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【13】
2010年  8月  30日〜 10月  28日(63歳)


●勇気(2010−8−29)

+++++++++++++++++

昨日、友人が経営しているミカン畑を
訪れてみた。
ドライブの途中だった。
友人は私と同じ、昭和22年(1947年)
生まれ。
市の部長職を退職したあと、1年ほど、
どこかの団体で働いていた。
そのあと、長年の夢をかなえるため、農場主に
変身した。

1年ぶりの訪問だった。
が、ミカンの木は、かなり減っていた。
そのかわり、そこにログハウスが建っていた。
友人は、自分であちこちに山小屋を建てて、
人生を楽しんでいる。
今度で、4棟目ではないか?
1度、雑誌で紹介されたことこともある。
それを見て、ググーッと感動した。

水は、農業用水。
飲み水は、ペットボトル。
電気は近くの電柱から。
風呂は、家の外。
家の中をのぞくと、工具が整然と並べられていた。
今は屋根の工事の最中らしい。
ビニールのシートが、夏の暑い風にあおられて、
パタパタとはためいていた。

「何だ、やればできるんだ!」と思った。
生きる勇気が、腹の底からわいてきた。

友人は60歳を過ぎても、まだ意気軒昂(いき・けんこう)。
家に帰ってからさっそく、電話する。

「林さん(=私)、オレたちは、まだ若いんだよ、ナッ!」と。
大いに励まされた。

私「ぼくはね、どう生きるかよりも、どう死ぬかばかりを
考えているよ」
友「ははは、だから、ジジ臭い」
私「いや、死ぬのがこわいというのじゃないんだよ。
死に向かっていくプロセスがこわい」
友「それはそのとき、考えればいい」と。

そう、我ら、ヤング・オールド・マン、
何にも遠慮する必要はない。
だれにも遠慮する必要はない。
我らは、まだ若い。
その気になれば、1年でログハウスを建てることも
できる。

それにしても昨日ほど、一軒の家をまじまじと
見たことはなかった。
どこかの山城より、ずっと立派に見えた。
力強く見えた。

ただミカンの木が減ったのは、こういうことらしい。

友人はできるだけ農薬を使わないで、有機農法
にこだわった。
が、それが裏目に出た。
「カミキリムシにやられた」、とか。

「ミカンは難しいよ」と、その友人は笑っていた。

(補記)

うっかりしいて、カメラをもっていかなかった。
そのため新しいログハウスを、写真に収める
ことができなかった。

来週のはじめにもう一度行くことになっているので、
そのとき写真を撮る。
マガジンのほうで紹介する。
お楽しみに!

+++++++++++++++++++

●流れ

 退職をすると、みな、一様に健康運動を始めたり、日々の生きがいを求めたり
するようになる。
スポーツジムに通うようになったり、夫婦で散歩に出たりするようになったりする。
あるいは町内の世話役をしたりするようになったりする、など。
判を押したように、みな、同じことをするようになるから、おもしろい(失礼!)。
しかし(流れ)の中にないものは、長つづきしない。

 たいてい2、3年もすると、花がしぼむように、少しずつ衰退していく。
軽い事故や怪我がきっかけで、そのままやめてしまう人も多い。
昔から『泡銭(あぶくぜに)、身につかず』という。
同じように、取って付け足したようなことをしても、長つづきしない。
そこには(流れ)というのがある。
それを称して、「老後の統合性」という。
その統合性は、若いときから準備するもの。
あるいはその「芽」は、若いときから作っておくもの。
早ければ早いほど、よい。
40歳(=人生の正午)でも遅いくらい……。

●老後の統合性

 「老後の統合性」については、何度も書いてきた。
もう少し正確には、「退職後の統合性」でもよい。
退職後、(やるべきこと)をもち、その(やるべきこと)に向かって、日々を忘れる
ことができる人は、幸福な人だ。
が、それには条件がある。

 無私無欲。

 打算、功利が入ったとたん、統合性は霧散する。
が、いくら無私無欲といっても、暇つぶしや時間つぶしでは、意味がない。
かえって虚しくなるだけ。
言うまでもなく、真・善・美の追求。
そこに行き着く。
私たちがなぜここに今、生きているかといえば、真・善・美の追求にほかならない。
つまりそのために生きている。
しかもその追求は、日々の研鑽と努力のみによって、可能。
一日でも休んだら、その緊張感はその日を境にして崩れていく。

 それはちょうど健康法に似ている。
究極の健康法というのはない。
私たちがなぜ今日、健康かと言えば、昨日までの努力がそこにあるから。
そうでなくても、退職年齢になると、脳みその底に穴が開いたような状態になる。
知恵や知識、経験や技術が、そこからどんどんと、それこそ容赦なく下へこぼれ
落ちていく。

 健康については、さらにはっきりしている。
1週間もだらしない生活をしたら、とたんに足腰が動かなくなる。

●40歳になった人へ

 40歳になったら、運動をはじめなさい。
「運動」というより、「運動する習慣」を身につけなさい。
40歳になったら、無私無欲でできる(何か)を見つけなさい。
真理の探究、善の追求、美の創造……。
「これが私」と言えるものを、見つけなさい。
またその「芽」がすでにあれば、よし。
そうでなければ、今すぐ、始めなさい。

 コツは、(したいこと)をどんどん高めて、それを「目標」と言えるほどまでに、
昇華させること。
冒頭に書いた友人は、現役時代も、土日はひとりで山にこもって、ログハウスを建てて
いた。
そういう下地があったからこそ、今、生き生きと自分の人生を歩むことができる。
「退職しました。ログハウスでも建ててみるか」では、何度も書くが、長つづきしない。

 中に「子育てが生きがい」と言う人もいる。
女性(母親)に多い。
しかし子育てなど、生きがいにしてはいけない。
安っぽい家族主義に振り回されてはいけない。
私たちは親として(やるべきこと)はやる。
しかし「その限度」(バートランド・ラッセル)を忘れてはいけない。

 あなたが子どもに、自分の人生を力強く生きてほしいと願うなら、同時に、あなた
自身も、自分の人生を力強く生きる。
それが結局は、子どもを育てるということになる。

●私もがんばる! 

 今日は8月30日。
月曜日。
朝、目を覚ますと、冷気を含んださわやかな風が、カーテンを揺らしていた。
ふだんならそのまま起きて、ランニングマシンに直行。
しかしそれを見ている間に、また眠ってしまった。

 つぎに目を覚ましたのは、犬のハナが吠えたとき。
ハナは、私たちが起きるのが遅いと、一声だけだが、寝室の横に来て、「ワン!」と
吠える。
食事の催促か?
それとも私たちのことを心配してか?
どうであるにせよ、今朝は、それで起きた。
時計を見たら、午前8時。

 ランニングマシンと乗馬マシンで体を動かして、そのまま体重計に。
数日前62キロになって喜んでいたが、今朝は、何と63・5キロ!
昨日、ギョーザを食べたのが、よくなかった。

 今日の運動(予定)。
昼に、もう一度、20分のランニング。
夜になって、サイクリング。
来週は友人が、オーストラリアから来る。
楽しみ!

 今日も+今週も、がんばります!
8月30日。
月曜日。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 老後の統合性 退職後の統合性 生きがい 無私無欲)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【参考:2009年、5月の原稿より】

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンという
学者は、「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。
「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
と。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●A・チャンvs. 霊感商法(by大槻義彦氏)

+++++++++++++++++

ホメオパシーについての情報を集めていたら、
今度は、A・Cに関する
霊感商法疑惑問題が出てきた。

『しまねこ』さんのBLOGから、まず
その突破口を開いてみたい。

++++++++以下『しまねこ』さんのBLOG

●今度は霊感商法の疑い:A・C

『「今度はA・Cを叩きますよ!」
大槻教授に公言されちゃったA・Cなんだけど、
パワーストンで霊感商法をやってるらしい
自らは豪邸に生活しながら、他人の金で
貧しい人々の救済をつづけるA・C。

贅沢をするなと言うつもりはないが、偽善はいけない。
他人の金で手柄を自分の物にしている。

そんなわかりやすい偽善者のA・Cの関係者が
詐欺まがいの商法をやってる疑いがもたれている。

この動画では、
ACのA大学の動画を
youtubeに投稿していたA大学の関係者が、
怪しいパワーストーンを売っていた事実が告発されている。
現在問題のyoutubeの動画は削除済みである。
(抜粋)

●Yさんの日記より

うっはー。こりゃこりゃ。
折しも、ホメオパシーが俎上にあげられてる今、
いろんな所に飛び火しそうですね。

ホメオパシーに関しては、
劇的に効いたと言う人から直に話を聞いているので、
(たしかぜんそくだったか)
完全否定は出来ませんわ。

そういや今朝、「花まる」のVTRだかで
美輪明宏さんがチラッと江原さんの話をしてたけど、
今はどうなってんのかね?
まだ仲良しなんだろうか。

(以上、『しまねこ』さんのBLOGより)

++++++++以上『しまねこ』HPより++++++


●大槻義彦氏のコメント

++++++++++++以下、大槻義彦のHPより転載++++++++++++

既に皆様もご存知のとおり、A Cは自分の写真を載せ、宣伝に努める販売会社Cズ(CHAN'S)
で『健康食品』や『開運グッズ』を販売している。
その一つがなんと、『風水 パワーストーン』というものだ。『あなたの下降運勢を上昇にかえる』
『開運パワー』というわけ。

このパワーストーンとやら、色とりどりで『水色は仕事運』が開け、『青は出世運』『ピンクは恋愛
運』(笑)、『黄色は健康運』が開けるのだという。
『このストーンを手首に巻いておれば、この手首から運を呼び込む』のだそうだ。
つまり、A Cの販売するこのような開運グッズは毎度毎度、性懲りもなく繰り返される霊感商法
そのものではないか。

『黄色のパワーストーンを身につけておれば健康運が向いてくる』というのは、『この壺を買え
ば体の具合がよくなる』『この掛け軸を家に飾れば病気もよくなる』と売りつけるオカルト宗教団
体と変わりがない。はっきりとした霊感商法である。

Aもカナダの大学を出たと公言している(正式の大学名は私には分からないし、正式の卒業で
あったのかも分からない)のだから、『腕首に黄色の石を巻けば体がよくなり、病気も改善す
る』という科学的、医学的理由を説明する責任がある。なぜ黄色かも。
もっといかがわしいのは、『五色霊芝』の販売がある。

このサプリメント(漢方薬?)は高価で1万8千円もする。『中国では古来より健康を維持する』
妙薬として用いられたもの、とのふれこみ。『βグルカン』『有機ゲルマニウム』を含み、様々な
病気に適応されるというのだ。

『現代の社会における環境汚染、加工食品の害、さまざまなストレスに適応される』とも説明さ
れている。
『中国古代からの妙薬』だと?それがどうして『現代の環境汚染、加工食品の害』にあてはまる
のか?そもそも霊芝というが、これはその辺に生える『マンネンタケ』のことではないか。マンネ
ンタケは食用に適さない。毒キノコではないが、食用は不向きなだけでなく誤用は危険なのだ。

食用には適さなくても漢方薬としての効果はあるのではないか。
ところが、漢方薬について調べると、『正式の漢方では霊芝を含む処方はない』と明記されてい
るではないか。抗がん作用についても、その他の病気治療効果についても『ヒトへの臨床報告
は公には認められていない』となっている。まして、出血傾向の副作用、低血圧の副作用、末
梢神経障害、尿路障害、腎障害などの副作用も指摘されている(一部、国立健康・栄養研究
所)。

このようなことで、国民生活センターは『霊芝、とくに有機ゲルマニウムは貧血やガンに効くとい
う薬効を否定、薬事法に抵触する可能性』を指摘している。
『A大学入学案内』によると、『日本ユニセフ協会大使として貧しい人々の救済を続けるA Cの
ような立派な人間になりたい方は入学を』と勧誘している。
私から言わせれば、『貧しい人々の救済と見せかけて、霊感商法をやり、薬事法抵触も疑わ
れるものを販売するような人間になりたい方は入学を』と、なってしまうかも。

++++++++++++以上、大槻義彦のHPより転載++++++++++++

●A・C

 私も「教育学博士」という肩書きが気になって、A・Cについては
調べさせてもらったことがある。
大槻義彦氏は疑っているようだが、(私も疑ったが)、A・Cは、経歴どおりの
大学を卒業している。
(アメリカでは、学位取得者には通し番号がつけられ、即座に検索できるようになって
いる。)

が、どんな論文を書いて、「博士号」を取ったかについては、わからない。
たしか「日米〜〜子育て比較」(記憶によるもの)に関する論文だったと思う。
ただし欧米では、論文審査だけで博士号を取得することが可能。
その大学に在学しているかどうかは、関係ない。

 が、どこかおかしい。
アメリカの教育事情とはちがい、A・Cは、少女時代に日本へ移住してきている。
その少女が、最終的にはJ大学の英文科(東京)を卒業するなどということは、当時の
日本の常識ではありえない。
中学や高校はどうしたのか?
それとも高卒でなくても、大学へ入れたのか?
その間、A・Cは、歌手生活が忙しく、勉強どころではなかったはず。
そういう女性が、今、「教育学博士」?
それで調べさせてもらった。

●偽善

 『しまねこ』さん(静岡県在住)は、こう端的に指摘している。


『……自らは豪邸に生活しながら、他人の金で
貧しい人々の救済をつづけるA・C。

贅沢をするなと言うつもりはないが、偽善はいけない。
他人の金で手柄を自分の物にしている』と。

 善行にせよ、善行に基づくボランティア活動にせよ、そこに至る過程には、それなりの
「積み重ね」がある。
あるいは「周囲環境」というのがある。

 たとえば若いときから、ホームレスの人の世話をしてきたとか、孤児の世話をしてきた
とか、など。
そういうものが(積み重なって)、ユニセフとか何とか運動へとつながっていく。
難民救済運動へとつながっていく。

 しかしそういう(積み重ね)もなく、また(周辺環境)もなく、いきなり「王手!」は
ない。
そんなことは、ほんの少し冷静になってみれば、わかること。
『しまねこ』さんは、「偽善」という言葉を使っているが、欧米人ならみな、まちがいなく、
こうした行為を「偽善」と位置づけるだろう。
貧しい人たちを、食い物にしている。
つまり悪人以下の悪人。
それが偽善を行う偽善者ということになる。

●大槻義久氏のHPへの投稿と、そのコメント

++++++++++++以下、大槻義彦のHPより転載++++++++++++

読者の方から、下記のメールをいただきました。


▼読者の方からのメール
------------------------------
大槻先生

はじめまして○○と申します。
先生のブログにて、ACに関する言及を拝見し、非常に感銘受け筆を執りました。

C氏は二重三重の極めて強固な権力の防壁によって守られた、「アンタッチャブルな悪の要
塞」の様な人物です。
彼女の周りには、中国共産党、S学会、日本ユニセフ、そしてそれら団体と蜜月関係にある大
手マスコミ各社が防壁を作り、彼女に対するネガティブな論を全てシャットアウトしている様に
見えます。

そのような人物に対して敵対的な論を、公人(先生はそう呼ぶにふさわしい知名度と影響力を
持たれています)が表明するのは、ある意味非常に勇気のいることです。
敢えてそれを実行された先生は、文字通り信念の人であり、私にとって正義の人なのです。
さて、AC。

彼女のウサン臭さは、正に、「叩けば叩くほど埃が立つ」状態であり、言動と行動の不一致、矛
盾点の羅列には事欠きません。
例えば、彼女の代名詞である慈善活動。
彼女がそれほどまでに私腹よりも公を重視する人物であれば、なぜ講演料130万を取り(つま
り金を出せる団体以外ではしゃべらないと公言しているに等しい)、かつ下記のような豪邸を建
てねばならないのか?

彼女の主張に従えば、「その装飾物1つで、何万人もの子供たちが救われる」のではないでしょ
うか?
そもそも日本ユニセフ自体が、ユニセフとは別の一般団体であり、募金から25%はね、その
資金でマスコミからの天下り役員の給料や、自社ビルを建てているのは有名な話です。

また彼女は政治活動にも熱心ですが、それを中国国内で展開しているとは聞いたことがありま
せん。
必ずこの日本でのみ規制強化関連の法案成立に熱心です。
規制強化に対する考え方そのものは、個々人の自由なので否定しませんが、彼女の場合、常
に、「時と場合を選ぶ」のが、非常に胡散臭く見える。

その上、大槻先生おっしゃられる、オカルト流布による洗脳、それから派生するカネと権力の
流れにまで勢力を増しているとなると、もはやカルト教団の教祖そのものです。
奴の弱者商法に騙される善良な被害者を増やさぬよう、白黒ハッキリつける人が必要になりま
す。

その一翼を先生が担ってくださるのなら、私は感謝しても感謝しきれません。
日本全国の声なき声も、必ず先生を応援していると確信しております。
陰ながら応援しております。
お体にお気をつけてお過ごしください。

------------------------------
▼大槻からの回答
------------------------------

A Cの霊感商法批判をした途端、新聞社・通信社の取材で急に騒がしくなりました。
しかし、A側は即座に対応、霊感商品は売り場から撤去したそうです。私としては、ささやかな
成果だったと思っていますが、また何をやりだすか、注意深く看視していく必要があると思って
います。

彼女の背景に『中国共産党、S学会、大手マスコミ』がある、とのご指摘ですが、この意味は明
瞭ではありません。彼女はキリスト教信者である、と自分を紹介している(私への私信)のです
が、そうだとすると中国共産党やS学会と密接な関係にあるとは思えません。

私は、科学者・教育者として、世にはびこる迷信・オカルト・不正義などを批判・排除していき、
子供の教育や社会の進歩を目指す活動をしてきました。しかし、それ以外の個人的な思想・信
条・哲学を槍玉にあげたことはありません。

A Cがどのような社会活動・宗教活動をしようと、それは個人の人格にも関したことですから、
批判は控えます。

++++++++++++以上、大槻義彦のHPより転載++++++++++++

●日本ユニセフとは何か?

 私は知らなかった。
ユニセフと、日本ユニセフとは、別組織?
しかも日本ユニセフというのは、「一般組織」?
道理で……というか、あの団体は、そのつど著名人をうまく利用している?
その胡散(うさん)臭さは、私も感じていた。

 だれかの紹介で、ダイレクトメールが届いた。
それをきっかけに何度か寄付金を送ったことがある。
が、それ以後、毎年、私の住所、名前をあらかじめ印刷したネームカードとともに、
寄付金の募集用紙が送られてきた。
「熱心な団体だな?」とは思ったが、それにはウラ(?)があった。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……36の国と地域にある「ユニセフ国内委員会(Committee for UNICEF)」のうちの1つであ
り、国際連合児童基金 (ユニセフ) の日本事務所ではない。(ユニセフ本部(国際連合児童基
金)との関係参照)』。

さらに明確に、『日本における「ユニセフ国内委員会」として[5]、世界におけるユニセフの活動
を支援するために、日本において寄付募集、広報・啓蒙活動、政策提言協力を行うことを使命
としている。
日本ユニセフ協会と国連ユニセフ(UNICEF)は基本的に別組織である』。

『「ユニセフ」という名称を含むが、国際連合児童基金 (ユニセフ) の日本事務所ではない。日
本ユニセフ協会はユニセフ本部と協力協定を結んでいる団体であり、日本において民間人・民
間団体・企業向けにユニセフを代表する唯一の組織である。日本における民間協力の窓口と
して運営されている非政府組織であって、国連機関ではない。ユニセフ本部は東京都内に「ユ
ニセフ東京事務所」を設置しているが、この事務所もユニセフ日本支部ではない』(以上、ウィ
キペディア百科事典より)と。

 だんだんとわかってきたぞ!

 つまり平たく言えば、「日本ユニセフ」は、巧みに国際機関である「ユニセフ」という
名前をまぶしながら、日本人から金を集めている(?)。
そういう疑惑も浮上してきた(?)。

 日本における国際連合児童基金の出先機関は、東京都渋谷区神宮前の国連大学ビルの
中にCとある。
「国際連合児童基金東京事務所」(ユニセフ東京事務所)というのが、それ。

 『「財団法人日本ユニセフ協会と密接に協力しながら」(日本ユニセフ協会サイトによる)各種
の交渉などに当たっていることになっている。ほぼ同一の意味の言及は、ユニセフ公式サイト
にもあり、日本ユニセフ協会は、ユニセフ東京事務所の業務の一部にも関わりを持っている」
と説明している』(同)と。

 つまり「私たちはユニセフとは無関係ではない。ユニセフと『密接に協力しながら』活動してい
る」と。
だったらはじめから、無私無欲で、ユニセフ(本部)に協力すれば、それですむはず。

●A・Cへの疑問

 「教育学博士」とは何か?
どんな論文を書いたにせよ、また書かなかったにせよ、「博士」には博士らしい言葉づかい
がある。
たとえば育児論を語っていても、言葉の端々に、それなりの専門用語が出てきたり、知見
の深さがにじみ出たりする。
が、私が知るところ、A・Cには、それがない。
ときどきテレビで教育講演(育児講演)をしているのを見る。
全体的に思慮が浅いというか、どこかタレント風……?
それ以上の判断は、読者のみなさんに任せる。
一度自分の耳で聞いて、自分で判断すればよい。

 ともかくも、「教育学博士」と「霊感商法」は、結びつかない。
大槻義彦氏が指摘しているとおりである。
それが今回、問題になっている。

日本ユニセフは、どういう経緯で、A・Cを親善大使に任命したのか。
その前に、彼女はどのような活動をしていて、「大使」にふさわしいと判断されたのか。
そのあたりを、一度しっかりと説明する義務があるのではないか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 A・チャン 大槻義久 霊感商法 日本ユニセフ ユニセフ)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●怒り(補足)

10年ほど前に書いた原稿を
再掲載します。

+++++++++++++++++

(怒り)について考えているとき、
以前、尾崎豊の「卒業」について書いた
原稿を思い出しました。

それをそのまま転載します。
(中日新聞掲載済み)

+++++++++++++++++

【若者たちが社会に反抗するとき】

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」
と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。

もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今こ
こに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎
日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だっ
た。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。こ
のことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシー
にはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転し
てくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られ
ないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●補足

 この中で私は、2人のタレントを批判した。
あの人とあの人である。

「・・・年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、『不況で生活がたいへんです』と顔をし
かめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙なが
らに難民への寄金を訴える」と。

 当時、こう書けば、みな、(あの人)が、だれであるかわかった。
で、この原稿を書いてから、10年。
彼らがいかに偽善者であったかは、この10年だけをみてもわかる。

たとえば難民救済活動をしていた、あの人。
その周辺部分、つまり連続性が、まるで浮かび上がってこない(?)。
その後、別の(あの人)に、活動をバトンタッチしてからは、いっさい、音沙汰なし!

 それほどまでに高徳なボランティア活動をしながら、したのは、(そのときだけ)。
最近でも、また別の(あの人)が同じようなことをしている。

 そこに至る過程の中で、たとえばホームレスの人たちのために、炊き出しをしたとか、貧しい
子どもたちを家で預かったとか、そういう経緯があればよい。
それをいきなり、アフリカの難民救済運動?
一度、ラオスで、そういった活動をしている人に会ったことがある。
当時、50歳くらいの女性だった。
もの静かな女性で、腕を白い包帯で巻いていた。
活動しているときに、けがをし、そのとき日本へ一時帰国していた。
もちろん無名の女性である。
そしてその女性がそういう活動をするようになった背景には、10年単位の歴史がある。

 が、これらの(あの人)には、周辺部分もなければ、連続性もない。
積み重ねもない。
一事が万事というか、万事が一事。
つまり偽善。
もっと言えば、難民の人に対する冒涜!
集められた基金なるものは、どこにどう消えたことやら?
(私も出したぞ!)
少なくとも、私たちは一度は疑ってみるべきではないのか。

 つまりこれが私が言う(怒り)である。
この(怒り)を忘れたら、それこそ、この世界は、闇!
・・・と思いつつ、こうして文章を叩いている。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

【雑感】(9月1日)「虚しさ」をテーマに(改)

+++++++++++++++++

文章が雑だったので、推敲しなおして
みました。

+++++++++++++++++

●老いる

 老いることは、たしかにさみしい。
失ったもの、去っていった人たち、なくした時間などなど。
そういった思い出が、波打ち際にヒタヒタと打ち寄せる波のようにやってきては、
また去っていく。

 さみしいと言えば、さみしい。
さみしくないと書けば、嘘になる。
しかしそのさみしさに、時として、酔いしれる。
静かに時の流れの中に身を置き、ふと涙ぐむ。
それが老いるということではないか。

 ときどきあのときの、あの人は今ごろ、どうしているだろうと思う。
元気でいるだろうか。
それとも、もう亡くなっているだろうか。
確かめる方法がないわけではない。
しかしそれを確かめたところで、どうなる?
そのあと何をする?

●虚しさ

 定年後の再就職という言葉もある。
しかし定年後の再就職というのは、若いときの就職とは、本質的にちがう。
もしだれかが私にこう言ったとしよう。
「一生懸命がんばってください。10年後は、課長になってもらいます」と。

 しかしそんな申し出に応ずる人はいない。
課長職に魅力を感ずる人はいない。
またその目的のためにがんばる人もいない。
私たちはすでに、その虚しさというのを、いやというほど知っている。

 ただ私のばあい、その虚しさを、オーストラリアで学生をしていたころ知った。
当時の日本は、まさに高度成長期。
だれもが迷わず大企業を選択し、出世を夢見て、企業戦士としてがんばった。
当時の日本で、つまり日本の若者たちの中で、その虚しさを知っている人は、
いったいどれくらいいただろうか。

●教育学博士?

 ところで昨日、A・チャンというタレントについて書いた。
肩書は「教育学博士」ということになっているが、教育学の博士?
(教育学だぞ!)
何度かテレビで講演をしているのを聞いたことがあるが、私は何も得るものはなかった。
専門用語もまったくと言ってよいほど、口から出てこなかった。

たとえば日本では、「○○大学教育学部教授」という肩書を使う人はいる。
しかし「教育学博士」という肩書を使う人はいない。
が、その博士?
私よりはるかに高い立場にいる人ということになる。
私よりはるかに高い見識と学識のある人ということになる。

 ああいうタレントが、(いくら肩書きがそうであっても、私は学者とは認めない)、
教育者として活躍しているのを見ると、いつもある種の虚しさを覚える。
恐らくその虚しさは、アフリカやアジアのへき地でボランティア活動をしている人たちが
感ずる、それと同じではないか。
ああいう一部のはねあがった人たちが、底辺でまじめにがんばっている人たちの心を、
平気で踏みにじる。

 難民救済活動?
アフリカの難民救済活動?
ふつうの常識のある人なら、そんなおこがましいことはとてもできない。

●偽善

 生きることには、いつも連続性がある。
その人がその人になるには、その土台に過去とのつながりがある。
それを連続性という。

 たとえば教育学博士であるにしても、日本ユニセフの親善大使であるにしても、
そこに至る過去があるはず。
積み重ねがあるはず。
さらに言えば、その周辺に、心理学でいうところの役割形成があるはず。
つまりその人らしい、(それらしさ)があるはず。

たとえば大学の教壇に立って、教育者を教育したとか、あるいは街中のホーム
レスの人たちの食事を世話したとか、など。
さらに言えば、学校の先生たちを指導しているとか、(子どもたちを教えている
とか)、あるいは孤児を預かって世話をしているとか、など。
そういうことでもよい。
それがここでいう(それらしさ)ということになる。
そういうものをいっさい省略して、いきなり「王手!(=博士)」は、ない。

 が、中には、(A・チャンがそうというわけではないが)、善意ある人たちから
金をまきあげ、貧しい人たちを利用して、自分の利益や名声につなげていく人もいる。
私の恩師の松下哲子(のりこ)先生(幼稚園元園長)は、いつもこう言っていた。
「林さん(=私)、悪人の餌(えさ)にだけは、なってはいけませんよ」と。
悪人の餌になることは、自分で悪事をすることより、悪いことという。
その餌に、私たちはなっていないか?

一度、A・チャンという人を観察しながら、私たちはそれを冷静に見つめなおして
みる必要がある。

 また雑誌や写真雑誌の報道によると、同じ日本ユニセフの重鎮であるKT氏は、
写真撮影のときだけ、やせ細った難民の子を抱きあげ、そのあとすぐ体中を消毒して
いたという。
もしこれが事実とするなら、これほどまでに悪臭に満ちた偽善はない!

●30兆円

 つい1か月ほど、「砂漠に水をまくようなもの」と書いた。
案の定、政府の対策は、何ら効果をもたらさなかった。
もたらさなかったばかりか、かえって円高を誘導してしまった。
某新聞は今朝になって、「焼け石に水だった」と書いている。

 私のようなド素人にもわかるようなことが、どうして日銀の総裁や政府の指導者
たちに、わからないのだろう。
30兆円もバラまけば、その後遺症はかならずあとになって出てくる。
そのときが、心配。
へたをすれば、ハイパーインフレ!
日本経済の崩壊は、可能性の問題ではない。
時間の問題。
それが秒読み段階に入った。

 日本と中国は2010年になって、16%以上も株価をさげている。
注視すべきは、その中国。
バブル経済が音をたてて崩れ始めている。
その威力は、ドバイショックの1000倍以上と言われている(某経済誌)。

 また今年になって、6〜7年も書きつづけてきた『日韓経済戦争』の記事を
私は停止した。
「今さら、何を!」と言った状態になってしまった。
この虚しさ。
脱力感。

 イルボネ(日本人)よ、もう少し外の世界を見ろ!
緊張感をもて!
このままでは、日本は本当に沈没してしまうぞ!

●JAL問題

 JAL問題は、日本の官僚社会の縮図。
そう思って、日本の官僚社会を見ればよい。

 今の日本にとって重要なことは、JAL並みに、日本の官僚社会を破綻させること。
公務員の数を、半減、もしくは3分の1にすること。
人件費を減らし、無駄を省くこと。

 日本という国そのものが、JALと同じ問題をかかえている。
「一度日本経済を破綻させるしかない」と考えるのではなく、「破綻する前に、やるべき
ことはやる」。
それが官僚社会の破綻。
……というか、行政改革の大断行。
ふつうの「改革」では、だめ。
「破綻」に近い、「改革」。
それにはちゃんとした理由がある。

 今のまま日本経済が破綻したら、イのいちばんに復活するのも、また官僚社会という
こと。
敗戦直後の日本を見れば、それがわかる。
あの文部省にしても、敗戦と同時にクビになった役人は1人もいない。
もっとも早く、きちんとした給料を受け取ったのは、ほかならぬ役人たちである。
次回もそうなる。

●民主党の小沢一郎

 民主党が、解党か沈没かという瀬戸際に立たされている。
仮に小沢一郎が党首になり、総理大臣になったら……。
現在、小沢一郎の支持率は、15%前後。
たったの15%前後。

「私が党首になれば、支持率は回復する」というようなことを言っている。
そうかな?
そうなるかな?
小沢一郎は、現実検証能力を完全に失っている。
つまり外から見た自分の姿が、わからなくなっている。
これは日本人の私たちにとっても、たいへん悲しむべきことと考えてよい。
そういう人物が総理大臣に就任したら、それこそ日本はメチャメチャになってしまう。

 なお小沢一郎は、どこかの講演で、尊敬すべき人物として織田信長をあげている。
中日新聞8月26日(2010)は、つぎのように報道している。

『……講演の中で尊敬する人物として、ふだんはあまり挙げたことのない好戦的な
織田信長に言及したのも、不気味といえば不気味』と。

 アノネ、織田信長は、民衆のために立ちあがった人でも、また日本の民主主義を
求めて立ちあがった人でもないノ!
ただの餓鬼。
権力の亡者。
『世界の暴君』という本があるが、その中でも1、2を争う暴君。
そういう頭の狂った人を尊敬して、どうするノ?

 ……ということで、「虚しさ」についての原稿はおしまい。
今朝のテーマは、「虚しさ」。
本当にこの世の中、考えれば考えるほど、虚しさばかりが襲ってくる。
まじめに生きるのが、バカバカしくなる。

 が、がんばるしかない。
今朝もメールでの相談が、3通も届いている。
まずそれから返事を書こう。

 今日から9月1日。
2010年9月1日。
気温は早くも26度。
今日も30度を超えそう。
おはようございます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本ユニセフ Aチャン A・チャン 霊感商法 教育学博士 小沢一郎 民主党 
はやし浩司 JAL問題)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

(9月1日)の相談より
【O県のRTさんより、はやし浩司へ】

以前にも息子の件でご相談させていただきました。
以前の相談内容です。
息子は現在、中学2年生、14歳です。↓

中学に入ってから登校する時、偶然同じ学年の子と会っても挨拶もせず避けるように行ってし
ます。
学校では積極的に自分から動くことはなく、授業中もうつむいていることが多い、ということで
す。
息子は周りを気にするあまり、自分が見えていない。主人と話すときも自信がなさそうな小さな
声でボソボソ話したり、黙り込んでしまいます。
人の話をちゃんと聞いて、自分の考えを人に伝えることが苦手なように 思えます。

あれから1年…
今回の相談なんですが…
担任の先生やクラスも変わって少しですが、自分を出せるようになってきたと思います。

今から実家に帰るという時に、息子の部屋からを女子の水着・体操服がでてきたんです。私は
訳が分からず、真っ先に主人に言いました。主人も信じられない顔していました。
主人は息子を2階の部屋に呼び2人きりで話をして、その後は、みんなで実家に帰りましたが気
分はずっと落ちこんでいる状態です。
私の実家にもよる予定でしたが、急きょ、主人と息子だけ先に家に帰ることになり私と娘だけ
実家に寄りました。

家に帰ってからの主人と息子の様子を聞きました。
まず、その持ち物は好きな女の子のものだということ。
忘れ物を取りに教室へ行ったときに、見つけて誰もいなかったから盗ってしまったこと。後で先
生の方から持ち物が無くなったが知らないかとクラス全員に聞いたが黙っていたこと。
主人はかなりのショックで息子に対してどう接したらいいのか悩んで、仕事も手に付かないとい
った状態です。

その日は息子の部屋をすべて見て押し入れの中からはアダルト系のマンガも出てきて、それ
は友達から借りたのがきっかけで自分で買うようになったようです。
とにかく、マンガやゲームなどすべて部屋から出して部屋をすっきりキレいにして、過去のこと
は忘れて、これからは生まれ変わった気持ちで頑張っていこうと約束しました。

それから半月たちましたが、部屋にはマンガが転がり、夏休みの宿題も結局進まず主人が徹
夜で手伝い、ギリギリ終わらせたのですが、息子本人は焦りもなく、主人に対しても何も言わず
学校に行きました。
自分の思いを出すのが苦手で、宿題も読書感想文など自分の考えをまとめる宿題は一切手
に付かない状態で主人が考える始末。

夏休みの部活中にも携帯を持って行ったことで呼び出され、ガラスを割って(ドアに鍵がかかっ
てたので窓から入ろうとして手で押したら割れた)、呼び出され、もうどうしていいのか……勉強
も苦手意識が強く、積極的にできません。
来年は受験も控え心配です。

このままでは自分の意見や気持ちも言えない。
それが原因で大人になって悪い方向にいかないか。
心配で仕方ありません。

今の息子の気持ちを前向きにポジティブに子供らしく向けるにはどうすればいいのでしょうか。
主人や息子のために私は何ができるのでしょうか。

どうか内容はわからないようにお願いいたします。

わがままを言って申し訳ありません。

よろしくお願いいたします。

【はやし浩司よりRTさんへ】

 「役割混乱」という言葉を知っていますか。
RTさん、あなたの子ども(U君としておきます)は、今、自分らしさをつかもうと必死でもがいて
います。
が、それができない。
何をしても、親(=あなた)に頭から否定されてしまう。
あなたのメールを読んだとき、いちばんドキッとしたのは、つぎの部分です。

『……とにかく、マンガやゲームなどすべて部屋から出して、部屋をすっきりキレいにして、過去
のことは忘れて、これからは生まれ変わった気持ちで頑張っていこうと約束しました』と。

 あなたはU君の住む世界を、粉々に破壊しています。
気がついていますか?
悪玉親意識(=親風)が強すぎるというか、ふつうの常識では考えられない行為です。
だれが、「すべて部屋から出した」のですか?
だれが、「部屋をすっきりした」のですか?
「過去のことをわすれて……」とは、どういうことですか?
「生まれ変わった気持ち」とは、どういうことですか?

 あなたは一方的に、自分の(わがまま)をU君に押しつけているだけ。
私にはU君の悲鳴が聞こえてきます。
悲鳴です。
が、それも言えない。
口に出すこともできない。
言えないほどまでに、あなたはU君を押さえつけてしまっている。
異常な過干渉と過関心。

加えて異常なまでの過保護。
『……夏休みの宿題も結局進まず主人が徹夜で手伝い、ギリギリ終わらせた』という部分が、
それです。
中学2年生の子どもが、親に手伝ってもらって、宿題を終わらせた?
U君のほうが助けを求めてきたのですか?
もしそうなら、それでよし。
しかし実際には、あなたがU君の宿題の進ちょく状況を調べ、終わらせたのではないですか。
もしそうなら、生まれ変わるべきは、U君のほうではなく、あなたのほうです。
くだらない親意識は捨てなさい。
学歴信仰は捨てなさい。
U君をひとりの人間として認め、U君の立場に立って、U君の苦しみや悲しみを理解しなさい。

いちばん悲しい思いをしているのは、U君です。
アダルト漫画すら、自由に読めない。
あなたには男子の生理が理解できないようですね。
「男」は、「女」ではありませんよ。
私も中学2年生くらいのときから、その種の本を読みあさっていました。
が、あなたは「女」の立場だけで、「男」を理解しようとしている。
あなたはそれに気づいていますか?
こんな状態になりながらも、『勉強も苦手意識が強く、積極的にできません。来年は受験も控え
心配です』とは?

 こうした問題には、必ず2番底、3番底があります。
今が最悪ではなく、さらに最悪な状態になって、「まだ以前のほうがよかった」とわかるのです。
U君はすでに2番底から3番底へ向かっています。
へたをすれば、4番底へ!
覇気のない、ナヨナヨとした、つまり社会人として自立できない人間になってしまいますよ。

 あなたのメールを読んでいると、私の母を思い出します。
私の母が、あなたそっくりだったからです。
だから私の兄は、生涯、母の奴隷のような人生を送ってしまいました。
母は「J(=私の兄)は、生まれつきああだ」を口癖にしていましたが、生まれたときから、子ど
もの性格がわかる親などいません。

 この問題は、『ポジティブに子供らしく向けるにはどうすればいいのでしょうか』というような生
易しい問題ではありません。
今より状況を悪くしないことだけを考えなさい!
なおす方法など、あるわけないでしょ。
U君を今のようなU君にしたのは、あなた自身だからです。

 盗みは悪いことですが、女性の水着や体操服に興味をもつのは、自然なことです。
中学2年生ですよ!
女性に興味をもち始めたことを、喜びなさい。
それが原動力となって、もろもろの「性的エネルギー」、つまり「生きる活力」へとつながっていく
のです。
フロイトやユングの学説に、一度は目を通してみてください。
(「はやし浩司 性的エネルギー」で検索をかけてみてください。)
それともあなたは、U君を牧師か何かにでもするつもりですか。
私がU君なら、一日も、あなたのそばにいたくないですよ。
(だから私は郷里から飛び出すことばかり、考えていましたが……。)
力で抑え込んだところで、無意味です。
一方的な「約束」で、どうこうなるような問題ではないからです。
またどこかで水着や体操服を盗んでくるだけです。

 それにはっきり言いましょう。
あなたはU君を愛してはいない。
愛しているフリをしているだけ。
U君を自分の支配下において、あなたのロボットにしたいだけ。
自分の不安や心配を解消するための道具として、U君を利用しているだけ。
こういうのを、「代償的過保護」といいます。
「はやし浩司 代償的過保護」で検索してくだされば、いくつか原稿を読んでいただけるはずで
す。
つまりはストーカーと同じ、身勝手な愛。

 率直に言って、ここまで家庭教育が失敗していると、手のつけようがないです。
恐らくあなたがU君を妊娠したときから、そして生まれたときから、すでに親子のリズムが狂い
っぱなし、狂っていた。
その結果が今です。
もしすべきことがあるとすれば、(1)すべてをあきらめて、(2)U君をあなたの呪縛から解き放
ってやること。
今は自我の形成、さらには自我の同一性の確立に、たいへん重要な時期です。
U君が何をしたいのか、それを理解し、その方向にU君が進めるような環境づくりをしてあげる
ことです。
が、それとて、1年単位の時間が必要です。
私の印象では、それもむずかしいのでは心配しています。
「生まれ変わるべき」は、あなた自身だからです。
あなたには、それができますか?
できないなら、いつまでも親風を吹かしていないで、あきらめなさい。
それがU君に伝わったとき、U君ははじめて、一歩、足を前へ踏み出すことができるのです。

 ともかくも、あなたの「否定的な育児姿勢」。
「何をしてもだめ」と。
これがすべての元凶です。
その上で、「勉強だけはせよ」と。
U君の苦しみや悲しみには、いっさい耳を傾けない。
あなたは本当に、「親」と言えるのですか!

(1)子どもの部屋には入ってはいけません。
入って、勝手にあれこれ調べてはいけません。
(2)男子の「性」の問題は、父親に任せなさい。
女性のあなたが出る幕ではありません。
(3)受験勉強は、なるようにしかなりません。
U君に任せて、自然の流れの中に、U君を置いてあげなさい。
(4)学校での様子をあれこれ聞き出すような、スパイ行為はやめなさい。
U君のほうから相談でもあれば話が別ですが、いちいちそれを知り、U君を叱ったところで意味
はありません。
かえってU君を、自我の崩壊へと導くだけです。
中学2年生といえば、おとなですよ。
あなた自身も、そうだったでしょ。
何よりも重要なことは、U君を1人の人間として認め、U君の横に立ってやることです。
親としてではなく、「友」として、です。

 「まだ間に合います」などという気休めを言うのも、疲れました。
ともかくも今は、「これ以上、状態を悪くしないこと」だけを考えて対処してください。
「ポジティブ」などと、おこがましいことは考えないこと。
そのときがきたら、子どもは、自ら必ずポジティブになります。
「そのとき」というのは、「自分の進むべき道を見つけたとき」という意味です。

 そのときは、あなたは子どもを信じ、子どもをうしろから支えてやります。
私も三井物産という会社をやめ、幼稚園の講師になるといったとき、母は電話口の向こうで泣
き崩れていまいました。
「浩ちゃん(=私)、あんたは道を誤ったア!」と。
そういう母親にだけは、なってはいけませんよ!

 きびしい意見を書きましたが、多くの親は、子どもに何か問題が起きると、子どもをなおそうと
します。
しかし子どもは、「家族の代表」に過ぎません。
今は、そういう考え方をします。
そういう視点で、U君の問題をもう一度、考えなおしてみてください。

 いいですか、親が子どもを育てるのではないですよ。
こうした問題をかかえ、それを乗り越えることによって、親が成長するのです。
つまり子どもが親を育てているのです。
今、U君は、あなたを懸命に育てようとしています。
だからあなたはもっと謙虚になって、U君に負けを認めなさい。
「お母さんが悪かったわ」と。
「ごめんね」と、すなおにあなたが言えたとき、U君はあなたに心を開くでしょう。
それができたら、またメールをください。
それができなければ、私ではなく、だれかほかの人に相談してください。
では、また。

はやし浩司
浜松市


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●雑感(9月3日)

●床屋

 おととい、床屋に行ってきた。
いつもひげ剃りは断っている。
感染症がうつされたら、たまらない。
一応、カミソリはそのつど消毒、殺菌することになっているらしい(県の衛生部)。
しかし最近の床屋は、どこもいいかげん。
前の人に使ったカミソリを、そのまま使っている。

 が、おとといは断るのを忘れてしまった。
散髪が終わると、そのままひげ剃りに……。
ア〜ア!
が、油断は禁物。
車に乗るとすぐ、エタノールで顔を消毒。
そのときはわからなかったが、けっこう、あちこちで目には見えない切り傷を
作られていた。
その部分で、エタノールが、シカシカと肌にしみる。
床屋はそのつど、粉状の止血剤をまぶしたり、熱いタオルで顔を押さえたりする。
しかしそれで安心してはいけない。

 HIV(エイズ)にせよ、肝炎にせよ、こうして人から人へと感染していく。
言い換えると、床屋でのひげ剃りは、今はもう必要ない。
とくに子どもには、必要ない。
もしそれでも……というのなら、床屋も医院なみの消毒設備を備えるべき。
つまりそれくらいの衛生意識を床屋もしっかりと、もつべき。

(1)子どもが床屋へ行くときは、店主に、「ひげ剃りはしないでほしい」と、
はっきりと言うこと。

(2)順番を待っているようなとき、カミソリをどのように消毒しているか、よく
観察すること。
あぶない店(?)では、ひげ剃りをしっかりと断ること。 


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●BW教室(数の勉強)「幼児教育とは」

++++++++++++++++++++

幼児を教えるときのコツは、子どものもつ
リズムに合わせて、テンポの速いレッスンを
展開すること。
ダラダラとしたとたん、子どもの集中力が
失われる。
で、今週は、「数の学習」。
この数の学習で大切なことは、つねに刺激を
与えつづけ、子どもの頭を熱くすること。
冷やさない。
いろいろな角度から、子どもの頭を刺激する。
子どもの学習能力は、おとなのそれより
何倍も速い。
すぐ先を読むようになる。
思考をパターン化する。
そのためつねに意外性を用意し、思考が
パターン化するのを防ぐ。
同時に「数は楽しい」という印象づくりを
しっかりとする。
そのために、教える側の私が楽しむ。
楽しめば、子どもも楽しむ。
その「楽しさ」が重要。
こうした指導を幼児期にしておけば、あとは
子どもは子ども自身のもつ力で、自分で
伸びていく。
それが幼児教育。

+++++++++++++++++++

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もっと見てくださる方は……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」へ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 BW子どもクラブ BW教室 BW幼児教室 数の学習 数の勉強)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

【第三の選択】

●猛暑

暑い!
本当に暑い!
今日は昼寝をしただけで、気分が悪くなってしまった。
軽い熱中症にかかったらしい。
軽い頭痛と吐き気。

 私は子どものころは、暑さには強かった。
というより、夏の暑さが好きだった。
夏が近づいてくると、それだけでワクワクした。
そんな私だったが、今年の夏は、身にこたえる。
8月の気温にしても、平年より2〜3度高かったという。
その暑さが今日もつづいている。

が、その前にみなさん、「平年」という言葉にだまされてはいけない。
平年というのは、過去30年間の平均気温をいう。
10年ごとに過去30年間の平均をとり、それを「平年」という。
だからたとえば、50年ごとに平均気温が10度ずつあがっても、
「平年より2〜3度高い」で終わってしまうこともある。
仮にこの先、同じような夏が30年もつづけば、それが「平年並み」となる。

だから地球温暖化(火星化)にしても、50年前と比べてどうなのか。
100年前と比べてどうなのか。
そういう比較をしてみて、はじめてわかること。
たとえば私の子ども時代。
ちょうど50年前。
昨年は「冷夏」だったという。
しかしそれでも、私が子どものころの夏よりは、暑かった。
気温が30度を超えるのは、毎年梅雨が明けてから。
7月15〜20日前後。
それに当時の夏は短かった。
8月15日の盆を過ぎるころには、冷気を含んだ秋風が吹き始めた。
川の水は冷たく、足を入れることもできなかった。
私たちは土手の上から、どこかものほしげに川面(かわも)をながめた。
それが夏の終わりだった。

●たった10年で!

 どうなるのか?
この先、地球は、どうなるのか?
それを考えると、ときどき足元をすくわれるような不安感に襲われる。
私たちのことはよい。
もうじゅうぶんに人生を楽しんだ。
それに……。
地球が火星化するころには、私たちはこの世にいない。

 が、子どもたちは、そうでない。
現在、5歳、6歳の子どもたちが、今の私の年齢になるころには、地球温暖化の
問題は、さらに深刻化しているはず。
忘れてならないのは、たった10年前には、科学者たちはこう言っていた。
「2100年ごろには、地球の気温は、3〜4度上昇するだろう」と。
が、すでに瞬間的ではあるにせよ、2〜3度も上昇している。
たった10年で!

 子どもたちを見ながら、申し訳ない気持ちになるのは、私だけだろうか。
今の今も、無力感を覚えながら、日々を何となくごまかして生きている。
そこにいる大罪から、わざと目をそむけながら、生きている。
「これではいけない」と思いつつ、結局は何もできない。
できることもない。
そのかわりデスクの横にある、カタログに目を通しながら、「つぎはどんな
パソコンを買おうか」などと考える。

 この無責任。
無感覚。
危機意識のなさ。
あるいは人間というのは、それを繰り返しながら、ますます鈍感になっていく
ものなのか。
つまり日々の日常性の中に身を隠し、脱力感とあきらめを繰り返しながら、
鈍感になっていく。

●第三の選択

 若いころ、『第三の選択』※という本を読んだ。
実際には、テレビを見て『第三の選択』という言葉を知り、そのあとあわてて、
その本を書店で求めて読んだ。

 恐ろしい本だった。
人類を救済するための方法が書かれていた。
核兵器で大気に穴をあけるとか(第一の選択)、地下に生活基盤を移すとか(第二の選択)、そ
んなようなことが書いてあった。
が、結局は一部の人類だけを救済し、あとは自滅するのを待つというような内容の
本だった。
それが第三番目の選択とか。
あとになって、ただのSF小説と知ったが、それを読んだときには、あまりのリアルさに、
身が震えた。
が、それが今、可能性を超えて現実の選択になりつつある。
60億以上の人々を救うことは、不可能。
人間が生来的にもつ欲望をコントロールするのは、不可能。
それをキリスト教で「原罪」というのかどうかは知らないが、もし人間が生まれながらに
してもつ「罪」があるとするなら、欲望こそが、「原罪」ということになる。

 だったら、一部の人間だけを救い、残りの私たちはいさぎよく「死」を選択する。
人類が全滅するよりはよい。
一部の人たちが、私たち人間が生きたという証(あかし)を、未来へ残してくれる。
もしその希望すら失ってしまったら、それこそ人間は何のために生きているのかという
ことになる。

●阿鼻地獄

 が、私が本当に恐れるのは、地球の火星化ではない。
その火星化に至るプロセスの中で、人間が地獄を経験すること。
それはまさに人間を人間の燃える火で焼く、阿鼻地獄。
どんなに想像力が豊かな人でも、その阿鼻地獄までは想像できないだろう。
人間が心の内部から破壊される。
そのとき人間は悪魔と化し、人肉をむさぼるようになる。
先に書いた「原罪」には、それほどまでに恐ろしい力がある。

 ……私たちにはそれに耐える力があるか?
それを乗り越えるだけの道徳や倫理、哲学を構築することができるか?
またそれまでに間に合うか?
「絶望」という言葉に敗れてはいけない。
最期の最期まで、人間は人間らしく生きる。
それは果たして可能なのか?

●火星

 20万年前。
一説によると、火星にも豊かな海があったという。
どうやら陸もあったらしい。
川が流れた痕跡もあちこちに残っている。

 が、それがこれまた一説によると、現在の地球温暖化と同じようなことが起き、
火星は今に見るような火星になったという。
地球より小さな惑星だったこともあり、温暖化は一気に進んでしまったらしい。
原因は何であれ、地球も今、同じような運命をたどりつつある。
恐ろしいのは、その変化が、だれの目にもわかるほど、速いということ。
ジワジワ……とか、徐々に……というのではない。
世界のあちこちで、ドカン、ドカンと起きている。
まだ散発的だからよい。
こうした変化がやがて連続性を帯びたときがこわい。
ひとつのドカンが終わる前に、つぎのドカンが起きる。
それがこわい。
不測の事態が不測の事態を呼び起こし、そのとき地球は、一気に破滅へと向かう。

 よく誤解されるが、地球温暖化は、2100年に終わるわけではない。
もしここで化石燃料の使用をいっせいにやめたとしても、「温室効果」はそのまま
残る。
つまり地球の温暖化は、そのあともつづく。
2100年は何とか通り抜けることはできても、2200年にはわからない。
2200年は何とか通り抜けることはできても、2300年にはわからない。
一説によれば、そのころ地球の気温は、400度近くまで上昇するだろうと言われて
いる。
400度だぞ!

●おバカ博士

 今夜も暗い話を書いてしまった。
「今夜こそ、明るい話題を」と思ったが、やはり書いてしまった。
できれば日々の日常性の中に身を隠し、「我、関せず」と、のんびりと生きたい。
またそういうテーマにしぼって、ものを書きたい。
それにこんなことを書いても、かえって読者の皆さんを不安にするだけ。
解決方法もない。

 そう、どこかのおバカ博士のように、パワーストーンでも売って、気休めを
したほうがよいのかもしれない。
「このブレスレットを腕に巻いていれば、悪魔は退散する」とか、何とか言って。
値段は、4万5000円。
もとは中国から仕入れた、安物の宝石。
5色の宝石。

 バカバカしい……。
バカバカしいが、人間は一方で、それ以上にバカなことを毎日している。
私もしている。
あなたもしている。
その結果が、今に見る、「地球温暖化」ということになる。
だれがあのおバカ博士を、どうして笑うことができるだろうか? 

 ……ということで、兎にも角にも、「精進」あるのみ。
日々に研鑽あるのみ。

 そうそう数日前、ある従兄弟とこんな会話をした。
私の母の三回忌をどうするかと聞いてきたので、「考えていない」と答えると、
「親の三回忌をしないで、どうする!」と。
今年の夏の暑さを考えたら、三回忌どころではない。
ないが、私はこう答えた。

「近く、寺へ行って、供養してもらってきます」と。

 そう答えた自分が、限りなくバカに思えた。
情けないほど、バカに思えた。
そう、もし第4の選択肢があるとするなら、みんなバカになって、バカのまま
死ぬこと。
ひょっとしたら、そのほうがよいかもしれない……とまあ、とんでもないことを
書き始めたので、この話はここまで。

とりあえず明日は土曜日だから、「原罪」について考えてみたい。
人間が生来的にもつ「欲望」について、考えてみたい。

 では、おやすみなさい!
ワイフは、すでに床に入って寝息をたてている。

(2010年9月3日、午後11時45分。
まこの時刻になっても、首下を流れる汗がまだ止まらない!)

●不眠

 時刻は今、午前2時30分。
2時間半も、寝床でもがいていたことになる。
原因は、寝る前に飲んだ、ウーロン茶(?)。
近くのコンビニで買ってきた。
濃厚なウーロン茶だった。
それを約1リットルも飲んだ。
それで頭が冴えてしまった。

 最近は少なくなったが、ときどきこういうことがある。
眠るタイミングをはずすと、そのまま寝損ねてしまう。
今がそうだ。
「早く眠らなければ……」と思えば思うほど、頭が冴えてしまう。

 で、思い切って起きてしまった。
床から出て、居間へ。
電気をつけて、このパソコンに電源を入れた。
どうせ明日は土曜日。
……というか、すでに土曜日。
こういうときは、なるように身を任せるのがよい。
眠くなったら寝る。

●週刊誌

 そのコンビニで、ワイフが買い物をしている間、いくつかの週刊誌を
立ち読みした。
その中のひとつの週刊文春。
「世界恐慌が近い」という記事が載っていた。
現在の世界経済は、あの世界恐慌の前の状況にたいへん似ているとか。
それに民主党の党首選挙。
「小沢一郎は、強制訴追を避けるため、党首選挙に打って出た」と。
総理大臣になれば、強制訴追されないですむ。

 ……いろいろな説が交錯している。
たしかに世界の経済はおかしい。
民主党もおかしい。
どちらもつかみどころがないほど、混乱している。
ドロドロというか、グチャグチャ。
まさに一寸先は闇。
明日、何が起きてもおかしくない。

●眠くなってきた

 少し眠くなってきた。
先ほど精神安定剤を半錠と、睡眠導入薬をひとかけら口に入れた。
風はぐんと涼しくなった。
よかった。

 一説によると、人間は、2、3日くらいなら、眠らなくてもだいじょうぶだそうだ。
それよりも気をつけなければならないのは、ストレス。
「眠らなければならない」と自分を追い込むと、それがかえってストレッサーに
なってしまう。
心身によくない。
だからここは自然体で臨むのがよい。

 ウム……。
かなり眠くなってきた。
まぶたが重くなってきた。

 明日は、(といっても、今日だが……)、近くのパソコンショップへ行ってくる。
2テラバイトのハードディスクが、9000円弱で売りに出されるとか。
買うかどうか、まだ決めていない。
が、ほしい!
2テラバイトというのは、つまり2000ギガバイト!
「すごい!」の一言。
それにしてもハードディスクも安くなったものだ。
たった10年前には、10ギガのハードディスクに驚いた。
それが今では、2000ギガ!
そのチラシを見ていれば、たぶん、眠ってしまうはず。

 では、みなさん、今度こそ、本当に、おやすみなさい!

 そうそう先ほど床の中で、母の三周忌は簡素にすますと決めた。
「地蔵十王経」(=日本でできた偽経※)の言いなりにはなりたくない。
あんなのは迷信以上の迷信。
(私は自分でちゃんと調べたぞ!)
形式的な儀式をすれば、それでよいというものでもない。
それで死者を悼むことができるというのは、どう考えても納得できない。
「墓参りだけは……」とは思うが、この暑さではどうにもならない。
もう少し涼しくなったら、考えよう。

 ……ということで、私には私なりの生き様がある。
これからはその生き様を、もっと明確な形で貫きたい。
残りの人生も少なくなってきた。
親類がどう言おうと、私の知ったことではない。
自分の生き様を確立できないような人は、世間に迎合して生きればよい。
好きなように私を批判すればよい。
 
(注※「第3の選択」Infoseek HPより)

『……米ソの間の秘密協定が疑われる中、ガーシュタイン博士はとうとう第3の選択の内容を
明らかにする。それは環境の悪化によって住めなくなる地球を捨て、人類の選ばれた一部だ
けでも火星で生き延びさせるという驚くべき内容であった。(ちなみに第1は核兵器で大気の層
に穴をあけ熱を逃がす。第2は地下に生活基盤を移す。もちろん選ばれし人々のみ)』(以上、
「Infoseek HP」より。)

(注※「地蔵十王経」)

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生
浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また
道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅
罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。
『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府
大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であった
としても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点が、「十
王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻
首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯
がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達
の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。また、訳経の体裁を借りな
かった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、はじめ、礼讃文や儀軌の類
として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経とい
うこと。
が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」
が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王
(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・
泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生してい
く事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判とな
り、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の
語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都
市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれ
かに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道
の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みと
なっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすため
の受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化して
いる。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。
死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引
導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィキペディ
ア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄
へ送るかを決めるという。

私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。
しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。
極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらあ
る。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀とい
うその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ち
る」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。
「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっていると
したら、これは問題である。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではないだ
ろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十九日
 法要 偽経 第3の選択 第三の選択 地球温暖化 地球火星化)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【付記】地上オゾン(光化学オキシダント濃度)

●もうひとつの地球温暖化問題

++++++++++++++++++++

2年前と、7年前に書いた原稿を、
再掲載します。

++++++++++++++++++++

●地上オゾンの恐怖(Photochemical Oxidant)
Photochemical Oxidant is to affect the growth of plants and vegetables on earth. According 
to the recent research done by Agricultural Environment Technical Center of Japan, in 
China the production of cereals would be dropped abt . 40%~60% by the year of 2020.

+++++++++++++++

TK先生から、地上オゾンの話を
聞いてから、もう7、8年になる。

中国から流れてきた排気ガスが、
光化学オキシダントとなって、植物の
光合成に影響を与えるというのだ。

TK先生は、当時、すでに沖縄などでは、
20%近く収穫量が落ちているという
ような話をしてくれた。
(聞き覚えなので、この数字は不正確。)

しかしそれがますます現実味を帯びてきた。

読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞++++++++++

 中国大陸からの大気によって、光化学オキシダントの濃度が上昇する
「越境汚染」問題で、日本海沿岸部のある地点のコメの収量を調べたところ、
内陸部との比較で、約1割少なくなっているとする研究結果を、
農業環境技術研究所(茨城県つくば市)が、20日、山口県で
開かれた日本農業気象学会で発表した。

 光化学オキシダントは近年、日本海の離島などで、高濃度で観測され、
昨年は新潟、大分県で注意報が発令された。
農作物の収量減少は実験から推測されてはいたが、部分的とはいえ、
実際に濃度と収量の関連が裏付けられたのは初めて。

 研究は、長谷川利拡主任研究員によるもの。品種と肥料水準は、
同一の日本海沿岸部の1地点と約30キロ内陸に入った1地点を選び、
1980年からの収量データを比較した。両地点の近くで測定された
光化学オキシダントの5〜9月の平均濃度は、2001〜05年の
平均では沿岸地点が0・045ppmで、内陸地点の0・031ppm
より高かった。

 濃度は沿岸、内陸ともに上昇していたが、沿岸では96〜05年にかけて、
毎年、内陸部の2倍にあたる0・001ppm高くなっていた。

 両地点の玄米の1平方メートル当たりの収量は、
沿岸は80〜96年は平均588グラムだったのが、
97〜05年は560グラムに減った。逆に内陸では、
577グラムから609グラムに増えた。
80年代は沿岸の方が内陸よりも多かった収量が、
90年代半ばから逆転し始め、2000年以降は内陸が沿岸を常に上回った。

 沿岸では、内陸と異なり、夜になっても光化学オキシダント濃度が下がらなかった。
夜間に海からオゾンが流れ込み、昼間の高濃度を保ったとみられる。

 小林和彦東大教授(農学)によると、収量が減るのは、
光化学オキシダントの主成分であるオゾンが植物の葉の中に入り、
光合成作用を妨げるため。農作物への影響について、
中国では研究者らが「2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少する」と推定している。

+++++++++以上、読売新聞(3月20日)+++++++++++++

とくに気になるのは、最後の部分。そこには、こうある。

「中国では研究者らが、2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少すると推定している」と。

わかりやすく言えば、光化学オキシダント濃度(地上オゾン)がふえるため、
中国では、2020年には、大豆、トウモロコシ、小麦の収穫量が、半減する
というのだ。

しかしこれは何も、中国だけの話ではない。

読売新聞によると、すでに新潟県、大分県では、「注意報」まで発令
される状態になっているという。

今では酸性雨による木々の立ち枯れなど、珍しくも何ともない。
この日本でも、ごくふつうの景色になってしまった。

そこへ今度は、光化学オキシダント!

さらにそれに加えて隣の韓国では、中国からの黄砂による健康被害まで
報告されるようになっている。
黄砂は、大気汚染とは、直接には関係ない。
しかし(大気汚染)→(温暖化)→(砂漠化)→(黄砂の大量発生)と
つなげてみると、元凶は、やはり大気汚染ということがわかる。

不測の事態が、また別の不測の事態を生み出す。
このドミノ倒しによって、地球環境は、爆発的に悪化する。
ほんの7、8年前には、科学者の間では、ほんのうわさ話にしか過ぎなかった。
「地上オゾン」という名前すら、世間ではほとんど知られていなかった。

私が5年前に書いた原稿を載せる。日付は、03年の4月になっている。

+++++++++++++++++

●異常気象

 このところ、SARS(新型肺炎)だとか、北朝鮮問題とか、何かと世相が、騒がしい。で、そう
いう騒がしさにまぎれて、おととい(4月17日)、静岡県のS町で、31・5度という、観測史上は
じまって以来という、気温を記録した。たしか昨年(02年)は、5月末に、30度を超えたと思う。
そのときも、「観測史上はじめて」という言葉を聞いたような気がする。(あいまいな記憶で、申
し訳ありません。)それが今年は、去年より、約40日も、早まったことになる!

 私が子どものころは、30度を超えるのは、毎年梅雨あけの、7月に入ってからだった。それ
がふつうだった(岐阜県)。30度を超えると、「真夏日」ということになり、川で泳ぐのが許され
た。しかしそれとて、梅雨があけてからのこと。だいたい7月10〜15日過ぎのことだった。しか
し今では、4月の中旬に、30度を超える!? ゾーッ!

 気象庁には、「平年並み」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんな言葉はな
い。気象庁がいう平年並みというのは、過去30年間の平均気温をいう。だからもし30年ごと
に5度ずつ気温が上昇したとしても、平年並は、平年並になってしまう? 「今年の気温は平年
並みです」と。

 しかし地球温暖化は、確実に進行している。しかも予想より、はるかに早いペースで進行して
いる。数字の上では、この半世紀で、1度前後しか上昇していないというが、実感は、とてもそ
んなものではない。気象庁は、ひょっとしたら、世界の指導者と申しあわせて、ウソを言ってい
るのではないのか? ……つまりそう思ってもおかしくないほど、実感気温とかけ離れている。

 たとえば気象庁の記録によれば、2000〜02年度においてさえ、この浜松市での最高気温
は、31度前後(8月)ということになっている。しかしこんなのは、まっかなウソ。昨年は、わりと
涼しかったほうだが、それでも浜松市内では、連日、40度近くは、あった。「今日の最高気温
は、32度でした」などと報道されるたびに、私は温度計を見ながら、「どこの気温のことを言っ
ているのか?」と思った。

 しかしそれにしても、深刻な話である。地球温暖化が進めば、やがて地球は火星のようにな
ると言う人もいる。今のまま温暖化が進めば、その可能性は、きわめて高い。そこまでいかなく
ても、あと10年もすれば、2〜3月期に、30度を超えるようになるかもしれない。そうなれば日
本の気象状態は、完全に狂う。

……と、まあ、地球温暖化の問題を考えていると、SARSや北朝鮮の問題が、小さく見えてくる
から不思議である。それにSARSや北朝鮮の問題は、まだ人間の力で何とかなる。が、地球
温暖化はそうではない。人類滅亡どころか、すべての生物が死滅する。

だから、地球温暖化を考えていると、「どう解決するか」ということよりも、「どう静かに滅亡する
か」という問題になってしまう。いや、滅亡するなら滅亡するで、かまわない。問題は、それまで
のプロセス。人間は、決して静かには滅亡しないだろう。恐らく(というより、確実に)、まさに地
獄を経験するに違いない。秩序やモラルは崩壊し、殺人や暴力が、日常的に横行するようにな
る。略奪や殺人が、日常的に横行するようになるかもしれない。知能が高い分だけ、「末期」
は、悲惨(ひさん)なものになる。

 そこで人類には希望がないのかというと、方法がないわけではない。一つは宇宙へ飛び出す
という方法。もう一つは、人類がたくわえた知識や知恵を、コンピュータの形で後世に残すとい
う方法。地球の周辺に、何かのガスをまいて、それで太陽光線をさえぎるという方法。あるいは
太平洋のど真ん中で、数千発の核兵器を爆発させて、地球の大気に「穴」をあけるという方法
などがある。

どこかSF的だが、しかしすでにそういう方向で考えている科学者もいるという。いざとなれば、
方法はいくらでもある?

 しかしまあ、人間も、好き勝手なことをしたものだ。もっとも、私たちおとなは、自業自得として
の結果だから、あきらめることができるが、かわいそうなのは、子どもたちである。これから
先、どういう未来を経験することやら? 申し訳ないことをしたと思うのと同時に、考えれば考え
るほど、気が重くなる。たいへん悲観的なことを言うが、この問題だけは、もうくるべきところま
できたような感じがする。単純な問題ではないだけに、どこから手をつけてよいのかさえわから
ない。たとえばこんなこともある。

 ところで「地上オゾン(対流圏オゾン)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。種々の排気ガ
スや煙が化学的に反応して、それが地上オゾンになるという。温室効果ガスの一つだが、その
地上オゾンが、5%ふえると、農作物が約20%減少するという※。そこであの北朝鮮だが、近
年、農業生産が慢性的に不振状態にあるという。その原因のひとつが、地上オゾンではない
かと言われている。

もちろん韓国も影響を受けているらしい。もちろんその発生源は、中国、ロシア。日本も、沖縄
あたりに影響が出始めているという。農作物だけではない。森林も影響を受ける。そしてその
結果として、ますます地球の温暖化は進む……。あああ。
(030419……この原稿は、去る、4月19日に書いたものです。)

※……この数値は、ある科学者から直接、会話の中で聞いたもので、確たる根拠があるわけ
ではありません。ただ沖縄地方における地上オゾン濃度の上昇率と、農作物の減少率が根拠
になっていると、その科学者は言っていました。(了解をもらっていないので、名前を出すことが
できません。)

(注)ここでいうTK先生というのは、光合成、触媒の世界ではよく知られた、田丸謙二先生をい
います。

+++++++++++++++++

最後に、昨日、こんなニュースが新聞に載っていた。
何でもあの火星から、塩のかたまりが、見つかったという。
しかもその塩のかたまりが、何百か所から見つかったという。

つまりかつては、火星にも海があったということ。

このことが何を意味するか?
一説によれば、火星にも人間のような知的生物がいたという。
その知的生物たちが、現在の地球人と同じように、発展とともの(?)、
火星温暖化を招いてしまったという。

もちろんこれはSF的な話でしかない。

……とまあ、いろいろ考えられるが、そこでどうだろう。
このあたりで、名前を変えてみたら……?

「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」と。
そうすれば、もう少し、ことの深刻さを、より多くの人にわかって
もらえるようになるかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地球温暖化 地球火星化 光化
学オキシダント 地上オゾン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司※

●9月5日(日曜日)

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朝の涼しさを感じて、少しほっとした。
寝心地はよくなかったが、ぐっすりと眠ることが
できた。
今週1週間は、まだきびしい残暑がつづくという。
それを知って、「あと1週間……」と、自分に
言い聞かせる。

9月5日、日曜日。
これから友人をJR浜松駅まで迎えに行く。

++++++++++++++++++

●旅の終わりに

 人生を旅にたとえる人は、多い。
しかしそれは結果としてわかることであって、「今」が旅の途中とわかる人はいない。
それぞれがそれぞれの「今」を懸命に生きている。
まわりにあるはずの景色すら、目に入らない。

 が、古い友人に出会うと、それがよくわかる。
「あのときが、人生の出発点だった」と。
私はデニス君のビーチハウス(別荘)で、3か月を過ごした。
留学生活の終わりごろで、私はそこからメルボルンにある大学へ通った。
遠い昔のできごとであるにもかかわらず、思い出はまったく色あせていない。
静かに目を閉じれば、あの日のあの光景が、つい先頃のできごとのように目に
浮かんでくる。

●年年有魚(余)

 デニス君は、北京での学会のあと、日本へ立ち寄ってくれた。
そのこともあって、昨夜温泉へ行くとき、こんな話をした。
「ヒロシ、君は、『年年有魚』という言葉を知っているか?
『魚』と『余裕』の『余』は、同じ発音なんだ。
つまりね、年々、魚がふえる、つまり年々、余裕がふえるという意味なんだ」と。

 中国語には、ちがった文字を同じ発音で表わすことが多い。
これを「諧音語」という。
つまりありきたりの言葉の中に、別の意味を含ませて、縁起をかつぐ。

デ「ふつうは3匹の魚を丸で囲んで、それを表す」
私「3匹か?」
デ「3匹だ」
私「フーン、中国文化は、奥が深いからね」と。

●「諧音」

 私たち日本人にとっては、漢字は中国から来たものということになっている。
またその程度の敬意で、終わってしまう。
しかし当の中国人は、漢字はその向う……つまり超自然の世界から来たものと
思っている。
だから漢字に、超自然的な神秘性、つまり「縁起」をかつぐことが多い。
反対に言えば、縁起の悪い漢字を嫌う。

 日本でも正月に、「豆」を食べる習慣がある。
「豆(マメ)」には、「元気」という意味がある。
つまり「元気になるために、豆を食べる」。

で、中国では、たとえその漢字そのものの意味はよくても、「諧音語」で別の悪い意味
をもつ漢字とつながると、その漢字を避ける。
よく知られた例が、果物の「梨」と「離」。
梨と離は、「諧音語」。
だから「夫婦が2人で梨を分けて食べることは、縁起が悪い」とされる。

●縁起

 で、デニス君は、『年年有魚』を日本では、何というかと聞いた。
しかしいくら頭の中をさがしても、それに該当することわざが浮かんでこない。
あえて言うなら、「亀の甲より年の功(劫)かな」と。
「長年の経験には、それなりの価値がある」という意味である。
が、それともちがう。
言い忘れたが、『年年有魚(余)』というのは、毎年、魚がふえるように、生活に余裕が
生まれるという意味である。

 たいした意味ではないが、それが「縁起」ということになる。
中国人は、『年年有魚』と言いながら、縁起をかつぐ。

私「縁起というのは、日本では迷信ということになっている」
デ「……」
私「ただ中国人は、縁起をたいへん大切にする。漢字にこだわる」と。

●縁起

 先にも書いたように、漢字に対して、中国人は日本人とちがった感覚をもっている。
縁起のよい漢字を使えば、「福が来る」と信じている。
縁起の悪い漢字を使えば、「禍(災い)が来る」と信じている。
だから中国人とつきあうときは、漢字の使い方に注意しなければならない。
「ただの文字」と思ってはいけない。

 が、迷信は迷信。
「縁起」というのは、まさにそれに当たる。

デ「ヒロシは、迷信を信ずるか?」
私「まったく、信じない」
デ「……」
私「まったく信じないから、縁起というものを考えたことがない」と。

 もともと「縁起」というのは、仏教用語で、本来は「縁起生起」をいう。

「……一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因や条件が寄り集まって
成立していること。仏教の根本思想。因縁、因果」
「社寺などの由来または霊験などの伝説。またそれを記したもの」
「吉凶の前兆(きざし)」(以上、Casio Ex-Word)とある。

 縁起イコール、迷信と考えて、頭から否定するのも、どうやらまちがっているようだ。

●会話

 学生のころは毎晩のようにデニスとこうして議論した。
彼は北京大学に留学したあと、中国人の女性(同じメルボルン大学の学生)と
結婚した。
以後、モナーシュ大学の図書館で司書をしながら、中国語の権威者としても知られている。
私とはまったくの畑違いの人物ということになるが、それだけに会話をしていても、
おもしろい。

 実のところ、『年年有魚』という言葉は、デニスに聞くまで、知らなかった。
よい勉強になった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 年年有魚 諧音 縁起 中国語)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●親友の接待

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理由は、よくわからない。
わからないが、このところ、「私」自身が、
大きく変化している。
そんな感じがする。

ほんの数年前までは、友人が、2か月とか
3か月、私の家にホームステイしても、
どうということはなかった。
毎日の生活を、いつもと同じように繰り返す
ことができた。

が、今回は、少し感じがちがう。
自分でもそれがよくわかる。
気疲れしやすいというか、重い負担感を覚える。
40年来の友人である。
気心も、よくわかっている。
その間に、たがいに何度も行き来している。
が、それでもいつもと感じがちがう。
今日は午後になって、偏頭痛まで起きた。
なぜだろう?

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●柔軟性(フレキシビリティ)

 ここ1、2年、急速に柔軟性が失われていくのを感ずる。
臨機応変にその場に対処できない。
ひとつの計画を立てると、それに固執するようになった。
つまり以前は、もう少しいいかげんな人間だった。
その場、その場で、平気で計画を変更した。
が、今は、それができない?
これも脳の老化現象のひとつ?

 友人は日本へ来てから、別棟の部屋に寝泊まりしている。
とくに世話がかかるわけではない。
もともと独立心の旺盛な友人で、ひとりであちこちに出かけたりする。
彼なりにここでの生活を楽しんでいる。
が、それでも気疲れを起こす。
「食事はどうしよう?」「どこへ連れていけばいいのか?」「洗濯はしているだろうか?」
などなど。
いつもそのことが頭から離れない。

●気疲れ
 
 今までとちがう点がひとつある。
それは今度の出会いが、最後になるかもしれないという閉そく感である。
手術はうまくいったとは言っているが、友人は今年、大病を患った。
だからよけいに私は、気を遣ってしまう。
今までのような気楽さが、ない。
それから生まれる気負いが、私を疲れさせる。

「おいしいものを食べさせてやろう」とか、「楽しい思いをさせてやろう」とか、
そんなことばかりを、考える。
友人は友人で、それが反対にわかるのか、どこか他人行儀な態度を見せる。
欧米人を家に迎えるときには、やりたいようにさせてやる。
それが最善の接待方法である。
よくわかっているが、今回は、どうしてもあれこれと干渉してしまう。

 それにもうひとつの理由は、この暑さ。
体の方がバテてしまっている。
ときどき軽いめまいがする。
何かにつけ、疲れやすい。
慢性的な睡眠不足症状もつづいている。
その友人がどうこうというのではなく、そういう状態のとき、人を接待するのも、
たいへん。
本来なら、仕事以外のときは、家の中でゴロゴロしている。
いや、今日は、仕事中に、ウトウトと眠ってしまった。
体力も、気力も、たしかに弱くなっている。

●接待の限界

 ワイフはこう言った。
「これからは無理かもね」と。
つまり会うとしても、長くて半日。
あるいは数時間。
どこかのレストランか、ホテルで会う。
宿泊までしてもらうというのには、無理がある。

 このことは反対に、私たちがだれかの家を訪問するときも、そうだ。
会うとしても、長くて半日。
あるいは数時間。
それ以上は、相手に大きな負担を与えるので、遠慮する。
若いときならともかくも、相手が60歳を過ぎていたら、遠慮する。
夫はともかくも、妻の方が、たいへん。
寝食の世話からすべて、いっさいがっさい、気を遣わなければならない。
相手が欧米人なら、まだよい。
あれこれ、家事を負担してくれる。
が、相手が日本人だと、そうはいかない。

●日本人

 「客人」とし来た日本人は、何もしない。
本当に何もしない。
つまり何も手伝ってくれない。
いつもどこかでデンと座っているだけ。
「上げ膳、据え膳」という言葉があるが、それだけではすまない。
風呂の世話から、寝具の世話などなど。
動き回るのは、私と妻。

 私も山荘をもったころは、毎週のようにいろいろな友人を呼んだ。
しかしそのうち、疲れるようになった。
せっかくの土日なのだが、それが終わるころには、ヘトヘトになってしまった。
ということで、今は、客人を、ほとんど招待しない。
……というか、体力的な限界もあって、招待できない。
内心では申し訳ないと思いつつ、駅前のレストランで会って、それで別れるように
している。

●やはり暑さのせい?

 これもひとつの変化かもしれない。
老後になればなるほど、交際の範囲が、狭く、淡白になっていく。
これは息子や娘たちとの交際についても、言える。
私のばあい、息子たちには、ほとんど気を遣わない。
しかし嫁となると、そうはいかない。
気を遣う。
孫がいれば、なおさら。

 最初から同居していれば、こういうこともないのだろう。
またこれは「慣れ」の問題。
毎週のように行き来していれば、それなりの対処もできる。
しかし私たちのようなばあい、やはり疲れる。
で、そのことをワイフに問うと、ワイフも同じようなことを言った。
「これからは、どこかのホテルに泊まってもらうようにしたら」と。

 実のところ、泊めてもらう側の私にしても、同じことが言える。
あれこれ気を遣うよりは、どこかのホテルに泊まったほうがよい。
好きな時刻に寝て、好きな時刻に起きる。
好きな料理を食べる。
どこか心さみしい感じがしないわけでもないが、つまりそれだけ心のほうが、
柔軟性(フレキシビリティ)を失っていることを意味する。

 ……いや、やはりこれは暑さのせいかもしれない。
もう少し気候のよいときだったら、こうも疲れないはず。
このところの暑さは異常!
本当に暑い!
心身が、二重、三重にバテてしまっている。
だからよけいに柔軟性を失ってしまった……ようだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●感情のコントロール

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感情のコントロールは、前頭の連合野が管理して
いる。
理性の府。
感情のコントロールができる人は、それだけ
人格の完成度が高いということになる。
が、この暑さ。
何かにつけ、イライラしやすい。
爆発しやすい。
つまりその分、セロトニン(脳間伝達物質)の
分泌が、旺盛になっている?
その前に暑さと、セロトニンの分泌とは、
関係があるのか。
たとえば暑いから、どうしてもアイスを食べたり、
甘味ジュースを飲んだりする。
それがインシュリンの分泌を促し、セロトニンの
分泌を促す。
結果として、キレやすくなる。

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●葬儀で大泣きした女性

 先日、ある葬儀に出たら、いざ出棺となったとき、人目もはばからずギャーギャーと
大泣きをした女性がいた。
年齢は65歳くらいか。
その女性の兄の葬儀だった。
その泣き方が、ふつうでないというか、異常だった。
みながなだめたが、5分以上は泣きつづけていた。
静かな会場だったので、よけいに目立った。

 感情のコントロールができない人というのは、そういう人をいう。
つまりそれだけ大泣きしたのだから、さぞショックだったのだろうと思ったが、その
あとの三日目の食事会のときには、ケロッとしていた。
むしろ快活に、はしゃいでいるようにも見えた。
大声で笑い、冗談まで言い合っていた。

 このタイプの人は、思慮深さがなく、また言ってよいことと悪いことの判断ができない。
その場の感情に溺れて、感情のおもむくまま、思いついたことを口にする。
愚痴、批判、悪口、中傷……まさに、何でもござれ。

●感情のコントロール

 かく言う私とて、偉そうなことは書けない。
私自身も、感情のコントロールに苦労する。
他人に対しては、めったに取り乱すことはないが、ワイフに対しては、そうでない。
そのままの自分を、ぶつけてしまう。
だから夫婦喧嘩ばかり……。

 自分でもそれがよくわかっているから、まず食事面で気をつけるようにしている。

(1)カルシュウム、マグネシウム、カリウム(海産物)の多い食生活に心がける。
とくにカルシュウム。
ときに錠剤で補う。

(2)甘い食品を避ける。
一時的に甘い食品を多量に口にすると、インシュリンが分泌され、それが血糖値を
さげる。
さげたまま、さらにさげるから、結果的に低血糖状態になる。
低血糖状態になると、精神がきわめて不安定になりやすい。
イライラしたり、怒りっぽくなったりする。
集中力もなくなる。
とくに夏の暑いときは注意する。

 言い忘れたが、カルシュウム剤は、戦前までは精神安定剤として使われていた。
「どうもこのところ精神が不安定」と思っている人は、カルシュウム分の多い食生活
に心がけてみたらよい。
子どもについても、そうである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 感情のコントロール キレやすい キレやすい子ども)

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以前書いた原稿を、添付します。

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●キレる子どもの相談

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数年前、キレる子どもについて、
ある母親から、こんな相談が届いて
いる。

そのとき書いた原稿をそのまま
ここに紹介する。

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●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、四本
飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリー
ムを1個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。

一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようと
インスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、
必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、
スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」として、20年ほど前に
話題になったことがある。

日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの
子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。
一周間も続けると、子どものによってはウソのように静かに落ち着く。

  話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。
で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨て
る。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事
の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識
のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。

++++++++++++++++++++++++

以前、同じような相談を受けたことがあります。
もっと年齢の大きなお子さんについてのものでしたが……。
それについて、書いた原稿を添付します。
あくまでも参考資料の一つとして、考えてください。

++++++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。

娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は5歳半になる年中児で、下に3歳半の妹がいます。

小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。

真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。

私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。

そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。

心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。

また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。

泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。

その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。
自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・7賢人の1人)だが、自分を知ることは難しい。
こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中2男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、
ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとそ
の子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼく
を怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものこと
ではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日1人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子
どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない子
はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行って
ほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

+++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学3、4年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も5歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満5歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。

されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃんがえり、欲求不
満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメールによると、かなり
神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配先行型の子育て
なども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎりなく、話が出てき
てしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視すること
によって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」と
いう指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナ
ス型になることもあります。

 私も幼児を35年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。

UYさんのお子さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、症状は
急速に収まってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするように
なるからです。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは
「もっとかっこよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学1年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まっていき
ます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。

それを感じると、今度は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら
……。私のばあいは、教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱った
り、威圧感を与えたり、あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導し
ます。それだけを忘れなければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に
構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学3、4年生になるころには、消えています。ウ
ソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そして、
四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださると
確信しています。もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃ
んの母親(みさえさん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一度、読
まれるといいですよ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※ ……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【YK様へ(2)】

 食生活がどうなっているのか、私にはわかりませんが、まず試してみるべきことは、(1)食生
活の改善、です。

 ここにも書いたように、MG、CA、Kの多い食生活(自然海産物中心の献立)に切りかえてみ
てください。

 精製された白砂糖を多く含む食品は、避けます。(与えると意識しなくても、今では、ありとあ
らゆる食品に含まれています。幼児のばあい、2歳児でしたら、1日、10グラム前後でじゅうぶ
んです。)

 感情の起伏がはげしく、手にあまるようなら、一度、小児科を訪れてみられてはいかがでしょ
うか。以前とちがい、最近では、すぐれた薬も開発されています。(薬を使うときは、慎重にしま
すが、そのあたりのことは、よくドクターと相談して決めてください。)

 食生活の改善……徹底してするのが、コツです。アイス、ソフト、乳酸飲料などは、避けま
す。徹底してすれば、1、2週間ほどで、効果が現われてきます。

 同じようなケースを、もう一つ、思い出しました。その原稿を添付します。少し古い原稿なの
で、先に書いたことと、内容が少し異なるかもしれませんが、異なっている部分については、先
に書いたほうを、優先してください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【栄養学の分野からの考察】

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。

日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷
事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたこと
がある(九八年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、こ
の分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。

話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱してい
て、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意する
と、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動
性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興
奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなっ
た。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば
自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。こ
の過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの
子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知
っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。

そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・1
2)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる
症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそ
ういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。

この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低
血糖になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切る
ような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝
手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコン
トロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それ
がキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。

体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の
発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた
回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく
言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こし
やすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」八一年(7)号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる
問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている
白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。

私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。
が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビス
ケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状の
ようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態
になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまる
で別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で
見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。

川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与
するだけでなおる」(「マザーリング」八一年(7)号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そ
うでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体
重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲
む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガ
ボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過剰
行動児 セロトニン悪玉説 キレる子供の原因 キレる子どもの原因 切れる子供 原因 キ
レる子ども 原因 原因物質)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

【雑感】(情報・偏頭痛・オーパーツ・墓参り)
  
●情報

 ときどきハードディスク内部の整理をする。
その中には、もろもろの情報が、たとえて言うなら、ゴチャゴチャになった書庫の
ようになっている。
もちろんゴミも、たまっている。
わかりやすい例で考えてみよう。

 たとえばインターネット・エクスプローラーには、「お気に入り」という欄がある。
ときどき登録するだけでも、あっという間に、それが何百になったりする。
が、削除するには、勇気がいる。
「いつか見るかもしれない」という思いが、どうしても残る。
ためらう。

 が、ある日、一念発起。
まずホルダーを作成する。
「毎日チェック」「ときどき閲覧」「情報源」「役立ち情報」「UPLOAD用」など、
それらしい仕分けをし、その中に片っ端から移動する。
その途中で、「削除」というホルダーも作成する。
あとでホルダーごと、まとめて削除する。

 こうして整理完了!

 で、そのあと不便なことがあるかというと、それがない。
本ではよくあることだが、捨ててしまったあと、「しまった!」と思うようなことはない。
つまりそれだけ情報量が、多いということ。
たとえて言うなら、情報が洪水のように毎日、押し寄せてくる。
それにインターネットのばあい、必要な情報は、そのつど簡単に呼び戻すことができる。

 ……ということで、今朝は、ハードディスク内部の整理から始まった。
1時間ほど、かかった。
とくに写真(PHOTO)の整理に、時間がかかった。
あちこちにバラバラになっている写真を、一か所に集めた。
同時に不要な写真は、心を鬼にして、削除した。

●データの保存

 パソコンという代物は、いつ何どき、壊れるかわかったものではない。
そういう前提で、つきあう。
そのとき管理の仕方がまずいと、大切なデータやファイルが、消えてしまう。
そういうこともある。

 そこで定番通り、私はそのつど、重要なデータやファイルは、外付けのハードディスク
に保存している。
が、それでも安心できない。
パソコン本体が動かなくなってしまうことがある。
そうなると、たとえばマガジンの発行予約や、BLOGの更新ができなくなる。
ホームページの更新もできなくなる。

 そこで私のばあい、メインのパソコンとは別に、つねに緊急用のパソコンをもう一台、
別に用意している。
メインのパソコン(WINDOW7)が万が一、不調になったら、緊急用のパソコンで
作業をつづける。
今が、そのとき。
メインのパソコンは、目下、修理中。
今は、緊急用のパソコン(ビスタ)で、作業をつづけている。
動作はかなりのろいが、しかたない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●偏頭痛(私のばあい)

++++++++++++++++++

あなたは偏頭痛の痛さを知っているか。
ふつうの痛さではない。
頭の芯まで切り裂くような傷み。
それが容赦なく、ギリギリとつづく。
その痛みが、脳の中で脈動する。

++++++++++++++++++

 偏頭痛の発作が起きた。
深夜に、正確には今朝、明け方。
あれほどはげしい偏頭痛は、数年ぶり。
ふとんの上で転げまわった・・・と言っても、
最近は、よい薬がある。
「ZM」という薬。
それをのめば、20〜30分ほどで症状は一応、消える。
「一応」というのは、「何となくあやうい感じを残して」という意味。
症状が収まったあとも、不快感は残る。
あとは体を横たえて、静かにしていればよい。

 で、私のばあい、「ZM」と同時に、精神安定剤をのむ。
「SZ」という薬だが、女性用の軽い安定剤だそうだ。
それを半分に割ってのむ。
ふつうは一錠だが、半分で効く。

 原因はわかっている。
おとといG県までドライブした。
昨日、犬山に一泊したあと、帰ってきた。
いつもなら昼寝をするのだが、その時間がなかった。
そういう状態で、夕食後、かなりハードなDVDを観た。
タイトルは忘れたが、複雑な内容のSF映画だった。

 床についたのが、10時ごろ。
そのときすでに「?」と思っていたが、ひと晩眠れば、治るだろうと思っていた。
それほどまでに頭痛がひどくなるとは思っていなかった。
夜中になって、ズキンズキンと痛み始めた。
明け方、それが頂点に達した。

●メカニズム

 偏頭痛のメカニズムは、よくわかっている。
気分が和らいだようなとき、血管が拡張する。
拡張して血管を取り巻く神経を圧迫する。

 「ZM」という薬は、基本的には、血管を収縮させる薬である。
一錠500円(医院での処方価格)という高価な薬だが、その分だけよく効く。
水なしで、空腹時にものめる。
私にとっては、なくてはならない薬。
若いころは、その偏頭痛に苦しんだ。
因果な病気で、「今日から休み」という、その朝によく発作が起きた。

当時は偏頭痛というものが、どういうものか、まだよくわかっていなかった。
市販の頭痛薬をのむと、ゲーゲーと吐いた。
ちょうど30歳のときに病院へ行くと、脳腫瘍を疑われた。
頭のレントゲン写真を、何十枚も撮られた。

●そして朝

 ほかに・・・。
私のばあい、湿布薬は効かない。
また偏頭痛は湿布薬が効くような頭痛ではない。
冒頭にも書いたように、頭を割るような、そんな頭痛。
「頭を切り取ってくれ!」と叫んだことも、何度かある。

 だから頭から水をかける。
台所の蛇口の下に頭を置き、上から水をかける。
頭を冷やす。
血管を収縮させる。
「ZM」をのみながら、頭を冷やすと効果がある。
また精神安定剤を併用するのは、精神を安定させるため。
睡眠剤にもなる。

 ともかくも、昨夜は大騒動?
頭を水で冷やしたのはよかったが、パジャマがそれで濡れてしまった。
痛みが消えたら、今度は寒気。
パジャマと下着を着替えた。

 ・・・ということで、今朝は10時起き。
よく眠った。
偏頭痛は消えていた。
よかった!


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●オーパーツ

 コンビニで『驚愕のオーパーツ、超古代ミステリー99』(双葉社)という本を
買ってきた。
「オーパーツ」というのは、「場違いな人工物」という意味。
パソコン雑誌がほしかったが、よいのがなかった。
それでその本を買った。

 ウソかインチキか?
本当か事実か?

 ……そんなことを考えながら読んだ。
というか、私は、この種の本が好き。
ウソやインチキでも、おもしろい。
本当だったら、さらにおもしろい。

 秦の始皇帝陵で、クロムメッキを施した長剣が見つかった。
2万〜32万年前の洪積世時代の地層から、ミクロン単位(0・001ミリ)の金属片
が見つかった。
ふつうの金属片ではない。
コイルやネジ様のもの。
顕微鏡で拡大した写真も載っている。
さらに火星で、モノリスが見つかった。
高さは約130メートル、幅は約36メートル(NASA)、とか。

 表紙には、こうある。

『水晶ドクロ・古代CDロム・海底の神殿・火星のヒューマノイド・
古代インドの飛行艇・中国のピラミッド・三葉虫を踏みつぶしたサンダル・
謎の金属ヒヒイリカネ・宇宙人土偶』と。

 ただ気になるのは、どれも現代の地球人が知りえた範囲のものばかりであること。
つまり現在の人間の知識を超越したモノは、ないということ。
たとえば重力制御装置が見つかったとか、そういうことであれば、もっとおもしろい。
言い換えると、現代の人間の能力と知識を基準にしている。
またその範囲のものがほとんど。
考えてみれば、それはしかたないことかもしれない。
そこ不可思議なモノがあれば、人間はまず自分のもつ知識や経験で、それが何であるかを
判断しようとする。
ミクロン単位のネジやコイルにしてもそうだ。
どうして「ネジ」であり、「コイル」なのか?
ネジのような形をした微生物が、化石化したことだって、考えられる。
 
 それに「古代人にできるはずがない」という先入観はもたないほうがよい。
エジプトのピラミッドにしても、そうだ。
ナスカ平原の線画にしても、そうだ。
(あなた)という個人には不可能に思えても、数万人単位の人たちが集まれば
可能になることは、いくらでもある。

 ……とまあ、否定的なことばかりを書いていたのでは、おもしろくない。
ひょっとしたら、こうしたオーパーツには、宇宙人がからんでいるかもしれない。
そういう視点でオーパーツをながめていると、宇宙観がぐんと広がる。
(書き忘れたが、その本はオールカラーの写真つき。)
つまり地球に住む私たちが、かぎりなく小さく見えてくる。
日常的なささいなことが、かぎりなく小さく見えてくる。
それを信ずるかどうかは、別。
そういう意味では、こういう本は、おもしろい。
「ヘエ〜」と感心しながら読んでいるだけで、脳みそがガンガンと刺激される。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●墓参りという罪滅ぼし(?)

 こんな話を聞いた。
従兄弟の友人に、Mさんという女性がいる。
今年、65歳。
その女性が、これまた熱心な信者で、毎月、命日には墓参りを欠かさないという。
(毎月だぞ!)
5、6年前、両親が相次いで他界した。
たいへんな孝行娘ということになるが、話を聞くと、実際にはどうもその逆のようだ。
毎晩、ほとんど毎晩、両親の悪夢に悩まされているという。
「化けて出る」という言い方がある。
それに近いかもしれない。
枕元に立って、「ウラメシ〜〜」と。
Mさんは、それに耐え切れず、墓参りばかりしている(?)。

 何があったのか?
だれにもわからない。
Mさんも話さない。
両親との間に、確執以上の確執があったらしい。

 話は変わる。
これはMさんのことではない。
先日、こんなDVDを見た。

 2人の兄弟が、ひょんなことから殺人を請け負ってしまう。
そして2人で、1人の実業家を殺す。
借金に追われての犯行である。
が、ここから予想外の展開。

 弟のほうが、罪の意識に耐えかねて、「自首する」と言い出す。
それを止める兄。
言い争う兄と弟。
が、最後は、もみあっているうちに、事故で兄は死亡。
それを見て、弟は自殺。

 で、私もこう考える。
もし私が人を殺したら、その夜から、眠られなくなるだろうな、と。
霊とかそういうものをまったく信じない私だが、子どものころから幽霊は苦手。
いないとわかっていても、こわい。 
こわいものは、こわい。

 四谷怪談、牡丹灯籠、それに番町皿屋敷……。
そういった映画は、みな、観た。
猫化けの映画も観た。
こわいもの見たさ……というか、体をガタガタ震わせて観た。
そのときできた潜在意識が、脳の奥深くに、徹底的に刻み込まれている。

 が、なぜこわいか。
理性的に考えれば、幽霊など、いない。
いないのに、こわい。
悪夢に悩まされる。

ひとつには、夢というのは、理性とは別の世界で見る。
深い潜在意識の世界が浮かび上がってきて、それが夢となる。
「ウラメシ〜〜」と。

 そういう自分の弱さを知っているから、私には人を殺すなどということはできない。
そういう思考回路そのものがない。

 で、先に書いたMさんの話。
近所の人たちは、「孝行娘」と思っているらしい。
従兄弟もそう言った。
しかし……?
もうひとつおまけに、「?」。

 私が知るかぎり、墓参りを熱心にする人には、2つのタイプがある。
ひとつは、本当に信仰上の理由があって参るタイプ。
もうひとつは、罪滅ぼしのために参るタイプ。
(習慣的に、意味もなく参るタイプもあるが、それはここでは考えない。)
どちらであるにせよ、深い(思い)があって、それぞれの人は墓参りをする。

 では、私はどうか?

