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【12】
2010年  6月  26日〜 8月  29日


●病気は、うしろからやってくる

++++++++++++++++++

病気は、前からやってこない。
うしろからやってくる。
うしろから、ある日突然やってきて、
あなたの肩を叩く。

先日、Oさん(60歳、現在
血液のがんで闘病中)が、そう
教えてくれた。

++++++++++++++++++

●無理

 昨日は、忙しかった。
目が回るほど、忙しかった。
で、そのままの状態で、K町まで。
K町で講演をした。

調子はよくなかった。
ときどき自分で話していることが、宙を舞った。
口だけが勝手に動くという状態になった。

で、そのまま浜松へ戻ってきた。
2つの教室をこなした。
が、2つとも、親たちが参観に来ていた。

●参観

 慣れたとはいえ、参観レッスンは、疲れる。
親の視線を感ずるから、疲れるのではない。
子どもたちの、(でき・ふでき)を隠すために、神経をすり減らす。
小さな教室である。
子どもたちの、(でき・ふでき)が、そのまま親たちにわかってしまう。
つまりプライバシーが、筒抜けになってしまう。
それが神経をすり減らす。

 中には、参観レッスンがいやで、教室への入会を断わってきたり、
またやめていく親もいる。
ふつうは、こうした学習性の強い教室では、親の参観を許可していない。
とくに幼児教室はそうで、参観を許している教室は、私が知るかぎり、ない。
ここにも書いたように、子どものプライバシーが守れない。
親たちは、いつも他人の子どもと比較しながら、自分の子どもを見る。
「あの子はできる」「この子はできない」と。

●夕食

 遅い夕食を、ワイフと食べた。
レストランで食べた。
本来なら、そのころ、睡魔が襲ってくるはず。
事実、講演からの帰りの電車の中では、眠っていた。
が、そのレストランで、濃いお茶を、2杯飲んだのがよくなかった。
睡魔を押し殺し、脳みそが覚醒状態になってしまった。

 その状態は、夜10時ごろまでつづいた。
私は、日本対デンマーク戦の録画放送を観ていた。
W杯で、日本は、そのデンマーク戦に、3対1で勝った。
やや興奮した。

 で、そのとき古い印刷機が気になった。
重さが30〜40キロもある大型のものである。
その印刷機を現在、解体している。

●虚血性難聴

 ワイフに、「解体しようか?」と声をかけた。
ワイフは、さっそくドライバーをさがし始めた。
そのときのこと。
今の座卓から立ち上がったとたん、軽いめまいがした。
同時に、耳がポンと塞がったような感じになった。
自分でもそれがわかったとたん、耳が聞こえなくなった。

 ぞっとするような恐怖感と不安感。
その2つが同時に、私を襲った。
「耳が聞こえない……」と言うと、ワイフの顔からも血の気が引いていくのが、
わかった。
私は左耳の聴力を失っている。
突発性難聴というのになって、もう20年以上になる。
もし右耳が……。
その右耳が、聞こえなかった。

●薬

 印刷機の解体は、ネジを10本ほど抜いたところで、やめた。
やめて居間へ行き、耳鼻科で以前くれた薬をのんだ。
血流促進剤と神経増進剤。
風邪かもしれないということで、葛根湯とビタミンC(アスコルビン酸の粉末)も、
たてつづけにのんだ。

 そのまますぐ布団の中に。
扇風機の風が、かえって不愉快。
扇風機を止めた。
止めて、枕元にあった、精神安定剤と睡眠促進剤をのんだ。
不安感と動悸
眠れそうになかった。

 ワイフは、私をやさしく抱いてくれた。
こう言った。
「私があなたの代わりに耳になってあげるから……」と。
私はワイフの胸に顔を埋めた。
うれしかった。
涙が一筋、流れた。

●音

 このところ、講演つづきで、あちこちを回っている。
つづく翌日、つまり今日も、愛知県のC市で、講演をすることになっている。
朝、起きたとき、まず自分の声を出してみた。
つづいて掛け時計の音に、耳を澄ましてみた。

 聞こえた!
 うれしかった!

 そう言えば、義兄もこのところ、ときどき視野が消えてしまうことがあるという。
突然、目が見えなくなるという。
義兄は、今年77歳。
軽い脳梗塞も経験している。
「一過性……」とか、「虚血性……」とか言っていた。
目と耳のちがい。
症状からすると、よく似ている。
私のも、一過性の虚血性難聴だったかもしれない。
そんな病名があるのかあと考えているうちに、眠ってしまった。

 そう、昨日は、忙しかった。
忙しいだけならともかくも、神経をつかった。
ストレスも重なった。
それが災いした(?)。

●病気はうしろから

 「病気は、前からやってこない。
うしろからやってくる。
うしろからある日突然やってきて、あなたの肩を叩く」と。

先日、Oさん(60歳、現在血液のがんで闘病中)が、そう教えてくれた。
そう、まさにそのとおり。

 前からやってくれば、それを避けることもできる。
が、うしろから襲われたら、避けようがない。
つまりこの問題は、「油断」の問題。
これからは、その油断ができない。
無茶ができない。

 よい経験をしたとは思わない。
しかしこれからは、そういう「敵」にも、注意しなければならない。

 「こうして人は、少しずつ、死に向かって行くんだね」とワイフに話した。
ワイフは、黙ったまま、私を胸に抱いてくれた。
その温もりが、今も私の体を包んでいる。

 今日は、注意しよう。
無理をしないでおこう。

 ……これからC市まで行ってくる。
時刻は、朝、6時半。
幸い、冷気を感ずるほど、今朝は涼しい。
これなら何とか、今日は、やりこなせそう……。

 みなさん、おはようございます。
どうか、お体を大切に!

2010年6月26日

(父母の方へ)

 これからは、待合い的な参観は、できるだけ、お断りすることにしました。
お子さんに何か問題があって、その問題を解決するための参観は、よいのですが、
そうでない参観……つまりここでいう「待合い的な参観」については、お断り
することにしました。

 レッスンの様子は、YOUTUBEで公開しています。
どうかそちらのほうで、ご覧になってください。
とうとうというか、ついに、私も、無理ができない年齢になってしまいました。
よろしくご理解ください。

はやし浩司

Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●腐る心(Rotten Mind)

++++++++++++++

平凡は美徳だが、平凡が
よどむと、心が腐る。
腐って、平常心や常識を見失う。
偏(かたよ)った、ものの考え方を
するようになる。
ひどいばあいには、何かの
精神病を病むこともある。 

それを防ぐには、社会や人との
かかわりを切らないこと。
生活に緊張感をもちこみ、
適度なストレスを楽しむこと。

++++++++++++++

●環境と心

 若いころ、オーストラリアの大牧場に住んでいるような知人が、
うつ病になったと聞いた。
私はそれを知って、心底、驚いた。
「ああした大平原に住んでいるような人が、どうして?」と。

 最近でも、オーストラリアの友人がこう話してくれた。
「今、牧場主の自殺がふえている」と。
これについても、「どうして?」と考えたところで、思考が停止して
しまう。

 都会の雑踏の中に住んでいる人が、心を病んだり、自殺に追い込まれる
という話なら、まだ理解できる。
常識的に考えても、そのほうが、筋道が立つ。
しかし実際には、……というより、環境とその人の心の問題とは、
関係ない。

●内発的ストレス

 ストレスにも、2種類ある。
外圧的ストレスと、内発的ストレスである。
(ふつうは、善玉ストレスと、悪玉ストレスに分ける。
私は、外圧的ストレスと、内発的ストレスに分ける。)

 外圧的ストレスというのは、たとえば仕事などに追われる
ことによって、外の世界から自分に加えられるストレスをいう。
これに対して内発的ストレスというのは、心に何か問題があって、
心の内部から発せられるストレスをいう。
たとえば「こだわり」。

 こだわりが強くなると、ささいな問題を気にして、悶々とそれについて
悩んだりする。
それがストレッサーとなって、その人を内側から、苦しめる。
取り越し苦労や、ヌカ喜び。
それを繰り返しながら、徐々に、心が腐っていく。

要は心の持ち方しだいということになる。
が、それをうまく処理できれば、それでよし。
そうでなければ、いくらすばらしい環境に身を置いていても、うつ病に
なる。
なる人は、なる。

●老後

 たいへんよく誤解されるが、年金生活は、けっして理想の生活ではない。
「悠々自適の年金生活」という言葉も、よく聞く。
「老後は、孫のめんどうと、庭いじり」と。
しかし「遊べ」「遊べ」と言われても、そう遊べるものではない。
私の年齢になると、遊べば遊ぶほど、そのあとに空しさが残る。
「だからそれがどうしたの?」と。

 そこで適度な緊張感ということになる。
そういう意味では、善玉ストレスは、生活に緊張感を与える。
が、その緊張感こそが、重要。
人間の心は、ゴムのようなもの。
一度緩(ゆる)んでしまうと、元に戻すのは、たいへん難しい。
若いころなら、気力で、元に戻すことができるが、歳を取ると、
それがむずかしい。
元に戻そうとする気力そのものが、弱る。

 実際、定年退職後、ほんの半年〜1年、ブランクができただけで、
仕事に復帰できないまま、一生を終える少なくない。

●非常識

 で、心が腐ると、〜〜病という病名こそつかなくても、とんでもない
ことをし始める。
そういう人は、少なくない。
ある男性(75歳)くらいは、隣の家に放火するようなことまでしている。
もっとも本気で放火したというよりは、放火したところで、あわてて火を
消した。

 あるいはパチンコを買ってきて、近所の家の窓ガラスに穴をあけた
男性(80歳くらい)もいた。
で、その男性のばあい、自分が疑われるのを避けるため、自分の家の
窓ガラスにも、穴をあけた。

 さらに陰湿なことをする男性(75歳くらい)もいた。
その男性は、自宅の裏で、マムシを飼っていた。
古いバスタブをどこかでもらってきて、その中で飼っていた。
餌は生きたカエル。
そのため、その近所では、ときどきマムシが出る。
開けた団地で、水気のほとんどないところである。
その近所の人たちは、その男性がマムシをばらまいているらしいと
うわさしている。

 そういうことが平気でできる人のことを、「心の腐った人」という。

●粗大ゴミ

 退職というのは、読んで字のごとく、「仕事から退く」ことをいう。
が、仕事というより、中身。
つまり「生きがい」。
その「生きがい」から遠ざかる。

しかしその時点で、退職の仕方をまちがえると、そのまま心を腐らせて
しまう。
本人はそれでよいとしても、それによって、周囲の人たちが、迷惑する。
ある妻は、こう言った。

「夫が退職してからというもの、私は毎日、家を出ています」と。
夫とは、いっしょに暮らせないということらしい。
「夫は、毎日、家の中でゴロゴロしています。
そんな夫を見ていると、息が詰まります」と。

 粗大ごみとなるか。
粗大ごみとなって、家族に疎(うと)んじられるか。
それでもよければ、話は別。
しかしそれによって本当につらい思いをするのは、本人。

●私のばあい

 私のばあいも、正月など、10日間も休みがつづいたりすると、
心が腐っていくのが、自分でもよくわかる。
あるいは休みが終わって、仕事に復帰するとき、心を調整するのに、
かなり苦労する。
もちろん体も鈍(なま)る。
いつもなら自転車でスイスイと登れる坂も、登れなくなったりする。
文章にしても、1週間も書かないでいたりすると、勘が鈍ってしまう。
だからいつもこう思う。
「休みは、2日でじゅうぶん」と。

 それに一日中、ワイフと顔をつきあわせていると、ささいなことで
口論になったりする。
ワイフにしても、そういう私を、疎ましく思うかもしれない。

●流水は腐らず

 心は、言うなれば、流れる水のようなもの。
東洋医学でも、『流水は腐らず』という。
これは肉体の健康法を言ったものだが、心の健康法としても、正しい。
(東洋医学では、肉体の健康と心の健康を区別しない。
両者は一体したものと、とらえる。)

 そこで重要なことは、どう生活の中で、その「流水」を作るかという
こと。
それが冒頭に書いた、社会や人とのかかわりを切らないこと、
生活に緊張感をもちこみ、適度なストレスを楽しむことということになる。

●幼児との接触

 実は、心を腐らせないための、もうひとつの方法がある。
たぶんに手前味噌的で申し訳ないが、幼児と接すること。
幼児のもつ、あの純粋なエネルギーに接すること。
このことは、自分の心が腐り始めたとき、幼児に接してみると、
よくわかる。
幼児に接したとたん、不純物がそのままきれいに洗い流されてしまう。
私はそういう経験を、毎日のようにしている。
(だからといって、私が純粋というわけではないが……。)

 一方、おとなの世界にはおとなの世界独特の腐臭が漂っている。
その世界だけにいる人には、それがわからないかもしれない。
「腐臭」である。

 もう10年ほど前のことだが、山荘の隣に住んでいる女性(当時
50歳くらい)が、こう言った。
そのとき何かの用事で、浜松市内のホテルに泊まったらしい。
それについて、「臭くて、眠れませんでした」と。

 町には町の独特の「臭い」があるらしい。
それが臭くて、眠れなかった、と。
つまり私には、その「腐臭」がわかる。
が、わからない人には、それがわからない。

●今日も始まった(2010年6月27日)

 心も腐る。
野菜や果物のように、腐る。
腐って、腐臭を放つようになる。
心というのは、そういうもの。
またそういう前提で、心を考える。

 それを防ぐためには、キリスト教徒や仏教徒の人たちがしているように、
教会や勤行に通うという方法もある。
しかしそれ以上に大切なことは、やはり「日々の精進」あるのみ。
いつも前向きに、チャレンジしていく。
つまり自分自身を、「流れ」の中に置く。
健康法と同じで、立ち止まったとたん、そこを頂点に、あとは下り坂に向かう。

 ……ということで、今日も始まった。
で、とりあえず、すべきこと。

(1)マガジン7月号の発行(13回分)。
(2)総原稿集の編集。
(3)インターネットストーレッジへのUPLOAD。
(4)7月号のマガジンを、同じく、インターネットストーレッジにUPLOAD。

 午後からは、山荘周辺の草刈り。
が、これは天気しだい。

 みなさん、おはようございます。
昨夜は、午後8時ごろ就寝。
11時間、たっぷりと睡眠時間をとった。
おかげで、今朝は、気分爽快!


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司※

【老人心理】(私流・老後の生き方)

++++++++++++++++++

「老人心理学」というのがある。
幼児には、「幼児心理学」がある。
青年には、「青年心理学」がある。
同じように、老人には、「老人心理学がある」。

しかし自分が、その戸口(doorway)に
立ってみて、ひとつ気がついたことがある。
こうした老人心理学は、若い心理学者たちに
よって書かれたものが、多いのではないかと
いうこと。
つまり老人の心理を、本当にわかっていない。
わかっていて、ものを書いているのではない。
老人の世界を、若い世代の視点から、
言うなれば、「勝手に想像して書いている」。

たとえば「喪失感」がある。
「老人心理」というと、「喪失感」が、ベースに
なっている。
たしかに喪失感は否定しがたい。
それはある。
健康にせよ、知力にせよ、人間関係にせよ、
すべてが不可逆的に、負の方向に向かい始める。
が、それがすべて「喪失感」につながるという
わけではない。

つまりどこか的をはずれている。
もっとストレートに言えば、老人の心理が、
よくわからないまま、「老人だから、喪失感が
あるだろう」という想像だけで、ものを
考えている。

そんな思いから、このエッセーを書き始めた。

+++++++++++++++++++++

●手持ちぶたさ
 
 「手持ちぶたさ」という言葉がある。
漢字では「手持無沙汰」と書く。
「なすべきこともなくて、退屈なこと。また手あきで、間(ま)の悪いこと」
(EXーWord)とある。

 「老人心理」と聞いて、私はまっさきに、この言葉を思い浮かべる。
老人になると、すべてが「手持ちぶたさ」になる。
現実にそうであるかないかということではない。
それから生まれる、「間の悪さ」。
それこそが、老人心理のベースになる。

●統合性の確立

 もちろん(なすべきこと)を確立し、その(なすべきこと)に向かって、
つき進んでいる老人もいる。
心理学的に言えば、「統合性を確立した老人」ということになる。
たとえば画家が、ライフワークとして、大作に取り組むなど。
が、そういう老人は、たいへん恵まれた老人ということになる。
むしろ例外。
現実は、きびしい。

 (なすべきこと)というのは、いわば、道楽のようなもの。
少なくとも、老後も働きつづけなければならない私には、そう見える。
年金など、もとからアテにしていない。
手にするとしても、2年後。
夫婦2人で、13万円程度。
こんな額で、何ができる?
道楽なんて、夢のまた夢。

●健康問題

 老人にとって、最大の問題は、健康問題ということになる。
その健康問題が、つぎからつぎへと起きてくる。
しかも歳を追うごとに、ピッチを速めてくる。
若いころは、年に1、2度だったものが、月に1、2度になったりする。
その上、今までに経験したことのないようなものばかり。

 で、当然のことながら、そのつど不安になる。
たとえば体に何か異変が起きたとき、まず最初に考えるのは、「以前にもあったかどうか」
ということ。
以前にも同じような症状を経験していれば、「だいじょうぶ」と自分に言って聞かせる。
が、それがないと、とたん、大きな不安感に襲われる。

●オロオロと狼狽する
 
 両親や兄弟、友の死については、それほど大きなショックはない。
「そういうもの」という覚悟ができている。
「つぎは、私」と。
その覚悟の中で、心を処理し、心を持ちなおすことができる。

 しかし自分自身の生活の変化については、そうでない。
たとえば夫や妻の死、さらには大病を患うことによる、自分自身の死の予感。
そうした「変化」については、無力でしかない。
どう立ち向かったらよいのか、その糸口すら、見つからない。

 「たぶん、オロオロと狼狽するだけだろうな」と。
そこまで考えたところで、あとは思考がそのまま停止してしまう。

●流れ

 これはあくまでも私のばあいだが、私は「流れ」が止まるのが、なによりも
怖い。
たとえば「仕事」。
仕事がほしいわけではない。
しかし仕事から得られる、「流れ」が止まるのが、怖い。
もちろん(お金の流れ)もある。
がそれ以上に重要なのは、それにまつわる(人間関係)。
さらに言えば、(緊張感)。
それが止まるのが、怖い。

●宣伝

 そんなこともあって、昨年、私ははじめて、教室の宣伝を、新聞に載せてもらった。
私は今の仕事を始めてからというもの、宣伝なるものをしたことがない。
口コミだけで、仕事を維持してきた。
それに教室経営だけが、私の仕事ではなかった。

 が、数年前から、先細り感を覚えるようになった。
少子化、不景気、競争の激化などなど。
加えて、私自身の体力的、気力的な限界も感ずるようになった。
若い母親にしても、ジーチャン先生よりは、若いハツラツとした先生のほうがよい。
生徒数の減少が始まった。

 が、これは簡単な一次関数で示される。
負の一次関数である。
「あと3、4年はよいとしても、5年は無理だろうな」と。
そこで昨年から、宣伝を始めた。

●「先」 

 一方、私は自分の仕事を限定するようになった。
若いころは、何でもした。
その(何でもする)という意欲が、今は、ほとんど、ない。
意味のある仕事と、そうでない仕事を峻別(しゅんべつ)するようになった。
たとえば今、仮にサラリーマン生活をせよと言われても、私にはできない。
その虚(むな)しさを、いやというほど、味わっている。
つまり、「先」がない。

 いまさら、どこかの会社の課長や、部長をめざして、何になる?
そういう思いが、自分の進む道をふさいでしまう。

●絶望感

 こう書くからといって、私の息子たちを責めるのではない。
私の息子たちは、ひょとしたら、平均的な若者よりも、ずっとやさしい心をもっている。
思いやりも深く、思慮も深い。
で、私は、そういう息子に、少なからず、淡い期待を抱いていた。
「いつか、私の友として、そばにいてくれるようになるだろう」と。

 そのために、たとえば学費や生活費は、惜しみなく、与えてきた。
息子たちが請求してくる金額を、減らしたとか、送金を遅らせたことは、一度もない。
が、やがて私は知った。
そんな息子たちでも、将来、私やワイフのめんどうをみる気は、まったくない、と。
それを知ったとき、私ははげしい絶望感を覚えた。
息子たちを責める前に、親バカだった、自分を責めた。
自分のお金は、自分の老後のために、残しておくべきだった!

●孝行論

 私たちの時代には、「孝行論」は、常識だった。
それを疑う者はいなかった。
たとえば私は、結婚する前から、収入の約半分は、実家へ仕送りしていた。
私はそれが当然と考えていた。
みな、同じようなことをしていた。

 が、その経済的負担感というよりは、社会的重圧感には相当なものがあった。
「子は〜〜すべき」という、『ベキ論』が、そのつど私を押しつぶした。
一方、親からは、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、
それこそ耳にタコができるほど、聞かされつづけた。

 だから……その反動もあったと思うが、私は、自分の息子たちには、そういう
思いをさせたくなかった。
とくに社会的重圧感については、そうだった。
「お前たちの人生は、お前たちのもの」を、常に言ってきかせていた。
しかしこの考え方は、日本という国の現実からは、あまりにもかけ離れていた。

●日本の現状

 この先、日本人のうち3〜4人に1人が、後期高齢者になる。
1人の老人を、2〜3人の働き手(現役労働者)が支えることになる。
しかしそんなことは、実際には、不可能。
推計によれば、私たちの世代は、60%が独居老人となり、孤独死を
迎えることになる。
死後、発見されるまでの平均日数は、1週間。

 そこで今、声高に言われるようになったのは、若い世代との同居。
それも無理なら、「呼び寄せ老人は好ましい」と。
つまり何かあったら、息子や娘たちをすぐ呼び寄せられる距離に住む、と。

 つまり日本の現状と、私が説く理想論との間には、距離がある。
日本は、まだそこまで成熟していない。

●自己否定

 私はときどき、考える。
「私たちの世代は、いったい、何だったのか?」と。
親に取られ、子どもたちに取られ……。
で、感謝されているかといえば、それはない。
親にしても、子どもたちにしても、それは「当然」と考えている。
それ故に私たちの世代を称して、『両取られの世代』という。

 今では、子どもの学費どころか、社会へ出るときの支度金、結婚費用、
新居費用などなど、親が負担する。
孫の養育費を負担している親(祖父母)もいる。
さらに息子や娘が、孫を連れて盆暮れに帰ってくるとき、その旅費や費用を負担
している親(祖父母)さえいる。
そういう現実を見せつけられると、「では、いったい、私たちは何だったのか」と、
いうことになる。

 が、それを考えることは、恐ろしいことでもある。
そのまま自己否定につながってしまう。

●自己否定

 孝行論は、否定すべきもの。
また孝行論で、子どもを縛ってはいけない。
その考え方は、今でも、変わっていない。
しかし日本の現状を考えると、また若者たちの意識を考えると、それを言い切るのは
危険なことでもある。
皮肉なことに、「将来、親のめんどうをみる」と考えている日本人の若者は、アメリカ人
よりも少ない。

 それについても原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++++

【親バカ論】

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50〜60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。

「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。
つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!

 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。
それについては、何度も書いてきた。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2〜3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える。
(月収だぞ!)

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのように軽
い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強しているところは、いくらでもある。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということになる。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、またあな
たのめんどうをみない。

60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

●親バカ

 こうして順に考えていくと、子どもに学費をかけることが、いかに無駄かがわかってくる。
あえて言うなら、子どもを遊ばせるために、その遊興費を提供するようなもの。
が、何よりも悲劇なのは、そのためにする親の苦労など、今時の大学生にじゃ通じない。
当たり前。
「電話をかけてくるのは、お金がほしいときだけ」というのは、親たちの共通した認識である。

むしろ逆に、(してくれないこと)を、怒る。
「みなは、毎月20万円、送金してもらっている」
「どうして結婚の支度金を出してくれないのか」と。
保護、依存の関係も行き過ぎると、そうなる。
保護される側(子ども)は、保護されて当然と考える。
一方、保護するほうは、一度、そういう関係ができてしまうと、簡単には、それを崩すわけには
いかない。
罪の意識(?)が先に立ってしまう。

 どこか一方的な、つまり否定的な意見に聞こえるかもしれないが、こうして世の親たちは、み
な、つぎつぎと親バカになっていく。

●老後の用意

 しかし私たちの老後は、さみしい。
蓄(たくわ)えも乏しい。
社会保障制度も、立派なのは、一部の施設だけ。
3人のうちの1人が老人という世界で、手厚い介護など、期待する方がおかしい。
となると、自分の息子や娘たちに、となる。
しかし肝心の息子や娘たちには、その意識はまるでない。

 ある友人は、こう言った。
「うちの息子夫婦なんか、結婚して3年目になるが、嫁さんなど、来ても、家事はいっさい手伝
わない。いつもお客様だよ」と。
別の友人もこう言った。
その友人の趣味は魚釣り。
そこで釣ってきた魚を、嫁に料理をさせようとしたら、こう言ったという。
「キモ〜イ、こんなこと、私にさせるのオ?」と。

 この話をワイフにすると、ワイフもこう言った。
「私の友だちのSさんなんかね、長男は、歩いて数分のところに住んでいるだけどね、毎週、実
家へ子どもたちを連れて夕食を食べに来るんだってエ」と。

 で、私が、「食費はだれが出すの?」と聞くと、「もちろん友だちのSさんよ。長男たちは、それ
で食費を浮かせようとしているのね」と。
さらに「料理は、だれがするの?」と聞くと、「Sさんよ。嫁さんは、デンと座っているだけだそう
よ。たまに食器は洗ってくれるそうよ。でもそれだけ」と。

 私が「ヘエ〜〜」と驚いていると、さらにワイフは、驚くべきことを口にした。
「それでいて、長男は、親のめんどうをみているのは自分と、思いこんでいるみたいね」と。

私「親のめんどう・・・?」
ワ「そうよ。弟夫婦たちが実家へ来ると、兄貴風を吹かして、弟夫婦に、『お前たちも、ときに
は、親のめんどうをみろ』って言ってるんだってエ」
私「あきれるね」
ワ「そうね。孫の顔を見せるだけでも、ありがたく思えというところかしら」と。

●何かおかしい?

 何か、おかしい。
何か、まちがっている。
しかし今は、そういう時代と思って、その上でものを考えるしかない。
子どもたちというより、その上の親たちが、そういう世代になっている。
その親たちに向かって、「子育てとは・・・」と説いても、意味はない。
言うなれば、ドラ息子、ドラ娘になりきった親たちに向かって、ドラ息子論、ドラ娘論を説くような
もの。
意味はない。

 言い換えると、私たち自身が、「甘えの構造」から脱却するしかない。
「子どもたちに依存したい」「依存できるかもしれない」「子どもたちが世話をしてくれるかもしれ
ない」と。
そういう(甘え)から、脱却するしかない。
さらに言えば、「私たちの老後には、息子や娘はいない」。
そういう前提で、自分たちの老後を考える。

●私のケース

 私の息子たちが特殊というわけではない。
見た目には、ごく平均的な息子たちである。
中身も、ごく平均的な息子たちである。
だからこう書くといって、息子たちを責めているわけではない。
しかしときどき会話をしながら、その中に、「老後の親たちのめんどうをみる」という発想が、ま
ったくないのには、驚く。
まったく、ない。
むしろ逆。
こう言う。

「相手の親(=嫁の親)は、〜〜してくれた」「どうしてパパ(=私)は、してくれないのか?」と。
「パパは、仕事ばかりして、ぼくたちのことを構ってくれなかった」とも。

 息子夫婦にしても、「家族」というのは、自分と自分たちの子どもを中心とした(親子関係)を
いう。

目が下ばかり向いている。
が、それはそれでしかたのないこと。
息子たちは息子たちで、自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
私たち夫婦だって、そうだった。
が、それでも、お・か・し・い。

●満62歳にして完成

 ・・・こうして親は、子離れを成しとげる。
(甘え)を、自分の心の中から、断ち切る。
そして一個の独立した人間として、自分の老後を考える。

 というのも、私たちの世代は、まさに「両取られの世代」。
親にむしり取られ、子どもたちにむしり取られる。
最近の若い人たちに、「ぼくたちは、収入の半分を実家に送っていた」と話しても、理解できな
いだろう。
それが当たり前だった時代に、私たちは、生まれ育った。

 が、今は、それが逆転した。
今では子どもの、その子ども(つまり孫)の養育費まで、親(つまり祖父母)が援助する。
それが親(つまり祖父母)ということになっている。

 が、そこまでしてはいけない。
このあたりでブレーキをかける。
かけなければ、この日本は、本当に狂ってしまう。
(すでに狂いぱなし、狂っているが・・・。)

 少し前も、私は「車がほしい」というから、息子に、現金を渡してしまった。
それで私たちは、H社のハイブリッドカーを買うつもりだった。
それについて、まずオーストラリアの友人が、「渡してはだめだ」と忠告してくれた。
義兄も、「ぜったいに、そんなことをしてはだめだ」と言った。
「息子のほうが、今までのお礼にと、新車を買ってくれるという話ならわかるが、逆だ」と。

 私も親バカだった。
息子たちに怒れるというよりは、自分に怒れた。
心底、自分に怒れた。
何日か眠れない日がつづいた。
が、それが終わると、私の心はさっぱりとしていた。
息子たちの姿が、心の中から消えていた。
はやし浩司、満62歳にして、子離れ完成、と。

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言って笑った。
「あなたも、やっと気がついたのね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子離れ 親離れ 依存性 甘えの構造 甘え 子どもへの依存性 老後 はやし
浩司 親バカ論)

●親バカにならないための10か条

(1)必要なことはしろ。しかしやり過ぎるな。
(2)求めてきたら、与えろ。先回りして与えるな。
(3)一度は、頭をさげさせろ。「お願いします」と言わせろ。
(4)子どもに期待するな。甘えるな。
(5)親は親で、自分の人生を生きろ。子どもに依存するな。
(6)社会人になったら、現金は、1円も渡すな。
(7)嫁や婿の機嫌を取るな。嫌われて当然と思え。
(8)自分の老後を冷静にみろ。無駄な出費をするな。
(9)遺産は残すな。自分たちで使ってしまえ。
(10)少なくとも子どもが高校生になるころには、子離れを完成させろ。

++++++++++++++++++++

●現状

 現状をみるなら、都会の大学へ子どもを送り出すことは、できるならやめたほうがよい。
非公式な調査だが、地方の両親のもとに帰ってくる、あるいは「呼び寄せられる距離」に
戻ってくる若者は、まず、いない。

 また息子や娘が大学生になるころ、親は、まさに貧乏盛り。
それこそ爪に灯をともすようにして、学費を工面する。
が、やっと送金から解放されたと思ったら、そこに待っているのは、「老後」。
企業年金や共済年金のある人は、まだよい。
しかし私たちのように、国民年金しかない人間は、どうしたらよいのか。

 息子や娘たちには負担をかけたくない。
めんどうや迷惑をかけたくない。
その気持ちは、私にもある。
しかしこの(現実)を乗り越え、「死」を迎えるためには、どうしたらよいのか。
いや、お金だけの問題ではない。
老人には、もうひとつ、重大な問題がある。
それが「孤独」との闘いである。

●孤独

 孤独の恐ろしさは、あのイエス・キリストも経験している(マザー・テレサ)。
それについての原稿も書いたことがある。

+++++++++++++++++++++

●真理と孤独



 キリストや釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われ
たか? もっと言えば、孤独ではなかったか?※



 キリストにも釈迦にも、弟子はいた。しかし師と弟子の関係は、あくまでも師と弟子の関係。
師は、あくまでも智慧(ちえ)を与える人。弟子は、あくまでもその智慧を受け取る人。弟子たち
はそれでよいとしても、師であるキリストや釈迦は、どうだったのか? それでよかったのか?



 真理の荒野をひとりで歩くことは、それ自体は、スリリングで楽しい。しかし同時に、それは孤
独な世界でもある。(私が求めている真理など、真理ではないかもしれないが、それでもそう感
ずることがよくある。)とくに、現実の世界に引き戻されたとき、その孤独を強く感ずる。「人生
は……」などと考えていたところへ、幼児がやってきて、「先生、ママがいなア〜イ」と。



 そこで心の調整をしなければならないが、私のばあい、思索の世界から離れたときは、その
反動からか、今度は極端に、バカになる。バカになって、心の緊張感を解く。孤独から離れる。
もしあなたが、私の近くへやってきて、私を知ったら、私のことを、ひょうきんで、おもしろい男だ
と思うだろう。私は子どものみならず、おとなに対しても、笑わせ名人で、いつも周囲の人たち
をゲラゲラ笑わせている。私のワイフですら、「あんたといると、退屈しない」と言っている。昨夜
も寝るまで、ワイフを笑わせてやった。



 が、反対に、そういう外での私しか知らない人は、私の作品を読んだりすると、「これ、本当に
あなたの文ですか?」と聞いたりする。そこまではっきりと言わないまでも、驚く人は多い。「あ
の『はやし浩司』って、あなたのことでしたか?」と言った人もいる。



 が、キリストや釈迦は、そうではない。あるいはひょっとしたら、ひょうきんで、おもしろい人だ
ったかもしれないが、そういう話は、伝わっていない。……となると、やはり、キリストや釈迦
は、どうやって、孤独と戦ったかということになる。ふつうなら……という言い方はしてはいけな
いのだろうが、しかしふつうなら、何らかの形で自分の心をいやさないと、とても孤独には、耐
えられない。



 もっともキリストにせよ、釈迦にせよ、私たちをはるかに超越した世界に住んでいたのだか
ら、孤独ということはなかったかもしれない。……となると、また別の問題が生まれてくる。



 もし、仮に、だ。もし、あなたが、ある惑星に落とされたとする。そしてその惑星は、サルの惑
星で、サルたちが、サルのまま、野蛮な生活をしていたとする。一方、あなたには、知性があ
る。言葉もある。道徳も、倫理もある。もしあなたがそういう世界に落とされたとしたら、あなた
はどうなるだろうか。あなたは神や仏のように祭られるだろう。しかしあなたはその世界がも
つ、孤独に耐えられるだろうか。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。



 幼児教育をしていて、ゆいいつ、つまらないと思うのは、いくら幼児と接しても、私と幼児の間
には、人間関係が生まれないということ。この点、大学生や高校生を教える先生は、うらやまし
い。教えながら、人間対人間の関係になる。そこから人間関係が生まれる。が、幼児教育に
は、それがない。で、そういう幼児だけの世界にいると、ときどき、言いようのない孤独感に襲
われるときがある。私が考えていることの、数千分の一も、子どもたちには伝わらない。説明し
てあげようと思うときもあるが、あまりの「へだたり」に、呆然(ぼうぜん)とする。



 つまり、人は、その世界を超越すればするほど、その分だけ、孤独になる? キリストや釈迦
のような「人」であれば、なおさらだ。となると、話は、また振りだしに戻ってしまう。「キリストや
釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われたか? も
っと言えば、孤独ではなかったか?」と。



 もちろんキリストや釈迦を、私たちと同列に置くことはできない。本当にそうであったかどうか
は、私にはわからないが、彼らは真理に到達した「人」たちである。もしそうなら、その時点で、
孤独からは解放され、その時点で、さらに真の自由を手に入れていたことになる。あるいは、
キリストや釈迦は、私たちが考えもつかないような世界で、もっと別の考え方をしていたのかも
しれない。



 考えていくと、この問題は、結局は、私自身の問題ということになる。真理などというのは、簡
単に見つかるものではない。恐らく私が、何百年も生き、そして考えつづけたとしても、見つか
らないだろう。もしそうであるとするなら、私はその真理に到達するまで、つまり死ぬまで、その
一方で、この孤独と戦わねばならない。



もちろん、キリストや釈迦のように、真理に到達すれば、あらゆる孤独から解放されるのだろ
う。が、そうでないとしたら、一生、解放されることはない? しかも、だ。皮肉なことに、真理に
近づけば近づくほど、ほかの人たちからの孤立感が大きくなり、そしてその分だけ、孤独感は
ますます強くなる?



 そういう意味で、真理と孤独は、密接に関連している。紙にたとえて言うなら、表と裏の関係と
いってもよい。世界の賢者たちも、この二つの問題で、頭を悩ました。いくつかをひろってみよ
う。



●この世の中で、いちばん強い人間とは、孤独で、ただひとり立つ者なのだ。(イプセン「民衆
の敵」)

●われは孤独である。われは自由である。わらは、われ自らの王である。(カント「断片」)

●つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるる方なく、ただ一人(ひとり)あるのみこそよ
けれ。(吉田兼好「徒然草」)

●孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である。(ショーペンハウエル「幸福のための警句」)

●人はひとりぼっちで死ぬ。だから、ひとりぼっちであるかのごとく行為すべき。(パスカル「パ
ンセ」)



 簡単に「孤独」と言うが、孤独がもつ問題は、そういう意味でも、かぎりなく大きい。人生にお
ける最大のテーマと言ってもよい。そうそうあの佐藤春夫(一八九二〜一九六四、詩人・作家)
は、こう書いている。『神は人間に孤独を与へた。然も同時に人間に孤独ではゐられない性質
も与へた』と。この言葉のもつ意味は、重い。



※マザーテレサの言葉より……



●孤独論



 孤独は、あらゆる人が共通してもつ、人生、最大の問題といってよい。だからもしあなたが
今、孤独だからといって、それを恥じることはない。隠すこともない。大切なことは、その孤独
と、いかにうまく共存するかということ。さあ、あなたも声を出して叫んでみよう。「私はさみしい」
と。マザーテレサは、つぎのように語っている。



 訳はかなりラフにつけたので、必要な方は、原文をもとに、自分で訳してほしい。



When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt himthen and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 



キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼は、ただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリ
スト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれに
も求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつ
け、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、
もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

+++++++++++++++++++++

●運と確率

 老後は、この孤独との闘いといっても過言ではない。
病気になれば、なおさら。

 今では通りを歩いていて、半身不随になった老人を見かけるのは、珍しくない。
「明日は我が身」。
そういう老人を見かけるたびに、胸がつまる。
「自分は歩けるから、よかった」などとは、思わない。
遅かれ早かれ、私もああなる。
あなたもああなる。
時間の問題。
運と確率の問題。

 健康であっても、孤独との闘いはつらい。
いわんや、病気になったら……。
孤独感は、倍加する。
で、自らに問う。
「私には、それと闘う力はあるか?」と。

 答は、「NO!」。

●先細り感

 で、老後の最大の「敵」は、「先細り感」ということになる。
よりどころのない、「孤独感」といってもよい。
たまたま先週、過労が重なって、私は一過性の(?)、難聴になってしまった。
右耳は、もとから聞こえない。
そのときは、左耳が、聞こえなくなった。
ほとんど聞こえなくなってしまった。

 そのとき私が感じた孤独感には、相当なものがある。
すぐ床に入ったが、胸騒ぎがはげしく、なかなか寝つかれなかった。
もちろん助けは、ない。
まただれかに助けてもらえるような話でもない。
ひとり、ただひとり、じっとそれに耐えるしかなかった。
ゆいいつ、ワイフの言葉だけが、私を救った。

「これからは私があなたの耳になってあげるから」と。
それを聞いて、私はワイフの胸の中で、涙を流した。
しかしこうした先細り感は、この先、ふえることはあっても、なくなることはない。
それが「老後」ということになる。
 
●気力

 よく誤解されるが、また「まったくの誤解」と断言してよいが、老人になれば、
「死」を受け入れるようになるというのは、ウソ!
まったくのウソ!
むしろ「死」が近い分だけ、「死」を恐れるようになる。

 また老人は、「生きたい」という気力が弱くなると考えている人もいる。
が、これもウソ。
最後の最後では、死を受容することになる。
そのときは、そうかもしれない。
しかしそれまでは、まさに気力との闘い。
その気力は、負の一次関数的に減少していくのではない。
私の想像では、(つまり今までに、いろいろな人の死を見てきた範囲では)、
気力は、ある日突然、ガクンと音をたてて消える。
つまりそれまでは、気力はある。
気力がある以上、「生きたい」という気持ちは消えない。
10代や20代の人が、「生きたい」と思う程度、あるいはそれ以上に、
「生きたい」と思う。

●喪失感

 冒頭で、喪失感について書いた。
しかし「喪失感」というのは、私はまだ経験していない。
何かにつけ、自信がなくなってきた部分はある。
電話番号にせよ、一度では覚えられないときがある。
また聞いても、不安になるから、ものに書き留める。
ミスも多くなった。
しかしそれは喪失感ではない。

 さらに肉体についてもそうだ。
温泉などに行って、自分の肉体を鏡に映してみる。
そういうとき、自分のジジイ体型に、ときとしてゾッとするときがある。
が、だからといって、若い人の体型に戻りたいとは思わない。
たいへんぜいたくな話に聞こえるかもしれないが、もし神様か何かが、
私にこう言ったとする。

「もう一度、若い時代に戻してやろうか?」と。

 たぶん、今の私なら、それを断わるだろう。
「人生は一度で、たくさん」と。
あるいは、また振り出しから、人生を歩めと言われても、それは私にはできない。
肉体というより、今、私がもっている(思想)を、そのまま若い時代に持ち込める
なら、若い時代に戻りたい。

 しかし未熟で未経験で、かつ無知であるなら、肉体だけ若くしてもらっても、
うれしくない。

 ただ誤解してほしくないのは、私たちは、一方的にものを失っていくのでは
ないということ。
得るものも、ある。
そのひとつが、生きていることのすばらしさ。
それがわかるようになる。

 目が見える。
音が聞こえる。
歩ける。
話ができる。
そういったささいなひとつずつのことが、そのまま喜びとなって返ってくる。

●死の受容段階論

 それよりも今は、「時間がない」という焦燥感のほうが、強い。
いつか書いたように、大病で、「余命は1年」と言われたような状態。
「1年」であろうが、「15年」であろうが、それほど、ちがわない。
(私はもうすぐ63歳だから、平均寿命まで、残り15年ということになる。)

 以前、キューブラー・ロスの『死の受容段階論』について書いた。
その段階論を老人論にからめて書いた。

++++++++++++++++++

その原稿をさがしてみる。
日付は20018年の10月になっている。
この原稿を書いたときは、まだ私は若かった。
今、読みなおしてみると、それがよくわかる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●キューブラー・ロスの『死の受容段階論』

 キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、
よく知られている。

「死」を受容する過程で、人はさまざまな反応を
示すが、それをキューブラー・ロスは段階論として
それを示した。

しかしこの「死の受容段階論」は、そのまま
「老人段階論」にあてはめることができる。

+++++++++++++++++++++

●キューブラー・ロスの「死の受容段階論」(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」について。
ロスは、死に至る過程について、つぎの5期に分けて考えた。

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを
試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●私の母のばあい

私の母のばあい、ひざに故障が起きて、歩くのもままならなくなったとき、
ひどく医者をうらんだ時期があった。

「どうして治らない」「どうして治せない」と。

つぎに自分が老いていくことを許せなかった時期もあった。
たとえば温泉に行くことについても、「恥ずかしいからいやだ」と、かたくなに、
それを拒んだりした。

つぎに自分が動けなくなったことに腹をたて、私の兄に、八つ当りをしたこともある。
兄をののしり、兄を理由もなく、叱ったりした。

が、それも一巡すると、(あるいはその前後から)、ちぎり絵に没頭するようになった。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵をしていた。

さらにこれは、私にも信じられないことだったが、私の家に来てからは、まるで別人の
ように、静かで、おとなしくなった。

ざっと、母の様子を振り返ってみた。
が、それ以前の母はというと、ふつうの女性以上に、勝気で虚栄心が強く、わがまま
だった。

こうした母の変化を順に並べてみると、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」に、
恐ろしいほどまでに、当てはまるのがわかる。

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。
母は、毎日のように治療に専念するようになった。
病院通いのほか、知人、友人の勧めに応じて、いろいろな治療法を試みた。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。
が、治療の効果がないとわかると、一転、「どうして治らない!」と、周囲の人たちに当たり散ら
すようになった。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを
試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。
もともと信心深い人だったが、ますます信仰にのめりこんでいった。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵に没頭するようになった。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。
私の家に来てからは、すべてを観念したかのように、静かに、おとなしくなった。
デイサービスなど、一度とて、それを拒否したことはない。
センター(特別養護老人ホーム)へ入居するときも、すなおに入居した。

母だけの例で、すべての老人もそうであると考えるのは、もちろん正しくない。
しかしほかの老人たちの話を聞いても、それほど、ちがっていない。
つまりキューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、そのまま、これから先の私たち自身の老後
の姿と考えてよい。

(第1期) 否認……老人であることを否定する。「私は、まだ若い」と主張する。
(第2期) 怒り……老人扱いする周囲に怒りを覚える。「老人を大切にしない」と怒る。
(第3期) 取り引き……若い人に妥協したり、媚びを売ったりする。
(第4期) 抑うつ……身体的な症状が顕著になってくると、うつ状態になる。
(第5期) 受容……老人であることを受け入れ、死に対する心の準備を始める。

この段階論で、自己分析を試みると、私は、現在(第1期)〜(第2期)ということになる。
しかしこれも心の持ち方で、かなり変化する。
というのも、「老人というのは、自ら老人になるのではなく、周囲の人たちによって、老人につく
られていくから」である。
定年という制度も、そのひとつ。

同じ満60歳といっても、健康状態は、みなちがう。
肉体年齢や精神年齢にしても、そうだ。
そういう人たちを、ひとまとめにして、「定年」と決めるほうが、おかしい。
まちがっている。

55歳でヨボヨボの人もいれば、70歳でテニスのコーチをしている人もいる。
私も「あなたも定年の年齢になりましたね」と言われることくらい、不愉快なことはなかった。
定年であるかどうか、もっと言えば、老人であるかどうかは、自分で決めること。
しかし世間全体が、大きな(波)の中で動いている。
私ひとりが、それに抵抗しても、その力は、弱い。
私もいつしか、……と書きたいが、実際には、このところ逆のパワーが強くなってきた。
「生きて、生きて、生き抜いてやる」というパワーが、大きく作用するようになった。
と、同時に、「私は老人である」という考えが、どんどんと薄れていった。

コツがある。

(1) 過去を振り返らない。
(2) 未来だけを見ていく。
(3) 他人に遠慮しない。

あえて(第1期)の否認や、(第2期)の怒りを、経験する必要はない。
身体的な不調がないわけではないが、それについては、運動で克服する。
これは私の経験だが、加齢とともに、運動量をふやすことは、とても重要なことである。
歳をとったから、運動量を減らすなどいうことをすれば、かえって老化を早めてしまう。

また「健康」といっても、3つある。

肉体の健康、精神の健康、それに脳みその健康である。

肉体の健康は、運動で。
精神の健康は、人と接することで。とくに子どもたちと接するのがよい。
また脳みその健康は、脳みそを刺激することで、それぞれ維持する。
具体的には、私夫婦は、つぎのように目標をかかげている。

(1) 1日、2単位の運動をする。
(2) 月に2回は、日帰りの旅行をする。
(3) 週に1度は、劇場で映画を見る。

「人(子ども)と接する」ことについては、私の仕事を利用させてもらっている。
最近は、ワイフも、いっしょに仕事をすることも多くなった。
さらに私のばあい、月に4〜5回の講演活動をしているが、これはたいへん脳みその刺激によ
い。
会場で1〜2時間、大声でしゃべりつづけるだけでも、ボケ防止になるのでは(?)。

要するに、何もあわてて老人になることはない。
年齢という(数字)に影響を受ける必要もない。
またそんなものを気にしてはいけない。
「私は私」。
キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、あくまでも一般論。
何も、それに従う必要はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi Hamamatsu 林浩司 林 浩司 教育評論家 キューブラー ロス 死の受容
段階論 死の受忍 死の受容 死を受け入れる 老後段階論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに

 つまり、今、私はそのキューブラー・ロスの段階論の過程の中にいる。
どの段階かということは言いにくい。
ばくぜんとしている。
あえて言うなら、(第1期)〜(第3期)を経て、(第4期)にさしかかっている
ということか。

 で、最後に一言。

 また私はこうして否定的なことばかり書いてきたが、実際には、闘志が消えた
わけではない。
「70歳まで現役」を心に決めた。
またそのために、「今」どうあるべきかを、考えている。

 健康、精神、そして経済。
この3つの柱をどう組み立てていくか。
それぞれが大きな課題だが、私には選択の余地はない。
闘うしかない。
闘って、闘い抜くしかない。
そのあとのことは、私にもわからない。
あるいはその過程で、何があるか、私にもわからない。
「老後を生きる」というのは、私にとっては、そういうことになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 老後論 老後を生きる 老後の生き方)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●保護と依存(基本的依存関係)

+++++++++++++++++++++

「基本的信頼関係」という言葉がある。
これに対して、「基本的不信関係」という
言葉がある。
「基底不安」という言葉もある。
しかし「基本的依存関係」という言葉はない。
この言葉は、私が考えた。

+++++++++++++++++++++

●基本的依存関係

 一度、両者の間で、(保護)(依存)の関係ができると、それを是正する
のは、容易なことではない。
そのままの状態で、一生つづくことも、珍しくない。
保護する側は、常に保護する。
依存する側は、常に依存する。
母子の間では、とくにそうである。
それが基本となって、あらゆる人間関係に影響する。
だから「基本的依存関係」。

 そこで父親の役目。
父親は、母子の間に割って入り、保護と依存の関係を是正する。
イギリスでは、『子どもを産んで育てるのは母親の役目だが、狩の仕方を
教えるのは、父親の役目』と教える。
子どもを自立させ、たくましくするのは、父親の役目というわけである。

●母親の問題

 が、依存性の強い子どこというのは、いる。
その年齢にふさわしい核(コア)形成が遅れ、何かにつけ依存的で、
たくましさがない。
柔和で穏やか。
やさしくて、ひ弱。

 そういう子どもを見て、母親は、「どうすれば・・・?」と言う。
しかしそれは子どもの問題というよりは、家庭の問題。
家庭の問題と言うよりは、育児姿勢の問題。
なかんずく母親の問題。

 依存性の強い子どもは、たいてい依存性の強い母親のもとで育っている。
母親自身が自立できていない。
このため子どもの依存性に気づかない。
気づかないまま、子どもを、甘い環境で包んでしまう。
自分が甘いことにすら、気づかない。
その結果として、子どもは、依存性の強い子どもになる。

 してもらうのが、当然、と。

●D君のケース

 印象に残っている子どもに、D君(年長児)という子どもがいた。
そのD君、自分からは、何もしようとしない。
「鉛筆を出してね」と声をかけても、母親のほうを、じっと見ているだけ。
「プリントをしまって、帰るしたくをしようね」と声をかけても、
ただボーッと立っているだけ。

 で、そういうときは、その子どもが行動に移るまで、待つ。
根気よく待つ。
何度も同じことを繰り返して言う。
が、D君はそのうち、メソメソと泣き出してしまった。
たぶん家では、そうすれば、みなが飛んできて、D君のめんどうをみるの
だろう。
が、私は無視した。
が、これが参観していた母親を怒らせた。
突然、こう言って叫んだ。

「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。

●保護と依存

 子どもの世界だけではない。
おとなの世界でも、一度、(保護)と(依存)の関係ができると、それが
ひとつの人間関係として、固定化してしまう。
してもらうほうは、常にしてもらうことを、当然と考える。
してやるほうは、常にしてやることを、当然と考える。
が、それだけではない。

 依存性が強くなると、依存していることすら、忘れてしまう。
忘れた上で、今度は、それを請求してくるようになる。
「どうして助けてくれないのか?」と。

●意識の問題

 私も息子たちの関係において、それを経験している。
たとえば息子たちにかぎらず、今の若い人たちに、戦後の苦労話を
しても、意味はない。
たとえば私は、子どものころ、「貧乏」がこわかった。
貧乏の恐ろしさを、身をもって体験している。
近所でも、夜逃げした人は多い。
だから私は、社会へ出ると、懸命に働いた。
息子たちにだけは、貧乏を経験させたくなかった。
が、それについて、息子たちはこう言う。
「パパは、仕事ばかりしていて、ぼくたちのことを構ってくれなかった」と。

●自業自得?

 それだけではない。
20代、30代のころ、私には休日がなかった。
月に1日だけという月が、ずっとつづいた。
私は私なりに、がんばった。
しかしその(がんばった)という部分が、今の若い人たちには、理解できない。
・・・理解してもらえない。

 いつだったか、私が戦後の日本はそうだったと話したことがある。
それについて、息子の1人は、こう反論した。

「そんなのは、戦争を起こしたパパたちの責任だろ。自業自得」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。

さらに言えば、今に見る飽食の時代にしても、日本は明治の昔から
そうだったと思い込んでいる。
で、息子たちに、「ぼくたちは、食べていくだけで精一杯だった」
と言っても、息子たちには、それが理解できない。

 保護と依存の問題は、意識の問題。
その意識そのものがズレると、こういう現象が起きる。

●裏目

 今、私たちがしてきた子育てが、裏目、裏目に出始めている。
たとえば私たちは、いつも腹をすかせていた。
よく覚えているのは、学校の給食が、ごちそうだったこと。
毎日、家では見たことがないような料理が並んだ。
クリームシチューにしても、スパゲッティにしても、さらにはハンバーグにしても、
珍しかった。
(牛肉のステーキなどというものは、めったに食べられなかったぞ!)

 だから息子たちとレストランへ入り、みなでステーキを食べるたびに、
こう思った。
「よかった」と。
が、そんな思いは、子どもたちには通じない。
通じないばかりか、それを口にしたとたん、「パパは昔の話ばかりする」と、
はねのけられてしまう。
私がどんな言い方をしても、息子たちには、グチに聞こえるらしい。
あるいは「恩着せ?」。

●がむしゃらに生きてきた
 
 しかしその一方で、バカらしさを覚えるのも、これまた如何(いかん)とも
しがたい。
「私たちは、何を求めて、何のためにがんばってきたのか」と。
知人の中には、会社人間として、会社のために家族を犠牲にした人も多い。
かつてそれを知ったオーストラリアの友人は、こう言った。
「家族をバラバラにされて、何が仕事か?」と。
彼は、単身赴任を批判して、そう言った。
私がオーストラリアへ渡った、40年前のことである。

 もっともその結果として、今の日本がある。
一時は、世界第二の経済大国として、世界に君臨した。
が、基本的依存関係というのは、恐ろしい。
依存する側は、それを「当たり前」という前提で、考える。
失うことの恐ろしさを知らない。
失ったあとの、貧しい世界を知らない。
そればかりか、今度は反対に、老人たちを、じゃま扱いするように
なってきている。
 
 私たちは、今のような日本をつくるためにがんばってきたのか?
・・・というのは、言いすぎ。
本当のところ、私たちは、ただひたすら、がむしゃらに生きてきただけ。
今の中国や韓国の人たちのように、がむしゃらに生きてきただけ。
今の日本は、あくまでもその結果でしかない。

●頭をさげさせる

 総じて言えば、日本人は、保護と依存の関係に、甘い。
親をさして、「保護者」と呼ぶところにも、それが表れている。
が、それを是正する時期は、近い。

 たまたまおとといも、ある幼稚園で講演をさせてもらった。
その席でも、私はこう言った。

「子どもに、勉強しろと言ってはいけませんよ。
言えば、その責任を取らされますよ」と。

 今、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、皆無。
大学生でも、いない。
「行くのが当然」「親が学費を出すのは当然」と考えている。
「責任を取らされる」というのは、そういうことを言う。
だから講演では、つづけてこう言った。

 「1度は、子どもに頭をさげさせること。
2度でも、3度でもいい。
『お父さん、お母さん、勉強したいから、大学へ行かせてください』と」と。
それがなかったら、学費は、自分自身の老後のために蓄えておいたほうがよい。

●ありがた迷惑

 こうした基本的依存関係は、代々、親から子へと伝えられる。
そして親は、子どもが生まれたときから、基本的依存関係を作ってしまう。
子どもが望みもしないうちから、「そら、ピアノ教室」「そら、水泳教室」と。
親によっては、子どもに楽をさせること。
楽しい思いをさせること。
それを親の務めと考えている。

 そうそうこんな会話を、数日前、電車の中で聞いた。
ある若い母親が、別の若い母親にこう言っていった。

「あのね、うちの親ったらね、毎週のように、いろいろなものを
送ってくれるのよ。
実家が寿司屋でしょ。
だから高級魚ばかり。
そのせいで、うちの子ったら、安い魚は食べないのよ」と。

 どこか、ありがた迷惑といった感じだった。
私はそれを横で聞きながら、自分の心を支えていたつっかい棒が、
ガクリとはずれるのを感じた。
実は私も、孫たちに対して、同じことをしている。

●では、どうするか?

 私たちは私たちで、生きる。
甘い幻想や期待は、もたない。
若い世代が、「自業自得」という言葉を使うなら、この先、日本が衰退
しても、それもまた自業自得。
今の日本は、私たちの世代が作った。
同じようにこれからの未来は、今の若い世代が作っていく。

 ・・・と考えるのは、あまりにもさみしい。
そこで私は、私たちの世代に向かって、こう提言したい。

もっと若い人たちの世界に、切り込んでいこうではないか、と。
もっと存在感をアピールしていこうではないか、と。
体力や気力を使う分野では勝ち目はない。
しかしそれ以外の分野なら、まだまだ負けない。
つまりは自立した老人として、若い人たちに向かって、果敢なく
挑戦していく。

 そう、今こそ、私たちは、保護・依存の関係をぶち壊し、自立した
老人として、前に向かって進む。
堂々と、独居老人になってやろうではないか。
堂々と、孤独死を、なしとげてやろうではないか。
つまりそういう形で、私たちの生き様を、若い人たちに見せつけて
やろうではないか。

●基本的依存関係

 「基本的依存関係」という言葉を先に考えた。
が、書いているうちに、老人論になってしまった。
読んでくれた人には、申し訳ない。
つまりは、土居健郎の「甘えの構造」の焼き直し版というところか。

 つまり私が書きたいのは、日本人というのは、総じてみれば、「依存型民族」である
ということ。
そしてその原因は、親から子へと代々とつながる、育児観にあるということ。
子どもを依存型に育てながら、依存型に育てているという意識そのものが薄い。
ここでいう「基本的依存関係」というのは、そういう言葉として、理解してもらえば、
うれしい。

 それについて書いた原稿をさがしてみる。

+++++++++++++++++

今から7年近くも前に書いた原稿である。

+++++++++++++++++

【日本人の依存性】

●孫から学んだこと(What I learnt from my Gーson)

孫の誠司と接して、学んだことは多い。
たとえば、誠司は、こう言う。

(のどが渇いたとき)……「何か、飲み物をもっているか?」
(風呂に入るとき)……「足がやけどする」
(おなかがすいたとき)……「グレープフルーツを食べたい」と。

同じような場面のとき、日本の子どもなら、(だから、何とかしてくれ言葉)を使う。

たとえば、

(のどが渇いたとき)……「のどがかわいたア! (だから何とかしてくれ)」
(風呂に入るとき)……「熱い! (だから何とかしてくれ)」
(おなかがすいたとき)……「腹、減ったア! (だから何とかしてくれ)」と。

こうした日本人独特の依存性は、おとなになってからも、消えない。

私の叔母のひとりは、50代のころから、いつもこう言っていた。
電話で、話を始めるたびに、
「おばちゃん(=叔母自身)も、歳を取ったからねエ〜。(だから、何とかしてくれ)」と。

何も叔母を責めているのではない。
その地方では、そういう言い方が、ごくふつうの言い方となっている。
が、ときとして、イヤミに聞こえることもある。

たとえばしばらく実家に帰っていないでいたりすると、
「浩司君の家の横に、ゴミがたまっていたぞ。(だから何とかせよ)」、
「J君(=私の実兄)が、猛スピードで、坂を、自転車で走っていたぞ。(だから何とかせ
よ)」と。

「浩司君の夢を見たから」とか何とか、おかしな理由をつけて、電話をかけてくる。

一方、私が住んでいるこの浜松では、そうした言い方は、あまりしない。
とくにワイフの家族は、しない。
みな、独立心が旺盛で、それぞれが高次元な立場で、尊敬しあっている。

そんな私でも、誠司の言葉には、そのつど、驚く。
誠司は、日本語をほとんど話せない。
日本人というよりは、アメリカ人である。

いつもYES・NOをはっきりと言う。
会話は、そこから始まる。
だから何かほしいものがあったりすると、直接、「〜〜がほしい」などと言う。
わずか10日間ほどのつきあいだったが、そのつど、私は、こう思った。

「こんな5歳の子どもでも、日本人とは、ちがうなア〜」と。

その日本人の依存性については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、5年前(03年)に書いた原稿である。

++++++++++++++

●拉致(らち)問題

 昨日の記者会見で、官房長官のF氏は、さかんにこう言っていた。「日本の立場は、アメ
リカも韓国も、よくわかっていてくれるはずです」「日本の立場は、じゅうぶん説明してあ
るので、わかってくれているはずです」と。

 まさに日本という国家そのものが、依存国家とみてよい。こういう会話は、依存性の強
い人ほど、好む。

 少し前だが、こんな子ども(小五女児)がいた。「明日の遠足を休む」と言うので、「担
任の先生に連絡したのか?」と聞くと、「先生は、わかっていてくれるはず」と。

 「どうして?」と私。
 「だって、今日、おなかが痛いと、言ったから」と、子ども。
 「しかし休むなら休むで、しっかりと先生に言ったほうがいいのでは?」
 「いいの。先生は、わかっていてくれるはずだから」と。

 日本語には、「だから、何とかしてくれ言葉」というのがある。たとえばのどがかわいて
も、「水がほしい」とは言わない。「のどがかわいたア〜」と言う。子どもだけではない。
ある女性(五〇歳)は、子どもや親類に電話をかけるたびに、「私も年をとったからネー」
を口ぐせにしていた。つまり、「だから、何とか、せよ」と。

 しかし国の「長」ともあろうF氏まで、そういう言い方をするとは! 「ハズ論」で動
かないのが、国際社会。少なくともアメリカ人には、通用しない。そう言えば、五、六年
前、ときの外務大臣のK氏が、あの北朝鮮に、百数十万トンもの米を援助したことがある。
そのときも、K氏は、そう言っていた。「日本も、これだけのことをしてあげたのだから、
北朝鮮も、何か答えてくれるはず」と。

 が、結果は、ゼロ。K氏は、「これで北朝鮮が何もしてくれないなら、私は責任をとる」
とまで言い切ったが、その責任をとった形跡は、どこにもない。

 こうした依存性は、親子の間にもある。

 「これだけのことをしてあげたのだから、うちの子どもは、私に感謝しているはず」「親
子の絆(パイプ)は、太くなったはず」と。つまり日本の親たちは、まず子どもに、いい
思いをさせる。ついで親としての優越性を、子どもに見せつける。「私に従えば、いいこと
がある」「私には、これだけの力がある」と。

 つまり外堀を埋めるような形で、子どもの周辺を、少しずつ、しばりあげていく。そし
て結果として、子どもに依存心をもたせ、ついで、自分も、子どもに依存していく。

 ついでに拉致問題について。

 本来なら、日本の軍隊が突入し、被害者を救出しても、おかしくない事件である。しか
しこの日本には、おかしな平和主義がはびこっている。「ことなかれ主義」を、平和主義と
誤解している人もいる。平和主義もよいが、相手が、日本を攻めてきたときには、どうす
るのか? あるいはそんなときでも、日本は、「アメリカが何とかしてくれるはず」「世界
が黙っていないはず」とでも、主張するつもりなのだろうか。

 日本政府の考え方は、甘い。本当に、甘い。「大国」としての誇りも、自覚もない。現に
今、北朝鮮のあの金XXは、核兵器の開発をしている。もちろんターゲットは、日本。韓
国やアメリカではない。この日本。本来なら、アメリカや韓国の先に立って、この問題を
解決しなければならない。しかし「ハズ論」だけで、みなのうしろをついていく?

 しかしそれにしても、北朝鮮の小さいこと、小さいこと。小細工ばかりしている。先週
も、拉致被害者の子どもたちに、手紙まで書かせている。そんな些細なことにまで、気を
配っている。あきれるより先に、ゾッとする。

私が金XXなら、拉致被害者の子どもたちを、すぐ日本へ返す。恥ずかしいか、恥ずか
しくないかということになれば、つぎからつぎへと脱北者が出ることのほうが、よほど、
恥ずかしい。金XXよ、恥を知れ!

 で、近く、六か国協議が始まる。しかしそれを望むわけではないが、この協議は、失敗
する。理由は簡単。北朝鮮は、核査察など、絶対にさせない。そんなことをすれば、金X
Xの悪行の数々が、白日のもとにさらされてしまう。一説によると、あの金XXは、すで
に数十万人以上の人を、殺害しているという。

 つぎにアメリカにしても、(安保理決議)→(経済制裁)→(金XX体制の崩壊)という
図式を、すでに描いている。中国やロシアを参加させるのは、「やれるだけのことはやって
みなさい。どうせダメだから」ということを、証明するためのものでしかない。

 日本にしても、あの金XX体制を経済援助するということは、隣の暴力団に、資金を手
渡すようなもの。そう簡単には、できない。してはならない。

 問題は中国とロシアだが、彼らにしても、日本のマネーがほしいだけ。日本に金を出さ
せ、その金で、中国やロシアのものを買わせる。あるいは今までの借金を、返済させる。
ただこの力が強ければ、皮肉なことに、六か国協議は、成功する可能性はある。しかしそ
のときは、日本は、屋台骨を数本、抜くぐらいの覚悟はしなければならない。「東京で、核
兵器が爆発するよりは、いいだろう」と。

 さらに中国人や韓国人の、反日感情には、ものすごいものがある。仲よくなりかけると、
アホな政治家が、S国神社を参拝したり、「南京虐殺はウソ」などと言っては、相手を怒ら
せている。S国神社を参拝するのに反対しているのではない。「何も、こういう時期に、あ
えてしなくてもいい」ということだ。

 どちらにせよ、今度の六か国協議は、日本にとっては、戦後、最大の山場になる。決裂
すれば、この秋には、米朝戦争が始まるかもしれない。もしそうなれば、日本も未曾有の
大惨事に巻き込まれる。日本だけが無事ということは、絶対にありえない。

 六か国協議で日本がどのような主張をするか。また世界は、どのような反応を示すか。
拉致問題もあって、目が離せない。
(030805)

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もう1作、同じような内容の原稿です。
これは4年前(04年)に書いたものです。

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●「年だから……」という言い方

7月のはじめ、豪雨が、新潟県から福井県を襲った。

今は、その雨もやっと一息つき、各地で復旧作業が始まった。連日、その模様を、テレ
ビが、ニュースとして伝えている。

 その模様を見ていたときのこと。一つ、気になったことがあった。

 何人かの老人が出てきたが、たまたまどの老人も、こう言った。

 「私ら、年ですから……」
 「年ですからね……」
 「私も、この年ですから……」と。

 つまり老齢だから、こうした復旧作業は、きびしい、と。

 実は、無意識だったが、私も、ときどき、同じ言葉を使うようになってしまった。ワイ
フに向って、「オレも、年だからなあ」とか、息子たちに向って、「パパも、年だからな」
とか。

 つまりは、私はそう言いながら、ワイフや息子たちに、依存しようとしている。甘えよ
うとしている。自分でそう言いながら、ハッと我にかえって、「いやな言い方だ」と思って
しまう。

 もちろん復旧作業にあたっている老人たちには、きびしい作業だろう。やりなれた仕事
ならまだしも、こうした仕事は、使う筋肉もちがう。何よりもたいへんなのは、「ゴロリと
横になって、体を休める場所がない」(ある老人の言葉)ということだそうだ。

 だからそういう老人たちが、つい、「年だから……」と言いたくなる気持は、よく理解で
きる。しかし……。

 この言葉は、どこか(だから何とかしてくれ言葉)に似ている?

 よく依存性の強い子どもは、「のどがかわいたア!」「おなかがすいたア!」「退屈ウ!」
と言う。その子どもは、そう言いながら、親に向って、「だから何とかしてほしい」と言っ
ている。

 同じように、「年だから……」という言葉の裏で、こうした老人たちは、「だから、何と
かしてほしい」と言っている? 私にはそう聞こえる。

 昔、私の伯母にも、そういう人がいた。電話をかけてくるたびに、「オバチャンも、年だ
からねエ……」と。

 今から逆算してみると、そのときその伯母は、まだ、50歳になったばかり。今の私の
年齢より、若い。

 そこで私は、気がついた。人はともかくも、私は、死ぬまで、その言葉を使わないぞ、
と。自信はないが、そう心に決めた。

 このマガジンを書くときも、ときどき、似たような弱音を吐くことがある。しかし弱音
は、弱音。「もう、使わないぞ」と。

 年なんか、関係ない。体が弱くなり、頭の活動はにぶるかもしれない。しかしそれは当
然のことではないか。年のせいにしてはいけない。人間には、年はない。そんな数字にふ
りまわされて、自分をごまかしては、いけない。他人をあざむいては、いけない。

 なまけた心、たるんだ体……、それは年のせいではない。

 ……ということで、今日の教訓。私の辞書から、「年だから……」という、あのどこかず
るい、どこか甘えた言い方を、消す。

 そう言えば、私のワイフなどは、そういう言葉を使ったことがない。どうしてだろう。
あとで、その理由を聞いてみよう。

【ワイフの言葉】

 「私やね、年だなんて、思っていない」と、一言。ワイフの言うことは、いつも、単純、
明快。

 今でも、20歳の娘のようなつもりでいる。……らしい。おもしろい心理だと思う。

 「それにもう一つは、だれかに何かしてほしいとか、してもらいたいとか、そういう気
持ちにはならない。自分のことは自分で何とかしようと、いつも、それしか考えていない
から」と。

 ナルホド!

 「お前はいいダンナをもったな」と私が言うと、ワイフはヘラヘラと笑った。

 「そうじゃないか。オレが、苦労を全部、引き受けているからな」と私。

 ああ、これも依存性の変形か? ともかくも、私は、「年だから……」という言葉を使わ
ないことを、心に決めた。自信はないが……。

【追記】

 山荘の近くに、Kさんという男性がいる。いわゆる老人である。老人と書くのは、失礼
な言い方だが、年齢からすれば、老人ということになる。そのKさん。今年は、78歳に
なるが、今でも、現役で、山の中で仕事をしている。

 畑もあちこちにもっている。会うたびに、ヒョイヒョイと、体を動かして、農作業をし
ている。

 一方、50歳になったばかりというのに、太った体をもてあまし、ハーハーと、息も苦
しそうに歩いている人もいる。Sさんという男性である。聞くと、毎日、1、2本のビー
ルを飲み、ヒマさえあれば、ソファの上で、ゴロ寝をしているという。

 趣味は、テレビでプロ野球をみることだそうだ。

 この二人を頭の中で、単純に比較しても、やはり人間には、年はないということ。たし
かにKさんは、この10年の間に、かなりの畑を減らした。ミカン栽培もやめた。しかし
いつも、できる範囲で、仕事をしているといった感じ。決して、「年だから……」という弱
音を吐かない。

 一方、Sさんは、いつも、「年には勝てないよ」とか、「オレも、年をとってしまったよ」
と言っている。どこか生きザマが、うしろ向き。しかしそういうSさんにしたのは、Sさ
ん自身ではないのか……と、考えて、この話はここまで。

 しばらくこのテーマについて、考えてみたい。
(040723)

+++++++++++++++++++++

こうした日本人の依存性を鋭く追及したのが、
土居健郎「甘えの構造」である。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++

●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」と
は言わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に
要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話
をするたびに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外
に、(だから何とかしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。
そういう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つ
い先日も、ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言っ
た。「そのときになったら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間ど
うしが、助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっ
ているだけ。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、そ
の依存性が結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわく
ない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」な
ど。こうした世界では、好んで使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。
あるいは相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あ
るいは同情を買ったりする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあ
げたから、感謝しているハズ」と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何か
をしてくれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。
それ以外の世界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。
ものごとを、ナーナーですまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、
どうしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい
子イコール、できのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠
牲的であればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそ
れに気づくことは、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反
発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しか
し今、日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人とし
て確立していない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の
全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界
からみて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたって
も、日本人が国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03ー1ー2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラル
である日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」
の一節)

+++++著作権BYはやし浩司++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++ 
  
●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人が
それに気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・
リーブズが主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら
気づかない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おな
かがすいたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、
もう50歳代のときから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とか
してくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会
も国民も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海
外へ移住した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで
生まれた子ども(二世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼ん
でいる。依存性が強い分だけ、新しい社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわ
いい子とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って
嫌う。そしてそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててや
った」と依存し、子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のと
ころで話すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日
本人は、大きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。
年配の人が多い。もう一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者
が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期に
あるとみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさ
わしいほどの転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎ
にやってくるのかは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時
代であることも事実のようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。

(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかして
くれ言葉 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存性 日本人
の依存性 土居 甘えの構造 だから何とかしてくれ言葉 何とかしてくれ言葉 なんと
かしてくれ言葉 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

【不安について】(What is the Anxiety?)

●不安の構造

+++++++++++++++++++++++++

(こうしたい)(こうでありたい)という欲望や欲求。
その欲望や欲求に対して、障壁(障害)が現われたとき、
欲望や欲求は、不安へと変異する。
つまり障壁(障害)の一方にあるのが、欲望や欲求。
もう一方にあるのが、不安ということになる。
私たちは、日常的に、この不安にさらされている。
欲望や欲求が強ければ強いほど、不安は増大する。
そこで問題は、こうした不安を克服する方法は
あるかということ。
私のばあいを中心に、この問題について考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++

●不安の分析

 大村政男氏は、不安の(因子)を、つぎの24項目に分けている(心理学、ナツメ社)。
この表は、そのまま、自己診断のひとつの方法として、応用できる(P157)。

〔身体的症候群〕
(  )皮膚にできものができることが多い。
(  )しばしば尿意をもよおす。
(  )食欲不振なことが多い。
(  )緊張すると汗が出がちである。

〔集中力欠乏〕
(  )興味があれこれと変わりやすい。
(  )じっとしておられないほど、落ちつきを失うことがしばしばある。
(  )1つのことに気持ちを集中できないほうである。
(  )待たされるといらいらしてしまう。

〔自信欠乏〕
(  )一度決めたことでも、他人の意見ですぐ変わってしまう。
(  )人生にいつも重荷を感じている。
(  )自信がないために、ものをあきらめてしまうことがよくある。
(  )自分はまったく役に立たない人間と思うことが多い。

〔赤面恐怖〕
(  )なにかあると、顔がほてってくる。
(  )人に会うのがおっくうなほうである。
(  )大勢の人の前に立つと、赤面しがちである。
(  )恥ずかしがり屋である。

〔睡眠障害〕
(  )睡眠薬をのまないと、眠れないこともある。
(  )うなされて目を覚ますことが、ときどきある。
(  )よく寝言を言うと、言われる。
(  )眠りがいつも浅いうような感じがする。

〔取り越し苦労〕
(  )いつも緊張して生活している。
(  )なにかにつけて心配しがちである。
(  )他の人よりも神経過敏である。
(  )不幸なことが起こりはしないかとしばしば心配する。
(以上、大村政男氏による、診断項目。)

●自己診断 

 大村政男氏の因子論(前述)を使って、自己診断をしてみる。
で、これは私のばあいだが、自分では基底不安型の人間と思っていたが、意外と該当項目が少
ないのに、驚いた。

〔身体的症候群〕〔集中力欠乏〕〔自信欠乏〕〔赤面恐怖〕の4項目まで、該当なし。
〔睡眠障害〕については、慢性化しているというか、昼寝が習慣化しているため、さほど気になら
ない。

が、最後の〔取り越し苦労〕については、4項目中、ほぼ4項目とも、私に当てはまる。

 私は日常的に緊張している(?)。
それに心配性(しょう)。
神経過敏なところもあるし、将来についてよく心配する。
大村政男氏の診断方法によれば、典型的な〔取り越し苦労〕型タイプの人間ということになる。
実際、よく取り越し苦労をする。
ひとつのことを心配し始めると、それが勝手にどんどんとふくらんでいってしまう。
が、あとになって、それが取り越し苦労だったことを知る。
そういうことは、よくある。

●では、どうすればよいのか

 これは私のばあいだが、私はそういう弱点を、自分でもよく知っている。
そのためそういう状態になり始めたら、つぎのことに心がけるようにしている。
(1)重大な判断はくださない。
(2)ワイフに、自分の状態を聞く。
(3)ものを書いて、不安の中身を文章にして、たたき出す。
 もちろん気分転換も重要。

趣味に没頭する。
現在は、畑づくりと、ミニ・ヘリコプター、それに映画。
週に1度は、近くの温泉旅館で、温泉につかるようにしている。
しかし何よりも重要なことをは、「今の私は正常ではない」と、自分に言って聞かせること。
不安が勝手にふくらみ始めたら、「正常ではない」と、何度も心の中で繰り返す。
その場を静かにやり過ごす。

 というのも、脳のCPU(中央演算装置)がおかしくなってくるから、正常でないことに気づくのは、
たいへんむずかしい。
おかしくなりながら、「これが本当の私」と思ったり、「他人が不安でないほうがおかしい」と思った
りする。

 ただ誤解しないでほしいことが、ひとつある。
私はいつもこうしてものを考え、パソコンを相手に文章を書いている。
それについて、「不安だから書いているのでは」と思う人がいるかもしれない。
が、これは楽しいから、そうしている。
不安だからしているのではない。
心の緊張感があるから、しているのでもない。
楽しい。
見知らぬ原野を散歩しているような楽しさである。

 そう言えば、ワイフもときどき、こう言う。
「よくもまあ、毎日ものを書いていて、タネ切れにならないわね」とか、「毎日考えてばかりいて、頭
がおかしくならない?」とか。

 タネ切れになることはない。
今でもそうだが、ひとつのことを書いていると、別のところからつぎつぎと、書きたいことがわいて
くる。
それに「頭がおかしくならない?」については、たぶん、そうはならないと思う。
むしろ逆で、頭の中をモヤモヤした状態のままにしておくと、かえってイライラしてくる。
「便秘のときの腹のよう」と、私はワイフによく言うが、それに似たような状態になる。

 が、だからといって、私は不安に強いわけではない。
弱い。
だから若いころから、先手主義。
後手に回ったとたん、調子がおかしくなる。
その分だけ、よけいに不安になる。
つまり自分を、不安になるような状況に追い込まないようにしている。

 ……ということで、みなさんの参考になるかどうかはわからないが、私のことについて書いてみ
た。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 不安の構造 不安の診断 不安神経症 強迫観念 不安とは)

++++++++++++++++

不安を考えるとき、同時に思いつくのが、
強迫神経症と不安神経症。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++

●強迫性障害

 一つのことに執着すると、そのことばかりが気になって、悶々と悩む。悩むだけならまだしも、そ
れが原因となって、日常生活に支障が出るようになることがある。これを「強迫性障害」という。

 ある女性(36歳)は、マンションの上の階の足音が気になってしかたなかった。夫は、「聞こえない」
「たいしたこない」と言ったが、その女性には、聞こえた(?)。たまたま上の階の部屋と自分の部
屋の間取りが同じということもあった。その女性には、音だけではなく、上の階の住人の生活ぶ
りまでが、すべて手に取るようにわかった。

 が、そのうち、その女性は、「(上の階の人が使う)掃除機の出す音がうるさい」と言いだすよう
になった。「掃除といっても、1日、1回程度なら、がまんできる。しかし1日、5回は多すぎる、と。

 その女性は、毎日、上の階の人がどのような騒音(?)を出すか、その内容と回数をノートに記
入するようになった。が、それだけではない。自分が買い物などで、家をあけるときには、小学2年
生になった息子に、その回数を数えさせた。

 息子は、その女性(母親)が帰ってくると、「今夜は、掃除機が1回で、洗濯機が1回……」という
ように、報告していたという。
 そしてある日、その女性はそれらの記録をもって、上の階の住人のところへ怒鳴りこんでいっ
た……。

 そのあとどうなったかは、容易に想像がつくことと思う。

●ある学校で

 実は、こうした強迫性障害は、教育の世界でも、よく経験する。数年前のことだが、ある小学校
へ講演に行ったら、その学校の教師が、こんな話をしてくれた。

 その学級で、「よい子は、みんな、仲よし。友だちも、多い」というような内容の、学級通信を出し
た。

 が、1人の母親が、これに猛反発した。たまたまその母親の子ども(小2女児)が、学校でいじめ
にあい、仲間はずれにされていた。そのことを、その母親は、悩んでいた。

 その母親は、校長に、「うちの子は、よい子ではないのか!」と。「よい子とは何だ!」「仲よしっ
て何だ!」「どうしてそれが学級の方針なのか!」と、くいさがった。

 拡大解釈と被害妄想。一言で言えば、そういうことになるが、その母親の怒りは、それで収まら
なかった。「子どもの人権問題だ」「名誉毀損だ」と。さらには「校長不適格」などとも言い出したと
いう。つまりその母親は、その問題に固執するあまり、自分の姿を見失ってしまった。

 こうした強迫性障害の延長に、買い物依存症(女性に多い)や、パチンコ依存症、賭博(とばく)依
存症(男性に多い)がある。これらの依存症の人も、一つのことにこだわり始めると、それが頭か
ら離れなくなる。

●満足感を満たすため

 たとえば買い物依存症の女性にしても、「それがほしい」と一度思いこむと、あとは、明けても暮
れても、考えることは、そのことばかりという状態になる。そして一度、それを買うと、その満足感と
同時に、解放感を味わう。あとは、この繰りかえし。

 が、こうした強迫性障害の人に、悩みや苦しみがないかといえば、そうではない。

 悶々と、そのことに執着している間は、ふつうの人以上に、悩んだり苦しんだりする。「気になっ
てしかたない」というのは、苦しみである。

 またその問題が解決したからといって、実は、その苦しみから解放されるというわけではない。
たとえば買い物依存症の女性にしても、そのあと、今度は、強い自責の念にかられる。「どうして
買ってしまったんだろう」と。

 さらに病的になると、借金をしてまで、自分のほしいものを手に入れるようになる。こうなると、あ
とは、奈落の底! こうして破産していく人は、少なくない。

 先の「掃除機の音がうるさい」と怒鳴りこんでいった女性のケースでは、当然のことながら、その
あと、上の階の住人とは、険悪な関係になってしまった。当然である。が、運の悪いことに、上の階
の住人は、そのマンションの中でも、指導的な立場にあった。以後、その女性が、マンションの住民たち
の間で、どのような扱いを受けたかについても、容易に想像がつくことと思う。

 で、そのあとのことだが、その女性と夫は、何度も、上の階の住人に謝罪に行ったが、受けつけ
てもらえなかったという。

 ただ一度、こうした強迫性障害になった人は、そのつど、テーマを変えて、同じ障害になりやすい
と言われている。

 そのときは、上の階の住人の出す騒音であっても、それが解決すると、今度は、外を走る車の
騒音になったり、ここにあげた、学校通信の文面になったりする。さらにそれが子どもの教育に
およぶようになると、ことは、深刻になる。

 明けても暮れても、考えることは、子どもの成績ばかり……というようであれば、あなたも、その
強迫性障害を疑ってみたらよい。

(はやし浩司 強迫性障害 買い物依存症 依存症 育児ノイローゼ 強迫神経症 強迫観念 
強迫症)


【あなたの心診断ー女性用】

 つぎの項目のうち、いくつか当てはまるようなら、強迫性障害を疑い、子育ての場で、子どもの
心に影響を与えないように、注意する。
(  )かつて、買い物依存症など、何かの依存症になったことがある。
(  )ひとつのことが気になると、そのことばかり考えることがよくある。
(  )子どもに問題が起きると、先生や、子どもの友人に、原因を求める。
(  )かっとなると、見境なく行動してしまうことがあり、あとで後悔しやすい。
(  )被害妄想をもちやすく、ものごとを何でも悪いほうに解釈してしまう。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 不安の構造 強迫性障害 強迫性神経症 依存症 はやし浩司 被害妄想 強
迫観念 依存症)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●6月29日(2010)

++++++++++++++++++

昨日は、10キロを走った。
「走った」と言っても、断続的に駆け足を
したり、早足で歩いたりした。

ほかに夜、7キロを自転車で走った。
こちらは、本気で走った。

ほかにウォーキングマシンで、計40分。
プラス乗馬マシンで、計10分。

今朝も、起きるとすぐ、ウォーキングマシンの
上で、20分、歩いた。
が、気分は……、まだ眠い!

++++++++++++++++++

●睡眠時間

 最近は、早寝、遅起きに心がけている。
10時間前後の睡眠時間をとるように、心がけている。
が、どういうわけか、かえってそのほうが、眠気が残る。
今も、ときどき大きなあくびを繰り返す。
よく眠ったはずなのに……。
これはどういう理由によるものなのか?

●減量(ダイエット)

 4、5日前に体重計に乗ったら、64キロ台。
ゾーッ!
で、おとといから、ダイエット。
運動を重ねて、食事の量を減らした。
で、今朝、計ってみると、61キロ台。
よかった!

 明日は、どこかの旅館で会食。
あわび料理が出るとか。
またまた食欲との闘い。
今日は、それに備えて、食事の量を減らす。

●夢

 ところで私は、夢をよく見る。
とくに起きがけの夢は、楽しい。
何かの映画を観ているよう。
で、目が覚めたあと、よく夢の内容を、ワイフに話してやる。

 で、私の夢のおもしろいところは、奇想天外なところ。
ふだんなら、思いもつかないような内容の夢を見る。
めったに、同じ夢を見ない。
脳みその広さに、我ながら、感心する。

 今朝の夢は、太陽に、地球規模の惑星が衝突するというもの。
みなが、それぞれ飛行機を作り、地球の裏側(夜側)に逃げるという夢。
衝突によって起こる太陽風から、身を守るためである。

 ちょうど夕刻時で、太陽から猛烈なフレアが立ち上るのが見えた。
地球に到達するまでに、10分前後。
私は木製のグライダーのような飛行機に乗って、太陽とは反対側に旋回して
いくところだった。
見ると、大小さまざまな形の飛行機が、並んで飛んでいた。

 恐ろしい夢ということになるが、先にも書いたように、私にとっては、
映画のようなもの。
映画といっても、私自身が、その映画の中に入っている。

 ……やがてそんな映画ができるようになるかもしれない。
「そんな映画」というのは、映画の中で、実体験をするような映画をいう。
つまり自分自身が、主人公となって、映画の中で動き回る。

●総選挙

 総選挙が近づいてきた。
浮動票層(無党派層)の私としては、「もう一度、民主党に入れてみるか」という
気持ちになりつつある。
しかし小沢一郎が、カーテンの間から、あの不気味な顔を出すたびに、その気持ちが
引っ込んでしまう。

 「反小沢」の旗印は、ひょっとしたら、仮面?
選挙用のカモフラージュ?
どうも、よくわからない。
選挙に勝ったとたん、また小沢一郎が、したり顔で表に出てくる?
そんな心配があるから、ここは慎重にならざるをえない。

 ……数日前も駅前で、民主党の党員たちが、選挙運動をしていた。
1人の女性の応援をしていた。
で、私は運動員の1人に、「この方は、小沢派? それとも反小沢派?」と聞いた。
運動員は、「民主党には、そういう派閥はありません」と。

 その女性は、それで小沢派とわかった。
中央から、小沢一郎によって送り込まれた刺客(?)。
歩きながらワイフが、「あの人(候補者)は、小沢派よ。知らなかったの?」と。

●消費税vs公務員の給料

 このままでは日本経済は、確実に破綻する。
時間の問題。
そのために消費税のアップは避けられないものであるということは、よくわかる。
しかしそれには、条件がある。

 公務員の給料カットである。
現状では、20〜25%前後のカットは、やむをえない。
給料のカットそのものに抵抗があるというのなら、諸手当のカット。
諸手当の費用が、バカにならない。
「総人件費」の抑制に、まず手をつけるべき。
その上での、消費税アップ。
そうであるなら、私たちも納得する。
そうでなければ、納得しない!

●今夜はサッカー

 今夜はサッカー、W杯。
相手は、パラグアイ。
私は、超能力とは、無縁。
予言力はない。
だからどちらが勝か、わからない。
予想はできるが、あくまでも予想。
その予想によれば、日本は当初、パラグアイの野獣的な攻撃にたじろぐが、
やがて攻勢に出て、2ー1で勝つ。

 しかし11時という時間帯に問題がある。
観るべきか、観ざるべきか。
今、迷っている。
(6ー29記)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●五十肩

+++++++++++++++++

近くの友人が、五十肩になったという。
症状は、かなり重いという。
夜なども、痛くて寝返りが打てない、と。
そのため睡眠不足になり、日中も、
眠さが残る、と。

+++++++++++++++++

●義姉

 ワイフの話によれば、義姉(つまりワイフの姉)も、10年ほど前、五十肩に
なったという。
で、5〜6年ほど、それに苦しんだという。
が、治るときは、知らぬ間に、治ってしまうという。
それで「五十肩」という(?)。

 友人と私はそれほど年齢がちがわない。
「明日は我が身」と、そういう話を聞くたびに、気が重くなる。
若いときなら、「自分でなくてよかった」と思ったかもしれない。
が、今は、順番の問題。
五十肩でなくても、何があるかわからない。
「病気は背中から、ある日、突然、やってくる」(O氏の言葉)。

●6月30日

 昨夜は、サッカーW杯、日本対パラグアイ戦を、観た。
0ー0の同点のまま、延長線。
さらにPK戦。
見終わってから、どういうわけか、涙が出てきた。
すばらしい試合だった。
感動した。
負けたのは残念だが、その残念感が、あまりない。
「よくやった!」と。

 床に就いたのは、午前2時過ぎ。
ふとんの中で、ワイフとしばらく音楽を聴いた。
聴いているうちに、眠ってしまった。

●新しいソフト

 パソコン用の新しいソフトがいくつか、手に入った。
非現実的な世界を創るソフトと、写真をキュービックに加工するソフト。
あとで試してみたい。

 そう言えば、数か月前、モーフィングを試してみた。
ひとつの顔から、別の顔に、少しずつ変化していくというもの。
しかしこれは失敗。
データが重すぎて、ホームページに載せられなかった。
ひとつのモーフィングをするのに、50〜100枚の写真を並べる。
写真のサイズにもよるが、1つだけで、30MBを超えてしまった。
だからあえなく、ボツ。

 そのあとマンガをいくつか作ってみた。
が、これは10作ほど作ったところで、あきてしまった。
(そう言えば、このところ、何かにつけて、あきっぽい。
これも脳の老化現象によるものか?)

●独居老人→孤独死

++++++++++++++++++++

この先、私たち老人は、60%が独居老人と
なり、孤独死を迎える。
発見までの平均日数は、7日とか。

これらの数字が仮に事実であるとしても、
こと私に関して言うなら、「私はそれでも構わない」。
今は、そういう心境になりつつある。

「独居」であるとしても、それを「不幸」と決めつけて
はいけない。
「孤独死」をしたからといって、それを「不幸」と
決めつけてはいけない。
大切なのは、それまでの人生。
人生の中身。

+++++++++++++++++++++

●反省

 私は「独居老人」や「孤独死」について、「あってはならないこと」と、
決めつけて考えていた。
そしてそこに「私」を置き、それを「不幸な末路」と、決めつけて
考えていた。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。
「60%」(この数字は、何かの雑誌で知った数字だが)の老人が
そうなるというのなら、「それがふつうの死に方」ということになる。
またそういう前提で考えれば、老後の過ごし方も、ぐんと気が楽になる。

●孤独死イコール、不幸?

・・・となると、「独居老人」イコール、「孤独」と決めつけて考える
のは、まちがっている。
若い人でも、孤独な人は、いくらでもいる。
独りで住んでいる老人でも、心豊かな人は、いくらでもいる。

 さらに「孤独死」といっても、孤独な世界で煩悶(はんもん)しながら、
死ぬとはかぎらない。
「孤独」という言葉をつけるから、話がおかしくなる。
中には、独り静かに、眠るように、かつ満足しながら死ぬ人だっているはず。
また死後、すぐ発見されないからといって、嘆くことはない。
それが古今東西、ふつうの人の、ふつうの死に方だった。

●天下老人

 だから言葉を変えればよい。
「独居老人」を、「天下老人」。
「孤独死」を、「自然死」と。

 孤独か孤独でないかということになれば、死ぬときは、みな、孤独。
「家族に見守れて・・・」というのは、そのほうがベターというだけで、
そうでなければならないということではない。
またそうであったからといって、孤独が癒されるというものでもない。
こんな話がある。

 A氏(84歳)が、臨終を迎えた。
連絡を受けて、親戚中が集まった。
総勢、30人あまり。
が、その直後、A氏は、昏睡状態から覚め、再び元気になってしまった。
で、そのあとも、(臨終)→(回復)を、数度繰り返した。
そうなると、家人も、親戚に連絡するのも、おっくうになる。
親戚も、「またか・・・!」となる。

 で、結局、最後は、A氏は、真夜中にだれにも看取られないまま、独り静かに
他界した。
これは私のワイフの伯父の話である。

●孤独感

 老人の感ずる孤独は、「孤独死」とは、切り離して考える。
孤独イコール、孤独死、孤独死イコール、孤独と考えるから、
話がおかしくなる。

 もっと平たく言えば、「死ぬ」のは、一瞬のできごと。
が、孤独、それから生ずる孤独感は、老後になってから、綿々とつづく。
途切れることはない。
今、私たちが問題とすべきは、むしろそちらのほうということになる。
もっともこれについては、「バカになって、忘れる」という方法もないわけ
ではない。
趣味三昧、旅行三昧、ぜいたく三昧・・・。
しかしこの方法は、邪道。
かえって虚しさが、増すだけ。

●生きがい

 老後を考えるということは、どの方向から考えても、行き着く目的は
ただひとつ。
「生きがい」の問題ということになる。
どう生きがいを構築するか?
その是非によって、老後の姿そのものが、変わってくる。

 それについては、「統合性」という言葉がある。
(すべきこと)を、(現実にする)。
両者が一致した状態を、統合性が確立した状態という。

 が、それには条件がある。
無私、無欲。
打算、功利が入ったとたん、統合性は、霧散する。
それに「老後になりました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」
というわけにはいかない。
統合性を確立するためには、その基礎づくりが必要。
20年とか30年とかいう、時間をかけた基礎づくりが必要。
エリクソンは、人生の正午と呼ばれる40歳くらいから、始めろというようなことを
教えている。
しかし40歳でも、遅い。

●夢と希望、そして目的

 自分が老人の入り口に立ってみて、気づいたことがある。
つまり老後になっても、夢と希望を失ってはいけないということ。
夢と希望があれば、何とか、生きていかれる。
夢と希望があれば、その先に目標が生まれる。
その目標が、老後に、光を灯(とも)してくれる。

 言い替えると、いかにして夢と希望をもちつづけるか。
それが重要ということになる。
たとえば今度、(まだ本決まりではないが……)、中央の大きな会場で
講演をすることになった。
そういう目標が生まれると、体力作りに心がけるようになる。
もちろん脳みその健康にも、注意を払うようになる。

 今でも講演がある日には、その数日前から、運動量を、2〜3倍にふやす。
新しい情報を手に入れて、古い情報と置き換える。
そのために本を読む。
文章を書く。
こうして点つなぎのようにして、自分の人生を未来へとつないでいく。

 「そんなことをして、何になるのだろう」とか、そういう迷いはないとは言わない。
しかし迷っていても、しかたない。
ここは無私、無欲。
結果は、いつもあとからついてくる。
ついてこなくても、構わない。

 今は、そういう心境に変わりつつある。


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●今日で、6月は、おしまい

 2010年6月30日。
6月も、今日でおしまい。
が、過去を振り返っているヒマはない。
7月は、忙しい。
このままだと、バタバタと過ぎていくだろう。

 がんばるしかない。

 では、また


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司※

【浜名湖・開華亭にて】

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ふと思い立って、浜名湖・舘山寺温泉街にある
開華亭という旅館へやってきた。
「行こうか?」と声をかけると、ワイフも
長男も、「うん」と。
それでやってきた。

風呂のすばらしさは、うわさに聞いている。
一度、入ってみたかった。

++++++++++++++++++++

●午前4時16分

 時計がない。
時刻がわからない。
バッグの中から、デジタルカメラを取り出す。
一枚の写真を撮ってみる。

ほんのりと青白い空。
暗く沈んだ山。
鉛色の海。
かすかにさざなみを打っているのは、小雨のせい?
部屋のクーラー音が、雨の音を消している?

