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(14)
【14】
2010年  10月  29日〜 12月  日11日


【息子の初飛行】はやし浩司 2010−10−29

+++++++++++++++++++++

今回の息子の初飛行について書く前に、息子が
航空大学校の学生のときに私が書いた原稿を、
先に添付します。

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【息子の初フライト】2007年

+++++++++++++++++

今日(29日)は、息子が、はじめて
名古屋空港(小牧)にやってくる日。
ワイフが、朝早く、小牧まで、でかけて
いった。

私は、ひとりで、留守番。

見たかった。私も、飛行機、大好き。
飛ぶのが、大好き。「飛ぶ」というより、
飛ぶものが、大好き。

小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、
それを両腕に結んで、1階の屋根から
飛び降りたこともある。

+++++++++++++++++

 今日(1月29日)は、息子が、はじめて名古屋空港(小牧)にやってくる日。ワイフ
がそれを迎えるため、朝早く、小牧まででかけていった。

 が、私は、ひとりで留守番。見たかった。私も飛行機、大好き。飛ぶのが大好き。「飛ぶ」
というより、飛ぶものが大好き。ラジコンはもちろん、ロケット、紙飛行機にいたるまで、
ありとあらゆるものが、大好き。ついでに鳥も、大好き。

 こんな思い出がある。

 小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、それを両腕に結んで、1階の屋根から飛び
降りたことがある。板には、大きな紙を張りつけた。私はそれで空を滑空するつもりだっ
た。

 結果は、みなさん、予想のとおり。ドスンと地面にたたきつけられて、それでおしまい。
体が軽かったこともあり、たいしたけがもしないですんだ。私が、小学3年生くらいのこ
とではなかったか。年齢はよく覚えていない。

 以来、私は、飛行機人間になった。パイロットになるのが、夢になった。が、中学生に
なると近眼が進んだ。当時は、近眼の人は、パイロットにはなれなかった。みなが、そう
言った。だからあきらめた。

 そこで今回は、息子のBLOG特集。今までに息子が書いた記事を集めてみる。

 言い忘れたが、今日は、仙台→名古屋→宮崎、明日(30日)は、宮崎→高知→仙台と
いうルートで飛ぶという。明日(30日)は、正午ごろ、浜松の自衛隊基地上空を通過す
るとのこと。
高度は、1500フィート、約4500メートル。

 双発のジェット小型機。もしその時刻に空を見あげることができる人がいたら、ぜひ、
見てほしい。「私」が飛んでいる!

++++++++++以下、2007年1月30日の原稿より+++++++++++

【黄色い旗】

++++++++++++++++++++

2007年1月30日。
息子のEが、自分で飛行機を操縦して、
はじめて、浜松市の上空を飛ぶ。

そこで、私は、2メートル四方の大きな
旗をつくった。テカテカと光る黄色い旗である。

それを地上から振り、息子に合図を送る。

++++++++++++++++++++

●電話

 高知県の高知空港から、連絡が入った。「これから高知空港を飛び立って、浜松に向う」
と。
私は、すかさず、「何時ごろ?」と聞く。

E「1時から、1時半ごろの間だよ」
私「わかった。ぼくとママは、自衛隊基地の南西の角地で、旗を振る。黄色い、大きな旗
だ」
E「見えるかなあ?」
私「南西の角地だ。わかったか。そこを見ろ」と。

 一度、電話を切ったものの、すぐまた電話。今度は、こちらからかけた。

私「そうそう、飛行機はどちらの方向から飛んでくるんだ」
E「真西から、真東に向う」
私「地図で見ると、南西の方角ではないのか?」
E「一度、名古屋の先まで向かい、そこから、東に向う」
私「わかった」と。

 私の声は、子どものようにはしゃいでいた。それが自分でもよくわかった。

 現在、息子は、航空航空大学にいる。2年間の全寮制の大学である。それがいよいよ終
了に近づいてきた。現在は、宮城県の仙台市にいて、最終的な訓練を受けている。練習機
も、単発機のボナンザから、双発ジェットのキングエアに変わった。正確には、ターボプ
ロップエンジンといって、ジェットエンジンでプロペラを回して飛ぶ飛行機である。

 巡航速度は、550〜600キロ(毎時)だそうだ。

●旗

 旗は、長い棒に、セロテープでとめた。テカテカと光る黄色い旗である。それに合わせ
て、ワイフも、私も、黄色いジャケットに着替えた。「これなら空から見えるかもしれない
ね」と。

 空を見あげると、ほんのりと白いモヤがかかっているものの、ほぼ快晴。ところどころ
に、白い雲がポツポツと見える。青い空が、目にしみる。

 「これなら、飛行機が見えるかもしれない」と、また私。

 私とワイフは、旗を車に載せると、航空自衛隊の基地のほうに向った。途中、コンビニ
よって、おにぎりを買うつもりだった。

ワ「私ね、あなたと結婚して、よかったと思うことが、ひとつ、あるわ」
私「なんだ?」
ワ「あなたといると、感動の連続で、退屈しない……」
私「なんだ、そんなことか」と。

●1万5000フィート

 自衛隊の基地へは、10分ほどで着いた。手前のコンビニで、おにぎりとお茶を買った。
1時までは、まだ時間がある。時計を見ると、12時45分。

 基地の南西の角にある空き地に車を止めた。止めるとすぐ、ワイフが、車の屋根に、黄
色いシートをかぶせた。私は、旗を出すと、それを振る練習をしてみた。通り過ぎる車の
中から、みな、人がこちらを見ていた。が、私は気にしなかった。

私「これなら、見えるよ、きっと」
ワ「でも、高いところを飛ぶのでしょ」
私「1万5000フィートだそうだ。約4500メートル」
ワ「富士山より高いのよ」
私「見える、見える、あいつは、視力がいい」と。

 私は何度も時刻を聞く。ワイフは、空をまげたまま、動かない。ときどき、大きなライ
ン機が、
空を飛びかう。白い雲が、今日は、いじらしい。

ワ「あの飛行機は、どれくらいの高さを飛んでいるのかしら?」
私「あれも、4500メートルくらいではないかな?」
ワ「あれくらいの高さだったら、見えるかもしれないね」と。

●1時15分

 そのとき、真西のほうから、飛行機が近づいてきた。ライトをつけている。それを見て、
ワイフが、「あれ、E君じゃ、ない?」と。

 私は「そうかもしれない」とは言ったものの、それにしては高度が低すぎる。「あんな低
くはないよ」とは言ったものの、期待はふくらんだ。「ひょっとしたら、Eかもしれない。
あいつ、基地に近づいたら、前輪灯をつけると言っていた」と。

 目をこらしていると、その飛行機は、基地をめざしてまっすぐに飛んできた。が、やが
てそれに爆音がまじるようになった。

ワ「ジェット機よ……。自衛隊の……」
私「そうだよな、あんな低いはずはないよな」と。

 ジリジリと時間が過ぎていく。1時は過ぎた。しかし、薄いモヤを通して飛行機をさが
すのは、容易なことではない。飛行機そのものが、空に溶け込んでしまっている。そんな
感じがした。

私「何時だ?」
ワ「1時10分よ」
……
私「何時だ?」
ワ「1時12分よ」と。

 そのとき、一機の飛行機が、2本の飛行機雲を残しながら、上空を横切っていった。

私「あれは、ちがうよね」
ワ「あれは、旅客機みたい。大きいわ。Eのは、小型機よ」
私「そうだね……」と。

 するとそのあとすぐ、それを追いかけるかのように、一機の飛行機が空を横切っていっ
た。後退翼の飛行機である。翼端の青い線が、何となく見えた気がした。その飛行機が、
丸い雲の間から出て、まっすぐと東に飛んでいった。

ワ「あれよ、きっと、あれよ」
私「あれかなあ? キングエアの翼は、まっすぐだよ。後退翼ではないはず……」と。

 しかし旗を振るヒマはなかった。目にもわかる速い速度で、その飛行機は、スーッと視
界から遠ざかり、再び、丸い雲の中に消えていった。

私「時刻は、何時?」
ワ「ちょうど、1時15分よ」
私「そうか。やっぱりあれが、Eの飛行機だ。あいつは、昔から時間に正確な子どもだっ
たから。1時から1時半の間と言えば、1時15分だ」
ワ「そうよ、きっと、あれよ。よかったわ。見ることができて」
私「うん」と。

●キングエア

 私たちは、すぐには帰らなかった。「ひょっとしたら、まちがっているかもしれない」と
いう思いで、そのまま、そこに立った。手には黄色い大きな旗をもったままだった。

 が、通るのは、明らかにライン機と思われる大型のものばかり。それから1時半まで、
小型の飛行機は通らなかった。

私「やっぱり、あれだった」
ワ「私も、そう思うわ。あれよ」
私「あとで、Eに聞いてみればわかる。あいつも浜松を通過した時刻を覚えているはずだ
から」
ワ「そうね」と。

 何となく、後ろ髪をひかれる思いで、私とワイフは、その場を離れた。時刻は、1時3
5分ごろだった。

 旗をしまい、つづいて、車の上のシートをしまった。ワイフは、何度も、「やっぱり、あ
の飛行機よ」と言った。

 Eが操縦していたキングエアは、翼に上反角がついている。だからうしろ下方から見る
と、後退翼の飛行機のように見える。はじめは、後退翼の飛行機だったから、キングエア
ではないと思った。しかしそのうち、それを頭の中で、打ち消した。「やっぱり、あの飛行
機だった」と。

●息子のE

 ふたたび、私たちは現実の世界にもどった。いつものように車を走らせ、信号で、止め
る。

 そのとき、ふと、私は、こう言った。「あいつは、本当にあっという間に、飛び去ってい
ったね」と。

 Eをひざの上に抱いたのが、つい、先日のように思い出された。生まれたときは、30
00グラムもない、小さな子どもだった。何もかも、小さな子どもだった。

 そのEが、今は、もうおとな。身長も180センチを超えた。本当に、あっという間に、
そうなってしまった。そして私たちのところから、飛び去ってしまった。

私「あの飛行機の中に、あいつがいたんだね」
ワ「そうね」
私「もう東京あたりまで、行っているかもしれないよ」
ワ「そんなに早く?」
私「そうだよ。時速600キロだもん。30分で東京へ着いてしまうよ」
ワ「飛行機って、速いのね」
私「うん……」と。

 うれしくも、さみしさの入り混じった感情。それが胸の中を熱くした。多分、ワイフも、
同じ気持ちだったのだろう。家に着くまで、ほとんど、何もしゃべらなかった。

 車をおりるとき、再び、ワイフが、こう言った。「本当に、あなたといると、退屈しない
わ」と。
 私は、それに答えて、「ウン」とだけ言った。
(2007年1月30日記)

【追記】

 やっぱり、あの飛行機が、キングエアでした。以下、EのBLOGから、日記をそのま
ま紹介します。

++++++++++++++++++++

 一泊航法、2日目。この上なくスッキリとした寝起き。僕たちの班は、高知経由で仙台
へ帰還する。高知〜仙台間が、僕の担当するレグだ。僕は浜松出身なので、どうしても浜
松上空を通って帰りたかった。名古屋のあたりから新潟へ抜け、そこから真東へ帰るルー
トが主流なのだが、僕は名古屋から浜松、大島を経由し館山、御宿、銚子と房総半島を沿
うように北上、仙台に至るルートを選択。教官すら飛んだことのないルートで、フライト
プランが受理されるかどうか心配だった。というのも、羽田や成田の周辺は、国内一、航
空交通量の多いところなので、C90のような遅いプロペラ機が訓練でフラフラ来られると
迷惑がかかるのでは、と思ったのだ。
実際、高度帯によっては迂回させられる場合もあるんだとか。今回は17,000ft、約5000
mを選択。空港に離着陸するライン機は、空港周辺ではこの高度よりも低いところを飛ん
でいるだろうと予想した結果だ。難なく許可されたので一安心。

 14,000ft以上の高度を航空業界では、『フライトレベル』と呼ぶ。フライトレベル1・7・
0(ワン・セブン・ゼロ)。そこから見た日本の姿は、本当に綺麗だった。
 

航空自衛隊・浜松基地。両親がこの南西端にいて旗を振っていたらしいが、インサイトで
きず。

アクト・シティ。デジカメの望遠でここまで見えた。

一生忘れられない景色を、今日はたくさん見た。

 この他、羽田空港や成田空港なども見ることができた。成田空港では、アプローチする
海外のエアラインが僕らのはるか下方を、列を作って飛んでいるのが見えた。見えたは2
〜3機だけだったが、等間隔のセパレーションを保って、はるかかなたの海から繋がる飛
行機の列は、まるでベルトコンベアーのようであった。高知離陸から仙台着陸まで2時間
45分。今日は仙台に来て初めて、ランウェイ09に着陸した。

 今回の旅で感じたことはたくさんあったが、まとめると、本当に楽しかった、という言
葉になるだろう。操縦技術やオペレーションの訓練はもちろん、日本の空、日本の地形と
いうものの全体的なイメージが掴めた気がする。そして、日本国内だけでなく、海外にだ
って行けそうな、そんな自信も手に入れた。本当に、すばらしい2日間であった。一泊航
法で得た経験を、見た景色を、初めて飛んだ地元の空を、誇りに思ってくれた両親を、宮
崎で再確認した初心を、僕は一生、忘れない。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司
2010年10月29日まで
Hiroshi Hayashi+++++++以下、Oct. 2010++++++はやし浩司

【息子の初フライト】JAL搭乗機

●羽田へ向かう

 これから羽田に向かう。
新幹線に乗って、品川まで。
品川で一泊。
朝イチで、羽田へ。
903便。
午前8時10分離陸
息子の初飛行。
副機長になっての初飛行。
機種はB777−300。
500人乗り。

が、あいにくの悪天候。
目下、台風14号が、沖縄を直撃中。
言い忘れたが、初飛行は、羽田から那覇(沖縄)まで。
明日は「欠航」になるはず。
それでも私たちは、羽田に向かう。
ワイフが、こう言った。
「沖縄へ行けなくてもいいから……」と。
ワイフにはワイフの思いがある。
息子のにおいをかぎたいらしい。
「E(息子)に会えなくてもいいから……」とも。
私はすなおに、同意した。

・・・いつだったか、私は息子に約束した。
「初飛行のときは、飛行機に乗るよ」と。
その約束を、明日実行する。

●搭乗券

 息子が、JALの無料搭乗券を送ってきた。
が、その券では飛行機の予約はできない。
私とワイフは、割高の席を予約した。
往復で、14万円。
ファーストクラス。
(このLCCの時代に、14万円!)
LCC、つまりロー・コスト・キャリアー。
欧米では、ばあいによっては、300〜500円で飛行機に乗れるという。
そういう時代に、14万円!

 「高い」と思う前に、私のばあい、
「無事に帰ってこられたら、安い」と考える。
何を隠そう、私は飛行機恐怖症。
一度、飛行機事故に遭ってから、そうなってしまった。
今の今も、欠航になればよいと思う。
同時に、約束は守らねばならないという義務感。
その両者が、心の中で交互に現れては消える。

 本音を言えば、どちらでもよい。
飛行機は好きだが、今年(2010)になってからというもの、一度も空を
見あげていない。
いろいろあった。
加えて飛行機事故のニュースを聞くたびに、ヒャッとする。
そうした状態がこの先、一生、つづく。

もし欠航になったら、羽田見物をする。
羽田でも、国際線が発着するようになったという。
それを見て、明日は、そのまま帰ってくる。

●息子の初飛行

 2010年、10月xx日。
JALに入社した息子が、副機長として、初飛行をする。
羽田から那覇まで。
パイロットの世界では、「初〜〜」というのは、
そのつど特別な意味をもつ。

 先週、その知らせを受け取るとすぐ、飛行機の予約を入れた。
長い手紙と、10枚近い写真が、それに添えてあった。
訓練につづく訓練で、忙しかったらしい。

●初飛行

 先にも書いたが、2010年の正月以来、ほぼ11か月。
私とワイフは、一度も空を見上げたことがない。
飛行機の話もやめた。
それまでは毎日のように空を見上げていたが・・・。

 正月に事件があった。
どんな事件かは、ここには書きたくない。
一度ハガキを書いたが、返事はなかった。
無視された。
手紙ではなく、ハガキにしたのは、家族の間で秘密を作りたくなかったから。
ともかくも、その事件以来、私は苦しんだ。
ワイフも苦しんだ。

『許して忘れる』という言葉がある。
この言葉は自分以外の人には有効でも、自分に対しては、そうでない。
自分を許して、忘れることはできない。
自己嫌悪と絶望感。
……いろいろあった。

●ケリ

 そんな私がなぜ初飛行に?、と思う人がいるかもしれない。
それにはいろいろ理由がある。
ひとつには、自分の気持ちにケリをつけたかった。

息子が横浜国大を中退して、パイロットになりたいと言ったときのこと。
私は息子に夢を託した。
私も学生時代、パイロットにあこがれた。
仲がよかった先輩が、航空大学へ入学したこともある。

 が、息子が、航空大学に入学し、その夢がかなった。
息子が単独飛行で、浜松上空を横切ったときは、ワイフと二人で、
毛布を2枚つないだほどの大きな旗を作った。
黄色い旗だった。
それをワイフと2人で、空に向かって、振った。
JALに入社して、さらにその夢がかなった。
が、私の夢は、そこまで。

●私の夢

 私たちがその飛行機に乗ることは、昨日になってはじめて連絡した。
同じようにハガキで書いた。
たがいの連絡が途絶えて、10か月以上になる。
が、内緒で乗るというような、卑屈な気持ちはみじんもない。
私には私の夢があった。

息子の操縦する飛行機で、旅をする。
私の代理として、息子が操縦桿を握る。
その夢に終止符を打つために、飛行機に乗る。

私は私で夢をかなえ、あとは静かに、引き下がる。

●子離れ

 が、どうか誤解しないでほしい。
だからといって、息子との関係が壊れているとか、断絶しているとか、
そういうことではない。
(連絡は途絶えているが……。)
ワイフはいつも、こう言っている。
「自然体で考えましょう」と。

 その自然体で考えると、「どうでもよくなってしまった」。
「めんどう」という言い方のほうが、正しい。
親子の関係にも、燃え尽き症候群というのがあるのかもしれない。
その事件をきっかけに、私は燃え尽きてしまった。

 もちろん苦しんだ。
心臓に異変を感ずるほど、心を痛めた。
家にいる長男は、E(息子)を怒鳴りつけてやると暴れた。
私は私で、体中が熱くなり、眠られぬ夜が、何日もつづいた。
しかしそれも一巡すると、ここに書いたように、どうでもよくなってしまった。
もし修復するという気持ちが息子にあったとしたら、11か月というのは、
あまりにも長すぎた。
遅すぎた。

 これも子離れ。

●呪縛

 「今ね、息子や嫁さんに会っても、以前のようにすなおな気持ちで、
いらっしゃいとは言えないよ」と。
ワイフも同じような気持ちらしい。
仮に言えたとしても、そのときはそのときで、終わってしまうだろう。
長つづきしない。
やがて今のような状態に、もどる。

 悲しいというよりは、ワイフの言葉を借りるなら、「そのほうがいい」と。
「息子たちは息子たちで、私たちに構わず、幸福になればいいのよ」と。

 私は逆に、若いころから、濃密すぎるほどの親子関係、親戚関係で苦しんだ。
2年前、実兄と実母をつづいてなくし、やっとその呪縛から解放された。
そんな重圧感は、私たちの世代だけで、終わりにしたい。
もうたくさん。
こりごり。

●だれかがしなければならない仕事?

 息子から長い手紙がきたとき、チケットの予約はした。
メールはたびたび出したが、返事はなかった。
それで今回は、メールを出さなかった。
たぶん、アドレスを変えたせいではないか。
いろいろな文章が頭の中を横切ったが、手紙にはならなかった。
今さら、何をどう書けばよいのか。

 繰り返しになるが、今までもそうだったが、これからも飛行機事故の
ニュースを聞くたびに、心臓が縮むような思いをしなければならない。
危険な職業であることには、ちがいない。
が、私にこう言った人がいた。

「だれかがしなければならい仕事でしょ」と。

 そんな酷な言葉があるだろうか。
もし自分の息子だったら、そんな言葉は出てこないだろう。
たとえば自分の息子が戦場へ行ったとする。
そしてだれかに、「心配だ」と告げたとする。
で、そのだれかが、「だれかがしなければならない仕事でしょ」と。

●夢?

 夢をかなえた?

・・・今にして思えば、やはりあのとき、私は反対すべきだった。
学費の援助を止めるべきだった。
空を飛びたいという気持ちは、よくわかる。
しかし多かれ少なかれ、だれしも一度は、パイロットにあこがれる。
が、空の飛び方は、必ずしもひとつではない。
客となって、空を飛びまわるという方法もある。
またその夢がかなわなかったからといって、負け犬ということでもない。

 たとえばあの毛利氏(宇宙飛行士)は、浜松市で講演をしたとき、こう言った。
「みなさん、夢をもってください」「実現してください」と。
子ども相手の講演会だった。
「みなさん」というのは、子どもたちをさす。

 しかし自分の子どもを宇宙飛行士にしたいと願う親はいない。
もし、あなたの息子が「パイロットになりたい」と言ったら、あなたはどう思うだろうか。
「なりなさい」と言うだろうか。
「危険な仕事」というのは、それをいう。

 今回も、何人かの知人に、「息子が初飛行します」と告げた。
みな「おめでとう」とは言ってくれたが、そこまで。
それ以上のことは言わなかった。
みな、口を閉じてしまった。

●運命

 ともかくも今夜は、品川で一泊する。
早朝便で、羽田から那覇へ飛ぶ。
しかし台風。
台風14号。
このままでは明日、台風は沖縄を直撃する。
私の予想では、当時のフライトは、欠航になるはず。
大型台風のまっ只中へ、着陸を強行するパイロットは、いない。

 そう、何ごとも中途半端はいけない。
直撃なら、直撃でよい。
そのほうが、あきらめがつく。

 しかしこれも運命。
私たちはいつも無数の糸にからまれている。
今は「天候」という糸にからまれている。

●S氏

 ときどきふと、こう考える。
長生きするのも、考えもの、と。
数年前までよく仕事を手伝ってくれた、S氏という男性が亡くなった。
病院で腎透析を受けている最中に、眠るように亡くなったという。
私より、5歳も若かった。

 もし私も5年前に死んでいたら、私の周辺はもっと平和だったかもしれない。
息子たちにも、「いい親父だった」と言われているかもしれない。
それにこの先のことを考えると、私はみなに迷惑をかけることはあっても、
喜ばれることはない。
さみしい人生だが、これも運命。
無数の糸にからまれて作られた、運命。

●ケリ

 先ほど「ケリ」という言葉を使った。
この数年、私はこの言葉をよく使う。
ケリ。
いろいろなケリがある。
とくに人間関係。

 それまでモヤモヤしていたものを清算する。
きれいさっぱりにする。
それがケリ。

 最初にケリをつけたのは、山林。
30年ほど前、1人のオジが、私に山林を売りつけた。
「山師」というのは、イカサマ師の代名詞にもなっている。
オジはその山師だった。
当時としても、相場の6倍以上もの値段で売りつけた。
私はだまされているとはみじんも疑わず、その山林を買った。
間で母が仲介したこともある。

 その山林を昨年、買ったときの値段の10分の1程度で売却した。
株取引の世界でいう、「損切り」。
損をして、フンギリをつける。
いつまでも悶々としているのは、精神にも悪い。
そうでなくても、私の人生は1年ごとに短くなっていく。
 
●人間関係

 つぎに人間関係。
私はいくつかの人間関係にも、ケリをつけた。
まず「一生、つきあうことはない」という思いを、心の中で確認する。
そういう人たちから順に、ケリをつけていく。

 妥協しながら、適当につきあうという方法もないわけではない。
しかしそんな人間関係に、どれほどの意味があるというのか。
というか、私は自分の人生の中で、妥協ばかりして生きてきた。
言いたいことも言わず、したいこともしなかった。
みなによい顔だけを見せて生きてきた。
子どものころから、ずっとそうしてきた。
若いときは、働いてばかりいた。
そんな自分にケリをつける。
そのために人間関係にも、ケリをつける。

 この先、刻一刻と自分の人生は短くなっていく。
無駄にできる時間はない。
それでも私のことを悪く思うようなら、「林浩司(=私)は死んだ」と、
そう思いなおして、あきらめてほしい。

●選択
 
 もうひとつ、ここに書いておきたい。
それが「選択」。
何かの映画に出てきたセリフである。
「私の人生はいつも、選択だった」と。

 いくら私は私と叫んでも、毎日が、その選択。
「私」など、どこにもない。
Aの道へ行くにも、Bの道へ行くにも、選択。
選択を強いられる。
そこでその映画の主人公は、こう叫ぶ。
「もう選択するのは、いやだア!」と。

 この言葉を反対側から解釈すると、「私は私でいたい」という意味になる。
つまり先に書いた、「ケリ」と同じ。
私が言う「運命論」は、その「選択論」に通ずる。
私たちは大きな運命の中で、こまかい選択をしながら生きている。
その選択をするのも、疲れた。

●孤独

 たまたま今朝も書いたが、この先、独居老人ならぬ「無縁老人」が、どんどんと
ふえるという。
私もその1人。

 しかし誤解しないでほしい。
無縁は、たしかに孤独。
しかし「有縁」だからといって、孤独が癒されるということではない。
世界の賢者は、口をそろえてこう言う。
老齢期に入ったら、相手を選び、深く、濃密につきあえ、と。
あるいはこう教えてくれた友人(私と同年齢)もいた。

 「林さん(=私)、酒を飲むと孤独が癒されるといいますがね、あれはウソですよ。
そのときは孤独であることを忘れますがね、そのあと、ドカッとその数倍もの
孤独感が襲ってきますよ」と。

 人間関係も同じ。
心の通じない人と、無駄な交際をいくら重ねても、効果は一時的。
そのときは孤独であることを、忘れることはできる。
しかしそのあと、その数倍もの孤独感がまとめて襲ってくる。
私も、そういう経験を、すでに何度かしている。

●親子関係

 そこで問題。
よき親子関係には、孤独を癒す力があるか否か。
答は当然、「YES」ということになる。
人は、その親子関係を作るために、子育てをする。
が、このことには二面性がある。

 私は私の親に対して、よい息子(娘)であったかどうかという一面。
もうひとつは、私という親は、息子(娘)に対して、よい親であったかという一面。
私を中心に、前に親がいて、うしろに子どもがいる。
実際には、よき親子関係を築いている親子など、さがさなければならないほど、少ない。
が、今、子育てに夢中になっている親には、それがわからない。

 「私だけはだいじょうぶ」
「うちの子にかぎって……」と。
幻想に幻想を塗り重ねて、その幻想にしがみついて生きている。
が、子どもが思春期を迎えるあたりから、親子の間に亀裂が入るようになる。
それがそのまま、たいていのばあい、断絶へとつながっていく。

 それともあなたは自分の親とよい人間関係を築いているだろうか。
「私はそうだ」と思う人もいるかもしれない。
が、ひょっとしたら、そう思っているのは、あなただけかもしれない。

●品川のホテルで

 ホテルへ着くと、私はすぐ睡眠導入剤を口に入れた。
睡眠薬ともちがう。
ドクターは、「熟睡剤」と言う。
朝方に効く薬らしい。
早朝覚醒を防ぐ薬という。
それをのむと、明け方までぐっすりと眠られる。
が、午前5時前に目が覚めてしまった。

 ……このつづきは、またあとで。

●宿命的な欠陥

 話はそれる。

 これは現代社会が宿命的にもつ欠陥なのかもしれない。
私たちは古い着物を脱ぎ捨て、ジーンズをはくようになった。
便利で合理的な社会にはなったが、そのかわり、日本人が昔からもっていた温もりを
失ってしまった。

 こんな例が適切かどうかはわからない。
が、こんな例で考えてみる。

 私が子どものころは、町の祭りにしても、旅行会にしても、個々の商店主がそれを
主導した。
どこの町にも、そうした商店街が並んでいた。
近所どうしが、濃密なコミュニティーをつくり、助けあっていた。

 が、今は、大型ショッピングセンターができ、街の商店街を、駆逐してしまった。
こうこうと光り輝く、ショッピングセンター。
山のように積まれたモノ、モノ、モノ。
そこを歩く華やかな人々。
ファッショナブルな商品。 

 しかしそういう世界からは、温もりは生まれない。
わたしはそれを、現代社会が宿命的にもつ「欠陥」と考える。
当然のことながら、親子関係も、大きく変わった。

●私の時代

 何度も書くが、私は結婚する前から、収入の約半分を実家へ、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それを条件とした。
当時の若者としては、けっして珍しいことではなかった。
集団就職という言葉も、まだ残っていた。

が、今の若い人たちに、こんな話をしても、だれも信じない。
私の息子たちですら、信じない。
そんなことを口にしようものなら、反対に、「パパは、ぼくたちにも同じことを
しろと言っているのか」と、やり返される。

 実際に、そんなことを言ったことはないが、返事は容易に想像できる。
だから言わない。
言っても、無駄。

 が、今はそれが逆転している。
親が子どものめんどうをみる時代になった。
なったというよりは、私たちが、そういう時代にしてしまった。
飽食と少子化。
ぜいたくと繁栄。
それが拍車をかけた。

●翌、10月29日

 チケットを購入し、今、11番ゲートの出発ロビーにいる。
昨夜のんだ、頭痛薬のせいと思う。
今朝から軽い吐き気。
私はミネラルウォーターを飲む。
ワイフは横でサンドイッチを食べている。

 どうやら飛行機は、定刻どおり離陸するらしい。
うしろ側にモニターがあって、飛行機の発着状況を知らせている。
今のところ「欠航」という文字は見えない。
だいじょうぶかな?
台風14号は、どうなっているのかな?

 B777は、大型飛行機。
その中でもB777−300。
日本では、最大級の飛行機。
ジャンボと呼ばれた747よりも、実際には大きいという。
風にも強いとか。

 しかしこわいものは、こわい。
この体のこわばりが、それを示している。
恐怖症による、こわばり。
体が固まっている!

●ラウンジで

 ワイフが席にもどってきた。
あれこれしゃべったあと、また席を立った。
もどると、私のシャツのシミを拭き始めた。
「白いシャツだと、目立つから……」と。

 「搭乗手続き中」の表示が出た。
那覇行き、903便。
だいじょうぶかなあ……?

●離陸

 飛行機がスポット(駐機場)を離れたとき、熱い涙が何度も、頬を流れた。
同時に息子の子ども時代の姿が、あれこれ脳裏をかすめた。
「走馬灯のように」という言い方もあるが、走馬灯とはちがう。
断片的な様子が、つぎつぎと現れては消えた。

 最初は、息子が私のひざに抱かれて笑っている姿。
生まれたときは、標準体重よりかなり小さな赤ん坊だった。
だから私は息子を、「チビ」とか、「チビ助」とか呼んでいた。
それがそのあと、「ミニ公」となり、「メミ公」というニックネームになった。

 つぎに大きなおむつをつけて、かがんでいる姿。
どこかの田舎のあぜ道で、道端を流れる水をながめている。
オタマジャクシか何かを見つけたのだろう。
息子はその中を、じっと見つめていた。

 そのメミ公が、私の身長を超えたのは、中学生になるころ。
今では180センチを超える大男になった。

 ……先ほど通路を通るとき、私たちを見つけたらしい。
左の席にいた機長が何度も、頭をさげてくれた。
私は思わず、親指を立て、OKサインを出した。

 私は、飛行機が空にあがると、息子が航空大学時代に送ってくれた学生帽を
かぶりなおした。
金糸で、それには「Hiroshi Hayashi」と縫いこんであった。

●白い雲海

 シートベルト着用のサインが消えた。
電子機器の使用が許可された。
私はパソコンを取り出した。
息子は今日から飛行時間を重ね、つぎは機長職をめざす。
いや、息子のことだから、それまでおとなしくしているとは思わない。
何かをするだろう。

 どうであれ、おそらく私はそれまでは生きていないかもしれない。
窓の外には白い雲海が広がっていた。
まぶしいほどの雲海。
台風14号の影響か、見渡す限り、雲海また雲海。
息子は毎日、こんな世界を見ながら仕事をするのだろうか。

●B777−300

 だれだったか、こう言った。
「これからは飛行機のパイロットも、バスの運転手も同じだよ」と。
しかしB777−300に乗ったら、そういう考えは吹き飛ぶ。
風格そのものがちがう。
飛行機は飛行機だが、B777−300は、さすがに大きい。
新幹線の1車両(普通車)は、90人(5人がけx18列)。
その約5〜6倍の大きさということになる。
それだけの大きさの飛行機が、機長と副機長という2人の技術だけで飛ぶ。

 国際線は何10回も利用させてもらったが、そんな目で見たことは、今回が
はじめて。
それに、ここまでくるのに、つまり航空大学校に入学してから、5年半。
ANAに入社した大学の同期は、すでに1〜2年前から、副機長として
飛んでいるという。

 パイロットという仕事は、そこまでの段階がたいへん。
またそのつど、感動がある。

 はじめてフライトしたとき。
はじめて単独飛行をしたとき。
はじめて双発機を飛ばしたとき。
はじめて計器飛行をしたとき。
はじめて夜間飛行をしたとき。
いつも「はじめて……」がつく。
今回は、副機長。
はじめての副機長。

●JAL

 飛行機に乗るなら、JALがよい。
けっしてひいきで書いているのではない。
訓練のきびしさそのものが、ちがう。
先ほど航空大学校の話を書いたが、卒業生でもJALに入社できたのは、3名だけ。
ANAも3名だけ。
そのあと、カルフォルニアのNAPA、下地島(しもじしま)での訓練とつづいた。

 外国のパイロットは、そこまでの訓練はしない。
退役した空軍パイロットが、そのまま民間航空機のパイロットになったりする。
会社自体は現在、ガタガタの状態。
しかしパイロットだけは、ちがう。
あるいはパイロットは全世界、同じと考えたら、大きなまちがい。
息子の訓練ぶりの話を聞きながら、私は幾度となく、そう確信した。

 みなさん、飛行機はJALにしなさい!
多少、料金が割高でも、JALにしなさい!
命は、料金で計算してはいけない。
たとえば中国の航空会社は、少しの悪天候でも、つぎつぎと欠航する。
夜間飛行(=計器飛行)もロクのできないようなパイロットが、国際線を
操縦している。
数年前、韓国の釜山で墜落した飛行機もそうだった。
パイロットには夜間飛行の経験がなかったという。
だからそうなる。

●アナウンス

 先ほど、息子がフライトの案内をした。
早口で、ややオーストラリア英語なまり(単語の末尾をカットするような英語)でも
話した。

 この原稿は息子にあとで送るため、気がついた点を書いてみたい。

(1)もう少し、低い声で、ゆっくりと話したらよい。
(2)「タービュランス(乱気流)」という単語が、聞きづらかった。
(3)こうした案内は、「Ladies & Gentlemen」ではじめ、必ず終わりに、「Thank you」
でしめくくる。

 早口だと、乗客が不安になる?
静かで落ち着いた口調だと、もっと安心する。
とくに今日は、台風14号の上空を飛ぶ。

●沖縄

 いつもそうだが、飛行機恐怖症といっても、飛行機に乗っている間は、だいじょうぶ。
離陸前、着陸時に緊張する。
それに先方の出先で不眠症になってしまう。
今回も、おとといの夜くらいから不眠症に悩まされた。

 今夜は沖縄でも、ハイクラスのホテルに泊まる。
ワイフが料金を心配していたが、私はこう言った。
「14万円もかけていくんだぞ。ビジネスホテルには泊まれない」と。

 1泊2日の旅行(?)だが、行きたいところは決まっている。
数か月前、沖縄に行ってきた義兄が、「こことここは行ってこい」と、あれこれ
教えてくれた。
そのひとつが、水族館。
ほかにショーを見せながら夕食を食べさせてくれるところがあるそうだ。
ワイフは、そこへ行きたいと言っている。

●オーストラリア

 飛行機に乗る前は、「家族もろとも、あの世行き」と考えていた。
しかしまだまだ死ねない。
やりたいことが山のようにある。
それにまだ若い。 
ハハハ。
まだ若い。

 ……今、ふと、オーストラリアに向かって旅だったときのことを思い出した。
離陸するとすぐ、BGMが流れ始めた。
その曲が、「♪アラウンド・ザ・ワールド」だった。
私はその曲を耳にしたとき、誇らしくて、胸が張り裂けそうになった。
1970年の3月。
大阪万博の始まる直前。
その日、私はオーストラリアのメルボルンへと旅立った。

 ……しかしどうしてそんなことを思い出したのだろう。
あのときもJALだった。
機種はDC−8。
香港、マニラと、2度も給油を重ねた。
つばさの赤い日の丸を見ながら、私は心底、日本人であることを誇らしく思った。

●台風

 再び息子が案内した。
「台風の上を通過するから、シートベルトを10分ほど着用するように」と。
とたん、飛行機が揺れ始めた。

 息子は英語で、「about ten minutes」と言ったが、こういうときオーストラリア
人なら、「approximately ten minutes言うのになあ」と思った。
どうでもよいことだが……。

息子はアデレードのフリンダース大学で、8か月を過ごしている。
オーストラリアなまりでは、「about」も、「アビャウツ」というような発音をする。
どうでもよいことだが、息子の英語は、どこか日本語英語臭い。
いつだったか、そんな英語で管制官に通ずるのかと聞いたことがある。
それに答えて、息子はこう言った。
「へたに外国なまりの英語を話すと、かえって通じないよ」と。

 そう言えば、こんな笑い話がある。

 たまたま息子が単独飛行を成功させたときのこと。
録音テープが送られてきた。
息子と管制官とのやり取りが録音されていた。
そのときたまたま二男の嫁(アメリカ人)と妹(アメリカ人)が私の家にいた。
そのテープを2人が何度も聴いてくれた。
が、そのあとこう言った。
「何を言っているか、まったくわからない」と。

 私には、よくわかる英語だったが……。

 息子も、こうした機内では、思い切って、オーストラリアなまりでもよいから、
外国調の英語を話したほうがよい。
そのほうが外人の乗客たちは安心する。

 ……こういう飛行機の中では、いろいろな思いがつぎからつぎへと出てきては消える。
やっと少し、気持ちが落ち着いてきた。
イヤフォンを取り出して、音楽を聴く。

●思い出

 あれから40年。
またそんなことを考え始めた。
羽田からシドニーまで。
往復の料金が、42、3万円の時代だった。
大卒の初任給がやっと5万円を超えた時代である。

 このところいつもそうだが、こうして過去のある時点を思い浮かべると、
その間の記憶がカットされてしまう。
あのときが「入り口」なら、今は「出口」。
部屋に入ったと思ったとたん、出口。
過去のできごとを思い出すたびに、そうなる。

 「これが私の人生だった」と、またまたジジ臭いことを考えてしまう。
白い雲海をながめていると、人生の終着点が近いことを知る。
ワイフには話さなかったが、今朝も、起きたとき足がもつれた。
自分の足なのに、その足に自信がもてなくなった。
40年前には、考えもしなかったことだ。

●機内で

 右横にワイフ。
いろいろあったが、機内で「死ぬときもいっしょだね」と言うと、うれしそうに、
「そうね」と言ってくれた。
がんこで、カタブツで、男勝りのワイフだが、はじめてそう言った。

 が、総合点をつけるなら、ほどほどの合格点。
何よりも健康で、ここまでやってこられた。
たいしたぜいたくはできなかったが、いくつかの夢は実現できた。
山荘をもったのも、そのひとつ。
やり残したことがあるとすれば、……というか、後悔しているのは、何人かの友と、
生き別れたこと。
とくにオーストラリア人のP君。
一度、謝罪の長い手紙を書いたが、返事はなかった。
そのままになってしまった。

 P君は生きているだろうか。
元気だろうか。

 ……どうして今、そんなことを考えるのだろう?
白い雲海が、どこまでもつづく白い雲海が、私をして天国にいるような気分にさせる。

●息子へ 
 
 私は約束を果たした。
同時に私のかわりに、私の夢をかなえてくれた、お前に感謝する。
長い年月だった。
あの山本さんと夢を語りあってから、43年。
山本さんは、JALの副機長として、ニューデリー沖の墜落事故で帰らぬ人となった。
いつか、お前も、インドへ飛ぶことがあるだろう。
そのときは、そこで最高の着陸をしてみてほしい。
最高の着陸だ。

 いつかお前が言ったように、そよ風に乗るように、着地音もなく静かに着陸。
逆噴射が止まったとき、飛行機は滑るようにランウェイを走り始める。
そんな着陸だ。
楽しみにしている。

●気流

 やはり気流がかなり悪いようだ。
下を向いてパソコンにキーボードを叩いていると、目が回るような感じになる。
飛行機はガタガタと小刻みに揺れている。
先ほどのアナウンスによれば、ちょうど今ごろ、台風の真上を通過中とのこと。
体では感じないが、かなり上下にも揺れているらしい。

 もうすぐ飛行機は那覇空港に到着。
電子機器の使用は禁止になった。
では、またあとで……。

●10月30日、那覇空港出発ロビー

 昨日は、那覇空港を出ると、そのまま沖縄観光に回った。
タクシーの運転手と、交渉。
貸し切りにして、1時間3000円見当という。
私は首里城。
ワイフはひめゆりの塔を希望した。

 ひめゆりの塔を先に回った。
それに気をよくしたのか、タクシーの運転手は、あちこちの戦争記念館を回り始めた。
旧海軍司令部壕、沖縄平和祈念資料館などなど。
かなりの反戦運動家とみた。
アメリカ軍の残虐行為、横暴さを、あれこれ話した。
「自粛なんてとんでもない。大規模なデモをしたりすると、その直後から、アメリカは
わざと大型の戦闘機を地上スレスレに飛ばすんだよ」と。

 沖縄の現状は、沖縄へ来てみないとわからない。
いかに沖縄が、日本人(ヤマトンチュー)の犠牲になっているか、それがよくわかる。
……というか、4時間近く運転手の話を聞いているうちに、私はすっかり洗脳されて
しまったようだ。

 「沖縄戦は悲惨なものだったかもしれませんが、問題は、ではなぜそこまで悲惨なもの
になったか、です。ぼくは、そこまでアメリカ軍を追い込んだ日本軍にも責任があると
思います」と。
運転手はさらに気をよくして、「そうだ、そうだ」と言った。
沖縄では、「反日」という言葉を使えない。
「反米」という。
しかしその実態は、「反日」と考えてよい。

 中国人や韓国人が内にかかえる、反日感情とどこか似ている。
「私たちは日本人」という意識が、本土の日本人より、はるかに希薄。
1人のタクシーの運転手だけの話で、そう決めてしまうのは危険なことかもしれない。
が、私は、そう感じた。

++++++++++++++++++++++++++++++++※

●夕食

 夕食は、息子を交えて、3人でとった。
国際通りの一角にある平和通り。
さらにそこから入ったところに、公設市場がある。
魚介類が生きたまま並べてある。
そこから自分の食べたい魚や貝、カニやエビを選ぶ。
それをその上の階の食堂で、料理してもらい、食べる。

 台湾や香港で、そういう店によく入ったことがある。
というか、売り場の女性をのぞいて、従業員は日本語が通じない人たちばかりだった。
私は店の女性と交渉して、3人前で6000円になるようにしてもらった。

 で、話を聞くと息子はこう言った。
「何も届いていない」と。

 私が書いたはがきも、メールも、何も届いていない、と。
???
息子は「住所がちがっていたのでは?」と数回、言った。

息子が、私のはがきやメールを無視したのではなかった。
音信が途絶えたのではなかった。
何かの理由で、行き違いになったらしい。
それを聞いて、半分、ほっとした。
心の中の塊が、スーッと消えていった。

●ロアジール・スパ・ホテル

 泊まったのは、ロアジール・スパ・ホテル。
沖縄でも最高級のホテルという。
知らなかった!
新館は2009年にオープン。
その新館。
あちこちのホテルや旅館に泊まり歩いてきたが、まあ、これほどまでに豪華な
ホテルを、私は知らない。

 昔はヒルトンホテルとか、帝国ホテルとか言った。
東京では、いつも、ホテル・ニュー・オータニに泊まった。
あのときはあのときで、すごいホテルと思った。
しかし今ではその程度のホテルなら、どこにでもある。
が、ロア・ジール・スパ・ホテルは、さらに格がちがった。
驚いた!

 チェックインも、ふつうのホテルとは、ちがった。
ロビーのソファに座りながらすます。
飲み物を口にしていると、若い女性が横にひざまづいて、横に座った。
そこで宿泊カードに記入。
それがチェックイン。

部屋に入ったとたん、ワイフはこう言った。
「こんなホテルなら、一週間でもいたい」と。

 人件費が安いのか、いたるところに職員を配置している。
そのこともあって、サービスは至れり尽くせり。
なお「ロア・ジール」というのは、フランス語で、「レジャー」という意味だそうだ。
温泉の入り口にいた、受付の女性が、そう教えてくれた。

●沖縄

 沖縄を直接目で見て、「ここが昔から日本」と思う人は、ぜったいに、いない。
首里城を見るまでもなく、沖縄はどこからどう見ても沖縄。
沖縄というより、台湾。
台湾の文化圏に入る。
もう少しワクを広げれば、中国の文化圏。
どうしてその沖縄が、日本なのか?
ふと油断すると、「ここは台湾か?」と思ってしまう。

 平たい屋根の家々。
平均月収は東京都の2分の1という。
町並みも、どこか貧しそう。

 現代の今ですら、そうなのだから、江戸時代にはもっと異国であったはず。
沖縄弁にしても、言葉はたしかに日本語だが、発音は中国語か韓国語に近い。
それについての研究は、すでにし尽くされているはず。
素人の私が言うのもおこがましいが、もちろん九州弁ともちがう。

●沖縄戦

 沖縄戦の悲惨さは、改めて書くまでもない。
つまり先の戦争では、沖縄が日本本土の防波堤として、日本の犠牲になった。
その思いが、先に書いた「反日」の底流になっている。
「ひめゆりの塔」が、その象徴ということになる。

 が、実際には、沖縄がアメリカ軍によって南北に二分されたとき、北側方面に
逃げた人たちは、ほとんどが助かったという。
南側方面に逃げた人たちは、ほとんどが犠牲になったという。
その原因の第一が、あの戦陣訓。
「生きて虜囚の……」という、アレである。
「恥の文化」を美化する人も多いが、何をもって恥というか。
まっとうな生き方をしている人に、「恥」はない。

で、有名な「バンザーイ・クリフ(バンザーイ崖)」というところも通った。
アメリカ軍に追いつめられた住民が、つぎつぎとその崖から海に身を投げた。
が、今は、木々が生い茂り、記録映画などの出てくる風景とはかなりちがう。
それをタクシーの運転手に言うと、運転手はこう教えてくれた。

「それ以前は緑豊かな土地でした。雨あられのような砲弾攻撃を受けて、このあたりは、
まったくの焼け野原になってしまったのです」と。

 戦争記念館には、不発弾の様子がそのまま展示してあった。
畳10畳ほどの範囲だけにも、不発弾が4〜5発もあった。
うち一発は、250キログラム爆弾。

 不発弾というのは、そうそうあるものではない。
つまりそれだけ爆撃が激しかったことを意味する。
あるところには、こう書いてあった。

 爆破された塹壕をのぞいてみると、兵隊や女子学生のちぎれた肉体が、
岩の壁に紙のようになって張りついていた、と。

●国際通り

 国際通りを歩いて、驚いた。
店員という店員が、みな、若い。
20代前後。
活気があるといえば、それまでだが、同時にそれは若者たちの職場がないことを
意味する。
職場があれば、こんな街頭には立たない。
日本よ、日本企業よ、外国投資もよいが、少しでも愛国心が残っているなら、
沖縄に投資しろ!

 その国際通り。
そこには、本土では見たこともないような商品が、ズラズラと並んでいた。
ワイフは「外国みたい」と、子どものようにはしゃいでいた。
 
●ホテルへ

 息子とは国際通りで別れた。
私とワイフはそこからタクシーに乗り、ホテルに戻った。

 温泉に入り、息抜き。
そのころから私に異変が置き始めた。
飛行機恐怖症という異変である。
体が固まり始めた。
ザワザワとした緊張感。
同時に孤独感と、虚無感。

 外国ではよく経験する。
しかしここは「日本」。
「心配ない」と、何度も自分に言い聞かせる。

●孤独

 不安と孤独は、いつもペアでやってくる。
こういう離れた土地へやってくると、私はいつも、そうなる。
不安感が孤独を呼ぶのか。
孤独が不安を呼ぶのか。
横にワイフがいるはずなのに、心の中をスースーと隙間風が吹く。
なぜだろう?
どうしてだろう?
老齢のせいだけではない。
私は若いころから、そうだった。

 横を見ると、ワイフは寝息を立てて、もう眠っていた。

●10月30日

 午前中、再び国際通りを歩いてみた。
昨夜、カメラをもってくるのを忘れた。
それで再び、国際通りへ。

 「やはり夜景のほうがよかった」と私。
昼間の国際通りも悪くはないが、異国風という点では、夜景のほうがよい。
私は国際通りを歩きながら、片っ端からデジタルカメラで写真を撮った。

●虹の川

 沖縄へ向かうときも恐ろしかった。
しかし帰るときは、もっと恐ろしかった。
ちょうどその時刻。
台風14号は、羽田にもっと接近していた。

 飛行機は大きく揺れた。
が、息子のアナウンスが、私たちを安心させた。

「落ち着いた声で、ゆっくりと話せ」と、昨夜、父親らしく(?)、指導した。
「あのな、ぼくのように飛行機恐怖症の人も多いはず。そういう人たちに安心感を
与えるような言い方をしなければいけない。若造の声で、ぺらぺらとしゃべられると、
かえって不安になる」と。

その効はあったよう。
息子は、昨日より、ずっとじょうずにアナウンスした。
静かで、落ち着いた声だった。

 ……帰る途中、私たちはこんな景色を見た。
雲海が鏡のように平らになったところへやってきた。
静かな海のようにも見えた。
そのときのこと。
その中央に、縦に虹の川が現われた。
虹の川だ。
7色の帯になった川だ。
それはこの世のものとは思われぬ光彩を放っていた。
「ほら!」と声をかけると、ワイフがワーッと歓声をあげた。
あげたまま黙ってしまった。
時間にすれば10分ほどだっただろうか。
私たちはそれが消えるまで、窓に顔をつけてそれを見守った。

 「きっと天国というのは、あんなところにちがいない」と、何度もそう思った。
「あるいは墜落する前に、神様が天国を見せてくれたのかもしれない」とも。
私は夢中で、デジタルカメラのシャッターを切った……。
(写真は、この原稿をマガジンで発表するとき、添付します。)
 
 飛行機は何度か大きく揺れたが、無事、羽田空港に着陸した。
さすがB777−300。
安定感がちがう。
それ以上に、操縦がうまかった。

●品川から浜松へ
 
 品川から京急線で、18分。
羽田がぐんと便利になった。
しかしこんなことは、40年前にしておくべきだった。
おかしなところに国際空港を作ったから、日本の航空会社は、世界の航空会社に
遅れをとってしまった。
アジアで今、ハブ空港といえば、韓国の仁川か、シンガポールのチャンギ。

 成田空港がいかに不便なところにあるかは、外国から成田空港に降り立ってみると
よくわかる。
がんばれ、羽田!
往年の栄華は無理としても、少しは取り返せるはず。

●帰宅

 無事、帰宅。
あまり楽しい旅行ではなかった。
息子に会ったときも、さみしかった。
別れたときは、もっとさみしかった。

 ワイフに、「これからは2人ぼっちだね」と言うと、「うん」と言って笑った。

「健康だ、仕事がある、家族がいるといくら自分に言って聞かせても、健康も
このところあやしくなってきた。仕事も年々、低下傾向。今では家族もバラバラ」と。
電車の中でそんな話をすると、ワイフは、こう言った。

 「だからね、あなた、私たちはね、これからは自分のしたいことをするのよ」と。

 ワイフのよい点。
いつも楽天的。
ノー天気。
ものごとを深く考えない。
「この人はいいなあ」と、すっかりバーさん顔になったワイフを横から見ながら、
そう思った。

 以上、沖縄旅行記。
おしまい。

はやし浩司 2010−10ー31記

(補記)

【息子のBLOGより】2006−10ー27

●三男のBLOGより

++++++++++++++++++

三男が、仙台の分校に移った。
パイロットとしての、最終訓練に移った。

操縦しているのは、あのキングエアー。

MSのフライト・シミュレーターにも、
その飛行機が収録されている。

文の末尾に、キングエアーの機長席に座る
友人を紹介しながら、
「このコクピットに、ようやくたどり着きました」と
ある。

++++++++++++++++++

【仙台フライト課程】

 1年と半年前、パイロットのパの字も知らなかった僕が、宮崎に来
て、最初に出会った先輩が、まさにその時、宮崎フライト課程を修了
し、仙台へ旅立とうとしていたところだった。その口から発せられる
意味不明な単語の羅列。本気で同じ国の人とは思えなかった。中には
僕よりも年下の先輩もいたが、その背中はとてつもなく大きく、遠い
ものに感じられた。そこまでたどり着く道のりが、果てしなく長く、
険しいものに感じられた。

 あれから、色んなことがあった。毎日が、これでもかと言わんばか
りに充実していた。すごい勢いで押し寄せては過ぎ去っていく知識と
経験の波にもまれ、その一つ一つを逃さぬように両手を一杯に広げ、
倒されぬよう走り続けて来た。

初めて飛んだ帯広の空。細かい修正に苦労した宮崎の空。教官に叱咤
激励され、同期と切磋琢磨し、涙を流したことも数知れず。楽しかっ
たが、決して楽な道のりではなかった。その間に垣間見た、キングエ
アと仙台の空の夢。フライトを知れば知るほど、遠くなって行くよう
な気がしていた。途方に暮れてうつむくと、そこには誰かの足跡が。
そう、あの時見た先輩たちの足跡だ。大きく見えた先輩たちも、この
細く曲がりくねった道を一歩ずつ這い上がって来たのだ。

 そして今日、僕は、空の王様、キングエアと共に再び空へ飛び上が
った。ずっと想像していただけの景色が、現実にそこに広がっていた
。コクピットに座り、シートベルトを締め操縦桿を握ると、ハンガー
の向こう側から1年前の僕が見ている気がした。あの頃の僕の憧れに
、ようやくたどり着いたのだ。先輩たちが踏み固めてくれたあの道は
、確かに、この空に続いていたのだ。

人は成長する。それを強く実感した一日だった。毎日、少しずつでも
いい。前進し続けること。小さな成長を実感し続けること。時々、何
も変わっていないじゃないかと失望することがあるかもしれない。そ
れでも、諦めないこと。そうすることで人は、自分よりも何百倍も大
きかった夢を、いつの間にか叶えることが出来る。そういう風に、出
来ているのだ。努力は必ず報われる。

 最高の教育と、経験と、思い出を、僕は今ここで得ている。一つも
取りこぼしたくない、宝石のような毎日だ。

このコクピットに、ようやくたどり着きました。

(以上、原文のまま。興味のある方は、ぜひ、息子のBLOGを訪れ
てやってみてください。私のHPのトップ画面より、E・Hayas
hiのWebsiteへ。)

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

********************

【ようこそハナブサ航大日記へ】

 航空大学校は、国が設置した唯一の民間パイロットの養成学校で、宮崎に本校が置かれ
ています。入学するとまずこの宮崎本校で半年間座学を行い、その後帯広分校に移って初
めて自分の手で飛行機を操縦します。

半年後、自家用レベルまで成長した訓練生たちは再び宮崎に戻り、宮崎フライト過程へと
進みます。ここでは事業用レベル、つまりプロになるための訓練を行います。半年後、宮
崎を卒業し、最終過程が行われる仙台分校へ移動、より大きな飛行機への移行訓練、及び
計器飛行証明という資格を取るための訓練に入ります。

同時にエアラインへの就職活動も始まり、卒業後はJAL,ANA,ANK,JTAなどの会社へパイ
ロットとして就職します。仙台過程も半年間行われます。

 在学期間は計2ヵ年。その間、航大生(航空大学校生)は校舎に併設された寮で、同期
や先輩・後輩たちと過ごします。部屋はすべて2人部屋。宮崎過程では先輩、後輩の組み
合わせで、それ以外は同期同士の組み合わせで寝食を共にします。校舎は空港に隣接され
ており、宮崎、帯広、仙台とも、滑走路から「航空大学校」と書かれた倉庫が見えるはず
です。同期は18人。毎年72人の募集があり、4期に分かれて4月、7月、10月、1
月にそれぞれ入学します。

 ハナブサ航大日記では、ここ航大での生活を写真を通して紹介しています。僕にとって
は初めての寮生活、同期や先輩・後輩や教官のこと、訓練の様子、空からの眺め、フライ
ト中に思ったこと、などなど。訓練は厳しく、付いていくのがやっとですが、同期と助け
合い、試験に見事合格したときの喜びは何にも替えがたいものがあります。

またどんなに訓練が大変でも、それを忘れさせてくれる美しさが空の上にはあります。そ
れを伝えたい。また、何でもない一人の人間がどのようにして一人前のパイロットになっ
ていくのか、何を考え、どう変わっていくのか。その過程を楽しんでいただければ幸いで
す。ときどき関係のないことも書きますが、ご容赦ください。どうぞ、楽しんでいってく
ださい。

 ちなみに自分は1981年生まれの今年25歳。航大へは去年の4月に入学し、現在仙
台フライト過程です。卒業まで、あと少し!


++++++++++++++++++++++++

●2005年3月・入学

 航大に入学して今日で3日目。同期は口をそろえ、まだ3日しかいないのに、もう何週
間もここにいる気がすると言う。自分もそう感じる。ここ航空大学校は、本当に厳しく、
本当にすごいところだ。

 入寮した日、先輩方から手厚い歓迎を受けた。その歓迎方法は、残念ながらある理由に
よりここで書くことはできないが、「けじめ」と「親しみ」を同時にしっかり学ぶことがで
きる、伝統的な
すばらしい儀式だった。同期たちとは時間が進むにつれ、どんどん深くなって行っている。
こんなに人と深くなれるのは、後にも先にもこれだけだと思う。みんなほんとにいい人た
ちばかりで、今までの自分、人間関係っていったい何だったんだと疑問に思うくらいだ。

 はっきり言って感動しているのだろうか。今のこの心境を語るには、もう少し時間が必
要だ。明日から授業が始まるので、今夜はもう寝よう。

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●2005年4月

 制服も来たので、同期全員でハンガーに行って写真を撮ろうということになった。ホー
ムページ用のプロフィール写真もそろそろ撮り始めたかったので、個人撮影も兼ねて一同
ばっちり決めていった。初めてのハンガー&エプロンは、まじやばくて、みんな大興奮。
やっぱみんな飛行機好きなんだね。滑走路がもう目と鼻の先で、MDやB3の離陸、着陸
にみんな釘付けになっていた。近くで見るボナンザは思った以上に大きくて、そして美し
くかっこいい。乗れるのはまだまだ先だけど、今は座学を一生懸命頑張って、「生きた知識」
をたくさん帯広に持っていこう。

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●2005年6月

航空機システムの時間に、聞きなれない飛行機の音。休み時間に外に出てみると、宮崎空
港に航空局のYS−11が来ていた。かっこいい。既に先輩が退寮されていたので、教官
にお願いして滑走路が見える側の教室に移動して授業をやってもらった。99.999%
授業に集中して、残りの0.001%でYS−11を横目でちらちら。プロペラが回り始
め、地上滑走、そして離陸・・・。ロールスロイスの音は気品があって、何かいい。

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●2005年7月

 本日昼頃、宮崎空港に政府専用機が来た。政府専用機といえば、アメリカで言ったらエ
アフォース・ワン。政府要人を乗せるための専用機なのだが、今回は首相などは乗ってい
ない。訓練のため、宮崎空港でタッチアンドゴーをし、フルストップし、そして帰ってい
った。B4のタッチアンドゴーなんて、なかなか見られるものではない。

訓練とはいえ、あの飛行機のコクピットには、日本一のパイロットが乗っていたに違いな
い。自分たちはあの飛行機を運転する機会はないだろうが(絶対とは言い切れないが)、民
間機パイロットとして、政府専用機のパイロットと同じくらい「すごい」パイロットには
なれるはず。頑張ろう!

 ちなみにコールサインは、シグナス(?)・ワンだった。中はいったいどうなっているの
だろうか。

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●2005年7月

最近、毎週のようにテストがあって、なかなかやりたいことができない。今やりたいこと
(1)ラジコンを飛ばしたい、(2)カラオケに行きたい、(3)映画を見たい(見たい映
画が5個くらいある)、(4)山に登りたい、(5)一日中同期とHALOやりたい、(6)
本を読みたい、など。HALOというのは、ネット対戦型ゲームで、広めてから3ヶ月く
らい経つが、未だに健在。熱しやすく冷めやすい1-4にしては珍しいことだ。

 いよいよ一週間を切った事業用の試験の勉強もままならず、ATCの試験やら、実験の
レポートやらが山積み。ワッペンやTシャツのデザインも考えなくちゃ。お盆休みに帰る
用の航空券も、帰りの便がまだ取れていないし、事業用が終わってもレポート、試験が3
つくらい、そして何より、プロシージャーという恐ろしい課題が首を長くして待っている。
いったい、我々に休みというものは存在するのだろうか。

・・・いや、何を甘ったれたことを言っている。同年代の人たちはもう社会に出て働いて
いるというのに、まだ社会の「しゃ」の字も知らないものが「辛い」などという言葉を口
にするなんて、おこがましい。

 クーラーのあたりすぎか、今日は一日風邪っぽかった。鼻水が止まらない。休憩時間に
寮にもどって仮眠してたら、授業に遅刻してしまった。そういえば関東には台風が来てい
るらしい。こないだ大きな地震もあったし、心配だ。

 夏休みに入って、宮崎空港には777が来るようになった。11時15分くらいに来て、
12時過ぎに飛び立っていく。こないだは777に代わって-400が来ていた。空港に不
釣合いなほどでかかった。エンジンが滑走路からはみ出ていて、普段はジェットの後流を
受けないところの地面の噴煙を巻き上げながら離陸していく姿は圧巻だった。改めて、「ジ
ャンボ」というものはすごいと感じた。

 こないだの週末にはCップの彼女さんが宮崎に遊びに来ていた。日曜の夜にみんなで飲
んで、花火をやった。

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●2005年7月

 2003年7月11日、航空大学校のビーチクラフトA36(JA4133)が、エン
ジントラブルで宮崎市内の水田に墜落した。

 搭乗していた4名は3名死亡、1名重症の事故となった。

 今日は、校内の慰霊碑「飛翔魂」に前で、慰霊祭が執り行われた。学生は全員参列し、
事故が発生した午後4時2分、1分間の黙祷を捧げたのち、献花した。

 エンジンが停止してから、墜落までの5分間、機内は壮絶としていたそうだ。眼下に猛
烈な勢いでせまってくる地面を、どんな思いで見ていたんだろう。今日の天気は曇り、風
はやや強く、蒸し暑い日だった。いろんなことを考えたが、思いを言葉にするよりも、今
日のこの空気の感じ、風の匂いを忘れないようにしようと思った。

 亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

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●2005年12月

目安の高度よりも若干低めでファイナルターンを開始する。滑走路と計器を交互にクロス
チェックしながら、パスが高いか低いか判断する。高度が低かったせいで、旋回開始前か
らPAPIは2RED。スロットルをちょっと足して、ピッチを指一本分くらい上げる。滑走
路が目の前に来て、ロールアウト。気温が低く、エンジン出力が増加するため、目安の出
力ではスピードが出すぎてしまう。90ノットを維持できずに、速度計は95ノット近辺
をフラフラ。気をとられてるうちに、エイミングがずれる。

 「エイミング!」

 右席から激が飛ぶ。あわててピッチとパワーを修正する。

 「何か忘れてるものはないか!?」

 ラダーだ。教官がこういう言い方をするのは、ラダーのことを言うときだ。僕はいつも
ラダーを忘れてしまう。ボールを見ると、大きく右に飛んでいる。右足にほんの少し力を
入れて、機軸をまっすぐに直す・・・。

 教官と、最後の着陸。いつもとなんら変わりのない着陸。最後だから、今までで一番う
まい着陸を見せたかった。でもやっぱりいつもと同じことを言われてしまう。そんな自分
が歯がゆくて、悔しくて、情けなくて、でもそういう感情を押し殺して、冷静に、「落ち着
け」と何度も唱えながら、僕は教官を滑走路まで連れて行く。スレショールドまで、あと
900m。

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●2005年12月

 今週は午後フライト。乗るはずだったJA4215が突然スタンバイに。原因は一本のボ
ールペン。午前にこの機体で訓練していた学生が、ボールペンを機内に落として紛失した。
そのペンが見つかるまで、僕たちはこの機体を使うことはできない。JAMCO(整備)さん
がいくら探しても見つからないので、結局飛行機の床を剥がすことに。最終的に見つかっ
たのかどうかはさだかではないが、とりあえず4216が空いていたので、訓練はそっち
で行った。 

 なぜたかがボールペン一本にここまで執着するのだろうか。それにはちゃんと理由があ
る。
もしそのボールペンがラダーペダルの隙間にはまり込んでいたらどうなるか。ラダーが利
かなくなる。それ以外にも、思わぬところに入り込んで安全運航に支障をきたしかねない。
ボールペン一本くらいいいや、という甘えが、命取りになりかねないのだ。ちなみに、何
かがはまりこんでラダーが利かなくなった事件は、実際航大の訓練機で過去に起こってい
る。

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●2006年2月

 Y教官が班会を開いてくれた。Y教官は帯広分校の中で、1,2を争う厳しい教官だ。で
もその厳しさの裏側には、愛がある。当たり前のことかもしれないが、そのことを強く再
確認できた、すばらしい班会であった。

Y教官は防衛庁出身で、当時の訓練の話などをたくさん聞くことができた。教官の時代から
航空界は大きく変わってきたが、その中でも変わらないものを教官の中に見つけることが
できた。パイロットの世界を言葉で表現するにはまだ経験が浅く難しいが、独特の世界感
が確かに存在する。職人の世界であり、それでいてチームワークの世界でもあり・・・。
教官は3人の娘さんがいるが息子さんはいない。だから僕たちのことを息子のようだ、と
言ってくれた。僕もこのパイロットの世界の一員なんだなぁと実感し、嬉しくなった。

 町のK居酒屋はパイロットがよく集まるお店だ。航大の教官もよく訪れると言う。実は
この店の主人も飛行機好きで、仕事の傍ら、近くの飛行場で免許のいらないウルトラライ
トプレーンという種類の飛行機を飛ばしているんだそうだ。Y教官もよく乗りに行って、そ
の主人に「フレアが足りない」などと指導されてしまうんだそうだ(Y教官の飛行時間は1
万時間を超えている)。

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●2006年2月

 空を飛ばない人にとって、飛行機は「ただの騒音」以外何物でもない。周辺の人が一人
も不満を持っていない空港なんて、世の中にはない。飛行機が大好きな僕たちでさえ、と
きどき五月蝿く感じることがあるのだから、地上で静かな生活を送りたいと思っている人
たちにとっては、大変な被害となっているに違いない。ハエのように、手で払いのけたり、
殺虫剤を使うわけにもいかない。ストレスも溜まるだろう。

 地上の人が知っているかどうか知らないが(気づかれないようにする配慮なので、知ら
ないはずか)、僕たちはできるだけ地上の人に迷惑がかからないような飛び方に心がけてい
る。プロペラ機は回転数を落とすと音が静かになるので、対地1500ft以下ではプロ
ップをしぼる。その分、当然出力は落ちる。また、低空飛行訓練は人家のほとんどないエ
リアを選んで、そこから出ないようにしながら行っているし、もっとも、町の上は飛ばな
いようにしている。十勝管内には既に騒音注意地域が数箇所あり、その上空は通過しない
ようにしている。機長は、乗っている人のことだけを考えればいいというわけではないの
だ。

 それでも、苦情は届けられる。航法を行うためのスタート地点によく指定される町があ
って、そこの上空でぶんぶん発動(スタート)しまくっていたら、付近の牧場から牛に悪
影響が出たと苦情が入った。急遽、その町上空の低高度通過などが禁止された。

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●2006年4月

 何にもない帯広にいた頃のほうが、毎週末何か見つけて出かけていたような気がする。
帯広に比べたら何でもあるこっち(宮崎)では、金曜の夜はそれなりにでかけるものの、
土日は部屋でだらだらして、夕方くらいに後悔が始まって、焦ってイオンに行ったりする。
何かないかなぁ。暇・・・。

 宮崎はほんと天気が悪くって、先週は5日間あるうちの1日しか飛べなかった。海に近
いせいか、風の強い日が多い。おとといは45kt(時速83km以上)の風が吹き荒れ
ていた。風に向かって対気速度一定で飛んでいくと、対地速度は風の分だけ遅くなる(飛
行機は対気速度が重要)。だから、風の強い日のライン機の離陸はおもしろい。でっかい鉄
の塊が、びっくりするくらいゆっくりゆっくり上昇していく。

 飛行機の操縦を何かにたとえるとすると、何になるのだろうか。車で高速道路を一定の
速さで走りながら、誰かと重要な話を電話でしつつ、クロスワードパズルを順番に解いて
いくようなものだろうか。僕たちが上空でしていることを列挙していくと、まず諸元の維
持(スピード、高度、進路、姿勢を変わらないように止めておくこと;上昇や降下、増速・
減速のときは別)、ATC(管制機関との交信)、機位(現在地)の確認、見張り・周りの状
況把握(他の飛行機はどこを
飛んでいるのかとか、空港は今どんな状況なのかとか)、運航(経済性、効率性、安全性、
快適性、定時性)、乗客への配慮、あとは教官に怒られること、など。もちろん、これらを
同時にこなすことなんて不可能だから、優先順位をつけて、一つずつ消化していく。何か、
パズルみたいでしょ。

 こんなことを考えている間に、外はもう日が傾き始めてる。やばい、イオンにでも行か
なくちゃ!写真はFTD(シミュレーター:通称ゲーセン)。前方のスクリーンに景色が映し
出され、様々な状況(エンジンが止まったとか、ギアが出ないとか)を模擬的に作り出し
て体験することができる。

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●2006年7月

 6月が終わる。今月の飛行回数、わずか5回。時間にすると6時間ジャスト。梅雨だけ
のせいではない。

 6月最後の今日の天気は曇り。梅雨前線は北上し、九州の北半分は朝から絶望的。午後
には南側にも前線の影響が出始めるという予報だったが、今日は何が何でも飛ぶ!とSぺ
ーと固く誓い合い、種子島へのログ(飛行計画)を組む。午前10時。

 午前11時30分。ブリーフィングの準備開始。種子島空港に電話して、スポット(駐
機場)の予約を入れる。何でも、自衛隊が14時20分までスポットを占有しているらし
く、それ以降でないと駐機できないとのこと。しかたなく14時40分からスポットを予
約。出発を遅らせるしかない。こっちが到着するころに、自衛隊機が一斉に飛び立ってい
くのが見られるかもしれない。

 正午過ぎ、整備のJAMCOさんがシップの尾翼のあたりを脚立を使ってなにやら調べ
ているのが気になる。ブリーフィングの準備は整い、教官が来るまでのわずかな間に、も
う一度イメージトレーニング。ランウェイは09。高度は8500ft。あの雲を超えら
れるかな・・・観天望気のため外に出て、空を見上げる。行けそうだ。行こう。飛ぼう。

 午後12時半、帯広で尾翼のVORアンテナが脱落したという報告が入る。宮崎のシッ
プもチェックしてみたら、アンテナにひびが入っていたものが3機ほど見つかる。他のシ
ップにもチェックが入るため、僕らのシップは試験を目前に控えた先輩に回されてしまう。

 完璧に準備されたブリーフィング卓の前で呆然とする3人。教官が入ってきて、「何かシ
ップないみたいよ〜」と。拍子抜け。5〜6分、立ちブリーフィング。あまり飛びたくな
いときに飛ばされて、ほんとうに飛びたいときに飛べない。その気持ちの切り替えが、パ
イロットに課せられた課題の一つなのだ。こういうこともある・・・。

 先週は別の故障でシップが2〜3機足りず、キャンセルになっていたこともあった。シ
リンダーにクラックが見つかったとか、バードストライク(鳥と衝突)したとか。どうな
るんだろう、この学校・・・。でも、もうすぐ死ぬほど飛べる日々がやって来るんだろな。
地上気温、30度。8500ft上空、気温13度。とりあえずプール行こう。

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●2006年9月

前段。それは飛行機を、最初に空へ上げる人。誰よりも早く飛行機に乗り込む人。

 透き通った青い空のもとに置かれたピカピカの飛行機へ足早に向かう。目に映るのはボ
ナンザと、その向こうに広がる誘導路と滑走路、そしてそこを疾走してゆく大型旅客機だ
け。心地よい向かい風を肩で感じながら、次第に時間がゆっくりになっていくのを確かめ
る。一瞬一瞬が輝き始める。集中力が僕に呼びかける。そうだ、今日も飛ぶんだよ、と。

 どこから見ても本当に美しい機体。その表面を撫でて何かを確かめる。包み込まれるよ
うに優しく乗り込んで操縦桿を握ると、僕が飛行機の一部なのか、飛行機が僕の一部なの
かわからなくなる。そこから見える景色は、いつもと同じ景色でもあり、まったく違う景
色でもある。これは現実なのか、夢なのか。考えている間に手がひとりでに動き出す。流
れるようなプロシージャー。それはまさに音楽。飛行機が生まれ変わってゆく。

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●2006年9月

C'Kの1週間くらい前から、左目の目じりがずっと痙攣している。C'Kが終わった今でも、
それは続いていて、秋雨前線の雲に覆われたこのところの空のように、気分はどうもすっ
きりしない。

 C'K当日の朝も、空ははっきりしない雲に覆われていた。C'Kを実施するにはあまり好ま
しくない天気だが、とにかくこの日にC'Kを終わらせたかったので、最後の最後まで悩ん
だ挙句、行く決断をした。試験官との相性というものがあって、自分はI教官にぜひ見ても
らいたかった。この日以降、I教官は休みに入ってしまう予定だった。

 出題されたコースは、南回りで鹿児島。鹿児島は苦手意識が強く、できれば行きたくな
かった空港だ。C'Kの神様は本当によく見ている。大島、枕崎、鹿児島city、鹿児島空港、
坊ノ岬、都井岬、白浜。

 上がってみると、案の定コース上は雲だらけ。計画をどんどん変更し、上がっては下が
り、右に避けては左に戻り、視程の悪い中、必死に目標を探す。岬だの、駅だの、石油コ
ンビナートだの。鹿屋空港上空を通過後、エンジンフェイル(シミュレート)。『鹿屋空港
に緊急着陸します!』でケースクローズ(課題終了)。枕崎変針後、雲は一段と低く、多く
なってきて、鹿児島cityまでに2000ft、スパイラルで降下(螺旋降下)。鹿児島離陸
後は雲の袋小路に入り込み、管制圏すれすれを迷走。帰りの鹿屋上空で大雨。もうめちゃ
くちゃだった。泣きそうだった。何度ももう止めたいと思った。

 でも、頑張った。

 天気の悪い日は出来る限り飛ばないほうがいい。でも、得るものが多いのも、自信がつ
くのも、天気の悪い日だ。最後のVFRナビゲーションで今までで1、2を争う天気の悪さ
の中を飛んで、無事合格して、大きな大きな自信が身についた気がする。できればもう一
度、飛びたいと思った。

 学歴は大学中退、これといった資格のなかった僕が、事業用操縦士になった。つまり、
飛行機を操縦することによりお金を稼ぐことができるようになったということだ。総飛行
時間145時間、総着陸回数324回。短いようで、長い長い1年間だった。

 今の僕は、JISマーク付きのイスみたいなものだ。一定の安全基準を上回っただけの操縦
士。ちょっと行儀の悪い子供が座ったり、ゴツゴツしたところに設置されたりすると、ボ
キっといってしまう、まだひ弱なイスだ。『ミニマムのプロ』。I教官の講評。そう。ここが、
新しいスタートだ。

 協力してくれた同期のみんな、応援してくれたみんな、どうもありがとう。Finalも頑張
ります。

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●2006年11月

 仙台課程では、取得しなければならない資格が2つあり、それに加えエアラインへの就
職活動も並行して行われる。これが、仙台課程が大変だといわれる所以である。

 航大生だからといって、卒業後、自動的に各エアラインに就職できるわけではない。航
大のためだけの特別なスケジュールは確保されるものの、他の一般就活者と同じように、
まず4社に履歴書を送り、会社説明会に参加し、SPIや心理適性検査、そして身体検査
を受け、一般面接、役員面接を経て、ようやく内定という手はずを踏まなくてはいけない
のだ。第一志望の会社に受かる者もいれば、当然、どの会社にも縁をいただけない者もい
る。後者は、卒業後、他の航空会社に独自にアプローチをかけていかねばならない。

 つい先日、僕らの一つ上の先輩の一次内定者の発表があった。いくらパイロットの大量
退職という追い風があったとしても、やはりまだまだ思うようにいかないのが現実である
ようだ。それにしても、エアラインがいったいどういう人材を欲しているのか、いまいち
掴みにくいのが僕らの悩みどころである。

 航大の場合、最終内定前に就職がうまくいっていることを確認できる段階が、3つほど
ある。

 就職活動はまず履歴書を書くことから始まる。その後身体検査と面接が行われ、しばら
くすると何人かに再検査の通知が来る。身体検査にはお金がかかるので、再検査が来ると
いうことは、面接では合格したものと見込んでいいのだそうだ。

もちろん、身体にまったく異常がなければ、来ない場合あるが。とにかく、これが第一段
階。第二段階は、オブザーブだ。オブザーブというのは、会社が学生を何人か指名し、そ
の学生のフライトを、その会社の機長が後席から観察するというもの。当然、会社が見た
いと思う学生はほしいと思っている学生なので、オブザーブが来るということは期待して
いい証拠なのだそうだ。しかし、これはかなり緊張するらしい。

 第三段階は一次発表。これはほぼ内定と見込んでもいいらしい。その後大手2社以外の
身体検査、及び役員面接を経て、最終内定の発表となる。

 先輩を見ていて、少しずつ希望が輝いていく人と、翳っていく人がいる。その表情の違
いに、果たして3ヵ月後、自分はこのプレッシャーに耐えられるだろうかという緊張感を
覚える。夢が現実になる瞬間が近づいている。

 僕らはというと、既に履歴書は提出済み。来週はいよいよ、一週間かけての会社訪問&
身体検査に臨む。大鳥居のホテルに8連泊。航大至上初の、一人部屋である。身体検査に
向け、各自様々な取り組みをしているようだが、僕も仙台に来て約2ヶ月間、ずっと運動
を続け、結果減量に成功した。目標まで、あと少し!

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●2007年1月

 再検査、と聞くと、何だかあまりいい印象を受けないと思うが、ここ航大の就職活動に
おいては、比較的縁起のいいものとして扱われている。なぜなら、見込みのない学生に、
お金のかかる再検査をわざわざやらないだろう、というのが定説だからだ。身体検査→面
接→再検査という順番を考えれば、再検査が来たということは、少なくとも面接ではOK
だったんだなと思っても、大きな間違いではないだろう。

もちろん、身体検査が一発で受かっていれば、そもそも再検査など来ないのだけれども。
幸い、と言うべきか、僕はJ社、A社の両方から再検査の通知が来た。

 J社では心エコー検査というものを受けた。心臓にエコー(音波)を照射して、反射して
きたものを映像化する装置で、いろんな角度からぐりぐり見られた。自分の心臓を見たの
は生まれて初めてだったので、興味津々で画面を見つめていた。どこかで勉強した通り、
心室や心房、またその間の弁まではっきり見えて、僕も同じ人間なんだなぁと当たり前の
ことをしみじみ感じていた。

しばらく無言で作業を続けるドクター。心配したが、最後に『うん、いい心臓だ』と言っ
てくれたので安心した。『まぁ大丈夫でしょう』と。って、そんなこと言っていいんですか
先生。身体検査は通常、結果は本人に知らされない決まりになっている。

 それ以外にも、J社では検尿、A社では腹部エコーと採血の検査があり、これらについて
は結果は知らされなかったので、どうなっているか不安だ。でも今は、そんなことを心配
するよりもフライトに集中しなくては。2日間で両社回ったのだが、滞在時間はそれぞれ
15分くらい。それ以外はほぼホテルでくねくねしていただけなので、ゆっくり休むこと
ができた。今週末も金曜・土曜と連続ALL DAY。頑張るぞ!

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興味のある方は、どうか、息子のBLOGをつづけて読んでください。

http://xxxxx

です。

では、よろしくお願いします。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●航空大学校

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日本には、ひとつだけだが、国立の航空大学校が
ある。今は、独立行政法人になっているが……。

テレビのトレンディドラマの影響もあって、
入試倍率は、毎年、60倍前後。

これに合格すると、2年間の合宿生活を通して、
パイロットとしての訓練を受ける。衣食住を
ともにするわけである。

が、訓練のきびしさは、ふつうではない。

そのつど技能試験、ペーパーテストがあって、
それに不合格になると、そのまま退学。留年と
いうのはない。

パイロットといっても、単発機の免許、
双発機の免許、計器飛行の免許、事業用の
免許などなどほか、飛行機ごとに免許の種類が
ちがう。

ライン機ともなると、飛行機ごとに免許の
種類がちがう。もっとも、JALやANAの
ようなライン機のパイロットになれるのは、
その中でも、10〜15人に、1人とか。

健康診断でも、脳みその奥の奥まで、徹底的に
チェックされる。

で、あるとき「きびしい大学だな」と私が
言うと、息子は、こう言って笑った。

「燃料費だけでも、30分あたり、
5万円もかかるから、しかたないよ」と。
10時間も飛べば、それだけで100万円!
 
チェック試験に合格できず、退学になった
仲間もいたそうだ。ほんの少し、飛行機の
中でふざけただけで、それで退学になった仲間も
いたそうだ。

無数のドラマを残して、息子が、もうすぐ
その大学を卒業する。今は、就職試験のときだ
そうだが、どうなることやら?

結果はともあれ、息子よ、よくがんばった。
よくやった。
空が好きで好きで、たまらないらしい。


Hiroshi Hayashi++++++++以上、JAN.07++++++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 沖縄旅行記 息子の初フライト 黄色い旗 はやし浩司 黄色い旗 
浜松上空 はやし浩司 2010−10ー31 林英市 林 英市)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【2011年、あいさつ】

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少し早いですが、HP用に、
2011年のあいさつを書きます。

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●完全燃焼を目指して……

 2010年(昨年)は、現状維持に心がけました。
健康、仕事、人間関係など。
が、2011年は、もう一度、がんばってみようと
考えています。
つまりこれからの数年をかけて、自分を燃やし尽く
そう、と。

何も年齢に遠慮する必要はありません。
老後などというものは、先の先の話。
考えようによっては、20代、30代のころよりは、
ずっと仕事がしやすいはず。

●7500メートルの山

 人生を山登りにたとえる人は多いですね。
山登りを、人生にたとえる人も多いですが……。
「70歳まで働く」ということは、「7000メート
ルの山に登るようなもの」。
……というような話を義兄に話しましたら、義兄は
すかさず、こう言いました。
「7500メートルにしなさい!」と。

高い山に登るためには、それなりの準備が必要です。
今年1年をかけて、私はその準備に取りかかります。
7500メートルの山に登るのです。
そこに何があるか、私にはわかりません。
しかし登ってみます。
それがこれからの私の目標ということになります。

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●今日から11月(2010−11−01)

●読者のみなさん、ありがとう!

BLOGを丸2日、さぼった。
沖縄へ行ってきた。
ホテルでもネットは使えたが、天気予報を見たり、メールを読んだだけ。
で、帰ってきて、昨日の朝、BLOG再開。
それを見て、胸が熱くなった。
つまりBLOGへのアクセス数を見て、胸が熱くなった。

アクセス数が、ほとんど減っていなかった!

これは私の勝手な解釈かもしれない。
しかし読者のみなさんが、毎日、習慣的に私のBLOGへアクセスしてくれて
いる。
私はそう思った。

ありがとう!

・・・ということで、旅の疲れもなんのその。
今朝から再びBLOG再開!

Hiroshi Hayashi+++++Nov.2010+++++はやし浩司

【日韓経済戦争】作られる反日感情(はやし浩司 2010−11−01)

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今度日本が、ベトナムの原子力発電所建設
プロジェクト(第2期事業)で、その
パートナーに内定した。

そのニュースもさることながら、韓国の中央
N報(11月1日)は、つぎのように国内で
報道している。

 『…… 日本メディアは「新興国の原発建設に
政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に
対応するため、日本が構成した'官民合同体'
が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じ
た』(中央N報、11月1日、原文のまま)と。

この中で、「韓国に対応するため」という文言に
注目してほしい。
そこで日本では、どのように報道されているか、
調べてみた。
本当に「韓国」を名指しで、「快挙」と報道して
いる報道機関があったのか。
私もこのニュースは、新聞、ネットで知っていた。
韓国の連合体と競っているいる話は聞いていた。
しかし……?

ともあれ、あちこちのサイトで、このニュース
を調べてみたが、「韓国に対応するため」と書いた
報道機関は、見あたらなかった。

以下、事実だけを並べてみる。
誤解、偏見をなくすため、削除することなく、
全文を転載、並べて比較してみる。

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●韓国中央N報はつぎのように伝えた(11月1日)

*************以下、韓国・中央Nより***************

韓国・フランス・日本が競合するベトナムの原子力発電所建設プロジェクト第2期事業で、日本
がパートナーに内定した。 

  ベトナムのグエン・タン・ズン首相と日本の菅直人首相は31日、ベトナム・ハノイで首脳会談
を開き、このように明らかにしたと、日本経済新聞が報じた。同紙は「これは日本が新興国の
原発建設を受注した事実上初めてのケースであり、規模は1兆円にのぼる」と伝えた。 

  ベトナムは2020年代初期までに4基の原発建設を終える予定で、4基の原発のうち第1期
事業の2基はすでに年初にロシアが受注している。今回の第2期事業の2基はベトナム南部地
域での建設事業で、その間、韓国・フランスのコンソーシアムと日本が激しく競合していた。 

  日本は原発建設を受注する代わりにベトナム側の港などのインフラ建設に790億円の借款
を供与し、原発関連技術の移転を提供することにした。また両国首脳は戦略物資であるレアア
ース(希土類)の研究および開発も共同で協力することにした。 

  菅首相は「原発とレアアースの二つの問題について両国がパートナーになったのは真のパー
トナーシップが始まったという象徴的な意味を持つ」と強調した。 

  今回のベトナム原発建設プロジェクト第2期事業は、先月22日に官民合同出資で発足した
「日本国際原子力開発」を中心に進行された。東芝・三菱重工業・日立製作所が参加してい
る。 

  日本メディアは「新興国の原発建設に政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に対応す
るため、日本が構成した'官民合同体'が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じた。

*************以上、韓国・中央Nより***************

***************以下、J−Castより*************

●J−Cast(11−2)

 菅直人首相は2010年10月31日、ベトナム・ハノイ市内でグエン・ダン・ズン首相と会談、原子
力発電所2基の建設を日本側が受注することが決まった。

ベトナム北西部にあるレアアース(希土類)の開発を共同で進めることにも合意した。菅首相
は、港湾建設などに総額790億円の円借款を新たに供与する意向を表明した。

*************以上、J−Castより***************

*************以下、読売新聞より*****************

●読売新聞(10−31)

【ハノイ=宮井寿光、永田毅】菅首相は31日、ベトナムのグエン・タン・ズン首相とハノイ市内
の首相府で会談し、両国関係に関する共同声明に署名した。

 ベトナム政府が予定している原子力発電所建設計画について、日本を「協力パートナー」とす
ることで合意し、日本勢の受注が事実上決まった。日本が新興国で原発建設を受注するのは
初めて。

 日本はこれまで、新興国で激化する原発建設の受注競争で相次いで敗北してきたが、今回
は官民一体で集中的に受注活動を展開したことが奏功した。

 対象となるのは、南部のニントゥアン省に予定されている第2期工事の原発2基分。ベトナム
側は条件として、低金利での優遇貸し付け、最先端技術の利用、廃棄物処理協力などを示
し、日本側も応じた。ズン首相は会談で、日本の受注について「政治的、戦略的決断だ」と語っ
た。

 両首相は省エネ家電などの部品に不可欠なレアアース(希土類)についても共同開発で合意
した。レアアースの生産量は中国が世界の9割以上を占めるが、輸出制限が世界的に問題と
なっており、「中国依存」からの脱却を図る狙いがある。

*************以上、読売新聞より*****************

*************以下、NHKサイトより***************

●NHKニュース(10月31日)

ハノイを訪れている菅総理大臣は、31日にベトナムのズン首相と会談し、現地で計画されてい
る原子力発電所の建設を日本の企業に受注させるよう求めるのに対し、ズン首相は日本側の
要請に応じることを表明する方向で調整を進めています。

ASEAN=東南アジア諸国連合などとの一連の首脳会議に出席するため、ハノイを訪れてい
る菅総理大臣は、ベトナム訪問の最終日の31日、ズン首相と会談する予定です。この中で菅
総理大臣は、ベトナムで計画されている原子力発電所2基の建設事業で、日本企業に受注さ
せるよう要請する方針です。

ベトナムの電力公社は、高い技術力などを評価して日本に発注する方針を固めていました
が、関係者によりますと、ズン首相は菅総理大臣に対し、ベトナム政府として日本側の要請に
応じることを表明する方向で調整を進めているということです。

日本政府は、アジアでのインフラビジネスを成長戦略に掲げており、外国企業との競争が激し
い原発事業で、今回ベトナムから受注を得る方向となったことで、今後の海外展開の弾みとし
たい考えです。

また、菅総理大臣は希少資源の「レアアース」について、中国への過度な依存から脱却するた
め、日本企業と現地企業が合弁で手がけることが決まっているベトナム北部の鉱山開発につ
いて、できるだけ早く生産が始められるよう、協力を求めることにしています。

*************以上、NHKサイトより***************

*************以下、朝日新聞サイトより***************

 【ハノイ=高野弦】ベトナムの最高意思決定機関である共産党の指導部は、同国南東部に建
設を予定している原子力発電所について、日本企業に発注する方針を決めた。複数の関係者
が明らかにした。正式決定すれば、原発を新たに設置する新興国で、日本が受注する初のケ
ースとなる。 

 31日の日越首脳会談で、ズン首相から菅直人首相に発注の意向が伝えられる見通し。 
 日本企業への発注方針を決めたのは、南東部ニントアン省の原発2基(出力計200万キロ
ワット)で、2021年の運転開始を目指している。 

 ベトナムは2030年までに14基の原発の建設・稼働を計画。このうち具体化しているのはニ
ントアン省の4基で、最初の2基は昨年12月にロシアが受注した。 

 インフラ輸出を成長戦略の軸にすえる日本は、残る2基の受注を目指し、今年に入って受注
活動を展開。経済産業相らが8月、経済界とともにベトナム入りし、人材育成や資金援助など
を提案していた。また、10月には新興国での受注を目指した官民共同出資の「国際原子力開
発」を立ち上げていた。 

*************以上、朝日新聞サイトより***************

●一事が万事

 中央N報を読んだ韓国の人たちは、どう思うだろうか。
日本があたかも韓国を叩くために、ベトナムでの原子力発電所建設工事を受注したと
解釈するだろう。
「快挙」、つまり「日本人は、韓国に勝ったと喜んでいる」と。

 受注競争の過程では、たびたび韓国の名前が出てきたのは事実。
中央N報にもあるように、韓国は政府と民間が一丸となって受注合戦を繰り広げていた。
で、日本もそれに対抗して、(あくまでも対抗して)、政府が受注合戦に乗り出した。
その結果、日本が受注に成功した。

 が、成功したあとは、どの報道機関も、「韓国」の「カ」の字も書いていない。
が、韓国では、『新興国の原発建設に政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に対応する
ため、日本が構成した'官民合同体'が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じた』と。

 こうした報道操作は、日常茶飯事。
ことあるごとに国内の反日感情をかきたてている。
しかしこれは天下の報道機関として、あるべき報道姿勢ではない。
中央N報は、日本の報道機関のどれをさして、「一斉に報じた」としているのか。

 一事が万事というか、韓国の新聞を読んでいると、この種の情報操作があまりにも多い。
少し前は、自前で気象衛星をあげたことについて、「これで日本の世話にならなくてすむ」
と。

 今までさんざん日本の世話になっておきながら、この言いぐさはない。
せめて「今まで、ありがとう」の一言くらいは、あって当たり前。

それではいけないということで、あえて今回のニュースを取りあげてみた。

●追記

 対する日本は、どうか?