 実のところ、墓参りなるものは、ほとんどしたことがない。
若いときから、したことがない。
家に仏壇もあるが、ほとんど開いて手を合わせたことがない。
が、だからといって、生死を粗末に考えているということではない。
むしろ逆で、そういった儀式で、生死をあいまいにしてはいけないと考えている。
たとえば私の母は、60歳を過ぎるころから、仏壇の金具を磨いてばかりいた。
それが日課になっていた。

 しかし60歳といえば、今の私の年齢。
まだまだ前向きに生きなければならない。
生きて生きて、生き抜く。
そういう年齢である。
仏壇の金具を磨くのは、最期の最期でよい。

 同じように墓参りをしたり、仏壇を開いて手を合わせるのも、最期の最期でよい。
墓参りをしたからといって、また仏壇を開いて手を合わせたからといって、「ご先祖様」を
大切にしたことにはならない。
(しないからといって、粗末にしたことにもならない。)
私だって、やがてその「ご先祖様」になるわけだが、大切にしてくれるなら、「今」、
大切にしてほしい。
それをしないで、死んだあと、ひしゃくで頭から水をかけられ、「ムニャムニャ」と
言われても、私は喜ばない。

 ……とまあ、過激なことを書いてしまった。
ただ私のばあい、本当のところ、母が他界し、兄が他界し、実家を処分したことで、
ほっとしている。
(他界したことを喜んでいるのではない。誤解のないように!)
1日とて、気が晴れる日はなかった。
ときどきさみしく思うことはあるが、それ以上に、解放感があるのも、これまた事実。
「やっとあの家から逃れることができた」という解放感である。
私はその呪縛感に、60年近く、苦しんだ。
兄はもっと苦しんだ。

 が、私は一度とて、悪夢を見ていない。
実家を売却したその翌日の朝も、こんな夢を見た。

 私は兄と2人で腕を組みながら、坂下から実家へと歩いていた。
やがて実家の前に来たとき、私は兄にこう言った。
「やっと仇(かたき)を取ってやったよ」と。
そのとき兄を見ると、兄独特のジャスチャで体を丸めて、うれしそうに笑っていた。

 だから私はその従兄弟にこう言ってやった。

「そのMさんという女性というのは、よほど何かうしろめたいことをしたんだよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

【子どもの発達段階テスト】byはやし浩司


●子どもの心(発達段階テスト) [ カテゴリ未分類 ]    
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【子どもの心の発達・診断テスト】


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【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)


●社会適応性


 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。


(1)共感性


Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。


○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力


Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……


○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力


Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。


○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ


Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。


○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)


(5)楽観性


Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。


○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……


○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)


***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、HPの
ほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実施。)


***************************


●順に考えてみよう。


(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。


 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。


 その反対側に位置するのが、自己中心性である。


 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。


 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。


(2)自己認知力


 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。


 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。


反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。


(3)自己統制力


 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。


 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。


 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。


 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。


 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。


(4)粘り強さ


 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。


 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。


 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。


 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。


(1)楽観性


 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。


 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。


 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。


 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。


 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。


 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。


 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。


(2)柔軟性


 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。


 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。


 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。


 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。


 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。


 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。


 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。


 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


●終わりに……


 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、「私で
あって、私でない部分」によって、動かされている。


 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしていくか。それ
ができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。そうでない人を
そうでないという。


 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはいけな
い。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春
期 自我構造理論 中学生)


●おまけ


 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の本をプ
レゼントする予定。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自己管理能力 学習指導困難児 フィードバック)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●叱り方

★子どもに恐怖心を与えないこと。
そのためには、

子どもの視線の位置に体を落とす。(おとなの姿勢を低くする。)
大声でどならない。そのかわり、言うべきことを繰り返し、しつこく言う。
体をしっかりと抱きながら叱る。
視線をはずさない。にらむのはよい。
息をふきかけながら叱る。
体罰は与えるとしても、「お尻」と決める。
叱っても、子どもの脳に届くのは、数日後と思うこと。
他人の前では、決して、叱らない。(自尊心を守るため。)
興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。(叱ってもムダ。)

 

子どもを叱るときは、
@目線を子どもの高さにおく。
A子どもの体を、両手で固定する。
B子どもから視線をはずさない。
C繰り返し、言うべきことを言う。

@子どもが興奮したら、中止する。
A子どもを威圧して、恐怖心を与えてはいけない。
B体罰は、最小限に。できればやめる。
C子どもが逃げ場へ逃げたら、追いかけてはいけない。
D人の前、兄弟、家族がいるところでは、叱らない。
Eあとは、時間を待つ。
Fしばらくして、子どもが叱った内容を守ったら、
「ほら、できるわね」と、必ずほめてしあげる。

ほめ方

★人前でおおげさにほめること。

古代ローマの劇作家のシルスも、
「忠告は秘かに、賞賛は公(おおやけ)に」
と書いている。
頭をなでるなど、スキンシップを併用する。
繰り返しほめる。
ただしほめるのは、
努力とやさしさにとどめる。
顔、スタイルは、ほめないほうがよい。
「頭」については慎重に!

はやし浩司
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●叱り方・ほめ方

●叱り方・ほめ方は、家庭教育の要(かなめ)

 子どもを叱るときの、最大のコツは、恐怖心を与えないこと。「威圧で閉じる子どもの耳」と考
える。中に親に叱られながら、しおらしい様子をしている子どもがいるが、反省しているから、
そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果は、ない。叱ると
きは、次のことを守る。

@がいうところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)、A大声で怒鳴らない。そのかわ
り言うべきことは、繰り返し、しつこく言う。「子どもの脳は耳から遠い」と考える。聞いた説教
が、脳に届くには、時間がかかる。B相手が幼児のばあいは、幼児の視線にまで、おとなの体
を低くすること(威圧感を与えないため)。視線をはずさない(真剣であることを、子どもに伝え
るため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で、制止して、きちんとした言い方で話すこと。

にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お
尻」と決めておく。実際、約五〇%の親が、何らかの形で、子どもに体罰を与えている。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、「忠告は秘かに、賞賛は公(おおや
け)に」と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめること。そ
のとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特
に子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。顔やスタイルについては、ほめない
ほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にす
るようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」に
ついては、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子ども
がうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、「励まし」。すでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがん
ばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。ムダであるばかりか、かえって子どもか
らやる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の、脅しもタブー。

結果が悪くて、子どもが落ち込んでいるときはなおさら、そっと「あなたはよくがんばった」式の
前向きの理解を示してあげる。

 叱り方、ほめ方は、家庭教育の要であることはまちがいない。
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こんな怒り方は、がまんのし方は、
子どもを、ダメにする!
はやし浩司

「別冊PHP」(1997年・7月号より転載)

 子育ては、言わば、条件反射の集まりのようなものです。そのとき、その場で、いちい
ち考えて子どもを叱ったり、怒ったりする人はいません。たいていの人は、「頭の中では
わかっているのですが、その場になると、ついカーッとして……」と言います。

 ただ最近の傾向としては、小子化の流れの中で、子どもの機嫌をそこねまいと、叱る
べきときに叱らない親、怒るべきときに怒らない親がふえています。あるいは強く叱った
あとに、「さっきは、ごめんね。お母さんが悪かった」と、子どもに謝る親も珍しくありませ
ん。こういう親の心のスキ間をねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘化します。

 また子育てに不安を抱いていたり、子どもに何らかの不信感をもっている親は、どうし
ても子どもを必要以上に強く叱ったり、怒ったりします。「いったい、いつになったら、あな
たは私の言うことが聞けるの!」と、です。あとはこの悪循環の中で、子どもはますます
自分で考えたり判断したりすることができなくなり、親の叱り方はますますはげしくなると
いうわけです。

 が、何が悪いかといって、親の情緒不安ほど悪いものはありません。先週は子どもが
お茶をこぼしたときは何も言わなかった親が、今週は、子どもがお茶をこぼしたりする
と、子どもの顔が青ざめるほど子どもを怒鳴り散らすなど。こういう環境だと、子どもの性
格は内閉し、さらに悪い場合には、精神そのものが萎縮してしまいます。

 園や学校などでも、皆が大声で笑うようなときでも、皆と一緒に笑えず、口もとをゆが
めてクックッと笑うなど。なお悪いことに、このタイプの親は、静かで従順な子どもほど、
「いい子」と誤解して、ますます子どもを悪い方向に追いやってしまう傾向があります。

 叱り方、がまんのし方は、子育ての中でも要(かなめ)と言えるほど、重要であり、また
それだけに難しいことです。叱るときや、がまんするときは、「ここが教育」と心してあ
たるようにします。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どものほめ方、叱り方 しかり方)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司  

●バイオハザード・IV(FOUR)

++++++++++++++++++

今日は日曜日。
夜になって、ワイフが映画に行こうと言った。
で、観てきたのが、『バイオハザード・IV(Four)』。
星は3つの、★★★。
あるいは3マイナス。
ただのバイオレンス・アクション映画。
それを除いたら、何も残らない。
そんな映画。

『バイオハザード』は、(1)(2)(3)と
観てきた。
今回が完結編と思っていた。
しかし「次回へつづく……」で終わってしまった。
たぶん「バイオハザード・V(Five)」は、
もう観ない。
あきた!

++++++++++++++++++

●書斎大掃除

 今度の水曜日に、パソコンが修理されて戻ってくる。
メーカーの話によれば、マザーボードの交換をしたとか。
つまり中身はピカピカの新品。
そんな状態で戻ってくる。
そのこともあって、今日は、書斎の大掃除。
ワイフに手伝ってもらった。
おかげで書斎は、見違えるほど、きれいになった。
仕事もしやすくなった。

 映画から帰ってきて、2時間余り、書斎にこもった。

●ホームベーカリー

 ところで今、自分でパンを焼いてみたいと思っている。
何と言っても、焼きたてのパンは、おいしい。
そこで早速、電気店へ。
ズラリと、20種類ほど、機種が並んでいた。
今、ホームベーカリーというパン製造機が、人気商品のひとつになっている。
機種によっては、お米でもパンが作れるようになっている。

メーカーはいろいろある。
で、家に帰って調べてみると、いちばん人気は、パナソニック製ということがわかった
(価格COM・人気投票調べ)。
値段はいろいろある。
機能が多いのほど高価だが、食パン程度のものが焼ければそれでよい。
どれにしようか、現在、思案中!

(夜中になって、パナソニック製のホームベーカリーにした。
近くの大型店で、1万6500円のものが、ネットで1万3000円で買うことができた。)

●回転寿司戦争

 実名を出して恐縮だが、私の家から半径1キロ前後の中に、現在、3つも回転寿司屋
がある。
東から、「かっぱ寿司」、「くら寿司」、「すしおんど」。

 最初に、「すしおんど」ができた。
オープンして、6、7年になる。
が、今年、「くら寿司」がオープン。
つづいて最近、「かっぱ寿司」がオープン。

 3店舗も並べば、過当競争(?)と思っていたが、どの店も、いつも満員。
で、いちばん老舗の「すしおんど」は、一時は閑古鳥が鳴いた。
客もまばらだった。
が、それがどっこい!
ここへきて客数が、どんどんとふえ始めている。
理由は、すぐわかった。

 3貫一皿の寿司が、品目数で、ふえた。
シャリ(米)の量が、見た目にもよくわかるほど、ふえた。
つまり寿司が大きくなった。
実感として、1・3倍〜1・5倍になったのでは?
さらに寿司ネタも倍近く、大きくなった。

 一方、一皿90円で勝負する、かっぱ寿司。
自然派で勝負する、くら寿司。
くら寿司のわさびは、天然わさび。

 個人的には、私はかっぱ寿司の寿司が好き。
口に合う。
くら寿司の寿司は、ややしょっぱいかな(?)。
が、回数的には、このところ、すしおんどに行くことが多い。
(他の2店舗は、いつも満員ということもあるが……。)

 つまり今、ものすごい競争が、私の近辺で起きている!
消費者の私たちとしては、ありがたいことだが、しかしこんなメチャメチャな競争が
いつまでもつづくはずがない。
この先、どうなるのか?
いつも心のどこかでそんな心配をしながら、(私が心配したところで、どうにもならないが)、
口の中に寿司を入れている。

 で、こういう店を利用するたびに、(何も寿司屋にかぎらないが)、個人の小売店の
ことが気になる。
おとといには、やはり近くに巨大な靴屋ができた。
その向こうには、やはり巨大なメガネ屋もある。
それ以前からあった旧街道沿いの靴屋やメガネ屋は、とっくの昔に姿を消した。
今はまだ何とか生きながらえている個人の自転車屋だが、つぶれるのも時間の問題。
すでにA店など、全国規模の自転車店が、この不況下、どんどんと店舗数をふやしている。
1店舗で、数100台規模の自転車を並べている。
個人の店には、勝ち目はない。
その悲しさというか、つらさを、私はいやというほど、経験している。

 私の家は、その自転車屋だった。
中学生のとき近くにショッピングセンターができ、そこでも自転車を売るようになった。
とたん、客足は、パッタリと止まってしまった。
父は毎日、火鉢に身を丸くして、来るはずもない客を黙ったまま待っていた。
弱肉強食とはいうが、その苛酷さは、経験したものでないと、わからない。

 がんばれ、自転車屋!
負けるな、自転車屋!

●反撃

 もっとも個人の自転車屋にも、問題がないわけではない。
15年近くも前のことだが、どこの自転車屋にも、こんな張り紙がしてあった(浜松市内)。
「よそで買った自転車は、修理しません」と。

 そのころすでにショッピングセンターでは、自転車を売り始めていた。
しかし問題は、修理。
自転車を修理するには、それなりの技術が必要。
消防法の適応もあり、油で汚れた店では、修理が許可されない。
それで苦肉の策。
個人の自転車屋は、先のような張り紙を張って、ショッピングセンターに対抗した。

 しかしそこは大型店。
規模がちがう。
やがてショッピングセンターでも技術者を置き、消防法に抵触しないような清潔な店
づくりを始めた。
とたん、個人の自転車屋は再び、窮地に立たされた。
と、同時に、今度は、こんな張り紙をするようになった。

「他店で買った自転車でも、修理します」と。

●イメージダウン

 「よそで買った自転車は、修理しません」と書くのも、「他店で買った自転車でも、
修理します」と書くのも、気持ちは理解できるが、自転車店の品格を落とすだけ。
それだけ自転車店が危機感をもったというふうにも解釈できるが、かえって加速度的に
客離れを誘発してしまった。

 客の立場で書くなら、そうした張り紙で、敷居が高くなってしまった。
気楽に店へ入れなくなってしまった。
こと自転車店について言うなら、気楽に入れること。
それが客を招く第一条件ということになる。

店へ入ったとたん、店員にぴったりとマークされるようでは、落ち着いて自転車も
選べない。
それに率直に言えば、いくらサービスを売ると言っても、大型店より2〜3割も値段が
違うようでは、勝ち目はない。

 さらに最近では、ネットでも自転車が買えるになった。
それがまた、びっくりするほど、安い!
となると、「修理はどうするか?」という問題もあるが、1台の自転車に乗る平均年数は、
長くて4〜5年前後ということがわかっている。
平均して、3〜4年。
そのあたりで、みな新しい自転車に乗り換えている。
つまり修理を繰り返して自転車に乗る人は、少なくない。
パンクにしても、今では、ほとんどパンクしない。

 わかりやすく言えば、自転車が「財産」というよりは、「消耗品」になってきた。
客の自転車を見る目そのものが、変わってきた。
もっと言えば、立派な店舗に、自転車を飾って売る時代は終わった。
そのあたりの切り替えがうまくできないと、個人の自転車店には、明日はない。

 ちなみに、ごく最近、高級住宅地の大通りに面したところにあった自転車店が店を
閉めた。
間口は、角地ということで、ぐるりと10間はあっただろうか。
繁盛しているときは、二階の陳列室にも、ぎっしりと自転車が並んでいた。
一時は高級自転車店をめざしたようだが、どうやらそれが裏目に出たらしい。
私も何台か自転車を買ったことがあったので、店が閉まったと聞いたときには、
少なからず、ショックを受けた。
私の実家の自転車店と比べたら、御殿のような自転車店だった。
その1週間前まで、店のおやじは景気のよい大声で、あれこれと私に話しかけて
くれていたのだが……。

 話を戻すが、小売店の第一は、「黙って静かに仕事をすること」。
「お客様は神様」。
それを忘れては、小売店は成り立たない。
「よそで買った自転車は、修理しません」と書いたとき、勝負はすでについていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

(小沢一郎、自転車店一考)2010−9−13

●Education on the front line at home

オーストラリア人のデニス君に、相談した。
「ぼくのHPのタイトルは、『最前線の子育て論byはやし浩司』だが、英語では
どう書けばいいか」と。

 現在、私は、『Home Education for Mothers & Fathers in Front-Line』と書いて
いる。
二男の嫁のデニースが、いろいろ知恵を貸してくれた。

それに対して、デニス君は、『Education on the front line at home』がいいのでは
ないかと提案してくれた。
が、これではどこか直訳的。
また前置詞を、inとするか、onとするかで、迷った。
デニス君も迷った。
結果、これからは、
『Home Education on the Front-Line』とすることに決定した。
『by Hiroshi Hayashi』を付け加えるときは、
『Home Education on the Front-Line by Hiroshi Hayashi』とする。

これで決まり!

 なおBLOGだけで、毎日数千件のアクセスがある。
内訳を見ると、日本国内からのアクセスが約50%。
外国からのアクセスが約50%。
まちがった英語は使えない。


●小沢一郎(Ichiro Ozawa)

 食事をしながらデニス君と、政治の話をする。
その中で、デニス君がこう言った。
「オザワ・イチローは、醜い顔をしている」と。

 デニス君は、小沢一郎がよくしてみせる、あの傲慢そうな顔をまねしてみせた。
ふんぞり返ってニヤつく、あの顔である。
「今度、ジュリアがオーストラリアの首相になったけど、ごくふつうの女性だよ」とも。

 自分では大物ぶっているつもりなのかもしれない。
収賄問題を問いかけられても、ニヤニヤと笑っている。
しかしどこかへん?
チグハグ?
腐ったような醜悪さだけが、プンプンとにおう。
民主党支持者も、少しは外国人に与える印象も考えて、党首選びをしたらよい。
小沢一郎は、そういう意味では、最悪。
ウソだと思うなら、一度、近くにいる外国人に、彼の印象をたずねてみたらよい。


●自転車店業界

 昨日、自転車店業界について書いた。
それに対して、どこかの自転車店の店主と思うが、こんなコメントを書いてくれた。
「大型店の自転車は、中国製で品質が悪い」「輸入自転車は、100%完成品で送って
くるが、調整しないと乗れない」と。

 しかしそれは一昔(=10年)も前の話。
それ以後は、日本のメーカーが現地で指導しながら、日本向けの自転車を製造している。
また自転車の調整(ブレーキのきき具合や、車輪のゆがみなど)は、当然のこと。
それをしないで売っている店は、ショッピングセンターでもない。

 また個人の自転車店へ行くと、どこの店主も、中国製自転車の悪口を並べる。
言うなればグチのようなもの。
グチを聞かされるほうは、たまったものではない。
それに今、スポークやチューブに至るまで、中国製でないものをさがすほうが、
むずかしい。
つまりこういう発想では、個人の自転車店に勝ち目はない。
では、どうしたらよいか?

 ひとつには、問屋からおろされてきた自転車をそのまま並べるのではなく、
2〜3台は、オリジナルで組み立てた自転車を並べてみる。
店先へ置いておくだけでも、客との会話がはずむ。

「このペダルは、私のマウンテンシューズに合わせて、特注で作らせたものです」
「このサドルのうしろの反射板は、うちで自作したものです」
「この自転車は、クラウン(TOYOTA車)のパールホワイトと同じ色です。
近くの自動車塗装屋さんに塗装してもらいました」とかなど。
40年前の自転車を、ピカピカに生き返らせ、並べておくのもよい。
そういうプロ意識が、客を安心させる。
わかりやすく言えば、「この店主は自転車が好きなんだな」と客に思わせる。
(まちがっても、「金儲けが好きなんだな」と客に思わせてはいけない。)
それが客に、安心感を与える。

 つまり知恵を使う。
「自転車が好き」という気持ちを、外に向かってアピールする。
やりようによっては、方法はいくらでもある。
ひとつのアイデアとして、書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●日本人の危機意識(日本人の繁栄ボケ)

++++++++++++++++

日本は中国に抜かれて、世界第三位の
経済国になった(GDP)。
しかし国民1人当たりの所得では、
すでにシンガポールに抜かれている。
2020年ごろには、韓国にも抜かれる
だろうと言われている。

恐ろしいのは、その予想時期が、徐々に
早まっていること。
日本が中国に抜かれるのは、2015年
ごろと言われていた。
ほんの1、2年前のことである。
それが今年、つまり2010年に抜かれた。

のんきなエッセイストたちは、「生活の
中身が大切」などと言っている。
中国に抜かれても、韓国に抜かれても、
「大切なのは、生活の質」と。

こういうことばかり言っているから、日本は
どんどんと抜かれていく。
抜かれていくだけではない。
やがて食料の輸入もままならなくなるだろう。

20〜30年ほど前には、「平和ボケ」という言葉を
よく耳にした。
が、今は、「繁栄ボケ」。
「経済ボケ」でもよい。

日本の学校では、いったい、何を教えているのか?
社会科の授業で、何を教えているのか?
日本人がこの「現代」という世界で生き抜くための、
その知識と経験を教えるのが社会科の授業ではないのか。
どうすればこの先、日本が生き延びていくことができるか、
それを教えるのが社会科の授業ではないのか。

つまり日本の教育では、この部分だけが、スッポリと
抜け落ちてしまっている。
つまり危機意識が、まったくない。
愚にもつかないような「知識」だけを、一生懸命、
子どもの頭の中に、詰め込んでいる!

その結果が、今。
今年は去年以上に、就職難という。
学生たちが就職先を求めて、右往左往している。
が、考えてみれば、こんなバカげた世界は、日本を
おいて、ほかにない。

就職先がなかったら、自分で仕事を作ればよい。
それこそリヤカーでも引いて、自分で稼げばよい。
私は、そうしたぞ!
リヤカーを引いて、ある画家の絵を売り歩いたぞ!
つまりそういうたくましさが、ない。
仕事はもらうものと思っている。
与えられるものと思っている。

加えて、「外国へ行きたくない」という若者が多いのには、
驚いた。
日本人全体が、ものの考え方が内向きになってしまった。
こういうときだからこそ、仕事を求めて、ブラジルや
インド、シンガポールへ飛び出して行けばよい。
中国でも韓国でもよい。

飽食とぜいたく。
それに少子化。
日本の若者たちが、キバを抜かれてしまった。
今では天下国家を論ずる若者は、ほとんどいない。
大学生でもいない。

その理由はといえば、すべて教育にある。
以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

+++++++++++++++++

今からちょうど10年前、2000年ごろに
書いた原稿です。

この中で、1人の女子学生が、つぎのように
述べていることに注目してほしい。
人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。
私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」
(中日新聞投稿欄)と。

+++++++++++++++++

●日本の将来を教育に見るとき 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強で苦
労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさがすヒマも
ない。(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。また
別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは言われるまま、ま
じめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。人間は甘やかすと、ここまで言うよ
うになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことがある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。それはちょうど四〇年前
の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。あの国では誰もがギラギラとした脂汗
を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。若者とて例外ではない。タクシーの運
転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。そしてそれで白タク営業をする。料金はその場
で客と交渉して決める。そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、
それでお金をためる。さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼
ぐ。最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれてい
た。子どもたちとて例外ではない。私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行
った。そこでその磁石で金属片を集める。そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。それが結構、小
づかい稼ぎになった。父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。が、今の日本にはそれは
ない。「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私のところへやってきて、私と
こんな会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、私「君は何ができる?」、学「翻訳ぐらいなら、何とか」、私
「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか書いてくれば、
仕事が回ってくるかもしれない」、学「カッコ悪いからいやだ」、私「なぜカッコ悪い?」、学「恥ず
かしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。「恥ずかしい」と言う。結局その
学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることになった。もちろ
んその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。言いかえると、今の日本の若者
たちを見れば、日本の未来がわかる。で、その未来。最近の経済指標を見るまでもない。結論
から先に言えば、お先まっ暗。このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国
になってしまう。いや、おおかたの経済学者は、二〇一五年前後には、日本は中国の経済圏
にのみ込まれてしまうだろうと予想している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。たとえばアメリカでは、今では日本
の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NBC)。どこの大学でも日本語を学ぶ学
生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハーバード大学)。私たちは飽食とぜ
いたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。そのツケを払うのは、結局は子どもた
ち自身ということになるが、これもしかたのないことなのか。私たちが子どものために、よかれ
と思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとしている。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「二一世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。日韓米仏四カ国の中高生を対象に
した調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。現在
の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで生きること」。
学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で
最低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが二〇〇〇年七月、東京、ソウル、ニュー
ヨーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。「二一世紀は希望
に満ちた社会になる」と答えたのは、米国で八五・七%、韓仏でも六割以上に達したが、日本
は三三・八%と際立って低かった。自分への満足度では、米国では九割近くが「満足」と答えた
が、日本は二三・一%。学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低
だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは
弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽し
む」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三
二・四%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が二〇・二%だった
のに対し、米国は七八・八%。「国のために貢献したい」でも、肯定は日本四〇・一%、米国七
六・四%と米国の方が高かった。ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利
益よりわが国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なこ
とも浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。将来の夢や希
望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。一九八〇年代からの傾向で、豊
かになったことに伴ったのだろう」と分析している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●10年前

 10年前(2000年ごろ)に私が書いた原稿を、どうか読み直してみてほしい。
そしてそれから10年。
何が変わったか?
日本が、その結果、どうなったか?
そういう視点で、もう一度、読み直してみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本人の危機意識 社会の責任 繁栄ボケ 経済ボケ 危機感)
2010年9月13日

Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●9月14日(火曜日)(日本振興銀行の破綻、A・チャン疑惑)

●日本振興銀行の経営破たん

 9月10日、日本振興銀行が経営破たんした。
それはそれとして、その直前、日本振興銀行の社長の、江上剛(えがみ・ごう)氏が、
雑誌「VOICE」10月号に、寄稿している。
経営破たんはその段階で、だれの目にも明らかだった。
創業した木村剛氏は、検査忌避容疑で逮捕。
社長もあわせて逮捕。
そこでそれまで社外取締役をしていた江上剛氏が、「あえて火中の栗を拾う」と、社長に
就任。
「11万人の預金者、3万人の債務者、6000億円以上の預金、4000億円以上の
貸出金、500人以上の従業員、融資先も入れると数万人もの家族を、漂流させるわけ
にはいかない」(同雑誌)と。

かっこうよい言葉が並んだが、結局破綻。
内部では、猛烈な「とばし」がなされていたという。
つまり破綻を予想して、旧経営陣はやりたい放題。
で、私は江上剛氏がどんなことを書いているか、興味をもった。

●「火中のクリを拾う男」

 内容はありきたりの意味のないものだった。

(1)本来ならみな逃げるはずの、社外取締役は、だれひとり逃げることもなく、経営
再建にあたっている。
(2)がんばっているので、ぜひ応援してほしい。
(3)私は週3回、マラソンクラブに参加している。この困難を乗り切ったとき、それを
支えてくれたのは、マラソンクラブだったと言うことができる、と。

 が、結果として、「数万人もの家族が、漂流することになってしまった」。

●とばし(飛ばし)

 簡単に言えば簿外債務を、「とばし」という。
しかし実際には、もっと複雑。
不良債権を少なく見せかけるために、たとえば融資の担保に取っていた不動産などを、
実体のないペーパーカンパニーに買い取らせたりする。
が、それではすぐにバレてしまう。

 そこで最近では、とばしがさらに巧妙化している。
ペーパーカンパニーを、取り引き先の別会社に作らせたり、融資する現金を、いくつかの
銀行を経由させたりする。
さらにその不動産の管理を、別会社にさせる……。
つまり銀行本体は手を汚さず、クリーンさ(?)を保つ。
が、実態はもっとあくどい。

 経営破たんをあらかじめ予定し、どんどんととばしを繰り返す。
最終的には、不良債権として処理して、資金を自分のふところに入れる。
「自分」というのは、旧経営陣ということになる。
日本振興銀行がそれをしていたかどうかは、これからの捜査で明らかになるだろう。
しかし新聞報道によれば、「とばし」という文字が、あちこちに見える。
かなり巧妙なとばしをしていたようだ。

 で、江上剛氏だが、社外取締役として、それを知らなかったというのは、おかしい。
「社外取締役は、自分を含めて、1人も逃げなかった」ことを、「すばらしいこと」と
自画自賛している。
が、それは、どうか?
「VOICE」10月号を読んでも、危機感がまったく感じられない。
ないばかりか、ネットで配信されている動画を見ても、まるで他人事。
今回の経営破たん騒動が、何か、やらせのような疑問をもつのは、私だけではないはず。
ひょっとしたら、旧そごうの倒産劇のときのように、他銀行の不良債権をつけかえた
可能性もある。

この世界は、底なしに深く、その下では人間の欲望がドロドロに渦を巻いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●A・チャン疑惑

 『週刊新潮・今週号』を立ち読みした。
『VOICE』を買ったので、週刊新潮は立ち読みですました(ごめん!)。

 その中でA・チャンの霊感商法疑惑について、当の本人、つまりA・
チャンは、「私にはまったく関係ない」という論陣を張っている。
周辺を取り囲むガードたちが、「私たちが勝手にやりました」というようなことを
述べている。
「教育学博士」という立場上、そういう論陣を張らざるをえない気持ちは、ヨ〜ク
わかる。
しかしこの手法は、悪徳政治家のそれと同じ。
「秘書が勝手にやったことです。私には関係ありません」と。
ズル賢い人間は、どこまでもズル賢い。
そういう意味では、一貫性がある。
(A・チャンがそうと書いているのではない。誤解のないように!)
しかしよくよく考えてみると、納得できないことは山のようにある。

(1)日本ユニセフと、国連の「ユニセフ」との関係
これら2つの組織は、「たがいに密接に連絡を取り合っています」(日本ユニセフ)
というが、まったくの別組織。
日本ユニセフのほうは財団法人格を取得しているが、わかりやすく言えば民間組織。
「ユニセフ」という名前を巧みに利用して、善意の人たちから、金を集めている(?)。
そんな疑惑も浮上してきた。

(2)連続性と一貫性
難民救済運動というのなら、そこに至るまでの連続性があるはず。
わかりやすく言えば、「積み重ね」。
たとえば若いときから、孤児の世話をしてきたとか、ホームレスの人たちの
ために炊き出しをしてきたとか。
さらにそこまで高邁な精神をもっている人なら、清貧を貫くとか、財産を
投げ出しているとか、そういった一貫性もあるはず。
が、そういったものが、A・チャンには、まるでない(?)。
何かしら私たち一般庶民だけが、もてあそばされている感じがする。
ある週刊誌は、「親善大使くらいは、辞退すべき」と書いていた。

(3)教育学博士
A・チャンは、小学生のころ香港から日本へやってきたという(伝聞)。
その直後から、歌手として活躍。
どこかの学校に籍を置いていたかもしれないが、当時のあの人気度からして、
とても勉強どころではなかったはず。

ただ英語だけはできただろうと思う。
当時の香港では、中学以上は、授業はすべて英語でなされていた。
が、そのA・チャンが、やがて上智大学の国際部を卒業する。
そしてそのあとしばらく日本から離れたあと、今度は「教育学博士」として帰国。
以後、ワンステージ、100〜160万円の講演活動をつづけている(同誌)。

日本では各大学の博士課程に籍を置いて、博士号を取得することになっている。
欧米の大学では、論文審査だけで、博士号を発行することは珍しくない。
私も、アメリカの各大学に直接問い合わせてみたが、A・チャンの経歴
に詐称はない。
ただ博士号取得の原因となった論文については、私の立場では入手できなかった。
「日米の子育て比較」に関する論文だったと記憶している。
私にとっても興味ある内容なので、一度精読してみたい。

(4)霊感商法(+霊芝販売)
今回問題になっているのが、霊感商法。
加えて霊芝販売(?)(記憶によるものなので、不正確)。
週刊新潮によれば、HP上の販売は停止されているということだが、薬局では、
いまだに自由に購入できるとか。

つまりここでA・チャンの一貫性が崩れる。
「教育学博士」という肩書と、「霊感商法」、さらには「霊芝販売」(?)。
チグハグ?
が、これではまずい。
そこでA・チャンは「私にはまったく関係ない」という論陣を張った(?)。
しかし団体名に「神農」という名前を使っているところからみても、「まったく関係ない」と果たし
て言えるのか?
神農というのは、中国では薬草の神様。
別名を「炎帝」ともいう。
その炎帝を倒して位についたのが、黄帝(こうてい)と言われている(司馬遷)。

 おかしいものは、おかしい。

●一貫性と連続性(補記)

 一貫性と連続性については、たびたび書いてきた。
つまり人間というのは、器用なようで、そうでない。
とくに脳みそは、そうだ。
50歳を過ぎればなおさらで、ひとつの場面で善人になり、べつの場面で悪人になると
いうことができなくなる。
それを支える気力そのものが、弱くなる。
つまり個人が本来的にもつ「地」が、そのまま表に出てくる。
が、それでも仮面(ペルソナ)をかぶりつづける人はいるにはいる。
しかしそういう人は、それこそ人間性そのものが、バラバラになってしまう。
本人も、それに耐えられなくなる。

 私も50歳前後になったとき、それに気づいた。
いくら表では善人ぶっていても、ふと気を許したところで「地」が出てきてしまう。
私はもともと素性があまりよくない。
そこで私は2つの方法を考えた。

(1)ありのままをさらけ出す。
(2)ウソをつかない。ルールを守る。

 この2つを、ひたすら、守りつづけた。
今も守っている。
それで「地」が修正できるとは思わないが、だからといって放置しておくわけにもいか
ない。

 で、再び、A・チャン。
彼女には個人的な敵意や反感はまったくない。
ただ偽善者だけは、許せない。
ぜったいに許せない。
悪人以上の悪人。
善意の人たちから金を集めて、貧しい人たちをダシにして生きる。
それは許せない。

A・チャンがそうであると書いているのではない。
ただその疑いは、ある。
だから、ここは注視あるのみ!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep. 2010+++++++++はやし浩司

●中国の二進数(古代中国の大ロマン)

+++++++++++++++++

今、端緒をつかんだばかり。
今までの不勉強が悔やまれる。
まだ不確実な段階だが、5000年以上も
さかのぼる太古の昔、中国に、何と
二進数があったらしい。
(こんなことも知らなかったのか、と
笑われそうだが……。)
もしこれが事実とするなら、私は、今までの
古代観を根底から、作りなおさなければ
ならない。

+++++++++++++++++

●二進数

 二進数では、(0)と(1)だけの
数字を使って数を表す。

だからたとえば、0、1、2、3、4、5、6……は、二進数では、
0、1、10、11、100、101、110……となる。
コンピューター言語の基本にもなっている。

 それを古代中国では、つぎのように表す。
ワード文書を使って表記するので、たいへんぎこちない書き方になるが、許してほしい。

+++++++++++++
0……  
     
     
+++++++++++++
1……  
     
     
+++++++++++++
2……
      
     
+++++++++++++
3……  
     
     
+++++++++++++
4……
     

+++++++++++++
5……
     
     
+++++++++++++
6……     
     
     
+++++++++++++

 つまり横線2本は、(0)を表す。
横線1本は、(1)を表す。
これを冒頭に書いた、二進数と見比べてみてほしい。
念のため、数字をその横に並べて、もう一度、ここに書いてみる。

+++++++++++++
0……  
     
     
000
+++++++++++++
1……  
     
     
001
+++++++++++++
2……
      
     
010
+++++++++++++
3……  
     
     
011
+++++++++++++
4……
     

100
+++++++++++++
5……
     
     
101
+++++++++++++
6……     
     
     
110
+++++++++++++

十進数の「5」は、二進数の「101」になるが、それを横にすれば、
ここに書いたようになる。
こうして6段の線を使えば、何と、0から63までの64個の数を、二進数で
表すことができる。
コンピューターの世界でいう、まさに64ビット!

●易(えき)

 漢字には(0)の概念がない。
たとえば、「120」は、「百二十」と表記する。
そういう中国で、どうしてこうした「0」の概念が生まれたか。
しかも二進数。
それだけでも不思議だが、それを知ったのは、つまり中国の二進数を知ったのは、
「易(えき)」。
昔から日本では、『当たるも八卦、当たらぬも八卦』という。
あの「易」。
「易占い」の「易」。

 EX-Word(シャープ)には、つぎのようにある。

「周易で、陰陽の(こう)を組み合わせた8つの形象。
自然界、人事界百般の現象を象徴する」(広辞苑)と。

 さらにマイペディアには、つぎのようにある。

「(はっか)とも読む。易(えき)による占いの基本となる図形。
乾(けん)、坤(こん)、震(しん)、巽(そん)、(かん・土へんに「欠」)、離、
(ごん)、兌(だ)の8種をいう。
これを組み合わせたのが64卦。
この形を得るために、算木を用意する。
八卦は伏義(ふくぎ)の創案と伝えられる。
易占の基本として、易占と同義にも用いられる」と。

 その易の起源については、「易経」の注釈には、つぎのようにある。

「……伏義が天下を支配していたとき、天と見、地を見、鳥獣を見、身近を見、
こうしてその中から伏義は八卦を考案した……」と。

●64ビット

 ここでひとつの疑問が生まれる。
「易」は、「占い」なのかという疑問である。
くどいようだが、もう一度、2つの八卦、つまり8x8=64(64卦)を、
今度は、点と線で表してみる。
(左上が、十進数で「0」、3段目、右端が、「14」。)

・・     ーー     ・・      ーー      ・・
・・     ・・     ーー      ーー      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ーー
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・



ーー     ・・     ーー      ・・      ーー
・・     ーー     ーー      ・・      ・・
ーー     ーー     ーー      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ーー      ーー
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・



・・     ーー     ・・      ーー      ・・
ーー     ーー     ・・      ・・      ーー
・・     ・・     ーー      ーー      ーー
ーー     ーー     ーー      ーー      ーー
・・     ・・     ・・      ・・      ・・
・・     ・・     ・・      ・・      ・・



以下、こうして二進数で表現すると、
「63」は、

ーー
ーー
ーー
ーー
ーー
ーー
となる。

 コンピューターの64ビット言語と同じ!
プラス、驚き!

●黄帝内経(こうていだいけい)

 もっともこんなことは、八卦の世界では常識。
もちろん私が発見したことではない。
そこでさらに調べてみると、この64卦は、「4つの塩基から3つを選び出した
DNA言語の単語と一致する」(「ニビルの謎」北周一郎・学研)とか。

 ますますおもしろくなってきた。
私も若いこと、黄帝内経(こうていだいけい)という書物にたいへん興味をもった。
3冊も本を書いた。
うち1冊(「東洋医学・基礎編」学研)は、今でも全国の医学部や鍼灸学校で教科書
として使ってもらっている。

 あの黄帝内経は、歴史の中で書き換えられるうち、いつの間にか「医学書」として
の体裁を整えてしまった。
が、私はもともとは、天気の運行に関する科学書ではなかったかと考えている。
わかりやすく言えば、天文学に関する書物。
その片鱗は、黄帝内経(素問)の随所に残っている。
『五運行大論篇』もそのひとつ。

 それについてはたびたび書いてきたので、興味のある人は、そちらを読んでみて
ほしい。
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page055.html

●大ロマン

 過去の歴史の中には、何やらとてつもない謎が隠されているらしい。
つまり(現在)は(過去)の上に積み重ねられてできたのではなく、遠い過去に、
すでに(現代)以上の(現代)があったことになる。
ロマンといっても、これ以上のロマンがあるだろうか。

 デニケンやシッチンの説に従えば、遠い昔、人類をはるかに超越した知的生物体
が、この地球にやってきた。
そして人類を見つけ、その中に自分たちにDNAを組み込んだ!
それをのちのちの人間に教え伝えるために、「易」を教えた。

……という説は、一見、荒唐無稽に思えるが、しかしありえない話ではない。
ないことは、この「易」をみてもわかる。

 この問題については、もう少し情報を集め、理解を深めてから書いてみたい。
2010/09/15

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 八卦 易 伏義 古代中国の二進数 2進数 64卦)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●欲望vs理性

++++++++++++++++++++

昨夜遅く、近くにオープンした靴屋へ行ってきた。
開店初日には、何百台という車が並んだ。
西日本第一の規模を誇るという。
超大型店。
……それから1週間。
やっと楽に入店できるようになった。

で、オープンセールということもあった。
ふつうなら8000〜1万円もするような靴が、
(本当のところ、私には靴の値段はわからないが)、
2500〜3000円で売られていた。

私が1足、ワイフが1足、買った。
2足で、4800円!

++++++++++++++++++++

●生きる原動力

 生きているだけでも、すばらしいこと。
ものが見える、ものが聞こえる、話ができる……。
そういう視点に立てば、あらゆる問題が解決する。

 が、ただ生きているだけでは、人間は満足できない。
視床下部から脳全体に、常にシグナルが送られる。
そのシグナルに応じて、もろもろのホルモンが分泌される。
そのひとつにドーパミンがある。
人間の快楽と欲望を司る脳内ホルモンである。
それが人間が生きる原動力となる。
それをフロイトは「性的エネルギー」と呼んだ。
ユングは「生的エネルギー」と呼んだ。
(これは私の勝手な解釈によるもの。)

●理性vs欲望

 しかし脳内ホルモンの命令するままに行動していたら、たいへんなことになる。
人間のもつ欲望には、際限がない。
しかもドロドロと薄汚い。
そこでそれをコントロールするのが、理性、つまり前頭連合野ということになる。

 もし善と悪を大脳生理学的に考えるなら、前頭連合野が司る理性が、善、
ドーパミンに支配される欲望の世界が、悪ということになる。
が、前頭連合野の力には限界がある。
欲望の力のほうがはるかに強力。
パワーフル。
大学の教授だって、手鏡で女性のスカートの下をのぞく。
それもそのはず。
欲望は、「生きる力」そのものと直結している。
食欲にしても性欲にしても、また物欲、権力欲にしても、「生きる力」を土台にして
生まれる。
善と悪は、そういう点でも平等ではない。

●メカニズム

 では、理性に勝ち目はないかというと、そうとも言い切れない。
ここに書いたようなメカニズム、(あくまでも私が考えたメカニズムだが)、それが
わかるだけでも、そこに「敵」が見えてくる。
まずいのは、欲望に操られるまま、操られていると気がつかないで、行動すること。
欲望の奴隷になること。

 が、こうしたメカニズムがわかってくると、自分自身を一歩退いたところから、
客観的に見つめることができるようになる。
たとえば食欲にしても、「食べなければ損なのか。食べたら損(そこ)ねるのか」と。
自分で自分の食欲をコントロールすることができるようになる。
食べ放題の店とか、ホテルのバイキング料理とかへ行くと、そういう経験をよくする。
そういうところで、欲望の命令するまま食物を口に入れていたら、あっという間に、
体をこわす。

 ……といっても、そんなことでも簡単なことではない。
私などどこかの旅館やホテルで一泊するたびに、2〜3キロも体重がふえてしまう。
で、そのあとあわててダイエット。
その繰り返し。

●靴屋で……

 同じような現象を、昨夜、靴屋でも経験した。
安い。
確かに安い。
値段を見ているうちに、「買わなければ損」という欲望が、猛烈にわいてきた。
実際、近くを見ると買い物かごに、3〜6足も靴を入れて歩いている人がいた。
子連れだったが、10足近く、まとめて買っている夫婦もいた。

 が、それにブレーキをかけたのは、ほかならぬ理性だった。
(持ちあわせが少なかったこともあるが……。ハハハ。)
「靴などというものは、1足を大切にはく。それがはけなくなったら、また買う」と。
たとえば6足を3年ではくとすると、1年に2足となる。
しかし1足を1年はけば、結局は、半額ということになる。
それがわかったとき、「オール20%引き」という文字が、かなり色あせて見えた。

 つまりこうして自分の欲望にそのつどブレーキをかけていく。
そういう習慣を身につける。
それが積み重なって、理性の力で欲望をコントロールすることができるようになる。
平たくいえば、欲望をコントロールできるかできないかは、能力の問題ではなく、
習慣の問題ということ。
習慣の中で、理性の力を養っていく。

 ……今朝は、そんなことを発見した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 欲望 理性 生的エネルギー 欲望をコントロール)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●9月16日(木曜日)

●20世紀フランス絵画の美」展

昨日(9月15日)は、午前中は美術館で「20世紀フランス絵画の美」という
展覧会を見てきた。
星は文句なしの5つ。
圧倒された。
すばらしかった。
展覧会を通して、なぜピカソがピカソなのか、はじめて理解できた。
シャガール、ビュッフェ、ミロ……など、巨匠と言われる画家たちの絵画と
比較してみると、それがよくわかる。(……わかった。)
徹底した技巧の放棄……それがピカソ。
ほかの画家たちは、(あくまでもピカソとの比較においてだが)、どこか技巧に
こだわっている。
媚を売っている。
が、ピカソにはそれはない。
ありのままを、そのままに描いている。
見る人を意識しないで描いている。
そのちがいが、ピカソということになる。
今回、それがわかっただけでも大収穫だった。

(補記)
幼児はときとして、ハッと驚くようなすばらしい絵を描く。
幼児もまた、見る人を意識していない。
媚を売らない。
それがそういうすばらしい絵につながる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●WTT演奏会

 夜は、WTT演奏会に行ってきた。
(演奏会というよりは、音楽会?)
U国(アフリカ)の子どもたちの「歌と踊りの演奏会」ということだった。
チケットは、前売り券で1500円。
当日券で2000円。
浜松のC会館(定員1200人)は、ほぼ満席だった。
(これだけで、実収入、200万円前後?)

 が、コンサートとしては、かなり期待はずれ。
楽器は太鼓だけ。
あとはマラカスとか小楽器。
その程度。
あらかじめ録音された伴奏と斉唱に合わせて、舞台上の子どもたちが歌を歌いながら
踊った。
それだけ。

ゴスペル(黒人霊歌・福音歌)のコンサートということは、わかっていた。
そのため、最初から最後まで、「神よ……」「神よ……」の一色。
キリスト教の信者の人たちには、それでもよかったのかもしれない。
が、私たちのように、一歩はずれてその外にいる者たちにとっては、耳障りでしか
なかった。
おまけに運悪く(?)、どこかの熱心な信者らしき人にはさまれてしまった。
その人たちは始終、涙をこぼしながら、狂ったように大きな手拍子を加えていた。
それが耐えられないほど、うるさかった。

 気になったのは、数曲ごとに、子どもたちが順にWTTのすばらしさを口上したこと。
が、これまたWTT賞賛一色。
「WTTのおかげで……」「WTTがなかったら……」「WTTに救われて……」と。

 子どもたちが自分の頭で、自分で考え、自分の言葉としてそれを言うのなら、よい。
しかしまさに(ヤラセ)。
WTTの趣旨の尊さは理解できる。
またそういう活動の崇高さも認める。
しかし貧しい子どもを利用してはいけない。

 よい例が毎年広島で開かれる、子どもによる平和宣言。
子どもたちの未来を守るのはおとなの責務。
それを子どもに「宣言」という形でさせる。
それについての原稿は以前にも書いたので、あとで添付しておく。

 で、最後に募金の勧誘。
募金袋は最初に配られていた。
驚いたのは、パンフレット(14〜6ページ前後の冊子)が、超豪華なオール
カラー版だったこと。
紙質もよく、分厚い印刷用紙を使っていた。
どこかチグハグ?
違和感を私は覚えた。

 で、私も募金をするつもりだったが、最後に、司会者がこう言ったとき、その気持ちは
失せた。

「これからこの子どもたちは東京へ向かいます。
新幹線に乗って行きます。
その旅費をどうか募金してください」(聞き覚えなので、内容は不正確)と。
(そんなはずはない!)

 全体としての私の印象は、こう。

 「アフリカの子どもたちは不幸」という前提で、私たちはものを考えやすい。
実際、WTTの演奏会では、繰り返し、それが語られた。
しかし本当に、そうか?
私たちがそう思うのは、私たち日本人のもつ幸福感を基準にしているから。
つまり私たちにも、ある種の思い上がりがある。
「子どもたちは、こうあるべき」という思い上がりである。

 たとえば教育にしても、日本式の教育法は貧しい国々では、ことごとく拒否されている。
理由は、その背景に受験につながる競争主義があるからにほかならない。
またそういう教育をもって、日本人は、最高の教育と思いこんでいる。
(それ以外の教育法を知らないのだから、当然と言えば、当然だが……。)

 同じようにエイズが蔓延し、戦争と飢餓で苦しんでいるU国。
それはわかるが、その問題と、子どものもつ幸福感とは別問題。
たとえば同じコンサートを通して、こんなことも言っていた。
「U国は、チャーチルにも『アフリカの真珠』と評されるほど、美しい国です」と。
ならば聞くが、都会のビルの隙間で、受験勉強をしている日本の子どもが幸福なのか
ということになる。
心はすでに氷のように冷たい。

 つまり私たちは先進国の人間がもつ(おごり)を、けっして貧しい国の人たちに、
押しつけてはいけない。
同時にそういう子どもたちを救済している団体にしても、自分たちの価値観を、
私たちに押しつけてはいけない。
「私たちは正しいことをしている」と思うのはその人たちの勝手。
しかしその返す刀で、「あなたたちは、救済すべきだ」というのは、ここでいう
(押しつけ)。

 とても残念だが、どこか押しつけがましい音楽会だった。

+++++++++++++++++++++

7年前に書いた原稿より

+++++++++++++++++++++ 

【子どもによる平和宣言】

あどけない小学生に、平和宣言など、させてはいけない。
平和を守るのは、私たちおとなの責務。
こういう場で子どもを利用するのは、どこかのテロ組織が、自爆攻撃用にと、
子どもを利用するのと同じ。
「平和目的ならいい」「戦争目的は、だめ」というのは、おとなの勝手な論理に
すぎない。
あるいはどこでどう、線を引くというのか?

++++++++++++++++++++

7年前に書いた原稿を、そのまま紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。
それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。
平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。
子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。
文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」 

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル市鍾
路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に反対する
国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国社会は衝
撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3〜5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人たち
がけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は食い違っ
ている。
これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。
現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立てこもっ
て、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。
「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子どもたちが自
主的に書いたと、意見が分かれているという。
が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背後に
は、(おとなたちの意思)が、感じられる。

少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。
そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。
しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。
5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、平和
を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……というより、ほ
とんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たまたま、この原稿を
書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2月8日)があった。疑問がな
いわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそういうふうに
利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、戦争だとか、
平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思っているに決まってい
る。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、戦争
のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっている人に
は、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ性(さが)は、そん
な甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、日本人
がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。日本が、戦
後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカという強大な軍事力を
もった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓国や北朝
鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなかった。フィリッ
ピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういうことをされても文句は言
えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。
しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中には、
今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認するわけでは
ないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというのは、まっ
たくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、もろく、こわれやす
い。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和であるとしても、その底流
では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。つまり、平和を口にするも
のは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦う意思、その戦う勇気のあるものだけ
が、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくらい、バ
カげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみればよい。子ど
もに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言でもよい。環
境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせてはいけ
ない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」などと言っている
という。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、そんなことはありえ
ない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。
 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見る
と、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オーストラリアの子ど
もたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあるとでもいうのだろうか。
残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国というのは、全体主義国家
か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎのように話し
ている。
「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったりできなか
ったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかったと思っていま
す」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私たちお
となの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ攻撃をし
かけている。

一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向かって
こう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。
もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、子どもを使
うということは、そういうことをいう。
平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それこそ「平和のための戦争」ということになれば、どんな戦争だって、
肯定されてしまう。

どうであるにせよ、おとなたちは、自分が信ずる「正義」に従って、子どもを利用する。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。
つまり「正義」ほど、いいかげんなものもない。
私はそれがおかしいと言う。
それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみること
だ。

(子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子供によ
る平和宣言 子どもの平和宣言)


(補記)

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 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前に書い
た原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言させること
に、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで平和の尊さを確
認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」とは、どうしても思え
ない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国から数
万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。
「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生によ
る平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しかしその
平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっていては、平
和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言いませ
ん」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとなったら、戦争も
辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」と逃げてまわるのは、
平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもない。日本
がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領され、その保護下
にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、感情
というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変わってい
ない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜ぶ韓国人はい
ても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて平和宣言をする。そ
のオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が戦争を求めているのではな
い。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、5
〜6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もするかもし
れないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうなれば日本は、も
うおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活をしなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私の悪い
クセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分たちの政治的エ
ゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの人権がある。その人
権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿まわしのサルのように利用して
はいけない。
(030628) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
平和論 日本の平和 日本人 広島 原爆の日 はやし浩司 子どもによる平和宣言 子供に
よる平和宣言)

++++++++++++++++++++

併せて、もう1作、6年前に書いた原稿を
添付します。

【SKさんからの反論に答えて……】

++++++++++++++++++++

●平和教育について



【SKより、はやし先生へ……】



今日(8月6日は朝のサイレンがなり、それがきっかけで、

娘に「広島」について話をする

機会がありました。もう、来年で60周年。今の国際情勢を

考えると、広島の原爆も、昔話になってしまうのでしょうか。



さて、メルマガにあった文章で、気になったことについて

書き添えたいと思います。





<国旗、国歌について>



(国旗について……)「日本は、そもそも単一民族だから、国旗や国歌にこだわる必要はない
のではないか。国旗や国歌が必要なのは、多民族国家である。そういう国では、国をまとめる
ために、国旗や国歌が必要である。しかし日本には、そもそも、その必要性がない。なりゆき
に任せればいい」(53歳・男性)





この意見を読んで、日本人は、単一民族である、

という発想がまだまだ強いところがこわいなぁ、と

思いました。



国旗、国歌が必要になってくるのは、自分の国にいるときではなく、

「外国にでた」ときだと私は考えます。自分が「どこの」所属かを

相手に明確にするためのものですよね。



浜松で、浜松祭りで、どこの町の法被を着ているか、のように。



だからこそ、自分の国から一歩もでない、鎖国状態の人には

「必要が無い」で済むのかもしれません。



アメリカで、高校の英語の授業でも、歌舞伎や能を扱うことが

あります。イギリスの作家でも、能の影響を受けて劇を書いている

人もいますし。(アイルランドのイエイツ、ノーベル賞作歌もそのひとり)



授業で、「能について、知っていることを教えてください」と

問いかけを先生からされたときに、答えることができない日本人と

しての所在のなさ! 今でも忘れません。



日本に帰ってきてから、能について、勉強をしていないところに私の

怠慢がありますが……。



国旗を、国旗といえない国には、どうしても問題があると思うのです。

幼稚園でも小学校でも「ひのまるのうた」を歌ってきます。じゃ、

どうして「国旗」と言わずに、「ひのまる」というのでしょう。

国歌も、「きみがよ」という別名をもうけてあります。



主人が柔道を趣味でしているので、彼の恩師に警察大学校で教壇に

立っている方がいます。主人が会話の流れで「日の丸」と言ったときに、

先生は毅然と、「ひのまるではない! 国旗だ!」と言ったそうです。

会話の流れとはいえ、選ぶ言葉は「意識」の問題である、と。



国の、国民としての、自覚の問題ですね。考え方は十人十色かも

しれません。



国旗の扱いについても、日本人は自覚がなさすぎることはよく

指摘されていることです。主人の手伝いで、かれこれ10年ぐらい前に

千葉の幕張で行われた柔道世界選手権の舞台裏を覗いたことがあります。



国旗の扱いはどこまでも丁重に。日本人だと、たたむときに、床に

べろーーん、と広げてから畳んだりしてしまいます。もう、こんな

ことが相手国の人々の目にとまれば、大政治問題です。



降ろすときも、畳むときも、複数の人間が各角をもち、角をあわせて

畳みます。決して床にはついてはいけない。



国旗を重ねてしまう事があろうものなら、その順序(どちらが上、

どちらが下)も、神経質になります。あくまでアルファベット順に徹する

などの工夫が必要です。



しまうときも、「くっつかないように」ひとつひとつビニール袋に入れて

しまいます。国旗そのものが、お互いにくっつかないように。



レプリカをつくって、シャツのデザインにしたり、なんていうのは

「相手国に対する冒涜」なんです。こういう視点で国旗を考えた

ときに、小学校の運動会でかかっている「万国旗」には、つい、

意味を考えたくなってしまいます。



国旗、国歌の議論が必要がない、とおっしゃる方は、くれぐれも

渡航中にトラブルに巻き込まれないようにお気をつけいただきたい

ものです。



日本人、国旗、国歌。日本をでれば、みなが日本の代表ですので。



ふと、サッカーアジアカップの、日本・中国の決勝が頭をよぎります。

とても、とても、恐ろしい政治の問題です。





<平和宣言>



私が大学生のとき、大学生協の平和活動に参加をしていました。

全国津々浦々の大学生協から、学生達が集まって平和アピールを

するという主旨のものです。



東京だと、江戸川区にある、第五福竜丸のおいてあるところから

平和アピールが始まります。8月6日の、広島の式典にあわせて

行進をし、たすきをつないでいくというものです。ピースウォークという

名称のものでした。



それに参加するほど根性はなかった私は、6日に広島入りをしました。

で、大学生どうしで、ひたすら「平和ってなあに?」という話し合いを

して、「ほら、平和って大事だよね。」と言い合って終わるのです。



完全に、自己満足の世界です。「ふつうの大学生とちがって」、自分は

「平和のことを考えている」というのをお互いに認め合うための会合

です。それも、広島で、大集会と化して。大声で平和をイメージした

歌を歌ってみたりして。



大学生協だけでもかなりの規模ですし、各地生協、平和団体などなど

集まってきます。海外からも、水素爆弾禁止運動をしているフランス人

やら、いろんな人がいました。それはそれは、8月6日だけは、きっと

残り364日の広島の景色とは違ってしまうのでしょう。



朝の式典は、原爆の投下された時間の黙祷で始まります。そのために

平和公園に集まるために、寝ぼけ眼で、大学生達がタクシーに

乗って「すべりこみセーフ」で式典に、参加するのです。(と、集会の

人ごみにまぎれているだけなのですが。)



タクシーの運転手さんがつぶやいてました。「今日だけはね、どこも

かしこも、馬鹿騒ぎでね。ほんとに広島の人とか、戦争関係の

人なんていないだろうよ」って。広島に来た自分が、おろかだったなと、

痛感した瞬間でした。



8月6日の広島。それは、青空の広がる暑い夏だったはずです。

今年は、台風やらの影響での独特な湿気。こうやって感覚がずれて

いくのでしょうか。





<マガジンについて>



先生のマガジンを通して、日常の忙しさにかまけて、考えないような

話題がたくさん提示されています。ほんとに、たくさん。思うことが

あっても、返信できないほどです。



今年の暑さは、例年とは明らかに違います。どうぞ、お身体を第一に

なさってください。このうえで、楽しいマガジンの配信をお願します。





<読書感想文>



娘の宿題の読書感想文を眺めながら、ふと思ったことがあります。

そういえば、私がアメリカでいたときの5年間、読書感想文って

書いただろうか? 書いてない!(そうか、だから娘に指導できない

んだ!って開き直ったほどです。)



日本は識字率が高いので、こういう宿題が可能だと思いますが、

それだけが理由なのでしょうか。



私が過ごした5年間でこなした作文課題といえば…。

ショートストーリーを書く、詩を書く、俳句を書く、などでした。

いわゆる creative writingです。 

エッセーといっても、レポートと同じように「批評する」文章でした。



日本の、いわゆる読書感想文の、「○○に感動しました。☆☆が

面白かったです。私にもこういう経験があります。この本を読んで

とても心が打たれました」的なものではなかったです。



本について書く文書といえば、ブックレビューでした。これも、

本の批評です。critical writingといわれていました。それこそ、

作品の中の、フレーズや単語ひとつを、とことん批評するという

ような主旨のもの。または、作品の歴史背景等を鑑みた批評など。



アメリカの、私が住んでいた町だけ読書感想文の指導がなかった

のでしょうか。よその国でも、日本の読書感想文にあたるような

もの(原稿用紙3枚ぐらいの分量のもの)があるのでしょうか。



ふと、気になってしまいました。





とてもとても長くなりました。適当に読み流していただけると

幸いです。



SKでした。



【はやし浩司よりSKさんへ……】



 昨夜(8・7)は、アジアカップの決勝戦が、ペキンでありました。私の教室の父親が、2人、出
場しているということで、ふつうでない緊張感を覚えました。(いつもなら、菓子をポリポリ食べな
がら、気楽に観戦していたと思いますが……。)



 中国の人たちのもつ、根深い反日感情を知るにつけ、改めて、「国とは何か」を、考えさせら
れました。選手の人たちは、若い人ばかりです。戦前の日本とは、関係のない人ばかりです。



 それが、戦後60年近くもたった今、ペキンで、反日攻撃の矢面に立たされている!



 私も、1967年に、UNESCOの交換学生で、韓国に行きましたが、歓迎されたのは、当初
の1日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされました。戦後生まれの、私が、
です。



 国歌斉唱のとき、またまた大ブーイング。それを見ていたとき、何もしてこなかった私たちの
世代。それを知り、申し訳ない気持ちにかられました。多分、選手の奥さんたちや、生徒たちも
観客席にいるでしょう。何か、ものを投げつけられなければよいがと、どこかハラハラして見て
いました。



 あんな気持ちで、サッカーの試合を観戦したのは、はじめてです。



 で、日本が優勝。何ごともなかったようです。(もし2対1なら、大抗議が起きていたかもしれま
せんね。うち日本の1点は、どこかファウルゴールぽかったですから……。しかし実際には、3
対1で、勝った! これなら中国側も文句を言えない!)



 よかった! 



 広島の原爆について、「小学生に平和宣言などさせるものではない」と書いた私の意見に、
やはり反論してきた人がいました。



 わかります。



 私は平和宣言に反対しているのでは、ありません。「平和を、つぎの世代のための子どもた
ちのために用意するのは、私たち、おとなの役目だ」と書いたのです。「そのために、子どもを
利用してはいけない」と。



 同じようなテーマに、環境問題があります。おとなの私たちが、さんざん、環境をよごし放題よ
ごしておいて、子どもたちに向かって、「環境を守れ」はないとと思います。



 それともSKさんは、アメリカで、子どもが、平和宣言しているような光景を見たことがあります
か? 子どもが自分で考えて、そう言うならまだしも、子どもを操り人形のように、操ってはいけ
ない。それが私の意見です。(何なら、幼児に平和宣言させてみればよいのです。どうしても、
子どもにさせたいのなら……。)



 平和の問題は、高度に政治の問題であり、それゆえに、それは純粋に、おとなの問題なので
す。たとえば今、天然ガスの採掘をめぐって、日中関係がギクシャクしています。たがいに、ま
さに(やられたら、やり返す)の応報を繰りかえしています。こうした応報が、やがて戦争につな
がらないとは、いったい、だれに言えるでしょうか。



 「平和を守ります」と、子どもに宣言させて、それで平和を守ることにはならないのです。



 私は、こうした、つまりおとなたちの責任をタナにあげ、子どもを利用する行為が、どうにもこ
うにも、許せないのです。プラス、どうにもこうにも、理解できないのです。



 そうそう、その「日本人には、国旗はいらない」と言ってきた人は、現在、インドネシア在住の
男性(50歳)です。前後を少し省略しましたが、彼が言うのは、こういう意見です。



 「インドネシアは、いろいろな民族でなりたっている。そういう国を一つにまとめるには、国旗
が必要だ。しかし日本は、そもそもそういふうに、一つにまとめる必要はない。少なくとも、イン
ドネシアのようにはない」と。



 それで冒頭のような意見を書いてくれました。少し、誤解があったかもしれません。



 「能」で思い出しましたが、私が学生時代、2年間だけですが、その能(私は声を出す、謡)を
しました。加賀宝生流です。京都の能舞台で、うなったこともありますよ。



 外国へ行くたびに、何かの場で、披露しています。ああいうのを、何か一つ、得意芸として、
身につけておくと、よいですね。「これがジャパンだ」と、誇ることができます。



 またアメリカには、(ライブラリー)という授業があります。週1回程度、図書室で、指導を受け
るというものです。ご存知のように、アメリカでは、読書指導が、教育の柱になっています。



 驚いたのは、(ライブラリー)の指導だけは、修士号をもった教師でないと、できないということ
です。(ほかの教科は、学士号で、教壇に立つことができますが……。)



 「図書館の司書」というと、日本では、どうしても「下」に見られますが、欧米では逆のようです
ね。オーストラリア人の友人も、オーストラリアのM大学の図書館で、司書をしていますが、教
授と同じあつかいです。あらゆる教授の相談にのるという意味で、重要な仕事と考えられてい
るようです。



 SKさんのメールを読みながら、改めて、ナットクしたというわけです。ありがとうございまし
た。



 言うまでもなく、(作文)が、文字、言葉教育の目標であり、要(かなめ)ですね。本を読んで、
作文を書く。これから日本でも、もっと重要になってくると思います。



 メール、ありがとうございました。またまたマガジンへの掲載を、許可していただければ、うれ
しいです。(すでに発行予約してしまいましたので、事後承諾になります。どうか、お許しくださ
い。9月6日号に、掲載します。よろしかったでしょうか。)



 そうそう、きのう、「スパイダーマン」を見ました。ああいう映画は、肩がこらなくて、よいです
ね。ハハハと笑って見ました。

(040808)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●怒り、そして無力感

++++++++++++++++++

教育というのは、20年後、30年後の
日本を見据えて、する。
今、教育していることは、20年後、
30年後に、その結果となって現われてくる。

++++++++++++++++++

●40年前

 今から40年以上も前のこと。
「40年」といっても、けっして古い話ではない。
「今」の話である。

 私は当時、オーストラリアの大学にいた。
そのときのこと。
アジア各国から来た留学生たちと、こんな会話をした。
今とちがって、その国でもエリート中のエリートたちである。
日本は貧しかった。
アジアの国々は、もっと貧しかった。
が、みな、こう言った。
「日本へは留学しない」
「日本へ留学しても、むだ」と。

 理由は私もよく知っていた。
日本でいくら資格を取っても、そうした資格は日本以外の国では通用しない。
たとえば日本で医師免許を取っても、日本以外の国では通用しない。
当時の日本は、(今でもそうだが)、こと教育に関しては、鎖国主義を
貫いていた。
「外国の医師免許を認めない」と。
だから相互主義として、外国も日本の医師免許を認めない。

 私も一時期、オーストラリアでの就職を考えたことがある。
で、いくつかの会社をあたってみたが、私はオーストラリアでは、
「高卒扱い」だった。
「週給は、550ドル」と。
で、私がいくら、「私は日本の大学で学位を取っている」と主張しても、
受け入れられなかった。

●教育の鎖国主義

 医師免許だけではない。
ありとあらゆる免許、資格が、そうだった。
「日本はアジアでもナンバーワンの教育立国」という自負心が、かえって
災いした。
建築士、弁護士、看護士などなど。
日本は、外国のあらゆる免許を認めなかった。
今も認めていない。
ゆいいつの例外は、自動車免許。
しかしその免許も、1年ごとの更新制をとっていた。

 一方、オーストラリアの大学で学位を取ると、その学位は、ほぼ全世界
で通用した。
旧大英帝国圏はもちろん、アジア各国でも通用した。
学位どころか、単位の交換(単位の共通化)も進んでいた。
メルボルン大学で2年過ごしたあと、北京大学で1年を過ごす。
その北京大学で得た単位は、そのままオーストラリアでは、取得単位
として認められた。

 しかも欧米を中心に、大学の移籍は自由。
入学後の学部変更も自由。
学生たちは、自由に大学間を、渡り歩いていた。

 では、日本はどうだったか?
今さら、説明するまでもない。
その結果が今。
いまだに東南アジアからの看護士ですら、日本では自由に仕事ができない。
「言葉の問題」があるとか?

●シンガポール

 こうした日本の硬直性を横目で見ながら、たとえばシンガポールは、
教育と制度を開放した。
たとえばアメリカで医師免許を取った医師でも、シンガポールでは自由に
開業できる。  
医療ですらそうなのだから、あとは推して量るべし。

 その結果、日本に駐在員をおいていた各国の大企業は、そのほとんどが、
シンガポールへ移った。
今でも日本がアジアの中心と思っている人は、よほどのバカか、世間知らず。
アジアの経済ニュースは、一度すべてシンガポールに集められる。
そこから世界中に発信される。

●崩れた電子立国

 もう20年前になる。
近くの小学校で、実験的だが、コンピューター授業をしようとしたところ
がある。
時の通産省が音頭を取った。
が、それに「待った!」をかけたのが、ほかならぬ時の文部省だった。
「教員免許のない教師を、教壇に立たせるわけにはいかない」と。

 免許にこだわった。
カリキュラムにこだわった。

 しかしコンピューター(電子工学)の教員免許を認めるまでには、
何年かかる?
まず教育学部内に講座を用意する。
その前に教授を育てなければならない。
そんなことをしていたら、20年はかかる!

 だったら、工学部を卒業した学生を教壇に立たせればよい。
(中学、高校では、専門学部の学生でも、教育原論などの単位を取れば
教師になることはできた。)
だれしもそう考える。
しかしそれを認めたら、日本の官僚社会そのものが、総崩れになる。

●資格、許可

 もう10年も前の話。
私の山荘のあるI村の下を、単線の電車が走っている。
その電車に乗ると、季節の行楽シーズンには、女性のガイドが同乗して
くれた。
(最近は、その姿が消えたが・・・。)
そのガイドが、こんな話をしてくれた。
「こういう仕事にも、資格が必要なんです」と。

 バカげている、と私は思った。

 田舎の小さなローカル線。
どうしてそんなところで、ガイドとして働く人にも、資格が必要なのか。
つまりこれも官僚主義制度の弊害のひとつと考えてよい。

 ありとあらゆることを、許認可制にする。
免許、資格制にする。
そしてそのひとつずつに役所を置き、役人を置く。
その多くは、役人たちの天下り先として、そのまま利用できる。
が、この制度は、ミスを減らすかわりに、社会のダイナミズムを奪う。
今の日本を見れば、それがわかる。

●職業観

 日本というより、日本人は、ダイナミズムを失ってしまった。
こじんまりしているというか、おとなしい。
たとえば就職にしても、「就職」しか考えない。
どこかの組織に入ることだけが、就職と思い込んでいる。
が、「仕事」は、自分で作るもの。
原点は、そこにある。
その原点を見失ってしまった。

 たとえば私が浜松に住むようになったときのこと。
1971年の秋ごろだった。
商工会議所へ行くと、翻訳の仕事をすぐ回してくれた。
通訳の仕事も回してくれた。
当時はまだ登録制で、浜松には私を含めて、そうした仕事をしている人は、
私を含めて2人しかいなかった。

 また仕事は、工場通りの電柱に張り紙をして、取ってきた。
縦20センチ、横10センチほどの張り紙で、それに「翻訳します」と
書いた。
電話番号をその横に添えた。
それだけで翌日には、2つや3つの仕事が飛び込んできた。

 日本全体がまだ不完全というか、おおらかな時代だった。
私はそうした隙間を巧みに生き抜くことができた。

 が、やがて通訳も翻訳も、資格制になった。
そのための試験も始まった。
今では、そんな簡単な仕事ですら、一度は役所を通らないとできない。
つまりその分だけ、息苦しくなった。

●鎖国主義

 鎖国主義は、現在も進行中。
あの鳩山前総理大臣がアジアの何かの会議へ出かけていって、大学間の単位の交換を
しようと呼びかけた。
が、どこの国も反応しなかった。
それもそのはず。
そんなことは、すでに世界の常識。
それ以上に、日本はすでにアジアのリーダー国としての地位を失っていた。
今ではすでに逆転しているかもしれない。
日本人が、アジアの他の国々で、より高度な勉強する時代になりつつある。
「今はまだいい」と思っている人は多い。
私もその1人。
だが、やがて追い抜かれる。
すでに追い抜かれつつある。
前にも書いたように、教育というのは、20年とか30年先を見ながら
組み立てる。

言い換えると、日本は20年前、30年前にしておくべきことをしなかった。
・・・しておかなかった。
その結果は、やがて出てくる。

 たとえば英語教育にしても、20年は遅かった。
コンピューター教育にしてもそうだ。
あの韓国は、2011年の春から、教科書を電子ブック(iPad方式)に
切り替えるという。
紙製の教科書ではなく、電子教科書だ。
本来なら日本が、そういう改革を率先して進めてよいはず。
が、その日本がほかの国々の尻を追いかけている。

●武士道

 話は変わるが、いまだに「武士道だなんだ」と言っている人が多いのには、
驚かされる。
武士道などというものは、日本でしか通用しない。
私が韓国へ交換学生で行っていたときのこと。
こんな話を聞いた。

 植民地時代、日本の兵隊たちはことあるごとに武士道なるものを口に
したという。
そこで韓国人が、「武士道とは何か」と、よく聞いたそうだ。
それにたいして、日本の兵隊たちは問答無用式に、こう言って韓国人たちを
殴り飛ばしたという。
「貴様らに、日本の武士道がわかってたまるかア!」と。

 日本の力が残っている間は、まだよい。
日本が、力がある間は、まだよい。
しかしこの先、日本がやがてアジアの国々の中に埋没するようになったとき、
そのときでもはたして日本は、日本人は、武士道なるものを口にすることが
できるだろうか。
かえって奇異な目で見られるだけ。

 あの封建時代においてでさえ、武士階級はほんの5%前後(家族を含む)。
たいはんはその武士階級に虐げられた庶民ではなかったのか。
その虐げられた側にいた私たち庶民が、今になって武士道をたたえてどうする?
どうなる?
どうして武士道が、日本人の精神のバックボーンなのか?

●繁栄ボケ

 さて、20年後、30年後の日本は、どうなっているか。
それを考えると、そら恐ろしい思いすらする。
今の子どもたちは、平和ボケしている。
繁栄ボケしている。
「現実」を論ずることすらしない。
生き方そのものが、内向き。
ダイナミズムそのものもない。
学生たちの就職先人気ナンバーワンが、公務員となって、もう10年
以上になる。
その公務員だけが、今の今も数がふえつづけ、勢力を拡大しつつある。
公務員の人件費だけで、総額38兆円(日本の国家税収は40兆円前後)。
今では、旅館の温泉に入るだけでも、入浴税なるものが徴収される。
市の出先機関で、各種書類をプリントアウトしてもらうだけで、一枚(一通)、
500円。
紙一枚が、500円だぞ!
こんな商売が、ほかのどこにある?
そのほとんどを人件費に使っているから、こうバカげたことが起こる。

●教育の自由化

 「Independent Thinker(自分で考えられる子ども)」「Active Learner
(積極的な子ども)」……言葉は何でもよい。

 大切なのは、ダイナミズム。
自由なるダイナミズム。
そのためには、隙間を多くする。
たった10年前だが、私はアメリカで、こんな経験をした。

++++++++++++++

そのとき書いた原稿より

++++++++++++++

●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中二
女子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもな
い」と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。もう一人の中学生(中二男子)は、「そ
れよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今ここに一億円があったとする。それが
君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎日、机の上に置いてながめている」
と。ほかに五人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来
について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と
意識に関する基本調査」(二〇〇一年)でもわかる。

 一五〜一七歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、
四一・八%、「悪くなっている」と答えたのが、四六・六%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(二〇〇一年四月)。タク
シーにはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運
転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来
られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ではどうすればよいか……

 規制緩和は当然のこと。
構造改革(=官僚主義制度の打破)は当然のこと。
少なくとも外国並みに、緩和する。
またそうでないと、日本は世界の荒くれ男たちとは、戦えない。

 たとえばアメリカでは、学校の設立がほぼ自由化されている。
カナダでは、もっと自由化されている。
学校で使う言語すら自由!

 ……こう書くからといって、何も「学校教育」を否定しているわけではない。
方法はいくらでもある。
たとえばドイツ、フランス、イタリアのように、クラブ制の充実など。
子どもたち(たとえば中学生)は、午前中で学校での授業をすませ、午後はみな、
それぞれクラブへ通って、好き勝手なことをしている。
水泳が好きな子どもは、毎日水泳クラブに通っている。

 その費用は、チャイルドマネー(クーポン券、バウチャー券)として、国から
支給されている。

 が、この日本では、あえてそれに逆行するようなことばかりしている。
「学校教育をより充実させる?」という理由のもと、さらに教師を3万人もふやすとか
(2010年以後)。
しかしいくら教師をふやしても、授業中に居眠りする子どもは減らない。
そういう基本的なことが、まったくわかっていない!

 (教育の自由化については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。
正直言って、疲れた!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どもたちによる平和宣言 子供による平和宣言 教育改革 ダイナミズム 教
育のダイナミズム 日本の将来)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【易経と64卦】

●易経の二進数(古代中国の大ロマン)

+++++++++++++++++

今、端緒をつかんだばかり。
今までの不勉強が悔やまれる。
まだ不確実な段階だが、5000年以上も
さかのぼる太古の昔、中国に、何と
二進数があったらしい。
(こんなことも知らなかったのか、と
笑われそうだが……。)
しかもその配列の仕方は、(漢字との意味の符合性において)、
DNAの配列と同じという。
もしこれが事実とするなら、私は、今までの
古代観を根底から、作りなおさなければ
ならない。

もちろんこの説を鵜呑みにするわけにはいかない。
それが正しいかどうか、自分で検証してみる
必要がある。
「根底から作りなおす」というからには、
それなりの確信が必要である。
本当に、「易」は、「DNA」の配列と関係が
あるのか?

+++++++++++++++++

●二進数(PART2)

 二進数では、(0)と(1)だけの
数字を使って数を表す。

だからたとえば、0、1、2、3、4、5、6……は、二進数では、
0、1、10、11、100、101、110……となる。
コンピューター言語の基本にもなっている。

 それを古代中国では、つぎのように表す。

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4996382953/" title="img058 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4104/4996382953_
f02920464f.jpg" width="353" height="500" alt="img058" /></a>

●まずはじめに……(国立がんセンターのHPより引用)

 『……遺伝子が設計図だとすると、どのような言葉(言語)で書かれているのでしょうか。遺伝
子は、物質としてはDNAと呼ばれる分子からできていますが、この DNAは「A、G、C、T」という
4つの「塩基」の並びでできています。

言語というのは英語であればアルファベット26文字、日本語であれば平仮名50音の組み合わ
せでつくられますが、遺伝子の場合には、この4つの文字からなる遺伝子の言語で書かれてい
るということになります。人間ではこのA、G、C、T という文字が30億個並んで遺伝子全体をつ
くっています。

比喩的にいうと、4つの文字の配列によりつくられた、意味のあるひとつひとつの「文章」がひと
つひとつの「遺伝子」に相当し、ヒトの場合、そのような遺伝子が40,000個ぐらいあるといわれて
います。

ある生物がもつすべての遺伝子、人間なら人間のすべての遺伝子を全部ひっくるめて「ゲノ
ム」といいます。遺伝子を句点「。」で区切られたひとつの文章だとすれば、文章が集まった一
冊の本がゲノムであるといえます。遺伝子が一本の木だとすると、その木が集まった森がゲノ
ムにあたります』(以上、国立がんセンターHPより)。

●「易経」の二進数

 


●赤ワク

 この中で赤ワクで囲んだのは、上下3本ずつが、同じ配列になったものである。
そこでさらに、これら64のパターンを、8つのグループに分けてみる。
(0)と(1)の組み合わせは、8種類ある。

 こういうグループ分けに、とくに意味はない。

(A)上部3本が、(000)のグループ

(B)上部3本が、(001)のグループ

(C)上部3本が、(010)のグループ

(D)上部3本が、(011)のグループ

(E)上部3本が、(100)のグループ

(F)上部3本が、(101)のグループ

(G)上部3本が、(110)のグループ

(H)上部3本が、(111)のグループ

 8つのグループに、それぞれ8つの組み合わせがある。
合計すると、8x8で、64種類ということになる。

●DNA言語も64語

 ところでDNA言語は、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、
T(チミン)という4種類の塩基が基本になっている。
これらの塩基が鎖状に連なって、遺伝子情報を伝える。

 一見無秩序に見える塩基情報だが、実際には、A、G、C、Tの4つの塩基から、
3つを取り出し、その組み合わせによって、64種類の言葉が生まれることがわかって
いる。

AAA、AAG、AAC、AAT、AGA、AGG,AGC,AGT……TTT、と。

 『易経の謎』(光文社)、『ニビルの謎』(学研)によれば、こうした遺伝子言語は、
そのままDNA言語と一致するという。
並び方だけではない。
意味まで、一致するという(『ニビルの謎』)。

 たとえば「DNA言語の(ATG)は、「開始」を意味するが、これに対応する
八卦は、「かん(土偏に欠)」で、これも「開始」を表す。
DNA言語の(TAA)は、「停止」を意味するが、これに対応する八卦は、「ごん」で、
これも「停止」を表す」(『ニビルの謎』)と。

 上述、「易経の二進数」のうち、(18)(010010)が、「かん」、
(9)(001001)が、「ごん」にあたるという。

しかし自分で改めて検証してみると、つじつまが合わなくなる。

(1)と(0)の組み合わせは、
(00)(01)(10)(11)の4つである。
この4つを、どう「A」「G」「C]「T]と結びつければよいのか?

たとえば、
10……「A」
01……「G」
11……「C」
00……「T」とすると、

「ATG」は、「10・00・01」となる。
並び方を反対にすると、つまり「GTA」にすると、「01・00・10」となり、
たしかに「かん」となる。

が、同じように「TAA」は、「AAT」にすると、「10・10・00」となり、
「ごん」にならない。
「ごん」は、二進数では、「00・10・01」である。
(「00・10・10」なら、つじつまが合うのだが……。)
私の解釈の仕方がまちがっているのだろうか。
あるいはどこかまちがっているのだろうか。

これら2冊の本だけではよくわからない。

●4つの組み合わせx4通り

 わかりやすく言えば、「A」「G」「C」「T」と、(00)(01)(10)(11)を、
どう結びつけるかということ。
これがうまく結びつけば、中国の二進数は、まさにDNA言語そのものを表している
ことになる。

(00)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(1)

(01)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(2)

(10)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(3)

(11)は、「A」なのか。
「G」なのか。
「C」なのか。
それとも「T」なのか。……(4)

 そこでヒントとなるのが、DNAが複製されるときの性質、つまり「A」は「T]と
のみ結合し、「G」は「C」とのみ結合するという性質。
これを二進数と組み合わせてみると、興味深い事実が浮かびあがってくる。

(00)と(11)の関係。
(01)と(10)の関係。
これらは、数字の上では補完関係にあることがわかる。

仮に(00)を「A」とすると、(11)は「T」ということになる。
同じように(01)を「G」とすると、(10)は「C」ということになる。
この仮定の上で、もう一度、表を作り直してみる。
それがつぎの表ということになる。

00……「A」
01……「G」
10……「T」
11……「C」

仮にこの配列で、中国の二進数を並べ直してみると、つぎのようになる。

00……AAA(00・00・00だから、AAAとなる。)
01……AAG
02……AAT
03……AAC
04……ATA
05……AGG
06……AGT
07……AGC
08……ATA
09……ATG(00・10・01だから、ATGとなる。TAAにならない)(ごん)
10……ATT
11……ATC
12……ACA
13……ACG
14……ACT
15……ACC
16……GAA
17……GAG
18……GAT(01・00・10だから、GATとなる。ATGとならない)(かん)

 ????

別の組み合わせを考えてみる。
というより、上記(1)(2)(3)(4)の4つの組み合わせを、総当たり的に
確かめてみる。

「9」の「ごん」で、「TAA」に、「18」の「かん」で、「ATG]になればよい。
そういう組み合わせは、あるのか?

●矛盾

 もう一度、数字を並べてみる。

「9」(ごん)……(00・10・01)……「TAA」
「18」(かん)…(01・00・10)……「ATG」

 これらの数字(二進数)に、「A」「G」「C」「T」を当てはめてみる。
いわば暗号解きのパズルのようなものだが、一見して共通性がないのがわかる。
(01)が「A」で、(00)が「T」ということまでは、わかる。
が、そのほかは、矛盾する。

 で、ここに先にあげた、補完関係を応用してみる。
(「補完関係」といっても、私が勝手に仮説として考えたものにすぎないが……。)

(01)が「A」とすると、(10)が「T」ということになってしまう。
つまりまたまた矛盾してしまう。
(01)が「A」とすると、「T」は、(10)でなければならない。

アアアア!

●謎への再挑戦

 もう一度、『ニビルの謎』を読んでみる。
繰り返しになるが、許してほしい。
この壁を乗り越えないと、謎を解くことができない。

「……DNA言語の(ATG)は、「開始」を意味するが、これに対応する
八卦は、「かん(土偏に欠)」で、これも「開始」を表す。
DNA言語の(TAA)は、「停止」を意味するが、これに対応する八卦は、「ごん」で、
これも「停止」を表す」(『ニビルの謎』)と。

 そこにはたしかに(ATG)は、(かん)、(TAA)は(ごん)と書いてある。
(かん)は、二進数で、(01・00・10)。
(ごん)は、二進数で、(00・10・01)。

 この2つを並べてみると、(00)は、「T」ということになる。
両者が共通にもっている(10)、あるいは(01)は、「A」ということになる。
残ったのは、この両者にない、(11)。
この(11)は、「C」ということになるのか?
となると、「G」は、(10)と(01)のどちらなのか?
「A」が(10)なら、「G」は、(01)、
「A」が(01)なら、「G」は、(10)ということになる。

 一応、ここまでを、一覧表にしてみる。

10、あるいは01……「A」
01、あるいは10……「G」
11……「C」
00……「T」
 
 ほかに手がかりはないのか?
ということで、今、あちこちをネットでサーフィンしながら、調べてみた。
が、私が調べたところ、それに関する情報は手に入らなかった。

 「A」は、(10)なのか、(01)なのか?
それさえ決まれば、易経の二進数と、DNAの関係が、少しだけだが浮かびあがって
くる。

 ……が、ここでタイプアップ!
仕事の準備をする時間になった。
このつづきは、またの機会にしたい。

(2010年9月17日、午前10時)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 易経の謎 中国の二進数 2進数 DNAの謎 DNAと易経 ニビルの謎)

【注】今回『ニビルの謎』(学研)という本を参考にさせてもらったが、私自身は、
「ニビル」なる惑星については、まだ半信半疑。
真夏の夜のロマンのひとつにしか考えていない。
興味をもったのは、その中に書かれていた「二進数」、つまり易経でいう「64卦」。
そこに「64卦は、DNA言語と関係がある」と書いてあったので、興味をもった。
どうか誤解のないように!


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●心が温かい子どもvs冷たい子ども

+++++++++++++++++++

その子どもの心が温かいか冷たいかは、
ほかの子どもたちと比較してみてわかる。
それもしばらくつきあってみて、わかる。
温かい子どもは、温かい。
冷たい子どもは、冷たい。
ぞっとするほど、冷たい。

++++++++++++++++++

●心の温かさ

 親のゆったりとした愛情に包まれ、穏やかな環境で育てられた子どもは、
心が温かくなる。
他人にやさしく、話していてもほっとするような親しみを覚える。
相手が3、4歳の幼児でも、それがわかる。
一方、そうでない子どもは、そうでない。
中には、ぞっとするほど、心の冷たい子どもがいる。

功利的で打算的。
自分勝手でわがまま。
心に余裕がなく、いつもピリピリしている。
「心」そのものが破壊されている。

ただ心の温かい子どもとちがって、幼児期にはそれはわからない。
「?」と思うことはあっても、確信はもてない。
が、小学校の3、4年生ごろになると、それがかなりはっきりしてくる。

 で、原因は親にある。
そう断言してよい。
親自身も、冷たい。
その冷たさが、子どもにそっくりそのまま伝わっている。
だからこの問題だけは、親に話しても、無駄。
親自身が、それで「ふつう」と思っている。
またそれで「よし」としてしまっている。

●自覚?

 受験期に子どもの心は大きく変化する。
それはよく知られた現象で、これは私の憶測でも何でもない。
が、その現象が、最近では小学校の高学年でも見られるようになった(静岡県地域)。
中高一貫校の入試が定着すると同時に、それが顕著に見られるようになった。
それ以前(2000年以前)には、めったに見られなかった。
つまり受験競争の低年齢化とともに、変化の時期も早まった。
早い子どもで、小学3〜4年生。
どこかの進学塾の夏休みの特訓教室に通っただけで、そうなる子どももいる。

 目つきそのものが鋭くなる。
そうした変化をとらえて、親は、「やっと自覚ができました」と喜ぶ。
しかし……?

