」と、自分をなぐさめる気持ちも生まれてき
た。多少、「死」への覚悟もできてきたということか。

 そして今。私は、改めて健康で生きている自分が、うれしい。「今日こそは、悔いのない
人生を、思う存分生きてみる」と、そんな思いさえわいてくる。心気症というのは、悪い
ばかりではないようだ。
(はやし浩司 心気症 不安神経症 強迫神経症)

【追記】

 やはり虫歯だった。金冠の中の詰め物が、欠けていたという。そこから虫歯が進んだら
しい。

 で、その治療中、正確には、麻酔をかけられ、歯科助手の若い女性が、歯の間の歯石を
取ってくれている間、不思議な経験をした。

 それはうっとりとするほど、気持ちのよいひとときだった。カリコリ、カリコリと、歯
石を削る音がする。そのたびに、その女性の胸が、頭に触れる。強いライトが、春の陽気
を思わせる。縁側で日なたぼっこをしているような気分にさせる。

 そのときだ。私の目の中に、女性のS器が、超リアルに浮かんできた。最初は、まぶた
の模様が、強いライトで、そう見えたのかと思った。しかしそのうち、それがより鮮明に
なってきた。たしかに女性のS器だった。何度も確かめたが、女性のS器だった。

 いつものような卑猥(ひわい)感は、まったく、なかった。もちろん美しいとか、美し
くないとか、そういう感じもなかった。ただどういうわけか、女性のS器が、至近距離で、
超リアルに見えてきた。どうリアルだったかということについては、ここには書けないが、
ともかくも、リアルだった。

 あるいはひょっとしたら、胎児のころの記憶が、麻酔の作用で、呼び起こされたのかも
しれない。……しかし、胎児はまだ目が見えないはず。

 麻酔のせいだろうか? それとも私に頭にときおり触れる女性の胸のせいだろうか? 
それとも強いライトのせいだろうか? 私は、半分、夢を見ていたのかもしれない。とも
かくも、それは不思議な経験だった。

 あとでそのことをワイフに話すと、ワイフも、「きっと麻酔のせいよ」と言った。そして
こう言った。「あなた、そんなことマガジンに書いてはだめよ」と。

 「しかしね、これは不思議な経験だ。だれかが書きとめておかないといけない。きっと、
同じような経験をしている人は、多いはずだよ」
 「でも、へんね。どうしてそんなものが見えたのかしら?」
 「女性だとね、きっと、ペニスか何か、そんなものが見えてくるのかもしれないね」
 「そんなこと、ないわよ。絶対に!」と。

 春は近い。そのあと家に帰ると、強い睡魔に襲われた。それはまちがいなく、かけられ
た麻酔のせいだと思う。コタツに入ると、そのままウトウトと眠ってしまった。

【補記】

●強迫神経症(こだわり)

 何かのことで不安になると、その不安が、ペッタリと頭にくついてしまう。そしてその
不安を消すために、(そんなことでは決して消せないのだが)、何か儀式的な行為を何度も
何度も繰りかえすようになる。

 子どものよく見られる、手洗いぐせ(潔癖症)も、そのひとつ。「手にばい菌がついた」
「手のばい菌が、取れない」などと言って、手を洗ってばかりいる。トイレから帰ってき
た父親に対して、「パパは、きたないからさわらないで!」と泣き叫んだ子ども(年長女児)
もいた。その子どもは、手の皮膚が破れるほどまでに、暇さえあれば、繰りかえし、石鹸
をつけて手を洗っていた。

 こうした症状を、強迫神経症という。心理学の本などによると、不安神経症のひとつに
位置づけられている。大きなちがいは、何かの儀式的行為をともなうこと。宗教の世界で
も、同じようなことを経験する。

 ある女性は、毎日3〜5時間、仏壇の前に座って、念仏を唱えていた。また別の女性は、
同じように、目をさましているときは、手に数珠を握って、それを指先でクルクルと、何
やら呪文のようなものを唱えながら、回していた。そうすることによって、不安を紛らわ
しているというよりは、そういう行為そのものが、やめられないといったふうであった。
念仏を唱えていた女性は、「やめると、バチがあたって、地獄へ落ちる」と本気で信じてい
た。

 こうした症状を示す子どもの特徴としては、何かのものやことに対して、(こだわり)を
もつこと。その(こだわり)の内容は、そのときどきによって、変化することもある。母
親が、ベッドの位置をほんの少し動かしただけで、「精神状態がおかしくなってしまった」
(母親談)子ども(中学男子)もいた。

 この先のことはよくわからないが、今では、(こだわり)を和らげるための、新しい薬も
開発されているとのこと。症状があまりひどいようであれば、一度、心療内科か精神科の
ドクターに相談してみるとよい。
(はやし浩司 手洗い癖 潔癖症 強迫神経症 不安神経症 こだわり はやし浩司 子
供のこだわり)


Hiroshi Hayashi++++++Feb 2011++++++はやし浩司(林浩司)

●情愛論(心の暖かい人vs冷たい人)

++++++++++++++++++

基本的には、子どもの(=人の)の情愛は、
母親によって、乳幼児期に作られる。
この時期、母親の暖かい情愛に恵まれた
子ども(=人)は、暖かい情愛をもつ。
そうでなければ、そうでない。

++++++++++++++++++

●心の暖かい人vs冷たい人

 情愛の深さは、相対的なもの。
情愛の深い人には、心の冷たい人がよくわかる。
が、心の冷たい人からは、情愛の深い人が、わからない。
お人好しか、ばあいによっては、ただのバカに見える。

 その情愛の深さは、共鳴性によって決まる。
相手の悲しみや苦しみ、さみしさやつらさを、より深く共鳴できる人を、情愛の深い
人という。
が、これには個人差がある。
程度の差もある。
幅のちがいもある。

 その情愛は、母親によって、乳幼児期に作られる。

●8%!

 前もって誤解がないようにしておきたい。
「母性愛」という言葉がある。
本能に根ざした「愛」と考えている人は多い。
しかし実際の調査によると、約8%の母親(私の調査では10%の母親)は、
自分の子どもを愛することができず、人知れず、悩んでいる。
10人に1人!

母親だから……という、『ダカラ論』ほど、アテにならないものはない。
またそういうものを、頭から肯定し、すべての女性に押しつけてはいけない。
みながみな、母性愛があるわけではない。
押しつければ押しつけるほど、その女性を苦しめることになる。
「母親だから、子どもを愛しているハズ」という『ハズ論』も、同じように考える。

 それはともかくも、そういう母親をもった子ども(人)は、不幸である。
日常的に愛情飢餓の状態に置かれる。

●愛情飢餓

 が、愛情飢餓は、母親自身の愛情の欠損だけによって起こるものではない。
離婚、家庭不和、騒動、母親との死別などなど、「母性愛不在」の状態がつづくと起こる。
愛情飢餓が慢性的につづくと、子どもは飢餓感から、じゅうぶんな情操を築けなくなる。

 言うまでもなく、健全な母子関係は、(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)が
基本となって育つ。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
子どもの側からみると、「どんなことをしてもいい」という安心感。
親の側からみると、「どんなことをしても許す」という寛大さ。
この両者が基盤にあって、基本的信頼関係が結ばれ、それが子どもの豊かな心作りに
つながっていく。

●ぬいぐるみ

 私がそれに最初に気づいたのは、教室の入り口に大きなクマのぬいぐるみを置いた
ときのこと。
もう20年近くも前のことだった。
子どもによって、その反応が2分されるのを知った。

 たいはんの子ども(幼児)は、ぬいぐるみを見ると、「かわいい」と言い、抱いたり、頬ずりした
りする。
が、中には、ぬいぐるみを見ても、反応しなかったり、さらに中には、足でキックする
子どももいる。
その割合は、8対2。
つまり10人のうち、8人くらいが、好意的な反応を示し、2人くらいが拒絶的な反応
を示す。

 この現象だけをもって、情愛の深さをしることはできない。
しかしひとつの目安にはなる。

●私はどうか

 この問題は、即、私たち自身の心の問題と直結する。
つまり私(あなた)自身はどうか?
私(あなた)自身は、情愛の深い人だろうか。
それとも心の冷たい人だろうか。

 が、ここでまた別の問題にぶつかる。
これは脳の中でも、CPU(中央演算装置)の問題。
情愛の深い人にしても、またそうでない人にしても、それを客観的に知ることはできない。
自分がそうであるため、自分を基準にして考える。
自分がそうであるから、人もみな、そうであると考える。
またよほどのきっかけがないかぎり、自分がそうであることに気づかない。

●A氏の妻

 少し前、妻と離婚した知人のA氏(55歳)が、こんな話をしてくれた。
離婚のきっかけは、人間ドックを受けたときのことだったという。
肝臓に影が見つかり、がんの疑いがかけられた。
そのあとA氏は、放心状態になり、家に帰るまで涙が止まらなかったという。

 で、その夜は、なんとかやり過ごしたが、翌日の夜、絶望的な孤独感が襲った。
そこでその夜だけでもと思い、妻のベッドにもぐりこもうとした。
「助けてほしい」と。
声にもならないような声だった。
が、それに答えて、妻が、「もう寝てるんだから、静かにしてよ! 私に
何ができるのよ!」と。

 A氏はその夜は別の部屋で寝た。
はげしい孤独感を闘いながら、朝まで眠られなかった。
と、同時に、妻との離婚を決意した。

 心の冷たい人というのは、A氏の妻のような人をいう。

●受験戦争で壊れる心

 一般論として、はげしい受験戦争を経験した子ども(人)ほど、心が冷たい。
たった1か月程度、進学塾の模擬特訓を受けただけで、別人のようになってしまう。
そんな子どもも、珍しくない。
(これは本当だぞ! おおげさに書いているのではないぞ!)