 画像を再生してみる。
それを見て、時刻がわかった。
4:16AM。
午前4時16分。

●開華亭

 風呂へは、5時から入れる。
昨夜、仲居さんが、そう言っていた。
舘山寺の温泉街にある、開華亭は、7つの風呂が自慢とか。
その通りの風呂だった。
どれも広くて、清潔。
もちろん露天風呂もあった。

 やや古い旅館だが、老舗らしく、部屋も広い。
洗面所も、トイレも、それぞれがゆったりと大きさを保って作ってある。
真新しい新建材を多く使った旅館とちがう。
静かな落ち着きを、漂わせている。

「5時まで、40分か……」と、今、考えた。

●温泉めぐり

 こうしてときどき温泉に泊まるようになって、1年半になる。
今は、その温泉めぐりが、楽しい。
このあたりの旅館には、たいてい泊まった。
昨夜ワイフと散歩しながら、「しめくくりは、九重(ここのえ)だね」と
言った。
このあたりでは最高級旅館。
おいそれとは、泊まれない。
いつか、もう一度だけ、「九重」に泊まってみたい。

 今は、あちこちへ講演に招かれるたびに、そこで一泊するように
している。
今週は、牧の原、来週は飯田(長野県)、御前崎……とつづく。
それ以後は、夏休みシーズンに入る。
料金も割高になる。
混雑してくる。

 そういうときは、家の中で静かにしている。

●舘山寺

 昨夜、ワイフがこんなことを言った。
「私は子どものころから、舘山寺(温泉)へは、よく来たけど、
こんないいところとは、思っていなかった」と。

 いろいろな旅館街がある。
それぞれに工夫をこらしている。
しかし舘山寺は、浜名湖に面し、私は若いころから好きだった。
弁天(浜名湖の出口)でボートを借りると、よくこのあたりまで来た。
そんな思い出が、岸のひとつひとつに、しみついている。

●夕食

 私が起きたせいか、長男が起きてきた。
つづいてワイフが、起きてきた。
昨夜は、みな、9時ごろ、就寝した。

 料理は、おいしかった。
あわびのバター焼きというのを食べた。
「明日から、またダイエットだ」と言って、私は食べた。
少し前、逆流性胃炎というのを経験した。
そのせいか、今朝は、何となく、胃のほうが熱っぽい。
コップに水を注ぎ、少しずつそれを味わいながら、飲む。

●お勧め観光地

 窓の外を見ると、ぐんと明るくなっていた。
目の前には、大草山が見える。
その大草山の木々が、ボコボコと輪郭を現してきた。
それを見てワイフが、「あら、雨は降ってなかったの?」と。

 クーラーの音が、雨の音に聞こえた。
「本当だ、雨は降っていなかったのか」と私。
もう一度、湖面を、よく見る。
近くの屋根や道路を、よく見る。
雨は降っていなかった。
数日前の予報では、今日は雨ということになっていた。

 そうそう舘山寺温泉に泊まるなら、水曜日の夜がよい。
静かな休日を過ごすのなら、そのほうがよい。
温泉街にある遊園地が、休園日になる。

反対に子どもといっしょに来るなら、水曜日ははずしたほうがよい。
近くに、動物園やフラワーパークもある。
少し離れたところには、ガーデンパークもある。
これほど楽しめる温泉街は、そうはない。

●生徒

 昔、この近くの温泉旅館の息子が、私の教室に通ってくれた。
いつも祖母といっしょに、やってきた。
その旅館の前が、映画『男はつらいよ』のロケ地にもなった。
それからもう25年近くになる。
「今ごろ、どうしているのだろう?」と、ふと、今、そんなことを考える。
30歳を超えているはず。

 「あの子、覚えている?」とワイフに聞く。
「そう言えば、そういう子がいたわね」と、ワイフ。

 思い出が静かに、脳裏の中を流れていく。
外の景色は、すっかり白くなっていた。
曇り空だが、よく見ると、薄い絵の具をまぶしたように、
水色の空も見える。

 昨日は暑かった。
このあたりでも、32,3度を超えた。
今日も暑くなりそう……。

(朝風呂に入る。戻ってくる。)

●露天風呂

 森のにおいと、水気のにおい。
それが入り混じって、独特のにおいをつくる。
マイナスイオンのにおい?
オゾンのにおい?
露天風呂に近づいたとたん、そのにおいが、全身を包む。

 子どものころ、母の郷里でかいだ、あのにおい。
なつかしさが、どっとこみあげてくる。
川で泳いだ。
魚を取った。
あおのときのにおい、そのまま。

 露天風呂は、朝の香りがまだ残る、早朝がいちばん。
心が休まる。
あとで時計を見たら、1時間近くも、入っていた。
ワイフが「長く入っていたわね」と言って、驚いた。
ワイフも、露天風呂に入ったはず。
しかしあの(におい)は、経験した者でないとわからないだろう。

●掛ける(料金)

 これは当然のことかもしれない。
大切なことは、どんな旅館に泊まっても、不平、不満は言わない。
その前に、そういうことは、考えない。
何も考えないで、体と心を休める。
料金を考えるなら、なおさら。
(今そこにある)現実を、すなおに受け入れる。
受け入れて、楽しむ。

(だからといって、開華亭がどうのと書いているのではない。
言い忘れたが、星は4つの、★★★★。
どこにも段差があり、足腰の悪い人には向かないが、それをのぞけば、
このあたりでも高級旅館。)

 それが旅の楽しみ方の、第一。
仮に、「最悪」であっても、あとになれば笑い話になる。
「あの旅館の夕食は、最悪だったね」と。

 一度だけだったが、そういう旅館があった。
最悪!
東北のほうへ旅したときのことだった。
料理の品数は多かった。
しかしどれも、作り置きしたものばかり。
寿司も並んでいたが、乾いて、ひからびていた。

が、おかしなもので、そういう旅館ほど、印象に強く残る。
今でもときどきその旅館を思い出し、ワイフと笑いあう。
「あそこは、ひどかったね」「ひどかったわね」「ハハハ」と。

言うまでもなく、旅館の良し悪しは、料金を掛け算して、決まる。
部屋の広さ、清潔感の評価も、それで決まる。
が、何より大切なのは、やはり風呂。
ここ、開華亭の風呂は、4つから5つ星。
よかった!

●ダイエット

 時刻は、6時14分。
朝食まで、まだ1時間あまりも、ある。
朝食は、7時半〜から。
先ほど、体重計に乗ってみたら、やはり63キロ。
おととい、61キロ台になったと喜んでいたばかり。
今日からまた、ダイエット開始!

 自分でもどうしてこうまでバカなのかと思う。
「食べたら損(そこ)ねる」とわかっていながら、食べてしまう。
それだけ理性による自制力が弱いということ。
とりあえず、今朝はここで朝食を食べ、昼は抜く。
夕食は、麺類。
あとは運動あるのみ。

●露天風呂の中で

 最近、A県に住む友人の健康が、おもわしくないという。
見舞いに行くべきかどうかで、迷っている。
こういうケースのばあい、まず奥さんの意向を確かめなければならない。

そのことは、自分のこととして考えてみると、わかる。
元気なときならまだしも、病気で半身不随になったら、どうか?
私なら、だれにも会いたくない。
その前に、だれにも知られたくない。
それにこの7、8年、一度も会っていない。

 ……死ぬときも、そうだ。
私は死ぬときは、ひとり静かに死にたい。
派手な葬儀など、望むべくもないが、そんなものに、意味はない。
けっして負け惜しみではない。 
あとで「ああ、あのはやし(=私)は死んでいたのか」で、よい。
またそういう死に方をしたい。
だから、他人の病気や死も、同じように考える。

●恩と義理?

 一方、この日本では、「恩」とか「義」とかいう言葉をよく使う。
とくに葬儀には、とくべつの意味を付け加える。
葬儀に出なかったりすると、「義理を欠いた」という言葉を使って、
その人を排撃する。

 しかしこんなバカげた風習は、私たちの代だけで、やめにしたい。
私が悪者になってもよいから、やめにしたい。
「別れ」の意味を、儀式でごまかしてはいけない。
またそんなもので、ごまかせるようなものではない。
ものごとは、原点の返って考えてみたらよい。

 ワイフが死んだら、私はいっしょにそのまま、静かに数日を過ごす。
人の出入りは、避けてほしい。
だれも来なくても、私は構わない。
たぶん、私が死んでも、ワイフは、そう思うだろう。
だから、私は、そうしたい。
そうしてほしい。

 もっとも中には、儀礼だけの葬儀をする人もいないわけではない。
儀礼だけの葬儀をして、人間関係をとりつくろう人もいる。
そういう葬儀に出たりすると、それこそヘドが出そうになる。

●見舞い

 やはり見舞いに行くのはやめよう。
そのかわり、何かを送ってやろう。
食べ物なら、みなが喜んでくれる。

……露天風呂の中だから、もう少し風流な話をと思った。
このところ、何かにつけて、ものの考え方が暗い。
うしろ向き。
 
 そうそう露天風呂に入っていたら、長男が心配して、風呂場まで、のぞきに来てくれた。
ワイフに見てくるように言われたのだろう。
思わぬ長湯で、心配をかけてしまったらしい。

 実のところ、今日は忙しい。
昼に仮眠をしたあと、9時間の仕事が待っている。
その前にいくつかの雑用。
昨日、7月分の電子マガジンの発行予約をし終えたとき、仕事が終わったと
錯覚してしまった。
そのまま温泉へ来てしまった。

●サラーンさん

 今日、フランスから友人が日本へ着く。
昨日、出発する前に、メールが入っていた。
「また会いましょう!」と返事を書くと、「うれしい!」と書いてきた。

 2人の子どもがいる。
2人とも、孫の誠司によく似ている。
父親は、フランス人。
今度はいっしょに、食事をするつもり。
しかしフランス人は、何を食べるのか?

 ちょっと心配になってきた……。

 また8月には、オーストラリアの友人がやってくる。
中国での見本市の帰り道、日本へ立ち寄るという。
ちょうど私の休暇と重なるので、いっしょに、あちこちを旅をしよう。

●今日から7月

 朝食まで、まだ30分ほどある。
あと片づけをして、帰り支度をしよう。
今日から7月。
2010年、7月1日。
今月も、忙しくなりそう。
……というより、気の抜けない月になりそう。

 体調はどうかな?
ちょっと自信がないが、これなら7月も、何とかがんばれそう。

(アドバイス)

 みなさんも、どうか舘山寺温泉へ、おいでください。
浜松は、すばらしいところですよ!!


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【BW子どもクラブ】

今日は、英語のレッスンをしました。
子どもたちの活気を、どうか、お楽しみください。
私の教室(=生徒さん)のすばらしいとことは、活気があるところです。
イヤイヤ、タラタラ勉強している子どもは、い・ま・せ・ん!
みな、大声を張り上げて、勉強しています。
そんな雰囲気をお伝えできれば、うれしいです。

(1)

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(2)

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(3)

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(4)

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(5)

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allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

【そのほかは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」→「2010年」へおいでください。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【居直りの論理】

●独居老人→孤独死

++++++++++++++++++++

この先、私たち老人は、60%が独居老人と
なり、孤独死を迎える。
発見までの平均日数は、7日とか。

これらの数字が仮に事実であるとしても、
こと私に関して言うなら、「私はそれでも構わない」。
「独居」であるとしても、それを「不幸」と決めつけて
はいけない。
「孤独死」をしたからといって、それを「不幸」と
決めつけてはいけない。
大切なのは、それまでの人生。
人生の中身。

こういうのを、「居直り」という。
もうここまできたら、居直るしかない。

+++++++++++++++++++++

●反省

 私は「独居老人」や「孤独死」を、「あってはならないこと」と、
決めつけて考えていた。
そしてそこに「私」を置き、それを「不幸な末路」と、決めつけて
考えていた。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。
「60%」(この数字も、あまりアテにならないが・・・)の老人が
そうなるというのなら、「それがふつうの死に方」ということになる。
またそういう前提で考えれば、老後の過ごし方も、ぐんと気が楽になる。

●孤独死イコール、不幸?

・・・となると、「独居老人」イコール、「孤独」と決めつけて考える
のは、まちがっている。
若い人でも、孤独な人は、いくらでもいる。
独りで住んでいる老人でも、心豊かな人は、いくらでもいる。

 さらに「孤独死」といっても、孤独な世界で煩悶(はんもん)しながら、
死ぬとはかぎらない。
「孤独」という言葉をつけるから、話がおかしくなる。
中には、独り静かに、眠るように、かつ満足しながら死ぬ人だっているはず。
また死後、すぐ発見されないからといって、嘆くことはない。
それが古今東西、ふつうの人の、ふつうの死に方だった。

●天下老人

 だから言葉を変えればよい。
「独居老人」を、「天下老人」。
「孤独死」を、「自然死」と。

 孤独か孤独でないかということになれば、死ぬときは、みな、孤独。
「家族に見守れて・・・」というのは、そのほうがベターというだけで、
そうでなければならないということではない。
またそうであったからといって、孤独が癒されるというものでもない。
死の恐怖から、逃れられるものでもない。
こんな話がある。

 A氏(84歳)が、臨終を迎えた。
連絡を受けて、親戚中が集まった。
総勢、30人あまり。
が、その直後、A氏は、昏睡状態から覚め、再び元気になってしまった。
で、そのあとも、(臨終)→(回復)を、数度繰り返した。
こうなると、家人も、親戚に連絡するのも、おっくうになる。
親戚も、「またか・・・!」となる。

 で、結局、最後は、A氏は、真夜中にだれにも看取られないまま、
他界した。
これは私のワイフの伯父の話である。

●孤独感

 老人の感ずる孤独は、「孤独死」とは、切り離して考える。
孤独イコール、孤独死、孤独死イコール、孤独と考えるから、
話がおかしくなる。

 もっと平たく言えば、「死ぬ」のは、一瞬のできごと。
が、孤独、それから生ずる孤独感は、老後になってから、綿々とつづく。
途切れることはない。
今、私たちが問題とするなら、むしろそちらのほうということになる。
もっともこれについては、「バカになって、忘れる」という方法もないわけ
ではない。
趣味三昧、旅行三昧、ぜいたく三昧・・・。
しかしこの方法は、邪道。

●生きがい

 老後を考えるということは、どの方向から考えても、行き着く目的は
ただひとつ。
「生きがい」の問題ということになる。
どう生きがいを構築するか?
その是非によって、老後の姿そのものが、変わってくる。
もしそこに(生きがい)があるなら、ぜったいに、その(生きがい)を
手放してはいけない。
しっかりと手で握って、放してはいけない。
それを放したら、おしまい。
あとはそのままズルズルと、孤独の無間地獄へ……。

 散文詩を考えた。

(生きがい)

朝起きて、やるべきことがある人は、幸福なるかな。
朝起きて、やるべきことができる人は、幸福なるかな。
損とか、得とか、そういうことは考えない。
ただ夢中になって、それをする。
朝起きて、それができる人は、幸福なるかな。

一日を終えて、やるべきことができた人は、幸福なるかな。
一日を終えて、やりおえた充実感を覚える人は、幸福なるかな。
損をしたとか、得をしたとか、そういうことは考えない。
ただ夢中になって、それができた。
床に就く前、それを実感できる人は、幸福なるかな。

結果は、あとからついてくる。
あるいはついてこなくても、構わない。
私は私。
あなたはあなた。
人は、ただひたすら、その幸福を求めて、前に進む。
ただひたすら、何も考えずに……。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【子育てブルース】

++++++++++++++++++

子育ての世界にも、人には言えない、
悲しい物語が、山のようにある。
それを口にしたら、おしまい……という
ような話もある。

今朝は、そんな物語について、書いてみたい。

ただしここに書く子どもの例は、架空の
話と考えてほしい。
何人かの子どもを、1人の子どもに仕立てて
書いてみた。

++++++++++++++++++

●問題児?

 その子ども(小2女児)には、まったく、問題はない。
むしろ聡明で、思考力も深い。
性格もおだやか。
とくに数に鋭い反応を示す。

 が、母親(Mさん)は、会うたびに、その子どもについて、不平、不満を並べる。
そのたびに、私は、それを否定する。
が、母親は信じない。
信じようともしない。
何か言えば、すかさず、それについて反論する。
「あそこが、悪い。ここが悪い」と

 この世界には、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉もある。
自分の子どもをわざと病人にしたて、その子どもを、かいがいしく世話をしてみせる。
よくできた母親を演じてみせる。
「私は子どもを愛しています」と、口ではよく言う。
しかしその実、何も愛していない。
自分の心の隙間を埋めるために、子どもを利用しているだけ。
(「代理ミュンヒハウゼン症候群」については、「はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン」
で、検索をかけてみてほしい。)

 が、それに似た事件となると、……というより、それを薄めたような事件となると、
程度の差もあるが、ゴマンとある。
それについて、ある精神科医のドクターは、こう教えてくれた。
「そのタイプの親は、(母親であることが多いが……)、見るからに様子がちがいますから、
わかります」と。

 「見るからに」という言葉を使えるのは、それなりに多くの例を見てきたから言える。
ふつうの人には、わからない。
が、たしかに様子が、ちがう。
へん?
おかしい?

 どこか挙動が不自然で、母親らしい(なめらかさ)がない。
いつもピリピリしていて、心に余裕が感じられない。

●Mさん(37歳)のケース

 ここに書いたMさんは、毎日のように娘(小2)の心配ばかりしている。
「学校の参観日で見たが、手をあげなかった」
「声が小さかった」
「せっかく先生にさされたのに、隣の子に、先に答を言われてしまった」
「忘れ物をした」
「宿題をやらない」と。

 少しでも顔色が悪いと、すぐ病院へ連れていく。
花粉症だったのだが、「レーザーで焼いてもらう」とか、「扁桃腺を切ってもらう」とか、
そんな話ばかり。

 その女の子で特徴的だったのは、母親が近くにいるときと、いないときとでは、様子が
まるで別人のようにちがったこと。
母親がいるときは、静かでおとなしかった。
表情も暗かった。
が、母親がいないところでは、明るく快活で、いつもニコニコ笑っていた。

 母親は、「子育てでたいへんです」と言いながら、Mさんが学校から帰ってくると、
一瞬たりとも、M子さんのそばから離れなかった。

●バカなフリ

 一方、大きな問題をかかえているにもかかわらず、それにまったく気づいていない親も
多い。
気づかないまま、子どもを叱ったり、説教したりする。
あるいは幼稚園の先生に、「どうしてでしょう?」を繰り返す。
が、幼稚園の先生に、診断権はない。
またそれが判断できるようになるまでには、10年単位の経験が必要。

 病名を出すのは、はばかれるが、しかしわかるものはわかる。
わかるのであって、どうしようもない。
「〜〜障害」と言われる子どもたちである。
AD・HD児にしても、自閉症児にしても、私のばあい、会った瞬間にわかる。
が、もちろん病名を口にするのは、タブー。
タブー中のタブー。
わかっていても、わらないフリをして、……つまり無知なフリ、もっと言えば、
バカなフリをして、相談に乗る。
しかし、ここで問題が起きる。

●たとえばLD児

 LD児、つまり学習障害と言われる子どもたちがいる。
症状は、みな、ちがう。
ちがうが、ある一定のワクの中で、定型化される。
読み書きのできない子ども、算数がとくに苦手な子ども、集中力に欠ける子どもなど。
が、平たく言えば、学習面において、著しい「遅れ」を示す。

 最近の定説に従えば、脳の機能的な問題がからんでいるため、教育の世界で
改善を求めるのは、容易なことではない。
たとえば識字障害児と呼ばれる子どもがいる(注※)。
難読症、失読症が含まれる。
出現率は、10%前後と言われている。
10人に1人。

 このタイプの子どもは、文字そのものを読み取ることができない。
そのためその影響は、あらゆる面に現れる。
が、親にはそれがわからない。
「算数の文章題を、読みまちがえてばかりいます」
「本を読みません」など。

 そういう子どもをもつ親から、「どうしたら国語ができるようになりますか」という
相談をもらう。
指導の方法がないわけではない。
が、簡単には、できるようにならない。
そこであれこれ方法を教える。
が、1、2週間もすると、(たったの1、2週間!)またやってきて、こう言う。
「先生、効果、ありませんでした」と。

●X君
 
 もう1人、記憶によく残っている子ども(中学・男児)に、X君がいた。
学校でも、評判の(?)子どもだった。
で、その子どもを含めて、自宅で、4〜5人だけのクラスをもったことがある。
しかし半年もしないうちに、X君だけをのぞいて、みな、やめてしまった。

 「あんなX君といっしょでは、いやだ」と。

 小さな地域である。
小学生活6年間をともに過ごしている。
みな、それぞれ、それぞれの子どもの能力をよく知っている。

 で、そのあとX君は、3年間、私の家に通ってくれた。
いつもひとりだった。
で、何とか、それなりの高校に進学していったが、それでX君が私に感謝したかというと、
それはない。
もともと勉強が嫌いだった。
やっと少し追いついたかと思っても、学校の勉強は、さらに先へと進んでいた。
つまり「親が行け」というから、私の教室に通ってきただけ。
毎週、毎週、重い足を引きずりながら、私のところへ来ていた。
それが私にも、よくわかった。
そういうケースもある。

●私の経験

 私もいろいろな「波」を経験した。
ある時期は、市内でもゆいいつと言われる進学校の子どもたちばかりになったこともある。
また別のある時期は、いわゆる問題をかかえた子どもたちばかりになったこともある。
英才教育を試みたこともある。
2〜3歳児の教育を試みたこともある。

 30〜40代のころは、幼稚園の年中児(4〜5歳)から、高校3年生まで教えていた。
そういう「波」を無数に経験して、現在は、「なるようになれ」が、教育の基本になって
いる。
深く考えない。
子どものことだけを考えて、教える。
教えるというより、接する。
親の要求には、際限がない。
それに振り回されていたのでは、教育そのものが成り立たない。

 が、このところ体力的な限界を感ずることが多くなった。
よく誤解されるが、教育は重労働である。
どう重労働であるかは、実は、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。
たった1人や2人の子どもですら、たいへん。
それを30人とか40人とか、教える。
まともに接したら、目が回る。
その中に問題のある子どもが含まれていたら、なおさら。
さらに問題のある親が介入してきたら、……!

●親の欲望

 ここで「親の欲望には際限がない」と書いた。
が、これは事実。

 進学校にしても、自分の子どもがB中学へ入れるとわかってくると、親は、今度は
「何とかA中学へ」と言い出す。
A中学へ入れそうになると、今度は、「S中学へ」と言い出す。
 また不登校児にしても、やっとのことで、午前中登校ができるようになると、
「せめて給食まで」となる。
給食を食べるようになると、「午後の授業も」と言い出す。

 それに振り回される学校の教師こそ、えらい迷惑。
(「迷惑」という言葉には、語弊があるが……。)

 私の教室で言えば、実のところ、問題をもった子どもほど、苦労する。
マンツーマンどころか、ワイフにも手伝ってもらって、2対1で教える。
が、そういう子どもがいると、ほかの子どもたちが、やめていく。
それでいて、その子どもが感謝するかといえば、そういうことは、絶対にない。
むしろいやなことをさせられたという、被害者意識をもってしまう。
こういう子どもは、「経営」ということを考えるなら、とても割に合わない。

(これ以上、これについて書くと、グチになるので、この話はここまで。)

●「お前を訴えてやる!」

 親の無知と無理解。
独断と偏見。
傲慢とわがまま。

 今では幼稚園でも、「入れていただけますか?」と聞いてやってくる親は、ほとんど
いない。
おけいこ塾なら、なおさらそうで、へたに「うちではお引き受けできません」などと
言おうものなら、親は、店で販売拒否にでもあったかのように怒り出す。
「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。

 私の教室のばあい、過去40年近く、入会を断わったことはほとんどない。
子どもに問題があるときは、その子どもに合わせて、2〜3人のクラスを編成して、
指導する。
が、それでもこのところ疲れを覚えるようになった。
子どもの「質」が変わったというより、親たちの「質」が変わった。
子どもというより、親を見て判断する。
「この親の子どもは、教えられない」と判断したときは、入会を断わるようにしている。
子どもの問題点を、それなりに理解しているならまだしも、それがないと指導ができない。
10年ほど前だが、場面かん黙症の子ども(幼稚園女児)がいた。
このタイプの子どもは、集団の中では、貝殻を閉ざしたかのようにかん黙してしまう。

 で、ある日、父親が参観にやってきた。
自分の娘の様子を見た。
ショックを受けた。
そのあとのこと。
その父親は電話口で、こう言った怒鳴った。
「貴様は、うちの娘を萎縮させてしまった。
訴えてやる。責任を取ってもらう!」と。

●教育ブルース

 ……こうして今日も、全国のあちこちから、子育てブルースが聞こえてくる。
どこか毒々しくて、それでいて、どこかもの悲しい。
みんな一生懸命しているはずなのに、どこかで歯車が狂う。
狂って、人の心をさみしくする。

 できるならニヒリズムは、もちたくない。
しかしニヒリズムをもたずして、教育はできない。
親にしても、自分で失敗してみるまでは、それがわからない。
あるいは今の状態より、より悪くなって、それまでの状態がまだよかったことを知る。

 最初は、ほんの小さな狂い。
それが加速度的に大きくなり、悪循環に悪循環が重なる。
気がついたときには、にっちもさっちもいかなくなっている……。

 ではどうするか?

 この問題だけは、親自身が、自ら気がつくしかない。
そのために自分で賢くなるしかない。
が、それを恐れてはいけない。
子育てには、その人の人生観、哲学、生き様すべてが集約される。
子育てを追求することは、その人の人生観を追求することにもなる。
奥は深い。
生涯のテーマとして、なんら遜色はない。
……とまあ、大上段に書いて、この稿はおしまい。
どうかみなさん、失敗にめげず、がんばってください!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子育てブルース)

(注※)難読症、失読症の症状

【幼児期】

Delays in speech 
言葉の発達の遅れ。
Learns new words slowly 
新しい言葉を学ぶのが遅い。
Has difficulty rhyming words, as in nursery rhymes 
話す言葉がどこかぎこちない。ぎこちなさを感ずる。
Low letter knowledge 
文字について能力が遅れる。
Letter reversal, ex: e b f p (normal)
鏡文字を書く。

【学童期】
Early primary schoolーage children(小学低学年児)

Difficulty learning the alphabet or in order 
アルファベットを学ぶのが困難。
Difficulty with associating sounds with the letters that represent them 
(soundーsymbol correspondence) 
その音を示す、文字と音を組み合わせるのが困難。
Difficulty identifying or generating rhyming words, or counting syllables in 
words (phonological awareness) 
文字を認識し、なめらかに文字を読むのが困難、あるいは単語の中の音節を数える
のが困難。
Difficulty segmenting words into individual sounds, or blending sounds to make 
words (phonemic awareness) 
単語をそれぞれの音に分離するのが困難。あるいは単語を作るため、音を混ぜるが
困難。
Difficulty with word retrieval or naming problems 
言葉の訂正が困難、あるいはものと名前の結びつけるのが困難。
Difficulty learning to decode written words 
表記文字を理解するのが困難。
Difficulty distinguishing between similar sounds in words; mixing up sounds in 
multisyllable words (auditory discrimination) (for example, "aminal" for animal, 
"bisghetti" for spaghetti)
単語の中の同じような音を区別するのが困難;たとえば「動物(どうぶつ)」を、「ど
うふづ」、「スパゲッティ」を「ビスゲッティ」と読むように、音節の多い単語の音
を混ぜてしまう。

【後期学童期】(小学、高学年児)
Older primary school children

Slow or inaccurate reading, although these individuals can read to an extent. 
ある程度は読むことができるが、読むのが遅く、不正確。
Very poor spelling 
綴りが苦手。
Difficulty reading out loud, reads word in the wrong order, skips words and 
sometimes says a word similar to another word (auditory processing disorder) 
大きな声で読むのが困難。前後の単語を入れ替えて読む、単語を飛ばす、あるいは
ほかの似たような単語に置き換えて文章を読む。
Difficulty associating individual words with their correct meanings 
それぞれの単語を、正しい意味と結びつけるのが困難。
Difficulty with time keeping and concept of time, when doing a certain task 
何かの作業をしているとき、時間を守るのが困難。時間の概念がない。
Difficulty with organization skills (working memory) 
系統立てて作業するのが困難。
Children with dyslexia may fail to see (and occasionally to hear) similarities and 
differences in letters and words, may not recognize the spacing that organizes 
letters into separate words, and may be unable to sound out the pronunciation of 
an unfamiliar word. (auditory processing disorder)
難読症の子どもは、文や単語の中の類似性や相違性を判断することができない。文
章の中の単語がスペース(空白)で区切られていることを認識することができない。
新しく出会った単語のようなばあい、それを発音することができない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 失読症 難読症 識字障害 文字表出能力障害 Dyslexia  Alexia 
ディスレクシア アレクシア)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【韓国から見た、7・11選挙】(民主党の小沢一郎氏に関して)

++++++++++++++++++

時として、日本の姿は、外国から見た方が
よくわかる。
またそのほうが、正確(?)。

韓国の東亜N報は、つぎのように伝える。

「……9月の党代表選挙で菅首相を失脚させたい小沢氏が、執行部叩きに本格的に乗り出し
たのではないか、という分析も出ている。小沢氏が参議院選挙の敗北を望んでいるようだとい
う観測もある」と。

つまり小沢一郎氏が、(1)管首相の失脚を
望んでいる(?)。
(2)執行部叩きを本格化させている(?)。
(3)小沢一郎氏が、参議院選挙の敗北を
望んでいる(?)。

あの小沢一郎氏なら、やりかねない……というのが、
私たち日本人の共通した認識ではないだろうか。
ともあれ、この記事を読むと、韓国の人たちが、日本の現状を、
どのように見ているか、それがわかって興味深い。

+++++++++以下、韓国東亜N報(7月3日付)+++++++++++

日本の民主党政権の前権力と現権力間の対立が、佳境に入っている。参議院選挙を目前に
控え、ライバルの自民党を攻撃するよりも、内部の主導権争いが激しくなる様相だ。 

争いは、小沢一郎前幹事長が先に仕掛けた。小沢氏は先月28日、地方選挙の遊説で、昨年
の総選挙の代表的な公約だった子ども手当ての満額支給を見送った菅直人内閣に対し、「政
権を握ると金がなく、約束を守れないというのは、国民に対して嘘をつくことだ。約束してきたこ
とは、きちんと実行しないと駄目だ」と批判した。小沢氏は、菅首相の消費税10%検討の発言
に対しても、「任期中に最善を尽くし、予算の無駄づかいの要因を減らす努力をし、それでも到
底だめなら、消費税引き上げを検討することができるだろうが、昨年の総選挙で引き上げをし
ないと約束した以上、守らなければならない。約束を守らなければ、社会がうまく回らない」と強
調した。 

これに対し、現権力が反論した。小沢氏の後任者の枝野幸男幹事長は翌日の29日、「(子ど
も手当ての満額支給の見送りは)税収が落ち込み、やむを得ず国民の理解を求めたものだ。
経済状況が変わったのにも関わらず、硬直的な考えで公約を無条件に守らなければならない
ということこそ、無責任な大衆迎合であり、結果的に国民に迷惑をかける」と反撃した。枝野幹
事長は小沢氏に、「菅首相が、しばらく静かにしていただいた方がいいと言わなかったか」と非
難した。 

これに対し、小沢氏は先月30日、街頭演説で、「党指導部は私に静かにしろと言うが、正しい
ことを言うことが政治家の責務だ。約束を守らなければならない」と再反論した。 

選挙政局で突然、政権内部の対立が激しくなると、政界とメディアでは、9月の党代表選挙で
菅首相を失脚させたい小沢氏が、執行部叩きに本格的に乗り出したのではないか、という分
析も出ている。小沢氏が参議院選挙の敗北を望んでいるようだという観測もある。

+++++++++以上、韓国東亜N報(7月3日付)+++++++++++

●静岡県のばあい

 静岡県(2人区)でも、民主党から2人が立候補している。
そのうち1人は、小沢一郎氏が「チルドレン」として(?)、中央から送りこんできた
候補者。
小沢一郎氏と上下、仲よく並んで写っているポスターが、あちこちに張ってある。

 が、民主党2人の当選はむずかしいのでは?
ほかに、自民党、幸福党、みんなの党、共産党から1名ずつ、計6人が立候補している。
私の予想では、民主党1人、みんなの党1人が、当選というところか。
あるいは民主党1人、自民党1人(?)。
どうであれ中央の政治家が、自分の権勢を拡大するために、地方に立候補者を送り込んで
くる。
こうした前近代的な政治手法は、地方をあまりにもバカにしているという点で、許せない。
そこに至る地道な努力なり、道筋があったのならまだしも、ある日突然、中央からやって
きて、「当選させてください」は、ない。

 今回の選挙の勝敗は、私たち浮動票層(無党派層)が決める。
今は、じっくりとその思案の時。
今日も6枚のポスターをながめながら、ワイフとあれこれ言い合った。
(7月3日記)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●7月4日

+++++++++++++++++++

昨夜(7月3日)遅く、映画『????』を観てきた。
題名は、「〜〜〜とファラオの秘薬」?
そこまでは、思い出せたが、忘れた。
フランス映画だった。
これもボケの始まりか?

で、こういうときすぐインターネットに
頼るクセが、身についてしまった。
何かわからないことがあると、迷わず検索をかけて
しまう。
が、これではいけない。
記銘力がますます弱ってしまう。
もっともヒマつぶしに観に行った映画だから、
題名を忘れたところで、しかたない。
(これは言い訳。)

何か、思い出す方法は、ないものか。
「何とかとファラオの秘薬……」
何だったかな……?

いちばん簡単な方法は、映画館の上映情報を
見ること。
やはり調べてみよう。

……今、調べた。
題名は、「アデル/ファラオ復活の秘薬」だった。

まじめな映画なのか、ふまじめな映画なのか、
それがよくわからない。
みながおおまじめで、ふまじめな演技をしていた。
フランス流ユーモアたっぷりの映画だった。
おもしろかった。
じゅうぶん、楽しめた。
星は3つから4つの、★★★。

帰り道、ワイフにこう言った。
「フランスもすごい映画を作るようになったね」と。

書き忘れたが、先週は、『アイアンマン2』を観てきた。
『アイアンマン」(前作)が、けっこうおもしろかった。
その(つづき)ということで、観てきた。

しかしこうした映画は、続作が出るたびに、より技巧的に
なってしまう。
そのためかえって、おもしろさが半減する。
『アイアンマン2』もそうだった。
こちらは星は2つか3つの、★★。

で、7月中旬から、新作が続々と公開される。
楽しみ!

++++++++++++++++++

●バカ話

 昨日ワイフが、「浣腸のことを英語で何て言うの?」と聞いた。
「ichizikuじゃ、なかったかな?」と答えると、「イチジクは、
会社の名前じゃないの」と。

 浣腸がイチジクの形をしているから、「イチジク浣腸」と言うらしい。
完全な日本語!
ということは、外国には浣腸はないことになる(?)。

私「外人は、そういうとき何を使っているんだろう?」
ワ「腸内洗浄という方法もあるそうよ」
私「ぼくなんか、シャワートイレで、いつも腸内洗浄をしているよ」
ワ「だいじょうぶかしら、そんなことして?」
私「まあねエ……」と。

 和英辞書で「浣腸」を調べてみたら、「浣腸器」とか「浣腸薬」というのはあった。
浣腸器も浣腸薬も、「enema」。
ということは、やはりイチジク浣腸というのは、外国にはないということになる。

私「英語人だったら、『ピン・浣腸』っていう名前をつけるかもよ」
ワ「何よ、そのピン・浣腸って?」
私「ほら、ボーリングのピンに似ているだろ。だからピン・浣腸」
ワ「外国にも、イチジクの木はあるはずよ」
私「fig treeだったかな?」
ワ「だったら、『Fig 浣腸』にすれば?」と。

 夫婦生活も40年になると、たがいにこういう話が平気でできるようになる。


●TOYOTAのプリウス

 今月の中旬に、TOYOTAのプリウスが届く。
昨日、その手続きに、販売会社へ行ってきた。
リッター38キロというから、すごい!
2リットル入りのペットボトル1本分で、76キロ!
76キロも走る。
目の前にあるペットボトルをながめながら、「これで38キロねえ……」と、
思わずため息を漏らす。

 で、韓国でもハイブリッドカーの研究が進んでいる。
数年後に完成するというが、それでもリッター19キロ前後。
それをみても、「38キロ」という数字が、いかにすごいかが、わかる。
アメリカが嫉妬する理由も、よくわかる。


●ゲーム脳

 韓国や中国では、若者たちのゲーム中毒が問題になっている。
問題にならない日がない。
そのための矯正施設や、矯正プログラムさえ用意されている。
が、この日本では、「ゲーム」を批判しただけで、猛烈な抗議の嵐にさらされる。
「ゲーム脳」という言葉を使ったM教授自身も、それを経験している。
日本人だけ、脳みその構造がちがうのだろうか?

 今朝も東亜N報(韓国)にこんな記事が載っていた。

++++++++++++以下、東亜N報より+++++++++++++

【母親殺しに、懲役20年】

 ……議政府地裁刑事11部(イム・ドンギュ裁判長)は2日、オンラインゲームに没頭している
のを叱った母親を殺害したとして起訴されたO被告(22)に対し、懲役20年の判決を言い渡し
た。

 地裁は判決理由について、「被告人は説明のしようがないほど反道徳的な行為をした。無期
懲役以上の刑に処するべきところだが、心神耗弱(こうじゃく)状態にあることを考慮し、刑を減
軽した」と説明した。

 O被告は今年2月7日午後1時ごろ、京畿道楊州市の自宅で、マスクや帽子を着用し、昼寝し
ていた母親(53)を鈍器で数回殴打し、殺害したとして逮捕・起訴された。

 O被告は、オンラインゲームに没頭しているのを叱る母親に対し、不満を抱いて殺害を決意
したという。さらに犯行後、母親のクレジットカードでゲーム機を購入し、インターネットカフェで
ゲームに興じていたことも分かった。起訴された後、2カ月にわたって精神科の治療を受けた
が、検察はO被告に対し死刑を求刑していた。

++++++++++++以上、東亜N報より+++++++++++++

●ゲーム脳

 ゲーム、つまりバーチャルな世界にハマることにより、社会との接触が遮断される。
そのため社会性が喪失する。
他者との良好な関わりができなくなる。
その結果として、ものの考え方が極端化する。
同じ仲間同士が集まれば、そこでカルト化することもある。

 が、当の本人たちは、それがわからない。
脳のCPU(中央演算装置)が狂うため、自分を客観的に見ることができなくなる。
現実検証能力が衰退する。
自分が何をしているかが、わからなくなる。

 「やっつけろ!」「殺せ!」と声を張り上げてゲームをしている子どもは、まだよい。
症状も軽い。
重くなると、無表情のまま、手先だけを動かしてゲームをするようになる。
不気味なほど、無表情のまま、だ。
感情の発露そのものが封殺される。

 この先3Dゲームがさらに一般化し、さらにそれが進んで、ゲーマーがゲームの世界
そのものの中に入りこむような機器も開発されるようになる。
視覚器官、聴覚器官を通さず、情報が直接脳に信号として伝達される。
そうなれば、(現実)と(バーチャルな世界)の区別そのものが、できなくなる。
つまりそういう時代は、すぐそこまできている。

 ゲーム中毒も、メカニズム的には、ニコチン中毒やアルコール中毒と同じに考えてよい。
もう少しわかりやすい例としては、買い物依存症、パチンコ依存症などがある。

が、この日本では、その一方で、「ゲームは無害です」「ゲーム脳などというものは、
ありません」などということを主張する学者もいたりして、訳がわからない。
またそういう学者ほど、この世界では「神様」のように、あがめられている。
本来なら、心理学者と呼ばれている人が、この問題に真正面からぶつからねばならない。
が、そういう人たちも、その筋の若者たちからの反撃を恐れて、この問題には触れた
がらないようにも見える。
私にはそう見える。

 改めて、「このままでいいのか?」という疑問だけを繰り返す。
「このままでいいのか?」。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ゲーム脳 ゲーム中毒 ゲーム依存症)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●怒り(1)

++++++++++++++++++++++++++

ものを盗めば、窃盗罪!
原稿を盗めば、これまた窃盗罪!

++++++++++++++++++++++++++

2つの原稿を、読み比べてみてほしい。

【X】は、某防犯協議会のHPに掲載されている、原稿である。
(当該HPに記載されている電話番号に、電話をしたら、
X県の警察本部の担当官が、電話口に出て、応対した。)

【はやし浩司の原稿】は、私がすでに雑誌や新聞、HPなどで
発表した原稿である。

なお、当該HPに対しては、つぎのような質問状を送付した。

++++++++++++++++++++++++++

●2010年7月5日午前9時発信のメールより

「●貴殿のHP(親の役割中の)掲載の原稿について、
 
(1)「許して忘れる」
(2)「友を責めるな、行為を責めろ」
(3)「子どもの叱り方」
(4)「子育ては本能ではなく、学習である」
(5)「子どもの社会適応性」ほか
 
などの原稿は、小生がすでに書籍、新聞、自己のHPで紹介した記事に、
内容、文章が、きわめて酷似しています。
まったくそのままという文章、前後を入れ替えた文章、ならびに
簡略化した文章、さらには、わざわざ会話文を、「関西弁」に改変した
文章が見られます。
 
(1)いかなる経緯で、また(2)だれの許可を得て、このような文章が、
貴殿のHPに掲載されるようになったかについて、
至急、返事と、回答をお願いします。
 
 
(貴殿のHPに掲載された文章)と、(私が過去に発表した文章=書籍、
新聞など)は、当方のBLOGに並べて掲載しておきます。
 
ここに私が書いたことに疑いをもたれるなら、そちらを読み比べていただき、
ご自身で、判断してください。
 
 
なおBLOGは、これからUPOLOADしますので、
しばらく後に、再度、貴殿宛に送信します。
 
 
はやし浩司」
 
++++++++++++++++++++++++++

【X掲載の原稿】

和解により削除

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++






【はやし浩司の原稿】(静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」掲載記事より)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/522230403/" title="img092 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm1.static.flickr.com/239/522230403_
eccb8c39e2_b.jpg" width="728" height="1024" alt="img092" /></a>


<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/522230407/" title="img093 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm1.static.flickr.com/206/522230407_
d49c52b481_b.jpg" width="728" height="1024" alt="img093" /></a>

***************************************
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



【はやし浩司の原稿】中日新聞社刊行「子育て子育ての最前線のあなたへ」2000年6月発表
(この本は、それ以前までに、中日新聞に連載されたコラムを書籍化したものです。)


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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4762395404/" title="img057 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4122/4762395404_
1a024e945c_b.jpg" width="693" height="1024" alt="img057" /></a>


<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4761761595/" title="img058 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4139/4761761595_
5ecf486a90_b.jpg" width="693" height="1024" alt="img058" /></a>


<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4762395780/" title="img059 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4102/4762395780_
e688b3bc30_b.jpg" width="693" height="1024" alt="img059" /></a>


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*************************************

●怒り(2)

++++++++++++++++++++++++++

2つの原稿を、読み比べてみてほしい。

【X】は、某防犯協議会のHPに掲載されている、原稿である。
(当該HPに記載されている電話番号に、電話をしたら、
X県の警察本部の担当官が、電話口に出て、応対した。)

【はやし浩司の原稿】は、私がすでに雑誌や新聞、HPなどで
発表した原稿である。

なお、当該HPに対しては、つぎのような質問状を送付した。

++++++++++++++++++++++++++

●2010年7月5日午前9時発信のメールより

「●貴殿のHP(親の役割中の)掲載の原稿について、
 
(1)「許して忘れる」
(2)「友を責めるな、行為を責めろ」
(3)「子どもの叱り方」
(4)「子育ては本能ではなく、学習である」
(5)「子どもの社会適応性」ほか
 
などの原稿は、小生がすでに書籍、新聞、自己のHPで紹介した記事に、
内容、文章が、きわめて酷似しています。
まったくそのままという文章、前後を入れ替えた文章、ならびに
簡略化した文章、さらには、わざわざ会話文を、「関西弁」に改変した
文章が見られます。
 
(1)いかなる経緯で、また(2)だれの許可を得て、このような文章が、
貴殿のHPに掲載されるようになったかについて、
至急、返事と、回答をお願いします。
 
 
(貴殿のHPに掲載された文章)と、(私が過去に発表した文章=書籍、
新聞など)は、当方のBLOGに並べて掲載しておきます。
 
ここに私が書いたことに疑いをもたれるなら、そちらを読み比べていただき、
ご自身で、判断してください。
 
 
なおBLOGは、これからUPOLOADしますので、
しばらく後に、再度、貴殿宛に送信します。
 
 
はやし浩司」
 
++++++++++++++++++++++++++

【X掲載の原稿】

和解により、削除


(この原稿中に出てくる「代償的愛」という言葉は、私(はやし浩司)自身による造語です。)

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【はやし浩司の原稿】




<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4762459618/" title="img067 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4095/4762459618_
ee3a1f3f09_b.jpg" width="757" height="1024" alt="img067" /></a>


【はやし浩司の原稿】

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/04/imgd94a18e7zikezj.jpeg
" width="675" height="1105" alt="img064.jpg">

<br/>


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/05/img012f1496zik6zj.jpeg
" width="675" height="1105" alt="img065.jpg">


<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/06/imga2c90ebazikezj.
jpeg" width="675" height="1105" alt="img066.jpg">


***************************************
***************************************

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

http://www.youtube.com/watch?v=_9q3H32q49o


http://www.youtube.com/watch?v=7f7_Vmzfc4I


http://www.youtube.com/watch?v=NFTCSsJr0Qo


http://www.youtube.com/watch?v=AVi8OE6xeuk


http://www.youtube.com/watch?v=yQk3LUkGML4

+++++++++++++
小2

http://www.youtube.com/watch?v=tnM37tPge8A

++++++++++++++++++

Kenta & Takumi

http://www.youtube.com/watch?v=S2kwg3JQKnc


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【ひとつの経験】

●盗作・盗用

+++++++++++++++++++++

昨夜は、午前0時ごろまで、眠られなかった。
怒りで、体がほてった。
一度、精神安定剤をいつもの2倍、のんだ。
そのあと、睡眠導入剤を、やはりいつもの2倍、のんだ。

今朝は、そのせいか、午前8時過ぎまで、眠った。
が、目を覚ますと同時に、また体がほてり始めた。

++++++++++++++++++++++

●自分の原稿

 自分の書いた文章かどうかは、一読すれば、わかる。
何千枚書いていようが、何万枚書いていようが、すぐわかる。
原稿というのはそういうもの。
盗作する側は、「そんなにたくさん書いているなら、わからないだろう」と
思うかもしれない。
しかしそれは誤解。
一読すれば、すぐわかる。

●盗作の証明

 しかしそれを盗作と証明するのは、たいへんむずかしい。
むずかしいというより、めんどう。
まずその元原稿を、さがさなければならない。
書庫をひっくり返すような、大作業。
が、元原稿が見つけるだけでは、すまない。
書いた日付のはっきりしたものでなければならない。
相手が、「私のほうが先に書いた」と主張すれば、こちらとしては
打つ手がない。
しかもその相手というのが、巨大な組織であればなおさら。
日付がはっきりしなければ、盗作疑惑が、逆に私のほうに向けられる。

●証拠能力

 今回、元原稿をさがすにあたって、ひとつのことに気づいた。
ネットで発表した原稿には、証拠能力がないということ。
日付の特定が、むずかしい。
特定するのは、不可能ではないが、たいへんむずかしい。
仮に見つかったとしても、日付など簡単に上書きができる。
元原稿の証拠とするには、さらにいくつものステップを踏まなければ
ならない。

 ただ電子マガジンのばあいは、削除はできるが、改作できないものが
多い。
が、それでも日時が特定されたことには、ならない。
電子化された文字の弱みは、ここにある。

 が、さらに問題はつづく。

●盗作

 たとえば10年前に『許して、忘れる』というテーマについて書いたとする。
新聞にも発表し、そのあと本にもした。
が、そこでそれについての原稿が完成したわけでない。
そのあと、同じテーマで何度も書いたとする。
当然、内容も、そのつど少しずつ変化する。

 で、そういう「変化した」原稿がそのまま盗作されたとする。
こういうとき、証拠として出した元原稿と、内容が大きくとは言わないが、
同じであっても、「同じ」とは言いにくい。

 相手が、「同じではない」と主張すれば、どうやってそれに反論すれば
よいのか。

●不快感

 盗作されるのは、不愉快。
本当に不愉快。
どう不愉快かは、盗作されたものでないとわからないだろう。
何も悪いことをしたのではないのだが、神経をすり減らす。
昨夜は、客人が3人来た。
いっしょに食事をした。
が、私は、ほとんど何も食べられなかった。

 一方、盗作する側はどうなのか。
最初電話に出た担当者(N県警察本部の役人)は、かなり高姿勢だった。
「証拠が明確でない」
「原稿を書いたライターの責任」というようなことを言った。

 しかしこういう言い方は、私を怒らせる。
だから私は、2つの原稿を、電話口で読み合わせてやった。
「こちらが、あなたがたのHPに載っている原稿です」
「これから読むのが、私が本に書いた原稿です」と。

 こうしたやりとりが、1時間近くもつづいた。

●弁護士

 弁護士をしている友人のK君に、連絡を取った。
すぐ会ってくれた。
で、こう言った。
「弁護士を入れるかどうか、50、50だな」と言った。
「相手が高飛車なら、入れろ。徹底的に闘え。しかし穏便に話し合いが
つくようなら、必要ないな」と。

 まずは、様子見というところか。
弁護士が入れば、当然費用という点で、慰謝料の請求、損害賠償の請求とつづく。
弁護士も、ただでは仕事をしない。

 が、私とて、こうしたトラブルは、避けたい。
その一方で、盗作、盗用が、あまりにも多い。
「個人」の世界では、日常茶飯事と言ってもよい。
ネットの世界では、とくにそうだ。
(コピー)(張り付け)が簡単にできる。
その分だけ、罪の意識が薄い。

●著作権

が、このままでよいとは、だれも思っていない。
だれかが、どこかで歯止めをかけなければならない。
盗作は、窃盗である。
立派な窃盗である。
つまり、ドロボー。
「すみません」ですむような話ではない。
またそれですませてはいけない。

●正義感

 正義感とは、何か。
その前に「正義」とは何か。

 たまたま今回は、元原稿がしっかりしていた。
新聞で発表済みの原稿や、本に書いた原稿が多かった。
(そうでないものも、あったが・・・。)

 もしそうでないなら・・・。
つまり私がただの物書きだったら、どうか?
証拠となるような、元原稿さえないような人間だったら、どうか?
相手は証拠がそろわないことをよいことに、「盗作はしていない」と
言い張るかもしれない。
いろいろ考えているうちに、不快感だけが、頭の中で増幅する。

 正義を貫こうとする私。
「どうでもいいや」と投げやりになる私。
その2人の「私」が、頭の中で交互に現れては消える。
やはり弁護士のK君が言うように、「相手の出方しだい」というところか。

●悪質性
 
 こんどの盗作は、ふつうの盗作ではない。
悪質。
文章を切り張りしながら、前後を入れ替えている。
あちこちから私の原稿を寄せ集めている。
会話文を、わざと関西弁に書きなおしている。
部分によっては、私の原稿を、句読点まで含めて、そっくりそのまま
というところもある。

 それでいて、文末には、「Copyright All Reserved」と。
「すべての著作権は、当HP(警察本部)にある」という意味である。
で、今朝の電話では、当該HPは、すでに10年の歴史があるという。
「10年以上、盗作されたままだった」と考えられなくもない。
その多くは、私が10年ほど前に書いた原稿である。

●空しさ

 私は2000年を過ぎるころから、無料で原稿を公表してきた。
「無私、無欲」。
それが私のモットーだった。
私の生きがいにもなっていた。

 だからそういう公的な機関からの依頼があれば、むしろ積極的に
原稿を提供してきたであろう。
(もちろん「はやし浩司」のクレジットは守ってもらう。
原稿の改変は許さない。)

 そういう私であることをよいことに(?)、私の原稿を盗作する。
そのせいだろうか。
私は今、心から力が抜けてしまったかのような空しさを覚える。

●法の番人

しかも相手は、法を守るべき、その番人。
その番人が、法を破って、弱者である私の原稿を盗作する。
はがゆいのは(?)、私は警察に対して、敵意がないこと。
私は日本の警察を信頼してきたし、今までも、たいへん協力的だった。

 怒りがあるはずなのに、その(怒り)が、警察に向かったとたん、
途中で消えてしまう。
(怒り)がつづかない。
怒っているはずなのに、(怒り)がつづかない。
私の警察への信頼感というより、親しみは、今回の盗作だけでは、
消えない。

●好意

 しかしなぜそうまで露骨な盗作をしたのか?
それを考えているうちに、やがてその向こうに、「好意」のようなものを
私は感ずるようになった。

 ライターは、私の文章が気に入った。
だから、盗作した。
悪意からというよりは、私の文章に惚れてくれた。
言い換えれば、私のファンということになる。

望ましくない人だが、悪人ではない。
それにそのHPは、公的機関が発行する、公的なもの。
どこかのインチキ医師が、ライターを雇って本を書かせるのとは、
基本的な点で、姿勢がちがう。
(そういう医師がいるぞ!)

●さて、どうするか。

 ワイフの結論は、「弁護士を通しましょう」ということらしい。
私は、迷っている。
わずらわしいことは、できるだけ避けたい。
若いときならまだしも、そういう点では、盗作するひとたちの罪は重い。
被害者のほうが、かえって不愉快な思いを強いられる。
で、私は、こう考える。

 もし立場が逆だったら、どうだろうか、と。
相手は許してくれるだろうか、と。
「法の番人」である以上、それはないだろう。
ショッピングセンターの店長が、万引きを見逃すのとは、わけがちがう。

・・・などなど。

●結論

 7月6日。
担当者から、朝、2度も電話がかかってきた。
1度目は無視した。
2度目は出た。
誠意が感じられた。
私の決意はぐらついた。
弁護士との約束の時刻が近づいていた。

 どうしようか?

 何度も私は「まだ覚悟が決まっていませんから」と言った。
そのころになると、(怒り)は消えていた。
相手が警察では、先にも書いたように(怒り)もつづかない。
どこかのカルト教団とか、あのK国とかなら、猛烈な(怒り)を覚えた
だろう。
1時間近くも話しているうちに、相手の誠意に包まれてしまった。
何かのミスでそうなってしまった。
それがよくわかった。
刑法でいう、「犯意の認定」ができない。

 横でワイフが、「(弁護士との)約束の時間よ」とサインを送ってきた。
とたん、「やめた!」となった。

●平穏な生活
 
 こうして私の生活は、再び平穏になった。
ざわついた騒音が消えた。
心のどこかで、「これでいいのかなあ」という思いは残った。
正義を握りつぶしたような不快感は残った。
しかしそれもすぐ消えた。

 やはり心穏やかな生活のほうこそ、重要。
ストレスは体に悪い。
・・・というより、あれほどダイエットに苦労していたが、この
2日で、2キロも体重が減った。
ワイフは、「怪我の巧名ね」と言って、笑った。
「そうだな」と言って、私も笑った。

●盗作する人へ 

 盗作は立派な犯罪。
窃盗罪。
そういう認識を、しっかりともってほしい。
引用するならするで、しっかりと引用先を明記する。
出典先を明記する。
これはものを書くときの常識。

 実のところ、私の原稿も、あちこちで盗作、盗用されている。
巧みに盗用され、本になっているのもある。
10数万部以上も売れているのもある。
しかし優秀な(?)ライターほど、尻尾をつかまれるような文章を書かない。
いろいろな手法を使う。

いちばん簡単な方法は、盗んできた原稿に、さらに専門用語を付け足して、
元の原稿をカモフラージュするというもの。
瓶詰めのワサビダコを、九谷焼の小物に入れて、その上に珍しいトッピング
をかける。
それを会席料理として出す。
そういう手法を使う。

 しかし見抜ける人には、見抜ける。
私にも見抜ける。
一般の人にはわからないかもしれないが、文章というのはそういうもの。

 台所の椅子に座っていたら、心地よい睡魔が襲ってきた。
どこかで空腹感を覚えながら、私はそのままうたた寝をしてしまった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 盗作 盗作劇 ある盗作 原稿の盗用)

(補記)

●TWという作家

少し前、TWという作家が死んだ。
私と同年齢だった。
彼はマスコミに発覚しただけでも、2度も、盗作事件を引き起こしている。
2度目のときは、「執筆者に(示談で)許してもらえました」と、テレビ
カメラに向かって、泣きじゃくっていた。

 私の経験からしても、盗作ができる人というのは、相当の悪人と考えて
よい。
とくに(もの書き)と呼ばれる人なら、なおさら。
(もの書き)は、自分の魂を文に織り込む。
盗作するということは、自分の魂を捨てることを意味する。
自己否定そのものと言ってもよい。
それが平気でできる。
魂が腐っている。
つまり他人を裏切るのも、平気。

 また2度も発覚したということは、盗作の常連者と考えてよい。
それがものを書くときの手法として、定着している(?)。
そう疑われてもしかたない。

 この私は・・・と書くのも、はばかれるが、それほどの善人ではない。
しかしこと文章に関しては、そこに魂をこめる。
それゆえに、「盗んだら、おしまい」。
いつも自分にそう言って聞かせている。

 だからもしみなさんが、どこかで私の書いた文章と似たような文章、
あるいは私の哲学と似たような哲学をもった文章に出会ったら、まず、
相手のほうを疑ってほしい。
(同時に、私に知らせてほしい。)
私は無名の、しがない(もの書き)だが、心意気だけは、人一倍高い!
 

Hiroshi Hayashi++++++July 2010++++++はやし浩司

●内罰型(内責型)vs外罰型(外責型)

++++++++++++++++++

あなたは内罰型か、それとも外罰型か。

それによって、あなたの性格は、おおきく
ちがってくる。

++++++++++++++++++

●絶妙なバランス

 子育ては絶妙なバランスの上に成り立っている。
ほんの少しそのバランスがずれただけで、子どもはちがった性質を示す。
そのことは、双子の子どもをみると、わかる。

 両親の接し方は、ほぼ同じ。
育児姿勢も、ほぼ同じ。
環境は、もちろん同じ。

 が、それを受け止める子どもは、それぞれ。
もちろん子どもどうしの影響もある。
しかしときとして、正反対の性質をもつことがある。
ほんのわずかな(差)。
それを「絶妙なバランス」という。

●M君とHさん

 M君とHさん。
ともに小学5年生。
双子。
母親が私の教え子だったということで、この2人については、話しやすい。
母親は、天才的な頭脳の持ち主で、地元の進学校から国立大学の医学部へ推薦で、
入学している。

 中には遺伝的影響を否定する人もいる。
多分に「悪い要素は遺伝しない」という意味で、そう言う。
しかし頭のよい親の子どもは、頭がよい。
そうでない親の子どもは、そうでない。
M君とHさんは、学校でも、めったに100点以外は取らない。
勉強癖がしっかりしていることはある。
かと言って、ガリ勉タイプではない。

●内罰型vs外罰型

 が、M君とHさんは、性格が正反対。
どう性格をみるかにもよるが、M君は内罰型。
内責型ともいう。
一方、Hさんは外罰型。
外責型ともいう。

 簡単なテストをしてみよう。

 あなたが子どもだったころを、思い出してみてほしい。
そのあなたが、不注意でテーブルの上のお茶をこぼしたとする。
そのとき母親の鋭い視線が飛び込んできた。
そういうとき、すかさず「ごめんなさい。私が不注意だった」と、自分に責任を
求めるだろうか。
そういうタイプを、内罰型(内責型)という。
反対にすかさず、「こんなところにお茶を置いておいた、お母さんが悪い!」と、
責任を他人に転嫁するだろうか。
そういうタイプを、外罰型(外責型)という。

 内罰型であるか、外罰型であるか。
この両者は、おもしろいほど2つのタイプに、明確に分かれる。
中間型の人というのは、ほとんどいない。
一度あなた自身のこことして、確かめてみるとよい。
(ちなみに、私はこうして評論ばかりしているが、内罰型。
どうでもよいことだが……。)

●微妙な差

 もし環境や親の育児姿勢が、子どもの性格を決定するというのなら、M君と
Hさんは、同じような性格になったはず。
あるいはたがいの微妙な(差)が、それ以後の成長過程で、極端化したのかも
しれない。
能でいう、ワキとツレ?
どちらか一方が凸になり、どちらか一方が凹になる?
たがいに役割分担をし、補完し合うようになる?

 ただ興味深いのは、見た目にはM君は行動的で積極的。
とても内罰型には見えない。
一方Hさんはもの静かで、沈思黙考型。
とても外罰型には見えない。
わかりやすく言えば、M君は、「やんちゃ坊主風」。
Hさんは、「姉さん女房型」。
見た目と正反対。

 2人は心底信頼しあっている夫婦のように、仲がよい。
たがいにたがいを、よく助け合う。
たとえばM君が、おもちゃのバットを見つけたとする。
そのM君が喜ぶように、Hさんは、ボールを投げてみせたりする。

●母親

 母親については、私の教え子だったこともある。
まれに見る聡明な女性だったこともある。
印象も強く残っている。

 行動的でもちろん、頭のキレもよい。
ただ内罰型だったのか、外罰型だったのかは、わからない。
当時の私には、そういう知識はなかった。
私が推理するところ、Hさんと同じ、外罰型ではなかったか。
こういうケースのばあい、女性である母親は、男である息子の教育にとまどう。
その(とまどい)が、支配的になることが多い。

 半面、女である娘は、女性である母親の理解を得て、力を得やすい。
より自由な雰囲気で、成長する。
母親の気楽さが、娘によいほうに作用する。

●子どもの性質

 話がまとまらなくなってきた。

 つまり私が書きたいことは、内罰型であれ外罰型であれ、それは微妙な(差)で決まる
ということ。
最初は、ほんの小さな分かれ道だったかもしれない。
その分かれ道が、時間の経緯とともに、どんどんと広がり、固定化する。
その(差)が、子どもの性質に大きな影響を与える。

 ここに書いた内罰型の人は、あらゆる面で内罰型になり、生活面においても、大きな
影響を与える。
外罰型の人にしても、そうだ。
 
 ただし一言。
この問題は、どちらがよいかということには、つながらない。
ただ一般的に言われていることは、外罰型の人は、うつ病にはなりにくいということ。
反対に内罰型の人は、うつ病になりやすいということ。
何か問題が起こるたびに、自分を責める。
それが心の中にうっ積して、うつ病を引き起こす(?)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 内罰 外罰 内責 外責 内罰型 内罰型人間 外責型 外責型人間)

++++++++++++++

2007年11月に書いた
原稿を添付します。
この中に出てくる双子の兄弟というのは、
先に書いた双子の兄弟と同じ兄弟です。

++++++++++++++

●他責型人間vs自責型人間

+++++++++++++++++

何か問題が起きると、すぐ「あいつが
悪い」「こいつが悪い」と訴える人がいる。

このタイプの人を、他責型人間という。

一方、何か問題が起きると、すかさず、
「ごめんなさい」「すみません」と、
謝る人がいる。

このタイプの人を、自責型人間という。

「他責型人間」「自責型人間」というのは、
私がつけた名前である。

+++++++++++++++++

 先日、「PーFスタディと呼ばれるテスト法」について、原稿を書いた。投影法の一種で、心の
中の欲求不満がどこにあるかを調べるための、テスト法である。

 私の教室でも、30〜40人の子どもについて、それを調べてみた。結果、おもしろいことがわ
かった。

【テスト法】

 「昨日はキミが遊びに来たから、今日のテストはできなかった」と友だちが言ったことに対し
て、あなたなら何と答えるかを質問。回答を、口頭で言わせたり、作文させたりする。

 このテストで、

(1)他責型人間は、どこまでも相手が悪いと主張し、自分への責任を回避する。
(2)自責型人間は、自分の非をすなおに認めて、自分に責任があるとして謝罪する。

 その間にあって、だれの責任でもないとあいまいにしてすませてしまうタイプを、無責任型人
間というが、ここでは考えない。

 このテストは、別名「絵画欲求不満テスト」(「臨床心理学」・稲富正治著)とも呼ばれている。
つまり心の奥底に潜む、欲求不満の原因が、どこにあるかを、このテストを通して、知ることが
できる。

 たとえば悶々と、いつ晴れるともわからない気分でいたとする。何かわからないが、モヤモヤ
している。不平、不満も多い。すっきりしない。そういうとき、このテストをしてみるとよい。その
原因がどこにあるかを知ることができる。

 欲求不満の原因が他人にあるときは、他人に向かって責任を求める。たとえばこのテストで
は、こう書く。

 「あなたが遊びに来いと言ったから、来た。それをどうして私のせいにするの。そんなのはあ
なたの勝手よ」と。

 一方、欲求不満の原因が自分にあるときは、自分に向かって責任を求める。たとえばこのテ
ストでは、こう書く。

 「ごめんなさい。テストがあるって、私は知らなかった。言ってくれれば、じゃましなかった。気
がつかなくて、ごめん」と。

 このテストをしてみて、とくに私の注意をひいたのは、双子の兄弟(男児と女児、小3)であ
る。見た感じででは、性格は対照的なほど、大きくちがう。

 男児をA君とする。女児をBさんとする。

 A君は活発で、行動派。わんぱく盛りといった子どもである。自己主張もはげしく、どこかわが
まま。いつもどこか、ガサガサしているといったふう。

 それに対してBさんは、慎重派。理知的で、繊細な感覚をもっている。人格の完成度も高い。
聡明。いつも静かに落ち着いている。

 A君は、このテストでは、あきらかに自責型人間と出た。一方、Bさんは、そのB君とは対照的
に、あきらかに他責型人間と出た。私は当初、この結果にとまどった。しかしやがてすぐ、その
背景が理解できた。

 当然のことながら、A君とBさんは、いつも行動をともにしている。通っている学校も同じ。クラ
スも同じ。きわめて接近した関係にある。

 そういう関係の中で、何かにつけて、A君はBさんに、やりこめられている。勉強という面で
は、いつも負けている。

 一方、Bさんは、A君という兄弟をもちながら、いつも手を焼いている。内心では、「あまり自慢
できない弟(兄)」と思っているのかもしれない。A君を、やんちゃな弟とするなら、Bさんは、でき
のよい姉ということになる。(実際には、双子だが……。)

 こういう関係の中で、A君は、自分に対する評価(=自己評価)をさげていった。一方、Bさん
は、自分に対する評価をあげていった。結果、A君は、自責型人間になり、Bさんは、他責型人
間になった。

 わかりやすく言えば、2人の間で何か問題が起きるたびに、A君は、「どうせ、ぼくが悪い」「ぼ
くの責任」と思うようになった。一方Bさんは、「何でも、あなたが悪い」「あなたの責任」と思うよ
うになった。そのちがいが、このテストで、顕著に現れた。

 が、問題がないわけではない。

 他責型人間は、欲求不満の原因を、いつも他人のせいにする。それゆえに、自分の非を認
めない。タイプとしては、姉御(あねご)タイプ。あるいは親分タイプということになる。

 一方自責型人間は、欲求不満の原因を、いつも自分のせいにする。それゆえに、ときとして
自分を必要以上に、過小評価してしまう。子分タイプ。あるいは隷属タイプということになる。

 どちらがよいとか、悪いとかいうことではない。このテストは、あくまでも、心の奥底をのぞくた
めのもの。だからといって、A君に、こうしなさいとか、Bさんに、こうしなさいとかいう類(たぐい)
のものではない。

 しかしこのテストを通して、私は、たいへん興味深いことを発見した。見かけでは、A君は他責
型人間、Bさんは、自責型人間に思っていたからである。つまり心の奥底というのは、その見
かけでは、わからないということ。

 あなたも一度、このテストをして、自分の心の奥底をのぞいてみたらよい。

 ところで、私は自責型人間。私のワイフは他責型人間である。先のA君とBさんの関係と、た
いへんよく似ている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●外責型人間VS内責型人間

+++++++++++++++++

何かのことで、責任を問われたりすると、
「お母さんが悪い」「友だちが悪い」と、
その責任を、他人に転嫁するタイプの子どもがいる。
このタイプの子どもを、(おとなもそうだが〜)、
外責型人間という。

心理学の世界には、「帰属理論」という言葉も
ある。責任をだれに帰属させるかという点で、
同じように、外的帰属型、内的帰属型に分けて
考える。

用語はちがうが、中身は、同じ。

外責型人間=外的帰属型、内責型人間=
内的帰属型ということになる。

このほかに、その中間にあって、責任を
問われても、へらへらと茶化してしまう、
無罰型というのもある。

たとえば子どもがお茶をこぼしたばあいを
考えてみよう。

子どもが部屋を走っていて、たまたまそこに
客に来ていた人の、お茶をこぼしてしまった
とする。

そのとき、「お母さんが、そんなところに
お茶を置くから悪いのよ」と、即座に、
他人のせいにするのを、外責型人間(外的
帰属型)という。

一方、すかさず、「ごめん。私が走っていたから
悪かった」とあやまるのを、内責型人間(内的
帰属型)という。

その中間にあって、ヘラヘラと笑いながら、
「お茶がこぼれちゃった。ぞうきん、ぞうきん!」と、
その場をやりすごしてしまうタイプを、無罰型と
いう。

外責型人間は、それだけ無責任で、責任を
いつも他人に向けるので、ストレスを内に
ためない。

内責型人間は、それだけ責任感が強く、ストレス
を内にためやすい。「まじめ」という評価を受けるが、
社会生活がその分だけ、ぎくしゃくしやすい。

+++++++++++++++++

 これは私たち夫婦のことだが、私のワイフは、完全に、外責型人間。一方、私は、完全に、
内責型人間。まったくタイプのちがう人間が、今、(夫婦)をしている。(あるいは長い時間をか
けて、たがいに分業するようになったのかもしれない。)

 つい先日も、2人で、コンサートに行くことになっていた。しかし会場に行ってみると、コンサー
トはすでに終わっていた。

 「16:00会場、16:30開演」を、ワイフは、「6時会場、6時半開演」と読みまちがえた。それ
を指摘すると、ワイフはすかさず、こう言った。

ワ「あら、このチケット、時間がちがっている」
私「ちがっていない」
ワ「だって、6時なのに、16:00と書いてあるわ」
私「ちがう。お前が読みまちがえた」
ワ「まぎらわしいわね。ちゃんと、午後4時からと書いてくれればいいのに」と。

 私ならこういうケースでは、即座に、あやまる。「ああ、ごめん。まちがえた。16:00会場を、
午後6時会場と思いこんでしまった」と。

 が、ワイフは、その段階でも、まだ自分の非を認めない。私が、「お前は、16:00と午後6時
のちがいもわからないのか」となじると、「だれだって、まちがえること、あるでしょ」「あなただっ
て、この前、講演時間をまちがえたじゃない」と。

 すなおに、「ごめん、まちがえた」と言ってくれれば、私も救われる。が、ワイフはちがう。つま
りワイフのようなタイプの人間を、外責型人間、あるいは外的帰属型という。

 外責型人間は、言い訳がうまく、自分への圧力を、外の世界にかわす。だからストレスをた
めない。うつ状態になることも少ない。

 一方、内責型人間は、自分の中にストレスをためるので、先にも書いたように、責任感が強
い分だけ、うつ状態になることも多い。

 そこであたた自身は、どうかということ。少し前に書いた原稿を、そのままここに転載する。

********絵画欲求不満テストより***********

【友だちに、あなたはこう言われた。「昨日は君が遊びに来たから、ぼくは(私は)今日のテスト
ができなかった」と。そのとき、あなたはどう言い返すだろうか?】(「絵画欲求不満テスト」(「臨
床心理学」・稲富正治著より)

******************************

★A(小3・男児)「ごめんね。キミとあそびたかったもんで、あそびにいきたかったんだ。ほんと
うに ごめんね」(自責・固執型)

☆B(小3・女児)「しょうがないじゃん。キミがあそびに きてっていったから、いったんだよ。ボ
クのせいじゃ、ないよ。それにボクと いっしょに やらないから わるいじゃん。それに、キミ 
めんどくさいって いったじゃんか」(他責・固執型)

★(小2・男児)「キミがあそびにくるっていったからだよ」(他責・固執型)

★(小2・男児)「ごめんね。ぼくのせいでテストができなくて、ごめんね。でもぼくだって、あそび
たかった。けれど、きみだって、テストがあるって、言ってくれればよかった」(自責・逡巡型)

☆(小3・女児)「ごめん。きのうあそびにいったから、きみがきょう、テストができなかったんでし
ょ。本当にごめん」(自責・固執型)

★(小3・男児)「なぜ、ぼくのせいにするの」(他責)

★(小3・男児)「そんなこというなよ。いやだな。ぼくそういうこと言われると、気ぶんがわるくな
るんだけど」(他責・逡巡型)

★(小5・男児)「なんで? そんなの ぼくがなんで おこられるの。ぼくが帰ってから べんきょ
うすればよかったじゃん。これからは ぼくにもんくを つけないで」(他責・固執型)

★(小5・男児)「なんで ぼくが わるいんだよ。遊びにきたからじゃ ないよ」(他責・固執型)

★(小6・男児)「人のせいに するなよ。なら、約束しないか、早めに帰らせれば、よかったじゃ
ないか」(他責・固執型)

++++++++++++++++

 ざっと読んだところ、子どもの世界では、「多責・固執型」が目立つ。他人のせいにして、どこ
までも自分には責任がないとがんばるタイプである。

 この中で「オヤッ」と思ったのは、最初のA君と、Bさんの回答である。双子の兄弟だが、A君
は、やんちゃな、わんぱく少年といった感じ。そのA君とは対照的に、Bさんは、思慮深く、静か
な落ち着きのある優等生といった感じ。精神の完成度も高い。

 そのA君が「ごめんね」とあやまる、(自責・固執型)であるのに対して、Bさんが、相手を責め
まくる、(他責・固執型)であるということ。常識で考えれば、それぞれが反対の回答を書いたと
しても、おかしくない。

 A君のもっている深層心理と、Bさんがもっている深層心理に迫ったのではないかという点
で、たいへん興味深かった。

 なおこの(PーFスタディ)では、

(1)他責型(相手の責任を追及する)
(2)自責型(自分の非を認め、謝罪する)
(3)無責型(どちらの責任でもないとする)の3つに分けて考える。

 さらにそれぞれの内容を、

(1)逡巡型=障害優位型(あいまいで、迷いのあるタイプ)
(2)自我防衛型(相手や自分を罰することによって、自分を守る)
(3)固執型=要求固執型(どこまでも、相手か自分が悪いと、固執する)の3つに分けて考える
(同書)。

 計9タイプの子ども(おとな)に分けて考える。

 さて、あなたの子どもは、どんな回答をするだろうか。一度、家庭で試してみるとおもしろい。

 なおこのテスト法は、もともとは、欲求不満の原因がどこにあるかを知るためのものである。

 欲求不満の原因は、大きく分けると、2つに分類される。

(1)自分自身の中に原因があって、それが欲求不満の元となっているケース。
(2)自分自身の外に原因があって、それが欲求不満の元となっているケース。

 前者を、「超自我阻害場面」、後者を、「自我阻害場面」という(同書)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 PーF
スタディ PFスタディ 絵画欲求不満テスト はやし浩司 外責型人間 内責型人間 帰属理論
 外的帰属型 内的帰属型 「絵画欲求不満テスト」(「臨床心理学」・稲富正治著) 


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●人間の性格

++++++++++++++++++++++

PーFスタディでは、

(1)他責型(相手の責任を追及する)
(2)自責型(自分の非を認め、謝罪する)
(3)無責型(どちらの責任でもないとする)の3つに分けて考える。

 さらにそれぞれの内容を、

(1)逡巡型=障害優位型(あいまいで、迷いのあるタイプ)
(2)自我防衛型(相手や自分を罰することによって、自分を守る)
(3)固執型=要求固執型(どこまでも、相手か自分が悪いと、固執する)の3つに分けて考え
る。

 計9タイプの子ども(おとな)に分けて考える(以上、「絵画欲求不満テスト」(「臨床心理学」・
稲富正治著より)。

 さて、あなたの子どもは、どんな回答をするだろうか。一度、家庭で試してみるとおもしろい。

 なおこのテスト法は、もともとは、欲求不満の原因がどこにあるかを知るためのものである。

 欲求不満の原因は、大きく分けると、2つに分類される。

(1)自分自身の中に原因があって、それが欲求不満の元となっているケース。
(2)自分自身の外に原因があって、それが欲求不満の元となっているケース。

 前者を、「超自我阻害場面」、後者を、「自我阻害場面」という(同書)。

+++++++++++++++++++++++

●なぜ、こうした性格に分かれるか

 PーFスタディで興味深いのは、またそこまでPーFスタディでは
踏み込んでいないが、なぜ、こうした性格に分かれるかということ。
遺伝説、環境説の2つが考えられるが、(性質)そのものは、遺伝的要素による
影響を無視することはできない。

 たとえば幼児のばあい、敏感性、鈍感性(知的能力をさすのではない)などの「質」は、
遺伝的要素によって大きく影響を受ける。

 が、外罰型(外責型)、内罰型(内責型)については、生後の家庭環境が大きく
影響していると考えてよい。
そのことは、今まで書いてきた、双子の兄弟(兄、妹)の例をみればわかる。

 もしこうした性格のちがいが、環境によるものならば、つぎにどのような環境で、
子どもたちがどのような性格をもっていくようになるか。
それがわかれば、「私」を知る手がかりを得ることにもなる。

 「私」は、いつ、どのようにして「私」になったのか?

●自責型の逡巡型

 稲富正治著「臨床心理学」の分類法によれば、私(=はやし浩司)は……

(1)自責型の(2)逡巡型ということになる。

 自分を責めながらも、同時にそのつど迷う。
おそらく自責型になったのは、乳幼児期前後にその方向性が決められたせいではないか。
私は子どものころ、そして大学生のころまでは、自責型だった。

 その私に変化が見られるようになったのは、「私」が何であるかわかり始めた、大学生
以後のことではないだろうか。
それまでの私は、批判力も弱く、だれにでもシッポを振るようなタイプの人間だった。
宗教団体からの誘いがあれば、そうした会合にも出た。
学生運動への誘いがあれば、そうした運動にも参加した。
一時は、ヤクザの世界にも、あこがれた。
深い考えがあって、そうしたのではない。
付和雷同、まさにそのものだった。

 が、「それではいけない」と、(しかしそのように意識した記憶はないが……)、現在の
逡巡型になっていった。
つまり乳幼児期に形成された「内罰型(内責型)」を基本に、その後の環境の中で、逡巡型
へとなっていった。
もちろん逡巡型になるについては、私の不幸な家庭環境が大きく影響している。
(それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

●「私」とは?

 こうしてながめていくと、その向こうにおぼろげながら、「私」が見えてくる。
つまり「私」の中には、(私であって私でない部分)がたくさんある。
大部分が、そうではないか。
その(私であって私でない部分)を、「私」から引いていく。
残った部分が「私」ということになる。

 ……といっても、その正体をつかむのは、むずかしい。
入り込めば入り込むほど、その先が混沌としてくる。
原型のようなものが、見えなくはないが、しかし「形」があるわけではない。
心理学の教科書のように、分類できるものでもない。
暗闇に包まれている。

 いったい、それは何なのか……。
というところで、この稿をいったん、停止する。
このつづきは、場所を変え、気分を変えて、考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 PーFスタディ 私とは 「私」論)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【老齢期論】(さわやかに老齢期を生きるための鉄則論)

●居直って生きる

 クヨクヨ悩まない。孤独、喪失、不安……。老齢期では、避けようもない。
避ける方法もない。だったら、仲よく生きる。居直って生きる。孤独、当たり前。
喪失、当たり前。不安、当たり前、と。そこに運命を感じたら、受け入れる。
とたん、目の前に道が見えてくる。


●のたれ死に

 道路でのたれ死ぬことを恐れない。心配しない。またそれでもって、人生の
敗残者と思うことはない。動物はもちろん、古今東西、ほとんどの人は、そういう
死に方をしている。またそれがふつう。大切なのは、どう死ぬかではなく、それまでに、
どう生きるか。


●運命

 人にはそれぞれ無数の「糸」がからんでいる。社会の糸、家族の糸、過去の糸などなど。
そうした「糸」が、ときとしてあなたの進むべき道を決める。それを「運命」という。
その運命を感じたら、逆らわない。受け入れる。逆らえば逆らうほど、運命はキバを
むいてあなたの襲いかかってくる。


●脳みその穴に注意

 老齢期に入ると、脳みその底に、穴があいたような状態になる。そこから知恵や知識が
容赦なく、こぼれ落ちていく。10年一律のごとく、同じような話や会話をするように
なったら、要注意。話題の幅が狭くなったら、要注意。話の内容が浅くなったら、要注意。
ユーモアのセンスがなくなったら、要注意。


●愚痴(ぐち)を言わない

 愚痴を言わない。イヤミを言わない。不平不満を口にしない。
同時に愚痴を聞かない。イヤミに同意しない。不平不満は、聞き流す。
愚痴(Complainment)は、それ自体が精神疾患の主症状(アメリカ)になっている。
愚痴をこぼす人は、それだけで精神が腐っている。そう判断して、相手にしない。


●人を選ぶ

 老齢期に入ったら、つきあう人を選ぶ。つねに邁進し、愚劣な人は避ける。
切り捨てる。人間関係をさわやかにする。
老齢期になると、その人の人生観が集大成される。生き様が確立される。
それを適確に判断して、少人数の人と、深く静かに交わる。


●過去を悔やまない

 過去の「損」にこだわらない。今、ここに生きている価値を認める。
息ができる。ものが聞こえる、見える。歩くことができる。話せる。
その価値を認め、そこに生きる原点を置く。「損」という言葉は使わない。
「損をした」という話は、それ自体が人生の敗北を認めることになる。


●運動するという習慣

 大切なのは「運動」ではなく、「運動するという習慣」。
その習慣があれば、よし。そうでなければ、10年単位で、作る。
とくに重要なのが、腰と膝(ひざ)。腰と膝が、老後の健康を決める。
取って付けたような運動は、かえって健康を損ねる。


●今日があって明日がある

 今日がんばれば、明日がある。今週がんばれば、来週がある。
今月がんばれば、来月がある。今年がんばれば、来年がある。
それを心に刻みながら、「今」がんばる。とくに健康については、そうで、
けっして「今」をさぼらない。


●ボケ防止

 もっとも有効なボケ防止策は、(それでもボケる人はボケるが)、「障子を
開けて、外に出る」(豊田左吉、改)。音楽を聴き、絵画を楽しみ、旅行をする。
努めて、つまり無理をしてでも、外に出る。人と交わる。新しい情報を
手に入れる。それを日常生活の中で、習慣化する。


●前向きに生きる

 老後の先細り感は、どうしようもない。解決のしようもない。
すべてが、先細り。健康も、仕事も、人間関係も、そして名誉、地位も。
つまりクヨクヨ悩んでも、しかたない。あきらめ、受け入れる。
そこを原点に、今、そこにあるものに向かって、前向きに生きる。


●流水は腐らず

 人、とくに若い人たちとの接点を失わない。仕事ができれば、喜び、感謝する。
老後の仕事は、金儲けのためではない。金を払ってでも、仕事をつづける。
水がよどめば、そこで水は腐る。同じように、生活から(流れ)が消えると、
そこで精神が腐る。


●「頭とシッポはくれてやれ」(某経済誌)

 老後は、ケチケチしない。「頭とシッポはくれてやれ」(某経済誌)。
その気前のよさが、人間関係をさわやかにする。わかりやすくする。
老人のケチほど、見苦しいものはない。友を遠ざける。万事、質素に。
それ以上のものは、人に「くれてやれ」。


●ウソをつかない、ルールを守る

 老齢期になったら、ウソをつかない。ルールを守る。この2大鉄則を守る。
(今回の選挙で、どこかの政党がこの言葉を使っている。私は10年以上も
前から、本に書いている。)
ウソをつきたくなったら、黙っていればよい。ルールを破りたくなったら、
静かに立ち止まっていればよい。


●食べたら損(そこ)ねる

 食物を前にしたら、常に、「食べたら損(そこ)ねる」を、心の中で念ずる。
少食を旨とし、決してむさぼらない。体重も、平均体重x0・8程度を基準とする。
(若い人の平均体重を基準にしてはいけない。)太りすぎは、万病のもと。
レストラン食は、残して、捨てる。


●依存心と闘う

 だれかが何とかしてくれる……という依存性は、捨てる。闘って、捨てる。
『老いては子に従え』ではなく、『老いては、子をアテにするな』。
子に媚を売るな。孫に媚を売るな。自分の生き様こそ、最高の遺産と知る。
だれのためでもない。自分の遺産と知る。


●やるべきこと

 朝、起きてそこに(やるべきこと)がある人は、幸福と知るべし。
朝、起きてそこに(話し相手)がいる人は、幸福と知るべし。
朝、起きてそこに「病」を感じなければ、幸福と知るべし。
最高の名誉、地位をもった人より、幸福と知るべし。


●老人臭くなるな

 口臭、体臭、加齢臭に注意せよ。ジジ臭い格好、ババ臭い格好をするな。
目の前の老人を手本とするな。見本とするな。まねをするな。
人は老人になるのではない。老人に作られていく。それに警戒せよ。
あなたはあなたを貫け。


●その日を覚悟せよ

 その日はかならずやってくる。「うしろから突然、やってくる」(O氏談)。
それを覚悟して、「今」できることを、後に回すな。明日に回すな。
「今」を燃焼させろ。完全に燃焼させろ。常にその日を覚悟せよ。
覚悟して、油断するな。


●孤独には、居直れ

 老齢には、孤独はつきもの。避けようがない。だったら、仲よくつきあう。
「孤独、当然」と、居直る。居直って、孤独であることを、受け入れる。楽しむ。
独居老人、おおいに結構。孤独死、おおいに結構。それを不幸と結びつけるな。
人生の結論と結びつけるな。


●不安は友だち

 不安でない老齢者はいない。ぜったいにいない。つまり不安なのは、あなただけ
ではない。だったら、不安とは、仲よくつきあう。孤独にせよ、不安にせよ、
それから逃げようともがけばもがくほど、キバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、受け入れてしまえば、向こうからシッポを巻いて、逃げていく。


●なるように、なる

 どんな高齢者も、かならず、なるようになる。あなたも、私も、やがてなるように
なる。勝手に未来像を作り、そこに自分を当てはめてはいけない。自分を束縛
してはいけない。またそうならないからといって、嘆いたり、もがいたりしてはいけない。
老後というのは、万事、そういうもの。


●介護と遺産

 「親の介護が3年つづけば、兄弟姉妹はバラバラ」(某看護士談)。親の介護が
原因で、兄弟姉妹が縁を切る例は、多い。ほとんどがそうなる。またわずか
10万円の遺産が原因で、兄弟姉妹が縁を切った例もある。自分の介護と遺産には、
じゅうぶん注意して、後に残せ。


●つねに精進

 体力が落ちてくると、持病がどっと表に出てくる。
同じように気力が弱くなると、それまで(気力で)隠していた人間性が、
モロに外に出てくる。老齢期になればなるほど、ごまかしがきかなくなる。
老齢期になったら、精進あるのみ。日々の研鑽のみが、あなたの人間性を維持する。


●喪失には慣れろ

 喪失することを恐れない。老後に喪失はつきもの。最終的には、すべてを失い、
この世を去る。財産価値の乏しいモノは、どんどんと人にくれてやれ。身軽にしながら、
喪失することに慣れろ。モノにこだわるな。「どうせ死ぬときは裸」と考えるのも、よい。
要するに老齢期に入ったら、モノに執着しないこと。


●無私・無欲

 無私・無欲をめざせ。体にしみついた、貪欲さと闘え。ほんの少しでも、
自分の中に無私・無欲を感じたら、それにしがみつけ。大切にして、守れ。
無私・無欲の中にこそ、あなたが今、なぜここに生きているかを教えるヒントが
隠されている。


●世間体・見栄・体裁

 世間体・見栄・体裁に毒されない。人の目を気にしない。評判を気にしない。
「私は私」を貫く。同時に、「あなたはあなた」を貫く。自分を相手に押しつけない。
そこに相手がいるなら、認め、受け入れる。相手を世間体・見栄・体裁で判断
してはいけない。


●回顧と展望

 退職したら、過去の名誉、地位、肩書きを捨てる。しがみつくな。バカになって、
ゼロから始める。「私は偉い」と主張すればするほど、あなたのまわりから人は、逃げる。
回顧(過去を振り返る)と展望(未来をめざす)は、老後の両輪。つねに展望を回顧に
優先させろ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 老齢期100の箴言 老齢期教訓 老人の生き方 老齢訓 生き様論)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●「私」の中の私(私論)「私とは何か?」
What is "Me", myself?

++++++++++++++++++++

「私」というのは、言うなれば、タマネギの
ようなもの。
無数の皮を巻いた、タマネギのようなもの。
みなは、その「皮」を、「私」と思い込んでいる。
「これが私」と。
しかし皮は皮。
ただの「皮」。
名誉、地位、財産、世間体、さらに性格、人格、
性質、すべてが「皮」。
その皮をめくっていたら、最後には、何も残らない。
わかりやすく言えば、「私」と言えるものは、
それくらい小さく、少ない。

++++++++++++++++++++++

●操られる「私」

 最近の大脳生理学によれば、こうらしい。
つまり生命の根源と言われるものは、どうやら脳の中心部にある視床下部あたりから、
パルス信号のようにして、発せられているらしい。
そのパルス信号が、脳全体を機能させる。
が、もしその信号が弱ければ、生命力そのものが弱くなる。
強ければ、強くなる。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」も、ユングが説いた「生的エネルギー」も、
こうして一連のつながりをもって説明できる。
で、その生命力をコントロールするのが、「理性」ということになる。
が、それを司っているのが、前頭連合野ということになる。
細部はともかくも、大筋ではまちがっていない。

●前意識の世界

 さらに……。
私たちが「私の意思」と思っている部分についても、最近の研究によれば、
実は脳の別の部分で、前もって作られているということまでわかってきた。
(意識)の下に(前意識)がある。
つまり私たちが意識できない部分で、前もって「意識の意識」が作られる。
その「意識の意識」が意識できる部分にまであがってきて、そこで「意識」として
意識される。

 たとえばあなたが台所へ行って、水を飲みたいと思ったとする。
あなたは自分の意思でそう考えて、行動していると思っているかもしれない。
しかし実際には、(のどが渇いた)→(水を飲んで来い)という意識は、それよりも
先に、無意識の世界で作られる。
それ以前に、のどの渇きを視床下部のセンサーが感知する。
空腹感でもよい。
それがある一定の限度を超えたとき、無意識の世界で、「意識」が作られる。
「水が飲みたい」と。
そしてそれがその人のつぎの行動を、決定する。
 
 わかりやすく言えば、私たちが「私の意思」と思っている意識にしても、
そのほとんどが、脳の内部で、勝手に作られているだけ。
「勝手に」だ!
そう考えて、ほぼまちがいない。

●生的エネルギー

 もっともわかりやすい意識に、たとえば「性欲」がある。
わかりやすいから、あえて説明するまでもない。
つまりそれがあるから、人間は種族を後世に残すことができる。

 「性的エネルギー」イコール、「生的エネルギー」。
「生的エネルギー」イコール、「性的エネルギー」。
人間にかぎらず、あらゆる生物について、なぜここに生きているかといえば、
種族を後世に残ることに集約される。

 もろもろの人間が見せる行為は、すべてそのバリエーションに過ぎない。
女性が化粧やファッションに夢中になるのも、男性がスポーツに夢中になるのも、
すべてそのバリエーションに過ぎない。
私たちはそのバリエーションの中で、操られているだけ。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
しかしそう考えると、私たちは自分の「意思」の実態を正確にとらえることができる。

●理性の力 

 もし「私」があるとするなら、「私」の中から、私を操るエネルギーを取り除いたもの
ということになる。
そのひとつのヒントが、「人格」ということになる。
(心理学的というよりは、たぶんに文学的なとらえかただが……。)

 人格……つまりその人の人格は、人格論(EQ論)によって説明される。
いかに利他的であるか、いかに共鳴性があるか(サロベイ)、など。
それには当然、性格的な一貫性、情緒の安定性なども含まれる。
さらに道徳論の立場から、視野の広さ、公平性なども含まれる(マズロー)。

 つまりこれがタマネギの「芯」の部分ということになる。
そしてそれこそが、まさに「私」ということになる。

●真・善・美

 が、「私」の追求はむずかしい。
それ自体を追求しようとしても、第一、得体がつかめない。
もともと得体の知れないものだから、当然、そうなる。
そこで古今の哲学者たちは、こぞって、「真・善・美」の追求をあげた。
その結果として、もっと正確には、副次的に、「私」を追求する。

 偉大な科学者、偉大な宗教家、あるいは偉大な芸術家には、神々しいほどまでの
「人格」を感ずる。
その人格が、その人の「私」ということになる。
(ただしスポーツマンには、私は最近疑問を感ずるようになってきた。
日本の相撲界が、その一例ということになる。)

 つまり「私」を知るということは、それほどまでにむずかしいということ。
その前の段階として、「私」を創りあげるのは、それほどまでにむずかしいということ。
私(はやし浩司)も含めて、「これが私」と思っている部分は、タマネギの皮の、
その表面的な部分に過ぎない。

だから北海道の「私」も、沖縄の「私」も、みな、同じ。
同じようなことをしている。
日本の「私」も、アメリカの「私」も、みな、同じ。
同じようなことをしている。
スズメはスズメ、カラスはカラス。
それぞれちがった行動をしているが、全体としてみると、ある一定のワクの中で、
蠢(うごめ)いているだけ。

 それを抜け出たところに、「私」がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 私論 私とは タマネギの皮 「私」論)

(参考)

ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説くEQ論では、
主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 一般的には、(1)自己管理能力が低く、(2)他者との良好な人間関係が築けず、(3)
他者との共感性が低い人のことを、「自己中心的な人」という。

 わかりやすく言えば、より自己中心的な人を、人格の完成度の低い人という。
反対に、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
自己中心性が肥大化した人のことを、「自己愛者」という。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●子どもの「盗み」vs.親心(Regarding: Children's Stealing)

++++++++++++++++++++++

子どもの自立。
その三種の神器。
それが、ウソ、悪口(悪態)、それに盗み。
奨励せよというのではない。
そういうことがまったくできないほどまで、
子どもを押さえつけてはいけないということ。

子どもは、ウソをついたり、悪口を言ったり、
あるいは盗みをしたりして、おとなの優位性を
打破しようとする。
わかりやすく言えば、自立の第一歩。
その第一歩として、ウソを言ったり、悪口を
言ったり、あるいは盗みをしたりする。

たとえばウソ寝、ウソ泣きがある。
満2歳ごろから始まる。

その「盗み」について、一考。

+++++++++++++++++++++

●はげしい相続財産争い

 M氏(65歳)は、母親(93歳)がなくなったあと、兄弟姉妹との間で、相続に
からんで、はげしい遺産争奪戦を繰り返した。
毎週のように玄関先で、大声で怒鳴りあったという。
たまたま母親が残した農地が、大規模土地開発の一角に組み込まれ、数億単位の宅地に
変身した。

で、結局、その農地は転売され、4人の兄弟姉妹で均等に分けることになった。
が、それ以後、兄弟姉妹の行き来は、完全に途絶えた。

 こうした話を聞くと、ではいったい、遺産とは何か、そこまで考えてしまう。

●子どもの盗み

 先にも書いたように、子どもは、ものをよく盗む。
親のサイフからお金を盗むことにはじまって、中には金庫や、親のカードを使って、
お金を盗む子どももいる。
そういうとき親は、全人格を否定されたかのように、子どもを叱る。
たいてい、狂ったように、子どもを叱る。
少なくとも、盗みを黙認する親はいない。
が、そこでちょっと、待ったア!