●食い散らし

 これから思春期、あるいは思春期の入り口にも入っていない子どもが、こうした
変化を見せることは、悲劇的ですらある。
人間性の完成期というよりは、その方向性が、そこで決まってしまう。

 仮にここでX君を考えてみる。
小学4年生。
架空の小学生である。

 親からかなりきびしい勉強を強いられている。
そのため勉強は、好きではない。
「いやいや」というほどではないが、「何となく……」という程度には勉強している。
この時期の子どもは、まだ親に従順で、自分でその方向性を決定することができない。
つまり反抗するだけの「力」が、まだ育っていない。
だから進学塾にしても、親が決めたところへ通う。

 現在、かけもちで3つの進学塾と学習塾に通っている。
日によっては、それが重なることもある。
が、こうなると(食い散らし症状)が現われてくる。
高額な月謝を払いながら、ものを食い散らすように、いいかげんな学習態度になる。

●バリバリの受験生

 こうしたX君の親には、独特の教育観がある。
「うちの子は、やればできすはず」という価値観である。
あるいは「やらせれば、できるはず」でもよい。
そのため子どもの意思は無視。
人格も無視。
親が先導して、子どもの日常的な行動を決めてしまう。

 先にも書いたように、この手法は小学3〜4年生くらいまでなら、まだ通用する。
しかし中学生には通用しない。
もしそれが通用するというのであれば、子どもの発育程度に、かなりの問題があると
みてよい。
ふつうの子どもなら、(「ふつう」という言葉は、慎重に使いたいが……)、それに
抵抗する。
親子の関係は断絶し、子どもは非行に……というケースも少なくない。

 が、それでも何とか親の期待通りの子どもに育っていくケースもある。
つまりこうしてバリバリの受験生が育っていく。

●韓国の異常性

 頭の中は点数だらけ。
勉強のことしか、頭にない。
やることは、勉強だけ。
できることは、勉強だけ。
点数で他人を判断し、点数で自分を判断する。
何かにつけて、(数字)が優先する。

 こうした異常性は、その中に住んでいる人にはわからない。
たとえば隣の韓国。
国自体が、受験国家。
毎日の新聞(朝鮮N報、東亜N報)をみても、「順位」が並ばない日はない。
たまたま今朝(9月18日)も、朝鮮N報のトップ記事は、「先進化31位」。

『……まず、ソウル大学国際大学院の文輝昌(ムン・ヒチャン)教授が、「2010国家先進化指数
の研究結果」について発表した。これは、経済開発機構(OECD)加盟30カ国を含む世界の主
要40カ国・地域を対象に国家先進化指数を調べたもので、韓国は総合31位と中下位圏にとど
まった。アジアでは中国(39位)を上回ったが、香港(18位)や日本(21位)、シンガポール(22
位)、台湾(39位)に比べ低かった。韓国は2008年の同調査で30位、09年には29位だった』(記
事より一部、転載)と。

 つい先日は、『現代車が、アメリカでの評価順位で、ホンダを抜いた』とか何とか。
順位が気になって仕方ないらしい。

「国」といっても、「民」が作る。
現在のエリートたちは、これまたはげしい受験競争をくぐり抜けてきた世代。
そうした結果が、こうした(異常性)となって、現われている。
(もちろん韓国のエリートたちは、自分が異常とは、思っていないだろうが……。)

●脳のCPU

 「心」というのは、一度壊れると、修復がたいへんむずかしい。
一生、不可能とさえ、断言してもよい。
温かい人が何かのきっかけで冷たくなるということは、ある。
しかし冷たい人が、そのあと、温かくなるということは、まず、ない。
そのことは、ほんの少しだけ、あなたの周辺の人たちを観察してみればわかるはず。

 つまりあなたの周囲にもいろいろな人がいる。
が、概して、受験競争とは無縁だった人ほど、心が温かい。
人間的な温もりを残している。
が、はげしい受験競争を通り抜けた人ほど、心が冷たい。

 ただしこの問題だけは、脳のCPU(中央演算装置)がからんでいるため、
本人がそれに気づくことは、まずない。
価値観、人間観、プラス心そものが、ずれている。
世渡りがうまく、要領もよい。
ずる賢く、ささいな理由を見つけては、自分を正当化する。
むしろ「私は義理堅い、人情味あふれる人間」と思っているケースが多い。

●孤独

 心が冷たい人間に与えられる「罰」は、「孤独」という罰である。
この孤独感が、いつもついて回る。
つまり(心の冷たさ)と(孤独)は、紙の表と裏ということになる。

……とまで断言するのは危険なことだが、(というのも「孤独論」は、それ
自体、別の次元のテーマであるので)、心の冷たい人は、いつも孤独と葛藤する。
心の隙間を埋めることができない。
名声とか、地位とか、経済力にだまされてはいけない。
人が周囲にたくさん集まっていたとしても、それがその人の人格によるものとは
かぎらない。
むしろ社会で「成功者」と呼ばれている人ほど、心は冷たい。
また冷たくないと、この世界では成功者になりにくい。

 「なぜ、私は孤独なのか?」と悩んでいる人は、一度、自分の心の中をのぞいて
みるとよい。
原因は、あなた自身の、あなた自身が気がつかない心の奥深くにある。
あなたを知る人は、あなたの冷たさを知り、そして去っていく。

●子どもたちへ(親たちへ)

 子どもを受験競争に追い立てるとしても、心までつぶしてしまってはいけない。
そんなことをすれば、一抹の「成功」(?)を手に入れることはできるかもしれないが、
それ以上にたいせつなものを、失う。

 先にあげたX君。
どこの学校の、どのクラスにも、2〜3人はいる。
実際には学年を追うごとに、もっと多くなる。
皮肉なことに、有名進学校と呼ばれる高校や中学ほど、多い。
その結果、どうなるか。

 先日、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)にこんな記事を書かせてもらった。
それをこの稿の結論としたい。

++++++++++++++

「ファミリス・Q&Aより」

++++++++++++++

相談:中学3年生の父から
 いよいよ長男が受験の年ということで、夫婦共々肩に力が入ってしまうのか、さ細なことも受
験に結びつけてしまい、あれこれと口を出してしまいます。
 自分が中3のときにどうだったか考えれば、そっと見守るのがいちばんだとはわかっている
のですが……。受験期の親はどうあるべきか? アドバイスをください。

A:ある父親は事業に失敗。そこで高校生になった娘に、「大学進学はあきらめてくれ」と。が、
この言葉に娘は猛反発。「ちゃんと親としての責任を取れ!」と。

そこで私が割って入ると、その娘はこう言いました。「私は子どものときから勉強しろ、勉強しろ
と、そんなことばかり言われてきた。それを今になって、あきらめてくれと、どうしてそんなことが
言えるの!」と。

 内閣府(平成21年)の調査によれば、「将来、どんなことをしてでも親のめんどうをみる」と考
えている日本の青年は、たったの28%(イギリス66%、アメリカ64%)。

 そこで本題。子育てが終わると同時にやってくるのが、老後。今のあなたは「下」ばかり見て
いるから、自分の老後がわからない。長男の受験の心配より、自分の老後の心配をしなさい。
へたに「勉強しろ!」「塾へ行け」などと言おうものなら、あとあと責任を取らされますよ。

しかも一度大学生として都会へ出すと、まず地元には戻ってこない。中には「親のために大学
へ行ってやる」と豪語する高校生すらいます。感謝の「カ」の字もない。

あとは(独居老人)→(孤独死)。今のままでは、あなたもそうなります。そこで教訓。長男が、
「大学(高校)へ行かせてください」と3度頭をさげるまで、学費など出さないこと。口も出さない
こと。…というのは無理かもしれませんが、そうしたき然とした姿勢が、かえって親子の絆を太く
します。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の暖かい子供 心の温かい子供 冷たい子供 冷たい子ども)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司








Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【資料】毎日JP(2010年9月18日)より

******************(資料として保存させていただきます。)

●日本の教育費と対外比較

教育への公費、貧弱さ浮き彫り OECD国際比較…平均並みハードル高く

 経済協力開発機構(OECD)が「図表でみる教育10年版」を公表した。国際比較で改めて浮
き彫りになったのは、日本の教育環境の貧弱さだ。民主党はOECD平均並みに教育への支
出を増やす目標を掲げるが、ハードルは高い。

 ◆家計頼みの高等教育

 民主党は、国内総生産(GDP)に占める学校など教育機関への公的支出割合を、OECD平
均以上に引き上げる目標を掲げている。公表されたデータによると、07年のOECD平均は4・
8%。これに対し、日本のGDP比は3・3%で、比較可能な28カ国の中では最下位だった。

 07年の日本の名目GDPは約515兆円。OECD平均との差の1・5%を埋めるには、新たに
8兆円近い支出が必要になる計算だ。今回のデータは自民党政権時代のものだが、政権交代
後に始まった高校無償化にしても事業費は3933億円。「OECD平均」の達成は容易ではな
い。

 各国との格差がとりわけ大きいのが、大学などの高等教育段階だ。私費を含めた高等教育
機関に対する全支出に占める公費の割合はOECD平均が69・1%だったのに対し、日本は3
2・5%にすぎない。授業料など家計からの支出が51・1%、大学への寄付など企業や個人の
支出が16・5%で、計67・5%が私費からの支出だ。08年の日本の高等教育への進学率は
OECD平均(72%)を上回る77%。アメリカのように公費が少なくても企業からの寄付金や奨
学金が充実している国と違い、日本や韓国などは、家計負担に頼ることで高い進学率を可能
にしている。

 文部科学省は来年度予算の概算要求に、04年度以降毎年削減してきた国立大学法人運
営費交付金の増額を盛り込み、国立大の授業料免除対象者を今年度(約3万7000人)より
約1万1000人増やすことを目指す。また、大学生らへの奨学金の貸与人数を無利子、有利
子合わせて12万4000人増やすための予算増も要求。このほか、低所得世帯の高校生約6
6万人に対する返済不要の給付型奨学金新設に122億円を要求した。

 ◇まだ多い1学級の児童生徒数 編成基準引き下げで改善見込み

 日本は少人数教育の面においても、他のOECD諸国との差が歴然としている。08年の1ク
ラス当たりの児童生徒数は、小学校が28人で27カ国中3番目に多く、OECD平均(21・6人)
と6人以上、最少のルクセンブルク(15・6人)とは12人以上の開きがある。中学校も33人と
23カ国中2番目に多く、OECD平均(23・7人)と9人以上、最少のスイス(18・9人)とは14人
差だ。

 また、教員1人当たりの児童生徒数は、小学校が18・8人(OECD平均16・4人)、中学校
が14・7人(同13・7人)。いずれもOECD平均より多く、その分、子どもたち一人一人に目が
行き届きにくいのが現状だ。

 ただ、この差は今後縮まる可能性が高い。文科省は来年度、学級編成基準を現行の上限4
0人から30年ぶりに引き下げる計画を発表。18年度まで8年間かけて教員を徐々に増やし、
最終的に小学1、2年生は30人に、小学3年から中学までは35人とする考えだ。計画通りな
らば、教員数は現在よりも約2万人増えることになる。一方で少子化も進むことから、18年度
段階の教員1人当たりの児童生徒数は小学校16・1人、中学校12・7人と、現在のOECD水
準並みに改善する見込みとしている。

 ◇学校選択制 積極導入国、半数超える

 学校選択制についても、日本とOECD諸国との間に違いが見られた。学校選択制が一般化
しているのは、初等教育(小学校)ではイギリス、フィンランド、ドイツ、イタリア、アメリカなど30
カ国中17カ国。前期中等教育(中学校)では18カ国。日本は韓国やノルウェーなどと共に一
般化していない国に分類された。

 OECDによると、積極的に導入している国は、(1)学校同士で競争し切磋琢磨(せっさたく
ま)する(2)(成育環境や学力が近い児童生徒が集まることで)幅広い生徒に対応する必要が
なくなり、教育サービスを効率的に行える(3)独創的・個性的な学校が生まれやすくなる−−
などを理由に挙げている。

 日本でも97年の規制緩和で学校選択制を導入できるようになったが、文科省の06年調査
では、小学校で導入した市町村が14・2%、中学が13・9%。導入した自治体でも、市町村内
の学校を自由に選べる形態は少なく、従来の通学区を残して特定の地域に住む児童生徒だ
けを対象にした形態が多い。近年は「地域との関係が希薄になる」「学校間の序列や格差が生
じる」「入学者数に偏りが出る」といったデメリットを指摘する声も多く、前橋市が学校選択制を
廃止するなど、見直しの動きも相次いでいる。

==============

 【公的支出の対GDP比】

 (1)アイスランド 7.0
 (2)デンマーク  6.6
 (3)スウェーデン 6.1
(26)チリ     3.7
(27)スロバキア  3.4
(28)日本     3.3

 (単位は%。OECD平均は4.8%)

(注意)以上「毎日JP」より、資料として転載***************

Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●仮面夫婦(60代の夫婦)

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夫婦の形に定型はない。
千差万別。
みな、ちがう。
幸福そうに見える夫婦でも、中身は問題だらけ。
不幸そうに見える夫婦でも、心は通い合っている。
「私たち夫婦がこうだから……」という『ダカラ論』ほど、
アテにならないものはない。
私は私、あなたはあなた。
私たち夫婦は、私たち。
あたなたち夫婦は、あなたたち。

もともとは他人。
生まれも生い立ちもちがう。
性質や性格もちがう。
ものの考え方もちがう。

だから……というわけでもないが、みな、仮面をかぶっている。
仮面をかぶっていない夫婦などいない。
つまり「夫婦という仮面」。
みな、かぶっている。

+++++++++++++++++++

●抑圧

 私たち夫婦も、この40年間を総括してみると、こうなる。
「つまり、よく今まで夫婦でいられたなア……」と。
いつ離婚してもおかしくない状態だった。
そんな状態のまま、40年。
もしふつうの夫婦(?)だったら、何10回も離婚していただろう。

 ワイフはそれを否定するが、ワイフは、深層心理の奥深くでは、私を嫌っている。
「毛嫌い」というか、生理的な嫌悪感?
何でもないようなときに、ふと肩などに触れたとすると、無意識のまま私の手を
払いのける。
パン、と。
が、本人には、その意識はない。
「今、お前は、ぼくの手を払いのけたよ」と言っても、「私は覚えていない」と。

 が、ふだんは、よいワイフ。
思いやりもあって、やさしい。
しかし私は私が感ずるさみしさを、どうすることもできない。
こればかりは、ワイフの心の奥の、そのまた奥の問題。
ワイフの力でも、どうにもならないだろう。

 心理学の世界では、「抑圧」という言葉を使って説明する。
慢性的な不満や怒りがつづくと、人は心の別室を作り、それをそこに閉じこめる。
そういうふうにして、自分の心を防衛する。
これを「防衛機制」という。
「機制」というと大げさな感じがするが、「メカニズム」の邦訳。

 抑圧された心は、そのつど、折りにつけ顔を出す。
それがパンと手で払うという行為になって現われる(?)。

●抑圧

 だからときどき申し訳なく思う。
「別れてあげようか?」と聞くこともある。
ワイフは、「このままでいい」と言うが、しかし私が感じているさみしさまでは理解
できない。
ワイフの心は、その奥の奥で、閉ざされたまま。
そう、ワイフは子どものころから、だれにも心を開かなかったという。
ワイフをよく知る義姉たちは、みな、こう言う。
「がまん強い子だった」と。

 つまりがまんすることで、自分の心を抑圧した。
それが思考回路となって、今でも残っている。
私との間でいやなことがあっても、めったにワイフはそれを口にしない。
不平や不満を口にしない。
そのまま心の奥にため込んでしまう。

 で、おかしなもので、その一方で、私にはそれができない。
何でもその場で、パッパッと発散してしまう。
またそれをしないと、気が済まない。
心の奥にためこむということができない。
だから子どものころは、喧嘩早かった。
ときには相手の家の奥まで追い詰めて、その相手を殴り飛ばしたこともある。
だから近所の子どもたちは、みな、こう言った。

「林の浩ちゃん(=私)と喧嘩すると、逃げ場がない」と。
私は親分肌だったが、同時に仲間の間では、こわい存在だった。

●空の巣症候群

 しかしその私ももうすぐ63歳。
ワイフは60歳。
子育てが終わって、……とくに三男が養子のような形で相手の女性の家にあがりこんで
しまったときには、夫婦の絆が切れてしまったように感じた。
「空の巣症候群」とは、少しちがう。
無力感というか、絶望感。
それに近い。

 で、よく『子はかすがい』と言う。
その(かすがい)が消えてしまった。
と、同時に、そこにいるのは、私のワイフという、1人の女性。
それまでは2人で、よく夢を見た。
「息子の操縦する飛行機で、オーストラリアへ行こう」など、と。
しかしこの9か月、空を見あげることもなくなった。
飛行機の話さえ、しない。

 おかしなもので、息子がいつなんどき飛行機事故で死んでもよいように、心の
準備だけは、いつも整えている。
またそうでもしないと、ときどき報道される飛行機事故のニュースに耐えられない。
そのつど、ハラハラするのは、つらい。
だから飛行機のことは、考えない。
息子の職業のことは、考えない。

 が、ワイフは平気。
ふつうの職業と考えている。
が、私はちがう。
29歳のときに、飛行機事故に遭遇している。
間一髪のところで、命拾いをした。
そういうトラウマがあるから、飛行機に対しては別の感じ方をする。

●あきらめ

 そういう形で、息子たちが去ったとき、残っているものは、何か?
とても残念なことに、私とワイフの間に、乾いたすきま風が吹き始めた。
(かすがい)が消えたあと、穴があいた。

 が、私たちは懸命に自分を立て直そうしている。
どうであれ、人生は短い。
健康年齢ということを考えるなら、すでに健康年齢は終わりつつある。
「これから何かを……」という年齢ではない。
言うなれば、落ち穂拾い。
ミレーの描いた、あの絵画のような「落ち穂拾い」。
目の前にあるのは、そんな世界。

100%、絆の太い夫婦など、いない。
みな、ボロボロ。
穴だらけ。
穴の大きさにちがいはあるだろう。
しかし懸命に支え合って生きていく。
あきらめと、さみしさ。
それを心のどこかで交互に感じながら、生きていく。
それしかない。

●さみしい話

 ところでこんなさみしい話がある。

 1週間ほど前、東京のT区に住んでいる女性から、講演に来てもらえないかという
メールを受け取った。
よほどのことがないかぎり、私は講演を断ったことはない。
で、条件は、「旅費込みで、2万5000円」。
集まる人は、10人〜前後。

 それでも私はその女性の好意がうれしかった。
「必要としてもらっている」という思いを、メールを通して感ずることができた。
だから即座に引き受けた。
が、返ってきた返事は、意外なものだった。

 「これから会のほうで、先生(=私)にするかどうか検討して、また返事します」と。
これから検討する……?
私はそれを読んでがく然とした。
新幹線で往復するだけでも、1万7000円弱。
残りは8000円。
私の中で、迷いが生じた。

 その迷いは、つづくメールでさらに大きくなった。
その女性から、こんなメールが届いた。
「本当にこの料金で講演をしてもらえるかどうか、確かめてほしいということになり、
確かめさせてください」と。

 率直に言おう。
8000円で講演をする人はいない。
東京へ行くということは、それだけでも1日仕事。
私の年齢では、重労働。
食事をしたら、ほとんど何も残らない。
一方、この浜松では、「東京から来た」というだけで、何でもかんでもありがたがる。
悲しき田舎根性。
少し名の通った講師だと、30〜50万円が相場。
あのA・チャン(女性)のばあい、100〜160万円(週刊誌)とか。
「東京で有名になって、地方で稼げ」が、タレントたちの合い言葉になっている。

 その女性の好意が、一転、非常識に思えてきた。
先日も郷里の僧侶に、供養のため浜松へ来てもらったが、法要料が5万円、プラス
交通費が3万円だった。
とたんやる気が失せた。
つづくメールでは、断った。
「申し訳ありませんが、今回はお引き受けできません」と。

 が、どういうわけか私はさみしかった。
怒りはまったく、なかった。
「私の時代は終わった」というさみしさ。
「私の力もこんなものか」というさみしさ。
それがジンと胸の中で響いた。

 つまりそのとき感じた(さみしさ)が、今、ワイフとの間で感じている(さみしさ)に
似ている。

●私たちの年代

 こうして私たちは、ひとり、ひとりと順に(この世)という舞台から消えていく。
……とういうか、追い出されていく。
夫婦にしてもそうだ。
そこに見えるのは、先細りの人生。
夢や希望など、とうの昔にあきらめた。
目標といっても、吹けば飛ぶような小さなもの。
今も、こうして自分のことを書いているが、だれに頼まれたわけでもない。
頼まれているわけでもない。
私が勝手に「目標」としているだけ。
今夜にでも書くのをやめてしまえば、それでおしまい。

 が、私はそれにしがみつくしかない。
もしここで今の目標を手放したら、それこそ、私は生きる屍(しかばね)。
夫婦にしてもそうだ。
「離婚しましょう」「離婚しよう」と互いに合意すれば、それでおしまい。
が、私はワイフにしがみつくしかない。

 俗な言い方をすれば、いくらシワクチャなバーさんになっても、私にとって女性は
ワイフしかいない。
それにもしここで今、ワイフと別れてしまえば、あとに何が残る。
どこかで新しい女性と……というロマンなど、ありえない。
まあ、あえて言うなら、私が先に死ぬなら、最期のめんどうだけはみてほしい。
ワイフが先に死ぬなら、最期のめんどうだけはみてやろう。

 それまでいくら乾いた風がたがいの間を吹き抜けようとも、それはそれ。
あとは仮面をかぶって、その場をごまかす。
ニコニコと笑って、その場をやり過ごす。

 だって……。
みんなそうだ。
私たちだけが例外というわけではない。
それぞれがみな、それぞれの問題をかかえて、懸命に生きている。
支え合っている。

 それが私たちの年代の夫婦ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 50代の夫婦論 夫婦とは 夫婦について はやし浩司 子はかすがい 乾いた
すきま風)

(補記)

 暗い話ばかりつづいた。
今日は日曜日というのに、気分が晴れない。
先ほど、ホームベーカリーのセットをした。
午後9時ごろ、パンができあがるはず。
楽しみ。

 ところでホームベーカリーの使い勝手だが、たいへんよい。
簡単にホカホカの食パンができる。
しかし正直に負けを認めるが、パン屋のパンのほうがおいしい。
自分で作ったパンを見ながら、どうすればもっとパン屋のパンのようなパンが
焼けるのかと考える。
キメも荒い。
味も雑。

 ゆいいつの勝ち点は、予定した時刻にパンが焼き上がること。
そのころまでにスープを作り、ジャムを並べる。
できたてのパンのにおいは、何とも言えないほど、香ばしい。
(においだけだが……。)

 それに値段も、パン屋のパンと、それほどちがわないのではないか?
1斤、約300〜400円のコストがかかる。
パン屋でもそれくらい。
しかし自分で作るから楽しい。
そう言って自分をなぐさめる。
明日もまた、パンづくりに挑戦してみる。


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司※

●9月19日

●易経とDNA

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今日もしつこく調べる。
易経とDNAの関係。
あきらめない。
謎が解けるまで、私は
あきらめない。

いくつかのヒント(手がかり)を
手に入れた。

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 DNA言語は、前にも書いたが、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、
T(チミン)の4つの塩基が基本となって、構成される。
その4つの中から3つが取り出され、その組み合わせで、遺伝子情報が決定される。
その組み合わせの数は、64通り。

 で、この64通りと、二進数を組み合わせることはできないか?
それがまず謎の(1)。
なおこれから書くことは、はやし浩司という、この道のド素人の(遊戯)に過ぎないので、
その点を前もって了承しておいてほしい。
つまりは、頭のパズル。
ひまつぶし!



 手がかりは、64通りの組み合わせの中で、それぞれの塩基が3つ並ぶばあいが、ある。
たとえば、つぎのように並ぶ。

AAA
GGG
CCC
TTT、と。

たとえば(AAA)のとき、易経の対応表では、二進数では、(00・00・00)
であることがわかる。
同じように、(GGG)のときも、(00・00・00)。
(CCC)のときは、(11・11・11)。
(TTT)のときも、(11・11・11)。

(00・00・00)は、易経では、「」、(11・11・11)は、「乾」。

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4996382953/" title="img058 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4104/4996382953_
f02920464f.jpg" width="353" height="500" alt="img058" /></a>


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【一貫性と連続性】

+++++++++++++++++++

どんな人でも、その人の過去とつながりがある。
過去の上に、現在の「私」がある。
一方、どんな人にも、周囲とのつながりがある。
周囲の人たちとのつながりの中に、現在の「私」がある。
これを私は「一貫性」「連続性」と呼んでいる。
どちらがどちらでもよい。

しかしこれからの話をわかりやすくするために、
(過去とのつながり)を、「一貫性」といい、
(周囲とのつながり)を、「連続性」という。
(注:先にも書いたように、どちらがどちらでもよい。)

++++++++++++++++++++

●A・C疑惑

 先週、私はタレントのA・Cという人物について批評した。
「教育学博士」という肩書きをフルに使いながら、講演活動をしている。
が、その同じ人物が、他方で、霊感商法に手を染めていた。
それを指摘されると、それらの商品はHPから、さっと消えた。
どこか、おかしい?
チグハグ?
「博士」が、「霊感商法」?
・・・ということで、批判記事を書いた。
BLOGに載せた。

 反響は、ものすごかった。
多くは「ファン」と名乗る人たちからのものだが、「ファン」と
いうよりは、「信者」。
それを読んだとき、「さすが霊感商法」と、へんに感心した。

 が、私が本当に問題にしたのは、そのことではなかった。
一貫性の問題だった。
「教育学博士」というくらいなら、少なくともこの私よりはるかに
高い知性と理性をもった人ということになる。
私もそういう目で、よくA・Cのテレビ講演会などを聞いた。

A・Cは、ときにボランティア活動の大切さを説いた。
ときに「二匹のヤマアラシ」の話をした。
しかし私は、首をかしげるばかり。
どこがどうというのではない。
たわいもない話を、たわいもない言葉で話すだけ。
専門用語や専門知識は、ほとんど出てこなかった。

 こんな私でも、一般の人向けに話をするときは、専門用語を使うのを、極力控える。
が、それでもつい油断すると、口から出てきてしまう。

 そうした疑問を感じていたところに、今回、霊感商法疑惑が飛び出した。
A・Cが、自分のHPを使って、五色のブレスレットを売っていたという。
値段は一個、4〜5万円!

●一貫性

 人も50歳を過ぎると、一貫性が明確になってくる。
それまでの(積み重ね)があって、現在の(その人)になる。
こうして一貫性は生まれる。
が、もしその一貫性がないというのなら、まずその人の人間性を
疑ってみたらよい。
たとえば一方で教会の牧師をしながら、他方で子どもを性的に虐待しているとか。
こういうケースのばあい、(実際にはよくあることらしいが)、その
人の人間性を疑ってみる。
人格的に何かの障害者ということも考えられる。

 が、ふつうの人で、ふつうの人生を歩んできたなら、そこに一貫性が
生まれてくる。
「この人は、こういう人だ」という(つかみどろこ)と言ってもよい。
たとえば若いときから、ホームレスの人を助けてきたとか、あるいは
孤児の施設でボランティア活動をしてきたとか。
そういう過去が積み重なって、NPO法人を設立し、貧しい人たちの
救済活動をする。
そういう話なら、無理がない。
それが(その人らしさ)ということになる。

●連続性

 また連続性にしてもそうだ。
たとえば遠くアフリカの難民救済運動をしている人がいる。
それはそれで立派な活動だが、そういう人が、東京でたいへん
豪勢な邸宅に住み、リッチな生活をしている。
どこかへん。
どこかおかしい。
仮に何かのチャリティ・コンサートを開いたとしても、そこに別の意図を
感じてしまう。

 こういうケースのばあい、まず連続性を疑ってみる。
たとえばあのマザーテレサは、日本へ来たとき、弁当箱はもちろんのこと、
弁当箱についていた箸まで洗ってもって帰った。
それが「連続性」ということになる。
行動に矛盾がない。
もしその連続性がないとするなら、たとえば難民救済活動について言えば、
「偽善」を疑う。

●偽善

 この日本では、「偽善」に甘い。
本音と建前をうまく使い分ける。
『ウソも100ぺんつけば、本当になる』と教えている仏教教団もある。
偽善でも100回つづければ、本物になるということか?

 しかし欧米では、偽善にきびしい。
偽善者は、悪人以上の悪人と位置づけられている。
表向き、善人の顔をしているから、ふつうの悪人より性質(たち)が悪い。
しかも弱者を食い物にして、それを自己の名声、権力、財力へとつなげる。

私の恩師の故松下哲子先生(A幼稚園元園長)はいつもこう言っていた。
「林さん(=私)、悪人の餌(えさ)にだけはなってはいけませんよ」と。
このばあいの悪人というのは、「偽善者」をいう。
相手が見るからに悪人なら、だれも近寄らない。

 その連続性があるか、ないか。
一貫性と同じように、その人を判断するときの材料としてみる。

●三浦和義の自殺事件

 私たちの世代には、忘れられないひとつの事件がある。
『ロス疑惑事件』(1981年)というのが、それ。
その主人公が、三浦和義という男だった。
私と同じ、昭和22年生まれ。
段階の世代。
だからというわけでもないが、あの事件は、私たちに強烈な衝撃を
残した。

 で、その三浦和義が、(あえて呼び捨てにするのは、一美さん殴打事件では、
最高裁で懲役7年の実刑が確定しているから)、サイパンの拘置所で、自殺した。
が、この自殺に真っ先に疑問をもったのは、ほかならぬ妻のY氏だった。
「ぜったいに自殺のはずがない。殺された!」と。
長年、そばにいた人だから、そう確信したのだろう。

 実は私も、当時、半分だけそう思った。
「半分」というのは、「絶対に自殺のはずがない」と。
ただ「(拘置所のだれかに)殺された」ということは、考えなかった。
また状況からして、ありえない話だった。
というのも、あの『ロス疑惑事件』を知っている人ならだれでも、そう
思うだろうが、三浦和義は、自殺をするような人間ではない。
もし本当に自殺だったら、私が言う、三浦和義がもつ一貫性が崩れてしまう。

 三浦和義は、マスコミから総攻撃を受けても、かつ裁判所で裁判を
繰り返しながらも、一度もひるむことはなかった。
むしろ逆に、自分を疑ったマスコミを片っ端から名誉既存で告発し、
莫大な慰謝料と損害賠償金を手にしている。
「冤罪(えんざい)の会」(仮称)まで主宰している。
そんな男が、自殺?

 が、これについて、『文藝春秋』(2010年10月号)は、こんな興味
深い手記を載せている。
「自殺でも、他殺でもない。狂言自殺が失敗して、本当に死んでしまったのだ」
と。
安倍隆典氏が、こう書いている。

「ロス市警による他殺説はまったくのナンセンス」
「狂言自殺の失敗である」
「絶体絶命になったとき、自殺をちらつかせる。これは三浦氏の
行動パターンである」
「・・・ここから先は、読者の皆さんで考えていただきたい。
考えるヒントは、縊死による自殺未遂では、しばしば脳障害の後遺症
が残ることである。そして三浦氏が実にすばらしい演技能力を持って
いることは、皆さんがよくご存知のはず」(以上、原文のまま)と。

 冤罪なのか、冤罪でないのか。
今では事件のすべてが、三浦和義とともに、闇の世界に入ってしまった。
が、ここで私がいう「一貫性」をあてはめてみると、一本の筋道が見えてくる。
それを安倍氏は指摘した。

なお三浦和義は、「縊死による自殺」、つまり首吊り自殺といっても、
天井からそれをしたのではなく、もっと低い位置から、足が床についた状態
でそれをしたという。
私には、「本気性」が、どうしても感じられない。
本気で自殺を考えたら、そんな方法は考えない。
その本気性が感じられないという点でも、三浦和義には、一貫性がある。

●安倍氏の手記より

 『文藝春秋』の中で阿部氏は、こんな興味深い事実を指摘している。
三浦和義事件については、隅の隅まで知り尽くしたはずの私ですら、知らなかった。
阿部氏は、こう書いている。
そのまま転載させてもらう。
(以下、『文藝春秋』より転載。)

 「・・・『週刊文春』が発売されたころ、中年の女性の声で奇妙な電話が
編集部にかかってきた・・・。
「昨日、八重洲にあるブックセンターへ行ったら、三浦さんがいた。
サングラスをかけていたが、三浦さんとすぐにわかったので、後をつけて
いったら、『自殺』という本を買っていた・・・」

 翌日の午前、今度はやくざ風の男から電話がかかってきた。
「てめえ、このクソ野郎、おめえたちが、いい加減なことを書きやがるから、
和さんが自殺したじゃねえか」

 しかし、これはまったくのデマだった。
本の話が気になった私は、本当に『自殺』が売れたのか、問い合わせてみた。
答えは、「一冊も売れていません」。

 絶体絶命になったとき、危機から脱出するために、自殺をちらつかせる、
これは三浦氏の行動パターンである」(以上、『文藝春秋』P296より)。

 安倍氏の話には一貫性がある。
三浦和義の行動にも一貫性がある。

●化けの皮
 
 が、その一方で連続性があるからといって、そのまま信じてもいけない。
こんな話もある。

ある女性(当時60歳くらい)は、近所で、「仏様」とさえ呼ばれていた。
小さな村だったが、毎週、独居老人の家を回って、そうした老人の世話を
していた。
話術にたけた人で、自分でもそうした話を、みなに吹聴して回った。
「・・・私ね、見るに見かねてねエ・・・」と。
市の福祉協議会から感謝状を渡されたこともある。
が、それは仮面だった。

 実の父親の介護をすることになったときのこと。
実の父親である。
内々では虐待に近い行為を繰り返していた。
食事といっても3食とも、ごはんと味噌汁だけ。
部屋から部屋へ移動するときも、うしろ首をつかんで、床を引きずっていた。
が、他人の視線を少しでも感ずると、一転、できのよい娘を演じた。
かいがいしく介護してみせた。
その介護の仕方が過剰というか、実に演技ぽいものだった。

 この心理学の世界には『代理ミュンヒハウゼン症候群』という言葉がある。
一方で子どもを虐待しながら、一方でよき母親(父親)を演ずる。
精神障害のひとつに考えられている。
代理ミュンヒハウゼンというと、相手が子どものばあいをいうが、相手が親
というケースも、実際には同じくらい多い。

 さらに・・・。
父親は財産のほとんどを現金にし、タンスの奥に詰めていた。
父親が亡くなったときには、その現金もそのほとんどが消えていたという。

 この女性のばあい、父親を介護することになったとき、その一貫性が
崩れた。
「化けの皮がはがれた」という言葉のほうがふさわしいかもしれない。

●50歳という年齢

 50歳を過ぎたら、その人の一貫性と連続性をみる。
あなた自身の一貫性と連続性でもよい。
が、このことは、さらに重大な意味を含む。
『統合性の問題』である。
正確には「自我の統合性の確立」という言い方をする。

 老齢期にさしかかったら、(自分がすべきこと)を決定し、実際に
(それをする)。
これら両者を一致させることが、『統合性』ということになる。
が、この統合性は、一朝一夕には確立しない。・・・できない。
それまでの(積み重ね)が必要。
「定年退職をしました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木の苗を
植えてきます」というわけにはいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長続きしない。
すぐボロがでる。

 言い換えると一貫性と連続性をもつということは、それだけたいへんという
ことになる。
(もちろん悪い意味での一貫性では、困るが・・・。)

エリクソンは、それを始めるのは、40歳くらいからと説いている。
「それ」というのは、統合性の確立のための準備をいう。
その下地をつくる。
そのための努力を重ねる。

 が、実際には40歳では遅すぎるのではないか。
早ければ早いほどよい。
30歳でも早すぎるということはない。
たとえばボランティア活動にしても、少しずつの積み重ねが、時間をかけ、
行動として熟成していく。
「一貫性」とは、それをいう。

●終わりに・・・

 あえて付け加えるなら、一貫性と連続性は、その人の人格の完成度を
計るバロメーターにもなる。
ピーター・サロベイも、人格の完成度のひとつに、「良好な人間関係」を
あげている。
一貫性と連続性がなければ、良好な人間関係を結ぶのもむずかしい。

また道徳の完成度においても、「公平性」が問題になる(コールバーグ)。
その公平性を決定するのも、一貫性と連続性ということになる。
相手に応じて善悪の価値基準を変えていたのでは、公平性は保てない。

 で、ここから先は、自分の問題。
さて私には、一貫性と連続性があるやなしや、と。
しかしそれを判断するのは、実際には私ではない。
私の近くにいる周囲の人たちである。

 が、こういうことなら言える。
「私は一貫性と連続性をもって生きてきたか」と。
それについては、残念ながら、答は「NO!」。
私は子どものころから、どこかいいかげんな人間だった。
今もそうだ。
つまりそれだけ人格の完成度も、道徳の完成度も低いということになる。

 ……ということで、今日もがんばろう。
9月20日。
祭日ということになっているが、今日の私にはフルタイムの職場が待っている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 一貫性 連続性 人格の完成度 サロベイ 道徳の完成度 コールバーグ はや
し浩司 ロス疑惑 ロス疑惑事件)


Hiroshi Hayashi++++++Sep 2010++++++はやし浩司

【BW幼児教室より】(BW子どもクラブの様子)****************

●テーマ:作文指導

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

年長児に作文指導をしてみました。
「文を書くことは楽しい」……そんな印象づくりを大切にしました。
子どもたちの笑い声をお楽しみください。
2010年9月20日
by
はやし浩司

BW教室(BW幼児教室)

もっと見てくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より
「BW公開教室」へと、お進みください。

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【1】導入


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【2】展開


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【3】展開


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【4】展開


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【5】作文指導


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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児の作文指導、楽しく学ぶ子どもたち Happy Learners learn Best)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●9月21日

+++++++++++++++++++++

昨夜は遅くまで、雑誌『文藝春秋』と『VOICE』
を読んでいた。
少し眠くなってからは、ふとんの上で扇風機を
かけながら読んだ。
そのせいか、今朝はやや頭が重い。
しばらくこうしてキーボードを叩いていれば、治るだろう。
みなさん、おはようございます。

+++++++++++++++++++++

●不景気

 この浜松でも、景気はドン底。
実家の家業が自転車店だった。
そのこともあって、街を歩いていても、自転車店が気になる。
またその様子を見て、私なりに街の景況を判断する。

で、「よく店を開いているなあ?」というのが、私の感想。
店先に低価格の自転車を並べる。
通りを歩く人の目につくように、だ。
この商法は、40年前、50年前と同じ。

 価格は1万1000円〜3000円。
安い!
50年前でも、1万円台の自転車は、めったになかった。
ただ自転車は、ほかの商品と異なり、場所をとる。
かなり広い店でも、40〜50台を並べるのが、やっと。
そのため大型電気店のカメラコーナーに及ばない。
つまり、ひとつの棚に並んでいるカメラのほうが、自転車店に
並んでいる自転車よりも、合計すれば値段が高い。
そのため自転車のばあい、その分だけ、利益率を高くしなければ
ならない。
1万円前後の価格では、利益など出るはずもない。

 そこで自転車店は、ランプをつけたりカゴをつけたりして、利益を出す。
が、これにも限界がある。
今では安い東南アジア製が、どんどんと入ってきている。
客の方が、もとの値段を知っている。

 が、自転車そのものは、売れていないわけではない。
販売台数は、ふえている(経産省調べ)。
そこで……というより、たまたま昨日、公民館の前を歩いたとき、
みながどこで自転車を買っているかを調べてみた。
どこの自転車店も、自分の店で売った自転車には、小さなシールを貼る。
それを見れば、それがわかる。

 そこには30台前後の自転車が並んでいた。
が、個人の店の自転車はゼロだった。
まったくのゼロだった。
どれにも大型店、もしくはショッピングセンターのシール、もしくは
保証シールが貼ってあった。
ほんの10〜15年前には、そのほとんどが個人の自転車店のシール
だったが……。

 時代が変わったのか?
客の趣向が変わったのか?

 私が子どものころのこと。
私は学校から帰ってくると、いつも母にこう聞いたそうだ。
「今日、自転車、売れた?」と。
私自身は、それを覚えていない。
しかしその「心」は、今でも体のどこかにしみついている。
だからさみしい。
つらい。

 こと自転車店でみるかぎり、街の景況は最悪。
「がんばってくださいよ!」と言うのもつらいほど、最悪。
日本の政治が悪いのか。
それともこれも世の流れなのか。

 自転車店だけではない。
日本中が、今、不景気のドン底で、もがいている。


●日本の為替介入

 日本政府が日銀と組んで、為替介入をした。
2兆円規模の為替介入だった。
円高を是正するため、にである。

 そのせいか、ここ数日は、1ドルが86円弱で推移している。
しかしこれはまさに両刃の剣。
一時的に日本はそれでよいとしても、世界中が同じことをしたら、どうなる?
各国の中央銀行が、こぞって札を印刷し始めたら、どうなる?
やがてやってくるのは、ハイパーインフレ。
すでにその兆候は、金(ゴールド)、プラチナ価格の上昇となって現われている。

 『文藝春秋』の中に、「1ドル50円時代に備えよ」という記事があった。
私も実勢価値は、その程度と思う。
しかしいきなり50円になったら、世界経済はメチャメチャになってしまう。
世界恐慌を数回重ねて起こすようなもの。
そこで何とか……ということで、現在、軟着陸をめざして各国政府が
あれこれと方策を出し合っている。

 うまくいけば、よし。
そうでなければ、……?
その鍵を握るのが、やはり中国ということになる。
しばらくは中国の動向をながめながら、ハラハラする日がつづきそう。


●打たれ強くなる

 インターネットの世界では、他人の批評や批判など、気にしてはいけない。
中傷や悪口も、気にしてはいけない。
が、最初は気になる。
しかしそれも回数がふえ、時間がたつと、慣れてくる。
私も、最初のころは、ボロボロに叩かれた。
そのつど傷ついた。
が、今ではそれも少なくなった。
相手にしなければ、向こうのほうから去っていく。
それにそういった書き込みやコメントは、ゴミ。
タイトルを見ただけで、即、削除。

 大切なことは、「個人」が声をあげること。
その「声」が、日本を変えていく。
日本を住みやすい国に作りかえていく。

 今朝も、1つ、イヤ〜ミたっぷりのコメントが届いていた。
なかなかの名文(?)だったので、ここに紹介しようかと思った。
しかしやはり、ゴミはゴミ。
そのまま削除した。
ところでこのところそうして削除することに、快感を覚えるようになった。
「バ〜カ!」と。

 文句があるなら、実名を明かして、正々堂々と勝負しろ!
私は、そうしているぞ!


●幼児教室

 幼児教室というと、幼児を苦しめるための教室と考えている人は多い。
少し前、朝日新聞社系の「AERA」誌も、そんな論調で、「早期教育無用論」を
説いていた(2010)。
いわく「早期教育は無駄」と。
「幼児期に文字を覚えても、小学校ですぐ追いつかれる」と。

 で、その根拠となった論文を調べてみたら、大阪万博(1970)の前に書かれたもの。
そのころはそうだったかもしれない。
幼稚園でも、文字を教えることはタブー視されていた。

 が、(教える)といっても、何も形のあるものとはかぎらない。
たとえば「学ぶ楽しさ」には、形がない。
それを教えるのが幼児教育。

 昨日は、私の教室では、幼児の作文指導+言葉遊びをしてみた。
「作文指導」と構えたのは、はじめて。
できるかどうか、多少の不安はあった。
が、やってみて、よかった。
子どもたちはワイワイと言って、それを楽しんでくれた。

 AERAの編集部のみなさん。
一度は、私の教室ものぞいてみてほしい。
少しは偏見と誤解を解いてほしい。

もう一度、YOUTUBEにUPLOADしたビデオを、ここに載せておく。


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司


●テーマ:作文指導

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
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年長児に作文指導をしてみました。
「文を書くことは楽しい」……そんな印象づくりを大切にしました。
子どもたちの笑い声をお楽しみください。
2010年9月20日
by
はやし浩司

BW教室(BW幼児教室)

もっと見てくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より
「BW公開教室」へと、お進みください。

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【1】導入


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【2】展開


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【3】展開


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【4】展開


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【5】作文指導


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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児の作文指導、楽しく学ぶ子どもたち Happy Learners learn Best)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●DNAと易経(3)(さらなる謎解き)

++++++++++++++++++

DNA DATA BANK of Japan
のHPで、アミノ酸のDNA配列を公表している。
それによれば、つぎのようである。
(86番目の塩基から、450番目の塩基について。)

++++++++++++++++++++++++

  86 atg gcg aag att aag atc ggg atc aat ggg ttc ggg agg atc ggg 
  aa: M A K I K I G I N G F G R I G   

  131 agg ctc gtg gcc agg gtg gcc ctg cag agc gac gac gtc gag ctc 
  aa: R L V A R V A L Q S D D V E L   
         
  176 gtc gcc gtc aac gac ccc ttc atc acc acc gac tac atg aca tac 
  aa: V A V N D P F I T T D Y M T Y   

  221 atg ttc aag tat gac act gtg cac ggc cag tgg aag cat cat gag 
  aa: M F K Y D T V H G Q W K H H E   
         
  266 gtt aag gtg aag gac tcc aag acc ctt ctc ttc ggt gag aag gag 
  aa: V K V K D S K T L L F G E K E   

  311 gtc acc gtg ttc ggc tgc agg aac cct aag gag atc cca tgg ggt 
  aa: V T V F G C R N P K E I P W G   
         
  356 gag act agc gct gag ttt gtt gtg gag tac act ggt gtt ttc act 
  aa: E T S A E F V V E Y T G V F T   
         
  401 gac aag gac aag gcc gtt gct caa ctt aag ggt ggt gct aag aag 
  aa: D K D K A V A Q L K G G A K K   
         
  446 gtc tg 
  aa: V ?

+++++++++++++++++++++++

 この配列表の中で、とくに注目してほしいのは、冒頭の「atg」。
「atg」は、「開始コドン」と呼ばれ、コンピューターのプログラム言語で言えば、
「スタート」を意味する。
「ここからプログラムが始まりますよ」という意味である。

 その「atg」は、中国の易経によれば、「土偏に欠」と書いて、「かん」、
十進数表示では、0から始まって、18番目に位置する。
二進数表示では、「01・00・10」となる。

 そこで無理に(?)、「atg」と「01・00・10」を組み合わせてみると、

(1)
a……01
t……00
g……10

あるいは、

(2)
a……10
t……00
g……01、となる。

 どちらが正しいかはわからない。
が、仮にここでは(1)が正しいとすると、塩基の並び方は、そのまま二進数で
表すことができる。
もちろん、ここにない「c」は、残りの「11」となる。
(塩基は、A、G、C、Tが基本になっている。)

 アミノ酸の最初から、5番目までを、二進数で表してみる(上記(1)が正しいと
仮定して……。)

atg……01・00・10
gcg……10・11・10
aag……01・01・10
att……01・00・00
aag……01・01・10

これらを十進数で表すと、つぎのようになる。

atg……18
gcg……46
aag……22
att……16
aag……22

これらの数字を、易経の漢字に当てはめてみると、つぎのようになる。

atg……(かん、土偏に欠)
gcg……革
aag……困
att……師
aag……困、となる。

 もちろん最初の仮定、つまり「a」が、「01」であるという仮定が崩れると、
ここに書いた表は、まったく意味をなさない。
DNAと漢字を無理に結びつけても意味はない。

 しかし4つの塩基というのは、それぞれ(00)(01)(10)(11)のどれかで
はないだろうか。
もう少しわかりやすく言えば、仮に(0)を(マイナス)、(1)を(プラス)とすれば、
(−−)(−+)(+−)(++)のどれかということになる。

 もちろんこの段階では、どれが「A(アデニン)」であり、どれが「G(グアニン)」
であるかまでは、特定できない。
ただ北周一郎氏は、『ニビルの謎』(学研)の中で、「こん(土偏に欠)」は、「開始」を
意味すると書いている。

もしそうであるとするなら、偶然の一致というには、あまりも偶然すぎる。
つまりこうしたことから、北氏は、「易経はDNAの配列を示したもである」と書いている。
が、もしそうなら、これは天地をひっくり返すほど、重大な事実ということになる。
5000年前の人が、DNAの配列を知っていた!

 考えれば考えるほど、謎が深まる。
プラス、おもしろい!
本当におもしろい!
その先は、底なしの謎に包まれている。

 このつづきは、また後日に書いてみたい。
ともかくも私はそのドアウェイ(玄関先)に立ったばかり。
DNAが何であるか、本当のところ、私はまったくわかっていない。
この先は、みなさんといっしょに、少しずつ勉強しながら、さらなる
謎解きに挑戦してみたい。

●参考資料

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4996382953/" title="img058 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4104/4996382953_
f02920464f.jpg" width="353" height="500" alt="img058" /></a>


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●塩基の謎と仮説的推論(4)2010年9月22日朝記

+++++++++++++++++++++

昨夜、寝る前に、「易経とDNA」について
書いた。
そのとき、アミノ酸のDNA配列について書いた。
その配列表を見ていて、ひとつの疑問が頭の
中を横切った。

もう一度、アミノ酸のDNA配列を、よく見て
ほしい。

+++++++++++++++++++++

【アミノ酸のDNA配列】

DNA DATA BANK of Japan
のHPで、アミノ酸のDNA配列を公表している。
それによれば、つぎのようである。
(86番目の塩基から、450番目の塩基について。)

++++++++++++++++++++++++

●アミノ酸のDNA配列
  86 atg gcg aag att aag atc ggg atc aat ggg ttc ggg agg atc ggg 
     
  131 agg ctc gtg gcc agg gtg gcc ctg cag agc gac gac gtc gag ctc 
     
  176 gtc gcc gtc aac gac ccc ttc atc acc acc gac tac atg aca tac 
    
  221 atg ttc aag tat gac act gtg cac ggc cag tgg aag cat cat gag 
              
  266 gtt aag gtg aag gac tcc aag acc ctt ctc ttc ggt gag aag gag 
     
  311 gtc acc gtg ttc ggc tgc agg aac cct aag gag atc cca tgg ggt 
    
  356 gag act agc gct gag ttt gtt gtg gag tac act ggt gtt ttc act 
              
  401 gac aag gac aag gcc gtt gct caa ctt aag ggt ggt gct aag aag 
    
       
  446 gtc tg 
   
(以上、DNA DATA BANK of JAPAN)

●4つの塩基

 基本的には、塩基には4種類あるとされている。
a(アデニン)、g(グアニン)、c(シトシン)、t(チミン)の4種類である。
この中の3つが組み合わさって、DNAの基本単語を構成する。
たとえば、アミノ酸のDNA配列を見れば、それがわかる。

86番目から、atg gcg aag att aag atc ggg……とつづく。

で、この配列表をよく見ると、ひとつの疑問が生まれてくる。
たとえば、(ggg)と(ccc)はあるが、(aaa)と(ttt)はない。

これに昨夜書いた、塩基の【+−(プラス・マイナス)説】を重ね合わせてみる。

●3種類の塩基

 仮説として、3つの塩基を考えてみる。(4つではなく、3つである。)

(++)、(−−)、(+−)の3つである。
三番目の(+−)は、ひっくり返せば、(−+)となる。
つまり(+−)と(−+)は、同じものと考える。
だから4種類ではなく、3種類ということになる。
ここでは先に、一応、そういうことにしておく。

●g(グアニン)とc(シトシン)

 なぜここで、g(グアニン)とc(シトシン)は、3個が連続して並ぶことができるか。
ここに3塩基説(+−説)を重ね合わせてみると、いとも簡単に謎が解ける。

どちらがどうであるかという疑問はさておき、
gを、(+−)と考えれば、(ggg)は、(+−)(+−)(+−)の順につながって
いることになる。
同じように、cを(−+)と考えれば、(ccc)は、(−+)(−+)(−+)
の順につながっていることになる。

ではなぜ、(aaa)と(ttt)は、見あたらないのか。
これについても、a(アデニン)を(++)、t(チミン)を(−−)、(もちろん
その逆でもよいが)、と考えると、納得がいく。
磁性から考えて、aとaが直接結合することは、ありえない。

そこでaとaは、間にgもしくはc(これら両者は、ひっくり返っただけで、
同じものと考えてよいが)を置くことによって、結合する。

たとえばataは、(++)(−−)(++)となる。

●3塩基説

 この仮説に従って、アミノ酸のDNA配列をながめてみよう。
64番目からの最初の1行だけを、とりあえず、考えてみる。

atg ……(++)(−−)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
gcg ……このままでは(+−)(−+)(+−)となり、磁性的な矛盾が生ずる。
この矛盾を解くためには、cは、gと同じ(+−)でなければならない。(1)

つぎの3文字単語を見てみよう。
aag ……(++)(++)(+−)となり、これにも磁性的な矛盾が生ずる。
この矛盾を解消するためには、aagをagaと並びかえた上、
gを(−−)としなければならない。(2)
すると最初の「atg」は、gatと並びかえないと、矛盾が生ずる。
gatであれば、(ーー)(++)(−−)となり、矛盾なく並ぶ。

そこでここまでの考え方をもとに、つぎの3文字言語をみてみる。

att ……tatと並び替えると、(ーー)(++)(−−)となり、矛盾なく並ぶ。
aag ……agaと並び替えると、(++)(ーー)(++)となり、矛盾なく並ぶ。
atc ……(++)(ーー)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
ggg ……gを(−−)とすると、(−−)(−−)(−−)となり、矛盾してしまう。
やはりgは、(+−)もしくは(−+)でなければならない。
となると、この説は、また振り出しに戻る。

ああああ。
では、つぎのatcはどうか。

atc ……(++)(ーー)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
aat ……ataと並び替えると、(++)(−−)(++)となり、矛盾なく並ぶ。
ggg ……(+−)(+−)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
ttc ……tctと並び替えると、(−−)(+−)(−−)となり、矛盾が生ずる。(3)
ggg ……(+−)(+−)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
agg ……gagと並び替えると、(+−)(++)(+−)とまり、矛盾が生ずる。(4)
atc ……(++)(ーー)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
ggg……(+−)(+−)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。

●問いつづける

 あのアインシュタインは、「問いつづけることが重要」と教えている。
で、これらの矛盾を解くためには、(矛盾しているからといって、あきらめてはいけない)、
(+−)と(−+)は、そのつど、自由にひっくり返ることができると考えればよい。
たとえば上記(4)の矛盾は、3番目のgを(ー+)とすれば、矛盾は解消する。

 では、(3)の矛盾は、どうなのか。
この矛盾を解消するためには、やはり第4番目の塩基を考えなければならない。
そのつど(−−)になったり、(++)になったりする塩基である。
結合する相手の磁性をみて、自由に自分の磁性を変えることができる塩基である。
たとえば(3)の矛盾の中で、cがそれであるとすると、cは(++)となり、
矛盾は解消する。

(1)の矛盾も、ggcと並び替え、cを(++)とすれば、矛盾は解消する。
(2)の矛盾も、gとcは、もともとおなじもので、(+)と(−)の配列が逆に
なったものと考えれば、矛盾は解消する。

●公式(仮説)

 こうして並べてみると、つぎのような公式が引き出される(仮説)。

(仮説A)**********************************

aは、(++)
gは、(+−)もしくは(−+)
cは、そのつど(++)にも、(−−)にも、相手の磁性に応じて変化することができる。
tは、(−−)、と。

***************************************

 この公式(仮説)に従って、つづく、2行目を検証してみる。

agg ……そのままでも、(++)(ー+)(−+)となり、矛盾なく並ぶ。
ctc ……(++)(−−)(++)となり、矛盾なく並ぶ。
gtg ……(ー+)(−−)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
gcc ……そのままでも、(+−)(++)(−−)となり、矛盾なく並ぶ。
agg ……そのままでも、(++)(ー+)(−+)となり、矛盾なく並ぶ。
gtg ……(−+)(−−)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
gcc ……そのままでも、(+−)(++)(−−)となり、矛盾なく並ぶ。
ctg ……(++)(ーー)(+−)となり、矛盾なく並ぶ。
cag ……(−−)(++)(ー+)となり、矛盾なく並ぶ。
agc ……(++)(ー+)(ーー)となり、矛盾なく並ぶ。
gac ……(+−)(++)(ーー)となり、矛盾なく並ぶ。
gac ……(+−)(++)(ーー)となり、矛盾なく並ぶ。
gtc ……(−+)(ーー)(++)となり、矛盾なく並ぶ。
gag ……(+−)(++)(−+)となり、矛盾なく並ぶ。
ctc ……(++)(−−)(++)となり、矛盾なく並ぶ。

●やはり塩基は4種類

 どれにどの名前を与えるかは、それは命名の問題にすぎない。
が、塩基には、上記、4種類ある(仮説A)。

(+++)の「a」、(−−−)の「t」。(あるいはこの磁性は逆かもしれない)。
その間にあって、遊飛的に変化結合する、「g」と「c」。

 が、この仮説を立てるのが、私の目的ではない。
この仮説に基づいた、二進数が、易経と関係があるかないかを調べるのが、私の目的。
2行目を二進数に置き換え、さらに易経でいう漢字をあてはめてみよう。
(ますますおもしろくなってきた!)

agg……(++)(ー+)(−+)は、110101。
ctc ……(++)(−−)(++)は、110011。
gtg ……(ー+)(−−)(+−)は、010010。
gcc ……(+−)(++)(−−)は、101100。
agg ……(++)(ー+)(−+)は、110101。
gtg ……(−+)(−−)(+−)は、010010。
gcc ……(+−)(++)(−−)は、101100。
ctg ……(++)(ーー)(+−)は、110010。
cag ……(−−)(++)(ー+)は、001101。
agc ……(++)(ー+)(ーー)は、110100。
gac ……(+−)(++)(ーー)は、101100。
gac ……(+−)(++)(ーー)は、101100。
gtc ……(−+)(ーー)(++)は、010011。
gag ……(+−)(++)(−+)は、101101。
ctc ……(++)(−−)(++)は、110011。

さらにこれらを十進数にあてはめ、易経でいう漢字を当てはめてみる。

agg……(++)(ー+)(−+)は、53。漢字は「目偏に、癸」
ctc ……(++)(−−)(++)は、51。漢字は「中フ?」
gtg ……(ー+)(−−)(+−)は、18。漢字は「土偏に欠」
gcc ……(+−)(++)(−−)は、44。漢字は「豊」
agg ……(++)(ー+)(−+)は、53。漢字は「目偏に、癸」
gtg ……(−+)(−−)(+−)は、18。漢字は「土偏に欠」
gcc ……(+−)(++)(−−)は、44。漢字は「豊」
ctg ……(++)(ーー)(+−)は、50。漢字は「節」
cag ……(−−)(++)(ー+)は、13。漢字は「旅」
agc ……(++)(ー+)(ーー)は、52。漢字は「帰妹」
gac ……(+−)(++)(ーー)は、44。漢字は「豊」
gac ……(+−)(++)(ーー)は、44。漢字は「豊」
gtc ……(−+)(ーー)(++)は、19。漢字は「?に、換の右半分」
gag ……(+−)(++)(−+)は、45。漢字は「離」
ctc ……(++)(−−)(++)は、51。漢字は「中フ?」

 漢字にはそれぞれ意味がある。
その意味と、DNAの3文字言語の意味は同じなのか、それともちがうのか。
仮にもし共通点が見つかったとしたら、前にも書いたように、天地をひっくり返すような
大発見となる。
何となれば、5000年以上も前の中国人は、DNAの配列のみならず、その意味する
ところまで知っていたことになる。

 以上、あくまでも仮説として、さらに言えば、知的遊戯のひとつとして、易経と
DNAの関係について考えてみた。

これははやし浩司という、この道のド素人の意見だから、あまり真に受けないでほしい。
ただ興味をもった人がいたら、あるいは私より詳しく調べた人がいたら、どうか教えて
ほしい。

 ますますこの世界が、おもしろくなってきた!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 易経とDNAの謎 易経の二進数 DNA言語 DNAの3文字言語)

●参考資料

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4996382953/" title="img058 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4104/4996382953_
f02920464f.jpg" width="353" height="500" alt="img058" /></a>


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●世界景気 

+++++++++++++++++

日本政府はどうとらえているか、知らない。
しかし現実の景気は、最悪。
体感景気は、さらに最悪。
全国的にみて、浜松の景気はまだよいほうと
言われている。
大企業がひしめく(?)、工業都市。
その浜松でも、このところ、店という店が、
暗く沈んでいる。
通りを歩く人たちも、どこか元気がない。

いったいどうなってしまったのか。
この浜松!
この日本!

+++++++++++++++++

●経済成長率

 経済成長率という言葉がある。
が、成長しているから、どうやらそれでよいということでもなさそうだ。
たとえば、A、B、C、D、Jの5つの国があるとする。
5番目の「J」は、日本。

 その中のA、B、C、Dの4つの国の成長率が10%。
J、つまり日本の成長率が、1%。
こういうとき、「少なくとも日本は、貧乏にはなっていない」と考える。
「今年は去年より、1%だけだが、よくなっている」と。
 
 が、実際にはどうか?
こんなケースで考えてみよう。

Aさんは、毎月のように家を改築している。
今月は光ファイバーを導入した。
先月は、それまでの太陽熱温水器から、太陽光発電に取り替えた。
来月は、家中を無線LANでつなぎ、外出先からも、家の中を
モニターできるようにした。

成長率が10%という国は、そういう形で発展している。
 
一方、Jさんは、現状維持が精一杯。
電話機も10年前の固定電話機のまま。
駐車場の屋根に取り付けた太陽熱温水器も、このところ故障つづき。
床の間には、古い置物がいくつか並んでいる。
先祖から伝わっているものというが、骨董的価値はほとんどない。
Jさんは、いつもこう言っている。
「何とか、やっていければ、それでいいです」と。

●社会のダイナミズム 

 こうした状態が10年もつづけば、どうなるか。
「差」は、一目りょう然。
経済成長率という数字にだまされてはいけない。
大切なのは、「社会のダイナミズム」。
国全体がもっている前向きな緊張感。
こうした「差」は、個々の家でも感ずることができる。
組織ともなれば、さらにはっきりと感ずることができる。

 同じ寿司屋でも、威勢のよい掛け声が飛び交っている寿司屋がある。
その一方で、店の主人が奥のほうに座り、いつ来るともわからない客をぼんやりと
待っている寿司屋もある。
節約のためか、電気のいくつかは消したまま。

 ゼロ成長、さらにマイナス成長になればなおさら。
その国の社会から、ダイナミズムが消える。
つまりその分だけ、より経済成長率の高い国に、ダイナミズムが奪われていく。
あとは、相乗効果で、そうした国はますます伸びていく。
一方、経済成長率の低い国は、悪循環の中でますます伸び悩んでいく。
今の日本は、まさにそういう国ということになる。

 ものの考え方が後ろ向き。
内へ内へと、ものの考え方が保守的になる。

●超・管理国家

 オーストラリアの友人(大学教授)がこう言った。
「オーストラリアも、ビュオクラチック(官僚主義的)になりつつある」と。
しかし程度が知れている。
この日本は、世界に名だたる官僚主義国家。
超の上に、超がつく官僚主義国家。
何をするにも、管理、管理、また管理。

 たとえば仕事にしても、今、資格、認可、許可なしでできる仕事は、ほとんどない。
あるとすれば、政治家くらいなもの。
あるいはタレント業。
それを頂点で管理するのが、官僚ということになる。

 オーストラリアでは、(それが好ましいことかどうかは別として)、若者たちはみな、
高校を卒業すると、自動車1台、電話1本で仕事を始める。
町中を、車のボデーを看板にした車が、無数に走っている。
「清掃します」
「パイプの詰まりを直します」
「電気工事します」
「屋根修理専門」などなど。

 言うまでもなく、社会が管理されればされるほど、社会からダイナミズムが消える。
人々はおとなしく、丸くなる。
小さくなる。
そしてそれと反比例する形で、役所が肥大化する。

●落ち葉はゴミ?

 最近では、「落ち葉はゴミ」と考える人がふえている。
そのため街路樹が枯れ葉を落とすころになると、市の苦情係のデスクには、苦情の
電話が殺到するという。
「落ち葉を何とかしろ!」と。

 街路樹の世話が市の仕事とするなら、落ち葉の始末も市の責任というわけである。
しかしこの考え方は、基本的な部分でまちがっている。
まちがっていることは、私は山荘生活をしてみて、はじめて知った。

 山荘周辺では、道路管理、水管理、土手の雑草管理などなど、すべてそこに住む
人たちの仕事である。
とくに「水」は、500メートルほど離れた山中から、引いている。
そのため水源の清掃、管理は欠かせない。
蛇口をひねれば水が出る……という生活に慣れきってしまった人には、それがわからない。
つまり水のありがたさが、わからない。
こうした「甘え」が、官僚主義国家をますます肥大化させる。
遠まわしな言い方になったが、こうした超・管理国家にしたその責任の半分は、
私たち日本人にもある。
この意識を変えないかぎり、この先、さらに管理、管理の超・管理社会は進む。

●内向きな若者たち

 誤解しないでほしいのは、官僚主義イコール、悪ということではないということ。
それが効率よく、かつ機能的に作用しているときは、それなりにうまくいく。
戦争直後の日本がそうだった。
しかしそれが逆転したとき、(現在がそうだが……)、官僚主義は反対に社会の
ダイナミズムを奪う原因となってしまう。

 不完全でもよい、失敗してもよい、……だからとにかくやってみよう!
それがダイナミズムの原点である。
たとえば教育の世界でも、電子黒板の導入、iPod型の電子ブック(教科書)の
導入が本格的に検討され始めた。
しかしこのニュースに対するコメントには、(大半が若者たちのものだが)、驚いた。
そこには10件ほどのコメントが並んでいたが、どれも否定的なものばかり。
「教師に楽をさせるだけ」
「ノートをとるから、勉強になる」
「そんなことに金をかけるなら、〜〜に金をかけろ」
「毎日予備校の通信講座を流したらいい」とかなど。

 コンピューターのもつ無限の可能性すら、若者たち自身が否定する。
その先、何ができるようになるか、それすらわかっていない。

●不公平感

 あの北朝鮮では、優良な(?)市民だけが、首都P市に住めるという。
あとの国民は、国民にあらず(?)。
しかしそういう国を見て、だれが笑うことができるだろうか。
この日本だって、同じことをしている。
私も63歳になって、はじめて、それがよくわかった。

 国民年金組は、いまだに年金はゼロ。
一方、元役人組は、すでに優雅な隠居生活を始めている。
私の自宅の周辺には、満55歳で退職したあと、ほぼ30年間遊んで暮らして
いる人たちが、たくさんいる。
そのほとんどが、元役人、もしくは旧国鉄労働者。
どの人も、30〜40万円(月額)の年金を手にしている。
で、皮肉なことに、プライドが高いせいもあるが、地域の活動に参加している
人は、ほとんどいない。
中には朝から晩まで、庭の手入れと、小さな畑仕事だけで、毎日を過ごしている
人もいる。

 ごく一部の人たちが、(実際には、現職の公務員、準公務員とその家族だけでも、
この日本には600〜700万人もいるが)、こうした恵まれた環境にいる。
その一方で、明日の生活に不安を抱きながら、「とにかくがんばるしかない」と
考えている人も多い。
私もその1人。
この不公平感には相当なものがある。
そしてその不公平感は、加齢とともに増大することはあっても、縮小することはない。

●失敗を許す社会

 忘れてはいけない。
成功はいつも失敗を土台として生まれる。
失敗を恐れていたら、成功など、おぼつかない。
つまりその失敗を許す寛容さこそが、成功への土台となる。
わかりやすく言えば、社会の不完全さ。
それこそが社会のダイナミズムを生む、原動力となる。

 「不完全にせよ」というのではない。
不完全であることに寛容であれと言っている。
「何もかも完ぺきに……」と考えれば考えるほど、官僚世界を肥大化させる。
そしてその分だけ、社会のみならず、国家経済すらも硬直化させる。
ある経済学者の試算によれば、公務員の人件費(給料を含めた、総人件費)
だけでも、38兆円。
国家税収が40兆円前後だから、これはもうメチャメチャな額といってもよい。
そのため、赤字国債につづく赤字国債。
国の借金だけでも、軽く1000兆円を超えている!
(政府が発表している700兆円うんぬんという額は、ウソ!)

 行政改革(官僚制度の是正)が叫ばれるようになって、もう20年。
一向にその成果が現われないばかりか、かえってこの日本は後退している。
これでは社会のダイナミズムなど、求めようがない。
つまり日本の発展もここまで!
とても残念なことだが。


Hiroshi Hayashi++++++Sep 2010++++++はやし浩司

●パソコン

「週刊アスキー」の今週号(10−26)の付録に、トランプカード
がついていた。
図柄に、歴代の・・・というか、1977年当時からのパソコンが
印刷されていた。
いちばん古いのが、1977年のAPPLE II。
この機種は、私がPET2001を買った直後に発売になったもので、
よく覚えている。
たしかモニターなしで、40万円前後ではなかったか。
(当時の価格で40万円だぞ!)
アップル社のあのカラフルなロゴが、ググーッと購買欲をそそった。

つづいて紹介されているのが、SharpのMZ-80K(1978)。
この機種も買わなかったが、よく覚えている。
浜松にさえパソコンショップが、まだ1〜2店しかない時代だった。
「ムーンベース」という店があって、そこでそれをよくいじらせてもらった。

 そのあと、NECのPC8000の時代へと突入する。
以後、私は毎年、2〜3台は新しいパソコンを購入した。
当時はパソコン1台が、40〜50万円もした。

懐かしいというより、そこに時代の流れを感ずる。
私はいつも新しいパソコンが発売になると、それを見に行った。
買いたくても買えなかったパソコン。
買っても、すぐあきてしまったパソコン。
中には使い物にならなかったのもある。
NECのUシリーズも、そのひとつ。
当時はやり始めた「パソコン通信」をやりたかったが、カタカナ表示のみ。
どうすれば漢字表示ができるか、あれこれ試してみたが、結局、できな
かった。
数か月使っただけで、お蔵入り!

●1977年 

 APPLEのAPPLEIIが、発売になったのは、1977年となっている。
しかしそんなはずはない?
その数年前には、TOSHIBAのTK-BSが発売になっている。
今でいう電卓を複雑したようなパソコンで、マシン語でカチカチと
命令を打ち込んでいく。
たとえば(A+B)xCという命令を先にプログラムする。
そのあとA、B、Cの値を入力すると、その答えが、表示された。

その直後、PET2001が、発売になっている。
APPLEIIが、発売になったのは、ほぼ同時期だった(?)。
私はその斬新なデザインに驚いた。
1977年より、少し前ではなかったか?
「1977年と言えば、私が満30歳になったとき」と。
今は、そんなことを思い出しながら、そのトランプカードを見つめている。

 ・・・といっても、現代のパソコンとは、大違い。
ベーシック言語でプログラムを組むと、二次曲線のグラフを、ポツポツと
点で描いてみせてくれた。
私はそれをジーッと見つめていた。
それが楽しかった。

●無念

 で、ここからがジジ臭い話になるが、ごめん。

こういう(流れ)を見ていると、その(流れ)を見届けられない(はがゆさ)と
いうか、無念さを覚える。
この先も、パソコンの世界はどんどんと進んでいくだろう。
10年後にはどんなパソコンが発売になるのだろう。
20年後には・・・。
そのころには、私は生きていないかもしれない。
生きていても、脳みそが使いものにならないだろう。
今でさえ、あぶない!

●骨董的価値

 で、最近は、こう考える。
「新しいパソコンを買うのは、未来への投資のようなもの」と。
できるだけ最新型を買う。
歴史を可能なかぎり、先取りする。

 また現在、骨董品が、ほとんど価値を失っている。
骨董品だけではない。
コインも切手も、価値を失っている。
たとえば東京オリンピックのとき、1000円銀貨が発売になった。
その銀貨にしても、現在、実勢の交換価格は、1100円程度。
切手については、いくら古くても、表示価格でしか売ることができない。
モノがあふれ、モノに対する感覚そのものが、変わった。
言い忘れたが、あのPET2001(当時、33万円前後)にしても、今、
オークションに出しても、2000円前後の価値しかないという。

 だったら、捨てるしかない。
とくにパソコンは、磨いて床の間に飾っておくようなものではない。
ボロボロになるまで、使って使って使いまくる。
そのあと捨てて、また新しいのを買う。
たった2〜3年前のパソコンでも、価値はゼロ。
処分するにも、引き取り料が取られる。

●ワープロ機として

 が、ゲーム機として使うパソコンは別として、私のようにワープロ
専用機として使う人には、それほど高性能のパソコンは必要ない。
5〜6年前の機種でも、何ら問題ない。
となると、ワープロ機としてパソコンは、どうあるべきか?
3つほど、希望を並べてみる。

(1)文章の安全性・・・書いた文章を、そのつど即座にSAVEする。
保存した文章は、そのつど別ドライブにも保存できるようにする。
WINDOW7でも、そのつど別ドライブに保存できるようになっているが、
イマイチ使い勝手が悪い・・・。
あっという間に、1テラバイトのハードディスクが満杯になってしまう!
 
(2)言葉の検索・・・ワードならワード文書全体から、つまりすべての
ファイルの中から、あいまい検索ができるようにする。
「〜〜年〜〜月ごろ書いた、〜〜についての原稿」というような検索が
できるようにする。

(3)性能の問題・・・現在、私の書いた原稿は3〜4万ページ近くに
なっている。
このファイルに、別の文章を追加すると、それだけでも10分ほど時間が
かかる。
最新のi-7、3GHz〜、64ビットのマシンを使っても、それくらい時間がかかる。
もっとすばやくできないものか?

●未来像

 なお、こんなソフトを作ってほしい。
称して「話し相手ソフト」。

 たとえば先にも書いたように、この10年間で書いた原稿が、3〜4万ページ
にもなる。
そういう原稿の中から、適当に検索をしながら、私の会話に、言葉として
応じてくれるソフトである。

「今日は、何日だった?」
「9月21日だよ」
「ピーターサロベイって、知っているか?」
「ああ、データがあるから、画面に表示しようか」
「頼むよ・・・」とか、など。

 想像するだけでも、楽しくなる。


Hiroshi Hayashi++++++Sep 2010++++++はやし浩司

●野生児(タマラとアマラ)

 ひとつの情報に出会い、つぎに同じような情報に出会うのは、
こちら側が求めてそうするばあいをのぞき、めったにない。
たとえば最近、私はタマラとアマラに関する文献を目にすることが
できた。
偶然だった。
もしその偶然がなかったら、私は自分がもつ知識を修正することは
なかっただろう。

俗に言う、『オオカミ少女』と呼ばれる2人の少女である。
そののち、心理学の本でもたびたび取りあげられている。
「野生児」という言葉も、そこから生まれた。

要点をまとめると、こうだ(「オオカミ少女はいなかった」鈴木光太郎
(新曜社))。

(1)オオカミの乳は、人間には飲めない。……だから少女たちがオオカミの
乳で育つはずがない。
(2)オオカミは、人間の子どもを連れ歩くのは不可能……オオカミはどうやって
赤子を運んだのか。
(3)ウィリアム・オグバーンというアメリカの社会学者が、
1951年に現地に入った。
が、オオカミ姉妹が発見されたという「ゴダムリ」という村は存在しなかった。
(4)現地に新聞が残っていて、「少女たちが見つかったのは、トラの
穴」と記述されていた。
(5)少女たちを発見したのは、シング牧師ではなく、サンタル族の住民
だった。
(6)写真を詳しく調べてみたが、推定年齢(カマラは8歳半、アマラは
1歳半)が合わない。

 私はたびたびオオカミ姉妹(少女)について書いてきた。
この本だけで、すべてを否定するものではないが、しかし大きな疑念が
生まれたのは事実。
さらにその本は、シング牧師夫妻が寄付金集めのためにしくんだ作り話の
可能性があると説く。
実際、現在の今でも、欧米ではこの手の詐欺が後を絶たない。
(ついでに書き添えると、欧米では、孤児院経営を看板に、この種の詐欺が
日常化している。
じゅうぶん、注意したらよい。)

 で、結論としては、「自閉症か何かの障害をもった姉妹が、親に捨てられた。
その姉妹が、何年かあとに見つかった。村人たちは世話に困り、シング牧師の
ところへ連れていった」ということらしい。

 ・・・となると、私が今まで引用してきた話は、すべて訂正しなければ
ならない。
野生児の話は、ウソだったのか?

が、ここで注意したいのは、だからといって子育て論の本筋、たとえば
人間性と臨界期の問題、言語発達と臨界期の問題まで否定されるというのでは
ない。
人間はそれぞれの成長期に、それぞれの適切な環境で、適切に育てられなけば
ならない。
人間性にしても、言葉にしても、さらにたとえば音感やもろもろの美的感覚
にしても、その時期を逃すと、その後、修復がたいへんむずかしくなる。
たとえオオカミ少女の話がウソであったとしても、その重要性は変わらない。
またまったくのデタラメだったとしたら、こうまで長く、多くの心理学者や
精神学者、さらには哲学者たちの支持は受けなかっただろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 オオカミ少女の謎 オオカミ姉妹の謎 野生児への疑問 オオカミ少女は存在し
なかった はやし浩司 タマラ アマラ シング牧師 疑惑 野生児疑惑 オオカミ少女疑惑 オ
オカミ姉妹疑惑)


●山荘を手放す

 今日、山荘から帰るとき、ワイフとこんなことを話しあった。
「あと、2、3年したら、山荘を売ろう」と。
さみしい決断だった。
このところ山荘を利用する回数が、ぐんと減った。
「利用する」というよりは、「利用しなければ」と、何かせかされている
ような気分になることが多くなった。

 それに率直に言えば、私もワイフも、同じように歳を取った。
車の運転も、これからはあぶなくなる。
つい先日も、ワイフは、車をバックさせているとき、車の後部を
電柱にぶつけてしまった。
注意力も散漫になってきている。

 が、そのとたん、よき友を失ったようなさみしさを覚えた。
息子たちが巣立っていったときのようなさみしさだった。
土地作りに6年もかかった。
家は、建築会社に建ててもらったが、そのあといろいろな工事は自分たちでした。
家の周囲に砂利を敷いたのも、私たちだった。
そんな無数の思い出が、どっと脳裏を満たした。

私「さみしいね」
ワ「そうね」と。

 しかしいつまでももっているわけにはいかない。
これから先、雑草の管理すら、ままならなくなる。

私「しかしどうせ譲るなら、大切にしてくれる人にしよう」
ワ「そうね」と。

 ・・・ということで、新しいHPを立ち上げることにした。
『山荘を譲ります』というタイトルのHPである。
まだUPLOADしていないが、ここ1〜2か月のうちには、
完成させたい。
私のメインのHPから、入れるようにする。
興味のある人は、見てほしい。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より。

今すぐ・・・ということは考えていない。
現在私は62歳。
もうすぐ63歳。
ワイフは60歳。
希望としては、65歳前後にだれかに譲渡できればと願っている。


●離婚

 結局、私たちは離婚するのをやめた。
喧嘩するたびに、「離婚だ」「離婚しましょう」となる。
が、今回も、またやめた。

 どうあがいても、私の人生も残り10年。
ワイフの人生も残り10年。
こういうとき人は1つの選択に迫られる。

「残り10年だから、今までの人生を完成させよう」、
あるいは、
「残り10年だから、やり直せるものなら、やり直そう」、と。

 つまり離婚しないで、残りの人生を共に力を合わせて生きるか、
それとも離婚して、人生をゼロからやり直すか、と。

 が、2人の間には、共通の思い出が山のようにある。
私の思い出イコール、ワイフの思い出。
ワイフの思い出イコール、私の思い出。
一体性が、あまりにも強すぎる。
平たく言えば、2人で1つの人生を生きてきた。
離婚などあえてしなくても、そのうち「死」が私たちを分かつ。

 では、私たちが定期的に繰り返す離婚騒動とは、いったい、何なのか。
祭り?
習慣?
あえて言えば、倦怠感を吹き飛ばすための定例儀式。
2、3日もすると、「やめよう」「やめましょう」と言う。
仲直りする。
そしていつもどおりの日々が、再び流れ始める。

 義兄に話すと、「だからこそ、夫婦でいられるのだよ」と。
つまり夫婦も会話が途切れたら、おしまい。
喧嘩もしなくなったら、おしまい。
言い争うから、夫婦。
・・・ということらしい。

 で、今は、今度2人で、昼神温泉へいっしょに行こうと話しあっている。
浜松から直通バスが出る。
往復6000円弱。

私「お前さあ、ぼくのことを本当は嫌っているんだよ」
ワ「そんなことないわよ。勝手に決めつけないでよ」
私「いいのか、ぼくで?」
ワ「あなたしかいないのよ。よくても悪くても・・・」
私「そうだよなあ。ぼくにも、おまえしかいないし・・・」と。

 かくして今は、平穏+平和な日々がつづいている。

(補記)

 同時に今、ワイフとの間で、こんな会話をよくする。
「2人でオーストラリアへ移住しよう」と。
このときも同じような選択に迫られる。
「残り少ない人生だから、好き勝手なことをしよう」、
「やり残した感じはあるが、無難な余生を送って過ごそう」と。

 こうした(やり残し感)は、どうやらだれにでもあるものらしい。
つまり人生は、そのつど選択の連続。
その選択をしながら、もう一方の選択肢に未練を残す。
こうして私たちはトボトボと、(トボトボと、だ)、自分の道を歩く。


Hiroshi Hayashi++++++Sep 2010++++++はやし浩司

●ソフリエ

++++++++++++++++

「ソフリエ」という言葉が、ある
雑誌に載っていた。
定年退職後の老人男性を指した言葉で、
育児のできる男性を意味する。
そのための育児講座があり、そこで認定
されると、「ソフリエ」の認定資格が
与えられるのだそうだ。

いわく「団塊世代をマンパワーとして
活用し、孫育てに生かすことで、生活の
充実と子ども世代の負担軽減を見込める」
(某雑誌)とか。
つまり「一石二鳥」とか。

+++++++++++++++++

●バカにするな!

 こういう発想ができるのは、そういう世代の若い人たち。
私たち団塊の世代を余剰人間としかみない、そういう連中どもである。
以前……といっても、10年ほど前にも、そうした動きが浜松市でもあった。
「これから先、団塊世代をどう使っていくか」と。
何かの会議で、討論の議題になったらしい。

 が、「団塊世代をマンパワーとして活用する」だと!?
バカも休み休み言え。
このドラ息子、ドラ娘ども!

 私たちがほしいのは、「仕事」。
経験や知識を生かした仕事。
たしかに体力は弱る。
気力も知力も弱る。
そのため、一人前の仕事は、無理。

だったら仕事を週3日制にするとか、労働時間も、午後からだけにするとか。
1人分の仕事を、2人で分けてするという発想で、(あるいは3人で分けるという
発想でもよいが)、私たちの「仕事」を考えてほしい。
ちゃんと給料がもらえる、「生きがい」を考えてほしい。
私たちが求めているのは、「暇つぶし」ではない。

……とまあ、できるだけ穏やかな口調で書いたが、やめた。
本音で書く。

何が、孫育てだ!
そんなことは、自分でやれ!
ジーちゃん、バーちゃんだから、孫の世話でもさせておけば、ハッピーなはず?
そういうありきたりの先入観だけで、私たちが置かれた現状をとらえるな。

誤解するな!
「孫の世話と庭いじり」……だれもそんな生活が理想の老後とは思っていないぞ。
そういうものを繰り返したところで、心の空白感を埋めることはできない。
もっとはっきり言えば、どうしてそれが生きがいにつながるのか?
子育ての失望感は、いやというほど、味わった。
(お前たち若造が、その結果だろ!)
ほとんどは、「もう子育てはこりごり」と考えている。
その上、どうして今、孫育てなのだ!

視点が反対だろ!
子どもや孫が、団塊の世話をする。
「ジーちゃん、バーちゃん、長い間、ありがとうございました。
これからは生きがいを求めて、がんばってください。
その応援をさせていただきます」と言うのなら、まだ話がわかる。
それを何が、「孫育て」だ!

●偏見と誤解

 ところでいつ見ても腹立たしいテレビ番組(NHK)がある。
「パソコン講座」とか何とかいう番組である。

 講師役は若い男女。
生徒役は、どこかノーブレインな(=脳みそがなさそうな)、中高年の男女。
(演技なのだろうが)、わざとバカ丸出しの様子で、講座を受ける。
「(グラフィックソフトで)、線が描けた!」
「(フォト・レタッチで)、写真が加工できた!」と、
たわいもないことで、そのつど歓声をあげて喜んでみせる。

 ああいう番組を見ていると、ディレクターの老人観がよくわかっておもしろい。
つまりわれわれ団塊の世代を、バカにしている。
バカにした上で、ああいう番組を作っている。

 パソコンというのは、若者の道具であるという偏見と誤解。
老人は、パソコンを使えないという偏見と誤解。
老人には、思考力がないという偏見と誤解。
さらに言えば、老人には、美的感覚や色彩感覚がまったくないという偏見と誤解。
そういった偏見と誤解に、あの番組は満ちあふれている。

 どうして反対に、パソコンに詳しい団塊の世代を講師に使わないのか?
携帯電話のキーを叩くことしか能がない若者を、生徒にしないのか。
つまり「ソフリエ」というのは、それと同じ発想でつながっている。
あるいはその延長線上にある。

そこらの若造に、戦後のあの60年を生きてきた人間の重みがわかってたまるか!
バカヤロー!

 その「パソコン講座」。
少し前に見た番組では、写真を切り抜いて、部分的に拡大する作業をしていた。
たしかどこかの橋の写真だった。
その写真の一部を切り抜いて、色彩明度を少し変える。
とたん写真の迫力が、変化する(?)。
それを見て、生徒役の中高年の男女が、お決まりのバカ丸出しの歓声!
「ワーッ、すごい!」「ウォー!」と。
私はそれを見ていて、こう思った。
生徒役の中高年の男女に対して、だ。

「お前らには、長い間生きてきたプライドというものがないのか!」と。
「逆に、若い人たちに自信をもって、教えてやることはないのか!」と。

 教えてもらうことは何も、恥ではない。
わからないことは教えてもらえばよい。
しかし自分がもつ人間性まで、落とすことはない。
堂々とした姿勢で、生徒役をすればよい。
ついでに言えば、こう。
「だからといって、それがどうしたの?」と。
「写真が加工できたからといって、それがどうしたの?」と。

●統合性の確立

 これについては、たびたび書いてきた。
10年も前から書いてきた。
大切なのは、統合性の確立。

 その統合性の確立がしやすい環境を、用意する。
また助ける。
励ます。
評価する。
そういう制度を確立する。

 いつかは、どんな若い人でも、老齢期を迎える。
この問題は、老人の問題としてではなく、自分の問題として考えたらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ソフリエ 老人パワー 団塊世代の生きがい 生きがいとは 老人の生きがい)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【幼児期前期から幼児期後期の子どもたち】(自律期から自立期へ)

●幼児期

 幼児期は一般的に、2つの時期に分けて考える(エリクソン)。
前期(自律期)と後期(自立期)である。

 自律期にしっかりとしつけをすると、道理のしっかりした子どもになる。
善悪の判断感覚もしっかりとできるようになる。
(ビデオの中で、Sさんの言動に注意してほしい。
Sさんは、この年齢(年中児・5歳児)にしては、きわめて人格の完成度の高い
子どもである。注目してほしい。)

 自立期に入ると、たとえば口が悪くなったりする。
これを「優位性の打破」という。

●優位性

 一方、後期に入ると、子どもはおとなの優位性を打破しようとする。
つまり優位性を打破しながら、自立をめざす。
この時期、悪口、ウソ、盗みが多くなる。
そういう形で、自分を上から抑えつけているものを、打破する。
このビデオの中で、たとえば私を「ジジイ」と呼んでみたりするのがそれ。

が、そのとき大切なことは、(そういう言葉を助長せよということではなく)、
そういう言葉が言えないほどまで、子どもを抑え込んではいけないということ。
言いたいように言わせながら、本気で相手にしないこと。
(相手は幼児だぞ!)
とくに権威主義的なものの考え方をする親は、注意したらよい。
(「親に向かって、何よ!」というのが、権威主義。
私は「悪玉親意識」と呼んでいる。)

●成長過程

 このビデオをみてもらえば、この時期の子どもの成長過程がよく理解して
もらえる。
大切なのは、子どもが伸び伸びと自分の思ったことを言い、それを自由に表現
できるということ。
子どもというのは、抑えつけるのは簡単。
強圧を加えたり、叱ったりすればよい。
脅すのもよい。
しかしそれは幼児教育にあっては、邪道。
(日本では、その邪道が常識化している。
とても残念なことである。)

 花木と同じで、まず四方八方へ枝を伸ばさせてみる。
しっかりと土に根をおろしたら、そのあとゆっくりと剪定(せんてい)する。
よい枝を伸ばし、悪い枝を抑える。
その時期は、年長児の後期になってからでじゅうぶん。

●1人の人間

 併せて、子どもたちの会話の中から、この時期の子どもたちがものごとを
どうとらえ、どう考えるか、それがわかってもらえればうれしい。

 幼児は幼稚ではない。
1人の人間である。
未熟で未完成かもしれない。
知識や経験は乏しいかもしれない。
しかしその「心」は、おとなの私たちと、どこもちがわない。
そればかりか、子どもの心は純粋で汚れがない。
美しい。
私たちはおとなになるにつれて、その美しさを失っていく。

 子どもたちの明るい笑い声。
それを守り、育てていくのは、私たちおとなの責務である。
子どもたちの明るい笑い声を、どうか、あなたも一度童心に返って、楽しんで
みてほしい。

●実際の指導例より

年少児、年中児(4〜5歳児)のみなさん。

Sさん……たいへん知的な能力にも恵まれ、人格の完成度の高い子ども
     いつも興奮状態で、私のレッスンに食いついてくる。迫力がものすごい。
Tさん……静かな落ち着きのある、知的な子ども。道理がよくわかり、ものの考え方が
     明るく、前向き。幼稚園でも、最リーダー格。
Yくん……たいへん愛情豊かで恵まれた環境に育っている。子どもらしく、屈託がない。
     伸びやかな子どもというのは、Y君のような子どもをいう。
Tくん……自由奔放。思考がやわらかく、年長期に入ると、ぐんぐんと伸び出すタイプ
     の子ども。(お楽しみに!)明るく、すなお。たいへん伸びやか。
Hくん……3歳児。当初2か月ほどは、まったく声を出さなかった。まずまわりの様子を
     観察しながら、情報を吸収する。(これを観察学習という。)が、数か月くらい
     から声を出すようになり、みなといっしょにゲラゲラと笑うようになった。
     こうなったらしめたもの。やがてみなと同じように行動し始める。思考が
     やわらかく、興味の芽がどんどんとふくらんでいる。

 とにかく伸びやかな子どもたち。
まさに『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ(Happy Learners learn Best!)」。
それをこのビデオを通して、見ていただければ、うれしい。
みんなすばらしい子どもになる。
私、はやし浩司が保証する。

2010年9月24日のレッスンより。

(今回から15分編集になります。)

【1】


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v/cIteaSfjMQM?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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【2】


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www.youtube.com/v/vcAF5_AkHME?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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【3】


<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/vaTSEPvLnDM?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/vaTSEPvLnDM?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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【4】


<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/RW7QQ861Igg?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/RW7QQ861Igg?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 3歳児の能力 4歳児の能力 自律期 自立期 伸びやかな子ども はやし浩司
 伸び伸びした子ども 子どもを伸ばす 明るい子ども 伸びやかな子どもとは)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●老人たちよ、声をあげよう!

 老人たちよ、もっと声をあげよう。
自分の言いたいことを言おう。
主張したいことを、主張しよう。
でないと、私たち老人は、若い世代の人たちに、よいように料理されてしまう。

 現在、「75歳以上は、手術をしない」「80歳以上は検査はしても、
治療はしない」が、医師たちの間で暗黙の了解事項になっているという。
義兄(76歳)がそう言っていた。
義兄は前立腺がんになり、この4、5年、その病気と闘っている。
「75歳」という数字は、前立腺がんに関してだけのものかもしれない。
もともとおとなしいがんだから、75歳以上の人は、手術をせず、ホルモンに
よる温存療法をすることが多いという。
そういう意味で、医師はそう言ったのかもしれない。

しかし私の実兄(当時68歳)も、担当の医師にはっきりと、こう言われたことがある。
「私は治る見込みのある患者は治療しますが・・・」と。
「私の兄のように(当時)、治る見込みのない患者は治療しない」という意味に取れた。

また叔母(85歳)の1人は、最期の最期まで尿道炎で苦しんだ。
菌が耐性をもってしまったらしく、どんな薬も効かなくなってしまっていた。
で、従姉が「何とか治してやってほしい」と懇願したときのこと。
担当の医師は「歳が歳ですから・・・(あきらめてほしい)」と。

 この先、その年齢が引き下げられることはあっても、引き上げられることはない。
が、医師を責めてはいけない。
今でさえ医療制度は破綻状態。
私たちがへたに長生きすればするほど、その負担は、若い人たちにのしかかっていく。

●精進

 が、老人たちは早い時期に、自ら身を引いてしまう。
またそれが老人として、あるべき姿のように考えてしまう。
しかしわかりきったことだが、私たちは生きているかぎり、人間。
死ぬまで人間。
それまで人間として、主張すべきことは主張する。
そうした声が、老人の存在感を明確にする。

 ただ残念なことに、老人にも問題がないわけではない。
ある時期を過ぎると、自ら進歩するということをやめてしまう。
が、誤解してはいけない。
停滞イコール、現状維持ではない。
停滞したとたん、脳みその底に穴があいたような状態になる。
その穴から、知恵や知識、経験がどんどんと漏れ出ていく。

 50歳になるとそれが自分でもはっきりとわかるようになる。
60歳になると、さらにそれが加速する。
たった数か月前に覚えたことすら、忘れてしまう。
それと闘うためには、漏れ出ていく以上の分を、補充するしかない。
新しい分野に興味をもち、それにチャレンジしていく。
それが「精進(しょうじん)」ということになる。
和式仏教では別の意味で使っているが、それが「精進」である。

 人は最期の最期まで精進を繰り返す。
知力だけではない。
「心」についても、精進を繰り返す。

それはちょうど健康論に似ている。
究極の健康論がないのと同じように、究極の精神論というものもない。
1週間も運動をサボれば、その瞬間から、健康は下り坂に向かう。
東洋医学の世界では、『流水は腐らず』と教える。
が、それは肉体の健康というよりは、精神の健康をいったもの。
その精神が腐り始める。

 私は幸いなことに、毎日子どもたちと接することができる。
若いときはそれほど深くは考えなかった。
が、最近は、よくこう考える。
「子どもたちと接してきて、よかった」と。
1週間も休みがつづいたりすると、気分がどんどんと滅入っていく。
自分でもそれがよくわかる。
だから私はこう言う。
「職場が、ストレス発散の場です」と。

 これは誇張でも、ウソでもない。
子どもたちの顔を見たとたん、気分がパッと晴れる。
そういうことは、毎回のようにある。

●存在感

 話はそれたが、自分がその年齢になってみて気がついた。
つまり「私たち老人は、(まだ自分では「老人」とは思っていないが)、
おとなしすぎる」と。

 内々で威張っている老人は多い。
内々でそれらしいことを主張している老人は多い。
しかし「内々」。

 重要なことは、個々の老人ではなく、「老人」がもつ存在感を、
もっと訴えていくということ。
「老いては子に従え」というのではいけない。
私たちは人生の先輩として、若い人たちのリーダーになる素質を、
じゅうぶん備えている。
無駄に生きてきたのではない。
その知識と経験を、もっとアピールしていく。

 iPod?
アンドロノイド?
・・・「そんなもの、知らない!」ではなく、私たちはそれを知る。
買う。
買って、使う。
使って、若者たちの前で遊んで見せる。

またけっして自分を、完成された人間と思ってはいけない。
思ったとたん、社会からはじき飛ばされてしまう。
が、これだけは忘れてはいけない。

 今、若い人たちは別の目を使って、冷ややかに私たちを観察している。
そしてその目は、年を追うごとにきびしくなってきている。
以前は「粗大ゴミ」と言われた。
今では、幼稚園児ですら、私たち老人を見て、「クソジジー」とか、
「クソババー」とか、平気で言う。
親たちもそれを制しなくなってきている。

 私たちには、やるべきことがある。
そのやるべきことを追求する。
体が動かなくなり、頭が働かなくなるまで、追求する。
そういう姿を見て、若い人たちは、私たち老人を評価する。
「孫の世話と、庭いじり?」。
そんなものは、老人がすべきことではない。
あるいはあるべき理想の老後の姿ではない。

 で、最初の言葉。 

 老人たちよ、もっと声をあげよう。
自分の言いたいことを言おう。
主張したいことを、主張しよう、と。

今朝は起きて、すぐ、そんなことを考えた。
久しぶりの快晴。
土曜日。
山荘からは、遠く太平洋まで見渡すことができる。
さわやかな気候。
秋がやってきた。
気分は、最高。
今日もがんばる!

2010年9月25日、土曜日


Hiroshi Hayashi++++++Sep 2010++++++はやし浩司

●山荘

 昨夜遅く、山荘へやってきた。
最近は山猿が出没するようになった。
10〜20匹の集団で行動している。
ときに群れどうしが、衝突することもある。

 が、昨夜山荘へ来てみると、敷地内のじゃりが、波を打ったように、
荒立っていた。
どうやらイノシシのしわざらしい。
イノシシは両手で手前に引きながら、地面に穴をあける。
そのため三角形様の穴があく。
(もっとも敷地内の下地は、コンクリートを敷いたように硬くなっている
ので、穴といってもたいした穴ではないが・・・。)

 イノシシは、こうして何かの根をさがして、夜中じゅう、歩き回る。

●どこかのサル

 どこかのサルは、たった一匹で、がんばっているという(?)。
あちこちに出没して、人間に危害を加えているという。
しかしサルというのは、追い回してはいけない。
追い回せば追い回すほど、凶暴になる。
(すでに凶暴化してしまったようだが・・・。)

 このあたりでもサルが多く出没するようになった。
第二東名の道路工事が始まって以来のこと。
山に住めなくなったサルたちが、追われてこのあたりまで
やってくるようになった。
最近では、谷下の部落の中にも出没するようになったという。

 そのためこのあたりの農家の人たちは、農作物を耕作するのを
あきらめてしまった。
どの家にも、果物の木があったが、それを切り倒してしまった。
私の家にも、栗の木、柿木、桃の木などがあった。
しかしこの春、切り倒してしまった。
梨の木もあったが、それも切り倒してしまった。
残っているのは、ビワの木。
それに背丈は低いが、キンカン。
これらもこの秋には切り倒すつもり。

 サルというのは、やっかいな動物で、高いところを伝って移動する。
たとえば私の家の東に、ビワの木がある。
西に栗の木がある。
そういうときサルは、ビワの木から電線を伝ってまず私の家の屋根に
やってくる。
屋根を横切って、そこから栗の木に飛びつくいていく。
そのとき、屋根の樋(とい)を破壊したり、テレビのアンテナを折ったり
する。

 で、来週は、中部電力の人に来てもらうことになっている。
電線に、トゲつきのカバーをかけてもらう。
本来は鳥よけのものだそうだが、それをサルよけに使ってみる。

 人間から見れば、「知恵比べ」ということになる。
しかしサルから見れば、生存をかけた「命がけ」ということになる。
冒頭で、「がんばっている」と書いたが、少し不謹慎。
それはよくわかっている。
しかしこのあたりには何10匹ものサルが出没し、被害は甚大。
が、ニュースにもならない。
「たった一匹程度で、何だ!」という気持ちで、そう書いた。


●日本、危うし(チャイナ・リスク)

 中国が、まともな国でないことは、今回の一連の事件でわかったはず。
昨日の報道によれば、「(中国は)領土問題では、一歩も譲歩しない」という
ようなことまで言い出した。

 最終的には、「沖縄も、中国の領土」と言い出すだろう。
すでに中国国内では、公然とそう主張する学者が出始めている。
考えてみれば、「日本」を、「NIPPON」と音読みにすること自体、
おかしなこと。
(どこの国が、外国語で自分の国を呼んでいるか?
「NIPPON」というのは、中国語だぞ!)
また「日本」というのは、「日(=太陽)が出る国」という意味だが、
「太陽が出るか出ないか」は、中国側から見てわかる話。
日本に住む日本人の発想ではない。
つまり「日本だって、もとは中国の領土」?

 ・・・ということはないにしても、日本の天皇のルーツは、韓国人。
そういう話は、韓国では常識。
「奈良(ナラ)」という名前にしても、「国」を意味する韓国語。
「奈落の果てにある国」という意味で、奈良は「奈良」になった。
その昔は、「奈落」と書いていたという(金素雲氏)。
しかし「奈落」では言葉が悪い。
そこで「奈良」にした。

 さらに天皇を取り囲んでいた、物部(もののべ)氏一族は、
「ものを述べる人イコール、通訳」だったという説もある。
「君(キミ)」「僕(ボク)」という言葉は、「金氏朝鮮」「朴氏朝鮮」に由来するという
説もある。

 だから若いころ私は金素雲氏に、「証拠がありますか」と問い詰めたことがある。
が、氏はこう言って笑った。
「仁徳天皇の陵墓を発掘すればわかることです」と。
金素雲氏というのは、当時の韓国を代表する歴史学者だった。

●チャイナ・リスク

 ・・・つまり私がここで書きたいのは、ことアジアに関して言えば、
国境など、あってないようなもの。
それぞれの民族がたがいに入り交ざりながら、現在に至っている。
あの朝鮮半島にしても、中国は、渤海国を口にしながら、「もとはと言えば
中国の領土」と言い出している。

 チャイナ・リスク・・・中国に偏りすぎると、その分だけ、経済的な
リスクが大きくなる。
現に今、中国は、レアメタルの対日輸出を全面的に停止している。
つまりこういうメチャメチャなことを平気でするのが、またできるのが、中国。
大国としての威厳など、どこにもない。
やっていることは、そこらのチンピラか、街の暴力団と同じ。
「チャイナ・リスク」の本当の恐ろしさは、ここにある。

 日本は、今、10年後、20年後を見据えて、対中国戦略を練り直す
必要がある。
中国なしでもやっていかれる国作り。
それを早急に推し進める必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本 金素雲 仁徳天皇陵墓 仁徳天皇陵 奈落 奈良 はやし浩司 猿被害 
サル被害)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司※

●10月28日、My Birthday!