当然のことながら、年少であればあるほど、影響は大きい。
親は、「勉強に対する心構えができました」と喜んでみせる。
しかし壊れた心には、気づかない。

 皮肉なことに、親自身もはげしい受験競争を経験している。
暖かい情愛を、こなごなに破壊されている。
だから自分の子どもの情愛がこなごなに破壊されても、それに気づかない。

 結果、「親の恩も遺産次第」と。
実際、そういう子どもは、多い。
そのひとつの例として、韓国や日本など、受験競争のはげしい国の子どもほど、
「将来、親のめんどうをみる」と答える子どもが少ない。
もう一度、内閣府のした調査結果をよくみてほしい。

++++++++++++++++++++


●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国    35.2%、
日本    28.3%


++++++++++++++++

 すべてが受験競争が原因とは言っていない。
ほかにもいろいろ考えられる。
しかし受験競争が原因でないとは、もっと言えない。
受験競争といっても、韓国や日本では、すでに何世代にも渡って、つづいている。
それが親から子へと連鎖し、それがこうした結果となって表れている。

●子どものほうから縁を切る?

 最近多いのが、子どものほうから縁を切るケース。
その直前まで、親から金を借り放題だった子どもが、社会人となり、結婚したとたん
縁を切る。
理由など、何でもよい。
しかもたった一枚の手紙。
それにはこうある。

 「今後、いっさい、連絡をしてくるな。
私(ぼく)と連絡を取りたかったら、直接ではなく、XさんやYさんを通してしてほしい」
「これが私(ぼく)のこの30年間の結論だ」と。

 つまり子どもの側が、親に向かって、「連絡は、XさんやYさんを介してしろ」と。
自分では、どこかの社長にでもなったようなつもりでいる。
が、先にも書いたように、今、こういう子どもがふえている。

 氷のように冷たい心。
が、その冷たさもわからない。
あるいは自分では、それなりに心の暖かい、やさしい人間と思っているのかもしれない。
脳のCPUが狂っているため、自分ではそれがわからない。
わからないほどまで、心がこなごなに破壊されている。

●子どもの心を育て、守る

 ではどうするか?
もう改めてここに書くまでもない。
そのカギを握るのが、母親ということになる。
で、子どもの心は、それでできる。
あとは、それを壊さないようにする。
一度壊れた心は、二度と修復されることはない。
そう断言してよいほど、子どもには、決定的な影響を与える。
それがそのままその子どもの心として、定着する。

 最近、こんな話を聞いた。

 知人のAさんが、実の母親を介護するようになって、数日目のこと。
どこでどう情報を得たのかはしらない。
すかさず、イトコのX(女性)から、1000円にもならない菓子を送ってきたという。
それ以前から、AさんはXが、Aさんの家庭をあれこれと詮索し、うわさ話の具に
していたことは、よく知っていた。

 が、一応、「礼」はしなくてはならない。
が、Aさんにしてみれば、Xの意図は見え見え。
Aさんと家族との確執については、よく知っていたはず。
で、電話を入れると、いきなり「どう?」と。

 つまり「どんな具合か?」と。

A「いったい、これはどういうつもりですか?」
X「(あなたの)お母さんには世話になったから」と。

 心の壊れた人というのは、そういうことが平気でできる。
他人の家の不幸をのぞいては、それを楽しむ。
楽しみながら、それができる。
Xは、昔からそういう女性だったそうだが、60歳を過ぎてもそれができるところが
恐ろしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の冷たい人 壊れた人 情愛 情愛論 心の暖かい人)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●崖に立たされた日本経済(2011年2月12日記)


+++++++++++++++++


「サドン・デス」という言葉がある。
スポーツの世界での言葉である。
映画にも、そういう題名のがあった。
つまり「突然死」。

日本の国家経済が破綻するとき。
それは突然、やってくる。
つまりサドン・デス。
過去の歴史の中でも、じわじわと
国家破綻した例は、一度もない。
ワーッと始まり、ワーッと終局を迎える。
それが国家破綻(=債務超過)。
「デフォルト」。


+++++++++++++++++

●日経新聞より

 まず、日本経済新聞を並べて読んでみる。(2月12日)

+++++++++++以下、日経新聞より+++++++++++


●公的債務残高


 公的債務残高の国内総生産(GDP)比率は200%超と、主要国の中では突出して高い。
S&Pはこの比率が20年半ばまで悪化し続けると予想。国と地方の基礎的財政収支を20
年度に黒字化するとの政府目標は「大規模な財政再建策が実施されない限り、達成できな
い」と分析した。

 財務省の試算によると、長期金利(新発10年物国債利回り)が1%上昇した場合、利払
い費を含む国債費は12年度に1兆円、13年度に2.5兆円、14年度に4.2兆円それぞれ増
える。

 野田佳彦財務相は格下げ発表を受け「節目、節目で財政規律を守るメッセージを出して
いくことが重要だ」と語った。(日経・1・27・2011)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●ガラガラポン


 「ずるずると債務残高が積み上がり、マクロ経済もパッとしないとなると、もう一回(格
下げを)検討せざるを得ないリスクはある。上にいくシナリオは、何らかの形で税制や年
金制度改革で政治的な妥協が図られる場合だ。日本の社会保障制度は高度成長や人口増を
前提にしたモデル。このあたりでガラガラポン(大改革)すべきだ」(日経新聞・1・30・
2011)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●217%


 「日本の公的債務残高が先進国の歴史上、最悪の水準に迫りつつあることが分かった。
国際通貨基金(IMF)によると、地方も含む一般政府の債務残高は2009年に名目
国内総生産(GDP)の217%に達し、統計で確認できる1875年以降で最悪となった。
このまま債務が増え続けると、5年程度で第2次世界大戦直後の英国を抜き、先進国史上、
最も悪い状況に陥る可能性がある」(日経新聞・2・12・2011)


+++++++++++以上、日経新聞より+++++++++++

●国家破綻

 では、いつか。
いつ日本は、破綻を迎えるか。

(1)日本政府が、予算を組めなくなったとき。
(2)国債の買い手が、つかなくなったとき。

 その時期は、この4月期と10月期と言われている。
が、その不安が市場を襲ったとき、国家破綻は、一気に起こる。
何度も書くが、日本の国家破綻は、可能性の問題ではなく、時間の問題。
確実にやってくる。

 が、救済方法がないわけではない。

(1)大増税
(2)社会保障費の大幅削減

 しかしどちらも、今の政局を見るかぎり、実現困難。
大増税をすれば、……たとえば消費税を20〜50%にするとか……、そうでなくても
目下、この日本は大不況下。
経済活動は、さらに萎縮する。

 社会保障費にしても、年金の一元化すら、ままならない。
足や腰の曲がった老人が、3か月ごとに100万円の札束を手にする一方、我々のように、
63歳になった今も、1円も手にできない人も多い。
65歳からもらっても、月額6万4000円足らず!