たまたま同日(11−2)TBS−iニュースは、こんなニュースを報道している。
こちらは、重要なニュースではないので、一部、省略させてもらう。

***********以下、TBSーiニュースより*************

●第二次韓流ブーム

 最近、日本で新たな「韓流ブーム」が社会現象になりつつあります。次々とデビューしてチャ
ート入りを果たす韓国のガールズ・グループ。その背景には、ブームを作り出す、ある壮大な
「戦略」がありました。

(中略)
 
 4か国語が飛び交う会見場。1日、韓国・ソウルの外国特派員協会に姿を現したのは、人気
ガールズ・グループ「少女時代」です。19歳から21歳までの9人からなる「少女時代」。3年前
にデビューし、韓国でトップに登りつめた後、台湾やタイなどのヒットチャートでも1位を獲得。中
国でもツアーを行うなど、アジア全域で活躍中です。そして9月、満を持して日本デビュー。第2
弾シングルが先週、日本を除くアジアの女性グループとして史上初のチャート1位を記録しまし
た。

 日本の韓流ブームといえば、これまで比較的高い年齢層の女性たちに支えられてきました。
この新たな韓流ブームの特徴は、日本の若い女性の心を捉えていることです。美脚が売りの
少女時代だけでなく、大人の魅力を強調するグループ「BROWN EYED GIRLS」、ヒップダン
スを得意とするグループ「KARA」などが、今年に入って次々と日本デビューを果たしていま
す。

 1日の会見のテーマは彼女たちの世界戦略でした。

(中略)

 周到な準備の下、続々と上陸する韓国のガールズ・グループ。しかしその目は、すでに日本
のはるか先を見据えているのかもしれません。(01日22:48)

***********以上、TBSーiニュースより*************

 日本人のノー天気ぶりには、あきれるばかり。
緊張感がまるでない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 韓国の報道機関による情報操作 反日感情 作られる反日感情)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【幼保一元化・メリット・デメリット(走り書きメモ)】

●流れ

 今までの流れとしては、こうだ。

 少子化が進むにつれて、園児が減り、私立幼稚園の経営がきびしくなってきた。
(2009年度、3〜5歳児の定員充足率は、69%。)
このあたり(静岡県西部)でも、園児募集の解禁日は、例年11月1日と
なっていた。
また内部では、そう定められている。
が、ここ10年、その解禁日を守る私立幼稚園は、ない。
早いところでは、「夏祭り」などの名目で、7〜8月頃から、園児集めの活動を
始める。

 同時に、不況、それにともなう共働き夫婦がふえ、午後2時で終了する幼稚園が
敬遠されるようになった。
そこで内々には、私立幼稚園では、「預かり保育」と称して、午後5時前後まで
園児を預かるようになった。
(こうしたやり方は、すでに40年前からあった。)
「預かり保育」といっても、認可された保育ではない。
あくまでも、「内々」。
特別の費用は徴収していない。

●保育時間の延長

 そこで15年ほど前(1995年ごろ、筆者の記憶による)から、保育時間の延長を、
(私立)幼稚園協会は当時の文部省に対して、たびたび申し入れを行った(記憶)。
つまり幼保一元化の問題は、このあたりから生まれたと考えてよい。

 一方、保育園(正式には保育所)は、ただ単に幼児を預かる施設から脱皮し、
幼稚園教育にまさるとも劣らないカリキュラムを用意して、「教育」に積極的に
かかわるようになってきた。
20年ほど前から、文字・数を教える保育園が急増した。
毎週、ワークブックを指導する保育園や、さらに何と、かけ算の九九まで暗記させる
保育園も出てきた。
つまり幼稚園と保育園が、競合するようになった。
(2010年4月現在、保育園に入園できない待機児童は、全国で2万6000人
あまりいる。)

 が、0歳児から、しかも平均して午前7時から午後7時まで預かる保育園と、
原則として午後2時で終了する幼稚園とでは、勝負にならない。
もう一度、保育所と幼稚園のちがいと、幼保一元化の問題点を、おおざっぱにまとめ
てみる。

(1)幼稚園vs保育園
   幼稚園は月謝制(保育園より月謝が一般的には、高額)。
   保育園は、親の所得に応じて、納入額が変わる。
   幼保が一元化すれば、月謝(納入額)をどうするか。
   とくに所得の少ない家庭はどうするかという問題が起きてくる。
   さらに今まで月謝制を取っていた幼稚園側にも不安感は強い。
   補助金の減額は、当然のことながら、収入や施設の補修費の減少につながる。
   
(2)経営
   幼稚園の経営ボーダーラインは、150〜200人と言われている(某私立
   幼稚園園長談)。
   それ以下の児童数になると、経営はたいへんむずかしくなる。
   園児は多ければ多いほど、経営は安定する。

   一方保育園の適正人数は、60〜90人と言われている。
   あるいは180人以上(某保育園園長談)。
  (保育園のばあい、園児を見送るのは、たとえば最低でも2人の保育士と定め
   られている。
   ほとんどが人件費だが、それらから計算すると、上記のような数字が出てくる。)

(3)管轄(所管)
   幼稚園は文科省の管轄(所管)、保育園は厚労省の管轄(所管)。
   そのため社会保障制度、共済組合制度、給与体系が異なる。
  (幼稚園は学校法人、保育園は社会福祉法人である。)
   幼保一元化といっても、実際の運営上、これらの問題を、どう克服していくか。
   またその財源は、どうするか。

   国は地方裁量型の解決策を考えているが、自治体の首長の理解のあるなしで、
   補助金を一般財源にどれほど組み込むかが決まる。
   現在、幼稚園の補助金は、一般財源に組み込まれているが、保育園のほうは、
   組み込まれていないところが多い。
   全体として、幼稚園教諭(幼稚園)の給料は、比較的に、保育園の保育士より
   も高い。
   幼保一元化というのは、(流れ)からして、幼稚園側の経営上の問題が発端と考え
   てよい。
   つまり保育園側は、このあたりを、かなり心配し、不安に思っている。

(4)園児不足と待機児童の増加
   原則として、専業主婦の子どもは、保育園には入園できない。
   その一方で、子どもをなぜ保育園へ入れるかという質問に対して、「楽をしたい」と
   答える母親は多い。
  (実際には、そう願っている母親がほとんどと考えてよい。)

   産休があっても、保育園へ子どもを預けたがる親も現実には、多い。
   つまり母親の育児負担を軽減するために、保育園があると考えてよい。
  (産休、育児休暇が定着すればするほど、皮肉なことに待機児童がふえたという
   事実も指摘されている。)

   また現実問題として、都会のマンションに住んでいるような家族のばあい、子ども
   をできるだけ早くから保育園へ預けたがる傾向がある。
   マンションの一室だけで、子どもを育てることへの不安感は強い。

(5)幼稚園と保育園の両立
   そこで同じ園舎を2つに分け、一方を幼稚園、一方を保育園とする「園」が、各地
   に現われた。
   それを認可したのが、「認可子ども園」(正式には「認定こども園」という)
   ということになる。

   中身は、幼保一元化というのでなく、幼稚園と保育園を同居させたもの。
   園舎の半分を幼稚園、残り半分を保育園とする、など。
   しかし認可子ども園が、問題の解決策かというと、そうでもない。
   たとえば給食ひとつ取りあげても、そのつど幼稚園児の分、保育園児の分と、分け
   なければならない。
   会計上の経理問題がたいへん複雑で、ある会計士などは、「運営は不可能」とさえ、
   断言している。
   わかりやすく言えば、認定子ども園は、経営が苦しくなった幼稚園を救済する目的
   で生まれたと考えてよい。

(6)介護制度をまねる
   そこで今、考えられているのは、必要性を「度数」で評価し、その度数で、保育料
   を決めようという方法。
   保育料は同じでも、利用度に応じて、保育料、補助金を調整しようというもの。
   しかしこの制度は、そうでなくても煩雑な幼稚園経営、保育園経営をかえって、
   圧迫する可能性がある。

(7)メリット
   幼保一元化でメリットがあるとすれば、近くに幼稚園がない地域に住む人たち
   くらいではないか。
   近くに保育園があっても入れない人は多い。
   たとえば裕福な専業主婦など。
  (原則として、共働きでないと、保育園へは入れない。)
   そういう人は、遠方の幼稚園へ通わねばならない。

(8)保育園側の不安
   保育園側の不安感は強い。
   幼保一元化によって、補助金がふえるのか、それとも減るのか。
   国は地方裁量型を考えているが、そうなると首長の判断、理解度によって、
   補助金の増減が決まってしまう。
   当然、経営、保育士の給料にも大きく影響してくる。

●子ども園

 待機児童問題を解決するために、「子ども園(こども園)」構想が生まれた。
子ども園について言えば、政府は、事業所と自治体が認めたばあい、自動的に
認定されることになる。
(現在保育園は、国による認可制で、基準はかなりきびしい。)
つまり「民間企業」の参入が可能になる。
自由競争が可能になるが、保育料は、現在より高額になると考えられる。
 
 これについて政府は、「幼稚園と保育園を廃止しつつ、現存の幼稚園と保育園を
子ども園として再生させる」という考え方を取りつつある。
つまり幼稚園と保育園を足して2で割ったのが、「子ども園」と。

●幼稚園の不安

 幼稚園側にも不安がある。
教育力の低下を心配する園長も多い。
今の今ですら、幼稚園の教師たちは、多忙で悲鳴をあげている。
子どもを預かるというのは、それ自体、重労働である。
たった1人や2人の子どもをもてあましている母親は多い。
それを20〜25人もまとめてめんどうをみる。
いかにたいへんな仕事であるかは、経験したものでないとわからない。

 しかも休息時間は、ほとんどない。
加えて相手が幼児のばあい、目が離せない。
気が抜けない。
預かり保育を担任している教師は、(幼稚園のばあい、平均して午後5時まで
だが)、傍で見ていても気の毒になるほど、体力と神経をすり減らしている。

 そのため現実問題として、いくら園児が不足していても、問題のある子ども(たとえば
多動性児、集中力欠如型児、自閉症児)は、入園を断られることが多い。
(最近では、入園に際して、面接をする幼稚園がふえているのは、そのため。
ある園長は、「面接はそのためにする」と教えてくれた。

 「教育力の低下」は、そういうところから心配されている。
つまり教師に言わせると、「教育どころではない」となる。

●子ども園(幼保一元化の結果としての子ども園)のメリット・デメリット

 子ども園のメリット・デメリットには、2面性がある。
現存の幼稚園、保育園の経営者側からみた、メリット・デメリット。
子どもをもつ親側からみた、メリット・デメリット。
ここでは親側から見た、メリット・デメリットを考えてみる。

【メリット】

●育児負担の軽減

 子ども園構想は、待機児童の解消策として考えられている。
つまり子ども園がニーズに応じて、ふえればふえるほど、待機児童は減る。

 ここで注意しなければならないのは、幼稚園にせよ、保育園にせよ、子どものため
にあるというよりは、親、とくに母親の育児負担の軽減のためにあるということ。
母親は、子どもを子ども園に預けることにより、育児負担を軽減することができる。
またそのために現在の保育園や幼稚園があると考える。

 従って、専業主婦、共働き主婦という区別の仕方は、すでに現実性を失っている。
(専業主婦だって、息抜きしたいと願っている。)
母親たちは子どもを子ども園に預けることによって、育児負担を減らすことができる。

●選択肢の多様化(=教育の活性化)

 現在、とくに田舎の過疎地に住んでいるばあい、保育園へ入れたくても入れられない
ケースが目立つ。
とくに専業主婦のばあい、入園がむずかしい。
が、保育園が子ども園になれば、垣根がはずれ、自分の子どもを預けることができる。

 また民間企業、あるいはNPO団体が事業所として参入することにより、より自由で
柔軟性をもった「保育システム」が可能となる。
(政府の構想では、最低限必要な基本基準さえ守れば、それ以外は自由ということらしい。)

 いうなれば、温室の中で今まで無風状態だった幼稚園、保育園が、それだけ自由競争
の荒波の中に、放り込まれることになる。
(現実に、補助金だけを目当てに、従来通りの、お決まり的な教育しかしていない幼稚園
は多い。)

●女性の社会進出

 その分だけ、女性が社会進出がしやすくなる。
妊娠、出産、育児を契機として、それまでのキャリアをあきらめなければならない女性は
多い。
慢性的な欲求不満状態になっている母親も多い。
そうした女性が、職場での活躍を維持できるようになる。

【デメリット】

●保育料の増額

 介護制度に似た、度数制も考えられているが、最大のデメリットは、受益者負担の名の
もと、親の負担がふえることが考えられる。
(幼稚園側にしてみれば、補助金の削減につながる。
一方保育園側にしても、地方自治体の裁量によって、財源が減らされることも考えられる。)

 とくに事業体が介入してくると、利潤の追求が目的となる。
受験塾どうしでするような競争が激化する心配もある。

●所得の少ない家庭

 とくに所得の少ない家庭は、どうするか。
あるいはどう援助していくか。
そのための「度数制」ということになるが、介護制度をみてもわかるように、手続きが
煩雑になる。
家庭そのものが崩壊しているケースも多い。
そういう家庭の親たちを、どう指導していくか。
筆者も介護制度を利用させてもらったことがあるが、「たいへん」の一言に尽きる。
(その点、現行の幼稚園でしているような月謝制は、わかりやすい。)

●解決策

 子ども園の保育料の上限を定めるという方法もある。
その一方で、政府内部では、「利用料の上乗せを容認する」(日本経済新聞社NEWS)
ということも検討されている(11ー3)。
つまるところ、お金(マネー)の問題ということになる。
親にしてみれば、できるだけ安い利用料で、質の高い教育を望む。
幼稚園から子ども園に移行したような幼稚園にしてみれば、従来の収入は確保したい。
その一方で、政府としては、財政難からできるだけ財政的負担を軽減したい。
そのはざまにあって、保育園関係者は、保育園への補助金がどう削られていくのかと、
戦々恐々としている……。

 結局は受益者負担ということで、子どもをもつ親に、負担が押しつけられていくこと
になる。
幼稚園関係者の間では、こんな声も聞かれる。
「おけいこ塾に、毎月4〜6万円も使っている親も多い。
おけいこ塾でするような教育を幼稚園内部ですれば、月謝をあげても問題はないのでは
ないか」と。
そういうのを「質の高い教育」と言ってよいのかどうかは、わからない。
しかし方向としては、そういう方向に進むと考えてよい。

●付記

 子どもの教育は、直接的には、親がする。
それが基本である。
また育児は、親の義務ではなく、権利である。
が、そうした意識が、年々、希薄になってきている。
子育てそのものを、めんどうと考える親もふえている。
待機児童がふえていることの背景には、入園を必要としない親までが、入園を希望していると
いう事実もある。

 それがよいことなのか、悪いことなのかという議論はさておき、(またどうしたらよいか
という議論もさておき)、そういう「現実」があるという前提の上で、この問題を考える。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼保一元化 幼保一元化と子ども園 認定こども園 こども園構想 こども園のメ
リット、デメリット はやし浩司 2010−11−03)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

(特集)
【子ども園(こども園)、もうひとつの深刻な問題】2010/11/04

●子育ては本能ではなく、学習である

 子育ては本能でなく、学習である。
つまり人は、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、
今度は自分が親になったとき、自然な形で子育てができる。
そうでなければ、そうでない。

 つまり「子育て本能」というのは、高度に知的な動物であれば
あるほど、「ない」。
たとえば人工飼育された動物は、自分では子育てができない。
とくに人間においては、そうである(※1)。

そればかりではない。
乳幼児期は、心の育成という意味では、たいへん重要な時期である。
2000年に入ってから、「ミューチュアル・アタッチメント
(mutual attachment)」という言葉が聞かれるようになった。
母子関係というと、母親側からの乳幼児への一方的な働きかけのみと
考えられている。
しかし実際には、乳幼児側からも、母親に対して働きかけがあることが
最近の研究でわかってきた(※2)。

 この時期に母親の濃密な愛情を経験していない子どもは、そののち、
さまざまな問題を引き起こすことがわかっている。
「基本的不信関係」(※3)もそのひとつ。

 つまり子どもというのは、(あなた自身もそうであったが)、絶対的な
さらけ出しと、絶対的な受け入れ、この2つを基盤として、その上に、
基本的信頼関係を構築する。
「絶対的なさらけ出し」というのは、「どんなことをしても、自分は
許される」という、子ども側の安心感をいう。
「絶対的な受け入れ」というのは、「乳幼児がどんなことをしても、
子どもを受け入れる」という、親側の包容力をいう。

 この基本的信頼関係の構築の失敗すると、基本的不信関係、さらには、
心の開けない子ども、さらには、将来的に親像のない親になる危険性が
高くなる。

人格的にもさまざまな問題を引き起こすことが、わかっている。
ホスピタリズム(※4)も、その一つ。
「施設病」と訳されている。
が、「施設児」、あるいは「施設障害児」と訳すべきか。
わかりやすく言えば、人間的な温もりを喪失した子ども(おとな)になる。
表情の貧弱な子どもになることも、指摘されている。
が、問題は、ここで止まらない。

 先にも書いたように、子ども(人)は、自分が親によって育てられた
という経験(=学習)が体にしみこんでいてはじめて、自分が親になった
とき、自然な形で、子育てができる。

ただ「育てられた」というだけでは、足りない。
濃密な親子関係、とくに濃密な母子関係が重要である。

「子育ては本能ではなく、学習」というのは、そういう意味。
わかりやすく言えば、(しみこみ)。
その(しみこみ)がなければ、自分が親になったとき、自分で子育てが
できなくなる。

 振り返ってみると、現在の親たちが乳幼児のころというのは、日本は
高度成長の真っ最中。
多くの親たちは仕事に忙しく、子どもにじゅうぶんな、つまり濃密な
愛情を注ぐだけの余裕がなかった。
0歳から保育園へ預ける親も少なくなかった。

 そうした子どもが現在、親になり、子育て(?)をしている。
しかしその内容は、かなりいびつなものと考えてよい。
端的に言えば、自分で子育てができない親がふえている。
その結果として、0歳から、保育園は入園させ、子どもを施設に預けて
しまう……。
みながみな、そうというわけではないかもしれない。
共働きをしなければ、生活できないという家庭も多い。
しかし「自分で子育てができない親がふえている」のも、事実。

 さらに一歩踏み込んで、自分の子どもを愛せないと悩んでいる母親も
多い。
8〜10%の母親がそうである。
マターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)
(※5)という言葉も生まれた。

 そこで、子ども園。

 待機児童の多さばかりが問題になる。
しかし実際には、母親の育児負担の軽減としての子ども園。
さらには育児ができない母親たちの、救援施設としての子ども園。
そういう性格も併せもっている。

 私たち日本人は、この繁栄の中で、得たものも多いが、しかし失った
ものも多い。
そのひとつが「家族の絆」ということになる。
「親子関係の濃密さ」と言い替えてもよい。
たとえば欧米では、(今でも)、子育ては権利であると考える親は多い。
義務ではなく、権利である。
その権利が奪われそうになると、彼らはそれに対して、きわめて鋭敏に
反応する。

 が、この日本では、どうか?

 子ども園構想も大切だが、しかし日本の将来を考えるなら、子育ては、
親自身がする。
それが基本である。
その上で、補助的機関として、子ども園を利用する。
その姿勢を忘れてはならない。
もしこんなことを繰り返していたら、日本の乳幼児はやがて、施設のみで
人工飼育されるようになる。
そこで飼育された子どもが、親になり、さらに自分の子どもを施設のみで
人工飼育するようになる。

 その結果、この日本はどうなるか。
それを少しでも頭の中で想像してみたらよい。
そこにあるのは、心の冷たい人間だけが住む、乾いた砂漠のような世界。
そのうしろで寒々とした風が、枯れ葉を舞いあげている……。

 目の前に見える、立派なビルや道路、家や車を見ながら、それでもあなたは、
「この日本は豊かになった」と思うだろうか。……思えるだろうか。

++++++++++++++

(※1)(※2)(※3)(※4)
(※5)について、原稿を添付します。

++++++++++++++

(※1)

●親が子育てできなくなるとき 

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。

あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母親す
らいた。また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸
な家庭を経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」
のない人とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押
しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九八年の夏、一度妊娠したことがある。
が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで
きるかどうか」(新聞報道)だった。

人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができない。チンパンジーのような、頭のよい
動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回るのもいるという。いわんや、人間を
や。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分
でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。……と言っても、今、これ以上のこ
とを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、猛烈な抗議が殺到する。

先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような記事を書いただけでそ
の翌日、一〇本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭の子ども
がかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」など。「離婚家庭を差別する
発言で許せない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸にな
ると書いたのではない。離婚が離婚として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。こ
の家庭騒動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問
題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類
の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくした
が、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくった。また別の人は、ある作家に
傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。そういう体験があってはじめ
て、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てができるようになる。
と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、なかなか
できない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考えてほしい。

(付記)

●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。これについて、つまり
アイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを見せられたり、ぬいぐ
るみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説明されている(報道)。
しかしどうもそうではないようだ。

アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によって、
まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育というワクを超えて、子育ての情報
をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てができる本当の理由ではないのか。

(参考)

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇
〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一
点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待
あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%
であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしてい
るのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで
の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二
五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実
母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三
七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%と
なっている。

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

(※2)ミューチュアル・アタッチメント

【新生児の謎】

●人間の脳の大きさは、母体の産道(骨盤)の大きさに比例する

+++++++++++++++++

進化の過程で、人間の脳は、より
大きくなってきた。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクゥス) ……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容量……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

+++++++++++++++++

胎児は母体の産道(骨盤の間)をくぐり抜けて、生まれる。
そのときもし胎児の頭の大きさが、産道よりも大きければ、胎児は、母胎の産道をくぐり抜ける
ことができない。

だから『人間の脳の大きさは、母体の産道の大きさに比例する』。

胎児の頭が大きくなればなるほど、母体の産道の直径は大きくなければならない。
もし胎児が産道をくぐり抜けることができなければ、胎児が死ぬか、反対に母親が死ぬかのど
ちらかになる。
が、反対に、母体の産道が大きくなればなるほど、胎児の頭も大きくなるかといえば、それは
言えない。

たとえば人間以外のほかの動物のばあい、頭よりも体のほうが大きい。
またその多くは、2体以上の子どもを出産する。
頭の大きさが問題になることは、ない。
つまりほかの動物のばあい、母体の産道の大きさは、頭というより、体の大きさによって決ま
る。(その反対でもよいが……)。

が、人間だけは、いびつなまでに、頭だけが大きい。
なぜか?

●頭を大きくするために

人間の脳を、今以上に大きくするためには、母体の産道を大きくするか、胎児そのものを、人
工胎盤で育てるしかない。
よくSF映画の中にも、そういうシーンが出てくる。
大きな水槽の中で、胎児が人工飼育(?)されているシーンである。

水槽の中に胎児が浮かび、へその緒は、水槽外の栄養補給装置とつながっている。

この方法であれば、胎児は何の制約も受けず、自分の頭、つまり脳を大きくすることができる。
いくら大きくなっても、出産時の問題は起きない。

「あれはSF映画の中の話」と思う人もいるかもしれないが、現在の科学技術だけをもってして
も、けっして、不可能ではない。
現在でも、一度体外に取り出した女性の卵子に、人工授精させ、再び母体に戻すという方法
は、ごくふつうのこととしてなされている。
あと50〜100年もすれば、こうした方法、つまり人工胎盤を用いた育児法が、ごくふつうのこ
ととしてなされるようになるかもしれない。

●2つの問題

が、ここで2つの問題が起きる。
厳密には、3つの問題ということになるが、3つ目は、このつぎに書く。

ひとつは、こうして生まれた子どもは、頭が大きくなった分だけ、つぎの代からは、自然分娩に
よる出産がむずかしくなるだろうということ。
代を重ねれば重ねるほど、むずかしくなるかもしれない。

「ぼくは人工胎盤で生まれたから、ぼくの子どもも、人工胎盤で育てる」と。
そう主張する子どもがふえることも考えられる。

もうひとつの問題は、『頭が大きくなればなるほど、脳の活動は鈍くなる』ということ。

脳というのは、コンピュータの構造に似ている。
とはいうものの、シナプス間の信号伝達は、電気的信号ではなく、化学反応によってなされる。
この(化学反応)という部分で、脳は大きくなればなるほど、信号伝達の速度が遅くなる。
言いかえると、脳は小さければ小さいほど、信号伝達の速度が速い。
このことは昆虫などの小動物を見ればわかる。
こうした小動物は、知的活動は別として、人間には考えられないような速い動きをしてみせる。

つまり頭を大きくすることによって、より高度な知的活動ができるようになる反面、たとえば運
動能力をともなう作業的な活動になると、かえって遅くなってしまう可能性がある。
歩くときも、ノソノソとした動きになるかしれない。
ひょっとしたら、頭の反応も鈍くなるかもしれない。

これら2つの問題は、克服できない問題ではない。
が、もうひとつ、深刻な問題がある。

●豊かな感情は人間の財産

人工胎盤で育てられた子どもは、はたして人間的な感情をもつだろうか?

豊かな感情は、安定した母子関係の中ではぐくまれる……というのが、現在の常識である。
とくに生後直後から、満2歳前後までに、その子どもの感情、つまり情緒的発達は完成される。

しかし胎児のばあいは、どうだろうか。
胎児は母親の母体内にいる間、母親の愛情を感ずることはないのだろうか。

が、これについては、「感じている」と考えるのが、自然である。
最近の研究によれば、誕生直後の新生児ですら、実は母親に向かって(働きかけ)を行ってい
ることがわかってきた。
たとえば新生児は新生児で、本能的な部分で、自らの(かわいさ)を演出することによって、親
の愛情を自分に引きつけようとする。
つまり新生児の側からも、働きかけがあるということになる。
それまでは、たとえば愛情表現にしても、母親から新生児への一方的なものと考えられてき
た。
「母親から新生児への働きかけはあっても、新生児からの働きかけはない」と。

母親から新生児へ、新生児から母親へ。
こうした相互の(働きかけ)を、「ミューチュアル・アタッチメント(Mutual Attachment)」という。

が、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、誕生直後から始まると考えるのには、無理があ
る。
あらゆる生物は、もちろん人間もだが、その成長過程において、連続性を維持しながら成長す
る。
誕生と同時に、突然、「ミューチュアル・アタッチメント」が始まるというわけではない。
胎児は胎児であるときから、「ミューチュアル・アタッチメント」は始めていると考えるのが、自然
である。

となると、人工胎盤のばあい、胎児は、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、できないという
ことになる。
人工胎盤の中の胎児は、暗くて冷たい、孤独な世界でもがき、苦しむということになる。
いくら働きかけをしても、それに応えてくれる母親は、そこにいない!

仮に100歩譲って、何とか情緒面の問題を克服して誕生したとしても、今度は、そういう子ども
に対して、卵子の提供者でしかない母親が、母親としてのじゅうぶんな愛情を感ずることができ
るかどうかという問題もある。

母親は10か月という長い期間、自分の胎内で子どもを育てるうちに、母親としての愛情を自覚
する。
あるいは出産の苦しみをとおして、その愛情を倍加させる。
もちろん夫の役割も無視できない。
妻の出産を喜ぶ夫。
そういう姿を見て、母親である妻は、さらに子どもへの愛情を倍加させる。

こうしたプロセスを省略した子どもが、はたして、感情豊かな子どもに成長するかどうかというこ
とになると、あ・や・し・い。

●人間の脳

ところで進化の過程で、人間の脳は、より大きくなってきたと言われている。

ちなみに、猿人、原人、旧人、新人、現代人の脳容積はつぎのようになっている。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクトゥス)……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容積……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

ここで私は、「進化」という言葉を使ったが、実のところ現代人の祖先というのは、定かではな
い。
ただ言えることは、人間(ヒト)は、猿(サル)から進化したのではないということ。
反対に、たとえばチンパンジーにしても、やがて人間のように進化するということは、ありえな
い。
人間は、人間。
猿は、猿。
それぞれが、完成された個体である。

もちろん人間がここまで進化する過程の中では、猿人→原人→旧人→新人のそれぞれの段
階で、無数の新種が生まれ、そして絶滅していった。
たとえばよく知られた例として、ネアンデルタール人がいる。
ネアンデルタール人は、人間の祖先であるホモサピエンスとそれほど能力的には差がなかっ
たものの、今から1万数千年前に、絶滅している。

●未熟化する新生児

仮に産道の大きさはそのままで、胎児の頭だけが大きくなったら、どうなるか。
先にも書いたように、胎児は、母親の産道をくぐり抜けることができなくなる。
そうなれば母体である母親が死ぬか、胎児が死ぬかの、どちらかしかない。

が、ほかに方法がないわけではない。

胎児の頭がまだ、産道をくぐり抜けることができる大きさの段階で、出産するという方法であ
る。
つまり新生児としては未熟だが、その段階で母体から離され、そのあと、母体の外で育てる。
現に新生児の体重は、3200グラム弱(平均)とされているが、(平均体重は、この10年、
年々減少傾向にあるが……)、その1か月後には、体重は、約1・5倍に増加する。
2か月で2倍になる新生児も少なくない。

つまり人間の子どもの出産は、きわめて微妙な時期を選んでなされることが、これでわかる。
もし出産時が、1か月早ければ、新生児は、特別な介護なくしては生きていくことすらむずかし
い。
一方、もし1か月遅ければ、体重が増加し、ついで頭も大きくなり、出産そのものがむずかしく
なる。

ちょうどよいころに、ちょうどよい、……というギリギリのところで母親は子どもを出産する。子ど
もは、うまく産道をくぐり抜ける。

が、疑問は、残る。

なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか、という疑問である。
新生児のばあい、少なくとも生後6か月まで、保護者による手厚い保護がないかぎり、自分で
生きていくことはおろか、動き回ることすら、できない。

●進化論への疑問

ここにも書いたように、人間は人間として、今に見る人間に進化した。
「今の今も進化しつづけている」と説く人もいるが、反対に、「同時に退化しつづけている」と説く
人もいる。

突然変異というのは、まさに両刃の剣。
突然変異によって進化することもあるが、それまでの重要な遺伝子を喪失することもある。
つまり進化と退化は、相互に関連し合いながら、同時進行的に進むと考えてよい。

が、それはさておき、人間が今に見る人間になるについて、「ダーウィン的な進化論では説明
できない進化」と説く学者も少なくない。

進化論の世界では、「10万年に1回の、ささいな変化」でも、「突然変異」とみるのだそうだ。
が、こと人間に関していえば、ほぼ20万年単位で「大・突然変異」を繰りかえし、今に見る人間
になった。

たとえば「人類の祖先は、420万年前からずっと二足歩行していたにもかかわらず、350万年
前の猿人の脳容量は、ほとんどチンパンジーと変わっていない」(「るい・NETWORK・生物
史」)そうだ。

「二足歩行するようになったから、脳容積が大きくなった」という従来の常識にも、よくよく考えて
みればおかしいということになる。

そこで現われたのが、「作為説」。
「つまり人間は、その進化の過程で、何ものかによって、作為的に改良された」という説であ
る。

この説を説く学者も少なくない。

『……スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラーク氏は、進化論についてこう述
べています。

「人間が下等な生命形態から、段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形において
も人間をサルに関連づけるものは何もない。人間は突然に、今日と同じ形で出現した」』(指
摘:「宇宙GOGO」HPより)と。

「なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか」という疑問についても、未
熟なまま生まれるというように、だれかによって操作されたとも、考えられなくはない。

そのだれかとは、だれか?

このあたりから、話が、SF的になる。
あるいはどこか宗教的になる。
実際、こうした説に基づいて活動しているカルト教団もある。
だから私の話は、ここまで。

この先のことは、皆さんの判断に任せるが、UFOが存在し、当然、宇宙人が存在するというこ
になれば、私たち人間が、その宇宙人によって何らかの(作為的な改良)を受けたことがある
のではないかと考えても、おかしくない。

とくに(脳)については、そうである。
なぜ私たちの脳は、こうまで飛躍的に進化してしまったのか?
わずか5500年以前には、私たちは火の使い方すら知らない新石器人間であったことを考え
るなら、この疑いは大きくなることはあっても、小さくなることはない。

(注)自分で読み返しても、稚拙な内容の文章だと思う。
文章もへたくそだし、つっこみも甘い。
が、私はここを出発点として、さらにこの問題について、考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 産道 胎児の大きさ 胎児の頭
 人間の脳)

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

(※3)基本的信頼関係

【基本的不信関係】

+++++++++++++++++++++++

私は子どものころから、心の開けない人間だった。
今も、そうだ。

+++++++++++++++++++++++

●基本的信頼関係

 0歳期に、母親との信頼関係の構築に失敗すると、
子どもは、いわゆる(心の開けない子ども)になる。
こうした状態を、「基本的不信関係」と呼ぶ。
が、基本的不信関係の恐ろしさは、これにとどまらない。
一度、基本的信頼関係の構築に失敗すると、その後遺症は、
一生にわたってつづく。
修復するのは不可能とまでは言い切れないが、自然の状態で、
修復されることは、まずない。

●絶対的なさらけ出し

 (絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)。
この2つの上に、基本的信頼関係は、構築される。
「絶対的」というのは、「疑うこともない」という意味。

 「私は親の前で、どんなことでもできる」というのが、
絶対的なさらけ出し。
「子どもがどんなことをしても許す」というのが、
絶対的な受け入れ。
それは、親側に子どもを全幅に包み込む愛情があって、
はじめて可能。

●不幸にして・・・

 が、不幸にして、不幸な家庭に育った子どもは、
少なくない。
家庭不和、育児拒否、家庭騒動、経済問題、無視、冷淡など。
親にしても、「子育てどころではない」となる。
こういう環境で育つと、子どもは、基本的信頼関係の
構築をすることができなくなる。
一見、愛想はよくなるが、それは子ども本来の姿ではない。
中に、「うちの子は、人見知りも、後追いもしませんでした」と
言う親がいる。
どこか自慢げに言う人もいるが、それは自慢すべきような
話ではない。

 良好な家庭環境で育てば、子どもは1歳7か月前後まで、
他人には警戒し、自分の親が見えなくなると、後を追いかけたり
する。

●孤独という無間地獄

 「人を信じられない」というのは、たいへん不幸なことである。
「信じられない」だけでは、すまない。
それと引き換えに、「孤独」を背負う。
その孤独が、こわい。
どうこわいかは、仏教でも、「無間の孤独地獄」と表現している
ことからも、わかる。
キリスト教でも、「愛」を横軸とするなら、「魂の解放」、つまり、
「渇き(=孤独)」からの解放を縦軸としている。
(これは私の勝手な解釈によるものだから、まちがっていたら、
ごめん。)

 実のところ、この私がそうである。

●父と母

 私は不幸にして、不幸な家庭に育った。
家庭教育の「か」の字もないような、家庭だった。
戦後直後のドサクサ期ということもあった。
父は、傷痍軍人として帰国。
やがて酒に溺れるようになった。
母は、虚栄心が強く、わがままで自分勝手だった。
その上、みな、食べていくだけで、精一杯という
時代だった。

 基本的信頼関係など、もとから望むべくもない。
私が生来的にもつ不安感、焦燥感は、すでにそのころから
始まっていたとみるべき。

●シッポ

 子どものころの私を知る人たちは、みな、こう言う。
「浩司は、明るくて、朗らかな子だった」と。
しかしそう言われるたびに、私は大きな違和感を覚える。
私はだれにでもシッポを振るような子どもだった。
相手に合わせて、おじょうずを言ったり、うまく取り入ったり
した。

 が、けっして相手を信用しなかった。
いつも私の心の中には、別の目があって、その目で相手を
ながめていた。
「この人の目的は何か」
「この人は、私をどう利用しようとしているのか」
「私は、この人をどう利用したらいいのか」
「あるいは、利用価値はあるのか」と。

●4つのパターン
 
 基本的信頼関係の構築に失敗すると、ふつう、つぎの
4つのタイプの子ども(人間)になると言われている。

(1) 攻撃型(ツッパル)
(2) 服従型(親分肌の子どもに徹底的に服従する)
(3) 依存型(ベタベタと甘える)
(4) 同情型(わざと弱々しさを演じて同情を集める)

 が、何も子どもにかぎらない。
一度、こうした傾向が子ども時代(思春期前夜から思春期)に
現れると、その症状は、一生、つづく。
それがその人の、性格的ベースになる。

●不安と焦燥感

 私が基本的に、淋しがり屋なのは、基本的不信関係に起因
している。
が、それだけではない。
先にも書いたように、常に襲いくる不安と焦燥感。
この2つの間で、いまだに苦しんでいる。

 わかっていても、どうすることもできない。
「だれかを信じたい」という思いは強いが、信ずるほど、
心を開くことができない。
いつも一歩、その手前で、相手を疑ってしまう。
そして裏切られることを恐れ、裏切られる前に、相手を
裏切ってしまう。
裏切ることはないにしても、裏切られることに、強い
警戒心をいだく。

●シッポを振る

 そのため、基本的不信関係の人は、心がもろく、傷つき
やすい。
「私は私」と、デンと構えることができない。
わかりやすく言えば、ガタガタ。
「シッポを振る」というのは、そういうことをいう。

 孤独でさみしいから、人の中に入っていく。
しかし自分をさらけ出すことができない。
だから疲れる。
精神疲労を、起こしやすい。
で、家に帰ってきて、「もう、いやだ〜ア」と、声をはりあげる。

 ショーペンハウエルという学者は、それを『2匹のヤマアラシ』
という言葉を使って説明した。

●2匹のヤマアラシ

 ある寒い夜のこと。
2匹のヤマアラシが、たがいによりそって、暖をとることにした。
しかし近づきすぎると、たがいの針が痛い。
離れると、寒い。
そこで2匹のヤマアラシは、一晩中、近づいたり、離れたりを
繰り返していた。

 基本的不信関係にある人の、心理状態を、たくみに説明している。
このタイプの人は、(孤独)と(精神疲労)の間を、行ったり、
来たりする。
が、それだけではない。

●孤独の世界

 「人を信じたい」と思う。
しかし信じられない。
信じられそうになると、それがこわくて、自ら逃げてしまう。
自分のほうから、ぶち壊してしまうこともある。
「本当の私を知ったら、みんな逃げていく」と。

 愛についてもそうだ。
「人を愛したい」と思う。
しかし愛せない。
愛されそうになると、それがこわくて、自ら逃げてしまう。
自分のほうから、ぶち壊してしまうこともある。
「本当の私を知ったら、みんな逃げていく」と。

 こうして自らを、ますます孤独の世界へと追いやっていく。

●基底不安

 もうひとつの特徴は、いつ果てるともなくつづく、悶々と
した不安感。
「基底不安」ともいう。

 もっともその不安感を強く覚えたのは、子どものころ。
おとなになるにつれて、原発的な不安感は消え、姿を
変えた。

 たとえば長い休暇を手にしたとする。
長いといっても、1〜2週間である。
そういうとき私は、遊ぶことに対して、おかしな罪悪感を
覚える。
「遊んでいてはいけないのだ」という罪悪感である。
人は、そういう私を批評して、「貧乏性」という。

 だから私のばあい、利益があるとかないとか、
そういうことには関係なく、働いていたほうが、気が楽。
何かをしていないと、落ち着かない。

●悪夢

 もうひとつは、悪夢。
悪夢といっても、怪獣が出てくるとか、悪魔が出てくる
とかいうものではない。
何かに乗り遅れるという夢である。

 たとえばどこかの旅行地に行っている。
飛行機に乗る時刻が迫っている。
空港まで行くリムジンは、ホテルの前で待っている。
しかし部屋の中は、散らかったまま……。
急いで片付けているのだが、すでにバスはそこにいない。

 内容はさまざまだが、基本的な部分は同じ。
こうした夢を、ほとんど毎朝のように見る。

●世代連鎖

 話を戻す。 
さらに言えば、その人が基本的不信関係の人であっても、
それはその人の範囲での問題ということになる。
不幸な過去について、その人に責任があるわけではない。
しかしあくまでも、その人、個人の問題。

 それに私の世代でいうなら、みな、そうだった。
「戦争」というのは、そういうもの。
人心そのものを荒廃させる。
あの時代、まともな家庭環境で育った人のほうが、少ない。

 が、この基本的不信関係は、きわめて世代連鎖しやすい。
親から子へと伝わりやすい。
親が心を閉じていて、どうして子が、心を開ける子どもに
なるだろうか。
夫婦関係についても、同じ。
夫が心を閉じていて、どうして妻が、心を開ける妻に
なるだろうか。
友人関係や、近隣関係、さらには親類関係にしても同じ。
この問題には、そういう深刻な側面が含まれる。

●私たちの子育て

 私のばあいも、結婚はしたものの、妻にさえ、心を
開くことができなかった。
妻も、4歳くらいのときに、母親をなくしている。
ともにいびつな家庭環境で、生まれ育った。

 だから今にして思えば、私たちのした子育ては、どこか
いびつだった。
子育ての情報そのものが、脳の中に、インプットされて
いなかった。
おまけに、私たちを指導してくれる人さえ、近くにいなかった。
暗闇の中を、手探りで、子育てをしているようなものだった。

 私は(仕事の虫)となって、夢中で仕事をした。
家庭を顧みなかった。
ワイフのほうはどうかは知らないが、全体としてもみても、
平均的な母親よりは、愛情が希薄だったと思う。
3人の子どもたちは、日常的に愛情飢餓の状態に置かれた。

●母自身も犠牲者(?)

 先ほど、世代連鎖のことを書いた。
実のところ、私が基本的不信関係に陥ったのは、私の母との
関係だけ、というふうに考えるには、無理がある。

 このことは最近になって、いとこたちと話すことで知った。
当人たちは、それに気づいているかどうかは知らないが、いとこの
中には、私と同じような症状で苦しんでいる人が多い。
つまり私の母自身も、心の開けない人だった。
虚栄心が強かったのも、そのひとつということになる。

 同じように、いとこたちの中にも、心の開けない人がいる。
そういう人を知ることによって、私の母自身も、その前の
世代から、世代連鎖を経て、あのような母になったことがわかる。
こんなことがあった。

●ある知人

 あるいとこと、いっしょに食事をしたときのこと。
当時私は、入眠導入剤というのを、のんでいた。
いわゆる「眠り薬」である。
ときどき眠り損ねると、夜中の2時、3時まで、眠られない
ことがある。
それでそういう薬を、医師に処方してもらった。

 で、その話をして、ふと薬を見せると、そのいとこは、
その薬名を、さっとメモに書き写していた。
イヤ〜ナ気分だった。
何かを調べられているような気分だった。

 実のところ、そのいとこも、愛想はよいが、だれにも
心を許さないタイプの男だった。
ただ私とのちがいは、私にはそれがわかったが、その
知人には、それがわからなかったということ。
もちろん「基本的不信関係」という言葉すら、知らないだろう。

●オーストラリア

 私が「心を開く」ということを知ったのは、オーストラリアへ
渡ってからのこと。
オーストラリア人というのは、総じて、心がオープン。
戦勝国として、戦後、きわめて恵まれた国で、みな生まれ育った。
当時は、世界でも1、2を争うほど、豊かな国だった。

 たとえば映画館などでも、静かに映画を観ているような客は
いない。
画面に反応して、声を張り上げたり、手を叩いたりして観ていた。
海辺へ行けば、みな、素っ裸で、泳いだ。
男も、女もない。
そういうオーストラリア人と接するうちに、私は、心を開くことが
どういうことかを知った。
そのせいか、今でも、個人的な悩みや苦しみは、相手がオーストラリア
人だと、話せる。
日本人だと、話せない。

 あるいは今でも、相手がオーストラリア人とわかったとたん、
10年来、20年来の友人のように、話しかけていくことが
できる。

●私の教室では・・・

 今、多くの幼児を教えさせてもらっている。
で、あのピアジェも、人間は、2度、作りかえるチャンスが
あるというようなことを説いている。
一回目は、1・5歳〜2歳前後※。
しかしこれは私の専門外。

 もう1度は、4〜5歳※にかけての時期。
(※年齢は、記憶によるものなので、不正確。)
これについては、私も納得する。

この時期に適切な指導をすれば、心の開けない子どもでも、心を
開くことができるようになる。
子ども自身が、大きく変化する。

 もちろんそんなことは親には言わない。
言っても理解されないだろう。
しかし私はそういう子どもを知ると、猛烈な指導意欲が
わいてくる。
それは自分自身との闘いのようなもの。
そしてこう思う。
「ぼくが直して(治して)やろう!」と。

 不幸にして不幸な家庭に生まれ育ち、(けっして
見た目の裕福さにだまされてはいけない)、心が
開けなくなった子どもは、多い。
そういう子どもを見かけると、とても他人ごとのように
思えなくなる。

●知っているのは、私だけ

 もちろん子ども自身も、それに気がつくことはない。
仮に開けるようになったとしても、私のおかげで
そうなったとは、思わない。
ただ自分が味わった不幸、現在進行形でつづいている
不幸だけは、経験させたくない。
そういう思いが、強く働く。

 方法は、簡単。
大声でゲラゲラと笑わせる。
言いたいことを言わせる。
心の状態と表情を一致させる。

 が、この時期を逃したら・・・。
この問題にも臨界期のようなものがあって、それ以後、
心を開くようになるのは、たいへんむずかしい。

●終わりに・・・

 ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその「私」は、けっして私ではない。
繰り返しになるが、私のばあいも、日々に襲いくる不安感と
焦燥感。
いまだにそれに苦しんでいる。
人を信じられない孤独感を、どうしようもないでいる。

 が、それが本当の「私」かというと、そうは思いたくない。
そういう「私」は、環境の中で、作られた「私」でしかない。
私は、作られた「私」にあやつられているだけ。

 ……ということで、ここでの結論。

●結論

 まず、そういう「私」であることを知ること。
そういう「私」で知った上で、そういう「私」と、うまくつきあうこと。
直そうとおもって、直るものではない。
直そうともがけばもがくほど、深みにはまってしまう。

この問題は、本能に近い部分にまで、刻み込まれている。
また前頭連合野の理性で、コントロールできるような問題もない。
だから、あとは、うまくつきあっていくしかない。
つまり居直る。
「私は、こういう私」と居直る。

 だれしもこの程度の十字架の、1本や2本を背負っている。
十字架を背負っていない人はいない。
まずいのは、そういう「私」がいることに気づかず、それに振り回される
こと。
同じ失敗を繰り返すこと。

このエッセーが、あなたの中の「私」を発見するための手がかりになれば、
うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 基本的信頼関係 基本的不信関係 ショーペンハウエル 2匹のヤマアラシ 私
探し はやし浩司 私とは 心を開く 幼児教育 解放 心の解放 はやし浩司)

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、
添付します。
内容がダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++++

【基本的信頼関係】



信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。



絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」と
いう意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。



 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友
人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信
頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。



 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関
係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた
不安を、「基底不安」という。



 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいて
も、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる
部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこ
と、親子関係においても、である。



 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしや
すくなる。



●基底不安



 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や
心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。



 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親
は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になって
も、「それは子どものため」と思いこむ。



 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。



 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした
生きザマをするようになるということ。



 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは
「世代伝播(でんぱ)」という。



 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そん
な先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説
得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。

(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)





●人間関係を結べない子ども(人)



人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地の
よい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。



(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地
のよい環境をつくろうとする。

(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとす
る。

(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境を
つくろうとする。

(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同
情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。



それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に
対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対し
て攻撃的になる)に分けられる。



 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタ
イプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、
居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。



●子どもの仮面



 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。



 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手を
キズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相
手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。



 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一
方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗
談と、割り切ることができない。



 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶる
ようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、
独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。



 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ど
も」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようにな
る。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑って
みせるなど。



 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。
さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。



●すなおな子ども論



 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」
とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。



一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。い
やなときはいやな顔をする。



たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子
どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」
がなく、実際には教えやすい。



いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またそ
の分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。



 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさ
む、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。



ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子
どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとた
ん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様
子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かさ
れているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」というこ
とになる。



 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えると
わかりやすい。



●仮面をかぶる子どもたち



 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい
世界をつくろうとする。



 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、
いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答え
のしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。



先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」

子ども「警察に届けます」

先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」

子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。



 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。



先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」

子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」

先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」

子ども「やったこと、ネーヨ」と。



 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。



●心の葛藤



 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえ
すようになる。



 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。



 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった」と。



 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相
当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。



一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張す
ると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結
果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。



が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。



こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子ど
ものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変
調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。



 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな
神経症による症状を、引き起こす。



●神経症から、心の問題



ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れ
た状態を、「神経症」という。



子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)
は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。



(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないも
のに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。 

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。 

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。 

●たとえば不登校



こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。



しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい
花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。



が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。 

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 

(3)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。



ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たい
ていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。 

(4)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。



この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おのの
く)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じが
するため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうこ
とが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 

(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ
友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなこと
を、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二
日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。



●前兆をいかにとらえるか 

 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をと
るかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理
をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。



この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 


Hiroshi Hayashi++++++March.2010+++++++++はやし浩司

(※4)ホスピタリズム

 子どもの依存と、愛着は分けて考える。中には、この2つを混同している人がいる。つまりベ
タベタと親に甘えることを、依存。全幅に親を信頼し、心を開くのを、愛着という。子どもが依存
をもつのは問題だが、愛着をもつのは、大切なこと。

 今、親にさえ心を開かない、あるいは開けない子どもがふえている。簡単な診断方法として
は、抱いてみればよい。心を開いている子どもは、親に抱かれたとき、完全に力を抜いて、体
そのものをべったりと、すりよせてくる。心を開いていない子どもや、開けない子どもは、親に抱
かれたとき、体をこわばらせてしまう。抱く側の印象としては、何かしら丸太を抱いているような
感じになる。

 その抱かれない子どもが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査による
と、4分の1もいるという。原因はいろいろ考えられるが、報告によれば、「抱っこバンドだ」とい
う。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の1に及ぶことが、『臨床育児・保育研究
会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が3
3%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が2割前後見
られ、調査した六項目の平均で25%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固い」
「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で20%の赤ちゃんから報告されたという。さら
にこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放され
たい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。また
抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を使っ
ているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)2
〜3割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 子どもは、生後7、8か月ころから、人見知りする時期に入る。一種の恐怖反応といわれてい
るが、この時期を通して、親への愛着を深める。が、この時期、親から子への愛着が不足する
と、以後、子どもの情緒はきわめて不安定になる。ホスピタリズムという現象を指摘する学者も
いる。いわゆる親の愛情が不足していることが原因で、独得の症状を示すことをいう。だれに
も愛想がよくなる、表情が乏しくなる、知恵の発達が遅れ気味になる、など。貧乏ゆすりなど
の、独得の症状を示すこともあるという。

 一方、冒頭にも書いたように、依存は、この愛着とは区別して考える。依存性があるから、愛
着性があるということにはならない。愛着性があるから、依存性があるということにはならな
い。が、この二つは、よく混同される。そして混同したまま、「子どもが親に依存するのは、大切
なことだ」と言う人がいる。

 しかし子どもが親に依存性をもつことは、好ましいことではない。依存性が強ければ強いほ
ど、自我の発達が遅れる。人格の「核」形成も遅れる。幼児性(年齢に比して、幼い感じがす
る)、退行性(目標や規則、約束が守れない)などの症状が出てくる。もともと日本人は、親子で
も、たがいの依存性がきわめて強い民族である。依存しあうことが、理想の親子と考えている
人もいる。たとえば昔から、日本では、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコー
ル、よい子と考える。そして独立心が旺盛で、何でも自立して行動する子どもを、かわいげのな
い「鬼ッ子」として嫌う。

 こうしたどこかゆがんだ子育て観が、日本独特の子育ての柱になっている。言いかえると、よ
く「日本人は依存型民族だ」と言われるが、そういう民族性の原因は、こうした独特の子育て観
にあるとみてよい。もちろんそれがすべて悪いと言うのではない。依存型社会は、ある意味で
温もりのある社会である。「もちつもたれつの社会」であり、「互いになれあいの社会」でもあ
る。しかしそれは同時に、世界の常識ではないことも事実で、この日本を一歩外へ出ると。こう
した依存性は、まったく通用しない。それこそ生き馬の目を抜くような世界が待っている。そうい
うことも心のどこかで考えながら、日本人も自分たちの子育てを組み立てる必要があるのでは
ないか。あくまでも一つの意見にすぎないが……。

(はやし浩司 愛着 依存 抱かれない子供 抱かれない子ども ホスピタリズム 抱っこバンド
 子どもの依存性 子供の依存性 はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

(※5)子どもを愛せない母親

●マターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)

+++++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デプリベイション」
という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。 
漠然と怖い。 
超泣く。所構わず突発的に。 
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 

【その他質問、追加事項】 

抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。 
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続け
た。 

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。 
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、 
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようにな
り 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言
葉)自分の存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感
じます。電話に出たり一人で外出できません。 

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち
直れません。フラッシュバックがよく起きます。 

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り
続ける妙な癖のようなものがある。 

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放される
と信じていたりして自分でもマズイと思ってます。 

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。 
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽ
い奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、
心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこ
む習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特
の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってき
た。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになってい
る。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の
発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、そ
れを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デプリベイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってき
た。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされた
が、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという。
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

●いじめの問題

 このマターナル・デプリベイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少
し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児〜年長児(4〜6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとし
た表情を示す。
全体の7〜8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももい
る。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持すること
ができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要
がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子ども
がいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満
足げでおっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえ
ば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デプリベイションという問題があるのは、わかった。では、私はどうなのか?」
と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難し
い。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれな
い。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、
そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この
「マターナル・デプリベイション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高
い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なこ
とではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということ
もある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もり
に関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エ
ンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デプリベイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはい
けない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが…
…。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性
が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分
に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物な
ど、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」
という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親
自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文
化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないよう
だ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひ
とつになっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セ
ルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切な
バロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかって
きた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなる
と言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて
自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そ
のくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をか
ぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということに
なる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立 子
供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 マターナルデプリベイション マターナル・デプリベイション 母子関係
 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込み
 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期Maternal 
Deprivation 母性欠落 母性欠損)


Hiroshi Hayashi+++++Nov.2010+++++はやし浩司

●11月5日(はやし浩司 2010−11−05)

+++++++++++++++++++++

おととい、私のメインパソコンが突然、フリーズ。
ワードで作業中でのこと。
肝を冷やした。

真夜中だったが、すぐM社に電話。
サプリメント・ディスクから、各種ドライバーを、
更新(=再)インストール。
そのおかげか、今のところ快調。

改めてファイルのバックアップ、それにウィルス
対策の重要性を認識する。
昨日は、外付けHDにデータを保存。
今朝からは、ウィルス・チェックとボット・チェック。
何かと忙しい。

++++++++++++++++++++++

●冬到来

 午前中にインフルエンザの予防注射に行く予定。
しかしこの冷気。
できるなら家の中で、静かにしていたい。
ワイフは、こう言った。
「秋がないまま、冬になってしまった」と。

 同感!

 が、運動はさぼれない。
昨夜はサイクリングを1単位(=40分)、
今朝は起きるとすぐ、ウォーキングマシンで30分、それぞれこなした。

●花粉症

 今年の猛暑。
その影響で、来年(2011)の花粉の飛来は、今年の7倍近くになるとか(報道)。
早くも花粉症関連企業の株価が、上昇し始めている。
何となくユーウツ!

 私のばあい、この15年ほど、症状は収まっている。
が、その季節になると最初の1週間ほどは、花粉症に苦しむ。
医院で注射を打ったり、シソエキスを飲んだり……。
いろいろと苦労する。

●子ども園構想
 
 平たく言えば、国には、金がナ〜イ!
……ということで、子ども園(正式には「こども園」だが)。
収入が減ると心配する幼稚園。
経営がおびやかされると心配する保育園。
受益者負担の名のもと、経済的負担がふえるのではないかと心配する親たち。
「待機児童うんぬん」は、口実に過ぎない?

 すでに認定子ども園は、あちこちにある。
園舎の半分は幼稚園(文科省管轄+学校法人)。
残りの半分は保育園(厚労省管轄+社会福祉法人)。
しかし給食など、2つに分けるのは、現実には不可能。
会計士ですら、「運営は不可能」と断言している。

 子ども園は、今の構想によれば、自治体が指定した事業所が経営することになる。
一度、幼稚園、保育園を解体したあと、将来的には「子ども家庭省」なるものが、所管
するという。
スウェーデンをモデルにしているということのようだが、どうかな?
うまくいくかな?

 それよりも大切なことは、親の意識を変えること。
子育ては義務ではなく、権利である。
その権利を自ら放棄するようなことを、親たちは平気でしている。
さらに言えば、子育ては本能ではなく、学習によって身につく。
0歳から施設で育てられた子どもが、おとなになって、「よい親」になるとは、
とても考えにくい。
すでに今が、その結果かもしれない。
心の冷たい、功利、打算的な日本人がふえている。

 幼稚園にせよ、保育園にせよ、週2〜3日も行けば、じゅうぶん。
行きたい時間に行き、帰りたい時間に帰る。
現にカナダでは、そうしている。
そういう「自由」を、なぜもっと認めない?

 何でもかんでも自分の管理下に置きたがる、国。
「教育は国が……」と考える、親たち。
日本の教育制度そのものが、すでに制度疲労を起こしている。
それがわからなければ、ドイツやイタリアを見ろ!
EUを見ろ!

 子どもたち(中学生)は、たいてい午前中だけで授業をすませ、あとは好きな
クラブに通っている。
大学の単位は共通化され、学生たちは自由に大学間を渡り歩いている。
小中学校にしても、もちろん教科書など、ない!

 昨日もある雑誌社の人から電話があり、こう聞かれた。
「はやし先生(=私)は、幼保一元化に賛成ですか、反対ですか」と。

 賛成も反対も、ない。
日本の教育システムは世界の常識から、完全にはずれている。
これだけ情報が自由に手に入るようになった現在、どうしてそんなことがわからないのか。
なぜ親たちにせよ、子どもたちにせよ、もっと「自由」を追求しないのか。
それがわからなければ、もう一度、尾崎豊の「♪卒業」を聞いてみたらよい。

 ……少し過激な意見で、ごめん。
「こども園構想」は、私にはただの茶番劇にしか思えない。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●恵まれた子どもたち(自律期の幼児)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


【自律期から自立期へ】(4〜5歳児の心の発達と、自己主張)

「動物」をテーマに学習を進めました。
しかしこのビデオでは、子ども(年中児+年少児)の会話に注目してください。
エリクソンが解く、「自律期」「自立期」が、どういうものか、理解していただける
と思います。

子どもはこうして自己主張を繰り返しながら、自立していきます。

一見、扱いにくく見える子どもたちですが、こうした(伸びやかさ)を通して、子どもは
人格の核(コア)を形成していきます。
この核形成に失敗すると、以後、ナヨナヨした人格(?)の子どもになってしまいます。
たいへん重要な時期です。
と、同時に、ここに紹介する子どもたちは、環境的にも、また性格的、精神的にも、
たいへん恵まれた子どもたち(Gifted Children)です。

(1)

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v/Kk_rma_PTHg?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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(2)

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(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/bd-QaPGdAA8?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/bd-QaPGdAA8?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


(4)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/jslftEUTv3A?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/jslftEUTv3A?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


HTML版で紹介できないBLOGは、
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はやし浩司 恵まれた子ども gifted children 幼児の自己主張 自己主張する幼児
幼児の自立期 幼児の自律期 エリクソン 自律 自立 はやし浩司 
2010−11−05)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【GI様へ】(自己愛性人格障害について)

 長い電話で、すみませんでした。
美里様(以下、M様)についてですが、かねてより、ある種の人格障害をもった人ではないかと
判断しています。
「ある種」というのは、「自己愛性人格障害」という意味です。
簡単には、「自己愛者」といういいます。

(ただし「障害」というときは、「他者との良好な人間関係が結べない」という意味で、
使います。
他者と良好な人間関係が結べれば、「障害」ではないということです。)

 要するに自己中心性が、極端な段階にまで、肥大化した人をさします。
決して好ましい人格とは言えません。
自分勝手でわがまま、好き嫌いが極端にはげしく、批判されると異常なまでに反発します。
またどんな場でも、自分がその中心にいないと気がすみません。
このことは、すでにGI様が、お気づきの上、かつご指摘になったとおりです。

 念のため、DSMの診断基準をここに載せておきます。

++++++++++++++++++++

●自己愛性人格障害 (DSMの診断基準より)
Narcissistic personality

A 自己の重要さ又はユニークさをおおげさに感じること
(例:業績や才能の誇張、自己の問題の特殊性の強調)

B 再現のない成功、権力、才気、美貌、あるいは理想的なあいの空想に夢中になること

C 自己宣伝癖
(例:絶えず人の注意と称賛を求める)

D 批判、他者の無関心、あるいは挫折に際しての反応がそ知らぬふりであるか、憤激、劣等
感、羞恥心、屈辱感、または、空虚感といった目立った感情である

E 以下のうち少なくとも2項目が対人関係における障害の特徴である。

(1)権利の主張:それに見合っただけの責任を負わずに、特別の行為を期待すること、
(例:望むことを人がしてくれないと言って驚き、怒る)

(2)対人関係における利己性:

 ●自己の欲求にふけるため、又は自己の権力の拡大の為に他者を利用する。
 ●他者の自己保全や権利をないがしろにする。

(3)対人関係で、過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴を持つ。

(4)共感の欠如:他者がどう感じているかわからない。

(注:以上、人格障害 DSMー3(第3版)「精神障害診断基準」(DSM−3/1980年)
より)

++++++++++++++++++++++

●GI様へ

 これを読んでも、M様が、すべて診断基準通りと言うことに、お気づきかと思います。
またM様だけではなく、G様(あなた様のお姉様)も、すべて診断基準通りということに、
お気づきかと思います。

 加えて加齢による、記憶力の低下、融通性の欠如などが現われ、さらにここにあげた
ような性格が、極端化してきているように判断しています。

 前回も指摘しましたが、M様については、文字を読めない(簡単な手紙のようなものは
読める)という点から察しても、別の障害が疑われます。
M様の周辺には、本らしい本が1冊もないことに、ご注目ください。
それはそういう障害によるものです。
私もM様が、若いころから本を、まったく読めない……あるいは読まないということを、
聞いています

たとえば重要な法律書類を、「私はこんなもの読んでも、しかたない!」と言って、手で
払いのけられたような行為が、その一例とということになります。
本当に理解できないから、そういう行動に出るのです。
またそれを悟られるのを、極度に警戒します。
で、もしそうなら、識字障害者ということになります。

 本来なら正式な診断機関で診断してもらうのがよいのですが、このタイプの女性に
かぎって、それをはげしく拒絶します。
自己愛者の特徴のひとつです。

 自分を過大に自己評価する一方、他人にそれを否定されると、狂ったように反発します。
診断機関で診断を受けるなどということは、考えられないことです。
だから結局は、その周囲の人たちが、苦労するということになります。

●相手にしないこと

 そこで重要なことは、M様にせよ、お姉様にせよ、そういう人たちに、引き回されない
ようにするということです。
わかりやすく言えば、心に大きなキズをもった人たちであることを理解し、その上で、
交際していくということです。
いちいち相手にしていると、今度はGI様自身が、相手のペースに取り入れられてしまい
ます。
ですから鉄則は、相手にしないこと。
できれば遠ざかること。
この一言に尽きます。

いろいろ不愉快に思っておられる気持ちは、よく理解できます。
私も別の世界で、似たような経験をしています。

 参考までに、私が今まで書いてきた原稿を添付します。
どうか心安らかに。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己愛者( Narcissism person)
The more he or she is a self-centerness person, the lower his or her mental IQ is.

+++++++++++++++++++

自己中心性が極端なまでに肥大化した
状態の人を、自己愛者という。

+++++++++++++++++++

●ジコチュー

自己中心性(ジコチュー性)が、極端なまでに
肥大化した人を、「自己愛者」という。
自己中心性が強い分だけ、人格の完成度は、低い。
ほかに、たとえば異常なまでの完ぺき主義、
他人の批判を許さないなどの特徴がある。
その自己愛者については、たびたび書いてきたので、
ここでは、その先を書く。

私は、現在、こんな経験をしている。
私の身近にいる知人だが、このところ、認知症と
思われる症状が、急速に進んでいる。
アルツハイマー病の初期症状かもしれない。
ときどき、記憶の一部が、脳みそから欠けるように消えてしまう。
前の晩に何を食べたかを忘れるのは、よくあること。
が、その人のばあい、前の晩に食事をしたことそのものを、
忘れてしまう。

電話で話していても、一方的に、しゃべるだけ。
しゃべるだけならまだしも、しばらくすると、
また同じ話を繰りかえす。
そして私が何か、その人について批判めいたことを
口にすると、その瞬間、狂乱状態になってしまう。
「以前、その話はもう聞きました」と言っただけで、
ギャーッとなってしまう。
「私は、言っていない!」「どうして、そういうウソを言うの!」と。
言い忘れが、その知人というのは、今年、59歳になる。
女性である。

ワイフの長い友人で、いつしか家族ぐるみでつきあうようになった。
が、このところ、ワイフが言うには、「つきあいにくくなってきた」
「10年前には、ああではなかった」とのこと。
つまり、回りくどい言い方になってしまったが、認知症のはじまりには、
ものの考え方が、自己中心的になり、自己愛的な症状が出てくる。
言いかえると、自己中心性が出てきたら、あぶないということ。

(その人が、認知症というわけではない。あくまでも私が、
そう疑っているだけ。念のため。)

認知症になることによって、人格そのものが、崩壊してしまう人がいる。
そう考えれば、認知症の初期症状のひとつとして、ものの考え方が
自己中心的になったところで、何ら、おかしくはない。

+++++++++++++++

もう一作……。

+++++++++++++++

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。
 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。
 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。
 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。
 事実、その通りだから、反論のしようがない。
 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。
 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)
だから「私のそばにいれば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。
そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

●自分を知る

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。
 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。

(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。

(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。

(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。

(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。
 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!


(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教
育 子育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●愛他的自己愛者(偽善者)

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私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。

「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。

私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。

さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!

私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。

しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。

+++++++++++++++++++

●周囲文化

その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。

そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。

しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。

そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。

●情報

その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。

この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ〜、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。

つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。

「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。

つまり一貫性がない。

そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。

たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。

そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。

で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。

「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 偽善 偽善者 自己愛 愛他的自己愛 自己愛者 自己愛性人格障害)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【世代性】(2010−11−07加筆)

●低俗性と低劣性

 低俗性であることは、必ずしも悪いことではない。
俗世間とかかわりをもつ。
その中で豊かな人間関係を築いていく。
それがその人の人間的な幅を広くする。
たとえば回転寿司屋で寿司を食べたからといって、その人の人間性がさがるという
ことではない。
破れたジーパンで、山の中を歩いたからといって、その人の人間性がさがるということ
ではない。

 が、低劣性は、別。
人の不幸話に聞き耳を立て、聞いた話をおもしろおかしく、別の人に伝えていく。
それだけではない。
この世界には「もまし」という言葉がある。
AさんとBさんを離反させるために、それぞれに告げ口を繰り返す。
若い人たちの話ではない。
50歳とか60歳、さらには70歳とかを過ぎた人が、それをする。
つまり他人のもめごとを作って、それを外から聞いて、楽しむ。
もめごとを作るから、「もまし」という。

●加齢とともに

 とても残念なことだが、加齢イコール、人格の完成期というわけではない。
加齢とともに、むしろ低劣になっていく人は多い。
あるいは化けの皮がはがれていく?
若いころは、それなりの仮面をかぶる。
気力がそれを支える。

 しかし加齢とともに、気力が弱くなり、ついで仮面がはがれていく。
言い替えると、若い人でも低劣な人は、いくらでもいる。
……というか、幼児でも低劣な幼児と、そうでない幼児がいる。
「そんな?」と驚く人もいると思う。
しかし事実は、事実。

 ものの道理をしっかりとわきまえ、善悪を正しく判断できる幼児もいれば、
そうでない幼児もいる。
私が「理」からはずれたことをすると、すかさず、「先生、おかしい!」と言ったり
する。
そのちがいはといえば、自律性と自立性ということになる。

●世代性

 今朝は、数年前に書いた「世代性」についての原稿を読みなおしてみた。
私たちはある年齢を超えたら、私たちが得た知識や経験、知恵をつぎの世代に伝えていく。
それを「世代性」という。
言い替えると、世代性の追求こそが、老後のあるべき姿ということになる。
知人のI氏(藤沢市在住)は、「還元」という言葉を使って、それを主張する。
「今まで生きてきた命を、若い人たちに還元していく」と。
「世代性」と同じ意味と考えてよい。

++++++++++++++++++

世代性について書いた原稿を、
加筆、訂正してみます。

++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)

(Do we have what we should do?  If you have something that you should do, your life 

after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable

age.)



+++++++++++++++++



乳児期における信頼関係の構築を、人生の

入り口とするなら、老年期の自我の

統合性は、その出口ということになる。



人は、この入り口から、人生に入り、

そしてやがて、人生の出口にたどりつく。



が、誤解してはいけない。

出口イコール、「死」ではない。

出口から出て、今度は、自分の(命)を、

つぎの世代に還元しようとする。



こうした一連の心理作用を、エリクソンという

学者は、「世代性」と呼んだ。



+++++++++++++++++



我々は何をなすべきか。

「何をしたいか」ではない。

「何をなすべきか」。



その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。

我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。

が、その「生」には、限界がある。

その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。



その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、

倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。

つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。



それが世代性ということになる。



その条件として、私は、つぎの5つを考える。



(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)

(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)

(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)

(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)

(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)



この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。

エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。



何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。

言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。

「無間地獄」。



つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。

来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。

健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。



大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。



が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。

それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。



「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ

けにはいかない。

またそうした行動には、意味はない。



さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。

私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ

り、統合性の確立は不可能と言ってよい。



我々は、何のために生きているのか。

どう生きるべきなのか。

その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。



(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 

Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統

合性の確立)



(追記)



(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳

前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。



その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。



この問題だけは、そのときになってあわてて始めても、意味はない。

たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ

ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。



……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という

問題ではない。

もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。



孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。

中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。

来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。

利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。



しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。

忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。



もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ

と。

認知症か何かになって、何も考えない人間になること。

もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。

しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老後の姿と考えるだろうか。



(付記)



統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問

してみるという方法がある。



「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。

「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。



ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる

ものを感ずるときがある。

真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。



それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。



なおこの使命というのは、みな、ちがう。

人それぞれ。

その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。



大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。

50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。

持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。



60歳をすぎれば、さらにそうである。



我々に残された時間は、あまりにも少ない。

私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。

早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高邁(こうまい)性

 私はこの中で、つぎの5つの項目を並べた。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

 今、ここで問題になるのは、(4)の高邁性ということになる。
いかに高邁性を追求するか。
またそのためには、どうすればよいか。

 それを決めるのが、思考力ということになる。
ものを考える力。
もう少し言葉の定義を狭くするなら、「思索力」ということになる。
思索力のある人を、思慮深い人という。
その思慮深さが、その人の高邁性を決める。
長い時間をかけて、高邁性を決める。

●低劣さvs高邁性

 私はよくこう言う。
「バカな人からは、利口な人がわからない。
しかし利口な人からは、バカな人がよくわかる」と。

 低劣さと高邁性を対比させるなら、低劣な人からは高邁な人がわからない。
高邁な人からは、低劣な人がよくわかる。
それはちょうど山登りに似ている。

 下から見ると低い山に見える山で、登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
たとえば浜名湖(浜松市の西)の北端に、大草山という山がある。
標高150メートルくらいか?
山の下は湾になっていて、舘山寺温泉街が並んでいる。
そんな山でも、登れば、遠く、浜松市が一望できるから不思議である。

 が、もちろん上には上がある。
つまり低劣さにせよ、高邁性にせよ、相対的なものに過ぎない。
いくら自分が高邁と思っていても、より高邁な人から見れば、低劣ということになる。
言うなれば、「上」には、際限がない。
(もちろん「下」にも、際限がないが……。)

●では、どうするか?

 老後は、脳みその下に開いた穴との闘いである。
その穴から、知識や経験、さらに知恵までもが、容赦なく、こぼれ落ちていく。
そうでなくても、こぼれ落ちていく。
さらに加齢とともに、加速度的にこぼれ落ちていく。

 ……となると、私たちはそれ以上の知識や経験、さらには知恵を補充していかねば
ならない。
「若いときだけで、勉強は終わった」などというのは、とんでもない話。
中には70歳を超えても、一流大学卒という学歴をぶらさげて歩いている人もいる。
もちろん中身はゼロ。
冒頭に書いた、(もまし)を生きがいにして、生きている?
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と。

 ……ということで、私たちは常に「上」をめざす。
あくことのない探求心と努力。
その2つを武器に、「上」をめざす。
それでも高邁性は得られないかもしれない。
しかしあきらめたとたん、低劣の世界へと、落ちていく。
つまらない世間話やゴシップで、時間を無駄にする。
人生を無駄にする。
命を無駄にする。

 さあ、今日も始まった。
がんばろう!
2010年11月7日朝記。
(はやし浩司 2010−11−07)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 低劣性と低俗性 世代性と還元 老後の統合性の確立 自我の統合性)

(補記)

 1か月ほど前、ある知人(62歳)と電話で話した。
知人には、1人の妹(55歳くらい)がいる。
その妹が、ときどき介護するフリをして実家へ行き、母親の隠し持っている現金を
盗んでくるという。
現在、母親は独り暮らし。
やや認知症(?)。
「どうしたらいいのかねえ?」という相談である。

 こういうケースのばあい、回答はただひとつ。
「相手にしてはいけない」である。

 そういう低劣な人間(妹)を相手にしていると、自分までその低劣な人間になって
しまう。
つきあえばつきあうほど、深みにはまってしまう。
「あきらめて縁を切ることですよ」と、私はアドバイスした。

 私も親族の間で、似たような経験をしている。
低劣な人には、恐ろしいほどの魔力がある。
あの夏目漱石も、同じような問題をかかえ、悩んだ(『心』)。
高邁な精神世界と、低劣な親族間の問題で、自分の魂がバラバラになっていくのを
感じた、と。

 人間も、60歳を過ぎたら、自分に正直に生きたらよい。
無理をして、つまりつまり自分の理性や知性をねじまげてまでも、つきあいたくない
人間とつきあうことはない。
したくもない(つきあい)をする必要もない。
どこまでも自分に正直に生きる。
それが重要。

 私はそう考えて、その知人にはこう言った。

「頭とシッポ(=つまらない部分)は、妹さんにくれてやればいい。
私たちは中身(=大切な部分)を取ればいいのです」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 頭とシッポ 頭と尻尾 はやし浩司 2010−11−07)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【沖縄から帰って……】(記憶的沖縄論)

●記憶(はやし浩司 2010−11−08)

 朝起きると、すぐルームウォーカーで、30分。
そのあと乗馬マシンで10分。
寒い朝は、それで体が暖まる。

 が、実際には、その20〜30分前から、頭の中はフル回転。
ふとんの中から顔を半分出して、今日の計画をあれこれと立てる。
書いてみたいテーマも、そのとき浮かんでくる。

 たとえば「記憶」。
沖縄旅行から帰ってきてからというもの、日増しに沖縄の印象が悪くなっているのに
気づく。
台風一過。
天気にも恵まれた。
明るい陽光が、さんさんと輝いていた。
が、印象がどうもよくない。
どうしてだろう?

●記憶

 最近、記憶ほど、いいかげんなものはないと思い始めている。
たとえば少し前、私とワイフは、沖縄へ行ってきた。
そのときのことを思い出しても、記憶に強く残っている部分と、すでに記憶から消え
かかっている部分があることを知る。
そのとき撮った写真を見て、「ああ、こんなところもあった!」と。

 こうした現象を、心理学の世界では、「長期記憶」「短期記憶」という言葉を使って
説明する。
短期記憶といっても、注意を向けるかどうかで、保持の長さが決まる。
当然のことながら注意を向けた記憶は、脳の中に長くとどまる。
そうでない記憶は、瞬時に忘れる。
時間にすれば、1秒の数分の1程度ではないかと言われている。

 そこで自分の頭の中をさぐってみる。
たとえば「旧海軍司令部壕」。
丘の上に入り口があり、その地下には縦横無尽に「壕」が掘られていた。
たしか司令官室とか作戦室とか、そんなような部屋があったように記憶している。
が、どういうわけか私の記憶の中では、戦艦大和の油絵だけが強く印象に残っている。
模型も展示されていた。

 どうしてだろう?

 展示室の中には1人の女性が立っていて、ほかの観光客に向かって、あれこれ何やら
説明していた。
断片的な言葉は覚えているが、何を話したかまでは覚えていない。
恐らくその記憶も、あと1〜2か月もすれば、脳の中から消えてしまうだろう。

 あとはあのトンネル。
私は子どものころから、閉所恐怖症。
地下へとおりる階段をくだりながら、早く外へ出たいと、そればかりを願っていた。
だからあのトンネルだけは、よく覚えている。
スコップだけで掘られたような粗末なトンネル。
狭くて息苦しい。
壁にどんな写真や、説明文が掲げられていたかは、ほとんど記憶していない。
そのつど歩くのを止めて、読んだはずなのだが……。

●「二度と行きたくない」

 沖縄へは旅行で行った。
気楽な旅行になるはずだった。
が、振り返ってみると、沖縄のイメージがどうも暗い。
そのあとも、いくつかの戦争祈念館(沖縄では「祈念館」という)を回った。
タクシーの運転手が、反戦運動家(?)だったということもある。
4〜5時間の間に、私たちはすっかり洗脳されてしまった?

 今にして思うと、楽しかったという思い出よりも、「暗いイメージ」ばかりが、
残っている。
そして今、「沖縄」というと、「戦争の激戦地」というイメージしか残っていない。
(激戦地だったというのは、事実だが……。)
つまり楽しかったというよりは、重苦しい社会科の学習に出かけたような印象しか
ない。
またそういう印象だけが、頭の中でどんどんとふくらんでいく。
そのせいか、ワイフまでも、「二度と沖縄には行きたくない」と。
楽しかったこともたくさんあったはず。
しかしそういう記憶は、脇へ追いやられてしまっている。

●自伝的記憶

 たとえば似たような現象を説明するのに、「自伝的記憶」という言葉がある。
いろいろな記憶があったとしても、時間がたつにつれて、自分にとってつごうのよい
記憶だけが増幅され、一方、自分にとってつごうの悪い記憶は縮小されていく。

 たとえば「私の子ども時代は、楽しかった」と思うと、楽しかった思い出だけが
大きくふくらみ、そうでなかった思い出は、やがて消えていく。
その結果として、ますます「私の子ども時代は、楽しかった」となる。

 もちろんその逆のこともある。
「自伝的記憶」というほどおおげさなものではないが、(というのも、自伝的記憶という
のは、もっと長い時間的経緯の中で起こる現象をさすので)、今回の沖縄旅行では、私は
似たような経験をした。
日増しに暗いイメージばかりが、ふくらんでいく。
たとえばあの国際通り。
そこで出会った沖縄の人たち。
みな、朗らかで明るかったはず。
が、今、思い出してみると、どの人もその向こうに暗い影を背負っている。
「抜けるような明るさ」とは、とても言いがたい。

 こういうのも「記憶錯誤」と言ってよいのか?
つまり記憶が脳の中で、勝手に歪曲されていく……。

●記憶錯誤

 「記憶錯誤」という言葉が出たので、少しこれについても説明しておきたい。
記憶というのは、周囲の状況や、言葉によって影響を受ける。
そして記憶そのものが、変質することがある。
見たはずはないのに、「見た」とか、聞いたはずはないにの、「聞いた」とか。
自分の頭の中で、別の記憶を勝手に作りあげてしまう。
それを「記憶錯誤」という。
たとえば最近、私はこんな経験をしている。

 私には、60数名の「いとこ」がいる。
60数名といっても、親しくつきあっているのは、そのうちの10数名程度。
残りの人たちについては、消息すら知らない。

 そうしたいとこたちとは、楽しい思い出がたくさんある。
だから今でも、「いとこ」という言葉を聞いただけで、心がウキウキしてくる。
わたしにとって、いとこというのは、そういう人たちをいう。

 が、その中の1人が、さかんに私の悪口を言っているという。
以前、その人の宗教を批判したのが、どうやら原因らしい。
それはそれとして、つまり私は何もその人個人を批判したわけではないのだが、以後、
その人との楽しかった思い出がどんどんと消えていくのを感じた。
それから数年。

 で、最近はどうかというと、それが不思議なことに、その人との悪い思い出しか
残っていない。
子どものころ、意地悪された話とか、喧嘩した話とか、など。
そういうものだけが、勝手にふくらんでいく。
そればかりか、断片的な記憶をつなぎあわせて、「あの人は、ああ思っていたはず」とか、
「私をこう恨んでいたはず」とか、想像の世界で別の記憶を作りあげてしまう。

 結果として、今、私はそのいとこについては、悪い印象しかもっていない。
つまりそういう印象が、作りあげられてしまった。

●子どもの世界でも

 子どもの世界でも……とここで書くと、あまりにも意図が見え見え。
しかし親の立場で書くなら、子育てをしながら、子どもの脳の中に、どういう記憶が
残っていくかを、そのつどていねいに見なければならない。
それがよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。
先に書いた「自伝的記憶」の恐ろしさは、ここにある。
悪い印象を与えると、よい印象まで、かき消されてしまう。

 今度は子どもを教える教師の立場で書くなら、教えながら、子どもの脳の中に、
どういう記憶が残っていくかを、そのつどていねいに見なければならない。
それがよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。

 大切なことは、「楽しかった」「おもしろかった」という印象作りを大切にする。
そうした前向きな「思い」が、やがて子ども自身の力で、子どもを前向きに
引っ張っていく。

 繰り返すが、私は、率直に言えば、二度と沖縄には行きたくないと思っている。
ワイフも、そう思っている。
タクシーの運転手は、こうも言った。
「これからの沖縄は、観光で食べていくしかない」と。
であるならなおさら、ここに書いた「記憶」をテーマに、観光のあり方そのものを
考えたほうがよい。
観光地というのは、「人を楽しませる場所」。
沖縄の人たちの気持ちもよくわかる。
が、しかし半日、むごたらしい写真ばかり見せつけられたら、だれも沖縄に行きた
がらなくなるだろう。

 これは沖縄の人たちにとっても、まずいのではないか?

 今朝は起きる前、ふとんの中で、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 記憶錯誤 自伝的記憶 観光 沖縄論)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●11月8日

 こんどの正月に、ワイフの兄弟姉妹たちが集まる。
みんなで7人兄弟姉妹だが、仲がよい。
この40年間、傍から観察してきたが、本当に仲がよい。
みながみな、力を合わせ、協力し合っている。

 そんな兄弟姉妹を、ワイフ自身は、「当たり前」と思っている。
しかし実際には、仲がよい兄弟姉妹は、少ない。
『兄弟は他人の始まり』ともいう。
兄弟姉妹でも、他人以上の他人の関係にある人は多い。
親族であるだけに、確執も深い。
大きい。

 で、私が「どうしてそんなに仲がいいのか」と聞くと、ワイフはこう言った。
「母を早く亡くしたでしょ。それでみなが、助け合って生きてきたのよ」と。
うらやましい!
本当にうらやましい!

●M君

 朝、M君から突然、電話。
「今、バイクで静岡まで来た」と。

私「バイクで?」
M「そうだ」
私「横浜から、か?」
M「そうだ。これから名古屋に向かう。浜松を通るから、昼飯でも食わないか?」と。

 横浜から名古屋まで、バイク!
話を聞くと、50ccの三輪バイクという。

 M君にはM君の思いというものがあるのだろう。
それはわかるが、かなり無謀。
私もときどきバイクで、20〜30キロ先まで行くことがある。
しかしバイクは危険。
ハンドルの遊びがない分だけ、ほんの少し油断すると、道の中央へ出てしまう。
そこで後続の車と接触しそうになる。

 残念ながら、月曜日は忙しい。
午前中は教材作り。
正午ごろには、昼寝をしなければならない。
今朝は5時に起きてしまった。
仕事は、午後9時まで。
次回、また会うことにした。

 「ぼくもいつか、一度はしてみたいと思っている」と。
最後にそう言ったが、たぶん、それはもうないだろう。
その自信はない。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【今朝、あれこれ】はやし浩司 2010−11−09

●疲れ

 旅の疲れか?
不眠のせいか?
今朝から気分が重い。
年を取ると、疲れがあとになって、出てくる。
疲れが、なかなか取れない。
長くつづく。

 食欲がないのは、風邪を引いたから?
今朝は起きるときから、寒気がした。
昨夜から急速に気温が変化した。
小雨が降って、朝方から、台風のような風が
吹いている。

葛根湯をつづけて2袋のむ。
そのあとふとん乾燥機でふとんを暖めて、再び眠りなおし。
目を覚ましたのが、午前11時!

 11月は講演会の季節。
今日中にレジュメを2本、完成させる。
催促の電話が、留守番電話に入っていた。
やるしかない!

●電話取材

 先週、某雑誌社の記者の女性と、1時間半、話した。
先方が、私の話したことを記事にしてくれる。
このところ、そうした仕事がふえてきた。
楽な仕事だが、私は本来、そういうやり方が、あまり好きではない。
たとえば「子ども」と書くときも、私は「子供」と書くより、「子ども」と
書くほうが好き。
ほかにも漢字の使い方には、あれこれと神経をつかう。

 一方、雑誌社は雑誌社で、文体や、文調、漢字の使い方などを統一している。
ある雑誌社では、たとえば「七転び八起き」でも、「7転び8起き」と書く。
さらにクセの強い雑誌社だと、「一方」を、「1方」と書いたりする。

 ライターが女性だと、(たいていは女性だが)、できあがってくる文章は
どうしても女性的になる。
私の書く文章は、よく辛口と言われる。
それが女性的になる?
「はやし浩司」の文章が、骨抜きにされてしまう?