 若い親と年配の親とでは、基本的な部分で考え方が大きく異なる。
私も若いころは、息子たちがそういう行為をすると、かなりはげしく叱った。
しかし歳を取ると、少しずつだが、自分の中に変化が生じてくるのを知った。

若いころは、「しつけ」という点で、はげしく叱った。
が、歳を取るにつれて、少し変わってきた。
「どうせ息子たちの財産ではないか」と考えるようになった。
さらに歳を取ってくると、「相続争いをするよりはよい」と考えるようになった。

●M氏の母親の立場

 冒頭にあげたM氏の話を、もう一度、考えてみよう。
M氏の立場で、ではなく、M氏の母親の立場で、である。
もしあなたがM氏の母親なら、自分の息子や娘たちの相続争いを、どのように考える
だろうか。
どのように見るだろうか。
あるいは、「バカな争いをしているな」と、笑ってすますことができるだろうか。
あなた自身のこととして、一度、考えてみてほしい。

が、私なら、息子たちにこう言うだろう。
「やめろ!」と。
「見苦しい喧嘩は、やめろ!」と。
そして財産を残したことを、心底、後悔するにちがいない。

 つまりそういうこともわかるようになってくるから、歳を取ると、「盗み」に
ついての考え方も、当然変わってくる。

●金銭的な損得論

 損か得か。
金銭的価値に置き換えるなら、子育てほど、損な作業はない。
学費にしても、子どもによっては、1千万円単位の金(マネー)がかかる。
で、それだけの学費をかければ、子どもはそれなりの知的財産を身につけることになる。
医師や弁護士になれば、それなりの高額の報酬を手に入れる。
が、こと親に関して言えば、それだけの見返りは、まずない。
とくにこの日本ではそうで、時代も変わった。
私たちが20代、30代のころ、「仕送り息子」は、どこにでもいた。
私自身もそうだった。
毎月、収入の何割かは、実家へ仕送った。
が、今は、いない。
さがしてもいない。
今では、息子や娘の婚姻費用、新生活の支度金まで、親が出す。
そういう時代になった。

 そういうことが現実に繰り返されるようになると、「何が盗みか」ということになる。
もう少しわかりやすく説明してみよう。

●無駄?

 金銭的な意味では、子育ては「損」。
「損」の連続。
その「損」を重ねるうちに、損が何であるか、それさえわからなくなる。
たとえば私の息子たちにしても、途中で何度か進路を変更している。
そのつど、それまでの学費が無駄になったりした。
また二男にしても、三男にしても、昔でいう養子以上の養子になり、先方の土地に
住みついてしまった。
私が住む地元に戻ってくるなどという意思は、みじんもない。
ワイフの話によれば、私たちの葬式にさえ来ないだろう、と。
そうなってくると、金銭への執着心にも変化が見られるようになる。
どこか、投げやりに近い気分になる。
「どうでもなれ!」と。

●団塊世代の悲哀

 たまたま今夜も、タクシーの運転手とそういう話になった。
年齢を聞くと、58歳と言った。
その運転手も、こう言った。
「今の若い人たちには、私たちの生きた時代がどういうものであったか、それを
理解するのは不可能でしょうね」と。

 運転手は、こう言った。
「私は深夜営業でしてね、ときに11時間、つづけて働くこともありますよ。
これは内緒ですよ。
で、午前4時ごろ家に帰り、それから犬と散歩します。
妻や息子、嫁が起きてくるのは、その後です。
だれも私に感謝の念などもっていませんよ。
むしろ給料の少ないことで、不満ばかり言っています。
それを知っているから、こうして運転しながら、「なんで私は、こんな苦労をしている
のかと思うことがしばしばあります」と。

●人生が盗まれる

 だから最近は、親たちから子どもの「盗み」についての相談を受けるたびに、
こう思う。
「何だ、そんなことか」と。
あるいは「盗みくらいが、何だ」とも。
「どうせそのうち、あなたの人生すべてが盗まれる」と。

 もっともそんなことを口にしたらおしまい。
一応の指導とアドバイスはする。
しかしへたに財産を残せば、兄弟姉妹が骨肉の争いを繰り返すことになる。
……とまあ、そう決めつけてしまうのも危険だが、その可能性は、たいへん高くなる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見てみればよい。
親の死後、兄弟姉妹が仲よく財産を分け合ったという例は、ほとんどない。

●損の美学
 
 一方、「損の美学」というのもある。
最近、ある経済誌を読んでいたら、その中にこんな言葉を見つけた。
『頭とシッポは、くれてやれ!』と。
ものの売買の極意だそうだ。
へたにケチになるから、大損をする。
だから損を覚悟で、適当なところで売り、適当なところで買う。
『頭とシッポは、くれてやれ!』と。
が、損の美学は、それだけではない。

 損を重ねれば重ねるほど、実はその分だけ、お金(マネー)は戻ってくる。
それがバネとなって、さらにその人ががんばる。
だからこの世の中で、「金持ち」と言われる人たちは、特殊な資格で保護されて
いる人は別として、みな、他方で損に損を重ねている。
同時に、その分だけ、人間的にも深みがあり、スケールも大きい。
精神的にも、たくましくなる。

●損をしない人

 子育てにも似たようなところがある。
さらに言えば、人生にも、似たようなところがある。
「盗み」だけではない。
子どもの成績がほんの少しさがっただけで、おおげさに騒ぎ、またほんの少し
あがっただけで、これまたおおげさに喜ぶ。

 中にはこんな女性(40歳くらい)もいる。
わざと近所の人たちに聞こえるような大きな声で、庭にいる夫にこう言う。
「あなたア!、学習院大学の同窓会名簿が届いているわよ!」と。

 つまりそういう形で、夫の出身大学を近所の人たちに知らせていた。
が、実際には、その夫というのは、高卒後、専門学校しか出ていなかった!
つまり見栄や虚栄も、「損の美学」のひとつとして、考えられる。
ケチな人は、どこまでもケチ。
心に余裕がない。
スケールも小さい。
ささいな利益にこだわって、自分を見失う。

●私たち……

 私の息子たちは、二男をのぞいて、私からよく金(マネー)を借りる。
「貸してくれ」というから、私は貸す。
しかしいまだかって、返してもらったことは、一度もない。
しばらくすると、返そうという意思そのものが、消えてしまうようだ。
(二男は、子どものころから、意地っ張りで、人にものをねだらない。
性格は私によく似ている。)

 で、そういうとき私たち夫婦は、あきらめて、忘れる。
「どうせ、そのうち、私たちは死ぬのだ」と。
死ねば、そのまま借金も、遺産ということになる。
ご破算になる。
が、これは世界の常識ではない。

 欧米では、家でも親子の間で売買している。
もちろん金(マネー)の貸し借りもするが、他人との貸し借りと、どこもちがわない。
国によって多少のちがいはあるが、夫婦の間でも、こと金の貸し借りとなると、
みな、シビア。
とくに中国本土の人たちは、シビア。
夫婦でも、財産は別々に形成する。

 どちらがよいとか、悪いとか、今ここで結論を出すことはできない。
日本には日本のよさがある。
欧米には欧米のよさがある。
(中国は、その点、シビアすぎるが……?)

 だから今、「盗む」という話になると、どうでもよくなってしまう。
もっともその分だけ、私たちは人生を楽しませてもらった。
それでじゅうぶん。
それ以上、何を望むか。
あとは残された人生を、できるだけ楽しく、有意義に過ごすだけ。
息子たちに関係なく……。
もちろん財産は、一円も残さない。
現金は使い切る。
財産は売り切る。
残った不動産は、地域の人たちに寄付する。

 ……ということも参考に、あなたも一度、子どもの「盗み」について考えて
みるとよい。
見方が変わってくるはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どもの盗み 盗みについて 窃盗 子供の窃盗 親の対処法)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●いじめ(bullyings)

+++++++++++++++++++

「いじめ」、つまり子どもの「攻撃性」に
ついて調べていたら、興味深い文献に出会った。
堀井俊章著『心理学』(PHP)である。
そのP95に、「8つの攻撃タイプ」という
タイトルで、アメリカの社会心理学者の
ヴァーコビッツの『攻撃手がかり仮説』を
紹介していた。

それをそのまま引用させてもらう。
つまり人間がもつ攻撃性は、8つのタイプに
分類できるという。

+++++++++++++++++

【ヴァーコビッツの攻撃手がかり仮説】(堀井俊章著「心理学」より)

(1)身体的・能動的・直接的(突く、なぐる、発砲する。)

(2)身体的・能動的・間接的(落とし穴をしかける、暗殺者に敵を
               殺させる。)
 
(3)身体的・受動的・直接的(他者の行動を物理的に妨害する。
               座り込み、バリケードストライキなど)

(4)身体的・受動的・間接的(すべきことを拒否する。
               単なるストライキ。)

(5)言語的・能動的・直接的(侮辱、非難)

(6)言語的・能動的・間接的(悪いウワサやゴシップを流す。)

(7)言語的・受動的・直接的(話しかけられても、無視する。)

(8)言語的・受動的・間接的(他者が不当に非難されているとき、
               あえてその人を守るため、口を出さない。)
             
+++++++++以上、堀井俊章「心理学」より++++++++++

●いじめ、8つのタイプ

 ヴァーコビッツの『攻撃の手がかり仮説』を、子どもたちの世界における
(いじめ)に当てはめて考えてみる。

(1)身体的・能動的・直接的(殴る、蹴る)

(2)身体的・能動的・間接的(子分を使って、殴る、蹴る。)
 
(3)身体的・受動的・直接的(運動着や教科書を隠す。)

(4)身体的・受動的・間接(ボイコット、非協力的態度。)

(5)言語的・能動的・直接的(言葉による暴力。)

(6)言語的・能動的・間接的(悪口を言いふらす。)

(7)言語的・受動的・直接的(無視、シカト、無口、無返事)

(8)言語的・受動的・間接的(中傷、悪口を、無言で支持する。)
             
●そのほかにも・・・

 ここまで書いて、それで終われば、堀井俊章著「心理学」の受け売りに
すぎない。
が、いじめには、こんな方法もある。
俗にいう「モマシ」という方法である。

 たとえばその人が激怒するような情報を、そっと耳打ちするような行為を
いう。
「あの人が、あなたのことを、こう言っていたよ・・・」と。

 これは、上記8つのタイプのどれに当てはまるのか?
言語的である。
能動的である。
間接的である。

 これらの3点から、上記、(6)言語的・能動的・間接的(悪口を言いふらす。)
に相当することになる。
しかし悪口を言いふらしているわけではない。
「モマシ」は、どれに該当するのか。

 少し気になったので、「モマシ」について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ヴァーコビッツの攻撃手がかり仮説 堀井俊章著「心理学」)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●擬似ボケ体験(認知症体験)

+++++++++++++++++++

今日、2つの擬似ボケ体験をした。

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●小学生でもボケ症状?

 A子さん(6年生)は、たいへん聡明な女児である。
機転も利くし、反応も速い。
……というより、抜群に頭がよい。
もちろん学校での成績もよい。
そのA子さんと、2週間前に、こんな会話をした。

 私が「夏休みにどこかへ合宿に行こうか?」と声をかけると、すかさずこう言った。
「先生、そんなこと言って、本当は女湯をのぞきに来るんでしょ!」と。

 今どきの子どもたちは、とんでもないことを考える。
「バカめ。お前の何を見るんだ! それにもちろん父母、同伴だ」と言い返すと、
「じゃあ、お母さんの裸をのぞくんでしょ」と。

 で、この話はそのまま終わった。
近くでワイフがこの会話を聞いていた。
いっしょに笑った。

●2週間後

 それからちょうど2週間後。
今日。
またA子さんと会話した。

私「あのね、君ね、この前合宿で、ぼくが女湯をのぞくという話をしたよね」
A「・・・しないわよ。そんな話・・・」
私「ぼくが合宿しようかと言ったときのことだよ。君は、ぼくが女湯をのぞくと
言ったよ」
A「先生、どうかしたんじゃない? 私、そんな話、してないよオ」
私「したって・・・。ぼくは聞いたよ」
A「してないよ。ねえ、B君」と。

 となりにいたB君も、私たちの会話を聞いていたはず。
それで今度はB君に、「聞いただろ?」と声をかけると、B君まで、「知らない」と。

 子どもでも、ボケることがあるんだろうかと、私は考えた。
が、A子さんもB君も、学校でも1、2を争うほど頭がよい。
何度もやりあっているうちに、私のほうが自信がなくなってきた。

A「先生、私、そんな話、してないわよ。先生、頭がボケたんじゃない?」
私「そうかなあ・・・」
A「そうよ、きっとボケたのよ」
私「……?」と。

私はそのまま押し黙ってしまった。
ボケを疑似体験した。
そんな気分になった。

●「オイスノカドッチョ」

 同じ日、幼児教室で、1人の子ども(年中児、4歳)が、こう言った。
私が、「君たちは、赤ちゃんのとき、ママのおっぱいを飲んでいたのを、覚えている?」と
聞いたときのこと。
「ぼくは、オイスノカドッチョを飲んでいた」と。

私「何、そのオイスノ・・・」
子「オイスノカドッチョだよ・・・」
私「ママのおっぱいを飲んでいたんだろ?」
子「ううん、オイスノカドッチョだよ」
私「・・・だから、そのう、オイスノカドッチョって何?」と。

 私は何かの聞き間違いかと思った。
「お牛のオカド」とも聞こえた。
新発売になった飲み物かもしれない。
あるいは乳幼児専用の飲み物かもしれない。
そこで、隣の席に座っていた女の子(年長児5歳)に聞いてみた。

私「あなた、そのオイスノカドッチョって知っている?」
女「うん、知っているよ」
私「何、それ?」
女「オイスノカドッチョだよ」
私「だから……、それって、おいしいの?」
女「おいしいよ」
 
 それを聞いて、ほかの子どもたちまでみな、「おいしいよ」「おいしいよ」と。
私はますますわけがわからなくなってしまった。
私だけが、ひとり取り残されたかのような疎外感を覚えた。
それだけではない。
自分の脳みそを、反対に疑いだしてしまった。
「私の脳みそは、どうかなってしまった」と。

●謎解き

 先の話は、たまたまワイフが横で聞いていた。
A子さんは、たしかに「のぞき」の話をした。
ワイフがあとで、「私も聞いた」と言ってくれた。
が、もしワイフがその会話を聞いていなかったら、私はむしろ自分の脳みそのほうを
疑っていただろう。

 また「オイスノカドッチョ」というのは、「椅子の角」ということがわかった。
レッスンが終わったあと、迎えに来た母親に聞いた。
「お子さんが、『ぼくは、オイスノカドッチョを飲んでいた』と言いましたが、その「オイスノカドッチ
ョ」というのは何ですか?」と。

 すると母親は笑いながら、こう教えてくれた。

 「ああ、それですか。それはソファの角のことです。妹におっぱいをくれてやっている
とき、C男(=その子ども)はいつも、ソファの角をチューチューと吸っていました。
その角のことを、『お椅子の角』と言っていたのです」と。

 となると、あのとき「うん、知っているよ」と言ったあの女の子は、何だったのか。
ほかの子どもたちもみな、「おいしい」と言ったはず。
私がからかわれたのか。
いや、そんなことはない。
みな、真顔だった。

 「たぶん、子どもたちはそれぞれに別のものを想像し、勝手に、『おいしい』と
言ったのだろう」……というのが、ワイフと私の結論ということになった。

 ボケの疑似体験・・・つまりこのところ、自分の脳みそを疑うようなことがよく起こる。
若いころなら、こういう迷いはなかったはず。
が、今は、むしろ自分の脳みそのほうを疑ってしまう。
それだけ自信がなくなってきたということか。

 やがてこういう体験がつづくようになり、本当にボケてしまうのかもしれない。
ゾーッ!

(付記)
 「オイスノカドッチョ」の話をした様子は、YOUTUBEに、動画として
そのまま録画してあります。
興味のある人は、「はやし浩司のHP」→「BW公開教室」→「2010年7月9日」
へと進んでみてほしい。
子どもたちとの会話を楽しんでいただけます。


Hiroshi Hayashi+++++++July.2010+++++++++はやし浩司

●信念と態度

+++++++++++++++++++++++

私は子どものころから、信念に乏しい人間だった。
今も、その傾向がつづいている。
付和雷同型というか、よい意味では、和合型人間。
悪い意味では、優柔不断型人間。
それには私の生い立ちが、深く関与している。

では、私の「信念」とは何か。
たとえば社会心理学の世界には、「態度」という言葉がある。
その「態度」というのは、ズバリ「信念」をいう。
ものごとに対して、どのような信念をもっているか。
それを「態度」という。

俗世間でいう、「表面的な様子」のことではない。

+++++++++++++++++++++++

●信念

 信念にも2種類、ある。

(1)注入された信念。
(2)自己創造した信念。

 注入された信念というのは、カルト教団の信者たちが共通してもっているような
信念をいう。
(自分で考えた信念)ではない。
(与えられた信念)をいう。
特徴の第一は、みな、言うことが同じ。
テープレコーダーを回したような意見を口にする。

 これに対して(自己創造した信念)は、自分で作り上げた信念をいう。
特徴としては、そこに至るまでの長い道のりがある。
それに常に柔軟性を保留している。
進歩もするし、ばあいによっては、後退もする。
「ひょっとしたら、どこかに穴(まちがい)があるかもしれない」という迷いもある。

 もちろんその中間型というのもある。
ある程度の指導を受けながら、その上に自分の信念を作り上げていく。
あるいは似たような信念をもつものどうしが集まって、信念を一定の形に仕上げていく。

●カルト

 カルトの特徴には、いろいろある。
ざっと思いつくまま並べてみる。

(1)排他性(ほかの思想を否定する。)
(2)独善性(自分たちだけが正しいと思い込む。)
(3)隔離性(他者との交わりを制限する。)
(4)絶対性(教祖、教団を絶対視する。)
(5)催眠性(指導の一部に、催眠的方法を取り入れる。)
(6)集団性(つねに集団行動をし、個人的行動を制限する。)
(7)誇大性(ささいな事実を、誇大視する。)
(8)神秘性(神秘的な要素を重要視する。)
(9)権威性(釈迦、キリストなど、最高権威をもちだす。)
 
 幼児期から少年少女期にかけての教育(?)ほど、効果的とされる。
そのため、フランスやベルギーなどでは、カルト教団への入信年齢を逆にきびしく
制限している。
(日本では野放し。)
さらにその危険性から、国よって、(1)政治活動を禁止したり、(2)営利活動
を禁止したりしている。
(日本では事実上、野放し。)

●「柱」

 一般的に原始的な信念は、わかりやすく、人に受け入れやすい。
観念的、抽象的であればあるほど、人に受け入れやすい。
たとえば日本の武士道など。
(だからといって、武士道がまちがっていると書いているのではない。誤解の
ないように。)

 一方、哲学的思想をもった信念は、わかりにくく、人に理解されにくい。
事実や解釈に基づいた思想性があればあるほど、人に理解されにくい。
たとえば平和運動や人権運動など。

 どうであれ人は信念という「柱」をもつことによって、自分の生き様を補強する
ことができる。
思考プロセスとして機能するため、それぞれのばあいに信念に応じて、ものを考え、
結論をくだすことができる。
わかりやすく言えば、信念は、「生きていくための便利な道具」ということになる。
が、もちろんそれだけには、終わらない。

●「態度」

 信念には、それを支えるに足りる、強い意志がなければならない。
意志がなければ、ただの思想。
で、その意志がどういう状況で、どう作られるかが問題。
それにはその人の人生観、哲学観、過去の経験が集約される。
が、それは簡単なことではない。

たとえば真・善・美に追求にしても、一朝一夕にできることではない。
そこに至る過程には、長い道のりと時間、忍耐と苦痛、努力と精進が必要。
その結果として、意志が総合されて、「信念」へと固まる。
社会心理学で言う「態度」は、そうして生まれる。

●坂本龍馬

 で、最近は、坂本龍馬ブーム。
書店へ行っても、「坂本龍馬」の文字が、あちこちから飛び込んでくる。
私と縁がないわけではない。

 私がオーストラリアへ渡ったとき、私の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏。
美智子皇后陛下の父親である。
その正田氏のもとで、事務手続きをしてくれたのが、坂本二郎氏(東京商工会議所
所属)。
坂本龍馬の直径のひ孫氏。
その坂本龍馬は、自分の信念に命をかける。
どういうプロセスを経て、そのような強固な信念をもつようになったかは知らない。
当時の殺伐とした社会状況が、大きく影響していたのかもしれない。
が、「命をかける」だけなら、イラクで自爆テロを繰り返す若い女性にだってできる。
大切なのは、やはりそれを支える「強固な思想」ということになる。
坂本龍馬には、それだけの思想性はあったのか?

 ……という話は、また別のところで考えたい。
私が書きたいのは、坂本龍馬にせよ、それと対峙した新撰組にせよ、どこかに
狂信性もあったのではなかったかということ。
思想性を裏付ける文書が、あまり残っていないことにもよる。

●信念の人

 私も自分の人生の中で、「これは信念の人」と思えるような人には、あまり出会って
いない。
命をかけて、正義と闘ったような人をいう。
ただ誤解がないように言っておきたいのは、欲得の追求のために闘志を燃やすというのは、
「信念」ではない。
わかりやすい例としては、「金儲け」がある。
さらに最近の例としては、日本の相撲界がある。
「国技」とは名ばかり。
国技意識など、どこにもない。
おそらく「国技」の意味もわかっていないのでは?

 一方、K国による拉致問題に取り組んでいる人たちがいる。
横田めぐみさんの両親が、そうである。
ああいう人たちを見ていると、本当に頭がさがる。
神々しい尊ささえ感ずる。
「信念」、つまり「自己創造した信念」には、そういう力がある。

●信念

 人生も、カウントダウンの段階に入った。
平均寿命まで残り16年。
この段階で、「信念」と言えるものをもっている人は、幸福な人だ。
信念に燃え、そこに命をかけている人は、幸福な人だ。

 が、私には、それがない。
闘うといっても、不毛の荒野の中で右往左往しているだけ。
泡ぶくの波の上で、見栄や体裁に踊らされているだけ。
自分が何を求め、どこへ進んでいるかさえ、わかっていない。
信念など、自分に求めようもない。
これでよいとは思っていないが、しかしだからといって、どうしようもない。
そういう状況で、今日も始まった。
2010年7月11日。

 ところで昨夜は、ワイフと、映画『プレデターズ』を観てきた。
途中であくびが出るほどのダ作。
意味のない戦闘映画。
制作費も、ほとんどかかっていない。
星は1つか2つの、★。
ついでに一言。
信念のない映画というのは、ああいうのをいう。
ボケ防止には役に立つかもしれないが、観るだけ時間の無駄。
お金の無駄。

 ということで、みなさん、おはようございます!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 信念と態度 社会心理学 態度 心理学でいう「態度」 信念の人)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【7月12日】(2010)

●新しい動画

新しい動画にチャレンジしてみた。
ファイルの変換ができなかったので、再生したものを、一度ビデオカメラに
収めた上で、YOUTUBE上に公開してみた。

+++++++++++++++++++++

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/Imh1Q0HHFQg&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/Imh1Q0HHFQg&hl=ja&fs=1" type="application/xーshockwaveーflash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

+++++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●タコのパウル

水槽の中に飼われたタコが、試合の勝敗を予想する?
そんな愉快な映像が、テレビに流れた。

2組の国旗を入れた箱にエサを入れておく。
タコがそのうちのどちらかを選んで、フタを開けて中に入る。
そのチームが、試合に勝つ。
タコの名前は、パウル。

サッカーのW杯について、そのタコのパウルが、
全8試合すべての試合予想を、的中させたという。
サンケイ新聞は、つぎのように伝える。

『……神託タコとして有名になった「パウル君」の"予言"どおり、11日に行われたワールドカッ
プ南アフリカ大会の決勝戦を制したのは、延長戦の末にオランダを破ったスペインだった。

 これでパウル君は、先に的中していたドイツ戦7試合と合わせて、『全試合的中』という偉業
を成し遂げた……』(2010年7月12日)と。

8試合というと、2の8乗分の1の確率。
2x2x2x2x2x2x2x2=256、つまり256分の1の確率。
もしこれが本当なら、「ありえない確率」ということになる。

ありえない!

 タコの頭のよさは、いろいろな面で証明されている。
たとえばフタつきのビンの中にエサを入れておくと、タコは、自分でそれを開けてしまう
など。
しかもたった一度、ビンの開け方を教えただけで、つまり1回の学習だけで、開け方を
覚えてしまうという。
が、予想は、別。

 何かのトリックがあったのでは?


●民主党敗北

 今回の参議院議員選挙で、民主党が敗北した。
敗因は、消費税問題というが、それはおかしい。
敗因は、小沢一郎氏である。
あの人がギリギリまでがんばりすぎた。
浮動票層(無党派層)の人心が離れすぎたところで、やっと辞任。
鳩山前内閣の支持率も、10%にまでさがっていた。
もし小沢一郎氏が幹事長のままで選挙に臨んでいたら、先の麻生元内閣の二の舞を
演じていたはず。

 消費税については、もうだれの目からみても、増税はやむをえない。
日本経済は、そこまで病んでいる。
ただしそれには条件がある。
行政サービスを落としてでもよいから、公務員の人員と給料を削減すること。
道路がガタガタになってもよいから、無駄な公共事業を削減すること。

 数日前も私は印鑑証明を取るために、近くの市の出先機関に足を運んだ。
2枚の印鑑証明を取るだけで、900円。
1枚、450円。
それを手にしたとき、「こんな紙切れ1枚が、450円!」と思った。

 それで事務員たちは、自分の給料を得ているわけではない。
給料は、もちろん設備機器一式も、すべて別枠の税金で支払われている。
つまりこうしたサービスは、それこそ紙代+印刷代程度ですむはず。
それを450円とは!

 民衆から、しぼり取れるものは、すべてしぼり取ってやれ……という姿勢が、
こんなところでも、かいま見ることができる。
それこそどこかの政党が言っていたように、もう「鼻血も出ない」。
それをまず是正すること。
その姿勢を示すこと。
消費税アップは、そのあとの問題。


●ヨーロッパの飛行機

 EU(フランス)では、飛行機がバス化している。
チケットは、インターネットで買うことができる。
それをプリントアウトして、飛行機に乗る。

 席は決まっていない。
早い者勝ち。
つまり私たちが電車やバスに乗るような感覚で、飛行機に乗る。
値段は、安い。
空席があれば、800円(日本円)とか、1000円で乗れる。
ばあいによっては、300円でも乗れるという。

 今や世界の航空業界は、そこまできている。
が、ひとり立ち遅れているのが、日本。
欧米から日本へ来るときは、たとえばフランスから日本へ来るときは、大韓航空で
ソウルまで来る。
ソウルで、日本の飛行機に乗り換えて、日本の各地へ来る。
そのほうが料金が、安いという。
しかもだ、フランス→ソウルの料金のほうが、ソウル→名古屋の料金より安いときも
あるという。

 先週、フランスから遊びに来てくれた、サラーンさんが、そう教えてくれた。

 また驚くほど高額なのが、日本の鉄道料金。
日本へ来た外人が、みな、そう言う。
(もっとも彼らは、JRが発行するフリーパス券を買うことが多いが……。
それだと安く列車に乗ることができる。
ただし日本人は、買うことができない。)

 そう言えば、先日幼稚園児と話していたときのこと。
「新幹線に乗ったことがない」と言った子どもが多いのには、驚いた。
3〜4割の子どもが、そうではないか。
みな、車で移動するのだそうだ。
たとえば家族で浜松ー東京を往復すると、新幹線だと、5万円前後(大人2人、子ども
2人)もかかる。
車で走れば、高速料金を含めても、1万円前後ですむ。

 「公共性の強いものほど、高額」。
それが今、日本の常識になりつつある。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●「みんなに嫌われている」

++++++++++++++++

ときとして、本音がボロリと出ることがある。
心理学の世界でも、それを説明する専門の
言葉がある。

たとえば目の前に背の低い男性がいたとする。
そういうときだれしも身長の話は、避けようとする。
が、そういうときにかぎって、話題が身長のほうに、
向いてしまう。
「私なんか、足が短いから、ズボンをさがすのに
苦労します」とか、など。

言い終わったあと、「しまった!」と後悔する。

++++++++++++++++

●嫌いな相手

 そこに嫌いな相手がいたとする。
しかし「嫌い」とは、言えない。
で、そういうときは、こう言ってしまう。

「あなたはみんなに、嫌われている」と。

 「みんな」という言葉の中に、自分を押し込めて、そう言う。
つまりそういう言葉のほうが、「あなたのこと、嫌い」と言われるより、強烈。
強烈な打撃を相手に与える。……与えてしまう。
つまり言われた人は、かなり深刻にその言葉をとらえてよい。

 こういうケースのばあい、表面的な様子にだまされてはいけない。
よくあるのが、夫婦のばあい。
見た目には仲がよい。
しかし夫婦の(見た目)ほど、アテにならないものはない。
たがいに(そうでなければ不幸)という思いから、仲がよい夫婦を演ずることが多い。
これを反動形成という。

●反動形成

 仲が悪くなれば、最終的には離婚。
それを避けるために、本来の自分を押し殺して、別の自分(人格)を演ずる。
仲がよいフリをして見せたり、言わなくてもよいのに、「好きよ」とか、「愛している」
とか言ってみせたりする。

 つまりそういう形で自分の心を偽る。
偽りながら、本来の自分とは正反対の(自分)を形成する。
教科書にも出てくるのが、長男、長女のケース。

 下の子どもが生まれると、上の子どもは嫉妬が原因で心をゆがめることが多い。
親の愛に不安をいだいている子どもほど、嫉妬しやすい。
で、上の子どもは下の子どもを憎んだり、嫌ったりするようになる。
が、それを表現することは、まずい。
自分の兄(姉)としての立場を、失ってしまう。
そこで上の子どもは、(よくできた兄、あるいは姉)を演ずるようになる。

 意識的な演技というよりは、無意識的な演技。
これが「反動形成」である。

 夫婦のばあい、夫婦相互で、それぞれが反動形成を演ずることがある。
俗に言う「仮面夫婦」というのが、それ。

●仮面

 しかし仮面は仮面。
ときとして、本音が吐露(とろ)することがある。
「心情的吐露」という。
それが冒頭にあげた、「あなたはみなに、嫌われている」という言葉ということになる。

 「私が嫌っている」とは言えない。
そこで自分を不特定多数の中に押し隠しながら、「みんなが……」と言う。
夫婦の間だと、妻が夫に、こう言ったりする。

「あなたは家族みんなに嫌われているのよ」「家族だけではないわ。親戚の人たちにも
嫌われている」と。
つまり、もしあなたがあなたの妻にそう言われたら、あなたは妻に、かなり嫌われて
いると判断してよい。
「かなり」というより、「生理的レベルで嫌われている」と判断してよい。
つまり修復は、不可能。……というか、かなりむずかしい。

 が、かえってそういう妻ほど、献身的で、マドンナ的な妻を演ずる。
演ずるという意識もないまま、演ずる。
それが反動形成ということになる。
そういう形でも取り繕わないと、自分の立場がなくなってしまう。
家族が崩壊してしまう。

 そういう意味では、夫婦というのは、10年、20年単位で「形」をつくる。
外見からだけでは、簡単に見抜くことはできない。
というひとつの例として、「みんなに嫌われている」という言葉を考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 吐露 心情的な吐露 心情的吐露 本音 思わず本音 反動形成 偽りの心 仮
面夫婦)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●掲示板投稿より(AD・HD児、場面かん黙児)

++++++++++++++++++

最近、掲示板へ、2件の投稿があった。
1件は、AD・HD児についてのもの。
もう1件は、場面かん黙児についてのもの。
2件とも、そうした子どもをもつ親からの
相談だった。

この2件で特徴的なことは、親たちが、
それぞれの子どもについて、正式な診断名を
掲示板の中で、明記していること。
つまり医師の診断を受けていること。
そういう相談であれば、それについて書く私と
しても、返事を書きやすい。
言い替えると、この段階まで親が、自分の
子どもを理解するのは、容易なことではない。
そこに至るまでには、長い道のりと、迷い、
心配、不安がある。
病院へ連れていくについても、相当な覚悟と
決断が必要である。
その上での診断名である。

が、それまでの苦しみが長ければ長いほど、
自分の子どもがどういう状態であるかを
知ることにより、かえってほっとするのも事実。
「ああ、そうだったのか」と。

もちろんそれで問題が解決するわけではない。
解決するわけではないが、そこをスタートラインに
して、前に向かって歩み出すことができる。

それに今は、子どもに問題があったからといって、
(個人)の責任にする時代ではない。
みなが、将来の日本、あるいは将来の世界を
支える子どもとして、暖かく見守る時代である。
この浜松市でも、そうした子どもたちを重点的に
集め、指導、教育している学校がふえている。
「拠点校」と呼んでいる。

そうした拠点校へ、むしろ親の方が望んで
子どもを通学させる時代になってきている。
S小学校(拠点校)の校長は、こう話してくれた。

「昔は、『お宅のお子さんには、問題がありますよ』
と言っただけで、親たちは、半狂乱になったものです。
が、今は、ちがいます。
親たちの方から、『お願いします』といって、子ども
たちを連れてきます。
みなさんの表情が、たいへん明るくなったのには、
驚かされます」と。

この問題は、そういう問題。
深刻に考える必要はない。
また深刻に考えたところで、どうにもならない。
大切なことは、繰り返しになるが、「今」を
スタートラインにして、前向きに考えること。
大切なことは、どんな子どもであれ、前向きに、
伸び伸びと、生きていくこと。
その道筋を用意してあげること。

今時、AD・HD児にしても、場面かん黙児にしても、
「問題」と考える人はいない。
モーツアルトも、チャーチルも、エジソンも、みな、
AD・HD児だった。
最近の研究によれば、あのアインシュタインも、
AD・HD児だったと言われている。

また場面かん黙児にしても、その年齢がくれば、
自己管理能力が発達してくる。
小学3〜4年生前後を境に、急速に「角」が
取れてくる。
症状が残ることは多いが、だからといって、それが
どうしたというのか。

私自身は、ペチャペチャと調子よくしゃべる子ども
より、静かで、沈思黙考型の子どもの方に、
より人間的な深みを覚える。
どうしてそれがいけないことなのか?

2つの記事を、並べて掲載する。

++++++++++++++++++++

(1)【Mさんより、はやし浩司へ】

2年に渡って勝手なことを書いているバカな母親です。

これまで13年間毎日怒り続けてきた私は何だったのだろうと思う
出来事がありました。

これまでも教育センターの教育相談なるものを
受けたことも数回ありましたが、わからなかったこと。

そう、春休みに思い立って児童精神科に受診しました。

医者の最初のひとこと
「ADHDのお母さんはどこの家でも毎日起こっています。
 白黒はっきりさせましょう。」
でした。

なるほどと思うありがたいお言葉!

予約や諸般の事情で3ヶ月間かかってわかったこと。
うちの息子はADHDでした。不注意優位型。中程度。IQは100。
先生は「息子さんはこれまでよくがんばっていましたよ」と
とてもほめてくださいました。

いつものように私の勝手な満足ですが、
ADHDと診断されてよかった。
それなら、個性を生かして行く道があるからです。

薬の治療を始めました。
コンサータは集中度が上がったのが本人にもわかるようです。
ただし、あまりに気持ちが悪くなるようなので、
ストラテラに変更中です。

薬が良いとは思いませんが、黒板を写すような作業が苦手なことも判明。
授業などに集中できるためには、必要な手段かと思っております。

兄弟関係も30%はADHDとのことで、妹もこれから検査を受ける予定です。

私はといえば、丁度去年の今頃からこの1年間、これからは、独身のときの
ように仕事をがんばる!という方向で残業の毎日です。
子供たちには少し不自由もあるかもしれませんが、
今仕事をしなくていつ働く!、
なぜダンナばかりが何の不自由もなく働く!そして
私に自慢する!です。
毎日、不満だらけなのは言うまでもありませんでした。
ただ、今の私はとにかくお金のために働く。それだけです。
でもこれからは、死ぬときは、いい人生だったと思えるような
生き方をしたいと(またまた自己満足ですが)、心がけていこうと思っています。

ところで、話しは戻りますが、ADHDは、私の中では
花粉症くらいに考えることにしています。
いろいろあって、たまたま検査でわかったことなので、
知らなければ知らないで、私がいつも怒っているキチガイだった、
で終わったことかもしれません。
ただし、わかった以上本人の特性を見つける、
もしくは、本人の一生に関わることなので、どうアドアイスすればよいのか?
または、何もしなくてよいのか?
そのあたりを教えていただけないでしょうか?

よろしくお願いいたします。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(2)【Kさんよりはやし浩司へ】

はじめまして。
小学3年の息子の事でご相談させて頂きたく書き込み致しました。

先日ネットで検索して初めて知った
場面緘黙症に息子の状態が当てはまります。
ただ症状はとても軽い方だとは思います。
youtubeで先生の動画も拝見いたしました。

このまま放って置いて、自然治癒しそうな感じではありますが
大人になっても
同じ状態であったり更に酷くなると困ると思い
数日前、心療内科を受診し、
心理テストや診断の予約を1ヵ月後にとりましたが
症状が軽い場合、子供にとって
はっきりと病名等を診断された方が良いのか
それとも逆効果になってしまわないか、と悩んでいます。


息子は4人兄弟姉妹の末っ子で
生まれた時から一番おとなしく人見知りが激しい子供で
あまり外に出ず、家の中でよく遊ぶ子供でした。
3歳児健診の時にも
本人は分かっている筈なのに図形や絵柄を答えられず
保健士さんから何度か様子を尋ねる電話を頂きました。
その後、幼稚園、小学校へとすすみますが
毎年かわる担任の先生にはなかなか慣れず
授業中の本読みでもほとんど声が聞こえないような状態です。
懇談ではいつも
先生が話しかけても恥ずかしそうにしていたり
目玉をきょろきょろさせているが
ちょこちょこ悪い事もしているし友達とも遊んでいるので
心配無いですよ。と、どの先生にも言われていました。

先日、3年になって初めての懇談では
先生が話を聞きたいと思って息子に何か尋ねても
全く答えないし、しびれを切らせてイエスかノーで答えられる質問に変えたら
声はでないけど首を振って答える。
何を考えているのかわからないので指導がしにくい、
先生に慣れるのに1年もかかる様では・・・と言われました。
その夜、私が息子に
『どうして先生と話さないの?』と尋ねると
『こころの中で先生に返事したいと思っているのに声が出ない』と言いました。
それでネット検索していると場面緘黙にたどり着きました。

自宅でも私や兄が強く怒ると
言葉が全く出てこなくなり、スネると机の隅っこにまるまって入ったりしますし
近所の大人には挨拶もできないので
先生と話せない様子は目に浮かびます。
かと言って、おもちゃ屋のおじさんとは親しくも無いのに会話したり
一人でお使いや歯医者に通ったりは出来ています。
はじめて逢ったお友達とも遊んだりできますが
自分から遊ぼうと誘いに行くことはほとんど無いようです。

心療内科を受診した日の夜、
『頑張って話すようになるわ』と突然私に言ってきたので
『別に頑張らなくてもいいよ』と、言っておきましたが、
次の学校での本読みは大きな声では無いけれど
いつもより声がでていたそうです。
(担任には経過報告しましたが心療内科を受診した事に
相当驚かれていました)

ここまでの息子の状況だけですと、
私もそう気にする事も無かったと思うのですが
気がかりなのが父親との関係(遺伝)です。
20年間一緒に暮していても気づかなかった
多重債務と嘘が原因で2〜3年の別居後、
カウンセラーとも相談し昨年協議離婚したのですが
父親も場面緘黙だったのだろうと思い当たる節がたくさんあります。
質問しても返事を待つのに長い長い時間がかかったり
親しい方からお祝いを頂いてもお礼が言えなかったり(頭だけ下げる)
無口で義母の友達でさえ声を聞いたことが無いと言っていました。

父親の話は息子にしていませんが
父親と同じようになって欲しくない。という強い願いが私にあります。
それが根本にあるので、
本当なら息子は通わなくても良い程度なのに
心療内科に向かわせているのかもしれない・・・・
と、その判断ができずに悩んでいます。

普段はなるべく明るい雰囲気で毎日暮せる様
冗談や馬鹿な事を言ったり、
母親というより友達の様な感覚で暮しています。

長々とまとまりの無い文章で申し訳ございません。
何かアドバイス頂けると嬉しいです。
宜しくお願いいたします。

(以上、2編、原文のまま)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Mさん、Kさんへ】

●AD・HD児

 ADHD児については、小学3、4年生を境に、症状は急速に改善してきます。
子ども自身の自己管理能力が発達してくるためです。
中学生になるころには、どこか騒々しさは残りますが、その子どもの過去を知らない
人には、ほかの子どもたちと区別すらできなくなります。

それに反比例して、もともとの(良さ)が前面に出てきます。
能力的にも恵まれた子どもであることが多く、ものおじないしない態度、積極性、
行動力がよいほうに作用します。

 大切なことは、それまでに症状をこじらせないこと。
指導する先生にとってはたいへんでしょうが、私自身は、薬物の投与には、あまり
賛成ではありません。
以前は、リタリンを投与していました。
2000年前後のことです。
当時すでに本場のアメリカでは、リタリンの副作用が問題になり、投与を控える動きが
ありました。
私はいち早くその文献を手に入れ、それを翻訳してHP上で発表したことがあります。

 で、今は、リタリンについては、現在、原則として、どこの治療機関も投与を
控えています。
つまり、「安全性」という点から、こうした精神薬には疑問をもっています。
専門のドクターとよく相談して、投与するにしても慎重に決定してください。
(コンサータについては、投与する医療機関を限ることで、制限を加えています。)

●場面かん黙児

 また場面かん黙児については、自分の子どもがそうであることに気づくだけでも、
たいへんな進歩です。
「進歩」という言い方は失礼かもしれません。

 実のところ、そうであるかないかは、この私でも、会った瞬間に判断できます。
しかし教育の世界では、診断名を口にするのは、タブー中のタブーです。
ですから知らないフリをして、指導を始めますが、多くの親はそれでは納得しません。
子どもをはげしく叱ったり、あるいは私の指導の仕方がおかしいとか言って、教室
から去っていきます。
教える側が、はげしい虚脱感というか、虚しさを覚えるのはそういうときです。

 が、診断名をつけてもらえば、また親もそれを納得すれば、指導ができます。
そこがスタートラインになります。
いろいろな文献を資料として与えたり、またそういう子どもを専門に指導している
施設を紹介したりもできます。
「心の問題」ですから、解決方法は、いくらでもあります。

(ただ場面かん黙児については、解決しようと子どもを追い込んではいけません。
そういう子どもであると認めた上で、5年単位の根気のつづく指導が必要です。
あるいはそういう子どもであることを忘れて指導すること。
『暖かい無視』というのは、そういう子どものためにある言葉と考えてください。)

●Mあん、Kさんへ

 ともあれ私は2つの投稿記事を読んで、久々に心が軽くなるのを感じました。
「そうなんすよ」と、そういう言葉が、自然と私の口から漏れました。
言い替えると、「日本も、ここまで進歩した」ということです。
ほんの10年前、15年前には、考えられなかったことです。
子どもたちや、子どものかかえる問題を見る目が、大きく変わってきたということです。
たとえば以前は、幼児教育といえば、お遊戯にお絵かき、あとは季節ごとの行事を
追いかけるだけのものでした。
またそれをもって、幼児教育と誤解している人が多かったです。

 が、今は、心理学や大脳生理学、さらには教育学の3つが、三位一体となって、
子どもの世界をながめるようになってきています。
「治療」という言葉はあまり好きではありませんが、それぞれの問題について、
さらに科学的な原因追及も進んでいます。
当然のことながら、教師のレベルも高くなり、専門性も要求されるようになって
きています。
あと10年もすれば、簡単な診断名をつけるくらいは、現場の教師にも許される
ようになるかもしれません。
(医療機関は反対するでしょうが……。)

 ともあれ、この2人の親には、「それでよかったのですよ」と。
そう言いたいです。
あとはここをスタートラインにして、前に向かって進んでいく。

 最後に、Kさん(場面かん黙児)についてですが、(1)早急な解決は、
あきらめなさい。
(2)それがその子どもの性格として、受け入れなさい、です。
本人は、もうじゅうぶん、がんばっています。
ここであれこれ言うと、かえって子どもが自信をなくしたり、神経症を発症したり、
症状をこじらせてしまいます。
そのかわり、ほんの少しでも改善が見られたら、おおげさにそれをいっしょに
喜んでみせてあげてください。
「よかったわ」「すばらしかったわ」「うれしかったわ」とです。
(3)あとは5年単位の時間をみてください。
「5年前とくらべて、どうか」とです。
1〜2単位の変化で、一喜一憂しないこと。
またこの問題は、(何も問題ではありませんが)、そういう問題です。

 ただ周囲の先生や子どもたちには、誤解を招きやすいので、それとなく、
率直に子どもの診断名や症状名を話しておくことも大切です。
私のところでも、ときどきこのタイプの子どもが、いじめの対象になることがあり
ます。
そういうときは、相手の親(いじめをする子どもの親)に、手紙を書いたり、
会って話をしたりして、理解を求めるようにしています。

 ともかくも、掲示板への投稿、ありがとうございました。
あとは、ヤフーの検索エンジンなどを使って、「はやし浩司 ADHD」、
あるいは「はやし浩司 場面かん黙」などを検索してみてください。
具体的な指導法は、あちこちに書いてきました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ADHD児 AD・HD児 場面かん黙児 緘黙児 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●吉良温泉、「きらかん」(吉良観光ホテル)

【吉良上野介(きたこうずのすけ)】

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●YOUTUBEへは

http://www.youtube.com/watch?v=Q3Utf1s_9Ho

+++++++++++++++++

今日は、愛知県吉良吉田町にある温泉に一泊。
ホテルの名前は、『吉良観光ホテル』。
「きらかん」というのが、正式のホテル名らしい。
このあたりでは老舗(しにせ)旅館。
部屋は10畳から12畳。
間取りは広い。
何といっても特徴は、あのケーブルカー。
山の上の露天風呂までは、ケーブルカーであがる。
その風情というか、遊び心が楽しい。

旅館のエレベーターの中に、こんな文字が見えた。
「吉良上野介うんぬん」と。
「まさか!」と思ってフロントに電話をかけ確かめる。
「ここに吉良上野介の菩提寺があります」と。
ギョッ!
知らなかった!

吉良上野介の領地はあちこちにあった。
その中でも当領地が一番大きかったということで、
菩提寺は、ここに定められたとのこと。
吉良家とは、何やら深い縁がありそう(?)。

が、窓の外は、あいにくの雨。
対岸の知多半島は霧で煙っていた。
雨が嫌いというわけではない。
晴天も悪くないが、雨模様のほうが、旅をする者
にとっては、心が休まる。
落ち着く。

露天風呂の湯は少し熱かった。
その熱気が、小雨の粒で調和され、心地よかった。
シーズンオフということもあって、入浴客は
私と長男だけ。
近くの木々や湯を打つ雨の音が、心をなごませる。

「きらかん」……吉良観光ホテルは、料理よし、
風呂よし、サービスよし、星は4つの★★★★。
交通の便はあまりよくないが、それがかえって
この温泉郷を、穴場に仕立てている。
(アクセスは、名鉄電車で吉良吉田下車。
送迎サービスがあり。)

眼下には、海水浴場も見える。
夏場は、にぎわうはず。

雲間に飛びかうトンビを、のんびりとながめる。
過ぎ行く時間を、しばし忘れる。

「きらかん」(吉良観光ホテル)……三河湾国定公園、吉良温泉内。
電話……0563ー32ー1181

++++++++++++++++++++

●午後7時

 午後7時というのに、外はまだ明るい。
雨もあがり、遠くに細く長く、知多半島が見える。
先月はその先端にある、伊良湖ビューホテルに泊まった。
それを思い出しながら、伊良湖岬の先端をさがす。

 ところで夕食のとき、右足のひざの下あたりに、1円玉大の赤い斑点を見つけた。
中央がやや盛り上がっていた。
何かの虫に刺されたらしい。
周辺部がやや黒ずんでいるところをみると、刺されてからかなり時間がたっているらしい。
気がつかなかった。
ダニでもない。
蚊でもない。
が、ハチだったら、こんな大きさではすまない。
痛くもかゆくもない。
なんだろう?

 ふと「がんだったら……」と思った。
皮膚がんについての知識を、懸命に頭の中からさがす。

 形が不定形。
出血がある。
乳首のようにでこぼこしている、など。
皮膚がんにもいろいろある。
そんなことを考えながら、「これからは何があってもおかしくないな」と思う。
が、不思議なことに、恐怖感はあまりない。
「あと10年、体がもてばいい」とか、そんなふうに考える。
そのころ私の健康寿命は終わり、そのあとは、死に向かって病気を繰り返す。

●体調

 実のところ、この数日間、体調は最悪だった。
自分を支えるのもつらいほど、体をだるく感じた。
原因も理由もわからなかった。
ほかに症状もなかった。
たぶんに季節的なものとは思うが、今までにないだるさだった。

 時間があればふとんの上で体を横たえた。
が、それで疲れが取れたわけではない。
そのままいつまでも眠っていたい……そのつどそう思った。

その私が今日は、吉良温泉へ。
が、人間の体というのは不思議なものだ。
動き出せば動き出すもの。
「ええい、ままよ!」と動き出したとたん、疲れを忘れてしまった。
足(大腿部)が痛いのも、足の裏がだるいのも、みな、忘れてしまった。
旅行にはいつも小型のバッグをもって歩くが、その重さも忘れてしまった。
「気力」というのは、そういうもの。
もう少し正確には、自律神経というのは、そういうもの。

 夕食を食べるころには、体のだるさも取れ、頭の中もすっきりとしてきた。
熱い風呂にがまんして入ったのが、よかったかも?

●ためしてガッテン

 夕食後、また露天風呂に入ってきた。
客は、4人組みの女性客と、私たち3人だけらしい。
ホテルには申し訳ないが、私たちは貸し切り気分を楽しんだ。

 今、時刻は午後9時になるところ。
テレビではローカルニュースを放送している。
少し前、「ためしてガッテン」(NHK)という番組を見ていた。
登山と下山の仕方を話していた。
私はいつも下山するとき、足を痛める。
その番組を見て、その理由が、はじめてわかった。

 結論から先に言えば、下山するときは、大またで歩かないこと。
小またで歩くこと。
心拍数があがらないため、どうしても大またで歩いてしまう。
そのため大腿筋がズタズタに切れてしまう。

 この世の中には、私が知らないことがまだ、山のようにある。
山どころではない。
私が知っているのは、山の一部の、そのまた一部に過ぎない。
その番組を見ながら、そんなことを考えた。

●風呂

 露天風呂には、不思議な魅力がある。
たとえば私は、結婚して以来このかた、ワイフといつもいっしょに入浴している。
そのため今では、ワイフを「女」と見ることは、まず、ない。
ワイフも私の前では、平気。
私を「男」と意識することはない。

 しかし露天風呂の中のワイフは、まるで別人のよう。
別人のように色っぽく見える。
美しく見える。
これはどうした心理的作用によるものなのか。
(ただしワイフは、私に対して特別な変化を感ずることはないようだ……。)

 つまり「男」には、それぞれ特有の性癖のようなものがある。
女性の下着に興味をもつ人もいれば、スカートの下に興味をもつ人もいる。
太った女性がよいという人もいれば、汗臭い女性がよいという人もいる。
私のばあいは、入浴中、あるいは入浴後の女性に、色気を覚える。
若いころは、風呂あがりの、あの独特の石鹸ににおいをかいだだけで、ムラムラと
した。

 こうした性癖は、いつどのようにして作られるのか。
私が正常というわけではない。
私以外の人がそうでないというわけでもない。
人、それぞれ。
が、正直に、本当に正直に書くが、私にはマゾ趣味、サド趣味はない。
男としても「濃い男」で、同性愛には、まったく関心がない。
スカートの下など、頼まれても、のぞきたくない。
「便臭」などは、その臭いがしただけで、性欲が消えてしまう。
が、入浴中の女性にはぞっとするような美しさを感ずる。
エドガー・ドガの描いた絵に、『浴盤(たらいで湯浴みする女)』
というのがある。
あの絵などは、私が大好きな絵の一枚である。

 幼いころ、そういう受容体が、心のどこかにできたせいだろう。
思い当たるのは、銭湯で女湯を垣間見るのが好きだったこと。
番台に料金を払うときに、横目でチラリと女湯のほうをのぞく。
それが楽しみで、銭湯に通った。

●正常vs異常

 となると、正常、異常とは何かということになる。
あるいはそういうことを論ずること自体、無駄ということになる。
こと「性」に関して言うなら、正常もなければ、異常もない。
どんな行為も、一定のワクの中に収まる。
ワクの中に収まる以上、どんな行為も正常ということになる。

 ただこの問題は、(相手)をともなう。
相手が納得するなら、それでよし。
どんな行為も、そのワクの中でなら許される。
そうでないなら、そうでない。
「スカートの下をのぞきたい」と思うのは、その人の勝手。
しかしのぞかれた人が不愉快に思うなら、それは反社会的行為となる。
つまり「犯罪」。

●ドーパミン

 肉体は刺激を受けると、その信号は、脳の中の「脳幹」に伝わる。
その脳幹は刺激を受けて、ドーパミンを分泌するよう指令を出す。
ドーパミンは、欲望と快楽を司る脳内ホルモンの一種である。
覚せい剤と分子構造がたいへんよく似ている。

 そのドーパミンが、大脳辺縁系を興奮させる。
甘い陶酔感で満たす。
これが性的な快感へとつながっていく。

 で、問題は、その「刺激」。
男性と女性とでは、メカニズムがかなりちがう。……らしい。
男性は視覚的な刺激を受けて、脳幹はドーパミンを分泌するよう刺激を出す。
一方、女性は、全身が性感帯。
その分だけ刺激も強烈。
それを証明するのが、シータ波という脳波である。
女性のばあいも、オルガスムスを感じたときシータ波が出現するが、その強さは、
男性のそれの10倍前後と言われている。
(10倍だぞ!)
しかも時間が長い。

 よけいなことを書いてしまったが、先に書いた「ワクの範囲」というのは、それをいう。
つまり私たちが正常、異常と言っているものは、その「ワクの範囲」の中の反応でしか
ないということ。
もっと言えば、私やあなたを超えたところにある、「脳みその問題」ということ。

●午前4時40分

 長男がトイレに起きたのをきっかけに、目が覚めてしまった。
時計を見ると、午前4時40分。
昨夜は冷房がききすぎていたせいか、よく眠られなかった。
朝、起きたら、ワイフにしがみついて寝ていた。
私は血圧が低い。
それもあって、寒さには弱い。
とくに足の先が冷えると、目を覚ましてしまう。

 窓の外は、ぼんやりと明るかった。
ぼんやりと橙色の雲も見える。
昨夜、仲居さんが、朝日は山に隠れて見えませんと言った。
しかし……?
何とか、期待できそう。

●キラカン
 
 この部屋は12畳もある。
303号室。
玄関をあがると、1間半くらいの廊下がつづき、その先に部屋がある。
廊下の材木は、無垢(むく)のケヤキ。
老舗の旅館ということが、そういうところからもわかる。
空調の音も、ほとんど聞こえない。

 こうした旅行では、私たちはいつも早朝に食事をすませ、そのまま帰宅する。
早く帰れば、朝の日課に間に合う。
……といっても、私の仕事は、いつも午後から。
原稿を書いたり、ネットにそれをUPLOADするのが、私の日課。
お金にはならないが、だからこそ、楽しい。
お金に追われて仕事をするのは、それだけでストレスがたまる。

●雨雲

 雨は降っていない。
が、雨雲が低く、遠くの山々すれすれのところにまでおりている。
トンビの鳴く声。
カラスの鳴く声。
耳を澄ませば、波の音も聞こえる。

 そう言えば、数日前、知人の1人が狭心痛の発作(?)で、市内の病院に入院した。
一度、同じような症状が出て、そのときは簡単な手術で退院した。
「夜中に、自分で車で連れていきました」と、息子氏は言っていた。
年齢は78歳。
大柄の太った人だった。
「……だった」と書くと、もう亡くなってしまったかのように思う人がいるかもしれない。
ここ10〜15年ほど、会っていない。
それで「……だった」と書いた。

 心筋梗塞と脳梗塞は、ペアで襲ってくる。
ともに血栓性の病気。
無事であればよいが……。

●童心

 外はかなり明るくなってきた。
鉛色の空、鉛色の海、その間にあって白くかすんだ島々。
近くには小さな島も見える。
深い緑に包まれ、じっとそこにたたずんでいる。
その右端には、船の航路灯があって、時折赤い光を点滅している。

 6時になったら、もう一度、露天風呂に入ってみるつもり。
あのケーブルカーが気に入った。
ケーブルカーに乗って、山の上の露天風呂に行く。
「キラカン」だけの特別サービスである。
乗ったとたん、私は童心に返った。

 そのあとの食事は、7時半からとか。
窓の外を見ると、さらにいっそう、景色が明るくなっていた。
その景色を、黒いカラスが、鳴きながら真一文字に横切っていった。

●デジャブ

 思考力が低下した?
ほんの少し前までは、こうしてものを書いていると、つぎからつぎへと、
いろいろなことが頭の中に浮かんでは消えた。
が、今は、それはない。
ぼんやりとカーテンがゆらめくのを見たり、ベランダに散った私物をながめたりする。

 ……子どものころ、町内の遠足で、この蒲郡(がまごおり)には、ときどき来た。
海水浴のためである。
だからというわけでもないが、この景色には、どこか見覚えがある。
来たことはないはずなのに、どこか見覚えがある。
こういうのを「デジャブ」、つまり「既視感」と言う。
わかりやすく言えば、「偽記憶」。

 「デジャブ」というのは、はじめて来た場所なのに、以前に一度来たような錯覚に
とらわれることをいう。
どこか霊的なパワーのなせるワザのように思う人もいるが、偽記憶は偽記憶。
記憶というのは、底なしに広い。
その中の一部が、目の前の景色とダブる。
改めて「吉良吉田へは、今日、はじめて来た」と、自分に言って聞かせる。

●記憶

 デジャブと逆の現象は、夢の中で経験する。
来たことがある場所なのに、それがどこかを思い出せない。
私のばあい、まったく見たこともない家なのに、自分の家と思い込むこともある。
記憶というのは、いいかげんなもの。

一説によると、たとえばどこかの旅館に泊まったとする。
そのとき、旅館の名前、場所、雰囲気、料理、風呂などの記憶は、脳の別々のところに
格納されるそうだ。
どこかにまとまって格納されれば、もう少し記憶を取り出しやすくなるかもしれない。
バラバラの格納されるから、思い出すときに苦労する。
コンピューターでいうような、「最適化」はできないものか。
 
 だから前回泊まったような旅館のようなばあい、とくに関連性のあることについては、
覚えている。
旅館とその風呂とか、旅館とその料理とか……。
しかしそれ以外の付随したことについては、どこの旅館のことだったのか、それがよく
思い出せない。
「あのみやげを買ったのは、どの旅館だったかな?」と。

●同窓会

 話がバラバラになってきた。
昨夜は、性欲について書いた。
今朝は、記憶について書いている。
が、これでは旅行記にならない。

 そう言えば、今度金沢で大学の同窓会がある。
数日前、連絡の手紙が届いた。
どこかの旅館を借りて、するという。
一泊、1名、2万5000円。
夫婦2名で、5万円。
かなりの大名旅行ということになる。
というのも、往復の旅費を入れると、10万円を超える。
この2月に同窓会があったばかりだから、今回は失礼するつもり。
……というより、同窓会に出てこられる人は、健康的にも恵まれた人たちばかり。
金沢周辺に住んでいる人も多いが、半数以上は石川県外に住んでいる。
今、ふと「脳梗塞にでもなったら、どうするんだろう?」と思った。
「車椅子に乗っていくしかないな」とも思った。

 やはり健康が許すなら、同窓会には出るべきなのか。
出られるうちは、出るべきなのか。
そのうち出たくても、出られなくなるかもしれない。
「失礼するつもり」と書いたが、迷いが生じてきた。
健康であることを喜びあう同窓会なら、10万円など、安いもの。
金額で考えるほうが、おかしい。

●再び……

 水平線はさらに明るくなったが、視界はかえって悪くなった。
見えるはずの対岸の渥美半島の島々が見えない。
空はすっかり雨模様。
で、時刻はもうすぐ6時。

 これから露天風呂へ。
楽しみ!

●やる気と性欲

 やる気と性欲は密接に関連しあっている。
やる気を司る中枢も、性欲中枢も、視床下部にある。
視床下部からの信号を得て、やる気(生的エネルギー)が生まれる。
性欲中枢、それに食欲中枢も、その視床下部にある。
一説によると、男性の性欲中枢を司る中枢部は、女性のそれの2倍ほどの大きさが
あるという。
(だから男性は、その分だけ、攻撃的ということになるのだそうだ。)
また女性の性欲中枢は、食欲中枢と隣接しているという。
そのため女性のばあい、食欲が満たされると、性欲が増大するという説もある。
(反対に男性のばあいは、飢餓状態になると、かえって性欲が増大するという。)

 ともあれ、やる気と性欲は、密接に関連しあっている。
あれほどやる気に苦しんでいた私が、こうして旅行に来て、温泉につかっただけで、
気分が変わった。
ただの肉塊にしか思っていなかった(ごめん!)ワイフが、色っぽく見えた。
性欲を感じた。
とたん、やる気が出てきた。
頭の中もすっきりしてきた。

 ……何度も、「これは私の思い過ごしか?」と自問してみたが、どうも、そうではない
らしい。
たしかに浜松を出るときと今とでは、気分がちがう。
やはり転地療法というのは、してみるものだ。

●記憶

 もうひとつのテーマ。
記憶。
 
 こうしてときどき旅行する。
しかし1、2か月もすると、旅行の記憶は、たいはんが消えてなくなる。
そこで私のばあい、できるだけ写真を撮ったり、ビデオに動画を収めたりするようにして
いる。
だれのためでもない。
私のため。

 若いときは未来に向かって、思い出を残した。
今はちがう。
今を忘れないために、思い出を残す。
さらに言えば、それは私自身との闘いでもある。
すでに私の脳みその底には、穴があいている。
その穴から、知識や経験、それに思い出がどんどんと流れ落ちていく。
そういう自分との闘いでもある。

 ……少し大げさかな?
旅行なんだから、もう少し気楽に考えればよい。
忘れたら忘れたとき。
そのときはまた別の旅行を楽しめばよい。

●帰りの電車の中で……

 今、この文章を、帰りの電車の中で書いている。
窓の外には、三河湾が断続的に見える。
たった今停まった駅が「子どもの国」。
駅の名前が「子どもの国」。
あたりを見回してみたが、それらしい建物は見えない。
深々とした緑のヤブと、古い寺。
しばらく行くと砂浜が見え、その向こうに小さな半島が見える。
あとは日本なら、どこにでも見られるような、雑然とした民家。

 「子どもの国」というくらいなら、ディズニーランドのような入り口でもあれば
よい。
つぎの駅に着いたときには、そう考えていた。

 ……こうして私の旅行記は終わる。
2010年7月15日。
愛知県、蒲郡にて。
楽しかった!

来月は、ちょっとリッチに、藤枝にある超有名な旅館に泊まる。
お楽しみに!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 きらかん 吉良観光ホテル 吉良温泉 愛知県吉良温泉)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●高機能広汎性発達障害(アスペルガー障害児)

【Nさん(東京都在住)からの相談】

++++++++++++++++

東京都に住んでいる、Nさん(母親)から、
こんな相談が届いている。

「カウンセリングの先生に"高機能広汎性発達障害"
かもしれないといわれてしまいました」という内容
のもの。

++++++++++++++++

【Nさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。

数年前から子育てに関して悩むたびに先生のHPを拝見しております。
息子は現在5歳、公立幼稚園の年長さんです。

2歳頃から数字が大好きで、すべてを数字に関連付けるとあっという間にひらがな、カタカナ、
漢字と書けるようになり、現在では小学校2年生レベルの学力を持っているように感じます。

そんな長所とは裏腹に、3歳頃から嫌なことや困ったことがあっても口で言うのではなく、手が
でたり、泣いてしまったりで手を焼いていました。親にしてみれば、3歳で足し算引き算を理解で
きる能力があるのにどうして人の気持ちを察することが出来ないのか自分の気持ちを言葉に
することができないのかとアンバランスさに悩まされていました。


そんな折、市の発育相談でお話させていただいたことがきっかけで現在幼稚園でも年に1回程
度の相談を受けさせてもらっています。親にも落ち度があることかと思い、軽い気持ちで相談さ
せてもらっていました。

ところが最近、園で同級生の子供達に暑い、眠たい、お腹すいたなどの理由(本人がそういい
ます)から意味もなく物を蹴飛ばしたり、友達に当たったりしているそうです。他にも、昨年はな
かなかなかの良いお友達を見つけることができなかったのですが、新学期からいつも一緒に
遊びたいと思うお友達も出来、幼稚園が楽しい様子なのですが、その子が"遊べない"と誘い
を断るとたたいたり、つねったりと相手に手をあげているようです。最近ではその子の母親から
先生に対して、どうしてもっと注意しないのか、親はどうしているのか、と相談が寄せられている
そうです。

そんな折、先日恒例の発達相談を受け、カウンセリングの先生に"高機能広汎性発達障害"か
もしれないといわれてしまいました。そして、他の生徒の親御さんから誤解のないように皆に説
明をしてみるのはどうか…と提案されました。

もちろん、専門医の診察は受けていません。この言葉を主人やお姑さんに伝えたところ、二人
とも口をそろえて"人の息子を勝手に障害者扱いしやがって""公立に入れたのが失敗や、先
生のレベルが低すぎる"と怒ります。確かに自宅での息子は自分の興味あるものへの執着、ま
たそれ以外のものへの無頓着さというのはありますが、やさしい子ですし、問題があってもどこ
に家庭にでもあるようなことです。

先生方というのは、自分のクラスで手に余る子供に対して何らかの診断をつける事によって責
任回避をできることもあるのでは、と思う節もないわけではありません。カウンセリングの先生
の見立てに関しては、その可能性を踏まえたうえで(長い目で)親として出来ることをやっていこ
うと思っています。ただ、専門医に診てもらうというのはどうでしょうか?

公立幼稚園、私立幼稚園で先生に違いはあるのでしょうか?そして上記のような反応を返す
家族にたいして私はどのように説明、対処していったらよいのでしょうか?
もっともっと息子の状況をお伝えしたいのですが、どんなことをお伝えしたら先生の判断にお役
にたてるのか…。

先生、もしもお時間が許すのであれば是非アドバイスをお願いします。

【はやし浩司よりNさんへ】

 11年ほど前から、「アスペルガー」(高機能広汎性発達障害)という言葉が、よく
聞かれるようになりました(1999年ごろ)。
その当時はともかくも、こと「アスペルガー」については、診断方法も確立し、教育、
医療の世界でも一般化し、今では見立てを誤るということは、まずありません。
ですからカウンセラーの先生が、「アスペルガーではないか?」と言ったということ
ですから、その見立てには、ほぼまちがいないものと思われます。
(今ではたいへんわかりやすい障害のひとつです。)

 ただ「広汎性」という言葉からもわかるように、症状の内容、軽重は様々で、最近
では、「幅が広い」という意味で、「自閉症スペクトラム」という言葉を使います。
一様ではないということです。
いただいたメールを読む範囲でも、それが疑われます。
たとえば「数字」に、ふつうでない(こだわり)を見せる部分など。

 それについて書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

●自閉症スペクトラムの子どもたち

+++++++++++++++++++++

「自閉症」と言うと、ほとんどの親たちは、
(無口で、内気。殻(から)に閉じこもった
子ども)を想像する。
しかしこれは誤解。

そこで最近では、自閉症という言葉はあまり
使わない。
「広汎性発達障害」という言葉を使うことが
多い。
(以前は、多動性、多弁性のある自閉症児を、
「活発型自閉症児」と呼びことが多かった。)

また症状や程度は、千差万別。
ふつうの子ども、(この言葉には、少なからず
抵抗を覚えるが)、そのふつうの子どもと
ほとんど違わないレベルから、顕著な症状の
現れる子どももいる。
そのため患者数も、36万人〜120万人
(日本自閉症協会)と、大きな幅がある。

そのこともあって、最近では、「スペクトラム」
という言葉を使うことが多い。
「自閉症スペクトラム」というような言い方を
する。

たとえば現在、自閉症といっても、高機能自閉症
(アスペルガー症候群含む)は、区別して考える。
症状としては、AD・HD児や、LD児のそれを
併せもつケースも多い。
もちろん知的障害をもった子どもも多い。
が、先にも書いたように、その境界が、よくわからない。
わからないという意味で、「スペクトラム」という
言葉を使う。

「スペクトラム」というのは、光の分光器で光を
分解したときのように、それぞれの症状が、多岐、
複雑に分かれ、かつ連続性をもつことをいう。

+++++++++++++++++++++
 
●自閉症スペクトラム

 診断については、DSMによる診断基準が、広く、一般的に使われている。
ウィキペディア百科事典に出ている、「DSMによる診断基準」を、そのまま紹介
させてもらう。

+++++以下、ウィキペディア百科事典「自閉症」より転載+++++

DSMの診断基準 

DSMの診断基準に挙げられている症状は次の通り。

●コミュニケーションにおける質的な障害 
○視線の相対・顔の表情・体の姿勢・身振り等、非言語行動がうまく使えない。 
○(例)会話をしていても目線が合わない。叱られているのに、笑っ
ている。 
○発達の水準にふさわしい仲間関係が作れない。 
○興味のあるものを見せたり指さしたりする等、楽しみ・興味・成果を他人と
自発的に共有しようとしない。 
○対人的または情緒的な相互性に欠ける。 
●(例)初対面の人に対する無関心。 

●意思伝達の質的な障害 
○話し言葉の発達に遅れがある。または全く話し言葉がない。 
(例)クレーン現象
○言語能力があっても、他人と会話をし続けることが難しい。 
(例)一問一答の会話になってしまう。長文で会話ができない。 
○同じ言葉をいつも繰り返し発したり、独特な言葉を発する。 
(例)人と会話をする際に同じ返事や会話を何度もする。 
○発達の水準にふさわしい、変化に富んだ『ごっこ遊び』や社会性を持った
『物まね遊び』ができない。 

●限定され、いつも同じような形で繰り返される行動・興味・活動(いわゆる「こ
だわり」) 
○非常に強く、常に繰り返される決められた形の一つ(もしくはいくつか)の
興味にだけ熱中する。 
○(例)特定の物、行動などに対する強い執着心。 
○特定の機能的でない習慣・儀式にかたくなにこだわる。 
(例)物を規則正しく並べる行動。 
(例)水道の蛇口を何度も開け閉めする行動。 
○常同的で反復的な衒奇(げんき)的運動物体の一部に持続的に熱中する。 
(例)おもちゃや本物の自動車の車輪・理髪店の回転塔・換気扇な
ど、回転するものへの強い興味。 
(例)手をヒラヒラさせて凝視する。 

+++++以下、ウィキペディア百科事典「自閉症」より転載+++++

●軽重の判断を正確に

 この診断基準を読んでもわかるように、自閉症のもっとも顕著な特徴は、他者との
良好な人間関係(コミュニケーション)をとれないところにある。
 もちろんその程度も、子どもによってちがう。
一日中、小刻みな運動を繰り返し、ほとんどコミュニケーションがとれないタイプの
子どももいれば、ふとしたきっかけで、親や兄弟たちと、いっしょになって行動する
というタイプの子どももいる。

 そこで自閉症が疑われたら、まずどの程度の症状かを、正確に把握する必要がある。
症状が軽いばあいには、自閉症であることをあまり意識せず、(ふつうの子ども)として、
ふつうの環境で育てるのがよい。
私の経験でも、自己管理能力が育つ、小学3〜4年生を境にして、症状は急速に収まって
くる。
大切なことは、それまでに症状をこじらせないこと。
多くのばあい、その症状の特異性から、親が乳幼児期に、はげしく叱ったり、ときに
暴力を加えたりしやすい。
こうした一連の不適切な対処の仕方が、子どもの症状をこじらせる。

●原因

 こと教育の場では、(原因さがし)というのは、しない。
しても意味はない。
「そこにそういう子どもがいる」という立場で、指導を開始する。
ただ親には、ある程度のことは話す必要がある。

 というのも、自閉症が疑われると、ほとんどの親は、その瞬間から、はげしい
絶望感を覚える。
が、こと自閉症に関していえば、「脳の機能障害」であり、さらにわかりやすく
言えば、一時的であるにせよ、あるいは長期的にあるにせよ、機能が不全の状態
であるにすぎない。
(詳しくは、ウィキペディア百科事典を参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87)

 たとえば私のばあい、軽度自閉症であれ、アスペルガー症候群であれ、高機能
自閉症であれ、その子どもが一定のワクの中に入れば、そうした「障害」は無視し
て指導を開始する。
(ここでいう「高機能」というのは、「知的な障害が見られない」という意味で、
そう言う。)

 つまり診断名を親に告げる必要はないし、(また「診断名」を告げることは、
タブー中のタブー)、原因や、将来の予想を告げる必要もない。
重要なことは、「先月よりも、今月はよくなった」「半年前より、症状が軽くなった」
という状況を作ることである。
 またそういう状況になるように、指導に専念する。

●親の無理解

 症状が重く、医師による診断がくだされているケースは、別として、先にも
書いたように、症状があいまいな子どもも少なくない。

(ただし医師の診断が、いつも正しいとはかぎらない。
私も医師によって「自閉症」と診断された子どもを、何十例と指導してきた経験
があるが、そのうち3〜4割については、「?」と感じている。)

 たいていは2〜3歳ごろになって、「どうもうちの子は、おかしい」「言葉の
発達が遅れている」「落ち着きがなく、突発的に錯乱状態になる」などの症状が
現れて、ふつうではないことに気づく。
多動性、衝動性が見られることも多く、そのため先にも書いたように、はげしく
叱ったり、ときに暴力を加えたりしやすい。
それが症状をこじらせるだけではなく、指導するばあいも、親の協力が得られず、
苦労する。

やっとの思いで、(ふつうの子ども?)になっても、「この教室は効果がなかった」
という判断をくだして、そのまま去って行く親も少なくない。
(というより、そういうケースが、ほとんどと考えてよい。)
そういうばあい、私(=指導者)が受ける落胆感というか、絶望感には相当な
ものがある。
自閉症にかぎらず、親の無知、無理解が原因で、そうした絶望感を味わうことは
じばしばある。
が、いまだに、その絶望感だけは、どうしようもない。

 つまりこういうことが重なるため、指導する側(幼稚園や保育園を含む)は、
どうしても指導に消極的になる。……ならざるをえない。
目に余るほど症状が顕著なばあいには、入園そのものを断るケースが多い。

●希望

 最近では、自閉症児に対する理解も進み、またその周囲環境も整えられてきて
いる。
いろいろな団体や組織が、治療プログラムを用意し、好成績を収めている。
またあくまでも機能障害であり、(機能の改善)をめざした医学的治療法も、
現在急速に進歩しつづけている。
原因についても、大脳生理学の分野で、かなり精密に解明されつつある。

 また(流れ)の中でみると、自閉症児にかぎらず、AD・HD児、かん黙児
にしても、小学3〜4年生を境に、急速に症状が緩和されてくる。
とくに脳内ホルモンのバランスが調整されてくる思春期前夜ごろになると、
子ども自身がもつ、自己治癒機能が働くようになる。
専門家が見れば、そうとわかるが、そうでなければ、外目にはわからなくなる。
つまりその程度までに、改善する。

 そのため仮に、専門機関で自閉症と診断されても、(親が受けるショックは
大きいが)、それを「終わり」と考えてはいけない。
そのためにも、つぎのことに注意する。

(1)専門機関で診断名をつけてもらい、自閉症に対する知識をしっかりともつ。
(2)愛情の糸だけは大切にし、どんなばあいも、子どもを「許して忘れる」。
(3)乳幼児期には、「症状を悪化させないこと」だけを考える。
(症状をこじらせれば、いろいろな合併症を併発する。
また立ち直りも、その分だけ遅れる。)
(4)治療のターゲットを、小学3〜4年生(9〜10歳)ごろに設定する。
それまではジタバタしない。
「ようし、十字架のひとつやふたつ、背負ってやる」という前向きな、
暖かい愛情が、何よりも重要と心がける。
(5)幼稚園以後の教育法などについては、各地域にある、「発達障害相談窓口」
(多くは保健所、保険センター)に相談するとよい。
現在、この浜松市でも、10年前とは比較にならないほど、そうした障害
をもつ子どもに対する支援プログラム、支援組織、支援団体が組織化されている。
けっして「私、1人」と、自分を追い込んではいけない。

(2009年7月22日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自閉症 自閉症スペクトラム)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●かんしゃく発作

 Nさんのお子さんについて言えば、「暴力的行為」の部分について言えば、同時に
かんしゃく発作も疑われます。
つまり「自閉症スペクトラム」と、「かんしゃく発作」が同居しているというふうに、
私は判断します。
(もちろん私はドクターではありませんので、カウンセラーの先生の指示に従って
ください。
あくまでも参考的意見です。)

 「かんしゃく発作」については、一般的には「家庭教育の失敗」とみます。
とくにこのタイプの子どもは、根気ある指導、深い親の理解と愛情が必要です。
が、どこかで短絡的に叱ったり、突き放したりしてしまった。
親子関係がわかりませんが、下の子がいれば、愛情飢餓、愛情不足も疑われます。
「自閉症スペクトラム」イコール、「暴力的行為」ということではありません。
よく見られる症状は、

(1)キレるとき、カラにこもってしまい、異常にがんこになる。
(2)まちがいを指摘したり、注意したりすると、異常にがんこになる。
ときに体を震わせて、それに抗議する、など。

 能力的には、問題がないばかりか、ある特異なことに強い関心と理解を示します。
たとえば数学的な部分については、天才的な能力を発揮するなど。
そのあたりをよく観察して、ご自身で判断するのがいちばんよいかと思います。

 これも以前書いた原稿ですが、参考のために、再録しておきます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【アスペルガー障害】

++++++++++++++++++++

症状から、明らかに「アスペルガー障害」と
思われる子どもについての相談があった。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、GN先生へ】

GN先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。相談のあった子どもを、以下、T君(男児)としておきます。

 私はドクターではありませんので、子どもを診断することはできませんが、症状からすると、T
君は、アスペルガー障害(アスペルガー症候群)と、活発型自閉症の複合したタイプと考えてよ
いのではないでしょうか。それが基本にあって、不適切な家庭環境と指導で、症状がこじれてし
まっている。私は、そう判断しました。

 以下、アスペルガーついて、いくつかの文献から、資料をあげてみます。



+++++++++++++

●文献より

【臨床心理学・稲富正治・日本文芸社】

 自閉性障害の中でも、言葉や、記憶の発達に遅れがないケースを、「アスペルガー障害」と
呼ぶ。

 対人関係の障害と興味や活動が限定されているという点が、特徴である。

 高機能自閉症とともに、高機能広汎性発達障害に含まれる。

 圧倒的に男児に多く、知能は平均以上であるものの、コミュニケーションがうまく取れなかっ
たり、不器用であるため、孤立しやすくなる。

 計算や文字、地図など限定されたものに対して、異常なほどの関心を示し、その中で独創性
を発揮する人もいる。が、自分が守っている範囲に、他人が侵入してきたり、乱されたりするこ
とに対して、著しく、攻撃的になる。

 原因は、中枢神経の障害であると言われているが、まだ解明されたわけではない。遺伝の要
素も強く、パーソナリティ障害や情緒障害と診断されるケースもあるため、診断には最新の注
意が必要。

 最近では、対人関係のトラブルをどのように解決するかを意識的にトレーニングする、行動
療法などの治療法がある。



【発達心理学・山下富美代・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、言語発達に遅れがみられないほか、知能も高い水準を維持していると
いわれる。しかし自閉症と同様に、相互的な対人関係の障害がみられること、ある特定のもの
に対する関心の程度が高すぎることなどが特徴である。

 また自閉症とともに、男の子に多い障害でもあり、医学的な治癒は難しいとされている。

 特徴としては、(1)正常な対人関係をもつことは困難、(2)特定のものに対する、こだわり、
興味の偏(かたよ)りがみられる。(3)言語障害はみられない。



【心理学用語・渋谷昌三・かんき出版】

 ……ウィングは、自閉症には、3つの特徴があると説明している。

(1)社会性の問題

 自分の体験と他人の体験が重なりあわない。(他人がさっと顔色を変え、怒った表情をすれ
ば、自分が悪いことをその人に言ったのではないかと思うが、自閉症の人は、こうした他人の
感情を推し量るのが、非常に苦手。)

(2)コミュニケーションの問題

 言葉の遅れから、双方のコミュニケーションが、うまくとれない。(声の大きさや、イントネーシ
ョンの調整が苦手、自分の意見を言うとき、どのように言うべきかを迷う。)

(3)想像力の遅れ

 1つの対象に、異常なほど興味を示す。特定の儀式にこだわる。

 これらの特徴のうち、コミュニケーションの障害が、非常に軽いものを、「アスペルガー症候
群」と呼ぶ。軽い遅れというのは、冗談が通じにくい、比喩を使った表現が理解しにくいことをい
う。

 すなわち、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが目立たず、知的には正常だが、生ま
れつき社会性の障害と、こだわり行動をもっている自閉症を指す。



【臨床心理学・松原達哉・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、乳児期後半から特徴が出始め、6〜7歳に顕著になる。ほとんど男児
のみにみられる障害である。

 言語的な発達には遅滞はないが、言葉は単調で、抑揚がないという特徴がある。言語や容
貌に子どもらしさがなく、コミュニケーションがとれず、集団の中では孤立することが多い。

 特定の対象、数字・文字・地図・貨幣などに興味を示し、独創性もあり、知能は平均以上と推
定される。しかし自己の領域を侵されると、パニックを起こし、攻撃的になる。また、多くの全体
的な知能は正常だが、著しく、不器用であることが多い。

 青年期から成人期へ、症状が持続する傾向が強いが、統合失調症(精神分裂病)の診断基
準は満たさないので、成人後も、精神分裂病にはならないといわれている。

 治療法は、その子どもの特性を理解し、それに合った、治療・教育をすれば、じゅうぶん社会
に適応できるようになる。大切なことは、病態に対する周辺の理解であり、治療においても、社
会福祉的な領域が重要になる。

 ……アスペルガー症状は、自閉症と類似しており、自閉症の軽度の例にもみえるため、それ
ぞれの診断は困難である。

症状の例として、本人のやっていることを中断させると、突然、怒り出すなどがある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガー症)

++++++++++++++++ 

●親自身の問題

 こうした事例で、まず注意しなくてはいけないのは、親自身が、すべてを話しているかどうかと
いうことです。つまりほとんどの親は、自分に都合の悪いこと、たとえば不適切な対処法で、子
どもの症状を、かえってこじらせてしまったようなことについては、話しません。

 無意識のうちに、こじらせてしまうというケースもありますが……。

 T君について言えば、乳幼児期から多動性があったということですが、この段階で、母親が、
かなりきびしく叱ったり、怒ったり、あるいは体罰としての暴力を振るったことも、じゅうぶん、考
えられます。

 T君にみられる、一連の不安症状、さらには、基本的な不信関係は、そういうところから発生
したと考えられます。母親からの報告内容にしても、まるで他人ごとのような観察記録といった
感じで、私はそれを読ませてもらったとき、「?」と思いました。あたかも、「うちの子は、生まれ
つきそうで、それは、私の責任ではない」と言わんばかりの内容ですね。

 で、私の経験を話します。

●私の経験より

【U君(小3児)のケース】

 U君を最初に預かったのは、まだ、「アスペルガー症候群」という言葉が、ほとんど知られてい
ないころでした。1990年代の中ごろです。(1944年に、オーストリアの小児科医のアスペル
ガーが、その名前の由来とされていますが、日本でこの名称が使われ始めたのは、90年代に
入ってからです。)

 最初、自閉症かなと思いましたが、知的能力の遅れはなく、言語障害も、みられませんでし
た。が、いくつかのきわだった特徴がみられました。

(1)ほかの子どもと仲間になれない

 そのあと、U君が小学校を卒業するまで、私が週2回指導しましたが、最後の最後まで、結局
は、友だちができませんでした。いつも集団から1歩、退いているといった感じで、軽い回避性
障害もありました。集団の中へ入ると、心身が緊張状態になってしまうからです。

(2)ずば抜けた算数の力

 計算力はもちろん、算数全般について、ずば抜けた能力を示しました。知的能力は、平均児
より高かったのですが、最後まで、乱筆には、悩まされました。文字を書かせても、メチャメチ
ャでした。こうした不器用さは、アスペルガー障害の子どもに、共通しています。こまかい作業
が苦手で、それをさせると、混乱状態から、突然、キレた状態になることもあります。

(3)極端な自己閉鎖性

 U君のばあいは、まちがいを指摘しただけで、突然、キレて、激怒することもありました。(軽
いばあいは、顔をひきつらせて、大粒の涙だけを流す、など。)たとえば計算問題などで、まち
がいを見つけ、「やりなおしなさい」と指示しただけで、キレてしまう、など。

(キレないときもありましたが、あとでノートを見ると、エンピツで、きわめて乱暴に、それを塗り
つぶしてあったりしました。)

 こうした特徴を総合すると、U君には、心の持続的な緊張感、特別なものへのこだわり、自己
閉鎖性があったことになります。

 幸いなことに、U君のケースでは、母親が、たいへん穏やかで、心のやさしい人でした。です
からそれ以上、心がゆがむということは、U君のばあいは、ありませんでした。私は、当時は、
「U君は、ほかの子どもとはちがう」と判断し、U君はU君として、指導しました。

●治療は考えない

 こういうケースで重要なのは、アスペルガー症候群にかぎらず、子どもの心の問題に関する
ことは、「治そう」とか、「直そう」と思わないことです。

 「あるがままを認め」、「現在の状態を、今より悪くしないことだけを考えながら」、「半年、ある
いは1年単位で、様子をみる」です。

 で、相談をいただきましたT君にケースですが、全体に、周囲の人たちが、「治そう」とか、「直
そう」とか、そういう視点でしかT君をみていないのが、気になります。「少しよくなれば、すぐ無
理をする」。その結果、症状を再発させたり、悪化させたりしている。あとは、その繰りかえし。
そんな感じがします。

 U君のケースのほか、兄と弟でアスペルガー障害のケースなど、「アスペルガー」という言葉
がポピュラーになってから、(2000年以後ですが……)、私は、4例ほど、子どもを指導してき
ました。

 (最近は、体力の限界を感ずることが多く、指導を断るケースが、多くなりました。)

 その結果ですが、アスペルガー障害そのものの(治癒)は、たいへんむずかしいということで
す。そのかわり、小学3、4年生ごろから、自己意識が急速に育ってきますから、それを利用
し、子ども自らに自己管理させることで、見た目には、症状を落ち着かせるということはできま
す。

 子ども自身が、自分で自分を管理できるように、指導していくわけです。

 しかしこれも、1年単位の根気と、努力が必要です。とくに指導する側は、その生意気な態度
のため、カッとなることもあります。たとえばU君のばあいでも、私がまちがいを指摘しただけ
で、私に向かってものを投げつけてきたことがあります。あるいは、ぞんざいな態度で、「ウル
セー」と、言い返してきたこともあります。

 そういうとき、ふと、その子どもが、アスペルガー障害であることを忘れ、「何だ、その態度
は!」と叱ってしまうこともありました。「根気が必要だ」というのは、そういう意味です。

 先生からいただいた報告の中に、担任の教師が、かなり乱暴な指導をしたという記録が書い
てありますが、それもその一例と考えてよいのではないでしょうか。記録だけを読むと、担任の
教師が悪いように思われますが、このタイプの子どもの指導のむずかしさは、ここにあります。

子どもがキレた状態になったとき、きわめて生意気な様子をしてみせるからです。ふつうの態
度ではありません。おとなを、なめ切ったような態度です。

●親側の問題

 で、先にも書きましたが、現在、T君と母親の関係についても、考えなければなりません。親と
いうのは、こういうケースでは、自分に都合の悪いことは、話しません。そういう母親がよく使う
言葉が、先にも書きましたが、「生まれつき」という言葉です。

 「うちの子は、生まれつき、こうです」と。

 子どもの症状を悪化させながら、その意識も、自覚もない。もっとも、だからといって、親を責
めてもいけません。親は親で、そのときどきにおいて、懸命に子育てをしているからです。懸命
にしている中で、客観的に自分を見る目を失ってしまう。よい例が、不登校児です。

 子どもが「学校へ行きたくない」などとでも言おうなら、その時点で、たいていの親はパニック
状態になり、子どもを、はげしく叱ったり、暴力的に学校へ行かせようとします。この無理が、症
状を悪化させてしまいます。

 たった一度の一撃でも、子どもの心が大きくゆがむということは、珍しくありません。

 で、その時点で、親が冷静になり、「そうね。どうして行きたくないのかな? 気分が悪けれ
ば、無理をしなくていいのよ」と親が言ってやれば、不登校は不登校でも、それほど長期化しな
くてすんだかもしれません。そういうケースも、私は、やはり何十例と経験してきました。

●年単位の観察を

 先生からいただいた報告書を読むかぎり、親も、担任の教師も、みな、少しせっかちすぎる
のではないかと思います。先にも書きましたが、この問題だけは、1年単位、2年単位で、症状
の推移をみていかなければなりません。

 「先月より今月はよくなった」ということは、本来、ありえないのです。ですから週単位、月単位
の変化を記録しても、意味はありません。またそうした変化に一喜一憂したところで、これまた
意味がありません。もう少し、長いスパンで、ものを考える必要があります。

 簡単に言えば、現在のT君を、あるがままに認め、そういう子どもであるということに納得し、
(もっとわかりやすく言えば、あきらめて)、対処するしかありません。T君は、給食におおきなわ
だかまりをもっているようですが、そういう子どもと、先に認めてしまうのです。

 それを何とか、食べさせようと、みなが無理をする。それが症状をして、一進一退の状態にし
てしまう。あるいはときに、もとの木阿弥にしてしまう。

 ……といっても、年齢的に、小4ということですから、症状は、すでにこじれにこじれてしまって
いると考えられます。本来なら、乳幼児期にそれに気づき、その時点で、親がそれに納得し、
指導を開始するのが望ましいのですが、報告書を読むかぎり、そういった記録がありません。

 ご指摘のように、T君の親は、学校側の指導法ばかりを問題にしているようですね。しかし、
これでは、いけない。本来なら、専門のドクターに、しっかりとした診断名をくだしてもらい、そう
であると親自身が納得しなければなりません。

 で、指導する側の私たちとしては、「知って、知らぬフリ」をして指導するわけです。私が指導
してきた子どもたちにしても、現在、指導している子どもたちにしても、私は、「知らぬフリ」をし
て、指導してきました。今もそうしています。もちろん私のほうから、診断名をくだすということ
は、絶対に、ありえません。またしてはなりません。

 が、親のほうから、たとえば「アスペルガー」という言葉が出てきたときは、話は別です。その
ときはそのときで、「アスペルガー」という言葉を前面に出し、指導します。しかしそれまでは、
知らぬフリ、です。

 ただ「そうでない」という判断はくだすことがあります。自閉症の子どもではないかと心配して
きた親に対して、「自閉症ではないと思います」というように、です。そういうことは、しばしばあり
ます。

●親の無知

 で、やはり、ここは親に、それをわかってもらうという方法をとるしかありません。しかしこれ
も、むずかしいですね。

 最近でも、明らかにADHD児の子ども(小5)がいました。で、それとなく親に聞いてみたので
すが、親は、まったく自分の子どもがそうであることさえ疑っていないのを知り、がく然としたこと
があります。「うちの子は、活発な面はあるが、ふつうだ」と。

 つまり親の無知、無理解をどう克服するかという問題も、生まれてきます。アスペルガー障害
であれば、なおさらでしょう。幼児教育の世界でも、この言葉がポピュラーになったのは、ここ
5、6年のことですから……。

 以上、私の独断で、T君を判断してしまいましたが、まちがっていることもじゅうぶん、考えら
れます。一番よいのは、私自身が、T君を直接観察してみることです。また機会があれば、そっ
と遠くから観察してみてもよいです。ご一考ください。

 あまりよい返事になっていませんが、さらに最近の研究では、環境ホルモンによる脳の微細
障害説を唱える学者もいます。アスペルガー障害にかぎらず、このところ、どこか「?」な子ども
がふえているのは、そのためだ、と。

 あくまでも、参考的意見として、お読みいただければうれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 長々とすみませでした。相談いただいたことをたいへん光栄に思い、感謝しています。ありが
とうございました。



敬具



                                はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【Nさんへ】

●こじらせない

 この10年間だけでも、10人以上の子どもについて、3〜8年間指導してきた経験
があります。
もちろん診断名を口にすることはありませんでした。
親の方も、口にすることはありませんでした。
たがいに暗黙の了解(?)というような状態でした。

 で、結論から言うと、簡単には治らない。
その中でもK君(幼児〜小5まで指導)は、毎週名古屋にある、そういった子どもを専門に指導
する会に通っていました。
効果があったというよりは、「どの部分が効果なのか」、私にはよくわかりませんでした。

 言い替えると、もしそうであっても、診断名は忘れて、「うちの子は、そういう子」と、
割り切って対処するのがいちばんよいかと思います。
ちょっとむずかしい性格と考えて、割り切ります。

ドクターはすぐ薬物投与を考えますが、私は慎重に考えたほうがよいと思います。
というのも、小学3、4年生を境に、自己管理能力が育ち、子ども自身の力で、自分を
コントロールするようになるからです。
そのあとは、急速に、症状はわかりにくくなります。

 大切なことは、無理な指導で、症状をこじらせないこと、です。
(もちろん症状の軽重にもよりますが……。)

 先生や友だちの親には、「すみません。ああいう子ですから」と、先に頭をさげてすませ
ます。
もちろん診断名を告げる必要はありません。
相手の親たちは、もっと無知(素人)なのですから。

 そうしたこともふまえた上で、一度専門医に相談してみることは、必要かもしれません。
対処の仕方も見えてきます。
また誤解により、子どもを叱りつけるなどという行為にも、自制が働くようになります。

さらに言えば、「障害」という言葉に、あまり神経質になってはいけません。
英語では、「disorder」という名前をつけています。
「脳の機能の変調」という程度に考えてください。
(「障害」という言葉は、いやですね。私は言い方を変えろと、もう10年以上も前から
主張しているのですが……。)
親戚の方がショックを受けるのは、当然のことですが、ここは冷静に。
やがてすばらしい能力を発揮するようになります。
そのときまで、今は、がまんしてください。
「高機能広汎性発達障害」というのは、そういう「障害」です。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 高機能広汎性発達障害 自閉症 自閉症スペクトラム アスペルガー はやし浩
司 アスペルガー児 アスぺルガー障害児)
2010/07/16記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

9月号相談事例

相談(1)小学2年生の父から
 小学2年生の息子に「目標に向かってがんばれる力をつけたい」という思いから、小3の誕生
日までにクリアできそうな課題を設けてがんばらせようかと思っています。課題をクリアできれ
ば、ごほうびは何でも欲しい物を買ってあげるつもりです。
 でも妻から、「ごほうびがないとやる気が出ない子にならない?」と言われて、止めた方がい
いかと迷っています。こういうやり方は、いけないのでしょうか?