 こういう不公平を野放しにし、何が行政改革だ!……ということになる。

 今、この日本に必要なのは、強力な内閣。
超強力な内閣。
官僚たちの不満や抵抗を、吹っ飛ばすほど力のある内閣。
しかし現状は、?????。
訳のわからない内部紛争に明け暮れている。

●札が紙くずに

 皮肉なことに、破綻するなら破綻するで、1日も早いほうがよい。
自己破産に似ている。
1日延ばしを繰り返すたびに、借金は、雪だるま式にふえていく。
そのツケは、結局は、役人をのぞく、国民にのしかかってくる。

 国債が信用力を失えば、それを大量にかかえている銀行、証券会社は、倒産する。
銀行や証券会社が倒産すれば、会社が倒産する。
(役所は倒産しない!)
人々は失業者となって、街にあふれる。
(役人は失業者にはならない!)
 株価は暴落し、ハイパーインフレが始まる。
(役人の給料だけは、物価スライド制によって、増額される。)

円は暴落し、90%以上を輸入に頼っている食料品が値上がりする。
わかりやすく言えば、「札」が紙くずと化す。
一説によると、1ドルは1000円近くまで暴落するという(某経済評論家)。
当然、原油も、現在より、12倍高騰する。
現在リッター140円前後(レギュラー)だから、単純に計算しても、
6倍の約1000円になる。
(ガソリンのばあい、約50%が税金。)

 それが起こるのは来週かもしれない。
しかし2年後ということはない。
「この1〜2年以内」ということは確実。
今のままでは、もう救いようがない。

が、私のようなド素人でも、この程度のことがわかるようになった。
そういうときが、あぶない。
日本の経済は、この3月を乗り切ることはできないのではないか。
私はそう心配している。

●現物資産

 この道に詳しい友人に電話をかけてみた。
その結果、「土地、金、資源」を「現物資産」というらしい。
しかし土地については、逆に暴落する可能性もあるとか。
加えてこの日本では、すでに投資として、土地を買う人はいない。
「20年分の税金と、土地の価格は同じ」(友人談)と。
つまり20年間、土地を保有していると、土地の価格と、それに支払う税金額は同じ
になる、と。

また売れば100%、税務署に把握される。
20%〜40%の所得税が課せられる。
遺産相続も楽ではない。
週刊誌情報によれば、相続税を80%にするという案も出ているとか。

また資源といっても、庭に、鉄くずを積むわけにもいかない。
そうなるとやはり「金(ゴールド)」ということになる。

 しかしこのところ、金の売買も、うるさくなってきた。
どううるさいかは、実際、自分で金の売買をしてみればわかる。
身分証明書だの、印鑑だの、そういう手続きをしないと、売買できなくなってきた。
それに常識で考えても、あんな小さな金塊が、1キロ400万円弱というのは、
おかしい。
どう考えても、おかしい。
1キロバーで、ふつうの小型車だったら、2台も買える!

 いちばんよい方法は、現在タンス預金をしている人たちが、イチ・ニのサンで、
いっせいに約半分を浪費すること。
市中に放出すること。
それで市場が活性化する。
しかしこの方法には、現実性がない。

●国家破綻
 
 みなが「あぶない」と思ったときが、あぶない。
けっして私がそれを助長しているわけではない。
しかしあぶない。

 ……ということで、現在、金(プラチナ)価格は、不気味な上昇をしつづけている。
10年ほど前には、一時、グラム1000円になったこともある。
それが今は、4000円弱。
とても手が出る価格ではない。
ないが、それでも上昇をしつづけている。

 かといって、私たちの資産は、私たち自身で守るしかない。
そこで自分なりに、いろいろと考えてみる。

(1)銀行などに預けておく現金は、必要最小限にする。
   かならず1000万円以下にしておくこと。
(2)証券会社に預けておく現金(MMFなど)も、必要最小限にする。
(3)ネット証券はどうか? ……私にはよくわからない。
   わからないから、私なら手を引く。
   倒産したとき、そのあとがめんどう。
   会社の所在地すら、はっきりしていない。
(4)売り先が確実ならよいが、そうでないなら、今は、土地に手を出してはいけない。
(5)貴金属の売買については、信用のある店でする。
   町中にある「貴金属買います」という店だと、高く売りつけられるか、安く買い
   叩かれる。
   店によっては、「鑑定料?」という料金を5〜20%も取られる。

 いろいろ考えるが、以上は私というド素人の意見。
あとはみなさんご自身の判断を加味して、利用してほしい。
「はやしって、バカなこと書いている」と思ってもらってもよい。
(しかし私は、あのリーマンショックを、ほぼ1年前に予測していたぞ!)

ともかくも、今や日本経済は、存続のがけっぷちに立たされている。
その危機感だけは、しっかりともったほうがよい。
2011/02/12記


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●借りた10円(生涯において2度目の借金)

今夜、山荘へ来る途中、
近くのKR派出所に寄った。
数日前、散歩の途中、そこで電話を借りた。
そのとき「あとで電話代をもって
きますから」と約束した。
一方的な約束だった。
しかし私には、生涯において、
2度目の借金。
私は子どものころから、人にモノを
借りるのがいやだった。
・・・というか、借りたことがない。
「借りるのが、いやな性分(しょうぶん)」。
私が生まれ育った地方では、「性分」という
言葉を使った。
そういう性分だった。

10円玉を袋に入れ、私の書いた本を
一冊、添えた。
で、派出所の中へ。
時刻は午後8時半を過ぎていた。
だれもいなかった。
入り口のデスクの上に、「御用の方は、
電話してほしい」とあった。
私は受話器をあげた。
とたん、「本署です」という声が返ってきた。

「あのう、たいしたことじゃないんですが、
先日、電話を借りたので、10円、返しに
来ました」と。
すると電話の警察官は、こう言った。
「すぐ署員を回しますから」と。

私「わざわざ回していただかなくても、
お金はデスクの上に置いておきますから」
署「それが困るんです。金額の問題では
ないのです」
私「・・・? どういうことですか?」
署「だから金額の問題ではないのです。
そういうことをしてもらっては、困るんです。
すぐ署員を回しますから、そこで待って
いてください」
私「・・・ハア・・・」と。

 私は受話器を置いて、外に出た。
車に乗った。
ワイフが「どうだったの?」と。
「それがね、おおげさなことになってしまってね。
お巡りさんが戻ってくるまで、待っていろと、
そういうことになってしまった」と。

 しばらく私たちは、車の中で待った。
10分、20分、30分・・・。
かなりの時間、車の中で過ごした。
「時間を無駄にした」と、何度か思った。
するとそのとき小型のパトカーがやってきた。
ワイフが「あれよ」と言った。
その言葉が終わらないうちに、私は外に出た。

 パトカーの中には、3人の警察官がいた。
私は思わず、敬礼してしまった。
「おおげさなことになってすみません。
実は、先日、電話を借りたので、10円
返しに来ました」と。
警察官は、「遅くなってすみません」と。
何度も頭をさげた。
さげながら、いちばん年配格の警察官が、
困った表情をしてみせた。
「困るんですねえ。そういうことは・・・。
どう処理していいか・・・困るんですよ」と。

私「電話代ですが・・・」
警「それがね、たとえ10円でも、処理のしようがないのです」
私「そうですかア・・・?」
警「電話代はいいですよ」
私「そうですかア・・・」と。

そのとき1人の警察官が、私のことを
思い出した。
「ああ、あのときの人ですね」と。

 私はそのとき27キロの道を歩くつもりでいた。
しかしKR交番あたりまで来たとき、こむら返しが
起きてしまった。
家まで、あと2、3キロというところだった。
それでワイフに電話した。

私「そうです。引佐町(いなさちょう・浜松市の
北区)から歩いてきた者です」
警「よかったんですよ、電話代は」
私「そういうわけにはいきません」と。

 3人の警察官は、それぞれに「どうしようか」
というような表情をしてみせた。 
私は、警察官の気持ちが理解できた。
「じゃあ、お言葉に甘えて、10円は
もらったことにします。
そのかわり私が書いた本を置いておきますので、
よかったら読んでください」と。

 私は何か、悪いことをしたような気分になった。
あいさつをすますと、そそくさと、その場を離れた。

 私は10円玉を返すつもりだけだった。
簡単にお金を返せば、それですむと考えていた。
が、警察署には、警察署の内部規約のようなものが
あるらしい。
電話に出た本署の警察官の言葉が、頭の中を横切った。
「金額の問題ではないのです」と。

10円でも、1億円でも、現金を受け取ること自体、
許されない。
どうもそういうことらしい。

車が走り出すと、私はワイフにこう言った。
「だまって置いてくればよかった」と。

 しかし私には、生涯において、2度目の借金。
一度は、同じように、勤め先の幼稚園で借りた。
そのときも電話代の10円だった。
翌日、菓子箱を添えて、10円を返しに行った。
相手は驚いたが、私には、許せない10円だった。
少なくとも学生時代から、はじめての経験だった。
10円でも、100万円でも、同じ。
金額の問題ではない。
他人にお金を借りたのは、そのときが、最初だった。
また最後にするつもりだった。

私「ぼくにとっては、2度目の借金だった」
ワ「そうねエ」
私「2度とお金を借りるつもりはなかった。
が、借りてしまった」と。

 しばらく走ると、小さいが後悔の念が
心の隅から出てきた。
「返しに行かなかったほうがよかったかな」と。
私の小さな行為が、3人の警察官を
呼び戻してしまった。
パトカーによる夜回りを、中断させてしまった。
何か悪いことをしたような気分になった。