●妥協
 
 そうしたやり取りの中で・・・。
読者対象は、小学生をもつ母親という。
が、私たちの世界から見ると、小学生というのは、すでに「完成品」。
たとえば「やる気のない子どもは、どうすればいいか」と聞かれると、
即座に、「手遅れです」と言いたくなってしまう。
しかしそれでは原稿にならない。

 ぐいと妥協して、それなりの方法をいくつか話す。
話しながら、誤解を招かないよう、細心の注意を払う。
結構、この仕事も、神経をつかう。
受話器をもとにもどしたとき、手はジワーッと汗で濡れていた。

●エクスペンダブルズ

 この1、2週間、映画館に足を運んでいない。
「これは!」という映画が、ない。
いちばん最近見たのは、スタローン主役の「エクスペンダブルズ」。
ランボーのリメイク版といった感じの映画。
作り方の荒っぽさだけが目だった。

 ときどき劇場案内に目を通すが、邦画ばかり。
同じ日本人だが、邦画は見るに耐えない。・・・ものばかり。
「今度こそ・・・」と思って足を運ぶが、そのつど期待を裏切られる。
最後に観た、「十三人の刺客」にしても、そうだ。
200人の侍を相手に、「切って切って、切りまくる」。
が、侍といっても、ふつうのサラリーマン。
200人の侍のほうに、むしろ同情してしまった。
親分が悪いからといって、どうして殺されなければならないのか。
「忠義」といっても、中身は「飼い犬根性」。
本来なら13人の刺客のほうに感情移入して楽しむべき映画だったが、
その感情移入ができなかった。

 意味のない殺戮映画。
それが「これでもか」「これでもか」とつづく。
途中で眠くなってしまった。

●自分の意見

 悪口ばかり書いていてはいけない。
読む人だって、不愉快になる。
昔、ある雑誌社に・・・名前を出しても差し支えないだろう。
主婦と生活社に、井上清という編集長いた。
その編集長がこう教えてくれた。

 「ものを書くときはね、あなたはすばらしい、いい人だという
文章を書く。こうして相手を気分よくしたあと、少しだけ、『だけど
こうすればもっとよくなりますよ』とつづける。5%だけでも自分の意見が
書ければそれでよしとする」と。

 雑誌の世界では、そうかもしれない。
「あなたはバカだ、アホだ」と買いたのでは、雑誌は売れない。
相手をもちあげる。
相手をいい気分にさせる。
あるいは相手が欲しい情報を書く。
「あなたはすばらしい人だ。
しかしこうすれば、もっとすばらしい人になる」と。
他人に読んでもらうためには、そうでなくてはならないかもしれない。

 が、当時、こんな言葉がはやり出した。
「バカママ」という言葉である。
新米の主婦たちの、ドジな話が特集記事で載っていた。
ひとつの例として、「魚を三枚におろす」というレシピを読んで、魚を
3等分した女性の話が載っていた。

それについて私が、「そんなタイトルの記事を書いたら、雑誌が売れなく
なるのではないですか」と聞くと、井上氏は、こう言った。

 「あのね、そこが人間の特殊ところなんだよな(失礼!)。
だれも自分のこととは、思わない。
自分が同じようなことをしていても、自分とは思わない。
自分よりバカな人間がいることを知って、いい気分になる」と。

 ところでなぜあのバライティ番組が、人気があるか?
バカ丸出しの出演者たち。
視聴者はそれを観て、つまり自分よりバカな人間がいることを知って、安心する。
その安心感が、ストレス解消にもなる。
・・・というのは、私の意見ではない。
ずいぶんと前のことだが、そういう内容のエッセーを書いた評論家がいた。

●正直

 が、私はもうひとつ、心がけていることがある。
それはありのままを書くということ。
それについては、すでに何度も書いてきた。
ウソを書いたり、自分を飾ったりした文章を書くと、後味が悪い。
反対に、文章はへたでも、そのときの気持ちを正直に書いたものは、
後で読んだとき、懐かしさを覚える。

 これは人生論に通ずる。

 ありのままに、正直に生きる。
それがどんな結果になろうとも、それはそれ。
失敗談や、ドジな話にしても、私というより「私」を超えた私、つまり
1人の人間のすること。
何も、まただれに対しても、恥じることはない。

●恥

 「恥」という言葉が出たので、一言。

 「恥こそ、日本人の精神文化の原点」と説く人がいる。
たとえば学校でのいじめについても、「子どもたちに恥を教えれば、いじめは
なくなる」と。

 一見、わかりやすい。
「人をいじめることは、恥ずかしいことだ」と。
しかしそんなことで、いじめはなくならない。
いじめの構造は、もっと複雑。
人間の心が複雑にからんでいる。
さらに言えば、人間に恥など、ない。
だいたい何に対して、だれに恥じるのか?
「恥じる」というのは、たとえて言うなら、まちがえたところを
消しゴムで消すような行為をいう。
私は意地っ張りだから、たとえ結果としてまちがっていたとしても、恥じない。

 いじめは悪である。
悪いことをしたら、責められる。
罰を受ける。
それだけのこと。
ロジカルに考えれば、そうなる。

●最大の恥

 恥について、もう少し切り込んでみたい。

 恥じるということは、あえて自らを否定すること。
内面的な自己否定を、「恥」という。
この論理で考えるなら、最大の恥とは、すなわち「死」を意味する。
わかりやすく言えば、恥が極限に達したとき、そこにあるのは「死」という
ことになる。
その状態で生きていくことは、たいへんむずかしい。
私たちの世界、つまり実存の世界では、自己否定はつねに絶望感をともなう。
ハムレットの中でシェークスピアが書いたように、「絶望か、さもなくば
死か(despair or die)」となる。

 私たちは常に前に向かって生きる。
「前」というのは、「生」を意味する。

●友人のカメラ

 オーストラリアの友人が、少し前から、カメラのことをあれこれと聞いてきた。
「キャノンのG12を買おうと思うが、いいカメラか?」と。

 私はデジタルカメラは、パナソニック製か、ソニー製と決めている。
キャノン製については、詳しく知らない。
で、何度か近くの大型電気店に足を運ぶ。
カタログに目を通す。

 で、こういうとき私は、それを調べているうちに、私もそれがほしくなる。
「いいカメラだなあ」「おもしろそうだなあ」と。
で、数日前、「買ったか?」と聞くと、「忙しくて、まだ買ってない」と。
が、突然、昨日、メールが届いた。
それにはYOUTUBEにアップした画像が添付してあった。

 孫のジェット君の動画が載っていた。

 動き回る孫を追いかけながら、撮る。
ピントがブレない。
露出も安定している。
G12は、やはりすぐれたカメラだ。

 が、これまた不思議な現象で、友人がそれを手に入れたとわかったとたん、
そのカメラへの興味を失った。
「やはり、ぼくのほしいのは、ソニーのα(アルファ)」と。

●日米vs中国の、通貨安競争
 
 日本とアメリカの札・印刷機が、フルパワーで回り始めた。
「為替操作」は、一応、暗黙の了解で、禁止されている。
そこで日本とアメリカが取った手段は、中央銀行による「国債の買い入れ」。
政府発行の国債を買い入れた形にして、マネー(現金)を市中にばらまく。
つまり意図的に、円とドルの価値をさげる。
円安、ドル安に誘導する。

 原因は、中国。

 アメリカやEUが、いくら元安是正を求めても、中国は無視。
我知らぬ顔。
「ならば……」ということで、アメリカが通貨安政策に乗り出した。
日本も同乗した。
(もっともアメリカと日本とでは、規模がちがうが……。
アメリカは100兆円以上、日本は今のところ、数兆円規模。)

 わかりやすく言えば、ドルと円が、世界のマーケットにどっと流れ始めた。
が、そこは世界の基軸通貨。
自国の通貨より、ドルや円は人気がある。
そういう国は多い。
要するに通貨の信用度の問題ということになる。

 で、困るのが、中進国と呼ばれる国々。
相対的に自国の通貨が、通貨高に向かう。
輸出が不利になる。
それだけではない。
せっかくため込んだドルの価値が下落する。
100万円の価値があると思って買った絵画が、50万円になるようなもの。
が、さらに……。
海外へ出たドル(円)は、投機という形で、それぞれの国に入り込む。
(「投資」ならよいが、「投機」資金となる。)
とたんそれぞれの国々で、ハイパーインフレを引き起こす。

 たとえば韓国が怒りまくっているのは、そのため。
「大国は勝手すぎる」と。
(韓国も勝手な国だが……。
中小国であることをよいことに、韓国は、毎日のように為替介入を繰り返している。)

 しかしアメリカにせよ、日本にせよ、それで無事すむとは、私も思っていない。
こうした通貨安競争は、基本的には輸出を伸ばすため。
国内の輸出企業を生き返らせるため。
その輸出産業が息を吹き返さなければ、ばらまいた通貨が、いつかすぐ、アメリカ国内、
日本国内へと、逆流し始める。
つまり「ドルも円も、価値がない」と世界が判断する。
そのときが、こわい。
こわいというより、恐ろしい。

 アメリカも日本も、プライドをかなぐり捨てて、自国の経済保護に走り始めた。
原因は先にも書いたように、中国。
元安の是正をいくら要求しても、一向に動く気配なし。
元安をよいことに、安価な製品を世界中に売りまくっている。
日本でもアメリカでも、売りまくっている。

 つまりこれにアメリカや日本は、音(ね)をあげた。
「このままでは自国の製造業が、メチャメチャになってしまう!」と。

 しかしこの方法は、その奥に大きな毒牙をもっている。
先にも書いたように、ばらまかれたドルや円が、正常な(?)投資資金として回ればよい。
しかし投機資金へと回ったら……?
株投機や、土地、家屋の投機資金へと回ったら……?
今すぐというわけではないが、中国も含めて、中進国の政情が不安定化する。
へたをすれば、(その可能性はきわめて大きいが)、中国のバブル経済崩壊の引き金を
引くことにもなりかねない。

 さあて、どうなることやら?

 ドル、円ともに、そのほかの欧米通貨に対して下落し始めている。
同時に、金、プラチナの現物価格が、急上昇し始めている。
それぞれの国々で、土地や家屋の価格が上昇し始めている。
このまま進めば、世界経済は大混乱。
国際政治も大混乱。

 今回の日米の通貨安政策には、そういう危険な側面がある。

Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2010++++++はやし浩司

●他人の不幸をのぞく人

+++++++++++++++++

現実には、いる。
いるから、書く。
他人の不幸をのぞいては、それを楽しむ。
酒の肴(さかな)にして、楽しむ。
みなに話す。
「あいつは、かわいそうな人だよ。
息子が2人いるんだが、2人とも離婚していてね」と。
そんな人たちがいる。

同情しているわけではない。
相手の悲しみや苦しみを、共有しているわけではない。
一応顔をしかめ、悲しそうな声で、そう話す。
が、演技は演技。
その実、それをみなに伝えて、おもしろがる。

+++++++++++++++++++

●BLOGへのコメント

 少し前、「他人の不幸をのぞく人」というテーマで、原稿を書いた。
つい数日前は、「下劣な人」というテーマで、別の原稿を書いた。
それについて、BLOGのほうに、いくつか書き込みがあった。
その中のひとつ。
「私の姉がそうです」と。

 用もないのに、不幸な人の家に出かけていく。
相談に乗るフリをして、その人の話を聞く。
あるいは「見舞い」と称して、不幸な人の家に出かけて行く。
行って、話を聞く。
さらにこんなこともするという。

 その家の人に何か不幸があったと聞くと、すかさず「見舞い」と
称して、菓子などを送る。
500円とか1000円とかの安い菓子である。
送られたほうは、戸惑いながらも、礼の電話をする。
そのときあれこれと相手の状態を聞きだす。

 私も若いころ、似たようなことをされたことがある。
のぞくほうは楽しいかもしれない。
しかしのぞかれたほうは、そうでない。
身を切られるような、つらい思いをする。
悲しい思いをする。
そのつらさは、言葉では言い表しがたい。

●最低限のマナー

 どんな家庭にも、それぞれ事情というのがある。
その事情は、千差万別・・・というか、複雑。
1日や2日、説明したところで、説明しきれるものではない。
そうした複雑な事情を知らず、そこに自分の判断を加える。
「かわいそうな人だ」と。

 しかし先に書いた「離婚」にしても、今どき、離婚など珍しくも
何ともない。
たまたま2人の息子が離婚したとしても、それはそれ。
人生の失敗者でもなければ、敗残者でもない。
ひとつの結果に過ぎない。

 その人自身から相談でもあれば、話は別。
そのときは、そのとき。
そうでなければ、そっとしておいてやることこそ、肝要。
知っていても知らぬフリをする。
説教など、もってのほか。
たとえ相手が年下でも、だ。
これは人間が守るべき、最低限のマナーと考えてよい。

●私の経験

 私もいろいろな経験をした。
その中でも、G県のNさんから届いたメールには、驚いた。
私がした経験と、あまりにもよく似ていた。
転載は不許可とあったので、私自身の体験も織り交ぜて、こちらで文章を書き
なおさせてもらう。

+++++以下、N氏からのメールより(要約)++++++++++++++++

【N氏(55歳)のメールより】

 私の実兄が入院したときのことです。
その3日前と2日前に、私はつづけて実兄を病院へ見舞いました。
そのときのことです。
いとこの1人から、電話がかかってきました。
いわく、「Jちゃんが、入院したぞ」「入院したぞ」と。
いやみを感ずる、不愉快な言い方でした。

 そこで私が、「おとといも見舞いに行ってきましたから、知っています」と。

 そう言い終わらないうちに、そのいとこは、「アッ、そう、ハハハ」「アハハハ」と。
気まずそうな笑い方でした。
もちろんそれを機会に、私はそのいとことは、縁を切りました。

念のため申し添えるなら、そのいとこは、口は出すことはあっても、
金銭的な援助など、そうした援助などはいっさいしてくれたことはありません。
家父長意識だけはやたらと強い。
年長風を吹かして、威張っています。
縁を切りましたから、事実だけをここに書きます。
低劣な人間というのは、そういう人間をいうのですね。

+++++以上、N氏からのメールより(要約)+++++++++++

●魔力

 低劣な人間とは、つきあわない。
つきあっても意味がないばかりか、低劣な人間には、恐ろしい魔力がある。
あなた自身を、低劣な世界へと、引きずり込んでしまう。
そして気がついてみると、あなた自身も、同じようなことを言ったり、するようになる。
夏目漱石も、同じような問題をかかえて悩んだことがある(『こころ』)。

 低劣な世界では、あなたが学んできた深い人間性や、道徳、哲学、それに
人生論が、粉々に引き飛んでしまう。
もしあなたが高邁(こうまい)であればあるほど、ばあいによっては、
魂そのものが、引きちぎられてしまう。
夏目漱石も、そうだった。
N氏がいとこと縁を切った(=いっさいの交際を打ち切った)というのは、やむを
えない判断ということになる。

 言い換えると、人間には、本来的にそうした低劣さが心のどこかに潜んでいる。
嫉妬にからんだ欲望、羨望、恨み、それらが心の底流でウズを巻いている。
さらに言えば、そうした人たちは、いつも相対的な幸福観の世界で生きている。
他人より幸福であれば(?)、幸福。
そうでなければ、そうでない(?)。
それが世間体、見栄、体裁へと進み、ここでいう「相対的な幸福感」へとつながって
いく。

●防衛機制

 防衛機制には、いくつかある。
心というのは、外敵に遭遇すると、自ら心を守ろうとさまざまな反応を示す。
それを「防衛機制」という。
「置き換え」「補償」「合理化」「投影」などなど。

 それにもうひとつ、私は、「自己慰労」を考える。
「慰労」でもよい。
「自分より劣った人、あるいは不幸な人をみつけて、自らの劣等性や
不幸を慰める」。
心が疲労したとき、自己慰労によって、それを解消しようとする。
それを「自己慰労」という(私の造語)。
(天下の「防衛機制」論の不備を突くようで、申し訳ないが・・・。)

 たとえばあのバラエティ番組。
バカ丸出しのような人がいて、これまたバカ丸出しの行為をする。
聴衆を笑わせる。
以前見た番組の中に、1人の男性に多量の下剤をのませて、苦しませる
というのがあった。
その男性はたまたまバスに乗っていて、「降ろしてくれ!」「がまんできない!」
と言って、涙声で叫んでいた。

 それを観て、徴収は笑いこげる。
喜ぶ。
自分より劣った人間がいることを知るのは、それ自体、快感(?)。
楽しい(?)。
またそれがああした番組の視聴率が高いという理由でもある。
それがここでいう「自己慰労」ということになる。

●自己慰労

 この自己慰労を、防衛機制に含めると、冒頭に書いたような事例が、ひとつの
心理反応として、うまく説明できる。
他人の不幸をのぞいて、それを酒の肴にする人は、まさにその自己慰労をしている
ことになる。

また自分自身がその不幸(?)の最中にいる人ほど、自己慰労しやすい。
自分より不幸な人を見つけては、自分で自分を慰(なぐさ)める。
そのために他人の不幸を利用する。

●紙一重

 他人の不幸を笑ってはいけない。
(のぞくなどというのも、もってのほか。)
笑えば笑った分だけ、今度は自分が追いつめられ、苦しむ。
「ああ、自分でなくてよかった」と、思ってもいけない。
幸福にせよ、不幸にせよ、紙一重。
今、幸福だからといって、慢心してはいけない。
今、不幸だからといって、それがいつまでもつづくと考えてはいけない。
いわんや自分の価値観を、他人に押しつけてはいけない。
幸福にせよ、不幸にせよ、それは順繰りにやってくるもの。

 ある男性は、ダウン症の子どもをもった両親を、「不幸だ」と決めつけていた。
(自分自身も、重度の自閉症児をかかえていた。)
しかし当の両親は、ダウン症のことなど、どこ吹く風。
いつもみなで連れだって、レストランで食事をしたりしていた。
休みには、みなで旅行をしていた。
私たちはむしろそちらの行為のほうに、すがすがしさを覚える。
親の深い愛情を感ずる。
人間的な深みを感ずる。

(どうして自分の子どもに障害があるからといって、それを「隠さねばならない
こと」と、とらえるのか。
こうした発想は、発想そのものが、バカげている。
が、低劣な人には、それがわからない。)

●加齢とともに

 何度も書くが、加齢とともに、人格が完成するというのは、ウソ。
むしろ低劣な人は、ますます低劣になっていく。
低劣になって、やがてすぐ、「メシ(飯)はまだかア!」と叫ぶようになる。
そういう女性(年齢は90歳くらい)が、近くの特養にいた。
美しい顔立ちの人だったが、繰り返し、一日中、そう叫んでいた。

 つまり人は、ある日突然、低劣になるのではない。
負の一次曲線的に、徐々に低劣になっていく。
しかもさらに悪いことに、加齢とともに、自分を支える気力が弱くなる。
それまで内に隠していた人間性が、表に出てくる。
60歳を過ぎて、加速度的に低劣になっていく人は、多い。
これがこわい。

 ……そういう点では、すでに私たちは、その過程にいるのかもしれない。
日々に、低劣になっていく・・・。

●低劣性

 数日前、「低俗性と低劣性」について書いた。
低俗的であることは、何も恥ずべきことではない。
俗世間とのかかわりを失ったら、そのとたんにその人は、人間的なハバを
失う。
たまには、(ときどきは)、ハメをはずしてバカになる。
バカなことをする。

しかし低劣性は、別。
低劣性は、人間性の否定と考えてよい。
いくら人間らしい顔をしていても、中身は動物以下。
動物でも、そこまで落ちない。
言い換えると、私たちは常に、その低劣性と闘う。
方法は簡単。

 低劣な人と、低劣な話をしない。
常に高邁さを求めて、前に向かって進む。
その一語に尽きる。

(1)愚痴は言わない、聞かない。
(2)悪口は言わない、聞かない。

 陰口、不平、不満は言わない、聞かない。
近親者のゴシップ、詮索は、タブー。
それを繰り返していると、その人の人間性は、どんどんと腐っていく。

 ついでに一言。

 50歳を過ぎると、その人のもつ人間性が、明確な方向性を示すようになる。
低劣な人かどうか、方向性がはっきりとしてくる。
つまりそれまでの生き様が、そこで集約される。
大切なことは、それまでに、いかに自分の生き様の基盤を作っていくかということ。
だれのためでもない。
自分のため。

(補記)

 この1年以上、地元の観光バス会社が運営する観光旅行には、参加していない。
たいてい何組かのおしゃべりオバサンがいて、(オジサンも多いが)、一日中、大声で
しゃべっている。
そのうるさいことと言ったら、ない。
しかも話の内容が低劣。

「親の三回忌に来ないような息子は、人間のクズ」
「あゆを送ってやったが、礼は電話だけ。あの人は一流大学を出ているかもしれないが、
人間のクズ」
「病気の母を見舞ったが、ふとんの下に浴衣が丸く、ぺっしゃんこになっていた」
「弟は借家の家賃をネコババし、税金は私に払わせている」と。

 それに答えて横にいた女性が、「そうよ、そうよ、そういう人は地獄に堕ちるわよ」と。

 話の内容もコロコロと変化する。
脳に飛来した情報を、音声を換えているだけ。

 で、私が「少し静かにしていていただけませんか?」と声をかけると、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行に来ているのよねエ」と。

 旅行が終わってそのバスを出るときも、こう言った。
「さようなら。おかげで楽しかったです」と。
以来、その観光バスを利用するのを、や・め・た!


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【BW公開教室】

●今回は、実験的に、BW幼児教室の様子を、
 ハイブリッド画像で、YOUTUBEにアップしてみた。
 うまくできたかどうか?
 これがテスト版ということになる。

 どうかな?

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v/mhAiEhHCGTA?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
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Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●11月10日(隠れマザコン、マザコン女性と、子離れできない母親の問題)

●iPad

 昨日、ワイフと2人で駅前のBカメラへ行ってきた。
iPadが置いてあった。
手にとってながめていると、店員が寄ってきて、あれこれ説明してくれた。

 iPad……わかりやすく言えば、キーボードがないミニパソコン。
画面がタッチパネルになっている。
画面にタッチして、操作する。
もちろんワープロにもなる。
で、デザインの斬新さに、改めて驚く。
バッテリーも10時間近くもつという。
値段は、5万円弱。
「ほしいなあ〜」と思ったが、そこまで。
オプションとして、携帯用のキーボードが付けられるという。
それを知ってワイフが、「だったら、ミニパソコンを買えばいい」と。

 同感!
とたんに頭の中から、「欲しい」という思いが、スーッと萎(な)えていった。

●iPhone

 似たような製品に、iPhoneがある。
こちらはiPadを、小型化したもの。
携帯電話としても使える。

 しかし……。
今まで、私は何度新製品に飛びついてきたことか。
が、そのつど、数週間もすると、飽きてしまったことか。
ここでiPhoneに飛びついたら、同じ愚を犯すことになる。

 ここはグイとがまんのとき。
iPadにせよ、iPhoneにせよ、すぐまた飽きるに決まっている。

 で、今度、M社から、新しいデスクトップパソコンが発売になった。
OSは、SDカードに格納。
そのほかはハードディスクに格納。
それによってパソコンの起動が格段に速くなる、とか。

 で、いろいろなオプションをつけて概算を出してもらったら、21万円弱。
買うなら、こちら。
来年の夏までには、新型パソコンに乗り換えたい。

●帰り道

 Bカメラからの帰り道。
ワイフと、こんな会話をした。

ワ「でも、iPadってかっこいいわね」
私「そうなんだよな。60歳を過ぎたジーさんが、バッグからiPadを取り出して、
おもむろにネットに接続する。……なっ、想像するだけもかっこいいだろ?」
ワ「そうよ、何も若い人たちに遠慮することは、ないわよ」と。

 若い人たちは、老人というのは、そういうものと思い込んでいる。
つまり「老人にiPadは、似合わない」と。

 一方、老人は、自分でそういうものと思い込んでいる。
つまり「iPadのようなものは、若い人たちのもの」と。

 しかしこれはとんでもない、誤解。
まちがい。
日本人は、古来、「型」が好き。
何でも型に押し込めたがる。
またその型に入ることによって、安心感を覚える。
若い人には若い人の「型」があり、老人には老人の「型」がある、と。
しかし人間には、「型」はない。
老いも若きもない。

 むしろ逆。
老人になればなるほど、新しいものに興味をもち、自分のものにしていく。
そういう「力」で若い人たちを、圧倒していく。
言い替えると、老人の存在感を、もっと高める。

 ……と、少し力(りき)んで書いてみた。
偉そうなことを書いたが、私は結局は、iPadを買わなかった。
雑誌などによると、当初のiPad人気は、現在急速に色あせてきているという。
在庫もかなりたまっているらしい。
「おとなのおもちゃに過ぎない」と書いた記事を、どこかで読んだこともある。
「そういうものだろうな」と思ったところで、この話は、おしまい。

 その夜は、枕元にミニパソコンを2台、並べて寝た。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【R天へのコメントより】

●隠れマザコン(=女性のマザコン)

++++++++++++++++++

マザコンというと、男性だけの問題と
考える人は多い。
しかし女性にも、同じくらい、あるいは
それ以上に多い。
称して「隠れマザコン」(=はやし浩司の造語)。

R天BLOGにこんなコメントが寄せられて
いた。

いわく、

『……ここしばらく「親離れ子離れ」ということについてチト頭をとられています。

カミサンとカミサンの母親がその関係で、どうもこの先よからぬ・・・ と杞憂しております。

カミサンはそのあたりを少しわかってきたのか上手に離れるようにしているので、まぁこちらは
時間をかければうまくいきそう。 ・・だといいな。

が、カミサンの母親がいけない。
40年近くも娘を手元に置いていたから完全に頼り切ってしまっている。
実家に遊びにいくと分かるのだが、手より口が動くタイプなんですな。
カミサンの身の回りトラブルで話し合いにいくと毎回娘(カミサン)をかばうことばかりなんで、こ
りゃマズイなぁ〜と思っておりました。

もっともこんなハナシはアダムとイヴのころからあるでしょうから別にワタクシだけってことでも
ないかと思います。

問題は「親離れ子離れ」の先にある子供を育てていくということを気にしています。

「子供の手本をみせられない」
「叱ることのできない」

等々、親として「それはどうよっ」と思うのです。
もっともなるようにしかならないんでしょうが』と。

●隠れマザコン

 隠れマザコン(マザコン女性)については、たびたび書いてきた。
いくつか原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【マザーコンプレックス】

●依存と愛情(Mother Complex)

+++++++++++++++++

「マザコン」というと、男性だけにある
特異な現象と思っている人は多い。

しかし女性にも、マザコンの人は
いくらでもいる。
同性というだけで、目立たない。

これについては、何度も書いてきた。
ここでは、さらにもう一歩、話を進めて
みたい。

これには男性も女性も関係ないが、
母親にベタベタと甘えているからといって、
それだけ、母親への愛情が深いかという
と、そういうことはない。

マザコン性というのは、母親への依存性を
いう。
依存性イコール、愛情の深さではない。

よくあるケースは、それまではマザコンで
あった女性が、母親が認知症になったとたん、
母親への虐待し始めるというもの。

依存できなくなったときが、縁の切れ目(?)
ということか。

もちろん、中には、そのままの状態で、見た目には
良好な(?)人間関係をつづける親子もいる。
しかしそういうケースは、少ない。

つまりマザコンタイプの人は、常に「理想の
女性像(マドンナ)」を、母親に求める。
母親は、常に、その理想の女性でなければ
ならない。

が、母親がその期待(?)に応えられなく
なったとき、マザコンタイプの人は、それを
すなおに受け入れることができない。
あるいはそれを許すことができない。

たいてい、その段階で、はげしく葛藤する。

ある女性(60歳くらい)は、自分の母親が
認知症になりつつある段階で、そのつど、
パニック状態になってしまった。

母親が、就寝中に尿を漏らしただけで、親戚中に
電話をかけたりした。

「お母さんが、オシッコを漏らしたア〜!」と。

が、先にも書いたように、依存性イコール、愛情の
深さではない。

たとえば夫婦についても、そうで、配偶者に
強い依存性があるからといって、つまり見た目には
ベタベタに仲のよい夫婦に見えたとしても、
たがいに深い愛情があるとはかぎらない。

言うまでもなく、「愛」というのは、どこまで
相手を「許して忘れるか」、その度量の深さで決まる。
つまりその分だけ、愛には、常に孤独と苦しみが
ともなう。

さらに言えば、愛には熟成期間が必要。
たがいに困苦を乗り越え、その結果として、
人は「愛」を自覚することができるようになる。

一方、依存性は、その人自身の情緒的欠陥、精神的
未熟性に起因する。
情緒的欠陥、精神的未熟性をカバーするために、
相手、つまり母親(父親、配偶者)に依存する。

「母親に依存する」ということと、「母親を愛する」
ということは、まったく異質なものである。

このことは子どもの世界を見れば、よくわかる。

親に依存している子どもは多いが、親を愛している
子どもというのは、皆無とみてよい。
あっても、「思いやり」程度。
たとえば病気になった親を、看病するとか、など。
年少の子どもであれば、なおさらである。

子どもが「愛」を自覚するのは、思春期前夜から
思春期にかけてである。

また話は少しそれるが、よく「マザコン男性ほど、
離婚率が高い」と、言われる。
それもそのはずで、つまりその分だけ、マザコン男性は、
配偶者に、理想の女性(マドンナ)像を求めすぎる。
あるいは押しつけすぎる。
それが夫婦の間に、キレツを入れる。

さらにマザコンタイプの人ほど、自分がマザコン的で
あることを正当化したり、ごまかすため、
母親を、ことさら美化する傾向が強い。

(ファザコンも同じように考えてよい。)

「私の親を批判したり、悪口言ったりするヤツは、
たとえ女房、子どもでも許せない」と息巻くのは、
たいていこのタイプの男性と考えてよい。
(男性にかぎらない。女性でもよい。)

話をもどす。

人間関係、とくに親子関係、夫婦関係を見るときは、
この(依存)と(愛情)に焦点をあてて考えて
みるとよい。

また別の人間関係が見えてくるはず。

+++++++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++

●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

++++++++++++++++

 子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のすき間を
埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うため
に、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。このタイプの親は、
自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。こうして
たがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴があ
る。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき愛ぶり
を、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロドロしてい
る。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。ある母親は、私にこ
う言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし概して言
えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいないかわから
ないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになる
よりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40歳の娘であったり
すると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見
逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザコン性も
また、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心のどこ
かで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、
自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。マザ
コンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心
の奥の内側の問題である。外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘した
りすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、
正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親は親で、子
どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、本尊
のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定するこ
とに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。マザ
コンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であってはならな
いのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すこ
とができない。

 そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこ
そ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。ある男性(映
画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、よいこ
とは、何もない。

(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。

(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘
   はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 隠れマザコン 女性のマザコン)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●コメント

 冒頭にあげた男性は、妻のマザコン、子離れできない妻の母親を問題にしている。
が、この問題だけは、相互の「依存性」がからんでいるだけに、解決は容易ではない。
つまり「精神の未熟性」がからんでいるだけに、解決は容易ではない。
まず本人がそれに気づくことが重要だが、実際には、そういう関係であることを、
「いい関係」と誤解しているケースが多い。
「親孝行の子」「子を思う親の深い愛」と。

 コメントを書いた男性は、こう言っている。

『……カミサンはそのあたりを少しわかってきたのか上手に離れるようにしているので、まぁこ
ちらは時間をかければうまくいきそう。 ・・だといいな』と。

 つまり時間をかけて、少しずつ、親に子離れを促していく。
どうやらそれしか方法は、ないようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子離れできない親 子離れできない母親)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【息子たちへ】(11−12日記)

こんにちは!
コミュニケーションを図るため、これから先
できるだけ日記を送ることにしました。
どうかうるさがらずに、読んでみてください。

パパより

++++++++++++++++++++++++++++

●過去に戻る

+++++++++++++++++

このところ、パソコンのハードディスクの
動きが、おかしくなってきた。
私がメインパソコンとして使っている
パソコンである。
ファイルチェックすると、「bad clusters」の
表示が並ぶ。
ハードディスクに物理的な故障が起き始めて
いるらしい。
こうなると、ハードディスクの寿命は短い。

こういうとき、とりあえず応急的にすべき
ことは、ただひとつ。
ファイルのコピー。
Dディスクや、外付けディスクにコピーする。
DVDに焼くという方法もある。
が、もっとも確実な方法は、Cディスクを、
そのまま別のハードディスクに丸ごとコピーして、
ハードディスクを交換するというもの。
私はパソコンの不調には、いつもこの
方法で対処している。

++++++++++++++++++

●丸ごとコピー

 Cディスクを丸ごとコピーして、ハードディスクを交換する。
そのためのソフトは、いろいろある。
私は、コピーコマンダーというのを使っている。
一応「WINDOW7対応版」ということになっているが、どうも使い勝手が悪い。
「bad clusters」が残っていると、うまくコピーできない。
作業が中断してしまう。

 そこで再度、挑戦。
コピー先のハードディスクを初期化、つまりフォーマットをかける。
ハードディスクをまっさらにした上で、丸ごとコピーをすればよい。
(これは私という人間の、素人考え。)
が、いくらフォーマットをかけても、どういうわけか、まっさらにはならない。
「システムファイル」の部分だけ、残ってしまう。
残ってしまうから、つぎに丸ごとコピーしようとしても、コピーコマンダーのほうが、
受け付けてくれない。
つまりこの時点で、そのハードディスクは使い物にならなくなる。
外付けハードディスクとしても、使えなくなる。

 しかたないので、「ハードディスク、丸ごと消去」というソフトを買ってきた。
これならば、ハードディスクをまっさらにすることができるはずと考えた。
……というのは、素人の考えだった。
が、やはりシステムファイルだけは、残ってしまう。

 あああ〜。

 ……ということで、いつの間にか、私の書斎には、こうして使われなくなったハード
ディスクが、15個くらいになった。
中には750GBとか500GBのものもある。
どこかで手順をまちがえているのかもしれない。
しかし私の能力では、ここまで。

 で、またまた今回の不調。
原因を調べてみたら、つまりどうしてこうまで早くハードディスクがおかしくなる原因を
調べてみたら、「驚速XXXXX」というソフトらしいということがわかってきた。
このソフトは、常時パソコンの中で動作している。
つまりいつもハードディスク上で作業している。
雑誌にもそう書いてあった。
パソコンショップの店員もそう言った。
「あのソフトだけは、ハードディスクの寿命を縮めるから、使わないほうがいい」と。

 ともかくも、こうしてまたまた新しいハードディスクを購入するハメに。
500GBのを買ってきた。
おととい買ってきた。
1TBのものにしようかと迷ったが、丸ごとコピーに失敗する可能性もある。
もったいない。
……ということで、値段の安い500GBのものにした。

 まわりくどい書き方をしたが、その作業をしながら、私はこんなことを考えた。

●復元

 WINDOWSパソコンには、「復元」という機能がある。
みなさんよくご存知の機能である。
この機能を使えば、システムが不調になったら、過去のある時点にまで戻り、
パソコンの調子を復元させることができる。

 それとは少し意味がちがうが、もしこんなことが可能だったら、私はどう判断する
だろうか、と。

 たとえば今、脳みその調子が悪くなったとする。
CPU(中央演算装置)が鈍くなり、回転が悪くなったとする。
そのときタイムマシーンか何かに乗って、過去のある時点に戻ることができたとする。
5年前なら5年前でもよい。
私はその5年前に戻るだろうか、と。

 肉体が5年前に戻るのは、よい。
思考力や知識、経験も、今のままの状態で5年前に戻るのは、よい。
しかしたとえばパソコンの世界でのように、この5年間に書いた原稿などが、
すべて消去された状態で、5年前に戻るなら、……たぶん私は「NO!」と言うだろう。
私は5年前にさかのぼり、また同じことをしなければならない。
イチから原稿を書きなおさなければならない。

 「5年前」という大げさなものでなくてもよい。

 たとえば2〜3時間、原稿を書いたとする。
この原稿なら、この原稿でもよい。
この原稿が、何らかのアクシデントで、突然、消えてしまったとする。
そういうことが、以前は、よくあった。

 そういうときというのは、本当にやる気を失う。
また同じ原稿を書こうとしても、その気力を奮(ふるい)い立たせるだけでもたいへん。
たいていは、その原稿のことはあきらめ、別のテーマで書き始める。
それにおかしなもので、そうして消去された原稿ほど、あとあとよい原稿に思えてくる。
『釣り逃がした魚ほど、大きく見える』という現象か?

 たった1本の原稿ですら、そうである。
それを5年前にまでさかのぼって繰り返せと言われたら、あなたはどうするだろうか?

 実際には、ファイルをどこかに残しておくという方法がある。
5年分の原稿が、すべて消えてしまうということはない。
ここに書いたのは、あくまでも「5年分の原稿が消え、5年前に戻る」という前提での
話である。

 もしそうなら、私なら5年前に戻ることを、拒否するだろう。
「NO!」と。
つまりこれは人生全体に通ずる、論理でもある。

●人生は一度

 人生は、一度でたくさん。
こりごり。
「死」はこわいが、同じ人生を、また繰り返せと言われても、私にはできない。
反対にたとえばこんなケースはどうだろう。

 たとえば神様かだれかがいて、こう言ったとする。
「君をベートベンにしてあげよう。ベートベンの時代に戻って、ベートベンの楽譜を
全部、書き写す。その楽譜を、君の名前、つまりベートベンの名前で発表する。
どうだ?」と。

 しかしそんなインチキなことをしても、意味はない。
いくら後世に残る有名人になったとしても、意味はない。
だいたい私はピアノを弾けない。
たとえヘタクソでも、私は私の音楽を書く。
どうしても書けと言われたら、そうする。

 同じように今、だれかの文章を盗んで書けと言われても、私にはできない。
そのだれかは、すでに死んでいて、盗作が発覚する心配はない。
が、それでも、私にはできない。
そんな必要もない。
しても意味はない。
そんなことをすれば、それこそ時間の無駄。
人生の無駄。
5年前にさかのぼって、同じ原稿を書く方が、まだ気が楽。
楽しい。

 ……ということで、人生は一回限りの一番勝負。
復元は、なし。
復元しても、意味はない。
パソコンの修理をしながら、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●ある幼稚園のXX周年で……(代筆業とは)

少し前、ある幼稚園のXX周年記念パーティに招かれた。
そこでのこと。

別の、ある団体の理事長が、一冊の本を取り出した。
緑色の布張りの本である。
「どこかで見たような本だな?」と、そのときふと、そう思った。

その理事長は、思いで話として、その本を読み始めた。

「今は亡き、○○先生は、生前、こんな文章を書き残しておられます。
それをここで朗読させていただきます」と。

○○先生というのは、XX周年記念パーティを主催した幼稚園の元園長である。
が、それを耳にして、驚いた。

私の文章、私の言葉、私の思想……。
頭の中で、文章がスラスラと溶けていく。
その瞬間、思い出した。
私は忘れていたが、私はその元園長のために、代筆してやったことがある。
「本を出したい」という依頼をもらった。
それで私が代筆した。
つまり原稿は、100%、私が書いた。
もう30年近くも前のことである。
それがその本だった。

ハハ〜と息が漏れたあと、「それは私の書いた文章です」と叫びたくなった。
が、それはやめた。
だまって聞いていたが、あのとき感じた、
あの奇妙な気分は何だったのか。

朗読していたその理事長は、涙までこぼしていた。
ついでに言うと、(これは本当の話だから、あえて披露するが)、その理事長は、
こう言った。
「これほどまでに教育の心をつかんだ、みごとで
美しい文章はほかにありません」と。

うれしいような、くすぐったいような……。
実に奇妙な気分だった。

しかしそこは代筆業。
ゴーストライター。
陰の仕事。
私があるドクターのために代筆した本は、数10万冊も売れた。
かなり有名な賞まで取っている。
新聞にも載った。
が、そういうばあいでも、ぜったいに名乗り出てはいけない。
「私が書いた本です」とは、口が裂けても言ってはいけない。
それは信義則。
代筆業をする者の、掟(おきて)。
代筆業をする者は、お金をもらって、魂を売る。
当時の私は、そうした代筆業で、生計を立てていた。

しかし一言。

その人の文章かどうかは、少し読み慣れればわかる。
今、私が書いている文章は、私の文章である。
調子、文体、漢字の使い方、思想……。
それは20年、30年を経ても、そう変わるものではない。

ひとつの例として、私がほぼ37年前に、あるドクターのために
書いた文章を、ここに転載する。
(37年前だぞ!)
そのドクターは、30年前に他界している。
本も絶版になって、同じくらいになる。
「文章」というのものは、そういうものということをわかってもらいため、
ここにあえて転載する。

今、ここに書いている私の文章と読み比べてもらえば、
「ああ、これは、はやし浩司の文章」と、わかってもらえるはず。

●「XX先生の性教育・高校生の部」(T書店)(昭和48年12月刊行)の前書きより

●(ここをクリック↓)
http://bwhayashi.blog1.fc2.com/

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bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4145/5168627366_
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みなさんは、どう判断されたでしょうか?


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 代筆業)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【教室で】

●ワイフ(晃子)

ワイフが直接、私の教室を手伝ってくれるようになって、もう5年になる。
当初は、交通整理程度の手伝いだった。
それでもありがたがった。
が、最近は、私の苦手な子ども(?)を、指導するようになってくれた。
私は、ワイフと比べても、短気。
はるかに短気。
子どもによっては、何かのことで気分を損ねると、30分でも40分でも、
いじけたり、ぐずったりする。
そういうとき私はすぐ怒ってしまう。
「うるさい!」と。

が、一方、ワイフは気が長い。
そういう子どもを相手に、30分でも40分でも、こんこんと説得しながら、
指導する。
私にはとうていまねできない芸当である。
昨日も、そうだった。

 2人の子ども(小4児)が電気ストーブを取り合って、喧嘩した。
私は頭から、「そのストーブは、A子さんのものだから!」と言って、
B君の主張を退けてしまった。
それから30〜40分ほど、B君はうつむいたまま、勉強をしなくなってしまった。
そのB君の横に座り、ワイフは静かに、ただひたすら静かに、B君をなだめていた。

●孫の芽衣

 ということもあって、このところ生徒のことが話題になることが多い。
ドライブをしながら、それぞれの子どもについて、よく質問をする。
私も相手がワイフだから、遠慮しない。

「あの子は、自閉症スペクトラムだよ」
「あの子は、場面かん黙児だよ」
「あの子は,ADHD児だよ」と。

 そういう話を聞きながら、ワイフはワイフなりに、知識と理解を深めている。

私「X君は、一時、あぶないときがあった」
ワ「いつごろ?」
私「3年くらい前かな? 親の離婚騒動に巻き込まれて、グレかかった」
ワ「今は、そんなふうに見えないわ」
私「いや、今でも、ときどきそういう様子をしてみせるよ」
ワ「・・・そう言えば、ものの考え方が直情的ね」と。

 教育というより、子育ての奥は深い。
加えてこんなことも。

 ときどき孫そっくりの子どもに出会うときがある。
現在、教室に通っている、Sさん。
孫の芽衣によく似ている。
よく似ているというより、ウリ二つ。
年齢も同じ。
Y君の妹も、そっくり。
ワイフは毎回会うたびに、「芽衣に似ている」と言う。
そういうときのワイフはうれしそう。
自分の孫のように、ときどき、抱かせてもらったりしている。

●ワイフの誕生日

 嫌われ役の私。
その反動か、最近は、ワイフは人気者。
今年も、一言、「6月xx日は、晃子先生の誕生日だよ」ともらしただけだが、
その日は、生徒たちがプレゼントをもって、集まってくれた。
みなで、ワイフの誕生日パーティを祝ってくれた。

 ワイフがあれほどまでにうれしそうな顔をしたのは、見たことがない。
こぼれんばかりの笑顔を浮かべていた。

・・・ということで、最近は、ワイフのほうが積極的に、教室を
手伝ってくれるようになった。
それぞれのクラスで、担当する子どもを決めて、その子どもを集中的
に指導してくれる。
「今日は、ぼくひとりで、やるよ」と声をかけても、「今日はC君が
来る日だから・・・」と言って、勝手に出かける用意をする。
私は助かる。
その分のエネルギーを、別のところで使うことができる。


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【講演旅行】

 ここ数年、私の講演を利用して、あちこちを旅行することにしている。
講演先で旅館やホテルを見つけ、そこに泊まるようにしている。
それが楽しみで(?)、ワイフがついてきてくれる。
ワイフは若いころから、旅行が趣味。

 で、11月は講演のシーズン。
あちこちで講演をさせてもらっている。
同時に私たちにとっては、旅行のシーズン。
日帰りの距離でも、近くの旅館やホテルに泊まるようにしている。
浜松市内の講演でも、そうしている。

 そんなわけで、11月は忙しい。
温泉の朝風呂に入り、その気分が抜けないまま、教壇に立つことも多い。
そんなわけで・・・。
このところ体重は、64キロ台をキープしたまま。
目標値を3〜4キロもオーバーしている!
で、自分なりに運動をしたり、ダイエットしたりしているが、効果なし。

 旅館やホテルでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら損(そこ)ねる」と自分に言い聞かせながら食べる。
が、それでも食べ過ぎてしまう。


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【看板作り】

 今日は土曜日。
午前中にやらなければならない仕事がある。
看板作り。
教室の看板作り。
こういう仕事は、長男が得意で、ときどき手伝ってくれる。
が、今日の作業は、少し重労働。
業者に頼めば20万円という仕事を、私とワイフの2人でする。
予算は1万円。

・・・だからといって、制作費をケチっているわけではない。
私は若いころから、そういう作業が好き。
それにそこらの業者より、器用。
山荘をもったときも、家以外の造作は、すべて自分たちでした。
水道工事、排水工事、石垣工事、街灯工事などなど。
土地を平らにする工事も、自分たちでした。

 機材や道具は、ほとんど、そろっている。
あとはパネルなどの材料を買ってくるだけ。
それをデザインして、鉄ワクにはめこむ。

 今度BW教室の前を通ったら、角地の看板を見てほしい。
その看板は、私たちが立てたもの。
ハハハ。
(笑われないうちに、先に笑っておく)


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【ウソの構造(ウソの4要素)】(はやし浩司説)

+++++++++++++++++

ウソが本当になるためには、つぎの
4つの要素が必要である。

(1)近親性
(2)権威性
(3)集団性
(4)反復性

これをウソの4要素(はやし浩司)という。

順に考えてみよう。

+++++++++++++++++

●ウソの4要素

(1)近親性

 ウソを言う相手が近親の者であればあるほど、ウソは真実性をもつ。
相手をだますことができる。

(2)権威性

 より権威のある人のウソほど、信じられやすい。最高の権威者といえば、
神や仏ということになる。

(3)集団性

 ウソをつくとき、その人を取り囲む。人数は多ければ多いほど、よい。
取り囲んで、みなが同じウソを言う。

(4)反復性

 繰り返し同じウソをいう。「ウソも100ぺんつけば、本当になる」と
言った人もいた。

 この手法は、カルト教団と呼ばれる宗教団体でよく使われる。
1人の人間を入信させるとき、その人に一番近い人(家族、友人、親類など)
を前に置き、ほかの信者たちが、ぐるりと取り囲む。
そして繰り返し、同じことを言う。
「X導師様は釈迦の生まれ変わりです」と。

 最初は抵抗していた人でも、やがて疲れてくる。
気力が途切れる。
その瞬間、「そうだ」と思ってしまう。
思ったまま、「X導師様は、釈迦だ」と。

一度、心の隙間を埋められたら最後、あとはお決まりのカルト教信者!
人間には、そういう心のエアーポケットがある。
「盲点」と書くべきか。
ごくふつうの、しかも良識や常識があると思われるような人でも、ある日
とつぜん、何らかのきっかけでカルト教の信者になる。

●CPU(中央演算装置)

カルトの恐ろしいところは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うこと。
自分を客観的に評価する能力、現実を正確に検証する能力、それに理性や
知性が、機能しなくなる。
そのためとんでもないことをしながら、それがとんでもないこととわからなくなる。

 たとえば死んだ人を前に、まだ死んでないとがんばってみたり、反対にイワシの
頭を信仰の対象にしたりする。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
私たちはいろいろな形で、何かを信仰しているということ。
たとえば学校神話もそのひとつ。
「お金こそすべて」と考えるのも、それ。
(だからといって、それらがまちがっているというのではない。
それも誤解がないように!)
そうした信仰が、常識をはずれ、指導者の金儲けの道具になったとき、
それをカルト」という。

 カルトの定義は難しいが、要するに妄信や迷信が集団化したものと考えると
わかりやすい。
そのカルトが、いろいろな場面で、急速に勢力を伸ばしている。
数もふえている。

 みなさん、どうか注意してほしい。
警戒レベルでいうなら、黄信号を越えて、赤信号に入った。
馬鹿げた占いや、まじないが、若い人たち中心に流行(はや)っている。

冒頭に書いた、ウソの4要素を知っているだけでも、カルトから身を
守ることができるはず。


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【アクセス数】

 昨年の5月、BLOGやHPへのアクセス数を調べたら、月間30万件
を超えているのがわかった。
現在メインのHPから、それぞれのHPへ、ハイパージャンプさせている。
枝分かれしたHPだけでも、30くらいある。
(HPの一部に、別のHPから直接アクセスすることを、ハイパージャンプ
という。
以前はそれを禁止しているHPサービスが多かった。)
この方法を使うと、それぞれのページの更新が楽。
つまりひとつのHPにすべてを放り込むよりも、枝分かれさせ、それぞれを
別のHPとして独立させる。

 が、もうひとつ、利点がある。
アクセス数が、それぞれのHPごとに集計される。
アクセス数が、すぐわかる。
その結果、「30万件」という数字が出てきた。

 もちろん30万件イコール、30万人ということではない。
また本とちがい、30万冊ということでもない。
多くは、チラッと立ち寄って、そのまま去っていく。
そういう人も含めて、30万件ということになる。
が、実際には、もっと多いはず(?)。

 というのも、30万件という数字は、それぞれのHPのトップページ
を訪れた人の数。
中には、ハイパージャンプで、カウントされないページへジャンプして
くる人もいる。
たとえばYOUTUBEにしても、私のHPを介して閲覧したばあいは、アクセス
数は、カウントされない。
ためしに私のHPから同じ動画に何度もアクセスしてみてほしい。
アクセス数は変わらない。

 で、昨夜ワイフとドライブをしながら、その話になった。
「これはすごいことだね」と。

私「今では、BLOGだけでも、1日、5000件はあるよ」
ワ「そんなにあるの?」
私「昨日は、G・Blogだけで、3000件を超えた」と。

 私は現在、毎日6〜7か所からBLOGを発行している。
コピーして貼りつけるだけだから、作業は、楽。
10分程度ですむ。

 が、これについて先日、横槍(やり)を入れてきた人がいた。
「多くの人に読んでもらい気持ちはわかるが、同じ原稿を、複数の
BLOGで流すな! わずらわしいから、ヤメロ」と。

 しかしこれにはきっちりと反論しておきたい。

(1)それぞれのBLOGには、それぞれの性格があり、別の読者
がついている。
(2)最近でこそ少なくなったが、BLOGも、雨後の竹の子のように
生まれ、また消えていく。
そのとき同時に、それまでの原稿がすべて消されてしまう。
そういう苦い経験を、私は何度かしている。
(3)BLOGによって、保存期間、保存容量がまちまち。
規約は、いつも変動する。

 自分の原稿をできるだけ長く残したいと願うなら、ひとつの原稿を
できるだけ分散して保存して残しておいたほうがよい。
それで私は同じ原稿を、複数のBLOGに載せている。

 もし困ることがあるとするなら、検索をかけたとき、同じ原稿がズラリと並ぶこと。
しかしこれについては、こう反論したい。

 「無料で読むのだから、文句を言うな!」と。

 ともかくもこんな数字は、本の世界では考えられないこと。
30万部も売れたら、そのままベストセラー。
それが毎月、つづく。
1年にすれば、360万部!
それだけに影響力も大きい(?)。

 が、同時に辛らつな批評やコメントも多くなった。
とくに私が書いた『ポケモン・カルト』(三一書房)については多い。
熱心な(?)ゲーマーたちの逆鱗に触れたらしい。
しかしこれも慣れ。
当初は頭にカチンと来たが、今はちがう。
ていねいな礼状を書くようにしている。

「きびしいご意見、ありがとうございました。
いただきましたコメントについては、おおいに参考にさせて
いただきます。
誤解されている面もあるようですから、それについては私の
HPのほうで、今後、ゆっくりと説明させていただきます」とか、何とか。

 今では、それを書いた直後に、忘れることができるようになった。
で、先の「多くの人に読んでもらい気持ちはわかるが、同じ原稿を、複数の
BLOGで流すな!」という意見について。

 その翌日、私はさらにひとつ、BLOGをふやした。
同じ原稿を貼り付けて発行した。
ハハハ。
それが私のやり方。
私はそんなヤワな男ではない。
叩かれれば叩かれるほど、強くなる。
昔から、そうだった。

 そうそう、書き忘れるところだった。
これは昨日までの推計だが、このところ毎月のアクセス数は、40万件を
超え、50万件に達しているのではないか。
BLOG、HP、YOUTUBE、それにマガジンへのアクセス数を計算すると、
そうなる。

 この原稿を読んでくれたみなさんへ、

 ありがとうございます!


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【山荘にて】

●置き物

 昨夜遅く、山荘にやってきた。
「近く、山荘を売る」と言い出してから、逆に、山荘へ来る回数がふえた。
そういうものか。
ワイフもどこかさみしそう。

 いろいろな飾り物や置き物は、それぞれ理由をつけて、生徒にあげている。
今にこの山荘も、からっぽになるだろう。
床の間には、掛け軸が3本かかっている。
うち1本は、土佐左近将(温?)光作。(「|口皿」とある)
かなりの値打ちモノらしい。
昔、母がそう言っていた。
これは3月に、Dさんにあげるつもり。
私の教室に14年間も通ってくれた。
「3月に、山荘へ招待するよ」と言ったら、うれしそうに、ウンと言ってくれた。
そのとき、あげるつもり。
(興味をもたないかな?)

 ほかにも石の置き物などが20個あまりあったが、今は数個を残すのみ。
飛行機の模型は、今年になってから、ほとんどを生徒にあげた。
残っているのは、50機あまり。
ミニコプター(トイヘリ)ついては、すでに予約済み。
5年生のA君が、かなり以前から、「ほしい」と言っている。

・・・ということで、実は、この山荘も、村の人たちに寄付しようかと、
ときどき思う。
ワイフは反対しているが、村の人たちに、集会所のような所として
使ってもらうのが、私はいちばんよいと考えている。
そのほうが大切に使ってもらえる。
一度、不動産屋を通して売りに出し、それで売れなければ、(どうせ高い価格では、
売れないだろうし……)、そうする。

●11月12日

 今朝は、7時に起きた。
つづいてワイフも起きた。
今は、時刻は午前8時。
さて、これから作業、開始。
自宅に帰る途中で、DIYショップに寄り、材料を買い集める。
それにどこか途中で、朝食。

 今日も始まった。
今日こそは、「充実した1日だった」と言えるような日にしたい。
がんばろう。

はやし浩司 2010―11−12 土曜日


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)※

【幼児期前期(自律期)〜幼児期後期(自立期)の幼児】

●Happy Learners learn Best! (楽しく学ぶ子は、伸びる)

BW幼児教育実践教室byはやし浩司

今週は、新しい生徒さんを迎え、ややハメをはずしたレッスンになりました。
自立期〜自立期の子どもたちの様子を、ビデオに収めました。
お子さんといっしょにお楽しみください。

なお先週から高画質版にしましたが、15分モノで、UPLOADに30分も
かかってしまいます。
今後もできるだけ高画質版でお届けしたいですが……。
30分は、きびしいですね。

●この時期の子ども

心(情意)と表情の一致を大切にします。
「何を考えているかわからない」というのは、幼児の、(おとなでもそうですが)、
あるべき姿ではありません。

まず思ったことを口に出して言わせる。
それがこの時期の子どもの指導の要(かなめ)です。
このビデオを通して、3〜5歳児の伸びやかな姿を見ていただければうれしいです。

(子どもの顔は、おうちの方の許可のあったときのみ、収録しています。
BWの方で、「記念にうちの子のビデオを撮ってほしい」という方は、はやし浩司
まで遠慮なく、お申し付けください。
別カメラで収録、YOUTUBEにUPLOADします。
よい思い出になると思います。)

●灯をともして、引き出す

「勉強は楽しい」という印象作りを大切にします。
そうした基礎が、やがて子どもを前向きに引っ張っていきます。
「教えてやろう」という意識は抑え気味に。
それよりも大切なことは、教える私が楽しむこと。
参観している親たちが楽しむこと。
その(楽しさ)の中に、子どもを巻き込んでいきます。
それが子どもを伸ばすコツです。

子どもには生まれながらに、すでに自ら伸びる芽があります。
それを引き出す。
それが教育ということになります。

そういう意味で、BW子どもクラブ(実験教室)は、皆さんに満足いただける
成果を出しています。

***********************

以下、11月12日(2010)のレッスンより


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www.youtube.com/v/1fxt3nrY580?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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+++++++++++++++++++++++++++++

●YOUTUBE埋め込み版(↑)がご覧なれない方は、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」→2010年度版→11月号へとお進みください。

●あるいは、

http://www.youtube.com/watch?v=f-RT1gkpU00

http://www.youtube.com/watch?v=reGZqY3wltM

http://www.youtube.com/watch?v=1fxt3nrY580

http://www.youtube.com/watch?v=9n2AxtqLSSg


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児期前期から幼児期後期の幼児たち 自律期から自立期へ)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●11月14日(日曜日)

++++++++++++++++++++

昨夜は、深夜劇場に足を運んだ。
観た映画は、『マチェーテ』。
マカロニ・ギャング映画。
悪人役を、ロバート・デニーロが演じ、
善人役を、ロバート・ロドリゲスが演じた。
悪人役と善人役が反転したような映画。

星は1つか2つの、★。
有名スターが2人も並んでいた。
(ロバート・デニーロ、スティーブン・セガールほか。)
かなり期待していたが、星はやはり1つか2つ。
2つは無理。
映画から帰ってから、幼児教室の様子をYOUTUBEにアップ。
床についたときには、深夜0時を過ぎていた。

残酷、残忍な殺人シーンがつぎつぎとつづいた。
そのせいか、今朝は、何となく気分が重い。

なお「マチェーテ」というのは、主人公の
名前だそうだ。

++++++++++++++++++++

●経済がおかしい?

 またまたEU発の暗雲が世界を覆い始めている。
経済不安という暗雲。
アイルランドがあぶない。
ギリシャ、ポルトガルがそれにつづく。

またおとといは、アメリカ経済の後退が報じられたとたん、金(ゴールド)などの
貴金属が暴落した。
来週あたりから、じわじわと、その影響が日本にも及んでくるはず。
(あるいは突然?)
2010/11/14朝記

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●弱い自分vs強い自分(心の卑屈なゆがみについて)2010/11/14

 よい人間関係を結べない人は、攻撃的になったり、依存的になったり、服従的に
なったりする。
もうひとつ同情的になったりするというのもある。
これは心理学の世界では、常識。

「同情的」というのは、「同情を買う」という意味。
わざと弱々しい自分を演じ、他人の同情を買いながら、自分の立場を作る。
老人に多いが、早い人で、50代からそれを演ずる人がいる。
電話などで、今にも死にそうな声で話したりする。

「オバチャンも年をとりましたア〜」と。

 するとその周辺に、(それに同情するグループ)が形成される。
たいていは家族ということになる。
近隣の人や親類の人も含まれることがある。
その関係は、保護と依存の関係に似ている。
しかし意図的にその関係を築くという点で、保護と依存の関係とは、一線を引く。
つまりその人は、同情するグループに囲まれて、自分にとって居心地のよい世界を作る。

 たいした病気でもないのに、大げさに騒いでみたり、「命は長くない」と、周囲の人
たちに思わせたりする。

●駅の構内をスタスタ

 ここまで書いて、以前発表した原稿を思い出した。
それをそのまま収録する。
日付は2006年の4月(マガジン版)となっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもや孫とのつきあい

+++++++++++++++++

孫と同居したがる日本人。

が、それは決して、世界の常識ではない。

+++++++++++++++++

 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつ
きあいについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調
査結果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはな
らず、(2)かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなっ
たとも考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先
日も、実家へ帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母
親は、みなに抱きかかえられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになっ
た。母親に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 
「まるで別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、
「しまった!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、
あわれな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、
半ば無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」と
いう思いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほう
だから、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれで
よいとは思わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●わざところぶ

 こうした心理を、どう表現したらよいのか。
演技性人格障害とまでは言えない。
自分を弱者(多くは病人)に仕立て、同情を買うという点では、「代理ミュンヒハウゼン
症候群」にも似ている。
が、もちろんそれともちがう。

 たとえば私の実兄のばあいには、わざと人前でころんでみせるという習癖があった。
みなが心配して、「どうしたの?」と声をかけてもらうのが、目的だった。
だからころんでも、それなりに安全なところを選んでいた。
たとえば走っている車の前では、ころばなかった。
また人の気配のないところでは、ころばなかった。
瞬間的に人の気配を感ずると、けがをしない程度にころんでみせた。

 自虐的依存性人格障害。
あるいはその反対の、依存的自虐性人格障害でもよい。
しかしこうした傾向は、高齢になればなるほど、より顕著に現れてくる。
つまり多かれ少なかれ、高齢者共通の現象と考えてよい。
わかりやすく言えば、「甘え」。

 2006年に書いた原稿(前述)の女性のばあいは、娘にわざと心配させることに
よって、自分の立場をつくっていた。
……というか、正直に告白するが、これは私の実母の話である。
それを他人の母親のようにして、書いた。
私の実母と実兄は、同居していた。
そのため実兄は、実母の影響をそのまま受けていた。

●老齢期を迎えて

 老齢期をそこに迎えて、いろいろ心理的な変化が自分の中で始まっているのを
感ずる。
この「同情を買う」というのも、そのひとつ。
ふと油断すると、私自身も同じようなことをしているのを知る。
そういう点では、私はあの実母の息子。

 たとえば風邪をひいたとする。
たいした風邪でもないのに、ひどく熱が出ているようなフリをする。
それを見て、ワイフが「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と。
が、その瞬間、人の前でころんでみせた、実兄を思い出す。
正気に返る。

 この「同情」のこわいところは、一度、そういう関係、つまり「保護と依存の
関係」ができると、それを打ち破るのが容易ではないということ。
たいていはそのまま、人間関係として定着してしまう。
保護される側は、いつも保護されるべきと考える。
それに応じて、保護する側は、いつもその義務感に追い立てられる。

 が、こうした関係は、実は子どもの世界でもときどき、見られる。
以前書いた原稿を、さらにさがしてみる。
つぎの原稿は、「反抗期の子ども」について書いた原稿である。
少し内容が脱線するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【反抗期の子ども】

●思春期前夜

++++++++++++++++++

目の前に、2人の小学生がいる。
2人とも、小学4年生。
伸びやかに育っている。
言いたい放題のことを言い、
したい放題のことをしている。
恵まれた子どもたちである。
頭はよい。
作業も早い。

子どもは、小学3年生ごろを境にして、
思春期前夜へと入る。

今日はワークブックの日。
2人も、黙々と、自分のワークブックに
取り組んでいる。
私はこうしてパソコンを相手に、パチパチと
文章を書いている。

このところ新型インフルエンザの流行で、
ほかの子どもたちは、外出禁止。
そのため、今日の生徒は2人だけ。

が、この時期の子どもは、どこかピリピリして
いる。
それだけ精神が緊張していることを示す。

(緊張)と(弛緩)。
それがこの時期の子どもの、精神状態の特徴
ということになる。

++++++++++++++++++

●揺り戻し

この時期の子どもは、あるときは(おとな)に
なり、また別のときは(幼児)になる。
精神的に不安定になる。
私はこの幼児ぽくなる現象を、勝手に、「揺り戻し現象」
とか、「揺り戻し」とか、呼んでいる。

(先日、書店で、ある「子育て本」を読んでいたら、
同じことが書いてあったのには、驚いた。
こうした揺り戻しについて書いたのは、私が最初で、
また私以外に、それについて書いた人を、私は知らない。
著者はどこかのドクターだったが、そのドクターは、
どこでそういう情報を手に入れたのだろう?
余計なことだが……。)

この時期にさしかかるころ、その揺り戻しの振幅が大きくなる。
たとえば、幼児的な扱いをすると不機嫌になる。
が、そうかと思っていると、反対に、自から幼稚ぽくなったりする、など。
が、幼児でもない。
ふとしたきっかけで、生意気な態度をとったりする。
ふてくされたり、キレたりする。
あるときは、幼児に、またあるときはおとなに……。
その振幅の幅が、大きくなる。

が、年齢とともに、やがて振幅は小さくなる。
幼児ぽくなることが少なくなり、やがて思春期へと入っていく。
(独特のあのピリピリとした緊張感は、そのまま残るが……。)

親の側からすると、幼児に扱ってよいのか、
あるいはおとなとして接したらよいのか、わかりにくくなる。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

●幼児とおとなのはざまで……

 2人の小学生には、その揺り戻しが顕著に現れている。
「典型的な症状だ」と、先ほども、ふと思った。
その特徴を箇条書きにしてみる。

(幼児の部分)(緊張感が弛緩しているとき)
○ プロレスごっこや鬼ごっこをしてやると、ネコの子のようにじゃれたり、
笑って喜んだりする。
○ 機嫌がいいときには、幼稚っぽいしぐさとともに、おとなに甘えたり、
体をすり寄せてきたりする。

(おとなの部分)(心が緊張状態にあるとき)
○ 何かのことで注意したり、まちがいを指摘したりすると、露骨にそれを
嫌い、不機嫌な態度に変わる。
○ おとなとして扱うことを求め、(子どもぽい)遊びなどをすることについて、
敏感に反応し、拒絶したりする。

 が、全体としてみると、1時間の間だけでも、つねに(緊張)と(弛緩)を
繰り返しているのがわかる。

●情緒不安

 よく誤解されるが、情緒が不安定になるから、「情緒不安」というのではない。
精神の緊張状態がとれないから、「情緒不安」という。
精神が緊張している状態へ、不安感や心配ごとが入ると、それを解消
しようとして、精神状態は、一気に、不安定になる。
不機嫌になったり、反対に、カッと怒り出したりする。

つまり「情緒不安」というのは、あくまでもその結果でしかない。
また緊張した状態が、「ピリピリした状態」ということになる。

 そのことは、それだけ触覚が、四方八方に伸びていることを示す。
何を見ても気になる。
こまかいところを見る。
ささいなことを気にする。
そのため、それまで気がつかなかったことについても、気がつくようになる。
そのターゲットになるのが、父親であり、母親ということになる。
学校では、教師ということになる。

●血統空想

 ところであのフロイトは、「血統空想」という言葉を使った。
自分の母親を疑う子どもはいないが、父親を疑う子どもは多い。
「ぼくの(私の)本当の父親は、別にいるはず」と。

 それまでは絶対と思っていた父親や母親が、絶対でないことに気づく。
完ぺきでないことに気づく。
幼児のある時期には、子どもは、「この世のすべてのものは、親によって
作られたもの」と思い込む。
それが思春期前夜に入ると、その幻想が、急速に崩れ始める。

 そこで子どもは、自分がもっている父親像は母親像の修正にとりかかる。

●無謬性

 「親だから、こうであるべき」「こうあってほしい」という(期待)。
つまり親に無謬性(むびゅうせい:一点のミスも欠点もないこと)を求める。
が、その一方で、親が本来的にもつ欠陥にも、気づき始める。
それはそのまま、(怒り)となって子どもを襲う。

子どもは、(期待)と(怒り)の間で、混乱する。

 ある女性(60歳)は、自分の母親(90歳)が、車の中で小便を漏らした
だけで、混乱状態になってしまったという。
それでその母を、強く叱ったという。
その女性にしてみれば、「母親というのは、そういうことをしないもの」と
思い込んでいたようだ。
つまり(小便を漏らす)という行為そのものが、自分が抱く母親像と矛盾して
しまった。
それが(混乱)という精神状態につながった。

 このタイプの女性はかなりマザコンタイプの人の話と考えてよい。
自分の中の混乱を、怒りとして、母親にぶつけていただけということになる。
つまり似たような現象が、思春期前夜の子どもに起こる。

●血統空想

 フロイトが説いた「血統空想」も、似たような現象と考えてよい。
子どもは、完ぺきな父親を期待する。
しかし現実の父親は、その完ぺきさとは、ほど遠い。
頼りがいがなく、だらしない。
不完全さばかりが、気になる。

 そこで子どもは葛藤する。
「父親というのは、完ぺきであるべき」という思いと、現実の父親の受容との
はざまで、もがく。
それがときとして、「ひょっとしたら、あの父親は、ぼくの(私の)本当の
父親ではないかもしれない」という思いにつながる。
それが「血統空想」ということになる。

 このことは生徒としての子どもを見ていても、わかる。
「教えてやろうか」と声をかけると、「いらない!」と言って、それに反発する。
が、その一方で、親には、「あの林(=私)は、教え方がへた」とか言って、
不満を述べたりする。
簡単な問題だから、私が「自分で考えてごらん」と言っても、怒り出す。
ふてくされる。
が、教えてやろうと身を乗り出すと、「ウッセー!」と言って、怒り出す。
目の前の2人の子どもたちも、そうだ。

 私の中に完ぺきさを求めつつ、完ぺきでない私を知ることで、混乱する。
それに反発する。
「反抗期」というのは、それをいう。

そうした子どもの心理が、手に取るように私にはよくわかる。

●親を拒否する子どもたち
 
 言うなればこの時期は、つづく思春期と合わせて、嵐のようなもの。
子どもの立場で考えてみよう。

それまでは親の言うことに従っていれば、それですんだ。
親が、自分の進むべき道を示してくれた。

 が、その親がアテにならなくなる。
親の職業を、客観的に評価するようになる。
そのため、ますます親がアテにならなくなる。

 幼児のころは、「おとなになったら、パパ(ママ)のような人になりたい」
と思っていた子どもでも、この時期になると、「いやだ」と言い出す。
中学生でも、「将来、父親(母親)のようになりたくない」と考えている子どもは、
60%〜80%はいる※1。
いろいろな調査結果でも、同じような数字が並ぶ。

●自己の同一性

 この思春期前夜の「混乱」を通して、子どもは、自分のあるべき(顔)を模索する。
そしてそれがやがて、自己の同一性の確立へと、つながっていく。
「私はこうあるべきだ」というのが、(自己概念)。
が、現実の自分がそこにいる。
その現実の自分を、(現実自己)という。

 これら両者が一致した状態を、「自己の同一性」(アイデンティティ)という。
子どもというより、思春期における青少年にとって、最大の関門といえば、
自己の同一性の確立ということになる※2。

 それが確立できれば、それでよし。
そうでなければ、混乱した状態は長くつづく。
30歳を過ぎても、「私さがし」をしている青年は、いくらでもいる。

●動じない

 話を戻す。

 2人の子どもは、相変わらず、黙々と自分に与えられた作業をこなしている。
どこかピリピリしている。
が、そこは暖かい無視。
私の度量を試すような行動も、みられる。
わざと怒らせようとする。
しかし私は動じない。

 生意気な態度。
ぞんざいな言葉。
投げやりな姿勢。
ふてくされた顔。
しかしその間に見せる、あどけない表情。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

 重要なことは、けっして子どものパースに巻き込まれてはいけないということ。
この時期の子どもは、ギリギリのところまでする。
ギリギリのところまでしながら、その一線を越えることはない。
叱ったり、怒ったりしたら、こちらの負け。
言うべきことは言いながら、あとは暖かい無視で子どもを包む。
 
 嵐はいつまでもつづくわけではない。
やがて収まる。
そのころには、この子どもたちも、立派な青年になっているはず。
2人の子どもの横顔を見ながら、そんなことを考えた。

●補記

 反抗期に反抗期特有の症状を示さないまま、思春期を過ぎた子どもほど、
あとあといろいろな心の問題を起こすことがわかっている。
とくに親が権威主義的で、威圧的だと、子どもは反抗らしい反抗もしないまま、
思春期を過ぎる。
それから生まれる不平、不満、不完全燃焼感は、心の別室に抑圧され、時期をみて、
爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろオ!」と。

 「抑圧感」が大きければ大きいほど、爆発力も大きくなる。
(あるいはそのまま一生、爆発することもなく、なよなよした人生を送る子どもも
少なくない。)

 ちょうど昆虫がそのつど殻を脱皮して、成長するように、人間の子どももまた、
そのつど成長の殻を脱皮しながら、成長する。
殻を脱ぐときには脱ぐ。
脱がせるときは、脱がせる。

 そういうことも頭に入れて、子どもは、一歩退いたところから見守る。
それが「暖かい無視」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 思春期前夜 はやし浩司 思春期 思春期の子供 思春期前夜の子供 揺り戻し
 揺り戻し現象 揺りもどし ゆり戻し ゆりもどし)

(注※1)子どもたちの父親像

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は、55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、79%もいる
(「青少年白書」平成10年)。

(注※2)エリクソンの心理発達段階論

エリクソンは、心理社会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

+++++++++++++++++

以下、09年4月に書いた原稿より……

+++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2〜4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

 児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

 勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

 自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

 たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

 こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正された
りということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 平たく言えば、こうした同情を買うという一連の行為は、精神的未熟性による
ものと考えてよい。
情緒的欠陥が原因になることもある。
どうであれ、けっして好ましいパーソナリティではないことだけは、確か。
自分の中にそういう「卑屈なゆがみ」を感じたら、それと闘う。
これもまた老後を心豊かに生きるためのコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 エリクソンの心理発達段階論 (1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築) (3) 幼児期後期(自主性の構築) (4) 児童
期(勤勉性の構築)(5) 青年期(同一性の確立) (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 
幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 反抗期の子ども 反抗期の子
供) 同情を買う)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司 

●心のゆがみ

++++++++++++++++++

老後を迎えるようになると、
たしかに心がゆがんでくる。
それを私は、現実の問題として、
経験しつつある。

目標の喪失。
生きがいの喪失。
おまけに体調不良、
将来への不安、などなど。
「正常」(?)を支えるだけで、精一杯。

昔、私の住んでいる近所に、隣家に牛乳瓶を
投げつけていた老人がいた。
当時70歳くらいではなかったか。
何が気にくわなかったのかは、わからない。
理由もわからない。

当時の私たちはそういう老人を知り、
「何て、愚かな人間なんだ」と思った。
しかし今、そういう気持ちは薄れた。
「そういう気持ち」というのは、「愚かと
非難する気持ち」をいう。

私だって、そのうち隣家に牛乳瓶を
投げつけるようになるかもしれない。
若い人たちから見れば、とんでもないことを
するようになるかもしれない。
今の今でさえ、自分の人格を支えるだけで、
精一杯。
この先、それを支える気力が弱ったら……。
それを考えると、恐ろしい。
恐ろしいというより、不安でならない。

+++++++++++++++++

●小さな希望

 こうした老後を救うのは、小さな希望。
それに夢。
たいしたものでなくてもよい。
それにしがみつく。
しがみついて生きていく。

たとえば今朝も、こんなことがあった。

 ネットであちこちを見ていたら、私の書いた本がオークションにかけられているのを
知った。
『目で見る漢方診断』(飛鳥新社)という本である。

 即決価格は、3500円。
あと1週間も残っているというのに、3500円で買いを出してくれている人がいる
のを知った。

見ると、カバーはなく、ボロボロ。
ふつうなら、200円とか、300円で売買されるような本である。
それが3500円!

 当時の定価は、2300円。
1988年刊行とある。
それを見たとき、胸の中がポーッと温まるのを知った。
ここでいう小さな希望というのは、それをいう。
またそれがあるから、私は明日に向かって生きていくことができる。

 書き忘れたが、私はあの本を最後に、漢方(東洋医学)の世界から、足を洗った。
それまで書庫を埋めていた参考書や資料を、すべて処分した。
1988年というから、22年前のことである。

 が、その本は当初1〜2週間をのぞき、まったく売れなくなってしまった。
で、そのまま絶版。
今は、私のHPのほうで、無料で紹介しているのみ。
手元にも、数冊しか残っていない。
それが3500円!

うれしかった。
オークションで買いを入れてくれた方へ、
本当にありがとうございます。

 ……ついでに、AMAZON CO.JPで調べてみたら、6965円(送料別)前後で売買
されているのを知った。

どうして……?
どうして、今になって……?

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/5173573713/" title="img115 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img 
src="http://farm5.static.flickr.com/4010/5173573713_81ced4f5fa.jpg" width="442" 
height="500" alt="img115" /></a>

 少し前、ある大学の教授(鍼灸学)がこう言った。
「あの本は、東洋医学の世界では、3大名著のひとつになっています」と。
そのときは、「?」と思ったまま、終わってしまった。
たぶん私が死んでも、あの本は、もう少し長生きするかもしれない。
小さな小さな希望だが、それがあるから生きていかれる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 目で見る漢方診断 飛鳥新社 東洋医学)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【長野県・昼神温泉】(「昼神温泉郷・湯元ホテル阿智川」にて)

●直行バス

 浜松から長野県・昼神温泉行きのバスに乗る。
直行バスである。
「昼神温泉」というのは、飯田市の近くにある昔からの温泉という。
数か月前、その温泉の観光協会の人たちと知り合いになった。
町の中で、特産品を売っていた。
安くしてもらった。
そのとき「行きますからね」と約束した。
その約束を、今日、果たす。

 バスは東名西インターにある遠鉄バスターミナルから、出発する。
私たちはその駐車場に車を止め、歩いてバスまで。
すでにバスは来ていた。
女性がドアのところに立っていて、「林さんですか?」と声をかけてくれた。
瞬間、ほかに客がいないことを知った。
昼神温泉の方には申し訳ないが、客は少なければ少ないほどよい。
が、貸し切りバスというのも困る。
居心地があまりよくない。

 ……と思っていたら、出発直前になって、ほかに5人ほどが乗り込んできた。
日帰りで昼神温泉へ行く人たちという。
ホッ!
が、それでも、車内はガラガラ。
バスの後半部はラウンジ風になっていた。
中央にテーブルが置いてある。
私たちはそのラウンジを、私とワイフの2人で、占有した。

●退職

 今朝、出がけにパソコンを立ち上げると、オーストラリアの友人から
メールが入っていた。
大学の職員を退職することになったが、これからどうしたらいいかという
相談だった。
さらに1年間は、今の身分で仕事がつづけられるという。
が、自分としては、退職し、老後は好きなことをして暮らしたい、と。

 先日のメールでは現在の家(メルボルン市内)を売り、海の見える家へ移る
というようなことが書いてあった。
それについて、「ぼくはやはり町の人間かも」と。
どこか弱気な内容だった。
返事を書こうとしたが、時間がなかったので、簡単な詫(わ)びの言葉だけで
すました。

●カメラ

 その友人が最近、デジカメを買った。
その直前、「C社のxxはどうか?」と聞いてきた。
私はSONYのNEXを勧めた。
が、つぎのメールでは、それで撮ったビデオが添付されていた。
それについて、今朝のメールでは、「SONYのNEXにすればよかった」と。
「そら、見ろ」と思ったが、それは書かなかった。

 私が今、いちばんほしいのは、SONYのα(アルファ)、NEX−3。
NEX−5もあるが、レンズがほんの少し本体から飛び出しているのが気に入らない。
設計ミス?
そんな感じがする。
だからやや小ぶりのNEX−3。
ちがいは、NEXー3は、プラスティック製。
NEX−5は、マグネシウム製。

●パソコン

 バスは東名高速道路を走っている。
今日のお供は、TOSHIBAのdynabook―MX。
バッテリーのもちがよい。
最長10時間以上。
しかし失敗!

 このパソコンには衝撃感知機能がついている。
軽い衝撃を受けるたびに、それが働き、ハードディスクが停止する。
つまりガタガタとバスが揺れるたびに、ワープロの動きが鈍くなる。
TOSHIBAのUXをもってくればよかった……と、今、思い始めている。

●小さな夢
 
 昨日、私が22年前に書いた本が、7000円前後で売買されているのを知った。
AMAZON COM.で、である。
表紙カバーもない、ボロボロの本が、7000円!
『目で見る漢方診断』(飛鳥新社)。
この本については、こんなエピソードがある。

 私は22歳のころから、漢方、つまり東洋医学の世界に、のめりこんだ。
それにはある経緯(いきさつ)があるが、それはまた別の機会に書くことにする。
ともかくも、「のめりこんだ」。

 で、1冊の本を書いた。
『東洋医学・基礎編』(学研)という本である。
この本は、今でも全国の大学の医学部や鍼灸学校で、教科書として使ってもらっている。
一応、YD氏、ST氏が書いたことになっているが、両氏が書いたのは、前書きと、
本文1ページのみ。
「君の名前では本は売れないから」ということで、学研の編集長が、2人の著名な学者を
連れてきた。

 そのあと、『東洋医学・経穴編』(学研)という本を書き始めた。
これには7年という歳月を要した。
『目で見る漢方診断』という本を書いたのは、それから。
私はこの本に賭けた。
「この本が売れなかったら、漢方の世界から足を洗おう」と。

 当初、飛鳥新社のD社長は、著者を別の専門家にすると主張した。
私はそれに抵抗した。
私の本だから、私の名前で出したいとがんばった。
内容には自信があった。
私という素人が書く以上、一文一文に、すべて、出典を明記した。
漢方の古典に忠実に従った。

 が、結果的に売れなかった。
それでフンギリがついた。
絶版になるという連絡を受けたあと、身のまわりを整理した。
書庫から数冊の本をのぞいて、資料も含めて、すべて処分した。
が、今、その本が何と、7000円前後で売買されている。
ボロボロの中古本が、である。

 私はそれを知ったとき、熱いものが胸の底からこみあげてくるのを感じた。
うれしかった。
あの時代が、まだ生きている。
無駄にならなかった。

(昨日、6900円で売られていた本が、今朝は消えていた。
だれかが6900円で買ったらしい。)(AMAZON COM)

買ってくれた方へ、

 ありがとうございます。

●秋景色

 バスは東名高速道路を西へと走らせている。
途中で、東海環状自動車道へ入り、さらに中央自動車道へ入る。
昼神温泉へは、11時ごろ着くという。
窓の外は、すっかり秋景色。
ここから見ただけでも、紅葉はすでにじゅうぶんすぎるほど、美しい。

 ワイフは横から、「あなた、ほら!」と、そのつど話しかけてくる。
(うるさい! 私はパソコンと遊んでいるのだ!)

 昼神温泉へ着いたら、写真を撮る。
12月のマガジン用の写真である。

 ……しかし考えてみれば、命は短い。
ほぼ1か月で、そうして撮った写真でも、使命を終える。
終えたあとは、ネットから消える。

(電子マガジンでは、特別のばあいをのぞき、私は自分で撮った写真だけを
載せている。)

●中津川SA

 途中、一度、中津川SAで停車。
トイレから出たあと、写真を1枚撮る。
あいにくの曇り空。
重量感のある低い雲が、動きもなく空を覆っていた。

 写真を撮るなら、日光が必要。
紅葉は、光の中で輝く。
「明日に期待しよう」と、私。
天気予報によれば、今日は午後から雨。
明日は快晴。

 ガイドも、運転手もいないバスの中。
他の女性客たちは、カラカラ、キャッキャッと騒いでいる。
そういえば、このバスはどこかタバコ臭い。
それとも湿った酒のにおい。
雰囲気としては、古いバーのよう。
もっとも私はこの30年以上、バーとかキャバレーとか、そういった場所へ
入ったことがない。
ホステスのいないクラブのようなところへは、仕事の打ち合わせでよく入ったが、
その程度。
私はああいう雰囲気が、どうも肌に合わない。
落ち着かない。
それに酒の臭いが嫌い。

●見ごろ

 窓の外には、のどかな田園風景がつづく。
家の集落が森と森の間に見え隠れする。
このあたりでは、紅葉の見ごろは、11月の中旬とか。
つまり「今」。
今日は11月15日、月曜日。
仕事は休み。
バンザーイ!

 私たちは今日、中部地方という場所で、最高の紅葉を楽しむ。
写真に収める。
マガジンの読者のみなさん、どうかお楽しみに!

●集落

 その集落を見ながら、ふとこんなことを考える。
「こんなところにも、懸命に生きている人がいるんだなア」と。
それぞれの家には、それぞれのドラマがある。
その家の中には、もちろん、人が住んでいる。
それぞれの思いをもって、生きている。

 そう、あそこにも、ここにも、「私」がいる。
「私」がいて、「私」が生きている。
その家々の手前を、時折、黄金色のカーテンが、左から右へ流れる。
実のところ、こうしたラウンジ風のバスに乗ったのは、今回がはじめて。
「コ」の字型にシートが並べられている。
私たちは左側のシートに座り、窓の外の景色をながめている。

 新しい集落が現れ、そしてまた右へと消えていく。
つぎにまた、新しい集落が現れ、そしてまた右へと消えて行く。
それをながめる。
ぼんやりと、ただひたすら、ぼんやりと……。

●午後1時40分

 バスは予定より、ずっと早く着いた。
……着いてしまった。
途中、渋滞もなかった。
予定では11時15分ごろ到着となっていたが、10時半前。
ホテルに入ったが、「チェックインは3時からです」と。
わかってはいてが、しかたないので、また逆戻り。
バス停あたりまで来て、昼食。
私は「十割そば」、ワイフは「かけそば」を食べた。
おいしかった。

 友人たちにみやげを買い、配送してもらう。
ついでに、まんじゅうを2個買う。
それを川沿いのベンチに座ってたべようとしたが、突然、
山の冷気が身にしみた。
コートのチャックをあげ、そのままホテルへ。
こまかい霧のような雨が降り始めた

 今、時刻は午後1時40分。

●ホテルのロビーで

 パソコンのコードを忘れた。
ドキッ!
何度もバッグの中をさがした。
なかった。
私にとっては致命的な忘れ物。
ア〜ア!

 バッテリーの残量を見ると、74%、
約5時間と表示されていた。
使い方によっては、もっと長持ちするはず。
が、5時間では足りない。
どうしよう?

 急いで書きたいことを書くことにした。
心の中にたまっているモヤモヤを吐き出すことにした。
無駄なことは書きたくない。

●熊谷元一記念館

 先ほど「熊谷元一写真動画館」というところを見てきた。
たまたまこの11月はじめに亡くなったとかで、「追悼無料公開日」に
なっていた。

 昭和28、9年ごろの写真がたくさん飾られていた。
私たち団塊の世代には、たまらないほど懐かしい写真である。
見ているうちに、写真の中に自分が吸い込まれていくような錯覚を覚えた。

 つぎはぎだらけの古い学生服。
ズボンの形をしたズボン。
丸坊主頭にゴム靴。
板間の廊下と、黒くくすんだ壁。
どれも「私」だった。
子ども時代の「私」だった。
気がつくと、目が涙でうるんでいた。

 「写真動画館」は、もうすぐ「記念館」と書き改めらるかも。
もしあなたが団塊の世代で、この昼神温泉へ来るようなことがあれば、
ぜひこの写真動画館へ立ち寄ってみたらよい。
場所は、バス停のそば、みやげもの屋の裏手にある。

●悪夢

 実は、今朝も悪夢を見た。
内容はいつも決まっている。
が、今日は、逆。
乗り遅れるのではなく、降り遅れる。
そんな夢。

 どこかの講演会場へ向かっている。
駅に着く。
同行していた係の人が先に降りる。
が、私は手荷物をいっぱいもっている。
あたふたとしているうちに、電車のドアがしまり、動き出してしまった。
「つぎの駅でおりて、タクシーに乗ればいい」と。
自分にそう言い聞かせているとき、目が覚めた。

 どうして私はいつもこんな夢ばかり見るのだろう。
いつも何かに追い立てられている。
幼いころの不安感が、いまでもつづいている。
おそらく死ぬまで、こうした夢から解放されることはない。
トラウマ(心の傷)というのは、そういうもの。

 いつだったか、だれかが私に聞いた。
「トラウマというのは、消えますか?」と。
それに答えて私は、こう言った。
「消えませんよ。消えるもんですか。心の傷というのは、そういうものですよ」と。

●湯元ホテル・阿智川

 今夜の宿泊は、「湯元ホテル阿智川」。
昼神温泉郷の中でも、一番奥にある。
バス停から1400メートルとか。
洞窟風呂があるということで、それでこのホテルを選んだ。
今のところ、サービスよし。
フロントにあるパンフレットには、「四季山水に遊ぶ宿」とある。
雰囲気よし。

 どんな商売でもそうだが、よし悪しは、「本気度」で決まる。
本気でやっているかどうかで、評価が決まる。
客の入りも決まる。
 
 幼稚園もそうだ。
幼稚園を選ぶときは、本気かどうかで選ぶとよい。
本気で幼児教育に取り組んでいる幼稚園には、それなりの活気がある。
先生たちも、生き生きとしている。
園児の顔も明るい。

 そうでない幼稚園は、そうでない。
どこか沈んでいる。
暗い。
そういう幼稚園にかぎって、行事だけは派手。
みかけの「よさ」ばかりを、アピールする。
そういう幼稚園へは、子どもをやってはいけない。

 ホテルや旅館も、同じ。

(実名を出したので、悪口は書けない。
以下、そのことを頭のどこかに置いて、この旅行記を読んでほしい。
電話は、0265−43−2800。)

●昼神温泉郷
 
 残念ながら、温泉郷そのものは、活気がない。
元気がない。
川沿いに歩いてみたが、結構大きな旅館が、いくつかすでに閉鎖されていた。
規模そのものは、浜松市郊外の舘山寺温泉街、あるいは岐阜県の下呂温泉にも、
引けを取らない。
それぞれの旅館やホテルは、大きく立派。
が、秋のかき入れどきというのに、川沿いを散策する温泉客は、私たち2人だけ。
もっとも今日は月曜日。
私たちはそういう日を選んで、ここへやってきた。

 が、どうしてだろう。
これだけの温泉郷である。
もっと客がいてもおかしくない。
またそうでないと、経営はむずかしい。

 前にも書いたが、若い人たちを中心に、旅行の趣向が変わってきている。
旅館に泊まり、料理を食べて、温泉に入る……。
が、それだけでは、若い人たちを引きつけることはできない。
もし若い人たちを呼び込もうとするなら、一度滋賀県の長浜の町を歩いてみたらよい。
沖縄の国際通りでもよいし、鎌倉の路地でもよい。

 ……といっても、私たちには、こういう旅館のほうがありがたい。
つまりそれだけ、ジジババになったということ。

●チェックイン

 フロントからたった今、男性がやってきて、「チェックインできます」と告げてくれた。
ワイフがフロントへ行った。
しかし私はパソコンのバッテリーが心配。
こうなったら、書きまくるしかない。

 私の脳みそがカラになるか、バッテリーがカラになるか。
どちらが早いか。
ハハハ。
これはまさに真剣勝負。

●星は5つの、★★★★★

 驚いた!
本当に驚いた!

 世に温泉数々あれど、このホテル阿智川の温泉は、群を抜いている。
清潔で、新しい。
それに広い。
露天風呂もあり、足湯の通路があって、それを歩いていくと、その奥は洞窟風呂。

 ほかに客は1人。
すぐ仲良しになり、情報交換。
あちこちの旅館やホテルの話になった。

客「ここほどの温泉は、長野県にも、そうはありませんよ」と。
私「……はあ、私も仕事で、月に2、3度、あちこちの旅館に泊まりますが、同感です」
客「私はね、松本から来ました」
私「あちらにも、いい温泉があるでしょ」
客「ここほどいいところはありません。だからここで連泊することにしました」と。

 部屋も広い。
和室。
内風呂はないが、大満足。

「昼神温泉の中でも、この旅館がいちばんということです」と。
その客は言った。

ビンゴー!