++++++++++++++++++++

今日は9月26日。
来月(10月)28日に、私は満63歳になる。
(この原稿がマガジンに載るのは、10月
22日の予定。)

まだ1か月先の話だが、62歳という歳を、
今ここで、振り返ってみたい。
(9月26日記)

++++++++++++++++++++

●現状維持

 この一年間は、現状維持に心がけた。
仕事も生活も、そして体重も。

 体重は、61〜2キロ台をキープ。
ときどき64キロ近くになった。
私にとって適正体重は、61キロ前後?
少し太り気味。
60キロ台になると、「ルンルン」と言いたくなるほど、
身を軽く感ずる。
しかし61キロの壁を破るのは、容易なことではない。
(食べ過ぎ)→(あわててダイエット)。
これを、1、2週間ごとに繰り返した。

●運動

 定年退職すると、みな、判を押したように運動を始める。
運動のしかた、内容は、人それぞれだが、しかし3、4年もすると、それをやめてしまう。
病気や怪我をきっかけとして、やめることが多い。
そのときそれをどう乗り越えるか?
つまりそこでやめてはいけない。
それで老後の健康が決まる。

 私のばあい、自転車に乗る回数がぐんと減った。
そのかわり、ウォーキングマシンの上で歩くことが多くなった。
最近は、朝起きるとすぐ、30分は、歩くことにしている。
(以前は10分単位だった。)
「運動するという習慣」。
運動ではなく、習慣。
それが重要。

●旅行

 この1年間、よく旅行をした。
ワイフとあちこちへ行った。
8月をのぞいて、月に2〜3度は、一泊旅行に出かけた。
8月は、どこへ行っても、割高。
それに混雑している。

 ほかに週に1、2度は映画館へ足を運んだ。
これはボケ防止のため。
昨夜(9月25日)も、『プレシャス』という映画を観てきた。
星は、4つプラスの、★★★★+。
よかった。
感動した。
以前観た、『レスラー』を彷彿させる映画だった。

●収穫

 今年の収穫(?)は、デジタルカメラ1台(SonyのHX−5)、
パソコン1台(TOSHIBAのMX)、ビデオカメラ(Sony−170)など。
ほかに2月にデスクトップパソコンを、(MOUSEのMDV)に買い換えた。

iPodは、購入直前でやめた。
いろいろに使うとなると、月々の使用料金がどんどんと加算される。
それに私のばあい、文章を打つという点では、ふつうのノートパソコンのほうが、
使い勝手がよい。
iPodは、おとなのもちゃ。

 で、今は、TOSHIBAのMXノート(12インチサイズ)が、ほしくてたまらない。
表面のあのザラザラ感がよい。
キーボード周辺に、細かい彫り込みがしてあって、触っているだけでも気持ちがよい。
しかし今でさえ、ノートパソコンは4台もある。
(すべて現役で、稼働中!)
ワイフも「YES」とは、言わないだろう。
何とか誕生日までに……ということで、目下、ワイフと交渉中。

●原稿書き

 このところ原稿書きが低調になってきた。
自分でもそれがよくわかる。

量が減った。
内容が浅くなった。
思考力が鈍った。
気力がつづかない、など。

 が、自分としては、それを認めたくない。
だからがんばる。
自分の精神に、ムチを打つ。

 で、ひとつの打開策として、最近は雑誌や週刊誌を、よく買う。
週に5〜6冊、買っている。
情報を吸収するというよりは、ほかの人たちの書き方に関心がある。
的確でうまい文章に出会ったりすると、ホホーッと感心したりする。

 ただ私のばあい、雑誌や週刊誌といっても、育児とは関係のないものばかり。
他人の書いた育児書類は、ほとんど読まない。
影響を受けるのは、いや。
が、それ以上に、他人の書いた育児論は、目を通すだけで、不愉快になる。
まちがいだらけ!
たまに「そうだ!」と納得するのもあるが、たいていは、私の文章からのパクリ!
そう、最近は、本当に多くなった。
私が考えた造語をそのまま使って、本を書いている人もいる。
たとえば「代償的愛」「子育て二番底論」「悪玉親意識」などなど。
こうした言葉は、私が考えて使い始めた。

 ためしにあなたも一度、『友を責めるな、行為を責めろ』を、インターネットで
検索してみるとよい。
この格言は、オーストラリアの友人から私が学んだもの。
それを短くして、私が『友を責めるな、行為を責めろ』にした。
それがいたるところで、パクられている。
ついでにどんな人たちが、パクっているか、それも知ったらよい。

(愚痴ぽくなったので、この話はここまで。)

●さて63歳

 平均寿命まで、あと15年。
今のところ、健康。
成人病とは無縁。
つぎの1年間も、現状維持。
それに心がける。

 私が恐れるのは、(流れ)が止まること。
仕事の流れ、収入の流れ、生活の流れ……。
流れが止まったときの私が、こわい。
それ以外の生き方を私は知らない。
止まったとたん、大混乱を引き起こすにちがいない。
だから何としても、現状維持。

 あとは少しずつ、身辺の整理を始める。
山荘を売る。
敷地を半分売る。
小さな老後用の家を建てる。
置物などは、どんどんと生徒たちに分けてやる。

 何とかつぎの1年を無事過ごし、来年も今と
同じようなことを書きたい。
それがこの1年の目標ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 友を責めるな 行為を責めろ 責めよ 代償的愛 子育て二番底論 悪玉親意
識)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【緊急提言】『尖閣諸島事件に関して』

+++++++++++++++++

日本よ、日本人よ、
覚悟しよう!

+++++++++++++++++

●尖閣諸島事件

++++++++++++++++++++

第一の誤算は、日本の巡視船に中国の漁船を
衝突させたこと。
第二の誤算は、中国人船長らを逮捕したこと。
第三の誤算は、中国側が強硬な姿勢を示した
とたん、船長を「処分保留のまま釈放」(Jcast
ニュース)したこと。
2010年9月24日。

++++++++++++++++++++

●偽装漁船

 2010年に入ってから、中国の偽装漁船が、東南アジアのあちこちで
トラブルを起こしている。
手口は今回の事件と同じ。
まず偽装漁船を相手の国の巡視船などに衝突させる。
相手の国が法的措置を取ったのを見届けて、今度は一転、攻撃的態度で、相手の
国を脅す。
軍事攻撃をちらつかせ、強圧的に相手の国を抑え込む。

もっとわかりやすい例に、『天安門事件』※がある。
天安門前に集まった群衆の中に、一台だけ装甲車を送り込む。
が、これはワナ。
オトリ。
それを群衆に攻撃させる。
それを口実に、一気に群衆を制圧する。

「漁船」といっても、中国政府の意に沿った、偽装漁船である。
中国政府は、今回、同じ手法をこの日本に対して用いた。

※天安門事件(六四天安門事件)
「六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)とは、1989年(平成元年)6月4日に、
同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求め
て集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧し、
多数の死傷者を出した出来事である」(以上、ウィキペディア百科事典より。)

●正義と主権

 「日本は、お金(マネー)のためなら、平気で主義主張をねじ曲げる」。
それが世界の人たちの常識的な日本観と考えてよい。
とくに東南アジア(中国、韓国も含めて)の人たちの共通した日本観と考えてよい。
今回の尖閣諸島事件は、そうした認識を、さらに確固たるものにした。
が、それだけではない。
今回の事件は、日本の領土主権に関する問題でもある。

 中国は、尖閣諸島を突破口に、最終的には沖縄まで、領土主権を拡充する覚悟で
いる。
けっして憶測でも何でもない。
つい先月(2010年8月)に私が書いた原稿をもう一度、読んでみてほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●とうとうでてきた、「沖縄領有権問題」

++++++++++++++++

私は10年ほど前から、こう書いてきた。
「中国はそのうち沖縄は中国の領土と
言い出すようになるだろう」と。

カイロ宣言(1943)のとき、中国の毛沢東は、
それを主張した。

で、今月、中国のGDPが日本のそれを
追い越した。
とたん、出てきた、「沖縄領有権問題」。

いわく

『(8月)18日付毎日新聞は、最近数年の間に沖縄が中国領だとして、返還を求める声が
中国で高まっていると報じた。

 報道によると、中国の一部学者は、沖縄がかつて琉球王国時代に中国との交易で栄え、
中国に従属する地位にあったと主張している。昨年12月に北京で中国人歴史研究者らに
よるシンポジウムが開かれ、「明治政府による琉球併合(1879年)も、戦後の沖縄返還
(1972年)も国際法上の根拠はない」との主張が繰り返されたという。

 同紙は中国でこうした主張が出る背景について、「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)
の移設問題で日米同盟が揺らぎ、沖縄と日本政府の関係もぎくしゃくする中、中国では『沖
縄を返せ』の声が強まっている」と分析した』(朝鮮N報より)と。

 中国が国力をますにつれて、この問題は加速度的に大きくなる。
そのとき日本および、沖縄の命運は決まる。(2010年8月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 今回の尖閣諸島事件は、その(流れ)の中にある。
つまり日本は、まんまとそのワナにはまってしまった!

●さらに強硬に!

 「船長を返したから、それで終わり」と、管首相は考えていたらしい。
が、先の(流れ)がわかれば、管首相がいかに外交音痴(BLIND)かがわかる。
民主党内部ですら、こう言っている。

「菅も仙谷も、外交なんて全くの門外漢だ。恫喝(どうかつ)され、慌てふためいて釈放しただ
け。中国は、日本は脅せば譲る、とまた自信を持って無理難題を言う。他のアジアの国々もが
っかりする」(Yahoo News Japan)と。

●事件の流れ

 読売新聞は、今回の尖閣諸島事件の(流れ)を詳しく報じている。
それを箇条書きにさせてもらう。

***********以下、読売新聞より************

(1)首相とその周辺が中国人船長の扱いをめぐる「落としどころ」を本気で探り始めたのは、
船長の拘置期限が延長された19日以降のこと。
(2)この日を境に中国政府は、日本人4人を拘束し、レアアース(希土類)の対日輸出禁止の
動きに出るなど、本格的な「報復カード」を相次いで切った。
(3)実際に「船長釈放」に動いたのは、仙谷官房長官と前原外相だったとされる。
(4)前原外相は9月23日朝、ニューヨーク。日中関係の行方を懸念するクリントン米国務長官
と向かい合った、こう自信ありげに伝えた。「まもなく解決しますから」と。
(5)那覇地検が船長を釈放すると発表したのは、その半日余り後の日本時間24日午後2時
半だった。東京・霞が関の海上保安庁に、寝耳に水の一報が入ったのは、そのわずか10分
ほど前。
(6)「戦争になるよりはいい。このまま行けば、駐日大使の引き揚げ、国交断絶もありえた」。
首相に近い政府筋は24日夜、船長釈放に政治判断が動いたことを、周囲に苦しげに認め
た。
(7)仙谷官房長官は24日夕の記者会見で、ひたすら「地検の判断」を繰り返し、政治の介入
を否定した。
(8)柳田法相もこの後すぐ、法務省で記者団を前に「法相として検察庁法14条に基づく指揮
権を行使した事実はない」とのコメントを読み上げた。質問は一切受けつけなかった。
(9)首相がそれでも「政治決断」を選択したのは、中国の反発の強さが当初の予想を超えてい
たためだ。
(10)19日の拘置延長決定後、中国は、20日に日本人4人を拘束、21日にはレアアース(希
土類)の対日禁輸に踏み切るなど、たたみかけるように「対抗措置」を取った。(11)日本側は
これらを公表しなかった。
(12)ニューヨークにいた温家宝首相は21日夜(日本時間22日朝)、在米中国人約400人が
出席する会合で、船長釈放を要求する異例の動きに出た。
(13)「あそこまで強硬にやるとは……。海上保安庁の船長逮捕の方針にゴーサインを出した
時、甘く見ていたかもしれない」。政府関係者は、そもそも「初動」に判断ミスがあった、と苦々
しげに振り返る。

***********以上、読売新聞より************

●初動ミス?

 先にも書いたように、今回の事件を暗示させるような動きは、すでに先月(8月)から始まって
いた。
情報の出所は日本ではなく、「朝鮮N報」である。
この私ですら、そうした(動き)をつかんでいた。
にもかかわらず、「初動の判断ミス?」(前述(13))?

 漁船が近づいてきても相手にせず、漁船をうまくかわすべきだった。
逮捕したらどういうことになるか?
つまりどんなやっかいなことになるか、ふつうの判断能力のある政治家ならわかるはず。
いわんや、「船長を返せば、それでおしまい」?
中国がそんな甘い国でないことくらいは、よくわかっているはず。
尖閣諸島事件は、この先もっと大きな問題、つまり沖縄領有権に関する、その小さな
突破口にすぎない。
「そんなバカな!」と思う人も多いかと思う。
しかし毛沢東はすでにカイロ宣言の過程で、それを公然と口にしている。

 それに関して書いた私の原稿を読んでほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

++++++++++++++++

2009年に書いた原稿を
そのまま再掲載します。

++++++++++++++++

●琉球独立党

 「沖縄が生き残る道は、日本(ヤマトンチュー)からの独立しかない」と。
そうして生まれたのが、琉球独立党。
党首は、YC氏(55歳)。

06年の沖縄県県知事選挙にも出馬している。
そのとき獲得した票数が、6220票。
その数を多いとみると、少ないとみるか……。
沖縄独立党は、それを「大勝利」と喜んでいる。
「我々を支持してくれる人が、6220人もいる」、あるいは「6220人にふえた」と。

 「独立党」という名称からもわかるとおり、沖縄独立党は、「日米の支配状態を脱せ」を、
旗印にかかげている。
ほかにも「琉球共和国」とか、「石油採掘権獲得」などという言葉も並ぶ。
興味深いのは、「独立したあかつきには……」「国際入札で、アメリカ軍はもちろん、
日本の自衛隊、あるいは中国やロシアの軍隊を、(有料で)、駐留させる」(「日本のタブー」・
ミリオン出版)という部分。
しかしそうはうまく、いくものか?
どこか現実離れしている?
あるいは排他的民族主義?

 中国は、台湾の独立を認めていない。
いずれは、台湾を自国の領土に編入しようとしている。
と、同時に、すでに、沖縄は、中国の領土であると主張し始めている。

 その前に、もう一度、日米関係について考えてみたい。
つぎの原稿は、2006年の1月に書いたものである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●対米追従外交?

++++++++++++++++

たしかに日本の外交は、戦後一貫して、
「対米追従外交」(経済評論家・T氏談)
である。

事実は、事実。それは、もうだれの目にも、
疑いようがない。

しかし一方で、国際外交は、どこまでも
現実的でなければならない。

現実を見失ったとき、国際外交は崩壊する。
同時に、その国は、進むべき道を、
見誤る。

++++++++++++++++

 対米追従外交を、批判する人は多い。経済評論家のTJ氏も、そのひとりである。三井
物産時代のかつての同僚ということで、肩をもちたい気持ちもないわけではないが、なら
ば聞く。今の日本にとって、どうして対米追従外交であってはいけないのか。

 「追従」「追従」というが、追従しなければならない「現実」がそこにある。

 あの中国は、ものの10分足らずで、(あるいは数分で)、日本中を廃墟と化すことがで
きる。それだけの核兵器を、すでに保有し、実践配備をすませている。

 忘れていけないのは、戦争というのは、兵器だけでするものではないということ。日本
にとって脅威なのは、兵器もさることながら、その兵器を底流で支える、士気である。反
日感情である。中国人がもっている、その反日感情には、ものすごいものがある。

 いったんどこかでそれに火がつけば、悲しいかな、今の日本に、それをくい止めるだけ
の武器もなければ、実力もない。もっとわかりやすく言えば、日本の平和がかろうじて守
られているのは、(中国側から見れば)、その背後に、アメリカという巨大な軍事国家がひ
かえているからにほかならない。

 また在日米軍を支えるための、多額の負担金を問題にする人もいる。たしかに日本は、
2006年度だけでも、「思いやり予算」(=在日米軍駐留経費)と称して、2326億円
もの負担金を支払っている。先に問題になった、沖縄からの基地移転費用についても、こ
れとは別に、「3500億円までなら支払ってもよい」と、日本側は、回答している。

 この額を多いとみるか、少ないとみるか?

 仮に日本有事ということにでもなれば、日米安保条約が発動されて、日本は、アメリカ
軍の庇護下に入る。が、そのときアメリカ側が負担する金額は、ぼう大なものになるはず。
あの韓国でさえ、こんな試算を出している。

「朝鮮半島有事の際には、韓国は、アメリカから1300兆ウォン(約158兆円)分の
軍事装備を、無償で借りることができる」(朝鮮日報・K論説委員)と。(158兆円だぞ!)

 現に今、となりのK国は、日本攻撃を目的として、核兵器を開発している。が、そのK
国に対して、この日本には、満足な交渉能力すら、もっていない。拉致問題ひとつ解決で
きない。そういう日本が、どうして核開発問題を解決できるというのか。

 韓国にしても、いまや日本の同盟国と考えている人は、ほとんど、いない。いつなんど
き、中国と手を組んで、日本に襲いかかってくるか、わかったものではない。K国とさえ、
手を組むかもしれない。少なくとも、現在のN大統領政権というのは、そういう政権であ
る。

 日本は、そういう立場である。つまりそういう立場であることを棚にあげて、「自主権」
なるものをいくら唱えても、意味はない。わかりやすく言えば、日本は、アメリカに追従
するしか、今のところ、生き残る道はない。「追従」という言葉に語弊(ごへい)があるな
ら、「密接な協調」でもよい。

 戦後、日本という国が、かろうじて平和を保つことができたのは、日本人が、平和を愛
したからではない。(こういうばあい、「愛する」という言葉は、腸から出るガスくらいの
意味しかないが……。)

 日本が平和を保つことができたのは、背後にアメリカ軍がいたからにほかならない。が、
もしアメリカ軍がいなければ、そのつど日本は、毛沢東・中国、スターリン・ソ連、金日
成・K国、さらに李承晩・韓国に攻撃されていただろう。これまた悲しいかな、日本はそ
ういうことをされても文句が言えないようなことを、先の戦争でしてしまった。

 日本は、アメリカに追従せざるをえなかったし、基本的には、今も、その状態はつづい
ている。それが「現実」である。

 もちろん私も、このままではよいとは思っていない。いつか日本も、アメリカから独立
し、日本は日本として、独自の道を歩まねばならない。しかしその前提として、この極東
アジア、東北アジアに、相互の信頼関係が築かれなければならない。それがないまま、「日
本は日本だ」「日本が国内で何をしようが、日本の勝手」と言い切ってしまうのは、今の日
本にとっては、きわめて危険なことである。

 その一例が、日本のK首相によるY神社参拝問題ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●沖縄の独立(?)
 
 琉球独立党のYC氏(党首)には悪いが、もし沖縄が独立すれば、沖縄はそのまま中国
の支配下に入る。
中国が、黙っていない。
また中国は、現状においては、そんな甘い国ではない。
ないことは、チベット問題ひとつみても、わかるはず。
尖閣諸島周辺には、天然ガスや石油など海洋資源が眠っている。
であるならなおさら、中国は、沖縄の独立を認めるわけがない。

 2005年に書いた原稿を、そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●台湾問題は、日本の問題

++++++++++++++++++++++

どうして、中国は、日本が主張する経済水域の中で、
ガス油田の開発および採掘を始めたのか。

どうして日本の抗議に対して、中国は耳を貸そうと
しないのか。

実は、この問題に裏には、台湾、さらには沖縄(琉球)
の領有権問題がからんでいる。

雑誌「諸君」(11月号)の中の記事を参考に、この
問題を考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

 中国と台湾。その中国は、台湾は、中国の領土と主張し、もし台湾が独立宣言をするよ
うなことがあれば、中国は武力介入も辞さないと、ことあるごとに宣言している。

 つまり台湾の独立は、許さない、というわけである。

 しかし、この問題は、そのまま日本の問題と考えてよい。中国に視点を置いてみれば、
それがわかる。中国の東には、台湾がある。しかしその台湾の向こうには、沖縄(琉球)
がある。もし台湾が独立してしまえば、沖縄(琉球)は、ますます、中国から遠ざかって
しまう。

 仮に台湾が、中国の領土の一部になれば、つぎに中国が領有権を主張してくるのは、実
は、沖縄(琉球)なのである。これは私の被害妄想でも、憶測でも、何でもない。

 連合国は、ポツダム宣言(1945)によって、日本の敗戦を明確に位置づけた。しか
しそのポツダム宣言の前に、ヤルタ協定(同、1945)、さらにその前に、エジプトのカ
イロでなされたカイロ宣言(1943)がある。

 そのカイロ宣言の中には、「日本は、中国から奪取したすべての領土を、中国に返還すべ
き」という一文があるが、中国は、その中には、台湾はもちろんのこと、沖縄(琉球)も
含まれると主張した。毛沢東が、その人である。毛沢東は、その著書、『中国革命と中国共
産党』の中で、「沖縄(琉球)は、日本が中国から奪った領土である」と書いている(中西
輝政氏、指摘・「諸君」11月号)。

 ……こう書くと、「沖縄が、中国の領土だって?」と思う人がいるかもしれない。しかし
ここは、明確に述べておかねばならない。

琉球王朝、つまり沖縄は、江戸時代においては、薩摩の「附庸国」であると同時に、明と
清との朝貢関係をもっていた。つまり沖縄(琉球)は、幕藩体制の中では、一応、日本の
「領分」としながらも、日本では異国として扱われていたのである。

 が、1871年、宮古・八重山島民が台湾に漂着し、54人が、台湾島民に殺害される
という事件が起きた。これに対して時の明治政府は、「日本国民を殺害した」として清国に
抗議、台湾へ出兵。そしてそのあと、日本は、北京条約で、清に沖縄(琉球)の日本への
帰属を認めさせる(参考、中島成久氏ゼミ資料)。

 こういう流れからみると、つまりどこか力ずくで、沖縄(琉球)を日本の領土としてき
たという流れからみると、「沖縄(琉球)は、中国の領土である」と、中国が主張しても、
どこもおかしくない。少なくとも、「沖縄は、日本の領土である」という主張には、歴史的
根拠があまりない。つまりここが、日本最大のアキレス腱ということになる。

 しかしその中国が、沖縄をあきらめたわけではない。かろうじて、本当にかろうじて、
今、中国がそれを主張しないのは、台湾問題があるからにほかならない。台湾が、中国の
コブなら、沖縄(琉球)は、そのコブの上のコブにすぎない。「沖縄(琉球)が、中国の領
土である」ということを主張するためには、まず台湾を、自分の領土に組みこまねばなら
ない。

 わかりやすく言えば、台湾が、大きな壁となって、中国と日本の間に、またがっている。
中国にしてみれば、まず、台湾問題なのである。

 つまりもうおわかりかと思うが、台湾問題が片づけば、つぎにやってくるのが、沖縄(琉
球)問題である。「台湾問題は、日本に関係ない」などと思っていたら、たいへんなまちが
いである。現に今、「沖縄は中国の領土である」と主張する知識人が、中国国内で、ふえ始
めている。

 一方、ここ1、2年、米中関係は、急速に悪化の一途をたどっている。新たな冷戦時代
の始まりと説明する人も多い。最近になってアメリカのライス国務次官も、中国を、「明ら
かな脅威」と位置づけ始めている(05年8月)。台湾や日本にとって、脅威という意味で
はない。アメリカ本土にとって、脅威という意味である。

 事実、それに呼応するかのように、中国の軍の近代化と拡充には、ものすごいものがあ
る。軍事費にしても、公表されている数字の3倍近くはあると言われている。あるいは、
それ以上かもしれない。

 そこで、その中国がなぜ、こうまで、軍事力の拡充に熱を入れるかといえば、すでに中
国は、台湾や日本を飛び越して、アメリカとの戦争を、念頭に置いているからに、ほかな
らない。その中国は、これまたことあるごとに、「もし中台戦争にアメリカが介入してくる
ようなことがあれば、アメリカとの対決も辞さない」と主張している。

 中西輝政氏は、つぎのような事実も指摘している。

 「この(05年)7月、中国国防大学のエリート、朱成虎少将が多くの欧米記者を前に、
『アメリカが中台の武力紛争に介入したときには、中国は、アメリカ本土に、戦略核ミサ
イルによる先制攻撃を加える』という警告を発した」(同、「諸君」11月号)と。

 そうなれば、沖縄はもちろん、日本の本土すらも、中国の核攻撃の対象となる。

 ……とまあ、こうした物騒な話はさておき、中国は、日本の主張する経済水域を、そも
そも認めていない。だから平気で、その中で、ガス油田の開発、採掘をすることができる。
だからいくら日本が抗議の、のろしをあげても、どこ吹く風。中国は、これから先も、ま
すます堂々と、日本の経済水域内に入ってきて、ガス油田の開発、採掘をするだろう。

ワイフ「そう言えば、沖縄って、日本とは、ちがうという感じがしていたわ」
私「あまり、そういうことは言わないほうがいい。もしそんなことを、日本人のお前が言
っていることを知ったら、中国人は、『そら、みろ!』と喜んで、飛びついてくるかもよ」
ワ「でも、事実は事実だから……」
私「日本としては、何としても、米中関係の悪化を、阻止しなければならない。これ以上、
悪化すれば、日本の平和どころの問題では、なくなってしまう」
ワ「K国の核開発問題も、どこかへ吹っ飛んでしまうわね」
私「そういうこと」と。

 こうした中国の野望を封じこめるための方法は、2つある。一つは、中国の民主化運動
を、側面から支援して、中国を民主化すること。ブッシュ大統領も、「世界を民主化するこ
とが、世界に平和をもたらす方法」というようなことを言っている。

 もう一つは、日本、東南アジアからインドにかけて、中国包囲網を構築すること。とく
に重要なカギを握るのが、すでに核保有国となったインドである。すでに、アメリカも日
本も、その方向で進んでいる。中国が、軍拡をつづけているかぎり、日本は、中国とはど
こかで一線を画す。でないと、それこそ敵に、塩を送るようなことになりかねない。

 ……とまあ、いっぱしの外交評論家のようなことを書いてしまったが、しかしこれらの
問題はそのまま、私たち自身の問題である。日本の平和と安全に、直接かかわってくる問
題である。これからも、これらの問題を追求していきたい。
(参考、「国家の覚悟が問われる秋」by中西輝政、「諸君」11月号)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 琉球 沖縄 沖縄の領有権 沖縄独立党 ポツダ
ム宣言 ヤルタ会談 ヤルタ協定 沖縄問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国際政治は、現実的に!

 沖縄がかかえている問題は、よくわかる。
「(沖縄の)住民は、基地問題、低学歴、就職難で苦しめられている」(「日本のタブー」)。
そのとおりだと、私も思う。
YC氏は、同書のインタビューに答えて、こう述べている。

「沖縄独立なんていえば、妄想だの、荒唐無稽だのって、鼻で笑われたが、六千数百人の
有権者が、私の訴えに賛成したのも事実。
海や空の色とは裏腹に、基地の重圧、戦争の傷痕、財政難が住民の心を重くしている。
けれどこれはみんなヤマトンチューから押し付けられたもの。
だから私はこれをヤマトにお返しして、シマンチューのための琉球共和国を作ろうと言っ
ているのです」と。

が、その問題と、「独立」とは、まったく別の問題である。
ヤマトンチュー(日本)が気に入らないから、シマンチュー(沖縄)は独立すべきという
考え方は、沖縄の人たちにとっても、現実的ではない。
第一に、私たち本土の(?)人間にしても、「鼻で笑っている」わけではない。
また「押しつけている」わけでもない。
沖縄県の人たちに、「申し訳ない」と思っている人のほうが、多い。
それを一足飛びに飛び越えて、「独立」と言われると、私たちとて、どうしてよいのかわか
らなくなってしまう。

 むしろ私が心配するのは、「独立」の向うに見え隠れする、YC氏自身の排他的民族主義。
民族主義というのは、より狭小になればなるほど、また先鋭化すればするほど、戦争の火
種となってしまう。
それが排他的であればなおさら、そうである。
あのアインシュタインも、TK先生への手紙の中で、こう述べている。
「exaggerated nationalism(誇張されたナショナリズム=国粋主義)こそが、すべての戦
争の原因である」と。

 ともあれ、沖縄というより、沖縄県の問題は、日本全体の問題である。
そのことを気づかせてくれた、沖縄独立党の存在感は、大きい。
私たちは私たちで、「沖縄に独立されては困る」という発想からではなく、沖縄の人たちが
かかえる問題を、私たちの問題として考える必要がある。
たしかに私たちは、今まで、沖縄の人たちがかかええる問題について、あまりにも無関心
でありすぎた。

 一方、沖縄の人たちは沖縄の人たちで、もう少し現実的なものの考え方をしてほしい。
いろいろな問題があることは、みな知っている。
だからこそ、それらの問題をひとつずつ解決していく。
私はそのほうが現実的だと思うし、建設的だと思う。
そういう意味で、いきなり「離婚」を訴える沖縄独立党の考え方には、どうしてもついて
いけない。

 ……イマイチ歯切れの悪い結論で、ごめん!

Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●日本よ、覚悟しよう!

 この先、この問題は大きくなることはあっても、小さくなることはない。

今度は「謝罪と補償を要求する」と、さらにボルテージをあげている。

●結論

 日本はあえて火中の栗を拾ってしまった。
これも平和ボケ。
繁栄ボケ。

 いまだに「いざとなったら、アメリカが……」と考えている人は多い。
しかしそのアメリカはすでにこの日本を切り捨てている。
たとえばアメリカが極東アジアの国々を名指しで呼ぶとき、現在、アメリカは、
「Korea, Japan & China(韓日中)」、もしくは「Korea and Japan(韓日)」と呼んでいる。
少し前まで、「日本」が先頭だった。
が、今は、「韓国」。
これを韓国の外交的勝利と言わずして、何と言う?

 さらに今回、「小沢総理だったら、中国と渡り合えたはず」と主張する政治家が多い
には驚いた。
どうしてこうまで外交音痴なのか?

 小沢幹事長のもと、鳩山政権が誕生したとき、小沢幹事長は300人あまりの国会
議員団を従え、北京詣でをした。
ワシントン詣でではなく、北京詣で、である。
いくら「左翼政権」でも、これはやりすぎ。
アメリカが怒って、当然。
中国が日本をなめて、当然。
その結果が今である。
トヨタバッシングは、そのひとつの現われにすぎない。

 アメリカ追従外交反対論も結構だが、時期が早い。
沖縄米軍基地反対闘争にしても、そうだ。
今、ここで日本がアメリカという後ろ盾を失ったら、この日本はどうなる?
日本独自で……ということになるが、それこそ日本の思いあがり。
悲しいかな、日本には、お金(マネー)で相手の国をひっぱたくことはできても、
外交能力は、ゼロ。
こんなエピソードがある。

●インターナショナル・ハウス

 1970年当時、私はメルボルン大学の、IHカレッジにいた。
世界中から、各国の王子や皇太子たちが集まっていた。
そのこともあって、毎週金曜日とか土曜日の夜は、各国の大使や大臣、政治家を
招いて晩餐会が開かれた。

 日本からも合計で、3〜5人の大臣や政治家がやってきた。
しかしほかの国の大臣や政治家とちがって、晩餐会のあと、(晩餐会のあとゲストが
1時間あまりのスピーチをするのが習わしになっていたが)、スピーチをして
帰った日本の大臣や政治家はゼロ。
ただ食事だけして、それで「はい、さようなら」。

 当時から今に至るまで、こうした日本の姿勢は、変わっていない。
大会議を前にしても、ひとりポツンと座っているだけ。
意見を述べるにしても、原稿を読むだけ。
口角泡を飛ばして……などという姿を、私は見たことがない。
あなたも見たことがないはず。

 日本の外交能力は、つまりはその程度。
日本国内でいくら威勢のよいことを言っても、一歩外に出たら、借りてきた猫の子の
ようにおとなしい。

●では、どうするか?

 尖閣諸島ではもう、これ以上、妥協してはいけない。
その先に「沖縄」があることを念頭に置き、妥協してはいけない。
また中国は、「国として(レアメタルの)輸出規制をした覚えはない」と言い出している。
すでに責任逃れの煙幕を張り始めている。

 だったら日本は、粛々と、正義にのっとり、事務手続きだけを進めていけばよい。
時事通信は、こう報道している。

『菅直人首相は26日、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で中国側が日本に謝罪と賠償を求
めていることについて、「尖閣諸島はわが国固有の領土だ。謝罪、賠償は考えられない。全く
応じられない」と述べ、拒否する意向を示した。視察先の東京都青梅市内で記者団の質問に
答えた』(以上、「時事通信」と。

 けだし、当然のことである。 
2010/09/26記


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司 

【日中経済戦争】(1)

+++++++++++++++++

まず敵を知る。
敵の内情を知る。
それが戦争のイロハ。
情報なくして、戦争はできない。
そこで今、中国経済がどうなっているか。
それを知る。

+++++++++++++++++

●『VOICE』(以下V誌)

 V誌の「中国経済・墜落に備えよ」(10月号)は、読み応えがあった。
それを読むと、中国経済は、かなりあぶない。
「墜落」という言葉も、そこから生まれた。

 6人の識者が寄稿している。

(1)ビル・エモット氏……中国経済のキーポイントは、「インフレ」と説く。
(2)三橋貴明氏……異常な「投資依存経済」に、問題があると説く。
(3)岩本沙弓氏……バブル経済に問題があると説く。
(4)富坂聡氏……不動産バブルをどう始末するか、それで命運が決まると説く。
(5)片山修氏……中国の社会制度、商習慣に問題があると説く。
(6)何清連氏……上昇しつづける労務コストと、続発するストに問題があると説く。

 つい数日前、中国のジニ係数が、実際には5・0を超えているのでは……という記事を
どこかで読んだ。
ジニ係数……「ジニ指数」ともいう。
イタリアのコッラド・ジニによって考案された「所得分配の不公平さ」を測る指標。
これによって富の偏在性や、エネルギー消費における不平等さなどに応用される
(ウィキペディア百科事典)。

++++++++++++++++++

以前、ジニ係数について書いた
ことがある。
その原稿を掲載する。
日付は2008年となっている。
少し遠回りをするが、許してほしい。

++++++++++++++++++

【豊かさとは何か】

●相対的貧困層 

+++++++++++++

貧困かどうかということは、
相対的な満足度によって決まる。

家と車と家電製品をもっていても、
貧しい人は、貧しい。

その日、その日を生きていくだけで、
精一杯という人も、少なくない。

そこで最近では、国の豊かさを
測る尺度として、「相対的貧困率」
という言葉を使う。

+++++++++++++

 生活の豊かさは、「モノ」では決まらない。いくら家と車と家電製品をもっていても、貧しい人
は、貧しい。その日、その日を生きていくだけで、精一杯という人も少なくない。

 そこで最近では、国の豊かさを測る尺度として、「相対的貧困率」という言葉を使う。わかりや
すく言えば、生活に対する満足度ということになる。

 それによれば、

 メキシコ  ……20・3
 アメリカ  ……17・1
 トルコ   ……15・9
 アイルランド……15・4
 【日本】  ……15・3
 ポルトガル ……13・7
    ……
    ……
スウェーデン…… 5・3
チェコ   …… 4・3
デンマーク …… 4・3、だ、そうだ。

(OECD24か国平均……10・4)(2005年)

 日本は相対的貧困率でみるかぎり、貧しい国としては、上位5位ということになる。実際、「ワ
ーキングプア」という言葉があることからもわかるように、この日本には、「働いても、働いても
楽になれない」という人たちが、「全体の4分の1、400万世帯もある」(朝日新聞「キーワー
ド」)そうだ。

 これらの人たちは、最低賃金や、生活保護以下の収入しか得られない人たちという。つまり
その分だけ、所得格差が進んでいる。ジニ係数(ジニ指数ともいう)でみても、日本は、OECD
25か国中、第10位ということになっている。ジニ係数は、所得のかたよりを測る指数と考えて
よい。

 たとえば高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占め、残りの4分の3の人たち
が、残った4分の1の所得を分けあう状態で、ジニ係数は、0・5となる。日本は、0・314(200
5年)である。

 ……そういう意味では、この日本は、たしかに住みにくい国になりつつある。何をするにも、
お金がかかる。どこへ行っても、お金がついて回る。まさに、マネー、マネー、マネーの国。お
金がないと、それこそ、身動きができない。

 そこで知恵をしぼって、たとえば休日でも、できるだけお金を使わないですまそうとする。お弁
当を用意して、無料の公園を散策したり、山歩きをしたりする。が、それでもお金がかかる。ど
ういうわけだか、かかる。そういうしくみが、できあがってしまっている。

 言いかえると、お金を使わないですまそうと思ったら、家の中で、ゴロゴロしているしかない。
しかしそういう生活を、だれも、豊かな生活とは言わない。つまり今、日本人の多くが感じてい
る貧困感は、そういうところから生まれている(?)。

 では、どうすれば、豊かに生きられるのか? 「豊か」というより、「心豊か」と言いかえたほう
がよい。

 私なりの実践法を並べてみる。

(1)家族が円満であること。これは心豊かに生きるための、第一条件。
(2)みなが、健康であること。これも心豊かに生きるための、第一条件。かりにだれかが病気
であっても、それを前向きに受け入れてしまう。
(3)収入の範囲で、ほどほどの生活をする。できれば、常に最低限の生活を心がける。
(4)価値観を、(お金)から、(心)と(知恵)に移す。心の豊かさ、知恵の豊かさをもって、「豊
か」と判断する。
(5)「私は私」という生き方を貫く。世間体、見栄、体裁は無視。冠婚葬祭を含めて、儀礼を廃
する。

 私はとくに(4)が大切だと思う。心や知恵は、みがけばみがくほど、そうでない人が、そうでな
く見えてくる。他人に対して優越感をもつことは、好ましいことではないが、しかしそのうち、愚
かな人たちを相手にしなくなる。「私は私」という生きざまを貫きやすくなる。

 ……ともかくも、相対的貧困率が高いということは、けっして望ましいことではない。社会がそ
れだけ不安定化することになる。また国の豊かさというのは、いかに弱者にやさしいかで決ま
る。弱者にきびしい国というのは、それだけ未熟な国ということになる。

【付記】

●拡大する貧富の差とこれからの受験勉強

 この日本の社会では、静かに、密かに、しかし確実に、ジワジワと、貧富の差が拡大しつつ
ある。

 このことは、工場労働者の構成を見ればわかる。

 近くのX自動車の下請けメーカーの中堅社員が、こんなことを話してくれた。

「社員といっても、何種類もいる。正社員のほか、パート社員、期間社員、アルバイト、人材派
遣会社からの派遣社員などなど。

 さらに最近では、一応社員なのだが、独立した仕事だけをして帰る社員もいる」と。

 「どういう仕事ですか?」と聞くと、「たとえば会社で出す、人材募集のチラシを作ったり、社内
報を作ったりする社員です。しかしこの社員は、社員というよりは、独立したアルバイトといった
感じです。社会保険にも入れず、もちろんいっさいの保証はありません」と。

 手厚く保護される正社員。しかしその一方で、冷遇されるそれ以外の社員(?)たち。年俸に
しても、数百万円以上もの差がある。が、「安い」だけではない。労働条件は、かえってきびし
い。少しでもヘマをすると、即、クビという状態だそうだ。

 この日本では、今、確実に、貧富の差が、広がりつつある。やがてそのうち、社会問題化す
るのも時間の問題といってよい。数字を見てみよう。

 厚生労働省が04年6月に発表した、ジニ指数(世帯ごとの所得格差を示す)は、調査を始め
た84年から、7年連続で、拡大をつづけている。

 昨年(04年)は、そのジニ指数が、0・498と、かぎりなく0・5に近づきつつある。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占めることを意味す
る。残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことになる。

 しかしこの数字を、深刻に考えている政治家は、少ない。……いない。経済界にいたっては、
なおさらで、むしろ、こうした格差を歓迎しているふうですら、ある。理由がある。

 「こうした差こそが、やる気のある人にやる気を出させ、経済を活性化させる」と。

 つまり力があり、やる気のある人がいい生活をして、そうでない人が、そうでない生活をする
のは、当然ではないか、と。そういう冷徹な論理である。が、どうもそれだけではないようだ。

 「この世の中では、支配階級と、だまってそれに従う階級がなければ、そもそもマネー社会
(=マネー資本主義)は成りたたない」という論理がある。みなが平等になり、中産階級になっ
てしまえば、社会の活力そのものが、停止してしまうという。例がないわけではない。

 かつて私が留学していたころのオーストラリアが、そうだった(1960〜70年代)。

 当時のオーストラリアでは、年俸が、確か2万2000ドル(この数字は正確ではない)を超える
と、とたんに、所得税率が極端にあがるしくみになっていた。だから、みな、2万ドル分までは働
くが、それ以上に働いても意味がないというように考えるようになった。

 こうして「レイジー・オージー(怠け者のオーストラリア人)」が生まれたわけだが、この制度
は、オーストラリアの活力そのものまで奪ってしまった。(もともと、土地を掘れば、鉱物資源が
無尽蔵に出てくるという、ラッキーな国であったことも事実である。)

 だから経済界あたりでは、むしろ、貧富の差を助長することこそ、重要であるというような考え
方をする。はっきり言えば、マスター(ご主人様)がいて、それに従順に従う、スレイブ(奴隷)が
いたほうが、経済の活性化のためには、つごうがよいということになる。

 だから、官僚たちは、恥ずかしげもなく、こう言う。「林さん、労働者には、金(マネー)をもた
せてはいけないのですよ。金をもったとたん、働かなくなりますから。万博でも何でもいい。そう
いうのを開いて、労働者に金を使わせる。貯金させてはいけないのですよ」と。

 これはある官僚から、私が直接聞いた言葉である。だから万博に反対というわけではない。
経済界の論理というのは、そういうもの。

 それを知ってか、知らずか、地方の貧しい人たちが、バスに乗って、万博を見にくる。マンモ
スの像を見て、「マンモスだ」「マンモスだ」と、喜んでみせる。そこにある種の悲しさを覚えるの
は、はたして私だけであろうか。

 話がそれたが、この貧富の差が大きくなればなるほど、またまた受験競争が燃えあがる。だ
れしも勝ち組に入りたいと願っている。「せめて、自分の子どもだけは……」と願っている。それ
が子どもの受験競争に拍車をかける。

 1995年〜2000年にかけて下火になってきた、いわゆる受験産業が、このところまた息を
吹きかえしつつ。そんな事情の背景には、こんな事実が隠されている。

 悲しいかな、今、この日本で、「受験」に背を向けて生きられる人(子ども)は、ほとんど、いな
い。そしてその傾向は、これから10年、さらにはげしくなる。貧富の差がはげしくなればなるほ
ど、なおさらである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ジニ
指数 ジニ係数 貧富の差 受験競争 ジニ指数)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ジニ係数

 話を戻す。

 「係数の範囲は0から1で、係数の値が0に近いほど格差が少ない状態で、1に近いほど格差
が大きい状態であることを意味する。ちなみに、0のときには完全な「平等」、つまり皆同じ所得
を得ている状態を示す」(ウィキペディア百科事典)と。

 ジニ係数の計算方法については、「日本共産党」のHPに載っていたので、そのまま転載させ
てもらう。

**********以下、日本共産党のHPより***********

《ジニ係数の算出方法》

 ジニ係数の算出方法は、次の手順をふんで計算します。

 (1)対象となる集団に含まれるすべての数値間の差の絶対値を合計して、平均する(これを
「平均差」という)。

 (2)全体の平均値を計算する。

 (3)平均差を全体の平均値の2倍で割る(2倍で割るのは、ジニ係数を0と1の間に収めるた
め)。この結果がジニ係数です。

 たとえば(245万円、362万円、826万円)のジニ係数は次のようになります。
 (1)(―245−362―+―245−826―+―362−245―+―362−826―+―826−
245―+―826−362―)/6
=2324/6=387.3(平均差)

 (2)(245+362+826)/3=1433/3=477.7(平均値)

 (3)387.3/(2×477.7)=0.4054

 よって、ジニ係数は、0.4054
 
(注・― ―は絶対値記号)

**********以上、日本共産党のHPより***********

●ジニ係数、0・5

 中国のジニ係数も、0・5を超えているのではないかと言われている。
先にも書いたように、0・5というのは、おおざっぱに言えば、高所得者の4分の1の世帯が、全
所得の4分の3を占めることを意味する。
残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことになる。

 たとえば10世帯の人が、1億円を稼いだとする。
ジニ係数0・5の社会では、2・5人が、7500万円を自分のものにする。
平均所得は、3000万円となる。
残りの2500万円を、7・5人の人が分け合う。
平均所得は、333万円となる。
3000万円と333万円。
その格差は、約10倍となる。

 つまりジニ係数が0・5を超えるほどになると、不公平感が増大し、社会そのものが、不安定
化する。
今の日本もあぶないが、中国は、もっとあぶない。
つまりこのジニ係数には、ひとつの盲点がある。

●ジニ係数の盲点

 ウィキペディア百科事典は、こんな例をあげている。
そのまま紹介させてもらう。

『……例えば、ある高級住宅地に年収10億円の人が99人、年収1兆円の大富豪が1人いると
する。そこでこの高級住宅地に住む100人を対象にジニ係数を計算すると約0.91となり、非常
に格差が大きいが、年収10億円でもかなりの高収入であり、この状態が悪いとは一概に言え
ない』と。

 つまり日本でいう「0・5」と、中国でいう「0・5」には、本質的なちがいがある。
不平等は不平等だが、年収333万円でも、何とかそれなりの生活を維持することができる。
年収3000万円の人を、ときに「うらやましい」と思うことはあるが、「まあ、そんなものかな」と、
たいていは黙って見過ごすことができる。

 しかし中国のような発展途上にある国では、そうでない。
1人当たりの国民所得が全体的に低い国では、不平等感は相乗的に大きくなる。
今日の食費もままならない家庭が大半を占める一方で、外国製の大型車を乗り回す家庭が、
その隣にある。

 中国政府がもっとも恐れている部分は、実はここにある。
アキレス腱といってもよい。
不公平感が、いつその矛先を中国共産党に向けてくるか。
ハラハラドキドキ!
あの天安門事件にしても、その不公平感が引き金となったことは、よく知られている。

●三橋貴明氏の卓見

 三橋貴明氏は、『異常な「投資依存経済」に、問題がある』と説く。
V誌の記事を読み比べたとき、氏の記事がいちばん核心をついている。
中国政府は、外国からの投資を呼び込むことで、自国の発展をつづけてきた。
(このこと自体は、すでに10年以上も前から常識だったが……。)

 一方外国は、日本のような国から金(マネー)を借り、それをいったん売り(=円安になる)、ド
ルに交換したあと(=ドル高になる)、中国に投資してきた。
現在、中国向けの最大投資国が、この日本であることも忘れてはいけない。

 三橋氏の意見を要約してみる。

(1)中国政府(共産党)は、「保八」(=経済成長率を8%に保つ)に固執している。
(2)が、世界経済は縮小傾向にある。
(3)そこで中国政府は、外資を呼び込むことで、8%成長率を維持しようとした。
(結果、2009年の中国のGDPにおける「投資(民間投資+公共投資)」が占める割合は、4
5%以上になっている。)
(4)が、国内では、そうした外資を使うとことがない。
(5)そこで中国政府は、「融資指示」という形で、銀行に各方面に融資をすように指示した。
(6)が、それを受けた銀行は、設備投資ではなく、その半分近くを、株式と不動産市場に流し
た。
(7)中国バブルは、こうして発生した。
(8)結果、人の住まない住宅やマンションが続出。今やその状態が、狂乱化している。
(9)が、本来ならその一方で、個人消費が伸びなければならない。
(10)しかし中国人は、本来、守銭奴(私の言葉)傾向が強い。拝金主義もその背景にある。
対GDP比における個人消費率は、35・6%(09年)。欧米先進国は、約60%前後。つまり得
たお金を、消費に回さず、貯蓄に回している。


 以上の結果「……こうなると、またまた政府支出(公共投資)に頼り、中国共産党政府はGD
Pの下支えをせざるをえなくなるだろう。
結局のところ、極端な投資(および輸出)依存で成長をつづけている中国は、先進諸国のよう
な大衆消費社会を築くこともなく、成長の袋小路に突き当たる可能性がきわめて高い」(三橋
貴明氏)と。

●具体的に……

 こうした経済論は、一家の家計にたとえてみると、理解しやすい。
(私はいつもそうしているが……。)

 あなたはバリバリの亭主関白。
一家の独裁者。
見栄っ張りで虚栄心が強い。
だから近所でもいつも大物ぶっている。
が、それを支えているのは、金(マネー)。
収入。

 あなたはいつも豪語している。
「オレの家は、繁盛している。どうだい!」と。

 が、近所はみな、景気が悪い。
思うように仕事が入ってこない。
家には7人もの子どもがいる。
みな、腹をすかせている。
しかしここで弱みを見せるわけにはいかない。
そこであなたは、隣町(=外国)から借金を重ねる。
「私に金を貸せば、儲かるあるヨ」と。

 そこで金を借り、家族に渡すが、女房がこれまた稀に見る拝金主義者。
札束を仏壇にあげたまま、使おうともしない。
子どもたちが腹をすかせ、ギャーギャーと泣いていても、知らぬ顔。
あとは離れを増築したり、通路を大理石で覆ったり……。

 が、元高にすることもできない。
元高にしたとたん、売り上げが減ってしまう。
外資も引き上げてしまう。

 そこであなたは何とか、その不満を、外に向けさせなければならない。
そこであなたは近所の人たちに、いちゃもんをつけることにした。

 通りを歩いていたら、どこかのんきな日高さん(=日本)が歩いていた。
その日高さんにわざと自分から体当たりし、こう言って怒鳴る。
「よくもテメエ、オレにぶつかりやがったな! ただですまさないあるぞ!」と。

 それを家の中で見ていた7人の子どもたちが、手を叩いて喜ぶ。
「父ちゃん、かっこいいあるね!」と。

 ……とまあ、今回の一連の事件の流れを大きく見ると、そういうことになる。

●日中経済戦争

 かくして日中経済戦争は始まった。
ルールなし。
「ない」というより、相手にはルールは通用しない。
では、どうするか。

 中国の強引さには、目に余るものがある。
しかし中国のアキレス腱をうまくつつけば、中国は明日にでも崩壊する。
たとえば現在、円高ということもあって、中国は日本への借金返済に苦しんでいる。
へたをすれば、不渡りを出しかねない。
そうでなくてもバブル経済は崩壊中。
この6月(2010年)を頂点に、住宅販売価格も下落し始めた!
あぶないのは、日本ではない。
中国である。

その中身を、これからも検証していきたい。

 負けるな、日本!
がんばれ、日本!
ついでに一言。
がんばれ、管さん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日中経済戦争 住宅販売価格の下落)

(注)推敲しないまま、BLOGに掲載。誤字、脱字を許してほしい。
2010/09/27記


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司
























Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【心の豊かさについて】

 満60歳という年齢は、本当に不愉快な年齢である。いくら「私はそうでない!」とがんばって
も、周囲の人たちは、年齢で私を見る。知的能力や運動能力では、ない。年齢で見る。健康度
もそうだ。「60歳の人は、こうだから……」という見方でしか、見てくれない。

 しかし私は、ひとりそれに抵抗している。近くに、60歳以上は、〜〜円引という理髪店があ
る。しかし私は、60歳になっても、ぜったいに、そういうサービスを利用しない。今から心に決
めている。

 「だれが、自分から、ジジイになってやるか!」と。

 その60歳になると、貧困感がどっと押し寄せてくる。先日、80歳をすぎた女性について書い
た。その女性は、郵便局だけでも、1000万円の貯金と、1000万円の国債をもっていた。さら
に手にした年金の100万円をどうしようかと、困っていた。

 実のところ、そういう女性の気持ちを理解できないわけではない。その女性は、ひょっとした
ら、「信じられるのはお金だけ」と、考えているのかもしれない。必死になって、お金にしがみつ
いているのかもしれない。私とて、油断をすれば、いつそうなるかわからない。すでにその傾向
が、見え始めている(?)。

 「心の豊かさとは何か」「知恵の豊かさとは何か」、今日はこれをテーマに、一日、考えてみた
い。

++++++++++++++++++

心の豊かさで、自分の原稿を検索
してみたら、いくつかをヒットしま
した。

それらを紹介します。

++++++++++++++++++

●心の豊かさvs心の貧しさ

 K府に住んでいる、Rさん(女性)から、こんなメールが、届いた。題して、「悲しき笑い話」。

 「私の母は、今年、82歳になります。頭もしっかりしています。が、昔から、異常なまでに虚栄
心が強く、見栄を張ります。

 収入は、わずかな年金だけ。あとは私の兄が、毎月、いくらかの小遣いを送ってくれるので、
それで生活をしています。

 たとえばサイフの中には、いつも、10万円近いお金を入れて歩いています。スーパーでお金
を払うときも、わざとそのお金が、店員さんに見えるようにして払うのです。で、私が「そんな人
にまで、見栄を張ることはないでしょう」と言うのですが、私の言うことなど、まったく聞いてくれ
ません。

 が、ときどき、お金が少なくなるときもあるようです。そういうときは、一番上と、一番下に、1
万円札を置き、中に1000円札を、10枚くらいはさんで、あたかも、お金があるように見せか
けます。

 そういう母を見ていると、ときどき、『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』
と、娘として、さみしくなります」(以上、要約)と。

 見栄を張る人は多い。しかもそれが人生観の基本になっているから、始末が悪い。また人生
の途中でそれに気がついて、改めるということもしない。だから80歳をすぎても、そのまま。

 が、この年代の人には、こういったタイプの人が多い。見かけはともかくも、心は貧しい。貧乏
な人の家にやってきて、ことさら金持ちであることを、吹聴してみせる。そして相手に対して、優
越感を覚え、それを楽しむ。

 そう言えば、バブル経済のこと、東南アジアの貧しい国々へでかけていって、札や、コインを
バラまいていた日本人がいた。やはり、心の貧しい人たちである。体中に、キンキラキンの宝
飾をぶらさげ、ブランド品で身を包んで、得意になっている人たちもそうだ。

 話はそれたが、それたついでに、もうひとつ。

 よく東南アジアやアフリカへでかけていって、その国や、その国の人々を紹介するテレビ番組
がある。そういう番組の中で、レポーターが、相手の国の貧しさや不便さに、ことさら驚いてみ
せたりすることがある。場違いな服装に、派手な装飾品。いかにも、リッチな、日本からやって
きましたというふうな様子をしてみせる。

 そのレポーターの心が貧しいというよりは、日本人全体の心が、まだそのレベルにあると考
えてよい。

 相手の人が貧しい生活をしていたら、その貧しさに、自分を合わせる。合わせた生活をす
る。相手がどういう感情をもつかを、相手の立場で思いやる。相手が、あなたに対して、羨望
(せんぼう)を覚えたとしたら、それはあなたの責任。決して、自分たちの優越性を見せつけて
はいけない。それがその国の人たちに対する、礼儀と言うもの。

 さて、冒頭の女性の話にもどる。Rさんの母親は、たいへん心の貧しい人と考えてよい。ある
いは心の豊さというものがどういうものか、わかっていない。Rさん自身が言っているように、
『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』ということになる。

 で、そうならないための、いくつかの教訓を考えてみた。

(5)あるがままの自分をさらけ出して、生きる。
(6)「私は私」をつらぬき、他人の目を気にしない。
(7)心の豊かさを追求し、世間体、見栄、体裁を気にしない。
(8)いつも、ともに(生きている)という原点において、自分を見つめる。

 が、油断すると、ふと見栄を張ることがある。自分が自分でなくなるときがある。自分の中に
潜むそういう邪悪性を知るための、一番、手っ取り早い方法としては、あなたの周辺にいる人
の中から、そういう人をさがすというのがある。その人の愚かさを、しっかりと認識する。あなた
のまわりにも、必ず、1人や2人はいるはず。

 そういう人を反面教師として、自分を高めるために、利用する。その人には悪いが、その人
の愚かさがわかったら、それを自分の生きザマの中に、生かしていく。

【補足】

 相手に羨望感をもたせて(=うらやましがらせて)、優越感にひたるというのは、愚劣な人間
だけがなしうる、軽率な行為である。

 金持ちであることを、見せびらかしたり、得意になったりする。昔、私の近所にも、そういう男
がいた。和服の呉服店を経営していて、ことあるごとに、「今日は、x10万円、もうけたよ」「これ
で今月は、x100万円だ」と言っていた。

 「オレは、それだけ力のある男だ」と言いたかったのだろうが、私には、ただのノーブレイン
(=おバカ)にしか見えなかった。

 玄関中に、高価な、鎧やトラの皮を飾っている人もいた。借金だらけなのに、外車を乗り回し
ている人もいた。根底に、何か、大きな劣等感がある人ほど、そういう行為に走りやすい。つま
りは、「私」がないから、そうする。

 20代や30代の若い人ならともかくも、50代、60代になっても、「私」がつかめきれていない
人というのは、それだけで、人生の敗北者(失礼!)と考えてよいのでは……? こう言いきる
のは危険なことかもしれないが、今の私は、そう思う。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ケチな人

++++++++++++++++++

ケチと質素とは、ちがう。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を
使わない。

質素な人は、無用、無駄な、お金は使わない。
それをよくわきまえている。

++++++++++++++++++

 世の中には、「ケチ」と呼ばれる人は、ゴマンといる。長男、長女に多いのは、それだけ生活
が防衛的であることによる。わかりやすくいえば、下の子が生まれたことにより、乳幼児期の愛
情飢餓が、嫉妬(しっと)へと変化し、その嫉妬が、防衛的な生活態度に結びついたと考えると
わかりやすい。

 長男、長女ほど、「ぼくのもの」「私のもの」という意識が、強い。つまりそれだけ、心の許容範
囲が狭いということになる。

 私の兄なども、(今は、ボケてしまって、どうしようもないが)、若いころでも、私が買ってやった
ステレオセットにすら、私にさわらせなかった。私は、私が買ってやったのだから、「私のもの」
と考えた。しかし兄には、そうではなかった。

 そのときは、そういう長男、長女のもつ心理を、理解することができなかった。(今は、できる
が……。)

 こういうのを、「ケチ」という。

 で、以前、コンドームを、洗って、再使用している夫婦のことを書いた。ふつう(?)、コンドー
ムというのは、再使用しない。「質素」というふうにも、考えられなくはないが、しかしその夫婦の
ばあいは、ほかの面でも、異常なほど、ケチだった。

 たとえば夫婦の兄弟たちと飲み食いしたときでも、「私は兄だ」という、家父長意識ばかりが
やたらと強く、自分で、お金を出したことがないという。出しても、10円単位までの割り勘。弟の
ほうが見るにみかねて、「まあ、いいから……」と言って、全額払うことが多かったという。

 ほかに、衣服でも、破れて使い物にならなくても、きちんとタンスに入れてしまっていたとか、
など。

 ケチと質素は、どこがどうちがうか。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を使わない。質素な人は、無用、無駄なお金は使わな
い。それをよくわきまえている。が、もう少し踏みこんで考えてみると、こうなる。

 物欲に毒され、お金やモノに執着する人を、「ケチ」という。物欲とは関係なく、心の豊かさを
優先して考える人を、「質素」という。

 このことは、金持ちでありながら、ケチな人と、金持ちでありながら、質素な人を見比べてみ
ると、よくわかる。

 まず、金持ちでありながら、ケチな人……妻や子どもの必要経費にすら、お金を出し渋る。兄
弟や姉妹、親類に対しはなおさらで、実際には、1円も払わない。毎日札束か預金通帳をなが
めて暮らしている。

 金持ちでありながら、質素な人……人生を、余裕をもって楽しんでいる。以前、この浜松市で
も、1、2番の長者番付に入るような人の子ども(姉妹)を、2人、教えたことがある。で、私は、
その子どもたちの持ち物を見て、驚いた。

 何と、子どもたちのもっている手提げバッグは、母親の手作りだった。しかも、バッグには、家
からBW(私の教室)までの地図が縫いこんであった。そういうのを、「質素」という。

 しかし長い人生を通してみると、ケチは、一生、ケチ。その結果、失うものも、多い。(本人
は、死ぬまで、それに気づかないだろうが……。)殺伐とした人間性は、それだけで人を遠ざけ
る。物欲に固執する姿は、だれが見ても、見苦しい。心に余裕がないから、つまり、自分の利
益になることしか考えていないから、話していても、つまらない。

 が、それ以上に、人生の(真理)そのものから、遠ざかる。言い換えると、人は損をすること
で、大きくなれる。損をすることに寛大になることで、心を豊かにすることができる。よい例が、
ボランティア活動である。

 あのボランティア活動を、進んでする人たちを見ればよい。みな、生き生きと、明るい。あの
明るさこそが、ここでいう心の豊かさということになる。

 ケチは、心の大敵と考えてよい。



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もう1作、5年間に書いた原稿です。

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●無用の長物

 今から二〇年ほど前のこと。一台の大型トラックが、わが家の前に止まった。何かと思ってみ
ると、「座卓はいらないか?」と。「四国から来た」という。

案内されるまま荷台を見ると、原木を切り出したままの座卓。その中でも、とくに目立ったの
が、トチの木をそのまま削ったもの。トラの模様のようになっていて、それが両端を飾ってい
た。厚さは一五センチもあった。「樹齢、五〇〇年です」と言った。

 値段を聞くと、「四〇万円でいい」と。「貯金しておくより、財産になる」とも。そこでどういうわけ
か、その座卓を買ってしまった。が、それから二〇年。そのテーブルは、わが家の居間にデー
ンと居座ることになった。が、大きいだけで、使いものにならない。それに重い。二〇〇キロ以
上はあるのでは。三〇〇キロはあるかも?

 この間、「何とかしよう」「何とかしなければ」と、ずっと思ってきた。今も思っている。しかし無
用の長物とは、そういう座卓をいう。テーブルといいながら、実際には、物置台。今はパソコン
と、プリンターがその上にのっている。売るにしても、売り先がない。こういう時代だから、買っ
てくれる人もいないだろう。

 そこで考えた。その座卓は、たしかに無用の長物だが、わが家には、同じような無用の長物
が、ゴロゴロしている。一、二度使っただけで、あとは倉庫や物置にしまわれているのだけで
も、かなりある。たとえばテントやバーベーキューセットなど。

そう言えば、当時の私は、毎週のようにいろいろなモノを買いこんでいた。近くに大型の雑貨点
があったこともある。少し不便を感ずると、モノを買い足すという生活がつづいた。そのテーブ
ルもそんなときに買った。

 その反動というわけでもないが、私は山荘のほうでは、ほとんどモノを買っていない。どの部
屋もガランとしている。不便を感ずることも多いが、その不便さが、これまた楽しい。いや、それ
以上に、広々とした空間は、それだけで気持ちがよい。どういうわけだか、解放感がある。どこ
かの旅館へ行ったような気分になる。

 そこで私はさらに考えた。モノというのは、人間の豊かさとは関係ないのでは、と。少なくとも、
心の豊かさとは関係がない? さらにモノがあれば、本当に生活は便利になるのか、とも。もち
ろん生活に必要なモノは、多い。それはそれだが、それを離れたモノは、どうなのか? 

たとえばざっと見回してみても、この部屋の中には、大きな食堂テーブルがある。イスは、六脚
もある。家族は五人なので、最大でも五脚でよいはず。しかもめったに六脚も使うことはない。
それに冒頭で書いた、無用の長物。テレビのまわりには、大型スピーカーだけでも、四個も並
んでいる。……などなど。こうしたものがなければ、この部屋は、もっと広々と使えるはず。全
体で、一六畳の広さがある。

 もっともそれに気づいてからは、ほとんどモノを買っていない。とくにあの座卓を買ってから
は、買っていない。そうして考えてみると、無用の長物と嫌っている座卓だが、ひとつだけ役に
たっていることがわかった。それは、その座卓を買ったことを後悔したこと。そしてその後悔
が、その後、ムダなモノを買う、大きなブレーキになったこと。何かを買おうとするたびに、私の
頭に、その座卓が思い浮かんだ。そして、「ムダになるから買うのをやめよう」と。

 ……とまあ、今は、そういうふうに自分をなぐさめながら、その座卓をとらえている。
(以上2002−12−28記)

●テーブルを買ってくれる人はいませんか? 大きな料亭でも使えるような立派なテーブルで
す。ホント!
●欲望を限定することのほうが、それを満たすことよりも、はるかに誇りに足ることである。(メ
レ「格言」)(メレ……1610−84、フランスのモラリスト)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

【日中経済戦争】(2)(2010−9−29)

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尖閣諸島事件で、中国はかえって
自ら、醜態をさらけ出した。
それが国際世論の反応である。

とくにヨーロッパでの風当たりが強い。
イランの核開発問題に関しては、
中国はことごとく欧米に非協力的な
態度をとり続けてきた。
それがここにきて、急速に「中国は
まともでない」という認識に変わりつつある。

+++++++++++++++++

●住宅バブル

 もうだれの目にも疑いようがないほど、中国の住宅バブルはひどい。
メチャメチャというか、デタラメ。
どうひどいかは、連日報道されているとおり。

 で、問題は、その金(マネー)の出所。
直接的には個人投資家によるものとされる。
が、さらにその元をたどると、その裏に銀行がいる。
この春ごろから中央政府は銀行融資の規制を始めたが、焼け石に水。
というか、本気で規制をかけたら、たいへんなことになる。
地方財政そのものが、住宅投資で潤っている。

 で、さらに銀行融資の金は、どこから出ているか?
言うまでもなく、海外からの投資資金。
本来ならそうした投資資金は、設備投資などに向かわねばならない。
が、その資金が、住宅バブルへと回されている。
しかしそれだけでは中国の住宅バブルは説明できない。
「異常」というより、異常をはるかに、通り越している。
つまりここに中国のかかえる特殊性がある。

●拝金主義
 
 中国人のもつ拝金主義には、これまたものすごいものがある。
日本の金権教も、中国人の拝金主義と比べたら、足下にも及ばない。
「マネーがすべてあるよ」と。

 が、なぜこうまで中国人は、拝金主義に走るのか。
ほかに彼らが心のより所とすべき「主義」はないのか。
その謎を解く鍵が、実は「中国」という国そのものにある。
中国という国は、私たち日本人が考える「国」とは、中身がちがう。
そのため概念もちがう。
多民族国家というよりは、言うなれば中央政府が武力で抑え込んだ、寄せ集め国家。
チベットを見れば、それがわかる。
今回の尖閣諸島事件は、はからずもその一端を世界に露呈した。
つまり北京周辺の中国人は別として、一歩そこから離れた中国人には「国」意識はない。
中央政府による武力統制がゆるめば、そのままバラバラになってしまう。
だから、「信じられるのはマネーだけ」となる。

 言い替えると、「中国、恐れるに足りず」。

 ここで住宅バブルがはじければ……それは可能性の問題ではなく、すでに
時間の問題だが、中国経済は未曾有の混乱状態に陥る。
が、それだけではすまない。
拝金主義者たちがマネーを失ったら、どうなるか?
中国の至る所で、暴動を起こすだろう。
その矛先を中央政府に向けるだろう。
中国共産党という一党独裁体制に向かう。

 実は、これが中国政府がもっとも恐れているシナリオである。
だから中国政府は、打つ手なし。
住宅バブルを本気で抑え込むこともできない。
かといって、元高に誘導することもできない。
そんなことをしたら、とたん、外資が一斉に逃げてしまう。
で、せっかく元安を利用して外資(借金)を呼び込んでも、民衆レベルにマネーが
回ったとき、それがそのままタンス預金として眠ってしまう。

 現在中国人の貯蓄率は、40%弱と言われている。
これほどまでの経済成長(?)をつづけながら、中国人自身は、自国の経済発展を
信用していない。
本来なら好景気に踊って、市中で札束が乱舞してもよいような状況である。
それがタンス預金!
個人消費につながっていかない!

●高まる不平、不満

 数日前にも書いたが、中国のジニ係数は、すでに0・5を超えていると言われている。
また同じく書いたが、先進国における0・5と、中国のような国における0・5は、
同じ「0・5」でも意味がちがう。
(それについても、数日前に書いたとおり。)

 上位10%の人は、超リッチな生活を楽しむことができる一方、4分の3前後の
人は、家(マンション)をもつことはもちろん、その日の食費すらも、じゅうぶん
稼ぐことができないでいる。

 さらに悪いことに、先に書いた拝金主義が医療機関はもちろん、末端の政府機関に
まで、はびこり始めている。
マネーをもっている人は、治療を受けられる。
政府サービスを受けられる。
が、貧しい人たちは、そうした社会の外にはじき飛ばされる。
それが不平、不満となり、うねりとなり、中国社会を動かし始めている。

 上海万博で沸き立っている(?)中国だが、その中身はきわめて脆弱。
大都市には豪華なマンションのビルが立ち並ぶ。
しかしその大半は、空きや家。
投資のために建てられた空き家。
つまり中身は、からっぽ。

 今回の尖閣諸島事件は、そうした民衆の、(中国には「人民」はいても、「国民」は
いないとよく言われるので、ここでは「民衆」としておく)、不平、不満を外に
そらすために、中央政府が作りあげた事件とも言えなくもない。
そう、まさに、「今」というこのときに、今回の事件が起きた!

●レア・メタル(泥土)問題

 中国政府は、レア・メタルに関して対日輸出を停止した。
公式には「停止した」とは言っていない。
しかし事実上、停止した。
(公式にそれをしたとなると、国際的に袋だたきにあう。)

 が、恐れるに足りず。

 これだけ経済がグローバル化してくると、対一国だけに輸出規制をかけても、
意味はない。
たとえば昔、私がある商社にいたころ、こんなことがあった。

 日本からの洪水のように押し寄せる繊維製品に、アメリカが音を上げた。
そこでアメリカ政府は、日本からの輸入に規制をかけた。
が、日本の商社はそんな規制など、どこ吹く風。
そのころサンフランシスコに向かっていた輸送船を、太平洋上ですべてUターン。
そのままオランダのアムステルダムへ。

 その輸送船がアムステルダムへ着くころには、すでにオランダ・XX会社が
設立されている。
つまりオランダ・XXを一度経由することによって、今度は「オランダ製(ものは
日本製のまま)」として、ニューヨーク港で陸揚げ。
繊維規制など、日本の商社は、こうして無力化してしまった。

 ずるいと言えば、ずるい。
しかし朝飯前。
こんなことができないようであれば、「総合商社」の名が泣く。
もし私が今、商社マンなら、即座にフィリッピンにレアメタルの加工工場を開く。
その加工工場に、中国のレアメタル(泥土)を輸入させる。
相手がフィリッピンなら、中国も規制できない。
日本はゆっくりと、そのあとフィリッピン製のレアメタルを、フィリッピンから
輸入すればよい。

 相手は中国。
フェアプレイなど、通用しない。
フェアプレイなど、考えなくてもよい。

●墓穴

 尖閣諸島周辺が、がぜん緊張してきた。
日本の巡視船と中国の哨戒船が、一触即発の状態で向かい合っている。
しかしここは音無の構え。
けっして相手のワナにはまってはいけない。
じっとがまんのとき。
感情的になり、先に手を出した方が負け。

 日本はあとは粛々と事務的に、ことを運んでいけばよい。
なおこの話を昨日、ある中学生(2年男子)に話したら、彼はこう言った。
「アメリカが助けてくれるよ」と。

 しかしアメリカは、そんな甘い国ではない。
頼りにしたとたん、中国以上のキバをむいて、日本に襲いかかってくる。
(今のアメリカは、傷を負ったオオカミのような状態。気をつけるべし。)
だからここは冷静に。
ただひたすら冷静に。
中国が騒げば騒ぐほど、中国は自ら墓穴を掘る。
すでに東南アジア諸国が、日本と連携して、中国包囲網を敷くという構想も
生まれつつある。
孤立するのは中国。
損をするのは中国。
が、それだけではない。

 冒頭の話にもどる。
それが引き金となって、中国のバブル経済が崩壊するかもしれない。
日本ももちろん大きな影響を受ける。
それはそれとして覚悟しておかなければならない。
しかしこれはまさに「戦争」。
「経済戦争」という「戦争」。
勝つか負けるか。
無傷のまま戦争に勝つことはできない。
またそんなムシのよい話は、通用しない。

がんばれ、日本!
負けるな、日本!
ひるむな、管さん!
2010/09/29記

(注)時間の関係で、未推敲のままの荒っぽい文章で、ごめん!


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●親の前で固まる子ども

今週は2つの経験をした。
その子どもに問題があるというのではない。
子どものプライバシーを暴露するというのでもない。
こういうことはよくある。
あるから、あえて公表する。
つまり親がそばにいると、固まってしまう子どもである。
そういう子どもが、実際にはいる。
10人に1人(幼児園児〜小学低学年児)はいる。
程度の差もあるが、症状が軽い子どもも含めると、もっと多い。
言い換えると、親をまったく気にしない子どものほうが少ないかもしれない。

【A子さん(年中児)のケース】

 母親が参観しているだけで、元気がない。
覇気もない。
暗く沈んだまま、憂うつそうな表情をしている。
みながはしゃぐときも、チラチラと視線を母親のほうに送る。
そのまま黙ってしまう。

 そういうA子さんを見て、母親はそれ以上に暗い表情をして見せる。
私も当初は、A子さんというのは、そういう子どもと思っていた。
が、ある日のこと。
何かの用事があって、母親がレッスンを参観できないと言った。
母親はどこか心配そうだった。
「ひとりでだいじょうぶでしょうか?」と。
私も自信がなかった。
「たぶん、だいじょうぶですよ」とだけ答えた。

 A子さんは下の子ども(妹)が生まれてから、軽い赤ちゃん返りに
よる症状も見られた。
親の姿が見えなくなるだけで、ギャーッと泣き叫んで、あとを
追いかける子どももいる。
その心配があった。

 が、その日のA子さんは、見違えるほど、明るかった。
表情も生き生きとしていた。
みなが笑うときも、いっしょになって、大声で笑った。
ゲラゲラと笑った。
私はほっとした。

【B君(小2)のケース】

 その日は休日レッスンだった。
いつもは母親が参観に来ていた。
が、その日は、父親が参観に来た。
母親は妹を連れて、外で待っていた。
そのときのこと。

 B君は、最初からコチンコチンに固まっていた。
緊張感に包まれているといったふうだった。
なめらかな動作も、いつもの笑顔もなかった。
レッスンを進めていった。
が、途中で何かのことで、B君がつまずいた。
私はいつものように、隣の子どもに順を回した。
とたん、B君が大粒の涙をこぼした。
声は出さなかった。
それを見て、助手役をしているワイフに視線を送ると、
ワイフがすぐB君の横に座った。
いろいろ慰めた。
が、それからもB君はかたまったままだった。

 あとで母親と話す機会があった。
母親はこう言った。
「きっと父親にいいところを見せようと、緊張したのね」と。

●視線

 視線には、人を刺す力がある。
今でこそ慣れたが、若いときは私もその視線に苦しんだ。
レッスンの間中、母親たちの視線が容赦なく、私の体を貫いた。
子どもたちを教えていて疲れるということはなかった。
親の視線に、疲れた。

 中には、ものすごい視線の母親もいた。
いくら笑顔を作っていても、視線は別。
それが映画『スターウォーズ』の中に出てくるような光線銃のように、
ズキ〜ン、ズキ〜ンと私の心を貫いた。

 教えにくかった。
それだけではない。
そういう母親が1人でもいると、クラスの雰囲気そのものが変わってしまう。
ほかの父母たちまで、(当時はほとんど、母親たちだったが)、緊張して
しまう。
さらに2〜3か月ならともかくも、それが半年もつづいたりすると、
その緊張感に耐え切れず、教室をやめていく母親もいた。

 私もそのクラスになるたびに、重い気持ちに包まれた。

●親子のリズム

 原因は親と子の不協和音ということになる。
親子のリズムが合っていない。
さらにその原因はというと、親の過干渉、過関心がある。
子どもへの不信感、子育てへの不安感が、形を変えて、過干渉や過関心へと
つながっていく。

 親を責めているのではない。
長男、長女というのは、そういうもの。
はじめての子どもということで、親も神経質になりやすい。
最初は小さな亀裂。
それが年を追うごとに、大きくなる。
親は子どもの一挙手一動が気になる。
子どもはそうした視線を、そのつど気にする。

●母因性萎縮児
 
 どこかの評論家が、先に「母原性」という言葉を使った。
だから私は「母因性」という。
意味は同じ。
つまり母親が原因で、(もちろん父親というケースもあるが)、子どもが
萎縮してしまうというケースは多い。
中には、まったく別人のように変化する子どももいる。

 以前にも書いたが、ある医院でこんな少年(中学生)に出会ったことがある。
その少年は毎週、何かの薬を取りにやってくる。
母親がいないときは、看護士さんと冗談を言い合うほど、快活な
少年である。
が、母親がそばにいるときは、まったくの別人。
毎回、薬の数を窓口で確認するのだが、母親がいると薬の数すら数えない。
もじもじいているだけ。
それを見て母親が、せかす。
「早くしなさい!」
「ちゃんと数えなさい!」と。

●あくまでも一面

 だから・・・というわけでもないが、子どもの姿を見たとしても、
それが子どものすべてと思ってはいけない。
ある一面にすぎない。
ここに書いたAさん、B君、それに病院で見かけた少年にしても、それぞれ
別の世界では別の顔をもっている。

 もちろんその反対のケースもある。
親の前ではおとなしく、従順。
プラス優等生。
しかし外の世界では、陰湿ないじめを繰り返したりする、など。
ある中学生(男子)は、祭のとき酒を飲んで、補導された。
親は「うちの子は、友だちにそそのかされただけ」と言い張っていたが、
あとで調べみたら、その子どもが主犯格だった・・・というようなケースも
多い。

●では、どうするか

 この世界には「好意の返報性」という言葉がある。
英語では、『相手はあなたが相手を思うように、あなたのことを思う』という。

子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を信じてくれる
人の前では、自分のよい面を見せようとする。
そういう性質を利用して、子どもを伸ばす。

 私もどんなにその子どもに問題があったとしても、初対面のときに、
それを打ち消すようにしている。
「この子はいい子」「すばらしい子」と、思いなおすようにしている。
そうすることで、まず自分の心をだます。
作り変える。

 こうすることによって、子どもの表情も明るくなるが、同時に教えるの
も楽しくなる。
子どもを教えるときの第一の鉄則。
それは教える側も、楽しむ。
その楽しさの中に、子どもを巻き込んでいく。

●終わりに・・・

 A子さんは、このあとしばらくして、私の教室を去っていった。
B君は、幸いにも母親がそれを理解してくれて、明るく笑い飛ばしてくれた。
病院で出会ったその少年については、こんなエピソードがある。

 たまたまワイフがその医院にいたときのこと。
少年の母親もそのとき、そこにいた。
その母親に向かって、医院の医師がこう言って怒鳴っていたという。

「お母さん、あなたが横でごちゃごちゃ言ったら、息子さんは何も
言えないでしょ。少し黙っていなさい!」と。

 その話を聞いて、私も「その通り」と思った。
またそういう言葉も、医師だからこそ言える。
立場が強い。
私の世界では、親がそれに自分で気づくまで、じっと待っているしかない。
いつか親のほうから質問があったとき、それとなくその話をする。

 もちろんこの原稿を読んでくれた、あなたは別。
一度、この原稿をヒントに、あなたの子どもはどうか反省してみてほしい。

●付記

 この世界では、「うちの子のことは、私がいちばんよく知っている」と豪語
する親ほど、自分の子どものことを知らない。
とくに過干渉ママと言われる親ほどそうで、子どもの心まで勝手に作って
しまう。

私、子どもに向かって、「夏休みにどこかへ行ってきた?」
母親、会話に割り込んできて、「・・・行ったでしょ。おじいちゃんの家に
行ったでしょ!」
私、再び子どもに向かって、「そう、それはよかったね。楽しかった?」
母親、再び会話に割り込んできて、「・・・楽しかったでしょ。だったら
どうして楽しかったと言わないの! ちゃんと言いなさい!」
私、「・・・」と。

 こういうケースは、多い。
日本人のばあい、とくに多い。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 親の前で固まる子ども 母因性萎縮児 母原性萎縮児 親の視線 過干渉児 
過関心児 親の過干渉)


Hiroshi Hayashi++++++Sep 2010++++++はやし浩司

●「オレも年だから……」(老齢期のセルフ・ハンディ・キャッピング)

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同じ仲間でも、ことあるごとに、
「私も年だから……」と言う人がいる。
「この年になったから、もう1人前の
ことはできない」と。

こういうのを心理学では、「セルフ・
ハンディキャッピング」という。
自分からハンディがあることを先に言い、
できないことを前もって、自己弁護する。
人の同情を買うときも、同じように言う
ことがある。

もう何十年も前の話だが、私が電話する
たびに、1人の叔母はこう言った。
「オバチャンも、年だからねエ……」と。
「高齢者になったから、何とかしてほしい」と。

で、今でもその叔母は健在である。
年齢を逆算すると、その叔母は当時は50代。
私自身の50代を振り返っても、私は
そういうような言い方をしたことがない。
(同情を買いたくても、買う相手がいない
こともあるが……。)

で、ここでいう「セルフ・ハンディキャッピング」
というのは、あくまでも自己弁解、自己弁護の
ために使うことをいう。
先手を打って、自分にはハンディがあることを、
強調する。
たとえばテニスに試合前に、「いやあ、最近、
不眠症になってねエ」とか言うのが、それ。

試合に負けても、それは自分の実力のせいではない。
不眠症のせい、と。

これも老人心理のひとつかもしれない。
加齢とともに、こうした言い方が多くなる。
実のところ、この私もふと油断したようなとき、
似たようなことを言うようになった。
瞬間「まずい!」とは思うが、先に口から
出てしまう。

++++++++++++++++++

●生き様の後退性

 生き様が後退的になると、前を見ることよりも、うしろを見ることのほうが、
多くなる。
心理学の世界では、「回顧性」「展望性」という言葉を使って、それを説明する。
55歳前後で、回顧性と展望性が交差するとも言われている。
55歳を過ぎるころから、未来を見るよりも、過去を見ることのほうが多くなる。
冒険よりも保身を好み、革新よりも保守を求めるようになる。

 もちろん若々しく生きるためには、つねに前を見て生きた方がよい。
言い替えると、老後は、(この言葉が好きな人はいないと思うが……)、常に
後退性との闘いということになる。
いかに後退性と闘っていくか。
老後の生き様は、それで決まってくる。

●後退性

 後退性といっても、中身は様々。
先に書いたように、年齢を自己弁護、自己弁解のために使うのも、そのひとつ。
体力的にはそうであっても、ほかの面ではそうであってはいけない。
またそうである必要は、まったくない。
いわんやセルフ・ハンディキャッピングのために、年齢を口実にしてはいけない。

 実は数日前もこんなことがあった。
高校3年生のA子さんが、学校の宿題を出し、「先生、これね……」と言った。
数学の問題だった。
それを見てほぼ反射運動的に私は、こう言ってしまった。
「今朝、旅館の温泉に入ってね……」と。

 そのとき私はかなり体力を消耗したような状態になっていた。
その少し前から、ほどよい睡魔が繰り返し私を襲っていた。
つまり私はそう言うことによって、「その問題を解けないかもしれない」という布石を
したことになる。

●展望性

 そんなこともあって、私は来年度は挑戦的に生きることにした。
いくつかの目標を立てた。
何も「年だから……」という理由で、遠慮することはない。
遠慮してはいけない。
遠慮する必要もない。

 その計画は、今から立てなければならない。
(具体的な内容は、企業秘密!)
その準備にとりかかった。

 今も仕事はたいへんだが、20代のころよりは私を取り巻く環境は、ずっと
よくなっている。
あのころは未熟で未経験だった。
何を書いても、また何を訴えても、だれも相手にしてくれなかった。
が、今はちがう。
相手が親でも、平気で説教できるようになった。
親もまた、耳を傾けてくれる。
こんなチャンスはまたとない。

 が、「敵」は、私自身だけではない。

●郷里の身内

 数日前も、あるいとこから電話がかかってきた。
私が法事で手を抜いていることや、実家の近隣の人たちの葬儀に顔を出さないこと
について、身内の人たちが悪く言っている、と。

 弁解するつもりはないが、(というのもそれこそ生き様の問題だから)、そういうのを
回顧性という。
法事とか、葬儀とか……。
そういうことだけが、一生の一大事と思い込んでいる!
高校を卒業して以来、実家の近隣の人たちとの交際はない。
それに実家は、昨年売却した。

 また法事については、今はそんなことで心を煩わせたくない。
身内の人たちは、ことあるごとに、「実家」「本家」「林家」という言葉を使う。
墓参りのことをとやかく言う人もいる。
しかし墓参りをしないことで、バチが当たるのは、この私。
私のことは心配しないで、どうか放っておいてほしい!
……というのは言い過ぎ。
世間には世間のしきたりというものがある。
私は何も、そのしきたりまで否定しているわけではない。

 が、私は死ぬまで……ギリギリまで前だけを見て生きていく。
55歳前後で展望性と回顧性が交差するというが、それは死ぬ間際でよい。
死ぬ間際になったら、過去を振り返り、法事もし、墓参りもする。
寺にあとの始末を、きちんと頼む。

●賢者の言葉

 で、こういうふうに迷ったときは、いつも世界の賢者たちがどう考えているか、
それを知るとよい。
私はういつもそうしている。

What is life? We are born, we live a little and we die. 
EB White、"Charlotte's Web "
人生って何か? 私たちは生まれ、少しだけ生き、そして死ぬ。

To live is so startling it leaves little time for anything else. 
Emily Dickinson
生きることは、驚くべきことだ。それは生きること以外に、ほとんど時間を残さない。
(=生きることで精一杯)。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called '
living'. 
Terry Pratchett、 "The Last Continent"
人々の全人生は、彼らが死ぬ前に目の前を通り過ぎる。その「過程」を「生きている」という。

Life is one big road with lots of signs. So when you riding through the ruts, don't complicate 
your mind. Flee from hate, mischief and jealousy. Don't bury your thoughts, put your vision 
to reality . Wake up and live! 
Bob Marley、 In Music、Bob Marley 
人生というのは、たくさんの看板の立った道のようなもの。そんなわけでわだち(車の跡)を走っ
ているときは、心をわずらわせないこと。憎しみ、悪戯や嫉妬から逃げろ。自分の思想を埋め
るな。計画を現実のものにせよ。目を覚まして、生きろ!

Life is very interesting, if you make mistakes. 
Georges Carpentier、 In Humanity 
人生というのは、まちがいを犯すからおもしろい。

Life is raw material. We are artisans. We can sculpt our existence into something beautiful, 
or debase it into ugliness. It's in our hands. 
Cathy Better, In Art/The Artist 
人生というのは、ナマの材料。私たちは芸術家。それを彫って美しいものにすることもできる。
醜いものにすることもできる。それは私たちの手にかかっている。

Life is a mystery, not a problem to be solved 
Albert Einstein、In Mystery 
人生は神秘。解こうとして解けるような問題ではない。

●人生は60歳から

 ワイフはときどき、こう言う。
「私は50歳になって、はじめて人生が何であるかわかったような気がする」と。
で、私も最近、こう思う。
「人生は60歳から始まるのではないか」と。

 若い人たちにこういう話をしても信じないかもしれない。
しかし事実だから、話す。

 パソコン雑誌などにも、ときどき若い女性のヌード写真のようなものが載っている。
ああいうものを見て、「美しい」と思うのは、若い人たちだけ。
私はすぐそういった女性の顔を見る。
その奥にある知性をさがす。
が、どれもバカ面(ずら)、アホ面(ずら)、化粧バカ。
脳みそのひとかけらも感じない。
とたんそういった女性の肉体が、ただの脂肪の塊に見えてくる。

 同時にそういったまやかしの(美しさ)に踊らされ、惑わされた自分を思い出す。
が、60歳を過ぎた今はそれがない。
以前、「性欲からの解放」という原稿を書いたことがある。
人は性欲から解放されてはじめて、それまでの自分がいかに性欲の奴隷であったかを知る。
60歳になって、私たちは独立を勝ち取る。
だから「60歳」となる。
「人生は60歳から始まるのではないか」となる。

●人生の無駄

 だからこそ、ここは前向きに生きる。
やっと自分を取り戻した。
自分が自分らしくなった。
自分の「輪郭」が、はっきりしてきた。
どうしてそんなすばらしい人生を、過去のために振り向けなければならないのか。
が、それこそ時間の無駄。
人生の無駄。

 ……ということで、「年だから……」というセルフ・ハンディキャッピングは、
若い人こそ、それを自覚して使うべき。
「私はまだ若いですから……」と。
さらに言えば、若さこそ恥ずべきことであって、自慢すべきことではない。
若い人ほど、人生に謙虚になったらよい。
謙虚にならなければ、人生は、門を開かない。
少なくとも何も老人が使うべき言葉ではない。

 私たちは今まで、堂々と生きてきた。
これからも生きていく。
顔にシワがふえ、体はたるんできたが、それは私のせいではない。
DNAのせいである。
何も恥ずべきことではない。

 だから……今朝も自分の心に誓う。
「私は、『年だから……』という、情けない言葉は使わない」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ハンディキャッピング ハンディ・キャッピング 自己弁護 自己擁護 自己弁解 
回顧性と展望性 展望性と回顧性 老人の心理 老齢期の生き様論 はやし浩司 セルフ・ハ
ンディキャッピング)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●2010年、10月1日(金曜日)
満63歳まで、あと20数日弱

+++++++++++++++++++

今日から10月。
初日は、まあまあ。
平凡な滑り出し。
ただここ数日、朝起きがけに、
悪夢に悩まされる。
悪夢といっても、オカルト的な夢ではない。
飛行機に乗り遅れそうになる夢とか、
おかしな連中にからまれて、喧嘩ごしに
なるとか、
そういう夢。
たいていハラハラした状態で、目が覚める。

たぶん私も睡眠時無呼吸症候群とかいう病気に
かかっているのかもしれない。
ワイフがときどき、そう言う。
目が覚めたとたん、ハーハーと深呼吸を繰り返す。
つまりその瞬間、ハラハラドキドキしながら、呼吸を止めている。
そのとき悪夢を見る。
(これは私の素人判断。)
精神状態は、あまりよくないようだ。

+++++++++++++++++++

●山荘にて

 今夜は夜遅く、こうして山荘へやってきた。
ひとりでやってきた。
バスを乗り継いで、やってきた。

で、先ほど村祭りの祝い金を、班長に届けてきた。
10月の第一土曜日か第二土曜日か、いずれかの日に、祭りがある。
明日は第一土曜日。
あわてて祝い金を届けてきた。
が、班長が、「祭りは来週です」と言ってくれた。
ほっとした。

●ひとりぼっち

 美空ひばりの名曲に、「♪悲しい酒」がある。
その歌詞に、「ひとりぼっちが、好きだよと・・・」という箇所がある。
私もひとりぼっちが好きというわけではない。
しかしときに、こうしてひとりぼっちになる。
ひとりぼっちになって、自分の時間をつくる。

 時刻は10時20分になったところ。
軽い頭痛がする。
こういうときは、まず水で頭を冷やす。
ついで湿布薬を貼る。
そのあとまだ頭痛がするようであれば、何かを食べる。
そのあと、頭痛薬をのむ。
幸い、偏頭痛ではなさそうだ。
偏頭痛の痛さは、経験したものでないとわからない。

●孤独

 孤独にも、2種類ある。
肉体的、つまり物理的にひとりぼっちという意味。
これは耐えられる。
もうひとつは、信じられる者がいないという意味。
これは苦しい。
だれにも相手にされないというのも、それに含まれる。
だれにも愛されないというのも、それに含まれる。
つまり、「心の孤独」。

 ときどき私は生徒たちにこう聞く。
「先生(=私)が死んだら、悲しいか?」と。
すると生徒たちはみな、「うれしい」と答える。

それが本音だろう。
私はもともと嫌われ役。
嫌われ役を代行しながら、親たちからお金を受け取る。
だから(教えること)で、孤独がいやされるなどとは思っていない。
実際には、その反対。
生徒たちと面していると、ときどき、言いようのない孤独感に襲われる
ことがある。
生徒は生徒。
とくに私の生徒は年少者が多い。
人間関係を結んだり、育てたりするということができない。

●Sさん

 そう言えば、先週、Sさん(高3)が大学入試に合格した。
小さな声で、「合格が確定しました」と。
もの静かで、理知的な子である。
私の教室に、年中児のときから、14年間、通ってくれた。
Sさんにとってもそうだろうが、私にとってもSさんは、私の人生の一部。

 来週、食事会を開くつもり。
Sさん、おめでとう!
うれしかったよ!