 で、そのあとのこと。
つまり電話をしたあとのこと。
しばらく休んでいると、また歩けるようになった。
で、KB交番から、1キロほど歩いたところで、
ワイフが待っていてくれた。
留守番電話の声を聞いてくれた。
しかし交番でお金を借りた話は、しなかった。

ワ「よく歩いたわね・・・」
私「3時間半くらいかな」と。

 
Hiroshi Hayashi++++++Feb 2011++++++はやし浩司(林浩司)
 
●映画『ウォール・ストリート』(カーク・ダグラス主演)

++++++++++++++++

昨日は土曜日ということで、午後になって
映画館で映画を観てきた。
『ウォール・ストリート』。
カーク・ダグラス主演。
星は2つか3つの、★★。

あまりおもしろくなかった。
・・・というか、よくわからなかった。
字幕の翻訳がよくなかった。
英語のほうでは、ちゃんと主語を入れて
話している。
が、字幕のほうでは、だれがそう言ったか。
それが、よくわからない。
そんな初歩的な稚拙さが目立った。

それにあの映画を理解するためには、
かなりの経済知識が必要。
「レバレッジ」を「てこ入れ」と訳していた。
レバレッジは、レバレッジのままでいいのではないか。
が、それ以上に、私はあの映画を観ていて、
大きな疑問を覚えた。

20代後半の若者が、1億ドル単位のマネーを、
ゲーム感覚で動かす。
その異常さに、どうしてもついていけなかった。

++++++++++++++++

●狂った世界

 まだギャング映画のほうが、わかりやすい。
善玉、悪玉がはっきりしている。
そのギャング映画と、それほどちがわない。
やっていることは、同じ。
が、ウォール・ストリートのほうでは、「リーガル(=合法)」となる。
映画の中でも、「合法的な欲望」というような言葉が出てきた。
つまり合法であれば、何をしてもよい、と。

 が、やはり、おかしい。
最終的にカーク・ダグラスが演ずるトレーダーは、1億ドルを11倍にする。
11億ドル。
日本円で、約1000億円!
ハッピーエンドで終わる映画だが、どうしてハッピーエンドなのか?

 ギャング映画なら、その範囲の、それなりの悪玉どうしの抗争で終わる。
しかしウォール・ストリートでは、ちがう。
現にあのリーマンショック(2008・9月)では、世界中が、大きな影響を受けた。
映画の中でも、実名こそ出てこなかったが、それが大きなひとつの節目になっていた。
つまり善良かつまじめな庶民まで、大きな巻き添えを食らった。

●資本主義

 念のために、申し添えておく。
私は共産主義者ではない。
ことマルクスについては、「マ」の字も知らない。
社会主義者でもない。
政党については、私は浮動票層の1人。
選挙のたびに、支持政党が変わる。

 そんな私でも、あの映画を観ていて、「狂っている」と感じた。
「資本主義社会は狂っている」と。
どうしてたった1、2年で、1人の男が、1億ドルを11億ドルに
することができるのか。
当然そうして得たお金は、だれかの犠牲の上に成り立っている。
わかりやすく言えば、「搾取」したもの。
私のお金かもしれないし、あなたのお金かもしれない。
映画を観終わったあと、少なからず、私はこう感じた。
「まじめに働くのが、いやになった」と。
「まじめにコツコツ働いている自分が、バカみたい」とも。

●感情移入

 本来なら映画の主人公に感情移入し、「よかった!」で終わるはずの映画。
それが最後の最後まで、その感情移入ができなかった。
若い夫婦が、1億ドルを手にする。
1歳になった息子のパーティに、100〜200人の人が集まる。
ふつうのパーティではない。
豪華なパーティ。
まさにハッピーエンドだが、バカ臭ささえ覚えた。
金(マネー)の亡者たちが、金の使い道に困って開いたパーティ。
超ドラ娘とドラ息子が、また別のドラ息子を育てている。
そんな印象をもった。

シンデレラとか白雪姫の話なら、まだよい。
おとぎ話。
現代という舞台で、現実にそういうことをしている人たちがいる。
そこに大きな違和感を覚えた。
 
●アメリカ 

 ご存知ない人も多いかと思う。
現在、外貨準備高のいちばん高い国は中国であり、日本であり、そして
中東の産油国である。
が、世界中で、ただ一か国、外貨準備高ゼロの国がある。
それがアメリカ。
アメリカだけは、外貨を準備する必要がない。
外貨、つまりドルが必要になったら、印刷機を回せばよい。
それですむ。

 一方、この日本は、それだけの外貨をもちながら、自由に換金することさえ
許されていない。
あの橋本政権は、外貨を5%(たったの5%だぞ)、ほかの通貨に換金すると
言っただけで、クビが吹っ飛んでしまった。
時のアメリカ大統領の逆鱗に触れた。
つまり日本という国は、アメリカのドルを買い支えているだけ。
そういう存在。

 また外貨をたくさんもっているからといって、意味がない。
もともと外貨などというものは、通貨の換金のために用意しておくもの。
言うなればタンス預金。
それと同じ。
必要以上にためても、意味がない。
つまり外貨というのは、投資してはじめて生きる。
が、この日本のばあい、その投資もできない。
つまり塩漬け。

そういう世界の国々を犠牲に、アメリカは好き勝手なことをしている。
その中心部が、ウォール・ストリート。
ニューヨークのウォール・ストリート。
映画『ウォール・ストリート』は、その一端を、はからずも私たちに
のぞかせてくれた。

●結論

 で、結論。
現実的な映画であるだけに、疑問ばかり覚えた。
同時進行の形で進んでいくラブ・ストーリーなど、どうでもよくなってしまった。
苦労を知らないドラ娘とドラ息子。
生意気なセリフばかりを口にする。

 あの映画は、言うなれば、アメリカ製の反米助長映画。
イランやアフガニスタンの反米勢力が、反米教育のために使う映画としては最適。
私なら、そうする。
「みなさん、アメリカという国は、ここまで狂っている!
この映画を観れば、それがわかる!」と。

 ワイフもこう言った。
「よく、あんな映画を作ったわね」と。
「隣の金持ちが、いかに自分たちが金を浪費し、ぜいたく三昧な生活をしているか、
それを世界に公開したようなものね」とも。

(付記)もうひとつの違和感

 あの映画『ウォール・ストリート』を制作した制作者は、若い人だと思う。
年齢はわからない。
たぶん30代か、40代?。
少なくとも60代以上の人ではない。
そういう「年齢」は、映画に出てくる老人の扱い方を見ればわかる。

 たとえば息子が義理の父親に、向かって、「あなたは(心の)さみしい人ですね」
と言うシーンがある。
(「かわいそうな人」だったかもしれない。英語では、「a sad man」と言っていた。)
金の亡者のような父親を、批判して言った言葉である。

 その父親を擁護するつもりはないが、私はそのセリフを聞いたとき、
「何、言ってやがる!」と、強い反発を覚えた。
「親の苦労も知らないくせに!」と。
その息子にしても、「1億ドル」というマネーに心を躍らせ、スイスまで、
それを受け取りに行ったではないか。
(映画の中では、「クリーン・エネルギー産業への投資のため」と、正当化していたが)。

 平たく言えば、善玉の若者が、悪玉の老人を攻撃した。
しかし善玉、悪玉といっても、相対的なもの。
同じムジナ。
いくらそうであっても、義理の父親に向かって、「あなたはさみしい人ですね」は、ない。
言い過ぎ。
生意気。
で、息子は、胎内で動く孫の超音波断層映像を、父親に見せる。
父親はそれを見て、やがて生き様を変える。
つまり、で・き・す・ぎ。

 で、最終的に、父親のほうが娘夫婦に許しを乞いにやってくる。
家庭を顧みず、仕事ばかりしていた自分を恥じる。
わびる。
1億ドルという、みやげ持参で・・・。
娘はそれを見て、父親の体の中に、静かに身を寄せる。
このシーンだけを見ても、その映画は、若い制作者によって作られた
ことがよくわかる。

(私なら、娘夫婦のことは忘れ、自分の人生を生きる。
許してもらうとか、そういうことは考えない。
うらみ、つらみも、なし。
考えるだけで、疲れる。)

 そう言えば、先日観た『グリーン・ホーネット』という映画もそうだった。
自分(息子)は、親の稼いだ金を自由奔放に浪費しながら、その一方で、
その親を徹底的に否定する。
父親の銅像を破壊する。
まさに現代の若者を象徴しているかのような映画だった。