 前回は、沖縄のロアジール・ホテルに泊まった。
ホテルでも、あれほどのホテルはそうはない。
那覇市でも最高級のホテルという。

同じように、今回のホテル阿智川(旅館)も、そうはない。
あとは料理ということになるが、料理がふつうでも、私は大満足。
今の段階で、すでに星は文句なしの5つ星の、★★★★★。

(ただしこの昼神温泉郷には、さらなる高級旅館がないわけではない。
もちろん料金は高い。)

●客と

 私はこうした温泉では、ほかの客によく話しかける。
たいてい「どこから?」で始まる。
今日もそうだった。

 その客は、こう言った。
「松本から来て、明日は、豊橋に向かいます」と。
それで話がはずんだ。

私「豊橋へは、どうして?」
客「弟が住んでいます」
私「はあ、それで……」
客「娘は上山田の旅館に嫁ぎましてね」
私「それはいいですね。女将(おかみ)さんですね。いつでもタダで泊まれますね」
客「それがそうではないのです。夫の両親とは、結婚式の前、一度しか会っていません」
私「一度だけ?」
客「相手の父親が変人でね……」と。

 ふとさみしそうな顔をしてみせた。
いろいろあったらしい。

客「長男も、東京へ出たきり、帰ってきません」
私「浜松でも、そうですよ」
客「浜松でも、ですか?」
私「みんな、そうですよ」
客「よかれと思って、学資を出してやったのですが、それがよかったのか、悪かったのか」
私「今は、そういう時代です。何かがおかしい。狂った」
客「私は今、主に同年齢の人たちとつきあっていますが、毎年、1人、2人と
亡くなっていきます。私もやがて、無縁老人です」
私「私もそうなりそうです。長生きするのも、考えものですね」と。

 長野県でも、ここ20年、近所づきあいが極端に少なくなったという。
「長野県でもですか!」と驚いていると、「そうです」と。

 その客は、79歳といった。
別れるとき、「こんなに時代が急に変化するとは、思ってもいませんでした」と。

●旅館探し

 今ではどこへ行くにも、まずネットで旅館やホテルを探す。
ゆこゆこ、楽天、じゃらん……。
それぞれが旅館やホテルを紹介している。
そのとき参考になるのは、「口コミ」。

 今回も、その口コミを利用させてもらった。
その口コミをもとに、満足度などを、点数評価しているサービスもある。
それを読めば、たいていよい旅館やホテルに巡りあえる。

 ただアテにならないのは、都会のビジネスホテル。
組織的にインチキをしているところが多い。
たとえば今年のはじめ、K市で泊まったXXホテルは最悪。
もとは雑居ビルだったとか。
タクシーの運転手が、そう話してくれた。
化粧に化粧を重ねて、見た目には立派なホテルに仕立ててあった。
が、中身はボロボロ。
隣の部屋とは、ベニア板で仕切ってあった?
隣の音が、丸聞こえ。
しかし口コミは、すべて「よかった」「すばらしかった」「大満足」と。

 サクラが泊まって、サクラが書いた?
私はそう思った。

●雨

 風呂から出ると、雨が降っていた。
予報どおりだった。
だとすると、明日の朝は快晴。
すばらしい写真が撮れそう。
楽しみ。

●2010年

 今年も、残りあと1か月と半分。
いろいろあった。
が、全体としてみると、さみしい1年だった。
満足感は、ほとんど、ない。
何かをやり残したような感じ。
不完全燃焼症候群というのか。

 雨に光る旅館の屋根をながめていると、さみしさがひときわ胸にしみる。

 フ〜ン。

 こういうとき島崎藤村のような詩人なら、自分の心をどう表現するのだろう。
長野といえば、島崎藤村。

 秋の日暮れしころの昼神温泉は、
 小雨に濡れて、静かに光っている。
 時の流れは、今、静かに息を止め、
 森の向こうから、やさしく私たちを
 見つめている。
 
 ハハハ。
 へたくそな詩。
生徒が書いた詩なら、0点をつけてやる。

●母の三回忌

 9月に母の三回忌をすませた。
ワイフと私の2人だけで、すませた。
10月13日が命日だったが、「誕生日のほうがいいだろう」ということで、
9月にすませた。
あとで聞いたら、姉は姉で、三回忌をしたという。
まあ、いろいろあって、私と姉の関係は、そういう間柄。
子どものころから、いっしょに遊んだという経験も、ほとんどない。

 『兄弟は他人の始まり』という。
珍しいことではない。
しかし親子だって、他人以上の他人になることがある。
とくに親が嫌われるケースが多い。
その中でも、父親。
映画『送り人』の中でも、父親が嫌われていた。
言い換えると父親というのは、そういうもの。
そういう前提で考えれば、気も楽になる。
子どもに好かれようとへたに機嫌を取るから、かえって嫌われる。

 私も長男に嫌われ、二男に嫌われ、ついで三男にも嫌われている。
ひょっとしたら、ワイフにも嫌われている。
生徒たちにしても、みな、こう言う。
「先生なんか、大嫌い!」と。
生徒は生徒だが、フロイトも「血統空想」という言葉を使って、父親の立場を
説明している。

 子どもから見ると、母親は「絶対的な存在」だが、父親は、「一しずくの関係」。
父親はどんなにがんばっても、父親。
立場には限界がある。
子どもは、自分の父親を見ながら、「この人は私の父親ではない。私の父親は
もっと高貴ですばらしい人だ」と空想する。
その空想を、「血統空想」という。

で、私も子どものころ、父が嫌いだった。
酒を飲んで、暴れてばかりいた。
が、ずっと嫌いだったわけではない。
自分が父親になって、父の気持ちが理解できるようになった。
そのことをとくに意識したわけではないが、息子たちの名前には、みな、
「市」をつけた。
周市、宗市、英市、と。
私の父の名前は、「良市」だった。

●父、良市

 ついでにどうして「市」をつけたか?

 私の父は、悲運な人だった。
商売は下手で、何をやっても失敗。
家族の愛情にも恵まれなかった。
今で言う、できちゃった婚で、結婚した。
そうして生まれたのが、父、良市。

祖父には別に、婚約者がいた。
父が生まれたあとも、祖父は、その元婚約者と関係をつづけていた。
つまり生まれたときから、家庭はめちゃめちゃだった。

 母と結婚したが、二度目の見合いで、結婚ということになってしまったという。
たがいの愛情を確かめる間もなく、父はそのまま出征。
台湾で貫通銃創を受け、傷痍軍人として帰国。
継ぎたくもない家業を継がされ、自転車屋の主人として押し込められてしまった。
酒に溺れるようになったのは、それからのことだった。

 だから私は長男が生まれるとすぐ、「周市」とした。
迷いはなかった。
父が覚えたであろう無念さを、私が晴らしてやる。
そう思った。
その父は、享年64歳だった。
今の私の年齢である。

●誠司
 
 それと同じかどうかは知らない。
しかし二男が子どもをもったとき、名前を「誠司」としてくれた。
私が名づけたのではない。
二男が、「これでいいか?」と聞いてきた。
それを知ったとき、私はうれしかった。
私の名前は「浩司」。
同じ「司」。

 二男が学生のころは、喧嘩ばかりしていた。
そんな二男が、「誠司」という名前をつけてくれた。
その誠司が今、私のHPのモデルとして、HPを飾ってくれている。
内々では、まったく私に似ていないという意味で、「エイリアン」とか、
「エイリアン・ボーイ」とか、呼んでいる。
しかし何といっても初孫。
かわいさがちがう。
かわいい。

●11名!

 ところでまたまた暗い話で恐縮だが、先日、同窓会名簿が送られてきた。
大学の名簿である。
法科の学生は、100人と少しだったが、すでにうち11人が他界している。
私はまだ数名と思っていた。
だから余計にショックだった。

すぐその名簿を見ながら、あちこちに電話をかけた。
消息を確かめた。
親しかった友人たちは、みな、元気だった。
それにしても、11人とは!
団塊の世代と言われ、戦後の高度経済成長を、懸命に支えてきた。
定年を迎え、やっと激務から解放されたとたん、他界!
こんなむごい話があるか?

 A君は電話でこう言った。
「みんな、がんだよ。若いうちは、進行も早くて」と。

 みんな、どうして死ぬんだ!
死んじゃ、だめだ!
ぼくたちは、まだまだ若いんだ!

●部屋で

 ワイフは今、せんべいを食べている。
旅館が用意しておいてくれたもの。
蒸きんつばというのも、横に添えてある。
夕食まで、まだ1時間半もある。
もつかなあ……?
パソコンのバッテリーがもつかなあ……?

 バッテリーが切れるのがこわいのではない。
パソコンが打てなくなるのが、こわい。
とたんに頭の中がモヤモヤとしてくる。
それが不愉快。
私はキーボードを叩きながら、モヤモヤを吐き出す。
(「叩き出す」と書くべきか?)

 もし今夜、パソコンが打てなくなったら、何らかの禁断症状
が出てくるかもしれない。
イライラするとか……。
それに明日もある。
どこかでパソコンを貸してくれないかな……?
電源アダプターでもよい。
一応、聞いてみるだけ、聞いてみよう。
19ボルトの3・42アンペア。

(たった今、フロントに問い合わせてみた。
結果、貸しパソコンなし。
貸し電源もなし。
ついでに無線LANサービスもなし。
残るは電気屋を探して、電源アダプターを買うこと。)

 フロントにたずねたら、「電気屋はいちばん近いところで、
車で10〜15分」と。
「……しかしその容量のものが置いてあるとはかぎりません」とも。

 たった今残量を調べたら、「40%で3時間40分」と表示。
私は今、寿命の模擬体験をしているのかもしれない。
残りの命をどう使うべきか。

選択1:今のうちに書けるだけ書いておく。
選択2:明日までバッテリーを残しておく。

 問題は残りの40%を、どう使うか?
とりあえず、夕食まで約1時間。
夕食後は、読書に切り替え、バッテリーを温存する。
明日は、頭の中のモヤモヤをじゅうぶんためきったところで
電源を入れる。
一気にモヤモヤを吐き出す(=叩き出す)。

 どこか映画『アポロ13号』のような雰囲気になってきた。
あの映画の中でも、クルーは燃料の節約を始める。
その緊張感が、たまらない。

 ……たった今、コントロールパネルから、電源オプションを開き、
画面プランを「最低」に設定した。
とたん画面は暗くなった。
しかたない!

●模擬体験

 あなたならどうするだろうか。
あと3か月の命と宣告されたら……。
病院のベッドで静かにしていれば、3か月。
しかし無理をすれば、1か月。

 「命」をこうして茶化すのはよくない。
「死」を茶化すのは、さらによくない。
しかし多くの賢人は、異口同音にみな、こう言う。
「無益に100年生きるよりも、有益に1年を生きたほうがよい」と。

 その視点に立つなら、たとえ寿命が短くなっても、無理をして
生きたほうがよい。
「無理」というのは、やるべきことをやるという意味。
人には、寿命を縮めても、やるべきことがある。
長生きすれば、それでよいというものでもない。
人生の価値は、時計では計れない。

 ……というのは考えすぎか。
それにしても、この緊張感が楽しい(?)。
今朝見た、あの悪夢にどこか似ている。
心のどこかでハラハラしている。
しかしこんな気分では、よい文章など書けない。
が、これも実験。
心の実験。
はたして私は、どんな文章を書くのだろう。

●ハラハラドキドキ

 考えてみれば、私がもっているトラウマ、つまり強迫観念は、
今の心の状態に似ている。
どんどん減っていくバッテリー。
ハラハラドキドキ。
電車に乗り遅れるとき、降り遅れるとき、そんなときも、
ハラハラドキドキ。

 こうなったら、自分の強迫観念を解剖してみてやる。
私はなぜ、毎朝、悪夢に悩まされるのか。

●強迫観念

 具体的な記憶としては残っていない。
しかし私が強迫観念をもつようになったのには、母の育児方法に
原因があった。
それを10年ほど前に知った。

 晩年、母は手乗り文鳥を飼っていた。
そのときのこと。
母は手乗り文鳥を手なづけるために、わざと文鳥に不安にしていた。
「ホラホラ、行っちゃうよ」と。
そう言いながら母は、戸の向こうに隠れる。

 そのとき文鳥は、悲しそうな声で、ピーッ、ピーッと鳴く。
それを聞き届けて、母はおもむろに戸の陰から顔を出す。
「ホラホラ……」と。
文鳥はうれしそうに、母のほうに向かって飛んでいく……。

 それを見たとき、私は遠い記憶の中で、いつも、つまり日常的に
母にそうされていたのを思い出した。
「ホラホラ……」という言葉が、鮮明に記憶の中に残っている。
つまり母は、そういう形で、一度私を不安にさせ、手なづけていた。

 幼児教育ではぜったいにしてはならない手法である。
こんなことを繰り返していたら、親子の信頼関係は、粉々に崩れる。
そればかりか、私のような強迫観念をもつようになる。

 そう言えば、どこかのバカ教授が、こんなことを書いていた。
「親子の絆(きずな)を深めるためには、遊園地などで、子どもを
わざと迷子にさせてみるとよい」と。

 この話は本当の話である。
100万部を超えるベストセラーを書いた、TKという教授である。
私はその幼児教育論を読んだとき、体中がカッと熱くなるのを覚えた。

●仲よくつきあう

 こうした強迫観念は、一度もつと、それから解放されるということは、
まずない。
今の私が、そのサンプルということになる。
私はいつも、何かに追い立てられている。
そんな観念から抜けきることができない。
だから休みが1週間もつづいたりすると、かえって気が変になってしまう。

 そういう私をワイフは、「貧乏性」という。
しかし何もお金(マネー)だけの問題ではない。
今は、「時間」。
時間がほしい。
時間が足りない。
そして今は、バッテリーが足りない。

 だから今は、あきらめ、仲よくつきあうことにしている。
強迫観念にせよ、貧乏性にせよ、なおそうと思う必要はない。
仲よくつきあう。
それが「私」と居直って生きる。

 が、今朝もワイフにこう言った。
「一度くらい、安らかに目を覚ましてみたい」と。

●バッテリー

 夕食まで、あと30分。
バッテリーは、省電力設定にしたこともあり、残り3時間15分。
夕食後は、読書。
残りの2時間45分は、明日のために残しておく。
(実際にはバッテリーの残量が10%以下になると、パソコンは勝手に
シャットダウンしてしまう。)

●夕食

 夕食は可もなく不可もなく……といったもの。
ほどよい食材で、ほどよく仕上げたという印象をもった。
(私は料理には詳しくない。
それなりにおいしければ、満足する。)
星は3つの、★★★。
あとは予算。
つまり料金で決まる。
私たちは1泊、1万5000円のコースを選んだ。

 それを食べながら、ワイフがはじめて、こう言った。
「こういう料理を食べられるなんて、感謝しているわ」と。

私「お前がそんなことを言うとは。はじめて聞いた」
ワ「そんなことないわよ。いつも感謝しているわ」
私「酔っぱらったからではないのか」
ワ「酔っぱらってないわよ」と。

 が、私はうれしかった。
最後に、梨のジュースで作ったアイスクリームを食べて、おしまい。
おいしかった。

●UFO

 どこかのバラエティ番組で、UFOの目撃番組を流していた。
中国や日本で、最近、目撃情報が相次いでいる。
その中のいくつかを紹介していた(テレビ信州「不可思議探偵団」)。

 誤解してはいけない。
UFOは現象ではなく、科学である。
霊とか魂とか、そういう類のものではなく、もっと科学的な見地から
まじめに検証すべきテーマである。
今夜紹介されたUFOは、どれも信憑(しんぴょう)性の高いものばかり。
「そういうものは存在しない」という前提ではなく、まず虚心坦懐に心を
開き、こうしたビデオの分析をしてほしい。

 私とワイフも、ある夜、巨大なUFOを目撃している。
あれを飛行機というのなら、私は自分の文筆生命をかけて、その言葉と闘う。
あれはぜったいに、飛行機ではなかった。

 ……できれば死ぬまでに、あれは何だったのか、本当のことを知りたい。

●静かな夜
  
 各部屋が広いせいか、この旅館は静か。
エアコンのかすかな風音をのぞけば、物音ひとつしない。
ワイフは、すでに横になって目を閉じている。
私は電気を消し、床の間の明かりで、パソコンを叩いている。

 満腹になったせいか、脳みその働きが鈍くなった。
そんな感じがする。
いつもならつぎつぎと書きたいテーマが浮かんでくる。
が、今はそれがない。
ぼんやりと床の間に目をやる。
銅の置物と、和紙を使ったランタンが目にとまる。
それなりに価値のあるものらしい。
気温は25度。
エアコンの設定温度である。

 ふと、明日のことを考える。
朝市は朝6時から、とか。
風呂は24時間入れる、とか。
朝食は、朝8時に設定してもらった、などなど。

 たった今、精神安定剤のSを半分に割ってのんだところ。
睡眠薬がわりにのんでいる。
そのうち眠くなるだろう。

●感謝

 こういう旅館に泊まれる。
おいしい料理が食べられる。
考えてみれば、こんな幸運なことはない。
そんな私が、不平不満ばかり、口にしている。
どうしてだろう。

 振り返っても、私は幸運だった。
健康にも恵まれた。
仕事も順調だった。
いつだったか田丸謙二先生が、こう言った。
「日本はいい国じゃ、ありませんか」と。
この年齢になって、はじめて、その意味がわかった。
日本はよい国だった。
今もよい国だ。
私は戦争を経験することもなく、今まで生きてこられた。
たいしたぜいたくはできなかったが、お金に困ったこともなかった。
私のような人間が感謝しなくて、だれが感謝する。

 「感謝」というのは、充足感をかみしめ、それに満足すること。
が、それだけでは足りない。
その満足感を、別のだれかに還元していく。
その気持ちをもって、はじめて「感謝」となる。

●就寝

 さて眠る時刻になった。
午後9時10分。
二男はアメリカで元気にやっているだろうか。
三男は東京で元気にやっているだろうか。
年々、疎遠になっていくばかり。
つまり私たちは、こうしてあの世へ行く準備を重ねる。
いつ死んでも、息子たちを悲しませることがないよう、息子たちの
脳の中から、私の記憶を消していく。
それが「準備」。
「パパは死んだよ」「ああ、そう」と。
それでよい。

 何となくセンチメンタルな話になってしまった。
こういう文章は、私らしくない。
これもこうした旅館に泊まっているせいかもしれない。
静かな夜は、心も静かになる。
同時に見えないものまで、見えてくる。

 穏やかな心。
やすらいだ心。
ザワザワとした雑音も消え、そこはまさに静寂の世界。
昔なら、山奥の、そのまた山奥の温泉卿。
その温泉のひとつで、私は今日という一日を過ごした。

 みなさん、ありがとう。
そしておやすみ。
(はやし浩司 2010−11−15)

●午前2時46分

 昨夜遅く、ワイフが食べたものを吐いてしまった。
「ビールを飲みすぎた」と。
若いころは、私よりずっと酒に強かった。
そのワイフが吐いてしまった。

 しばらくトイレの中で、うずくまっていた。
が、出てくると、「もうだいじょうぶ」と。
そう言いながら、気がつくと、もうふとんをかぶって眠っていた。
ワイフがものを吐いたのは、何年ぶりのことか。
たった今、ワイフが体を動かしたので、声をかけた。
やはり「もう、だいじょうぶ」と言った。

 時計を見ると、午前2時46分だった。

●18%

 1秒も休んでおられない。
バッテリーは、18%、1時間8分を切った。
このTOSHIBAのMXは、バッテリーを満タンにすれば、
10時間以上はもつ。
おかげで何とか今まで、こうして文章を書くことができた。
しかしもう長くは、もたない。
あと1時間。
その1時間で、何を書くか。
無駄なことは書きたくない。

●寿命

 もしあなたの命は、あと1時間しかないと言われたら、あなたは
何を書くだろうか。
あと1時間で、船が沈む。
あるいは宇宙船が爆発する。
そんなとき、何を書くだろうか。

 内容はどうしても遺書めいたものになるだろう。
みんな、ありがとうとか、さようならとか。
しかし何を書き残すかととなると、話は別。
頭の中が混乱していて、どうも考えがまとまらない。

 が、何も今の状況で、うしろ向きになることはない。
前向きに考えればよい。
これからの抱負でもよい。
そう、抱負がよい。

 夢や希望がないわけではない。
たとえば昨日、ヤフーで、「"はやし浩司"」を検索してみた。
「"」「"」ではさむと、「はやし浩司」のみを検索できる。
はさまないと、「はやし」でも、「浩司」でも、さらに「浩」
だけでも検索されてしまう。

 で、「"はやし浩司"」で検索してみたら、20万件を超えていた。
(「はやし浩司」だけで検索すると、50万件近くもあった。)
つまりそれだけ多くの人たちが、何らかの形で、私の文章に
興味をもってくれているということ。
もちろんみながみな、好意的な人とはかぎらない。
中には、興味本位、あるいは悪印象をもっている人も多いはず。
このところ辛辣(しんらつ)な批評も、届くようになった。

 そう、私はあえて肩書きを捨てて生きてきた。
ネットの世界では、肩書きをもっていると、検索数が多くなる。
しかし私は丸裸。
あえて丸裸。
若いころから、肩書きには背を向けて生きてきた。
今は、さらに興味がない。

 肩書きを取り去ったとき、その人はその人になる。

 先日もワイフがこう言った。
「あなたは人生のはじめに、それを知ったから、損をしたのよ」と。

●田丸謙二先生

 田丸謙二先生に学生時代に会うことができたのは、私は生涯の幸運と確信して
いる。
その田丸謙二先生はすでにそのとき、いくつかの肩書き(地位、名誉)をもって
いた。
それを知ったとき、「この先生には、かなわない」「だったら、ぼくは一生、肩書き
なしで生きてやろう」と。
そう自分に誓った。
その結果が今。

「むしろ自ら、たいへんな道を選んでしまったのよ」と、ワイフはよく言う。
そうかもしれない。
しかし今にしてみると、丸裸でよかった。
私を飾るものは、何もない。
私を飾るのは、どこまでいっても、私のみ。

 地位や名誉などといったものは、順送りにバトンタッチされる。
あなたがいなければ、べつのだれかが「あなた」になる。
肩書きについては、さらにそうだ。
私は私の人生を生きることができた。
言い換えると、私に命令できる人は、だれもいない。
たとえば今の仕事(?)にしても、私を解雇できる人は、だれもいない。
不安定で、おぼつかない人生だったが、航海にたとえるなら、大海原を
小さなヨットで横切ったようなもの。

 航跡は細くて小さいが、それはまぎれもなく私の航跡ということになる。
それに今さらそうした人生を変えることはできない。
このまま、私は死ぬまで、生きていく。
結果は気にしない。
おそらく死ぬと同時に、私はこの世界から消える。
今、こうして書いている文章にしても、死後1年はもたないだろう。
この世界は、「金の切れ目は縁の切れ目」。
プロバイダーへの送金が止まれば、HPも廃止される。
無料のHPサービスにしても、「3か月以上〜〜」という条件を
つけているところが多い。
電子マガジンにしても、「3か月以上発行していないときは、廃刊する」と
ある(規約)。

 が、だからといって、「本」という書籍がよいというのではない。
これからは電子書籍の時代。
何らかの形で、死後も文章として生き残る方法はないものか。

●墓石

 ひとつの希望は、二男にその一部を依頼すること。
二男はコンピューター・プログラマーをしている。
コンピューターのプロ。
現在はアメリカのIU(インディアナ大学)で、コンピューター
技師をしている。
自分で個人のプロバイダーを運営していたこともある。
二男に頼めば、道が開けるかもしれない。
あとでこの原稿を送ってみる。

 つまりそれが私の墓石ということになる。
死んだあと、息子たちに残す、墓石ということになる。

●13%、59分

 バッテリーがいよいよ13%を切った。
人生をこのパソコンにたとえるなら、平均寿命を80歳として、
63歳という年齢は、63÷80で、約0・8=80%ということになる。
つまり私はすでに80%の人生を終えた。
残り20%。

 が、実際には最後の10%は、病魔との闘い。
だから13%というのは、私の残りの健康寿命と同じ。
ハラハラドキドキ。
そのうちこのパソコンはこう表示するはず。
「バッテリーの残量が10%を切りました。
ファイルを保存して、シャットアウトしてください」と。

 年齢にたとえると、72歳くらいか。
「人生の総まとめをして、死への準備をしてください」と。
「13%」という数字は、そういう数字。

 が、意外と同年齢の友人たちは、のんびりと構えている。
そういう切迫性を感じさせない。
「バッテリーが13%を切った」と聞けば、だれだってあせる。
が、「人生が13%を切った」と聞いて、あせる人はいない。
どうしてだろう?

●あの世

 何度も書くが、あの世などというものは、存在しない。
釈迦だって、一言もそんなことを言っていない(法句経)。
それを言い出したのは、つまり当時それを主張していたのは、
バラモン教の連中。
仏教はやがてヒンズー教の中に組み入れられていく。
輪廻転生思想は、まさにヒンズー教のそれ。

 その上さらに、中国、日本へと伝わるうちに、偽経典が積み重ねられた。
盆供養にしても、もとはと言えば、アフガニスタンの「ウラバン」という
祭りに由来する。
それが中国に入り、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となった。

 日本でも偽経典が作られた。
私たちが現在、「法事」と呼んでいるものは、そのほとんどが
偽経をもとに作られた。
もちろん寺の経営的な収入をふやすために、である。
(とうとう今、表示された。「残り10%」と。)

 話はそれたが、あの世はない。
あるとも、ないとも断言できないが、少なくとも私は「ない」という
前提で生きている。
死んでみて、あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確立のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を
建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を
生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う。
だから私はよく生徒たちに冗談ぽく、こう言う。

 「あの世があるなら、ぼくは早く行きたいよ。
あの世では働かなくてもいいし、それに食事もしなくていい。
空を自由に舞うことだってできる」と。

●「もうこりごり」

 そんなわけで、人生は一回ぽっきりの、一回勝負。
二度目はない。
この先、どうなるかわからない。
しかし一回で、じゅうぶん。
一回で、たくさん。
「こりごり」とまでは言わないが、それに近い。
「同じ人生を2度生きろ」と言われても、私にはできない。

 たとえば定年退職をした人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたはもう一度、会社に入って、出世してみたいと思いますか」と。
ほとんどの人は、「NO!」と答えるはず。
あるいは、「会社人間はもうこりごり」と言うかもしれない。

●別れ

 たださみしいのは、今のワイフと別れること。
息子たちと別れること。
友人たちと別れること。
ひとりぼっちになること。
 
 そのうち足腰も弱り、満足に歩けなくなるかもしれない。
そうなったら、私はどう生きていけばよいのか。
それを支えるだけの気力は、たぶん、私にはない。
だったら今、生きて生きて、生き抜く。
今の私には、それしかない。

 さあ、もうすぐこのパソコンの寿命は切れる。
何度もコントロールキーと「S」キーを押す。
文章を保存する。
いよいよ晩年になったら、私は同じようなことをするだろう。
ていねいに保存を繰り返しながら、やがて「死」を迎える。

(今、電源メーターをのぞいたら、「8%、45分」と表示された。)

 あと45分!

●シャットダウン

 楽しい(?)旅行記を書くつもりだった。
が、電源コードを忘れてしまった。
今までの旅行の中でも、最高のドジ。
またまたウィンドウが現れ、「もうすぐシャットダウンします」と
表示された。

 死を迎えるときも、こんな気分か。
数分後か。
40分も、ほんとうにもつのか。
何もわからないまま、生きている。

 もっとも、電源が切れたら、朝風呂に入ってくる。
この温泉は、24時間営業。
言うなれば、そこが私の極楽浄土。

 私は善人ではない。
しかし悪人でもない。
死んだら、地獄へ行くことはないだろう。
だったら、極楽?

 親戚の連中の中には、私が三回忌をきちんとしていないから、
「浩司は地獄へ落ちる」と騒いでいるのがいる。
しかし本当のバカはどちらか。
仏教徒のくせに、経典を読んだことすらない。
儀式だけしていれば、それでよいと考えている。
少しは自分の脳みそで、ものを考えろ!

 どちらにせよ、電源が切れたら、私は温泉につかってくる。
そのあと、8時まで再び眠る。
朝市もあるということだが、今の体調では無理。
なお朝食は、いちばん遅い、8時からにしてもらった。
これは正解だった。
またチェックアウトは、10時。
バスの発車時刻は、午後2時30分。
浜松まで直行する。

 ……これで書きたいことはすべて書いた。
あとはバッテリーが切れるのを待つだけ。
寿命が尽きるのを待つだけ。

 ここの旅館は、ほんとうによい旅館だ。
料金にもよるが、この昼神温泉では、イチオシ。
なお「昼神」というのは、もともと「ヒル(虫のヒル)に
かまれた場所」ということで、「ヒル・カミ」となったそうだ。
が、それでは、どうもネーミングが悪い。
それで「昼神」になったとか。
部屋にある由来書には、そう書いてある。

 「ヒルにかまれたから、ヒル・ガミ」。
だったら、思い切って、「死神」にしてはどうか。
そのほうが今の若い人たちには受けるかもしれない。
が、これは冗談。

 まだ天気の様子はわからないが、今日は、すばらしい紅葉を
見られるはず。
カメラの用意はできている。
電子マガジンの読者のみなさんは、どうかお楽しみに。
(すでにこのことは、前にも書いた。)

●まだ……?

 どこまで書けるか。
こうなると、最後の闘い。
どこまで生き延びることができるか。
ベッドの上で、点滴を受けながら、死を待つ心境。
(おおげさかな?)

 もうすぐ電源が切れるはず。
一文書いては、保存をかける。
一文書いては、保存をかける。
この繰り返し。
何だか、悪夢を見ているような感じ。
またあのいやな気分がもどってきた。
ハラハラドキドキ。
悪夢を見ているような気分。

 考えてみれば、私の人生は、そのハラハラドキドキの連続だった。
その象徴が、今朝の今の気分。
ワイフは、「あなたは平均的な人の何倍も生きたわ」と言う。
もちろん私にはその実感はない。
あるわけがない。
私の人生は、私の人生。
そうではなく、反対に、時間が足りない。
時間がほしい。

 しかし今、ここで電源アダプターが手にはいったら、どうなる。
この緊張感が

●後記(家に帰ってから)

 先のところで画面が消えた。
今、そのつづきを、家で書く。

 ……この緊張感が、人生を濃密にする。
あの世があるということになると、その緊張感が消える。
つまり「死という限界」があるから、私たちはがんばる。

 ……ということを書きたかった。

 ほかにもいろいろ書きたいことがあるが、それはまたの機会に!
みなさん、おやすみなさい。
今日は疲れました。

 11月16日、夜、8時ごろ、長野県昼神温泉郷から帰る。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 長野県 中信 昼神温泉郷 阿智川ホテル 湯本ホテル阿智川にて
はやし浩司 2010−11ー16 日誌)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司
 
●ネット中毒(TBS・News−i)」より

+++++++++++++++++

韓国内のネット中毒患者は、190万人。
悲惨な事件も、毎日のように起きている。
こうしたネット中毒患者のために、救済
施設まである。

かたや、この日本はどうか?
人口比からして、その約3倍の中毒患者
がいてもおかしくない。
約600万人?
そういった隠れ患者は、どこに消えてい
るのか。

まず、TBS−iの報道を紹介する・

+++++++++++++++++

**********以下、TBS−iより(2010−11−18)*******

いわゆる「インターネット中毒」が社会問題化している韓国で、ネットゲームをめぐって14歳の
少年が母親を殺害し、自らも命を絶つ事件が起きました。

 韓国警察によりますと、プサン市内のマンションの一室で16日、この部屋に住む女性(43)
が首を絞められて殺害されているのが見つかりました。

 女性の長男で中学3年生の少年(14)がベランダで首を吊って自殺していて、祖母に宛てた
遺書には「お母さんとケンカをして許されないことをした」などと書かれていました。

 少年は学校を遅刻・欠席しがちなほどネットの戦闘ゲームにのめり込んでいて、事件の前日
にはそのことで母親と口論になっていたということです。

 韓国政府によると、韓国国内のネット中毒患者はおよそ190万人。今年3月には夫婦そろっ
て「育児ゲーム」にのめり込み、生後3か月の娘を餓死させる事件が起きるなど社会問題化し
ています。

 さらにネット中毒の低年齢化も進んでいて、来年から予防対象を幼児にまで拡大することが
決まっています。

**********以上、TBS−iより(2010−11−18)*******

●猛烈な攻撃

 この日本では、テレビ・ゲーム、あるいはネットゲームを批判しただけで、
猛烈な抗議の嵐にさらされる。
ボロクソに叩かれる。

私も11年前に『ポケモン・カルト』という本を書いた。
が、いまだに、それがつづいている。
興味のある人は、ためしに、「はやし浩司 ポケモンカルト」で検索をかけてみる
とよい。
いつも「トンデモ本」のトップにあげられている。
はげしい攻撃の文句もさることながら、どういう人たちが、私を攻撃しているか、
どうかそれも知ってほしい。

 が、問題は、このことだけではない。
「190万人」という数字である。
人口比からすれば、この日本では、600万人となる。
(日本の人口は、韓国の約3倍。)
そういう人たちは、今、どこで何をしているのか。
何を考えているのか。

 日本人だけが特別ということもないだろうし、韓国人だけが特別ということも
ないはず。
あの事件、つまり光性てんかん事件が起きたとき、全国で数百人の子どもたちが
倒れた。
テレビアニメの『ポケモン』を見ていた子どもたちである。

 あの事件で不思議なのは、(「謎」と言ってもよいが)、そのあとだれひとり、
当該テレビ局に対して、損害賠償、医療費を公(おおやけ)で請求した人が
いなかったこと。
裁判にもならなかった。
倒れた子どもたちは闇から闇へと、葬られた。
ついで、あの事件そのものも、闇から闇へと、葬られた。
いったいあの事件は、だれが、どのような形で幕を引いたのか?

 実は、今の今もそうである。

 数か月前、ある教材社から仕事の依頼があった。
私は引き受けるつもりで、用意していた。
が、そのちょうど1週間後、今度は断ってきた。
いわく「うちもS社(出版社)と取り引きがありまして……」と。
「S社を敵に回したら、仕事もできなくなります」とも。
つまり私が書いた『ポケモン・カルト』が、問題というわけである。

 ポケモンは、現在も全盛期。
それはそれで結構なこと。
それが問題というのではない。
私はこの世界は、何かがおかしいと書いている。
それがわからなければ、もう一度、冒頭のあげた記事を読みなおしてみてほしい。
日本の600万人は、どこに隠れているのか?
何をしているのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ポケモンカルト ポケモン・カルト 三一書房 ゲーム中毒 韓国)

(付記)

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)がからんでいる。
それだけに、やっかい。
やっかいというのは、中毒患者が自ら、それに気づくということは、まずありえない。
「私は正常」と思い込んでいる。
しかし正常ではない。
正常でないことは、彼らが書く(文章)を読んでみればわかる。
支離滅裂というか、感情をそのまま叩きつけている。
文章というよりも、「文」そのものになっていない。

 たとえば……

「お前の子ども……MMMM……ゲームと現実の区別、
ちゃんと、つくのかよ〜〜〜〜」(某サイト)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2010年の4月に書いた原稿を
添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ゲーム脳(ゲーム中毒)

+++++++++++++++++++

この日本では、どうして「ゲーム脳」が
問題にならないのか。
「ゲーム脳」という言葉が悪いなら、
「ゲーム中毒」でもよい。

隣の韓国では、すでに10年以上も前から、
また最近では中国でも、「ゲーム中毒」の
若者たちが、問題になりつつある。
ゲーム中毒の子ども(若者も)を集めた
更正施設や、更正プログラムまで、用意
されている※。

が、この日本では、問題にならない。
「ゲーム脳」という言葉を使って、エッセーを
書いただけで、猛烈な抗議に嵐にさらされる。
ゲームの世界そのものが、カルト化している。
ゲームに日夜夢中になっている子ども(若者)は、
まさにその信者ということになる。

(ためしに、「はやし浩司」で検索してみるとよい。
私を、口汚く中傷しているサイトやBLOGがある。
そのほとんどが、ここでいう「信者」たちである。
私が書いた『ポケモンカルト』(三一書房)などは、
出版してから11年になるが、いまだに叩かれつづ
けている!)

が、日本人だけが特別ということは、ありえない。
日本人の脳みそだけが、韓国人や中国人と、構造が
ちがうということは、ありえない。
今の今も、この日本には、ゲーム中毒の子ども(若者)は、
いる。
日に、何時間も何時間も、ゲームに夢中になっている。
真夜中でも、ゲームに夢中になっている。
が、日本では、そういう子ども(若者)が、どういうわけか、
問題にならない。
考えてみれば、これほどおかしな話はない。

ここでは、別の角度から、「ゲーム脳」について
考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

●まねる(観察学習)

 発達心理学の世界には、「観察学習」という言葉がある。
子どもは、教えられて学ぶことよりも、まわりを観察しながら、自ら学ぶことの
ほうが多い。
量的に、はるかに多い。
「学習効果」ということを考えるなら、またそのほうがはるかに効果的。

 たとえば以前、何かにつけ、ツッパリ始めた子ども(小5男児)がいた。
言動が粗野になり、独特の目つきで、独特の話し方で話すようになった。
「ウッセー」「コノヤロー」と。
紫の地に、金色の刺繍をほどこしたコートを着てきたこともあった。

 で、その子どもを、高校生の受験クラスに入れてみた。
高校生の間に座らせて、好きな勉強をさせてみた。
最初は、体をかたくしていたが、週を追うごとに、ぐんぐんと変化していった。
あとで聞いたら、高校生の中の1人を、自分の理想像のように思いようになったらしい。
その高校生は、野球部の部員だった。

その子どもは、日曜日など、こっそりとその試合の応援に出かけたりしていた。
家に帰っても、その高校生の話ばかりするようになった。

 これは観察学習というわけではないが、その子どもは、まわりの様子から、
多くのものを学んだことになる。
それは「学ぶ」という行為というよりは、「まねる」に近い。
その「まねる」という行為を、「モデリング」という。

●自己認識能力

 ものごとは常識で考えよう。
まだ判断力や自己管理能力がじゅうぶん育っていない子どもが、ゲームを相手に、
「殺せ!」「やっつけろ!」と叫んで、心によい影響を与えるはずがない。
こんな実験が知られている。

 ある一定時間、暴力映画を見せた子どもは、その直後、行動が暴力的になるという
(バンデュラ、ほか)。
多くの研究者が、同じような実験結果を報告しているので、今さら改めて説明する
までもない。
つまり子どもというのは、そのつど環境の中で、自分を作っていく。
作られていく。
それもそのはず。

 子どもが現実検証能力、つまり自分、あるいは自分と他者との関係、さらには自分の
置かれた立場を、客観的に判断できるようになるのは、小学3年生(9歳)以上。
それ以前の子どもには、その能力はない。
たとえば病院や図書館で騒いでいる幼児がいる。
そういう幼児に向かって、「静かにしなさい!」と叱っても、意味はない。
「騒いでいる」「迷惑をかけている」という意識そのものがない。
そういう行為がどういうものかさえ、わかっていない。
叱られたあと静かになるのは、こわいからそうしているだけ。

 つまり小学3年生(9歳)以前の子どもに、その判断能力はない。
判断能力がないというよりは、思考力が未熟。
だからこの時期の子どもは、理性や知性を使って「学ぶ」ことよりも、周囲を
観察し、それを「まねる」ことによって、自分の思考パターンや行動パターンを
形成していく。
それがモデリングということになる。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、『疑わしきは罰せず』という。
が、教育の世界では、『疑わしきは罰する』という。
なんでもあやしいものは、先手先手で、子どもの世界から遠ざける。
安全性が確認されるまで待っていたら、それこそ手遅れになってしまう。

 ゲームにしても、しかり。
もちろん中には、良質なソフトもある。
そういうものまで、ひとまとめにして、「反対!」と、私は言っているわけではない。
しかし良質なソフトにまぎれて、悪質なソフトがあるのも事実。
そういう悪質なソフトまで野放しにしては、いけない。
有害とは証明できないかもしれない。
しかし少なくとも、安全と証明されたわけでもない。
だったら、遠ざける。
それくらいの配慮というか、子どもの世界に対する思いやりは、あって当然の
ことではないか。

……と私は書いている。

●付記

 あるBLOGには、こうあった。
「(右脳教育を創始者の)SDも、(ゲームを批判する)はやし浩司も、
同じようなもの。
一度、この2人を、バトルさせてみたい」と。

 SD氏(2009年死去)は、ゲームは、右脳の刺激になると説いていた。
そのSD氏と私も、同じ、と。
しかし(右脳教育)と(ゲーム脳)とは、どこでどう結びつくのか。
その右脳教育にしても、安全が確認されたわけではない。
むしろ幼児期においては、左脳教育(論理と分析)こそ、重要。
そうでなくても、映像文化に発達とともに、あえて右脳を刺激しなくても、
子どもたちは、じゅうぶん過ぎるほどの刺激を受けている。
反対に、今、静かにものを考える子どもが少なくなった。

頭に飛来した情報を、ペラペラと口にする。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
子どもたちの世界が、バラエティ番組化している。
「これでいいのか!」と叫んだところで、この話はおしまい。

【補記】

 私は、右脳教育には、懐疑的である。
10年以上も前から、そういう趣旨で、原稿を書いてきた。
その気持ちは、いささかもゆらいでいない。
「まちがっている」と言っているのではない。
「あえて必要ない」と言っている。
フォト化とか、直観像とか、いろいろ言われているが、安全が確認された
わけではない。
ある幼児教室の案内書には、こうあった。

「これからは、右脳教育を受けた子どもたちが、ゾロゾロと(東大の)
赤門をくぐることになるでしょう」と。

それから10年。
そろそろその結果が出ているはず。
もしSD氏とバトルするようなことがあれば、(天国なら天国でもよいが)、まず
そのあたりの資料を出してもらうところから始めたい。

(注※)

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10−02−08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、2400万人の青少
年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。中国青少年インター
ネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6〜29歳の青少年
7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は2007年の9・7%
から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは400万人程度で、4年間
で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒者が多いことも、特徴の
一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしているか?」と
の問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽のダウンロード」の2
3・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基準」を
公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたした状態」と定義
付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他人を殴るのは間違って
いる」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネット
中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といった精神
疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ゲーム脳 中国の現状 ゲーム中毒 ネット中毒者 障害 中国のネット中毒者 
ゲーム 疑わしきは罰する)


Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2010−11−18

●昼神温泉で……(昼神温泉記補足)

+++++++++++++++++

昼神温泉で、ひとりの老人(男性)と
知りあいになった。
時間的に、たまたま温泉内には、私たち
2人だけだった。
湯船につかりながら、いろいろな話をした。

+++++++++++++++++

●男性

 昨日書いた、「昼神温泉記」には、その男性は、「松本から来た」と書いたが、
実際には、「松本」ではなく、「塩尻(長野県)」だった。
記録として残すときは、できるだけ地名や職業は隠すことにしている。
もちろん実名は書かない。
しかしその男性は、塩尻から来ていた。
昼神温泉で一度温泉で体を休め、そのまま豊橋にいる弟の家に行くということだった。

「塩尻から昼神までは、3時間。昼神から豊橋までは、3時間」と。
その男性は、そう言った。
年齢は81歳と言った。

(この年齢も、先の「昼神温泉記」の中では、別の年齢を書いた。)
元国家公務員とか。
風格があるというか、深い知性を感ずる人だった。

●会話

 長野県といえば、……というか、そういう先入観だけで見てはいけない。
が、ほかよりは、古き良き日本をそのまま残した地方ということになる。
その長野県でも、「近所づきあいがなくなりました」と。

男「私が住んでいるあたりでも、独居老人がふえましたね」
私「長野でも、ですか?」
男「昔とちがって、近所づきあいが、なくなりました」
私「若い人たちは、どうしているのですか」
男「携帯とか、インターネットとか、そういうことばかりしていますね。それに若い人
たちは、今、どんどんと都会へ出て行きます」

私「独居老人ではなく、今では、無縁老人といいます」
男「そうですね。私も同年代の人たちとつきあっていますが、毎年、仲間が少なくなって
いきます」
私「お子さんは……?」
男「娘が1人、息子が1人です。娘は、Y原温泉の旅館に嫁いでいきました。息子は東京
へ出たきり、帰ってきません」
私「それじゃあ、温泉三昧ではないですか。うらやましい」
男「それがそうではないのです。娘の嫁ぎ先の親とは、結婚式の話しあいをして以来、
一度も会っていません」

私「一度も会っていない……?」
男「いろいろありましてね……」
私「……旅館経営の最大の問題点は、何ですか?」
男「人ですよ、人。人が集まりません。きつい仕事だし……。ほとんどが人材派遣会社
からの派遣社員です。しかしね、やっと仕事を覚えたと思ったら、またどこかへ行って
しまう……。この繰り返しで、旅館業も、今、たいへんですよ」

私「長野県というから、親戚づきあいも濃厚で、その分、人間関係も濃密かと思って
いました」
男「変わりましたね。時代が変わったのです。狂ったと言ったほうがいいかもしれません」
私「狂った? 同感ですね……」
男「原因は、私は年金制度にあると思うのです。年金制度」
私「はあ、年金制度、ですか?」
男「年金制度ができたおかげで、いい面もあるのですが、親子の関係が切れてしまいま
したね。親のめんどうをみるという若者が、いなくなりました。それで平気で都会へ
出て行くのです」

私「……しかし長野県も、驚くほど、さびれましたね。先日、飯田市に立ち寄ったの
ですが、ゴーストタウン化していたのには驚きました。町の中央を横切る、りんご並木
にしても、荒れ放題といった感じでした」
男「そうですね。仕事がありませんから……」
私「不景気なんですかね」
男「仕事がないのですよ、仕事が……。若い人たちを吸収する職場がない……」
私「そう言えば、この温泉街も立派な温泉が並んでいますが、観光客が少ないですね」
男「観光バスでやってきて、そのまままた、観光バスで帰っていく。こういう季節と
いうのに、外を散策する人がいない……」

私「浜松でも、郊外の村や小さな町では、寺がどんどんと無住の寺になっています。
檀家が少なくなって、住職さえ町へ出て行くのですね」
男「長野県でも、無縁仏がふえていますよ。それでね、大きな墓碑を建て、そこに
無縁仏をまつる寺がふえてきました」
私「須坂市では、布施も戒名料も、すべて一律に定額にしているという話を聞きましたが」
男「……フーン。それはたぶん、市営墓地か何かの話ではないですか。塩尻ではそういう
話は聞きません」

私「浜松でも、初盆をしない家がふえてきました。漁村でも、初盆をする家は、40%
くらいなか」
男「長野でも、葬儀を家でひっそりとする家がふえてきましたね。僧侶を呼び、読経だけ
してもらい、それで終わります」
私「東京あたりでは、直葬といって、病院からすぐ火葬場へ回し、遺灰にして家に帰す
という方式がふえているそうです。数年前の統計ですが、すでに30%を超えたとか」
男「自然葬ですね」
私「そうです。自然葬です。私たち夫婦も、そうなりそうです。それを望んでいるわけで
はありませんが、そうなりそうです」

男「原因は、何ですか」
私「私は、あの受験競争にあると確信しています。受験競争を経験すると、子どもたちが、
突然冷たくなります。人が変わるというか、数字だけでものを考えるようになります」
男「親はよかれと思って、子どもを受験競争に駆り立てるわけですが、逆効果ですな」
私「まったく、その通りです。子どもはそれによって、学費を出してもらうのは、当然と
考えるようになります」
男「親は、爪に灯をともしながら、学費を送るのですがね……」
私「親に感謝しながら、大学へ通っている子どもは、いませんね。出たら、ハイ、さよ
うなら、ですよ」

男「……たしかに狂っている」
私「たしかに、おかしいです。こんな社会ですから、老人はますます生きにくくなって
きました」
男「そう言えば、うちの息子もそうですが、彼らが言う『家族』には、親は含まれて
いませんね」
私「ははは、そうです。それこそまさに私の持論です。若い人たちが言う『家族』は、
自分たち夫婦と、子どもだけです。親は入っていません」
男「やはり、年金が悪いのですよ。年金制度が……」
私「ははは、そうは言っても、私の年金は、月額6万4000円程度です」
男「国民保険だけでは、きびしいね」と。

 たがいに愚痴を言いあった。
愚痴を言いあいながら、笑った。

●親子

 このところ「親子とは何か」、それをよく考える。
親子とは、何か?
つでに家族とは、何か?

 昔風に言えば、濃密な血縁でつながれた一体性のある人間関係ということになる。
しかし今、その一体性を、子どもの方から拒絶し始めている。
その傾向が始まったのは、尾崎豊や長渕剛らが活躍したころといってよい。
私たち、団塊の世代は、権力との闘いが精神的方向性だった。
が、つづくつぎの世代では、それが世代との闘いに置き換わった。

 「私は私」というのは構わない。
私自身も、その言葉をよく使う。
しかし子ども(息子や娘)が、その言葉を使うときは、縦や横の人間関係を、切り離した
状態を意味する。
とくに縦の関係、つまり親と子の関係を切り離す。

 が、ここで2つの悲劇が始まる。

 ひとつは、親の側は、過去の幻想にしがみつきやすいという悲劇。
年老いた親ほど、そうだ。
中には「親子の縁は絶対的なもの」と信じて疑わない人も多い。
そのため時代の流れを理解できず、幻想と現実のちがいの中で、もがく。
苦しむ。
「私の子育ては、何だったのか」と。

 もうひとつは、自分自身も親でありながら、「自分たちだけは特別」と、やはり同じよう
な幻想にとりつかれる。
若い夫婦に多い。
もう少しわかりやすく説明しよう。

 たとえば子どもをもつ。
その子どもと、楽しい時間を共有する。
旅行する。
スポーツをする。
そのとき若い夫婦は、こう思う。
「私たち親子の絆(きずな)は、太い。家族というのは、こういうもの。私たちは、
私たちの親がしたような失敗は繰り返さない。私は家族を大切にしている」と。

 こうして若い夫婦は、一方で、その幻想に酔いしれる。
が、幻想は、幻想。
彼らもまた、私たちがたどったのと同じ道をたどる。
同じ失敗を繰り返す。

 これら2つを悲劇と言わずして、何という。

●教育観 

 この1年で、私の教育観は、大きく変わった。
それまでは家族主義を唱えながらも、家族がもつ呪縛感と闘ってきた。
実母や実兄の介護問題も、からんでいた。
養護問題もからんでいた。
私が生まれ育った地方(G県のM町周辺)は、(あるいは私の親類だけがそうだった
のかもしれないが)、濃密すぎるほどの親戚関係が生活の基本になっている。

 その親戚関係から受ける呪縛感には、相当なものがある。
心理学の世界では、「家族自我群」とか、「幻惑」とかいう言葉を使って、それを説明する。
私はその呪縛感に苦しんだ。
そしてこう考えた。

 「こういう苦しみは、私たちだけの世代で終わりにしたい。つぎの世代の人たちは、
そういう呪縛感とは無縁の世界で生きていけばいい」と。

しかし時代は、私が知らないうちに、私の知っている時代を通り越し、さらにその先へ
行っていた。
「日本は飽食だ、飽食だ」と思って、飽食による弊害を説いていたら、いつの間にか日本
は日々の食糧にも事欠くような貧乏国になっていた。
今は、そんな感じがする。

 で、この先のことは、よくわからない。
私自身も、模索期に入った。
が、このままでよいとは、考えていない。
あの男性は「狂った」という言葉を使った。
そう、たしかに狂った。
新しい世界を追い求めつづけていたら、古き良きものまで、粉々に破壊されてしまった。
そのためこの日本が、今、混乱状態にある。
私も模索状態にある。

 ……ということで、今日はここまで。
この話のつづきは、これから先、時間をかけてゆっくりと考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 昼神温泉補足 世代間闘争 模索期 家族主義 幻想と混乱)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●63歳の誕生日

 63歳になりきれないでいる。
理由はわかっている。
今年の誕生日には、プレゼントをもらっていない。
例年だと、何かプレゼントをもらっている。
が、今年は、もらっていない。
それをワイフに言うと、「そんなはずはない!」と。

 私がほしいもの。

(1)TOSHIBAのMXパソコン。
(2)SONYのアルファ(α)カメラ。
(3)機能がめちゃめちゃ複雑な、腕時計。
(4)パナソニックの「旅ナビ」カメラ。

 あえて順位をつけてみた。
しかしパソコンは、今でも5〜6台が稼動中。
カメラも、3〜4台が稼動中。
腕時計は、どうせすぐあきてしまう。
「旅ナビ」は、口コミ評判(ネット)が、あまりよくない。
やはりTOSHIBAのMXか?
キーボードが独立していて、打ちやすい。
それに表面のザラザラ感が気に入った。
難点を言えば、今使っているMXより、バッテリーのもちがやや短いこと。
しかし同じ仲間だから、バッテリーを共有できるという利点もある。
どうしよう?

●2011年

 私の仕事では、毎年今ごろになると、翌年の様子がわかってくる。
40年近くも、同じ仕事をしている。
ある程度の予想ができるようになった。
で、それによれば、2011年は、私にとっては忙しい年になりそう(?)。

 たとえば幼児教室にしても、現在の年中児クラスが、そのまま年長児
クラスになる。
不景気な年だと(?)、生徒数が3〜4人にまでさがる。
今も基本的には不景気だが、このところ教室への問い合わせが多くなった。
そういう(動き)が、翌年への予想へとつながっていく。
 
 ワイフに「来年もがんばるよ」と声をかけると、ワイフはうれしそうに笑った。

●仕事は自分で作る

 私の世界では、「仕事は作るもの」。
「もらうもの」ではない。
魚取りにたとえるなら、水の中に自らもぐり、モリでつく。
釣竿をもって、釣れるまで待つのは、私のやり方ではない。

 で、最近の若い人たちを見ていて、たいへん気になることがある。
そのひとつが、ガッツ魂。
ガッツ魂がない。
生き様が受け身。
仕事に対する考え方にしても、そうだ。
仕事はもらうものと考えている。
就職活動というのが、それ。
どうして自分で作らない。
自分で社会に切り込んでいかない。
私には、どうしてもそれが理解できない。

●外国

 同じように、「外国へ出ていこう」という若者が少ないのに、驚く。
「外国へ出て働け」というのではない。
外国で、1、2年、暮らしてみる。
「世界を見る」という言い方でもよい。

 たとえば『沈まぬ太陽』という映画があった。
その中で映画の主人公が、懲罰左遷とかで、アフリカや中近東へ転勤になる。
そんな場面が出てきた。
が、どうしてそれが懲罰左遷なのか?

 当時の世相は、逆だった。
私も商社マンだったからよく知っているが、「外国へ出る」というのは、
それ自体がステータスだった。

私は三井物産という会社にいた。
社員は7000人あまりだった(当時)。
しかしその三井物産にあっても、海外勤務ができる人は、全体の30%。
残りの70%は、国内勤務だった(当時)。

 商社マンは、外国で活躍してこそ、商社マン。
当時の私だったら、アフリカだろうが、中近東だろうが、転勤を命じられたら、
喜んでそれに従ったであろう。
日本航空(当時)の社員にしても、そうだ。
山崎豊子氏(原作者)には悪いが、山崎豊子氏はそういう当時の常識すら、
知らなかったのでは?

それに当時は、短期出張と言えば2年が常識だった。
が、その2年で帰ってくる人は、少なかった。
短期出張のハシゴというのもあった。
派遣先から、さらに別の派遣先へ転勤を命じられる人が多かった。
日本は、まだ貧しかった。
1970年当時、羽田―シドニー間の往復航空運賃が42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超えた時代である。
今のように、自由に飛行機に乗ることさえむずかしかった。

●留学

 私は留学生試験を受けた。
結果、インドとオーストラリアの両方に合格した。
オーストラリアのほうを選んだ。
(もしインドのほうを選んでいたら、今ごろは死んでいただろう。
当時はまだ風土病についての理解も乏しかった。
肝炎もそのひとつ。
コップ一杯の水を飲んだだけで、急性肝炎になり、命を落とした人は多い。)

 が、もし留学生試験に落ちたら、私は船員になってでも、アメリカへ
渡るつもりだった。
船員として働き、アメリカへ渡る。
向こうへ着いたら、そこで働く。
真剣に、それを考えていた。

●日本の若者たち

 日本の若者たちが、どうしてこうまで受け身になってしまったのか。
もちろん中には、外国へ出かけていき、そこで働いている日本の若者も多い。
しかしそういう若者は、マイナー。
多くは「外国で苦労するなら、日本で暮らしたほうがいい」と考えている。

 たまたま先ほど、高校生のクラスで、みなに聞いてみた。
「君たちの中で、卒業後、留学するとか、外国へ行きたいとか、そういう
ふうに言っている友だちはいるか」と。
が、その答に、私は心底、失望した。
「・・・だれもいない・・・よなあ・・・」と。

私「いないのか?」
高「いないよなあ・・・」
私「外国へ出て、外国を知ってみるというのは、どうか?」
高「先生、そんなのは、旅行で行けばいいんじゃない」
私「旅行で行っても、表面的なことしかわからないよ」
高「そんなことないよ。わかるよ」
私「わからない」
高「わかる」
私「わからない」
高「・・・わかったところで、先生、それがどうなの?」と。

●飼い慣らされてしまった?

 どうして日本人は、こうまで飼い慣らされてしまったのか・・・と
聞くだけ、ヤボ。
日本の教育のシステムそのものが、そうなっている。
子どもたちを指導する教師たちが、組織の中で飼いならされてしまっている。
もう10年になるだろうか。
ある高校の校長が、「フリーター撲滅運動」なるものを始めた※。
「撲滅」(=たたきつぶす)だぞ!
「私の高校は、100%就職をめざす」と。

 この日本では自由に生きていくことすら、むずかしい。
「自由」とは、「自らに由りながら」という意味である。
このことと直接関係があるとは言えないが、おととい、こんな話を聞いた。

 岐阜県の高校では、自転車にも「車検」に似たような制度があるという。
たとえばタイヤの溝にしても、何ミリ以下になると、タイヤそのものを
交換しなければならない。
で、ある母親(岐阜県在住)は、電話でこう言った。

「自転車は安物です。ショッピングセンターで1万円で買ったものです。
そのタイヤ交換に、1万円もかかったんですよ」と。

私「車検みたいですね」
母「そうなんです。自転車屋さんの証明書がないと、その自転車には乗れない
のです」
私「それは暴力団のやり方ですね」
母「そうなんです。だから値段が高くても、ほかの人たちは自転車屋さんで
自転車を買うしかないのです。中には、ほかの店で買った自転車は、修理しません
と断わる店もあります」と。

 人間管理、ここに極まれり!

 人間は管理されればされるほど、体制に依存性をもつようになる。
依存性をもてばもつほど、生き様が受け身になる。
現在の若者たちは、その結果ということになる。

 自転車がパンクすれば、そこから先は、引いて歩けばよい。
チェーンがはずれたら、自分で直せばよい。
ブレーキがきかなくなったら、自転車を倒して止めればよい。
どうしてそういう野生臭を、もっと大切にしないのか?
今、そういう野生臭が、日本の若い人たちから、消えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 若者の野生臭 たくましさ たくましさとは 日本の若者論)

(注※)「フリーター撲滅運動」(2007−12月記)

●働けど、働けど……(Working Poor)

One third of the Japanese belongs to so-called "Working Poor", who works less than 1.9 ~5.
4 million yen per year. As to the young me aged from 15~24 years old), abt. 50% of them are 
not-employed workers. The number of not-employed workers has increased abt. 4.9 million 
in these ten years. Not-employed workers work with less payment without any sufficient 
insurance. This means that Japanese traditional working system has collapsed where 
workers could work in their whole lives in one single company. To solve this problem, I insist, 
deregulation of the society is more and more important. Otherwise there would be more and 
more working-poor people, especially working-poor young men.

+++++++++++++++++

働けど、働けど……、一向に、生活が楽にならない。
そんな人がふえている。

G市に住む従兄弟(いとこ)と、電話で話す。
夫は、運送会社に勤め、妻は、銀行でコンピュータ管理の仕事をしている。
3人の子どもがいる。

夫は正規社員だが、妻は、非正規社員。
妻の身分は、10年以上、そのままだという。

従兄弟のケースは、まだ恵まれているほうだが、それでも、生活は、毎月ギリギリだという。
夫も妻も、朝から、夜遅くまで働いている。

総務省統計局の調査によれば、この97年から02年までに、いわゆるワーキングプア世帯(非
勤労世帯を含む全世帯)は、16・3から22・3%に、ふえたという。

ワーキングプア世帯というのは、「働く貧困層」をいう。

ここでいう「貧困基準」というのは、

1人世帯……年収190万円以下
2人世帯……年収300万円以下
3人世帯……年収394万円以下
4人世帯……年収463万円以下
5人世帯……年収548万円以下(2002年度)の人たちをいう。

現在、日本では、約3分の1の世帯が、そのワーキングプア層に該当するという。

が、ここで注意しなければならないことは、たとえば妻が専業主婦で、子どもが2人いるばあ
い、4人世帯となるということ。
年収が、463万円以下だと、ワーキングプア層に入ってしまう。
つまり、子どもが多ければ多いほど、生活が苦しくなる。

しかし実際、1人の男性(夫)が、500万円の年収をあげることは、容易なことではない。
正規社員はともかくも、非正規社員だと、なおさらである。年収で、約30%〜前後の開きがあ
ると聞いている(浜松地域)。

その正規社員は減り、非正規社員はふえている。同じく総務省統計局の調査によれば、この1
0年間で、正規社員は約450万人減り、非正規社員は約490万人ふえているという(IMIDA
S)。

わかりやすく言えば、企業は、正規社員を減らし、その穴埋めを、給料が安くてすむ非正規社
員で補っているということ。

しかしこんなことをつづけていれば、勝ち組と負け組の2極化がますます進む。
が、それだけではすまない。
社会そのものが、不安定化する。
子どもの世界について言うなら、ますます受験競争がはげしくなる。
ついでに言えば、それがストレスとなって、子どもたちの世界を、ますますゆがめる。

いじめもふえるだろう。
子どもの自殺もふえるだろう。
不登校児もふえるだろう。

中に、「能力のある人がいい生活をして、そうでない人が、いい生活ができないのは、しかたの
ないこと」と説く人がいる。

しかしそれには、大前提がある。

雇用の機会が、だれにも、平等に、かつ均等に与えられなければならない。
しかしこの日本では、人生の入り口で、運よくその世界へ入った人は、生涯にわたって、安楽
な生活をすることができる。
またそういう人たちが、自分が得た権益を、手放そうとしない。
公務員の天下りに、その例を見るまでもない。

何か、おかしい?
何か、へん?

総務省統計局の調査を見ると、1996年から99年あたりから、この日本は、大きく変化し始め
た。
この時期というのは、ちょうど団塊の世代以下が、リストラにつぐリストラで、職場を追われ始め
た時期にあたる。

では、どうするか?
どう考えたらよいか?
私たちの世代は、それでしかたないとして、これからこの日本を支える、これからの若者たち
のためには、どうしたらよいか?

今のように、若者(15〜24歳)の非正規雇用が、50%前後(男子44%、女子52%、06年)
にもなったら、雇用社会そのものが崩壊したと考えたほうがよいのではないか。
わかりやすく言えば、フリーターであることのほうが、今では、当たり前。

であるなら、若者たちがフリーターとして生きていくために、生きやすい環境を、用意する。
つまりそのためには、規制緩和、あるのみ。ただひたすら、規制緩和あるのみ。

たとえばオーストラリアでは、電話1本と、車1台があれば、若者たちは、それで仕事が始めら
れる。
日本で言うような、資格だの、許可だの、認可だの、そういったものは、ほとんど必要ない。

日本は世界的に見ても、管理の上に、「超」が、10個ぐらいつく、超管理国家である。
官僚主義国家の弊害と言えば、それまでだが、一方でこうして若者たちの世界を、がんじがら
めに縛りつけている。

簡単に言えば、一方でフリーターをつくりながら、他方で、フリーターには、生きにくい社会にし
ている。(そう言えば、数年前、『フリーター撲滅論』を唱えた、どこかのバカ校長がいた。「撲
滅」だと!)

これを矛盾と言わずして、何と言う。

私はそのフリーターを、40年近くしてきた。
浜松に来たころには、市の商工会議所に登録している翻訳家は1人しかいなくて、私が2人目
だった。
私は工業団地の電柱に張り紙をして、仕事を取ってきた。
資格も認可も、いらなかった。

今、そういう「自由」がどこにある?
またそういう自由があるからこそ、社会に、ダイナミズムが生まれ、そのダイナミズムが、社会
を発展させる。

働けど……、働けど……。
そんなわけで結局は、働くしかない。

ということで、言いたいこと、書きたいことは、山ほどある。あるが、ここは、「バカヤロー」と叫
んだところで、おしまい。バカヤロー!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ワーキングプア ワーキング・プ
ア working poor working-poor)


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

●はやし浩司 2010−11−19

●静かな朝

 今朝はかなり早い時刻に、目が覚めた。
何か夢を見ていたようだが、思い出せない。
顔に冷気を感じながら、暗闇の中で、あたりを見回す。
朝日はまだのよう。
「何時だろう?」
そんなことを考えながら、あれこれ考える。

●運動

 最初に迷ったのは、運動。
起きて、ルームウォーカーで運動すべきかどうか。
寝ているのも1時間。
運動するのも1時間。
寒い朝でも、20〜30分もすれば、汗をかくほど体が暖まる。
それはよくわかっている。
しかしその踏(ふ)ん切りがつかない。
「何時だろう?」
また、そんなことを考えた。
「もう少しで明るくなるはず。そしたら起きよう」と。

 昨夜は、いつもより早く床についた。
10時ごろだったかな……?

●生かされている

 最近、私は、「生きている」のではなく、「生かされている」と思うことが多くなった。
その第一。
今、ここで死ぬわけにはいかない。
病気になることも許されない。
がんばるしかない。
がんばって、仕事をつづけるしかない。
今日、明日と講演がつづく。
怠(なま)けた体では、講演はできない。

 それに私がいちばん恐れるのは、この(流れ)が止ること。
漢方の世界では、『流水は腐らず』という。
これは健康論について言ったものだが、漢方では肉体と精神の健康を区別しない。
肉体と精神の健康は、密接不可分のものと考える。
今の私に必要なのは、「流水」、つまり「日々の緊張感」。
これが止ったら、……というか、そのあと私はどう生きていけばよいのか。
その先が見えない。
まったく見えない。
肉体だけではない。
精神そのものも、ボロボロになってしまう。

 だから生きていくしかない。
仕事をやめるわけにはいかない。
書くのをやめるわけにはいかない。
それが「生かされている」という思いにつながっている。

●二男

 ふと、二男はどうしているだろうと思う。
息子は3人いるが、私がいちばん気にかけたのは、二男だった。
好きだった。
私なりに愛情を、いちばんかけた。
そのこともあるのだろう。
以前、近くのパソコンショップに、MKさんという店員がいた。
歩き方、話し方が、二男にそっくりだった。
もちろん顔つきまで、そっくりだった。
そのこともあって、私とワイフは、いつもその店に行くのが楽しみだった。
MKさんい会うたびに、「よく似ている」と笑いあった。
もちろんそのことは、その店員には言わなかった。

 かわりに、多少値段が高くても、パソコンや関連商品は、その店で買った。
すべてMKさんを通して買った。
MKさんも、私たちによくしてくれた。

 が、MKさんは、そのうち別の店に転勤になってしまった。
そのつど、「今、MKさんは、どちらに?」が、その店でのあいさつ言葉になってしまった。
さみしかった。
わざわざ会いに行こうかと考えたこともある。

 ・・・と、まあ、そんな話を、食事のときワイフとした。
「MKさんは、どの店にいるのかなあ」
「一度、聞いてみたら・・・」と。

 そのときふと、あの正田氏のことを思い出した。
現在の美智子皇后陛下の故父君である。
あるときその正田氏に、食事をしながら、こう聞いたことがある。

「正田さんは、どうしてぼくを(留学生に)選んでくれたのですか?」と。
正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。
「浩司の『浩(ひろ)』が同じだろ」と。

 私はそのときは、「ナーンダ、そんなことで」と思った。
が、今になってみると、そのときの正田氏の気持ちがよくわかる。

そしてしばらく間をおいて、正田氏はこう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 それについて書いた原稿がある(中日新聞掲載済み)。
正田氏が亡くなる前に書いた原稿である。

++++++++++++++++

「最高の教育」について書いた
原稿です。

++++++++++++++++

最高の教育とは【15】

●私はとんでもない世界に!

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。現在の皇后陛下の父君。こ
のことは前にも書いた。そしてその正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本Y氏だっ
た。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いていた。

 私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委
員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くたび
に、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。そんなある日、私は正田氏に、「どうし
て私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたことがある。

 正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩(ひろ)』が
同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。このことも前に書いたことだが、
私が寝泊まりをすることになったメルボルン大学のインターナショナルハウスは、各国の王族
や皇族の子弟ばかり。

 私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣
の息子などなど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕
食を共にした。

 首相や元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。ときどき
各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあった。東京大学
から来ていた田丸先生(二〇〇〇年度日本学士院賞受賞)もいたし、井口領事が、よど号ハイ
ジャック事件(七〇年三月)で北朝鮮へ人質となって行った山村運輸政務次官を連れてきたこ
ともある。山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンへ来ていた。

 が、「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしている
ことすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思
ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一
度だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

●落ちていた五〇セント硬貨 

 ハウスの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあっ
た。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。だれかが
落としたものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。

 当時の五〇セントは、今の貨幣価値で八〇〇円くらい。もって行こうと思えば、だれにでもで
きた。しかしそのコインは、次の日も、また次の日も、そこにあった。四日後も、五日後もそこに
あった。私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そ
のときのことだ。私は「最高の教育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松
市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いて
いるという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも私を支え、
救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。

 私は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だった
が、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの五〇セント硬貨のおかげ
だった。私はあの五〇セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きることがで
きた。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 最高の教育 最高の教育とは 正田英三郎)


 Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●『ファミリス』(子育てQ&A)静岡県教育委員会発行雑誌(全教育機関配布)

 静岡県教育委員会の発行している雑誌に、『ファミリス』という雑誌がある。
各県で、それぞれの雑誌を発行しているが、その中でもこの雑誌は、群を抜いて
充実している。
編集者の意気込みというか、本気度が、1ページごとにぎっしりと詰まっている。

 大手の出版社は、つぎつぎとこの分野からの撤退をしている。
「教育の総合雑誌は売れない」が、定説になって久しい。
それだけに『ファミリス』の存在は、光る。

 その『ファミリス』と私のつきあいは、もう10年以上になる。
ときどき原稿を書かせてもらっている。
今は、巻末の『子育てQ&A』。
雑誌の世界のことはよく知らないが、HPでは、Q&Aコーナーへのアクセスが
いちばん多い。

 そのQ&Aの原稿を、おととい書きあげた。
2011年1月号用の原稿である。
短い原稿だが、私にとっては、真剣勝負。
まさに真剣勝負。

 静岡県では学校配布となっている。
職員室もしくはそういった場所に、置いてある。
ぜひ、一度、手にとって読んでみてほしい。

++++++++++++++++++++++++++

 以下、今までに書いた原稿を、掲載します。
私の真剣みを感じていただければ、うれしいです。
『ファミリス』の購読申し込みは、各学校の
担任の先生に。

++++++++++++++++++++++++++

●1月号事例

相談(1)小学2年生の母から

 子どもがまだ幼児のころに離婚したのですが、離婚したことを子どもに話すタイミングはいつ
がいいのか悩んでいます。
「離婚は、あなたが原因ではないよ」ということを伝えたくて、それとなく話すこともあるのです
が、具体的なことを話すのは、子どもがはっきり聞いてくるまで待つのがいいか、早い時期に
話しておく方がいいのか、どちらがいいのでしょう。


A:今どき「離婚」など、珍しくも何ともありません。くだらない罪悪感など、捨てなさい。バカげて
います。子どもにいちいち理由など、話す必要もありません。いわんや子どもに、「原因はあな
たではないよ」とは! あなたはあなたで、前向きに、明るくさわやかに生きていけばよいので
す。
 ただし聞かれたときは、ありのままを正直に話します。事実だけを話し、それですませます。
父親の悪口、愚痴、自分の正当化は、タブー。あとの判断は、子どもに任せます。
 それよりも大切なことは、父性欠如による、子どもの心のゆがみを、どう防止するか、です。
『母親は子どもを産み育てるが、狩りの仕方を教えるのは父親』(イギリスの教育格言)です。
(1)母子関係の是正と、(2)行動の限界設定を、だれにどのような形で負担してもらうか、で
す。子どもの近くに、「父親」と見立てられるような男性を置くのがよいでしょう。先生やおじ、近
所の男性など。子どもはそういう男性を通して、「父親像」を身につけていきます。けっして、ベ
タベタの母子関係に溺れてしまってはいけません。
 繰り返しになりますが、あなたが罪悪感をもてばもつほど、子どもの心に暗い影を落とすこと
になります。あなたは何も悪いことをしていません。今のあなたにとって大切なことは、『我らが
目的は成功することではない。失敗にめげず、前に進むこと』(スティーブンソン・「宝島」の著
者)です。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)小学3年生の父から

 うちの長男は、体重が増えることをすごく気にします。身長はあるのですが、体の線が細いの
で、運動もやっているから、もっと食べるようにと言うと、「太るから……」と言ったりします。
 また参観会や運動会などでは、たいてい女の子グループに男の子1人だったり、男の子グル
ープから外れて、女の子グループの方に座っています。太ることを気にするのは、女の子と仲
がいいから? それとも……? 心配です。


A:かなり回りくどい質問ですね。要するに、末尾の「それとも……?」が心配なわけですね。そ
ういうあなたにアドバイスできることは、ただひとつ。『許して、忘れる』です。英語では、「For・
give & For・get」と言います。
 この英語をよく見てください。「与えるため&得るため」とも読めます。つまり「子どもに愛を与
えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」という意味です。つまりどうであれ、またど
ういう方向に進もうとも、子どもは子ども。あなたの子ども。許して忘れる。その度量の深さこそ
が、愛の深さということになります。
 あとは自然の流れに任せます。水にせよ、雲にせよ、流れていくところに流れていきます。親
のあなたでも、できることには限界があるということです。もちろんだからといって、あなたの子
どもが、「それとも……?」に向かっているということではありません。この時期、ホルモン分泌
においては、男女、ほとんど差異がありません。私も小学3年生のとき、人形を抱いて寝ていま
した。思春期になると、また大きく変化してきます。今しばらく、様子を見られたらどうでしょう
か。
 で、「それとも……?」という状態になったら、この言葉を思い出してください。『許して、忘れ
る』です。人は子どもをもつことで親になりますが、「真の親」になるのはたいへんなことです。
その道は険しく、苦しい。あなたはその第一歩を踏み出したというわけです。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●12月号事例

相談(1)小学3年生の父から

 長男は小学3年生で9歳、二男は保育園の年中で5歳です。
このごろ、寄ると触るとけんかになり、「お兄ちゃんがたたいた!」「○○先にけるからじゃー
ん!」となります。だいたいは長男の方をいさめて、「弟をたたいちゃだめ」としかるのですが、
これでいいのでしょうか? 上手な対応のしかたを教えてください。


A:『けんかする兄弟ほど、仲がいい』といいます。兄弟げんかも、ある一定のワクの中、たとえ
ば親の前で、祭りのようにするのであれば、親はよき聞き役に徹します。判断をくだしたり、罰
を与えたりしてはいけません。ただひたすら、聞き役に徹します。
 つまるところ子育ては、「自分探し」です。わかりやすく言えば、あなたは、あなた自身が受け
た子育てを繰り返しているだけです。「私は私の親とはちがう」と思っているかもしれませんが、
中身は同じです。これを心理学の世界では、「世代連鎖」と言います。
 常にあなた自身は、子どものころどうであったかを問いかけてみてください。あなたも子ども
のころ、つらい思いや悲しい思いをしたことがあったはず。そういうときあなたは、あなたの親
にどうあってほしかったでしょうか。どう接してほしかったでしょうか。それをさぐっていけば、あ
なたの子どもへの接し方が、自然と定まっていきます。
 いつか私は『兄弟げんかは親の前』という格言を考えました。言い換えると親の前でしている
ようなら、心配しなくてよいということです。無視して、したいようにさせておきなさい。
 ただし一言。「お兄ちゃんだから・・・」という『ダカラ論』には、注意。問答無用式に相手を押さ
えつけるときに、よく使われます。上下意識が強く、権威主義的なものの考え方をする人ほど、
この言葉をよく口にします。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)中学2年生の父から

 勉強もせず部活も熱心にやっているわけではない二男が、「料理人になりたいから、高校へ
は行かない」と言い出しました。
 それ以来、夕食の手伝いや自分で料理をしてみたりしていますが、いつまで続くやら・・・。
「バカ言っていないで高校へ行け!」と頭ごなしに反対した方がいいか、「やってみな」と後押し
した方がいいか、どっちでしょうか?


A:親の思うようにならないのが、子育て。私の二男も中学2年生のとき、勉強を放棄。以来パ
ソコンと遊んでばかりいました。三男は横浜国大をセンター試験2位の成績で入学はしたもの
の、3年になるとき中退。 
 私も三井物産という会社をやめ、幼稚園の講師になると言ったとき、母は電話口の向こうで
泣き崩れてしまいました。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と。
 以来、私は、外の世界では自分の職業を隠し、内の世界では、自分のキャリアを隠しまし
た。が、もしあのとき、母だけでも私を支えてくれていたら、その後の私の人生は大きく変わっ
ただろうと思います。
 今のあなたにとって大切なことは、子どもを信ずること。子どもがどんな選択をしても、子ども
を支えること。「パパは、お前を信じている。お前の行くべき道を進め。どんなことがあっても、
応援する」と。
 中学2年生と言えば、自我の同一性を確立する重要な時期です。今、あなたが頭ごなしに反
対すれば、あなたの息子の自我はバラバラになってしまうでしょう。それはたいへん危険なこと
です。注意してください。
 なお私の二男は現在、インディアナ州立大学に籍を置き、CERN(スイス量子加速研究所)
のスパコン技術官をしています。三男はJALで副機長(B777)をしています。
 子どもを信ずることは、たいへん苦しいことです。その苦しさは、私も経験しました。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●11月号相談事例

相談(1)小学2年生の母から

 三女が生まれたばかりで手がかかり、上の子にかける時間が減ったためか、長女と二女の
けんかが増えているような気がします。そんなときは、つい長女をしかってしまいます。
 長女は物わかりもよく、親としても頼りにしている面があり、長女ばかりしかってしまうことが
申し訳ない気がします。やはり気持ちを切り替えて、しからないほうがいいのでしょうか?


A:長女はいい子ぶっているだけ。本当は下の妹たちが憎くてならないのですが、それを表に
出すと、自分の立場がなくなってしまう。だから仮面(ペルソナ)をかぶる。こういうのを心理学
の世界では、「反動形成」といいます。たいへんよくあるケースです。「物わかりもよく…」などと
思っていると、ますます長女を追い込んでしまうことになりかねません。一度、イプセンの『人形
の家』を読んでみたらよいでしょう。
 結論から先に言えば、長女と二女は、慢性的な愛情飢餓状態にあると考えてください。あな
たという親から見れば、3人を平等に育てているつもりかもしれませんが、長女にしてみれば、
3分の1に減らされてしまった。そういう状態です。
 で、こういうケースのばあい、『ダカラ論』を振り回してはいけません。「あなたは長女だから
…」と。あなた自身も親意識(=上下意識)が強く、子どもを上下に分けて考える傾向がありま
す。つまり長女をしかりやすいというのは、あくまでもその結果と考えてください。
 これは一般論ですが、兄弟姉妹がたがいに名前で呼び合う兄弟姉妹は仲がよく、「お兄ちゃ
ん」「お姉ちゃん」と上下意識をもって呼び合う兄弟姉妹は、仲が悪くなる傾向があります。そう
いうことも考えながら、まずあなたの心の中に潜む上下意識を消すこと。しかる・しからない
は、そのあとの問題です。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)中学3年生の父から

 いよいよ長男が受験の年ということで、夫婦共々肩に力が入ってしまうのか、さ細なことも受
験に結びつけてしまい、あれこれと口を出してしまいます。
 自分が中3のときにどうだったか考えれば、そっと見守るのがいちばんだとはわかっている
のですが……。受験期の親はどうあるべきか? アドバイスをください。


A:ある父親は事業に失敗。そこで高校生になった娘に、「大学進学はあきらめてくれ」と。が、
この言葉に娘は猛反発。「ちゃんと親としての責任を取れ!」と。
そこで私が割って入ると、その娘はこう言いました。「私は子どものときから勉強しろ、勉強しろ
と、そんなことばかり言われてきた。それを今になって、あきらめてくれと、どうしてそんなことが
言えるの!」と。
 内閣府(平成21年)の調査によれば、「将来、どんなことをしてでも親のめんどうをみる」と考
えている日本の青年は、たったの28%(イギリス66%、アメリカ64%)。
 そこで本題。子育てが終わると同時にやってくるのが、老後。今のあなたは「下」ばかり見て
いるから、自分の老後がわからない。長男の受験の心配より、自分の老後の心配をしなさい。
へたに「勉強しろ!」「塾へ行け」などと言おうものなら、あとあと責任を取らされますよ。しかも
一度大学生として都会へ出すと、まず地元には戻ってこない。中には「親のために大学へ行っ
てやる」と豪語する高校生すらいます。感謝の「カ」の字もない。
あとは(独居老人)→(孤独死)。今のままでは、あなたもそうなります。そこで教訓。長男が、
「大学(高校)へ行かせてください」と3度頭をさげるまで、学費など出さないこと。口も出さない
こと。…というのは無理かもしれませんが、そうしたき然とした姿勢が、かえって親子の絆を太く
します。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●10月号相談事例

相談(1)中学1年生の母から

 中学で初めてのテストで思うような結果が出ず、すっかりやる気を失った息子に、「目標があ
ったからがっかりするんだよ。目標に近づけるようにがんばろう!」と話したところ、「直前に詰
め込むのでなく、毎日がんばるぞ!」と言ってくれたのもつかの間、次の日にはやっぱりお楽し
みが先になって、お勉強は忘れられ……。子どものやる気を長続きさせるよい方法は、何かな
いでしょうか。
(静岡市・HA)


A:『親は海。子どもは船』。こういうときの鉄則は、動揺しないこと。親が動揺すればするほど、
子どもは不安定になり、落ち着いて勉強に集中できなくなります。目標といってもこのケースの
ばあい、それは親の目標であって、子どもの目標ではないということ。親の目標を子どもに押し
つけてはいけません。「目標」という言葉を使って、あなたは子どもを自分が望む方向に誘導し
ているだけ。
 中1といえば、すでに思春期。『自我の同一性』の構築を始める大変重要な時期です。子ども
がどういう未来像を描いているか(=自己概念)を知り、それを側面から応援していきます。
が、たいていのばあい子どもの描く未来像は、親の希望とはちがったものです。そのためこの
先、親子の間で長くて苦しい葛藤がつづきます。つまり子どもは親の夢や希望をひとつずつ潰
しながら、成長していきます。それともあなた自身は、親の希望通りの「娘」になりましたか。
で、第二の鉄則は、『最後まで子どもを信ずる』です。子どもがどんな道を選ぼうとも、あなたは
子どもを信じます。そして子どもにはこう言います。「お母さんは、あなたがどんな道を選んで
も、あなたを信じていますからね」と。
 子どもはこうして現実の自分を作り上げていく。つまり自我の同一性を確立していきます。や
る気(自発的行動)はあくまでもその結果として生まれるものです。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
相談(2)小学2年生の母から

 毎日、学校から帰ってすぐ遊びに来る子に悩んでいます。遊ぶなら宿題を終えてからにさせ
たいので、その子と宿題を一緒にさせたり、遊びに来るなら一時間くらい後に来てほしいとその
子に伝えたこともありますが、わかってくれていないようです。
 親御さんは仕事で遅いらしく、なかなか連絡がしにくいです。いい方法はないでしょうか。
(浜松市・MH)


A:夜、寝る前になってあなたの子どもが、宿題をやっていないと言ったら、あなたはどうします
か。(1)いっしょに宿題を片づけてやる。(2)「明日、学校で先生に叱られてきなさい」と言っ
て、寝させる。
 「自由」とは、もともと「自らに由(よ)る」という意味です。子育てについて言えば、「由らせ
る」。「自分で考えさせ」「自分で行動させ」「自分で責任をとらせる」です。その自由が子どもを
自立させます。
こういうケースのばあい、言うべきことは言い、あとの判断は子どもに任せます。小2といえば、
その自覚のある子どもは、どんなに忙しくても時間を見つけ、宿題(勉強)をします。そうでない
子どもは、いくら親がお膳立てをしても、つまり時間を作ってあげても、宿題をしません。仮に相
手の子どもが1時間あとに遊びに来るようになっても、宿題はしないでしょう。相手の子どもの
親に相談しても、無駄です。そういう点では、あなたの家庭教育はすでに失敗しています(失
礼!)。自分の子どもが宿題(勉強)をしないことを、相手の子どものせいにしてはいけません。
 過保護ママと依存性ベタベタの子ども。この相談の向こうに見えるのは、そんな母子関係で
す。それを是正するためには、心を鬼にして、先の(2)のような親をめざしてください。子どもは
小3前後を境に、急速に親離れを始めます。今のあなたにとって大切なことは、「いかにうまく
子離れするか」です。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●9月号相談事例

相談(1)小学2年生の父から
 小学2年生の息子に「目標に向かってがんばれる力をつけたい」という思いから、小3の誕生
日までにクリアできそうな課題を設けてがんばらせようかと思っています。課題をクリアできれ
ば、ごほうびは何でも欲しい物を買ってあげるつもりです。
 でも妻から、「ごほうびがないとやる気が出ない子にならない?」と言われて、止めた方がい
いかと迷っています。こういうやり方は、いけないのでしょうか?


A:完全に的はずれです(失礼!)。動機付けの三悪に、無理、比較、条件があります。「課題
をクリアできれば…」は、この中の条件ということになります。よくあるのは、「100点を取った
ら、小遣いをあげる」というもの。
 条件のこわいところは、年齢とともにエスカレートしやすいこと。小学生のときは、1000円の
ほうびでも、高校生になると、10万円になります。
 さらに進むと、条件なしでは、何もしなくなります。物欲と結びつくと、さらにやっかいなことに
なります。それが必要だから、それを求めるのではなく、物欲を満足させるために、それを求
めるようになります。脳の中で、ニコチン中毒と同じようなメカニズムが働くようになります。
で、問題は「課題」の中身ということになります。もしそれが個人的なものであれば、「自分のた
めにする」を徹します。勉強であれば、なおさらです。「勉強は自分のために、自分でするもの」
と。 
 大切なのは、達成感です。「できた!」という実感が、子どもを前向きに引っ張っていきます。
「何でも欲しい物を買ってあげる」? 愚かな育児観は捨てなさい(失礼!)。あのバートランド・
ラッセルは、こう書いています。『限度をわきまえた親のみが、真の家族の喜びを与えられる』
と。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)小学4年生の父から

 小学4年生の長男のことで相談します。
 私の仕事が忙しく、なかなか相手をしてやれないまま過ごしてしまったのがいけなかったの
か、遊びといえばひとりでゲームばかり、友達と遊んだり外に遊びに行ったりしません。
 先日、「外で遊ばないの?」と聞いたところ、「外で何して遊べばいいの?」と返されて、がく然
としました。このまま、集団で遊ぶ経験もなく成長すると、どんな子になってしまうか不安です。
今からできることは、何かないでしょうか?