A:完全に的はずれです(失礼!)。動機付けの三悪に、無理、比較、条件があります。「課題
をクリアできれば…」は、この中の条件ということになります。よくあるのは、「100点を取った
ら、小遣いをあげる」というもの。
 条件のこわいところは、年齢とともにエスカレートしやすいこと。小学生のときは、1000円の
ほうびでも、高校生になると、10万円になります。
 さらに進むと、条件なしでは、何もしなくなります。物欲と結びつくと、さらにやっかいなことに
なります。それが必要だから、それを求めるのではなく、物欲を満足させるために、それを求
めるようになります。脳の中で、ニコチン中毒と同じようなメカニズムが働くようになります。
で、問題は「課題」の中身ということになります。もしそれが個人的なものであれば、「自分のた
めにする」を徹します。勉強であれば、なおさらです。「勉強は自分のために、自分でするもの」
と。 
 大切なのは、達成感です。「できた!」という実感が、子どもを前向きに引っ張っていきます。
「何でも欲しい物を買ってあげる」? 愚かな育児観は捨てなさい(失礼!)。あのバートランド・
ラッセルは、こう書いています。『限度をわきまえた親のみが、真の家族の喜びを与えられる』
と。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

相談(2)小学4年生の父から
 小学4年生の長男のことで相談します。
 私の仕事が忙しく、なかなか相手をしてやれないまま過ごしてしまったのがいけなかったの
か、遊びといえばひとりでゲームばかり、友達と遊んだり外に遊びに行ったりしません。
 先日、「外で遊ばないの?」と聞いたところ、「外で何して遊べばいいの?」と返されて、がく然
としました。このまま、集団で遊ぶ経験もなく成長すると、どんな子になってしまうか不安です。
今からできることは、何かないでしょうか?

A:(相手をしてやらなかった)から(ゲームばかりする)と、短絡的に結びつけて考える必要は
ありません。あなたは父親として、じゅうぶん、その責任を果たしています。たしかに最近の子
どもは、集団で遊ぶということをしません。が、こうした傾向はすでに20年以上も前から始まっ
ていることです。
 で、どんな子どもになるかですが、すでにあなたの子どもは大きな流れの中にいます。その
流れの中で、子どもたちはつぎの世界を創りあげていきます。その流れに対しては、私もあな
たも、無力でしかありません。あえて言うなら、つぎの格言が役に立つでしょう。『子どもを産み
育てるのは母親の役目。狩の仕方を教えるのは父親の役目』(イギリスの教育格言)と。
 つまり社会性の養成と、母子関係の是正。この2つがこの時期の父親に与えられた重要な
使命と考えてください。
 なおゲームについてですが、韓国や中国では、ゲーム中毒が問題にならない日がありませ
ん。そのための矯正プログラムや矯正施設もできています。が、この日本では、野放し。ゲー
ムを批判しただけで、猛烈な抗議の嵐にさらされます。私自身も経験しています。
 ゲームを許すにしても、ある程度の自制は必要です。時間を決めてさせるとか、ゲームの内
容を決めるとかなど。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司※

●ほたる(Firefly)(7月17日)

+++++++++++++++++

夜中にふと、窓の外を見た。
時刻は午前2時ごろ。
ワイフがトイレに起きた、そのあとのことだった。

網戸と窓が見えた。
が、その向こうに、なにやら光るもの。
ぼんやりと、やさしく光っては、
おなじようにやさしく消える。

私は思わず、声をあげた。
「ほたる!」と。

その声に驚いて、ワイフが寄ってきた。
「あら……」と。
網戸を開けた。
窓の外を見た。

1つや2つではなかった。
20……、
30……。

それぞれが深い草の中で光っていた。
うれしかった。
どういうわけか、うれしかった。

「ほたるだよ」
「本当ね、ほたるだわ」
「こんなところに出るなんて!」
「こんなところに出るなんて!」と。

窓からは数メートルも離れていない。
裏手が低い土手になっている。
そこにほたるはいた。

飛んでいなかった。
枝につかまって、じっとしていた。
そんな様子だった。
私とワイフは、時間を忘れて、
その光に見とれた。

……子どものころが思い浮かんできた。
私はかごにつめたほたるを、一晩中ながめていた。
独特のにおい。
そしてあの光。
そんな自分が、たまらなく懐かしい。

「まだ幼虫なのかしら」とワイフが言った。
「そうかもね……」と。

私は懐中電灯を手にすると、庭に出た。
土手に向かった。
ほたるは、まだそこにいた。
私に警戒するふうでもなく、やさしい光を
放っていた。

ホワ〜ンと光り、またホワ〜ンと消える。
それを静かに繰り返していた。

が、懐中電灯でそのあたりを照らすたびに、
写真のネガとポジが入れ替わるように、
景色が一変する。
遠近感が狂う。
光る方向をしっかりと定めながら、
懐中電灯をつける。
数回、それを繰り返す。

「いた!」

細い枝に、5ミリ〜1センチくらいのホタル。
まだ色は茶色い。
幼虫のようだ。

枝ごと折る。
ワイフに見せたかった。
が、折ったとたん、どこかへ消えた。

「ま、いいか」と思って、その場を去る。

再び、うれしさがこみあげてきた。
裏庭で、ほたるを見た。
自分の家の裏庭で、ほたるを見た。
それがどういうわけか、うれしかった。

家に入り、再び寝室へ。
が、ワイフは、もういびきをかいて眠っていた。
のんきな女性だ。
私は静かにふとんをかぶると、電灯を消した。

「どうすれば写真に撮れるだろう……」と、
そんなことを、私は懸命に考えていた。
「今度買ったソニーのコンデジではだめだろうか?」と。

この夏に、もう一度、チャレンジしてみる。
ほたるの写真を撮ってみる。

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2010/07/17朝

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【映画『インセプション』を10倍、楽しむ法】

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昨夜遅く、映画『インセプション』を観てきた。
土曜日の夜ということで、かなり混雑していた。

『インセプション』……渡辺謙とレオナルド・
ディカプリオ主演。
『ダークナイト』のクリストファー・ノーラン監督作品。
原題は、『Inception』。
「発端」という意味だが、その中身は、心理学用語を
借りるなら、「無意識的動機」ということになる。

相手(ターゲット)の深層心理の奥の奥まで入り込み、その人の
深層心理を操作する。
それがこの映画の柱になっている。

ただし字幕の翻訳が、荒いというか、省略が多すぎて、
字幕だけを読んでいたのでは、映画の意味はわからない。
私も久しぶりに、字幕のほうを参考程度に抑え、
英語を懸命に聞きながら、映画を観た。

星はもちろん5つ星の、★★★★★。
映画『マトリックス』に匹敵するほど、おもしろかった。
楽しんだ。
同時に、強烈なインパクトを私に与えた。

++++++++++++++++++

●深層心理

 フロイトは人間の心理を、
(1)意識
(2)前意識
(3)無意識の3つに分けた。

 映画『インセプション』を観るときは、無意識を2つに分けて考えるとよい。
(3)の無意識と、(4)深層無意識である。

 仏教でも、意識を(1)末那識(まなしき)と、(2)阿頼那識(あらやしき)の
2つにわける。
末那識というのは、意識の総称。
阿頼那識というのは、現代心理学でいう、「無意識」、あるいはさらにその奥深くに
ある、深層無意識ということになる。

 この中の(3)前意識というのは、「ぼんやりしているときや、夢を見ているとき」に
働いている部分(「心理学のすべて」深堀元文)をいう。
意識を氷山の一角とするなら、その下には膨大な大きさの前意識や無意識、さらには、
深層無意識の世界が広がっている。

●夢の中でまた夢を見る……

 映画『インセプション』は、つぎの段階を経て、夢の中の夢の世界、さらにはそのまた
夢の世界へと入っていく。

(1)現実の世界(飛行機747の世界)
その世界から、つぎの第1の夢の世界に入る。
これを第1夢の世界という。
壮絶なカーチェイスを繰り返す。

(2)その第1夢の世界から、つぎの第2の夢の世界に入る。
これを第2夢の世界という。
どこかのホテルで、これまた壮絶な戦闘行為を繰り返す。

(3)さらにそこでの窮地を逃れるため、ディカプリオたちは、第3の夢の世界に入る。
これを第3夢の世界という。
どこかの雪原に建つ要塞で、さらに壮絶な戦闘行為を繰り返す。

 映画『インセプション』の中では、そこまで断言していないが、私流に勝手に解釈する
と、第1夢の世界は、「前意識」の世界。
第2夢の世界は、「無意識」の世界。
第3夢の世界は、「深層無意識」の世界ということになる。

●字幕

 夢を多人数で共有しながら、特定の人物(ターゲット)の深層無意識の世界まで
入り込み、そこで無意識的動機を作りあげる。
つまりその人物(ターゲット)の意識を作りかえ、自分たちにとって都合のよい人間
に作り変える。

 それがこの映画の「柱(目的)」になっている。
……もっとも、ここまで書いたら、映画のおもしろさが半減すると考える人もいるかも
しれない。
しかしあの映画は、字幕だけを読んでいたら、何がなんだか訳がわからなくなる。
そのためにも、こうした解説は必要かと思う。

映画会社には申し訳ないが、これはほとんど毎週、映画を観ている私の率直な感想。
字幕翻訳した人も、映画の内容を理解しきった上で、翻訳したのだろうか?
そんな疑問もないわけではない(失礼!)。

●伏線

 で、この映画には、重大な伏線がある。
マリオン・コティヤールが演ずる、「コブ(ディカプリオ)」の妻、モルである。
妻、モルは、コブと夢の世界で50年近くの年月を過ごす。
(夢の世界で50年を過ごしても、現実の世界では、その数百分の1の時間しか、
過ぎていない。
だから夢の世界で、老人になっていた2人も、現実の世界では元の若い夫婦にもどる。)

そのためモルは、夢と現実の世界の区別がつかなくなってしまう。
夢の世界のほうを、現実の世界と思いこんでしまう。
現実の世界のほうを、夢の世界と思いこんでしまう。
そのため、現実の世界へ戻ってきたあとも、モルは、そこを現実の世界とわからなく
なってしまう。
モルは、自殺を試み、本当に死んでしまう。
映画の中では、「死ねば、元の世界に戻れる」というルールになっている。

 で、コブ(ディカプリオ)に、殺人の容疑がかけられてしまう。
モルは、夫であるコブにも死んでもらいため、ウソの遺書を残す。
「私は夫に殺されそうです」と。
コブ(ディカプリオ)は、そのためアメリカを出て、世界中を逃げ回る……。

 そのことがトラウマとなって、コブ(ディカプリオ)の見る夢の中には、しばしば
モル(マリオン・コティヤール)が出没する。
コブ(ディカプリオ)の仕事をじゃまする。
映画の中では、「投影」という言葉が出てきた。

●「投影」

 映画の中ではときどき、「投影(reflection)」という言葉が出てきた。
しかし正確には、「投射」のことではないのか?
投射というのは、防衛機制(メカニズム)の一つで、「失敗の原因が自分のほうにあるのに、
他に責任があるように強調すること」
「試験に失敗すると、『教え方や採点法が悪い』と教師を攻撃するのが例」(「臨床心理学・
松原達哉)とある。

 つまりコブ(ディカプリオ)の夢の中に出てくるモル(マリオン・コティヤール)は、
コブの別の心が投射されたシャドウ(影)というわけである。

 犯罪を犯すコブ。
それをよしとしないコブの良心が、コブの仕事をじゃまする。
心理学の世界でも、抑圧され、心の別室に封印された自己を、「シャドウ」(ユング)と
いう。
そのシャドウが、もろもろの場面で、コブの障害となって立ちはだかる……。

 この映画を書いた脚本家は、そういう点でも、かなり心理学に詳しい人物と言ってよい。

●サイトー

 映画といっても、SF映画。
あとはSF映画風に、随所にアレンジが加えられている。
たとえば夢の世界で死ねば、元の世界に戻れるとか。
そのあたりは、あまり深刻に考えないで、映画を楽しめばよい。

 また夢の世界の設計者というのもいる。
多人数が共通した夢を見るため、いわゆる舞台が同じでなければならない。
その「舞台」を設計するのが、その人物である。
それを演じたのが、エレン・ペイジ。
映画の中でも、「設計士」という名前で登場する。
で、目的は何か。
つまりコブが、ターゲットの夢の、そのまた夢の、さらにそのまた夢の中にまで
入って、ターゲットの「無意識的動機」を作る目的は何か。

 そこで登場するのが、渡辺謙。
「サイトー」という名前で登場する。
大企業の会長である。
彼はコブ(ディカプリオ)の犯罪のもみ消しを条件に、コブにターゲットの会社を
解体するように依頼する。
つまりターゲット(ロバート、ライバル企業の跡取り息子)の夢の中に入り込み、
無意識的動機をつくる。
「会社を解体する」という無意識的動機である。
その成功報酬として、コブは、サイトーに妻殺しをもみ消してもらう……。

●エンディングの謎

 最後にみな、(第3夢の世界)→(第2夢の世界)→(第1夢の世界)という段階
を経て、順に死に、最終的には、間一髪のところで(現実の世界)に戻ってくる。

 ターゲットの深層心理の中には、「会社を解体する」という深層心理がしっかりと形成
される。
作戦は成功ということになる。
映画も、ここでハッピーエンドとなる。
コブ(ディカプリオ)は、晴れてふつうの市民として、アメリカ本土に入国する。
……できる。
2人の自分の子どもに出会う。
抱き上げる……。

 が、ここで新たな謎?
テーブルの上のコマは回ったまま……。
その状態で映画は終わる。
そのコマが何を意味するかは、映画を観てからのお楽しみ!

 で、私にも、理解しがたい部分が残った。
それがつぎの部分。

 冒頭と最後のシーンで、コブ(ディカプリオ)は、サイトー(渡辺謙)に会う。
そのときコブは、若い男のまま。
サイトーは、老人になっている。
ということは、そのシーンそのものが、夢の中ということになる。
言うなれば、こういうこと。

 最後の最後で、映画『インセプション』は、私たち観客を再び底なしの謎の世界に、
もう一度、突き落とした。
私たちの脳みそをひっくり返した。
もちろん衝撃と、新たな話題を作るため。

 私はそのトリックにひかかり、今、こうして映画『インセプション』について書いて
いる。
「あのシーンは何だったのか?」と懸命に考えている。

 なおワイフは、こう言っている。
「今度、もう一度、DVDを借りてきて観る」と。
内容的には、つまりそれくらい複雑な映画……というより、字幕の翻訳が悪い。
……悪かった。

 なお類似した映画に、『シャッターアイランド』(同、ディカプリオ主演・前作)が
ある。
こちらは、最初から「そうではないかなあ」と思った、その通りの映画だった。
手品で言えば、トリックがすぐわかった。
が、今回の『インセプション』は、予想できなかった。
それだけにおもしろかった。
一見の価値あり。
どうせ観るなら、ここに書いたことを参考に、劇場で観るとよい。
迫力がちがう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 インセプション デイカプリオ)

++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

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●投射

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昔から、『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。
自分が泥棒だから、ほかの泥棒が気になる。

わかる、わかる、その気持ち!

人の物を盗んでいるから、盗まれることを心配する。
自分の心の中に邪悪な心があるから、ほかの人にもあると
思い込む。
それで気になる。
戸締りに厳重になる。

同じように、若い女性を相手に、したい放題のことを
している人がいる。
浮気、不倫、援助交際。
中身は何でもよい。
そういう人ほど、自分の娘の交際にきびしい。
娘の帰宅時刻が少し遅れただけで、大騒ぎする。
「男と遊んでいたのだろ!」と、娘を叱ったりする。

人はだれしも、欠点や弱点をもっている。
その欠点や弱点を気にしているから、他人の
中に同じものを見ると、それが気になる。
あるいは、それに気づきやすい。

こんなことがあった。

20年ほど前のこと。
たいへん勉強の苦手な子ども(中1男子)がいた。
いろいろあった。
私も苦労した。
見た目には、おとなしく、静かな子どもだった。

が、ある日のこと。
その子ども(中学生)を、小学生のクラスで
教えていた。
ふと見ると、その子どもが、
数歳も年下の子どもを、こう言って、いじめていた。

「バカだなあ、お前。こんな問題もできないのか!」と。
言い方が、陰湿だった。
ぞっとするほど陰湿だった。

その子ども(中1男子)のばあい、「抑圧」という
言葉を使って、心の状態を説明できる。
勉強ができないということで、日ごろからそれを
負担に感じていた。
それから生ずる不満を、心の中に別室を作り、
そこへ閉じ込めていた。
それがそのとき爆発した。

が、そのきっかけとなった力が、「投射」という
ことになる。
勉強ができない小学生を見たとき、その小学生の中に
自分の姿を見た。
そこで(勉強ができない)という自分のいやな部分を、
その小学生にぶつけて、その小学生をいじめた。

もうひとつ、こんな例がある。

私の知り合いの中に、病的なほどウソを
つく人がいる。
ウソをウソと思っていない。
その場しのぎのいいかげんなことばかり言う。
そのあとケロッと自分の言ったことを
忘れてしまう。

ある日、その人と話していたときのこと。
私が「先日、あなたはこう言いましたよ」
と指摘すると、突然取り乱して、こう叫んだ。

「どうしたあなたは、そういうウソを
つくのですかア! ウソつき!」と。

この言葉には、呆(あき)れた。
自分ではさんざんウソばかり言っておきながら、
私に向かって、「ウソつき!」は、ない。
『ウソつきほど、他人のウソにきびしい』。
そういうことなら、私にも話がわかる。

これも投射のひとつということになる。

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●投射

 難しい言葉はさておき、自分に似た人を見ると、ほっとするときがある。
反対に、ぞっとするときもある。
そのちがいはと言えば、自分と同じようなよい面をもっている人には、ほっとした安堵感を覚え
る。
反対に、自分と同じような邪悪な面をもっている人には、イヤ〜な嫌悪感を覚える。

 たとえば自分がケチだったとする。
が、そういう人にかぎって、外の世界では、おおらかなフリをする。
ことさら、自分は、ケチでないことを強調する。

 あるいは子どもの世界では、子どもに神経質な親ほど、「私は、子どもにはしたいようにさせ
ています」などと言ったりする。
あるいは家の中で、「勉強しなさい」とガミガミ言う親ほど、「私は子どもに、勉強しなさいと言っ
たことはありません」などと言ったりする。

 自分の欠点、弱点をよく知っている人ほど、そういう形で、他人の目をごまかす。
そして、同じような欠点、弱点をもっている人を見ると、自分の欠点や弱点を、その人に投げつ
けて、その人を攻撃する。

「あの人は、ケチ」とか、「あの人は、子どもに神経質すぎる。子どもがかわいそう」とか、など。

 一見複雑に見える人間の心だが、こうして類型化していくと、理解しやすい。
そのために心理学というのがある。
相手が人間だけに、おもしろい。
その一例として、「投射」をあげてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 防衛機制 投射 投影 心の別室 抑圧)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

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ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

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●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望
が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文
献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司※

●7月18日

+++++++++++++++++++

今日は日曜日。
Good News、Bad News,
さまざまあった1日だった。

夕方になって、ほたるの写真が、無性に
撮りたくなった。
山荘の裏山に、ほたるが出る。
その写真が、撮りたくなった。

カメラは、ソニーのサイバーショット、
HXー5V。
知る人ぞ知る、ソニーの最新型。
1ルックスの明かりがあれば、ふつうの
写真が撮れる。

(1ルックスというのは、直径2センチ
のローソクをともしたとき、1メートル
離れたところの明るさをいう。)

その性能に加えて、夜間撮影機能を使えば、
ほたるの光でも、とらえることができるはず。

(夜間撮影のときは、連続して5枚の
写真を撮り、それをコンピューター処理
して、1枚の写真に仕上げる。
そういう機能も備えている。
すごい!)

++++++++++++++++++

●「かつさと」

 山荘へ行く途中、東名西インター手前にある、「かつさと」という店に寄った。
カツ丼専門店。
私は味噌カツ。
ワイフはカツ丼。
おいしかった!
久々に、おいしい味噌カツを食べた。
値段も、500円。
安い!
それに活気があった。
厨房には、私たちが食事をしたときには、6人のコックと、2人の男子店員+
2人の女子店員がいた。
それぞれが声をかけあいながら、仕事をしていた。
その活気がよい。

 流行(はや)る店は、雰囲気ですぐわかる。
それを食べながら、以前、郷里のM町で食べたカツ丼の話になった。
いろいろまずいものを食べたことはあるが、あのときあそこで食べたカツ丼は、最低、
最悪。
生臭くて、それに肉がかたく、パサパサしていた。
「あのカツ丼はまずかったね」と私。
それに値段も、何と1200円!
それを言うと、ワイフが、ヘヘヘ……と笑った。
「ひどすぎて、話にならない」という意味である。

 が、「かつさと」の味噌カツは、最高!
味噌の味もよい。
「また来ようね」と言うと、ワイフは、あっさりと同意してくれた。

 最近はこうした中規模のチェーン店ががんばっている。
味も研究している。
高級専門店に負けない味を出している。

 「かつさと」さん、また寄ります。
おいしかった!
味は、(まだ味噌カツしか食べていないが)、5つ星の★★★★★。
ただ、ごはんの量が少し少ないかな……という印象をもった。
しかし500円という料金を考えるなら、文句は言えない。

●午後7時45分

 山荘へは午後7時半ごろ着いた。
今、時計は7時50分。
最後まで残っていた青白い光が、空から消えた。
真っ白な月が顔を出した。
夜空の写真を撮った。

 「今夜も出るだろうか?」と私。
「出なければ、奥の水のみ場へ行きましょう」とワイフ。
少し山を登ると、清水が湧き出ているところがある。
このあたりの人たちが、そこへ水を取りに来る。
7、8年ほど前だが、そこで数匹のほたるが飛んでいるのを見た。

●上弦の月

 あたりはすっかり暗くなった。
谷間の民家の街路灯だけが、小さな点をつくって並んでいるのが見える。
今夜の月は、右弦の月。
右半分だけ。
この先、満月に向かって大きくなっていく。
上り坂。
だから「上弦の月」という。

 三脚は長男のものを借りた。
飛んでいる蛍は撮れないかもしれない。
しかしじっとしている幼虫なら、撮れる。
期待と不安が、交互にやってきては消える。

●感動

 この山荘に住むようになってからのこと。
そのつど感動したことは、山のようにある。
まず空を飛ぶ鳶(とび)の背中を見ることができたこと。
(背中だぞ!)
鳶は谷間の中、私たちの眼下を飛んでいた。

 キジの夫婦にも出会ったことがある。
反対側の山の斜面を、2羽であちこちを歩き回っていた。
それにホトトギス、ヒグラシにウグイスなどなど。
コジュケイもいる。
この時期、朝方、どれも騒々しいほどに鳴く。

 5月の野生のジャスミン。
ビワ、野いちごなどなど。
ここへ来るたびに、そしてそのつど、新鮮な感動を覚えた。
で、今は、ほたる。
ほたるを見たい!

●幼虫

 ほたるは幼虫のときから、あやしげな光を放つ。
不気味な形をしている。
一度だけだが、つかまえたことがある。
しかしそのときはほたるの幼虫とは、知らなかった。
「宇宙から飛来した、宇宙生物」と、私は思った。
光る虫を、ほたる以外に、私は知らなかった。

 で、おとといの夜、その幼虫を見た。
夜中に、淡い光を放っていた。
ホワ〜ンと光っては、ホワ〜ンと消える。
やさしい光だった。

 最初は1、2個が目についた。
が、やがてすぐ、それが20〜30個もあることを知った。
うれしかった。
……というより感動した。

●探索

 今夜はそれを見る。
見るために、やってきた。

(この間、外に出る。
草むらに目を凝らす。)

 いた!
やはり、いた!
おとといの夜と同じように、草むらで淡い光を放っていた。
最初に、ワイフが一匹、見つけた。
つづいて、2匹、3匹……と。
数分後には、それが10匹前後になっていた。

 草の奥のほうで光る。
私はカメラをいろいろな角度から、向けなおしてみた。
が、月の光が街路灯のように明るい。
「これではだめだ!」と何度も思った。
だいたいどこから光りだすか、それすらわからない。
カメラの焦点を合わせることもできない。

 私は、一匹をつかまえてみることにした。

●死んだフリ

 ほたるの光っている位置を正確に、頭にたたきこむ。
そしてそこを懐中電灯で照らす。
やはり幼虫だった。
大きさは、1センチもない。
それを葉っぱごと、つかまえる。
手でつかまえられるような大きさではない。

 ワイフがコップをもってきた。
その中に幼虫を入れた。
うまくいけば、コップの中で光ってくれるかもしれない。

 私は幼虫の入ったコップを、居間のテーブルの上に置いた。
葉っぱも入れた。
が、まったく動かない。
「死んだフリだな」と思った。
そのままテーブルの上に置いてみた。
が、動かない。

 DVDカメラの用意をして、幼虫をとらえた。
1分、2分……。
少し動いた。
が、それだけ。
死んだフリ?
力は加えていない。

 尾の先あたりがやや白っぽくなっている。
その部分が光るのだろう。

●撮影

 ワイフは庭先へ出て、光をさがしている。
遠くで、花火があがる音。
近くの村で、花火大会をしているらしい。
虫の声も、静かになった。
月はやや赤みを帯びてきた。

 「ギブアップだな」と思った。
テーブルの上で光るなどということは、ないだろう。
虫だって、それなりの意味があるときに光る。

 ときどき活発に動き出す。
尺取虫のような動き方をする。
結構、逃げ足は速い。
その様子は、ビデオに収めることができた。

 ほたるは、やはり飛んでいるところがよい。

(これから水のみ場へ行ってみる。
そこではほたるが飛んでいるかもしれない。)

●帰宅
 
 夜はそのまま帰った。
帰り道に水飲み場へ寄ってみたが、ほたるはまだいなかった。
もう1〜2週間もすると、そのあたりを飛び交うはず。
で、帰り道、こんな話になった。

「同じ虫なのに、ゴキブリは嫌われる。
でも、ほたるは、好かれる。
そのちがいは何だろう?」と。

 で、ワイフの説によれば、ほたるは光るからだそうだ。
が、もしゴキブリが光ったら、どうなのか?
かえって不気味かも?

 私もやはり、あのやさしい光にあると思う。
その光が、私たちの心のようでもある。
夏の夜、やさしい光を灯しながら、フワフワと飛び交う。
そこに私たちは自分の心を乗せる。

 子どものころは、そういう光をよく追いかけた。
不思議な光。
淡い光。
そういう思い出も重なる。

 残念ながら、今夜は幼虫の写真しか撮ることができなかった。
つぎの機会を待とう。
(2010年7月19日)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【日本の教育】

●学校に通う意味・青年の意識調査より

●内閣府(2009年)の調査結果より

なぜ、あなたは学校に通うか?
その答がつぎ。

++++++++++++++++++

●日本は「友達との友情をはぐくむ」、韓国は「学歴や資格を得る」、アメリカ、イギリス、
フランスは「一般的・基礎的知識を身に付ける」がもっとも高い。

●「友達との友情をはぐくむ」:
日本(65.7%)、
韓国(41.2%)、
イギリス(40.2%)、
アメリカ(39.2%)、
フランス(16.3%)

●「自由な時間を楽しむ」:
日本(32.5%)、
アメリカ(26.8%)、
イギリス(22.7%)、
韓国(14.7%)、
フランス(11.2%)

●「職業的技能を身に付ける」:
イギリス(44.6%)、
フランス(43.5%)、
アメリカ(42.8%)、
韓国(37.0%)、
日本(30.6%)

●「一般的・基礎的知識を身に付ける」:
アメリカ(79.1%)、
フランス(66.9%)、
イギリス(63.0%)、
日本(55.9%)、
韓国(44.9%)

詳しくは……
http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/worldyouth8/pdf/gaiyou.pdf

++++++++++++++++++

●意識のちがい

 高等教育に対する意識のちがい。
それが内閣府の調査結果によく表われている。
平たく言えば、日本の青年は、「遊ぶため」。
欧米の青年は、「社会へ出てから、生きていかれる人間になるため」。
「職業的技能を身につけるため」という意識が強い。

 役にたつかたたないかということになれば、日本の教育は役にたたない。
かなり改善されたとはいえ、英語教育がそうだった。(……今も、そうだ。)
つまり日本の教育は、英語にかぎらず、社会にしても、国語にしても、数学にしても、
理科にしても、将来、その道の学者になるためには、たいへん機能的にできている。
が、将来、学者になる子どもは、いったい、何%いるのか?
「基礎学力」という名前に隠れて、その一方で、「教育とは役にたつものではない」という、
反実用主義が常識化している。

●役にたつ教育へ

 アメリカの中学では、たとえば数学にしても、「中古車の買い方」というテーマで
学習に入る。
その過程で、小数計算の仕方や、金利の損得の判断などを順に教えていく。
が、この日本では、一次方程式だの、一次関数だの、はたまた合同だの相似だの……。
私など高校を出てから、方程式なるものを、日常生活の場で使ったことなど、ただの
一度もない。
サインやコサイン(私たちの時代には、中学2年で、サイン、コサインを勉強した)
にしても、さらに、ない。

 が、これは教育の問題ではない。
それを学ぶ子どもたちの意識の問題ということになる。
子どもたちを育てる親の意識の問題ということになる。
「なぜ、子どもを大学へやるか?」と聞かれたら、親は何と答えるだろうか?
今でも、大半の親は、こう答えるにちがいない。

「学歴を身につけるため」と。

●身分制度の名残(なごり)

 江戸時代から明治時代へ。
今は、坂本龍馬に踊らされているから、わからないかもしれない。
なにやら坂本龍馬が、革命の旗手であったかのようにとらえられている。
しかし明治維新は、「革命」でも何でもない。
英語では、「Restoration」と訳されている。
つまり「王政復古」。
坂本龍馬は、民衆のために戦った人ではない。
民主主義を求めて戦った人でもない。
「王政復古」、つまり「天皇の復権」のために戦った人に過ぎない。

 そういう歴史的背景も学ばず、「龍馬ブーム」!
もし徳川時代がまちがっているというのなら、一度、封建時代を精算したらよい。
が、それもしない。

 わかりやすく言えば、明治維新は、徳川家から天皇家への、首のすえかえに
過ぎなかった。
その一例が、現在の学歴制度に残っている。
つまり身分制度。
当時の為政者たちがもっとも腐心したのは、江戸時代の身分制度をいかにして、
明治政府にバトンタッチするか、であった。
が、方法がなかったわけではない。

 明治時代が11年も過ぎたころでさえ、東京大学の学生の75%以上が、華族、氏族
の師弟で固められた。
たいはんの庶民は、尋常小学校どまり。
それ以上となると、父親の1か月の給料をもってしても、教科書すら買うことができな
かった。

 また県知事(県令)は、当時の自治省から派遣されるしくみになっていた。
選挙など、形だけ。
(現在でも、大きくみれば、その流れの中にある。)

++++++++++++++++++

以前、書いた話と同じになりますので、
以前書いた原稿を、転載します。
一部重複しますが、許してください。

++++++++++++++++++

【学歴制度】

● 5か条の御誓文

+++++++++++++++++++
1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、 政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、 みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、 みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、 これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、 新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

+++++++++++++++++++++

明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

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●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があ
り、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員
試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための
予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退
職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間
勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官
ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を
責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所
の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務
員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、
今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、
公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを
意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、
そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。

(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】

ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ども
が、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本
と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、そ
れがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけて
も、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そう
いう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現
状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今
は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強
するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥で
ある。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」
という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも
勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なの
に、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使っ
た。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったに
ちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書
や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や
華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約7
5〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣され
ていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身
が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そ
して国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本
人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづく
と、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑
う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が
見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、県令
(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度
ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、
末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学
校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の
学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけ
て、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の
生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということに
なる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時
点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦し
み、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今
も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あ
るいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさ
す。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年
長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教え
ることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって
重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれな
いもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしま
う。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 
幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会 はやし浩司 県令 自治省 坂本龍
馬)

●最後に……

 日本の教育は、基本的な部分で、おかしい。
その(おかしさ)は、ここに書いたとおりである。
だから青年たちは、「遊ぶ」。
もとから学ぶという意識もないまま、遊ぶ。
その結果が、内閣府の調査結果ということになる。

 もう一度、冒頭の数字を、じっくりとながめてみてほしい。
あなたにも、そのおかしさが、わかるはず。
2010/07/19記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司※

【人生・いろいろ、子育て・いろいろ】2010/07/20

●幸福論

+++++++++++++++++

人生、いろいろ。
人、さまざま。
100人の人がいれば、100通りの
生き方がある。
生き方は、みな、ちがう。

問題のない人は、いない。
みな、それぞれに問題をかかえ、
懸命に生きている。
どこかの哲学者は、こう言った。
『幸福な家庭はみな似ている。
が、不幸な家庭は、みなちがう』と。

子育ても、またしかり。
問題のない子どもは、いない。
外から見ると、みなうまくいっているように
見える。
が、うまくいっている家庭など、それこそ100に
1つもない。
1000に1つもない。

だからこれだけは言える。
多くの親たちは子どもの問題をかかえると、
真っ先にこう悩む。
「どうしてうちの子だけが……」と。

しかしそう思ってはいけない。
問題のある子どもをかかえているのは、
けっしてあなただけではない。

+++++++++++++++++

●原点

 こんなことは、めったにあってはいけない。
しかしある母親は、自分の子ども(2歳児)が死ぬか、生きるかの死線をさまよったとき、
病院の廊下で天に向かって、こう祈ったという。
「私の命はどうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、あの子の命を救って!」
と。

 それを子育ての原点とするなら、子育てにまつわる問題は、すべて解決する。
「成績がなんだ!」「いじめがなんだ!」「学校がなんだ!」となる。

●家庭騒動

 「盗み」にしても、そうだ。
その親には2人の娘がいた。
下の娘は、6年ほど前に結婚した。
が、上の娘は、仕事もせず、家の中でブラブラしていた。
かなり裕福な家庭ということもあった。
上の娘は、父親の金庫から現金を盗み、それでブランド品を買いあさっていた。
ハンパな額ではない。
一度に、100万円単位で盗んでいた。
買い物依存症である。
同じものでも、それがほしくなると、それにブレーキをかけられなくなる。
そのため娘の部屋には、その種のブランド品が、山のようになっていた。

 が、父親も母親も、娘を叱ることができなかった。
何回か注意しようとしたことがあるが、そのつど上の娘は、逆にキレた。
台所から包丁をもってきて、自分の首を切ろうとしたこともある。
父親の腹に包丁を向けたこともある。

 が、やがて父親は悟った。
「殺されてもいい」と。

●上の娘

 「どうせ私が死ねば、財産はすべて娘たちのものになるではないか」と。
そう割り切ったとき、父親の目の前には一本の道が開けた。
「娘は、私たち以上に苦しんでいるのだ」と。

 27、8歳ごろまでは、男とつきあっているという話もあったが、30歳を
過ぎると、それも消えた。
男のほうが、みな、去っていった。
35歳を過ぎると、娘は化粧もせず、過食と拒食を繰り返すようになった。
私がここに書いた話を聞いたときには、上の娘は相撲の関取のように太っていた。

 父親は金庫を数度、替えた。
が、そのつど上の娘は狂ったように鍵をさがした。
ときどき父親と母親は、1、2泊の旅行に出かけることもあった。
そういうとき上の娘は、一睡もせず鍵をさがしたという。
が、それでもないとわかると、近所の鍵屋を呼んで、金庫を開けさせた。
そういう娘を知りながら、父親も母親も何も言わなかった。
ただ金庫の中には、いつも小さなメモを書いて入れておいたという。

「○○へ、もう、こういうことはやめようね」と。
が、効果はなかった。

●買い物依存症

 買い物依存症は、メカニズム的にはアルコール中毒やニコチン中毒と同じ。
脳の中枢部(視床下部)から発せられた信号によって、ドーパミンが分泌される。
それが線条体に作用して、そこで猛烈な条件反射反応が起きる。
ふつうの理性でコントロールできるようなものではない。
一度この反応が起きると、そのものが猛烈にほしくなる。
ほしくなって、自分が自分でなくなってしまう。

 そのものが必要だから、ほしいのではない。
「ほしい」という欲望を制御できなくなる。
だから買う。
買って自分の欲望を満足させる。
平たく言えば、心の病気。

●共感

 父親の職業を言い忘れたが、父親は、少し離れた通りで、公認会計士の事務所を
開いていた。
1人の税理士も、いっしょに仕事をしていた。
年齢は55歳。
そのころその男性はテニスで腰を痛め、同時に五十肩に苦しんでいた。
そこへ緑内障が追い打ちをかけた。
パソコンを相手に仕事をするのが、むずかしくなった。

 引退も考えたが、それを思いとどまらせたのが、上の娘だった。
上の娘のことを考えると、「引退どころではない」となった。
「がんばれるだけ、がんばるしかない」となった。

 そこで父親と母親は、スポーツジムに通うようになった。
週に1度だが、プールで泳ぐようにもなった。
そしてこう宣言した。
「70歳まで現役で働く」と。

 私も同じことを書いていたので、ともに共感を覚えた。
「共に70歳まで、がんばりましょう!」と。

●バネ

 私にもいろいろあった。
今も、いろいろある。
さみしいことやつらいことのほうが、多い。
それを忘れるために、映画を観たり、旅行に出かけたりする。
それでそこにある問題が解決するわけではないが、一時的であるにせよ、それを
忘れることができる。
心の中にたまったゴミを掃除することができる。

 言い替えると、問題があるから悪いのではなく、それを受け入れてしまえば、
それがプラスの方向に作用するということ。
その男性もこう言っていた。

「金庫からごっそりと札束が消えていたときのこと。
私は、こう思いました。
『もって行きたければもっていけ。その分だけ、私は仕事をするだけだ』と」と。

 つまり発想をほんの少し変えるだけで、不幸(?)を自分のバネとすることができる。

●運命

 私たちの体には、無数の糸がからんでいる。
その「糸」がときとして、私たちの進むべき道を決めてしまう。
「私はこっちへ行きたい」と願っていても、その糸が別の方向に引っ張ってしまう。
それを「運命」というのなら、だれにでも運命はある。

 その運命は、逆らえば、キバをむいて襲いかかってくる。
が、受け入れてしまえば、向こうからシッポを巻いて逃げていく。

●腐る体と心
 
 私たちはたしかに、今ここで、生きている。
しかし本当のところ、生きているのではなく、生かされている。
たとえば昨日も、こう思った。

 私とワイフは昼食後、いつも30〜40分ほど昼寝をする。
それが日課になってしまった。
そのときのこと。
起きるのはつらい。
「もっと寝ていたい」と思う。
しかしそういう体と心にムチを打って、体を起こす。
仕事に向かう。
自転車にまたがる。
だからこそ、かろうじてだが、こうして健康を維持することができる。
が、もしその緊張感がなかったら……。

 私は悠々自適な老後生活が、けっしてあるべき理想の老後生活とは思わない。
またそうだからといって、幸福とは思わない。
もしそんなだらしない生活を半年もつづけたら、体も心も腐ってしまうだろう。
つまりそこに問題があるから問題なのではなく、大切なのはその問題を
どう生かして生きていくかということ。

●今が原点

 子育ても、またしかり。
先にも書いたが、問題のない子どもはいない。
したがって問題のない家庭はない。
それぞれがそれぞれの問題、つまり悩みや苦しみ、悲しみを背負って懸命に生きている。
が、それを「問題」と思ってしまうから、それが重荷になる。
十字架になる。
だから、こう考えたらどうだろう。
「それが当たり前」と。

 居直り?
あきらめ?
受け入れ?
言葉は、何でもよい。
大切なことは、そこを原点としてものごとは、前向きに考える。
過去を悔やむ必要はない。
のろう必要は、さらにない。
今、私たちはここに生きている。
そこを原点としてものごとは、前向きに考える。

●失う

 とくに50歳を過ぎると、失うものばかり。
60歳を過ぎると、さらに失うものばかり。
「失う」ことを前提として、生きる。
また失うことを、恐れてはいけない。
どうせそれで失うものは、その程度のもの。
もともと価値のないもの。
あるいは価値あるものと、思いこまされていたもの。

 が、もし体と心を腐らせたら、おしまい。
本当におしまい。
それだけは最後の最後まで守る。
またそれだけは、その気になれば、最後の最後まで守ることができる。
失うことはない。

●許して、忘れる(For・give & For・get)
 
 親が子どもを育てるというのは、ウソ。
子どもが親を育てる。
しかも皮肉なことに、できの悪い子どもをもてばもつほど、親は子どもに育てられる。
が、それにはひとつ、重大な条件がある。
それが「愛」ということになる。

 親は子どもにどれほど叩かれ、罵倒されても、あるいはつらい思いをさせられても、
「愛」だけは見失ってはいけない。
方法は簡単。
『許して忘れる』。
それだけを念じて、その場を去る。

 仲直りするとか、関係を修復するとか、そういうことは考えなくてよい。
子どもの機嫌を取る必要もない。
嫌われることを恐れてはいけない。
去っていくことを、悲しんではいけない。
子どもたちにしても、1人の人間。
つまり、人、それぞれ。
あとは忘れて、自分の人生を歩む。

●「70歳までがんばろう」

 その男性はこう言った。
「林さん(=私)、70歳までがんばりましょう」と。
私はそれに答えて、こう言った。
「70歳? 私なんか今のままだと、75歳までがんばらなくてはならないかもしれ
ません」と。

 「今」はそのためにある。
まず、体を鍛える。
心を腐らせない。
今日1日がんばれば、明日がある。
今週1週間がんばれば、来週がある。
今月1か月がんばれば、来月がある。
だから今年1年がんばれば、たぶん来年もあるだろう。
あとはそれを繰り返す。
繰り返して、75歳までがんばる。
つまりそのあとのことは考えない。
運がよければ、ポックリと死ねるだろう。

 だからともかく、今日は今日で懸命に生きる。
今夜死ぬことになってもよいように、懸命に生きる。
……というのが、この原稿の結論ということになる?

 2010年7月20日、今日も始まった!
扇風機の風が、心地よい。
何でもこい!
やってこい!
私は負けない!


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【BW教室より】

++++++++++++++++++

小学6年クラスで、こんな話になった。
「この世でいちばん、まずい食べ物は何か?」と。
子どもたちは、それぞれ勝手なことを言い始めた。
そこで私は、「味が正反対のものを混ぜると、まずくなるよ」と
教えてやった。

たとえば(苦いもの)と(甘いもの)を混ぜるなど。

で、早速実験ということになった。

自動販売機でコーヒーとコーラを買ってきた。
それを約半分ずつ混ぜ、それにたまたまそこにあった
野菜ジュースを混ぜた。
それを子どもたちに飲ませた。

+++++++++++++++++++

●意識の変化

 それにしても意識の変化には驚かされる。
みなが、「こんなまずいものは飲めない」と、約3分の1ほどまで飲んだところで
ギブアップ。
そのとき1人だけ、何とか飲んでしまった子どもがいた。
「ぼくの教室で、それを飲めた子どもは、君1人だけだ」とほめると、「もっと
まずいものがある」と。

 ……もっとまずいもの?

 その子どもはこう言った。

「先生、トイレの便器を使って、流しソーメンをしない?」と。
つまりトイレの便器の中にソーメンを流す。
それをみなで、箸ですくって食べる……と。

 冗談かと思ったが、その子どもは真顔だった。

私「あのなあ、いくらなんでもそれは食べられないよ」
子「よく(便器を)洗えば、だいじょうぶ」
私「洗っても、食べられないよ」
子「洗えば、同じだよ。茶碗と同じだよ」
私「だってまわりには、ウンチの茶色いシミがついているよ」
子「洗えば、落ちる」
私「落ちない」
子「落ちる」と。

 私の教室のトイレの便器は、スリッパ型。
やろうと思えばできる。
しかしトイレにまつわるイメージは、ボットン便所のころから身についている。
心にしみついている。
今さらそれを変えろと言われても、できるものではない。
が、最近の子どもには、それがない。
便器を食器と同じに考える?

 生まれたときから、便器は清潔できれい。
においもしない。
「意識もここまで変わったのか」と、むしろそちらのほうに驚いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【言葉の勉強】(幼児教室より)

 ついでに昨日の幼児教室の様子を、紹介します。
今回は「言葉」について、学習しました。

つづきは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」へどうぞ。

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Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【幸福論】(2)

●最近の女子高校生は…?

●失敗作と笑えるか

市立図書館で、女子高校生六人に聞いてみた。「君たちは将来、何をしたいか」と。私は
当然、キャリアウーマン的な人生観をもっているものとばかり思っていた。が、五人ま
でがこう答えた。

「結婚して、はやく家庭に入りタ〜イ」「家庭でダンナの帰りを待ちながら、料理しタ〜
イ」と。

私が「家庭の主婦になるということか」と聞くと、「そうだヨ〜」と。そこでさらに、「仕
事はしないのか?」と聞くと、「したくないヨ〜。ダンナの給料だけでやっていきたいヨ
〜」と。

 見た感じ、ごくふつうの高校生である。ちょうどテスト週間で、図書館に来ていた。私
は質問を変えて、「では、どんな男と結婚したいか」と聞いた。すると一人が、「一にマス
ク、二に経済力…。『これオヤジのマンション』と言うような金持ちの息子がいい」と言っ
た。私が「心はどうする。結婚するというのは、心の問題だよ」と言うと、「マスクのいい
人は、心もいいに決まってル〜」と。

あれこれ話したが、政治の話をもちだすと、「ダサ〜イ」とはねのけられてしまった。私
「国の借金が七〇〇兆円もあるんだよ。一人六〇〇万円だよ。君たちの借金なんだよ。
それはどうするの?」高「私ら、そんな話、関係ないもんネ〜」「そうよネ〜」と。

 言いたいことは山ほどある。あるが、こういう現実を見せつけられると、自分をのろい
たくなる。五十歳をすぎても、日本の将来を心配している自分が、なさけなくなる。少し
飛躍した感想かもしれないが、なぜあの三島由紀夫が腹を切ったか、その心情がよくわか
る。私たちはこういう高校生をつくるために、がんばってきたのか、と。

 少し前だが、こんなこともあった。あるキャンプ場で国旗の掲揚をしたときのこと。何
人かの高校生が、「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」を口ずさんでいるのを聞い
た。アメリカの国歌である。日本の国歌にも言いたいことはいろいろあるが、しかし今、
日本の若者たちがここまで脱線しているかと思うと、ゾッとする。

そう、何かがおかしい。何かが狂っている。しかし相手は子どもだ。日本の将来をにな
う子どもだ。そういう子どもをさして、「失敗作」と、どうして言えるだろうか。子ども
を笑うということは、即、自分を笑うということになる。そんなことは、私にはとても
できない。

 ……何ともやりようのない空しさを感じながら、私は図書館を出た。

(2)今日の特集  **************************

●離婚のあとに…… 
 
 Aさん(38歳、秋田県H市在住)。5年前、二人の子どもを夫に預けて、離婚。原因は、
Aさんの不倫。そのAさんは、現在、そのときの不倫相手と再婚。「今は、最高に幸福な生
活を送っている」(Aさんのメール)とのこと。

 が、その一方で、Aさんは、二人の子どもに対する、恋慕に苦しんでいる。二人の子ど
もは、上の子どもが、11歳(兄)、8歳(妹)。「会いたいが、会うべきではない」「もし
子どもたちが、自分を求めていたら、どうしたらいいのか」「この5年間、まったく連絡を
とっていない」と。

 前夫が再婚しているかどうかも、知らないという。現在、前夫の住んでいるところとは、
70キロくらい離れているとのこと。(以上、Aさんからのメールを要約。)

++++++++++++++++++

 メールの内容によれば、離婚相談のとき、Aさんは、「自分のわがままで離婚するのだか
ら、二人の子どもは、前夫に渡した」とのこと。しかしその文面からは、引き裂かれた母
子の苦しみが、にじみ出ていた。それで私に、「アドバイスしてほしい」と。

 しかし私は、こういう事例については、まったく無力でしかない。とても残念だが、私
の心には、Aさんを理解するだけの「心のポケット」がない。つまり人というのは、同じ
ような苦しみや悲しみを経験して、はじめて他人の苦しみや悲しみを理解できるようにな
る。それを昔、学生時代の私の恩師は、「心のポケット」と呼んだ。

 ただ、想像できなくはない。そしてそれほどまでの事例ではなくても、子どもと別れた
母親の事例は、いくつか経験している。ひとつずつ、順に、心の紐(ひも)をほどいてみ
よう。

 Aさんは、不倫をした。しかしそれは決して、「浮気」と言えるような、浅いものではな
かった。その証拠に、Aさんは、二人の子どもと別れて、その不倫相手の男性と再婚して
いる。

 そういうAさんを、だれが責めることができるだろうか。Aさんは、真剣だった。まじ
めだった。そして自分の心の、「強烈な命令」に従って、前夫と離婚した。その強烈な命令
は、Aさん自身の心の迷いという範囲を超えた、まさに「人間として、その根底から、わ
き起こる命令」だったにちがいない。

 Aさんは、何も、まちがったことはしていない。もしAさんの行為がまちがっていると
いうのなら、人間そのものがまちがっていることになる。

 Aさんは、結婚していた。二人の子どももいた。しかし電撃に打たれるような恋をした。
そしてそれに打ちのめされるようにして、離婚した。そこらの浮ついた男女が、遊びです
る浮気とは、中身も深みも、ちがっていた。

 で、その結果として、二人の子どもを、夫のもとに置いて、離婚した。そのときの判断
が正しかったかどうかは別として、Aさんにしてみれば、Aさんが感ずる「罪」に対する、
せめてもの「つぐない」だったかもしれない。Aさんは、こう言う。「前夫にすべてを捨て
ろというのは、できなかった」と。

 不幸か不幸でないかといえば、こうした結末は、二人の子どもにとっては、不幸に決ま
っている。とくに今の状態では、二人の子どもは、「母は、私たちを捨てた」と思っている。
またそう思って、当然である。

 いくらAさんが、「そうでない」と思っていても、それはAさんの身勝手。事実として、
Aさんは、二人の子どもを捨てた。この親としての「罪」は、決してつぐなえるようなも
のではない。夫に子どもたちを渡すことで、Aさんは、夫に対しては、つぐなったつもり
でいるが、それは夫に対して、だけ。

 そこでAさんは、子どもへの思いが断ちきりがたく、思い悩んでいる。「どうしたら
いいか」と。

 Aさんは、不倫相手と再婚はしたものの、一日とて、心の晴れる日はなかったはず。「今
は最高に幸福です」とは書いているが、それは精一杯の虚勢であるにちがいない。朝起き
れば、子どものこと。昼の時報を聞けば、子どものこと。夜、床に入れば、子どものこと。
近所の同年齢の子どもを見ては、自分の子どものこと。それを思いやりながら、「今ごろは、
9歳になったはず」「今ごろは、10歳になったはず」と。一日とて、いや一分とて、子ど
ものことを忘れたことはないはず。

 それはものすごい閉塞(へいそく)感である。おまけに、Aさんを見る、世間の目は冷
たい。恐らく、親戚中から、白い目で見られている。「ひどい女だ」「子どもを捨てた、悪
女だ」と。

 世間的な常識を言えば、そういうことになる。これに対して、Aさんが、抵抗したり、
否定したりしたところで、意味はない。先に書いた、「強烈な命令」の前には、世間的な常
識など、道端のスミにたまったホコリのようなもの。この強烈な命令が、いかに強烈であ
るかは、あの川端靖成をみればわかる。ノーベル文学賞までとった文学の大家でも、晩年、
10代の女性と、恋をしている!

 しかしこうした閉塞感は、何もAさんだけが経験しているものではない。Aさんは、子
どもと生き別れたが、死に別れた人だって多い。さらに子どもではなく、親や兄弟と、生
き別れたり、死に別れたひともいる。夫や妻と、生き別れたり、死に別れた人だっている。
恋人と生き別れたり、死に別れた人となると、五万といる。あるいはもっと多い。

 それぞれが、それぞれに重い十字架を背負っている。こんな例もある。

 B氏(50歳)は、そのとき、母親と決別状態にあった。だから母危篤(きとく)の報
を受けたときも、母親のもとには走らなかった。やがてすぐ母親はなくなったが、葬儀に
も出なかった。B氏が、45歳のときのことだった。

 そのB氏には、一人の妹がいた。身体に障害があり、介護がないと、満足にトイレへも
行けない状態だった。しかしB氏は、その妹を、叔母に預けた。(本当は、見るに見かねて、
叔母が、その妹のめんどうをみることになった。決して、叔母のほうから、引きとったわ
けではなかった。)

 このケースでも、B氏は、世間からは白い目で見られた。親戚からも、「ひどい息子」と
ののしられた。しかしそのB氏が、実は、父親の子どもではなく、祖父と母親との間にで
きた子どもだった。それにいろいろと複雑な家庭の事情がからんだ。B氏は、母親を、心
底、うらんでいた。

 が、それから5年。

 B氏の心が晴れることは、一日もなかった。B氏は、母親の死に目にもあわなかったこ
とを悔やんだ。葬儀に出なかったことも悔やんだ。そのときは「正しい決断」と思ってい
たが、時がたつにつれて、心が変化するということは、よくある。

 毎日が、その「悔やみ」との戦いでもあった。今になってB氏は、こう言う。「どうして
私は、もっと早く母を許せなかったのか」と。

 こうした事例は、形こそちがえ、いくらでもある。幸福な家庭は、どれもよく似ている
が、不幸な家庭は、みなちがう。顔もちがう。しかしつきつめれば、「不幸な思い」は、ど
の人も共通している。

 だからAさんについても、「あなただけではないですよ」と言いつつも、しかし今、Aさ
んが感じているであろう閉塞感は、B氏とは比較にならないほど、重いものであるにちが
いない。私やあなたが安易に、アドバイスできるような内容のものではない。メールには、
「私は幸福です」とはあるが、幸福になれるはずはない。

 これから先、Aさんがすべきことは、(今は、まだ子どもたちが小さいから、しないほう
がよい)、いつか、二人の子どもたちの前で、両手をついてあやまることである。しかしそ
のときでも、二人の子どもが許してくれるとはかぎらない。しかしそれでも、Aさんは、
あやまるべきである。

 そういう日は、必ず、やってくる。でないと、この種の閉塞感は、日増し、年ごとに大
きくなり、ますますAさんを苦しめる。「忘れよう」「忘れよう」と、もがけばもがくほど、
クモの巣のからんだ、あり地獄の中に落ちていく。はっきり言えば、今、Aさんが感じて
いる「幸福感」などというものは、紙のように薄いガラスでできた、箱のようなもの。

 つまりAさんは、こうした現実を、はっきりと認識しなければならない。逃げてはいけ
ない。認識する。それは同時に、とても苦しいことだが、それは自分がかかえた大病と、
真正面から向きあうのに、似ている。心の中の(わだかまり)を理解しないかぎり、その
人は、そのわだかまりと、戦うことすら、できない。

 本来なら、メールをくれたAさんに対して、「こうしたらいいですよ」というような返事
を書かねばならない。しかし職業柄、どうしても、私の視点は、捨てられた二人の子ども
のほうに、向かってしまう。「どれほど、さみしい思いをしただろうか」「つらい思いをし
ただろう」と。恐らく今の今も、二人の子どもは、Aさんを慕いながら、その一方で、そ
れ以上に、Aさんをうらんでいる。

 不倫がすべて悪というわけではない。

 真剣であるなら、不倫も許される。ある女性(35歳)は、一人の男性(43歳)と、
一年にわたって不倫をつづけた。週一回ほど会っては、濃厚なセックスを繰りかえした。
しかしその女性は、結局は、その男性と別れた。

 その女性は、別のところで、こんなことを言っている。「私は不倫をしました。あの世で
は、まちがいなく地獄に落ちます。その覚悟はできています。ただ不倫をした分だけ、私
は今の夫に尽くしています。ですから不倫をしたおかげで、おかしなことですが、夫婦の
仲もよくなりました」と。

 いろいろな不倫があるが、そういう不倫もある。今さら過去を取り消すことはできない
が、Aさんも、まだその段階であれば、いろいろ打つ手はあったのだろう。しかしその前
に、その不倫は、前夫の知るところとなってしまった。
 
【Aさんへ】 

 メール、ありがとうございました。

 多分、私に相談してくださっても、問題の根本が、解決しないかぎり、あなたの心が整
理されることはないと思います。お力になりたいのですが、私は、あまりにも無力です。
ゆいいつあなたができることと言えば、二人のお子さんの幸福を願うことだけですが、し
かしそれとて、もう、あなたとは、関係のない世界のことです。

 あなたは「ひょっとしたら、二人の子どもが、今でも私を求めているかもしれない」「私
はそれに答えてあげたい」というようなことを書いておられますが、それは、その通りで
あると同時に、まったく、その通りではありません。

 自分たちを捨てた(この表現は適切ではないかもしれませんが、お子さんたちは、そう
思っています)母親を、二人の子どもたちも、まさに毎日、恋焦がれています。それは当
たり前のことではないですか! しかし同時に、内心の奥深くではそうであるとしても、
それと同じくらい、あなたという母親をうらんでいます。それも当たり前のことではない
ですか!

 5年という歳月は、あまりにも長すぎます。母への恋慕が、うらみに変るのは、一日で
じゅうぶんです。もちろんあなたには、あなたの言い分があります。夫のもとに子どもを
置いていったのは、夫への罪滅ぼしということですね。それはわかりますが、言いかえる
と、あなたは自分の子どもを、取り引きの材料にしてしまったのです。

 多分、あなたは親意識の強い女性なのでしょう。子どもの心を確かめることもなく、ま
た聞くこともなく、一方的に、そうしてしまった? いただいたメールでも、子どもたち
自身の心が、まったく見えてきません。

 では、どうするか?

 答は簡単です。

 あなたは重い十字架を、死ぬまで背負います。重い、重い、十字架です。この十字架か
らのがれる方法は、残念ながら、ありません。いくら弁解しても、いくら自己正当化して
も、この十字架からのがれることは、できません。

 あなたの二人の子どもが幸福になっても、仮に不幸になれば、なおさら、あなたの心が
晴れることはありません。そういう現実を、しっかりと見つめ、あなたはあなたで、懸命
に今を生きていくしかないでしょう。

 だからといって、私はあなたを責めているのではありません。あなた自身ですら、「あな
たがあなたである前」の、「人間」という、まさにその人間から発する「強烈な命令」によ
って、自分の行動を決めたのです。

 ゆいいつの望みは、そういう「強烈な命令」を、いつか、あなたの二人の子どもも、理
解する日が、やってくるかもしれないということ。まさにあなたは、(命がけの恋)をした
わけです。しかしその命がけの恋は、二人の子どもの心に、ナイフを突き刺してしまった!
そのキズを、だれが、どうやっていやすことができるというのでしょうか。

 私は、不可能だと思います。

 しかしね、Aさん。

 これが人生なのですね。今はまだおわかりにならないかもしれませんが、そういった自
分も含めて、「人間って、そういうもの」と、わかるときがやってきます。40代とか、5
0代になると、です。

 いろいろなドラマを繰りかえしながら、同時に、無数のドラマを、人間は、あとに残し
ていく……。つまり「私」という人間を、「人間」という視点から、見ることができるよう
になります。そして、ですね、そこが不思議なところですが、そういう人間に、「美しさ」
を見ることができるようになります。

 あなたも、いつか、そうして悩み、苦しみながらも、そういう自分の中に、「美しさ」を
見ることができるようになります。ですから、今は、懸命に生き、懸命に幸福を求め、そ
して同時に、懸命に悩み、苦しんだらよいのです。

 逃げてはだめです。真正面から、ぶつかっていきます。そういう中から、あなたは、別
のあなたを見出していく。そしていつか、気がついたとき、あなたはふつうの人をはるか
に超えた、すばらしい人になっています。

 いいですか? だれしも、一つや二つ、そういう十字架を背負って生きています。この
一年間だけでも、こんな事例があります。

 一人息子(19歳)を、自殺に追いこんでしまった両親。同じく妻を、自殺に追いこん
でしまった夫。少し前には、自宅に放火して、娘を殺してしまった母親など。一見、極端
な例に見えるかもしれませんが、そういう人たちが背負った十字架とくらべると、あなた
の背負った十字架など、軽いものです。軽い、軽い、本当に、軽い!

 だからあなたはあなたで、前向きに生きていきなさい。

 あなたはあなたというより、人間が本性としてもつ「強烈な命令」に従った。それはま
ちがっていない。以前、こんな原稿(この返事のあとに添付)を書きましたので、送りま
す。中日新聞に掲載してもらったものです。何かの参考になると思います。

 そしてあなたは今の苦しみや悲しみを、つぎの段階にまで昇華させます。そうそう、先
に書いた、B氏ですが、今は、ボランティアで、老人福祉をしています。もう少し具体的
には、自分にも別の仕事があるので、妻に、その仕事をしてもらっています。その妻の仕
事を、応援しています。

 なぜB氏が、そうなのか? そうしているのか? あなたなら、その理由がわかるはず
です。

 たしかにあなたの二人の子どもは、あなたに捨てられた。これは事実です。心に大きな
キズを負った。これも事実です。

 しかし二人の子どもは、必ず、それを乗りこえます。すでに乗りこえているかもしれま
せん。子どもの側からしても、その程度の問題をかかえている子どもは、いくらでもいま
す。今どき、離婚など、珍しくも何ともないです。アメリカでも30%の夫婦が、離婚し
ています。意外と意外、この日本でも、離婚率は、ヨーロッパ各国より、高くなりつつあ
ります。

 ですから離婚の数だけ、あなたの二人の子どものような子どもも、いるわけです。(だか
らといって、あなたが背負った十字架を軽く感じてもらっては困りますよ。)

 私があなたなら、その分だけ、あなたの今の夫に、尽くします。尽くして、尽くして、
徹底的に尽くします。あなた自身の幸福というよりは、あなたの夫の幸福を、最優先しま
す。そしてできれば、あなたの周囲に、あなたの助けを必要としている子どもたちのため
に、尽くします。

 ある女性(現在45歳くらい)は、今の夫と結婚する少し前、別の男性と遊んで、妊娠
してしまいました。それで中絶したのですが、そのときつけた子宮のキズが原因で、妊娠
できない体になってしまいました。

 それでその女性は、それ以後、今に至るまで、何かの団体で、不幸な子どもたちの福祉
活動を繰りかえしています。つまりあなた自身も、何らかの形で、今の苦しみや悲しみを、
昇華させることができるはずということです。

 が、だからといって、あなたの心が晴れることにはならないでしょう。死ぬまで、晴れ
ることはないでしょう。あなたがまじめで、そして懸命に戦えば戦うほど、そうです。し
かし人生というのは、もともと、そういうものなのですね。そうでない人生を、さがすほ
うが、むずかしいくらいです。

 とにかく前向きに生きていきましょう。もう、どうにもならないことは、どうにもなら
ないのです。大切なことは、今日できることを、懸命にすること。明日は、その結果とし
て、必ず、やってきます。そして明日のことは、明日に任せればよいのです。

 そしていつか、あなたの二人の子どもは、あなたを求めてやってきます。そのとき、あ
なたはもうこの世の人ではないかもしれない。(もちろんその前に求めてきたら、あなたは
全幅に心を開いて、子どもたちを受け入れます。)

 そんなときでも、あなたはあなたの二人の子どもが、部屋の中に入ってくることができ
るように、しっかりと窓だけはあけておいてあげてください。「私の母は、すばらしい母だ
った」と思うような、そんな人をめざしてください。それが今できる、あなたの子どもた
ちへの、せめてもの罪滅ぼしではないでしょうか。

 長い返事で、参考になったかどうかはわかりませんが、どうかどうか、前向きに生きて
ください。

++++++++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに
幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではない
が、その充実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。
どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋を
したが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際
を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある
田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)
と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れて
いた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフラン
チェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じ
こもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。

彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」とい
う状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のよう
な状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。H
さんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何
が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるスト
レスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、
こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わ
ってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買い
に行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということ
だった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だ
った。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そうい
うものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がい
たが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手
伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさ
んは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、
あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のよ
うなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、そ
れが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、
アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでま
た風は吹き始める。人生は動き始める。
(040312)

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●幸福論

 幸福とは何か。イギリスの教育格言に、『子どもを幸福で包んであげるのが、最高の教育』と
いうのがある。それはわかる。そのとおりだと思う。しかし問題は、その中身である。イギリスの
「自由投稿サイト、The Quote Cache Daily Random Quote List」に載っている格言から、いくつ
かを選んで、訳してみた。(訳がおかしいと思うときは、原文を読んでほしい。)

 まず登場するのが、アンディ・ルーニィ。

★For most of life, nothing wonderful happens. If you don't enjoy getting up and working and 
finishing your work and sitting down to a meal with family or friends, then the chances are 
that you're not going to be very happy. If someone bases his happiness or unhappiness on 
major events like a great new job, huge amounts of money, a flawlessly happy marriage or a 
trip to Paris, that person isn't going to be happy much of the time. If, on the other hand, 
happiness depends on a good breakfast, flowers in the yard, a drink or a nap, then we are 
more likely to live with quite a bit of happiness.ー Andy Rooney
人生では、すばらしいことなど、めったにない。朝起きて、仕事をして、それを終えて、家族や
友といっしょに食事することを楽しみなさい。そうすれば、それぞれのときに、あなたは幸福に
なる。もし人が、幸福の基盤を、新しい仕事や、莫大なお金や、完ぺきな結婚生活や、パリへ
の旅行など、そういった大きなできごとに置くなら、ほとんどの時間で、その人は、幸福ではな
いということになる。しかし一方、幸福を、おいしい朝食や、庭の花や、飲んだり、昼寝したりす
ることに求めるなら、あなたはすばらしい幸福とともに、人生を過ごすことができる。

★Think of all the beauty that's still left in and around you and be happy! ー Anne Frank
あなたのまわりにまだ残っているすべての美しいものを、思い浮かべなさい。そして幸福になり
なさい。(アンネ・フランク)

★We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same. 
ー Anne Frank
私たちはみな、幸福になりたいと思って生きている。つまり人生はみな、異なっていても、目的
は同じ。(アンネ・フランク)

★Happiness is a warm puppy. ー Charles Schulz
幸福は、暖かいぬいぐるみ。(チャールズ・シュルツ)

★When I meet people from other cultures I know that they too want happiness and do not 
want suffering, this allows me to see them as brothers and sisters. ー Dalai Lama, Tenzin 
Gyatso
他の文化をもっている人に会ったとき、彼らもまた幸福を求め、苦しみを望んでいない。それが
わかるから、私は彼らをみな、私の兄弟だと思う。(ダライ・ラマ)

★There is a very fine line between "hobby" and "mental illness." ー Dave Barry
「趣味」と、「心の病気」の間には、明確な一線がある。(D・バリー)

★You get more joy out of the giving to others, and should put a good deal of thought into 
the happiness you are able to give. ー Eleanor Roosevelt
他人に分け与えることで、あなたはもっと大きな喜びを得る。それはそうだが、しかしそれを与
えるとき、幸福とは何か、それをよく考えて、すべきである。(E・ルーズベルト)

★We tend to forget that happiness doesn't come as a result of getting something we don't 
have, but rather of recognizing and appreciating what we do have. ー Frederick Koenig
もっていないものを手にしたとき、その結果として幸福がやってくるのではないということを、私
たちは忘れてはいけない。そうではなく、幸福というのは、今、私たちがもっているものに気づ
き、それを評価することの結果として、やってくる。(F・コーニグ)

★There is work that is work and there is play that is play; there is play that is work and 
work that is play. And in only one of these lies happiness. ー Gelett Burgess
仕事の仕事がある。遊びの遊びがある。仕事の遊びもあるし、遊びの仕事もある。しかしこれ
らの一つだけに、幸福がある。(G・バーゲス)

★If you have nothing else to do, look about you and see if there isn't something close at 
hand that you can improve! It may make you wealthy, though it is more likely that it will 
make you happy. ー George Matthew Adams
ほかに何もすることがなかったら、あなたの近くで、あなたができることがないかを、見てみた
らよい。そうすれば、あなたは幸福になるだろうし、お金持ちになれる。(G・M・アダムズ)

★Shall a man go and hang himself because he belongs to the race of pygmies, and not be 
the biggest pygmie that he can? Let everyone mind his own business, and endeavor to be 
what he was made. ー Henry David Thoreau, "Walden"
彼がピグミー(中央アフリカの小人の黒人)だからといって、自殺する人はいるだろうか。ある
いは彼が、最大のピグミーでないからとって、自殺する人はいるだろうか。他人のことは、ほっ
ておけ。そして自分のおかれた境遇で、努力せよ。(H・D・ソロー)

★For every moment of triumph, for every instance of beauty, many souls must be 
trampeled. ー Hunter S. Thompson
すべての成功の瞬間に、そしてすべての美の瞬間に、多くの魂が、踏みにじられる。(H・S・ト
ンプソン)

★The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. ー J.D. Salinger
事実は、いつも明らかに、あとになってわかる。「幸福」と「喜び」の、もっとも大きな違いは、幸
福というのは、固体だが、喜びは、液体であること。(J・D・サリンジャー)

★Three grand essentials to happiness in this life are something to do, something to love and 
something to hope for. ー Joseph Addison
幸福の三つの大きな要素は、すべきことがあること。愛すべきものがあること。そして希望とす
べきものがあることである。(J・アジソン)

★One of the first conditions of happiness is that the link between Man and Nature shall not 
be broken. ー Leo Tolstoy
幸福の最初の条件は、人間と、自然のつながりを、壊してはいけないということである。(L・ト
ルストイ)

★Happiness lies only in that which excites, and the only thing that excites is crime. ー 
Marquis de Sade
幸福というのは、エキサイトするものに存在し、エキサイトする唯一のものというのは、犯罪で
ある。(M・Sade)

★I've learned from experience that the greater part of our happiness or misery depends on 
our dispositions and not on our circumstances. ー Martha Washington
私は、つぎのことを学んだ。つまり幸福にせよ、悲惨にせよ、その大部分は、私たちのおかれ
た環境ではなく、私たちの気質によるものだということを。(M・ワシントン)

★Everything exists in limited quantity ー especially happiness. ー Picasso
すべてのものには、かぎられた量しかない。とくに幸福は!(ピカソ)

★Sooner or later in life everyone discovers that perfect happiness is unrealizable, but 
there are few who pause to consider the antithesis: that perfect unhappiness is equally 
unattainable. ー Primo Levi
遅かれ早かれ、だれもが、完ぺきな幸福というのは、自分ではわからないものだということを発
見する。しかしほとんどの人は、その正反対については、考えない。つまり完ぺきな不幸という
のは、同じように、達成しがたいものであることを。(P・レビ)

★It's a funny thing about life; if you refuse to accept anything but the best , you very often 
get it. ー Somerset Maugham
もしあなたがいつも最高のもの以外は受け取らないとするなら、あなたはそれをしばしば手に
入れることができるというのは、人生でも、おかしなことだ。(S・モーガム)

★The supreme happiness in life is the conviction that we are loved ーー loved for 
ourselves, or rather, loved in spite of ourselves. ー Victor Hugo
人生で最高の幸福というのは、私たちが愛されているという確信である。つまり、私たち自身の
ために愛されているか、もしくは、むしろ、私たち自身のかわりに愛されているという確信であ
る。(V・ユーゴ)

★The essentials to happiness are something to love, something to do, and something to 
hope for. ー William Blake
幸福の重要な部分は、愛すべき何か、すべき何か、そして希望とすべき何かをいう。(W・ブレ
イク)

●改めて幸福論

世界の賢人たちは、身近な、ごく平凡な、かつ、ごく日常的な生活の中に、「幸福」を見いだして
いるのがわかる。つまりこのあたりに、幸福の原点があるのでは。ここまで書いて、私は、ボー
ムという人が書いた、「オズの魔法使い」を思い出した。それについて書いたのが、つぎの原稿
である。「家族主義」について書いた原稿である。(私の本から、転載。)

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家族主義と幸福論

●幸福の原点は家庭にある

ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロシーという女の
子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するという物語である。こんなことがあ
った。

 オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシア軍に襲われ
たらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」と。「おやじの故郷のスコットラ
ンドへ帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 私があきれていると、一人の学生がこう言
った。「ヒロシ、オーストラリア人が手をつないで一列に並んでもすきまができるんだよ。どうして
この国を守れるか」と。

 英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで質問を変えて、
「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞くと、皆血相を変えてこう
言った。「そのときは、命がけで戦う」と。これだけではないが、私はいつしか欧米人の考え方
の基本に、「家族」があることを知った。愛国心もそこから生まれる。

たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日本語に訳する「愛国者」と
いうことになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパトリス、つまり「父なる大地」とい
う語に由来する。つまり欧米で、「ペイトリアチズム(愛国心)」というときは、「父なる土地を愛す
る」あるいは、「同胞を愛する」を意味する。その映画の中でも、国というよりは家族のために
戦う一人の父親が、テーマになっていた。

 家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは誤解。冒頭にあ
げたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そんな遠くにあるのではない。あな
たのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを、息を潜めて待っている…。ドロシーは長い冒険
の末、それを教えられる。

 明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事第一主義が生
まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。発展途上の国としてやむをえな
かったのかもしれないが、しかし今、多くの人がそうした生き方に疑問をもち始めている。九九
年の終わりに中日新聞社がした調査でも、四五%の日本人が「もっとも大切にすべきもの」とし
て「家族」をあげた。日本人は今、確実に変わりつつある。

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こうした賢人の中で、私の心をとらえたのは、F・コーニグの、つぎの言葉だ。いわく……。

「もっていないものを手にしたとき、その結果として幸福がやってくるのではないということを、私
たちは忘れてはいけない。そうではなく、幸福というのは、今、私たちがもっているものに気づ
き、それを評価することの結果として、やってくる」と。

 同じようなことだが、アンディ・ルーニィ※も、こう言っている。
 
「人生では、すばらしいことなど、めったにない。朝起きて、仕事をして、それを終えて、家族や
友といっしょに食事することを楽しみなさい。そうすれば、それぞれのときに、あなたは幸福に
なる。もし人が、幸福の基盤を、新しい仕事や、莫大なお金や、完ぺきな結婚生活や、パリへ
の旅行など、そういった大きなできごとに置くなら、ほとんどの時間で、その人は、幸福ではな
いということになる。しかし一方、幸福を、おいしい朝食や、庭の花や、飲んだり、昼寝したりす
ることに求めるなら、あなたはすばらしい幸福とともに、人生を過ごすことができる」と。

 それはそのとおりで、もし名誉や地位、肩書きや権威、権力が、幸福の条件とするなら、人間
は、数十万年のうちの、(数十万年、引く、二〇〇〇年)の間は、不幸だったということになる。
なぜなら、こうした亡霊が人間社会を支配するようになったのは、せいぜい、この二〇〇〇年
にすぎないからである。……とまあ、こんなこと改めて、書くまでもない。

 しかし現実には、こうした亡霊にとりつかれている人は、多い。あなたのまわりにも、いる。私
の知人の中にも、いる。定年退職をしてからも、過去の栄光(?)にしがみつき、それをふりか
ざして、いまだに威張りちらしている。もっともそれで本人がそれなりにハッピーなら、それでよ
いのだが、実際には、(多分?)、日々を悶々とした気分で過ごしている。そういう人にとって
は、過去の栄光を否定されることは、自分の人生を否定されることに等しい。だから、猛烈に
反発する。

 これは本当の話だから、正直に書く。ウソの話ではない。

その人は、長い間、ある研究所の研究員をしていた。そして四〇歳くらいのとき、H大学の助
教授になり、つづいて五〇歳少し前に、教授になった。現役時代には、ある研究団体の会長に
もなっている。その彼と議論しているとき、ふとしたことから、喧嘩になってしまった。彼は、メー
ルで、私にこう言ってきた。

 「君だって、文部省あたりから仕事が回ってくれば、シッポを振る口ではないのかね」「君だか
ら、正直に言ってやるが、君が称している研究など、この世界では、価値がない。いいかね、研
究というのは、公的な機関で認められてはじめて、意味をもつんだよ」「田舎のおばちゃんたち
を相手に、偉そうな文章を書いても、意味はないよ」「君の書いている本などというのは、資源
のムダづかい。君が一冊、本を出すたびに、インドネシアの森林が、数十本、犠牲になるんだ
よ」「偉く国際人ぶっているが、君が本当に知っている外国は、オーストラリアという田舎だけで
はないのかね」と。最後には、こう言った。「君は、知識をひけらかしている、ただのバカだ」と。

 しかし私とて、負けていない。

 「公的機関で、税金で研究している男が、何を偉そうなことを言うか」「あなたのまわりの人間
は、自分もその恩恵にあやかりたいから、あなたにペコペコしているだけだ」「文句があるな
ら、裸で私と勝負してみろ」「こちらは生きる糧(かて)を稼ぎながら、そのあいた時間で、ものを
書いている。あんたとは、立場が基本的に違う」「文部省から仕事がくれば、ありがたいことだ。
いくらでもシッポを振ってやる。そのかわり、ちゃんと、お金をもらう」「文化というのは、大衆が
つくる。あんたが言うところの、田舎のおばちゃんたちがつくる。あんたのような雲の上の、偉
い人ではない。文句あるか!」と。

 そうそう、こんなことも言った。「君は、教育で金もうけする。私は、教育そのものに生きる」
と。そこで私はこう反論した。「あなたは、上ばかり見て、教育論を書く。私は、下の人のため
に、教育論を書く」と。

 実のところ、こうした不毛の議論が、三か月ほど、つづいた。で、私のほうがあるときから返
事を書かなくなり、それでその人との交際は、終わった。今も、まったく音信はない。私も若か
った。しかしその心意気だけは、今も変わらない。

 ずいぶんと熱い話になってしまったが、この事件が、私の考え方に大きな影響を与えたこと
は言うまでもない。以後、私は、権威や権力を振りかざす人には、生理的な嫌悪感を覚えるよ
うになった。

ところで、この話には、余談がある。一つは、その人からメールが入るたびに、はげしい動悸
と、不快感が私を襲ったということ。不愉快だった。それにもう一つは、それまでそれほど好き
ではなかった、尾崎豊の『卒業』が好きになったこと。ある時期は、毎日、その曲を聞きなが
ら、うさ晴らしをした。(これは本当に、ホント!)

 さてさて、幸福というのは、私たちの身のまわりにある。そして今の今も、私たちに見つけても
らうのを、じっと、静かに待っている。賢明な人は、それをなくす前に気づき、そうでない人は、
なくしてから気づく。もう一言、つけ加えるなら、賢明な人は、若いうちにそれに気づき、そうでな
い人は、死んでも気づかない。
 
M・ワシントンが言っているように、幸福とは、心のもち方で決まる。いわく、「私は、つぎのこと
を学んだ。つまり幸福にせよ、悲惨にせよ、その大部分は、私たちのおかれた環境ではなく、
私たちの気質によるものだということを」と。この言葉は、おおいに参考になる。
(030722)

※アンディ・ルーニィ……1919生まれ、アメリカの著名

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ついでに「恨み」について

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恨(うら)み

 恨みは、人間を小さくする。腐らす。そしてその恨みが多ければ多いほど、深ければ深いほ
ど、その人の人生を、見苦しくする。

 いろいろな賢者が、その「恨み」について、語っている。

 
Hatred comes from the heart; contempt from the head; & neither feeling is quite within our 
control. ー Arthur Schoperhauer
恨みは、心から生ずる。侮蔑は頭から生まれる。ともに、我々の意思ではコントロールできな
い。(A・ショーペンハウエル)

I will permit no man to narrow and degrade my soul by making me hate him ー Booker T. 
Washington
だれも、私をしてその人を恨ませるようなことで、私の魂を小さく、低めることはできない。(B・
T・ワシントン)

Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ。(H・フォスディック)

Nothing Brings People together more, then mutual hatred ー Henry Rollins
互いに恨みあうことほど、互いを近づけるものはない。(H・ロリングズ)

If you hate a person, you hate something in him that is part of yourself. What isn't part of 
ourselves doesn't disturb us. ー Hermann Hesse
あなたがだれかを恨むなら、あなた自身の中の何かを恨むということ。私たち自身の中にない
ものであれば、それで心がわずらわせられるということはない。

Don't hate, it's too big a burden to bear. ー Martin Luther King, Sr.
人を恨むな。それは耐え難いほどの重荷になる。(M・L・キング・SR)

Hate and bitterness are the only weapons wielded by the blade. ー Thomas Gregory
恨みと辛苦は、剣をもって戦う、唯一の武器である。(T・グレゴリー)


 こうして並べてみると、自然と、その答が、出てくる。人を恨むということは、短い人生の、そ
の貴重な「時」を、ムダにするということか。では、どうするか。オーストラリアの格言に、「もうす
べては終わった。さあ、前に向って、笑って進もう」というのがある。どうにもならない問題に、い
つまでも引き回されていると、やがてその泥沼に引きずりこまれてしまう。

 そして、H・フォスディックが言っているように、「人を恨むというのは、ネズミを殺すために(=
つまらない人間にかかわっていることは)、家(=人生)を燃やす(=ムダにする)ようなものだ」
ということになる。「恨み」は、「ネズミ」ということか。

 人間の心には、無数のゴミがある。そのゴミがあることは、しかたないことだが、できるだけ、
そのゴミは、少ないほうがよい。ゴミが多ければ多いほど、その人の生活態度は、醜悪なもの
になる。顔も醜悪になる。よい例が、J党の中枢部でがんばっている政治家たちである。見る
からに醜悪な顔をしている。ああなる。

 そのゴミになるものとして、邪悪な心、横しまな心、嫉妬、ねたみ、策謀、インチキなどがあ
る。ここでいう恨みも、その一つ。

 だから、あなたも、もうすべては終わった。さあ、前に向って、笑って進もう! それですべて
は、解決する。
(030817)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司※

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨む(憎む)というのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディッ
ク)

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人を恨んではいけない。
憎んではいけない
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

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●ある女性(67歳)

 東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み
怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇
高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも
悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8〜10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)


Hiroshi Hayashi++++++July 2010++++++はやし浩司

●老後の健康論

●慣れないことはするな

 老後が近づいてくると、みな、それぞれの健康法を考える。たいていはそれまでの健康法を
延長する。が、中には、新しい方法を試みる人がいる。私もそうだった。とたん私のばあい、足
の指先を痛めた。夜中にジョギングをしたときのことだった。一方、サイクリングには自信があ
る。今でも高校生たちと競争したりする。20代のときからつづけているため、そのためにどうこ
うなることはない。要するに、慣れないことはするな。


●体重は平均体重x0・8

 平均体重というのは、若い人を基準にしている。老人は無視。そこで老人の平均体重は、若
い人の平均体重x0・8くらいが、よい。「0・8」という数字はあいまいなものだが、経験的には正
しい。70歳を過ぎても、スタスタと歩いている人に、太っている人はいない。みな、細身。見たと
ころ、平均体重の「0・8」程度。だから「0・8」。


●腰とひざ

 老化は腰とひざから始まる。腰を痛める・・・。ひざを痛める・・・。それがそのまま持病となっ
て定着する。定着したまま、じわじわと健康を蝕(むしば)んでいく。そのためにも、自分の歩き
方を一度、客観的に見てみるとよい。鏡に映してみるという方法もある。私のばあいは、ビデオ
カメラに映してみて、歩き方のおかしさを知った。ひざを痛めるのは、時間の問題?


●昼寝(朝寝坊)

 昼寝は健康にもよいそうだが、最近の研究によれば、ボケ防止にもなるという。ただし長く眠
るのはよくないそうだ。時間にすれば、15〜30分程度とか。また私たち夫婦のばあい、朝は
起きたいときに起きる。目覚まし時計とは無縁。ずいぶんとだらしない生活に思う人もいるかも
しれないが、結婚したときから、そういう生活をしている。


●「食べたら損ねる」を口ぐせに

 食物を前にしたら、「食べたら損ねる」を心の中で念ずる。「食べなければ損」と思ったら、そ
れこそ悪魔のささやき。食べすぎてよいことは、何もない。料理でも「味」が大切。味だけ味わっ
て、そこでやめる。とくに戦後生まれの私たちは、食べ物にこだわる。・・・こだわりやすい。だ
からこそ「食べたら損ねる」を口ぐせに。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●釈迦が説いた自由論

++++++++++++++++

釈迦はクシナガラの郊外、シャーラ
(沙羅)樹の林の中で、最後の教え
を説いたという(仏教聖典)。

弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、
自らを灯火(ともしび)とし、
自らをよりどころとせよ、
他を頼りとしてはいけない。

この"法"を灯火とし、よりどころと
せよ。他の教えをよりどころとしては
いけない。

++++++++++++++++

●自由

 「自由」という言葉がある。この言葉は、もともとは、「自(みずか)ラニ由(よ)ル」、あるいは
「自ラニ由ラセル」という意味である。

 つまり、(自分で考え)、(自分で行動し)、(自分で責任を取る)ことを、「自由」という。

 釈迦は、仏教聖典(仏教伝道協会発行)によれば、最後に、まさにその「自由」について説い
たことになる。

 ついでながら、私が知るかぎり、釈迦が、「前世」とか「来世」とか、そんなことを説いた形跡
は、どこにもない。あるとすれば、釈迦滅後、数百年を経て書かれた経典の中だけである。そ
うした経典は、ヒンズー教の影響を、モロに受けている。

 それはともかくも、釈迦は、つぎのようにつづける。

『わが身をみては、その汚れを思って、
貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみも、
ともに苦しみの因(もと)であると思って、
ふけらず、わが心を観(み)ては、その
中に「我」はないと思い、それらに
迷ってはならない。そうすれば、すべての
苦しみを断つことができる。
わたしがこの世を去った後も、このように
教えを守るならば、これこそわたしの
まことの弟子である』と。

●煩悩(ぼんのう)

 釈迦によれば、私たちの心というのは、基本的には、「汚れている」ということになる。だか
ら、その汚れた心のまま、「貪ってはならない」と。つまり貪欲になってはいけない、と。もっとわ
かりやすく言えば、情欲の命ずるまま、貪欲になってはいけない、と。

 そしてそれを受けて、『苦しみも楽しみも、ともに苦しみの因であると思って、それにふけって
はいけない』と。

 同じようなことが、東洋医学のバイブルとも言われる、(黄帝内経・素問・上古天真論篇)の中
にも書いてある。「(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る」と。

 つまり「楽しいから」といって、享楽的に、それにふけってはいけないということ。それはそのと
おりで、1人の人の(楽しみ)は、どこか別のところで、別の人の(苦しみ)の上に成り立っている
ことが多い。あるいは享楽的に生きれば生きるほど、その反動は、かならず、自分自身にやっ
てくる。

またつぎの『わが心を観(み)ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない』の
部分は、フロイトのリピドー論を重ねてみると、意味がよくわかる。

 私たちを根源的な部分で動かしているのは、リピドー、つまり性的エネルギーである。さらに
つっこんで言えば、「子孫存続本能」ということになる。もちろん私たちはそれだけで生きている
わけではないが、しかし私たちの日常的な行動すべては、どこかでその本能と結びついてい
る。

 それがわからなければ、ほかの動物や植物をみればよい。私たち人間も、その一部でしか
ない。

●どこまでが「私」?

 釈迦は、「私たちの中には、『私』という部分は、本当はないのだ」と説いている。つまり「私は
私」と思っている部分にしても、そう思っているだけで、実際には、私ではない、と。

 たとえば若い女性が、化粧をする。その女性は、「私は自分の意思で化粧をしている」と思っ
ているかもしれないが、その意思とて、作られたものにすぎない。結婚前の女性であれば、まさ
に「子孫存続」のための、その準備行動をしているにすぎない。

 実際、私の中の「私」をみつめてみると、どこからどこまでが、「私」で、どこからどこまでが
「私」でないか、それがよくわからないときがある。たとえばもうすぐ60歳という、この年齢にな
っても、性欲は残っている。ときどきエロビデオを見たいという欲求もわいてくる。

 しかしそう思うのは、ここでいう(私であって私でない部分)ということになる。だからつづく行
動、たとえばエロビデオ店へ行って、見たいエロビデオを選んだり、買ったりするのも、(私であ
って私でない部分)ということになる。

 しかしこんなことをおおっぴらに言えば、(すでにおおっぴらに言っているが)、「教育評論家と
呼ばれている男が、何を言うか!」と、非難される。だから私は、こういうことは隠そうとする。
「私は、そういうエロビデオは見ていません」というフリをする。

 「私」がかろうじてあるとすれば、その(隠そうという)部分、もしくは(フリをしている)部分にで
しかない。

●苦しみは煩悩から

要するに、私たちが日常生活でいうところの(苦しみ)などというものは、総じてみれば、(私で
あって私でない部分)から生じている。だから釈迦はこう言う。『私の中に、「我」はないと思い、
それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる』と。

 もう一歩先を言えば、「私は私」と思うから、そこから苦しみが生まれる。「私の財産」「私の名
誉」「私の地位」と。ならば、最初から、運命を受け入れ、それに従えばよい。へたに「私」にこ
だわるから、人は苦しむ。悩む。釈迦もこう言っている。

 『……いたずらに悲しむことはやめて、
 この無常の道理に気がつき、人の世の
 真実のすがたに眼をさまさなければ
 ならない。

 変わるものを変わらせまいとするのは、
 無理な願いである。

 煩悩(ぼんのう)の賊(ぞく)は、
 常におまえたちのすきをうかがって、
 倒そうとしている。

 もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んで
 いるのなら、その毒蛇を追い出さない
 かぎり、落ちついてその部屋で、
 眠ることはできないであろう。

 煩悩の賊は追わなければならない。
 煩悩の蛇(へび)は、出さなければ
 ならない。

 おまえたちは慎(つつし)んで、
その心を守るのがよい』(同書)

 あとは、その瞬間、瞬間を、懸命に生きること。ただひたすら懸命に生きること。それがどん
な結果で終ろうとも、それも運命。そのときはそのときで、その運命を、静かに受け入れれば、
それでよい。

 釈迦が説いた「自由」とは、まさに「私」を求める戦いであったということになる。わかりやすく
言えば、「私」を、「私の中の私でない部分から解放させる」。それが真の自由につながる、と。
釈迦は、それを説いた。

++++++++++++++++

黄帝内経・素問・上古天真論篇
について書いた原稿を、添付
します。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++

●子育ては自然体で

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これ
を読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、極端主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。極端主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめ
る」と決めたら、パッとやめさせるようなことをいう。

よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、子どもの趣味を奪ってしま
うこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常
的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義
というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈
な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。

あなたの子どものできがよくても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、
見え、メンツ、世間体。これに振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放
されれば、子育てにまつわるほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。子育てを一言で言えば、そう
いうことになる。

さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に順応して生活すれば生存可能であり、それ
に背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だ
が、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまくいくが、そうでなければ、そうで
ない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。

子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでも
ないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 釈迦論 釈迦の自由論 釈迦の実存主義 現実主義)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●7月22日・エアベンダー&インセプション(Inception)

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●エアベンダー

おとといの夜、『エアーベンダー』という
映画を観てきた。
言うなればアメリカ版、『ドラゴンンボール』。
途中であくびが出るほど、つまらない映画だった。
(実際、眠りそうになった。)

おかしな屁理屈。
その連続。
かっこつけの演技。
その連続。
矛盾だらけの論理。
その連続。
CG技術はすごかったが、それだけ。
星は1つの、★。
続作があるようだが、私は観ない。

「あんな子ども(=子どもぽい論理)に世界が牛耳られたら、
それこそ世界はメチャメチャになってしまう」と、
別の心で、私はそんなことを考えた。

で、それよりも気になったのが、先週観た、
『インセプション』。
ワイフは、「もう一度、観たい」と言っている。
私もそう思っている。

●解けない謎

あの映画の中で、冒頭と最後の部分で、
ディァプリオが海(川?)の中から、はいあがってくる
シーンが出てくる。
……ということは、ディカプリオはまだ夢の世界に
いることになる。
つまり(第3の夢の世界)(第2の夢の世界)から、
(第1の夢の世界)までは戻ることができたが、
ディカプリオは、(現実世界)にはもどっていない?

(第1の夢の世界)でディカプリオたちは、
車ごと橋から落下する。
そのときディカプリオはシートベルトをしたままだった。
ほかの連中は車の中から外へ逃げたが、ディカプリオは目を
閉じていた。

あのシーンがどうも気になる。
映画の中では、それぞれの夢の世界で死ぬことによって、
その前の夢の世界に戻ることができることになっている。
(第1の夢の世界)で助かったということは、ディカプリオは
(現実世界)には戻っていないということになる。

ディカプリオは現実の世界に戻ったのか?
それとも夢の世界に残ったのか?

その謎を解く鍵が、最後のシーンに出てくるコマという
ことになる。
ディカプリオはコマを回したまま、家の外に出る……。
が、そのシーンは、残念ながら途中で切れる。

近く劇場で再公開されるということだから、もう一度、
観てくる。

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●ボケ検査

 60歳以上の人は、一度、映画『インセプション』を観てみるとよい。
その理解度によって、自分のボケ度を知ることができる。

(健常者)映画の内容がスラスラと理解できる。主人公のコブ(ディカプリオ)が最後は、
どの世界にいるかが理解できる。

(ボケ度1)夢の世界から、さらに深い夢の世界に入っていく……という程度には理解で
きるが、そのつながりまでは理解できない。

(ボケ度2)何がなんだか、訳がわからない。頭の中が混乱して、映画を理解できない。最後に
コブがどの世界にいるかもわからない。

●映画『インセプション』

 念のため、先週書いた原稿の一部を転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 映画『インセプション』は、つぎの段階を経て、夢の中の夢の世界、さらにはそのまた
夢の世界へと入っていく。

(1)現実の世界(飛行機747の世界)
その世界から、つぎの第1の夢の世界に入る。
これを第1夢の世界という。
壮絶なカーチェイスを繰り返す。

(2)その第1夢の世界から、つぎの第2の夢の世界に入る。
これを第2夢の世界という。
どこかのホテルで、これまた壮絶な戦闘行為を繰り返す。

(3)さらにそこでの窮地を逃れるため、ディカプリオたちは、第3の夢の世界に入る。
これを第3夢の世界という。
どこかの雪原に建つ要塞で、さらに壮絶な戦闘行為を繰り返す。

 映画『インセプション』の中では、そこまで断言していないが、私流に勝手に解釈する
と、第1夢の世界は、「前意識」の世界。
第2夢の世界は、「無意識」の世界。
第3夢の世界は、「深層無意識」の世界ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この中で、「前意識」「無意識」「深層無意識」という言葉を使ったが、これは私が勝手に
付け足したもの。
映画の中では、そういう言葉は出てこなかった。
ディカプリオたちが車ごと橋から落下するのは、この中でいう「第1の夢の世界」ということにな
る。

 ……となると、もうひとつ謎が出てくる。
海(川)から救い出されたディカプリオは、助けられて大きな和風の家に連れていかれる。
が、そこには、年老いた日本人のサイトー(渡辺謙)がいる。
なぜか?