 私はこう言いたい。
親だって、1人の人間だぞ。
懸命に生きているんだぞ。
ぜいたくを言うな。
それをそこらの若者に、善人だの悪人だのと、判断されてたまるか、と。

・・・ハハハ、これは老人のグチ?
が、今はわからないかもしれない。
しかしあなたも、私の年齢になれば、私の気持ちが理解できるはず。
子育てで苦労し、幾多の山を越え、谷を越えれば、わかるはず。
世の中は、そんなに甘くない。

 「家庭が大切」というのは、よくわかる。
しかしその家庭を支えるためには、収入がなければならない。
ドラ娘やドラ息子には、そのきびしさがわからない。


Hiroshi Hayashi++++++Feb 2011++++++はやし浩司(林浩司)

【今日は、日曜日】

●のんびりとした午後、日曜日

 私は昼寝。
こたつの中。
ワイフは美容院へ。
うっすらと目を覚ます。
そのころ、ワイフが戻ってきた。
庭先を横切って、裏の勝手口へ。

 私は横になったまま。
勝手口があいた。
ワイフが入ってきた。
「よく眠った?」と。
「うん」と答えた。

ワ「何か、食べる?」
私「・・・?」
ワ「そばでも作ろうかしら?」
私「うん」と。

●昼寝

 ときどき昼寝をするようになった。
もう数年になる。
毎日というわけではない。
今日は、人に会う約束もなし。
予定もなし。

 夕方前の白い光。
西のほうからまっすぐ目の前の森を照らす。
風は強そう。
全国的に、今日は、雪模様とか。
浜松は、快晴。
薄っすらと白いモヤがかかった水色の空。
それが枯れた木々の間から見える。
寒そう。
もう一度、こたつの中に、身をもぐらせる。

●ミニ・バブル

 明日の予定を立てる。
ひとつはネット証券との契約解消。
残った株を売り払い、全額、銀行へ移す。
この先、何があるかわからない。
町の景気は、ますます悪くなってきている。

 昨日も、「土地は暴落するかもしれない」と書いた。
土地は今、ミニ・バブル状態。
いつはじけても、おかしくない。
だから「投資には向かない」と書いた。

 ・・・というより、税金が高すぎる!
何をするにも、税金、税金、また税金。
紙切れ一枚発行してもらうだけで、今では500円。
土地の売買をするだけで、20%前後が消える。
不動産屋に支払う手数料を加えると、もっと消える。

●フルーツパーク

 市が経営していた、フルーツパークが事実上、倒産した。
今度、民営化されるという。
いったいそれで、どれだけの税金が無駄になったことか。
無駄にしていることか。

 市が経営するこうした娯楽施設は、どこもガラガラ。
本気度ゼロ。
その本気度のなさが、客を遠ざける。

やる気なさそうに立っている職員。
ダラダラとした動き。
愛想も悪い。

 いくつかの飲食店もある。
が、値段ばかり高くて、まずい。
フルーツパークもそうだった。
施設だけは、やたらと豪華。
すべて鉄筋作り。

ディズニーランドにひけをとらない。
が、ディズニーランドは、一部の建物を除いて、
安価な、鉄骨作り。
何のための施設だったのか。
だれが儲けたのか。

 浜松は、もとももとは工業の町。
楽器とオートバイの町。
それが今では、音楽と花木(かぼく)の町。
金持ちの道楽のようなことばかりしている。
だから衰退する。

●寝覚め

 寝覚めは、よくない。
私の文章を読めば、わかる。
不平、不満、悪口、それにグチ。

低血圧のせいか。
それとも血糖値がさがっているためか。
何を考えても、イライラする。
それがこうして文になって表れる。

で、こういうときは、気分転換がよい。
「TY(=DVDショップ)へ行ってこうようか」と。
ワイフに声をかける。
「うん」という、明るい声が返ってきた。

 TYは書店+DVDショップ。
自由に立ち読みができる。
そういうコーナーまで設けてある。
軽食もできる。
つまり、それが本気度。
本気で客を楽しませようとしている。

 こういう時代に商売を成功させようとしたら、本気になるしかない。
その本気度が客に伝わったとき、その店は繁盛する。
飲食店、ホテル、旅館・・・など。
何でもそうだ。
教育もそのひとつ。

 幼稚園でも、園長を見て選ぶ。
園長の本気度が高い幼稚園は、活気がある。
園児も生き生きとしている。
先生同士の掛け声が、飛び交う。
そういう幼稚園では、子どもが伸びる。
そうでなれば、そうでない。
建物の豪華さに、だまされてはいけない。

●TYにて

 今、DVDショップにいる。
「TY」。
・・・あえて伏字にすりこともない。
「TUTAYA」。
このあたりでは、最大のDVD+書店。
ワイフは緑茶テラ、私はキャラメル・テラ。
私はパソコン雑誌、ワイフは旅行雑誌。
先ほど、DVDを4本、借りた。

 目の前のインド人は、i−Podを読んでいる。
たった今、話しかけてみた。
いろいろ教えてくれた。
おもしろそう。

i−Podは、店で見たことがある。
手で触ってみたのは、今日が始めて。
この世界は、まさに日進月歩。
めまぐるしく変化する。
ついていくだけで、たいへん。

 で、今、私がほしいのは、新しいパソコン。
TOSHIBAの新MX。
とくに必要としているわけではない。
気分転換。
パソコンも、しばらく使っていると、あきてくる。
あきてくると、ただの道具。
そうなると文を書いていても、味気ない。

 で、今日のお供は、TOSHUBAのUX。
キーボードが独立している。
打ちやすい。
バッテリーも、6時間ほどもつ。

●学生

 目の前に、1人の男が座っている。
懸命にこまかい英文を読んでいる。
コピーした紙に、しきりに赤線を入れている。
表題は見えないが、ヘッダーに「article(エッセー)」とある。
何かの原稿らしい。

 30歳くらいかと思ったが、顔をあげた瞬間、学生とわかった。
学生・・・自分の学生時代を思い出す。
私は法科の学生だったが、英語の勉強ばかりしていた。
金沢にいたときだった。
下宿の近くに、アメリカ文化センターがあった。
そこで毎日、2〜3時間を過ごした。

 宮崎さんという、館長がいた。
文学者だった。
文学者だったということは、浜松へ来て知った。
毎晩、連続で宮崎さんの書いた本が、ラジオで朗読された。
うれしかった。
で、一度、宮崎さんに電話をかけた。
私のことを、よく覚えていてくれた。

 宮崎??。
名前を忘れた。
遠い遠い、過去の一こま。

●花粉症

 ワイフが話しかけてきた。
伊豆の本を読んでいる。
温泉さがし?
「ここがすてき」とか、そんなことを言っている。
が、鼻声。
花粉症。
数日前から、喉がガラガラすると言っていた。
今日は、朝から鼻がつまると言っていた。

 花粉症による苦しみは、花粉症になったものでないとわからない。
ジクジクと、いつ終わるともなくつづく不快感。
不眠、眠気、呼吸困難、かゆみ、痛み・・・。
粘膜という粘膜、すべてがやられる。
総合的に、その人を苦しめる。

 私も20年以上、苦しんだ。
が、今は、最初の1週間だけ。
毎年、2、3本の注射と、シソの葉エキスだけで治している。

●がん

 少し気分が和らいできた。
よかった。
やはり気分転換というのは、大切。

 ところで今、「免疫学」(ナツメ社)という本を、読んだ。
それによると、がんは、ストレスで起こるのだそうだ。
ストレスが免疫機能を弱体化させる。
それががん細胞の増大を許してしまう。

 免疫機能がしっかりしていれば、数百万個単位のがん細胞を移植しても
がんにならない。
しかしストレスを加えると、数千単位個のがん細胞を移植しただけで、
がんになるという(同書、動物実験)。

 いつか友人のS君(同窓生)がこう言った。
「がんはね、ストレスが原因で起こるんだよ」と。
S君の言ったことは、正しかった。

●朗らかに生きる

 大切なことは、朗らかに生きるということ。
どうもそういうことらしい。
それが結論。

そう言えば、昨日、こんな新聞記事を読んだ。
死刑囚の人たちは、日々に大きなストレスを受ける。
中には、それによって神経を病んでしまう人もいる。
それで政府は、今度、実態調査をすることになったとか。

 ・・・そうだろうな、と思う。
私たちには想像もつかない、ストレスのようだ。
ある死刑囚は、こう書いていた。
毎朝、看守が廊下を歩いてやってくる。
その足音がこわくてならない、と。
その足音が自分の独房の前で止まったとき、
死刑が執行される。
 