A:(相手をしてやらなかった)から(ゲームばかりする)と、短絡的に結びつけて考える必要は
ありません。あなたは父親として、じゅうぶん、その責任を果たしています。たしかに最近の子
どもは、集団で遊ぶということをしません。が、こうした傾向はすでに20年以上も前から始まっ
ていることです。
 で、どんな子どもになるかですが、すでにあなたの子どもは大きな流れの中にいます。その
流れの中で、子どもたちはつぎの世界を創りあげていきます。その流れに対しては、私もあな
たも、無力でしかありません。あえて言うなら、つぎの格言が役に立つでしょう。『子どもを産み
育てるのは母親の役目。狩の仕方を教えるのは父親の役目』(イギリスの教育格言)と。
 つまり社会性の養成と、母子関係の是正。この2つがこの時期の父親に与えられた重要な
使命と考えてください。
 なおゲームについてですが、韓国や中国では、ゲーム中毒が問題にならない日がありませ
ん。そのための矯正プログラムや矯正施設もできています。が、この日本では、野放し。ゲー
ムを批判しただけで、猛烈な抗議の嵐にさらされます。私自身も経験しています。
 ゲームを許すにしても、ある程度の自制は必要です。時間を決めてさせるとか、ゲームの内
容を決めるとかなど。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●8月号相談事例

相談(1)小学2年生の母から

 小学2年生の三男は、1年生ときから、「最後までやり遂げようという意志は認めますが、行
動がほかの子に遅れがち」と、担任の先生に面談で言われます。では、実際にどうしたら早く
行動できるようになるのか知りたいです。
 3人兄弟の末っ子で、とてもマイペースな子になってしまったようで、親としてもどうしていいの
かわかりません。


A:『欠点を見つけたら、ほめる』です。子どもには、こう言います。「最近、あなたは早くできるよ
うになったわね。先生も、ほめてくれたわよ」と。欠点を責めれば責めるほど、子どもは自信を
なくします。それが悪循環となって、子どもはますますあなたの望むのとは、別の方向に進んで
しまいます。
 また子どもに何か問題を見つけたら、『子どもは家族の代表』と考えます。子どもの問題は、
家族の問題ということです。先生はたぶん、子どもの緩慢行動を言ったのだと思います。が、こ
ういうケースのばあい、まず疑ってみるべきは、あなた、つまり母親の育児姿勢です。子どもが
生まれたときから、何かにつけ、母親がせっかちで、こまごまとうるさいことを言い過ぎた? 
「早く、早く」を言い過ぎた? 「根」が深い分だけ、簡単にはなおらない。…と考えて、「うちの子
は、まあ、こんなもの」と、子どもの特性を認め、あとはあきらめます。『あきらめは悟りの境地』
です。子どもというのは、親がカリカリしているときは、伸びません。が、親があきらめたとた
ん、伸び始めます。子ども自身の心が軽くなるからです。
 どうにもならない問題は、どうにもならない。今は、先生とのリズムが合っていない程度に考
え、あまり深刻に悩まないこと。小学3年生以上になり、自己管理能力が発達してくると、この
種の問題は、自然と解消していきます。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)小学6年生の母から

 小学6年生になった息子は、自己主張が強くなり、親としてうれしい半面、自分が興味をもて
ないこと、(たとえば苦手な教科の復習など)は、頑としてやりません。
「本人の好きなこと、得意なところを伸ばしてやるとよい」とよくアドバイスされますが、6年生の
今からこんなことでは、この先どうなるのだろうと悩みます。


A:「この先どうなるだろう」ということですが、何も変わりません。5年後も、10年後も、今のま
まです。あるいはあなたはいったい、あなたの子どもを、どうしたいのですか。相談を一読し
て、そこに子離れできない母親の姿を想像してしまいました(失礼!)。
 『本人の好きなこと、得意なところを伸ばして…』は、家庭教育の大原則です。ひとつが伸び
ると、その相乗効果で、ほかの部分(科目)も伸びてきます。大切なことは、子どもに一芸をも
たせること。「これだけは人には負けない」というのが、一芸です。その一芸が子どもの心を支
え、守ります。将来の職業につながることもあります。
 また6年生という年齢からして、いよいよ自我の同一性の確立の時期に入ったと考えてくださ
い。「自分はこうあるべきだ」という自己概念と、現実の自分を一致させる時期です。その構築
に失敗すると、心は無防備状態になり、精神的に軟弱な子どもになってしまいます。非行にも
走りやすくなります。
 また「苦手な科目」というのは、「点数が低い科目」ということでしょうか。もしそうなら、その判
断は、子どもに任せなさい。親があれこれ言っても、かえって逆効果です。
 子どもというのは、親の夢を一つ一つつぶしながら、成長していくものです。それがわかなけ
れば、あなた自身を振り返ってみることです。あなた自身は、優等生だったでしょうか。答は、
「NO!」のはずです。
 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●7月号相談(Q&A)

相談(1)小学4年生の母から

 最近わが子の親に対する話し方が気になります。たとえば、私が何か「こうしなさい」と注意す
ると、「そんな法律がどこにあるの?」などと言ってくるので、ついつい怒ってしまうこともしばし
ば……。
 これは反抗期なのでしょうか?


A:思春期最大のテーマは、「同一性の確立」(エリクソン)です。(私はこうでありたい)という理
想の自己像と、(現実の私)、つまり現実自己を、一致させようとします。一致した状態を「自我
の同一性」と言います。その第一歩が、おとなの優位性の打破です。それが「思春期の反抗」
と考えてください。
 (悪態)もそのひとつ。「そんな法律がどこにあるの?」と。それを許せということではありませ
ん。それができないほどまでに、子どもを抑えてはいけないということです。カリカリするのはし
かたないとしても、「ああ、うちの子は、今、児童期から青年期へと、脱皮を始めているのだ」
と、一歩退いて子どもを見ます。
 この時期、親意識(とくに「親に向かって何よ!」式の悪玉親意識)が強すぎると、子どもは親
の前では仮面をかぶるようになります。自我の確立に失敗し、非行に走ったり、親子の間にキ
レツが入り、親子が断絶するケースも目立ちます。最悪のばあいには、自我の崩壊……。ナヨ
ナヨとした軟弱な人間になることもあります。
 親には3つの役目があります。(1)ガイドとして子どもの前に立つ。(2)保護者として子どもの
うしろに立つ。そして3番目が重要ですが、(3)友として子どもの横に立つ、です。
 悪玉親意識を捨て、子どもの友になるつもりで、子どもの横に立ってみてください。とたん、肩
の荷が軽くなりますよ。
 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)小学4年生と小学1年生の母から

 長男への接し方で悩んでいます。長男にはどうしても小言を言う機会が多く、下の子は女の
子で要領がよく、注意された長男をからかって、長男を怒らせます。それを見て私が怒る……
の悪循環で、ときどきそんな雰囲気で日々を過ごしている長男がかわいそうになります。
 長男への接し方を変えるアドバイスはないでしょうか。


A:長男、長女に対しては、どうしても不安先行型の子育てになりがちです。「何をしても、不安」
と。それが過干渉になったり、過関心に転じたりします。度を越すと、子どもの心が萎縮した
り、反対に粗放化することもあります。
 あなただけではありません。ほとんどの親がそうです。が、そのリズムは、妊娠したときから
始まっています。つまり「根」が深いということ。そういう思考回路が、あなたの脳の中にできあ
がってしまっています。そのためそのリズムを変えるのは、ほぼ不可能と考えてください。で
は、どうするか?
 (1)そういう自分であると知って、仲よくつきあうこと。(2)「あなたはいい子」を口癖にし、あな
た自身の心を作り変えること。
 長男の顔や姿を見たら、本人にはもちろん、父親や長女の前で、題目のようにその言葉を繰
り返してみてください。3〜4か月もすると、(それでも早いほうですが……)、あなたは自然な口
調で、それが言えるようになります。そのとき、あなたが今、心配している問題は解決します。
 大切なことは、「子どもを直そう」と思わないこと。「今より状態を悪くしないこと」。それだけを
考えて対処します。この種の問題には、二番底、三番底があります。親は、自分の子どもがよ
り悪くなって、それ以前の状態が、まだよかったことを知ります。それが「悪循環」と言われるも
のです。
 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●5・6月号相談事例

相談(1)小学3年生の母から

 小学3年生になると、友達関係でいろいろあるとは先生から聞いていたのですが、早速わが
子のカラーペンが一式なくなってしまい、とても心配しました。
 悪意からではなく、いたずらかもしれませんが、こういうときは、ただ見守るしかないのでしょ
うか? それとも、担任の先生に相談した方がいいのでしょうか?
(焼津市・A)


A:鉄則はただひとつ。『友を責めるな、行為を責めよ』(イギリスの教育格言)です。担任の先
生にこうした事案は、遠慮なく報告したらよいでしょう。しかしそのとき、事実だけを客観的に話
し、特定の子どもの名前を出したり、批判したりしてはいけません。自分の判断を加えていけま
せん。「事実」だけを話します。あとの判断、対処の仕方はプロの先生に任せます。
 もし相手の子どもの名前がわかっていたら、逆にその子どもをほめてみます。「あの子はい
い子ね」と。あなたの家に招待するのもよいでしょう。あなたがその子どもと友だちになるつもり
で、間に入ります。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい子を演じようとしま
す。逆にそうした性質を利用して、その子どもを、よい友だちに作り変えてしまいます。
 日本でも昔から『魚心あれば、水心』といいますね。英語にも、『相手は、あなたの思うよう
に、あなたのことを思う』というのがあります。心理学の世界では、これを「好意の返報性」とい
います。あなたがその子どもをよい子と思っていると、そうした心は、あなたの子どもを介して
かならず、相手の子どもに伝わります。
 大切なことは、あなたの子どもが気持ちよく、楽しく通学することです。負けるところは負け、
妥協するところは妥協します。けっしてカリカリしてはいけません。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(2)小学5年生の母から

 わが子のクラスで「いじめがある」とか「騒ぐ子がいて担任の先生が困っている」などという話
を子どもから聞き、親として心配がふくらんでいます。子どもの話だけで判断するよりは、懇談
会などで直接聞く方がいいと思うのですが、聞き方が難しそうです。
親の心配を伝え、なおかつ先生批判にとられない聞き方は、どうすればいいでしょうか?
(藤枝市・Y)


A:この程度の問題で、動揺しないこと。いじめのない学級はありません。困っていない先生な
ど、い・ま・せ・ん。もし心配なら、1、2年、年上の子どもをもつ父母に相談してみることです。で
きれば、別の学校の父母に、相談します。たいてい「うちもそうでしたよ」というような回答をもら
って、その場で問題は解決するはずです。
 が、鉄則があります。どんなばあいも、子どもの前で、学校や先生の批判をしたり、悪口を言
ってはいけません。子どもの前では、「あなたの学校はすばらしい」「あの先生は、最高!」と言
います。
 もしあなたが学校や先生を批判したり、さらに悪口を言ったりすると、あなたの子どもは先生
の指示に従わなくなります。これを心理学の世界では、「三角関係」といいます。わかりやすく
言えば、子どもが「二重拘束」の状態に置かれるということです。子ども自身が、糸の切れた凧
のようになってしまいます。
 教育で何が大切かといって、先生との信頼関係ほど、大切なものはありません。信頼関係が
なければ、教育そのものが、崩壊します。その信頼関係は、向こうからやってくるものではあり
ません。親であるあなた自身が、努力で作るものです。
 なお相談といっても、同じクラスの父母に相談するのは、避けてください。あなたの話しが曲
解され、たまにおおげさになることがあります。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

相談(3)小学4年生と小学1年生の母から

 長男への接し方で悩んでいます。長男にはどうしても小言を言う機会が多く、下の子は女の
子で要領がよく、注意された長男をからかって長男を怒らせます。それを見て私が怒る……の
悪循環で、ときどきそんな雰囲気で日々を過ごしている長男がかわいそうになります。
長男への接し方を変えるアドバイスはないでしょうか?
(静岡市・K)


A:心配先行型、不信先行型の子育てがリズムになっています。何をしても、否定的にとらえて
しまう。それに(下の子)との比較も、日常化しているようですね。これは、ま・ず・い!
 子育てをしていて、「悪循環」を感じたら、思い切って、引きます。つまりあきらめます。子育て
の世界では、『あきらめは、悟りの境地』といいます。(私が考えた格言ですが…。)「どうにでも
なれ!」と、一歩退きますが、だからといって、無視したり、冷淡になれということではありませ
ん。
 愛情でくるんだ、「暖かい無視」です。で、ここが重要ですが、「求めてきたときが与えどき」と
心がけます。長男が助けを求めてきたときは、すかさず、(すかさずです)、それに応じてあげ
ます。そしてあとは、最初はうそでもいいですから、「あなたはいい子」を口ぐせにします。
 何か月も言いつづけていると、やがてあなたの子どもは、あなたの口ぐせどおりの子どもにな
ります。つまりこうしてあなた自身の子育てのリズムを作りかえます。
 また(条件)(比較)(無理)は、子育ての3悪です。「勉強したら、〜〜を買ってあげる」(条
件)、「妹は〜〜なのに…」(比較)、それに能力を超えた期待をかける(無理)は、タブーです。
 長男は長男、妹は妹。ともに長所だけを見て、それですませます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 離婚 離婚問題 母親の離婚 子どもへの対処法 はやし浩司 我らが目的は 
成功することではなく 失敗にめげず前に進むこと 許して忘れる はやし浩司 forgive and 
forget forgive& forget for・give & for・get はやし浩司 兄弟げんか 子どもの喧嘩 子どもの
進路 長男 長女 接し方 はやし浩司 思春期の子ども 子供 ゲームづけの子供 父親の
役割 母子関係の是正 子供は家族の代表 子どもは家族の代表 ファミリス Q&A 静岡
県教育委員会発行雑誌 はやし浩司 子どもの苦手な科目 苦手な勉強 いじめ はやし浩
司 いじめの対処 あきらめは悟りの境地)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司※

はやし浩司 2010−11−20

●映画『ヤギと男と男と壁と』(超能力者部隊)

++++++++++++++++

昨夜遅く、『ヤギと男と男と壁と』
という長いタイトルの映画を観てきた。
タイトルが独創的。
どんな映画かと、前もって案内を
読むと、「実話をもとにした」とある。

言うなれば、超能力者部隊。
ESP(エスパー)部隊。
ESPというのは、「Extrasensory Perseption
(超感覚的知覚)」の略。
それを映画化した。

随所で思わずゲラゲラ笑ってしまった。
そういう点では、星は3つの、★★★。
アメリカ軍もかつては、ああいうバカ
げた部隊を創設したらしい。
ソ連に対抗したという。
大マジメなところが、笑えた。

++++++++++++++++

●FBI超能力捜査官

 ときどき超能力者を名乗る外国人が、日本へやってきて荒稼ぎして帰る。
中には「FBI超能力捜査官」の肩書きをもつ人物もいる。
本当にそういう能力があるかどうかという話は別にして、……というより
そんな能力があるわけないが、「FBI超能力捜査官」というのは、まっかな
ウソ……らしい。
「FBI超能力捜査官」という名称も、どうやら日本のテレビ局がねつ造した
もの……らしい。
確かめたくても、確かめようがない。
それにそういう話は、映画の中での話。
映画の中だけの話。
たとえば失踪人の持ち物の一部に手を触れただけで、その居場所がわかるとか?
常識で考えれば、そんなこと、わかるわけがない。
バ〜カ!

 が、そういう力の存在を信じ、アメリカでは、(もちろんソ連でも)、そういう能力(?)
をもった人を集めて、部隊を作った。
それがこの映画の「柱」になっている。

●超能力

 超能力(preternatural power)といっても、いろいろある。

telekinetic power念動
mental telepathyテレパシー
clairvoyance 透視
prescience 未来予知
それに
extrasensory perception ESP。

 そういう力のある人のことを、「エスパー」という。
が、この世界、(存在すること)を証明するよりも、(存在しないこと)を証明する
ことのほうが、はるかにむずかしい。
数学の問題にしても、そうだ。

 証明できる問題を証明するのは、簡単。
が、その問題が解けないことを証明するのは、たいへんむずかしい。
たとえば超能力があるかどうかは、その力を示せば、それで証明できる。
しかしそういう「力」がないことを証明するのは、事実上、不可能。
そういう盲点をついて、この手の詐欺師が、(「詐欺師」と断言して差し支えないと
思うが)、跡を絶たない。

 ただまったく否定してよいかというと、そうとも言えない。
動物の世界には、人知を超えた、未知の能力をもったものが、いくらでもいる。
たいていは「方向」と「位置」に関する能力で、小さな蝶が、毎年、正確に、
アメリカ大陸を横断するとか、など。
イルカのように超音波を発信して、暗闇でも獲物を捕らえることができるものもいる。
しかしそれらは「科学」の領域に属する。
「科学的に未解明」というだけの話である。

 しかし超能力イコール、科学的に未解明ということではない。
つまり科学的に未解明だから、存在するということにはならない。

●手品

 35年ほど前、世界を騒がせた超能力者がいる。
当時、私はいくつかのテレビ局で、番組の企画を書いていた。
その関係で、その人物について、あるディレクターがこっそりと、こう教えてくれた。
「あれはね、歯の中に小さな受信機を入れているからできるんだよ」と。

 つまり仲間が外にいて、こっそりと情報を無線で送っている、と。
歯の中の受信機は、骨振動か何かで脳に伝わるため、外に音が漏れることはない。
つまり超能力とはまっかなウソ。
インチキ。
言うなれば、手品。
以来、私はこの手の「能力」には、懐疑的になってしまった。
つまり「インチキ」という前提で考えるようになってしまった。

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2005年の1月26日の電子マガジンで
私はこんな原稿を書いていた。

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●冗談? ジョーク?(2005年1月26日、NO.521)

 K国の国営放送提供の科学番組(?)なるものを見た(12・27)。たいへん、おもし
ろかった。その番組の中でのこと。

 「髪の毛の長い人は、バカになる。それは脳ミソに行き渡るべき栄養素が、髪の毛のほ
うに回ってしまうからである」

 「K国のP市周辺には、太古の昔、ブドウを食べて暮らしていた原人が住んでいた。そ
の原人が進化して、現在のK国人になった」

 「大麻の種には、良質の油がある。その油を抽出するために、K国は、大麻の栽培を奨
励している」などなど。

 番組の内容を思い出しながら書いているので、不正確だが、しかし私はこの番組を見な
がら、思わず、吹きだしてしまった(失礼!)。「これは冗談か、それともジョークか」と。
(冗談もジョークも同じようなものだが……。)

 しかしあの国には、国営放送局しかないはず。それに意見を述べている人たちも、見た
感じは、大まじめ。日本のバラエティ番組に感ずるような、あのいいかげんさは、感じら
れなかった(?)。とくに髪の毛の長い人は、バカになるという意見には、笑った。「じゃ
あ、女性は、みんなバカなのかねえ?」と。

 あまりにも幼稚な知的レベル。うわさには聞いていたが、ここまで低レベルとは!!

 ……と考えたが、こうした幼稚性は、この日本にも、ないわけではない。「髪の毛の長い
人はバカになる」という説は、「血液型による性格判定」の話に通ずる。「原人」の話は、「藤
Kの、石器ねつ造」の話に通ずる。また「大麻の種から油」の話は、少し飛躍するが、そ
の反対側にある化学万能主義につながる。環境ホルモンにくらべれば、大麻の油など、何
でもない。さらに最近の占いブームなどを見ていると、K国の科学性(2)を、笑うこと
はとてもできない。

で、その中でもよい例が、超能力をテーマにした番組。

 ときどき超能力犯罪捜査官というのが、テレビに出てくる。アメリカのFxx捜査官と
か何とか、もっともらしい肩書きをもっている人もいる。失踪者や事件に巻きこまれた人
のもちものなどを見て、その人がどこにいるかを当てたりする。まことしやかに、地図を
描いて見せたり、事件の概要を説明したりする。

 私もときどき見て、トリックを見破ってやろうと考えるが、今のところ、見破ることが
できない。実に巧みというか、うまいというか?

 そういう番組を見ていると、「髪の毛の長い人は、バカになる」という番組のほうが、ず
っとわかりやすい。罪がない。プラス、もしろい。子どもたちですら、ハハハと笑ってす
ますことができる。

 で、そうした超能力者(?)たちの能力だが、私が見たところ、1人とて、最後までき
ちんと失踪者を発見した人や、事件を解決した人はいない。話せば長くなるので、ここで
は省略するが、最後はいつも、「?」のまま終わる。当然である。

 もしそんなことで、失踪者の居場所や事件の概要がわかるようなら、私たちが今ここで
生きていること自体、意味がなくなってしまう。そうした番組を見る私たちに必要なこと
は、そういうあやしげな超能力に驚くことではなく、そのウラを検証することである。つ
まり、それが科学である。理性である。知性である。

 ……こういうことを書くと、猛反発が起きるかもしれない。すでにそうした超能力を信
じている人は多い。宗教教団のような団体を作って活動している人もいる。もちろん宗教
団体もある。

 私にはこれ以上のことはわからないが、K国の科学番組を見て、ハハハと笑うことなら、
だれにだってできる。しかしもっと重要なことは、他人を笑ったら、自分の中にもそれが
ないか、それを疑ってみることである。

 先日も、「アメリカ人の大学生のほとんどは、日本がどこにあるかさえ知らない」と笑っ
ていた人がいた。ならば聞くが、日本人の大学生で、ブルネイ・ダルサラーム国がどこに
あるか知っている大学生は、いったい、何%いるのか……ということになる。日本の三重
県ほどの小さな国だが、日本のすぐ近くにある。日本とのつながりも、深い。

 K国のその番組は、実に楽しい番組だった。久々に声を出して笑った。が、そのあと、
その番組には、いろいろと考えさせられた。昔からこの日本でも、こう言うではないか。『人
のフリみて、我がフリ直せ』と。ナルホド!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『ヤギと男と男と壁と』

 長いタイトルの映画だったが、要するに、「アメリカもバカなことをした」という
内容の映画だった。
それを国をあげて、大まじめで取り組んだ。
その(大まじめさ)が、おもしろかった。
笑った。

 ついでに一言。
映画に先立って、『ハリー・ポッター』の予告編が流された。
インチキのかたまりのような映画だが、あれは映画。
ただの娯楽映画。
映画館の中だけで楽しみ、それで終わる。
だから問題はない。

が、それがときとして、そのインチキが映画館の外に出る。
それがこわい。
こわいだけではすまない。
たいへん危険なことでもある。

 よい例が「スピリチュアル(霊)」。
「霊視」とか何とか。
某テレビ局が率先して、あやしげな商品を売っていたこともある。

 驚いたことに、昨年(09)だったか、「スピリチュアル育児本」なる本を出版した
人物もいた。
私は表紙しか見ていないが、非科学性もここまでくると、ジョーク。

 つまり映画『ヤギと男と男と壁と』も、そのジョークのひとつ。
ジョーク映画として観れば、楽しい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 超能力 超能力捜査官 FBI超能力捜査官 エスパー 超能力者)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●富士市にて

+++++++++++++

今日は富士市にて講演。
そのあと焼津に一泊。
SKホテルという旅館に泊まる。
「カニ食べ放題」という
バイキングコースを選んだ。
楽しみ。

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●焼津にて

 富士川駅から、島田行きに乗る。
焼津まで、約40分。
何度も行き来した路線だが、私にはいつも新鮮。
途中、ときどき海が見え隠れする。
それがよい。
開放感を覚える。

 私は山育ち。
それだけに海が好き。
魚が好き。
サシミだったら、毎日でもよい。
今日は、カニ食べ放題。
ズワイとタラバガニ。
食べ放題。
ははは。

●電車の中で

 今、この文章を、電車の中で書いている。
静岡駅からどさっと、多くの客が、乗り込んできた。
目の前には、20歳前後の女性が3人立っている。
ペチャペチャと何やら話している。

「……そういうのは、キズつくよね……」
「遅れる……。まあ、見たかった。ダンナさんがいるから」
「そうやなあ。レンタカー、借りてねえ……」と。

 私にはまったく意味のわからない会話がつづく。
 
 そのとき窓の外に海が見えた。
私は子どものように声をあげる。
焼津まであと数分。

 腹が減った!
講演のある日は、朝から食事を抜く。
眠い頭では講演はできない。
が、講演のあとは、しばらく食欲が消える。
それが今、反動となって私の胃袋を襲い始めた。
腹が減った!

●誤解

 ホテルへ着くと、すぐ温泉へ。
星は2つの、★★。
小さな風呂という感じ。
清潔感がやや足りない。
旅館としては、二流。
ネットの宣伝にだまされた。
建物のモダンな写真にだまされた。
実名を書いたので、これ以上のことは書けない。

 で、夕食タイム。
カニの食べ放題……と思っていたが、これは私の勘違い。
私の誤解。
「このホテルは、そういうコースはありません」と。
別のホテルの料理と混同していたらしい。
が、カニは一杯、ついていた。
それを懸命にほじりながら、食べた。
誤解とはいえ、かなりがっかり!

●三男

 食事をしながら、息子の話をした。
ワイフは、「自然体でいきましょう」と。
「そうだな」と私。

覆水、盆に返らずともいう。
雨降って、地固まるともいう。
どちらにころんでも、自然体。
なるようにしか、ならない。
息子は息子で、幸福をめざせばよい。

 先週、1、2度、空を見上げたが、今週は一度も見上げていない。
私「お前は、どう?」
ワ「音がするようなときは、見るわ」
私「フ〜ン、ぼくはぜんぜん、見てないよ」と。

●部屋

 部屋は、12畳もあった。
さすがに広い。
が、その分、寒い。
カニ、エビ、刺身を食べた。
そのせいか、軽いアレルギー反応が起きているよう。
フロントへ電話をかけると、職員が来て、温度をあげてくれた。
こういうときは、布団乾燥機がなつかしい。
あれがあれば、一発で、布団が暖まる。

 寝る前に、もう一度、風呂に入るつもり。
何だか、寒い。
鼻水が出る。
風邪を引いたかな?

●離婚?

 私の知人に、かなりあぶない夫婦がいる。
夫婦仲が、おかしい。
年齢は、ともに45歳前後。
このところ電話をするたびに、奥さんが出て、愚痴を並べる。
「夫や子どもたちの家事が負担でならない」と。

 雰囲気からして、かなり険悪?
前回、電話したときは、子どもたちの弁当も作りたくないと
言っていた。
3人の子ども、上から高3、中2、小6がいるが、「みな、早く
出ていてほしい」とも。

私「どうして?」
妻「いやなんです。もう家事が……。こんなこと、この先、まだ
何年もやらなければならないのかと思うと、うんざりです」と。

 こういうケースのばあい、子どもが巣立ったあとが、あぶない。
夫の定年退職と重なれば、定年離婚?
そうなる可能性は高い。

 一方、私のほうは、聞き役に回るだけ。
何もできない。
どうしようもない。

●からっぽ

 ワイフは横で、読書。
少し読んでは、ああでもない、こうでもないと話しかけてくる。
(うるさい!)
私はしょぼしょぼする目をこすりながら、文章を書く。

 寝ようか?
それとももう少し、起きていようか?
こういうときは、頭の中は、からっぽ。
血液がすべて胃のほうに回っている。

 ……やはり、ここでギブアップ!
眠い。
(おやすみ。時刻は、午後7時40分!)

●眠り損ねる

 2時間ほどしたところで、目が覚めた。
暖房のききすぎ。
それに空気が乾いて、のどがカラカラ。
おまけに布団は一枚だけの、せんべい布団。
棚からふとんを2枚出し、下に重ねる。
暖房を弱にする。

 一度こうして眠り損ねると、しばらく眠れない。
頭痛もする。
ワイフは2度目の入浴を終えて、となりの洗面室で何やらやって
いる。
その音がよく聞こえる。

 私は雑誌を手元に寄せると、それに目を通した。

●睡眠調整

 加齢とともに、睡眠調整がむずかしくなる。
それだけではない。
布団が変わっただけで、眠りにくい。
枕の高さ、かたさも気になる。
今夜のように、一度眠り損ねると、さらにそれが気になる。

 環境に対する順応力が、低下した。
つまりそれだけ脳みそが融通性を失っている。
本来なら、複数の思考回路があって、臨機応変に適応していく。
その思考回路の本数そのものが、少なくなった。
加齢とともに、生き様が単調になるのも、そのため。
毎日が、日々の繰り返しの中で、消えていく。

●オーストラリア人のM君

 こういうときは、起きている。
無理に寝ることはない。
私には、パソコンという、よい友だちがいる。
暇つぶしには、最適。
こうして思いついたままを書いているだけで、気が晴れる。
またそのうち、眠くなるだろう。

 ……ところで、今、いちばん気になっていること。
友人のM君(オーストラリア人)が、これからの人生に悩んでいること。
60歳で役人を退職し、この1年間、大学のアシスタントとしての
仕事をしていた。
が、それも、来年の9月で終わる。
で、「そのあと、どうしたらいいか?」と。

 M君の夢は、退職したら海の見える家に移り、そこでのんびりと余生を
送ることだった。
若いときから、そう言っていた。
しかし今、そのときになって、「ぼくには向かない」と。
そんなことを言い出した。
「ぼくはシティ(町)の人間になってしまった。
シティのほうが、暮らしやすい」と。

●統合性

 エリクソンの言葉を借りるまでもなく、老後の統合性をどう
確立するか。
それで、老後の過ごし方が変わってくる。
(なすべきこと)を見つけ、(現実の自分)を、それに一致させていく。
それを統合性という。

 人にはそれぞれ(なすべきこと)がある。
「使命」といってもよい。
それを見つける。
それをする。
ただし条件がある。
無私無欲ですること。
功利、打算が入ったら、統合性は、そのまま霧散する。

●人生の正午

 その(なすべきこと)の地盤は、人生の正午と言われる40歳
くらいから作る。
40歳でも、遅いかもしれない。
少なくとも一朝一夕に作れるものではない。
「退職しました。何かをします」というわけにはいかない。
地道な努力と活動が必要。
それが積み重なって、「統合性の確立」へと向かう。

 その確立に失敗すると、老後は、ただ息(いき)るだけになって
しまう。

●「どう死ぬか」

 若い人たちは、「どう生きるか」を模索する。
が、老齢者は、「どう死ぬか」を模索する。
悲観的な見方だが、そこには将来はない。
その先は暗く、道は細くなる。

 が、その中でも、小さな夢や希望にしがみつき、生きがいを求める。
大きなものでなくてもよい。
それこそ道端(みちばた)にころがっている石ころのようなもの。
そんなものの中に、小さな夢や希望を見つける。

●11月21日

 目を覚まし、時計を見たら午前7時15分。
あわてて内風呂に入り、帰り支度を始める。
朝食は7時から。
ワイフはそのまま化粧室へ。

 昨夜は、最悪だった。
エアコンを「強」にすれば、暑過ぎる。
「弱」にすれば、寒過ぎる。
これを夜中中、数回繰り返した。

 お茶を飲もうとして、ポットを押したが、ポンプが故障していた。
テーブルの上に、水さしがあったが、コップに水を注ごうとすると、
ドバッと出て、浴衣を水で濡らしてしまった。
しかたないので、持参したパジャマに着替えた。
一事が万事。
星は1つさげて、★。
そう言えば、ロビーの柱の周辺には、それとはっきりわかる
ゴミや綿ぼこりがたまっていた。
こういうホテルは、こりごり!

●あくび

が、朝は気分よく、目が覚めた。
ワイフが窓を少しあけ、エアコンを「強」にした。
マニュアルで室温を調整した。

 しかし朝食のときから、あくびの連続。
電車に乗ってからも、あくびの連続。
先ほど乗ったタクシーの運転手は、こう言った。
「次回は、簡保の宿か、グランドホテルにしなさいよ」と。
「松風閣というホテルもいいですよ」とも。

「SKホテルというのは、汚い(K)、苦しい(K)、きつい(K)の
3つをあわせたホテルのこと」と。
私がそれを言うと、ワイフが笑った。
運転手も笑った。

●ダイエット

 今日は日曜日。
これから家に帰って、もう一度、寝なおし。
それからのことは考えてない。
たぶん、山荘に向かう。
月末で、懐(ふところ)が少しさみしくなってきた。
それに今日からまたダイエット。
昨夜は恐ろしくて、体重計に乗ることができなかった。
64キロを超えているかも?

●本気度
 
 これからの日本で生き残るためには、「本気度」。
その本気度で決まる。
つまりは前向きな緊張感。
どんな仕事でも、そうだ。
それがあれば、生き残る。
そうでなければ、そうでない。
 
 これは幼稚園や保育園を選ぶときの基準にもなる。
それについては数日前にも書いた。

 が、その本気度。
本気で生きている人には、それがよくわかる。
たがいに相通ずるものがある。
ダラダラとその日を、何となく生きている人には、それがわからない。
(だからといって、私が本気で生きているということではないが……。)

 言われたことだけをし、やるべきことだけをやり、それでおしまい。
そんな人は、これからの日本を生き延びていくことはできない。

●女性

 昨夜、布団の中で、こんな話をした。
ワイフという女性とこういう話をするのも、気が引けるが、
女性というのは、基本的には信じてはいけない。
二面性、三面性、さらには多面性がある。
それが悪いというのではない。
が、それだけに女性の心理は複雑。
よい例が、ホテルの接客係の女性。
愛想もよく、キビキビと働く。
何かを頼むと、明るい声で、即座に返事が答えてくれる。

 だからといって、そういう女性をすばらしい女性と思ってはいけない。
必ずその裏には、何かがある。
隠された意図がある。
だいたいそこらの若い女性に、高い人間性を求めても、無駄。
無理。
(失礼!)

 だから私はときどき男子高校生に、こう言う。
「君たちが将来、それなりの(人)になり、妻を選ぶようなときが
きたら、図書館や美術館へ行きなさい」と。
そういうところで時間を静かに過ごしている女性なら、まずまちがいない。
すばらしい女性を選ぶことができる。
ただし「自分もそれなりの(人)になっていなければならない」とも。
それなりの(人)でなければ、相手にされないだろう。

●妊娠線

 こんな話を聞いた。
ある息子が婚約した。
で、その息子の家に、婚約者が泊まった。
そのときのこと。
母親がタオルを脱衣所に届けると、その婚約者がそこに立っていた。
見ると、腰から下に、妊娠線が走っていた。
妊娠した経験のある女性に現れる、白い細い線である。
肌に割れたようにヒビが走り、その部分がかすかに白く光る。

 母親は何かの見間違いと、何度も自分に言って聞かせた。
しかしそれはまぎれもなく、妊娠線だった。
が、息子は、それを知らない。
妊娠線のもつ意味すら、知らない。
 
 母親はその話を、夫にも話さなかった。
「2人が幸福になれば、それでいい」と。
ただそのあと、結婚式のときも、嫁の両親は、自分の娘について、
こう言ったという。
「箱入り娘のようにして育ててきました」と。
「結婚するまで、子どものように門限を守らせてきました」とも。

 それを聞いてその母親は、こう思ったという。
「知らぬは親ばかり」と。

●幸福

 欲望を満足させることが、幸福につながるというわけではない。
むしろ、逆。
若い夫婦を見れば、それがよくわかる。
彼らはその欲望が頂点に達したとき、結婚する。
言い換えると、結婚とは、欲望がひとつの「形」に昇華したもの。
だからその幸福感は、底が浅く、はかない。
欲望の切れ目が縁の切れ目ということになる。

 が、当の本人たちには、それがわからない。
わからないまま、それが価値ある「愛」と信じる。

 しかし「愛」とは、あくまでも原点。
出発点。
その先には、長くて苦しい道がつづいている。

●帰宅

 昼頃、自宅に戻る。
軽い昼食を食べたところで、睡魔。
「昼寝しようか」とワイフに声をかけると、「うん」と。

 そのまま昼寝。

私「やはり、自分の家の布団がいちばんだね」
ワ「今度は、もっとしっかりと調べてから行こうね」と。

 SKホテル……久々に、ハズレのホテルだった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 はやし浩司 2010−11−21 富士市 焼津)
   

Hiroshi Hayashi+++++++NOV. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●結婚(フェニルエチルアミン効果)

 結婚というのは、人生最大のくじ引き。
当たりもあれば、ハズレもある。
当たりと思って結婚しても、ハズレということもある。
ハズレと思っても、やがて当たりということもある。

 が、若い人には、それがわからない。
そのときの感情……というよりは、脳内ホルモンのまま行動し、
結婚する。
が、結婚してみたら……?、ということになる。
脳内ホルモンの賞味期限は、2年と言われている。
恋愛を繰り返せば繰り返すほど、賞味期限は短くなる。

(脳内には、フィードバックという作用がある。
あるホルモンが分泌されると、それを打ち消すためのホルモンが
同時に分泌される。
脳はこうして脳内をいつもクリーンな状態に保とうとする。
それを「フィードバック」という。
が、恋を司るホルモンだけは、脳内にしばらくの間、とどまる。
甘い陶酔感で満たす。
それを「賞味期限」という。)

●定年離婚

 2年が過ぎたらどうなるか……。
そこからが結婚の始まり。
そう考えてよい。
そのころたいていの夫婦は、子どもをもうける。
が、それだけでは、夫婦を夫婦としてつなぎとめることはできない。
一般論として、夫婦でいっしょに、同じ仕事をしている夫婦は、仲がよい。
たとえば農家や自営業など。
あぶないのは、サラリーマン。
近くの新聞社の支局長をしていた、K氏はこう言った。
「新聞記者というのはね、家庭を犠牲にして生きているような
もんですよ」と。

 しかし総じてみれば、ほとんどのサラリーマンがそうではないか。
そのことは、夫の定年退職時になると、はっきりしてくる。
「定年離婚」という言葉もある。
が、その一歩手前で踏ん張っている夫婦となると、ほとんどが
そうではないか。

●同居他人

 そう、一時は、定年離婚というのがはやった。
しかし妻側が、いろいろな面で不利ということがわかり、最近は少なく
なった(?)。
それに替わって、「夫は夫、妻は妻」という生き方をする夫婦が
ふえてきた。
つまり同居他人。

 たがいにやるべきことはやる。
しかしそこまで。
あとはたがいに自由、と。

 近くに住むTさん夫婦(ともに65歳)もそうだ。
奥さんは1年単位で、外国を回っている。
日本舞踊の紹介をしている。
だから夫婦がいっしょに生活するとしても、ときどき……
ということになる。

 しかし見た目には、仲がよい。
いっしょに住んでいるときは、自宅で、日本画や染物の個展を
開いたりしている。
言い換えると、Tさん夫婦が、老後の夫婦のあり方を示唆している。
若いときのように、ベタベタというわけにはいかない。
それぞれに独立した、一個の人間として認め合う。

●私たち

 私たち夫婦も、何度か、危機的状況になった。
「離婚してやる!」「離婚しましょう!」と。
しかしかろうじて私たちをつないだのは、息子たちがいたこと。
それに仕事。
ここ5年ほど、ワイフが積極的に仕事を手伝ってくれるようになった。
それがよいほうに作用している。
最近では、「今日は、来なくていい」と私が言っても、先に職場に
来ている。
「今日は、Sさんが来るから……」と。

 中に孫そっくりの子ども(生徒)がいる。
ワイフになついた子どももいる。
実のところ、ワイフは、子どもたちの間でも人気者。
私より人気がある。

 だからいくら険悪な関係になっていても、生徒たちの
前では、喧嘩はできない。
たがいに作り笑いをしているうちに、もとに戻ってしまう。

●束縛

 だからときどきこう思う。
「結婚」というワクに縛られる必要はないのではないか、と。
日本では、結婚というと、どうしてもそこに「家」をからませる。
家制度が、いまでも心のどこかに残っている。
一方、オーストラリアなどでは、「試験結婚」のようなものを通して、
ある程度、たがいを知り合ったあと結婚するというケースが多い。
あるいは日本でいう同棲状態のまま、という夫婦(?)も多い。

 つまりこれは「結婚」の問題というよりは、「意識」の問題という
ことになる。
どういう意識をもって、1人の異性と人生を共にするか。
その結果として「結婚」という言葉がある。

●離婚問題

静岡県の教育委員会が発行している雑誌に、『ファミリス』というのが
ある。
その雑誌に、先日、こんな相談が届いた。
それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++

Q:子どもがまだ幼児のころに離婚したのですが、離婚したことを子どもに話すタイミングはいつ
がいいのか悩んでいます。
「離婚は、あなたが原因ではないよ」ということを伝えたくて、それとなく話すこともあるのです
が、具体的なことを話すのは、子どもがはっきり聞いてくるまで待つのがいいか、早い時期に
話しておく方がいいのか、どちらがいいのでしょう。

+++++++++++++++

 この相談の中に流れる、「罪悪感」を、あなたは感ずることが
できるだろうか。
相談の母親は、深い罪悪感に苦しんでいる。
しかし今どき、離婚など、珍しくも何ともない。
話題にもならない。
が、罪悪感をもつ人は、多い。
自らに「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。
つまりこれも「離婚」の問題ではなく、「意識」の問題という
ことになる。

 その意識は、どこまでいっても、個人的なもの。
他人が介入する余地など、どこにもない。
他人の目を気にする必要もない。
冒頭に書いたように、結婚は、まさに宝くじ。
当たれば、それはそれでよい。
しかしハズレたからといって、それはそれ。
あとは明るくさわやかに別れ、それでおしまいにすればよい。

+++++++++++++++++

2005年の10月に、こんな原稿を
書いた。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くはない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまうからである。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。恋愛と、
結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎのステップへ進
むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、別の新し
い人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りかえし、
恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年ごとに、離
婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかもしれな
い。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書いたよう
に麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ますますはげし
い刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くということにも
なりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじめての恋のとき
は、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の恋のときは、1年間。3
度目の恋のときは、数か月……というようになる。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しかも、はげ
しければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回を重ねれ重ね
るほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフェニルエチ
ルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルアミンという麻薬様の
物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横で聞きな
がら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?
(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性)

+++++++++++++++++++

 つまり、恋愛にも寿命があるということ。今風に言えば、賞味期限があるということ。しかもそ
れを繰りかえせば繰りかえすほど、賞味期間は、短くなる。

 だから……というわけでもないが、不倫は不倫として、あるいは浮気は浮気として、さらにそ
れから恋愛感情が生まれたとしても、決して、急いで結論を出してはいけない。どうせ、冷め
る。時間がくれば、冷める。人間の脳ミソというのは、もともと、そうできている。

 知人のケースでいうなら、こうした不倫は、静かに見守るしかない。へたに反対すれば、恋心
というのは、かえって燃えあがってしまう。しかし時間がくれば、冷める。長くても、それは4年以
内。だから私は、こう言った。「放っておけばいい。そのうち、熱も冷める。バレたときは、奥さ
んにぶん殴られればいい。それですむ」と。

 しかし不倫や浮気ができる人は、それなりに幸福な人かもしれない。いや、不幸な人なのか
もしれない。よくわからないが、私の知らない世界を、そういう人たちは、知っている。ただこう
いうことは言える。

 「真剣にその人を愛してしまい、命がけということになったら、それは、もう、不倫でも、浮気で
もない」と。夫や妻の間で、それこそ死ぬほどの苦しみを味わうことになるかもしれないが、そ
のときは、そうした恋愛を、だれも責めることはできない。人間が人間であるがゆえの、恋愛と
いうことになる。

 どうせ不倫や浮気をするなら、そういう不倫や浮気をすればよい。そうでないなら、夫婦の信
頼関係を守るためにも、不倫や浮気など、しないほうがよい。いわんやセックスだけの関係ほ
ど、味気なく、つまらないものはない。(……と思う。)それで得るものより、失うもののほうが、
はるかに多い。(……と思う。)

 いらぬお節介だが……。

 昔、今東光という作家は、私が、東京の築地にある、がんセンターを見舞うと、こう話してくれ
た。

 「所詮、性(セックス)なんて、無だよ」と。私も、そう思う。しかしその「無」にどうして人は、こう
まで振り回されるのだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 恋の寿命 恋愛の賞味期限 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン効果


Hiroshi Hayashi+++++++NOV. 2010++++++はやし浩司・林浩司

Dear Dennis,

I am sorry to be late to give you a reply.
I have been thinking about your mail all the time.

I have read your the latest mail several times and I just think I may give you some
advice from a point of view a few years senior to you.
First of all you may not retire not from your work but from your life itself.
I know you have talked a lot about the life after you retire at the age, saying when
I retire from the work I would like to stay in a house from where I can see the sea.
It is a good idea but I don't think you can live in such a way as you dreamed when 
you were young.

I am now 63 years old and most of my friends in Japan as well as Takahasi-san, have
retired from their works and jobs. The biggest tragedy, however, is that the life itself 
has. The boring life would not produce anything or it may choke you. Then we need 
something to do or something we should do. If you have something that you shoud do
for the rest of your life, you may have a happy life. But if not, I am sorry I have to say
that your life would be a boring one.

Young old men like us a dream and a hope however it is small. The smallest one would
be sufficient. We see a small light in the smallest dream and hope. Then I can advice 
you like this:

(1)Please don't think about shifting yourself to somewhere where you can see the beach
or so. Then how can you spend your life, just seeing the sea? We are not here only to live
peacefully and doing nothing. Or we are not here to enjoy ouselves. We have something
that we should do or complete for the rest of the life. It may be called "Mission". Then 
what is your mission? A mission to convey our thoughts and knowldge to the next 
youger gererations. Or you may call it "Proof". A proof that you have once lived here on
this earth. Yes we are here. 

(2)In Japan some people say that the most ideal life for the old people is just looking
after grand-children and the gardens (yards). But I don't agree to this idea. It may be
rather nonsense. Since it can produce nothing. Only one thing you get is that someday
in the futute, your daughters and your grand-son would remember you and talk about
you. I mean we are not here for the purpose. This is my opinion and I know it is rude 
of me to say to you who has much more inntelligence and knowledge, that we have the
mission and we need a kind of proof to live for. I mean it is too early to give up the life
itself.

(3)As for me, writing all the time is the one to suppor me. Thinking and writing. Now 
we have the Internet. through which we can publish what we write nearly freely. Some
people say this is the second industrial revolution. I agree to this. So I have utilized this
revolution. This is my way to do my mission and to leave the proof for the next
generation that Hiroshi Hayashi once lived on this earth. I don't know what it is for you.
But I am sure you may have something that you should do not for the money, or for your
enjoyment. The most important thing is that we do it for nothing. As for me I write 
things all free. People can read my articles free. This is important.

(4)You said you were thinking to sell the big house. That is one of your ideas. You said
you would buy a house near the beach. That is also one of your ideas. Whatever they are
the important thing is that what you can do in the place spending your rest of your life.
Iam on the way and I know it is rather rude of me to advise you in such a way but the
life after 60 is too short. We don't have time to waste. Then we have to hurry up. I have 
some ideas: Why don't you open a free class to make books? Why don't you guide 
Chinese people around Melbourne? You are a very talented person and I am sure you 
have a lot of thing that you can do. Then what you have to do is just to find one of them.

(5)I have decided recently that I will work as now until the age of 75. Then I increase
the time of my physical exercises more. Teaching is a good fun. Children give me power
and joy. I have nearly lost three sons mentally, then my boys and girls are my sons and 
daughters. I am not teaching them but I am enjoying my life with them. I am sometimes
depressed but once I see them in the classroom, my heart become being full of joyness.
Then I decide like this way. I need to work and I shall work untile the age of 75. I am
sorry that very frankly I have no confidence that I can do it but I have to. Because this 
is my life. Is my life or my way of life a reference for you? I hope so.
 
Dennis, this is my reply to you.
Let's find together the thing which we shoud do for the rest of our lives.
Then we shall do it. Or should we take the choice to die like other millions of old people
around us? I hate it. I am sure you hate it too. Anyhow it is too early for you to become
an old man. Please don't follow other old me.

Hiroshi Hayashi

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【ゲーム中毒の子どもたち】

●韓国のネット中毒(ゲーム脳)

+++++++++++++++

相変わらず韓国では、ネット中毒
患者による、悲惨な事件がつづいて
いる。

今朝の時事通信も、こんなニュースを
伝えている。
しかしこういうニュースが話題になるだけ、
韓国社会は健全と考えてよい。
この日本では、ニュースにもならない。
なぜか?

そのヒントは、このニュースの末尾に
ある。
よく目を凝らして読んでみてほしい。

++++++++++++++++

********以下、韓国・より**********

 【ソウル時事】

 韓国南部の釜山で最近、オンラインゲームのやり過ぎをとがめられたことに激高した中学3
年の少年が、母親を絞殺し、自らも命を絶つ事件が起きた。ネット先進国といわれる韓国で
は、青少年の「ゲーム中毒」が深刻な社会問題となっており、対策が求められている。

 韓国メディアによると、少年は幼いころからオンラインゲームにのめり込み、銃や剣を使うゲ
ームを好んでいた。母親を殺害後、「コンピューターのことでお母さんとけんかをし、興奮してし
まった」との遺書を残し、首をつった。同国では今年2月にも20代の男性が同様の理由で母親
を殺害している。

 行政安全省傘下の情報化振興院によれば、同国青少年(9〜19歳)の12.8%に当たる93万
8000人が「ネット中毒」で、このうちの大部分が「オンラインゲーム中毒」とされる。ゲームをしな
いと禁断症状が現れ、日常生活への支障がある状態で、アルコールや幻覚剤の中毒と症状
が近いという。

 学力が低下し、社会に適応できなくなるほか、釜山の事件のように暴力性の高いゲームをや
り過ぎ、実際の暴力に及ぶ例もある。背景には激烈な受験戦争のストレスもあるといわれる。
同院は、ゲーム中毒のまん延は国家的損失とみなし、小中高校への訪問相談や、ゲーム禁止
のキャンプなどの対策に取り組んでいる。

 午前0〜6時の青少年のオンラインゲームを禁じる法改正案も国会に提出された。しかし、有
力な輸出産業であるゲーム業界の反対もあり、立法化に至っておらず、有効な対策をなかな
か打ち出せていない。 

********以上、韓国・より**********

●禁断症状

 時事通信は、「行政安全省傘下の情報化振興院によれば、同国青少年(9〜19歳)の12.
8%に当たる93万8000人が「ネット中毒」で、このうちの大部分が「オンラインゲーム中毒」とさ
れる」と伝えている。

 が、この日本では、ゲームを批判しただけで、熱心なゲーマーから嵐のような抗議を受ける。
どう受けるかは、「ゲーム脳」という言葉を最初に使った、某教授も告白している。
その一方で、「ゲーム脳などというのはありません」と主張した某教授のところには、
仕事が殺到し、今ではこの世界では、カリスマ的な存在になっている。

 その韓国。
数字が具体的に表示されている。

「……同国青少年(9〜19歳)の12.8%に当たる93万8000人がネット中毒」と。

 どの程度のレベルを「ネット中毒」と診断してよいのか。
その診断基準はあるのか。
そういった問題点もある。
さらに「パソコン中毒」「携帯電話中毒」とどう区別するのか。
そういった問題点もある。

またゲームといっても、内容はざまざま。
将棋のようなゲームもあれば、スピードを競う、ドライブゲームのようなものもある。
問題になっているのは、「少年は幼いころからオンラインゲームにのめり込み、銃や剣を使うゲ
ームを好んでいた」(時事通信)ということらしい。

 が、健全なゲーム(?)だからといって、安心できない。
TBS−iは、こんなニュースも報道している。

**********以下、TBS−iより(2010−11−18)*******

 ……韓国政府によると、韓国国内のネット中毒患者はおよそ190万人。今年3月には夫婦
そろって「育児ゲーム」にのめり込み、生後3か月の娘を餓死させる事件が起きるなど社会問
題化しています。

 さらにネット中毒の低年齢化も進んでいて、来年から予防対象を幼児にまで拡大することが
決まっています。

**********以上、TBS−iより(2010−11−18)*******

 「夫婦そろって、育児ゲームにのめりこみ……」と。
「育児ゲームなら問題ないのでは?」という常識は、この世界では、通用しない。

●禁断症状

 ゲーム漬けの子どもに、特異な症状が現れることは、教育界では常識。
ほかの子どもたちと比較してみると、それがよくわかる。
「どこかおかしい?」「どこかへん?」という症状に併せて、一度ゲームをさせると、
今度は一転、別人のようになってしまう。
その「落差」が、ここでいう「特異な症状」ということになる。

 「どこかおかしい?」というのは、たとえばゲームをしていないときは、(1)
ボーッとした表情で何を考えているかわからない。(2)突発的に、ふつうでない行動
に走る。(3)ものの考え方が衝動的、ゲーム的になる。が、ひとたびゲームをはじめると、
(4)別人のように無表情になり、能面的になる。(5)何時間もゲームをつづける、など。
もちろん(6)他者との良好な人間関係が結べなくなる。

 そうした子どもについては、たびたび書いてきた。
で、禁断症状についてもたびたび書いてきた。
たとえば携帯電話症候群というのもある。
これは子どもにかぎらない。
おとなでも、さらに家庭の主婦でも、携帯電話を片時も離さない人は多い。
『弁当を忘れても、携帯電話は忘れない』と、そういう人は、よくそう言う。
そういう人から携帯電話を奪ったら……。
やはりここでいう禁断症状が現れる。
中には落ち着いて仕事ができなくなる人も多い。

●ゲーム業界

 『……有力な輸出産業であるゲーム業界の反対もあり、立法化に至っておらず、有効な対策
をなかなか打ち出せていない』と。

 少し前、「ゲーマーの世界がカルト化している」と書いたことがある。
こうした記事を書くと、すかさず反応(コメントや書き込み)が入る。

 「このオッサン……頭がおかしいんじゃないの。
ゲームと現実の区別くらい、つくヨ〜〜。
テメエの息子たちは、大丈夫なのかヨ〜〜」と。

 こうした批判は、ネットのあちこちに書き込まれているから、興味のある人は、
検索をかけてみたらよい。
「はやし浩司」で検索してみれば、100〜150番目あたりから、急速にそういった
批判が目にとまるようになる。

 が、問題は、「ゲーム業界」。
韓国でさえ、こうした「ゲーム業界の力」が働いている。
いわんやこの日本をや……と書きたいが、この日本では、不思議なことに、本当に
不思議なことに、「ゲーム中毒」すら話題にならない。
現実はむしろ逆で、あのポケモンにしても、ゲーマーの世界では、「子どもの夢」と
位置づけられている。
言い替えると、それだけゲーム業界の「力」が、韓国とは比較にならないほど強いと
考えてよい。

日本人の脳みそだけ、ほかのアジア人とはちがうということは、ありえない。

●脳のCPU(中央演算装置)

 話はぐんと脱線するが、私はこんな経験をしている。

 私が子どものころは、まだ馬に引かれた馬車が、通りを歩いていた。
車も走っていたが、どこか遠慮がちだった。
町中で、庭のある家は、ほとんどなかった。
つまり道路が私たちの遊び場であり、おとなにとっては、職場だった。
私の実家は小さな自転車屋だったが、道路があったおかげで、それなりに仕事ができた。
道路に大きく自転車を並べても、文句を言う人はいなかった。

 が、車社会の発展とともに、道路の性格は大きく変わった。
その結果が「現在」ということになる。
とくに歩道のない旧街道のような通りは、悲惨である。
店という店は、総じてシャッターを下ろした。
私の近所にも、「雄踏(ゆうとう)街道」と呼ばれる昔からの街道がある。
が、その街道で今でも商売をつづけている商店は、ほとんどない。

 この問題と脳のCPUとどう関係があるか?

 つまり今の若い人たちに、「道路の性格は変わった」という話をしても、恐らく
理解できないだろうということ。
昔から道路というものは、そういうものだったと思っているにちがいない。
またそういう前提で、ものを考える。
だから道路に植木鉢をひとつ置いただけでも、「じゃま」と、それを排除してしまう。

 こうしたズレが積み重なって、「狂い」となる。
あまりよいたとえではないことはわかっている。
たまたまこの原稿を書いているとき、ふと「道路」の話が横切った。
それで書いたが、しかし人は、ある日突然、狂うわけではない。
徐々に少しずつ、時間をかけて狂う。
もちろんたいはんの子どもは、(おとなも)、現実とゲームの世界を区別できる。
が、中には、その区別ができなくなる子どもが、現れる。
それをどう防ぐか。
それが問題と、私は書いている。

++++++++++++++++

古い原稿だが、2003〜5年に
かけて書いた原稿を紹介します。

++++++++++++++++

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++

「ゲーム脳はあるのか、それともないのか?」

これについての記事を、「毎日JP」より、抜粋
してみる。

++++++++++++++++++++

●火付け役は、、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)。
曰く、

 『・・・「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%
守れない」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。前頭前野が発達し
ないとすぐキレる」
 森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中
のベータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。その状態が続くと前頭前野の機能
が衰えると警告した。単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に
眉(まゆ)をひそめる教育関係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された』(毎日JPよ
り)と。

 これに対して、「森教授の意見には、学術的な裏付けがない」と批判する人も多い。

『・・・森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。本来、仮説は他の科学
者が同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料となる論文はいまだ
に発表されていない。
 手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立て
たが、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通し
た見方だ』(毎日JPより)と。

●利潤追求の世界

 こうした批判を尻目に、ゲーム業界は、大盛況。
その先頭に立たされているのが(?)、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメ
ージング)。
ここで注意しなければならないのは、川島隆太教授自身は、「加齢医学」が専門。
その研究に基づいて、

『・・・認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テス
トの成績が上がったと報告。何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認
知機能改善に効果がある」と考察した』(2003年)(毎日JPより)と。

 これにゲーム業界が飛びついた(?)。

『・・・こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。0
6年の流行語となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大
人のDSトレーニング」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた』(毎日JPより)
と。

 こうして今やこの日本は、上も下も、「脳トレ」ブーム。
「1000万本」という数字は、そのほんの一部でしかない。

 もちろん批判もある。

『・・・ ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・
理化学研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは、「川島氏の研究は科学的な手続
きを踏んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要
だ。『改善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にな
らないと思い込む人が出てくるかもしれない」と話す』(毎日Jより)と。

●三つ巴の論争

 現在、「ゲーム脳支持派の森教授vsゲーム脳否定派の川島教授」という構図ができあが
ってしまっている。
しかし実際には、この両教授が、ゲーム脳を間に、対立しているわけではない。

 森教授は、「ゲームばかりしていると、危ない」という警鐘を鳴らした。
一方川島教授は、ここにも書いたように、「老人の認知機能」が専門。
その立場で、「脳トレは(ボケ防止には)効果がある」と、自説を発表した。

 が、一方、教育の世界には、『疑わしきは罰する』という原則がある。
(私が考えた原則だが・・・。)
完全に安全が確認されるまで、あやしげなものは、子どもの世界からは遠ざけたほうがよ
い。
事実、私は1日に何時間もゲームばかりしている子どもを、よく知っている。
中には、真夜中に突然起きあがって、ゲームをしている子どももいる。
もともとおかしいから、そうするのか、あるいはゲームばかりしているから、おかしいの
か?
それは私にもわからないが、このタイプの子どもは、どこか、おかしい。
そういう印象を与える子どもは、少なくない。

(1)突発的に感情的な行動を繰り返す。
(2)日中、空をぼんやりと見つめるような愚鈍性が現れる、など。

「ゲーム脳」があるかないかという論争はさておき、その(おかしさ)を見たら、だれだ
って、こう思うにちがいない。

「ゲームは本当に安全なのか?」と。

 そうでなくても、「殺せ!」「つぶせ!」「やっつけろ!」と、心の中で叫びながらするゲ
ームが、子どもの心の発育に、よい影響を与えるはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。
(もちろんゲームといっても、内容によるが・・・。)

 仮に百歩譲っても、認知症患者に効果があるからといって、子どもや、若い人たちにも
効果があるとはかぎらない。

●脳トレへの疑問

 私も脳トレなるものを、さまざまな場面で経験している。
それなりに楽しんでいる。
しかし子どもの知能因子という分野で考えるなら、脳トレで扱っている部分は、きわめて
狭い世界での訓練にすぎない。

 たとえば教育の世界でいう「知的教育」というのは、広大な原野。
脳トレというのは、その広大な原野を見ないで、手元の草花の見分け方をしているような
もの。
あまりよいたとえではないかもしれないが、少なくとも、脳トレというのは、「だからそれ
がどうしたの?」という部分につながっていかない。

 仮にある種の訓練を受けて、それまで使っていなかった脳が活性化されたとする。
それはそれで結構なことだが、「だからといって、それがどうしたの?」となる。
もう少し具体的に書いてみたい。

 たとえば脳トレで、つぎのような問題が出たとする。

+++++++++++++

【問】□には、ある共通の漢字が入る。それは何か。

 □草、□問

+++++++++++++

 答は※だが、こうした訓練を重ねたからといって、それがどうしたの?、となる。
というのも、私はこうして今、文章を書いているが、こうした訓練は、常に、しかも一文
ごとにしている。
的確な言葉を使って、わかりやすくものを書く。
的確な言葉をさがすのは、ほんとうに難しい。
さらにそれを文章にし、文章どうしをつなげるのは、ほんとうに難しい。

つまりこうした脳トレを繰り返したところで、(よい文章)が書けるようになるとは、かぎ
らない。
・・・書けるようになるとも、思わない。

 それ以上に重要なことは、本を読むこと。
文章を自分で書くこと。

 つまり本を読んだり、文章を書くことが、先に書いた「広大な原野」ということになる。
(※の答は、「質」。)

●疑わしきは罰する

 子どもの世界では、疑わしきは罰する。
先手、先手で、そうする。
以前、ゲーム脳について書いた原稿をさがしてみた。
5年前(05年9月)に書いた原稿が見つかった。
それをそのま、手を加えないで、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ゲーム脳】(05年9月の原稿より)

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲ
ーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲー
ム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05
年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、
感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制を
も司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると
働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明
したのが、東北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB J
APAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、
省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりする
と、ものすごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせ
が、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。
どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心
から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)
という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到し
た。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両
論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗
議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たち
であったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてく
るのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編
集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多か
った。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポ
ケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない
本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、
そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりを
もちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、
ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらし
い(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判
されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発し
たりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一
言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言
で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声
をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たち
との間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか
狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の
生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるよう
になるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死ん
でしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI
(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十
人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまった
く発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼ
す」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見
識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したと
いう(NEWS WEB JAPANの記事より)。

(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをし
ている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。
下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、
していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった
親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーテ
ィでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、
さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。
しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大
けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあっ
たのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、
言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲーム
を取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、
自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをし
たという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のとこ
ろに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにし
た。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるし
く変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャ
ーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計
算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと
片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたの
は、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能
面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のよ
うになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづ
けるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時
間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに
紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、
ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話
がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞し
ているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そ
してそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく
変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほう
がヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。
30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。
小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの
子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えれ
ばこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」
と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、
「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を
出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものを
いじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち
歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対す
る反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子ども
が、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまど
い、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の
差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が
難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と
続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり
感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビ
やゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔
のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味も
なく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメ
リカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児
期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても
返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、
動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームも
そうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられな
くなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、
静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、
おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろい
が、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や
論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがな
い新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。そ
の一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、
北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫
りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がってい
る」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在
籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年2
10人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は3
55人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、9
6年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171
人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、う
つ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者な
どの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラ
スを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策を
とっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年につい
て、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2
人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、も
う1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部
の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入
している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施して
いる(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツ
という医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から
出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、
パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当た
り次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられ
るという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命
令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令
だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎ
ると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い
浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とす
るなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、
それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それ
は、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなっ
たとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと
言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし
精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子ども
は、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。
そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理
できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミ
ュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。
一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になって
いるそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。
その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、
修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習
能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけるこ
とができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、
異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門
外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、
先にとらえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子ども
は、すでに40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36
年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたち
と区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、
「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」とい
う言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、
約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクシ
ョナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、
脳の活動そのものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」
というのは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

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のある子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩司 
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浩司 ゲーム脳 森教授 川島教授 韓国のゲーム中毒)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【老後と死の受容】

●軽費老人ホーム
 
 昨日、近くにある、軽費老人ホームを訪れてみた。
ほどよい作りの、環境のよいところにある。
「今、すぐ」ということではないが、現在でも、30番待ち。
今、申し込んでも、3年ほど先になるという。

 入居費は、収入(年金額)に応じて異なる。
月額7万円(+光熱費、通信費ほか)から、17万円まで。
財産のあるなしは、関係ないという。
私もいずれは、しかしそれほど遠くない将来、そこへ入らなければならない。
その準備もかねて、訪れてみた。

●三界の足かせ

 本来なら、家族見守られてあの世へ旅立つ……というのが、理想かもしれない。
しかし今の現状を見る限り、その希望はない。
この先、現在50歳以上の約60%の人は、独居老人となり、孤独死を迎える。
「無縁老人」という言葉も、最近、生まれた。

 若い世代の人たちは、「私たちはだいじょうぶ」と高をくくっている。
現実のきびしさを、みくびっている。
しかしこのきびしさは、ますことはあっても、減ることはない。
今は60%だが、この先、70%、80%となる。
それもそのはず。
若い人たちが「家族」という言葉を使うとき、そこには「両親」は入っていない。
夫婦とその子ども、そのワクの中だけを「家族」という。

しかし自分たちもいつか、その両親になる。
ジジ・ババになる。
今の私たちが、家族からはじき飛ばされているように、自分たちもはじき飛ばされる。
そのときになって、「家族って何だろう?」と考えても遅い。

 が、だからといって、家族との同居が望ましいということではない。
『子はかすがい』とも言うが、同時に『三界の足かせ』とも言う。
子ども(息子や娘)が親のめんどうをみるのではなく、老親が子ども(息子や娘)のめんどうをみ
るというケースもふえている。
親にしてみれば、死ぬに死ねないということになる。

●受容段階説

 ともあれ、私たちは否応なしに年を取っていく。
やがて花が朽ち果てるように、死を迎える。
この先は、「どう生きるか」に併せて、「どう死ぬか」。
それが人生の大きなテーマとなっていく。
言い替えると、老後の「死」をどう受け入れていくかということ。
キューブラー・ロスの『死の受容段階説』が、まず頭に思い浮かぶ。
それについては、何度も書いてきた。

 「あなたはがんです。余命はあと1年」と言われるのも、「あなたの寿命は
残り15年です」と言われるのも、同じ。
どこもちがわない。
(男性の平均寿命は、78歳前後。現在私は63歳。だから「15年」となる。)
大学の同窓生100人のうち、11人がすでに他界している。
老後というより、「死」は、すぐそこまで来ている。

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キューブラー・ロスの『死の受容段階説』に
ついての原稿をさがしてみます。
(2009年5月の原稿集より)

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【老人心理】(キューブラー・ロスの『死の受容段階論』)

++++++++++++++++++++

 キューブラー・ロスの『死の受容段階論』は、よく知られている。
死を宣告されたとき、人は、(否認期)→(怒り期)→(取り引き期)
→(抑うつ期)→(受容期)を経て、やがて死を迎え入れるように
なるという。

 このロスの『死の受容段階論』については、すでにたびたび書いてきた。
(たった今、ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司 死の受容段階」
を検索してみたら、113件もヒットした。)

 で、またまた『死の受容段階論』(死の受容段階説、死の受容過程説、
死の受容段階理論などともいう)。

その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを
試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●老人心理

 老人心理を一言で表現すれば、要するに、キューブラー・ロスの『死の受容段階論」に、
(第0期) を加えるということになる。

(第0期) 、つまり、不安期、ということになる。

 「まだ死を宣告されたわけではない」、しかし「いつも死はそこにあって、私たちを
見つめている」と。
不治の病などの宣告を、短期的な死の宣告とするなら、老後は、ダラダラとつづく、
長期的な死の宣告と考えてよい。
「短期」か「長期」かのちがいはあるが、置かれた状況に、それほど大きなちがいは
ない、。

 ロスの説く、(第1期)から(第5期)まぜが混然一体となって、漠然とした不安感
を生みだす。
それがここでいう0期ということになる。
そしてそれが老人心理の基盤を作る。

●死の受容

 死の宣告をされたわけではなくても、しかし死の受容は、老人共通の最大のテーマ
と考えてよい。
常に私たちは「死」をそこに感じ、「死」の恐怖から逃れることはできない。
加齢とともに、その傾向は、ますます強くなる。
で、時に死を否認し、時に死に怒りを覚え、時に死と取り引きをしようとし、時に、
抑うつ的になり、そして時に死を受容したりする。

もちろん死を忘れようと試みることもある。
しかし全体としてみると、自分の心が定まりなく、ユラユラと動いているのがわかる。

●「死の確認期」

 この「0期の不安期」をさらに詳しく分析してみると、そこにもまた、いくつかの
段階があるのがわかる。

(1) 老齢の否認期
(2) 老齢の確認期
(3) 老齢の受容期

(1)の老齢の否認期というのは、「私はまだ若い」とがんばる時期をいう。
若いとき以上に趣味や体力作りに力を入れたり、さかんに旅行を繰り返したりする時期
をいう。
若い人たちに対して、無茶な競争を挑んだりすることもある。

(2)の老齢の確認期というのは、まわりの人たちの「死」に触れるにつけ、自分自身
もその死に近づきつつあることを確認する時期をいう。
(老齢)イコール(死)は、避けられないものであることを知る。

(3)の受容期というのは、自らを老人と認め、死と共存する時期をいう。
この段階になると、時間や財産(人的財産や金銭的財産)に、意味を感じなくなり、
死に対して、心の準備を始めるようになる。
(反対に、モノや財産、お金に異常なまでの執着心を見せる人もいるが……。)

 もっともこれについては、「老人は何歳になったら、自分を老人と認めるか」という問題も
含まれる。

 国連の世界保健機構の定義によれば、65歳以上を高齢者という。
そのうち、65〜74歳を、前期高齢者といい、75歳以上を、後期高齢者という。
が、実際には、国民の意識調査によると、「自分を老人」と認める年齢は、70〜74歳が
一番多いそうだ。半数以上の52・8%という数字が出ている。(内閣府の調査では
70歳以上が57%。)

 つまり日本人は70〜74歳くらいにかけて、「私は老人」と認めるようになるという。
そのころから0期がはじまる。

●「0期不安記」

 この0期の特徴は、ロスの説く、『死の受容段階論』のうち、早期のうちは、(第1期)
〜(第3期)が相対的に強く、後期になると、(第3期)〜(第5期)が強くなる。

 つまり加齢とともに、人は死に対して、心の準備をより強く意識するようになる。
友や近親者の死を前にすると、「つぎは私の番だ」と思ったりするのも、それ。
言いかえると、若い人ほど、ロスの説く(否認期)(怒り期)(取り引き期)の期間が
長く、葛藤もはげしいということ。

 しかし老人のばあいは、死の宣告を受けても、(否認期)(怒り期)(取り引き期)の
期間も短く、葛藤も弱いということになる。
そしてつぎの(抑うつ期)(受容期)へと進む。

 が、ここで誤解してはいけないことは、だからといって、死に対しての恐怖感が
消えるのではないということ。
強弱の度合をいっても意味はない。
若い人でも、また老人でも、死への恐怖感に、強弱はない。
(死の受容)イコール、(生の放棄)ではない。
老人にも、(否認期)はあり、(怒り期)も(取り引き期)もある。
それゆえに、老人にもまた、若い人たちと同じように、死の恐怖はある。
繰り返すが、それには、強弱の度合は、ない。

●死の否認期

 第0期の中で、とくに重要なのは、「死の否認期」ということになる。
「死の否認」は、0期全般にわたってつづく。
が、その内容は、けっして一様ではない。

 来世思想に希望をつなぎ、死の恐怖をやわらげようとする人もいる。
反対に、友人や近親者が死んだあと、その霊を認めることによって、孤独をやわらげ
ようとする人もいる。
懸命に体力作りをしたり、脳の健康をもくろんだりする人もいる。
趣味や道楽に、生きがいを見出す人もいる。

 が、そこは両側を暗い壁でおおわれた細い路地のようなもの。
路地は先へ行けば行くほど、狭くなり、暗くなる。
そしてさらにその先は、体も通らなくなるほどの細い道。
そこが死の世界……。

 老人が頭の中で描く(将来像)というのは、おおむね、そんなものと考えてよい。
そしてそこから生まれる恐怖感や孤独感は、個人のもつ力で、処理できるような
ものではない。
つまりそれを救済するために、宗教があり、信仰があるということになる。
宗教や信仰に、救いの道を見出そうという傾向は、加齢とともにますます大きくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●縁切り

 この年齢になってはじめて、私は「家族」というものを、考えなおしている。
(これはけっして、愚痴ではない。)
私自身も、他の多くの親と同じように、人一倍、家族を大切にしてきた。
無我夢中で働いてきた。
しかしその結果、そこに残ったものは、何か。
(これはけっして、愚痴ではない。)

 多くの息子や娘たちは、理由にもならないような理由をこじつけ、平気で親を
切り捨てていく。
ある息子は、子ども(=孫)が生まれたとき、妻(=嫁)を見舞ってくれなかった
ことを理由に、親と縁を切っている。
ある娘は、結婚式の費用を負担してくれなかったことを理由に、親と縁を切っている。
つまり盆暮れの行き来を絶っている。

 「話が逆だろ」と私は思うが、その逆転現象が、今では常識。
親が息子や娘に、誕生日カードを送ることはあっても、その逆はめったにない。
そのバカらしさを親が感じたとき、親子の関係は、絶縁する。
つまり子どもの方が、それを理由に縁を切っていく。

●人生の終わりに……
 
 この1年間で、私の育児観は大きく変わった。
飽食論を説いていたら、いつの間にか、人々は飢餓状態になっていた。
もう少し具体的には、老後の生き方を説いていたら、生き方どころではなく、命そのもの
まで危うくなっていた。
家族論についても、同じことが言える。

 「個」は「家族自我群」の犠牲になってはいけない。
それを説いていたら、家族そのものが、それ以上にバラバラになってしまっていた。
正直に告白するが、今の私は、自己嫌悪そのもの。
自己否定の一歩寸前。
「私はまちがっていた!」と、あと一歩で、そう叫ぶようになるかもしれない。

 何かがおかしい。
おかしいというよりは、狂った。
それについては、この先、たくさんの原稿を書くことになるだろう。
このままでよいとは、だれも思っていない。
またこのままだと、それこそ日本は、その根底から精神がバラバラになってしまう。
それもそのはず。

 懸命に生き、懸命に追い求めてきたものが、皮肉なことに「孤独」だったとは!
それこそこんな時代は、私たちの世代だけで終わりにしなければならない。
つぎの世代に残してはいけない。

●再び軽費老人ホーム

 部屋は1人ずつの、6畳。
ほかに小さなクロゼットと机。
食事はみなで、食堂ですますようになっている。

 条件としては、心身ともに健康で、自活できる人ということになっている。
言い忘れたが、年齢は60歳から。
「あなたには入居資格があります」と言われた。
(喜んでいよいのか、それとも悲しむべきなのか?)

「6畳は狭いな」と思ったが、ぜいたくは言えない。
入居できるだけでも、御の字。
独居老人になり、孤独死を迎えるよりは、よい。

 あとはその心の準備を整えること。
そのためには、どうすればよいかを考えること。
なおそのホームの老人たちは、アルバイト程度ではあるが、何らかの仕事を
している人もいるという。
老人ホーム、イコール、けっして「死の待合室」ではないし、またそうであっては
いけない。
そうした老人になってからの生きがいを今から準備する。
それも「今」という時期の重要なテーマと考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 死の待合室 老人ホーム 有料老人ホーム はやし浩司 キューブラー・ロス キ
ュブラーロス 死の受容段階論 はやし浩司 家族論 家族とは何か)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【言語能力】Thinking Ability

●能力論

++++++++++++++++

カモノハシという動物がいる。
何からなにまで、常識をはずれている。
不思議な動物である。
そのカモノハシ。
ほかの動物にはない能力をもっている。

たとえばあのクチバシ(?)。
一説によると、あのクチバシの周囲(縁)
には、電磁波を感知するセンサーがついて
いるという。
(微弱電波、あるいは微弱電流という説も
ある。)

水中の微弱な電流の変化を感知し、それで
もって水中の生物を捕らえたり、水流の
動きを感知することができるという。
(水流は微弱な電磁波を発することが
知られている。)

人間の私たちにすれば、「すごい!」の
一言に尽きるが、カモノハシにしてみれば、
何でもない能力ということになる。
私たちが臭いをかいだり、暑さや寒さを
感じたりする能力と同じ。
当のカモノハシは、自分のそういった能力を、
何も特別な能力とは意識していないだろう。

+++++++++++++++++

●言語能力

 それぞれの動物には、それぞれ特殊な能力がある。
イルカにしても、レーダーに似た能力をもっているという。
自ら超音波を発信し、そのエコー音で、周囲の様子をとらえているという。

 人間だって、負けていない。
最大、かつ最高の能力といえば、当然、「言葉を話す能力」ということになる。
人間は言葉によって、たがいに複雑な情報を共有することができる。
つまり人間がなぜ人間であるかといえば、この能力、つまり言語能力があるから
にほかならない。
「なんだ、そんなことか!」と思う人もいるかもしれない。
が、そう思うのは、ちょっと待ってほしい。

 言語能力といっても、簡単な会話をする能力だけが、その能力ではない。
その程度のコミュニケーションなら、ほかの動物たちも、みなしている。
音声という言葉によるものとはかぎらない。
たとえばミツバチの8の字ダンスなどは、よく知られている。
ミツバチは、8の字ダンスをすることで、ミツのある場所を、ほかの仲間たちに
知らせているという。

 ここでいう言語能力というのは、論理と分析力をともなった、知的能力をいう。
またそれがあるから、人間は前頭前野を、知性、理性の府として発達させることが
できた。

●コメント

 このところ私のHP、BLOG、YOUTUBE、マガジンへのアクセスがふえて
いる。
毎月、総計で、30〜50万回ほどアクセスがある(2010年11月)。
つまりその分だけ、書き込みやコメントが、多くなった。
多くは好意的なものだが、中には、辛らつなものもある。

 昨日は、私のYOUTUBE動画に対して、「NHKの教育番組じゃあ、ネーダロ」
というのがあった。
私はこの一文を読んで、しばらく考え込んでしまった。
意味がよくわからない。
しかし何か、強烈な反感というか、敵意を感じた。
つまり「YOUTUBEは、NHKの教育番組とはちがう。説教ぽくて、おもしろくない。
そんな動画はアップするな」という意味か。
どうであるにせよ、今、こうした日本語がふえている。

 直感的で直情的。
感情を短い文章で叩きつけてくる。
七田氏が生きていたら、「これこそまさに右脳教育の成果!」と喜びそうな文章である。
が、残念ながら、こうした文章は、人間が何十万年もかけて発達させてきた言語能力
とは異質のものである。
あえて言うなら、ケダモノの叫び声と同じ。

●論理と分析力

 言語能力を発達させるためには、作文しかない。
作文に始まって作文に終わる。
言い替えると、言語能力は、文字の発達と密接にからんでいる。
文字の発明によって、人間の言語能力は飛躍的に発達した。
もし文字の発明がなかったら、人間は簡単な会話程度の情報伝達能力しかもたなかった
だろう。

 その言語能力は、論理力と分析力で決まる。
脳の中では、左脳がそれを司っているという。
その能力が不足が不足してくると、それこそ、「テメー、コノヤロー、ぶっ殺すぞ!」
という会話だけで、その日が終わってしまうかもしれない。
「NHKの教育番組じゃあ、ネーダロ」というのも、それ。
もう少し論理的に書いてほしい。
もう少し事実を冷静に分析して書いてほしい。
またそのように書いてもらわないと、私のようなジジイには、よく理解できない。

●言語能力の低下

 最近、あちこちの本や雑誌で、日本人、なかんずく若者たちの言語能力の低下が
指摘される。
それぞれの評論家が、それぞれの判断の中でそう書いている。
作文力がないとか、表現力が乏しいとか、など。
しかしそれ以上に重要なのが、会話力ということになる。

 的確な言葉を使い、簡潔に自分の考えていることを、正確に相手に伝える。
そういった能力が低下しているという。
たとえば子どもの言語能力。
その基礎を作るのは、母親である。
母親の会話力である。

 母親が、「ほらほら、カバン、カバン、帽子、もって!」と話していて、どうして
子どもに言語能力が身につくだろうか。
こういうときは、たとえめんどうでも、「あなたはカバンをもちます。帽子をかぶり
ましたか?」と話しかける。
そういう日常的な努力が、子どもの言語能力の基礎となる。

 言い替えると、これは子どもの問題というよりは、母親の問題ということになる。
現在の(若者たち)は、その結果にすぎない。

●能力

 私たち人間にも、ほかの動物たちに劣らない、すばらしい能力がある。
それが「言葉を話す能力」。
そこで重要なことは、それが「すばらしい能力」と、まず自覚すること。
つまりここがカモノハシと違う点と考えてよい。

 カモノハシには、人間がもつような論理力もなければ、分析力もない。
だから自分たちがどんなすばらしい能力をもっているか、それを知ることもない。
しかし人間はちがう。
私たちは自分の能力を、分析し、それを論理的に体系化することができる。
さらにそれを磨き、発達させることもできる。
あとは、それぞれの個人の努力の問題ということになる。
せっかくその能力をもっていても、宝の持ち腐れにするか、あるいは宝石のように
光らせるかは、あくまでもその人個人の問題ということになる。

 カモノハシという動物を調べながら、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 2010−11−24 カモノハシ 能力とは)

(参考)
●カモノハシ【以下、WWEBLIOより転載】

単孔目(カモノハシ目)は、現存する哺乳類としては唯一、爬虫類や鳥類のように卵を産
むグループとして知られている。(大部分の鳥類と同じように)母親が卵を温めて子を
孵化させ、孵化した子は(他のすべての哺乳類と同じように)母乳によって育てられる。
母親は他の哺乳類のような乳首をもたず、子は母親の乳腺から染み出した乳をなめとる。
爬虫類や鳥類と同様の総排出腔をもつ(これが単孔目 Monotremata という名の由来であ
る)。気温により保ちうる体温が変動するなど多くの哺乳類に比べれば体温調節能力が低い。
このような特徴から、単孔目(カモノハシ目)は、進化史の中で、非常に早い時期(おそ
らく三畳紀)に他の全ての哺乳類のグループと分岐したと考えられ、現生哺乳類で最も原
始的なグループとされる。そのため、このグループは、「原獣亜綱」として、亜綱のレベル
で他の哺乳類(獣亜綱)と区別されている。
(以上、Weblioより)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●北朝鮮問題


+++++++++++++++++


朝、ふとんの中で目を覚ます。
すぐには起きない。
しばらく暗闇の中で、あれこれ考える。
政治のこと、教育のこと、家族のことなど。
そのとき、(書きたいこと)が、モヤモヤ
とした感じで、浮かびあがってくる。
言うなれば、そのとき「方向性」が決まる。


たとえば今回の、北朝鮮による韓国攻撃。
被害者である韓国では、反北感情が、
頂点に達している。
海兵隊戦友会は、早々と、徹底報復を口にした。
「大韓民国を武力侵攻し、海兵隊戦友の命を
奪った金正日一党を即刻、無慈悲に懲らしめる
べき」(中央N報)と。
韓国軍部内では、発言力もあるが、影響力もある。
儒教国家。
オジーチャンの意見には、みな、従う。


しかしあんな国を、本気で相手にしてはいけない。
相手にする価値もない。
北朝鮮は、最後の、そのまた最後の悪あがきを
しているだけ。
国際世論を味方につけ、中国(北朝鮮ではない)
に圧力をかける。
中国が北朝鮮を援助しつづけるかぎり、北朝鮮は
安泰。
言い替えると、中国が動かないかぎり、北朝鮮
問題は解決しない。


そこで重要なことは、「中国がならずもの国家を
支援している」という事実を、国際社会で
浮かびあがらせること。
中国を孤立させること。
結果として、中国を動かす。


「中国は訳のわからない国」と、国際社会で
認識させる。
(実際、訳のわからない国だが……。)
それはそのまま日本の国益にかなう。
日本は、尖閣諸島問題をかかえている。
その先で、沖縄問題をかかえている。
「中台問題が片づけば、つぎは沖縄」。
中国は、そう考えている。
そのときを考えて、今から布石を打っておく。


北朝鮮は、本気で戦争をする気はない。
その力もない。
だいたい、今回の砲撃の理由が、「?」。
北朝鮮の領海内で演習したということを
理由にしているが、そのつぎには、こうある。
「(韓国政府は)たった5000トンしか、
穀物の援助をしてくれなかったから」と。


つまり満足な援助をしてくれなかったから、
攻撃した、と。
このことからだけでも、北朝鮮がいかに
おかしな国であるかが、わかる。
街のチンピラでも、そこまではしない。


日本政府は、公式には韓国に肩入れしても、
けっして深入りはしてはいけない。
当たる触らずというか、適当なところで一線
を引き、あとは静観。
韓国は日本の友好国ではない。
竹島問題ひとつ取りあげても、それがわかるはず。
またここで日本が騒げば、北朝鮮は、このときぞ
とばかり、日本に攻撃をしかけてくる。


で、問題はアメリカ。
黄海に、横須賀を母港とする原子力空母を
派遣するという。
こんなことをしたら、中国の反発を買うだけ。
北朝鮮がいきり立つだけ。
メキシコ湾のフロリダ沖に、中国の原子力空母を
並べるようなもの。
東京湾に、中国の原子力空母が入ってきたときを
想像してみればよい。


『真の平和は、相手国の平和を第一に考えてやった
ときに、やってくる』※(ネール)。


で、いまだにこう言っている人がいるのには、驚く。
「アメリカも北朝鮮と友好条約を結んでやれば
いいではないか」と。
しかしそんなことをすれば、その時点で、
日米安保条約は、形骸化する。
アメリカ本土が攻撃されないかぎり、アメリカは、
北朝鮮に手も足も出せなくなる。


つまりそれこそが、北朝鮮のねらい。
アメリカとの友好条約をとりつけたあと、
韓国ではなく、この日本に対して攻勢をしかけてくる。
「戦争」という言葉をちらつかせながら、日本に
戦後賠償請求をつきつけてくる。
その額、1000兆円!
日本の国家予算の10倍以上!
北朝鮮が10年ほど前、中国に打診した額である。
だから中国は、6か国協議に乗り出してきた。
ロシアも乗り出してきた。
目的は、ズバリ、JAPANマネー。


「平和はいいことだ」「話しあいはいいことだ」と、
のんきに構えていると、それこそ大変なことになる。


今、北朝鮮は、自滅の道をたどりながら、
最後の、そのまた最後の悪あがきを始めた。
国内経済は、ガタガタ。
人心も、バラバラ。
今回の攻撃にしても、報道によれば、170発
近くも砲撃しながら、延坪(ヨンピョン)島に着弾
したのは、たったの80発あまり。
着弾率は、47%。
「用意周到に準備した攻撃」(韓国各紙)にしては、
少しお粗末?


では、日本はどうすべきか。


私はもう10年以上も前から、こう書いている。
「北朝鮮を自滅に導く。
そのためには、人権問題を先頭に、北朝鮮を
しめあげる」と。
今の今も、その考えには、変わりはない。


今朝の報道によれば、北朝鮮は新型ミサイル
(ムスダン)の発射準備にとりかかり始めたという
(2010−11−25)。
遠く、イランと共同開発ということらしい。
この動きからもわかるように、標的は
ズバリ、この日本。
時間的猶予は、ますます残り少なくなってきた。


北朝鮮を自滅に追い込むには、どうすればよいか。
それを第一に考えて、行動する。
アメリカや韓国の尻馬に乗るようなことだけは、
ぜったいにしてはいけない。
わかりやすく言えば、国際社会で言うべきことは
言っても、「あとは、ほっておけ!」。
日本の知ったことではない。


(注※)『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結
合した世界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)
と。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●NG先生へ

 みかん、ありがとうございました。
先日も話しましたように、山荘周辺のみかん畑はサル軍団のため、全滅。
引佐町で、ミカンを栽培しているところは、今、ほとんどありません。
おいしくいただきました。

●息子たちへ(はやし浩司 2010−11−26)

(浜松のSへ)

 禁煙はむずかしそうだね。
しかし負けるな!
健康とは維持するもの。
油断すると、健康の方から逃げていく。

(アメリカのSへ)

 昨日、芽依と誠司のクリスマスプレゼントを送っておいた。
芽依には、TOY CAMERA。
誠司には本と、ゲームソフト2本。
SAL便なので、たぶんクリスマスまでには、間に合うと思う。
少し早いが、メリークリスマス。

 電話で話したように、誠司の問題は、「はやし浩司 xxxx」で
検索してみてほしい。
参考になると思う。

(千葉のEへ)

 先日、ママのアドレスなどをメール送っておいたが、届いているか。
貴君のパソコンは、どうも「?」、という印象をもっている。
ウィルスチェックなどを、ちゃんとしているか?
それにパソコンには、パスワードをしっかりとかけること。


 こちら(パパ+ママ)は、みな、元気。
来年4月からは、Sが、ぼくの仕事を手伝ってくれるかもしれない。
頼むよ、S!
楽しい仕事だよ。

++++++++++++++++++

●北朝鮮問題(As to North Korea)

++++++++++++++++

以前、オーストラリアの国防省にいた
KD君より、メールが届いた。
現在の極東情勢を、客観的、かつ正確
に見抜いている。
たいへん興味深い。

++++++++++++++++

Dear Hiroshi, 

Thank you for sending me your article. 

原稿を送ってくれて、ありがとう。

North Korea has been planning these sorts of incidents for a long time. 
However the USA has been thinking about other things. First they got involved in Iraq and 
forgot about Asia and then they were worrying about the economic crisis. Now suddenly the 
USA realizes that the problems in Asia are still there. 

北朝鮮は、長い間、この種の事件を計画してきた。
しかしUSAは、ほかのことに気を取られていた。
ひとつはイラク問題。
そのためアジアの問題を忘れていた。
もうひとつは経済危機。
やっと今、USAは、アジアの問題がそこにあることに気がついた。

China does not want Korea to be united. China is happy for North Korea to cause a little bit 
of trouble. It can use this to bargain with the USA. 

中国は、南北朝鮮が統一されることを望んでいない。
中国は、このようなトラブルが起きたことを喜んでいる。
これを利用して、USAとバーゲン(取り引き)をすることができる。

There is no easy solution. As you write, North Korea will self-destruct eventually. 

簡単な解決方法はない。
君が書いているように、結果的に、北朝鮮は自己崩壊するだろう。

K,D


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【2011年の抱負】

2010年を振り返ってみる。
この1年間を、一歩退いて見直してみる。
するとそこに、私という1人の人間が、
浮かびあがってくる。
そういう自分を改めて、ながめてみる。

何となく生き延びてきた。
しぶとく生き延びてきた。
そんな感じがする。
(少し暗いかな?)