 これらの夢の世界では、それぞれ(時間)の長さがちがう。
記憶によるものなので、数字は正確ではないが、こういうこと。

 (現実の世界)での1日は、(第1の夢の世界)では、1年。
(第1の夢の世界)での1日は、(第2の夢の世界)では、1年。
(第2の夢の世界)での1日は、(第3の夢の世界)では、1年。

 これによって計算すると、(現実の世界)で1日が過ぎると、(第3の夢の世界)では、
365x365x365=約5000万日=13万年が過ぎることになる。
論理的に(?)考えると、ディカプリオは(第2の夢の世界)でモタモタしている間に、
(第1の夢の世界)にいたサイトー(渡辺謙)は、すっかり老いぼれてしまったことにな
る。

 つまりコブ(ディカプリオ)も、サイトー(渡辺謙)も、(第1の夢の世界)に残った
ことになる。

 ……それとも私は、どこかで重要なシーンを見落としたのかもしれない。
サイトー(渡辺謙)に会ったとき、コブ(ディカプリオ)は死んだのか?
もしそうなら、コブ(ディカプリオ)は、(現実の世界)に戻ったことになる?

 よくわからない。
つまり私のボケ度は、(ボケ度1)に近い(ボケ度0・5)ということになる。
(ワイフは、どうやらボケ度2というところか?)

 ともかくも、映画『インセプション』は、最近観た映画の中では、『シクスセンス』『MATRIX』『ミ
ラーズ』に並ぶ、おもしろい映画だった。
もう一度観て、しっかりと謎を解いてみたい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 インセプション INCEPTION 謎 謎解き)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司 

*The Independent Newspaer misuunderstands the Japanese heart
(インデペンデント紙は、日本人の心を誤解している。)

+++++++++++++++++++++

イギリスの「インデペンデント紙」は、
「犯罪者が国賓扱いを受けている」と、
日本を揶揄(やゆ)している。
しかしこれは誤解である。

+++++++++++++++++++++

●サーチナの記事より

+++++++++++++以下、サーチナの記事より++++++++++++

 1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)北朝鮮元工作員(48)が20
日未明に初来日した。今回の来日は日本政府の招聘(しょうへい)によるもので、事件以来初
の海外渡航となる。23日までの滞在中、横田めぐみさんの両親ら拉致被害者家族と面会す
る。

(中略)

 このニュースは英国でも報じられている。英インディペンデント紙は「ジェット機爆破事件の北
朝鮮元工作員が日本で歓迎される」と題し、もっともありえないスパイ物語と報じた。また、日
本国籍の偽造パスポートで大韓航空機爆破を試み、一度死刑を宣告された金元工作員は、
東京の羽田空港で逮捕されなければならない。にもかかわらず、彼女の地位は犯罪者どころ
か、まるで要人扱いだ、と金元工作員の待遇を疑問視している。

 英ガーディアン紙は、今回の金元工作員の訪問は、日本政府がこれまでの拉致問題に対す
る怠慢からわざと注意をそらすために仕組んだパフォーマンスだと批評家が非難していると報
じた。金元工作員はこれまでにも被害者の家族と何度か会見しており、新しい情報が提供され
ることは期待できないとみられている。

+++++++++++++以上、サーチナの記事より++++++++++++

(以下、「The Independent」紙より

Former North Korean spy who bombed jet welcomed by Japan
By David McNeill in Tokyo
Wednesday, 21 July 2010

Left, Koichi Iizuka, the son of Yaeko Taguchi, with Kim Hyon-hui in Seoul last year. Sakie 
Yokota, right, with a picture of her daughter, Megumi
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It has all the ingredients of the most far-fetched spy story: a beautiful North Korean 
woman destined to become an actress opts instead for a career in espionage. Brainwashed 
to despise the North's southern neighbour, she bombs a Korean Air jet in 1987 reportedly 
on the direct orders of the North Korean leader Kim Jong-il, killing 115 people. When 
captured, she attempts to kill herself by biting into a cyanide pill but is stopped by a guard. 
Her accomplice dies from the same method.

●ジェット機爆破の犯人が、日本で歓迎されている

(写真は)キムヒョンヒと一緒に写っているイイヅカ・コーイチ、メグミの両親のヨコタである。

キムヒョンヒは、金xxに洗脳され、直接の命令を受け、1987年航空機を爆破し、115人の人
を殺している。
自分自身も自殺を試みている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●イギリス人の目

 日本人は何も、「welcome」(歓迎)しているわけではない。
同情はしているが、歓迎はしていない。
キムヒョンヒ自身も、犠牲者にすぎない。
また私たち日本人がいちばん知りたいのは、拉致被害者についての情報である。
その情報を知る人物として、キムヒョンヒを日本に迎えた。
ほかに私たちは、拉致被害者の動向を知る手だてをもっていない。

 が、こうした日本の動きが、イギリス人には奇異に見えるらしい。
「どうして犯罪者を歓迎するのか?」と。

刑事訴訟法の世界にも、『罪を憎んで、人を憎まず』という格言がある。
そこまで割り切っているわけではないが、日本人の心情としては、キムヨンヒに対する
憎悪の念はゼロと断言してもよい。
むしろ日本へ来てくれたことを、感謝している。
たいへん勇気のいる決断だった。
仏教の世界には、『怨憎会苦』という言葉がある。
キムヨンヒの立場で日本へ向かうということは、そこで針のムシロに座らされることを
意味する。
苦しかっただろう。

 つまり私たちの怒りは、横田めぐみさんを拉致した、K国のトップに向かっている。
横田めぐみさんと同じレベルで、その反対側の立場にいるキムヨンヒもまた、あの狂った
独裁者の被害者にすぎない。
それがよくわかるから、キムヨンヒには怒りを覚えない。

 むしろ「日本は、あなたが思っていた国とはちがいますよ。
戦時中はともかくも、戦後の日本は変わりました」と。
それを私たちはキムヨンヒを通して、K国の人たちに伝えたい。
そういう願いがあるから、キムヨンヒを暖かく迎えている。

 以上の日本語を、一度英文に翻訳(グーグル)し、The Independentに
送付してみる。

To: the Editor of the "Independent" Newspaer

Japanese does not, "welcome" Kim Hyon-hui . We, the Japanese understand that Kim Hyon
-hui herself is aslo only a victim. Also we Japanese are most interested in the information 
about abducted people. As a person who knows that information Kim Hyon-hui was invited 
to Japan. Another reason why is that we have no information sources about the abducted 
people by North Korea.

However, it seems to look strange to the British . "Why welcome to criminals?". 
According to the criminal procedural law we say, "We hate the sin, but the people".
And we declare feelings of Hatred against her is almost zero. Or rather we feel grateful to 
her that she managed to come to Japan. We are sure she needed a great decision to come 
to Japan. For her Japan is the last country that she does wants to come and visit.

This means our anger heads toward the leader of North Korea, Kim Il-Jong not to her. 
Yokota Megumi as well as Kim Hyon-hui are the victims of the leader.

Rather we would like to let her know that "Japan is different now from the one you knew. 
This is also what we would like to let North Korean people, who even now suffer from the 
oppression of Kim il-Jong.

Hiroshi Hayashi, a Japanese reader
Hamamatsu-city, Japan

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 The Independent )


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【外国から観た日本】

++++++++++++++++++

イギリスの「Quote Site」(World of Quotes)
では、世界中の格言を紹介している。
もちろんその中には日本のものもあり、105編
近くが載っている。
それらを読んでみて、「こんな格言、あったかなあ?」と
思わないものもないわけではない。
(これはたぶんに私の知識不足によるものかも
しれないが……。)

もちろん、「ああ、あれだな」と、わかるのもある。
たとえば『あばたもえくぼ』は、つぎのように訳されて
いる。

「A man in love mistakes a pimple for a dimple.」

全部は紹介しきれないので、アルファベット順に最初の部分
をいくつか紹介する。

+++++++++++++++++++++++

●日本語の格言に学ぶ、私、日本人(欧米人から見た日本人像)

A fog cannot be dispelled by a fan. 
Source: (Japanese)  
『霧は、うちわでは追い払えない』。

……どういう意味なのか?
元となった格言は、何なのか?
そこで英語サイト調べてみる。

「Answer Com(疑問に答えるサイト)」には、つぎのようにある。

「Short answer: fog is just a cloud that has lost altitude. Long answer: Because the humidity 
has reached more than 100% and the water starts to appear as vapour. You will also find 
that every outdoor……」と。
つまり「霧というのは、高いところを見えなくする雲のようなもの。
つまり湿度も100%に達すると、水も水蒸気になる。
つまり……」と。

外国人は、このばあいの「Fog(霧)」を、「湿気」と解釈しているようである。
が、そんなことなら日本人は、わざわざ格言にはしない。
あえて日本流に解釈すれば、『うわさは、うちはでは追い払えない』とか、『人の心は
うちわでは消せない』とか、そういうことになる。

日本語で「霧」というときは、「疑い」「黒いうわさ」「心のモヤモヤ」などを意味する。

さらに今風に言えば、いくら小沢さん(民主党前幹事長)が、「私は関係ありません」と
言っても、国民はだれもそう思っていない。
「小沢さん、うちわ(=権勢)でいくら払っても、霧は消えませんよ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A good husband is healthy and absent. 
Source: (Japanese)  
『よい夫というのは、健康で、そばにいない夫』。

この格言はどこかで聞いたことがある。
『亭主……』とか、言う。
何だったか?
『亭主健康で、留守がいい』だったか?

要するに、家事にはあれこれ口を出さない夫ほど、よい夫という意味。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A good Jack makes a good Jill. 
Source: (Japanese)  
『よい夫はよい妻を作る』。

つまり妻は、夫しだい?
もちろんその逆もある。
若いときは、それがわからない。
しかし夫婦生活を何十年もつづけていると、それがわかるようになる。
夫は妻に作られ、妻は夫に作られる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A good sword is the one left in its scabbard. 
Source: (Japanese)  
『よい剣はさやに納められた剣』。

剣などというものは、できるなら使わないほうがよい。
使わないまま、しまっておいたほうがよい。
剣というのは、そういうもの。
だから『さやに納められた剣ほど、よい剣』となる。

聖書(マタイ伝)の中にも、こうある。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないと
でも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 
しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタ
イ26:52〜54)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A man in love mistakes a pimple for a dimple. 
Source: (Japanese)  
『あばたもえくぼ』。

これについては、今さら説明するまでもない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A mended lid to a cracked pan. 
Source: (Japanese)  
『割れたなべに、修理された蓋(ふた)』。

『割れ鍋に綴じ蓋』のことか?
「江戸のいろはカルタのひとつ」(語源由来辞典サイト)とある。
つまり夫婦というのは、長年いっしょに暮らしていると、たがいに似てくるという意味。
あるいはたがいに補完しあうという意味か?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ほかにもいろいろあるが、ここでは紹介だけにとどめておく。
ただひとつだけ気になるのは、いちばん末尾にある、「Knowledge without wisdom is a load 
of books on the back of an ass.」 という格言。
直訳すると『知恵のない知識は、ケツの穴に積まれた本』となる。

元の日本語は、何か?
要するに、知識というのは知恵(知性、智慧)によって使われてはじめて意味をもつ。
「もの知り」と「賢い人」は、基本的な部分で、一線を画す。
これを読んだとき、「日本人もよくわかっているではないか」と、半分感心し、半分、
うれしくなった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以下、格言をそのまま。)

A pig used to dirt turns its nose up at rice. 
Source: (Japanese)  
『ほこりに慣れたブタは、鼻を米に向ける』

A round egg can be made square according to how you cut it; words would be harsh 
according to how you speak them. 
Source: (Japanese)  
『丸い卵も切り方によって四角くなる。言葉も話かたによって、きつくなる』

A single arrow is easily broken, but not ten in a bundle. 
Source: (Japanese)  
『1本の矢は折れやすい。10本束ねれば、折れにくい』

Adversity is the foundation of virtue. 
Source: (Japanese)  
『難儀は美徳の源泉』

Afraid of his own shadow. 
Source: (Japanese)  
『自分の影を恐れる』

After victory, tighten your helmet chord. 
Source: (Japanese)  
『勝って兜の緒を締めろ』

All married women are not wives. 
Source: (Japanese)  
『結婚しているからといって、その女性が妻とはかぎらない』

An excess of courtesy is discourtesy. 
Source: (Japanese)  
『過ぎたる親切は、かえって失礼』

An eye for an eye, and a tooth for a tooth. 
Source: (Japanese)  
『目には目を、歯には歯を』

Bad and good are intertwined like rope. 
Source: (Japanese)  
『よいも悪いも、縄のように編み合わさっているもの』

Beat your wife on the wedding day, and your married life will be happy. 
Source: (Japanese)  
『結婚式に、妻を叩け。そうすればあなたの結婚生活は幸福なものになるだろう』

Better go without medicine than call in an unskilled physician. 
Source: (Japanese)  
『ヤブ医者を呼ぶくらいなら、薬なしですませ』

Darkness reigns at the foot of the lighthouse. 
Source: (Japanese)  
『灯台、元暗し』
(注:このばあいの灯台は、ローソクを灯す灯台のこと。
岬に立つ灯台ではない。)

Deceive the rich and powerful if you will, but don't insult them. 
Source: (Japanese)  
『したいなら金持ちで力のあるものをだませ。しかし彼らを侮辱してはいけない』

Deceiving a deceiver is no knavery. 
Source: (Japanese)  
『詐欺師をだますのは、詐欺ではない』

Don't stay long when the husband is not at home. 
Source: (Japanese)  
『夫が家にいないなら、長居はするな』

Even a sheet of paper has two sides. 
Source: (Japanese)  
『一枚の紙にすら、両面がある』

Even a thief takes ten years to learn his trade. 
Source: (Japanese) 
『こそ泥でも、修行に10年かかる』
 
Fall seven times, stand up eight. 
Source: (Japanese)  
『七転び、八起き』

Fast Ripe, Fast Rotten. 
Source: (Japanese)  
『早く熟して、早く腐る』

First the man takes a drink, then the drink takes a drink, then the drink takes the man. 
Source: (Japanese)  
『最初は(酒を)飲む。つづいて飲み続ける。そのあとは、(酒に)飲まされる』

Forgiving the unrepentant is like drawing pictures on water. 
Source: (Japanese)  
『後悔していない人間を許すのは、水の上に絵を描くようなもの』

Getting money is like digging with a needle. Spending it is like water soaking into the 
sand. 
Source: (Japanese)  
『金を儲けるのは、針で穴を掘るようなもの。しかしそれを使うのは、砂にしみこんでい
く水のようなもの』

If a man be great, even his dog will wear a proud look. 
Source: (Japanese)  
『その人が立派なら、彼の犬もまた威厳をもつ』

If a man deceive me once, shame on him; if he deceive me twice, shame on me. 
Source: (Japanese)  
『もし人が私を1度だましたのなら、彼を軽蔑せよ。しかし2度だましたのなら、
自分に恥じろ』

If man has no tea in him, he is incapable of understanding truth and beauty. 
Source: (Japanese)  
『茶の心がないなら、彼は、真理と美のわからない人だ』

If money be not thy servant, it will be thy master. 
Source: (Japanese)  
『お金があなたの奴隷でないなら、それはあなたの主人だ』

If one man praises you, a thousand will repeat the praise. 
Source: (Japanese)  
『1人があなたをほめるなら、1000人がその賞賛を繰り返すだろう』

If the father is a frog, the son will be a frog. 
Source: (Japanese)  
『カエルの子は、カエル』

If you believe everything you read, better not read. 
Source: (Japanese)  
『読んだことを何でも信じてしまうなら、読まないほうがよい』

If you understand everything, you must be misinformed. 
Source: (Japanese)  
『もしあなたがすべてを理解するなら、あなたはまちがって教えられている』

If you want a thing done well, do it yourself. 
Source: (Japanese)  
『ものごとをうまくしてほしいと願うなら、自分でせよ』

It is a beggar's pride that he is not a thief. 
Source: (Japanese)  
『乞食でも、自分はこそ泥ではないというプライドをもっている』

Knowledge without wisdom is a load of books on the back of an ass. 
Source: (Japanese)  
『知恵のない知識は、ケツの穴に積まれた本』

●終わりに……

 こうして並べて読んでみると、その向こうに、欧米人の目を通して見た日本人の「像」
が浮びあがってくる。
たいへん興味深い。
2010/07/24


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●7月25日(プリウス・悲しい相談+日本の格言)

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昨日、TOYOTAのプリウスが届いた。
注文してから、3〜4か月。
純白(パールホワイト)のプリウス。
ワイフは朝から、ウキウキ。
私もそれにつられて、何となく、ウキウキ。

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●プリウス

 私は車には、ほとんど興味がない。
あまり知らない。
……というか、まったく知らない。
しかし2年ほど前、こんな雑誌を読んだ。
「TOYOTAのプリウスvs.HONDAのインサイト」とかいうようなタイトルの
雑誌だった。
性能や価格を、ことこまかく比較していた。

 それを読み終えたとき、「次はプリウス」と心に決めた。
その雑誌でも、「プリウスの完勝!」「インサイトの完敗!」というような結論を下して
いた。

●初乗り感想

 約8年間、TOYOTAのビッツ(水色)に乗っていた。
それで不便はなかった。
が、買い換えどき。
それでプリウス。
加えてワイフの趣味は、ドライブ。

しかし今度のプリウスは、すごい!
その一言。
公称では、リッター38キロも走ることになっている。
「実際には25キロくらいですよ」と、店の若い男性は話してくれた。
25キロでも、すごい!
が、実際に走ってみると、5分間隔の瞬間燃費計算だが、それでも30キロ前後は走る。
下り坂がつづいたかなと思われる道路では、何と40キロ!

 エンジン音も静かで、まるで夢の中を走っているよう。
そんなわけで昨夜は、息子も乗せて、浜名湖を一周した。
途中で食事をしたこともあり、帰ってきたのは、午後9時ごろ。
昨日は、1日、プリウスでつぶれた。

 この8年間で、車も、すっかり様変わりした。
言い忘れたが、内装もよい。

●ナビゲーター

 車もさることながら、ナビゲーターの進歩にも、驚いた。
私としては、むしろそちらのほうに興味があった。
何といっても、それだけで超高性能のデスクトップ型パソコンが一台買える。

 最初は道路標示程度しか期待していなかった。
が、これがとんでもないまちがい。
ワンセグは常識。
DVDも観られる。
ブルーレイを使って、電話もかけられる。
もちろん目的地を入力すれば、道順まで教えてくれる。
さらに……。
30分間隔で、道路の渋滞情報まで表示してくれる。
「ヘ〜エ!」と驚くこと、しきり。

 ナビゲーターと遊んでいるだけで、結構、楽しい。……楽しかった。

●ドライブ

 そんなわけで今日(25日)は、ワイフとドライブに行くことになっている。
目的地は決めない。
ワイフの体調次第。
あまり遠出はできない。
しかしそれなりのところへは、行きたい。

 それもあって、起きたとき、運動量をいつもの2倍にふやした。

(1)ルームウォーカーで、まず20分。
(2)乗馬マシンで、10分。
(3)マッサージチェアで、15分。

 1、2か月前、ルームウォーカーの上で、ジョギングをした。
ひざを高くあげて、はげしく台を叩くようにして走った。
が、それがよくなかった。

 右足の裏が、以来、歩いているときなど、時折ヒリヒリと痛むようになった。
微小骨折(?)。
5、6年前に、左足で経験している。
以来、ルームウォーカーの上では、静かに歩くようにしている。
気をつけよう!

 あとでもう一度、朝食前に、10分ほど、歩くつもり。
このところ体重がオーバー気味。

●世界の格言

 昨日、「世界の格言」についての原稿を書いた。
推敲をしないまま、BLOGにUPLOADしてしまった。
そのため、あちこち、まちがいだらけ。
先ほど読み返してみたが、どうも気分がすっきりしない。
「後味が悪い」という表現は正しくないが、それに近い。
私にとって、原稿というのは、そういうもの。

 だれに対して、というのではない。
自分に対して、後味が悪い。
電子マガジン上で発表する原稿は、いつも一度推敲したものにしている。
そんなわけで、もし読んでもらえるなら、どうか電子マガジンのほうを読んでほしい。
電子マガジンのほうでは、一度熟成させたものだけを配信するようにしている。
(「熟成」というのは、1、2日、日をおき、読みなおしてからという意味。)

 ……ということで、今朝(2010/07/25)も始まった。

(1)土手の草刈りをする。
(2)電子マガジンの発行予約を入れる。
(3)ワイフとドライブをする。

 とりあえず、これが今日の目標。

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以下、昨日書いた原稿を直した部分。

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【外国から観た日本】

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イギリスの「Quote Site」(World of Quotes)
では、世界中の格言を紹介している。
もちろんその中には日本のものもあり、105編
近くが載っている。
それらを読んでみて、「こんな格言、あったかなあ?」と
思わないものもないわけではない。
(これはたぶんに私の知識不足によるものかも
しれないが……。)

もちろん、「ああ、あれだな」と、わかるのもある。
たとえば『あばたもえくぼ』は、つぎのように訳されて
いる。

「A man in love mistakes a pimple for a dimple.」

全部は紹介しきれないので、アルファベット順に最初の部分
をいくつか紹介する。

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●日本語の格言に学ぶ、私、日本人(欧米人から見た日本人像)

A fog cannot be dispelled by a fan. 
Source: (Japanese)  
『霧は、うちわでは追い払えない』。

……どういう意味なのか?
元となった格言は、何なのか?
そこで英語サイト調べてみる。

「Answer Com(疑問に答えるサイト)」には、つぎのようにある。

「Short answer: fog is just a cloud that has lost altitude. Long answer: Because the humidity 
has reached more than 100% and the water starts to appear as vapour. You will also find 
that every outdoor……」と。
つまり「霧というのは、高いところを見えなくする雲のようなもの。
つまり湿度も100%に達すると、水も水蒸気になる。
つまり……」と。

外国人は、このばあいの「Fog(霧)」を、「湿気」と解釈しているようである。
が、そんな程度のことなら日本人は、わざわざ格言にはしない。
あえて日本流に解釈すれば、『うわさは、うちはでは追い払えない』とか、『人の心は
うちわでは消せない』とか、そういうことになる。
『悪評は、うちはでは払えない』でもよい。

日本語で「霧」というときは、「疑い」「黒いうわさ」「心のモヤモヤ」などを意味する。

さらに今風に言えば、いくら小沢さん(民主党前幹事長)が、「私は関係ありません」と
言っても、国民はだれもそう思っていない。
「小沢さん、うちわ(=権勢)でいくら払っても、霧は消えませんよ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A good husband is healthy and absent. 
Source: (Japanese)  
『よい夫というのは、健康で、そばにいない夫』。

この格言はどこかで聞いたことがある。
『亭主……』とか、言う。
何だったか?
『亭主健康で、留守がいい』だったか?

要するに、家事にはあれこれ口を出さない夫ほど、よい夫という意味。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A good Jack makes a good Jill. 
Source: (Japanese)  
『よい夫はよい妻を作る』。

つまり妻は、夫しだい?
もちろんその逆もある。
若いときは、それがわからない。
しかし夫婦生活を何十年もつづけていると、それがわかるようになる。
夫は妻に作られ、妻は夫に作られる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A good sword is the one left in its scabbard. 
Source: (Japanese)  
『よい剣はさやに納められた剣』。

剣などというものは、できるなら使わないほうがよい。
使わないまま、しまっておいたほうがよい。
剣というのは、そういうもの。
だから『さやに納められた剣ほど、よい剣』となる。

聖書(マタイ伝)の中にも、こうある。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないと
でも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 
しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタ
イ26:52〜54)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●悲しい相談

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ある雑誌に、こんな相談が載っていた。
(私のところに届いた相談ではない。念のため。)

いわく、「私には義理の兄が1人いる。
未婚で独身。
生まれつき体が弱い。
現在は、義理の父親(=夫の父親)と同居している。
その義理の父親が、先日、会ったら私にこう言った。

『私(=義理の父親)が死んだら、息子(=義理の兄)
のめんどうをみてほしい』と。

が、私だって2人の子どもの世話だけで、精一杯。
経済的余裕もない。
義理の兄の世話や、介護をする余裕など、どこにもない。
どうしたらいいか」と。

++++++++++++++++++

●「余裕がない」?

 2人の子どもが中学生というから、まだ若い母親にちがいない。
年齢は40歳くらいか?
そんな若い母親が、「どうしたらいいか?」と。

 私はその相談を読んだとき、「これが現実なのだろうな」と思った。
同時に、そのとき感じた心のさみしさを、どうすることもできなかった。
私のばあい、ものごとをどうしても、その父親の立場で考えてしまう。
書き忘れたが、父親は70歳で、大病を患い、手術。
現在療養中。
そんな父親が息子の行く末を案じて、もう1人の息子のあとの世話を、嫁に頼んだ。
父親としても、さぞかしつらかったことだろう。
こういう言葉は、追い詰められなければ、口から出てこない。
が、それに対して、その女性は、「余裕がない」と。

●私のばあい

 実のところ私のワイフも兄(=私の実兄)の介護を、いやがった。
が、それには理由がある。

兄にはおかしな性癖があって、私の目を盗んでは、ワイフの下着をいじったり、あるいは
ワイフに抱きついたりした。
ワイフが入浴しているときには、「部屋をまちがえた」と言っては、風呂場へ入ったりした。
いつしかワイフは兄におびえるようになった。

 だから兄は3か月私の家にいたが、私は兄とワイフをぜったいに2人きりにはしなかっ
た。
そういう苦労はあったが、「余裕がない」という理由は、考えたことはない。
「私たちが面倒をみるしかない」と、私もワイフも割り切っていた。

●「ハイ、さようなら!」

 それにしても……?
最近の若い母親たちは、少しおかしい?
毎週のように夫の実家に出かけていき、夫の実母(85歳くらい)から、小遣いを
もらっている母親すらいる。
(母親に小遣いをあげるのではない。年老いた母親から嫁が小遣いをもらっている!)

 つまり私たちの世代がもっている(常識)では考えられないようなことを、平気で
する。
みながみなそうではないが、しかしそういう母親がふえている。
「結婚」というものを、「家族の輪」の中で考えない。
「自分たちだけの世界」ことしか考えない。

 もちろんそこには親の姿はない。
兄弟の姿はない。
どこまでもセルフィッシュ(身勝手)。
「姿」という言葉が理解できないなら、「苦労」という言葉に置き換えてもよい。
多くの親たちは、それこそ爪に火を灯すように学費を送る。
食べるものを食べないで、学費を送る。
しかし肝心の子どもは、親の苦労など、どこ吹く風。
専門書の1冊も買わない。
買うのはマンガ本ばかり。

 その結果、就職、結婚。
そのとたん、「ハイ、さようなら!」。

●さみしい心

 私は冒頭にあげた相談を読んだとき、改めて意識の変化を感じた。
それがよいとか悪いとか言う前に、日本人の意識そのものが変わってしまった。
言うなれば「心」を見失ってしまった。
それが「どうしたらいいか」という言葉に集約されている。
つまりその母親は、義兄のめんどうをみたくない。
そのためには、どうしたらいいか、と。
それだけの内容である。

 もし私がこんな相談を受けたら、言い方も変えるだろう。
別の言い方をするだろう。
しかし私は、こう書きたい。

 「あなたの夫への愛情があるなら、あなたの義兄をその延長線上に置きなさい。
その絆(きずな)さえしっかりしていれば、あとは自然と、なるようになっていきます。
水が低いところを求めて流れていくように、時間が解決してくれます。
先のことは、クヨクヨ考えないこと。
みなが助けてくれますよ」と。

 しかしこんな回答など、その母親には、何ら役にもたたないだろう。
心はすでに乾ききっている。
湿らす力もない。
だからこそ、私はワイフにこう言った。
「何とも悲しい相談だね」と。
 

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●7月26日(プリウス効果)

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このところ暑い。
猛暑。
岐阜県の多治見市では、連日39度前後の気温がつづいている。
今日あたり、どこかで40度を超えるのでは……。
40度?
私たちが子どものころには、考えられなかった気温である。

そう言えば、昨日も、一日中救急車サイレンの音がどこかで鳴っていた。
暑くなると、老人の死亡者が急にふえる。
火葬場も、3〜5日待ちになる。

で、私たちは山荘へ。
避難?
疎開?
標高150〜160メートル。
たったそれだけの高度だが、ゴロンと横になり、扇風機の風をあてているるだけで、
結構、涼しい。
それに昨日は、今年はじめて、水風呂に入った。
昔は「行水」と言った。
気持ちよかった。

が、見ると背丈ほどまでに大きくなったアジサイが、葉をみな、垂らしていた。
この暑さで、枯れ始めた?
あわてて水をまく。

土手の草を刈るつもりだったが、中止。
10年ほど前だが、一度、同じことをして日射病になったことがある。
直後はげしいめまいと、吐き気。
そのときは私はすぐ頭から水をかけ、車の中に入り、冷房をガンガンとかけた。
幸いにも半時間ほどで症状は消えた。
が、油断は禁物。
この10年間で、体力もかなり弱っているはず。

で、山荘で一眠りしたあと、帰宅。
帰るころには、アジサイの葉がピンと伸びていた。
よかった!

夜は、ワイフとハヤシライスを半分ずつ食べた。

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●プリウス効果?

 おとといまで、TOYOTAのビッツ(小型車)に乗っていた。
そのおととい、車をプリウスに替えた。
とたんいくつかの変化が起きた。

 ビッツに乗っていたころは……。

 信号待ちで、少しモタモタしていると、うしろからすぐクラクションを鳴らされた。
追い越し禁止車線でも、平気で追い越された。
制限速度などというものは、ただの数字?
その速度で走っていると、車をぴったりとうしろにつけられ、よくいやがらせをされた。
夜などはライトを遠目(アップ)にされるといういやがらせも、よくあった。
おまけに横道から平気で私たちの車の前に割り込んでくる……。

 ところがプリウスに替えたとたん、それがなくなった。
信号待ちでモタモタしていても、うしろからクラクションを鳴らされることもない。
制限速度でゆっくり走っていても、みな、うしろを静かについてくる。
今のところ、横道から割り込んできた車は、ない。

●ハロー効果

 人は、相手を見かけで判断する。
心理学の世界でもすでに証明された事実だが、こういうのを「ハロー効果」という。

 以前、こんな原稿を書いた。
麻生首相が誕生するころのことだから、つまり2007年に書いた原稿ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ハロー効果

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心理学の世界には、「ハロー効果」
という言葉がある。

要するに、美人、美男子は、得、
ということ。もっとはっきり言えば、
人も、外見で、その中身の価値が
判断されるということ。

外見のよい人は、聡明で、精神力も
強じんで、なおかつ性格もよいと判断
されやすい。人格者と見られることも
多い。

一方、そうでない人は、そうでない。

++++++++++++

●A首相誕生

 昔、「男は、一にマスク、二にマスク、三に親の財産」と言った、女子高校生がいた。そこで私
が、「心はどうするの?」「心が大切だよ」と言うと、そこに居合わせた女子高校生が、みな、こ
う言った。

 「マスクのいい男は、心もいいに決まっているじゃん」と。

 マスク……つまり、顔のこと。

 昨日(9月12日)、安倍首相が、突然辞任を申し出た。健康問題も含めて、いろいろあったら
しい。政界の内情をよく知る人は、「クーデターだ」などとも言っている。

 で、つぎの総理大臣は、あのA氏になりそうである。もしそうなら、クーデターの仕掛け人は、
A氏自身ということになる。

 心理学の世界には、「ハロー効果」という言葉がある。「ハロー」というのは、「後光」のこと。
「光背効果」と呼ぶ人もいる。つまり外見のよい人は、それだけ中身もよいと判断されやすいと
いうこと。そうでない人は、そうでない。

 その第一が、マスク(顔)であり、身長であるという。それはたしかにそうで、安倍首相(まだ首
相なので……)と、A幹事長(まだ幹事長なので)を、比較してみれば、それがわかる。

 いかにも育ちのよさを感じさせる安倍首相。一方、いつもにがり虫をかみつぶしたような顔を
しているA氏。2人の人物が私たちに与える印象は、まるでちがう。

 が、これが偏見かというと、どうもそうとも言い切れないらしい。

 渋谷昌三氏の「心理学」(西東社)によれば、「美人は子どものころからまわりの人にかわい
がられ、素直な性格に育つ」とある。

 さらに「(教授に)魅力的であると評価された学生ほど、学業の成績がよいということもわかっ
ている」とか。また「大統領の候補者のばあい、背が高い候補者ほど有利」「背が高い社員の
ほうが、1割程度、給料が高い」というデータもあるとか。

 この「ハロー効果」を、まったく無視することもできないようだ。私のワイフも、「あのA氏が、次
期総理だってエ」と、どこかがっかりしたような言い方で、そう言った。これはあくまでも見た感じ
だが、そのA氏を見ていると、「美人は子どものころからまわりの人にかわいがられ、素直な性
格に育つ」の、ちょうど反対のことが起きているのではないかとさえ、思われる。

 マスクは、お世辞にも、よいとは言えない。背も低い。つまりそれが積み重なって、あの独特
の「にがり虫をかみつぶしたような顔」になったのではないか。もしそうだとするなら、性格も、
かなりゆがんでいる? 実際、A氏の発言は、どこかおかしい。

 Y神社問題についても、「天皇が行けばよい」とか、あるいは、憲法改正についても、「天皇を
元首に」とか述べている。イラクのアメリカ軍を揶揄(やゆ)して、「ドンパチ」と表現したこともあ
る。最近でも、公の場で、「ロシア」と「ソ連」を言いまちがえている。右寄りというよりは、極右
的。

 だいじょうぶか、日本?、と書いたところで、この話は、おしまい。日本という国が、どんどんと
おかしな方向に進んでいるような気がしてならない。自衛隊のインド洋上での燃料補給につい
ても、民主党は、「反対」「中止」で勢いづいている。

 しかし前回の参議院議員選挙で、民主党が大勝したのは、民主党の政策に賛同したからで
はない。自民党への批判票が、民主党に回っただけにすぎない。一番、大きな問題は、社保
庁の年金問題、それに各閣僚の不適切発言。インド洋上での燃料補給は、争点にもなってい
なかった。

 それを、つまり大勝したことをよいことに、突然、奥の院から、O代表が顔を出してきて、言い
たい放題のことを言っている。言い忘れたが、A氏の印象もよくないが、O代表の印象も、さら
によくない。

 民主党が今、総力をあげてすべきことは、年金改革問題ではないのか。それもしないでおい
て、どうして今、燃料補給問題なのか。

 ハロー効果……おそらく、世界の人たちも、(無意識ではあるにせよ)、そういう効果を感じな
がら、この日本を見ているにちがいない。

 だいじょうぶか、日本?、と、書いたところで、この話は、ほんとうに、おしまい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●幸福感

 どうであるにせよ、私たちは気にしない。
ビッツであっても、プリウスであっても、私たちは私たち。
他人は他人。
他人の目は気にしない。
他人の変化など、私たちには興味はない。
つまり私たちの中身まで変わったわけではない。

 ただこういうことは言える。
昨日も音楽をかけながら、あちこちをドライブした。
そのとき覚えた満足感は、どこかで幸福感につながっている。
ゆったりとした気分。
やわらいだ雰囲気。
静かな心。
瞬間的だが、何かをやり遂げたような達成感すら覚えた。
とくにワイフのどこか得意げな様子を見たときに、それを強く感じた。

 たぶん脳内では、エンケファリン系、もしくはエンドロフィン系のホルモンが
分泌されていたのだろう。
心地よい倦怠感も覚えた。

 性能のよい新車に乗るというのは、悪いことではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ハロー効果 後光効果 見かけ 人は見かけで決まる 見かけ論)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●人間の脳みそ

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「エンケファリン」「エンドロフィン」で、
私が書いた原稿を検索してみました。

同じく2007年に書いた原稿を
掲載します。

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●3層構造

 人間の脳みそは、大きく、外から3層に分かれている(P・D・マクリーン※)。

(1)最表層部……新ほ乳類脳(新皮質部)
(2)中層部  ……旧ほ乳類脳(大脳辺縁系)
(3)中心部  ……は虫類類脳(脊髄や中脳) 

 このうちの(1)新ほ乳類脳というのは、「感覚情報の処理、精密な運動制御、創造的活動、
遺伝的制約を超えた自由な活動」(同)を司る。

 つぎの(2)旧ほ乳類脳というのは、「喜怒哀楽と記憶、定型的なは虫類的働きを柔軟にす
る」(同)を司る。

 一番中心部にある(3)は虫類脳というのは、「呼吸や生殖、闘争や支配など、個体と種の保
存に関わる機能」(同)を司る。

 P・D・マクリーンの説によれば、人間の脳みそは、(は虫類脳)の上に、(旧ほ類脳)→(新ほ
乳類脳)が重なるようにして、進化してきたということになる。

 この説は、たいへんおもしろい。この説を逆にとらえると、太古の人間(人間というより、は虫
類のような生物)には、喜怒哀楽の情や記憶がなかったということになる。喜怒哀楽の情や記
憶は、旧ほ乳類脳が司る。

 さらに人間は頭がよいとされるが、そのことと、私たちがいうところの(人間性)とは、別の問
題であるということになる。人間の知的活動は、新ほ乳類脳が司る。

 さらに私たちが「本能的」と呼んでいる活動のほとんどは、人間の脳みその中心部にある、は
虫類脳が司っていることがわかる。考えてみれば、これは当然である。あらゆる生物は、その
起源において、個体と種の保存を最優先にした。もしそうでなければ、その生物は一代で、絶
滅していたということになる。

 P・D・マクリーンは、そのは虫類脳の機能に、「闘争や支配」を加えた。言いかえると、闘争
心や支配心の強い人は、それだけ原始的な人ということになる(?)。

 そこで最近、にわかに注目され始めたのが、(2)の旧ほ乳類脳と呼ばれる「大脳辺縁系」。
たとえば喜怒哀楽の情は扁桃核(扁桃体)、記憶は海馬、やる気などは帯状回が司るというと
ころまで、最近の研究でわかってきた。

 たとえば何かよいことをすると、大脳の新皮質部から信号が送られ、扁桃核は、その内部
で、エンドロフィンやエンケファリンなどのモルヒネ様の物質を分泌する。これが脳内に放出さ
れ、脳を心地よい陶酔感を生む。これが「善なる感情」の基本になる。

 が、ここでひとつの問題が起きる。「心地よい陶酔感」イコール、「善」ではないということ。

 たとえば1人の銀行強盗がいたとする。その強盗が、数千万円もの大金を、手に入れたとす
る。

 そうした情報も扁桃核に送られ、そこで心地よい陶酔感を生むということも考えられる。強盗
に問題があるとするなら、馬券を当てた人でもよい。その心地よい陶酔感は、たとえばサッカ
ー選手が、みごとなゴールを決めたときと同じと考えてよい。つまり「心地よい陶酔感」イコー
ル、「善」ということにはならない。

 さらにP・D・マクリーンの説によれば、(頭のよさ)と(人間的な感情)、さらに(動物的な本能)
とは、別物ということになる。

 このことも、現実に起きていることを例にあげると、「なるほど」と合点がいく。たとえば少し
前、テレビで経済解説をするようなどこかの教授が、手鏡で、女性のスカートの中をのぞいて
逮捕されるという事件があった。

 その教授のばあい、新ほ乳脳の発達もすぐれていたが、同時に、は虫類脳の働きも活発だ
ったということになる。

 さらに……。どちらがどちらを支配しているかという問題もある。

 P・D・マクリーンの説に従えば、(は虫類脳)→(旧ほ乳脳)→(新ほ乳脳)の順に、は虫類脳
は旧ほ乳脳を支配し、旧ほ乳脳は新ほ乳脳を支配しているということになる。これも臨床的に
(?)考えると、納得がいく。

 たとえば性欲(=は虫類脳)にしても、理性(=新ほ乳脳)で支配するのは、不可能と考えて
よい。ある程度のコントロールはできるかもしれないが、それには限界がある。言いかえると、
生殖、つまり個体と種の保存にかかわる本能は、それほどまでに強力であるということ。

 だから教師によるハレンチ事件にしても、あとを絶たない。

 しかし「不可能」と言い切ってこのエッセーを結んだのでは、エッセーとしての意味を失う。そ
こで私なりにどうすればよいかということを考えてみる。方法がないわけではない。

 ひとつは、生殖、ならびに個体と種の保存についての本能は、そのまま自然な形で、表に出
していくという方法。食事をするとき、それを隠す人はいない。それに罪悪感を覚える人もいな
い。生殖も同じように考えていく。深い意味を、考えない。もっと言えば、生殖イコール、排泄と
考えていく。

 もうひとつは、自分の中の(本能)に気づく。そのメカニズムがわかれば、それを自分でコント
ロールすることができるようになる。メカニズムがわからないから、本能に振り回される。

 は虫類脳は頭の中にあるわけだから、それを消すことはできない。できないというより、この
は虫類脳があるからこそ、人間の世界では、さまざまなドラマが生まれる。そのドラマが、人間
の世界を楽しいものにする。

 前にも書いたが、あの映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいなければ、ただの船
の沈没映画で終わってしまっていただろう。

 さいごに、こういうことも言える。人間を、どの部分の脳みその働きが強いかによって、大きく
3つのタイプに分類することができるのでは……?

(1)新ほ乳脳型人間
(2)旧ほ乳脳型人間
(3)は虫類脳人間、と。

 どのタイプがどうかということについては、今さら、ここに書くまでもない。大切なことは、この3
つの脳が、それぞれバランスを保ちながら、ほどよく協調しあうということ。またそういう人を、よ
り人間的な人という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 新ほ
乳脳 新哺乳脳 旧哺乳脳 爬虫類脳 P・D・マクリーン 大脳新皮質部 辺縁系 脳幹 脊
髄 中脳)

※P・D・マクリーン……アメリカの脳生理学者(「発達心理学」、ナツメ社)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●知識と思考

+++++++++++

知識と思考は、まったく
異質のものである。

そのことは、一匹の
ハチを見ればわかる。

ハチにはハチの知識がある。
特異ですぐれた知識である。

がそれがあるからといって、
ハチに思考力があるという
ことにはならない。

+++++++++++

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶という
のは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶
は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は
「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出
版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当た
る。
あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段
階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。

この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳とい
うことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び
起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。

で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわ
かってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」
というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値
判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。(2007年9月
記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
知識 思考力)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●本音(被害意識と妄想性)

+++++++++++++++++++++++++++++

韓国の政府高官がこう発言した。
「(そんなに北朝鮮がいいのなら)、以北(北朝鮮)に行って暮らせ」と。
「政府高官」とあるが、中央N報は名前を明かしていない。
またこうした発言を、「卑劣な発言」と位置づけている。
誤解があるといけないので、記事をそのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++以下、中央N報より++++++++++++++

  政府高位当局者が「(進歩性向の)若者たちが軍部独裁と争って民主主義を支持し、独裁政
権を崩すことはほめたたえながら、北朝鮮独裁に対しては(なぜ)一言も言わないのか」と発言
した。

この高位当局者は先週、ベトナム・ハノイ出張中、北朝鮮の追加挑発可能性に対する記者た
ちの質問を受け「ずっと北朝鮮に攻撃されながらも、どうか大目に見てくれと北朝鮮に言わな
ければならないのか」と問い返した後、「若者らが"戦争なのか平和なのか"について"ハンナラ
党を取れば戦争、民主党を取れば平和"と言うようなそんな精神状態で国は維持できない」と
このように言った。 

  また「(進歩性向の)若者たちが(北朝鮮が)そんなにいいなら金正日のもとへ行って"首領"と
暮らさなくてはならないわけで、民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮を擁護する
のか」と述べた。 

  また「国としてのメンツがあって、威信があって、品格がなければならないのに、どうして民主
主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮の擁護をするのか。以北に行って暮らせ」と発言
した。

+++++++++++++以上、中央N報より++++++++++++++

●天安艦事件は、韓国とアメリカのでっちあげ?

 現在の現在も、先の「天安艦爆破事件は、韓国政府とアメリカが共謀ででっちあげた
事件である」と考えている若い人が多いのには、驚かされる。
日本での話ではない。
韓国国内での話である。
さらにそういう人たちの論理によれば、「仮に北朝鮮がしたにしても、北朝鮮はそう
せざるをえない状況に追い込まれただけ」と。
つまり北朝鮮は、やむにやまれず、ああした行為に出た、と。

 仮にそうであるにしても、つまり「やむにやまれず」であったとしても、それで死んだ
60数名弱の兵士はどうなるのか。
そうした兵士の命をどう考えているのか。

●屈折した心 

 韓国の人たちの屈折した心は、私も経験している。
UNESCOの交換学生として韓国へ渡ったときのこと。
私たちは連日、韓国の学生たちの攻撃の矢面に立たされた。

 そんなある日のこと。
テグ大学の屋上で、私はひとり体を休めていた。
屋上からは、テグの町が一望できた。
が、そこへ向こうから1人の学生が私に向かって歩いてきた。
私は「こんなところでも議論か!」と身を構えた。
その学生は、ついその寸前まで、私にはげしい罵声を浴びせかけていた学生だった。
が、その学生はこう言った。

「ぼくは日本へ留学したいが、君はその方法を知らないか?」と。

 日本や日本人への嫌悪と好感、排斥とあこがれ、拒否と受諾……。
そうした屈折した心理が、その1人の学生の中だけでも渦を巻いていた。
それが今でも、つづいている?
私はこの記事を読んだとき、それを感じた。

●本音
 
 中央N報は、一方の読者に気兼ねして(?)、「卑劣な発言」という見出しを
かかげている。
あるいは中央N報は、左寄り?
たとえて言うなら、この日本で、「拉致問題は、日本政府のでっちあげ」と主張する
ようなもの。
かつての朝日新聞は、ことあるごとにそう主張していたが、それくらい私にはバカげて
見える。

 しかし本音を言えば、その政府高官どおりということになる。
被害意識も妄想性をもつと、とんでもない意見に変身する。
その政府高官は、こう述べている。

(1)「(進歩性向の)若者たちが軍部独裁と争って民主主義を支持し、独裁政権を崩すこ
とはほめたたえながら、北朝鮮独裁に対しては(なぜ)一言も言わないのか」

(2)「ずっと北朝鮮に攻撃されながらも、どうか大目に見てくれと北朝鮮に言わなければ
ならないのか」

(3)「(進歩性向の)若者たちが(北朝鮮が)そんなにいいなら金正日のもとへ行って"首
領"と暮らさなくてはならないわけで、民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮
を擁護するのか」と。
 
 その上で、「(そんなに北朝鮮がいいのなら)、以北(北朝鮮)に行って暮らせ」と。

●この日本でも……

 この日本でもときどき似たような論理に出会うときがある。
(あるいは子育ての場でも、経験するときがある。)

 私も自分の息子につぎのように言われたときには、心底、がっかりした。
私が「ぼくたちは子どものころ、毎日腹をすかせていた。戦後の混乱期で、食べるものさえ満
足になかった」と。

 息子の1人はこう言った。
「そんなのはパパらの責任だろ。戦争を勝手に起こしたのだから、自業自得」と。

 「自業自得」という言葉を使った。
が、だからといって、息子を責めているのではない。
私も若いころ、自分の父親や祖父に対して、同じように考えていた。
戦時中の苦労話を聞かされるたびに、そう思った。

 以来、そのつど、そしていつも、この問題を考えている。
「本当にそうだろうか?」と。
息子たちは息子たちで、私という父親の苦労の上で生きてきた。
「貧乏が何よりもこわかった」。
が、息子たちはみな、こう言う。
「パパは、仕事ばかりしていて、家族を大切にしてくれなかった」と。

●「卑劣な発言」

 「卑劣な発言」とまでは言い切れないのではないか?
韓国国内で自由主義貿易体制の恩恵を思う存分受けながら、一方で、その体制を自ら
否定する。
否定するだけならまだしも、自分たちに攻撃をしかけてくる北朝鮮を擁護する。

 この論理は、「家族のために」とがんばって仕事をする私に向かって、「家族を大切に
しない」と迫る息子たちの論理と、どこか似ている。
先日も長男が似たような論理をふりかざしたので、私はキレた。
「そんなにぼくのことが嫌いなら、この家を出て行けばいい」と。

 こういう発言が、果たして「卑劣な発言」ということになるのか。
つまり韓国が内発的にもつ(おかしさ)は、この1点に集約される。

 (自国の軍艦が攻撃された)→(60名近い兵士が死んだ)→(北朝鮮の魚雷に
よるものという判断を政府がくだした)。

 それについて「北朝鮮がしたという証拠はない」とか、「そこまで追い込んだ韓国政府
が悪い」とか、など。

 この点、私たちは日本政府を信用しているから、たとえば横田Mさんの遺骨が偽物と
判定されたときも、それを疑う人はだれもいなかった。
が、韓国の人たちの中には、それを疑う人がいる。
いるだけではない。
多い。
次期政権は、そうした勢力が韓国を担うかもしれない。

 つまりここに韓国のもつ本当の(恐ろしさ)がある。
もっと言えば、韓国の人たちがもつ(屈折したものの考え方)の(恐ろしさ)がある。
もしこんな論理がこの極東アジアで振り回されたら、それこそ日本はそのまま韓国と
戦争状態になる。

●終わりに……

 この先のことをここに書くのは、差し控えたい。
その政府高官は、本音を言った。
それが若者たちを怒らせている。
ここまでで、この原稿を書くのを止めておきたい。
暴論は暴論。
それはたしかなのだから……。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【思いつくまま】

●顔

 顔の形はその民族が生まれ育った環境によって、決まるそうだ。
たとえば寒い地方に住む民族は、長い進化の過程を経て、凹凸の少ない
顔になったという。
それによって熱の発散を少なくする。

 一方、熱帯地方に住む民族は、熱の発散を多くするため、凹凸のはげしい
顔になったという。
また鼻の形、鼻の穴にしても、寒い地方に住む民族は、鼻が長く(高く)なり、
鼻の穴も小さくなったという。
冷たい空気を長くて細い鼻の中を通すことによって、暖めるためだそうだ。
一方、熱帯地方に住む民族は、反対に鼻が短く(低く)なったという。

 さらに鼻の穴の向きにしても、寒い地方に住む民族は、下向きになり、
熱帯地方に住む民族は、上向きになったという。

 さらに肌の色。
寒い地方に住んでいるから白くなったのではなく、白い肌になり、それによって
紫外線の吸収をよくするためだったそうだ。
一方、熱帯地方に住む民族は、メラニン色素が発達し、黒くなった。
当然のことながら、寒い地方に住む民族は、毛深い。
熱帯地方に住む民族は、毛が薄い。
同じアジア人でも、漢民族は、ほとんど体毛がないことでよく知られている。
わかりやすく言えば、腕や足は、ツルツル。

 ・・・ところで私の顔は凹凸が少なく、鼻の穴が大きい。
それに鼻が低い。
鼻の穴は上を向いている。
肌色はふつう。
体毛は薄いがある。
ということは、私の先祖は、やはり南方系ということになる。
遠い昔、南方の熱帯地方からやってきた。
「そうかなあ」と思ったところで、この話はおしまい。
「顔」の話をするのは、教育の世界では、タブー。
子どもの前で、顔の話をするのは、さらにタブー。

●最近のUFO

 最近のUFOは、雲の形をしていることが多いという。
あるいは雲にまぎれて、地球へやってくるとか。
そんな話を知っていたので、今日、巨大な入道雲を見たときには、驚いた。
上部先端部が、きれいな真円形を保っていた。
「UFOかも?」とじっと見つめたが、やはりただの雲だった。
透明感があって、その向こうに薄い青空が見えた。

 UFOについては、その存在をまったく信じていない人も多い。
超常現象といって、霊(スピリット)と同列に置いている。
(とても残念なことだが……。)
しかし私は信じている。
私とワイフは、巨大なUFOを目撃している。
(私ひとりだけが見たのなら、私はずっと黙っていただろう。)
「く」の字型のUFOだった。
死ぬまでに、あの正体を知りたい。
あれは何だったのか?
 
●反面教師

 ところでそのUFO。
私とワイフは、その話を二男に何度かしたことがある。
しかし二男は、そのつど、私たちの話をまったく信じなかった。
「何かの見まちがい」とか、「UFOは存在しない」とか言った。
「言った」というよりは、吐き捨てた。

ふつうなら、(「ふつうなら」という言い方は慎重に使いたいが)、
両親が「見た」と言ったら、その息子である二男は多少なりとも、
私たちの話を信じてくれてもよさそうなもの。
しかし二男は、最後の最後まで鼻先で笑うだけで、まったく信じようとも
しなかった。

 で、そのことから私は、私たちと二男の間には、埋めがたい距離があること
を知った。
思想的、さらに哲学的なことになれば、さらに二男は私たちから一歩退いて
見ているにちがいない。
何を言っても否定的。
つまりたとえば今、私がこうしてものを書いていることについても、二男は、
まったく相手にしないだろう。
将来にわたって、私の文章を読むこともないだろう。
「聞く耳をもたない」というのは、二男のような人間をいう。

が、だからといって、それが悪いというのではない。
たとえば戦後の民主化運動の中で、婦人参政権と地位向上のために闘った
人にFという女性がいる。
実名を書けば、その名を知らない人はいない。
そのFの息子氏も、日本を代表する教育者だが、彼は母親とは正反対の
思想を展開している。
(「正反対」というのは、私の主観的な判断にすぎないが・・・。)
武士道を信奉し、英語教育不要論を主張している。
いわく「恥を教えれば、学校からいじめはなくなる」と。

 親子でも正反対の思想をもつようになることは、けっして珍しくない。
それが問題というのではない。
親はつねに教師であり、同時に反面教師である。
親は親。
息子は息子。

私の二男にしても、私たち夫婦は、その反面教師ということになる。
(とくに私は反面教師ということになる。)
親としてはさみしいところだが、約60%の中学生や高校生は、「親のように
はなりたくない」と答えている。
「親と同じように考えろ」「親の意見に合わせろ」というほうが、無理。
今は、そういう時代ではない。

●地球温暖化(Global Warming)

 地球規模の気候異変がつづいている。
岐阜県の多治見市では、連日39度前後の気温がつづいている。
それについては今朝(7月26日)も書いた。
このアジアでも中国南部の大雨、北朝鮮の大雨などが報告されている。
地球温暖化という言葉が声高に叫ばれるようになって、もう10年以上になる。
今ではそれを疑う人は、いない。
地球温暖化は、確実に、かつ急速に進んでいる。
私はしかし「温暖化」という言葉は好きではない。
子どもたちにこの言葉を使うと、子どもたちはそれをよいことのように思ってしまう。
「温暖化になるなら、いい」とか、「冬も暖かくなるならいい」とか、とんでもないことを
言い出す。

 だから私は「地球火星化」という言葉を使う。
そのほうがわかりやすいし、具体性がある。
インパクトも強い。

 そう、地球は現在、火星化しつつある。
やがてこの地球はどうなるか。
それは現在の火星を見ればわかる。
つまりああなる。

●自業自得

 が、私は地球が火星化するのは、しかたのないことだと思う。
それこそまさに自業自得。
しかし本当の問題はそのことではなく、その過程で、人間は自ら地獄を
経験するということ。
滅亡するとしても、静かには滅亡しない。
ありとあらゆる地獄を経験する。
それが人間。

 つまり生きることには常に(傲慢さ)が伴う。
生きていること自体が、傲慢と言い切ってもよい。
その傲慢さが、人間・・・というより、その惑星で栄えた知的生物を自ら滅ぼす。
火星が現在のような火星になったのは、かつてそこに住んでいた知的生物に
よるものという説すらある。
現在の私たちと同じように環境を破壊した。
その結果として、火星は、現在のような火星になった。
ただ不幸なことに、大気の層が地球より、ずっと薄かった。
そのため温暖化が、現在の地球よりはるかに早く進んでしまった。

●断念

 もっと身近な話をしよう。
今年の3月、私とワイフはオーストラリアへ行くつもりだった。
が、いろいろあって、断念。
それについて、オーストラリアの友人から、こんなメールが届いた。
「君が来るのを待っていたら、日本とオーストラリアに、橋が先にできて
しまう」と。

 申し訳ない気持ちになった。
しかし今の私には、2〜3週間の休暇など、夢のまた夢。
忙しいからではない。
体質的にできない。
それについて友人に、つぎのような返事を書いた。

Dear Bob,

Thank you very much for your mail and I feel really sorry that
I have disappointed you since I broke the promise to visit you this
March. 
I, however, think I'd better write a little bit about myself.

I don't think that you may understand me if I write like this;

I was born in 1947 just after the war. 
It is very hard, I suppose, for you to imagine how it was like in Japan, in those days.
In a word we were very poor and most of the families had no time and money to look after 
their children enough.
I was one of them and moreover I had been raised up in a very poor families.
"Poor" is here, I mean that, my father and mother had no love to each other and always 
argued with violence.
My father was a sick in mind since he was shot in the war in Taiwan and he had a deep 
trauma.
He drank strong Sake almost every few days and broke things and hit my mother.

Then I became very nervous and I became afraid of poorness more than anything.
It may seems to be strange to you if I say I feel more nervous when I am not working.
But this is true.
I work hard not because I want to get more money but to ease my mind.
So I have had worked and worked.
And I had had no holidays longer than 10 days in the past.
When I was young (abt. In thirties), I had only one day-off per month.
You may think I am sick.
I think I am sick in mind.
Then I say it is very difficult for me to have a long holiday to visit your country as you 
offered.

Anyway, mate, thank you very much for your kind offer to invite me to your home.
I shall try again to make a plan to do so before you construct a long bridge between
two countries.
Thanks again!

Hiroshi

 要するに、私は貧乏性。
貧乏に対して、強迫観念をもっている。
その原因は、戦後のあの貧しい時代にある。
私は子どものころ、貧乏が何よりもこわかった。
それが大きなトラウマになった。

 だから私は社会に出ると、バカみたいに働いた。
30代のころは、休みは月に1日だけということもつづいた。
もちろんそのため、私は家族を犠牲にした。
そのつもりはなかったが、というのも私自身は、家族のためにそうしている
と信じていたので、結果的にみると、そうなっていた。
今になって息子たちは、そういう私を責める。
しかしほかに方法はなかった。
あるいは私は当時、どうすればよかったのか。
「貧乏でもいい。家族がみな楽しければ・・・」と考えて、働くのをやめればよかったのか。

 しかし同時に私に言わせれば、今の若い人たちは、貧乏というものを知らない。
貧乏の本当の恐ろしさを知らない。
「ひもじい」という言葉の意味すら知らない。
今に見る日本の繁栄ぶりを見て、日本は戦前から、そして戦時中も戦後もそうだったと思って
いる。
が、そう思うのは、まちがっている。
日本は本当に焼け野原になった。
どう焼け野原になったかは、ほんの少しだけ謙虚な気持ちで当時の記録映画などを観てみれ
ばわかるはず。

 私たちが生まれ育った時代というのは、そういう時代だった。

●繁栄

 だからときどきこう思う。
こんなことがあってよいとは思わないが、もう一度日本もどん底へ叩き落とされてみれば
よい、と。
そうすれば今の若い人たちも、少しは目が覚めるのではないか。
私たちの時代がどういう時代であったかを、理解できるのではないか。
今の若い人たちは、あまりにも(傲慢)すぎる。
・・・と書くのは、書きすぎ。
それはわかっているが、一方で日本の繁栄を謳歌しながら、その繁栄の意味すら理解してい
ない。
平和にしても、繁栄にしても、そこにある空気と同じように考えている。

●自業自得

 やはりまた愚痴ぽくなってしまった。
どうしてもこういう話題になると、愚痴ぽくなってしまう。
言うなれば、年寄りの愚痴。
かく言う私だって、戦争を直接経験しているわけではない。
あの戦争の犠牲者と言いながら、本当に犠牲になった人たちの上で、のうのうと
生きている。
「私にもトラウマがある」とは言っても、父が台湾で受けた貫通銃創によるものと
比べたら、何でもない。
ひょっとしたら父だって、私の兄や姉のことだけを考えて戦場で戦ったのかもしれない。
その父が、日本へ帰ってきたら、日本は焼け野原。
そういう父に向かって、「自業自得」などという残酷な言葉を、だれが使えるだろうか。

 つまりかく言う私だって、父の気持ちを本当に理解していたかどうかとなると、
疑わしい。
実のところ理解していない。
あるいは父だって、こう言いたかったのかもしれない。
「オレたちは、お前たちのために戦ったのだ!」と。
「負けたからといって、どうしてそれを無駄だったと言うのか!」と。

「戦後」だって、その父たちの犠牲の上に成り立っている。

●犠牲心

 親はだれだって、いつもある程度の犠牲心をもって、子育てをしている。
犠牲心のない人はいない。
程度の差はあるが、ない人はいない。
「無私の愛」は理想かもしれないが、そこまで自分を昇華できる親は少ない。
また期待してはいけない。

 一方で子どもが私たち親に生きがいを与えてくれるのも、事実。
子どものできがよくても、また悪くても、親はそれを心のバネとして生きる。
もし子どもがいなければ、私たち親は、こうまではがんばらなかっただろう。
子どもがいたからこそ、歯をくしばりがんばることができる。
適当なところで自分にブレーキをかけ、そこで心を休めてしまったはず。

 つまり私たちは、(犠牲心)と(生きがい)という絶妙なバランスの中で、日々の
子育てを繰り返す。
だからこういうことは言える。

「私は子育てで自分の人生を犠牲にしてしまいました」と言う人に出会うと、私は
すかさずこう思う。
「本当にそうだったのか?」と。

一方、「子育てが生きがい」と言う人に出会うと、私はすかさずこう思う。
「それはおやめなさい!」と。

 大切なことは、私たちは私たちとして、自分の人生を生きる。
子育ては生活の重要な一部かもしれないが、けっして、すべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。

 犠牲心をもてばもつほど、子どもにとっては、それはいつか(負担)に変化する。
親がもつ(生きがい)にしても、そうだ。
それによって一方的にキズつくのは、親の側ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【今週のBW教室】

●BW幼児教室(長さの学習)1/5

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●BW子どもクラブ(小1,2クラス)1/2

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●恵まれた子ども(小6Y君)複雑な箱作りに挑戦(A Gifted Child)1/3

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(フルバージョンは、私のHP→「BW公開教室」にて紹介しています。)

はやし浩司のHPは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【金権教からの脱出】(Is Money Everything?)

++++++++++++++++

教育と営利行為は共存しうるか。
医療と営利行為は共存しうるか。
芸術と営利行為は共存しうるか。
宗教と営利行為は共存しうるか。

答は、どれも「NO!」のはず。
強欲さの追求と、「心」の追求は
両立しえない。
営利行為を捨て去ったところに、
教育、医療、宗教は存在する。
が、現代社会では、それが奇妙に
共存している。
つまり矛盾が矛盾とわからないまま、
共存している。

営利行為でなくてもよい。
名声、名誉、地位、肩書き……。
本来、共存しえないものが、共存
している。

まずそのおかしさに気づく。
それが私やあなたの「心」を守る、
第一歩!
「心の豊かさ」を守る、第一歩。

++++++++++++++++

●つぶれる心

受験競争を経験させると、子どもの心は確実につぶれる。
ものの考え方が、功利的、打算的になり、ドライになる。
心の余裕をなくす。
もっと平たく言えば、人間が本来もっている温もりをなくす。
割り切り方がすばやくなり、一度割り切ると、そのまま心は、氷のように冷たくなる。

理由は簡単。

 子どもは親の「心」を、そのまま受け継ぐ。
親自身が、受験競争というものはそういうものと、考えている。
その底流では、ドロドロとした醜い欲得が、渦を巻いている。
それがそのまま親の心となり、子どもの心となる。
つまり親が子どもの心をつぶす。
つぶしながら、つぶしているという意識さえない。
ほとんどの親は、「子どものため」と考えている。
一方、子どもは、やりたくもない受験競争を強いられる。
被害者意識をもつ。

 受験競争でうまくいく子どもは、全体の何割もいない。
大半は、その過程で傷つき、脱落していく。

●親の不安や心配につけこんだ、金儲け

だからいくら親ががんばっても、子どもは、感謝などしない。
ぜったいにしない。
仮に目的の(?)学校へ進学できたとしても、感謝などしない。
「お父さん、お母さんが励ましてくれたから、合格できた」などとは、ぜったいに
思わない。
親にもしないが、ついでに、進学塾にもしない。
進学塾の講師にもしない。
当然と言えば、当然。

 「教育」とは名ばかり。
親の不安や心配につけこんだ、金儲け。
それが進学塾の実態。
そんなことは、小学生にだってわかる。

●「二度としたくない」

ある進学塾の講師は、こう言った。
その道、35年のベテランである。
「私など、ただの一度も元生徒の結婚式に呼ばれたことはありません」と。
苦笑いしながら、「苦労に苦労を重ねた生徒ですら、去るときは、ハイ、サヨナラです」と。

また別の男性は、45歳くらいまで予備校の講師をしていた。
45歳のとき、ベンチャー企業を興し、その経営者になった。
その男性も、その直後、こう言っていた。
「予備校の講師など、二度としたくないね」と。
道に唾(つば)を吐きかけんばかりの言い方だった。

で、私の話になる。

●進学塾の講師

私も予備校や補習塾で、講師をした経験がある。
20代から30代のはじめにかけてのころのことである。
幼稚園での仕事が終わると、夜遅くまで、講師として働いた。

ひとつの予備校の経営者は、いつもこう言っていた。
「親を信じてはいけない」と。
つまり割り切って仕事をしろ、と。
それが口癖だった。

そのときはその意味が、よくわからなかった。
が、今は、よくわかる。
この世界、お人好しは、通用しない。
善意も通用しない。
ただいつも一方的に裏切られるだけ。
たとえばX補習塾で働いていたころ、こんなことがあった。

●A子さん(中2)の例

 その補習塾では、とくにがんばった子どもや、経済的な理由のある子どものばあい、
月謝を、程度に応じて免除していた。
(当時は、月謝という形で、毎月現金で受領していた。)

 A子さん(中2女子)も、そんな生徒の1人だった。
塾長のはからいで、その生徒の月謝は、4分の1になっていた。
そのA子さんが、ある日、どこかの進学塾の宿題をもってきた。
私が「それは何?」と聞くと、「Y塾の宿題!」と。

 私は驚いた。
A子さんの親には、とてもそんな余裕はないはず。
そこで少し遠回りな言い方で、話を聞いてみた。
A子さんは、こう言った。
「ここでの月謝が浮いた分で、Y塾にも通えるようになった」と。

●塾経営

 塾が自動販売機にたとえられる時代があった。
今は、ファースト・フード店にたとえられる。
大規模になり、チェーン化した。
送迎時のあいさつの仕方、三者面談の内容、仕方、
話の進め方など、すべてがマニュアル化されている。
「塾は掃除!」と説く塾長もいる。
「塾は清潔で明るくしろ」と。

 外観が美しい分だけ、中身は醜いということか。
それとも中身の醜さをごまかすため、外観を美しくするのか。
どうであれこんな世界で、思春期前夜、思春期を過ごす子どもたちこそ、あわれ。
悲劇。
プラス残酷!

受験競争を通して、人生の骨格を組みあげてしまう。
冒頭に書いたように心をつぶされながらも、それを意識することもない。 
たとえばこの時期、親の希望には際限がない。
よい例が不登校。

●際限のない親の希望

 子どもがやっとのことで、午前中だけ学校に通えるようになったとする。
しかもほんの1、2時間。
しかしそこまで子どもをもってくるのが、たいへん。
長い時間がかかる。
が、すぐ親は、こう言い出す。
「何とか給食だけでも・・・」と。
あるいは「午後の勉強も・・・」と。

 進学校にしてもそうだ。
何とかC中学に入れそうになると、親は、「せめてB中学に・・・」と言い出す。
そのB中学が射程圏に入ってくると、今度は「何とかA中学に・・・」となる。

 それに塾教師が振り回される。
が、ひとつだけ忘れてはいけない。
「子どもこそ、被害者」と。
それに振り回される子どもこそ、被害者。

 子どもの心は無視。
子どもの希望も無視。
親はそれを正しいことと信じて、子どもに押しつける。
「学歴信仰」というのは、立派なカルト。
学校神話に基づく、立派なカルト。
子どもは子どもで、それを客観的に判断する経験もない。
抵抗する力もない。
だまって親に従う。
従いながら、心をつぶす。

●心と近代化

 「人の心」と「近代化」は、反比例の関係にある。
それとも人の心が、そこまで金(マネー)に毒されてしまったと考えるべきなのか。
さらに言えば、経済は発展した。
経済学も発展した。
しかし経済と「人の心」の関係について、それを論じた人はいない。
(私は論じているぞ!)
いないばかりか、経済を論ずる人ですら、毒されてしまっている。
脳のCPU(中央演算装置)の問題。

・・・話が大きく脱線した。
しかしこうした変化は、子どもたちを成長段階を追いながら観察してみるとよくわかる。
小学校の低学年のときは、心のやさしかった子どもでも、受験競争を経験したとたん、
人が変わる。
夏休みの間の特訓教室のようなものに通っただけで、大きく変化する子どももいる。
親は「やっと自覚ができたようです」と喜ぶ。
しかしその一方で、もっと大切なものを子どもは失う。
親は、それに気づかない。
それもそのはず。
親自身も、子どものころ、その大切なものを失っている。

●日本のビジネスマン

もう少しわかりやすい例をあげよう。
こんなことがあった。

 オーストラリアで学生だったときのこと。
私はことあるごとに、日本へ帰ったら商社マンとして働くことを自慢していた。
それしか自慢するものがなかった。
が、ある日のこと。
仲がよくなり始めていたオーストラリア人の友人が、私にこう言った。
「ヒロシ、そんなこと、自慢するのをよせ」と。
理由を聞くと、「君は知らないかもしれないが、日本の商社マン(ビジネスマン)は、
オーストラリアでは軽蔑されている」と。

 はっきりと「despised(軽蔑されている)」という言葉を使った。
この言葉は、かなりきつい響きをもつ。
で、理由を聞くと、こう話してくれた。

●何でも「金(マネー)」

 ある日、日本の商社マンがその友人の家に招かれて、やってきたときのこと。
オーストラリアでは少し親しくなると、たがいに食事に招待しあうという習慣がある。
(欧米では、どこでもそうだが……。)
その食事が終わったとき。
商社マンはおもむろにカバンの中から、何かを取り出して、「これを買わないか?」と、
言い出した。
そのものは忘れたが、繊維製品か何かだった。
が、その友人の父親はそれには興味を示さなかった。
そこで「NO!」と答えると、商社マンは今度はべつのものを取り出したという。
今度はカメラか何かだった。
が、それが何であるかどうかは、この際、どうでもよい。
それを買わないかと、言い出したという。

 友人の父親はすっかり不愉快になった。
ひとつのものをいらないと言うと、別のものを出す。
それもいらないと言うと、さらに別のものを出す。
そういう日本の商社マンの態度が許せなかった。

 が、私はこの話を聞いたとき、「どうして?」と思ってしまった。
日本の商社マンとして、その商社マンは当然のことをしただけ。
日本からわざわざ50万円近い旅費をかけて、やってきた。
当時の水準からすると、大卒の初任給の10か月分の給料である。
「ごちそうさま」で帰るわけにはいかない。

 私がその商社マンだったら、同じことをしただろう。
だから「どうして?」と。
そのときは、ごく自然に、私はそう考えた。

●それから30年後

 それから30年あまり。
今度は私が逆の体験をすることになった。

 ある日のこと。
高校時代の友人から、突然、電話がかかってきた。
「ぜひ、一度、会いたい」と。
高校時代には、それほど親しくはなかった。
しかし私には高校時代の友人に、「友人」と呼べるような友人は、ほかにいない。
そのこともあって、ていねいにその友人を招いた。

 が、1夜、私の家に泊まった朝のこと。
居間にいるとその友人は、かばんから、10個くらいの瓶を取り出した。
サプリメント商品、つまり健康食品の入った瓶だった。
「これを買わないか?」「仲間に入らないか?」と。
話を聞くと、ネズミ講方式で利益がふえるという。
私はそれを聞いて、心底がっかりした。
がっかりして、「君は、最初からこれが目的で、ぼくに近づいてきたのか」と聞いた。
彼は強くそれを否定した。
しかし彼の意図は見え見えだった。

●無数の意識

 私はそのとき、オーストラリアの友人の父親の気持ちが、はじめて理解できた。
なぜあのとき、友人の父親は不愉快になったか。
それが理解できた。
つまりそれが「意識の差」ということになる。

 お金に毒されているときは、脳そのものが毒されているから、それに気づくことはない。
しかし一歩退いて、別の世界からそれをのぞいてみると、それに気づくことができる。

 これはほんの一例だが、こうした無数のこまかい「意識」が集合して、「毒される」
という状態になる。
が、何度も書くが、毒された人は、それに気づくことはない。
脳のCPU(中央演算装置)そのものが毒されている。

 よい例が、C国製品。

●目覚まし時計

 ところで私は最近、小型ビデオカメラ付きの目覚まし時計を買った。
あのC国製。
パソコン雑誌に紹介されていたので、信用して買った。
しかしこれがとんでもない粗悪品。

SDカードを挿入することになっているが、それがうまく入らない。
セットがむずかしい。
うまくいかない。
電源を入れなおすたびに、時刻が初期設定に戻ってしまう。
おまけに説明書の日本語が、めちゃめちゃ。

 が、外から見た「形」だけは、それらしくできている。
どこかの国でできた目覚まし時計のデザインを、そのまま使っている?
私はその目覚まし時計を見ながら、こう考えた。
「C国の人たちは、こんな製品を輸出して、自分たちに恥じないのだろうか」と。
もっとも国全体がそうなっているから、それに気づくことはない。
もちろん恥じることもない。
「無数のこまかい意識が集合されている」というのは、そういうことをいう。
 
●日本の俳優

 もうひとつ話が少し脱線する。

 私とワイフはよく映画を観に行く。
「東宝シネマ」という映画館で、洋画と邦画を、半々くらいの割合で上映している。
邦画はほとんど見ないが、予告編はよく見る。
その邦画。
ひとつの特徴がある。

 邦画に出てくる若い俳優たちが、どの人も、頭はキレるが、人間的な深みがない。
またそういう演技をするのが、「映画」とでも思っているかのようでもある。
自然ぽさがないのはしかたないとしても、日本の俳優たちがもつあの独特の(冷たさ)は、
いったい、どこから来るのか?

 もちろん『送り人』のような、すばらしい映画もある。
が、その『送り人』にしても、私はどこかにあの独特の(冷たさ)を感ずる。
田舎の人たちの温もりを描いているはずなのに、スクリーンのすぐ向こうに、受験生的な、
あの独特の(冷たさ)を感ずる。

 おそらく俳優自身はそれに気づいていないだろう。
ここでいう「受験生的」というのは、「他人をかき分けて競争に勝ち抜いた」という意味。そう解
釈してもらってよい。

●子どもの世界でも

 子どもの世界では、それがもっとはっきりと表われる。

 同じ小学6年生でも、心の温かさを感ずる子どももいれば、そうでない子どももいる。
冷たい子どもは、どこまでも冷たい。
ぞっとするほど、冷たい。
頭の中は受験勉強だけ。
あるいは何かの検定試験のことだけ。
バッグの中は、その種の参考書と問題集だけ。
余計なことは、いっさいしない。
もちろんそれなりに勉強はできるが、その先がない。

 簡単に説明すれば、親の温かい愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、心が温かく
なる。
そうでない子どもは、そうでない。
つまり子どもの心の温もりは、親の育て方……というよりは、世代連鎖。
親から子へと伝えられる。
それによって決まる。
ふつう心の冷たい子どもの親は、心が冷たい。
心の温かい子どもの親は、心が温かい。

 だから心の冷たい子どもを見つけ、その親に向かって、「あなたの子どもは心が冷たい
ですよ」と忠告しても意味はない。
親自身が、それを理解できない。
また言ったところで、どうにもならない。
思春期を過ぎて、心の冷たい人間がその後、温かくなるということは、ありえない。
さらに言えば、一度つぶれた心は、元には戻らない。

●幻想

 この日本では、親たちは、「勉強しろ」「勉強しろ」と子どもを追い立てる。
それはそれでしかたのないことかもしれない。
日本人には日本人独特の身分意識がある。
現在は、それが学歴意識に置き換わった。

 が、これだけはよく覚えておくとよい。
それを言えば言うほど、今度は、親がその責任を取らされる。
子どもたちは「高校へ行くのは当たり前」「大学へ行くのは当たり前」と考えるようになる。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言う子どもさえいる。
(これは本当の話だぞ!)

 その結果どうなるか?
親は親で、淡い期待をもつかもしれない。
「いつか親に感謝し、よい親子関係を築くことができるはず」と。
中には「老後のめんどうをみてもらえるかもしれない」と思う人だっているかもしれない。
しかしそれはまったくの幻想。

●月謝袋を詰め先で……

 あえて統計をとるまでもない。
この世界の常識として、「一度、都会の大学を出た子どもは、親のところには戻らない」。
戻らないばかりか、その多くは子どものほうから、親子の絆を断ち切ってしまう。
それもそのはず。
親は子どものためと思って、(本当は自分の不安や心配を子どもにぶつけているだけなの
だが)、「勉強しろ」と言う。
が、言われたほうの子どもは、それによって追いつめられる。
少なくとも「親は自分のことを心配して、そう言ってくれる」などとは、思わない。
進学塾の講師にしても、そうだ。

 へたに「君の将来のためだ」と言っても、子どもは、その先を読んでしまう。
「金儲けのためだろ?」と。
私も実際、そう言われたことがある。
月謝袋を爪先でポンとはじき、「あんたのほしいのは、これだろ!」と私に言った、高校生
がいた。

 皮肉なことに、心のつぶれた学生ほど、成績がよい。
そのままよい(?)大学に進学していく。
社会のリーダーとなっていく。
そして一方で、ドロドロしたおとなの世界の裏を、そのまま見抜く。

●幼児から高校3年生まで

 ずいぶんと否定的なことばかり書いてきた。
読者の方にインパクトを与えるため、やや過激な言い方で書いてきた。
しかし私はこの原稿を、警告の念をこめて書いた。
というのも私は、幼児(年少児)から高校3年生までの子どもを、1日というサイクル
の中で教えている。
40年来、そうしている。
幼児から高校3年生といえば、15年間である。

 そういうサイクルの中で、子どもたちの心の変化を、毎日のように見ている。
が、その「変化」というのは、心理学でいうところの変化とは、少し違ったものである。
たとえばここに書いた(冷たさ)というのは、思春期の反抗期とは異質のものである。
「心がつぶれる」と言っても、その診断方法もなければ、基準もない。
もちろん病名もない。

また心が冷たいからといって、それが何かの障害につながるということでもない。
むしろこの世界は、そういう心が冷たい人たちにとって、住みやすい世界になっている。
そういう人たちほど、社会のリーダーとなり、裕福な生活を送っている。

●最後に……

 最後になるが、今、私はこんなふうに考える。
近代社会は、はたして人間の心を豊かにしたか、と。
「近代社会」というのは言い過ぎかもしれない。
私が書いているのは、受験競争の弊害のひとつにすぎないのかもしれない。
さらに「競争」は不可欠というのなら、方法論の問題ということになる。
つまり子どもの教育法がおかしい。
あるいは日本人がもつ意識が、おかしい。

 どうであれ、このままではこの日本はますます狂っていく。
言うまでなくその国や社会の熟成度は、いかに弱者にやさしいかで決まる。
が、この日本は、それに逆行しているばかりか、さらに「格差」を広げつつある。
入り口で受験競争に勝ち抜いた子どもは、その後、安泰した裕福な生活を送ることが
できる。
そうでない子どもは、そうでない。

 心のつぶれた、冷たい子どもたちが、社会のリーダーとなっていく。
そんな社会を、私たちはけっして目指してはいけない。

 ……ということで、あなたも一度でよいから、自分の身の回りを見渡してみてほしい。
経済的に豊かな人も、またそうでない人も。
そして一度でよいから、こう考えてみてほしい。
「これでいいのか?」と。
たったそれだけのことだが、それが種となって、いつかやがてあなたの心にも、(人間
らしい心)が戻ってくる。
子どもの見方も変わってくる。
けっして貪欲さの奴隷になっていはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心のつぶれた子 金権教 つぶれる心 冷たい心 心の冷たい子ども 受験競争
の弊害)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年の3月に書いた原稿を
添付します。
これもかなり過激な原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「金権教」というカルト(Money is Everything.)

++++++++++++++++++++++

Most of us believe that money is everything, some consciously and some unconsciously. 
But it is a kind of cult (or sect), or we would know it when we are involved in it. So I call It "
Money-ism", or "Money Cult".

++++++++++++++++++++++

●カルト

私はカルト(狂信的な信仰)とは無縁と
思っている人でも、ちょっと、待ってほしい。
そういう人でも、無数のカルトを信仰している。

学歴信仰に始まって、親絶対教、学校神話、男尊女卑思想、
家父長意識、民族主義に国粋主義などなど。

人は、ひとつのことを信仰することによって、思考を放棄することができる。
それは同時に、たいへん甘美な世界でもある。

思考、つまり(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。
カルトを信仰することによって、その苦痛から、自らを解放することができる。
過去や世俗的習慣を踏襲するのも、そのひとつ。
「昔はこうだった」「みなは、こうしている」と。

●金権教

金権教について、考えてみたい。
……といっても、どんなカルトでもそうだが、
その中にいる人には、自分のおかしさがわからない。

そのおかしさを知るためには、一度、そのカルトの外に出てみなければならない。
あるいは、やめてみる。
長い間、カルト信仰をしてきたある女性(当時、45歳くらい)は、こう言った。

「退会してみて、はじめて、おかしさがわかった」と。

金権教もそうである。

●中国では

たまたま現在、隣の中国が、20年前、30年前の日本を再現している。
何もかも、マネー、マネー、一色。
少し前だが、こんな話を、何かの雑誌で読んだことがある。

あるところで、1人の少年が川に落ちて、溺れた。
少年の母親は、まわりの人に、助けを求めた。
狂乱状態だったという。
それを見ていた一人の男性が、こう言ったという。
「〜〜元、出せ。そしたら助けてやる」と。
金額は、忘れた。

戦後の日本も、ひどかった。
が、しかしそこまでは、ひどくなかった。
(……と信じたい。似たような話はあるが……。)
それにしても、溺れる子どもを横目に、金額交渉とは!

心もマネーに毒されると、人は、そこまで言うようになる。
そのおかしさは、日本人の私たちには、よくわかる。
しかし当の中国の人たちには、わからない。

●信者たち

こうした「金と権力がすべて」という世界を、金権教という。
かなり宗教的な色彩が濃いから、「金権教」と呼ぶ。

その金権教の信者は、少なくない。

医師、弁護士に始まって、教師、役人、職人、はては牧師に僧侶にいたるまで。
職種に、関係ない。

しかし自分が金権教の信者であることに気づいている人は、少ない。
が、それを知る方法が、ないわけではない。

(1)金銭的な利益のある仕事だけをする。利益第一主義。
(2)金銭的に損な仕事はしない。ボランティア活動をしない。
(3)貧しい人を、いつも(下)に見る。人の価値を財産で決める。
(4)損得勘定に敏感である。計算高い。
(5)とくに損をしたとき、過剰なまでに反応する。落胆する。
(6)「信じられるのは、金だけ」を、よく口にする。
(7)仕事(=金儲け)中心主義で、家族、家庭を犠牲にしても平気。
(8)周囲の人間を、平気で利用する。その分だけ、いつも孤独。

これらの項目のうち、ほぼすべてが当てはまれば、金権教の信者と考えてよい。
もちろん程度の差もあるが……。

が、その金権教も、やがていつか、行きづまる。
短期的には、事業が失敗したとき。
長期的には、加齢による事業の縮小など。
そういったとき、マネーという本尊が、(イワシの頭)だったことを、思い知らされる。

●ここが始まり

カルトがこわいのは、ここから。
それを信じている間は、カルトは、その人を側面から支える。
生きる目標になることもある。
しかしそれを疑ったとたん、その人は、その内部から崩壊する。
「自己否定」という言葉があるが、それに近い状態になる。
「私は、何だったのか」と。
それまでの人生が無意味だったことを、思い知らされる。
とたん、大混乱に陥る。

こういうケースのばあい、つぎの2つから、進むべき道を選ぶ。

(1)そのまま金権教に固執する。
(2)新たな価値観を模索する。

このどちらでもないとなると、そこで待っているのは、「破滅」。
自殺という手段を取る人もいるが、それは論外。

こういうケースがある。

●のめり込む信者

あるところに、手かざしで、病気を治すと教えている教団があった。
「手かざし」というのは、患部に手をかざして、病気を治すことをいう。
N氏夫婦は、その教団の熱心な信者だった。
で、あるとき、N氏の長男が、腹痛を訴えた。
(あとで盲腸炎だったということがわかったが……。)
N氏は、長男を病院へ連れていかなかった。
手かざしで治してみせると、がんばった。
しかし長男は、そのまま死んでしまった。
いや、最後の最後のところで、病院へ運ばれたが、そのときは手遅れだった。

こういうケースのばあい、「私たちの信仰はまちがっていました」と認めることは、
自分の子どもを、自分たちで殺してしまったことを認めることに等しい。

実際、N氏夫婦は、そのあと、ますますその信仰にのめりこんでいった。
またそれしか進むべき道がなかった。

……金権教にも、似たようなケースがある。
これは金権教で破滅した、ある男性の話である。

●K氏のケース

K氏は、昔からの資産家の二男だった。
長男の兄と2人で、事業を起こした。
建売を専門とする、建築会社だった。
高度成長期の、あの波に乗り、事業はトントン拍子で拡大した。
K氏は、有頂天になった。
毎晩、札束を切りながら、豪遊に豪遊を重ねた。

が、そのころから兄(=長男)との折りあいが悪くなった。
利益の配分をめぐっての、争いがつづいた。

そこで会社を2分することにした。
建設部門を兄が、不動産部門を二男のK氏が引き継いだ。

が、とたん、あのバブル経済がはじけた。
K氏は破産。
無一文になった。

その後、1年ほどの期間があったが、私が再びK氏の消息を聞いたときには、
K氏は、精神病院に長期入院しているということだった。
その1年間に、何があったか、それを想像するのは難しくない。
妻とは離婚。2人の娘がいたが、2人とも兄の家に引き取られていた。
人伝えに聞くところによると、「想像を絶する、家庭内騒動がつづいた」とのこと。

金権教の信者の末路(失礼!)は、あわれ。
マネーの切れ目が、人生の終わり。
そうなる。

●意識の問題

が、これは、何も特別な人たちだけの問題ではない。
先にも書いたように、「程度の差」こそあれ、みなの問題と考えてよい。
ほとんどの人が、それを信じている。
「信じている」という意識がないまま、信じている。

私自身もそうだったし、今もそうかもしれない。
いつも心のどこかで、それと戦っている。

しかし金権教は、カルト。
宗教で教えるような教義など、どこにもない。
つまりは、人間が本能的にもつ(欲望)と深く、からみあっている。
欲望そのものかもしれない。
だから余計に、タチが悪い。

しかし、これだけは言える。
マネーで幸福は買えない。
しかしマネーがないと、人は、不幸になる。
それはわかる。
が、その一方で、マネーに毒されると、人生そのものを棒に振る。
仮に金持ちのまま終わったとしても、だ。

一度、勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみるとよい。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、掲載します。
日付は、06年4月になっています。
ちょうど2年前に書いた原稿ということになります。

+++++++++++++++++

【金銭的価値観】

●損の哲学

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべ
きことである。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよん
だら、さらに悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、
それぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという
番組である。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作
品から、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござ
れ! が、私には、苦い経験がある。

●絵画の価値

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だっ
た。そのころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもない
が、おとなになると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるよう
になった。それはある意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、
カトラン、ピカソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。
このリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラ
フ)ほど、よい絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

●画商

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって
決まる。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、
ほとんど知られていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、
この日本でのみ通用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、
うまく宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」と
か、何とか宣伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、
ごく当たり前のようになされている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心
というのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、
値段を見て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段
が安かったりすると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお
金では、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということ
は、それ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。
もちろん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重
ねていくと、やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるよ
うになる。ときに、その人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかし
そのボランティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お
金……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってし
まっている。とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまっ
た。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、
ものにおよばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてそ
の幸福感も、相対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小
さな車に乗っているから、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするよ
うになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。
反対に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ
幸福感まで、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわ
けではない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組と
なる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組
によって、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうし
て日本人の心は、ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はど
うなるか? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレ
ビ番組が嫌いな理由でもある。

●昔は……

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言
われている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、その
ときでさえも、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして
何ら恥じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになっ
てしまった。意識というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒され
ると、自分がもっている意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そ
して本来、価値のないものを価値あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるもの
と思いこむ。そして結局は、自分の感性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にす
る。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこ
の世界では、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教
育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 金権教 お金万能主義 子どもと心 
受験競争の弊害 受験競争 意識 はやし浩司 受験カルト はやし浩司 家庭教育 育児 
育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist 
writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カル
ト)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司
 
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【BW子どもクラブ】
(年少児・年中児)
「長さの勉強」
●楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ
(Happy Learners learn Best!)

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Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司※

●今朝、あれこれ(8月1日)Aug 1st 2010

●だまされた人(Those who are cheated.) 

+++++++++++++++++

だまされた人は、幸いなるかな。
損をした人は、幸いなるかな。
裏切られた人は、幸いなるかな。
それによって失った以上のものを、
心の中に蓄えることができる。

が、それにはひとつ、重要な条件がある。

だまされても、損をしても、
裏切られても、相手憎んではいけない。
恨んでもいけない。
ある賢者は、こう言った。

『人を憎む人は、ネズミを追い出す
のに、家に火をつけるようなもの』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
それよりも大切なことは、豊かな
人間性を失うことなく、前に向かって
生きていくこと。

憎んだり、恨んだりすれば、生き様が
どうしても後ろ向きになる。
その分だけ、「命」を損する。
その「損」は、金銭的尺度では、
計ることはできない。

++++++++++++++++

●中学生

 昨日、コンビニの前で、プリンターのインクセットが盗まれた。
盗んだのは、横に自転車を並べていた中学生だった。
私がトイレへ入る瞬間、私と視線が合った。
どこか不自然な目つきだった。
「?」と思ったが、私は何も考えずそのままトイレへ。
その間に、私の自転車のかごの中から、インクセットを盗んだ。
トイレから戻ってみると、それが消えていた。
値段は5000円前後。

 インクセットなどというものは、プリンターによって、みなちがう。
盗んだからといって、すぐ使えるものではない。
瞬間、頭にカチンときたが、つぎの瞬間、「あんなもの盗んでどうするのだろう」と思った。
「どこかで換金するつもりなのだろうか」とも。

●結果

 心の貧しい人は、どこにでもいる。
子どもの中にもいる。
ここに書いた中学生も、その1人。

まだ人生の入り口にも立っていなような子どもが、人の目を盗んで、ものをかすめる。
一度ゆがんだ心をもとに戻すのは、たいへん。
たいへんというより、不可能。
その子どもはこの先、「得をした」と思いつつ、それ以上のものを、失っていく。
損得論を金銭的価値だけで考えてはいけない。
心の世界で、考える。

おそらく死ぬまで、その中学生は自分の愚かさに気づくこともないだろう。
回り道に回り道を重ね、悶々とした気分で、自分の人生を終えるだろう。
私の周辺にも、似たような老人は多い。
結果として、そうなった老人は多い。

●回り道

 人生の真理などというものは、そんな遠くにあるのではない。
私たちの身の回りにあって、私たちに見つけてもらうのを、静かに待っている。
ウソをつかない。
ルールを守る。
たったそれだけのこと。
その日々の積み重ねが、月となり、年となり、やがてその人の人格となる。 

 もちろんその反対もある。
私はここで「回り道」という言葉を使った。
人生も永遠なら、多少の回り道も許される。
しかし人生には、限りがある。
一度回り道をすると、それを取り戻すのに、何倍もの時間と労力を無駄にする。
回り道が大きければ、取り戻す間もなく、この世を去る。
そういうことにもなりかねない。

●2つの心がけ

 ところで私は、つぎの2つのことに心がけている。
「心がける」ということは、言い換えると、私の精神的弱点ということになる。

(1)愚痴を言わない。
(2)ものごとにこだわらない。

 愚痴(Complain)も、こだわりも、うつ病を含む、もろもろの精神疾患の主症状である。
アメリカの精神医学会では、そう定義づけている。
つまり最近の私はささいなことにこだわり、愚痴をこぼすことが多くなった。
が、自分ではそれがわからない。
脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分で気づくのはむずかしい。
うつ病にしても、病識のある人はまだ症状は軽い。
「私はなんともない!」とがんばる人ほど、あぶない。

 だから愚痴を言わない。
ものごとにこだわらない、となる。

●人を選ぶ

 話を戻す。

 「回り道をしない」という生き方の中には、「人を選ぶ」という意味も含まれる。
というのも60年も生きてくると、その人の生き様は決まってくる。
言うなれば化石のように、脳の中で固まってくる。
よほどの人でないかぎり、たがいに感化しあい、浄化しあうということは、ありえない。

 たとえばそこに小ずるい人がいたとする。
小ずるいと、そこに「小」という文字を入れるが、小ずるい人ほど、性質(たち)が悪い。
堂々とワルを重ねる人のほうが、まだつきあいやすい。
わかりやすい。
善悪の節目をよく心得ている。

 が、小ずるい人には、その節目がない。
善人のフリをして、ワルを重ねる。
あるいはその意識すら、ない。
だからそういう人とつきあっても、得るものは何もない。
ないばかりか、大きな回り道をすることになりかねない。

 『50歳を過ぎたら、つきあう人を選ぶ』。
これはとても重要なことである。

●金の貸し借り

 金銭的尺度という言葉で思いついた。
もしあなたが、その人と良好な人間関係を保ちたいと願っているなら、金(マネー)の
貸し借りはしてはいけない。
貸しても、借りても、それ以後、うまくいくというケースは、10に1つもない。
だから私は、若いときからこうしている。

 金(マネー)にかぎらず、モノの貸し借りはしない。
ローンにしても、ツケにしても、1週間以内に完済する。
まただれかが金(マネー)を借りに来たときは、相手によって、2分の1から
10分の1を、与える。
たとえば100万円を借りに来たときは、10〜20万円を与え、「返さなくてもいい」
と、はっきりと言う、など。

 貸してあげたからといって、相手は、決してそれを恩には思わない。
返済がとどこおれば、なおさらである。
たいていそのまま人間関係は、終わる。
相手のほうが、理由にもならない理由をこじつけて、遠ざかっていく。

●8月1日

 冒頭で、こう書いた。

「だまされた人は、幸いなるかな。
損をした人は、幸いなるかな。
裏切られた人は、幸いなるかな。
それによって失った以上のものを、
心の中に蓄えることができる」と。

 言い替えると、人をだましたり、裏切った人は、それなりに得をしたと思うかも
しれない。
しかしその一方で、もっと大切なものを失っていく。
そしてその失ったものは、生涯にわたって、取り返すことはできない。
そこに残るのは、悪臭漂う、腐敗した人間性。
あの中学生の末路は、そうなる。

 さて、今日から8月。
暑い日がつづく。
がんばろう。
がんばるしかない。
で、今月の目標。

『日々に精進あるのみ!』だ!