 ・・・そうだろうな、と思う。
いくら罪が大きいとはいえ、それを除けば、1人の人間。
脳みそにしても、脳みそ全体が犯罪を犯すわけではない。
ほんの一部が狂う。
狂って、犯罪を犯す。
ほんの一部、だ。
残りの99%以上は、私やあなたと同じ。
99・99%以上は、私やあなたと同じ。

 つまり悪人も善人も、紙一重。
大きくちがうようで、どこもちがわない。
ほんの少し、人生の歯車が狂っただけ。
それで悪人は悪人になり、善人は善人になる。

やはり死刑は廃止すべき。
あれほど残酷な刑罰はない。
残酷すぎる。

+++++++++++++++++

以前、書いた「死刑廃止論」の原稿を
さがしてみる。

+++++++++++++++++

●死刑廃止論(2007年9月記)

+++++++++++++++++

死刑制度に、死刑制度としての
意味があるかどうかというと、
それは疑わしい。

+++++++++++++

●犯罪性の認識

 たとえば死刑に値するような犯罪を犯している最中に、その犯罪者は、「死刑」という
刑罰の重大性を認識しているかどうかというと、答はNOではないか。ふつうの状態であ
れば、「こんなことをすれば死刑になるかもしれない」という思いが、犯罪行為に走るのを、
思いとどまらせる。

 しかしふつうの状態でないから、ふつうでないことをしてしまう。

言うまでもなく、刑罰には、2面性がある。

ひとつは、本人に対する、罰としての「刑」。Aという悪いことをしたら、A罪。Bとい
う悪いことをしたら、B罪というように、あらかじめ決めておく。わかりやすく言えば、「こ
れこれ、こういう悪いことをしたら、それなりの責任を取ってもらいますよ」という意味。

 もうひとつは、世間一般に対する、見せしめとしての「刑」。これによって、犯罪の発
生を予防する。わかりやすく言えば、世間一般に対して、「これこれ、こういう悪いことを
したら、こうなりますよと教える」意味。

死刑には、見せしめとしての意味はあっても、当の本人(=主体)を抹殺してしまうと
いう点で、罰とての「刑」の意味はない。罰を与えたとたん、その犯罪者は、この世から
消えていなくなってしまう。

そこで改めて、この問題の原点について考えてみる。

「公」としての組織体、つまり「国」に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限
はあるのか。

わかりやすい例で考えてみよう。

 ひとりの男が、窃盗をしたとする。その男に対して、「窃盗は悪いことだ」「その窃盗
をしたのは、右手」ということで、右手を切断したとする。そうした行為が、果たして刑
罰として、許されるものかどうかということ。

このばあいは、(1)罰としての刑と、(2)見せしめとしての刑の、双方がまだ成り立
つ。本人は、右手を切られて、何かと不自由することだろう。また多くの人は、右手を切
り取られた人を見て、「窃盗するということは恐ろしいことだ」と知る。

 しかし死刑のばあいは、脳みそも含めて、体そのものを(切り取る)行為に等しい。
右手を切り取るという行為自体、ほとんどの人は、残酷な行為と考える。「いくらなんでも、
それはひどい」と。だったら、肉体全体は、どうなのかということになる。

 そこで最高裁は、ひとつの基準をもうけた。最高裁が83年に定めた「永山基準」と
いうのが、それ。それによれば、つぎのようにある。

(1) 犯罪の罪質
(2) 動機
(3) 殺害の手段方法の執拗性、連続性
(4) 結果の重大性、ことに殺害された被害者の数
(5) 遺族の被害感情
(6) 社会的影響
(7) 犯人の年齢
(8) 前科
(9) 犯行後の情状

 これらの「情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大で、罪刑の均衡の見地から
も、一般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められるばあいは、死刑の選択も許
される」(永山基準)と。

 が、最近の傾向としては、この基準が拡大解釈、つまり、基準がゆるやかに適応され
るようになってきている。つまり死刑判決が、乱発される傾向にある。犯罪そのものが凶
悪化しているという理由もある。

 しかし繰りかえすが、罰すべき(主体)を残しておいてこそ、刑罰は刑罰としての意
味をもつ。罰すべき(主体)を殺してしまったのでは、刑罰は刑罰としての意味を失って
しまう。

 中には、「死という恐怖感を味あわせること自体、社会が与えることができる最大の罰
である」と説く人がいる。

 しかしほんとうに、そうだろうか。反対に、「死ねば、楽になる」と考える人だってい
るかもしれない。たとえば今の私にしても、若いころとはずいぶんと、「死」に対する考え
方が変わってきた。「疲れ」を感じたようなとき、「このまま死ねば楽になるのだろうか」
と、ふと思うことが多くなった。ヨボヨボになって、みなに、迷惑をかけるようになった
ら、それ以上に長生きをしたいとは思わない。

 反対に生きているから、刑が軽いということにもならない。死刑に値する凶悪犯であ
るならなおさら、生かしながら、罪の重さで苦しませる。刑罰としては、そちらのほうが
ずっと重い。

 さらに中には、短絡的に、「悪いヤツは、生かしておいてもしかたない」と考える人も
いるかもしれない。しかしそれこそまさに、幼稚的発想。思考力がまだじゅうぶん発達し
ていない子どもが、ゲームの中で使う言葉である。

 が、もうひとつ、死刑には、重大な問題がある。

 K国のような独裁国家、言いかえると、国民がすべての権限をひとりの独裁者に付託
したような国なら、いざ知らず、日本のような民主主義国家において、「公」としての組織
体、つまり「国」に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限はあるのかということ。

 独裁国家では、死刑にするのは、独裁者個人である。しかし民主主義国家では、死刑
にするのは、国民1人ひとりである。つまり私たち自身が、その人を殺すことになる。私
や、あなたが、だ。もしあなたが「国のやることだから、私には関係ない」と考えている
なら、それこそ、民主主義の放棄ということになる。

 こうして考えていくと、死刑を肯定する理由が、どこからも浮かんでこない。ゆいい
つ残るとすれば、(5)の遺族の被害感情である。

 その犯罪者によって、人生そのものが、大きく狂ってしまうこともある。愛する人を
奪われ、深い悲しみのどん底にたたき落とされる人もいる。犯罪者を殺したいほど憎く思
うこともあるだろう。あるいは「国が殺してくれなければ、私が殺す」と思う人もいるか
もしれない。

 そうした被害者の救済は、どうするかという問題もある。が、それこそ国が考えるべ
き問題ではないだろうか。金銭的な被害はもちろんのこと、精神的苦痛、悲しみ、怒り、
そうした心情を、私たちみなが、力を合わせて、救済していく。それとも犯罪者を抹殺し
たところで、その人は、救済されるとでもいうのだろうか。

 さらに言えば、これは暴論に聞こえるかもしれないが、犯罪者といっても、ふつうの
人と、紙一重のちがいでしかない。どこかで人生の歯車が狂い、狂ったまま、自分の意思
とは無関係に、深みにはまってしまう。私たちが生きているこの社会では、善と悪の間に、
明確な一線を入れることすら、むずかしい。

 ……長い間、私なりに死刑について考えてきたが、このあたりが、私の結論というこ
とになる。つまり死刑について、これからは、明確にその廃止を訴えていきたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
死刑 死刑廃止 死刑廃止論)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●家に戻って

 家に戻ったら、午後7時。
NHKの定時ニュースが始まった。
エジプト情勢、チュニジア情勢、それに新燃岳・・・。
そんなニュースがつづく。

 都城市では、土石流の心配が出てきた。
避難命令が出ているとか。
「たいへんだろうな」と思ったところで、何も考えられない。
そう言えば、たった今、メルボルンに住む友人から、メールと映像が
届いていた。
メルボルンに、理録的な大雨が降ったらしい。
友人の家の前が、川のようになっていた。
例年だと、猛暑と乾燥。
水不足と山火事。
が、今年は大雨。

 内心では、よかったと思った。
水不足よりは、よい。
どこか無責任な感想だが、そう思った。

 しかし火山灰は、どうしようもない。
石灰をまぜて、セメントとして利用する。
レアメタルを取り出す。
そういう方法で利用できないものか。
何かの方法で固めて、レンガにするという方法もある。
どこか無責任な感想だが、そう思った。

●日本相撲協会

 NHKでは、スポーツ報道。
野球に、カウリング、ラグビーとつづく。
ふと相撲を思い浮かべる。
どこか胡散(うさん)臭い。
その裏でうごめく、日本相撲協会。

 もし野球チームのだれかが、八百長をしたとする。
相手のチームを勝たせるため、わざとボールを落としたり、三振に終わったりする。
考えてみれば、たいへんな背信行為。
そんな選手が一人でもいたら、チームはバラバラ。
そういうインチキを、みなが、組織的にする。
(日本相撲協会は、限られた関取りだけに責任を負わせ、幕引きにしようとしている
ようだが・・・。)
それがいかに許しがたいものであるかは、野球に当てはめて考えてみるとわかる。