現在(2010年11月末)、私は63歳と1か月。
体のあちこちが、ガタガタしてきた。
同じ姿勢でいると、体がこわばる。
後頭部の神経痛がときどき起こる。
足裏の腱しょう炎が治ったと思ったら、
今度は右肩の腱しょう炎。
これが数か月単位で長引いた。

人というのは、急に死ぬのではない。
もちろんそういう病気もある。
心筋梗塞とか脳梗塞。
そういう病気では、急に死ぬ。
そうでなければ人は、少しずつ「死」に向かって
歩いていく。
つまり健康とは、今までは維持するものだった。
それが今は、健康とは、少しずつ失っていくもの。
この1年間で、それが自分でもよくわかった。

2011年は、そんなわけで、健康との闘いが
テーマになりそう。
失われていく健康を、どう食い止めるか。
・・・というより、ふと油断したようなとき、
病気は、後ろから襲ってくる。
友人のOKさんがそう話してくれた。
OKさんは、現在、血液のがんと闘っている。
私より数歳、若い。

つぎに「流れ」。
連続的な緊張感を、「流れ」という。
東洋医学でも、『流水は腐らず』と教える。
精神も肉体も、流れが止まったとたん、腐り始める。
その「流れ」を、どう維持するか。
連続的な緊張感を、どう維持するか。
具体的には、仕事+活動。
収入を考えた仕事と、まったく収入を考えない活動。
この2つを両立させる。

2010年は、それをうまく両立させることができた。
2011年も、それをつづける。
平たく言えば、「現状維持」。
現状維持ができるだけも、御の字。
そう考えて、それ以上のことは、望まない。
冒険しない。
日々に、平穏を旨とする。

・・・ということで、年齢というのは
私の一側面に過ぎない。
残りの大部分は、2010年のまま。
そう考えて、今までどおり、2011年も
現状維持を第一に考えて、何とか
生き延びてやる。
しぶとく生き延びてやる。
それが2011年の抱負ということになる。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●限界

++++++++++++++++++

最近、ときどき限界を強く感ずるようになった。
いくらがんばっても、いくらもがいても、
そこにある壁を破ることができない。
どうしてもできない。

「壁」といっても、「心の壁」。
自分で自分を、うまくコントロールできない。
何ごとも悪いほうへ、悪いほうへと考えてしまう。
つまり落ち込む。
それではいけないと、自分に言って聞かせる。
が、別の「私」がそこにいて、勝手に動き回る。
いじけたり、すねたり、ひがんだり・・・。

そういうときふと弱気になる。
神や仏に、すがりたくなる。
数日前も、『♪Amazing Grace』
(アメージング・グレイス)を口ずさんでいたら、
涙がこぼれた。

私は仏教徒というよりは、キリスト教徒。
できるだけ半々くらいにしたいとは
思うが、どうしてもキリスト教のほうに
傾いてしまう。

クリスマスが近いこともある。
このところ毎日、孫へのプレゼントは
何にしようかと悩んでいる。
そのせいか?
私はそういう点では、単細胞。
単純。
それでキリスト教徒?

++++++++++++++++++

●『Amazing Grace』

 英語の「アメージング・グレイス」をどう訳すか。
かなりの英語力のある人でも、むずかしいのではないか。
直訳すれば「驚きの・優雅さ」となる。
が、もちろんそんな意味ではない。
ヒントは、歌詞の最後にある。
「グレイス、終わりなき愛(Unending Love)」とある。
つまり神の包括的な深い愛、それを「グレイス」という。

 これは私の勝手な解釈によるものなので、「?」に思う人も多いだろう。
しかしそういうふうに解釈すると、「アメージング」の意味もわかってくる。
「突然、私は神の深い愛に触れた」と。
だから歌の題名の「Amazing Grace」を訳すとしたら、
「尊き神の深い愛」でよいのではないか。


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【理想的な人間とは】

●義兄の夢

 もうひとつ、最近、突飛もないことを考えるようになった。
きっかけは、義兄だった。
義兄がこう言った。
「ぼくね、浩司さん、宇宙人に会ったら、UFOを一隻もらうんだよ。
それに乗ってね、世界中の人たちに平和を説き、世界中から核兵器をなくすんだよ」と。

 ここでいうUFOには、人知をはるかに超えた、能力と技術が備わっている。
たとえば1000台の戦車も、一瞬にして灰にすることができる。

 私も心のどこかで似たようなことを考えたことはある。
しかしそれを打ち消す負の力のほうが強く、それ以上のことは考えなかった。
が、それを義兄が口にした。
驚いた。
「ぼくも同じようなことを考えたことがあります」と。

 しかし宇宙人がいたとしても、私のような人間など、選ばない。
それこそ『気xxx(=mad man)に刃物』ということになりかねない。
世界をメチャメチャにしてしまうかもしれない。

●人選

 宇宙人がいたとする。
その宇宙人が、1人の人間を選ぶとしたら、どんな人間を選ぶだろうか。
当然、神々しい人間ということになるが、狂信的な意味で、神々しい人
というのは、好ましくない。
毎日、朝晩、「神よ」「神よ」と賛美歌だけを歌っているような人では困る。
つまり崇高な哲学観をもった、現実主義的な人でないと困る。

 となると、大学の研究者かということになるが、そういう人でも、これまた困る。
(現実)との接点が弱い。
最近の研究者と言われる人たちは、細分化され、さらに細分化された世界のみ
で、生きようとしている。
専門家としての立場を守ろうとしている。
小さな、そのまた小さな世界のことはよく知っている。
しかしその世界だけのことしか、知らない。
「研究バカ」(失礼!)という言葉も、そんなところから生まれた。

 となると、人間社会の最下層で、苦労をし尽くした人が好ましい。
が、ここでもまた別の問題が生まれてくる。
苦労したといっても、その一方で、その上に熟成された知性と理性がなければならない。
日々の生活に追われ、「ものを考えるヒマもなかった」というような人では困る。

・・・と考えていくと、候補者がいなくなってしまう。

●理想的な人間

 この問題は、実は、きわめて重要な命題を含んでいる。
「どういう人間を、理想的な人間というか」と。
あるいはあなたなら、つまりあなたが宇宙人なら、どんな人間を、人間の
代表として選ぶだろうか。
選んで、こう命令するだろうか。

「君に、UFOを一機あげる。このUFOを思う存分使って、地球を平和な
惑星にしなさい」と。

 もちろん私なら、(私が選ばれることは、ぜったいにないが)、即座に断わる。
私には、独裁者的な性格が潜んでいる。
自分でも、それがよくわかっている。
つまり危険人物。

もし私が好戦的だったら、そのもてる武器によって、人類を破滅に導く
かもしれない。
核兵器どころの話ではない。
小型のブラックホール爆弾や、反重力爆弾によって、惑星どころか、太陽系全体を
消滅させてしまうことも可能。

 となると、1人のリーダーに任すというよりは、国際連合のような組織に、
任せたほうがよい。
世界中から賢人を集めて、その賢人たちに、意思を決定させる。
その決定に従って、忠実な実行者がUFOを操る。
結局は、そういう方法がベストということになる。

●結論

 結論を先に言えば、人間には、まだその資格はないということ。
「その」というのは、宇宙人がもっているような技術をもち、宇宙へ飛び出すような
資格をいう。
むしろ逆。
私が宇宙人なら、人間が宇宙へ飛び出してくるのを、どんな方法を使ってでも、阻止
する。
人間という生物は、実に、危険極まりない。
今の今ですら、そこらのサルが、ライフル銃を撃つようなことを平気でしている。
そんな生物が宇宙へ飛び出してきたら、この宇宙は、どうなるか。
宇宙人だって、それをよく知っている。
(もし、いれば……の話だが。)

 宇宙開発。
それはそれで結構なことだが、同時に2つのことを私たち人間はしなければならない。

(1)個の哲学の確立。
(2)宇宙開発をコントロールする国際機関の確立。

私「ぼくは権力をもったことがないので、よくわからないのですが、権力には、
恐ろしい魔力がありますよ」
兄「魔力ねえ……」
私「それにとりつかれると、ものの考え方が一変します」
兄「なるほど。それはこわいね」
私「そうなんです。いくら高邁(こうまい)な哲学をもっていたとしても、その魔力
の前では、ひとたまりもない」
兄「やっぱり、やめるかなあ」
私「そうですね。やめたほうがいい」と。

 義兄には言わなかったが、ついでに私はこんなことも考えた。

 逆に、あなたが、サルの惑星かどこかに落とされたことを考えてみればよい。
宇宙のどこかに、サルが支配する惑星があったとする。
あなたは、そこへ落とされた。
二度と、地球へは帰れない。

 そこではあなたは神のような存在になる。
あなたは独裁者として君臨する。
何十億匹ものサルの指導者となる。
が、あなたははたしてそんな世界で、満足感を覚えることができるだろうか。

 私は、「できない」と思う。

+++++++++++++++++

今日(11月26日)も始まった。
がんばろう!

みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●言葉としての英語

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子どもの英語教育というと、
「会話」、つまり「英会話」を意味する。
しかし会話など、外国へ行き、1〜2年も
すれば、だれでもできるようになる。
赤ん坊でもできるようになる。

大切なのは、言葉としての英語。
それを今回は、実験的に教えてみた。
「文法」を意識させず、文法を
教える。
言葉として、英語を教える。

対象は、年長児(5〜6歳児)。
あわせて大切なことは、子どもたちが
それを楽しむこと。
「英語っておもしろい」と思えば、
しめたもの。
またそれがねらい。
そういう印象が、やがて
子どもを前向きに引っ張り始める。

+++++++++++++++

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児の英語 幼児の英語教育 言葉としての英語 言葉としての英語教育 はや
し浩司 幼児にどう英語を教えるか 幼児英語教室)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【息子たちへ】

●映画『レオニー(Leonie)』★★★★★

++++++++++++++++++

仕事の帰りに、深夜劇場に足を運んだ。
『レオニー』を観た。
観客は私たち夫婦を含めて、8人前後。
あの広い劇場が、ガラガラ。
「暇つぶし」と覚悟を決め、席に深く
体を沈めた。

が、それがとんでもないまちがいだった。
映画が始まると同時に、心がどんどんと
スクリーンの中に、吸い込まれていった。
レオニー役の女優が、嫁のデニーズに
瓜二つと言ってよいほど、似ていた。
加えてあのアメリカ人独特の、ジェスチャ、
目配りの仕方、反応の表し方などなど。
1カットごとに、デニーズを思い出していた。

が、そうした「ひいき目」を除いても、
星は5つの、★★★★★。
すばらしかった。
泣いた。
涙、ポロポロ。
またポロポロ。
横を見ると、めったに泣かないワイフまで、
ハンカチで顔を何度もぬぐっていた。
よかった。
映画が終わったとき、別の人生を駆け足で
走り抜けたような実感を、ズシリと覚えた。

実話をもとにしているだけに、フィクション
映画にありがちなスキがなかった。
人間の心が複雑にからみあいながらも、
ストーリーが矛盾なく流れていった。

劇場を出るとき、「よかったね」とワイフに
言うと、ワイフも「よかったね」と。
会話はそれだけ。
久々によい映画を観た。

++++++++++++++++++++

●二男

 数日前、二男と電話で話した。
その中で、二男がこう言った。
「ぼくはパパから学んだことが、ひとつある」と。
「何だ?」と聞くと、「パパは、借金はするなと言った。ぼくはそれを守っている。
だからみな周りの人たちは、借金漬けで困っているが、ぼくは借金がない。
だから、ぼくは楽だ」と。

 で、あれこれ私は説明した。

 この資本主義社会の中では、借金は避けて通れない。
またどんな事業を興すにも、個人の力には限界がある。
そこで借金、つまり株式制度というのが生まれた。
アメリカで、それが発展した。

 だから借金をしないのが、よいというのではない。
私も、土地を買ったり、家を建てたりするときには、借金をした。
が、その場合でも、「預金担保」といって、同額のお金を、まず定期預金にする。
その定期預金を担保に、お金を借りるという方法を使った。

 が、個人の立場でいうなら、借金はしないほうがよい。
若いころ、ある経営者が、こう教えてくれた。
その人は当時、浜松市市内で、1、2を争う電気通信企業の社長をしていた。

●生活の安定

 名前をYS氏と言った。
そのYS氏、こう教えてくれた。
「どんなにころんでも、家庭だけは守れ。最低限の収入は確保する。
それができたら、あまったお金と時間を使って暴れろ!」と。

 つまり家庭を維持するための最低限の収入は確保する。
またそれを守る。
冒険するのは、その外でしろ!」と。

 で、私はYS氏の教えを、かなり忠実に守った。
当時私は塾経営を、生活の基盤にしていた。
この仕事のよい点は、生活が安定すること。
単位時間当たりの収入は少ないが、急激な変化というのは、ない。

 それはそれとして、私は別の世界で、別の仕事をした。
翻訳に通訳、代筆に本の編集など。
貿易の手伝いもしたし、もちろん家庭教師や予備校の講師もした。
こうした仕事は、単位時間当たりの収入は多いが、不安定。
仕事が重なれば、徹夜。
なければ、ヒマ。

【アメリカの宗へ】

 誤解しないでほしいのは、「借金が悪」とぼくが言ったのではないということ。
必要なときは、借金もする。
ぼくも一度だけ、10円を借りたことがある。
どうしても電話をかけなければならなくなったときのこと。
10円硬貨をもっていなかった。
それで10円を借りた。
その10円が、ぼくにとっては生涯で、最初で最後の借金。
翌日、その貸してくれた人に、菓子箱をつけて10円、返しに行った。
相手の人は、驚いていたが……。

 ただ「借金をする」イコール、「他人にものを借りる」というのは、
最小限にしたいね。
どこかで人生観につながっている。
自分の時間は、自分のもの。
一瞬一秒、すべて自分のもの。
借金をするということは、その時間を、他人に譲り渡すようなもの。
ひどいばあいには、借金に追われるようになる。
そうなると、自分の時間など、どこかへ吹き飛んでしまう。
ばあいによっては、「家庭」そのものが、危機的な状態に追い込まれる。
つまり生活の基盤がゆらぐ。
それだけは、避けようね。

 どんなに貧しくても、またみずぼらしくても、「家庭(HOME)」だけは、大切に。
他人に譲り渡してはいけない。
家族を路頭に迷わせてはいけない。
つまりそれが「借金をするな」という言葉の意味と考えてほしい。

 ともかく、借金をすると、(たぶん?)、生き様が卑屈になる。
その相手に頭があがらなくなるからね。
自由と独立、プラス、尊厳を守るためにも、借金は避けたほうがいいよ。

 もしどうしてもお金が必要になったときは、ぼくに言いなさい。
無利子で、期限を付けないで、貸すよ。
ただしできるだけぼくと晃子が、元気なうちに、少しずつでもいいから、
返す……という条件は付くけどね。

 で、もう一言。

 支払いは、どんな支払いでも、ぼくは1週間以内にすますようにしている。
いくら相手が「来月でもいい」と言っても、そうしている。
相手を不安にさせないこと。
これはたがいの人間関係を、すがすがしくするためのコツではないかな?
どうか参考にしてほしい。

【浜松の周へ】

 幼児教育のすばらしい点は、楽しいこと。
それに幼児には、「汚れ」がない。
プラス、パワーに満ちあふれている。
今、YOUTUBEで、教室の様子を公開しているが、そうした様子を
ビデオを通して感じてもらえれば、うれしい。

 ぼくもよく気分が落ち込むが、幼児に接したとたん、気分がパッと晴れる。
だから最近は、こう思うようになった。
「ぼくのほうが、助けられている」と。

 幼児教育というと、多くの人は「幼稚教育」と考えている。
が、これはとんでもない誤解。
その奥は深い!
本当に深い!

 ぼくは20代のはじめは、法律を学んだ。
一応法学院にまで進んだ。
また20代から30代にかけては、東洋医学の勉強に没頭した。
同時に40歳前後まで、教材作りを「仕事」としてきた。
ぼくが制作、指導した市販教材は、無数にある。

 で、貴君も知っているように、その間に、カルト教団を相手に、本を5冊
書いた。
これは貴君も知っているように、命がけの闘いだった。
おかげで宗教とは何か。
それを自分なりにつかむことができた。

 そういう過去の経歴の上で、あえて断言する。
「幼児教育は奥が深い」と。
つまりそこに「私」の原点があると考えてほしい。
なぜ「私がここにいて、ここで生きているか」。
その原点がある。

 言うなれば白い箱の上に、さまざまな絵や模様をつけていく。
それが幼児教育ということになる。
もちろん、もとから箱の中にはいっているものもある。
が、それはそれ。

 その絵や模様が、「私」ということになる。
奥が深いというのは、そういう意味。
一生の仕事として、何ら恥じることはない。
ほとんどの人は、その価値にすら、気づいていない。

●教育とは

 数日前、窓の外の景色を見ながら、こんなことを考えた。
「教育とは何か?」と。

 私は自分の頭の中で、こう仮定してみた。
「もし、神様かだれかが、私を20歳のときまで戻してくれると言ったら、
私はそれに従うだろうか」と。
「ただしすべてを、一度、白紙にしたあと、戻す」と。

 しばらく考えてみたが、答はやはり、「NO!」だった。
また同じ人生を歩めと言われても、私にはできない。
またイチからやり直せと言われても、私にはできない。
私はこの40年間で、いろいろなことを学んできた。
けっして楽な道ではなかった。
平坦な道でもなかった。
私はあえて、肩書きや地位には、目もくれなかった。
むしろ背を向けて、生きてきた。
私は私。
どこまでもいっても、私は私。

 こんな生き様は、現代の社会では通用しない。
だからワイフは、よくこう言う。
「あなたは、どうしてあえて苦しい道ばかりを選ぶの?」と。
「組織をうまく利用すれば、もう少し楽な生き方ができたのに」とも。

 が、今になってみると、私は私でよかった。
私は自分の力で、ここまで生きてきた。
だからそれを再び、それを繰り返せと言われても、私にはできない。
つまりここに「教育」の意味がある。

 話がトンと飛躍したので、意味のわからない人も多いかと思う。
つまり私が言いたいのは、私がこの40年間で学んできたもの……知識や知恵、
経験や技能、それをつぎの世代に伝えていくのが、「教育」と。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

 仮に今、私が20歳の、あの年齢まで戻ったとしよう。
もしそのとき、そこに「はやし浩司」の記録があり、それを手に入れることが
できたとしよう。
そうであるなら、私はそれをむさぼり読むだろう。
はやし浩司が40年かけて、学んだものを、そのまま自分のものにするだろう。
そうすれば、私は同じ人生を、繰り返さなくてもすむ。
私は、「はやし浩司」を土台に、さらに進んだ「私」をその上に構築することが
できる。
もし、そうなら、つまりそれができるなら、私は「YES!」と答える。
喜んで、20歳の時の私に戻る。

 つまり「教育」とは、何かと聞かれたら、私はこう答える。
つぎの世代の人たちの人生を、2倍、あるいは3倍にするもの、と。

●教育拒否症

 この日本では「教育」という言葉を耳にしただけで、拒絶反応を示す
人は多い。
とくに「教育評論家」という肩書きに、拒絶反応を示す人は多い。
「拒否的態度」と言い替えてもよい。
わかりやすく言えば、「教育」が嫌われている。

 それもそのはず。
「教育」という名のもと、よい思い出をもっている人は、ほとんどいない。
みな、イヤ〜ナ思い出ばかり。
私自身が、そうであるから、どうしようもない。
私も「教育評論家」という肩書きをもっている人が、好きではない。
中身がないくせに、偉そうなことばかり言う。
そんなイメージをもっている。

 自己弁解ぽいが、私はいつの間にか、「教育評論家」ということになって
しまった。
雑誌社や新聞社が、最初は、勝手に、そういう肩書きを私につけた。
「肩書きはどうしましょう?」というから、「適当に」と。
そう答えていたら、そうなってしまった。

 しかし私は名刺にも、その肩書きを使ったことはない。
あえて拒絶しなければならないようなことでもないから、今ではそのままに
しているが……。

 話が脱線したが、これは日本人にとっては、悲しむべき現象と考えてよい。
尾崎豊の「♪卒業」に表現されているように、教育を否定するということは、
若い人たちがみな、またイチからの人生を始めることを意味する。

 先人、つまり私たちが今まで積み重ねてきた、知識や知恵、経験や技能、
それらをまたイチから始めることを意味する。
私にたとえて言うなら、私という人間が、再び、頭の中を空っぽにして、
20歳へ戻るようなもの。
もし、そうなら、答は、「NO!」。
その「NO!」と言うような人生を、若い人たちは、自分で始めなければ
ならない。

●若い人たちへ

 どうして君たちは、謙虚になって、先人たちからものを学ばないのか。
マネをせよというのではない。
(「学ぶ」というのは、もとは、「まねる」が語源になっているというが……。)

 もし君たちが、ほんの少しでも、私たち先人の言葉に耳を傾けてくれたら、
そのまま私たちが身につけた、知識や知恵、経験や技能を、そのまま自分の
ものにすることができる。

 失敗を防ぐとか、そういう単純なことではない。
「私」という人間の人生を、ばあいによっては、2倍にも3倍にもして、
生きることができる。
ただ残念なことに、先にも書いたように、日本の「教育」は、おかしい。
どうおかしいかは、みなさんがよく知っている。
以前、私は学校について、「人間選別機関」という言葉を使った。
今でも、その性格は、色濃く残っている。
それに君たちは、苦しめられた。
私も苦しめられた。

 が、それが本当の教育ではない。
たとえば「受験教育」というのは、「教育」という名前を使っているが、
中身は、「指導」、もしくは「訓練」。
そういうものをもって、「教育」と誤解している。
錯覚している。

 では、教育とは何か。
それは先にも書いた。
『つぎの世代の人たちの人生を、2倍、あるいは3倍にするもの』と。

 それに気づいてくれれば、ひょっとしたら、教育に対するものの
考え方が変わるのではないか。
私の意見にも、耳を傾けてくれるのではないか。

「はやし浩司は教育評論家だ」と、どうか、毛嫌いしないでほしい。
またそういう目で私を見ないでほしい。

【息子たちへ】

 今すぐでなくてもいい。
いつか気が向いたら、ぼくが書いたものを読んでみてほしい。
貴君たちが、「パパは仕事ばかりしていた」「つまらない人間」と思っている
のは、よくわかっている。
が、こんなぼくでも、懸命に生きてきた。
無駄なこともしたし、貴君たちには、ずいぶんとつらい思いもさせてしまった。
しかし今、こんなふうに思う。

 何のことはない。
貴君たちはぼくがしてきたことを、繰り返しているだけではないか、と。
同じことをしているだけではないか、と。

 もちろん中身はちがうかもしれない。
ぼくが若いころそうであったように、貴君たちも今、こう考えている。
「ぼくは、親父とはちがう。
親父のようなつまらない人間ではない。
ぼくはぼくの道を歩んでいる。
親父とはちがった人間になる」と。
ぼくも、かつてはそう考えた。

 しかし今、ぼくという人間を客観的に見ると、ぼくはあの親父とどこも
ちがわない。
結局は、ぼくは親父が歩んできた道と同じ道を歩んでいるだけ。
もし若いころ、もっと謙虚になって、親父の話に耳を傾けていたら、ぼくは
自分の人生を、さらに長くすることができたかもしれない。

が、ぼくも若かった。
イチからすべてを始めてしまった。
今から思うと、それが残念でならない。

 ……少しセンチメンタルなことを書いた。
これもあの映画の影響かもしれない。
『レオニー』。
すばらしい映画だった。
機会があったら、貴君たちも観たらよい。

 でね、最後に一言。
これも繰り返しになるが、100年以上も前に、すでにぼく以上に、はるかに
濃密な人生を送った人がいた。
ぼくは、そういう先人たちの残した、知識や知恵、経験や技能を、何も生かして
いない。
それを知ったとき、ズシリとした重みを、心の中で実感した。

 どうか時間を無駄にしないように!
より豊かで、すばらしい人生を送ってほしい。

では、今日も始まった。
ぼくも貴君たちに負けないよう、がんばる。

はやし浩司 2010−11−27、朝記。
山荘にて。

【補記】

 若い人たちは、明治時代というと、遠い昔の時代のように思うかもしれない。
しかし人は年を取れば取るほど、過去のほうが自分に近づいてくるのを知る。

 たとえば20歳の人にとっては、100年前というのは、自分の人生の
5倍も昔ということになる。
しかし50歳の人にとっては、たったの2倍。
63歳の私にとっては、たったの1・58倍。
80歳の老人にとっては、さらにたったの1・25倍。

 つまり明治時代は、「昔」ではなく、ほんのつい「昨日」。
そういうふうにして、自分に近づいてくる。
言い替えると、明治時代そのものが、まだ私の心の中で息づいている。
よく「時代は変わった」と言う人がいる。
しかし何も変わっていない。
それが年を取れば取るほど、よくわかってくる。

 そんなことも考えながら、『レオニー』を観るとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 レオニー Leonie 映画・レオニー)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●新家族主義

++++++++++++++++++

それはたわいもない話から始まる。
私はあるとき、ふと、こう考えた。
「私が若いときには、親に、仕送りをした。
が、今の若い人たちで、それをしている人は
ほとんどいない」と。

だからといって、それが悪いというのではない。
息子たちに、同じことをしてほしいと願って
いるのでもない。
もし息子たちがそんなことをしたら、即座に
そのお金は返すだろう。

で、たわいもない話というのは、その先。
私は、ふと、こうも考えた。

「考えてみれば、私の生徒たちは、毎月
私にお金をくれるではないか」と。

「教える立場」では、月謝ということになる。
しかし札に名前はついていない。
札は札。
それなりの価値はあるが、ただの紙切れ。
とたん、気が晴れた。
前がパッと明るくなった。

生徒たちは、(実際には、その親たちだが)、
毎月、お金を届けてくれる。
私が40年前にしていたように、毎月、
袋に現金を入れて、私に渡してくれる。
「仕送り」と「支払い」。
言葉はちがうが、中身は同じ。

……というか、その複線として、最近、
生徒たちが、自分の息子や娘、さらには
自分の孫のように感ずることが多くなった。
中には、私の孫そっくりな子どももいる。
そういう子どもが、「先生、これ!」と言って、
お金(月謝)をくれる。
とたん、申し訳ない気分に襲われる。

そこで先に書いた話に戻る。
「考えてみれば、私の生徒たちは、毎月
私にお金をくれるではないか」と。

私は今、生徒という名前の子どもたちに
助けられている。
励まされている。

中には、「実の息子や娘と、生徒はちがう」と
考える人もいるかもしれない。
ならば聞くが、どこがどうちがうというのか?
少なくとも私のばあい、こと孫について言えば、
「かわいさ」という点では、差はない。
めったに会えないこともある。
しかしそれ以上に、私の心のワクが広がった。
「家族」という狭いワクから、一歩、外に出た。
明らかに意識が変わった。
とたん、自分の子とか、他人の子とか、
そういうふうに分けて考えることができなくなった。

私はかつて実家に仕送りをした以上に、生徒たちから
仕送りを受けている。
小遣いいじょうの小遣いをもらっている。
そのお金で、今、生きている。
……生かされている。

で、あえてここで新しい言葉を披露する。
「新家族主義」。
「家族」というワクを超えた、「家族」。
そのワクを超えた家族を大切にする。
それが新家族主義。

++++++++++++++++++++

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【BW子どもクラブより】(年中児、4〜5歳児クラス)

●今週は、英語を、言葉として教えてみました。

英語教育というと、「会話」の暗記のように考えている人は多いですね。
英語を、「言葉」として教えることは可能なのか。
そんな実験を今週は、してみました。



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Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【朝鮮日報・ソウル本社編集部御中】?? ?? ??? ??

●韓国・朝鮮日報・東京=辛貞録(シン・ジョンロク)氏へ

●勝手に日本人の心を翻訳しないでほしい!

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++++++++++++++++++++

朝鮮日報・11月28日付けの記事を読んで、
またまた驚いた。
見出しには、こうある。
『北朝鮮砲撃:「韓国軍は意外と弱い」』と。
あたかも産経新聞がそう報じたかのように、
(というより、産経新聞がそう報じたと)、
書いてある。

しかし産経新聞のどこを読んでも、そんな
ことは一行も書いてない。
念のため、産経新聞がどう報じたか、朝鮮
日報の記事の中から、そのまま拾ってみる。
みなさんも注意深く、読んでみてほしい。

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++++++++++++++++++++

+++++++以下、朝鮮日報の記事より+++++++++

 産経新聞は26日付で、「韓国、自走砲の半数故障」「最前線弱体化、国防相が引責」という内
容の記事を掲載した。

 産経新聞ソウル支局の黒田勝弘支局長はこの記事で、「北朝鮮軍はロケット砲まで動員した
が、韓国軍の長距離砲は半分が故障などの理由で十分な反撃ができなかった」「周辺の海岸
一帯に軍団規模の兵力数万人を配備している北朝鮮に対し、韓国軍は海兵隊約5000人など
旅団規模で、しかも縮小計画が進められていた」などと、現地の状況について紹介した。

 黒田氏は、「南北間で衝突が繰り返されてきた最前線であるにもかかわらず、韓国軍の戦力
低下が明らかになった」という趣旨の指摘も行った。

 さらに、「韓国軍の最大の問題点は、今回の砲撃が(哨戒艦『天安』が沈没した)最前線で起
こったにもかかわらず、相手の攻撃に対する備えが改善されていなかった点」と前置きした上
で、このように最近になって韓国軍の戦力が低下していることについて、韓国国内では、「太陽
政策を行った金大中(キム・デジュン)・盧武鉉(ノ・ムヒョン)両政権の10年間に急速に(戦力低
下が)進んだ」との見方が支配的と話している。

 一方、毎日新聞は砲撃が行われた23日の平壌の様子について、現地に滞在していたある在
日朝鮮人の発言を引用して紹介した。北京発のこの記事で同紙は、「先制攻撃を受けたた
め、それに厳しく反撃し、大勝利を得た、と(北朝鮮では)誰もが口にしている」と報じている。
東京=辛貞録(シン・ジョンロク)特派員

+++++++以上、朝鮮日報の記事より+++++++++

●敵意のねつ造

 産経新聞の記事を読んでもらえただろうか。
「韓国軍は意外と弱い」などという、どこか蔑視的な表現はどこにもない。
「韓国軍は意外と弱い」と感じているのは、特派員自身ということになる。

 自分自身(=特派員自身)が意外と弱いと思っているので、「相手(=日本)も、
そう思っているにちがいない」と思い込む。
思い込んだ上で、「日本人は、韓国軍は意外と弱いと思っている」という記事を書く。

こういうのを心理学の世界では、「投影」という言葉を使って説明する。
たとえばあなたがAさんならAさんを嫌っているとする。
そういうとき自分を正当化するために、Aさんが私を嫌っていると先に思い込む。
思い込んだ上で、「私がAさんを嫌いなのは、Aさんが私を嫌っているから」と
決めつける。

 先月(2010年10月)には、「日本各紙は打倒韓国をめざし、云々」という
記事が載った。
そこで調べてみたが、産経新聞も経済新聞も、そのほかの大新聞も、「打倒韓国」などと
いう言葉はどこにも使っていないことがわかった。
筆者自身(=私自身)が、しっかりと調べたから、まちがいない。

 このときも記者個人の被害妄想が、「打倒韓国」という言葉を生みだした。
が、韓国国内の読者には、それがわからない。
「日本人は、韓国は意外と弱いと思っている」とか、あるいは、「打倒韓国をめざして
韓国に挑戦してきている」とか思う。
思った上で、「日本人め!」と、なる。
これは一特派員の妄想では、すまない話である。

●2007年の11月に書いた原稿より

+++++++++++++++++++

こうした妄想による日本人の心のねつ造は
今に始まったことではない。
2007年の11月に書いた原稿を、そのまま
再掲載する。

+++++++++++++++++++

●日韓関係(Japan and Korea)

Even in the small column in a newspaper we can feel their hostility against Japan. According 
to the Chuo-N, the leading Korean Newspaper, Japanese companies have united together 
to fight agaist Korea but all of them is false, written with persecution mania. You will know 
what it is if you read this:

 この原稿がマガジンで配信されるころには、韓国では、新大統領が誕生しているはず。現在
の予想では、ハンナラ党の、I氏が最有力候補だが、何が起こるかわからないのが韓国。先の
金大中前大統領も、現在のN大統領も、ハプニング的に、大統領になった。

 が、ハンナラ党のI氏だから、日韓関係が改善すると考えるのは、早計である。韓国人の対
日感情には、常に、2面性がある。(あこがれ)と(憎しみ)、この2つが同時にウズを巻いてい
る。そのつど、このどちらかが、表に顔を出す。

 たとえばつぎのコラムを読んでみてほしい。これは韓国の中央N報(12月11日版)に載った
記事である。経済記事だが、中央N報という、韓国第一の新聞社でも、こうした記事を堂々と掲
載している。

++++++++++以下、転載

日本経済産業新聞は、最近、日本の半導体メーカーのある幹部の発言を引用、「機密費波紋
でS星が"経営空白"危機に陥った」と報道した。この新聞はまた、他の半導体市場分析家の
話を引用し「新製品の買い替え時期が早い半導体特性上、投資延期は致命的損失はもちろ
ん、国際競争から追い出される原因となる」と分析した。 

同新聞は今回の事態を通じて日本の半導体メーカーが起死回生するチャンスに期待している
と報道した。日本の半導体メーカーのある関係者は「(S星を除いた)主要半導体会社が大幅
の赤字に苦しんでいるが、S星の投資が延期になればDRAM半導体需給が一時的に支障を
来たし、価格上昇の要因となることがある」と述べた。 

S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカーが「相手の不幸は私の幸せ」
という本音を表したのだ。 

米国調査会社であるアイサプライによるとDRAMはS星電子が今年の7〜9月、世界市場シェ
ア27・7%で1位となった。現在DRAMは供給過剰状態で、一部主力製品は1個当たり0・8〜
0・9ドルで6年ぶりに1ドルを下回っている。 

日本で「S星叩き」はあちこちで目撃されている。日本のoh my newsは「S星が揺れるだけ
で終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそうだ。」と
報道した。

産経新聞は先月、S星電子が日本家電製品市場から一部撤収すると「安物というイメージから
脱することができなかった」と報道している。 

S星に対する虚偽の主張が書かれた本も出回っており「S星電子は国内で営業利益の87・
2%をあげ、国外は12・8%にすぎない」と主張した。国外市場で安く売りながら国内市場で利
益を搾取しているという、事実とは正反対に歪曲した内容を記している。

++++++++++以上、転載

 私は、この記事を読んだあと、「日本経済産業新聞」の中で、ほんとうにそんなことを書いて
いるのか、たしかめてみた。

 まず、「日本経済産業新聞」というのは、「日経産業新聞」のことであることがわかった。しか
しここ数日分の記事にざっと目を通してみたが、私が読んだ範囲では、その記事は、見あたら
なかった。

 それはそれとして、この記事を、もう一度、整理してみよう。

(1) 機密費波紋でS星が"経営空白"危機に陥った」と報道した。
(2) この新聞はまた、他の半導体市場分析家の話を引用し「新製品の買い替え時期が早い
半導体特性上、投資延期は致命的損失はもちろん、国際競争から追い出される原因となる」と
分析した。

 朝鮮日報という大新聞社が、S星という一会社の、そのまた一商品について、ここまで肩入
れした記事を書くということのおかしさ、最初に、それに気づいてほしい。

 その上で、この記事を読みなおしてみる。が、この日本側の記事は、当然のことを、客観的
に書いただけで、どこにも反韓的なニュアンスは、ない。

 が、つづくつぎの部分では、「同新聞は今回の事態を通じて日本の半導体メーカーが起死回
生するチャンスに期待していると報道した」とある。やや反韓的かな思えなくもないが、「決死回
生」は、オーバー。ここ数年、シェアこそ、韓国製、台湾製に押されているが、死んでいるわけ
ではない。

 むしろ、(3)。「(S星を除いた)主要半導体会社が大幅の赤字に苦しんでいるが、S星の投
資が延期になればDRAM半導体需給が一時的に支障を来たし、価格上昇の要因となること
がある」と、価格上昇を心配していると、韓国側にむしろ好意的な意見を述べている。さらに言
えば、日本側は、価格の高騰を心配しているのであって、それを喜んでいるのではない。

 が、ここから先、例によって例のごとく、韓国独特の(ひがみ節)が始まる。ウソと被害妄想、
それらがごちゃまぜになる。

(4)S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカーが「相手の不幸は私の幸
せ」という本音を表したのだ、と。

 「相手の不幸は、私の幸せ」とは、日本側は、だれも言っていない。(そう思う人はいるかもし
れないが……。)「本音」というのは、そのまま、彼ら自身の「妄想」と考えてよい。

 そしてその妄想を、「S星たたき」と結びつける。いわく、

(5) 日本で「S星叩き」はあちこちで目撃されている。日本のoh my newsは「S星が揺れる
だけで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそう
だ。」と報道した。

 「ohmynews」の記事を読んでも、みなさんもわかるように、どこにも、「S星叩き」のニュアン
スはない。どうしてこの記事が、S星叩きになるのか? 「ohmynews」は、ただ「S星が揺れる
だけで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそう
だ」と書いているだけである。

 が、さらに、こうつづける。

(6) 産経新聞は先月、S星電子が日本家電製品市場から一部撤収すると、「安物というイメー
ジから脱することができなかった」と報道している。 

 この部分については、私はこの記事を読んだ記憶がある。しかしこれについても、何も日本
の消費者が、韓国製品を閉め出したというわけではない。この記事で気になるのは、「一部撤
収すると」という部分。勝手に、「一部」という文言を、加筆している。

 私が読んだ記事では、「家電製品市場から全面撤退」とあった。それが「一部撤収すると」と
なる。この記事を読んだ韓国の一般市民たちは、あたかも日本人が、撤収したのを喜んでい
るかのような印象を受けるだろう。つまり、それこそが、朝鮮日報のねらいということになる。

 が、最大のウソは、つぎの部分。

(7) S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカー

 自意識も、ここまで過剰になると、「?」。とてもついていけない。日本が、「 S星追い討ちのた
めの連合戦線を形成した」だと!

 悲しいかな、韓国の製造器機のほとんどは、(一説によれば、携帯電話にしても、80%)、日
本製である。つまり韓国は、この日本から製造器機を輸入し、それでもって、いろいろな製品を
製造している。輸出している。半導体にしても、日本は、現在は、台湾やマレーシアに生産拠
点を移し、そこで生産している。

 いつ日本は、「 S星追い討ちのための連合戦線を形成した」のか? 記事の根拠は、どこに
あるのか。それこそまさに、カルテル。事実なら、大事件!

仮にそうであっても、そんなことを口にする人はいない。被害妄想も、ここにきわまれりといった
感じすらもつ。繰りかえすが、韓国の一会社の、一製品を、追い討ちするために、連合戦線を
形成しなければならないほど、日本の企業連合は、まだ落ちぶれていない。さらに、まだある。

(8)S星に対する虚偽の主張が書かれた本も出回っており「S星電子は国内で営業利益の8
7.2%をあげ、国外は12.8%にすぎない」と主張した。国外市場で安く売りながら国内市場
で利益を搾取しているという、事実とは正反対に歪曲した内容を記している。

 この「87・2%」「12・8%」という数字は、朝鮮日報(05年、5月18日付)に出ていた数字
で、ウソでも何でもない。「事実とは正反対に歪曲した内容を記している」というくらいなら、朝鮮
日報のほうへ、抗議でも何でもしたらよい。

 つまり韓国の国策企業は、韓国内で高く売り、利益をあげている。一方、外国では安く売り、
シェアを伸ばしている。

 たとえば自動車にしても、現在、韓国製の自動車は、アメリカなどでは、ダンピング価格で売
られている。一方、韓国国内では、ここにあげた数字程度の利益幅を見込んで売られている。
たとえば韓国の「グレンジャー」(現代自動車)は、韓国内では、480万円前後で売られてい
る。同じ車が、アメリカでは、300万円前後。価格差は、全体的に、100〜150万円程度とな
っている。

 こういう記事を分析してみると、韓国の人たちが日本人の私たちのもつ憎悪の念には、相当
なものがあるということがわかる。この憎悪の念は、私が韓国に渡った1967年以来、ほとん
ど変わっていない。

 だから仮にハンナラ党のI氏が大統領になったところで、彼らの反日姿勢がすぐに変化すると
は、とても思われない。現在のN大統領ほどではないにしても、日本人の私たちとしては、警戒
したらよい。

 がんばれ、日本! 負けるな、日本! しばらく新大統領が、どのような行動に出るか、様子
を見て、このつづきを書いてみたい。

●東京=辛貞録(シン・ジョンロク)特派員へ

 どうか「事実」を韓国へ報道してほしい。
貴君たちが日本を嫌い、日本に、はげしいライバル心をもっているのは、よく理解できる。
が、だからといって、日本人の私たちが、貴君たちに同じような感情をもっているという
前提で、このようなウソ記事を、捏造しないでほしい。

 被害者意識と妄想。
嫉妬と羨望。
こういったものが、貴君たちの心をかなりゆがめている。
そのひとつが、貴君の母国が打ち上げた、気象衛星。
それを報道するとき、貴君たちは、自社の新聞に何と書いた?
覚えているか?
『これで日本の世話にならなくてすむ』と。

 今までさんざん世話になっておきながら、こんな書き方はない。
日本流に言えば、「一言、礼があってもおかしくない」。
どうして貴君たちは、すなおな気持ちで、「今まで、日本のみなさん、ありがとう」
と書けないのか。
その(書けない)部分、つまりなぜ書けないかを、もう少していねいに、分析して
みてほしい。
貴君たちのゆがんだ精神構造が、そこに浮かびあがってくるのがわかるはず。

 今回の記事もまた同じ。
産経新聞の記者も、また私たち日本人のだれも、「韓国軍は意外と弱い」などとは、
思っていない。
不意打ちをくらえば、どこの国の軍隊だって、同じような結果を出すだろう。
そのことは産経新聞の記事の中でも、説明しているではないか。
むしろ客観的に、戦局の分析を行いながら、「しかたのないこと」というニュアンスで
記事を書いている。
「周辺の海岸一帯に軍団規模の兵力数万人を配備している北朝鮮に対し、韓国軍は
海兵隊約5000人など旅団規模で、しかも縮小計画が進められていた」と。

 貴君のような特派員がこの日本にいて、韓国の人たちの反日感情をかきたてて
いることを、たいへん残念に思う。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov.2010+++++++++はやし浩司

●韓国よ、北朝鮮など、相手にするな!
??? ???? ???!

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末期の独裁国家。
崩壊寸前。
そんな国が、ありもしない脅威をかきたて、国民の不満を外にそらそうとしている。

あんな国を本気で相手にしてはいけない。
その価値もない。

それとも韓国は、あんな国と心中するつもりなのか。
ここで北朝鮮の挑発に乗れば、それこそ北朝鮮の思うつぼ。
まんまとワナにはまるだけ。

あの独裁者は、それを利用して体制の引き締めにかかる。
その口実にする。

北朝鮮にしても、戦争をする気などない。
その力もない。
戦争をすれば廃墟になることを、彼らもよく承知している。
彼らが求めているのは、独裁政治の継続。
つまり「身の保全」。

貴君たちは、「アメリカが助けてくれる」と思っているかもしれない。
しかしアメリカは、そんな甘い国ではない。
お人好しの国でもない。
ドルを防衛するために、軍事を虚勢の道具に使っているだけ。

ここは冷静になって、中国を攻めたらよい。
北朝鮮ではなく、中国。
国際世論の中で、中国の非合理性を際だたせる。
それでもって中国を追いつめる。
中国さえその気になれば、北朝鮮は、1日ももたない。
一方、中国が支えているかぎり、北朝鮮は安泰。

つい30分前、中国は「重要情報を発表」なるものを発表した。
(11月28日、17:30)。
中身は、「12月中旬に、6か国協議を開く」というもの。
が、こういうのを茶番劇という。

中国は、北朝鮮が、韓国とアメリカに飲み込まれるのがこわいだけ。
北朝鮮を失うのを恐れているだけ。
繰り返すが、中国さえその気になれば、北朝鮮問題は1日で解決する。

6か国協議など、いまさら何度繰り返しても、意味はない。

韓国よ、戦争をしてはいけない。
北朝鮮を無視しろ。
必要最小限の反撃だけをし、それですませ。
相手は、世界の最貧国だぞ。

世界の良識に訴えれば、中国が動く。
中国が動けば、北朝鮮は、崩壊する。
それを待ってからでも遅くない。
ここで下手に手を出せば、あの独裁者はそれを利用するだけ。
さらに国内を引き締めるだけ。
独裁政権を延命させるだけ。

戦争というのは、始めるのは簡単。
が、一度始めたら最後。
終えるのには、その何倍ものエネルギーが必要。

なお北朝鮮では、戦勝気分が盛りあがっているという。
だったら、したようにさせておけ。
日本には、『負けるが勝ち』という諺がある。
負けたフリをして、相手をいい気分にさせておけ。

「勝ったか、負けたか」ということになれば、
すでに韓国は、あらゆる面で、勝っている。
今さら、何を恐れるのか。
何を失うのか。
ここで戦争を始めれば、今までの苦労が水の泡になる。
泥沼のゲリラ戦にでもなれば、それこそ韓国経済は崩壊する。
今だって、あぶない。
それを貴君たちが知らないはずがない。
だから戦争など、ぜったいにしてはいけない。

貴君たちは気がついていないかもしれない。
が、私たち日本人から見ると、韓国も北朝鮮も同じ。
驚くほど、貴君たちは思考回路が似ている。
たとえば貴君たちが竹島(独島)でしていることを、
北朝鮮が、貴君たちにしている。
「東海(日本海)」という呼称問題にしてもそうだ。
ささいなことにこだわって、大局を見る目を失っている。

どうか、ここは冷静に。
あんな狂った国を、本気で相手にしてはいけない。

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Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●浜松・GDホテルに一泊

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今夜は、浜松・GDホテルに一泊。
12階のスカイラウジで書き始める。

窓が大きく開け、その向こうにはアクト・タワー。
眼下はもちろん、浜松市街。
すばらしい。
無数の星々が、漆黒の絨毯(じゅうたん)に撒き散らされたかのよう。
それが地上でまばたきもせず、銀色に光っている。
都会的な、きらびやかさ。
静寂と孤独。
それらが、みごとに溶け合わさっている。
まるで無数の宝石のよう。
その美しさに、しばし見とれる。

たった今、ピアノの弾き語りが終わったところ。
女性がいくつかのクリスマスソングを歌った。
ピアノの白いふたを音もなく閉じ、ゆっくりとした
足取りで、ラウンジを出て行った。

うしろの席で、7、8人の客が、会話ごとに
ゲラゲラ、ガハハハと笑っている。
その笑い声が、何と場違いなことよ。

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●気分転換

 このホテルへ来る前に、義兄の家に立ち寄った。
途中の店で買ったケーキを、義兄たちと4人で分けて食べた。
「今夜はGDホテルに泊まります」と言うと、「いいねえ」と。

浜松市内でも1、2を争う高級ホテル。……だった。
が、朝食付きのみなら、1人1泊5000円前後で泊まれる。
朝食なしなら、4000円前後(じゃらん経由)。
気分転換には、もってこい。
それに今日は、ささやかだが、雑誌社から原稿料が入った。
それでその気になった。

 ジジイの私がこう言うのもへんだが、……本当にへんだが、
久々に、おとなのムードを味わった。

●偏頭痛
 
 で、昨夜は最悪だった。
真夜中に、偏頭痛。
寝る前に食べたぜんざいが、悪かった(?)。
1時間ほど四転八転したあと、Z(偏頭痛薬)を2つに割ってのむ。
ワイフがふとんの下に、座布団を2枚重ねてくれた。
頭を高くしてくれた。
それがよかった。
30分もすると、痛みがスーッと消えていった。

 こういう見分け方が正しいのかどうか、知らない。
しかし風邪による頭痛は、眠っている間は忘れる。
偏頭痛は、眠っていても痛い。
それに偏頭痛をがまんして眠っていると、悪夢の連続。
悪夢といっても、不気味な悪夢。
昨夜は、目のない女性が、顔から青い血を流しながら、そこに立っていた。
今、思い出しても、ゾッとする。
 
●沽券(こけん)

 そんなわけで今日は、一日、家の中でのんびりしているつもりだった。
言うなれば病後。
11月28日、日曜日。
午前中に、電子マガジンの12月号を完成させる。
(結構、たいへんな作業だったぞ!)
午後は、軽い昼寝。
3時過ぎになって、運動もかねてワイフと2人で、大通りから佐鳴湖、
佐鳴湖から大平台団地と、ぐるりとこのあたりを一周した。
そのときワイフが、こう言った。
「今夜は、どこかへ行かない?」と。

 こういうときワイフの提案を断ると、あとがこわい。
……というか、私にも夫としての沽券(こけん)がある。
言うなれば、メンツ。
ケチなことを言うと、嫌われる。
若いころから、そういう点では気をつかう。
「どこか、ホテルに泊まろうか」と。
そう答えると、ワイフはうれしそうに笑った。

●浜松GDホテル

 浜松GDホテルには、大浴場はない。
もちろん温泉もない。
そういう楽しみはない。

若いころはよく来た。
何かにつけ、よく来た。
「GDホテルで……」と、名前を口にするだけで、ステータス。
気分がよかった。

 で、そのころは、TDさんという人が、このホテルを経営していた。
2人のお嬢さんがいたが、私の教え子ということもあった。
が、一度、倒産。
理由はよく知らないが、改築費でつまずいたと、だれかから聞いた。
そのあと、このホテルは、別の経営者の手に渡った。

 そういうこともあって、このホテルに、星をつけることはできない。
あまりにも、おこがましい。

●縁

 40年以上も住んでいると、人の世の浮き沈みがよくわかる。
「おごれる者、久しからず」とも言う。
が、その一方で、大成した人もいる。
入れ替わり立ち替わり……というか、そういう人が出てきては、また消える。
人口60万人とも、80万人ともいわれる浜松だが、たいていの人とは、
どこかでつながっている。
縁がある。
「あの人がねえ」という会話が、このところ多くなった。

 たとえば目の前には、TKというホテルもある。
そのホテルの子どもたち(兄と妹)も、私の教え子。
親たちも、よく知っている。
私が浜松へ来たころには、小さな旅館風のホテルだった。
GDホテルの陰に隠れて、目立たなかった。
が、今は、全国にチェーン・ホテルを展開している。

●浮き沈み

 こうして振り返ってみると、「歴史」とは何か、
そこまで考えてしまう。
たとえば江戸時代。
あの時代にも、浮き沈みはあったはず。
今よりは、スローテンポだったかもしれない。
今は、10〜20年単位で、ものごとが変化する。
江戸時代には、それが100年単位だったかもしれない。
どうであるにせよ、そうした(変化)は、私たちに何を残したのか。
だからといって、そうした変化が無駄というのではない。
その逆。
その結果として、今の私たちがいる。
それを歴史という。

●万年倦怠期

 ところで先に、「沽券(こけん)」という言葉を使った。
「値打ち、品位、体面」という意味である。
が、60歳を過ぎた夫婦には、もうひとつ別の意味が生まれる。
過ごし方をまちがえると、「万年倦怠(けんたい)期」。
人生そのものが、どんよりとした鉛色のモヤに包まれてしまう。
だからあえて、こうして機会を見つけて、外に出る。
雰囲気を変える。

 夫婦の倦怠をどう防ぐか。
これも老後のひとつのテーマということになる。

●気力

 それに健康というのは、気力の問題。
病気に遠慮していると、ますます病気ぽくなってしまう。
そこで多少の不調程度なら、無視して行動に出る。
体を動かす。
今朝の私がそうだった。

 朝は偏頭痛に苦しんだ。
静養するかどうかは、そのときの判断。
「もうだいじょうぶ」と判断したら、あとは思い切って外へ飛び出す。
気力が病気を治してくれる。

●離婚

 オーストラリアの友人の息子が、先週、離婚した。
結婚してまだ数年。
子ども(孫)ができたばかりだった。
つい先日のメールでは、孫の写真を送ってくれた。
理由はいろいろ書いてあった。
それについては、ここには書けない。
が、これも「浮き沈み」のひとつ。
(離婚したからといって、沈んだことにはならないが……。)

 つまり、生きていく過程では、いろいろある。
私たち夫婦も、何度か離婚の危機にさらされた。
とくに今年の夏には、あぶなかった。
が、基本的には、私はワイフなしでは生きていかれない。
ワイフも、私なしでは生きていかれない。
そのつど、たがいにあきらめ、よりを戻す。

 が、若い夫婦のばあい、たがいの密着度がそれほど強くない。
積み重ねられた思い出も少ない。
そのため「あきらめる」という力が働かない。
だから簡単に離婚する。

●ホテル、旅館業界

 ところでホテル、旅館業界は、大不況のまっただ中。
そのため料金のダンピングが、はげしい。
利用者である私たちにとっては、うれしい。
が、その分、このところサービスの低下が、目立ってきた。
とくに料理が悪くなってきた。

 先週泊まった、焼津のSKホテルも、そのひとつ。
目玉はカニ一杯。
それだけ。
あとはスーパーで売っているような刺身と天ぷら。
それらをそれらしく並べて、それでおしまい。
料理らしい料理は、何もなかった。

 つまり「安かろう、悪かろう」が目立ってきた。
つまりホテル、旅館業界は今、底なしの悪循環の世界に入りつつある。
このままでは良質のホテルや旅館まで、つぶれてしまう。

●加齢臭

 部屋に戻ってから、風呂に入った。
私にとっては、2日ぶりの風呂。
このところ鼻水が出た。
「風邪かもしれない?」と思っているうちに、2日が過ぎた。
それで2日ぶり。

 一説によると、55歳前後から、加齢臭が始まるという。
この加齢臭のこわいところは、自分ではわからないこと。
そのため55歳を過ぎたら、毎晩、風呂に入るのがよい。
60歳を過ぎたら、なおさら。

 よく子ども(生徒)たちは、私にこう言う。
「先生は、ジジ臭い」と。
ヘアートニックなどの匂いを言うこともあるが、本当にジジ臭いのかも。
風呂の中でタオルをゆすぐと、体の垢(あか)が、プラプカと湯面に上ってきた。

●北朝鮮

 こうして何でもない一日は終わった。
ワイフは、ベッドからテレビのニュースを観ている。
心配なのは(?)、朝鮮半島。
しかしあの金xxは、戦争など、しない。
その度胸もない。
ありもしない外国の脅威を作りあげ、それでもって
国内を引き締めているだけ。
そのためにアメリカや韓国が利用されているだけ。

 で、今日の午後5時半。
中国が重大発表(?)なるものを行った。
内容は「12月はじめに、6か国協議を開く」というもの。

 バ〜カ!

 日米韓は、即座に反応。
「何を今さら」と。
これで中国のメンツは丸つぶれ。
が、問題はなぜ、それがわかっていながら、中国はあえて重大発表
という形で、そんな提案をしたか、だ。
それに先だって、中国政府は各国の高官と協議を重ねていた。
それを通して、その雰囲気がわかっていたはず。

 が、テレビに出てきた北朝鮮専門家(?)と言われる人たちは、
トンチンカンな解説を繰り返しすのみ。
「北朝鮮は、本気のようです」
「これ以上、追い詰めない方がいい」と。

 つまり中国は、北朝鮮にせがまれて、そういう提案をしてみただけ。
中国は北朝鮮を失うこと、つまり南北が、韓国とアメリカ主導で統一
されることを、何よりも恐れている。
そんな中国を、6か国協議の議長国にしたのが、そもそものまちがい。
泥棒に、泥棒の管理をかませたようなもの。

 午後11時15分。
ニュースは終わった。
私も寝る。
おやすみ。

●翌朝(11月29日)

 このところ温泉でも、朝風呂は避けている。
どういうわけか、朝風呂に入ると、体力の消耗がはげしい。
ばあいによっては、そのあと、立ちくらみや、めまいがすることがある。

 起きて身支度を整える。
朝食は6時半からという。
時計を見ると、7時半。
そのまま2階の食堂へ。

 が、並べられた料理を見て、がっかり。
割引料金で、1500円弱。
GDホテルには悪いが、こんな朝食で、1500円は高い。
やる気ゼロ、本気ゼロという中身だった。

 私は近くに陳列してある、S社の超大型船外機(たぶん、模型?)を
ながめながら、不満感をなぐさめた。

食堂を出るとき、ワイフはこう言った。
「私たち、目が肥えているから……」と。

 先に書いた、KTホテル(ビジネスホテル)のばあい、1泊3500円前後。
朝食は無料。
品数は少ないが、それでもGDホテルの朝食よりは、よい。

 ……とまあ、悪口を書いてしまった。
しかしホテルにせよ、旅館にせよ、評価は本気度で決まる。
先月泊まった、西浦温泉の竜宮ホテルは、見栄えは質素だったが、
廊下ごとに、茶の香が立ててあった。
そういうのを見て、私たちは「本気度」を知る。

 とても残念なことだが、GDホテルでは、その本気度を
感ずることができなかった。
建物だけは、立派だが……。

●補記

 「今度は、アクトタワーに泊まってみたい」とワイフは言っている。
私も、泊まってみたい。
で、こういうのを「冥土のみやげ」という。
先日、「朝食のみ付き」で、一泊8500円前後という宣伝が新聞に
載っていた。
会員制の大浴場にも、無料で入れるという。
地元にいながら、地元のホテルや旅館のことは、あまり知らない。
死ぬまでに、一度は、堪能(たんのう)しておきたい。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2010−12−01

●地球外生命体? NASA「宇宙生物学上の発見」発表へ 

●日本経済新聞社のHPに、こんな記事が載っていた。

++++++++++以下、日経NEWSより++++++++++++++++++++

 米航空宇宙局(NASA)は29日、「地球外生命体の証拠の探索に影響するであろう宇宙生物
学上の発見」について、米東部時間の12月2日午後2時(日本時間同3日午前4時)に記者会
見することを明らかにした。ワシントンのNASA本部で会見すると同時に、その様子をインター
ネットで中継するという。

++++++++++以上、日経NEWSより++++++++++++++++++++

●何だろう?

 NASAが?
今ごろ?

 こうした「公表」には、2つの意図が隠されている。

(1)いよいよ隠しおおせなくなったから。
(2)つぎのウソをつくための、下準備。

 NASAが今まで、「地球外生命体」の存在について、さんざん事実を隠してきたことは、ある
いは、ウソをついてきたことは、周知の事実。
少し前、日本が月探査衛星の『かぐや』を打ち上げたときも、搭載するカメラの解像度を、
「さげろ」と日本に要求してきた。

それに応じて、日本は、1000万画素から、その約半分の画素まで、わざわざ解像度を
さげたという話も聞いている。
今どき、1000万画素など、ふつうのデジタルカメラでも常識。
「月には何か、見られたら都合が悪いものがあるのだろうか?」と、私も勘ぐった。
そのNASAが、日本時間で3日午前4時に記者会見をするという。

 何だろう?
期待半分、懐疑半分。

「月の中には、宇宙人が住んでいます」というような話なら楽しい。
それとも反対に、「もうすぐ宇宙人が、地球を攻撃してきます」かもしれない。

 12月3日(日本時間)は、何か記念すべき日になるかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●今日から12月(2010年)

 昨日は、朝、30分、ルームウォーカーの上で歩いた。
仕事に行くとき、4キロを歩いた。
仕事から帰ってくるときは、自転車。
1日の運動量としては、標準的。

 今朝も起きると、10分、リークウォーカーの上で歩いた。
いつもは30分だかが、今朝はやや疲れ気味。
昨日、昼飯に食べた魚が、生焼けだった。
夕方まで、吐き気。
ドクターをしている親に相談すると、「ゲボで出しなさい」と。
しかしすでに数時間以上たっていた。

 ムカムカする胃をなだめながら、やっとの思いで帰宅。
消化薬を2服ものんだせいか、今朝は反対に、逆流性食道炎ぽい。
胃の入り口あたりで、不快感が停留している。

 12月初日というのに、冴えない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【朝鮮半島問題を考えるに当たって】

●意識と平和

 かつてインドのネール元首相は、こう書いた。

『ある国が平和であるためには、他
国の平和もまた保障されねばならない。
この狭い、相互に結合した世界にあっては、
戦争も、自由も、平和も、すべて
たがいに連動している』(「一つの世界をめざして」)と。

●意識のちがい?

 ひとつの「戦争」をながめるとき、意識によって、その見方は180度、異なる。
たとえば中国人は、つぎのように考えている(人民日報・注※1)。

韓半島で絶えず危機が起きているのはどの国のせいか、という質問に対し、

米国が55.6%で最も多く、
韓国=10.3%、
北朝鮮=9.0%、
日本=4.6%などの順だった
(中国7大都市で行われた1306人を対象に実施したという世論調査) 

 つまり中国人の過半数は、「朝鮮半島で絶えず危機が起きているのは、アメリカの
せい」と考えている。
これに対して、「北朝鮮」と答えている中国人は、9・9%に過ぎない!
さらに「日本に責任がある」と答えている中国人が、4・6%もいることには驚かされる。

 これが意識のちがいである。

●日本が、4・6%?

 人民日報の調査結果をみたとき、まず、2つのことが頭に浮かんだ。

 ひとつは「意識」というのは、「国家」によって作られるものということ。
もうひとつは、「意識」のちがいが、「戦争」の原動力となるということ。
それにもうひとつ、付け加えれば、「意識」というのは、常に疑って考える必要が
あるということ。
もちろんその中には、日本人の私たちがもっている「意識」も含まれる。
私たちの意識は、本当に正しいのか?

 たとえば日本人の私たちなら、「韓半島で絶えず危機が起きているのはどの国のせいか」
と聞かれれば、まずまちがいなく、「北朝鮮」と答えるであろう。
「アメリカ」「韓国」の名前をあげる人は少ない。
「日本」の名前をあげる人は、さらに少ない。
が、ひょっとしたら、それはまちがっているのかもしれない。
私たちはともすれば、富者の論理だけで、ものを考える。
貧者の論理(注※2)には、耳を傾けない。

 が、それはともかくも、この調査結果を基礎に置くと、最近の中国の動きが、
よく理解できる。
数日前、中国は突然、6か国協議の開催を、日米韓+ロシアに呼びかけた。
昨日も、2度目の呼びかけをした。

 「中国はやるだけのことはやったという体面づくりをしている」というのが、西側、
つまり私たちのおおかたの見方。
しかしそういう見方そのものも、この調査結果を見ると、吹き飛んでしまう。
言い替えると、この「意識のちがい」こそが、戦争の原因ということになる。
言うまでもなく、たがいの意識が乖離(かいり)すればするほど、戦争の危機は増大し、
ひとたび起これば、より悲惨なものになる。

 今が、その状況ということになる。

●参考:注※1 韓国「東亜日報」より(以下、東亜日報より転載)

「空母、ジョージワシントンの黄海(西海)進入は、中国に対する警告だ」
 
中国共産党機関紙「人民日報」の国際版姉妹紙である環球時報が11月29日、再びジョージ
ワシントンの軍事演習への参加に反対した。
同紙は、哨戒艦「天安(チョナン)艦」沈没事件後、行われた7月の韓米合同軍事演習にも、
「ジョージ・ワシントンの参加は、大勢の中国人を憤らせる」など刺激的な記事で、反対世論を
主導した。
26日は、北朝鮮に対し、「渇きを癒そうと毒薬を飲むな」と忠告したが、再び同盟国かばいに
乗り出している。 

同紙は、「中国世論の強い反対にも関わらず、米国がジョージ・ワシントンを28日、黄海に進
入させ、中国人を大変不安がらせている」と主張した。
同紙は、合同軍事演習が行われる海域は、山東半島から170海里離れているところで、国連
海洋法で排他的経済水域(EEZ)を200海里と定めていることに照らせば、米空母が中国EE
Z内に入ることもありうることを明らかにした。
しかし、合同演習海域である格列飛列島周辺は、忠清南道泰安(チュンチョンナムド・テアン)
から27海里離れているところだ。 

同紙は同日また、中国7大都市で行われた1306人を対象に実施したという世論調査で、韓
半島で絶えず危機が起きているのはどの国のせいか、という質問に対し、米国が55.6%で
最も多く、韓国=10.3%、北朝鮮=9.0%、日本=4.6%などの順だったと伝えた。 

青華大学・国際情報研究中心の李希光主任が同日付の環球時報に投稿した「北朝鮮は中国
の1級中核利益」と題した寄稿で、「いかなる国であれ、北朝鮮に対し、戦火を起こせば、これ
は中国に対する挑戦であり、宣戦布告だ」と主張した。
李主任は19世紀の韓半島の甲午年の日清戦争により、日本の海軍が西海(ソヘ)に侵入した
ことを例に挙げ、韓半島安定は東北3省の安定、ひいては、中国の安定と直決されるという論
理を展開した。
李主任は、「朝鮮半島の南北間平和維持のためには、『独立的な北朝鮮』が中国と韓米との
間で緩衝役割を果たさなければならない」と主張した。
 
一方、社説は、「南北や米国を問わず、誰もが戦争を願わないだろうが、今の危機状況は奇
怪な方式で、戦争に近づいている状態だ」とした上で、「戦争を願わなければ、戦争が怖くない
ように振舞うのはやめるべきだ」と書いた。

(以上、韓国、東亜日報より転載)

(補記)そのほかの資料(以下「環球時報」の調査結果より)

「中国にとって北朝鮮とは?」との質問には、
「戦略的な障壁」(44.7%)と「盟友」(43.2%)が最も多く、
「厄介な隣国」が15.1%、
「潜在的な脅威」が15.0%だった。

「北朝鮮の砲撃事件や近年の強硬な行動についてどう思うか」では、
「事情は複雑で、簡単には評価できない」が56.7%、
「北朝鮮が追い詰められた末に取った行動」が22.4%、
「北朝鮮の挑発」が9.5%と答えた。 

「中国は北朝鮮と韓国にいかに対応すべきか?」との問いには、
「危機に冷静に対処し、北朝鮮、韓国いずれに対しても平等に対応すべき」が72.3%、
「断固として北朝鮮を支持すべき」は17.1%、
「米国や韓国と連携して北朝鮮に圧力を加えるべき」は2.8%だった。
(以上「環球時報」の調査結果より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●参考、注※2「貧者の論理」

【貧者の論理】
+++++++++++++++++++

近代経済学が、なぜ、世情に合わないか。
国際政治学でも、よい。
近代経済学は、世情を捉えるのに、ことごとく失敗している。
理屈どおりには、いかない。
理論どおりにも、進まない。
そこで経済学者たちは、頭を悩ます。
国際政治は混乱する。
それもそのはず。
経済学者たちには、(こういうふうに大上段に
構えて、ものを書くのも気が引けるが)、
貧者には貧者の論理というものがある。
貧者の論理は、理屈や理論どおりには、動かない。
そのことがまったく、わかっていない。

貧困が、嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけを生む。
それらが複雑に屈折し、絶望、虚無主義につながる。
善悪の基準そのものも、ちがう。
リッチな世界では重犯罪でも、貧者の世界では
ただの(遊び)。
窃盗にしても、貧者の世界では、窃盗されるほうが、
悪いとなる。
この(ちがい)が、経済学者が考える経済理論を、
根底からくつがえす。
国際政治学にしても、そうだ。
きれいごとだけでは、国際政治は動かない。
つまり数字や理屈で考える常識では、理解不能。
いくら想像力を豊かにしても、貧者の論理は、その
向こうにある。

+++++++++++++++++++++

●観光事業

 たまたまこんな事例がある。

 韓国側の1民間企業が主体となって、K国への観光事業を始めた。
その1民間企業にとっては、メリットは大きい。
K国内での観光事業を、独占的に展開できる。
一方、K国側は、観光客の落とす現金で、潤う。

 が、その観光事業は、現在、中断している。
理由は、観光客の射殺事件。
K国側は、その事件について、正式に謝罪をしていない。
補償もしていない。
事件の調査すら、韓国側にさせていない。

 韓国政府が、観光事業を中断させるのは、当然である。
 が、これに対して、1民間企業である観光会社の社長が、K国まで行って、直談判。
社長と、K国の幹部とは、何やら深い関係にあるらしい。
これに対して、K国側は、「観光事業を再開してほしい」と。

 その返答を受けて、社長は意気揚々と韓国へ帰ってきた。
が、韓国政府の反応は、こうだ。

「国としての正式の回答ではないので、政府としては、何とも返事をしかねる」と。
これにK国が、反発した。

 そのときのニュースが、これ(時事通信11月25日)。
『朝鮮中央通信は25日、中断しているK国の金剛山と開城での観光事業について、韓国の玄
仁沢統一相を、名指しで批判する朝鮮アジア太平洋平和委員会報道官談話を伝えた。談話は
南北間の観光事業について、「南朝鮮(韓国)当局が、対決の目的に悪用し、阻もうとしてい
る」と主張した』と。

 とくに「?」なのが、「韓国当局が、対決の目的に悪用し」という部分。

●貧者の論理

 どうして、悪用なのか?
この理解不能の部分に、実は、貧者の論理が働いている。
貧者は、「援助してもらうのが、当然」と考える。
援助してもらうことについて、感謝の念は、最初から、ない。
だからその援助が止められることを、「悪用」ととらえる。

 誤解がないように書いておくが、「観光事業」とはいうものの、その中身は、「援助」。
道路整備から観光バス、宿泊施設の建設まで、韓国側で提供している。
わずかな距離の観光だが、その費用は、10〜30万円。
韓国側の観光客は、法外な費用を払って観光する。

一方、K国側にとっては、そのまま貴重な外貨の収入源となる。
それを韓国側が、取りやめた。
それをK国は、「悪用」という。

●3年前の原稿より

 こうした貧者の論理を理解するためには、一度、あなた自身を貧者の立場に置いて
みる必要がある。

それについては、以前にも書いたので、そのまま紹介する。
日付は、06年の10月となっている。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●K国の核実験宣言

++++++++++++++++

K国が、核実験をすると、
公式に発表した。
だれにも相手にされなくなると、
悪あがきしてみせる。
「ならず者」の典型的な
行動パターンである。

++++++++++++++++

 とうとうというか、ついに、K国が、核実験を公式に宣言した。「アメリカの反共和国(反
北朝鮮)孤立圧殺策動が限界点を越えた状況にあって、われわれはこれ以上、傍観してい
るわけにはいかない」(10月3日・K国外務省)というのが、その理由だそうだ。

 アメリカが悪い。だから核実験をするのだ、と。

 とんでもない意見に聞こえるかもしれないが、貧者には貧者の論理(※)というものが
ある。その日の食べ物に困っている人にしてみれば、腹いっぱい、おいしいものを食べて
いる人を見ただけで、腹がたつもの。それはわかる。しかしそれを考慮に入れても、K国
のこの言い分には、(?)マークが、何個も並ぶ。

 が、もし核実験をすれば、それで本当に、K国は、おしまい。おしまいの、おしまい。
あとは自己崩壊するしかない。つまりK国は、現在、そこまで追いつめられている。K国
というより、金xxによる独裁政権は、そこまで追いつめられている。

 日本としては、金xx独裁政権を、自己崩壊させるのが、もっとも好ましいシナリオと
いうことになる。拉致問題も、それで解決する。

 しかし、問題は、韓国。いまだに、「同胞、同胞」と、K国にすりよっている。どこか演
歌的? どこか浪曲的? あのN大統領は、「北朝鮮の核は一理がある」とさえ言ったこと
がある。最近にいたっては、「K国が核実験をしても、戦時作戦統制権の単独行使には影響
しない」とまで言い切っている。「K国が核事件をしても、アメリカ軍は、必要ない」と。

 天下のおバカ大統領である。K国が核兵器をもてば、韓国内の軍隊は、すべて「紙くず」
(朝鮮N報)と化す。にもかかわらず、そういうことが、まるでわかっていない。あるい
はそのうち、「K国をここまで追いこんだのは、アメリカだ。日本だ」と言い出すかもしれ
ない。

 何度も書くが、K国の金xxは、もう(まとも)ではない。はっきり言えば、狂ってい
る。そういう人間を相手に、まともな議論などしても意味はない。金xxの言動を、いち
いち分析しても意味はない。真意はどうの、目的はどうのと、論じても意味はない。

 私たち日本人は、そういう前提で、K国問題を考え、K国の核開発問題を考える。K国
が自己崩壊すれば、韓国や中国は困るかもしれない。が、今の段階では、そんなことは日
本の知ったことではない。そういうのを、私たちの世界では、「自業自得」という。

 それにしても、とうとうここまで来たか……というのが、今の私の実感である。
 
【貧者の論理】(※)

 若いころ、オーストラリアの大学で、ある教授が口にした言葉である。名前は忘れたが、
その教授は、『貧困による公害(Pollution by Poverty)』という言葉を使った。

 つまり貧者には貧者の論理というものがあり、その論理を忘れて貧者を語ることはでき
ないというものだった。

 たとえば1人の金持ちと、1人の貧者がいたとする。金持ちは、自分が豊かであること
を、見せつけるともなく、見せつける。そして貧者に向かって、こう言う。「君も、ぼくの
ようになりたかったら、努力しなさい」と。

 金持ちは、貧者に努力の大切さを教えたつもりかもしれないが、貧者は、そうはとらな
い。貧者は、やがてその金持ちを、ねたむようになる。そしてこう思うようになる。「お前
たちのような人間がいるから、オレたちは貧しいのだ」と。

 そのよい例が、現在のK国である。

 情報が遮断(しゃだん)されていることもあるが、K国の人たちは、だれも、自分たち
の指導者がまちがっているとは思っていない。とくに金xxを取りまく人たちは、そうで
ある。

 西側の豊かさを見聞きするたびに、それをうらやましいと思う前に、「西側が、オレたち
の発展をじゃまするから、オレたちは貧しいのだ」と考える。豊かな生活といっても、その実感
そのものがない。

 そのため貧者は、貧者であるがゆえに、屈折したものの考え方をする。そしてそのため、
貧者の世界では、勝者の論理は、ことごとく否定される。「核兵器を拡散させたら、世界は
たいへんなことになる」と説くのは、勝者の論理である。貧者は貧者で、別の論理で考え
る。そしてこう言う。

 「自分たちは核兵器をもっていて、何てことを言うのだ!」と。「第三世界」という言葉
も、そういう過程で生まれた。

 こうして勝者と貧者は、あらゆる場面で、ことごとく対立する。おおざっぱに言えば、
それがアメリカ流民主主義が、その世界でしか通用しないという理由でもある。さらにお
おざっぱに言えば、西側の経済論理が、その世界でしか通用しないという理由でもある。
 こうした貧者の論理にメスを入れ、それを解き明かそうとする努力も、いろいろな場面
でなされている。が、そのどれも結局は中途半端で終わってしまうのは、いつも勝者が勝
者の立場で、貧者を論ずるからである。

(06年10月4日記)

++++++++++++++++++++

07年にも、同じような原稿を書いていた。
こうして原稿を拾い出してみると、私は
ちょうど2年ごとに、同じことを考えて
いるのがわかる。
どうでもよいことだが・・・。
内容が一部、重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●今日・あれこれ

+++++++++++++++

K国は、K国で開発したミサイルを、
イランで実験していたという。
そのイランは、ウランの濃縮を加速
させているという。
K国とイラン。水面下で、深く、結
びついている。

+++++++++++++++

●貧者の論理

 貧者には、貧者の論理というものがある。(私はよく知っているぞ!)

 たとえばあなたが日々に生活に困り、今日の食べ物すらままならない生活をしていたと
する。子どもは腹をすかせて、泣いている。午後には、借金取りがやってくる。

 そういうとき、あなたの隣人は高級車を乗り回し、豪勢な買い物をしている。見ると車
の後部座席には、夕食の食材が、どっさり!

 そういう隣人を見て、あなたはうらやましいと思うだろうか。その隣人を、すばらしい
人と思うだろうか。が、実際には、そうではない。

 ここで貧者の論理が働く。貧者は、こう考える。「お前たちが富を独り占めにするから、
オレたちは貧しいのだ」と。

 が、そういう声は隣人には届かない。その隣人は、あなたに向かってこう言う。「あなた
も一生懸命、働きなさい。働けば、いい生活ができます」と。

 しかしあなたはそれに反発する。反発するだけではない。怒りすら覚える。隣人のアド
バイスは、こう言っているように聞こえる。「あなたが貧しいのは、あなたがなまけている
からだ」と。

 そうではない! この日本では、ほんのわずかでも、チャンスをつかんだ人だけが成功
する。そうでない人は、そうでない。それは個人の力というよりも、(流れ)の中で決まる。
あせればあせるほど、深みにはまり、ますます身動きが取れなくなってしまう。そういう
人は多い。

●富者の論理

 K国を理解するときは、この貧者の論理を念頭に置かねばならない。食糧はない。原油
もない。いろいろ経済政策を試みてはみるが、どれも、うまくいかない。失敗の連続。

 つまり相手の立場で、ものを見る。K国から見たら、この日本はどう見えるかというこ
と。このことは、日本に住んでいる、在日K国人と言われている人たちを見ればわかる。

 彼らは日本に住み、日本のことをたいへんよく知っている。同時に、K国のことも、た
いへんよく知っている。本来なら……というより、常識的に考えれば、K国の政治体制が
おかしいと、だれしも思うはず。しかし彼らは、そうは思っていない。日本の繁栄ぶりを
見ながらも、こう思っている。「この日本が繁栄しているのは、私たちが犠牲になったから
だ」「今も犠牲になっているからだ」と。

 貧者の論理がまちがっているというのではない。しかし富者の論理だけでものを考える
と、失敗する。そのよい例が、経済学である。

 ほとんどの近代経済学は、その富者の論理だけで成り立っている。国際政治にしても、
そうだ。大きく見れば、アメリカのイラク政策、イラン政策、さらにはK国政策も、アメ
リカという富者の論理ばかりが先行している。だからいつも限界にぶつかる。あるところ
までは正当性をもつが、それを乗り越えることができない。いつもそこで第三世界の反撃
をくらう。

●加工される貧者の論理

 だからといって、K国の核開発やミサイル開発を容認せよというわけではない。こうし
た貧者の論理を当てはめても、とうてい理解できないほど、K国の論理は、常軌を逸して
いる。むしろ貧者の論理を、逆手(さかて)に取って、自分たちを正当化している。

 そこで今度は、イランでのミサイル発射実験である。K国は、自国で開発した長距離ミ
サイルを、イランで実験していたという(5月16日)。

 日本にとっては、とんでもないニュースである。が、ここでもやはり貧者の論理が働く。
この日本でも、かつてこう言ったニュースキャスターがいた。当時は夜のニュース番組を
代表するキャスターだった。

 K国の核開発問題に触れながら、こう言った。「何、言っているんですか。アメリカだっ
て、核兵器をもっているではありませんか!」と。どこか吐き捨てるような言い方だった。
つまり、「核兵器を思う存分もっているアメリカが、K国の核兵器開発を問題にするのはお
かしい」と。

 しかし忘れてならないのは、K国の核兵器開発は、「日本向け」のもの。かねてから、K
国の政府高官たちは、そう繰り返し述べている。「韓国向け」ではない。もちろん「中国向
け」でもない。「アメリカ向け」という説もあるが、アメリカに対しては、「脅し」にすぎ
ない。

 私はこの発言にあきれて、即座にテレビ局に抗議の電話を入れた。あのA新聞社の系列
のA放送である。「拉致問題は、日本政府のデッチあげ」と主張してやまなかった、あのA
新聞社である。

 貧者の論理は貧者の論理でも、富者によって加工された貧者の論理である。

●経済制裁

 そういうK国に対して、経済制裁は、当然のことである。もっとわかりやすく言えば、
私たちは、目下、戦争状態にある。かつて「戦争は政治の延長である」と言った政治家が
いたが、戦争といっても、ある日、突然、始まるものではない。それまでの(くすぶり)
があって、ある日、ボッと火が燃えあがる。

 わかりやすく言えば、すでに戦争は始まっているということ。私たちがなすべきことは、
K国というよりも、K国の体制を崩壊させること。独裁政権であるがゆえに、ほかに方法
はない。

 が、この経済制裁を、つぎつぎと骨抜きにしているのが、ほかならぬK国の隣国の韓国
である。それについてはすでにたびたび書いてきたので、ここでは省略するが、今度は、
米中韓Kの、4か国首脳会議を画策している。南北首脳会談も画策している。もっとも4
か国首脳会議については、アメリカが異議を唱えたため、韓国政府は、「6か国協議の枠内
での4か国首脳会議」(5月16日)と、言いなおしている。

 どうであるにせよ、現在の韓国は、イコール、K国と考えてよい。つまりこの日本は、
韓国とも、すでに戦争状態にあるとみるべきである。

●東京に核兵器が!

 いろいろな意見がある。「原爆の1発や2発、(東京に落ちても)、どうということはない」
という意見もある。どこかの科学者が、ある雑誌で、堂々とそういう意見を披露していた(雑誌
「S」)。

 あるいは「K国には、核開発をする能力はない」と主張している学者も多い。

 しかしそのK国が、どうやら水面下で、イランと結びついているのがわかってきた。K
国はミサイル技術を提供し、イランは、核開発技術を提供する。……となると、今までの
図式が総崩れとなる。「K国、一国だけなら……」と考えていた人も多いかと思うが、それ
がグローバルな問題へと、ここで一気に拡大する。

 中東問題もからんでくる。米中、米ロ問題もからんでくる。もしそうなれば、(現実にそ
うなりつつあるが……)、それこそまさにK国の思うツボ。国際社会の混乱を引き寄せなが
ら、つぎに一気に、日本をおどしにかかってくるはず。

 そのとき、アメリカとの間に、相互不可侵条約のようなものであれば、仮にK国が日本
を攻撃しても、アメリカはK国に対して、手も足も出せない。日本は日本で、憲法9条に
制約されて、防衛に徹するしかない。

 たとえば仮に今、東京でK国の核兵器が爆発しても、日本は、それに対してK国に反撃
することもできない。もちろん今は、日本は、アメリカの核の傘のもとにあるから、一応、
アメリカがK国に反撃してくれることになっている。

 しかしそのアメリカにしても、自国を犠牲にしてまでも、日本を守ってくれるだろうか。
そんな疑問もないわけではない。

●ではどうするか?

 日本にとっての最良のシナリオは、K国が自己崩壊すること。これはK国の人たちのた
めでもある。あのFさん(韓国へ亡命したK国の元政府高官)や、韓国に脱北した人たち
も、みな、そう言っている。

 が、これに猛烈に反対しているのが、韓国政府であり、中国政府ということになる。と
くに韓国のN大統領の論理は、貧者の論理の上に成り立っている。

 「朝鮮半島が南北に分断されたのは、アメリカのせい」「しかも、こうした悲劇の基礎を
作ったのは日本」と。

 それが反米、反日運動の原点にもなっている。加えて、(1)「日本ごときに韓国が蹂躙
(じゅうりん)された」という憎しみ、(2)独立を自分たちの力でなしえなかったという
不完全燃焼感(以上、M氏談)もある。

 以上を考えていくと、私たち日本人がなすべきことは、ただひとつ。現在の日韓経済戦
争に勝利することである。わかりやすく言えば、韓国経済をたたきつぶす。

 ……こう書くと、かなり過激な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、
向こう(=韓国)は、その気で、日本の常に挑戦をいどんできている。それがわからなけ
れば、韓国の中央N報、朝鮮N報、東亜N報の各紙を、ほんの少しでもよいから目を通し
てみることだ。

 「日本に勝った」「日本に負けた」の記事が、連日のように、トップ記事として並んでい
る。

 ……何はともあれ、東京とのど真ん中で、たった1発でも、核兵器が爆発してからでは、
遅いのである。それだけは忘れてはならない。

(07年5月17日記)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●母のこと

 「貧者の論理」というと、特別の人だけがもつ論理に考えるかもしれない。
しかし実際には、そうでない。
私だって、あなただって、その立場になれば、もつ。
私の母だって、そうだ。……そうだった。

 私は結婚する前から、実家に住む母に、収入の約半分を仕送りしてきた。
今のワイフと結婚するときも、それを条件として、ワイフと結婚した。
だからワイフは、以後、20年以上、何ひとつ不平や不満を言わず、それをつづけてくれた。

 が、一度(保護)(依存)の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
最初は感謝されるが、1〜2年もすると、それが当たり前になり、さらに1〜2年もすると、今度
は相手側から請求されるようになる。

 仕送りの額を減らしたり、遅らせたりすると、かえって相手の反感を買ってしまう。
私の母のばあいは、泣き落とし戦術というか、そのつど、メソメソと泣き言を言ってきた。
兄もそうだった。

何かほしいものがあると、「〜〜がないで困る」「〜〜が壊れた」と電話をかけてきた。
こうして冷蔵庫、ステレオ、テレビなどなど。
コンロまで、別枠で、私が買って与えるようになってしまった。

 そんなある日、私は私の山荘へ母と兄を招待した。
山荘といっても、小さな山を買い、6年かかって、造成した土地である。
毎週土日に、ワイフと2人で、工事をした。
家だけは、地元の建築会社に建ててもらった。

 その山荘を見て、母は、こう言った。
「どうせ建てるなら、M町(実家のある町)に建ててくれればよかった」
「そうすれば、私が使えた」と。

 私の夢がかなったことを、母は喜んでくれるものとばかり思っていた。
が、母には、母の論理があった。

「親孝行をするのが、先。息子であるお前が、親よりいい生活をするのは許せない」と。
そうは言わなかったが、私には、そう聞こえた。

 だからといって、母を責めているのではない。
母は母で、貧者の論理で、ものを考えていた。

●机上の空論

 貧者の論理は、人間が原罪的にもつ(欲望)と深くからんでいる。
そのためにひとたび扱い方をまちがえると、その論理に毒されてしまう。
正常な判断力、思考力すら、見失ってしまう。

 これは人間性の問題というよりは、油断の問題と考えてよい。
つまり人は、いつもどこかで、(保護)(依存)の関係を保ちながら、他の人と交わっている。

それが複雑にからみあっている。
保護している人も、べつの場面では、だれかに依存している。
依存している人も、べつの場面では、だれかを保護している。

 が、ひとたびどこかで油断すると、そうした関係が、貧者の論理に毒されるようになる。
嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけが、その人の心をゆがめる。
心そのものがゆがむため、自分でそれに気づくことは、まずない。
その一例が、現在のK国ということになる。

 韓国側が、観光事業を止めたことを、「被害」と、受け止める。
そして観光事業を再開しないことを、「悪用」と、とらえる。
韓国政府は先に、トウモロコシ1万トンの援助を申し出た。
それについても、「少なすぎる?」という理由で、K国側は、受け取りすら拒否している。

 私たち日本人からすると、「どこまでいじけるか?」ということになる。
しかし彼らは、けっして自分たちが、いじけているとは思っていない。
それが正当な行為と信じ切っている。
貧者の論理に毒されると、そういうものの考え方をするようになる。

 で、冒頭の話になる。
 経済学にもいろいろある。
そのつどいろいろな学者が自説を披露する。
しかしこと経済については、(国際外交もそうだが)、理論どおりには機能しない。
「援助してやったから、貧しい国の人たちは、感謝しているはず」
「〜〜億ドル、渡したから、これで国の再建はできるはず」と。
しかしこうした論理は、貧しい国の人たちには、通用しない。
彼らには、彼らを支える論理がある。
それが、「貧者の論理」ということになる。
言い換えると、貧者の論理にメスを入れないかぎり、経済学も、国際政治学も、いつまでたって
も机上の空論で終わってしまう。

 私は、それを書きたかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
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Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

●36億円!

++++++++++++++++++

もちろん私の中にも、貧者の論理が
巣くっている。
「36億円」という数字をみたとき、
それを感じた。

++++++++++++++++++

●ケタはずれ

 あまりにもケタはずれなので、驚いた。
鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる、政治資金収支報告書の
虚偽記載問題に関して、驚くなかれ、鳩山首相の実母が、自己名義の口座から、
何と計約36億円を引き出し、現金化していたという。
36億円だぞ。

 新聞などの報道によれば、「現金化された資金の一部が、首相の政治資金に
充てられた可能性もあるとみて、東京地検特捜部が、慎重に調べている」(C新聞)
とのこと。

 今のところ、「首相への貸付金なら、法的な問題は生じない」とし、「悪質ではない」
という理由で、直接の担当者については、在宅起訴程度ですませる予定という。

●悪意性はない?

 親子の間だから、多少の金銭の動きはあるだろう。
政治活動ともなれば、なおさら。
しかしその額が、問題。
約36億円!
つい先日、民主党のOZ党首の、3億円の献金が問題になった。
そのあと、自民党のAS前首相の、2億5000万円の機密費が問題になった。
しかし36億円というのは、1桁、桁がちがう。

 その36億円について、「貸付金なら問題はない」「悪質性はない」とは!
いくらそうであっても、貧者は、それでは納得しない。

●消えた36億円

 それにしても興味深いのは、つぎの2点。
(1) 36億円という巨額の資金は、どこへ消えたのか。
(2) 貸付金とはいうものの、そんな借金を、この先、どうやって返済するのか。

 この先、その中身は特捜部の捜査によって、少しずつ明らかになるだろう。
しかしいろいろな見方ができる。

 ひとつは、母親から鳩山総理大臣に対する、生前贈与。
毎月、小口に分けて送金したということから、それが疑われる。
だから鳩山総理大臣は、政治資金に使ったというよりは、自分の(財産)として、
それをプールした可能性も、なくはない。

 仮に政治資金として使われたとするなら、それによって利益を受けた人もいるはず。
どこに、どのように使われたのか。
考えれば考えるほど、疑惑がわいてくる。

●貧者のひがみ

 週に1回、温泉街にある温泉に行く。
1回の入浴料金は、1000円。
ゆかたを借りると、プラス300円。
たいてい帰りには、回転寿司の店に寄って、一皿100円の寿司を食べる。
あるいは全国チェーンのラーメン店に寄る。
計、2000円。
夫婦で遊んでも、4000円。

 計算するのもバカ臭いから、数字を並べてみる。
温泉+回転寿司            4000円
鳩山首相のポケットマネー 3600000000円

 「0」の数だけ並べ比べても、それがわかるはず。
 それでも、まあ、自分としては、リッチなほうっだと思っている。
好きなことを、予算を考えないでできる。
(たいした予算ではないが……。)

 しかしそれでも、36億円という金額は、想像できない。
しかも新聞報道によれば、毎月5000万円。
それを6年間!

●論理という非論理

 いつの間にか、この日本は、こんなバカげた国になってしまった。
こういう話を耳にするたびに、(まじめ)さが、この国から色あせていく。
つまり自分のしていることが、バカ臭くなっていく。

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 あなたには3人の子どもがいる。
みんな、腹をすかせている。
電気代もガス代も、節約しなければ、生活できない。
そんな中、隣の家を見ると、煌々と明かりがついている。
垣間見る台所には、食べ物が山のようになっている。
 そんなとき、だれかがあなたにこう言ったとする。
「この世は、より働くものが、よりよい生活ができる。
そうでないものは、そうでない」と。

 あなたはその論理に、素直に納得するだろうか。

●毎月5000万円、6年間!

 そういう人が、日本の総理大臣をしている!
私はこの事実が、許せない。
たとえばあのK国では、首都のP市に住む人だけが、それなりによい生活が
できるという。
P市に住めるというだけで、特権階級。
一方、地方では、09年の秋になってから、餓死者が出始めているという。

 そういう話を聞くと、私たちは、こう思う。
「何て、バカげた国なんだろう」と。
しかしそういう国を、だれが笑うことができるのか。
笑うことができないだけではない。
結局は、私たち日本人も笑われている。

 いくら「悪意性はない」と言っても、そんな論理は、まともな世界では通用しない。
はっきり言えば、狂っている。

一国の首相の母親が、毎月5000万円だと!
それを6年間も!