●仕事

 2011年度の仕事を考え始めている。
来年(2011年)は、さらに仕事に没頭してみたい。
「してみたい」ではなく、「する」。

 同時に身のまわりの整理をする。
私は若いころ、骨董品だとか、置き物に凝った。
そういったものが、あちこちにゴロゴロしている。
売るといっても、売り方がむずかしい。
そのうちヒマ(閑)になったら、ネットオークションに、順に並べて
みる。
そういう手もある。

 が、いちばんよいのは、生徒にそのつどあげること。
もっていても、仕方ない。
どうせ死ぬときは、裸。
それも2年前に死んだ、母が教えてくれた。
あれほどモノにこだわった母だが、死ぬときはささいな身のまわりの
日常品だけ。
モノのもつむなしさを、いやというほど、母を通して知った。
・・・学んだ。
 
 で、仕事。
2011年は、自分を完全燃焼させてみたい。
今、いちばん力を入れているのが、幼児教室のビデオ撮影。
「こんな教え方もある」ということを、世界の人たちに見てもらいたい。
この世界には、誤解と偏見が満ち溢れている。
幼児教育というと、先取り教育か受験教育。
さもなければ、子どもをしごく、悪徳教育と考える人は多い。
その偏見と誤解を解いてほしい。

 幼児はたしかに未熟で未経験だが、それを除けば、立派な人間である。
それをわかってほしい。

 また私がこわいのは、(流れ)が止まること。
仕事がその柱というか、「川」になっている。
これが止まったら、私はそのまま腐ってしまう。
だからつづける。

●車の運転

 今、明日はどうしようかと考えた。
どうしようか?
たぶん朝早く山をおり、県道を走るバスに乗って、街まで行く。
私は車を運転しない。
だからいつもそうしてバスや電車を利用する。
あとはワイフに頼んで、あちこちへ連れていってもらう。

 が、実のところこのところワイフの運転が、こわくてならない。
2週間前には、バックをしているときコンビニのポールに激突。
今日、車がやっと修理されてきたと思ったら、さっそく駐車場で、壁に衝突。
勘が悪いというか、鈍ったというか・・・。
とくに右折がめちゃめちゃ。
すぐ前に対向車が迫っていても、その前を横切る形で、平気で右折する。
相手の運転手にクラクションを鳴らされたり、怒鳴られることも、しばしば。 

「お前には運転は無理だね」と言うと、すかさず、「相手が悪い」と
切り返す。
「向こうが止まればいいのよ」と。
ワイフは、他罰型。
他責型ともいう。
子どもにも多い。
机の上のお茶をこぼしたりすると、すかさず、こう言い返す。
「先生が、こんなところにお茶を置いておくから悪い!」と。
「ごめんなさい」という言葉が、口から出てこない。
脳が、そういう構造になっていない。
がんこで、融通がきかない。
だから車の運転が、下手!
(私はもっと下手。ハハハ。)

 だからあまりそのことを責めると、いつもこう言い返される。
「私はあなたの運転手じゃないのよ。自分で運転したら!」と。

●思慮深さ

 ワイフだけが一例というわけではない。
しかし総じてみると、脳の老化は、思慮深さの欠落から始まる。
そう考えてよい。

 たとえば先日も、車のドアが内部から開かなくなってしまった。
そこで私が「おい、車のドア、開かないぞ」と声をかけると、すかさず、・・・
つまり私の話もロクに聞こうとしないうちから、「あなたのやり方が
おかしいんじゃない?」と切り返す。

 もう何年も乗った車である。
ドアの開け方など、まちがえるはずがない。

 が、若いころのワイフはそうでなかった。
もう少し思慮深かった。
私の言ったことを聞いてから、おもむろに自分の意見をはさんだ。

 こうした現象は、50歳を超えると、たいていの人に見られるようになる。
中には自分がボケたのを隠すために、わざと利口ぶって見せる人がいる。
さらにアルツハイマー病か何かになると、とりつくろいや、つじつま合わせ、
言い訳、弁解が多くなる。
病気を隠そうとするためである。

 しかし思慮深さの欠落は、それとは趣(おもむき)を、やや異(こと)にする。
脳みそが薄っぺらくなったような感じになる。
もちろんワイフは、それに気づいていない。
脳のCPU(中央演算装置)に関する問題だけに、自分でそれを知るのはむずかしい。

 で、こうして文章にして書いておく。
ワイフのことだから、たぶん、これを読んでも、即座に否定するだろう。
自分では思慮深い人間と思い込んでいる。

 一般論として言えることは、要するに思慮深い人は、口が重い。
逆に言えば、思慮深くない人は、口が軽い。
思いついたことを、ペラペラと口にする。
つまりそうなったら、脳の老化が始まっているとみてよい。
よい例が、観光バスの中などで、間断なく、しゃべりつづけるオバちゃんたち。
一度、ああいう人たちの会話に耳を傾けてみるとよい。

●不眠症

 幸い頭痛が軽くなってきた。
眠いはずなのに、あまり眠くない。
昨日は、4〜5時間しか眠っていない。
悪夢のせい。
だから今朝は、4時ごろ目を覚まし、そのまま起きてしまった。

 「不眠症」という言葉がある。
私もその不眠症だが、ここ10年は、居直って生きている。
「無理に眠ることはない」と。
人間という動物は、2、3日なら、眠らなくても、どうということはない。
「不眠、不眠」と悩むと、かえってストレスがたまってしまう。 
万事、成り行き任せ。
眠くなかったら、起きていればよい。
眠くなったら、眠ればよい。

●独居老人

 ところで私の家の近くに、今年85歳くらいになる独居老人がいる。
男性である。
少し前まで、奥さんがいたが、奥さんは現在、特別養護老人ホームに。
ほとんど寝たきりと聞いている。

 その老人のことが、よく話題になる。
先日も、前自治会長と話をした。
道端での立ち話だった。
昔からの知り合いらしい。
その前自治会長も、「あの人ねえ・・・」と言って、苦笑いをした。
若いときから、みなに嫌われていたらしい。

その独居老人の心境を、今、私は模擬体験していることになる。
孤独と言えば、孤独。
さみしいと言えば、さみしい。
しかしそれを認めたら、おしまい。
だからこうして懸命に、何かにしがみつこうとする。
パソコンのキーボードを叩くのも、それ。
もし手の動きを止めたら、本当に孤独になってしまう。
だから眠くなり、どうしようもなくなるまで、文章を叩く。
(読んでくれている人には、申し訳ないが・・・。)

 独居老人と呼ばれる老人たちも、たぶん、毎日そうして生きているのだろう。
ある知人は、こう言った。
「林さん(=私)、人間というのは、何かをしていないと、生きていかれない
動物なんですよ」と。
その何かをしながら、心を紛らわす。
孤独と闘う。

●基本的不信関係

 孤独の話を書いたので、もう少し、それについて書いてみたい。
つまり私のような人間は、自ら孤独にならざるをえない運命にある。
性格がゆがんでいる。
心を開くことができない。
友だちも少ない。
人を信用しない。
私を知る人は、たぶん私のことを明るく、楽天的な人間と思っているに
ちがいない。
そういう面は、たしかにあるにはある。
笑わせ上手。
ジョークもうまい。
しかしそのくせ、全幅に相手に心を開くことができない。
基本的不信関係というか、基底不安というか、それが私の心の
ベースになっている。

原因は不幸な乳幼児期にあるが、今さらそれを恨んでも始まらない。
私はもうすぐ63歳。

●63歳

 63歳・・・平均余命(寿命)から計算すると、あと15年ほどの命。
健康寿命は、それから10年を引いた年齢だそうだ。
それで計算すると、こうして元気でいられるのも、あと5年。
そのあとは病気と闘いながら、徐々に、死んでいく。

 今、いちばん心配な病気は、脳腫瘍。
若いときから、頭痛もち。
何かあると、すぐ頭痛が始まる。
頭痛がない日のほうが、珍しいほど。
そんなときも、長くつづいた。

おかげで、私は頭痛の神様になった。
「神様」というのは、頭痛のことなら何でも知っているという意。
近くに「頭が痛い」という人がいると、とても他人ごととは思えない。
ついあれこれとアドバイスしてしまう。

 その脳腫瘍。
もともとはおとなしいがんだそうだ。
2倍の大きさになるのに、10年単位も時間がかかる。
だったら切らないほうがよい。
仮に今、私の頭の中に脳腫瘍が見つかっても、私は切らない。
あと10年くらいなら、何とか生きられそう。
もし耐えられないほど痛くなったら、そのときは安楽死。
オーストラリアで医師をしている友人に、そのときの薬を頼んである。
「パラダイスxxx」という名前の薬である。
「違法だが・・・」ということらしい。

 ただ長生きはしたい。
しかし問題は、どう生きるか。
母の介護をしているとき、私の脳みその中にトラウマができてしまった。
特別養護老人ホームに通ううちに、自分の未来に自信を失ってしまった。
「私も、ああなるのか」と。

 もしそうなら、長生きも考えもの。
みなに迷惑をかけるくらいなら、早めに死んだほうがよい。
・・・というより、みなに、迷惑をかけたくない。
たとえばこうしてものを書くことができなくなったら・・・。
書いていることが支離滅裂になり始めたら・・・。
そのときは、おしまい。
やがて確実に、そうなるが・・・。

●ホームベーカリー

 今、菓子パンをかじったところ。
とくに空腹というわけではないが、こういうときは何かを口に入れない
と落ち着かない。
だからすぐ太る(?)。
その菓子パンを見ながら、「じょうずにできているな」と。
「どうしたらこういう皮の薄いパンができるのだろう」と、
不思議でならない。

 この数週間、ホームベーカリーというのを買って、パンづくりに
挑戦している。
けっこう、うまくなった。
冷水の代わりに、牛乳を入れてみたり、バターのかわりの蜂蜜を入れたり。
そういう小技(こわざ)も、自由にこなせるようになった。
が、ここにある菓子パンのようなわけには、いかない。
値段も安い。

 まじまじと菓子パンをながめる。
キメもこまかい。
やわらかい。
それにおいしい。
口の中で溶かしながら、「バターを使っているな」「卵を使っているな」
とか、そんなことを考える。

●趣味

 こうして私の趣味は、周期的に変化する。
今は、ホームベーカリー。
一通り、それをマスターすると、つぎに急速に興味を失っていく。
しばらくあれこれと、さまよい歩いたあと、また別の趣味に乗り移っていく。
こんなことを、子どものときからずっと繰り返している。

 だからいろいろなことをしてきた。
していないことはないと言えるほど、いろいろなことをしてきた。
パソコンのソフトにしても、同じようなことがある。

 ひとつのソフトを使う。
それを一通りマスターすると、また別のソフトに手を出す。
だから私のパソコンは、しょっちゅう故障する。
OSをいじったり、レジストリーをいじったりする。
そのたびに故障する。

 だから教訓。
「それなりにサクサクとパソコンが作動するときは、冒険をするな」と。
いつも自分にそう言って聞かせている。

●結膜炎

 今、目の付け根を指でかいたところ。
夏場になると、私は結膜炎になりやすい。
理由はわからない。
で、そういうときは、エタノールを目の付け根にチョンとつけて、
しばらく静かに目を閉じている。
(ぜったいに、みなさんは、まねをしないように!)
たいていそれでかゆみは収まる。

今、それを洗面所でしてきたところ。

 目のかゆみは取れた。
先ほどまで眠かったが、眠気も消えた。
もう少し文章を書いてみよう。

●60%

 先ほど独居老人のことを書いた。
模擬体験をしているとも書いた。
で、統計的な予想によれば、私たち団塊の世代は、約60%が、
その独居老人になるそうだ。

よく「家族主義」という言葉を使う人がいる。
私もその1人だが、若い人たちが言う「家族主義」と、私たちがいう
「家族主義」とはちがう。
両者の間には、ひとつの大きなちがいがある。

 若い人たちがいう「家族主義」には、両親、つまり老人が含まれて
いない。
自分たちという夫婦と、自分たちの子どもだけの世界をいう。
昔は「核家族」と言った。
つまり「核家族主義」。

一方、私が説いてきた「家族主義」には、自分たちの親が含まれる。
親も含めて、家族主義という。
つまり「大家族主義」。

 そのことは今の若い人たちの生き方を見れば、わかる。
「将来、親のめんどうをみなければならない」と考えている若い人たちは、
ほとんどいない。
統計的にも、30%前後。
つまりその結果として、この先、独居老人は、ますますふえる。
あなたも私も、独居老人になる。 
「60%」という数字は、それを表す。

 だから中に、「ぼくは(私は)、家族を第一に考えています」という
若い夫婦がいても、私は「そうですか」と言って、口を閉じてしまう。
「結構なことですね」と言いたいが、それは言わない。

 若い人たちよ、横(夫や妻)や下(子ども)ばかり見ていないで、たまには
上(親)を見ろ。
君たちだって、やがてその上(親)になる。

●暗い話

 暗い話になってしまった。
明るい話をしたい。

 ・・・と書いたところで、指が止まってしまった。
「筆が止まった」と書くべきか。
ざっと見回しても、明るい話がない(?)。
これはどうしたことか?
「世の中、右を見ても、左を見ても、真っ暗闇」。
元気がない。
今年になって、サラリーマンの平均給与もさがったという。
つまり大不況の真っ最中。
おとといは、あの武富士も倒産した。
10年ほど前、あの山一證券が倒産したときも驚いたが、武富士にも
驚いた。
「そういうこともあるのかなあ?」と。

 で、この先どうなるのか?
今日も、TOSHIBAが、有機液晶テレビから撤退するというニュース
が伝わってきた。
「これからは小型の液晶テレビの生産に専念する」と。
「この先は、韓国のS社の独壇場になる」とも。
さらにあのモービル石油が、日本から撤退するというニュースも。
日本が今、どんどんと見捨てられつつある。
国際的に見れば、そういうこと。

 で、本来なら政府が予算をうまく配分して、工業を活性化しなければ
ならない。
(公共投資=道路工事だけが、投資ではないぞ!)
が、その余裕が、まったくない。
国の借金が、あまりにも大きすぎる。
1000兆円を超えている。
日本人1人あたり、1000万円!
そんな借金、返せるわけがない。

 言うなれば、息子や娘たちの事業に出資してやりたい。
しかし肝心の親が、借金だらけ。
だからみな、身動きが取れない。
穴にこもって、じっとしている。
今の日本をおおざっぱに表現すれば、そういうことになる。

●高コスト

 で、本来なら、行政改革(=官僚制度の是正)を、10年前、20年前に
すませておくべきだった。
しかし行政組織がここまで肥大化してしまうと、もう手遅れ。
どうしようもない。

「天下り先」という言葉がある。
しかし天下り先は、何も中央官僚だけの特権ではない。
全国津々浦々・・・小さな役所の役人にもある。

 先日も自衛隊員にも天下り先があると聞いて、驚いた。
公的機関のガードマンや、守衛などとなって、天下っていく。

また最近になってJALは、日本の公務員社会の縮図であると説く人がふえて
きた。
高コスト体質が理由で、JALは破綻をした。
二次破綻も時間の問題。

実は日本の公務員社会そのものが、全体として、高コスト体質になっている。
たとえば役所の役人たちは、どんなに役所にごみがたまっても、窓ガラスが
雲っても、自分たちでは掃除をしない。
若いころそれについて質問したことがある。
「どうして自分で掃除をしないのか」と。
すると役人をしていた友人が、こう話してくれた。
「そんなことをすれば、掃除婦のオバチャンたちの仕事を奪うことになる」と。

 そういった組織が、網の目のように入り組んで、今の公務員社会を作り
あげている。
だから役人の世界では、非効率が当たり前になっている。
つまりその分だけ、高コストになる。
JALが生き残るためには、この高コスト体質から抜け出るしかない。
しかしそれはかなりむずかしい。
世論のみならず、支援銀行までもが、背を向け始めた。

●1人8役

 一方、低コストといえば、私の職場。
私1人が、すべてをこなしている。
教材作りから、指導まで。
掃除はもちろん、宣伝、広告、それにHPづくり。
生徒の送り迎えまでしている。
1人8役くらい?
つまりそれくらいのことをしないと、やっていかれない。

 が、もし私が今、ここで、電話番を雇ったり、デザイナーを雇ったり
したらどうなるか。
見た目にはサービスの向上になるが、とたん、破綻。
1人の人間を雇うということは、たいへんなこと。
私1人が生きていくだけでも、たいへん。
そういう現実が、現場の役人たちは、まったくわかっていない(?)。

●官僚国家

 要するに、日本政府は、高度成長期に先取りする形で、公務員社会を
肥大化させてしまった。
経済がそのまま成長すれば問題はなかった。
しかしここ10年以上、成長は止まったまま。
それが今、裏目となって出てきた。

 山荘周辺の農家の人たちも、補助金が目的で農業をしているようなもの。
農協という組織が、そういった指導をしているのだから、話にならない。
「こういうふうにすれば、補助金が出ますよ」と。

 漁業も林業も、同じ。
実はコンピューター産業も、同じ。
浜松市市内の小さなソフト会社ですら、いかに多く公的機関の仕事を
受注するか。
それで経営の安定性が決まる。

 つまり社会そのものが、ガチガチに硬直してしまっている。
そんな日本に、未来などあるわけがない。
発展するわけがない。

 日本を活性化するためには、野趣味を取り戻すしかない。
わかりやすく言えば、荒っぽさ。
世界中が腰に銃をぶらさげて歩いているのに、日本だけが、オホホで、
通るわけがない。
が、現実には、すべてが逆行している。
規制、規制、また規制。
何をするにも、許可、資格、認可・・・。
その分だけ、さらに公務員社会は肥大化する。
人々は、自由を見失う。

 そう、大学生にしても、職業とは、資格を取って、もらうものと思っている。
ちがう!
職業というのは、自分で作るもの。
「自由」とは、もともとは、「自ラニ由ル」という意味。

●デフレ恐怖

 物価はさがる。
仕事が減る。
その分、収入も減り、経済が動かなくなる。
せっかく手にした現金にしても、多くはタンス預金となり、そのまま
死に金。
内需につながらない。
今は、この悪循環が、かぎりなく繰り返されている。
が、タンス預金をする人を責めることはできない。
将来に不安をいだくから、貯金をする。

 だからこの悪循環を断ち切るためには、人々が感じている不安を
一掃するしかない。
政治家ならそう考えるだろう。
が、具体的な方法となると、みな、頭をかかえてしまう。

あああ・・・。

●捨てる人vs捨てられる人

 世の中には、「捨てる人」と「捨てられる人」がいる。
「捨てる」ではなく、「棄てる」でもよい。
たいていは力のある人、上の立場にいる人が、「捨てる人」になる。
が、実際には、捨てる人は、人を切り捨てながら、自分が捨てられている。
それに気づいていない。

 たとえば、(あくまでも例えだが)、だれかがこう言ったとする。
「あの林(=私)は、偉そうなことを言うが、親の法事すら満足にして
いない。人間のクズだ」と。
ついでに「あんなヤツの書いた文章には、読む価値はない」と。

 そう言いながら、その人は、私を捨てていることになる。
ある種の優越感に浸っていることになる。
そして自分の意見に同調する人たちを周囲に集め、ガードを固くする。

 一方、捨てられた私は、その分だけ、たしかにさみしい思いをする。
しかし本当に捨てているのは、私のほう。
口に出して言わないだけ。
言ってもしかたない。
つまり相手にしない。
「かわいそうな人だ」と思って、それで終わる。

 これは私の持論。
「利口な人からは、馬鹿な人がよくわかる。
しかし馬鹿な人からは、利口な人がわからない」。
だから馬鹿な人は、利口な人が近くにいても、自分と同等と思う。
自分のレベルで相手を判断する。
が、このことは、もうひとつ重要な教訓を含んでいる。

 どんなことがあっても、相手を捨ててはいけないということ。
相手を捨てたとたん、自分が捨てられる。
JALの話を書いたので、ついでに一言。

 今度JALでは、強制解雇に踏み切るかもしれないという。
強制的に、社員のクビを切る。
ニュースとしては、ただのニュースかもしれないが、その内部では今、
想像を絶する地獄絵図が進行中。
私は以前、同じような状況を、ある出版社で直接見聞きしている。
ある社員はこう言った。
「いつ部長から呼び出しがあるかと、不安で不安で、仕事にならない」と。

 そこで社員は、実現性のないアドバルーンばかりをあげるようになる。
何とか目立った企画を立て、クビ切りを避けようとする。
「捨てる人」と「捨てられる人」の間で、壮絶な闘いが繰り広げられる。
が、それは地獄そのもの。

 が、それ以上に恐ろしいのは、一度、そういう人間関係になると、
それまでの関係も、すべて破壊されること。
いっしょにしてきた仕事まで、価値を失う。
他人以上の他人。
つまり憎しみ相手になる。
せっかく創りあげた人生に、大きな穴をあけることになる。
それが長い時間をかけて、ジワジワとその人の心を蝕(むしば)んでいく。

 余計なことだが、こうして山荘でひとりでいると、世の中を捨てて、
ここに来ているはずなのに、実際には反対に、捨てられている。
それが自分でもよくわかる。

●捨てられる前に・・・

 中国では『だまされる前に、相手をだませ』というそうだ。
「だまされたほうが悪い」と。
悪しき拝金主義の弊害ということになる。

 同じように、『捨てられる前に、捨てろ』という考え方もある。
自分が傷つく前に、先に相手を傷つけて、自分が傷つくのを防ぐ。
要するに、『殺される前に、殺せ』ということか。

 これに対する格言が、『負けるが勝ち』。
子育ての世界では、とくに有効な格言である。
子どもの問題、子どもの友人との問題、学校での問題、先生との問題
などなど。
そのつど、『負けるが勝ち』。
「すみません、うちの子のできが悪いものですから・・・」と。
先に負けてしまえば、それ以上、問題が大きくなることはない。
へたにがんばるから、問題が大きくなる。
大切なことは、子どもが気持ちよく学校へ通えること。

 それができる親を、賢い親という。
そうでない親を、愚かな親という。

 相手にまず自分を捨てさせる。
相手がよいように、させる。
そのあと、こちらはその人から去ればよい。
つまり人生というのは、その連続。
満身創痍(そうい)になってはじめて、人生の意味がわかる。
教育も、また同じ。

・・・ところで先ほどから、断続的に睡魔が襲うようになってきた。
ときどきふと目を閉じる。
その瞬間、強い眠気を感ずる。
もうそろそろ床に入る時間のようだ。

 このつづきは、明日の朝にでも考えてみたい。
では、みなさんおやすみ。
時刻はちょうど午前0時10分前。

●10月2日(土曜日)(翌朝)

 今朝は8時に起きた。
軽い吐き気がする。
ときどきゲップも出る。
逆流性食道炎になっているらしい。
寝る前に何かを食べると、ときどきそうなる。

 あとで何かを食べ、そのあと薬をのんでみる。
で、今朝も悪夢を見た。
たいした悪夢ではないが、やはり観光バスに乗り遅れそうになる夢。
もっとも今朝は、うまく観光バスに乗ることができたが・・・。
こういうのを「強迫観念」という。
いつも何かに追い立てられているような気分。
それが抜けきらない。
昔は、「貧乏性」と言った。
のんびりと休日を過ごすということができない。

 「乗り遅れる」というのは、記憶の中にはないが、幼いころ、そういう
経験をしたのかもしれない。
あるいは母子分離不安?
それがトラウマとなって残っている(?)。

●受容体

 先ほどから、朝日が窓越しに、力強く部屋の中を照らしている。
窓枠の影がはっきりと畳の上に映っている。
多分、今日はよい天気。
まだ外は見ていないが、それがよくわかる。

 で、このところまたまた私のビョーキが始まった。
今度は、「時計」。
このところ時計のカタログばかり、見ている。
とくに必要というわけではないが、機能がごちゃごちゃとついているのが、
ほしい。
気圧計、温度計、コンパス、月の満ち欠け、潮の干満表示などなど。
取り扱い説明書が、ズシンと重く、分厚いものほどよい。
カシオでそういう時計を出している。
が、値段が高い。
ネットでも、3〜4万円。

 脳の線条体に、「デジモノ」に対する受容体ができてしまっている。
つまり条件反射。
そのモノが欲しいというよりは、その受容体を満たすために、そのモノが欲しい。
アルコール中毒者やニコチン中毒者が見せる反応と同じ。

 だから手に入れてしまえば、満足する。
そのあと、それを使うということは、あまりない。

●北朝鮮

 さて一段落。
パンをかじって、薬をのむかどうか、迷っている。
逆流性食道炎かどうか、本当のところ、はっきりしていない。
痛みはほとんど、ない。
ゲップだけ。
もうしばらく様子をみてみよう。

 で、話をつづける。

 北朝鮮では、どうやら三代目独裁者が決まりつつある。
それについて、韓国や中国につづいて、アメリカまでもが、「おかしい」と
言い出している。
「世襲で指導者を決めるのは、おかしい」と。
(中国は「認める」というような発言を繰り返しているが・・・。)
が、この日本は、ただひたすら沈黙。
何しろこの日本には、天皇制という制度がある。
へたに「おかしい」と言おうものなら、世界中から、「じゃあ、お前の
ところは何だ!」とやり返される。
だから沈黙。
沈黙あるのみ。

 ただこういうことを書いても、この日本では公開処刑になることはない。
一応の言論の自由は、保障されている。
が、北朝鮮でこんなことを書けば、即、公開処刑。
しかしたった65年前には、そうでなかった。
天皇制を批判しただけで、即、投獄。
獄死する人も、少なくなかった。
ひょっとしたら、つぎの65年後には、またそうなるかもしれない。
それを忘れてはいけない。

●天皇制について

 もう少し、自分のことを書く。

 田舎の小さな自転車屋だったが、3代つづいた「本家」。
そのせいもあって、昔から、私の家は、「林家」と、「家(け)」がつけられていた。
大正時代の昔のことは知らない。
しかし私が中学生のころには、斜陽の一途。
家計はあってないようなもの。

 最近になって私の実家が、伝統的建造物に指定されたとか。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物として残したわけではない。
改築したくても、その資金がなかった。

 が、その社会的負担感には、相当なものがある。
「お前は、林家の跡取りだから、しっかりと責任を果たせ」と。
だから結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り続けてきた。
当時はまだ、そういう時代だった。

 で、この話と天皇制とどう関係があるか?

 つまり天皇もたいへんだろうな、ということ。
まわりの人たちは、「天皇だから幸福なはず」という『ハズ論』だけで
片づけてしまう。
しかし当の天皇自身はどうなのか。
皇族の人たちは、どうなのか。
その社会的負担感には、相当なものがあるはず。
街の中を、ひとりで自由に歩くこともできない。

 「生まれながらにして天皇」というのは、かわいそうというより、酷。
自分の人生を自分の意思で生きることができない。
つまり私が書きたいのは、こういうこと。

一度は、天皇や皇族の人たちにこう問うてみる。
「たいへんな重責とは思いますが、引き受けていただけますか?」と。
そのとき天皇が、「いいですよ」と言えば、それでよし。
しかしそうでなければ、別の生き方をみなで、用意する。
私は何も、天皇制に反対しているわけではない。
天皇個人の人格と人権に、もっと配慮してもよいのではと考えている。

●新聞

 ここではインターネットは使えない。
だから今朝のニュースは、まったく入ってこない。
新聞もない。

 ところで最近は、テレビでニュースを見ることが、少なくなった。
ネットが浸透してくる前は、定時のニュースの時間になると、5分前には
テレビの前に座った。
が、今は、ニュースの時間さえ、気にしない。

 同じように新聞。
新聞に目を通しても、すでに読んだ記事ばかり。
若い人たちから、新聞離れが進んでいる。
すでに10年ほど前、「ぼくは新聞を取っていません」という若者がいた。
どこかのパソコンショップの店員だった。
それを聞いたとき、私は少なからず、驚いた。
「新聞を取っていないとは、どういうことだ!」と。
が、今ではそれが常識になりつつある。

 もっとも私個人は、新聞派。
いくらネットでニュースを読んでも、そのあと新聞で内容を確認しないと、
どうも落ち着かない。
電子の文字と印刷された文字。
安心感がちがう。
そのちがいは、大きい。

 何でもそうだが、私は「言葉」というのを信用しない。
「書かれた文字」を信用する。
これは元法科の学生だったという、その名残かもしれない。
だから生徒たちへの連絡事項も、すべて、一度文書にして渡すように
している。

●禁断症状

 ネット中毒という言葉がある。
私のその中毒者の1人だが、こういうとき軽い禁断症状に襲われる。
ニュースのみならず、ネットから遮断された世界。
そこにポツンとひとりでいると、不安でならない。

 携帯電話を片時も放さないで持ち歩く人の心理状態が、よくわかる。
ある人は、弁当を忘れても、携帯電話だけは忘れないと言っていた。
私もどこへ行くにも、パソコンだけは、忘れない。
それさえあれば、どこにいても、こうして時間をつぶすことができる。
が、ネットは、どうか?

 半日も放置しておくと、メールだけでも100通前後、入ってくる。
大半はSPAMメールだが、そのあとの処理も、めんどう。
丸1日も放っておいたら・・・、ゾーッ!

 それにニュースに触れられないのは、つらい。
今、世界で何が起きているのか。
それを知りたい。
このイライラ感。
この焦燥感。
それこそが、まさに禁断症状。

●パソコン

 で、今日のお供は、TOSHIBAのUX(11インチ)。
ミニ・ノートである。
が、キー幅は、19ミリの通常サイズ。
このところ、これが打ちやすい。
ほかに、同じくTOSHIBAのMX(12インチ)とTX(16インチ)。
もう一台、台湾製のパソコン。
そのつど状況に応じて、使い分けている。

 で、今、ほしいのは、同じくTOSHIBAのMX。
表面がザラザラしているのが、気に入った。
指先が受ける感触がよい。
しかし今は、がまんのとき。
私の予想では、1、2年後には、ノートパソコンはみなこうなる。

(1)キーボードは、セパレート式になる。(キーとキーの間に、
5ミリ前後の隙間がある。)
(2)表面がツルツルパソコンから、ザラザラパソコンになる。
(ツルツルパソコンは、どうも使い勝手が悪い。指先がすべって
しまう。初期のHPのミニノートがそうだった。)
(3)タッチパネル式のキーボードは、普及しない。
   iPadのキーボードがそうだ。
ペタペタと画面を押すような感触では、文章は打ちにくい。
   これも「慣れ」の問題かもしれないが、私のばあい、キーピッチは
   深いほど、打ちやすい。
   2ミリだと、打ちにくい。
   3ミリだと、打ちやすい。
   たった1ミリの差だが、その「差」は大きい。
   タッチパネル式では、0ミリになる。

 もちろんハードディスクは、消える。
すべてSD方式になる。
3Dは、それほど普及しないのでは?
その必要もないし、かえってわずらわしい。
映画にしても、そうだ。

●夫婦

 たった今、庭先で鳥が鳴いた。
ヒヨドリの声?
何か危険が迫ったときに出す声。
何があったのだろう?
少し心配。
光の影が、先ほどよりも弱くなっている。
どうやら雲ってきたらしい。
それに寒い。

 この山荘の電話線は、先日は解約した。
携帯電話もない。
もってくるのを忘れた。
今ごろワイフはワイフで、のんびりと土曜日の朝を過ごしているはず。
基本的には、ワイフは私がいないほうが、のんびりできる。
深層のその奥深い脳の部分では、私を嫌っている。・・・と思う。
昨夜も、「これから山(=山荘)へ行ってくるよ」と声をかけたら、
「どうぞ!」と。
ワイフはめったに、「私も行きたい」とか、「連れてって」とか言わない。
若いときから独立心が旺盛。
男まさり。
ふつうの女性のように(?)、男に甘えるということを知らない。・・・しない。
マリリンモンローのような女性を見るたびに、「バカみたい!」と言って、
吐き捨てる。
つまりかわいげがない。
だからこちらから連絡しなければ、迎えにくるということもない。
私も期待していない。

 考えてみれば、さみしい夫婦だが、夫婦に定型はない。
みな、それぞれ。
よい面もあれば、悪い面もある。
夫婦円満のコツは、要するに求めすぎないこと。

●山荘を売る
 
 先週、この山荘を手放すことにした。
今すぐというわけではないが、加齢とともに通うことが少なくなった。
息子は3人いるが、アメリカにいる息子をのぞいて、都会派。
田舎生活には、見向きもしない。
むしろ嫌っている。
同じように育てたつもりだが、志向性がまったくちがう。

 一方、私は子どものころから田舎派。
都会生活が肌に合わない。
人ごみの中を半日も歩くと、それだけで頭が痛くなる。

 ということで、売ることにした。
もちろん愛着はある。
さみしい。
土地づくりには、6年もかけた。
毎週、終末にはユンボを借りてきて、それで土地を平らにした。
そういう思い出が、ここにはぎっしりと詰まっている。
私の「命」の一部といってもよい。
若いからできた。
そう、あのころの私は若かった。

 いくらで売れるかはわからない。
この先、「ほしい」という人が現れたら、相談して決める。

●UFO

 昨夜は眠る前に、10〜15ページほど、UFOについての本を読んだ。
コンビニで買ってきた本である。
寝る前はいつもその種の本と、決めている。
地球を宇宙からながめているような気分になれる。
それがよい。

 学生時代には、たしか早川書房(今でもあるかな?)というところが
出していたSF小説を読みあさった。
当時は、ほかの惑星へ出かけていき、そこで宇宙人と戦うという、たわいも
ない内容のものが多かった。
それを一新させたのが、「2001年・宇宙の旅」。
これは映画だったが、私に与えた衝撃は大きかった。
それにテレビでは、「スタートレック」とか、「サンダーバード」など。

 言い忘れたが、地球を宇宙的な規模からながめなおすということは、
悪いことではない。
それを信ずるかどうかは別にして、視野が広くなる。
またUFOを信ずるかどうかは、私たち個々の問題。
信じたからといって、害はない。
カルト教団のように、組織があるわけではない。
あくまでもロマン。
空想ロマン。

 で、そのUFOだが、そうした本によれば、最近ではさまざまなタイプのもの
があるようだ。
私のいちばん興味をひいたのは、「異型UFOドローンズ」。
まるで針金細工か何かで作ったようなUFO。
YOUTUBEでも紹介されているが、そんなUFOが、スーッと
空を自由に飛びまわっているという。
「どんな原理で飛んでいるのだろう」と、そんなことを考えているうちに
いつも眠ってしまう。

●ダラダラ話

 意味のないダラダラ話がつづいた。
ここまで読んでくれた人に、申し訳ない。
少しまともな話をしてみたい。

先日、ローカル電車の中で、こんな広告を見た。
どこかの大学が出している広告である。
こうした広告がおかしいと言うには、それなりの覚悟が必要。
その大学を敵に回すことになる。
しかしおかしいものは、おかしい。
考えれば考えるほど、おかしい。
その広告は、「多元心理学を(私たちの大学で)
いっしょに学びましょう」という言葉で
結んでいた。
「多元心理学ねえ・・・?」。

●やる気

記憶によるものなので、内容は不正確。
あらかじめ、それを断わっておく。
しかし主旨は、できるだけ正確にここに書く。
わかりやすくするため、箇条書きにする。

(1)「勉強をさあ、やろう」と思っていた。
(2)ところが母親が、そのとき、「勉強しなさい」と言った。
(3)とたん、勉強をしようという意欲がそがれた。
(4)みなさんにも、そんな経験があるだろう。
(5)これは「Rxxxx」と呼ばれる心理現象である。
(6)勉強をすることで、「自由になりたい」と思っている。
(7)その意欲が、母親の言葉で、押しつぶされた。
(8)そこで猛烈な反発が働く。
(9)人間は自由を制限されると、自由を取り戻そうとする。
(10)が、それが思うようにできない。
(11)そのため、やる気を失う。
(12)だからそういうときは、「勉強しなさい」ではなく、「無理をしないでね」
    と言ったほうがよい。
(13)そういう勉強を、あなたもいっしょにしてみないか。
(14)KJ大学。

●やる気論

 「やる気論」については、たびたび書いてきた。
が、一般的には、やる気は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を
使って説明する。

自分が好きなことを、自分の意思でしていると、脳内は、カテコールアミン※
というホルモンで満たされる。
そのホルモンが、脳内を陶酔感で満たす。
それが「やる気」につながっていく。

 が、今度は、その反対の場合を考えてみよう。
たとえばいやなことを無理強いされると、それがストレッサーとなる。
ストレッサーとなって、今度はサイトカインという脳内ホルモンを分泌する。
このサイトカインが、心身にもろもろの変調をもたらす。
頭痛、肩こり、吐き気などなど。
当然、やる気をなくす。

・・・おおざっぱに言えば、そういうことになる。

●疑問

 せっかくやる気になっていた。
ところがそのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
とたん、やる気をなくした。
私にもそういう経験がある。
あなたにもあるだろう。

 そういうことは、よくある。
が、ここで重大な事実の誤謬(ごびゅう=取り違い)がある。
前提として、「やる気が起きていた」ということになっている。
しかし勉強を例にあげるなら、勉強が好きな子どもは、まずいない。
勉強には常に、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力を、「忍耐力」という。
平たく言えば、「いやなことをする力」。

 この段階で、その子どもがもし勉強をすることが好きなら、母親に
そう言われたくらいでは、影響を受けない。
「はい、わかりました」で終わるはず。
が、母親に「勉強しなさい」と言われたとたん、やる気をなくした(?)。
つまりここがおかしい。
もともと「やる気」など、ないと考えるのが自然。
「いやな勉強だが、しかたないからやってやるか」と思っていた。
そのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
その言葉でやる気をなくしたというのなら、私も納得する。
しかしそれは、自由を求める意思とは、本質的に異質なものである。

●自由への葛藤

 人間というのは、身勝手な動物である。
自由であるときは、それが自由であると気がつかない。
またその自由を、使うわけでもない。
が、その自由が抑圧されたと感じたとたん、猛烈な反発心がわいてくる。
それはたしかに、ある。
たとえばこんなケースで考えてみよう。

 もしある日突然、政府がこんな命令を出したとする。
「旅行で隣の県へ行くのを禁止する」と。
とたん、だれしもそれに反発するだろう。
旅行をするつもりがなかった人でも反発する。
「どうしてだめなのか」と。

 それなりの合理的な理由、たとえば戦争が起きたとか、伝染性の病気
が発生したとか、そういう理由があればまだ納得できる。
しかしそういう理由もないまま禁止されると、簡単にはそれに従うこと
はできない。

●相手の問題

 が、そのことと「やる気」は、どこでどうつながるのか。
逆のケースだって、考えられる。
「ようし、がんばろう」と思っていたところ、恋人が、「勉強、がんばってね」と
言ったとする。
そういうときひょっとしたら、その子どもはますますやる気を出すかもしれない。
たまたま相手が母親だったのがまずかった。
となると、それは言葉の問題ではなく、相手の問題ということになる。
さらに言えば、相手との人間関係の問題ということになる。
「自由がどうのこうの」という問題とは、次元がちがう。

●抑圧

 さらに言えば、親子関係には、長い過去というものがある。
その過去の中で、よい関係を築いている親子もいれば、そうでない親子も
いる。
いつも「勉強しなさい」と追い立てられてばかりいた子どももいる。
そういう子どものばあい、親がそう言っただけで、それに猛烈に反発
するだろう。
しかしそれは心理学的には、「抑圧」という言葉を使って説明される。
それまで心の隅に抑圧していたうっ憤(不満や不平)が、そこで爆発する。
ドカーン、と。

●タイプ
 
 が、このとき子どもは、(おとなもそうだが)、2つのタイプに分かれる。
ひとつはそのまま抑えつけられてしまうタイプ。
もうひとつは、暴力的にそれに反発するタイプ。
もちろんその中間型もあるだろう。
ほかにも依存型、同情型、服従型もある。
しかしそのままやる気をなくしてしまうタイプは、あくまでもその中の
ひとつに過ぎない。

 「自由を抑圧されたから」「やる気をなくした」と結びつけるのは、短絡的。
無理がある。
先にも書いたように、某大学の大学案内に書かれた文章である。
当然その道のプロたちが、知恵をしぼり、かつ専門的な知識を総動員
して書いたにちがいない。
が、おかしいものは、おかしい。
またどうしてそれが「多元心理学」なのか?
「多元」というほど、大げさなものではない。

●「無理をしないでね」

 英語では、「がんばれ」に相当する言葉がない。
「Do your best(最善を尽くせ)」が近いが、実際には、
こういうケースのばあい、「Take it easy(気楽に構えよ)」
と言う。

 今、何かのことでがんばっている子どもがいたとする。
歯を食いしばってがんばっている。
しかし思うように成果が出ない。
苦しい。
そんなときだれかに、「がんばれ!」と言われることほど、つらいことはない。
「これ以上、何を、どうがんばればいいのだ!」と。

 そういうときは、たしかに反発する。
が、それとて「自由を求めて・・・」というのとは、異質のものである。

●オペラント

 「やる気論」については、すでにオペラント(自発的行動)論によって
常識的に定説化している。
たとえばここに漢字の得意な子ども(小4)がいる。
自分でも「漢字が得意」と自負している。
そんな子どもに、小6の漢字を10個、書かせてみる。
とたん、「知らない」「書けない」「わからない」といって、瞬間的に
パニック症状を示したあと、急速にやる気をなくす。
もちろんプライドにも、大きなヒビが入る。
中にはふてくされてしまい、不遜な態度を示す子どももいる。

 つまり「やる気論」は、むしろそちら側から攻めるべきであって、
自由論とは、本来、関係ないものと考えるのが正しい。

・・・ということで、この話は、おしまい。
ついでに今日の日誌も、これでおしまい。
これからもう一眠りするつもり。
頭は重くないが、耳鳴りがする。
風邪の前兆かもしれない。
これからうがいをし、葛根湯をのむ。

 2010年10月2日、朝。
午後から行動開始!
ではみなさん、今日もがんばろう!

●変更

 ここまで書いて、パソコンを閉じようとしたら、すでに31ページも
書いていることがわかった。
隙間だらけの31ページだから、本の1ページに換算するわけにはいかない。
しかし31ページ。
編集の仕方にもよるが、50〜60ページも書けば、薄い本になる。
がぜん、やる気が出てきた。
どうせここまで書いたのだから、あと少し、つづけて書いてみる。

●ものを書く

 ものを書くとき重要なことは、自分を偽らないこと。
飾らないこと。
ありのままを書く。

 もちろんだれかを傷つけるようなことは、書いてはいけない。
教育の世界では、とくにそうである。
その人個人と特定できるようなことは、書かない。
そこでいろいろな手法を用いる。

 他人の話を自分の話にしてみたり、その逆をしてみたり。
数人の話を1人にまとめてみたり、その逆をしてみたり。
けっしてウソを書いているのではない。

 が、やはりできるだけありのままを書く。

 自分を偽ったり、飾ったりした文章は、あとで読んでも後味が悪い。
しかしどんなへたくそな文章でも、そのときの自分がそのまま出ていれば、
読んでいても、懐かしさを覚える。
「あのときは、ああだったな」と。

 時間を無駄にしないためにも、ありのままの自分を書く。
これはものを書くときの、大鉄則と考えてよい。

●もうひとつ変更

 昼から家に帰るつもりだったが、やめた。
もう一晩、この山荘に泊まることにした。
電話なし、ネット接続なし。
まさに陸の孤島(大げさかな?)。
しかし問題は食事。

 昨夜コンビニで、一食分しか食物を用意しなかった。
それは先ほど、朝食として消えた。
お米が少し残っているはずだから、それを炊こう。
おかずは・・・。
何とか、なるだろう。

 で、こうして山の中にひとりでいると、そこにまた別の世界が
見えてくる。
第一に、私という人間が、いかにワイフに依存していたかがわかる。
2人で一人前?
一体性が強い分だけ、こうして離れてみると、禁断症状に似たものが
現れてくる。

 仏教の四苦八苦のひとつに、愛離別苦というのがある。
「愛する人と別れる苦しみには、相当なものがある」という意。
八苦のひとつ。

よく「妻に先立たれた夫は哀れ」という。
妻には生活力があるが、夫にはない。
あの長谷川一夫(往年の名優)にしても、妻が亡くなったあと、1か月あまりで
この世を去っている。
毎日毎晩、妻の仏壇の前に座っていたという。
何かの本で読んだ話なので、不正確。
しかし似たような話は、よく聞く。

 その愛離別苦。
私は今、それも模擬体験している。
が、問題がひとつある。
「私は本当に、ワイフを愛しているか」と。

 つまり「愛」という概念ほど、曖昧模糊(あいまい・もこ)とした概念はない。
喜怒哀楽のように「形」すらない。
キリスト教徒の人たちは、「愛はある」という前提で話を進める。
しかし愛とは何か。
どこに「ある」のか。

 それを埋める概念が、『許して忘れる』。
人は相手を、どこまで許し、忘れることができるか。
その度量の深さによって、「愛」の深さを知る。

 これは私の持論だが、愛というのはそういうもの。
その度量が、私にはない?
ワイフにもない?
考えてみれば、おかしな夫婦。
そんな夫婦生活を、40年以上もつづけてきた。
これからもつづけていくだろう。
しかしこうして離れてみると、けっこう、さみしい。
「今に迎えにくるかな?」という淡い期待感はあるが、こと私のワイフに
かぎっては、それはない。
言えば、きちんとそれをしてくれるが、それ以上のことは、ぜったいに
しない。
子どものころ、今で言うアスペルガー児ではなかったか?
その疑いはある。
どんなささいなことでも、一度批判したら最後、そのまま殻(ナッツ)に
こもってしまう。
その様子が、小娘みたいで、おもしろい。

 ふだんはやさしく、親切なワイフなのだが・・・。

●今を受け入れる

 こういう心理状態のときは、先のことは考えない。
「ヌカ喜び」と「取り越し苦労」。
これは躁鬱病の人によく見られる現象である。
「多幸感」(私は幸福という満足感)と「絶望感」。
この2つが交互にやってくる。

 だからここは「平穏を旨とすべし」(『黄帝内経』)。
つまり今は、今だけのことを考える。
こうして山の中にひとりでいると、不安感がヒシヒシと襲ってくる。
しかしこの近くの農家の人たちは、そういう生活を当たり前のものとして
生きている。
私にだって、できないはずはない。
それに妻を亡くし、ひとりさみしく生きている男性となると、ゴマンといる。
そういう人たちと比べたら、私が今感じている孤独感など、何でもない。

・・・くだらないことだが、この近くには、何10匹ものサルが住んでいる。
そういったサルにも、孤独感というのはあるのだろうか。
あったら、とてもこんな世界には住めない・・・だろう。

●住めば都

 その一方で、その農家の人たちだが、以前、その反対のことを言った。
隣人のUさん(当時50歳くらい)だが、こう話してくれた。

「私ら、町へ行っても、うるさくて眠れません」と。

 Uさんは結婚式か何かがあって、その夜は浜松市内のホテルに泊まった
そうだ。
その夜のこと。
「通りを歩いてみましたが、飲食店のにおいが臭くて、吐き気がしました」と。

 住めば都というが、山の中に住んでいる人たちは、逆に町の中では生活できない。
一方、ときどき山へやってくる私は、森のにおいに驚く。
湿気を帯びた冷たい風。
その中に樹木のにおいが、プンと香る。
夏場でも、夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から冷たい風が、スーッと
かけあがってくる。
今年も35度を超える猛暑がつづいたが、山荘では扇風機だけでじゅうぶん。
この村にいる人たちも、こう言う。

「エアコンは、客用です。私らは、使わないよ」と。
山荘生活のすばらしさが、まだ私にはわかっていない。

●人生観

 当然のことながら、環境は人生観に大きな影響を与える。
ただとても残念なことに、田舎の人たちの人生観が、都会の人たちの人生観に
影響を与えるということは、まずない。
このマスコミ社会。
情報は常に、都会から田舎へと、一方的に垂れ流されるだけ。
テレビのバラエティ番組を例にあげるまでもない。
ああいう人たちは、田舎にはいない。
言うなれば、都会で作られた、人工のサル。

 実際には、日本は農村文化。
その文化が、今、つぎつぎと破壊されている。
私も、その「結果」。
こういうすばらしい環境にいながら、その(すばらしさ)を満喫できない
でいる。
「どうすればネットがつながるか」と。
そればかりを考えている。

●カンパン
 
 今、戸棚を調べたら、いくつかの食品が出てきた。
その1つが、カンパン。
お米はなかった。
災害時の非常食として買っておいたもの。
缶の上に、白い斑点状のサビが出ている。
品質保存期間を調べたら、「2001年8月」となっていた。
「2010年のまちがいではないか」と、もう一度確かめたが、「2001年」
だった。
封を開けて食べてみたが、どうやら問題はなさそうだ。

 あと干し海苔とマカロニ。
マカロニはゆでてみたが、どこかカビ臭くて、食べられなかった。
今日は何とか、これで生き延びる。

(この間、2時間ほど、昼寝。)

●山荘の夕方

 このところ急速に日が短くなっていくのを感ずる。
加えて山の一日は、短い。
昼寝から起きて、何かをしたわけでもないのに、外を見たら、もう夕暮れ時。

 早い。

 で、こういうところに住んでみると、改めて近隣の人たちとのつきあいの
大切さを知る。
たとえば私の母の実家のある村では、どの家でも、いつも人の出入りがある。
いつも何かの会合がある。
村全体が、ひとつの家族のように機能している。

 一方、都会では、隣にだれが住んでいても、気にしない。
行き来もしない。
しても回覧板を届ける程度。
それでは孤独死をしても、だれも気がつかない。
今の私の家庭がそうだ。
近隣の人たちとの行き来は、ほとんどない。
隣の人が死んでも、気がつかないだろう。

「それではいけない」と、今、つくづくそう思う。

●地域の人たちとのつきあい

 が、現実問題として、そういう(しくみ)そのものが育っていない。
またそういった(しくみ)は、何十年というより、何世代もかけてでき
あがるもの。

 この山荘のある村にしても、それぞれの家が、みな親戚のようなもの。
それぞれの家庭が、「血」でつながっている。
土地にしても、A氏の土地の中にB氏の土地があり、そのB氏の土地の
中にまたA氏の土地があったりする。

もちろんマイナス面もないわけではない。
それぞれの家庭の内情が、筒抜け。
隠しごとができない。
そのためこういうばあい、村の人たちとつきあうときは、最初からすべて
オープンにする。
どう抵抗したところで、勝ち目はない。
あるいは「よそ者」を自称し、距離を置く。

 私のばあい、後者を選んだが、本当は(?)、村の世界に入りたかった。
私は子どものころから、「村」の人たちがもつ暖かさを知っている。
が、いくらこちらがそれを望んでも、村の人たちには村の人たちの考え方
がある。
伝統もある。
ある人はこう言った。
「この400年で、あなたが外から来た最初の人だ。
村の人間と認められるまでには、3代はかかるだろうね」と。
それであきらめた。

●自由

 今、ここまで書いた文章を読みなおしてみた。
雑文もいいところ。
くだらない文章の羅列(られつ。)
たわいもない独り言。
一応、BLOGに載せるつもりで書いた。
しかし今、それを迷っている。
こんな文章を読んで、どうなるのだろう。
読んでくれる人に、申し訳ない。

 が、逆に言うと、こういうことにもなる。
私ほど、マスコミやそういった世界の外にいる人間も珍しい。
だからだれにも遠慮せず、書きたいことが書ける。
たとえば以前、ある宗教団体の機関誌の編集を手伝っていたことがある。
息苦しい世界だった。
言葉の一言一句に、神経を使った。
ちょっとしたミスで、その号すべてが、廃棄処分になったこともある。

 宗教団体だけではない。 
組織がからんでくると、書きたいことも書けなくなる。
たとえばこの日本では、NHKや大手雑誌社の批判は、タブー。
そのとたん、仕事が止まってしまう。
だからそれなりに、みな、シッポを振る。
が、今の私は、自由。
(もともとだれにも相手にされていないこともあるが・・・。ハハハ。)
その自由ぽさを、私の文章の中に感じてもらえば、うれしい。
さて、話を戻す。

●カンパン

 静かな一日だ。
雨戸は閉め切ったまま。
来客もない。
電話もない。
横には、カンパンとお茶の入ったボトルが一本。

 ところでそのカンパン。
こんなにおいしいものとは、知らなかった。
メーカーは、「三立製菓」とある。
本社は、この浜松。
賞味期限は2001年。
それを2010年の今、食べられる。
考えてみれば、これはすごいことだ。
これなら、火星往復旅行にだって、もって行かれる。

フ〜〜ンと感心しながら、またひとつ、口の中に入れる。
が、ほめてばかりいてはいけない。

カンパンは、缶詰になっている。
その缶の表面に絵が描いてある。
その絵が、バグパイプを吹いているスコットランド兵。
どうしてカンパンの缶に、(「乾燥したパン」という意味で、「カンパン」とした
のだろうが)、スコットランド兵なのだろう。
「1985年9月、世界食品ゴールドメダル受賞」という文字が光る。
私なら、そのメダルの写真と文字を、缶全面に表示する。

●歩く

 明日、帰るとき、ひとつやってみたいことがある。
山荘から東名西インターまで、12・5キロ。
そこから家まで、さらに20キロ。
家までは無理としても、12・5キロくらいなら、歩ける。
その距離を、歩いてみたい。
このところ運動不足ぎみ。
自分の体がモタモタしているのが、よくわかる。
体重も、62キロ。
あと1キロは、減らしたい。
やや寒いかなという気候だが、ウォーキングには最適。

 少し前まではサイクリングが、私の健康法のひとつだった。
20代のはじめから、通勤には自転車を使っていた。
そのおかげだと思うが、この年齢になっても、成人病とは無縁。
太もも(大腿筋)の太さも、ふつうの人の2倍はある。
腰もしっかりとしている。

 私の年齢になると腹筋も弱り、寝ている状態から上体を前に起こすことが
できなくなるそうだ。
私には当たり前のようにそれができる。
みなも、できるものとばかり思っていた。
だからある人の前で、それをして見せたら、その人はかなり驚いていた。
「どうして、林さん(=私)はできるのですか?」と聞くから、「たぶん
サイクリングのおかげと思います」と答えた。

 自転車をこぐとき、ハンドルを手前に引きながら、ぐいぐいと腹に力を入れる。
足の力だけでは、自転車は走らない。
そのとき知らず知らずのうちに、腹筋を鍛えていた。

 が、最近は歩くことが多くなった。
とくに私のばあい、何かいやなことがあると、すぐ歩き出す。
ボケ老人の徘徊のようなものではないか。
歩いていると、いやなことを忘れられる。
明日は、それをしてみたい。
つまり西インターまでの12・5キロを歩いてみたい。
時速5キロで歩くとして、2時間半の距離。
何とかなるだろう。

●テレビ

 先ほどテレビのスイッチを入れた。
アンテナが折られていることもあって、映りは悪い。
サルたちが、折った。

 時間帯は午後7時台。
あちこちでバラエティ番組をやっていた。
まさにバカ番組一色。
あるチャンネルでは、ドジな失敗ばかりを集めて放映していた。

雪でスリップした車のところへ、また別の車がスリップして激突。
羊が角を電線にひっかけて、宙に浮いていた。
強盗が偽FBIに化けて住宅に侵入しようとしたが、逆に発砲されて退散などなど。

内容からして、アメリカのテレビ局あたりから仕入れてきたものだろう。
それを12〜5人のタレントたちが、ギャーギャーと騒ぎながら見ている。

 それはそれとして結構おもしろかった。
しかし意味のない情報。
情報の洪水。
ハハハと笑って、それでおしまい。
数日もすれば、思い出すこともなく、そのまま忘れてしまう。
あとはその繰り返し。

 人間もサルと同じと言うべきか、それともサルも人間と同じと言うべきか。
人間は、言葉をもっている。
その言葉を使って、知識を豊富にもっている。
が、それをのぞけば、人間もサルも、それほどちがわない。
バラエティ番組を見ていると、それがよくわかる。

 ・・・話が愚痴ぽくなってきたので、やはり書くのは、ここまで。
これから風呂に入り、明日に備える。
その前に、もう一度、仮眠する。
少し眠い。
2010年10月2日記

(注※……カテコールアミン)

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カテコールアミンについて書いた原稿を
添付します。

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【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



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子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



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●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を
意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」と
いう単語に由来する。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よく
みられる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返
報性」という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こ
んなことがあった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K
君は、少し恥ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)


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もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。

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【子どもの中の子ども】

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子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

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●乳幼児の記憶

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子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

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「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。

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わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

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●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

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そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

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●子どものやる気

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子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。

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では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

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● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

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おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

++++++++++++++++

では、いよいよ核心?

「私」とは何か。
また教育の世界では、「私」をどう考えたら
よいのか。

私は、ひとつの仮説を考えた。

++++++++++++++++

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. 
Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal 
part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)

++++++++++++++++

教育の世界では、表面的な子どもだけを
見て、教育してはいけない。

教師のひとつひとつの行動、言動が、
どのように子どもの中に形成されていくか。
それを観察しながら、教育する。

あるいは反対に、その子どもが、その
子ども自身の中の、どのような「私」に
コントロールされているか、それを
的確に判断しながら、教育する。

それが教育の原点ということになる。

++++++++++++++++

【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have 
found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 
慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 教育の原点)


Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司※

●言語能力

 ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ
ることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる
と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適
切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで
きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ
ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの
ではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評
論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer 
Japanese essayist メルツオフ メルツォフ 乳幼児の記憶 視床下部 辺縁系 扁桃核 扁桃
体 カテコールアミン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●10月4日(2010)

今朝はパソコンの不調で始まった。
I.E.が、そのつどフリーズしてしまう。
症状としては、XPパソコンのときのメモリー不足の状態に似ている。
そのつど時間をかけて、ハードディスクとメモリーの間で、スワップしている感じ。

さっそくデータの保存をかける。
この先、何があるかわからない。

原因はたぶん、モデムの不調?
ほかの作業は、今のところ、サクサクとこなす。

(この間、10分前後)

Cディスクの重要ファイルは、Dディスクにコピーした。
さらに念には念を入れて、外付けハードディスクに、全上書きコピー。
目下その作業中。
20GB近くもある。

そのせいか、こうしてワードで文章を書いている最中も、断続的に作業が停止してしまう。
漢字変換が、思うようにできない。
ウィルスの侵入ということはないと思うが、あとでチェックするつもり。

●尖閣諸島問題

 尖閣諸島近辺で、アメリカ軍が自衛隊と、共同軍事演習をするという。
ついでに東シナ海でも。
空母、原子力潜水艦も参加するという。
しかしこんなことをしても、問題を先送りするだけ。
かえって中国人の反発を買うだけ。
禍根を後世の人たち、つまり現在の若い人たちに残すだけ。

 やり方が、ちがう!

 「力」を「力」で抑えてはいけない。
中国の偽装漁船が、尖閣諸島付近で、日本の巡視船に体当たりをしたとき、
東南アジア、ヨーロッパで猛烈な中国批判が巻き起こった。
それが「正義」の力。
どうしてその正義の力を、もっと大切に、かつ生かさないのか。

 韓国は対北朝鮮を念頭に置いて、米韓軍事演習を行った。
それに横やりを入れたのが、中国。
しかし今度は、対中国を念頭に置いた、日米軍事演習である。
性格も規模もまるでちがう。
つまり危険きわまりない。

 アメリカに後ろ盾になってもらうのは、現在の極東情勢の中では、有効かもしれない。
しかし「力」に訴えるのは、最後の最後。
少し稚拙すぎる!

 が、演習はすでに決定されたという。
ならばできるだけ小規模に。
中国を必要以上に刺激しないものであることを願う。

『真の平和は、相手国の平和を第一に考えてやったときに、やってくる』(ネール)。

●昨日(10月3日)

 昨日山荘から、歩いて帰った。
途中で、ワイフに見つかってしまった。
叱られた。
「どうして、あなたは無茶をするの!」と。

 あとは車で帰った。
27キロ前後なら、たいした距離ではない。
歩こうと思えば、歩ける。
が、私がこわいのは、距離よりも紫外線。
やや曇ってはいたが、強い日差しが時折、肌を照らした。
だから素直に、車に乗った。

 家に帰ってから、パンを焼いた。

●今日のレッスン

 今日のレッスンでは、幼児に分数を教えてみよう。
分数といっても、「分数の概念」。
昨日、その教材を作った。
今日、それを教室で実験してみる。
その様子は、ビデオに収める。
明日にはYOUTUBEで公開できるはず。
どうか、お楽しみに!

 幼児(年長児)に、分数だぞ!

●扁桃腺炎

 言い忘れたが、今朝早く、発熱。
のどが痛んだ。
すぐ起きて、うがい。
葛根湯をのんで、そのあと今度は、アスコルビン酸でうがい。
のどに、シワーッと痛みがしみこんだ。

 で、そのあと再びふとんの中に。
しかし頭が冴えてしまって、眠れなかった。
そのまま起きてしまった。

 こういうときパソコンが趣味というのは、ほんとうによい。
書斎に入って、メールを読んだり、原稿を書いたり。
暇(ひま)つぶしには、パソコンがいちばん。

 私は子どものころ、扁桃腺炎に苦しんだ。
何かあると、しょっちゅう、耳鼻科へ通った。
が、そのうち扁桃腺炎と仲よくつきあうようになった。
今では、扁桃腺炎のおかげで、ひどい風邪に進むことは、ほとんどなくなった。
変調はまず、扁桃腺に現われる。
その段階で風邪を治せる。

●貴金属

 先ほど金属市況をながめてみた。
レアメタルではないが、アルミ、銅、ニッケルなどの素材金属が、高騰し始めている。
それにつられて、(ドル安ということもあるが)、金(ゴールド)、プラチナの価格も、
この数年の範囲では最高値を更新しつづけている。

 一方、今朝は1ドルが83円前後。
またまた円高。
しかしドル以外に通貨に対しては、円安気味。
ということは、ドルと円は、同時進行の形で、安くなっている。
こういう中、ドル防衛のための為替介入は、バカげている。
が、円安を防止しようと、ドルを買い込めば買い込むほど、結果的にドル防衛に手を
貸すことになる。

 一説によると、アメリカはすでにドル安を意図的に誘導し始めているという。
であるなら、なおさら、ドル防衛はバカげている。
やがて1ドルが50円前後になると言われている。
つまりその分だけ貴金属は、値上がりをつづける。
が、買い時かどうかというと、それは疑問。
1か月前だったら、買い時だったかもしれない。
金(ゴールド)が、3500円前後。
プラチナが、4500円前後を、それぞれうろうろしていた。
それが今、この円高にもかかわらず、金が、4000円弱、プラチナが5000円弱
にもなっている。

 ふつうなら売って、利ざやを稼ぐ場面。
こういうときに買いにでるのは、危険。
ドサンと下がる可能性のあるときは、買わない。
これは貴金属売買の常識というより、私は、そうしている。

 なお貴金属売買は、ちゃんとした店で、(たとえば田中貴金属特約店など)、すること。
最近あちこちに見られる、「貴金属買います」という店で、売買してはいけない。
へたをすれば、手数料のほか、6%前後の鑑定料まで取られる。
それに価格も、まちまち。
どこで売買したらよいかは、田中貴金属店(あるいは徳力本店)へ直接電話をかけて、
確認するとよい。

 なおこうした貴金属類は、銀行の貸金庫に預けておくこと。
家庭の中に置いておくのは、あまりにも危険。
今、空き巣がものすごく、ふえている。

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

【幼児に分数を教えてみる】BW実験教室(浜松)Hamamatsu Japan
(幼児に分数の概念は理解できるか? 幼児の能力と可能性についてbyはやし浩司)

●嫌われ代行業

「教育」とはいうものの、中身は、嫌われ代行業。
勉強が好きで学校や塾へ通う子どもは、まずいない。
イギリスでは、『学校監獄論』が、今でも根強く残っている。
『子どもは生まれながらにして、10年の懲役刑が科せられる』という格言もある。
勉強にはある種の苦痛がともなう。
その苦痛が、子どもをして、勉強から遠ざける。

そこでまだ判断力の乏しい幼児の段階から、「勉強とはしなければならないもの」という
意識を叩き込む。
またこの時期を逃すと、その(しつけ)はむずかしい。

中には、きれいごとを並べる人もいる。
そうでもしなければ、自己否定につながってしまう。
しかし本音を言えば、嫌われ代行業。
ついでに言えば、人間選別機関。
日本では、明治の昔には、「もの言わぬ従順な民づくり」が教育の柱になっていた。
「戦争に行け!」と言われれば、黙ってそれに従う。
それが「民」としてのあるべき姿と考えられていた。

かなり過激な、かつ否定的な教育観だが、もちろんそれだけではない。
一部だが、「学ぶことの楽しさ」もある。
「教えることの楽しさ」もある。

私はこの2つを、自分の教室を通して、追求してきた。
「幼児教室」というと、誤解と偏見に満ち溢れている。
数か月前だったが、AERAという雑誌が、「早期教育無用論」を載せた。
「幼児期に文字を覚えても、小学校ですぐ追いつかれる」と。
古典的というより、時代錯誤もよいところ。
引用した文献が、1970年以前のもの。
何も文字教育だけが、幼児教育ではない。

たとえば今週、私は幼児に「分数」を教えてみた。
「分数の概念」と書くほうが正しい。
幼児たちが、どこまで食いついてくるか、それを知りたかった。
その様子は、YOUTUBEのほうに収録しておいたので、興味のある人は、
(はやし浩司のHP)→(BW公開教室)へと進んでみてほしい。

とくにAERAの編集部の人たちには、見てもらいたい。
誤解と偏見を解いてもらいたい。
そのかわり、幼児たちの思考の柔軟性、可能性にもっと率直に驚いてほしい。
「幼児に分数?」と驚いているあなたたちのほうが、おかしい。
それをわかってほしい。

つまり私は嫌われ代行業。
親に嫌われ、子どもに嫌われ、社会に嫌われ……。
それを納得した上で、「そうであってはいけない」「そうでない教育もあるはず」と、
ずっと考えてきた。
今がその結果ということになる。

で、今日、分数(分数の概念)を教えてみた。
結果は、大成功。
子どもたちがずっと笑っていた。
その笑い声こそが、成果!
幼児でも、ちゃんと分数の概念を理解することができた!

なおこの時期に、分数の概念の「種」を蒔いておくと、(私はよく幼児教育は種蒔きと
思うことがある)、そのあと子どもたちは自分の力でその種を育ててくれる。
学校の勉強で役立つとか、立たないとか、そんなことは考えない。
考えても意味はない。

なぜなら学校のカリキュラムにしても、神様が決定したものではない。
DNAの中にそれが組み込まれているわけでもない。
AERAにしても、「へたに先取りしてできるようになると、学校の勉強が
つまらなく見えてくる」というようなことを書いていた。
一体、何十年前の話?

高校生の大半が授業中に居眠りをしているという現実を、AERAは、どの程度
知っているのか?

AERAばかりを攻撃したが、そのときの反論記事を末尾に再掲載しておく。

少し頭が熱くなったが、だからといって教育を否定しているのではない。
要するに、内容と教え方。
それを見失うと、「教育」ほど、つまらない仕事はないとなる。

今日、ひとつの実験教育として、幼児に分数を教えてみた。
改めて繰り返す。

幼児のもつ柔軟性、可能性をもう一度、YOUTUBEを見て、再確認してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 浜松幼児教室 幼児に分数を教えてみる 実験教室 BW実験教室 幼児と分数
 分数の学習 分数の勉強 BW子どもクラブ BW教室 AERA誌への疑問と反論 AERA
の偏見と誤解 時代錯誤 早期教育無用論に反論して はやし浩司)

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2010年 月に書いた原稿です。

+++++++++++++++++

●早期教育効果は小学生で消える(?)「AERAの記事に、疑問あり!」(改訂版)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

こんな記事が、AERAという雑誌に載っていた。
いわく「早期教育効果は、小学生で消える」と。

つづいて、
「……小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を
鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという」と。

しかしこの原稿には、いくつかの言葉のトリックがある。
その第一、「早期教育」を、「読み書き」にすり替えている。

たしかに「読み書き」については、その効果は「小学校で消える」。
たとえば計算力にしても、幼児期に速くできるようになったからといって、
それがそのまま「数の力」に結びつくとはかぎらない。

よい例が、幼稚園によっては、かけ算の九九を暗唱させているところがある。
が、九九が言えるようになったからといって、「算数の力」が身についた
ということには、ならない。

が、こんなことは常識。
その常識を、逆手に取って、「小学生で消える」とは?

さらに言えば、消えたところで、無駄とは言い切れない。
その上に、さらに新しい知識を組みあげていく子どももいる。
(そうでない子どもも、もちろんいるが……。)

あえて言えば、「早期教育」と言っても、「知識教育」から離れ、最近では「考える子ども」
にするのが、ひとつのテーマになってきている。
ごく最近では、「Active Learning」という言葉も使われるようになった。
「ものごとに積極的に取り組む子どもにするための指導」という意味である。

「文字の読み書き」ではない!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

●読み書き

 「読み書き」をもって、早期教育と位置づける。
「だから、早い時期から学んでも、意味がない」と。
この原稿の最大のミスは、ここにある。
つまりこの原稿を書いた人は、「幼児教育」というのが、何であるか、よくわかっていない。
「早期教育」、さらには「先取り教育」の意味もよくわかっていない。
さらに最近話題になっている、「臨界期」という言葉も、知らない?

 たとえば、こんなことも書いてある。

「また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校
2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわか
っている(黒田実郎、「保育研究」)」(AERA)と。

(しかしこの資料も、調べてみたところ、1969年「日本保育学会」「就学前の幼児の恐
怖」の中に収録されているものとわかった。
1969年といえば、40年以上も前!
大阪万博の前の年の資料!)

 それはさておき、それはその通り。
無理な文字指導が、子どもを文字嫌いにするという例は、多い。
その(文字嫌い)が悪循環となって、子どもを(国語)から、遠ざける。
たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と声をかけただけで、体をこわばらせる子ど
もは、いくらでもいる。
中には涙ぐむ子どもさえいる。
文字に対して恐怖心をもっているためである。

 こんなことは、少し幼児に接してみれば、だれにでもわかること。
また幼児に接した経験のある人なら、だれでも知っている。
それを、ことさら学者名まで出して強調するところが、わざとらしい。

 逆に、世界広しといえども、幼児期の幼稚園教育で、文字の読み書きを教えないのは、
この日本だけ。
そういう事実をさておいて、あたかも「幼児期に、文字教育は必要なし」というような印
象を与えるのは、どうか。
誤解というより、偏見。

 そして「文字教育」を例にあげながら、「幼児期には何もしないほうがいい」というよう
な印象を読者に与える。

こうした論法には、「?」マークを10個くらい、並べたい。
大切なことは、「教える」ではなく、「文字の読み書きは楽しい」ということを教えること。
それが幼児教育。
またそれが重要!

●偏見

 さらに……。

「……早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き
都内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまっ
た。競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、そ
の後の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入
れば塾通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく」(AER
A)と。

 これを読んだときには、ア然とした。
このライターは、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」という言葉さえ、知らない?
そんな印象すらもった。

 たしかにこのタイプの子どもは、多い。
浜松市内の進学高校でも、高校入学と同時に、約20%の子どもが、燃え尽きる。
そのため無気力になったり、怠学に陥ったりする。
それはそれだが、だからといって、みながみな、そうなるわけではない。
何も受験競争の肩をもつわけではないが、「だから教育は無駄」式の論法には、首をかしげ
る。

 つまりここでも、「受験競争」と「早期教育」を、言葉のトリックを使ってすりかえ、読
者を煙に巻いている。

●親子のかかわり

 幼児教育の第一は、「親子のかかわり」で始まる。
またそれで終わる。
その重要性は、基本的信頼関係に始まって、心の育成などなど、今さらあえて説くまでも
ない。
が、ここでも、このライターは、言葉のトリックを使っている。
つぎの文章を、よく読んでほしい。

 「……長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女
の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢
字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する
傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が
勉強についていけるか心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早
期教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得
に及ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した」(AERAより)と。

 ある親は、ほかの子どもが、スラスラと漢字を書いている子どもを見て、ショックを受
けたという。

(5〜6歳の子どもが、5年生の漢字を書く?
しかし私は幼児教育を40年もしているが、そんな子どもを見たことがない!
本をスラスラと読む子どもはいたが、漢字を書いた子どもは知らない。
もし本当にいるとするなら、心に何らかの障害をもった子どもということになる。
その子どもがそうというわけではないが、たとえば自閉症の子どもは、ある特定のことが
らに、ふつうでない(こだわり)を示すことがある。
全国の駅名を暗記する、どんな音楽でも一小節を聞いただけで、曲名を当てる、など。
5歳児が、5年生の漢字を書くというのは、おおげさというか、きわめてマレなケース。)

 つまりそういうトンデモナイ例を引きながら、その一方で自分の原稿に権威付けをする
ため、大学の教授名を並べる。
いわく、「……すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得し
ている子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月に
は両者の差は消えてしまうということを指摘してきた」と。

 (この資料も、20年前の資料!)

●過熱する幼児教育?

 早期教育というと、文字教育と考える。
早計というか、無知。
無知というか、誤解。
あるいは偏見。
私も「文字」をテーマに、レッスンを進めることは多い。
しかし「文字を教えよう」という気持ちは、さらさらない。
先にも書いたように、「文字は楽しい」ということは、教える。
もっと言えば、子どもたちを、楽しませる。
「文字は楽しい」という思いが、良循環となって、その子どもを前向きに引っ張っていく。
それが幼児教育。
その重要性は、ここに改めて書くまでもない。

 それをさておいて、「子どもには、必要な栄養食品だけを与えておけばいい」
「料理は無駄」と。
さらに言えば、こんなことも言える。
「大学へ入っても、無駄。人生の結論は、死ぬときの死に際の様子で決まる」と。
どこかのカルト教団が、信者たちにさかんに説いている言葉である。
このライターの(おかしさ)は、その一点に集約される。

●不適切な指導

 このライターの意見によるまでもなく、不適切な指導で、伸びる芽すら摘まれていく子
どもは、多い。
たとえばここでは「読み書き」がひとつのテーマになっている。
実のところ私の二男もそうだった。

 私の二男は、生まれつき、左利き。
私たち夫婦は、自然の流れに任せた。
が、小学校へ入学して一変した。
学校の先生から、「文字は右手で書かせてください」と。
担任の先生が、書道の先生であったことも、災いした。

 毎晩、二男は泣きながらノートに漢字を書いていた。
鏡文字はもちろんのこと、書き順もめちゃめちゃ。
で、1年もたったころ、私は学校の先生に向かって、こう宣言した。
「息子は、左利きで通します。無理な指導は結構です」と。

 それに対して先生は、こう反論してきた。

「冷蔵庫でも、何でも、右利き用にできています。
不便を感ずるのは、あなたのお子さんですよ」と。

 が、さらに私は反論した。
「そんなことは、慣れれば何でもないことです!」と。

 そういう問題はある。
あるが、一方的に、「消滅するから無駄」という論法には、かなり強い違和感を覚える。

●針小棒大論

 受験塾の受験競争には、私も批判的。
擁護したことは、一度もない。
しかしそれは「学習」という面からではなく、「心の育成」という面から、問題にしてきた。
またそのような趣旨で、原稿を書いてきた。

 それをストレス説と結びつけて、「子どもの教育はストレスにつながる」と一方的に決め
つけている。
さらにいつの論文かは知らないが、「脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を
正当化する科学的根拠はないとしている」(お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子
どもの脳の発達臨界期・敏感期』)と。

 だったら、「野生児」の問題など、なかったはず!
ある時期、親子のふれあいのなかった子どもが、どうなるか?
野生児と呼ばれた子どもを知っていれば、こんな意見は出てこないはず。
「科学的根拠」というが、その研究は、今、始まったばかり。
「臨界期」という言葉が、再びクローズアップされてきたのは、ここ数年のこと。

 そこでこの本(『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)の発行年月日を調べてみたら、2
004年とわかった。
6年前!
現在は、廃刊になっている。
当時は「科学的に」は、無理だったかもしれない。
が、ここ数年の、脳科学の進歩には、著しいものがある。
脳の中の動きを、リアルタイムで観察することもできるようになった

 AERAという影響力の大きい雑誌だけに、こうした記事は、残念でならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 AERAへの異論、反論、オブジェクション)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【AERA記事への異論】

●反響(AERA・アエラの記事への反論)

+++++++++++++++++++++

数日前、雑誌「AERA」の記事に対して、
反論原稿を書いた。
その原稿にたいする反響には、ものすごい
ものがある。
直接的な意見はまだ届いていないが、「アラーム」
という機能を使うと、反響の大きさが、数字でわかる。
私の原稿を取り上げたBLOGやHPの数が、
そのまま、数字として、表示されるしくみになっている。

+++++++++++++++++++++

●「AERA」の記事

 「早期教育効果は小学生で消える」と題した、雑誌「AERA」の記事を要約すると、こうなる。

 早期教育の一例として、「読み書き」をあげ、幼児期に読み書きを教えても、その効果は小学
校で消える。
そればかりか、無理な学習が、子どもを勉強嫌いにしてしまう。
「臨界期」というのは、科学的に証明されたものではない。
むしろ家で、先取り教育をすると、子どもは学校での勉強をつまらなく思ってしまうようになる…
…などなど。

 その一例として、5〜6歳児が、小学5年生で学ぶ漢字を書いた子どもの例、高校へ入ったと
たん、無気力になってしまった子どもの例などが、書いてあった。

 その底流に見え隠れするのは、「塾必要悪論」、もしくは、「家庭教育不要論」。
結論は、「あわてて教育しても、無駄」と。

私はその記事を一読して、「これはいつの原稿か?」と、ライターの常識というよりは、年齢を
疑った。
今から25年ほど前の原稿というのなら、まだ話もわかる。
しかし今、どうしてこの時代に?

●親子のふれあい

 たまたま先月、私は、「ママターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)」
についての原稿を書いた。

マターナル・デプリベイションというのは、「乳幼児期の母子関係の不全」をいう。
乳幼児期に、母子関係が不全だったりすると、それが後々、さまざまな症状の遠因となること
がある。
その一部を、転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%はいる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●早期教育

 雑誌「AERA」では、「親子のふれあいこそ大切」と書いている。
しかしそんなことは、今では、常識。
常識中の常識。
が、それはここにも書いたように、「マターナル・デプリベイション」という分野で、考えられるべ
き問題。

が、どうしてそれが、「早期教育」と結びつくのか?
「早期教育不要論」と結びつくのか?

 要するにAERAのライターは、「無理な早期教育の結果、親子のふれあいが犠牲になる」と
言いたいのだろう。
が、ここでライターは、巧みに言葉のトリックを使っている。
(あるいは、「早期教育」の意味さえ、知らないのでは?
「先取り教育」と「早期教育」を混同している?)
何も文字の「読み書き」だけが、早期教育ではない。
また早期教育をしたからといって、親子関係が破壊されるというものでもない。

 AERAでは、無理に進学塾へ通わされた子どもの例や、目的の学校へ入学したとたん、無
気力になってしまった子どもの例などをあげている。
そしてその上で、「臨界期なるものは、科学的に証明されたものではない」と。

 ?????

 ライターは、自説を補強するため、20年前、40年前の資料を、(〜〜教授)などと実名を添
えて、並べている。
こうした手法は、多くのライターが使う。
自説に不安を感じたとき、権威者の名を借りて、それを補強する。
それにしても古すぎる!

 が、「臨界期」はある。
また臨界期をはずすと、人間は人間でなくなってしまうこともある。
その一例が、「野生児」である。
インドで1920年代に見つかったオオカミ姉妹にしても、同じころフランスで見つかった、ビクト
ールという少年にしても、それ以後、人間生活に復帰することはなかった。
言葉すら、覚えなかった。
人間らしい人間の心を取り戻すこともなかった。

 もっと簡単な例で言えば、小学校へ入学してから、音楽教育をほどこしても、そこそこの才能
を見せるようになることはあっても、そこまで。
あえて言うなら、「読み書き」(=国語能力)について言えば、親子のふれあいというよりは、母
親の言語能力が子どもに大きな影響を与える。
母親が、「ホラホラ、バスバス、ハンカチ、もった?」というような話し方を日常的にしていて、ど
うして子どもに国語力がつくというのか。
こういうとき母親は、子どもには、こう言う。

「もうすぐ、お迎えのバスが来ます。あなたはハンカチをもっていますか」と。
つまりこれが、わかりやすく言えば、「早期教育」である。

 AERAは、5〜6歳の子どもが、小学5年生で習う漢字を書いている例をあげている。が、私
は、40年近く幼児と接しているが、そんな子どもを見たことがない!
もしいるとしたら、自閉症(アスペルガー)の子どもということになる。
このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない(こだわり)をもつことがある。

●小学校で消失?

 「計算力」と「算数の力」は、別。
計算力は、訓練で身につく。
しかし算数の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。

 同じように、「読み書き」と「国語の力」は、別。
読み書きは、訓練で身につく。
しかし国語の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。
ともに「思考力」の問題ということになる。

 その「思考力」を養うのに、早すぎるということはない。
乳幼児期でも、早すぎるということはない。

 が、AERAは、(読み書き)を例にあげ、そうした力は、小学校で消失する、と。
だから「早期教育は不要」と。
バカバカしいというか(失礼!)、反論するのも、疲れる。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●ある母親からの相談

【Y県SD市のDさん(母親)より、はやし浩司へ】(一部改変)

こんにちは、はじめましてSD市に住んでいます、Dといいます。
相談するのは、小学5年生の長男についてです。
下に小3の二男と、1歳の三男がいます。

ずっとその長男について、悩んでいました。
親や友人に相談もしていたのですが、良くなることがなくどうしたらいいのかわからなくなってし
まいました。

先生のこのページを見てまさしく、ドラ息子に当てはまります。

まず、(1)に今年の先生から授業中手いたずらが多い、忘れ物が多い、机の中が汚い、みん
なで音楽の授業をしていても歌わないと指摘されました。去年の運動会でみんなで踊るのに踊
っていませんでした。それまではやって見せてくれていたの、何があったのかどうしたのかわか
りません。

(2)人の話が聞けない、自分の意見を上手く話せない。
(せっかちで人が話している間に割り込んでしまい最後まで聞けません。話すのも早口でよく冗
談でアナウンサーみたいと言うくらい、早口になってしまいます。)

(3)マジギャザに今はまっていて漫画もせりふなど覚えてしまうほど読んでいて、ゲームもマジ
ギャザ。ゲームやりたさに宿題は学校でやったと嘘をついていました。(もしかして嘘ついてる
かなとは思っていましたが信じようと思ってほっといたんです。先日、先生に言われ嘘とわかり
ました。)

(4)みんなといっしょのゲームができない。(負けず嫌いで負けると泣いたりやる気をなくしたり
する)良くないと思い、鍛えさせる様なつもりでボーリングに連れて行ったりするのですが、良い
方法に向かっているのかわかりません。

(5)小さい頃から絵を描くのが好きなんですが、この2年くらい家では描かなくなりました。わけ
を聞くと弟が下手だとか言うから。二男はよく絵を描いています。二男だけ褒めないように私も
主人も心がけているのですが。逆にうちで書いていた頃はよく褒めていたくらいです。

(6)食事中、毎回お茶碗を持ってと言わないといけない。(小学校の2年生くらいから犬食いに
なったり、持たなくなったりとして注意が始まりました。犬食いはなくなりましたが落ち着きがあ
りません。)

周りに関心がありません。みんなと同じようにというのができないのです。食事のマナーだった
り学校での歌や練習です。友達に言われたりして恥ずかしいとかそのうち思う年頃だと思うの
ですが、その気配がありません(鼻くそもほじります)幼いと主人や母が言います。

食事のときくらいしか子供とゆっくり話ができないので、テレビはいつもつけていません。学校
など話をしようとしても気が付くと、兄弟でマジギャザの話になってしまいがちです。主人は不規
則な仕事をしているため、ほとんどが私と子供たちの生活です。休みで主人がいるとあまりの
できなさに、説教の一日になってしまうこともしばしばあります。

三男が生まれる前は仕事もしていたりして、子育てと家事と仕事でつねにイライラしてました。
小さい頃からそんな私のイライラを子供たちにぶつけていた気がします。
長男は悪くないに私のせいで主人や学校の先生に責められています。どうしたらいいのか分
からなくなってしまいました。何からどうしたらいいのでしょうか? 教えてください。よろしくお願
い致します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Dさんへ】

 一読して、ウ〜ンと、うなってしまいました。
いくつかの問題が複合して重なり、それが長い時間をかけて、こじれてしまっている。
しかしもう小学5年生。
どこからどう話すべきか……。

(1)長男を、D君とします。 
あなたとD君のリズムは、D君を妊娠したときから、合っていない。
不安先行型、心配先行型、それに恐らく愛情問題(夫婦間の問題)などがあり、あなたはD君
をいつも否定的態度で育ててきました。
今もそれがつづいています。
あなたはD君を愛することができないでいる。
そういう自分をごまかすために、「問題はD君にある」と、問題の核心をすりかえてしまってい
る。
が、私はあなた自身に、問題があると思います。

 結婚当初の夫との不和もあったかもしれません。
家庭問題もあったかもしれません。
全幅にD君を、愛情でくるんで迎えたというよりは、何かのわだかまりやこだわりをその時点で
もってしまった。
それが今につづいているということです。
あなたはD君の悪い面ばかりが目につき、またそれを問題にして勝手に騒いでいる。
「勝手に」です。

D君にとって、今の家庭はさぞかし、居心地の悪い家庭でしょうね。
気楽にハナクソもほれない、気楽に食事もできない、テレビを見ることも、ゲームをすることも
できない。
私がD君なら、「うるさい!」「バカヤロー!」と叫んで、家を出ていくでしょうね。
あるいはそうなる可能性が高い。

(2)D君には、あなたの知らない、何かの情緒的問題(発達障害)があったものと思われます。
今は年齢的にそれが改善していると思われます。
本来なら、3〜5歳期に、発達相談センターのようなところで、相談すべきだったかもしれませ
ん。
情報が不足していますから、ここではこれ以上のことは書けません。
しかし相談していれば、何かの診断名がくだされていたはずです。
つまり本人の意思では、コントロールできない問題を、D君はもっていたということです。
いわんや親が説教したり、叱ったりしたくらいでは、なおるはずもない。
むしろそんなことを繰り返せば、症状はこじれてしまいます。

 それに気づかないまま、あるいはあえて目をそむけたまま、無理に無理を重ねてきた。
症状をこじらせてしまった。
メールを読んで、そんな印象をもちました。

(3)あなた自身の生まれ育った環境にも、問題があります。
あなたは「男の子」というものが、どういうものか、まったくわかっていない。
小学5年生にもなって、学校であったことを親に話す子どもは、いません。
(あるいはD君は、あなたとは話をしたくない。)
過干渉と過関心。
それが混然となって、あなたは自分が理想とする子どもに、D君を作ろうとしています。
もしあなたに自然な親像、あるいは「男子観」があれば、もう少し自然な子育てができるはずで
す。
つまりそれができないということは、あなた自身が生まれ育った環境に、問題があったというこ
とです。
たとえばあなたの父親が、権威主義的であったとか、あなたに男の兄弟がいなかったとか…
…。(これは私の推測です。)

(4)D君は、その一方で、愛情飢餓状態にあります。
二男との年齢差が小さいので、逆算するとD君が2歳前後のとき、二男が生まれたことになり
ます。
今の状態からすると、赤ちゃん返りもあったかもしれません。
あなたはD君の愛情飢餓に気づくこともないまま、「お兄ちゃんだから」と、上下意識でもって、
D君を抑え込んでしまった。
その可能性もあります。
だから今、思春期前夜の反抗期にかかり、無意識のうちにも、あなたの求める理想的な子ども
とは別の子どもを演じている。
「どうせ嫌われているのだから……」とです。
あなたにはD君のそんな悲しい声が聞こえないかもしれませんね。
おかしな親意識ばかりが強くて……。

 子どものウソを知ってどうなりますか。
どうしたいですか。
そんなウソが、どうして悪いのですか。
それともあなたは、そういうウソをついたことがないとでもいうのですか。
どうして笑ってすませないのですか。
言い替えると、自分の子育ての失敗を、子どもの責任にしてしまっている!

「子どもは家族の代表」と考えてください。
子どもに何か問題があったら、反省すべきは、まずあなた自身です。
自分のどこにどのような問題があったかを知る。
子どもというのは、あくまでも、「代表」、つまり「結果」です。

(5)問題はさらにこじれます。
今、あなたは「長男は最悪」と思っているかもしれません。
しかしこうした問題には、さらに二番底、三番底があります。
「まだ以前の状態のほうがよかった……」ということを、周期的に繰り返しながら、子どもは二
番底、三番底に落ちていきます。

 だから「直そう」と思わないこと、
「今の状態をこれ以上悪くしないことだけ」を考えて対処します。
ボーリングへときどき連れていったくらいで、性格が直るはずもないでしょう。
5年生ですよ。
「鍛える」とか、「鍛えない」とか、そういう問題ではありません。
0〜2歳まで、さんざん、甘やかしておいて、その結果、今の状態になり、あわてて「鍛える」?
はっきり言いますが、もう直りません。
あきらめなさい。
あきらめて、「うちの子は、こういう子」と居直りなさい。
そこを原点にして、D君をもう一度、見つめなおしてあげてください。
そしてあなたは、こう言うのです。

「あなたはよくがんばっているわね」と。

あとは『許して、忘れます』。
(「はやし浩司、許して 忘れる」で原稿を検索してみてください。)

 あなたが「何とかしよう」「何とかなってほしい」とがんばればがんばるほど、あなたに安穏た
る日々はやってこないでしょう。
あなたはそれでよいとしても、かわいそうなのは、D君です。
私はあなたより、D君のほうに同情してしまいます。
もしD君にその力があるなら、きっと逆に、私にこんな相談をしてくるでしょうね。

「ぼくのママは、うるさくてたまりません。
ゲームも自由にできません。
宿題をやったかと、毎日聞きます。
で、ウソを言いました。
が、それを先生から聞き、また説教です。
家に帰るたびに説教です。
おまけにいつもできのいい弟と比較され、『あんたはダメな子』と決めつけてきます。
やりたくもないボーリングをさせられ、何をしても、おもしろくありません。
歌も、踊りもへたです。
家族には、幼稚ぽいとよく言われます。
食事のときくらい、テレビを見たいです。
が、あれこれと勉強の話ばかり……。
ぼくはどうしたらいいでしょうか」と。

(6)あなたはイライラしていた……。
理由は何であれ、もしそこまで気がついているなら、「これが運命」と受け入れるしかないです
よ。
人間には無数の糸がからんでいます。
その糸が、ときとして自分を思わぬ方向へと導いていってしまうことがあります。
その運命ですが、逆らえば、キバをむいてあなたに襲いかかってきます。
しかし受け入れてしまえば、向こうからシッポを巻いて逃げていきます。

 私が今、あなたにできるアドバイスは、こうです。
運命を受け入れなさい、です。
あなたの子どもは、今、そこにいる子どもです。
これ以上、どうにもなりません。
あなたがもっている理想像など、クソ食らえと、捨てなさい。
(あるいはどんな子になれば、あなたは満足するのですか?)

「私のできが悪いから、子どものできも悪い」と、認めればよいのです。
気が楽になりますよ。
そしてここが重要ですが、あなたの気が楽になれば、D君もまた気が楽になるということです。
そのときD君の顔にも、笑顔が戻ってくるでしょう。

 たとえばゲームについても、頭から「悪いこと」と決めつけないで、たまにはあなたもいっしょ
にゲームをしてみたらよいのです。
攻略本がたくさん出ていますから、一冊くらい買ってきて、読みなさい。
子どもの世界に、あなたが入っていくのです。
そうすれば、子どものほうから心を開いてくれます。
よかったら、私の「BW公開教室」をのぞいてみてください。
(http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/より)

(7)D君が、幼児もしくは小学1〜2年生なら、別のアドバイスができたと思います。
しかし5年生です。
この時期はあっという間にすぎ、子どもはおとなになっていきます。
……というより、すでに半分、おとなです。
(おそらくあなたの異常な過関心と過干渉で、人格の核(コア)形成が遅れている可能性もあり
ます。幼稚ぽく見えるのは、そのためと考えてください。)

 あなたのできることは、もうほとんどないということです。
もしあるとすれば、先にも書いたように、D君をそういう子どもと認め(=人格を認め)、そこを
原点として再出発することくらいです。

 この先、とくに親子の絆づくりが大切なときがやってきます。
ここでキレツを入れると、そのまま「断絶」ということにもなりかねません。
もしそうなったら、それこそ家庭教育の大失敗ということになります。
それだけは避けてください。

 そのためにも、D君を信ずる。
信ずるということは、疑わないということです。
これはあなた自身との闘いです。
今のあなたにはたいへんむずかしいことかもしれませんが、……というのも、すでに10年以上
も確執がつづいていますから……、がんばってするしかないでしょう。

 よい面を見たら、ほめる。
よい面だけをさがして、それをほめる。
それを繰り返してください。
アラさがしは、タブーですよ!

歌や踊りのことは、先生に任せておけばよいでしょう。
あなたまでカリカリしてはいけません。
D君はますます行き場をなくし、やがて非行(二番底)へと進むかもしれません。

 ずいぶんときびしいことを書きましたが、参考にしてください。
今がまさに正念場です。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●携帯電話症候群

 短い言葉で、グサリと相手を突き刺す。
若い人たちの間で、そんな言い方がふえている。
たとえば私のBLOGや、YOUTUBEへのコメントでも、そうした言い方が目立つ。
今日も、あった。
「ケチとため込み屋」について書いたBLOGに、たった一言、こうあった。
「だれのこと?」と。

 いろいろなふうに解釈できる。
なぞかけ言葉のようですらある。
投稿者は、Jxxxx310とあった。
そこで「Jxxxx310」を、検索してみると、あるロックグループ
の1人ということがわかった。

(こういうところもインターネットのすごいところ。
本人は匿名を使い、自分がだれかわからないようにしているつもりらしい。
しかし同じ匿名をあちこちで使えば、どこかでその人物とつながっていく。
それをたどれば、その人物と特定できてしまう。)

 少し前は、こんなのもあった。
「人生」について書いた原稿に対して、「ごちそう様」と。

 ほかにもいろいろある。
しかし全体として、文章になっていない。
あるいはまともな文章が書けない?
時間がない?
めんどう?
それはわかるが、この先、こうした傾向は強くなることはあっても、弱くなることはない。
私はこうした現象を、「携帯電話症候群」と呼んでいる。
(携帯電話だけが原因とは特定できないが・・・。)
携帯電話でメールをやり取りするときは、できるだけ短文でそれをする。
言葉を縮めることもある。

が、相手と気心が通じているときは、それでよい。
そうでないときは、そうでない。
読んだほうはそのときの自分の気持ちで、それを読む。
たとえば「気取りバカ!」というコメントがあったとする。
相手がわかっていれば、まだよい。
それがわからないと、不気味ささえ覚える。

 さて冒頭に書いた「だれのこと?」。
「お前は自分のことをかいているんじゃないの?」とも解釈できる。
あるいは「勝手にオレのことを書きやがって!」とも解釈できる。
Jxxxx310という人は、自分のことを書かれたと思ったのかもしれない。
しかし私は、もちろんその人物とは一面識もない。
それを確認したあと、そのコメントは、削除した。
つまりその前の段階では、「ひょっとしたら知人のだれかを、傷つけてしまった
かもしれない」と思った。
もしそうなら、謝罪しなければならない。
(謝罪と言うより、弁解?)
「ここに書いた人は、あなたのことではありません。
誤解です」と。

・・・ということで、日本語が、ベーシックな部分で、大きく変化しつつある。
それがよいことかどうかという議論をしても、意味はない。
言葉というのは、その時代、時代の人たちが創りあげていく。
変化していく。
携帯電話症候群というのも、この先、いろいろな形で、日本の社会を変えていくだろう。
日本語の変化は、その一部にすぎない。

●温泉論

 このところ温泉に入る機会がふえた。
月に2、3回は、どこかの温泉に一泊するようにしている。
気分転換というより、ボケ防止策。
これも老人現象(老化現象ではなく、「老人現象」)。
若いころは、「温泉」と聞いただけで、どこかジジ臭く感じた。
が、今は、それが楽しみ。

 宿を選ぶ。
それが楽しい。
宿に向かう。
それも楽しい。
もちろん温泉につかるのも、楽しい。

 で、その温泉に行くたびにこう思う。
「もっと若い人たちが来られるようにするには、どうしたらいいか」と。
いらぬ節介だが、今は、どこへ行っても老人ばかり。
が、これでは温泉に明日はない。

 そこでワイフに相談すると、(相談するような話でもないが)、ワイフはこう言った。
「若い人たちは遊ぶのが目的だから、近くに遊ぶところがあればいいわね」と。
つまり旅館やホテルに泊まるのは、あくまでも手段であって、目的ではない、と。

 ナルホド!