 それにしても顔は心を表すとか。
そういう偏見をもってはいけない。
それはよくわかっている。
しかしこのところ、みな、どうも人相がよくない。
親方や関取の人相だ。
私には、そう見える。

 一方、ほかのスポーツのスポーツ選手たちは、みな、さわやか。
すがすがしい。
そのさわやかさ、すがすがしさが戻らない限り、相撲には明日はない。
胡散臭さだけ、いつまでも残る。

 「国技」という名前をつけて、守らなければならない時代は終わった。
伝統的国技という範囲で、温存していけばよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 2011+++++++++はやし浩司

●2月14日(St.バレンタイン・ディ)に

●野鳥

 今日はSt.バレンタイン・ディ。
神様の日。
そこで神の心。
それについて考えてみる。

・・・というほど、大げさなことではない。
私の家の庭には、毎朝、いろいろな種類の野鳥がやってくる。
スズメ、キジバト、ヒヨドリ、ツグミ、モズ、メジロほか。
名前のわからないのも、2、3種類やってくる。
そういう野鳥が、それぞれの餌を食べる。

 スズメとキジバトに餌をやるようになって、もう20年以上になる。
あるいはそれ以上になるかもしれない。

私は子どものころから、空を飛ぶものは、何でも好きだった。
飛行機、凧、鳥・・・。
とくに小鳥が好きだった。

それでそうしている。

●キジバト

 餌は、農協で、ニワトリ用のものを買ってくる。
10キロ入りで、1500円前後。
1袋あれば、2か月前後はもつ。
その餌を、私は庭にまく。

が、少し前、隣町の豊橋市で、鳥インフルエンザが発生した。
それ以後は、少し離れた、山の中にまくようにした。

 が、今年は、様子が、変わった。
少し前までは、スズメとキジバトしか、来なかった。
が、そこへほかの野鳥が、多数、やって来るようになった。
とくにツグミ。
私とワイフは、「鳥のギャング」と呼んでいる。
気性が荒く、喧嘩早い。
つまり私にとっては、邪魔もの。

 一方キジバトは、庭の栗の木の上で生まれ育った鳥。
昨年の秋に2羽生まれたが、1羽は、どこかへ行ってしまった。
以後、子どものキジバトは1羽だけになってしまった。
いつも庭のどこかで、ポツンとひとりで時間を過ごしている。
私としては、そのキジバトに餌をあげたい。

●ツグミ

 キジバトの世界は、きびしい。
雛でも、ある程度大きくなると、親鳥に追い出される。
いつまでも親子関係がつづくわけではない。
もともと、私の家の庭は、親鳥の縄張り。
わが子でも、容赦しない。

 それを知っているから、最近は餌を2か所に分散してまくようにしている。
が、そこへ最近は、先にも書いたように、ツグミの集団がやってくるようになった。
夫婦プラス子ども。
3〜5羽ずつ、いくつかの集団に分かれてやってくる。
そのツグミが、キジバトを追い払うようになった。
が、これは私の意図したこととは、ちがう。

●不謹慎な話

 神と人間。
その神と人間の間には、大きな「差」がある。
同じように、人間と鳥の間にも、大きな「差」がある。
言い換えると、鳥から見れば、私だって、神ほどの力があるかもしれない。

 そこで仮に、・・・こんなことを書くと、キリスト教徒の人には不愉快かも
しれない。
が、仮に私が「神」であるとする。
ともかくも、仮に私が「神」であるとすると、キジバトは、「わが子」
ということになる。
庭に遣(つか)わした、わが子。
つまり「キリスト」。

(かなり不謹慎な話になってきた!)

 私は鳥の世界に、愛と平和を教えたい。
キジバトを通して、愛と平和を教えたい。
が、今の状況を見るかぎり、ホープレス(=希望なし)。
今の今も、つぐみどうしが、小刻みにギギーッと鳴いて、喧嘩をしている。
先にも書いたように、先住者であるキジバトを追い回す。
何とあさましい世界。
醜い世界。

 「私が餌をまいているのは、お前たちのためではない。
キジバトのためだ。
そのお前たちが、餌を取り合って喧嘩している。
何ごとか!」と。
私は、そう叫びたい。

●自然の掟

 しかし鳥は鳥。
私と鳥の間には、距離がありすぎる。
「差」がありすぎる。
私がいくら鳥どうしの愛と平和を説いても、意味はない。
人間の言葉すら、理解できない。
また理解できるようになるまでに、この先、億年単位の時間が
かかるだろう。

 それに鳥たちは、それでいて、何も悪いことをしているわけではない。
この現象、つまりツグミがキジバトを追い出すという現象は、ここだけ
のものではない。
北海道でも九州でも、同じ現象が起きているはず。
体はキジバトより小さいが、ツグミには、鋭いくちばしがある。
動きも、キジバトよりすばやい。
それに比較して、キジバトは、どこかおっとりしている。
つまりキジバトに勝ち目はない。

 彼らは彼らで、自然の掟(おきて)に従っているだけ。
またその掟があるから、自然界は一定の秩序を保っている。
いくら私が神でも、その掟を破ることはできない。

●わが子

 神がイエス・キリストを「わが子」として、人間世界に遣わした。
キリスト教では、そう教える。
が、当時の地上は、とても楽園と言えるような世界ではなかった。
圧政と暴力、貧困と疫病。
民衆は不幸のドン底で、あえぎ苦しんでいた。
当然、略奪や喧嘩も日常的に起きていたにちがいない。
で、神は人間に、何とかして愛と平和を教えようとした。
結果、今に見るキリスト教が誕生した。

(さらに不謹慎な話になってきた!)

 言い換えると、神と人間との間には、人間と鳥ほどの「差」はないと
いうことになる。
「差」がありすぎたら、神はイエス・キリストを地上へ遣わさなかったはず。
割と近い?
つまり「差」は、小さい?
そんな関係かもしれない。

●庭の鳥と同じ

 そこで神の心。

こうした人間世界をどこかで見ている神は、人間を、どうとらえているだろうか。
「あさましい動物」と思っているだろうか。
それとも、「これも自然の掟」と割り切っているだろうか。

 今朝もニュースサイトを開くと、その種の事件が、ズラリと並んでいた。
人間にはそれなりの知的能力がある。
しかしやっていることは、庭の野鳥と同じ。
わずかな餌を取り合い、喧嘩し、他の鳥を追いかけ回す。
そのあさましさ。
その醜さ。
ふと心のどこかで、「愚かなことをしているな」と思う。
しかしそう思うその心は、私が庭の鳥を見るのと同じ。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

 つまりそれが神の目。
神の心。

●St.バレンタイン・ディ

 今日は、St.バレンタイン・ディ。
これから先週受けた、胃カメラの検査の結果を聞きに行ってくる。
一部、組織検査に回された。
かなりあやしいところが、あった。
ドクターは、数回、「念のため」と言った。
が、それでもこわい。
この1週間は、私にとって、地獄のような毎日だった。
私は何を隠そう、心気症。
がんノイローゼ。
食欲も減った。
何をしても、気が重かった。

 数日前に読んだ本には、こうあった。
「がんは、ストレスなどによって、免疫機能が低下したときに増殖する。
がん検診を受け、その結果が出るまでに、本当にがんになってしまう人もいる」と。
あれこれ気をもむうちに、免疫機能が低下し、本当にがんになってしまう人もいる、と。
けっして笑いごとではすまされない。

 さあて、神の心になったところで、これから出かけることにする。
病院へ、検査結果を聞きに行く。
あとの運命は、神のみぞ、知る。

 ハッピー・バレンタイン・ディ!


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【子育てQ&A】

相談(1)小学3年生の母から

 最近同居を始めた夫の親が子どもを甘やかして、ストレスを感じている毎日です。
 宿題が終わるまでテレビは見ないとか、夕飯が近い時間に間食しない……、というようなささ
いなことですが、注意しているこちらの努力を無にするように子どもの言うことを聞いてしまいま
す。夫の親だからと遠慮せず、甘やかさないようにガツンと言った方がいいのでしょうか?