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●孤独

+++++++++++++++++

時事通信にこんな興味ある記事が載っていた。
いわく……

『家族や友人、隣人に恵まれた高齢者は、孤独な高齢者に比べ、生き延びる確率が1.5倍も
高いと、米ブリガムヤング大などの研究チームが2日までに米オンライン科学誌プロス・メディ
シンに発表した。孤独であることは、アルコール依存症やたばこを1日15本吸うのと同じぐらい
健康に悪いという。

 この研究は、世界で過去に行われた148種類、計約30万8900人を対象とする長期調査をま
とめて分析し直した成果。調査期間が平均7年半で、対象者の平均年齢は約64歳。男女ほぼ
半々で、地域別では北米51%、欧州37%、アジア11%、オーストラリア1%だった。

 研究チームは、人付き合いがある方が生存率が1.5倍高いというのは、けんかばかりしてい
るような人間関係も含んでのことと指摘。日常的に人付き合いがあることは、心理面だけでな
く、体の健康に直接メリットがあるという』(以上、時事通信、2010−8−2)。 

+++++++++++++++++

●疑問

 この調査結果を見て、最初に感じた疑問は、「生き延びる確率」。
「生き延びる確率」とは何か。

また「対象者の平均年齢は、約64歳」だったという点。
この2つを並べて考えてみると、いろいろに解釈できる。
できるが、どうも釈然としない。

 つまり「調査期間(7年半)の間に、死んだ人と生き延びた人を調べたら……」という
ことらしい(?)。
孤独が老人の精神生活によくないことは、常識的に考えても納得できる。
また精神生活が貧弱になると、健康生活も貧弱になる。
運動もサボるようになる。
それ以上に、生活から緊張感が消える。
これがもろもろの病気を呼び込む。

 平たく言えば、「この7年半の間に、孤独だった人ほど、より多く死んだ」ということか。
「孤独な人のほうが、そうでない人よりも、1・5倍も死亡率が高い」(?)。
しかし「64歳」という年齢も気になる。
私は現在62歳。
もうすぐ63歳。
私の年齢は、世間では、そういう年齢に見られているらしい。
生存率?
活躍率や健康率ではなく、生存率?
つまり「死ぬのが当たり前」という前提で、考えられている。
イヤ〜ナ感じ!
こんな調査をするくらいなら、反対に「前向きに生きる人の生存率」を調べてほしい。
そのほうが、私たちには、役に立つ。
励みにもなる。

Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●半夏厚朴湯(ハンゲコウボク湯)と水野伝一東大元薬学部長

+++++++++++++++++

ハンゲコウボク湯を毎夜、寝る前に
服用するようになって、もう13年になる。
一度、田丸謙二先生(東大元総長補佐、
元理学部長)が私の家に来てくれたとき、
「林君(=私)も、のみなさいよ」と
先生に言われたのが、きっかけだった。

服用といっても、耳かき一杯程度で
じゅうぶん、とか。
一袋あれば、私たち夫婦でも、1〜2
週間はもつ。
ごく微量でよい。

田丸謙二先生と、東大の元薬学部長を
していた水野伝一氏とは、同じ鎌倉に
住み、鎌倉テニスクラブのメンバーだった
という。
(現在は、水野氏は老齢のため、離脱。
田丸先生が前会長を務めていた。)
天皇陛下も当時、ときどきそのクラブで
テニスをしている。

前置きはこれくらいにして、ハンゲコウボク湯には、
強力な抗ガン作用があるという。
何かの研究をしているとき、水野氏はそれを
発見したという。
以来、鎌倉テニスクラブのメンバーの中に、
「ハンゲコウボク湯信者」なるものが、続々と
生まれたという(以上、田丸先生談)。

以下は、どうか参考程度に、自己責任で判断、
服用してほしい。
あくまでも医師もしくは、薬剤師と相談して
服用してほしい。

もともとハンゲコウボク湯というのは、
胃腸薬、あるいは女性の精神安定薬として
知られている。
ごくありふれた漢方薬である。
漢方薬局へ行けば、どこでも売っている。

が、ここで登場するのが、丸山ワクチンを
開発した、丸山千里博士である。
水野伝一氏と丸山千里博士とは深い関係にある。
丸山ワクチン開発史をかいま読むと、ところ
どころに水野伝一氏の名前が出てくる。
ともにがんの免疫療法の研究者であった。

が、ここで疑問。
丸山ワクチンのことは知らないが、
ハンゲコウボク湯については、先にも書いた
ように、ごく微量でよいとのこと。
「耳かきいっぱい程度でよい」という。
1グラムの1000万分の1、あるいは
1億分の1でもよい、と。
「耳かき一杯」というのは、それだけでも
たいへんな量ということになる。

なぜか。

つまりこれらのワクチンや薬は、がんに
直接作用して、がんを治すのではないという
こと。
脳(脳下垂体)を刺激して、人間が本来もつ
免疫作用を引き起こす。
「ほんの微量でいい」という理由は、こんな
ところにある。
一般の抗ガン性をもつ薬剤とは、治療メカニズム
そのものがちがう。

ということで、すでに13年。
今のところ私もワイフも、がんにはなっていない。
この先のことはわからないが、「信仰」には、
別のパワーがある。
「私たちはがんにはならない」という確信が、
私たちをどこかで元気にしている。
(もちろん油断するのもよくないが……。)

以上、久しぶりに田丸謙二先生のことを
書いたので、この原稿をこれから先生に送る。
前回のメールでは、「近くドイツへ行く」と
あったので、今ごろはドイツかもしれない。
今年は、空中窒素の固定化を成し遂げた
ハーバー博士の〜〜祭があるという。
その席に、田丸謙二先生が招かれているという。

すばらしいことだと思う。
2010/08/02


+++++++++++++++++++

●田丸謙二先生より

林様:メール有難うございました。唯田丸謙二について間違いがあります。もう(テニスクラブ
の)会長でもないし、テニスクラブもまだ五十何年くらい、最古でもないし水野先生が理研と関
係したのも初耳、などなど。但し現在の会長は彼の父親も兄弟も、六十二、三で胃ガンで亡く
なっていますが、彼はハンゲコウボクトウを信じて毎日服用し七十過ぎの現在も元気です。私
も今でもちょいちょい気休めに飲んでいますが、私の弟子の一人は、あれは間違いであると言
っていました。専門家の中では信じられていないみたい。
くれぐれもお元気で。
田丸謙二


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【老後の私たちの生活】

●韓国=日本、日本=韓国

++++++++++++++++

国際的な視点から見れば、日本と
韓国は双子。
双子のようによく似ている。
日本人がデンマークとオランダを
区別できないように、世界の人もまた
日本と韓国を区別できない。

外観ばかりではない。
中身もよく似ている。
今朝の朝鮮N報に、気になる記事が
2つ載っていた。
ひとつは、親の学歴が子どもの学歴、
成績、収入に影響を与えるというもの。

もうひとつは、韓国でも高齢者の
貧困問題が、顕在化してきたということ。

一部を抜粋して、ここに掲載する。

+++++++++++以下、朝鮮N報より抜粋、転載++++++++++

●親の学歴(以下、朝鮮N報より一部、転載)

 ……子どもの修能試験の成績やTOEICの点数、就職後の給与水準は、保護者の学歴や経
済力などによってどれほど格差が生じているのだろうか。取材班はこの点について、韓国開発
研究院のキム・ヒサム研究員に分析を依頼した。キム研究員は、農山漁村以外の地域に住む
勤労者世帯5000世帯を対象に、保護者の学歴や経済力などの指標ごとに、子どもの修能試
験の成績、TOEICの点数、就職後の初任給の水準を算出した。

 その結果、大学に入学するための第一関門となる修能試験の成績は、保護者の学歴などに
よって差が生じていることが分かった。両親とも大卒の場合、子どもの修能試験の平均点は
256.2点で、両親とも高卒以下の場合(236.4点)に比べ19.8点高い結果となった。

 保護者の学歴や経済力などによる差が最も大きかったのは、就職に必須とされるTOEICの
点数だった。世帯所得が100万ウォン(約7万1000円)増えるにつれ、子どものTOEICの点数は
21点ずつ高くなった。また、両親とも大卒の場合、子どものTOEICの平均点は741.9点となり、
両親とも高卒以下の場合(667.6点)に比べ74.3点高い結果となった。

 こうした英語力における格差は結局、子どもが就職した後の賃金にも結び付いている。両親
とも大卒の場合、初任給の平均は202万9009ウォン(約14万4700円)である一方、両親とも高
卒以下の場合は、156万4458ウォン(約11万1600円)にとどまった。
(朝鮮N報・2010/8/3)

●貧困化する高齢者

 韓国の高齢者の35.1%が貧困状態にあることが分かった。

 国民年金研究院のソク・サンフン研究員が2日、「年金フォーラム」夏号に発表した報告書に
よると、昨年、韓国の高齢者の35.1%が、最低生計費(二人家族の場合、1カ月86万ウォン=約
6万3500円)に満たない貧困層に属していた。

 これは、昨年の韓国全体の人口に占める貧困率(14.1%)の2.5倍以上だ。高齢者世帯の貧困
率は、2006年には30%だったが、07年には31%、08年には32.5%と、毎年増加の一途をたどって
きた。

 2008年から、老齢基礎年金の制度が施行されたが、これが高齢者の貧困状態を緩和する
効果はまだ限定的だという。

 老齢基礎年金は、65歳以上の高齢者のうち、低所得層に属する70%の人たちに対し、一人
暮らしの場合は最高で月9万ウォン(約6650円)、夫婦の場合は最高14万4000ウォン(約1万
1000円)=ともに2010年8月現在=の年金を支給する制度だ。
(朝鮮N報・2010/8/3)

+++++++++以上、朝鮮N報より、抜粋転載+++++++++++

●深刻な社会問題

 「韓国も、いろいろたいへんだな」と、私は思った。
2つの記事を読んで、身につまされた。
とくに高齢者の35%が、1か月の最低生活費が、6万3500円以下の貧困層に
属しているという記事には、ぞっとするような恐怖感さえ覚えた。
この額は、私がこの先支給される、国民年金額とほぼ同じ!
しかし現実問題として、6万3500円で生活していくのは、不可能。
財産を切り売りし、貯金を取り崩して、生きていくしかない。
が、それとて何年もつことか?

 たまたま昨日も、30年来の友人であるS氏と電話で話した。
私と同年齢。
昭和22年生まれの団塊の世代。
S氏は、市の職員を定年(60歳)まで勤め、昨年まで公的機関で働いていた。
で、今は、それまでの趣味を生かし、農園業を営んでいる。
たまたまS氏の妻が、農業資格をもっていたこともあり、農地を安く手に入れること
ができた。

「いいですね。まさに悠々自適の老後生活ですね」と言うと、S氏はどこか
うれしそうだった。
つまりS氏は若いころから、現在の生活を目標にし、生きてきた。
「目標にしてきた」というよりは、今という将来を見据えながら、仕事をしてきた。
だから2人の息子がいるが、必要以上に学費は出さなかった。
自分たちの老後の資金を確実に蓄えながら、質素に生きてきた。

 一方、この私は、そのときどきを無我夢中で生きてきた。
将来のことなど、ほとんど考えなかった。
「何とかなるだろう」とは思っていたが、そこまで。
収入のほとんどを、息子たちの学費として使ってしまった。
つまり典型的な親バカ!

 だから今は、こう言うようにしている。

「息子や娘に、勉強しろなんて、言ってはいけませんよ。
言えば言うほど、あとあと、責任を取らされます。
息子や娘が、『大学へ行かさせてください』と3度頭をさげるまで、学費など、
出してはいけませんよ」と。

●高学歴

 その一方で、(高学歴の親ほど)→(収入が多く)→(子どもの学費にお金がかけられる)
→(そのため子どもも高学歴)になる。
その結果が、朝鮮N報の1つめの記事ということになる。
 
 が、こんな調査結果もある。

++++++++++以下、内閣府、平成21年調査より++++++++++

●第8回世界青年意識調査より

(将来、親のめんどうをみるか?)

年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。

●年老いた親を養うことについてどう思うか

『どんなことをしてでも親を養う』(1)

イギリス66.0%、
アメリカ63.5%、
フランス50.8%、
韓国35.2%、
日本28.3%

●将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?

自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。

●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか
『そう思う』(2)

イギリス70.1%、
アメリカ67.5%、
フランス62.3%、
日本47.2%、
韓国41.2%

++++++++++以上、内閣府、平成21年調査より++++++++++

●親のめんどう

 「将来どんなことをしてでも親のめんどうをみる」と答えた若者は、日本人の
ばあい、28・3%しかしない。
たいていは「経済的に余裕があれば……」という条件をつけている。
しかし「経済的余裕」とは何か。
みな、それぞれに目一杯の生活をしている。
経済的余裕がある人など、いない。
言い替えると、「親のめんどうはみない」ということになる。

 が、その一方で、「将来は子どもにめんどうをみてもらいたい」と。
上記(1)と(2)の数字をよく見比べてみてほしい。

 イギリス、アメリカ、フランスの若者たちの意識は、それぞれ拮抗(きっこう)
している。
「親の面倒はみる」「だから私たちもみてほしい」と。
が、日本のばあいは、かなり内容がちがう。

「親の面倒はみない」「しかし子どもには、めんどうをみてほしい」と。
つまり自分勝手。

 もう一度、上述、「28・3%」という数字と、「47・2%」という数字を
よく見比べてみてほしい。
これがそこにある「現実」ということになる。
だから私は言う。

『3度、頭をさげさせろ!』と。
私のばあい、息子たちには、それをさせなかった。

●ワイフの意見

 ただ残念なのは、この点については、私とワイフとでは、大きく意見がちがう
ということ。
ワイフは、「これでよかった」と、いつも言っている。
私が「ぼくは親バカだったよ」と言うたびに、「あなたが勝手にしたことでしょ!」と
言い返す。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
ワイフには、自分で働いたという経験がない。
実社会のきびしさを知らない。
これからの老後の資金についても、「お金は天から降ってくるもの」と思いこんでいる(?)。
だから、率直に言って、話にならない。

 が、私はちがう。
だから友人のS氏には、こう言った。
「ぼくは死ぬまで仕事ですよ」と。
あとはできれば、ピンポク。
その前日までピンピンと働いて、その日、ポックリと死ぬ。

私「ピンポクできれば、御の字ですよ」
S「そうですかア? 私はがんで死ぬほうがいいなア」
私「どうして?」
S「そのほうが時間をかけて、身の回りの整理ができるから……」と。

 同じように生きてきた世代だが、考え方は、人それぞれ。
みな、ちがう。
そう思いながら、私は電話を切った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 総理府 青年意識調査 将来親の面倒をみるか 親のめんどう 老後の親のめ
んどう はやし浩司 内閣府 意識調査)

 
Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【重い心】

私のばあいの解決法

+++++++++++++++++++++

このところ生きていることに、(重さ)を感ずる
ようになった。
「石を引きずるよう」とか、「足が重い」というのでは
ない。
それとは少し意味がちがう。
生きていることに、ある種の負担感を覚えるように
なった。

+++++++++++++++++++++

●10年

 「生きなければ・・・」という思いは強い。
が、その一方で、「同じことを繰り返して、何になるのか?」という
思いが、心をふさぐ。
たとえばどこかのだれかが、私にこう言ったとする。
「うちの会社へ来なさい。10年がんばれば、課長にしてあげる」と。

 今の私なら、いくら生活に困っていても、即座に、その申し出を断る
だろう。
そんなところで、10年も過ごしたくない。
若いころならともかくも、これからの10年は、金の砂時計のようなもの。
刻一刻と、「命」は短くなっていく。
金銭的な尺度で、その価値を測ることはできない。
それに・・・。
「課長になったところで、それがどうなのか?」と。

●回顧性

 が、その一方で、「このままでいいのか」「何かできるはず」
という思いも、これまた強い。
人生に対する悔恨の念も生まれつつある。
「あのとき、ああすればよかった」「こうすればよかった」と。

 若いころは、前しか見なかった。
「見えなかった」と書くほうが正確かもしれない。
だから失敗をしても、「取り返せばいい」とか、「やり直そう」とか、
そんなふうに考えた。
またそんなふうに考えることによって、失敗を乗り越えることができた。
が、今は、ちがう。
ちがうから、どうしても過去を振り返ってしまう。

 心理学の世界でも、老齢期になればなるほど、回顧性が強くなると
教える。
「回顧性」といっても、過去をただ懐かしむというのではない。
そこには当然、「悔恨の念」も含まれる。
それには理由がある。

●気力

 気力は、体力に比例する。
東洋医学(漢方)では、気力と体力を区別しない。
つまり若いころは、精神のもろさを、気力でカバーすることができた。
何かつらいことや、さみしいことがあっても、気力でそれを乗り越える
ことができた。
が、気力が弱くなると、精神のもろさが、そのまま表に出てきてしまう。
そのため私のように、もともと落ち込みやすい人間は、ふとしたことで
すぐ落ち込んでしまう。
しかもその回数、程度が、加齢とともに、多くなり、深くなってきた。

 が、何よりもこわいのは、気力の陰に隠れていた邪悪な人間性が、
そのまま表に出てきてしまうこと。
このことは、近くの老人を観察してみるとよくわかる。

●脳みその底の穴

 精神的な進歩は、何歳まで期待できるか?
いろいろな説があるが、生活が定型化すると、そこで進歩は止まる。
そう考えてよい。
ものの考え方が保守的になり、さらにひどくなると、殻の中に閉じこもるよう
になる。
が、それだけではない。
進歩が止まると、その瞬間から、脳みその底に穴があいたような状態に
なる。
知恵や知識が、どんどんと外にこぼれ出て行く。
つまりその時点から、進歩は止まるどころか退化する。
健康論に似ている。
究極の健康法がないのと同じように、究極の精神鍛錬法というのはない。
日常の運動をやめたとたん、その人の健康は、下り坂に向かう。

●現状維持

 だからただ精進あるのみ、ということになる。
死ぬまで運動。
死ぬまで学習。
が、いくらそれがわかっていても、このところそういう自分に疲れを
覚えるようになった。
それが冒頭に書いた、(重さ)につながる。

「だからそれがどうしたの?」と自問したとき、その答がはね返って
こない。
現状維持だけで精一杯。
だったら、この先、このまま生きていてどうなるのか、と。
ものごとを、そういうふうに考えてしまう。

●もうひとつの問題

 実は、私にはもうひとつ問題がある。
(表の私)とは別に、心の中にもうひとり、(抑圧された私)がいる。
この(抑圧された私)が、ときどき顔を出して、別人格になって現れる。
(表の私)を私Aとし、(抑圧された私)を私Bとする。

 私Aと私Bは、性格が正反対。
私Aは、さみしがり屋で孤独。
私Bは、自信に満ち溢れ(?)、孤独に強い。
ときとばあいに応じて、私Aが私Bになったり、私Bが私Aになったり
する。

・・・というか、自分で自分を使い分ける。
何かいやなことがつづくと、私は私Bになる。
心の中で、割り切ってしまう。
そういう点では、冷酷になる。

 が、本来の私は、私A。
自分でもそれがよくわかっている。
わかっているから、私Bであったときの自分を、よく後悔する。
「どうしてあんなことを、したのか!」と。

●束縛感

 では、どうすればいいか?
本来なら、自分にまつわる「糸」を取り外すのがよい。
子育ても終わった。
親の最期もみたし、実家にもケリをつけた。
「人」としてやるべきことは、すべてした。
が、いまだに束縛感を覚える。
その束縛感も、(重さ)につながっている。

 が、自由がよいかというと、そうでもない。
私の中には、私Aがいる。
その私Aが、迷う。
自由を求めながら、ではひとり(=独り)で生きていかれるかというと、
どうもその自信がない。
ないから、妥協する。

●あきらめ

 妥協は常に寛容を要求する。
「妥協」というのは、基本的に「自分をねじ曲げること」を意味する。
一方、「寛容」というのは、基本的に「相手を受け入れること」を意味する。
方向は逆だが、中身はよく似ている。

 ・・・ここまでを中学2年生のNさんに話したら、Nさんはこう言った。
「どちらも、あきらめることね」と。
鋭いことを言う。
しかしそれには多大なエネルギーを必要とする。
ふつうの人なら、それほど長くは耐えられない。
それに妥協するにせよ、寛容であるにせよ、そこにいたるには、長くて
苦しい人生経験が必要。
言葉の問題ではない。
つまり口先だけで、できることではない。

●総決算

 結局は私が感じている(重さ)というのは、人生の総決算としての
(重さ)をいう。
このところよく、「私の人生は何だったのか」とよく考える。
が、いつも答がない。
「何かをした」という実感がない。
ないまままた同じことを繰り返す。
「これではよくない」と思いつつ、一日が終わってみると、やはり同じ。
それが日々に、水垢(みずあか)のように、心の中にたまっていく。

 このやるせなさ。
この無力感。
だからといって、未来は暗いまま。

●死への希望?

 そういえば、数日前、映画評論家のX氏が自殺した。
日本テレビの11PMという番組の中で、映画評論をしていた。
スタジオのそでで、ときどき彼の評論を聞いたことがある。
が、年齢を聞いて、驚いた。
まだ66歳だったという。
当時は、私よりずいぶんと年上と思っていた。
「いろいろあったんだろうな」と思ったところで、思考停止。
「明日はわが身かな?」と思う。

 だからときどきこう思う。
「この重みから逃れるには、死ぬしかないのか」と。
まだ(重み)が小さいからよいようなものの、これが耐えられないほど
までに大きくなったら・・・。
私だって、「死ねば楽になれる」と思うようになるかもしれない。

●希死願望 

 毎年、自殺者が3万人を超えている。
そのうち40%以上が、40〜50代の中高年層という。
最近は、60歳以上の自殺者がふえている。

 こうした自殺者についていうなら、これはあくまでも私の経験だが、2人の自分が、
心の中で葛藤する。
「生きなければ」と考える自分。
「楽になりたい」という自分。

こうした2つのエネルギーが真正面からぶつかったとき、行動が自暴自棄になる。
私のばあいは、無謀とわかっていても、炎天下、10キロ、20キロの道のりを
歩いたりする。
歩くことによって、2人の自分を忘れようとする。
が、この程度ならまだ軽症。
ひどくなると、明らかな自傷行為に走るようになる。
それが最終的には、自殺につながっていく?

●解決法

 ともあれ(重み)を感じたら、気分転換あるのみ。
気分転換をして、気分を晴らす。
「重い」「重い」と思っていると、かえってそれがどんどんと重くなってしまう。
またそう思ったところで、何も問題は解決しない。
へたをすれば、そのまま(うつ状態)に。

 旅行、温泉、買い物、人に会う……。
いろいろ考える。
「どれをするか?」という問題ではない。
片っ端から、すべてをする。

 ということで昨日(8月4日)は、30年来の知人の家で、数時間を過ごさせて
もらった。
それから孫の誠司に、DS・LLを買ってやった。
おとといの夜は、ドライブの途中でビジネスホテルに一泊した。
今の時期だと、2人で5800円(朝食付き)で泊まれる。
……などなど。
が、いちばん効果的なのは、子ども(生徒)たちと、ワイワイと騒ぐこと。
その瞬間、気分がカラッと変わる。

 どうであるにせよ、ともかくも、私は生きていかねばならない。
今までも、ずっとそうしてきた。
これからもそうする。
ということで、今日も始まった。
2010年8月5日、午前6時25分。
これから朝風呂に入る。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【長寿国の崩壊?】(韓国、アメリカにみる「ひがみ節」)

●単純な数学もわからない韓国人

 韓国の新聞各社は、1面トップでこう報じた。
「長寿国、日本は崩壊した!」と。

現在、日本人の平均寿命は、世界一。
それを評して、「日本の平均寿命は、虚構だった」と。
今回の一連の、高齢者行方不明事件にからんでの報道だった。

で、中には、年金をそのまま受け取りつづけていた
遺族もいたという。
「詐取」というわけでもないだろう。
詐取する意図のないまま、結果的に詐取した人もいる。
だから「年金詐取事件」と位置づけるわけにはいかない。
しかしグレーはグレー。

中には親の消息を知らないまま、20年近く、親の年金を
受け取りつづけていた人もいたという。

つまりそれを受けて、「長寿国、日本は崩壊した」
(朝鮮N報、東亜N報、ほか)と。

 バカめ!
韓国の新聞のレベルの低さは、経済欄を読んだだけでも
わかるが、ここまでレベルが低いとは思っていなかった。
小学6年で学ぶ平均値の出しかたすら、わかっていない。

●平均寿命

 平均寿命の計算方法は、積分を使った複雑な公式で計算する。
が、単純には、その年に死亡届のあった人の年齢を合計し、
それを死亡者数で割って計算すればよい(注※)。

もう少し詳しく書くと、こうなる。

 過去の日本人の死亡年齢のデータ(人口動態調査)を元に、
X歳の人が、あと何年生きられるかを計算したものを「平均余命」という。
0歳の人があと何年生きられるかを示したのを、「平均寿命」という。

どうであるにせよ、基本は、「死亡年齢のデータ」である。

どこのバカが、現在生きている人の年齢を合計し、
生きている人の数で割るか!
あきれてものも言えないというか、反論するのも
バカバカしい!

 つまり死亡届の出ていない人の年齢は、もとから
平均寿命の算出のデータには、使われていない。
今回の一連の事件のように、死亡届が出ていない人は、
はじめから平均寿命の基礎データの中には、組み込まれていない。
つまりいくらそういう人がいても、平均寿命の計算には影響を与えない。

百歩譲って仮にそういう超高齢者が、100人単位で
いたとしても、平均寿命には、ほとんど影響を与えない。
誤差の範囲ということになる。
現在、全国で、こうした老人がつぎつぎと見つかっている。
が、全体でも、1000人を超えることはない(注※)。
仮に超えたとしても、その1000人の人たちもやはり、平均寿命
前後に死んでいるはず。

(仮に行方不明者たちが、平均寿命より極端に低い年齢で死んでいたとしたら、
平均寿命は低くなる可能性はある。
しかしそれでも誤差の範囲。)

つまりどこからどう考えても、平均寿命は平均寿命。
それがどうして「長寿国、日本は崩壊した」となるのか?

●韓国人のひがみ節

 今回の大騒ぎを見ていると、その向こうに、韓国人独特のあの
ひがみ節が見え隠れする。
あの国の人たちは、何かにつけて、ひがみやすい。
「日本海」を「東海」と呼ぶのもそうだ。
韓国にとっては、たしかに「東海」かもしれないが、何も韓国が
世界の中心に位置するわけではない。
よほど「日本」が憎いらしい。
韓国政府は、世界中に特使まで派遣し、「日本海」を「東海」に
置き換えさせようとしている。

で、その前に言っておきたいことがある。

 平均寿命などというものは、あくまでも結果。
医療技術、医療環境の充実の結果として、平均寿命は延びる。
平均寿命などというものは、ごまかしたところで、意味はない。
またそれをもって、その国の誇りとしても、意味はない。
日本は日本で、毎年平均寿命を公表するが、それでもって日本が
威張ったことは、一度もない。

●乳幼児の死亡率

 むしろ平均寿命は、乳幼児の死亡率によって大きく影響を受ける。
また本当の問題は、そこにある。
というのも、日本における乳幼児の死亡率はたしかに低い。
しかしその裏で、「流産」という形で、多くの奇形胎児が、
闇から闇へと葬られている。
親の身勝手な判断による、妊娠中絶の数を入れたら、もっと多い。

 無論、日本が韓国に対して、「日本の医療技術は、君たちのよりすぐれている」
などと言ったことは、一度もない。
そんなことは最初からわかりきったこと。
もとから韓国など、相手にしていない。
むしろ韓国人の平均寿命が年々延び、北朝鮮人のそれと、20年近くも
差ができたことに驚く。

 つまりこうした報道そのものが、韓国人独特の、あの「ひがみ節」の表れ
ということになる。

●希薄になる親子関係

 今回の「高齢者行方不明事件」で、むしろ日本人の私たちが驚くのは、
親子関係の希薄さである。
「親とは20年以上も前に生き別れになりました」「その後、生きているか
死んでいるか、わかりませんでした」と。
多くは年金だけを、そのまま受け取っていた。
これが平均的な事件のあらましである。

 で、自分の子どもが行方不明になれば、親は、必死になってその消息を
求める。
が、一方、子どものほうは、「20年以上も前に生き別れました」と。
こんなバカげた一方通行が、ほかにどこにある?
(あるいはそういうことにして、年金を受け取りつづけていた?)
あるいは親子というのは、もともとそういうものなのか。
またそう考えてよいのか。

 むしろ問題とすべきは、そちらのほうではないのか。
ついおとといも書いたが、この点、日本と韓国は、双子国と
揶揄(やゆ)されるほど、中身がよく似ている。
日本人の親子関係も希薄なら、韓国人の親子関係も希薄。
もう一度、日本の内閣府がした調査結果を、よく見比べてみてほしい。

+++++++++++++++

●第8回世界青年意識調査より

(将来、親のめんどうをみるか?)

年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。

★年老いた親を養うことについてどう思うか

『どんなことをしてでも親を養う』(1)

イギリス66.0%、
アメリカ63.5%、
フランス50.8%、
韓国35.2%、
日本28.3%

★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?

自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。

★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか
『そう思う』(2)

イギリス70.1%、
アメリカ67.5%、
フランス62.3%、
日本47.2%、
韓国41.2%

(以上、内閣府、平成21年調査より)

+++++++++++++++

●アメリカのばあい

 同じく「ひがみ節」だが、アメリカのひがみ節も、すごい!
あの一連のプリウス(TOYOTA車)の急加速問題は、マスコミに
よるでっちあげだったということが、このところ「急加速的に」
はっきりしてきた。

 が、この問題は、最初からおかしかった。
というのも、アメリカの公式な統計によっても、交通事故の95%は、
運転手の操作ミスということがわかっている。
残りの5%が、車の欠陥による。
GMもフォードもない。
もちろんTOYOTAもない。
が、TOYOTAだけは、100%、車の欠陥によるものという。
その基本的な発想そのものが、おかしい。
(実際には、100%とは言っていないが・・・。
しかしそういう前提で、あのTOYOTAバッシングが始まった。)

それについて今朝のForbs誌は、つぎのように書いている。
たいへん重要な内容を含んでいるので、日本経済新聞社の記事を
そのまま紹介させてもらう。

これを読んでアメリカの良識を疑わない人は、いないだろう。
何よりもおかしなことは、こうした急加速問題は、この
日本では1例も起きていないということ。
そのことを念頭に、つぎの記事を読んでみてほしい。

+++++++++以下、Forbs誌より+++++++++++

 米国で広がったトヨタ車欠陥騒ぎが、そろそろ幕引きとなりそうだ。トヨタ車が急加速した事
故・事例が、フロアマットのずれか、運転者によるブレーキとアクセルの踏み間違いのいずれ
かで説明できることを示す証拠が続々と積み上がっている。つまり、米メディアはこの1年足ら
ずのあいだ、実在しないものを追いかけ回し、米国の消費者と議会を混乱させてきたといえ
る。

 我々に今こそ必要なのはウッドワード氏やバーンスタイン氏(ウォーターゲート事件などを暴
いたワシントンポスト紙の敏腕記者)のようなジャーナリストなのに、彼らはいったいどこに行っ
てしまったのか?不意の急加速が原因とされた死亡事故について、少しでも事実が検証され
るべきではなかったか?

 読者諸氏は、サンディエゴ近くのフリーウエイで暴走した「プリウス」の話を覚えているだろう
か。3月のForbes.comでその記事を読んだ私は、運転者がメディアに対して話したことの大半
について、ばかげていると感じたものだ。彼の主張によると、シフトレバーをニュートラルに動
かそうとしたが「怖くて」できなかった、それは両手をハンドルから離してはいけないと思ったか
らだ、という。だが運転中に彼が携帯電話を手にしていたことについては誰も尋ねなかった。

 同じようにメディアはそろいもそろって、不意の急加速が原因とされる事故の死亡者数に焦
点を当てるあまり(現時点では75件の事故で93人とされる)、厳密な事故調査はおろか、事故
の具体的な内容に注目することさえしていない。もしそうしていれば、記者たちも私が発見した
ことを伝えられたはずだ。つまり主張の多くは根拠のないこじつけであり、一部の事故は起き
てさえいないということを。

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、不意の加速が原因とされる死者数のリストについて
「(被害者側の)申し立てによる」という言葉を使用している。だがこのただし書きに見向きもし
ない記者が多過ぎる。例えばUSニューズ&ワールド・リポート誌電子版は堂々と、「トヨタ車の
不意の加速により89人が死亡 NHTSA発表」と報じた。ロサンゼルス・タイムズ紙の見出し
は、急加速が死に「つながった」と書いた。またニューヨーク・ポスト紙は早い段階で欠陥トヨタ
車が52人を「殺した」という見出しを掲げ、同様にCBSニュースのウェブサイトはAP通信の伝
えるところとして、アクセルの欠陥により89人が「殺された」と伝えた。
(USAトゥデーはこの根拠の薄弱な因果関係を強調することに他社より慎重な姿勢をとってい
た。)

+++++++++以上、Forbs誌より+++++++++++

●プリウス効果?

 が、このときも韓国は、・・・つまりアメリカがプリウス問題で
騒いでいたころ、それを「プリウス効果」と呼んでいた。
「千載一遇のチャンス」と喜んでいた。
TOYOTAからH社(韓国製の車)に乗り換えたばあいは、1000
ドルの値引きをするというキャンペーンも始めた。

が、TOYOTAの社長がアメリカ議会で謝罪するころになると、
「プリウス効果はそれほど長くはつづかないのでは・・・」という、
実に韓国的な危惧へとつながっていった。

 さらに最近。
韓国は自前で気象衛星を打ち上げた。
が、それについても、「これからは日本の世話に、ならなくてすむ」と。

 今までさんざん世話になっておきながら、それはない。
またそんな礼の仕方はない。
一言、「日本のみなさん、今まで、ありがとうございました」くらいは
言ってもよいのでは?

●崩壊?

 「長寿国、日本」は、崩壊していない。
また崩壊するとかしなとかいう問題ではない。
「崩壊」という言葉そのものに、なじまない。
あえて言うなら、韓国人も北朝鮮人も、「崩壊」という言葉が
よほど好きと見える。

あのマンビョン号(北朝鮮の定期船)が、日本と北朝鮮の間を
行き来していたころのこと。
在日朝鮮人の大学生たちは船の中で、「♪(日本が)崩壊する、♪崩壊する」
と、うれしそうに歌っていた(テレビ報道)。
詳しくは知らないが、在日朝鮮人の間では、そういう歌が歌われているらしい。

・・・ということで、かなり反韓国感情をかきたてるような原稿を
書いたが、韓国という国はそういう国であるということを、忘れて
はいけない。


(以下、参考) 

(注1)人口統計では、定常な(対象となる年の各年齢の死亡率が今後も維持される仮想的な)
個体群について平均寿命を求める。つまり、平均寿命とは0歳の平均余命のことをいう。

(注2)厚生労働省の発表によれば、2009年の日本人の平均寿命は、男性79.59歳、女性86.
44歳。

(注3)過去の日本人の死亡年齢のデータ(人口動態調査)を元に、X歳の人が後何年生きら
れるかを計算したものを「平均余命」と言い,その内,0歳の人があと何年生きられるかを「平
均寿命」という。

つまり生命表における平均寿命とは、現在における死亡状況が今後変化しないと仮定したとき
に、今後出生する人が何年生きられるかという期待値ということになる。

(注※)以下、JiJicomの記事より

●東京、静岡など計9人が不明=100歳以上の高齢者

 東京都で高齢者の所在が不明となっていることが相次いで明らかになった問題で、新たに東
京都港区、荒川区、長野市、静岡県下田市、熱海市、名古屋市でも、住民登録している100
歳以上の住民計9人の所在が確認できていないことが3日、各自治体への取材で分かった。

 港区では、105歳の男性と女性の2人。男性については、3日夕妻に電話で確認したとこ
ろ、「数年前に家を出てどこにいるか分からない」と話したという。女性は外国籍で、2009年
に記念品を選んでもらうため職員が訪ねると、住民登録のある建物が壊されていた。荒川区
では、108歳と103歳のともに外国籍の男性2人。過去3年間、職員が接触した記録がない
上、外国人登録には家族は記載されないため、連絡を取る手段がないという。

 長野市では、県内最高齢の110歳の男性。06年度に職員が記念品を届けに行ったが会え
ず、3日に子どもに電話で尋ねると「10年以上一緒に暮らしていない。(静岡の)伊豆にいる」
と答えた。

 下田市では、06年に本人に会えなかった103歳の女性の自宅に、3日に職員が行き、娘に
事情を聞いた。娘は「7年前から行方不明。姉夫婦のところだと思うが、仲が悪く20年来音信
不通」と答えたという。熱海市では、102歳と100歳の女性の住民登録地がいずれもさら地に
なっていた。102歳の女性の長男を、職員が3日に訪問すると、「10年ほど前から行方不明。
警察に相談すると、愛媛の叔父宅にいると教えてくれた」と回答。しかし、確認はしていないと
いう。

 名古屋市でも、106歳の男性の住居がすでにさら地になり、所在が分からなくなっていた。
(2010/08/04-00:19)
(以上、JiJicomより)

(追記)

全国で高齢者の所在不明が相次いでいる問題で、新たに埼玉県草加市、岡山市、神奈川県
秦野市などで100歳以上の住民の所在が確認できていないことが4日、各自治体への取材で
明らかになった。

 埼玉県草加市では、一連の所在不明報道を受けて、市内の高齢者を調査。その結果、医療
保険や介護保険の利用実績がない101歳の男性がいることが判明した。男性の家族は、お
よそ20年前から行方が分からないと説明しているという。同鶴ケ島市では、102歳男性の所
在確認が取れていない。家族によると、少なくとも4年前から行方不明だという。

 愛知県津島市では、3日実施した調査の結果、100歳男性の所在が不明であることが分か
った。男性は昨年11月に兵庫県尼崎市から転入したことになっているが、住民登録地に当た
る義妹の自宅には住んでおらず、義妹も所在は知らないとしているという。

 岡山市では、3人の所在が不明。市によると、敬老記念品の贈呈のため08年に所在確認を
行ったが、住民登録地がさら地になっていたり、別の住民がいたりして、連絡が取れない状態
だった。

 秦野市では、104歳の男性の所在が分かっていない。市が2005年に高齢者への記念品を
贈ろうとしたところ、親族から辞退の申し出があり、「何年も家に帰ってきていない状態が続い
ている」との説明を受けたという。

 福岡市では、外国籍の101歳男性が不明で、民生委員が昨年9月に敬老祝い金を持って住
所地を訪問したが、別人が住んでいた。

 大分県臼杵市では、102歳女性の所在が確認できていない。住民票上は女性と同居してい
ることになっている妹は「40年以上前に仕事に行くと言って出て行った」と話しているという。

 このほか、東京都清瀬市で外国籍の104歳男性が、北海道岩見沢市で100歳の男女各1
人が所在不明となっている。(2010/08/04-13:34)
(以上、JiJicomより)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 長寿国日本 米高速道路交通安全局(NHTSA) TOYOTA 急加速問題 ひが
み節 韓国のひがみ節)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【子どもの見方・考え方】8月6日(2010)

++++++++++++++++++

暑い!
今日、1時間ほど、昼寝をした。
扇風機をかけて、寝た。
ふだんなら、爽快な気分で目が覚めるのだが、
今日はちがった。
軽い頭痛。
熱中症かもしれない。
部屋の中にいても、熱中症になる人はなる。
が、その程度の頭痛で休んではおれない。
起きてから水を1リットルあまり飲んだ。

で、そのあとそのまま自転車にまたがり、
教室まで。
幸い、乾いた風が吹いていた。
向かい風だったが、心地よかった。

明日から講演がつづく。
怠けた心と体では、講演はできない。
がんばろう!

++++++++++++++++++

●子どもの見方

 子どもを見るとき、『いい子ほど、心配』と覚えておくとよい。
もっとはっきり言えば、子どもに(いい子)は、いない。
「いい子」と感じたら、それは仮面と考えてよい。

 子どもは、子どもらしいこと。
すべてはそこに始まり、そこで終わる。
その年齢ごとに、発達段階に応じた変化を、子どもは見せる。
何に対しても否定的になったり(幼児期前期)、あるいは
あるいは生意気になったりする(幼児期後期)。
こうした変化を一足飛びに、飛び越えて、いきなりものわかりの
よい子どもになる・・・ということは、ありえない。
もしそうなら、先に書いた、仮面を疑う。

●不自然

 仮面をかぶっている子ども(人)は、どこか不自然。
バカ丁寧であったり、バカ親切であったりする。
「バカ」がつく。

 先日もある旅行社の女性と話をしていたとき、それを感じた。
営業用の仮面と言えば、そういうことになる。
バカの上に、バカがつくほど、丁寧だった。
が、そういう表面的な様子だけをみて、その女性はすばらしい人と
思ってはいけない。
人格的に完成された人と思ってはいけない。
心理学の世界にも、「原我」という言葉がある。
「本来の我」という意味である。
その女性は、「本来の我」を、営業用の顔、つまり
「自我」で覆い隠している。

●原我

 人はなぜ仮面をかぶるか。
それにはさまざまな理由と事情が、からんでいる。
前提として、原我が、その人にとって好ましいものでないと、
その人自身が判断していることがある。
つまり(好ましくない我)を隠すために、仮面をかぶる。
私は原我を、つぎの4つに分類している。

(1)邪悪な原我
(2)陰湿な原我
(3)攻撃的な原我
(4)劣等的な原我

 こうした原我を隠すために、仮面をかぶる。
たいていは本来の我とは、正反対の我を演ずる。
ケチな人が、妙に寛大ぶってみせたり、攻撃的な人が、不自然なほど
やさしくしてみせたりするなど。

が、それが仮面と本人が気づいている間は、まだよい。
仮面というのは、長くかぶっていると、仮面をかぶっていること
すら忘れてしまう。
反対に仮面をかぶった自分を、「本当の我」と思ってしまう。
これがこわい!
牧師や教師、医師など、聖職者と呼ばれる人に、このタイプの
人が多い。

●反動形成

 こうした一連の心理的操作を、「反動形成」と呼ぶ。
よくある例は、長男(長女)が、下の子ども(弟や妹)に見せる反動形成。
本当は下の子どもが憎くてしかたないのだが、それを表に出したら、
自分の立場がなくなってしまう。
そこで下の子に対して、妙にやさしく振舞ったり、親切にしたりする。
一見するとよい兄(姉)に見える。
が、原我は、そうでない。
下の子(弟、妹)が憎くてしかたない。
つまり本当の自分を押し殺して、別の自分を演ずる。
が、そのままではすまない。
それがときとばあいに応じて、爆発する。

●原我の爆発

 原我はときとして、爆発する。
こうした爆発を理解するためには、「抑圧」という言葉を知らなければ
ならない。
私は「心の中の別室」と呼んでいる。

 人間は、(ひょっとしたらあらゆる高等生物は)、何かの
ことで心が抑圧されると、心の中に別室を作り、そこに
別の自分を押し込めようとする。
たいていは不平や不満など。
つまり心の別室を作り、そこに不平や不満を押し込むことに
よって、本来の自分を守ろうとする。
心理学の世界でも、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を
使って説明する。
防衛機制のひとつに考えられている。

●抑圧された「我」

 が、抑圧された「我」は、ときとして爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」と。
「私の人生を返してヨ!」と。

 60歳、70歳になった老夫婦が、結婚当初の
ことをもちだして、夫婦喧嘩をするという例は、少なくない。
それこそ40年前、50年前の話を持ち出して、
喧嘩する。

 この「心の別室」には、(1)上書きが働かない。
(2)時効がない。

●記憶の上書き

 何かいやなことがあっても、そのあと楽しい思い出が
あれば、その前にあったいやなことは消える。
これを「記憶の上書き」という。

 が、心の別室に入った記憶は、ほかの心とは隔離されたままになる。
そのため上書きされるということがない。
そのあといくら楽しい思い出がつづいたとしても、そのままの状態で、
心の別室に残る。

●時効

 また心の別室に入った記憶には、時効が働かない。
時間の経緯とともに、記憶が薄れたり、あるいは消えたりする
ということがない。
30年、40年・・・という長い年月を経ても、そのまま
そこに残る。
だから「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」、
「私の人生を返してヨ!」となる。

●人形の家

 一見、いい子は、こうした心の別室を作りやすい。
抑圧された自分を、その中に閉じ込め、外の世界ではいい子ぶる。
それが日常化するため、まわりの人たちはもちろん、
本人自身も、それが本当の自分と思い込んでしまう。
が、それがその本人にとって不幸なものであるか。
それはイプセンの『人形の家』を読めば、わかる。

 だからここが重要だが、子どもは、まず発散させる。
ありのままを発散させる。
言いたいことを、大声で言わせる。
つまりこれが幼児教育の第一歩ということになる。

●すなおな子ども 

 よく誤解されるが、従順で、何でもおとなの指示に従う子どもを、
「すなおな子ども」というのではない。
心の状態(情意)と顔の表情が一致している子どもを、
「すなおな子ども」という。

 このタイプの子どもは、教えていても、教えやすい。
何をどう考えているか、外からわかりやすい。
が、そうでない子どももいる。

 一般に、「情緒障害児」と呼ばれている子どもは、
外から見たとき、何を考えているか、つかみにくい。
情意と表情が遊離している。
かん黙児、自閉症児など。
近年よく話題になる、アスペルガー児も、それに含まれる。

●態度

 心理学でいうところの「態度」というのは、その人の
外に現れた人生観などの、表象された「我」をいう。
が、一般的な意味では、その人の「様子」をいう。
どちらであるにせよ、子どものすなお度は、その態度を
見て判断する。

 すなおな子どもは、態度もでかい。
家の中でも、やりたいようにやっている。
言いたいことをいい、行動も表情も自然。
で、あなたの子どもがそうであれば、それでよし。
そうでなければ、家庭環境そのものを、一度、猛省してみる。

 とくに児童期に入ったら、「家庭は心を休める場所」と心得る。
どうして周囲に気をつかっていて、心を休めることが
できるだろうか。

●仮面夫婦

 ついでながら「抑圧」の恐ろしいのは、それだけではない。
たとえば「仮面夫婦」と呼ばれる夫婦がいる。
一見、仲がよい。
しかしその実、いつもたがいにいがみ合っている。

 こうした夫婦のばあい、それぞれが心の別室を作り、その中に
自分を押し込める。
本当は憎しみ合っているのに、表面的には、よい夫婦を演ずる。

 こういうケースのばあい、邪悪な「我」が、シャドウ(ユング)
となって、子どもに伝播しやすい。
つまり子どもは親の心を裏から読み、それをそっくりそのまま、
自分の心としてしまう。

 よくあるケースは、子どもたちがみな、母親のシャドウを受け継ぎ、
父親を軽蔑したり、忌み嫌ったりするなど。

●いい子ほど心配

 これで『いい子ほど心配』の意味がわかってもらえたことと思う。
そこにいい子がいたら、まず疑ってかかる。
というのも、その人の人格というものは、幾多の山や谷を越えて、
完成されるもの。

 そこらの子ども(失礼!)が、5歳や6歳、8歳や9歳で、
人格的に高邁(こうまい)になることなど、ありえない。
もしそう見えたら、繰り返すが、仮面を疑ってみる。
またどうして仮面をかぶっているか、その背景を疑ってみる。

 たいていは親の過干渉、過関心、あるいは親の情緒的不安定、
精神的未熟が原因となっている。
子どもの側からみて、抑圧された家庭環境がそこにある。

 子どもの見方のひとつとして、心のどこかにおいておくとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 いい子ほど心配 心の別室 抑圧 抑圧された心 よい子論 子どもの見方 考
え方)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug.2010+++++++++はやし浩司

●ある母親からの相談

++++++++++++++++++++

たまたま2人の母親から、同じような相談が
届いていた。
ひとつつは、掲示板に。
もうひとつは、相談フォームで。

++++++++++++++++++++

【Mさんより、はやし浩司へ】

娘の事です。
いじめとはちがうのかもしれませんが、
転校して初めの1週間は友達ができていたのですが、
みんな離れて行ってしまい、昼休み一人で過ごすことになっています。
ヒマになったら、トイレをしたくなるらしく、昼休み、下痢をしています。
学校には行きたくないと時々言います。
友達に入れてと言う勇気はありますが、「無理」と言われます。娘になにか問題があるのか?と
ても悩み、以前担任に聞いてみたら、一人ではないということでした。
娘の感じている孤独は、先生は知らないままで、「大丈夫」の一点張りです。
娘は宿題も手につかないし、悩みが深いので、それを見ている私はどうしたらいいのか、とても
恐怖を感じています。
私は短気で、感情的に娘を育ててきたことをとても後悔しています。
毎日が自己嫌悪の育児でした。娘の性格がおかしくなってしまったのかもしれません。
私自身、感情がコントロールできなくて、心療内科に通ったこともありますが、治らず、とても苦
しいです。
今、このような娘の問題を抱えると、自分の体が震えます。不安で不安で家事もできないほど
です。
もう一度、担任の先生に相談したいのですが、「モンスターペアレント」と思われたらどうしよ
う・・とか、心配症の親だけですまされそう・・・などと考えどうすることもできません。
昼休み、一人で過ごすことに、苦痛を抱えた娘は、もう、見守るしかないのか?
この状況を受け入れることを頑張って考えてみるのですが、なかなか頭をきりかえるのが、難
しく、説教でもいいので、どうかお返事をいただきたいです。
よろしくお願いいたします。(以上、原文のまま)

【はやし浩司よりMさんへ】

 どの家庭も、どの親子も、みな、うまくいっているようで、うまくいっていません。
こうした問題では、「私だけが……」とか、「私の娘だけが……」とかいうように、
悩んではいけません。
また悩む必要はありません。
みんなそうです。

またそうであるからといって、自分を責めてはいけません。
みんな懸命にがんばっています。
じゅうぶんすぎるほど、がんばっています。
が、どこかで小さな歯車が狂う。
狂ったまま、それが日々の積み重ねとなってしまう……。

たまたま掲示板のほうにも、こんな相談がありました(2010年8月)。
それをそのまま紹介させてもらいます。

+++++++++++++++++++++++

●掲示板へ

家族構成 祖父母・夫・私・娘(小3)息子(年中)
娘について相談させて下さい。

去年半年程不登校になり先生のHPを参考にスキンシップ、温かい無視など出来るだけ
実践し復学できるまでになりました。
それでもまだ私の顔色を見たり指示、許可を求めるところなど気になります。
私は怒鳴って叱りつけることはありませんが、育児の指針がなく不安定です。

二世帯住宅で同居している実の両親と話はしますが心を開くことができません。
両親共に許容範囲が狭く、干渉してきます。
両親は不仲で会話は全くありません。

私の子ども時代はTV一つにしても見る時間、番組、姿勢など細かく注意されてきした。
そういったことからくる潜在的意識なのか、
子どもがTVを見ているだけで許せなくなってしまう時があります。
そういった日によって違う子育てがよくないのは頭ではわかりますが
自分をコントロールできません。
経済的に別居は無理です。(一部改変)

+++++++++++++++++++++++++

●みんな不安なんですよ!

 こう見えても(?)、私も毎日、不安で孤独です。
正直に告白しますが、毎日、さみしいです。
何をしていても、さみしいです。
友だちも少なく、3人の息子もいますが、自分たちの生活で精一杯。
『便りのないのは、よい知らせ』とはいいますが、その便りも、数か月に1度あるか、
ないかだけ。

 このところ毎日のように、「私たちの子育ては、いったい何だったのか」と、よく考え
ます。
気がついてみたら、そこにはだれもいない。
がんばってきたはずなのに、その実感がない。
貯金も、子どもたちの学費で使い果たしてしまった。
「どうやって老後を過ごそうか?」を考える前に、「どうすればみなに、迷惑をかけないで
死ねるか?」。
そんなことばかりを考えています。

 が、幸いなことに、目が見える。
音が聞こえる。
歩くことも、自転車に乗ることもできる。
さらに幸いなことに、今の私は健康です。
したいことができます。
言い替えると、それ以上、私は何を望むことができるのでしょうか。

●ないものをさがさないで……

 Mさんにしても、掲示板に書き込みをくださった人も、(ないもの)を、
さがしてはいけません。
(ないもの)をねだってもいけません。
またそういう自分を、嘆いてもいけません。
(そこにあって、あなたに見つけてもらうのを、そっと待っているもの)を、
さがしてみるのです。
たくさんあるはずです。
またその価値に気づくのです。

 2人とも娘さんのことで悩んでおられれるようですね。
お子さんの年齢も、近いのでは?
お気持ちはわかりますが、「あそこが悪い」「ここが悪い」と考えていると、
視野がどんどんと狭くなってしまいます。
それともあなたは、自分の娘さんに、いったい、どうなってほしいのですか。
どうであれば、あなたは満足するのですか。

 私の印象では、あなたの娘さんがどうなっても、あなたの心配や不安は解消
されないと思います。
あなた自身が、(不平・不満)のかたまりだからです。
それが娘さんという対象に、「投影」しているだけ!

それが(心配)の種となって、あなたを悶々と苦しめている……。
わかりやすく言うと、自分の心の隙間を埋めるために、娘さんを利用しているだけ。
つまり娘さんには、どこにも問題はない!
よく見てください。
どこにも問題はない!

 健康でしょ!
あなたのそばにいるでしょ!
あなたと話をするでしょ!
心が通い合っているでしょ!

 なのにあなたは満足できない?

●夢と希望

 人は夢と希望をもって生きる動物です。
夢や希望がなかったら、生きていくことはできません。
が、どんな小さなものであって、夢や希望があれば、生きていくことができます。

 が、夢や希望は、向こうからやってくるものではありません。
自分で作るものです。

あなたは誤解していますよ。
あなたは娘さんのことを悩んでいます。
しかしそれはあなたの勝手です。
それ以上に、あなたの娘さんは、あの小さい心で、あなた以上に悩んでいます。
が、あなたは自分のことしか、考えていない。
自分だけが不幸だと思っている。
しかし本当に不幸なのは、娘さんのほうです。

 だからあなたが娘さんに言うべき言葉は、「〜〜しなさい」ではなく、「あなたも
苦しいのね」と、娘さんの立場に立つことです。
くだらない親意識は、捨てなさい。
上下意識は捨てなさい。
あなたが心を開かないで、どうして娘さんが、心を開くことができるでしょうか。

 もう一度、あなた自身が自分の人生を送るつもりで、……つまりあなたが送りたかった
人生を再現する形で、娘さんと人生を共にすればよいのです。
あなたは子どものころ、どんなことをしたかったですか?
あなたの母親に、どんなことをしてもらいたかったですか?

 それを今、実行すればよいのです。
思い切ってやればいいのです。
今のあなたなら、それができるはずです。
せっかくのチャンスでは、ないですか!

 はっきり言いましょう。
「学校へ行きたくない」と娘さんが言ったら、あなたもこう言えばよいのです。
「私も行きたくなかった」と。
「行きたくなかったら、行かなくてもいいのよ。無理をしないでね」と。

それともあなたは優等生で、一流高校、一流大学を出ていますか?
そうでないと思います。

 あまり気負わないで、肩の力を抜いて、娘さんといっしょに遊びなさい!
人生を楽しみなさい!
学校、学校といいますが、中身は、どうせつまらない(勉強)ですから……。

●運命を受け入れる

 あなたは苦しんでいる。
しかしそういう親のほうが、真の愛に近いのですよ。
中には、幸運にも(?)、何も問題なく子育てする人もいます。
数は少ないですが、います。
しかしそういう人は、ただの親から、ただの人で終わってしまう……。
その苦労の最中には、苦しいことかもしれません。
「どうして私だけが……」と思うものです。

 しかしだからこそ、それを乗り越えたとき、あなたはその先に、広い平原を見ること
ができます。
どこまでも広く、おおらかな平原です。
無数のドラマもそこから生まれます。
そのドラマにこそ、生きる価値があるのです。

つまり、子育ても山登りに似ています。
登るときは苦しいですが、登り切ったときの達成感がすばらしい。
だから登山家たちは、山に登るのです。

 ただひとつ条件があります。
いやいや登ってはいけません。
楽しんで登るのです。
が、今のあなたは、何を見ても、「いやいや」ですね。
では、そういうときは、どうするか?
方法は簡単です。

 『運命は受け入れ、居直るのです』。

●運命
  
 運命論については、たびたび書いてきました。
私たちの体には、無数の「糸」がからみついています。
社会の糸、家庭の糸、家族の糸、親子の糸、過去の糸、両親の糸などなど。
そういった糸が無数にからんで、私たちの進むべき方向を決めてしまいます。
ときに私たちを望まない方向に、引っ張っていってしまう。
それが「運命」です。

 そうした運命を感じたら、「あきらめ、受け入れる」。
娘さんのことについて言うなら、「ようし、十字架のひとつやふたつ、背負ってやる」と
宣言してみてください。
娘さんの悩みや苦しみを、共有するのです。
とたん、気が楽になりますよ。
気が晴れますよ。
その先に、道が見えてきます。

 運命というのは、それに逆らえば、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。
しかしいったん、受け入れてしまえば、運命はシッポを巻いて向こうから去っていきます。
運命というのは、そういうものです。

 あなたは今、何か病気をしていますか?
どこか具合が悪いですか?
が、もしそうでないなら、今、ここに元気で生きていることを喜びなさい。
まだ若いですよ。
36歳というと、もっとも輝いている年齢です。
こんなことを書くと不謹慎かもしれませんが、女性にしても、もっとも美しくなる年齢
です。

 だからあなたも心を開いて、通りを歩いてみればよいのです。
私は見える。
私は聞こえる。
私は歩くことができる、と。

 そのすばらしさに、もっとすなおに感動してみてください。
生きていることの、すばらしさに、もっとすなおに感動してみてください。
とたん、娘さんの問題など、どこかへ消えてなくなりますよ!

●あとは……

 あとは愛情。
「私はどんなことがあっても、あなたを守ってあげますよ」と。
口に出して言うことでもないですが、その覚悟だけはしっかりともち、(仮にあなたが
今、娘さんに愛を感じていなくても……)、あとは娘さんを、その愛情でくるんで
あげます。

『暖かい無視』というのは、そういう意味です。

 そしてここが重要ですが、(1)やり過ぎないこと。
(2)求めてきたときが与えどきと心得ること。
(何かを相談してきたら、そのときは、真剣に応じてあげる。)
(3)娘さんから視点をはずし、あなたはあなたで、したいことをする、です。

 私も毎日、ささやかな夢と希望を作りながら、生きています。
たまたま明後日もある地区で講演会があります。
みなに拍手で迎えられ、拍手で見送られます。
見た目には、派手な生活ですが、講演をする私自身は、孤独です。
そこに200人いようが、1000人いようが、孤独です。
心の隙間を埋めることはできません。
また私自身がかかえている問題については、何一つ、役に立ちません。
講演をするからといって、孤独が癒されるということはないということです。

 ただゆいいつの楽しみは、たいてい最後列で、ワイフが私を見ていることです。
私はそういうワイフの顔をチラチラ見ながら、話します。
それだけが希望です。

 またこの9月には、40年来の友人が我が家に来ます。
オーストラリア人です。
学生時代、2人で、オーストラリアの夏を過ごしたことがあります。
が、最近がんを患い、日本へやってきます。
1か月の滞在になるのか、3か月の滞在になるのかは、わかりません。
しかし私は彼が「帰る」というまで、我が家に泊めてあげるつもりでいます。
「いたいだけ、いていいよ」と、メールには書きました。
それが希望です。
私にとっては、希望です。

●Mさんへ

 人生は短いですよ!
あっという間に終わりますよ。
だったら、今、ここで人生を楽しむのです。
娘さんといっしょに、楽しむのです。
心を開いて、娘さんといっしょに、外に向かって歩くのです。
自由の空気を思う存分、吸い込むのです。
体はあとからついてきます。

 あなたの娘さんは、すばらしい子どもですよ。
どこかのドラ娘たちとは、ちがうでしょ。
繰り返しになりますが、このメールを読み終えたら、あなたの娘さんにこう言って
あげてください。

「お母さんも苦しかったけど、あなたも苦しかったのね。ごめんね」
「お母さんがつらかった以上に、あなたもつらかったのね。ごめんね」と。
負けを認めます。
つっぱっていないで、すなおに負けを認めます。

 それですべての問題は解決しますよ。
……というか、何も問題はありませんよ!


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●8月10日(私の墓石)

++++++++++++++++++++

昨日、ホームページ作成ソフトを購入した。
S社で出している、「ホームページZERO」
というのが、それ。
深く考えて買ったわけではない。
「そろそろ……」と思って、買った。

というのも、私が使っているソフトは、I社の
「Ninja9」という名前のソフト。
初代、2代目、3代目……と使いこなし、最後は、
「Ninja9」。
が、そこでI社は倒産。
XP対応版のままで、終わってしまった。
が、現在も私はそのまま「Ninja9」というソフトを
使いつづけている。

が、以後、不便なこと、しきり。
ビスタ・マシンから、セブン・マシンへ……。
OSが変わった。
そのつどNinja9をだましだまし、使っている。
(Ninja9は、ビスタ、セブンには対応していない。)

で、「これではいけない」と思いつつ、一度、IBM社の
「ホームページビルダー」を購入。
しかし使い勝手が悪かった。
……というか、私とは相性が合わなかった。
「ホームページビルダー」は、そのまま本棚へ。
(ソフトにも相性というのがある。)

で、昨日、「ホームページZERO」を購入。
たまたま立ち寄ったパソコンショップでの、衝動買い。
「そろそろ新しいソフトに乗り換えなくては……」と。

が、パッケージを開いて、思わず笑ってしまった。
あのNinjaシリーズが、そのままS社で、生きていた。
進化していた!
知らなかった!
使い勝手は、基本的にはNinjaシリーズと同じ。
つまりI社は倒産したが、そこで販売していた
Ninjaは、S社の「ホームページZERO」に、
そのまま引き継がれていた。

うれしかった。
とたん、創作意欲がモリモリとわいてきた。
夏休みもちょうど1週間、ある。
その間に、新しいソフトを使って、ホームページを
開設してみよう。
……ということで、今日も始まった。
まだあくびが出るが、そのうち頭もすっきりして
くるだろう。

+++++++++++++++++++++

●ホームページ

 「ホームページの時代は終わった」と説く人もいる。
たしかにそうかもしれない。
店の宣伝程度には活躍しているが、その程度。
今や、blog全盛期。
TWITTERという、わけのわからないサービスも人気がある。

 終わったといえば、インターネットマガジン。
今でもときどき、「マガジンを購読してくれたら、ポイントをさしあげます」という
店に出会うことがある。
個人の店や、飲食店に多い。
私もEマガとメルマガ、それに有料のマグプレの3誌を発行しているが、この数年、
読者は、ほとんどふえていない。
現在は、「出している」というだけ。
私のワイフですら、当初は毎回読んでくれていたが、今は、1週間に1回程度。
あるいはそれ以下(?)。

 そういう流れの中での、ホームページ。
「ホームページZERO」のパッケージも、パソコンショップの隅で、ほこりを
かぶっていた。

●BW公開教室

 今、もっとも力を入れているのが、「BW公開教室」。
毎回幼児教室をビデオに収め、それをYOUTUBEのアプロードしている。
現在、その数、2300本あまり。
当初は閲覧者もほとんどいなかったが、最近になって、急にふえてきた。
あちこちのポータルサイトが取りあげてくれるようになった。
日本だけではない。

……というか、世界中のポータルサイトが取りあげてくれるようになった。
毎日、10か所前後のポータルサイトが、名前を連ねる。
(Googleアラートというサービスを使うと、それがわかるしくみになっている。)
たぶん、外国の人たちは、私の公開教室を使って、日本語の勉強に利用しているの
ではないか?
私は勝手にそう解釈している。

 その「BW公開教室」も、私のホームページ上で紹介している。
興味のある人は、
http://bwhayashi.cool.ne.jp/index.html
を訪れてみてほしい。

 ……ということで、私はホームページ(以下、HP)を自分の生きがいにしている。
(流れ)が変わったからといって、ここでHPをやめるわけにはいかない。

●墓石?

 私は自分のHPを、「墓石」と位置づけている。
墓石といっても、「墓」ではなく、映画『2001年宇宙の旅』の冒頭に出てきたような、
モノリス。
日本語に訳せば、「一本石」。
「記念碑」でもよいし、「書籍ルーム」でもよい。

 原稿の量にしても、40字x36行換算で、約40000(4万)ページ近くになる。
単行本1冊の分量(文量?)が120〜140ページだから、軽く300冊分という
ことになる。
(300冊だぞ!)
それだけが私のHPの中に、ぎっしりと詰まっている。

 で、ときどきこう考える。
「私が死んだ後も、原稿は残るだろうか?」と。
が、この世界は冷酷。
「金の切れ目が縁の切れ目」。
会費を払わなければ、HPはそのまま閉鎖される。
無料のHPサービス会社にしても、この世界は浮き沈みがはげしい。
プラス、「3か月更新がなければ閉鎖」とか、「アクセス数が3か月ゼロのばあいは
閉鎖」とか、そういう条件を並べている。
先に書いたYOUTUBEにしても、いつどのような運命をたどるか、それは
だれにもわからない。

 だから私が死んだ後、年々、20%ずつ原稿が消されていくとして、数年後には
半分。
さらにその数年後には、その半分。
10年を待たずして、10分の1以下。

 墓石だってボロボロになるように、私のHPも、やがて消える。
まあ、10年も残れば、御の字。
そのうち(はやし浩司)の名前も消える。

 それはそれとして、だから私はこう思う。
とくに私の息子たちや孫たちについてだが、いつか墓参りをしたいと思ったら、
(そういうことはないと思うが)、私の書いた文を読んでほしい、と。
だから私はあえて「墓石」という言葉を使う。
「私のHPは、私の墓石」と。

 この夏休みを使って、私はまたまた新しい墓石を立てる。

2010年8月10日朝・記


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●真夏の夜の大ロマン(宇宙人は、私たちに何をしたのか?)

+++++++++++++++++

以前、ドレイクの公式について
書いた。(2009年11月)
「宇宙人が存在する確率」を求める公式
ということになる。

そのドレイクの公式について、もう
一度、考えてみたい。

その前に、以前書いた原稿を、再掲載
する。

++++++++++++++++++

●知的生命体

 先日、ある本を読んだ。
それには、こうあった。

現在、文明が存在する確率は、銀河系(銀河系だぞ!)、
20個の銀河につき、1個分程度だそうだ(「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP))。
つまりこの地球に、われわれ地球人という知的生物(?)がいるということは、
この銀河系には、ほかに文明を築くほどの知的生物は、ほぼいないということになる。
が、それでも、この大宇宙には、数千億個の銀河系があるから、全体では、
約50万個以上の知生体文明があることになるという。

 50万個以上! (すごいね!)

 この計算の基礎になっているのが、ドレイクの法則。
つまり「銀河文明の法則」と呼ばれているものだそうだ(同書)。

N=RfL

R; 銀河系で1年間に生まれる星の数
f;1つの星のまわりに知生体が生まれる確率
L; 知生体の文明が存続する年数

 が、この計算には、重大な欠陥がある。
つまり、「自滅指数」。
それを組み込んでいない。

 人間が知的生物かどうかという議論はさておき、知的生物は、その進化の過程で
エネルギーを大量に消費するようになる。
そのとき環境を破壊する。
かつての火星がそうだったかもしれない。
あるいは現在の地球がそうかもしれない。
結果、知的生物は、そのまま自滅する。

 そこで知的生物が、宇宙へ飛び出す確率となると、きわめて少ない……というより、
惑星の大きさに比例することになる。
それが「自滅指数」ということになる。

 惑星が小さければ小さいほど、環境破壊が起こりやすくなる。
そのため知的生物がいたとしても、宇宙へ飛び出すほどまで、じゅうぶん進歩する
前に、自滅してしまう。
一方、惑星が大きければ大きいほど、環境破壊は起こりにくくなる。
環境が破壊される前に、解決方法を見つけたり、あるいは宇宙へ飛び出したりする。

 では、この地球は、どうか?
それには、隣の火星と比較してみればよい。

 かつてはあの火星も、地球と同じような、水の惑星であったという。
それが何らかの理由で、現在のような火星になってしまった。
人類と同じような知的生物がいて、進歩の過程でやはり、環境を破壊してしまった。
……という説もある。

 火星の直径は、地球の半分程度。
体積は10分の1程度。
その分だけ、大気の層も薄かったにちがいない。

 そこで私が考えた、「自滅公式」。

J=Ax(惑星の直径)

 自滅までの年数(J)は、(惑星の直径)に比例する。
Aは係数だが、地球人と火星人の自滅までの年数を入れて計算すれば、求まるはず。
たとえばこの地球人が新石器時代をやっと抜け出たのが、今から約5500年前。
この先、約数百年で滅亡するとして、長くても6000年。

 この6000年という年月は、宇宙的時間の中で見れば、星がまばたきする
一瞬より短い。
つまりこの大宇宙に現在、50万種類の知的生物がいるといっても、それは一瞬
にすぎない。
一瞬に生まれ、つぎの一瞬には、滅亡する。
この公式をドレイクの公式に上乗せすると、知的生物どうしが、たがいに接触する
などということは、計算上、さらにありえないということになる。

●知的生命体

 が、現実には、UFOは存在する。
(私とワイフは、巨大なUFOを目撃している!)
ということは、それに乗っている宇宙人は、宇宙人というより、私たちの仲間、
もしくは同類とみてよい。

 が、これについても、あのホーキング博士は、こんな興味深い事実を、講演の中で
述べている。
「同時に、2つの知的生命体は共存しえない」と。

 仮に近辺に、2つの知的生命体が同居したとする。
その知的生命体は、どういう形であれ、他方を抹殺するまで、戦争を繰り返す、と。
となると、地球人と、あのUFOに乗っている宇宙人との関係を、どう考えたらよいのか。

 2つの知的生命体が、同時にこの太陽系という小さな世界で、誕生する確率は、ゼロ。
しかも2つの知的生命体が共存できるという可能性も、ゼロ。
しかし現実には、(あくまでも私の個人的な体験に基づくものだが)、宇宙人は近くに存在
する。
となると、そこから引き出される答は、ただひとつ。

 私たちがいうUFOに乗った宇宙人というのは、別の知的生命体ではなく、私たち自身、
もしくは、その仲間ということになる。

 もう少し詳しく「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP)を、詳しく読んでみよう。
そこには、こうある。

「この100年間に人口は5倍以上に増加しているし、放出した炭酸ガスは大気中に、
1・5倍にもなっています。
このままいきますと、2050年には100億人に達し、大気中の炭酸ガスも、
400ppmに達すると言われています。
こうなると温暖化が進行し、海水の水位が上昇することになります。
その高さは100メートルに達するという説もあります」(同書、P35)。

「すべての星に生命の誕生する惑星が1つずつあるとすれば、図の式(後述)から
わかるように、0・05〜0・005程度となります。
これでは銀河系の中でたがいに通信できる知生体はありそうでないということに
なってしまいます。
人類はこの銀河の中で、唯一無二なのかもしれません」(P36)。

 が、その人類も、このままでは、文明を築いてから、「200年」で、滅亡しようと
している(同書)。

【ドレイクの公式】

銀河系で考えると、ドレイクの公式(N=RfL)により、

R;0・5
f;10億分の1
L;1000万〜1億
N=0・05〜0・005

 しかしたった「200年」(同書)では、どうしようもない。
「6000年」でも、どうしようもない。

 ……こう考えていくと、私たち人類が、こうしてこの地球上の存在していること自体、
奇跡中の奇跡ということになる。
が、その価値を、人類は、いまだに理解できないでいる。
私も含めてどの人も、そこに私がいて、あなたがいるということを、当たり前のように
考えている。
しかしこれほど、もったいないというよりは、恐ろしいことはない。
人類は、その奇跡を自ら、末梢しようとしている。
地球火星化という問題の前では、第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ただの
小競(こぜ)りあい程度のものでしかない。

 では、どうするか?

 ドレイクの公式の中の(L)値を大きくするしかない。
文明の進化の速度を落としてでもよいから、人類の存続する年数を長くする。
長くしながら、その間に、人類は、より賢くなる。
現在のように、サルが核兵器をもったような状態で、人類が長く存続できると
考えるのには、無理がある。
あと10年もすれば、そこら中の国々が核兵器をもち、あちこちで、
戦争を始めるようになるかもしれない。
そうなれば、「200年」も、むずかしいということになる。

 さあ、みなさん、もっと賢くなろう!
自分で考える力を、身につけよう!
人類を救うために!
(少し大げさかな? 自分でもそれがよくわかっています!)

(はやし浩司 知的生命体 存在の確率 宇宙人 存在 確率 家庭教育 育児 教育評論 
幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司BW はやし浩司 知的生命体 宇宙人 知的生命
 銀河系 ドレイクの公式)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宇宙人

 2か月前に、「聖書」について書いた。
もう一度、そのとき書いた原稿を読んでみてほしい。

++++++++++++++++++

●聖書(Ryrie版聖書より)

1 THE CREATION OF THE WORLD
世界(天地)の創造

A The begining of Creation
創造の始まり

In the begining God created the heavens and the earth.
最初に神は、天と地を創造した。

Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, and the 
Spirit of God was hovering over the water.
そのとき大地は、形がなく、空だった。
暗闇が深淵の表面をおおい、神の霊が、水の上をただよっていた。

B The Days of Creation
創造の日々

And God said, "Let there be light", and there was light.
そして神はこう言った。「光よ、あれ」と。すると光が現われた。

God saw that the light was good, and he separated the light from the darkness.
神は光がよいことを知った。そこで神は、光を暗闇から分けた。

God called the light "day", and the darkness he called "night".
神は光を、「昼」と呼び、暗闇を「夜」と呼んだ。

And there was evening, and there was morning-the first day.
そして夕方と朝があった。それが第1日目だった。

 ……このあと神は、地上のもろもろのものを創造し、第6日目に、「自分に似せて、人間を創
造する」(So God created man in his own image, in the image of God he created him; male 
and female he created them.)

++++++++++++++++++

 聖書を否定する人たちは、まっさきにこの部分を指摘する。
「人間は20数万年という進化の過程を経て、人間になった。
たった6日の間に、神によって作られたのではない」と。

 しかし聖書でいう「日」は、あくまでもたとえに過ぎない。
「6日」だから、今で言う24時間x6=6日というわけではない。
「段階を経て」という意味であり、またそう解釈すると、ここに書いてあることが
まちがっているというよりは、まさに地球と人類の歴史そのものであることがわかる。
が、それはそれとして、この部分で重要なことは、「神は自分に似せて、人間を創造した」
という部分。
神はどうやって、自分に似せて人間を創造したのか?

 そこで登場するのが、遺伝子操作説。
UFOを信ずる人の多くは、人間は宇宙人の遺伝子を組み込まれて、今に見る知的
生物になったと考える。
実のところ私もその1人だが、若いころ東洋医学(漢方)を勉強していて、それに
気づいた。

●謎の書物『黄帝内経(こうていだいけい)』

 東洋医学のバイブルと位置づけられているのが、『黄帝内経・素問・霊枢』。
黄帝というのは、中国では伝説上の帝王ということになっているが、まったくの架空の
人物だったかというと、そうでもない。
司馬遷の『史記』は、この黄帝で始まっている。

 その黄帝は、私の計算によれば、今から5500年ほど前。
紀元前3500年ころ。
ちょうど黄河文明が、それまでの新石器時代に別れを告げて誕生したころ、この地上に
現れた。
私がその黄帝内経に興味をもつようになったいきさつについては、何度も書いてきた。
やはり以前書いた原稿を、そのままここに紹介させてもらう。

この原稿の中で、とくに注意してほしい部分は、つぎの点である。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯
曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている部分。

これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、
あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。

 わかるかな、この科学性!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●神々の言葉

 私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。漢方(東
洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わない
が、しかしこの本がその原点にあることはまちがいない。

 その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆
であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(ぎはく)という学者の問答形式で書かれてい
るが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質問、さらには矛盾に
つぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。

 一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」とい
う形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書い
ている。

 そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な権威と
いうことになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分もあるが……。)岐
伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由が考えられる。

 黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢書
「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたことが正しいか
どうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって
「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかという疑問はある。

が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。科
学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。その科
学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点
のまちがいもない)にキズがつくことになる。ここが宗教という哲学と大きく違う点である。つまり
黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。

 もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。
黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。しかし断片的
な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。たとえばこ
の私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるもの
は、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。

もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはでき
ない。できないというより、たいへん困難なことである。つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよ
いが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。これは実は聖書についても同
じことが言えるが……。


●黄帝内経(こうていだいけい)の謎

 私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎの
ような記述があることを知ったときのことだ。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯
曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。これを訳すと、「地は人の下に
あります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、
虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。

しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の中にあ
る」と。「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加え
たかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当時の常識と考えてよいの
か。漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前一世紀ということになると、少なくと
も、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだ
としても、西暦七六二年の常識ではなかったはずである。

ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮内氏も、
「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考えるの
が正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。気のひとつである。そ
の気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚という。今風に言えば、まさに真空の状態と
いうことになる。

 もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿
って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋
天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。恐らく事実
は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さんには苦
心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)

その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。つまりわざと
医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。さらに百歩譲って、もしこの
部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこんなところに書く必要はない。
この文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べているのである。王冰としても、散
逸した黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかったのではないかと思う。

 話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時の私
は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえ
た。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五〇〇年。今から
五五〇〇年前ということになる。(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正
しくないが……。)少なくとも、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、
まちがいない。


●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか

 黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。
それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文
句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。

 たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の
訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたも
との位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほう
では、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には
一年のずれを生じます……」とある。

薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと
思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置
づけようとした痕跡が随所に見られる。この部分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだ
が、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が見られる。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」
という言葉を補って翻訳している。たとえば……

 「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこ
にもない!)

 こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたとも
とれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。中国
には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。そういう時代
に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをしたため、弾圧された人
すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の回転について」)。

宇宙創造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。さらに中国では、中国
式権威主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。そういう時代的
背景を忘れてはいけない。

 が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければ
ならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについ
て、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」と
いうように反論する。しかしこの視点はおかしい。

もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっさきに削除さ
れたであろうということ。それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるが
ゆえに、今に残ったというふうに考えられる。今、あいまいだからといって、さらにその内容を負
(マイナス)の方向に引くことは許されない。私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、
よりプラスの方向に引きつけて、その向こうにある事実を見ることなのである。「そういうふうに
も解釈できる」という言いかたではなく、「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべき
でなのである。


●三六五日余で、もとに戻るものは何か

 黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上
の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあ
る。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。

 今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷
わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三六五日余で
一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。

 しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、医
学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、そん
な常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。こう
ある。

 「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きにつ
いて聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。いわんや大
気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほ
うが正しい。その理由はいくつかある。

 もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く
必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。

 つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改め
て書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそま
さに木に竹をつぐような文章になってしまう!

 ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はお
ろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう前提で訳し
ている。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部
分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれ
は正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。もし「左右に(回
って)」と訳すと、意味がすっきりする。

 「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもど
る」と。

 地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つまり右
転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。つまり左転し
ている。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったも
のである。
 

※コペルニクス
(ラテンNicolaus Ccpernicus ニコラウス―)本名はコペルニク。ポーランドの天文学者で、ロー
マカトリック教会の聖職者。ギリシア思想の影響を受け、肉眼による天体観測に基づいて地動
説を提唱。著書「天球の回転について」は、教会との摩擦を避けて死の直前に刊行された。
(一四七三〜一五四三) 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●大ロマン

 遠い昔、推定では今から5500年ほど前、きわめて知的能力のすぐれた生命体が、
この地球にやってきた。
そして何かの目的があって、人類の祖先に、彼らの遺伝子を組み込んだ。
同時に、その子孫に、(1)科学と、(2)哲学を教えた。

 そうして開花したのが、黄河文明と、メソポタミア文明ということになる。

 黄河文明に落とした「科学」は、その後「医学」と姿を変えた。
メソポタミア文明に落とした「哲学」は、その後「宗教」と姿を変えた。
それらが東洋医学の原点であり、キリスト教の原点ということになる。

 ……というのは、ひとつの、はやし浩司説に過ぎない。
しかし想像するだけでもワクワクするような話ではないか。
(自分でワクワクしていても、しかたないが……。)

私はこの種の話が大好きで、眠られぬ夜は星々をながめながら、よくそれを想像する。
が、まったくのデタラメかというと、そうでもない。
何度も書くが、私とワイフは、ある夜巨大なUFOを目撃している。
見たものは見たのであって、これまたどうしようもない。
「あのはやし(=私)は、頭がおかしい」と言われても構わない。
この年齢になって、ウソは書きたくない。
同時に世俗的な常識の中に埋もれるのも、いや。
見たものは、見た!

 だとするなら、あの夜見たものは、何だったのか。
……ということを過去へとつなげていくと、ここに書いたような話になる。
なおこの世界では神様のように思われている、デニケンもシッチンも、同じような説を
唱えているが、黄河文明については、一言も触れていない。
黄帝内経についてはさらにそうで、黄帝内経宇宙人説は、はやし浩司のオリジナルである。
もし私を疑うようなら、つぎの原稿をじっくりと読んでみてほしい。
まさに、壮大な謎とロマン。
私が書いた『目で見る漢方診断』(飛鳥新社版)の末尾に掲載した原稿である。
この原稿を読めば、(かなり難解であることを覚悟して読んでほしいが)、私の書いている
ことが、けっして荒唐無稽なデタラメでないことがわかるはず。

HPを紹介しておく。

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黄帝内経・世界最古の地動説

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http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page055.html

++++++++++++++++++++++++++

 真夏の夜、眠られない夜がつづいたら、ぜひ一読してみてほしい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 黄帝内経 地動説 宇宙人創造説 太虚 真空 はやし浩司 黄帝内経の謎 謎
の黄帝内経 司馬遷 史記 世界最古の地動説 シュメール人 ヤンシャオ人 メソポタミア文
明 黄河文明)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司※

●春野町、ペンション「シンフォニー」に一泊する

++++++++++++++++++++++

ワイフが、昔、何かの雑誌で読んで知った。
そのとき強烈な印象が、心に残ったらしい。
春野町に、「シンフォニー」という名前のペンションがある。
以来、「一度、そこへ行ってみたい」と。
折につけ、そう言った。

……ということで、今日、やってきた。
あこがれの「シンフォニー」へ!
2010年8月11日。

++++++++++++++++++++++

●標高650メートル

 標高650メートル。
浜松市内とは、10度近い気温差があるという。
ペンションのマスターが、そう言った。
10度というのは、すごい。
理科の勉強では、100メートルごとに、0・6度下がると教える。

着いたのは夕方5時ごろだったが、山全体が独特の冷気に包まれていた。
季節はすでに秋?
ひぐらしの声に合わせて、遠くではツクツクホウシが鳴いていた。
私たちは部屋で一服したあと、そのまま温泉に。

●別世界

 「ここが浜松?」と言いたくなるほど、そこは別世界だった。
雨が心配されたが、空はクリアに晴れ、巨大な入道雲があちこちに見えた。
純白の入道雲で、白い夕日を浴びて、銀色に輝いていた。

 もっともここへ来るのが目的ではなかった。
ドライブが目的だった。
10日ほど前、車をTOYOTAのプリウスに替えた。
「どこかへ行こう」ということで、ここペンション「シンフォニー」にした。
プリウスを買ってから、はじめての遠出。

●星は4つ

 料金は、おとな1人、1泊8300円+消費税。
部屋はログハウス。
ふとん敷きなどは、セルフサービス。
内湯なし。
料理は、ふつう。
……というか、料金と照らし合わせても、ややがっかり。
(ごめん!)
マスの塩焼きとグラタンが並んだが、少なからず、違和感を覚えた。
そんなわけで旅館と思うのではなく、高級バンガローと思って泊まればよい。
それならじゅうぶん、納得できる。

というか、それでもおつりがくるほど、周囲の環境がすばらしい。
遠くに連山をながめ、その下は深い谷になっている。
その環境を料金に含めれば、星は4つの、★★★★。

 風呂から出ると、乾いた冷気が身を包んだ。
「来てよかった」と、私は言った。
ワイフもそう言った。

●午後7時29分

 食事から帰ったあと、ふとんをみなで敷いた。
言い忘れたが、ワイフと私、それに長男。
ログハウスといっても、隣の客の声がよく聞こえる。
隣は、2人の子ども連れ。
「誠司や芽衣みたいだね」と、ワイフと言い合う。
孫の誠司と芽衣をいう。
年齢も近い。

 ワイフと長男は、隣でDVDを観ている。
『愛は静けさの中に』というタイトルのDVD。
一度、観たことがある。
ワイフも観ているはずなのだが、「私は観ていない」とがんばっている。
頭のほうがかなりボケてきたらしい。
心配!

●睡魔

 かく言う私も、このところ、ミスが多くなった。
今朝もミスをした。
ミスというより、失敗をした。

 今朝、私はある中学校で、講演をした。
その地区の幼稚園、小中学校の先生たちが集まってくれた。
で、今日のために昨日、運動をした。
鈍った頭と体では、講演はできない。
朝、仮刈機で空き地の草を刈った。
これが結構な重労働で、30分もすると全身が汗でびしょびしょになった。
ほかにウォーキンマシンの上で、計30分。
夕方になって、自転車で1時間ほど、走った。

 が、これが裏目に出た。
講演は朝の9時からだったが、昨日の疲れがそのまま残ってしまった。
起きたときから、眠かった。
その眠気と闘いながら、講演をつづけた。

●アクセス

 で、昼からドライブをかねて、ここ「シンフォニー」へ。
一度グーグルアースで検索したあと、情報をEメールで自分宛に送る。
そのメールの添付ファイルをSDカードにコピーしたあと、車のナビに。
こうすれば正確に目的地を登録できる。

 が、ここに着くまでに、2度も道に迷った。
ナビの責任というより、「シンフォニー」は、わかりにくい場所にある。
シンフォニーへ来る人は、一度場所をしっかりと地図で確かめてから来るとよい。
ナビは、アテにならない。

 明日、帰るときに、マスターにそのことを話してやろう。
ネットで前もって調べたときも、同じような書き込みがあった。
「アクセスで苦労をしました」と。
標識なり、看板を、もう少し親切に表示したほうがよいのでは……?

●客商売

 こうしたペンションを開く人というのは、それなりの哲学をもった人が多い。
2、3言、会話を交わしただけで、それがわかる。
言葉のはしばしに、ほかの人にはない生き様というか、信念を感ずる。

 が、ここで誤解してはいけない。
こうした客商売というのは、見た目ほど、楽ではない。
楽しくもない。
私も山荘をもったころは、うれしくて毎週のように客人を呼んだ。
民宿の主人にでもなったかのように、客人をもてなした。
しかし数か月もすると、疲れてしまった。

 客人は客人。
何も手伝ってくれない。
せっかくの土日が、(たいてい土日に招待することが多かったので)、
接待だけで、つぶれてしまった。 

 そんなわけで、そのうち1か月に1組になり、数か月に1組になった。
今では、客人を呼ぶことは、めったにない。

●水問題

 あたりはすっかり暗くなった。
時刻は8時を少し回ったところ。
温泉は、午後9時までと聞いている。
寝る前に、もう一度、湯につかってくる。
夕飯を食べ過ぎたせいか、腹が張っている。

 そう、ここの風呂は、温泉とか。
風呂の入り口の上に、効能が示してあった。
しかし水は、どこから来ているのだろう。
こうした山荘で、最大の問題は、「水」。
ガスはプロパンで間に合う。
電気は、半径2キロ以内に家があれば、電力会社が無料で電線を引いてくれる。
しかし「水」はそういうわけにはいかない。
村が近くにあれば、水を分けてもらえると考える人もいるかもしれないが、それは甘い。
村の人たちは、「絶対に」と断言してよいほど、絶対に水を分けてくれない。
こうした山間部では、「水」は、貴重。
長い歴史の中で、水源地を聖地化しているところも多い。
言い換えると、山の中に山荘を建てようと考えたら、まっさきに「水問題」を
解決すること。
それができなければ、山荘はあきらめる。

 (ところで食前にビールをコップに3分の1ほど、飲んでしまった!
私は本当は一滴も飲めない。
そのせいか、軽い頭痛が始まった。
二日酔い?
頭痛薬を半分、水に溶かしてのむ。)

●8月12日(翌日)

 夜中に雨が降り始めた。
近くの木々の葉を打つ音が、一晩中、聞こえていた。
時計を見ると、午前7時、少し前。
軽い頭痛が残っていた。
やはり二日酔いか?

 カーテンを開けると、そこは真っ白な霧に包まれた、別世界。
小雨に混ざって、霧が左から右へと流れる。
朝食は8時から。
私は風呂へと向かった。

●朝風呂

 風呂は小さいが、ゆっくりとくつろぐことができた。
ただし子どもがいっしょにいないこと。
夏休みは、どこへ行っても子どもがいる。
料金も割高。
となりの女湯には、子どもが数人いた。
その子どもたちが、風呂をプールがわりにして、キャッ、キャッと騒いでいた。

 私は子どもは嫌いではないが、こういうところでは、できるだけ子どもを
避けるようにしている。
職業柄、子どもの顔を見ると、気になる。
落ち着かない。

●無意識下の行動

 ところで昨夜、こんな事件があった。
事件と言えるほど、おおげさなことではないが……。

ワイフと長男は、いつものようにDVDを観ていた。
そのときのこと。
私がワイフの右肩に手をかけると、ワイフはすかさず、私の手を、ワイフの右手で
払いのけた。
ときどきワイフが見せる態度である。
最近は少なくなったが、若いころは、よくあった。

 ワイフは、私に対して何かの嫌悪感をもっている。
心の奥に抑圧された欲求不満かもしれない。
あるいはなにかのわだかまり?
ワイフにかぎらない。
家庭に閉じ込められた女性は、多かれ少なかれ、夫に対して何らかの敵意を覚える。
それが長い時間をかけて、欲求不満へとつながっていく。

で、私がしばらくしてから、「どうして払いのけたの?」と聞いたが、ワイフは「覚えて
いない」と。
「さっき、ぼくの手をお前は払いのけただろ?」
「そんなこと、してないわ。あなたの思い過ごしよ」と。

 無意識下の行動であるため、ワイフも覚えていない。
無意識下の行動であるため、かえって深刻。
そのつど不愉快な気分になるが、心の奥にまで私も、ワイフ自身も踏み込めない。
見た目には仲のよい夫婦(?)だが、私たちも仮面夫婦なのかもしれない。

●夫婦

 ワイフもそうだったが、「性」に対して、何らかの嫌悪感をもっている女性は多い。
男性のばあい、劣等感をもつことが多い。
が、女性のばあいは、嫌悪感。
中には、性生活そのものを受け入れられない女性もいる。
「不潔」とか「変態」とか、あるいは「異常」とかいう言葉を使って、性生活を拒否する。

 しかし夫婦のばあい、それがどんな形であれ、「異常」ということはない。
「性」の形は、それぞれの夫婦が決めること。
またそれでよしとすること。
それを乗り越えるのが、夫婦の愛情と理解ということになる。

 私の知っている人には、たがいに公然と不倫を重ねながら、それでいて見た目には
仲のよい夫婦がいる。
一方、ワイフのばあいは、若いころから潔癖症。
それに加えて、がんこ。
もし私が不倫をし、それを知ったら、ワイフは離婚どころか、私を殺したあと、自分も
死ぬだろう。

●雨

外でははげしく雨が降りつづいていた。
昨日の天気予報によれば、今ごろ小さな台風が日本海を北上しているはず。
その影響か。
ここ「シンフォニー」には、テレビはない。
インターネットも携帯電話(au)もつながらない。
「陸の孤島」と言うのはおおげさだが、それに近い。
が、それでも浜松市内。

 場所は、浜松市天竜区春野町。
浜松市内から約60キロ。
時間で1時間半。
実際には、のんびり運転で、2時間もかかったが……。

●ペンション

 私の印象では、ペンションの時代は、終わった?
最近では、市中のビジネスホテルでも、格段にサービスがよくなった。
先週泊まったビジネスホテルは、コーヒーでも飲み放題。
あめ玉サービスもあれば、化粧品サービスもあった。
まさに至れり尽くせり。
それに清潔。
またそうでもしないと、客が入らない。

 一方、シンフォニーは、年数もかなりたっているらしく、バンガロー風。
それはそれでよいが、50代、60代の私たちには、つらい。
最低でも旅館風のサービスがないと、どうも落ち着かない。
が、だからといって若い人向きかというと、そうとも言えない。
最近の若い人は、ぜいたく。

テレビもない。
クーラーもない。
自動販売機もない。
寝具もない。
バスタオルもない。
おまけに布団は、せんべい布団。
それに白いシーツを自分でかけて、横になる。

 若いときなら、こういうところでも眠ることができた。
雑魚寝(ざこね)も、それなりに楽しかった。
が、今は、ちがう。
枕がちがっても、寝づらい。

 が、今の若い人には、それもできない?