 私にとっては、旅館は、泊まるのが目的。
ホテルであっても、あえて和室を求める。
たいていどこの旅館にも洋室と和室が用意してある。
和室のほうが割高になっている。
が、洋室では、どうも落ち着かない。
ゴロンと横になって・・・ということができない。
だから和室を選ぶ。

 となると、これからの旅館やホテルは、年配者を念頭において、経営を
考えたほうがよい。
(すでにそうしているのだろうが・・・。)
少し前、寸又峡(すまたきょう)にある、旅館に泊まった。
NHKのハイビジョン放送でも紹介されたことのある由緒ある旅館だった。
その旅館のばあい、一室が昭和20年代の博物館のようになっていた。
私はそれを見て、たまらないほどの懐かしさを覚えた。
そういった配慮は、これから先、もっと必要になるかもしれない。

・・・ということで、今日も始まった
10月6日、午前6時18分。
昨夜遅くこの山荘にやってきた。
中部電力の担当者と、会う約束になっている。
このところ電線がサルの遊び場になっている。
その対策を話し合う。

Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【11次元の世界】

●超次元

++++++++++++++++++

昨夜、山荘へ来る前、コンビニで、
「本当は怖い宇宙」という本を買った
(イースト・プレス・堀江純監修)。
1時間ほどかけ、一気に読んだ。
おもしろかった。
その本を読み終えたとき、どういうわけか、
孫の誠司を思い出した。

+++++++++++++++++

●誠司

 私のHPや、BW教室のコマーシャルに、孫の誠司の写真を使っている。
HPを開いたころ、誠司が生まれた。
それまでも遊びであれこれしていたが、誠司の誕生がきっかけになった。
当初は、誠司の写真集(アルバム)のようなものにするつもりだった。

 その誠司の父親、つまり私の二男は、現在、インディアナ州にある、
インディアナ州立大学で、コンピューターの技師をしている。
何やらたいへんなことをしているらしい。

●CERN

 ヨーロッパ(スイス)に、欧州原子核研究所(CERN)というのがある。
2008年9月に運転を開始したCERNの、「大型ハドロン衝突型加速器(LHC)」
は、周囲が27キロにもなる世界最大の粒子加速器という。

 二男はそこから出てくるデータをコンピューターで処理している。
が、何しろその量が膨大らしい。
「大型スパコンでも、どうしようもない」(二男)と。
そこで二男は、何人かの技術者と協力し、全世界の数十万台にもおよぶ
中型コンピューターをつないで、その処理を行っている。
つまりそのソフト開発に携わっている。

 どうしてスイスのCERNのデータを、アメリカで?、と思う人も
多いかもしれない。
私もそう思った。
が、二男は、こう教えてくれた。
「今ではそうしたデータは、すべて通信衛星を介して、リアルタイムに、
インディアナ大学に届くようになっている」と。
仲間の技術者にしても、ニューヨークとラスベガスに住んでいる、とも。
「不便はないのか?」と聞くと、「テレビ電話で仕事をしているよ」と。

 インディアナ州立大学といっても、端から端まで車で2時間もかかるという。
日本人の私たちには、想像もつかない、広大なキャンパスを誇る。

●ブラックホール

 話は少し飛躍するが、CERNでは、ブラックホールを作り出すことも可能
という。
「きわめて小さなブラックホールだから、問題はない」ということらしいが、
「へたをすれば、そのままこの地球のみならず、太陽系がそのまま消滅して
しまうかもしれない」と、警告を発している科学者もいる。
瞬時にブラックホールに飲み込まれてしまうから、私たちがそれに気づくことはない。
パッと消える・・・というより、その「パッ」もわからないまま、地球もろとも
消滅する。
考えてみれば、これほど恐ろしい話はない。

●異次元の世界 

 私たちは、(縦)x(横)x(高さ)、それに(時間)を加えて4次元
の世界に住んでいる。
しかし科学の世界では、すでに10次元まで解明されている。
残りの6次元は、10の33乗分の1センチという小さな世界に閉じ込められて
いる。
現在では、それに「超重力」を加えて、11次元まで考えられているという。
が、ここからがおもしろいところ。

 たまたま私たちは4次元の世界に住んでいるが、どうしてこの4次元だけが
表に出てきたのか、本当のところは謎なのだそうだ(上述、同書)。
そこで素人ながら、いろいろ考えてみる。

●模擬・異次元の世界

 たとえば目を閉じてみよう。
すると前に見える景色は消え、光も消える。
(実際にはまぶたの裏の模様が見えているが・・・。)
とたん、3次元の世界(縦x横x高さ)は、手探りの世界ということになる。

 が、それに代わって脳みその世界が、そこに現れる。
この時点で、もし私たちが脳みその中にある記憶を自由に選択、見たり
聞いたりすることができたとする。
すると少なくとも私たちは時間の世界を、自由に遊飛することができることになる、

 未来へ行くことは無理かもしれないが、過去へは自由に行ける。
それに脳みその世界には、3次元は存在しない。
長さという概念そのものもない。
空間も無限に広い(?)。

 もちろんこれは私という素人が考えた、模擬的異次元の世界である。
が、目を開くと、再びそこに四次元の世界が広がっている。
当たり前に見える世界かもしれないが、けっして当たり前でない。
だから「謎」というになる。

●「本当は怖い宇宙」

 宇宙はいつごろ、どのようにして誕生したか?
「宇宙への旅」(同書)によれば、こういうことらしい。

「10の44乗分の1秒後〜10の34乗分の1秒後というごくわずかな
時間で、インフレーションと呼ばれる激しい膨張が発生した。
インフレーションにより、10の34乗分の1センチメートルという極小の
宇宙は、一気に10の100乗倍にふくらんだ」と。

 私たちがよく口にする「ビッグバン」は、そのあとに起こった。

「宇宙誕生から10の34乗分の1秒後にビッグバンが起こり、真空エネルギー
が熱エネルギーに変換された。
宇宙は超高温、超高密度の火の玉のような状態になった。
それがどんどんと膨張していき、それとともに密度が希薄になり、温度が
さがっていった。
そして現在のような状態になった」と。

 ではビッグバンを起こしたエネルギーはどこから来たのか?
それについては、こうある。

「当時の宇宙は、温相の真空と呼ばれる状態で、真空エネルギーに満ちていた。
それがインフレーションを発生させたと考えられている」と。
それが今から137億年前に起きた。

●素粒子

 物質を構成する最小の単位を、「素粒子」という。
現在素粒子は、数10種類が発見されている。
が、ここで素粒子を「大きさのない点」と考えると、矛盾が生じてくる。
大きさがないとなると、重量は無限大ということになってしまう。
コーヒーに入れる角砂糖を、無限に小さくしてみたばあいを考えて
みればよい。
無限に小さくすればするほど、反対に質量は無限に大きくなることになる。

 そこで考えられたのが、「ひも理論」。
素粒子にも大きさがあると考え、しかも「点」ではないと考えるようになった。
結果、素粒子はひものようなもの・・・ということになった。
「ひも理論」が生まれた。

 ただ素粒子の大きさは、10の33乗分の1センチ。
直接その形を見ることは不可能。

・・・というようなことを、CERNでは研究している。

●さらに・・・

 先ほど4次元の世界(私たちが現在住んでいる世界)について書いた。
が、科学の世界では、11次元の世界まで考えられている。

 そこでさらにこの考えを推し進めていくと、こうなるのだそうだ。

 つまり4次元の世界を、一枚の膜にたとえると、5次元以降の世界は
その膜の向こう(裏でもよいが)にあることになる。
これを「余剰次元」というのだそうだ。

 こうして考えていくと、こんどはさらに、その向こうに私たちが住む
世界と同じ、4次元の世界があるということになる。
私なりに頭の中を整理してみると、こうなる。

(4次元の世界)→(5次元以降の世界)→(4次元の世界)→・・・と。

 わかりやすく言うと、この世界だけがゆいいつの世界ではなく、別の世界が、
それこそ無限の数だけ、その向こうにあることになる。
そうした世界を、「パラレルワールド」という。

(いよいよおもしろくなってきた!)

 つまり私たちが現在目にしているこの世界(大宇宙でもよいが)は、
一枚の「膜」の上の世界にすぎない。
その膜の向こうに、目には見えないが、5次元以降の世界が隠されている。
さらにその向こうには、別の4次元の世界が隠されている。
それが延々と、無限につづいている。

 ハア〜〜?、と思ったのは、私だけではないと思う。
しかし今、どうやらそのあたりが、「科学的には常識的な世界」ということになる。
言い換えると、「無知」という点では、人間も、そこらにいるサルも、それほど
そんなにちがわないということ。

(このあたりには、サルの集団が群れを作って住んでいる!)

●終わりに・・・

 朝日が東の山から顔を出してきた。
ワイフは、まだ床の中。
私は、窓の外に見える山々の景色を見ている。

 いつか遠い未来ではなく、20年後とか30年後には、11次元の世界が
どんなものであるか、直接人類は体験することができるようになるかもしれない。
その研究は、着々と進んでいる。
恐らく二男は、私よりはるかにその世界に近いところにいて、日々に感動し
驚いているにちがいない。
ただ残念なのは、先日も二男がこう言ったことだ。

 私が「日本ではそういう研究はできないのか?」と聞いたときのこと。
二男はあっさりと、こう言った。
「東京に、ぼくの職場はない」と。

 現在、世界のコンピューターをつなぐ方式は、アメリカ方式とヨーロッパ
方式に分かれている。
それぞれ別の固有名詞で呼ばれている。
二男はその2つの方式をひとつにまとめるソフトを開発している。
「何やら、とんでもないことをしているらしい」(二男に会ってきた三男の話)。

 本来なら日本がその分野のリーダーとして君臨していても、おかしくない。
「遅れた」というより、日本はすでに世界から相手にされていない。
そういう印象を、私はもった。

●誠司

 誠司の写真は、私のHPのあちこちに飾ってある。
全体として、誠司のアルバムのようになっている。
今度誠司の写真を見たら、どうかその向こうに、CERNの技術者として
働いている二男の姿を想像してみてほしい。

 遠く離れて住んでいるので、私としてはさみしいが、そういう仕事をしているのなら、
あきらめもつく。
ここはただひたすらエールを送るしかない。
日本のためというより、人類全体のため。
がんばれ!
宗市!

(以上、参考文献:「本当は怖い宇宙」イースト・プレス(福江純監修)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 CERN 欧州原子核研究所(CERN) 大型ハドロン衝突型加速器(LHC) 林誠
司 林 誠司 林宗市 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
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OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


【思春期の自我形成について】……http://www.youtube.com/watch?v=7_dn7Hiq14I


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【山荘売ります・山荘の紹介】……http://www.youtube.com/watch?v=eLXmjouJjJ4


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Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

【湯谷(ゆや)温泉・湯谷観光ホテル泉山閣(せんざんかく)に一泊】

+++++++++++++++++++

今日は、湯谷温泉に一泊。
浜松市内から、約45キロ。
車で1時間半と少し。
愛知県と静岡県の県境にある。

以前、電車で来たことがある。
そのときの印象があまりよくなかった。
そのこともあって、期待半分、
心配半分。

しかし来てみて、よかった!
すばらしかった!
泊まった旅館は、「湯谷観光ホテル泉山閣」。
建物は古いが、あちこちがしっかりと
補修してあった。

+++++++++++++++++++

●湯谷温泉(ゆやおんせん)

 自分に合った温泉をさがすのは、むずかしい。
自分に合った温泉に出会うのは、さらにむずかしい。
が、この温泉は、鍵と鍵穴がしっかりと合うように、私の心に合った。
うれしかった。
ホテルのロビーへ入ったとたん、ガチリと、それがわかった。

 私は長良川という川のほとりで、生まれ育った。
実家は田舎の街中にあったが、春夏秋冬、休みになると、母の郷里で過ごした。
現在は関市に編入されている。
岐阜県関市板取村である。
その実家の前を、日本一の清流と言われている板取川(長良川の支流)が流れている。
つまり私は生まれも、育ちも「川・人間」。
川のほとりにある旅館・・・ということで、私の心をしっかりと捉えた。

●板敷川(いたじきがわ)

 貸し切りの露天風呂が3つ。
24時間入れる中浴場(湯船が2つ)。
窓の外には、通称「板敷川(いたしきがわ)」という川が流れている。
まるで板のような、平らな岩盤が、連なって川底を作っている。

正式の名前は、「宇連川(うれがわ)」。
愛知県を流れる豊川(とよがわ)の支流である。
窓の外は全面、緑の山々。
手前に赤茶色の岩々にはさまれて、コバルトブルー色の川が流れている。
旅館に着くと、私とワイフは、すぐ貸し切りの露天風呂へと入った。
目の下すぐを、板式川が流れていた。
おまけに、カワセミ!
セキレイ!
オシドリ(?)らしき鳥。
カワセミを見るのは、40年ぶり。

 ワーッと声をあげたくなるほど、その景色が心になじんだ。
星はもちろん5つ星の、★★★★★。

(ただし、この評価は、きわめて個人的なもの。
客観的な評価とは言いがたい。
ワイフなどは、浜松生まれの浜松育ち。
「川」には縁のない世界で生きてきた。
だからワイフは、こう言った。
「私はあなたほどではないわ・・・」と。)

●泉山閣(せんざんかく)

 今年だけでも、いろいろな旅館やホテルに泊まった。
西浦温泉の銀波荘を皮切りに、三河湾沿いの温泉地に、4か所、泊まった。
その間に、伊良湖岬、浜名湖周辺の旅館やホテルにも泊まった。
伊豆の旅館にもいくつか泊まった。
熱川、伊東、下田……。

 どこもよかった。
しかしこの泉山閣は、格別。
先ほども書いたが、建物は、古い。
部屋も7〜8畳。
補修、改修のあとが、あちこちに残っている。
それが何とも言えない懐かしさというか、独特の風情をかもし出している。

子どものころ、泊まった母の実家。
学生のころ、寝泊りした金沢の下宿。

 旅館やホテルは、建物では決まらない。
サービスのよさでも決まらない。
料理も大切だが、それ以上に重要なのは、心が休まるかどうか。
ほっとするような温もりを覚えるかどうか。
それで決まる。

 私は久々に・・・というか、今年はじめて、この泉山閣に泊まって、
その温もりを覚えた。
(これも私という人間の、きわめて個人的な評価。)

●本気

 旅館やホテルを選ぶとき、最近の私たちはインターネットを使う。
そのこともあって、ハズレが、ほとんどない。
というのも、旅館やホテルのよさは、本気度で決まる。
つまりやる気プラス、活気。
本気度のある旅館やホテルは、泊まっても楽しい。

 で、インターネットに顔を出してくるような旅館やホテルは、それだけ
本気ということになる。
もともとやる気のない旅館やホテルは、世の中の流れに、疎(うと)い。
疎いから、あとは悪循環の中で、評判を落としていく。
一方、やる気のある旅館やホテルは、前向き。
それが両者の「差」を広げていく。

 ただ全国的に、日本の旅館やホテルは、元気がない。
若い人たちを中心に、余暇の過ごし方が大きく変化してきた。
加えて今では、日本のどこかに泊まるよりも、外国に泊まったほうが、
安くあがる。
時代が、変わった。

●ぜいたく

 ところで団塊の世代は、粗雑にできている。
たくましく、荒波にも強い。
そのせいか、「ぜいたく」という言葉に、ある種の抵抗感を覚える。
ぜいたくをするたびに、罪悪感を覚えることもある。
あるいはぜいたくをしている人を見ると、怒りを覚えることもある。
私の息子たちが、そうだった。

 いつだったか、息子たちがスキーに出かけたときのこと。
息子たちは手ぶらで出かけ、手ぶらで帰ってきた。
そこで私が「荷物は?」と聞くと、「宅配便で送った」と。

 これには驚いた。
とたん怒りが、充満した。
「何という、ぜいたくなことを!」と。

 もっともあとになって友人に聞くと、その友人は、こう言った。
「最近の若い人たちはみなそうだよ」と
それを聞き、半分、安心し、半分、あきれた。
私たちの年代の人間は、そういう人間である。

●夕食

 夕食は6時からだった。
会席料理。
石狩鍋に、鮎の塩焼き・・・などなど。
私はこういうところへ来ると、いつも食べ過ぎてしまう。
で、たぶん明日も、1〜2キロ、体重オーバー。

 自分でもバカだと思う。
「食べなければ損なのか、それとも食べたら損(そこ)ねるのか」と問いつつ、
結局は食べてしまう。
前頭連合野の理性の力が弱い。
誘惑に弱い。
欲望のまま生きている。
こういうところへ来ると、それがよくわかる。

●女 

 もうひとつこうした温泉へ来ると、変わった経験をする。
それはワイフが、「女」に見えること。
ふだんは空気のような存在で、まるで女を感じない。
が、こうした温泉では、ワイフが「女」に見える。
ときどき「お前も女だったんだな」と言うことがある。

 そういう意味でも、つまり夫婦円満のためにも、温泉に泊まることは
よいことだ。・・・と思う。

 私たち夫婦は、仲がよいのか、悪いのか、よくわからない。
周期的に喧嘩し、1、2日もすると、またもとに戻る。
たいていは私が家を飛び出す。
これを毎月のように繰り返している。

●団塊の世代

 つまり私たちの世代は、豪華すぎても落ち着かない。
しかし貧弱すぎてもいけない。
ほどほどというか、その許容範囲が割りと狭い。
だからといって泉山閣がどうこうと書いているのではない。
由緒ある旅館であることには、ちがいない。
館内のあちこちに、伝統の重みをズシリと感ずる。
また、チェックインすると同時に、女将自身が、緑茶を立ててくれた。
廊下の角には、生け花がしつらえてあった。
そういった小さな心づかいが、うれしい。

 だから・・・。
「川」に縁の深い人。
こぢんまりとした旅館で、のんびりしたい人。
おいしい料理を食べたい人。
貸し切りの露天風呂につかりたい人。
そして浜松市、豊橋市周辺の人。
プラス団塊の世代前後の人。

 こんな近くに、こんなすばらしい旅館があることを再認識してみたら、
どうだろうか。
私たちは夏も終わり、紅葉の季節にはまだという、言うなればシーズン
オフに、泉山閣に泊まった。
ぞれぞれの季節に泊まれば、もっとすばらしいかもしれない。

●尖閣諸島

 ところで今朝、私は「11次元」について書いた。
そのとき、別の心でこう思った。
まったく話が変わるが、許してほしい。
こうした旅行先では、脳みそがどうしてもハイになる。
そのためつぎからつぎへといろいろな思いが、脳みその表面に飛来しては消える。

 で、この宇宙には、中田島砂丘にある砂粒の数以上の、銀河がある。星ではない。
銀河である。
それぞれの銀河に、やはり中田島砂丘の砂粒以上の星がある。
地球は星ではない。
太陽くらいになって、はじめて「星」と呼ばれる。

 そうした星々が、大宇宙に散らばっている。
この地球は、その大宇宙の中では、チリにもならないチリ。
そのチリの一角で、これまたチリのような島の領有権を争って、
日本と中国が対立している。

 考えてみれば、これほど愚かな対立はない。
しかも、だ。
もし大きな彗星、もしくは隕石が地球に衝突したら、最後。
一瞬にして、人間どころか、あらゆる生物が蒸発する。
そういう可能性がないわけではない。
ないというより、いつそういう衝突が起きてもおかしくない。

 よく地球に向かってくる隕石を核兵器で爆破するというような映画がある。
しかし実際には、不可能。
隕石の大きさ、種類、速度にもよる。
とくに種類が問題。
ガスのような状態の隕石もあれば、鉄の塊(かたまり)のような隕石もある。
地球から遠くで捉えて、進む方向を変えるというのが、もっとも実現性
の高い方法ということになる。

 しかし中には自らガスを噴き出しながら、回転したり、方向を変えたり
するのもある。
つまり今、私たち人類が、かろうじて無事でいられるのは、偶然中の偶然に
過ぎない。
アインシュタインの言葉を借りるなら、奇跡中の奇跡。
どうしてそういう事実を前に、「尖閣諸島」?

●「11次元」(2)

 現在、超重力の世界も含めると、11次元の世界まで考えられるという。
そのうちのたまたま4つの次元が、現在私たちが住んでいる、この世界
ということになる。

 11次元(実際には、もっとあるかもしれない)のうち、別の次元で
構成された宇宙もあるかもしれない。
あるいは線だけの世界(2次元)、さらには時間が止まったままの世界
(3次元)なども考えられる。
さらに時間が逆行する世界も考えられる。
人間のような知的生物がすめる環境かどうかは別として、11次元すべてを
含む世界も考えられる。

 この宇宙も、実に多様性をもった世界ということになる。
しかも、だ。
そうした宇宙が、無限大のその無限大の数だけある(?)。
数に限りをつけるほうが、おかしい。
そうした宇宙が、あちこちで現れては消える。
あたかもバブルのように・・・。

 書き忘れたが、この大宇宙もやがて消滅する。
すべての星々は燃え尽き、素粒子さえも分解して消える。
「無」から生まれた大宇宙は、再び「無」に戻る。

●現実の世界

 その一方で、私たちは光と分子の織りなす世界で、それだけがすべてと
思い込んで生きている。
その姿は、水槽の中で生きている熱帯魚のようなもの。
熱帯魚が宇宙の存在を知ることがないように、人間もまた宇宙の存在を
知ることはない。
ごく一部の人たちを除いて・・・。

 で、問題は、どうすればそのごく一部の人たちの仲間になれるかということ。
せっかくこの世に生まれたのだから、それを知りたい。
知るだけでよい。
自分が科学者になりたいとか、そういうことではない。
その時間もないし、脳みその働きも、かなり鈍ってきた。
「今さら・・・」という気持ちのほうが、先に立ってしまう。
今さら、自分で新しいことを知るのは無理。

 ワイフと2人で、ロビーの外の景色を見ながら、そんなことを考えた。

●旅行

 旅行の話をつづける。

 実のところ、私は若いときは、ほとんど旅行などしなかった。
息子たちをゾロゾロと連れて歩くだけで、疲れてしまった。
それによく偏頭痛に悩まされた。
この病気は、「さあ、今日から休みだ」というその日の朝に、よく発病した。
やっかいで、うとましい病気だった。
が、今はすばらしい薬がある。
それに前兆現象をうまく捉えることができるようになった。
その段階で、薬を調整してのむ。

 で、今になってこう思う。
「もっと旅行をしておけばよかった」と。

 ただ外国旅行は苦手。
飛行機事故にあってからは、回数がぐんと減った。
それまでは毎週のように、世界中を飛び回っていた。
飛行機には乗れるが、行った先で不眠症になってしまう。
それがつらい。

●露天風呂

 夕食後、しばらくしてからまた露天風呂に入ってきた。
夜の川は幻想的。
川の中州が、旅館の光を反射して、白く光っていた。
石英か何か、そういった種類の石が多いのだろう。

 それをぼんやりと見ながら、再び、「ここはいいところだ」とワイフに言った。
川海苔の匂い。
冷気を含んだ、湿った風。
それに森の匂いがブレンドされ、湯から出た体を包む。
遠い昔、つまり子どものころ。
私は子どもながらに、川の中で温泉に入ることを想像した。
どこかにそういう温泉があると、たぶん、祖父か祖母から聞いた。
それでそう思った?

 その夢が、今日、実現した。

●おやすみ
 
 ワイフは今、寝支度をしている。
私も眠い。
今朝は、午前9時半に人と会う約束。
それはすぐ終わったが、そのあと日課プラス、仕事もろもろ。
いつもは午後の1時前後に昼寝をするが、それができなかった。

 そうそうGOOD NEWS!

 長男が断煙している。
今日でもう6日目になる。
長男がタバコを吸い始める前まで、私は禁煙運動を積極的にしていた。
が、長男がタバコを吸っていると知り、それをやめた。
以来、若い人たちがタバコを吸っているのを見かけると、個別に、説教を
繰り返してきた。

 10年ほど前、肺がんで友人が死んだ。
若いときからかなりのヘビースモーカーで、それが原因と言っても、だれも
疑わなかった。
その友人はまさに地獄の苦しみを味わった。
奥さんの話では、それが2年以上もつづいた。
肺を切ったときには、1リットル近い、タールのような血が出たという。
その話を、若い人たちにいつもする。

 もし長男がタバコをやめたら、こんなすばらしいNEWSはない。
久々に、胸の中がスカッとした。
また禁煙運動を再開できる。

 では、今日もおしまい。
忙しい一日だった。
明日もがんばろう。
なお大浴場は、24時間、入れるとか。
夜中に目が覚めたら、入ってみよう。
いや、その前に、(つまりこれから)、睡眠導入剤をのもう。
今夜はぐっすりと眠れそう。

 みなさん、おやすみ。

●鳶(とんび)の餌付け

 泉山閣の名物(?)は、「トンビの餌付け」。
毎朝、8時40分に、ホテルの従業員の人が、ベランダから空を舞うトンビに
餌をまく。
餌は、鳥の皮。
豊橋の養鶏場から冷凍で届けてもらった鳥の皮を、トンビにめがけて投げる。
それをトンビが競って食べる。

 なお、「鳶(とび)」と書くが、このあたりでも、「トンビ」という。
従業員の人が、「昔、三橋道也という歌手が、『♪・・・トンビがクルリと
輪を描いた・・・」と歌いましてね」と話してくれた。

【泉山閣のYOUTUBE ビデオ】

http://www.youtube.com/watch?v=HyVmqmYd60E


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v/HyVmqmYd60E?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 湯谷(ゆや)温泉・湯谷観光ホテル泉山閣(せんざんかく) 泉山閣
湯谷温泉 愛知県)


Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)

【宇宙人の尻尾】
ピラミッドの体積比は、惑星の体積比と一致する?


++++++++++++++++++


もしこれが事実とするならば、かつ、
事実と証明できたならば、私は確実に、
宇宙人の尻尾(シッポ)をつかんだことに
なる。
しかも数学的に、動かぬ証拠として。


もし、これが事実と証明できたならば、
「宇宙人は存在する」と断言できることになる。


+++++++++++++++++++


●じれったい!


 今、私はこの原稿を、教室の中で書いている。
が、このパソコンは、インターネットとつながっていない。
つながっていないから、データを集めることができない。
つながっているなら、今すぐ、データを集めることができる。
データを集めて、計算に入ることができる。
しかしそれができない。
この歯がゆさ。
このじれったさ。


 ・・・ということで、今夜は徹夜になりそう。
家に帰ったら、徹底的に調べる。
たいした作業ではない。
データさえ集まれば、残るのは、簡単な計算だけ。
それで宇宙人の存在を、数学的に証明できる。


●謎のピラミッド


 エジプトには、多くのピラミッドが並んでいる。
大きさも高さも、まちまち。
位置については、いろいろな研究がなされている。
天空の星座の位置に合わせて、建造されたと言われている。


 だれが、どのようにして建造したかについては、いろいろな説がある。
しかしここでは、それは問題ではない。
問題は、その大きさ。
体積。
その体積が、太陽系の他の惑星の体積と比例するという。
それを書いた本が、今、手元にはないので、(家にはある)、ここではその
道筋だけを書く。
今夜の作業の「道筋」ということになる。


●ピラミッドと惑星


 その前に、まずピラミッドの体積を計算する。
ピラミッドは、四角錐の形をしている。
(底面積)x(高さ)÷3で、体積は計算できる。


たまたま手元に、クフ王のピラミッドのデータがある(教育出版「中学数学3」)。
それによれば、「底面の1辺の長さは、約230メートル、高さは約146
メートルとある。


 このデータをもとに計算すると、クフ王のピラミッドの体積は、
230x230x146÷3=257466立方メートル。
有効数字を、上3桁とすると、257000立方メートルということになる。
残念ながら、ほかのピラミッドについてのデータは、ここにはない。
ないので、ここにはこれ以上のことは、書けない。
しかしインターネットで調べれば、瞬時に検索できる


 一方、太陽系の惑星は、すでにその体積がわかっている。
体積がわからなくても、半径がわかれば、それを使って計算できる。
球体の体積は、つぎの計算式で求めることができる。


4x(Π)x(半径)(半径)(半径)÷3
(ワード文書として式を書くと、このようになる。)
あるいは半径がわかれば、その長さの比を3乗すれば、そのまま体積比になる。


●その前に


 今夜の作業の前に、ここで確認しておきたい。
つまりいくら古代エジプト人が、天文学にすぐれた知識をもっていたとしても、
惑星の大きさまでは、知るはずがない。
知る方法も、ない。
目で見る「見かけの大きさ(=体積)」ほど、あてにならない。
近距離にあるものほど、大きく見える。
遠距離にあるものほど、小さく見える。
第一、火星にせよ、木星にせよ、見かけの大きさすら、調べる方法はない。
小さく光っている光体の大きさを、どうやって調べるのか。
木星は火星と比べても、比較にならないほど大きい。
しかし地球で見るかぎり、同じ大きさに見える。


さらに軌道がわかったとしても、それで大きさが計算できるわけではない。
今度は密度の問題がからんでくる。


 が、もしそれぞれの惑星と、ピラミッドの体積の比が一致したとなると、
これはたいへんなことになる。
どの惑星とどのピラミッドを対比させるかという問題もあるが、おそらく
ピラミッドの並び方も、惑星と同じはず。
もし、ピラミッドの大きさを、惑星の体積の比に応じて決めたとしたら、
当然位置関係も、惑星と同じにしたはず。
そこまで知っていた古代エジプト人が、ピラミッドをバラバラに配置するはずがない。
何らかの関連性をもたせて、配置するはず。


 つまりまだこの段階では、ここに書いたことは仮説でしかない。
が、もしここに書いたことが事実と証明されたら、繰り返すが、これは
たいへんなことになる。
・・・想像するだけでも、ゾクゾクしてくる。
「鳥肌が立つ」というのは、今の私のような状態を言うのか。


 古代ピラミッドを建造した人類は、惑星の体積を知り尽くしただれか、
つまり宇宙人の指導のもとにそれらを建造した。
だれかというのは、今さら、言うまでもない。
私たちが「宇宙人」と呼ぶ、人類以外の知的生命体である。


 ただしこの仮説は、今夜粉々にされるかもしれない。
体積比の関係が、証明されなければ、万事休す。
つまり駄説として、意味を失う。


 どうであるにせよ、私は一度、自分の頭でそれを調べてみる。
自分で結論を出してみる。
その過程は、こういう形で、逐次ありのままをここに書く。


●家で……


 家に帰って、その本を開く。
そこには、こうあった。


『ギザの7つのピラミッドは、地球周辺の惑星であるという説がある。
……大ピラミッドの高さは、地球と太陽の距離を表し、基辺の長さは、
1年の長さ(365・242日)を意味するという。
さらにこのピラミッドの底辺は、正確に東西南北の方位に合わされ、
その誤差は、0・05度。
そして3大ピラミッドは、地球、金星、火星の体積比と、ほぼ一致する。
これ以外にも、ピラミッドには、天文学的に意味のある情報が、偶然とは
考えられないほど、ちりばめられているという」(「本当は怖い宇宙」
イースト・プレス・福江純監修・P171)と。


 コンビニで500円で買った本である。
監修者の福江氏は、大阪教育大学天文学教授。
が、この際、どんな本であろうが、またどこの大学の教授が監修した本であろうが、
関係ない。
事実は、自分で調べる。
ここが重要。


●整理


 もう一度、ここに書かれていることを、整理してみる。


(1)ギザの7つのピラミッドは、地球周辺の惑星であるという説がある。
(2)大ピラミッドの高さは、地球と太陽の距離を表す。
(3)基辺の長さは、1年の長さ(365・242日)を意味する。
(4)さらにこのピラミッドの底辺は、正確に東西南北の方位に合わされ、
その誤差は、0・05度。
(5)3大ピラミッドは、地球、金星、火星の体積比と、ほぼ一致する。
(6)これ以外にも、ピラミッドには、天文学的に意味のある情報が、偶然とは
考えられないほど、ちりばめられている。


 今回私が強く興味をもったのは、(1)と(5)。
とくに(5)。


●三大ピラミッド


 そこでここに書いてある3大ピラミッドについて、調べてみる(以下、ウィキペディア百科事典
より、底辺の長さについては、別の資料により補足)。


(1)クフ王のピラミッド


クフ王のピラミッドはエジプト最大のピラミッドであり、「大」を付けて呼ばれる。高さが約138・8
m(創建時の高さは146・6m)、底辺が約230mの正四角錐形。


(2)カフラー王のピラミッド


カフラー王のピラミッドは、高さが約136m(頂上部が崩れている)、底辺の一辺の長さが約2
14・5m、であり、完成当時の大ピラミッドと比較すれば、こちらのほうが、ほんの少し小さいこ
とになる。
完成時の大きさは、不明。


(3)メンカウラー王のピラミッド


3大ピラミッドのひとつであるが、最も規模が小さい。高さは約65m、底辺の一辺の長さは約1
05mで、どちらも大ピラミッドの半分程度である。体積は大ピラミッドののおよそ8分の1とな
る。
完成時の大きさは不明。


 これら3つのピラミッドが、(1)クフ王のピラミッドの位置から、(2)南西の方角に、
カフラー王のピラミッド、(3)さらにその延長線上に、メンカウラー王のピラミッドと
並んでいる。


 ほかにもピラミッドはあるが、崩れて元の大きさがわからなかったり、建造途中のまま
放棄されたりしたものも多い。


●地球、金星、火星


 では、地球、金星、火星は、どうか(ウィキペディア百科事典より)。


(1)地球の半径……6380キロメートル
(2)金星の半径…… 6098キロメートル(地球の半径の95・7%)
(3)火星の半径……3397キロメートル


 ついでにほかの惑星の半径(以下は、赤道半径)も調べてみる。


(1)水星……2349
(2)金星……6052
(3)地球……6378
(4)火星……3397
(5)木星……71398
(6)土星……60000
(7)天王星……25400
(8)海王星……24300
(9)冥王星……2000?
(10)月……1738(キロメートル)(以上、赤道半径)
(「インターネットで見る宇宙」サイトより)


 なおウィキペディア百科事典では、地球の半径は、正確には、
6356・752キロメートルとなっている。
「半径」と「赤道半径」が異なるのは、惑星自体が自転しているため。
赤道付近では、回転による遠心力が働くため、半径が大きくなる。

 以上で、データが出そろった。


●補正


 底辺部はともかくも、創建時と現在とでは、高さがちがうらしい。
たとえばクフ王のピラミッドは、創建時の高さは約147m、現在は約139mとなっている。
これで計算すると、現在は、5〜6%低くなっていることになる。


 これで補正してみると、3大ピラミッドの創建時の高さは、つぎのようになる(5・5%
低くなっているとして計算)。


(1)クフ王のピラミッド


創建時の高さは147m(現在139m)、底辺が230mの正四角錐形。


(2)カフラー王のピラミッド


創建時の推定高さは、144m(現在約136m)、底辺が約214・5m。


(3)メンカウラー王のピラミッド


創建時の推定高さは、69m(現在65m)、底辺が約105m。


 これらの数字を使い、かつピラミッドが、正四角錐であるという前提で計算してみると、
体積はつぎのようになる(有効数字、上から4桁で計算)。


(1)クフ王のピラミッド……2592000
(2)カフラー王のピラミッド……2219000
(3)メンカウラー王のピラミッド……253600(単位は立方メートル)


●惑星の体積


 今度は、惑星の体積を計算してみる。
いよいよ核心部分に近づいてきた。
体積比は、長さ比の3乗に比例する。
それで地球を1・000として計算してみると、


(1)水星……2349……
(2)金星……6052……0・857375
(3)地球……6378……1・000
(4)火星……3397……0・151419
(5)木星……71398……
(6)土星……60000……
(7)天王星……25400……
(8)海王星……24300……
(9)冥王星……2000?


●すでに先人がいた!


 あちこちのサイトを調べていたら、私よりずっと先に、地球、金星、火星の体積比を
詳細に調べた人がいるのがわかった。
(残念!)
それをそのまま紹介させてもらう。


【体積比】地球:金星:火星=1.000:0.857:0.151
【質量比】地球:金星:火星=1.000:0.815:0.107
【密度比】地球:金星:火星=5.52:5.24:3.93
(数値は、「古代文明へようこそ」HPより)


ここで、私も自分で、3大ピラミッドの体積比を並べて比較してみる。
クフ王のピラミッドの体積を、「1・000」とすると、


(1)クフ王のピラミッド……1・000
(2)カフラー王のピラミッド……0・856
(3)メンカウラー王のピラミッド……0・098


ウーン、?
体積比は、地球:金星は、ピタリと一致する。
しかし地球:火星は一致しない。
が、質量比でみると、地球:火星はほぼ一致する。
が、ここであきらめてはいけない。


 もう一度、冒頭にあげた本の記述を見てみよう。
そこには、こうある。


『……3大ピラミッドは、地球、金星、火星の体積比と、ほぼ一致する』と。
「3大ピラミッドは……」と書いてあるだけで、「3大ピラミッドの体積は」とは
書いてない。
となると、地球:火星比は、質量比なのかもしれない。


●高さの比


 念のため、高さ比も求めてみる。


 3大ピラミッドの中のクフ王のピラミッドの高さを、1・000とすると、
カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドの高さとの比は、
147:144:69(m)=1・000:0・980:0・469


 やはり体積比ということになるのか。


●結論


 こうして私は自分で確かめてみた。
体積比に関するかぎり、たしかに地球:金星:火星の体積比は、ほぼ一致する。
(「ほぼ」というよりは、「完全に」と言ったほうがよいかもしれない。)
計算に疑問をもつ人は、大型の卓上計算機で自分で計算してみるとよい。


 ただご存知のように、エジプトのピラミッドは、長い年月の中で、その形が
かなり崩れている。
一度創建時の高さ、底辺の長さを計算しなおして、それらを補正する必要がある。
(ここでは簡単に補正してみたが……。)
その過程で、誤差が生ずることはじゅうぶん考えられる。


 そういうことも頭に入れて、もう一度、計算した数値を、ここに並べておく。


【3惑星の体積比】
地球:金星:火星=1・000:0・857:0・151


【3ピラミッドの体積比】
クフ王:カフラー王:メンカウラー王=1・000:0・856:0・098


●疑問


 私が計算したところでも、地球:金星の体積比は、クフ王:カフラー王のピラミッドの
体積比と、一致する。
(あまりにも一致しすぎている!)


メンカウラー王のピラミッドについては、写真で見てもわかるように、かなり崩れている。
つまり創建時より、かなり小さくなっている可能性がある。
もしピラミッドが、惑星の体積比に応じて建造されたとするなら、メンカウラー王の
ピラミッドは、創建時の約3分の2になっていることになる。


 となると、やはり……。


 最後に残る可能性は、「偶然の一致」。
しかしこうまで数値が一致していると、計算してみた私自身が、それを信じられない
でいる。
これはどうした心理的現象によるものなのか。
肯定したい気持ちよりも、否定したい気持ちのほうが先にきてしまう。
「まさか……!」が、「ありえない……!」となってしまう。


 仮にエジプトのピラミッドが、3惑星の体積比のまま建造されたとするなら、
それはもはや地球人(古代エジプト人)によるものとは、考えられない。
金星と火星を、それに地球を自由に行き来した知的生命体、つまり宇宙人の指導の
もとに建造されたということになる。
(なぜ、土星や木星ではなく、火星と金星であるかという疑問もないわけでは
ないが……。)


 冒頭で、「尻尾(シッポ)をつかんだ」と書いたのは、そういう意味だが、しかし
これだけで「尻尾をつかんだ」とは、言いがたい。
たとえばピラミッドは、クフ王(地球)→カフラー王(金星)→メンカウラー王
(火星)の順に並んでいる。
どうしてカフラー王(金星)→クフ王(地球)→メンカウラー王
(火星)の順にしなかったのか?
(あるいはその逆配列でもよい。)
そのほうが惑星の並び方としては、自然。
そういう疑問は残る。


が、それにしても不思議!
それが今の私の心境ということになる。


 なお、私がここに書いたことは、すでに多くの研究者たちによって調べられたこと
である。
私は私で、独自に自分でたしかめてみたにすぎない。
つまり追認してみただけ。
……ああ、楽しかった!
久しぶりに、頭の中がスッキリした!


みなさんも、秋の空をながめながら、宇宙の大ロマンを考えてみたらどうだろう。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ピラミッドの謎 ピラミッドの体積比 謎のピラミッド 地球 火星 金星 ピラミッド
宇宙人建造説)



Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●10月8日(ピラミッドの謎)(追記)+「13人の刺客」

++++++++++++++++++

昨夜遅く、ピラミッドの体積を計算してみた。
エジプトのギザには、3つの大きなピラミッド
がある。
その3つのピラミッドの体積比が、地球、金星、
火星の体積比が同じという。
そこで自分なりに計算してみた。
こういうことは、自分で計算してみないと、納得できない。

その結果、地球と金星の体積比は、2つのピラミッドの
体積比と、ピタリと一致した。
驚いた。
しかし予想していたほどは、驚きは大きくなかった。
冷静なままだった。
これはどうしたことか?

ただ火星については、3番目のピラミッドの崩壊が
はげしく、体積比を正確に求めることができなかった。
ウィキペディア百科事典には、こうある。

『この2つに隣接するメンカウラー王のピラミッドは何故か規模が縮小し、底辺108m、高さ66.5m
である。この王の威光が前二代の王と比してさほど劣るものではなかったと伝えられることか
ら、縮小の理由は謎とされている』と。

それらの数値については、もう一度、ここに
並べておく。

【3惑星の体積比】
地球:金星:火星=1・000:0・857:0・151

【3ピラミッドの体積比】
クフ王:カフラー王:メンカウラー王=1・000:0・856:0・098
(注:高さについては風化、破壊分を補正して処理。)

++++++++++++++++++

●宇宙人の介在

 「これで宇宙人の存在が証明できる」と意気込んで計算を始めたものの、
実際、数値がここまで一致するとは、思ってもみなかった。
かえって拍子抜けしてしまった。
反対に、それを否定しようとする心理が働いた。
これはどうしたことか?

 偶然の一致かもしれない?
計算のミスかもしれない?
ピラミッドは長い年月を経て、5〜6%分だけ、低くなっている。
となると、基底部はどうなのか?
砂に埋もれた部分もあるはず、などなど。
つぎつぎといろいろなことを考えた。

●否定

 それにもし「そうだ」とすると、今までの常識をひっくり返さなければ
ならない。
「ピラミッドは宇宙人の指導のもとで建造された」ということになる。
そんなことを、簡単に認めるわけにはいかない。
またそれだけではすまない。
宇宙人はピラミッドの建設だけを指導して、それでどこかへ帰ったわけではない。
人間の生活のあらゆる部分に影響を残して、帰っていったはず。
そういうのをすべて、ひとつずつ、拾いあげなければならない。
面倒というよりは、それを想像しただけで、気が遠くなってしまう。

●記念碑

 「どうしてピラミッドなの?」と、朝、ワイフが私に聞いた。
鋭い質問である。
仮に宇宙人がこの地球へやってきたとする。
そのとき何かの記念碑を残そうとしたとする。
しかしどうしてそのとき、それがピラミッドなのか、と。

 理由はいろいろ考えられる。
第一に、正四角錐ほど、人工性を表すものはない。
ほかの形なら、自然界で偶然できたということも考えられる。
しかし正四角錐なら、それはない。
仮に正四角錐であるとしても、1つなら、ひょっとしたら自然にできたものと
考える人もいるかもしれない。
しかし2つ、3つと並ぶと、そうはいかない。

 第二の理由は、正四角錐ほど、数学的なデータを埋め込める形は、ほかにない。
言うなれば、現代のQRコードのようなもの。
高さ、一辺の長さ、さらにそれをからみ合わせて、無数の情報をその中に詰め込む
ことができる。

大ピラミッドの高さは、地球と太陽の距離を表している。
底辺の長さは、1年の長さ(365・242日)を表している。
さらに7つのピラミッドそれぞれが、惑星を表している、など。

 ただ単なる墓とか、権力の象徴というのであれば、もっと別の建造物を考えたはず。
つまりピラミッドは、ただのピラミッドではない。
自分で計算してみて、改めて、それを確認した。

●0・857と0・856

 地球と金星の体積比は、1:0・857。
金星のほうが、地球よりやや小さい。
クフ王と、カフラー王のピラミッドの体積比は、1:0856。
カフラー王のピラミッドのほうが、クフ王のピラミッドより、やや小さい。
(詳しい計算式は、数日前に書いた原稿を読んでほしい。
そのとき私は、あえて先入観をもたず、現在公表されている数字だけをもとにして、
計算してみた。
その結果が、これである。)

 そこでもうひとつの事実(?)を検証してみたい。
大ピラミッドの底辺の長さは、1年の長さ(365・242日)を表しているという。
となると、カフラー王のピラミッドの長さは、金星の1年の長さを表していることに
なるかもしれない。

 そこでもう一度、データを拾い集めてみる。
(がぜん、おもしろくなってきた。
ここまで調べた人は、いまだ、いない。)

●金星の1年の長さ

クフ王のピラミッド(大ピラミッド)の底辺の長さを調べてみる。

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王によってギザに築かれたギザの大ピラミッド
で、勾配は51度52分。底辺は各辺230m、高さ146mに達する。長さ・高さの比は黄金比であり、
またこれは14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であっ
た。第2位のカフラー王のピラミッドもこれに匹敵する、底辺215m、高さ143.5mである。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

 数字を整理してみよう。

クフ王のピラミッドの1辺……230m
カフラー王のピラミッドの1辺……215m
比の値は、0・9348

 そこで今度は、金星について調べてみる。
公転周期は、224・701日とわかっている。
比の値は、0・6152

 比の値は、かなりちがう。
もっともピラミッドは、(底辺の長さ):(高さ)は、黄金比によって建造されていると
言われている(勾配は51度52分)。
つまり写真で見てもわかるように、3大ピラミッドは、形としては、みな同じ。
カフラー王のピラミッドを、金星の公転周期に合わせて建造するということは、
考えなかったということになる。

●吉M作治氏

 ところでピラミッドについて調べているとき、こんな記述があることを見つけた。
(出典は、ウィキペディア百科事典)

「……している。吉M作治は、ピラミッド建造は定期的に発生したナイル川の氾濫によって農業
が出来ない国民に対して、雇用確保のために進められた公共工事的な国家事業であったと主
張している。(しかし、それに関する論文などは存在しない。)ピラミッドが国家事業として作られ
たという説も、吉Mのオリジナルではなく、クルト・メンデルスゾーンによって既出である。(邦訳:
ピラミッドの謎/文化放送開発センター出版部) ただしメンデルスゾーンは、ピラミッドを作る目
的が公共工事だったとは言っておらず、事業形態が国家事業であり、建設の目的自体は主に
墓であっただろうと述べている」(ウィキペディア百科事典より、そのまま)と。

 吉M作治氏と言えば、ピラミッド研究の第一人者(?)ということになっている。
マスコミにもよく出てきた。
が、4、5前だったか、インチキ大学のニセ博士号を取得していたことが発覚するという
事件があった。
私のところにもその大学(?)から、勧誘の書類が届いたことがある。
「学生の奨学金にあてたいから、80万円出してほしい。その代わりに、あなたに博士号
を授与します」と。

 そのときそのインチキ大学の案内書に、吉M作治氏の名前が連ねてあった。
いわゆる教育実態のない、インチキ大学である。
吉M作治氏の名前を信じ、ニセ博士号を購入した人も、この日本には多いはず。
マスコミで騒がれると、吉M作治氏は、論文集を机上に並べ、「私の博士号は正当に評価
されたもので、買ったものではない」というようなことを、テレビの取材で答えていた。

 その吉M作治氏である。
このウィキペディア百科事典に書かれている記述を、よく読んでみてほしい。
一事が万事というか、一脈通ずるものを、私は感じた。

●ロマン

 クフ王のピラミッドの基底部の1辺は、地球の1年の日数を表している。
しかしカフラー王のピラミッドの1辺は、残念ながら金星の1年(公転周期)とは、
関係ない。

 が、ここであきらめてはいけない。
何か、あるはずである。
……と考えていくのは、実に楽しい。
これが私がいつも言うところの「ロマン」である。
「頭の遊戯」と言ってもよい。
こうして空想をめぐらせて、自由に思索を楽しむ。
これがあるから、こうして書くことをやめられない。

10月9日、土曜日朝。

●補記

 実は昨夜、深夜劇場に足を運んだ。
見た映画は、『13人の刺客』。
「七人の侍」と、マカロニウェスタン映画を合体させたような映画。
それにわかったような、わからないような武士道の世界をまぶした映画。
俳優ひとりひとりの演技にはすばらしいものがあったが、要するに格好のつけすぎ。
『レッドクリフ(赤壁)』のようなスケール感もなく、また悪役の将軍の弟も、
役不足。
取ってつけたようなセリフというか、説明が多すぎた。
(どうして日本映画には、こういう無駄なセリフが多いのだろう?)
基本的には、子どものころ見た、チャンバラ映画を踏襲しただけ。

 最後に、生き残った2人がこんな会話を残す。
「これからメリケン(アメリカ)へでも行って、向こうの女を抱いてみるか」(記憶)と。
が、そう言いながら、自分を待つ芸者(?)のところへ帰っていく。

 武士道なるものを、無理にこじつけただけ?
であるなら、なおさら、「主君」暗殺など、ありえない話。
念のため、暴君とされた、「松平斉宣」について調べてみた。

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

映画『十三人の刺客』(1963年)には、暴君として「将軍の弟である明石藩主・松平斉韶」が登
場する。2010年のリメイク版も同様であるが、史実の斉韶とは関係がない。ただし、将軍の弟
という出自や、参勤交代中のトラブルといったエピソードは、後を継いだ松平斉宣に見られる。
2010年の映画化に伴って刊行された小説版(谺雄一郎作)では、暴君の名を「斉宣」としてい
る。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

 ……ということで、星は残念ながら、2つか3つの★★。
「切って、切って、切りまくれ!」という映画だが、無駄な殺戮映画が、延々とつづく。
一方、相手方の侍たちは、みな丸い笠をかぶっていた。
スターウォーズに出てくる、ロボット兵のよう。
恐らく同じ俳優を何度も使うため、そうしてわざと顔を隠したのだろう。
そうした小細工を、私は随所に感じた。

 きびしい映画評論で申し訳ない。
年齢のせいか、それとも仕事の疲れのせいか、殺戮シーンでは眠気さえ覚えてしまった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 13人の刺客 ピラミッドの謎 謎のピラミッド クフ王 カフラー王 地球 金星)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●10月10日(日曜日)(2010−10−10)

昨夜は稀に見る大雨。
叩きつけるような大雨。
山荘へ来る途中、滝のような雨を経験した。
山道のアスファルトの上を、川のように雨水が流れていた。
車のライトで雨がカーテンのようになり、1メートル先が見えなかった。
「こんなに降ったら、山崩れになるわ」と、ワイフは数回、言った。

●山荘にて
 
 今日の予定は、とくになし。
家に帰ったら、マガジンの発行予約とホームページの更新。
あとはもろもろ。
人に会う約束もなし。
思う存分、原稿が書ける。
楽しみ。

●損得

 朝早く、風呂に入る。
その風呂の中で、こんなことを考えた。
損得論。
「私は人生で、損をしたのか、それとも得をしたのか」と。
金銭的な損得論をいう。

 が、こと金銭的な損得論ということになれば、生涯、損ばかりしてきた。
他人から、お金を貰った(?)といえば、ワイフの実父が亡くなったときだけ。
義理の兄が亡父の通帳を解約し、それを7等分(兄弟姉妹分)し、私たち
に10万円を分けてくれた。
あとにも先にも、それだけ。

 一方、私は結婚する前から、収入の約半分を実家へ届けてきた。
経済的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがある。
私はこの40年近く、それに苦しんだ。

 だから実家を法外な価格で売却したときも、「損をした」という
感覚はなかった。
「損をした」と言えば、長い間、社会的負担感に苦しんだこと。
時間を無駄にしたこと。
だから実家を売却したときも、「これで実家から解放される」という喜びが先に立った。
さらに言えば、息子たちがいる。

 私は「学費は惜しんではいけない」という、古風な哲学を信奉していた。
だから息子たちの学費については、惜しまなかった。
いつも息子たちに満額で送った。
親バカだった。
気がついてみたら、そこにあったのは、私たちの老後。
貯金は使い果たしていた。

 が、損得論も考え方。
つまり金銭的な損得論を考えれば、損に決まっている。
しかし私はその分だけ、人生を楽しんだ。
息子たちが楽しませてくれた。
それについては感謝している。

が、この先はまだ長い。
引退するわけにはいかない。
「死ぬまで仕事」。
「ピンポク」という言葉がある。
前日までピンピンしていて、翌朝、ポックリと死ぬ。
どうせ死ぬなら、そういう死に方をしたい。

 つまりそれが今の私を生かす原動力になっている。
お金がなかったら、働けばよい。
稼いだお金は、どんどんと使っていく。

●神経痛

 先週、山荘へ来たとき、こんなことがあった。
私は、不用意に頭をひねると、首のうしろ、頭寄りの神経が、
ギクリと痛むことがある。
瞬間のことで、そのまま痛みは消える。
それまでは床についてから、枕元で頭を浮かせた状態で首をひねると、
ときどきそうなる。

 この部分に大きな神経があり、それをぐいと引っ張ることによる
痛みということになる(素人判断)。

 それが先週、廊下を歩いているときに起きた。
歩きながら、風呂場のほうを振り向いたときに、ギクリ!、と。
今までに経験したことのないほど、強い痛みだった。
その瞬間、私はその場にうずくまってしまった。
そのときのこと。
おかしなことに、本当におかしなことに、私はこう思った。
「これで死ねる!」と。

●死の恐怖

 「死の恐怖」という言葉がある。
人間、生きていくのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
私の年齢になると、私も含めて、「どう生きるか」よりも、「どう死ぬか」
のほうを先に考える人が多い。
私もよく考える。

 が、その一方で死に対する不安や恐怖はある。
ないとは言わない。
死の恐怖を克服するのは、相当な宗教家でも、また哲学者でも、無理。
(こう決めつけて書くのも、失礼なことかもしれないが・・・。)

 しかしそのときたしかに、私は、こう思った。
「これで死ねる」と。

 幸いにも(?)、いつものように痛みはすぐ消えた。
つまり私はその瞬間になったら、「これで死ねる」と、意外とあっさりと、
死を受け入れることができるのではないか。
そんなふうに、今、考えている。

●無

 この大宇宙も、いつかは消滅してしまう。
すべての星々が燃え尽き、すべての大銀河も光を失う。
物質の原点である陽子さえ、半減期を繰り返し、やがて分解し、消える。
ブラックホールですら、最後は、蒸発して消える。
何10兆年も先の話らしい。
そのとき、この大宇宙は闇と冷気に包まれた、「無」の世界に返る。

 つまりこの大宇宙は、「絶対的無」の状態から、インフレーション
が起こり、つぎの瞬間に「ビッグバン」と呼ばれる大爆発を経て、生まれた。
再び、この大宇宙は、いつか「無・無・無……」の世界に戻る。

 が、何も何10兆年も待つ必要はない。
固体の死イコール、大宇宙の死と考えてよい。
私も死ねば、この大宇宙もろとも、消滅する。
チベット密教や和式仏教では、「生まれ変わる」と教えるが、根拠が
あるわけではない。
第一、釈迦自身そんなことは、一言も口にしていない。
ウソだと思うなら、一度、法句経を読んでみたらよい。
仏教徒を名乗るなら、また法事、法事と儀式に明け暮れるなら、一度は
自分で読んでみたらよい。

 頭が熱くなったが、もとからこの宇宙は「無」と考えれば、「損」など
何でもない。
とくに金銭的な損など、何でもない。

●お金(マネー)

 今、ここに生きている。
それにまさる価値は、ほかにない。
目が見える。
音が聞こえる。
歩いたり、話をしたりすることもできる。

 こんなことを書くと、そうでない人に対してたいへん失礼なことは、
よくわかっている。
しかし私は、今、健康だ。
疲れやすくなった。
気力も、集中力も弱くなった。
が、それをのぞけば、私は健康だ。

成人病とも無縁。
あと何年生きられるかはわからないが、ここ1、2年でどうかなるという
ことはない。・・・だろう。
だったら、今日も、10月10日という1日を、懸命に生きる。
損か得かということになれば、そういうかぎりある1日を、だらしなく
過ごすことほど、損なことはない。

 そういう意味では、私たちはこの資本主義社会の中で、お金(マネー)に
あまりにも毒されすぎている。
この日本においても、貨幣が一般社会に流通し始めたのは、江戸時代の中期。
貨幣は奈良時代の昔からあったが、貨幣の性格そのものがちがった。
そんなお金(マネー)に、どうしてこうまで毒されるようになってしまったのか。
余計なことだが、そんなことも考えた。

●生きる価値

 私たちは本来、価値あるものを、価値のないものと思い込む。
その一方で、価値のないものを、価値あるものと思い込む。
その基準となるのが、「損得論」ということになる。
言い換えると私たちは常に、損得論に振り回されながら、生きている。

 そこで大切なことは、「価値」とは何か。
もう一度、自分に問いただしてみること。
何が大切で、何が大切でないか、と。
一朝一夕には結論は出ないかもしれない。
それこそまさに哲学の分野ということになる。
しかしそう問いつづけることによって、その先に何かが見えてくる。
「価値」というのは、そういうもの。

●今日もがんばろう!

 風呂から出ると、昨夜の雨は消え、低い雲の向こうに高い雲が見え、
その先に水色の空が広がっていた。
・・・こうして今日も、始まった。

 10月10日、日曜日。
祭日。
今日も、がんばろう!
やるべきことを、しっかりとやろう!

 では、みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)※


【日中経済戦争】(2010ー10−11)「顔のない国、日本!」

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中国側が、上海万博について日本側の訪問団の
受け入れを申し出てきたという。
TBSーiNEWSは、以下のように伝える。

++++++++++++++++以下、TBSーiNEWS++++++++++++++


 尖閣諸島沖の漁船衝突事件を受けて延期されていた日本の若者1000人による上海万博
の訪問が、今月27日から4日間の日程で行われることになりました。日中友好会館によりま
すと、中国政府から外務省に改めて招待の通知があったということです。

 この訪問団は、今年春に日本を訪れた温家宝首相の提案による交流事業の一環です。当
初は、先月21日から行われる予定でしたが、直前になって中国側の受け入れ団体が延期を
通告していました。(2010年10月11日02:42)

++++++++++++++++以上、TBSーiNEWS++++++++++++++


●私なら、行かない!

 相手側の傲慢な手法で、一度は取りやめになった旅行が、今度は一転、「OK」と。
それに対して日本側は、「月27日から4日間の日程で行われることになりました」と。

 個人の立場で考えてみよう。
もしあなたが相手先の都合で、このような形で振り回されたら、あなたはそれに応ずる
だろうか。
延期されたときも、何も抗議しない。
「おいで」とやさしく声をかけられたとたん、のこのこと(おめおめと)出かけていく。
このふがいなさ。
だらしなさ。
万事事なかれ主義。
尖閣諸島問題は、何も解決していない。
していないばかりか、中国国内では、「日本の巡視船が漁船に体当たりをしてきた」と、
さかんに宣伝されている。

++++++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

 沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で、海上保安庁が撮影したビデオ映像の公開を日
本政府が先延ばし続けるなか、中国国営通信社や共産党系のインターネットサイトで、海保の
巡視船側が中国漁船に衝突したとする図などが掲載されている実態が10日、明らかになっ
た。日中首脳会談が4日に行われたにもかかわらず、中国当局も放任を続けており、中国政
府の一方的な主張が"既成事実化"する恐れも強まっている。(原川貴郎)

 中国共産党機関紙、人民日報傘下の国際情報紙「環球時報」は、衝突事件の"実態"につい
て、日本の巡視船の方から中国漁船に衝突したとする説明図を掲載してきた。中国政府の
「日本の巡視船は中国の領海で中国漁船を囲み、追いかけ、行く手を遮り、衝突して損傷させ
た」(姜瑜・中国外務省報道官)との主張に沿ったものだ。

+++++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

 これに対して日本政府は、「これ以上日中関係を悪化させないため」という理由を
並べて、ビデオ映像の公開を中止した。
あえて「事実」を封印した。

 この正義の不在こそが、日本外交の特徴。
「自分」というものが、どこにもない。
経済第一主義というか、金(マネー)のためなら、平気で正義をかなぐり捨てる。
このふがいなさ。
だらしなさ。
万事、事なかれ主義。
だからこそ、世界中からバカにされる。
これでまた日本の外交能力は、一歩、退いた。
この先、日本がいくらもっともらしいことを主張したとしても、ますますだれにも相手に
されなくなるだろう。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●「13人の刺客」(十三人の刺客)

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数日前、「13人の刺客」という邦画を観てきた。
星は2つの、★★と評価した。
前宣伝がすごかっただけに、かなり期待していたが、
がっかり。

それから数日。
いろいろ考える。

まず第一。
江戸時代の末期とはいえ、(末期であるからなおさらかも?)、命がけでクーデターを
しかける武士(役人)は、本当にいたのか?
もちろん「13人の刺客」は、フィクション。
原作は小説。
いくら相手が暴君でも、殿は殿。
命をかけるには、それ相当の背景と覚悟が必要。
その部分のプロセス描写が、甘い(?)。

たとえばドキッとするシーンは、いくつかあった。

(1)四肢を切り取られた若い女性が、突然、素っ裸で座敷に現われる。
(2)村の一部で、1人の少年が立ち小便をする。
(3)切り落とされた殿の頸が、ゴロゴロところがって、便座に横に並ぶ。
(4)若い山師が、4人、5人と村の女を抱く、など。

ほかにも1人の侍が、道場で太刀さばきをして見せる。
見事なシーンだったが、どこか取ってつけたようなシーン。
つまり全体として、どこかチグハグ。
役者の演技は、どれも見事だった。
チャンバラ映画については、ハリウッド映画でも太刀打ちできない。
(例外として、トム・クルーズが主演した、『SAMURAI』は、星5つ。)

改めて、武士道なるものについて、考える。

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ちょうど1年前(2009)に書いた原稿を
ここに載せます。

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●死の美学と隷属意識

 武士道の根幹は、死の美学と隷属意識。

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●武士道(1)

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けっして、死を美化してはいけない。
生を美化することはあっても、死を美化してはいけない。
私たちは、まず、生きることを考える。
生きて生きて、生き抜く。
死はその結果としてやってくるかもしれないが、
そのときは、そのとき。
死の向こうには、何もない。
そこは太虚の世界。
だから、死を美化してはいけない。

武士道を一言で言えば、その底流にあるのは、
死の美学ということになる。
武士の象徴が、「刀」にあるとするなら、その
刀は、人を殺すためのもの。
この原点を踏み外して、武士を論じてはならない。
武士道を論じてはならない。

新渡戸稲造は、「武士道」の中で、あの赤穂浪士を、
最大限の言葉を使って、称賛している(「武士道の世界」
イースト・プレス)。

「義士と呼ばれるこの正直な率直な男子たちの徳は、
宝石のように光り輝き、人々のもっとも高く、褒め
讃えたものだったのである」と。

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●真の勇者(?)

 新渡戸稲造は、真の勇者について、こうも書いている。

「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」(同
書、P18)と。

 私は一度は、新渡戸稲造の「武士道」を一度は読破しなければならないと、思ってきた。
しかしその機会はなかった。
(20年ほど前、一度、目を通した記憶はあるが……。)
断片的な知識はたくさんもっている。
しかしそれらは、断片的なものでしかない。

 で、今度、コンビニで、イースト・プレス発刊の「武士道の世界」という本を買ってみ
た。
サブタイトルに、「誇るべき日本の原点」とあることからもわかるように、この本は、武士
道を礼賛する内容の本である。

そういう本を使って、私なりに武士道のもつ矛盾を指摘するのは気が引ける。
しかし礼賛する本であるがゆえに、私の脳みそに与える刺激も大きい。
1ページ読むごとに、脳の中で、バチバチと神経細胞が火花を飛ばすのを感じた。
が、この本ほど、「死」「自害」「討ち死に」「戦」という言葉が並ぶのも、そうは多くない。

 「武士道の真髄」(P181)というところを紹介する。
「真髄」とあることからもわかるように、武士道の根幹を説明したものである。

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『武士道といふは、死ぬ事と見付けたり(葉隠)。

 このあまりにも衝撃的で有名な言葉は、山本常朝が口述し、田代陣基が筆記、編纂した
『葉隠』の冒頭に記された、武士道の真髄を表すものだ。
 主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の武士であるという
心得を説いている。

 「武士は生と死、どちらかを選ぶ場合、必ず死を選ばなければならない」のである。
 「生き恥をさらす」と言われるように、この時代の武士道精神においては、戦に勝てな
いときは、死ぬことで忠義を果たさなければならないと考えられていた。

 しかしこの言葉には、さらに深い意味がこめられている。
生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、その武士は本分を全
うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教えだと言えるだろう』
と。

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●命を捧げる

 この部分を読んだとき、まっさきに頭に浮かんだのが、K国の金xx。
あの独裁者。
金xxが読んだら、涙を流して喜ぶにちがいない。
あの国では、幼稚園の子どもですら、「金xx将軍様を、命をかけて守ります」と連呼して
いる。
おとなたちは、「死守」という言葉を使っている。

 それはさておき、「主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の
武士である」という部分だけでも、バカげている。
もしあなたがまともな思考力をもっている人なら、あなたもそう感ずるだろう。

 主義や理想、正義や真理のためなら、命をかけることはある。
しかし「命をかける」イコール、「命を捧げる」ではない。
いわんや、相手が、人間である、「主君」?
こういう思想を、私の世界では、「隷属思想」という。

●主君の主君は?

 学生のころ、友人と、こんな議論をしたことがある。
 「主君に主君がいたら、そのばあいは、どちらに命を捧げるのか」と。

 つまりあなたの仕える主君が、あなたの住む領地を治める領主だったとする。
当然、その領主には、彼が主君とあがめる、藩主がいる。
藩主の上には、将軍がいる。

 こういうばあい、あなたという家来は、藩主や将軍に命を捧げる必要はない。
何かを命じられても、それに従う必要もない。
あなたの主君は、あくまでも領主。
領主の命令だけを聞き、その領主のために、命を捧げる。

 もう少し話をわかりやすくするために、会社組織で考えてみよう。

 あなたが営業課の係長だったとする。
あなたの直接の上司は、営業課の課長。
そんなある日、営業課が入っている制作部の部長から、直接、あなたに命令が届いた。
つまり課長の頭を通り越して、あなたに命令が届いた。

 こういうケースのばあい、あなたはその部長の命令に従う義務があるのか。
それともないのか。

 会社によって組織の運営方法が異なるので、「従わなければならない」という会社もあれ
ば、「従わなくてもいい」という会社もある。
しかしこと武士の世界では、主君というのは、先のケースでは、あくまでも領主というこ
とになる。

藩主や、将軍の命令に従う必要はない。
命を捧げる必要もない。

 これが学生時代に、私たちが知った結論である。
そのヒントを与えてくれたのが、ヤクザの世界である。
当時、(今でもそうだが……)、ヤクザの世界には、武士道の精神が、そのまま残っていた。
ヤクザの世界では、直接上にいる兄貴分が、武士の世界でいう主君ということになる。

●主従関係

 もっとも、封建時代の昔ならいざ知らず、「主君に命を捧げる」という発想は、今は、な
い。
主従関係も、西洋の契約説によって決まる。
わかりやすく言えば、「金の切れ目が縁の切れ目」。
給料がもらえなくなったら、そこで主従関係は、消滅する。

 人それぞれだが、私なら、断る。
どう考えても、主君のために命を捧げるという発想そのものが、バカげている。
つまりこんなところにも、武士道が説く、(死の美学)が見え隠れする。

 繰り返すが、死を美化してはいけない。
その延長線上に、戦争がある。
その一歩手前に、特攻隊があり、自爆テロがある。
私たちは死ぬために生きているのではない。
生きるために生きている。

 この本の著者は、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、
その武士は本分を全うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教え
だと言えるだろう」と書いている。

 それにしても、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間……悟りの境地に達する」と
は?
いつの間にか、仏教の教えが、そのまま武士道の精神にすり替えられてしまっている?

●武士の作法

 戦国時代はともかくも、以後、日本は300年という長い年月の間、太平天国の時代を
迎える。
その間に、武士道も、当初の戦闘を目的としたものから、権威づけのための作法の「道」
として変質する。
作法に始まって、作法に終わる。
それが武士道の柱と考えてよい。
いくつかを拾ってみる。

(1)鞘(さや)当て……武士の世界で、刀と刀の鞘が当たることは、何にもまして「無
礼極まりないこと」だったそうだ。
だから武士どうしは、廊下を歩くときも、左側通行が作法と決められていた。

(2)手はぶら下げて歩く……いつでも刀を抜けるように、手荷物も持たないし、傘もさ
さない。

(3)妻は後ろを歩かせる……妻と並んで歩くなど、軟弱者の証。
   襲撃から守るという意味もある。(以上、同書)。 

 こうした作法が、ズラズラと、それこそ無数にある。
武士の刀をまたいだだけで、切捨て御免になった人も多いという。
また女性は、武士の刀に、直接手を触れることさえできなかったという。
しかしなぜ、「刀」なのか?

●武士と刀

 武士の人口は、江戸時代においては、5%前後と言われている※。
しかしこの数字には、武士の家族も含まれているため、実際には、刀を差していた武士は、
全人口の1〜2%以下だったと推計される。
残りの95%のほとんどが、農民であった。
その1〜2%が、為政者として、好き勝手なことをした。
その好き勝手なことをする象徴として、「刀」があった。
武士が刀に執着する理由は、ここにある。

 私はこんな話を、直接、その女性から聞いている。

 私が住んでいる山荘のある村は、400年以上もの歴史のある、由緒ある村である。
その山荘の隣人に、10年ほど前、88歳で亡くなった女性がいる。
いわく、「明治時代に入ってからも、士族の人たちは、このあたりでは刀を差して歩いてい
た」と。

 「刀の鞘どうしがカチャカチャと当たる音が、遠くから聞こえてくると、みな、道路の
脇に寄って、正座し、頭をさげた」と。

 言うなれば、95%の日本人が、5%の武士を支えるために、犠牲になっていた。
そういう世界が、いかにおかしな世界であるかは、あなた自身を、その農民の立場に置い
てみればわかる※。
あなた自身の先祖も、その農民であったはず。
(私の先祖も、農民だった。)

 一生、土地にしばられ、職業選択の自由もなかった。
当時生きていた人たちもまた、私やあなたと同じ人間であった。
犬や猿とは、ちがう。

そういう人たちを原点に考えるなら、「何が武士道か?」ということになる。
さらに言えば、この武士道が、やがてあの戦陣訓へとつながっていく。
それについては、前にも書いた。

 もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価は必要である。
しかしそれがもつ(ネガティブな側面)に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼
賛することは、危険なことでもある。
どうして武士道が、「誇るべき日本人の原点」(本のタイトル)なのか?

 今、武士道を、教育の柱にしようとする動きが活発になっている。
またその種の本が、100万部単位で売れている。
これを民主主義の後退と言わずして、何と言う?
忘れてならないのは、新渡戸稲造が活躍した時代と、同じ時期に、福沢諭吉がいたという
こと。
福沢諭吉らは、やがて明六社に合流し、日本の封建主義を清算しようとした。

 私は、福沢諭吉らのしたことのほうが、正道だと思のだが……。
それに「原点」とは何か?
何も原点にこだわる必要もない。
原点が正しいわけでもない。
大切なことは、おかしな復古主義にとらわれないこと。
私たちはいつも新しい原点を求めて、前に進む。

 ……と、少し頭が熱くなったので、この話は、ここまで。
なお本書(「武士道の世界」)は、つぎのように結んでいる。
 『おわりに……そんな現代であるからこそ、日本人としての精神的意識が必要なのであ
る。

不道徳な世相を嘆いていても何も始まらない。
世界に通じる精神体系・武士道を心に携え、今こそ日本人としてのアイデンティティを世
界に発信してほしい』と。

(※注1)明治6年1月調べ・・・旧武士数は平民の16分の1にして総数408,823戸、
1,852,445人であった。幕末においてもこの数字と大差なかったものと考えられる。人口構
成は概数的に6.25%である。(土屋喬雄「幕末武士の階級的本質」)
 どの藩も武士の数は軍事機密になっていた。したがって、今となってはその人口は、推
計する以外にない(筆者注)。

(※注2) 徒士といえども、家老に対しては下駄を脱がざるをえなかったのが実情で、
城下において百姓町人は、足軽以上に出会えばまず平伏・土下座など屈辱的敬礼を強いら
れた。どの階層に属するか、着衣や服装で判断できる社会の仕組みになっていた。(「社会
構造と現代社会HP」より)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 武士道 武士の作法 武士道精神 武士の数 葉隠 忠臣蔵 新渡戸
稲造の「武士道」)

●真の勇者

 繰り返す。
新渡戸稲造は、真の勇者について、こう書いている。

「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」と。

 生きるべきときに生きるのは当然であるとしても、「死ぬべきときに死ぬ」とは?
この思想が、後の、『戦時訓』につながっていった。

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戦陣訓について書いた原稿です。
(2009年3月記)

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●文明の衝突(2)

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少し前、「文明の衝突」について、書いた。
それを読みなおす。
読みなおして、それをワイフに話す。
(090412)

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●日本vsアジア

「黄色い白人」と呼ばれて、一時、日本人が得意になったことがあった。
日本が高度成長の波に乗り、破竹の進撃をつづけていたときのことである。
事実、当時、日本で、「自分はアジア人」と思っている子どもはいなかった。
「ぼくはアジア人ではない。日本人だ」と。
それについては、先の原稿に書いたとおりである。

しかし私たちは今も昔も、立派なアジア人である。
容姿、顔つき、肌の色、すべてが、立派なアジア人である。
むしろ日本人のほうが、骨相学的には、貧相と言われている。
島国で、長い間、鎖国をつづけ、「血の交流」をしなかったためと考えてよい。

で、昔、こんなことがあった。
私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのことである。
中国からの留学生が何人かいた席で、だれかが私にこう言った。
「ヒロシ、君たちは中国人に、どんなイメージをもっているか。
それを絵に描いてみてほしい」と。

で、私は、目が釣りあがり、歯が飛び出た中国人を描いてみせた。
当時、新聞など出てくる中国人は、みな、そのような顔をしていた。
が、それを見て、みなが、ドッと笑った。
「ヒロシ、それは日本人の顔だよ」と。

●異種文明

こうした文明のちがいを克服するためには、どうしたらよいのか。
あるいはどうして文明の対立が起きるのか。
異種文明にも距離感がある。

(1) 隣接文明(隣接している文明)
(2) 非隣接文明(隣接していない文明)

先の原稿の中で書いたように、ドイツ人のロシア嫌いには定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。
同じように、中国人の日本嫌いにも、定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。

それには先の侵略戦争が大きく影響している。
が、それだけではないようだ。
「文明の衝突論」を当てはめてみると、それがうまく説明できる。
中国は、儒教文明圏に属する。
一方、この日本は、儒教文明圏に身を置きながら、西洋文明圏に属する。
つまりそこで「文明の衝突」が起きている。

が、日本とロシア、さらに日本とイラク、イランとの対立は生まれない。
(一部、日本とロシアは、対立しているが……。)
ロシアは、スラブ文明圏に属する。
イラク、イランは、アラブ文明圏属する。
なぜか。
それが「文明の距離」ということになる。

わかりやす言えば、文明の衝突は、それぞれの文明が接したところで起こる。
離れたところでは起きない。
たとえば今度は、スラブ文明とアラブ文明については、それぞれが接している。
だからたがいに仲が悪い。
アラブ人のロシア嫌いにも、これまた定評(?)がある。

非隣接文明についていえば、それは(情報)でしかない。
たとえば私たちがアラブ文明に触れたとき、それは(もの珍しさ)でしかない。
そのため文明の衝突は起きない。

●融和

問題はどうやって、隣接文明と融和していくかということ。
国と国の対立は、それぞれの国同士という(単体)の話しあいで解決できる。
しかし文明の対立となると、そうはいかない。

たとえば日本は、自らを西欧文明の中に身を置き、儒教文明と鋭く対立している。
日本は、儒教文明圏に属しながら、その一方で、自らを西欧文明圏に置いている。
この対立構造が、日本を現在の今、孤立させている。

このことは、相手の立場で考えてみると、よくわかる。
一度、ペキン(北京)という、中国の首都に、視点を置いてみるとよい。
日本は、はるか東の海上。
中国から見れば、大陸の端にへばりついているように見える。
それはたとえて言うなら、東京から、佐渡島を見るようなものではないか。

その日本が、ひとり、「私たちは西洋人」と主張している。
それから生まれる違和感というか、(滑稽さ)には、相当なものがある。
中国人が、日本を受け入れない本当の理由は、そんなところにもある(?)。

では、どうするか?

●儒教文明

最初に書いておきたい。
「儒教文明の再構築」といっても、復古主義的なものであってはいけない。
それについては、あとで「情報革命」のところで書く。
私たちはアジア人であることを再確認する。
それが儒教文明の再構築ということになる。

現在の今、私たちがこうして漢字を使っていること自体、その証拠ということになる。
中に「平仮名やカタカナは、日本人すばらしい発明」と書いている人がいる。
しかしそれはどうか?
平仮名にせよ、カタカナにせよ、漢字の簡略版にすぎない。
略字にすぎない。
「発明」などという大げさなものではなく、一バリエーションに過ぎない。
漢字で、「波也此」と書くより、「はやし」と書いたほうが楽に決まっている。
当時の人たちなら、だれしもそう考えただろう。

つまりこと日本人に関して言えば、私たちは、中国文明圏に属している。
まずそれを率直に認めること。
(だからといって、中国に隷属せよと、そういうことを書いているのではない。
誤解のないように!)

●日本史論

ついでに日本史論。
これについては、すでにたびたび書いてきた。
つまり日本では、日本史を東洋史と切り離して教える。
「日本は日本、東洋とは一線を画す」という思想が、その底流にある。
しかしこれがいかに偏狭なものであるかは、アジアの諸国をながめてみれば、わかる。
韓国を例に出すまでもない。

ほかに若いころ、タイへ行ったときにも、それを感じた。
タイという国は、そういう意味では奇異な国と考えてよい。
私たち日本人から見ると、同じ東南アジア諸国の一員ということになる。
しかし彼らは、そうは思っていない。
タイの人たちは、自分たちの歴史を、東南アジア全体から切り離して考えている。

日本史を東洋史と切り離してしまったところに、日本の歴史の悲劇性が潜む。
少し前も、ニセ石器に踊らされ、歴史の本そのものを書き換えてしまったことがある。
そのとき韓国の人たちは、こう言って笑った。
「日本に、韓国(中国)より古い歴史があるわけがない」と。

しかし日本史を東洋史の中に置いてみると、歴史観が一変する。
あの縄文時代にしても、弥生時代にしても、中国からの渡来民が深く関係している。
戦乱を逃れて、多くの民が、中国大陸から流れてやってきた。
そういう人たちが、大陸の文化を、日本に伝えた。

さらに天皇家のルーツにしても、そうだ。
少なくとも隣の韓国では、天皇家の祖先は、朝鮮からの騎馬民族ということになっている。
日本の天皇ですら、「ゆかり」という言葉を使って、それを臭わせたこともある。
しかし日本史を東洋史と切り離している間は、日本はいつまでも日本のまま。
日本が東洋と融和することは、ありえない。

●情報革命

が、悲観的なことばかり言っていてはいけない。
ここで人類は、第二の産業革命とも言える「武器」を手にした。
「情報革命」という武器である。

以前、恩師の田丸先生がこう話してくれたことがある。
「情報革命が進めば、国はなくなりますよ」と。

具体的にはこうだ。
「年々、向こうの若者たちが日本の若者と区別できなくなってきた」と。
「姿、容姿、着ている服装など、「区別ができない」と。
つまりそういう形で、国と国は融合し、やがて文明の対立も解消される、と。
言い換えると、いかにこの情報革命を利用するかという問題に行き着く。

昔は、隣町どうしが、言い争った。
それが県どうしになった。
それが国
さらに文明。

情報革命は、その間を融和させる。
言葉の問題もあるにはある。
しかしたった10年前と比較しただけでも、その進歩にはめざましいものがある。
たとえば私が発行しているHPにしても、外国の人たちが読んでいる。
その中には「米軍」というのもある。
まだ10%程度だが、「10%にしても、すごい!」。

情報革命が進めば進むほど、国どうしの垣根も低くなる。
文明の衝突も、起きにくくなる。
その例が、あのEUである。
ほんの65年前にははげしい戦争を繰りかえしていた。
が、今は、ひとつの国になった!

●文明の衝突

私たちが警戒しなければならないのは、偏狂な民族主義。
その台頭。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき、日本人のアイデンテティ」と説く。
しかし今、どうしてこの日本で、武士道なのか?
仮にそれが「道」であったとしても、それは武士の世界での話。
しかも武士の本質は、軍人。
軍人で悪いなら、官僚。
あるいは警察、役人、特権階級。
何でもよいが、ともかくも支配階級。

私たちの先祖の94、5%は、農民であり、わずかな数の商人、工人であった。
それを忘れて、「武士道」とは?
あの江戸時代にしても、世界でも類を見ないほどの暗黒政治の時代であった。
さらに戦陣訓を例にあげるまでもなく、一方的に礼讃するのはどうか?
「生きて虜囚の……」とかいう、あの戦陣訓は、武士道の精神を拝借している。
そのため、どれだけ多くの日本人が犠牲になったことか!
「負の遺産」に目を当てることもなく、武士道を礼讃するのは、危険なことでもある。

つまり私たちが偏狭な民族主義にこだわればこだわるほど、互いの文明の溝を深くする。
あのアインシュタイン博士も、田丸先生への手紙の中で、「exaggerated nationalism」
という言葉を使って、強く戒めている。
「exaggerated nationalism」、つまり「誇張されたナショナリズム」=「偏狭な
民族主義」ということになる。

●過去から学ぶ

こう書いたからといって、どうか、誤解しないでほしい。
私は何も日本の歴史を否定しているのではない。
歴史は歴史として、当然、評価されなければならない。
しかしここにも書いたように、その「負の遺産」に目をくれることもなく、あの封建時代
を一方的に、美化してはいけない。

もっと言えば、悲しいかな、私たち日本人は、かつてただの一度も、あの封建時代を
清算していない。
たとえば「明治維新」にしても、英語では、「Meiji Restoration」と翻訳されている。
英語で、「レストレーション」というと、「王政復古」をいう。
革命でも、何でもない。
つまり「王政復古」である。
そういうものをもって、日本は近代化の道を歩み始めたとか、さらには江戸時代を清算
したなどとは、思ってはいけない。

清算していないばかりか、ここにも書いたように、むしろ、それを美化している。
この静岡県でも、徳川家康の出身地ということもあるが、徳川家康について悪く書くのは、
いわばタブー視されている。
この静岡県では、敬愛の念をこめて、「家康公」と呼ぶ。

が、こういう姿勢では、私たちは過去から何も学ぶことはできない。
できないばかりか、へたをすれば同じような歴史を繰り返すことになる。
今の今も、国盗り物語よろしく、政治を、己の出世欲を満たすための道具として
利用している人は、いくらでもいる。

●過渡期

話を戻す。
平等という言葉がある。
しかし「平等」というのは、たがいに高い次元で、認めあうことをいう。
民族の融和にしても、さらには文明の融和にしても、その平等感覚がなければならない。

「わが民族は優秀である」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、相手に
向って、「あなたがた民族は劣っている」と思ってはいけない。
民族には上下はないし、今はもう民族をうんぬんする時代ではない。
むしろ問題なのは、その上の段階の「文明意識」ということになる。

もう一度、私が書いた、段階論を見てほしい。

家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)

つまり今は、(民族意識)から、(文明意識)への過渡期ということになる。
さらに進めば、(人間意識)→(生命意識)となるが、それはさておき、
この段階あたりで、ウロウロしている。
それがこの極東アジアでも、もろもろの紛争の火種となっている。

●では、どうするか?

言うまでもなく大切なことは、文明の融和である。
そのために第一に、情報の交換をする。

その国の内部の人たちは、外の世界を知る。
外の世界の人たちは、その国の内部を知る。
これを頻繁に、行う。

これができれば文明の融和はできる。
できなければ、できない。
ひとつの例として、あのK国を見ればよい。
今のこの時代にあって、情報を遮断している。
国外に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
国内に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
その結果、アインシュタインの言った、「exaggerated nationalism」だけが、
異常なまでに肥大化してしまった。

もうおわかりのことと思うが、私たちは、その逆のことをすればよい。
私たちは自分の考えていることを、外の世界に向って、どんどんと発信していく。
と、同時に、外の世界の情報を、どんどんと取り込んでいく。
その結果として、私たちは人間のレベルを、つぎのステージにもちあげることができる。

最後に、よく「インターネットは、第二の産業革命」と言われる。
それが最終的に評価されるのは、もう少し時代を経てからになるが、私はそう断言して
よいほど、インターネットには、秘められた力がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
民族意識 文明意識 民族主義からの脱却 インターネット 文明の衝突 誇張された
民族主義 はやし浩司 文明論 民族論)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

●13人の刺客

 江戸時代の末期においてさえ、主君にたてつくには、それ相当のエネルギーが必要で
あったはず。
「13人の刺客」の中では、暴君が弓矢で、子どもも含めて、打ち殺すというシーンが
出てくる。
つまり(流れ)としては、昔のチャンパラ映画そのもの。

 悪役の殿を徹底的に「悪」に仕立て、それに抵抗する武士を美化する。
忠臣蔵でも、吉良上野介を徹底した「悪」に仕立てている。
そして最後は、善人対悪人の一騎打ち。
つまりその(流れ)があまりにもありきたりだったので、かえって興ざめしてしまった。

 もっとも映画の主題は、もっと別のところにあったよう。
「切って、切って、切りまくれ!」と。

 が、そのシーンが長すぎた。
13人に対して、相手は200人。
それはわかるが、切っても切っても、つぎつぎと新手の侍が現われる。
そのシーンがうんざりするほど、長くつづく。
あの映画を観て、スカッとしたという人は、まずいない。
泥まみれ、血まみれ……。
最後は糞まみれ(?)。

 ……昔の話をしてはいけない。
しかし三船俊郎の『七人の侍』はよかった。
市川雷蔵の『忍びの者』はよかった。
勝新太郎の『座頭市』はよかった。

 今回、『13人の刺客』を観て、日本のチャンパラ映画が、かえって後退してしまった
かのように感じた。
そういう点では、残念な映画だった。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【幼児(5、6歳児)に「負」の数を教えることができるか?】Oct 2010

BW実験教室よりの報告byはやし浩司 Hiroshi Hayashi @ BW Children's Club Hamamatsu 
Japan

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

+++++++++++++++++++++

幼児に正負の数の概念を教えることができるか。
幼児は負の数の概念を理解できるか。
それを実験的に指導してみました。
で、結果は……
前回の「分数の指導」と同じく、大成功!、でした。

(「早取り教育では?」と疑われる方も多いかもしれません。
しかしけっして早取り教育ではありません。
ビデオを観ていただければ、それがわかるはずです。
むしろ逆で、現在の固定化した幼児教育観のほうが、
おかしいのではないでしょうか。
幼児のもつ可能性をつぶしてしまうことにもなりません。
そんなこともこのビデオを観て、わかっていただければ、
うれしいです。)

幼児は決して幼稚ではありません。
幼児だから、脳の構造も幼稚と考えるのはまちがっています。
大切なのは、どう教えるか、(能力を引き出すか)、ですね。
このビデオを(1)から(4)まで、順に観てください。
みなさんがもっている幼児に対する見方が、変わると確信しています。

なお時間の関係で、途中からやや荒っぽいレッスンになりました。
あと10〜20分、時間があれば、(−5)+(+3)の計算も
できるようになったはずです。

はやし浩司
BW教室、浜松

詳しくは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より(公開教室)→(2010度版)→(10月号)へとお進みください。
楽しいですよ!
子どもたちの生き生きとした学習風景を、お楽しみください。

【html版】

(1)
http://www.youtube.com/watch?v=ZcSkLPtYxQs
(2)
http://www.youtube.com/watch?v=cEJJly0siMQ
(3)
http://www.youtube.com/watch?v=BGMloiLGVz4
(4)
http://www.youtube.com/watch?v=SFXGUaKgDbg

++++++++++++++++++++++

【幼児に負の数を教える】

(1)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/ZcSkLPtYxQs?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/ZcSkLPtYxQs?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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(2)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/cEJJly0siMQ?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/cEJJly0siMQ?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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(3)

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v/BGMloiLGVz4?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/BGMloiLGVz4?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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(4)

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v/SFXGUaKgDbg?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/SFXGUaKgDbg?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児と負の数 正負の数の指導 幼児に負の数の概念が理解できるか 負の数
の概念 指導法 幼児教育 負の数の指導法)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【子どものウソ】(ウソともまし)


●子ども・雑感


 今朝は、思いつくまま、いろいろ書いた。
それからちょうど12時間。
夕食を終え、今は自宅の居間の中。
先ほど、ウォーキングマシンで30分、歩いた。
寝る前に、もう1度、20分、歩く。


●おとなを操る子ども 


 子どもはウソをつかないというのは、ウソ。
概して言えば、子どもはよくウソをつく。
ウソをつくことで、おとなの優位性を破ろうとする。
おとなを操る。
年齢的には、2歳前後。
ウソ寝、ウソ泣きから始まる。
年齢と共に、巧妙になる。
たとえばこんなウソ。


子ども(小3男児)、私に向かって、「ママが、林先生(=私)は、教え方が
デタラメと言っていた」
私「・・・。それが本当なら、今すぐ君のお母さんに電話をかけて、確かめてみる」
子ども、血相を変えて、「ヤメテエ! それだけはヤメテエ!」と。


 反対のことを母親に言っているのだろう。
こうしたウソには、双方向性がある。
「君のお母さんは、威張っていると林先生が言っていた」とか、何とか。
つまり子どもは、私と母親の間に立ち、自分のつごうのよいように、
私と親の双方を操る。


●もまし屋


 2人の間に入って、それぞれに相手の告げ口をする。
そういう形で、双方を離反させる。
「もまし」という。


AさんにはBさんの告げ口をする。
「Bさんがね、あなたのことをインチキと言っていた」と。
BさんにはAさんの告げ口をする。
「Aさんがね、あなたのことをズルイ人と言っていた」と。


 実際には、もっと巧妙な告げ口をしかける。
ふつうの会話にワナをしかけながら、相手を怒らせる。
怒らせながら、仲たがいをさせる。


 言うなれば悪魔のような心をもった人ということになる。
そういう人は少なくない。


●原因


 が、ここでの問題は、そういう人が、なぜそうなるかということ。
そのひとつのヒントが、先にあげた子どもにある。
抑圧された状態が長くつづくと、子どもの心は悪魔的になる。
「悪魔的」といっても、定型はない。
さまざまな形で、悪魔的になる。
イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
要するに、「心がゆがんだ子ども」になる。


 先に書いた子どもは、もちろん架空の子どもである。
しかし例としては、少なくない。
10人もいれば、1人や2人はいる。
ひょっとしたら、あなたの子どももそうかもしれない。
このタイプの子どもほど、親の前ではいい子ぶる。


●もまし


 「もまし」と言う言葉を、しかし私は最近まで知らなかった。
若い人たちの間では、常識的な言葉という。
そして私自身が、その「もまし」で、ひどい経験をするまで、それを
(もまし)とは気づかなかった。


 悪魔的な心をもった人は、そうして互いを離反させながら、それを楽しむ。
ふつうなら、告げ口は卑怯な人が使う手口。
そう考える。
私も子どもたちがだれかのことで、告げ口をしそうになると、すかさず、
それを止める。
「聞きたくない」と。


 しかし相手がおとなだと、そうはいかない。
そのまま聞いてしまう。
そしてその人の意図とは別に、話の中に出てくる人を、悪い人と思ってしまう。
「林さん(=私)、あのXさんね、あなたが送った歳暮をね、ケチなものだった
と言って笑っていましたよ」とか、など。


 こういう話を聞いても、直接、相手に確かめることはできない。
しかしウソと決めつけ、それを無視することもできない。
不快感だけが、あとにズシリと残る。
これが(もまし)の手口である。


●相手にしない


 こうした子どものウソについても、(もまし)についても、相手にしない。
無視。
(もまし)をする人物とは、つきあわない。
つきあえばつきあうほど、相手の深みにはまってしまう。
また子どものウソについては、無視。
叱っても脅しても、意味はない。
親に話しても、無駄。


 が、そこまで子どものウソを深く考えることができる親は、まずいない。
以前、この種のウソを平気でつく子どもがいた。
そこである日、そのことを父親に告げると、父親は逆に私に食ってかかってきた。
「貴様は、自分の生徒を疑うのか!」と。
子どものウソのほうが、私より一枚、上手(うわて)だった。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 もまし もまし屋 子どものウソ おとなを操る子ども 告げ口 はやし浩司 つげ
口)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●親子の逆転現象


 先日、ある父親がこう言った。
「うちの息子がね、結婚するとなったときのこと。
私に結婚式の費用を出してくれと言ったんですね。
それで私が、少しは出せるが、全額は無理だと答えると、息子のやつがね、
こう言いました。
『結婚式の費用くらい、親が出してくれてもいいじゃないか!』とね。
今は、そういう時代ですかね」と。


 たしかに今は、そういう時代。
たとえば親子の連絡がしばらく途絶えたとする。
それについて、怒るのは、息子や娘のほう。
「一度くらい、心配して、電話くらいくれてもいいじゃないか!」と。
親が息子や娘に対して、そう言うのではない。
息子や娘が、親に対して、そう言う。


 こういうのを本末転倒という。
親子について言えば、「親子転倒」、あるいは「子親転倒」。
私が若いころは、まったくの逆だった。
息子や娘のほうが心配して、親に電話をかけたりした。
盆や暮れには、親にあいさつに行った。


 が、今はちがう。
先にも書いたように、親子の関係が逆転した。
親が息子や娘のところに、あいさつに行く。
こうした逆転現象は、あちこちで見聞きする。


 若いAさん夫婦は、毎週土日を、近くの実家で過ごす。
親のめんどうをみるためではない。
食費を浮かすため。
子ども(孫)を親に預けて、遊びに出かけるため。
息子や娘が、親を温泉にでも招待するというのではない。
自分たちの時間を作るため、子どもを親に預ける。


 が、息子や娘たちには、「逆転している」という意識はまったくない。
それが「常識」と考えている。


●高度成長期の波の中で……


 私がこうした逆転現象を感じ始めたのは、すでに35年近くも前のこと。
時、折しも、この日本は稿で成長の波に乗り、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで世界の
富を集め始めていた。


 すべてが金(マネー)、金(マネー)の時代だった。


 そういう中、おかしなふうに考える親がふえ始めた。
「子どもを愛するということは、子どもに楽をさせること」
「子どもを大切にするということは、子どもに楽しい思いをさせること」と。


 だから長男、長女が生まれると、それこそ蝶よ花よと、手をかけた。
時間をかけた。
お金をかけた。
結果、ドラ息子、ドラ娘がどっと世に出てきた。
それまでは一部に過ぎなかった子どもが、この日本で主流を占める
ようになった。


 が、それから35年近く。
そのころの子どもが親になった。
つまりこの問題は、すでに2世代前の話。
根が深い。
ある母親は、こう言った。
「先生は、ドラ息子の話をしますが、私たち夫婦が、そのドラ息子、ドラ娘です。
どうしたらいいでしょうか」と。


 この話とて、もう15年も前のことである。


●考えなおそう!