●退陣あるのみ

 何が、民主主義だ。
民主党だ。
名前を聞いて、あきれる。
民主主義の本質を、根底からひっくり返している。
民主主義そのものを、否定している。
これほどまでの不平等を、自ら放置し、容認するばかりか、その不平等の上に、
どっかりと腰をすえている。

 36億円というポケットマネーは、そういうお金。
どうしてそういう人物が、日本の首相でありえるのか。
日本の首相で、いてよいのか。

 自民党のあのAS前首相には、うんざり。
がっかり。
その上、鳩山首相まで!
いったい、私たちは何を信じたらよいのか。

 最後に一言。

 この問題は、「悪意性がない」とか、あるとかいう問題ではない。
私たちが今感じている、このやりようのない(怒り)。
それが、問題。
挫折感。
失望感。
それが、問題。

 昨日の世論調査によれば、民主党の支持率こそ、50〜60%前後だそうだが、
鳩山首相個人への支持率は、10%前後しかないという。
当然のことだ。

あのAS前首相の支持率より低くなったことを、忘れてはいけない。
 「民主党」のために、鳩山首相、ならびに、OZ氏は、即刻退陣したらよい。
がんばればがんばるほど、民主党に与えるダメージは、大きくなる。
日本の民主主義は、後退する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【世界の賢者・戦争に関する格言集】by はやし浩司(09年4月8日版)

++++++++++++++++++

勇ましい好戦論ばかりが、聞こえてくる。
しかしそれを唱える人にかぎって、自分では
戦争に行こうとしない。

人、とくに若い人たちに向って、「戦え、戦え」
と言いながら、自分では、奥の座敷でそれを
見物している。

愚かな核武装論にしても、そうだ。
もし日本が核武装するなら、一撃で、中国全土、
あるいはロシア全土を廃墟にできるほどの数の
核兵器をもたねばならない。

が、それができないというのであれば、
(できるわけがないのだが……)、
最初からもつのをやめるべきだ。

日本の平和と安全を守りたいなら、まず、
相手に脅威を与えないこと。

かつてあのインドのネール首相は、こう言った。

『ある国が平和であるためには、他
国の平和もまた保障されねばならない。
この狭い、相互に結合した世界にあっては、
戦争も、自由も、平和も、すべて
たがいに連動している』(「一つの世界をめざして」)と。

では、どうすべきか。

今、世界中が、国際化し始めている。
恩師の田丸先生は、こう教えてくれた。

「中国の若い男女を見ていると、日本の男女と
どこも区別がつかなくなってきています。
情報化がたがいに進めば、やがて中国も日本も
なくなりますよ」と。

私たちがめざすべき未来の世界は、けっして
対立する世界であってはいけない。
仮に為政者たちが対立しても、中身の人間が
同じになれば、やがて戦争は必然的に消滅する。

私たちがめざすべき世界は、そういう世界をいう。

戦争について、考えてみたい。

+++++++++++++++++++


●戦争について

Allow the President to invade a neighboring nation, whenever he shall deem it necessary 
to repel an invasion, and you allow him to do so, whenever he may choose to say he 
deems it necessary for such a purpose -- and you allow him to make war at pleasure. 
If today, he should choose to say he thinks it necessary to invade Canada, to prevent 
the British from invading us, how could you stop him? You may say to him, 'I see no 
probability of the British invading us' but he will say to you, 'Be silent; I see 
it, if you don't.'" - 
Abraham Lincoln(A・リンカーン)
すべての大統領に、彼が侵略を追い払うためにそれが必要と思うなら、隣国を侵略するこ
とを許せ。またその目的のためにそれが必要だというのなら、隣国を侵略することを許せ。
そして大統領が望むまま戦争することを許せ。もし今日、英国がわれわれを侵略すること
を防ぐため、カナダを侵略するのが必要という判断を大統領が下したのなら、だれが彼を
止めることができるのか? あなたは「英国が我々を侵略する可能性はありません」と言
うかもしれないが、私は、こう言うだろう。「黙っていろ。もしあなたがわからないなら、
私がそれを知る」と。


The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. 
Albert Einstein(A・アインシュタイン)

戦争のない世界における囚人は、軍役を拒否する若者たちである。


A country cannot simultaneously prepare and prevent war. 
Albert Einstein(A・アインシュタイン)

国というのは、戦争を準備することと、戦争を防ぐことは、同時にはできないものである。


Never has there been a good war or a bad peace 
Benjamin Franklin(B・フランクリン)

今だかって、よい戦争もなければ、悪い戦争もなかった。


Every gun that is made, every warship launched, every rocket fired signifies, in the 
final sense, a theft from those who hunger and are not fed, those who are cold and 
not clothed. 
Dwight D. Eisenhower(D・D・アイゼンハウワー)

どんな銃であれ、戦艦であれ、ロケットであれ、つまるところ、それらは、食物を与えら
れず飢えている人から、ものを盗むようなもの。衣服がなく、寒さに震えている人から、
ものを盗むようなもの。


We have to face the fact that either all of us are going to die together or we are 
going to learn to live together and if we are to live together we have to talk. 
Eleanor Roosevelt(E・ルーズベルト)

私たちは、つぎの事実に直面しなければならない。私たちみなは、いっしょに死ぬか、で
なければ、いっしょに生きるかのどちらかである。もしいっしょに生きるならば、まずた
がいに対話をしなければならない。


●恐れについて

Taking a new step, uttering a new word, is what people fear most. 
Dostoyevsky(ドストエフスキィ)

新しい行動に出ること、新しい言葉を発すること……それが人々がもっとも恐れることだ。


Without fear and illness, I could never have accomplished all I have. 
Edvard Munch

恐れと病気がなかったら、私は今私がもっとているものすべてを完遂できなかっただろう。


If someone betrays you once it is their fault, if someone betrays you twice it is your 
fault. 
Elenor Roosevelt (E・ルーズベルト)

誰かが1度、あなたを裏切ったら、それは彼らの責任だ。しかしもしあなたが2度裏切ら
れたとするなら、それはあなたの責任だ。


To suffering there is a limit; to fearing, none. 
Francis Bacon(F・ベーコン)

苦しみに対しては、制限がある。しかし恐れることには、制限はない。


I must not fear. Fear is the mind-killer. Fear is the little-death that brings total 
obliteration. I will face my fear. I will permit it to pass over me and through me. And 
when it has gone past I will turn the inner eye to see its path. Where the fear has gone 
there will be nothing. Only I will remain." 
Frank Herbert, Dune ―Bene Gesserit Litany Against Fear

私は恐れてはならない。恐れは、心を殺す。恐れは小さな死であり、それはすべてを忘れ
させる。私は恐れに立ち向かうだろう。私はそれを私の中を通過するのを許すだろう。そ
してそれが過ぎ去ったとき、それが通り過ぎた道を見るため、心の中の目に振り向く。恐
れが去ったとき、そこには何もない。ただ私が残っているだけ。


The fear of aesthetics is the first symptom of powerlessness. 
Fyodor Dostoevsky, "Crime and Punishment"(F.ドストエフスキィ・「罪と罰」)

美の哲学としての恐れは、無力の同意語である。


One of the things which danger does to you after a time is -, well, to kill emotion. I don't 
think I shall ever feel anything again except fear. None of us can hate anymore - or love. 
Graham Greene ―The Confidential Agent (1939)

危険というものをしばらく経験したあとにやってくるものの一つは、感情を失うというこ
と。恐れ以外に再び何も感じないだろう。だれもなにも恨むこともなければ、愛すること
もない。


War is an ugly thing, but not the ugliest of things. The decayed and degraded state of 
moral and patriotic feeling which thinks that nothing is worth war is much worse. The 
person who has nothing for which he is willing to fight, nothing which is more 
important than his own personal safety, is a miserable creature and has no chance of 
being free unless made and kept so by the exertions of better men than himself. 
John Stuart Mill(J・S・ミル)

戦争は醜いもの。が、もっとも醜いものではない。道徳や愛郷心が腐敗し、堕落すれば、
何も価値がないと思うようになり、それが戦争をさらに悪くする。喜んで戦うべきものを
もたない人、つまり己の安全のみ以上に、大切なものをもたない人は、あわれな生き物で
あり、もし、今以上によりよい自分になるためにそうしているのでないというならば、自
由の感覚を味わうことはない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 戦争の論理 意識の乖離 意識のちがいと戦争の原因)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●ピカソの未公開作品(訪問ヘルパーによる窃盗事件)

++++++++++++++++++++++

ピカソの未公開作品が、大量に見つかった。
産経NEWSは、つぎのように伝える。
読みやすくするため、記事に番号を入れた。

+++++++++++++以下、産経NEWSより+++++++++++++

(1)現代芸術の巨匠パブロ・ピカソ(1881〜1973年)の、これまで存在すら知られていなか
った作品を含む絵画など計271作品がこのほどフランス南東部で発見された。作品の価値は
総額で6千万ユーロ(約66億円)を上回ると目されている。29日付フランス紙リベラシオンが
伝えた。

(2)見つかったのは、ピカソが1900〜32年に制作した作品。少なくとも175点は未公開で、
うち97点は存在が知られていなかった作品という。キュビスムのコラージュや「青の時代」の水
彩画、最初の妻であるオルガの肖像、リトグラフ、デッサンなどが含まれていた。

(3)作品を所有していたのは、アルプ・マリティム県に住むピエール・ルゲネック氏(71)。ルゲ
ネック氏は、晩年南仏に住んでいたピカソの家に警報装置などを設置した電気技師で、今年1
月以降、ピカソの息子らに「作品が真作であることを証明してほしい」などと依頼する書簡を送
っていた。

(4)息子ら相続人は9月、大量の作品を隠匿していたとして同氏を捜査当局に告訴。作品は
文化遺産の不正取引を取り締まる当局が10月に押収した。

(5)ルゲネック氏は一時拘束されて取り調べを受けたが「作品はピカソや夫人から譲渡された
もの」と無実を主張。同氏の夫人も「私たちは泥棒ではない」とヌーベル・オプセルバトゥール誌
(電子版)に反論している。(共同)

+++++++++++++以上、産経NEWSより+++++++++++++

●接点

 この記事で重要なのは、ピカソとルゲネック氏との接点。
ピカソは、1973年に没している。
ルゲネック氏は、晩年ピカソが住んだとされる南仏のピカソの家の警報装置工事を
請け負っている。
現在71歳ということだから、ピカソが没したとき、34歳前後ということになる。
警報装置工事を請け負ったのは、さらにその前、つまりルゲネック氏がもっと若かった
ころのことということになる。

ルゲネック氏は、一事拘束され、取り調べを受けたが、「作品はピカソや夫人から譲渡
されたもの」と、無実を主張しているという。
たがいにどういう関係だったかはわからない。
しかしいくら知り合いとはいえ、他人であるルゲネック氏に、271もの作品を譲渡
したとは常識では考えられない。
しかもルゲネック氏は、警報装置の電気工事で、ピカソの邸宅にあがりこんでいる。
その気になれば、警報装置をいかにょうにも、操作できる立場にあった。

 が、どうであれ、……つまりピカソが本当に譲渡した可能性もないわけではない。
が、この事件とは別に、こんな疑惑を以前から抱いている。
ことの発端は、ある男性(56歳)の話である。

●窃盗するニセ介護士(訪問ヘルパー)

 ある男性をX氏(56歳)とする。
現在は浜松市に住んでいる。
実家は、浜松市から車で1時間半ほどのM村。
その村に、89歳になる母親が、ひとりで住んでいた。
が、いよいよということで、X氏は母親を浜松市へ呼び寄せた。
在宅介護などを受けていたが、その1年後に他界。

 X氏は同じく浜松市に住んでいる弟氏といっしょに、自宅の整理のため、M村の実家に
戻った。
ところが、である。
実家は、まさにもぬけのカラ。
薬箱はあっても、薬はなし。
切手帳はあっても、切手はなし。
古銭帳はあっても、古銭はなし。
引き出物などでもらった小物類は、箱だけが残っていて、中身はすべて消えていた。

「母はたんす預金派だったのですが、現金らしい現金は1円も残っていませでした」と。

 で、近所の人に話を聞くと、実家から数百メートルほど離れたところに、1人の女性が
夫と住んでいて、その女性がときどきやってきて(週に1度くらい)、母親の世話をして
いたという。
近所の人は、施設から派遣されたヘルパーの女性とばかり、思っていたという。
が、さらに話を聞くと、無資格の、いわゆる「ボランティアさん」ということがわかった。
つまりその女性は、ヘルパーのフリをしたわけではないが、ときどき介護するフリをしな
がら、その女性の家にあがりこんでいた。

 で、X氏が、その女性の家に行った。
「生前、母が世話になったそうでありがとうございます」と。
女性は、明るい笑顔を満面に浮かべながら、こう答えたという。
「いいお母さんでしたよ。やさしくて、穏やかで。ときどきいろいろな仕事を頼まれ
ましたので、車を走らせたこともあります」と。

 X氏は、こう言った。
「ペラペラと、こちらが聞きもしないうちから、あれをしてやった、これをしてやったと、
恩着せがましいことをつぎつぎと並べました」と。

●訪問介護制度の盲点

 私自身も、似たような経験をしている。
どこのだれとは書けないが、その疑いは濃厚である。
しかし確たる証拠があるわけではない。
ないから、相手の言いなりになるしかない。
X氏も、こう言っていた。

「世話をすべき私たちが世話をしなかったという負い目もあったため、強く出ることも
できませでした」と。

 しかしみなさん、私はあえて声を大にして言う。
あの訪問介護制度という制度は、高齢者にとって、本当に安全なのか、と。
こう書くと、まじめに職務をこなしている訪問介護士の人たちは不愉快に思うかも
しれない。
しかし「盲点」というか、「欠陥」は、確かにある。

 現在訪問介護制度は、ひとつの施設から継続的にヘルパーが派遣されるように
なっている。
しかも1名が、原則。
そのヘルパーが、ふつう平均して2〜4年程度、継続して、介護が必要な高齢者の家に
入る。
身のまわりの世話を繰り返す。
高齢者といっても、判断力がかなり鈍った高齢者である。
「介護」とは言うが、一歩、道を踏み外せば、「?」。

●訪問介護制度の改善

 訪問介護制度は、欧米でも常識化している。
自活できない高齢者をみるには、すぐれた制度である。
しかし盲点がないわけではない。
実際、この種の事件が多発している。
ちなみに、Googleで、「訪問介護士 窃盗」で検索してみたら、何と
8800件余りもヒットした。
こまかい事件となると、日常茶飯事といってよいほど多い。

 が、逆の事件も起きている。
無実のヘルパーに対して、窃盗したと騒ぎたてる高齢者も少なくない。
「ヘルパーが金を盗んだ!」と。
そこで改善策としては、

(1)長期ヘルパーを避ける。(長くても数か月単位で、派遣ヘルパーを替える。)
(2)ヘルパーを1人制ではなく、複数制にする。

 判断力のない高齢者の自宅に、単独でヘルパーを送り込むという制度そのものに
欠陥がある。
人を疑えということではないが、みながみな、善人とはかぎらない。
家人が隠しカメラを設置し、ヘルパーの窃盗を証明した事件さえある。

●ピカソの絵画

 話を戻す。

 高齢者から金品を盗むのは、幼児から金品を盗むより、はるかに簡単。
(幼児は金品と言えるようなものをもっていないが……。)
ルゲネック氏がそうだったと書いているのではない。
これから先、フランスの警察は、そのあたりを鋭意、捜査することになるだろう。
しかしルゲネック氏の言葉は、じゅうぶん、疑ってみる必要がある。
晩年のピカソがどういう状態だったかは、私は知らない。
しかし92歳で没しているところからして、仮に「譲渡」だったとしても、ピカソには
まともな判断力はなかったとみるべき。

 はたして「譲渡」だったのか。
それとも「窃盗」だったのか。
どちらであるにせよ、この問題は、そのまま私たちの老後の問題と結びついている。
けっして他人の世間話ですませてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 訪問ヘルパー 訪問介護制度 問題点 欠陥 盲点 はやし浩司 ピカソの絵画
 ヘルパーの窃盗 介護士の窃盗事件)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【中国の人たちへ】(到中国人民)

要使用外国金正日的威?,只是想打?他?的公民。
?在,如果??保?北方,将在?史上留下一个?点很快。
??是捍?者,就像一个独裁者?屠?了成千上万的人。
?打??的眼睛,在朝?看情况良好。

●世論調査

 中国の人民日報の姉妹紙、『環球時報』の世論調査によれば、つぎのようだ、そうだ。
(中国の世論調査は、あまり信用しないほうが、よいアルヨ。)

「中国にとって北朝鮮とは?」との質問に、
「戦略的な障壁」(44.7%)と「盟友」(43.2%)が最も多く、
「厄介な隣国」が15.1%、
「潜在的な脅威」が15.0%だった。

「北朝鮮の砲撃事件や近年の強硬な行動についてどう思うか」では、
「事情は複雑で、簡単には評価できない」が56.7%、
「北朝鮮が追い詰められた末に取った行動」が22.4%、
「北朝鮮の挑発」が9.5%と答えた。 

●ちがう考え方、アルヨ

 このとおりの事実とするなら、私たち日本人がもっている意識とは、かなりちがう。
平たく言えば、中国は、天安艦爆破事件にしても、今回の延坪島砲撃事件にしても、
北朝鮮の行動は「やむをえなかった」と考えている人が多いということ。

 そういうものかなあ……?、という疑問もないわけでない。
人民日報という公営新聞社が、中央政府に都合の悪い調査結果を公表するはずがない。
ないことは、ノーベル平和賞受賞者を軟禁していることからもわかる。
つまりこの調査結果を公表することによって、「中国人は、君たちとは違う考え方、
アルヨ」ということを、あえて私たちに伝えたかったのかもしれない。

 しかし「意識」というのは、恐ろしいもの。
立場がちがうと、善・悪の判断基準そのものが、180度ちがうことも珍しくない。
夫婦の間でも、それをよく経験する。

●仕事

 昔、木下恵介監督の、『喜びも悲しみをも幾歳月』という映画を観た。
当時私は子どもだったが、子どもながら似涙を流した。
灯台守の夫婦を描いた映画だったが、灯台守の有沢四郎を演じた、佐田啓二、妻のきよ子を
演じた、高峰秀子らは、名優中の名優。
俳優自身の誠実さというか、人間性が、そのまま画面に出ていた。

 それはそれとして、その映画の中で有沢四郎は、自分の息子が危篤状態になっても、
職場を離れず、灯台の灯を守った。
「仕事を家族に優先させた」と言えば、それまで。
しかしそれが当時の、そして現在の私の常識でもある。
私はどんなに体の調子が悪くても、また天気が悪くても、職場に向かう。
が、ワイフはそうでない。
ささいな口げんかをしただけで、仕事の手伝いをやめてしまう。
「仕事」に対するきびしさそのものが、ちがう。

 で、私がそれをなじると、ワイフはすかさず、こう言う。
「あなたは仕事だけが大切なの?」と。

 何もワイフを責めているのではない。
家庭に入った主婦なら、おおかた、そのような考え方をする。
最近では職場をもっている男性だって、ワイフのような考え方をする。
「自分の息子が危篤状態になったら、親はどんなことがあっても、息子のところへ
駆けつけるべき」と。

 あまりよい例ではないかもしれない。
映画『喜びも悲しみをも幾歳月』がまっさきに思いついたので、それを例にあげてみた。

●中国の人たちへ

 中国語に翻訳するため、簡単な日本語で書く。

北朝鮮の金正日は、ありもしない外国の脅威を作りあげているだけ。
外国の脅威を利用して、金正日は、自国の国民を弾圧しているだけ。
今、君たちが北朝鮮をかばえば、やがて歴史の中に汚点を残すことになるだろう。
君たちがかばっているのは、何十万人という同国民を虐殺した独裁者にすぎない。
どうか目を開いて、北朝鮮の現状をよく見てほしい。

要使用外国金正日的威?,只是想打?他?的公民。
?在,如果??保?北方,将在?史上留下一个?点很快。
??是捍?者,就像一个独裁者?屠?了成千上万的人。
?打??的眼睛,在朝?看情况良好。

●意識

 アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と。

 その(常識)の上に、人は知識や情報を塗り固める。
そのときほとんどの人は、自分にとって都合のよい情報を、より好んで求める。
都合の悪い情報には、目をつむる。
こうしてやがてその人の(意識)が作られる。
その結果が、現在私たち日本人がもっている(意識)ということになる。
現在、中国人がもっている(意識)ということになる。

 が、それにしても……。

 こうまで意識がちがうとは、私も思っていなかった。
善良な中国人なら、北朝鮮の一連の行動に、眉をひそめているはず。
私はそう考えていた。
が、中国という大陸に視点を置いてみると、ものの考え方が、180度変わる。
中国にとって、直接的な脅威は、韓国でも日本でもない。
もちろん北朝鮮ではない。
アメリカなのだ。

 だからこの世論調査の結果どおりとするなら、北朝鮮による核兵器開発についても、
「やむをえない」と考える中国人がいても、おかしくない。
実際、中国にしてみれば、北朝鮮の核兵器など、痛くもかゆくもない。
その気になりさえすれば、1日で、すべてを灰にすることさえできる。

●意識の溝(みぞ)を埋める

 どんなばあいでもそうだが、たがいの間に意識の溝(みぞ)を感じたら、まず
相手の意識を尊重する。
意識には上下はない。
優劣もない。
人間がみな平等であるように、意識もまた平等。

 先のワイフの意識にしても、そうだ。
私の意識が正しいと言う前に、なぜ私はそういう意識をもっているかをさぐる。
それには私の生い立ちが深くからんでいる。
その生い立ちを無視して、私の意識を語ることはできない。

 一方、ワイフにはワイフの生い立ちがある。
私とはまったくちがった環境で、生まれ育った。
当然、意識もちがう。

 そこで大切なことは、たがいの意識を認めあい、尊重しあうこと。
「私はこうだから……」と思うのは、その人の勝手。
しかし「だから、あなたはまちがっている」と、相手を切り捨ててはいけない。
それが「国家」というレベルにまで昇ったとき、そこで戦争が起きる。

●意識の差

 今回の世論調査結果を見て、私は驚いた。
「このままでは戦争、不可避!」と。
夫婦でも、ここまで意識がちがったら、もういっしょには住めない。
はげしい夫婦げんかの末、離婚。

 言い替えると、「平和」か「戦争」かという問題は、「意識の差」の問題ということに
なる。
意識の差が小さければ、問題はない。
が、その差が限度を超えたとき、戦争が起きる。
つまり「平和を守る」ということは、「意識の差」を縮めること。
その努力を怠らないこと。
その結果として、平和は保たれる。

 これは「はやし浩司の平和論」ということになる。
どこかで参考にしてもらえれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 平和論 意識の差 意識の差が戦争を引き起こす 中国の世論調査 はやし浩
司 アインシュタイン 常識 18歳のときにもった偏見)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司 

【我が師でもあり、友人でもある、名倉智道先生のご逝去を、心より悼みます】

昨日、2010年12月1日(水曜日)午後、長年の我が師でもあり、友人でもある、
名倉智道先生が、急逝されました。
ご遺族の方々には、この場を借りて、心からお悔やみ申し上げ申し上げます。
小生、ただただ残念でなりません。
つい先日も、長生きしようとたがいに励まし合ったばかりでした。
思えば止めどもなく涙があふれ、今日1日は、放心状態で、過ごしました。
毎週のようにメールを交換し、最後は、11月27日に受け取ったばかりでした。

名倉智道先生に失礼かと思いますが、最後にいただいたメールを紹介させていただき、
小生のささやかな追悼の儀とさせていただきます。
先生、長い間、ご指導、力添え、ありがとうございました。
本当にありがとうございました。
どうか、安らかにお休みください。

【名倉智道先生より、はやし浩司へ】(2010年11月27日付メールより)

はやし浩司 様
 
きのうは退職公務員連盟・西部地区の研修会がありました。研修会といっても、顔合わせ懇親
会です。昔は盛大に酒を酌み交わして行っていたようですが、最近では申し訳程度の会になっ
ています。浜松・浜名・磐田・袋井の各支部から45名ほどが集まりました。第1部研修会は「浜
松ホトニクス」研究所の見学です。
 
浜松に高柳健次郎のTV実験を記念した「イ」の石碑があり、近くで学生時代を送った我々には
懐かしくまた少しばかり誇りに感じるところです。この高柳の精神を抱き創設された会社の今を
見てきました。さすがに最先端技術とあってほとんど理解できませんでした。また、この先の研
究がどう進むのかということも分かりませんでした。
 
ただ言えることは「光」に研究を置いて、生物体と光、生命と光といった切り口で研究が進んで
おり成果の一端はPETなど医療の分野に、カミオカンデでは物質そのものの研究分野に光電
管という形で現れているということです。
 
いくつかの実験的なデモを見せてもらい、「光」に特化した研究ではあっても生命や環境といっ
た総合的な成果を期待しての研究ということで幅広い知識や技能が要求されるということが分
かりました。
 
将来的にこのような会社(ここばかりではありません)で創造的な仕事をしていくために学校教
育の果たす役割はどうあったらいいか、そんなことを考えさせられました。現職の教員が見れ
ば本当はいいのでしょうね。
 
その後、県立浜北森林公園での昼食、散策、解散という日程でした。
 
このところレッドデータブックの調査のためあちこちを歩いてきました。しかし、相手は絶滅危
惧種とあって簡単には見つかりません。寒さも増してきて紅葉、つまり夏緑性の植物は観察の
限界です。少し疲れも溜まりましたので、このくらいにして体を休めようと思います。
 
採集はそれほど疲れないのですが、その後乾燥させる手間が大変なのです。毎日毎日乾燥
用の新聞紙をとり替え、湿った新聞紙は広げて廊下にならべこれを乾燥させます。こうした後
始末が結構大変なのです。
 
今日は奥平山という所に行ってきました。お送りしたミカンの産地です。三ケ日の中でも平山周
辺のミカンが三ケ日を代表する味といっても過言ではないと思います。酸味と甘さのバランス
は最高ではないでしょうか。植物のほうは特別なものもなく、データブックに関係するものもな
く、という結果でした。
 
それではこれで。名倉

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司2010/12/02

(注)今まで小生の原稿の中で、NG先生と書いてきた先生は、
   名倉智道先生のことです。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【NASA 記者会見 2010年12月2日、12月3日、日本時間】

●気になるニュース・NASA・「宇宙生物学上の発見」発表するための記者会見
●インターネット(ストリーミング)にて公開
NASA Sets News Conference on Astrobiology Discovery; Science Journal Has Embargoed 
Details Until 2 p.m. EST On Dec. 2 

NASAは、12月3日(日本時間)、NASA「宇宙生物学上の発見」発表するため
記者会見をもつという。
その記事を再度、ここに転載する。

●日本経済新聞社のHPに、こんな記事が載っていた。

++++++++++以下、日経NEWSより++++++++++++++++++++

 米航空宇宙局(NASA)は29日、「地球外生命体の証拠の探索に影響するであろう宇宙生物
学上の発見」について、米東部時間の12月2日午後2時(日本時間同3日午前4時)に記者会
見することを明らかにした。ワシントンのNASA本部で会見すると同時に、その様子をインター
ネットで中継するという。

++++++++++以上、日経NEWSより++++++++++++++++++++

●早速、NASAの公式ウェブサイトをのぞく。
以下の記事を発見する。
記者会見に臨むのは、NASAの中でも、トップクラスの研究者たち。
今まで繰り返してきたような、ふつうの記者会見ではななさそうだ。

++++++++++++以下、NASAのWebsiteより++++++++++

MEDIA ADVISORY : M10-167 
 
 
NASA Sets News Conference on Astrobiology Discovery; Science Journal Has Embargoed 
Details Until 2 p.m. EST On Dec. 2 
 
12月2日に、宇宙生命体(Astrobiology)発見についての記者会見を設定。
 
WASHINGTON -- NASA will hold a news conference at 2 p.m. EST on Thursday, Dec. 2, to 
discuss an astrobiology finding that will impact the search for evidence of extraterrestrial 
life. Astrobiology is the study of the origin, evolution, distribution and future of life in the 
universe. 

NASAは12月2日、午後2時(EST)に、地球外生命体の証拠の研究に衝撃(impact)
を与えるであろう、宇宙生命体の発見を論ずるため、記者会見をもつ。

The news conference will be held at the NASA Headquarters auditorium at 300 E St. SW, in 
Washington. It will be broadcast live on NASA Television and streamed on the agency's 
website at http://www.nasa.gov. 

記者会見は、NASA本部でなされる。
その模様は、ライブでNASAよりテレビ中継され、http://www.nasa.gov.で視聴することができ
る。

Participants are: (出席者は以下の者たちである。)

  ★Mary Voytek, director, Astrobiology Program, NASA Headquarters, Washington 
 Felisa Wolfe-Simon, NASA astrobiology research fellow, U.S. Geological Survey, Menlo Park, 
Calif. 


★ Pamela Conrad, astrobiologist, NASA's Goddard Space Flight Center, Greenbelt, Md. 
 Steven Benner, distinguished fellow, Foundation for Applied Molecular Evolution, Gainesville, 
Fla. 

★James Elser, professor, Arizona State University, Tempe 

Media representatives may attend the conference or ask questions by phone or from 
participating NASA locations. To obtain dial-in information, journalists must send their name, 
affiliation and telephone number to Steve Cole at stephen.e.cole@nasa.gov or call 202-358-
0918 by noon Dec. 2. 

メディア関係者は、以下の方法で、あらかじめ連絡を取って欲しい。

【NASAのストリーミング ビデオはつぎのところで配信される】
For NASA TV streaming video and downlink information, visit: 
http://www.nasa.gov/ntv 
  
【宇宙生命体に関する情報は、以下のサイトにて】
For more information about NASA astrobiology activities, visit: 
http://astrobiology.nasa.gov 
  
  end 

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 Astrobiology Discovery NASA the search for evidence of extraterrestrial life
 地球外生命体 宇宙人 宇宙生命体 宇宙知的生命体 NASA 記者会見 http://www.
nasa.gov/ntv)


++++++++++++以上、NASAのWebsiteより++++++++++

●何だろう?

 NASAが?
今ごろ?

 こうした「公表」には、2つの意図が隠されている。

(1)いよいよ隠しおおせなくなったから。
(2)つぎのウソをつくための、下準備。

 NASAが今まで、「地球外生命体」の存在について、さんざん事実を隠してきたことは、ある
いは、ウソをついてきたことは、周知の事実。
少し前、日本が月探査衛星の『かぐや』を打ち上げたときも、搭載するカメラの解像度を、
「さげろ」と日本に要求してきた。

それに応じて、日本は、1000万画素から、その約半分の画素まで、わざわざ解像度を
さげたという話も聞いている。
今どき、1000万画素など、ふつうのデジタルカメラでも常識。
「月には何か、見られたら都合が悪いものがあるのだろうか?」と、私も勘ぐった。
そのNASAが、日本時間で3日午前4時に記者会見をするという。

 何だろう?
期待半分、懐疑半分。

「月の中には、宇宙人が住んでいます」というような話なら楽しい。
それとも反対に、「もうすぐ宇宙人が、地球を攻撃してきます」かもしれない。

 12月3日(日本時間)は、何か記念すべき日になるかもしれない。

Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【NASAの緊急記者会見】2010年12月3日、早朝
●人騒がせにも、ほどがある!
失望+落胆+怒り


●NASAのWebsite(ホームページ)より


In a press conference later today, NASA will announce a breakthrough discovery: Bacteria 
in California's Mono Lake that subsist off of arsenic. Initially, this admittedly does not seem 
like very exciting news at all, but as Ron Burgundy would put it, with noted understatement, 
it's "kind of a big deal." The ability to thrive on arsenic differentiates this bacteria from all 
other known forms of life on the planet, which rely on the six building blocks of carbon, 
hydrogen, oxygen, nitrogen, phosphorous, and sulfur. Thus the find alters our conception of 
how and where life can arise and the search for life on other planets. 


●時事通信社の翻訳より


 生物が生きて増殖するのに使う主要な6元素の一つ、リンの代わりにヒ素を利用する細菌
が、米カリフォルニア州の塩湖「モノ湖」で初めて見つかった。米航空宇宙局(NASA)などの研
究チームが論文を2日付の米科学誌サイエンス電子版に発表した。生物の概念を変える発見
であり、地球外生命を探索する際にも視野を広げる必要があるという。


 モノ湖はサンフランシスコの東方、シエラネバダ山脈の麓にある。湖水は塩分濃度が高く、ア
ルカリ性で、人間など通常の生物にとって有毒なヒ素が多く含まれている。


 湖底で発見された新細菌は、大腸菌と同じ「ガンマプロテオバクテリア」のハロモナス類に属
し、「GFAJ―1」株と名付けられた。リンは遺伝情報を担うDNA(デオキシリボ核酸)やたんぱく
質、脂質の主要な成分だが、リンが全くない環境で培養すると、代わりにヒ素を取り込んで利
用し、増殖することを実験で確認した。


 ヒ素は、元素の周期表で窒素やリンと同じ15族に属し、化学的性質が似ている。昔から農薬
やネズミ退治の薬、毒薬に使われてきたのは、細胞内に容易に取り込まれ、さまざまな酵素の
働きを阻害するためだ。しかし、研究チームはヒ素が毒にならず、リンの代わりになる細菌が
存在すると予想し、探し当てたという。


 地球上の生物が使うリン以外の主要元素は水素、炭素、窒素、酸素、硫黄の五つ。周期表
の初めの方に位置し、宇宙や地球での存在量が多いため、生物が利用するようになったと考
えられてきた。
(以上、時事通信社のHPより、転載)


●水の中にも生物(?)


 要するにこういうこと。


 それまで地上の生物しか知らなかった動物がいた。
水の存在は知っていた。
しかし自分たちは水の中では、生息することができないことを知っていた。
だから水の中には動物はいないと思い込んでいた。
が、ある日、水の中をのぞいてみたら、水の中でも生息している動物がいることを知った。
「おい、水の中でも生息している動物がいるぞ!」と。
そこでその動物はその事実を、世界に向けて、記者会見を開いて発表することにした。


 つまり、それだけのこと。


 「ナーンダ、そんなこと!」と驚いている人は多いかと思う。
実際、私も、そう思った。
「ナーンダ、そんなことか!」と。
そんなことを発表するために、わざわざNASAは、NASA本部で緊急記者会見を開いた?


●補記


 今朝は起きるとすぐ、パソコンに向かった。
日課になっている運動もしなかった。
そしてNASAのホームページを開いた。
その結果がこれ。


NASAには悪いが、この程度の発見で、世界を騒がせないでほしい。
いつだったか、海底火山の周辺に生息している生物が話題になったことがある。
深海で、太陽の光も届かないような漆黒の世界だが、火山から発する熱と光を利用し、進化
し、そこで暮らしている生物が発見された。
海洋生物の多様性を証明するような発見だった。
その生物のほうが、よほどimpact(衝撃性)(NASAの言葉)がある。


 が、今回の発見は何か。
私はその世界については、まったくの門外漢だが、わざわざ記者会見までして発表するような
ものでもない。
その世界の研究者にとっては、重大な事実かもしれないが、シロアリやネズミの駆除にヒ素を
使っている私たちにとっては、何でもない。
「Nature」なら「Nature」でよい。
その雑誌に寄稿して発表すればじゅうぶん。


 本当に人騒がせな記者会見。
それにしても、NASAが、どうして「モノ湖」なのか?
「がっかり」というか、一言「バカヤロー」と叫びたくなるような記者会見だった。


 そう言えば、昨夜、私はこう思いながら、床に就いた。
「長生きしていて、よかった」と。
「これで地球外生命体の謎が、公にされるかもしれない」とも。
が、今は、失望。
落胆プラス、怒り。
昨日と何も変わらない朝を迎えた。
はやし浩司 2010−12−03朝。
みなさん、おはようございます。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 人騒がせなNASAの記者会見 ヒ素で生きる生物)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●作られる反日感情(中央日報のばあい)
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???? ?? ??.
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??? ???? ??? ???? ???? ???.
(中央日報社、御中
ねつ造される反日感情。
韓国、中央日報の記事より。
どうか日本人の心を、勝手に翻訳しないでほしい。)

++++++++++++++++++

数日前、「作られる反日感情」と題して、
朝鮮日報社の記事を批評した。
その記事をきっかけに、朝鮮日報社の
日本向けHPに、私の記事がトラックバック
されるようになった。
つまりコラムとして、紹介されるようになった。

一部、韓国語に翻訳して発表したのが
よかったのかもしれない。

で、先月書いた記事を、もう一度、一部
韓国語に翻訳し、再掲載する。

より多くの韓国の人たちの目にとまれば
うれしい。

どういうわけか、日本駐在の韓国人記者は
ウソ記事ばかり書いている。
それを問題にしたい。

+++++++++++++++++++

【日韓経済戦争】作られる反日感情(はやし浩司 2010−11−01)

++++++++++++++++++++

今度日本が、ベトナムの原子力発電所建設
プロジェクト(第2期事業)で、その
パートナーに内定した。

そのニュースもさることながら、韓国の中央
N報(11月1日)は、つぎのように国内で
報道している。

 『…… 日本メディアは「新興国の原発建設に
政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に
対応するため、日本が構成した'官民合同体'
が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じ
た』(中央N報、11月1日、原文のまま)と。

この中で、「韓国に対応するため」という文言に
注目してほしい。
そこで日本では、どのように報道されているか、
調べてみた。
本当に「韓国」を名指しで、「快挙」と報道して
いる報道機関があったのか。
私もこのニュースは、新聞、ネットで知っていた。
韓国の連合体と競っているいる話は聞いていた。
しかし……?

ともあれ、あちこちのサイトで、このニュース
を調べてみたが、「韓国に対応するため」と書いた
報道機関は、見あたらなかった。

以下、事実だけを並べてみる。
誤解、偏見をなくすため、削除することなく、
全文を転載、並べて比較してみる。

++++++++++++++++++++++

●韓国中央日報はつぎのように伝えた(11月1日)

*************以下、韓国・中央日報より***************

韓国・フランス・日本が競合するベトナムの原子力発電所建設プロジェクト第2期事業で、
日本がパートナーに内定した。 

  ベトナムのグエン・タン・ズン首相と日本の菅直人首相は31日、ベトナム・ハノイで
首脳会談を開き、このように明らかにしたと、日本経済新聞が報じた。同紙は「これは日
本が新興国の原発建設を受注した事実上初めてのケースであり、規模は1兆円にのぼる」
と伝えた。 

  ベトナムは2020年代初期までに4基の原発建設を終える予定で、4基の原発のうち
第1期事業の2基はすでに年初にロシアが受注している。今回の第2期事業の2基はベト
競合していた。 

  日本は原発建設を受注する代わりにベトナム側の港などのインフラ建設に790億円の
借款を供与し、原発関連技術の移転を提供することにした。また両国首脳は戦略物資であ
るレアアース(希土類)の研究および開発も共同で協力することにした。 

  菅首相は「原発とレアアースの二つの問題について両国がパートナーになったのは真の
パートナーシップが始まったという象徴的な意味を持つ」と強調した。 

  今回のベトナム原発建設プロジェクト第2期事業は、先月22日に官民合同出資で発足
した「日本国際原子力開発」を中心に進行された。東芝・三菱重工業・日立製作所が参加
している。 

  日本メディアは「新興国の原発建設に政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に対応
するため、日本が構成した'官民合同体'が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じた。

*************以上、韓国・中央日報より***************

***************以下、J−Castより*************

●J−Cast(11−2)

 菅直人首相は2010年10月31日、ベトナム・ハノイ市内でグエン・ダン・ズン首相と会
談、原子力発電所2基の建設を日本側が受注することが決まった。

ベトナム北西部にあるレアアース(希土類)の開発を共同で進めることにも合意した。菅
首相は、港湾建設などに総額790億円の円借款を新たに供与する意向を表明した。

*************以上、J−Castより***************

*************以下、読売新聞より*****************

●読売新聞(10−31)

【ハノイ=宮井寿光、永田毅】菅首相は31日、ベトナムのグエン・タン・ズン首相とハ
ノイ市内の首相府で会談し、両国関係に関する共同声明に署名した。

 ベトナム政府が予定している原子力発電所建設計画について、日本を「協力パートナー」
とすることで合意し、日本勢の受注が事実上決まった。日本が新興国で原発建設を受注す
るのは初めて。

 日本はこれまで、新興国で激化する原発建設の受注競争で相次いで敗北してきたが、今
回は官民一体で集中的に受注活動を展開したことが奏功した。

 対象となるのは、南部のニントゥアン省に予定されている第2期工事の原発2基分。ベ
トナム側は条件として、低金利での優遇貸し付け、最先端技術の利用、廃棄物処理協力な
どを示し、日本側も応じた。ズン首相は会談で、日本の受注について「政治的、戦略的決
断だ」と語った。

 両首相は省エネ家電などの部品に不可欠なレアアース(希土類)についても共同開発で
合意した。レアアースの生産量は中国が世界の9割以上を占めるが、輸出制限が世界的に
問題となっており、「中国依存」からの脱却を図る狙いがある。

*************以上、読売新聞より*****************

*************以下、NHKサイトより***************

●NHKニュース(10月31日)

ハノイを訪れている菅総理大臣は、31日にベトナムのズン首相と会談し、現地で計画さ
れている原子力発電所の建設を日本の企業に受注させるよう求めるのに対し、ズン首相は
日本側の要請に応じることを表明する方向で調整を進めています。

ASEAN=東南アジア諸国連合などとの一連の首脳会議に出席するため、ハノイを訪れ
ている菅総理大臣は、ベトナム訪問の最終日の31日、ズン首相と会談する予定です。こ
の中で菅総理大臣は、ベトナムで計画されている原子力発電所2基の建設事業で、日本企
業に受注させるよう要請する方針です。

ベトナムの電力公社は、高い技術力などを評価して日本に発注する方針を固めていました
が、関係者によりますと、ズン首相は菅総理大臣に対し、ベトナム政府として日本側の要
請に応じることを表明する方向で調整を進めているということです。

日本政府は、アジアでのインフラビジネスを成長戦略に掲げており、外国企業との競争が
激しい原発事業で、今回ベトナムから受注を得る方向となったことで、今後の海外展開の
弾みとしたい考えです。

また、菅総理大臣は希少資源の「レアアース」について、中国への過度な依存から脱却す
るため、日本企業と現地企業が合弁で手がけることが決まっているベトナム北部の鉱山開
発について、できるだけ早く生産が始められるよう、協力を求めることにしています。

*************以上、NHKサイトより***************

*************以下、朝日新聞サイトより***************

 【ハノイ=高野弦】ベトナムの最高意思決定機関である共産党の指導部は、同国南東部
に建設を予定している原子力発電所について、日本企業に発注する方針を決めた。複数の
関係者が明らかにした。正式決定すれば、原発を新たに設置する新興国で、日本が受注す
る初のケースとなる。 

 31日の日越首脳会談で、ズン首相から菅直人首相に発注の意向が伝えられる見通し。 
 日本企業への発注方針を決めたのは、南東部ニントアン省の原発2基(出力計200万
キロワット)で、2021年の運転開始を目指している。 

 ベトナムは2030年までに14基の原発の建設・稼働を計画。このうち具体化してい
るのはニントアン省の4基で、最初の2基は昨年12月にロシアが受注した。 

 インフラ輸出を成長戦略の軸にすえる日本は、残る2基の受注を目指し、今年に入って
受注活動を展開。経済産業相らが8月、経済界とともにベトナム入りし、人材育成や資金
援助などを提案していた。また、10月には新興国での受注を目指した官民共同出資の「国
際原子力開発」を立ち上げていた。 

*************以上、朝日新聞サイトより***************

●一事が万事

 中央N報を読んだ韓国の人たちは、どう思うだろうか。
日本があたかも韓国を叩くために、ベトナムでの原子力発電所建設工事を受注したと
解釈するだろう。
「快挙」、つまり「日本人は、韓国に勝ったと喜んでいる」と。

 受注競争の過程では、たびたび韓国の名前が出てきたのは事実。
中央N報にもあるように、韓国は政府と民間が一丸となって受注合戦を繰り広げていた。
で、日本もそれに対抗して、(あくまでも対抗して)、政府が受注合戦に乗り出した。
その結果、日本が受注に成功した。

 が、成功したあとは、どの報道機関も、「韓国」の「カ」の字も書いていない。
が、韓国では、『新興国の原発建設に政府と民間が合同で全力を傾けている韓国に対応する
ため、日本が構成した'官民合同体'が成し遂げた初めての快挙」と一斉に報じた』と。

 こうした報道操作は、日常茶飯事。
ことあるごとに国内の反日感情をかきたてている。
しかしこれは天下の報道機関として、あるべき報道姿勢ではない。
中央N報は、日本の報道機関のどれをさして、「一斉に報じた」としているのか。

 一事が万事というか、韓国の新聞を読んでいると、この種の情報操作があまりにも多い。
少し前は、自前で気象衛星をあげたことについて、「これで日本の世話にならなくてすむ」
と。

 今までさんざん日本の世話になっておきながら、この言いぐさはない。
せめて「今まで、ありがとう」の一言くらいは、あって当たり前。

それではいけないということで、あえて今回のニュースを取りあげてみた。

●追記

 対する日本は、どうか?

たまたま同日(11−2)TBS−iニュースは、こんなニュースを報道している。
こちらは、重要なニュースではないので、一部、省略させてもらう。

***********以下、TBSーiニュースより*************

●第二次韓流ブーム

 最近、日本で新たな「韓流ブーム」が社会現象になりつつあります。次々とデビューし
てチャート入りを果たす韓国のガールズ・グループ。その背景には、ブームを作り出す、
ある壮大な「戦略」がありました。

(中略)
 
 4か国語が飛び交う会見場。1日、韓国・ソウルの外国特派員協会に姿を現したのは、
人気ガールズ・グループ「少女時代」です。19歳から21歳までの9人からなる「少女
時代」。3年前にデビューし、韓国でトップに登りつめた後、台湾やタイなどのヒットチャ
ートでも1位を獲得。中国でもツアーを行うなど、アジア全域で活躍中です。そして9月、
満を持して日本デビュー。第2弾シングルが先週、日本を除くアジアの女性グループとし
て史上初のチャート1位を記録しました。

 日本の韓流ブームといえば、これまで比較的高い年齢層の女性たちに支えられてきまし
た。この新たな韓流ブームの特徴は、日本の若い女性の心を捉えていることです。美脚が
売りの少女時代だけでなく、大人の魅力を強調するグループ「BROWN EYED GI
RLS」、ヒップダンスを得意とするグループ「KARA」などが、今年に入って次々と日
本デビューを果たしています。

 1日の会見のテーマは彼女たちの世界戦略でした。

(中略)

 周到な準備の下、続々と上陸する韓国のガールズ・グループ。しかしその目は、すでに
日本のはるか先を見据えているのかもしれません。(01日22:48)

***********以上、TBSーiニュースより*************

 日本人のノー天気ぶりには、あきれるばかり。
緊張感がまるでない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 韓国の報道機関による情報操作 反日感情 作られる反日感情)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●どこまで目くじらを立てるべきか

++++++++++++++++++

もう20年近く前のことになる。
私はある宗教団体を攻撃した本を、5冊出した。
当時、いくつかのカルト教団が、社会問題を
引き起し、世間の話題をさらっていた。
その当時のことである。

が、それから20年。
久しぶりに、ペンネームの私を検索してみた。
が、それを見て、驚いた。
私は「MS」というペンネームで本を出した。
が、その本について、

「本物の著者は、私である」と名乗っている人が
いることを知った。
あるいは、「私が大量の資料を送り届けて、MSに
本を書かせた」という人がいることも知った。
さらに「MSをハシャク(=この世界の専門用語で、
相手を論じ伏せること)し、筆を折らせたのは、
我が師、NK尊師である」というのまであった。

みなさん、好き勝手なことを書いている。
私は自分の本を代筆させたことは一度もない。
またハシャクされたことも、一度もない。
それに筆を折ったわけではない。
あまりにもばかばかしくて、書くのを中断しただけ。
もう少しわかりやすく言えば、イワシの頭を信仰して
いる人に対して、「イワシの頭」と証明してみせただけ。

が、こういうデタラメ記事には、もう慣れた。
いちいち目くじらを立てていたのでは、こちらのほうが、
疲れてしまう。
またそのヒマもない。
しかし無視することもできない。
内容と相手の立場によっては、反論のコメントを書く。
「即刻、事実に違背している記事を削除してほしい」と。
今朝も、2つのサイトにその旨、コメントとして書き込んだ。

++++++++++++++++++

●誤解

 みなさん、誤解している。
私、はやし浩司は、名もない物書きだが、一文たりとも、他人の文章を盗んだことは一度
もない。
(こんなことはあえて書くまでもない、常識だが……。)
無名だからこそ、それには注意している。
無名の私に、「盗作疑惑」がかけられたら、私はどうなる?
「代筆疑惑」でもよい。
何もなくなってしまう。

 文章だけではない。
内容についても、だ。
 もし私が書いているようなことと似たような文章に出会ったら、まず、そちらを疑って
みてほしい。
見分け方は、簡単。
今ではインターネットを使って、即座に、私の書いた文章を検索できるようになった。
そのとき私の書いた文章と、相手の書いた文章の日付を比較してみればよい。
当然、私の書いた文章の方が古い。

 それに代筆(ゴーストライター)ということになれば、どうしてこの私が?、となる。
代筆業(ゴーストライター)で生計を立てていた私が、どうしてどこかのゴーストライタ
ーに、代筆を頼むのか。
バカも休み休み、言え!

●無私で書くから、文章

 この10年近く、私は文章を、「無私」の立場で書いている。
東京あたりでは、テレビ局や雑誌社を相手に、批評記事を書いたら、そのままブラックリ
ストに載ってしまう。
以後、仕事が途絶える。

 が、この地方に住んでいると、そうした心配というか、気兼ねは、いらない。
もとから相手にされていない。
みなさんはご存知ないかもしれないが、東京の人たちがもっている独特の優越感には、鼻
持ちならないモノがある。
明らかに地方に住む私たちを「下」に見ている。
(自分たちだって、大半は、地方から上ってきた人間なのだが……。)
とくにマスコミの世界ではそうである。

 だからこそ、私は、自由にものを書くことができる。
もともと無欲だから、だれかに媚を売ることもない。
遠慮する必要もない。
が、そこが重要。
ものを書くときの基本は、そこにある。
またそうであるから、書いた文章が生きる。

 またまた愚痴になってしまった。
今朝は、あまり精神状態がよくないようだ。
こういうときは、何かの気分転換をするのがよい。

……窓の外には栗の木がある。
そこにキジバトの雛が、巣の中でちょこんと座っている。
それが私の座っている位置からよく見える。
2羽いる。
(よく見えるように、まわりの枝を切り払ったのは私だが……。)

 枝がいつもより大きく揺れているのは、風のせい。
先ほど窓を開けて、声をかけてみたが、羽を立てて、警戒態勢。
野生の鳩だけに、警戒心が強い。
これからビデオカメラに様子を収めて、YOUTUBEにアップしてみる。
愚痴を書くのは、もうやめよう!

(付記)

 たった無事、ビデオに収録。現在、YOUTUBEにUPLOAD中!
(はやし浩司のHP)→(音楽と私)→(2010年12月)のところで、ご覧いただけ
るようにしておきます。




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v/3rWoa9Sirvg?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/3rWoa9Sirvg?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>




Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>



【テーマ:カタカナ】

●カタカナを教えるのではなく、「カタカナは楽しい」という意識をどこかで
もってもらえるよう、指導してみました。
(はやし浩司 2010−12−03)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/KonB96DMCzc?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/KonB96DMCzc?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>




<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/GPTQ47w4uAc?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/GPTQ47w4uAc?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>




<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/-ERPMvKScB0?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/-ERPMvKScB0?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>




<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/XKuiih2TkI4?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/XKuiih2TkI4?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>



(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 年長児 カタカナの学習 カタカナの指導 かたかな かたかなの学習 勉強 年
長児)

(お礼)

YOUTUBEのアクセス数が、平均600回/1日を超えました。
音楽TUBEのような派手さはありませんが、これからもみなさんに楽しんで
いただければ、うれしいです。
ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

はやし浩司 2010−12−04

+++++++++++++++++++++++

昨夜は仕事の帰りに、ワイフと、映画『Kiss&Kill』
(英語名:Killers)を観てきた。
が、これがどうしようもない駄作(ごめん!)。
あきれるほどの駄作(ごめん!)。
星など、つけようもない。
予告編を観て、「おもしろうそう」と思ったが、それはまちがい。
がっかり。
ドタバタ映画でも、ここまで中身のないドタバタ
映画となると、そうはない。

『トロン』『ロビンフッド』に期待をつなぎながら、
昨夜は冷たい冬の風が吹きすさぶ、夜の街を
歩いて帰った。

+++++++++++++++++++++++

●離婚

 オーストラリアの友人の息子が、最近、離婚した。
2人の子ども(幼児)もいた。
理由は、(友人の話によれば)、妻が元カレと交際をつづけていたとのこと。
「やっぱり、昔の恋人のことが忘れられない」というようなことで、離婚したらしい。

 が、こういう話は、一方的な意見だけを聞いて判断してはいけない。
(相手の話を聞く必要もないが……。)
家庭の事情は、複雑。
夫婦関係は、さらに複雑。
心の問題は、さらにさらに複雑。

 そっと見守ってやることこそ、大切。
あとはそこを原点として、みな、明るく前向きに生きていけばよい。

●私たち

 実のところ、私たち夫婦も、あぶない。
私はともかくも、ワイフは、いつも構えている。
「いったん、ことあれば!」と。
だから私は、1日とて、心の安まる日がない。
いっしょに寝るときも、「いっしょに寝ていいか?」と。
そのつど、ワイフの気持ちを確かめなければならない。

 だからということでもないが、軽い口げんかをしただけで、「別れましょう」「離婚
しよう」となる。

 が、離婚するのも、たいへん。
たがいの人間関係が、網の目のようにからんでいる。
ともにひとりでは、生きていかれない。
(ワイフは「お金さえもらえれば、ひとりで生活できる」と言っているが……。)
少なくとも、私には生活能力がない。

●抑圧

 本来なら、心を開放し、言いたいことを言えばよい。
したいことをすればよい。
が、ワイフのばあい、子どものころから、何かいやなことがあっても、それを心の別室に
押し込め、やり過ごしてきた……らしい。
義兄や義姉は口をそろえて、「A子(=ワイフ)は、がまん強い子だった」と言う。
それが今でも、習慣になっている。

心理学の世界では、そうした心理状態を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
表面的には、穏やかでやさしいが、それは仮面(ペルソナ)。
いったん、ことがあると、心の別室の中にたまった不満や不平を爆発させる。
別人のようになる。
何か一言、言うと、その10倍以上の反論となって返ってくる。

 今も、基本的には、ワイフは私にさえ心を開くことができない。
むしろ夫婦げんかしたときのほうが、本当のワイフの心が外に出てくる(?)。
「私はあなたなんかと、結婚するつもりはなかった!」と。

●ケセラ・セラ

 ……と書いても、何も、私たち夫婦が特別というわけではない。
危機的な状況というわけでもない。
どこの夫婦も似たようなもの。
みな、同じような問題をかかえ、その中で懸命に生きている。
うまくいっている夫婦など、実際には、さがさなければならないほど、少ない。
私たち夫婦にしても、空の天気のようなもの。
曇りの日もあれば、雨の日もある。
もちろん晴れの日もある。
その晴れの日を利用して、旅行したり、映画を観に行ったりする。

 要するにパーフェクトな夫婦関係を求めない。
ほどほどのところで、ほどほどに満足する。
あとはケセラ・セラ(なるようになる)。

 それが夫婦円満(?)のコツではないか。

●秒読み段階

 とは言っても、人生も秒読み段階に入った。
つい先日、「ともに長生きしましょう」と誓い合った友人が、8月1日に他界した。
あっけない他界だった。
信じられないほど、あっけない他界だった。

 そういう友の死を経験すると、夫婦の問題など、どこかへ吹き飛んでしまう。
わかりやすく言えば、どうでもよくなくなってしまう。
実のところ、そのときも私は布団をかぶって寝ていた。
「あんなヤツ(=ワイフ)とは、二度と口をきかないぞ」と。

 ちょうどそんなときワイフがやってきて、「NG先生が、亡くなったって……」と。
「ウソだろ?」「今、奥さんから電話があった……」と。

 とたん夫婦げんかのことは、忘れてしまった。
私にしても、夫婦げんかどころではない。
明日どころか、今日の今日、ポックリ逝くかもしれない。
ワイフのようなつまらない人間(失礼!)のことで、心を煩わせているヒマはない。

●夫婦論

 夫婦とは何か?
そこにいるのは、親以上の人間。
兄弟以上の人間。
親友以上の親友。
ときに私自身。
たがいの思い出が、そこにぎっしりと詰まっている。

 が、それでいて、壊れるときは壊れる。
一度壊れると、今度は他人以上の他人になる。

 ただこの年齢になってはじめてわかったことが、ひとつある。
それは「男」と「女」の関係ではなくなるということ。
脳内ホルモンが枯渇する。
若いときのように、「性」でたがいをつなぐということができなくなる。
加えて子育ても終わり、共通の目標も消え失せる。
あとに残るのは、純然たる一対一の人間関係。

 一見太く見える人間関係だが、実際のところ、細くてボロボロ。
言うなれば、チョロチョロと燃える、残り火のようなもの。
消すこともできない。
だからその残り火に、たがいに手を向けながら、かすかな暖をとりあう。
慰めあう。
労(いたわ)りあう。

 あとはその「日」が来るのを、静かにじっと待つ……。

……ここまで書いて、またあの『ミレーの落ち穂拾い』を思い出した。
原稿を探してみる。

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以前書いた原稿です。

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●夫婦VS育児

 どんな夫婦でも、それなりのプロセスがあって、結婚し、子どもをもうける。たいていは恋愛→
恋愛期間→結婚というプロセスを経る。それぞれの夫婦は、「私たちの恋愛だけは、ほかの人
たちのとは、ちがう」と思いがちだが、それはどうか?

 が、問題は恋愛ではない。男女が恋愛をする部分と、その男女が結婚し、子どもをもうけ、そ
してそのあと、育児をする部分は、別の問題であるということ。

 私はこれを、「夫婦の二層性」と呼んでいる。

 つまり恋愛は、純粋に感情的な問題だが、育児では、男女の思想性、哲学性、社会観、人生
観、それにそれまでにそれぞれが生まれ育ってきた過去が、真正面からぶつかりあう。

 こうした二層性は、国際結婚をしたカップルを見ていると、よくわかる。たとえば今では、ニュ
ージーランドの日本人学校の周辺にも、受験塾があるという。K式算数教室もあるという。

 「日本へ帰ってからのことが心配だ」というのがその理由だが、その夫婦が、ともに日本人な
ら、それほど大きな問題とはならない。

 たとえば夫が日本人で、妻が、ニュージーランド人であったとしたら……? あるいはその逆
でもよい。

 子どもの教育で、どう折りあいをつけるかは、そのつど、重大な問題となる。さらに、社会観、
男女観、夫婦観となると、もっと深刻な問題となる。オーストラリアでは、夫が妻に向かって、
「おい、お茶!(Hey,Tea!)」と叫んだだけで、離婚事由になるという。実際には、そういう夫
はいない。

 独特の教育観をもった夫と、親に溺愛されて育った妻。崩壊家庭に近い家庭環境で生まれ
育った夫と、両親の愛に恵まれて生まれ育った妻。高学歴の夫と、学歴とは無縁の世界で育
った妻などなど。

 組みあわせはいろいろある。そういう夫婦が、子どもを間にはさんで、対立する。……つまり
そういうケースは、多い。

 そこで夫婦は、たがいに悩む。「夫は、甘い」「妻は、冷たい」「息子を、夫のようにしたくない」
「妻は、放任すぎる」とか。

 こういう対立があっても、夫婦の間が、しっかりとした愛情で結ばれていれば、まだ救われ
る。話しあいもじゅうぶん、なされる。子育ての調整もできる。

 しかしそうでないときは、そうでない。『子は、かすがい』というが、裏を返せば、『子は三界の
足かせ』となる。

 そういうときは、どうするか?

 答は簡単。あきらめて、現状を受けいれる。ジタバタしても、始まらない。たとえば妻(=母
親)の側から見ても、夫(=父親)の教育をするのは、子を教育するより、何倍もむずかしい。

 たとえばあなたの夫が、かなりのマザコンタイプであったとしよう。しかしそうしたマザコン性
は、よほどのことがないかぎり、なおらない。あなたという妻の力くらいでは、どうにもならない。

 マザコンであることが、その夫の、哲学になっていることも多い。そんな夫に向かって、「あな
たはマザコンよ」と言えば、その先は、どうなるか? 

 育児にからんで、夫婦で対立するケースは、多い。教育の問題となると、さらに多い。だか
ら、あ・き・ら・め・る。

 料理でいえば、その場にある食材で、できるものを考えるしかない。食材がそろっていないの
に、寿司をつくろうとか、ビーフカレーをつくろうとか、そういうふうに考えるから、ムリが生まれ
る。

 あるもので、つくる。結局は、育児は、ここに行き着く。

 いろいろな問題はあるだろう。弊害や悪影響もあるだろう。しかし全体としてみると、こうした
問題は、一過性の問題で終わる。なぜなら、子どものもつ生きるエネルギーは、親が考えてい
るより、はるかに大きく、強力である。やがて子ども自身がもつ、自己意識が育ってくれば、子
ども自身が、そうした問題を乗り越える。

 親がどう願ったところで、子は、親の願いどおりには、いかない。かりに夫婦の方向性が一致
していても、だ。夫は息子をハーバード大へ。妻は息子を東大へ。しかし肝心の息子は、専門
学校を出て、職人になった……というケースは、いまどき、珍しくも、何ともない。

 ここで私は夫婦の「二層性」について書いた。

 つまり夫婦は、恋愛、結婚というプロセスを経て、さらに子どもをもうけて、この二層性を経験
する。しかしその子育ても終わると、再び、一層性にもどる。だから夫婦も、育児のことで、ム
ダにジタバタしないこと。

 だから繰りかえす。

 あきらめて、受けいれる。それよりも重要なのは、夫婦の信頼関係ということになるが、それ
については、つぎに考える。

(はやし浩司 育児 子育て 夫婦の対立 対立)


●夫婦の信頼関係

 夫婦の信頼関係も、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)で決まる。「絶対的」とい
うのは、「疑いすら、もたない」という意味。

 しかしそれはあくまでも基盤。信頼関係をつくりあげるためには、共通の目的、共通の苦労、
共通の人生観をともにもたなければならない。しかしそれは1年や2年で、できるものではな
い。

 もし若い夫婦の中で、「私たちはたがいに信頼している」「愛しあっている」と思っている人が
いるなら、それは幻想と思ってよい。夫婦の信頼関係は、そんな生やさしいものではない。

 少し視点がかわるが、年をとると、ものの見方が少し変わってくる。たとえば小学生や中学生
の恋愛ごっこを見てみよう。「好きだ」「ふられた」「別れた」「取られた」などと、毎日のように騒
いでいる。

 しかし年をとると、やがて、中学生の恋愛ごっこも、高校生の恋愛ごっこも、それほど、ちが
わないように見えてくる。さらに、高校生の恋愛ごっこも、若い男女の恋愛ごっこも、それほどち
がわないように見えてくる。

 当の本人たちは、「私たちは、高校生とはちがう」と思っているかもしれないが、まあ、これ以
上のことを話しても、どうせ理解してもらえないだろう。

 つまり私が言いたいことは、夫婦の信頼関係をつくりあげるためには、もうひとつ、「時間」
「経験」「年輪」というファクターが、必要だということ。

 が、最終的に夫婦の信頼関係を決めるのは、実は、「命」である。

 私も、私のワイフには、たくさんの不満があった。ワイフにもあっただろう。しかし、自分で自
分の人生を生きてみてわかることは、私の人生には、いつも「限界」があった。はっきり言え
ば、「たいした人生は、送れなかった」。それに「たいしたこともできなかった」。

 「まあ、いろいろやってはみたけれど、私も、ごくふつうの平凡な男に過ぎなかった」と。そんな
私が、たとえばワイフに、今以上のものを、どうして求めることができるかということになる。

 あと、何年生きられるかということを考えると、なおさらである。10年か、20年か。私はそん
なことを考えるとき、いつも、ミレーの『落ち穂拾い』の絵を思い出す。何ともさみしい話だが、し
かし悪いばかりではない。あの絵に見られるような、そこには、深い、「味」が生まれる。

 若い女性の肌も美しいが、しかしシワでゆるんだ肌も、これまた美しい。若いときはいやだっ
たが、ワイフの腸内ガスのにおいも、これまた、悪くない。すべてを許し、すべてを受け入れて
いく。

 信頼関係は、こうして熟成されていく。

 だから私は、ふとこう思う。よく若い男女が、たがいに、「愛しているよ」「信じているよ」と言い
あっているのを聞くと、つい、「バカめ」と思ってしまう。「たがいに疑っているから、そういう言葉
を口にするのだ」と。

 絶対的に愛しあい、信じあっていたら、そんな言葉など、ぜったいに出てこない。

 ……と、書きつつ、「偉そうなことは言えない」と思ってしまう。

 私は本当に、ワイフを信じているかと聞かれると、どうも自信がない。そのことは、ワイフも同
じだろう。

 実は、まだたがいに苦労も足りないし、ここでいう「時間」「経験」「年輪」が、足りないように思
う。

 しかし最近では、あえて言わないようにしている。あの「愛しているよ」とか、「信じているよ」と
いう、どこかフワフワとした風船のような言葉だ。

 夫婦の信頼関係の問題は、これから先、私たち夫婦にとっては、じっくりと煮詰める問題とい
うことになる。

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ジャン・フランソワ・ミレーの「落ち穂拾い」
で思い出したのが、つぎの原稿

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●不幸の形

 幸福というのは、なかなかやってこないが、不幸というのは、こちらの都合など、お構いなしに
やってくる。だから幸福な家庭というのは、みな、よく似ているが、不幸な家庭というのは、みな
顔が違う。

 その不幸が不幸を呼び、さらにつぎの不幸を呼ぶ。こういう例は少なくない。

 両親は離婚。兄は長い闘病生活のあと、自殺未遂。母親は、再婚をしたものの、半年でまた
離婚。そのあと、叔父の家に預けられて育てられたが、そこで性的虐待を受ける。その女性
が、17歳のときのことだった。

 そこで家出。お決まりの非行。そして風俗業。しかし悲劇はここで終わったわけではない。や
っと結婚したと思ったが、夫の暴力。生まれてきた長男は、知的障害。夫は、やがてほかの女
の家にいりびたるようになり、そして離婚。今、その女性は四五歳になるが、今度は乳がんの
疑いで、入院検査を受けることになった……。

 その人はこう言う。「どうして私だけが……?」と。

 一つのリズムが狂うと、そのリズムをたてなおそうと、無理をする。しかしその無理が、さらに
リズムを狂わす。だれしも不幸になると、そこがどん底の最悪、と思う。しかしその下には、さら
に二番底、三番底、さらには四番底がある。

 しかし人というには、皮肉なものだ。今、目の前にあるものを見ようとしない。見ても、その価
値に気づかない。仮に見ても、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」と、自ら、それを打ち
消してしまう。

 だから賢明な人は、そのものの価値を、なくす前に気づく。しかし愚かな人は、そのものの価
値を、なくしてから気づく。健康しかり。人生しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 あなたは、本当に幸福か?
 それとも、あなたは本当に、不幸か?

 ある腎臓病だった人が、こんな投書を寄せている。何かの雑誌で読んだ話だが、こんな内容
だ。

 その人は、10年近く、重い腎臓病で苦しんだ。そしていよいよというときになって、運よく、腎
臓提供者が現れ、腎臓の移植手術を受けた。そしてそのあとのこと。はじめてトイレで小便をし
た。たまたま窓から、朝の陽光が差しこんでいたという。その人は、こう書いている。

 「自分の小便が黄金色にキラキラと輝いていた。私はその美しさに、感動し、思わず両手で、
自分の小便を受け止めてしまった」と。

 何気なくする小便にしても、それは黄金にまさる価値がある。その価値に気づくか気づかない
かは、ひとえに、その人の賢明さによる。言うまでもなく、賢明な人というのは、目の前にあるも
のを、そのまま見ることができる人をいう。

 その女性は、「どうして私だけが……」と言う。しかし本当にそうか? 

 だったら、冷静に、見てみろ! 「私は幸福だ」と笑っている、愚か者たちの顔を。抜けたよう
に、軽い顔を。彼らに、人生が何でえあるか、わかってたまるか! 生きるということが、どうい
うことか、わかってたまるか!

 見てみろ! 目の前にある青い空を。緑の山々を。白い雲を、その向こうにある宇宙を。もし
この世界に、神々がいるとするなら、そしてその神々に奇跡を起こす力があるとするなら、今、
私がここにいて、あなたがそこにいる。それこそが、まさに奇跡。それにまさる奇跡が、どこに
ある!

 釈迦の説話にこんな話が、残っている。あるとき、ある男が釈迦のところにやってきて、こう
言う。

 「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。釈迦よ、どうすればこの死の恐怖から逃れるこ
とができるか」と。

 それに答えて釈迦は、こう答える。「明日のないことを、嘆くな。今日まで生きてきたことを、喜
べ、感謝せよ」と。

 余談だが、釈迦自身は、「来世」とか、「あの世」をいっさい、認めていない。こういうあやしげ
な言葉(失礼!)を使うようになったのは、もっとあとの仏教学者たちで、しかもヒンズー教の影
響を受けた学者たちである。今の日本に残る経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年を経て書
かれた経典ばかりである。ウソだと思うなら、釈迦の生誕地に残る原始経典(『スッタニパー
タ』、漢語で、『法句経』)を読んでみたらよい。法句経のどこにも、釈迦は、あの世については
書いてない。むしろ、釈迦自身は、あの世を否定している。(後世の学者たちが、ムリなこじつ
け解釈をしている点はいくらでもあるが……。)

 不幸だと思っている人よ、さあ、勇気を出して、目の前のものを見よう。目の前のものを見
て、それを受け入れよう。こわがることはない。恐れることはない。恥じることはない。

 不幸だと思っている人よ、さあ、そういう自分を静かに認めよう。あなたには無数の心のポケ
ットがある。奥深く、心暖かいポケットである。そのポケットを、すなおに喜ぼう。誇ろう。あなた
はすばらしい心の持ち主だ。

 不幸だと思っている人よ、さあ、ゴールは近い。あなたはほかの人たちが見ることができない
ものを見る。ほかの人たちが知らないものを知る。あなたのような人こそ、人生を生きるにふさ
わしい人だ。人の世を照らすに、ふさわしい人だ。

 あなたの夫にいかに問題があっても、あなたの子どもにいかに問題があっても、ただひたす
ら、『許して忘れる』。これを繰りかえす。それは苦しくて、けわしい道かもしれないが、その度
量の深さが、あなたの人生を、いつかやがて光り輝くものにする。

 ……いや、かく言う私だって、本当のところ、何もわかっていない。本当のところ、何一つ、実
行できない。しかしこれだけは言える。私たちが求めている、真理にせよ、究極の幸福にせ
よ、それは遠くの、空のかなたにあるのではないということ。私やあなたのすぐそばにあって、
私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて、静かに待っている。

 過去がどうであれ、これからの未来がどうであれ、そんなことは、気にしてはいけない。今、こ
こにあるのは、「今という現実」だけ。私たちがなすべきことは、今というこの現実を、懸命に生
きること。ただただ、ひたすら懸命に生きること。結果は必ず、あとからついてくる。

 そう、私たちの目的は、成功することではない。私たちの目的は、失敗にめげず、前に進む
ことである。あの「宝島」をいう本を書いた、スティーブンソンもそう言っている。そういう有名な
言葉をもじるのは、許されないことかもしれない。しかしあえて、この言葉をもじると、こうなる。

 私たちの目的は、幸福になることではない。日々の不幸にめげず、前に進むことだ、と。

 もしあなたが不幸なら、ほんの少しだけ、あなたより不幸な人に、やさしくしてみればよい。あ
なたより不幸な人を、ほんの少しだけ、暖かい心で包んであげればよい。それで相手は救われ
る。と、同時に、あなたも救われる。

 あなたの子どもは、そこにいる。あなたはそこにいて、いっしょに生きている。友よ、仲間よ、
それをいっしょに、喜ぼうではないか。この100億年という宇宙の歴史の中で、そして100億
に近い人間たちの世界で、今、こうして心を通わすことができる。友よ、仲間よ、それをいっしょ
に、喜ぼうではないか。

 不安になることはない。心配することもない。さあ、あなたも勇気を出して、前に進もう。不幸
なんて、クソ食らえ! いやいや、あなたの身のまわりにも、すばらしいものが山のようにある。
それを一つずつ、数えてみよう。一つずつだ。ゆっくりと、それを数えてみよう。

 秋のこぼれ日に揺れる、栗の木の葉。
 涼しい風に、やさしく揺れる森の木々。
 窓には、友がくれたブリキの汽車の模型。
 そしてその上には、息子たちの赤ん坊のときの写真。

 やがてあなたは、心の中に、暖かいものを覚えるだろう。そしてその暖かさを感じたら、それ
をしっかりと胸にとどめておこう。それがあなたの原点なのだ。生きる力なのだ。

 つぎに、不幸と戦う必要はない。今ある状態を、それ以上悪くしないことだけを考える。あなた
は、ミレーが描いた、「落穂拾い」という絵を知っているだろうか。荒れた農地のすみで、三人
の農夫の女性が、懸命に、落穂を拾っている。どういう心境かは私には、知るよしもないが、し
かし私はあの絵に、人生の縮図を見る。

 私たちは今、懸命に、「今という時」を拾いながら生きている。手でつまむようにして拾うのだ
から、たいしたものは拾えないかもしれない。もっているものといえば、小さな袋だけ。が、それ
でも懸命に拾いながら、生きている。しかしその懸命さが、人の心を打つ。つまりそこに、人生
のすばらしさがある。無数のドラマも、そこから生まれる。

 最後に一言。あなたは決して、ひとりではない。その証拠に、今、私はこの文章を書いてい
る。そういう私がいることを信じて、前に進んでほしい。あまり力にはなれないかもしれないが、
私も努力をしてみる。

(はやし浩司 ミレー 落穂 落ち穂 落穂拾い はやし浩司 落ち穂拾い)

++++++++++++++++

●落ち穂拾い

 私がミレーの『落ち穂拾い』を思い出すときは、心が沈んでいるとき。
NG先生の死が、大きく影響している。
また1人、私のよき理解者を失った。
原稿を書いて送るたびに、批評を書いて寄せてくれた。

 今日は通夜。
明日は本葬。
何ごともなかったかのように、冬の白い陽が、窓に映る栗の木の葉を揺らしているのが、
うらめしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 夫婦論 夫婦とは ミレー はやし浩司 2010−12−04)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【朝鮮日報・日本支局、御中】?? ?? ?? ??, ??


++++++++++++++++++


相も変わらず、反日記事を書きたてる
朝鮮日報・日本支社の記者のみなさんへ。


?????, ?? ??? ???? ?? ?? ?? ??? ?? ?????.


++++++++++++++++++


●どちらが本当か?(朝鮮日報に知る、反日記事)


●朝鮮日報vs東京新聞+産経新聞


 まず、朝鮮日報における記事を読んでみてほしい。
この中で、朝鮮日報は、


(1)日本の東京新聞(中日新聞)は、根拠があいまいな情報をもとに、あたかも今すぐ
にでも、朝鮮半島で戦争が起きるというようなことを書いていると批判している。
それを「驚くべき取材源」と表現している。


(2)産経新聞は、北朝鮮が、ムスダンを数か月以内に発射する準備をしていると報道し
ているが、「消息筋」というだけで、根拠があいまいであると批判している。


(3)以上、日本の新聞社の記事を統括して、朝鮮日報は、「うわさや憶測による報道を徹
底して禁じる内容が所狭しと続く。日本のメディアは、BBCの報道方針を一度読んでみて
ほしい」と、注文をつけている。


+++++++++++以下、朝鮮日報、2010−12−04+++++++++++


 「緊張感は残っているが、韓国を今、離れた。皆、人がとてもよく、温かかった」。米
NBC放送のリチャード・エンゲル特派員が2日、簡易投稿サイト「ツイッター」に書いた
言葉だ。エンゲル特派員はイラクやアフガニスタンといった紛争地域をくまなく取材して
いることから、「戦争開始者」と呼ばれている。北朝鮮による延坪島砲撃の直後にエンゲル
特派員が韓国を訪れると、インターネット上では「イラクのように韓国でも戦争が起きる
と思っているようだ」と心配する書き込みが相次いだ。エンゲル特派員は「全くそうは思
わないが、専門家たちは北朝鮮のほうが敵対的に出るものと見ている」と語った。


 南北の状況に関する速報を世界のメディアが先を争うようにして報じている今、一部誤
報も飛び出している。CNNは数日前、北朝鮮が地対空ミサイルを発射したと報道したが、
その後に訂正した。韓国メディアよりも大きな扱いの記事も目立つ。ニューヨーク・タイ
ムズは1日、「平壌は普段と変わらない」というニュースを伝えた。北朝鮮で働く国際救護
団体職員の話をまとめ、平壌のムードを報じたものだ。


 ルモンドは先月24日、「南北は戦争に突入したのではない」という見出しで、アジア専
門家オリビエ・ギヤル氏のインタビューを掲載した。同氏は「延坪島は国防や産業施設が
ない。象徴的な場所だ。実質的な軍事目標ではない」と分析した。ルモンド紙は「北朝鮮
は予測できない、非理性的な体制であることを立証した」と報じた。事実報道と共に充実
した分析が主なヨーロッパ・メディアの特徴だ。


 最近の日本メディアの報道を見ると、韓半島(朝鮮半島)では近く戦争が起こるかのよ
うに感じられる。東京新聞は、北朝鮮の人民武力省偵察総局幹部が「年が明ける前に、京
畿道を目標に新たな砲撃があるだろう」との見通しを示した、と2日に報じた。間もなく
全面戦争が起こるという意味だ。この驚くべきニュースの取材源は、「北朝鮮に詳しい消息
筋」になっている。また、産経新聞は北朝鮮が射程距離3000キロの弾道ミサイル「ムスダ
ン(舞水端)」を数カ月以内に発射する準備をしているとし、「韓半島情勢に詳しい消息筋」
の話を伝えた。


 大勢の人々の命に関する報道には、確実な根拠がなければならない。日本メディアの報
道のように「駄目でもともと」式では困る。韓半島の緊張を高めることは、日本にとって
得だろうか。イギリスBBCの戦争報道方針は「視聴者たちが放送を確信できなければなら
ない」という文で始まり、うわさや憶測による報道を徹底して禁じる内容が所狭しと続く。
日本のメディアは、BBCの報道方針を一度読んでみてほしい。


+++++++++++以下、朝鮮日報、2010−12−04+++++++++++


●では実際にはどうなのか?


 朝鮮日報が問題にしている記事(東京新聞、産経新聞)の両方をさがしてみた。
キーワードをいくつか選び、検索をかけてみたら、簡単に見つかった。
朝鮮日報の筆者は、同じくインターネットを使って情報を収集したのが、このことからも
よくわかる。


東京新聞の記事と産経新聞の記事を、そのまま紹介する。


【以下、東京新聞および産経新聞より】(2010−12−04)


★東京新聞(ネット上の記事)


「北朝鮮軍、追加攻撃も」=北朝鮮人民武力部の偵察総局幹部が、「年内に京畿道(キョン
ギド)本土を目標にした新たな砲撃があるだろう」と述べたと日本の東京新聞が2日、ソ
ウル発で報道した。


同紙は北朝鮮情報に精通した消息筋の話として、「北朝鮮の延坪島(ヨンピョンド)砲撃直
後の先月下旬、人民武力部偵察総局幹部が、『新年になる前に京畿道を目標とした新たな砲
撃があり、西海(ソヘ、黄海)の(韓国)軍艦にも大きな打撃が加えられるだろう』と述
べたと伝えた。


同紙はまた、「具体的な攻撃を前提にした発言なのかどうかは不透明だが、島ではなく韓国
本土に対する追加挑発の可能性を言及したことで波紋が大きくなりそうだ」としている。
北朝鮮偵察総局は韓国と海外で工作活動を担当しており、国防部の金泰栄(キム・テヨン)
長官は北朝鮮の延坪島砲撃翌日の先月24日に国会で偵察総局長の金英哲(キム・ヨンチ
ョル)上将が砲撃を主導したとの見方を示したと明らかにした。


★産経新聞(ネット上の記事)


北朝鮮が中距離弾道ミサイル「ムスダン」(射程約3千キロ)の発射実験を数カ月以内に実
施しようと準備を進めていることが24日分かった。


朝鮮半島情勢に詳しい情報筋が明らかにした。北朝鮮は10月の軍事パレードで、
ムスダンとみられる新型ミサイルを登場させたが、これまで発射実験は行っていない。実
験によって実戦可能であることを"宣言"するとみられる。北朝鮮軍による韓国国内への砲撃
で、朝鮮半島情勢が緊迫化しているなかでの弾道ミサイル発射準備は、北朝鮮のさらなる
挑発行為といえる。


 ムスダンは在日米軍基地が集中する沖縄まで射程圏に収める。北朝鮮で核弾頭を搭載す
るミサイルはムスダンが最初になるともみられている。北朝鮮はこのほど米専門家に寧辺
(ニョンビョン)の新たなウラン濃縮施設をみせており、ムスダンの発射実験は
ウラン濃縮とも密接に関係しているといえそうだ。


 同筋によると、発射は北朝鮮との間でミサイル開発で協力関係にあるといわれるイラン
との間の共同作業で進められ、実験結果に関する情報などは両国で共有するという。


++++++++++++以上、東京新聞および産経新聞より+++++++++++


●問題のか所


 東京新聞は、「北朝鮮情報に精通した消息筋の話として」という切り出して、記事を書い
ている。
また産経新聞も、「情勢に詳しい情報筋」という切り出して、記事を書いている。


 朝鮮日報紙は、こうした書き方が、「いいかげん」と断言している。
つまり根拠があいまいであると。
そこで念のため、東京新聞(中日新聞)本紙の記事(新聞本紙)の記事をさがしてみた。
それは12月2日朝刊、P6にあった。
いわく、


「北朝鮮に詳しい消息筋は、……北朝鮮の人民武力省偵察総局幹部が……との見通しを示
した」と。


 以下、東京新聞は、記事の中で、「同筋によれば」という文言を、1度使っている。
ここまで読むと、朝鮮日報の言い分のほうに意見が傾く。
たしかに根拠が、あいまい。
いいかげんと言えば、いいかげん。
が、ここで待ったア!
しかしつづく記事の内容をよく読むと、こうある。


「具体的な計画を前提にした発言かどうかは不明だが、韓国本土への追加挑発の可能性に
ついて言及したことで波紋を広げそうである」※と。


東京新聞(中日新聞)のほうでは、「具体的な計画を前提にした発言かどうかは不明だが…
…」と、ちゃんと、「不明」という言葉を使って、内容をきちんと説明している。
一方、インターネットの記事のほうは、その簡略版ということがよくわかる。
記事の長さも半分以下。
つまり「不明うんぬん」の部分は、ネット上の記事では省略されている。
朝鮮日報の記者は、実際に、東京新聞(中日新聞)の紙面を広げ、記事を読み、その記事
をもとに原稿を書いたのではないことが、これでよくわかる。


簡単に言えば、ネット上の記事を、コピー&ペイストしただけ!


 しかしこれはあるべき新聞記者の報道姿勢と言えるのだろうか?
もし東京新聞(中日新聞)の記事にケチをつけるなら、ネット上の記事についてではなく、
ちゃんとした本紙を取り寄せ、記事の内容を確認すべきではなかったのか。
「大勢の人々の命に関する報道には、確実な根拠がなければならない」という言葉を、そ
っくりそのまま朝鮮日報の記者に返したい。


 産経新聞については、どうかここではわからない。
が、記事の長さからして、実際の記事の簡略版であることがわかる。
つまり朝鮮日報の記者は、ここでも実際の新聞紙を広げ、その文言を一字一句自分でタイ
プしたのではないと、思われる。


●「消息筋」


 インチキ新聞社が、デタラメ記事を書くときによく使われる言葉がある。
「識者」とか、ここでいう「消息筋」とかいう言葉である。
しかし新聞社の社是は、「信用」と「信頼」。


 私は浜松に住むようになって40年以上。
以来、ずっと私は中日新聞を40年以上購読している。
もしその過程で、不信感をもつような記事がつづけば、私はとっくの昔に中日新聞の購読
をやめていたであろう。
たとえばあの朝日新聞は、「(北朝鮮による)拉致事件を、日本政府のでっちあげ」と報道
していた。
が、北朝鮮は、自ら、拉致事件を引き起こしていた。
以後、朝日新聞への信頼度は、地に落ちた。
同時に朝日新聞の購読をやめた。


 そこで「消息筋」について調べてみたが、検索をかけるまでもなく、情報の出所をあい
まいにするため、あえてそういう言い方をすることが多いということがわかった。
当然のことである。
朝鮮日報の記者なら知っているはずだが、北朝鮮では、スパイの容疑がかけられると、本
人はもちろん、家族、親族もろとも銃殺刑に処せられる。
「消息筋」と書いてあっても、日本人なら、それを疑わない。
またそう書いてあったからといって、「あいまい」イコール、「インチキ」とは考えない。


 私たちは新聞社を信頼している。
少なくとも、韓国の新聞よりは、信頼している。
ウソ記事を書いて、韓国内で反日感情をかきたてているのは、むしろ君たち、朝鮮日報の
記者ではないのか?
それについてたびたび指摘してきたとおりである。


●反日記事


 広く見れば、この記事も「反日記事」のひとつと解釈することができる。
韓国国内の韓国の人たちが読んだら、韓国の人たちは、あたかも私たち日本人が、朝鮮半
島の混乱を楽しんでいるかのような印象をもつだろう。
が、それこそ朝鮮日報の記者のねらい。
「日本のメディアは、BBCの報道方針を一度読んでみてほしい」(朝鮮日報)の結びが、そ
れを示している。
この結びを読めば、日本人なら、だれしも自分たちがバカにされたと思うだろう。
もし逆に、韓国のどこかの日本新聞社が、韓国の人たちに向け、こんな書き方をしたら、
君たちはどう反応するだろうか。
ほんの少しでもよいから、それを頭の中で想像してみればよい。


 以下(※注)に東京新聞(中日新聞)の生の記事を載せておくので、もう一度、よく読
んでみてほしい。
むしろ日本人は、韓国(朝鮮半島)のことを心配して、この記事を書いているのがよくわ
かる。


●終わりに


 以上、ことあるごとに日本のアラさがしをし、反日記事をかきつづける朝鮮日報の記者
たち。
親日であれとは、私は言っていない。
しかしゆがんだ反日感情でもって、いつまでも反日記事を書きつづけるのは、もうやめた
らよい。


私自身は戦後の昭和22年(1947)生まれ。
記者自身も、戦後の生まれだろう。
今、この日本を見て、戦前の軍国主義が生きていると思う人は、いない。
一部の右翼団体はたしかにいる。
が、一部は一部。
目立った行動はしているが、実際には、だれも相手にしていない。
日本人のほとんどは、隣国とは仲よくしたいと願っている。
しかし残念なことに、それを拒み、拒むどころか、むしろ反日感情を盛りたてる記事を韓
国へ配信しつづけている君たち。
君たちの存在が、残念でならない。


はやし浩司(1967年、日韓UNESCO交換学生)


(注※)(中日新聞紙の実際の記事より)


「(この発言は)、1日に終了した米韓軍事演習の実施が決まったあとの発言とされる。具
体的な計画を前提とした発言かどうかは不明だが、韓国本土への追加挑発の可能性につい
て言及したことで波紋を広げそうだ。


 北朝鮮に詳しい消息筋は偵察総局幹部の名前は明らかにしなかった。どう消息筋による
と、幹部は、『黄海上の韓国の軍艦にも、大きな打撃が加えられる』と付言したという。(以
下省略)。」


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 朝鮮日報 中央日報に見る、反日記事 反日感情)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●朝鮮日報(2010−12−06)?? ?? ?? ?


●砂糖は白い麻薬
??? ?? ??