●帰り
 
 帰りは、大雨になった。
まれに見る大雨。
台風4号が日本海を通過している。
その影響らしい。

 私たちは歩くような速度で山道をくだった。
ところどころで路肩に車を止めている人もいた。
それほどの雨になると、ワイパーも用なし。
「すごい雨だなあ」
「すごい雨ね」と。
何度も同じ会話を繰り返した。

 ペンション「シンフォニー」の様子は、ビデオカメラに収め、YOUTUBEで
公開した。
興味のある人は、ぜひ見てほしい。
その環境のすばらしさに、あなたも圧倒されるはず。
奥深い山の中で、森林浴を楽しみたい人には、最適。
ただし持ち物には注意すること。
基本的には、食事つきの貸しバンガローと考えて行くこと。

【ペンション・シンフォニー】

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385"></embed></object>

あるいは、

http://www.youtube.com/watch?v=bKpYErFxmJ0&feature=player_embedded

より。

(はやし浩司 ペンション シンフォニー 浜松市 春野町 貸しバンガロー ログハウス 森林
浴 浜松市の郊外 森の中)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●インチキ育児書(Fake Books)

++++++++++++++++++++

もうあれから20年以上になろうというのに、
いまだにインチキ育児書が後を絶たない。
いったい、これはどうしたことか。

ありのままを正直に書く。
書くというとりは、告白する。
実は私も20代のころ、そのインチキ本を
書いていた。
手法は、こうだ。

(1)まず有名になりたがっている専門家を探し出す。
すでに有名な専門家でもよい。
私のばあいは、医学関係者が多かった。
分野は東洋医学。
が、私が探し出すということは、ほとんどなかった。
たいてい出版社のほうが、探し出してくれた。
「林さん(=私)、1冊、またお願いします」と。

(2)おかしなことに、私自身が、その専門家と
言われる人に直接会うということは、めったになかった。
(編集会議のような席に招かれるということは
あったが、そのばあいでも、「あなたは発言しないように」
という釘を刺されることが多かった。)
間に出版社が入る。
私は出版社の一員として、動く。
その出版社が、たとえば「痩身法について、漢方的な
見地から本を書いてほしい」という依頼をしてくる。

私はプロット(あらすじ)を書き、見本として、
50〜80枚ほどの原稿を添える。
それを出版社に送る。

(3)しばらくすると出版社のほうから連絡が入る。
「〜月〜日ごろまでに、400字詰めで、300〜400
枚、書いてほしい」と。
そのとき別の資料を渡されることがある。
その資料を、文章の中にうまく組み込む。

(4)私は注文通りの原稿を書く。
それを出版社のほうで推敲し、加筆、訂正する。
この段階になると、私はすでにノータッチ。
本というのは、そういうもの。

構成を専門にする人。
校正を専門にする人。
イラストを描く人。
さらにリライトする人などなど。
表紙デザイナーという人もいる。
そういう人たちの手を経て、本はできあがっていく。

今でもそうだが、出版社には、大きくわけて
2つの部門がある。
出版部と営業部。
営業部は、本を売ることだけを考える。
言い替えると、「売れる本」だけを考える。
中身ではない。
が、その営業部の意向を無視して、本は出せない。
営業部が「NO!」と言ったら、そこで作業は
中断する。
停止する。

(5)こうした関門をくぐり抜けて、「本」は世に出る。
それなりに出版社も、投資する。
単行本1冊、初版1万部前後で、500〜600万円の
コストがかかる(当時)。
(本の制作だけなら、150〜200万円が相場だった。)
私が書いた本で、1億円もかかった本がある。
プラス、広告宣伝費。

で、私はこうして20〜30冊以上の本を書いた。
(どの程度まで私が介入したかによっても、
冊数は異なってくる。
「テープ起し」と言って、テープレコーダーに吹き込まれた
声を、原稿になおすこともある。)

出版社は新聞広告を出し、自前の雑誌を使って
その本を紹介する。
そのあと出版社は、「買い取り」という名目で、
私に原稿料を払う。

(6)「ならば自分で本を書けばいいではないか」と
思う人もいるかもしれない。
しかし実際には、不可能。

よほどの特異性がなければ、出版社のほうが話に
乗ってこない。
とくに育児書のような広汎性のある分野はそうで、
昔も今も、「有名」であることが第一条件。
「親に安心感を与えない本は売れない」というのが、
当時の、(今でもそうだが)、常識だった。

裏を返していうと、私のような、「どこの馬の骨かも
わからないような人間が書いた本は、売れない」。
私も自分の立場を、よく心得ていた。
が、30歳になるころ、私はその世界から足を洗った。
つまり代筆業をやめた。

(7)で、それから20年あまり。
今度は逆の立場で、執筆依頼が入るようになった。
「先生(=私)の本をまとめさせてください」と。

私が若いころとはちがって、最近ではフリーの若い
ライターが直接、そういう依頼をしてくることが多い。
「先生の原稿をまとめて、本として出版させてください」と。

もちろん個人のライターだけではない。
10年ほど前には、日本を代表する育児書の専門出版社
からも、依頼があった。
ここから先は、その出版社にとっても名誉にかかわる
問題だから、正確に書く。

X社という出版社だった。
いわく、「育児書を書いてください。
本は、R先生の名前で出します」と。

R氏というのは、当時日本を代表する幼児教育家だった。
すでに何十冊という本を、書いていた。
ただ年齢はすでに80歳を超えていた。

私は、断わった。
私が書けば、どうしても(はやし浩司の思想)がそこに
混入してしまう。
育児書というのは、いわば哲学書のようなもの。
書き手の育児観のみならず、人生観、生き様、思考性
が、そのまま混入する。
文体だって、そうだ。
私には私の、独特の文体がある。

つまりR氏の名前で本を書けば、以後、私が書くものが
すべて「盗作」「盗用」ということになってしまう。
私は断わった。

(8)が、それから1年……。
たしか半年あまりたったある日のことだった。
ある書店に入って、驚いた。
ワゴンセールといって、そのR氏の書いた本が、
平積みになって、ずらりとそこに並んでいた。

私が受けた依頼と同じタイトルの本もあった。
「ああ、あれだな……」と思って本を開くと、
まず文体が、へん。
おかしい。
とても80歳を超えた老人の書いた文章とは思えなかった。

しかも何冊かの本を読み比べてみたが、どれもタッチがちがう!
文章というのは、それを書く人の個性が強烈に出てくる。
ゴッホとセザンヌのタッチがちがうように、書く人に
よってタッチがちがう。
もちろん漢字の使い方、言い回しのしかたもちがう。
そのタッチが、みなちがっていた。

(9)こうしてインチキ本は生まれるが、超有名な教授ともなると、
出版社の中に、その教授専門の部課をおくところもある。
私がよく出入りしていた、N社にもあった。
担当者も特定されていた。

そういう出版社は、その教授と太いパイプでつながれている。
本だけではなく、その出版社は、自社が出すワークブックにも、
その教授の名前を使っていた。
「X教授監修」とか何とか。
たいていはワークブックができあがったあと、電話一本で
了解を取りあっていた。

おそらく……というより、ワークブックが完成するまで、
その教授は、原稿を見ていないはず。
できたあとも、どんなワークブックかも、知らないだろう。

(10)で、こうした出版方法は、今でも、日本の出版界を
牛耳っている。
どこかの医師が突然、育児書を出したりする。
80歳を過ぎた老人が突然、育児書を出したりする。
私がいくら逆立ちしても、内科の本が書けないように、
内科医に育児書など書けるはずがない。
しかしこの世界は、本当に不思議な世界。

「育児書というのは、だれでも書けるもの」という迷信すら
はびこっている。
「医者なら育児書だって書けるはず」と。

何度も書くが、育児書というのは、そこに子どもがいなければ
書けない。
また書けるものではない。
幼児や子どもを教えたことがない人が、どうして育児書を
書くことができるのか。

先にあげたR氏は、すでに亡くなっているが、そのR氏はある本の
前書きで、こう書いている。

「私は3人の孫を通して、育児を学びました」と。

たったの3人!

(11)で、最近、ある雑誌広告を見て、驚いた。
私は若いころ、ある教授のためにワークブックを書いた
ことがある。
1冊や2冊ではない。
シリーズとして書いた。
当初は、私の名前が末尾に載っていたが、途中から、その
教授だけの名前になった。
そういうワークブックが、一時は、書店の一角にズラリと、
並んだこともある。
その教授が、またまた育児書を書いた。
年齢はすでにかなりの年齢になっているはず。

「すばらしいエネルギー」と感心する前に、「まだやっているな」と。
私はそう思った。

が、それにはこんなエピソードがある。

(12)私はそれまでもっぱら幼児向けのワークブック
の制作に、かかわっていた。
そんなある日のこと。
書店で、その教授(当時)の書いたという本を立ち読みした。
名前をK教授と言った。
当時、K教授の名前を知らない人はいなかった。
テレビにもよく顔を出していた。
とたん、体中が燃えるように熱くなったのを覚えている。
その本の中には、こうあった(一部改変、記憶によるもの
なので、不正確)。

●夫婦喧嘩は子どもの前でせよ……意見の対立を教えるよい
機会である。
●遊園地では子どもをわざと迷子にせよ……親子の絆を深めるの
によい機会である。
●家のありがたさをわからせるためには、2、3日、家から
子どもを追い出してみるとよい、などなど。

とんでもない本である。
どうとんでもないかは、(まともな)あなたならわかるはず。
もしあなたの子どもが、夕方まで行方不明になったら、あなたは
どうするだろうか。
またそれが私が本を書くきっかけとなった。

(13)その同じK教授(現在は元教授)が、またまた育児書を
出したという。
何10万部を超えるベストセラーを何冊ももっている人だから、
巨億の富を蓄えたはず。
そんな人が、またまた育児書を出した。

ここでは確定できないが、20年前、30年前の手法を使って
いるのだろうか。
それとも昔書いた本の、焼き直しなのだろうか。
その前に、こうしたK教授は、どこでどのように親や子どもたちと
接点をもっているのだろうか。
本当に自分で書いたのなら、よし。
そうでないなら、そうでない。

雑誌の広告だけなので、何とも判断しかねるが、「?」マークだけは、
何10個も並ぶ。
一度、書店で立ち読みをしたあと、自分なりに判断してみたい。
あるいは今でも、あの(とんでもない自説)を主張しているのだろうか。

そう言えば、当時、「子どもにはナイフをもたせろ」と説いた育児評論家
もいた。
「親子の信頼感を育てるのには、よい方法である」と。

つまり子どもにナイフをもたせることによって、「お前を信じている」
という親の意思表現になる(A新聞社文庫)、と。
その評論家は、「証(あかし)になる」と、「証」という言葉を使っていた。
が、ナイフによる殺傷事件が学校内部でつづくと、その評論家は自説を
ひっこめてしまった。

またその評論家は、親子ともどもで麻薬を吸引していたとかで、逮捕
されている。
数年前のことである。

(14)だからといって、私が正当派というわけではない。
私にも迷いはある。
まちがいはあるだろうし、今書いていることだって、この先、変わって
いくかもしれない。
しかし私はつねにそこにいる子どもたちに問いかけながら、こうして
文章を書いている。
研究室の奥で、空想だけでものを書くというのは、少なくとも私の
やり方ではない。

(15)……ということで、私の愚痴はここまで。
この世の中、要領のよい人は、楽に生きていく。
金を儲けていく。
そうでない人は苦労ばかり。
損をする。
こんなことは本来あってはいけないことだが、日本という
国は、まだそういう国とみてよい。

教授といっても、名ばかり。
たいした研究もせず、肩書きを切り売りして生きている。
そういう教授も、少なくない。
が、本当の被害者は、そういう本を読み、踊らされる親たち
ということになる。

ちなみに、あなたも遊園地で自分の子どもを、わざと迷子に
してみればよい。
それであなたと子どもの信頼関係は、こなごなに崩れるはず。
子どもの心にも、深い傷を残す。
相手が幼児であれば、それがきっかけで情緒障害児の引き金
を引くことにもなりかねない。

……ということで今朝は久々に、軽い怒りから始まった。
8月13日。
今日の予定はとくにないが、午前中に行かなければならない
ところが、2か所ある。
体はややだるいが、がんばるしかない。
がんばります。

おはようございます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 インチキ本 インチキ育児評論家 インチキ作家 インチキ育児書 夫婦喧嘩は
子どもに見せろ)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【悪化する日本経済】(2010年8月13日)

++++++++++++++++++++

今日は、経済について、勉強してみたい。

++++++++++++++++++++

●情報の洪水

毎日毎日、ものすごい量の情報が、まさに
洪水のように飛び込んでくる。
ある範囲の量なら、それなりに処理できるが、
それがその範囲を超えると、頭の中が
パニック状態になる。

たとえば現在つづいている「円高」。
昨日あたり、1ドル、85円台にまで円高に
なっている。
(今日になってやや円安に向かい、1ドル、
86円台になったが……。)

が、なぜ今、円高なのか?

+++++++++++以下、日経HPより++++++++++++++++

13日の米株式相場は小幅に4日続落した。ダウ工業株30種平均は前日比16ドル80セント(0.
2%)安の1万0303ドル15セントと、7月21日以来3週間ぶりの安値で終えた。週間では3.3%下
落し、下落率は1カ月半ぶりの大きさ。景気減速懸念と企業業績の先行き不透明感を背景
に、売りが続いた。

+++++++++++以上、日経HPより++++++++++++++++

 アメリカの株式相場が下落しつづけている。
7月21日以来、3週間ぶりの安値で終わったという。
つまりダブついたお金(マネー)が、比較的
安全と言われている、円に向かっているという
ことらしい。

 しかし本当に安全なのか?

●経済は生き物

 円高だけについては、簡単に言えば、円が
買われているということ。
しかしなぜこうまで円が買われているか、
その理由がわからない。

そこであちこちのサイトを開いたり、経済誌を
読んでみたりする。
が、情報が集まれば集まるほど、その向こうに
また別の情報が隠れていたりして、さらに混沌としてくる。
よく『経済は生き物』というが、生き物ともちがう。
「姿」そのものが、見えてこない。
論理というものが、成り立たない。

●円高

で、ふつう円が買われる理由は、2つある。

(1)資産を円に換えて、円建てで資金を運用する。
つまり円を買う人がいるから、円高になる。
(2)日本から借りた借金を返すため、一度、
円を買って、円建てで返す。

 現在、この2つが同時進行の形で進んでいる。

(1)のようであれば、これは正常な経済活動の
範囲内ということになる。
(それでも、あまり「正常」とは言いにくいが……。)
しかし(2)のようであれば、これは日本の
経済にとって、きわめて深刻な問題と考えてよい。
日経HPには、つぎのようにある。

+++++++++以下、日経HPより++++++++++++++++

 日本株は自動車や電気機器など輸出企業の割合が大きく、円高の影響を大きく受ける。新
興国市場での販売で競合の欧米企業に価格競争力で劣る懸念もある。トヨタ自動車の想定為
替レートは1ドル=90円。対ドル1円の円高で年間の利益は300億円減るため、1ドル=85円
の水準では、単純計算で1500億円利益が減ることになる。

+++++++++以上、日経HPより++++++++++++++++

 成田空港で、「(外国で)買い物を楽しんできます」と
喜んでいるのは、思考力のない若い女性たちだけ。
「円高」になればなるほど、時期をおいて、
ボディーブローのように影響が出てくる。

●円キャリートレードの解消

金利が安いことをよいことに、日本から円を
借りた人たちがいる。
これを「円キャリートレード」という。
そういう人たちは一度借りた円を売り、外貨に換える。
外国では、それぞれの国の通貨で、借りた資金を運用する。
そのために円を売る。
円を売るから、当然、円は円安に向かう。

が、借りた円を返すときには、今度はこの反対のことが起きる。
今、そういう人たちが、いっせいに返却し始めている(?)。
つまり「円キャリートレード」の解消が始まった!

 さらにもうひとつの可能性としては、
将来のドル安を見越して、投機筋が投機を
目的に円をカラ買いしていることも考えられる。

 が、あちこちの経済ニュースに片っ端から
目を通すが、どうにもこうにも「姿」が
見えてこない。

●不気味な動き

ただ不気味なのは、中国経済に陰(かげ)りが
見え始めたということ(3月以来、16・2%の下落)。
アメリカ経済も、ギシギシと音をたててきしみ始めた。
そうでなくても1ドルが85円にもなると、
日本の輸出産業は、大打撃を受ける。
一説によると、近く1ドルが、50円台にまで
円高になるかもしれないという。
(アメリカのドルの実勢価値は、そんなもの。)

もしそうなら、日本が保有している外貨資産の
価値は半減する。
日本は今まで、稼いだ資産のほとんどを、
ドル資産に換えて、保有してきた。
そういう形で、アメリカのドルを支えてきた。
その価値が半減するというのだから、穏やかではない。
穏やかでいろというほうが無理。

●日本の株価

 日本の株価の下落率もすごい。

++++++++++以下、日経HPより++++++++++++++++

世界の主要株式市場で、日本株の下げが際立っている。日経平均株価は3月末と比べて、
16.6%安と主要20市場のなかで最も下落率が大きい。外国為替市場で円が独歩高となり、
輸出企業の採算悪化懸念が広がっているためだ。市場参加者は、政府・日銀が急激な円高
阻止や成長戦略で具体策を打ち出せるかを疑問視している。

++++++++++以上、日経HPより++++++++++++++++

 ついでに3月末以来、世界の株価の下落率を調べてみる。

日本……マイナス16・6%
中国……マイナス16・2%
つづいてフランス、ロシア、イギリス、アメリカ……とつづく。

 「あぶない」とささやかれているアメリカですら、マイナス4・9%。
韓国、インド、シンガポールは、むしろプラスに転じている。
つまり数字を見るかぎり、日本経済は中国に先行する形で、
急激に悪化している。

●金(ゴールド)

で、ひとつの目安として、私は金(ゴールド)や
プラチナなどの貴金属に注目している。
アルミや銅の動きにも注目している。
8月に入って、これらの貴金属の価格が高騰する
気配を見せ始めている。

ただそれには為替の動きがからんでくるので、
日本における価格だけを追っても、わかりにくい。
たとえばアメリカでは金(ゴールド)の価格が
上昇しつづけているのに、日本円での価格は、
低迷している、など。 

●情報の洪水

まさに情報の洪水。
どれがどの程度重要な情報であるかさえも、
わからない。
専門家ですらよくわからないのだから、私のような
素人に、わかるはずもない。
が、これだけは、確かである。

(1)日本経済は、破綻の道を歩んでいる。
「可能性の問題ではなく、時間の問題」(某、経済誌)とか。

(2)中国のバブル経済がはじけたら、日本の経済
は、そのまま奈落の底に!

一説によれば、前回のドバイショックの数千倍の
威力になるとか(某、経済誌)。
韓国経済からも、目が離せない。
もっとも日本の経済が崩壊したら、韓国も万事休す。

●では、どうしたらよいのか

では、どうしたらよいのか。
私たちは自分の資産を、どのように守ったらよいのか。
正攻法としては、外債(外貨)の購入ということになる。
が、私はそれを取り次ぐ証券会社を、信用してない。
リーマンショック、ドバイショックで、財産を失った
人も多いはず。

(私の知人には、1億円の資産を100万円にして
しまった人もいるぞ!)

●貴金属

となると、金(ゴールド)などの貴金属ということになる。
が、現在、その貴金属にしても、バブル状態。
さらに巨大なバブル(泡)になるかもしれないが、
はじけるときには、はじける。
あるいはそれを小刻みに繰り返す。
今がそのときかもしれない。

金(ゴールド)は現在、1グラム、3600円前後。
プラチナは、4500円前後。
手にひらに乗るような金属のかたまりが、400万円!
バカげているというより、ソラ恐ろしさすら覚える。

●一寸先は闇

で、世界の経済の動きを追ってみる。
(追ってみたところで意味はないが……。)
私は私なりに、それを知りたい。
が、ここで冒頭に書いた「情報の洪水」。
ただの洪水ではない。
その洪水が、たがいに複雑にからみあっている。
加えて何が起こるか……まさに一寸先は闇。
あまりにも不確定要素が多すぎる!

「おもしろい」と書けば語弊がある。
しかしこの世界ほど、奥が深い世界も、そうはない。
その奥の奥で、人間の血みどろの欲望がからんでいる。

●鍵は中国

とりあえず今、注目すべきは中国。
上海B株。
(B株は、外貨建てで取り引きしている。)
上海B株がおかしな動きを見せ始めたら、要注意!
(すでにこの3か月、おかしな動きを見せ
始めている……。)

で、私というド素人の経済評論。

●これから……

今後、一度円は急激な円高に向かったあと、今度は
急激な円安に向かう。
世界中にばらまいた「円」が逆流してくるのだから、
これは当然。
数年を待たずして、ラーメン一杯、3000円
くらいになるかもしれない。
つまりハイパーインフレが日本を襲う。

が、その程度ですめば、まだよいほう。
円高になればなるほど、国内経済は空洞化する。
働く場所そのものがなくなる。

++++++++++以下、日経HPより++++++++++++++++

円高で今後、企業が生産の海外展開を加速すれば、「国内経済の空洞化を招くだけでなく、企
業の生産ノウハウの流出などにつながりかねない」(住信アセットマネジメントの三沢淳一執行
役員株式運用部長)と懸念する声も出ている。

++++++++++以上、日経HPより++++++++++++++++

失業率が15〜20%を超えるころには、街には
浮浪者が並ぶようになり、社会世相そのものが
不安定になる。
犯罪もふえる。
よいことは、何もない。
そういった状況になる。

この問題だけは、「ではどうするか?」ではなく、
「どうそれを覚悟するか?」ということ。
結論は、そういうことになる。
それを予想しながら賢く生きるのと、訳も分からず
右往左往するのとでは、生き様そのものが
ちがってくる。

右往左往するような無様(ぶざま)なことだけは、
避けたい!

+++++++++++++++++

2009年2月、つまりリーマンショックが
落ち着き始めたころ書いた、韓国経済の
記事を、参考までに、ここに再掲載します。

+++++++++++++++++

【日韓経済戦争】

●朝鮮N法のウソ記事

 まず、朝鮮N法の記事を読んでみてほしい。8月11日付きの記事をそのまま紹介する。(朝
鮮N報の記事のばあい、署名入りの記事は、たいていデタラメなウソ記事と考えてよい。さすが
良心がとがめるのか、あとあとの責任のがれのためにそうするのだろう……と、私は解釈して
いる。)

++++++

 『今回のサブプライム・ショックは、株式や不動産、消費など韓国経済全般に悪影響を及ぼす
ものとみられる。しかし、1997年のアジア通過危機のような大規模危機へと進展する可能性
は低い、という分析が出ている。

 何よりも、問題となったサブプライム・ローンによる韓国の直接的な損失規模がそう大きくは
ない。金融監督院の関係者は10日、「一般投資家が加入した海外の債券ファンドのうち、ごく
少数が、米国のサブプライム・ローンに投資した可能性があるが、分散投資されているため、
特に問題はない」と語った。

 ただ、ウリ・外換・新韓・国民・産業銀行や農協など、一部の銀行と保険会社がサブプライム・
ローン関連の債券に計8億4000万ドル(約994億3080万円)投資しており、6月末基準で
投資額全体の4・5%に当たる約3800万ドル(約44億9800万円)の損失を出した。しかし、
これらの金融機関の資産規模が、それぞれ数十から数百兆ウォンに達するという点を考慮す
ると、大きな打撃にはならないといえる。

 しかし、株式市場は相当な打撃を受けるものとみられる。今回の事態で、世界の投資家たち
が危険を回避し、安全な資産を選好する現象が広がるにつれ、韓国をはじめとする新興市場
で、株式を売りに出す可能性が高いためだ。特に、今年に入り韓国の株式市場の上昇率が相
対的に高かったため、世界の株式市場が下落した場合、韓国はさらに大きな下落率となること
も考えられる。グローバル株の低調が長期化する場合、海外ファンドの加入者も損失を免れな
くなる。

 今回の事態で「円キャリートレード(金利の低い日本で円を借り、海外資産に投資すること)」
の清算が加速化し、各国に投資された円資金が流出する場合、韓国国内の不動産市場にも
影響が及ぶ可能性がある。韓国企業が円資金を借りて不動産に投資したケースが少なくない
ためだ。そのため、内需の景気回復も遅延する可能性がある。

 ただ、円キャリートレードが清算されれば、円高に向かう可能性も残されており、日本企業と
ライバル関係にある韓国企業の輸出にとっては好材料にもなり得る。

 S経済研究所のT副社長は、「米国とヨーロッパの金融当局が積極的に対応していることに
加え、アジア経済が好調を見せ、アジア各国に外貨資産が多く蓄積されているため、通貨危機
のような大規模な危機へと発展する可能性は少ない」と述べた』(I・J記者)と。

++++++

 順に整理してみよう。

(1)大規模危機へと進展する可能性は低い。
(2)韓国の直接的な損失規模がそう大きくはない。
(3)金融機関の資産規模が、それぞれ数十から数百兆ウォンに達するという点を考慮すると、
大きな打撃にはならない。
(4)今年に入り韓国の株式市場の上昇率が相対的に高かった。
(5)円高に向かう可能性も残されており、日本企業とライバル関係にある韓国企業の輸出にと
っては好材料にもなり得る。
(6)アジア各国に外貨資産が多く蓄積されている。

 S経済研究所のT氏が、「米国とヨーロッパ……」と書いて、わざわざ「日本」をはずしているこ
とに注目。世界の新聞は、「日米欧」と、「日本」を入れている。

 これについては毎度のことだから、ここでは目をつぶることにしよう。

 (1)の「大規模危機へと進展する可能性は低い」については、主語が「世界」なのか、「韓国」
なのか、よくわからない。世界的な大規模危機にはならないとは、私もそう思っているが、韓国
にとっては、そうではない。それについては、今まで、たびたび書いてきた。

 (2)と(3)については、なぜこうまで韓国はオメデタイのか、その理由がよくわからない。つぎ
の数字を見てほしい。

 第一銀行  外資比率100% (筆頭株主:スタンダード・チャータード)
 韓美銀行  外資比率 99% (筆頭株主:シティ・グループ)
 国民銀行  外資比率 86% (筆頭株主:バンク・オブ・ニューヨーク)
 外換銀行  外資比率 74% (筆頭株主:ローンスター)
 ハナ銀行  外資比率 72% (筆頭株主:ゴールドマンサックス)

 わかるかな? エッ、まだわからない?

 国策銀行のウリ銀行をのぞいて、韓国の銀行は、すべて、外資の支配下にあるということ。
国民銀行を例にあげてみると、86%が、外資。しかもその筆頭株主は、バンク・オブ・ニューヨ
ーク! アメリカの銀行である。わかりやすく言えば、韓国の銀行は、アメリカの銀行、もしくは
その支店と考えてよい。

 アメリカの銀行が巨大な損失をかかえているのに、その子分である韓国の銀行が、「大きな
打撃にならない」とは! (これに対して、日本の銀行のばあい、役員に外人を置いている銀行
は、ゼロ!)

 「金融機関の資産規模が、それぞれ数十から数百兆ウォンに達する」ということだそうだが、
それはだれのお金か、まず、それを冷静に考えてみること。だいたい「資産規模」というところ
が、恐ろしい! 日本でいう「資産」ということなら、それは株主、つまり投資家のもの。預貯金
額を言うなら、それは預金者のもの。

 (4)の「今年に入り韓国の株式市場の上昇率が相対的に高かった」というのは、どことくらべ
て「相対的に高かった」というのか。

 韓国では、外資が逃げ、個人投資家が逃げても、しかし株価だけはあがるという珍現象が、
続発している。

 株価というのは、だれかが買うからあがる。買わなければ、あがらない。では、だれが買う
か?

 いわずと知れた、「自社」である。株式制度、それに付随する法律は、国によって、すべて異
なる。韓国では、「自社株の売買」が、ごくふつうのこととしてなされている。

(5)「円高になれば、韓国企業にとっては有利」とか?

 ならば聞くが、ではなぜ自国の通貨を、ウォン安にしないのか? きわめて簡単な質問であ
る。そうすれば何も円高を待たなくても、韓国企業にとっては有利になるはず。が、韓国政府
は、つい先週も、2か月連続で、日本でいう政策金利をあげている。(今月、0・25%あげて、
0・5%になった。)

 政策金利をあげれば、世界の投資家たちが、韓国のウォンを買う。そのためウォンが値をあ
げる。ウォン高になれば、輸出企業に不利になる。韓国政府は、自国ガ貿易立国であることを
百も承知の上で、自国の通貨をウォン高に導こうとしている。こういう矛盾を、いったい、この記
事を書いた記者は、どう説明するのか。

 実は、韓国は、ウォン安にできないのである。ウォン安にしたら、それこそ、現在アメリカで起
きている、サブプライム・ローンと同じ問題が、韓国国内で起きてしまう。世界的にみれば、規
模は小さいが、韓国経済を崩壊させるには、じゅうぶん。

 何としてもウォン高を維持して、外資を自国へ呼びこまねばならない。そのことは、つぎの数
字をみればわかる。

 韓国貿易収支    2005年…… 327億ドル
              2006年…… 292億ドル
              2007年…… 100億ドル以下(07年第一四半期より推定)

 つまり毎年、韓国の貿易収支は、見た目よりもはるかに速いスピードで悪化している。2008
年には、赤字に転落するかもしれない。ここ1〜2年、設備投資額も、前年度比、毎年、1〜
2%という、まさにK国並みの低さで推移している。

 こういう状態で、円高になったらどうするか? 韓国は基本技術、および製造機器のほとんど
を、日本に頼っている。「有利」になるどころか、その分だけ、たちまち輸入額に、円高分が上
乗せされてしまう。

 が、何といっても最大のウソは、(6)の「アジア各国に外貨資産が多く蓄積されている(からだ
いじょうぶ)」という部分。

 百聞は一見にしかずという。つぎの数字を見てほしい。

 韓国の所得収支    2005年…… ▲16億ドル(赤字)
                2006年……  ▲ 5億ドル(赤字)
                2007年……  ▲20億ドル以上の赤字(07年第一四半期より推
定)

 所得収支というのは、モノの売買で得るのを「貿易収支」と呼ぶのに対して、債権・債務で発
生する収支のことをいう。

 ここ数年、韓国では、この所得収支が赤字なのである。赤字ということは、「アジア各国にあ
る外貨資産」で得るお金よりも、借金のほうが多いということ。わかるかな? エッ、まだわから
ない?

 では、説明しよう。

 あなたは借家を5軒もっている。そこからの家賃収入は、1軒分10万円として、50万円あ
る。しかし同時に、その借家を建築するために借り入れたお金の返済のため、あなたは、毎月
60万円の利息を支払わねばならない。つまり所得収支でみれば、毎月10万円の赤字という
ことになる。そういう状態でも、あなたは「うちには資産があるから、だいじょうぶ」などと言うだ
ろうか。

 韓国の今の状況を簡単に言えば、そういうことになる。そういう韓国が、「アジア各国に外貨
資産が多く蓄積されているから、(だいじょうぶ)」とは! あいた口がふさがらない!

 私のようなド素人にも、こんな程度のことはわかる。つまりこの記事を書いた、朝鮮N報のI・J
記者は、この私よりも、ド素人ということになる。

 なぜ、こうした記事には、わざわざ署名を入れるか? もうこれで読者の方は、その理由が、
おわかりのことと思う。

 私もこうした記事にはよくだまされた。つい最近まで、だまされた。韓国を代表する新聞社だ
から、だれしも「まさか!」と思う。しかしウソはウソ。読者のみなさんも、くれぐれもご注意のほ
どを!

++++++++++++++以上、そのまま転載++++++++++++++++

国がマスコミをあざむき、マスコミが国民をあざむき、やがて世界は奈落の底へと
落ちていくことになる。

今回の大不況は、まさに人災と言えなくもない面をはらんでいる。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●JALの二次破綻

++++++++++++++++++++

8月末に向けて、JALの二次破綻が、
急速に現実味を帯びてきた。
先ほども、あちこちのBLOGを流し
読みしてみたが、JALを擁護する意見は、
ほとんどゼロ。
どこも「潰せ」「潰せ」の大合唱。
このままではへたに再生させたら、民主党
政権そのものも、「破綻」する。
そういう様相を帯びてきた。

++++++++++++++++++++

●LCC(ロー・コスト・キャリアー)

 先日、フランスから友人が私の家に遊びに来てくれた。
そのときこんな話をしてくれた。

「フランスでも、飛行機のLCC化が進んでいる。
……というか、欧米では今や、常識。
プレスト(フランスの西端の町)から、パリまで、800〜1000円前後。
ばあいによっては、300円(以上、日本円に換算)で、飛行機に乗れる」と。
航空会社も空席で飛ばすくらいなら、300円でもよいと考えるらしい。

 チケットは、インターネットで予約する。
客は、それをプリントアウトして、空港へ向かう。
座席は早い者勝ち。
機内サービスはなく、座席幅も狭い。
しかし料金が料金だから、「それで文句を言う人はいない」と。

 ちなみにプレスト→パリ(オルリー空港)までは、約500キロ。
日本で言えば、東京→大阪間の距離とほぼ同じ。

 LCCは何もヨーロッパだけの話ではない。
このアジアでも進んでいる。
2010年10月には、東京→マレーシア(クアラルンプール)間、片道1万数千円。
往復2万8000円の航空会社が、運航を開始する。
にもかかわらず、JALは、いまだに強気の経営戦略を崩していない。

 「……売上高の47%を国際線が、残り53%を国内線が占める見込み(12年度)」(再生計
画案)と。
国際線で、47%の売り上げ!

 こういうありえない数字を並べるだけでも、JALの二次破綻は避けられそうもない。

●9000億円の血税

 「フラグシップ」とは何か?
それがよくわからない。
どうしてそれにこだわるのか?
前例がないわけではない。

イタリアのアリタリア航空につづいて、スイスのスイス航空、ベルギーのサベナ航空など。
フラグシップと呼ばれた航空会社でも、破綻をするときは破綻する。
(ただしアリタリア航空については、国策企業として現在も存続中。)

アメリカでは、ユナイテッド、デルタ、ノースウェスト航空などが、みな、破綻を経験
している。
(「破綻」と「破産、倒産」とは、中身がちがうが……。)
ただJALとちがう点は、アメリカのばあい、再生イコール、ゼロからの出発を意味する。
役員以下従業員は、みな、一度解雇。
労働組合は解散。
給与体系も、ゼロからの再契約。

 が、JALはちがう。
今回、JALは一次破綻なるものをしたが、そのあと元役員はみな、子会社および関連会
社の役員として天下っている。
中身はそのまま。
給料をカットされたとはいうものの、それ以前はといえば、客室乗務員(CA)ですら、
年収は1000万円。
OBの年金は、月額45万円以上。
そういう会社に9000億円、つまり1兆円近い血税を注ぎ込むことについて、はたして
国民の納得が得られるものかどうか。
しかもこのところ毎月1000億円の赤字!

●潰すに潰せない

 が、潰すに潰せない。
もしここでJALを潰したら、直接的にだけでも、5万人の失業者が出る。
関連会社の連鎖倒産も含めると、その数は2〜3倍にふくれあがる。
さらに国内線、国際線ともども、「運航」に与える影響は、計り知れない。
JALは、現在150機以上もの飛行機をかかえている。
「では、ほかの航空会社が引き継げばいい」という意見もあるが、そうは簡単ではない。
混乱が収束するまでに、1〜2年はかかるというのが、おおかたの見方である。

 さらに、今、ここでJALを潰せば、日本のイメージダウンは避けられそうもないと
いう。
そうでなくても現在、日本経済は綱渡り状態。
JAL破綻で、日本経済崩壊の引き金を引いてしまうことも考えられる。
「潰すに潰せない」という事情は、つまりここにある。
JALは、あまりにも巨大企業!

●二次破綻

 しかし結局は、JALは、そのつど「破綻」を繰り返しながら、最終的には、
バラバラに解体される。
国内線専用会社として、生き残るしかない。
「フラグシップ」と言いながら、単独で飛ばしている国際線は、10路線もないの
では?
つまりJALは、無数の航空会社に分割される。
「ジャパン」「スカイ」「エアー」の3つの言葉の組み合わせだけで、
ジャパン・スカイ、ジャパン・エアー、スカイ・エアー、エアー・ジャパン、スカイ・
ジャパン……など、10の会社が生まれる。

 そういう会社どうしが、LCCとして料金競争を繰り返す。
熾烈な競争ということになるが、そこまでしないと、日本の航空会社はもう生き残る
ことはできない。
一次破綻、二次破綻は、そこに至る段階的なステップに過ぎない。

 ……とまあ、二次破綻を既成事実化したような意見を書いたが、仮にこの8月末に、
再生計画案がパスしたとしても、そのあとさらに傷口は深くなるだけ。
完全に世界の常識そのものに、逆行している。
潰すものは潰して、アメリカの航空会社のように、ゼロから再出発したほうが、得策。
わかりやすい。
これがおおかたの世論ではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 JAL問題 JALの二次破綻 JALの再建問題 JALに対する国民世論)2010/08
/16


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



++++++++++++++++



子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



++++++++++++++++



●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。そのせ
いか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参観している私の
ほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときには、脳
内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化
し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつぶ
る。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳内ホルモ
ンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始め
る。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象
である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことがあった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当
たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休みになる少
し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。ウソや仮
面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思
う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あな
たのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉があ
る。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。相手の
好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助手席
に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれませんが、
今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解した。頭も
よい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力)





Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司



●ほめる(2)※



●明るい4人兄弟



 Gさんの家には、男の子ばかり、4人の子どもがいます。が、どの子も、屈託なく、明るい。伸
びやか。その秘訣は、すぐわかりました。母親が、上の子どものお下がりを、下の子どもに与
えるとき、いつもこう言うのです。



 「あら、あなたも、Aちゃん(すぐ上の兄)のが着られるようになったわね。大きくなったわね」
と。



 母親がまず、それを心底喜んでみせる。それを受けて、下の子どもたちが、「大きくなった」と
喜ぶのです。そういう雰囲気を、母親が、無意識のうちにも、つくりあげていたのです。



●不思議なパワー



 子どもを伸ばす最大の鉄則、それは、子どもをほめることです。スキナーという学者は、ほめ
ることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを前向
きに伸ばしていくと説明しています。



さらに最近の研究によれば、ほめることによって、脳内で、カテコールアミンというホルモンが
分泌され、それが、子どもの集中力(ノルアドレナリン)や思考力(ドーパミン)を活性化させるこ
ともわかってきました(澤口俊之「したたかな脳」)。



 ほめることには、私たちが想像する以上の、ものすごいパワーがあるようです。が、いくつか
条件があります。



●ほめる条件



 ほめるとしても、努力とやさしさ。この2つは遠慮なく、ほめます。顔やスタイルは、ほめない。
頭については、時と場所を慎重に選んで、ほめます。顔やスタイルは、ほめれば、関心がそち
らばかりに向いてしまうということになりかねません。頭については、ほめすぎたため、かえって
うぬぼれてしまうというケースも、少なくありません。



 また当然のことですが、ほめるときには、心底、その気になってほめます。ウソや体裁では、
効果がないばかりか、かえって逆効果。子どもは、親の心の隠された意図(シャドウ)を、敏感
に読み取ってしまいます(ユング)。



●学習面では……



 たとえば子どもの学習。子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばす、です。苦手な分野、
不得意な分野には、目をつむります。



 こうすることで、先に書いた、カテコールアミンという脳内ホルモンの分泌を促し、脳を活性化
させることができます。



 1科目が伸びたら、ほかの科目もつられて伸び始める……という現象が、子どもの世界で
は、よくあります。これを「相乗効果」と呼んでいますが、「うちの子は学習面ではどうも……」と
思ったら、1科目なら1科目だけを、集中的にほめて伸ばします。



●好意の返報性



 が、それでも、よくこんな質問を受けます。「子どものほめ方が、わかりません」と。しかし答え
は簡単。まず、本心で、自分の子どもをいい子と思うことです。不安や心配は禁物。本心で、で
す。



英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思う』というのがあります。あ
なたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あなたのことをいい人だと
思っているもの。心理学の世界ではそれを、「好意の返報性」という言葉を使って説明していま
す。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとします。相手
の好意には、好意でもってこたえようとします。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ば
します。親が、「…うちの子は、ダメ…」と思っていて、どうして子どもが伸びることができるでし
ょうか。



 もうおわかりですね。「うちの子は、すばらしい」と、まず信ずること。心ができれば、ほめ方
は、自然と、あとからついてきます。

(はやし浩司 相乗効果 ノルアロレナリン カテコールアミン 脳の活性化)



【補記】



 子どものやる気、思考力に、脳内ホルモンが、関係している。昔から『好きこそ、もののじょう
ずなれ』と言うが、好きなことをしていると、脳内で、カテコールアミンというホルモンが分泌され
る。



 このカテコールアミンには、ノルアドレナリンとドーパミンの2種類があるが、そのうちノルアド
レナリンは、注意力や集中力と関係があり、ドーパミンは、思考力に関係があるとされる。



 カテコールアミンが分泌されると、脳が覚醒状態になるという。そしてその結果、脳の機能そ
のものが活性化される。



 教育の世界には、「相乗効果」と呼ばれる、よく知られた現象がある。たとえば英語なら英
語、1科目が伸び始めると、とくにほかの科目を勉強したわけでもないのに、数学や国語まで、
伸び始めるという現象である。この現象に、ここに書いた脳内ホルモンの働きを重ねてみる
と、なぜそうした現象が起きるのか、うまく説明できる。



 そこで重要なことは、子どもを伸ばそうと考えたら、どんな分野でもよいから、ひとつのことを
楽しんでさせるようにすること。その前向きな取り組みが、子どもの脳を活性化させる。その結
果として、子どもは、ほかのあらゆる分野で、伸び始めるようになる。



まずいのは、不得意な分野や苦手な分野を、子どもに押しつけるような行為である。逆の相乗
効果(?)が働いてしまい、子どもは、今度はあらゆる面で、伸び悩むようになってしまうかもし
れない。

(はやし浩司 子供の集中力 子供の思考力 子どもの集中力 カテコールアミン ノルアドレ
ナリン ドーパミン)



【注、ノルアドレナリン】



ホルモンとして副腎から血液に放出され、また、シナプス伝達の間にノルアドレナリン作動性ニ
ューロンから放出される神経伝達物質である。それは、ストレス・ホルモンの1つであり、注意と
衝動性(impulsivity)が制御されている人間の脳の部分に影響する。アドレナリンと共に、この化
合物は闘争あるいは逃避反応を生じさせて、心拍数を直接増加させるように交感神経系を動
かし、脂肪からエネルギーを放出し、筋肉の素早さを増加させる。(Wikipedia フリー百科事典
より転載)。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【常識論】



【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。



●日本の常識は世界の非常識



(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1
4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長
二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。



ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。



(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマー・スクールという学校がある。そこはチャールズ皇太
子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラ
ムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな
子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。



なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●「自由に学ぶ」



 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。

(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識論
 はやし浩司 教育評論 教育論 オーストラリア はやし浩司 ジーロン・グラマー・スクール 
ジーロング グラマー スクール Geelong Grammar School)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●がまんをさせる(忍耐力と子どもの伸びる力)

++++++++++++++++++++

孫の誠司(当時6歳、母親はアメリカ人)のこと。
その誠司をおもちゃ屋へ連れていったときのこと。
孫の誠司はおもちゃを手に取って遊ぶだけで、
けっして「ほしい」とは言わなかった。

ショッピングセンターへ連れていったときも
そうだった。
日本の子どものように、「あれ、買って」「これ、
買って」とは、言わなかった。
で、息子(二男)にその理由を聞くと、こう言った。
「無駄なものは、いっさい買わない」と。

アメリカといっても広い。
二男の嫁が生まれ育ったのは、アメリカ南部。
両親は厳格なバプティスト教徒。
日本人の子育て法とは、基本的な部分がちがう。
その(ちがい)が、冒頭に書いたちがいとなって、
現れた。

が、それだけではない。
誕生日プレゼントでも、クリスマスプレゼントでも、
その日になるまで、親は包みを開かせない。
孫たちは、その日になってはじめて、包みを開く。
習慣のちがいといえばそれまでだが、しかし
こうした習慣が、子どもに(我慢)ということを
教える。

私がそれまでもっていた常識とはあまりにもちがったので、
孫たちを見ながら、私は強烈な印象を叩きつけられた。

+++++++++++++++++++++

●D・ゴールマンの実験

 植島啓司著「天才とバカの境目」(宝島社)に、こんな興味深い実験が紹介されている。
D・ゴールマンがした『マシュマロ・テスト』というのが、それ(P13)。
内容をかいつまんで紹介する。

+++++以下、「天才とバカの境目」より、要約+++++

 4歳の子どもに、実験者がこう言う。

「ちょっとお使いに行ってくるからね。おじさんが戻ってくるまで待って
いられたら、ほうびに、このマシュマロを2つあげる。
でも、それまで待てなかったら、ここにあるマシュマロを、1つだけあげる。
そのかわり、いますぐ食べてもいいけどね」と。

 4歳の子どもには、大きな試練だ。
さてあなたなら(あなたの子どもなら)、どうするだろうか。

 ゴールマンはこう言う。
『子どもがどちらを選ぶかは、多くのことを語ってくれる。
性格が端的に読み取れるだけではなく、その子どもがたどる人生の軌跡
まで想像できる』と。

 で、4歳児のうち、何人かは実験者が戻ってくるまで、15分ないし20分
間を待つことができた。
待っている間、子どもたちはマシュマロを見なくてすむように、両手で目を
覆ったり、顔を伏せたりしていた。
自分を相手におしゃべりをしていた子どももいたし、歌を歌っていた子どもも
いた。
最後までがんばりぬいた子どもは、ほうびにマシュマロを2個もらった。

 同じ4歳児でも衝動性の強い子どもは、目の前のマシュマロに手をのばした。
しかもほとんどのばあい、実験者が、『お使いに行く』と部屋を出た直後に
そうした」と。

●決定的な差

 この実験は、1960年代にスタンフォード大学の心理学者ウォルター・
ミシェルが大学構内の付属幼稚園で始めたもので、その後も詳細な追跡
調査がなされたという。

 その結果、すぐマシュマロに手を出したグループと、がまんして2個
受け取ったグループとでは、決定的な差が生じた。

 情動を自己規制できたグループは、たとえば、学業の面でも、SAT
(大学進学適正試験)で、もう一方のグループに200点以上もの大差を
つけたという。

+++++以上、「天才とバカの境目」より、要約+++++

●注目すべき結果

 もう一度、最後の部分をよく読んでほしい。
こうある。

「情動を自己規制できたグループは、たとえば、学業の面でも、SAT
(大学進学適正試験)で、もう一方のグループに200点以上もの大差を
つけたという」(P14)。

 つまりがまん強い子どもは、そうでない子どもよりも、学業面においても
大きな(差)をつけたという。

しかしこれは何もこんなおおげさな実験などしなくても、常識と考えてよい。

●がまん

 子どもにとって忍耐力というのは、(いやなことをする力)をいう。
これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

(なおこの意見は、私のオリジナルの持論。
最近書店に並んでいる育児本に、同じことを書いてあるのを知った。
私の持論のパクリである。)

 たとえばあなたの子どもに、台所の生ごみを始末させてみてほしい。
シンクに手が届かないようであれば、風呂場の排水口にたまった毛玉でも
よい。
あるいは年齢が大きければ、風呂洗い、もしくはトイレ掃除でもよい。
そういう仕事を頼んだとき、何のためらいもなくそれができる子どもは、
忍耐強い子どもということになる。

 このタイプの子どもは、学業面でも伸びる。
理由は簡単。
もともと学習(勉強)には、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。
しかも「この先、どんな人生を歩むようになるかまで、わかる」と。
ゴールマンは、それを研究として、つまりデータ上で、証明した。

●幼児期前期(2〜4歳期)

 エリクソンは、幼児期前期を「自律期」と位置づけている。
この時期に、「自らを律する」ということをしつけると、子どもはのちのちも、
自己管理能力のすぐれた子どもになる。

 人間の子どもだけではない。
犬もそうで、時期をうまくとらえ、しつけると、人間の言いつけをしっかりと
守ることができるようになる。
たとえば私の犬のハナは、中型の猟犬だが、いまだかって塀を乗り越えて
外に出たことはない。
塀は自分の肩ほどの高さしかないから、その気になれば、いつでも飛び出せる。

 子どももそうで、この自律期に、しっかりとしつければ孫の誠司のように
なる。
おもちゃ屋でおもちゃを見るときも、ただ見るだけ。
それで満足する。
「買って」とか、「ほしい」という言葉すら、口に出さない。
で、私のほうが見るに見かねて、「買ってあげようか?」と声をかけると、
かえってキョトンとしている。
子どもをしつけるということは、そういうことをいう。
「がまんさせる」ということは、そういうことをいう。

●物欲(食欲)

 これは私の仮説。

以前にも書いたことがあるが、脳の視床下部からは絶え間なく、ある種の
シグナルが放出されている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」と
いうのは、それをいう。

そのシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され、人間の脳は欲望に満たされる。
この欲望をコントロールするのが、前頭連合野ということになる。
つまり「理性」。

 しかし前頭連合野の力は、それほど強くない。
とくに線条体に受容体が一度形成されると、そこで条件反射運動が起こる。
こうなると理性の力は、さらに遠ざかる。
アルコール中毒、ニコチン中毒、さらには買い物依存症の人たちを見れば
それがわかる。
買い物依存症の人たちは、それがほしいからそれを買うのではない。
必要だから買うのでもない。
(買いたい)という衝動を満たすために、それを買う。

(この点、ニコチン中毒者も同じように考えてよい。
タバコを吸いたいから、タバコを吸うのではない。
タバコに、タバコを吸わせられている!)

 物欲もまさに、その1つ。
「情動の自己規制力」(ゴールマン)が強い子どもは、それだけ前頭連合野
の力が強いということになる。
反対に、そうでない子どもは、そうでない。
情動の自己規制力が弱いから、衝動的な行動をコントロールすることができない。
あるいは情動に溺れてしまう。
が、これでは落ち着いて勉強することもできない。
そのちがいが、「200点以上という差(SAT)」となって現れる。

●臨界期

 子どもをがまん強くするかどうか。
忍耐力のある子どもにするかどうか。
その時期は、幼児期前期(2〜4歳期)にかかっているとみてよい。
その時期を逃すと、以後、子どもをがまん強くしたり、忍耐力のある子ども、
つまり情動に対して自己規制力のある子どもにするのは、たいへんむずかしい。
子どもの忍耐力にも、臨界期があると考えてよい。

 たとえば年長児(幼児期後期)にもなると、その(ちがい)が、個性となって
その子どもの中に定着してしまう。
衝動性の強い子どもは、それ以後、ずっと衝動性の強い子どもになる。
いくら指導しても、また叱ったり、注意したりしても、それが直るということは、
まず、ない。

 またこのことも犬を見ればわかる。
私は以前、もう一匹、犬を飼っていた。
保健所で処分される寸前の犬だった。
が、この犬は、「自律心」ということになると、まったく自律心のない
犬だった。
ほんの少しでも裏の勝手口が開いていようものなら、私たちの目を盗んで、
そのままどこかへ行ってしまった。
何度教えても、また叱っても、死ぬまでこの悪癖は直らなかった。

●子どもを伸ばす

 子どもを伸ばすかどうか。
そのひとつの鍵をにぎるのが、(がまん)ということになる。
(あくまでもひとつの鍵。誤解のないように!)
がまん強い子どもは、伸びる。
そうでない子どもは、そうでない。

 だから幼児期、とくに幼児期前期においては、がまんをテーマに、
子育てをするとよい。
(がまん)にも臨界期があり、この時期を逃すと、そのあとのしつけが
たいへんむずかしくなる。

 で、この問題は、あなたという(親)に、そのまま直結する。
あなたは、そのがまん強い親だろうか。
それとも衝動的な行動を繰り返しているだろうか。
つまり前頭連合野の力は強いだろうか。
それとも弱いだろうか。
一度、自分の幼児期はどうであったか、自分を振り返ってみるとよい。
別の(あなた)を、あなたは発見するかもしれない。
2010/08/17

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 マシュマロ マシュマロ・テスト 忍耐 子どもの忍耐力 我慢 我慢強い子ども 
がまん強い子ども 伸びる子ども 伸びない子ども ゴールマン はやし浩司 自己規制力 幼
児期前期 臨界期 自律期)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●子育てQ&A(2010年8月17日)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【子どものやる気について(自我の同一性)】

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v/mgfXtu_wD-k&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/mgfXtu_wD-k&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【子どもの自己規制力と忍耐力】

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v/KQOv3mxL990&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/KQOv3mxL990&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【子どもの勉強癖(子育て自由論)】

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v/OJq8GH_wWyw&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/OJq8GH_wWyw&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【動機付けの3悪(条件付けについて)】

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v/dcUo1zxHb7Q&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●謎の衛星「フォボス」

+++++++++++++++

火星には2つの衛星がある。
そのひとつが、「フォボス」。
まさに謎の衛星。
私はこのフォボスに、たいへん
興味がある。
ひょっとしたら、人類の起源、
さらには人類の未来の謎を解く鍵が、
このフォボスに隠されているかもしれない。
けっしておおげさなことを書いているのではない。
「ありえる」という話で、私は信じている。

真夏の夜のロマン。
大ロマン。
そう、夏になるといつも決まって、
フォボスが気になる。

++++++++++++++

2007年の4月に書いた原稿より

++++++++++++++

●宇宙ステーション

++++++++++++++++++

もっとも効率的で、高性能、かつ安価な
宇宙ステーションの作り方といえば、
宇宙に漂う、惑星の中をくりぬいて作る
という方法。

小さな衛星でもよい。

衛星でなくても、もっと小型のものでも
よければ、隕石がある。

外殻が、固い岩石でおおわれているため、
各種の宇宙線から、乗員を守ることが
できる。大きな衛星になれば、それなりの
重力もあるから、観測機器などを、内部で
固定することもできる。

では、どうすれば、そういう衛星を、ちょうど
よい場所に、もってくることができるか?

これも、方法は、簡単。

岩石の表面に、すり鉢状の穴を掘り、その
中心部で、ものを爆発させればよい。

大きな衛星であれば、小型核爆発でもよい。
爆発力をうまくコントロールすれば、
衛星を移動させることができる。

++++++++++++++++++

 現在、いろいろな国が集まって、宇宙空間に、宇宙ステーションを建設している。しかし地球
から、そのつど資材を持ち運ぶため、莫大な費用がかかる。

 そこでもっとも簡単で、安価な宇宙ステーションの建設方法と言えば、宇宙に漂う衛星の内部
を、くりぬいて作るという方法がある。直径が、1〜2キロもあればじゅうぶん。あるいはそれ以
上でもよい。
それ以下でもよい。

 重力といっても、軽いから、削岩機を使えば、まるで雪を削るように簡単に穴を掘れるはず。
掘った岩石は、そのまま、衛星表面の補強に使うこともできる。うまくいけば、岩石の中に閉じ
こめられている(水)を取り出すこともできるかもしれない。

 衛星内部に研究室や実験室、居住室などを作ればよい。

 では、そういう衛星を、どうやって、ちょうどよい位置にもってくることができるか。これも簡単
である。

 衛星の一部に、すり鉢状の穴を掘る。茶碗のような穴を想像すればよい。その穴の中心部
で、火薬を爆発させればよい。あるいは大きな衛星であれば、小型の核爆発を起こしてもよ
い。

 こうして衛星を移動させる。速度は、遅くても構わない。危険なコースに入りそうになったら、
そのときはそのときで、軌道修正すればよい。

 衛星を止めるときは、隕石の向きを180度変えて、また火薬を爆発させればよい。衛星を、
ちょうどよいところで静止させることができる。

 ……というのは、SFの世界の話だが、しかしそれをすでに考え、実行した生物がいるのでは
ないか。それを思わせる痕跡は、いくつかある。

 たまたま今朝のヤフー・ニュースは、こんな記事を載せている。

 『火星と木星の間にある、珍しい双子の小惑星、「アンティオペ」は、日本の探査機「はやぶ
さ」が着陸した小惑星「イトカワ」と同様に、岩石片が集まってできており、内部にすき間が多い
ことが分かった。パリ天文台などの研究チームが10日までに、南米チリにある欧州南天天文
台の大型望遠鏡などを使って、精密に観測した成果を、米惑星科学誌イカルスに発表した』
と。

 どうやって「かすかすであること」がわかったかということは、別として、「かすかす」ということ
は、「内部が空洞である」というふうには、考えられないだろうか。もしそうだとするなら、自然
に、空洞になったとは、考えにくい。

 ……けっして、荒唐無稽(こうとうむけい)なことを書いているのではない。この太陽系には、
それを疑わせる衛星がいくつかある。私がとくに注目しているのは、「フォボス」という火星の衛
星である。

 この惑星には、先に書いたような、すり鉢状の穴が、一方の端についている。隕石の衝突で
できた穴ということになっているが、ならば、こんなふうに穴があくためには、正確に真上から、
隕石が当たらなければならない。写真でみるかぎり、穴は、真円に近い。しかもその穴からの
びる直線状の縞模様は、観測されるたびに、数がふえているという。

 このフォボスも中は、「かすかす」と言われている。

 繰りかえすが、衛星をくりぬいた宇宙ステーションであれば、中に住む生物を、危険な放射線
や太陽光から守ることができる。小さな隕石だったら、当たっても、ビクともしない。宇宙空間を
漂うゴミと衝突しても平気。部屋をふやしたかったら、穴を掘って作ればよい。それでできた土
砂は、衛星の表面に捨てればよい。

 形こそぶかっこうだが、もっとも効率のよい宇宙ステーションということになる。

 ……ということで、この話はおしまい。で、ここから先は、私のSF的空想物語。

 遠い昔、火星にも、人間に似た知的生物が住んでいた。そして現在の人間のように、宇宙へ
飛び出すほどの知的能力を身につけた。

 そして宇宙空間を漂う衛星や惑星を、つぎつぎとくりぬいて、宇宙ステーションを建造した。
が、火星は、急速に温暖化現象を迎えた。火星に住んでいた知的生物たちは、太陽系のあち
こちへと非難を開始した。もちろん地球にもやってきた。

 が、地球には住むことができなかった。太陽から注ぎこむ放射線、太陽光に、彼らは耐えら
れない。太陽に近い分だけ、量も多い。まぶしい。それに地球の重力がある。で、彼らは、地
球の衛星の、月に目をつけた。彼らは、月をくりぬいて自分たちの宇宙ステーションを作ること
にした。

 やがて火星は、生物の住めない惑星となってしまった。火星に住んでいた知的生物たちは、
そのままそれぞれの衛星に、住むことにした。地球の上に輝く、月も、その一つである。

 ……ハハハ。私の説によれば、あの月も、どこかの衛星で生まれた知的生物たちの宇宙ス
テーションというわけ。(この説を信じているのは、けっして私だけではないが……。)

 しかしそんな思いをもって、あの月を見ると、これまた楽しい。ヤフーのニュースを読むと、さ
らに楽しい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●謎の縞模様

 フォボスの縞模様をながめているだけで、壮大なロマンがかきたてられる。
いろいろな説がある。
もっとも有力視されている説は、隕石の衝突によってできた爆発痕。
(いろいろな本にそう書いてあるだけだが……。)
しかしこの説は、一読しただけで、ウソとわかる。
フォボスの写真を見れば、すぐわかる。

 爆発痕なら、放射状に縞模様が残るはず。
が、フォボスの縞模様は、どれも並行に並んでいる。
縞模様が交差している部分もある。
さらによく見ると、その縞模様が、小さなクレーターの山を越え、谷を越え……
というように途切れることなくつづいている。
爆発によってできたものなら、クレーターの谷の内側部分にまで、縞模様が残る
ことはない。

●ふえる数

 フォボスの縞模様の数が、観測のたびにふえているという話は、よく聞く。
以前、どこかのサイトでも、その比較写真を紹介していた。
あとでもう一度、そのサイトを調べてみる。
もしこの縞模様が何らかの自然現象によってできたものなら、「ふえる」ということは、
ありえない。
しかも仮にこの20年にうちにふえたとしても、宇宙的な時間から見れば、「瞬時」。
自然現象によって縞模様ができたと考えるのには、無理がある。

 まだある。

 ロシアの探査衛星は、フォボスに近づいたところで「きりもみ状態」になり、墜落
してしまったという。
そのとき最後の1枚に、巨大なUFOが写っていたという。
加えてフォボスから、水蒸気が立ち上るのも観測されている。

 ……などなど。

●ウィキペディア百科事典より

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より転載++++++++++++

【特徴】

フォボスは太陽系の惑星の衛星の中で最も主星に近く、火星の表面から6,000km以内の軌道
を回っている。

フォボスの軌道は火星の静止軌道より内側にあるため、公転速度は火星の自転速度よりも速
い。従って、1日に2回西から上り速いスピードで空を横切り東へ沈む。表面に近いため、火星
のどこからでも見えるわけではない。また、火星の自転より早く公転しているので、フォボスは
火星の潮汐力のために徐々に火星に引きつけられ(1.8m/世紀)、いずれ壊れる運命にある。
5000万年以内に火星の表面に激突するか、破壊され火星の環となると考えられている。

ソ連の探査機フォボス2号は、故障直前にフォボスからごくわずかな気体が安定して噴出して
いることを発見した。この気体は水蒸気だと考えられている。

フォボスは、ダイモスと共に火星の重力に捕捉された小惑星だと考えられている。実際、両者
はC型小惑星同様に炭素化合物に富んでいるが、密度が非常に小さいことから、氷と岩石の
混合物だと考えられている。

【地形】

フォボスには一つの峰 (Ridges) と十数個のクレーターが確認されている。峰はヨハネス・ケプ
ラーに因んでケプラー・ドルスムと名付けられた。クレーターは天文学者、および『ガリヴァー旅
行記』の登場人物に因んで名付けられた。

フォボス最大のクレーターは直径が10kmあり、ホールの妻アンジェリンの旧姓にちなみスティッ
クニー・クレーターと命名されている。スティックニーを中心としてフォボスには放射状の溝が見
られるが、これはスティックニーを作った天体が衝突した際の衝撃でできたと考えられている。

【フォボス空洞説】

1950年代から60年代にかけて、フォボスの奇妙な軌道と密度の低さから、フォボスは中空の人
工天体ではないかという説が唱えられたことがある。

1958年頃、フォボスの公転の永年加速について研究していたロシア人の宇宙物理学者ヨシフ・
シクロフスキーは、フォボスが「薄い金属板」構造であると提唱した。これはフォボスが人工的
な起源を持つことを示唆するものである。シクロフスキーは火星の上層大気の密度の推定値
に基いて、微弱な制動効果でフォボスの永年加速を説明するためには、フォボスが非常に軽く
なければならないと推論した ……ある計算では直径が16km、厚さは6cm未満の中空の鉄の
球が導かれた。

アイゼンハワー合衆国大統領の科学顧問を務めていたジークフリード・シンガーは、"
Astronautics" 誌の1960年2月号でシクロフスキー説を支持し、さらに「フォボスの目的は、おそ
らく火星人が彼らの惑星の周囲で安全に活動できるように、火星の大気中の放射を吸い取っ
てしまうことだろう」というところまで飛躍させた。また、シクロフスキーと親しかったカール・セー
ガンやフレッド・ホイルも人工的要素を指摘していた。

しかし、後にこうした考えが生まれるきっかけとなった永年加速に関する疑問が提示され、そし
て1969年までにはこの問題は解決された。初期の研究では、軌道高度が低下する速度を5cm
/年という過大な値を使用していたが、後に1.8cm/年まで修正された。現在では、永年加速は
当時考慮されていなかった潮汐効果の結果だと考えられている。また、フォボスの密度は1.9 g
/cm3と測定されており、これは中空の殻であるという説とは矛盾する。さらに、1970年代にバ
イキング探査機によって得られた画像は明らかに天然の天体であり、人工物ではないことを示
していた。

同様の月空洞説や地球空洞説も唱えられたことがある。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より転載++++++++++++

●1立方センチ当たり、1・9グラム

 1立方センチメートル当たり、1・9グラムという。
それを「重い」というか、「軽い」というか。
アルミでさえ、1立方センチメートル当たり、2・7グラム。
花崗(カコウ)岩も、ほぼ同じ、2・7グラム。
マントルによるカンラン岩で、3・3グラム。
鉄にいたっては、8・1グラム(以上、「地質教室」HPより)。

 つまりフォボスは、アルミの約3分の2の密度ということになる。
現在地球上にあるもっとも軽い金属は、マグネシウム。
そのマグネシウムの密度は、1・74グラム。
マグネシウムよりはやや重いかなという程度。

 フォボスはやはり、カスカスの状態か、あるいは中が空洞になっていると考えるのが
妥当ということになる。
で、調べてみたら、学研より、こんな本が出版されていることを知った。

「失われた火星人の謎とサンドワーム エイリアンの改造天体フォボスと超古代アルテミュア
文」(あすかあきお著)。
長いタイトルだが、興味をググーッとそそる。
さっそく注文してくる。

●否定派と肯定派

 UFOを認めるか、認めないか。
これについては、徹底した否定派と、徹底ではないが、その否定派を攻める肯定派に
分かれる。
たとえばアメリカのNASAなどは、徹底した否定派。
「あやしい」ということすら、認めない。

 で、こうまで徹底して否定されると、かえって「何かあるのでは?」と、そこまで
勘ぐってしまう。
もう少し歩み寄れないものか?
それともUFOの存在を認めると、何かまずいことでもあるというのだろうか。
一説によれば、UFOの存在を認めると、社会秩序そのものが崩壊するという。
しかし仮にそうであっても、それをコントロールする権限は、NASAにはないはず。
ありのままの宇宙の姿を、ありのままに私たちに見せる。
それがたとえ混乱を招くものであっても、私たちにはそれを乗り越える力がある。
つまり混乱は、一時的で終わる。

 数日前も私とワイフは、こんな会話を交わした。
「あの夜、ぼくたちが見たものが何であるか。その正体を突きちめるまで、ぼくたちは
死ねないね」と。
私が火星の惑星のフォボスに興味をもっているのも、そういう理由による。

 もしあなたも宇宙人に興味があるなら、フォボスあたりから、調べてみたらよい。
シュメール人でもよい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 火星 フォボス 謎 謎の縞模様 謎の衛星 夏の夜のロマン フォボス空洞説 
UFO シュメール シュメール人 衛星フォボス)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●謎の衛星『フォボス』

 少し前、火星の衛星のひとつである、「フォボス」について書いた。
その中で、フォボスの比重について書いた。
それがどうも気になる。
今日も気になる。
フォボスの比重は、1立方センチ当たり、1・9グラム!
たったの1・9グラム。
その一部を、もう一度ここに掲載する。

●1立方センチ当たり、1・9グラム

 フォボスの比重は、1立方センチメートル当たり、1・9グラムという。
それを「重い」というか、「軽い」というか。
アルミでさえ、1立方センチメートル当たり、2・7グラム。
花崗(カコウ)岩も、ほぼ同じ、2・7グラム。
マントルによるカンラン岩で、3・3グラム。
鉄にいたっては、8・1グラム(以上、「地質教室」HPより)。

 つまりフォボスは、アルミの約3分の2の密度ということになる。
現在地球上にあるもっとも軽い金属は、マグネシウム。
そのマグネシウムでも、比重は、1・74グラム。
マグネシウムよりはやや重いかなという程度。

 フォボスはやはり、カスカスの状態か、あるいは中が空洞になっていると考えるのが
妥当ということになる。

●中身は「水」?

 このカスカス説に対して、「内部は水(氷)」という説があることがわかった。
外殻は写真を見てもわかるとおり、岩石ぽい。
少なくとも水ではない。

 が、この説はどう考えてもおかしい。
どうして比重がより軽い「水」が内部にあって、(水は1立方センチメートル当たり、
1グラム)、それよりも重い岩石(?)が、外側にあるのか?
物理学の常識に反する。

仮に氷であるとするなら今度は、フォボスはいったいどのようにして形成されたのか
という謎が生まれる。
ゆいいつ考えられるのは、宇宙をただよっていた氷の塊(かたまり)に、ほこりのような
岩石が積もって、現在のような姿になったという説。
(だれもこんな説を主張していないが……。)

 やはりフォボスは、カスカスか、もしくは中が空洞になっていると考えるのが
自然である。
もしそうでないというのなら、かなり強力な反証がないかぎり、私は納得しない。
ロシアの探査機は、フォボスの一部から水蒸気が吹きあげているのを観察している。
水蒸気?
宇宙空間の温度は、マイナス270度と言われている。
温度というのは、間に熱を伝える粒子があってはじめて伝わる。
無に近い宇宙では、太陽に近いところでも、遠いところでも、均一にマイナス270度と
考えるのが正しい。

 ただ太陽から吹き出る気体(太陽風)は、太陽の近くで100万度、地球の近くで
10万度と言われている(OK・Waveサイト)。
しかし太陽風といっても、先にも書いたように太陽の熱で暖められているわけではない。
わかりやすく言えば、太陽からの電磁波が物体の分子に当たり、そこで振動を起こす。
その振動が「熱」になる。

 ではフォボスでは、どうか?
内部から水蒸気が出るということは、内部は100度以上に加熱されていなければ
ならない。
理論上は、太陽に面した部分は、数百度になる反面、反対側の部分は、マイナス270
度。
宇宙の絶対0度にかぎりなく近づく。
それに放出されたとしても、水蒸気というのは、宇宙空間に飛び出した直後、今度は
こまかい氷の粒子になるはず(?)。

(若い頃、宇宙船の乗組員が小便を船外に放出したら、こまかい氷の粒子になった
という話を聞いたことがある。)
よくわからないが、どうして水蒸気なのか。

 現在、欧州宇宙機関(ESA)の火星探査機、「マーズ・エクスプレス」が、
火星の周囲を回っている。
そのマーズ・エクスプレスが、フォボスの詳細な情報を届けつづけている。
その結果を待ちたいが、しかし同時に、発見したことをすべてそのまま公表してくれる
かどうかについては、大きな不安が残る。

たとえば2008年、マーズ・エクスプレスは、奇妙な「峰」を発見している。
「フォボス表面に、全体の姿とは明らかに不釣り合いな、学者達が「一枚岩」と呼んだ、90メー
トルの高さの奇妙な「峰」が発見されました」(ロシア「The Voice of Russia」)と。

 フォボス表面に、90メートルの高さの「峰」があったというのだ。
「一枚岩」と呼べるような「峰」?
何か?
「塔」ではないのか?
どうして「塔」であっては、まずいのか?
どうしてわざわざ「明らかに不釣り合いな峰」と、遠回しな言い方をするのか?

 ……フォボスについての謎は、このように底なしに深い。
知れば知るほど、謎が深まる。
興味のある人は、インターネットで片っ端からフォボスについて、調べてみるとよい。
ものの考え方が一変するかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 フォボス 90メートルの峰 一枚岩 フォボスの謎 謎の衛星 フォボス)

●フォボスの写真集

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4912118195/" title="PSP_007769_
9010_IRB-enhanced by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/
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enhanced" /></a>

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<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4912800340/" title="フォボス180度
回転したあと、上下反転 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com
/4099/4912800340_0a002ac540.jpg" width="500" height="494" alt="フォボス180度回転し
たあと、上下反転" /></a>

(上の写真の中の1枚を、180度回転したあと、上下反転した写真)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【沖縄の領有権問題】

●映画『インセプション』、2回目

+++++++++++++++++

昨夜遅く、映画『インセプション』を
観てきた。
2回目である。
2回目で、やっとすべて理解できた。
あの映画は、一応、ハッピーエンドで
終わっている。
それが確信できた。

で、やはり同じことを感じた。
字幕の翻訳が、不親切。
たとえば「〜〜へ行く」という字幕が出る。
英語のほうでは、「だれが」という言葉が
入っている。
が、字幕だけだと、そのつど頭の中で、
「だれが?」と考えなくてはいけない。
明らかな誤訳もいくつか、見つけた。

あの映画を観に行くときは、あからじめ、
ストーリーを知っておく必要がある。
でなければ、頭が混乱する。

なお「もう一度、観よう」と言ったのは、
ワイフ。
映画館から出るとき、ワイフはこう言った。
「2回目で、やっと意味がわかったわ」と。
『インセプション』というのは、
そういう映画。

このところ観たい映画があまりない。
そのためときどき同じ映画を観る。
『ソルト』も2回、観た。

で、その感想。

同じ映画を2回観ることについて、「無駄」と
思う人がいるかもしれない。
しかしよくできた映画は、(よい映画とはかぎらないが)、
2回目でその(できのよさ)がよくわかる。
より深く楽しめる。

それに英会話の勉強にもなる。
レッスン料と思えば、安い。

+++++++++++++++++++

●ソニーのビデオカメラ(CX−170)

 昨日、ソニーのビデオカメラが届いた。
CX−170。
小型カメラ。
今使っているビクターのEverioと比べても、一回り小さい。
値段は、5年保証+代引き手数料込みで、4万1000円。
それでも近くの大型電気店で買うよりも、1万5000円ほど、安い。

 Everioは、買って、1年半。
その間にボロボロ、ガタガタ。
よく使った。
CX−170がその後継機というわけだが、機能がよくなった分だけ、今のところ
うまくパソコンに取り込めない。
あれこれ試行錯誤を繰り返す。

……この間、10分ほど……

SONYの相談窓口に電話をかけて確かめたら、こういうこと。
つまりSDカードからはパソコンに直接、取り込めない。
ソニー専用のソフトを使ってほしい、と。

そういうこと。
……ということで、一件落着。
今日から教室の様子は、ソニーのCX−170で撮影する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●とうとうでてきた、「沖縄領有権問題」

++++++++++++++++

私は10年ほど前から、こう書いてきた。
「中国はそのうち沖縄は中国の領土と
言い出すようになるだろう」と。

カイロ宣言(1943)のとき、中国の毛沢東は、
そう主張した。

で、今月、中国のGDPが日本のそれを
追い越した。
とたん、出てきた、「沖縄領有権問題」。

いわく

『18日付毎日新聞は、最近数年の間に沖縄が中国領だとして、返還を求める声が中国で高ま
っていると報じた。

 報道によると、中国の一部学者は、沖縄がかつて琉球王国時代に中国との交易で栄え、中
国に従属する地位にあったと主張している。昨年12月に北京で中国人歴史研究者らによるシ
ンポジウムが開かれ、「明治政府による琉球併合(1879年)も、戦後の沖縄返還(1972年)
も国際法上の根拠はない」との主張が繰り返されたという。

 同紙は中国でこうした主張が出る背景について、「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の
移設問題で日米同盟が揺らぎ、沖縄と日本政府の関係もぎくしゃくする中、中国では『沖縄を
返せ』の声が強まっている」と分析した』(朝鮮N報より)と。

 中国が国力をますにつれて、この問題は加速度的に大きくなる。
そのとき日本および、沖縄の命運は決まる。

++++++++++++++++

2009年に書いた原稿を
そのまま再掲載します。

++++++++++++++++

●琉球独立党

 「沖縄が生き残る道は、日本(ヤマトンチュー)からの独立しかない」と。
そうして生まれたのが、琉球独立党。
党首は、YC氏(55歳)。

06年の沖縄県県知事選挙にも出馬している。
そのとき獲得した票数が、6220票。
その数を多いとみると、少ないとみるか……。
沖縄独立党は、それを「大勝利」と喜んでいる。
「我々を支持してくれる人が、6220人もいる」、あるいは「6220人にふえた」と。

 「独立党」という名称からもわかるとおり、沖縄独立党は、「日米の支配状態を脱せ」を、
旗印にかかげている。
ほかにも「琉球共和国」とか、「石油採掘権獲得」などという言葉も並ぶ。
興味深いのは、「独立したあかつきには……」「国際入札で、アメリカ軍はもちろん、
日本の自衛隊、あるいは中国やロシアの軍隊を、(有料で)、駐留させる」(「日本のタブー」・
ミリオン出版)という部分。
しかしそうはうまく、いくものか?
どこか現実離れしている?
あるいは排他的民族主義?

 中国は、台湾の独立を認めていない。
いずれは、台湾を自国の領土に編入しようとしている。
と、同時に、すでに、沖縄は、中国の領土であると主張し始めている。

 その前に、もう一度、日米関係について考えてみたい。
つぎの原稿は、2006年の1月に書いたものである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●対米追従外交?

++++++++++++++++

たしかに日本の外交は、戦後一貫して、
「対米追従外交」(経済評論家・T氏談)
である。

事実は、事実。それは、もうだれの目にも、
疑いようがない。

しかし一方で、国際外交は、どこまでも
現実的でなければならない。

現実を見失ったとき、国際外交は崩壊する。
同時に、その国は、進むべき道を、
見誤る。

++++++++++++++++

 対米追従外交を、批判する人は多い。経済評論家のTJ氏も、そのひとりである。三井物産
時代のかつての同僚ということで、肩をもちたい気持ちもないわけではないが、ならば聞く。今
の日本にとって、どうして対米追従外交であってはいけないのか。

 「追従」「追従」というが、追従しなければならない「現実」がそこにある。

 あの中国は、ものの10分足らずで、(あるいは数分で)、日本中を廃墟と化すことができる。
それだけの核兵器を、すでに保有し、実践配備をすませている。

 忘れていけないのは、戦争というのは、兵器だけでするものではないということ。日本にとっ
て脅威なのは、兵器もさることながら、その兵器を底流で支える、士気である。反日感情であ
る。中国人がもっている、その反日感情には、ものすごいものがある。

 いったんどこかでそれに火がつけば、悲しいかな、今の日本に、それをくい止めるだけの武
器もなければ、実力もない。もっとわかりやすく言えば、日本の平和がかろうじて守られている
のは、(中国側から見れば)、その背後に、アメリカという巨大な軍事国家がひかえているから
にほかならない。

 また在日米軍を支えるための、多額の負担金を問題にする人もいる。たしかに日本は、20
06年度だけでも、「思いやり予算」(=在日米軍駐留経費)と称して、2326億円もの負担金を
支払っている。先に問題になった、沖縄からの基地移転費用についても、これとは別に、「35
00億円までなら支払ってもよい」と、日本側は、回答している。

 この額を多いとみるか、少ないとみるか?

 仮に日本有事ということにでもなれば、日米安保条約が発動されて、日本は、アメリカ軍の庇
護下に入る。が、そのときアメリカ側が負担する金額は、ぼう大なものになるはず。あの韓国で
さえ、こんな試算を出している。

「朝鮮半島有事の際には、韓国は、アメリカから1300兆ウォン(約158兆円)分の軍事装備
を、無償で借りることができる」(朝鮮日報・K論説委員)と。(158兆円だぞ!)

 現に今、となりのK国は、日本攻撃を目的として、核兵器を開発している。が、そのK国に対
して、この日本には、満足な交渉能力すら、もっていない。拉致問題ひとつ解決できない。そう
いう日本が、どうして核開発問題を解決できるというのか。

 韓国にしても、いまや日本の同盟国と考えている人は、ほとんど、いない。いつなんどき、中
国と手を組んで、日本に襲いかかってくるか、わかったものではない。K国とさえ、手を組むか
もしれない。少なくとも、現在のN大統領政権というのは、そういう政権である。

 日本は、そういう立場である。つまりそういう立場であることを棚にあげて、「自主権」なるもの
をいくら唱えても、意味はない。わかりやすく言えば、日本は、アメリカに追従するしか、今のと
ころ、生き残る道はない。「追従」という言葉に語弊(ごへい)があるなら、「密接な協調」でもよ
い。

 戦後、日本という国が、かろうじて平和を保つことができたのは、日本人が、平和を愛したか
らではない。(こういうばあい、「愛する」という言葉は、腸から出るガスくらいの意味しかないが
……。)

 日本が平和を保つことができたのは、背後にアメリカ軍がいたからにほかならない。が、もし
アメリカ軍がいなければ、そのつど日本は、毛沢東・中国、スターリン・ソ連、金日成・K国、さら
に李承晩・韓国に攻撃されていただろう。これまた悲しいかな、日本はそういうことをされても
文句が言えないようなことを、先の戦争でしてしまった。

 日本は、アメリカに追従せざるをえなかったし、基本的には、今も、その状態はつづいてい
る。それが「現実」である。

 もちろん私も、このままではよいとは思っていない。いつか日本も、アメリカから独立し、日本
は日本として、独自の道を歩まねばならない。しかしその前提として、この極東アジア、東北ア
ジアに、相互の信頼関係が築かれなければならない。それがないまま、「日本は日本だ」「日本
が国内で何をしようが、日本の勝手」と言い切ってしまうのは、今の日本にとっては、きわめて
危険なことである。

 その一例が、日本のK首相によるY神社参拝問題ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●沖縄の独立(?)
 
 琉球独立党のYC氏(党首)には悪いが、もし沖縄が独立すれば、沖縄はそのまま中国の支
配下に入る。
中国が、黙っていない。
また中国は、現状においては、そんな甘い国ではない。
ないことは、チベット問題ひとつみても、わかるはず。
尖閣諸島周辺には、天然ガスや石油など海洋資源が眠っている。
であるならなおさら、中国は、沖縄の独立を認めるわけがない。

 2005年に書いた原稿を、そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●台湾問題は、日本の問題

++++++++++++++++++++++

どうして、中国は、日本が主張する経済水域の中で、
ガス油田の開発および採掘を始めたのか。

どうして日本の抗議に対して、中国は耳を貸そうと
しないのか。

実は、この問題に裏には、台湾、さらには沖縄(琉球)
の領有権問題がからんでいる。

雑誌「諸君」(11月号)の中の記事を参考に、この
問題を考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

 中国と台湾。その中国は、台湾は、中国の領土と主張し、もし台湾が独立宣言をするような
ことがあれば、中国は武力介入も辞さないと、ことあるごとに宣言している。

 つまり台湾の独立は、許さない、というわけである。

 しかし、この問題は、そのまま日本の問題と考えてよい。中国に視点を置いてみれば、それ
がわかる。中国の東には、台湾がある。しかしその台湾の向こうには、沖縄(琉球)がある。も
し台湾が独立してしまえば、沖縄(琉球)は、ますます、中国から遠ざかってしまう。

 仮に台湾が、中国の領土の一部になれば、つぎに中国が領有権を主張してくるのは、実は、
沖縄(琉球)なのである。これは私の被害妄想でも、憶測でも、何でもない。

 連合国は、ポツダム宣言(1945)によって、日本の敗戦を明確に位置づけた。しかしそのポ
ツダム宣言の前に、ヤルタ協定(同、1945)、さらにその前に、エジプトのカイロでなされたカ
イロ宣言(1943)がある。

 そのカイロ宣言の中には、「日本は、中国から奪取したすべての領土を、中国に返還すべ
き」という一文があるが、中国は、その中には、台湾はもちろんのこと、沖縄(琉球)も含まれる
と主張した。毛沢東が、その人である。毛沢東は、その著書、『中国革命と中国共産党』の中
で、「沖縄(琉球)は、日本が中国から奪った領土である」と書いている(中西輝政氏、指摘・
「諸君」11月号)。

 ……こう書くと、「沖縄が、中国の領土だって?」と思う人がいるかもしれない。しかしここは、
明確に述べておかねばならない。

琉球王朝、つまり沖縄は、江戸時代においては、薩摩の「附庸国」であると同時に、明と清との
朝貢関係をもっていた。つまり沖縄(琉球)は、幕藩体制の中では、一応、日本の「領分」としな
がらも、日本では異国として扱われていたのである。

 が、1871年、宮古・八重山島民が台湾に漂着し、54人が、台湾島民に殺害されるという事
件が起きた。これに対して時の明治政府は、「日本国民を殺害した」として清国に抗議、台湾
へ出兵。そしてそのあと、日本は、北京条約で、清に沖縄(琉球)の日本への帰属を認めさせ
る(参考、中島成久氏ゼミ資料)。

 こういう流れからみると、つまりどこか力ずくで、沖縄(琉球)を日本の領土としてきたという流
れからみると、「沖縄(琉球)は、中国の領土である」と、中国が主張しても、どこもおかしくな
い。少なくとも、「沖縄は、日本の領土である」という主張には、歴史的根拠があまりない。つま
りここが、日本最大のアキレス腱ということになる。

 しかしその中国が、沖縄をあきらめたわけではない。かろうじて、本当にかろうじて、今、中国
がそれを主張しないのは、台湾問題があるからにほかならない。台湾が、中国のコブなら、沖
縄(琉球)は、そのコブの上のコブにすぎない。「沖縄(琉球)が、中国の領土である」ということ
を主張するためには、まず台湾を、自分の領土に組みこまねばならない。

 わかりやすく言えば、台湾が、大きな壁となって、中国と日本の間に、またがっている。中国
にしてみれば、まず、台湾問題なのである。

 つまりもうおわかりかと思うが、台湾問題が片づけば、つぎにやってくるのが、沖縄(琉球)問
題である。「台湾問題は、日本に関係ない」などと思っていたら、たいへんなまちがいである。
現に今、「沖縄は中国の領土である」と主張する知識人が、中国国内で、ふえ始めている。

 一方、ここ1、2年、米中関係は、急速に悪化の一途をたどっている。新たな冷戦時代の始ま
りと説明する人も多い。最近になってアメリカのライス国務次官も、中国を、「明らかな脅威」と
位置づけ始めている(05年8月)。台湾や日本にとって、脅威という意味ではない。アメリカ本
土にとって、脅威という意味である。

 事実、それに呼応するかのように、中国の軍の近代化と拡充には、ものすごいものがある。
軍事費にしても、公表されている数字の3倍近くはあると言われている。あるいは、それ以上
かもしれない。

 そこで、その中国がなぜ、こうまで、軍事力の拡充に熱を入れるかといえば、すでに中国は、
台湾や日本を飛び越して、アメリカとの戦争を、念頭に置いているからに、ほかならない。その
中国は、これまたことあるごとに、「もし中台戦争にアメリカが介入してくるようなことがあれば、
アメリカとの対決も辞さない」と主張している。

 中西輝政氏は、つぎのような事実も指摘している。

 「この(05年)7月、中国国防大学のエリート、朱成虎少将が多くの欧米記者を前に、『アメリ
カが中台の武力紛争に介入したときには、中国は、アメリカ本土に、戦略核ミサイルによる先
制攻撃を加える』という警告を発した」(同、「諸君」11月号)と。

 そうなれば、沖縄はもちろん、日本の本土すらも、中国の核攻撃の対象となる。

 ……とまあ、こうした物騒な話はさておき、中国は、日本の主張する経済水域を、そもそも認
めていない。だから平気で、その中で、ガス油田の開発、採掘をすることができる。だからいく
ら日本が抗議の、のろしをあげても、どこ吹く風。中国は、これから先も、ますます堂々と、日
本の経済水域内に入ってきて、ガス油田の開発、採掘をするだろう。

ワイフ「そう言えば、沖縄って、日本とは、ちがうという感じがしていたわ」
私「あまり、そういうことは言わないほうがいい。もしそんなことを、日本人のお前が言っている
ことを知ったら、中国人は、『そら、みろ!』と喜んで、飛びついてくるかもよ」
ワ「でも、事実は事実だから……」
私「日本としては、何としても、米中関係の悪化を、阻止しなければならない。これ以上、悪化
すれば、日本の平和どころの問題では、なくなってしまう」
ワ「K国の核開発問題も、どこかへ吹っ飛んでしまうわね」
私「そういうこと」と。

 こうした中国の野望を封じこめるための方法は、2つある。一つは、中国の民主化運動を、
側面から支援して、中国を民主化すること。ブッシュ大統領も、「世界を民主化することが、世
界に平和をもたらす方法」というようなことを言っている。

 もう一つは、日本、東南アジアからインドにかけて、中国包囲網を構築すること。とくに重要な
カギを握るのが、すでに核保有国となったインドである。すでに、アメリカも日本も、その方向で
進んでいる。中国が、軍拡をつづけているかぎり、日本は、中国とはどこかで一線を画す。でな
いと、それこそ敵に、塩を送るようなことになりかねない。

 ……とまあ、いっぱしの外交評論家のようなことを書いてしまったが、しかしこれらの問題は
そのまま、私たち自身の問題である。日本の平和と安全に、直接かかわってくる問題である。
これからも、これらの問題を追求していきたい。
(参考、「国家の覚悟が問われる秋」by中西輝政、「諸君」11月号)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 琉球 沖縄 沖縄の領有権 沖縄独立党 ポツダム宣言 ヤルタ会談 ヤル
タ協定 沖縄問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国際政治は、現実的に!

 沖縄がかかえている問題は、よくわかる。
「(沖縄の)住民は、基地問題、低学歴、就職難で苦しめられている」(「日本のタブー」)。
そのとおりだと、私も思う。
YC氏は、同書のインタビューに答えて、こう述べている。

「沖縄独立なんていえば、妄想だの、荒唐無稽だのって、鼻で笑われたが、六千数百人の有
権者が、私の訴えに賛成したのも事実。
海や空の色とは裏腹に、基地の重圧、戦争の傷痕、財政難が住民の心を重くしている。
けれどこれはみんなヤマトンチューから押し付けられたもの。
だから私はこれをヤマトにお返しして、シマンチューのための琉球共和国を作ろうと言っている
のです」と。

が、その問題と、「独立」とは、まったく別の問題である。
ヤマトンチュー(日本)が気に入らないから、シマンチュー(沖縄)は独立すべきという考え方
は、沖縄の人たちにとっても、現実的ではない。
第一に、私たち本土の(?)人間にしても、「鼻で笑っている」わけではない。
また「押しつけている」わけでもない。
沖縄県の人たちに、「申し訳ない」と思っている人のほうが、多い。
それを一足飛びに飛び越えて、「独立」と言われると、私たちとて、どうしてよいのかわからなく
なってしまう。

 むしろ私が心配するのは、「独立」の向うに見え隠れする、YC氏自身の排他的民族主義。
民族主義というのは、より狭小になればなるほど、また先鋭化すればするほど、戦争の火種と
なってしまう。
それが排他的であればなおさら、そうである。
あのアインシュタインも、TK先生への手紙の中で、こう述べている。
「exaggerated nationalism(誇張されたナショナリズム=国粋主義)こそが、すべての戦争の原
因である」と。

 ともあれ、沖縄というより、沖縄県の問題は、日本全体の問題である。
そのことを気づかせてくれた、沖縄独立党の存在感は、大きい。
私たちは私たちで、「沖縄に独立されては困る」という発想からではなく、沖縄の人たちがかか
える問題を、私たちの問題として考える必要がある。
たしかに私たちは、今まで、沖縄の人たちがかかええる問題について、あまりにも無関心であ
りすぎた。

 一方、沖縄の人たちは沖縄の人たちで、もう少し現実的なものの考え方をしてほしい。
いろいろな問題があることは、みな知っている。
だからこそ、それらの問題をひとつずつ解決していく。
私はそのほうが現実的だと思うし、建設的だと思う。
そういう意味で、いきなり「離婚」を訴える沖縄独立党の考え方には、どうしてもついていけな
い。

 ……イマイチ歯切れの悪い結論で、ごめん!

Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●日本よ、覚悟しよう!

 この先、この問題は大きくなることはあっても、小さくなることはない。
2010/08/19記


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【温暖化、もうひとつの問題】(人心の荒廃)

+++++++++++++++++++

地球温暖化(地球火星化)の問題は、地球が
温暖化するというだけではすまないのではないか。
地球温暖化の問題には、実はもうひとつ
深刻かつ重要な問題が隠されている。
人の心の問題である。

+++++++++++++++++++

●自業自得

この先、地球温暖化が進むのはどうしようもない。
まさに自業自得。
人類が自ら選んだ道。
どんな結果になろうとも、受け入れるしかない。
が、そこまでの過程が問題。
その過程で、さまざまな社会的変化が起きてくる。
その変化が人の心に深刻な影響を与える。

たとえば今年(2010)ロシアでは、穀物の輸出を制限するという。
大規模な山林火災がつづき、穀物の収穫が大幅に減ったことによる。
それを受けて小麦の国際価格は、30%ほど上昇すると見積もられている。
豊かな国はそれ耐えられるかもしれないが、貧しい国はそうでない。
豊かな国の、何十倍もの衝撃を受ける。
その衝撃を貧しい国々の人たちが、黙って受け入れるとは、とても
考えられない。

●不測の事態

地球温暖化の過程では、こうした予期せぬ事態がつぎつぎと起こる。
当然のことながら、そうした事態は私たちの生活に大きな影響をおよぼす。
たとえば日本の食料不足も、時間の問題。
(不足)→(価格の高騰)を繰り返しながら、やがて食料の輸入もままならなくなる
だろう。
すでに世界の人口の約3分の2が、日常的な飢餓状態にあるという。
もちろん水問題もある。
水を取り合って、国々が戦争を始めるかもしれない。
あのインド・パキスタン紛争にしても、もとはと言えば、水問題。
その争奪戦が原因で、戦争が始まった(1970年前後)。

そうした事態になったとき、地球温暖化の問題は別として、
私たちは私たちの(心)を、はたして守ることができるのか?
今のように、見かけだけでも善人のフリをしていられるのか?
やがてそのメッキははがれるだろう。
それがここでいう「もうひとつの問題」ということになる。

●弱者の論理

 ところで近代経済学の中では、貧者は常に弱者であり、無視されて当然
と考えられている。
つまり「数」に入っていない。
が、実際に世界を動かしているのは、数の上で圧倒的に多い、貧者たちである。
社会を、ときとして、予期せぬ方向に動かしてしまう。

が、貧者には貧者の論理がある。
近代経済学が、そのときどきの経済の動きを読みまちがえるのは、また読みきれない
のは、こうした貧者の論理を組み入れていないからである。
つまり勝者の論理だけで組み立てられている。
(貧者の論理については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

 嫉妬とねたみ、被害者意識と妄想……。
そういったものが積み重なっていく過程において、人心そのものをゆがめる。
それがいつしか、社会秩序そのものを破壊する。
そうしたメカニズムそのものが、まだ未解明のまま。

●メルボルン市

 たとえば40年前、オーストラリアのメルボルン市は世界屈指の
豊かな都市として知られていた。
温暖な気候。
安全。
世界第1、2位を争う国民所得。
だれも迷わずオーストラリアのことを、「ラッキーカントリー」と呼んだ。
が、そのオーストラリアに異変が生ずるようになった。

 その10年後には、酸性雨が降るようになった。
議会の前の石像が、ただれるように溶け始めた。
20年後には、世界中から難民とも言ってもよいような移民が、ふえ始めた。
東南アジア、中近東の国々などから。
多くの人たちがその国を逃れて、オーストラリアへやってきた。
30年後には、・・・つまり最近に至っては犯罪もふえ、夜中の女性の
ひとり歩きは、できなくなってしまった。

 オーストラリアの友人はこう言った。
「今では白人のほうが貧しくなってしまった」と。

●宗教

 こうした状況の中で人心を守る方法があるとすれば、「宗教」を
おいてほかにない。
それに代わるものといえば、哲学や心理学ということになる。
が、個々の人の心ということになると、それでは間に合わない。
つまり温暖化にまつわる心の荒廃を救うために、哲学や心理学の発達を
待っていたのでは、間に合わない。
そうでなくても、現代人は忙しい。
「食べていくだけで精一杯」という人にしてみれば、なおさらそうであろう。

 だから「宗教」ということになる。
が、私たち日本人について言うなら、その「宗教」がない。
仏教にしても完全に形骸化、儀式化している。
「日本の仏教は葬式仏教」と揶揄(やゆ)する人も少なくない。
つまり現在の仏教には、これからつぎつぎと起こるであろう人心の荒廃を
救済するだけの力はない。

そう断定するのは危険なことかもしれないが、少なくとも私は期待していない。
だいたいこういう事態になっても、日本の仏教界にしても、だれ1人、声を
あげないというのは、どうしたことか!