 2世代かかって、日本はそうなった。
だから「正す」としても、この先、2世代はかかる。
たとえば内閣府(平成21年)の調査によれば、「将来、どんなことをしてでも
親のめんどうをみる」と考えている日本の青年は、たったの28%


 イギリスの若者……66%
 アメリカの若者……64%、という数字と見比べてみてほしい。


 こうした現実を、いったいどれほどの日本人が気がついているのか。
さらに言えば、子どもが行方不明になれば、親は血眼になってさがし求める。
しかし今は、逆。
親が行方不明になっても、大半の子どもは知らぬ顔。
こういう逆転現象がよいとは、だれも思っていない。


●ある相談より(「ファミリス」掲載済み)


 話がぐんと現実的になるが、先日、こんな原稿を書いた。
ひとつの参考になればうれしい。
この原稿のしめくくりとしたい。


+++++++++++ある父親の相談に答えて++++++++++++++


相談:中学3年生の父から
 いよいよ長男が受験の年ということで、夫婦共々肩に力が入ってしまうのか、さ細なことも受
験に結びつけてしまい、あれこれと口を出してしまいます。
 自分が中3のときにどうだったか考えれば、そっと見守るのがいちばんだとはわかっている
のですが……。受験期の親はどうあるべきか? アドバイスをください。


A:ある父親は事業に失敗。そこで高校生になった娘に、「大学進学はあきらめてくれ」と。が、
この言葉に娘は猛反発。「ちゃんと親としての責任を取れ!」と。


そこで私が割って入ると、その娘はこう言いました。「私は子どものときから勉強しろ、勉強しろ
と、そんなことばかり言われてきた。それを今になって、あきらめてくれと、どうしてそんなことが
言えるの!」と。


 内閣府(平成21年)の調査によれば、「将来、どんなことをしてでも親のめんどうをみる」と考
えている日本の青年は、たったの28%(イギリス66%、アメリカ64%)。


 そこで本題。子育てが終わると同時にやってくるのが、老後。今のあなたは「下」ばかり見て
いるから、自分の老後がわからない。長男の受験の心配より、自分の老後の心配をしなさい。
へたに「勉強しろ!」「塾へ行け」などと言おうものなら、あとあと責任を取らされますよ。


しかも一度大学生として都会へ出すと、まず地元には戻ってこない。中には「親のために大学
へ行ってやる」と豪語する高校生すらいます。感謝の「カ」の字もない。


あとは(独居老人)→(孤独死)。今のままでは、あなたもそうなります。そこで教訓。長男が、
「大学(高校)へ行かせてください」と3度頭をさげるまで、学費など出さないこと。口も出さない
こと。…というのは無理かもしれませんが、そうしたき然とした姿勢が、かえって親子の絆を太く
します。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の暖かい子供 心の温かい子供 冷たい子供 冷たい子ども)



Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

●情報の洪水の中で……

【NIKKEI・生き生き健康より】

+++++++++++++++

今朝(10月13日)は、『NIKKEI・生き生き健康』から読み始めた。
http://health.nikkei.co.jp/hsn/hl.cfm?i=20101007hk000hk
タイトルだけ、並べさせてもらう。

+++++++++++以下、NIKKEI・いきいき健康++++++++++++

■認知症の早期発見は医師よりも身近な家族や友人のほうが優れる
■ティーンエイジャーはスポーツ飲料が健康的であると誤解
■遺伝子組み換えサケのラベル表示を消費者らが要求
■インフルエンザ予防接種で心臓発作リスクが軽減
■放射線被曝により2次癌(がん)リスクが増大
■女性アスリートの腱損傷にエストロゲン値が関連
■基礎体力テストで死亡リスクを予測
■若い親や子どもの誕生から1年以内の親はうつ病になりやすい
■骨粗鬆(しょう)症薬の長期使用が食道癌(がん)に関連
■減量薬で心臓発作リスクが増大
■癌(がん)予防にはサプリメントよりも健康的な食事を
■慢性疲労症候群にウイルスの関与を示す新たな証拠
■物資が乏しい国でも安全な手術が可能−国境なき医師団
■ノート型パソコンによる損傷に注意
■ストレスが妊娠を妨げる
■7〜8歳で思春期の始まる女児が増加
■地面を掘らずに死体を発見できるデバイスを開発
■音楽を聴きながらの勉強は学習効果を妨げる
■一般消費者向けの遺伝子検査の問題点
■カルシウムサプリメントにより心臓発作リスクが増大
■うつ状態の人は灰色の世界を見ている
■PTSDのピークは男女で異なる
■ヒトの精子遺伝子は6億年変化していない
■自殺未遂の手段がその後の自殺の予測因子に
■夏場のネコの細菌感染症はヒトへの感染の危険も
■レディー・ガガを真似たコンタクトレンズに米国眼科学会が警告
■円形脱毛症に遺伝子が関連−新しい治療法に道開く可能性
■公共交通機関の利用が体型維持に有効
■ペットも睡眠中に過去の出来事の夢を見る
■経験不足の女性アスリートは重大な健康リスクに要注意
■サッカーワールドカップの応援でメンタルヘルスが向上
■10代男子で血圧値が正常域でも早期に高血圧発症の危険性
■高齢の父親から生まれた子は非ホジキンリンパ腫のリスクが高い
■ストレス緩和プログラムが乳癌(がん)再発患者に有用
■米国少女のHPVワクチン接種率は3人に1人
■ネット販売されるED薬は危険
■土壌中の細菌が学習能力を向上させる
■合唱で過敏性腸症候群が軽減する可能性
■男性と女性の脂肪は遺伝的に異なる
■高齢者やうつ病患者は美容形成術の満足度が高い
■若い男性と結婚した女性は早く死亡する
■勃起不全(ED)治療薬が脳腫瘍治療を手助け
■配偶者がアルツハイマー病になると自身の発症リスクも高い
■40歳未満の若年女性ではマンモグラフィの有効性は高くない
■ゲノムスキャンで将来の健康リスクがわかる
■玄米や胚芽米は心臓の健康によい
■米北西部で発見された致死性の空中浮遊真菌が拡大の可能性
■女性の肺癌(がん)増加に遺伝子、エストロゲンが関連
■女性版バイアグラの研究が前進
■血糖インデックスの高い炭水化物の摂取は女性の心疾患リスクを増大させる
■3D映画に酔う人もいる
■果物、野菜を多く摂取しても癌(がん)リスクへの効果は小さい
■癌(がん)研究に参加する小児は十分な説明を受けていない
■自宅でできるSTD検査を女性は歓迎
■重度の月経痛を緩和する新薬が臨床試験中
■「最後の晩餐」に見る食事量の変遷
■リハビリプログラムにより腰痛患者の仕事復帰が早まる
■癌(がん)に関する記事はポジティブな成果に焦点を当てる傾向
■ジャンクフードの消費は価格に影響される
■適度な飲酒は女性の体型維持に有用
■腸内細菌が肥満を促進する
■緑内障の初期徴候は眼内ではなく脳に現れる
■膵癌(がん)治療の新しい標的が明らかに
■小児が窒息しやすい食品の形状見直しを小児科医らが要請
■アスピリンにより乳癌(がん)生存率が高まる
■医療ドラマの痙攣(けいれん)発作への対応には誤りが多い
■スエットロッジや蒸し風呂でデトックスはできない
■炭酸飲料を多く飲むと膵癌(がん)リスクが高まる
■ヒトのペースメーカーをイヌでも活用
■ナノファイバーゲルで軟骨の損傷を修復
■70歳以上で過体重の人は寿命が長い
■ランニングには裸足が最適?
■「プラズマジェット」で痛くない虫歯治療
■"リンゴを食べれば医者いらず"のことわざの理由が明らかに
■医薬品の通信販売が服薬遵守に有用
■嗅(きゅう)覚の低下はアルツハイマー病の早期徴候
■自分の食事の速さを知ることが肥満児の減量に有効
■昆虫細胞を利用したインフルエンザワクチンに有望性
■高齢者では腹部手術後のリスクが高い
■母親の職業と先天性欠損リスクの増大に関連性
■色の濃い酒ほどつらい二日酔いをもたらす
■見た目が若い人は長生きする
■モーツァルトの音楽が早産児の成長を速める
■尿検査で小児の睡眠時無呼吸を診断
■エラストグラフィで乳癌(がん)生検の必要性が減少
■若年成人期の運動は知能を向上させる
■職場での怒りをため込むと心臓発作リスクが倍増
■癌(がん)患者の多くが睡眠障害に悩む
■魚食の便益は調理法に左右される
■"女性用バイアグラ"の効果が示される
■癌(がん)が結婚生活を破綻へ追いやる
■近視レーザー手術は長期的にも安全
■うつ病患者は身体症状に関する記憶が不鮮明
■高塩分食、人工甘味料使用炭酸飲料が腎障害に関連
■週末に遅くまで寝ている小児は肥満になりにくい
■吸引した脂肪の乳房増大術への使用に問題なし
■コーヒーがC型肝炎の進行を遅らせる
■体外受精の成功率向上に胚の代謝評価が有用
■携帯電話と脳腫瘍の関連が示される
■禁煙ワクチンの研究が進行中
■体内時計が血糖コントロールに強く関連
■新型インフルエンザ−春に流行した都市では秋の流行が小さい
■先進国の赤ちゃんの半数は100歳まで生きる
■死亡前のマイケル・ジャクソンは健康だった
■季節性インフルエンザワクチンは成人では鼻腔スプレーよりも注射が有効
■"ファンシー"なコーヒー飲料のカロリーに注意
■飼い犬の分離不安
■米国で昨年830万人が自殺念慮を抱く
■アレルギー性鼻炎が性生活に悪影響を及ぼす
■セリ科のアギがインフルエンザ薬として有効
■口紅に含まれる鉛はこれまでの報告より多い
■助産師による自宅出産の安全性は病院と同等
■アスパラガスが二日酔いを軽減
■膵癌(がん)に血流代謝ミスマッチが認められる
■マイクロ針の皮膚パッチで痛みのない「注射」が可能に
■海の生物にヒントを得た新しい骨接着剤
■睡眠時間が少なくても大丈夫な人もいる
■腎提供者の性別がレシピエントの予後に影響
■A、B、AB型血液者は膵癌(がん)リスクが高い
■生体工学によりマウスで歯を再生
■クラミジア尿検査は男性でも有効
■日照時間が少ないとうつ病患者の認知力が低下
■幹細胞を利用した "生物学的ペースメーカー"
■ニューヨーク市のトランス脂肪酸対策は成功
■視力矯正の新たな選択肢
■幼児を車に残すのは常に危険
■肩関節置換術でスポーツへの完全復帰が可能に
■せん妄に対する新しい治療法の必要性が明らかに
■FDAが禁煙補助薬2剤に警告表示を要請
■患者自身の幹細胞を用いた心筋梗塞治療を初めて実施
■性的な健康問題を抱える米国女性は3分の2に上る
■長期記憶には睡眠中の記憶再生が不可欠
■腎移植待機中の60歳以上の約半数が移植前に死亡
■血圧カードの携帯が血圧管理に大きな効果
■赤ワインの健康効果の機序が明らかに
■非肥満者でも首回りのサイズが睡眠時無呼吸の重症度に影響
■Wiiのスポーツゲームはある程度の運動効果をもたらす
■新たな現代病「携帯電話ひじ」

+++++++++++以上、NIKKEI・いきいき健康++++++++++++

●情報の洪水

 こうまでズラリと情報が並ぶと、どれから読んでよいのかわからなくなる。
2つ、3つを選んで読んでみるが、脳の中で消化される前に、つぎの情報に関心が
移っていく。
が、これでは情報に振り回されるだけ。
2、3拾ってみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

★若い親や子どもの誕生から1年以内の親はうつ病になりやすい

 子をもつ親の多くが、子どもが12歳になるまでにうつ病を経験しており、子どもが生まれてか
ら1年間は特にそのリスクの高いことが、英国の研究で示された(一部抜粋)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

★7〜8歳で思春期の始まる女児が増加

 米国では女児における思春期の始まる年齢低下が続いており、多くの女児において7〜8歳
で乳房の発達がみられることが新しい研究で示され、医学誌「Pediatrics(小児科学)」オンライ
ン版に8月9日掲載された(一部抜粋)。

が、その中でも、とくに関心をひいたのが、つぎの記事。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

★米北西部で発見された致死性の空中浮遊真菌が拡大の可能性

先ごろ米オレゴン州で発見された致死性の空中浮遊真菌株が、まもなくカリフォルニア州にも
拡大する可能性があると、科学者らが警告している。 

 オレゴン州では、この新しい遺伝子型(VGIIc型)のクリプトコッカス・ガッティ(Cryptococcus 
gattii)の感染により数人が死亡している。太平洋岸北西部で発生した21症例を研究者らが分
析した結果、この真菌株による死亡率は約25%であった。 

 「この新しい真菌が恐れられているのは、他に疾患のない健康な人にも脅威となる可能性が
あるためである。通常、移植手術を受けた患者やHIV感染患者にはこの真菌症がみられる
が、現在発生している症例はこれに当てはまらない」と、著者である米デューク大学(ノースカ
ロライナ州)メディカルセンターの大学院生Edmond Byrnes 3世氏は述べている。 

 このC. ガッティ株は極めて危険であるため、研究グループは注意と警戒を強めるよう呼びか
けている。症状は、曝露から2カ月〜数カ月後に現れることもあり、数週間続く咳(せき)、鋭い
胸痛、息切れ、髄膜炎による頭痛および体重低下などがみられる。動物では鼻水、呼吸障
害、神経系障害および皮下腫瘤などの症状が認められている。治療は可能であるが、予防す
るワクチンはないという。この研究は、オンライン医学誌「PLoS Pathogens(病原体)」に4月22
日掲載された(以上、NIKKEI・生き生き健康より)。

●映画『バイオハザード』の世界

 やがて日本でも話題になるのだろう。
(すでにこうして話題になり始めているが……。)
が、「空中浮遊真菌株」とは何か。
「空中浮遊」というのは、わかる。
しかし「真菌株」とは何か。

●真菌株

 わかりやすく言えば、「カビ」のこと。
ナショナル・ジオグラフィック社のHPは、それについて詳しく記事を
書いている。
そのまま紹介させてもらう。

+++++以下、ナショナル・ジオグラフィック社HPより+++++

●真菌の恐怖

 記事をまとめさせてもらう。
これは情報の洪水の中で溺れないため。
要するに、強毒性のカビが現われ、それが全世界的に広がりつつあると
いうこと。

(1)猛毒の真菌、アメリカですでに6人死亡している。
(2)健康な人々を襲い、地理的に拡大しつつある。
(3)この真菌に感染すると、数カ月の潜伏期間を経て、主にひどい咳や息切れなどの症状が
起きる。
(4)ただ幸いなことに、ウイルス感染と異なり、真菌による感染症は人から人に伝染しない。
(5)致死率は、25%
(6)人から人への感染はない。
(7)防ぐ方法はないが、治療法は一応、ある。

●どう対処すべきか

 問題は、真菌株のことではない。
問題は、情報の洪水に対して、どう対処すべきか。
強毒性の真菌株も恐ろしいが、いちいち気にしていたら、日常生活が
マヒしてしまう。
ま、そのときは、そのとき……と、ここは割り切るしかない。
幸い抗生物質による治療法もあるようだ。
(死亡率が25%というのも、気になるが……。)
ただそういう恐ろしい病気が、アメリカを中心に広がりつつあるということ。
日本へ上陸するのは、時間の問題ということらしい。
それを脳みその一部に、たたき込んでおく。
私たちが取れる対処法としては、それしかない。

 残りの情報については、タイトル(見出し)を読んだだけで、おおよその
内容が把握できる。
常識的な範囲で、注意すれば、それでよい。

 それにしても情報、また情報……。
情報が多いのはよいことだが、大切なのは、先にも書いたようにそれをどう
脳みその中で消化していくかということ。
つまり自分で考え、自分でどう判断をくだしていくかということ。
いちばんよいのは、それについて、自分の意見なり感想を書くことだが、
現代人には、その時間もない。
ネットであちこちをのぞくたびに、その情報が、倍、倍……とふえていく。

 よく誤解されるが、(情報量が多いこと)イコール、(賢い)ということ
ではない。
情報に振り回されるようになると、むしろ人間はかえってバカになっていく。
大切なのは静かに考える時間。
その時間を、どう自分の生活の中に作っていくかということ。
その習慣のある人を、「賢い人」という。

 今朝は、いちばんに、そんなことを考えた。

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はやし浩司 強毒性の真菌株 カビ かび 情報の洪水 賢い人 習慣の問 はやし浩司 考
える習慣づくり)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【最高の着陸】(風に乗って、音もなく)

●ダニエルK

 しばらく前、オーストラリアの友人が、日本から帰った。
名前を、ダニエルKという。
学生時代からの友人で、長い間、モナーシュ大学の図書館の司書をしている。
日本で「司書」というと、図書館の係員のように思う人もいるかもしれない。
しかし実際には、教授扱い……というか、教授たちを指導する立場にいる。
その彼が、先月(2010年9月)、北京での学会のあと、日本へ立ち寄ってくれた。
私の家で、しばらく過ごしてくれた。

●ジョンL

 私には、もう1人、仲がよかった友人がいた。
名前を、ジョンLという。
どう仲がよかったかというよりも、いつも私はジョンLといっしょにいた。
ジョンLは、私をあちこちへ連れて歩いた。
オーストラリアでの学生生活は、ジョンLといつも一緒だった。
私はジョンLを通して、オーストラリアを知った。
オーストラリアの自由を知った。
私には、オーストラリアの学生生活、イコール、ジョンLと言っても過言ではない。

●What are you!(お前ら何だ!)」

 ダニエルKとの出会いは、衝撃的だった。
私がメルボルン大学のカフェテリア(食堂)で、食事をしているときのこと。
私はテーブルで、5、6人のオーストラリア人の学生たちに取り囲まれてしまった。
それぞれが、スプーンでテーブルを叩き、私に「あっちへ行け!」と合図した。

 まだアジア人への人種偏見のはげしい時代だった。
私は体を前に倒し、食事をつづけた。
テーブルを叩く音は、さらにはげしくなった。
そのときのこと。
私の横にダニエルK君が座った。
身長は1メートル90センチを超えた大男である。
体重も100キロはあった。
その彼が、こう一喝した。
「What are you!(お前ら何だ!)」と。
とたん、5、6人の学生たちは、席を離れて、どこかへ行った。
ダニエルK君と、ジョンL君は、同じオリエンタル・スタディズ(東洋学部)
に籍を置いていた。
それまで私はダニエルK君とは、話をしたことはない。
しかしダニエルK君は、遠くで私を見ていた。
私もダニエルK君のことは知っていた。

●オーストラリアの学生生活

 それをきっかけに、私はダニエルK君と、親しくなった。
間にジョンL君をはさんで、ともに行動したことも多い。
……というか、私は彼らの仲間に入った。

 グレゴリ−K、ジョナサンK、アランP……。
今でも彼らの名前をスラスラと言える。
同時に、彼らの顔が、そこにある写真のように、脳裏に浮かんでくる。
もう1人、ハリーHもいた。
みんな仲間だった。
どこかへ行くときは、ジョンLの古いホールデンの車か、ハリーの
ミニ・クーパだった。
ジョンLは、……そういうオーストラリア人には多かったが、車が好きだった。
自分でも「ぼくは、車のマニア」と言っていた。

●日本で

 それからもいろいろあった。
私には最高に楽しい日々だった。
ジョンLとの1日を、それまでの1年のように長く感じたこともある。
見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
ジョンLにしても、そうして私を驚かすのが、楽しかったのかもしれない。

 そのジョンLは、私が日本へ戻ると、私を追いかけるようにして、日本へやってきた。
東京の渋谷に住んだ。
ジョンLは、どこかの英会話教室で、講師を始めた。
今とちがい、東京でも外人の講師は珍しかった。
月に100万円以上もの収入を稼いでいた。
大卒の初任給がやっと6万円(三井物産)を超えた時代である。

●ウソ

 それまでにも一度、ジョンLを怒らせたことがある。

 ある日のこと。
大学の通路で、ジョンLに声をかけられた。
「いっしょに食事をしないか?」と。
それはとっさの会話だった。
私は反射的に、「今、食べてきたところだ」と。

 これは和製英語だった。
私が生まれ育った郷里では、そういう言い方のあいさつをする。
深い意味があるわけではない。
とくに昼食は、軽くすませるという習慣がある。
「飛騨の昼茶漬け」という言葉すら残っている。
つまり会話として、「(うちで)飯を食べて行かないか?」と声をかける。
それに答えて、そう声をかけられたほうは、たとえ腹がへっていても、
「今、食べてきたところだ」と答える。
まちがっても、「じゃあ、いただきます」などとは、言わない。
言ってはいけない。

 同じ会話が、そのまま私の口から出てしまった。
「今、食べてきたところだ」と。
和製英語というのは、それをいう。

 が、その直後、私は別の友人たちと、カフェテリアで食事をしていた。
それを見て、ジョンLは、怒った。
ものすごく怒った。
「どうしてこんなことで怒るのだろう」と私が思うほど、怒った。
オーストラリアでは、つまりオーストラリア人の間では、ウソは許されない。
それを知ったのは、それからしばらくしてからのことだった。

●「ヒロシ、オーストラリアへ帰ろう」

 私は三井物産という会社をやめ、ジョンLの家に寝泊りするようになった。
居心地はよくなかった。
めんどうをみなければならない私のほうが、めんどうをみてもらっていた。
が、ジョンLは親切だった。
学生時代のままだった。
私が浜松に住むようになってからも、よく浜松へ来た。
私も東京へ行くたびに、ジョンLの家に泊まった。
彼はいつもこう言った。

 「ヒロシ、オーストラリアへ帰ろう」と。
「この国は、君には合わない」とも。

 が、そのころすでに私は浜松で仕事を始めていた。

●決別

 そのジョンLと決別する日がやってきた。
ジョンLがある日、私を東京へ呼びつけた。
「どうしても会いたいから、すぐ来てほしい」と。

 私が東京へ行くと、彼は自分の症状を訴えた。
私はすぐ彼を、泌尿器科のある医院へ連れて行った。
診断名は、梅毒(VD)だった。

 幸い1回の注射で症状は消え、2、3日もすると、ジョンLは
もとのように元気になった。
が、それからしばらくしてからのこと、ジョンLは、ものすごい剣幕で私に怒鳴った。
「どうして君は、ぼくがVDだったということを、人に話したのだ!」と。

 私には記憶はなかったが、どこかで「ジョンLはVDだ」と
言ってしまったのかもしれない。
それがジョンLの仲間の間で、またたく間に広がってしまった。
とくにジョンLと親しかった、ガールフレンドのサトミに与えたショックは
大きかった。
それが原因で、ジョンLとサトミは別れた。

●浜松で

 以来、ジョンLは、私のもとを去り、一切の音信が途絶えた。
私も浜松に居を構え、東京のジョンLのもとに行くことはなかった。
さみしかったが、それ以上に日々の生活に追われた。

 私はお金になることは、何でもした。
職業を聞かれたときほど、困ったことはない。
8時半から午後2時までは、幼稚園で講師として働いた。
が、それ以外は、真夜中まで働いた。
翻訳、通訳、代筆、テレビ(日テレの11PM、NETのモーニングショー)
の企画などなど。
貿易の顧問もしていた。
テレビ静岡というテレビ局で、英会話の講師もしていた。
ほかに進学塾の講師、家庭教師もしていた。
その間を縫って、毎週のように香港、台北、シンガポールへと飛んでいた。
ブラジルへ宝石の買出しに行ったこともある。
通訳として南米を回ったり、イタリアへ行ったこともある。
まだ20代のはじめのころで、海外旅行が珍しかった時代である。
日本はまだ貧しかった。

 ジョンLのことを、私は忘れた。

●消息

 そのジョンLの話になった。
私とジョンLの関係を、ダニエルKもよく知っていた。
だからたがいに口が重かった。
しかしのどに詰まった石を押し出すように、私は聞いた。
「ジョンLは、どうしている?」と。

 するとダニエルKは、こう言った。
「ヒロシ、ジョンLは、もう死んでいると思うよ」と。

 ときどきジョンLのHPをのぞいていた。
が、2003、4年ごろを境に、HPの更新が止まったままだった。
その最後のHPで、ジョンLが、イギリスまで行き、ロータスの
レーシングカーをまとめて10台買ったという話を書いていた。
1台が1億1000万円だったという。

 ジョンLは、その後、つまりオーストラリアへ戻ってから、
いろいろなビジネスを繰り返し、40歳のはじめころ、一度、全豪一の富豪に
選ばれている。
折からの日豪ブーム。
日本はバブル経済に踊った。
その2つの国の間を行き来しながら、宝石商として成功した。

私「死んだって?」
ダ「そう。彼は学生時代から、体が弱かった」
私「知らなかった……」
ダ「知らないだって? 君は彼の体を見たことがあるだろ?」
私「体って?」
ダ「彼の胸は、大きく内側にくぼんでいた」と。

 私はそれが白人の体型と思っていた。
似たような体型をした友人は、ほかにもいた。
が、ある種の奇形病だった。
そのため肺臓と心臓が、大きく圧迫を受ける。

ダ「それに彼は、たいへんなヘビースモーカーだった」と。

●三男のこと
 
 昨年(2009年)、三男は結婚した。
どこかあわただしい結婚だった。
それもあった。
「とりあえず籍だけは入れる」というような結婚だった。
私とワイフは、「あわてなくてもいいのに」と、何度も言い合った。

 横浜にある横浜国大を、センター試験2位の成績で入学した。
東大の医学部ですら入れた成績である。
「将来は、宇宙船の設計士になる」が、三男の夢だった。
「その講座のある、横浜国大に」と。
それで横浜国大にした。

 が、2年もすると今度は、大学を中退して、パイロットになると
言い出した。
「宮崎にある航空大学に入る」と。

 当時何かのトレンディドラマがあったらしい。
パイロットのドラマだった。
そのこともあって、競争倍率は60倍にはねあがっていた。
私は無理だろうと思っていた。
が、三男はそれに合格した。

●夢

 その三男の話をつづける前に、私は山本Yさんの話をしなければならない。
金沢大学の1年先輩で、同じ合唱団に属していた。
その山本Yさんは、2年が終わると、やはり宮崎の航空大学へ入学している。
そのあとを、私も追うつもりだった。
しかし身長が足りなかった。
眼鏡をかけているのも、まずかった。

 飛行機というのは、外人の身長を基準にして作られている。
身長が足りないと、天井のスイッチに手を触れることもできない。
「175センチ以上」という受験規定も、そのためにあった。

 私はときどき山本Yさんと、文通をした。
その山本Yさんは、航空大学を卒業すると、日本航空(JAL)へ入社した。
(途中で中退し、日本航空の専門課程に進んだのかもしれない。)
今とちがい、1、2年で副機長(コーパイ)に昇格できた。
が、ここで音信は途絶えた。

●山本Yさん

 三男の航空大学への入学が決まると、私は三男にすぐ、山本Yさんと
連絡を取るようにと指示した。
当時山本Yさんは、60歳前。
そのままなら、山本Yさんは、かなりの立場になっているはず。
それにだれよりも、私の息子の入学を喜んでくれるはず。
そう思った。

 しかし三男の返事はいつも同じだった。
「そんな人は、いないよ」
「卒業者名簿にもないよ」と。

 私は「そんなはずはない。さがして連絡を取れ」と何度も言った。

●結婚

 三男は、結局横浜国大に3年、籍を置いた。
3年のとき、オーストラリアのフリンダーズ大学に、1年間、転入。
そのあと日本に戻り、航空大学へ。
そこで2年間過ごしたあと、山本Yさんと同じ、JAL(日本航空)へ入社。
しばらくして、カルフォルニアのNAPAにある訓練学校へ。

 帰国してから、JALの再建騒動に巻き込まれ、パイロットとしての訓練は
中断。
無益に1年を過ごし、今年(2010)に入ってから、訓練再開。
三男は航空大学で事業者用のパイロット免許を取得していた。
そうでないパイロットの卵たちは、そのまま地上勤務、もしくは解雇されていった。
そんな最中、三男は結婚した。
私もワイフも、「早すぎる」と思った。
「給料も足りない状態で、どうやって生活するのだ」と。

●正月

 が、その三男は、最初の正月(2010)を、妻の実家で過ごした。
それはそれでよい。
私はそれを怒っているのでは、ない。
私が怒ったのは、三男がウソをついたこと。
三男は、こう言った。

「来年(2010)の正月には、帰れない。仕事が忙しいから」と。

 で、私は暮れの12月29日に、30日の午前中には届くようにと、牛肉を
送った。
浜松市内の宅配便会社の支社まで、車を走らせた。
「何とか、明日の午前中には届くようにしてほしい」と何度も念を押した。
三男は、「30日は、昼から仕事がある」と言っていた。
「KY子(三男の妻)も、仕事がある」と。

 が、これらはすべてウソだった。
30日から三男は妻の実家に入り、大掃除を手伝いながら、正月の
2日まで、そこで過ごした。
妻も休暇を取り、そこにいた。

 私はそのウソに激怒した。
心臓が痛むほど、激怒した。
が、それが一巡すると、親バカだった自分を恥じた。

●許して忘れる

 『許して忘れる』。
しかしこの言葉は他人に対しては有効でも、自分に対しては通用しない。
私は自分を許すことができなかった。
もがいた。
苦しんだ。

 が、それも一巡すると……、と言っても、それには6か月以上もかかったが、
三男のことは忘れることにした。
身のまわりから、三男を思い出させるものを消した。
少しずつだったが、1、2か月もすると、すべて消えた。
加えて言うなら、私もワイフも、正月以来、一度も空を見あげたことはない。
飛行機の話もしたことがない。

 それに不安との闘いもあった。
最後に、三男の妻の母親と電話で話したとき、母親はこう言った。
私が「パイロットは危険な仕事ですから」と言ったときのこと。
母親は平然と、こう言った。
「だれかがしなければならない仕事でしょう!」と。

 たしかにそうかもしれない。
しかしもしそれが自分の息子だったら、そんなことを言うだろうか。
戦場に向かった兵士の親なら、そんなことは言わない。

やがてわかったことだが、先に書いた山本Yさんは、日本航空へ入社した
あと、2年目に、ニューデリー沖の墜落事故で死亡している。
そのとき山本Yさんは、副機長だったという。

●心の傷

 どこかで飛行機事故のニュースが入るたびに、私はそのつど
ドキッとする。
先にも書いたように、戦場へ息子を送り込んだ、父親のようなもの。
どこもちがわない。
こういう状況のもとでは、……というか、私自身も直接航空機事故を経験している。
そのときのトラウマは今も残っている。
飛行機恐怖症というか、飛行機に乗ることはできるが、先方でひどい不眠症に
なってしまう。

 そういう私自身の心の傷とも闘わなければならない。

●自己嫌悪

 私はジョンLが私から去って以来、ウソをつくのをやめた。
ウソに対して、はげしい自己嫌悪を覚えるようになった。
他人のウソに対しても、そうだった。

性格的には、私は子どものころから、ウソつきだった。
その場をとりつくろうため、平気でウソをついた。
そういう「私」が、今となってみると、どっと私の心を重くふさぐ。

 だから三男がウソをついたのを知ったとき、よけいに三男を許せなかった。
自分が生来的にもつ醜さを、見せつけられた。
そんな思いもあった。
と、同時に、私は三男を心の中から消した。

●手紙

 その三男から昨日、手紙が届いた。
その数日前、副機長(コーパイ)昇格テストに合格したこと。
10月xx日に、羽田―那覇間で、初飛行をすること。
併せて、正月に実家へ行かなかったことを許してほしいなどというようなことが、
書いてあった。

 が、繰り返すが、私は、正月に来なかったことを怒っているのではない。
ウソをついたことを怒っている。
その結果、私は正月の3日間、心臓の鼓動がおかしくなるほど、胸を痛めた。
それについてのハガキを書いたが、返事はなかった。
以来、10か月。

●「知らせないでほしい」

 が、私は迷わず、その手紙を一気に読み終えると、航空券の予約をした。
10月xx日、羽田―那覇、10月xx日、那覇―羽田。

 それを横で見ながら、ワイフがこう言った。
「EI(三男)には知らせるの?」と。

 が、私はこう言った。
「知らせないでほしい」と。

 私がその飛行機に乗るのは、三男のためではない。
三男の初飛行を祝うためでもない。
若いころから追いかけてきた、私自身の夢を実現するため。
山本Yさんと、夜遅くまで話し込んだ、あのときの私の夢を実現するため。
三男のことは、もう忘れた。……忘れたい。

 飛行機の中で、三男に会えなくても、私は構わない。
たぶん、三男も忙しいだろう。
三男を許すか、許さないかということになれば、とっくの昔に許している。
惜しみなく学費を注ぎ込んだ。
三男のためというよりは、自分のためだったかもしれない。
自分の夢を果たすために、そうした。
今となってみると、それがよくわかる。
そういう親バカだった、自分が許せない。

 残っているのは仕事。
死ぬまで、仕事。

●秘密

 その夜、私は山荘へやってきた。
ワイフと会話をした。

私「あのなあ、お前にひとつだけ、話してないことがある」
ワ「何?」
私「実は、一生、だれにも話さないでおこうと思っていたことだ」
ワ「……?」と。

 私はジョンLの顔を思い浮かべていた。
長髪で、はにかんだ表情で、私のほうを見上げている顔だった。
いつも手製の紙巻タバコを吸っていた。

私「実は……ぼくね、ジョンLに長い手紙を書いたことがある。
もう20年以上も前のことだ。
ぼくが悪かったこと。
ぼくが友情を裏切ったこと。
日々につらい思いでいること。
そしてできるなら許してほしいということ。
そういったことを手紙に書いた」

ワ「……返事は来たの?」
私「……何もこなかった」
ワ「ジョンに届いたの?」
私「届いたはずだ。住所は知っていた」
ワ「ジョンは、あなたを許してくれなかったのね」
私「……うん」と。

●人来たりてまた去る

 かつてフランスの詩人、ジャン・ダルジーは、こう書いた。

『……人、来たりて、また去る。
人、来たりて、また去る。
かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、そして彼らの
人生が流れる。
あたかも何ごともなかったかのように……』と。

●息子のEIへ

 ぼくはもうお前のことは忘れた。
忘れたというより、怒っていない。
冷たい親と思うかもしれない。
しかしそうでもしなければ、この先、飛行機事故のニュースが飛び込んで
くるたびに、ハラハラしなければならない。

ぼくのことはともかくも、晃子(=ワイフ)の気持ちを少しは考えてやって
ほしかった。
どんなにさみしい思いをしていたことか。
向こうの母親と笑いながら並んで立っている写真を見て、喜ぶはずがないだろ。
晃子だって、ふつうの人間だよ。

 それにぼくには「だれかがしなければならない仕事」と割り切ることはできない。
加えてこの10か月は、あまりも長すぎた。
お前の気持ちもよくわかるが、もう以前のように、ぼくは心を溶かすことはできない。
もうしばらく、そっとしておいてほしい。

 しかし覚えているかな。
一度、お前にこう言ったことを。

 いつか、お前も国際線のパイロットになって、インドのニューデリーへ
飛ぶこともあるだろう。
そのとき、もしぼくの話を覚えていてくれるなら、その空港では、
最高の着陸をしてみてほしい。
最高の着陸だ。
お前がいつか言ったように、機体に風を感じながら、音もなく着陸する。
逆噴射の音が止まったとき、飛行機はそこに静かに停止する。

 あの事故では、副機長の山本Yさんが、操縦桿を握っていたという。
その無念さを思うにつけ、その仇(かたき)をお前に取ってほしい。
これがぼくの、お前に託した最後の夢ということになる。

 よろしくね。
元気でね。
ぼくの子どものころからの夢をかなえてくれてありがとう。
さようなら。

 パパ、浩司より。

(追記)なおこの手紙は、BLOGには載せるけど、お前には送らない。
いつか、(そんな日は来ないと思うけど)、どこかで目にとまれば、それでいい。
ではね!


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【幼児に、負の数を教える】

浜松BW教室byはやし浩司
Hiroshi Hayashi Hamamatsu, Japan

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
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OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

(1)

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 幼児に負の数を教える 実験教室 浜松幼児教室 BW幼児教室)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

●1ドル=80円!

 世界中の国々が、今、我も、我もと、札の印刷機をフル回転させている。
こぞって自国の通貨を安くしようとしている。
日本も、中国を除くアジアも、EUも、南アメリカの国々も。
もちろんアメリカも。
しかしこの勝負、アメリカのひとり勝ち。
アメリカ・ドルは、世界の基軸通貨。
あの北朝鮮だって、ドルをほしがっている。
そのドルの印刷機は、アメリカ政府の意の思うがまま。
だれの許可もいらない。
だれにも遠慮はいらない。

●アメリカの陰謀

 アメリカは、ドル安に導き、巨額の貿易赤字を半減させようとしている。
同時に輸出産業にカツを入れようとしている。
一説によれば、アメリカは1ドル=55円(日本円)台にまで、ドル安に
しようと画策しているという(某経済誌)。

 こうなればドル資産をかかえた日本は、大損することになる。
外貨資産のほとんどを、ドルで蓄えてきた。
言うなれば、もっていた株券(=ドル紙幣)の価値が、120円から
55円になるようなもの。
約半額!

●それでも基軸通貨

 が、それでも基軸通貨。
ドルに代わる資産と言えば、金、プラチナしかない。
その金とプラチナだけは、ドル安と反比例の形で、ジワジワと
あがりつづけている。
連日、過去最高値を更新しつづけている。

 一方、それを迎え撃つ、世界の国々は必死。
日本も必死。
このままでは世界中が、ジャブジャブの札だらけになる。
平たく言えば、世界中が、ハイパーインフレに見舞われる。
可能性の問題ではない。
時間の問題でもない。
すでに既成の事実になりつつある。

●すでにインフレ状態

 先ほど金属相場を確認してみたが、ニッケル、銅、アルミなど、
すべてが、この3か月だけを見ても最高値を記録している(10月15日)。

 言い替えると、アメリカは、世界の宰主国としての地位をかなぐり捨てた。
自覚も責任もない。
「世界のことは、知ったことか!」と。

 が、それにひとり反発しているのが、中国。
中国だけが、がんとして、元高に向かうのを拒否している。
こうなってみると、あの中国が頼もしく見えるから、不思議。
ということで、今は、言うなれば、米中の経済戦争のまっただ中。

 アメリカが勝つか?
中国が勝つか?
土俵間際で、押せ押せのアメリカ。
土俵に足をかけ、「コノヤロー」と踏ん張っている中国。

●日本の立場

 が、日本も本当は、もっと札を印刷したい。
円安に誘導したい。
しかしアメリカの意向を無視することはできない。
したとたん、先月のように、大目玉!
それを見越して、マーケットからこぼれた資金が、円買いへと流れている。
今は、そういう状態。

 1ドルが80円!
この先、アメリカドルは、もっとさがる。
が、それがわかっていても、ドルに代わる基軸通貨は、ほかにない。
この悲しさ。
この無力感。
が、日本は、もっているドル資産を、売ることもできない。
売ったとたん、ますますドル安=円高になってしまう!
だまされても、だまされても、ニコニコ笑いながら、ここはアメリカに
追従していくしかない。

●アメリカのひとり勝ち

 つまりこうしてアメリカは、戦後最大のカケに出た。
成功すれば、アメリカは、再び世界の宰主国として返り咲く。
失敗すれば、以後アメリカは凋落の一途をたどる。

 しかし短期的に見れば、やはりアメリカのひとり勝ち。
世界中が大混乱しているのを横目で見ながら、ひとり高笑い。
……が、中期的に見れば、それは一過性の高笑いで終わる。

●中期的には

 いくらアメリカがドル安に誘導しても、中国のもつ生産力には
かなわない。
中国だけではないない。
そのうしろに、インドが控えている。
ブラジルも控えている。
アメリカの諸産業が、ドル安で息を吹き返すなどとは、だれも思っていない。
つまりは、最後の悪あがき。

●では、日本は……

TBS−iニュースは、つぎのように伝える。

『…… 円高ドル安の流れが止まりません。外国為替市場の円相場は14日、一時、15年半
ぶりとなる1ドル=80円台に突入しました。

 14日の外国為替市場は、アメリカで追加の金融緩和策が打ち出されるとの見方が強まった
ことなどから、ドルがユーロや円、ポンドなど主要な通貨に対して全面的に売られる展開とな
り、円相場は一時、1ドル=80円88銭と1995年4月以来の円高水準となりました。

 その後、介入を警戒する動きなどからやや値を戻し、午前7時現在は1ドル81円台半ばで
取引されています。

 ただ、日本の単独介入は、ドル全面安の現在の相場の中では効果は限られるとの見方が市
場関係者の間では支配的です。

 当面は円高ドル安の流れが続くとみられ、1ドル79円75銭の史上最高値の更新も「時間の
問題」との見方が広がっています』(15日07:10)と。

 どうせやるなら、つまりアメリカがその気なら、一気にドル安に追い込み、
円高を一時的なもので終わらせるのがよい。
今のように、ジリジリと真綿で首を絞めるような流れは、いちばん、まずい。
日本の耐久力は、もう限界。
それほど長くはもたない。

 ついでに読売新聞の記事を、ここに転載する。
『…… トヨタ自動車は14日、主力乗用車「カローラ」の日本からの輸出を2013年ごろまでに
停止し、輸出分の生産をすべて海外工場に移管する方針を固めた。

 円高で日本からの輸出の採算が悪化しているためだ。国内で販売するカローラは引き続き
国内で生産する。

 トヨタは11年秋に稼働する米ミシシッピ州の工場に、北米向けカローラの生産を国内から移
管し、年間15万台生産する。欧州やアジア向けの生産もすべて現地化する』(以上、読売新聞
より)。

 すでに日本は、アメリカのよいように操られている。
わかるかな? 


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【三ケ日温泉・リステル浜名湖にて】

●山と海

 窓を大きく開けた。
海からのさわやかな風。
やさしく部屋の中に入る。
目をやると、眼下は青い海。
深い緑の木々が、不規則に水平線を飾り、
その上に水色の空。
淡い雲。

 波だけはきぜわしそうに、左から右へと、ざわざわと揺れている。
今日は三ケ日温泉・リステル浜名湖に一泊。
ここへは何度か来たことがある。
友人が宿泊したとき。
昼食をとりにきたとき。
今日は、「カニ食べ放題、バイキング」という宣伝につられてやってきた。

 長男に「カニを食べに行くか?」と聞いたら、すなおに、「行く!」と。
長男はカニが大好物。
子どものころから、カニを見せると、目の色を変えた。

●部屋

 リステル浜名湖は、古いホテルである。
25年以上になるのでは?
補修はしてあるが、あちこち老朽化していた(失礼!)。

友人がこのホテルに泊まったのも、そのころだった。
会員制のホテルで、オーナーになれば、出資金に応じて、年単位で宿泊券が手に入る。
友人は、その宿泊券をもらったとかで、ここに泊まった。

 で、部屋は細長いが、洋間半分、畳の間半分という、少し変わった間取りになっていた。
2人部屋にもなるし、畳の間にふとんを敷けば、3人部屋にもなる。
畳の間の向こうは、そのまま掃きだしの窓。
小さなベランダもある。

 時刻は午後3時30分。
夕食は午後6時から。
風呂に入るのも、まだ早い。
ワイフは、部屋のあちこちを動き回っている。
長男は寝転んで、雑誌を読んでいる。
私は……こうしてパソコンを叩いている。

 今日は、TOSHIBAのMXをもってきた。
8時間以上、バッテリーがもつというすぐれもの。
「本当かな?」と思いながら、バッテリーのメーターを開くと、「100%充電、
5時間31分」と表示された。

 使うソフトによっても、もち時間はちがう。
しかし「?」。
バッテリーも、長く使っていると、性能が劣化する。
それは知っているが、このパソコンは、めったに外出先では使わない。

●星は3つの★★★

 まだ料理を見ていないので、評価はできないが、今のところ、星は2つか3つ。
建物が古いので、マイナス1。
簡易ホテルといった感じだが、景色を考慮に入れるなら、プラス1。
これで食事がよければ、星は3つか4つ。

 言うまでもなく、星は料金と照らし合わせて決まる。
今日は何と、一泊9000円弱(1名分)。
安い!
この料金で、あれこれ文句を言う人はいない。
建物が新しければ、とてもこの料金では泊まれない。
料理のカニがカスカスでも、文句は言えない。

 ……たった今、昆布茶を飲んだところ。
塩辛い味がした。
が、おかしなことに、とたんに睡魔が襲ってきた。
ふだんなら昼寝を少しするが、今日はしていない。
早めに温泉に入り、そのあと一休みする。
今、そう決めた。

●鰯雲(いわしぐも)

 目の前が鏡台になっている。
大きな鏡である。
私の姿も含めて、部屋中がよく見渡せる。
で、その顔。
つまり私の顔。
私はめったに鏡を見ない。
年齢的には老いぼれた顔ということになるが、それほどジジ臭くない。
自分で、そう思った。

(たった今、温泉から戻る。)

 リステル浜名湖は、温泉がよい。
広くはないが、清潔な湯船。
隣接する露天風呂。
目の前は、視線の高さで広い海が広がっている。
ホテルには悪いが、私と長男のほかに、入浴客は1人だけ。
のんびりと入浴。
露天風呂からは、こまかいウロコの鰯雲(いわしぐも)が、見えた。
もう、秋の雲?
そう思いながら目を閉じる。

 今ごろの季節は、最高!
10月の中旬。
星をもう1つ追加。
星は4つの、★★★★。
あとは夕食で決まる!

●夫婦

 ベランダからワイフがこう言った。
「ここは朝陽が見えるのね」と。
「舘山寺(温泉)からは、夕陽が見えたわ」とも。
 
 それにしても私たちは、不思議な夫婦。
仲がよいのか、悪いのか、それがよくわからない。
そばにいなければ、さみしい。
そばにいれば、楽しい。
それでいて、よく言い争う。
口論するたびに、「離婚」を口にする。
しかしその翌日には、また同じふとんの中で寝る。
他人はそういう私たちを見て、「あなたがたは仲がいいですね」とよく言う。
が、そう言われた私は、「ヘエ〜」と思ったまま、口を閉じてしまう。

 私の中にも、そしてワイフの中にも、もう1人の「私」がいる。
それが交互に顔を出す。
夫婦というのは、そういうものか。
常にたがいに、何かに耐えている。
それが抑圧という形で、心の中に別室を作る。
別室の中に、不満や不平をためる。
ワイフはよくこう言う。
「もともと、他人なんだから」と。
つまりそうであっても、「仕方ない」と。

 大切なことは、適当にそれを発散させること。
私たちのばあいは、それが夫婦喧嘩ということになる。
あるいはこういう旅行かな?

●空腹

 それにしても、腹が減った。
こうして温泉に泊まるときは、朝食を簡単にし、昼飯を抜く。
そうでもしないと、あという間に、64キロに逆戻り。
だから今は、ペコペコ。

 脳の視床下部が、血糖値をモニターしている。
血糖値がさがると、視床下部の命令を受けて、ドーパミンという
ホルモンを分泌する。
欲望と快楽を司るホルモンである。
それが食欲中枢を刺激する。
空腹感は、その結果、起こる。
このとき胃袋が、収縮するという説もある。
腹がグーグーと鳴るのは、そのため。
(このあたりの話は専門外なので、いいかげん。
それにこの分野は、毎年のように説が変わる。)

●欲望

 空腹感に限らず、つまり食欲にかぎらず、もろもろの欲望は一元的に管理されている。
脳みそというのは、一見複雑だが、反応は単純。
たとえば「八つ当たり」。
ひとつのことで不愉快になると、別のことでも不愉快になる。

もちろん強弱は、ある。
そのひとつが、条件反射。
線条体に受容体が作られると、わずかな刺激でも、猛烈な欲望となってそれがその人を
刺激する。
これについては、以前、詳しく書いたので、復習の意味もこめて、あとで原稿を
添付しておく。
条件反射が起こると、欲望をコントロールするのが、とたんにむずかしくなる。
アルコール依存症やニコチン依存症の人を、例にあげるまでもない。

 しかしそうでない欲望は、かなりのレベルまでコントロールできる。
たとえば食欲。
腹は減っているが、がまんしようと思えば、できる。
それに空腹感というのは、いいかげんなもの。
いくらでもごまかしがきく。

(たった今、コーラを少し口にしてみた。
これで少し血糖値があがるはず。)

 総じてみれば、人間は欲望のかたまり。
生きていること自体が、「欲望」そのもの。
欲望を否定したのでは、生きていかれない。
欲望を「悪」と決めつけてはいけない。
大切なことは、欲望という暴れ馬と、どう向き合っていくかということ。

●ヤブ

 再び睡魔。
今、時刻は午後5時。
夕食まで、あと1時間。
ア〜ア!

 話題を変えよう。

 数日前、RMという整形外科医院へ行ってきた。
破傷風の2回目の予防接種を受けてきた。
そこでのこと。
私が「最近、体がよくこわばります」と言ったら、そのままレントゲン室に回された。

 看護婦のウムを言わせない態度。
事務的な説明。
言われるままにしていたら、5枚も、頭頚部のレントゲン写真を撮られた。

ヤブ医者め!

 私という患者の話をろくに聞いていない。
私は「こわばる」と言っただけ。
あとで、「どうしてレントゲンですか?」と聞いたら、「骨の変形を調べました」と。

 バカめ!

 そんなもの、あるはずがない。
変形しているかどうかは、触診しただけでもわかるはず。
そしてレントゲン写真を見ながら、「石灰が付着し始めています……年齢相応ですな」と。

 で、そのあと、「頭痛はありませんか?」ときた。
「偏頭痛ならときどき、あります」と私が答えると、我が意を得たりというような顔。
「頚から起きることがあります」と。

 再び、バカめ!

 偏頭痛が頚から起きるなどという話は、聞いたことがない。
頚椎のゆがみが、交感神経、副交感神経を圧迫して、もろもろの症状を引き起こす。
そういうことはよくある。
が、それと偏頭痛は、別。
偏頭痛は血管が拡張し、そのとき周囲の神経を圧迫して起こる。
今どき、そんなことは素人の私でも知っている。
で、こう思った。

 「この医者は、勉強不足」と。
前回、年齢を聞くと、67歳と言った。
無駄な検査を重ねて、金を稼ぐ。

 あのね、レントゲンで使うX線が、がんを引き起こしたら、どうするの?
看護婦にそれを言うと、看護婦は、こう言った。
「量が少ないから、問題はありません」と。

 バカ、バカ、バカめ!

 放射線の危険性は量では決まらない。
多量に放射されてもがんにならない人はいる。
が、少量でも、がんになる人はがんになる。
要するに、「運」の問題。
宝くじと同じ。

 そんな基本的な常識も知らないで、何が安全だ!

バカヤロー!

 ……ということで、あの整形外科医院とは、縁を切った。
二度と行かない。

●勉強

 「勉強」という言葉が出たので、その勉強について。

 こんなしがない私でも、毎日、勉強している。
が、この年齢になると、学んで頭に入る量よりも、脳みその底から外へこぼれ出ていく
量のほうが多くなる。
だから若い人たちより、何倍も努力して、勉強しなければならない。
現状を維持するだけでも、精一杯。
現状を維持できるだけでも、御の字。

 が、これもある年齢になると、その努力をしなくなる。
「私は完成された人間」と思い込む人も、少なくない。
が、そういう人にかぎって、がんこ。
融通がきかない。
はっきり言って、バカ。

 が、ここからがこわいところ。
脳のCPU(中央演算装置)が鈍ってくるから、バカになりながら、それを自分で
気がつくということがない。
客観的にそれを知る方法も、ない。

 さらにこわいことに、バカな人は、賢い人が理解できない。
(反対に賢い人からは、バカな人がよくわかる。)
理解できないから、自分を基準にして、相手を判断する。
先日も、私にこう言った女性(65歳)がいた。

 「あの人は、親の三回忌にも顔を出さなかった。人間のクズよ」と。

 本当のクズはどちらか?
三回忌に出る、出ないで、クズかどうかは決まらない。
だいたい「クズ」とは何か?
一刀両断に、バサリと相手を切り倒す。
その傲慢さ。
それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。
親子といっても、その関係は一様ではない。
それすらも、わからなくなる。

●海人間

 リステル浜名湖は、浜名湖のすぐ横に接している。
私が山育ちなら、ワイフは、海育ち。
子どものころは、休みごとに、浜名湖畔にある母の実家で過ごしたという。
そのこともあって、このリステル浜名湖が、たいへん気に入ったよう。

 さきほどまでベランダに座り、濃紺色になった海を、静かに見ていた。
「I村みたいだね」と私が言うと、うれしそうにほほえみ返した。
I村というのは、ワイフの母の実家のある村である。
来月、その村の小学校へ、講師として招かれている。
これも何かの縁かもしれない。

 一方、私は山育ち。
先週、湯谷温泉の泉山閣ホテルという、ホテルというよりは、老舗の旅館に泊まった。
目の前に川が流れていた。
対岸は深い森に包まれていた。
私はそこでたまらないほどの、懐かしさを覚えた。
が、今度は、ワイフがそれを覚えている。
私には、それがよくわかった。

(これから食事に行く……。)

●バイキング

 料理はよかった。
種類は少なかったが、カニが食べ放題。
うなぎも食べ放題。

 中国人の旅行者たちも席に並んだ。
その中国人たちは、みな、肉料理を山盛りにして食べていた。
「肉」に対して、特別の思いがあるらしい。
一方、私は、カニ。

 「食べたら損(そこ)ねる」と念じながら食べた。
が、結局は、腹いっぱい食べてしまった。
またまた明日から、ダイエット。
どうしてこうまで私は愚かなのだろう。

 で、食事をしながら、こんな話を思い出した。

●カニ

 私が中学1年生のときのことだった。
何人かの友だちと、岐阜市まで遊びに行った。
みなで、レストランに入った。

 そこでのこと。
みなの前に、おしぼりが並べられた。
フワフワしたタオルだった。
が、S君がそれを何かの食べ物と誤解した。
そばにあったソースをそれにかけた。
箸で、それを口に運んだ。 

 私たちはそれを見て、笑った。
が、メニューなるものを見て、驚いた。
小遣いで買えるようなものは、なかった。
そこで私はコカコーラを頼んだ。
そのとき生まれてはじめて、コカコーラなるものを口にした。
が、そのまずいことと言ったら、なかった。

 みなで回し飲みをした。
みなも、「まずい」とか、「ゲーッ」とか、言った。
で、Y君は、「ライス」だけを注文した。
白いライスだけ。
そのライスにソースをかけて、食べた。

 今の若い人たちには、想像もつかないような話かもしれない。
しかし当時は、まだそういう時代だった。
年代的には、1959〜60年ごろ。
古き良き時代というか、みなが、今よりずっとおおらかな気持ちで生きていた。

 ライスだけを注文しても、店の人は何も言わなかった。
ライスだけを食べさせてくれた。

 その私が今、腹いっぱい、カニを食べている。
カニだ。
カニだぞ。
子どものころ、カニなど、めったに食べられなかった。

●小沢一郎氏

 部屋に帰ると、ちょうど7時だった。
テレビにスイッチを入れると、NHKのニュースが始まっていた。

小沢一郎氏が、検察審議会の決議について、逆告訴した。
「事実誤認がある」と。
だったら、どうしてそれを裁判の席で争わないのか。
……というか、どうしてどこまで往生際が悪いのか。

 しかし小沢一郎氏には、小沢一郎氏独特の、一貫性がある。
民主党の幹事長に就任すると同時に、中国へ、350人近い国会議員を中心に、
総勢500人も600人ともいわれる、大名行列をしてみせた。
(今どき、こういうバカなことをする政治家がいること自体、信じられない。
それにノコノコとついていく子分がいることも、信じられない。)
そのときのこと。

K中国首相と並んで、1人ずつ記念撮影までさせたという。
もちろん小沢一郎氏自身も、である。
たいへんな撮影会であったにちがいない。
国会議員1人あたり5〜10秒ですんだとしても、20〜30分はかかる。
その間、K中国首相は立ったまま。
カメラに向かって、握手の連続。

 つまりそういう破廉恥なことを平気でできる。
国辱行為そのもの。
それが小沢一郎氏。
権力に溺れた権力者というのは、そこまでやる。
そういう意味で、小沢一郎氏には、一貫性がある。

●中国人

 最近はどこのホテルへ行っても、中国からの観光客がいる。
このリステル浜名湖にも、来ていた。
観光バスに乗って、あちこちを回っているらしい。

 エレベーターの中で「チョンゴレンマ(中国人か)?」と声をかけたが、
私の中国語は通じなかった。
英語でその人は、「チャイナ」と言った。
たぶん、北京から来た人ではなく、広東語(マンダリン)を話す人だった。
……と思いながら、自分をなぐさめた。

 その中国人。
夜、風呂に入るという習慣がない。
だからいくら中国からの観光客がいても、夕食前後の温泉は、がらがら。
その分、朝に入るかというと、それもない。
彼らはシャワーですます。

 が、中には温泉まで入ってくる中国人がいる。
先日は、ワイフの話だが、浴衣(ゆかた)を着たまま、温泉へ入ってきた女性客も
いたそうだ。
きっとあちこちで、珍道中を繰り返しているにちがいない。

●さて就寝

 ワイフが2度目の入浴から戻ってきた。
入浴客は、1〜3人程度だった、と。

 時刻は午後8時過ぎ。
静かな夜だ。
私は今、みやげもの屋で買ってきた菓子をほうばっている。
ワイフは、和室のほうで雑誌を読んでいる。
長男はすでにベッドの上で、横になっている。
そろそろ寝る時刻。

 今日もあっという間に終わった。
何かをしたわけでもない。
何もしなかったわけでもない。
こうして1日、1日と終わっていく。
では、みなさん、おやすみなさい。
2010年10月15日、夜。

●翌朝

 翌朝は、午前5時ごろ目を覚ました。
朝風呂は、5時半から。
しばらく、こうして原稿を書く。
先ほど窓の外を見たが、ほんの少しだけ空が白くなっていた。

 「家に帰ってから寝なおそう」と思った。

 やがてワイフが起き、長男が起きた。
私はそのつど、「起こしてごめんな」と声をかけた。
つまりこうして私の10月16日は、始まった。
今日は、ネットで注文しておいた、プロッターが届くはず。
それを使って、看板を作る。
教材を作る。
来週は、幼児に面積の概念を教えてみよう。
おもしろそう。
プラス、楽しみ。
乞う、ご期待!


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2010++++++はやし浩司・林浩司


●映画「十三人の刺客」&日本の「権威主義」

+++++++++++++++++

先日、映画「十三人の刺客」を観てきた。
星は2つか3つの、★★。
部分的には迫力のある映画だったが、
バラバラ。
連続性がなかった。
日本映画独特の、あの「力み」は少なかったが、
その代わり、格好のつけ過ぎ。
全体として武士道なるものを、映画の背景に
まぶしたかったのだろう。
しかし欧米人には、武士道は理解できない。
同じアジア人にも理解できない。
もとから理解できるようなものでもない。
筋の通った、哲学があるわけではない。

こんな話を、昔、聞いた。
朝鮮半島が日本の植民地だったころのこと。
朝鮮の人たちはよく日本の兵隊にこう聞いたそうだ。
「武士道って何か?」と。
すると決まって日本の兵隊は、こう言って相手を、
怒鳴りつけたという。
「貴様らに、日本の武士道がわかってたまるかア!」と。

が、今日は、ここで武士道について書くつもりはない。
改めて、「十三人の刺客」の映画案内を読んで、驚いた。
そこにはこうあった。

「・・・ベネチア映画祭、コンペティション部、出品作品」と。
その両横を、黄金色のオリーブの葉で飾っていた。

+++++++++++++++++++

●権威主義

 「してやられた!」と、私は思った。
よく読んでほしい。
「出品作品」。
つまり出品しただけ。
賞は取っていない。
出品するだけなら、だれにだってできる。
私にもできる。
あなたにもできる。
(あの作品では、賞は無理。)

 しかしたしかテレビのモーニングショーでは、どこかの会場で俳優たちが
祭り騒ぎをしていた。
舞台の上で、あたかも賞を取ったように、俳優たちは喜びあっていた(?)。
それで「観る価値がある」と、私は思ってしまった。
が、それでも私は懐疑的でなかったわけではない。
あの映画祭では、私たちの日常的な常識を大きく離れた作品が賞を取る。
ビートT氏の作品が、その一例。
あの映画祭での賞は、あまりアテにならない。
が、まさか・・・?

 こういうのを権威主義という。
もしその映画祭でどんな賞でも賞を取っていたら、配給会社(映画会社)は、
大げさな宣伝をしただろう。
何かの賞、つまり肩書きをぶらさげて、相手を煙に巻く。
それを権威主義という。

●教育の世界でも・・・

 日本人独特の、お上への隷属意識。
それが転じて、権威主義に発展した。
遠い昔の話ではない。
たった30年前のこと。
私はある出版社で教材の原案を描く仕事をしていた。
そのときのこと。

 問題集はもちろんのこと、参考書、育児書、さらには専門書など
にしても、つぎのような手順を踏んで出版されていた。

(1)出版社が企画を立てる。
(2)その下でうごめく私のようなライター、あるいはプロダクション
に、そのほとんどを制作させる。
(3)出版社とライター、もしくはプロダクションの間で、やり取りを
かわす。
(4)その段階で、肩書きのある有名人をさがす。
(5)その有名人に、監修者となってもらったり、著者となってもらったり
する。
この世界には、自分の肩書きや地位を切り売りしても、みじんも
はじない博士や教授は、ゴマンといる。
欧米では、そうした行為は、「地位利用」ときびしく禁じられている。
が、この日本では、本の表紙に、肩書きを堂々と載せるのが慣わしになって
いた。
(最近は、そういった手法は少なくなり、出版社名だけで出版されることが
多くなったが・・・。)

●水戸黄門の世界

 しかし出版社を責めても意味はない。
日本人全体の意識が、それを下から支えていた。
同じような問題集が2冊並んでいたとする。
そういうとき親は、「飾り」の立派なほうの本を選ぶ。
「〜〜大学〜〜教授監修」とあれば、そちらのほうを選ぶ。
「BW教室、はやし浩司」の名前では、本は売れない。
しかし実際には、教授ともあろうお方が、子どもが使うワークブックなど
監修することなど、ありえない。
そんなヒマはない。
私が関係した問題集やワークブックにしても、たいてい電話一本で、
話がついた。

出版社「今度、幼児向けのおけいこブック、ひらがな編を出します。
また先生には、監修をお願いしたいのですが・・・」
どこかの教授「いいですよ」
出版社「ありがとうございます」と。

 つまりこれは日本人全体の(意識)の問題。
出版社にしても、またそれを買う親たちにしても、「権威」を意識した。
そこはまさに「水戸黄門」の世界。
三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう」と一喝すると、みな、頭をさげた。
今の今でも、テレビの「水戸黄門」は、人気番組。
視聴率も20%前後もあるという。

●権威の象徴

 武士の世界は、まさにその「権威」で成り立っている。
権威をのぞいたら、何も残らない。
江戸時代は、徳川家がその権威の象徴。
徳川家を否定したら、武士の世界のみならず、江戸時代という時代
そのものが崩壊してしまう。
現在の天皇と官僚制度に、その名残を見る。
なぜ官僚が官僚なのかと言えば、そこに最高権威である「天皇」をいだく
からにほかならない。
日本は今でこそ、民主主義国家を標ぼうしているが、明治、大正、昭和と、
天皇を最高権威者に置くことで、自分たちの地位、立場を正当化した。
ついで政権の大義名分を正当化した。
その結果が、あの戦争である。

●侍

 「武士だって、ただの人間だ」と言うのは、簡単。
『十三人の侍』の中にも、「お前ら武士は、いつも威張りくさっている」
というようなセリフが出てくる(記憶)。

 その通り。
なぜ威張るか、また威張ることができるか。
それを支えるのが、「権威」ということになる。

 その権威を否定する。
いくら江戸末期の日本とはいえ、侍であるなら、それは不可能であった。
将軍の弟(映画の中)を暗殺するなどということは、自己否定そのもの。
一方で侍の権威を笠に着ながら、他方で権威を否定する。
もし否定するなら、侍であることをやめてから……、ということになる。

●由比正雪

 以前、由比正雪について書いた原稿がある(中日新聞掲載済み)。
その原稿をさがしてみる。
少し話題がそれるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

++++++++++++++++++

前にも取りあげたが、あの信長ですら、
この日本では、英雄(?)になっている。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

●「偉い」を廃語にしよう

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たよ
うな言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに、「水戸黄門」について
書いた原稿を添付します。
(中日新聞発表済み)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●水戸黄門

 テレビドラマに「水戸黄門」というのがある。葵三つ葉の紋章を見せて、側近のものが、「控
え おろう!」と一喝するシーンは、あまりにも有名である。今でも、視聴率が20〜25%もある
というから、驚きである。

 で、あの水戸黄門というのは、水戸藩二代藩主の徳川光圀(みつくに)と、家来の中山市正と
井上玄洞をモデルとした漫遊記と言われている。隠居した光圀は、水戸の郊外、西山村に移り
住み、百姓光右衛門と名乗り、そのとき、先の二人を連れて、関東を漫遊したという。それが
芝居、映画、テレビドラマになり、「水戸黄門」が生まれた。(芝居の中では、二人の家来は、
佐々木助三郎(通称「助さん」)と、渥美格之進(通称「格さん」)になっている。)

 徳川光圀は実在した人物だが、ただ光圀自身は、関東地域からは一歩も出ていない。それ
はさておき、水戸黄門は、全国各地を漫遊しながら、悪代官をこらしめたり、仇討ちの助けをし
たりして、大活躍をする。日本人にはたいへん痛快な物語だが、ではなぜ「痛快」と思うかとい
うところに、大きな問題が隠されている。

以前、オーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、日
本人はどうするのか」と。そこで私が「水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、「それはおかし
い」と。

 考えてみれば、水戸黄門がたまたま善人だったからよいようなものの、もし悪人だったら、そ
の権威と権力を使って、したい放題のことができる。だれか文句を言う人がいたら、それこそ
「控えおろう!」と一喝すればすんでしまう。民衆の私たちは、水戸黄門の善行のみをみて、そ
れをたたえるが、権威や権力というのは、ひとつ使われ方がまちがうと、とんでもないことにな
る。

だいたいにおいて水戸黄門は封建時代の柱である、身分制度という制度をフルに利用してい
る。身分制度を巨悪とするなら、代官の悪行など、かわいいものだ。善行も何も、ない。「頂点
にたつ権力者は悪いことをしない」という錯覚は、恐らく日本人だけがもつ幻想ではないのか。

長くつづいた封建制度の中で、日本人は骨のズイまで魂を抜かれてしまった。もっと言えば、
あの番組を痛快と思う人は、無意識のうちにも、封建時代を是認し、身分制度を是認し、さら
に権威主義を是認していることになるのでは……? あるいは権威や権力に、あこがれをいだ
いている……?

 教育の世界には、まだ権威や権力がはびこっている。こうした権威や権力は、その世界に住
んでいる人には居心地のよいものらしいが、その外で、いかに多くの民衆が犠牲になっている
ことか。

むずかしいことはさておき、あのドラマを見るとき、一度でよいから、水戸黄門の目線ではなく、
その前で頭を地面にこすりつける庶民の目線で、あのドラマを見てほしい。あなたもあのドラマ
を見る目が変わるはずである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪役

 『十三人の侍』は、民主主義のために闘ったのでもなければ、封建主義に
反対して闘ったのでもない。
狂った暴君を暗殺するために、闘った。
あえて言うなら、この部分が映画の前提として、弱い。
暴君ぶりを示すシーンはいくつかあったが、暴君独特のあの異常性を演ずるには
やや役不足。
演技力不足。
あれほどまでの暴君なら、たとえば『羊たちの沈黙』に出てくるような悪人に仕立てる。
そこまでしないと、観客は、映画の中に感情移入することができない。
その前で、立ち止まってしまう。

 その点、あの『七人の侍』は、わかりやすかった。
目の前で虐げられる農民たちを見、7人の侍が立ち上がった。
殺した相手も、悪党ばかり。
が、『十三人の侍』はちがう。
殺した相手は、言うなればサラリーマン侍。
みながみな、悪人というわけではない。
で、あとは意味のない、殺戮映画。

●出品作品?

 きびしい映画批評を書いてしまった。
しかし「ベネチア・コンベンション・出品作品」とは何か?
国内の選考委員会か何かがあって、そこを通過しているのだろうか。
あるいはただの飾り。
ハク付け?

 つまり私はこの飾りの中に、日本人独特のあの権威主義を見た。
よい映画だったら、賞はあとからついてくる。
観客も、そのあとからついてくる。
まず賞ありき。
そのための「出品作品」?

 とても残念だが、映画としては、星2つ。
さらに一言。

 13人の侍(実際には12人の侍)が、命を捨てて、暴君(将軍の
弟)の暗殺を企てる。
しかしそれは同時に、死を覚悟した暗殺劇を意味する。
江戸末期には、ここにも書いたように、武士もサラリーマン化していた。
そういう世の中で、命をかけてまで・・・という侍は、本当にいたのか?
その背景に、よほどの恨みでもないかぎり、そういった行動には出ない。
哲学でもよい。
とくに政治哲学。
封建主義という諸悪の根源と闘うというのなら、まだよい。
将軍の弟ではなく、将軍そのものを暗殺する。
が、それこそ革命。

●権威主義

 要するに、自分の主君から、「あいつ(=将軍の弟)は悪人だから、
暗殺せよ」という命令を受けて、その暗殺劇を実行しただけ。
「切って、切って、切りまくった」だけ。
そのシーンが映画としても、長すぎる。

 もし私が脚本家なら、もう一本、その間に複線を入れる。
暴君を替え玉にする。
埋蔵金をからませる。
家来の裏切りを挿入する。
あだ討ち劇を並行して進める、などなど。
ストーリーとしては、単純。
ハラハラ、ドキドキするシーンは、なかった。

 またまたきびしい批評を書いてしまった。
「もう二度と、この手の宣伝にはだまされないぞ」という思いで、
書いてしまった。
私はあの権威主義というのが、大嫌い。
侍というだけで、みなが頭をさげる。
そんな時代は、2度とごめん。

(補記)

●日本人のオメデタサ

 岐阜県の岐阜市へ行くと、『信長祭り』というのがある。
石川県の金沢市へ行くと、『百万石祭り』というのがある。
これは、藩祖前田利家公が天正11年(1583年)金沢城に入城したのを祝った祭りである。
もっとも祭りは祭り。
それほど重い意味はない。
中身は観光。
町おこし。

 が、私たちの先祖は、その95%以上が、武士とやらに虐げられた農民であったことを
忘れてはいけない。
血筋をたどっていけば、1人や2人、武家出身の人はいるかもしれないが、基本的には
「混血」はありえなかった。
その子孫である私たちが、どうして「信長祭り」をし、「百万石祭り」をするのか。

 オーストラリアで、「提督祭り(イギリス総督府の提督)」など企画しようものなら、
それだけで袋叩きにあうだろう。
韓国で、「植民地祭り」を企画しても、同じ。

 が、悲しいかな日本人は一度とて、あの封建時代を清算していない。
明治維新にしても、英語では「王政復古」と翻訳されている。
その結果が今。
過去の暴君を美化し、それを祭りにまで仕上げている。
まずもって私たち日本人は、そのおかしさに、自ら気がつくべきではないのか。
あるいは福沢諭吉らが合流した「明六社」の精神に、一度は、心を通してみるべきでは
ないのか。

 ウィキペディア百科事典から、そのまま拾ってみる。

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

1873年(明治6年)7月にアメリカから帰国した森有礼が、福澤諭吉・加藤弘之・
中村正直・西周(にしあまね)・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らとともに同
年秋に啓蒙活動を目的として結成。名称の由来は明治六年結成からきている。会合は毎月1
日と16日に開かれた。会員には旧幕府官僚で、開成所の関係者と慶應義塾門下生の「官民
調和」で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派や
日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族が入り乱れる日本の錚々たるメンバーが参加した。

1874年(明治7年)3月から機関誌『明六雑誌』(岩波文庫全3巻)を発行、開化期の啓蒙に指導
的役割を果たしたが、1875年(明治8年)、政府の讒謗律・新聞紙条例が施行されたことで機関
誌の発行は43号で中絶・廃刊に追い込まれ事実上解散となった。その後、明六社は明六会と
なり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、
日本学士院へと至る流れの先駆をなした。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

 明六社にかぎらず、こうした(動き)は、つぎつぎと弾圧、閉鎖されていった。
その結果が、「今」ということになる。
日本人の意識はそのまま。
今でも、「尊敬する人物は織田信長」(小沢一郎氏)と公言してはばからない政治家が、
後を絶たない。
それもそのため。

 私たちは一度、あの封建時代を、清算しなければならない。
もちろん歴史は歴史だから、評価すべき点があれば、評価する。
しかしけっして、美化してはいけない。
礼賛してはいけない。

 方法は簡単。
おかしいものは、おかしいと、みなが、声をあげればよい。
みなが声をあげれば、そこで歴史が変わる。


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【虚栄論】(満63歳まで、あとxx日)

●見栄張(みえはる)君

+++++++++++++++++++

今日、車の中で、ワイフと「見栄」について
話しあった。
世間体、メンツ……総じて「虚栄」ともいう。
世の中には、見栄を張る人は多い。
「見栄張君」という。
「君」をつけるが、男性とはかぎらない。
女性にも多い。

+++++++++++++++++++

●グーグルアース 

 グーグルアースというサービスがある。
それを使うと、宇宙から見た地上の様子が、そのままわかる。
そんなことは、インターネットを楽しんでいる人には常識かもしれない。
しかし読者の中には、インターネットをしていない人もいる。
だからもう少し詳しく説明する。

 グーグルアースというサービスを立ち上げて、ボックスの中に住所を書き込む。
すると自動的にその住所の上空に、視点が移動する。
あとはマウスを使って写真を拡大する。
解像度によっては、数10メートル上空から地上を見ているような写真が浮かびあがって
くる。

 たとえば「浜松市西区入野町xxxx」と書き込む。
視点は私の家の上空に移動する。
私の家には、□のマークが表示される。
その状態で写真を拡大する。
私の家がそのまま見えてくる。
私の家の庭には、庭灯がある。
直径は20センチくらい。
そんなものまで、グーグルアースを使うと、識別できる。

●U氏

 たまたま今夜、夕食のあと、グーグルアースを立ち上げてみた。
アメリカに住む二男の家をさがしてみた。
が、そのあとのこと。
ふと、若いころからの知人のU氏のことを思い出した。
かなりの人物らしい。
U氏は、自分ではいつもそう言っている。

 「隣人は、医師とか弁護士ばかりでね。
高級外車がずらりと並んでいるよ」と。
「芦屋(あしや)でもx丁目といえば、そういうところで、よくテレビの取材
なんかも来るよ。うるさくて、たまらないよ」とも。

 関西でも芦屋と言えば、高級住宅地。
それは私もよく知っている。
その中でも一等地に住んでいるということだった。
で、私は彼の住所をボックスの中に、打ち込んでみた。
軽い好奇心だった。

●自己嫌悪

 私もときどき見栄を張る。
こうしてもっともらしいエッセーを書くのも、そのひとつ?
実力以上の自分を、演出する。
寛大なフリをしたり、金持ちのフリをしたりする。
大物ぶることもある。
時にウソを混ぜることもある。
しかしそこには一定の限度がある。
あとで自分を追い込むようなことはしたくない。
どうせバレるような見栄は、張らない。
また見栄を張るにも、相手を選ぶ。

 が、見栄を張るというのは、疲れる。
神経をすり減らす。
が、それ以上に、そのあとやってくる自己嫌悪感には、相当なものがある。
そのときの自分を消し去りたいような衝動にかられることもある。
だから……。
私は見栄を張らない。
努めて張らないようにしている。
ありのままをそのままさらけ出して生きる。
そのほうが、ずっと気が楽。

●路地

 知人の家は、すぐわかった。
その家をズームアップ。
その家を中心に、5、6軒の家が並んでいた。
が、私は住所をまちがえたのではないかと思った。
が、再三住所を確かめてみたが、まちがいなかった。
そこに見たのは、狭い路地。
道幅は、車一台分くらいしかない。
しかも畑につづく袋小路。
知人の家は、その袋小路の奥の家から、2軒目の家だった。

 私が頭の中に描いていたイメージとは、あまりにもちがった。
高級住宅地?
医師や弁護士の家?
高級外車?

 私はその映像をワイフに見せた。
ワイフも驚いた。
「この家が、あの人の家?」と。
「そう、これがあの人の家……」
「でもあの人、退職したら、市長になるって言っていたわよ」
「あのとき、お前もいたのか?」
「横で聞いていたわ」と。

●自我の同一性 

 人はなぜ見栄を張るか。
先に書いたことを、もう少し深く考えてみる。
が、これについては、ワイフが単純な答を用意した。
「自分がないからよ」と。

 自我の同一性といっても、若いころだけの問題ではない。
人は、老後を迎えるまで、自我の同一性をめざす。
もがく。
「こうでありたい」という自分と、現実の自分を、一致させようとする。
自分と闘う。

 しかしそれは簡単なことではない。
ありのままに生きるためには、自分をさらけ出さなければならない。
さらけ出すためには、さらけ出しても、それに耐えうる自分を用意しなければ
ならない。
「恥」という言葉は好きではないが、つまりは「さらけ出しても恥ずかしくない」
自分を用意しなければならない。

 その構築に失敗すると、人は自分を飾るようになる。
それがやがて見栄、世間体、メンツへとつながっていく。

●快感

 が、それだけではない。
人は見栄を張ることで、相手を自分の支配下に置こうとする。
支配欲のひとつと考えてよい。
「私はあなたより、すばらしい人間だ。私の言うことを聞け」と。

 といっても、実利がそれほどあるわけではない。
自己優越感を満足させるだけ。
あるいは自分の居場所の居心地をよくするだけ。

しかし見栄を張る人は、それだけではない。
そうすることによって、快感を覚える。
「快感」には、当然、中毒性がある。
見栄を張りながら、さらに見栄を張る。
それが加齢とともに、エスカレートする。

●Gさん(50歳)

 ワイフの知人に、Gさんという女性がいる。
今年、50歳になるという。
そのGさんが、見栄張君と、ワイフは言う。

 自分では「学習院大学卒」と言っているが、本当は名古屋市にある高校を
出ただけ。
「夫は、ソフト会社の社長」と言っているが、大型電気店の店員をしているだけ、
などなど。
何も高卒がどうとか、店員がどうとか書いているのではない。
高卒でもよいではないか。
店員でもよいではないか。
ついでにいえば、路地裏の家でも構わないではないか。
が、Gさんのばあいは、少しちがう。
わざと人前で、こう言うという。

「今度、学習院大学の同窓会がありましてね」とか、
「社長業も楽じゃありませんのよ。人づき合いがたいへんで」とか、など。
それとなく、自分の会話の中に、そうした言葉を混ぜる。
つまり相手をだます。

 が、その一方で、こうも言う。
「近所に、独居老人の人がいましてね。私、毎週、一度は訪問をし、声を
かけたり、食事を分けてあげたりしていますの」と。
 
●統合性

 さらに老齢期を迎えると、今度は統合性の問題が起きてくる。
知人のIK氏(藤沢市在住は)は、「還元」という言葉をよく使う。
自分の生きてきた人生を、つぎの世代の人たちに還元していくという意味で、
そう言う。
「統合性」とは、つまるところ、「還元」の問題ということになる。

 「人間として最後にやるべきことを求め、そこに自分を統合させていく」。
それが統合性ということになる。
が、その最大の障害物が、見栄ということになる。
つまり見栄を張るようになると、統合性の構築ができなくなる。
言うまでもなく、統合性は、無私、無欲でなければならない。
ほんのわずかでも、功利、打算が混入すれば、統合性の確立は霧散する。
それだけではない。

統合性の確立には、長い時間と、準備が必要。
「退職しました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」という
わけにはいかない。
またそんなことをしても、長つづきしない。

●ありのまま生きる

 先にも書いたように、私も見栄を張ることがある。
大物ぶってみせることがある。
そういう自分の弱さをよく知っている。
だからこそ、いつも、……ほとんどいつも、自分にこう言って聞かせている。
「ありのままをさらけ出そう」と。

 一方、自分の息子のことを書くのも気が引けるが、それを私は二男から学んだ。
現在、アメリカに住んでいる。
インディアナ大学で、コンピューター技師をしている。
CERN(スイス)のスパコンを通信衛星を介してつなぎ、それをさらに世界中の
コンピューターとつないでいる。
何でもCERNからあがってくるデータは、ぼう大なものらしい。
そこらのスパコン程度では、役に立たないという。
それで世界中の科学者のもつ中型コンピューターとつなぎ、データを解析している。
何やら、とんでもないことをしているらしい。

 その二男が、日本へ帰ってきたときのこと。
地元の中学校から、講演会の講師に招かれた。
そのときのこと。
二男は穴のあいたTシャツとジーパン姿で、講演会に出かけていった。
「もう少し、ましな服を着ていけ」と私が言うと、二男はこう言った。
「ぼくは、いつもこのままだよ」と。

 どうしてそういう生き様を身につけたのかは、私にはわからない。
しかし私はそういう二男に、畏敬の念すら、覚えた。

●あとxx日

 さて私のこと。
今日は日曜日。
いろいろある。
で、心に決めた。
「今日1日だけでも、ありのままをさらけ出して生きよう」と。
これが今日の目標。

2010年10月17日。
私の満63歳の誕生日まで、あとxx日。 
62歳をどう生きたか。
その日までに、結論を出さなければならない。


Hiroshi Hayashi+++++++OCT. 2010++++++はやし浩司・林浩司

【生きがいの追求】2010年10月18日

●プロッター

 昨日の朝、プロッターが届いた。
プロッターというのは、パソコンにつなげて、文字をカッティングする
機械のこと。
それで文字をカッティングして、アクリル板などに張りつける。
それで看板ができあがる。

 で、そのため昨日は、日曜日というのに、朝から忙しかった。
ショッピングセンターへ行き、材料を仕入れた。
そこにない材料は、画材屋まで行き、仕入れた。
家に帰ってからは、パンをかじりながら、早速、作業。
ドライバーをパソコンにインストール。
プロッターを準備。
何とか、1枚、2枚……と、看板ができた。
が、外を見ると、もう夕方!

 一日の終わるのが何と、早いことよ!

 その途中のこと。
つまりあちこち車で走り回っていたときのこと。
ショッピングセンターの近くに大きなパチンコ屋がある。
そのパチンコ屋に、車が出入りしていた。
それを見ながら、私はこう思った。
「もったいない!」と。
ついでに、「どうしてそんな時間があるのだろう?」とも。

 何もパチンコをするのが、時間の無駄と書いているのではない。
ただ私など、それをしたくても、(めったにしたいと思わないが)、
そんな時間がない。
時間が今の2倍あっても足りない。

●生きがい

 「もっと生きたい」と思いつつ、それができない人は多い。
そういう人たちがいる一方で、パチンコ屋で時間をつぶす人も多い。
そう、まさに「つぶす」。
パチンコを稼業にしているプロもいるそうだが、そういう人にしてみれば、
パチンコ屋は職場ということになる。
となると、今度は、「職場とは何か」という問題が起きてくる。

 職場とは何か?

 いつだったか田丸謙二先生が、「最高の仕事は、研究です」と話してくれた
ことがある。
そうかもしれない。
しかしみながみな、研究者として、生きていかれるわけではない。
能力の問題もある。
そこで人は、自分の能力と才能に応じて、稼業を選択する。
が、総じて言えば、職業の価値は、その人の(生きがい)によって決まる。
真・善・美の追求もあるだろう。
その一方で、金儲けの追求もあるだろう。
となると、またまた今度は、「生きがいとは何か」という問題が起きてくる。

 生きがいとは何か?
 
●生きるvs息(いき)る

 朝、起きたとき、やりたいことがある人。
そういう人は、本当に幸福な人だ。
そしてそれがそのままできる人は、本当に幸福な人だ。
さらに言えば、それをしたとき、充実感を覚える人は、本当に幸福な人だ。

 もちろんそうでない人もいる。
その人に責任があるというのではない。
やりたいことがあっても、空回りばかりする。
やろうと思っても、空回りばかりする。
あるいはやってもやっても、失敗また失敗。
もしくは裏目、裏目と出てくる。
それが毎回のようにつづくと、やがてやる気をなくす。
自信喪失、自己嫌悪、自己放棄、自暴自棄……。
何でもござれ!

 一度そうなると、今度は無力感との闘いということになる。
「生きる」と言っても、ただ息(いき)ているだけ。
そうなる人も多い。

●人それぞれ

 ……と考えていくと、「生きる」ということは、「生きがい」の問題
ということになる。
年齢に関係ない。
職業に関係ない。
平たく言えば、どこに価値観を定め、どうその価値観の追求をしていくか。
それで生きる意味が決まる。

 名誉や地位が大切と思う人は、それを追求する。
豪邸やぜいたくな生活が大切と思う人は、それを追求する。
家族の「和」が大切と思う人は、それを追求する。
もちろん真・善・美の追求もある。
金儲けの追求もある。
私の周辺には、子育てに生きがいを求めている人も多い。

 人それぞれ。
私は私。
あなたはあなた。

 価値観というのは、そういうもの。
正しいとか、正しくないとか、よいとか、悪いとか、そういう判断に
なじまない。

●統合性

 どうであるにせよ、これからは時間との闘いということになる。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
人生は短くなっていく。
残り10年か?
それとも5年か?
今は健康だが、明日のことはわからない。

 そこで重要なこと。

(1)価値観の選択
(2)時間の無駄の排除
(3)あとは邁進(まいしん)あるのみ。

 ……というか、「やる気」などというものは、あとからついてくる。
努力という努力を意識しなくとも、楽しんでそれをすることができる。
(やりたいこと)がそこにあり、それができる(環境)がそこにあれば、
(やる気)は、自ずとわいてくる。
つまりそういう自分を、用意する。
そういう環境を、用意する。
それが結局は「統合性」へとつながっていく。
もし「努力」という要素があるとするなら、そういう自分を作りあげていく。
それが努力ということになる。

●もう一度生きる

 実のところ、私は過去、半年、かなりやる気をなくしていた。
いろいろあった。
とくに三男の問題があった。
相手が他人なら、足で蹴飛ばして、それでサヨウナラ。
が、自分の息子だと、そうはいかない。
かなり苦しんだ。

 で、私が選択した道は、(1)考えない、(2)忘れるだった。
『許して忘れる』は、子育ての神髄だが、それは相手に対しての言葉。
自分に対しては使えない。
自分を、どう許し、どう忘れるのか。

 が、それもやっと一巡した。
その先に、小さな光明だが、出口が見えてきた。
つまり私は私なりに、最後の人生をがんばるしかない。
それが今回の、看板作りにつながった。
「もう一度、がんばってみよう」と。

 が、看板作りは、思ったより手間取った。
切り抜いた文字を、板に張りつけるところが難しい。
画材屋で相談すると、一度透明のフィルムに張りつけてからするとよいと
教えてくれた。

 途中からワイフが手伝ってくれた。
長男も手伝ってくれた。
ああでもない、こうでもないと、それぞれが勝手なことを言い合った。
それが楽しかった。

●映画『エクスペンダブルズ』

 ……昨日という一日は、それで終わった。
いや、そのあと昨夜は、ワイフと深夜劇場へ行ってきた。
観た映画は、シルベスタ・スタローン主演の、『エクスペンダブルズ』。
いろいろな名優が名を連ねていたが、みな飾りというか、友情出演。
簡単なセリフだけ。
最初から最後まで、スタローンのひとり芝居。
内容は、『ランボー』の続作ということになるが、制作の荒っぽさばかり
が目立った。
前回、『ロッキー・ザ・ファイナル』が名作だっただけに、がっかり!
星は、2つか3つの、★★。
ただのアクション映画。

 もうすぐ『トロン』が公開される。
それに期待をかけよう。

 そうそうDVDだが、『テイキング・ライブズ(Taking Lives)』は
よかった。
こちらは、星が4つの、★★★★。

 では、今日も始まった。
がんばろう!
10月18日、2010年


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【長さを教える(幼児クラス)】【見取り図練習(小1&2)】

(1)幼児クラス・長さを教える

  長さの概念を教えてみました。
  長さを、「数字」で表現するところまで、指導してみました。
  10月から新しい生徒さんが2人、入会しました。
  そのため、テンポを遅くし、楽しい教室展開をしました。
  ぬいぐるみを紹介したのも、そのためです。


http://www.youtube.com/watch?v=dnbrA_g1UUA

http://www.youtube.com/watch?v=oXAyDW51U6E

http://www.youtube.com/watch?v=NVogHa6qhIw

http://www.youtube.com/watch?v=PEqvu75Qf0g


(2)小1、2クラス(どこまで描けるか、記録用)

  3Dの見取り図を描くのは、たいへんむずかしいことです。
  どこまでこの年齢の子どもが描けるか、それを実験してみました。

http://www.youtube.com/watch?v=Y1DK_GXT70s

http://www.youtube.com/watch?v=YhX_B2NDo4M


**********************
以下、HTML版

(年長児、長さの学習)


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v/dnbrA_g1UUA?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/dnbrA_g1UUA?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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www.youtube.com/v/oXAyDW51U6E?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/NVogHa6qhIw?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/NVogHa6qhIw?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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www.youtube.com/v/PEqvu75Qf0g?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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(小1、2、見取り図練習)

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v/Y1DK_GXT70s?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/Y1DK_GXT70s?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/YhX_B2NDo4M?hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/YhX_B2NDo4M?hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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Hiroshi Hayashi++++++++OCT.2010+++++++++はやし浩司

【今日も終わった】(2010年10月19日)

+++++++++++++++++

午前中は、『ファミリス』(静岡県教育委員
会発行雑誌)の原稿書きに集中した。
短い原稿だったが、フルパワーで書いた。
真剣勝負で書いた。
「子育てQ&A」という、雑誌の中でも、
最末部の、目立たないところ。
12月号に、掲載されるという。
書き終えたとき、フーッと息が漏れた。

(どうか、「ファミリス」12月号を読んで
ほしい。)

+++++++++++++++++

●人間関係

 「悪妻をもてば、夫は哲学者になる」と、あのソクラテスは言った。
このことからもわかるように、ソクラテスの妻は、相当な悪妻だったらしい。

 同じように、「愚息をもてば、親父(おやじ)は教育者になる」でもよい。
「愚息をもてば、親父は勤勉になる」でもよい。
もう少し深刻な話になると、「問題児をかかえると、母親は崇高になる」でもよい。
が、反対にこうも言える。

 「ダメ親父をもつと、子どもは人格者になる」
「できのよい息子をもつと、親父は堕落する」
あるいは、「ダメ夫をもつと、妻は虚栄に生きるようになる」でもよい。

 いろいろな例をあげたが、実際にはいろいろなバリエーションがある。
悪妻をもった夫が、うつ病になるケースもある。
同じように悪夫になるケースもある。
ダメ夫をもって、その分だけ、妻が努力家になるケースもある。
化学反応のように、結果がいつも同じとはかぎらない。
しかしこれだけは共通している。

 その「人」は、周囲の人間関係の影響を受けて、大きく変化する。

●結婚37年目

 で、私たちはもうすぐ結婚37年目を迎える。
37周年と書くべきか。
その37年を振り返ってみると、こんなことがわかる。
私はワイフによって作られ、ワイフは私によって作られた、と。
たがいに大きく影響しあった。

 が、私は始終、悪夫であった。
自分でも、それがよくわかる。
欠点をあげたら、キリがない。
ワイフは、それによく耐えてくれた。
たいへんだっただろうと思う。
その結果、私より、はるかに人格者になった。
つまり「悪夫をもてば、妻は人格者になる」。

●満63歳までに・・・ 

 「63歳になったら、〜〜しよう」というのは、前向きな考え方とは
言わない。
「先送り主義」という。
できることは、今すぐ、する。
明日に回さない。
明日に残さない。
今の私について言えば、63歳までに、すべてをする。
その63歳まで、あと1週間!

(1)山荘の周囲の草を刈る。(除草剤もまく。)
(2)教室の看板を完成させる。 
(3)11月の旅行の予定を立てる。(昼神温泉へ行く。)
(4)友人が病気なので、見舞う。
(5)義兄に会いに行く。
(6)「ポケモン・カルト」を、HPに載せる。

●密度

 要するに生き方によっては、1週間を、1か月にして生きることもできる。
1年は無理としても、数か月分にして生きることはできるかもしれない。
まずいのは、その反対。
明日も今日と同じ・・・という生き方を始めると、あっという間に
1日が終わり、1週間が終わる。
1年が終わる。

たとえば私の母は、最期は、特別擁護老人ホームで1年を過ごした。
その母を振り返ってみると、あの1年は、何だったのかということになる。
思い出という思い出がない。
何もない。
あるとすれば、あの椅子に座って、ぼんやりとテレビをながめていた
あの母の姿だけ。

 時間の長さは、時計では決まらない。
密度。
密度によって、決まる。

●忙しい

 が、密度といっても、忙しいだけではだめ。
昨日もサイクリングの途中で、行きつけのソバ屋へ寄った。
味がよい。
安い。
その店に、小柄の若い女性がいる。
美しい顔立ちの女性で、たいへんよく働く。
昼時になると、体を始終動かしている。

その店へ行くたびに、私はこう思う。
「もし私が豊田佐吉なら、自動ソバ揚げ機というのを作るだろう」と。
ソバがベルトコンベアーの上に乗って、最後は自動的にどんぶりの中に
落とされる。
そこへダシ汁が流される・・・。

 つまり・・・その女性には悪いが、忙しいというだけでは、その時間を
長く生きたことにはならない。

●感動

長く生きるためには、感動が必要。
感動が、時間を長くする。
つまりそのつど感動を作る。
用意する。
わかりやすく言えば、ドラマ。
そのドラマこそが、人生を長く生きる秘訣ということになる。

 が、ここで問題が起きてくる。
老後になると、生き方そのものが保守的になる。
ドラマが少なくなる。
つまり時間が短くなるのではなく、自らドラマを避けるようになる。
それが密度を薄くする。
言い換えると、長く生きるためには、冒険心を忘れない。
失敗を恐れない。
さらに言えば、年齢は関係ない。
年齢を忘れて・・・といっても、それはかなり難しいが、やりたいことをやる。

●モノより思い出

 ところで私も、50歳を過ぎるころから、こんなことに気づいた。
それまでの私は、「モノ」を大切にした。
こだわった。
が、50歳を過ぎるころから、「モノより思い出」と。

 たとえばあまったお金が、5万円あったとする。
その5万円で何を買うかと選択を迫られたら、モノではなく、できるだけ
思い出に使う。
わかりやすい例として、旅行がある。
あるいは知人や友人に喜んでもらえるようにする。

 さらに付け加えるなら、思い出は、外見ではなく中身。
中身を重視する。
たとえば質素な服装でホテルへ入ったとする。
そういうときホテルの従業員によっては、客を服装で判断する人がいる。
露骨に態度を変える従業員もいる。
(東南アジアのホテルでは、どこも露骨に態度を変える。
これは余談。)

 最初は気になるが、中身に徹してくると、やがてそれがわからなくなる。
無視できるようになる。
こうして中身の追求をはじめる。

●残り火

 少し前までは、こう考えた。
モノを買うときも、「あと〜〜年、もてばいい」と。
その私が、今は、モノに対して、ほとんど興味を失ってしまった。
たとえば若いころは、骨董品を買い集めた。
浮世絵を買ったこともある。
置き物としての石を、何十個もまとめて買ったこともある。
しかし今は、そういうことに関心がなくなってしまった。
むしろ、虚しさを覚えるようになってしまった。

 で、今は、身のまわりのモノを、知りあいや生徒、生徒の親たちに、
惜しげもなく配っている。
先月は生徒たちに、金メッキだが、中身は純銀の杯(さかずき)を、12個
あげてしまった。

 「死」というものを考えると、モノに対する考え方は、確実に変わってくる。
モノだけではない。
名誉にしても、そうだ。

 若いころは、有名になりたいと思った。
しかし今は、ほとんど、ない。
少しはまだ残り火のように燃えているが、ほとんど、ない。

●お金

 ついでにお金の問題。

 私のばあい、もっとも稼いだのが、20代の後半から、30代。
それ以後は、ジリ貧というか、下り坂。
今では毎月のやりくりだけで、稼いだお金は消えてしまう。
しかし思い出の中身は、お金では決まらない。
もっともこんなことは常識。
あえて私が言うべきことではない。

 先日も、カツ丼屋へワイフと入った。
どうしてか理由はわからないが、かつ丼屋の料理は、どこも量が多い。
量の多さで、競いあっている(?)。

 で、私とワイフは恐る恐る、店員さんにこう聞いた。
「子どもランチでも構いませんか?」と。
すると店員さんはにこやかに笑いながら、応諾してくれた。
「いいですよ」と。

 私とワイフは、かつ丼と、「お子様ランチ」という名前の
子どもランチを分けあって食べた。
それが楽しかった。
店を出て、「お子様ランチを食べたのは、生まれてはじめて」と言って、
笑いあった。

●失敗

 ・・・それにおいしい料理を食べるだけが、思い出ではない。
まずい料理を食べるのも、これまた楽しい。
そのときはいやな思いをするが、あとになると楽しい。
笑い話となって、はね返ってくる。

 つまり人生もそれに似ている。
うまくいったときは、楽しい。
しかし同じように、失敗も、これまた楽しい。
最近した失敗の中で、これは・・・?、というと、ハハハ、どうしても
ウンチやオナラの話が多い。
いろいろあった。
ワイフに言わせると、私はミスター・ビーンそっくりだそうだ。
ヘマやドジばかり、している。

●これで死ねる

 そういう私だが、このところひとつ、心境に変化が現れ始めた。
「死」に対する考え方が、少しずつ変わってきた。

 先日も山荘の廊下を歩いているときのこと。
ふと振り向いたとき、ズキンと激しい痛みが後頭部を襲った。
一瞬、床に座り込むほどの痛さだった。
そのあたりにある神経が、まとめてひねられるため、そういう痛みに
なるらしい?
ともかくもその瞬間、私は、死ぬのがこわいと思うよりも先に、「ああ、
これで死ねるかもしれない」と、そんなふうに思ってしまった。

 どうしてだろう?
やりたいことは、まだ山のようにある。
やり残したことも多い。
その私が、「これで死ねる」とは?