+++++++++++++++++


?? ??, ??(朝鮮日報、御中)


いつも批判ばかりして、すみません。
今日の記事について、私が10年近く
前に書いた原稿が参考になると思いますので
送ります。


+++++++++++++++++


●砂糖(精製された白砂糖)は、「白い麻薬」


+++++++++++以下、朝鮮日報、12月5日の記事より+++++++++++


ソウル市江南区内の高校に通うPさん(16、高1)は、この1年間で体重が15キロも増え
た。昨年までは、身長165センチに体重50キロというスリムな体型だった。共働きの母親
は、「自分がちゃんと準備して食べさせなかったから子どもがやせている」と思い、いつも
家にチョコレートなどのおやつを置いていた。


 クラスで1、2位の成績だったPさんは中3になり、高校受験に向けた競争が激しくなる
中、成績が少しずつ下がり始めた。Pさんは勉強のストレスがたまると、お菓子の袋を開け
た。あめを一つ、二つ、クラッカー数枚…次第にその量が増えていった。


 次第に、毎日チョコレートを1、2個食べないとイライラし、物足りなさを感じるように
なった。憂うつな気分を落ち着かせようと、慌てて幾つもチョコレートを口に入れ、驚い
て吐き出したこともある。肥満クリニックを訪れたPさんに、医療陣は「甘いもの中毒」
と告げた。


■肥満児を生む「甘いもの中毒」


 先進国では、かなり前から「甘いもの中毒」が社会問題となっていた。世界糖尿病協会
では2005年、「全世界の人口の20−25%が、甘いもの中毒という新たな現代病を患ってい
る」と発表した。


 日本でも数年前から、10−30代に見られる「ペットボトル症候群(甘い飲み物が入った
ペットボトルから付いた名前)」という名の甘いもの中毒が社会問題として浮上した。ほか
の国とは異なり、韓国の場合、児童・生徒の甘いもの中毒は誤った食生活だけでなく、学
業のストレスとも関連が深い。


 ソウル市江南区C潭洞のストレス・肥満管理医院「NDケアクリニック」のパク・ミンス
院長(内科専門医)は、成人には比較的多くのストレス解消法があるが、児童・生徒たち
は主にコンピューターゲームをしたり間食を取ったりすることでストレス解消しており、
また周囲に子どもたちを誘惑する食べ物があまりに多く、甘いもの中毒に陥りやすい」と
話した。


 


■身体、情緒障害を引き起こす「甘いもの中毒」


 ストレスと甘いもの中毒の間には、科学的にも相関性がある。ひどいストレスを受けると、満
ち足りた気分を感じさせたり、うつ状態を食い止めたりする神経系伝達物質「セロトニン」の数
値が低下する。このとき、甘いものを食べると「幸せホルモン」と呼ばれるドーパミンが活発に
分泌され、一時的に気分転換ができる。そうなると、体はさらに甘いものを求め、甘いものを食
べると体重が増加するという悪循環に陥る。


 また、甘い食べ物は、たばこやコーヒーのように中毒性があり、食べれば食べるほど中毒が
悪化し、さらに糖分を求めるようになるが、このような欲求が満たされないと直ちにイライラやう
つ症状が現れる。


 甘いもの中毒は、成長期の子どもたちに特に大きな害を及ぼす。延世大学セブランス病院
のキム・ヒョンミ栄養チーム長は、「甘い物ばかり食べていると偏食しやすく、成長ホルモンの
基となる亜鉛、カルシウムなどの必須栄養素を十分に摂取できなくなる上、甘い物がエネルギ
ーに変化する過程でビタミン、無機質を奪うため成長が阻害される可能性がある」と話す。専
門家らは「子どもたちが甘いもの中毒にならないようにするためには、食生活の改善以外に
も、ストレス管理を並行すべきだ」と助言した。


+++++++++++以上、朝鮮日報、12月5日の記事より+++++++++++


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【キレル子ども栄養学の分野からの考察】


●過剰行動性のある子ども


 もう20年以上も前だが(1980年ごろ)、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒ
ュー・パワーズ・小児栄養学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、
突発的に過剰な行動に出るタイプの子どもである。日本では、このタイプの子どもはほと
んど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷事件が続いたとき、その原因の一
つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたことがある(98年)。


日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、この分野の研究者
として知られている。


●砂糖づけのH君(年中児)


 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)
は私にこう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいで
しょうか」と。話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場も
ないほど散乱していて、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだし
も、それを母親が注意すると、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、
こきざみに動き回るという多動性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳
をつんざくような金切り声をあげ、興奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そ
ういう状態になると、手がつけられなくなった。私はその異常な興奮性から、H君は過剰
行動児と判断した。


 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを
診断したり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治
療や治療方法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。


仮にその子どもが過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、
親から質問されてもそれを口にすることは許されない。診断については、診断基準や治療
方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば自閉症児やかん黙児)では、専
門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。この過剰行動児についても
そうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの子どもは過剰行動児で
す」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知っていても知ら
ぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。

 
●原因は食生活?


 ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安に
なり、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」
という。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてイン
スリンが徐々に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとる
と、多量の、つまり必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子ど
もを低血糖児の状態にしてしまうという(大沢)。


そして(1)イライラする。機嫌がいい
かと思うと、突然怒りだす、
(2)無気力、
(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、
(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞98年2・12)。


これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる
症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦
からそういう報告を受けたことがある。


 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相
反する二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむと
き、「つかめ」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。この二つの
命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低血糖
になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切
るような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、
手が勝手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、
感情のコントロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そし
て結果として、それがキレる状態になる。


●恐ろしいカルシウム不足


 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖
をとり過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。


糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体
内のブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性
化した血液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやす
い。体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)
脳の発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をし
やすくまた回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)とい
う。わかりやすく言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、
また精神疲労を起こしやすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシ
ウム不足を引き起こす。


●生化学者ミラー博士らの実験


 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達
物質であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。
アメリカの生化学者のミラーは、次のように説召している。


 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、
神経中枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マ
ザーリング」81年7号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな
子どもによる問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食
品に含まれている白砂糖の量は、次のようになっている。



製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       



●砂糖は白い麻薬


 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに
入ったジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということ
で、パンや紅茶など、あらゆるものにつけて食べています」と。私はH君の食生活が、か
なりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。が、異変はその
直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビスケットがほ
しい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状のよ
うで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力
状態になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、
H君はまるで別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそ
ういうH君を横目で見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私
はそれに反対した。


●カルシウムは紳士をつくる


 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、
イギリスでは、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをど
こかで感じたら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多
い食生活にこころがける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という
短期間で、ほとんどの子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜
美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけで
なおる」(「マザーリング」81年7号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そう
でなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、な
い。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロ
の人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュースを4本は飲めないし、飲めば飲んだ
で、腹の中がガボガボになってしまう。


 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、
精製されていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合され
ていて、ここでいう弊害はない。

 
●多動児(ADHD児)との違い


 この過剰行動性のある子どもと症状が似ている子どもに。多動児と呼ばれる子どもがい
る。前もって注意しなければならないのは、多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)
の診断基準は、2001年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏
ら委託して、そのひな型が作成されたばかりで、いまだこの日本では、多動児の診断基準
はないというのが正しい。つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しな
いということになる。一般に多動児というときは、落ち着きなく動き回るという多動性の
ある子どもをいうことになる。そういう意味では、活発型の自閉症児なども多動児という
ことになるが、ここでは区別して考える。


 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリス
ト」)は、次のようになっている。


(チェック項目)


1行動が幼い
2注意が続かない
3落ち着きがない
4混乱する
5考えにふける
6衝動的
7神経質
8体がひきつる
9成績が悪い
10不器用
11一点をみつめる


たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる……1点、
当てはまらない……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」


この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動
児が多動児なのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。教師による抑えが
きけば、多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動児は行動が突発的に過
剰になるというだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別される。
また活発型の自閉症児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状であって、主症
状ではないという点で、この多動児とは区別される。またチェック項目の中の(1)行動
が幼い(退行性)は、過保護児、溺愛児にも共通して見られる症状であり、(7)神経質は、
敏感児、過敏児にも共通して見られる症状である。さらに(9)成績が悪い、および(1
0)不器用については、多動児の症状というよりは、それから派生する随伴症状であって、
多動児の症状とするには、常識的に考えてもおかしい。


ついでに私は私の経験から、次のような診断基準をつくってみた。


(チェック項目)


1抑えがきかない
2言動に秩序感がない
3他人に無遠慮、無頓着
4雑然とした騒々しさがある
5注意力が散漫
6行動が突発的で衝動的
7視線が定まらない
8情報の吸収性がない
9鋭いひらめきと愚鈍性の同居
10論理的な思考ができない 
11思考力が弱い


 このADHD児については、脳の機能障害説が有力で、そのために指導にも限界がある
……という前提で、それぞれの市町村レベルの教育委員会が対処している。たとえば静岡
県のK市では、指導補助員を配置して、ADHD児の指導に当っている。ただしこの場合
でも、あくまでも「現場教師を補助する」(K市)という名目で配置されている。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 砂糖は白い麻薬 砂糖断ちによる禁断症状 キレる子ども)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ファミリス 雑誌ファミリス 静岡県教育委員会 静岡県出版文化会
子育てQ&A はやし浩司 子育て相談 はやし浩司 2010−12−06)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【「死」を考えたら、それは「心の病気」(Depression、私のばあい)】


●NG先生の死を考えながら……


++++++++++++++++++


私もあぶなかった。
もともとうつ病気質。
ささいなことがきっかけで、うつ病ぽくなる。
(あくまでも自己診断によるものだが……。)


NG先生が亡くなってからというもの、
かなり落ちこんだ。
連絡を受けたのが、12月2日の朝。
以来、「死とは何か」と。
いっぱしの哲学者にでもなったかのように、
そんな文章ばかりを書いていた。


が、BLOGにはアップロードしなかった。
つまり原稿としては、ボツ。
読み返せば、読み返すほど、へん。
まともではない。
自分でも、それがよくわかった。
だからボツ。


結論を先に言えば、こういうこと。
「死」を考えたら、それは「心の病気」。
健康な心の持ち主は、「死」など考えない。
心の病気にかかっているから、「死」を
考える。


だからこの一週間、こんなおかしな経験をした。


私の中に2人の「私」がいた。
その2人の「私」が、心の中で綱引きをしていた。
「がんばって生きよう」と、前向きに引っ張る「私」。
「どうせ長生きしても、無駄」と、後ろ向きに引っ張る「私」。


あぶなかった!
もしそのとき、「どうせ長生きをしても、無駄」と
考える力のほうが大きかったら、私はさらに
深く落ち込んでしまっていたかもしれない。


そこで重要なこと。
これは精神病一般に通ずることだが、まず「それ」
に気がつくこと。
これを精神医学の世界では、「病識」という。
常識のある・なしで、軽重が決まるともいう。
また病識があれば、治るのも早いという。


つまり「私は病気である」という意識をもつこと。
自分を客観的にながめる冷静さをもつこと。
つぎにどこがどのように「へん」か、自分でそれを
知ること。


昨日(12月6日)は、本当に苦しかった。
何を考えても、「死」に結びついてしまった。
が、それも限界へ来たとき、私はハタと気がついた。
「私は病気」と。
とたん、目の前が、パッと明るくなった。


++++++++++++++++++++++


●みんな、死ぬな!


 警察庁のまとめによれば、こうだ(2009年度)。

 自殺者の男女別では、
男性が2万3472人(71.5%)、
女性が9373人(28.5%)。


 男性のほうが、圧倒的に多い。


 原因・動機が特定できた自殺者2万4434人のうち、
「経済・生活問題」が前年比13.1%増の8377人。具体項目では、「生活苦」が前年同期比
で34.3%増の1731人、
「失業」が65.3%増の1071人
とそれぞれ大幅に増加したそうだ。
また、「事業不振」も1254人。


 生活で追い詰められて「死」を選ぶ人が多いということらしい。


 一方、「健康問題」を原因・動機とする自殺は1万5867人。
このうち「うつ病」が前年比7.1%増の6949人。
すべての具体項目の中で最も多かったという。


 このあたりから、私に関係してくる。
「うつ病によるものが、前年比7・1%増の6949人」とか。
「そんな少ないのかなあ?」と思うと同時に、その一歩手前でふんばっている人たちの
姿が目に浮かぶ。
その何十倍、あるいは何百倍はいるはず。
アメリカ人のばあい、3人に1人が、うつ病にかかっているとも言われている。
日本人も、それに近づいてきた(?)。


 年代別では50歳代が6491人で全体の19.8%を占めて最多。
以下、60歳代(5958人、18.1%)
40歳代(5261人、16.0%)
30歳代(4794人、14.6%)
70歳代(3671人、11.2%)
20歳代(3470人、10.6%)
80歳以上(2405人、7.3%)など。


 要するに、50代、60代が多いということ。


 10万人当たりの自殺者数を示す「自殺率」は、20歳代で24.1、30歳代で26.2と、統計
開始後最高を記録した。


 職業別では、主婦や失業者、年金生活者などを含む「無職者」が全体の57.0%を占める1
万8722人。
細目では「年金・雇用保険等生活者」が18.4%に上り、際だっているそうだ。


 やはり仕事をもつということは、大切なことのようだ。
仕事という連続的な緊張感があればこそ、人は自分の心を正常に(?)保つことができる。
(もちろん仕事が原因でうつ病になる人も多いが……。)


●私のばあい


 落ち込んでくると、脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくる。
そのため自分が狂っていることがわからなくなる。
反対に、正常な人のほうが、おかしく見えてくる。


たとえば私はあれこれ、ワイフに話しかける。
が、ワイフは上の空。
ぜんぜん話に乗ってこない。
「お前は、そうは思わないのか」と何度も言うのだが、ワイフは、「私はそうは思わない」
と。
それを私の方が、腹立たしく思う。
「どうしてぼくの気持ちがわかってくれないのだ!」と。


 しばらく、この繰り返し。
当然、口げんかも多くなる。


●被害妄想


 ささいなことが、気になる。
「あの人がこう言った」とか、「こんなことを書いてきた」とか、など。
それだけですめばよいのだが、それに被害妄想が重なってくる。
「あの人は、私に悪意をもっている」とか、「私にいやがらせをしている」とか、など。
そればかりを考えているから、当然、妄想がどんどんとふくらんでくる。
頭の中がいっぱいになる。


 が、ふと我に返る。
我に返って、それを頭の中から、振り払う。
ワイフに「なあ、今のぼく、おかしいか?」と聞く。
ワイフはああいう人だから、ストレートにこう答える。
「あなたは、おかしい」と。


 するとまた口げんか。


私「こういうのを性格の不一致というのだ」
ワ「あなたに合う人はいないわよ」
私「お前は、一度だって、そうねと言ってくれたことがない」
ワ「あるわよ」
私「ない!」と。


 さらにエスカレートする。


私「お前とは、もう離婚だ」
ワ「しかたないわね」と。


●ということで……


 今朝、目を覚ますと、ワイフが横から聞いた。
「頭、痛いの?」と。
「うん、少しね。風邪ではなく、軽い偏頭痛だ」
「薬、もってきてあげようか?」
「いい。自分で取ってくる」と。


 ……ということで、私は起きてしまった。
時計を見ると、午前5時。
外は、まだ真っ暗。


私「あのなあ、来週あたり、ディズニーランドへでも行ってみるか」
ワ「そうねえ……。友だちがユニバーサル・スタジオへ行ってきたんだって。いろいろ
新しいアトラクションがふえたみたいよ」
私「じゃあ、ユニバーサル・スタジオにしようか」と。


 ……ということで、教訓。


 とにかく「死」を考えたら、「心の病気」と思うこと。
それには段階がある。
あくまでも私のばあいだが……。


(前兆段階)愚痴が多くなる。取り越し苦労、ぬか喜びが多くなる。ささいなことが
気になる。それについてあれこれと考える。
(第一段階)「死」についての原稿を書く。自責の念が強くなる。自分は生きていても無駄
とか、そんな思いが強くなる。あるいはみなに迷惑をかけていると悩む。ひがみやすく
なったり、いじけやすくなったりする。
(第二段階)「死」を近くに感ずる。あるいは「老後」を悲観的にとらえるようになる。
老後に強い不安を覚える。愚痴や取り越し苦労が、被害妄想と重なり、ふくらんでくる。
(第三段階)「死んだ方が楽」とか、「死ねば楽になる」とか考える。生きていることの
虚しさを強く感ずるようになる。生きていても無意味と考えるようになる。
(第四段階)死に方を具体的に考えたり、「どう死ぬか」を考える。何を考えても、悲しくなる。反
対にイライラしたり、突発的にカッとなって怒る。
(第五段階)部屋に引きこもり、悶々と悩みつづける。だれにも会いたくなくなる。
電話さえも、うるさく感ずる。


 第一段階から第五段階にまで分けて考えてみたが、第一から順に第五へ進むというわけ
ではない。
こうした症状が軽重をともなって、複合的、かつ、重複して現れる。


 なお自分にわかる変化としては、脳の働きが重くなる。
鈍くなる。
どんよりとした感じになる。
前頭部がボーンと詰まったような感じになる。
これにはセロトニン(脳間伝達物質)が関係しているよう。


●では、どうればよいか


 とにかくこの病気は、自分でそれと気がつくこと。
気がつくだけで、ほとんど治ったとみてよい。
(これは私の素人判断。)
そのために、日ごろから自分を客観的に見つめる訓練をしておく。
その訓練をしておくと、「今は正常だ」とか、「今はおかしい」とか、そんなことが
自分でもわかるようになる。


 それともうひとつ気をつけなければならないのは、この病気は、どうしても
まわりの人たちに迷惑をかけてしまうということ。
ある会社で、課長がうつ病になったら、その半年後には、その課の社員全員も、うつ病
になってしまった。
一家の主人(夫)がうつ病になったら、家族もみな、おかしくなってしまった。
そういうケースも多い。
自分がそうなるのはしかたないとしても、どうしてもみなに、迷惑をかけてしまう。
(こんなことを書くと、うつ病の人は、ますます気が重くなってしまうかもしれない
が……。)


 あとは、私のばあい、体がヘトヘトになるまで、歩く。
あるいは運動する。
ほしいものを、パッパッと買う。
もっとも効果的なのは、子どもたち(=生徒たち)と、バカ話をする。
いっしょになって、騒ぐ。
子どもたちの顔を見ただけで、気分がパッと晴れる。


 ……ということで、今朝は気分一心。
もう悩まない。
私は今日は、前向きに生きていく!
前だけを見て、生きていく!


みなさん、おはようございます。
2010年12月7日。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 うつ病 鬱病 死を考える 自殺願望 死を考えたら心の病気 心の病気)


(補記)


 50代、60代の男性の自殺が多いという。
しかもふえつづけているという。
私にとっては、けっして他人事ではない。
が、今、私はこう断言することができる。


「死を考えたら、それは心の病気」と。
心だって、肉体と同じように、病気になる。
東洋医学でも、その両者を区別しない。
だから病気は病気として、病院へ行って、治せばよい。
すぐれた薬もあるという。
私もそのうち世話になるかもしれない。
が、今は、女性用の精神安定剤と、睡眠導入剤、それに市販されているハーブ系の安定剤、
カルシウム剤で、自分の心を調整している。


最後に一言。
みなさん、死ぬことなど考えてはいけない。
そのときがきたら、ぼんやりとした状態で、安らかに死ねるから……。
それまでは、現役。
前だけを見て、前に向かって進んでいこう!


(補記2)


 60歳を過ぎたら、涙がこぼれるような葬儀には、参列しないほうがよいのかも
しれない。
涙をこぼすことには、カタルシス効果もあるようだが、しかしそれがきっかけで、
落ち込んでしまうということも、よくある。
今回の私がそうだった。
「あいつは早々と逝ってしまったなあ」程度で、軽く受け流す。
受け流して、あとは忘れる。


 国によっては、葬儀が終わったら、みなでどんちゃん騒ぎをするところもある。
飲んで笑って、ワイワイと騒ぐ。
楽器を鳴らして、みなで踊る。
遺族の人たちにとっても、そのほうがよいのかもしれない。
その人の死を喜べということではない。
死んだ本人の気持ちになって、楽しく過ごす。


今朝も死んだNG先生から、メールが届いていた。
「林さん、早々と、死んでしまいましたよ。
私もこんなに早く死ぬとは思っていませんでした。
ハハハ、うかつでした。
80になったら、いっしょにピンコロしようと約束していたのに、ごめん」と。
……とまあ、そんなメールを、私は勝手に想像してみた。


 日本の葬儀は、どうも湿っぽくていけない。
「死」とはそういうものという先入観だけで、葬儀をしてしまう。
もっとも三日目の儀式にでもなると、結構、みなさん、楽しそうに振る舞っているが……。


 要するに生きることを前向きにとらえるということは、死ぬことも前向きにとらえる
ということ。
繰り返しになるが、そのときがきたら、そのとき。
大切なことは、そのときまでに、自分を完全燃焼させておくこと。
それさえしっかりとしておけば、そのときがきても、こう思えるようになる。
「これでやっと、私も死ねる」と。


 死など、恐れるにたりず!


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司


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OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


【楽しい子どもたち】(年長児5、6歳児のみなさん】Happy Learners at BW Club


●子どもたちとのやり取りが、楽しいですよ!


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Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●うつ病、私のばあい(Depression for my Case)

+++++++++++++++++

今朝、うつ病についてのエッセーを書いた。
いくつかのBLOGに載せた。
で、驚いた。
昼までに、10件近い書き込みや、コメントが
あった。
こんなことは、めったにない。

改めて、みなさんの関心の深さに驚く。

++++++++++++++++

●病識

 精神疾患の世界では、「病識のある・なし」で、症状の軽重が決まるという。
「私はおかしい?」と思っている人は、症状はまだ軽い。
治りやすい。
半面「私はだいじょうぶ!」とがんばっている人ほど、症状は重い。
治りにくい。
病識があれば、自分で自分の精神をコントロールすることができる。
自ら「治療」を考えることができる。
病識がないと、それができない。

 肉体の病気とちがって、精神の病気は、脳のCPU(中央演算部)が変調するため、
自分でそれに気づくことがむずかしい。
そこで大切なことは、まず自分でそれに気づくこと。
それがうつ病にかぎらず、ほかの精神疾患も含めて、この種の病気と闘う第一歩
ということになる。

●擬似病識

「擬似病識」という言葉は、私が考えた。
つまり病識は病識でも、病識がありながらも、中には精神疾患に振り回されてしまって
いる人がいる。
病院へも通っている。
薬ものんでいる。
しかしそれ以上に、自分の精神の変調を分析することができない。
「おかしい」「おかしい」と思いながらも、その段階で思考を停止してしまう。
それを「擬似病識」という。

 このタイプの人は、薬を常用しているだけに、かえって症状を悪化させてしまう。
言い忘れたが、向精神薬というのは、できるだけ最小限にとどめたほうがよい。
とくに脳間伝達物質や脳内ホルモンをコントロールするような薬物には、気をつけた
ほうがよい。
相手が子どもなら、なおさらである。
よい例が、リタリン。

一時はAD・HDの治療薬として、たいへんもてはやされた(2000年ごろ)。
しかし今は、治療薬としては、ほとんど使われていない。

●フィードバック

 脳には「フィードバック」と呼ばれる特殊な反応がある。
たとえば脳内にAという脳内ホルモンが分泌されると、同時に、それを打ち消す
別の脳内ホルモンBが分泌される。
つまり(+)と(−)のホルモンが、たがいに打ち消しあう状態になる。
こうして脳は、脳内をいつもクリア(クリーン)な状態に保とうする。

 脳科学の世界では、常識である。

 よく似た例に、副腎皮質ホルモンと呼ばれる「治療薬」がある。
「魔法のホルモン」と、これも一時は、よく言われた。
「ステロイド」と言えば、「ああ、あれか」と思い起こす人は多いだろう。
しかし最近では、「悪魔の毒薬」という名前で呼ばれるようになった。
ステロイド剤を常用すると、肝心の副腎がホルモンを分泌しなくなってしまう。
つまり一時的には顕著な効果を得られても、そのあと猛烈な反作用が働く。
副作用も出てくる。
症状がかえって重くなってしまうことも多い。

 こうした現象を知れば知るほど、脳内ホルモンの人為的操作には、慎重にならざる
をえない。
が、ここでひとつの重大な問題が生じてくる。
精神科医たちにしても、薬を処方しないことには、収入が得られない。
あるドクターはこう言った。
「カウンセリングだけでは、お金は取れません」と。
「5人近い看護士たちを、どうやって養っていくのですか」とも。

 こうして薬漬けの患者がふえる。

●うつ病

 私も30歳になったころ、不眠に悩んだ。
朝早く、目が覚めるようになってしまった。
そこで行きつけの内科へ行くと、いくつかの薬を処方してくれた。
が、カルテを見て、驚いた。
そこには日本語で、「うつ病」と書き込まれていた。

 私はそれに反論した。
「先生、私はその病気ではないと思います」と。
するとそのドクターは、つぎつぎと私の症状を言い当てていった。
「数日前から仕事が気になることがあるでしょ!」
「何でも完ぺきにしないと気がすまないでしょ!」
「人に頼まれたりすると、断われないでしょ!」と。

「さすが!」と驚いていると、そのドクターはこう言った。
「実はね、林さん、私もそうなんですよ」と。

●心の風邪

 うつ病を恥じることはない。
「まじめ病」ともいう。
軽重の違いはあるが、現代病のひとつ。
たった50年前とくらべても、日本人を包む社会は、大きく変わった。
たとえば私が子どものころは、父親たちは客と将棋をさしながら、仕事を
していた。
社会全体が、今よりはるかにゆったりとしていた。
家業は自転車屋だった。

 それに比べ、今は、目まぐるしいなどというものではない。
分単位、秒単位で社会が動いている。
つまり人間がおかしくなったのではない。
社会が狂った。
事実、アメリカ人の3分の1が、うつ病もしくはうつ病状態にあると言われている。
日本人にしても、ほぼ同じ割合で患者がいると考えてよい。
だからこう居直ればよい。

ハハハ、我ら、天下のうつ病族よ!
まじめな人間ほど、そうなるのよ!、と。

うつ病といっても、今では何でもない病気。
「心の風邪」という言葉を使う人もいる。
つまりそれだけありふれた病気ということ。
気にすることはない。
仲よくつきあえばよい。
この道40年の患者がそう言うのだから、まちがいない。

●こだわり

 うつ病との闘いを一言で言えば、「こだわりとの闘い」ということになる。
いかに、こだわりと闘うか。
それがポイント。
これには2つの方法がある。
(あくまでも素人判断。)

 (1)ひとつは、ものごとにこだわり始めたら、できるだけ早い段階で、それを止め
ること。
もうひとつは、(2)(こだわり)を、別の分野に拡散させること。

 とくに重要なのが、人間関係。
近親や家族関係。
悶々と悩み始めたら、要注意。
できるだけ早い段階で、考えるのをやめ、気分転換を図る。
映画に行ったり、旅行に行ったりする。
が、それだけでは足りない。
「こだわり」を拡散させる。

 私のばあい、ほかの分野に興味をもつことで、こだわりを拡散させている。
社会問題、政治問題、教育問題など。
効果的なのは、UFO問題。
視野がぐんと広くなる。
宇宙的な視野から自分をながめることは、それだけでも楽しい。
つまりそういう形で、こだわりが一点に集中するのを防ぐ。

 ほかに買い物もよい。
昨日も、SONYのPSP(ゲーム機)を、衝動買いした。
ネットの閲覧もできる、スグレもの。
私のばあい、(あくまでも私のばあいだが)、買い物依存症的なところがある。
新しい電子製品をいじっていると、それだけで気分がよくなる。
脳内でモルヒネ系のホルモンが分泌されるためらしい。

●仲よくつきあう

 大切なことは、自分を異常と思わないこと。
前にも書いたが、「心の風邪」と呼んでいる人もいる。
あなたもなるし、私もなる。
だれだって、なる。
なって当たり前。

日本では「精神疾患」というと、偏見と誤解で、特別視する傾向がある。
もちろん軽重はあるが、基本的には、同じ。
つまり「私はうつ病」と、居直ればよい。
居直って、あとは仲よくつきあえばよい。
悪いことばかりではない。

 私もうつ病を経験して、他人の心の苦しみや悲しみ、それに孤独が、よく理解
できるようになった。
それまでの私は、どこかチャラチャラした現代人(?)だった。
が、今は、四季折々の変化を見ながらも、そのつど、それをズシリと心の中で
受け止めることができるようになった。
もちろん人生の重みも、理解できるようになった。

++++++++++++++++++++

2010年の1月にも、同じような原稿を
書いていたのがわかりました。

それをそのまま掲載します。

++++++++++++++++++++

●うつ

++++++++++++++++++

うつ状態というのは、それになった人でないと、
どういう症状なのか、わからない。
とくに心の健康な人には、わからない。
「気のせい」とか、「心の持ち方の問題」とか言って、
簡単に片づけてしまう。

そういう人に出会うと、うつ状態の人は、
絶望感すら覚える。
この病気だけは、理屈だけで割り切ることができない。
脳間伝達物質の偏(かたよ)りで発症するため、
本人自身の力では、コントロールできない。

たとえばよくある早朝覚醒。
これにしても、朝早く目が覚めてしまう。
目が覚めてしまうから、どうしようもない。
「もっと眠っていよう」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
たった今が、そうだ。

++++++++++++++++++++

●私のばあい

 うつ病にも、さまざまなタイプがある。
が、それについて書くのが、ここでの目的ではない。
また書いても、参考にならない。
それに私は、その病気の専門家ではない。

 が、私のばあいは、ひとつのことにこだわり始めると、どんどんとその深みにはまってしまう。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「ぜったいに許せない」とか、「あいつはまちがってい
る」とか、そういうふうになる。
神経は緊張状態にあるため、ささいなことで激怒したり、大声をあげたりする。

 で、精神安定剤が効果的かというと、そうとも言い切れない。
そのときはぼんやりとした睡魔に襲われるが、1、2日もすると、かえって神経がいらだってしま
う。
だからやや長期的な視点で考えると、こうした「精神薬」は、必要最小限にしたほうがよい。
とくに脳間伝達物質をいじるときは、そうしたほうがよい。

●タネ

 うつ病には、かならず原因となっている(タネ)がある。
そのタネを、まず取り除くこと。
そのタネさえ取り除けば、ときとして、パッと気が晴れる。

 で、私のばあい、精神的な負担感には、たいへん弱い。
心が過度に緊張するあまり、数時間もすると、ヘトヘトに疲れてしまう。
実際には、数時間はともかくも、1日もつづかない。
攻撃的に爆発するか、反対に、あきらめて、心の整理を先にしてしまう。
投げやりになることもある。
「負けるが勝ち」と逃げてしまうこともある。

 どうであるにせよ、うつ状態というのは、本人にとっても、いやな状態である。
悶々とすればするほど、心が蝕(むしば)まれていく。
いじけたり、くじけたり、ひがみやすくなったりする。

●買い物

 で、私のばあい、そういう状態になったら、こうする。
若いころから、何かほしいものがあったら、パッとそれを買う。
買ったとたん、胸がスカッとする。
(反対にほしいものを、長い間がまんしていると、悶々とした気分になる。
それがうつ状態を引き起こすこともある。)
これは脳の中の、どういう反応によるものか?

 多分、ドーパミンがドッと分泌され、それが物欲を満たす。
その満足感が、脳内を甘い陶酔感で満たす。
言うなれば、麻薬をのんだような状態になる(?)。

 これはあくまでも、私という素人の判断だが、たとえば買い物依存症なども、
似たような現象を引き起こす。
何かの依存症になる人には、うつ病の人が多い。
そのモノがほしいから買うのではなく、買うことにより、物欲を満たす。
喫煙者がタバコを吸ったり、アルコール依存症の人が酒を飲むようなもの。

●発散

 どうであるにせよ、加齢とともに、うつ状態は、ひどくなる。
「初老性のうつ病」という言葉もある。
若いときとちがって、気分の転換がむずかしくなる。
一度、落ち込むと、それが長くつづく。
それに最近気がついたが、いろいろな病気を併発する。

 頭痛、胃炎、それに心痛などなど。
体の弱い部分が、表に出てくる。

 で、私のばあい、そうなったら、子どもを相手に心を発散するようにしている。
ときどきレッスンで、メチャメチャ、羽目をはずすことがある。
(YOUTUBEで、紹介中!)
落ち込んでいるときほど、そうする。
子どもたちも喜んでくれるが、同時に、それは私自身のためでもある。
レッスンが終わったあと、気分が変わっているのが、自分でもよくわかる。

●仲良くする

 要するに、まじめな人ほど、この世の中では、うつ病になる。
そういう点では、この世の中は、うつ病のタネだらけ!
(たぶんに、弁解がましいが・・・。)

 しかし私の印象では、うつ病というのは、仲良くつきあう病気で、闘うべき病気
ではないということ。
もちろん症状がひどくなれば、それなりの対処もしなければならない。
しかし症状も軽く、ときどき、慢性的に起こる程度いうのであれば、仲良く、つきあう。
だれだって、落ち込んだり、反対にハイになったりすることはある。
そう考えて、ジタバタしないこと。
できるだけ薬物の世話になることは、避ける。
一度、世話になると、それこそ、薬なしでは生活できなくなる。

 私のばあいは、精神安定剤と熟睡剤、あとは市販のハーブ系の薬をうまく使って、
自分をコントロールしている。
漢方薬にも、よいのがある。
脳間伝達物質を調整するような薬は、よく効くのかもしれないが、そのあと起こる
フィードバックを考えると、こ・わ・い。

 「フィードバック」というのは、ある種のホルモンを、人工的に体内へ取り入れると、
そのホルモンを中和しようとして、相対立するホルモンが分泌されることをいう。
それが長くつづくと、本来そのホルモンを分泌している器官が、ホルモンの分泌を
やめてしまう。
副作用のほうが、大きい。
ステロイド剤も、そのひとつ。

●長い間、ありがとう(?)

 どうであるにせよ、老後は、みな、そのうつ病に直面することになる。
言うなれば天井の低い、袋小路に入るようなもの。
薄日は差すことはあっても、青い空など、もとから求めようもない。
友の死、知人の死がつづけば、なおさら。
大病になれば、さらになおさら。

 で、おかしなことだが、私はこの正月、狭心痛(?)なるものを、覚えた。
そのときのこと。
「心筋梗塞で死ねるなら、本望」と。
いわゆるポックリ死である。
ふだんの私なら、心気症ということもあって、何かの病気を宣告されたら、それだけで
ガタガタになってしまう。
が、こと心筋梗塞について言えば、こわくない。
私の父親も、その心筋梗塞で命を落としている。

 私は、やるべきことは、やった。
今さら、思い残すことは、ほとんどない。
これから先、10年長生きしたとしても、状況は同じだろう。
10年後に、今よりすばらしい文章が書けるという保証はない。
反対に脳みそは、不可逆的にボケていく。

 息子たちは、みな、去っていった。
去っていっただけではなく、心も離れてしまった。
ワイフとの関係にしても、今は、どこかギクシャクしている。
落ちつかない。
ただオーストラリアの友人のB君だけが、このところ毎日のように、「オーストラリア
へ来い」「いっしょに住もう」と、提案してくれている。
希望といえば、それだけ(?)。

 だから今は、こう思う。
「いつ、死んでも構わない」と。
一時の激痛ですむなら、それでよい。
それで死ねるなら、それでよい、と。

 ・・・しかしそう考えること自体、うつ病なのかも?
脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくるから、自分ではその(狂い)はわからない。
「正常」と思いつつ、「異常」な考えをもつ。
「死んでもいい」というのは、どう考えても、異常である。
おかしい。
しかしこればかりは、どうしようもない。
心臓という、私の手の届かないところにある臓器の問題である。

 あとは運命に命を任すしかない。
もし私がポックリと死んだら・・・。
そのときは、そのとき。
電子マガジンも、そこでおしまい。
BLOGも、そこでおしまい。

 みなさん、長い間、購読、ありがとう!
(前もって、言っておきます。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注)向精神薬

●向精神薬

 何らかの精神的な病気をもっていて、薬(向精神薬)を服用している子どもがふえてい
る。そんな一人の母親から、「だいじょうぶでしょうか?」という相談をもらった。

 もちろん私には、それについて答える権利はない。その立場にも、ない。

 しかし私の経験では、「できるだけ、薬の世話にはならないほうがよい」とだけは、言え
る。こうした向精神薬は、それがきいている間よりも、その服用をやめたときの、反作用
がこわい。

 もちろん副作用があるときもある。しかもこの種の薬には、悪性症候群を引き起こすも
のが多い。悪性症候群というのは、投与中に起こる、重い病態を総称していう。発熱、発
刊、頻脈など。

 相手が子どものばあい、ドクターも、それなりに、きわめて弱い薬を使うといわれてい
る。もし不安なら、ドクターに直接、相談してみるのがよい。

 なお今の診療システムの中では、精神科のドクターにしても、薬を処方しないことには、
金銭的な収入が入らないしくみになっている。だからどうしても、(治療)イコール(薬の
投与)ということになる。そういう事情も、どこかで知っておくとよい。


●児童相談所

 このところ児童相談所の役割が、クローズアップされてきている。しかし、今ひとつ、
その活動がよく見えてこない……?

 その児童相談所には、大きく分けて、4つの部門がある。実際には、こうして窓口が分
かれているわけではないので、「相談したいことがあります」という言い方で、窓口で話し
てみるとよい。

(1) 養育相談(養育が困難なばあい)
(2) 育児相談(非行問題など)
(3) 障害相談(子どもに何らかの障害があるとき)
(4) 育成相談(不登校、家庭でのしつけ問題など)

 こうした問題が起きたら、迷わず、児童相談所に相談してみるとよい。決して、ひとり
で悩まないこと。苦しまないこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

● ありのままの自分(2004年10月に書いた原稿より)

 (現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、そ
の人は、心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。

 よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがっ
たりすると、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させら
れ、毎晩その男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精
神状態になる。

 遊離する理由は、いくつかある。

(1) 理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(2) そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(3) 自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(4) いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(5) 自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)

 こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康の
ためには、たいへん危険なことでもある。

 そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ
近いほど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶ
るようになったら、お・し・ま・い。

 だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分
をさらけ出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、
生活のリズムそのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。

 しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気が
つくのがむずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分
でなかったことを知る。それまでは、わからない。

 私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが
巻きついている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサ
リの一本、一本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分
が見えてくるのは、そのあとである。



●役割混乱

 役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなっ
てくる。これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。

 私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それ
がわかっていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)

 自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。

 自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰に
なり、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって
何も話せなくなってしまったこともある。

 私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行く
だけ。勉強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思
うのは、当時、心のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが
起きて、日本中が、こなごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり
否定的になっていたようである。

 しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校
生は、同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。

 本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に
入るころから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子
ども自身がもてるように、指導する。

 私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そ
のため大学にしても、工学部建築学科を考えていた。

 その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、
「拡散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。

 そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこ
かの大学の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を
生きることがでいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊
びが大好きだった。そういう仕事でもよかった。

 今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失
敗だけは、してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子ども
が、「〜〜になりたい」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、
いい。すばらしい仕事だ。その仕事は、君にピッタリだ」と。

 そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、
自分の進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立するこ
とができる。


●自意識過剰
 
 自意識が過剰の人は、少なくない。

 だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みな
が、自分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。

 このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、す
なおにさらけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。

 この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。
しかし自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、
好ましいということになる。

 自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」
を意識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入っ
てしまう。

 そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係して
いるのが、わかる。

 「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だか
ら私は絶対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさら
に肥大化し、その返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。

 自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、
自意識過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。

 むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきた
すようになる。こんなことがあった。

 A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君
が混乱状態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B
君の顔は、どこかひきつっていた。

 そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたり
がり屋で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。

 そこで自己診断。

 つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。

(  )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
(  )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
(  )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
    何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
(  )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
    の期待に答える義務がある。
(  )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
    まちがっている。
(  )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
(  )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
    のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
    がある。

 ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人
とみてよい。

 反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることが
できる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけ
たとする。

 その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そ
うね」と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的
に、自意識の過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立
することになる。あとは、この悪循環。

 自意識も、ほどほどに……ということになる。

(はやし浩司 自意識 自意識過剰)


●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気
がついていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がつ
いていないときは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。

(注※)
 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になることが多い。

(はやし浩司 ジョーハリー理論 ジョンハリ理論)


●さらば、もう一人の『私』

 自意識が過剰すぎると、(本当の自分)と、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、
遊離し始める。そのときどきにおいて、別々の自分に苦しむ。

 そこで自意識過剰ぎみの人の多くは、自分の中の、二重人格性に苦しむことが多い。と
きどき、「本当の自分はどちらなのか」、それが、わからなくなる。

 実は、私がそうだった。

 私も、自分の中の二重人格性に苦しんだ。苦しむだけならともかくも、その二つが、私
の中で、よく衝突した。

 私の中には、たしかに(本当の私)がいる。ずぼらで、いいかげんで、無責任。ぐうた
らで、鈍感で、自分勝手。その上、わがまま。まさにいいことなしの「私」である。

 そういう私をを、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、否定する。だからよけいに、
衝突した。

 しかしあるときから、自分の中で、(本当の自分)を、すなおに表現するようにした。「私
は私」と、居なおるようにした。
 
 「父親だから……」「夫だから……」という気負いを、はずした。ついでに、肩書きも、
はずした。ありのままの私を、そのつど、そのまま表現するようにした。だから一時期は、
人にこう言われたこともある。

 「君は、教育者を名乗っているが、とても教育者らしからぬね」と。

 が、そこが私の原点だった。私は、そこから出発した。

 で、今だが、最近、やっと私は、もう一人の「私」と、決別することができた。そのこ
とだが、実は、こんなことがあった。

 そのもう一人の「私」が、私に、何と、あいさつをして、私の中から、出て行ったのだ! 
「長い間、お世話になりました」と。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「それは、『お世話になりました』
ではなく、『ご迷惑をおかけしました』でしょう」と。

 実は、この2人の「私」が、私の中で衝突するたびに、私は、かなり精神的に不安にな
った。そしてそのトバッチリは、ワイフに向った。ワイフは、そういう私をよく知ってい
る。だから、「長い間、ご迷惑をおかけしましたのほうが、正しい」と。

 さあ、あなたも、気負いをはずしてみよう!

 あなたは、どこまでいっても、あなただ。

 そう思ったとたん、あなたも、言いようのない解放感を味わうはず。あとは、そこを原
点として、前に進めばよい。

 心を解き放て。体はあとからついてくる(英語の格言)。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●PSP(SONY)(はやし浩司 2020−12−08)

++++++++++++++++++

昨日、近くの書店へ行った折、ソニーの
PSPなるゲーム機を買った。
メモリーカード込みで、1万8000円前後。
まったくの衝動買い。

が、買ってみて、びっくり。
ただのゲーム機と思っていたが、パソコンに
近い電子機器。
ネットの閲覧もできる。
(目下、設定で手こずっているが……。)

で、ソフトも1本、買ってみた。
「空戦」をシミュレートしたゲーム。
床に就いてからふとんの中でしてみた。
が、これはチャチ。
どうしようもないほど、チャチ。
パソコンのフライトシミュレーター(MS社)
とは比較にならない。
映画と紙芝居ほどの「差」を感じた。
まあ、これも授業料。
あきたら、アメリカに住む孫に送ってやるつもり。

なお書店では、『日本の論点・2011』(文藝春秋)
を買った。
毎年、買っている。
正月までに、読破したい。

++++++++++++++++++++

●12月8日

 朝起きて、30分、ウォーキングマシンの上で歩く。
寒い朝は、これがよい。
30分も運動をすると、体中からジワーと汗が出てくるのがわかる。

 それから書斎に入り、パソコンを立ち上げる。
メールを読んだあと、昨日書いた原稿を、BLOGにアップ。
ニュースサイトに目を通し、今日の日誌(今書いている、この原稿)を書く。
手元には、もちろんPSP。
60歳を過ぎたジーさんが、PSP?
ワイフはこう言った。

「今度電車にでも乗ったら、若い人たちの前で、ゲームでもしてみせたら?
かっこいいわよ」と。

ハハハ!
かっこいいだろうな。


●老人よ、パソコンを抱いて、街に出ろ!

 ……というわけでもないが、私は老人たちにこう言いたい。
「老人たちよ、パソコンを抱いて、街に出ろ!」と。
携帯電話でもいい。
ゲーム機でもいい。
我々の存在感を、若者たちにもっと、見せつけてやろうではないか。

ジジ臭い顔をして、あるいはババ臭い顔をして、家の中に引っ込んでいてはいけない。
さらに言えば、仏壇の金具など、磨いていてはいけない。
老人だからこそ、新しい世界に、チャレンジしていく。
それは言うなれば、防波堤のようなもの。
その精神を忘れたとたん、我々は本当に、老人になってしまう。


●NG先生が亡くなって1週間

 早いものだ。
NG先生が亡くなって、もう1週間が過ぎた。
通夜、葬儀、あわただしく過ぎた。

それまで毎朝、その前日に書いた原稿を、NG先生に送っていた。
その習慣が今でも残っている。
今朝も、NG先生に原稿を送りそうになった。

 瞬間、つんとした寂しさが、心をつぶす。
「先生は、もういないんだ」と。

(庭の栗の木を見ながら、ぼんやりと時間を過ごす。)

 栗の木の巣の中では、キジバトの雛たちが、羽をパタパタさせている。
巣立ちの練習をしているよう。
あと数日もすれば、巣から離れ、枝に止って日を過ごすようになる。

 生まれる命。
去っていく命。
こうして私たちは、絶え間ない輪廻(りんね)を繰り返していく。

……ということで、今日も始まった!
みなさん、おはようございます。
今朝は、山荘まで行き、草刈りをしてこなければならない。
気分一新、忙しい1日になりそう……。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●「日本の論点・2011」(文芸春秋)を読みながら……

●危機の経済

+++++++++++++++++

「日本の論点・2011」を開く。
真っ先に読んだのが、「危機の経済」
(P82〜)。
経済関連記事が、P〜135までつづく。

+++++++++++++++++

●不公平感

 村上尚己氏は、こう述べている。
「(このデフレ下で、もっとも恩恵を受けているのは)、多額の現金を蓄財する
ことに成功した高齢者と、公務員である」(P91)と。
こういう人たちを、「デフレ既得権益者」と呼ぶのだそうだ。
同感!
私の知人などは、もう15年以上も前から、こう言っていた。
当時H市の市役所で、課長職にあった。
「林さん(=私)、こうなってみると、公務員になっていて、本当によかった
と思いますよ」と。

 給料はさがらない。
生活は安定している。
その一方で物価だけは、どんどんと下がる。
もちろん失業の心配は、まったくない。

 村上氏は、「若年世代の不公平感は極度に強まっているが……」と書いている。
が、実際には「爆発寸前」、もしくは、すでに爆発している。
たとえばこのところ若年世代の高齢者叩きが、ますますはげしくなってきている。
高齢者に対する意識そのものが、大きく変化している。
若者たちが意見を交換するBLOGを読んでみれば、それがよくわかる。
虐待どころか、「ジジババ不要論」まで飛び出してきている。

 公務員について言えば、今のところは、まだ平穏。
しかし彼らを見つめる世間の目は、冷ややか。
先に書いた知人にしても、満額の退職金の上に、現在は月額30万円を超える年金を
手にしている。
「うらやましい」と思う前に、私などは、怒りのほうを先に覚えてしまう。

●数百年に一度の……世界同時不況

 「日本の論点」の中で、もっともショックを受けた記事が、これ。
「数百年に一度の構造変化が生み出す世界同時不況。……円高はその序奏だ」と。
榊原英資氏がそう書いている。

 で、日本の景気だが、榊原氏は結論として、こう書いている。

「……しかし先行きは暗い。欧米の経済の構造的不況は、時間差をもっていずれ日本に
およんでくるだろう。2010年末から2011年にかけて、大きく景気が後退する
可能性が高い」(P87)と。

 今でさえ、体感景気は最悪。
それが2011年にかけて、さらに悪くなるという。

 では榊原氏が説くような、「大量に国債を発行し、強力な景気対策を打つべきだろう」
という方法が有効かというと、これにも問題がある。
いくらお金をバラまいても、投資先がなければ、マネーは投機に回るだけ。
タンスの中に眠るだけ。
別のところで、岩本康志氏は、こう書いている。

「……大規模な財政出動をすれば、デフレは終わり、インフレに転ずる。
しかしそれだけの規模の有効な使い道がなければ、財政支出のもたらす害のほうが大きい
かもしれない。
また先進国最悪の政府債務残高をもつ状況では、国債の信認を失いかねない危険な行為
である」(P97)と。

 つまり世界経済も、日本経済も、今、真っ暗な袋小路に入ってしまった。

●では、どうするか?

 経済学者は、国家としての戦略、戦術を考える。
しかし私たち庶民には、関係ない!
我が身は我が身で、守るしかない。
つまりここは、自己防衛に徹するのみ。

 ただひたすら、まじめに働き、ただひたすら、静かに過ごす。
(=仕事を失わない。)
少しでも小銭が貯まったら、ただひたすらタンス預金。
(=仮にハイパーインフレがやってきても、無いよりはマシ。)
その小銭がある程度貯まったら、金(地金)、土地などの金融資産に替える。
(=ハイパーインフレは時間の問題。ハイパーインフレになれば、
タクシーの初乗りが、100万円になるという(藤巻健史氏・P109))。
嵐が吹きすさぶ夜は、雨戸を閉めて、それが通り過ぎるのをじっと待つ。
(=嵐もいつかは去る。)

 もちろんみながみな、同じことをしたら、日本経済は萎縮するのみ。
が、私たちがそれを心配しても、どうしようもない。
「内需拡大」という声に踊らされたら、その翌年には餓死するかも。
そんなことでは困る。

 ……ということで、「日本の論点」を読んでいたら、何とも暗〜イ気分になって
しまった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本の論点 経済問題 文藝春秋 日本の論点 2011)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●12月9日(木曜日)

+++++++++++++++

小寒い朝。
ウォーキングマシンで一汗。
そのまま、つまりパジャマ姿で書斎へ。

メールを読む。
孫たちへのプレゼントが届いたよう。
よかった!

ところで栗の木の上に、二羽のキジバトの雛がいたが、
今朝見たら、一羽しかいない?
よくさがしてみたが、やはり一羽。
どうしたのだろう。

食事のときワイフもそれを心配していた。
「巣立ったのかしら?」と。

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●手元にない

 昨夜も床に入ってから、「日本の論点」を読んだ。
そのためその本は、書斎にはない。
「どうしよう?」。
何度も悩む。
寝室へ取りにいくべきか、否か。
取りに行くのも、めんどう。

 しかし今、いちばんおもしろい本は、「日本の論点2011」(文藝春秋)。
日本の現状が、地図でその場所を見るように、よくわかる。
それに私の知らないことが、山のように書いてある。
何というか、未開の原野を前にしたような気分になる。
それが楽しい。

 そんなわけで、手元がさみしくてならない。
やはり取ってこよう。

●JAL問題(整理解雇すべきは、天下り官僚たち)

 JALもANAも、結局は「日本」という「温室」の中で、細々と経営をつづける
しかない。
日本の空だけを飛びつづけるしかない。
それが唯一、生き残る道。
「日本の論点2011」を読んで、そう感じた。

 今や世界は、LCC(低コスト航空会社)時代。
EUでは、バス料金並、電車料金並……というか、バスや電車と同じように利用されて
いる。
しかも料金は、ばあいによっては、300円、700円(日本円)になることもあると
いう(フランスの地方空港から、パリ・オルリー空港までの料金)。

……利用者はネットを見ながら、徐々に料金がさがっていくのを見る。
満席直前になると、ばあいによっては、300円、700円になる。
その直前に航空券の申し込みをする。
あとはそれをプリントアウトし、急いで空港へ。
席は早い者勝ち。
バス、あるいは電車(自由席)に乗るような感覚で、飛行機に乗る。

 で、そのうちこんな珍現象が見られるようになるかもしれない。
たとえば羽田から沖縄へ行くとき、羽田から一度マニラまで飛ぶ。
マニラから沖縄へ戻る。
それでも料金は、JALやANAの2分の1、と。

 日本を取り巻く環境は、すでにその段階へ来ている。
が、JALは、(ANAも)、あまりにも腰が重い。
国の施策に振り回され、身動きさえままならない。
つまり小回りができない。

 「日本の論点」によると、残された時間は、あと2年。
2年たつと、支援機構の後ろ盾を失う。
「その先は新たなスポンサーが必要であり、その手段が再上場。
その絶対条件が、黒字体質への転換である」(P374)と。

 それについて中条潮氏は、こう書いている。

「(JALの)再建は、国の規制からの解放による経営の独立性の確保と、自己責任
の徹底が必須であるにもかかわらず、政府は日本航空の広告の過大さを指摘したり、
LCC子会社を設立するよう圧力をかけたりしてきた。

 これでは日本航空自身がいくら努力をしても、結局は国の施策に押しつぶされて
再倒産してしまい、機構の資金は無駄になる」(P370)と。

 今日、12月9日を期限に、JALは、強制的な整理解雇に踏み切るという。
しかし整理解雇すべきは、天下りしてやってきた元官僚たちである。
JALを、がんじがらめにしているこうした元官僚たちから、まずJALという鳥を
解き放つ。
それなくして、JALの再建はありえない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

2010年3月11日木曜日
*What is Wisdom for Man 

++++++++++++++++

この原稿が、グーグルの「知恵」サイトに
正式に紹介されるようになりました。
それを記念して、ここに再掲載します。

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●知恵

++++++++++++++++++++++

布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密(ハラミツ)」という。
このうちの「布施、持戒、忍辱、精進、善定」については、
たびたび書いてきた。
が、「知恵」については、あまりにも当たり前のことと
思い、書いたことがない。

++++++++++++++++++++++

●知恵の重要性

 教育の世界では、「無知は罪」と考えてよい。
親の無知が、子どもの心をゆがめるというケースは少なくない。
相手がいないばあいなら、無知であることも許される。
しかし相手がいて、その相手に影響を及ぼすなら、「無知は罪」となる。
しかもその相手というのが、無抵抗な子どもというのなら、なおさらである。
そういう意味では、総じて言えば、愚鈍は恥ずべきことであって、けっして誇るべきこと
ではない。

 で、六波羅密においては、「知恵」を6番目の徳目としてあげた。
もちろんこれは私の勝手な解釈によるもので、仏教学者の人たちなら、顔を真っ赤にして
怒るかもしれない。
六波羅密は、大乗仏教(北伝仏教)の修行法の根幹をなすものである。
「はやし(=私)ごときに、何がわかるか!」と。

●善と悪

 そこで私の善悪論の根幹をなす考え方について。
私はいつもこう書いている。

「悪いことをしないからといって、善人というわけではない」
「よいことをするから、善人というわけでもない」
「人は、悪と積極的に戦ってこそ、善人である」※と。

 「悪と戦う」というのは、(外部の悪)はもちろんのこと、(自分自身の内部に潜む悪)
もいう。
このことも、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

 何もしないで、静かにおとなしくしている子どもを、よい子どもとは言わない。
あいさつをきちんとし、先生の言うことをハイハイと、従順に従う子どもを、よい子ども
とは言わない。
身近でだれかが悪いことをしたとき、それを制したり、戒める子どもを、よい子どもとい
う。

 実際、よいこともしなければ、悪いこともしないという人は、少なくない。
万事、ことなかれ主義。
小さな世界で、丸く、こじんまりと生きる。
しかしそういう人を、善人とは言わない。
「つまらない人」という。
ハイデッガー風に言えば、「ただの人(das Mann)」。

 で、私たちは、積極的に悪と戦っていく。
そのとき最大の武器となるのが、「知恵」ということになる。
知恵なくして、人は、悪と戦うことはできない。
「悪」のもつ愚鈍性を見抜いたとき、善は悪に打ち勝ったことになる。
これには、(外部の悪)、(内部の悪)もない。

●知恵を磨く

 愚鈍の反対側にあるものが、「知恵」ということになる。
そう考えると、知恵が何であるかが、わかる。
言い替えると、「考える力」、その結果として得られるのが、「知恵」ということになる。

 誤解してはいけないのは、知識イコール、知恵ではないということ。
いくら知識があっても、それを反芻し、消化しなければ、知恵にはならない。
その「反芻し、消化する力」が、「考える力」ということになる。

 このことは反対に、老人の世界を観察してみると、よくわかる。
認知症か何かになって、考える力そのものを喪失したような老人である。
口にすることと言えば、過去の愚痴ばかり。
そういう老人には、ここでいう「悪と戦う力」は、もうない。
もちろん善人ではない。
善人とは、言いがたい。

 が、だからといって、善人になるのは、難しいことではない。
自分で考えて、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声をあげるだけでよい。
たったそれだけのことだが、その人をして、善人にする。

+++++++++++++++++

(注※)3年前に書いた原稿を添付します。
日付は、2007年9月26日(水)と
なっていますが、この原稿自体、
さらにその6、7年前の2000年ごろ
書いたものです。

+++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳ということになる。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差
点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもな
いことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考
えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにし
ても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使
うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小3)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、2つに分かれることがわかる。

1つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう1つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 善と悪 善人と悪人 考える力 知恵 智慧 知性 知識)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司 

●はやし浩司 2010−12−10

●消えたキジバト

 二羽のキジバトの雛がいた。
数日前、一羽が行方不明になった。
昨日、もう一羽も行方不明になった。
まだじゅうぶん、飛べないはず。

 昨日もワイフが、しばらくあちこちをさがした。
私もさがした。
が、どこにもいなかった。

 『ドラえもん』の中に出てくる、タンポポの種の話を思い出した。

●子どもの巣立ち

 子どもは巣立ったあと、無数の父親に出会い、無数の母親に出会う。子どもはたしかにあな
たから生まれ、あなたによって育てられるが、決してあなたのモノではない。あなたが育てるの
は、あくまでも一人の人間。そしてその人間は、やがてあなたから巣立ち、その子ども自身の
人生を始める。



 親としては、うれしくも、どこかもの悲しい瞬間でもある。自分の手で子どもの心をすくってい
るはずなのに、その心が、指の間からポタポタともれていく。その切なさ。そのはがゆさ。しかし
親としてできることはもうない。ただ黙って、その背中を見送るだけ。



 子どもは、子どもの世界で、それから先、無数の父親に出会い、無数の母親に出会ってい
く。私ひとりが、子どもの父親ではない。母親でもない。そう思うのは、それは同時に、私たちが
子離れの、最後の仕あげをするときでもある。「お前の人生は、お前のもの。たった一度しかな
い人生だから、思う存分、この世界を羽ばたいてみなさい」と。



 が、振りかえると、そこには秋の乾いた風。ヒューヒューと乾いたホコリを巻きあげて、枯れた
木々の間で舞っている。心のどこかで、「こんなはずではなかった」と思う。あるいは「どうしてこ
ういうことになってしまったのか」とも思う。しかし子どもは、もうそこにはいない。



 願わくば、幸せに。願わくば、無事に。願わくば、健康に。



 親孝行? ……そんなくだらないことは考えるな。家の心配? ……そんなくだらないことも
考えるな。私たちは私たちで、最後の最後まで、幸福に生きるから、お前はお前たちで、自分
の人生を思いっきり生きなさい。この世界中の人が、お前の父親だ。お前の母親だ。遠慮する
ことはない。



 精一杯、親としてそう強がってはみるものの、さみしいものはさみしい。しかしそのさみしさを
ぐっとこらえて、また言ってみる。「元気でな。体を大切にするんだよ」と。あの藤子・F・不二雄
の「ドラえもん」の中にも、こんなシーンがある。「タンポポ、空をゆく」(第一八巻・一七六ペー
ジ)というのが、それ。



 タンポポがガラスバチの中で咲く。それをのび太が捨てようとすると、ドラえもんが、「やっと育
った花の命を、……愛する心を失ってはいけない」と、さとす。物語はここから始まるが、つぎ
にドラえもんは、のび太に、花の心がわかるグラス(メガネ)を与える。のび太は、そのグラスを
使って、花の心を知る。



 タンポポの心を知ったのび太は、タンポポを日当たりのよい庭に植えかえる。が、しばらくす
ると、嵐がやってくる。のび太はタンポポをすくうため、嵐の中で、そのタンポポに植木バチをか
ぶせる。こうした努力があって、タンポポはやがてきれいな花を咲かせる。のび太が「きれいに
咲いたね」と声をかけると、タンポポは、「のび太さんのおかげよ」と、礼を言う。「こんないい場
所へ植えかえていただいて、嵐から守ってもらって。のび太さんは、ほんとうにやさしくて、たの
もしい男の子だわ」と。



 そのタンポポの種が、空を飛び始めるとき、のび太は、こう言う。「いよいよだね」と。小さなコ
マだが、のび太が手をうしろに組み、誇らしげに空を見ているシーンが、すばらしい(一八六ペ
ージ)。そのあと、のび太はこうつづける。

 「子どもたちが、ひとりだちして、広い世界へ飛び出していって……、きれいな花を咲かすん
だね」と。 

 一人(一本)だけ、母親のタンポポから離れていくのをいやがる種がいる。「いやだあ、いつま
でもママといるんだあ」と。それを見てのび太が、またこうつぶやく。「いくじなしが、一人残って
いる……」と。



 タンポポの母親「勇気を出さなきゃ、だめ! みんなにできることが、どうしてできないの」

 子どもの種「やだあ、やだあ」

 のび太「一生懸命、言い聞かせているらしい。タンポポのお母さんも、たいへんだなあ」

 タンポポの母親「そうよ、ママも風にのって、飛んできたのよ」

 子どもの種「どこから? ママのママって、どこに生えていたの?」

 タンポポの母親「遠い、遠い、山奥の駅のそば……。ある晴れた日、おおぜいの兄弟たち
と、一緒に飛びたったの」

 子どもの種「こわくなかった?」



 タンポポの母親「ううん、ちっとも。はじめて見る広い世界が、楽しみだったわ。疲れると。列
車の屋根におりて、ゴトゴト揺られながら、昼寝をしたの。夜になると、ちょっぴりさびしくなっ
て、泣いたけど、お月さまがなぐさめてくれたっけ。高くのぼって、海を見たこともあるわ。青く
て、とってもきれいだったわよ。やがてこの町について……。のび太さんの、お部屋に飛び込ん
だの」

 子どもの種「ママ、旅をして、よかったと思う?」

 タンポポの母親「もちろんよ。おかげできれいな花を咲かせ、ぼうやたちも生まれたんですも
の」



 子どもの種「眠くなっちゃった」

 タンポポの母親「じゃあね。歌を歌ってあげますからね。ねんねしなさい」



 子どもの種が旅立つ日。のび太はその種を、タケコプターで追いかける。



 のび太「おおい、だいじょうぶか」

 子どもの種「うん。思ったほど、こわくない」

 のび太「どこへ行くつもり?」

 子どもの種「わかんないけど……。だけどきっと、どこかできれいな花を咲かせるよ。ママに
心配しないでと伝えて」

 のび太「がんばれよ」



 この物語は、全体として、美しい響きに包まれている。何度読み返しても、読後感がさわやか
である。それだけではない。巣立っていく子どもを見送る親の切なさが、ジーンと胸に伝わって
くる。子どもの種はこう言う。「ママに心配しないでと伝えて」と。タンポポの親子にしてみれば、
それは永遠の別れを意味する。それを知ってか知らずか、のび太はこう言ってタンポポの種を
見送る。「がんばれよ」と。私はこの一言に、藤子・F氏の親としての姿勢のすべてが集約され
ているように感ずる。



 あなたの子育てもいつか、子どもの巣立ちという形で終わる。しかしその巣立ちは決して美し
いものばかりではない。たがいにののしりあいながら、別れる親子も多い。しかしそれでも巣立
ちは巣立ち。子どもたちは、その先で、無数の父親や母親たちを求めながら、あなたから巣立
っていく。あなたはそういう親たちの一人に過ぎない。あなたがせいぜいできることといえば、そ
ういう親たちに、あなたの子どもを託すことでしかない。またそうすることで、あなたは子どもの
巣立ちを、一人の人間として見送ることができる。



 さあて、あなたはいったい、どんな形で、子どもの巣立ちを見送ることになるだろうか。それを
心のどこかで考えるのも、子育てのひとつかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の巣立ち 巣立ち論 子どもの巣立ち 藤子・F たんぽぽ はやし浩司 家庭教育 育児 教
育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ドラえもん タンポポ 
巣立ち)


●キジバト

 断言するが、うちのハナ(ポインター種、猟犬)は、けっして雛を襲わない。
枝から雛が落ちてくると、ワンワンとほえて私たちに知らせるが、襲うことはない。
(子犬のときは。雛と戯れて、雛を殺してしまったことはあるが……。)
ハナは、人相はよくないが、心のやさしい犬である。
今では、キジバトのほうでもそれをよく知っていて、数メートル先でも平気で、エサを
食べている。

 しかし、どこへ行ってしまったのか?

 で、残るは、猫ということになる。
このあたりでも、猫を放し飼いにしている家は多い。
無責任極まりない飼い方ということになる。
猫だって、犬と同じように家の中で飼うべき。
外では、ひもをつけて飼うべき。
欧米の人たちは、みな、そうしている。

 ハナの目を盗んでは、私の家の庭にやってくる。
猫に見つかったら、雛は逃げようがない。
どこかの猫に殺されたのかもしれない。
巣立ちとは言うが、あまりにも過酷な巣立ち。

 窓の外の空にになった巣には、今朝も冬の白い光がさしこんでいる。
静かな朝だ。
色を変え始めた栗の葉が、小刻みに揺れている。


みなさん、おはようございます。
 

Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【変化する日本語】

●子どもたちの日本語

++++++++++++++

10年単位で、子どもたちの
使う日本語が大きく変化する。
そのつど、「アレッ!」と思う。

で、最近、気になるのは、2語言葉。
たいていのことを、2語だけで
表現しようとする。
基本的に、形容詞から「〜い」を
省略する。
「寒い」は「サム」となる。

ほかに・・・。

++++++++++++++

●2語言葉

キモ・・・気持ち悪い
ウザ・・・うざい(うるさい)
ダサ・・・ださい
エロ・・・変態
カタ・・・固い
ヤワ・・・やわらかい
ウマ・・・うまい
チョウ・・・(超)たいへん
スゴ・・・すごい
ヤバ・・・やばい
クサ・・・臭い
マジ・・・本当に?
アツ・・・熱い
サム・・・寒い
アマ・・・甘い
カラ・・・からい
イタ・・・痛い

 やがて日本人は、こういう会話をするようになる。

A「あれ、ダサ!」
B「マジ、ダサ!」
A「スゴ、ヤバ!」
B「マジ・・・エロくねえ?」
A「チョウ、エロ!」と。

 さらに気になるのは、ネット用語。
今朝も私のYOUTUBEにコメントが入っていた。
「ダコ」と。
意味はわからないが、かなりけなした言葉であることはわかる。
若者たち、とくにネットユーザーたちにしかわからない用語も多い。

●変化

 少し前、こんな原稿を書いたことがある。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「先生は、S? それともM?」

+++++++++++++++++

中学生のSさんが、突然、私にこう
聞いた。

「先生、先生は、S? それとも
M?」と。

ギョッとした。が、そこはとぼけて、
「服はみんな、Mサイズだよ。下着は
Sかな?」と。

が、その子どもの方が一枚、上手だった。

するとSさんは、「そうじゃないわよ。
先生は、サド? それともマゾ?」と。

+++++++++++++++++

 学生言葉というのがある。学生しか通じない言葉である。あとで以前、それについて書
いた原稿を添付しておくが、今度は、「SとM」。

 そこでSさんに、話を聞くと、こう教えてくれた。

 「いじめる側に回って、いじめるのが好きな人を、Sというのよ。反対に、いじめられ
る側に回って、いじめられるのを楽しむ人を、Mというのよ」と。

私「いじめられて楽しい人なんているの?」
S「いるわよ。そういう趣味の人も」
私「それはおかしいよ。趣味だなんて……」
S「いじめられる側って、結構、気楽なものよ」
私「あのねえ、そういう考え方をするバカがいるから、いじめの問題は、いつまでもつづ
くんだよ」と。

 しかしサドとか、マゾとか、そういう言葉が、中学生の子どもの口から出てくるとは、
想像もしていなかった。ホント!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、
意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 8問のうち、5〜6問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心
をしっかりと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴ
ンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・
ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、
ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試して
みてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、
やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子
どもの前で言うこと。

●子どもの言葉

●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference 
between men who has language ability and the apes which do not have language ability. 
It means to improve the language ability is an essential part of education, especially 
when the boys or girls are at the proper age for the education.

++++++++++++++++

ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

++++++++++++++++

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルにな
ってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、
要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたという
ことか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうは
ともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかか
わりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達
時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある
時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかく
も、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまり
ない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳か
ら5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考
えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、
定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わから
ないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成
されるのではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ツイッター

 ネット・サービスのひとつに、「ツイッター」というのがある。
「つぶやき」という意味である。
参加者は、一行程度の言葉を書き込む。
それに応えて別のだれかが、やはり一行程度の言葉を書き込む。
言うなれば、文字による一口会話。
それが無限の連鎖をともなって、どんどんと広がっていく。

 そんなサービスだが、社会的な影響力となると、計り知れない。
最近では、政治そのものを動かすほどの力をもつまでになった。
「2チャンネル」というサービスもある。
似たようなサービスだが、2チャンネルというのは、テーマ別。
それについて意見を書くことによって、ズラズラと書き込みが連なっていく。

 それはともかくとして、つまりツイッターにせよ、2チャンネルにせよ、
文化か文化でないかということになると、答は「NO!」。
恐ろしく無の世界。
虚無の世界と言ってもよい。
言葉としての、価値は、ゼロ。
幼児がだれかに、「バカ」と言うのと同じ。
言うなれば、虚無の世界だけが、不気味に広がりつつある。

●英語をやめて、論語?

 ところで昨日、書店で文藝春秋を立ち読みした。
その中に、こんなアーティクル(記事)が載っていた。

「英語教育は不要。代わりに論語を教えろ」と。

 2人の学者の対談形式のアーティクルだった。
が、どこかおかしい?

(1)仕事で英語を使っている人は、20%前後(記憶)。
だから全員に英語教育をする必要はない。
(2)会社の社内で、英語を公用語としている会社がある。
そういう会社は、やがてつぶれる。
一生懸命そういう会社を応援しよう。
そしてつぶれるのを待って、他山の石としよう。
(3)イギリスでは、全員英語を話せる。
そのイギリスが今、どういう国かを知れば、英語教育の無駄がわかるはず。
(4)日本語も満足に話せないのに、何が英語教育か、と。

 そしてここで英語教育と論語教育をバーター(交換取り引き)。
「学校では論語を教えろ」と。

 どうして英語と論語が、バーター?

(1)中学校の教科書で漢文のページが2ページしかないのはおかしい(記憶)。
(2)論語のすばらしさを、教えるべき、と。

 中国では、孔子信仰と言って、孔子そのものが、日本でいう宗教団体の対象に
なっている。
思想的にもすぐれているかもしれないが、「学校で聖書を教えろ」というぐらい、
微妙な問題を含んでいる。
どうして今、論語なのか。
それについては、たびたび書いてきたのでここでは省略する。

 話は逆。
日本の英語教育は、30年は後れた。
だからこの先、日本はますます国際化の波に乗れず、没落していく。
一読して、「何を今さら」という印象をもった。
それに日本語が変化し、ますますだらしなくなっているのは、英語教育が
始まったからではない。
論語教育をしなかったからでもない。
日本語そのものがもつ、多様性というか、未熟性に起因する。
10年単位で、若者たちが使う日本語を追いかけてみると、それがよくわかる。
それともあなたは、明治時代(たった100年前)に書かれた文章を、スラスラと
読むことができるだろうか。

 文藝春秋で対談した両氏には悪いが、あまりにも常識外れな論法。
ちなみにオーストラリアのグラマースクールでは、中1レベルで、外国語として、
中国語、日本語、インドネシア語、ドイツ語、フランス語から選択学習できる。
もちろんラテン語を教えているところもある。
 
 もし両氏の論法が正しいとするなら、両氏は世界に向けて、こう言えばよい。
「みなさん、日本語を勉強するのは、やめなさい。
勉強しても無駄になりますよ。
どうせ今後、没落していきます。
その代わり、中国語、なかんずく論語を勉強しなさい」と。

 暴論と言うことは、よくわかっている。
しかし文藝春秋を読んで、私はそう感じた。

 「世に暴論、数々あれど、暴論というのがどういうものか知りたかったら、文藝春秋
の今月発売後を読んでみたらよい」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 英語教育 論語教育 文藝春秋 変化する日本語)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【参考】(2005,6年ごろに書いた原稿)

++++++++++++++++

たしかに、日本語が乱れている。
それはわかる。しかし……。
いろいろ議論されているが、どれも
どこか的をはずれているようにも、
感ずる。
本当に、日本語は乱れているのか?

+++++++++++++++++

 中学生レベルの国語力しかない学生が、国立大で   …… 6%
                   4年生私立大で  ……20%
                   短大で    ……35%

「大学生の日本語力が低下し、中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年制
私立大で20%、短大では35%にのぼることがわかった」というのだ。

調査したのは、独立行政法人「メディア教育開発センター」(千葉市)のON教授(コミュニケー
ション科学)ら。(注……04年度に入学した33大学・短大の学生約1万3000人を対象に、中
1から高3相当の問題を盛り込んだテストを行い、02年度に中高生に実施したテスト結果と照
らし合わせて、レベルを判定したという。)

たとえば「憂える」の意味を「喜ぶ」と思いこんでいる学生が多いなど、外国人留学生より劣る
実態で、授業に支障が出るケースもあるという。同教授は「入学後の日本語のリメディアル(や
り直し)教育が必要」と指摘する。

その結果、中学生レベルと判定された学生は、5年前に行われた調査と比較して、国立大が
0・3%から6%、私立大が6・8%から20%、短大が18・7%から35%と、数年間で大きく増
加していることが分かったという。

Yahoo・ニュースは、「テストでは『憂える』の意味を問う設問で、『中学生レベル」』と判定され
た学生の3人に2人が『うれしい』に音感が近いためか『喜ぶ』を選択。『大学生レベル』とされ
た学生の中でも正答率は50%にとどまり、文字通り"憂える"結果となった」と伝えている。

【問題の例】

 ☆露骨に

(1)ためらいがちに     (0%)
(2)おおげさに    (83.3%)
〔3〕あらわに     (16.7%)
(4)下品に         (0%)
(5)ひそかに        (0%)
       
 ☆憂える

(1)うとましく思う  (16.7%)
(2)たじろぐ        (0%)
(3)喜ぶ       (66.7%)
〔4〕心配する        (0%)
(5)進歩する     (16.7%)

 ☆懐柔する

(1)賄賂をもらう   (50.0%)
(2)気持ちを落ち着ける(33.3%)
(3)優しくいたわる  (16.7%)
〔4〕手なずける       (0%)
(5)抱きしめる       (0%)
(カッコ内は中学生レベルと判定された学生が回答した割合、〔 〕数字が正解)
 *小数点計算で合計は必ずしも100にならない
(以上、Yahoo ニュースより)

 私も、最近の子どもたちが口にする日本語には、かなり問題があると考えている。しかしそれ
は、個々の言葉の使われ方にあるのではなく、文全体として、問題があると考えている。数日
前にも、それについて書いた。「先生、終わったら、どうするのですか?」と言った子どもがいた
ので、私は、こう答えてやった。

「先生は、まだ終わらない。元気でピンピンしている。先生が終わったら、葬式でもしてくれれば
いい」と。

 こうした言い方の代表的なもののひとつに、「先生、オシッコ!」というのがある。「トイレへ行
きたい」と言うべきときでも、子どもたちは、「先生、オシッコ!」と言う。だから、すかさず、私
は、こう言う。「私は、オシッコではない。人間だア!」と。
 で、最初の話題。つまり国語力。

 「日本の論点」(04)は、「国語に関する世論調査」(04)の結果について、報告している。そ
して「誤った敬語を含む例文を、正しいと思う人が目立つ」と。
 たとえば……
 「先ほど、中村さんがお話しされたように、この本は、とても役にたちます」(まちがい)→正しく
は「お話しになったように」
 「先生が、お見えになります」(まちがい)→正しくは「先生が、見えます」
 「ご乗車できません」(まちがい)→正しくは「ご乗車になれません」
 
 しかしこうした議論を一巡すると、つまり、あれこれ議論をしつくすと、そこに、ふと、こんな疑
念がわいてくる。つまり、これは国語力の問題ではなく、日本語そのものがもつ、欠陥(けっか
ん)ではないか、と。
 たとえば英語で、「I go to Tokyo.」は、
 「私、東京、行く」
 「東京、私、行く」
 「東京、行く、私」と、どんな言い方をしても、意味が通じてしまう。私が住む浜松市では、こう
した言葉の間に、(ジャン)(ダニ)を入れる。たとえば、「私、東京、行く」は、「私、東京、行くジ
ャン」と。

 こうした言葉としての欠陥は、100年単位でみると、さらによくわかる。この日本では、たった
100年前に書かれた文章ですら、辞書なしでは、理解することができない。200年前、300年
前の文章となると、さらに、そうである。

 流動的というよりも、言葉としての一貫性が、まだ確立されていない。だから今の今も、日本
語は、乱れつづけている。

 で、問題は、それが悪いことなのかどうかということ。最近では、コンビニ言葉につづいて、オ
タク言葉、さらにはネット言葉というのも、生まれている。そしてそういう言葉が、表に出てきて、
日常会話の中でも使われるようになってきている。

 ためしに中学生たちが話している会話に、そっと耳を傾けてみるとよい。多分、あなたは、彼
らが、何を話しているか、その意味すらわからないのではないだろうか。たとえば、彼らは、こ
んな話し方をする。

「私、あいつにコクられて、いやだった。だって、フタマタよ。それをXXのヤツ、チクってね。あと
は、シュラバ。私には、ラブな人、ちゃんといるのよ。私、マッチョは嫌い。腹筋が、8つに分か
れている男なんて、サイテー。頭にきたから、デニルしてね。あとは、シカト……」と。

 ついでに、若い人たちの間で、よく使われる言葉について、調べてみた。私が中学生たちか
ら、直接、聞き取り調査したものである。

 コクル……告白する。
 デニル……デニーズ(レストラン)に行く。
 マクル……マクドナルドに行く。
 カリパク……借りたあと、返さないで、もっていること。
 パクル……盗む。
 シュラバ……自分のまずいところを見られること。
 フタマタ……浮気のこと。二人の異性とつきあうこと。
 チクル……告げ口をする。
 パシリ……下っ端のこと。子分的な人のこと。
 アリガチ……ありえること。
 シカト……無視する。
 ラブな人……好きな人。
 A(エイ)……手を握るつぎの段階。(つぎに、B、Cへと進む。)
 マッチョ……筋肉質の人。
 
  もっとも、今の若い人たちは、日常的に、そういう言葉、つまり、「テメエ、殺すぞ」式の言葉
を使っている。ドキッとする言い方だが、これも、ごく日常的な言い方で、特別な言い方ではな
い。が、その一方で、旧来型の日本語を知らないからといって、国語力が落ちていると判断す
るのも、どうかと思う。

 つまり言葉というのは、いつも大衆が先導して決めるもの。そしてその大衆は、いつも、若い
世代によって、先導される。つまり一部の学者が、おかしいと言うなら、それを言う学者のほう
が、おかしいということになる。「国語に関する世論調査」(04、ON教授ほか)でも、敬語の使
われ方を問題にしている。

 これについても、「敬語は、日本語の美しさを代表するものだから、守るべき」という意見と、
「敬語など、もうどうでもよいではないか」という意見の2つが、するどく対立している。私自身
は、めったに敬語など使わない。天皇についても、「天皇が浜松へ来た」と書くことはあっても、
「天皇陛下が、浜松へ、おいでになりました」と書いたことは、一度もない。

 敬意を表す、表さないということではなく、どこでどのように一線を引くか、それを考えるのが、
めんどうだからに過ぎない。いちいちそういうことを考えながら文を書くというのも、たいへん疲
れる。それに敬語の底流にあるのは、日本人独特の、上下意識。敬語を考えるときは、いつ
も、その上下関係を考えなければならない。だから敬語は、無視。大きな流れとしても、敬語
は、この先、消えゆく運命にある。

 だから「国語に関する世論調査」そのものが、どこか、おかしい。その調査では、「敬語の使
われ方がおかしいから、日本語が乱れている」というような結論を出したかったのかもしれな
い。しかし最近の若い人に言わせると、「今どき、敬語なんて……」ということになる。

 だから視点を変えてみたら、どうだろうか。つまりここにも書いたように、個々の言葉の使わ
れ方を問題とするのではなく、文全体として、的確に自分の意思を相手に伝えることができる
かどうかという視点で、である。その際、どんな言葉が使われようが、それは問題ではない。

 「今日、学校あった」(まちがい)→「今日、学校で、授業がありました」
 「これは、パパが建てた家」(まちがい)→「これはパパが、買った家」
 「これは、私の学校」(まちがい)→「これは、私が通っている学校」と。
 で、反対に、これを調査した、「メディア教育開発センター」のON教授に、こんなテストをして
みたら、どうだろうか。はたして、ON教授は、何点取れるだろうか?

【問題の例】

☆ムッチョ
(1)むっつりしているさま
(2)貯金がないこと
〔3〕筋肉がモリモリしているさま
(4)いやがっていること
(5)怒っている様子

☆コクル
(1)告発する
(2)忠告する
(3)密告する
〔4〕告白する
(5)納得する

☆カリパク
(1)食べ物の名前
(2)借りて返すこと
(3)カリカリと怒ること
(4)道路で座ってものを食べること
〔5〕借りて返さないこと

☆アリガチ
(1)ありがた迷惑
(2)ありがとう
〔3〕ありえること
(4)ありえないこと
(5)いらぬ節介のこと

☆フタマタ
(1)2つのことを同時にすること
(2)2人の人と、同時につきあうこと
〔3〕浮気すること
(4)2つの選択肢のこと
(5)いやなこと

☆シュラバ
(1)喧嘩すること
(2)がんばること
(3)ここ一番というとき
(4)苦労すること
〔5〕何か、まずいことがバレること

 日本語も、どんどんと変化している。もともと日本語という言語は、そういう言語であるというこ
と。調査では、「憂える」の意味を知らないことを問題にしているが、実際、若い人たちが使わ
ない言葉であれば、それもしかたないのではないか。

 さらに一言つけ加えるなら、私自身は、旧世代の人たちは、もう少し、若い人たちに、謙虚で
あるべきではないかと思っている。繰りかえしになるが、「自分たちは知っている。しかし今の
若い人たちは知らない。だから今の若い人たちは、おかしい」という論法自体が、おかしいとい
うことになる。どこかものの考え方が、復古主義的?

 ただし世の親たちに一言。

 高校入試にせよ、大学入試にせよ、そこで使われる入試問題は、こうしたどこか頭の古い、
旧世代の人たちによって作られている。だから、子どもの(進学)ということを考えるなら、体制
に迎合したほうがよい。そのほうが、あなたの子どももスイスイと、学歴社会を生きぬくことがで
きる。

 そのためにも、あなたの子どもには、ここに書いたように、正しい言葉で、かつ豊かな言葉で
話しかけるとよい。「テメエ、殺すぞ」ではなく、「あなたが、そうすれば、あなたは、私によって、
殺されますよ」と。
 なお、上から(3)(4)(5)(3)(3)(5)の、〔かっこ〕が正解。

(はやし浩司 国語力 日本人の国語力 表現力 敬語 日本語の乱れ はやし浩司 子供の
国語力 子どもの国語力 変化する日本語 言語能力 はやし浩司 若者言葉 シカト)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

はやし浩司 2010−12−11

●映画『ロビン・フッド』★★★★+

+++++++++++++++++++++++++

昨夜、仕事が終わってから、映画『ロビンフッド』を
観てきた。
主演は、ラッセル・クロウ。
久々に、痛快な映画を観た。
胸がスカッとした。
「娯楽映画は、こうでなくちゃあ!」という映画だった。
ストレス解消には、最高!
星は4つの、★★★★+。

「カンヌ国際映画祭オープニング上映作品」というだけに、
期待も大きかった。
で、その通りの映画だった。
観終わった後の爽快感がすばらしかった。
映画館を出た後、ワイフと2人で、「よかった」「よかったね」と。

が、観客は、私たち(ワイフと私)を含めて、4人だけ。
金曜日の夜というのに……。

ワイフはこう言った。
「あんなすばらしい映画なのに、4人だけ?」と。

不景気なのか。
寒いからなのか。

何かのことでムシャクシャしている人は、『ロビンフッド』を
観たらよい。
先にも書いたように、ストレス解消には、最高!

つぎはいよいよ、『トロン』。
30年近く前に、前作を観た。
当時としては、衝撃的な作品だった。
その続作。
楽しみ!

帰る途中に、回転寿司屋で、遅い夕食。
私が4皿。
ワイフが4皿。
寿司がこんなに気軽に食べられるようになるとは、
想像もしていなかった。

++++++++++++++++++++++++


●読者の方より

 昨日、京都に住んでいる23歳の女性から、メールをもらった。
うれしかった。
それには私の書いた原稿を読んで、「救われました」とあった。
「文」を通して、心が通い合う。

浜松に住む私と、京都に住むその女性。
63歳の私と、23歳の女性。
その原稿を書いたのは、ずっと前。
過去の私と、現在のその女性。
こんなすばらしいことはない。
そのすばらしさを、実感した。

 Gさん、ありがとう!


●「文藝春秋」

 私が学生のころは、「文藝春秋」と言えば、「権威」そのものだった。
「文藝春秋を読んでいる」と言うだけで、ステータスだった。
雑誌といっても、捨てる人はいなかった。
たいていみな、本箱にずらりと並べていた。
今でもその地位は不動。

先週も、「日本の論点2011」(文藝春秋版)を買った。
「日本の論点」というような良書となると、今は、少ない。
が、影響力となると、相対的に、低くなった。
若い人たちで、文藝春秋を読んでいる人は、ほとんどいない。

 が、昨日、こんな経験をした。
「英語教育は不要、論語教育を」という記事を読んだときのこと。
「こんな暴論を載せるようでは、文藝春秋もおしまいだな」と。
つまり私のような人間でも、文藝春秋を批判できるようになった。
アラというか、ボロがわかるようになった。

 40年前はどうだったか、知らない。
しかし今は、マスコミの世界で知名度をあげた人だけが、名前を連ねている。
つまり有名人にぶらさがったような記事ばかりを、並べている。
内容よりも、そのときの知名度?
こうなると、雑誌としての命は、短い。
手っ取り早く、話題性だけを追求している。
編集者が、(本気)を喪失している。

 数年前までは、「現代」「諸君」そして「文藝春秋」、そのうちのどれかを、毎月
買っていた。
が、ここ数年、ほとんど買っていない。
それには理由がある。

 あるとき文藝春秋を読んでいたとき、こう感じた。
「文藝春秋は、私たち庶民を相手に雑誌を売りながら、その実、私たち庶民をゴミの
ように思っている」と。
つまり私やあなたのような無名人は、もとからお呼びではない、と。
わかりやすく言えば、過去の亡霊にとりつかれたまま、庶民性を見失ってしまった。
「文藝春秋の名前が目に入らぬか! 控え折ろう!」と。

 が、これでは庶民にそっぽを向かれて当然。
だから私はこう思った。
「私など、もとから相手にされていない。だったら、私も文藝春秋など相手にするか」と。
しかし庶民だって黙っていない。

 昨日も、BLOGへのアクセス数(5誌合計)だけで、6000件を超えた。
ホームページへのアクセス数は、毎日、平均して、5000件はある。
ほかに電子マガジン。
毎月12回、発行している。
この読者が、計3500人。
YOUTUBEへのアクセス数が、毎日600件以上。
みながみな、好意的な読者とはかぎらない。
しかしアクセス数だけをみるかぎり、毎月30万件をはるかに超えている。
月によっては、50万件を超えることもある。
かたや文藝春秋は、毎月の発行部数は60万部前後。
あと一歩で、文藝春秋の発行部数を超えることができる。
 
 一寸の無名人にも、五分の魂。
どうか忘れないでほしい。

●出版社

 インターネットの普及とともに、どこの出版社も青息吐息。
本そのものが、売れなくなった。
そこで出版社は、「話題性」という言葉をよく使う。
つまり「売れる本」。

 私もある英語月刊雑誌の創刊企画を手伝ったことがある。
『ハローワールド』(学研)という雑誌である。
そのあと編集企画の仕事もした。
当時、その雑誌は一時、月間27万部の売り上げを記録した。
だから編集者の気持ちも、よくわかる。
が、雑誌社というところは、不思議な世界で、「人を育てない」。
わかりやすく言えば、雑誌社でいくら仕事をしても、そのあとの仕事につながって
いかない。
社内のしくみそのものが、そうなっていない。

 一方、有名になるのだったら、テレビに顔を出すのがいちばん。
有名になれば、仕事は、外から舞い込んでくる。
その「外」のひとつが、雑誌社。
雑誌社ほど、有名人に弱い。
だからその有名人たちは、いつもこう言う。
「中央で有名になって、地方で稼げ」と。

 「話題性」の中には、当然、著名性が含まれる。
肩書き、地位、キャリアもそれに含まれる。
雑誌社はそれらをうまく利用して、売り上げを伸ばす。
「本」といっても、雑誌社の世界では、「商品」。
「この人が話題になっている。この人を使ってみよう」
「あの人は、肩書きをもっている。その肩書きを利用させてもらおう」と。

 が、ここにきて強敵が現れてきた。
「インターネット」と呼ばれる強敵である。
言うなれば、「商品でない文章」が、自由に、しかもタダで手に入るようになった。
少し前までは、「安かろう、悪かろう」の文章がほとんどだった。
実際、つぎのように書いていた出版社もあった。

「本というのは、編集者や校正者などの手を経て、ていねいに作られる。
つまりインターネットに氾濫する文章とは、格ががちがう」と。

 しかし今では、それも逆転した。
インターネットでも、良質な文章を読むことができるようになった。
情報にしても、自分のほしいのを、ねらい打ちできる。

 広告費の増減をみるまでもなく、勝敗はすでに決まっている。
結論から言えば、雑誌の時代は、終わった。
……ということなら、だれにでも書ける。

 そこでどうだろう、こう考えては?
これは新聞社についても言えることだが、記事にはQRコードをつける。
「もっと詳しく知りたい人は、ここからアクセスしてください」と。
つまり雑誌をインターネットと連動させる。

 たとえば「英語教育廃止論に対して、はやし浩司という人が、反論記事を書いている。
それを読みたい人は、ここからアクセスしてください」と。
つまりインターネットを「敵」と位置づけるのではなく、インターネットを雑誌の
中に取り込んでいく。
裾野を広げる。
そうすれば、庶民性もぐんと広がる。
発行部数も伸びる。
知恵を働かせば、方法はいくらでもあるはず。

 文藝春秋に話を戻すが、団塊の世代の一員として、文藝春秋には、もっとがんばって
もらいたい。
今でも私は、「文藝春秋」という名前を聞いただけで、ズシリと重いものを感ずる。

++++++++++++++++

今日も始まった。
がんばろう。
おはようございます!

12月11日。
2011年まで、残り20日。
この20日を、完全燃焼させるぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 文藝春秋 雑誌vsインターネット)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
**************2010年12月11日まで************

 







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児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
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不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 浜松市

はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依
存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層
住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 
過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、
読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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