●人心の荒廃

 話を戻すが、人心の荒廃を甘く考えてはいけない。
真偽のほどはともかくも、1990年代の終わりごろ、北朝鮮でこんな
事件があったという。

 ある日母親が気がついてみると、自分の子どもがいない。
3、4歳の幼児だったと記憶している。
そこでその母親は懸命になって自分の子どもを捜した。
たぶん徹夜で捜したのだろう。
が、数日後、母親はある露天の前に来ると、そこで気を失ってしまった。
あろうことか自分の子どもの腕と手が、露天につりさげられ、
そこで「肉」として売られていたという。
韓国の朝鮮N報に載っていた話である。

 人心の荒廃というのは、それをいう。
そういうことが日常的に、あちこちで起こるようになる。

●宗教の限界

 地球温暖化が進めば進むほど、同時に人心の荒廃も進む。
が、議論されるのは、気象的な問題ばかり。
精神的な問題は、置き去りになったまま。
しかし気象的な問題は、まさに自業自得。
それによって人類が滅亡することになっても、しかたない。
が、私たちはそこに至る過程で、地獄を経験する。
まさに究極的な阿鼻(あび)地獄。
人で人が焼かれる阿鼻地獄。

 その地獄に耐える能力が、私たちにはあるのか。
先に私は「仏教には期待していない」と書いた。
それに仮に宗教があったとしても、みながみな、宗教心をもつわけではない。
1人の悪人がいれば、10人の善人がいても、善人は無力でしかない。
10人の悪人がいれば、1000人の善人がいても、善人は無力でしかない。
その悪人が、私たちを否応なしに、地獄へと引き込んでいく。
あのメルボルン市で、女性のひとり歩きができなくなってしまった理由は
そんなところにある。
(なお最近では、男性のひとり歩きも危険になったという。)

 それに宗教心をもつことは、そんな簡単なことではない。
仮にもったとしても、熟成期間が必要。
「阿鼻地獄」に耐えるほどまでの宗教心をもつことは、容易なことではない。

●精神の崩壊

 地球温暖化は、不測の事態が不測の事態を呼び起こしながら、急速に進んでいる。
たとえば10年前、どこのだれが海流の変化まで予測しただろうか。
凍土の融解までは予測した人はいたが、それが自然発火することまで、どこの
だれが予測しただろうか。

 が、さらに不測の事態が起こる。
人心が荒廃すれば、社会秩序、法秩序が崩壊する。
倫理、道徳が崩壊する。
良識や常識も崩壊する。
そうなったとき、どこのだれが法を守り、排気ガスの節減に協力するようだろうか。

1リットルのガソリンを奪い合って、殺し合いが始まるかもしれない。
1滴の水を奪い合って、殺し合いが始まるかもしれない。
当然、戦争も頻発するようになるだろう。
欲望をコントロールする精神的環境、社会的環境の両方が崩壊する。
 
●人心の荒廃

つまり世界の荒廃をもたらすものには、2つある。
内的荒廃と外的荒廃。
人間の精神の内部から崩壊していくのを、内的荒廃。
善悪判断、良識、常識そのものが崩れていく。

 もうひとつは社会環境が崩壊し、外部から崩壊してくのを、外的荒廃。
社会秩序、規範、法律そのものが崩れていく。
が、2つに分けてもあまり意味がない。

それらは同時進行の形で起こり、社会を荒廃させる。
「地獄」というのはまさに、そういった究極の崩壊状態をいう。
つまり私たちはその地獄を経験する。
その地獄に耐えうる能力はあるのか。
またそれを防ぐ方法はあるのか。
その準備はできているのか。

●欲望

 地球温暖化は、まさの人間の欲望が結晶したもの。
その欲望が地球環境そのものを破壊する。
同じ欲望が、同時に内部から人間を破壊する。
言うなれば、人間の欲望が地球を破壊し、ちょうどがん細胞のように、
自らも破壊する。

 なお人心の荒廃が一度起きれば、自然破壊は一気に進む。
不測の事態の中で、もっとも恐ろしいのは、人心の荒廃ということになる。
これは先にも書いたが、言うなれば、人類全体が、食料援助も水もない、
そんな難民キャンプに置かれたような状況になる。

●では、どうすればよいか

 地球温暖化というと、ほとんどの人にとっては、(どうしようもない
問題)ということになる。
私自身も、どこからどう手をつけてよいのかわからないでいる。
「車に乗るのは控えよう」と思ってはいても、道路へ出れば無数の車が
猛スピードで走っている。
何かをしようと思えば思うほど、無力感に襲われる。

 一方、人心の荒廃ということになると、私たち1人ひとりの問題と
いうことになる。
今からそれに備えて準備する。
早ければ早いほど、よい。
あるいは組織を形成し、計画的に行動する。
精神の荒廃を受け入れるに足る哲学を構築する。
力を合わせる。
まさに絶望的な闘いになるかもしれない。
が、それが私たちに残された唯一の選択肢ということになる。

●ラッキーカントリー

 だからそれでよいという話ではない。
しかし地球温暖化により、地球が火星化するにしても、最後の最後まで生き残る国が
あるとすれば、この日本と言われている。
四方を大洋に囲まれ、中央には、3000メートル級の山々を連ねる。
そのため「水」の心配はない。
中緯度帯に位置するのも幸いしている。
局地的な洪水、渇水は起こるだろうが、大陸的なあの大洪水や砂漠化は起こらない。
中緯度帯に属し、他民族の侵略も受けにくい。
難民も、海を隔ててそこで阻止できる。

 すでに富と知識を蓄積している。
科学力も工業力もある。
唯一の難点といえば、資源をもたないこと。
が、火星化の過程では、資源はそれほど意味をもたない。
大切なことは、生き延びること。
いざとなれば、人工たんぱく質の合成も可能。
(現在でも可能だが、製造をひかえているだけ。)

 であるならなおさら、日本は、世界のリーダーとして、世界の人たちを
指導していかなければならない。
またその地固めをしておく。
精神的基盤を確立しておく。
「日本だけはだいじょうぶ」と、高をくくっているわけにはいかない。

●近未来図

 それにしても……

 やがて日本人は、山脈の山奥に掘られたトンネルの中で生活をするようになる
のだろうか。
人工太陽で作られた食物を食べて生きるようになるのだろうか。
世界中の人たちが阿鼻地獄でもがき苦しむのを見聞きしながら、ビクビクと
おびえながら生きるようになるのだろうか。
それが私たちの近未来図とは思いたくないが、しかし現実は私たちが考えているより
はるかに深刻な方向に向かって進みつつある。
しかも急速に!

 私たちが子どものころは、気温が30度を超えれば真夏日。
めったに30度を超えることはなかった(岐阜県M市)。
それが今では、この8月に入ってからは、連日35度を超えている(岐阜県M市)。
例年通りとするなら、9月下旬まで、30度を超える日々がつづく。

体感気温でみるかぎり、この半世紀の間に5度は気温があがったのではないか?
精神的荒廃が世界各地で始まるのは、もはや時間の問題とみてよい。

(補記)

 たいへん暗く、悲観的なことを書いた。
この原稿を読んだ人も、憂うつな気分になるにちがいない。
しかし地球が温暖化しているという現実は、もうだれの目から見ても、疑いようがない。
そしてその温暖化は、今の今も、つづいている。
仮に今ここで二酸化炭素の排出量をゼロにしても、一度できた「温室」がそれで
なくなるわけではない。
気温の上昇は、そのままつづく。
また「2100年までには……」という言葉をよく聞く。
しかし2100年で、気温の上昇が止まるわけではない。
気温の上昇は、それ以後もつづく。

 が、気温の上昇ひとつとっても、そんな単純な問題ではない。
「異変」につづく「異変」。
不測の事態がさらに別の不測の事態を呼び、さらに別の異変をもたらす。
いかに想像力を働かせても、異変はその想像力をはるか超えたところで起こる。

 たとえば10年前に、(たった10年前だぞ!)、北極の白クマが絶滅品種に入る
などと、だれが想像しただろうか。
あのモスクワが、放射性を帯びた有毒ガスで覆われるなどと、だれが
想像しただろうか。
チェリノブイリ発電所の事故で飛び散った放射性物質が、今度は山林火災による灰
と共に、モスクワまでやってきた!

そうした異変が繰り返され、さらに年を追うごとにその数は加速度的にふえていく。

 しかし問題なのは、そうした異常事態がそこにあることではなく、あえて目を
そむけ、知らぬフリをしている私たちにある。
こうした無関心は、やがて環境問題が臨界点に達したとき、人の心を内部から崩壊
させる。
野生化するとか、野蛮化するとか、そういう単純な問題ではない。
利口であるがゆえに、人間は、やっかいな動物ということになる。
何をしでかすかわかったものではない。
少なくとも白クマのように、静かには絶滅しない。
つまりそのための心の準備を、今から始める。
さらに言えば、やがて人類が経験するであろう、阿鼻地獄に耐えうるだけの
哲学や人間性を確立する。
そのために私たちは、何をどう考えたらよいのか。

この原稿が、それをみなでいっしょに考えるきっかけになればうれしい。
 
(補記2)

 ところで最近私は、キリスト教の聖書によく目を通す。
その聖書を読みながら、先日は、ふと、こんなことを考えた。
「この聖書というのは、そのときのために書かれた書物ではないか」と。

 「そのとき」というのは、まさに「人類滅亡」のとき。
世界各地で起こるような戦争のようなものをいうのではない。
もっと大きな問題。
人類全体にかかわるような、大きな問題。
それを「最後の審判」と位置づける人もいる。
そのときにどう生きるか。
その道筋を示したのが、聖書ではないか、と。
聖書の冒頭が、天地創造、および人類創造で書き始まるのも、そのひとつ。

 言い替えると、聖書でいうところの「神」は、人類を見捨ててはいないという
ことになる。
もし見捨てているなら、こんな書物を残さない。
つまり聖書というのは、個々の生き様を示したものではなく、人類全体の生き様を
示したもの。
が、そう考えると、それが最後の希望ということになる。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、どこかのカルト教団の人たちの
ように、自分だけが救われればよいとは、私は考えない。
彼らは2、3か月に一度は私の家にやってきて、こう説く。
「神を信じた者だけが、救われます」と。

 どうであれ、私自身は地球が火星化するまでに死ぬ。
平均寿命まで、あと16年。
健康寿命まで、あと6年。
生き残ってほしいのは、私のつぎの世代の人たち。
さらにつぎのつぎの世代の人たち。
生き残るというより、ここに書いたような地獄だけは、経験してほしくない。
そのために今の私たちはどうあるべきか。
どう考えるべきか。
それをこの先も考えていきたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 地球温暖化 地球火星化 精神の荒廃 人心の荒廃 社会秩序の崩壊 道徳の
崩壊 不測の事態)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【今週の幼児教室より】(形の学習)2010−8−19(年中児+年長児)

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【今週の幼児教室より】(形の学習)2010−8−20(年少児+年中児)

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(BW公開教室)をご覧くださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より
「BW公開教室」へおいでください。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug 2010++++++はやし浩司

●6か国協議とは、いったい何だったのか?

What has been the "6 Nation Conference" in the past 7 years?
Only what C.Hill did was to give North Korea, money, oil music and "Time", during 
which North Korea has completed nuclear weapons.
Then now again China and North Korea are seeking the way to re-opne the Conference but 
what for?

+++++++++++++++++++++++

延々とつづいた6か国協議。
結局、得をしたのは中国と北朝鮮。
中国は「議長国」として、存在感を世界に向けて誇示した。
北朝鮮は、原油と金(マネー)、音楽
(ニューヨーク・フィル)と、時間を手に入れた。

何と言っても、「時間」が痛い。
この7年間のうちに、北朝鮮は核兵器を完成
させてしまった。
おバカヒル(C. Hill)、少しは自分に恥じたらよい。

+++++++++++++++++++++++

 ここへきて、中国と北朝鮮が、急に6か国協議再開に動き出した。
朝鮮N報はつぎのように伝える。

++++++++以下、朝鮮N報、一部抜粋++++++++++

朝鮮中央通信は20日、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議の中国側首席代表を務める武大
偉韓半島(朝鮮半島)問題特別代表が16日から18日まで訪朝していたことを認め、「双方は地
域情勢・中朝親善関係・6カ国協議再開・朝鮮半島の非核化実現といった共通の関心事を深く
討議、討議した問題について完全に見解の一致をみた」と述べた。
(2010年8月20日)

++++++++以上、朝鮮N報、一部抜粋++++++++++

 あのね、中国さえその気になれば、北朝鮮の核兵器問題など、1日で解決するの!
その気もないから、ノラリクラリ!
中国にしてみれば、北朝鮮の核兵器など、痛くもかゆくもない!
となると、いったい6か国協議とは何だったのか?
今まで何をしてきたのか?
振り返ってみると、少し言葉は悪いが、泥棒に泥棒の管理を任せただけ。
これでは解決しない。
しないことは、天安艦爆破事件に対する中国の姿勢を知ればわかる。
あれほどまでに見え見えの事件はない。
あえて調査するまでもなく、爆破したのは、北朝鮮。
が、中国は、「北朝鮮のしわざではない」と。
つまり北朝鮮の肩をもった。

 さらに今度のミグ21の墜落問題。
数日前、北朝鮮のミグ21戦闘機が、中国領へ200キロ入ったところで墜落した。
それについても、中国は早々と「計器の故障」と、北朝鮮と口を合わせた。

 そこへもってきて、今度は6か国協議再開?
さっそく韓国が反応した。
「『天安』事件に関する北朝鮮の姿勢には全く変化がない。今すぐ6カ国協議を再開するという
ムードではない」(朝鮮N報)と。

アメリカ政府も反応した。
「北朝鮮は行わなければならない具体的な義務がある。わたしたちは北朝鮮が行ってきた挑
発行為を懸念しており、北朝鮮の行動が変わることを願っている」

日本政府はダンマリを決め込んでいるが、本音を言えば、もうウンザリというところ。

 日本は金xxの死後、北朝鮮の体制がどのように変化するか、それを見届けてから、動き出
せばよい。
あわてて中国のしかけたワナにはまっていはいけない。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【今週・あれこれ】8月21日夜記

●中日ショッパー

 中日ショッパーのTさんより、メールが入る。
今月号(8月)の「月刊ショッパー」に、無料で教室の広告を載せてくれるとのこと。
「スペースが空いたので、載せてあげます」と。
感謝。
同時に、仕事がつづけられる喜びを、かみしめる。
けっして、大げさな言い方ではない。
「かみしめる」。

 私の年齢になると、ものの考え方がどうしても後ろ向きになる。
「これではだめだ」とわかっていても、後ろ向きになる。
何かにつけて、すべてが細くなっていく。
どんどんと細くなっていく。
その「先細り感」は、どうしようもない。
それと闘うだけで、精一杯。
前向きの人生など、とても望めない。

 が、そういう連絡をもらうと、がぜん、やる気が出てくる。
「がんばろう!」という意欲がわいてくる。
ありがとう、Tさん!


●DVD『第5地区』

 南アフリカ映画の『第5地区』を観る。
劇場で見損ねた。
それで昨夜遅く、DVDを借りてきた。
観た。
星は3つか4つの、★★★。
最初、やや退屈な展開。
宇宙人が、着ぐるみに見えた。
が、途中から、どんどんと引き込まれた。
いろいろと矛盾を感じなかったわけではない。
しかし結構、おもしろかった。

 雑誌などで広く話題になった作品である。
長男が言うには、学生が制作したという。
そういう荒っぽさはあるが、SF映画としては、よくできていた。

 ただ……。
「エビ」と呼ばれていた宇宙人は、いったいだれのことをさすのか?
隣国から流れこんでくる難民のこと?
それとも移民としてやってくるアジア人やインド人のこと?
少し気になった。


●CX−170 

 この数日、ソニーのCX−170を使って、ビデオを撮りまくっている。
一方、今まで使っていた、ビクターのEverioは、修理へ。
モニターの開閉部が、ガタガタしてきた。
それにモニターを開いても、電源がONにならないときがある。
レンズにゴミが入った。
それで修理へ。

 こうした電子製品は、(パソコンもそうだが……)、使って使って使い倒す。
きれいに磨いて、飾っておくものではない。
1、2年もすると、つぎの新製品が追いかけてくる。
とたんに古い機種が使い物にならなくなる。
とくにパソコンがそうだ。
5年でガラクタ同然になる。

 そう言えば、先日ある家を訪れたら、Fujitsuのワープロ(ワープロ
だぞ!)が、居間に飾ってあった。
使っている様子はなかった。
飾ってあった。
当時は20万円前後した最新の機種だった。
が、今ではまったくの時代遅れ。
無用の長物。
その家では、置物がわりになっていた。
「見栄っ張りの人だなあ」と思ったが、それは言わなかった。
つまり「今時、こんなものを使う人はいませんよ」と言いかけたが、
それは言わなかった。

(今でもパソコンがわりに、昔のワープロを飾っている家は、多い。)


●世界経済

 日本政府は日銀と組んで、今度30兆円ものお金を、市中にバラまくという。
国民1人当たり、約30万円!
円高を解消するためだ、そうだ。
が、待ったア!

 問題はそのお金が、どこへ流れるか、だ。
またまたアメリカドルを買い支えるために使われるとしたら、そのまま無駄金に
なってしまう。
言うなれば今のアメリカ経済は、砂漠状態。
借金漬けの多重債務者。
もともと50円ほどしか価値のないドルを、買い支えるだと?
こんなバカげたことは、もうやめたらよい。
いくら円(=水)を注いでも、そのまま土の中(=アメリカ)にしみこんでいくだけ。

 ……と考えていたら、先にヨーロッパ経済が、おかしくなり始めた。
中国もぐらついてきた。
そのためアメリカから逃げだそうとしてうた資金が、アメリカに戻り始めた。
とたんドル高。
こういう動きが、週単位で変わる。
こういうことがあるから、世界経済は、一寸先が闇。
来週は、どうなるんだろ?

●DS−LL

 8月20日は孫の誠司の誕生日だった。
(日本では今日の8月21日。)
誕生日プレゼントに、ニンテンドーのDS−LLを贈った。
ポケモンのファンとか。
ソフトも2つ、同時につけて贈った。
電話をかけると、あのフニャフニャ英語で、「ありがとう」と言った。
うれしかった。
プラス、かわいかった。

 ワイフと2人で、電話口で、歌を歌ってやった。
「♪ハッピーバースディ、ツー、ユー……」と。


●TOYOTAのプリウス

 ワイフはプリウスがたいへん気に入っている様子。
このところ何かにつけ、ニコニコと機嫌がよい。
ワイフは若いときから、車が好き。
結婚した当初は、2人で、ドライブばかりしていた。

 が、おかしな現象が起きている。
たとえば車庫入れのときなど、どうしても車の位置がずれてしまう。
まっすぐ車をバックさせることができない。

 そこで私は何度も、モニターを見てバックしたらいいと教える。
ワイフは、「直接目で見て、バックほうがいい」と言う。
が、今日、その理由が、わかった!
つまり車がずれてしまう理由がわかった!

 プリウスの窓(サイド)は、前部ほど低く、後部にいくに従って高くなっている。
つまり窓の底辺部が、かなり斜めになっている。
それでサイドの感覚がつかめないらしい。
「だから、モニターも見ながらバックしたら」ということで、一件落着。
今日は、モニターをチラチラ見ながら、車をバックさせていた。


●8月22日

 明日は、昼ごろMさんに会うつもり。
夜は久しぶりに、Sさん夫妻の家に、遊びに行くつもり。
ほかに庭の草を刈らなければならない。

 ……そう言えば、刈払機は山荘のほうにある。
新しいのを買うべきか、あるいは山荘からもってくるべきか……。
どうしようか?
今、迷っている。
どのみち山荘にある仮払機は、そろそろ寿命。
ストッパーがはずれて落ちてしまった。
だからエンジンを止めるときは、チョークを全開にして止める。
こんなあぶない止め方をしている人は、いない。
やはり新しいのを、買ったほうがよさそう。

 となると、明日は朝からまたまた忙しくなりそう。
今は時刻は、午後9時20分。
ワイフはどこかへドライブに行くような気分でいる。
どうしようか?

 CX−170で夏の佐鳴湖も、撮ってみたい。
またそういうビデオのほうが、人気がある。
そうだ、夜の佐鳴湖を撮ってみよう。
CX−170は、驚くほど、感度がよい。
薄暗い夜道でも、きれいに撮影できるとか。
一度、ためしてみる価値はある。

 これから佐鳴湖へ行ってみる。
夜はまだ長い!


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●8月22日(心のメカニズム)【心の原点はどこに?】

+++++++++++++++++

今朝は、投稿原稿の修正から始まった。
「惑星」を「衛星」と訂正した。
昨日、火星の衛星の「フォボス」について
原稿を書いた。
私はそれを「惑星」と書いた。

フォボスは惑星ではなく、衛星である。
こんなことは常識。
しかしどうしてまちがえたのだろう?
このところ、こういうミスが多くなった。
先日もどこかの講演の中で、「カテコールアミン」と、
言うべきところを、「サイトカイン」と言ってしまった。
ともに脳内ホルモンだが、作用はまったく違う。

そのことをワイフに話すと、ワイフもあっさりと
こう言って認めた。
「そう言えば、最近、言葉をよくまちがえるわね」と。

注意力がそれだけ散漫になってきたのかもしれない。
これからは今以上に、使う言葉に注意しよう。 

今朝は曇り。
涼しい。
雨が降れば、もっと涼しい。

朝食までに、マガジン9月号を発行しよう。
それがとりあえずの目標。
それにこの数日、運動不足。
どうしようか?

そうそう昨夜遅く、佐鳴湖へ写真を撮りに行った。
写真(静止画)は何とか撮れたが、ビデオ(動画)は、
やはり無理だった。
再生してみたが、明かりがポツン、ポツンと映って
いる程度。
おまけに三脚を、置いてきてしまった。
これもミスのうち。

暑さのせいか、このところどうも頭の中が
スッキリしない。

今朝は、サイトカインについての復習から
始めよう。

++++++++++++++++++ 

【心の原点(心のメカニズム)】(2009年5月24日作)

++++++++++++++++

脳の活動は、「ニューロン」と呼ばれる
神経細胞が司っている。
それは常識だが、しかしでは、その
神経細胞が、「心」を司っているかというと、
そうではない。

最近では、心の原点は、脳内の化学物質、
つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
私たちの心は、常に、この脳内ホルモンに
よって、影響を受け、コントロールされて
いる。

その例としてわかりやすいのが、
フェニルエチルアミンというホルモン
ということになる。
そのフェニルエチルアミンについて書いた
原稿がつぎのものである。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というわけである。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態、つまり平常の状態
が保たれる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、
その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。(これらの年数は、私自身の経験によるもの。)

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる(?)。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?

(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恋のホルモン)

+++++++++++++++++++++

話を戻す。
ここで「フィードバック」について、もう一度、説明してみたい。

脳というのは、それ自体がいつもカラの状態を保とうとする。
たとえば驚いたようなとき、脳は直接、副腎に作用して、アドレナリンを分泌させる。
ドキドキしたり、ハラハラしたりするのは、そのためである。
発汗を促すこともある。

が、同時に脳の中では別の反応が起こる。
視床下部にある脳下垂体が、それを感知して、副腎に対して、副腎皮質刺激ホルモン
を分泌するようにと、言うなれば、指令ホルモンを分泌する。
このホルモンによって、副腎が刺激を受け、副腎は、副腎皮質ホルモンを分泌する。
わかりやすく言えば、脳内に分泌されたアドレナリンを、副腎皮質ホルモンが
今度は中和しようとする。

こうして脳内はいつもカラの状態、つまり平常な状態を保とうとする。
それをフィードバック(作用)という。

●生殖

(私が男性ということもあって)、私は、男性のことはよく知っている。
女性も、それほどちがわないと思うが、男女の行為の前と後とでは、異性の肉体の見方が、
まったくちがう。

男性のばあいは、180度、変化することも珍しくない。
あれほど狂おしく求めた相手でも、行為が終わったとたん、スーッと興味が
しぼんでいく。
消えていく。
それは満腹感ともちがう。
心そのものが、変化してしまう。
男性のばあい、それがおもしろいほど急激な変化となって現れる。

こうした現象をどう考えたらよいのか。

先に副腎の話を書いたが、脳からの指令を受けてホルモンを分泌する器官は、
ほかにもたとえば、甲状腺や生殖腺などがある。
さらにごく最近の研究によれば、胃や、大腿筋でも、ある種のホルモンが
分泌されることもわかってきた。
肉体、すべてがホルモンの分泌器官と考えてよい。

では、生殖腺でも、副腎と同じような化学変化が起きているとみてよいのか。
というのも、男女の(心)を説くとき、(行為の変化)ほど、顕著に現れる変化は、
ほかにそうはない。

(行為……最近、BLOGでは、使用禁止用語を設定しているところが多いので、
こういう言葉を使う。つまりSxxのことをいう。)

さらに言えば、「私は私」と思っているしている思いや行動といったものも、
実は、脳内ホルモンによってコントロールされているということになる。

その証拠に、先ほども書いたように、(男性のばあい)、行為の前と後とでは、
心の状態が、180度変わってしまう。

●知性と心

たとえばここに難解な数学の問題があるとする。
「1から5ずつふえていく数列がある。この数列の数を、5番目から、20番目まで
を合計すると、いくつになるか」と。

高校で習う公式を使えば、簡単に解ける。
公式を知らない人でも、電卓を片手に、足し算を繰り返せば解ける。
こうした作業を受け持つのは、大脳連合野の中でも、比較的外側にある、皮質部という
ことになる。

一方、(心)というのは、そういう知的な活動とは、異質のものである。
どこかモヤモヤとしていて、つかみどころがない。
ときに理性のコントロールからはずれるときがある。
つまりそれが脳内ホルモンの作用によるものということになる。

たとえば何かよいことをしたとする。
人助けでもよい。
そういうときそういう情報は、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)に信号として
送られる。
それに応じて、扁桃核は、モルヒネに似たホルモンである、エンケファリン系、
エンドロフィン系のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
それが(人助けをした)→(気持ちよい)という感覚へとつながっていく。

こうして考えていくと、(あくまでも私という素人の考えだが)、知的活動は、
ニューロンと呼ばれる神経細胞が司るとしても、心のほとんどは、脳内ホルモンの
作用によるものと考えてよいのではということになる。
またそういうふうに分けることによって、心のメカにズムが理解できる。
しかしこの考え方は、両刃の剣。

●「私は私」

心のメカニズムはそれで説明できる。
それはそれでよい。
が、心が脳内ホルモンによるもの、あるいは脳内ホルモンに大きく影響を受けるものと
すると、(1)「心なんて、ずいぶんといいかげなんなもの」と思う人が出てくる
かもしれない。
さらに(2)「では、私とは何か、それがわからなくなってしまう」と考える人も
出てくるかもしれない。

心をときめかすあの恋にしても、フェニルエチルアミン効果によるものということに
なれば、それにまつわる求愛、デートなどの行動のすべてが、結局は脳内ホルモンに
よって操られているということになってしまう。
(実際に、そうなのだが……。)

となると、つまり(心)を自分から取り除いてしまうと、では、いったい、私は何か
ということになってしまう。
さらにつきつめていくと、私という私がなくなってしまう。
その一例として、先に、男女の行為のあとの、あの変化をあげた。
そこに妻の(あるいは夫の)肉体を見ながら、「行為の前の私は何だったのか?」と。

が、男女の行為だけに終わらない。
実は人間が織りなす行為のほとんどが、またそのほとんどの部分において、こうした
脳内ホルモンの作用に影響を受けているということになる。
どの人も、「私は私」と思って、それぞれの行動をしている。
が、その「私」など、どこにもないということになる。
「私たちの心は、脳内ホルモンに操られているだけ」と。
しかもいいように操られているだけ、と。

……と書くのは、危険かもしれないが、反対に、「どこからどこまでが私で、どこから
先が私でないか」と考えてみると、それがわかる。

「私は私」と思っている部分など、きわめて少ないのがわかる。
さらに言いかえると、人間もそこらに遊ぶ動物と、どこもちがわないということ。
あるいは、そこらの動物と同じということ。
ちがわないというより、ちがいを見つけることのほうが、むずかしい。

●「私」論

たいへん悲観的というか、絶望的なことを書いてしまったが、自分を知るためには、
脳内ホルモンの問題は、避けては通れない。
たとえば今、私は空腹感を覚えている。
この4〜5日、ダイエットをつづけている。
胃袋が小さくなったような感じがする。
それでも空腹感を覚える。
ワイフがまな板をたたく音を聞いただけで、ググーッと、食欲がわいてくる。
条件反射反応が起きている。

恐らく脳内の視床下部にあるセンサーが、血糖値を感知し、ドーパミンンを
放出しているのだろう。
それが線条体にある受容体を刺激し始めている(?)。

その私は、「私は私」と思いながら、これからさまざまな行動を起こすはず。
庭へ出て、畑から、サラダ菜を採ってくる。
それにドレッシングをかける。
食卓に並べる……。

こうした一連の行為にしても、ドーパミンという脳間伝達物質に操られているだけ
ということになる。
もしそこに「私」がいるとするなら、空腹感を抑えながら、サラダ菜だけで、今朝の
食事をすますこと。
体重が適正体重に減るまで、それをつづけること。
つまり「私」というのは、ここでの結論を言えば、脳内ホルモンと闘うところに、ある。
けっして、脳内ホルモンに操られるまま、操られてはいけない。
その意思が、「私」ということになる。

(新しい思想、ゲット!)

……かなり乱暴な結論だが、今の私は、そう考える。

今朝(09年5月24日)も、こうして始まった。
今日はこのことをテーマに、自分の行動を静かに観察してみたい。
つづきは、また今夜!

みなさん、おはようございます!
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

●(注※)サイトカイン

++++++++++++++以下、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

サイトカインは細胞表面の膜上にある受容体(それ自体がチロシンキナーゼまたはチロシンキ
ナーゼと共役するものが多い)に結合して働き、それぞれに特有の細胞内シグナル伝達経路
の引き金を引き、結果的には細胞に生化学的あるいは形態的な変化をもたらす。

サイトカインは多機能的、つまり単一のサイトカインが標的細胞の状態によって異なる効果を
もたらす。例えば免疫応答に対して促進と抑制の両作用をもつサイトカインがいくつか知られ
ている。

またサイトカインは他のサイトカインの発現を調節する働きをもち、連鎖的反応(サイトカインカ
スケード)を起こすことが多い。このカスケードに含まれるサイトカインとそれを産生する細胞は
相互作用して複雑なサイトカインネットワークを作る。

たとえば炎症応答では白血球がサイトカインを放出しそれがリンパ球を誘引して血管壁を透過
させ炎症部位に誘導する。またサイトカインの遊離により、創傷治癒カスケードの引き金が引
かれる。

サイトカインはまた脳卒中における血液の再還流による組織へのダメージにも関与する。さら
に臨床的にはサイトカインの精神症状への影響(抑鬱)も指摘されている。

サイトカインの過剰産生(サイトカイン・ストームと呼ばれる)は致死的であり、スペイン風邪やト
リインフルエンザによる死亡原因と考えられている。この場合サイトカインは免疫系による感染
症への防御反応として産生されるのだが、それが過剰なレベルになると気道閉塞や多臓器不
全を引き起こす(アレルギー反応と似ている)。

これらの疾患では免疫系の活発な反応がサイトカインの過剰産生につながるため、若くて健康
な人がかえって罹患しやすいと考えられる。


以上、Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司※

●あと3日の命(徘徊記・2010年8月)

++++++++++++++++++

もしあと3日の命と宣言されたら、
私はいったい、何をどう書くだろうか。
命をもてあそぶようなテーマで、
あまり気が進まない。
それに暗い。
が、もしそう宣言
されたら何をどう書くだろうか。
それをテーマに、少し考えてみたい。
というのも、このところ私はどうでもよい
ことばかり書いている。
意味のない駄文ばかり。
自分の文章に緊張感をもたせるため、
一度、それについて考えてみたい。

++++++++++++++++++

●書く相手

 「あと3日の命」と宣言されたら、ものを書きたいという意欲も消えうせる
かもしれない。
絶望という暗闇の中で、ただ呆然と立ちすくむだけ。
「考え」そのものを、まとめることができない。
あるいは何も考えられなくなるかもしれない。
ただ書くとしたら、遺書めいたものか。
墜落していく飛行機の中で、家族にメモを残した人がいる。
相当な気力がないと、そんなことはできない。
私ならワーワー、ギャーギャーと叫んで、それで終わっていたかもしれない。
それに今の私には、その書く相手もいない。
書くとしたら、相手はワイフだけ。

●墓石論

 私は「書く」ということは、「墓石を残すようなもの」と、いつもそう考えている。
書くことによって、「私」を残す。
「私」という人間が、この世に生きたという「証(あかし)」を残す。
あとに残された人たちに、私が得た知恵や知識を伝える。
さみしく思う人がいたら、その人をなぐさめる。
そのために、私は書く。

 だから書くとしたら、最後の3日間をどう生きたかを書くだろう。
自信はないが、しかしひょっとしたらその3日間、書いて書いて書きまくるかもしれない。
書くことによって、死の恐怖から逃れる。
「書くこと」には、そういう力もある。

●ありのままを……

 が、何を書くか。
ここで重要なことは、ありのままを書くということ。
子どもたちの作文指導をするとき、私はよくそう教える。
「そのまま書け!」と。

 たとえば1人の子どもが、「書くことがない」と言ったとする。
そういうとき私は、こう言う。
「だったら、そう書け」と。
「『何も書くことがありません。考えても何も思いつきません』と」と。
ものを書くとき、すべてはそこから始まる。
「何も書くことがありません」と書いていると、つぎの文章が思い浮かんでくる。
だったらつぎには、それを書けばよい。

●真実

 今もそうだ。
「あと3日の命」と宣告されたら、私はそのとき感じたことを、そのまま書く。
書きたいという気力そのものがなかったら、「気力がわいてこない」と書く。
絶望感に襲われたら、「絶望感に襲われている」と書く。
3日しかないから、何かを残そうと思うと、何も書けなくなる。
文章を書くとき、何が恐ろしいかといって、気負いほど恐ろしいものはない。
気負えば気負うほど、文章が汚くなる。
自分を飾る。
そういう文章は、あとで読み返しても、後味が悪い。

 反対に、どんなにへたくそな文章でも、それがそのときの「真実」であれば、
それでよい。
あとあと光り輝く。
つまり文章というのは、じょうず・へたで決まらない。
真実かどうかで、決まる。

●山荘

 「あと3日の命」と宣告されたら、真実を書く。
ウソを書いて、文章を飾っても意味はない。
それこそ、その3日間を無駄に過ごすことになる。
ありのままの「私」をぶちまける。
悲しいこと、つらいこと、さみしいこと、何でもよい。
それをそのまま、書く。

 たとえば今だったら、……実は今、私は山荘に、ひとりで来ている。
車の運転ができないから、バスでやってきた。
一度、市の中心部までバスで出て、そこで山荘行きのバスに乗り換える。
市の中心部からは、バスでちょうど1時間の距離である。

 バスを降りたら、今度は山の坂道を登る。
車だったら、3〜4分の距離である。
が、歩くと、20分はかかる。
その坂道を汗だくだくになって登る。
今日も気温は、35度を超えた。

●徘徊癖

 ときどき私はこうした行動を繰り返す。
老人の徘徊のようなもの。
というより、徘徊癖がすでに始まっているのかもしれない。
何かつらいこと、さみしいことがあると、私はあまり深く考えないで、家を出る。
ワイフもそれをよく知っている。
私をさがしたりはしない。
追いかけてくるということも、ない。

 家を出るとき、ワイフは気分が悪いと言って、床に伏せていた。
20分ほど、私もいっしょに横で寝たが、居心地が悪かった。
ワイフは一度「殻(から)」にこもると、異常なまでにがんこになる。
融通性を失い、冗談が通じなくなる。
それで私は起きて、山荘に向かった。

●山荘で

 市の中心部では時計を見ながら、買い物をすませた。
デパートの地下で、食べ物を調達した。
で、予定通り、山荘へ。
着くとそのまま扇風機をかけて、横になった。

 1時間、2時間……。
2時間は眠ったかもしれない。
あたりを見ると、すでに夕暮れ時になっていた。
遠くでツクツクホウシが鳴いているのが聞こえた。
それにセミの声?
私の耳鳴り?

 起きてしばらくぼんやりしていた。
血圧が低いこともあって、頭が働きだすまでに時間がかかる。
それまではゾンビ!

●あと3日の命

 そこで最初の話。
「あと3日の命と宣告されたら、どうするか」。
……というのも、こういうときというのは、楽しい話は浮かんでこない。
気分そのものが落ち込んでいる。
「死ねば楽になるかもしれない」という思いも、どこかにある。
それが「3日の命」という言葉につながった。
もともとこのテーマは、うつ病的。
健康な人なら、こんなことは考えない。
しかしこのところ、何かにつけ、暗い話がつづく。
あるいは何を考えても、悪いほうへ、悪いほうへと話をつなげてしまう。
その結果、生きているのが、めんどう臭くなってしまう。

●懺悔(ざんげ)

 が、それでも書くとしたら、私の過去ということになる。
告白でもよい。
文章を通して、世界中の人たちに懺悔(ざんげ)する。
で、その中で第一の懺悔と言えば……。

 私はいつも自分を偽って生きてきた。
たいした善人でもないくせに、善人ぶって生きてきた。
仮面をかぶって生きてきた。
ワイフに対してもそうだったし、息子たちに対してもそうだった。
もちろん世間に対しても、そうだった。

 あちらに妥協し、こちらに妥協し、自分を曲げてばかりいた。
他人に自分がどんな印象を与えるか、そんなことばかりを気にしてきた。
「私は私だ!」といくら叫んでも、その声は10メートル先までは届かない。
自分だけの小さな世界で生きてきた。

 もっと何かができるはずという幻想にしがみついて、結局は何もできなかった。
もっと何かができたはずという、悔恨の念ばかり。
そのつど最善の道を歩んできたはずなのに、その実感がない。
つまり「最善だった」という自信がもてない。

●同情?

 たとえば現在、あのK国のS州というところが、大洪水に見舞われている。
中国との国境を流れるK川の流域である。
報道によれば、K国側の堤防は貧弱で、それで被害を大きくしたという。
また聞くところによると、K国では、セメントの3分の1程度が、金xxの
要塞作りのために使用されているという。
それでは強固な堤防など、望むべくもない。

 そういうニュースを読んだりすると、私の中を2つの考えが横切る。
「それミロ!」という思い。
「ああいう独裁国家で家を失った人はかわいそうだ」という思い。
が、ものを書くときは、前者のようには書けない。
後者だけをふくらませて、書く。
しかし本音の本音を言えば、「ザマーミロ」とまでは思わないが、それに近い。
同情したくても、その同情心がわいてこない。
拉致問題、核問題、ミサイル問題などなど。
この10年間だけでも、日本はK国にさんざん、だまされ、脅されつづけてきた。
それを乗り越えて、「同情します」「みんなで助けてやろう」とは、なかなか書けない。
もしそう書くとしたら、自分を偽ることになる。
だから黙る。
黙って、自分を偽る。
つまりそういう(偽り)を、私はいつもどこかでしてきた。

●ワイフに電話

(この間、10分ほど、休憩。)

 たった今、ワイフに電話をした。
「こちらは涼しいよ」と伝えると、「そちらへ行く」と。
少しは心配してくれていたらしい。
つまりは、それが私の「希望」ということになる。
仮に私がここで死んでも、心配してくれる人はほかにいない。
ミイラになっても、心配してくれる人はほかにいない。
自殺でもすれば、みな、「そらミロ!」と言うかもしれない。
「物書きにまともな者は、いない」と。
そう、まともな者は、いない。
頭でっかちばかりで、実行力はゼロ。
映画評論にしても、評論するだけで、自分では一本も映画を作ることができない。
 
 そんな思いだけが、どんどんと心を塞ぐ。

●残り3日間
 
 ……となると、「あと3日の命」と宣告されたら、私に残された道はただひとつ。
ワイフと静かなときを過ごす。
だれにもじゃまされず、だれにも会わず、だれとも連絡を取らず、ワイフとだけ、
静かなときを過ごす。
(ワイフはいやがるかもしれないが……。)

 もちろんワイフにも謝りたいことがある。

 私のワイフは、私と不本意な結婚をしてしまった。
私が強引に結婚してしまった。
だから深層心理の奥深くでは、私を恨んでいる。
嫌っている。
憎んでいる。
「この男は、私の人生を台無しにした」と、考えている。
それが私には、よくわかる。
ワイフはいつもそれを否定するが、私には、よくわかる。
 
 それがときどき顔を出して、私と衝突する。
今朝の状態がそうだった。
顔にタオルを当てたまま、口もきかなかった。

●いよいよ最期

 そうして3日目の朝になる。
夜でもよい。
「何を書くか」と聞かれれば、やはり別れの言葉か。
そのときまだ電子マガジン(BLOG)を発行していたら、あいさつを書く。
文面はまだ決めていないが、たぶん、「ありがとう。さよなら」と書くだろう。

 あとのことは、あとの人たちに任せればよい。
10年たって、私の書いた文章のうち、10%も残っていればうれしい。
墓石だって、10年もすれば苔が生える。
100年もすれば、ボロボロになって形さえ残らない。
私の文章も、また同じ。
またそれでよい。

 ……とまあ、本当に暗い話になってしまった。
暗い!
が、これではここまで読んでくれた人に申し訳ない。
気分一新!
少し視点を変えてみる。

●ひとつのアイデア

 現在、たとえばマガジンの発行をするとき、「予約」というのができる。
たとえば8月25日に、1か月先の9月25日のマガジンの発行予約ができる。
長いところで、1か月半程度。
つまり1か月半先までしか、発行予約ができない。
この期間を、1年とか2年、あるいは3年と延ばせないものか。
サービス会社にしてみれば大きな負担になるだろうから、有料でもよい。

 こうすれば、「インターネット墓地」というのも、可能になる。
これはあくまでも私の考えだが、あらかじめ、1年後、2年後、3年後の未来に
向けて文章を書いて残しておく。
それを発行予約という形で、残しておく。
形としては、ホームページ風でよい。
遺族の人たちは、命日になったら、それを開いて読む。

 こういう私の考えに対して、「それでは霊を供養することにはならない」と思う人も
いるかもしれない。
ならば逆に聞きたい。
「どうして遺骨なら、供養になるのか」と。

●脳のコピー

 いつかやがてその人の人格(脳みそ全体)がコピーされ、小さな記憶装置に収納される
時代がやってくる。
その記憶装置が、どこか一か所に、その人の「全記録」として格納される時代が
やってくる。
2050年ごろには、そのプロトタイプが生まれる。
2100年ごろには、ごくありふれた装置として、使われるようになる。
そういう時代を見越して、インターネット墓地を今から用意する。
うまくいけば、私の書いたものすべてが「はやし浩司の記録」として、どこかに残る
かもしれない。

 さらに……。

 私の書いたものをひとつの人工頭脳にインストールすれば、その人工頭脳と未来の
人たちが会話できるようになるだろう。

人「あなたはだれですか?」
コ「ワタシハ、ハヤシ浩司です」
人「あなたの人生観を語ってください」
コ「イイデショー……」と。

 人は死んだら、なぜ墓石を残すか?
それは残された人たちを、さみしくさせないため。
自分が生きてきた証(あかし)を残すため。
自分が得た知識や経験を、後世の人たちに伝えるため。
というふうに考えれば、私のアイデアは、たいへん有効ということになる。

●終わりに……

 先ほど、ワイフが車で迎えに来てくれた。
たった一言、「どうして携帯電話をもってこなかったの?」と。
それに答えて、私も一言。
「忘れた、ごめん!」と。

 本当は忘れたのではなく、だれにもじゃまされたくなかった。
徘徊というのは、そういうもの。
家出というのは、そういうもの。

 帰りにコンビニで、「プレイボーイ」という週刊誌を買う。
「日本の上空には、UFOがうようよ」という記事が気になった。
日本の上空には、UFOがいっぱい飛んでいるという内容。
それにアイスクリームとパソコン雑誌を一冊。
あとはいつもの日常。
たわいもない世間話をしながら、家に帰った。
口数は、いつもより少なかったが……。

(一言)

 私は徘徊(家出)するとき、いつもパソコンだけは忘れない。
パソコンさえあれば、ものを書いて、さみしさを癒すことができる。
退屈をしのぐことができる。
これもパソコンのひとつの使い方ではないか。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●BW教室

+++++++++++++++++++++

地元の中日ショッパー紙が、無料で教室の
宣伝を載せてくれた。
うれしかった。

モデルには、いつも孫の誠司を使っている。
この写真は、満6歳のときのもの。
現在は満8歳になった。

中日ショッパーのみなさんへ、
いつもありがとうございます。
こうした応援がなかったら、私の教室はとっくの
昔につぶれていたはずです。
ありがとうございます。

及ばずながら、つぎの更新から、中日ショッパーの
広告を私のメイン・HPに載せさせていただきます。

+++++++++++++++++++++

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4927257007/" title="img086 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4074/4927257007_
30802634fb.jpg" width="412" height="500" alt="img086" /></a>

(中日ショッパー紙・2010年8月26日、マンスリー・ショッパー)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【父と子(親子断絶の問題)】

●葛藤する父子

+++++++++++++++++++++

20年ぶりか、何年かぶりに、父と子が再会する。
連絡を受けて子が病院へかけつけると、父は
臨終状態。
枕元には、思い出の品々が並んでいる……。
その中に古ぼけた一冊の本。
その本を開くと、子が子どものころに描いた絵。
それを見て子は涙を流す。
父は目で子を許す。

映画によく出てくるシーンである。
映画『送り人』の中にも、そんなようなシーンがあった。
最近見たDVDの『カイル』の中にも、そんなようなシーンがあった。

父と子、とくに父と息子は、そういう形で断絶しやすい。
私の知り合いにも、30年以上、たがいに会っていない
という父子(父親、84歳、息子50歳前後)がいる。

何かがあったのだろう……というより、その(何か)が、
引き金となってそこでそれまでの(わだかまり)が
一気に爆発する。
そしてそれが「永遠の別れ」になる。

が、たがいに悶々とした気分で、日々を過ごす。
一日とて気が晴れることはない。
それが臨終の場で、同じように爆発的に解消される。

……というのは、映画の中の話。
映画『マジソン郡の橋』の最後も、そのようなシーンで
終わっていた。
が、現実は、もう少し生々しい。

++++++++++++++++++++++

●ある補導で

 ずいぶんと前のことだが、テレビでこんなシーンを見た。
東京のK町といえば、世界に名だたる歓楽街。
その歓楽街で、深夜遅くたむろする少女たち。
ものほしそうな目つきで、通行人をながめている。
 
 そこへレポーターが、突撃取材を試みる。
「年齢は?」「住んでいることは?」「お母さんは?」と。

 それに答えて、まだあどけなさを残している少女たちが、
「中学だヨ」「ウッセーナー」「親なんて関係ネーダロ」と。

 が、レポーターは、何とか1人の少女を説得して、
名前と住所を聞き出す。
ついでに電話番号も聞きだす。

 そこでレポーターはその電話番号に、電話をする。
が、ここで意外な展開となる。
レポーターが家に電話をすると、母親が電話口に出る。
その母親が、こう言う。

「そんな子は、どうなってもいいです。知りません。
私には関係ありません」と。
(詳しい内容は、後述。)

 ここで私がもっていた「親だから……」「子だから……」
という常識が、ひっくり返る。

 そこでレポーターを携帯電話を少女に回す。
少女は、母親と直接話す。
が、話し合い始めたとたん、喧嘩。
最後に母親は、その少女(娘)にこう言う。

「うちへなんか、戻ってくるんじゃ、ないわよ」と。
つまり「あんたとはもう関係ない」と。

●親子であるが故に

 こうした事例を、極端なケースとみるか?
それとも例外的な事例とみるか?
あるいはごくありふれた事例とみるか?
程度の差もあって、統計的な数字で表すことはむずかしい。
しかし親子といっても、基本的には1対1の人間関係。
壊れるときには、壊れる。
が、それだけではない。
親子であるが故に、確執も深く、溝も大きい。

 が、ここで誤解してはいけないことがある。
こうした断絶は、ある日突然、一回の事件で起こるものではない。
そこに至るには、それまでの長い過去がある。
葛藤がある。
根が深い。
それが積もりに積もり、ある臨界点に達したとき、爆発する。
爆発して、断絶する。
だから先の番組の中で、レポーターが電話で説得したくらいで、
氷解するような問題ではない。
それで「万事、めでたし」と終わるというような問題ではない。

●面会

 映画を例にとるなら、ああした映画は、多くは若い制作者によって、
作られたものではないかということ。
つまり「子」の立場で作られたもの。
「親」の立場ではない。
そう考えてよい。

 つまり「子」というのは、「親」というより、「親」という言葉に、
かぎりない幻想とあこがれをもちやすい。
つまりそこに自分の理想像を入れ混ぜてしまう。
そして勝手に、「親は、こうあるべき」という「像」を作ってしまう。

 その結果、20年ぶりに病院で再会したとき、「親は子を許し……、
子は親を許し……」となる。
感動的なシーンだが、先にも書いたように、現実はもう少し生々しい。

 私が親なら、こう思うかもしれない。
「20年も、私を放っておいて、何を今さら……」と。
実際、そういう映画もあった。

 やはり20年ぶりくらいで子(息子)が病院へかけつけてみると、
親(父親)の方が面会を拒絶する。
「会いたくない」と。
子は病室のドアの外で、父の死を見送る。
つまり親といっても、1人の人間。
神様でも仏様でもない。
会いたくないものは、会いたくない。
親だから子どもの過ちを、すべて許すというわけではない。
またそれをしないからといって、親の愛の深さを疑ってはいけない。

●ふつうの人間

 否定的なことを書いた。
理想としては、また映画としては、親子が許し合いながら、
ハッピーエンドで終わるのがよい。
またそのほうが、感動的。

 しかしこの私も60歳を過ぎるころから、考え方が少しずつ変わってきた。
先に書いた私の知り合いの話を知ったときのこと。
父親の年齢は84歳。
息子は50歳くらいと聞いているが、詳しいことは知らない。
ひとり息子。
息子は大学を卒業すると家を飛び出し、以後、一度も家には帰っていない。
母親とはどうかということになるが、よくわからない。
父親の話によれば、母親とも連絡を取っていないようである。
言い忘れたが、母親も今年84歳になり、今は有料の老人ホームにいる。

 その父親は、当然のことながら(?)、息子の話になると
顔をそむける。
ただときどき、「あいつも早く嫁さんを見つけるといい」と言う。
またそれが口癖になっている。
が、その程度。

●幻想と現実

 で、そういう話を知ったとき、私は、こう思った。
「いつかは父子で、許し合うときがくるだろう」と。
しかし今は、ちがう。
「父のほうが、許さないだろうな」と。
最期の最期であればなおさら、もしそこで許してしまえば、
父親は自己否定をすることになってしまう。
「愛」とか「愛の深さ」とか、そんなロマンチックな話ではない。
つまりそれが現実ということ。
もし私がその知り合いなら、私は許さないまま、死ぬ。
面会に来ても、会わない。
それで地獄へ堕ちようとも、息子が作りあげた幻想とあこがれを
容認するよりはよい。

 つまり親だって、ふつうの人間。
だからこそ、許せることと許せないことがある。
息子が、(娘でもよいが)、その一線を越えたとき、「たとえ子でも
許せない」と、なる。
それはまさに自分の人生観をかけた闘いということになる。
もう一言、念を押すなら、こういうことになる。

 先に「親子の確執」という言葉を使った。
が、その確執というのは、何も、子どものほうだけの問題ではないということ。
親の方にも、ある。
親の方の確執が爆発することもある。

●ある姉・弟

 これは親子の話ではない。
姉・弟の話である。

 弟氏は生涯、定職にはつかなかった。
そのため弟氏は歯科医師の妻をしていた姉氏のところへ来ては、生活費を
受け取っていた。
弟氏には、3人の息子と娘がいたが、その学費もすべて姉が負担した。

 それに加えて弟氏は女性にだらしなく、浮気はし放題。
偽物だったがロレックスの腕時計を身につけて、夜の繁華街を遊び歩いた。
で、50歳を過ぎるころから、姉氏は、弟氏と距離を置くようになった。
それまでは言うなりにお金を出していたが、姉氏は躊躇するようになった。
とたん弟氏は、泣き落とし戦術に出るようになった。
しかも回数が減った分だけ、額がふえた。
それまでは20〜50万円という少額だったが、200〜500万円の
高額になった。
ときに1000万円を超えることもあった。

 そのつど弟氏は借用書を用意し、勝手に姉氏のところに置いていった。
まったく意味のない借用書だった。
姉氏もそれをよく知っていた。

 で、その姉氏が、85歳で倒れた。
再発した乳がんが、体中に転移していた。
そのときのこと。
弟氏は、何度か見舞いにきたというが、姉氏は、最期の最期まで、
弟氏には会わなかったという。
そばにいる人たちに、「X男(=弟)だけは、部屋に入れるな」と、
いつも言っていた。
「葬儀にも出てほしくない」とも。

 が、ノー天気な弟氏にはそれがわからない。
葬儀の席にやってきて、みなの前で大泣きをしてみせたという。
私はその話を聞いたとき、こう思った。
「私がYさん(=姉氏)なら、化けて出てやる!」と。

●確執

 「確執」というのは、そういうものかもしれない。
つまりたがいに平等というのではない。
多くのばあい、一方的なもの。
子が親にいだく確執。
しかし親はそれに気づかない。
反対に親が子にいだく確執。
しかし子はそれに気づかない。
気づかないまま、どちらか一方が、ある日突然爆発する。

 何も親子、兄弟にかぎらない。
夫婦の間でも、それはよく起こる。
20〜30年前から「定年離婚」という言葉が、よく聞かれるようになった。
夫が定年で退職したとたん、妻のほうから離婚を申し出る。
このばあいも、夫にとっては寝耳に水……というケースがほとんどという。
妻の方はその何年も前から、離婚の準備に入る。
が、夫のほうは、それに気づかない。
気づかないまま、「私たちはいい夫婦」という幻想にしがみつく。
だから夫は、あわてる。
狼狽する。
「どうして離婚?」と。

 こうしたケースのばあい、たとえば夫(元夫)が臨終を迎えたとしても、
妻(元妻)は、その場にはかけつけないだろう。
いわんやたがいに許し合うなどということは、ありえない。
(アメリカ映画などでは、そういうシーンもよくあるが、日本では
考えられない。)

 「夫婦と親子はちがう」と言う人もいる。
たしかに母子関係、つまり母と子の関係には、特別なものがある。
しかし父子関係は、母子関係とくらべると、ずっと希薄。
「精液、ひとしずくの関係」と言ってもよい。
私がここで問題にしているのは、父子関係。
母子関係ではない。

●なぜか?

 臨終の場で息子との面会を拒絶する父親。
娘との面会でもよい。
しかしそれは息子を許せないからではない。
こういうケースのばあい、父親は自分を許せない。
つまり自分という、「親バカ」を許せない。
たとえば『許して、忘れる』という言葉がある。
しかしそれは自分以外の人に向かって使う言葉。
自分自身については、『許して、忘れる』は、使えない。
だから親はもがく。
苦しむ。
それは心を引き裂くような苦しみといってもよい。
その過程で、親は息子を消し、娘を消す。
とことん、消す。
たとえ息子にせよ、娘にせよ、どこかでのたれ死にしたところで、
何も感じない。
そこまで自分を消さないと、その苦しみから逃れることはできない。

 で、その息子にせよ、娘にせよ、それが臨終の場にやってきて、「お父さん!」と
声をかける。
そのとき父親は、「おお、お前か!」と言うことができるだろうか。

 ここから先は私の想像になる。
なるが、私なら、言えない。
息子にせよ、娘にせよ、「何を今さら……」となる。

 東京のK町でたむろしていた少女と母親の関係を、思い浮かべてみればよい。
その少女の母親は、娘の不幸を、とことん願っていた。
「そんな親がいるのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし現実には、いる。
こんな話を、以前、ワイフから聞いたことがある。

 実の娘に対して、「あんたが不幸になるのを、墓場の中から
見届けてやる!」と。
それを口癖にしている、実の母親がいるという。
親子関係でも、こじれると、親子であるがゆえに、そこまでこじれる。

+++++++++++++++++

原稿をさがしていたら、先のK町で
たむろしていた少女について書いた
原稿が見つかりました。

日付は、2006年の4月になって
いました。
そのまま再掲載します。

+++++++++++++++++

●幻惑からの脱出

++++++++++++++++

親子であるがゆえに生まれる、
強烈な関係。そしてそれが生まれる
束縛感。

これを心理学の世界では、「幻惑」という。
しかし実際には、そうでない親子も多い。

そうでないというのは、親子関係と
いっても、心理学の教科書どおりには
いかないケースも、あるということ。

++++++++++++++++
 
テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。

レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」

レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ〜」

 東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いてい
る。その少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所
も転々と、かえているらしい。

レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア〜」と。

 「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛
をともなう。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる
束縛感には、相当なものがある。

 たとえば親子という関係で考えてみよう。

 いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれし
も考えるところが、「家族自我群」というところになる。

 しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こん
な例がある。

 ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が
必要になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、
大企業のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを
待っていた。

 息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費
を渡していた。

 多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」
というような会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。

 ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、
遊びまわっていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。

 そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車
まで買い与えていた。

 これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが
苦しむことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れな
い。もちろん親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子
であるため、絆(きずな)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、
人格否定、自己否定にまで進んでしまう。

 ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこ
と、近所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。

 反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に
出ることができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分
は人間として、失格者だ」と、苦しんでいる。

 家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。

 が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところ
まで行くと、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、
この幻惑から、のがれることはできない。

 冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。こ
れからは、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないよう
な会話かもしれないが、実際には、こういう親子もいる。

少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」

 その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもある
ような、ごくふつうのサラリーマン家庭だという。

 そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。

レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たち
のことは、ほうっておいてください」と。

 こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるに
せよ、「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、
無数のというか、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、
行きつくところまで、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。

 「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。
どこかで殺人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻
惑から逃れることはできない。

 が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いとい
うこと。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。
母親は、今年、80歳を超えた。

 その女性が、こう言った。

 「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、
何も、親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。
本当は、あんな母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だ
なんてほめられると、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。

 あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、
かなり深い理解力のある人と考えてよい。

 もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦し
んでいるなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは
割り切って、つきあう。それしかない。

 この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。

 で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。

 「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同
じような幻惑に苦しむことがあるのではないか、と。

 いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そ
そのとき、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。

ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれ
ができないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」
と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」
と。

 幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。し
かしそれは、どこか東洋的。どこか日本的。

 あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻
惑から解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親
自身が、子どもに親離れができるように、仕向けてあげる。

 こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、
ベタベタの親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それ
を強要してはいけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれ
ば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面
に作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かと
いうと、そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自
我群というものがどういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように
思う。

 先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるの
ね。何があったのかしら?」と。

【付記】

 心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、
重圧感をいう。

 この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものであ
る。

 ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、
父親が、息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰っ
たのですが……」と。

 そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前
は、人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。

 以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたこと
で、心に大きなキズを負った。

しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そうい
うことをするな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばり
つける人が、よく用いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その
女性にこう言った。

 「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言います
よ。『また、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。

 この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、
扱い方がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。
だから、適当に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう
人たちに抵抗しても、意味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるよ
うな問題ではない。

 ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子ど
もが、いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。

 いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。
親孝行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。
家の心配? バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きてい
きなさい」と。

 こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことに
なる。

 親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の
愛というものではないだろうか。

【付記2】

 家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。こ
のタイプの親は、独特の言い方をする。

 わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、
それ。「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」と
か。

 さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、
出してやった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労し
ている姿を、「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。

 が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。

 一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫
(その母親の長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。

 その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当た
らなければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。

息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか…
…というようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私
という)親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。

 中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!

 「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になる
のを楽しみに見ていてやる!」と。

 もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、
例外とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、
他山の石となる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。

 それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!

【付記3】

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというよ
り、家族の問題についてのも、多い。

 そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともあ
る。「家族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。

 東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。

 「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。
息子がいますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。

 H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」と
いうことか。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。

 私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけな
い。親は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるという
ことは、それくらい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 家庭内問題 親子の葛藤 確執 親子の確執 断絶 断絶問題 父と子 父子問
題 はやし浩司 自我群 幻惑)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●子どもや孫とのつきあい

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孫と同居したがる日本人。

が、それは決して、世界の常識ではない。

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 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつ
きあいについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調
査結果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはな
らず、(2)かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなっ
たとも考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先
日も、実家へ帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母
親は、みなに抱きかかえられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになっ
た。母親に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 
「まるで別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、
「しまった!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、
あわれな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、
半ば無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」と
いう思いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほう
だから、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれで
よいとは思わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少
し脱線したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●コンフリクト(葛藤)

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人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。

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 二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリ
クト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。

 コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。

 たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。

 このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。

 反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。

 このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。

 また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。

 正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。

 ……というような話は、心理学の本にも書いてある。

 では、実際には、どうか?

 たとえば私は、最近、こんな経験をした。

 ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。

 が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。

 お金のために体を売る、あの娼婦である。

 そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。

 あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。

 それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。

 ほかにも、いろいろある。

 たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。

 本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。

 そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。

 自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。

 そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。

 そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。

【補記】

 ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。

 ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。

 で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。

 すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。

 このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。

 しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。

 もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 コンフリクト 葛藤 葛藤の中身 親子の葛藤 夫婦の葛藤)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●息子や娘の結婚

++++++++++++++++

息子や娘の結婚、さらには結婚式に
ついて、どのように考えたら、よいのか。

自分の息子たちのこともあり、このところ、
それについて、よく考える。

++++++++++++++++

 息子や、娘の結婚について。結婚というより、その結婚相手について。最初、息子や娘
に、その相手を紹介されたとき、親は、何というか、絶壁に立たされたかのような、孤立
感を覚える。

 これは、私だけの感覚か。

 最初に聞きたいのは、通俗的な言い方だが、どんな家庭環境に生まれ育ったかというこ
と。……ではないか?

 「まとも」という言い方は、あまり好きではないが、こと、結婚ということになると、
保守的になる。「まともな家庭環境」という言葉が、自然な形で、口から出てくる。

 もちろん結婚というのは、当人たちの問題だし、その段階で、あれこれ口を出しても、
意味がない。

 そこで、あえて聞かない。聞いたところで、どうにかなる問題ではないし、かえって取
り越し苦労をすることにもなりかえない。当人たちが、幸福になれば、それでよい。

 で、親は、そういうとき、(1)相手の家族構成、(2)相手の親たちの仕事、(3)生ま
れ育った環境が、気になる。どんな教育を受けたかということで、(4)学歴も気になる。
が、何よりも気になるのは、(5)その相手の性格、である。

 おだやかで、やさしい性格ならよい。情緒や、精神的に安定していれば、なおさら、よ
い。すなおな心であれば、さらによい。

 ……と、相手ばかりに求めてはいけない。それはよくわかっているが、どうしても、そ
れを求めてしまう。

 ただ、これは私の実感だが、女性も、25歳をすぎると、急に、いろいろなクセが身に
つくものか? 18〜25歳までは、画用紙にたとえるなら、白紙。しかし25歳をすぎ
ると、いろいろな模様が、そこに現れるようになる。

 つまり計算高くなったり、攻略的になったりする。だからというわけではないが、どう
せ結婚するなら、それまでの時期に、電撃的な衝撃をたがいに受けて、結婚するのがよい。
映画『タイタニック』の中の、ジャックとローズのように、である。


●結婚式(PART2)

 数日前、結婚式について、エッセーを書いた。それについて、何人かの人たちから、コ
メントが届いている。

 「おかしい」「考えさせられた」と。1人、結婚式場で働いていたことがあるという女性
からは、こんなものも……。

 「結婚式場って、儲かるのですよ。何でも、追加料金で、すみますから」と。

 で、昨日、オーストラリアの友人の長男が、その結婚式をした。日本円で、総額、40
万円程度とのこと。それでも、豪華なほうだという。

 二男も、数年前、アメリカで結婚式をしたが、総額で、30万円程度。貸衣装などに、
10万円。教会(チャペル)と牧師さんへの費用が、10万円。そのあとの飲み食いパー
ティに、10万円程度。計、総額で、30万円弱。

 もう一度、数日前に書いた原稿を、ここに載せておく。

++++++++++++++++++

●結婚式に、350万円プラス150万円!

 知人の息子が結婚式をあげた。浜松市内の、あるホテルであげた。費用は、350万円
プラス150万円!

 これでも安いほうだそうだ。

 知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、
それは基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、
ちがっていた。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。

 日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でや
めれば、それですむ。

 あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくの
ムダづかい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれな
いが、世間に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。

 大切なのは、2人だ。中身だ。

 ……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こ
うした結婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人
が、にわかクリスチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろ
ん牧師もニセモノ。

 (オーストラリアでは、ニセ牧師を演じて、お金を取ると、逮捕されるそうだ。)

 ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩
ってくれる人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。

 私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今
に見る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいという
のなら、自分たちで稼いで、自分たちですればよい。

 どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!

 知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、
3万円から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」
と。

 ……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、
数え切れないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の
女性の両親が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにが
んばっても、角が立つ。

 妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世
術の一つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)

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【追記】

 結婚式場では、「○○家」「△△家」と、書くならわしになっている。私は、あれを見る
たびに、「結婚式って、何だろう?」と考えてしまう。

 昔の武家なら、それなりの意味もあるのだろう。そこらの町民や農民が、武家のマネを
して、どうなる? どうする? こんな伝統や文化、本当に、それが日本人の伝統や文化
なのだろうか。守らなければならないような、伝統や文化なのだろうか。

 アメリカ人の友人に、こう聞いたことがある。「どうして、アメリカには、日本のような、
結婚式のような結婚式がないのか?」と。アメリカでは、結婚する2人が、自分たちで、
ほとんどを準備する。

 すると、その女性(30歳)は、こう言った。

 「カルフォニア州の大都市なんかへ行くと、そういうビジネスもあるようだけど、アメ
リカには、定着しないでしょうね」と。

 そして結婚式と言えば、お決まりの、ヨイショ。ただ騒々しいだけの、ヨイショ。新郎、
新婦の友人たちが集まって、ギャーギャーと、騒ぐだけ。安物のバラエティ番組風。「祝う」
という意味が、ちがうのではないのか?

 いろいろ考えさせられる。

 ちなみに、私たち夫婦は、その結婚式をしていない。貯金が、当時、10万円しかなか
った。それでワイフに、「結婚式をしたいか。それとも、このお金で、香港へ行きたいか」
と聞いたら、「香港へ行きたい」と。それで、おしまい。

 毎月、収入の半分を、実家へ仕送りしている身分だった。どうして、親のスネをかじる
ことなど、できただろうか。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 結婚式 結婚式について)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●もう一人の私

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心の状態と表情の一致している
人を、すなおな人という。

そうでない人を、そうでないという。

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 情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。

わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、
本当の自分がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自
分でない自分が生まれてくる。

 こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないこ
とかもしれないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師
ということになる。

心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言
われているうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作っ
てしまう。

 たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、こと
さら、嫌ってみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくってし
まう人がいる。

 まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をか
ぶりながら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこや
かに笑いながら、その人と応対する。

 実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともと
そういうもの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、た
いへんなことになってしまう。

 たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれ
ば、その質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなものでは
ないか。あるいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、
外科医が、焼肉を嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、ウ
ナギの蒲焼き屋のおやじが、ウナ丼を食べないのに、似ている?

 しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに
幼児の世界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとって
の幼児教育というのは、そういうものである。

 ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であ
るということ。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの
世界でいうところの人間関係というのは、育たない。

 話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30
歳くらいのことではなかったか。

 自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがってい
たからだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているよ
うに感じたこともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコリ
と笑って、別のことを言う。毎日が、その連続だった。

 しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに
頭の中で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、
おまけに偏頭痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。

 だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。

 が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私
は、まさに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人
格者の教師を、である。

 しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、
それに近かったのでは……。

 そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)は、
とても外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を出すた
めに、別の意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。

 今も、その過程の途中にあるということになる。

 で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早
く別れたいと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙に
善人ぶって、自分を飾っている。

 どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!

 ……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、み
なさんは、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●8月24日

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かわり映えのしない朝。
昨夜睡眠導入剤をのんだこともある。
時計を見ると、午前8時を過ぎていた。
たっぷりと9時間。
よく寝た。
何か寝起きに夢を見たようだが、
忘れた。

で、昨夜、義兄の家に寄った。
いろいろ話した。
その中で親子の話が出た。
「フランスでは、親子でも家の売買をする」と
話した。
つまり金の貸し借りには、親子でもシビア。
夫婦でもシビア。
オーストラリアの友人などは、夫婦で日本へ
来ても、お金を払うのはいつも夫。
夫が自分の財布からお金を払う。
夫が得た収入は夫のもの。
そういう意識がきわめて強い。

が、この日本では、私もそうだが、収入は
一度すべて妻に渡す。
だからレストランでもどこでも、勘定は
妻が払う。

そう言えば、シビアと言えば、中国人。
大陸から来た中国人。
夫の財産、妻の財産と、きびしく区別する。
その様子はまさに「他人」。
だからたとえば親子でも、そのあたりをきびしく
区別する。

親が子どもに学費を出したとする。
それはそのまま親の貸し金になり、
子どもの借金になる。

日本の常識は世界の常識ではない。
日本の常識をもとにして考えてはいけない。
たとえば話はぐんと生臭くなるが、
若いころ、こんなことがあった。
40年近くも前の話である。

友人(男、オーストラリア人)が、ガールフレンド
(女、日本人)を妊娠させてしまった。
(「妊娠させた」という言い方そのものが、
実に日本的だが・・・。)
そのときのこと。
私が「君は男だから、責任を取るべきだ」と言うと、
すかさずその友人は、こう反論した。
「妊娠したのは、女性の責任」と。

オーストラリア人の論理からすると、
「避妊をしなかった女性が悪い」となる。
意識というのはそういうもの。
私たちがもつ常識の上に成り立っている。
常識がちがえば、当然、意識もちがう。

そんな話をすると、義兄はカラカラと
笑いながら、「ここは日本だ!」と言った。
つまり日本人は日本人の考え方をすればよい、と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
というのも、今、急速に日本人がもつ常識が
変わりつつある。
それにつれて意識も変わりつつある。
夫婦でも、自分が得た収入は、それぞれのもの
と考える人が、ふえてきた。
共働きの人ほど、そういう意識が強い。
何も離婚に備えてのことではない。
たがいに収入の管理をすることによって、
出入りを厳格にするということらしい。

では親子のばあいはどうか。
昔の人は、「親のものは親のもの」
「子どものものも親のもの」という意識を
もっていた。
昔といっても、現在80歳以上の人たちの
ことを念頭に置けばよい。
だから「子どもが得た財産は、親のもの」と
考える。
私の父がそうだったし、母もそうだった。
私が母に預けていた預貯金を、母が勝手に
使ってしまったことがある。
それに私が抗議をすると、母はこう言った。
「息子のものを親が使って、何が悪い!」と。

何も母を責めているのではない。
当時は、それがこの日本の常識だった。
(若い人たちには、信じられない話かも
しれないが・・・。)

が、今はそんな考え方をする人はいない。
親の財産は親のもの。
子どもの財産は子どものもの。
つまり今は、その「過渡期」ということになる。
やがて日本人も欧米人のように、親子、夫婦の
間でも、財産を分けて考えるようになる。
世界の流れは、そういう方向に動いている。

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●海が先か陸が先か(聖書の話)

 この地球には、海と陸がある。
恐らく・・・というより、地球が誕生したころの太古の昔には、
この地球には海しかなかったはず。
比重の重いもの(=陸)が下に沈み、比重の軽いもの(=海)が上に浮いた。
聖書の「世界の創造(The Creation of the World)」の中にもつぎのように
ある。

And God said,"Let the water under the sky be gathered to one place, and let dry ground 
appear." And it was so. God called the dry land "land", and gathered waters he called "seas
". And God saw that it was good.

 そして神は言った。「空の下の水をひとつの場所に集め、そして大地よ現れろ」と。
それでそうなった。神は乾いた土地を、「大地」と呼び、そして集めた水を「海」と
呼んだ。そして神はそれでよいとわかった。

 聖書の非科学性はよく話題になる。
しかし実際にはそうでなく、この一節を読んでもわかるように、海の中から大地を
作ったという話を読むと、ドキッとする。
もし地球が物理の公式どおりに誕生したなら、地球全体の地殻の厚さは同じはず。
またその上を覆う海の深さも、同じはず。
が、実際には、地殻の厚さは、大陸部で厚く、海洋部では薄い。
「水を集めた」というのは、要するに地殻の厚さを変えたということになる。

 話はそれたが、この地球では海が先に現れ、そのあと陸が現れた。

●20万年

 海が先でそのあと陸が現れた・・・。
この話を読んで、「どうでもいいことではないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし地球のような惑星で、地球のように海と陸地をもっている惑星は、
今のところこの地球をおいてほかにない。

 実際には、ある日巨大隕石が地球に衝突し、その衝撃で地球がえぐられ、
そこに水が集まり、海になったと考えられている。
えぐられた地殻は、現在の「月」になったと考えられている。

 では、火星はどうだったのかということになる。
一説によると20万年の昔には、火星にも大陸と海があったという。
それが現在地球で起こりつつあるような温暖化が進み、火星は意味に見る
火星になったという。
ということは、火星にもかつては、知的生物がいたということになる。

「たった20万年前」という部分に注目してほしい。
太陽系の歴史(約60〜70億年)と比べたら、まばたき程度のほんの一瞬。
太陽系の歴史の30万分の1に過ぎない(60億÷20万年で計算)。

 しかも、だ。
この「20万年」という数字に着目してほしい。
人類、つまり人間の祖先は、その20万年前に誕生している!

●聖書

 話がバラバラになってしまった。
これらの話と、地球温暖化の問題と結びつけるつもりはない。
しかしどうしても、結びついてしまう。
というのも、つい先日も書いたように、あの聖書という書物は、
現在の生き方を書いた書物ではなく、「終末時」における生き方を
書いた書物ではないかと、私は考えるようになった。

 この先地球は、火星化に向けてたいへんな時を迎える。
が、火星化が恐ろしいというのではない。
人間自らの行いの結果であるとするなら、受け入れるしかない。
しかしそこに至る過程の中で、私たちは地獄を経験する。
その地獄がこわい。
そこでは人間は、人間でなくなってしまう。
で、そのとき私たちはどのように生きたらよいのか。
それを示しているのが、聖書ではないか、と。

 もちろん科学書ではないから、それなりの不備はあちこちにある。
理解するのに、時間がかかる。
しかし読めば読むほど、矛盾がない。
ここに書いた、「海が先か、陸が先か」という問題にしても、聖書は「海が先だった」と
書いている。
フ〜〜ンと感心したので、ここにそれを記録として残しておく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 聖書 聖書の不思議 海と陸 大洋と大陸)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【代替医療】ホメオパシーについて考える前に

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少し遠巻き……とういうか、外堀を
先に埋めるような書き方をするが、
許してほしい。

今、「ホメオパシー」と呼ばれる、
いわゆる代替医療行為(?)が、
問題になっている。
どこかの助産婦が、新生児の頭蓋内出血
予防に必要とされる、ビタミンKを
投与させず、1人の女児を死亡させる
という事件も起きている。

実は私は、(私の不勉強によるものだが)、
今日の今日まで、その言葉を知らなかった。
「ホメオパシーって何?」と、ワイフに
問いただしたほど。

だから先に、思いついたことを書いてみる。
ホメオパシーについて書く前に、信仰とは
何か。
そのあたりからかんがえてみたい。

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●ルルドの奇跡

フランスにルルドという聖地がある。
奇跡を起こす聖地として、知られている。
毎年熱心なキリスト教の信者たちが、たくさん訪れている。
実際、何かの病気が治ってしまった人がいるという。
そのうちの66人は、「奇跡」と認定されているという。

ある人のHPでは、旅行記としてつぎのように紹介している。

『ルルドは1858年、洞窟に聖母マリアが出現、マリアが告げたところから水が湧き、その水に
浸かったり飲んだりすると難病が治り、瀕死の子供が助 かったことからカトリックの聖地となっ
た。年間500万人が訪れる世界最大の聖地は300ヘクタールの広大な聖域に聖堂や教会、
病院、宿泊施設を備えている。今回の旅はルルドに3連泊、パリに2泊のゆったりとした旅程。
疲労が少ないように配慮された。

「ルルドは大変優れたシステムの癒しの場です。重病人は駅に迎えを頼むこともできます。車
椅子の方や難病の方はもちろん、ベットから起きられない方もボランティアが何人もかかって
持ち上げ泉の水にザボンと浸けてくれるんです。我々も全員沐浴させていただきました。シスタ
ーは、ある参加者ががんだとわかると抱きしめて祝福してくれました。それも感動的でした。

お世話してくれるシスターやボランティアの方、街全体が病人の気持ちをわかってくれている感
じがします。ここでは病人が主役なんです。日本ではがん患者は近隣や仕事関係、家族にまで
『元気にみせなきゃ』と気を使う。でもここでは病人で大丈夫だし、カトリックでなくてもひとりで
天に祈れます。そんな癒しの場が日本にもあればと思います。ルルドの癒しのサポートシステ
ムはぜひ、医療関係者に知ってもらいたい』(逸見晴恵氏HPより、一部抜粋)と。

●信仰とは

 若いころ、ある寺にいたら、朝早く1人の信者がやってきた。
いわく、「今朝は、お礼参りにやってきました」と。
話を聞くと、孫娘の肺炎が治ったという。
一時は危篤状態に陥ったという。
その信者は、仏壇に現金の入った封筒を置き、何度も祈りなおしていた。
私はその姿を見て、こう思った。
「肺炎を治したのは、寺ではなく病院だ」と。

 が、こんな理屈は信者には通らない。
こんな話もある。

 ある女性の夫が交通事故で死んでしまった。
そのあとその女性に、3000万円の保険金が支払われた。
それについてその女性は、「3000万円も手に入ったのは、この信仰をしていた
おかげ」と。
そこでその女性は、うち1000万円を寺に寄付してしまった。
その寺では、1000万円以上の寄付をする信者を、「4桁会員」と呼んで、
特別な立場に置いていた。

 まだ、わからない?

 では、もうひとつの話をしよう。
ある宗教団体では、念力で病気を治すと教えている。
で、その団体の信者の息子が、ある重い病気にかかった。
病院へ連れて行けば治った病気だったという。
しかし親は病院へは連れて行かなかった。
念力で病気を治すとがんばって、一晩中、息子の枕元で祈った。
が、その甲斐もなく、息子は死んでしまった。

 ふつうなら、つまりふつうの常識のある親なら、その信仰から遠ざかる。
が、その親はますますその信仰に、のめりこんでいった。
「私たちの信仰が足りなかったから」と。

 もっとも自分たちの過ちを認めたら、自分たちが息子を殺してしまった
ことになる。
親としては、それを認めることはできない。

●心の救済

 医学では、人の心を救うことはできない。
病気を治すことはできるが、人の心を救うことはできない。
そのことは、あなた自身がいちばんよく知っているはず。

 だから年間500万人の人が訪れ、たった66人の人にしか奇跡が起きなかった
としても、人々は、ルルドに心の救済を求める。
あるいは夫が交通事故で死んでも、3000万円の保険金が入ったとしても、
その女性は、「信仰のおかげ」と、それを喜ぶ。

 さらに言えば、自分たちの信仰のせいで、息子が死んでしまったとしても、
その親は後悔しない。
「後悔」という部屋のドアをしっかりと、閉じてしまう。
「心」というのは、いつも常識の向こうの世界で動く。
だから常識で理解できないからといって、こうした事例を頭から否定してはいけない。
「科学」にしても、そうだ。

●丸山ワクチン

 「丸山ワクチン」というワクチンがある。
当初、あのワクチンは、「ただの水」と酷評された。
「だからいくら注射しても、がんには効かない」と。
多くの科学者や医師が、その使用に反対した。

 が、そのあとも丸山ワクチンでがんが治ったという人が続出した。
脳腫瘍が消えてしまった人もいる。
そこでいろいろ調べてみると、丸山ワクチンが、人間が本来的にもつ
免疫機構を刺激することがわかってきた。
そのスイッチとなる部分は、脳下垂体にあるという(伝聞)。
その結果、免疫機構が働き出す(伝聞)。
わかりやすく言えば、丸山ワクチンが免疫機構を目覚めさせるということになる。
だから、ほんの少量でよいということらしい(伝聞)。
一説によれば、数千万分の1ミリグラムとか、あるいはもう1桁多い、一億分の
1ミリグラムでもよいとか(伝聞)。
(このあたりの話は、あくまでも参考として読んでほしい。
内容は不正確。)

 つまり丸山ワクチンががん細胞を攻撃するのではなく、免疫機構を目覚めさせ、
その結果としてがんが治るということらしい(伝聞)。
人体の機構はそれほどまでに複雑で、かつ未解明な部分が多い。
だから「科学的に・・・」という理由だけで、それを否定したり、あるいは肯定した
りしてはいけない。
とくに「科学性がないから、エセ」という考えることには、私は疑問をもつように
なった。

「科学性」というときは、現在の時点までの科学的レベルを基準にする。
が、既知の分野より、未知の分野のほうがはるかに多い。
「科学性がない」というのは、あくまでも「既知の分野」で証明された科学性に
すぎない。
よい例が、鍼灸治療でいうところの「針治療」がある。
漢方薬治療でもよい。

 私が子どものころには、和漢、つまり日本の東洋医学は「完全に」と言っても
過言でないほど、社会の隅に追いやられていた。
「迷信」というよりは、迷信としても相手にされていなかった。

●ホメオパシー

 そこで今、話題になっている「ホメオパシー」。
信仰なのか、信仰でないのか。
科学性はあるのか、ないのか。
考え方の基本は、こうである。

 「植物や動物、鉱物などを希釈した水を染みこませた砂糖玉を飲む療法」(中日新聞)
と。
科学性ということになると、根拠はない。
日本医学会の高久会長は、「科学的にはまったく無意味だ。根拠のないことの広がりには
危機感をもたざるをえない」(同)と述べている。
「エセ科学」と断言する学者も多い。
が、私はそうとも言い切れないのではないかと考える。

私はひとつの判断基準として、「経過時間」をあげる。
つまりもしエセなら、その歴史的経緯の中で、とっくの昔に消えてなくなって
いるはず、と。
それが100年単位でつづいているというのなら、それを見る私たちは、もう
少し謙虚になってもよいのではないか。
ホメオパシーについても、約200年の歴史があるという。
(だからといって、ホメオパシーを肯定しているのではない。誤解のないように!)

 よい例が、先にあげた鍼灸である。
「針治療」である。
繰り返すが、あの針治療にしても、ほんの40年前には、エセ科学と位置づけられていた。
公然とそれを口にする人はいなかったが、そう考えられていた。
またそれを施す人たちのほとんどは、身体に障害をもつ人たちであった。
が、それがとんでもないまちがいだったということは、現在の状況を見ればわかる。

●毒蛇研究所

 丸山ワクチンについて書いているとき、こんなことを思い出した。
それに私には、もうひとつ、こんな経験がある。

 ブラジルのサンパウロ市公害に、「毒蛇研究所」という、恐ろしい研究所がある。
その研究所を訪れたときのこと。
案内をしてくれた所長がこんな話をしてくれた。
1975年ごろのことで、そういうものの考え方をする研究者は、日本には
いなかった。
つまり「毒を薄めると、薬になる」と。
(反対に、薬を濃くすると、毒になる。)

 そこでその研究所では、毒蛇から毒を採取し、それを何千倍とか、何万倍とかに
薄めて、薬として使用している、と。

 今度の「ホメオパシー」の発想は、どこかあの毒蛇研究所の所長が言った発想と
似ている。
あるいはどこかでつながっている?

●研究会?

 さて、本論。
長い前置きになってしまったが、「外堀」の話は、ここまで。

 で、問題なのは、「ホメオパシー」が、信仰化しているという点。
先にも書いたように、どこかの助産婦が、新生児を死亡させてしまったという
事件も起きている。
それで日本医学会でも問題になり始めた。

とくに、この日本では、医者をないがしろにするような行為や言葉にきびしい。
「治る」などという言葉は、医師でしか使えない。
「〜〜病に効果がある」と、病名を出すのも禁止。
「〜〜病が治った」というのも、禁止。

 だからこそ、こうした「治療法」を許せないのかもしれない。
自分たちの医療体系というよりは、寡占体系が崩れてしまう。
そこで「研究会」ということになった。

 今朝の中日新聞はつぎのように伝える。

+++++++++++以下、中日新聞++++++++++++

長妻昭厚生労働相は、8月25日、日本学術会議の金沢一郎会長が「ホメオパシー」と
呼ばれる代替医療の効果を否定する談話を発表したことを受け、「本当に効果があるのか
ないのか、厚労省で研究していく」と述べた。

(中略)

都内で開いた記者会見で、日本医学会の高久会長は、「日本学術会議からホメオパシーの
危険性を検討してほしいという依頼があり、科学的根拠がないと一致した」と述べた。
日本医師会の原中会長も、「科学的にはまったく無意味だ。根拠のないことの広がりには、
危機感をもたざるをえない」と強調した。

(中略)

金沢会長は24日に、「(これに頼ることで)、確実で有効な治療を受ける機会を逸する
可能性がある」との談話を発表。推進団体は反発している。

+++++++++++以上、中日新聞++++++++++++

●ハンゲコウボク湯信者

 ところで私にも、信仰(?)がある。
「ハンゲコウボク湯信者」という信仰である。
そういう私だから、当初、ホメオパシーという言葉を聞いたとき、一瞬だが、
こと「ホメオパシー」については、エセ科学とは言い切れないのではないか。
そう考えた。

そのものが効くというよりは、それが脳のある部分のスイッチをONの状態に
する。
とたんそれまで眠っていた、その病気に対する免疫機構が働き出す。
そういうことはありえる(?)。

 私が現在、毎晩眠る前に服用している「ハンゲコウボク湯」にしても、
そういう効果があるらしい。
ほんの微量(耳かきに一杯程度の量)で、がんの予防になるという。
東大の元薬学部長であった水野先生が、その効果を何かの研究の途中で偶然発見した
という。
また丸山ワクチンの開発をした、丸山氏とも親交があり、丸山氏の研究をを励ました
という記録も残っている(「丸山ワクチン」HP)。

以後、水野先生の周囲には、ハンゲコウボク湯信者が急速にふえていった。
恩師の田丸謙二先生(東大、元総長特別補佐、日本化学界元会長)もその1人で、
「林君ものんだら」と勧められて、以来12年近くのんでいる。

 が、ここから先が、信仰のおもしろいところ。
私とワイフは、その信者だが、そうして毎晩のむことによって、安心感を覚える。
「私たちはがんにならない」という安心感である。
信仰性があれば、さらに絶対的な安心感に変わる。 
あるいはそうした安心感が、免疫力を高めているのかもしれない。

 だからがん検診にしても、毎年たいへんおおまかなものしか受けていない。
しかしこれも「確実で有効な治療を受ける機会を逸する可能性がある」(金沢会長)
ということになるのだろうか。

●医療と心

 話が混乱してきた。
もう一度、整理してみる。

(1)フランスのルルドには、病気を治してもらいたいと、年間500万人もの人々が
訪れている。

(2)信仰には常識をはずれた盲目性がある。

(3)「科学性がないから……」という理由だけで、その治療法を否定するのは
危険なことである。

(4)ホメオパシーとは、いったい何なのか。

 その前に考えるべき第一の問題は、「医学で、心の救済はできるか」ということ。
このことは、自分の問題として考えてみると、わかりやすい。
話が戻るが、許してほしい。

 たとえばルルドには、毎年500万人の人たちが訪れているという。
みながみな、キリスト教を信じているわけではない。
が、そのうち奇跡によって病気が治ったと言われる人は、66人と言われている。
『このルルドで病気が治ったと自己申告をした人は、1862年以来6700人にのぼるが、その
うち、ルルド聖地当局によって正式に奇跡と認定されたのは、たったの66人だけだ』(「ルルド
の泉」HPより)と。

 確率から言えば、1万人に1人?
病気を治すということであれば、私の家の近くにある医療センターのほうが、はるかに
多くの人を治している。
が、毎年500万人の人たちが、救いを求めてルルドに向かう。
この日本でも、特別なツアーを組んでいる旅行社がいくつかある。
「特別」というのは、「病人の人のための」という意味である。

 「科学性」ということを言うなら、なぜ日本の医師会は、(厚労省でもよいが)、
ルルド巡りにメスを入れないのかということになる。
さらに科学性ということを言うなら、かつての「針治療」「丸山ワクチン」のときは、
どうだったのかということになる。
ただその一方で、科学を装った「ニセ科学」というのも、ある。
バランスをとるため、それについても書いておきたい。

●水からの伝言(ニセ科学)

 もちろんとんでもないエセ科学というのはある。
「水からの伝言」を例にあげるまでもない。
あれほどまでにバカげたエセ科学はない。

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09年7月に書いた原稿を再掲載します。

++++++++++++++++++++

●ニセ科学(pseudo science)
In Japan very strangely most of the young people believe that each man's personal 
character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely 
spread throughout Japan.

++++++++++++++++

家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、そ
の店員は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。
私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。
血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!

++++++++++++++++

「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左
巻健男氏の書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。

 左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオ
ン。

(1) マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科
学の「負イオン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イ
オンだが、これが健康によいという根拠はない。

プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄
化し、吸うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症
にも効き、健康にもいい」というのである。

これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジ
テレビ系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能
がうたわれた。

そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、
冷蔵庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場
に出されるに至った(以上、P162)、と。

 ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行く
と、たしかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだ
わっていたわけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。

 しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発
掘、あるある大辞典」だったとは! 

 左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、
数10万個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないこと
に注意を要する」(同書)と。

 だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見
を全面的に信ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である
左巻氏の意見を尊重したい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。
 左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。

 もうひとつ、こんな例をあげている。

(2) 容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書
いた紙を張り、その水を凍らせる。

すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水
は、崩れた汚い形の結晶になるか、ならない。

ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本勝著)という本が話題に
なった。

水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。
 こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。し
かし、だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が
広まったという。

 理由は、「人間の体の6〜7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した
教育団体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道
徳)の授業が行われている」(同書)と。

 しかし、『水からの伝言』とは何か? 江本勝という人物は、どんな人物なのか? 少し
前、麻薬を所持していて逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持
たせろ」「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。

 その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、
自説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを
思い浮かべていた。

 で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、それは、そこにあった。
いわく、「私たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化さ
せるということを、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もき
れいになり、健康を取り戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が
変われば世界が変わります。いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの
伝言」HPより)と。

 どうやら、本気らしい。

 しかし……? 「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。
その数は、約3x10の22乗!(ヤフー・知恵袋参照)

 数字で表してみると、こうなる。

300,0000,0000,0000,0000,0000個!

 しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あの占星術
にしても、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!
 これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。け
っして、軽く考えてはいけない。

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伝言 水伝 水の結晶)

●ホメオパシーJ

 ホメオパシーJのHPでは、つぎのように説明している。

『……今から200年前にドイツの医師ハーネマンがその生涯をかけて確立させた療法で、その
起源は古代ギリシャのヒポクラテスまでさかのぼることができます。

ホメオパシーは同種療法あるいは類似療法と訳されている通り、「症状を起こすものは、その
症状を取り去るものになる」という「同種の法則」が根本原則になっています。

ハーネマンはこの「同種の法則」に、症状を起こすものを非常に薄めて使うことにより、体に悪
影響を与えることなく、症状だけを取っていくものとなるという「超微量の法則」を打ち建て、安
全で体にやさしく常習性を持たないホメオパシー療法を完成させました。

ホメオパシーでは症状を抑圧するのではなく、症状を出し切れるように後押しします。そうして
初めて心身ともに健康になると考えます。 私達の心や細胞が抱える不自然なパターンを解放
し、体の芯から健康を取り戻す自然療法、それがホメオパシーです』と。

 よくわからない……というより、「植物や動物、鉱物などを希釈した水を染みこませた砂糖玉
を飲む療法」(中日新聞)というのとは、少しちがうのではないか?
もう少し詳しく調べてみると、同団体のY氏が、朝日新聞社の記者のインタビューに
答えてつぎのように述べているのがわかった。

『……ここまで薄めると毒の物質は、事実上もう入っていないが、「薄める時によく振ることで、
毒のパターンが水に記憶される」と協会会長のYさんは解説する。

「自然治癒力が病気と闘っている時に現れるのが病気の症状。西洋医学は症状を緩和するが
治癒はさせない」。ホメオパシーで治せる病気は精神病から皮膚病まで多種多様で、がん治療
も可能かと聞くと、Yさんは「そうです」と力強く答えた』(朝日新聞)と。

 ……と思いつつ、「ホメオパシーJ」のHPを読んでいくと、「?」がいくつか頭の
中を横切った。

 どこかカルト化している?
そんな印象ももった。
「がん治療も可能と力強く答えた」というのは、ま・ず・い!

●レメディー

 「植物や鉱物などを高度に希釈した液体を小さな砂糖の玉」を、「レメディー」と
呼ぶらしい(同HP)。
その玉を「舌下に入れ、溶けるのを待ちます」と。
もう少し詳しく説明すると、つぎのようらしい。

『……レメディーは、舌下に入れて溶けるのを待ちます。基本的にレメディーを摂る20分前後
は、口の中に何も入れないよう指示されますが、レメディーを摂る20分前後に飲食をすると効
果がなくなるということはありません。時間的に余裕のない時は、飲食前後の20分以内でも構
いませんので、レメディーをお摂りください。

但し、コーヒーや香りの強いもの(ミントが含まれている歯磨き粉等)は、レメディーに影響を与
えることがありますので、レメディーを摂る前後20分ほどは、避けるようにしてください。また、レ
メディーを摂り続ける期間中は、できるだけコーヒーを飲まないようにした方が賢明です。レメ
ディーの作用を消してしまう場合もあると言われています。
メンソール、ユーカリ、樟脳などの香りが強い場所は、レメディーの保管に向いていません。

レメディーを摂る本人以外はレメディーに触れないようにしてください。レメディーに触れると、
多少触れた指からもエネルギーが入ってしまいます。しかし、緊急時や赤ちゃん・動物等に与
える場合には、かまわず自分の手に取ってすばやく口に入れてあげてください。時間にゆとり
がある場合には、スプーンなどを使ってレメディーを相手の口の中に入れてあげるか、レメディ
ーを水に入れて溶かし、その水を飲ませるなどの方法を取ってください』(同、HP)と。

 この中でとくに気になる部分は、『レメディーを摂る本人以外はレメディーに触れないようにし
てください。レメディーに触れると、多少触れた指からもエネルギーが入ってしまいます』という
ところ。

 レメディーに触れると、多少触れた指からも、「エネルギー」が入ってしまう、と。

 エネルギー?

 さらに「薄める時によく振ることで、毒のパターンが水に記憶される」という意見も
たいへん気になる。
毒のパターンが水に記憶される?
これなどは、まさにあの「水からの伝言」そのもの。

 またレメディーというのは、キャンディーのこと?
だったらそういうキャンディーなら、いくらでも市販されている。
いろいろなフルーツの味で作った、「森永キャンディー」というのもある。
私は子どものころ、大好物だった。
(だから虫歯だらけになってしまったが……。)
しかし「エネルギー」までは、考えなかった!

●私の印象

 私は実は、この原稿を書き始める前は、ホメオパシーに好意的というか、擁護的な
印象を抱いていた。
「200年前からあった」という、年数にも敬意を払った。
ひょっとしたら、人間が本来的にもつ免疫機構に、何らかの作用を及ぼすのではないかと
も考えた。
それに「科学性」という言葉には、両刃がある。
「科学性があるから……」といっても、すべてを信じてはいけない。
「科学性がないから……」といっても、すべてを否定してはいけない。

 しかし結論を先に言えば、やはりどうも胡散(うさん)臭い。
ホメオパシーJのHPを読めば読むほど、疑惑が強くなった。

……という程度にしか、今は書けないが、ともかくも胡散臭い。
科学性のあるなしを論ずる以前の問題のようでもある。
さらに言えば、信仰のレベルを超えて、カルト化している?
ホメオパシーについては、そんな印象ももった。

 今回は、外堀だけを埋め、この先は、もう少し様子をみてから書いてみたい。
何とも歯切れの悪い原稿で、ごめん!

 ホメオパシーは、本当に効果があるのかないのか。
その正体は何なのか。

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Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司※

**************2010年8月29日まで***************
 






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松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
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