 ひとつには、こうした負け戦に疲れを覚え始めていること。
消耗戦。
先の見えない袋小路。
ぶつかっても、ぶつかっても、開かないドア。
楽になりたいとは思わないが、どうせ楽にはなれない。
死ぬまで、こうして闘うしかない。
働くしかない。

●今日のできごと

 実は今日、こんなことがあった。
ここに書くのもつらい。
つまり1人の生徒を退塾させた。
内容については、書けない。
私はあやうく失明するところだった。
ふだんはすばらしい子どもなのだが、魔が差した?

 コンパスのゆるみをなおすために、細いドライバーをもってきた。
ゆるみをなおしてやった。
そのあとのこと。
……。
やはり今は、ここには書けない。

 似たような事件は、この30年間に、数度あった。
ひとつは、飲んでいるお茶に殺虫剤を入れられたこと。
私がトイレに行っている間のできごとだった。

トイレから戻ると、何人かの生徒(中学生)がニヤニヤと笑っていた。
「?」とは思ったが、そのあとそばにあったお茶を飲んだ。
そのときのこと。
J君という男子が、こう言った。
「へんな味がしなかったア?」と。

 ピンときた。
「お前ら、何をした!」と聞くと、悪びれた様子もなく、こう言った。
「殺虫剤を入れておいた」と。
私はその場でJ君を、退塾処分にした。

 もう一度は、M君というやはり中学生だった。
M君と対峙してすわり、M君の話を聞いていた。
M君は学校での話をしていたと思う。
私は目を閉じ、「そうか、そうか・・・」とうなずいていた。
その瞬間のこと。
何を思ったか、M君が、私の顔と机の間に、もっていたシャープペンシルを
立てた。
とたんシャープペンシルの端がメガネにガチンと当たり、眉毛の内側の
付け根に突き刺さった。
顔をあげると、噴水のように赤い血が飛び散った。
私はM君を怒鳴りつけると、そのまま退塾処分にした。

 子どもたちの間には、「椅子引き」という危険な遊びがある。
相手が椅子に座ろうとした瞬間、その椅子を引く。
それと似た悪ふざけということになる。
が、こういうケースのばあい、子どもというのは、どういうわけか、
相手の目をねらってくる。
しかも突発的というか、ゲーム感覚?

 ほかにもいくつか、ある。
「こんにちは!」と声をかけ、肩をたたいたとたん、私の腹に足蹴りを
してきた女児(小5)もいた。
「このヘンタイ野郎!」と。
数発、ドシッドシッと腹に当たった。
私は息ができなくなり、その場に倒れた。
その女児は、空手道場に通っていた。

●責任

 こういう子どもたちに出会うと、心底、自分のしている仕事が情けなくなる。
今日もそうだった。
ほんの一瞬、顔の動きを止めたからよかったようなもの、もしその
まま顔をその子どものほうに向けていたら・・・。
今ごろ私は、救急病院で目の手当てを受けていることだろう。

 で、そのことをワイフに話しながら、こう聞いた。
「そういうとき、親は責任を取ってくれるのだろうか」と。
それに答えて、ワイフは「それはあなたの専門でしょ」と。

私「しかしぼくだったからよかったけど、もし相手が別の子どもだったら、
ぼくの責任になるよ。管理者責任というのだ」
ワ「そうね・・・」
私「相手の子どもが失明したら、それこそたいへんなことになるよ」
ワ「そうね。相手の親は、あなたに責任を求めてくるでしょうね」
私「・・・そうなんだよ。だからこのタイプの子どもは、こわくて
指導できない。ぼくの仕事には、保険がきかない」と。

●退塾処分

 私はその子どもを、その場で退塾処分にした。
悲しい気持ちだった。
やりきれなかった。
親は、もっとつらがるだろう。
それはわかっているが、冗談ですますことができるような事件でもなかった。

 私はその子どもにこう言った。
「君は頭はよいかもしれないが、中身はバカだ。
本物のバカだ。
いいか、バカなことをする人をバカという。
頭じゃ、ない。
この言葉を一生、脳に刻んでおくといい。
二度と、こんなバカなことをしないためにね」と。

●気分転換

 夜、仕事が終わってから、その子どもの家に電話をかけた。
しかしだれも出なかった。
それを知って、電話を切った。

 が、気分はよくなかった。
だから時刻は10時を回っていたが、山荘へ向かうことにした。

親への一応の説明は、ワイフにさせた。
ワイフもその場に、助手として、いた。
一連のできごとを、横で見ていた。
迎えに来ていたその子どもの母親は、「家でもよく叱っておきます」と
言って去っていったという。

 生徒といっても、長く教えていると、自分の子どものようになる。
つまりそういう子どもにしたのは、私の責任でもある。
またそういう雰囲気にしたのも、私の責任。
ときとして私もハメをはずす。
それがときとして、子どもたちに誤解される。

 やりきれない気持ち。
しかし私にはそれしかほかに、選択の余地がなかった。
さようなら、M君!
君は本当は、心のやさしいすばらしい子どもだよ。
これからは気をつけようね!

●おやすみなさい!

・・・ということで、ともかくも私は生きてきたし、今も生きているし、
これからも生きていく。
小さなドラマも、いくつかあった。
が、「ここで終わります」と宣言するわけには、いかない。
もうすぐ満63歳。
勝負はこれから。
体力を維持し、自分の限界にいどむ。
寿命という限界に、いどむ。
そこにあるのは、エベレストよりも高い山。
その「山」にいどむ。

 ・・・とりとめもない話を書いてしまった。
63歳の決意というよりは、ダラダラの駄文。
とにかく明日もがんばろう。
ワイフは、すでに私の横でいびきをかいている。
あごの下のシワを数えたら、首の上から下までだけで、7本もあった。
すっかりバーさんになってしまった。
のんきな女性で、明日のことは何も心配していない。

 「いい性格だなあ」と思いながら、今日もこれでおしまい。
新しい発見は、今日はなし。
では、みなさん、おやすみなさい!

2010年10月19日、11:40PM

●追記

 小雨が降っていた。
時計を見ると、午前7時。
作業服の上に雨合羽を着た。
草刈機を用意すると、それにガソリンを入れた。

 道路に面した土手の雑草が、大きくなっている。
それが道路側にはみだしている。
それを道路側から、バリバリと切り倒していく。
その爽快感は、それをしたものでないとわからない。
が、雨がひどくなって、途中でギブ・アップ。
時間にすれば、30分ほど。

 あとは朝風呂に入って、恐る恐る体重計にのる。
62・8キロ。
ややオーバー。
「今日も減食(ダイエット)だな」と。

・・・あとはのんびりとした朝。
風もない。
風呂から出ると、雨もあがっていた。
たった今、カラスが谷の下を横切った。
遠くの山々は、白いモヤに包まれている。

 さあ、これから家に帰って、仕事。
ワイフが「外は寒いわね」と言って、窓を閉め始めた。
 
はやし浩司 2010−10−20

(補記)

 新発見!

 こうして「はやし浩司 2010−10−20」と書いておくと、
つぎから自分の日記を、ヤフーやグーグルを使って、日付で検索できるようになる。
これから自分の書いた原稿の末尾には、こうして名前と日付を入れることにした。
GOOD IDEA!


Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)

●はやし浩司 2010−10−21

●7500メートルの山

 昨夜、義兄と夜遅くまで、話す。
私にはよき友、よき師である。
某音楽学校の校長を務めたこともある。
その義兄に、「ぼくは、70歳まで
仕事をつづけます。
70歳というと、7000メートル級の
山に登るようなものです。
今から体力作りをしなければなりません」と
話すと、すかさず、こう言った。

「7000メートル? 7500メートルに
しなさい!」と。

7500メートル!
カラコルム山脈には、8611メートルのK2を
筆頭に、7000メートル級の山々が、60〜80
座もあるという。

どの山にしようか……。
その山の写真を飾っておくのも悪くない。
内心では、そう考えていた。
が、世界最高峰は、何といっても、エベレスト。
8844メートル。

88歳は、とても無理?
しかし90歳を過ぎても、矍鑠(かくしゃく)として
いる老人は、いくらでもいる。
となると、目標は、エベレスト。
8844メートル。

ついでに世界の山々を、高い順位から並べてみる。
(ウィキペディア百科事典より)

"エベレスト (8,844 m)
"K2 (8,611 m)
"カンチェンジュンガ (8,586 m)
"ローツェ (8,545 m)
"マカルー (8,462 m)
"チョ・オユー (8,201 m)
"ダウラギリ (8,167 m)
"マナスル (8,163 m)
"ナンガ・パルバット (8,126 m)
"アンナプルナ (8,091 m)
"ガッシャーブルムI峰 (8,068 m)
"ブロード・ピーク (8,047 m)
"ガッシャーブルムII峰 (8,035 m)
"シシャパンマ (8,027 m)

 さっそく今朝から、運動量をふやした。
昨日までは、朝起きたら、ウォーキングマシンの
上で20分と決めていた。
今朝から30分にした。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【日中経済戦争】(10―20)

++++++++++++++++++

中国は、2009年度だけでも、何と
総額130兆円もの投資資金を、市中に
ばらまいた。
(130兆円だぞ!)
リーマンショック以来、世界の投資環境が
縮小傾向にあるにもかかわらず、130兆円!

この額が何を意味するかというよりも、その
お金が、どこで何に使われたかということ。
それが問題。
もちろん「投資」ということになるが、
中国のばあい、「投資」ではなく「投機」に
回った。

一説によれば、半分以上。
あるいは45%前後。
(あの国の経済指標、統計は、まったくアテに
ならない。)
そのお金が、不動産市場へと流れた。
中国国家統計局の資料によれば、
2010年の4〜5月期に、住宅販売価格は
天井を打ったという。
しかしそれでも年率、10〜12%(2010年
7〜8月現在)という上昇率である。

中国の住宅販売価格が常軌を逸しているというのは、
すでに世界の常識。
メチャメチャ。
そういう中、前回も書いたように、ジニ係数が
ジリジリと上昇している。
つまり貧富の差がますます大きくなっている。
「人民」の不満は、すでに爆発寸前という状態から、
「爆発期」へと入りつつある。

その一つの表れが、極端な反日デモということになる。
中国では、おおっぴらにはデモができない。
中央政府に、不満をぶつけることもできない。
そこで「反日」に名を借りて、自分たちの不満を
爆発させる。
中国政府も、それを恐れている。

忘れてならないのは、あの国は、中国共産党という、
民主主義国家とはまったく異質の、独裁国家で
あるということ。
それともあなたは、あの国では、国家主席にせよ、
首相にせよ、どういう経路を経て「選任」されているか、
それを知っているか。

私、知らないアルヨ。
あなた、知らないアルヨ。

闇に包まれた政府。
それが中国共産党であり、中国ということになる。
だからやることも、メチャメチャ。
130兆円という投資資金も、そのひとつ。
あの国では日本では考えられないような経済政策が、
トップのツルの一声で決まる。

銀行に130兆円を渡し、「貸せ」「貸せ」と、
指示した。
しかし肝心の銀行は、それだけの金を
どこへ貸せばよいのか。
貸し先が見当たらない。

だいたい一般製造業にあたる企業ですら、
住宅投機に走っている。
そのほうが、利益率(?)が高い。
2010年の3〜4月期の13%からさがった
とはいえ、今でも10〜12%。

5000万円で住宅を購入しておけば、
翌年にはそれが5500万円で売れる!

++++++++++++++++++

●危険な中国

 だから中国の反日デモを静観してよいというのではない。
その逆。
だからこそ、反日デモが、本当に反日暴動につながってしまう。
そういう危険性がある。
中国政府も、自分たちに向けられた不満をかわすために、それに押されて、
反日的行動に出る可能性が高い。
独裁国家の常とう手段である。
国内が騒がしくなると、外に向かって敵を作る。
ガス抜きをする。

 日本はそういう動きに、乗ってはいけない。
現在、菅首相の「事なかれ主義」があちこちで批判されているが、ここは
事なかれ主義。
事なかれ主義が、ベスト。
尖閣諸島問題にしても、日米安保条約が有効である間は、中国は日本に対して
手も足も出せない。
(もっともアメリカのほうから、離脱するという動きもあるようだが・・・。)

●よい子、日本

 そういう中、ひとりよい子ぶっているのが、日本。
世界中が通貨安競争をしているのに、日本だけは、よい子。
約束を守る、優等生。

たとえば為替介入にしても、韓国は連日、随時、為替介入している。
中小国であることをよいことに、(こういうときだけ、自分たちは
中小国と言うが)、やりたい放題。

 で、日本が先週、「為替介入を控えてほしい」と申し出たら、とたん、
キバをむいた。
「日本だって、やったではないか!」(朝鮮N報)と。

 日本がやったのは、1度だけ。
その1度を理由に、自分たちはやりたい放題。
だったら、日本も、通貨安競争をすればよい。
よい子ぶっている間にも、ジリジリと円高は進む。
現在、1ドル=81円前後。

 日本よ、優等生ぶるのはやめよう。
そんなことをしていたら、日本は本当に沈没してしまうぞ!

●爆発期

 中国の話に戻る。

 どういうプロセスを経るかはわからないが、中国のバブル経済は、やがてすぐ
崩壊する。
中国経済がメチャメチャということは、だれの目にも明らか。
当の中国人民ですら、それを知っている。
が、中国人民も、以前のような無知な集団ではない。
とくに若者たち。
世界の情報に接している。

 大学へ進学できない。
卒業しても、就職先がない。
就職しても、一生、自分の家がもてない。
彼らの不平、不満は、先にも書いたようにすでに「爆発期」に突入している。
表面的には平静を装っているが、中国政府が感じている危機感には相当な
ものがある。
が、打つ手は少ない。

 仮にここで住宅価格の上昇を常識的な範囲に収めたとすれば、それだけで
地方政府は、マヒ状態に陥ってしまう。
地方政府ですら、そして末端の役人ですら、住宅投機に狂奔している。
もしそうなれば、暴動はただの暴動ですまなくなる。
中央政府の崩壊につながりかねない。

 現在の中国は、そういう状況とみてよい。

●では、日本はどうすればよいか

 中国のバブル経済崩壊に備えることはもちろん、暴動が日中間の
軍事衝突につながらないよう、細心の注意を払う。
残念ながら、今、中国と戦争しても、日本には勝ち目はない。
中国は日本各地をターゲットに、核兵器を、すでに実戦配備している。
「アメリカが守ってくれるはず」と考えている人も多いが、そんなことはありえない。
ありえないことは、ワシントンに視点を置いてみれば、だれにもわかるはず。

 どうしてアメリカが日本のために戦わねばならないのか。
アメリカ軍がどこへ移動しても、「反米」「反米」の大合唱。
沖縄には沖縄の事情がある。
それはわかるが、アメリカ人の心は、そこまでデリケートにできていない。
つまり沖縄の事情を理解し、ついで日本の事情を理解できるような国ではない。
沖縄で、「反米知事」が誕生すれば、それは即、日本の姿勢ととらえる。
現に今、日本は民主党政権下にあるが、アメリカはもとより、欧米では
「日本は左翼国家」と、とらえられている。

 アメリカは、すでに一歩、日本から離れ始めている。
今では、日本と韓国を並べて言うとき、つねに「Korea/Japan」
と韓国を先に言う習わしになっている。
「韓国こそ、真の同盟国」と。

 日米関係の修復を、一日も早く急がねばならない。
同時に、その裏であやしく動き回る韓国をけん制しなければならない。
端的に言えば、韓国経済を叩きつぶす。
電子産業、自動車産業、鉄鋼、造船などなど。
ひとつずつにターゲットをしぼり、国家戦略を打ち立てる。
そうした緊張感を日本ももつ。
(韓国は、日本経済を叩きつぶすことに躍起になっているぞ!)

 世界で今、いちばん緊張状態にあるのは、極東アジアと言われている
(アメリカ政府高官)。
が、肝心の日本人はどうか?
平和ボケの上に、繁栄ボケ。
いまだに日本は、アジアの先進国と思い込んでいる人が多いのには、
驚かされる。
そういう人は、今一度、足元をしっかりとながめなおしてみたらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 2010−10−20)

【参考】尖閣諸島の現状(以下、時事通信より)

中国の漁業行政当局は20日、尖閣諸島(中国名・釣魚島)近海でのパトロールのため漁
業監視船「漁政118」が14日に出航したことを明らかにした。すでに周辺海域に到着し、
台風の影響を避けるため待機中という。「中国漁民の合法権益を守るのが目的だ」として
いる。

 中国は、同諸島沖で日本の海上保安庁巡視船と中国漁船が衝突した事件を受け、自国漁
船を保護するため同諸島周辺での監視活動を常態化する方針を表明。9月中旬から監視船

活動が確認されている。10月初めには農業省漁政局所属の監視船2隻が撤収しており、今
回は交代の監視船とみられる。

 日中関係は、ブリュッセルで行われた日中首相の非公式会談を機に、一部改善の兆しも
見えている。ただ、監視船の継続派遣は、「釣魚島の領有権を主張し、『領土問題は存在し
ない』という日本の立場に行動で訴えるもの」(日中関係筋)とみられている。 
(以上、時事通信より。)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2010+++++++++はやし浩司

●はやし浩司 2010−10−21

●会食

 今朝は雨。
小寒い。
こういうとき、ウォーキングマシンは、ありがたい。
居眠りをしながらでも、運動ができる。
新聞を読みながらでも、できる。

 体重を何とか、あと1キロ、減らさねばならない。
しかし今夜は、会食。
どうしようか?

●家事を手伝う子

 ものを書くとき、いちばん大切なのは、書きたいことを書くこと。
「書きたい」という意欲がないと、気力がつづかない。
今も手元に、「国立青少年教育振興機構」がした調査結果がある。
ざっとながめたが、それについて書きたいという意欲がわいてこない。
中身は、「家事の手伝いをする子どもが、ふえている」という内容のもの。
1998年(1998年!)の調査と比べても、全体に、10〜13%前後
ふえている。

 そう10年前には、家事の手伝いをする子どもは、少なかった。
今は約半数以上(小中学生…52%がときどき、18%がいつも)が、家事の
手伝いをしているという。

(逆に読むと、30%前後の子どもたちは、何もしていないことになる!)

 念のため、資料として数字を、ここに保存していおく。

(1)買い物の手伝いをしている  いつも……18%(6%)
                 ときどき……52%(50%)
(2)手伝いとして決まったことをさせている ……63%(50%)
           (かっこ)内は、1998年
           2010年1〜4月期、小4〜6、中2、高2、約3万
           5000人について調査。

 いつもならここまで書くと、脳みそが回転し始めるが、今朝はそれがない。
どうしてだろう?
あくびばかりが、連続して出てくる。

●デジモノ

 こういうときは、デジモノをいじるのがよい。
しかし手元に、それがない。
今、ほしいのは、機能がメチャメチャたくさんついている腕時計。
説明書が分厚ければ分厚いほど、よい。
で、値段を調べたら、4〜5万円。
買っても、一時的に遊ぶだけ。
自分でもそれがよくわかっている。
ワイフに頼んでも、「NO!」と言うに決まっている。
だから買わない。

 しかしこれは私のビョーキ。
ドーパミンが、線条体をガンガンと刺激している。
買い物依存症の人は多い。
私もその1人?

●ホームベーカリー(「ワルツ」)

 そう言えば、昨日、満足できるパンを、はじめて焼くことができた。
キメもこまかく、味もよかった。
生徒の親が、「佐鳴台(さなるだい・町名)にいい店があるから、そこで買うといいですよ」
と教えてくれた。
決め手はやはり、材料だった。
ホームベーカリーの成否は、材料、つまり小麦粉の良し悪しで決まる。
プラスもろもろの材料。

 こうした材料は、やはり専門店でそろえるのがよい。
電気店やショッピングセンターにもあるが、イマイチ、質が悪い。

 店の名前は、「ワルツ」。
パンづくりのための、いろいろな材料がそろえてある。
ワクワクするほど、そろえてある。
店は、佐鳴台、遠鉄ストアの反対側にある。

●腐臭

 で、今、書きたいのは、あの鈴木M(前国会議員)と、小沢I(現国会議員)のこと。
週刊誌などによれば、仲がよいという。
ときどき会合を重ねているという。

 ああいう人たちから見ると、私たちは、河原の石ころのようなものらしい。
いつだったか、ある大会社の人事部の部長が、そう話してくれた。
「君たちは、数に入っていないよ」と。

 が、一方、私たちからみると、ああいう人たちは、権力の亡者にしか見えない。
「権力欲にとりつかれた亡者」と書く方が、正しいかもしれない。
「日本のため」を口にしながら、結局は自分の名聞利養のために、政治を利用して
いるだけ。
一見派手な世界に見えるが、中身は無間の孤独地獄?
まわりに群がる人たちにしても、『金の切れ目が縁の切れ目』。
それとも『権力の切れ目が縁の切れ目』。

 本当に日本のことを考えるなら、さっさと刑務所に入り、権力の座から下りること。
がんばればがんばるほど、腐臭が漂うようになる。
そういう国民的な嗅覚が、まったくわかっていない。

 が、こういう話は、ここまで。
書けば書くほど、今度は、私が嫌われる。
先日も、私のBLOGに、「どこのオッサンか知らないけど、あんたは何様のつもり?」
というような、書き込みがあった。

 そう、私はただの石ころ。
自分でも、それがよくわかっている。

●睡眠不足

 それにしても、今朝の私は、眠い。
慢性的な睡眠不足?
秋の気候になり、すっかり気が抜けてしまった。

 ……数日前、二男からメールが届いていた。
孫たち(誠司と芽依)も元気でいるらしい。
そろそろクリスマスプレゼントを送らなければならない。
遅くとも、今月(10月末)までに。
この時期、船便だと、1・5か月から2か月はかかる。

 また来月(11月)は、昼神温泉へ、紅葉を見に行くことにしている。
予約の手配は、すべてすんだ。
楽しみ。

 もうすぐワイフが、「朝食よ」と声をかけてくるはず。
パンの焼ける臭いが、書斎まで入ってきた。
こういう「幸福」を、今日1日も、大切にしたい。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【BW子どもクラブbyはやし浩司】

●長さを教える

 もっと見てくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、「BW公開教室」へとお進みください。


【1〜4】

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 2010−10−22)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【孤独論】
Jesus himself experienced this loneliness.(マザーテレサ)

●孤独

+++++++++++++++++

どこかの男性が、110番に繰り返し電話、
警察に逮捕されたという。
年齢は、62歳。
しかも、学校元教諭。
理由について、「さみしかったから」と。

+++++++++++++++++

●実兄

 この話を聞いて、私は真っ先に私の実兄のことを思い浮かべた。
兄は、ちょうど今の私の年齢のころから、夜になると、あちこちに電話を
かけた。
もちろん私のところにも、毎晩のようにかかってきた。
が、電話に出ると、何かをボソボソ言ったあと、そのまま電話を切ってしまった。

 兄もさみしかったのだろう。
毎日が孤独との闘いだった。
友もいなく、家族もいなく、話し相手もいなかった。
母と同居していたが、その母も、兄にはつらく当たっていた。
それを思うと、つまり今になってみると、もっと話を聞いてやればよかったと、
悔やまれる。

 孤独は恐ろしい。
本当に恐ろしい。
あのマザーテレサも、孤独の恐ろしさを説いている。
「キリストでさえも孤独だった」と説き、その苦しさを、『渇き』に
たとえている※。

●実兄

 その男性は62歳。
若い!
家族はいなかったのか。
あるいは認知症か何かになっていたのか。
私の兄のばあいは、うつ病と診断されていた。
しかし62歳というのは、若すぎる。
私と同じ年齢というだけで、そう判断するのは正しくない。
しかし私は、そう思う。

何があったのか。
新聞報道では、そこまで詳しくは書いてない。
しかしけっして他人ごとではない。
私も、日々に、心のどこかで孤独と闘っている。

●ひとりでは生きていけない

 人間は、ひとりでは生きていかれない。
「ひとり」というのは、だれにも愛されず、だれをも愛せずという意味。
だれにも相手にされず、だれをも相手にせずという意味。
死んでも悲しんでくれる人はいない。
死んでも悲しむ人もいない。

 一度そうなると、生きていること自体が、乾いた砂のようになる。
味気なく、つまらない。
すべてのものが色あせ、何をしても虚しい。

●孤独との闘い

 「生きていけない」ということは、つまるところ、そのまま「死」につながる。
死ぬことが、最後に残された希望ということになる。
「希望」というよりは、「最後の逃げ道」?

 希望には、それにつづく未来がある。
しかし死には、それがない。
そこですべてが終わる。

 だからだれしも、自らを孤独の世界に追い込まないようしている。
自分の置かれた環境を整えようとする。
意識的な行動というよりは、無意識的な行動ということになる。
心のどこかで孤独を感じながら、孤独にならないよう、自らを回避させる。
それが孤独との闘いということになる。
 
●だれが石もて打てる

 愛にせよ、幸福にせよ、そして孤独にせよ、どれも実感しにくい。
「形」がない。
が、賢明な人は失う前に、愛の価値を知り、幸福の価値を知る。
孤独になる前に、孤独の恐ろしさを知る。
しかしそうでない人は、失ってから、愛の価値を知り、幸福の価値を知る。
孤独になってはじめて、孤独の恐ろしさを知る。

 が、いくら賢明であっても、人生というのは、ときに空回りをする。
あれよあれよと思うまもなく、人生そのものが、自分の望む方向とは
逆の方向に進んでしまう。
その人の責任というよりは、その人の力では、どうにもならない。

 だから・・・というわけでもないが、冒頭の男性を、だれが笑うこと
ができるだろうか。
私には、できない。

 こんな人もいた。

●詰め所でひとり

 この浜松で、かなりの財を築きあげた男性がいた。
高度成長、それにつづくバブル経済をうまくくぐりぬけ、巨億の富を蓄えた。
が、その男性は数か月の入院生活のあと、亡くなってしまった。
その入院生活をしているときのこと。
その男性は、毎晩夜になると、看護士の詰め所の隅で、眠っていたという。
三角座りをしたまま眠っていたという。

 家族というか、娘は近くに1人いたが、断絶状態にあった。
看護士が娘にときどき電話をかけたが、死ぬまで一度も、面会に来なかったという。

●たった1人

 たった1人でも、本当に愛し、理解してくれる人がいたら、
その人のもとで、安らかに死ぬことができるだろう。
たった1人でよい。
心底許しあい、心底忘れあえる人が、1人、いればよい。

 その人が、いるかどうか。
あるいは一生かかって、そういう人を1人、もつことができるかどうか。
それが人生の最大の目標ということになる。
多くは、夫や妻が、その人ということになる。
親友かもしれない。
あるいは高徳な信仰者だったら、神や仏がその「人」かもしれない。

●許して忘れる

 愛の深さ(=「許して忘れる」の度量の広さ)が、孤独に強くするのか。
それとも孤独が、愛を深くするのか。
どちらであるにせよ、愛と孤独は、紙で言えば表と裏のようなもの。
愛を深めながら、人は孤独と闘い、孤独と闘いながら、愛を深める。
愛の価値を知る。

 たとえば『許して忘れる』。
それをしなければ、家族にせよ、友にせよ、みな、どんどんとあなたから離れていく。
だから『許して忘れる』。
これを繰り返していると、反対に、家族にせよ、友にせよ、再びあなたのもとに、
戻ってくる。

 ただ誤解していけないのは、孤独というのは、その状況にならないと「顔」を出さない
ということ。
それまでは心の奥に潜んでいて、あなたの心のスキをねらっている。
病気になったとき、だれかと離別したとき、事業に失敗したときなどなど。
そういうときに顔を出し、私やあなたを一気に孤独地獄へとたたき落とす。
それまで「オレはひとりでも生きていかれる」と豪語していたような人でも、その
とたんにガタガタになる。

●うつ病

 冒頭にあげた男性のばあい、何かの心の病気になっていた可能性もある。
認知症から、うつ病になる人がいる。
うつ病から、認知症になる人がいる。
どちらが先で、どちらがあとかということは、専門家でも判断がむずかしいという。

 私の知人に、現在、そういった人が3人いる。
みな、家の奥に引きこもってしまい、寝たきりの状態にある。
だれにも会わない。
一日中、暗い家の中でじっとしている。

 共通しているのは、たまたまその3人とも女性であること。
とくに不思議なのは、よい家族に恵まれていること。
「孤独」とは、とても言えない世界に住んでいる。
やさしくて、思いやりのある夫、それに息子や娘たちに囲まれている。
そういう人たちがみな、近くにいて、その人の世話をしている。
心配している。
が、それでもそうなる人は、なる。

 これについて私のワイフは、こう言った。
「いい家族に恵まれていると、かえって『がんばらなくちゃあ』という気持ちが
弱くなるのでは?」と。
しかしこれは俗説。
うつ病かどうかは別として、心の病気は、その向こうで起きる。
つまりその人の意思ではどうにもならない。
意思でコントロールできるようなものではない。

●昔の家族

 田舎の人たちの生活をみていると、そこにいつもだれかが出入りしているのが
わかる。
近所の人、親類の人などなど。
「プライバシーが守れない」と若い人たちはこぼすが、プライバシーという概念
そのものが通じない。
その家の家計の内容まで、たがいに知りつくしている。

 そういう生活にはデメリットもあるが、その反面、メリットもある。
いわゆる「温もり」というメリットである。

日本の社会は、つぎの社会への準備期間もないまま、現代という今の
社会に移行してしまった。
「核家族」という名のもと、親子関係だけは濃密になった。
が、「核家族」というときには、そこには両親の姿はない。
兄弟姉妹、親戚の人たちの姿もない。
あるのは、親と子、だけ。

そのためかえって、「家族」はバラバラになってしまった。
その結果が、今。
わかりやすく言えば、周囲の人たちとの(つながり)、つまり温もりが
消えてしまった。

●「さみしかったから」

 どんな気持ちだったか?
110番へ繰り返し電話をかけたとき、どんな気持ちだったか?
「さみしかったから」ということになるが、本人は逮捕覚悟の上での行為
だったという。
「逮捕されれば、話し相手ができる」と。
つまりその元教諭は、そこまで追い詰められていた。

もしほんの少しだけ勇気があったら、その元教諭は自ら命を絶っていたかもしれない。
この世の中、生きていくのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
簡単には、死ねない。
そういう人は、ただ生きていく。
それしかない。
昼はあてどもなく歩きつづけ、夜は夜で、夜の暗闇におびえる。
人に会っても、乾いたあいさつだけ。
心を開くこともない。
「さみしい」という言葉を使うなら、その男性は、さぞかしさみしかった
ことだろう。

●心の傷

 私は子どものときから、ずっと孤独だった。
昔の私を知る人は、私のことを、明るく朗らかだったという。
しかし私は孤独だった。
いつもさみしかった。
「家庭」といっても、家庭そのものがなかった。
「家族」といっても、みな、心はバラバラだった。

 当時としては、むしろ恵まれた家庭だったかもしれない。
が、私の居場所はなかった。
家の中では、どこにいても落ち着かなかった。

 その状態は、今も、変わらない。
60歳を過ぎた、今も、変わらない。
恐らく死ぬまで、変わらないだろう。
何度も努力はしてみたが、振り返ってみると、いつもあきらめるしかなかった。
だから今は、あまり考えないようにしている。
だれにもひとつやふたつ、弱点がある。
過去を消すことができないように、心の傷も消すことはできない。
過去を消しても、心の傷だけは残る。

●老後

 老後は、孤独との闘いといってもよい。
それについて義兄は、こう言った。
「どこかのクラブに入って、仲間をつくったらいい」と。

 それもひとつの方法かもしれない。
しかし長生きをすればするほど、皮肉なことに、そこに待っているのは、孤独。
だから私はワイフと、ときどきこんな会話をする。
「ぼくは、お前より、先に死ぬよ」と。
ワイフも私の弱点をよく知っているから、こう言う。
「そうね・・・。それがいいわねえ」と。

 その男性は、110番に繰り返し電話をして、逮捕された。
警察には警察の立場がある。
そういう形で、110番を利用されたら、困るだろう。
それはわかるが、しかしだれがそういう男性を、石もて打てるか。
まさに、明日はわが身。

 今回のこの事件ほど、身につまされたものは、なかった。
これ以上、言葉がつづかない。

(補記)●闇恐怖症

 昼間は何とか、ごまかせる。
こわいのは夜。
闇。
ひとりぽつんとしていると、ひしひしと孤独感が襲ってくる。

 こうした恐怖感は、そうでない人には、理解できない。
私のワイフもその1人。
結婚して37年になるが、いまだに、「気のせいよ」と言い、
話すら聞いてくれない。
のんきな性格で、本当にうらやましい。

昨夜もこたつの中でうとうとしていたら、「そんなところで寝ると
風邪をひくわよ」と。
私はワイフが寝るのを待っていたが、ワイフはそのまま寝室のドアを
閉めて、先に寝てしまった。
そういうとき、言いようのない孤独感が、襲ってくる。

 こういうのを「闇恐怖症」というのか。
あまり聞かないが、恐怖症には定型がない。
その人のもつトラウマに応じて、千差万別に姿を変える。
今の状態からして、ワイフにしても、それを理解するのは、不可能だろう。
私はそのままじっと、闇の恐怖に耐えながら、こたつの中で寝た。

(注※)マザーテレサ

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger.  キリストが言った。
「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としてのパンを求める空腹
を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも
受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身
も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も
孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹というこ
とになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 孤独論 マザーテレサ hunger 渇き イエスキリスト はやし浩司 2010−10
−23)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【小児てんかん】

【オーストラリア在住のMAさん(母親)より】

【MAさんより、はやし浩司へ】

今年4月末、主人の転勤に伴いオーストラリア赴任しました。息子の事でご相談に乗っていた
だきたくよろしくお願いいたします。

>> 主人と私は2度目の駐在(12年前にカナダ)ですが子供達にとってははじめての海外生活
でまずは現地校に慣れるというのが第一目標として生活しておりました。

長男はてんかんをもっており小学1年生よりテグレトールを服用しておりました。にも係らず何
度か発作を起こしたため(発作自体は軽い)テグレトールを彼にとって最大まで増やしその後
マイスタンを追加し現在1日計7錠(テグレトール5錠、マイスタン2錠)を服薬しております。

お陰様で2008年12月に薬を増やしてから発作は止まり現在約2年間、発作なく過ごしておりま
す。

>> 問題は彼の学習面なのですが日本で小児精神の方で診断を受けたところ学習障害がある
ことが分かりました。親からみても3年生になる頃から新しいことを理解するのに時間が掛か
る。今まで学校で習ったことはだいたい理解できたものが家に帰って復習すると分かっていな
い。漢字等の暗記に時間が掛かる。等、気になったため病院で診断を仰ぎました。

>> そこで息子は学習に関して個人的なフォローが必要だとも言われました。それから塾にも
通っていましたが集団でレベルの違う子の中で続けるのも苦痛に感じていたところ赴任も決ま
り、という事で家で私がフォローしてきました。

>> このような経緯でオーストラリアまで参りましたが、今度はやはり日本語補習校で「理解して
いるようで理解していない。」「授業中は至って真面目、がんばっているのにテストができな
い。」とまさにその通りということを言われました。

また現地校でもELLのクラスで、「文法を教えてもとても混乱しているよう、理解できていない。」
といわれました。双方に主人と共に面談し今後の息子の対処法、目標達成のレベルを落とし
てもらうことをお願いしました。

>> 最近では本人も「やっているのにできない。」という事を認識し始めフラストレーションの中で
勉強しなくてはならないことに一緒に見ている私たちもとてもかわいそうだと感じ、同時に疲れ
てしまいました。

>> 息子はとても活発、オーストラリアに来ても友達が沢山でき言葉もままならないのにきちん
と遊ぶ約束もしてくる、また友達の家にも遊びに行ける、現地校の先生からはとても礼儀正しく
真面目に物事に取り組める、と言われます。

現地でフォットボールチームにも入り本当に楽しそうに練習しています。日本人一人でも全く問
題なく溶け込んでいることにとても頼もしく見えます。遊びに関しては好奇心も旺盛です。

>> ただ新しいこと(学習について)を理解するまで時間が掛かるためどうしてこんなことが分か
らないのだろう、と思ってしまうのです。これは学習障害だから仕方がない、という事も最近は
私も受け入れられるようになりましたがついつい私も主人もヒートアップしついには家族で喧嘩
になります。そのたび反省、先生のHPを拝見しこれではいけない、そして次はこうしよう、と心
に決め息子と共にまたやり直したい、と思う日々です。

主人はとても温厚で子煩悩、どうにか息子を助けたい一心でよく学習の面倒も見てくれます。
補習校の宿題も多くはじめは何とかこなしましたが今は量より問題を理解させようと色々な手
を使って説明したりしています。ただ息子自身やる気をなくしているため殆ど効果がありませ
ん。そのとき理解したように見えても次の日にはできません。みんな空回りしている感じです。


>> 今は現地校をメインに生活をしていくよう考えております。赴任は約4年間の予定です。今
後どのように息子を育て、教育していったらよいか何かアドバイスいただけたら幸いです。次男
とはとても仲がよく、同じレベルで遊んでいます。次男は普通に学習し、理解できるタイプです。

我々夫婦も長男は小学生に上がるまでこのようなタイプだと思って育ててきました。言葉も遅
いことはなくむしろよく筋道たて話していました。それがてんかんだと分かり、薬を服用するよう
になってから崖から転がるように分からなくなってきたことに親の方が焦っているところがあり
ます。今後薬をやめたら少しは聡明に物事を考えることができるようになるかと、そのときのた
めに少しでも今できることをやってあげたいと思っているのが私たちの気持ちですがこれが彼
にとって重い負担にもなってることも分かっております。

>> 長文、失礼いたしました。どうにか息子を助ける手立てはないか、私たち親として何をして
やったら将来のためになるのか、お力を貸していただきたく存じます。
>> どうぞよろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、MAさんへ】

 知人のRAさんが、同じような悩みをかかえ、それを克服しています。
RAさんに相談したら、以下のような手紙が届きました。
参考にしてください。




 以上ですが、何かの参考になれば、うれしいです。
ていねいな返事をくれた、RAさん、ありがとうございました。

はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 小児てんかん はやし浩司 2010−10−24)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

●田丸謙二先生

 おととい田丸先生から、メールが届いた。
「末永く(みなさんに)私の原稿を読んでもらえるには、どうしたらよいか」
と。

 私もそれを心配していた。
現在先生は、N社を使ってメールのやり取りをしている。
そのサービスのひとつとして、HPを公開している。
N社との契約が切れれば、先生のHPも、そのまま削除されてしまう。
原稿も、そのまま消えてしまう。
この世界、『金の切れ目が、縁の切れ目』。
有料サービスは、広告や宣伝などが載らないという点では、便利(?)だが、
そういう欠点もある。

 むしろ無料HPサービスを利用したほうがよい。
広告や宣伝は載るが、ある程度アクセスがあれば、そのサービス会社が閉鎖に
ならないかぎり、HPが消えることはない。

 「では、どうすればいいか?」ということで、昨日は半日、田丸謙二先生のHP作りに没頭し
た。

(1)田丸謙二先生のHPから、原稿を救出する。
(2)同時に掲載されている写真を救出する。

 それからHPづくり。
夕方作業が終わり、さっそく無料HPサービスに登録し、UPLOAD。
集中しすぎたせいか、夕食時には、頭痛が起きた。
心地よい頭痛だった。

そのHPは、以下のアドレスで読んでもらえる。
どうか、見てほしい。

http://ktamaru.ninja-web.net/

多くの人が見てくれれば見てくれるほど、検索したとき、田丸謙二先生のHP
が、検索上位に入る。
これからはこのHPを随時、更新していきたい。

 よろしくお願いします。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 田丸謙二 田丸謙二先生 Kenzi Tamaru
TAMARU, Kenzi Website http://ktamaru.ninja-web.net/ 鎌倉 田丸謙二 (1923年11月2日
誕生)

●付記

【田丸謙二】

 学歴: 
1946年9月 東京帝国大学・理学部・化学科卒業   
1950年10月 理学博士の学位取得(東京大学) 
職歴: 
1951年4月  横浜国立大学・工学部・助教授 
1953年10月〜1956年5月 Princeton大学(米
          国)ポスドクとして留学 
1959年4月  横浜国立大学・工学部・教授  
1963年10月 東京大学・理学部・化学科・教授
1973年10月〜1976年3月 東京大学・評議員
1976年4月〜1984年3月 理化学研究所・主任
          研究員(兼任)
1976年4月〜1979年3月 東京大学・理学部長
1981年4月〜1983年3月 東京大学・総長特別
          補佐(副学長)
1984年5月  東京大学名誉教授
1984年4月  東京理科大学・理学部・教授
1995年4月〜1999年3月 山口東京理科大学・
          基礎工学部・教授・学部長
1999年10月〜12月 国際高等研究所フェロウ

1979年12月〜1984年12月 日米教育委員会・
         委員
1981年3月〜1983年2月 日本化学会・化学
         教育部会・会長
1982年6月〜1991年6月 ユネスコ(国際化学
         連合)国内委員会・委員
1984年7月〜1988年7月 国際触媒学会・会長
1987年1月〜1987年12月 日本触媒学会・会長
1989年3月〜1990年2月  日本化学会・会長
1986年7月〜1989年7月  日本学術会議・
                    第4部長
1989年6月〜1995年6月  日本学術会議・
             化学研究連絡委員会・委員長
受賞 
1964年12月  松永章(松永科学振興財団) 
1974年4月   日本化学会賞  
1985年11月  紫綬褒章  
1994年4月   勲二等瑞宝章 
1999年7月   工業教育賞(工学教育協会)
2000年6月   日本学士院賞


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【偶像論】

●偶像を崇拝するな

+++++++++++++++++++++

「偶像」とは何か?
一般論として、偶像とは、「像」、つまりキリストや
釈迦に似せた「像」をいう。
人はそうした像を作り、手を合わせる。

が、そうした像は、いくらもっともらしい理由
づけをしたところで、像は、像。

キリストも釈迦も同じようなことを言っている。
つまり『偶像を崇拝するな』と。

が、一般の人たちは、そんな教えなど、
どこ吹く風。
信仰と言えば、対象物は「像」。
仏像を例にあげるまでもない。

+++++++++++++++++++++

●偶像

 「偶像」という言い方は、外来語と考えてよい。
絶対的な権威の象徴としての、「像」をいう。
しかし像などというものは、神や仏によって与えられたものでもなければ、
作られたものでもない。
人間が作ったもの。
そこで宗教団体や信仰者は、あれこれと理由をつけては、像の権威化をはかる。

 私も最近、こんな経験をしている。
たとえば仏壇を移動するとき、あるいは墓石に文字を刻むとき、そのつど
「精(しょう)抜き」「精入れ」という儀式を行うことになっている。
寺の住職に来てもらい、読経してもらう。

 そのときはあまり深く考えないで、風習に従った。
しかしどうして、精抜き?
精入れ?
日がたつにつれて、疑問ばかりが、大きく膨らんできた。
つまり精抜きをすることによって、一度、魂を仏壇や墓石から出す。
不浄な人間の手で汚(けが)されるのを防ぐためである。
そして何かの作業が終わったら、再び、精入れで、魂をこめる。
「そんなことに、何の意味があるのか?」と。

●否定はしない

 が、だからといって、私は「像」を否定する者ではない。
信仰の対象、つまり悲しみや苦しみを救済するために、その対象物としての
像は、必要かもしれない。
人間は、そういう意味では、弱い。
理性や合理だけでは、生きていけない。
そんな場面に、よく出会う。

ひとりで、何ものにも依存せず生きていかれる人は、いったい、どれだけいるのか。
ひとりで袋小路に入って苦しむより、何かにすがって朗らかに生きたほうが、楽。

 また偶像には、心をひとつにするという意味もある。
その「像」に向かって、一心を集中させることによって、もろもろの邪念を打ち払う
こともできる。
像を絶対的なものと思い込むことによって、迷いを消すこともできる。
精抜き、精入れという儀式も、そういうところ、つまり絶対的と思い込むところ
から生まれた。

●床屋の帰りに

 では「偶像」とは何か。
辞書などによれば、信仰の対象となる「像」を意味するとある。
しかし少し意味がちがうのではないか?
キリストや釈迦は、もっと別の意味で、「偶像」という言葉を使ったのではないか?
つまり「像」といっても、信仰の対象としての像を言ったのではなく、ひょっと
したら「虚像」一般を含むのではないか?

 元の原語がわからないので、今はここまでにしておくが、私は最近、こんな
経験をした。

 数日前、近くの床屋へ行った、その帰り道でのこと。
黒塗りの大型ベンツが、角の駐車場を横切って、反対側の道へ飛び出していった。
信号を待ちきれず、そうしたらしい。
信号待ちしていた私のほうが、道を空けた。
あぶなかった!
同時に、「心の余裕のない人だな」と思った。

 大型ベンツといっても、やや古いタイプ。
で、運転している男を見た。
年齢は50歳くらい。
見るからに、余裕なさそうな顔をしていた。
キョロキョロ……というか、ギョロギョロとした目つき。
せわしなさそうに顔を動かし、ハンドルを器用にさばいていた。

 そのとき私は「虚像」という言葉を思い浮かべた。
「あの男は、ベンツという車に乗って、自分の虚像に酔っている」と。

●虚栄

 何もベンツに乗っている人が、みな、そうだというわけではない。
ベンツはすばらしい車である。
ベンツに惚れて、ベンツに乗っている人は多い。
しかしその一方で、自己の虚栄を満足させるためにベンツに乗っている人も多い。
そのとき虚像と虚栄が、頭の中でつながった。

 偶像イコール、虚像と考えると、「偶像を崇拝するな」という意味が、無理なく
理解できる。
私たちはともすれば、虚栄の対象としての「像」で、身を飾ることがある。
身だけではない。
心さえも、飾ることがある。
それを虚栄という。

が、それを信じている人には、そのおかしさがわからない。
飾ることで、自分が偉くなったつもりになる人は、多い。
すばらしい人間になったと思いこむ人は、多い。
子どもなどは、ヒーローのコスチュームを身にまとっただけで、強くなったように
思いこむ。

 つまりそれが「偶像」ということになる。
私たちは虚像に、溺れてはいけない。
「偶像を崇拝するな」というのは、そういう意味ではないか。

●妄信

 そう考えていくと、この世は偶像だらけ。
いたるところに偶像がある。
が、ほとんどの人は、偶像を偶像とも意識せず、それを妄信している。
もっともわかりやすい例に、学歴信仰がある。
職業による、差別信仰もそれ。

 偶像を崇拝することによって、人は、中身を見なくなる。
中身を磨くことを忘れてしまう。
あとは悪循環。
(飾る)→(自分を見失う)→(ますます飾る)、と。

●儀式

 これはあくまでも私の解釈だが、「偶像」というときの偶像は、
「形」としての外見を意味すると考えると、納得がいく。
広く、地位や肩書きを含んでもよい。
「はやし流の仏教論」というふうに、考えてもらってよい。
つまりイワシの頭を本尊にするのも、自分の身や心を飾るのも、本質的には同じ。
中身のないものを、あるものと信じ、それに振り回される。

 一方、それがさらに進むと、同じ宗教でも儀式化する。
迷信化する。
それこそイワシの頭を前にして、「ナンマイダー・・・」とやりだす。
信仰というのは、「教え」に従ってするもの。
「教え」のない信仰は、宗教ではない。
「七七供養」にしても、「〜回忌」にしても、ただの儀式にすぎない。

●人それぞれ

 ただ誤解していけないのは、だからといって、そうした儀式や迷信が
まったく無意味かというと、そうでもないということ。
必要な人には、必要。
それによって悲しみや、孤独から救われる人もいる。
妥協すべきところは妥協しながら、生きていく。
それもやさしさのひとつということになる。

 が、反対に、そうでない人・・・つまり、儀式や迷信に背を向けている人もいる。
たとえば都会地域では、直葬(病院から火葬場へ直送。僧侶なしの家族葬)で
すませる人が、30%を超えている。
「自然葬」という葬儀の仕方もふえている。
そういう人たちに向かって、「まちがっている!」と言うのは、少し慎重になってほしい。
私は私。
あなたはあなた。
人それぞれ。

 私もどちらかというと、「まちがっている」と言われる側にいる。
しかし彼らが言うところの「罰(ばち)」が当たるのは、この私。
「どうぞ、ご心配なく」と言いたいが、そういう言い方そのものが、通じない。
理解されない。

●ありのまま

 話はそれたが、「偶像」は、何も仏像に代表される「像」にかぎらない。
先にも書いたように、「虚像」一般を含む。
その虚像の中には、見栄、メンツ、世間体が含まれる。
要するに「外見」を総称して、虚像といい、偶像という。
その偶像を崇拝するな、と。

 このことは同時に、私たちの生き様にも関係してくる。
「崇拝しない」ということは、私について言えば、「ありのままに生きる」
ということになる。
たとえば世間体を気にする人ほど、他人を世間体で判断する。
見栄を張る人ほど、他人を外見で判断する。
偶像を崇拝しないためには、自分の中から偶像、つまり虚像を取り除く。

●「自分で生きろ」

・・・というわけで、「偶像を崇拝しない」というのは、象徴的な言葉
ではないかということになる。
わかりやすく言えば、「自分で生きろ」と。

キリストや釈迦の立場になってみると、それがよくわかる。
たとえばあなたのところへ、あなたのファンが毎日のようにやってきて、
こう言ったとする。

 「神様(仏様でもよいが)、どうか私を○×大学へ入学させてください」と。
そういうとき、あなたはそういうファンに力を貸すだろうか。
私が神(仏でもよいが)なら、こう答えるだろう。
「そんなことは、自分の努力でしなさい」と。

 直接あなたのところへ来るならまだしも、あなたの偶像を作り、それに向かって
拝んだらどうだろう。
やはりあなたは、こう言うにちがいない。
「バカなことは、やめなさい」と。

 世俗的な成功など、(あるいは失敗でもよいが)、神や仏は関知しない。
また関知するようなら、その神や仏は、インチキと断言してよい。

罰(ばち)にしても、そうだ。
罰を与える神や仏がいたら、インチキと断言してよい。
無量無辺に心が広いから、神といい、仏という。
(それに甘えてもいけないが・・・。)
そんな神や仏が、個々の人間に、いちいち罰など与えない。

●私の勝手な解釈

 神や仏は、こう言った。
「偶像を崇拝するな」と。
それは私たちにこう言ったことになる。
「外見にだまされて、自分を見失うな」と。
「他人を見誤るな」でもよい。

 キリスト像(仏像でもよいが)という偶像は、その一部に過ぎない。
「その」というのは、「虚像の」ということになる。

 が、考えてみれば、私たちは虚像のかたまり。
私たちは自分で作りあげた虚像を、「私」と思い込んでいる。
ふと足もとを見れば、ガタガタ。
中身と言っても、たいしたものは、何もない。
私の中に「私」をもっている人など、そうはいない。
ほとんどの人は、虚像という衣服を、何枚も重ね着している。
重ね着していることを意識しないまま、重ね着している。
そして重ね着した自分を、「私」と思い込んでいる。

 それを総合して、キリストや釈迦は、強く戒めた。
「偶像を崇拝するな」と。

 つまり偶像とは、あなたや私自身を包む虚像ということになる。
あくまでもこれは、私の勝手な解釈によるものだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 偶像論 虚像論 虚栄論 身を飾る はやし浩司 2010−10−26)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【極楽論】

● 私は極楽行き? 

ときどきこんなことを考える。
私は死んだら、極楽へ行くのだろうか。
それとも地獄へ行くのだろうか、と。

仏教の教えによれば、それを最終的に判断(ジャッジ)するのは、
あの閻魔(えんま)大王だそうだ。
中国でできたニセ経の上に、さらに日本でニセ経を塗り重ね、そういう話ができた。
今では、子どもですら、そんな話は信じない。
幼稚というか、稚拙(ちせつ)。
しかし私は、最近、閻魔大王というのは、ワイフであり、3人の息子たちではないかと
思うようになった。
それには、こんな話がある。

昨年(08年)、実兄と実母が、つづいて他界した。
そのときのこと。
私はこんなことを考えた。
「兄や母は、極楽へ行くのだろうか。それとも地獄へ行くのだろうか」と。
地獄と極楽しかないとなれば、二者択一、ということになる。
地獄と極楽の間には、中間の世界はない。
そこで兄や母のことを、あれこれと思い起こしてみる。

●善人vs悪人

1人の人間を、どう判断するか。
これはたいへん難しい問題である。
というのも、1人の人間には、いろいろな面がある。
相手によっても、印象がちがう。
年代によっても、変化する。
たとえばAさんは、若いころの母をよく知っていて、「勝気な人でした」という。
Bさんは、晩年の母をよく知っていて、「やさしくて、穏やかな人でした」という。
また他人から見た母と、私という子どもから見た母は、まったく違う。
それは善人vs悪人論とも似ている。
善人と悪人とは紙一重。
しかしまったくの善人がいないのと同じように、まったくの悪人もいない。
よく聞く話だが、死刑囚といわれる人の中には、仏様のようになる人もいるという。
さらに私という人間にしても、あるカルト教団の人たちからは、「魔王」と
呼ばれている。
その教団を攻撃する本を、何冊か書いたからである。
さらにあのK国が、日本を支配したら、この私はまっさきに処刑されるだろう。
いつもあの「将軍様」のことを、「金xx」と書いている。
拉致事件に抗議の念をこめて、そうしている。
どこをどのように見て、善人と判断し、悪人と判断するのか。
何しろ、中間がない。
「閻魔大王の仕事も、たいへんだなあ」と思う。

●私であって(私)でない部分

私は自分では、善人とは思っていない。
どちらかというと、悪人かもしれない。
少なくとも、3人の息子たちは、そう思っている。
「パパは仕事ばかりしていた」
「ママを奴隷のように使っていた」
「パパはワンマンで、ぼくたちの話を聞いてくれなかった」と。
ときどきそういう不満を、今になって私にぶつけることがある。
が、私はいつもそういうとき、こう思う。
「私は私で、懸命だったのだ」と。
息子たちに、私が生きた時代の説明をしても意味がない。
「日本は貧しかった」と言っても、その(貧しい時代)そのものを、知らない。
ボットン便所の話をしても、無駄。
息子たちにしてみれば、生まれながらにして、トイレは水洗トイレ。
それしか知らない。
ボットン便所から、水洗トイレになったときのうれしさを知らない。
だからこう言う。

「そんなのは、パパの時代の話で、ぼくたちには関係ない」と。

つまり私という人間にしても、(過去)の無数のしがらみを引きずっている。
私であって、(私)でない部分も多い。
たとえば道路にお金が落ちているのをみると、今でもさっと拾ってしまう……と思う。
(この20〜30年、そういう経験がないので、わからない。)
交番へ届けようなどいう気持ちは、まず起きないだろう。
起きないから、そのジレンマの中で、迷う。
「もらってしまうべきか、それとも交番へ届けるべきか」と。
が、これとてあの戦後の、ひもじい時代を生きたからこそ身についた錆(さび)の
ようなもの。
私が悪いと思う前に、私はあの時代に、責任を求める。
あの時代が悪い。
あの戦争が悪い。
さらに私には、私の生い立ちもからんでくる。
いろいろあった。
その(あった)部分の中で、心もゆがんだ。
重罪といわれる罪を犯した犯罪者にしても、そうだ。
そういう人を、本当に悪人と言い切ってよいのか。
あるいはそう言い切れる人は、どれだけいるのか。

●息子たちが判断する

そこで私のこと。
自分で自分のことを判断するのは、難しい。
ワイフにしても、利害関係が一致しているから、難しい。
そこで、どうしても息子たち、ということになる。
私を判断するのは、息子たち。
息子たちは、(私)を、内側から見ている。
私が外の世界で隠している部分すらも、見ている。
それに人格の完成度も、今となっては、私より高い。
私が見た世界とは、比較にならないほど、広くて大きな世界も見ている。
私を、1人の親というよりは、1人の人間として見ている。
私にしても、閻魔大王などよりも、息子たちに判断(ジャッジ)されるほうが、
よほどよい。
安心できる。

仮に「地獄へ行け」と判断されても、それにすなおに従うことができる。
息子たちがそう言うなら、しかたない。
が、そこでもまた問題が起きる。
私が兄や母に地獄へ行けと言えないように、息子たちもまた、私に地獄へ行けとは
言えないだろう。
たとえ悪人であっても、だ。
それにこんなケースもある。
ある女性の話だが、若いころは、たいへん優雅で気品のある人だったという。
その女性が今は、老人施設に入居して、毎日、毎晩、怒鳴り声をあげているという。
「バカヤロー」「コノヤロー」と。
年齢は、現在、80歳を少し過ぎたところという。
こういうケースでは、どう判断したらよいのか。
その女性は、善人なのか、それとも悪人なのか。
悪人ではないとしても、そんな状態で、極楽へ入ったら、ほかの善人たちが迷惑する
だろう。

●地獄も極楽もない

地獄も極楽もない。
あるはずもない。
だいたい釈迦自身、一言もそんなことを言っていない。
ウソと思うなら、自分で『法句経』を読んでみることだ。
「来世」「前世」にしても、そうだ。
だからそれをもとに、善人論、悪人論を、論じても意味はない。
ただ法体系が未完成だったころなら、地獄論で悪人を脅すこともできたかもしれない。
「悪いことをすると、地獄へ落ちるぞ」と。
それでたいていの人は、黙った。
私が子どものころでさえ、そういう会話を、よく耳にした。
兄は兄として、他界した。
母は母として、他界した。
無数のドラマを残して、他界した。
よいドラマもあれば、悪いドラマもある。
今さら、そんなドラマを問題にしても意味はない。
同じように、今を生きる私たちも、できることと言えば、ただ懸命に生きるだけ。
よいことをしていると思っていても、悪いことをしていることもある。
悪いことをしていると思っていても、よいことをしていることもある。
常に結果は、あとからついてくる。
放っておいても、あとからついてくる。
だからこう思う。
地獄でも極楽でも、どちらでもよい、と。
こんな無意味なことを考えるのは、今日で最後にしたい、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
地獄 極楽 地獄論 極楽論 善人 悪人)

Hiroshi Hayashi++++++JAN 09++++++++++はやし浩司

【浄土論】(極楽浄土vs無間地獄)(Heaven & Hell in our Society)

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、
私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、
私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人が
いる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思
っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、で
まかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえ
もん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえな
い電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇
跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明
が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がい
た。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは
超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回
向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のあ
る子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな
経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に
は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらい
のことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもを
もつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、
そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、
すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかい
い成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてや
っていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなれば
なったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や
仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。
(はやし浩司 2010−10−27 加筆)

(補記)

●無縁老人

 地獄と言えば、「無縁老人」という言葉がある。
最近(2010−10−27)、あちこちでその言葉を見たり、聞いたりするようになった。
「独居老人」など、「無縁老人」と比べれば、まだよいほう。
家族、親族、近所のつきあいを、すべて切ってしまった老人をいう。
そういう老人が、現在ふえつつあるという。
が、実態はまだ把握されていない。
都道府県単位で、やっと調査を始めたというのが現状らしい(NHK報道)。

 さらにそうした老人が、認知症になることもある。
認知症老人を相手にした詐欺商法も、横行している。
ただこのばあい、認知症になるから、「地獄」というふうには、考えないほうがよい。
認知症は、あくまでも「病気」。
病気である以上、その老人個人には、責任はない。
むしろ頭のほうがしっかりしたまま、無縁老人になるほうが、こわい(?)。
毎日、毎晩、まさに無間の孤独地獄と闘わねばならない。

●娘が母親のタンス預金を……

 話は一足飛びに結論へ。

 しかしこういう社会を作ったのは、私たち自身。
私やあなたが無縁老人になったからといって、またなる可能性があるからといって、社会を恨
んでもしかたない。
息子や娘たちを恨んでもしかたない。
それにこの問題だけは、10年単位、あるいは20年単位で、進行していく。
また解決するにしても、同じように10年単位、あるいは20年単位の時間がかかる。

 国民の意識というより、私たち1人ひとりの意識の問題ということになる。
そこで一部の地域では、そうした老人を保護するために、周辺の住民が定期的に見回ったり、
訪問したりしているという。
しかしそれは一部。
が、近くに住む人だから安心というわけでもない。

 私の知り合いの老人(女性、当時85歳前後)は、晩年、軽い認知症になってしまった。
娘が近くに住んでいて、毎週のようにその女性、つまり母親を訪問していた。
傍から見ると孝行娘ということになる。
しかしその老人が亡くなったとき、あるはずのタンス預金が、すっかり消えていたという。
額は定かではないが、数千万円程度の現金はもっていたはず。
その老人の弟氏はそう言っている。
 
 その老人のばあいも、娘だけを責めても意味はない。
そういう娘に育てたその老人にも、責任がある。
「責任」という言葉は、少しきついが、その老人の立場にすれば、恨んでも恨みきれなかったこ
とだろう。
(現在、その娘は、会う人ごとに、弟氏の悪口を言いふらしているが……。)

●風通しのよい社会

 話はそれたが、要するに、この先、私やあなたが、独居老人、さらには無縁老人になる可能
性は、ぐんと高くなるということ。
非公式の調査によるものだが、独居老人から孤独死をする人は、今後60%前後になると言
われている(某月刊誌)。
とくに団塊の世代以後の人たちが、あぶない。

 今はまだ元気だから、「私はだいじょうぶ」と思っている人も多い。
ある知人は、こう言った。
「いくつかのクラブに入って、友だちを作ることだよ」と。

 しかし高齢者になると、クラブに顔を出すこともできなくなる。
それに友だちといっても、自分が高齢になればなるほど、減っていく。
「友だちがいればいい」という問題でもない。

 そこでそれを解決するために、いろいろな方法が考えられている。

(1)地域社会の復活。
(2)住環境の整備など。

 こういう話になると、どうしても「昔はよかった」ということになる。
昔は、地域に温もりがあり、老人社会を包んでいた。
その温もりが、今、消えた。
親子関係、親類関係も希薄になった。
この傾向は、さらにつづく。

 またここでいう「住環境の整備」というのは、住まいそのものあり方を考えなおそうというもの。
長屋形式の住宅を考えている建築家もいる(某月刊誌)。
隣どうしを、もっと風通しのよいものにする。

●解決策

 今、しみじみと感じているのは、これこそが、地域住民の問題ということ。
地域、地域で、その地域に住む人が、声をあげて立ち上がらなければならない。
「してもらう」という発想を捨て、「私たちがする」という発想に切り替える。
わかりやすく言えば、「私たちが後期高齢者になったとき、だれにめんどうをみてもらうか」とい
う考え方をしてはいけない。
「私たちが今、後期高齢者のめんどうをみる」という考え方に切り替える。
その積み重ねが、10年単位、20年単位でつづいたとき、独居老人、無縁老人の問題は解決
する。

 ……とまあ、こんなことを言い出した以上、この活動は、私がしなければならない。
何しろ私がこの町内に住み始めた第1号。
(もう1人、150メートルほど坂下のところに住んでいた人がいたが、その人は、最近、亡くなっ
てしまった。
家も売却され、現在は別の人が住んでいる。)

具体的にはいろいろ考えている。
ひとつには自治体に働きかけるという方法がある。
しかし20年前に私が書記をしていたころと比べただけでも、自治体はすっかり様変わりしてし
まった。
この1年間、みなが集まったというような会合はゼロ。
班長たちだけが集まって、そのつど何かを決めているらしいが、私たち住民のところにまで
は、何も伝わってこない。

 が、これではいけない。
もうひとつの方法は、とりあえず、地域老人新聞を発行すること。
「老人新聞」というと、どこか暗いから、「地域新聞」でもよい。
すでにこの町内にも、多くの独居老人が住んでいる。
そういう人たちの実態把握から、まず始める。……などなど。

 今夜にでも、ワイフに相談してみよう。
ワイフはこのあたりでも、結構、顔役で、近所の人たちのことをよく知っている。
先ほども、私が「ぼくは、無縁老人になりそう」と訴えたら、すかさず、こう言い返した。
「私は、ならないわ」と。
(ワイフは、楽天的というか、ノー天気派。)

●結論

 極楽浄土にせよ、無間地獄にせよ、それらは結局は私たち自身が、身のまわりに自ら、作り
出していくもの。
あの世にあるわけではない。
この世にある。

 政治に頼ったり、宗教に頼ったりするのは、その「後」ということになる。
(はやし浩司 2010−10−27)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【不潔嫌悪症・子どもの潔癖症】はやし浩司 2010−10−28

●子どもの強迫症

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今朝は千葉県にお住まいの、Aさんと
いう母親から、こんな相談が届いていた。
この相談を読みながら、私は自分が子ども
だったころのことを思い浮かべた。
私自身にも、似たような経験がある。

子どもの潔癖症に併せて、子どもの不安
について考えてみたい。

++++++++++++++++++

【千葉県のAさんより】

5歳の息子の相談です。

以前から幼稚園には行きたがらない傾向にある子でしたが、最近は特に、いつもと違う行事ご
とがあるたびに、不安になり余計に行きたくないとぐずります。

夏ころから爪かみが始まりました。10月の初めに、ムカデに触ってしまい、お家に帰ってよく洗
えば大丈夫だよと話した出来事を境に、ここを触ってしまったが大丈夫か? お父さんの肘と
ぶつかったが大丈夫か? と何かと聞いてくるようになりました。外遊びで夢中になっていると
きにでも、不安になると遊びを中断し、聞きに来ます。

その後は、トイレでおしっこをする時には、おちんちんを触らずしたり、玄関の取っ手を肘で開
けたりするようになりました。会話は常に触ってしまったことの報告ばかりです。私は、大丈夫
だよ、大丈夫だよ。と、いつも言っています。私の手は握れます。どうしてこうなってしまったの
でしょうか?

幼稚園の先生は気を引くためではないか? 気にすることはない。とおっしゃってくださいます
が、心配で、兄弟の中でも、ひときは気にかけ、スキンシップをしているつもりです。今後はど
のように接していけば良いでしょうか? 治るのでしょうか? よろしくお願いします。

兄弟関係は、姉10歳 本人 弟8ヶ月です。

【はやし浩司より、Aさんへ】

●神経症

 神経症のひとつと考えてください。(「神経症」の定義もあいまいですが……。
そのため症状は千差万別です。)

私のHPの中に、ある小学校の先生方と協力して作成した、診断シートがあります。
その中に神経症の項目を並べておきました。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html
どうか一度、目を通してみてください。

 なおこうした症状は単独で現われることは少なく、ほかに爪かみのほか、夜尿症、チック、何
かの強迫症なども現われることがあります。
シート(上記)で、一度、自己診断してみてください。

●愛情飢餓

 兄弟関係で見ると、下に8か月の弟がいるということになります。
愛情に不安を抱き、それが遠因となり、愛情飢餓状態から大きく不安を抱くようになったとも考
えられます。
下の子どもが生まれたことにより、赤ちゃん返り、分離不安などの症状を示す子どもも多いで
す。

「兄弟の中でも、気にかけ……」ということですが、それまであった自分への愛情が減らされた
ことが問題と考えてください。
親は、「平等に……」と思っているかもしれませんが、子どもにとっては、「落差」が問題なので
す。

 それについて書いた原稿を添付しておきます。

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愛情は落差の問題。

++++++++++++++

●愛情は落差の問題

++++++++++++++

愛情の量は、落差の問題。

多い、少ないではなく、
ふえたか、減ったで、
考える。

よい例が、赤ちゃん返り。

++++++++++++++

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃ
んがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型という
ことができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教して
も意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どう
して上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だ
から文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「50%」というのが不満な
のだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、100%だった親の愛情が、五〇%に減ったことが
問題なのだ。

もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落差」。それ
がわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あなたの夫が
愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとしたら、あなた
はそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、
上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽
しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなた
の新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれ
たというような印象を、上の子どもに与えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。
ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心はいじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいようであれ
ば、以前と同じように、もう一度100%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。
(2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(50%50%)を貫き、そのつど、上
の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生
活にこころがける。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 赤ち
ゃん返り 愛情問題 愛情 落差 落差の問題)

●100%の愛情

 精神的に心のより所を失い、たいへん不安定になっています。
子どもは、(おとなもそうですが)、環境の変化にはかなりの柔軟性を示しますが、とくに愛情の
変化には、大きく反応し、もろいです。

 もし神経症がひどいようであれば、下の子には少しかわいそうですが、一度、100%の愛情
を注ぎなおしてみてください。
(当然、上の10歳の姉にも配慮しながら、です。
上の子は上の子で、嫉妬しやすくなります。)

●私自身のこと

 私も子どものころ、こんな経験があります。

 あるとき、針が足の裏に刺さったことがあります。
針はすぐ抜けたと思うのですが、近所のおじさんにそれを話すと、そのおじさんは、こう言いま
した。
「折れた針があるかもしれない。その針は、血管を通って心臓に行く。そうなれば死ぬこともあ
る」と。

 私はこの言葉におびえ、自分はもう死ぬのだと思いました。
年齢的には、6歳前後ではなかったかと思います。
はっきりと死の恐怖を覚えたのを、今でもよく覚えています。
おとなには笑い話でも、子どもにはそうでないということです。

 お子さんは、心底、それにおびえているのです。
ですから「何でもない」という言い方で突っぱねるのではなく、子どもの立場になって、真剣に話
を聞き、納得するまでていねいに不安を解いてあげることです。

●不潔嫌悪症

 手洗い癖、潔癖症と並んで、子どもにはよく見られる神経症です。
幼稚園でも、休み時間ごとに、手を洗っている子どももいます。
「何でもない」と考えるのではなく、ほかの神経症の前兆、もしくは、たとえば学校恐怖症(ジョン
ソン)の前兆もありえるという前提で、対処してください。
けっして安易に考えてはいけないということです。

 そのためにも愛情的に不安を抱かないように、つぎのことを守ってください。

(1)スキンシップなど、求めてきたら、すかさず応ずる、です。
一度、ぐいと抱きしめるだけで、効果があります。
「あとでね」とか、「今、忙しいのよ」は、禁句です。

(2)添い寝、手つなぎ、だっこなどは、機会があればそのつどこまめにしてあげます。

(3)不安症状が強いようであれば、Ca,Mg,Kの多い食生活、つまり海産物の多い食生活に
心がけます。
とくにカルシュウムは、子どもの心を安定させます。

●恐怖症

 恐怖症は、一度それを経験すると、姿、形を変えて、いろいろな場面で現われます。
私も子どものころ、閉所恐怖症、高所恐怖症でした。
30歳になる少し前、飛行機事故を経験してからは、ちょっとしたことが原因で、よく恐怖症にな
ります。

 先日はワイフが自動車の後部を電柱にぶつけましたが、助手席にいた私は、固まってしまい
ました。

 お子さんのケースは、恐怖症とはちがいますが、この先、折りにつけ、強迫観念はもちやすく
なるかもしれません。
「治そう」と考えるのではなく、「じょうずにつきあう」という考え方で、接してあげるとよいでしょ
う。
どんな子どもにも、その程度の問題はあります。

 文面からすると、もっとも心配されるのは、学校恐怖症ということになります。
それについて書いた原稿(簡単なもの)を、添付しておきます。
(別の角度から書いた原稿のため、余計な部分もありますが、お許しください。)
詳しくは、また機会があれば、「はやし浩司 学校恐怖症」で検索してみてください。
参考になると思います。

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学校恐怖症(ジョンソン)

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【集団に溶けこめない子ども】

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集団に溶けこめない……。そのため、
集団の中にいると、気疲れを起こしや
すくなる。

さらにそれが慢性化すると、不登校の
原因になったりすることもある。

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●集団の中では……

 小学校の低学年児で、集団に溶け込めない子どもというのは、10人のうち、1〜2人はい
る。主な症状としては、つぎのような点が、あげられる。

(1) 集団の中では、おとなしく、おだやか。遠慮深い。やさしい。静かで目立たない。
(2) 自己主張が弱く、いつも、ほかの子どものうしろをついていくといった感じ。
(3) 何か話しかけると、柔和な笑みで、答えたりするが、感情表現はいつも、控え目。
(4) 学習態度は比較的よく、そのため、成績も、それほど、悪くない。
(5) 外の世界(学校や塾)では、大声で笑ったり、声を出したりするということはない。

 これらの症状は、家の中での様子とは、正反対のことが多い。家の中では、別人のように活
発に行動する。かつ、親に対しては、言いたいことを言ったり、したりする。そのため、こうした
外での様子を指摘されたりすると、たいていの親は、それを否定する。「うちでは、ふつうです」
と。

 しかしこのタイプの子どもは、その分だけ、ストレスを内へ内へとためやすい。様子だけを見
ると、仮面をかぶった子どもに似ている。俗にいう「ぶりっ子」をいう。仮面をかぶった子ども
は、いつもどこかで他人の目を気にしている。どうすれば、自分が、いい子に見られるか、それ
だけを考えている。

 これに対して、集団に溶けこめない子どもは、集団そのものを恐れ、他人の目から、逃れよう
とする。そのため、ひとり静かに行動し、できるだけ目立たないようにしていることが多い。

 このタイプの子どもは、教える側としては、教えやすい。従順で、すなお。みなに迷惑をかけ
るということはない。しかしそれは子ども本来の姿ではない。このタイプの子どもは、心を自由
に、開けない。みなが大声で笑うようなときども、そのリズムにのれない。そのため、いじけや
すく、くじけやすい。心をゆがめやすい。

 そして長い時間をかけて、ストレスを蓄積し、そのストレスが、さまざまな問題を、引き起こ
す。

 たとえばこのタイプの子どもは、集団の中では、神経疲労を起こしやすい。そしてその結果と
して、神経症や、心身症による、さまざまな症状を起こす。そしてその症状は、多岐にわたる。
「何か、うちの子は、おかしい?」と感じたら、神経症、もしくは、心身症を疑ってみる。

●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの
神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 その中の一つが、学校恐怖症(後述、参照)ということになる。その学校恐怖症については、
すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

●対処のし方

 では、どうするか?

 このタイプの子どもは、心の開放を第一に考えて指導する。たとえば大声を出させる、大声で
笑わせる、など。しかしそれは簡単なことではない。友だちどうしの間では、結構、心を開くこと
ができても、集団の中へ入ったとたん、かん黙してしまう子どももいる。教師を前にしただけで、
緊張して、体をこわばらせてしまう子どももいる。

 こうした症状を不適応症状というが、その症状して、よく見られるものを列挙してみると、つぎ
のようなものがある。

(1) 対人恐怖症、集団恐怖症、回避性障害(他人との接触ができない)など。
(2) 緊張性の頭痛、腹痛、下痢、嘔吐など。

 本来なら、一対一、もしくは、きわめて小人数(3〜4人程度)のようなていねいな指導が望ま
しいが、しかしそれにも程度の問題があって、小人数にしたからといって、心を開くということは
ない。とくに小学校へ入学したあとでは、指導による改善は、ほとんど望めない。おとなになっ
てからも、そのままつづくというケースは、少なくない。

 もしどうしても……ということなら、まったく別の環境の中で、その子どもが心を開けるような、
ばしょをさがすしか、ない。スポーツやサークル活動など。一度、その世界で、何らかのこだわ
りを作ってしまうと、そのこだわりを、消すのは、むずかしい。

 J君(小5)の子どもがいた。彼は、集団の中では、ほとんど心を開くことはなかったが、サッカ
ーをしているときだけは、黙々と、それに励むことができた。

 一方、Cさん(小2)の子どもがいた。小1のはじめから、私の教室へ来たが、小2の途中でや
めるまで、一度とて、大声で歌を歌ったり、笑ったりすることはなかった。いりいろな方法で、手
を変え、品を変え、私なりに努力はしてみたが、結局は、Cさんの心を開くことはできなかった。

 このことからも、わかるように、集団に溶けこめない子どもの、「根」は、深い。時期を言え
ば、0歳から、1、2歳前後までに、そういった方向性ができあがると考えてよい。そのため、た
いていのばあい、まず母子関係の不全を疑ってみる。

 このタイプの子どもは、母子の間の基本的信頼関係ができあがっていないことが多い。何ら
かの理由で、絶対的な安心感を、母親に対していだくことができなかった。「絶対的」というの
は、「疑いすらもたない」という意味である。つまり、それから生まれる、不信感が、子どもの心
を閉じさせ、ついで、子どもの心を緊張させるようになると考える。

 しかもなお悪いことに、母親に、その自覚がないことが多い。そういう自分の子どもを見て、
むしろ、「できのいい子」と思ってしまうケースが目立つ。そしてそのままの母子関係をつづけて
しまう。

 で、問題が起きてはじめて、自分の子育てのどこにどういう問題があったかを知る。(が、そ
れでも気づかないケースも、少なくない。ここにあげたCさんのケースでは、Cさん自身は、私の
ところへは、彼女なりに楽しんできていた。しかし伸びやかさには、欠けた。母親はそういう姿
を見て、「うちの子は、この教室には合っていない」と判断したようだ。

 で、さらに、ここに書いた不適応症状がこじれて、学校恐怖症から、不登校へと進むこともあ
る。この段階でも、親は、自分を反省するということは、ない。子どもの言い分だけを聞いて、
「教師の指導が悪い」「いじめが原因だ」と。

●まとめ

 本来なら、集団に溶けこめない子どもについては、それを「悪」と決めてかかるのではなく、そ
の子どもにあった、環境を用意してやるのがよい。苦手なものは、苦手。だれにも、そういう面
の一つは二つは、ある。

 何でもかんでも、学校という集団教育の場で解決しようという発想そのものが、おかしい。そう
いう前提で考える。

 コツは、無理をしないこと。そしてこのタイプの子どもほど、家の中では、態度が横柄になった
り、乱暴になったりする。そういうときは、「ああ、うちの子は、外の世界でがんばっているから、
こうなのだ」というふうに考えて、理解してやる。

 家の中でも、静かで、おとなしく……ということになると、子どもは、やがて行き場をなくし、外
の世界で、さまざまな問題を引き起こすようになる。しかもたいてい、深刻な問題へと発展する
ことが多い。
(はやし浩司 子供の心理 集団 集団に入れない子供 集団に溶け込めない子供 集団が
苦手な子供 外で静かな子供 はやし浩司)

++++++++++++++++++

以前、書いた、「内弁慶、外幽霊」の
原稿を添付します。

++++++++++++++++++

●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子
のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。

といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張し
たり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊
になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別の
ところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な
症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなる
ことがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりや
すい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会
経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけ
んかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう
変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうこと
によって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子ど
もの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずっ
たり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめ
させるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。

とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので
注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむ
ずかしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせ
る。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえな
い。
(はやし浩司 子供の心理 内弁慶 外幽霊 集団になじめない子供)

+++++++++++++++++++++

合わせて、学校恐怖症の原稿を
添付します。

原文(英文)は、私のHPのほうに
収録しておきました。

+++++++++++++++++++++

子どもが学校恐怖症になるとき

●四つの段階論 

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。 


(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 


(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。


(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 


(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

(注、この(4)の回復期は、ジョンソンの論文にはないものである。私が勝手に加筆した。)

●前兆をいかにとらえるか 
 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親
はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪
化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。
 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。

しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを外の世界から見た区
分のし方でしかない。

(参考)

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満4〜5歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、睡
眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加わ
るようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこの
時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、1932年に最初
に使い、1941年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始まる。ジョ
ンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期の三期に
分けて、学校恐怖症を考えた。

【はやし浩司より、Aさんへ】

 以上ですが、参考意見として利用していただければ、うれしいです。
今日は、これで失礼します。

(はやし浩司 子どもの心理 学校恐怖症 対人障害 不登校 不登校児 不潔嫌悪症 潔癖
症 神経症 はやし浩司 学校恐怖症 ジョンソン)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

●子育て雑感集

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今朝、私のEマガ、10月27日号を読んだ。
1か月前に発行予約を入れたマガジンである。
内容も、1か月前のもの。
それを読みながら、・・・というのは、その
マガジンでは、「雑感集」というテーマで書いた
ので、今日は「子育て」についての雑感を
書いてみたい。

++++++++++++++++++++

●10月27日

 10月27日。
本当は、今日が、私の誕生日。
10月27日に生まれたのだが、父が役所へ出生届を出したとき、日にちをまちがえた。
父は、10月28日生まれとして、役所に届け出た。
それで私の誕生日は、10月28日になってしまった。
まちがいに気がついたのは、母の話では、私が小学校に入学するときだったという。
戸籍を調べたら、10月28日になっていた。

 10月27日でも、28日でも、どちらでもよい。
が、私は10月27日のほうが、好き。
子どものころは、ずっと10月27日が私の誕生日と思っていた。
そのときの思いが、今でも心のどこかに残っている。

その10月27日。
つまり、今日。
外では肌寒い風が吹いている。
庭の栗の木も、心なしか元気がない。
灰色の沈んだ空を背景に、葉をゆらゆらと揺らしている。

●Sさん

 先週、18年間私の教室に通ってくれたSさんの、大学合格祝いをした。
若いころは、18年間通ってくれた生徒も、少なくなかった。
が、今は、少ない。
中学生になるころ、あるいは高校生になるころ、進学塾へとみな、移っていく。

そのSさん。
大学が決まっても、まだ来年3月まで、通ってくれるという。
母親から電話があり、母親はこう言った。
「ずっと習慣になっていまして・・・3月まで、よろしくお願いします」と。

 18年というと、私の人生にとっても約3分の1。
(Sさんにしてみれば、全生涯!)
理知的な女の子で、ものごとを何度も頭の中でかみくだいて考える。
もの静かな女の子だが、振り返ってみると、私のそばにいつもいたような気がする。
私のそばにいて、ずっと私をうしろから見つめていた。
生徒というよりは、私の娘。
今にして思うと、そんな感じがする。

●よき親子関係

 「娘」と書いたが、もしSさんが私の娘なら、私はSさんはすばらしい親子関係
を築いたことになる。
Sさんは、何でも話してくれる。
私はSさんに、何でも話せる。
私はSさんの話を真剣に聞くし、Sさんもまた私の話を真剣に聞いてくれる。
それでいてたがいに礼儀をわきまえ、尊敬しあっている。

 一方、そこには、教師と生徒という関係もある。
私はSさんに命令したこともないし、Sさんを叱ったこともない。
何かを教えても、私はいつもそこでじっと待っていた。
Sさんもそれを知っているから、自分ができるまで、黙々と自分の勉強をこなした。

 ・・・そう言えば、Sさんが中学生のころは、そのクラスは生徒は2人だけだった。
経営的な意味では、採算が取れる教室ではなかった。
が、私は気にしなかった。
長く通ってきてくれる子どもについては、利益を考えことはない。
そのときすでにSさんは、8〜10年間、私の教室に通っていた。

●A君

 が、みながみな、円満な別れ方をするというわけではない。
けんか別れのような別れ方をする生徒も、いる。
理由というか、原因は、子ども自身にある。

 子どもというのは、教室をやめたくなったりすると、親に、教室の悪口を言い始める。
「先生がまじめに教えてくれない」「ふざけて遊んでばかりいる」と。
子どもの常とう手段と考えてよい。
つまりこうして子どもは、親をして、「そんな教室ならやめなさい」と思わせるようにする。

 一方、私には、こう言う。
こうしたウソには双方向性がある。
「ママが、BW(=私の教室)なんか、やめて、S進学塾へ行けと言っている」と。
印象に残っている子どもに、A君(小4)という子どもがいた。
4、5年も前の話だが、A君は、こう言った。
「BWは月謝ばかり高くて、中身がないとママが言っていた」と。

 そこで私が「君のお母さんが本当にそんなことを言っているかどうか、電話で確かめて
みる」と言うと、A君は、泣きながら「それだけはやめて!」と。

 A君の母親は、A君の話だけしか聞いていないから、それこそ蹴飛ばすようにして、
教室を去っていった。
その月の月謝も、未納のままだった。
 
●バツ

 今朝のニュースにこんなのがあった。
どこかの小学校で、先生がバツ・サイコロというのをしていたらしい。
(今でもバラエティ番組などの中で、ときどき登場する。)
何かのことで悪いことをして先生に注意されたら、そのサイコロを振るのだそうだ。
それによってバツを決める。

 鼻くそをどうのとか、お尻をどうのとか、そういう内容のバツである。
バツの内容が、よくなかった。
それがセクハラ行為にあたるとかで、問題になった。
しかしもし教師と生徒、教師と親の間に、信頼関係があれば、こんなことは何でもない。
「遊び」で終わる。

 私の教室でも、居眠りをしていたり、あくびをしていたりすると、私は布でできた
ボールを投げつけることにしている。
もちろん当たっても、痛くない。
が、それ以上に、自閉傾向のある子どもには、この指導法は、たいへん効果的である。
集中力の欠ける子どもにも、効果的である。
若いころ、オーストラリアの幼稚園で、先生がそういうふうにして指導しているのを見て、
私もまねをするようになった。

 そのオーストラリアの幼稚園では、先生と生徒がキャッチボールをしながら、
授業を進めていた。
が、見方によっては、この方法は「体罰」に当たる。
しかしこの方法が問題になったことはない。
私の教室にはいつも参観している親たちがいる。
その親たちが、笑って見ている。
ボールを投げつけられた子どもにしても、それが楽しいらしい。
ボールを拾って、すかさず、投げ返してくる。

 それに・・・。
それがいやだったら、いつでも教室をやめることができる。
親や生徒の意思で、先生を取りかえることができる。
私もいつも、生徒たちにこう言っている。
「いやになったら、いつでもやめていいよ」と。

●相反した目的

 教師はいつも2つの相反した問題で、悩む。
「どうすれば、子どもたちを楽しませることができるか」という問題。
「どうすれば、子どもたちに学ぶことに耐えてもらえるか」という問題。

 わかりにくい書き方をしてしまったので、もう一度、書く。

(楽しさ)と(苦痛)を、いかに両立させるか、と。

 楽しさを追求すれば、勉強がどうしてもおろそかになる。
一方、勉強ばかりさせると、子どもが逃げてしまう。

 もうひとつ多くの進学塾がしているように、成績で子どもを脅すという方法もある。
「こんな成績では、○×中学には入れないぞ!」と。
しかしこれは邪道。

 で、さらに問題はつづく。

 楽しませようとすると、必要以上に乗りまくってしまう子どもが出てくる。
このタイプの子どもは、「教室」の秩序を、メチャメチャにしてしまう。
授業そのものが、成り立たなくなってしまう。
昔、こんなことがあった。

 B君というやや多動性のある子どもがいた。
こういうときはB君を抑えながら、ほかの子どもたちを楽しませなければならない。
教える方も、たいへん神経をつかう。
が、そのとき異変が起きた。

 私は楽しませているはずなのに、ふとB君の両側の子ども(女児)を見ると、2人も
涙ぐんでいるではないか。
「どうしたの?」と聞くと、「先生が、こわい」と。

 B君には鋭い視線を投げかけていた。
B君をこまかく注意しながら、授業を進めていた。
それが両側にいた子どもに、影響を与えていた。

●親との問題

 学校の先生は、みな、こう言う。
「教育という職業は、すばらしいです。親が介在してこなければ、もっとすば
らしいです」と。

 親と言っても、いろいろな親がいる。
10人のうち、9人まではよくても、残りの1人に問題があると、教師はとことん
神経をすり減らす。
で、その鍵を握るのが、親と教師との間の信頼関係ということになる。
信頼関係があれば、よし。
そうでなければ、ささいなできごとが、そのまま大きな問題となってしまう。

 たとえば体罰にしても、体罰を問題にするのは、体罰を受けた子どもの親ではない。
その体罰を見ていた子どもの親である。
むしろ体罰を受けた子どもの親は、感謝するケースのほうが多い。
(だからといって、体罰を肯定しているわけではない。誤解のないように。)

 しかし今、教師がプリントを丸めて子どもの頭をたたいただけで、親たちは、
「そら、体罰だ」と言って騒ぐ。
それはそれで仕方のないことかもしれないが、こうした親たちの姿勢が、教師を
萎縮させる。
その結果、教育の内容そのものまで、萎縮してしまう。

 で、私の住む地域でも、万事、事なかれ主義が蔓延し始めている。
「やるべきことはやります。しかしそれ以上のことはしません」と。
たとえば小学2年生で、かけ算を学ぶことになっている。
昔は(20〜30年前は)、かけ算ができなかったりすると、教師は残り勉強をさせてでも、
子どもに九九を暗記させた。
子どもが泣いても、暗記させた。
かけ算でつまずくと、そのあと、いろいろな学習でつまずくようになる。

が、今は、それをしない。
通り一遍のことを教えて、それで終わってしまう。
またそういう指導の仕方は、自粛されている。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まって
いる。

 結果、中学生でもかけ算のできない子どもが、続出している。
「七八(しちは)?」と聞かれても、即座に、「56」と答えられないなど。
「約20%の中学生がそうでないか」と言われている。

 教育力の低下がよく問題になる。
たしかに低下している。
しかしその原因の大半は、親にある。
どうして親たちは、もっと自由に、子どもの教育を学校の教師に任せないのか。
親が介在してくるから、話がおかしくなる。
それが「親が介在してこなければ、もっとすばらしいです」という言葉になって、
はね返ってくる。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

●10月28日(Happy Birthday to Me!)

+++++++++++++++++++++

今日は、私の誕生日。
満63歳!
おめでたいというより、今まで健康で、生きて
こられたことに感謝。
入院日数はゼロ。
病院のベッドの上に寝たのは、子どものころ、
喉の手術のときと、数年前に点滴を受けたときだけ。
つまり2度だけ。
ありがたいことと思う。

が、この先のことはわからない。
現状維持に心がけ、前に向かって進みたい。

++++++++++++++++++++

●「はやし浩司」への風当たり

 このところ私への風当たりが強くなってきた。
BLOGなどへの辛辣なコメントが多くなった。
昨日もあった。
いわく、「ご立派なご宣託、ごちそう様。
あちこちのBLOGへ、同じ原稿を投稿するな。
わずらわしいだろ」と。

 が、これには理由がある。

 今でこそ、BLOGも選別され、優良なBLOGサービスのみが生き残るようになった。
しかし当初は、そうでなかった。
ある日突然、閉鎖されるBLOGも少なくなかった。
そのため、それまで書いた原稿が、みな消えてしまった。
「削除」ではなく、消えてしまった。
そんなことがよくあった。

電子マガジンにしても、安心できない。
大手電機会社の傘下にあったBマガジンも、去年、突然、閉鎖になってしまった。
私はそのBマガジンを、それまで5年近くも書きつづけてきた。

 閉鎖になると、ご存知のように跡かたもなく、文章が消えてしまう。
現在、存続しているBLOGにしても、B・Blogなどは、一度、それまでの原稿が
すべて削除されてしまうというアクシデントがあった(2008年)。

 さらにBLOGによっては、容量というのがあって、一定の容量を超えると削除されて
しまうところもある。
BLOGによって、いろいろな規約、制約がある。
性質もちがう。
G・Blogは、長い文章でも制約なく、載せてくれる。
しかし読みにくいし、読者もふえない。
R・Blogは、一回の転送量に制限がある。
長い文章は、いくつかに分断しなければならない。
が、読者は多い。
こうした性質は、それぞれ、みな、ちがう。

またBLOGによって、読者層もちがう。
若い人たちが好んで立ち寄るBLOGもあれば、若い母親たちが好んで立ち寄るBLOG
もある。
またアクセス数にしても、毎日2000件以上のものもあれば、50件どまりという
のもある。

 HPにしても、規約の変更は、日常茶飯事。
私が主に使っていたHPサービスは、今年になって、突然、HTMLを暗号化すると
言い出した。
が、私が使っているHPソフトは、それに対応していなかった。
私がいかに冷や汗をかいたかは、この世界を多少なりとも知っている人なら、よく
わかるはず。

 こういうニガ〜イ経験を重ねているから、私が書くような「原稿的」な記事は、
ひとつのBLOGだけにしぼるのは、心配。
心配というより、危険?
それがよくわかっている。
だから原稿を残すという意味で、複数のBLOGを発行し、同じものを載せる。
が、どうしてそれが、悪いことなのか?
わずらわしいことなのか?

 むしろこうしたコメントを書く人のほうが、私には理解できない。
読みたくなければ、読まなければよい。
「同じ原稿だな」で、すむ話である。
スパムメールのように、原稿の押し売りをしているわけではない。

●自己顕示

 それはそれとして、「はやし浩司は、自己顕示欲の旺盛な人だ」と思う人は、
多いかもしれない。
性格障害のひとつである、「自己愛者」(自己愛性人格障害)の特徴のひとつになっている。
そこで、自己分析。

+++++++++++++++++++++++

●自己愛性人格障害 (DSMの診断基準より)
Narcissistic personality

A 自己の重要さ又はユニークさをおおげさに感じること
(例:業績や才能の誇張、自己の問題の特殊性の強調)

B 再現のない成功、権力、才気、美貌、あるいは理想的なあいの空想に夢中になること

C 自己宣伝癖
(例:絶えず人の注意と称賛を求める)

D 批判、他者の無関心、あるいは挫折に際しての反応がそ知らぬふりであるか、憤激、劣等
感、羞恥心、屈辱感、または、空虚感といった目立った感情である

E 以下のうち少なくとも2項目が対人関係における障害の特徴である。

(1)権利の主張:それに見合っただけの責任を負わずに、特別の行為を期待すること、
(例:望むことを人がしてくれないと言って驚き、怒る)

(2)対人関係における利己性:

 ●自己の欲求にふけるため、又は自己の権力の拡大の為に他者を利用する。
 ●他者の自己保全や権利をないがしろにする。

(3)対人関係で、過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴を持つ。

(4)共感の欠如:他者がどう感じているかわからない。

(注:以上、人格障害 DSM-V(第3版)「精神障害診断基準」(DSM−V/1980年)
より)

+++++++++++++++++++++++

 ここに書いてあることが、どれも当てはまるから、恐ろしい。
自己中心性が極端にまで肥大化した人を、自己愛者という。
しかし私がそうであると判断するのは、待ってほしい。

 私はすでに捨て身。
こうしてものを書きながら、いつも捨て身。
あと何年、生きられるか?
あと何年、脳みそがもつか?
そんな不安感と闘いながら、こうして文章を叩いている。
自己を顕示しようという意識よりは、私を超えた「私」という人間が、この世に
生きてきたという記録を残したい。
言うなれば、私が書く文章は、1人の人間の墓石のようなもの。
どうせ死ねば、煙にもならない煙となって、私は消える。
ついでに言えば、あなたも消える。

 名誉など、どこにもない。
金銭的な利益を求めているわけでもない。
私は私に与えられた脳みそを、自分で使っているだけ。
それよりも恐ろしいことは、年々、脳みその働きが鈍ってきていること。
それが自分でもよくわかる。
5年前に書いた文章、10年前に書いた文章と比べても、それがよくわかる。
とくに集中力と気力。
それが衰えてきた。

 ものを書くというのは、そういう老化との闘いでもある。
が、希望がないわけではない。
恩師の田丸謙二先生は、50歳を過ぎて中国語を独学し、中国の科学院の総会で、
講演している。
もちろん中国語で、である。
80歳を過ぎて、本を翻訳、出版もしている。
脳みそは使えば、それなりに長持ちするらしい。

 ただ反省すべき点は、いくつかある。
たしかに私は、ときとして極論に走りやすい。
白か黒か、はっきりしないと気が済まない。
好き嫌いもはげしい。
言うなれば、まろやかさがない。
自己愛者といえば、自己愛者ということになる。

 ということで、今朝の私は、BLOGへのコメントを読みながら、おおいに反省した。
63歳という年齢を有意義に生きるためにも、こうしたコメントは大切にしたい。
誤解というよりは、意外と私の盲点をついている。
そんな感じがする。

 おはようございます。
はやし浩司 2010−10−28!
今日も、始まった!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2010+++++++++はやし浩司・林浩司


*********以上2010年10月28日まで*****





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 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
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