A:あきらめなさい。この種の問題は一度こじれると、別居か、さもなくば離婚かという問題に発
展します。(その覚悟と経済的余裕があるなら、ガツンと言いなさい。)あなたの子どもは、(多
少)、スポイルされますが、しかし子育て全体からみれば、マイナーな(=どうでもよい)問題で
す。小学3年生ということですから、(多少)ですみます。少なくともあなたの夫より、悪くなること
はありません。(あなたの夫も、同じ両親に育てられたのですから。)
それよりも大切なのは、こういう状況を前向きに生かし、あなたはあなたで自分の好きなことを
すること。あなたにも夢や希望があったでしょ。それを今、実行するのです。一人の人間とし
て、したいことを追求します。すばらしいチャンスですよ! 
 で、両親にはこう言います。「お父様、お母様のおかげで、たいへん助かっています。ありが
とうございます」と。両親を責めるのではなく、両親に自覚を促し、子育ての責任を分担してもら
います。
 ついでに一言。両親があなたの方針に反したことをしたとしても、けっして子どもの前で、両
親のことを悪く言ってはいけません。批判もタブー。子どもは糸の切れた凧のようになり、指導
ができなくなります。言うとしても、どこがどう悪いか、その行為だけにとどめます。あとの判断
は、子ども自身に任せます。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)小学6年生の父から

 二男は、6年生の後半から不登校です。きっかけは、友達とのちょっとした行き違いで起きた
けんかです。そのうち学校に行くようになるだろうと思っていましたが、今も学校に行けないまま
です。
 中学進学を機会に、本人も不登校から抜け出したいと言っています。親がすべきことは、ど
んなことでしょうか?

A:こういうときの大鉄則は、これ。『暖かい無視』『求めてきた時が与え時』です。あせればあせ
るほど、子どもをマイナスの方向に追い詰めてしまいます。暖かく無視します。そして子どもの
ほうから何かアクションがあったら、そのときはすかさず相談に乗ってやります。表面的にはど
うであれ、あなたの子どもは、あなた以上に苦しんでいます。大切なことは、それを忘れないこ
と。あなたも苦しいでしょうが、その苦しみを、子どもにぶつけてはいけません。
 今は時代が変わりました。「学歴」から「一芸」へ。おとなになる道は一つではありません。こ
の機会をうまくとらえ、子どもの特性、方向性を見極めてみてはどうでしょうか。そしてそれが見
つかったら、あなたは子どもにこう言います。「お前がしたいことをしなさい。どんな道であれ、
お父さんは、お前を応援するよ」と。
 私の二男も、同じころ、不登校を繰り返しました。しかしそのつど、「生きているだけでいい」と
思い直すことで、乗り越えることができました。
 そのときは遅々として進まない子育て。しかしそれも終わってみると、あっという間のできご
と。不登校など、何でもありません。子どもを信ずること。子どもを支えること。それがあとあと、
今という現在を、光り輝くものにします。平凡は美徳ですが、平凡な生活からは、親子の太い
絆は生まれません。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●4月期〜始動!

+++++++++++++++++

今朝、講演会の依頼が入った。
大きな総会での講演会である。
うれしかった。
目標ができた。
が、ただうれしいだけではない。
それが励みになる。
9月の講演だが、その日にかけて準備する。
体調を整える。
原稿を考える。
怠けた頭と体では、講演はできない。

それにもうひとつ。
4月からの仕事が順調に動き出した。
教室への問い合わせや、入会申し込みが活発になってきた。
周辺があわただしくなてきた。

がんばろう。
がんばるしかない。

春(3、4月)には、オーストラリアの友人が、2人来る。
それぞれと、近くの温泉に泊まる予定。
今朝、予約をすませた。

負けてなるものか!、・・・ということで、今日も、
運動は2単位(1単位=40分)。
よい汗をかいた。

++++++++++++++++

●group1

 がん検診の結果は、「group1」だった。

 ガン検診のばあい、
group1……良性
group2……良性
group3……良性・悪性
group4、5……悪性ということらしい※。

 ホーッ!

 その「がん」だが、がんも生活習慣病ということが、ますます明確になってきた。
言い換えると、生活習慣に気をつければ、人は、がんにはならない。
生活習慣が乱れたとき、人は、がんになる。
その最大の敵。
それがストレス。

ストレスが、その人のもつ免疫機能を低下させる。
結果として、がん細胞を増殖させてしまう。
がんになる。

●ストレス

 ストレスにもいろいろある。
心的ストレスと肉体的ストレス。
それに薬物ストレスというのもあるそうだ。
同じ薬を長くのみつづけていると、肉体は、それを「ストレス」と判断する。

 ではどうすればよいか。
そのヒントが、「東洋医学」ということになる。
「東洋医学的な生き方」が、その人の体をがんから守る。
黄帝内経・上古天真論篇には、こうある。

いわく、『風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応さ
せ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、
みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥るこ
ともなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』(上古天真論篇)
と。

●言いたくない

 先に『group1』という結果を書いた。

(1)「悪性がん」という意味

 仮にそれが「悪性がん」という意味だったとする。
もしそうなら、私は自分のがんを、公表することになる。
しかし私のような人間が、それを公表しても意味はない。
(有名人の中には、自分の大病を公表する人もいるが・・・。)
公表したからといって、「死の恐怖」が和らぐわけではない。

(2)「シロ」という意味

 仮にそれが「シロ」という意味だったとする。
(group1は、シロという意味だが……。)
もしそうなら一応、検査した範囲では、私は健康ということになる。
しかしそんなことを公表すれば、現在、がんで苦しんでいる人に申し訳ない。
(公表してしまったが……。)
それに「私は健康だ」と言っても、一時的な健康にすぎない。
「この1〜2年は、だいじょうぶだろう」という程度の健康にすぎない。

 私には、どちらでもよい。
どちらであっても、私は私。
いつものように、私は私として、書きたいように書く。
生きたいように、生きる。

ただこういうことは言える。
今は、がんも、簡単に治る時代になったということ。
胃がんにしても、内視鏡で見つけたら、その場で切り取ってしまう。
しかも内科医院でも、それができるようになった。
早期発見の重要さは、ここにある。

●死後の世界

 夕方になって、軽い頭痛。
昨夜は遅くまで義兄の家で、話し込んだ。
あるいは睡眠不足?
それが原因か。

 で、近く、『ヒア・アフター』という映画が公開される。
超能力者をテーマにした映画らしい。
楽しみ。

(個人的には超能力なるものを、まったく認めていない。
そんな私が、「楽しみ」というのも、矛盾していると、自分でも思うが・・・。)

クリント・イーストウッド監督の映画。
どんな映画か。
それを前もって想像するのは、実に楽しい。

 予告編によれば、死後の世界を描いた映画という。
映画の中の話だから、本気で論じても意味はない。
その映画に出てくる死後の世界は、あくまでもイーストウッド監督が描く死後の世界。
そこで私は、どう考えるか?

●私が考える死後の世界

 前にも書いたが、こういうこと。
もし本当に「あの世」があるとするならという仮定の上での話である。
もしあると仮定するなら、実は、「この世」こそが、実は「あの世」ではないか、と。
私たちは本当は、「あの世」の住人で、ときどき「この世」へやってきて、
極楽(天国)や地獄を経験する。

 そのほうが、つじつまが合う。
私たちが「この世」と呼んでいるこの世界には、極楽もあれば、地獄もある。
喜びもあれば、悲しみもある。
人は「この世」で、さまざまな経験をする。
そして死んで、「あの世」、つまり元の世界に戻っていく。

だから私たちが「あの世」と呼んでいる世界の住人たちは、こんな会話をしているに
ちがいない。

A「ねえ、あの世には、寿命というものがあるそうですな」
B「何ですか、その寿命というのは?」
A「要するに、死ぬことらしいです」
B「死ぬって、どういうことですか?」
A「それが私にも、よくわからないのです。消えてなくなるという意味ですかね」
B「ハハハ、そんなバカなことを・・・」
A「ね、今度、一度、あの世へ行ってみますか」

B「それもいいですな」
A「あの世には、極楽もあれば、天国もあるそうですよ」
B「何ですか、極楽というのは?」
A「まあ、ボケーッと、苦労のない世界のことですかねえ」
B「それもつまらないですね」
A「じゃあ、地獄にしようかな」
B「地獄ねえ。何ですか、それ?」
A「苦しみや悲しみが満ちた世界ですよ」
B「苦しみ? 悲しみ? ・・・何ですか、それ?」と。

 『ヒア・アフター』は、いったいどのような世界を見せてくれるだろうか。
興味津々。

(注※)(以下は、大腸がんの判定基準)(メディカル・ユニオンのHPより)

Group1正常粘膜。過形成粘膜。(非腫瘍性で異型のない粘膜組織。)
Group2炎症性あるいは再生性変化。(非腫瘍性で異型を示す病変。)
Group3腫瘍性で軽度から中等度異型を示す病変。(軽度〜中等度異型の腺腫。)
Group4高度異型の腺腫。(腫瘍性で高度異型を示す病変。)
Group5癌と断定。(明らかに癌と診断しうる異型を示す病変。)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 2011+++++++++はやし浩司

**********2011年2月16日まで****************



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 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
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